魏志倭人伝をそのまま読む。(2)
《原文のテキスト版があります》(pdfファイル) 魏志倭人伝(紹興本)魏志倭人伝(紹煕本)
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2011.05.08(日)原文を読む(25) 其戸数道里可得略載

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
女王国自(よ)り以北、其(そ)の戸数道里略載するを得(う)可(べ)し。其余(そのよ)の傍国は遠絶にて詳(つまびら)かにするを得(う)可(べか)らず。

女王国より北の範囲は、それぞれの戸数・行程の距離を概ね記載することができたが、それ以外の傍らの国は遥か遠くにあり、詳細を知ることができない。

【自女王國以北】
 「自」(~より)、「以」(~をもって、~に限って)は前置詞で、名詞の前に置く。その名詞を前置詞への目的語と言う。
 前置詞+目的語は「前置詞構造」と言い、時間、場所、方法、手段を示し、続く語を修飾する。
 2つの前置詞構造「自女王國」「以北」は、主語「其戸数道里」を連体修飾する。連体修飾とは、体言(名詞など)に対する形容をいう。

【略】《副》 おおむね

【可得】複合助動詞。可能を表す。「~するをうべし。」「可」「得」はそれぞれ単独でも可能の助動詞として使えるが、組み合わせることによって恐らく一層明確になる。
 載せる(他動詞)

→ 載る (自動詞)


【載】
<漢辞海>
 A《動》①[車や船などに]積み込む。のせて運ぶ。②乗りこむ。
 B《動》記録する。
</漢辞海>
 Aで、①は「他動詞」(目的語「~を」をとる)、②は「自動詞」(目的語「~を」をとらない)。つまり、対象物にはたらきかけて物を「載せる」と、行為者自らが動作する「載る」の両方の使い方がある。(右図参照)
 この文中での意味は、Bの「記載する」であるが、「其戸数道里」を主語にとり、自動詞として使われている。

【詳】《動》 つまびらかにする。
 省略された主語「其戸数道里」を受けて、これも自動詞である。

【女王国より「北」とは】
 前回までに見てきたように、「北」は当時の魏の人々の頭の中にある地図の方角である。方角の誤解はともかくとして、末蘆国に上陸以来倭国内を、順次奥へと進んできた。(頭の中では「奥」=「南」である)
 対馬国から邪馬台国までの範囲にある国については、戸数・道里を書くことができた。しかしさらに遠方になると、まだたくさん国々があるが、詳しいことはもう分からないのである。


2011.05.12(木)原文を読む(26) 次有斯馬国

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬国次有躬臣国次有巴利国次有支惟國次有鳥奴國
次斯馬国有り、次巳百支国有り、次伊邪国有り、次都支国有り、次弥奴国有り、次好古都国有り、次不呼国有り、次姐奴国有り、次対蘇国有り、次蘇奴国有り、次呼邑国有り、次華奴蘇奴国有り、次鬼国有り、次為吾国有り、次鬼奴国有り、次邪馬国有り、次躬臣国有り、次巴利国有り、次支惟国有り、次鳥奴国有り、

次しま国あり、次しひゃくし国あり、次いや国あり、次とし国あり、次みな国あり、次こうこと国あり、次ふこ国あり、次しょな国あり、次ついそ国あり、次そな国あり、次こゆう国あり、次かなそな国あり、次き国有り、次いご国あり、次きな国あり、次やま国あり、次きゅうしん国あり、次ばり国有り、次しい国あり、次うな国あり、

【遠絶な国々】
AIUEO二重母音、末尾子音等
伊(イ)鳥(ウ)
K鬼鬼(キ)古(ク)好(コウ)躬(コン)
G吾(ゴ)
S斯(スィ)支支支(シ*2)蘇蘇(ス)姐(シャ、ショ)
Z巳(ズィ)臣(ジン)
T都都(トゥ)對(トゥアイ)
D
N奴奴奴奴奴奴(ヌ)
X華(ハ*1)呼呼(ホ*1)
P巴(パ)不(プ)百(ピャク)
M馬馬(マ)彌(ミ)
Y邪邪(ヤ)惟(ヰ)爲(ユィ)邑(イプ)
R利(り*3)
W
*1 口蓋摩擦音 *2 「チ」に近い *3 RではなくL

 この20国のあとに、「次有奴国」が続くが、これには別の問題もあるので次の項に送り、ここでは20国までを見る。
 邪馬台国「以北」の各国は、律令制後の国名に比較的うまく繋がった。その調子で、のちの国名に近いものがあってもよさそうであるが、残念だがうまくいかない。
 それどころか、これらの国名は見慣れないものばかりで、まるで別世界のように感じられる。

 しかしここは気を取り直して、探索を試みる。

【想定される読み方】
 まず、後世の地名につながるかどうかという問題なので、当時のよみが必要である。そこで表記文字の古い発音に近い中古音を、辞書(漢辞海)で調べた。発音記号の微細な部分はあまり気にしなくてよいので省き、カナで表した。各欄に複数はいっている文字は、使用回数を表す。
 (1) 全体の分布については特定の文字に偏っていることと、「え」列がないのが特徴。ただし、母音「え」は中国の中古音になかったので、もし「え」列があれば他の母音として記録されたと思われる。
 (2) 飛びぬけて多く使われているのが「奴」。後の時代の「きのくに」のように、1文字+「の国」の構成で「の」を表す可能性がある。当てはまるのは「しょのくに」「そのくに」「かのそのくに」「きのくに」。この特徴から、これらは倭国のどこかの実際の地名である可能性が高い。

【発音が類似する律令国は…】
 次に律令制で定められた前後の国名や郡名のうち、発音が似ているものを探して見る。
 見つかったのは、鬼国(紀伊国(きいのくに・きのくに))、鬼奴国(毛野国(けのくに・けぬくに)、紀伊国)、弥奴国(美濃国、石見国美濃郡)、斯馬国(志摩国志摩郡、筑前国志摩郡)、以下はさらに苦しいが、伊邪国(阿波国祖谷渓(いやだに))、姐奴国(大隅国曾野(その)郡)、支惟国(豊前国築城郡(旧)椎田村)。
 さらに、特定できないがあちこちにありそうなのが、邪馬国(山の国)、鳥奴国(鵜の国)。
 これらのうち、可能性が低いものをまず探す。筑前国志摩郡(図の6;伊都国の範囲内)、石見国美濃郡(図の4;古代出雲の勢力圏内)、椎田村(図の9、「女王国以北」の範囲内)、曾野郡(図の8;熊襲の地なので、当時はまだ女王国の勢力圏の外)、祖谷渓(図の7;範囲が狭すぎる)。
 こうやって可能性が薄いものを潰していくと、逆に紀伊、志摩、美濃、両毛が浮かび上がる。だが、残念ながら次が続かない。残りの16国は依然としてどこにもつながらないのである。
 全国の市町村、大字、字までしらみつぶしに調べれば、もう少し増えるかもしれないが、ほとんどは無意味なこじつけに陥るだろう。
 結局「少しは発音が似ているものがある」程度に過ぎないので、推定は不可能である。
 従ってこれらの国々の記述は、九州北部(対馬国以下の数カ国、以後「紀行文資料」と呼ぶ)とは随分質が異なる。別種の資料(以後「傍国資料」と呼ぶ)を引用したと考えられる。「今使訳所通三十国」と始めに書いてあったが、倭国資料については使訳による情報は得られていない。
 傍国資料は名前以外何の手がかりもない上、紀行文資料ほど律令国・郡の地名との類似性が見られないので、相当古いものであると考えざるを得ない。傍国資料の国邑は実際に存在したかも知れないが、その後それぞれの国の範囲や名称が大きく変わったと思われる。
 空間的ばかりか、時間的にも「遠絶」であった。

【発音への疑問】
 また、傍国資料の発音そのものにも疑問がある。
 「華」が怪しいのである。「華」は口蓋摩擦音(息を唇ではなく口の中の方で「ハ」と鳴らす子音)で、古代日本にはない子音なので、倭人は漢字「華」を移入したとき、近い子音[k]を使って「カ」という発音を当てた。(海:ハイ→カイの場合も同じ)
 だから中国の人が「華」に当る発音を倭人が発声するのを聞くことはないのである。
 「呼」も深い「ホ」(ドイツ語のように奥のほうで摩擦)でこれも倭国にないから、倭人は「コ」の発音を当てた。(では「卑弥呼」の「呼」はどうだといわれると行き詰るのであるが。)
 傍国資料は長い年月伝えられた間に変形(筆写の誤りまたは置き換えによる漢字の変化)があるかも知れない。いずれにしても傍国資料そのものの実体がよくわからないので、なんともしようがない。

 結局この部分は、「女王国以遠とされるたくさんの国名のリストが残されていたので、ここに挿入した」ほどの意味しか持たない。


2011.05.16(月)原文を読む(27) 此女王境界所尽

次有奴國此女王境界所盡
次奴国有り。此れ女王の境界尽くる所なり。

次にな国がある。ここが女王国の境界で国が尽きるところである。

【再び極南界について】
魏志の地理観による配置
後漢書の「極南界」による配置

 再度、後漢書の記述 倭奴國奉貢…倭國之極南界也光武賜以印綬 を見る。
 後漢書がまとめられたのは魏志より後だが、倭奴國が朝献した記録そのものは、朝献した時点で残されたと思われる。
 それが魏志で参照され、また後日、後漢書に引用されたのだろう。
 したがって、魏志は記録を見て「奴国は倭国の南の境界である」と認識したからこそ、奴国が女王支配の「境界所尽」と書いた。
 魏志の地理観(頭の中の地図)では北から紀行文資料諸国→女王国→傍国資料諸国→奴国の順に並び、その次に女王に属さない狗奴国がある。
 だから、狗奴韓国から海峡を渡り、上陸した末蘆国から3つ目の奴国(仮にAとする)と、女王支配の境界に有る奴国(仮にBとする)とは遠く隔たっている。
 それでは、奴国Aと奴国Bとの実際の関係はどうだったか?
(1) AとBは実際に別の国であった。
(2) 実際はAとBは同一であるが、別々の資料に出てきたので、A,Bは別の国だと誤解して2箇所に書いた。
(3) 奴国が2回出てくることに気づかなかった。
(4) 2箇所に出てくることに気づいていたが気にしなかったか、知った上であえてそのままにした。

 まず(1)は否定される。奴国はひとつである。と言うのは、金印「委奴國王印」の発見地に近いから後漢書に書かれた奴国はAである。また後漢書には奴国が「南の境界を極めた」とも書かれているから、Bでもある。というわけでA,Bは一体である。
 ところが、それが別々に2回でてくるのは、私の印象では(2)、(3)のような不注意ではない。つまり(4)だと思う。つまり分かっていて、辻褄を合わせる安易な書き換えはしなかった。なぜなら、原資料を恣意的に改竄することになるからである。矛盾が残っても引用は原型をいじらず、そのまま後世の史家に残してくれたのである。
 このような学究的な態度が貫かれているのが、史書としての評価が高い理由だと思う。

 それではなぜ、同一国が遠く離れた場所に二回出てくるかというと、その原因は魏志における地理観(図上)にある。つまり、真の方位「東」が「南」と信じられていたのがそもそもの原因である。
 では傍国資料国の本当の配置はどうだったのか?まず前提として、女王の支配に属さない狗奴国は、九州南部に位置し、奴国に接しているとする。(その理由は次回に詳しく述べる)
 傍国資料諸国巡り(図下)は、まず邪馬台国の北東から始まる。そして関東のあたりで時計回りに大きく反転して今度は西に向かい、紀伊半島南部から瀬戸内海沿岸を通り、最後に再び北九州の奴国のところまで来る。そして奴国は、現在の有明海沿岸地域で狗奴国に対峙しているのである。
 前回、よみ方がたまたま一致した美濃国、毛野国、志摩国、紀伊国もこの大胆な順路を描く材料にした。

 この大胆な推定を検証するために、できたら語呂合わせ以外の考古学的資料がほしい。(だが、調べ尽くすのは相当大変だろう)


2011.05.21(土)原文を読む(28) 不属女王

其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
其の南、狗奴国有り。男子王と為(な)る。其の官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。

その南にくな国がある。男子が王になっている。その官吏にくこち彦がいる。女王の支配下にない。

【男子為王】
 主語:男子、動詞:為(な‐る)、目的語:王。「男子が王となる。」

【狗奴国】
 「くま」と「くな」の語感が似ているから、「狗奴国=熊襲」であるとする説がある。
 しかし、倭語の「m」「n」の区別は、倭人伝の他の箇所については疑う余地はない。なのに、なぜこれだけが…ということになる。
 また、「な」が「ま」に自然に移行するような音韻変化も、報告されていない。
 「ま」は唇で作る音で、同じ位置の「ば」「ぱ」「ふぁ」との移行はよく起こる。
 一方「な」は舌音(舌と歯茎で作る音)で、同じ舌の位置の「だ」「た」との間の移行はありうる。
 しかし「ま」と「な」の間には音韻の法則的な移行はないと見られる。(日本語の「んま」などは別)

 そこで、「ま」と「な」は別のものとして、「くな国」の「な」について考察する。
  第26回で、「奴」の使用回数の多さに注目し、「~のくに」を連体修飾の「の」(例:火の国)と解釈していたが、そのためには3世紀の時点で、倭人自身がすでに「国」の意味で「くに」という和語を使っていたことを証明する必要がある。
 しかし、改めて考えてみると、国名には「美野国」(みのくに)や、「毛野国」(けのくに)、「武蔵野」など、「野」の使用が珍しくない。
 これらは、名詞を連体修飾形にする「の」(乃、之)ではなく、むしろ国土の広がりを眺めたとき、実感してつける「~野」の方が自然である。これならあとに「くに」が続くかどうかも、気にしなくてよい。よって、「国名の末尾には、しばしば『野』がつく。」と解釈する。

 【熊襲】
 では「くま」と呼ばれ始めたのはいつか?
 現在まで、球磨郡も曽於郡(江戸時代まで囎唹郡)も地名が残っている。
 文書での初出は、古事記である。<wikipedia>古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。</wikipedia>
 名称から熊本県南部を中心とする「球磨」と大隅半島北部の「囎唹」の連合勢力の性格が匂う。
 古事記や日本書紀に書かれた「事実」は、景行天皇、または日本武尊が熊襲に勝利したことである。古代大和政権には実際に、球磨・囎唹地方を制圧した歴史的事実があるのかも知れない。
 「くま」とはそもそも何か。「高句麗」(倭語で、「こま」)の渡来人が含まれていたか、当時の西方の敵であったと同じ呼称を当てたのかも知れない。これに特に裏付けがあるわけではないが。
 また記紀で「くま」と呼称していても、後世(ことによると数百年たってから)書かれた物語なので、実際に制圧した時期には、まだ「くま」とは呼ばれていなかったかも知れないのである。(聖徳太子は諡名[おくりな;死後に贈られた名前]だが、現在では生前の行為の主語にも用いる。のと同様に)
 仮に「くな」族(「くぬ」「くの」かも知れないが、ここでは「くな」に統一しておく)が後の「くま」族と同一であったとしても、それは法則による音韻変化ではなく、なんらかの事情によって名称が変わったと見るべきである。

【狗古智卑狗】
 頭を悩ます「くな」「くま」問題に比べれば、古代鞠智族と狗古智卑狗(くこち彦)同一説は、ずっと分かりやすい。よく言われるように鞠智は和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう;<wikipedia>935年、醍醐天皇四皇女・勤子内親王の求めに応じて、源順(みなもとのしたごう)が編集</wikipedia>した古い辞書)によれば、「くくち」と読む。
 狗奴国の官は、くくち(山の麓の谷から平野へ出る口、とされる)を本拠地とする部族の「彦」(=首魁の美称)だったのかも知れない。とすれば、狗奴国は、この地を治める鞠智彦と、他の地域を代表する男子王との連合かも知れない。

【「菊地」との関連】
「狗古智卑狗」が菊地川流域に実存した可能性が出てきたので、もう少し裏付けを探ってみる。すると、次の3点が浮かんでくる。
(1) 倭人伝では、狗奴国について王と官の具体名が書かれているので、少なくとも「遠絶」ではない。「使訳」が来訪できる範囲か、あるいは狗奴国から独自に使いを送ることができた範囲と考えられる。
(2) 「奴国」に境界を接して、その南隣にあると書いてある。
(3) 単独で女王国連合と戦うには、相当の国力=高い生産力(稲の耕作技術など)、整った統治機構、強力な鉄製の武器など、形のしっかり整った国である必要がある。この点で大陸との交流があり、先進地域であった九州が有利である。
 私は以前、狗奴国とは当時まだ関東まで分布していた蝦夷ではないかと考えていたのであるが、稲作の伝搬がかなり遅かったこと、まだ縄文時代の延長上の社会だったことから、国としての対抗勢力にはなり得なかったと思える。まして、はるか遠い大陸に王の名が伝わるほどの交流があったとは考えにくい。

 次第に「当時の九州南部=中央政権への服従を拒む地域」の図式が確かになってきた。そこで、こんどは考古学資料の検討をしてみたい。
大和政権の九州南部への進出
1 小野崎遺跡
2 南鶴遺跡
1 城ノ越古墳、スリバチ山古墳、御手水古墳、向野田古墳
2 生目古墳群
1 チプサン古墳,鍋田横穴群 2 双子塚古墳 3 木柑子高塚古墳 4 袈裟尾高塚古墳
5 西都原古墳群
6 横瀬古墳/大塚山古墳 7 唐仁古墳群 8 塚崎古墳群
1 鞠智城
【九州の環濠遺跡と古墳】
(1) 小野崎遺跡(熊本県菊池市七城町小野崎町畑、北緯32度57分37秒 東経130度44分00秒)
 二重の濠で区切られた城内に土壙や石棺など多数。後漢鏡の出土は、(1~2世紀)の中国との独自の交流を示す。3世紀に環濠集落。
(2) 南鶴遺跡(熊本県阿蘇郡南阿蘇村吉田南鶴、北緯32度49分30秒 東経131度04分02秒)
 規模は吉野ヶ里遺跡に匹敵する可能性がある。
熊本県教育委員会
 阿蘇南郷谷の中央部に位置する弥生時代の集落遺跡、2世紀末から3世紀末。東西約500m、南北約700mの範囲であろうと思われる。この濠によって囲まれた中には多数の住居が建てられていたと考えられる。今年度の調査では約50軒の竪穴住居跡を発見。
</熊本県教育委員会>
(3) 宇土半島:4世紀から前方後円墳が作られ始める。
  宇土半島基部地域に最も初期の前方後円墳…城ノ越古墳(43.5m、三角縁神獣鏡)、スリバチ山古墳(96m)
  御手水(おちょうず)古墳(北緯32度39分52秒 東経130度40分34秒)…<宇土市 歴史年表>三角縁四神四獣鏡出土</宇土市>
  向野田古墳…86m、竪穴式石室,舟形石棺(30歳前後の女性人骨一体、女王か)、4世紀後半ごろ。
  宮崎県宮崎市:生目古墳群…宮崎市跡江地区、3世紀後半~4世紀前半ころ 
(4) 4世紀半ば、百済が起こる。百済を支援して大和朝廷から派兵。
(5) 宮崎県及び鹿児島県
 宮崎県西都市:西都原古墳群…5世紀前半。
 鹿児島県志布志湾周辺:塚崎古墳群(肝属郡肝付町野崎塚崎)…5~6世紀。唐仁古墳群(肝属郡東串良町)。横瀬古墳(曽於郡大崎町)…5世紀。
(6) 菊池川流域:古墳は6世紀が中心。全国に600基ある装飾古墳のうち、この流域に117基ある。
肥後国 くまもとの歴史
 鉄器の普及、耕地の拡大、潅漑(かんがい)技術の発達で、本格的な農業が行われるようになる。菊池川流域でも多くの古墳が造られた。形状から大和朝廷の全国支配の組織の中に組み込まれていたことがわかる。
 菊池川流域に点在する装飾古墳には、古代人の絵が描かれている。図柄でとくに目立つのは「人」、「馬」、「舟」。装飾古墳は全国におよそ600基、そのうち菊池川流域に117基。
</くまもとの歴史>
 双子塚古墳(山鹿市・円墳、6世紀後半)、チブサン古墳(山鹿市・前方後円墳、6世紀初め)、袈裟尾高塚古墳(菊池市袈裟尾、6世紀)
木柑子石人 菊地市―熊本県庁>、
 岩瀬・木柑子古墳群(岩瀬から木柑子、北緯32度57分08秒 東経130度46分38秒)…木柑子高塚古墳など、5世紀から6世紀。
</木柑子石人>
 一方で装飾古墳という独自文化もあった。鞠智城で百済の菩薩立像が出土したように、百済との交流により影響を受けたかもしれない。
  * 装飾古墳…<wikipedia>内部の壁や石棺に絵画、文様、彫刻などの装飾のある古墳の総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。</wikipedia>
(7) 木柑子フタ塚古墳(菊池市木柑子)6世紀後半:古墳時代の終了。
(8) 鞠智城:7世紀後半 朝鮮半島で唐・新羅連合に敗北(白村江の戦い、663)して退却。大和朝廷が築いた。<wikipedia>鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。</wikipedia>
読売新聞 九州発 2009/7/31
 岡田茂弘・国立歴史民俗博物館名誉教授は、「東西両方面から九州南部に向かう古代官道の中心にあった鞠智城は、九州南部統治の拠点だった」と指摘した。
 続日本紀(しょくにほんぎ)によると、薩摩(鹿児島県西部)、大隅(同東部)両国の成立はそれぞれ702、713年。7世紀後半、九州南部には隼人とよばれた人々が住んでおり、まだ大和朝廷の勢力外だった。
</読売新聞>
(9) 鹿児島県は、志布志湾岸の狭い範囲を除いて古墳の発見がない。「存在したが未発見」なのではなく、古墳時代を通して大和政権による支配がなかったから、本当に古墳がないのかも知れない。

