魏志倭人伝をそのまま読む。(4)
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2012.1.21(土)原文を読む(62) 名曰卑彌呼
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名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國
名を卑弥呼と曰い、鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす。年已(すで)に長大、夫婿(ふせい)無し。男の弟有り、国を治むを佐(たす)く。
その名を卑弥呼と言い、鬼道に仕え大衆の心を支配する力がある。すでに高齢で夫を持たない。弟がいて国の政治を補佐する。
【語句の意味】
事…《動》実践する。従事する。仕える。
鬼道…鬼神を信奉する邪教。シャーマニズム。
已…《副》すでに。とっくに。
夫婿(ふせい)…夫。妻が夫を呼ぶ語。
弟…弟。弟子。妹[=女弟]。
佐…《動》補い助ける。たすく。
【鬼道能惑衆】
後漢書…事鬼神道能以妖惑衆鬼 神道を事め、能く妖(よう)を以て衆を惑わす。(妖…《名》物事の異常な現象。怪物。)
隋書…能以鬼道惑衆 能く鬼道を以て衆を惑わす。
いずれも倭人伝よりも、その行為の妖しさを強調する書き方になっている。
"鬼道"については後ほど張魯の鬼道と比較しながら詳しく検討する。『魏志』においては「鬼道」という特定な宗教ではなく、"鬼道"という用語として、お告げや呪術のような行いそのものを指している。
【「男弟」とは】
"弟"は、血縁関係のない場合もある(「師弟」など)。血縁関係としては、古くは男女の別なく親を同じくする年下の子を指したので、妹の場合"女"をつけた。従って"男"をつければ、血のつながった弟ということになる。
【"卑弥呼"はどう読まれるべきか】
発音を調べる。漢字3文字は中古音(隋~唐代)の発音記号で、それぞれ声母(冒頭の子音)、韻母(続く母音など)、声調(ピッチ変化)を表す。(第18回参照)
卑 幫支平[pi1]、幫紙上[pi2]
彌[弥] 明支平[mi1]、明紙上[mi2]
呼 暁模平[xu1]、暁箇去[xa3]、暁虞平[xu1]
[x]はドイツ語のch(Bach=バッハなど)のような「無声軟口蓋摩擦音」である。軟口蓋破裂音[k](カキクケコ)の舌を付ける位置から少し開き、息を通すときの摩擦音。
日本語の「は行」より舌と軟口蓋の間が狭いが、大体[h]に聞こえるので、以下、「ハヒフヘホ」と書き表すことにする。
当時は倭語にない発音だったので、倭人はこの音声に近い「カ行」で発音した。例「海」(ハイ)→「カイ」
また、現在の「は」は当時[pa]と発音された。(第6回参照)
以上から、"卑弥呼"は、[漢語]ピミフ ピミハ ピミホゥ→[当時]ピミク ピミカ ピミコ→[後世]ヒミク ヒミカ ヒミコ
となる。しかし、この時代は倭人に[x]の発音がないので、倭人が「ピミホ」と発音したことはあり得ない。だから、少なくとも「呼」は、中国人が定めたものではない。
では「コ」に漢字「呼」を宛てたのは誰か。それは、倭人以外ない。倭人はすで「呼」を「コ」と読んでいて、これを使ったのである。
前の2文字「卑弥」についても、漢字「呼」を倭人が決めたとすれば、この部分の漢字も倭人が決めたと考えるのが自然である。ただ「卑」には当時の中国による周辺民族蔑視が感じられるが、それでもそのまま受け入れていたこととなる。
さて、第6回の「卑狗」で論じたように、「ひこ」「ひめ」は倭人伝の時代から男子、女子への美称であったと思われる。また「~こ」は親しみを表す接尾語である。(現代でも地方によって。例えば「どじょっこふなっこ」)
以前に見たように、卑弥呼を女王に推したのはまだ少女の頃だったから、はじめに祭り上げるときに親愛の情を込めて「姫子」と呼んだことに由来すると考えることもできる。
しかし、敵対していた狗奴国の男子王の名が「卑弥弓呼」であることを考えると、「卑弥」=「姫」の想像も苦しくなる。男子王は、ことによると「日御子呼」を自称したのかも知れないが、確かめることはできない。
【張魯の鬼道】
「鬼道」は、倭人伝の他に魏志・張魯伝に出てくる。
張魯は、教団「五斗米道」を率いて、後漢(25~220)末期の200年ごろから漢中郡の漢寧("漢中"と改める)に宗教王国を築いて支配したが、215年に曹操の攻勢を受け降伏した。
もともと五斗米道は、張魯の祖父、張陵が創始した宗教である。
>祖父陵、客蜀。學道鵠鳴山中。造作道書、以惑百姓。從受道者出五斗米、故世號米賊。
祖父張陵は蜀に来て、鵠鳴山(あるいは鶴鳴山)で古い道教の文書を発見[あるいは捏(ねつ)造]し、それによって百姓を惑わした。信者は米5斗(当時は1斗=1.98リットル)を奉じた故に、世間は「米賊」と呼んだ。
祖父張陵は太上老君(老子が死後、神になった姿)のお告げにより、天師の位を得た。死後、教団を張衡が継ぎ、その死後はさらに張脩が継いだが、張魯が張脩を殺して教団を奪い取り、漢中を本拠地とした。
>魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君。其來學道者、初皆名鬼卒。受本道已信、號祭酒。各領部衆、多者爲治頭大祭酒。
張魯は遂には漢中を拠点とし、鬼道によって民を教化し、自ら師君と称した。入信者はまず全員を鬼卒とし、道を身に付ければ祭酒とする。各部が大きくなればそのリーダーを大祭酒とする。
>皆教以誠信不欺詐。有病、自首其過。大都與黃巾相似。諸祭酒皆作義舍、如今之亭傳。又、置義米肉…
誰もが誠をもって人を信じ、だまさないよう教え諭す。病気になれば、(原因となった)過ちを告白させる。都は黄巾に似る。祭酒たちは、今の宿駅のように義舎を作り、義の米肉を置き振る舞う。
義=<漢辞海>「社会規範において宜しきにかなっていると判断される人倫上の正当なあり方。」</漢辞海>
漢中郡は強大な教団組織と一体の宗教王国となり、その政治は義に厚いものであった。五斗米道は後の道教(5世紀ごろ成立)に連なるとされる。
しかし、魏志においては「百姓を惑わす」とか「五斗米を供出するので、世は米賊と呼ぶ」の表現に、シャーマニズムへの冷ややかな視線が感じられる。
【儒教とシャーマニズム】
張魯が自ら行った「鬼道」の内容は具体的に書かれていないが、お告げまたは、呪術のようなもの(シャーマニズム)を指すと考えるのが自然である。
シャーマニズムは、(1)舞踊などでトランス状態になり魂が抜け出すか、憑りつかれる。(2)超自然的な霊や神仏との交信が特徴的である。しかし、普通の精神状態で理性的に神のお告げを語る者もまた、シャーマンであるという。
また、少し性格が異なる「呪術」という言葉もある。豊作祈願とか、天災を逃れるための儀式、呪詛などに用いる。さらに、医学が未確立の状態では、病気治療=呪術であったが、使用する薬草に実際に薬効があったり、最近はスキンシップの治療効果も実証されている。呪術の使い手もまたシャーマンと呼ばれる。
中国では、創始者孔子(551B.C.~479B.C.)以来、歴史を通して儒教が支配的な思想であった。
民間信仰では、孔子が神格化して各地に祀られているが、儒教自体は社会に於ける人の秩序を示す哲学であり、不断の教養の習得を促す道徳である。
ただ、儒教についても、「一般的に祖先への崇敬を重んじる所から宗教である」とする考え方と、「特定の神の設定が排除されているので宗教ではなく倫理思想である」という考え方がある。
いずれにしても、儒教から見ればシャーマニズムは忌むべき迷信であり、知性に反するものである。その考え方が、魏志で「衆を惑わす」という表現の根底にあると思われる。
【宗教国家としての女王国】
話を張魯に戻すと、張魯の王国は、教団の組織が社会の基盤(ひとびとの生活)のすみずみまで根を張り、支配力を維持していたと思われる。
卑弥呼の場合も、たまたま一人の巫女がトランス状態でお告げをした程度なら、その影響力はひとつの村落ぐらいの規模にとどまる。それ以上に信仰が広がるためには、口伝えが必要である。そのためにある程度体系化した教えがあり、各地を訪れる伝道師の話に人々が魅力を感じなければならない。
女王が宗教国家のリーダーとして辺境の諸国まで畏憚させたとすれば、女王を宗教的な頂点として、各地の王まで支配する強力な教団が構築されていたはずである。
そこで、できたら教団の規模を物的資料(例えば、儀式の規模を示す遺跡)から見出したい。そのために、最近の出土物の報告を見よう。
纏向遺跡の土坑から2010年に大量の桃の種を出土した。土坑は南北4.3m、東西2.2mの楕円形で、深さ80cm。
<纏向遺跡第168次調査現地説明会資料(2009年9月19日)>
3世紀中頃の大型土坑:桃核2000点以上出土。多量に出土した桃核の中には未成熟の物も一定量含まれており、成熟・未成熟を問わず桃を大量に集める必要があったものと考えられる。
</同遺跡168次報告>※ 道教における西王母は、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人
<毎日新聞2010年9月17日>辰巳和弘・同志社大教授(古代学)「鬼道は道教を反映したもので、モモを大量に使った祭祀で西王母をまつった可能性がある」</毎日新聞>
翌年には、祭壇に供えたと思われる多種の動植物が見つかった。
<朝日新聞 2011.1.21>
魚はマダイ、アジ科、サバ科の魚、イワシ類、コイなどと見られる淡水魚の5種類。動物はニホンジカ、イノシシ属(ブタを含む)の動物、ネズミ類、カエル類、カモ科の鳥の5種類。骨や歯は約1千点にのぼり、8割以上が魚。ネズミ類やカエル類の骨の量はわずかしかなく、自然に混ざったものとみられている。植物のうち、栽培されたとみられているのは、イネやアワなどの穀物、桃、ウリ類、ヒョウタン類、アサ、エゴマなど10種類だった。
杉山林継(しげつぐ)・国学院大名誉教授(祭祀考古学)は「神への供え物である神饌(しんせん)とみられ、神道祭祀の源流だろう。これだけの種類を集められたのは纒向遺跡に相当な権力者がいた証しではないか」とみる。
</asahi.com>
このように、大量の動植物を供え物として集め、纏向遺跡の地で盛大に儀式を行った。そんな活動ができる大きな教団(または国家そのもの)が確かに存在したわけである。
【女王国の宗教とは】
魏書でもう一つ「鬼道」が使われている五斗米道を関連付け、例えば、215年に滅亡した漢中の王国(ただし、張魯自身は「王」を名乗らなかった)から教団勢力が倭国に流れてきて、女王国の宗教として取り入れられたという想像もできないことはない。
しかし、前述したように魏書における「鬼道」は特定の宗教ではなく、シャーマンによる行為自体を指すと見られるので、これらを関連付ける根拠は薄い。
以前書いた「一大率=天率」説から、「卑弥呼は五斗米道の最高位の天師を名乗り、その配下に"天率"(後に"一大率")がいた」とする説も面白いが、全くの空想に過ぎない。
女王国の宗教の具体的な内容は分からないが、形として宗教国家共通の法則をあてはめてみることはできる。
実際に卑弥呼がどの程度の妖力を発揮したかは別として、国を問わず歴史上、宗教的指導者が神格化され、その数々の奇跡が流布されるのはごく普通に見られる現象である。わが国もつい70年前まで、天皇は現人神(あらひとがみ)であった。最近でも東アジアの独裁国家の元首は、たまたま行ったゴルフで11回連続のホールインワンを達成した。同国の新しい元首もこれから数々の奇跡を行うことであろう。
江戸時代の島原の乱では、リーダー天草四郎の手に鳩が舞い降り、キリストの肖像と聖書を卵で産んだ。このように、地位を得た宗教的指導者は、数々の奇跡を起こす。
卑弥呼は、たぶん少女の頃は実際にいろいろお告げをして周囲を驚かせたのであろう。しかし晩年になるともう姿を見せず、すべて周囲が必要とすることを卑弥呼の言葉として広げる。つまり、仕組みとして「特別な力をもつ女王が神の言葉を媒介する」形をとった命令により国が治まったのである。
このようなイメージを持つと、「卑弥呼はシャーマニズムにより人々を惑わすことができ、弟が補佐して国を治めた」という文を実に自然に読むことができる。つまり、宗教として人々が信じてしまえば、必要に応じて女王が神の言葉を告げ、補佐役が伝えればよい。
前節で纏向遺跡の祭事跡に触れたが、実際にはこのときの主は卑弥呼とは限らず、もう壱与の代かも知れない。しかし重要なことは、一人の女王を、神の言葉を媒介する存在として諸国の王が信じる仕組みによって、はじめて諸国の連合が成立した事実である。
この時代の宗教勢力が始めから「天垂らす」を自称し、隋の時代まで連続したか、どこかでクーデターによる勢力の交替があったかは、とてもわからない。
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2012.1.23(月)原文を読む(63) 少有見者
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自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入
王と為る自(よ)り以来、見る者有るも少なし。婢千人を以い、自(みずか)ら侍る。唯男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え出入りす。
王となって以来、見た者は少ない。婢女(はしため)が千人いて、王に仕える。男子が唯一人いて、食事を給仕し、言葉を取り次ぐために出入りする。
【語句の意味】
自…《前》~より[時間、空間の起点を表す]
為…《動》~となる
以…《動》用いる。思う。事を為す。終える。
婢…《名》下女。女の奴隷。
侍…《動》はべる。《名》お付き。
自…《代》みずから。《副》おのずから。それとは別に。
内容は分かり易いが、2箇所でてくる「自」を文法的に完全に理解するのが難しかった。
出 典 | 用 例 |
魏書05 后妃傳 | 自喪亂以來 |
魏書11 袁張涼國田王邴管傳 | 自建武以來 |
魏書12 崔毛徐何邢鮑司馬傳 | 自軍興以來 | 自黃初以來 |
魏書14 程郭董劉蔣劉傳 | 自古以來 |
魏書15 劉司馬梁張溫賈傳 | 自黃初以來 | 自漢季以來 |
魏書16 任蘇杜鄭倉傳 | 自陛下踐阼以來 | 自殿下起軍以來 | 自建安以來 |
魏書21 王衞二劉傅傳 | 自治兵以來 |
魏書23 和常楊杜趙裴傳 | 自春夏以來 |
魏書28 王毌丘諸葛鄧鍾傳 | 自淮南以來 |
魏書30 烏丸鮮卑東夷傳 | 自古以來 | 自爲王以來 |
蜀書03 後主傳 | 自是以來 |
蜀書05 諸葛亮傳 | 自古以來 |
蜀書08 許麋孫簡伊秦傳 | 自先漢以來 |
蜀書10 劉彭廖李劉魏楊傳 | 自先帝以來 |
吳書02 吳主傳 | 自今以來 |
吳書03 三嗣主傳 | 自建興以來 |
吳書08 張嚴程闞薛傳 | 自斯以來 |
吳書14 吳主五子傳 | 自光武以來 |
吳書16 潘濬陸凱傳 | 自頃年以來 | 自從孫弘造義兵以來 |
吳書17 是儀胡綜傳 | 自三代以來 |
吳書19 諸葛滕二孫濮陽傳 | 自前世以來 | 自漢末以來 | 自本以來 |
吳書20 王樓賀韋華傳 | 自頃年以來 | 自比年以來 | 自登位以來 |
魏書16:"踐阼"[=践祚](せんそ) 皇帝の代替わり 呉書16:"自従"="自" 【凡例】 動目:動詞句。主述:主述構造の句。 |
【文法:自爲王以來】
前置詞「自」の目的語は「爲王」である。しかし、"爲王"は存在文(主語省略+動詞+目的語[=実質的な主語])の形式の文である。英文法では、前置詞の後は名詞の目的格に限る("on the desk","with me"など)。
また、英文法では「主語+動詞」を「節」と言い、節と節の間に挟むのは接続詞である。したがって、英文法そのままだと「自」は接続詞である。しかし、「自」を接続詞で用いた場合は仮定になるので、ここで行き詰まった。
そのため、漢文では、前置詞「自」への目的語は、動詞句(動詞+目的語)をそのまま置くことができる、と仮定してみた。その実証のために、三国志全体から「自~以来」を拾い上げてみたら、動詞句や「主語+述語」(主述構造)が「自」の目的語になっている。全部で27箇所のうち、主述構造=4箇所、動詞句=3箇所、名詞=24箇所である。
念のためにこの問題について検索したところ、前置詞句の<中国語 東京外国語大学>目的語になるのは主に体言性の句であるが,用言性の句を目的語にとりうる前置詞もある。</東京外語大学>という解説があった。
それによると「動詞句」に主語をつけたものは「主述構造の句」と言い、動詞句と同じく用言性の句である。だから、主述構造を目的語に取ることができる前置詞があってもよい。これで疑問は、完全に解消した。なお、このサイトが今まで見た漢文法のサイトの中で、一番分かり易かった。
また、「主述構造の句」の前に別の主語を加えることによって、句全体が述語になる。(主述述語文) また、「主述構造の句」は主語にもなり得る。これまで、手述構造を用言化するには、「頭に"所"をつける」や「末尾に"者"をつける(主語だけ)」場合を知ったが、今回「主語+述語」は何も加えなくてもそのままで「体言化できる」と考えてよいことが確認できた。
【文法:以婢千人】
主語[《省略》]+動詞[以]+目的語[婢]+補語[千人]
【文法:以婢千人自侍】
代名詞として使う「自」は、(1)目的語が主語と同一である、或いは(2)他を介さず、直接的に実行することを意味する。
だから「自侍」を素直に読めば、「王が自らに仕える」つまり、王は自分のことはなるべく自分でやろうという殊勝な心がけの持ち主であるという文になる。しかし、今読んでいる文がそのような内省である訳なく、「婢が侍る」という事実を示すことは明白である。
そこで別の読み方を考える。試しに「侍」が使役を含むと解釈する。つまり「自侍」=「王自使婢侍」(王自ら婢をして侍らせむ)…しかしこれは苦しい。使用人に「ちゃんと働け」と「王」自らが命じるのは奇妙である。こんな情けない「王」があるだろうか。ちゃんと監視役人がいる。それに「侍」は基本的に下の者が上の者に服従する行為なので、これを上の者から「させる」意味に転換するには無理がある。
これで第2の方法も失敗した。次は後漢書と比較する。すると「有見者」と同じように、事実上の主語を目的語の位置に置き「侍婢千人」している(存在文)。ただし、動的に「侍る」より、静的に「侍る」(「待機する」)ニュアンスを感じる。
もともと「自」は、主語を同時に目的語にする機能がある。だから、代名詞「自」を元に戻せば、目的語の位置に「婢」が表れ、「侍婢千人」になる。後漢書はおそらくこう解釈したのだ。この場合「以」は残せなくなるが、特に必要ない。
一方隋書は、この箇所を後漢書と異なる方法で処理する。隋書は動詞「侍」を活用(=品詞変換:この場合形容詞化)して「婢」を連用修飾する。そして、「王が婢をもちいる」ことを、「其王有婢」(王が婢を所有する)と表す。つまり後漢書とは逆に所有関係を中心に文を作った。
後漢書・隋書はそれぞれに、別の方法によって「自」の使用を回避し、文を単純化した。つまり、両編者とも「自」は分かりにくいと感じたのであろう。
【後漢書・隋書との比較】
後漢書>侍婢千人,少有見者,唯有男子一人,給飲食,傳辭語。
隋書>其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。 罕…《形》まれ。ほとんどない。
伝辞→伝辞語→通伝言語 のように1文字ずつ増加している。「給飲食」などと字数を揃える以外、理由は考えられない。共に「出入」は削除されている。
隋書では、男子を2人にしている。
「唯有男子一人」が、「佐治国」(国の政治を補佐)した弟と同一かどうかという問題がある。同一人物が、政治の差配と食事など身の回りの世話を両方するのは難しい感じもする。
また、「伝辞」は恐らく「佐治国」に含まれる行為であろう。後漢書では、そのような考えから「給王飲食」「通傳言語(と佐治国)」と解釈したとも思える。
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2012.1.27(金)原文を読む(64) 居處宮室樓觀城柵
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居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
居処なる宮室は、楼観城柵、厳設し、常に人有り兵を持ち守衛す。
住いとする宮殿は、楼観や城柵が厳重に設けられ、常に人がいて武器を持ち警護する。
宮…本来、貴賤に関係なく家を宮と言った。秦代[221B.C.~206B.C.]以降、王の居住する御殿。霊廟。神殿。
宮室…家屋。宮殿。
楼…2階建てまたはそれ以上の建築物。
楼観[=楼台、楼閣]…高い建物
厳…《形》厳しい。おごそか。
設…《動》もうける。《形》ゆきとどいているさまを表す。
兵…《名》武器
【宮室】
一般的な「家」とも「宮殿」ともとれるが。女王が住む場所なので、やはり「宮殿」である。
【楼観】
中国の特定の建築様式というより、辞書のように2階建て以上の建物を指し、そのつくりは様々である。中国人が、倭国で物見櫓のような高い建築物を見て「楼観」と呼んだのは間違いないだろう。詳しくは後述する。
【守衛】
"守"、"衛"とも一般的に「まもる」。ここでは当然警備、あるいは軍事的に防御する意味である。
【厳設】
厳重に備えをする。または、厳かな空気が張りつめている。
【文法:"居処宮室楼觀城柵厳設"をどう区切るか】
まず、一般的に解釈されているように、"居処"は"宮室"を連体修飾するとして、ひとつ解決する。
次に「"宮室"に対して、"楼観+城柵"が備えになっている」ととるか、「"宮殿+楼観"に対して、"城柵"が備えをしている」ととるかで迷うところである。しかし、"設"を「設ける」つまり単に物理的に柵が設けられているとするより、「ゆきとどいている」つまり「物見櫓、防護柵によって警戒が行き渡っている」とした方が意味が包括的で、より好ましく思える。そこで前者つまり、「宮室」を大主語として主述述語構造とし「宮室は、楼観と城柵が厳重に防御している」と読みとる。
だが、別の考え方もある。それは楼観の性質についてである。戦乱の世を終えて既に数十年経つので、楼観は既に物見櫓ではなく、祭祀の場かも知れない。従って、大主語はやはり"宮殿+楼観"か。しかしそれでは「厳」が、物理的な城柵の役割を示すだけの意味で軽くなりすぎる。だから「厳」は「おごそか」、つまり宗教的な荘重さも含み、"宮室+楼觀+城柵"を主語にするのが良いとも思える。
【文法:持兵・守衞は補語】
常[副詞] 有[存在文の動詞] 人[目的語:事実上の主語] で一文が完結し、「持兵」「守衞」はそれぞれ暗黙の主語「人」をとる独立した文である。しかし、事実上連続した文を細分化するところに不自然さを感じる。そこで前回学んだ動詞句の幅広い使い方を応用し「持兵」「守衞」を単独の文ではなく、補語として「人」に接続すると考えてみる。その結果ちょうど関係代名詞を用いた英文"who are weaponed and are defending"に似て、自然に思える。
【"居処"は前の文の末尾か?】
"居処"を前文の"出入"の目的語にする解釈もあり得る。女王の居処=宮室は明らかなので、"居処"は特に必要ない語であるが、"出入"の形式的な目的語として置いたとする考えも成り立つ。ただ、居処|宮室|楼觀|城柵と4個もの名詞熟語が連続する箇所で、1個目と2個目の間に文末を置く理由はなく、作為的である。実際、ネットで検索をかけてこの箇所の区切り方を調べると、"居処―宮室"連結型が明らかに多数である。とは言っても、「居処を出入りす」という訓読も決して少なくない。日本語としてはこの方が自然である。
思うに、"居処"は文頭ではあるが、同時に前文の動詞"出入"への実質的な目的語の性格も併せ持っている。もちろん、和歌の「掛詞」のようなものは、漢文にはない。漢文では使役の兼語文以外、恣意的に2文が接する場所で単語を共有することはない。しかし、「居処」は"出入"の目的語にも、「宮室」への連体修飾語にもなり得るのである。
