古事記をそのまま読む | ||||||||
| ||||||||
⇒ [070] 上つ巻(大国主命15) |
||||||||
2014.07.07(月) [071] 上つ巻(国譲り1) |
||||||||
【葦原中国の東方への進出】 《景行天皇の時代》 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、焼津(駿河国)の地で敵によって火に包まれる。 また、書紀『景行天皇』(4世紀初頭か)で東方の様子に触れている。 いわく、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。…(後略)…」 景行天皇に諸国の視察を命じられた武内宿祢が、東国を視察後に復命し「日高見国では、男女とも髷を結い文身(体の入れ墨)し勇敢で、まとめて蝦夷(えみし)と言う…」と述べている。 日高見国は、もともと大和政権から見て東方の国の美称である。 《金錯銘鉄剣》 「辛亥年(定説は471年)七月」と刻まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)は、埼玉県(武蔵国)行田市稲荷山古墳から出土した。 獲加多支鹵大王(わかたけるおほきみ=雄略天皇)の文字が刻まれるので、少なくとも関東南部は倭国の領土に含まれる。 《常陸国・陸奥国》 日高見国は、7世紀には次のように、後の常陸国の一部を指した。 <wikipedia>『常陸国風土記』(逸文)に「白雉4年(653年)…(中略)…信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」</wikipedia> 常陸国は北に拡大して広大な国となり、654年に北部が分割され道奥国になる。 道奥国は、<wikipedia>現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に編入された地域、すなわち宮城県松島以南までの広大な領域</wikipedia>であった。 720年の時点で陸奥国の北の境界は変わらず、蝦夷に向かい合う地として鎮守府が置かれた。 奈良時代は、防人を徴兵した範囲(右図)から見て、関東地方まで朝廷の安定した支配下にある。 《初期大和政権の時代》 以上から、葦原中国の東の境界は、古墳時代から奈良時代にかけて、東海地方⇒関東地方⇒東北地方南部と拡大していった。 時計の針を逆に回せば、初期大和政権の3世紀半ばの勢力圏は、東は尾張、美濃ぐらいまでと想像される。 《国譲り以前》 一方、大国主による国譲りは、倭国大乱が終結した2世紀末であったと思われる。 その直前の大国主の領土は九州北部・山陰・紀伊国・近畿北部・北陸・信濃であった。 当時の天照勢力の領土は大国主の領土を除き、さらに南九州には及んでいなかったと思われるので、 九州中部、瀬戸内海周辺、近畿中部に過ぎなかったことになる。 とすれば、天照勢力が大国主の領土を併合したとすれば、小が大を呑みこむ大戦争が行われたことになる。 まとめ 大国主が山陰から北陸、信濃までの広大な国土を支配していたこと、天照勢力が大国主の勢力を服従させようと したことは、記に明確に書かれている。 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、奈良時代はじめには東北地方南部までと認識されていたが、その大きな部分を占める大国主の地域が戦乱状態にあったということになる。 その戦乱の過程で、独立勢力が各地に出現し、戦国時代のように敵味方が入り乱れるものになったであろう。 だから、紀でいうように、蛍火光る神(天照方)、蠅声邪なる神(大国主方)が入り乱れて争っていたということである。 その過程で、敵に降伏を迫る使者が、逆に相手に「媚び付く」ようなことは、いくらでも起こり得る。 記紀によれば戦争の結末は、政治的な妥協であった。出雲の宗教を、大国主を祀る国の宗教とすることと引き換えに、大国主勢力を出雲国内に封じこめることで決着した。 大乱を終わらせたのは、大局的には戦国時代の終結と同じく、それ以上の犠牲に耐え切れなくなった人民の意思である。 しかし、それまで激しく対立していた国内を統一するためには、強烈な宗教的支配者が必要であった。 男子王たちが女王を「共立」したという魏志倭人伝の記述は、まさにこのことであったとも考えられる。 卑弥呼が出雲出身かどうかは不明であるが、天照大御神は、種族名「アマ」を冠せているようにあま族は、最高神に位置づけるのは、自らの神である。 他方、出雲勢力側は、大国主と三諸山の神が対等の立場で協力して国造りをしたという見解である。三諸山の神は、出雲側から見れば天照側の神である。 いずれの側も、自分の勢力を中心として描こうとするのである。 記には、歴史的事実をある程度反映した部分と、支配勢力の正統性を裏付けるための創作神話が共存している。 |
||||||||
2014.07.13(日) [072] 上つ巻(国譲り2) |
||||||||
|
||||||||
2014.07.28(月) [073] 上つ巻(国譲り3) |
||||||||