【遺跡の空間的・時間的分布】
 こうして遺跡の時代と場所をつなぐと、ある筋書きが見えてくる。(右上の図「大和政権の九州南部への進出」参照)
 弥生時代中期の環濠集落は軍事拠点である。(1)(2)から弥生後期に環濠を備えた独立性の強い国があり、女王国連合と対峙していたと見ることができる。
 (3)では、宇土半島(当時は島?)で、3世紀後半に最初期の前方後円墳が作られ始めたと見られる。初期大和朝廷の拠点が宇土半島に築かれた。
 大和政権側の奴国付近の地域と宇土半島に挟撃され、菊地川流域は5世紀までに大和政権によって征圧された。このときの勝利の記憶が、後の景行天皇あるいは日本武尊が熊襲に勝利する神話に反映されている。
 (5)日向灘側は、球磨側と別に、海側から大和政権の支配下となった。
 (6)(7)、5世紀後半~6世紀は、菊地川流域は大和政権に属し、装飾古墳という独自の文化が栄える。引き続き南進を続ける。
 律令制以後、球磨郡は、熊本県の南東の山間部である。狭い谷間の地域がくま族の中心であったとは考えにくい。はじめは肥沃な菊地川流域まで含む広大な勢力であったが、敗北後山間地に逃れ、子孫が細々と残る地域が、後に「球麻」と呼ばれるようになったのではないか。
 あるいは、敗北後に逃げ込んだ場所が山間の「光の当たらない隅」のような地形だったことから、その時点で「くま」と呼ばれるようになったかも知れない。高句麗に関連付けた「駒」よりは、この方が自然に受け止めることができる。
(8)6世紀後半、鞠智城(右図=復元;熊本県山鹿市)を拠点に隼人に攻勢をかける。7世紀末までに征圧に成功し、薩摩国・大隅国を成立させる。


【九州における南進の歴史】
 すなわち、九州北部からの「南進」が、3世紀後半から7世紀末まで大和政権にとっての大きなテーマであった。
 最後に、これまで調べたことを、ストーリーにまとめてみる。

 菊地川流域以南に、くくち族・くな族の「くな国」があり、女王国(大和政権の前身)に服従していなかった。
 日向灘側からの政権勢力の進出は、3世紀後半から宮崎県西都市周辺、5世紀から九州志布志湾周辺に展開があるがそこで留まった。
 従って日本書紀の日向の国についての記述に、一定の歴史的事実が反映していることが分かる。
 政権勢力の北からの進出は、3世紀後半の古墳時代最初期に、まず宇土半島(当時は島)への上陸から始まる。
 続いて宇土側と北側から菊地川流域を挟撃し、5世紀のうちに菊池川流域の支配を成し遂げた。
 かつての「くな族・くくち族」は敗北して南の山間部に退き、日光を遮る谷間の地形から「くま」と呼ばれるようになった。
 記・紀には、この歴史が「熊襲への戦いと勝利」として神話に反映されている。相手の名称には神話を書いた時代になってからの呼び名;「球磨」「囎唹」が使われたが、実際に戦いがあったときにはまだ使われていない名称である。
 大和政権はさらに南進を続け、拠点となる鞠智城を構築し、日向・志布志と合流して7世紀末に隼人を制圧し、奈良時代を迎えたのである。

 以上、生成期の大和政権が九州で南進を始める前、奴国の南境界で菊地川流域の勢力と対立していた状況を指して、「其の南、狗奴国有り。…女王に属さず」と書かれたと想像するのである。


2011.05.27(金) 2013.3.23(土)原文を読む(29) 一万二千余里

自郡至女王國萬二千餘里
郡自(よ)り女王国に至(いた)る万二千余里。

郡より女王国までは、1万2千里余りである。

【自郡至女王国】
 倭人伝冒頭2行目の「従郡至倭」を繰り返す形でこの文を置くことによって、挟まれた部分(三十国の紹介)をまとめ、区切りをつけている。
 ここで、改めて女王国までの里程を振り返ってみる。
 帯方郡治(郡の太守(首長)の執務地、つまり首都)から、右図のように1つの国を通るたびに里程が示されている。
 しばしば里程に付けられた「余」(あまり)は、端数を丸めたことを意味している。
 例えば距離を1000里の倍数で表すとき、1240里など、1000里に近いときは1000里未満は切り捨て、「追加する端数あり」というニュアンスで「余」をつけ、「千余里」とする。
 逆に1900里のときは、あと少しでまとまった値になるから、これはもう2000里と言ってもよろしい、という意味で「2000里を可とする」つまり「可二千里」と表す。
 したがって、切り捨ての場合「余」を数値と単位(正確には「量詞」)の間に挟み、切り上げの場合は数値の前に「可」をつける。ただし、これは私の推量による原則である。
 切り捨ては概ね500里までとして、平均して250里と仮定する。

【1万2000里】
 そうやって帯方郡治から不弥国までを合計すると、7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。「余」250里を4か所加えて11700里である。(右図参照)
 その結果、ここまでで1万2千里のほとんどを使い切ってしまう。遂に邪馬台国九州説が息を吹き返したか?
 そこで、そのまま九州説を信じて海岸沿いに、あと500里ほどを進む。仮に水行20日+10日、陸行1か月に500里を半分ずつ分けてみると、水行、陸行とも、250里÷30日≒8里。以前求めた1里=0.0767kmで換算すると、倭国では600mが1日の行程である。1日8時間歩くとして、時速75m…この結末はあまりに馬鹿馬鹿しい。やはり九州説には無理があると考えざるを得ない。
 逆に以前検討して得た推定値、水行1日=14km、陸行1日=30kmを使って換算すると、不弥国から投馬国までは3600里、投馬国から邪馬台国までは13500里である。以上の値を単純に合計すると帯方郡治から女王国までは28800里になる。これは12000里の2.4倍にもなる大幅超過である。この結果にも、また困らされる。
 ここは思い切って発想を変えて、12000里を直線距離だと考えてみよう。そもそも遥か遠方にある土地を表すのに「ここからある都市まで~km」という場合「距離」は、常識的には直線距離である。曲がりくねった道路や航路の合計ではない。
 一例として「東京―メルボルンの距離」を考える。船で行けば途中インドネシアの島々の間を通り抜け、オーストラリアの東海岸線にそって大きくカーブし目的地に達する。
 人が「メルボルンは東京からどのくらいの離れてるの?」と聞く場合、普通は最短距離をイメージして聞く。このように曲がりくねった航路の実距離を知りたいわけではない。ストレートに東京・メルボルン間の「最短距離」(幾何学的には2点を通る大円の弧の長さ)によって、位置関係を想像したいのである。

 「帯方郡から女王国まで12000里」と述べた文も同じで、ここまで縷々述べた締めくくりに、地理的関係を大づかみにまとめたいのだから、直線距離と見るのが妥当である。

 以上から、倭人伝では行程距離(道のり)を述べる文と、直線距離を述べる文があると考える。それを実証する鍵が「魏志韓伝」の冒頭にある。

韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓
韓、帯方之(の)南に在り。東西海を以て限りを為す。南倭[国]を与(もっ)て接す。方四千里可(ばか)りなり。三種有り、一、馬韓と曰(い)う。二、辰韓と曰う。三、弁韓と曰う。

 韓は帯方郡の南にあり、東西は海に面し、南は倭国に接する。一辺約4000里の正方形に相当する面積である。3地域に分かれ、第一を馬韓、第二を辰韓、第三を弁韓という。

 帯方郡治の遺跡は現在のところ未発見で、有力な位置としてソウル説と京畿道説があるが、大局的に見ればソウル・京畿道は近接しているので一応ソウルの位置にあったと仮定する。狗邪国は現在の金海市に比定されている。
 韓伝では、韓は一辺4000里足らずとされているから、「郡より狗邪韓国まで7000余里」は、現在の木浦付近で折れ曲がる海岸沿いの行程の距離を意味すると見てよい。1里=0.0767kmで換算すると、ほぼ妥当な値になる。
 改めて1里=0.0767kmの妥当性を確認した。これをソウル―奈良県纏向遺跡の直線距離に適用すると、11570里である。また、当時の地理観では倭国は南に向かって伸びていることを考慮し、当時の「最短距離」は「ソウル―金海市―纏向遺跡の折れ線」にあたるとすると、12330里となり、12000余里にうまく合う。

 以上から、郡より女王国までの距離12000余里はとても正確であるが、しかし居心地の悪さも否めない。なぜなら、倭国の奥に進むと、距離は「水行あるいは陸行何日」という表記のように、漠然とした把握に変わるからである。

 このように困った挙句、古い文書だからはなから信憑性はないと割り切って終わるのもよいが、これまで見たように、数値の表記には無視しきれない正確さも含んでいる。いわば「意味のある値」がいかにして得られたかを、次に考えてみたい。
 そもそも国の統治行為には、国土の面積、戸数、作物の収穫高など基礎データは不可欠である。これは実務的処理で当然数字の羅列になる。文学的に読まれる場合は、あまり関心を持たれない。
 だが、朝鮮半島南部ほどにもなる広さを統治するには、当然自国の国土を専門的に調査する「地理院」(仮にこう呼ぶ)のような部署があったはずである。
 数万から数十万の人口があれば、数学的な才能に優れ、以前取り上げた周代の『周髀算経』など専門書も読みこなす少年も当然現れる。そんな少年を見出し地理院に登用すれば、部署のもつ分析力が向上する。
 そうやって得られた頭脳と歩測データなどの蓄積から、地理をまずまずの正確さで把握することができるようになっていた。
 だから韓伝冒頭の「方可四千里」や、帯方郡~狗邪国の行程、対馬国の地理の数値が一定信頼できるようになったのである。
 しかし対馬海峡沿岸部を除いて、倭国内の正確なデータが得られなかった点に関しては、軍事的な理由で女王国が帯方郡側の歩測を許さなかったからだと、以前に推定した。

 一方で、歴史書の中には、当然実測によらない概念的な書き方もある。
 例えば隋書では、倭国の大きさを「東西五月行南北三月行」と表現している。「五」「三」の使用は実測ではなく、中国の奇数を重んじる文化が背景にあると思われる。
 しかし、「12000余里」は微妙だ。「三月行」のようにぼかす表現もできたはずなのに、有効数字2桁の値を堂々と掲げ得たのはなぜか。

 ここで寄り道して、他の文書で「12000里」を探してみる。

・魏略 自帯方至女國萬二千餘里 …魏志は、先行する魏略を参照したと見られる。女王国の「王」は筆者の過程で脱落したものであろう。

・隋書にも 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 古く云うに楽浪郡境を去り帯方郡に及ぶ。並ぶこと一万二千里。
 古くは、楽浪郡の境を離れ、帯方郡のとなり、12000里のところにあると言われた…「古くに言う」とは、古い歴史書である魏略または魏志を参照したということである。
 それ以前の文書には「女王国」そのものがまだ出ず、魏略が初出である。

 「12000里」の根拠に戻る。理論的に調べるというよりは全くの想像であるが、次の2通りを考えてみた。
(1) 地理院の研究員が、水行・陸行を含めて里程に直す何らかのノウハウをもっていて、それ使って値を得た。
(2) 公式の資料とは別に、倭国に潜入して歩測または水行した記録が存在した。

 いずれにせよ、結果の数値だけは残されているが、導き出した過程は不明である。

【12000里はどこから出てきたか】2013.3.23
 「12000里」は実測ではなく、観念的な数値だという説がある。
 <渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』P.124>王莽は中国の支配領域(「天下」)を方一万里、すわなち一辺が一万里の正方形と定めたのである。…「天下」=「九州(中国)」+「蕃国(四海)」と規定…東夷伝の序は、その外側に「荒域」を設定した</渡辺義浩>
 中国の中心洛陽から西の端にある敦煌までは5000里、帯方郡は北東の角にあり、計算上は5000里×√2だが、後漢書には5000里と記されているという。
 さて、魏志は『魏略』の「自帯方至女國萬二千餘里」をそのまま採用している。この12000里の根拠として渡辺義浩は岡田英弘『倭国の時代』の研究を取り上げている。
 魏志には、倭国王の朝貢(238)の9年前に、太和3(229) クシャーナ朝が朝貢し「親魏大月氏王」が与えられたことが書かれ、「西の大月氏」(戸数10万戸)「東の倭国」(戸数計15万戸)として対比的に扱われている。
 渡邉義浩氏は、岡田英弘氏の「クシャーナ朝と邪馬台国の釣り合いをとるために、洛陽から等距離に置かれた」という仮説に同意している。つまり、洛陽~帯方郡が5000里、帯方郡~邪馬台国が12000里という値は、洛陽~大月氏国間16370里に合わせて決められたとする。(右図)
 その上で、不弥国以遠の投馬国・邪馬台国への行程が、それまでの里数でなく日数表記になっていることに、理念としての<渡邉・同著>帯方郡から邪馬台国までの距離12000里に合わせ</渡邉>ようとする動機によると考えている。
 渡邉義浩氏は、遼東半島の征伐に向かうときの、明帝と司馬懿の問答などから、陸行は使者の足で50里/日、進軍で40里/日と計算している。(これは長里:1里=419m)
 なお、第24回などの私の計算では、30km/日=390里/日である。こちらは短里である。
 渡邉氏の説を要約すると、「陳寿は12000里に合わせるために、邪馬台国は『荒域』つまり中国の外側の辺境の地なので、わずかな距離を進むのに大変な日数がかかることにした。そのためにあえて日数で表した」ということである。

 「大月氏」は紀元前2世紀ごろから中央アジアに存在し、紀元後1世紀初頭からは「クシャーナ朝」となる。しかし、中国ではそのまま大月氏国と呼ばれ続けた。
 <wikipedia>カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現:ペシャワール)におかれ、…3世紀頃、ヴァースデーヴァが王位についた。彼の治世に、三国時代の魏に使者を派遣した記録が残されている。</wikipedia>
 右図は、地樹上に関係する地点の実際の位置をとり、直線距離を調べたものである。ただし、倭国は南に伸びることになっているので、倭国内は折れ線にした。
 里数は漢代の長里(1里=419m)で計算した。但し、帯方郡から倭国までは短里(1里=76.7m)による換算値を併記した。
 これを見ると、「5000里」「17000里」は、観念的な値ではあるが、実測値に案外近い。しかし、倭国付近では短里法や日数表記も混在しているので、これ以上厳密性を求めることはできない。
 これらの数値に対して、陳寿は、数値そのものを改ざんして計算を合わせるようなことはしなかった。案外、個々の実測値と観念的な総距離は別物として割り切っていたかも知れない。
 むしろ、無理に辻褄を合わせなかったおかげで、水行20日、陸行1月の信頼性が増すことになったことが、我々にとっては幸運である。
 
参考文献:渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書2164(2012年)、 岡田英弘『倭国の時代』朝日文庫(1994)


2011.05.29(日)原文を読む(30) 黥面文身

男子無大小皆黥面文身
男子大小無く、皆黥面文身す。

男子は身分や年齢に関わらず、誰でも顔の入れ墨、体の入れ墨をする。

【ことばの意味】
 大小…<漢辞海>身分や年齢の上下。</漢辞海>
 黥面…「黥」は入れ墨。「黥面」は<漢辞海>異民族の飾りとして、また刑罰として顔に入れ墨をする。(三国志・毛玠伝)</漢辞海>
 文身…「文」<漢辞海>線状の模様。体に模様をいれるために入れ墨する。</漢辞海>

【入れ墨の風習】
 土偶の文様は、入れ墨の習慣を物語る。(右図)
 赤野井浜遺跡(滋賀県、縄文晩期)、津寺遺跡(岡山県、弥生時代後期)など。

【渡来人】
 紀元前5世紀ごろ、長江流域の「百越人」(呉、越など諸族の総称)などの渡来があったとされる。彼らはかつて、刺青の風習をもって倭国に移住したと考えられていたようである。今後、続く文を解釈する中で検討していく。

【版による差異】
 紹煕本…「丈身」は「文身」の誤写。筆写者には、古代周辺民族の入れ墨文化の知識がなかったと思われる。
 魏略…もともと、部分的に引用されたものが残っているのみである。「點」は「点」の異字体。「点而文」をそのまま訓読すると、「点じ、而(しかし)て文(あや)なす」つまり「点を打ち、また模様を描く」。キャンパスに人の皮膚を使えば、確かに入れ墨になるが、これだけでは入れ墨とは読み取れない。やはり筆写を繰り返すうちに変形し、「身」は脱落したのであろう。


2011.06.02(木)原文を読む(31) 自称大夫

自古以來其使詣中國皆自穪大夫
古く自(よ)り以来其(そ)の使い中国に詣(いた)り、皆大夫を自称す。

古くからこれまで、その使者中国を訪れ、誰もが大夫を自称する。

【語句の意味】
詣…<漢辞海>到達する、お目にかかる、謁見する。</漢辞海>
大夫…<漢辞海>官吏の身分のひとつ。中央の要職や顧問など重要な地位をしめる場合が多い。</漢辞海>
魏略(257)魏志(290)後漢書(432)隋書(636)
太平御覧引用(983)紹興本(1162)
紹煕本(1194)
自謂太伯之後×××
自称大夫××

【魏略との相違点】
 この文の前も後も、「黥面文身」関係である中、この文だけ、どこか他の箇所から紛れ込んだような印象を受ける。
 魏志に先行し、『魏志』の原型になったと思われる『魏略』を見れば、その真相が分かるかもしれない。
 『魏略』では、其俗男子皆點而文 に続けて 聞其舊語自謂太伯之後 (其の旧語を聞くに、自らを太伯の後と謂う。)
 つまり、「古い言い伝えでは、自ら太伯(たいはく)の子孫だと言う。」という一文があり、「自称大夫」は存在しない。

 太伯(たいはく)は、中国周王朝(BC1046頃~BC256)の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも書く。
 呉は春秋戦国時代(BC770~BC221)の14国のひとつで長江河口地方にあり、BC473に滅亡した。

 また、魏志の抜粋が収められた『太平御覧』は、この部分については通用している魏志「紹興本」「紹煕本」と異なり、『魏略』とほぼ同じである。
 『太平御覧』は977~983年成立で、紹興本・紹煕本(いずれも1100年代)より古い。

 だから、後世「自謂太伯之後」を破損や汚れのために読み誤って「自称大夫」と筆写されたのだと、一時は思った。しかし、『後漢書』に、
 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫
 つまり、建武中元二年(=西暦57年)に派遣された使者が「大夫」を自称したとある。
 三国時代は後漢の後であるが、『後漢書』の成立は三国志の後であるから、『後漢書』の編纂にあたって魏志の「自称大夫」を建武中元二年の使者のところに挿入したと考えることは可能である。
 逆に「建武中元二年…使人自稱大夫」の記録がどこか(宮殿の書庫?)に残っていて、『魏志』『後漢書』の両方がそれを参照したとも考えられる。
 何れにしても、遅くとも『後漢書』成立の432年までに「自称大夫」は、既にどこかに存在した。従って「983年以後に破損または筆写誤りにより「自称大夫」になった」説は、成り立たなくなる。

 となると、次のどちらかだ。
1 『魏志』成立100年以内にすでに、魏志に「自称大夫」版と「自謂太伯之後」版の二系統が存在した。
2 『太平御覧』編者が、「魏志に曰く」として引用する中で、なぜかこの部分だけは『魏略』を引用した。
 どちらも不自然であるが、『魏略』の「自謂太伯之後」から現行魏志の「自称大夫」への置き換えが、実際にあったことだけは事実である。

 ことによると、意図的に変更する理由があったのかも知れない。
 実は、『魏略』の「太伯之後」は文意が混乱しているのである。というのはその後に続けて、倭人は「夏后少康之子」の子孫が渡海した一族であることを示唆しているからである。
 ※ 「夏后少康之子」とは、夏朝(BC2070年頃~BC1600年頃)の時代、会稽郡に封じられた第6代皇帝の庶子「無余」。春秋戦国時代の越の祖とされる。
 呉の始祖とされる太伯はBC1060頃の人だ。「太伯」と「夏后少康之子」のどちらが、倭人の本当の祖なのか?これでは読み手は混乱する。
 しかし、落ち着いて読むと『魏略』は要するに、現在の倭人の「黥面文身」が、かつて長江流域に生活していた「太伯之後」の呉あるいは「夏后少康之子」の越の文化に由来すると言う。しかし、いずれの民族の末裔かを特定するところまでは、踏み込んでいない感じもある。
 それに対して『魏志』は、どちらかに決めるべきだと考えたようで「太伯之後」は明確に否定し、「夏后少康之子」を残した。結局、昔中国を訪れた倭人は確かに「太伯之後」(つまり呉の末裔)を自称したようだが、それは全く信用できないとして、「倭の使者は皆『大夫』を自称していた」に、差し替えてしまったのである。
 しかしその結果、新たな問題が生じた。置き換えた後の「大夫」は「黥面文身」とは無関係な言葉なので、場違いな一文が紛れ込んだように見えてしまうのである。(私も、はじめはそう読んだ)
 だから『太平御覧』編者は『魏志』の「大夫」は筆写の誤りと判断して、『魏略』の「太伯之後」に戻したのかも知れない。

 ところで、春秋時代の「呉」から、日本列島への渡来があったと見られる証拠も出てきている。詳しくは次の回で述べる。


2011.06.09(木)原文を読む(32) 夏后少康之子

夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害
夏后(かこう)少康(しょうこう)子に之(お)いて会稽に封ず。断髪文身以って蛟龍(こうりゅう)之(の)害を避く。

