魏志倭人伝をそのまま読む。(3)
《原文のテキスト版があります》(pdfファイル) 魏志倭人伝(紹興本)魏志倭人伝(紹煕本)
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2011.12.10(土)原文を読む(47) 出真珠其木有豫樟

出真珠靑玉其山有丹其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
真珠、靑玉(せいぎょく)出(い)ず。其れ、山、丹有り。其れ、木、枏杼(たんしょ)、豫樟(よしょう)、楺櫪(じゅうれき)、投橿(とうきょう)、烏號(うごう)、楓香(ふうか)有り。

真珠や青玉(サファイア)を産出する。山には、丹砂がある。木は、楠(タブノキ)や杼(クヌギ)、櫲樟([クロモジや]クスノキ)、楺櫪(ジュウレキ)、投(トウ)や橿(モチノキ)、烏号(ウゴウ)、楓果樹がある。

【「出」の文法】
 「有」と同様に主語を省略し、目的語が意味上の主語となる。
真珠 サファイア
【真珠】
<wikipediaより>
 エジプトでは紀元前3200年頃から、中国では紀元前2300年頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録がある。
 日本においても日本書紀や古事記、万葉集にすでにその記述があり、当時は三重県の英虞湾や愛媛県の宇和海でアコヤガイから採取されていた。
</wikipedia>
対馬物産協会
 対馬の中央に広がる浅茅(あそう)湾は、波穏やかな巨大なリアス式海岸。古代より浅茅湾では天然真珠が採取され、朝廷への献上品とされてきました。
</対馬物産協会>
 日本書紀・古事記は8世紀はじめの成立であるが、世界中で広く紀元前から記録があるので、倭人伝の時代の倭国でも、アコヤ貝などが自然に生成した真珠が産出したのは間違いないだろう。最後にも、壹与による魏皇帝への献上品に「白珠五千孔」を含む記述がある。

【靑玉】
<wikipedia>
 サファイア(Sapphire、蒼玉(青玉))は、コランダム(Al2O3、酸化アルミニウム)の変種で、宝石の一種。
 同じコランダムでも、不純物の違いで濃赤色を呈するものはルビー。それ以外の色はすべてサファイアであるが、不純物として鉄・チタンを含む場合は濃紺あるいは青紫色なので、和名を「青玉(蒼玉)」という。
</wikipedia>
 国内の産地を検索すると、たくさんの採集家がブログで、薬研山(岐阜県中津川市蛭川)を取り上げている。他にも、富山県庄川流域や岩手県など、各地で採集できるようだ。

【「其」の文法】
 「その山」「その木」のように指示語だと考えてよいだろうが、特に意味を持たず、語調を整えるために使う場合もある。
(産物)
其山(産物)
其木(植物名)
其竹(植物名)
(香辛料)
(動物名)

 漢語は名詞の格変化や動詞の活用がなく、もともと句読点もない。その結果文の区切りが見えにくい場合に「其」によって文頭を明確にすることができる。
 右の表で骨格を示した通り、さまざまな名称を特定の文字で挟むことによって、文の構造を明瞭にしている。「特定の文字」については、動詞で始まる文の場合、動詞「出」「有」自体であり、主語のある文は形式的な代名詞「其」を付け加える。

【丹】
 丹(朱丹、辰砂)については第42回で詳細に調べた通りである。

【植物名の解釈】
 「其木有」の後、たくさんの植物名が列挙され、「有」への長い目的語となっている。第38回などで述べた「1文字の動詞に対して、目的語は2文字ずつで区切られる」法則によって読み取っていく。すると、植物名1種を2文字熟語で表している場合と、異なる2種を組にする場合がある。
 それらの種の特定を試みたが、すべてを正確に決定するのは困難であった。以下、わかった範囲で2文字ごとに報告する。

【枏杼】
タブノキ クヌギ

 紹興本・紹煕本とも、字体で表された文字は、現在の(ユニコードには未登録)で、<漢辞海>(ユニコード:678f)とともにの異体字である。楠科の常緑高木の総称。なお「くすのき」は日本語用法。</漢辞海>
 しかし、ウィキペディアでは、「<wikipedia>「楠」という字は本来は中国のタブノキ(クスノキ科に属する)を指す字である。</wikipedia>」として、特定の種を指している。
 総称か特定の種のどちらか、ということになるが、次項の「豫樟」はおそらく種としての「クスノキ」を指すので、「タブノキ」を種名として採用する方が妥当であろう。
 さて、そのタブノキを調べる。<wikipedia>クスノキ科タブノキ属の常緑高木。高さは20mほど。太さも1m。東北地方から九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として植生している。</wikipedia>

 次に(しょ)は、<漢辞海>ブナ科の落葉高木。くぬぎ。またくぬぎなどの実。どんぐり。</漢辞海>
 <wikipedia>ブナ科コナラ属の落葉高木。実は他のブナ科の樹木の実とともにドングリとよばれる。ドングリの中では直径が約2cmと大きく、ほぼ球形で、半分は椀型の殻斗。岩手県・山形県以南の各地に広く分布する。低山地や平地で照葉樹林に混成する。</wikipedia>
 漢辞海によれば「くぬぎ」と読む漢字はたくさんあり、茅・杼・椚・椡・椢・[木]偏に[國]・檞・檪・櫟・櫪。(このうち、椢または[木]偏に[國]は日本語用法) このように多く種類の漢字を宛てられていることからも、わが国で非常にありふれた植物であることがわかる。
クロモジ クスノキ クスノキ()

【豫樟】(は、の旧字体)
 一文字または、豫樟でクスノキを意味する。もう少し踏み込んでみたところ、中国のweb百科事典「百度百科」で興味深い記述を見つけた。
 それは、豫章郡(楚漢戦争の時代[B.C.206]に現在の南昌市付近に設置)の項目で、郡名の由来を解説した部分である。
 それによると、豫章(豫樟とも書く)は熟語として、古文書に「大木である」などの記述がある。そのうち、張守節という人が開元年間(唐の713~741)に書いた「『史記』正義」に、「豫,今之枕木也。章,今之樟木也。二木生至七年,枕、章乃可分別。」の一文がある。意味は「豫は現在の"枕"の木、章は、現在の"樟"の木である。これら2種類の木は、生えて7年後に"枕"、"樟"が区別できるようになる。」
 では、「枕」とはどういう植物か。「漢辞海」では「まくら」の意味のみで、植物名はなかった。そこで"豫"に木偏をつけ"櫲"にして台湾の「国際電脳漢字及異体字知識庫」で調べたら、「木の名前、即ち"枕"、"豫"とも書く」とあった。
 そこでを調べと、<漢辞海>樹木名。クスノキ(烏樟)またはクロモジ(釣樟)とされる。</漢辞海>
クロモジという植物名がでてきたので、更に調べてみた。クロモジ <wikipedia>クスノキ科の落葉低木 本州、四国、九州などの低山や疎林の斜面に分布する。茎は高さ5m程度になる。楊枝をつくる、枝(烏樟)や根(釣樟)を薬用にも用いる。</wikipedia>
 このように「烏樟」についての説が大きく割れてしまっているので、真偽を知るために烏樟について検索を続けた。その結果見つけたのが、
 <ブログ:炎と水の物語>クロモジの樹皮は烏樟(ウショウ)という名前の生薬として使用されます。烏樟には鎮静催眠、去痰・鎮咳作用があるそうです。</ブログ>
 直観的に、豫=クロモジ、樟=クスノキではないかと思ったのだが、結局このような明快な区別は得られなかった。わかったのは、"櫲"はクロモジを指す場合も、クスノキを指す場合もあること。また、クロモジから作られる漢方薬に、"樟"の文字を含むものがあることであった。

 以上から、大勢は「豫樟=クスノキ」である。しかし、時代によって「豫樟=クスノキ、クロモジの類」を意味したかも知れない。

 クスノキ <wikipedia>クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中国のタブノキを指す(タブノキは近縁種)本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。とくに神社林ではしばしば大木が見られ、神社などで神木として崇められている巨樹も多い。</wikipedia> 全体から樟脳の香りがする。樟脳とはクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体である。

【楺櫪】
 (ジュウ) はじめは「禄」かと思ったが、これは主に俸給という意味で、全く意味が通らない。前後の文字と比べても、示偏ではなく木偏であるのは明らかである。
 次に「椽」かも知れないと考えて探した。これは屋根を支える「垂木」である。しかし、植物名としては出てこない。
 最後に"楺"をユニコード一覧から見出すことができた(697A)。これは『漢辞海』には載っていない。ただし「木+矛+木」を横に並べて組み合わせた字があり、「バラ科の低木。ぼけ」とある。
 中国の『互動百科』には次の説明がある。
 <互动[動]百科>[主な意味] ◎ 古同“揉”,使木弯曲   [その他の意味]◎ 古書上説的一種樹。</互动[動]百科>
 すなわち、[主な意味]◎ 古くは「揉」と同じ。木を湾曲させること。[その他の意味]◎ 古い文献に、一種の樹木として記載がある。
 木の名称であろうが、実際には、どの種類を指すかは、不明である。

 (れき) これも「クヌギ」であるが、"杼"とどう違うかは不明である。
モチノキ


【投橿】
  植物名としての"投"は、辞書やネット上の文献資料に見つけることができなかった。あるいは熟語"投橿"かも知れないが、こちらも見つけられない。

 橿(きょう) <漢辞海>モチノキ科の常緑高木。「カシ」は日本語用法。</漢辞海><wikipedia>本州、四国、九州、南西諸島、台湾、中国中南部に分布する常緑高木である。樹皮から鳥もちを作ることができる。<wikipedia>

【烏號】
 烏號は、想像上の古代の帝、黄帝が遺したとされるの名称である。
 黄帝が遺した烏號についての伝説は、司馬遷が著した歴史書『史記』(前漢・武帝(B.C.156~B.C.87)の時代に成立)の「孝武本紀」に出てくる。その一部を紹介する。
 あるとき、公孫卿という人が、申公が遺した言葉を武帝に伝える。曰く「黄帝と同じく泰山に登れば、仙人になって天に昇れる。」続けて黄帝の伝説を語った。
鼎湖 龍のあごひげ

 以下、中国哲学書電子化計画《孝武本紀》より。
 漢主亦當上封,上封則能僊登天矣。黃帝時萬諸侯,而神靈之封居七千。天下名山八,而三在蠻夷,五在中國。中國華山、首山、太室、泰山、東萊,此五山黃帝之所常遊,與神會。黃帝且戰且學僊。患百姓非其道,乃斷斬非鬼神者。百餘歲然後得與神通。黃帝郊雍上帝,宿三月。鬼臾區號大鴻,死葬雍,故鴻冢是也。其後於黃帝接萬靈明廷。明廷者,甘泉也。所謂寒門者,谷口也。黃帝采首山銅,鑄鼎荊山下。
 (要約) 黄帝は、天下の八名山のうち中国にある五山を巡り神と会った。黄帝は、戦争を重ねる一方、仙人の道を学び100才を過ぎて神と通ずることができた。…中略… 黄帝は首山で銅を採り、鼎を荊山の山麓で鋳造した。
 鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣后宮從上龍七十餘人,乃上去。
 鼎が完成したとき、あごひげを垂らした龍が黄帝を迎えに降りてきた。皇帝は竜の背にまたがり、また群臣・後宮70人余も皇帝に従った。
 餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,
 残りの小臣は乗ることができず、龍のあごひげに掴まったが、龍からひげが抜けた。そこに黄帝の弓が堕ちてきた。人々が黄帝を仰ぎ見るうちに、天に昇っていった。
 乃抱其弓與龍胡髯號。故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。
 彼らはその弓と龍のあごひげを抱え、号泣した。そのようなわけで、後世、その場所を鼎湖と名付け、その弓を烏号と名付けたことであった。

 この伝説から「号」の由来であることは分かるが、「烏」については分からない。古代の中国では(そしてわが国でも)、三本足の烏が太陽を象徴したので、黄帝を太陽に例えたのかも知れない。(この部分は筆者の想像であるが)
 なお、「鼎湖」に関しては、存在した地名に語呂合わせ的に後付けした伝説であろう。(日本書紀のように)。「烏号」についても同様で、帝にふさわしい優れた弓が実際に存在していたところに、言い伝えが作られたのかも知れない。

 さて、「優れた弓の材料はクワの木だから、"烏号"はクワ(ヤマグワ)のことである」という説が散見されるので、関係資料を探したら、『周礼』(しゅうらい、『儀礼』『礼記』とともに三礼と呼ばれる。戦国時代以降の成立か)が見つかった。
 『周礼』は6つの官職について1巻ずつを宛てているが、「冬巻」が失われ、『考工記』で補われている。その『考工記』に弓の製造技術が記述されている。

 以下、中国哲学書電子化計画《孝武本紀》より。
 《周禮》 「冬官考工」より抜粋:
 弓人為弓。取六材必以其時。六材既聚,巧者和之。干也者,以為遠也;角也者,以為疾也;筋也者,以為深也;膠也者,以為和也;絲也者,以為固也;漆也者,以為受霜露也。凡取干之道七:柘為上,檍次之,檿桑次之,橘次之,木瓜次之,荊次之,竹為下。
 (意訳)
 弓製作者が弓を作るときは、6つの材料が必要である。この6つが揃えば、技術力に優れる者がこれらをうまく調和させる:芯材は矢の射程、動物の角は速度、腱は引きの深さ、膠(にかわ)は接着、絹糸は固さ、漆は霜・結露から守る性能をそれぞれ決める。
 芯材は概ね次の7種から取る:上質なのは(やまぐわ)、次に(もちのき)、次に檿桑(ヤマグワに類するクワ)、次に(ミカン、あるいは柑橘類)、次に木瓜(ボケ)、(イバラ)を下とする。

 前半の弓の製法の部分については、古代のスキタイ(B.C.8世紀~B.C.3世紀、ウクライナ南部)など諸民族には高度な複合弓が製造されていた。その製造は、<wikipedia>まず軸となる木製の弓を用意し、弓を引く時に伸びる側の外側に糸状にほぐした動物の腱、逆に縮む側の内側に動物の角や骨を膠で貼り付けて製作した。木製の部分は薄く、それ自体が弾力を持ち弓の威力を上げると言うわけではなく、どちらかと言うと弓を組み立てるための土台に過ぎなかった。特に動物の腱を糸状にほぐす作業は多くの手間と時間が必要</wikipedia>であった。
 だから、製法とこの文はよく合う。ただ"干"を「乾燥」ととると、材料ではないので不都合である。"干"の意味<国際電脳漢字及異体字知識庫/抜粋>盾。乾燥。干渉。"矸"(砂石)、"邗"(呉国)、"乾"、"幹"の略字</国際電脳>のうち、ここで合うのは「幹」だけである。
 そのうち芯材は、クワが上質とされていたのは確実である。なお、普通の「クワ」は「ヤマグワ」を指すという。また「柘」と「檿」の正確な差異は不明である。

 ある種の弓を表す「烏号」という語が、そこに使われる植物名をも指すようになることは、十分考えられる。だとしても、普通に柘、檍、桑を使えばよいのに特にここでこの名称を用いるのは何故か。ひとつの可能性として、弓矢を紹介する箇所で、弓の材料に触れられていなかったので、ここで「優れた弓の材料して使われている木」として補ったと解釈できないこともない。しかし、当時の植物名の使い分けを示す資料が更に見つからない限り、確実なことは言えない。
楓香樹 かえで(イロハモミジ)


【楓香】
 または楓香樹 <漢辞海>マンサク科の落葉高木。樹脂に芳香があり、葉は太い三つ又状で紅葉する。「かえで」と読むのは日本語用法で、秋に紅葉する植物。中国では"槭"(しゅく)と言う。</漢辞海>
 また、<wikipedia>原産地は台湾、中国南部。日本には江戸時代中期、享保年間に渡来した</wikipedia>とされる。だから弥生時代に自生していた植物「楓」とされるのは、当時から倭人が"槭"を"楓"と呼んでいたのをそのまま書いたか、あるいはほかの近縁種を指したことになる。


【倭国の自然環境】
 ここまでにでてきた植物、タブノキ、クヌギ、クヌギ、クロモジ、クスノキ、モチノキ、ヤマグワは、いずれもわが国の照葉樹林、落葉広葉樹林に一般的に植生する植物である。
 右図(森林・林業学習館より)のように、照葉樹林は関東地方以西の平地と低山、落葉広葉樹林は中部山岳地帯から東北地方以北の平地にあたる。
 今回扱った文「木有~」に針葉樹は含まれないが、当時の倭国に針葉樹がなかったわけではない。日本書紀のスサノオの尊によるヤマタノオロチ退治の部分に、こんな記述がある。
 日本書紀《第八段一書第五》素戔鳴尊曰「韓郷之嶋。是有金銀。若使吾児所御之国。不有浮宝者。未是佳也」。乃抜鬚髯散之。即成杉。又抜散胸毛。是成檜。尻毛是成柀。眉毛是成櫲樟。
 つまり、スサノオが髭をまき散らしたら杉になり、胸毛を抜き散らしたら檜に、尻毛は柀(まき)、眉毛は予樟(クスノキ)になった。だから、少なくとも8世紀以前に、スギ、ヒノキ、マキ(マツ属)の針葉樹が、クスノキとともに代表的な森林植物として存在していたのは間違いない。
 以上からわかることは、倭国にはもちろん常緑針葉樹林があったが、帯方郡の使者が直接訪れたり、倭人から情報を得られる範囲は、針葉樹のない西日本に限られたということである。