倭名類聚抄によれば、「和名木々須一云木之」(和名「きぎす」あるいは「きじ」という)。 「きじ」という呼び名も、平安時代には既にあったことがわかる。 【留】 万葉仮名の「家留=ける」として無数に使われる。訓読みでは、 0230 立留 たちとまり 0254 留火之 ともしびの 0461 留不得 とどめえぬ などとよまれる。 【淹留】 万葉集の大伴池主(おほとものいけぬし)の歌の序文に漢詩が付され、この語が使われる。 3973(序文抜粋) 縦酔陶心忘彼我 酩酊無處不淹留 縦酔陶心、彼我(かは)を忘れ、酩酊し無淹留(えんりう)せ不る処無し。 酔いを縦(はな)ち、陶(こころよ)い心に自他の区別がつかなくなり、酩酊して所構わず座りこんだ。 ここでは、「長く滞在する」を「座り込んで腰を上げない」意味で使っている。 【所由】 「所以」と同じく「ゆゑん」とよむことができる。ただし、「ゆゑん」は漢文訓読語の「故(ゆえ)になり」の音変化「ゆえんなり」によると考えらるので、平安時代以後のよみだと思われる。 万葉集では、0187「所由無」があるが、「つれもなき」とよみ、現代語の「つれない」に通ずる。 類例を検索すると、 つれもなき:0167 由縁母無 0460 都礼毛奈吉 3326 津礼毛無 つれもなく:0717・0928 都礼毛無 3341・3343 津煎裳無 4184・4198 都礼毛奈久 つれなきものを:2247 都礼無物乎 がある。このうち訓読みによる「由縁」「所由」から、「つれ」の意味は「ゆかり」あるいは「ゆゑ」であると考えられる。 即ち「わけもなく」「ゆかりもなく」により切なさを表現しているのである。だが「つれ」単独で「ゆかり」の意味で使われることはないので、今回の部分では「つれ」と訓むことはできない。 【状】 万葉集に、2481・2941 跡状 たどき があるが、「たどきなし」「たどき知らず」に用いるばかりである。 古訓に「かたち」。 ありさま(状)…[名] 状態。 【和】 「やはす。」 万葉集に、0199 人乎和為跡 ひとをやはせと がある。 【鳥】 倭名類聚抄に、「…曰禽【和名与鳥同土里】」(…禽と曰う。【和名、鳥と同じく「とり」】)とある通り、 鳥は「とり」である。
書紀本文は、「湯津杜木之杪。【杜木、此云可豆邏也。】」つまり、「湯津杜木」は「ゆつかつら」である。 ならば、記の「湯津楓」も「ゆつかつら」とよむかも知れない。そこで『倭名類聚抄』を見ると、 「桂…和名 女加豆良(めかつら)」 「楓…和名 乎加豆良(をかつら)」 とあり、それぞれに「かつら」を分類した名称となっている。 《漢和辞典に見る楓・桂》 それでは、漢語としてはどのような植物を指したのであろうか。漢和辞典によれば、 楓…①フウ(マンサク科)②トウカエデ(カエデ科)などの別称。 桂…①ニッケイ(ク②モクセイ(モクセイ科) ③(日本語用法)カツラ(カツラ科) このように、それぞれ複数の植物を指す。 《楓》 フウ…楓、学名: Liquidambar formosana。フウ科フウ属の落葉高木。 種名は「台湾の」の意味。別名タイワンフウ(台湾楓)、カモカエデ(賀茂楓)など。古名、オカツラ(男桂)。 トウカエデ…唐楓。学名:Acer buergerianum。カエデは、カエデ属 (Acer) の木の総称。 《桂》 ニッケイ…肉桂。学名:Cinnamomum sieboldi。クスノキ科。樹皮から香辛料シナモンを得る。 ヤブニッケイ…藪肉桂。学名: Cinnamomum tenuifolium。クスノキ科クスノキ属の植物の一種。別名ウスバヤブニッケイ、ナンジャモドキ。 モクセイ…木犀。学名: Osmanthus fragrans。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。別名ギンモクセイ(銀木犀)。中国名は桂花。 カツラ…桂。学名:Cercidiphyllum japonicum。カツラ科カツラ属の落葉高木。 <wikipedia>高さは30mほど、樹幹の直径は2mほどにもなる。葉はハート型に似た円形が特徴的で、秋には黄色く紅葉する。</wikipedia> 書記の注記により、記紀編纂の時代に遡れば「雌」も「雄」も付けず桂・楓とも「かつら」と呼ぶことがあったことが分かる。倭名類聚抄の成立は、その200年ほど後の平安時代である。 <wikipedia>中国の伝説では「桂」は「月の中にあるという高い理想」を表す木であるが、中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)のことであって、日本では古くからカツラと混同されている。</wikipedia> カツラは、日本各地に生育する。伝説上の植物として伝わった「桂」に、倭国では身近に生育するカツラを当てはめたと思われる。 【天佐具売】 天若日子に、雉の鳴き女を射殺すよう進言するのが、唯一の登場場面である。 天若日子が万が一にも高御産巣日神の説得に応じ、天に戻ってしまうことを警戒する立場であったと考えられる。 