夏后(かこう、夏王朝)の少康は、その子を会稽(山)に封じた。(その子無余は)頭髪を短く刈り、入れ墨をしてみずちの害を避けた。

 ここで突然、大昔太古の伝説が登場する。どのくらい古いかというと、三国時代から2000年ぐらい遡る時代である。そんな古い文が、なぜここに出てくるのか。その謎を探るために、まず魏略と比較する。
 魏略逸文(後世の歴史書の引用から拾った断片)では、「太伯之後」の次の文は、
  昔夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之吾今倭人亦文身以厭水害也
 である。
 最後の「害」が「吾」の誤写たとすれば、「夏后少康…蛟龍之害」は魏志と完全に一致する。また魏志では、冒頭に「昔」が付けてあるので、「今倭人…」の「今」に対応していて、分かりやすい。
 夏后少康の部分の意味を調べるうちに、春秋戦国時代(BC770~BC221)における長江下流地域の歴史に関わることが分かってきた。
 ここの勉強の成果は多岐にわたるので、はじめにその要約を示す。

【要約】
 呉・越間の熾烈な戦争は有名で、現在のわが国でも普通に使う「臥薪嘗胆」「呉越同舟」「会稽の恥」という諺もここから生まれた。
 長江下流域以南の民族は百越人と呼ばれ、長安を中心とする中央とは言語も異なっていた。
 伝説によれば、越の始祖は「夏后少康之子」(無余)、また呉の始祖は「太伯」とされる。(太伯は魏略には出てくるが、魏志には取り上げられていない)
 無余は「夏」、太伯は「周」の皇帝の血統であるが、2人とも、それぞれの国の始祖のなるにあたり、わざわざ文身する(入れ墨をする)ことによって現地に同化したとされる。
 この話から、中央には「文身」の習慣が全くなかったのに対し、呉・越には、「文身」の習慣があったことが分かる。
 その後BC600年ごろから、中央政権西周の全国支配の崩壊に伴い、呉・越とも覇権争いに参加する。
 呉はBC473年に越に敗北して越に吸収され、越はBC334年に楚に敗れ実質的に崩壊した。
 魏略・魏志は、呉・越のどちらか(あるいは両方)の子孫が渡海して、倭人になった可能性を暗示している。
 それでは詳しく述べる。

【越の始祖、無余】
 夏は、古代の伝説上の王朝とされていたが、実在を裏付ける遺跡が発見されつつある。ただし、呼び名としての「夏」は後世の人によると考えられている。
 夏后=夏王朝(BC2070頃~BC1600頃)の少康(しょうこう)は、14世17代中第6代の帝。庶子無余を始祖「禹」(う)の聖地会稽山に封ずる。
※「封ずる」=一定の土地の領有を認め、その地の王に任命すること。

【呉越春秋より】
 呉越春秋: 中国の史書。6巻本と10巻本とがある。後漢の趙曄(ちょうよう)撰。春秋時代の呉・越両国の興亡を記したもの。
[越王無余外伝 第六]
 禹以下六世而得帝少康
 禹以下六世にして帝少康を得。
 禹から6代目の帝が少康であった。

 少康恐禹祭之絶祀 乃封其庶子於越 號曰無余
 少康、禹祭之(の)絶祀を恐れ、之(すなわ)ち庶子を越に封ず。号、無余と曰(い)う。
 少康は帝禹の祭祀が途絶えることを恐れ、庶子を越に封じた。(封じた庶子の)呼び名を無余と言う。
{意味と文法}
祀:《名》まつり(祭祀)
之:《助》主語Aと述語Bの間に「之」を置き、「A之B」とすると、この文の独立性が失われ文の主語や目的語になる。「AがBすること」
乃:ここでは《副》「すなわち」(前文からの因果関係を示す)

【史記より】
 史記=前漢の武帝の時代、司馬遷によって編纂された歴史書。

[史記·越王句践世家第十一]
 越王句踐 其先禹之苗裔 而夏后帝少康之庶子也 封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷發 披草萊而邑焉
 越王句践 其(そ)の先禹(帝)の苗裔(びょうえい)。而(しか)して夏后帝少康之庶子也(なり)。会稽に封ず。 以て禹之祀を奉守す。 文身断髪す。 草萊(そうらい)を披(ひら)き而(しか)して焉(これ)を邑(ゆう)とす。
 越王句践について。遡れば禹帝(夏王朝の始祖)の子孫で、夏后帝(六代皇帝)少康の庶子(無余)である。(無余は)会稽(山)の諸侯に任ぜられ、禹帝の墓所を守り、祭祀を執り行う。荒地を切り開き、国を築く。

{意味と文法}
苗裔=子孫、末裔。庶子=ここでは、正式な世継ぎ以外の子。断髪=髪を短く切ること。草萊=雑草、荒地。披=切り開く。邑=城壁、宮殿、住居からなる支配地。
论语说文 |【史记·越王句践世家第十一】
 文身断发是我国古代南方民族的一种习俗(一種習俗)。(文身断髪は、我が国(中国)の古代南方民族の習わしの一つである)
</论语说文 >
 「断髪」は、現在の中国では「剪短头发(剪短頭髮)」と訳される。さらにgoogle翻訳に通すと"hair cut"なので、民族文化に伴う特定の髪型を意味せず、単純に「髪の毛を切って短くする」行為を指すと解釈されているようである。

※禹、少康、無余、允常の関係を確実に読み取るためには、さらに読み進むことが必要である。
 後二十餘世 至於允常 允常之時 與吳王闔廬戰而相怨伐 允常卒 子句踐立 是為越王
 二十余世の後、允常(いんじょう)に至る。允常之(の)時、呉王闔廬(こうろ)と戦い、相(あい)怨み伐(う)つ。允常卒(そつ)し、子句践(こうせん)立つ。是(これ)を越王と為す。
 二十余代の後、允常王に至る。允常の時代、呉の王、闔廬と戦い、互いに憎み、討伐しようとする。允常が没し、子の句践が越の次の王となる。

 元年 吳王闔廬聞允常死 乃興師伐越 越王句踐使死士挑戰 三行 至吳陳 呼而自剄
 句践元年、吳王闔廬、允常死すを聞き、乃(すなわち)師(し=師団)を興し越を伐(う)つ。越王句踐、死士を使わし挑戰す。三行にて吳陳に至り、呼(さけ)び自ら剄(くびき)る。
 越王句践元年(BC496)、呉王闔廬は允常の死を聞き、師団(2500名規模の軍事単位)を組織し、越を攻撃した。越王句践は決死隊を遣わし戦いを挑んだ。三列の隊列を組んで呉陣に突入し、喚声をあげ、自らの首を刎ねる。


 吳師觀之 越因襲擊吳師 吳敗於嚭李 射傷吳王闔廬 闔廬且死 告其子夫差曰必毋忘越
 呉師之(これ)を観る。越、因(よ)って呉師を襲撃す。呉、嚭李(ひき)に於いて敗るる。呉王闔廬を射傷(しゃしょう)す。闔廬且(まさ)に死なんとし、其の子夫差に告げて曰く「必ず越を忘るる毋(なか)れ」
 呉師団は、その光景に驚き見入る。越はその隙を衝いて呉師団を襲撃し、呉は檇李(すいき)の地で敗北した。呉王闔廬は射られて負傷した。闔廬は死に際にその子夫差に「決して越を忘れてはならない」と言い遺した。
※衝撃的な作戦である。最後のところで感想を書く。

 ここまで読めば、「夏の始祖禹から数えて6代目の皇帝少康のとき、その庶子を王として会稽山の聖地に派遣して国を開いた。その遠い子孫が允常で、後を継いだ句践とともに呉と死闘を繰り広げた」という理解で間違いはない。したがって、冒頭の「越王句践」は文の一部ではなく、見出しである。
 さて、越の始祖は夏の6代皇帝少康の子であるが、越国が具体的に歴史に姿を現すのはBC600年頃である。それまでは、皇帝の支配下に位置付けられた諸侯にすぎなかった。それが春秋時代になり、統一政権の崩壊に伴い、一気に各地方に覇権への意欲が生じたということであろう。
 なお、皇帝少康の庶子の名前「無余」と同名の王が、句践の七世後にも挙げられている。
 夏王朝はBC2070頃~BC1600頃で、全部で17代とされるから、案分すると6代皇帝はBC1900頃。允常の即位はBD538だから、無余から1400年ぐらい。1世30年とすると、「20余世」は700年ぐらいなので、大分不足する。
 史記で年が具体的に書かれた初めは、「共和」期のはじまるBC828年ということなので、それ以前の年数は不確かである。またある民族の王朝を、古代の正当な王朝の枝分かれとして始めるのも、呉の太伯や、我が国の家系図にもあることなので、これは系図創造における共通法則と考えられる。
 「わが家は、太古、こんな尊い方から始まった」という権威が必要なのだろう。 そうしてみると、「少康の庶子」は歴史というより、伝説である可能性が濃厚である。

【避蛟龍之害】
 「皇帝少康の庶子」が文身断髪した意味について考える。
 まず、蛟龍とは何か。
 「蛟竜(こうりょう)、雲雨(うんう)を得(う)」という諺がある。意味は、雌伏していた英雄が才能や実力を発揮するチャンスを得るというたとえである。
 蛟龍は水中に棲息し、雲雨に出遭うと天に昇って龍になるとされる。蛟(みずち)または、蛟龍(こうりゅう)は、最高位の龍のひとつ手前の段階。一説によると、未熟なものから全部で7段階ある。
 以上から、魏志の大意は「昔、夏后少康之子は文身によって水中の害を避けた。今、倭人の文身は潜水漁の間の難を避けるのが目的である。」
 なので、越人は、もともと漁労民族であったと考えられていたようだ。

【呉の始祖】
 次に、魏略に取り上げられ、魏志では無視された「太伯」について見る。
 周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
 太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。紀元前12世紀~紀元前11世紀頃の人物。
<wikipedia>
 司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高かった。長子・太伯と次子・虞仲は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、首長に推戴された。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったのは文明地帯に戻るつもりはないという意思表示であった。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称した。
</wikipedia>

 興味深いのは、無余と太伯の話の共通性である。どちらも、皇帝または皇帝に繋がる家系の庶子が、呉または越で文身することによって現地に同化しその地の王になる。
 ことによると、古くからそのような伝説があって、両方ともそこから作られたのかも知れない。

 さきほど史記で見たように、越と呉は熾烈な戦闘を繰り返したが、最終的にBC473年、句践率いる越が、夫差の呉に勝利し、呉は滅びる。
 その後呉と越は同化する。越も334年、無彊の代に楚の威王によって滅ぼされた。その後、秦によってBC223年、呉・越だった地域に会稽郡が置かれた。
 呉、越を含め長江以南は広い意味で越と呼ばれた。そこにいた諸族を総称して「百越人」と呼ばれる。
 長江以南から倭に渡来した人々は、呉人でも越人でも、「越」と呼ばれたとされる。

【倭国に渡来した可能性】
 では、実際に渡来したのか?
<wikipedia>
 1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)による発表「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」
 つまり現代の江蘇省(春秋時代の呉)で発掘された百越人の一部族である「呉」人の人骨が、隈西小田遺跡(大宰府一帯)で発掘された人骨と同じ部族のものであることが証明された。
</wikipedia>
 この発見によって、春秋時代から前漢時代(BC770~AD8)に渡来した百越人が倭人の一部を構成したことが実証された。(魏志の時代3世紀から見れば数百年前)魏略に言う「我等は太伯の子孫なり」という代々の言い伝えが本当にあってとしても、不自然ではない。
 律令制以後の「越」(こし)は福井~新潟の日本海沿岸であるが、北九州から移って行った人々の国という想像は可能である。「こし」は現在も「お越しになる」というが、「来し」つまり「渡来した人」という意味かも知れない。
 魏略・魏志は、文身の目的として、もともと「水中の難を逃れるため」とする点で越人と倭人の共通性を見出したが、渡来するとき実際に潜水漁と文身の文化をもってきたかも知れない。

※付記【呼而自剄】
 死士は、死を恐れぬ勇猛な戦士とするのが一般的。「死刑囚で構成した軍」という解釈もあったが、死刑囚に刀を持たせ戦場で自刃を命じたら、その場で敵方に寝返って味方に襲い掛かるだろうから、危なっかしいことこの上ない。(自刃命令ではなく、「戦場で見るべきはたらきをしたら赦す」と言ったのなら別である)
 「自剄」を自ら首を差し出し敵方に刎ねさせるという解釈もあったが、それでは敵を勢いづけるだけである。
 ここはそのまま素直に読んで、「大声で叫び、刀を首筋に当てて自ら刎ねる」と解釈する。こんな行動をいきなり見せられた敵軍は混乱し、目を丸くして見入るしかないだろう。
 その隙を衝いて、後ろに隠れていた2列目、3列目の兵が襲い掛かってきたらひとたまりもない。
 1列目の「死士」は、文字通り自らの死を捧げて作戦を成功させる役割を担っていた。
 世紀の珍作戦だが、そのまま事実として信じるのは無理である。伝説であろう。
 戦いの一場面で、たまたま追い詰められた兵が、「かくなる上は」と派手に自らの首を刎ねるのを見た敵が度肝を抜かれ、その勇猛さに恐れおののいた、ならあり得る。(我が国の戦国時代では、珍しくなかった)それが後日、脚色されたのかも知れない。


2011.06.11(土)原文を読む(33) 今倭水人

今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
今、倭の水人(すいじん)好(よ)く沈没し魚蛤(ぎょこう)を捕う。文身し亦(また)以(もっ)て大魚水禽(すいきん)を厭(いと)う。

今、倭の漁労族は潜水し、魚介を捕えることを得意とする。体に入れ墨し、(越の始祖と)同様、それにより大魚、水鳥を嫌がり避ける。

【魏略との比較】
 この部分は、魏略では次のとおりである。
 今倭人亦文身 以厭水害也 今倭人亦(また)文身し、以て水害を厭(いと)う也(なり)。

 「水害」は、潜水中遭遇する難のことだと思われるが、「水害」が具体的に何を指すかは示されていない。しかし、魏志に比べ簡潔明瞭である。

【文身】
 倭人は、古くは潜水中の安全を願って入れ墨をした。潜水の習慣を説明するために、末盧国で書かれた「好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」を再び使用している。
 ただ、ここではアワビがハマグリにかわり、高級感がなくなっている。
 潜水漁の穫物の代表はあくまでもアワビであろうから、ハマグリという特定の種類を指すというより、「魚蛤」で魚介類一般を表現したと考えられる。
 なお、「水人」は、倭人のうち、沿岸の漁労部族を指すと思われる。

 魏略でいう「水害」の内容は、魏志の大魚、水鳥(または水中の哺乳類の可能性もある)にあたる。だが、大きな魚や水鳥がそんなに恐ろしい理由は何だろう。
 倭人が言った通りを書いたのかも知れないが、しっくり来ない。

 前回述べたとおり、魏略・魏志は、それぞれ「祖先は、水中で難を逃れるために文身していた」ところに、越人と倭人の共通性を見出した。しかし越人の末裔が倭人だとは、断定していない。
 魏略は単に「倭人は自称している」と書き、魏志はそれすら書かず、ただ越人と倭人の祖先を並べて可能性を暗示するのみである。


2011.06.12(日)原文を読む(34) 諸國文身各異

後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
後稍(ようや)く以て飾(しょく)と為(な)す。諸国文身各異(ことな)り或は左、或は右、或は大、或は小なる。尊卑、差有り。

その後次第に飾りとなる。諸国の文身はそれぞれ異なり、左にあったり右にあったり、大きかったり小さかったりする。身分の尊卑によっても違いがある。

 つまり、かつては潜水漁の際身を守る文様としての意味があったが、現在(三国志の時代)では、諸族ごとに彫り位置、大きさ、デザインが異なり、それぞれのアイデンティティーを表現する。

【宗像氏】
 ここで思い浮かぶのが、現在の宗像市付近を拠点としていた古代の部族、「宗像氏」である。
 宗像氏645年の大化の改新後、神郡(宗教的な性格を与えられた郡)宗像郡を司る。後に武士になる。宗像郡成立の前は、日本海側を広く支配する海洋部族だったようだ。
 宗像氏は、胸形氏とも書かれ、もともと胸に文身していたからそう呼ばれるようになったと言われる。この説の確実な出典を探しているが、実はまだ見つからない。
 案外、昔から倭人伝の読者が「胸形」の字を見て、「これが『諸国文身』の例だ」とそれぞれが解釈して広く言われるようになったのかも知れない。

【尊卑有差】
 また尊卑によっても違いがあるということから、この時代は既に家系、(あるいは職能集団だろうか)身分が代々固定された社会だったことが分かる。

 黥面文身について書かれた部分は、ここまでである。この部分に94文字を費やしているところに、この習慣に対する強い興味が伺える。


2011.06.16(木) 2013.03.24(日)原文を読む(35) 会稽東冶の東

計其道里當在會稽東治之東
其の道里を計るに、当(まさ)に会稽東治[冶]之(の)東に在るべし。

その距離の計測から、(女王国は)ほぼ会稽郡東冶県の東にあると考えられる。
 秦王朝が、BC222年に会稽郡を置いた。最初の郡治は呉県[1]に置かれた。
 前漢時代には諸侯を封じるようになったが、BC154年、当時この地に封じられていた呉国の反乱(呉楚七国の乱)を鎮圧後、会稽郡は漢による直轄支配に移行する。
 BC110年に閩越国滅亡。冶県として会稽郡に追加。地図と表はその頃の26県を示す。
 後漢時代の129年、北部13県(●;A)を分離して呉郡を創設。郡治を山陰県[9]に移した。
 196年、冶県[25]は分割され、東冶県と侯官県になる。
 三国時代、呉(220年~280年)は臨海郡、建安郡、東陽郡を分離。西晋時代(280~)には(●;B)の十県のみになった。

【参考資料】百度百科
1呉県江蘇省蘇州市市区内呉郡を分割する前の郡治。()
2曲阿県江蘇省丹陽市一帯()
3烏傷県浙江省金華市域内
4毗陵県江蘇省常州市域内()
5餘暨県(余暨県)浙江省杭州市蕭山区域内三国時代に永興県()となる。
6陽羨県江蘇省宜興市域内()
7諸暨県浙江省諸暨市域内()
8無錫県江蘇省無錫市域内()
9山陰県浙江省紹興市越城区域内古く越王句踐の都、呉郡分割後の郡治。()
10丹徒県江蘇省鎮江市京口区丹徒鎮()
11餘姚県(余姚県) 浙江省余姚市域内()
12婁県江蘇省崑山市一帯()
13上虞県浙江省上虞市域内後漢末期に分割。上虞県()+始寧県()
14海鹽県(海塩県)浙江省平湖市一帯()
15剡県浙江省嵊州市域内()
16由拳県浙江省嘉興市域内()
17大末県浙江省衢州市域内
18烏程県浙江省湖州市域内()
19句章県浙江省寧波市江北区
慈城鎮王家壩村
()
20餘杭県(余杭県)浙江省杭州市市区內()
21浙江省寧波市域内()
22錢唐県浙江省杭州市市区内()
23鄮県浙江省寧波市域内()
24富春県浙江省富陽市域内()
25冶県福建省福州市市区内古くは閩越の地。(後漢時代に分割) 東冶県+侯官県
26回浦県浙江省台州市域内


 この文は、「自郡至女王国万二千余里」に繋がるべきものである。
 「会稽東治」は、後漢書では「会稽東冶」となっている。

後漢書:其地大較在會稽東冶之東
その地大いに較(ほぼ)会稽東冶の東に在る。
その地、大体会稽郡東冶県の東にある。

【会稽郡】
 秦王朝(BC771~BC206)はBC223年に楚を滅ぼし、BC222年に楚の長江以南を範囲として会稽郡を置いた。
 前漢(BC202~8)の時代は、呉郡と称されるようになり、呉郡を含めた地域は諸侯に封じて支配させる。楚国、次に荊国、次に呉国が置かれた。呉国王の劉濞はBC154年に呉楚七国の乱を起こし、同年のうちに平定されると呉国は廃止され、会稽郡は前漢による直轄支配に移行する。
 呉楚七国の乱征圧により、諸侯による封建体制が衰退し、武帝による中央集権が強まった。
 閩越国滅亡(BC110)後、その地域が冶県として会稽郡に加わった。その時点の会稽郡、26県を示す。(右図)
 後漢(25~220)成立後の129年、会稽郡北部13県(右図赤印)を分離して呉郡とし、郡治が置かれた呉県は呉郡に属したので、郡治を山陰県に移した。
 196年、冶県が東冶県と侯官県に分割された。
 後漢時代の末、上虞県の一部が分離し、始寧県成立。(後漢書・郡国志四の「上虞県」への李注;「漢末に南郷を分ちて始寧県を立つ」)
 三国時代の呉(220~280)で、余暨県が永康県となる。その後、臨海郡、建安郡、東陽郡を分離し、西晋時代(280~316)には十県のみになった。(右図青印)

 以上から、三国時代の会稽郡は、北緯24度から北緯30度ぐらいの、東シナ海沿岸地域であった。
 郡治の山陰県は会稽郡の北部(現在の紹興市越城区)。
 東冶県は、現在の福州市東部。(北緯26度04分16秒 東経119度18分13秒)その昔、越(春秋)が敗北後この地に逃れ、閩越(びんえつ)と呼ばれた地でもある。
 
 後漢書の「会稽東冶」は魏志(または共通の文献)を資料として書かれたと思われるので、魏志の「東治」は後世の誤写だと思われる。

【東冶県】
 この地域は、もともと閩(びん)と呼ばれた。
 春秋戦国時代、呉と熾烈な争いを繰り広げた越はBC473年に呉を滅ぼし、BC334年無彊の代に楚の威王に敗北した後、閩に逃れ閩越国(びんえつこく)と呼ばれるようになった。王は無諸因。
 BC221年には、秦に征服され、閩中郡が置かれた。
 秦を滅ぼして、BC202年に漢(前漢)が成立した。漢は閩越国の再興を許し、無諸因を復位させた。
<北京週報1999/2/23>
 このほど福建省の考古学者たちによって、福州市冶山路で古代閩越国の遺跡が発見された。
</北京週報>
 BC183年、閩越国の西に接する南越国は、漢の侵攻を阻止して権威を高め、閩越国は南越国に臣従するようになった。
 BC179年から何越国は再び漢に従った。
 BC135年、閩越国は南越国への臣従をやめ、両国がそれぞれ漢に服属した。
 BC112年、南越国は漢に対して反乱するが、BC110年に漢の征討軍に敗北し、滅びた。
 BC110年に閩越国も滅び、冶県として会稽郡に統合された。
 後漢が成立後の196年、県西部には候官県が設置され、冶県の残された部分は東冶県に改められた。
 唐代の725年からは、福州と呼ばれるようになった。

