魏志倭人伝をそのまま読む。
《原文のテキスト版があります》(pdfファイル) 魏志倭人伝(紹興本)魏志倭人伝(紹煕本)
※原文画像に基づき、原文字となるべく近いフォントによる文書化を試みました。まだ若干誤りが残っている可能性がありますのでご注意ください。

2011.02.21(月) 邪馬壱国?

 2011 新年を迎えました。遅くなりましたがよろしくお願いします。

さて、正月休みにふと「魏志倭人伝」のことを思い出して、もう一度原文を素直に読むと何か見えてくるかな、と思いました。
そこで、早速ネットで原文を検索… http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/ のデータを使わせていただきました。
読み始めて、いきなりあれ?と思ったのが「對海國」。對馬國(=対馬国)の誤記?
もうひとつ「一大國」これも、一般には「一支國」のはず。
そして最大の問題である「邪馬壹國」。"壹"は"壱"の異体字で、つまり一万円札の表にある数詞そのもの。
邪馬臺國の"臺"("台"の異体字)とは全く違う字です。
俄然興味が湧いて、まずここから調べることにしました。
「原文」はみるからに漢字の羅列で古風なので、成立直後かと思ったら、実は南宋の時代(12世紀)の刊行物。
もともとは陳寿(三国時代の「魏」の役人)が西暦280~290年ぐらいに著した!
900年の隔たりは、わが国で鎌倉時代の文献を現在発刊するようなもので、記述の揺れがあって当然ですね。
では、陳寿が書いた近い時代に書いたものは残っていないのか?
残念ながら発見されていないようですが、興味深いことに他の古い歴史書にはしばしば引用されています。
「随書」(636年)
「梁書」(7世紀)
「太平御覧引用魏志」(984年)
など。これらは、基本的に「邪馬臺國」("台")です。
南宋の出版は
「紹興本」(1131年~1162年刊)
「紹煕本」(1190年~1194年刊)
で、両方とも「邪馬壹國」("壱")。
*「『臺』と『壹』について」(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_to_ichi.html)を参考にしました。
また、「紹興本」「紹煕本」の両方が<一大國>ですが、「紹煕本」の<對海國>だけは「紹興本」では<對馬國>です。
単純に考えると、<對馬國>が後に誤って<對海國>になったように思えますが、「紹興本」自体も後日改訂の形跡があるそうなので、はじめは「紹興本」でも<對海國>だったのが、訂正されたのかも。
「臺」「壹」の話題に戻ります。
「『臺』と『壹』について」作者の仮説によると、宋から戦乱後に華南に移動して南宋を再興しますが、その混乱で原本が失われた。
そこでやむを得ず?、各地にあった誤記の多い写本を使ったから、としています。
私は、仮説の当否は別として、南宋以前のさまざまな引用には「壹」はなく「臺」なので、もともと「臺」であったという考えは妥当だと思います。

※この項の資料

2011.02.23(水) 原文をテキスト化

 「魏志倭人伝」原文画像を元に、文字を起こしてpdfファイルを製作しました。字体については、現代のわが国の字体、例えば島為に置き換えてもほとんど差し支えないのですが、現在はもうユニコードで普通に㠀爲が可能なので、どうせならと言うことで、極力原文に近い字体を使用しました。(ユニコードは、このような古い文献の漢字もなるべく包含するよう努めているようです)。それでも、ちょっと違うのもあります。(例えば、""はやむを得ず"枏"を使用。また、"詣"は、紹興本で"詣"ですが、紹煕本は"")また、紹煕本の"丈身"は、明らかに"文身"が正しいのですが、あえて誤りのままにしました。テキスト版へのリンク→紹興本紹煕本


2011.02.25(金)原文を読む(1) 帯方郡

倭人在帶方東南大海之中
倭人は帶方[郡]の東南、大海之(の)中に在り。

倭人は、帯方郡の東南、大海の中にある。

【行政区分】
<wikipedia>
帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南半を裂いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の?、南の韓、東南の倭がこれに属す。
帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。
</wikipedia>
また、<wikipedia>郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。</wikipedia>つまり、太守=知事、郡治=県庁所在地のようなものか。遺跡が発掘されて位置が確定している楽浪郡治に対して、帯方郡治はまだ所在地不明。本稿では、一応ソウル付近としておく。
当時の中国(三国時代)に鼎立していた魏・蜀・呉の内、魏(220~265年)の地方行政組織。
創立者(魏王)曹操は204年、現在の河北省邯鄲の南、臨漳(りんしょう)縣に都 鄴(ぎょう)を置く。
鄴付近を流れる、漳(しょう)水の東岸に展望臺を兼ねた宮殿を築き、銅爵臺と名付ける。
(参考文献:株式会社光エネルギ応用研究所のホームページ→文考15 銅爵薹
220年 「曹操」が没し後を継いだ「曹丕」が魏を建国。洛陽に遷都。
帯方郡は、朝鮮半島、倭国を範囲とする魏の地方行政組織。
なお、邪馬台国と魏との交流期間のはじめの、景初3年は239年。
倭人伝後半で、倭国王が派遣した使者が、洛陽や(銅爵)臺を訪れる記述がある。

【地理】
「東南」を東と南の間とすれば西日本(東日本、北日本はもう中国の知識の外)の位置は正しい。だが読み進むと投馬国、邪馬台国は「南」と記述されるから矛盾がある。ただ、その後「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」(女王国の東、千余里復た国有り、皆倭種なり)とあるので、「倭人」をここまでとすれば一応辻褄が合う。
「大海」は、そのまま受け取ることができる。
【民族名】
倭人伝の章は「弁辰伝」であって「弁辰人伝」ではない。「倭」だけ「人」がつくのがやや気になる。
これについて松本清張は、「清張通史」で「倭人」を「倭」と区別し、「倭」=対馬をはさんだ北九州と朝鮮半島南部を含む海洋民族、「倭人」=西日本の国家の名称であるとした。
ただ「倭人」は「弁辰」とともに民族の名称であると考えれば、そんなに不自然ではないかも。では「倭種」と「倭人」の区別は? 疑問は尽きないが後日考察する。


2011.02.27(日)原文を読む(2) 為国邑

依山㠀爲國邑
山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。

山々からなる島を基盤として国々をつくっている。

つまり、険しい山をなす島に国や邑(むら、もともと古代中国の都市国家)を形成している。

【山[なる]島】
 珊瑚礁が隆起してできた島(石垣島など)は平地であるが、日本列島を形成する対馬、壱岐、九州、四国、本州など多くは複雑な地殻変動により急峻な地形である。
 日本書紀において日本を構成する「八島」は、基本的に本州、四国、九州、淡路島、壱岐、対馬、隠岐、佐渡で、伊豆大島などは含まれない。だから、今日のほぼ西日本の範囲が古代の日本であった。 古代中国で認識されていた「倭」の範囲は、当然その程度以下であろう。

【国邑について】
 「国邑」は「2つのタイプの国が混在している」意味はなく、単純に複数形。「山岳」と同じ。中国は既に中央集権的に国-郡-県の行政組織が確立しているが、日本や韓国はまだ独立性の強い小国の集合体であった。弁辰伝、倭人伝ではそれぞれの小国の末尾に必ず「國」をつけて表記している。
 「依りて」は、島の土地が国の基盤であるという意味であろうが、島ごとに国がある意味にもとれる。対馬国(藩)は、古代はもちろん江戸時代まで独立性が強かった(中国・朝鮮との外交を仲立ちしたりする)。 そんな対馬国のイメージが強いから島ごとに国がある意味で「島に依りて」という表現になったように思える。 ただ実際は、大きな島は末盧國・伊都國・奴國・不彌國などに分かれている。

【魏略の記述】(魏志に先行し、魏志の母体となった歴史書)
(漢書地理史 顔師古注)倭在帯方東南大海中依山島以[為]国
     ※[]内は筆者による挿入
倭[国]は帯方の東南、大海に在り、山島に依り、以って国を為す。
小国の集合体「国邑」の代わりに単数の「国」が使われ、主語も民族名「倭人」ではなく国名「倭」であるので、この方が文意が明瞭である。


2011.02.27(日) 2013.03.15(木) 原文を読む(2-2) 旧百余国

舊百餘國漢時有朝見者
旧百余国、漢の時、朝見する者(国)有り。

旧くは百か国以上が、前漢の時代に朝見していた。

 前漢(BC206~BC8)時代は、倭に多くの国があり、そのうちいくつかはおそらく別々に朝見(臣下が朝廷に参内(さんだい)して天子に拝謁すること)。 そのうち倭奴国に国王の称号を与えて冊封していたことが、「漢委奴国王」金印によって実証されている。

【冊封】(さくほう)
<wikipedia>
 冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「属国」の関係)をともなう外交関係の一種
</wikipedia>
 「冊封」といえば、秀吉が明の皇帝から、「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」との書状(綾本墨書 明王贈豊太閤冊封文)を受け取って激怒した話が有名。 古来、中国は、周辺国と外交関係を結ぶ場合、相手国を自国の領土の一部と見做して、そこをを治める「王」を任命する形式をとってきた。 現代の感覚では傲岸不遜であるが、
<wikipedia>
 古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」
</wikipedia>
という蔑称を宛てていた。つまり、大陸中央に進んだ文明の華があり、周辺国は野蛮人なのだから仮に外交関係が結ぶ場合、そこを治めるのは野蛮人の代表ではなく、天子の忠実な臣としての「王」でなければならない。
 「朝見」したのは旧百余国すべてではなく、限られた国(具体的には奴国)である。もしすべてなら「舊百餘國漢時皆朝見」という表現になるであろう。 国々のうち特定の相手だけを冊封したとすれば、金印「漢委奴国王」の「委」が「倭を代表して」という意味を帯びてきて、分かりやすくなる。
* しかし、「委」は動詞で「漢は国王を奴国に委(ゆだ)ねる」という意味の称号かも知れない。なぜなら、女王國に対する金印には「親魏倭王」と「親」の文字が加えられたように、金印に記す称号は動的な表現が通例かも知れないからである。
*...前漢以前の文献に「倭」の呼称があることを知ったので、結局この解釈は無理であることがわかった。 ともかく、のちに女王國に「親魏倭王」の称号を送って国家関係を樹立したのは重要な外交判断であったことが伺える。
<勝手な想像> かつて漢の時代に倭国の代表として(?)国交を結んだのは奴国であった。だが、三国時代になると、奴国は他の北九州諸国とともに「一大卒」によって女王國から厳しく統制される立場となった。 奴国は中央から進出してきた邪馬台国に追い詰められ、代々の王が大切に守ってきた金印を奴国の沖合いにあった志賀島(今は地続きだが)に秘匿し、涙ながらに奴国の再興を誓ったのである。</勝手な想像>

【文法】
 「百余国」が大主語で、部分的な主述構造「有朝見者」を目的語にとる。「漢時」は副詞。動詞「」には主語が省かれるが、目的語「朝見者」が事実上の主語である。


2011.02.27(日) 2013.03.15(木) 原文を読む(2-3) 今使訳所通

今使譯所通三十國
今、使訳通ずる所三十国。

現在は、訳して伝える使者を三十か国に送っている。

 「訳」は、もともと言葉をばらばらにする、つまり言語を分析的に深く理解するという意味だが、ここでは「通訳―漢語を倭語に訳す」と考えてよいだろう。
 とすれば三十国との関係は「朝見」ではなく「文書を伝達し、内容を翻訳して説明する使いが行き来する」実務的なものである。つまり「朝貢」関係は女王国に一元化され、小国は連絡だけである。 女王国に魏国との外交権を独占させることにより、倭国内の諸国に、女王国への服従を促す政策か。倭国の統一と安定が魏国にとって至上命題であったことが伺われる。 実際、魏志倭人伝後半では次のように記述されている。

【倭の女王による朝献】
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
景初二[三?]年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣(つかわ)し郡に詣で天子[皇帝]に朝献を求む。
太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月
太守[=帯方郡の首長]劉夏は吏將を遣し、其の年十二月京都[=洛陽]詣でに送る。
のように邪馬台国に独占的に外交関係を許したことが詳しく書かれている。

【旧と今】
 「旧」と「今」、あるいは「昔」と「今」はそれぞれ正確に対応して使われていることに留意したい。

【「三十国」と本文との対応】
 2(対馬海峡)+4(北九州)+1(投馬國)+1(邪馬台国)+21(その他の国名リスト)=29
 「旧」は百"余"国と概数表示だが、「今」の方は三十"余"国でも"許"三十国でもないので、実数表示かも知れない。 そこで狗奴國を加えてみると、丁度30カ国になる。狗奴國も「使譯所通」国に含まれると考えると、女王国には決して服従しようとしないが、魏国とは独自に使者をやりとりする関係が保たれていることになる。
<勝手な想像>狗奴國は女王国の一員になることを拒み、独自に朝献を望んでいたが魏国は拒否し、女王國連合の一員になることを促していたかも知れない。</勝手な想像>
 実際の国名、国数が事実通りかはともかく、文書内では矛盾が起こらないように注意深く書かれている可能性がある。 とは言え、900年間筆写が重ねられたのだから「余」または「許」が脱落した可能性も否定できない。

【文法】
 「」は続く動詞「」を体言化し、「行き来する相手の国々」の意味。「通」の主語「使訳」は「所」の前に出る。「三十国」が述語。繋辞(英語のbe動詞)は漢語では使用しない。


2011.02.28(月)原文を読む(3) 從郡至倭

從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東
[帯方]郡従(よ)り倭に到る。海岸を循(めぐ)り韓国を歴(へ)て南乍乍(また)は東へ水行す。

帯方郡から倭国に至るには、韓国の周囲を海岸沿いに南、あるいは東に船で移動する。

つまり、出発点は帯方郡治(役所所在地)。倭に到るには、まず韓国内を海岸沿いに船で南または東へ移動する。

【陸行と水行】
 「陸行」、すなわち目的地に移動するのに道路を歩くことは当然であるが、それは縦横に道路が整備された現代の話である。 西暦2~3世紀の倭国や韓国ではどうだったか?木の実を採集したり、鳥獣を狩猟するために、登山道程度の道はできていたであろう。 しかし、遠い集落(分立した国邑の生活区域)への移動はどうだったか? 道路の整備はかなり拙いものだったと想像される。 おそらく、森林や草原、山岳、河川を突っ切ったり、曲がりくねった道なき道の連続であっただろう。 それよりも、海岸沿いの船の方がはるかに便利な交通手段だったことは容易に想像できる。 海岸に平行にカヌーのような船を奴婢が漕いだか。帆船もあったかも知れない。
 ただし同じ航海でも、海洋に漕ぎ出して遥かかなたの島まで進む場合は、特別に天文や海流の知識が必要である。
 倭人伝ではここを明確に区別して、海岸沿いの移動を「水行」、海洋の航海を「渡海」と表現している。

【従】
 国語辞典では、「後について歩くさま」や「決まりを守る」ほか、「~より」もある。しかしこの「~より」は「従来」「従前」という時間的な用法で、空間的ではない。 そこで後述の「乍」を含め、漢字の意味を掘り下げるためにネットを探ったら、遂に台湾の「國際電腦漢字及異體字知識庫」(以下、「漢字知識庫」と省略)に行き着いた。 実にたくさんの用法があるが、その項目⑰。
<漢字知識庫>
17. 介詞。①表示起點,相當於「自」、「由」。②表示對象,相當於「向」。③表示原因、途徑,相當於「因」、「由」。④表示憑藉;根據。
</漢字知識庫>
17.介詞[品詞のひとつ、英語の前置詞に類似]①基点を示す、「自」、「由」に相当。②対象を示す、「向」に相当。③原因、経過を示す「因」、「由」に相当。④よりどころ;根拠を示す。
結局、「自帯方郡到倭」と同じだった。

【翰苑引用による魏略】
從帯方至倭循海岸水行暦韓國

「郡」は「帯方」のことだから適切。しかし「歴」には「暦」の意味はあるが、ここでは用法が違う。意味を考えずに筆写したらしい。

【循】
<漢字知識庫>
1. 順著;沿著。 2. 依循;遵從。 3. 按次序。 4. 步行。 5. 恭謹。 6. 善。 7. 述;追述。 8. 安撫;慰問。 9. 大;擴大。 10. 通「巡」。巡視。 11. 通「揗」。撫摩。
</漢字知識庫>
 「順にたどる」そこから、単に「歩く」、福祉施設の慰問、警備のための巡回などが派生。

【歷】
<漢字知識庫>
1. 經歷;經過。 2. 越;越過,跨越。 3. 行。 4. 干犯;擾亂。 5. 盡;遍。(中略) 15. 同「曆」。①曆法。推算年、月、日和節氣的方法。(後略)
</漢字知識庫>
<余談>15.「暦」に同じ…確かに月日を巡るのが暦。</余談> ここでは「越える」がもっとも文意に沿う。「帯方郡治から韓国を越えて倭に到る。」

【韓国】
 現在は「大韓民国」の略称だが、当時も朝鮮南部は「韓国」。3つの地域に分かれていたので「三韓」と呼ばれていた。
<wikipedia>
 三韓は、紀元前2世紀から4世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した部族とその地域。朝鮮半島南部のことを韓と言い、風俗や言語によって大きく3つに分けられたことから三韓と呼んだ。
</wikipedia>
 日本書紀の三韓征伐の対象は「百済・新羅・高句麗」だが、三国時代は馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)を指す。

【乍】
 現代日本語の用法では、「乍(なが)ら勉強」の「同時に二つのことを行う」が最も多い。 google翻訳だと、たとえば「乍版」=(和)初版、(英)first edition。つまり「乍」は「最初の」。 この意味から派生し、もともと「作」という意味があったが、この意味の場合は、後に人偏をつけて表すことになった。
<余談>
 乍度=Chad(中央アフリカのチャド共和国)。
 また、楽曲名Starの中国語題名「星光乍現」について、中国人の感想「中文名稱是『星光乍現』覺得有點怪怪的名稱」
 読み下し文風「中文名称は『星光乍現』是(は)怪しき名称なる点有り得(う)と覚ゆ。」
google翻訳「中国の名前は"スター乍现"私はちょっと変な名前を感じている。」
 かくて混乱に陥り、腰をすえて探求を続けた結果いきついたのが、前述の「國際電腦漢字及異體字知識庫」であった。
 ついに見つけたのが、
</余談>
<漢字知識庫>2. 連詞。表示選擇關係。</漢字知識庫>連詞。選択される関係を表す。
ということはつまり、"either the south or east"。結局一般に「あるいは南に、あるいは東に」と和訳されているのは、極めて妥当であった。
ただし、南と東が完全に対等なときは、東→南の順に書かれるので、南が始めに書かれてある場合は、「まず南に進み、後に東に進む」というニュアンスが感じられる。
実際、朝鮮半島の海岸線に従えば、ソウルからモッポまでは大体南向きで、ほぼ直角に曲がってプサンまで東向きである。


2011.03.05(土)原文を読む(4) 狗邪韓國

到其北岸狗邪韓國七千餘里
其(そ)の北、狗邪韓國の岸に到る七千餘(余)里。

七千里余りを経て、北に岸を見て韓国の狗邪に到着した。

【狗邪國を含む弁韓地域】
 三韓のひとつの地域、弁韓(弁辰)は、三国志魏書東夷伝として書かれている。 書き出しは「弁辰亦十二國又有諸小別邑」(弁辰もまた[辰韓と同じ]12の国または小さな邑が有る)として各小国共通の官制の後、国名を列挙している。
 ただし、辰韓の国名と混合して列挙し、弁辰の国名だけ頭に「弁辰」をつけて「弁辰○○国」と表記することによって所属を示している。 弁辰には、「弁辰狗邪國」「弁辰瀆盧國」が含まれる。

 そのうち、瀆盧國について特に「其瀆盧國與倭接界」(その涜盧国は倭に境界を接する)としているのが目を惹くが、それでは涜盧国はどこにあったのか。 複数の説がある。
<wikipedia>涜盧国(독로국)(のちの東莱郡。倭に接すという)</wikipedia>
<wikipedia>東莱郡(トンネぐん)は、大韓民国慶尚南道にかつて存在していた郡。現在の釜山広域市の大部分を占める。</wikipedia>
また巨済島は <wikipedia>(巨済)市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で「倭と界を接す」と記された瀆盧国を歴史的淵源に求めている。もっとも、瀆盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。</wikipedia>

【狗邪韓國】
<wikipedia>駕洛国、もしくは金官伽耶・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市にあったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。</wikipedia> ただし金海市は内陸だが、狗邪韓國には岸があるので、海岸まで領土だったことになる。
 また、弁辰伝の「狗邪國」と倭人伝「狗邪韓國」の表記の不一致がある。当時は、「韓国にある狗邪國」という意味合いで、狗邪韓國と呼ばれることがあることがあったのかも知れない。 ここでは、「狗邪國」「狗邪韓國」は同一だが、弁韓伝と倭人伝はそれぞれ異なる原資料に依って書かれ、表記の統一は図られなかった、と解釈しておく。

【瀆盧國】
 倭に境を接するのは瀆盧國であるが、倭人伝では「瀆盧國」には触れず、「到北岸狗邪韓国」になっている。
 ということは、対岸に一番間近に対馬が見えるのは瀆盧國であるが、倭との交流の拠点が狗邪國沿岸にあったのかも知れない。 <主観的な想像>狗邪國沿岸は巨済島との間の内海で、波穏やかで外海に面する瀆盧国より港に適していた</主観的な想像>という想像も成り立つが、当時の船の構造、水深・海流・気象条件を調べ、さらに遺物の発見がなければ確かなことは言えない。

【其】
 「國際電腦漢字及異體字知識庫」で調べると、「寺で用いるちりとり」などいろいろな意味があるが、ここでは指示語。
>5. 代詞。①表示第三人稱。②也可以作反身代詞,指自己。③表示指示,相當於「這」、「那」、「其中的」。
google翻訳で英訳:
>5. Pronouns. ① said the third person. ② could also serve as a reflexive pronoun, referring to himself. ③ said instructions, the equivalent of "this", "That," "which."
(5.代名詞 ①三人称単数 ②再帰代名詞、即ち自身を指すための使用も可能 ③指示語 "this","that","which")
  ~なお、英文法では、「指示語」の概念はなく、"this is"のthisは代名詞で、"this book"のthisは形容詞~
のように、指示語で「狗邪韓國」を指す。

【北岸】
 半島の海岸沿いに循ってくれば、ここでは東向きの水行だから、狗邪韓國の海岸は左手(=北)にある。この港にいったん立ち寄りいよいよ倭への基点だという気持ちが伝わってくる。 「其北岸」を「狗邪韓國の北の海岸」と読めば確かに向きが反対で解釈に困るが、私は「海から見て北にある岸」の意味で「北岸」を全く抵抗無く受け取ることができる。