【天之波士弓・天之加久矢】 天若日子に与えられたときの名称は、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)・天之波波矢(あめのははや)だったのに、いつの間にか名称が変わっている。 これらが同一であることは、次の段で「高木神告之此矢者所賜天若日子」(高木の神のらさく「この矢は天若日子に賜ひしなり」)ように明白である。 途中で簡単に名称が変わるということは、特別の意味を持たせた名称ではなく、ごく一般的な呼び方であったことを示している。(「雉」を、他の文で「その鳥」というようなもの。) なお、前回見たように万葉集の 4465 はじゆみを たにぎりもたし まかごやを たばさみそへて においては、「まかごや」をつがえるのが「はじゆみ」である。 また、神々の世界の話なのですべて美称「天の」がつけられている。 なお書紀では、記で名称が途中で変わることを問題視したためか、統一されている。 【通】 万葉集には「かよふ」が多いが、「とほる」という訓もある。 0135 衣袖者 通而沾奴 ころものそでは とほりてぬれぬ 【逆射上】 「逆」がつく語を古語辞典で見ると「さかしま」「さかさま」「さかふ」「さかまく」「さかはぎ」が載っている。 古語辞典で「さかしま」の文例に、「心にさかしま悪(あしきこと)を懐(なつ)きて」(書紀巻14、雄略天皇)があった。 原文は、「心懷悖惡」である。「悖」は「もとる」(道理にはずれる)であるから、「さかしま」は意訳である。 万葉集には、2430 水阿和逆纒 みなあわさかまき のように「逆まく」がある。 万葉集では「射」は、音が「ざ」「ざ」訓が「い」である。 弓矢は天若日子と共に、地に降りたものである。それが射られて天に届くのだから、「逆に射上って」くるのである。 一度放たれた矢が鳥を射殺した後、向きを上方に変えて天に届くというのは神話ならではであるが、使者が殺された事実を天の高御産巣日神らに伝えようとする、矢あるいは雉の意思がはたらいたと捉えることができる。 【逮】 「とらふ」について調べると、万葉集2943 偽乎 好為人乎 執許乎 いつはりを よくするひとを とらふばかりを がある。 「およぶ」だとすれば、万葉集に例はないが、古語辞典では詳細な説明を伴う重要語である。文例は、平家物語(13世紀)からが多い。 書紀には「及」は多く、例えば巻七(景行~成務)「日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉」には「およぶ」「いたる」が当てはまると思われる。 巻九(神功皇后)「『先日教天皇者誰神也、願欲知其名。』逮于七日七夜、乃答曰」神功皇后が、「先日、天皇に教えられたのはどの神か、その名を知りたい」と尋ね、七日七夜待ってやっと(天照大御神であるという)答を得た。 今回の段では尊敬の補助動詞「坐(ます)」がついているので、主語は天照大御神・高木神となり、「手に取る」意味で、「とらふ」が適当だと思われる。 【別名】 「高木神は、高御産巣日神の別名である。」の意味する所に誤解の余地はないが、「別名」の訓読みは何であろうか。「別」の訓は「わかつ」「わけ」「こと」である。 万葉集には「わかれ」が多い。また記では固有名詞において、国生みの段「土左国謂建依別」(土佐の国はたけよりわけと言う)など、「わけ」とよまれる。 「和気」が各地の地名に残ることから、「わけ」は古く「国」に相当する区分を表した可能性がある。 一方、天地初発から最初に現れた5柱の神は特別に「別天神」と呼び「ことあまつかみ」とよむ。「こと」は「異」に通ずる。 古語辞典によれば、接頭辞「こと-」は「別の」という意味で使われる。 【日本書紀本文】 是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。 其雉飛降、止於天稚彥門前所植【植、此云多底婁】湯津杜木之杪。【杜木、此云可豆邏也。】 時、天探女【天探女、此云阿麻能左愚謎】見而謂天稚彥曰「奇鳥來、居杜杪。」 天稚彥、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。 其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也。 是の時、高皇産霊(たかみむすび)の尊、其の久に不来報(かへりまをさざ)るを怪み、乃(すなは)ち名の無き雉(きぎす)を遣わし、之(これ)を伺(うかが)はせむ。 其の雉飛び降(くだ)り、天稚彦(あめのわかひこ)の門(と)の前に植(たてる)【植、此れ多底婁(たてる)と云ふ。】[所の]湯津杜木(ゆつかつら)之(の)杪(こずゑ)に[於]止まりき。【杜木、此れ可豆邏(かつら)と云ふ也(なり)。】 時に、天探女(あまのさぐめ)【天探女、此れ阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。】見て[而]天稚彦(あめのわかひこ)に謂(まを)して曰はく「奇(く)しき鳥(とり)来たり、杜杪(かつらのこずゑ)に居(を)り。」 天稚彦、乃(すなは)ち高皇産霊(たかみむすび)の尊(みこと)に賜(たまは)りし[所の]天鹿児弓(あめのまかごゆみ)、天羽羽矢(あめのははや)を取り雉を射、之を斃(たふ)しき。 