【会稽東治の東】
 帯方郡治が、ソウル付近にあったとして、その真南12300里(1里=76.7mとして、943km)の点をとってみる。(図の点P)
 点Pは北緯28.85度、東経126.59度となり、東冶(北緯26.07度)の真東の点より、309km(=4027里)短い。つまり「郡より女王国に至る12000余里」と「東冶の東」は両立しない。
 無理にでも辻褄を合わせようとすれば、次の3つの解釈がある。
(1)「会稽東冶」を「会稽郡に属する東冶県」ではなく、「会稽郡の郡治から東冶県辺りの範囲」を指すと読み取る。
(2)「東」をかなりゆるく捉え、東北東約30度までを範囲とする。
(3)実は「会稽の東」だけで十分なのである。しかし、倭人の先祖は古く閩越国から渡海した越人であるとする、言い伝えがあったのだろう。そこで倭人の故郷としての閩越国を意識して、多少南に過ぎるが「東冶」を付け加えた。(つまり「あの」東冶の、という感じ)この解釈なら「12000余里」の後、「東冶の東」の文の前に「黥面文身」の長い文章を挟んでいることが、意味を持ってくる。
 (魏略にあった「太伯の後」を削除したのも、「夏后少康之子→越国人→閩越国人→東方の倭人」の太い線を明確にしたかったためかも知れない)
 ただ辻褄が合わないままでも、倭国が九州から南に向かって伸びているという、思い込みの結果であることは確かである。(これまでも繰り返し指摘してきた)
 また、この文を「列島が南向きに伸びる」と信じていたことの根拠にして、「南へ水行20日」の「南」は列島が伸びる向きを指すと読み取ることも可能である。

 なお、隋書(636年完成)では、

隋書:古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東 古く云うに楽浪郡境を去り帯方郡に及ぶ。並ぶこと一万二千里。会稽の東に在り。

 の通り「会稽の東」と書かれている。隋の使者が瀬戸内海を通る方位は正しく「東」とされているので、この時代はもう倭国の列島の真の向きが知られていた。従って、「会稽郡なら差支えないが、東冶は事実と異なるので削除された」と解釈することができる。

【「倭国が南に伸びている」と考えられた理由】2013.3.24
 なぜ魏略の「自謂太伯之後」が無視されたか。なぜ日本列島は会稽東冶の東まで、南に伸びているとされるか。なぜ、倭国の服装や生活が海南島に類似すると、わざわざ書くのか。これらの疑問について、研究を探る。
 魏略にあって、魏志にはない「自謂太伯之後」について、<渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』P.109>呉の祖先の太白を引用する危険性を察知したのであろう。さらに、倭人の祖先が呉と共通するのであれば、孫呉(=三国時代の「呉」)の背後にある脅威としての倭の像が崩れてしまう。</同著>

 まず三国時代の呉が、本当に春秋時代の呉につながっているかである。
 呉(三国)の最初の皇帝孫権の父、孫堅は<wikipedia>『孫子』の著者孫武の末裔を称していた</wikipedia>という。孫武は、『史記』や『呉越春秋』に書かれていて、BC512に呉(春秋時代)の第6代の王、闔閭(こうりょ)によって将軍に任じられ、活躍した。つまり、呉(三国)の皇帝の遠い祖先が、かつて呉(春秋)に有力な将軍として仕えたことはわかった。

 さて、陳寿はもともと蜀漢に仕えていたが、蜀漢滅亡後は西晋に移って『三国志』を著し、高く評価された。
 中国を再統一した西晋の初代皇帝、司馬炎は、司馬懿の孫である。司馬懿は魏国で遼東半島の公孫氏を滅ぼし、その後皇帝を傀儡にして魏の実質的な支配者となった。その子が司馬昭。さらに昭の子司馬炎は魏の元帝から皇帝居を禅譲させ、王朝「晋」を創始した。
 渡邉氏によれば、陳寿は、西晋に仕えながら『三国志』を執筆したので、皇帝の祖、司馬懿の功績を讃える立場に立っている。
 司馬懿にとって、倭国は魏の有力な同盟国であった。倭国は会稽東冶の東、呉の背後を突き得る位置にある。ところが『魏略』の「倭人が太白の子孫である」(=太白を始祖として祭る呉の末裔である)では、倭国は呉の子孫になるので、都合が悪い。
 そこで、魏略のこの部分は採用しなかった。さらに邪馬台国が、会稽東冶の東にあるとする以上、列島は南に延びているはずである。だから投馬国、邪馬台国への行程は南向きになった。
 渡邉氏はまた、陳寿は、三国志に彼自身の考えを盛り込んでいて、その方法として「どの記録を採用して、どの記録を伏せるか」の選択や、死を意味する文字(崩・薨・殂)の使い分けによる皇帝の正統性の表示などを用いているとする。

 以上から、私なりに次の解釈をした。陳寿は確かな記録があれば改ざんせずにありのまま載せる。しかし、「自称する」とか「里程で表されていない」など、あいまいさを含む伝承については、頭の中にある図式をに合うように取捨選択あるいは独自の解釈をするということである。
 それに従えば、不弥国から投馬国・邪馬台国への距離に関しては「水行20日」「水行10日陸行1月」はリアルな記録(おそらく使者自身の経験あるいは聞き取り)に基づいている。
 しかし、方位に関しては倭人が語った確かな記録はなかった。そこに「倭国は会稽東冶の東にある」という観念に基づき「南」をはめ込んだのである。


2011.06.18(土) 2013.03.29(金)原文を読む(36) 其風俗不淫

其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫
其の風俗淫(いん)不(なら)ず。男子皆露紒(ろけい)し、木綿を以て招頭す。其の衣(い)、横幅を但(ただ)結束し相連ね、略(ほぼ)縫うこと無し。

その風俗習慣は、高潔である。男子は皆、被るものなく髪を縛り、木綿を巻いて頭を持ち上げる形にしている。その着衣は、横のへりを結び繋ぎ、全く縫うことをしない。

【語句】
淫…《形》ふしだらな、みだら。放縦な。耽溺する。
露…《動》あらわす、あらわにする。
紒(けい)…《動》 髪を束ね、まげにする。髪を結う。ひもなどで結ぶ。
招…《動》まねく。呼び集める。持ち上げる。
幅…《名》はば、布のへり。
略…《副》「略無」少しも~ない。(否定の強調)

 「露紒」「招頭」については意味が取りにくかったので、それぞれどう解釈されているか調べてみた。
 検索してヒットしたうち、はじめの20件について結果をまとめた。

【露紒のさまざまな訳】

  • 「露紒し」と読み下すだけで、訳さない。…9件
  • 「みづら(美豆良)を露わにする」…1件
  • 「冠をかぶらない・何も被らない。」(「紒」を無視)…6件
  • 「髪を結って(おさげ、髷(まげ))露わにする」…4件
【招頭のさまざまな訳】
  • 「招頭し」と読み下すだけで、訳さない…5件
  • 「頭につける」…4件
  • 「頭に巻く」…6件
  • 「布を頭から被る」(次の着衣の文に繋がると解釈)…1件
  • 「頭にかける」…4件

 「美豆良」説では、女性は美豆良を隠し、男性は露出した習慣を指すという。独創的な説だが古墳時代の髪型だから、弥生時代に遡った場合はどうであろう。
 また「おさげ」や「髷」も面白いが、根拠を知りたいところである。
 「紒」は髪を結んだり、結ったり束ねたりすること一般を指し、特定の髪型を意味しない。だから、この文だけから特定の髪型を読み取るのは不可能である。

【露】
<wikipedia>前漢には儒教が国教となると冠をかぶることが規定され、以来漢民族の習俗となった</wikipedia>。
 つまり三国時代の中国では冠が定着していた。その中で、頭髪を露出した倭人の姿は物珍しかったことであろう。
 隋書(636年魏徴により完成、656年長孫無忌が追加)では、この件に詳しい。

故時衣橫幅結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髮於兩耳上 至隋其王始制冠
故(ふる)き時、衣橫幅を結束し相連ね而(すなわ)ち無縫。頭亦(また)冠無く但(ただ)髮を兩耳の上に垂らす。 隋に至り、其の王、冠を制すを始む。

 「故時」は隋成立(581年)以前を指す。衣服については魏志と全く同じことが書いてある。やはり「露」は「冠をかぶらない」意味であった。隋書のこの文によって確定できた。隋代になってからやっと倭国の冠制(冠の種別によって位を表す制度)が始まったと書いてある。
 髪型は、少なくとも隋の時代に「みずら」が標準であったことがわかるが、魏志の時点で「紒」が「みずら」であったかどうかは不明である。
 なお、描かれた人物は素足であるが、隋書に「人庶多跣足」(庶民は、多く素足である)とある。魏志でも「皆徒跣」(皆、裸足で歩く)と述べている。

【招頭】
 「招」の一般的な意味「招待、招集」では、意味が通らない。「招」の他の意味を探したところ、<漢辞海>持ち上げる</漢辞海>があった。手偏があるので手で物を上げるイメージらしい。また、<國際電腦>「紐で繋ぐ」</國際電腦>意味もあったが、漢辞海には取り上げられていない。
 しかし、こうやって意味を調べてみてもなかなかぴったりせず、字義から解釈するのはなかなか難しい。できたら図資料がほしいと思っていたら、20年前に購入した雑誌にあった「職貢図鑑」という面白い資料のことを思い出した。(『歴史と旅』特別増刊「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」1991年7月5日号)さっそくページを開いてみる。

【職貢図鑑】
 梁の元帝蕭繹(しょうえき)が542年ごろ、作成したもの。父武帝(在位502~549)の即位40年を記念して梁朝の勢威を誇るべく作成。帝の徳を慕ってはるばる入貢した使節の容貌を見て、風俗を聞いてこれを写生記録した。
 蕭繹が荊州で刺使[しし;諸侯を監督するために中央から派遣する役職]をしていたのは526~539、547~554年。その期間に荊州を訪れた使者を直接観察するなどして資料を得た。女王国の時代から約300年後にあたる。
 図を見ると、多くの国の使者が中国宮廷を意識した貴族風の恰好であるのとは対照的に、倭国使はガテン系のスタイルが異彩を放っている。近所で家を建てている大工さんという感じである。その300年前はどうだったのであろう。「黥面文身」のはずだから、ことによるとさらに野性的だったかも知れない。 それぞれの国の使者のイラストに説明文が添えられている。倭国の部分は次の通り。

 倭國使
 倭人在帶方東南大海中依山島居自帶方循海水乍南下東對
 其北岸歷三十餘國可万餘里倭王所●●在會稽東氣暖地温
 出眞珠青玉無牛馬虎豹羊鵲[多黥臂]點面文身以木綿帖首衣
 横幅無縫但結[以下欠文]


 倭人、帯方の東南大海中に在り。山島に依りて居す。帯方自(よ)り海水を循(めぐ)り乍(まさ)に南下し、東に其の北岸に対す。
 三十余国を歴(へ)ること万余里。倭王●●する所、会稽の東に在り。気暖にで、地温なり。真珠青玉を出ず。牛馬虎豹羊鵲(じゃく)無し。
 [多く黥臂]点面文身し木綿を以て首を帖(さだ)む。衣、横幅無縫にて但(ただ)結ぶ。


[語句]
帖(ちょう)… 《動》安定させる。はりつける。
鵲…《名》カササギ。(カラス科の一種)
臂(ひ)…《名》うで。(肩から手首の部分)
※「面」の直前の欠字の右下は「口」なので、「黥」ではない。隋書に「男女多黥臂點面文身」があったので、それを採用した。
※欠字●●は、2文字目のつくりが「玄」だが、それ以外推定がむずかしい。分かった時点で補うことにする。

 説明文は隋書や後漢書と同様に魏志を引用するが、抜粋の仕方により文意が変化している。「対馬国」の「対」だけが動詞となって残り、「北岸」を目的語にとる。それにより、魏志とは異なり「倭国の北岸」という理解しやすい表現になる。
 魏志の「其風俗」以下の部分では、「露紒」が省かれている。人物図を見ると確かに「露」ではあるが、髪はみずらでもなさそうだし、「結っている」とは言い難い。ただし、鉢巻きで束ねているようにも見えないこともない。
 「以木緜招頭」に対応する部分は、「以木綿帖首」となっている。「帖」は「安定させる」の意。確かに襟元に布をしっかり巻いて首を固めているように見える。
 図から「帖首」を、比喩的に「頭を持ち上げている」と見られないこともない。(実際に持ち上げてはいないが、そのような形をしている)「招く」の適用は全く不可能だが、「持ち上げる」はぎりぎりセーフか。國際電腦の「紐で繋ぐ」は「罪人の招致」から派生して、紐で縛り強制的に引っ張ってくる意味だと思われるので、「鉢巻きを締める」意味にはならないと思う。

 一方、衣服について。上着、腰回りの布については、確かに左右から引っ張って結んでいるように見える。脚絆、腕袋も注目される。

 以上をまとめると、隋書とは時代が近いせいか、みずら以外はよく一致している。ただし、倭国を代表する使者でありながら、隋書で庶民のものとされるスタイルである。
 一方、魏志も衣服、無冠については一致している。頭髪はまとめていたのであろうが、ヘアスタイルは不明である。
 最後に木綿を用いて、首から上の部分に何らかの装飾をしていた。「招頭」の正確な形は不明だが、文献資料としての職貢図鑑が実在するのだから、これを尊重することにする。

【縫い針の出土】2013.3.29
縫い針 獣骨 (唐子・鍵考古学ミュージアム)
(左) 長さ22mm 孔径0.8mm 弥生時代後期
(中) 長さ19mm 孔径0.55mm 弥生時代中期
(右) 長さ12mm 孔径0.6mm 弥生時代後期
奈良県田原本町教育委員会

 魏志倭人伝には「略無縫」と書かれるが、実際には右の図のような、縫い針が出土している。獣骨製で、寸法は現代の縫い針と変わらない。唐子・鍵遺跡は、奈良県田原本町にある弥生時代の環濠集落である。説明員のお話では、衣服を「縫わずにただ結ぶ」は北九州の文化で、畿内では糸で縫製していたという。また、こんな細いものにどうやって穴を開けたか、謎とのことである。
 この例から、倭人伝の紀行文資料中の倭国の風習は、実際には九州の北部地域での見聞だけが書かれていることになる。(倭国の植物として、取り上げられている種類も同様である)
 北九州までは、しばしば中国から人が訪れたが、畿内まで来る人は稀だったのではないか。このことが、方位が北九州では大体正しいが、本州に来ると列島の向きが誤って「南」とされたことと関係があると見られる。あるいは、倭国が南方にあることを示すために、海南島との風俗の類似点を、意図的に選択して書いたのかも知れない。


2011.06.19(日)原文を読む(37) 婦人被髪

婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之
婦人髪を被い屈紒(くっけい)す。衣を作ること単被(たんぴ)の如し。其の中央を穿(うが)ち頭を貫き之を衣(ころも)す。

婦人髪を被い、曲げて結う。衣服は単衣(ひとえ)の夜着のように作り、その中央に穴を開け、頭を通して着用する。

【意味】
衣…《名》ころも。上着、衣装。《動》ころもす。
単…《名》ひとえ。裏地をつけずに1枚だけの生地で仕立てる。 
被…《動》おおう。こうむる、うける。着る。《名》布団、夜着。
如…《動》如し。
穿…《動》うがつ、穴を開ける。

 「単」は、一文字だけでも「単衣」(ひとえ;裏地のない衣)の意味がある。続く「被」以下は「其の中央を穿ちた衣を被う」と訳したくなるが、漢文の語順には、厳密な順序性がある。
 だから「被」が動詞だと解釈すると、布を身につけてから頭を通す穴を開けるという、おかしなことになる。「被」には、名詞で「夜着」の意味があるので、熟語「単被」として、裏地のない寝巻のような簡単な衣類を想像してみた。

 「髪を被う」とはどんな姿か。後世においては嫁入りの「角隠し」や、「あねさんかぶり」が思い浮かぶ。
<wikipedia>(あねさんかぶりのいろいろな方法について)…前から手拭で被い、日本髪が崩れないような、乗せるような緩い被り方で、「さっ」と脱ぐこともできるという点においては共通している。</wikipedia>
 服装の習慣というより、髪を汚さないように布で覆い、いそいそ働くのが、今も昔も女性の姿か。
 さて、「男子」に対して「女子」の代わりに「婦人」が使われている理由は何だろう。

婦…《名》既婚の女性。女性の通称。「婦人」…一人前の女性、特に既婚の女性。
 布で頭を覆うのは既婚の、あるいは大人の女性の習慣か。そうではなくて、単に女子と同じ意味で使ったかも知れない。

【後漢書、隋書では】
 後世の歴史書では、この部分はどう書かれているか。

後漢書:女人被髪屈紒衣如單被貫頭而著之
隋書:婦人束髮於後 亦衣裙襦 裳皆有●男女多黥臂點面文身 沒水捕魚

襦…腰のあたりまでしかない短めの上着。裙…もすそ。裳…もすそ、裙の上にさらに着用することもある。
 後漢書は、まだ魏志から変化しない。というか、そのまま引用したように見える。「作」省略でも「衣、単被の如し」で成立する。「著」は「着る」意味もある。
 隋書には、潜水漁と黥面文身の習慣が、魏志と同じように書かれている。ただし、黥面文身について魏志は男子だけだったが隋書では男女ともになっている。一方、服装・頭髪については大きな変化がある。貫頭衣から、短い上着と二重のロングスカートに変わり、頭を布で覆う習慣もなくなった。
 黥面文身は古い時代のことか。または一部の地域に残っていて、新しい服装は都の文化かも知れない。
 流行に対する女性の敏感さは、この時代から一貫していたことをうかがわせる。


2011.06.20(月)原文を読む(38) 其地宜禾稲蚕桑

種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲
禾稲(かとう)、紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑(さんそう)す。緝績(しゅうせき)し、細紵(さいちょ)縑綿(けんめん)を出ず。其の地、牛馬虎豹羊鵲[雞?]無し。

粟、稲などの穀物、苧麻(ちょま=麻の一種)を栽培し、養蚕し麻糸を紡ぎ、細い苧麻の布、縑(薄い絹織物)や真綿を作り出す。その土地には牛馬、虎や豹、羊やかささぎ(にわとり?)はいない。

(音読み)
品詞主な意味備考
《動》植物を植えるここでは動詞。
禾(か)《名》粟、農作物後に「稲」の意味になる。

(ちょ)
《名》苧麻(ちょま)[麻の一種]、苧麻を織った布。麻の主な種類:苧麻(ちょま;カラムシ)と亜麻(あま;リネン)
《動》かいこを飼う【蚕桑(さんそう)】かいこを飼い、桑の木を植える。
《動》桑を育てる。

(しゅう)
《動》つむぐ、麻をつむいで糸にする、縫う。両方とも、もともと自動詞で「麻を」を含む。
《動》つむぐ、麻をつむいで糸にする。
《形》ほそい、こまかい。ほぼ「形容詞」またはその連用修飾化。動詞はない。

(けん)
《名》薄く、緻密な絹織物。ごく細い生糸を用い、絹に倍する密度がある。
綿《名》まわた、まゆから作る綿。もともとは、まゆから作られたものを指す。

 今回は特に、1文字で名詞、動詞の両方の用法をもつものが多いので区切りがむずかしい。はじめに『漢辞海』を参考にして、各文字の文中での意味を確定していった。文法的には、主語が省略された単純な「動詞+目的語」構造である。
 そして他動詞の場合「動詞1文字+目的語2文字熟語」、自動詞の場合「2文字で『動詞+動詞』熟語を形成」の原則で区切っていく。この原則を使うと大抵うまくいく。その結果、今回の対象範囲は次の5文に分けられる。
(1) (動詞)+(目的語)禾稻・紵麻
(2) (動詞熟語)蚕・桑
(3) (動詞熟語)緝・績
(4) (動詞)+(目的語)細紵・縑緜
(5) (動詞)+(目的語)牛馬・虎豹・羊鵲
 文字数を整えるために、重複表現や、あまり必要のない形容詞が使われる。例えば、「紵」は1文字で十分意味を為すが、敢えて「紵麻」とする。
 また「蚕」1文字だけで養蚕の意味が成り立つが、熟語「蚕桑」を用いる。「緝績」はほぼ同じ意味の語を重複した熟語。「細紵」の形容詞「細」は特に必要がない。
 「縑緜」は絹糸から作る「ぬの」と「わた」を組み合わせて一時的な熟語にしている。

 (5)は、草食獣、肉食獣それぞれの組の後、「羊鵲」だけ獣と鳥(かささぎ;右図)の混合になっていて系統性を欠くが、2文字に揃えるためにまとめたようだ。
 なお、後漢書には、無牛馬虎豹羊鵲【鵲或作雞】 すなわち、「雞」(にわとり)に「鵲」の字をあてた可能性があるとする注記がある。
 意味としては、(1)は農耕(食料と繊維)、(2)は養蚕、(3)は麻糸作り、(4)は完成品(麻と絹)に、まとめられている。

【隋書では】
 土冝禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布
 土、禾稲麻紵に宜(よろ)し。蚕桑し、織績(しょくせき)し縑布(けんぷ)と為すを知る。

 (1)~(4)と同内容であるが、「土壌が良い」とか「倭人は(意外にも)こんな技術を知る」とか執筆者による評価を含む文になっている。
 その点、魏志は主観的な見解を極力退け、客観的事実に徹する印象を受ける。