【七千餘里】
 いくつかのサイトで、谷本茂氏の「中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』之事」(「数理科学」 一九七八年三月)が紹介されている。 その内容は、測量史研究者の谷本茂氏は、古代中国の数学書『周髀算経』の、8尺の棒を立てて南中の太陽の影の長さを測り、「1寸」長さが違えば「千里」という記載から、1里の長さを76~77mと計算したとある。
 確認のため、周髀算経の原文にあたってみた。中國哲學書電子化計劃(http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh)から、周髀算經を選ぶ。 掲載された文を読むと、地球は平面だと捉えていたり、数値の根拠が不明な箇所もあるが、次の部分だけはよくわかる。
(原文)日中立竿測影。此一者天道之數。周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸。 そのうち、「股」「句」の字義を「國際電腦漢字及異體字知識庫」で調べると、両方とも幾何学用語の用法があった。
 股…直角三角形構成直角較長的邊。(直角三角形の直角を構成する[二辺のうち]、より長い辺)
 句…數學名詞。古稱不等腰直角三角形直角旁的短邊。 (数学用語。古い言い方で、二等辺でない直角三角形の直角を端にもつ[二辺のうち]短い辺)
 つまり直角三角形の直角を挟む2辺で、長い方が「股」、短い方が「句」。(図2)
(原文の訳)日中(太陽が南中したとき?)竿を立て影を測る。此の(これから述べる)一つ(の数)は天道の數(太陽の運行についての観測値?)である。 長さ8尺の周髀(測量棒?)が夏至の日の南中[一年中で影が最も短い]、晷(影)は1尺6寸。髀が長辺なら正に影は短辺。真南に千里進むと、短辺は1尺5寸。北へ千里行くと1尺7寸。
 図2で、髀8尺、晷1.6尺のとき、句/股=0.2になる。図1からその地点では、tan(その地点の緯度-23.44°)=0.2
 従って緯度=tan-1(0.2)+23.44=34.75°(34度45分)
 影1尺5寸の地点は、A地点の南 0.690° に当る。南北の緯度差1° はどこでも111kmだから、1000里=111×0.690=76.7km つまり1里=76.7m
 影1尺7寸の地点は、A地点の北 0.687° に当る。だから、1000里=111×0.687=76.3km つまり1里=76.3m
 「影1尺6寸」になるのは前述のように北緯34度45分の地点である。因みに魏の都洛陽(歴史上しばしば都になった)は北緯34度39分。
 なお、1000里が76.3kmまたは76.7kmになるのは、夏至における北緯34度45分の場合で、緯度、季節が違えば変化する。
 以上から1里=77mとして、7000里は540km程度である。 海路でモッポ(木浦)付近で折れ曲がることにして、3点を結ぶ折れ線では、現在のソウル・モッポ間(390km)+モッポ・プサン間(260km)=650km。 ソウル・プサンを直線で結べば370km。 そこで陸路で最短コースをとった場合、道は曲がっているので直線距離の1.5倍ぐらいはあり、歩測(歩数によって距離を測る)によって求められそうな値である。


2011.03.09(水)原文を読む(5) 至對馬國

始度一海千餘里至對馬國
始めて一海を度(わた)り千餘(余)里、對馬國に至る。

初めて海をひとつ、千里余を渡り、対馬国に着く。

【始度一海】
 帯方を出発して以来七千里の船旅は、決して「渡海」ではなかった。
 これまではあくまでも海岸線近くを、海岸に沿った移動で、これは「水行」と称した。ここから初めて大きな海を渡るのである。
 「渡海」は「水行」とは根本的に異なり、基本的に水平線に陸地が見えない航海である。気象の予想、高波を乗り越えるなども含め、外洋の航行には高度な航海術が必要である。
 古代の航海については、海洋の大民族、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの航海術の研究が進んでいる。彼らは基本的に星座の位置によって位置を把握したと考えられている。
 当時の船の参考になるのは三重県松阪市宝塚古墳から出土した船形埴輪(三重県松阪市のページより)で、これは、艪を通す穴が3対ある立派なものである。年代は5世期はじめであるが、これに近いものが200年前の卑弥呼の時代にあったかも知れない。もし遺物が発見されれば最高である。
 魏志倭人伝には、對馬國の住民は「自活乗船南北市糴」、つまり、船で南の倭国、北の韓国に自在に行き来し、交易によって食料、生活物資、そして恐らく儀式用具などを得ていたと思われる。
 <wikipedia>壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土</wikipedia>しており、海峡の対馬国、壱岐国では高度な航海術をもつ技能集団が存在し、その移動範囲は出雲はおろか、ことによるとポリネシアまで広がっていたかも知れない。
 <想像>拘耶韓國に到着した魏の使者は、いつものように対馬国の商人から船団を丸ごと借り上げ、天子よりの数々の下賜品を積み替えて倭国に向かうのであった。</想像>

【千餘里】
 現在の金海市南の沿岸から対馬中央部までの直線距離は97km。1里=77mを採用すると、1290里で、「千餘里」とうまく合う。しかし、次の壱岐国までは「千餘里」より短い。


【どこまで離れると島が見えなくなるか】
 地球の半径をr、球面上の大円に対する円周角をθとすると、水平線に隠れてしまう山の高さhは、
 h=r(1/cosθ-1)
 分かり易く言うと「真北へ緯度θ度移動すると、高さhkmの山頂が見えなくなる。」
 r=6366km(地球の半径)とすると、θが小さいときの近似式は h=0.96972θ2
 北緯1度は111.1kmに相当するので、h=111.1×√(h/0.96972)=112.8√h
 一例として富士山の3.776kmを代入すると219km。だから富士山は、160km離れた三宅島からは見えるが、270km離れた八丈島からは見えないことになる。
 対馬の最高峰矢立山は649mだから、112.8×√0.649=91km離れると見えなくなる。また、壱岐は山が低く女岳149mが最高なので、112.8×√0.149=44km。
 従って、図に示したように、岸狗邪韓國から倭国への航海では対馬は全く見えないか、波間に見え隠れする程度。また壱岐は近づかないと全く見えないことになる。

【航海に要する日数】
 参考のためにカヌーを漕ぐ早さを調べてみると、経済速度は「およそ7~8km前後でしょうか」とあった。
 古代船では1日に8時間程度は漕ぎ続けると思われるので、疲労も考えその半分の4km/hと仮定する。
 また、対馬暖流の流速は<wikipedia>1~3ノット</wikipedia>(2~5.5km/h)なので、流速を仮に4/√2=2.8km/hとすれば、航行距離は、直線距離97kmの√2倍=140km程度になる。
 しかし、途中複雑な海流に巻き込まれたり、風向きによってジグザグ航行をする場合などを考えると、順調にいっても直線距離の2倍の200kmぐらいであろうか。
 それを時速4km/hで割れば、50時間になるが、漕ぎ進むのを1日8時間程度(例えば、星座が見える夜間限定で進んだ場合)とすれば、約6日間の航行となる。

【對馬國・對海國・都斯麻國】
(1)紹興本と紹煕本
紹興本 (1131年~1162年刊)は「對馬國」
紹煕本 (1190年~1194年刊)は「對海國」

(2)魏略
魏略(翰苑※による引用)
到拘耶韓國七十里始度一海千餘里至對馬國
拘耶韓國に至る七十里。始めて一海を度(わた)る千餘里、對馬國に至る。
「七十里」…「七千里」の誤記は確実。魏略は、魏志の原資料であったと考えられている。
※…660年以前に成立の類書(<wikipedia>各種の書籍より、一つないしは複数の部門の資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった、中国や日本古来の参考図書<wikipedia>)

(3)隋書
大業3年(607年)に倭国の王多利思比孤(たりしひこ?)の使者が朝貢し。隋は翌年使者を倭国へ送る。
その記録によると、経路は、百濟→竹島→都斯麻國→一支國→竹斯國…。
しかし、まず黄海を渡って百済に上陸し、半島を横断して日本海にでて(「(新)羅國を南に望む」の記述がある)竹島に至り、そこから対馬に向かうのは無意味に遠回りである。
とは言え、対馬→壱岐→筑紫は、時代を超えて朝鮮・日本間の重要航路だったことが伺われるので、やはり都斯麻國=對馬國であろう。

 以上から、現在の対馬は、弥生時代より「ツイマ」から「ツシマ」あるいは、はじめから「ツシマ」に近い発音で呼ばれてきたと思われる。
 奈良時代の行政区分が、地域名として古事記から1300年くらい引き継がれているのだから、それ以前も500年間程度なら、あまり変化なしに維持されてきたかも知れない。
 また、もともと古代の日本語にはハ行が存在しなかったとされていたので、「海」(ハイ)と書き留められる音声はなかったことになり、對海(ツイハイ?)は誤写ということになる。


2011.03.13(日)原文を読む(6) 曰卑奴母離

其大官曰卑狗副曰卑奴母離
其(そ)の大官を卑狗と曰(言)い、副[官]を卑奴母離と曰う。

その大官を日子と言い、副官を夷守と言う。

【其】
 指示語、対馬国を指す。

【卑奴母離】
 「副を卑奴母離と曰う」は対馬国に限らず、一大(支)国、末盧国、奴国、不称国に共通する。従って個人名ではなく職名と解釈するのが自然である。(個人名と見られる箇所もあるが、この点は後ほど考察する)
 「ひなもり」とは「ひな」に対する「もり」。つまり、辺境の国を監督するため邪馬台国から派遣された官の職名かも知れない。この考えが妥当かどうかを調べてみる。
 まず「ひな」について。今でもいなかを「鄙びた~」と形容する。改めて意味を調べてみると、
<大辞林(Web)>ひな 【鄙】[1] 都から離れた土地。いなか。―にはまれな美人  [2] 支配の及ばない未開地に住む人々。えびす。四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)―を平(む)けたる状を以て奏す〔出典: 日本書紀(崇神訓)〕</大辞林>
とある。
 次に「もり」。「もり」は、何といっても奈良時代の万葉集の「防人(さきもり)歌」で有名な「さきもり」が思い出される。関を守るのは「関守」だし。灯台に住み込んで保守にあたるのは「燈台守」である。
 だから、「もり」は一般的に派遣された場所を警備したり、現地の行政を取り仕切ったりする役職である。
 以上から「ひなもり」はやはり「都から遠く離れた国邑に派遣されて、防衛または監察にあたる役職」の考えてよさそうである。

 さらに掘り下げてみる。
 <Wikipedia>「夷守」(ひなもり)は、古くは辺境の地を守る人や場所、その役目を指し、都から遠くはなれた国の治安防備の上で重要な地に置かれていた。越後国(新潟)頸城郡(「比奈毛里」)などいくつか確かめられる。</Wikipedia>
 次に発見したのが『古事類苑』。電子化されて公開されていた。
 これは、「明治政府の一大プロジェクトとして明治12年(1879)に編纂がはじまり、明治29年(1896)から大正3年(1914)にかけて出版された、本文1,000巻、和装本で350冊、洋装本で51冊、総ページ数は67,000ページ以上、見出し数は40,354項目におよぶ大百科事典である。」
[日向国]
 <古事類苑p.1157>〔日本書紀〕天皇將京、以巡狩筑紫國、始到夷守、人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰、其集者何人也、若賊乎、乃遣兄夷守弟夷守二人覩、乃弟夷守還來而諮之曰、諸縣君(○○○)泉媛、依レ獻大御食而其族會之</古事類苑>
 <wikipedia>景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日(130年12月24日))タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、景行天皇の実在性には疑問。実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半か。景行12年(82年)熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。11月ようやく日向国に入る。…(中略)…熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。</Wikipedia>
 <みやざきの神話と伝承101>天皇は[熊襲平定後]京をしのんで「思邦歌(くにしのびうた)」を残し、18年3月京に向かった。このとき初めて夷守を訪れた。「石瀬河」の辺りに多くの人が集まっているのを遠くから見つけた。左右の者に「あそこに集まっているのは何者だ。賊か」とたずね、兄夷守、弟夷守を遣わした。弟夷守が「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が大御食(おほみあへ=食事)を献上しようとして、その一族があのように集まっているところです」と報告。</みやざきの神話>
 現在、「宮崎県小林市細野夷守」の地名が残る。
[筑前国]
 <古事類苑p.0927>〔延喜式〕諸國驛傳馬 筑前國驛馬〈獨見、…中略…、席打、夷守、美野各十五疋、…後略… </古事類苑>
[越後国]
 <古事類苑p.0342>〔倭名類聚抄〕頸城郡 沼川〈奴乃加波〉…中略… 夷守〈比奈毛里〉…後略… </古事類苑>
 上越地方(じょうえつちほう)は、新潟県の西部を指す。令制国の越後国頸城郡に当たるため、頸城地方(くびきちほう)ともいう。地方中心地は上越市。
[美濃国]
 <延喜式神名帳 神社一覧>比奈守神社「ひなもり」「應神天皇、神功皇后」岐阜県岐阜市茜部本郷2丁目67番地の1</延喜式神名帳 神社一覧>

 景行天皇の日本書紀による生年・没年(紀元前13年~130年12月24日)は、「漢委奴國王」の時代で、その頃すで日本の中央政権が確立していて、宮崎まで親征(天皇自らが軍を率いて遠征すること)したとするのは明らかに日本書紀編者の創作である。
 しかし重要なのは、日本書紀を編纂した720年に、その材料として用いた伝承が「都から遠く離れた土地に夷守があり、天皇の家来としての夷守が存在した」ことを証明していることである。ただし奈良時代には役職としての夷守は既に消失していた。
 地名の継承に関しては、小林市の現在の地名「夷守」は後世日本書紀を読んだ人が「このあたりだ」と決めて、後から名づけた可能性があるので、油断はできない。
 言語については、3世紀半ばから8世紀初頭まではわずか500年間ほどなので、その連続性は保たれていると思われる。比較のために現在から500年前を考えてみると、それは戦国時代なので、恐らくその程度の変化であろう。
 さて、このように弥生時代から奈良時代まで「ひなもり」が同一単語として繋がっていたとして、その指すものの実体は年月とともに変化していったと思われる。初期は倭人伝をそのまま読むと「ひなもり」都から遠い国邑を対象に、一国に一人ずつ副官として、邪馬台国によって「付家老」(江戸時代、本藩が支藩に対し、施政を監督・指導するため遣わした家老)のように配置されたととれる。
 それが後に集約されて拠点とする国だけに組織として置かれるようになり、独自の役所を設置し、それが地名に転じたのではないか。
 このように地名化した4箇所の「ひなもり」を地図に表して見ると、中央政権の所在地は福岡県山門郡より、奈良県纏向とした方が、自然な配置に思える。それぞれ朝鮮半島、九州南部、当時倭国の外だった東北の有力豪族に相対する拠点として納得できる。
 しかし、美濃国だけは近畿に近すぎる。時代とともに「辺境」というより直面する敵に対する拠点に変質していった(たまたま信濃国あたりに敵がいた?)か、あるいはかつて別の国にあった同名の総本社の支社だけ残ったのか、そもそも別の起源に由来するのか。確かなことはわからない。

【実はピナモリ】
 地名に「比奈毛里」が宛てらることもあることからも、「夷守」は"hinamori"で間違いない。だが、万葉仮名を分析すると、万葉集の時代は、母音が8個あった。(イ、ウ、オはそれぞれ甲乙がある)
 この問題の検討は専門的すぎるので、「イ甲」も「イ乙」も大体「イ」でくくり、とりあえず踏み込むことを避ける。
 もうひとつの問題は、研究の結果現在の「は」は、昔はふぁ、大昔はパだったらしいということである。こちらは避けて通れない。
 次のまとめが参考になる。[要領よくまとめられているので利用させていただきます]
佐藤和美さんのサイト>「は」行音の子音は奈良時代以前はpだった。それが奈良時代にはφになっていた。さらには江戸時代初期にhに転化した。</佐藤和美さん>
奈良時代以前奈良時代平安時代末期江戸時代初期
語頭φφ
語頭以外φ
paφaφaha
kapakaφakawakawa

 ここで"p"は、英語のpenのような、口唇破裂音。"φ"は口を半開きにして息を通す口唇摩擦音。"φa"は「ふぁ」と書くが、英語の"fa"(下唇を上前歯で噛む)ではない。"h"は、現代のハ行音。
 歴史的に日本語には「唇をきつく閉じる動作がだんだんゆるくなっていく」という法則があるとされる。原因は不明であるが。
 <余談>私の経験では、英語やフランス語の歌の歌詞を和訳して音符に付け直すのは極めて困難である。というのは、例えば、thinkは1音節なので、音符1個についているが、「思う」は3音節なので音符が3個必要である。だから、和訳する場合大意を失わないようにしながら、徹底的に省略しなければならない。
 日本語は、音節の末尾の子音(peekの"k"など)が消滅した言語なので、新しい単語ができる過程で必然的に、1語の音節数(かな文字数)が多くなる。だから、1語を話すときの口の動きがだんだん忙しくなるので、唇をいちいち閉じるという動作は徐々に不完全になっていく。
 これが私の仮説だが、単なる印象であって実証されていない。</余談>
 <仮説>さて、3世紀ごろ倭国を訪れた魏国の記録者は、倭人の音声「ピナモリ」(または「ピナボリ」)を聞いて、漢字による筆記に迫られた。なお、中国から見て周辺民族は野蛮なので、なるべく固有名詞は卑下する漢字を用いるというきまりがある。
 当時の漢語では、"卑"は"pi"と発音したので"卑"を宛て、「卑奴母離」と書き取った。なお、筆記者は「ピナモリ」における個人名・職名の区別については興味がなかった。</仮説>
 以上の仮説の真偽を調べるには、漢字の古代の発音がわかればよいということになる。
 3世紀の漢字の読みは今とは異なるが、研究の結果大体判っている。ところがその根拠にしたのは、皮肉なことに今日の日本における音読みである。
 中国では王朝の交代はしばしば異民族による中央の占拠であるので、同じ漢字を使ってはいてもその発音が民族の交代のたびに大きく変わった。しかし、日本国内は民族の入れ替えはほぼ皆無なので発音の変化が少なく、漢字移入時の読みが比較的保存されている。この性質がが古い読みの推定に利用されたのである。
 だから、日本語の発音を資料に使わずに古い漢字の読みを推定することは困難である。そこで次善の策として「現代」の"卑"の中国読みを調べてみたところ、「bei1 bi3 bi4 pi2 ban1」(國際電腦漢字及異體字) であった。(数字の意味=中国語は母音は同じ発音でもその1文字の中の高低によって異なる母音となる。数字はその種類を表す) pは口唇破裂音、bはその有声音なので、古代でもほぼ現在と同じ発音だが、pが比較的優勢だったとすれば仮説は成り立つ。
 同様に「比」の現代の読みを調べると、「bi3 bi4 pi2 pi3」なので、ほぼ同じことが言える。
 漢字輸入時は、"卑"の音読みは"pi"であったと仮定する。その後、音韻が変化してハ行は"h"音になったので、すでにわが国の文字になっていた"卑"の音読みも連動して"hi"になった。
 「p」から「h」への変化は系統的に起こったので、日本語における古代の"pi"は完全に現代の"hi"に移行した。従って「当時はピだった」ということは頭の隅に置きつつ、便宜上現代読みで「ヒ」と読んでも全く支障はないことになる。

【卑狗】
 日子(ひこ)…古語辞典によれば、男子の美称。女子の「姫」に相当とある。海彦、山彦など。古事記では、3代安寧天皇~10代崇神天皇に「日子」が含まれている。例えば安寧天皇=師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)。
 随書にも、「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢」(比は当初「北」だったが後に「比」に訂正される)つまり遣隋使を遣わした倭王が「たりしひこ」がある。
 つまり「ひこ」は「姫」と同様、相手の身分が高い場合の、あるいは高い身分でない場合でも好意をこめた呼称である。王など身分が高い相手を指すとき、名前を直接口にすることが憚り単に「ひこ」と呼んだ。現代の会話で「明仁天皇は~された」とは決して言わず「陛下は~」と言うようなものだ。
 また、地位に関係なく親しみを感じる相手も「ひこ」と呼んだと思われる。時代劇で「姫」と呼ぶ場面が参考になる。

【随行記録官】
 魏国は、諸国に使者を送る際、「記録官」(※)が随行し、当地での見聞や外交交渉などを記録に残すことを職務としていたと想像される。(※もちろん実際の職名は不明なので、便宜的にこう呼ぶ)
 記録官は、倭国の言葉には通じていないが、訪れた国ごとに、その官または住民同士のの会話から、あるいは直接身振り手振りで「大官は誰か?」と質問した結果、大官が「ぴこ」と呼ばれていることを知った。
 同様に副官の呼称「ぴなもり」を知り、それぞれ発音が似て、かつ卑語にあたる漢字を宛てて書き取った。
 通常の会話では前項で触れたように、本名ではなく美称「ぴこ」や職名「ぴなもり」を用いる。記録官は、それをそのまま記録したのである。


【支配と服従】<仮説>
 倭国の国邑をあたかも、帯方郡の統治対象のように記述している。(「県が市町村を管理するようなもの)
 その第1の理由は、それぞれの国邑について、一貫して「大官名」「副官名」「戸数」「面積」の項目を欠かさないよう、形式を整えているからである。(ただ、情報が得られない項目は欠如している)言わば役所に保管された担当地域の書類という雰囲気である。
 第2の理由は「世有王皆統属女王国」(世に王有り、皆女王国に統属す)とか、「特置一大率検察諸国諸国畏憚之」(特に一大率を置き諸国を検察す。諸国之を畏れ憚る)と、女王国の強い支配を、これでもかと強調する表現に、内心はそのような女王国による支配を嫌悪し「形だけでも帯方郡の支配地域に入れたい」という思いが感じられるところである。
 なお、「世有王皆統属女王国」の文は伊都国の項にあり、「皆」が伊都国の代々の王なのか、諸国の王を指すか不明確である。しかし魏略では、対馬国を含む諸国を指して「皆」としていることが明確に読み取れる。(後に述べる)
 さて、大官(次の一支国からは、単に「官」となっている)は、どのように任命されたか。
 前述した住民による「ひこ」という呼称に注目すると、かつて独立していたころ国邑の王の家系が、女王国に服属した後、改めて大官に任命された可能性がある。
 これは、明治時代の初期、廃藩置県に伴い版籍奉還した大名がそのまま県知事に任命されたことに似ている。また、かつて熊本県知事細川護熙氏は、細川家18代当主でもあり、地元では親しみを込めて殿と呼ばれていた。
 女王国は辺境の国に対して、地元の元王家の主を大官に任命して自治権をある程度保障する一方で、副官として(前述の付家老的に)夷守を送りこんで睨みを利かせた。
 もう一つの可能性として、対馬から伊都国までは、実は帯方郡と倭国から二重支配を受けていた可能性も有る。詳しくは後の回で述べるが、帯方郡の郡使は伊都国までしか足を踏み込むことができなかった。また女王国側が一大卒を駐留させているのも伊都国である。
 従って伊都国は、双方の接点という重要な存在である。倭国の周辺部に位置する諸国は、大官は帯方郡から任命され、副官は女王国側から任命された夷守である。女王国にとっては本当は「夷守」が首長(官選知事のようなもの)だが、心ならずも帯方郡指定の大官との並立になっている。
 この可能性の裏づけとなるのは、伊都国周辺までは里程の記載があるのに、それ以後はないことである。里程は歩測(歩数で測る)によったと思われるが、重要な軍事情報なので女王国は倭国内での歩測を許さなかった。しかし、伊都国以遠は帯方郡との力関係によって禁止できなかった。
 さらに、倭人伝が「大官」「副官」の呼称にこだわるのも、帯方郡が「郡の下に、それぞれ大官・副官を備えた国邑が整然と組織されている」と強調したいかも知れない。
 </仮説>