また「常有人」の「人」もこの捉え方をすることができ、事実上の"兼語"が、ここへきて目立つ。もちろん、「第二文の主語は省略された」とするなど"兼語"を認めない説明は可能である。このような事実上の"兼語"が目立つのは「其国本亦以男子」から「持兵守衛」までで、句読点を打つときに迷いを生む。これとは対照的に、「其山有丹」以後の部分「其」で文頭を明確に示した書き方であった。これは、倭人伝が複数の原資料のパッチワークであることを表している。
【後漢書などと比較】
後漢書>居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻 (法俗厳峻:法や習わしは厳格である)
警護の「厳しさ」が、全般的な法の「厳しさ」に置き換わっている。倭人伝に「法俗厳峻」はでてこない。内容的には、下戸の大人に対する作法、各国が一大率を畏憚するところに厳しさが表現されている。ちなみに三国志・魏書で「法俗特厳峻」は、弁辰十二国のところにある。
隋書>王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛為法甚嚴(為法甚厳:法は甚(はなは)だしく厳しきを為す)
ほぼ後漢書を踏襲しているが、「居処」が省かれている。
次に、考古学の成果と照合する。
【宮室】
王の宮殿か、神殿かは不明であるが、後の社殿建築につながる構造の大きな建物の遺跡がある。唐古・鍵遺跡から1999年、直径60cmのケヤキ材が発掘された。これが建材として使われたのは、タタミ50畳に相当する大きな<唐古・鍵ミュージアム/ミュージアムコレクション5>切妻造の屋根をもつ高床式の建物と考えられる。このような建物は神明造(しんめいづくり)と呼ばれ、現在伊勢神宮で見ることができる</コレクション5>という。
【中国の楼観】
参考のために、後漢から三国時代の中国の楼閣を探した。しかし遺跡の画像は、なかなか見つからなかった。その中で、興味深い楼閣が見つかった。後漢中期、焼物で作られた楼閣の精密な模型である。
<焦作市博物館>[七層連閣式倉楼]1993年焦作市白庄6号墓出土,現蔵河南博物院,東漢[=後漢]。高192cm。</焦作市博物館>
院落(中庭を囲む塀)、主楼、配楼、閣道の4つの主な部分が、31点の単体によって組み立てられている。7層の主楼と、4層の配楼が3階の空中廊下で結ばれる。同博物館の解説では、「正是漢代“復道行空”高超建筑技術的真実写照。」として、後漢時代の高層建築技術を実証するものとしている。
31点の単体のうちには、裏口から荷を担いで入ろうとする人物と、寝そべった犬も含まれる。その姿は何ともユーモラスである。子どもが出し入れして遊ぶおもちゃのような感じもするが、それにしては精密で、大きすぎる。やはり主人が葬られるときに、共に埋めるために作られたものであろう。
2体の楼閣を空中廊下で結ぶ形態は珍しいと思われるが、これを含め進んだ建造技術による、多数多様な中高層建造物がありそれらがすべて"楼閣"であった。
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青谷上寺地遺跡 赤い部分(図左)が、最長の単一木材(図右) (「楼観」再考から作成) |
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唐古・鍵遺跡 絵画土器から推定した例(図上) 再現した楼観(図下) |
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吉野ヶ里遺跡 高床住居(図上) 楼観・城柵(図下) |
【倭国の楼観】
楼観については、近年の発掘によってその実態が次々と明らかになっている。倭人伝を解釈する上でも重要なポイントなので、少し詳しく調べてみたい。
[唐古・鍵遺跡]
1992年、楼閣の絵画土器が発見された。<唐古・鍵ミュージアム/ミュージアムコレクション>土器に描かれた楼閣は、二階または三階建ての重層構造と考えられ、建物の規模や構造においてこれまでの常識を覆すものだった。</唐古・鍵ミュージアム>
当時は、中国の画像石や焼物に描かれた楼閣と同一視し、もっぱら大陸の文化的影響と考えられていた。図上は、土器に描かれた楼観と思われる線画である。欠けた部分は、大体図のようになっていると推定することができる。
1994年には、絵画土器から推定したデザインを元にして、シンボルタワー(図下の写真)が建造された。土器の作者は、このような規模の建造物を見て、図に写し取ったのだろうと想像される。ただ、線画の端の渦巻き模様は誇張であるように思えるので、実際は何がどのような形をしていたのか、もう少し慎重に検討した方がよかったのではないかと思う。
[吉野ヶ里遺跡]
1986年発見。弥生時代後期は二重環濠、木柵、土塁、物見櫓(楼観)。甕棺の人骨は戦闘で傷ついたと思われるものもあり、軍事的な性格が強い。建物は高床式倉庫、祭殿など。住居は竪穴と高床がある。
「宮室楼観城柵厳設」をすべて備えるので、一時は吉野ヶ里=邪馬台国かと話題になった。写真は、吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園;佐賀県神崎市、吉野ヶ里町)で復元された、建物である。(3世紀ごろが集落の最盛期)写真上は、大きな高床式の建物、写真下は物見櫓(楼観)と柵(城柵)である。
[青谷上寺地遺跡]
青谷上寺地遺跡は、「水行10日陸行1月」の有力な上陸想定地点であると、以前(第24回)に述べた。同遺跡は発掘の進展とともに、さらにその規模を増している。
建造物遺跡で特徴的なのは、他の出土品同様、建築部材でも種類、量が群を抜いて豊富なことである。2006年、5本の丸太材が、もともと長さ724cmの単一の柱材であることがわかり、それが楼閣の柱であることが明らかになった。
青谷上寺地遺跡の建築部材は、<「楼観」再考/抜粋>柔らかいスギ材を金属器で繊細に加工(鉄器が導入されるのが弥生時代前期末)した。根元が斜めに細くなっているのは、柱穴が非常に深く、廃絶時には柱を穴から抜き取るのではなく、地上で伐ってしまっていることを示す。また、楼閣の復元には、柱材以外の部材については、ほぼすべての部材を青谷上寺地で出土した材で賄えてしまう。</「楼観」再考>
つまり、出土した膨大な部材の中から、楼観のどこかの部位にあてはまる材料を、すべて見つけ出すことができるから、かなり正確な再現が可能になるという。
こうして、弥生時代末期は、周囲に環濠を何重にも掘り、楼観に登って敵味方の状況を把握し、戦いに備えるのがごく一般的な集落であることが明らかになった。絵画土器は、中国の楼閣の画の模写などではなく、倭国独自の建造物であった。
中国から精神的、文化的な影響は間違いなくあったろうが、建物としての楼閣の構造を、倭人がそのまま真似たという見解は、かなりピントがずれていたことになる。
なお、物見櫓であった楼観が、戦乱の時代が終わるとともに祭祀に使われるようになり、装飾や大型化が進んだ可能性もある。唐古・鍵遺跡の、絵画土器の線画に見られる装飾は、それを表しているかも知れない。
さらに想像をたくましくすれば、それが発展して出雲の大神殿に至ったこともあるかも知れない。等々、現時点では全くの想像であるが、解明されればとても面白いことになるだろう。
以上から、倭人伝の「宮室楼観城柵厳設」は、各国が防衛施設として備えていて、邪馬台国ではそれが群を抜いて大規模、あるいは神殿化していた。近年の研究の進展は、「宮室楼観城柵厳設」が実際何であったかを、明らかにしつつある。
【兵士の姿】
埴輪は古墳時代後期(6世紀中頃)になるとかなり写実的で、兵士の姿は武人埴輪でよくわかるが、古墳時代前期初頭(3世紀中~後半)はほとんど円筒埴輪で、何も知ることができない。
他の例としては、奈良県桜井市の大福遺跡に、木製の鎧の出土例がある。
<大福遺跡第28次調査>弥生時代後期後半(2世紀後半)は居住区域となり、全国的にも出土例の珍しい木甲(木製のよろい)もここから出土した。木甲はほぼ全面に紐孔が存在し、今まで発見されている例の中で最も残存状態が良好なものだが、表面に彫刻や漆・顔料などを塗った痕跡はない。儀式などで使用された可能性がある。</大福遺跡第28次調査>
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2012.1.30(月)原文を読む(65) 復有國皆倭種
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女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
女王国[自(よ)り]東、海を渡る千余里、復た国有り皆倭種
女王国から、また千里あまり海を渡ると、倭人と同じ種族による別の国がある。
この「国」についてそれ以上の情報は示されない。以後、奇妙な伝説が「周旋可五千餘里」まで続く。前回まで随所で見られた生き生きとした描写は、ここにはない。明らかに質の違う資料が紛れ込んでいる。女王国の、次の展開を期待して読み進んできた読者は、ここで突然神話の海へ投げ出されてしまう。
陳寿がこの部分を入れた意図は、何か。想像するに「倭国以遠は、これだけの資料しかない。内容は荒唐無稽かも知れないが、そのまま後世に残し、将来の歴史家の検証に任せよう。」というところだろうか。
どうやら、中原から遠く離れた辺境の神話世界まで、三国志に網羅したかったようである。
倭人伝そのものが、「邪馬台国の卑弥呼伝説」というイメージを持たれるが、新しい出土物の研究から実在性が増している部分もある。
しかし、伝説そのものという部分もある。倭人伝には、歴史と伝説が混在している。
【語句の意味】
種…《名》種子。種族。
【後漢書では】
後漢書>自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 女王国自(よ)り東へ渡海す千余里、拘奴国に至る。皆倭種と雖(いえど)も、而(しか)し女王に属さず。
後漢書はこの国を、女王に属さない拘奴国としている。倭人伝では、拘奴国は倭国の陸続きの諸国のうち、女王の支配を受けない国であった。後漢書が、倭人伝を修正したのだろうか。ただし、その根拠は不明である。
一方隋書では、この部分以下一連の神話世界は全く使用されない。
【そのまま読んでみる】
韓国南海岸から、対馬国、一支国を経て末盧国まで、それぞれの間隔は大体千里だった。以前(第4回)検討したように一里=76.7mとすれば、千里=70~80kmである。
また、これまでの例に倣って、方角に、倭人伝の「南」は「東」であるという関係を適用すれば、倭人伝の「東」は「北」になる。そうすると、一応隠岐と佐渡がある。
だが、隠岐、佐渡とも、朝鮮半島・倭国間の活発な海上交通の経由地だから、実在性があり、黒歯国のような伝説レベルの国とは違う。
ここでいう「東」は、実際の「東」と同じ、あるいは「南」で、倭国より更に遠い不思議の国という距離感が滲む。「一里」も、ここでは当時一般的な約400mかも知れない。ここは全くの伝説の世界で、他の部分とは次元が違うのである。
それでは、東方の伝説上の国とは、どのようなものだろう。
【扶桑国】
最古の地理誌、山海経(せんがいきょう)に載っている。地理誌と言っても、儒教成立以前の民間の伝説を集めたようなものである。
<wikipediaから要約>
>山海経(戦国時代~漢代) 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中有大木 九日居下枝 一日居上枝
下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑がある。10個の太陽が水浴する。黒歯の北に在る。水中に大木があり、9個の太陽は下の枝に、1個の太陽は上の枝にある。)
>史記(B.C.97成立)列伝57;司馬相如列伝 海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯
山海経を引用し張揖の言葉として「日の出る所」と書く。
>宋書(紀伝488、志502)巻22[志第12、樂志4] 載及白紵舞「東造扶桑游紫庭 西至崐崘戯曾城」
東の扶桑で造られ、紫庭を経て、西の崐崘に至り、曽城に戯れる。
曽城:<詩詞世界 碇豊長の詩詞>『後漢書・張衡列伝』の古註に『淮南子』や『楚辞・天問』に「崑崙縣圃,其居安在?增城九重,其高幾里?」と崑崙山にあることが示される。</詩詞世界>
>梁書(629成立) 扶桑国の僧、慧深が「大漢国の東2万余里に扶桑国があり…」と非常に遠方にある扶桑国の風俗を語る話がある。
</wikipedia>
古い言い伝えでは、扶桑は、はるか東、太陽が上る場所にある海中の大木である。太陽は、常に水中に10個待機している。(だから、その場所の海水は煮えたぎっている)扶桑は、枝に太陽をつける(つまり、太陽は果実か?)海中の大木である。
以後、次第に東方の伝説の国を表すように変化したと思われる。梁書に書かれた扶桑国=日本とも言われた。しかし梁書には、これとは別に倭国の項目もある。(倭人伝と宋書の内容が、接木されたものである)
【紫庭】
また、宋書に「紫庭」という場所がでてきた。
紫庭の「紫」は、紫微垣(しびえん)=天帝の座(中国古代天文学による、北極星を中心とする広い領域)を指す。紫庭は天帝の宮廷であるが、転じて地上の宮廷(つまり皇帝の居場所)も指す。さらに範囲は広がり「紫」は、高貴な僧の地位も指すようになった。これについては江戸時代初期の「紫衣事件」が有名である。
宋書の文中の「紫庭」は、どこかにある理想の王国の宮廷だと思われる。そして、これは日本の地名につながっている。
日本書紀によれば、イザナギ・イザナミが結ばれて島産みし、4番目に産んだのが筑紫島(つくしのしま)であった。その上に筑紫国など4国が作られる。「筑紫」の名は、「紫を築く」を意味すると言われる。隋書(636成立)に、經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國(ちくしこく),又東至秦王國,とあるので、6世紀末には成立していたことになる。
倭国でも、「紫」が中国の東方の王国であると理解していて、それに因んで漢字で国名を付けたと思われる。
【蓬莱山】
神仙の山のひとつ、蓬莱山は山東半島のはるか東の海にあると信じられてきた。山海経では、山東省から見る、蜃気楼の山。あるいは、五神山または東方三神山のひとつ。
史記[淮南衝山列伝]によると、徐福は秦の始皇帝の命を受け、東方三神山に向け不老不死の薬を求めて船出した。現在まで日本のいたるところに、徐福到来伝説が残る。日本の各地で徐福の伝説がよく読まれ、我田引水に、自分のところを徐福の到着地にしたのであろう。(似た例として、桃太郎の出生地も日本中にある)
このように、中国から見た東方の海には、扶桑、紫庭、蓬莱などの伝説の国があった。それらは倭国と同じと見られることも、別の国と見られることもあった。
これらのどれかが「復有国」のどれかの国であるというつもりはない。ただ、これらの伝説の存在が「復有国皆倭種」という表現の背景になっているように思える。
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2012.2.1(水) 2013.3.18(月)原文を読む(66) 有侏儒國
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又有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
又侏儒国有り、其の南に有り人長三四尺、女王[国]を去る四千余里。
また侏儒国がある。その南にあり、人の身長3~4尺で、女王国から4千里余り離れる。
【後漢書などと比べる】
魏略の本体は失われたが、この部分は『法苑珠林』(ほうおんじゅりん、唐道世の著した仏教書、668年)に引用されたものが残っている。
魏略>倭南有侏儒国。其人長三四尺。去女王国四千余里。
後漢書>自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺
この部分の魏志の文章には、「有」の重複、女王国の「国」の脱落、「其南」と「四千余里」が分離しているなど、やや雑である。後漢書の引用ではそれらがきれいに整えられ、明快な文章になっている。また前文と書き出しを揃え、共に「自女王国」で始めた所も分かり易い。ただ、前文で「国=拘奴国」と解釈した点だけは、ほとんど改竄であろう。
一方、隋書には、引き続き引用がない。
【侏儒】
侏儒とは、小人のことである。現在では成長ホルモン不足などにより平均的な体型まで成長できない症状を指す。
侏儒 (英 dwarfism)…<百度百科>以身材異常矮小,性徴缺乏而智力発育正常為主要表現的疾病。</百度百科>
(身体が異常に矮小。性徴の欠乏がなければ、発育が正常なら表現による病気[=本人が「病気」だと自覚する場合のみの病気]である)
山海経など古い文書には、「周僥」(しゅうぎょう)などが、侏儒と同じ意味で使われ、国名・民族名になっている。
『山海経·海外南経』の畢沅(ひつげん、1730-1797)校注…「周饒即僬僥音相近也」周饒即ち僬僥、音相近きなり。
『駢雅·釋名稱』…「周饒僬僥短小人也」 周饒、僬僥は短小人なり。章炳麟『新方言·釋言』…「周饒即侏儒」
『山海経·大荒南経』袁珂(神話学者、1916~2001)校注…「周饒、焦僥、並侏儒之声転」
以上のように、周饒、周僥、焦僥はすべて侏儒と同じもので、音が変化したものである。
また、身長は3尺、あるいはそれ以内とされる。
<丸善「単位の辞典」/長さ/漢尺>漢尺によってつくったますの基準器(漢嘉当量)の現存するものがあり、それによれば、漢尺は23.0303cmほどになる。<丸善「単位の辞典」>
『山海経·海外南経』…「周饒在其東其為人短小冠帯」周饒は東に在り、人[身長]短小にて冠を帯びる[身に付ける]
『山海経·大荒南経』…「有小人名曰焦僥之国, 幾姓,嘉穀是食」(小人有り、焦僥の国という。姓は幾つかあり、穀物を喜び、これを食する。)
『山海経·大荒南経』楊倞注…「 焦僥,短人,長三尺者。」
『淮南子(前2世紀)·墬形訓』高誘注…「焦僥,短人之国也,長不満三尺。」…長、三尺に満たず
<百度百科/周僥国より>周僥族人身型最高三尺,最矮只有幾寸,以耕作過活。…</百度百科>(周僥族の体型は、最大3尺~最小は数寸。耕作をして活発に過ごす。…)
【其南、去女王国四千余里】
『山海経』は、『五蔵山経』5巻、『海外四経』4巻、『海内四経』4巻、『大荒海内経』5巻の計18巻から成る。そのうち、海外経は、中国周辺の異国の住人の異様な姿を描く。ここに描かれるのは、「人面有翼鳥嘴」の国、「獣身、火出其口中」の国、胸に穴が貫通している「貫匈国」などとんでもない国ばかりである。
大荒海内経は、伝説上の帝王からの系譜など、多数の神話からなるが、海外四経・海内四経との重複も多い。
侏儒国は、海外南経に含まれるので、中国の南側だが、場所はそれ以上特定されない。もともと架空の話だから、「四千里」に意味はないのだが、「郡より女王国まで一万二千余里」よりは相当遠くした方が「南の異国」には合う。だから、特別な帯方郡の里法「一里=76.7m」よりも、後漢の通常の里法「一里=400m」としておいた方がよさそうである。
【ネグリト】
それでは、現実の矮小民族はいなかったのだろうか。実際には、現在でも「ネグリト」と呼ばれる複数の少数民族がいる。
ネグリト(Negrito)は、<wikipedia>東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。アンダマン諸島の12の民族、マレー半島と東スマトラのセマン、フィリピンのアエタやアティ他4以上の民族、ニュージーランドのタピロなどの民族が含まれる。</wikipedia>
小川英文氏の論文によると、低身長、縮毛、暗褐色の皮膚をもつネグリトをみたスペイン人が「小さな黒人」という意味で呼んだ。男性の平均身長は150cm程度というから、3~4尺(69~92cm)という極端な低さではない。
だが、遠隔地の現実の民族を見聞し、その低身長が誇張されて伝わるうちに、空想の民族が生まれたとする想像は一応可能である。(但し、それを実証する研究は見つからない)魏志のもとになった魏略は、侏儒の身長を「三尺以下」ではなく、やや控えめに「三四尺」としているので、著者が「伝説の元になった民族が、実在するかも」と考えていた可能性もある。
フィリピンのネグリトのひとつ、アエタは、<yahoo!百科事典/アエタ>ルソン島ピナツボ山麓地帯に住む</yahoo!百科事典>という。大雑把に北緯15°東経120°とすると、想像上の女王国(会稽の東=北緯29°東経127°)との直線距離は約1700km(=4250里)で、たまたま4千余里に一致する。侏儒国はあくまでも想像上の存在だから、この場合は本当に「たまたま」である。
【フローレス原人】2013.3.18
インドネシアのフローレス島から、フローレス原人(ホモ・フローレシエンシス)という小型人類の化石が発見された。
<朝日新聞2006/02/28、日経サイエンスなどの要約>2003年,インドネシアのフローレス島にある洞窟から,2003年9月に発見。約1万8千年前の女性の骨で、身長1メートル、体重20キロ。脳は現代人の3分の1以下の約400立方センチ。ジャワ原人から分かれた新種で外敵から隔離され食物が少ない孤島にいたため小型化したとの説がある。</要約>
<wikipedia>リアンブア (Liang Bua) の石灰岩の洞窟に、3万8千年から1万3千年前のホモ・フローレシエンシスの骨7体と獲物と考えられる象(ステゴドン)の骨、石器などが一緒に発見された。1万2千年前に起こったインドネシア火山の爆発で、フローレス人はステゴドン等と共に滅んだと考えられている。</wikipedia>
<wikipedia 英語版より>フローレス島の先住民ナゲ(Nage)には、小型の人類「エブゴゴ(Ebu Gogo)」伝説がある。ナゲが信じるところでは、エブゴゴは17世紀、ポルトガル商船の到来時点で生存していて、一部は20世紀ごろまで生き残っていたが、現在では見られなくなった。</wikipedia英>
フローレス原人とエブゴゴ伝説との関係は全く不明であるが、今から数千年程度以前にナゲとフローレス原人が共存した時代があり、その民族的な記憶が伝説の元になった可能性はある。
大雑把に南緯09°東経121°とすると、想像上の女王国(北緯29°東経127°)との直線距離は約4260km(=10600里)となる。
『山海経』は長い期間に累積されたもので、その時期は戦国時代から前漢(B.C.4世紀~紀元ごろ)と言われている。オセアニアでは紀元前から海洋をカヌーで航行していたようで、彼らの小人伝説が中国にも伝わり、侏儒国伝説の元になったのかも知れない。(次項【船行一年】参照)
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2012.2.4(土)原文を読む(67) 有裸國黒齒國
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又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
又裸国、黒歯国有り、復其の東南に在り船行一年にて至る可(べ)し。
また、裸国、黒歯国がある。ここも女王国から東南、船で一年ぐらいのところにある。
【後漢書との比較】
後漢書>自朱儒東南行舩一年至裸國黒齒國
この文も、魏志に比べて簡潔になっている。距離の起点は侏儒国と解釈している。
【語句の意味】
可…《助動》《副》基本的に可能の助動詞であるが、数値の前に置くと概数であることを示す副詞となる。ここでも数値とともに使われるので、「およそ」と読み取るのが適当である。
【復在其東南】
「又」があるので、「復」は蛇足にも思えるが、(1)「皆倭種」の国は女王国から東へ千余里、(2)侏儒国は女王国から南へ四千余里とあるから、「復在其」は「ここでもまた、女王国が起点である」の意味の「復」である。
後漢書の引用はいつも明快であるが、ここでは読み方を間違えている。ただ魏志の侏儒国、裸国黒歯国の配置はもともと概念的なので、後漢書のように侏儒国を起点としても特に問題はない。
【船行一年】