其の矢、雉の胸を洞達(とほ)して[而]高皇産霊の尊之(の)座(いま)す前に至りき[也]。 植…まっすぐに立つ、立てる。訓「たてる」は漢和辞典にも採用されている。 杪…こずゑ。 洞達…①広く通ずる。②流暢である。③はっきりと理解する。④貫通する。 ぬく(貫く)…付き貫く。 斃…たおす。傷害を与えて倒す。たおれる。 天照大神が関わらない点を除き記と一致するが、重複を省き簡潔に書かれる。 【書紀では、天照大神は使者の派遣に関わらない】 大国主への制圧戦略に関して高皇産霊の尊を責任者とし、天照大御神を外したのは、天照大神を現実的な戦いから超越した立場に置くためであろうか。 天皇の祖である天照が、地上の勢力争いの一方に加担した形になるのを避けようとする意思がはたらいたようにも思われる。 記で二女神で共同して責任を負うことで、既に天照の関わりを薄めようとしているが、さらにそれを徹底したと見ることができる。 まとめ 雉は古くから狩猟の対象であったことがこの話にも関係するようである。また「桃太郎」などの民話にも登場する。 その鳴き声は「ケーン」と高く目立つが、一般的にそれを不吉とするような言い伝えは見つけることができなかった。 木の枝の上から、周囲に声高に天若日子への詰問を言いたてたことが、天佐具売に不快感を覚えさせたのかも知れない。 |
||||||||
2014.08.02(土) [074] 上つ巻(国譲り4) |
||||||||
【為射悪神之矢之至者】 原文では悪神と矢の関係が分かりにくく、難解である。 ここでは、文法からアプローチしてみる。 「所+動詞+之+体言」の形は、動詞を連体形にして体言を連体修飾する。漢文では本来「之」は不要だが、万葉仮名で「し」とよむことから、しばしば完了の助動詞「き」の連体形「し」を表す。 この形になるように「所」を補ってみると、「所為所射悪神之矢之至者」となる。 内側の節「所射悪神之矢」は、書紀の「蓋与国神相戰而然歟」(けだし、国つ神と相戦ひて然る[=血が着いた]や)を参照すると、「天若日子が悪神に矢を射た」という文を「矢」への連体修飾に変形したと見られる。 [元々の主述構造] 射悪神矢。(主語・天若日子が隠れている。)動詞「射」は二重の目的語をとる。「悪神に」が対格。「矢を」が与格。(対格、与格はラテン語文法の用語) ["矢"を連体修飾] 所射悪神之矢 (悪神を射し所の矢) 次に外側の節「所為~矢」は「所」によって体言化し、ここでは「至」の目的語となる。「之」は、VOの目的語Oを倒置する機能(「O之V」となる)がある。 「為す」は、ここでは「~と判断できることになる」という意味である。 また、「至者」の「者」は接続助詞「ば」である。ここでは仮定条件なので「至」は未然形で「至らば」と訓む。 以上から、「悪神を射し(所の)矢と為(な)しし(所)に至らば」(悪神を射た矢と判断することができるので)と訓読することができる。 【或A或B】 これも漢文の構文で、2つの場合を列挙するものである。 まず「或A」に当たる部分は、前項の解釈から、 或は、天若日子の命(みこと)を誤らず、悪神を射し矢と為(な)ししに至らば、天若日子に中(あた)らざらむ、 (もし天若日子が命令に背かず、(血のついた矢が)悪しき神を射た矢と判断されるに至れば、(投げ返す矢は)天若日子に当たることはないだろう) また「或B」は、 或は、邪(よこしま)なる心有らば、天若日子は此の矢にてまかれ。 (もし邪心があれば、天若日子はこの矢によって死んでしまえ。) 要するに、命令に背いていなければ、矢に付着した血は天若日子が射殺した国つ神のものとなる。それなら、この矢を投げ返しても天若日子に当たることはない。 しかし、命令に背く心があれば、矢は天若日子に当たって死んでしまえと言うのである。 Aでは「もし命令に忠実だったとすれば、こうであるはずだ」と論理的であるが、Bは感情を露わにしている。 高木神は、実際には天若日子が命令に従っているとは本当は露ほども思っていないから、はじめに保っていた論理的な物言いは崩れ、感情的に言い放つのである。 【高胸坂】 書紀では単に「胸」と書かれる。万葉集で「胸」は「むね」「むな」と読むが、「たかむね」も「むなさか」も出てこない。 手許の古語辞典の他、ネット上で辞書を検索してみても、文例は必ずこの文なので、記のこの文が唯一の用例かも知れない。 【自其矢穴衝返下】 矢穴は、矢が逆上がってきたときに天界の地面を突き抜けて開けた穴であると読み取れる。 天界は空の上にあるが、独自の地面を持っていると想像されている。 その穴を通して矢を投げ落とすと、地で寝ていた天若日子の胸に見事命中した。 天若日子は、朝、まだ寝ている間に不意打ちを食らう。 【朝】 古語辞典の解説によれば、「朝」は、昼に向かうことを意識するときは「あさ」、夜が明けた後を意識するときは「あした」だという。 万葉集には両方とも使われるが「あさ」の方が「あした」より圧倒的に多い。 【雉之頓使】 「頓」の訓は、万葉集では形容動詞「たちまち」が二例ある。 1740 頓 たちまちに 3885 頓尓 たちまちに 「たちまちなり」の意味は「突然に」である。 