2011.03.18(金) 2013.04.01(月)原文を読む(7) 方可四百餘里

所居絶㠀方可四百餘里
居(きょ)す所絶島にて、方四百余里可(ばか)りなり。

人々が住む所は[周囲の陸地から]隔たった島で、一辺概ね400里余りである。

【所】
 國際電腦漢字及異體字知識庫(以後"國際電腦")では、最初に書いてある意味が「伐木聲」(Lumbering sound=木を切り倒すときの音)であるのは興味深いが、中心的な意味はもちろん場所、地位などである。
 三省堂「全訳漢辞海」によれば、もうひとつ重要な用法「動詞または動詞句の前に置き体言化する」の説明がある。英語のto不定詞の名詞的用法、または関係代名詞whatに相当するか。

【居】
 國際電腦では、ほぼ動詞「住む」「留まる」名詞「住居」。in、is(=為す)のような抽象的な用法もある。 

【所居】2013.04.01
 「所」は動詞「居」を体言化するから、「住民が住むところ」、「暮らすところ」(=[the place ]where they live)である。この部分が主語、次の「絶島」以下が述語。繋辞(英語のisにあたる語)は明示されないが、暗黙の裡に挟まれている。

【絶島】
 「絶」は、國際電腦ではごく簡単に「 斷、隔開。」(断つ、隔てられた)だけ。前項で述べたように、「(大陸や他の島から)隔てられた島」と見られる。日本語の「絶海の孤島」という表現と似ている。高くそびえる崖を「絶壁」というので、「絶島」に「そびえ立つ山島」という意味も含むかもしれない。

【方】
 國際電腦によると、もともとは「2艘の船」で、名詞では「方形。與『圓』相對。」(四角形、「円」に対して)などがある。漢辞海でもほぼ同じ。たくさんある意味のうち、ここでは「周囲」または「一辺」のどちらかであるのは間違いない。

【可】
 ほぼ日本語の「許可」「可能」などの意味。動詞で「~とすることができる」(可(べ)しと読む)。
 ここでは副詞「概ね」。

【方可四百餘里】
 [方を一辺と解釈した場合] 1里=76.7mを適用すると、400里=30.7km。これを一辺とする正方形の面積は942k㎡になる。実測面積は対馬島とその付近の小さな島を合計して708.66k㎡(正方形に直すと一辺26.6km)。
 従って方を「同じ面積をもつ正方形の一辺の長さ」とすると、図のようになかなか正確な値になる。
 [方を周囲と解釈した場合] 実際の周を求めて見る。海岸にいくつか代表点をとり折れ線で結ぶと196.6km(=2563里)、大まかに楕円で囲むときの円周は302km(=3940里)であり、四百余里の6~10倍ほどある。
 仮にこの部分だけ短里でなく、長里(400~500m)を使用したものと解釈すれば、海岸折れ線方式で491~393里、楕円囲み方式で752~601里となり、「400余里」に妥当性がでてくる。
 これが正しいとすると、帯方郡から北九州諸国までの記述に短里と長里が混在していることになる。しかし文調にかなり一貫性があり、途中で異種の資料を挿入して構成したようには見えない。
 さらに、後から「問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里」という表現が出てくる。これは、女王国の支配する島を離れ、海洋に散在する島々を大きくくくったときに、取り囲む周の長さを意味する。
 だから、周囲を意味する場合は「周旋」、一辺を表す場合に「方」という使い分けをしているのではないか。
 付け加えれば、今日でも広さを表す「○○キロメートル四方」という言い方がある。また「方可~」は、「正方形に直せば、一辺は~とすることができる」と読み取ることができる。
 だとすれば、面積を、坪や平方メートルなど単位面積の倍数で表現する代わりに、等積で変換した正方形の一辺の長さで表していたことになる。
 今でこそ「面積=楯×横」だが、これは単位面積1㎡などを定義し、倍数による表し方である。その面積と同じ面積をもつ正方形を考え、その一辺をもって面積と定義しても何も不都合はない。面積について、このような表記法を用いていたのではないか。
 (今日の表し方による面積を、その平方根をもって表す。例えば、面積25k㎡を「方5kmの面積」と表す) 
 とすれば、朝鮮半島域内と同程度に正確に対馬国内の歩測が実施され、さらに平方根の知識があったことになる。これは驚きであり、信じがたいところもあるので、他の可能性も挙げてみる。
 ① この部分だけ長里法を使用している。(これは先に述べた)
 ② 短里で計測した「周囲」の意味であったが、特に根拠はなく、単なる印象だけの値で、実際の寸法はそれよりかなり大きかった。
 ③ 短里で計測した「一辺」の意味であったが、実は直感による数値で、偶然実測値に近かっただけである。
 しかし、帯方郡から対馬国までの距離の精度から見て、①のように突然単位が変わったり、②③のようにここでいい加減な数値の扱いになることは考えにくい。
 数値については、これから後も注意深く見て行きたい。


<備考>
 「方」が「周囲」である可能性もあるので、地域をおおまかに丸く取り囲んだときの円周を試しに計算で求めた。その過程を述べる。
 楕円で対馬を囲む図は、対馬島の地図をMicrosoft Office Picture Manegerで一時的に回転して軸をy軸方向に合わせ、Paintで島を囲む楕円を描画し、再び回転して向きを元に戻した。長径、短径はPaintで図を開き、表示される座標と、縮尺表示を使って計算した。
 楕円の円周は、円の斜投影だから長径、短径と円周率から簡単に求まると思ったらとんでもない話で、第二種完全楕円積分というとんでもなく高度な計算が必要であることがわかった。
 円周=直径×3.14は小学校から習うのに、楕円の円周公式を学んだ記憶がない。学んだことを忘れたのではなく、大変過ぎるから教えなかったのだ。
 第二種完全楕円積分 E(k)=∫0π/21-k2sin2θ
 ここでkは離心率√1-(b/a)2
 実際の計算はテーラー展開によって近似値を求める。得られた値は長径a=1である楕円4分の1周に相当するので、4a倍すれば円周になる。
 先ほどの対馬の地図の右の場合、長径=70.6km、短径=18.5kmから離心率=0.9651。
 楕円積分を数値計算できそうなサイトを検索したら、計算機のカシオ制作の「楕円積分 - 高精度計算サイト」というなかなか便利なものが見つかった。
 そのkeisan.kasio.jp>特殊関数>楕円積分を利用して計算。
   E(k)=1.070、1.070×4×70.6km=302km=3940里
 それにしても、正円と楕円の面積の計算は同程度の計算(πr2とπab)なのに、円周の場合正円と楕円で計算の難易度に極端な違いがあるのが驚きである。
 このようにして数値は得られた。結果的に「方四百里」が周を意味する可能性が低くなったので、せっかくの努力がもったいない気もするが、徹底的に追究するのはなかなか気持ちのよいものである。
 それにしても、20年も以前なら何日も図書館に通ってやっと目的に達したものが、ネットで検索すれば本当に短時間に効率よく到達できる。将に隔世の感がある。


2011.03.20(日)原文を読む(8) 土地山險

土地山險多深林道路如禽鹿徑
土地、山険しく深き林多し。道路は禽鹿(きんろく)の経(みち)の如し。

土地は山険しく、深く茂った林が多い。道路は、鹿などの獣が通る小路のようである。

 ※主語S、述語P、目的語Oと略記する。
【土地山險多深林】
 土地は、<漢辞海>土壌、領土</漢辞海>の用例があるので、今日の日本語の「土地」と同じ。
 文法的には悩む。続く「山険」にS=山、P=険の関係が成立している。ではその前の「土地」は何か?
 日本語なら、「今日は天気がよい」など、主語が一見重複する文は普通である。その感覚で「土地山険」は「土地は山が険しい」と抵抗無く読める。でも漢文もそれでよいのか。
 そこで、漢辞海の「漢文読解の基礎」を読むと、述部に「主語+述語」を置く「主述述語」構造があった。この場合、S+P「山険」が一体で述語となり、全体の主語「土地」を受ける。
 続く「多深林」は主語が省略されている。ただしこれも全体で述語になり、主語「土地」を前文と共有する。
 中国語の文法は、自分のこれまでの理解の通り、中国語には格変化や格助詞はなく、主語・動詞・目的語は語順で決まり、修飾は必ず前置である。
 また主語は省略され、目的語が事実上の主語になることもある。だから「多深林」は「多」は形容詞のままでP、英語のように繋辞("deep"など形容詞を述部"are deep"にするときのbe動詞)は必要ない。「深」はO「林」を修飾する。なお、<漢辞海>【深林】奥深く茂った林。</漢辞海>
  ※付記:「主述述語」構造で解釈し直し、一部訂正した。(2011/06/26)

【山険】
 まだ対馬を訪れた事はないが、地図で見ると実際に険しい山ばかりで平地が少ない。

【禽鹿】
 國際電腦と漢辞海によると、「禽」はもともと獣全般を指したが、次第に鳥全般を指す言葉に移り変わってきた。
 獣(と鳥)の総称と特定の種(正式には"科")「鹿」を連結した熟語は何を意味するか。
 改めて漢字熟語について勉強してみた。分かったのは、<wikipedia>漢文において熟語と称される表現は、それ自体が複数の単語が並んだ連語表現とみなすことができ</wikipedia>るとあった。つまり熟語になっていても、構成する各漢字固有の意味が生きている。
 英語の場合は、熟語を単語に分解してそれらを合成しても、異なる意味になることが多い。しかし、漢文は分解してよいのである。前述の「SPOの語順は揺るがない」と共に、有力な武器となる法則を確認することができた。
 「禽鹿」にその法則を当てはめると、個別の生物種「鹿」としての意味も残っていることになる。つまり「いろいろな獣、たとえば鹿」の意味か。
 ちなみに、鹿は対馬に生息していて、<対馬一口メモ>ツシマジカは、やや小型のキュウシュウジカと大型のニホンジカの中間ぐらいの大きさで、学術上も貴重なシカとされ</対馬一口メモ>る。
 以上のように熟語の意味に悩むことがあっても、文意「人の通行する道なのに、ほとんど獣道である」は、明快に伝わってくる。

【徑】
 國際電腦で最初に書いてあるのが「小路」。(「径」には他に「直径」などの意味もある)

<備考>
 野鳥通信…対馬からの<対馬一口メモ>は、対馬の地理や歴史が要領よくまとまり、とても参考になります。


2011.03.22(火)原文を読む(9) 南北市糴

有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
千余戸有り、良田無く海物(かいぶつ)を食し自活す。乗船し南北で市糴(してき)す。

戸数千余り、満足な田はなく海産物を食する。自らの生存を求め船に乗り、南や北で商いをし米穀を買い入れる。

【有千餘戸】
 参考のために、現在の世帯数と比べて見る。2005年の国勢調査では、全島で世帯数38481世帯、人口14710人。弥生時代の遺跡が多い峰町は、人口2575名、世帯数984世帯。
 だから、「千余戸」が正しければ、合併前の6町のうちの、ひとつ分ぐらい住んでいたことになる。
 弥生時代の住居跡:
 <対馬一口メモ
 昨年[2000年]、峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘(中略)対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡
 </対馬一口メモ>

【無良田】
 現在でも、<対馬一口メモ>総面積709平方キロメートルの面積の大部分は山地で占められ、耕地となる平地は全体の約3%に過ぎません。</対馬一口メモ>
 <wikipedia>九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。</wikipedia>
 従って水田は、ごく狭い面積しかとれなかったと思われる。

【海物】
 熟語として取り上げている辞書もある。<日本国語大辞典>〔名〕海中から産するもの。海産物。また、海中で生きる動植物。</日本国語大辞典>
 <漢辞海>(項目なし)</漢辞海>

【自活】
 <漢辞海>自らの生存を求める</漢辞海>。<対馬一口メモ>この[鰐浦から望む]海域は、古来海の難所として知られ</対馬一口メモ>とあるように、厳しい航海によって交易して食糧不足を打開し、生き抜いている様子を物語っている。
 
【南北】
 文法的には名詞が連用修飾語化して、動詞「市糴」を修飾する。南は倭国、北は韓国を指すのは明らか。

【乗船南北市糴】
 弥生時代の出土物:
 <wikipedia>対馬北部の集落遺跡塔の首遺跡(対馬市上対馬町)では、石棺の内外に朝鮮半島系および中国系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と北九州系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている。</wikipedia>
 <wikipedia>大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く発見されている</wikipedia>。
 <遺跡と古墳 蘭と絵手紙/対馬市
 佐保シゲノダン遺跡―銅矛・銅剣・双獣付十字形把頭金具・粟粒文十字形柄頭金具・馬鐸・貸泉
 峰町三根遺跡、山辺遺跡(遺跡の主体は弥生時代中期後半から弥生後期終末まで)―竪穴式住居、高床式住居の柱穴、遺跡は縄文時代終末期(BC4)の土器から7世紀までの土器が断絶することなく出土している。韓国南岸の土器。
 ガヤノキ遺跡、上ガヤノキ遺跡、下ガヤノキ遺跡、弥生時代から古墳時代中期―三根湾岸一帯の首長墓的遺跡。箱式石棺墓10基・特殊埋納土壙2基・深樋形細形銅剣・ガラス玉・刀子・管玉・鉄剣・土器・韓国の土器。須恵器(上ガヤノキ遺跡、2号箱式石棺墓)。鉄鏃(上ガヤノキ遺跡)。
 </遺跡と古墳 蘭と絵手紙>
 
 遺跡の近くの湾が船着場になっていたと思われる。木製遺物は水中で保存性があり、元寇の遺物は鷹島の南岸の海域で引き上げられている(遺物実測整理|水中考古学)
 また、古代の巨石運搬具「修羅」は<藤井寺市|修羅の話>常に地下水が供給され、修羅は水漬けの状態に保たれていたため、今日まで保存されてきた</修羅の話>。
 水中で800~1600年間保存されるのなら、1800年間でも可能に違いない。いつか古代船の遺物が、どこかの水中から発見されることを期待したい。


【市糴】
 市=あきない。
 糴=<漢辞海>米や穀物を買い入れる</漢辞海><國際電腦>買入糧食。與「糶」相對。</國際電腦>
 糶=<漢辞海>米や穀物を売りに出す</漢辞海><國際電腦>賣出糧食。</國際電腦>

 さて、対馬の住民は、倭国や韓国で何を米と交換したのか。
 <仮説>
 ① 対馬の特産品(真珠、香辛料、鹿の皮、干しあわびや鹿の干し肉?)。
 ② 韓国の鉄製品などと倭国の絹や真珠などを中継貿易。
 </仮説>
 1000余世帯の漁労や採取で、自ら食す以上に米との交換に回すだけのものが得られたであろうか? だから、①が成り立つかどうか分からない。
 しかし②は、前述「古来海の難所として知られ」る海域を他の国にない優れた航海術で縦横に行き来し、両地域で交易品を米と交換できるので、なかなか有利に思える。
 記録官は、活発な中継貿易を「市」、それによって大量の米を得るようすを「糴」と表したのかもしれない。
 仮説の裏づけとなる資料の発見は難しそうである。しかし、推定できないだろうか?
 推定の方法:対馬国、対馬藩の中世の中継貿易の記録を古文書から拾い上げる⇒適当なパラメーターを仮定し、遡って西暦200年ぐらいの貿易の規模と品目を推定する⇒北九州及び畿内と韓国の出土品と突合せ、辻褄が合うかどうか調べる。
 古代史を選考する学生だったら、卒業論文で取り組んで見たいようなテーマである。

【倭人伝の罠】
 以上対馬国に関する記述は、その姿を簡潔・明瞭・的確に表現する名文である。間違いなく対馬国であると思わせる。しかし、そこに罠がある。対馬国の記述のような、この上ない信頼性が、倭人伝全体に貫かれているわけではない。
 倭人伝の原資料は間違いなく複数あり、魅力的な紀行文、行政記録文書、伝聞、荒唐無稽な伝説が混在している。対馬国の記述から得られた信頼をうっかり他の部分にも寄せると、混乱と錯誤に陥るのである。


2011.03.24(木)原文を読む(10) 名曰瀚海

又南渡一海千餘里名曰瀚海
又南へ一海千余里を渡る、名は瀚海(かんかい)と曰う。

再び南へひとつ海を渡る。[その海の]名を瀚海という。

【又】
 <漢辞海>ふたたび さらに</漢辞海>
 <國際電腦>①相當於「再」、「而且」、「却」。②表示動作的重復或繼續、幾種情況或性質同時存在、整數之外再加零數、補充申說。</國際電腦>
 を読むと「②重複した或いは継続する動作、いくつかの状況や性質が同時にあることを表す」の説明はなるほどと思わせる。ここでは「再」が適当である。
 ここまでの「一海を渡る」の記述を比較して見る

  始 度一海(至対馬国)…最初に大海を渡る。
  又南渡一海(至一支国)…再び大海を渡る。

 「始」と「又」の対応によって順序関係が明確になる。
 また「始度」では方角が明示されなかったが、「又南渡」によって、始めに対馬へ向かったのも南向きであったことが示される。

【渡・度】
 「渡」<國際電腦>1. 過河;通過水面。 2. 通過;跨過。</國際電腦>となっているので、現代日本語の「渡る」と同じ意味であることがわかる。
 「始度一海」の「度」は、<國際電腦>29. 通「渡」。 30. 通「鍍」。</國際電腦>に示された通り、「渡」と同じ。「度」自体は非常に幅広い意味がある。

【千余里】
 長崎県の遺跡大辞典から、対馬島と壱岐島の倭人伝の記述に関係する有力遺跡の位置を調べる。
 [対馬島] 塔の首遺跡(北緯34°39′37″ 東経129°28′13″)
 [壱岐島] 原の辻遺跡(北緯33°45′33″ 東経129°45′10″)
 以上2点間の直線距離を求めると、103.43km
 1里=76.7mを適用して換算すると、1350里
 実際の航路は曲線になるので、大雑把に3割増しとすると、1760里となり、一応「千余里」の範囲内になる。
 ただし「魏略」にはこの距離が記載されていない。①他に資料があり、そこには距離が書いてある、②一般的に3区間とも「千余里」とされていた、③3個の航路とも形式的に「千余里」に揃えたなどの可能性がある。


【瀚海】
 固有名詞「瀚海」は、<漢辞海>バイカル湖、ゴビ砂漠</漢辞海>。「瀚」自体は形容詞。<漢辞海>広大な</漢辞海>。
 また、<國際電腦>1. 廣大貌。 2. 古代北方海名。 3. 洗滌。</國際電腦>。3.は「灌漑」(かんがい)の「灌」の代用らしい。
 1.と2.による「古く北にあると言い伝えられた『廣大貌』(広大な様相)な海」という説明からは、想像力が掻き立てられ、次の仮説が思い浮かぶる。
<仮説>
 漢の時代、蔑称で呼ばれた周辺民族(北狄・西戎・南蛮・東夷。ただし、具体的な民族名は時代と共に移り変わる)の遥か彼方にあると信じられていた広大な海を指す。
 現代人が世界地図を見れば、バイカル湖は内陸の湖であるが、沿岸に立てば地の果ての大海と感じることであろう。
 また、ゴビ砂漠が広がる光景は、確かに大海に例えることができる。
</仮説>
 では、対馬海峡はどうか? 第5回で述べたように、対馬国から船を漕ぎ出すとしばらく一支国を見ることはできないので、ここが「東夷にある広大な海」に当てはまるのは確かである。
 しかし、手元の辞書には「現在の対馬海峡付近の海」という訳は載っていない。また「魏略」にもないので、固有名詞として通用していたのか、何かの事情でこの部分に紛れ込んだのかは不明である。

<参考>
 ◎2点間の直線距離
 (北緯N1度、東経E1度)、(北緯N2度、東経E2度)の2点間の距離=L√( (N1-N2)2+(E1-E2)2cos2((N1+N2)/2) )
 L=北緯1度の距離(111.1km)
 まずは緯度、経度を少数に直す。北緯34°39′37″=(34+39÷60+37÷3600)°=34.66027778°etc.
 それらを公式に代入する。

 ◎魏略(翰苑による引用)の関係部分の記述
 始度一海千餘里至對馬國 紹煕本「對海國」が誤りである可能性がさらに増大する。
 其大官曰卑拘副曰卑奴  卑奴:「母離」が脱落。
 無良田南北布糴     布:「市」の誤り。
 南度海         度:「渡」は「度」で統一。「千余里」の記述はない。
 至一支國        支:逆に倭人伝の「一大國」が誤りか。


2011.03.25(金) 2012.1.9(月)原文を読む(11) 至一大國

至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
一大国[一支国]に至る。官亦(また)卑狗(ひこ)と曰(い)い、副を卑奴母離(ひなもり)と曰う。方三百里可(ばか)りなり。

一支国に至る。官を日子、副官を鄙守と言い、[島の]一辺は概ね300里である。

【一"大"國と一"支"國】
 第10回で引用したように、魏略には「一支國」とあること、現在使われている「岐」の文字は山扁+「支」で、現在まで伝わる呼び名も「ダイ」ではなく「キ」であることから、もともとの倭人伝には「一支國」であったことが推定できる。
 少し離れた箇所にある「一大率」の影響で誤りが生じたのだろうか。「対海国」の場合は、その前後に文字「海」が頻繁に使用されていた。

【官亦曰】
 「亦」は、<國際電腦>2. 副詞。相當於「又」、「也」、「不過」、「皆」、「已經」、「的確」。</國際電腦>
 「又」は、第10回で見たように、<國際電腦>幾種情況或性質同時存在</國際電腦> つまり、「同じような条件のところに、~もまたある。」を意味する。
 ここでは、「対馬国の大官は卑狗、副官は曰卑奴母離であったが、対馬国でもまた同様である」と言っている。これらが個人名ではなく、役職名である可能性については第8回に考察した。
 なお、対馬国の「大官」は、以後「大」が除かれ「官」になる。しかし対馬国の官だけ、地位が特に高いとは思われない。
 魏略には、至一支國置官与對同(一支国に至る。対馬国と同様の官を置く)とあっさり書かれている(この方がわかり易い)ように、「官」は「大官」と同じである。