2011.06.26(日)原文を読む(39) 矛・楯・木弓・竹箭

兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃
兵、矛(ほこ)楯・木弓を用う。木弓、下短く上長し。竹箭(ちくせん)、鉄鏃(てつぞく)或いは骨鏃(こつぞく)或り。

武器は矛や木楯、木弓を用いる。木弓の握りはは中央より下にある。竹矢には、鉄製の矢尻または動物の骨製の矢尻を着ける。
銅矛 長弓 短弓

【矛】
<wikipedia>長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先を有する。</wikipedia>
 出土する銅矛はその根元が筒状になっていて、長い木製の柄を差し込む構造になっている。もともと実戦用であったが、後に儀式用に変化する。

【楯】
<鳥取市青谷上寺地遺跡 弥生時代の盾から緑土 アジア最古の使用例>
 県埋蔵文化センターは3日、鳥取市青谷町の「青谷上寺地遺跡」で見つかった弥生時代後期(1-3世紀)の木製の盾に塗られていた緑色の顔料の「緑土」が、東アジアでは最古の使用例だったことが分かったことを発表した。
 同遺跡中心部西側と水田跡を区切る溝から、1998年度の発掘調査で盾(モミの木製)が2枚出土。発掘当初から緑色の顔料を施していることが分かっていた。1枚は長さ約88cm、幅8.5cm、厚さ1.1cmで、もう1枚は長さ40cm、幅約10.4cm、厚さ1cm。
</鳥取市青谷上寺地遺跡>

【木弓短下長上】
 わが国に古くから伝わる弓は、長弓と呼ばれ、現在の標準長2.21mは世界最大である。握りが中央より下にあるのが特徴である。世界の多くの弓は「短弓」と呼ばれ(国際的にはこれが標準なので、「短弓」はわが国のみの呼称)、握りが中央にある。なお、13~14世紀、ウェールズ、イングランド地方で、ロングボー(longbaw)が使用された。長さ1.2~1.8mぐらい。
<wikipedia>
 縄文時代は、狩猟目的でイヌガヤから削り出した単一素材。弥生時代に戦闘目的となり殺傷力を高めるために長尺に変化し、握りが下部寄りに移動した。
</wikipedia>
 長大化した理由は、弾性力と耐久性を両立するためとされている。弾性力を増加するには変形を大きくしなければならないが、その結果劣化が早まる。長大化すれば小さな変形で大きな弾性力が得られ、耐久期間も長くなる。
 弓が長くなれば、握りは当然中央より下にしないと使えない。不安定になりそうな気がするが、各部分の質量配分によって握りが振動の節に一致し、安定させることができる。

 このように「握りが中央より下にある」形状が「短下長上」と表現されている。中国の観察者が、倭国固有のスタイルに目を惹かれたのは間違いない。この部分も、実際の見聞記録に基づいていると思われる。

【箭】《名》
 矢、ヤダケ(イネ科で高さ4mほど。茎は節と節との間が長いので、矢柄(矢じりと羽を除いた部分)として使用した)。
那須高原友愛の森工芸館>性質はヤタケの方が硬く、名前の通り「矢」の材料として古来利用されてきた。</那須高原友愛の森工芸館>

【竹箭】
 箭は「弓箭」という熟語があるように、「矢」と同じ意味。「竹」は、イネ科のうち「タケ亜科」の総称。多年草、茎は中空で節がある。
 辞書には、矢柄は「普通篠竹で作る」とある。また、ユカンボシE11遺跡(北海道恵庭市和光町、縄文時代(約4700年前)から、木製の矢柄が出土した報告がある。
 このように、矢柄の材料として、さまざまな竹や木が使われたようだ。
 だから「竹箭」は、「竹(種類は特定せず)を矢柄に使った矢」を意味する。

【鉄鏃・骨鏃】 <wikipedia>
 日本では、鉄鏃は狩猟具としてではなく武器として用いられ、2世紀から3世紀にかけての弥生時代後期に普及した。鉄器・鉄製品は幾度も鋳なおされて繰り返し使用するため、出土量は必ずしも多くない。
 弥生時代の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。
</wikipedia>
青谷上地遺跡
 弥生時代中期(約二千年前)までは石鏃が主役。後期以降は徐々に材質転換がすすむ。
 青谷上寺地遺跡で出土した鏃の中で最も多いのは骨鏃で、弥生時代後期に限れば鏃全体の半数以上を占める。(原因の一つは、低湿地遺跡なので有機質の遺物が良好な状態で残っていたこと)鉄製品は多量に出土しているが鉄鏃の占める割合は極めて少なく、全体の一割もない。山陰地方の弥生時代鉄器で最も多いのは鉄鏃だが、妻木晩田遺跡をはじめとする拠点的な集落遺跡における鉄器組成に限っては同様の傾向が見られる。
 青谷上寺地遺跡では約二十点もの銅鏃がまとまって出土したが、一つの遺跡からこれほど多く見つかることは希。(銅鏃は各地が緊張状態にあったとも言われる弥生時代後期に普及し始める)
</青谷上寺地遺跡>
 この文中で、「山陰地方の弥生時代鉄器で最も多いのは鉄鏃だが、拠点的な集落遺跡では鉄鏃の占める割合は極めて少ない」とあるのは注目すべき事実である。
 また鉄器の出土地域は、玄界灘沿岸(末蘆国、伊都国、奴国地域)に特別に多い。これらの事実から、戦闘の経過について、次のことが想像できる。
 山陰地方では、早い時期に「鉄鏃」を手に入れた勢力と、従来の「銅鏃」勢力が入り乱れて戦い、局地戦では鉄鏃勢力が一時的に勝利を得た地域もあったが、最終的に銅鏃勢力が勝利した。
 さらに、鉄鏃・銅鏃が普及しているはずなのに、骨鏃が相変わらず大量に出土することも不思議ではない。兵士全員に新鋭の鉄鏃や銅鏃が行き渡れば言うことはないが、生産が追い付かなければ、下級兵士は従来の簡単な獣骨製の鏃を装着するしかないのである。
 従って、少数の上級兵が鉄鏃・銅鏃による立派な装備であるのに対し、一般の下級兵士には、旧来の骨鏃を装着した竹箭が配給された(あるいは自作して持ち寄った)と思われる。
 戦闘でものをいうのは動員力つまり兵士の数である。上級兵が持つ最新兵器の性能、それも鉄鏃と銅鏃の違い程度では、決定的な差にはならなかったであろう。つまり戦闘要員を維持するにはそれなりの食料と装備が必要なのだから、支配地域の生産力にはっきりした差があれば、その大小で勝負は決まる。
 従って、出土品に鉄鏃が多い勢力が戦闘に勝利できたとは限らない。
 なお、記述に「銅鏃」がなく「鉄鏃」があることから、兵を観察した地域は北九州地方であったと思われる。

【「或」の文法】
 「或」の基本的な意味は「複数からひとつを選択する」で、代詞、接続詞、副詞、動詞などの用法がある。それを次のようにまとめた。(参考資料:漢辞海、國際電腦)なお、動詞で「=惑」、副詞で「否定の強調」の意味もあるが、ここでは触れない。
《代》ある人。また、複数回並べて「或A或B」とする場合は、「ある人(あるもの、ある場所、ある場合)はAで、ある人(同前)はBである。」となる。
《接》あるいは、仮に。《副》あるいは。《動》ある。
 このように多様な品詞になり得るが、文中では語順(つまり、主語―述語を骨格とする構造のどこに置かれるか)によって品詞の種類が定まる。それをまとめて図示したのが、右の表である。それぞれについての例も探したので、次に挙げる。
(1) 主語の前:接続詞「あるいは」。<漢辞海例文>便宜多輒行 (もし都合がよければ、ほとんどのことはすぐに実行せよ。)</漢辞海>
(2) 主語の位置:代詞「ある人」など。謂孔子曰 子奚不為政 (或るひと、孔子に謂いて曰く、子、奚(なんぞ)政を為さ不(ざ)る。)[論語]
(3) 或A或B:代名詞。<漢辞海例文>労心労力 (ある人は心を使い、ある人は体力を使う。)</漢辞海>
(4) 主語と動詞の間:副詞「あるいは」。孔子所傳宰予問五帝徳及帝繫姓 儒者不傳 (孔子の伝うる所の宰予問(さいよもん)五帝徳(ごていとく)及び帝繫姓(ていけいせい)は、儒者或いは伝えず。(…儒者はことによると伝えなかった))
(5) 動詞の位置:動詞「存在する」。無小無大 莫不致其難 (小と無く大と無く、其の難きを致さざること或る莫(ことな)し)[書經卷之六 蔡沉集傳]
 ※「莫」《代》は主語として用いる。英語の nobody、no one に相当。「或」が述語。「不致其難」は補語だが、事実上の主語となる。
(6) 目的語の中:接続詞。選択関係を示す。<漢辞海例文>以田宅金帛為抵当 (田宅(田・住居)、或いは金帛(金・絹)を以て抵当と為す。)</漢辞海>前置詞「以」への目的語。選択関係:「田宅」or「金帛」

 それでは、竹箭或鐵鏃或骨鏃の「或」はどれか?二通りの解釈を試みる。
(ア) 「竹箭」は主述述語文の上位の主語。下位の2文は上記(3)を適用し、2つの「或」は、共に代名詞「あるものは」。述部中の下位の主語である。鉄鏃、骨鏃は名詞が述語化する。(漢文では、繋辞(英語の"is")は明示されない)つまり、竹箭、或いは鉄鏃にて、或いは骨鏃なる。[Aでは、ある場合はB、ある場合はCである。]
(イ) 上記(5)と(6)を適用する。「竹箭」が主語、1つ目の「或」は動詞(=「有り」)、2つ目の「或」は接続詞。つまり、竹箭、鉄鏃或いは骨鏃或り。[Aは、BあるいはCが存在する。]
 「或A或B」の形式の文なので、解釈(ア)は当然である。しかし、矢柄と鏃の関係は誰でも知っていることだから意味が定まるが、そうでなければ何通りにも意味がとれそうである。
 それに対して解釈(イ)は、動詞「存在する」により「BまたはCは、Aの付属物である」ことが明確になるので、この方が好ましいように思える。

【主述述語文】
 今回「莫」の用法を調べていて、「主述述語文」なるものを発見した。これは要するに「今日は天気がよい」のように、二重に主語をとる表現が中国語にもあるということ。「主語1+主語2+述語」であるが、形式的に「主語2+述語」を「主語1」に対する述語と位置付ける。これまでは二重の主語は、日本語以外あり得ないと思い込んで否定してきた。とりあえず、上記(ア)で草稿段階まで「名詞の連用修飾化」としていたのを「主述述語文」を適用して直した。加えて、遡って何か所かの訂正が必要になった。近いうちに精査する。


2011.07.03(日) 2013.03.17(日)原文を読む(40) 擔耳朱崖

所有無與擔耳朱崖同
所有(あらゆる)に、擔耳、朱崖与(と)同じ無し。

すべてが擔耳(たんじ)郡、朱崖(しゅがい)郡と同じなのではない。

<別訳>
 有無なる所、擔耳朱崖与(と)同じ。
 さまざまなことの有無が擔耳、朱崖郡と同様である。
</別訳>
 「擔耳・朱崖」(たんじ・しゅがい)は、中国南端の海南島に、前漢時代に創設された2つの郡である。
 中国の前漢時代を記録した歴史書、『漢書』に書かれた擔耳朱崖の習俗(後述)と、倭人伝の倭国の習俗を読み比べると、実際よく似ている。

【二種類の訳について】
 「所有無」を、「有無する所は」と読むと「2つの地域がさまざまなことの有る無しで類似している」の意味になるが、違う読み方をすると、「擔耳朱崖とすべてにおいて同じわけでは無い」となる。つまり、「ここまで書いた倭国のことは、漢書にある海南島とよく似ていますが、すべてが同じではありません」という意味になる。
 それぞれの有利・不利を考える。

(1) 「有無スル所」説
・不利…「風習や文化が類似する」と言いたいのなら、「其法俗」を主語にすればよいのに、なぜわざわざ「所有無」と抽象的な言い回しをするのか。
(2) 「所有…無し」説
・不利…「所有」を「あらゆる」の意味で使うのは比較的新しい時代になってかららしい。「漢辞海」では近代の用法(唐代ごろから)とされている。「無」を部分否定にするには、「所有」に「すべての」の意味が必要である。なお、googleの自動翻訳(中国語→英語)で試すと、現代語の場合「所」と「有」の結合(所有=all)が強く、「有無」の結合より優先される。
・有利…直後の文の「倭地」が生きる。「すべて同じではない。倭の地では…」となり、文に自然な流れができる。
・不利…逆に、前文からのつながりが悪くなる。「倭の習俗は擔耳朱崖と類似している」を暗黙裡に読み取れというのは、少し無理がある。

 実際に『漢書』に書かれた海南島の服装・生活は、『魏志』の倭のそれにかなり似ている。(むしろ、「同じである」という言い伝えを信じて、『漢書』から筆写したのではないかと疑われるほどである)
 倭人伝の文の流れは、擔耳朱崖と類似した倭人の生活を描写した後、[a](このように倭の習俗は)擔耳朱崖と似ている。 [b]しかしすべてが同じではない。 倭の地では… となっている。
 そのうち、「有無スル所」説では[b]を省略、「所有…無し」で説は[a]を省略していると見られる。結局、どちらも大意は変わらないが、決定するには決め手がない。

【後漢書、隋書との比較】
 そこで、魏略、後漢書、隋書の対応部分を調べてみる。魏略の逸文に残っていないのは残念だが、後漢書・隋書には魏志を元にして書かれたと思われる文がある。

[後漢書] 其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近 故其法俗多同
 其の地、大較(だいかく)会稽之(の)東に在り、朱崖儋耳与(と)相近し、故に其の法俗多く同じ。
 その地は、大まかに見てほぼ会稽郡の東にあり、朱崖郡儋耳郡と互いに近く、故にその風習は多くを同じくする。
法俗:<漢辞海>(後漢書のここが、用例に選ばれている)風俗習慣</漢辞海>
 『後漢書』では、魏志と漢書の朱崖儋耳が類似している理由を、単純に「近くにあるから」とした結果、倭国は「会稽郡の東にあり、同時に海南島に近い」という、現実に反する配置になった。
 しかし、問題の「所有無…同」の処理は興味深い。後漢書は魏志の文を「あらゆる法俗が同じわけではない」と理解したからこそ、同じ意味で「其法俗多同(法俗は共通点が多い)」と書いのだと見られる。

[隋書] 古云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近。
 後漢書をさらに要約し「其法俗多同」は省略。ここでは 古く言う「…」、つまり、過去の言い伝えを、真偽を判定せずに「昔はこう言った」と紹介するのみである。内容自体は無視され、以前にも述べたが倭国が九州から東に伸びていることを正しく認識している。

【擔耳朱崖の歴史】
 海南島=「擔耳朱崖」の歴史を勉強する。
 海南島の北、大陸の南部(「嶺南」と呼ばれる)は、秦の始皇帝が統一。三郡を置く(BC214年)。秦の崩壊とともにこの地域に「南越国」が立ち、前漢の諸侯国となる。
 擔耳・朱崖の創立は、『漢書』(かんじょ)に記されている。『漢書』は、前漢の歴史を記した歴史書。中国後漢の章帝(75~88)の時に班固、班昭らによって編纂された。
 前漢は、紀元前202年成立。当初は、秦の「郡県制」(中央集権)から「郡国制」、つまり諸侯国への封建を一部復活した。(封建制では、諸侯国に一定の支配権を与える結果、連合国家的になる)七代皇帝の武帝は、独自の権力を強めがちな諸侯国の力を削ぐことに努め、反発した諸侯による「呉楚七国の乱」(BC154年)を平定し、全土の中央集権化に向かって前進する。
 漢王朝は「南越国」を元鼎6年(BC111年)に滅ぼし、直轄支配地として、合浦郡など七郡を創立。合浦郡の郡治[首都]を雷州半島の徐聞に置く。徐聞は、現在の広東省湛江市内の雷州市。
 そして、翌年の元封元年(BC110年)に、海南島に軍を進めた。以下、次の『漢書』の通りである。引用部分を、便宜的に(1)~(4)に分ける。

[漢書・地理志・粤(越)地条]
(1) 自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 武帝元封元年 略以爲擔耳朱厓郡
 合浦徐聞自(よ)り、南に入海し、大州を得。東西南北、方千里。武帝、元封元年、略し、以て擔耳、珠厓郡と為す。
 合浦郡徐聞県より、南へ海を渡り、大きな島、東西あるいは南北は一辺1000里を手に入れた。こうして武帝は元封元年(紀元前110年)に侵略し、爲擔、朱厓[崖]の2郡を制定した。

(2) 民皆服布如單被 穿中央爲貫頭 男子耕農 種禾稻紵麻 女子桑蠶織績
 民、皆単被の如き布を服し、中央を穿ち貫頭を為す。男子耕農し、禾稻・紵麻を種し、女子桑蚕(そうさん)・織績(しょくせき)す。
 人々は、皆単衣の夜着のような布を着る。中央に穴を開け、頭を通す。男子は農耕し粟や稲、苧麻(ちょま=麻の一種)を栽培し、女子は養蚕し、糸を紡ぎ、織る。

(3) 亡馬與虎 民有五畜 山多麈 兵則矛盾刀木弓弩 竹矢或骨爲鏃 
 馬与(と)虎亡(な)し。民五畜有り。山、塵(ちり)多し。兵則ち矛、盾、刀、木弓、弩なり。竹矢、或いは骨、鏃(やじり)を為す。
 馬と虎はいない。人々は五畜(鶏・羊・牛・馬?・豚)を飼育する。武器には矛、楯、刀、木弓、弩(機械式の弓)がある。時に獣骨を鏃とする。

(4) 自初爲郡縣 吏卒中國人多侵陵之 故率數歳壹反 元帝時 遂罷棄之
 郡県を為す初め自(よ)り、吏卒中国人多く之を侵陵(しんりょう)す。故に数歳を率(かぞ)え一反す。遂に之を罷棄(ひき)す。
 (擔耳・朱崖)郡成立の初期から、中国から官僚が多数駐在し、住民を蔑み、侮る。故に、数年に1度の割合で反乱が起こり、支配が困難となり、遂に郡を廃止した。

五畜: 鶏・羊・牛・馬・豚。(モンゴルの五畜は、牛・馬・羊・山羊・駱駝)
侵陵: 勢いをたのんで他を侮りおかす。いばって他人を侮辱する。
率:  網でとらえる、率いるなど。ここでは「数える」。「割合」の意味も。

 (1) 魏志では、1里=76.7mが有力であった。この里数によれば、海南島の実測値は、東西(300km)、南北(180km)はそれぞれ3900里、2300里ほどで、1000里よりかなり大きい。長里(540m)だとすれば、それぞれ約560里、約330里だから、ここでは長里を採用していると見られる。
 (2)(3) 魏志では、貫頭衣は女性に限られていたが、ここでは男女共通になっている。逆に、農耕と養蚕・織紡を男女で分担することになっている。海南島に秦代のころから居住する黎族(リー族)の女性は、古くから<レコードチャイナ:リー族>紡績に関して卓越した技術を有す</レコードチャイナ>とされる。
 男女の分担以外は倭人伝と酷似し、「種禾稻紵麻」「蚕桑」「如單被」「穿中央爲貫頭」「矛盾刀木弓」がほぼ一致する。逆に異なるところは、「弩」が加わり、鉄鏃がないところ。
 また「山は塵多し」…乾季、山越えの北東季節風により島南西部は特に乾燥するので「強風に土煙が舞う」意味か。海南島は年中温暖、乾季と湿季が明瞭で、雨量が多いので原生林が多い。
 「生息しないしない動物」は、倭国:牛馬虎豹羊鵲。海南島:馬虎。なお、海南島はネコ科のウンピョウ(雲豹)の分布域である。
 五畜のうち「馬」は「亡馬」と書かれていることと矛盾する。野性馬と家畜馬を区別したのか、あるいは「五畜」の定義は、厳密ではないのかも知れない。
 (4) 擔耳郡はBC82年に朱崖郡に統合され、さらに朱崖郡はBC46年に合浦郡に統合され、いったん消滅した。「罷棄」という語に、現地の支配機構を打ち棄てるという表現の強さが感じられる。きっと最後はぼろぼろだったのであろう。

 その後、三国時代の呉、西晋でそれぞれ、朱崖郡の設立と廃止を繰り返している。中国のネット事典では、次のように述べている。
百度百科>此后,由于驻守海南岛的官吏贪污受贿,搜求珍宝,民不堪役,引起反抗斗争连年不断,因而导致封建王朝在琼的设治时置时废。 </百度百科>
 [繁体字では] 此後,由於駐守海南島的官吏貪污受賄,搜求珍寶,民不堪役,引起反抗鬥爭連年不斷,因而導致封建王朝在瓊的設治時置時廢。
 [大意] 漢武帝による朱崖郡設置当初から、駐留した漢族官吏は汚職にまみれ、賄賂を受け、珍しい産品を傍若無人に探し求めたので、住民は労役に耐えかねて抵抗闘争を引き起こし、それは長年絶えることはなかった。その結果、歴代の封建王朝(漢、呉、西晋…)は、海口市瓊山区に支配拠点を置くが設置と廃止の繰り返しであった。
 設置された郡には、本土から漢族を中心とする官吏が大量に駐在し、植民地を作る意識であっただろう。当然、先住民を差別し、奴隷扱いしたと思われる。しかし抵抗は抑えきれなず、結局撤退し、また年を置いて植民地化を試みることの繰り返しであった。この歴史はかなり興味深い。