2011.12.18(日)原文を読む(48) 其竹篠簳

其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
其れ、竹は篠簳(ショウカン)桃支(トウ)なり。薑(キョウ)橘(キツ)椒(ショウ)蘘荷(ジョウカ)有り、以って滋味を為すを不知(しらず)。獮猴(ビコウ)黒雉(コクチ)有り。

竹は、シノダケなど矢がらに向くものや、桃支竹(とうたけ)がある。生姜、柑橘、山椒、茗荷があり、その美味であることを知らない。ビコウ猿、黒キジがいる。

 前文に続いて倭国で代表的な竹、香辛料植物、動物が紹介される。同じ字で表されるものでも、それぞれの国で異なる種類であることが珍しくないので、双方の地域で現在の何に一致するかを調べた。ところが、それは予想外に困難であった。
 今回の目次[篠簳 桃支竹 香辛料植物 美味を知らず 動物]

シノダケ(Pleioblastus chino)
Plant lust
筱竹(Fargesia murieliae)
Bambou du Bois
【篠】
 まずはタケの種類を特定する。
 <漢辞海>(ショウ) イネ科[タケ亜科]①メダケ属ネササの総称。細くて矢がらを作るのに適する。シノダケ。</漢辞海>
 <国際電脳漢字及異体字知識庫/意訳>①[=筱] 小竹、細竹 ②竹器 ③[=蓧]耘(うん)田器[雑草を取り除く農機具]</国際電脳>
 このように、古く日本、中国ともタケのある種類を指す。まず、我が国の"篠"について。
 <
分類別樹種一覧/イネ科タケ亜科メダケ属>
 アズマネザサ《東根笹》Pleioblastus chino 別名:アズマシノ。古名「シノ」(総称)。分布または原産地:関東、東北地方。いわゆる「篠竹」の代表的な一種。西日本にはネザサという近い仲間のササがある。「妹等(いもら)がりわが行く道の細竹(しの)すすきわれし通はばなびけ細竹原(しのはら)」(万葉集、巻7-1121)。
 </分類別樹種一覧>
 それでは、現在の中国で"篠"または"筱"は、どの植物を指すか。百度百科を見る。
 <百度百科>筱竹 Thamnocalamus spathaceus(Franch.)Sod. 灌木状或いは小喬木状、長頸と粗い短系地下茎を備える;…(中略)…;雄蕊3、花糸分離、子房無毛、花柱短し、柱頭3・羽毛状。</百度百科>
 このように、"シノダケ"(Pleioblastus chino)と"筱竹"(Thamnocalamus spathaceus)は別属である。
 ただし、古代は違う種類の竹を指したかも知れない。また、国際電脳の訳のように、筱竹に近い形態の竹全般を指している可能性もある。
 それぞれの種の詳細を知るために検索をかけてみたが、竹が身近なはずのわが国にはそのようなサイトがなく、皮肉なことにドイツ、フランス、アメリカなどの庭園業者のサイトに学名による詳細なリストがあった。
 それらを調べたところ、"Thamnocalamus spathaceus"は、最新の分類では"Fargesia murieliae"に改められたらしいことがわかった。
 写真を見ると、"しのだけ"も"筱竹"も細い茎の竹であり、はここでは大雑把にこのような竹を指していると考えられる。(ちょうど国際電脳の解釈が当てはまる)


【簳】  <漢辞海>(カン) イネ科[タケ亜科]①群生する、幹が細い竹・ササの総称。矢を作るのに適する。シノダケ。②矢の幹の部分。やがら</漢辞海>
 <国際電脳漢字及異体字知識庫> ①箭杆。[=矢がら] ②小竹。可以作箭杆[=これを使って矢がらを作ることができる]</国際電脳>
 右図のように、"杆"は矢がら。"簳"は矢がら、あるいはそれに適する竹を意味する。種は明らかでないので、"篠"と同じかも知れないし、特定の種類を指したのかもしれない。
 "簳"とは違うかも知れないが、"箭竹"(Fargesia spathacea Franch)もあり、百度百科の説明に、「箭竹是大熊猫喜食的食物」(パンダが好んで食べる食物)とある。
 熟語「篠簳」は同義語かも知れないし、矢がらを作る種類全般を指すかも知れない。ここで"烏号"と共に、弓と矢の材料が揃った。このように弓矢に関連する植物が特徴的に取り上げられているのは、弥生時代が戦乱の時代であったことの反映であろう。
   [今回の目次へ]


【桃支】
 「桃支竹」は、複数の古代の中国文献にある。その一部が、わが国の歴史的資料『大和本草』(やまとほんぞう)に引用されていた。
 <
中村学園/図書館>貝原益軒の主著『大和本草』は宝永6年(1709)に刊行された。80歳のときのことであった。彼は若いころ医学を学び、黒田藩には儒者として仕えたが、優れた本草学者でもあり、本格的な本草書を日本ではじめて書いている。これが「大和本草」である。</wikipedia>
 右図は、その第九巻:草の五にあった「桃支竹」である。(画像は中村学園図書館の「電子図書館」より)
 この原文に句読点と引用符を補い、次のように読み下した。なお、『 』は文献、( )は漢字のよみ、[ ]は注釈である。

 桃枝竹(とうたけ) 『本草拾遺』に出(いで)たり、綱目二十七巻竹筍類にのす[=載せる]。桃竹筍の性[=性質]をあらはせり[=著した]。桃枝竹の性はのせず。
 時珍曰く「皮滑にて而(しか)して黄なり。四寸にて節有り、以て席[=寝具あるいは座布団]と為す可し。『尚書』[=『書経』]を顧命日、重ね"篾"席を敷く。蔡傳に"篾"席は桃枝竹の席なりと伝う。」
 『山海經』『遵生八牋』は桃竹をのす[=載せる]、桃枝竹と同じ。
 杜子英「桃竹杖の引く有り、『餘姚縣志』[=余姚県志]に云く、靭[=強靭]にて篾(べつ)に作すに堪[た]ヘリ。桃竹、葉は棕[=棕櫚、シュロ]の如し、身は竹の如し、節は密し、而して實中蓋し天成の柱杖也。」
 今、たうたけ[=桃枝竹]とてわ[=割]りて縄の如くし物をしく物、是也。簟[=むしろ]にも作る。夏月[=月見の宴を意味するか]の臥席とす。
 本邦に此の種ある事を聞かず。『本草』に其の竹叢生[=密生]すと云う。椶[=シュロ]竹などの如く一處[=一処]より多生す。大あり小あり。小なる者も長じまた杖とすべし。

 『本草拾遺』…<維基百科>唐代薬物学家陳藏器著、開元二十七年(739年)編撰</維基百科>
 時珍(李 時珍、り じちん、1518~1593)…明の医師で本草学者。『本草綱目』を著す。
 …現在の「席」以外に、古くは<国際電脳/要約>寝具、あるいは座るための敷物。</国際電脳>を意味した。
 …<国際電脳/要約>①竹を剥いで薄片、あるいは長方形にしたもの。②竹の一種。</国際電脳>
 『書経』(しょきょう)…または『尚書』(しょうしょ)。<wikipedia>政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集。</wikipedia>
 『山海経(經)』(せんがいきょう)…中国の地理誌。戦国時代~漢代(B.C.5世紀~A.D.3世紀)。各地の動物・植物・鉱物の他、妖怪も登場する。
 『遵生八牋』…<維基百科>明朝飬生家高濂所著、萬曆十九年(1591年)初刊</維基百科>。19巻からなる、健康についての百科全書。
 『餘姚縣志』…明沈應文ら編纂、萬暦31年(1603年)。「餘姚縣」は第35回参照。

 まとめると「桃支竹」は別名「篾」といい、茎の表面は黄色く滑らか、節間は狭く4寸(12cm)ほど、葉はシュロに似て一箇所から多数が放射状に伸びる。幹はそのまま杖として使うのに適している。
 弾力があり細長く削り取り易い。編んで座布団のような敷物を作っていた。
 倭人伝の時代には同じ種か、よく似た植物があったはずだが、江戸時代の日本には見られない。
 (なお、「シュロチク」という植物があるが、これはタケ亜科ではなく、ヤシ科である)

シュロチク
季節の花300
ホテイチク 茎(右)
撮影:青木繁伸 氏
(群馬県前橋市)
植物園へようこそ!
ホテイチク
理科ねっとわーく
 「桃支竹」には節があり、タケノコの時期があるので、タケ亜科だろう。特徴は古い文献には書かれているが、現在使われている種名としては辞書に載っていない。だから、この名称はどこかで途絶えた。種の絶滅を免れていれば、現在は他の名称をもつはずである。スケッチでも遺されてされていれば特定できるだろうが、文面だけで特定するのは困難である。
 近い特徴をもつものを探すと、<駒の要旺竹公房/竹の種類>布袋竹:根に近い部分の節が斜めになり、節と節の間が短い。</竹の種類>を見つけた。
 同じように節が斜めになるなかまに、キッコウチクがあるが、キッコウチクはモウソウチクの変異種で、ホテイチクはマダケ属である。
 さらに調べると、ホテイチク(学名;Phyllostachys aurea)は、<wikipedia>直径2~5cm。原産は長江流域。節の斜めになった部分が握りやすく、乾燥材は折れにくいため、釣り竿として使われる。 </wikipedia><weblio辞書・竹図鑑>別名コサンチク、釣竿、杖として使用</weblio>
 葉のつき方はシュロのように見えなくもない。釣竿になる理由「握った手に力が入りやすい」が、杖としても役立つと言える。しかし、『大和本草』の「本邦にはない」「滑らかで黄色」は必ずしも一致しない。どの程度編むことができるかも不明なので、断定するのは難しい。
   [今回の目次へ]

【有㆓薑・橘・椒・蘘荷㆒】
 1文字の動詞への目的語は、普通偶数文字に揃えるが、ここでは例外的に5文字(1+1+1+2)をとる。

【薑】
生姜
 (キョウ、学名:Zingiber officinale)<漢辞海>ショウガ科の多年草。茎が肥大して香りと辛みがあり、野菜や調味料として用いる。ショウガ。はじかみ。</漢辞海>
 <
丸イのお漬物>中国では孔子の時代(紀元前500年頃)の記録があり、日本へは聖武天皇時代の天平年間よりも前に中国の呉(三国、222~280)から渡来したと言われ、古名を「クレノハジカミ」と言います。日本に渡来したときも薬用とされていました。中国でも2千年前の医学書に漢方薬として薬効が重用されました。</丸イのお漬物>
 伝来はちょうど倭人伝の頃で、これから次第に倭国全土に広がっていくのである。故に、まだ「美味は知られていない」のは当然である。
 現在は中国料理に多用される。中国では2千年前は漢方薬であったのは文献上の根拠があるようだ。常識的には、料理にも使われただろう。<wikipedia>古代の中華料理は煮込み・直火焼き・羹(あつもの)など。直火焼きの焼き肉をあらわす「炙」という字もある。</wikipedia>生姜は肉の臭みを消し、いい香りがして美味しそうである。

【橘】
 (キツ) <漢辞海>ミカン科の常緑低木または小高木。ミカン。「たちばな」は日本語用法。</漢辞海>
 近代のミカン、例えばキシュウミカンは、<Yahoo!百科事典>1280年(鎌倉時代)に渡来、紀州には1574年に伝えられ、1671年に江戸に初出荷。<Yahoo!百科>
 文献での初出は『古事記』『日本書紀』というから、最初に文字の記録がある頃には存在していた。倭人伝のころのミカンはどのような種類で、いつ伝来したものかは当然分からない。ミカン亜科(ユズ、カボス、キンカン、レモンなど)に属する何らかの種類があったのだろう。
 また"橘"は香辛料を列挙する中にあるので、後世のウンシュウミカンのような甘味はなく、酸味の香辛料であったと想像される。
 中国には「江南橘化為枳」(江南のミカンは江北に移植するとカラタチになる)という諺がある。江南は長江より南の地域のことで、出典は『淮南子(えなんじ)・巻一原道訓』(淮南王劉安[179B.C.~122B.C.]のとき編纂された)。

【椒】
 (ショウ) <漢辞海>ミカン科の落葉低木。葉と実に香りや辛みがある。はじかみ。サンショウ</漢辞海>と、『漢辞海』ではサンショウに限定し、簡潔に説明している。
 一方『百度百科』では、辛みのあるもの一般を指す。<百度百科/椒>辣椒[トウガラシ属の一種、Capsicum frutescens]、胡椒[コショウ Piper nigrum]、花椒[かしょう、カホクザンショウ Zanthoxylum bungeanum;サンショウと同属異種]がある。</百度百科>
 <wikipedia>サンショウ(山椒、学名:Zanthoxylum piperitum)はミカン科サンショウ属の落葉低木。別名はハジカミ。日本の北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部に分布する。</wikipedia> 
 以上から「椒」は、中国のカホクサンショウに類似した日本の固有種「サンショウ」を指すと思われる。縄文時代晩期から食物にされていたと見られる。後の項で詳しく見る。

【蘘荷】
茗荷 偽茎
jp.wikipedia.org
 荷(じょうが)は、<百度百科>《学名》Zingiber mioga Rose 《科属》姜科姜属 《産地》中国南部原産</百度百科>。様々な名前で呼ばれるが、阳荷(陽荷の簡体字)が代表的。(なお、"陽荷"は自動翻訳でしばしば工学用語の「陽電荷」[いわゆるプラス電気]と訳されてしまう)
 茗荷(みょうが、学名:Zingiber mioga)として日本に伝来した。その由来は<語源由来辞典>奈良時代、平安時代は「めが」と呼ばれた。語源は、その香りから「芽香(メガ)」の意味とする説と、ショウガを「兄香(セガ)」といったことから、男の称「セ」に対し女の称「メ」を当てた「妹香(メガ)」とする説がある。この「めが」が拗音化して「みょうが」になった。漢字の「茗荷」は、発音が「みょうが」になって以降の当て字である。</語源由来辞典>
 「<wikipedia>日本の山野に自生しているものもあるが、人間が生活していたと考えられる場所以外では見られないことや、野生種がなく、5倍体(基本数x=11、2n=5x=55)であることなどから、大陸から持ち込まれて栽培されてきたと考えられる</wikipedia>」とすれば、呉・越(春秋時代)から渡来人が持ちこんだ可能性があるが、確かなことはわからない。
 百度百科では、"阳荷""蘘荷""茗荷"がそれぞれ別々に項建てされ、"蘘荷"は薬品としての効能が記述の中心であるのに対し、"茗荷"は和食の食材としての紹介が中心である。
 "阳荷"の項では、薬以外に食品としても「风味独特,食味特别,香味浓郁,回味无穷,不少消费者对其情有独衷。」(風味独特、食味特別、香味濃郁[=濃厚]、回味無窮[=味が限りなく巡る]、不少消費者対其情有独衷[=少なくない愛好家がいる])と、高く評価している。
 以下は想像であるが、蘘荷は中国では主に薬草として栽培されていた。日本へは紀元前に持ち込まれ、少なくとも奈良時代以前に野菜として食されていた。中国で広く食されるようになったのは案外近年になってからで、それは日本料理の影響によるのではないか。
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【不知以爲滋味】
 「滋」はもともと水分で潤うという意味だが、「滋味」は「美味」と同じである。この文は「私が観察したところ、中国の人々が美味しく味わう香辛植物が自生しているのを見つけたが、それを食することを知らないのは惜しい。」と読める。
 しかし、ことは単純ではなく、倭人がすでに食しているものもあり、も遠からずその美味しさを知るようになっていくものもある。生姜、柑橘類、茗荷はこの頃に伝来したとされているので、これからそれらを食する習慣が広まっていく途上にある、と読むべきである。
 ただ、山椒だけについては、すでにその美味を知っていたのである。これに関して「山椒は、縄文時代の遺跡の中から山椒の入った土器が発見されていることから、日本最古の香辛料と言われています。」という文が大量に検索にかかった。ただ、Wikipediaを含めすべて伝聞形で書かれ、一次資料がなかなか見つからないのが気になった。
 ネット検索は便利だが、今回「引用情報が一人歩きして大量に出回っている状態では、一次資料が埋もれてしまう」という弱点を発見した。これは一旦デマが広まり始めると、ネット社会が重大な危機に直面することを意味している。
 それでも検索語を工夫して探したところ、「
群馬県埋蔵文化財調査事業団種実類調査遺跡データベース」を見つけた。
 次の表は、同データベースの、「群馬県の遺跡についての種実類調査」の結果から、サンショウの種子・実の出土例を抽出したものである。
遺跡所在地出土環境種名状態数量時代
横手湯田遺跡前橋市B区1号流路サンショウ9古墳時代前期
下原遺跡吾妻郡長野原町Ⅱ区6(中世)焼土③層サンショウ炭化種子1中世
江木下大日遺跡3号井戸サンショウ種子1平安時代(9世紀後葉)
新保遺跡高崎市C溝サンショウ2弥生時代後期前半
新保遺跡高崎市2B溝サンショウ11弥生時代後期後半
新保遺跡高崎市E溝サンショウ2弥生時代中期末から後期前半
新保田中村前遺跡高崎市2号河川跡サンショウ1弥生時代後期
中里見中川遺跡高崎市4区2号土坑サンショウ内果皮12縄文時代晩期か
中里見中川遺跡高崎市5区平安溝サンショウ内果皮6平安時代
長野原一本松吾妻郡長野原町2・3区土層断面資料1サンショウ種子2奈良時代(1270±50yBP)※yBPは西暦1950年基準の年数
徳丸仲田遺跡前橋市J区河川跡サンショウ種子20古墳時代前期
二之宮宮下東遺跡前橋市3区16層サンショウ1古墳時代後期(6世紀中頃から7世紀初め)
二之宮千足遺跡前橋市6区64号溝サンショウ1古墳時代中期
日高遺跡高崎市南区170号溝サンショウ2弥生時代後期
白倉下原遺跡甘楽郡甘楽町A区85号住居サンショウ炭化種子1古墳時代後期(6世紀前半)
蛭沢遺跡高崎市2号井戸サンショウ未確認古墳時代前期
 年表からわかるように。山椒の果皮や種子が、縄文時代晩期(紀元前13世紀ごろ)から中世まで万遍なく、生活場所の遺跡に見出されることが分かる。一方で、すでに述べたように生姜は外来であった。