ここでまた、隋書にいう「計以日」による表現が使われる。
「水行二十日」について、水行1日=14kmとした。仮にこれを適用すると、14km×365日=5110km、一里400mとすれば、1万2800里である。
女王国から南東に5000kmの地域は、オセアニアである。とすれば、島々を巡る伝統的航海術が想起される。オセアニアでは、古代から星座の観測に優れ、全域を航行することができた。
伝統的航海術(traditional navigation)は、<wikipedia>天体と方角を結びつけた方角算出技法で、伝統的な技術を途切れなく継承しているもの</wikipedia>とされる。オセアニアの伝統的な航海術は、<国立民族学博物館/オセアニア大航海展>星空や太陽の運行、雲の形、海流や風の方向、海鳥の群れ等を手がかりとすることにより、遠く離れた島から島へと人々が移動することを可能にした。</国立民族学博物館>
また、ポリネシア人の祖先が作った、ラピタ土器が出る<同上>遺跡をたどると、ポリネシア人の移動ルートがわかる。</同上><wikipedia/ラピタ人>ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。ルーツは不明だが、台湾の土器との関連性</wikipedia>が見出されている。
このようにオセアニア人が古代から広大な海洋を自在に航行していたことが、「東南船行一年」の背景にあったように思われる。また、倭人の条にこの話が入っていることから、江南やベトナムに起源をもつ民族が、倭国とオセアニアに広がったという、共通性でくくられているようである。
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ダニ族 wikipedia.org |
【裸国】
女王国から5000kmの距離には、たまたまニューギニア島がある。ニューギニア島の先住民であるダニ族、ヤリ族は、コテカを着用するのみの、「裸国」にふさわしい恰好である。ただし、ニューギニアの先住民族はモンゴロイドではなく、オーストラロイドである。そのこともあり、裸国がニューギニアであると短絡的に決定することはできない。「裸国」は、伝説上の国なのであり、他の地域から、極端な話アマゾンから伝播した伝説かも知れない。何しろ海洋民族の航海は、南米まで及んだとも言われる。
また、山海経には直接「裸国」という名称の国は出てこないので、別の伝説に基づくと思われる。
【黒歯国】
<wikipediaより>
『淮南子』…黑齒 齒牙盡黑 黒歯[国]歯牙尽(ことごと)く黒し。其人黑齒 食稻啖蛇 在湯谷上 其の人歯黒し、稲を食し蛇を啖(くら)う。湯谷[扶桑]の上に在り。
『山海経』海外東経…黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 この文に続けて「蛇は食物ではなく、使うもの」という異説を紹介し、「扶桑」(第65回)に続く。
</wikipedia>
お歯黒(鉄漿とも書く)の習慣は、日本においては、<wikipedia/要約>初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わった。古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡がある。753年に鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存し、古来のものより優れていた。他国では、中国雲南省、ベトナムなどの少数民族に見られる。</wikipedia>
日本が鉄の製法を獲得したのは、弥生時代中期中葉(200B.C.~100B.C.)、九州中心とされ、大体『淮南子』が書かれた時代である。
倭国が明確な歴史として記録されるのは、建武中元二年(57年) 倭奴國奉貢朝賀 が最初である。『淮南子』の時代はそれから200年ぐらい昔なので、中国東方のかなたにあった黒歯国の記事は、倭国地域の見聞がもとになったのかも知れない。三国志の時代、実在する倭国との関係が深まるが、それとは別に黒歯国の伝説が残っていたと考えることができる。
しかし、だとすれば疑問が生じる。「黥面文身」のところに、なぜ「歯皆黒」が書かれていないのかということである。敢えてその理由を想像すると、(1)お歯黒の習慣は、地域による偏在があった、あるいは特別の集団だけのものであった。(2)女王国の時代は、一時お歯黒の習慣が廃れていた。(3)倭人が百越人の末裔であることを言いたいために、「黥面文身」だけを強調した。(3)だとすると、倭国の風俗の描写には恣意性が含まれることになり、全体的な客観性に疑問が生まれる。
ただ、お歯黒がどの地域の習慣であったかはともかく、倭人伝においては黒歯国は伝説上の存在であり、裸国とともに倭国からはるかに遠い南東の海の上にあった。
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2012.2.5(日)原文を読む(68) 倭地絶在海中洲㠀之上
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參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
倭の地参問するに、海中、州島之上に絶在し、或いは絶え或いは連なり、五千余里可(ばか)り周旋す。
倭の土地を究めるに、海の中に隔てられて在り、離れたり連なったりする島々を巡るところ、およそ5千里余りである。
【語句の意味】
絶…《形》はるかに隔たったさま。隔絶。ここでは副詞に活用。(対馬国にも「絶島」の表現があった)
洲…《名》水中の陸地。大陸と其の附属島嶼の総称。[アジア州など]
上…《名》一定の範囲。
周…《動》めぐる。
旋…《動》めぐる。
周旋…めぐりまわる。
可…《副》数値の前に置き、概数であることを表す。
【後漢書】
自朱儒東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣 侏儒自り東南船で一年行き、裸国黒歯国に至る。使訳伝う所、此れに極まるなり。
後漢書で、倭国の部分のはじめにあった「使驛通於漢者三十許國」に対応して、裸国、黒歯国までが使訳が行き来する範囲であるという。合理的な文章であるが、内容は魏志と不一致がある。
魏志では「三十許国」であった時代は前漢ではなく、三国時代である。また、倭種の「国」、侏儒国、裸国、黒歯国の4か国は「遠絶傍国」を含む倭国からもさらに遠く、「使訳所通三十国」の対象から外れている。
【参問】
「参問」という熟語は、意外に一般的でない。日本の辞書では、仏教用語である。
参問(さんもん、しんもん)…《仏教用語》師をたずねて仏道を問うこと。
そこで、中国のネット辞書で調べる。
<汉(漢)典>
(1) 詢問[目下の者にたずねきく]。 《後漢書·竇武傳》:武召侍御史河澗劉儵,参問其国中王子侯之賢者。(竇武は、侍御史である河澗の劉儵を召し、其の国中の王子、諸侯のうち賢者はだれかと尋ねた。)
(2) [仏教用語]
</汉典>
<国際電脳>
参…配合。等同。参与。研究。謁見。
問…考察。審訊。追求。
</国際電脳>
参考のために、例えば「参考」を見る。「参考」…多くの資料や説を照らし合わせて考える。この場合、「参」は「参加」「参集」などの「集めて合わせる」意味。
また、「問」は人間が相手なら「質問」、資料が相手なら「研究」となる。
「参問」は、上記の用例では「質問」だが、目的語は質問する相手ではなく、質問内容をとる。倭人伝の場合、誰かに聞いて文献を作り上げたにしても相手は明示されないので、この場合は「人に聞く」よりは「資料によって調べる」とか「資料を追求する」の意味が合う。
【海中洲島】
「中洲」は「中国」である。もし「中国」だとすると「中洲之東」のようになるはずだが、そうはなっていない。区切り方は明らかに「海中に州島が…」である。
【周旋可五千余里】
たくさんの島々からなる国をめぐり、その距離を合計すると五千余里になるとする。「郡至女王國萬二千餘里」から、「自帯方郡、至岸狗邪韓國七千余里」を引き算すると、五千里である。だから、直線的に繋げば値の整合性があるが、「島々を巡る距離の合計」は、実際はそれより長くないと理屈が合わない。
ここでは、一里=400mの里法で書かれているとすれば、2000kmに相当する。鹿児島~根室の直線距離が1950kmぐらいなので、相当余裕ができ、転々と散らばる多くの島を含めた距離になる。ただ、漠然とした値の印象を受ける。
さらに、五千余里が裸国黒歯国までを含んでいれば、文章のつながりがよくなるが、五千余里では侏儒国までの四千里や、裸国黒歯国までの船行一年を含むことができない。だから、国歯国など伝説の4国は、倭種の国かも知れないが、倭国には入らないことになる。
【倭地絶在海中洲島之上或絶或連】
倭人伝の冒頭の、「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」と、ほぼ同じ内容である。最後に繰り返すことによって、文章をまとめたと思われる。ただし、「帯方東南」がない分、具体性がなくなっている。
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2012.2.8(水) 2013.3.21(木)原文を読む(69) 景初二年六月
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景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都
景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)らしめ、天子に詣(けい)し朝献を求む。太守劉夏、吏(り)を遣わし、将(ともな)い送りしめ、京都に詣(いた)らしむ。
景初二年六月、倭の女王[=卑弥呼]は大夫難升米(なしょうまい)などを使者として、帯方郡治に派遣し、天子[=当時は明帝]の拝謁と朝献を求めた。帯方太守の劉夏は、官吏に命じて彼らを伴って洛陽まで送り届けさせた。
【語句の意味】
詣…《動》いたる。「(寺社に)参る」は日本語用法。
遣…《使役動詞》"使AB"(A[人物]をして、B[動詞]せしむ)と同様に、"遣AB"は「A[人物]をつかわし、B[動詞]せしむ。」
将…《動》連れて行く。ともなう。
【文法】
[求詣天子朝獻]…動詞句「詣天子朝献」が"求"の目的語。"天使"は動詞"詣"の目的語、動詞句"朝献"は補語。
[遣吏将送詣京都]…吏[下級役人を管理するレベルの官職]に役目を課して派遣する。その役目は、難升米等を伴い送り、京都に到着させることである。つまり、「付き添って洛陽まで送り届けることを命じた。」
【「景初二年」問題】
伝説の世界から、また突然に現実世界に戻ってきた。ここからは魏の正式な記録を引用し、資料の信頼性が高い。
景初二年は、魏の成立(220年、最初の皇帝曹丕;そうひ)から19年目の西暦238年で、皇帝は2代目の明帝(曹叡;そうえい)である。
この文の大意「6月に倭の女王の使者が帯方郡を訪れ、皇帝への朝献を求めたので、太守(郡の長官)が、都の洛陽まで彼らを送らせた」は、明快である。
しかし、景初二年の6月時点で、帯方郡は戦乱のまっただなかで、まだ魏国の安定的な支配下にないはずなので、「景初二年」は「景初三年」の誤りであるとす説がある。
そこで、この年の朝鮮半島の状況から、実際のところどうであったかを具体的に調べてみたい。
【司馬懿による公孫淵の征討】
遼東地方は、実質的に公孫氏の統治下にあったが、魏の軍事的圧力の増大に対抗して公孫淵の景初元年、独立を宣言した。景初二年正月、曹叡は司馬懿(しばい)に4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じた。
<百度百科>公孫淵(?-238)三国時遼東地方割拠首領。公孫康之子。魏明帝太和二年(228,淵奪其叔公孫恭位,割拠遼東,明帝拝淵揚烈将軍、遼東太守。淵又遣使南通孫権,孫権立其為燕王,後明帝拝淵大司馬,封樂浪公。景初元年(237)叛魏,自立為燕王,置百官有司。二年,明帝遣太尉司馬懿出兵遼東。淵大敗,為魏軍所斬。</百度百科>
(公孫淵(生年不明-238年没)三国時代、遼東地方を割拠した首領。公孫康の子。魏、明帝[=曹叡]の太和二年(228)、淵は其の叔父、公孫恭から位を奪い,遼東を割拠し、明帝は淵を揚烈将軍に拝し、遼東太守とする。淵は又、南[呉]の孫権に通じ遣使し、其の為、孫権は燕王に立て、後に明帝は淵を大司馬に拝し、樂浪公に封ずる。景初元年(237)魏に叛し、自立し燕王と為り,百官有司[=官僚]を置く。[景初]二年,明帝太尉、司馬懿を遣わし遼東に出兵する。淵は大敗し,魏軍に斬られる所と為る。)
公孫氏は後漢の後期(2世紀後半)より遼東で、半独立状態であった。三国時代になり、呉、魏はそれぞれ遼東地方を自分の支配下に置こうとする。公孫淵はそれを利用し、呉の皇帝孫権と通じながら、一転して呉の使者の首を魏に送り、魏の曹叡から樂浪公の地位を与えられた。
呉の孫権は237年[景初元年]、遼東に親征するが、魏が軍を遼東に駐屯させて対抗したので親征を中止した。軍を送った魏は公孫淵に上洛を命じたが、公孫淵はこれを拒否し、自ら燕王となって独立を宣言し、年号を制定し周辺国に玉璽を与えた。
>魏書 孫陶四張傳
景初元年。(中略)淵遂發兵逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立爲燕王、置百官有司。
景初元年。(中略)淵は遂に兵を発し、遼隧(りょうすい)にて[迫る軍を]逆(むか)えうち、倹等と戰う。倹等利なく還(かえ)る。淵、遂に自立し燕王と為(な)り、百官有司[=官吏]を置く。
翌238年[景初二年]、魏の明帝(曹叡)は、遂に将軍の司馬懿に遼東の征討を命じた。
>魏書明帝記
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。二年春の正月、太尉司馬宣王[=司馬懿]に詔(しょう)し、衆を帥(ひき)いて遼東を討つ。
>魏書 孫陶四張傳
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月軍至遼東。淵遣將軍卑衍、楊祚等、步騎數萬屯遼隧。圍塹二十餘里。宣王軍至。令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等、擊破之。宣王令軍、穿圍、引兵東南向。而、急東北、卽趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。
二年春、太尉司馬宣王を公孫淵の征伐に遣わす。六月に軍は遼東に達する。淵は将軍の卑衍、楊祚等を派遣し歩兵騎馬数万を遼隧に駐屯させる。塹壕二十余里で囲み、卑衍に迎撃を命じる。宣王は軍に命じ、囲みを穿ち兵を引き東南へ向かうと見せかけ、急に東北へ向きを変え襄平[=じょうへい;現在の遼寧省遼陽市]へ進撃する。衍等は襄平に守りが無いことを心配し、夜を徹して向かう。
>魏書明帝記
[二年]秋八月、燒當羌王芒中注詣等叛、涼州刺史率諸郡攻討、斬注詣首。癸丑、有彗星見張宿。丙寅、司馬宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
《圍=包囲する》
《"癸丑"、"丙寅"は、日付を十干十二支で表したもの。景初2年の1月1日が甲子から始まったものと仮定すると、8月の癸丑は4回目にあたり8月23日。その後の丙寅は9月6日になる。》
秋8月、燒當羌王芒中注詣等、叛乱し、涼州(現在の甘粛省付近)刺史は諸郡を率いて[叛乱軍を]攻め討ち、注詣の首を斬る。23日彗星が出現、張宿[中国古代の星座である"二十八宿"のひとつ]に見る。[涼州は、遼東地方とは別個の反乱である]
9月6日、司馬懿は襄平に於いて公孫淵を包囲し、これを大破する。京都に淵の首を召しとり、海東の諸郡を皆平定する。
かくて司馬懿は公孫淵を殺し遼東と、朝鮮半島一帯を平定した。これを遼隧の戦いという。
司馬懿はこの戦いで、遼東地方に中原(中国の中央地域)の戦乱から逃れた人々が多数住むことを知り、将来の叛乱の温床を根絶するために、15歳以上の男子(7000人と言われる)を全員殺して京観を築いた。京観とは、戦勝者が武功を示すため、敵の死体を山のように積んだものである。
楽浪郡(現在のピョンヤン)の地域は、後漢末期から遼東地方の公孫氏の支配下に入っていて、3世紀はじめには帯方郡が分離された。 公孫氏が絶え、魏は樂浪郡・帯方郡を中央支配の地域として取り戻した。この支配は、312年高句麗に占領されるまで続く。
この年は十一月の次に閏十一月があった。翌十二月に、曹叡は病に倒れる。
>魏書明帝記
十二月乙丑帝寢疾不豫。辛巳立皇后。賜天下男子爵人二級、鰥寡孤獨穀。以燕王宇爲大將軍、甲申免、以武衞將軍曹爽代之。
《閏年なので、日付は7回目がある。乙丑=12月7日、辛巳=12日、甲申=23日。》
12月7日、曹叡は病の床に就き、予断を許さぬ病状に陥った。12日(…以下略)
このように、魏国の建国から景初2年9月に公孫氏が滅びるまでは、樂浪郡・帯方郡は公孫氏の支配下にあり、この地域と魏国との関係は絶たれていた。
倭人伝には「帯方郡と倭国の間に使者の交流があった」ことが書かれてはいるが、実際に帯方郡が成立したのは、238年9月6日以後である。
仮に倭国の使者が6月に到着して、朝献に成功するためには、司馬懿が早手回しに臨時の太守を随行し、かつその太守と偶然巡り合い、戦場の臨時の執務所で面会を行い、戦場を通って洛陽に送られなければならない。全くないとは言えないが、かなり難しいだろう。
従って、少なくとも238年6月に、女王国の使者が帯方郡で太守[=郡の長官]に面会したことはあり得ないと思われる。
朝献使は、12月に洛陽に到着しているが、同月7日に曹叡は病に倒れる。側近が勅書を作るぐらいはできたかも知れないが、直接の朝貢は難しそうである。
さらに掘り下げて、朝貢使出発の時点で考えてみる。伊都国から狗邪韓国まで3000里、狗邪韓国から帯方郡まで7000里に1里=76.7m、水行14km/日を適用すると、約55日。それに北九州から女王国まで2か月を加えると、女王国から帯方郡治まではおよそ4か月である。
大雑把な推定ではあるが、大体これくらいの日数であろう。とすれば、出発は2月ごろになるが、その時点ではいくら何でも「魏に属する帯方郡」は存在しなかったはずである。遼東半島を公孫淵の王国が支配した時代、帯方郡と洛陽を結ぶルートはなかった。この時点で、魏の皇帝への面会を求めて帯方郡へ出発することはあり得ない。
むしろ、公孫淵が誅殺されたことが朝献使派遣のきっかけであろう。倭国は、朝鮮半島全域を魏が掌握したことを知り、その進出に脅威を感じ、急いで朝貢関係の確立に動いたとのである。京観のうわさが伝わったことにも恐怖感を覚えたかもしれない。
生口10人と、絹織物2.5匹と、僅かの貢物しか用意できなかったところにも、女王国の慌てぶりがうかがえる。一方で、強力化しつつある魏と友好関係を結ぶことにより、倭国における女王国の地位を安定化させることも、動機として十分考えられる。
この件について注目されるのは、『梁書』(629年成立)の記事である。
至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。
『梁書』は、卑弥呼の朝貢は「景初三年」とし、わざわざ「公孫淵誅後」と書くことによって「公孫淵誅前に使者を送ることは不可能」であったとことを示唆している。
『梁書』の編者、姚思廉が読んだ『三国志』には「景初二年」と書かれていたことだろう。もし初めから「景初三年」と書かれていたのなら、「公孫淵誅後」という当然すぎることを、わざわざ書き加える必要はないのである。
『梁書』の編纂は、三国志の成立から300年以上隔たっているが、1700年後の現代に比べれば、遥かに同時代性があるのだから、その時点での推定は尊重すべきである。
これで「景初三年」でほぼ確定したと思っていた。しかし、その後になって、以上の考えをすべて覆すかも知れない資料を読んだ。実は曹叡は公孫淵殲滅以前に、すでに帯方郡と楽浪郡の太守を定め、極秘裏に黄海を渡海させていたというのである。
【実は、密かに太守が送られていた】
>三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳
景初中、明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣、越海、定二郡。
景初年間に、明帝密遣は帯方太守に劉昕、樂浪太守に鮮于嗣を置き、越海させ、二郡を定めた。
「景初中の密遣」にあてはまる期間は、元年はじめから二年9月6日までである。公孫淵が討たれた後なら「密遣」ではなく、堂々の派遣になるからである。
遼東半島を、襄平を包囲するとともに、背後の帯方郡楽浪郡地域を黄海側から突いて崩していくのは、合理的な作戦である。曹叡は、まだ公孫淵の支配下にある帯方郡と楽浪郡に、早手回しに太守を任命し、軍とともに送り込んだのである。それほど用意周到であるなら、景初元年のうちに倭国に密使を送り、間もなく帯方郡を平定するから郡まで来るように促した可能性もある。この情勢下での倭国使の派遣には非常に危険が伴うから、身軽にするために貢物は最小限にした。事情を理解していた曹叡はその少なさは咎めず、破格の厚遇を与えたのである。
曹叡は12月7日に病に倒れるが、前日までは元気であったとすれば、それまでに詔書を作成し、面会できた可能性がある。
仮に景初二年が正しければ、公孫淵を殺す前に、帯方郡太守を送りこむ筋書きしかないと思っていた。しかし、あまりに不自然すぎると思って否定したのである。その後になって、この一文を見つけたので、にわかに可能性が復活してきたのである。
景初二年が誤りだとすれば、斐松子が「景初二年者景初三年之誤也」と注釈を入れるはずなのに、それがないのが気になっていた。しかし、この筋書きが正しければそのような注釈は必要なくなるのである。
出典 | 関係箇所 | 備考 |
梁書(629年) |
景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢
景初三年、公孫淵誅(ちゅう)の後、卑彌呼、遣使・朝貢を始む。 |
翰苑(660年以前) |
景初三年倭女王遣大夫難升未利等獻男生口四人女生(口)六人班布二疋二尺
景初三年、倭の女王、大夫難升未利等を遣わし男生口四人、女生口六人、班布二疋二尺を献ず。 |
原文では「倭」⇒人偏に「妾」、「班」⇒王編に「王」。「槐(魏?)志曰…」と引用
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日本書紀(720年) |
明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻
明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし郡に詣(いた)り天子に詣り朝獻すを求めしむ。 |
巻九(神功皇后) 仲哀天皇三十九年の注記に「魏志云…」と引用される |
太平御覧(977~983) |
景初三年公孫淵死倭女王遣大夫難升米等言帯方郡求詣天子朝見
景初三年、公孫淵死し、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、帯方郡に、天子に詣り朝見すを求むを言わしむ。 |
「言」は「詣」の誤写か |
紹興本(1131~62) 紹煕本(1190~94) |
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
景初二年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし郡に詣り天子に詣り朝獻すを求めしむ。 |
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【文献への引用を調べる】2013.3.21
右の表の通りである。これを見る限りでは、もともと「景初三年」だったのが紹興本・紹煕本の元の写本では「二年」と誤写(あるいは誤読)された可能性がある。
しかし、翰苑・太平御覧には、梁書の筆写による独自の判断が混入した可能性もある。また「公孫淵誅」は景初2年なので、「景初三年」は文をひとつ挟んで修飾することになり、紛らわしい。