【方可三百里】
 方が「一辺」なのかそれとも「周囲の全長」なのか、対馬国と同様の方法で調べる。

 現在の壱岐島の地理:
壱岐市|平成21年度版統計資料|地形・気象
 東西約15km 南北約17km
 面 積( )内は属島含まない ※平成21年10月1日現在 138.56k㎡(133.92k㎡) 
 周囲(属島含む) 約191km
 最大標高      212.9m(岳ノ辻)
</壱岐市|統計資料> 
「周囲」は海岸線を忠実に測っているので、図のように大まかに折れ線で表したときよりも長い。
 <余談>海岸線は正確に測ろうとするほど、細かい出入りが積算されるので、無限に長くなる。</余談>
 なお最大標高は、第5回ではうっかり女岳の149mを用いたので、図を訂正しなければならない。

 計算の結果、「方」を周囲と見做すと短かすぎ(半分以下)て実際に合わない点は、対馬国と同様である。
 しかし、島(属島を含む)を等積変換した正方形の一辺(赤色)は153里なので、倭人伝の「300里」よりかなり小さい。むしろ、属島を含め南北端を一辺とする正方形(緑色)246里を採用し、「余」抜きの三百里だから内輪の値から切り上げたと見れば、それらしい値になる。
 だが、対馬国では等積変換と解釈し、他方、一支国では外接正方形だと解釈するのは二重基準に陥る。だから残念ながら、対馬国の素晴らしい精度は偶然であったと見做さざるを得ない。
 とは言え、次の程度のことは言える。即ち、「『方』は周囲の全長ではなく、大まかに正方形に直したときの一辺の長さを意味している。数値的には実際より20~40%ほど大きめであるが、ある程度は実測に基づいている。」

 なお、対馬国「可四百余里」は「四百里」が「可」と「余」によって二重形容され、一支国の「可三百里」に「余」がないのは不統一である。
 ことによると、「四百余里」の「余」は後世に付加されたのかも知れない。はじめは「三百里」同様「余」はなかったが、それまでの里数にはどれも「余」がついていたので、後世のだれかが「ここは付け忘れだ」と判断して付け加えた。(ではなぜ、「三百里」はそのままにしたか?となるが)
 どちらにしても、「可」「余」は
<仮説>
 切り下げ・切り上げを意味する。「可」はもともと「~と見做すことができる」意味なので、端数を切り上げた結果を示す。逆に切り捨てた場合は「余」を付加する。ただし、「可」と共に「余」があるときは、「可」は単純な推量「ばかり」を意味する。
</仮説>
 それによる次の解釈は、自分でも行き過ぎだと思うが…
<行き過ぎた解釈>
 対馬国「方可四百余里」は「概ね一辺四百数十里である。」一支国「方可三百里」は「一辺二百数十里である。」
 この解釈によって、記述による二島の比率(1.8:1)は、実測による二島の比率(2.25:1)にだいぶ近づく。
</行き過ぎた解釈>
 それにこの解釈では、四百余里の"余里"を相当大きくとるので、対馬国のところで自ら述べた「当時、相当の面積測定技術があった」説を不利にする。

 因みに魏略ではそもそも対馬国には里数の記載がなく、一支国に記載があるが「地方三百里」(その地は一辺三百里)と概数表記がない。

【天=一+大?】2012.1.9(月)
 「一大国」の別の解釈を考えてみる。これは、あま族の渡来に関係する。
 「あま族」渡来人説は、よく言われるが、ここでは、オセアニアまたは中国南部から渡来したと考えてみる。
 古事記に、イザナギ・イザナミの国生みがある。「男から性交に誘う」という作法に従わず、女から誘ったので、最初の2回はちゃんとした子が生まれず、生まれたのはヒル、アハシマであった。この神話に他の民族との共通性がある。
 <wikipedia>「兄妹が結婚して子供をもうけるものの、最初の子供は肉塊や動物であり、天や神から正しい交わり方を教えられて初めて人間の子供ができる」神話が、中国南部から東南アジア、太平洋にまで分布する。</wikipedia>
 この神話を持って渡来した一族が、「あま」を自称していたと思われる。
 隋書によれば、600年に倭国の使者が隋に派遣され、倭王姓阿毎字多利思比孤(倭王は、姓は"阿毎"(あま),字を"多利思比孤"(たりしひこ)と言う。)を知る。つまり、当時の倭王には基本的に「天垂らし日子」の称号(女子は「天垂らし姫」?)がついていたらしい。
 日本書紀にも有名な「天照大神(あまてらすおおみかみ)」があるが、「たらす」も「てらす」も大差ない。
 ただ、「あま」については「海人族」が別に存在するから話がややこしい。そこで「あま族」を2つに分け、片方は畿内に政権を打ち立てた一族で、神の住む場所や万物の支配者を意味する漢字「天」を知り、漢字の読みに部族「あま」をあて、祖先は天から垂れて来たというストーリーを作り上げた。
 他方の「あま族」は別の地域に取り残され、後に「海人族」として「天」族に服従した。
 この後は全くの想像であるが、仮に西暦0年ごろ「天」の字を得て以来、しばらく漢字の移入は低調になり、記号のようになった「天」が代々伝わり、そのうちに縦に間延びして「一大」となった。
 案外あま族の最初の居住地が壱岐島で、「一大」が元々の表記かも知れない。後に「一支」と誤記され、中国で「いっし」と読まれ、その読みが倭国に逆に伝わり「いし」、やがて現地で訛って「いき」になった、という想像も成り立つような気がする。


2011.03.27(日)原文を読む(12) 亦南北市糴

多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
竹木(ちくぼく)叢林(そうりん)多し。三千許(ばか)り家有り。田地(でんち)耕田に差有り、猶(なお)食するに不足し亦(また)南北に市糴(してき)す。

樹木のほか竹も生え、うっそうと茂る林が多い。約三千軒がある。よく耕され収量の多い田とそうでない田に差がある。依然として食糧は十分でないので南北に[乗船し]商いをし、米を買い入れる。

【竹木】
<大辞林>樹木と竹。樹木だけでなく竹も含まれることを明らかにしようとする場合に用いられる語。</大辞林>
<日本国語大辞典>〔名〕竹と木。</日本国語大辞典>
<漢辞海>(項目なし)</漢辞海>

【叢林】
<大辞泉>1 樹木が群がって生えている林。「―地帯」</大辞林>
<漢辞海>やぶや林</漢辞海>
なお[叢]は、<漢辞海>むらがる</漢辞海>

【三千許家】
 "許"は"可"と同様に概数を示すが、"可"は、「可三千里」と数詞の前につけるのに対し、"許"は数詞と量詞(数える言葉)の間に挟む。
 各国邑についての記述で、戸数は「戸」で数える場合が多いが、一支国と不弥国だけ「家」が使われる。特に使い分ける理由はないと思われるので、報告書(倭人伝執筆で参照した資料)の作成者が別の人物かも知れない。
 <壱岐市|市政資料>平成17年(2005年)10月1日現在人口31414名、10560世帯。<壱岐市>従って世帯数は現在の3分の1程度。現在は1世帯あたり3名ぐらいだが、1955年は約5名だった。弥生時代も5名程度とすれば15000人ぐらいになる。

【田地】
<大辞泉> 田となっている土地。「―地帯」</大辞林><漢辞海>田畑</漢辞海>
【耕田】
<大辞泉> 耕作を行う田地。</大辞林>

 田地・耕田と同じような意味の言葉を並べた理由は語調を整えるためとも見られるが、「田畑になり得るが地味が乏しい土地」と「豊かな収量が得られる田畑」との使い分けがあるかも知れない。
 しかし竹木・叢林もそうだが、意味が重複する言葉を並べて表現がくどいので、簡潔を旨とした対馬国報告とは対照的である。量詞「家」のところでも述べたが、報告者が異なるかも知れない。
 ただし、「猶」以下は対馬国との対比を明瞭にして論理的である。

【猶】
<國際電腦>9. 副詞。②表示某種情況持續不變。相當於「仍」、「仍然」。</國際電腦>(その種の状況が持続したり変わらないことを表す)
 つまり「良田がない対馬国よりは多少米が獲れるが、土地の条件によって収量に差があり相変わらず食糧は不足する。」

【亦】
 「対馬国と同様」南北へ乗船し市糴する。

【南北市糴】
長崎の遺跡大辞典|原の辻遺跡
 台地を三重の環濠が巡る大規模環濠集落であることが判明した。また、1996年には大陸の土木技術の影響を受けて作られた東アジア最古の船着き場跡の遺構が検出され注目された。これまでに出土した遺物は膨大な量にのぼり、国内各地の遺物はもとより、大陸、朝鮮半島系の遺物も金属器や土器など多種多量である。
</長崎の遺跡大辞典>
<wikipedia|原の辻遺跡>1995年(平成7年)に一支国の国都であると特定された。</wikipedia>
<wikipedia|古代出雲>
 中国の植民地で朝鮮半島北部にあった楽浪郡(紀元前108年 - 313年)との交流があったと考えられている。壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示す。より直接的な例としては、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明している。
</wikipedia>

 対馬国同様、大陸と倭国の間の中継貿易によって米を得ていた可能性がある。また「大陸の土木技術の影響」は極めて注目される。対馬国などと共に帯方郡と倭国の本体に挟まれた緩衝地帯として、二重支配を受けていた可能性が否定できない。
 また出雲国、一支国、楽浪郡の活発な交流は、日本海側に航海路が確立していたことを意味する。
<余談> なお、出雲国で2世紀前半の「すずり」が出土したのは、邪馬台国の時代に字を書く文化が存在した可能性があることになる。</余談>


2011.03.29(火)原文を読む(13) 至末盧國

又渡一海千餘里至末盧國
又一つ海を渡るところ千余里。末蘆国に至る。

またひとつ、千里余りの海を渡ると、末蘆国に到着する。

【末盧國と唐津】
 魏志「弁辰伝」によれば弁辰12国のひとつに「狗邪國」があり、その後<wikipedia>宋書、日本書紀で「加羅」と表記され</wikipedia>た。
 以来、「唐」(から)は<漢辞海>[日本語用法]三―六世紀ごろ朝鮮半島南部にあった「加羅国」の名が、しだいに朝鮮全体、さらに中国全体に転用され、その呼称となった。</漢辞海>
 その後「から」は、広く海外を指す意味もあり、<参考>明治時代に東南アジア、さらに世界各国の娼館に送られた日本女性が「からゆきさん」と呼ばれた。</参考>
 従って「唐津」は「中国または朝鮮半島へ向かう港」の意味だが、<wikipedia>「唐津」の地名が記述などで現れるのは、豊臣秀吉が1591年(天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城し、1593年(文禄2年)には寺沢広高が唐津藩を与えられたころより後である。</wikipedia>
 唐津は湾内にあり、壱岐島に大変近く、壱岐島―対馬島を経由して半島に渡航できるので出航地として条件がよい。それ故、古代から重要な航路であったであろう。
 そんな立地条件にあった現在の唐津の市域は、<wikipedia>奈良時代初期に編纂された肥前国風土記</wikipedia>では「肥前国松浦郡」に含まれ、その郡衙(こくが;郡の役所)が市内の鏡地区にあったとされる。
 だから奈良時代に定められた松浦郡の中心地が、弥生時代から「まつら」と呼ばれてきて、倭人伝で「末盧」(まつろ、またはまつら)の呼称が当てられ、海を渡ってきた使者が上陸した国だとされるのは、当然であろう。
 また、唐津市内の菜畑(なばた)遺跡は、<wikipedia>日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡である。</wikipedia>
 水稲耕作が発達していたのだから、対馬国・一支国が交易し、米を買い入れていた(「市糴」)という記述が課す条件にも合う。
 さらに、できれば現在の唐津市域から壱岐島の原の辻遺跡のように、大陸との交流を示す遺物やの役所跡、さらに船着場の跡が発掘されれば最高の裏づけになる。だが、今のところそのような報告は見つけられなかった。今後もし発見されれば、大ニュースとなることだろう。


【千餘里】
 壱岐島原の辻遺跡(北緯33度45分33秒、東経129度45分10秒)と、唐津市菜畑遺跡(北緯33度26分55秒、東経129度57度28秒)の直線距離は39.4kmで、これまで通り1里=76.7mを適用すると、513里となる。
 今度は、「千余里」より相当短い。帯方郡から離れるにつれ、里程の信頼性が低下していく印象は否めない。
 そもそも海洋航海は歩測がなく、緯度差が0.5度程度だと北極星の高度を高度計(例えば、分度器と分銅による器具;後述)で測っても明確な違いが出ず、航海に要した日数や目視による島の大きさで推定せざるを得ないだろう。
 それでも、人々が来訪する頻度が多ければ数値が平均され、それなりに精度が上がってくる。しかし、遠隔地になるほど訪れる人も少なくなり、どうしてもデータ不足になる。
 その結果、「AB間・BC間が確実に千余里であることが分かっているが、CD間は分からない」という場合は、「同様な感じで海を渡るのだから、CD間も千余里にしておこう」ということになりそうである。
 たぶん帯方郡から対馬国への来訪はかなり多い。一支国へはそれよりは減少する。末盧國までとなると、もうめっきり少なくなっただろう。
 これまでは対馬国、一支国は南北間の中継貿易によって利益を上げ、米を得ていると見てきた。とすれば、朝鮮半島の関係者が対馬国・一支国に来る機会はありそうだ。同様に北九州諸国からの対馬国・一支国訪問もあっただろう。しかし、島を経由し完全に海峡を横断する者は、殆どいなかったのではないか。(それこそ外交使節ぐらいか)


<参考>
 簡単な緯度測定器の作り方を図に示す。「緯度=その地点の北極星の高度」は、鉛直線と北極線への視線の垂線が作る角を測ればよい。
 筒は長いほど精度が上がる。また前後にレンズをつけて望遠鏡にすると見やすくなるが、さすがに弥生時代にはレンズはなかっただろう。
 なお、測定は、①1度のめもりの10分の1まで目分量で読み取り、10回程度繰り返して平均値を求める。②予め緯度が分かっている地点で測定し、実測値との差から補正値を求めておく。これで0.2度ぐらいの精度を期待したい。
 ただし、古代中国または海洋民族に地球が球体だという観念は多分なかったと思うので、緯度に相当する数量をどういう単位で表したか知りたいところである。

※北極星をカシオペア座または北斗七星(おおぐま座)から見つける方法の説明図は、「北極星の見つけ方」を参考にさせていただきました。

<付記>
 なお、唐津市柏崎遺跡からは、前漢時代(BC206~8)ごろの「連孤文日光銘鏡」やスキタイ(南ウクライナ、BC8世紀~BC3世紀)様式の「触角式有柄銅剣」が出土しており、王が女王国に服属する以前に大陸との直接の交流があったようだ。「旧百余国漢時有朝見者」のひとつの例かも知れない。


2011.03.31(木)原文を読む(14) 濱山海居

有四千餘戸濱山海居
四千余戸有り、山海浜(せま)りて居す。

四千戸余の家があり、山、海にはさまれた狭い土地に居住する。

【唐津の歴史より】
 縄文時代から定住し、長い歴史がある。わが国の稲作は、BC10世紀ぐらいにこの地域で始まったとされる。
[菜畑遺跡]…<wikipedia>縄文時代晩期後半谷底平野には湿原が広がっており、背後の丘陵には照葉樹林が育っていた。 縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。 今から2500年から2600年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていた。弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘された。</wikipedia>
 前漢の時代には、大陸との交流があったことを示す遺物が王の墓に豊富に残されている。
[柏崎遺跡]…<唐津市|柏崎遺跡案内板>弥生時代中期中庸[BC200~BC100ぐらい]の柏崎石蔵ではカメ(甕)棺から、触覚式有柄銅剣一本と中細銅矛二本が見つかっています。この銅剣はスキタイ風のもので東京国立博物館に所蔵されており、世界的にも3~4例しかない貴重なものです。</案内板>
[宇木汲田遺跡]…柏崎遺跡の近く。<wikipedia>縄文晩期・弥生時代前期より中期にかけての集落で貝塚が存在し、弥生前期中期の甕棺墓から多鈕細文鏡1、細形銅剣9、細形銅矛5、細形銅戈2、銅釧・勾・ガラス管玉・ガラス小玉などが検出された。鏡地区は大陸舶載の青銅器が日本で最も多量に発見されている。</wikipedia>
 地名には、神宮皇后や、万葉集にもうたわれた佐用姫にまつわる言い伝えにちなんだものがある。
[桜馬場遺跡](さくらのばばいせき)…<日本大百科全書(小学館)>弥生(やよい)時代の甕棺(かめかん)墓地。唐津湾沿いに東西に発達した砂丘上に位置し、1944年に防空壕(ごう)の工事中に偶然甕棺墓が発見された。</日本大百科全書>
 その63年後の2007年、再発見された。発掘されたのは<朝日.com>弥生時代後期のガラス小玉約2千個、ヒスイ製勾玉3個、巴形銅器1個、内行花文鏡、素環頭鉄刀の一部。唐津市教委の話「末盧国を統一したころの王の墓と特定できる」</朝日.com>
 奈良時代ごろ、万葉集にも出てくる言い伝えによる地名もある。
[鏡山]…<wikipedia>神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来する。また別称領巾振山(ひれふりやま)は、「佐用姫が領巾を振って見送った山」による。</wikipedia>
[衣干山](きぬぼし山)…<wikipedia>川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたとの言い伝えことが名前の由来となっている。</wikipedia>
 時代が下って、<wikipedia>文禄・慶長の役の頃、大陸から技術が伝えられたのがきっかけとなり、唐津焼が本格的に始まった。また</wikipedia>1593年(文禄2年)に唐津藩を与えられた寺沢広高は、新田開発に当って海岸沿いに松を植林し、「虹の松原」と呼ばれる名所になった。
 現在、唐津地域(市内のうち、湾周辺部)の人口は78876人(2011年1月1日現在)。

【濱山海居】
 「浜」を名詞「海岸」と訳すと、意味が通じない。「浜」は動詞で、<漢辞海>《動》せまる。[通]瀕 まぢかに臨む</漢辞海>のように、「危機に瀕する」の「瀕」と同じ。
 海・山に瀕するのだから、海と山に挟まれた細長い平地に住居が並ぶ様子を物語る。船上の帯方郡使がいよいよ末蘆国に近づいてくると、山を背にして海岸沿いに並ぶ竪穴式の住居と楼閣の風景を見たことであろう。(同時期の吉野ヶ里遺跡の発掘では、軍事拠点の楼閣などは柱のある掘建て作りであるが、住居は竪穴式であった)
 図は現代の地図であるが、流れがゆるやかな河口は土砂が堆積するので、過去の海岸線は現在よりずっと後退している。仮に桜馬場遺跡・菜畑遺跡が集落の中心だったとすると、実際に衣干山と海岸に挟まれた、南北に細長く続い範囲にぎっしり住居が並んでいた(「居」)のかも知れない。

【有四千余戸】
 菜畑遺跡・桜馬場遺跡周辺、鏡山の南(柏崎遺跡・宇木汲田を含む)に限定して(多くは住宅地)現在の人口を、ネット上の資料を使って調べたところ、19745世帯、50315人であった。四千余戸はその5分の1程度だが、前述のように海岸はもっと山に近かったので、相当密集していたと思われる。
 なお、利用したのは<唐津市|統計情報|町別人口・世帯数>平成23年1月1日</唐津市>のデータ。

【疑問点】
[その一] 末盧国だけ「官曰…副曰…」の文がない。それは、補うべき語句が「官亦曰卑狗副曰卑奴」だからであろう。二度目の「亦」まではよいとして、三度目はもう自明であるとして省略した。
[その二] 「濱山海居」(山海せまり居す)は、語調が悪い。対馬国の「所居絶㠀」(居す所絶島なる)にそろえて、「所居濱山海」(居す所山海せまる)とすべきであるように思う。
 続く「行不見前人」の部分も、本来「所行不見前人」あるいは「不見前人行」のような気がする。
 末蘆国の観察報告者は、形式張った書き方を嫌う性格だったのだろうか。
 あるいは、全く別の理由かもしれない。想像を逞しくすると、<想像>紹興本・紹煕本を刊行する時点で参照した資料に虫食いまたは破損があって、その部分が正確に読めなかった。実は[その一]で「自明による省略」とした部分も、本当は「官曰…」がちゃんとあったのである。</想像>
 ただ、この想像は実証しようがない。それに、自説にとって原文どおりだと都合の悪い部分をすべて「誤り」にしてしまえば何でも主張できるので、とても危険なことである。


2011.04.02(土)原文を読む(15) 不見前人

草木茂盛行不見前人
草木茂盛(もせい)し、行くも前の人見ず

草木は盛んに茂り、その中を行くと前の人が見えない。

【茂】<漢辞海>《形》植物の成長が盛んなさま 《動》つとめる</漢辞海>
 「しげる」と同時のように訓読みするが、もともと形容詞。動詞としての用法は植物からはなれ、人の行為を表す。
【盛】<漢辞海>《形》旺盛なるさま</漢辞海>
【茂盛】<漢辞海>物事が盛んなさま</漢辞海>
 さまざまな物事に対し、比喩的に使用するが、この場合は主語が草木なので、本来の「植物が盛んに茂る」ようす。

 当時の松浦川河口近くの干潟に、仮に葦(アシ;ヨシともいう)があったとする。葦は、<wikipedia>垂直になった茎は2~6mの高さになり、暑い夏ほどよく成長する。河川の下流域、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原をつくる。</wikipedia>
 そんなヨシ原を横切れば、前の人が見えなくなるのは確かだろう。


2011.04.03(日)原文を読む(16) 人好捕魚鰒

人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
人好(よ)く魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅(しんせん)無く皆沈没(ちんぼつ)し之を取る。

人は魚・あわびを捕えることができ、水の深い浅い無く潜ってこれを取る。

【好(助動詞)】
 <國際電腦>10. 用在某些動詞前面,表示效果好。</國際電腦>(<google翻訳>10. used in front of certain verbs, that effect is good.</google翻訳>)
 <漢辞海>《助動》 …できる。…するのに都合がよい。</漢辞海>
 このように英語の"can"そのもの(「能」も同じ)だが、漢文では「よく~する」と読み下す。

【鰒】
 <漢辞海>1 あわび 2 鮫の別称</漢辞海>ここでは間違いなく「アワビ」。(<余談>鮫は出雲弁では「わに」。したがって、因幡の白兎は鮫をだました。</余談>)