【群馬県の種実類調査に見る倭人伝の植物】
 「群馬県の遺跡についての種実類調査」には、前期のサンショウの他、クヌギ、コナラ属(クヌギを含む属)が縄文時代から中世まで広く出てくる。また、ヤマグワがおもに弥生時代に出てくる。
 また、弥生時代にモモが大量に出ているのは、纏向遺跡に大量にモモが発見されたこととの関連で注目される。
 第41回の「臥息異處」の項で、スゲの編み物を寝所のしきりとする例を見たが、スゲも多数出土している。ただし、古墳時代である。万葉集の「湊の葦が中なる玉小菅刈り来わが背子床の隔しに」の歌の時代には合っている。
 一方、ショウガ・ミョウガ・柑橘類は全然出ていない。現在のミカンも温暖な地方特産(収穫高上位から和歌山、愛媛、静岡、熊本、長崎、佐賀の順)なので、群馬県には分布しなかったのかも知れない。

【「不知以爲滋味」のもうひとつの解釈】
 私が最初にここを読んだとき、魏から訪れた紀行文作者が倭国ではじめてこれらの植物を口にしたときにその美味に驚き、「こんなに美味だとは、知らなかった」と言ったと解釈した。しかしその後、倭人の生活ぶりを努めて客観的に描くのが全体の基調であり、観察者の主観的な感想は異例であるのが判り、「倭人には(山椒以外)まだ食する習慣が広まっていない」という一般的な読み方に傾いた。
 ところが詳細に検討した結果、山椒は日本で古くから食し、中国では薬用としての利用が中心だった陽荷、茗荷とともに「倭人から勧められ、はじめて食物として味わってみて、その美味に驚いた」という解釈も成り立ちたつ可能性がある。
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ニホンザル
jp.wikipedia.org
獼猴
zh.wikipedia.org
【獮猴】(びこう)
 タイワンザル(学名 Macaca cyclopis)は、中国語で獼猴である。タイワンザルの1文字目のは、「<国際電脳漢字及異体字知識庫>3. 獸名,即獼猴。</国際電脳>」とあるので、ここではと同じと考えてよい。
 また中国の文献として16世紀、明の時代に書かれた『西遊記』を見ると、そこに登場する斉天大聖(せいてんたいせい;孫悟空と義兄弟の契りを交わした牛魔王などの7妖仙)の一人「獼猴王」は大型の猿の姿をもつ。
 一方、ニホンザル(学名 Macaca fuscata)は、タイワンザルの近縁種で、<wikipedia>M. f. fuscata ホンドザル;日本(九州、四国、本州)固有亜種と、M. f. yakui ヤクシマザル;日本(屋久島)固有亜種</wikipedia>が分布する。
 したがって、魏国の観察者は倭国のニホンザルを知り、よく似ている「獼猴」がいると記録したと考えてよいだろう。

キジ 雌と雄[] コウライキジ
【黒雉】(こくち)
 日本のキジは固有種(学名 Phasianus versicolor)として、<wikiledia>本州、四国、九州に留鳥として生息。東北地方に生息するキタキジ、本州・四国の大部分に生息するトウカイキジ、紀伊半島などに局地的に生息するシマキジ、九州に生息するキュウシュウキジの4亜種が自然分布していた。</wikipedia>
 ユーラシア大陸にはコウライキジ(学名 Phasianus colchicus)が広く分布し、30亜種に分けられている。雄については、コウライキジの多くは、首に白い輪の模様があるが、キジにはないという違いがある。
 辞書やWebを探っても、他の鳥を指す用法は見つからないので、中国、倭国とも昔から同じ「雉」であると思われる。「黒雉」の表現は他の歴史書には見つけられなかった。「黒雉」と呼ばれる亜種があったのか、形容詞の「黒」なのかは分からない。獮猴と並べて文字数を整える意味もあったと見られる。
   
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2011.12.24(土)原文を読む(49) 灼骨而卜以占吉凶

其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
其れ、俗は挙げて行来(こうらい)を事(つと)め、云為(うんい)する所有れば、輒(すなわ)ち骨を灼(や)き而(しか)して卜(ぼく)し、以て吉凶を占い先告(せんこく)す。其の辞は、亀法をして火坼(かたく)を視(み)令(せ)しめば、占兆(せんちょう)するが如し。

倭国の風習では、日々の行い、言動など何かことがあれば、獣骨を灼いてできる割れ方から吉凶を占い、これから先へのお告げを受ける。その占辞は、亀甲占いの[古来の]作法によって亀甲に割れ目をあらわさせ、占兆するようなものである。

 牛骨や亀甲に文字を刻み、火で焙ることによってできる割れ目の形による占い、亀骨占いはあまりに有名である。
 また、特に古代中国、殷王朝の遺跡から発掘された甲骨文字について、詳しい研究が続けられている。
 この「甲骨占い」の習慣は世界各国に見られ、倭国もその例外ではない。
 今回の文中には、灼骨吉凶という、甲骨占いに関係のある文字があふれている。
 一見するだけで意味は明白であるが、正確に読み取ろうとするとかなり難しい部類に入る。改めて一文字ずつ吟味していく。

【其】
 「倭国の」を意味する代名詞と見てもよいが、第47回から引き続き、語調を整える副詞とする。「其」を文頭とする区切りが続いていると考え、「其俗」と「其辞」の2文に分ける。
【俗】
 人々、または人々の生活習慣の意味である。風俗。
 続く「擧事行來~告所卜」を大きく述部と考え、"俗"をその主語と考える。
【挙】
 形容詞または副詞で「挙げて」。次に述べるように、"事"が動詞なら"挙"は副詞である。
【事】
 「《名詞》こと《動詞》実践する。仕える。」ここでは動詞で「実践する」と解釈する。
【行来】
 「時衰」の文を扱った(第45回)では「往来」と訳したが、ここでは「人の生き方」か。ただ、"行"と"来"は熟語ではなく、それぞれ単独の役割を担う可能性も残っている。
 ""単独では、助詞として目的語と動詞を倒置するときに使用する。つまり、「B来A」は「AB」と同じく「BをAする」の意味。(「B之A」も同じ) この箇所にこれを適用すると、動詞「有」が目的語「行」(名詞として、"行い")をとる。
 そうすると、次の「所云為」が名詞としてはたらくが、それを受ける動詞が来ないので、うまくいかない。したがって、「来」単独という解釈は成り立たない。
 従って「行来」を熟語に戻して考える。《google翻訳》を使うと、「行来」はいつも頑なに「line(直線状に並べる)」と訳される。しかし、これでは意味が通らない。
 思い切って分野を広げて「行来」の用例を探したところ、ポピュラーミュージックのグループ「Speed」が歌った"Wake Me Up!"の中国語訳でこれが見つかった。
 和文「失うことを恐れずに ずっと強気で生きてきた」が、中文(繁体)[台湾で使用されている字体で書かれた中国語]では「不畏失去 持續堅強的一路行來」と訳されている。
 この場合、「行来」は「生きていくこと」あるいは「まっすぐ生きること」という意味で使われていることが分かる。
 恐らくこの箇所でも、同じ意味であろう。「行来」は「事」への目的語として位置付けられ、「事行来」は「生きていくことに努める」というニュアンスになる。
【有】
 「有」が、その前の動詞「事」と並列する。「有」の目的語は「所云為」。
【所】
 次にある動詞を名詞化する。「名詞化」とは、「Aする」を「Aすること」に変えること。
【云為】
 自動翻訳では、「云」は常に「雲」の簡体字と解釈されてしまう。古代に"言う"という意味だった「云」を調べたところ、「云為」(うんい)という熟語があった。「言ったり行ったりする」つまり"言動"とほぼ同じである。
 熟語にするだけでも名詞として使えるが、直前に「所」をつけることによって名詞化することもできる。つまり「所云為」は「云ったり為したりすること」。
【輒】 
 副詞としては、「すなわち」と読み、複数の使い方「~の度に」「いつも」「~の直後に」「~するとただちに」がある。つまり因果関係、頻度、時間的近接関係などを示す。
 ここまでの検討を踏まえた訓読を、右図で示す。

 以上から、およその文意は「生活で遭遇する様々なことについて、常に灼骨して…」となる。

【灼骨】
 「骨を灼(や)く」
【而】
 而(しか)して…接続詞。順接・逆説の両方の場合があるが、この場合は順接で、時間の前後関係。「骨を焼き、次に割れ目ができる」
【卜】
 "卜"も"占"も「うらなう」であるが、"卜"は象形文字で、もともと亀甲を焼いてできた割れ目からできた。次の文が「以て吉凶を占う」なので、ここではまず物理的に割れ目を生ずるまでを指す。
【以】
 (もっ)て…接続詞または副詞。因果関係を表す。
【占吉凶】
 「吉凶」という言葉は、現代まで続いている。""は、甲骨の割れ目の形から運命を解釈すること。
【先告】
 「先んじて告げる」「導き告げる。」この場合の「先」の使い方は「先導」(先に立って導く)と同じ。
 通常「先」は、過去を表す。「先の副将軍、水戸光圀公」などの例がある。逆に、未来を意味する場合もある。「先のことは分からない。」など。
 基本的な意味は、2人のうち、1番目に行く人が「先」で、2番目に行く人が「後」である。神様が私たちに未来の出来事を教えてくれるのは、「私たちよりも先に行って、もう未来を知っている」からである。だから「先告」は未来を教えてくれるという意味になる。
 文法的には形容詞「先」が連用化する。(動詞の直前に置かれると、副詞のはたらきをする)
【所卜】
 動詞"卜"はここでは"而卜"のときとは違って、できた割れ目から明らかになった吉凶を知ることを意味する。「所」によって名詞化されている。

【其辞】
 ""は、前文の所卜を直接受けるので、代詞である。また、「"其"が文頭を表す」はたらきも兼ねている。
 ""は名詞で「言葉」。占いの内容を表す文である。亀甲を加熱する前後に甲骨文字で刻む言葉を、前辞、命辞、占辞、験辞という。(後述)
 文法的には、"其辞"は「如令…占兆」までを述部にとり、その主語である。s+vを入れ子にして大きな主語Sの述部とする「主述述語」の一種であると考える。
【如】
 仮定の接続詞としての"令"は、同じく仮定の接続詞"如"と重ね、一体となって使われることがある。しかし、この箇所では、倭国における灼骨のやり方と、中国古来の亀甲占いの法を対比しているので、動詞「如し」の意味が生きていて、以後の複文全体を目的語にとる。
【令】
 "令"は、使役の助動詞であるが、仮定の接続詞としても使われる。「視」はこの場合、亀甲が自ら割れ目を形作り見せることである。
【亀法】
 文脈から考えて、亀甲占いの伝統的な作法を指すと思われる。但し、三国志魏志東夷伝以外にはこの熟語がなかなか見つからないので、確実ではない。
【視】
 《動詞》見る。比較する。なぞらえる。しかし、見せる側の立場で「自らを示す」という使い方もある。
【火坼】
 (たく)…「《動詞》割れる。さく。《名詞》亀甲の割れ目。」動詞"視"への目的語の位置に置かれた"火坼"は、「焼くことによって生じた亀甲の割れ目。」であろう。
 「令龜法視火坼」は、「仮に亀甲の作法を用いて亀甲の割れ目を観察したとすれば」として、仮定文の形式で灼骨占いを中国古来の亀甲占いになぞらえている。
【占兆】
 (ちょう)…《名詞》<漢辞海>①亀甲や獣骨に炭火をあて、急な熱膨張で亀裂を生じさせ、その形を見て吉凶を判断したもの。うらない。</漢辞海>
 つまり、この文は倭国の灼骨占いで得られた"辞"が、亀甲占いで得られる"兆"に対応するものであると言っている。

 以上の検討から、この2文は、「倭国では灼骨占いを~のように行う。中国の亀甲占いと対比すれば、それらは~に対応する」という構成である。
 その対応のしかたを整理すると、次の2点になる。
 (1) 甲骨を熱して生じた割れ目を"卜"というが、「亀法」ではこれを特に"坼"という。
 (2) 熱してできた割れ目の形から、占いの結果を読み取る。得られた占辞は、亀甲の作法で言うところの"兆"にあたる。
 このように、論理的に書かれてはいる。しかし"行来"と"云為"は、結局ほとんど同じ意味なので、文章が冗長である。
 またさまざまな類似する用語"卜"、"坼"、"占"、"兆"については、上記(1)(2)のように整理してはみたが、今一つ釈然としない。
 どうも、陳寿の手元の資料は複数あり、質は揃っていなかったようだ。もし、対馬国の部分の筆者なら「倭人灼骨以先占如中国之亀法」のような簡潔な表現をすると予想される。

【魏略との比較】
 魏略逸文には、この部分と対応する文がある。
 倭国大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也
 倭国大事輒(すなわ)ち灼骨し以て卜(ぼく)す、先に中州(ちゅうしゅう)の亀(き)をして坼(たく)を視(み)せ令(し)め吉凶を占いし如し。
 倭国は、重大なことがあれば獣骨を灼(や)いて占う。それは、かつて中国で亀甲に割れ目を示させて、吉凶を占ったのと同様である。

 中州、中国、中夏はすべて中華と同じで、漢民族が世界の中心であると自認して呼ぶ名称。「倭国は獣骨」と「昔の中国は亀甲」に分かれる。連用化した「先」が"如"に先行するので、"如"は動詞である。この場合文の最後までを目的語にしなければならない。名詞化には「中州之令亀…」のように「之」が必要だが、省略されたと考える。

【後漢書との比較】
 後漢書は以前に見たように、魏志より後に成立した。魏志の内容が、極めて簡潔に要約されている。
 灼骨以卜用決吉凶
 灼骨し以て卜し、用いて吉凶を決(けっ)す。

 さて、込み入った文脈・文法の解釈はともかくとして、獣骨占いがあったという文の内容自体に疑う余地はない。ここでその歴史について調べてみる。
亀甲獣骨文字
asahi.com

【中国古代の甲骨占い】
 甲骨文字の発見により、殷王朝後半期(紀元前13世紀~紀元前11世紀ごろ)に、宮廷の儀式として甲骨占いが行われていたことが明らかになった。
 出土するのは、ほとんどが<wikipedia>武丁(55%)、祖庚・祖甲(11%)、祖辛・康丁(12%)、武乙・文武(8%)、帝乙・帝辛(10%)</wikipedia>である。
 なお、"殷"とは、殷を滅ぼして次の王朝となった周王朝による呼び名であり、「殷」自身は、自らを「商」と呼んでいる。
 <商朝―百度百科(抜粋)>武丁は1259年B.C.に始まる。また帝辛は1046年B.C.に終わる。
 <wikipedia>
 殷の卜占では、これらの骨・甲羅などの裏側に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製であったといわれている)を穴に差し込む。しばらくすると表側に卜形のひび割れが生じる。(日付など[前辞]と)事前に占うことを刻んでおき[命辞]、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻み付け[占辞]、爾後占いの対象について実際に起きた結果が追記された[験辞]。その際に使われた文字が甲骨文である。
 やはり占いが外れたことも多かったのか、占辞・験辞が欠落している甲骨文が圧倒的に多い。
 </wikipedia>
 つまり、殷王朝は占いの結果を取捨選択し、都合のよいものだけを活用して政治を行ったと思われる。
 次に、「科学に佇む心と身体」からの孫引きであるが、
 <ジョセフ・A.アドラー著『中国の宗教』春秋社>用いられる骨は、三〇センチほどの長さの牛の肩甲骨か亀の腹甲であった。これらには比較的広い平らな部分があり、そこに文字を彫ることができたからである。</『中国の宗教』>
 つまり、用いられる部位は文字の刻みやすい平面状の部分が決まって使われた。他には牛の大腿骨も使われた。