それらに対して日本書紀での引用は原文に忠実であるが、景初三年六月は既に明帝から代替わりしているのに「明帝」がついている。
三国志では元号の前に「明帝」を重ねる書き方はあり得ないので、日本書紀の編者が三国志を読み、明帝の時代だと理解し(あるいは誤読して)付け加えたか。本文では我が国の年紀を「~天皇○年」と表現しているからである。
それにしても、難升米等に会ったのは明帝であると読み取る人は意外に多く、中にはもともと「三年」と書かれていたのを意図的に「二年」に訂正する筆写者がいたのかも知れない。なかなか難しいことになってきた。
【時系列による詳細な検討】2013/03/21
景初2年説・景初3年説のそれぞれについて出来事を順に並べ、それぞれの合理性を考えてみる。
[景初2年説]
・景初元年(遅くても同2年前半)帯方郡太守に劉昕を任命。軍と共に黄海を渡らせ、帯方郡を占領させる。
・景初2年2月ごろか 難升米等、倭国を出発。
・景初2年6月 魏が占領した帯方郡(公孫淵はまだ遼東半島を支配)に到着し、太守劉夏に面会。劉夏は使者を立て、黄海経由で洛陽に難升米等を送らせる。
・9月 司馬懿が遼隧で公孫淵を破り、遼東半島・朝鮮半島は魏の支配下に。
・その頃 難升米等洛陽に到着、魏皇帝・曹叡に引見し、朝貢。
・12月 曹叡、卑弥呼を親魏倭王とする勅書を制定する。
・12月7日 曹叡、病に倒れる。(33歳)
・景初3年1月1日 曹叡死亡。曹芳(8歳)即位。後見は大将軍曹爽と太尉司馬懿。
[景初3年説]
・景初元年(遅くても同2年前半)帯方郡太守に劉昕を任命し。軍と共に黄海を渡らせ、帯方郡を占領させる。
・景初2年9月 司馬懿が遼隧で公孫淵を破り、遼東半島・朝鮮半島は魏の支配下に。
・12月7日 曹叡、病に倒れる。
・景初3年1月1日 曹叡死亡。曹芳(8歳)即位。後見は大将軍曹爽と太尉司馬懿。
・2月ごろか 難升米等、倭国を出発。
・6月 難升米等、帯方郡に到着し太守劉夏に面会。劉夏は使者を立て、洛陽に難升米等を送らせる。(陸路も可能)
・ 難升米等洛陽到着。曹芳による引見、朝貢(幼帝なので、後見人が付き添う)
・ 曹爽・司馬懿により勅書を作成。
・12月 曹芳の名で勅書を制定。
こうして見ると、どちらも可能であるが、「景初二年」では倭国の外交センスを感じさせ、「景初三年」では倭国はどちらかというと受け身である。
(1) 景初2年説の場合、皇帝曹叡による難升米等の引見は、ちょうど司馬懿の勝利の報を得た頃である。遼東半島・朝鮮半島の安定を確実にしたい大切な時期に、対岸の倭国の使者が危険を冒して派遣され、友好の意思を示してくれた。これで樂浪郡・帯方郡を魏と友好国で挟むチャンスを得たことになる。勅書の書きっぷりと莫大な賜物に、この機会に倭との関係を強固にしようとする皇帝自身の熱い意思が感じられる。
(2) 景初3年説の場合、司馬懿は局地戦の将軍であると同時に、倭への働きかけを含む国家戦略を主導していたことになる。
(3) 景初2年説では戦争状態なので、方物(朝貢の品)の少なさの理由は、なるべく身軽で行く必要があったからだと考え得る。また困難な行程を乗り越えた難升米への評価が、後年の黄幢授与につながることが納得できる。
(4) 景初3年説では、司馬懿の戦いによる軍事的圧迫感から朝貢を決定するが、そんなに積極的でないことを方物の少なさが物語っている。
司馬懿は遼東半島平定後、後顧の憂いを絶つために非戦闘員の成人男子7000名を虐殺した。景初3年説に従えば、司馬懿はその直後に一転して倭の女王への破格の融和姿勢を見せる。それが英雄たる所以かも知れないが、理解し難いところでもある。むしろ、その後難升米に黄幢を与えて倭国軍をも朝鮮半島平定に動員しようとする強引さの方に、司馬懿らしさが表れているように思えるのだが。
【他の可能性】
もっとすごい筋書きも考え得る。
>三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(上記の前の部分に書いてあること)
公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。(…中略…)是後倭韓遂屬帶方。
公孫康[203年から遼東郡の太守]は楽浪郡の南側を分割して帯方郡を創設した。(中略)その後、倭も韓国[朝鮮半島南部]も帯方郡に属するようになった。
つまり倭国は、もともと公孫氏の支配する帯方郡に属し、公孫氏に朝献していたのである。(公孫氏は滅ぼされたから、その記録は残らない)そして景初二年に公孫氏への使いが出かけたとき、たまたま魏の太守劉夏に捕えられ、朝献先を強制的に魏に変更させられて、洛陽まで船で連れて行かれたのである。これまた、貢物が少ない理由になる。公孫氏への手土産なら、この程度であろう。
これなら、景初二年六月がタイミング的にぴったりである。なかなか面白いストーリーであるが、物証がないのが残念である。
ただし、どの筋書きであったとしても大筋は変わらない。もともと倭国は公孫氏の帯方郡と交流があった。公孫氏が滅びた今、「魏―帯方郡―倭」の関係を再定義しなければならない。そのために、新たに冊封関係を結んだ。これが本質である。それが景初二年であっても、景初三年であっても、その本質に影響はない。
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2012.2.9(木)原文を読む(70) 勅書報倭女王曰:一
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其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利
其の年十二月、詔書を倭女王に報ず。 曰く「 親魏倭王卑弥呼に詔(みことのり)を制す。 帯方太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米、次使都市牛利を送らしむ。
同じ年の12月、詔書を倭の女王に宛てて発行した。いわく「親魏倭王 卑弥呼に制詔す。帯方太守の劉夏は、我に使を遣わし、汝の大夫である難升米(なしょうまい)、次使の都市牛利(つしごり)を送らせた。
【語句の意味】
報…《動》むくいる。知らせる。
制…《動》制定する。
汝…《代》二人称。対等か目下に対して用いる。
【親魏倭王】
称号「親魏倭王」については、詔書の本文中に説明がある。冒頭に「制詔」に続けて相手の名を掲げるのが、詔書の正式な形式であったと見られる。その肩書きに、今回与えられる称号「親魏倭王」が用いられている。
【大夫】
倭国の使節は、誰でも「大夫」を自称したとされる。
倭人伝>自古以来其使詣中国皆自称大夫(第21回参照)
後漢書>建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫(第31回参照)
【詔書の引用】
曰(い)うの目的語として、長文(「~故鄭重賜汝好物也」まで続く)が、ほぼ全文が引用されたと思われる。景初2年または3年は、三国志の執筆時期からおよそ50年前で、ほぼ同時期の新鮮な資料である。
【文法】
[遣使送汝大夫~]
遣=使役動詞。使=ここでは「使者」の意味の名詞で目的語。「送」以下は、<漢辞海>使役は謙語文;目的語が、もうひとつの動詞の主語を兼ねる</漢辞海>という解釈もあるが、「送」以下の動詞句を補語とし、補語の用法の一つとすると理解しやすい。
明らかに、難升米等の引率を命じて、官吏を都まで派遣したことを意味し、前文(第69回)の内容と一致する。
【人名の発音】
| 漢音 | 呉音 |
難 | だん、だ | なん、な |
升 | しょう | しょう |
米 | べい | まい |
都 | と | つ |
市 | し | |
牛 | ぎゅう | ご |
利 | り | り |
倭の人名にあてられた漢字をどう読むかについては、第18回で論じた。その方針に従い、ここでも現代に伝わる呉音をあてておくことにする。
さらに、「卑弥呼」の「呼」について検討した(第62回)ように、女王国の宮廷では、倭人自身が氏名を漢字表記していたと考えられるので、"難升米"、"都市牛利"も女王国自身による表記であろう。
そのような目で見ると、中国人が聞き取った発音を漢字にしたとみられる"泄謨觚"、"柄渠觚"に比べ一般的な漢字を使うことにより、すっきりした印象を受ける。
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2012.2.11(土)原文を読む(71) 勅書報倭女王曰:二
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奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝
汝が献ずる所、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈以(すで)に至るを奉(たてまつ)る。汝在る所、踰(はる)かに遠し、乃ち使を遣わし貢献す。是(こ)れ汝之忠孝、我甚(はなは)だ汝を哀む。
汝から献じられた男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈が到着したので、謹んで受けたまわる。汝の有る所ははるか遠方で、しかも使いを遣わして貢物を献じてくれた。これは汝の忠孝であり、私は汝をはなはだ愛おしく思う。
【語句の意味】
踰…《動》乗り越える。《形》遠い。はるか。
乃…《接》重文を接続。すなわち。
哀…《動》あわれむ。悲しむ。
【文法】
[奉]には、(1)相手にうやうやしく捧げる。(2)謹んで受け賜る。の両方の使い方がある。
(1)だとすれば「あなたの使者は貢献を奉(たてまつ)った」という事実文だが、相手から自分に対する尊敬語を書くことになり、礼を欠く。
(2)であれば、「あなたの使者による朝献を、謹んでお受けしました」となる。この方が常識に合う。
目的語は、主述構造「汝所献~以到」。さらにその主語「汝所献」は「献」を名詞化。この場合"献"の主語「汝」は、「所」の前に出す。「男生口四人女生口六人班布二匹二丈」は「所献」の補語。
【班布】
<読売新聞1996.7.13>
下池山古墳(3世紀末―4世紀初頭)で見つかった織物は奇跡的に保存状態がよく、光学顕微鏡でのぞくと青い筋のしま文様が現れた。これを「卑弥呼の班布」そのものと決め付けるのは早計だが、邪馬台国の時代に近い古墳から出土し、鏡を包む最高級の織物だったことから班布の実像に迫るものと研究者は見ている。
</読売新聞>
下池山古墳は、奈良県天理市成願寺町にある前方後円墳で、墳丘の全長は約120メートルである。
第38回で見たように、倭国の織物には麻と絹がある。>種禾稲、紵麻。蚕桑、緝績。出細紵、縑綿。
外交のための献上品だから、国内最高級の絹織物を持って行ったに違いない。おそらく専門技術に優れた職能集団(のちの「部」(べ))の手によるものであろう。
【二匹二丈】
漢書(班固(32-92)他著。本記12巻、表8巻、志10巻、列伝70巻からなる)に、長さの単位「匹」(ひつ)の説明がある。
>漢書卷二十四下 食貨志第四下
布帛廣二尺二寸為幅,長四丈為匹。 (布帛広二尺二寸が幅を為し、長さ四丈が一匹を為す。)
<JLogos/丸善「単位の辞典」/長さ/漢尺>,実物はないが,漢尺によってつくったますの基準器(漢嘉当量)の現存するものがあり、それによれば、漢尺は7寸6分(23.0303cm)ほどになる</漢尺>とされる。
漢尺に従えば、一丈=10尺として一匹=9.21m。横幅は50.6cm、長さ二匹二丈=23.0mとなる。
【忠孝】
「忠孝」は、儒教道徳において主君に忠義を尽くすこと、親に孝行を尽くすこと。
【哀】
この場合「あなたに同情する」と訳すのは適当でない。「同情」は、相手の"不幸"への感情である。宗主国が、朝貢を受ける相手に「お前にとって不幸なことに」といって同情するのは皮肉になってしまう。
おそらく「本当に遠いところから私に忠孝を表してくれた。大変だったね。ありがとう。」という感謝の気持ちを「哀汝」という言葉で表したのであろう。東夷との関係を遮ってきた公孫淵を倒すのと同時に、倭国の冊封まで成功すれば、一気に朝鮮から倭国まで勢力圏に加えることができる。その意義は、朝貢使に返礼として下賜された、貢献品に釣り合わない大量の品々が物語っている。感謝は尽きないであろう。
景初2年12月初旬に朝献を受けた明帝は、安堵感からこれまでの緊張が一気に緩み、直後に病に倒れたのかも知れない。
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2012.2.12(日)原文を読む(72) 勅書報倭女王曰:三
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今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝
今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。装封し帯方太守に付し仮授す。汝其れ種人を綏撫し、勉めて孝を為せ。
このたび、汝を「親魏倭王」とし、金印紫綬を与える。装封し帯方太守に委ね、一時授ける。汝は人民を大切に労り、努めて孝せよ。
魏皇帝の詔書の前回(貢物の受領)に続き、今回の部分は、卑弥呼に親魏倭王の称号と印を授与する。
【語句の意味】
仮…《動》貸す。借りる。与える。委ねる。至る。《形》かり。暫定的な。非公式の。でたらめの。《接》もし。
授…《動》さずける
其…《副》二人称主語の後で、勧告や命令、要求などの語気を表す。
綏撫(すいぶ)…やすんじ、いたわる。
種…《名》種子。血統。種族。
種人…人種。種族。人民。
勉…《形》(連用化) つとめて。無理して。
印 | 綬 | 対象 | 実例 |
玉[=翡翠] | 多色 | 皇帝 | |
金璽 | 綟[=萌黄] | 諸侯王 | 「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」 |
金 | 紫 | 冊封王 | 「漢委奴國王」「親魏倭王」 |
銀 | 青 | | 難升米・都市牛利 |
銅 | 黒 |
| 黄 |
【金印紫綬】
第21回で見たように、諸侯、冊封王、その他の官など、地位に応じた格式がある。印の材質(印)と、つまみに通す紐(綬)の色がそれぞれ表のように定められている。なお、「金璽」は、材料が金であり、かつ刻印文字に「璽」を含む印である。
冊封するとは、皇帝と国内諸侯王の封建関係を、擬似的に周辺国の王との間に結ぶ関係である。華夷思想により、周辺国の人々は中原の華を知らない野蛮な民族なので、冊封王の印綬は諸侯王より格下ということらしい。
日本においては、伝統的に中国の学問、哲学を深く学び、よく理解していたので「冊封」という言葉を本来の意味で受けとり、以後の歴史では冊封王の任命を拒否することが通例となる。例外は、南北朝時代、南朝の征西将軍であった懐良親王と、室町幕府の将軍、足利義満(以下、数代)である。その場合も、天皇が「日本国王」の称号を受けることは避け、中国との外交関係のための便宜的な対応にしている。
【装封】
第58回で説明したように、例えば、文書を縛った紐の結び目を泥で包み、その泥に印(封泥印)を押して、結び目が解かれることがないようにする。「装封」には、そのような封泥を伴ったと思われる。
中国からは、封泥を解かれた後の、封泥印の跡が残る粘土が多数出土している。ただ、三国時代以後の<wikipedia>魏晋南北朝時代以降は紙の普及により次第に淘汰され</wikipedia>たという。写真は、「帯方」の文字があるので、帯方郡で使用されたものである。
【仮授】
「仮」は、単独で使うえば「授ける」という意味がある。しかし、熟語「仮授」になると「仮に」の意味が復活するようである。その例をひとつ上げる。
[假授]<汉典> 非正式的委任。《晉書·宣帝紀》:“申儀久在魏興,專威疆埸,輒承製刻印,多所假授。(申儀は、魏が建国してしばらくの間、勝手に権威を誇り、辺境にいて次々と印を彫りやたらに授与した)</漢典>
申儀(しんぎ)は<wikipedia>後漢末期から三国時代の軍人。辺境の地であることをいいことに詔書の偽造など傍若無人の振る舞いをした。</wikipedia> 申儀による印の授与は、越権行為であった。そこで、正しくない「授」を「仮授」と表現したようだ。
「親魏倭王」印に話を戻すと、正式に卑弥呼に仮す[=授ける]ことは確定した。しかし、それを難升米に持たせて帰国させることはせず、装封し帯方太守に付した。結果的に正始元年に、帯方太守弓遵が印を梯儁に持たせて倭に派遣している。その経緯から、「親魏倭王」印を一時的に帯方太守の手元に置くことを「仮授」と表現したように思われる。
【孝】
前回見たように、主君に対するのが忠義、親に対するのが孝行である。ただ、これらをひとくくりにして「忠孝」が使われることが多く、「孝」はさらにその略かも知れない。したがって魏の皇帝に対して忠義を尽くせとも読めるが、それではあまりに尊大なので、儒教道徳による国づくりをせよという意味かも知れない。「冊封」には、儒教国家の秩序に附庸国(朝貢国)を組み込む意味がある。
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2012.2.13(月)原文を読む(73) 勅書報倭女王曰:四
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順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還
汝に順(したが)い、使、難升米、牛利来たり。遠き道路を渉(わた)り勤(つとめ)て労(ろう)す。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見し労(ねぎら)い賜り、還(かえ)ら遣(し)む。
汝の命に従い、使者難升米、牛利が到来した。遠い道のりをはるばる渡り、熱心に職務を果たした。このたび、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とし銀印青綬を授与し、面会して労をねぎらい、帰路につかせる。
次は、難升米と都市牛利が女王の命により首尾よく役割を果たし、その働きを称え、称号と銀印青綬を授与したことを報告する。
【語句の意味】
順…《動》したがう。
勤…《動》つとめる (連用化)つとめて。
労…《動》はたらく。ねぎらう。
還…《動》かえる。かえす。
引見…導き入れて会う。
【率善中郎将、率善校尉】
[中郎将]<wikipedia>中国の前漢以降の官職名。「光禄勲」の属官で、後漢においても五官中郎将などが置かれ、秩比二千石であった。後漢末の戦乱の時期には、各軍閥が配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった。</wikipedia>
[校尉]<wikipedia>漢の制度において、将軍が兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(官秩比二千石)、軍司馬(官秩比千石)が置かれる。後漢末、高級武官の名称に「校尉」が多く使われている。</wikipedia>
漢籍電子文献資料庫で、原資料を読むことができる。原文を検索すると、<漢書 巻十九 百官公卿表第七>凡吏秩比二千石以上、皆銀印青綬</漢書>とあり、定められた通りの授与が行われたことが分かる。とはいえ、名誉的な称号であり、実際に扶持が与えられることはなかっただろう。
【銀印青綬】
前回の表で示したように、銀印青綬は官僚で一番上の格である。難升米と牛利は相手国に所属するが、それには構わず魏国民としての官位も授与しておく。
使者を送った側にとっては、使者が相手国の官位を頂いて帰ってくることは、ある意味迷惑である。それは、帰国した使者が相手国の権威の元に行動し、干渉の手段になる可能性があるからである。明帝にこのような思惑があったことは、当然考えられる。しかし、形としては倭国の朝貢を歓迎する対応の一環である。
試しに、第69回の最後に示した空想的ストーリーだとする。公孫淵の許に向かった難升米と牛利が魏軍に捕えられ、帯方太守の許に送られたとき、咄嗟に「われらは魏の天子への朝貢を願って参りました。」と言い切ったとすれば、魏は非常なる幸運に遭遇したことになる。
こんな空想的ストーリーはあり得ないにしても、魏への朝貢を目的に出発し、帯方郡に到着したのが景初二年六月なら、それは戦乱下の危険な道程である。それを乗り越えて使者の役割を果たした貢献は大きいので、どちらにしても厚遇されるだろう。「景初二年六月帯方郡到着」説が、これでまた少し強まった印象がある。
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2012.2.14(火)原文を読む(74) 勅書報倭女王曰:五
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今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皁衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失則傳冩者誤也】
今、絳(こう)地交龍錦五匹【臣松之以為(おもうら)く、「地」(ち)応(まさ)に「綈」(てい)と為すべし。漢文帝皁(そう)衣を著す、之(こ)れを弋(よく)綈(てい)と謂(い)うは是(これ)也(なり)。此の字不体なるは、魏朝之(の)失則に非(あら)ず、転写が誤る也(なり)。】…を以て、
このたび、絳(こう)地交龍錦五匹【わたくし、裴松之の考えでは、「地」は正しくは「綈」とすべきである。漢文帝[前漢、在位180B.C.~157B.C.]は皁衣[黒い衣]を着用したが、これを弋綈[黒の厚地の衣]と言うのと同じである。この不適切な用字は、魏朝廷の間違えではなく、筆写の誤りである。】、…を以て、
【語句の意味】
絳(こう)…《名》濃い赤
地…《名》下地
応…《助動》まさに~べし ~すべきである should
著…《動》衣服をつける きる
皁(そう)…《形》黒い。
弋(よく)…《形》黒い。
綈(てい)…《名》絹織物。あつぎぬ。
【裴松之による割注】
まず、「皁衣」とはどのような衣服であるかを調べた。
[皂衣]<汉典>亦作“皁衣”。 1.黒衣。秦漢時官員所著,後降為下級官吏的服裝。
(また、"皁衣"とも。黒衣。秦、漢の時官員が着用したもの。時代が下ると、下級官吏の服装となる。)</漢典>
漢文帝は、前漢建国の混乱により疲弊した国力を回復するため、農業を振興し、減税を行い、自らの周囲も質素にして節約に努めた。さらに裴松之の注釈の意味を理解したいと思い、「漢文帝 弋綈 地」で検索をかけたところ、「衣不曳地」(い、ちにひかず)という故事成語に行き当たった。
[衣不曳地]<汉典>
【解釈】衣衫[=短衣]短小不能曳地。形容衣着朴素。 (衣服が短く、地面を引き摺らない。衣服が質素なようすを表す。)
《漢書·文帝紀賛》:"(文帝)身衣弋綈,所幸慎夫人衣不曳地,帷帳無文繡,以示敦樸,為天下先。" (文帝の黒衣が地面を引き摺らないのを見て、慎夫人は面白がって笑った。帷帳[=室内に垂れ下げて隔てとする布]には刺繍せず、このようにして敦樸[=とんぼく、正直で飾り気のないこと]を示すことによって、天下を導こうとした。)
</漢典>
慎夫人は文帝寵愛の側室だったが、あるとき皇后と同じ扱いをして同席させたので、家来の袁盎(えんおう)に席に上下の区別をつけるよう、諫言されたりしている。
ところが、「衣不曳地」には全く異なる解釈があるのも見つけた。<百度百科>衣不曳地:曳,拖動。衣服不沾地,比喻非常忙碌。
這幾天工作太多了,他都已経衣不曳地了。 (衣不曳地:曳は引き摺る。衣服が地に触れない。非常に忙しいことの比喩。毎日毎日仕事が多すぎて衣服が地に触れることがない。)</百度百科>
おそらく、後世に、文帝の故事とは無関係に、字の組み合わせを見て「忙しさの余りに」を意味するのだと誤解され、実際その意味でも使われるようになったと思われる。