【沈没】「紹煕本」では「沈」の異体字「沉」。
 「水に沈む」ここでは現代の用法のような、否定的な価値観(残念な気持ち)は伴わない。

【海人(あま)】
 <著書「海人」>北見俊夫氏の学説</著書>では、中国南部に起源をもつ「阿曇系」、インドネシアに起源をもつ「宗像系」の漁労民がそれぞれ漁労文化をもって全国に広がったとされる。そこで、「安住氏」、「宗像氏」について調べて見た。
 安住氏の一族は、<wikipedia>「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残され、川を遡って内陸部にも安曇野の地名が残る。</wikipedia>
 また、宗像氏は<wikipedia>古代は海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。</wikipedia>(宗像地方は、北九州市と福岡市の中間にある地域の呼称)
 現代の海女は、鳥羽市・志摩市(三重県)が有名で、調査によると<asahi.com|三重 2010/12/19>三重県内には全国で最も多い973人の海女がいることがわかった。全国の合計は2160人で、三重県が45%を占めた。男性の「海士」は少し減って282人</asahi.com>。
 日本以外では、韓国の済州島で<済州道:韓国観光公社公式サイト>漁村では現在でも海女たちが潜水漁業を行っていることや、土壌が豊かではないため、米はほとんど収穫できず、豆や麦、粟のような雑穀を生産している</済州道>という記事がある。倭人伝の対馬国の記述「無良田食海物自活」と類似しているのが興味深い。

 2009年(平成21年)10月3日、三重県鳥羽市にて「日本列島 "海女さん" 大集合 - 海女フォーラム・第1回鳥羽大会」が開催された。集まった地域を、右の図にまとめた。
 現在の海女は、アワビは代表的な漁獲物。弥生時代の出土物にも、鹿の角で作ったアワビオコシがある。
 (< 青谷上寺地遺跡|アワビオコシ>青谷上寺地遺跡からは、シカの角を加工したヘラのような道具が30点以上見つかっています。これは海中に生息する岩礁性の貝類を捕獲するためのもので、アワビオコシと呼ばれています。</青谷上寺地遺跡>他に「三浦市毘沙門C洞窟遺跡」)
 倭人伝には、対馬国の項でも「食海物」と書かれているから、末蘆国に限らず北九州から対馬海峡一帯で潜水漁の文化があったのは確実である。
 しかし特別に「皆沈没」と書いてあるのは、末蘆国のところだけである。潜水漁の担い手が他の国では一部の部族または職能集団に限られるのに対して、末蘆国だけは広く老若男女が潜っていたのがかなり印象的だったということか。
 さらに「無水深浅」の文から、子供は沿岸の浅いところで、熟練者は船でかなり水の深いところへ出かけて、と条件に合わせて潜った様子が想像できる。ともかく、四千戸の住人のほとんどが沈没する集団は確かに相当のインパクトがある。
 ただし、末蘆国には水田遺跡があり、さらに対馬国・一支国相手に米を売るのだから、一定の米穀生産高があった。では農家は専業だったか、あるいは農漁兼業だったのだろうか。
 さらに疑問。この潜水漁を専らにする一族が、初期の「安曇族」あるいは「宗像族」の実体なのか。また末蘆国が、彼らの中心地であったのか。興味は尽きない。

【魚鰒】
 「魚」について。青谷上寺地遺跡の出土物に骨を使った銛(モリ)もあるので、当然水中で魚に銛を打って捕える者がいた。
 「アワビ」について。現在の海女の漁獲物にはにはサザエ、ナマコ、イセエビ、藻類など数々あるが、美味で高級感のあるためか、代表格は「アワビ」。魏志の時代でも同じ感覚で、「鰒」を代表としたらしい。

【魏略などでは】
[魏略]
 人善捕魚能浮沒水取之
 「善」は形容詞の連用修飾(動詞を修飾する)で、「よく~する」。したがって、「人善く魚を採り、能(よ)く水に浮き没みして之を取る;人は上手に魚を採り、水に浮き沈みしてこれを取ることができる。」また、アワビがない。
[『太平御覧』所引『魏志』倭人章]
 人善捕魚水無深浅皆能洗沉没取之 こちらも「善」で「アワビ」がない一方、紹煕本の「沉」。写本の系統の追跡は、一筋縄ではいかないようだ。


2011.04.09(土)原文を読む(17) 到伊都國

東南陸行五百里到伊都國
東南に陸行五百里、伊都国に到る。

ここからは陸上の道を東南に向け五百里行くと、伊都国に到着する。

【怡土郡(いとぐん、いとのこおり)】
 7世紀末に筑紫国が筑前・筑後に分割された。筑前国の15郡のうち志摩郡・怡土郡は、1896年に合併して糸島郡になった。その後一部は福岡市に編入され、他の村は合併を繰り返した。
 そのうち前原町は1992年に前原市になり、その時点で糸島郡は志摩町・二丈町となった。
 現在の糸島市は、<wikipedia>人口およそ10万人の市。2010年1月1日に前原市・志摩町・二丈町が合併し発足した。</wikipedia>市のサイト名に、「福岡県糸島市ホームページ:古代都市「伊都国」 トップページ」と掲げるなど、かつての伊都国に由来する地域であることを強調している。

【平原遺跡(ひらばるいせき)】
 1965年発見。福岡県前原市大字曽根(北緯33度32分32秒、東経130度13分41秒)、筑前前原駅東南東4km。
 <福岡県平原方形周溝墓出土品>弥生時代後期、銅鏡40面という一遺構からの発見は他を凌駕する副葬で、国内最大の面径(46.5cm)の内行花文鏡が含まれる。他にガラス製勾玉3個、メノウ製管玉13個、ガラス小玉・管玉・連玉など。</平原方形周溝墓出土品> 
 伊都国王の墳墓とされる。銅鏡と言えば、倭人伝で女王国の使者、難升米に託された下賜品に「銅鏡百枚」が含まれていることの関連が注目されてきた。しかし、今日では全国各地で王の墳墓から発掘された銅鏡は、倭国で作られたという説が有力になりつつある。(後に考察する)

 「怡土」という地方名は、大宝律令(701)の国郡里制から1300年続いているので、遡ってさらにその500年前からその辺りの土地が「いと」と呼ばれてきたとしても不思議はない。(対馬国の項で考察した)だから「伊都国=その後の怡土郡」なのだろう。
 ところで、東夷の一国であるにもかかわらず「都」という破格の良字が宛てられているのが注目される。なんらかの経緯(かつて倭国を代表する地位が与えられていたとか、中国から渡航した民族の末裔であるとか)があるのだろうか。

【陸行五百里】
 末蘆国遺跡と考えられる菜畑遺跡から、平原遺跡までの直線距離は27.1km。1里=76.7mを適用すると354里になる。
 曲線経路(図)を仮定すると、図上で32.3km(408里)なので、「五百里」は妥当な値である。ここはまだ、帯方郡による測量が許可された範囲かも知れない。
 以上のように、呼称・距離・遺跡から「伊都国は後の怡土郡につながる」のは確かだろう。

【東南】
 実際は、平原遺跡は菜畑遺跡から見て「東南」ではなく、東北東にある。方位の問題は倭人伝の解釈の大問題に繋がるので、重要である。
 そもそも、三国時代は方位をどうやって求めたのか。
 羅針盤は中国で発明されたとされるが、発明時期は魏志の時代よりずっと後である。
 <中国古代の4大発明>方位磁針 11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』、正確には「真貝日誌送」にその記述が現れるのが最初だとされる。方位磁針は磁石を自由に回転できるようにしたものである。</中国古代の4大発明>
 それ以前はどうやって方位を決めていたか、推定してみる。
 夜間は北極星を見つければよい。昼間は、地面に棒を立て、影が最も短くなったとき(南中)の太陽が真南であるので、調べようとすれば容易に調べられたであろう。
 距離を歩測する際、方位だけは無頓着であったとは考えにくい。
 伊都国ではこれまでの3国と違って、住民の生活や土地について触れられてないので、直接の見聞に基づく具体的な資料は、倭人伝執筆者(陳寿)の手元にはなかったのだろう。
 だから、距離については過去の歩測に基づく何らかの記録を用いたが、方位については訪問記録ではなく、当時一般的に信じられていた「倭国は北から南向きに伸びている」観念的な地図に従ったと思われる。
 (当時の地図については、邪馬台国への経路の項で改めて考察する)

 もうひとつの可能性は、記録者が方位に全く無頓着であった場合である。末蘆国の海岸線(唐津湾沿岸)は北西から南東方向なので、伊都国に向かう道は、南東方向に伸びている。その後少しずつカーブして次第に東から東北東向きになるのである。だから、伊都国に出発する時点で「東南に進む」のは正しい。ただ、道中が始まってからは、何故か方位の確認しなくなった。
 使者随行の記録官は、自然科学的な厳密さに興味の無い人物だったかも知れない。
 いずれにしても、伊都国以降、行程の記述は専門の職能集団による実測の記録ではなく、当時通用していた観念的な地図によると考えるべきである。

【「至」と「到」】
 到…到其北岸狗邪韓國、到伊都國
 至…至對馬國、至一大國、至末盧國、至奴國、至不彌國、至投馬國、至邪馬壹國
 魏略(翰苑に引用)では奴国以後は欠けているが、それまでの部分は一致している。太平御覧引用の魏志では、すべて一致する。この用法(動詞「いたる」)では「至」と「到」で意味の差は全くない。どちらを使うかは、全くの「たまたま」である。
 「至」と「到」の組み合わせが魏志と魏略で一致していることは、魏志が魏略を忠実に写しながら、他の資料を適宜挿入して作成したことを裏付ける、ひとつの証拠となり得る。
 また本当にどちらでもよかったので、筆写者は「至」「到」を楽な気持ちで筆写した結果、かえって転記ミスがなかったことも考えられる。

【記述の精度の比較】
 ここで、対馬国から邪馬台国までの記述の詳しさを比較して見る。
字数(大)官戸数一辺の長さ地形生活行政
對馬國54卑狗卑奴母離千余戸四百余里17字14字(なし)
一支國45卑狗卑奴母離三千許家三百里(なし)14字(なし)
末盧國31(なし)※1(なし)※1四千余戸(なし)10字18字(なし)
伊都國22※2爾支泄謨觚・柄渠觚千余戸(なし)(なし)(なし)7字
奴國18兕馬觚卑奴母離二万余戸(なし)(なし)(なし)(なし)
不彌國14多模卑奴母離千余家(なし)(なし)(なし)(なし)
投馬國15彌彌彌彌那利五万余戸(なし)(なし)(なし)(なし)
邪馬壹國31伊支馬彌馬升・彌馬獲支
・奴佳鞮
七万余戸(なし)(なし)(なし)5字
 ※1 恐らく、末蘆国も卑狗・卑奴母離なので省略されたと思われる。
 ※2 伊都国のところに書かれている「丗有王皆統屬女王國」(世に王有り皆女王国に統属す)は、後の回に述べるように、対馬国~伊都国の4国の共通事項だと思われるので、伊都国の字数から除外した。

 比較して見ると、韓国から遠くなるに従って次第に情報が乏しくなっていき、最後は大官・副官と戸数だけの記載になる。
 「官の名前・戸数」は、いかにも役所風である。だから、邪馬台国に到着するまでの記述は、行政機関に保管されていた記録に、使者に随行した記録官の手による日誌を付け加えて構成したという雰囲気を感じる。
 実際に記録官が足を運んで書いた資料があるのは、末蘆国までであろう。それ以遠は、伊都国周辺を歩測した古い資料を使ったと思われる。


2011.04.12(火)原文を読む(18) 有千餘戸

官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
官を爾支と曰い、副を泄謨觚柄渠觚と曰う。千余戸有り。

官をぬしと言い、副官をせつもこ、へいきょこと言う。千戸余りがある。

【漢字の読み方】
[漢音と呉音]
 「漢音」は<漢辞海解説>遣唐使や入唐僧らが、唐のみやこ長安で学んだ清新な文化とともに入ってきた</漢辞海>もので、それ以前に既に相当定着していた読みは、駆逐すべきものと考えいくらか軽蔑的に「呉音」と呼んだらしい。

[中国語における発音]
 同じ漢字でも、発音は当然時代による変遷がある。古い時代の発音は、BC6世紀の詩集『詩経』による上古音、7世紀の発音解説書『切韻』による中古音、14世紀の『中原音韻』による近古音が知られている。
 そのうち中古音では、発音記号は漢字3文字の組み合わせである。例えば「爾」は「日紙上」。1文字目は「声母」といい、要するに頭の子音(「さ」をローマ字で「sa」と書く。その「s」)。
 2文字目は「韻母」といい、声母以外の部分。日本語では「sa」の「a」の部分のように単純に母音1個だが、中国語では二重母音や、文節の末につく子音(英語のingのようなもの)などもあり多様である。
 ここまでは、それぞれの代表となる漢字を決めて使う。
 3文字目は、「声調」といい、韻母内の音の高低の変化(周波数=ピッチの変化のパターン:高いまま一定とか、高く入って低くなっていくなど)。平・上・去・入の4種類があり、声母・韻母が一致しても声調が異なると全く意味が変わる。
 中古音時代、それぞれの声調の実際の音の動きがどうだったかというと、残念ながらそれらを<wikipedia>推定することは困難である</wikipedia>とのこと。
 例えば「爾」の発音は「日紙上」で現され、概ね「日」=ny、「紙」=i。だから「にゅい」に近い。
 漢音は、長安の中古音を移入したものであり、呉音はそれ以前の発音を持ち帰ったものだから、古代の倭の人名や地名などは現在の呉音で読めば、当らずとも遠からずというところである。

【爾支】
 爾…呉音「に」漢音「じ」
 支…呉音・漢音「し」
 「爾支」の読み…にし、にき
 倭人が「ぬし」と発音していたのが「にし」と聞き取られたという説がある。
 <大辞林抜粋>ぬし【主】(名)ある土地や集団・社会を支配し、つかさどる人。</大辞林抜粋>
 ぬしと言えば、大国主命(おおくにぬしのみこと;<wikipedia>出雲神話に登場する</wikipedia>)が思い浮かぶ。
 確かに「ひこ」があるのだから、「ぬし」があってもよい気がする。

【泄謨觚】
 泄…漢音「せつ」
 謨…呉音・漢音「ぼ」
 觚…漢音「こ」
 サイトを探って見つけた「泄謨觚」のよみ…せつもこ せもこ せもく いもこ ひほこ しまこ しぼこ
 なお、魏略では、「曳渓觚」(えいけいこ)。

【柄渠觚】
 柄…漢音「へい」、中古音「幫映去」=piang。以前考察したように、「へ」は古くは「pe」と発音したが、現代のように「へ」と読んで差し支えない。
 渠…呉音「こ」漢音「きょ」、中古音「群魚平」=gio(ギオ)。
 サイトを探って見つけた「柄渠觚」のよみ…へいきょこ ひょうごこ へごこ へくこ ひここ へくこ へこく へきこ  へいここ
 副官は対馬国・一支国と異なり、固有名詞で2名連記されていると見られる。
 それぞれ末尾の「こ」は敬称かも知れない。<大辞林>こ…名詞に付いて、親しみの気持ちを添える。「根っこ」など</大辞書林>。普通名詞につくが、もともと人名につける敬称だった可能性も。
 試しに「せつぼ=(例えば)瀬坪」が現在の苗字に残ってないかと思って調べてみたが、なかった。
 読み方については、官名や、天皇名、現在の地名などにつながる場合は突き詰めることに意味があるが、それら以外の固有名詞の場合は、突き詰める必要も根拠もない。
 だから、形式的に一般的な呉音を宛てておく程度でよいだろう。(現在、中国語の氏名を日本語読みするのと同じ)

【大官、副官の固有名詞による表記】
 伊都国は特別な条件として、「郡使往來常所駐」つまり、帯方郡の使節が常駐する現在でいう大使館がある。また、邪馬台国から派遣されて諸国に睨みをきかせる「一大卒」の常駐場所でもある。
 つまり、伊都国は重要な外交の舞台である。したがって帯方郡使は伊都国の役人に直接面会し、記録官も同席したことであろう。
 一般的に大官は、役所外では住民に尊称「ひこ」で呼ばれ、役場内では役人の間で「ぬし」と呼ばれていたとする。
 対馬国では、帯方郡使は直接大官に接触できず、住民が「ひこ」と呼ぶのを聞いて記録した。それに対して伊都国では役所内で「ぬし」と呼ばれていたのを聞き、それを記録した。
 そして、「せつも」「へいきょ」は実は2人の鄙守(ひなもり)で、間近に接することができた伊都国では、具体的に名前を知ることができた。
 また、鄙守は各国に複数いた。何故かというと、日本書紀に書かれた景光天皇の日向の国への親征(前述)では、兄鄙守と弟鄙守が登場している。

【有千余戸】
 戸数が表記されている国邑のうち一番少ないが、帯方郡・邪馬台国双方の代表が駐在する最前線なので、政治的には最も重要である。
 文字「都」が宛てられているように、実は宮廷と双方の外交館が広大な面積を占めているので、住民が少ないのかも知れない。
 ことによると、すごい遺跡が埋もれているかも知れない。
 ただ、魏略では、東南五東里到伊都國戸万餘とあり、戸数が魏志の10倍ある。文の位置も魏志とは違い官名の前である。この相違が意味するところは、さすがに想像がつかない。なお、「五東里」は明らかに「五百里」の誤写である。

 以上、想像過多であることは充分自覚しているが、否定する材料もないと思う。


2011.04.15(金)原文を読む(19) 丗有王

丗有王皆統屬女王國
世(よよ)王有り、皆女王国に統属す。

代々王がいたが、全員が女王国に従属してきた。

【「皆」の解釈】
 何が「皆」なのか、次の2つの可能性がある。
 ① 対馬国、一支国、末蘆国、伊都国の4つの国の国王。
 ② 伊都国の歴代の国王。
 検討する前に、念のために「皆」の意味を確認する。
<漢辞海>みな。すべて。《主語がことごとく同じ事態になる意》</漢辞海>
<國際電腦>1. 都;俱,表示統括。 2. 普遍。</國際電腦>
 都には「聚集、総」、倶には「共同、相同」の意味があるので、「皆」は「複数が同じように」の意。つまり、現在の日本語の「みな」と考えてよいことが確認できた。

【魏略では】
 「其国王皆屬王女也」まず、「女王」ではなく「王女」になっている。「王女」は「王の娘」であるが、「王であるところの女」(すなわち女王)ととることもできる。魏略の作者(または引用者)はこの点には無関心であったと思われるので、気にしない方がよい。
 本題に戻る。「その国王は皆」は、対馬国から伊都国の4国の国王を指すに違いない。

【丗・世】
 もともと、十を3つ合体させた文字。つまり、丗=三十である(廿=二十と同じ)。なお、丗は世と字体が異なるが、同じである。
<國際電腦>1. 古稱三十年為一世。 2. 父子相繼為一世。</國際電腦>(1.古くは三十年を一世と称する。2.子が父を継ぐを一世とする。)
<漢辞海>三十年。父から子へ、後を継ぐまでの期間。</漢辞海>
 英語の"generation"<新グローバル英和辞典>世代, 1代, 《1世代の出生から次の世代の出生までの期間; 約30年》</新グローバル英和辞典>と同じ発想であるところが興味深い。
 さて、「世」の連用修飾語(動詞を形容する)としての用法(動詞の直前に置かれる)は、<國際電腦>5. 世世代代。 </國際電腦>また<漢辞海>《連用化》代々。代々にわたって。よよ</漢辞海>である。
 従って「世」は「代々にわたって」の意味で直後の「有」を形容するのは明白である。その結果、次の「皆」がよく理解できるようになる。

 このように魏略から魏志になるとき、字面は似ているが一部の書き換えによって意味が大きく転換した。

【統属】
 統…[名]糸の束の先端、統領。[動]統治する。[副]全面的に、全部。
 属…[動]つき従う。
<大辞林>とうぞく【統属】統制のもとに属すること。</大辞林>
 一方、<漢辞海>【統計】まとめて計算する。【統制】まとめて取り締まる。【統率】全体をまとめてひきいる。</漢辞海>つまり「全体をまとめて(~する)」という意味の連体修飾語として使用される。
 だから、「皆統属~」は「みなが全部~に従う」となり、重複度が強い表現になっている。

 魏志の編者が魏略の記述に「世」「統」を付け加えた行為から、対象を伊都国に絞り込み、さらに代々の王が女王国に従属したことを敢えて強調しようとする意思が読み取れる。その意図はどこにあるのか。
 また、王はそのまま官に任命されて「ぬし」と呼ばたのか、王が官と別人ならなぜ王の名前の記述がないのか。疑問は尽きない。


2011.04.16(土)原文を読む(20) 郡使

郡使往來常所駐
[帯方]郡使往来し、常に駐(とど)まる所なり。

帯方郡の使者が行き来し、常に駐在するところである。

【常】
<漢辞海>《副》1いつも。とこしえに。つねに。</漢辞海>

【駐】
<國際電腦>1. 馬立止。2. 車駕停住。3. 停留。4. 居留其地。</國際電腦>(1.馬が立ち止まる。2.車駕(馬車、天子の乗り物)がとどまる。3.とどまる。4.その地にとどまる。)
<漢辞海>《動》とどまる。ア 車馬がとまる。イ 軍隊が長い間ある土地にとどまる。</漢辞海>

 魏は、朝鮮半島に楽浪郡(現在の平壌)、帯方郡(おそらく現在のソウル付近)を置いて半島を統治した。帯方郡の担当区域は韓国(半島南部)と倭国である。帯方郡は、倭国の伊都国に代表(郡使)を「常駐」させた。代表は時々郡治(役所が置かれた中心地)に帰還した。
 つまり、郡使はほぼ現代の全権大使である。当然大使館に相当する、立派な居館があったはずである。帯方郡側の意識では、ここが支配域の限界だっただろう。けれども他方、倭国側はここに一大卒を置き、さらに近隣の各国に鄙守を配置して強力に支配していた。
 郡使の居館と一大卒の居館の間には、一定の距離があっただろうが、相互に頻繁に使いを送ったり、直接訪問したりして緊張した空気があったと想像される。
 前述したように、伊都国付近までは、帯方郡の下級官吏が訪れ(あたかも自分の領内のように)直接測量(歩測)することもできた。しかし、下級官吏が倭国の領内にこれ以上深く踏み込むことは、許されていなかったのである。


2011.04.23(土)原文を読む(21) 奴国

東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸
東南奴国に至る百里。官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

東南へ向かい奴国に到着するまで百里。官をじまこと言い、副官を鄙守と言う。二万戸余りがある。

【奴国】
 倭国の支配地域にだんだん深く入るに従って記録官による見聞資料はどんどん乏しくなり、奴国に至ってはついに官・副官名と戸数だけしか書けなくなる。
 奴国について官名・戸数以外でわかることは、「末蘆国―伊都国―奴国の順に地続きに並んでいて、奴国―伊都国間の距離は末蘆国―伊都国より短い。」ただそれだけである。
 だが、現在の福岡県博多区のあたりがかつての奴国であるとされている。その根拠について調べる。