しかし、ここでの用法は「たちまちに」とは異なる。 「ひた」は「直接に」なので、「戻ることのない」という意味であろうか。 【日本書紀本文】 時高皇産靈尊見其矢曰「是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國神相戰而然歟。」 於是、取矢還投下之、其矢落下則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也、中矢立死。 此世人所謂反矢可畏之緣也。 時に高皇産霊(たかみむすび)の尊(みこと)其の矢を見(め)し曰(のらさ)く「是の矢は則(すなは)ち昔(むかし)我(わが)天稚彦(あまつわかひこ)に賜(たま)ひし[之]矢也(なり)。血の其の矢に染(し)むは、蓋(けだ)し国つ神与(と)相(あひ)戦(たたか)ひて[而]然(しか)る歟(や)。」 [この矢はまさに、かつて天雅彦に与えた矢である。其の矢に血がついているのは、国津神と相戦ってそのようになったのではあるまい。] 於是(これに)、矢を取り還(かへ)し投げ下(お)ろし[之]、其の矢下(した)に落ち則(すなは)ち天稚彦之(の)胸の上(うへ)に中(あ)てき。于時(ときに)、天稚彦、新嘗(にひなめ)に休み臥(ふ)しし[之]時に[也]、矢に中(あ)てられ立(ち)死にき。 此れ世人(よのひと)の所謂(いはゆる)「反矢可畏(かへしやおそるべし)」之(の)縁(よし)也(なり)。 《「昔」のよみ》 「むかし」に類似する語に「いにしへ」がある。どちらが適当であろうか。 いにしへ…①経験したことのある昔。②経験したことのない遠い昔。万葉集の表記は「古昔」「古」。 むかし…①直接経験しない遠い昔。②直接経験した過去。万葉集の表記は「昔」。 《蓋与国神相戦而然歟》「蓋(けだ)し、国つ神と相戦ひて然る歟(や)」 と、述べている。蓋、歟は、両方とも漢文の反語である。つまり、 国つ神と戦ってこのようになった[=矢に血が付いた]のか?そんなことがあるはずはない。 《中矢立死》 「矢立」は矢を入れる筒、或いは携帯用筆記具だが、ここでは無関係である。また「立死」は立ったまま死ぬことを表すが、 ここでは臥(ふ)したところに矢が当たって死に、垂直に突き立っているのは矢の方だから、「立」の主語は矢かも知れない。 しかし、矢が刺さった後一度立ち上がって死ぬという解釈も、可能である。 「中矢」(矢に当てらる)、「死す」の主語は天雅彦だから、それらに挟まれた「立つ」の主語も天雅彦と考えるのは自然である。 《反矢可畏(かへしやおそるべし)》 書紀では、記の「此還矢之本也」よりもやや詳しく述べている。 「矢を射れば射返されることを覚悟しておけ」という意味であろうか。 この諺の元に成る故事とされるが、検索しても他の文献にこの諺は出てこないので、実際の使われ方は不明である。 また書紀には、記の「雉之頓使」はない。 《記との比較》 この部分はほぼ記の要約であるが、矢に当たったのが朝寝ていた時とは書かれず、新嘗後の休息中と書かれている。 ここでは、天稚彦が既に新嘗祭を主宰する大王(おほきみ)のような地位に就いていたことを示す。 新嘗祭については、かつて須佐之男命は、天照大御神の新嘗祭の神殿に糞をまき散らすという狼藉をはたらいた。 新嘗祭は、王が新しい作物を神と共に食する神聖な儀式である。その重要な儀式の主宰者を痛めつける場面を描くことにより、その衝撃を際立たせるのである。 まとめ 天若日子に差し向けられた詰問使を殺した。すると、その矢が天から射返されて天若日子は殺されてしまった。 天照と大国主という2つの勢力の間で、激しい戦闘が繰り広げられた頃の遠い記憶が、このような神話に影を落としているのかも知れない。 「或は」のところの文は純粋な漢文とは言いきれないが、和風漢文としてこれまでに得た表記ルールによって解を得た。 この表記ルールについては、さらに検討を深めていきたい。 |
||||||||
2014.08.15(金) [075] 上つ巻(国譲り5) |
||||||||
【喪山の比定地】 記には、神代の話の舞台を実在の地名に結び付ける例は多く、「美濃国藍見河之河上の喪山」もその一つである。それでは記紀の時代の「喪山」はどこか? ここで留意すべきは、ある土地に記紀に一致する言い伝えがあったとしても、後世の人が記紀を読んで作った話だったら、何の証拠にもならないことである。記紀に載る以前からその場所があった、証拠が必要である。 まず、「藍見河」について調べると、藍見村があった。美濃市の南西部は1954年まで藍見村であったが、 藍見村ができた年は1889年(明治22年)なので、近代に記紀の「藍見河」に因んで命名したと思われる。 さらに「喪山」については次の説明があった。 <国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所のページ> 喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになる。 ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになる。 