 最近になって、殷を滅ぼした次の王朝、西周からも大量の甲骨が発見されている。西周とは、が統一政権であった時代(1100年B.C.頃~前771年)である。その後、北西から侵入した犬戎(けんじゅう)に追われ、縮小して770年B.C.に成周(今の洛陽付近)に遷都し、春秋戦国時代の地方政権になった。この時代は「東周」と呼ばれ、256年B.C.に滅亡した。
 <新華網日本語/新華社西安2011年12月13日>
 周公廟遺跡の長年にわたる発掘とフィールド調査により、これまでに1万点あまりの周代の甲骨を発見した。ある土坑から出土した甲骨には500文字近くが記されていて、その中には東部の反乱を平定する際の軍隊の移動や洛陽の建造などの占いに用いられた甲骨が含まれ、非常に重要な資料となった。
 </新華網>

 以上から、現時点で甲骨が大規模に出土しているのは、13世紀B.C.~8世紀B.C.の間である。それ以後は廃れたか、どこかに残ったかは不明である。
 三国志の時代(3世紀A.D.)には一部に行為として残っていたのか、記録だけなのかは分からないが、中国の「亀法」を意識し、それと対比させて書かれている。

【日本に残る甲骨占い】
 それでは、倭国の甲骨占いは、その後どうなったか。

 驚くべきことに、1978年の時点で、対馬の亀卜習俗(きぼくしゅうぞく)が確認されている。
 <長崎県の文化財
 《対馬の亀卜習俗 対馬市厳原町豆酘》
 亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き,生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。対馬豆酘の岩佐家は,亀卜を世襲する家筋で,「亀卜伝義抄」を伝え,今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭(としごいのまつり)に奉仕している。対馬の卜部(うらべ)は,壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが,亀卜習俗の伝承は今日ではここだけとなった。
 卜部について、「延喜式・巻3」は「臨時祭」の条において、「卜部は三国の卜術に優れた長者を取る(伊豆五人・壱岐五人・対馬十人)」とある。
 </長崎県の文化財>
 延喜式は、平安時代の927年に一応の完成を見た。当時の朝廷では、亀卜が正式に位置づけられていたことを意味する。倭国の古来の伝統を引き継いでいるのか、二次的に中国から取り入れられたものかは不明である。仮にそうだとすると、4~7世紀ごろ、まだ中国に甲骨占いがあったことになる。
太占祭
 それでは、亀甲ではなく、倭人伝と記述と同じく獣骨を用いた占いは残っていないだろうか?
 そう思って探したら、残っていた。武蔵御嶽神社(東京都青梅市)で1月3日に行われる「太占祭」(ふとまにさい)がそれである。
 <武蔵御嶽神社/太占祭
 鹿の肩甲骨を斎火で焙り、できた割れ目の位置でその年の農作物の出来、不出来を占うもので、早稲・おくて・あわ・きび・ジャガイモ・人参など25種類を占う。
 火鑚具(みひきりぐ)で斎火をおこし、この火を炭に移して藁灰に埋め、枯木で薪を作る。古事記では薪は、波波迦(ウワミズザクラ)が用いられていたとあるが、武蔵御嶽神社はご神木が桜の木であったので、樺を用いていた。現在は杉または檜が用いられている。
 祭場の中心にある炉で、三種神宝祝詞を3度奏上する間、鹿の肩甲骨は斎火で焙られる。
 </太占祭>
火鑚具
(神奈川の神道美術 まつりとその姿)
 "火鑚具"は、伝統的な火おこしの器具である。(写真=古くは、弥生時代の遺跡からも出土するという。
 鹿の肩甲骨の形を和紙に写し取り、中心から25本の直線を放射状に引き、それぞれに作物の種類を書きこむ(右図)。どの線がどの作物を表すかは、くじを引いて決める。
 そして、火で焙った骨に入ったひびの形から、それぞれの作物の豊作・不作を10段階で判定する。割れ目と各直線との交点が中心に近いほど豊作、中心から離れるほど凶作だとされる。
 肩甲骨を用いるところには、中国との共通性がある。一定の平面が確保できるからと考えられる。しかし、骨に文字を刻みつけることはしない。
 また、実施日が「1月3日」であるのは、対馬の亀卜と同じである。現在は旧暦・新暦の別があるが、何らかの古代の伝統につながりがあると思われる。

【フトマニにかかわる遺跡】
 さらにフトマニの出土を調べたところ、「群を抜いて非常に多い」出土地の情報が見つかった。
 <八上 白兎神社(要約)>
 因幡の「気多」は大己貴命にとって重要な軍事的策源だったらしい。そこで気多郡の中で、大己貴命の時代とも重なりうるのが「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」。最近も長い掘っ立て柱、戦闘による傷を負った頭蓋骨などが出てくる。場所は青谷駅のすぐ近くで、気多の崎ではないかとされる長尾鼻の付け根のすぐ近く。軍事的な攻防の痕跡の他であるとともに、祭祀の拠点でもあった。ここはフトマニに用いられたであろう卜骨の出土数が、全国的に見て群を抜いて異常に多い
 </八上 白兎神社>
青谷上寺地遺跡 卜骨 弥生の王国
 なお、大己貴命などの神話は、古事記編纂(8世紀)の時点で残されていた言い伝えをデフォルメして再構成したという見方を以前にも書いた。(もちろん歴史的事実としての部族の進出が、後に神の紀行として描かれるような関係はあるだろう)
 卜骨の出土の事実を確認するために、公式機関のホームページを見る。
 <鳥取県/とっとり県政だより/2006年9月号/弥生の王国(要約)>
 写真は、青谷上寺地遺跡でがみつかった卜骨。卜骨はイノシシとシカの肩甲骨などに、焼けた棒などを押し当て、吉凶を占ったものであると考えられており、青谷上寺地遺跡では日本最多の227点が出土。卜骨は使用後に廃棄されることが多いが、ここでは8点の卜骨が、意図的に集め置かれた状態で出土している(約2000年前)。
 </とっとり県政だより>
 ここでもまた、青谷上寺地遺跡が登場する。第24回に「水行十日陸行一月」における上陸地点ではないかと考え、第39回ではさらに、木楯、鏃の出土例を見た。
 大量の卜骨の存在から、3世紀ごろまでの出雲・畿内間の水陸交通の中継地に、大きな王国があったことが、ますます明瞭になった。
 弥生時代は戦争の時代であった。戦争は持てるものをすべてを賭ける重大な行為なので、真剣に何度も占ったことだろう。
 軍事作戦の成否を文字通り占うために、必ず占卜する(八卦など)伝統は、(日本の)戦国時代まで残っている。ただ、有能な指揮官は合理的判断を優先し、占いの結果を都合よく解釈し、全軍を鼓舞するのに活用したようだ。
 こうして見ると、倭人伝の「事行來」の意味に、軍の作戦行動という匂いが漂ってくる。しかし主語が「俗」なので、ここはやはり庶民の日常生活を指すと見るのが、適当であろう。

【その他の灼骨文化】
 ダライ・ダマを中心とするチベット亡命政権のページに、固有の文化の紹介がある。
 <チベットの占い> 
 占断に使用される骨は、屠殺された羊の右側の肩甲骨と決まっている。占い師は肩甲骨をセイヨウビャクシン(ヒノキ科の常緑球果植物の一種)を燃やした煙で燻して、祈願する。この後占い師は、肩甲骨を煙の立たない火にくべる。一般的に、白いひびは吉兆で、黒いひびは凶兆とされる。
 </チベットの占い>

 また、縄文時代の遺跡。
 <石之塔遺跡―群馬県太田市藪塚(やぶづか)町>なおこの遺跡内の極めて狭い範囲から高温で焼かれた多量のイノシシの下顎の骨が出土。

 【甲骨占いの一般性】
 使用する部位は、肩甲骨が代表的である。ウシ、シカ、ヒツジ、イノシシはいずれも偶蹄目という共通性がある。時代や民族を越えて、少なくとも民間の一部には甲骨占いが伝えられていた可能性がある。
 亀甲の場合、用いたカメの種類は、今のところ研究結果が見つからないが、体長数十cmかそれ以上のウミガメが想像される。その分布から考えて、カメは、中国南部、沖縄、西日本~東日本太平洋岸までで、それ以外の寒冷地、内陸は獣骨だけと考えるのが、自然である。殷墟は内陸部であるが、王朝の重要な儀式なので、亀甲が組織的に持ち込まれていたのだろう。
 倭人伝によれば、倭国の民衆の間では、何か必要あればすぐに灼骨占いが行われていたということである。それでは宮廷ではどうか。卑弥呼は鬼道という宗教によって政りごとを行っていたとあるが、その儀式に甲骨占いが含まれるかどうかは触れられていない。平安時代になると、朝廷は卜部という職能氏族にその役割を担わせるが、その始まりは古墳時代まで遡るのではないかと思う。

 ここからは全くの想像であるが、①春秋戦国時代に、殷周以来の甲骨文化が各国に広まっていった。②呉の一部が倭国に渡来するとき、甲骨文化も持ち込んだ。③弥生時代、形を変えながら倭国に広がった。④対馬、壱岐、伊豆に特に甲骨占いをよくする部族があり、古墳時代以後、次第に朝廷を支えるようになった。⑤彼らは卜部という氏族として平安時代に記録された。
 というのが、ありそうな筋書きである。また、これとは別に各地に自然発生した甲骨占いがあっただろうとも思われる。


2011.12.28(水)原文を読む(50) 會同嗜酒

其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
其れ、会同(かいどう)坐起(ざき)し、父子男女は別無く、人性(じんせい)嗜酒(ししゅ)す。

彼らは宴に集まり、座しまた立つ。親子・男女の区別なく、生来の酒好きである。

まず、各語の意味を確認する。

 …《動》すわる。
 …《動》たつ。
 …《動》わかつ。
 人性…人の本性。生得の性質。
 …《動》愛好する。たしなむ。
 …《動》会う。集合する。会合する(宴、盟約など)。合致する。(帳尻を)合わせる。(ほかに《名》《形》もある)
 …《形》同じ。《動》(力を)合わす。 (運命を)ともにする。集まる。《副》ともに。

【文法】
 "其"は、代詞「彼ら」で、主語。(<漢辞海>《魏晋以降の用法》</漢辞海>とあることに、当てはまる)ただ、語頭に置かれているので、文の調子を整えるための意味を持たない助詞とも考えられる。これまでの幾つかの文と同じである。

 会同類義語による熟語。2文字とも「会合する」という意味で使い、重ねる。そうすると、「もうこの意味しかあり得ない」という状態になる。
 坐起対義語による熟語。一箇所で座って飲んでいると思ったら、立って他の人の所へ行く。あるいは何人かが立ち上がって一緒に歌う。宴たけなわである。

 は自動詞。
 ""は副詞で、""は自動詞。

【弥生時代の酒】
 弥生時代の酒については、第44回で調べた。

 老若男女が集まり、賑やかに酒宴に参加している様子が目に浮かぶ。子供も飲酒する。誰もが生まれついての酒好きであると思われるくらいに、飲酒を楽しんでいる。
 理屈っぽかった灼骨の文とは対照的に、こちらの文はまことに分かり易い。


2011.12.30(金)原文を読む(51) [割注] 魏略曰

魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
魏略曰く、其れ、俗は正歳四節を知らず、但(ただ)春耕秋収を計り年紀と為すのみ。

魏略には、「庶民は正式な暦や節気を知らない。ただ、春に耕してから秋に収穫するまでを1年と数え、年を記録するだけである。」とある。

 原文に、校訂者が付け加えた注記は、1行を2行に分けて小さな字で書く。これを「割注」と言う。
 現在まで伝わる三国志は、裴 松之が注を加えたものである。
 <wikipedia>裴 松之(はい しょうし、372年-451年)は、中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。
 『三国志』の「注」は著者である陳寿の文章の簡略すぎる部分を補うために、陳寿の使わなかった史料も含め、異同のあるものは全て載せるという方針で書かれた。また、出典を明記しているため、同時代やその少し後の時代にどのような史料があったのか、内容も含めて知ることができる。</wikipedia>

 ここでは、魏略にあり魏志にはなかった部分を、参考のために補っている。資料で述べたように、魏志の多くの部分は魏略と類似した内容である。
紹煕本画像 明朝体

【この漢字は何か】
 見慣れない漢字「」がある。原文を画像で見ると、紹煕本、紹興本とも間違いなくこの字形であるが、この文字は普通の辞書にはなく、ユニコードも定められていない。
 最初は、崴(ワイ)の異体字かと思ったが、意味が<国際電脳漢字及異体字知識庫>「山貌」</国際電脳>(山の表情)など、明らかに「山」に関するので、これは当てはまらない。
 次に、部首を「止」に変えると、「歳」になる。「歳」の意味は、<国際電脳>1. 星名,即木星。2. 年。周代以前稱年為歲,取歲星運行一次之意。後來一般用為年的通稱。 3. 歲月;時光。4. 年齡。</国際電脳>
 つまり、もともと惑星の木星であるが、公転周期が12年なので、周代に黄道付近の星座を12年で一巡りすることから年を表し、後に「年」そのものを意味するようになった。
 文脈上この意味で通るので、「止」を「山」とする字体もあるということか。疑問に答える資料がなかなか出てこないが、ひとまず"=歳"としておく。

 「正歳」が何を指すかを知るために、まず太陽暦との関連も見ながら、当時の中国の暦について調べてみた。

【太陽暦】
 現在の太陽暦に近い形になったのが、ユリウス歴(46B.C.~)。平年を365日とし、4年に一度閏年が置かれて366日となる。平均365.25日となり、平均太陽年365.2422日に近い。
 しかし、長い年月の間には誤差が積み重なり、計算上は128年で1日ずれる。
 そこで、1582年に制定されたのが、グレゴリオ暦で、これが現在多くの国で使われている太陽暦である。グレオリオ暦は、ユリウス暦の閏年のうち、100の倍数かつ400の倍数でない年を平年とする。最近では、西暦2000年は閏年であった。
 つまり、閏年は400年間に97回。太陽年は365,2425日となる。この場合、約3300年に1日の誤差を生ずる。

【中国の暦】
 <wikipedia>甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始は日時計などにより、冬至頃に設定された。</wikipedia>
 殷の始めはB.C.1600年頃、西周(統一政権としての周)はB.C.770年まで。
図A 四立(立春立夏立秋立冬)は二分(春分秋分)二至(冬至夏至)の中間点。
中気は四立の三等分点。節気は中気の中間点。
 中国の暦は、その初期において実際の月の満ち欠けや太陽の位置を観察し、その都度日付を決めていた。後に、月や太陽の運行を支配する法則を見つけることによって、計算によって未来の暦を知ろうとするようになる。
 春秋戦国時代になると暦が発達し、各地域でさまざまな暦が作られた。戦争を遂行する上で、広い地域で計画的に軍を動かすには、作戦遂行の日付を事前に決定しなければならなかったからではないかと思う。「時を制す者が勝つ」ということか。
 後漢時代(元和二年=85年)には、「四分暦」が定められた。1年の長さはユリウス歴と同じで、365.25日である。
 ところが、月日は月の満ち欠けによって定められていた。このままだと12か月は354日になるので、調整のために閏月を挿入する。その仕組みの基本を次にまとめる。
 月の満ち欠けによる1か月を「朔望月」という。太陽暦との関係では、朔望月235か月が太陽年19年とほぼ一致することが知られており、これをメトン周期、中国では章法という。(メトン[Meton]はギリシャの数学者。紀元前433年にこの関係を見出した) メトン周期に従えば19年に7回閏月を設定すればよい。(235÷12=19…余り7)従って3~4年に1回閏年ができる。
 (なお、メトン周期によって1年を定義すると、365.2459日となり、約267年で平均太陽年(365.2422日)と1日のずれが生じる。)
 1朔望月は、西暦1900年で29.530589日であるが、潮汐作用によって少しずつ長くなることが知られており、その量は100年あたり0.00000413日の割合である。本稿では、三国時代の西暦300年当時の、29.530523日を使用している。

 月の呼称を決めるためには太陽暦を根拠にして、まず「二十四節気」というものを定める。(右の図A)これは「1月」「2月」などの月の呼称と閏月の位置を、季節感を維持し、かつ自動的に決定する仕組みである。
 二十四節気は中気と節気からなり、中気は、太陽暦の1年(四分暦で、365.25日)の日数を12等分したものである。黄道を距離的に12等分する(黄経を春分点から15度ごとに区切る)方法もある。[付記]
 間隔は365日強÷12=約30.4日で、先頭の冬至から順に、大寒、雨水、春分…と名前が付けられた。
 隣り合う中気の真ん中の日を「節気」とよび、節気にも小寒、立春、啓蟄…と名前をつけるが、月名を定義するのは、前者の中気の方である。中気が、それを含む月名を決める。例えば雨水を含む月が1月、春分を含む月が2月…、のように対応している。
図B 閏月の割り振り(モデル)
春分が1月1日である場合の、概念的な解説。実際は、11月1日を冬至の朔日で始めるなど、さまざまな場合がある。また、日付の変わり目のタイミングも関係する。
 ところが、朔望月(月の満ち欠けによる1か月)は平均約29.5日で、30.4日より短いので、月内の中気の位置は約1日ずつ後ろにずれていき、遂に中気が存在しない月が現れる。(右の図B)
 例えば、ある年の連続する3か月A月,B月,C月で、A月の月末が小満で、B月を飛ばしてC月の始めに夏至が来た場合がある。このとき、4月=A月、5月=C月に決まり、間のB月は名無しの月となる。このB月を「閏4月」呼ぶことにする。この年は計13か月になる。