【関係年表】
 「百度百科」をなんとか読み取り、その他の資料も合わせて作成した。

BC214 秦始皇帝が嶺南を平定。南部地域に南海郡、桂林郡、象郡の3郡を設置。
BC209 陳勝・呉広の乱。
BC203 趙佗、桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国。
BC202 前漢が成立。都を長安に置く。
BC183 南越国、漢の侵攻阻止。東隣の閩越国、南越国に臣従。
BC179 南越国、諸侯として漢に従う。
BC112 前漢の武帝(七代皇帝)は、諸侯の独立性を排除し中央集権化する政策により、伏波将軍の路博德、楼船将軍の楊僕などが師団を率い、南越国を攻撃。
BC111 南越国、漢により平定される。
 合浦郡など七郡(南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南)設置。合浦郡郡治は(=首都)を徐聞に置く。徐聞は後の広東省海康県(1994年から広東省湛江市内の雷州市)。
BC110 武帝、合浦郡徐聞を拠点に海進し、海南島を占領。擔耳・珠崖の2郡を設置。珠崖の郡治(首都)は瞫都県。
BC106 全国に十三州を設置し、各州に刺史(しし)を置き郡太守(=郡の長官)を監視させる。珠崖郡は十三州のひとつ交趾剌史部に属す。郡治は瞫都。珠崖、苟中、紫貝、臨振、玳瑁、山南等の県。
 しかし擔耳・珠崖郡では初めから海南島に派遣された官吏による汚職、特産物の収奪、労役の強制に住民は反発。長年闘争が続き、郡の設置や廃止を繰り返す。
BC82夏 儋耳郡廃止,珠崖郡に統合。
BC46春 (元帝初元三年)珠崖郡廃止。朱盧県を設置し、合浦郡に統合。
8 前漢滅亡。新成立。(~23年)
25 後漢成立。
203 交趾刺史部を交州に改称。
220 魏成立により、三国時代始まる。
238 改めて珠崖郡設置。ただし領地は海南島内を避け、雷州半島内の徐聞、朱盧、珠官3県で、海南島は「遙領」(遠隔統治)とされた。
242 將軍の聶友、校尉の陸凱を遣わして兵三萬で珠崖、儋耳を討伐。(三国志呉書呉主伝による)
251 珠崖郡廃止。
265 西晋成立。
280 珠崖郡地域を合浦郡に編入。
431 珠崖郡再建。郡治を徐聞に置く。が、長続きせずにまた廃止。その後、珠官、朱盧は越州に属す。

【「封建」について】
 用語「封建」は、2通りの意味で使われる。
(1) 古代中国で、王に一定の領土の支配権を与える体制。王には独立性があり、世襲が認められ、独自の朝廷まで備えていたりする。王は「諸侯」、の支配地域は「諸侯国」とも呼ばれる。
 皇帝(全土の支配者)が王の支配権を認めることを「封建」という。
(2) 土地を媒介としての主従関係に基づく社会の形態。マルクス主義の社会科学では、社会は原始共産制→奴隷制社会→封建制社会→資本主義社会→社会主義社会の順に進化するとされ、階級ができてから2つ目の国家の形態を指す。
 したがって、「呉楚七国の乱」を起こした諸侯が、皇帝から「封建」されていたというときは、(1)の意味。海南島に支配拠点を置くことを試みた歴代「封建」王朝は(2)の意味で使われている。

(ja.wikipedia.orgの海流図を使用) 鑑真の上陸地

【漂着地について】
 「夏后少康之子」の項で見たように、かつて長江下流域から百越人の一部の渡海があったかも知れない。しかし、海南島はそれに比べてもはるか遠方である。にもかかわらず、魏志の時代には遠く離れた倭と海南島の文化的な類似性が信じられていた。
 一体、どういういきさつで当時の中国にそういう見方が生まれたのか。現時点ではそこまでは調べきれていない。
 ただ、日本への渡海を繰り返して試みた鑑真が、あるとき嵐に遭い海南島に漂着した事実がある。<wikipedia要約>中国から来日して唐招提寺を開いた鑑真は、西暦743~744に4回渡海を試みるが、うち3回は弟子による妨害で出航できず、1回は暴風のため引き返している。
 748年の5回目の出航後嵐に会い、海南島に漂着した。そのまま1年間滞在し、現地で医薬の知識を教えた。752年、6回目にしてやっと遣唐使が帰国する船で渡海し、鹿児島県坊津に上陸することができた。</wikipedia>
 日本への渡航は11月が選ばれていたようである。旧暦11月の東シナ海は北西から北東の風だが、真冬のような強風はない。しかし、ときに台風によって大しけになる。海流を見ると、はじめ南東に流されるが、間もなく黒潮にのり九州南西岸に近づくことができる。だが大陸に近いところで漂流すると、台湾海峡を通って海南島まで流される。
 だから百越人が船で東シナ海にでた後、ある集団は九州へ、ある集団は海南島に流れ着いた結果、類似した風習・文化になったのかも知れない。


2011.07.08(金)原文を読む(41) 倭地温暖

倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處
倭の地温暖にて、冬夏、生菜を食し、皆徒跣(とせん)す。屋室有り、父母兄弟、異処に臥息す。

倭の土地は温暖で、夏冬とも野菜を採集して食べ、皆素足になる。家屋があり、父母兄弟はそれぞれ別の処で横になって休む。

【倭地温暖】
 倭国が本当に温暖の地と言えるかどうか、魏と倭国で年間の気温を比べてみよう。魏も南北に長いが、代表地は、都の洛陽とするのが適当であろう。倭国は、その表玄関であり具体的な記述が多い九州北部の福岡、古代の大国の中心地出雲、纏向遺跡の近くの奈良市を選ぶ。
 それぞれ最高気温・最低気温の月間平均をグラフにした。沿岸地域の福岡、出雲は海水の蓄熱作用により、最高気温と最低気温の差(1日の気温差)が小さい。それに対して内陸の洛陽、奈良は気温差が小さい。
 洛陽の緯度は高いが、内陸なので夏季は、倭国と同じぐらい気温が上がる。しかし、冬季は差がはっきりと現れる。大雑把に言って、洛陽が春めいてくる2月下旬~3月初旬の気温が、倭国の厳寒期の気温である。
 倭の地が温暖である結果として、(1)素足で生活できる。右図:職貢図鑑より倭国使 (2)冬でも野菜を採集できるの2点を挙げられている。一つ目の「素足」は、さすがに降雪期にはわらじのようなものを編んではいていたのではないかと思う。
 2つ目の「生菜」を、文字通り「火を通さないで食べる」と読むのは問題がある。倭国の自生植物は次の項で見るが、現在のレタスのような、生で食する食材はほとんどない。それに竪穴式住居には必ずかまどが備わっているのだから、茹でたり焼いたりして食すのが普通であったはずだ。
 形容詞としての「生」の意味は「未処理・未達成のさま」とあるが、「生面」(いきいきとしたさま)や、「生鮮」のように、「いきた~」の意味もある。だからここでは「冬でも保存食ではなく、野に生えている(生きた)野菜を食すことができる」ととるのが当然である。
 厳寒地では冬季は、秋に備蓄した穀物、木の実、塩漬け、乾燥野菜などを摂ったであろう。しかし、温暖な倭国では早春から晩秋まで、ことによると真冬でも野菜が生育していると言いたいのである。
 後漢書・隋書から、それを確認することができる。

[後漢書] 氣温腝 冬夏生菜茹 (中略) 皆徒跣
 "腝"は「漢辞海」にも載っていない珍しい文字だが、ユニコードにはちゃんとあり、"815d"が割り振られている。意味をネットで探ってやっと見つけたのが、<中华昌龙网(中華昌龍網)>「腝」は、単字で「骨を挽(ひ)く。」を意味するが、熟語になった"温腝"は"温暖"と同じ</中华昌龙网>であった。
 <漢辞海>「菜茹」=野菜。また、「茹(ゆ)でる」は日本だけの使い方</漢辞海>である。ということは、「生」が動詞。冬夏、菜茹生ゆ。(冬に夏に、野菜が生育する)。だから、後漢書は「食生菜」を「野菜に熱を加えずに食べる」とは、決して受け取っていないことが分かる。

[隋書] 人庶多跣足 氣候温暖 草木冬青 土地膏腴
 人庶(もろもろ)跣足多し、気候温暖にして草木冬に青く、土地膏腴なり。
 人庶=庶民、膏腴=肥沃。
 つまり「冬でも植物が青々している暖かい気候である」と、一層誤解のない表現になった。また、植物がよく育つ豊かな土壌があることがつけ加えられている。

【日本の代表的な野草】
 以下は、日本国内で自生していて食用となる野草である。古代から茹でたり焼いたりして食用にしていた可能性がある。
田淵農園のホームページより>
日本の植物たち
春日健二氏 撮影 kasuga☆mue.biglobe.ne.jp(☆を@にして下さい)
アケビ ドクダミ ゼンマイ
 日本の植物たち→「種名の50音順」からすべて見られます。ただし、タケノコ→モウソウタケ、ツクシ→スギナです。
※ これ以上写真を利用すると引用の限度を超えると思われますので、リンクをご利用ください。

 カタクリ 地下鱗茎、葉、茎
 ドクダミ 茹でると匂いが消える
 ミツバ
 クサソテツ
 ノビル
 行者ニンニク
 サンショウ
 ワサビ
 セリ
 ヨモギ 代表的な山菜 茹でる
 アケビ 実は熟すと柔らかくて甘い
 ツクシ 3月
 イタドリ 若芽を生食など 多食はできない
 ゼンマイ
 ワラビ 長期保存には塩漬けか、天日干し
 タケノコ
 ジネンジョ
 フキノトウ(蕾) 春、フキ
 タラの芽 春
 ウド 4~6月 若芽、若葉、花蕾、あく抜きして茹でる
</田淵農園>
 こうして見ると、季節感に溢れた食生活をしていたように思われる。

【臥息異處】
 家族は、就寝のとき別々の場所に分かれる。後漢書では、次のような付け足しがある。

[後漢書] 屋室父母兄弟異處唯會同男女無別
 唯、会同、男女別無し。 (ただ、男女がひとつになる場合は別の場所にしない。) これは当然であろう。わざわざ書かくこともなさそうだが、興味があったのだろう。

 さて、弥生時代後期から古墳時代最初期の住居はどうであったか。掘っ立て柱による楼観や、高床式の貯蔵庫もあるが、庶民の住まいは相変わらず竪穴式住居であった。
 問題は、竪穴式住居はどう見ても円形の一部屋の構造であることだ。(のちに、4隅を丸くした方形となる)右図:登呂遺跡、復元
 「竪穴式住居内 間仕切り」をキーワードに探っていくと、宮崎大学敷地の堂地東(どうぢひがし)遺跡に、弥生時代後期の花弁状住居群があるとのこと。つまり、円形の住居内に放射状に間仕切りがある。グレープフルーツの横断面のイメージだ。
 しかし、この地域特有の珍しい形態らしく、一般的には内部の壁構造はなかった。日本家屋にやがて出現する部屋の仕切りも、壁ではなく木と紙で作った襖である。
 かといって、一人用の小さな竪穴式住居が取り囲んでいるという例もなさそうである。
 さらに、「間仕切り」を検索して見つけたのが、次の万葉集の歌である。

・万葉集 14-3445「湊の葦が中なる多麻古須気(タマコスゲ=玉小菅)刈り来わが背子床の隔しに」(東歌)

 菅(すげ)は、スゲ属(Carex、カヤツリグサ科)の植物。「玉」は美称で、"玉小菅"は「美しい菅」。
 背子:女性が男性を親しんでいう語。(1)夫や恋人をさす語。
 水門にある葦に交じって生えている美しい菅を刈り取ってきてください。それを編み、寝所を囲う仕切りにしましょうと夫に呼びかけている。
 この歌が紹介されていたサイトは、
<鶸田(ひわた)美帆さんのブログ>
 (竪穴式住居には)間仕切り壁はない。大家族もお互いに融通しながら柔軟に生活していたが、中には新婚の若夫婦が同居することもあったのだろう。
 「私の愛しい夫 これをベッドのカーテンにしましょう。」
</鶸田さん>
 後漢書の「ただ会同、男女別無し。」とは、これのことだったかと思わせる。
 自己紹介によると一級建築士をされているとのこと。万葉集の歌から住居のようすを読み取るプロの見方は、大いに信じられる。

 ここでさらに「菅」の利用法を探ってみる。地形的に水田ができない地域における、伝統工芸の紹介があった。
<群馬県 中之条町のページ>
 昔から藁の代用としてスゲを使い、筵(むしろ)や草履などを作ってきた。「ねどふみ」とは、刈り取ったスゲを湯の中で踏み込んで柔らかくする作業で、尻焼温泉で行われてきた。
</中之条町>
 当時の寝具についても調べてみた。
<布団の日本史>
・和歌山市の西田井遺跡から、弥生時代から古墳時代に至る竪穴式住居のなかに、ベッドの木幹跡が発見された。
・ムシブスマ(※ 古語では、「ふすま」は掛け布団を指した)とは、カラムシ(植物)の茎を蒸して剥がし,繊維を採って織った掛け布団であり、独特の光沢があり、柔らかくて、現在でもからむし布団として製造されている。
</布団の日本史>
 カラムシとは、紵麻(ちょま)であった。これを栽培し、麻布を織る生活があったことは、第38回で見た。

 このように見ていくと、竪穴式住居の内部は、木組みのベッド、布団、寝所を仕切る布や筵が備わった、意外にも豊かな生活空間であった。当然のことながら、土器、テーブルのようなものもあり、壁には狩猟用具が掛けてあったのだろう。
 布には、大胆な模様が描かれていたかも知れない。そういう豊かさは、むしろ人の暮らしとして当然のことであるように思える。
 「美しいすげを採ってきて」という一節から、そんなイメージが湧いてくるのである。
 確かに、竪穴式住居の復元はまことに殺風景であるが、それは引っ越した後の、がらんとしたマンションの一室を見ているようなものではないだろうか。
 実際には、内部に豊かな生活があったのだ。
 ただし、古墳時代の最初期まで遡ったとき、どの程度のものがあったかという疑問も残る。しかし倭人伝のこの記述は、就寝するときにすだれ、麻布、またはすげの筵のようなものを垂らして区切り、独立空間を確保したことを意味するように思われる。

 布などは、竪穴には残りにくいものかも知れない。しかし、竪穴式住居の生活痕跡を探るべく、DNAや色素など微量物質の分析は十分に行われているのだろうか?
 この疑問に答えてくれる調査は、今のところ見つからない。今後もし見つけられたら、そのときに報告する。


2011.07.13(水) 2013.03.17原文を読む(42) 以朱丹塗其身体

以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
朱丹を以て其の身体を塗る、中國の粉を用いる如し。食飲、籩豆を用い手食す。

辰砂を体中に塗る。これは、中国で白粉を用いるようなものである。飲食は高坏を使い、手で食べる。
辰砂鉱石 出典<wikipedia>

【朱丹】
 朱丹は、赤色の顔料である丹砂のこと。丹砂は、古くは中国の辰州(現在の湖南省)が産地だったので、辰砂(しんしゃ)ともいう。
 辰砂以外にも、赤色の顔料は、我が国で古代から使用されている。
<徳島県立博物館|辰砂の精製
 赤い色は、縄文時代から土器の表面や、埋葬するときに振りかけるなどして使われてきた。
 縄文時代は、ベンガラが使われ、辰砂が使わるようになったのは、弥生時代終わりから古墳時代はじめにかけてである。
 徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土している。徳島県には若杉山遺跡という辰砂採掘遺跡があり、畿内で大量使用された辰砂の産地のひとつと考えられている。
</徳島県立博物館>
・ベンガラ(弁柄)は、酸化第2鉄(赤錆と同じ物質)で、化学式はFeである。安価で安全性・耐久性に優れ、縄文時代から現代まで使われてきた。第23回に紹介した船形古墳の表面にも塗られている。
・辰砂(丹砂)は水銀の硫化物( HgS )である。<wikipedia>不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出する。吉野川上流や伊勢国丹生などが特産地として知られた。</wikipedia>

【文法】
 「如」以下に、やや文法上の問題があるので、後漢書と比較することにより、文法の解釈を確定する。
[後漢書] 以丹朱坋身(說文曰坋塵也音蒲頓反)如中國之用粉也
 丹朱を以て身を坋(ふん)す。(『説文』曰く"坋"は"塵"也(なり)。"蒲頓反"を音とす。)中国之(の)粉を用いる如し。

・「説文」(『説文解字』)…現存する中国最古の字典。後漢の許慎の著。9353字を収録。
・「音」(発音)は、代表的な漢字三文字を使い、それぞれ韻母(冒頭の子音)、韻尾(韻母以外の部分)、四声(母音内のピッチの上げ下げ)を表す。
 主述構造「中国用粉」を動詞「如」(ごとし)の目的語にする(文の名詞化)ときは、「之」と「也」を使って「中国之用粉也」とする。後漢書ではこの形になっている。魏志の「如中國用粉也」は「之」が初めから省略されたか、筆写を繰り返す間に脱落したと思われる。

 朱丹の塗り方は「中国で白粉を塗る如し」とされるので、線画ではなく身体を塗りつぶしたことになる。もともと黥面文身の上に全身朱塗りの姿は、強烈なインパクトがある。魔除けなどの意味があろうかと思われ、毎日ではなく、特別の儀式のときだけ塗ったのかも知れない。
 身体に朱塗りして舞い、神に同化するのである。これが後世、神社を朱塗りすることに繋がるような気がする。神社の建物=神体という見方がされたのだろう。
 卑弥呼も舞に没頭してご託宣を得るとき、朱塗りしていたのであろうか。そういえば、熱田神宮の巫女も朱袴を着用している。

(へん) (とう)高坏―弥生時代中期高坏 (たかつき)―弥生時代後期
行政院文化建設委員會 孔廟文化資訊網唐子鍵 考古学ミュージアム中野区指定有形文化財
(歴史民俗資料館所蔵)
豆】
―(へんとう)<漢辞海>宴会などのとき食物を盛る器</漢辞海>籩は竹を細かく編んで作った豆(とう)。豆は木製で円形の高坏(たかつき)でおもに肉を盛り付け、籩は竹製の豆と同形の器で主に果物を盛り付ける。また、高杯(たかつき)は、食べ物を盛る脚付きの台。現在は神饌を盛る。
 籩豆の画像は、中華民国(台湾)の文化建設委員会(行政院に属し、文化政策と伝統文化の発揚を担当)が構築した、"ネット上の孔子廟"より。大切な儀式については、使用する楽器や食器、配置まで定められていた。画像を見ると確かに、籩は竹を編み、豆は木材をくり抜いて作られている。
 一方奈良県磯城郡田原本町唐子鍵遺跡で出土した、弥生時代中期の高坏(木製)は非常に精密に仕上げられている。また東京都中野区で出土した高杯(土器)は、倭人伝の時代にあたる弥生時代後期のものとされる。
 儀式で用いる籩、豆はそれぞれに「竹製」「木製」という明確な定義があるが、弥生時代末期の倭国の庶民の食器は、木器も土器もあった。ただ、木器の製作は手間がかかるので、次第に手間のかからない土器に移行したと言われている。
 ここで言う熟語「籩豆」の意味は、その材料を問わず、比喩的に「籩や豆のような形をした食器」だと解釈するのが妥当である。

【手食】
 三国時代の中国では、もう箸の使用が一般的であったのに対して、倭国ではまだ手で食べていたから、もの珍しさから取り上げたと思われる。
 では一体、倭国ではいつごろ箸の使用が始まったのか。
箸勝本店
  最も古い箸といわれるのが中国の殷王朝(BC1600~BC1046)後期の遺構「殷墟」から発掘された青銅製のもの。
 我が国には「挟子」(かなばさみ)を起源とする説がある。奈良県正倉院の御物の中から発見されたものは鉄製のピンセット状の道具。大襄祭では祭器として、一本の竹を削って中央部を折り曲げた箸を使用したと記録されている。
</箸勝本店>
 古事記、日本書紀にも登場する。
●古事記…降出雲國之肥上河上在鳥髮地 此時箸從其河流下 於是須佐之男命以爲人有其河上而
 出雲國之肥上河(斐伊川)の上に降り、鳥髮の地に在り。此の時、箸、其の河従(よ)り流下す。是於(に)須佐之男命、以爲(おもうらく)人其の河上に有りと。
 (スサノオはこの後、ヤマタノオロチの生贄にされようとしている姫を見つけ、櫛に変身させて救い、ヤマタノオロチを退治する)
●日本書紀 巻五… (ヤマトトトヒモモソヒメが見つけた小さな蛇が、夫の大物主の命が変身した姿であることを見抜けずに、去られてしまったことを悔いている場面)
 爰倭迹迹姫命仰見 而悔之急居【急居 此云菟岐于】則箸撞陰而薨 乃葬於大市 故時人號其墓 謂箸墓也
 爰(ここ)に倭迹迹姫命仰見、而ち之を悔い急居し、則ち箸、陰を撞(つ)き、而ち薨(みまか)る。乃(か)くして大市於(に)葬り、故に時の人其墓を號し、箸墓と謂う也
 ここに倭迹迹姫命仰ぎ見、後悔して思わず腰を落としたところ、箸が陰部を突き通して、亡くなる。そして大市の地に葬られ、故に当時の人はその墓を名づけて箸墓と言う。
 (この話自体は、「箸墓」の語呂合わせの民話に由来すると思われる。箸墓は古墳時代最初期の大規模な前方後円墳であるので、「卑弥呼の墓」説がある)

 よって、古事記(712年)、日本書紀(720年)が書かれた時代には、箸の使用が始まっていたことがわかる。
 しかし、倭迹迹日百襲姫命、須佐之男命の話自体はフィクションだから、8世紀から遡って千年前の年代に箸があった証拠にはならない。