文帝の故事に話を戻す。通例、皇帝の衣は裾が地面を引き摺る立派なものだが、漢文帝は丈の短い質素な黒衣で通した。それを慎夫人が見て笑ったが、文帝は身を以て質素な生活を実践して世の模範になろうとしたのである。
だが、皇帝の衣を下級役人が着る「皁衣」と同じ名称で呼ぶわけにもいかないので、特に「弋綈」と呼ばれた。裴松之は、「地」(布地)も同様に、皇帝の地位に相応しく「綈」と呼ぶべきであるとする。ところが「地」は、勅書の中の文字である。裴松之は事もあろうに皇帝の誤りを指摘してしまったのだ。そのままではまずいので、皇帝(または勅書の起草者)が誤ったのではなく、記録者の筆写ミスであると付け加えている。
初めは、避諱(文中で、皇帝の名前と同じ漢字の使用を避ける習慣)のミスの指摘かと思ったが、全く違った。逆に、皇帝のものには皇帝にふさわしい名称を使うべきだという主張であった。
【絳地交龍錦】
深い赤色の厚織りの絹織物に、「交龍」が刺繍されていると想像される。出土品の壺などに「交龍」紋がデザインされたものがある。交龍紋壷では、龍は紋様化されているが、互いに交差するデザインとなっている。交龍紋鬲の方が本来の龍の形が残り、二重らせんのように交わっている。
龍紋繍は、どちらかといえば交龍紋壷の方に近く、抽象的な紋様である。刺繍した糸は失われているというが、デザインはよく残っている。刺繍には金糸が銀糸が用いられ、輝いていたと想像される。
ただ、これらはいずれも春秋戦国時代で、三国時代までは700年ほども隔たっているので、だいぶ異なっているだろうが、やはり曲線が各所で交差するようなパターンの繰り返しであったのではないかと思われる。名称が絳"地"なので、色違いの糸で模様を作った織物よりは、赤い生地に金糸か銀糸で刺繍してあった可能性の方が高いと思う。
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2012.2.15(水)原文を読む(75) 勅書報倭女王曰:六
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今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直
今、絳地(こうち)交龍錦五匹、絳地縐粟罽(すうぞくけい)十張、蒨絳(せんこう)五十匹、紺青(こんじょう)五十匹を以て汝貢を献ずる所に荅(こた)え、値(あたい)す。
このたび、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって、汝の献貢への返礼にあてる。
裴松之による割注によって、文が途切れているところをつないで読む。上記のうち、薄色の部分は、前回見た部分の再録である。
【語句の意味】
縐(すう)…《名》葛の細かい縮布。縮皺をつけた絹織物。
粟(ぞく)…《名》あわ。もみ。あわ粒状のもの。
罽(けい)…《名》毛織物の一種
蒨(せん)…《名》茜。あかね色。
紺青(こんじょう)…濃青の顔料。
献…《動》ささげる。さし上げる。
貢…《動》君主や朝廷に物品を献上する。《名》献上する品物。
直…《形》まっすぐなさま。《名》正直な人。値。《動》伸ばす。(あたい-す)値する。《副》ただちに。わずかに。《前》場所や時間を表す。《接》たとえ~でも。
【文法】
[貢]
名詞(みつぎもの)としても、動詞(みつぐ)としても使われる。「献」から始まる熟語は、"献策"、"献身"などどれも「~(名詞)を献ず」という組み立てなので、"献貢"は「動詞-動詞」の熟語でなく、貢は名詞として「献」の目的語になると思われる。
[荅汝所献貢]
動詞句「献貢」が「所」によって体言化され、「荅(こた)う」への目的語になる。動詞「献」に主語があれば、「所」の直前に置くことになっている。
[以]
前置詞「以」ではじまる前置詞句は、述語に対して方法、手段などを補足する。つまり、"以○○○○荅汝所献貢"は「あなたが貢物を献上してくれたことに、〇○○○(という品々)をもって答える。」という意味になる。
[直]
「直」は、解釈が難しい。
「直」が形容詞(連用化して副詞)ならば、動詞「荅」または「献」の前に置かれる。前置詞なら後ろに名詞が続く。しかし、"直"の次にあるのは「又特賜汝…」で、明らかに「又」が次の文頭なので、"直"は間違いなく文末にある。
文末の「直」は、動詞以外に考えられない。動詞で通ずる意味は、「値する」だけである。目的語は省略されているが、隠れた目的語「汝所献貢」があると見ることができる。つまり、ここまでが、倭国から献上された「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」に「値する」[=相当する]部分である。続く品々は、また別枠というわけだ。
「直」をなくして、「荅える」だけでも意味は通る。しかし「直」を加えれば、「以上の品々が、献上品に直接対応する」ことを一層はっきりさせることができる。
【罽】
量詞は「匹」ではなく、「張」で数えるので、他の布とは異なる範疇に属する。どのようなものか知りたいと思って、調べてみた。
<国際電脳>
罽 1.魚網。2.氈類毛織品。
氈 用羊毛等圧製成的像厚呢子或粗毯子似的東西。(羊毛を圧して厚くし、密な織物または敷物状、またそれに類似するもの)
</国際電脳>
<百度百科>罽《名》漁网[=網]〖fishnet〗 羊毛织[=織]物〖carpet〗</百度百科>
【絳地縐粟罽】
「罽」の意味のうち、さすがに「漁網」はあり得ない。絨毯のようなものであろうか。名称からは、表面は縮皺を粟粒のように細かくつけ、「絳地」とある以上は、赤色を地として何らかの色彩の模様があると想像される。
あるいは、罽賓(けいひん)国がインド・中国国境のカシミールのあたりにあったので、交易で得たカシミア(カシミヤヤギの毛織物)製品かも知れない。いずれにしても、高級品であろう。
【蒨絳、紺青】
布の寸法が非常に長いので、細工のない布を、蒨絳は暗い赤色に、紺青は深い青色に染色したものだと思われる。五十匹は、卑弥呼が献上した班布(第71回)二匹二丈の20倍の長さである。「ここまでは貢物に答えるに相当する品々である」とは言いながら、すでに大幅に上回っている。
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2012.2.21(火) 2013.3.28(木)原文を読む(76) 勅書報倭女王曰:七
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又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤
又特に汝に、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜(たまわ)る。
これまでの返礼とは別に、汝に紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹、細班華罽(けい)五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与える。
ここからの下賜品は、倭の女王が使者によって献上した「貢物への返礼とは別枠とする」という意味で、「特に」がつく。
【語句の意味】
特…《副》特別に。格別に。
賜…《動》上の者が下の者に財貨を与える。
錦…《名》彩色文様をほどこした絹織物。
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ホウセンカの芽生え 福原氏のページ/種子 |
萌黄地牡丹唐草模様錦(漆皮箱、奈良時代) 画像提供:東京国立博物館 |
【紺地句文錦】
「句文錦」という名称の織物は、現在は存在しないとみられる。そこで「句」と「文」の後の意味から、どのような模様か推定を試みる。
句;<国際電脳>1. 曲,弯曲。引申[=(語義が)派生する]指草木初生拳状的幼芽。</国際電脳>
文;<国際電脳>1. (在肌膚上)刻畫[=画]花紋。2. 紋理;花紋。</国際電脳>
「文」は「文字」という意味もあるが、国際電脳では、一番目が入れ墨、二番目が紋様である。「句」は「湾曲」、あるいは発芽直後の芽の形を表すという。字の成り立ちから推定すると、唐草模様のようなものかも知れない。紺色に染色した生地に金糸や銀糸などによる刺繍が想像される。
唐草模様はギリシャ神殿の柱の彫刻からはじまり、メソポタミアからシルクロードを通って中国から日本まで伝わったとされる。「罽」などとともに西方で作られたものが中国の都に送られ、倭国への下賜品に加えられたのであろうか。
【細班華罽】
「細班華」も「句文錦」と同様、紋様の実例を求めて検索しても、出てくるのは「倭人伝」の引用ばかりである。今は「細班華」と呼ばれる紋様は残っていないと見られる。
けれども手掛かりを求めて、「細」と「班」を別々に調べる。「細」は現代日本語の「細かい、細い」と変わるところはない。「班」は表意文字で「玉を刀で分かつ」が原義である。なお、ホームページの文章では、しばしば「斑」との混同が見られる。
<漢辞海>天使が諸侯に封じたしるしの玉を公布する</漢辞海>国際電脳では、もう少し詳しい解説がある。
<国際電脳>分瑞玉。瑞玉是古代玉質的信物、中分為二、各執其一以為信。(瑞玉を分ける。瑞玉とは、古代の王の資格を証明するもの。中央で2つに割り、それぞれ一方を持つことで証明とする)</国際電脳>
ここから「わかつ」という意味を派生し、人の組織を細分化した「~班」なども意味する。
だから「細班華」は「小さな花弁をばらばらにした(桜の花びらが散りばめられたような)紋様」かと思ったのであるが、画像検索ではそんなデザインは見つからない。やはり、花弁は花を構成してこその美しさなのであろう。もう、これ以上の想像は無理である。
「罽」は前回見たように、羊毛などを編んだ厚い敷物(絨毯)のようなものである。
【白絹五十匹】
無地の絹布。「白絹五十匹」という表現から、逆に前回の「蒨絳五十匹」「紺青五十匹」が、それぞれ絹布を染色したものを指すのは確実である。
【金八両】
古代中国の嘉量による両は、『漢書律歴志』(漢書巻二十一上 律歴志第一上 嘉量)の記述に基づく実測の結果、漢代では1両は14.167グラムである。これは隋代「小称両」1両と同じであり、呉承洛の『中国度量衡史』による隋代の「大称両」1両は41.762グラムで「小称両」1両の3倍である。唐代の「大称両」1両は37.301グラムで「小称両」1両はその3分の1である。
現在の金相場でその価値を計算してみる。14×8=112g。(2012年2月21日現在の1g単価)4702円×112=約52万7000円。時代劇でお馴染みの江戸時代の小判は1枚3~17g程度というので、ここの「1両」もそれくらいである。
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直刀残欠(岡山県岡山市四御神・湯迫境界車塚古墳 3~4世紀) 画像提供:東京国立博物館 |
【五尺刀二口】
漢代の一尺=23cm(第71回参照)を適用すれば、五尺=115cmである。
[車塚古墳の直刀](図)
古墳時代の鉄剣は、直刀(刀身に反りがない直線状で、両刃)であった。時代とともに短くなるようで、5~6世紀で95cm程度、7~8世紀で65cm程度のものが残っている。
[東大寺山古墳「中平」銘刀](第56回)
24文字を金象嵌で表した長さ115センチメートルの鉄刀一本が出土した。直刀ではなく、ややそっているという。中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年にあたる。
【銅鏡百枚】
各地の古墳から出土する三角縁神獣鏡が、百枚下賜された銅鏡そのものだとする説がある。否定する説もあり、議論はまことに賑やかである。
現時点では、これまで公表された研究結果の一部を読んだところだが、どう見ても「三角縁神獣鏡」は日本の純国産である。そして、各地の出土数の比較から、畿内の中央政権が各地方の王に配布したものであるのは間違いない。
[三角縁神獣鏡]
鏡のふちを枠が囲み、その断面が三角形なので、三角縁(ふち)神獣鏡という。ただ、時代が下るとともに、縁の高さはだんだんと減少し、最後にはほとんどなくなる。
[中国には出土例がない]
中国の考古学者王仲殊(おうちゅうしゅ)は、三角縁神獣鏡は倭国に渡来した呉の工人が作ったものだと発表した。(1981年)
参考サイト:科学の目で見えてきた日本の古代(第11号)
前漢から三国時代を通して、銅鏡の産地は長江下流域の山陰県[第35回参照](三国時代は呉の地域)で、日本でも発見される神獣鏡(三角縁神獣鏡の起源)はここで鋳造された。
三角縁神獣鏡は、中国では1面も出土していない。これは、工人が神獣鏡の製作技術をもって渡来し、日本で鋳造したことを示している。その銘文からもそれが伺える。
改元により現実には存在しなかった年「景初四年」製があるのも、改元の情報が倭国に住む工人に伝わるまでに、タイムラグがあったことを示している。
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正始元年銘 三角縁神獣鏡(蟹沢古墳、群馬県高崎市) 画像提供:東京国立博物館 |
[年を含む銘文]
神原神社古墳>(島根県大原郡加茂町大字神原)出土の三角縁神獣鏡「景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地■出吏人詺之位至三公母人詺之保子宜孫壽如金石兮」[下の「正始元年」製の銘を参照すれば、■=「出」であろう]
(景初三年、陳是、鏡を作る。自ら経[=経歴]有り述べるに、本(もと)より是(こ)れ京師[=都]、杜地す、出(いず)るを命じ、…[以下略]…)終わりの方は、幸運祈願の決まり文句であろう。
「杜」=「閉ざされた」なので、「杜地」は「中国の中心部から遠く隔たり、音信も不通の土地」のような意味であろう。
「景初三年」銘は、他には大阪の和泉黄金塚古墳(ただし、画文帯神獣鏡)のみである。
広峯15号墳>(福知山市)斜縁盤龍鏡と呼ばれる「呉」の様式の鏡。「景初四年」という紀年銘がある。
第69回で調べたように、明帝は景初3年1月丁亥(24日)に没したが、年内は改元せず、景初3年の翌年正月から正始元年となる。年が明けたから景初4年になったと思って銘文を記した後になってから、倭国に住む工人に「今年から改元された」という情報が伝わった。
蟹沢古墳>(群馬県高崎市芝崎町字蟹沢602)「■始元年陳是作鏡自有経述本自州師杜地命出寿如金石保子宜孫」
先頭文字が欠けているが、間違いなく「正始元年」である。「州師」は辞書にないが、倭国が魏と関係を結んだので、呉の首都を「京師」と呼ぶのを遠慮し、単なる「州の中心地」と表現したのだろうか。
安満宮山古墳>魏の年号。(大阪府高槻市)「青龍三年(235年)」方格規矩四神鏡(他に二面)。
その他>呉の年号(赤鳥元年=238、同七年)、晋の年号(元康年代=291~299)。
[青銅に加えられた鉛の同位体比に注目した研究]
古代の銅鏡は、青銅(銅に、スズを含む合金)であるが、さらに鉛が加えられている。鉛は、同位体が4種類(204,206,207,208)あり、その比率が指紋のような役割をして、同一の原料を使った銅製品を見つけることができる。
新井宏氏は、三角縁神獣鏡を含む銅製品について鉛の同位体比を調べ、その材料の産地を調べた。その結論部分を引用する。
<新井宏氏 鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡
・三角縁神獣鏡の中に、魏鏡(オリジナル鏡)が少量存在している可能性は排除できないが、初期段階の三角縁神獣鏡を含めて、その大部分は複製を含めた国産であると言うことである。
・天神山古墳の仿製[=中国製を真似て、日本国内で作ったもの]三角縁神獣鏡は、一般的な仿製三角縁神獣鏡とはかなり様式が異なっており、楠元哲夫氏は、これを仿製の斜縁二神二獣鏡とし、更に人物鳥獣鏡についても弥生銅鐸との関連から古い様相を示していると指摘している。
・庄内期[200~250ごろ;まだ古墳がない時代]をイメージした「古墳以外の遺跡」出土鏡の鉛同位体比分布に近い。
・黒塚古墳や椿井大塚山古墳は柳本天神山古墳よりも新しくなる。[これまでの通説では、柳本天神山古墳の方が新しい]
</鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡>
また、三角縁神獣鏡が国内で作られるより以前に、同じ鉛が使用されていたという。
つまり、古墳以前の時代に、すでに後漢期の中国製の銅鏡を真似て、倭国でも銅鏡を作り始めている。三角縁神獣鏡は、その出現時期から倭国で作られたはじめたと見られる。
[三角縁神獣鏡は、はたして下賜された銅鏡か]
王仲殊氏、新井宏氏らの研究を普通に読めば、「三角縁神獣鏡は最初から倭国内で作られた」ことは決定的である。ここで倭人伝の記述に戻る。
さらに、銅鏡を下賜した事実は、景初二年末に明帝が発した詔書(今読んでいるもの)に書かれるが、実際には、景初三年に難升米らが帰国する際には持ち帰っていない。[その根拠は、次々回に述べる]下賜品は、正始元年になって、帯方郡からの使者が届けたと見られる。したがって景初三年の時点では、下賜銅鏡はまだ倭国に届いていない。
そして、その年のうちに三角縁神獣鏡の鋳造が、倭国で始まった。「景初三年」「景初四年」「正始元年」の銘には、作者の個人的な事情が書かれているので、少なくとも最初の一枚は、実際に製作した年と一致するはずである。(その後、次々と複製したと想像される)
事実として、倭国で景初三年に三角縁神獣鏡の鋳造が始まり、畿内を都とする政権から四世紀にかけ、大量に全国の王に下賜された。
なお、銅鏡の使用目的は日常生活用ではなく儀式用と言われている。ことによると、古墳の副葬品に大量に加えること自体が、権威の誇示だったかも知れない。
[鏡を下賜する習慣の始まり]
画文帯神獣鏡も各地の古墳から出土する。
画文帯神獣鏡 <wikipedia>日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、日本からは畿内地域を中心に約60面出土している。
2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れる。</wikipedia>
中国の生産地は、長江の流域(のちの呉の地域)である。
倭国の乱が終わり、女王卑弥呼を共立したのは、2世紀末と見られる。そのころ九州北部の銅矛、畿内・東海の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が畿内中心に表れる。
このことから、銅矛・銅鐸文化をもつ地方政権は、銅鏡文化をもつ畿内の中央政権に服属したと言える。従って各地の政権に銅鏡を下賜する習慣がこのころに始まったと見られる。
そのころ呉の長江流域から渡来した工人の手により、次第に倭国でも画文帯神獣鏡などが複製されるようになった。
[三角縁神獣鏡の配布]
景初二年に派遣された難升米らは、翌年に帰国して朝鮮半島の情勢の激変を報告した。その内容は、これまで倭と外交関係のあった公孫氏が完全に滅び、魏が朝鮮半島までの直轄支配を確立したこと、また魏が女王政権と外交関係の確立を求める意欲が、極めて高いことである。
それを聞いた女王は、魏国の権威を背景に、倭国の統制を強めることを決意した。使者の報告から、魏によって銅鏡が下賜されることも確定したので、その到着を待つまでもなく、「魏から与えられた」銅鏡の生産を早速開始したのである。
畿内の女王政権は、これまでの画文帯神獣鏡に変わる「魏鏡」(模造品かも知れないし、独自に考えた品かも知れない)の鋳造を、中国渡来工人「陳是」に命じた。さらに魏との関係を際立たせるため、「景初三年」の紀年銘を加えることも命じた。なお、このストーリーの場合「景初二年派遣」が前提になる。
陳是が、下賜銅鏡のデザインを知ることができたか、できたとしてもどの程度取り入れたかはわからないが、結果的には、<wikipedia>三角縁神獣鏡の画像は、画文帯神獣鏡の画像を巧妙に変更して創り上げている。</wikipedia>
三角縁神獣鏡の銘文については、「漢代を代表する方格規矩四神鏡の銘文ではキッチリと押韻がなされているが、これより後代の三角縁神獣鏡の銘文では韻が踏まれておらず、中国で鋳造されたとは考えにくい。」という意見がある。
漢代鏡の「銘文」の製作過程には、工人とは別に、銘文の原文を作成する専門家が関わったと考えられる。陳是は美術や工芸の能力には優れていても、銘文の作文能力まではなかっただろう。だから「中国で鋳造」ではなく、最初から倭国で鋳造したのは明らかである。
正始元年になって本物の下賜銅鏡がやっと到着するが、現物が各地の王に下賜されることは、最後までなかったと思われる。倭国では公式には「『三角縁神獣鏡』(実際は倭国で製造)は魏の下賜品である。その証拠に魏の年号が入っている」ことにした。やがて、政権が安定してくれば「魏の鏡である」ということを敢えて言う必要もなくなる。年号も消え、畿内政権自身の下賜品として定着していった。
それでは、魏帝に下賜された銅鏡の現物、百枚はどうなったか? すでに配布を始めた三角縁神獣鏡と、デザインの相違があったので鋳つぶしたか、さもなければ卑弥呼の墓に副葬たであろう。鏡の実物を見た人数は、魏と女王国で、合計数人程度だろうから、これでよいのである。
もし想像通りなら、どこかの古墳から「三角縁神獣鏡」とは別の景初三年(または二年)製の、しかも韻を踏んだ銘文の銅鏡が発見され、さらに念のために成分分析を行って中国製が確認されれば、その古墳が間違いなく卑弥呼の墓となる。その時点で邪馬台国論争は終結する。
なお、箸墓古墳(奈良県桜井市纒向遺跡)は一部で「卑弥呼の墓」説があるが、現在のところ宮内庁によって自由な調査が禁じられている。
[銅鏡下賜の意義]
これまで見てきた限りでは、下賜銅鏡と三角縁神獣鏡は、物質的に無関係である。しかし、それをもって邪馬台国北九州説が補強されることはない。
第一に、前項で見たように、銅鏡下賜文化の地域分布から、倭国の乱終了時点から「畿内に中央政権がある」ことを示唆する。
第二に、景初二年、女王国による魏への初めての朝貢により「魏-倭関係の確立=中国-倭国関係の再定義」を成功させた。
これは、倭国にとっては、魏という強力な後ろ盾を利用し、各地の王への支配を新たな段階に引き上げようとするものである。銅鏡配布文化は継続し、さらに配布する銅鏡を変更し、新しい権威の象徴にするのである。そして新型の鏡は、「魏から下賜されたもの」を名目とした。
であるならば「魏に下賜された銅鏡を、各地の王に配布した」という表現は、ある意味で正しい。ただし、倭国製の三角縁神獣鏡を「魏から下賜されたもの」と規定した、フィクションである。
そのフィクションには相当の威力があり、後世(現代)のわが国の研究者にまで「魏による下賜銅鏡=各地の古墳の銅鏡」説を信じさせてしまった。
[黒塚古墳]2013.3.28
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30号鏡 三角縁獣帯四神四獣鏡 (天理市立黒塚古墳展示館) |
洛陽 徐州 |
箸墓古墳と同じく、古墳時代初期(3世紀後半~4世紀)の古墳と推定されている。1997~98年の発掘調査の結果、初期の特徴をもつ埋葬方法が明らかになった。
その埋葬方法とは割竹形木棺を横たえ、両側に33枚の三角縁神獣鏡を並べ、その上に、多数の川原石・石板を合掌型に組んだ構造である。割竹形木棺とは、巨木をくり抜いて遺体を納めたものである。
ただ、遺体と木棺そのものは残っていない。長い年月の間に腐食したと思われる。遺体の位置に、水銀朱(酸化水銀)が残っている。
天理市立黒塚古墳展示館には、石室の発掘状態を実物大の模型として再現し、銅鏡を含む副葬品のレプリカが展示されている。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡のうち、同じ鋳型が使われたものが、7組(それぞれ2~3枚)ある。鋳型は繰り返して使うことができるが、砂でできているのですぐに劣化する。
3号鏡には銘文がある。
新作明竟 幽律三剛 配徳君子 清而且明 銅出徐州 師出洛陽 彫文刻鏤 皆作文章 取者大吉 宜子孫
「刻鏤」(こくろう)…細かく彫り付ける
「銅出徐州」…つまり、銅の産地は、徐州(現在の江蘇省の北西部)である。