 四分暦では、平均太陽年より少し長い1ユリウス年=365.25日を用いた上で、メトン周期の関係をそのまま残したので、誤差が生じる。四分暦の1年からメトン法で1か月の長さを計算すると、1か月=365.25×19÷235=29.530851日となり、朔望月29.530523日よりも少し長い。
 この暦を使い続けると、ずれがだんだん大きくなり、267年後に遂に1日の差に達する。その結果、自然現象の「朔日」は前月の晦日に繰り上がり、暦は「1日」なのに、夕暮れの西の空に2日月が浮かぶ。これでは太陰暦の原点[月の満ち欠けが日付を決める原理]を崩すので、精神衛生上よくない。
 一方、平均太陽年とのずれはユリウス歴と同じく128年で1日余分に進む。つまり、128年後は、暦の上の「冬至」が、天体観測による「冬至」の1日後になる。
 魏の青龍5年(237年)の時点で、四分暦制定以来、ずれが1日分に達する267年のうち、既に152年経過しているので、真剣に心配する学者もいたことであろう。
 そのためか魏国では同年3月に改暦が行われた。「景初暦」がそれである。景初暦では、1か月を29日+(4559分の2419)日とし、メトン法も守る。そうすると1年は365日+(1843分の455)日となる。
 その結果1か月は29.530599日になり、朔望月29.530523日よりやや長いが、四分暦に比べると差がずっと小さくなる。景初暦で朔日が1日ずれるのは1064年後で、四分暦の約4倍長持ちする。
 また、平均太陽年とのずれは、321年あたり1日で、四分暦のずれに比べ4割程度に軽減される。ヨーロッパで1582年まで使われていたユリウス歴よりも誤差が小さい点が、注目される。
 これから数百年は朔日のずれを心配する必要がなく、伝統的なメトン法も守られ、しかも年、月とも端数の分母が両方とも4ケタでおさまる。便利な値を見つけたものだと思う。

 以上が三国時代の暦である。暦の精度について深入りしたが、その理由は「正歳四節」という言葉が何を指すか、具体的に突き止めたかったからである。

 結論的には、三国時代の中国の暦は、太陽や月の正確な観測によって、267年あたり1日の誤差を改善しようとするレベルに達していた。これが「正歳」である。
 続いて書かれている「四節」については、暦制で「四節」という正式な用語はないが、節気(12等分)、二十四節気、八節(立春など四立と、二至(冬至・夏至)と二分(春分・秋分)をまとめた名称)に「節」が使われている。だから、四季の季節感を維持しつつ閏月の位置を決定する仕組み全体を「四節」と表現したと考えることができる。
 つまり、「正歳四節」は、「閏月を合理的に決定でき、数百年の使用に耐える暦」である。

【倭国の年紀】
 対照的に、倭国の民衆の「春に耕し、秋に収穫するサイクルで1年を計る」という大雑把な年紀は、中国では1500年ぐらい昔、「植物の生長などを観察して日付を決めていた」頃のレベルである。
 ""は副詞で、「たったこれっぽっちのこと」という意味合い。
 だから、「俗は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計り年紀と為すのみ」の一文は「月や太陽の長年の観測に基づく正確な暦が確立している中国に比べ、倭国の民衆は正確な暦を知らず、せいぜい春耕から秋収までの農作業の一巡をもって『これで1年』と数える程度である」という意味になる。ここに、誤解の余地はない。

 ところが、わが国では「計春耕秋収爲年紀」が「通常の1年を、倭国では春に1年+秋に1年=計2年と数える」と解釈されてきた。仮に本当に二倍紀年法を伝えようとするなら、"正歳"の話題は無関係で「倭人以夏冬半歳為年紀」(倭人夏冬半歳を以て年紀と為す)と明確に書くはずである。決して「倭人は正確な暦を知らず、たったこの程度のことである」という書き方にはならない。
 にもかかわらず、この文をもって「二倍紀年法を表している」というおかしな解釈が通用しているのは、驚くべきことである。この解釈が最初にどのようにして生まれたのか、とても興味がある。

 話を戻し、倭国でも中国とつきあいのある王族や官吏は、当然中国の暦法を知っていたと思われる。また日本海側や壱岐対馬で海洋を航行していれば、天文の知識があるので暦を理解していた可能性もある。ただ、それが農民層にはまだ広がっていないことを、「俗」を主語にして表したと思われる。

【付記】 平気法定気法
 二十四節気はもともと月名と閏月を決定するための目安となる日を決めるもので、太陽暦の1年を等分したものであった。この決め方を平気法という。
 平気法が時間を等分したのに対し、黄道を距離的に12等分するのが定気法である。定気法を用いると、春分、秋分、夏至、冬至の日付は天文学的な事象に一致するようになるが、実際の地球は楕円軌道なので速度が変化する結果、二十四節気の時間間隔が一定でなくなる。
 その結果1か月に中気が2回あったりするなど、月の呼称を本来のルールだけでは決定できない事態が起こる。天文学の観点からを季節の目安を示す点では、定気法は合理的であるが、天保暦(1844年)で月名の割り当て機能まで定気法を使うことにしたのは失敗であったと思う。(<wikipedia>旧暦2033年問題</wikipedia>参照)
 今からでも戻すとよいと思うが、太陽太陰暦は現在では法的な裏付けがないので、だれも決定する権限がない。


2011.12.31(土)原文を読む(52) 摶手跪拝

見大人所敬但摶手以當跪拝
大人(だいじん)を見、敬う所は但(ただ)搏手(はくしゅ)し、以て当(まさ)に跪拝(きはい)すべし。

貴人に拝謁するとき、尊敬を表すにはただただ拍手し、両膝を床につけて丁重に拝礼しなければならない。

【各語の意味】
…《動》みる。出会う。拝謁する。(会う」の謙譲語)
大人(だいじん)…徳の高い人。高級官僚や貴族。豪族。からだの大きい人。
…《接》=而して。《助》ところ。(動詞を体言化)
…《動》つつしむ。うやまう
…《助》ひたすら。ただただ。(条件や制限がない意)
…《動》たたく。殴り合う。脈打つ(脈搏)。
…《接》=而して。もって。そして。(承接関係) 
…《助》まさに~すべし。「しなければならない」「きっと~である」
…《動》ひざまづく。
…《動》ひざまづいてぬかづく礼。組んだ両手を挙げて上体を曲げる礼。おじぎをする。
跪拝(きはい)…両膝を付いて丁重に拝礼する

【貴人への挨拶の作法】
 「見」は、視覚する意味がもともとであるが、この場合は「会う」の謙譲表現ととるのが適当である。外で偶然に姿を見たときの話ではなく、会見における正式な作法について述べている。
 「所」は接続詞(ほぼ、英語の and と同じ)の場合もあるが、"and"では「そして敬い」の後が続かなくなる。
  ここは動詞「敬う」を名詞化して、「敬うこと」とか「尊敬を表す作法」として主語になると思う。あるいは、拝謁する場所(宮殿など)を示すか。
 「但」は「余分なことは考えず、ただただ、尊敬の念を込めて…」という雰囲気を出す。
 「摶」つまり礼の前にまず、両手を柏手のように叩く。
 「以」は承接関係の接続詞。「A以B」で、「動作Aを行い、続けて動作Bを行う」。
 「当」は、強制または、確実性の助動詞。完全に英語の"must"を連想させる。この語からも、この文が作法を説明している感じが伝わってくる。
 「跪拝」膝を床につけて、深々とお辞儀する。

 ここで連想されるのが、神社への参拝である。参拝の作法は「二礼二拍手一礼」と言い、2回手をたたく。古代は身分の高い人に拝謁するときの作法が、神に対する作法として現在まで残っているのだろうか。神に対しては、古い仕来たりを守ろうとする心理がはたらくからである。

 これまで、文頭をずっと「其」で始めていたが、ここで崩れた。前回、魏志の脱落が割注によって補われたことも合わせて考えると、古い写本が一部失われたのかも知れない。


2012.1.2(月)原文を読む(53) 壽考或百年

其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌
其れ、人寿考(じゅこう)、或いは百年或いは八九十年。其れ、俗、国(こく)、大人(だいじん)皆四五婦、下戸或いは二三婦。婦人淫ならず妬忌(とき)せず。

人は長寿で百年か、八九十歳である。人々、国の貴人は皆四五人の妻をもち、身分の低い人も時には二三人の妻を持つ。婦人は淫らでなく、嫉妬しない。

【語句の意味】
寿…《名》存在する年限
…《形》年齢が非常に多い
寿考(じゅこう)…=長寿
大人…貴族 豪族
下戸…貧しい家
…《動》妬む 女性が互いに憎み合う
…《動》憎む 縁起が悪いとして避ける 嫉妬する はばかる
妬忌(とき)…妬嫉(としつ) やきもちをやく ねたむ


【文法】
 [第39回参照]
"壽考或百年或八九十年"
 図の用法(3)にあたり、代詞として主語の位置にある。数量詩[百年、八九十年]は、そのままで述語として機能する。「寿考」が外側の主語で、主述述語文。(同じ回)
"或二三婦"
 図の用法(4)、つまり副詞と見るべきである。「二三婦」は述語になる。この場合の「あるいは」は、「ことによると」つまり推定であるが、ここでは「大人皆四五婦」の"皆"と対で使われているので、「皆が当てはまるわけではない」という意味を表す。

婦・婦
 1文目末尾の目的語と、2文目の主語を意図的に一致させ、英語の関係代名詞に似た関係を作る。少し後ろにある「諸国諸国」も同様である。従って、ここの婦人は、大人・下戸の妻を直接的に受けて、それについて書いていることが分かる。

【後漢書との比較】[398~445年成立]
 多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒 [妒=妬]
 寿考多く、百余歳に至る者(もの)甚(はなは)だ衆(おお)し。国、女子多し。大人(だいじん)皆四五妻、其の余或いは両或いは三あり。女人淫せず、妬せず。

 後漢書は、大体は魏志の通りに書いている。しかし、長寿者は「多い」と書き足し、「80才~100才まで生きる」と書いてあったのが、「百歳を越える人が甚だ多い」に変わり、相当誇張されている。また、魏志の一夫多妻制が正しければ、女子が男子より多くないと辻褄が合わないと考えたのか、「女子多し」と書き足している。

【隋書との比較】[636年完成]
 女多男少婚嫁不取同姓男女相悅者即為婚婦入夫家必先跨犬[※]乃與夫相見婦人不淫妒
 女が多く男が少ない。婚姻にあっては同姓に変えることをせず、男女が互いに気に入ればすぐ婚姻となる。夫の家に入るときは、犬[火?]を跨ぎ、その後に夫と相まみえる。婦人は淫らでなく、嫉妬しない。
 ※ 北史倭国伝は、「犬」「火」 とする。

 「百歳の長寿が多い」記述がなくなった。信憑性に欠けることが分かったのかも知れない。
 一夫多妻制には触れられていない。奈良時代の婚姻の定説である、夫による通い婚ではなく、妻が夫の家に入るとする。
 奈良時代の婚姻の形態は、<建設コンサルタンツ協会誌>有力な男性たちが、何人かの妻をもつことは普通。妻たちのあいだに差別もなく、恋愛か結婚かの違いもあいまいなカップルが多かった。しかし、中国的な社会体制への変革を進めていた政府は、妻たちのなかからひとりだけを「妻」として朝廷に届けることを義務付けることとした。</同協会誌>
 「恋愛か結婚かの違いもあいまいなカップルが多かった」点は隋書の記述と一致する。「不取同姓」から、中国は婚姻によって夫と同姓になることが当然だったので、違和感を感じたことが読み取れる。
 同誌は続けて、正妻とは同居し、他の夫人は別の屋敷に住んで夫が通ったと推定している。

【「長寿」は本当か】
時代平均寿命時代平均寿命
縄文時代31歳明治24~31年43歳
弥生時代30歳大正15~昭和5年46歳
古墳時代31歳昭和10~11年48歳
室町時代33歳昭和22年52歳
江戸時代45歳平成19年82歳
長寿社会

 各時代の平均寿命を比較する。古い時代の死亡年齢は、遺跡から出土する骨や歯の特徴による推定値である。平均寿命の定義は「0歳における平均余命」であるが、縄文時代の場合、15歳以上の平均余命16を15に加えた値が使われている。理由は、15歳に達しない場合、別の場所に埋葬されたらしいと考えられるためという。
 本来なら複数の調査報告を調べ、総合的に検討して作成すべき表であるが、今回の原稿のためには、一般的に言われている標準的な数値で十分目的を達する。
 それでは、当時の人口分布はどうなっていたか。資料として、グラフを引用させていただいた。<縄文時代の出産率と寿命>。死亡年齢の分布は、その集団が安定して存続していた場合の年齢構成を意味している。</縄文時代…>とされる。
 グラフは縄文時代の資料だが、弥生時代も大差ないと思われる。北海道、東北では20歳で50%。乳幼児~青年までの死亡率が非常に高い。もっとも生存率が高い津雲で、40歳では約50%生存している。このグラフから、各集落に、60歳前後の高齢者が多少含まれそうである。

 次に、中国では、倭人の寿命をどのように考えていたか。司馬遷が編纂した歴史書『史記』(前漢の武帝の時期=141B.C.~87B.C.=成立)に、秦の始皇帝(在位246B.C.~221B.C.)が不老不死の秘法を求めて、徐市などを蓬莱山に派遣したとある。しばしば「伝説の蓬莱国とは倭国のことである」と考えられた結果、倭国は長寿の国であると信じられていたかも知れない。
 実際には平均寿命30歳で、村の最長老でも60歳程度だったのに、寿命80~100歳と書かれた理由を想像してみる。以下の可能性がある。
 (1) 不老不死伝説による先入観から、倭国の老人の風体が100歳程度に思えた。
 (2) この部分は事実によらず、言い伝えをそのまま書いただけである。
 (3) 実は倍暦法が正しかった。[本稿第51回で否定したが…]
 (4) 十干十二支を知らず生まれ年が特定できないので、長老者はすべて「大いに年を重ねた」意味の「ももとせ」だったのが「百歳」と伝わった。
 (5) 紀行文資料をまとめた来訪者が、実際に100以上の長寿者に会い、確かめた。

 そもそも「自分の実年齢を認識する」とはどのような頭脳のはたらきかを考えてみる。現代でこそ、幼児は毎年誕生日に「あなたは何歳になった」と教わり、成長と共に、今日現在の日付と親から教わった生年月日から年齢を確かめることを覚えるのである。従って「今年は~年である」と決めない社会は、「自分の年齢を意識する」習慣自体がなくなる。
 それでは、弥生時代後期はどうだったかを具体的に検討してみる。まず、「記録の手段」について調べる。
隋書 無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字
 「文字はなく、ただ木に印を刻みつけたり、縄を特定の形に結んだりして記録をする。仏法を敬い、百済から仏教の経典を輸入して初めて文字を得た。」
 つまり、文字を使って木簡などに記録する習慣はない。
十干十二支
 次に年代の表し方について、原点に戻って考える。例えば「この部分の原稿は西暦2012年、または平成24年の年頭に作成された」などの文が理解されるのは、現代人が年代を数字で表し、それを共有しているからである。しかし、時代や国が異なればそれはもはや常識ではない。
 中国では、かつて年代を十干十二支の組み合わせで表現していた。(甲子辛亥など)十干十二支の古い形は殷の時代からあった。それが年代を表すようになったのは戦国時代からで、さらに十干十二支の呼び名が現代と同じになったのは、後漢の頃である。
 年代は、"干"、"支"をから一つずつ組み合わせる。十干、十二支は独立して繰り返される結果、最小公倍数の60年間で最初の組み合わせ"甲子"に戻ることになる。
 それでは十干十二支による年代の表し方が、日本に伝わったのはいつか。<wikipedia>日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性</wikipedia>があるとされる。
 日本で発見された最古の年代表記は、1968年に埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した鉄剣。1978年にX線による検査を行った際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で発見された。その冒頭に「辛亥」の文字があり、西暦471年か、531年のどちらかと考えられている。
 倭人伝の書かれた時代(280~290年)は、中国との外交担当者のレベルなど一部の例外を除き、年代を十干十二支で呼ぶことも、その文字も知らなかっただろう。それでは、彼らはその年を何年と呼んでいたのか。
 おそらく、年代の呼称はない。何か大事件が起これば、その年は、後々「~があった年」と呼ばれたのであろう。ましてや「生まれ年は葵巳で、今年は壬辰だから、正月で59歳(数え年)を迎えた」のような数え方は不可能だったし、元々そんなことが必要な社会ではなかった。年齢で決まる就学も就職も、この時代にはなかった。成人式も年齢ではなく、成長を見て「そろそろその時期だろう」として通過儀礼(例えばバンジージャンプなど)を行うのである。
 それでも、一部の親は「計春耕秋収為年紀」のようにして年を数え、わが子の成長の記念に、年ごとに木の幹に印を刻んだかも知れない。だが、それが一般の習慣であるは考えにくい。繰り返すが「年齢を必要とする理由」がないのである。
<以後は推測>
 それでは、倭国のある集落の長老Aが年齢を聞かれたらどう答えるか。高齢なので正確な年齢など知る由もなく、答えはただ「ももとせである」だろう。「もも」は数詞「百」から転じた「数多い」という意味がある。
 また、たまたま亡くなった別の長老Bの年齢を、村人に尋ねたところ「Aより少し若かった」と答えたとする。
 それを聞いた帯方郡の使者は「倭国の不老不死伝説」がずっと頭から離れないので、Aの年齢を「ももとせ」から直訳して「百歳」、Bはそれに達しないから「八九十」と、躊躇せずに記録した。
</推測>
 この推測が当たっているか、あるいは似たようなことがあれば、事実は(1)と(4)の組み合わせであったことになる。