 後漢(25~220)の歴史をまとめた『後漢書』(ごかんじょ)に、「倭奴国」が57年に朝献し、冊封関係を結んだ記録がある。
 そのとき下賜されたと見られる金印の実物が博多湾の志賀島(しかのしま)で発見された。その「倭奴国」は「倭にある奴の国」の意味なのか、また「倭奴国」は後に魏志に書かれた「奴国」と同一なのか、証明する資料はない。古くは「いどこく」と読む説もあった。
 旧那珂郡内、現在の福岡市博多区付近には、
(1)比恵・珂郡遺跡群があり、そこには3世紀の大路の遺構や、古墳時代初期の「那珂八幡古墳」がある。
(2)海を挟んだ志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見された。
(3)那珂郡は、大化の改新(646)以前の「儺縣」(なのあがた)に由来し、また博多湾沿いの港はかつて儺津(なのつ)と呼ばれていた。
 ※県(あがた)は、古墳時代初頭から律令制までの行政区分。政権によって任命された県主(あがたのぬし)によって治められた。
 以上から、魏志の「奴国」は比恵・珂郡遺跡群近辺にあり、後漢書の「倭奴国」は「国名―所属する小国名」の構造であり、後の儺縣、那珂郡につながる地域であるとするのが定説になっている。

【東南】
 那珂八幡古墳(北緯33度34分15秒、東経130度26分9秒)を珂郡遺跡群の代表点として見ると、伊都国の平原遺跡(北緯33度32分32秒、東経130度13分41秒)から見て東から東北東(北から80.6度)の位置にある。末蘆国~伊都国間ほどではないが、方位は南東から北方へ54度ずれている。

【百里】
 那珂八幡古墳と平原遺跡の距離は19.5km。1里=76.7mとすると、254里に相当する。500里とされた末蘆国伊都国間よりは相当短いが、「100里」から見た誤差は大きい。「帯方郡から遠ざかるほど情報が不確実になる」ことのひとつの表れと解釈することができる。
 
【里程の書き表し方】
 伊都国までは国名の前だったが、奴国からは国名の後に置かれる。文法的には、
東南陸行五百里到伊都國 (東南陸行五百里、伊都国に到る)…「五百里」は動詞「行」の目的語。(「陸」は「行」を連体修飾する)
東南至奴國百里 (東南奴国に至ること百里)…「百里」は動詞「至」の目的語であるところの「奴国」の補語。
 意味としては、どちらも同じである。
 里程の書き表し方を比較してみる。
《度一海》<千餘里>至對馬國
《渡一海》<千餘里>*1至一大國
《渡一海》<千餘里>至末盧國
東南《陸行》<五百里>到伊都國
東南至奴國<百里>
東行至不彌國<百里>
至投馬國《水行》<二十日>
至邪馬壹國*2《水行》<十日>《陸行》<一月>
*1 「名曰瀚海」が挿入されている。 *2「女王之所都」が挿入されている。

 私が想像するところでは、伊都国までは、行政記録(官名、戸数など)に記録官による資料(紀行文的記録)を該当の箇所に組み込む作業があったので、それなりに文章の体裁を整えた。奴國以後は紀行文の記録がないので、行政記録だけを簡潔に取りまとめた。その差が、書き方の違いに反映している。

【「又」の有無の問題】
 末蘆国までは接続詞「又」で繋がっていたが、以後「又」がなくなる。そのためか、「伊都国以後の距離はすべて伊都国を基点」とする、いわゆる「放射説」がある。
 しかし「又」がなくなるのは伊都国からだから、「又」の有無が理由なら放射説の基点は末蘆国でなければならない。
 基点を末蘆国にした場合、奴国を比恵・那珂遺跡群辺りと仮定すれば、伊都国(五百里)より遠いのに「百里」しかないので、放射説は伊都国からとされる。しかしそれでは「又」の有無も無関係となってしまうから、何も根拠がなくなる。
 これまで精密に文を見た結果では、倭人伝では、事実に一致しているかどうかは別として、文章自体は論理的に明確である。仮に「ここからは放射状」に変更するなら、以後の各文に、確実に「自伊都国」をつけるはずである。それがない限り、これまで連続してくればこれからも連続する。
 改めて「又」の使い方を見ると「始」と組み合わされて「渡ー海」で始まる3節を繋いでいる。すなわち「始度一海 ~ 又渡一海 ~ 又渡一海 ~」。その後「又」はなくなる。もう各節の分量が少なくなっているので、わざわざ「又」を挟む必要はない。「渡海」の部分は、各セクションが相当長いので「始」と「又」を使用することによて、文章の構造を見えやすくする必要がある。
 「又」と共に里程の「余」「可」など概数文字も消える。このように記述が簡略化されていくのは、やはり資料が手薄になってきた結果である。

【官曰兕馬觚副曰卑奴母離】
 [兕]動物名(サイの一種)。呉音=ジ、漢音=シ。中古音「邪旨上」=zi。
 [馬]呉音=メ、漢音=バ。中古音「明馬上」=ma。

 奴国の副官も「鄙守」である。古くは漢と直接外交関係を結ぶ有力な国であったが、やがて周辺の国と同様に女王国に統属し鄙守の監督を受ける国になった。

【有二萬餘戸】
 邪馬台国7万余戸、投馬国5万余戸につぐ規模である。女王国の支配を受けるようになった後も、なお有力な国であったことがわかる。

【那珂遺跡】
 以後、奴国の歴史をさらに学ぶ。
 那珂遺跡が、福岡市竹下駅から徒歩数分の福岡大同青果にあり、<福岡市の文化財>縄文時代晩期末の二重の環濠集落が見つかっている。環濠は5m間隔で平行して走っていて、平面形は長径160m、短径140mの円形になると考えられている。濠内から夜臼式土器や石器が出土した。</福岡市の文化財>
 縄文時代晩期はBC23~BC18世紀ぐらいとされているから、倭奴國の時代からは2000年ぐらい遡る。

 【那珂八幡古墳】
 <wikipedia>後円部が正円形でなく、くびれ部の広がり方から箸墓古墳と同じ撥形になる、発生期・出現期古墳の典型的な姿を示している。</wikipedia>三角縁神獣鏡も出土している。
 古墳時代は3世紀後半から始まるとされるが、女王国が魏国に朝献した景初3年(239)ごろは、ちょうど古墳の出現期と考えられている。

【比恵・那珂遺跡群】
 旧石器時代から中世におよぶ複合遺跡。2007年3月、3世紀頃とみられる幅7mの道路が100mにわたって確認された。<asahi.com>那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、全長1.5キロの直線道路が復元できるという。</asahi.com>
 南北の大路が整備された古代都市が想像される。ただし、倭奴國の時期ではなく、女王国の支配下の時期の遺跡である。

【漢委奴國印】
 魏(220~265)の直前、後漢時代(25~220)を対象とした歴史書『後漢書』がまとめられたのは、432年で、三国志の編纂(280~290)より後になってからである。倭国についての記述の多くは魏志と共通するので、魏志の記述をそのまま利用したと思われる。
 魏志にない、後漢時代のできごとの記録は、次の2文だけである。

(1) 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
(2) 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

 (2)の永初は、(劉)宋にもあるが(永初元年=420年)、ここでは「安帝永初元年」と皇帝名によって後漢の年号であることが示され、107年にあたる。文意は分かりやすいので、特に取り上げない。
 (1)建武中元二年=57年
 (1)の区切り方; 建武中元二年/倭奴國/奉貢/朝賀/使人/自稱大夫/倭國之極南界也/光武賜以印綬
 奉貢:貢は明らかに<國際電腦>2.貢品</國際電腦>(みつぎ物)。奉が動詞。主語は倭奴國。従って、「倭の奴国、貢物を奉ず」
 朝賀:これも主語は倭奴國。<漢辞海>諸侯や臣下が参内して天子に祝いのことばを述べる。</漢辞海><wikipedia>唐の杜佑が編纂した『通典』によれば、漢の高祖が初めて朝賀儀を行ったとされている。</wikipedia>わが国では「年賀の儀式」として行うようになった。
 使人:=使者。
 自稱大夫:<漢辞海>「自」=動詞句の前に置き、自分自身を対象としてその動作行為を行う</漢辞海>魏志の記述「自古以來其使詣中國皆自穪大夫」を根拠にしたと見られる。「大夫」は、官位にあるものの尊称。
 極:<漢辞海/抜粋/>《名》「もともと家屋の棟(むね)。達しうる最終点。北極・南極」など。《動》「限界まで到着する。極める」《形》「はるかに遠い。最高の」</漢辞海>これまでの経験では、大抵2文字熟語として区切るとうまくいく。3文字の場合は「動詞1文字+2文字熟語」の解釈がよい。
 倭國之極南界也:<漢辞海>主語と述語の間に「之」を置き、多く「也」をともなって、「A之B也」(AのBスルや)の形で、「AがBする(した)とき」と訳し、時間を示す</漢辞海>つまり英語の"when~,"節にあたる。「極」を動詞としてこの句法を適用すると、「倭國の南境を極むや」つまり「倭国が南の境界まで(支配範囲または軍勢を)極めたとき」となる。
 なお、魏志ごろの中国からの地理観では、倭国は北から南に向かって伸びていた。(後の回で詳しく述べる)従って「南界」は、実質的に倭国の勢力圏の東の境界であると考えられる。
 光武賜以印綬:「光武[帝]、[恩恵を]賜るに印綬を以ってす。」「以」《前置詞》は手段を表し、本来の語順は「以印綬賜」だが、倒置しても同じ意味。ただしこの場合の「以」は形式的に動詞となる。
 賜:上の者が下の者にすることを敬って言う。「印綬の授与によって、敬うべきことをしていただいた。」というニュアンスか。
 印綬:<wikipedia/要約/>「印」は印章、「綬」は印のつまみに通された紐。それぞれ格上から玉(ヒスイ)→金→銀→銅、綬は多色[6色;皇帝のみ]→綟(萌黄)→紫→青→黒→黄。漢の時代、諸侯王は金璽綟綬(きんじれいじゅ)[文字「璽」が使われた金印]、冊封された諸国の王はそれより一段下の金印紫綬。</wikipedia>
 「漢委奴國王」の翌年作られた「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」は金璽[そしておそらく]綟綬、「漢委奴國王」「親魏倭王」は金印紫綬。女王国の使者難升米・牛利は天子に朝献し、銀印靑綬を授かった。

[大意] 建武中元二年、倭の奴国が貢品を奉じ、朝賀[天子の前に一同が会して祝意を述べる儀式]に参加した。使者は自ら大夫[官の尊称]と称した。倭国が南の境界まで平定したとき、光武帝は印綬をもって恩恵を賜った。

【金印の発見】
 金印は、天明4年(1784)に志賀島の叶崎(かなのさき)で農民によって発見され、最初に鑑定したのが黒田藩西学問所、甘棠館(かんとうかん)の館長亀井南冥。南冥は『後漢書』の記述から、光武帝から賜った印綬そのものであるという確信を得、黒田藩による厳重な保存に力を尽くす。
 その後根強い贋作説があったが、1957(1956?)年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から発見された「滇(てん)王之印」1981年に中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」(漢委奴國印の翌58年に光武帝の子劉荊(りゅうけい)に下賜)と相当の共通性が見られた。
 1784年の段階で、200年後に発見された金印と酷似する金印の製作は不可能である。特に「廣陵王爾」の鈕(印のつまみ部分)の文様が、同一の鏨(たがね)によって打ち出されていた点などから「漢委奴國印」贋作説は完全に否定された。 
 それにしても後漢書から記述を見つけ、熱心にその発見の意義を説いた亀井南冥の尽力がなければ、どこかの蔵の中でとっくに忘れ去られたであろう。金印の現存は、奇跡と言う他はない。
 残された最大の謎は、なぜ金印が比恵・那珂遺跡群から離れ、志賀島からこれだけ発見されたかということである。志賀島に墳墓や王宮があれば話は分かる。しかし<金印公園>昭和48年に九州大学が、平成元年と5年に福岡市教育委員会が出土地付近の調査を行ったが、金印に関係する新たな遺構は何ら発見されなかった。</金印公園>
 とすれば、第2回で書いた、進出してきた女王国に敗北し、志摩に逃れた部族が将来の再起を記して岩の下に隠したという「勝手な想像」に信憑性が出てくる。と思ったら、既にそういう学説があった。
 すなわち<金印公園>(1)「隠匿説-倭国大乱のあおりで、金印は隠された</金印公園>とする説。
 志賀島(今は砂州によって陸続きになっているが、当時は孤島)に追い詰めれた奴国軍は、かくて最後の絶望的な戦いに臨んだ。
 また、別の想像も可能である。かつての倭奴国の王として栄華を極めた一族が時を経て追放され、逃れた先の志賀島で子孫が細々と生き延びた。金印は岩の下に隠し、もう本来の意味は分からなくなっていたが、一族の宝として密かに祀り続けたのかも知れない。(ならば、それなりの生活痕が発掘されてもいいような気もするが…)
 いずれにしても、「倭奴国の王一族の子孫が、何らかの事情で金印を持って志賀島へ移動した」ことは確実である。

 同じ回でもうひとつ、金印は「委ねる」意味ではないかと考えていたが、建武中元二年よりはるか以前に書かれた『山海経』(戦国時代から秦朝・漢代まで(BC403~AD8)に少しずつ累積された)に「倭」という呼び名があるので、こちらは私の想像が否定された。

【まとめ】
 これまで学んだことから、奴国の姿の推定しまとめてみる。
 奴国は伊都国の東隣、現在の福岡市博多区付近にあたり、後漢の頃に倭国を統一し、代表して朝献する有力な国であった。その後女王国との戦闘に敗北して支配下に置かれ、周辺の国と同様政権中枢に鄙守が派遣され、伊都国の一大卒による監督を受ける立場になった。
 しかし依然として大路を中心に整備された古代都市の威容を誇り、戸数2万戸以上の大きな国である。王は女王国から一定の権威を認められ、死後は新しい墳墓の形態である古墳に埋葬されることを許された。


2011.04.29(金)原文を読む(22) 不弥国

東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
東行不弥国に至る百里。官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。

東に向かい、ふみ国に到着するまで100里。官をたもと言い、副官を鄙守と言う。1000戸余がある。

【「不」はどのように発音するか】
 奴国までと同様に、現在どこかに地名が残っている可能性を追いたくなるのは当然である。
 その前提として、もともとの読みをできるだけ正確に知ることが必要である。
 不弥国の「弥」は「み」でまず大丈夫だと思う。「不」については前述したように、ハ行は古代パ行であった問題があるので、詳しく調べてみる。
<漢辞海より>
 動詞、副詞、形容詞、名詞の用法がある。それぞれの用法によって発音が異なる
 ◎音読み
 《動》《副》《助》[漢音・呉音]フ [慣用]ブ 《形》[漢音]ヒ 《名》[姓に使う場合][漢音]フウ [呉音]フ
 ◎中国語の古い発音
 ・上古音は、周代・漢代(BC10世紀~3世紀ごろ)。発音は、声母(最初の子音)を除いて同じ発音をする文字で表される。
 ・中古音は、三国時代から北宋初期(5世紀~11世紀ごろ)
 ・i は、介音(子音と母音の間に、経過的に短時間発音される)を表す。
 ・t は、破裂音tの寸前の状態で、破裂せずに終わる。(中古音では、この終わり方を「入声」という。なお、この場合母音は短く発音される)
 《動》《副》《助》(上古音)物[入] (中古音)非物入 [fit]
 《形》(上古音)支[平] (中古音)滂脂平[pi/piui]
 《名》[姓](上古音)尤 (中古音)非尤平[fiou]
</漢辞海>
<wikipedia>
 ・上古音の声母[子音]の研究は押韻といった資料に頼ることができないため非常に困難が伴う。
 ・無軽唇音説…銭大昕は『十駕斎養新録』において軽唇音すなわちfといった音はなく重唇音pで発音されていたという説を唱えている。
</wikipedia>
 
 従って5世紀以降の読みは「フィウァ」「ピ」「ピュイ」「フィオウ」。
 仮に無軽唇音説が正しいとすれば、3世紀以前は、「ピュァ」、「ピョウ」と発音したことになる。
 「不弥国」は固有名詞だから、姓名の場合の読みを採用すると、「ポウ」に近いか。
 倭国における口唇破裂音(p)が摩擦音(h,f)化することは以前に述べたが、無軽唇音説によれば、要するに中国でも同じことが起こっていた。だから、「ふ」の過去は必ず「ぷ」だったから、「古代はぷと発音した」ことを意識しつつ「ふ」と読んでおけばよいということになる。
 介音(子音と母音の間の経過的なイ)にあたる音声が、倭国側の発音にあったかどうかは不明であるが、「不」の呉音(国家的な仏教移入より前に、自然発生的に流入していた漢字の読み)が「フ」とされるから、多分なかったのではないかと思う。
 従って「不弥」は、「ふみ」「ほみ」「ほみ」「ほうみ」、音節末尾の子音tが付けた方を採用すれば「ほつみ」「ふつみ」「ほうつみ」となる。
 仮に無軽唇音説が誤りであれば、古代の倭国にハ行はなかったから読みは「ピ」しかないが、ならばなぜ「卑」を使わないのかということになり、なかなか難しくなる。(「不」が他の文字の転写ミスの可能性が出てくる)
 
【「ふみ」や「ふつみ」は地名に残っているか】
 福岡市から海岸に沿って進むと、福津市があるが、これはごく新しい地名(2005年に福間町と津屋崎町が合併)である。その他は、宗像市の海岸近くに「深田」地区がある。こちらは古く、深田郷(ふかたのさと)(<wikipedia>古代国郡制成立時の宗像郡</wikipedia>)まで遡る。「深田」の近くに「深海」(ふかみ)もありそうな気もするが、この程度では根拠にならない。
 だからといってはるか遠方まで捜索範囲を広げたり、無理な漢字の読み方をして近い地名を探すのも非科学的である。
 倭人伝ではここまで見た結果、里程はある程度信用することができる。しかしそもそも地名というものは、残るものもあれば残らないものもある。
 例えば小さな国が有力な国に挟まれていれば、滅ぼされたり、征服されたりする。自然災害や移住により、人がいなくなることもあるだろう。長い歴史のどこかで消滅することは、むしろ普通である。
 末蘆国、奴国はもともとかなり強力だったのは確かだが、律令制の時代まで勢力を維持し、地名が保たれたのは、あくまでも結果である。
 対馬国、一支国は、離島である故に地名が長く維持されたのかもしれない。
 それに対して「不弥国」は、大宝律令以前のどこかで途絶えたと見るのが一番自然であろう。


【里程表記と遺跡の分布を比較する】
 末蘆国に上陸して以来、奴国までは「南東」に来たが、不弥国への道程は「東」になる。ということは、方向を左へ45度変える。海岸線は博多湾沿いに回りこんでいるので、それには合致している。
 距離について見えると、使用される数値は100里、500里、1000里であるから、100里:70~220里、500里=230~700里ぐらいの幅を考えなければならない。
 そこで、奴国から北へ100~300里(5~25km)ぐらいの範囲にある遺跡を調べようと思い、分布図を探した。すると「福岡県の遺跡一覧」というサイトがあった。そのうち、弥生時代後期とされている遺跡を抜き出して地図上に点をとった。
 それぞれの調査報告がwebに上げられたものについては、正確な所在地を見つけることができた。それ以外は大字ぐらいまでしか分からないが、図示した地図の縮尺ならそれで充分である。
 未発見の遺跡も多数あるはずだから、弥生時代後期の人々の生活場所を網羅はできないが、点が密集しているところ(遺跡の密度が大きいところ)は、それなりに当時の人口密度の高さを反映していると想像される。
 共通して、川が谷から平地に出てくるあたりの川沿いである。
 Aは伊都国、Bは奴国である。Bの遺跡の豊富さは、奴国「戸数二万余」の記述が納得できる。
 対して伊都国は遺跡の広がりがないので、こちらも「戸数一千余」に合う。
 Bから北へ向きを変え、不弥国の候補となる遺跡の集合地C,Dがある。
 まずCは、南から順に次の3箇所である
 [唐原遺跡]      福岡市東区唐原 集落 弥生時代後期 竪穴式住居、土坑、炉跡
 [夜臼・三代遺跡群]  新宮町 青銅器 弥生時代後期 筒状青銅器
 [鹿部権現遺跡]    古賀市鹿部 集落 弥生時代後期 竪穴式住居、貯蔵穴、井戸、石錘
 試しに代表点として中央の「夜臼・三代遺跡群」(北緯33度41分56秒 東経130度26分54秒)を選ぶと、B(那珂八幡古墳;北緯33度34分15秒、東経130度26分9秒)からの距離は14.3km=186里、向きはほぼ真北(北から東へ4.6度)である。
 3箇所しかないので、伊都国程度かと想像する。
 Dは、Bに匹敵する大きな遺跡の集合地で、後の宗像郡、現在の福津市、宗像市、岡垣町の一帯である。
 代表点として「高塚遺跡」(北緯33度47分57秒 東経130度32分26秒)を選ぶと、Cを基点として北東(北から東へ37.4度)へ14.0km=183里。BC間・CD間を合計すると369里。
 1000戸余という規模、奴国から100里という条件からは、DよりCの方が不弥国に合うように思われる。

【不弥国?のその後】
 仮にCが不弥国だったとして、地名が残らなかったのは、隣接する那珂郡または宗像郡の勢力に征服・吸収されたか、あるいは住民が住まなくなったためであろう。
 ここが不弥国だったという直接的証拠は何もないが、弥生時代後期の集落が存在したのは事実である。現存する地名から頭の中でアクロバティックな解釈をするよりは、この推定法の方が遥かにましである。
 この調査を本格的に行うには、発掘物の種類や年代を細かく調べ、それぞれの集落の生活や規模を推定して全体像を地図に載せる作業が必要である。そしてどこにどんな規模の集落があったか、時系列的に推定できれば不弥国に限らず、多くの国々の盛衰が具体的に見えてくることであろう。
 それが実現すれば、もはや倭人伝の僅かな記事を頼りにあれこれ解釈することから解放される。


【倭人伝における地理観】
 倭人伝の記述に従うと、九州北部は実際の国土に比べ右回りに55度ぐらい回転している。当時一般的に信じられていた観念的な地理観(地図上の形)によって書かれたと見られる。
 その地理観は、末蘆国まで渡海するまでは大体正しい(但し一支国・末蘆国間の距離は怪しくなってくる)。前述したように渡海するための航海術では、方角だけは正しく測定された。
 しかし、末蘆国上陸後はやや大雑把な歩測と観念的な地理観による方位の混合になった。この地理観はかなり頑迷で、記録官の正しい報告に優先したかも知れない。ことによると記録官自身の意識まで支配されていて、実際に歩くうちに太陽の向きから修正することが可能なのに、確かめようともしなかった可能性がある。