「師出洛陽」…つまり工人は洛陽出身である。この鏡を手にとる者には幸運が得られ、子孫が繁栄するだろうと書いてある。
三角縁神獣鏡は直径はほぼ22cm、デザインは様々であるが、基本的に西王母・東王父と、竜・虎を中心とする獣が様式化されている。
西王母は、『山海経』では<wikipedia>半人半獣、…人間の非業の死を司る死神であった</wikipedia>が、死を操ることから、道鏡では<wikipedia>不老不死の仙桃を管理する天界の美しき最高仙女</wikipedia>に変化した。
東王父は、後に西王母と釣り合いをとるために設定された。また、竜や虎などは神仙世界に住む霊獣である。中には水中の鳥・亀・蛙・魚を描いたものや、西方の象や駱駝を描いたものもある。
それぞれの鏡のデザインは多彩で、ユニークな発想に満ちている。倭国内の中国渡来の工人や、製法を学んだ倭人が自由な雰囲気の工房で青銅鏡作りに取り組んでいる様子が想像される。銅鏡の製作は政権にとって重要なので、工人の待遇もよかったのであろう。
鏡には絹布が付着していたので、もともとは包まれて納められていたらしい。
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三角縁獣帯四神四獣鏡(部分) (天理市立黒塚古墳展示館) |
黒塚古墳展示館の解説によると、西方母と東方父は冠の形で区別され、内側に蕨のように巻き込んだ冠が西方母、三連の山形の冠が東方父であるという。とすれば、右の図では左側が西方母、右側が東方父らしい。肩から上に伸びる曲線は、神仙世界の象徴である運気を表すという。
また主文様の獣は竜と虎とされるが、中央は竜の方かなと思うが、何とも言えない愛嬌がある。
三角縁神獣鏡は、あまりに大量に古墳に入っているので、単なる装飾品だったという説もあるが、実物(実際は、展示館の展示されたレプリカ)をじっくり見ると、それぞれ心を込めてとても細密に彫られ、豊かな信仰心が感じられる。中央政権による各地の王への配布は、単なるモノの手渡しではなく威厳に満ち、宗教感情を伴う行事であったことが直感される。
さて、黒塚古墳は箸墓古墳の時期に近い、初期の古墳と考えられる。
三角縁神獣鏡の銘文をそのまま素直に読めば、魏の都の洛陽出身の工人が魏の国内産の銅を使って鋳造したのである。
しかし、三国時代は人口減少の時代で、道鏡の生産は魏では衰退し、主な生産地は呉の支配地域の長江下流域の山陰県であり、倭国の三角縁神獣鏡はほとんでが倭国内で鋳造された。これについては、森浩一氏の講演がある。
<森浩一氏の講演記録>中国の揚子江下流の紹興の地20Kmの範囲は三角縁神獣鏡の原型となったと思われる三角縁画像鏡が多い。華北の鏡で三角縁のものはほとんどない。斜縁のものは時々ある。
華北の鏡は通常12~13cmであり、三角縁神獣鏡(直径21~23cm)のような大きな鏡は華北は少ない。</森浩一氏>
一方、三角縁神獣鏡のうち一部は実際に中国で製造された可能性を、裏付けるかも知れない研究もある。
「Spring-8を利用した蛍光X線分析」と題する2004年の研究発表がある。
同研究では、多数の青銅鏡について、不純物のうちアンチモン、銀、スズの成分比を比較して、原材料の産出地域別にグループ化した。その結果をざっと見ると、三角縁神獣鏡のうち仿製鏡の材料の産地は中国国内ではない。それに対して、舶載鏡の材料産地はすべて三国時代・西晋時代の原料産地と一致する。
それから言えることは、「三角縁神獣鏡のうち舶載鏡の材料の産地は、三国時代の中国製青銅鏡と同じ」である。したがって、中国から材料を輸入して倭国で作った可能性も残るが、"三国時代に中国国内で鋳造された"可能性が否定されなかったことが、重要な点である。
ただし、用いた資料の出土地などが明らかでないので、この実験は一つの試み程度である。
仮に中国国内で舶載鏡が製造されたことが確定すれば、次のどちらかでなければならない。
① 魏国での生産は衰退したが、僅かに残っていて、未発見の青銅鏡の工房が魏国内にあった。
② 魏・呉両政権は厳しく対立していたが、国境地帯での民衆レベルの交易は結構盛んで、魏国から注文を受け、呉から材料の青銅または青銅鏡が輸出された。
以上から、実際はどうだったか想像してみる。
A.少なくとも後漢の時代には、中国出身の工人が倭国内にいて、中国産に類した青銅鏡は普通に作ることができた。
B.魏で三角縁神獣鏡が作られ、100枚程度が倭国に伝えられ、複製されて爆発的に広がった。
Aはすでに確定していると見てよい。問題は、Bの真偽である。仮に魏国内で作られたとして、「普通に普及していたもの」「倭国の遣使に返貢するために特別に作らせたもの」「後漢の時代に作られ、宮廷に残っていたもの」「呉の支配地域から手を尽くして取り寄せたもの」
が考えられるが、どれであろうか。
逆に、三角縁神獣鏡が初めから倭国内で作られたとすると、倭国が突然「三角縁神獣鏡」を作り始めた動機は何か。また魏志倭人伝の「銅鏡百枚」は宙に浮くが、これをどうするのか。
また、他の筋書きとして、魏から実際に下賜された道鏡は後漢時代に作られた古いもので、倭国に渡来していた工人の方がデザイン力がはるかに勝っていたので、鋳つぶして作り直した。これなら「原料が徐州産」と「魏国から三角縁神獣鏡が一枚も出土されない」を両立させられる。
仮に三角縁神獣鏡が最初から、倭国滞在の工人の手によるとしても、西方母・東方父や霊獣のデザインは画文帯神獣鏡に引き継がれでいる。倭国が魏を後ろ盾にして、神仙思想を精神的な支配の拠り所にするために、三角縁神獣鏡を大量に製造して授けるという大筋は揺るがないだろう。
今後、微量成分の成分分析を確実な資料で行うほか、美術専門家によるデザインの比較による系統化、C14法など古墳の年代測定の精度の向上、道鏡に関する文献研究などの総合的に積み重ねが期待される。大量の銅鏡という物質的研究材料の存在は、宝の山である。
【真珠鈆丹各五十斤】
まず、質量の単位「斤」を調べる。
<JLogos/丸善「単位の辞典」/質量/斤>
中国古代から近代まで使用されてきた質量単位。中国では漢代(202B.C.~220)に1斤223g程度と推定され、唐代(618~907)になって約3倍が常用の斤となり…
</単位の辞典>
従って、50斤は、223g×50=11.15kgである。
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鉛丹 (jp.wikipedia.org) |
[鉛丹(えんたん)]
鉛丹は、四酸化三鉛;Pb3O4のことで、赤い顔料である。
<wikipedia>艦船の船底の赤色の塗料の主成分は鉛丹であり、酸素を遮断して腐食を防ぎ、有害生物の付着を防止している。</wikipedia>
こういう物質であるが、薬用として、『神農本草経』(おそらく復元)に、《性味》辛/微寒。有毒。《効能》解毒止痒、収斂生肌、墜痰鎮驚、截瘧。などとあるという。
同じく赤色の顔料である辰砂(HgO)が神仙思想によって不老長寿の薬とされ、服用した始皇帝などが命を落としたと言われる。
ここでいう「鉛丹」は、辰砂を含む可能性もある。皮肉なことに、これが卑弥呼の寿命を縮めさせたかもしれない。
道教では神仙思想との関連で、不老長寿の薬が求められるので、下賜品に加えられたのはその影響があるのかも知れない。
[真珠]
倭人伝の最後、壱与からの貢物にある「白珠五千孔」のように、宝石の真珠は量詞に「孔」を用いた。ここでは量詞「斤」を使っているので、「薬用」を意味するように思える。
真珠は宝石であるが、古くから薬用にされた。これもたくさんのサイトに説明がある。薬用には粒が細かく装飾用にならない、「シジミ真珠」(意味は「シジミが作る真珠」ではなく、「細かい真珠」)が使われた。
『本草綱目』によると、真珠は「諸毒を排泄し、肉体を若返らせる万能の妙薬」という説明がたくさんのサイトに掲載されている。
【終わりに】
銅鏡の研究には、まだごく一部に触れただけである。大量の鏡が残っているので、分析科学の手法を使った研究が、今後ますます進むことであろう。新しい発見を知るのが楽しみである。
三角縁神獣鏡か魏鏡が模造品はともかく、大局的には女王国と魏との関係が確立した頃から、三角縁神獣鏡の大量配布が始まるのである。
現実の下賜品である銅鏡100枚は単に象徴的なものだが、それを増幅して畿内世間から各地の王に授与することが、どのような意味をもったのか。解明がすすむことを期待する。
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2012.2.25(土)原文を読む(77) 勅書報倭女王曰:八
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皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
皆装封し、難升米等に付す。還り到り、悉(ことごと)くを録(ろく)して受け、汝の国中の人に示すを以て、国家汝を哀れむを知ら使む可し。故に汝に好(よ)き物を鄭重に賜る也(なり)。」と。
以上のすべてを包装厳封し、帰還する難升米らに持たせる。到着したらすべてを記録して受け取り、汝が国中の人にそれを紹介することにより、国家が汝を親愛するを知らせるがよい。それ故、汝に好(よ)き品々を手厚く贈るのである。」
贈る側が自ら「鄭重賜」(丁寧に送る)と記し、その理由は「魏が倭の女王をこんなに哀れんでいる」ということを、倭国民に広く知らせるためである。
豪華な品々を下賜する意図が、しっかり説明されている。
【語句の意味】
鄭重(ていじゅう、ていちょう)…手厚く遇すること。
悉…《形》詳尽、ことごとく。[ここでは名詞化する]
可…《助動》~することができる。
【文法】
[還到]
動詞句「還到」(還り到る)を、「難升米牛利」への補語として位置付けるとすっきりする。
[録受悉]
「悉」(ことごとく)は名詞化して、録(記録する)、受(受理する)、両方の目的語になる。
[可以示汝國中人使知國家哀汝]
「可」は助動詞で、動詞句「使知國家哀汝」を目的語とする。
「以」は前置詞で、動詞句「示汝国中人」が連体化して目的語になる。そして前置詞構造「以示汝国中人」となって、動詞句「使知國家哀汝」に対して、手段、方法を補う。
「示」は動詞で、目的語「人」。また「汝」「国」「中」が順に「人」を連体修飾する。つまり「汝の国の中の人」。
[使知國家哀汝]
使役動詞「使」の目的語は省かれているが、「汝国中人」である。その後ろに使役の内容を表す補語の動詞句、「知国家哀汝」が続く。
動詞「知」の目的語は、主述構造の句「国家哀汝」(国家が汝を哀れむこと)である。
[故鄭重賜汝好物也]
「故」は接続詞。動詞の前の「鄭重」は副詞。動詞「賜」は二重の目的語をとる。「汝に好物を」。「汝の好物を」ではない。「好」は好き嫌いの好きではなく、「見目麗しい」の方である。確かに色とりどりの豪華な布地が多くを占めるので、女王であることを意識したかも知れないが、卑弥呼の好みを事前に知ることはできなかっただろう。基本的な性格は、国から国への贈り物である。
「也」は文末の助詞で、断定の語気を表す。
【「国家」とは】
現在の「国家」の意味は明らかであるが、三国時代の「国家」は何を意味したかを改めて調べる。
<漢辞海>①特定の土地・人民からなり統治組織を持つ社会。《易·繫辞下》②朝廷。《梁書·賀琛伝》③皇帝・天使の別称。《晋·陶侃伝》④春秋戦国時代、諸侯の国と卿大夫(けいたいふ)の家の総称。⑤首都。《後漢·朱儁伝》</漢辞海>
<汉典/國家>
(1).統治階級実行階級圧迫和実施統治的組織。古代諸侯的封地称国,大夫的封地称家。也以国家為国的通称。 《易·繫辞下》:“(中略)治而不忘乱,是以身安而国家可保也。”(以下略)
(2).公家;朝廷。 《梁書·賀琛伝》:“我自除公宴,不食国家之食。” (以下《続資治通鑑·宋仁宗至和元年》などから例示)
(3).猶言“官家”。指皇帝。 《東観漢記·祭遵伝》:“国家知将軍不易,亦不遺力。”《晋書·陶侃伝》:“国家年小,不出胸懐。”
(4).諸侯卿大夫所受封地上的城邑。 (以下、《周礼·春官·典命》から例示)
(5).京城,首都。 《後漢書·朱儁伝》:“国家西遷,必孤天下之望。”
</汉典>
(1)の最初の文は「支配階級が強権で圧迫して治める組織」という意味。現在の中華人民共和国は建前上社会主義なので、マルクス主義的な定義である。続けて、古代諸侯が治めた「国」と大夫(高級官僚)の領地「家」を合わせて、「国家」という熟語ができたと説明する。「治まり而して乱を忘れず。是れ身が安んずるを以て国家を保つ可し。」の「国家」はまさにこれである。
(2)「梁書·賀琛伝」は梁書の38巻:列伝32に含まれる。ここでは「国家」は文脈上「朝廷」である。
『全訳漢辞海』と『漢典』を比較すると、出典とする文献例も含めほぼ同じであった。『全訳漢辞海』は、中国で刊行された『漢語大詞典』や『漢語大字典』と照合して最終的な確認をしたとあるので、それらが共通の原典であると思われる。
このように三国時代の「国家」も、現在の「国家」とほぼ同じ意味である。また国家を代表する皇帝、首都などを表す場合もある。
ここでの「国家」は、「皇帝」としても意味は通ずる。しかし、その前に「汝の"国"中の人に示すを以て」とあるので、「皇帝と女王」の関係というより、国の関係自体を意識している。従って、「国家」は魏国自体のことだと理解すべきであろう。
【哀】
現在の「哀」は、悲しみの感情や他者への憐れみを表すが、そのままではあてはまらない。この文中では何を意味するか、厳密に調べてみたい。
<一般の辞書>《形》かなしい。《動》憐れむ。悲しみ嘆く。《名》父母の死。</辞書>
<国際電脳>1.憐憫 2.悲痛 3.愛 5.父母之喪。</国際電脳>
<汉典:抜粋> |
◎哀<形>
(1) (形声。従口,衣声。本義:悲痛;悲傷)
[形声文字:部首"口"が意味の範疇、"衣"が発音]
(2) 同本義 [grieved;sorrowful]
詞性変化 [=品詞の転換]
◎哀<動>
(1) 同情,憐憫 [pity;sympathize with]
(2) 又如:哀恕(同情寛恕) [恕=思いやる]
(3) 慰問[express sympathy and solicitude for],哀悼
(4) 又如:哀文(哀辞)
(5) 哀求 [supplicate嘆願する,神に祈願する;beg恩恵を乞う]
(6) 又如:哀請(哀告,哀求;苦苦請求);哀祈(哀求)
(7) 通“愛”。愛護 [care for;cherish]
国雖弱,令必敬以哀。 ——《管子·侈靡》
[国弱しと雖(いえど)も必ず敬い以て哀むを令ず]
各哀其所生。 ——《淮南子·説山》
[各(みな)其の生くを哀れめ]
(8) 哀嘆 [bemoan;bewail]
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</汉典> |
さらに、Web辞書《汉典》で調べる。「哀」は形声文字で、成り立ちは"口"+"衣"。泣き声や嘆きは"口"に通じ、"衣"が発音を表す。もともとは形容詞として感情を表現する。
「哀」は動詞に転じ、(1)~(4)は「悲しむべき状況にある他者に共感する。あるいは共感を表現する。」また一般的に「思いやる。」(5)~(6)は、逆に「自己への憐れみを求める。」
このように、「哀」の主な意味は感情「悲しみ」に関わるものだが、(7)の「愛する。面倒を見る。」意味もある。中国の皇帝が、公式文書で倭国の王に与える言葉は「悲しみに同情する」であるはずはなく、やはり「愛する」である。
ただ「哀」のもともとの意味から、労りや思いやりの心、困難があれば手を差し伸べようという意思を含むと思われる。一方で同情・憐憫はしばしば「相手に対して自分が優位にある」ことを確認する感情でもある。結局「自分が優位に立っている」ことを示すために「敬愛」などではなく「哀」を使っているのである。
つまり、ここでの「哀」に、特に「悲しみ」の意味はないが、優越する立場からの「親愛」である。
【使汝国中人知国家哀汝】
冊封国は、もともと中国に臣下の礼を尽くし、毎年貢献するものとされる従属国である。実際に朝鮮は、B.C.3世紀ごろから1895年までの大半の時期、その意味での「冊封国」であった。<wikipedia>清代には、黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上した記録</wikipedia>があり、本来の「冊封国」としての実態があった。
しかし、多くの場合冊封国の中国への臣従は、名目的なものであった。日本では、南北朝の時代に南朝方に属して九州を支配した懐良(かねなが/かねよし)親王が、明から「日本国王良懐」として冊封を受けたが、<wikipedia>明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てた</wikipedia>という。
難升米らは、貢物として班布2匹2丈を持参したが、それを遥かに上回る豪華な品々を下賜された。本来貢物を受ける側が、朝貢する側に大量の贈り物をするのは、逆転現象である。しかし、それには目的があり、魏国が倭国王をこのように手厚く「哀」れんでいることを、広く倭国民に広く知らせるためだと明言している。
つまり、魏国の豪華な品々を倭国王に与えたのは、こんなに倭国のことを大切に思っているからだとする。しかし、それはあくまでも「目上の者から目下の者に恩恵を与える」行為である。そもそも、あまりに釣り合いを欠く豪華な贈り物自体が、自国の文化の優越性を誇示する「大国意識」の現れである。さらに、前項で述べたように動詞「哀」を使い、上下関係が前提になっている。
魏は倭国との友好関係を確立するために、最大限の優遇をした。しかし、目的としたのは倭を属国の地位に置いた上での関係であった。
難升米らは、これらの贈り物を持ち帰れと魏に命じられたのに、実際には何らかの理由をつけて置いて帰ったと見られる。彼らは当然莫大な下賜品を受け取ることの意味を理解していて、簡単に持ち帰ることをしなかったのである。
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2012.2.27(月)原文を読む(78) 正始元年
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正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩
正始元年、太守弓遵(きゅうそん)は建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣(つかわ)し、詔書、印綬を奉じ、倭国に詣(いた)り、倭王に拝仮せしめ、并(なら)びに詔を齎(せい)じしめ、金、帛(はく)、錦、罽(けい)、刀、鏡、釆物を賜らせむ。倭王は、答謝を上表せ使(し)むに因(よっ)て詔恩す。
正始元年、[帯方郡]太守弓遵は、建中校尉の梯儁等を派遣し、魏皇帝の詔書と金印紫綬を捧げて倭国を訪れ、倭王に金印紫綬を授与し、併せて詔書を手渡し、金、絹布、錦、罽(けい)、刀、鏡、顔料を下賜させた。倭王は、その使者を通じて謝意を文書で伝えることによって、親愛を詔(みことの)りした。
難升米らが帰国した景初三年の翌年に改元が行われ、正始元年となる。その年に早速、帯方郡の使者が詔書と下賜品をもって倭国を訪れた。これだけの内容であるが、様々な問題を含んでいる。
【語句の意味】
拝…《動》礼節をもって面会する。《副》謹んで(動詞の前に付けて謙譲を示す。「拝見」など)。
假…《動》貸す・借りる。委ねる。
齎(せい)…《動》与える。もたらす。持ってくる。
帛(はく)…《名》きぬ。絹織物の総称。
錦…《名》彩色文様をほどこした絹織物
釆…《名》辨別。分別。采の異体字。
采…《名》=彩。=採。康煕字典では7画釆部
彩…《名》いろどり、文様。color.variety
彩物… =color material =色材。顔料。
因…《前》~によって(述部に対して原因や条件など補い説明する)
《接》重文で、2つの節(主述構造)を接続する。
節A因節B:A、そこでBである。AによってBである。
因節A節B:AであるからBである。
上表… =上書。君主または上官に文書を差し出して、意見を述べる。
答謝…人の厚意や歓待に対し、謝意を表す。
詔…《動詞》つげる。上から下に告げる。
恩…《名詞》めぐみ。情愛。なさけ。
【拝仮】
印綬を仮す(委ねる)。使者にとって倭王は目上なので、謙譲の「拝」がつく。と同時に「拝」の本来の意味「面会する」も含めているだろう。
【建中校尉】
後漢末から、高級武官の名称に「校尉」が多く使われている。(第73回参照。)
【太守弓遵】
景初二年に難升米らが訪れたとき、太守は劉夏であった。頻繁な太守の交替について、Wikipediaは太守が土着化して第二の公孫氏になるのを防いだという説を採用している。
【奉詔書印綬】
景初二年十二月、明帝が発した詔書の通り、「親魏倭王」の金印紫綬は帯方太守の手元に置かれ、太守の使者が倭国を訪れて授与する形をとった。想像であるが、印綬は新たに帯方郡に赴任する弓遵に持たせたかも知れない。
詔書は、景初二年十二月に明帝が発したものか、明帝の後を継いだ皇帝、曹芳が発したものかは不明である。ただ、明帝の詔書は重要な内容を含むので、難升米に内容を説明はしたのだろうが、正式にはこのとき使者が持って行った。
【"倭女王"と"倭王"】
正始元年と、同四年の使者の相互派遣のところだけ、表現が"倭王"になっている。それは、明帝の詔書で「親魏倭王」と正式に規定された以後の、使者の交換の箇所である。つまり、梯儁による卑弥呼への拝仮や倭国からの朝貢という国家間の交流記録に「倭王」が使用されたのは当然である。
【帯方郡の使者はどこまで行ったか】=2013.4.3改=
「郡使倭国皆臨津搜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差錯」(第58回)は、このときの使者、梯儁の経験によるものかも知れない。「臨津搜露」がこのときも適用されたとすれば、伊都国に到着した大量の下賜品の装封を一大率がすべて解き、目録と照合した上で装封し直して女王に送ったことになる。
そして、梯儁は倭国の官吏と一緒に女王国まで行ったとしよう。一応「拝仮」とは書いてあるが、本当は女王との面会はなかったかも知れない。女王はめったに人に会わない。「自為王以来少有見者」(第63回)と書かれているように。「因使上表答謝」とあるのも気になるところだ。実際には女王の直接の面会はなく、謝辞は、間に立つ者を通して文書で手渡されたと取れるのである。
それでは、使者がどの程度女王に近づけたか、両極端の場合を想像してみる。
(女王から最も遠かった場合) 伊都国までしか行けなかった。専ら一大率が対応し、女王宛てのものをすべて受け取った。使者はしばらく伊都国に滞在し、やがて女王からの謝辞が、文書で使者によって伝えられた。「南へ水行一月、陸行二十日」と急に不正確になるのは、梯儁が実際には伊都国までしか行けなかったからである。
(女王に最も近づけた場合) 伊都国で、詔書と下賜品の「搜露」は受けた。その上で、倭の官吏と共に邪馬台国まで行った。女王の言葉はわずかであったが、短時間面会して直接印綬を仮することができた。そして「年已長大」であったと復命した。ただし、謝辞はお付の者から文書で手渡された。「水行一月、陸行二十日」は使者の実体験である。方向は南向きだと信じていた。航路や道は途中で曲がるから、気づかなくても不思議ではない。
実際のところは分からないが、前者の場合、外交上余りにも非礼である。だから短時間の面会ぐらいはありそうだ。簾越しに面会する姿が目に浮かぶ。
【また同じような下賜品?】
| 景初二年詔書より |
金 | 金八兩 |
帛 | 蒨絳五十匹、紺青五十匹、白絹五十匹 |
錦 | 絳地交龍錦五匹、地句丈錦三匹 |
罽 | 地縐粟罽十張、細班華罽五張 |
刀 | 五尺刀二口 |
鏡 | 銅鏡百枚 |
釆物 | 真珠鈆丹各五十斤 |
景初二年十二月の詔書では、膨大な下賜品は装封の上、難升米らが持ち帰ったことになっている。ところが、同じような品目を、再び帯方郡の使者が運んでくるのである。特に「鏡」のような特別な意味を持つものが、わずか1年後に追加されてくることがあるだろうか?