 (3)の倍暦法説に関連して、古代バビロニアでも同様の説があるのを見つけた。
 バビロニアは、紀元前5世紀の初めより、19年が235ヶ月に等しいものとする周期を採用して太陽太陰暦が作られた。メトン周期の先駆とされる。
 倍暦法があったとされるのは、それ以前の神話時代である。<wikipedia>古代バビロニアでは6か月を一年としていたという。そのため人の年齢は現在の倍以上で数えられた。聖書の登場人物が非常に長寿なのは、この習慣が反映したという説がある。(岡田ら (1994)太陰太陽暦、バビロニア暦)</wikipedia>
 「6か月」というのは、月食の間隔だというのでその確認をしなければならない。詳しい説明は省くが、太陽・地球・月の位置関係は、223朔望月=6585.3日を周期として繰り返される(これをサロス周期という)。その中に、月食は約40系列あるという。ごく大雑把に平均すると5.6か月に1回となる。
 月食を重大な現象ととらえて、その度に新年を始めなおすことがあったかも知れないが、太陽を元にして1年を決めた方がずっと規則的な暦を作れ、農作業にも便利なので、廃れていったのは当然だと思われる。
 どちらにしても、神話における異常な長寿は各民族の神話に見られるが、それはもともと自由な空想の産物であって、「倍暦法を用いた記録による事実」とするのはこじつけであろう。


2012.1.3(火)原文を読む(54) 不盗竊少諍訟

不盗竊少諍訟其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族
盗窃せず、諍訟(そうしょう)少なし。其(も)し法を犯せば、軽き者(は)其の妻子を没し、重き者(は)其の門戸及び宗族を没す。

窃盗はなく、訴訟は少ない。法を犯した場合、軽きはその妻子を没収し、重きはその家と宗族を処分する。

【語句の意味】
[=窃]…どちらも《動》盗む。
盗竊(とうせつ)…盗む。
…《動》諌める、訴訟をおこして争う。
諍訟…訴え。訴え争う。
…《動》没収する
門戸…扉 家の出入り口 家 家柄 党派。
宗族(そうぞく)…同じ先祖を持つ一族。 

【後漢書との比較】[398~445年成立]
又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族

 門戸及宗族はまとめて「門族」になり、門族への罰は「没収」よりも意味が強い「滅」になっているが、文の内容はほぼ同じである。

【隋書との比較】[636年完成]
《名》悪人、外国の企てによる乱、淫婦《名》賄賂、盗品
《動》むくいる。《動》かたよる。《形》すこぶる。
《形》平静、気に留めないさま。《形》きわめて少ないさま。《名》捕鳥網。
其俗殺人強盜及姦皆死盜者計贓酬物無財者沒身為奴
 殺人、強盗や悪事をはたらく人は皆死刑、盗みは盗品の価値を計って物で酬(むく)わせ、財なき者は身柄を没し奴婢にする。
自餘輕重或流或杖
 その他の刑は罪の軽重により、流刑や杖打ちがある。
(中略)
人頗恬靜罕爭訟少盜賊 人頗(すこぶ)る恬静(てんせい)にて、争訟(そうしょう)罕(すくな)く、盗賊少なし。
 人は、きわめて落ち着き物静かで、争い事はほとんどなく、盗賊は少ない。 

 隋書では、刑罰の種類が具体的に書かれている。
 省略した部分には盟神探湯(くがたち)や拷問の方法の紹介され、なかなか興味深いので、資料につける。

【犯罪と紛争】
 もともと、気づかれないようにこっそり物を盗むのが""で、相手を殺傷して強引に物を奪うのが""であったが、『漢辞海』によれば、混同されたり、後に意味が逆転したりしたとある。
 「諍訟」については、住民間の紛争を役場で解決するしくみ(「裁判」)が、どの程度整っていたのかは不明である。もし訴え出る仕組みがなければ、「私的な揉め事」という意味になる。
 倭国では盗みや強盗、訴訟とも少ないとされている。後漢書でもその見方は継承され、隋書ではさらに、倭国の人々はきわめて物静かで落ち着いているという評価が加わる。
 実際には犯罪やもめ事は必ずあるのだが、魏国の観察者は、実際に「少ない」という印象を持ったのか、少なくともそう信じていたようである。
 国対国のレベルでは戦乱の時代であったのに、国内の争い事が少なかったとすれば、戦争が国によって組織的に行われたものであったことを示す。

【没】
 特に書いてないが、本人への処罰があるのは当然である。加えて「妻子を没する」とは処罰された本人から、強制的に引き離して移住させる程度か、奴婢に落されるか、本人とともに処刑されるかまでは読み取れない。
 重罪では「門戸及び宗族を没す」。このころの国(国邑)は、おそらく血縁関係による部族の集合体だと思われる。また、「門戸」は3世代程度までの生活を共にする家族、「宗族」は先祖をともにする集団を指す。犯罪の大きさ・規模により処罰の範囲が「門戸」「宗族」に分かれるかも知れない。
 東アジアの「宗族」とは父系の集団で、そのうち、沖縄に残る「門中」は先祖の供養に、100人以上集まることもあるという。
 「宗族」の規模の犯罪は、もう暴動あるいは内乱である。この集団を「没する」には、基本的に死罪、軽くても奴婢にする他ないであろう。その点、後漢書の""だとはっきりする。


2012.1.4(水)原文を読む(55) 尊卑足相臣服

尊卑各有差序足相臣服収租賦有邸閣
尊卑各差序有り、相臣服足れり。租賦を収め、邸閣有り。

尊卑の差はあるが秩序がある。互いに臣従の関係が成り立っている。年貢を徴収し、保管用の役所の倉庫がある。
高床式倉庫
【語句の意味】
…《名》地方の学校。家の垣。長幼の秩序。順序。地位の序列。《動》序列を決める。支配する。
…《名》あし。《動》踏む。《形》十分備わっているさま。満足するさま。《助動》~に足る。~する能力がある
…《副》互いに。《動》見る、鑑定する。《名》かたち。
…《名》捕虜、男の奴隷、家来、平民、庶民。《動》家来とする。臣下として職分を果たす。上が下を統括し下が上に隷属する
臣服…臣下として付き従う。
…《動》徴収する。
租賦…《名》年貢、租税。
邸閣…役所が設けた倉庫。穀物倉庫。 

【階級間の関係】
 ここでは尊卑の間の秩序が安定的に保たれ、納税も順調に行われていることが書かれている。窃盗や紛争が少ないことと共に、身分差がそれほど、社会の不安定要因になっていないことを示している。
 この時代、気候が稲作に好都合になり[※]食糧事情が好転し、また国が女王の支配に統一されて戦乱から解放されたことなど、好条件があったと思われる。一方で、女王国による厳しい統制が浸透していたことも見逃せない。
 後漢書、隋書ではこの部分は全く無視されている。反乱の頻発と鎮圧が普通である国家でこれを書くと、「隣にこんなにうまくやっている国があるのに…」という意思表示になり、政権批判と取られる可能性がある。

 ※ 2~3世紀は、寒冷化により海岸線が後退して沖積平野が広がりつつあり、水田が拡大していったと考えられている。


2012.1.5(木)原文を読む(56) 國國有市

國國有市交易有無使大倭監之
国々市有り、交易有無す。大倭をして之を監(かん)せ使む。

諸国には市があるが、諸国の交易は、禁止されることがある。[女王国は]大倭[と呼ばれる中央の官]に命じてこれを監視させているからである。

 ここで突然出現した「大倭」は、著しく困惑を生じさせる。文の構造は、"使AB"は「AをしてBせしむ」。主語「倭国」が省略されていることは明らかでなので、「倭国が、大倭に命じて、之[=国々の交易]を監視させる。」つまり「倭国が偉大なる倭国に命じて~」…これでは全く意味が通じない。
 この解明には骨が折れそうだが、あらゆる可能性を検討する。

【使役文以外の区切り方は?】
 「有無使大倭監之」のうち、まず"有無"はひとつの塊。逆に"無使"は塊になり得ない。後ろから3文字"倭監之"は一応「倭国は之を監視す」として塊にできる。すると「使大」が残る。"使大"は「使者は~を誇りにする」と読めるとは言え、目的語がない。だから、"大"と"倭"の間で区切ろうとする試みは失敗した。
 やはり、"大"は"倭"を形容する以外あり得ない。

【大倭…倭国以外の意味? その1】
 中国の官名に「大倭」はあるか?見つからない。だから、仮に官名であったとしても倭国独自のものである。

【大倭…倭国以外の意味? その2】
 ごく僅かな使用例「《形》曲がりくねった」があるが、やはり意味が通らない。しかし、人偏を取り除いた「」は「《動》ゆだねる《》役場の穀物倉庫」つまり名詞だとすると、少し前の「邸閣」と同じ意味があるので有望である。
 一「大率」の例に倣い、仮に倭国では「大」をつけて役職名を作ると考えると、「国の倉庫への穀物の出入りを管理する官」かも知れない。

【さらに裏付ける材料】
 この部分の前後は、家族制度、刑罰制度、女王国による監視など、一見順不同に羅列されているが、実は連想でつながっている。
 一夫多妻制だが婦人間の揉め事がない揉め事がないと言えば、犯罪や紛争も少ない紛争が少ないと言えば、身分の違いによる反抗はなく、きちんと年貢を納め、穀物倉庫に保存する穀物倉庫と言えば、元々「倉庫監察官」だった官吏が国の交易を監督する監督すると言えば、一大率が女王国から派遣され、北九州沿岸諸国を厳しく監視する。
 これは、あたかも雑談中に取り留めなく話題が移り変わっていくかの如しである。もともとが観察者による会話文であろうか。とすれば、この部分は「文頭に其を置く」パターンがなくなっているのも、納得できる。

 ただ「委=役所の穀物倉庫」に気付く前に、「大倭」について別の推定をしていた。せっかくなのでそれを書く。
【そもそも「大倭」とは何か?】
(1) 倭と大倭
 「倭」はもともと中国による日本の呼び名であり、倭人自身によるものではない。これに中国側が進んで美称「大」をつけることは、ありえない。
(2) 『後漢書』に出てくる「大倭」
 後漢書に 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國 (国皆王を名乗り代々受け継ぎ、その大いなる倭の王は邪馬台国に居る。)
 王の上に君臨し、諸国を統括するので"大いなる王"である。しかし、"大倭"の王という解釈も可能で、逆に倭人伝の"大倭"の影響を受けた可能性がある。
(3) 倭国における「大倭」
 和語では、統一政権の呼び名は疑いなく「やまと」。漢字表記は、奈良時代に「倭、日本」→「大倭」→「大養徳」→「大倭」→「大和」と変化した。
 以下、資料を見る。
<「おとくに」/倭・大倭(やまと)氏考
 古事記では夜麻登(ヤマト)と表記されており日本書紀には倭・日本(ヤマト)と表記されている。国号としては、古事記は「倭(夜麻登)」日本書紀では「日本(訓:耶麻騰)」に統一されている。
 倭(ヤマト)から「大倭(ヤマトまたはオオヤマト)」一時「大養徳(ヤマト)」とも表記されたが、さらに「大和(ヤマト)」(続日本紀)になり、さらに「日本(ヤマト)」と表記されるようになるのである。
</「おとくに」>
<wikipedia>
 奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして、752年(天平勝宝4年)もしくは757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われた。
</wikipedia>
 まとめると、「やまと」は、古代から現代まで奈良県域を指すが、同時にやまとに都を置く統一政権の名称にもなった。その漢字表記については、はじめ中国からの呼び名に美称「」をつけて「大倭」とし、やがて「大和」に変えた。

【漢字表記「大倭」は、魏志の時代に使用されていたか?】
 奈良時代から500年遡った邪馬台国の時代に、倭国が自身を(漢字で)「大倭」と表したかどうかは分からない。しかし、そう仮定すると筋の通った説明が可能となる。
 女王国が諸国を厳しく監督していたことは、倭人伝に書かれている。その力関係から、監視に派遣された中央の役人は、「大倭」を体現して権威をひけらかした。現地の住民は、彼を見て「お、大倭がいらっしゃった」などと話したことであろう。
 そうやって「大倭」は中央政権を指し、各地では、派遣された役人を指すにも使われた。
 倭人は、その漢字に「やまと」あるいは「やまたい」の読みをあてていたかもしれない。中国人の観察者は、よみにとらわれず、倭人自身の漢字表記「大倭」を使っていたので、それを記録した。

【実際のところ、漢字の流入はどの程度だったのか?】
 『隋書』によれば、隋の時代でも「無文字,唯刻木結繩」である。しかし、次の例がある。
 <wikipedia>1962年奈良県天理市の東大寺山(とうだいじやま)古墳から出土した、金象嵌の鉄刀。中平●● 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 ●●●● 中平は、霊帝の184年~189年。</wikipedia>
 銅鏡には年号が漢字で刻まれている。また、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明している。
 以下は想像であるが、春秋時代から前漢時代(BC770~AD8)に渡来した百越人(第32回)が漢字を持ち込んだであろう。
 卑弥呼の""は、当時倭国には存在しない発音なので、少なくとも「呼」は倭人が漢字で表していたのではないか。
 また、帯方郡からは、漢字で書かれた文書が届いていた。政権の官僚が、漢字を使って執務を行っていたことは十分に考えられる。しかし、その直接的な証拠がない。

【ひとまず結論】
 ここで一応の結論を書いておく。
 「大倭」は、女王国から各国の交易を監督するために中央から派遣された官を指す。その呼び名の意味の推定は、次の2通りが考えられる。
 第一案:本来は「大委」であって、"委"(公の穀物倉庫)の監視業務に由来する。倭国独自の官名だが、官名にはすでに漢字が使われていた。
 第二案:各地方では、監視のために派遣された官を、「大倭から派遣された」役人の意味で、そのまま「大倭」と呼ばれていた。「大倭」はすでに倭国自身が漢字表記として使っていた。

 仮に第一案であったとしても、第二案の「大倭」が倭人自身の呼称であることだけは事実で、記録者が混同して書いた可能性もある。
 より込み入ったストーリーも成り立つ。①倭国の官制のうち「大委」が交易監視官として存在した。②魏志では、これを「大倭」と書いた。③『後漢書』を編纂するとき、魏志の「大倭」の語句に影響されて、倭国の王を「大倭国王」と表した。④その後『古事記』編纂までに、『後漢書』を読んだ倭人がこの漢字を気に入り、「やまと」への漢字表記として取り入れた。
 元より根拠は全くないが、一応矛盾もなく面白い想像である。

【交易の規制】
 市があると書いておいて、すぐ後に交易有""と書くのは、奇妙である。
 しかし、戦国時代を終わらせた江戸幕府による大名への厳しい統制を考えると、わかる気がする。
 女王国による支配体制を維持するために、ある国が武器を集めることや、諸国が勝手に交易を深めて野合することを、厳重に警戒したと想像される。


2012.1.9(月) 2013.3.25(月)原文を読む(57) 特置一大率

自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
女王国自(よ)り以北、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治め、国中に有り、刺史(しし)の如(ごと)くす。

女王国より北の諸国に対して、特に一[人?]大率を置き、監督する。諸国はこれを恐れる。いつもは伊都国を治所とし、国々にとって、中国の刺史のような存在である。

※紹煕本では「諸国」は1個だけ。
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史

【語句の意味】
…《動》おそれる。
…《動》はばかる。畏れる。忌みきらう。
畏憚…おそれる。
…《動》管理する。統治する。国や社会が安定する。駐在して政令を実行する、治所とする。

【文法】
 "諸国"の重複は、1つ目は「検察」の目的語、2つ目は主語。以前に述べたように、英語の関係代名詞のような繋がりを表現する。
 前置詞構造"於国中"は、"有"を連用修飾する。
 は動詞で、「如くす。」前の文は"有"で完結し、"如"から次の文が始まる。主語は二文とも暗黙の"一大率"または"大率"。もし書いてあれば、"一"が数詞かどうかが分かったはずである。

【刺史】
<漢辞海>
 《刺史(しし)》 秦から漢初にかけての中央官で、郡国を監督した。漢の武帝から郡守につぐ地方官。隋の煬帝と唐の玄宗によって「太守」に改名。
</漢辞海>