【「宗像国」に触れていないのは?】
 遺跡分布図を見てCを不弥国とすれば、より大きい「宗像国」とも呼ぶべきDの地域についての言及がないのはなぜか、という疑問が生じる。
 その事情を想像するに、
 (1) 基本的に帯方郡の使者が足を踏み入れるのは伊都国までである。
 (2) 例外的に使者が女王国まで足を伸ばす場合は、女王国側に連れられて限られた陸路を通ったあと、奴国か不弥国あたりから船で運ばれるから「宗像国」を知りうる条件がなかった。
 要するに足を踏み入れることができない地域は、知りようがない。

【官曰多模】
 多模に「觚」が付かない。戸数の量詞として「戸」ではなく「家」が使われているので、この項は別種の資料によるかも知れない。この資料では、今日書類上で「様」を省くように「觚」を省く方針で書かれていたと想像してみる。
 だが、この想像はあまりに根拠に欠けるので、考えられる可能性をすべて挙げておく。
 (1) もともと「觚」は敬称ではなく、ある一族の名前の末尾によく使われる(現在の一夫、正雄、義男の「お」のようなもの)
 (2) 「たも」は固有名詞ではなく、そのように聞き取れる役職名がかつて倭国にあった。
 (3) 不弥国の出典資料は、伊都国の資料と別種のもので、敬称と思われるものをそれぞれ「そのままつける」「省略する」という編集方針の違いがあった。

 それぞれについて、少し検討を加えてみる。
 (1)は自然な考え方だが、それぞれの一族の分布と重なるかどうかを検証する必要がある(土器の特長とか、埋葬の様式などを比較する)。
 (2)については、王や主人の古い呼称はこれまで見てきた「ひこ」「ひめ」「こ」「ぬし」、そしてこれから見る「み」「みみ」があるが、「たも」(および近い発音のもの)は見つけられなかった。
 (3)はそのように区別できる裏づけがないから、なんとも言えない。そもそも以前「こ」を敬称的なものと捉えたのは、私の暴走かもしれない。

【副曰卑奴母離】
 不弥国も、近隣の諸国と同様に女王国から鄙守が配置される立場にあった。 


2011.05.04(水) 2013.4.5(金)原文を読む(23) 投馬国

南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南投馬国に至るに水行二十日。官は彌彌と曰い、副は彌彌那利と曰う。五万余戸可(ばか)りなり。

南に投馬(どうま)国に到着するまで水行二十日の距離である。官をみみと言い、副官をみみなりと言う。およそ五万戸余りである。

  【至投馬国】 【水行二十日】 【可五萬餘戸】 【「南」の解釈】 【瀬戸内海コース】 【日本海沿岸コース】 【弥生時代後期の船】 【「投馬国」の読み】
  【「水行二十日」の距離】 【古代の大勢力としての出雲の実在】 【古代の呼称「みみ」】 【古代出雲と初期大和政権の関係】 【「こし族」と「あま族」】

【至投馬国】
 主語は省略されている。動詞「至(る)」と目的語「投馬国」。

【水行二十日】
 既に述べたように「水行」は船による海岸沿いの移動で、「渡海」とは区別される。従って投馬国は離島ではない。なお主語省略で「水」は名詞による連用修飾、「行」が動詞、続く「二十日」は補語。

【可五萬餘戸】
 「可」は動詞「許す」。ここでは「表現を許す」から「およそ~である」の意味。ただし概数表現が「可」「余」と重複するのは、他の部分の精選された表現から見ると「らしくない」。

【「南」の解釈】
 ついに邪馬台国比定地問題に近づいてきた。投馬国の比定地は、邪馬台国の場所によって大体決まってくる。
 邪馬台国九州説をとった場合、投馬国はどうなるか。邪馬台国の候補地は福岡・佐賀・大分などである。この範囲にある邪馬台国と、北九州諸国に挟まれた比較的狭い区域に投馬国が置かれる。ところがそれでは「水行」は不必要で、移動に「20日」も要らない。(水行20日がどのくらいの距離かというのは、後ほど考察する)
 さらに邪馬台国の7万戸余に近い5万戸余の大国が別に存在しているのだから、その規模にふさわしい遺跡(墳墓・環濠・住居・耕作地)が求められる。しかし、現在までの発見では不十分である。最低でも奴国以上の規模が欲しいところなのだが。
 そこでまず、邪馬台国の北部九州説を白紙に戻し、倭人伝の記述に戻って忠実に追って見る。「水行20日」とある以上、海上に南向きの充分な距離が求められる。
 まず九州の東海岸沿いと仮定して見る。すると歴史のある日向の国(宮崎県)辺りが投馬国になりそうである。邪馬台国はそこから水行10日「または」陸行1月と読んで、鹿児島県出水平野のあたり。逆に九州の西海岸沿いに南下したと仮定すれば、入れ替えて投馬国=出水平野、邪馬台国は=日向の国になる。
 ここで早速、それぞれの仮定の可否を検証する。出水平野または日向の国に、魏志の記述に合う大規模な宮殿跡が存在するか? 今後未知の遺跡が出てくる可能性が全くないとは言えないが、現状ではまだ不足である。(鹿児島県の遺跡で弥生時代に該当するのは、奄美大島の宇宿貝塚など。宮崎県は縄文時代・古墳時代の遺跡が多いが弥生時代は相対的に少ない。参考:九州の遺跡・古墳)
 また、近い発音の土地がそれらの近辺にないし、途中から「南行」が貫けなくなるし、「邪馬台国以南」と書かれた二十二国の場所がなくなってしまう。
 さらに不利な点がある。倭人伝における地理観(前述)では末蘆国を過ぎた時点から「南」が時計回りに約50度回転している。ここでまた反時計回りに50度回転して「本当の南」に戻るのは、非常に不自然である。
 倭人伝の書き方に戻るが、距離の表現もまたあいまいになっている。魏国式の里程は放棄され、実体が不明確な日数表現になる。(余談:1里=約76mの「短里」をもって邪馬台国在九州の裏づけとする説があるが、肝心の九州北部から邪馬台国まではそもそも日数表現による距離なのだから全く理屈にならない)

 このように、倭人伝に書かれた方角と、距離・移動方法(水行・陸行)をそのまま適用すると、論理的に成立しないのである。
 かつて対馬国では、現代人をも驚かせた記述の正確さがあった。しかし倭国の奥に進むにつれて、それがだんだんと薄らいできて、ここに来て完全に失われたと言ってよい。

 かくなる上は記述精度の低下に合わせて、読み方も変えるべきである。検討の結果、これからの部分は次のようにして読むことにする。
(1) 「南」は実測した方角ではなく、当時の魏の人の頭にイメージされていた地図の方角と受け止める。*1
(2) 日数による距離表記は、これまでの里程とは質的に異なるので、その意味を別の方法で推定する。
(3) 実在する遺跡や文献との対照による考察は、これまでと比べ精度が大きく落ちるが大胆に行う。

 *1 右図は、<wikipedia>混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)、略称疆理図(きょうりず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。名称は「歴史上の首都一覧図」を意味する。</wikipedia>
 「中国では、古くは倭国が南北に長い列島である」と考えられていた例として邪馬台国畿内説の裏づけにによく用いられるが、魏志の1000年後の製作なので、直接の関係はない。この時代、実はすでに日本列島は正しい向きで認識されていたのだが、列島が90度回転しているのは<龍谷の至宝>李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本を具体的に書き表した最古の地図「行基図」を、不用意に挿入してしまったため</龍谷の至宝>とされる。それなら、縮尺が大幅に異なる(日本列島が極端に小さく描かれている)のも納得がいく。
 それにしても、随分時代が下ってもなお、中国の多くの人々にとっては、細長い倭国の島が南北・東西のどちらに長いのかなどは、ほとんど関心がなかったことの裏づけにはなる。
 なお、後漢書の項で「極南界」の表現から、後漢時代は倭国が南に伸びている地理観があったことを考察した。

 投馬国の話題に戻る。さきほど述べたように投馬国は邪馬台国に匹敵する大きな国だが、邪馬台国とは別の国である。
 そう考えてみて目に止まるのは、出雲の国の存在である。出雲の国については1984年の発掘調査で大量の銅剣が発見されて以来、俄かに古代の大国としての実体が明確になってきた。ことによると九州北部から北陸まで広がる日本海側の大王国であった可能性も、論じられている。
 これを念頭に置いて、考察を続けたい。

 ここで水行の経路を探る。①,②は前項で見て可能性が薄くなった、九州沿岸南下コース。東に向かうとすれば、③瀬戸内海コース、④日本海沿岸コースの二通りがあり得る。

【瀬戸内海コース】
 瀬戸内海コースについては、倭人伝の時代から3百数十年後だが、随書*2に大業4年(608)倭国に裴世清を使者として派遣したときの記録がある。
  *2 随書…<wikipedia>636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成する。第3代の高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成</wikipedia>

 又至竹斯國又東至秦王國…(中略)…又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於倭
 又竹斯(つくし)国に至る。又東へ秦王(しんおう)国に至る。(中略)又十余国を経て海岸に達す。竹斯国自(よ)り以東、皆倭に附庸(ふよう)す。

 海岸に到着した使者裴世清は太鼓・角笛で大歓迎を受け、十日後に都に迎えられる。従って、筑紫国から瀬戸内海を通り、山陽道10数カ国を見ながら大阪湾に上陸したことがわかる。つまり瀬戸内海通過時の進行方向「東」は、隋代には正しく認識されていた。
<漢辞海>
 【附庸】天子に臣従せずに、大諸侯に属す弱小国。
 【於】前置詞として、述部の前に置くことも後に置くこともある。前置では「~において~す。」後置では「於」は読まずに名詞の後に「に」をつける。
</漢辞海>
 「於」はここでは「動作が直接及ぶ対象を表す」が適当。「皆倭に附庸(ふよう)す」つまり「すべての国は(隋の天子にではなく)倭に付き従う。」「附庸」という表現を用いることによって、天子は唯一中国にのみ存在するものが正統で、倭国の王は天子に値しないと、はっきり述べていることになる。隋書ではさらに邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也(邪靡堆は、則ち魏志で謂う所の邪馬臺なり)と、文字「臺」の使用をあからさまに避けているところにも、同じ姿勢が見える。「臺」は、唯一中国における天子の宮殿を指すのであって、東夷の王の居所ではないのである。これは魏志の著者鎮寿が見せた、倭国を中国と対等に扱おうとする姿勢とは対照的である。

【日本海沿岸コース】
<wikipedia> 
 日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。
</wikipedia>
 また、末蘆国の「宇木汲田遺跡」で見たように、北九州の墳墓の遺跡からは大陸伝来の銅剣、装飾品などが多数出土する。このように、弥生時代後期には、日本海沿岸と朝鮮半島との活発な交流があった。当然楽浪郡やその後の帯方郡、対馬国、一支国、出雲など日本海岸との航路があり、船が行き来していた。それに比べて同時代の瀬戸内海側には、直接半島からと思われる文物があまり見あたらないので、交易路は日本海側であったと思われる。
 いわば、当時の倭国の表玄関は日本海側であった。日本海側で勢力を広げていたと見られる古代出雲国については後に詳しく見るが、九州北部を出航する船は通常日本海側を航路としたと見るのが自然である。
 前述のように隋代になった時点では、瀬戸内海航路が確立していた。(畿内から海路を取るには明らかに難波に出るのが好都合)
 しかし、三国時代は日本海側が繁栄し、航路も日本海沿いで、瀬戸内海航路はまだ未開発だったと考えられる。そこで、魏国人が「南」と意識していた方角を北西と解釈し、女王国に向かう船は日本海側を航行したことを前提として考察を続けたい。

【弥生時代後期の船】
 2000年、三重県宝塚古墳1号墳の発掘調査により、国内最大の船形古墳が発見された。古墳時代中期・5世紀初頭と考えられている。倭人伝の240年ごろからは200年弱後のものであるが、大体類似しているであろう。
 長さ140cm、高さ90cmで、儀式用の装飾として突き立てられた蓋(きぬがさ)、太刀、大小の儀仗を含み、ベンガラで赤色に塗装されている。船は手漕ぎ式で、艪の通し穴(ピボット)を3対備えている。
 宝塚1号墳は前方後円墳で、くびれの部分から儀式用広場と見られる部分が方形に飛び出し、船着場を模した作りになっているのが珍しい。遺跡は伊勢湾湾岸南部に近く、海を自在に往来する豪族の支配地だったと思われる。
 壱岐島には、弥生時代の船着場も発掘されているので、卑弥呼の時代九州北部や出雲の国々はそれぞれ船着場を備え、船形埴輪のような立派なものから、丸木船まで日本海を盛んに行き来していたことであろう。

【「投馬国」の読み】
音読み中国語
(呉音)(漢音)(上古音)(中古音)
ヅ、トウドウ尤(平)[_ぃオウ]定候平[ドウ]
馬(上)[_ぃア、_ア、_ウア]明馬上[マ、ミャ、ムヮ]
魚(平)[_ヨ]影魚平[ʔヨ]

・アンダーライン"_"は「不明」
・[ʔ]は声門を閉じたところからひっかけるように頭の(半)母音を出す(実際にはそんなに意識しなくてよい)  「出雲国」の「づ」は、古代[du、ドゥ]と発音されたとされる。「ドウマ」、「デュムヮ」と発音してみると、なんとなく「idumo」に聞こえる。
 なお、太平御覧引用魏志では、「水行二十日至於投馬國」。「至」が動詞で、「於」は固有名詞「於投馬國」の一文字目である。
 もし、太平御覧の方が正しいとすれば、「ヨドウマ」「ヨデュムヮ」となり、ますます「idumo」に聞こえる。

[日本書紀に見る「出雲」の読み]2013.4.5
 『日本書紀』巻第一で、素戔鳴尊(スサノヲ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した後、出雲を去るときの歌がある。
 夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻。
 (八雲たつ 出雲八垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ)
 歌の部分は万葉仮名で書かれ、「伊弩毛」であるが、本文では「出雲」と漢字表記されている。は、「ど」であるが、万葉仮名で「ぬ」に使われる場合もある。だから、7~8世紀ごろ、「出雲」は「イドゥモ」あるいは訛って「イヌモ」と呼ばれたのであろう。

【「水行二十日」の距離】
 前掲「隋書」に「夷人不知里數但計以日」([東]夷人(倭人への蔑称)里数を知らず、但(《副》ただ)日を以って計るのみ)、つまり倭国では「里」を単位に距離を測ることはできず、所要日数で距離を表すと説明している。
 なお本稿では、以前に女王国が軍事的な理由で、倭国内の測量を禁じたのではないかと推定した。
 では水行20日とは、実際どの程度の距離か。その推定に挑む。資料として江戸時代の海運業のデータを用いる。
愛知の博物館/菱垣廻船と樽廻船2
 江戸初期 1700年頃には大坂-江戸間所要日数は早いので10日、おそいので2ヶ月程であったとの記録があります。 平均では27日となります。
</愛知の博物館>
 菱垣廻船・樽廻船は帆船であるので、手漕ぎでは帆船の最大日数である2ヶ月に等しいと仮定する。
 江戸湾岸:北緯35度38分33秒東経139度49分51秒、大阪湾岸:北緯34度41分48秒東経135度24分26秒とすると、直線距離415.3km。
 実際の航路として図の曲線を想定すると、曲線長は直線距離の1.973倍。従って曲線長は、415.3km×1.973=819km
 2ヶ月=60日要するので平均の速さは、819÷60=13.65(km/日) 時速2kmで7時間漕いだ距離にあたる。
 参考としてカヌーの速さを調べると、<カヌー・カヤックって何?>インフレータブル艇の巡航速度は地上をゆっくりと歩く位(4km/h位)です。</カヌー・カヤックって何?>
 従って、海流に逆らって苦しい日もありそうなので、平均14km/日は、妥当だと思う。

 この値を使って、試しに不弥国の推定位置から出雲大社までの日数を算出して見る。(不弥国の位置は前回推定した地点)
 福津市海岸:北緯33度46分15秒東経130度28分15秒 、出雲大社に近い海岸:北緯35度24分12秒東経132度40分0秒間の直線距離は、270.6km。
 図のように経路を四分円の円周とみなすと、直線距離の1.115倍(∵y=(x/√2)×2π÷4)。直線距離 270.6km×111.5=302km。
 だから所要日数は、302km÷14km/日=21.6日。したがって、ほぼ「水行20日」に相当する結果が得られた。なお「~日」はあくまで距離の単位(「そのくらいの日数を要する距離」を意味する)であって、「実際に行ってみたら何日かかった」という意味ではない。

【古代の大勢力としての出雲の実在】
<wikipedia>
 古代出雲は、西部(現在の島根県出雲市付近)と東部(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町日本海)から出発し、統一王朝が作られ宗教国家を形成した。
 律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。
</wikipedia>
 古代の大国出雲はずっと神話の上だけの存在だったが、1983~84年銅剣358本の発見(神庭荒神谷遺跡;それまで全国で出土した銅剣の合計数をこの1箇所で上回る)により、俄かに実在性が顕著になった。他に銅矛16本、銅鐸6個が出ている。
 また、1996年には加茂町(現在の雲南市)からこれまた1箇所で日本最多の39個の銅鐸を発掘した(加茂岩倉遺跡、弥生時代中期~後期)。右の写真では、右側の梯子を上ったところに銅剣、左側に銅矛・銅鐸を発掘したときの様子が再現されているようだ。置いてあるのは当然、レプリカである。
 さらに、2000年に出雲大社拝殿北側から、4世紀の勾玉、大社で言い伝えられてきた巨大な神殿(社伝では高さ32丈=96.8m)実在の証拠となる柱(3本の杉の巨木を束ねて1本にしたもの)が発掘区域内の該当3箇所すべてで発見された。
 その結果、出雲国の姿が急速に実在化しつつある。
 また、帯方郡(当時の朝鮮半島南半分を統治)から見れば、九州北部の国々の東隣(当時の地理観では南隣?)に半島との交流も行っている大国があるのだから、少なくともそこまで倭国の範囲に含めて見ていたと考えるのが自然である。

【古代の呼称「みみ」】
 美称「みみ」をつけて呼ばれる対象は、
<wikipedia>
 いずれもその地方の首長と考えられている。
 和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)、若狭国の彌美(ミミ)神社
</wikipedia>
<日本書紀>神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと=綏靖天皇)と神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、手研耳命(たぎしみみのみこと)を討った。</日本書紀>
<古事記>正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は、天から降りて葦原中国(あしわらなかつこく)を治めるようアマテラスから命令されるが、騒然としていたのを嫌い引き返してしまった。</古事記>
 以上のように、日本海沿岸から近畿にかけて国の王につけられ、また神武天皇前後の天皇に美称としてつけられている場合がある。それがある特定の一族に関係する呼び方かどうかは、全くわからない。
 「みみ」が付くのは、大体中国・近畿・北陸の範囲の分布なので、投馬国もその範囲にあったのではないかと想像される。つまり、九州ではなさそうである。
 ただ、古代出雲の王と見られる「大穴持命」(おおむちのみこと、おおもちのみこと)には使われていない。「みみ」は天子・天皇級の最高支配者には使わず、そのひとつ格下(皇太子、または支配下にある各国の王)を指すのだろうか。魏志の時代になると、女王国に服従した結果「みみ」になったのだろうか。(だとすれば、きっと屈辱的であっただろう)
 あるいは、あくまで「みみ」は「官」のレベルの呼称であって、実はその上に王がいたのか。その判断はむずかしい。

【古代出雲と初期大和政権の関係】
 奈良時代に入り、国家の統一のため、政権の正当性を正史によって証明しようとした。まず私的に古事記が、続いて公的に日本書紀が編纂された。
 全体の印象から、正史の編纂は部族固有の神話を集め、それらを目的に合わせて変形し、再構成されたようすが伝わってくる。
 読み物としては、われらがこの時代すでに駄洒落愛好民族であったことが分かり非常に面白い。
(CGによる想像図)
 平安時代には16丈(48.4m)の社殿があり、何回も倒壊した記録がある。さらに古くは32丈(96.8m)あったと言われる。2000年に裏づけとなる柱が発掘され、建築会社の大林組がコンピュータグラフィックス技術を使って16丈サイズで復元図を作成した。なお、東大寺大仏殿の高さは46.8mで、かつて建っていた東西の七重の塔は100mと推定されている。東大寺に匹敵する大建築が仏教伝来以前の出雲にあったということは、これもまた国家的大事業であったことを意味し、大和朝廷にとって非常に重要な存在であったと思われる。

 ここでは「国譲り」の場面に絞って勉強してみる。
 古事記(712年、太安万侶(おおのやすまろ)献上)によると、天津神(あまつかみ;高天原にいた天照大御神(アマテラスオオミカミ)を頂点とする神々)は、葦原中国(あしならのなかつくに;地上の世界)を平定するために、大国命(おおくにぬしのみこと)やその息子に繰り返し使者を送って交渉した結果、遂に「国譲り」を承諾した。
 その条件は、出雲国に大きな神殿を建てることであった。
 日本書紀(720年、日本最古の正史)では古事記と異なり、高皇産靈尊が中心となり国津神(くにつかみ)の首領大己貴神(おおむちのかみ;大国主の別名)をついに屈服させ、大己貴神は矛を差し出して去った。残った抵抗勢力も平定した。
 それらに対して出雲風土記(733年完成とされる)では、記述は趣を異とする。

 大穴持命…(中略)…詔我造坐而命國者御皇孫命平世所知依奉但八雲立出雲國者我静坐國
 大穴持命(おおむちなのみこと)…詔(つ)ぐ、我国を造り坐(ざ)し而(また)命ずは、御皇孫命(のみこと)世を平らげばなり。知る所(こと)依り奉う。但し八雲立出雲国者(は)我国に静坐(ざ)す。

 オオムチノミコトが…告げるに「私が国を造り、とどまり統治してきたのは、アマテラスのご子孫が世を治める日を迎えるためである。その統治をご依頼申し上げる。ただ、八雲立つ出雲の国は、私がそのまま国にとどまり治める。」