江戸時代末期の時点では広く一般に知られていたのは垂井説で、これは『木曽路名所図会』(1805年)が垂井宿の東にある小さな山を喪山として紹介した影響が大きいとされている。 </中部地方整備局> 葬送山(そうぞうやま)説は、江戸時代に古事記を読んだ人がこの山を見て唱えた俗説かも知れない。また「藍見河=相川」説は、「藍=あゐ」「相=あひ」なので疑問が残る。 しかし川の比定については、実際に土地を見ると、日々河川管理にあたっている専門家の見解には重みがある。 大矢田神社についてさらに調べると、古い歴史があることが分かる。 <wikipedia> 創建は孝霊天皇の時代。江戸時代に再建。社伝によれば、 深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。 716年(養老2)、泰澄大師はこの地(天王山)一帯を開基。天王山禅定寺号した。祠はその一部となり、牛頭天王として習合される。 1870年(明治3年)、廃仏毀釈により牛頭天王を建速須佐之男命に戻して奉祀、大矢田神社に改称。 </wikipedia> <美濃市観光協会> 祭神は須佐之男命・天若日子命・阿遅志貴高日子根命。 現在の本殿は、寛文十二年(1672年)に再建され、建物の妻をはじめ各部に精巧な彫刻と彩色が施されており、国の重要文化財に指定。 </美濃市観光協会> 孝霊天皇は欠史8代の一人だから、「創建」されたのは伝説上の時代である。ただ大矢田神社は716年に、泰澄大師によって寺域に吸収されたので、記紀の完成時(記は712年、書紀は720年)には、存在していたと思われる。だから、記紀の「喪山」の候補になる資格はある。 ただ『社伝』そのものについては、 「建速須佐之男命」「天若日子命」という表現があり、八岐大蛇伝説の影響が見られるので、古事記の完成後に書かれたと思われる。 確実に言えることは、①記紀成立以前に古代の宮が大矢田の地にあった。②記紀完成後に、天若日子命が関わる社と言われるようになった。ことである。 遡って記紀編纂以前に、この地が喪山と呼ばれていたかどうかとなると、これは分らない。 なお、喪山天神社に設置されている看板によると、付近には雉射田(きじいだ)、かつら洞、矢落(やおち)街道などの記紀神話にまつわる地名が残るというが、これらは記紀成立後に、人々が想像力で名付けたに違いない。 【以足蹶離遣此者在美濃国藍見河之河上喪山之者也】 ここで、改めて原文を精読してみよう。まず、「之者」に注目して、万葉集における用例を探すと、 0776 事出之者 ことでしは 2101 野邊行之者 のべゆきしかば の2例がある。他に前文に使われているものがある。 0897(前文―山上憶良が病を悲しむ文を付したもの―より) 入於名山而合藥之者 名山に入りて薬を合へしかば 0776の「しは」は、助動詞「き」の連体形+係助詞(は)である。 2101の「しかば」は「き」の已然形+接続助詞(ば)である。 0897では、「合ふ」が、その目的語「薬」を挟んで「しか」に繋がる。 これに倣えば「在~之者」は「~の在りしかば」と、理由を述べる。しかしこれでは「これを遣った(送った)先は、藍見河の~だったからである。」となり、成り立たない。 だから、万葉集の「之者」からの類推は、棄てざるを得ない。そこで2つの「者」のうち後ろの方を、区切りのための不読文字と解釈する。そして「之」は代名詞「これ」と すると、「美濃国の~喪山、之(これ)在り。」となる。書紀では「之」を「是」に置き換えているから、書紀はこの解釈によっている。 この場合は、実は別の読み方が可能で、「美濃国の~喪山に、之(これ)在り。」、つまり飛んできたのは建造物である喪屋そのもので、「喪山」は飛んできた場所を意味する。 書紀では「喪山という土地に喪屋がある」のではなく、「喪山がこれである」ことを明確にするために「為山」(山となり)を挿入している。 【記紀における「喪山」】 前項のように、記には、二通りの読み方がある。 A かつて天若日子が蹴飛ばして飛んできたと言われる祠があって、その一帯の山地が「喪山」と呼ばれた。 B 喪屋そのものが、山と化して落ちてきたものが「喪山」である。 喪山天神社について言うと、その裏(北側)に高さ10mくらいの山が迫る(写真)が、これは独立した山ではなく、天王山(標高537.6m)から南方に長く伸びた尾根の端である。 大矢田神社『社伝』にある「天若日子廟所」(喪山天神社)は祠のようなものを指し、喪山はその一帯の土地を指すと思われる。 従って、大矢田神社説はAによる。 ところが書紀は、「即ち落ちて山となり、今美濃国の藍見川の川上に在る喪山がこれである。」とある通り、完全にBである。 葬送山が古墳ならば、造られたのは3世紀後半から7世紀前半までの間だから、記紀編纂時期には間違いなく存在していた。だから記紀の「喪山」の候補となる資格はある。 ただ、葬送山が喪山と書かれたのは江戸時代であり、奈良時代からずっと喪山とされていたかどうかとなると、これは分らない。 とは言え、Bの場合、喪山天神社付近の地形は不利で、平地に独立して立つ葬送山(写真)の方が有利である。 大矢田神社説と葬送山説は、記の読み取り方A,Bの違いに関係することになる。 