<百度百科/刺史>[繁体字は常用漢字に改めた]
 刺史,職官,漢初,文帝以御史多失職,命丞相另[=別]派人員出刺各地,不常置。漢武帝元封五年(前106)始置,“刺”,検核問事之意。刺史巡行郡県,分全国為十三部(州),各置部刺史一人,後通称刺史。刺史制度在西漢中後期得到進一步発展,対維護皇権,澄清吏治,
 (大意)刺吏、官職、漢の初め、漢文帝は多くの御史[取締る官職]を失職させ、別に各地に人を出して取締にあたらせるが、常置ではない。漢武帝が元封5年(106B.C.)が配置を始める。"刺"は中核を取締り、事を問いただす意味。刺史は郡県を巡行し、全国を13部(=州)に分け、各部に刺史を一人置き、後に「刺史」は[本来の意味から離れて]官名になった。刺史制度は前漢の中後期に一步発展し、皇帝権力を支え維持し、政治を清めた。
 促使昭宣中興局面的形成起着積極的作用。王莽称帝時期刺史改称州牧,職権進一步拡大,由監察官変為地方軍事行政長官。
 (大意)昭宣中興[※1]でも積極的な役割を果たした。王莽称帝[※2]の時期に「州牧」と改称し、職権はさらに拡大し、もともと監察官だったのが変じて、地方の軍・行政の長官になった。
</百度百科>
※1 昭宣中興…漢昭帝と漢宣帝の時期。穏やかな政治を行い、漢武帝統治時代に消耗した国力を回復した。
※2 王莽称帝…王莽(おうもう)は、前漢が滅亡し、西暦9年1月10日に新王朝の皇帝を自称した。


<wikipedia要約>
 106B.C,に、郡・県の不正を取り締まるため郡・県の上級に州を創設。同時に定められた刺史は純然たる監察官で、権限も郡守に比べてはるかに小さかった。
 8B.C.に(ぼく)と改称。郡守と同格になり、州が最高行政単位となり、牧は州内各郡県の行政権に介入。以後、官名は、刺史と牧の間で何度も変わる。
 魏晋時代の名称は「刺史」。この時代は、刺史が将軍位を持って兵権の行使も行うことがほとんどであった。
</wikipedia>

 以上のように、前漢の106B.C.に郡県を取り締まるための監察官として「刺史」を創設した。刺史は13の州に1人ずつ配置し、州内の郡県を巡回して取り締まる。その後権限が徐々に拡大。専用の役所もでき、官名は時代によって刺史または州牧。三国志の時代の州は、既に郡県の上位の行政組織として軍を備えたものになっていて、魏での名称は「刺史」。
 だから、一大率のイメージは、女王国から派遣され、北九州地域の諸国(末盧國、奴國、不彌國、伊都國、恐らく他にもある)全体を対象とし、強い支配権をもつ一人の中央官である。但し、他の地域への一大率の配置の有無はわからない。

【官職としての一大率】
 中国国内の官職としては存在せず、倭国独自の官職である。そこで問題になるのは、「一大率」の漢字表記が倭国自身のものか否かである。前回「大倭」について検討した中で、少なくとも、役所の中では官名を漢字で表していたのではないかと考えた。
 この問題については、小平一郎氏による日本書紀による実証的な研究があった。同氏の研究から引用する。
一大率・難升米の読み方と白日別の意味
 また、日本書紀には次の様な官位名を持った人物が登場する。これらの記述により、朝鮮半島においては「率」が官位名としてつかわれていたことが、はっきりとわかる。
 これらの史料により、「大率(大帥)、渠帥、達率、恩率、奈率…」などは、中国側が周辺有力者の職名を表現する言葉でなく、現地の国々において実際に使われた職名であることがわかる。
</一大率・難升米>

【""は数詞か】
 上記から、古代韓国の役職は漢字二文字であるから、数詞かも知れない。だが、"一大率"はこの一箇所だけで、『魏略』逸文、『後漢書』『隋書』にも出てこないので、比較する語句がない。
 数詞""が倭人伝で使われているものを拾い出すと「渡(度)一海」が3回、卑弥呼を共立する箇所で「一女子」1回である。いずれも語句を強調し、「広大な」とか「特別に」という語感がある。ここでは「特置」と"特"があるから、数詞かも知れない。「特に一人の大率を置く」という表現は、十分あり得る。

【一大率は「一人の大率」か】2013.3.25
 「大率」の由来を、戦国時代(BC430ごろ~BC221)の軍制に見出す考えがある。
 <wikipedia>その官名は城郭の四方を守る将軍である大率に由来する(道教の古典とされる『墨子』の「迎敵祠」条)</wikipedia>
 『墨子』の第十五巻の「迎敵祠」凡守城之法(一般的な城の防御法規)には、細かい人員配置が示される。なお「祠」はここでは「辞」の意味。
 原文から抜粋:百步有百長,旁有大率,中有大將
 <中国哲学書電子化計画掲載の解説>百步委任一名佰長。在城的四面,分別派有一個大帥;城的中央有大將指揮。</電子化計画>
 [距離一歩(=6尺)に一名兵士を配置し]百歩ごとに一名の佰長。城の四辺ごとに独立した部隊を置き、それぞれ一名の大帥[=大率]を置く。統括する大将を、城の中央に置く。
 国家の中心地域を城壁の内側に例えれば、地方は城壁の外側となり、地方を方面別に警備する責任者が「大帥」あるいは「大率」となる。

 別の角度から見ると、隋の時代、日本では「冠位十二階」があり、隋書(636年完成)によれば「大徳、小徳、大仁、小仁…」など大・小で始まる2文字で表された。これが古くから官名の一般的な形だったとしたら、「大率」かも知れない。
 渡邉義浩氏は、「<『魏志倭人伝の謎を解く』2011>交易を監督した「大倭」という官名と揃えて、一人の「大率」と読むのが対句を重視する漢文の読み方である</『邪馬台国の…』>」と、断定している。
 渡邉氏はさらに、中央から派遣された「大率」が「刺使」のように遠方の北九州の監察をしていることをもって、邪馬台国畿内説を支持する最大の根拠にしている。

 こうしてみると、「大率」が一番自然な読み方に思える。

【伊都国】
 伊都国の記述は、倭人伝の始めの方にあった。(第16回)
 遺跡としては、平原方形周溝墓が、伊都国の王のものと考えられている。
 世有王皆統属女王國の文から、一大率は明らかに女王国から派遣された地方長官、あるいは監督官であったと認識されている。
 伊都国には「爾支」(ぬし)と呼ばれる官がいた。
 副官は、伊都国の場合「ひなもり」(鄙守)ではなく個人名が記載されている。ひなもりは、古い時代に派遣されたものであって、すでに現地に同化していたかも知れない。というのは、和語による「~もり」にくらべ、漢語で表された「一大率」は新しい官制と思われるからである。
 伊都国には歴代のと、王に仕える副官の官僚組織がある。そして、女王国から派遣された一大率が常駐する。さらに帯方郡から派遣された使者が常駐する。また、交易を監視する「大倭」もいる。
 さまざまな官職が入り乱れる大変な国であるが、高度な中枢機能を備えている割に戸数が少ない。現代の官庁街に人口が少ないようなものであろうか。
 伊都国は魏国と女王国の接点なので、緊張した空気に満ちていたと想像される。伊都国王は、儀式を行うたびに双方に気を遣って大変だっただろう。また儀式用の立派な宮殿や、一大率・帯方郡使双方の居館があったはずだ。倭人伝のいう伊都国が平原遺跡付近にあったとするなら、必ずそのあたりの地下に眠っているはずである。発見が待たれる。
 一大率は、北部九州諸国の統括、及び魏国との交渉という2つの任務を帯びていたと考えられる。


2012.1.10(火)原文を読む(58) 皆臨津搜露不得差錯

王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
王、使いを遣(おく)り京都、帯方郡、諸韓国に詣(いた)らしむ。及(およ)び郡、倭国に使わし、皆臨津(りんしん)捜露(そうろ)し、文書、賜遺(しい)之(の)物を伝送し、女王に詣(いた)り差錯(さそう)し得ず。

倭国王は、使者を京都[魏国の都、洛陽]、帯方郡、三韓の諸国に遣わす。そして、帯方郡が使者を倭国に遣わし、すべて到着した使者から引き渡しを受け、開封して調べ、文書と贈り物を伝送し、女王に届ける。食い違いは起こり得ない。

【語句の意味】
…《接》および [並列=and]。
使…《動》つかわす。
…《副》みな。いっしょに。
…《動》のぞむ。高い身分の人が来訪する(敬語表現)。
…《名》渡し場。《動》渡す。運搬する。伝授する。

…《動》さがす。
…《動》あらわれる。あらわにする。
伝送…次々に伝え送る。
文書…公用の書類。
…《動》たまわる。
…《動》うしなう。のこす。

賜遺(しい)…贈り物を与える。
…《助》連体修飾語と被修飾語の間に置き、修飾の関係であることを明らかにする。
…《動》いたる。謁見する。
…《助動》う[可能=can]。
差錯…食い違う。

【文法】
 文書・贈り物の伝達については、次の表のように論理的に構成されている。その構造を順を追って解釈していく。
骨格倭国A→帯方郡帯方B→倭国
(1)(女)王遣使 詣帯方郡(帯方)郡使 倭国
(2)(女)王遣使 詣京都帯方郡諸韓国(帯方)郡使 倭国皆 臨津女王
(3)(女)王遣使 詣京都帯方郡諸韓国(帯方)郡使 倭国皆 臨津捜露女王
(4)(女)王遣使 詣京都帯方郡諸韓国(帯方)郡使 倭国皆 臨津捜露伝送 文書 賜遺之物女王
(5)(女)王遣使 詣京都帯方郡諸韓国(帯方)郡使 倭国皆 臨津捜露伝送 文書 賜遺之物女王
(6)(女)王遣使 詣京都帯方郡諸韓国(帯方)郡使 倭国皆 臨津捜露伝送 文書 賜遺之物女王不得差錯

  • 骨格 使者は、:倭国から魏国に送る向き :魏国の直接的窓口である帯方郡から倭国へ送る向きがある。A,Bは、並列の接続詞"及"(および)で連結されている。
  • (1) Aの主語は単に"王"であるが、倭国王または倭国の女王(=卑弥呼)であることは明らかである。倭人伝中では、単に「郡」と言えば帯方郡を指す。郡の使者は、倭国に上陸した時点で足止めされる。
  • (2) 「京都」は、魏国の都=洛陽である。韓国は当時「三韓」と呼ばれ、(馬韓・弁韓・辰韓)からなり、馬韓50数か国、弁韓12か国、辰韓12か国の小国に分かれていた。「諸韓国」はそれらを指す。
     魏国側には、倭国は三韓と同じく帯方郡に属するという区分があり、窓口は帯方郡に一本化されているが、倭国はそれにはお構いなしに諸韓国に個別に使者を送ったり、帯方郡の頭越しに本国の都に使者を送ったりして活発な外交を展開している。
     「臨津」は使者が「来訪して港に着く」あるいは「来訪して文書・賜遺之物を受け渡す」のどちらの訳でも意味は通じる。「」とは、使者はすべて伊都国の港に迎え、文書・贈り物のすべてを開封し、詳しく調べるということである。
  • (3) "捜露"つまり、捜索し暴露する。封印を解いて、文書の内容、贈り物の内容を徹底的に調べる。動詞"捜露"の前の、暗黙の主語は「倭国」である。これが、伊都国に於いて、一大率の責任で行われる行為であることは明らかである。
  • (4) "伝送"即ち、文書はリレーされる。帯方郡使はここで文書・賜遺品を倭国側に引き渡して任務を終えることになる。ひとまず、主語は暗黙の"倭国"、動詞が"伝送"、目的語が"文書・賜遺之物"である。なお「賜遺之物」は動詞"賜遺"が""によって連体修飾語にされ、"物"を修飾する。
  • (5) 「」は「行く」という動詞。すなわち「文書・賜遺之物を受け継いだ使者は、女王のところに到着した」。
  • (6) 助動詞""は、その目的語に動詞"差錯"をとる。"不得"は英語"can't"と同じく「"差錯"(食い違い)は起こり得ない」となる。なぜなら、倭国に上陸したところで捜露した上で伝送したからである。こうして帯方郡からの届け物は、間違いなく女王の許に届けられた。
     以上のように、帯方郡から女王に届くまでの手続きが"及"の後ろの一文に詰め込めれている。

【封泥】
 公式文書などを送るときは、泥で封じ泥に責任者の職印を押す。有名な「漢委奴国王印(右図)」はその際利用された封泥印の例である。印は「陰刻」(文字の線が凹になるように彫る)し、泥から文字が浮き出すようにする。

【「捜露」が必要な理由】
 魏国が倭国の使者を受けいる場合は、直接都への使者も許すなど、開放的である。対照的に、魏国からの使者は、伊都国以遠までは決して足を踏み込ませない。
 使者が女王の都まで直行できれば、そこで初めて開封するので問題は起こらない。しかし、倭国に入国した時点で倭国側が受け取ってしまうと、その後の運搬で不正が起こらないように倭国側で管理しなければならない。
 そのため、使者から文書・賜遺品を受け取った時点でいったん開封して中身を確かめ、女王国側のルールに従って封泥しなおしたり、リストをつけたりして、以後の伝送で不正が起こらないように努めなければならない。
 女王国を代表して開封する役は、きわめて大きな権限をもつ。その任にあたったのは、明らかに伊都国を治所とする一大率である。


2012.1.11(水)原文を読む(59) 下戸與大人

下戸與大人相逢道路逡巡入草
下戸(げこ)大人与(と)道路にて相(あい)逢(あ)えば、逡巡(しゅんじゅん)し、草に入(い)る。

庶民が貴人と道路で出会ったときは、進むのをやめ、草むらに身を隠す。

【各語の意味】
…《副》互いに。
…《動》遭遇する。
逡巡…前に進むのをためらう。あとずさりする。

【文法―補語について】
 "下戸与大人"[下戸 and 大人]が主語、""は動詞の前に置かれた副詞、動詞が""。
 それでは、「道路」の文法上の役割は何か。"道路"は名詞で"相逢"が起こった場所を表し「於道路」と同じである。
 なお、動詞の後ろに置く要素は、目的語の他「補語」があるとされ、『漢辞海』には「補述構造」として<漢辞海>①数量補語("数日""数千里"など)、②結果補語(動作の結果)、③趨向補語("入""去"など)、④程度補語("甚"など)</漢辞海>が挙げられている。
 また、「主-修-述-補」などを文型として捉える説明もある。例えば次の例。
<wikipedkia>
 (文型) 主語-修飾語-述語−補語
 (例文) 其劍 自舟中 墜 於水。[その剣、船中より水に墜つ]
</wikipedia>
 「目的語と補語はどう違うのか」という疑問も多く見られた。この問題について、私は次のように理解している。
 (1) 目的語は、動詞の直後に置かれ、英文法と同様に、動詞が作用する対象を指す。
 (2) 動詞を修飾する要素のうち、動詞より前にあるものを連用修飾語動詞より後ろにあるものを補語と言う。

 以上の原則から、名詞"道路"は連用化して"逢"を後ろから修飾するから、補語である。

【文法―主語の兼用】
 述語"逡巡"及び"入草"は、主語"下戸"を共有している。"大人"は一文目の主語の一部、"下戸"は一文目の主語と二・三文目の主語を兼ねていて、変則的である。

【連想関係】
 第56回で述べた、文の連想関係はまだ継続中である。

 諸国は一大率を畏憚する>>(一大率は、)帯方郡からの文書・贈り物を捜露して、伝送する。>>伝送中の使者に出会った庶民は草むらに入り、貴人をやり過ごす。>>貴人の言葉は、恭敬の態度で聞く。


2012.1.13(金)原文を読む(60) 爲之恭敬對應聲曰噫

傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
辞を伝え、事を説くに、或いは蹲(うずくま)り、或いは跪(ひざまず)き両手を地に拠(よ)り、之を恭敬(くぎょう)と為す。対応する声は噫(イ)と曰い、比ぶに然諾(ぜんだく)の如し。

言葉を伝達したり、事柄を説明するにあたり、(身分の低い方の人は)跪いたり、しゃがんだりして両手を地面につける。これにより恭敬(きょうけい)を表す。返事の声は「イ」と言い、承諾の意にあたる。

 この部分については、魏略には残ってない。また後漢書と隋書による引用もない。記述のうちでは、比較的重要性が低いと考えられたのだろうか。

【語句の意味】
…《動》説く
…《動》うずくまる。[squatting]
…《動》ひざまずく。[kneel]
[=拠]…《動》よりかかる。たよりにする。
恭敬(きょうけい、くぎょう)…つつしみ深く、礼儀正しいさま。 

[=対]…《動》上位者からの質問に答える。面と向かう。互いに勝負する。
[=応]…《動》こたえる。《助動》。まさに~すべし。[「当然」、~すべきである、~しなければならない]
[=声]…《名》音声。
…《感嘆詞》
…《動》くらべる(照らし合わせる、なぞらえる)、ならう[準用する]。