そう思って、景初二年の詔書と、梯儁が携えた下賜品を比べると、「釆物」以外すべて一致するのである。また、「釆=彩」の意味を選択すれば、彩には「文様」「色」という意味がある。
また「真珠鈆丹」は「各五十斤」と質量の単位で計るので、第76回では一種の漢方薬と見たが、赤と白なので、「鮮やかな色のついた粉末または塊」=color material(色材、顔料)という表現も十分あり得る。
このように、倭国からの朝貢を間に挟まずに、全く同じようなものを2回続けて贈ることは考えられない。想像するに、難升米らは「金印紫綬は帯方郡に預けて届けさせるが、下賜品は汝らで持ち還れ」と言われたにもかかわらず、下賜品も置いたままで還ってしまったのである。
その理由として、「明帝は詔書を発した直後に崩御したので、下賜品を揃える作業が中断した」という説もあった。その結果一年遅れで、印綬とともに届けられたとする。それもあり得るだろう。
いずれにしても、難升米には、このまますんなり受け取れば魏への臣従が決定的になるという、警戒感があったように思える。だから何かもっともらしい理由をつけ、置いたまま帰ってきたのでないかと想像するのである。
【倭王因使上表荅謝詔恩】
"詔"は、その主語の立場が上であることを示す。それでは、「詔恩」の主語は、「魏皇帝」「倭王」のどちらであろうか。
「魏皇帝」が主語: 動詞句「詔恩」が動詞「荅謝」の目的語である。そして"因使"は前置詞構造となり、「倭王は、使に因りて[魏皇帝の]詔恩に答謝を上表す」(使者を通して、魏皇帝の詔書のご恩に、謝意を文書にして伝える)である。
「倭王」が主語: "因"は接続詞として、原因「使上表荅謝」に対する結果「詔恩」をつなぐ。つまり「倭王は、答謝を上表せ使むに因り、恩を詔(つ)ぐ」(使者に謝意を文書で伝えることによって、親愛の情を詔(つ)げる)。
前者は、魏皇帝による「哀れみ」(目上から目下への好意)を受け入れることによって、魏皇帝の優位を認めるのに対し、後者は対等の立場で、堂々と礼を述べ、魏の使者に対する倭王の優位を示す。
難升米が下賜品を置いて帰ったこととの関連で考えると、後者により倭国の気位を示したと見ることができる。
魏皇帝が「哀汝」を詔書の中でせっかく繰り返し強調した。その一方で、難升米らが膨大な下賜品を置いて帰ったが、その事実に一切触れない点や、卑弥呼が謝意を直接でなく「使者を通して」伝えたと敢えて書いた点に、思い通りにことが進まなかった魏の側の不満が読み取れる。
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2012.2.28(火)原文を読む(79) 正始四年
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其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬
其の四年、倭王復(ま)た、大夫伊聲耆掖邪狗等八人を遣使し、生口、倭錦、絳靑縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢を上献す。掖邪狗等、壱(いつ)に率善中郎将、印綬を拝す。
正始四年、倭王は再び大夫、伊聲耆(いしょうし)掖邪狗(えきやく)はじめ八人を使者として派遣し、生口[奴婢]、倭国製の錦、赤青の細密な絹織物、綿布、赤味の銘木、「ふ」、短弓と矢を献上した。掖邪狗らは、全員率善中郎将として印綬を授与された。
正始元年の帯方郡使者の来訪から3年後の正始4年、卑弥呼は再び使者を帯方郡に送る。
【語句の意味】
絳(こう)…《名》濃い赤
縑(けん)…《名》薄く、緻密な絹織物。ごく細い生糸を用い、絹に倍する密度がある。
緜[綿]…《名》まわた、まゆから作る綿。
帛(はく)…《名》きぬ。絹織物の総称。
壹…"壱"の異体字。《副》いつに。すべて。みな。(例外のない意)
【大夫】
第31回で見たように、「倭の使者は皆大夫を自称する。」とある。この文でも、倭の使者には「大夫」がついている。
【人名の読み】
伊(い)、聲(しょう)、耆(し)、掖(えき)、邪(や)、狗(く)。
「いしょうし」「えきやく」の二名と見るのが自然であるが、以後、代表する名前が二番目の「えきやく」である点が不思議である。かと言って「いしょうしえきやく」は、一人分の名前には長すぎる。
【丹木】
丹…「丹砂」(酸化水銀)のように、"丹"は「赤い」という意味だが、単独で何か物を指して使うことはなく、この場合も熟語「丹木」の一部だと思われる。その意味を調べてみた。
<汉典>(1)木名《山海経》(2)紅樹</汉典>((1) 木の名称 (2) 赤色の木)
<山海経/西山経>(不周山)又西北四百二十里,曰峚山,其上多丹木,員葉而赤茎,黄華而赤実,其味如飴,食之不飢。</山海経>
(不周山)からまた、北西420里、峚(み)山といい、その上に丹木多く、一定数の葉に赤い茎、黄色の花に赤い実。その味は飴のようで、これを食べれば飢えることはない。
「紅樹」…赤い花が咲く木、あるいは紅葉する植物。特定の種を表す語ではない。
最古の地理誌「山海経」の「峚山」がどこかはまだ突き止められていない。「丹木」を具体的に説明する文はこれ以後なく、以後は植物種ではなく紅葉などして「赤い木」になったものを指すと見られる。
しかし、植物が生えている状態ではここには入らないので、どちらも無理である。「赤い色の木」の意味からは、「赤味のある銘木」だろうか。
【𤝔】 [犭+付](ふ、ちゃい)
「付」の左に何か偏がついている。紹興本では犭(けもの)偏に似るが、他の文字の犭偏は、一画多く全部で4画で、短い線が上部を貫いているように見える。縦の線の下端に左上にはねがあるところは共通している。
紹煕本では、明らかに犭偏とは異なり、むしろ彳(ぎょうにん)偏に近い。しかし、犭偏がついた字は、ユニコード(U+24754)にあるが、彳偏の字は、でてこない。
犭偏だとすれば、䍸(ぼう)の異字体である。<汉典>䍸 a legendary goat-like animal with 4 ears and 9 tails</汉典>(羊に似た伝説上の動物。4個の耳と9本の尾をもつ)
こんな架空の生き物が、貢ぎ物に入っていないことだけは確かである。しかし実際に何を指すかは、わからない。
【短弓】
倭の弓は「短下長上」(第39回)であると観察されたが、「短弓」のタイプもあったことになる。あるいは、特別に中国式の弓を作らせたのかも知れない。
【壱拝率善中郎将印綬】
難升米に与えられたのと同じ官名が、今度は8名全員に授けられた。印綬は第73回で確認した通り、当然銀印青綬である。
献上品に関しては、景初二年に比べて大幅に豪華にした。圧力を増す魏国に対抗するためには、なるべく立派なものを献上しなければならない。おそらくは相当の努力を注いだのであろう。
ただ、大量8名を派遣したところに、卑弥呼の力の衰えが感じられる。理由は2つある。ひとつは、魏国の力の強大さを目の当たりにして、一線を画したい卑弥呼の意に反して、魏におもねる王が増え、それぞれに使者を送ろうとしたことである。
もうひとつは、各国の王が推薦する者を絞り込めない、卑弥呼の支配力の陰りである。魏国から見ると、8名の間に主従関係が見えず、倭国連合する各地の王が対等に使者を送り込んだように見えたので、全員平等に官名・印綬を与えざるを得なかったと想像される。
しかし、大きな流れは倭と魏の関係の発展である。一回目の朝貢に比べて、献上品、遣使の数ともに見違えるように増え、華やかな訪問になったことだろう。帯方郡と倭国の絆は、強く、幅広いものになりつつある。
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2012.3.2(金) 2013.3.29(金)原文を読む(80) 正始六年
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其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
其の六年、倭難升米に黄幢(こうどう)を賜り、郡に付し仮授すを詔(つ)ぐ。
正始六年、皇帝は詔(しょう)を発し、倭の難升米に黄幢(こうどう)を授与することを決め、帯方郡に託する。
【語句の意味】
幢(とう)《名》…円筒状の旗。儀仗または軍隊の指揮。
【黄幢(の情勢】
幢は、皇帝が将軍などに与え、軍列や儀仗に掲げさせることによってその権威を示すものとされる。それが、なぜ倭国の難升米に与えられたか。この時期の魏国の東アジアにおける動き全体の中で、その意味を考えてみる必要がある。
【対高句麗】
三國志/魏書/烏丸鮮卑東夷伝[倭人伝と同じ巻]/"濊"(え)の条>正始六年。樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵、以領東濊屬句麗、興師伐之。不耐侯等、舉邑降。
正始六年。楽浪太守劉茂、帯方太守弓遵、領東濊属句麗に属すを以て、師を興し之を伐す。不耐侯等、挙げて邑降(くだ)る。
正始六年。楽浪太守劉茂、帯方太守弓遵、濊の東部領土が高句麗に属していたので、師団を興しこれを征伐した。不耐侯ら、邑[小国]は一斉に降伏した。
【対韓国】
三國志/魏書/烏丸鮮卑東夷伝/"韓"の条>
景初中、明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣、越海、定二郡。諸韓國臣智、加賜邑君印綬。其次、與邑長。其俗好衣幘。下戶詣郡朝謁、皆假衣幘。自服印綬衣幘、千有餘人。部從事吳林、以樂浪本統韓國、分割辰韓八國、以與樂浪。吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時、太守弓遵樂浪太守劉茂、興兵伐之。遵戰死、二郡遂滅韓。
景初中、明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えさせ、二郡を定む。諸韓国の臣智に、邑君印綬を加賜す。其の次、邑長に与す。其の俗衣幘を好む。下戶郡に詣(いた)り朝謁し、皆衣幘を仮す。自(みずか)ら印綬衣幘を服す、千有余人。部從事呉林、楽浪本(もと)韓国を統ずを以て、辰韓を八国に分割し、以楽浪に与す。吏、訳転じ異同有り、臣智激し韓忿(いか)り、帯方郡の崎、離営を攻む。時、太守弓遵楽浪太守劉茂、兵を興し之を伐つ。遵戦死、二郡遂に韓を滅ぼす。
景初年間、明帝は密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣任命し、[黄海を]渡らせて二郡を定めた。韓国各国の臣智に、重ねて「邑君」(小国の長官)として印綬を授け、邑借(副官)を邑長として加えた。庶民は「衣幘」(頭巾と組み合わせた衣服)に興味を示し、進んで郡を訪れて印綬、衣幘に服する者が、千人以上に達した。部従事の呉林は、楽浪郡はもともと韓国を統率していたので、辰韓から8か国を分割し、楽浪郡に所属させた。官吏が訳を転じ不一致が生じた[=欺瞞的な翻訳により謀略的な交渉をした]ことにより、臣智は怒り、諸韓国は恨みをもって帯方郡の山中の駐屯地を攻撃した。その時の太守弓遵と楽浪太守劉茂は、兵を興し討伐した。弓遵は戦死したが、二郡は完全に韓を滅ぼした。
幘(さく)…《名》頭巾。頭髪を包むかぶりもの。
好…《動》好む。
服…《動》服す。衣服を着用するほかに、従う、実行するなどの意味もある。
「印綬を佩(お)びる=官職につく。」という言い方があるので、「服印綬」も官位をもらう意味だと思われる。頭巾を被った官服姿が住民の目に格好よく映り、楽浪郡・帯方郡も形式的な官職を気前よく授け、衣装を与えたから、希望者が殺到したと読み取ることができる。住民を味方につける工作のひとつだろう。
△従事…官名。漢から唐代、地方長官が独自に採用した属官の一つ。
忿(ふん)…《動》怒る。=忿恨 。
臣智、邑借(しんち、ゆうしゃく)…邑の首長と次長。<"韓"の条>大者自名爲臣智、其次爲邑借。</"韓">
四時… =四季。
二郡を定めた当初は、各邑[=小国]の臣智・邑借(それぞれ邑の長と、副官)をそのまま邑君、邑長として任命し、支配権を保証する。また、郡治(郡役所)を訪れる庶民に、だれにでも簡単な官位・官服を与え喜ばせる。しかし、突然掌を返すのである。謀略的な交渉を行い、一方的に8邑を楽浪郡に統合し、諸邑の蜂起に導いた。
【倭国への政策】
正始六年、魏は倭の難升米に黄幢を与えることを決め、詔書とともに帯方郡に託した。
この頃の、楽浪郡・帯方郡の状況を見る。楽浪郡太守劉の茂と帯方郡太守の弓遵は常に連合し、同年のうちに高句麗から濊東部を奪った。
また、韓国に対しては、始めは各邑(小国)の臣智・邑借に支配権をそのまま認めていた。それは、その時点では公孫淵の殲滅が最重要命題であったので、公孫淵の背後の地域を味方につけるために飴を与えたのである。
しかし、公孫淵が滅びた時点で、韓国内、各邑の土着勢力は用済みとなり、殲滅の対象に転じた。そのため謀略的な交渉によって相手を怒らせ、蜂起せざるを得ないように仕向けた。
実際、反発した各邑は激しく抵抗し、局地戦では弓遵を戦死させるという手痛い敗北もあったが、最終的に、臣智・邑借の体制を完全に潰して、直轄支配地域とした。
倭国の難升米に黄幢を授けようとしたのは、まさにこの時期である。では、その意味はどこにあったのだろうか。
魏国が公孫淵を滅ぼし、さらに高句麗、朝鮮にかけた積極的な攻勢は、この地域への支配の確立が目的である。恐らく、朝鮮周辺地域が呉と結ぶ可能性を完全に排除しようとしたのだ。それは倭国に対しても例外ではなかったはずだ。
ただ、倭国に対しては現地の政権を直接滅ぼす方法はとらず、女王の支配を温存、利用し、属国として統制下に置く戦略を選んだ。武器ではなく、特別に豪華な下賜品を用いたのである。
おそらく、難升米が朝貢した際、彼に将軍として軍を統率しうる優れた資質を見てとり、いわば東夷方面将軍として「使える」と判断したのであろう。また、倭国を攻めるための大軍の渡海は、リスクを伴う。失敗すれば抑え込んだ韓国が息を吹き返し、高句麗も攻勢をかけてくる。
そこで、朝鮮半島には「絶滅」、倭国へは「懐柔」の手法を用いたのである。それが、難升米への「黄幢の仮授」である。
倭国との付き合いからも、その意味を見出すことができる。難升米に与えたのと同じ銀印青樹を、さらに大量8名に与えてしまったので、改めて「難升米は別格である」ことをはっきりさせる必要が生じた。そのためにも、難升米に「黄幢」を与えることにしたのである。
【黒塚古墳】2013.3.29
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黒塚古墳 石室発掘現場 右図は割竹式木棺と遺体の推定 手前が北 アはU字型鉄製品の出土位置 (天理市立黒塚古墳展示館) |
U字型鉄製品(同展示館、レプリカ) |
1997~98年の発掘調査の結果、多数の三角縁神獣鏡や、鉄鏃(鉄製のやじり)、子札(こざね、鎧の鉄板)などの鉄製品が多数出土した。
築造後に地震があり、川原石・石板を合掌型に組んだ構造が崩れてかぶさった結果、盗掘を免れ、すべての副葬品が埋葬した位置に残った。珍しい例である。遺体は割竹形木棺(巨木をくり抜いたもの)に納められた。
大きさに注目すると、最初の大王クラスの古墳、箸墓古墳が全長270mに対して、黒塚古墳は全長130mである。石室の北の隅に残されたU字型鉄製品(写真)は、全く使途不明であった。
徳島大学名誉教授 東 潮氏は、これを見て直感的に、<2013年2月の講演案内>黒塚古墳のU字形鉄製品は旗幟の一種で、難升米に授与された黄幢(軍旗)と推定</銅案内>した。
とすれば、黒塚古墳の埋葬者は難升米ということになる。副葬品の鉄鏃については、他の箇所に「或鉄鏃或骨鏃」とあり、古墳が作られるほど位が高いから貴重な鉄鏃を装着した矢が多数副葬されたのは当然である。
黒塚古墳は、箸墓古墳と同じ大和・柳本・纏向古墳群にあり、古墳時代初期である。副葬品の鉄鎧・鉄鏃は軍人にふさわしく、箸墓古墳より小型であるから、王に仕える有力な将軍クラスの古墳と考えることができる。
しかし、現時点では想像に過ぎないが、調べる方法はある。まず、材料の鉄に含まれる微量の不純物を分析すれば、産地を特定できる可能性がある。
また、幸いにして石室は埋め戻されているので、U字形鉄製品の近くの土を採集し、微量分析すれば絹や染料の成分を見つけられるかも知れない。科学的調査がされる日を待ちたい。
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2012.3.3(土)原文を読む(81) 正始八年
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其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
其の八年、太守王頎(おうき)、官に到る。倭女王卑弥呼、狗奴国男王卑弥弓呼(ひみくこ)と素(もと)より和さず。
正始八年、太守王頎(おうき)が帯方郡政庁に赴任した。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男子王「ひみくこ」と、以前からずっと講和できずに来た。
帯方郡の太守弓遵の戦死は、正始6年から同8年までの間である。空席となっていた太守に、新たに王頎が任命されて赴任した。難升米に授与するために託された黄幢を、持参したかも知れない。
【語句の意味】
官…《名》朝廷。政府。役所。官位。役人。
素…《名》もと。本始。はじめ。根本。本質。《副》日頃から。
【倭「女王」】
景初二年、明帝の詔書で「親魏倭王」と正式に規定されて以後、使者交換の記録には「倭王」が使用される。しかし、卑弥呼・狗奴国王の敵対関係はそれ以前からのことだから、この話題に関しては「女王」に戻る。
【狗奴国】
第28回で行った「次奴国有り。此れ女王[国の]境界尽くる所なり。其の南、狗奴国有り、男子を王と為す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に属さず。」の検討を、要約する。
「狗古智卑狗」は「くくち彦」で、古い地名「くくち」(現在の菊池市)を拠点にした部族の首領である。「くな国」は「くくち」と「ひみここ」の連合で、これから長年大和政権からの圧迫を受け続け、最後は南部の薩摩半島・大隅半島まで追い詰められる。最終的に大和に服属するまでに、7世紀までの500年を要した。
この説を前提とすれば、「くな国」(あるいは後継の国)は、長期間存続するので、古墳時代は当然自立して抵抗を続けている。もっとも、幾度かは講和が成立した時期を挟むかも知れない。女王国にとって、強敵だったと思われる。
【男子王卑弥弓呼】
「卑弥呼」と極めて類似しているので、資料の混同があるようにも思えるが、この名前を信用しなければ、倭人伝にでてくる人名がすべて信用できなくなってしまう。
誤りでなければ、個人名というより称号である可能性が高まる。第62回で見たように、卑弥呼は「姫こ」に由来する称号かもしれない。また「ひみここ」は、「ひのみこ」、つまり「日御子」+「こ」で、これまた称号かも知れない。接尾語「こ」は後世は愛称だが、この時代は尊称である。
【狗奴国王】
狗奴国も「今、使訳通ず所、三十国。」のうちに含まれていると思われる。しかし、「倭女王」と「狗奴国男王」という表現の格差が注目される。仮に狗奴国から朝貢があったとしても、倭人伝では全く無視されている。魏国も、統一政権の女王と、その支配を拒む一地方と位置付けていたことが分かる。公式に交流する相手は、唯一卑弥呼であった。
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2012.3.4(日)原文を読む(82) 詣郡説相攻撃状
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遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之
倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、 郡に詣(いた)り、相攻撃を説き、状(の)ぶ。塞曹掾史の張政等を遣わし、因(よっ)て詔書、黄幢を齎(もたら)し難升米に拝仮し、檄を為し之を告喩す。
倭国は載斯烏越らを派遣し、帯方郡に行ってともに攻撃するよう要請し、情勢を説明した。帯方郡は塞曹掾史の張政等を派遣することによって、詔書と黄幢を持って行き難升米に会見して授けるとともに、命令書を作成して道理を説いた。
【語句の意味】
因…《接》よって。A因B=「A、よってB。」
齎…《同》携える。
説…《動》のべる。説き伏せる。
相…《副》互いに。一方に。ともに。
状…《動》ようすを陳述する。述べる。
檄(げき)…《名》ふれぶみ。相手側の非を指摘し、自分の側の徳や善を宣伝する文書。同志を集合させる回状。
告…《動》(下から上へ)申し上げる。(上から下へ)知らせる。
喩…《動》さとす。さとる。たとえる。
告諭・告喩…道理をもって説き、諭す。
掾…《名》官署における属官の通称。
掾吏=掾属…下役、属官。
【塞曹掾史】
掾吏<汉典>官名。漢以後中央及各州県皆置掾史,分曹治事。多由長官自行闢挙。</漢典>[分曹=仕事の部門を分ける]
【使者張政の派遣】
詔書・黄幢は、難升米に授与すべく、正始六年に郡に託されたものである。(第80回)使者張政の身分「塞曹掾史」は、正始元年の建中校尉より、随分格下である。今回は、非公式なものかも知れないが、それでも皇帝からの詔書と黄幢を携えている。これは、倭国の要請を断りに来るのだから、高級官僚を派遣すると気まずくなって何かとやりにくくなる。最悪殺される危険があることを考え、下級官にしたと思われる。
さて、張政は倭国による援軍要請への回答と、詔書・黄幢の授与という二重の任務を帯びて派遣された。
倭は、狗奴国への攻撃にあたって、援軍を要請した。しかし、遣わされたのは(おそらく)軍事顧問の張政のみで、張政は難升米に会見し、詔書と黄幢を手渡した。