両地とも、記紀成立後にその神話と結び付けられてきた伝統はあるが、古事記の執筆者が認識していた「喪山」と一致するものかどうかは分らないのである。 【日本書紀本文】 天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。 是時、天國玉、聞其哭聲則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、舉尸致天、便造喪屋而殯之。 卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者 【一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者、又以雀爲舂女。】 【一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者、以鴗爲尸者、以雀爲舂者、以鷦鷯爲哭者、以鵄爲造綿者、以烏爲宍人者、凡以衆鳥任事。】 而八日八夜、啼哭悲歌。 先是、天稚彥、在於葦原中國也、與味耜高彥根神友善【味耜、此云婀膩須岐。】故、 味耜高彥根神、昇天弔喪。時此神容貌、正類天稚彥平生之儀。 故、天稚彥親屬妻子皆謂「吾君猶在。」則攀牽衣帶、且喜且慟。 時、味耜高彥根神、忿然作色曰「朋友之道、理宜相弔故、不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者。」 則拔其帶劒大葉刈【刈、此云我里、亦名神戸劒】以斫仆喪屋。 此卽落而爲山、今在美濃國藍見川之上喪山是也。 世人、惡以生誤死、此其緣也。 天稚彦(あめのわかひこ)之(が)妻(つま)下照姫(したてるひめ)、哭泣(なくになき)悲哀(かなしぶにかなしび)、声(こゑ)天(あめ)に[于]達(とほ)しき。 是時(このとき)、天国玉(あまつくにたま)、其の哭く声を聞き則(すなは)ち夫(をうと)天稚彦已(すで)に死すを知り、乃(すなは)ち疾風(はやち)を遣はし、尸(かばね)を挙げ天(あめ)に致し、便(すなは)ち造喪屋(もや)を造りて[而][之を]殯(あらき)しき。 即ち川雁(かはかり)を以(も)ち、持傾頭者(きさりもち)及(と)持帚者(ははきもち)と為(し)て 【一云(あるいはく)、鶏(とり)を以ち持傾頭者と為(し)、川雁を以ち持帚者と為、又(また)雀(すずめ)を以ち舂女(つきめ)と為(す)。】 【一云(あるいはく)、乃(すなは)ち川雁を以ち持傾頭者(きさりもち)と為(し)、亦(また)持帚者(ははきもち)と為、鴗(そにどり)を以ち尸者(ものまき)と為、雀を以ち舂者(つきめ)と為、鷦鷯(さざき)を以ち哭者(なきめ)と為、鵄(とび)を以ち造綿者(わたつくり)と為、烏(からす)を以ち宍人者(ししびと)と為、凡(およ)そ衆(みな)鳥(とり)を以ち事(こと)を任(をほ)せき。】 [而]八日(やか)八夜(やよ)、啼哭(なくになき)悲しび歌ひき。 先是(このさき)、天稚彦、葦原中つ国に[於]在(あ)れば[也]、味耜高彦根(あぢすきたかひこね)の神与(と)友善(よしみ)しし【味耜、此れ婀膩須岐(あぢすき)と云ふ。】故(ゆゑ)、 [以前、天稚彦は(天から降りて)葦原中つ国にいたとき、味耜高彦根の神と仲良くしていた。] 味耜高彦根の神、天(あめ)に昇り喪(も)を弔(とぶら)ひき。時に此の神の容貌(かほかたち)、正(まさ)に天稚彦の平生之(はひし)儀(すがた)に類(に)き。 故(かれ)、天稚彦の親属(うがら)妻子(めこ)皆(みな)謂はく「吾(あが)君(きみ)猶(なほ)在り。」則(すなは)ち衣帯(ころもおび)攀(よ)ぢ牽(ひ)き、且(また)喜び且(また)慟(とよ)みき。 時に、味耜高彦根の神、忿然(いかりなし)色を作り曰はく「朋友(ふたとも)之(の)道(みち)、相(あひ)弔(とぶらふ)に理(ことわり)宜(よろ)し故(ゆゑ)、汚穢(きたなき)を不憚(はばから)ず、遠(とほ)き自(よ)り赴(おもぶ)き哀(とぶら)ひき。何(な)ぞや我を亡(な)き者に[於]誤(あやま)つを為す。」 則ち其の帯びし剣(つるぎ)、大葉刈(おほはかり)【刈、此れ我里(かり)と云ひ、亦の名を神戸剣(かむどのつるぎ)といふ。】を抜き、[以ちて]喪屋を斫(き)り仆(たふ)しき。 此の即ち落ちて[而]山と為(な)り、今に美濃国藍見川之(の)上(かはかみ)の喪山(もやま)、是(これ)在り[也]。 世の人、生けるを以ち死せるに誤つは悪(あ)しとす、此れ其の縁(よし)也(なり)。 夫…(倭名類聚抄、以後「倭名抄」)和名「乎宇止(をうと)」一云「乎止古(をとこ)」。 (万葉集、以後「万」)「つま」。0543 愛夫者 うるはしづまは 達…とどく。とおす。(万)2794 達而念 とほしておもふ 疾風…はやち、はやて 舉…あげる。=擧、挙 あらき、もがり(殯)…貴人の死後、埋葬までの間、しばらく遺体を棺に納めて安置すること。 (万)0441 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座 おほきみの みことかしこみ おほあらきの ときにはあらねど くもがくります 尸…しかばね。かばね。