…《動》[同等の認定]
…《形》しかり。《接》しかるに。
…《感嘆詞》はい。《動》承認する。
然諾…許容する。うけあう。
拠手
【動作】
 <漢典>両腿尽量彎曲,像坐的様子,但臀部不著地</漢典>(両腿とも完全に曲げ、座るような姿。但し、臀部は地に着けない)
 <漢辞海>しりは地に着けずに両膝を曲げて座るようにする。うずくまる。</漢辞海>

 <漢典>屈膝,单膝或双膝着地,臀部擡起,伸直腰股</漢典>(膝を屈し、片膝または両膝を地に着け、臀部を持ち上げ、腰をまっすぐ伸ばす)
 <漢辞海>立位または座位から、両膝を地につけ腰をまっすぐに立てる。ひざまずく。</漢辞海>

 「跪」を画像検索すると、片膝だけ着く場合や、正座も含まれる。「跪」から両手を地に着けるときは、同時に腰を落とした方が自然である。
 第52回に、貴人に拝謁する作法があった。跪き、手を打ってから一礼する。今回の文は、それに続く文だと見られる。

對應(=対応)】 
  <漢辞海>日本語用法。日本から中国への移出語。</漢辞海>とあるのに驚いた。そこに書かれた意味は「関連をもつ。相手の変化に応じて行動する。」これは数学用語の"対応"にもつながる。
 しかし、「対応」という熟語自体がなかったわけがない。ただし、それは"応対"と同じ意味のみであった。日本では、そこに「もう少し違う意味が加わった」ということであろう。
 ※応対=人に受け答えする。

 なお、この文に於ける文法上の役割は、動詞「対応」が連用化して「声」を修飾すると見るのが一番つながりがよい。

【""の発音】
聲曰噫」は、当時の倭人が発していた音声を直接描写しているので、極めて興味深い。となれば、当時の中国における発音を知りたくなる。『漢辞海』によれば中古音としては、子音のない平声の[yi1](感嘆詞の場合)。三国時代は中古音と上古音の境にあたる時期である。
 名詞(「げっぷ」の意味)だと"噫"はアイ[ai3]。なお『漢典』によれば「げっぷ」「感嘆詞」双方の発音の混同もあるとされる。また口偏を除いた""にも、感嘆詞の用法があり、""とは、意味も読みも同じである。
 一方、古い和語における肯定の回答は<wikipedia>江戸時代に「はい」。それ以前は「おお」「ウォ」</wikipedia>などであったという。 実際はどうだったか、つきとめるのはなかなか難しそうである。


2012.1.16(月)原文を読む(61) 共立一女子爲王

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王
其の国本(もと)より亦(また)男子を以て王と為し、七八十年住(とど)まる。倭国乱れ相(あい)攻伐歴年するに及び、共に一女子を立て王と為す。

その国は、もともとは通例通り男子を王としていたが、七八十年過ぎるうちに、倭国は戦乱となり互いに攻撃しあい、結果一人の女子を共に戴いて王とした。

【語句の意味】
…《名》植物の根、幹、茎。根源。基礎。《動》もとづく。根拠とする。《副》もとより。<国際電脳漢字及異体字知識庫>事物的基礎或主体。(etc.)</国際電脳>
(また)…《副》[前述のものと同様。反語。限定(ただ~だけ)。]《助》[言葉のリズムを整える。実質的な意味なし]<国際電脳>《副》又、也、皆などに相当</国際電脳>
…《名》留まる。停止する。
[=乱]…《形》秩序がないさま。平安でないさま。《動》謀反を起こす。但し治める("乿"と混用)。
…《動》木を切る。攻める。
攻伐(こうばつ)…せめうつ。
[=歴]…《動》通り過ぎる。隔てて越える。
歴年…何年も経る。
(すなわ-ち)…《接》重文で後節の前に置き、並列や累加を表す。

【""について】
 「また」は、前提となる事実を受け「この場合も同様に」という意味で使う言葉である。しかし、この文では何を受けているかが不明瞭である。「一般的に、王は男子が務めるから」という意味かも知れないので、試しに、女帝の出現率を調べてみる。まず、中国において女性が皇位についたのは、唯一武則天とされる。(事実上の権力者には西太后などもいる)武則天が皇位にあったのは、西暦690年~705年なので、魏志の時点ではまだ一人も出現していなかった。
 またローマ皇帝もすべて男性だった。"王は男子"が常識であれば、「もともとは、倭国もまた男子王であったが」という意味かも知れない。
 その他の考え方もあり得る。それは「従属する文が、中心文の前に来ている」場合である。一礼としてまず指示語を使って「あれはもう何年も前のことになるが…」と書き始め、続く中心文ではじめて「あれ」の内容を述べる。英語では、主語が長い場合It…で始めて、後でto不定詞とかthat節の真の主語を述べる「仮主語」がある。
 ここの文、"其國本亦"の場合、「其の」が次の「倭国」を指している。中心文が出てくる前に、指示語や「亦」があると考える。つまり「その国では、かつては男子もまた王であったが、…(主文)…」という構造である。
 以上のどちらの考えも成り立つと思う。

【以男子為王:以A為B】
 前置詞構造"以A"は、動詞に"為"に対して手段や方法を補足する。

 倭国の風俗習慣の観察は、前回で終わり、これからは、倭国の歴史と女王国の姿について述べている。
 今回の文で、倭国の乱とは具体的にいつ起こったのか、また敵・味方は地理的にどう分かれていたのか、を知りたくなる。まず、前者については、後漢書や隋書などを参照して比較してみる。

【歴史的経過】
 魏志、後漢書、隋書の内容を、時系列的に整理したのが次の表である。
時代区分西暦魏志後漢書隋書参考
前漢206B.C.~
 武帝滅朝鮮108B.C.爲國邑舊百餘國漢時有朝見者自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國(漢書地理志)玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮
…樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云
前漢滅亡8
後漢25~
 建武中元2(光武帝)57其國本亦以男子爲王倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬漢光武時遣使入朝自稱大夫
 永初1(安帝劉祜)107安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見安帝時又遣使朝貢謂之倭奴國(75~105)《漢書成立》
 男子爲王住七八十年127~137ごろ(以男子爲王)住七八十年 倭國亂相攻伐歷年
 桓帝(後漢11代)146~167桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主
 霊帝(後漢12代)168~189
共立一女子爲王名曰卑彌呼…有一女子名曰卑彌呼…於是國人共立為王有一女子名曰卑彌呼…於是國人共立為王
 事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 能以鬼道惑衆
後漢滅亡~220
魏(三国)220~※今使譯所通三十國 丗有王皆統屬女王國※魏時譯通中國三十餘國皆自稱王(魏略)其国王皆屬王女也
 景初2年6月238倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子
 正始8年以後247~卑弥呼以死…更立男王國中不服
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定
魏(三国)滅亡~265
(280~290)《三国志成立》
(432)《後漢書成立》
東晋・宋・南斉・梁413~502自魏至于齊梁代與中國相通(宋書)讃、珍、済、興、武
開皇二十年600遣使詣闕
(636)《隋書成立》

108B.C:漢書「樂浪海中有倭人…」
 朝鮮半島には、「衛氏朝鮮」という独立王国が存在していたが、<wikipedia>右渠の代に漢の意に背いたことで武帝の逆鱗に触れ、紀元前109年-紀元前108年の遠征により衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。</wikipedia>
 だから「楽浪海中」という表現があれば、それは少なくとも108B.C.以後である。漢書のこの部分は、その時点で書かれた。さらに魏志の「為国邑旧百余国、漢時…」は、漢書の記述を根拠にしたと思われる。
 それに対して、後漢書が「自武帝滅朝鮮」(武帝が朝鮮を滅ぼしてから)に「使驛通於漢者三十許國」(使訳、漢に通ずるは三十余国)が続くのは、漢書からの引用としては誤っている。正しくは、その間に「倭人分爲百餘國以歳時來獻見云魏時」が挿入されるべきである。

220:魏志「今使訳所通三十国」
 この部分は、もっと前の「為国邑旧百余国」の直後に置かれている。しかし、これらの三十国は、(狗奴国を除いて)女王国の支配下にあったことは、伊都国の部分の「世有王皆統属女王国」(世[々]王有り、皆女王国に統属す)等の部分から明白である。つまり、「使訳」は女王国による正式な使者より格下ということになる。
 隋書の「魏時訳通中国三十余国皆自称王」(魏の時代、[使]訳中国に通ずること三十余国、皆王を自称する)は、57年の「倭奴国奉貢」の前に書いてある。魏書の「今」が「魏時」に機械的に置き換えられているので、この部分を魏書から引用したことは明白であるが、隋書を単独で読むと「世有王皆統属女王国」が欠けているので、矛盾した文章になる。(倭国大乱を経て、やっと女王国が統一した後で、三十か国の王がばらばらに中国と交流をもっていたことになってしまう)
 「魏」は戦国時代(453B.C.あるいは403B.C.~225年B.C.)にもあるが、ここでは三国時代の「魏」であることは明らかである。

127:「以男子為王住七八十年」
 後漢、光武帝の建武中元二年(57)に「漢委奴国王印」で有名な、倭奴国の使者による朝見がある。魏志の「男子王」がこの年を起点として始まるとして70~80年を加えると127~137年となり、後漢書・隋書で「倭国大乱」とされる桓帝・霊帝の時代(146~189)の、直前になる。
 魏志が「桓霊之間」という具体的な書き方をしていないのは、不思議である。その事情については、3通りの想像が可能である。(1)"桓霊"と書いた資料はあったが、陳寿は何らかの理由で触れなかった。(2)陳寿の手元にはない資料を、後漢書で参照することができた。(3)逆に、後漢書の編者が、魏志のこの部分を根拠にして、足し算した結果得られた時代を書いた。
 もし(3)だとすれば、やや物足りない。またこの部分については『隋書』が『後漢書』をそのまま書き写したのは明らかである。

189以後:共立一女子
 「桓霊之間」が正しければ、「倭国乱相攻伐歴年」の「歴年」は146年~189年の、43年間ほどに当たる。ちなみに、後世のわが国の戦国時代は応仁の乱1467~秀吉関白任官1586の119年ほどである。(関ヶ原の役は、国家統一後のクーデターと位置付ける)
 後漢書ではさらにこの間は「無主」と書いているが、魏志を読んで当然「無主」だと思って書き加えたのか、「無主」と書かれた別の資料に基づいたものかは不明である。
 魏志のこの部分からは、男の王たちが戦乱を終わらせ国々を統合するために、シャーマニズムによる卑弥呼の精神的支配力を利用したと読み取れる。後漢書の作者は、卑弥呼の鬼"神"道による支配力を、さらに強調する書き方になっている。

238:「倭女王遣大夫難升米等」
 189年に女王を共立したとすると、魏国に使者を派遣したのは、それから49年後である。仮に卑弥呼の擁立が、後の壱与と同じ13歳だったとして、もう62歳である。また、卑弥呼の死亡は247年か、その2~3年後と見られるので、70歳代前半となる。どうりで「年已長大」と書かれたわけである。しかし女王に擁立されたころは、まだうら若き乙女であったことになる。

 従って、倭の女王が魏国に正式な使者を送れるぐらい国力を高めるまでに、約50年の歳月がかかったことになる。その一方で、魏国側の事情もある。後漢滅亡の混乱の処理を終え、三国鼎立とは言え新たに建国をしていく時期、帯方郡南東の海中にある国がいつまでも安定しないのは魏国にとってマイナスである。おそらく安定した女王国と力強い対抗関係を保つことによって、魏国自身も国力を高めることを目指していた。
 実際に、倭人伝には女王の使者難升米等の派遣を帯方郡太守の劉夏はことのほか喜び、心のこもった親書を託したことが書かれている。

247以降:
 その後の出来事はどのように書かれたか。後漢書に、その後の女王国の記述がないのは当然である。書が対象とする後漢時代が終了するからである。
 しかし隋書の場合でも、その後のあまり触れられていない。魏志に詳細な記述があり、宋書の「倭の五王」の記録もあるのに、実際の文は「自魏至于斉梁代与中国相通」(魏より斉・梁に至り、中国と相通ず)だけで、極めて素っ気ない。
 それだけ、女王を共立する過程の引用が目立つ。卑弥呼に対して現代のわれわれが興味を持つのと同じように、後々の中国でも、きっと興味を引いたのであろう。

【「共立」とは】
 "共立"には、実際には相当の年月がかかったのではないか。まず、女王に近い数か国が鬼道に感心し、その下に結集する。さらに周辺の国々との戦いを重ねながら、敗者または和解した相手国に対して「世世統属す」とあるように、王の限定的な支配権を保障しながら女王による宗教的支配機構に組み込んでいったのである。その結果として、国王たちがほとんど卑弥呼に心服してやっと「共立」が成り立った。決して一時の話し合いで女王の擁立を決定するような、簡単なことではなかったと思われる。
 やはり霊帝時代の終わりから倭国の統一までに、20年ぐらいは必要だっただろう。その間、卑弥呼自身が宗教的な力と共に、相当な外交交渉能力と人間的な魅力を発揮してまとめていったに違いないと思うのである。
吉野ヶ里遺跡

【戦闘の実際と勢力分布】
 「倭国大乱」の時代は2世紀後半の、弥生時代の後期にあたっている。戦闘による負傷を研究する方法については、発掘された人骨と、武器による損傷との関係の実証的研究があった。
大藪由美子さんの論文
 女性人骨については胸椎と大腿骨、男性人骨については頭蓋骨、肩甲骨、寛骨、腰椎の損傷は、医学的所見からいずれも死亡時のもの。男性の頭蓋骨の割創は致命傷の可能性が高い。
 武器による骨傷は、ニホンザルの骨を使った実験を行うことができた。打製石器=不定形で幅広い、磨製石器=創口の幅・深さで金属製刃器とは区別可能。ただ銅剣と鉄斧は、類似した形態で判別困難であった。
</論文>
 この方法を用いて、戦闘の実際について今後研究が進むと思われる。

 一方、高地性環濠集落は、戦争に備えたつくりだと考えられてきた。環濠集落とは、周囲に濠(ほり)をめぐらした集落。排水、防衛、集落の限界の機能をもつとみられる。
四分遺跡>所在地:橿原市四分町。
 弥生時代全期の溝、竪穴式住居、井戸、土坑、方形周溝墓や後期の水田などの遺構を検出。このことから東西250m以上、南北400m以上の範囲に広がる大規模な拠点集落。土器、石器、木製品、骨角牙製品などが数多く出土し、その中には銅鐸形土製品や小形ぼう製鏡の断片、絵画土器が含まれる。
</四分遺跡>
<wikipedia> 
 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神崎氏、吉野ヶ里町)について。
 中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い憤丘。
 後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。
</wikipedia>
 以上のように、弥生時代後期は、実際に戦争が行われていた。

 次に敵味方の地理的関係について。まず倭国大乱の結果として、どこが全国政権の所在地になったかを調べる。その材料として、土器の流通を調べる。
大野城市歴史資料展示館>(大野城市原ノ畑遺跡の出土品)
 一番多いのが、近畿地方(おもに大阪府・奈良県地域)の土器である。土器の図と写真を比べてみると、よく似ている。3世紀に入るころから、福岡周辺では西日本各地の土器が見られるようになり、またそれらをまねて作られた土器が作られるようになる。逆に、近畿地方では、福岡周辺から持ち込まれた土器やこれをまねて作られた土器はほとんど見つかっていない。("まねる"としたが、あるいは各地から来た人々が作ったこともあり得る)
</大野城市歴史資料展示館>
 として、3世紀始めから、纏向遺跡(奈良県)で作られた土器が北部九州に流入するようになったと述べている。
 また、纏向遺跡の弥生時代末期から古墳時代前期にかけての土器は、
<wikipedia>
 搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があった。
</wikipedia>
 とされる。搬入時の出身地は、伊勢・東海49%、北陸・山陰17%、河内10%など、関東以西の各地に広く分布している。
三角縁神獣鏡
jp.wikipedia.org

 次に、三角縁神獣鏡の分布を見る。
 近畿地方中心に、九州から東北各地の古墳から出土する直径20cm程度の銅製の鏡。すでに400枚ほど発掘されている。景初三年銘、正始元年銘の紀年があるので、女王国の使者に下賜された100枚の鏡ではないかとも言われたが、最近の鉛同位元素の比率比較などから、ほぼ国内で作られたものと見られる。しかし、年号から見て女王国の使者が下賜された鏡そのものの複製または、真似て作ったものと思われる。
 詳しくは後日まとめるが、分布から見て近畿地方にある中央政権から、全国各地の豪族に配布されたと見られる。

 以上のように、3世紀前半は、纏向遺跡を含む畿内が人や物の流通の中心であった。また銅鏡の分布から、倭国大乱を終えて確立された統一政権がこの地にあったのもほぼ間違いない。
 ただし、1世紀の「漢委奴国」に始まる男子王の時代は、倭国の代表政権は北九州にあったと思われる。その後の倭国大乱の中で、北部九州・出雲・北陸が大和勢力に屈していき、最終的に大和地域の政権が勝利した。但し、南九州はまだ独立政権のままである。というのが、今の時点での私の筋書きである。
 また、魏国が畿内の強大な統一政権の存在を知らずに(あるいは知っていても無視して)、北九州のどこかの小さな国に、倭国の代表という資格を与えて相手をしたということは、随分考えにくい。

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