 箸の起源をネットで検索すると、たくさんのサイトがヒットする。その中にしばしば紹介されるのが、聖徳太子が初めてわが国の箸の作法を定めという説である。
 それによると607年、聖徳太子は隋に遣隋使を遣わした。迎えた隋の宴では、当然、箸が使われていた。翌年、隋から返礼のために裴世清が遣わされる。倭国での歓迎は、当然箸食のスタイルで宴を開けなければならない。それをきっかけとして聖徳太子は箸による食事作法を定め、それが徐々に民間に広まったとされる。
 いかにもありそうなことだが、一次資料(食事の作法を定めた文書そのもの)を探してもなかなか見つからない。この説にはたくさんの人が飛びついて引用したが、もともとは単なる想像かも知れない。
 ただし、8世紀にまず貴族に広まり、次に9世紀に庶民まで広まったこと自体には物証がある。
新潟県埋蔵文化財調査事業団
 8世紀の奈良の都・平城京跡では、平城宮(宮殿・官庁)に箸の出土が多く、庶民の暮らす市街地では少ない状況であったのが、9世紀の京の都・平安京では広く一般的に出土することから、この頃に庶民まで箸を使う習慣が広まった。
</新潟県埋蔵文化財調査事業団>

 大雑把に見れば、縄文・弥生・古墳時代には手食が一般的であったが、中国文化の影響を受け、奈良時代から平安時代に箸食が広がったと考えてよさそうである。

【中国】
 <wikipedia>中国(ちゅうごく)という語は、中国の古典である『詩経』(西周時代[BC1046年頃~BC770年]、民謡や廟歌を孔子が編集したと言われる)で「地理的中心部」と言う意味で初めて用いられた。</wikipedia>その後、漢民族が自らの民族的優位性を誇る「中華思想」を持つようになり、中国という呼称もそのような自覚をもって、自らの国を呼ぶものになった。
 したがってここで使われる「中国」は三国時代にあっては当然、魏蜀呉の地域である。


2011.07.20(水)原文を読む(43) 其死

其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉
其の死、棺有り椁無し。土に封じ冢(ちょう)を作る。死より始め喪を停す十余日、当時肉を食さ不(ず)。

その死に際しては、(死者を)一重の棺に納め、土に葬り、土を盛る。死より十日余り喪に服し、その間は肉食を絶つ。

 はじめに各語の意味を、辞書で確認する。品詞は、文中にあてはまるものだけ抜き出す。
<漢辞海より>
《名》死者または「死」。
または (かく)《名》うわひつぎ。二重になっている場合内側が棺、外側が椁
(ちょう)《名》広大な墓。つか。
《動》封鎖する、土を盛る
当時 現代の日本の「当時」と同じ使い方のほか、「そのとき」という意味もある。
《動》はじむ。
《動》とどむ
《名》死者を悼み葬る儀式。またその期間。
</漢辞海>

【文法】
 「始」は動詞の他に《名詞》「始め」、《形容詞》、「もっとも早い」《副詞》「はじめて」もあるが、ここでは動詞である。というのは、「始める」と「停める」が対になっているからである。「十余日」は、「喪」への補語である。

【古代中国の二重棺と一重棺】
 中国における二重棺「棺椁」はどのようなものだろう。またそれにどのような意味があるのか。これらを、例から探った。
 まず、士鞅(しおう) 【晋(春秋時代)BC1100頃~BC221の役人】による事件の場合。
 BC510年、周朝は、成周に城壁を築くことを晋に求めた。士鞅は、上司であった正卿・中軍の将(役職名)魏舒にそれを受けるよう進言した。だが進言を容れた魏舒は城壁建設の折、ついでに行った山狩りで火に巻かれて死亡してしまった。
 魏舒の遺体は晋に戻り葬儀が行われが、士鞅は、魏舒の軽率さのもたらした失敗に、恥をかかされたと感じていた。そのため魏舒を咎めるために、正卿の格では二重棺であるべきところを、外棺を外して一重棺にした。それを低い身分扱いされたと怒った遺族により、また騒動が起こる。

 もうひとつの例は、西漢南越王博物館にあった。1983年南越国の南越国2代目の王、趙眛の大規模な墓が見つかり、その出土品を展示するために作られた。この墓には、前漢時代の嶺南地区で唯一、彩色画で装飾された石室があったという。
 なお、現代の中国では、前漢→西漢、後漢→東漢と呼ぶことが多いようである。
 南越国は前漢(BC202~BC111)時代の中国南部の国。一時独立を目指して前漢と戦うが、その後懐柔され諸侯国になった。(第40回、第35回参照)
 前漢では既に廃止されていた殉葬制度が当時の南越国にはまだ存在した。 <西漢南越王博物館 その2(記録された方のページより)>殉葬された4人の側室のなかで一番豪華な右夫人の棺椁(二重棺)が展示</西漢南越王博物館 その2>されている。
 同博物館展示の説明図の写真をもとにして、右図を作成した。側面に金具が6個―英文表示は"doorknocker"(玄関の扉をノックする金具)であるが、ページの著者は椁を運ぶための取っ手だろうと書いている。
 椁(外棺)に棺(内棺)を入れると、頭と足の部分に空間があり、この空間に豪華な副葬品が入れられた。

 これらの例から、中国では埋葬の形式として、一重棺・二重棺の区別が大切だったことがわかる。

【わが国の弥生時代の棺】
岐阜県文化財保護センター 報道発表資料より
荒尾南遺跡(大垣市荒尾町・桧町)発掘調査 2010年4月~同10月
大分県日田市 吹上遺跡の発掘調査(1981年度)
弥生時代後期中頃

 わが国古代の代表的な埋葬方法として、甕棺が取り上げられるが、木棺もあった。ただ木材は腐食するので、甕棺に比べて残りにくい。
<岐阜県文化財保護センター 弥生時代の木棺墓群を発見>
 木棺墓の木棺としては、組合せ式箱形木棺、舟形木棺、刳抜き式木棺、転用木棺などがあり、今回発見した木棺はすべて組合せ式箱形木棺である。底板、側板、小口板がそれぞれ残っているもの2基、小口板のみ残っているもの1基、小口板の痕跡のみが確認できたもの6基、合計9基である。
 今回木棺が残存したのは、木棺の出土した地区が荒尾南遺跡の立地する地域の中でも木質のものが残りやすい場所であったためと考えられる。
</岐阜県文化財保護センター>
 この例では、いずれも一重棺であったと見られる。また木棺は、組み立て金具などに高度な技術が必要である。
 縄文時代は、全国的に甕棺墓が残っているが、弥生時代になると甕棺墓は限定的で、九州北部に限られる。弥生時代後期になると九州北部でも消滅していく。
 また、前期の古墳の竪穴式石室では一重の木棺の周囲に空間を作らずに、直接直接石を積んで包むので、外側の石積みを「槨」と見なして「石槨」(せっかく)と呼ばれることがあるが、中国の棺椁とは異なるものである。

【方形周溝墓】
 弥生時代前期・中期に見られる墳丘墓(土を盛った墓)。
<wikipedia>
 近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落の近辺に営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。
</wikipedia>
 つまり、格子状に溝を掘れば、もともとの地面は碁盤の目のように並んだ丘の上面になる。そうやって作られたそれぞれの丘に、棺と副葬品を納めた。
 棺からは、ときに水銀朱(=前回取り上げた辰砂)が検出されることがあり、その場合は被埋葬者の地位が高かったと考えられている。
 墳丘墓は弥生時代後期には、大型化していく。これは次第に国が統合され、多くの人口を支配する王が現れたことを意味する。
島根県 全国でも最大級の四隅突出型墳丘墓西谷3号墓復元模型

 出雲地方を中心に、弥生時代終期後半(200年代)四隅突出型墳丘墓という独特の墳丘墓が出現する。
 古墳は、これまでの墳丘墓が連続的に大型化したもので、3世紀(200年代)後半から古墳時代が始まる。 ただ、王族以外の一般の庶民はこれまで通り、地位・豊かさによって大きさが異なる墳丘墓を、集落からやや離れた場所に集合的に作ったと思われる。一族ごとの合葬もある。

 「棺有り椁無し。土に封じ冢(ちょう)を作る」とは、このように集落の郊外に大小さまざまの墳丘が築かれ、木製の一重棺を埋葬した様子を描写したと見られる。

【喪】
<wikipedia>喪(も)は、親族が死去した者がハレに値する祝い事などを避ける一定の期間をさす言葉である。(例)年賀状の欠礼、慶事への出席、殺生など。</wikipedia>
 「ハレとケ」は、柳田國男が唱えた日本人の伝統的な生活原理であるが、喪に服す心理自体は、時代や民族を超えて普遍的である。
 「不食肉」から、喪の間は殺生を慎む習慣が、仏教移入以前からあったことがわかり興味深い。


2011.07.27(水)原文を読む(44) 喪主哭泣

喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
喪主哭泣(こくきゅう)し、他の人歌舞に就き飲酒す。葬を已(や)み家挙(こぞり)て水中に詣(いた)り澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如し。

喪主、家族は声を上げて泣き、あるいはすすり泣く。他の参列者は歌や舞で使者を悼み、酒を飲む。葬儀を終え、家族はそろって水に入り身を清める。ちょうど(中国で小祥=父母の一周忌=にあたり)練絹の喪服に改め、沐浴することに当たる。

 はじめに、各語の意味を確認する。
喪主 葬儀を行う当主。
(こく) 声を上げて泣く。
(きゅう) 声をひそめて泣く。
他人 ほかの人。(「あかの他人」など、よそよそしさのある語感は、日本語用法だけ)
 《動詞》就(つ)く《助動詞》できる。
 《助詞;語気詞》文末に置き、確定・肯定の気持ちを表す。「~(する)のみ。」
 《動詞》やむ。《副詞》動詞の前に置き、以前に完了したことを示す。「すでに」
 《動詞》ほうむる
 (あげる)《形容詞》こぞって。(動詞で訓読) (例)挙世混濁…世をあげて混濁し
 (いたる) 行く。「(神社などに)詣でる」は日本語用法
 洗いすすぐ。
澡浴 入浴する。身を洗う。
 《名詞》灰汁で煮て練り、柔らかくした織物。一周忌の喪服[親を亡くして1年後に、喪服が練絹になる]
 髪(頭部)を洗う。

【喪主】
 哭泣するのは、喪主一人ではなく、当然家族全員のことだと思われる。

【哭泣】
 かつて中国には葬儀に泣き女(本来の意味からは、「哭き女」と表記すべきか)を雇う習慣があったという。日本でも、<佐渡ヶ島で見たこと聞いたこと>『金泉郷土史』(昭和十二年刊)には、「ソウレン泣きと称し、一種独特の形式をもつ泣き方が、戸地・戸中・姫津などに、明治の末ごろまで残っていたという。そして、それを一升泣き、五合泣きなどといった」と書かれている。</佐渡ヶ島>という。
 報酬によって泣き方を加減し、「今回は一升泣きでお願いします」と依頼されれば、それにふさわしく上手に激しく泣いたのだろう。韓国には現在でも哭き女の習慣があるようで、ニュースでしばしば話題に上る。遺族は、故人のためにたくさんの人が集まって激しく泣く姿を見せることで、その偉大さを実感したいと思うのであろうか。
 「喪主哭泣す」がわが国の哭き女の伝統につながるかどうかは分からないが、魏志の時代は思い切りよく声を上げて泣くのが普通であったことがわかる。

【"就"を研究する】
 「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」からは、やや不穏当な印象を受ける。
 我が国の通夜では、かつては集まった客の酒席が盛り上がり、深夜の宴になっている光景が見られた。家族の悲しみの横で、歌えや踊れやの大騒ぎをする文化が魏志の時代まで遡るのかと思ったものだが、もう少し慎重に調べることにする。まず「歌舞」の前に「就」が置かれた意味を探ってみたい。

<中国のウェブ辞書『百度詞典』による英訳>“就”在漢英詞典中的解釈
1.nearby
2.(an auxiliary confirming and stressing the verb following)
3.[Formal] to enter upon; to engage in
4.to accommodate another person's schedule, etc.
5.only; solely
</『百度詞典』>
(この部分の訳)1.近くに、傍ら 2.確認、強調の助動詞(確かに~する) 3.[儀式]入場する;招き入れる 4.相手との日程調整 5.唯一;専ら
<百度百科による解説>
 会意。京尤会意。“京”意為高,“尤”意為特別。本義:到高​​処去住〖move to highland〗
 (訳)会意文字;京+尤。"京"高きに為す意。"尤"特別に為す意。元の意味は「高所に向かって今の場所を去る」
</百度百科>
<漢辞海>
 《動》接近する、赴任する、[状態が]変わる。《助動》可能である。《副》即座に。など。
 (熟語の例)就位…儀式の定位置につく。就世…人生を終える。就職…職に就く。
</漢辞海>

 以上から、物理的な接近または、状態が変化する意味だが、その行先は「正式」「厳粛」「目標」とすべきところで「襟を正して向かうべき」場所である。単なる移動ではなく、価値を含む。
 従って「就歌舞」は、儀式における「歌舞」の位置に就く。つまり死者を悼む厳粛な場に位置付けられた、歌と踊りのメンバーになるという意味になる。決して遺族の横で、勝手に歌・踊りで楽しむのではない。
 それなのに直観的に「悲しむ家族を尻目に、客が勝手に云々」と読んでしまうのは、日本語の「他人」の語感がもつよそよそしさのせいだろう。「他人」は、単に「親族以外の参列者」を指す。

 しかし中国人が読んでも「悲しむ家族を尻目に」と受け取られることがあるらしく、後漢書ではそれに配慮して表現を変えたと思われる節がある。
後漢書; 家人哭泣不進酒 而等類就歌舞爲樂
 "等類"は「同じような地位のなかま」という意味なので、(日本語的な"他人"ではなく)親しい同族や友人を指すと思われる。「楽」の主な意味はは、もちろん「楽しむ」だが、「楽器」も指す。だから「為楽」は「楽しみと為す」と「楽器を演奏する」のどちらにもとれる。
 後漢書では、魏志の「他人は酒食す」を「家人、酒食進まず」に変え、「酒食はすべての参列者に分け隔てなく提供されるが、家族は悲しみのため酒食が進まない」と思いやりのある表現にしている。
 だとすれば、「為楽」は「楽器を演奏する」と読みたい。歌・踊・楽器が悲しみの儀式を盛り上げるのである。万が一「楽しみと為す」の意味であったとしても、厳粛な儀式の中で、優れた芸能に心が洗われるという意味に取りたい。
 また「就歌舞」がそのままにされているのは、「就=死者に歌・踊りを捧げる役割に就く」解釈をさらに裏付けるものである。

 ここで、他の解釈の可能性について考えてみる。
(1)「就」は可能の助動詞としても使う。つまり「可」「好」と同じで「歌い、踊ることができる。」となる。この場合は「悲しみの席なのに平気で歌い、踊り、酒食を楽しむことが許される」意味になる…だから倭人は慎みを知らないという。
(2) 時代が下り、隋書では「就」の目的語「屍」を挿入し、「親賓就屍歌舞」(賓客は、死体の近くに寄り歌い舞う)として、「就」を死体への接近の意味で使っている。このように、「就」の目的語が省略された、あるいは後世に脱落したとする解釈もある。「就屍」の場合は、寄り添って歌舞を捧げるのだから、歌舞は厳粛な行為である。
 (2)の解釈はあり得ると思うが、(1)の解釈はないと思う。倭人への客観的かつ冷静な態度が全体の基調をなす中で、ここだけ蔑視があるとは思いたくない。また"就"は本来、「価値に向かう」だから、「死者に対して、望ましくない態度で接してよい」意味にはならないだろう。

【歌舞】
 弥生時代の歌舞には、当然楽器も加わっていたことだろう。
 楽器は古来から管・弦・打の3グループに大別できる。
島根県 埋蔵文化財調査センター
 管(吹奏楽器)については、土笛が出土している。
土笛。弥生時代前期~中期前葉(右図)</島根県のサイト>
 古く中国にあった陶塤(とうけん)、壎(けん)が、縄文時代の渡来民族によって持ち込まれ、日本海沿岸に広まった可能性がある。
弥生土笛>前面三孔後面二孔の形式は中国では早く商代(紀元前十三世紀から十一世紀中ごろ)に登場している。前面四孔後面二孔の形式は孔子の時代には完成している。前面三孔の形式も前面四孔の形式も、ともに孔子廟の楽器として今日迄伝えられている。</弥生土笛>
 大きな穴一方のヘリを尺八の歌口のように使って息を吹きかけ、振動を作り出したと推定される。竹筒に歌口をつければフルート系、葦を差し込めばオーボエ系の楽器ができるが、竹・葦は残りにくい。
 弦については、木製の琴のような楽器が出土している。
 <日本音楽への招待 野川美穂子氏より>静岡県浜松市角江遺跡(弥生中・後期)、福岡県春日市辻田遺跡(弥生後期)、千葉県茂原市国府関(こうせき)遺跡(弥生末から古墳前期)、島根県八束郡八雲村前田遺跡(古墳後期)など、出土例は弥生時代から奈良時代にわたっている。</日本音楽への招待>
 ここには木製の琴と思われる出土品の他に弾琴埴輪も紹介されていて、興味深い。
 打楽器は、例えば初期の銅鐸で、舌(ぜつ=内部にぶら下がる金属片)を備え、楽器であった。(後に大型の祭礼具となり、楽器ではなくなった)
 これらから、弥生時代後期にはある程度の合奏が成立していたと想像される。土笛の穴のふさぎ方の組み合わせから音階を推定し、古代琴を再現して適当に調弦し、万葉集などから古代の日本語の音韻を推定すれば、当時の音楽に近い響きが作れるかもしれない。

【飲酒】
「飲酒」の主語は、「他人」だけか、あるいは「喪主」を含むかの判断はむずかしい。
 ところで、弥生時代の酒はどのようなものだったか。
(縄文時代)
<wikipedia>
 紀元前1000年前後の縄文式竪穴から、酒坑(しゅこう)が発見されている。そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギと、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見された。
</wikipedia>
(弥生時代)
日本酒の歴史
 酒が米から造られるようになったのは、弥生時代、水稲農耕が渡来定着した後で、九州・近畿での酒造りがその起源と考えられる。この頃は、加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最も原始的な方法を用いていた。
</日本酒の歴史>
(奈良時代)
<wikipedia>
 「口嚼(くちかみ)ノ酒」…『大隅国風土記』逸文(713年以降)によると、大隅国(今の鹿児島県東部)では水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む。(唾液中の消化酵素によって糖化)
 カビの酒…『播磨国風土記』(716年頃)によると、携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をした。(麹カビを利用)
</wikipedia>
 wikipediaの筆者は続けて、奈良時代は麹黴による製法がすでに主流であり、口嚼の酒は特定の地域に残っていた古い習慣であろうと述べている。

【已】
 形式的には前文から「…飲酒已」として、末尾の語気詞(強く言い切る語感を表す)もあり得るが、ここでは「身を清める」の前なので、文脈上完了を表す動詞「やむ」が、「葬」を目的語にして「喪が明ける」意味ととるのが自然である。なお「葬」は基本的に動詞であるが、ここでは名詞化する。

【挙家】
 "挙"は形容詞「すべての」。従って"挙家"は、「すべての家族は」の意味。ただし漢文では習慣的に動詞のように「家を挙げて」と訓読する。

【詣】
 日本では神社やお寺に詣でるときしか使わないが、もともとは、単純に「行く」の意味。他には、使者が魏国の皇帝に会いに行くときなどに使われている。

【詣水中澡浴】
 <wikipedia>神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離(みずごり)と呼ばれる。</wikipedia>
 また、<wikipedia>穢(けが)れているとされる対象としては、死・病気・怪我・女性ならびにこれらに関するものが代表的である。</wikipedia>
 喪の期間は穢れであり、喪明けに穢れを清めるために禊をするのは、現在でも自然に理解できる。神社に参拝するとき手水で手を清めたり、葬儀の帰りに塩で身を清めるのも同じである。
 穢れを払うため禊をする習慣は、少なくともこの時代まで遡るのである。

【以如練沐】
 中国における練沐とは何か。そこで「練沐」で検索をかけたところ大量にヒットしたが、出てくるのは魏志倭人伝関連のサイトのみである。倭人伝と離れた中国文献の資料が出てこない。
 また中には、「一周忌に連絹を着たまま入浴する」という解説もあったが、出典を探してもまだ見つけることができない。
 <漢辞海>親を亡くして11か月後に、喪服が練絹になる</漢辞海>は、見つけることができた。
 また、"沐"は「頭部を洗う」で、"浴"は「体を洗う」を意味する。身を清めるために頭だけを洗うのは不自然なので、「練沐」はおそらく、「練絹」と「沐浴」からそれぞれの先頭文字を組み合わせたと思われる。

 中国のウェブ百科「百度百科」によれば、両親の喪は、古くは2年間で、満1年を「小祥」、満2年を「大祥」という。
 また「卒哭(百日)祭後,孝子只能食粗飯飲水,小祥祭後才可以吃菜与果,至大祥祭後,飯食中才可用醬醋等調味品。」つまり、100日を過ぎれば、ご飯と水だけは食べてよくなり、1年後は、おかずや果物もOKだが、調味料はだめ。2年を過ぎると醤油などを使う通常の食事ができると、興味深いことが書いてある。
 ただし現在は多くの場合小祥で完全に忌明けし、「逢閏年則提前一個月」(閏年は1か月繰り上げる)と書いてある。
 陰暦では閏年は3年に1回あり、13か月ある。(その場合たとえば4月の次に閏4月が置かれる)例えば閏4月15日が命日の場合、翌年4月15日が小祥となる。(つまり、実質11か月になる)
 漢辞海で「11か月後」となっているのは、中国の文献のこの部分を読み誤って、平年でも1か月繰り上げると読んだように思える。
 それはともかくとして、小祥で喪服が「練絹」になる。練絹とは、生糸を織物にする前に灰汁につけて練ること。
 「練」について詳しくは<角田染工「製錬」>生糸は、フィブロインとセリシンという2種類のたんぱく質から出来ています。絹の精錬は、家蚕の生糸では約25%を占めるセリシンを溶解除去することです。</角田染工>とある。
 セリシンはアルカリ性の溶液などに溶け、同時に色素も取り除かれ(つまり白色になる)、その結果絹本来の特徴がもつようになるという。古代から灰汁(アルカリ性)を使って練絹が作られていた。親を亡くして1年が過ぎ、小祥を迎えた日、喪服を練絹製のものに改めるのである。