(万)4094 美都久屍 みづくかばね 便…すなはち。 鶏…とり(ニワトリ)。(倭名抄)「山雞=和名 夜萬土利(やまとり)」なので、「鶏」は「とり」だと思われる。 鴗…そにどり(カワセミ)[第66回の歌謡参照]。(倭名抄)和名「曽比日(そひび)」 雀…(倭名抄)和名「須々米(すずめ)」 鷦鷯…みそさざい。(倭名抄)和名「佐々木(さざき)」 鵄=鴟…(倭名抄)「和名 土比(とび)」 烏…(倭名抄)「和名 加良須(からす)」 持傾頭…きさりもち。 舂…穀物などを臼に入れて外皮をとったり砕いたりする。つく。 舂女(つきめ)…米をつく女 尸者(ものまき)…<角川国語中辞典(昭和48年)>死者の着る衣を着て、弔問の人に会う役。</同辞典> 造綿(わたつくり)…死者の衣料を作るひと。 宍人(ししびと)…<角川国語中辞典>肉を料理する人。食事を供する人。</同辞典> 宍=肉(鳥や獣のにく。しし)。京都府の地名に「宍人(ししうど)」がある。 婀…(音)ア。 膩…(呉音)ニ。(漢音)ヂ。 耜(すき)…土をすく。 喪(も)…(万)ほとんどが訓の「も」を他の語に転用。1806 情苦喪 こころぐるしも 友善…=友誼。友人間のよいつきあい。よしみ。 容貌(かほかたち) 平生…(万)3791 平生蚊見庭 はふこがみには はふ(這・延)ふ…植物や人が這う。張り渡す。思い続ける。 儀…(万)1622 容儀 すがた 1913 光儀 すがた 1925 儀 すがた うがら(親族)…血縁の一族。 攀…よじる。しがみつく。(万)1507 攀而手折都 よぢてたをりつ 牽…ひく。(万)牽牛 ひこぼし 帯…よみは「おび」と思われる。(万)0742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成 ひとへのみ いもがむすばむ おびをすら みへむすぶべく あがみはなりぬ 妹が一重のみに結ぶ帯を、三重に結ぶ我が身になってしまった。(痩せ衰えた我が身を嘆く) 慟…大声を上げて鳴く。なげく。(万)1050 鳥賀鳴慟 とりがねとよむ 朋友…[参考](万)0382 朋神之 ふたかみの 道…人の道。(万)0347 世間之 遊道尓 よのなかの あそびのみちに 理…(万)0605 天地之 神理 あめつちの かみのことわり 斫…斧で切断する。きる。 悪…あし。にくし。(万)2562 悪有名國 にくくあらなくに 2704 悪氷木乃 山下動 やましたとよみ 《悪以生誤死》 この警句は、「世の人、生(いけるひと)を以って死(しにたるひと)に誤つは悪(いむ)」とよむ例が見られる。 意味はまさにその通りであるが、「悪」を「忌む」とよむのは意訳であろう。 万葉集を参照すれば、少なくとも日本書紀完成の時点において「いむ」というよみは存在しなかったと思われる。 【記紀の相違点】 最大の相違点は、喪屋を建てた場所である。 記では、喪屋は地上の葦原中つ国に建て、天若日子の父の天津国玉、天若日子の妻子(名前不明)が降りてくる。 それに対して、書紀では天雅彦の亡骸を風を吹かせて天に上げ、喪屋は天に建て、味耜高彦根は弔問のために昇ってくる。 記のように喪屋を地上に建てた場合、阿遅志貴高日子根は嫁の兄だから喪主側である。喪主側が自ら建てた喪屋を破壊して、どうするんだということになる。 また、弔問のためとは言え天照側の天津国玉が敵地の真っ只中に降りていくのは、不都合がありそうである。 書紀ではそれらを解決するためか、天国玉の責任で天に喪屋を建てることにした。弔問に訪れた味耜高彦根は、死者と間違われたことを怒って喪屋を切り倒して蹴飛ばす。これなら話として筋が通る。 ただ、これでは天照側はやられっぱなしで面目が立たないが、そのままにされる。 まとめ さて、天若日子が射(い)殺され、喪屋が設置された話は、何らかの歴史的事実を反映しているのだろうか。 大局的には、大国主側と天照側が熾烈な戦争を繰り広げる中の、エピソードの一つと見ることができる。 その喪屋が山になった(上記B説による)土地は、美濃国内にあるとされる。 地理的に見て、越の国(北陸)を支配する大国主勢力と倭の国(畿内)を本拠地とする天照勢力が対峙し、激しい戦闘地帯となったのが美濃国だということは、十分に考えられる。 この地で天照側の大将が敵方に寝返った結果、強い憎しみをもった攻撃にさらされて射殺される事件が起こり、それが長く人々の記憶に残り、祀られた宮(あるいは綾)が何百年も崇拝され続けたことはあり得る。 あるいは、喪山そのものではなく「喪山伝説」のみが人々に語り継がれ、それぞれの部族ごとに「ここが埋葬の地=喪山である」と別々に決めた結果、喪山が複数になったのだろうか。 (但し、記紀の「美濃国の藍見河の河上の喪山」という書き方は、実在の土地を確定的に示すように思われる) また、美濃国を監視する位置にあたる尾張国の豪族に、三種の神器のうち武力を象徴する草薙の剣が預けられたことも、美濃国が前線だったことに関連があるかも知れない。 さらに、比奈守神社(岐阜県岐阜市茜部本郷)が美濃国にあり、魏志倭人伝にもでてくる「ひなもり」(鄙守)がかつて置かれた、辺境の地ではなかったかと想像される。 |
||||||||
⇒ [076] 上つ巻(国譲り6) |