 以上から分かるのは、オオムチ支配下の国土を、相当の苦労を経てアマテラスが国土を奪取した事実である。記・紀の解釈については多様な意見が飛び交うが、これだけは多くの人の見解が共通する。
 古事記では、オオクニヌシが神殿の建設を交換条件として国土を譲ったという、ちょっと信じ難いくらい人のよい話になっている。
 一方日本書紀は、オオムチに対してアマテラス側が少しでも譲歩したと受け取られる表現を、極力排除している。政権が定める正史としては当然のことであろう。
 対して、出雲風土記ではオオムチが代々拡張してきた領土はアマテラスに譲ったが、将来出雲の国になる範囲の領土は守り抜いた。
 ここでは文字「詔」の使用が注目される。動詞「詔」は、もともと「上から下に向かって言う」意味なのは間違いないのだが、名詞では「天子のお言葉」で、これを発することができるのは国中で一人だけである。地元出雲では「かつては倭国の(後の天皇のような存在の)主だった」という意識が残っていたのだろうか。たださすがに一人称に「朕」(ちん)は使わず、「我」である。「朕」を使おうものなら、作者はたちまち成敗されたであろう。
 では、なぜ初期大和朝廷が出雲の継続を許したのであろう。それを戦国時代の歴史から類推してみたい。戦国時代は友好関係・敵対関係相互の入れ替わりは常のことであり、敵として正面から戦ったときでさえ、相手の勇猛さを称え、尊敬を忘れなかった。それは敵味方以前に、同一民族いう意識の基盤があるからである。
 中国は国土が広大だったので、民族間の文化の差も大きく相互理解も困難で、従って敵対関係が絶対化し、敵国は基本的に完全に殲滅すべきものであった。
 それに対して倭国では、部族間の接触の機会が多く敵になったとしても、相手のことはよく知っていた。新興勢力のアマテラスも、出雲国が古い歴史を積み重ねた結果得た宗教的資産の深さ・豊かさをよく承知していたのである。
 アマテラス側の頭がいい支配者は、出雲への勝利が見えた時点で、尊敬に値する精神的権威のない部族による支配はすぐに打倒の対象とされることを恐れ、出雲の宗教的資産をできるだけ継承(というか、すり替え)することにより、支配者としての権威を維持しようと考えた。そのために精神的基盤として出雲の国を残した。
 これを、古事記で「神殿の建築と交換に国を譲った」と表現したのである。その結果出雲の国の数多くの神々が残り、後世に記・紀に書き留められることになったのである。
 これは、江戸幕府が朝廷の宗教的権威を重んじ、征夷大将軍を受任することにより自らの存在の根拠としたのと似ている。
 いわば、出雲―畿内の関係は、京都―江戸と似た関係だと想像するのだが、どうであろうか。

 なお、「大国主」は大きな国主、つまり「多数の国を纏めるぬし」そのものを意味する。個人名ではなかろう。オオクニヌシは「オオムチ」など数個の別名を持つので、実際は複数の部族の連合体だったと見られる。「オオクニヌシ」個人が実在したというより、国そのもの、あるいはそれを代表する誰かの意思と行動を「オオクニヌシ」を主語にして表現したと思われる。
 日本書紀編纂の時代になり、さまざまな神話をうまく縫い合わせるのに苦労するが、もとになる出雲の神話からして、連合した多くの部族の神話を縫い合わせたものだった訳だ。

 ここで久しぶりに倭人伝に戻る。女王国は出雲国を支配下に置くことをもって(まだ狗奴国が残ってはいるが)ひとまず国内の統一を終え、倭国の王として晴れて魏国に献朝したと考えたらどうだろうか。とすれば、投馬国(=出雲国?)が直接帯方郡と接触をもつことには当然神経質になり、その結果五万戸の大国なのに大した情報が得られなかった。
 もし、投馬国で対馬国のように記録官の自由行動が許され、倭人伝の投馬国の項に「雲を突く祠あり」などと書き残してあれば随分面白かったと思う。

【「こし」族と「あま」族】2013.4.3
 第32回で見るように、春秋時代・前漢時代(B.C.6~B.C.1世紀)に長江流域からの渡来人が弥生人に加わった可能性がある。春秋時代の呉・越は広い意味で「越」と総称された。日本では、北陸地方の国名「越」は「こし」と読まれるので、「こし族」と名付けてみる。 一方、636年に完成した隋書に、倭王姓阿毎字多利思比孤、つまりその時の天皇は「あまたりしひこ」という称号をもつと書かれた。記・紀では「あまてらす」をはじめ、神の名は多く「あま」から始まる。また、日本神話の「国生み」や「失われた釣針」と同じ型の神話がオセアニアや中国南部に分布しているという研究がある。 そこで、「あまてらす」をいただく部族を「あま族」と名付けてみる。
 弥生時代の日本に、まず長江流域から東シナ海から「こし族」が渡来し、次に「あま族」がオセアニアあるいは華南から渡来したと考えてみる。 それを推定するひとつの方法として、地名はどうだろうか。何しろ、「まつら」や「いと」など、魏志倭人伝に出てくる地名が、現代まで残存しているのである。
 今、ある部族が新しい土地に訪れ、しばらく定住したとする。彼らが自らをAと称すれば、それを聞いた先住民は、その居住地をAと呼ぶようになるだろう。やがて(例えば100年後)彼らは現地に同化する。しかし、地名Aはその後も長く残るのである。だから、地名は部族の移動の痕跡になり得る。もちろん、由来が違うのに偶然一致する地名もあるだろうから、絶対的ではないが、大量に集めれば系統性が見えてくるかも知れない。
 そこで試しに、漢字表記の違いは無視して「こし」「あま」で始まる市町村名、大字・字、町名を全部洗いだして地図上に記してみた。右図で、が「こし…」、が「あま…」の地名をもつ地点である。
 その結果、興味深いのは"尼フォーラム"の参加地域が見事に赤丸密集地(地名「あま…」が多い地域)と一致したことである。例外は阪神地区と愛知だが、現在は工業地帯で大規模な港湾となっているから、海女漁は不可能である。「あま族」はもともと漁労民族で、記・紀の海彦山彦神話や、倭人伝の「黥面文身して水中の難を逃れる」とも辻褄が合う。
 次に興味深いのは、西日本では青丸・赤丸が排他的(斥け合う)であるのに対し、東日本では混在している。これは、異集団が接触するとき、その初期は文化が異なり敵対し合い、相手を追放するまで戦ったが、時の経過とともに同一化して違和感なく混在できるようになったと考えることができる。そこで、青丸・赤丸がこし族とあま族の民族的な足取りの跡だと考えてそれぞれの移動を推定してみる。
 まず、上陸地はどちらも鹿児島県薩摩半島の西岸である。ここは「坊津」に中国から来る僧侶が多数上陸していたように、古くから長江下流から海流にうまく乗ったときの到着地であったと考えられる。さらに、近くには「奄(アマ)美大島」「天(アマ)草」「甑島」(コシきじま)がある。これだけ地名が揃えば偶然とは言い難いだろう。以下、かなり想像を含む。
まず、B.C400を中心に百越人が(多分何回か繰り返して)渡来し、彼らは「こし」と呼ばれた。
その後、こし族の主流は、北九州から日本海沿いに、山陰→北陸→東北の順に展開した。山陰・北陸に古代王国(出雲王国)を築き上げた。
2世紀初め、あま族が天草から上陸。九州から激しい戦闘が始まる。(これが倭国大乱?)九州はあま族が勝利。九州を追放されたこし族は山陰に集結して迎撃。あま族は瀬戸内海沿いに進み、畿内に王国を築く。この時期の民族的記憶が、神武天皇の東征神話(宇佐→吉備→紀伊水道から潮岬を回って尾鷲)に反映する。
あま族は中国山脈越えで出雲王国に侵攻して撃退されたりする(やまたの大蛇?)。出雲の制圧には手を焼いたが、出雲独自の宗教的権威の保障を条件に2世紀末にやっと支配下に組み込む。(大国主神の抵抗~天孫降臨神話、倭人伝に言う小国の王による女王の共立)
この過程で、こし族は山陰と北陸に分断され、北陸側は「こし国」として東北まで広がる独自の勢力圏を築く。また、こし族の一部は北陸から群馬を経由して関東に進み、主に太平洋沿いに進んだあま族の一部と融合して独自の勢力を築く。
 この筋書きでは、記・紀における神武天皇の東征と大国主神の屈服が、時間的に逆転する。しかし、天界から見て葦原中国(あしわらなかつくに=本州西部)が騒がしい状態になっていた時点で、地上にすでにあま族がいっぱいいて戦闘していなければ、理屈に合わない。 記・紀は何らかの民族的記憶が反映しているだろう。しかしそれは事実がデフォルメされた複数の神話に分割され、パッチワーク的に再構成されたから、順序性は失われていると見るべきである。
 またこの筋書きと「投馬国=出雲」説を組み合わせると、BC4世紀ごろからの百越人の末裔が古代出雲王国を築き、邪馬台国に屈服した後「投馬国」として記録されたことになる。


2011.05.07(土)原文を読む(24) 邪馬台国

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
南、邪馬壱(やまいち)国、女王之(の)都す所に至る水行十日陸行一月(ひとつき)。官は伊支馬有り、次は彌馬升と曰(い)い、次は彌馬獲支と曰い、次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ある可(ばか)りなり。

南に向かい、女王の都である邪馬壱(やまいち)国まで海岸沿いに海路10日と陸路1ヶ月で到着する。大官にいしまがいて、次をみましょう、次をみまかくし、次をなかていと言う。およそ七万戸余りがある。

【至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月】
 主語省略文。動詞「至(る)」。目的語「邪馬壱国」。「女王之所都」と「水行十日陸行一月」は両方とも「邪馬壱国」の補語。
 [補語]…動詞の目的語に続く名詞は、目的語について説明したり言い換えたりする役割をもつ。これを補語という。数値も補語になる。

【官有伊支馬次~可七万余戸】
 以前説明したように、人名は普通の音読みを当てる。「可」は投馬国の項を参照。

「首都」を指す語の移り変わり周(BC1100~)秦(BC771~)漢(BC202~)
京師→京
規模で区別大きく、宗廟がある。
小さく、宗廟がない。
【所都】
 [都]…《動詞》都とする、都を造る。
 表は、『漢辞海』の説明をまとめたものである。表上段のように、現在の東京(皇居がある)のように「みやこ」の意味で使うときと、表下段のように一般的な「都市」(町村より大規模)の意味で使うときがある。
 ここでは、(統合された)倭国の「首都」を意味するのは明らかである。
 [所]…次に動詞が続く場合は、その動詞を体言化する。「所都」にレ点が入り「都とする所」の意味になる。

【水行・陸行は連続か選択か】
 物理的な関係は論理的に誤解の余地なく書かれているので、選択を意味する場合は必ず「或」をはさむと思われる。ここでは「或」がないので「連続」である。

【日本海沿岸の遺跡と水行】
 上陸地点はどこか?港は、当然古代の都市に建設されているはずだ。そこで、鳥取県から京都府までの日本海側海岸沿いに、弥生時代後期の遺跡を検索して拾い上げた。なお、兵庫県は日本海側には特にこの時期の遺跡はなかった。
 .青木遺跡(鳥取県米子市) 北緯35度23分55秒、東経133度22分0秒。
<wikipedia>竪穴住居跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、古墳などの遺構が1,000基以。石器、鉄器、土製品、玉類、銅鏡など数万点。</wikipedia>
 .福市遺跡(鳥取県米子市) 北緯35度24分8秒、東経133度22分6秒
<wikipedia>竪穴住居跡・土壙墓・古墳・横穴墓などの遺構が217基、土器・石器等約35000点。コマ形紡錘車、鶏形土器、子持勾玉、破鏡など。</wikipedia>
 .妻木晩田遺跡群(鳥取県西伯郡大山町~米子市) 北緯35度27分49秒、東経133度27分9秒
<wikipedia>国内最大級の弥生集落遺跡。土器、鉄器、破鏡など。大陸製を含む。</wikipedia>
 .青谷上寺地遺跡(鳥取県鳥取市青谷町) 北緯35度30分46秒、東経133度59分35秒
<青谷上寺地遺跡展示館>
 1991年発見。水分の多い地中に埋もれていたため保存状態が極めて良好で、木製品や金属製品、骨角製品といった通常の遺跡では腐ってなくなってしまうものまで残っていた。弥生時代のBC200頃~AC300頃。鉄製品や古代中国の貸泉(かせん)が出土したことによって、北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との物・技術の交流。単なる村ではなく、海上交通の重要拠点であった。
</青谷上寺地遺跡展示館>
 2006年には、木材は長さ七・二四メートルの木材が、弥生時代後期の高さ10メートルを超える物見やぐらの柱だったことが判明した。
 .智頭枕田遺跡(鳥取県智頭(ちづ)町) 北緯35度15分50秒、東経134度13分27秒
 縄文時代~平安時代の複合遺跡。
<現地説明会資料(2)>
 現時点での智頭町内弥生遺跡では山陰・山陽・畿内系統の土器が検出されていますが、その比率は山陽・畿内に属すると思われる物のほうが多いようです。当時の集落(ムラ)は石器や土器の流通などの交流で連携しており、それが原始国家(クニ)へと発展していったと考えられていることから、智頭町は山陰系とは別の勢力の影響が強かったのかもしれません。
</現地説明会資料(2)>
 .扇谷遺跡(京都府京丹後市峰山町丹波) 北緯35度37分23秒、東経135度4分10秒
<じゃらん観光ガイド/扇谷遺跡>大規模な周濠をめぐらせた弥生時代の高地性集落跡として全国的に注目されている。</じゃらん観光ガイド>

 図のように三通りの海路を想定し、楕円を描いて海上の距離を計算した。そして前項で使用した水行1日=14kmを適用して所要日数を求めた。
 その結果、ほぼ「水行十日」に一番合うのは、青谷上寺地遺跡である。同遺跡はちょうど弥生時代後期から古墳時代に移行する時期に多くの住民が生活し、中国や日本海沿岸との活発な交流が注目されている。また、吉野ヶ里遺跡のような楼台の存在も明らかになっている。
 少し海岸沿いに進んで鳥取へ行くと、畿内に向かう智頭街道の入り口がある。智頭遺跡に山陰、北陸地方よりも、山陽から来た出土物の方が多いことから、智頭街道にあたる道は縄文時代からあったと思われる。
 だから「水行十日」から、「陸上一月」に移る上陸位置が青谷上寺地遺跡であるとすると、(1) 出雲からの海路に要する日数、(2) その時代の都市が想定できる大規模な遺跡、(3) 畿内に通じる古い道の存在、の3点において妥当性があると思われる。

【鳥取県から奈良県までの遺跡の配置が物語るもの】
 通行経路にあたる、鳥取、兵庫、大阪、奈良の各府県の弥生時代の遺跡を、検索して拾い上げた。

 .大中遺跡(兵庫県播磨町) 北緯34度43分38秒、東経134度52分38秒
<播磨町/くらしのガイド/大中遺跡>加古川の氾濫源の東端に。弥生時代中期から古墳時代中期にかけての代表的な遺跡で、約44,000平方メートルの範囲に多くの住居跡。土器、鉄器、砥石、分割鏡</播磨町>
 .池上・曽根遺跡(大阪府和泉市池上町・曽根町) 北緯34度30分7秒、東経135度25分38秒
<池上曽根弥生学習館/池上曽根>弥生時代中期後半。二条の環濠の周囲に500~1000人の竪穴住居。環濠の内側倭掘建柱建物群。</池上曽根弥生学習館>
 .東奈良遺跡(大阪府茨木市) 北緯34度48分11秒、東経135度34分5秒
<茨木市/観光する>この地域の拠点的集落のひとつ。土器、石器、木器、骨角器など生活必需品すべて。1973年に銅鐸・銅戈・勾玉の鋳型が出土。</茨木市>この鋳型による銅鐸が近畿一円・四国に分布する。
 .唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵) 北緯34度34分9秒、東経135度47分59秒
<田原本町/文化財と観光/遺跡>多条環濠を有し、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝など。土器、木製品、石器、骨角器。卜骨などの祭祀遺物、炭化米、絵画土器も。近畿地方の盟主的な集落。</田原本町>
 .坪井遺跡(奈良県橿原市常盤町) 北緯34度31分9秒、東経135度49分15秒
<かしはら探訪ナビ/坪井・大福遺跡>環濠・土杭・井戸・墓地群、木棺墓、線刻画土器。</かしはら探訪ナビ>
 .纏向遺跡(奈良県桜井市旧磯城郡纒向村) 北緯34度32分46秒、東経135度50分10秒
<wikipedia>前方後円墳発祥の地。2008年柵や砦で囲まれた都市の一部検出。唐古・鍵遺跡の十倍の規模。</wikipedia>
<MSN産経ニュース2011・1・21>昨年大量のモモの種が見つかった土坑の中に、魚類(マダイ他)、哺乳類(イノシシ他)、カモ、カエルなど。「各地から色々な食材が集まっているのは面白い。単なる農村ではなく都市的な場所であった。」</MSN産経>
<毎日新聞2011・4・28>大型建物跡の一部とみられる柱穴が見つかった。卑弥呼の時代の4棟の建物より後。「大きな力を持った人物が纒向に引き続き住んでいたことを示す」</毎日新聞>

 D、E、G~Lの遺跡を地図に記入して見る。日本海に面する青谷町(D)と、弥生後期・古墳時代開始期の重要な遺跡が密集する橿原市付近(J,K,L)を両端とすると、他の遺跡はちょうど中継点のような場所にある。智頭遺跡(E)、大中遺跡(G)、東奈良遺跡(I)がそれである。それらは後の智頭街道、出雲街道、山陽道で結ばれているので、街道の原型が存在したと思われる。
 街道の歴史については専門の研究によらねばならないが、智頭遺跡には山陽・畿内から実際にモノが運ばれていた。だから、人の往来があったのは事実である。もちろん土木技術がない時代だから、平地以外は道らしい道にならないが、人が踏み固めたところにハイキングコース程度の道ができていったのだろう。
 当然道幅は一人分ぐらい、起伏は大きく、曲がりくねっていて、断崖絶壁もあれば海沿いは「親不知子不知」のような難所がいっぱいだったろう。原始的な道を原型として、次第に曲線を均し道幅を広げて、整備されて後の街道に移行していったと考えられる。
 街道の起源については、律令制が始まった頃の遺構;<明石市教育委員会/古代山陽道(福里地点)>平成13年10月、発掘調査で現水田面から約30cm下より、古代山陽道跡が大変良好な状況で見つか</明石市教育委員会>った。さらに遡り弥生時代でも、広い地域でモノ・ヒトの交流が始まっていれば"古古街道"があったはずである。
 それを、図の遺跡の配置と後の街道の関係が物語っていると言える。
 
東海道五十三次之内 原  歌川広重作

【陸行一月か?】
 それでは陸路の旅の、平均的な速さはどのくらいだったであろうか。
 まず徒歩で行く旅の例として、東海道の所要日数を調べる。
東海道五十三次のページⅢ
 所要日数は旅人によりかわりますが、平均普通に歩いて12日から15日で江戸から京都まで行けたようです。
</東海道五十三次のページⅢ>
 それでは、東海道(日本橋~三条大橋)の距離はどれくらいか。このデータはたくさんのサイトにあり、125里20町とされている。
 なお、1里=36町。また明治時代に正式に定められた1里は、(216/55)km[≒3.927km] である。
 これを使って計算して求めた493kmを15日かけて歩く場合、1日あたり約33km。毎時4kmで8時間15分歩いた計算になる。
 東海道は古い道だから随分曲がりくねっていたのではないだろうか。2点間の直線距離を基準にすると、曲がりくねっているほど道は長くなる。
 そこで、曲がり具合の激しさを「蛇行度=道路距離÷直線距離」で表すと、日本橋・三条大橋間の直線距離370.4kmで割って1.33。意外に小さく、東海道新幹線1.28と大差ない。つまり直線距離にかなり近い。
 次に、智頭峠を通る鳥取藩の参勤交代に要した日数の記録が残っているので調べて見る。
 鳥取から江戸まで、美濃路、木曽路を使用することがあったが、伊勢路では平均20~21日という記録が残っている。(鳥取藩の参勤交代に関する統計的研究 来見田博基氏による) 
 鳥取-江戸は180里(706.9km)とされていたので、20.5日要するとして一日約35kmと、相当の速さである。
 参勤交代と言えば、大名行列が連想されるが、実際に行列が展開されたのは要所に限られ、ほとんどは実質的な移動だったらしい。殿を運ぶ駕籠かきは専門職として日ごろから相当足腰を鍛えて速さを誇り、随行する家来も専ら乗馬だろう。
 このようにして、日程を極力縮めることが必要だったのである。参勤交代に要する、財政負担がよく分かる。それにしても鳥取藩の国境の難所、志戸坂峠(しどさかとうげ)を、駕籠で運ばれた領主の体力的負担はいかばかりであったか。そのせいかどうか、代々の藩主は揃って早死にであったという。

 さて、鳥取~大和間は、ほぼ鳥取~京都間と同じなので、鳥取江戸間180里から京都江戸間約125里を除いた55里くらいである。一日35kmとすれば6.3日ほどの日程になる。  以上は、江戸時代に整備された街道を歩く場合である。では、古墳時代以前はどうであったか。

 以前に取り上げた随書では、「夷人不知里數但計以日」(倭人理数を知らず、ただ日をもって計る)に続けて、
 「其國境東西五月行南北三月行 各至於海 其地勢東高西下」(その国境まで東西に5月行、南北3月行。それぞれ海に至る。その地勢、東に高く西に下る)とある。
 「東高西下」により、中部山岳を含む関東地方までの地理を大体知っていたと仮定する。また、「海に至る」の表現から「五月行・三月行」は陸行を意味すると解釈してみる。
 「五」「三」は中国の奇数を尊ぶ思想による象徴的な数で、あまり現実性がないと見るのが自然であるが、一応数値として信用してみる。
 東西の端として長崎県平戸、千葉県銚子をとり、子午線間の距離を求めると、1039kmになる。
 東西5か月を1日あたり30kmとすると、30km×150=4500km。従って蛇行度=4500÷1039=4.33。

 
東海自然歩道  全コース(左) 愛知県猿投の林間(右)

 他に蛇行度を調べるために、現代の東海自然歩道(東京大阪間の大規模なハイキングコース)を調べる。
 東海自然歩道の全行程1697.2m。途中、複線化する部分が愛知県と滋賀県にあるので、それぞれの短いほう(計177.9km)を取り除くと、1519.3km。
 両端の高尾山口駅(京王電鉄;東京都)と箕面ビジターセンター(大阪府)の直線距離は354.6kmなので、蛇行度=4.29。
 自然を楽しむために意図的に蛇行させているのは確かだが、その程度はコース図を見る限りそれほど極端ではない。
 東海自然歩道の紹介ページに、参考のために書いてある標準時間を見ると、平地で毎時4km、登山道で毎時2~3kmで計算されている。平地の場合、上に挙げた東海道の旅や大名行列とほぼ同じである。

 以上2つの例から、人々が山野を歩くうちに自然にできる道の蛇行度を、4.3と推定してみる。
 青谷上寺地遺跡(北緯35度30分46秒、東経133度59分35秒)、纏向遺跡(北緯34度32分46秒、東経135度50分10秒)の直線距離=199.1km。
 これに蛇行度4.3をかけて、856km。1日の行程を30kmとすれば、28.5日になる。
 これは「陸行一月」にぴったし合うが、本当に正しいかどうかは、実際の蛇行度を調べてみないと何とも言えない。
 それを調べるには、実際に足を使って現地調査し、ありそうな道を決めていく作業が必要である。

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