 次に「沐浴」は、百度百科によると中国では3000年前の殷商時代に始まったことが記録に残っている。(「王宮に寝室有り」などと書かれる)隋代には公共浴場が商業的に繁栄し、中には性的サービスもあったと書いてある。
 興味深いが、余談はこのくらいにして、「禊」に相当すると考えてよいだろうか。百度百科によると、古代「皇帝祭天拜祖、僧人誦經念佛之前,先要沐浴是個定俗,表示心潔崇敬。」(皇帝が先祖に拝礼したり、僧侶が念仏を唱える前に、まず沐浴によって俗界から離れ、心身を清めて崇敬の念を示すことが必要である)とある。
 多くの民族に共通であろうが、中国にあっても身を清める意味をもって、宗教的行為としてで沐浴をした。

 以上から「練沐」とは、古代中国で忌の区切りとして「連絹を着、沐浴する」を指す。ただし、現時点では「連絹を着、また沐浴する」なのか「連絹をまとったままで沐浴する」なのかは、まだ確認できていない。

【7世紀までに、どう変化したか】
 これまで後漢書や隋書と比べることによって、しばしば意味を鮮明にすることができた。後漢書は【"就"を研究する】の項で取り上げたので、ここでは隋書と比べる。

隋書: 死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小輿

 死者は衣を着せ、棺槨(二重棺)に納める。親しい客人は死体の近くで歌舞し、妻子兄弟は白布で服を仕立てる。貴人は納棺したまま3年間野外に安置する。
 庶民は骨を焼いて占い、日を定め、埋葬する。葬儀になれば、死体を船上に置いてものを陸地で牽引したり、あるいは小型の輿に納めて引く。

 衣を着せてから死者を棺に入れる。
 重要な客人。
 この場合は近づく。
 納棺して、まだ葬らないままに安置する。
 (エイ) 埋葬する うずむ
 《前置詞》[及A]Aに及び
 (布を)裁断する。
 《動詞》(ここでは名詞化)

 聖徳太子の時代になると、古墳は廃れる。隋書で「棺槨」と書いたのは魏志の「有棺無槨」と対照的である。納棺の作法も、中国文明の影響で変化したのであろう。
 葬列は遺体を置いた船を台車に載せて、陸路を引っ張る。船にのせるのは、おそらく宗教的な意味がある。
 五山の送り火の船形の近くに、西方寺がある。そのページに書かれた解説を引用する。
 <京都市北区の大船院西方寺>船形の舳先は、西方浄土を表す精霊船で、弘誓(ぐせい)の船、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。</大船院西方寺>つまり、仏教の影響を受けたのであろう。


2011.07.30(土)原文を読む(45) 如喪人名之爲持衰

其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰
其(も)し行来(こうらい)、渡海し中国に詣(いた)れば、恒(つね)に一人をして頭梳(くしけずら)不(ず)、蟣蝨(きしつ)を去(のぞ)か不(ず)、衣服垢汚(こうお)し、肉を食せ不、婦人に近づか不、喪人(喪人)の如く、名を之(これ)持衰(じさい)と為さしむ。

往来が、海を渡り中国を訪れるともなれば、常に一人を指定し、頭髪に櫛を通させずシラミやその卵を取り除かせず、衣服は垢で汚れるままにさせ、肉食をさせず、女性から遠ざけ、喪に服してる人のようにさせ、その名を持衰という。

《副》つねに
《動》くしけずる
喪人喪に服している人
シラミの卵
シラミ目の昆虫の総称
《他動詞》取り払う
垢汚(こうお)きたない、よごれている。
《動》(ごとし)同様である。
 文中での、各語の意味を表にまとめる。
 「其行來渡海詣中國」と「恒使一人…」の2つの部分に分かれ、前半は「もし~ならば」の意味を持つとみられる。その理由を次に述べる。
【其】
 「其」は、主に代名詞(それ)、指示語(その)で使われるが、それらとは別に仮定の接続詞として、「若」と同じように使う場合がある。
<國際電腦>【其】7.《連詞》①表示假設關係,相當於「若」、「如果」。</國際電腦>
 英語の"if"構文は、実際に起こる条件をあらわす場合と、現実に反することを仮定して願望をあらわす場合の区別があり、助動詞に前者は"will"、後者は"would"を使うなど、動詞の時制変化によって使い分ける。
 それに対して中国語の場合は動詞の変化は一切なく、どれにあたるかは意味から判断する。それどころか、「若」「如果」などの接続詞自体、省略してもかまわない。

 この文の場合は「仮定」といっても、現実に有り得る条件による限定である。

【中国】
 周の時代から「中国」は中国人自身による呼称であった(第42回参照)。実は、私は小さいときから、"中国"とは現在の「中華民国」または「中華人民共和国」の略称だと思いこんでいた。

【(其)行来渡海詣中国】
 順番に訳して「行き来し、海を渡り、中国に詣(いた)る」とすると、各文は隠された「或いは」で繋がる。これでは、使者を国内に派遣する場合を含め、いつでも「持衰」を設けることになるので辻褄が合わない。
 ここでは「行来」を「往来」と同じ意味の熟語と考え、名詞として主語にする。"其"を指示語に戻して「その往来」としてもよい。そして、「往来が、海を渡って中国に至る場合は」と訳すと、とても意味がよく通る。

【恒、不】
 副詞。動詞の直前に置き、直後の動詞を連用修飾する。

【使】
 ここでの「使」は、使役動詞としてはたらく。(他に令、遣、教、命、俾など)
 使役動詞と言えば、英語の"let"や"make"が思い浮かぶ。参考に、英文法をおさらいする。

(例文) Let me help you. (お手伝いさせてください。=私をしてあなたを助けしめよ。)

 英文法では、これをSVOCの文型という。(主語)は省略された"you"。(動詞)は"let"。(目的語)は"me"。(補語)は"help you"(helpは原型不定詞)。
 正式には動詞は1個だが、"me"は意味上は"help you"の主語でもある。
 つまり、事実上 主語―動詞①―①への目的語兼②の主語―動詞② という並びである。「漢字海」で勉強した結果、漢文の使役動詞の語順もこれと同じであった。
使一人
[動詞①][①の目的語兼②の主語][動詞②]

 このように、一語で二重の役割をする語を「兼語」という。
 (ただし、解説書によっては一文に動詞が2個あることを嫌い、動詞①は、動詞ではなく「助字」としている)
 続く「不去蟣蝨」「衣服垢汚」「不食肉」「不近婦人」「如喪人」「名之爲持衰」は、すべて「不梳頭」と並列で、それぞれの動詞はすべて動詞②にあたる。「使一人~」で文法的構造は確定しているから、あとはいくつでも述部を並べることができる。

【衣服垢汚】
 主述述語文。「衣服が垢汚する」全体が、主語「一人」の述語になる。

【名之為持衰】
 この文はやや複雑なので、文法を確認する。
 目的語は通常動詞の後に置くが、強調のために倒置することができ、その場合は"之"をはさむ。(例:恐罪→罪之恐、「罪これを恐る」)
 また「為す」はこの場合、二重目的語「名」「持衰」をとると考えられる。
 二重目的語は、英語"Give her a gift."と同様に「A(人物目的語)にB(事物目的語)を与える」は「与AB」と並べる。
 この場合も、"名之為持衰"="為名持衰"で、二重の目的語をとる。

【蟣と蝨】
 シラミの卵は、現在でも頭髪を櫛ですくのが有効な除去法とされる。「不梳頭」に「不去蟣」が続くところに、その意味合いがありそうである。
 弥生時代の櫛の出土例は<安満遺跡>木製又は竹製の歯を束ね黒漆で固め、赤漆で装飾した結歯式と呼ばれる</安満遺跡>ものなどがある。櫛はきわめて日常的に使われていたはずであるが、出土は稀である。漆が塗られたりしていなければ、ほぼ腐食して失わるであろう。

【持衰の役割】
 中国への航路は、朝鮮半島経由だったと思われるが、渡海にはかなりの危険を伴うのは間違いない。無事に帰って来られるのを願い、渡航中は誰か一人を指名し、なるべく慎み深い生活を送らせる。使者の渡航中に万が一事故があれば、彼の心がけが悪かったからである。
 使者が戻るまでは、彼はシラミを防ぐこと、身体を清潔を保つこと、女性に近づくこと、肉食(=殺生)など、とにかく積極的な行為はすべて禁止される。喪に服するのと同じような生活を送らねばならなかった。
 逆に言うと、弥生時代後期の人々の日常生活は、頭髪に櫛を通して頭ジラミを防ぎ、洗濯した衣服をまとい、清潔を保っていたことがわかる。竪穴式住居は夏涼しく冬暖かく、カーテンによって個人スペースを確保し、ベッドを使うなどなかなか文化的な生活を送っていた。

【持衰】
 それでは、「持衰」の名称はどこから生まれたか。まず中国の国内で、何かを指して「持衰」と呼んでいたのではないかと思い、検索してみた。膨大な数がヒットしたのでいろいろ絞り込みを試みたが、魏志関連以外にはでてこない。おそらく中国由来ではない。
 これは、どうやら倭国製の呼称である。しかし、中国人が倭人のことばを聞き取って字をあてる場合は、もっと奇妙な文字(例えば泄謨觚、柄渠觚など)が使用されるので、「持衰」については、倭人自身が漢語を理解してつけた可能性がある。
 読み方については「衰」は、「おとろえる」意味では「すい」、諸侯の支配地を削ぐような意味では「さい」と読む。また、「縗」(さい;<漢辞海>麻布で作り、胸の前に掛ける喪服</漢辞海>)の略字として使うこともある。関連で「持」がつくる熟語に、「持服」(喪に服す)がある。
 この文の直前に「如喪人」があることから、中国人は「持衰」を「麻の喪服を着て喪に服する」ような人と理解したかも知れない。そう考えると、目的語を倒置して「名」を前置する意味が見えてくる。「名」は「如喪人」に直結することにより、「そういうわけでその名を」というニュアンスになるのである。
 それでは、倭人自身が「持衰」と呼ぶのはなぜか。この謎に迫るには残念ながら、資料が乏しい。
 「衰」の読み方については、我が国ではほとんど「さい」を用いているようである。私も中国人の理解に沿って「衰」を「縗」と見て、「さい」と読んでおく。


2011.08.04(水)原文を読む(46) 若行者吉善

若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹
若し行く者(こと)吉善なれば、共に其れ生口(せいこう)財物を顧(むくい)る。若し疾病有り暴害に遭えば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す、謂(おも)へらく其れ持衰謹ま不(ざ)ると。

もし、その行程にめでたい成果があれば、共に生口、財物をもってこれに報いる。もし病気になったり、嵐や災難に遭えば、人々は直ちに殺そうとする。それは、持衰が謹まなかったと思うからである。

 中国への渡航がうまくいくかどうかは、国に残る人々の心がけ次第である。その象徴として持衰を定めた。
【若】
<漢辞海>条件節の動詞の前に置き、仮定の条件を表す。主文に置いた「則」と呼応する場合が多い。<漢辞海>
 ただし1つ目の「若」には、「則」が省略されている。「若~則~」の構文は、BASIC(コンピュータプログラム言語)の「if~then~」に似ている。

【若行者吉善】
 条件節に主語がある場合は、「若」は主語の後、動詞の前に置くことになる。とすれば、「行者吉善」は動詞化した主述述語でなければならない。また動詞「行」の後ろにつく「者」は動詞を名詞化する。「~ひと」「~こと」。吉善は形容詞なので、形容詞述語の主述文。

【共顧其生口財物】
…《副》ともに。そろって。
…《動》対価を払う。むくいる。
…《助》この場合、語調を整えるために使う。実質的な意味はない。
生口…奴隷、また人身売買される人々。

 中国へ渡航した人が成果を上げ、無事帰ってくることができれば、持衰の功績大として、渡航を成功した人と同じく褒美を貰う。
 褒美には、財物や「生口」がある。つまり、生口は人扱いされず、もの扱いである。

【若有疾病遭暴害】
…《動》きせずしてであう。「遭遇」
…《形》あらあらしい、はげしい。(他に、「《動》あばく」もある。)
…(《動》そこなう。おそれる。)《名》わざわい。

 念のために「暴」の意味を確認する。「暴」は、<漢辞海の用例>「終風且暴」…風が吹き、その上激しい</漢辞海>があるので、暴風もにも使う。暴虐・暴略・暴徒などの用例もあるので、現在の日本の「暴」と同じと見てよいだろう。
 「遭暴害」の部分を読んで自然に思い浮かぶのは、「航海中に暴風雨に遭遇する」ことである。古代の船で外洋の航海は間違いなく危険であるから、暴害は主に海難事故とみてよいだろう。もちろん他にも危険はあり、山賊に襲われる、大雨によるがけ崩れで道が塞がれる、虎に襲われるなど様々である。それらもまた、「暴害」であろう。

【便欲殺之】
便…《説》「すなわち」。接続詞節「若~」に対応して主文の前に置く。通常の「則」の代わりに、ここでは「便」が用いられている。
…《助動》~せんとほっす。
…《代》かれを。
 逆に中国へ渡航した人が、病気になったり、災害に襲われたりしてうまくいかなかった場合は、持衰の責任とされる。
 なお、「殺す」でなく「殺さんと欲す」とあるところが気になるが、それはこの文が殺す「行為」ではなく、殺そうとする「動機」を説明する文だからである。つまり「渡海の失敗の原因は、ともかく持衰の不謹にある。だから、持衰を殺したくなるのだ」というニュアンスである。
 この部分、刑罰を課すというより、人々がよってたかって暴行を加えるようにとれる。

【謂】
 この「謂」の解釈は、なかなかむずかしい。結論的としては「謂」が接続詞としてはたらき、「謂」に続く節(主語+述語)が主文の原因、理由、根拠を示すと見るのが一番わかりやすい。(英語の"because"節に相当)
 しかし、辞書で調べると「謂」に《接続詞》の用法はないから、文法的に無理がある。そこで、それに近ずけるような説明を試みる。

(1) 「《前置詞》…のせいで。(理由や原因を表す)」と解釈。この用法は「為」(《前置詞》「ために」)と同じである。「為」の目的語は名詞だから、「其持衰不謹」は名詞化されたもの。主述文を名詞化するには、本来「之」を動詞の前に入れ「其持衰之不謹」とする必要があり、このときの「之」が省略されたものと考える。しかし、「為+"之"挿入による文の名詞化」の実例が、なかなか見つからないことが苦しい。
(2) 「謂」を「《動詞》いう、おもう」と解釈。動詞「謂」は「"~"と言う・思う」の"~"の部分(目的語)に主述文をそのまま置くのはは普通のことである。現在なら引用符に入れるところである。また「謂」は、いわれ・理由という意味もあるので、「前文の理由・原因を述べる」ために使うことができる。
 したがってどちらにしても、実質的に"because"節としてはたらく、と言ってよいだろう。

 なお、「之」を「殺」の目的語とせず、次の文の頭につけ「謂」の主語として「之は~と謂う」としても一応成り立つ。しかし、「1文字で機能する語は、なるべく2文字で受ける」法則から「欲」には2文字「殺之」が望ましい。

【其持衰】
 「其れ」は「語調を整えるために入れ、自体は意味を持たない」。あるいは「指示語(其の)として、"失敗した使者"を受ける」。前者だと形式的で、後者だと理屈っぽいが、どちらもあり得る。なお、代名詞「彼」として主語になる用法は、三国の魏の直後からである。(<漢辞海>魏晋以後(265~)の用法</漢辞海>)

【後漢書との比較】
 魏略逸文には、この部分は見つからなかった。後漢書には対応する部分があり、それらを比べてみることにより、魏志で解釈に迷った部分をかなり明確にすることができる。

後漢書: 行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰持衰 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以爲持衰不謹 便共殺之

 行来、海を渡れば、一人をして櫛り沐さ不(ず)、肉を食さ不、婦人に近づけ不らしむ。名を持衰と曰う。
 若し塗に吉利あれば、則ち財物を以て雇(むく)いる。如(も)し病疾遭害あれば、以爲(おもへら)く持衰謹ま不ると。便(すなわ)ち共に之を殺す。

 往来が海を渡る場合、一人を決め頭髪に櫛けずらせ、髪洗うをさせず、肉食をさせず、婦人に近づけないようにさせる。その名を持衰という。
 もし行程にめでたいことや利益があれば、財物を以て酬いる。もし病気になったり禍に遭遇すれば、持衰が謹まなかったのだと考え、直ちに集団で彼を殺す。

 「渡海」と「詣中国」は同じなので、「詣中国」を省き簡潔にしてある。使役動詞は、ここでは「使」が「」に変わった。「命令」の意味を匂わせようとしたか。
 「不梳沐」の沐は「頭を洗う。」つまり櫛を通さない上に、「洗髪しない」が付け加わっている。魏志の「梳頭」で「梳る」の目的語「頭」は自明なので必要ないが、「不」など「一文字で機能する語の対象は、なるべく2文字で表す」傾向があるために、付け加えたと見られる。後漢書ではこれを「洗髪」を意味する「沐」に置き換えることで、より豊かな表現になった。
 「名之為持衰」は「名曰持衰」になった。このことから、第45回の本稿による解釈「『名之為』は『為名』の倒置である」という解釈が確定した。なお魏志の「持衰と呼ばれるのは、喪服(衰)のようなものを着用するからである」という説は、後漢書では触れられていない。
 「」は、本来の「塗料などを塗る」意味の他に、「道路」あるいは「(論理の)すじみち」の意味がある。だから後漢書は、「行者」を本稿第45回と同じく「行程」と解釈したことがわかる。おそらく当時の中国においても、修行僧などを意味する「行者」と誤読される可能性があったのだろう。
 条件節の副詞はの2つ目の「」だけ「」に置き換えてある。仮定の接続詞は、「若」でも「如」でもよい。修辞法を意識して、表現に変化をつけたと見られる。
 「以為」の意味は完全に「思う」である。第42回に、古事記でスサノオが流れてくる箸を見て「上流に人がいると考えた」("須佐之男命以爲人有其河上")がある。日本神話を研究した中国のサイトを見たら、古事記の原文(漢文)を、現代中国語訳では「以為」を「思」としていた。
 後漢書では、持衰を殺す理由と行為の関係について、魏志と逆順にして「持衰不謹と思う」→「ただちに之を殺す」の順に並べることで示す。これが、もっとも単純な方法である。後漢書の執筆者も、魏志の「謂~」の部分にひっかかるものを感じたのであろう。
 ところで「共」はそれぞれ1回使われるが、文中の全く違う場所に置かれる。

魏志:中国訪問を首尾よく終えれば使者と"共"に褒美を貰う。
後漢書:中国へ送られたが、任務を完遂できなかった場合、多くの人が"共"に持衰に暴行して殺す。

 原文を編集するうちに不要な文字も出てくるが、気になる文字は文脈とは無関係でも、どこかには残そうとしたのだろうか。

【生口の実像は?】
 生口で目を惹くのは、後漢書の次の文である。 

 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見 

 安帝永初元年(107年)倭国王帥升らは生口160人を献上し、朝賀への参列を願い出た。この時代の船で160人も運ぶのは、驚異的な努力である。
 倭人伝では、魏国に使者を派遣するときに献上物の一部として生口を10人、30人と贈り、返礼として8人贈られたりしている。
 また、今回のとりあげた部分で、成果をあげた使者とその持衰には生口が与えられるから、地位の高い役人は生口を何人か所有する。しかし庶民が所有することは、なかっただろうと思う。
 さて、生口の実像は何か。また、奴婢とは異なるのか。
 弥生時代の生活は、絵画土器、絵画銅鐸に残されている。そのどこかに生口の生活の描写はないか。
銅鐸―島根県加茂岩倉遺跡 絵画土器島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
(魚を表現しているという)

絵画土器について
 国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授が絵画土器186点について行った分類では、ほぼ半数の47.3%にシカが描かれており、これに建物(22.0%)、鳥(11.8%)、人(10.2%)を加えると、全体の9割を占める。これに対し、当時の重要な食料であるイノシシはわずか0.5%。山や川といった自然を描いたものは一切ないし、建物も高床式倉庫や楼閣といった特殊な建物で、一般的な竪穴住居はほとんど例がない。
</絵画土器>
銅鐸日本七不思議
 銅鐸の約11%には表面が4つ~8つの区画に分かれそれぞれに絵や紋様が描かれている。天と地がある。平面的でそれぞれは独立し重ならない。斜め逆さまにも描く。人間男女、狩人、きねをつく人、鹿、猪、トンボ、サギ、スッポン、カエル、カマキリ、蜘蛛、魚、イモリ、カニ等の特徴をつかみ単純な線で絵記号風に表現されている。舟、高床式家、臼、右渦巻き紋もある。
</銅鐸日本七不思議>

 残念ながら、当時の絵画の記録から生口の姿を探す試みは失敗であった。描かれているのは、動物などを象徴的に描く線画のようなもので、人々の詳しい生活ぶりまではわからない。

 また、生口と奴婢の違いも不明であるが、私の印象としては実質同じもので、売買や献上など数を揃えて差し出す場面で、奴婢を生口何人と表現するような気がする。
 生口の供給源については、弥生時代後期は各地で戦争があったと考えられているので、おそらく捕虜であろう。
 それでは奴婢もしくは生口は、非人間的な生活だったろうが、実際にはそれはどの程度だったであろうか。
 殉死制度があったことは、卑弥呼の死に伴い「殉葬者奴婢百余人」でわかる。それでは日常的には、命は所有主の意のままか、あるいはある程度は保障されていたのか。生活レベルや居住場所なども、知ることができない。今後の研究が待たれるところである。

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