張政はまた、檄文を手渡して難升米を説得した。「檄」は、本来軍事行動にあたって、味方陣営の正当性を広く宣伝したり、味方陣営内で決起を促す文書であるが、この場合は軍事指令書という意味だと思われる。使者が下級官だから、公式文書が必要である。
魏皇帝は幼帝なので、後見の司馬懿らは、難升米をいわば方面司令官に任命することにより、倭国と、おそらく韓国沿岸ぐらいまでを管轄する自立した軍の構築を望んだ。
それに対して、倭国は魏の冊封国の立場を受け入れたからには、倭国への実質を伴う軍事援助を期待した。そこで、狗奴国の背後に呉の工作があるとして、九州中央での対呉国戦線を提案したのだろう。
難升米「狗奴国は呉国の一味に加わり、魏・倭連合に攻勢をかけている。連合軍により、その攻撃を打ち破りたい」
張政「それは分かるが、魏国の天子は、この地域の軍備は倭国に任せたとの詔を発し、その印としての黄幢を授けられた。どうか期待に応えて踏ん張っていただきたいというのが、太守の意向である。」
このように、双方の思惑は基本的に擦れ違っている。
魏は、朝鮮半島までは直轄支配するが、倭国全土を軍事占領するのは荷が重いと考えている。はじめは援軍程度でも、一度戦線が膠着すると次々と増軍せざるを得ず、結局敵を根絶やしするまで戦いを続けるか、それまでに政権が弱体化することはよく起こる。
朝鮮の史書(『三国史記』、特に新羅本紀) を見ると、韓国沿岸への倭兵の進出はこの時期でもかなり活発なので、倭の軍事能力を大体把握していたかも知れない。
直前には韓国で強硬姿勢をとった結果激しい抵抗に逢い、最後はやっと制圧したものの、太守弓遵の戦死という手痛い犠牲を払った。その記憶も新たで、倭はもう少し強そうだから、下手をすると九州、韓国を巻き込む大戦争になる。そこで勝利を得るには相当苦労するだろうと思われる。
また、実は狗奴国も魏に内通しており、介入を避けた結果万一狗奴国が勝利したとしても、今度は狗奴国を「倭王」にすればすむだけの話である。従って、倭の内戦には高見の見物をしておき、介入する意思は全くなかったと思われる。
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2012.3.5(月) 2103.3.30(土)原文を読む(83) 卑弥呼以死大作冢
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卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、死すを以って大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬者奴婢百余人。
卑弥呼は死亡し、大きく冢を築いた。直径100歩余りで、奴婢100人余りが殉葬された。
以…《接》A以B: and, but, then。《前》以XA:「X(名詞)を以てA(動詞)す。」、述部Aを修飾する副詞句として、手段や方法を表す。《副》すでに。
径…《名》(まっすぐな)こみち。直径。《副》直ちに。真っ直ぐに。
冢(ちょう)…《名》山頂。高大な墓。つか。
徇…《動》めぐる。したがう(=殉)。
【卑弥呼以死】
ここでは、「以」の用法が問題である。
接続詞の場合、主述構造同士を繋ぐので、「以卑弥呼死」(以て卑弥呼死す。)または「卑弥呼死以大作冢」(卑弥呼死す、以て大いに冢を作る。)と書くべきである。また、副詞としての意味は「すでに死す。」で、死後何日かは秘されていたことになるが、特にそのような事情はなかったであろう。
前置詞の場合、主述構造を目的語にとることができるが、その場合は「以卑弥呼死~」(卑弥呼死すをもって~。)である。接続詞と解釈した場合と、2節の関係が逆転する。
それらのいずれでもないので、「以」+体言化した動詞句「死」として、動詞の主語が「以」の前に出る場合があるか、用例を調べてみた。「所」の場合、そうなるのである。
三国志全文検索をかけたところ「以死」は15件あった。典型的なのは「敢以死請」(敢えて死を以て請う;魏書16)である。大部分は前置詞句となって述部を形容していると判断できる。
「以死」はそのような語感をもつものであるから、ここでは「大作冢」の主語を卑弥呼とするのが、もっともよいだろう。実際に墳墓を造営するのは使者を送る人々ではあり、死者本人は何も作業しないが、死者がいなければ墳墓は造営されないから、「死者が墳墓を作った」と言うこともできる。漢文では主語の役割は幅広いので、そのひとつの場合と考えればよいだろう。
したがって、この部分は「卑弥呼、死を以て」と訳すのが適当である。
【一歩】
第71回で見たように、漢代の長さの単位は1尺=23.0303cm。1歩=6尺だから、100歩=138.5mほどになる。
【殉葬】
<wikipedia>弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性</wikipedia>がある。
大化の改新のときに、殉死順葬が禁止されたり、江戸時代にも殉死が禁令が出たりしたから、歴史上少なくとも一部に殉死の習慣があったようである。
【箸墓古墳】
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箸墓古墳 (共同通信) |
箸墓古墳 前方部正面から (筆者撮影) |
前方後円墳。全長282m。後円部直径157m、高さ22m。前方部幅125m、高さ13m。出現期の古墳の中でも古い方とされている。
<YOMIURI ONLINE/炭素14年代測定…>国立歴史民俗博物館を中心とした研究グループは、2009年には奈良県桜井市の箸墓古墳の年代について、箸墓古墳の築造直後の年代が3世紀中頃とみるのがもっとも合理的との結果を示した。</YOMIURI>
卑弥呼が死んだとと思われる248年ごろに相当する年代まで遡った。また、もともと後円部の直径が「百余歩」と言ってよい大きさなので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高まったとも言われる。しかし、魏志の記述では「前方後円墳」とは読み取れないこと、殉死による人骨も確認されていないなど、まだ疑問が多い。
今後発掘調査が行われ、親魏倭王の金印か、239年ごろ中国製の銅鏡100枚がでてくれば問題は解決する。言い伝えでは、日本書紀にでている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓である。
【倭迹迹日百襲媛命】
第42回の、箸の使用に関する部分で考察した。「古墳の大きさランキング(日本全国版)」によると、第11位の大きさを誇る。明らかに天皇陵に匹敵する大きさだが、伝承が女性名であるのが注目される。
その名は「やまとと」「とい」「もも」「そ」と「ひめ」から成る。シャーマンは神に「問う」人、「もも」は長寿ともとれるが、道鏡の仙桃につながる「桃」を大量に儀式に使った跡が出土しているから、全部卑弥呼に関係があると言えないこともない。しかし、今のところ同時代である証明はC14法だけである。C14法の較正曲線の作成に、「箸墓古墳の炭化物の年代が250年になるようにしたい」という心理の影響が、ないとは言い切れない。現時点では円形部分の寸法以外、裏付けは何もないのである。
【初期古墳】2013.3.30
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大王クラスの初期古墳 |
天皇系図の一部 |
出現期の古墳は、天理市・桜井市の西半分の区域に分布するとされる。そのうち、被葬者が大王クラスと思われる大型古墳は、<『天皇陵の謎』矢澤高太郎著>纏向古墳群の箸墓古墳、柳本古墳群の行燈山古墳・渋谷向山古墳、大和古墳群の西殿塚古墳、さらに3つの古墳群とは南にやや離れた桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳である。
この2基を加えた白石太一郎さんの初期大王墳の編年は、①箸墓→②西殿塚→③桜井茶臼山→④メスリ山→⑤行燈山→⑥渋谷向山である。</『天皇陵の謎』>
なおこれらの6基の古墳の全長は、箸墓(282m)、西殿塚(234m)、桜井茶臼山(207m)、メスリ山(250m)、行燈山(242m)、渋谷向山(310m)である。
[日本書紀の記事]
倭迹迹日百襲媛命は、第七代孝霊天皇の娘で、崇神天皇に頼まれて国の災害の理由を占い、また武埴安彦命の反乱を予言した。またその死をめぐる箸墓伝説がある。
その墓については、是墓者、日也人作、夜也神作(箸墓は、昼は人が作り、夜は神が作った)とあるので、巨大な墓が、短期間のうちに作られたと想像される。
古墳の規模を見れば、のちの天皇につながる大王の最初の大型墓であるが、日本書紀ではその役割はかなり矮小化されている。ただ、古事記では完全に無視されたところから日本書紀で復活したのは、取り上げざるを得ない何かの事情があったのだろう。
[桜井茶臼山古墳の銅鏡]
<朝日新聞2010.1.8=要約=>桜井茶臼山古墳で、国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていた。奈良県立橿原考古学研究所が7日発表した。完全な形はなく、出土した約380点の破片から判断した。
「正始元年」の年号が入った蟹沢古墳の三角縁神獣鏡と比較した結果、共通する「是」の文字の字体から、同じ鋳型で作られたことがわかった。</朝日新聞>
出現期の古墳から「正初元年」の紀年鏡が出たということで、魏志倭人伝で魏・倭関係が深まった時期が古墳出現期と重なっていたを裏付ける。ただ、これまで見てきたように倭国が魏皇帝から下賜された銅鏡の現物が各地の王に配布された可能性は低く、「下賜された」イベントをきっかけとして、倭国で独自に三角縁神獣鏡が製作され始めたと考えた方が理解しやすい。
ここで大問題は、桜井茶臼山古墳の銅鏡がすべて断片で出土したことである。恐らく、古墳造営後に王の間でクーデターなど厳しい対立が起こり、敗れた側の王は、父の代に遡って「罪あり」とされ、墓の三角縁神獣鏡は懲罰のため徹底的に粉砕されたのあろう。
* 参考文献 『天皇陵の謎』矢澤高太郎 著 (文春新書 2012)
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2012.3.6(火)原文を読む(84) 更立男王
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更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定
更に男王を立てる。 国中服さず、更に相誅殺す。当時千余人殺す。復た年十三の卑弥呼宗女壱与を立て、王と為す。国中遂に定む。
改めて男子の王を立てたが国中が服従せず、更に互いに殺害し、死者は千人余りに上った。再び卑弥呼の宗族の女、十三歳の壱与を立てて王とした。これで国中が完全に収まった。
【語句の意味】
更…《動》あらためる。入れ替える。《副》さらに。一層。再び。
相…《副》たがいに。相互に。共同して。
誅殺…殺害する。
宗…《名》みたま。同じ祖先から出た一族。あとつぎ。第一人者。嫡子。
宗女…<汉典>君主同宗的女児。即宗室[王族]之女。</漢典>
当時…<汉典>then; at that time; for the moment</漢典>
【更立男王国中不服、復立卑弥呼宗女壱与】
卑弥呼を後継する王なのだから、男子王も「鬼道」に従っていた可能性は高い。しかし、だれもを服従させるような強い指導力はなかった。
その結果、国中が争う大混乱に陥った。殺し合いにより、千人を超す死者がでている。ただ、卑弥呼を立てる前の「倭国乱相攻伐」とは表現が異なり、「相誅殺」である。つまり、まだ倭国大乱の時代ほどではないが、このままでは時間の問題である。
そこで直ちに男子王を廃し、改めて卑弥呼の血を引く13歳の少女を立てた。これが奏功した。これを機会に戦闘を終結させようという、自制心が見られる。したがって、政権の実態は諸国の王による連合政権であり、女王は宗教的権威を備えた象徴にすぎない。
わが国では歴史を通して、実質的な権力を握っても象徴的な首長を最高位に立てて、仕える形をとることが多いが、既にそのような特徴が見られるのが興味深い。ただ、壱予に才能があれば、実質的な統治力を徐々に手に入れたかも知れない。
【壱与】
「宗女」は、王家の一族のうちの女児を意味する。考えられるのは卑弥呼の姪など。実の娘かも知れないが、卑弥呼は一応夫がいないことになっている。
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2012.3.7(水)原文を読む(85) 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等
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政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人
政等、檄(げき)を以て壱与に告喩す。壱与は倭の大夫、率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わす。
張政らは、檄文によって壱与に朝貢を促した。壱与はそれに応え、倭の大夫、率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣した。
【語句の意味】
檄…<汉典>古代官府用以徴召或声討的文書</漢典>(古代、官府が兵を招集したり、討伐を宣言するために用いた文書) 漢辞海の説明と一致している。
【張政の役割】
まず、魏書に書かれた内容は、次の2点である。
(1) 張政は、複数で派遣された使者の代表であるが、官位は低い。
(2) 張政らは、檄文によって難升米、壱与に助言をした。
張政は、軍の部隊を連れて来ることはできなかったが、それを難升米に伝えた後、張政は他の使者と共にしばらく軍事顧問として滞在したようである。
「檄」は、もともと「味方に決起を呼びかける」また「敵の非を宣伝する」文書である。三国志では「檄」は全部で23カ所でてくるが、ほとんどは軍事的な指示と読み取れる。
難升米には同時に黄幢を授与しているから、「檄」として回答を伝えたと思われる。その内容を、卑弥呼には直接伝えず、難升米を通した点が注目される。
ところが、新女王となった壱与には、直接伝えたのだ。張政が倭国の分裂を防ぐために一緒に苦労するうちに、若年の壱与は張政に信頼感を高めたので、言いやすかったのかも知れない。ただし、それは魏による倭への支配が強まったことを意味する。
張政による壱与への「告喩」は、倭王が交替したので改めて朝貢して冊封を受けなおした方がよいという助言だったと思われるが、この内容を「檄」という上からの命令の形で伝えるのは、不自然な気がする。これは想像であるが、張政は帯方郡に手紙を送り、(あるいは誰かを帰らせて)情勢報告し、それに対する本国の指示が「檄」として届いたのではないだろうか。張政の地位が低いから強い形式で指令が来るのであるが。
張政は届いた檄を壱与に示しながら、朝貢の必要性を説いたということかも知れない。
【掖邪狗の肩書】
掖邪狗は正始4年(第79回)に続く派遣である。前回の派遣で与えられた、「率善中郎将」の肩書がここでもつけられている。
また倭から派遣される使は、いつも「大夫」を自称するとされており、ここでも「大夫」である。
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2012.3.9(金)原文を読む(86) 送政等還因詣臺
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送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔靑大句珠二枚異文親錦二十匹
政等を送り還らしめ、因って臺に詣(いた)り、男女生口三十人を献上し、 白珠五千孔、靑大句珠二枚、異文親錦二十匹を貢(みつ)ぐ。
掖邪狗らは、張政を本国に送り、そのまま銅爵臺に行き、男女の生口30人を献上し、白真珠5000個、青色大勾玉2枚、異文親錦20匹を貢物として納めた。
【文法】
[送]
「送」はここでは使役動詞で、張政を本国に帰らせるために使者が送っていく。目的語=「張政」、動詞句補語=「還」を伴う。
[因]
接続詞。前節「送政等還」に密接に関わって、引き続き後節「詣臺献上…」が起こるという関係を表す。
【臺;銅爵臺】
臺[=台]は、展望を楽しむための高層の建築物である。曹操は建安十五年(210年)「銅爵臺」(または銅雀臺)を鄴(ぎょう)城(現在の臨漳(りんしょう)県)に建造した。写真は映画撮影用に涿州(たくしゅう)市に再現されたもので、現在テーマパークとして営業している。
<wikipedia~中国版>建安十五年,曹操於鄴建都漳河畔大興土木修建銅雀台,高十丈,分三台,各相距六十步遠,中間各架飛橋相連。建安十八年(213),曹操又在銅雀台南方建一金虎臺。次年(214),又在銅雀臺北建一冰井臺,合称為“三臺”。</wikipedia>
(建安15年、曹操は鄴建都の漳河畔に大いに土木を興して銅雀台を建造する。高さ十丈[=23m;漢代]、三つの台に分かれ、それぞれは60歩[=83m;漢代]の距離で、中階を架橋で互いに結ぶ。また、曹操は建安十八年(213)に銅雀台南方にまた一つ金虎臺を建て、銅雀臺の北にまた一つ冰井臺を立て,合わせて“三臺”という。)
銅雀台は三台の主台で、曹操はここで文人たちと詩を賦し、宴を催したという。
銅雀台は五胡十六国の後趙(こうちょう;319~351)石虎のとき改築して12丈となり、五層楼が並ぶ。北齊の天保九年(558)大改修。明末、銅雀台は完全に水没した。現在は金鳳台遺跡はよく保存されているが、金虎臺、冰井臺は水害、戦火で埋没している。
【曹芳】
239年(景初3年)1月1日、曹叡[=明帝]の死により、8歳の曹芳(そうほう)が即位。幼帝であるため、大将軍曹爽と太尉司馬懿(い)の合議制で政治を行う。曹芳18歳の嘉平元年(249)、司馬懿は<wikipedia>曹爽が曹芳の供をして曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にした機会を見計らって</wikipedia>、曹爽一族を追放・誅殺し、権力を独占する。
嘉平3年(251)、王淩の反撃計画が事前に司馬懿の知ることとなり、王淩は自殺し皇族は鄴に軟禁された。倭使掖邪狗らは、このような時期に鄴(銅爵臺の所在地)を訪れたと思われる。
その後、嘉平6年(254)には司馬師(司馬懿の後継)により、曹芳は廃位された。
【倭使訪問の日付や、魏の反応が書かれていない問題】
冊封国で王の交替があれば、改めて朝貢し金印紫綬を受けるはずであるが、ここでは何も触れられていない。また、朝貢の年月も記されていない。ただ貢納品の品目だけが残っている。
朝貢の年月の記録があるのは、次は『晋書』帝紀3「世祖武帝」にある泰始二年(266)、11月の「倭人来献方物」である。もしそれが壱与による朝貢なら、張政は247年の来日以来19年間も倭国に滞在していたことになる。その長い期間、魏への朝貢の必要性を一言も言わなかったとは思えないので、やはり壱与の朝貢は266年ではなく250年前後でなければならないと思う。
仮に、洛陽に司馬懿がいて、鄴に曹芳が滞在するときに鄴を訪れたとすれば、司馬懿には倭国への関心は低く、使者を実権のない皇帝に回して形式的に相手をさせたことになる。司馬懿は、権力闘争で頭がいっぱいだったのだろうか。また、曹芳の朝臣も、形式的な会見は記録に残さなかったことになる。
このようにいろいろ想像はできるが、本当の事情はわからない。ただ、250年ごろから魏が滅亡する265年までの間、倭との間にこれ以上大きな出来事がなかったことは確かである。
【白珠】
おそらく、倭国産の「白い真珠」という意味か。真珠には白色でない種類もあり、たとえば「黒真珠」は黒蝶貝から取れる。黒蝶貝の生息域はインド洋、太平洋で北限は紀伊半島である。南方から江南地域を経由して持ち込まれる黒真珠もあったかも知れない。
【句珠】
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J字形の勾玉(1800年前) 右は、一般の形状をした勾玉模型 (写真:産経新聞) |
勾玉(奈良県佐味田宝塚古墳) 4世紀末〜5世紀初 (東京国立博物館) |
「句珠」は、おそらくわが国から出土する勾玉ではないかと想像される。勾玉は、縄文時代から古墳時代までの装身具。古墳時代には王の権力を示す役割ももったとされる。<wikipedia>古墳出土の勾玉の大きなもので3~4センチメートル</wikipedia>だが、6cmの大勾玉もある。
弥生時代は翡翠などから作る。図のJ字形の勾玉は、魏志の時代に一致する弥生時代後期の「J」字形のガラス製勾玉(まがたま)。壱与の貢物は2個セットであることから考えて、勾玉はもともと耳飾りであったような気がする。
また、貢物中、句珠は小さなものが2個だけなので、倭国では「王が権威を示すために下賜」する習慣を意識して、魏国朝廷を、せめて対等の相手とみなすとする意思表示かも知れない。
あるいは、大好きな美しい物をプレゼントしたいという、少女らしい心で自ら追加したのだろうか。
【五千孔か、孔青大句珠か】
「孔」の解釈は、二通りある。
(1) 勾玉には紐を通す穴があけてあるので、「孔靑大句珠」(穴が穿たれている青または緑色の曲がった形の玉)という。
(2) 「孔」は真珠を数える量詞で、「5000粒」の意味である。
(1)だとすると、三国志では数値にはほとんど量詞がついているので、「五千」についていた量詞が、写本の段階で脱落したことになる。
(2)の場合、「孔」という量詞は存在するが、洞窟などの数に用いる。真珠でネックレスを作るとすれば、たしかに紐を通す穴をあけるが、洞窟に比べればごく小さい孔なので、違うかも知れない。しかし、古代には真珠を孔数で数える習慣があった可能性もある。
それでは一般的に、どのように解釈されいるか、その割合を調べるためにヤフーとグーグルで検索をかけてみた。
検索語 | ヤフー | グーグル |
魏志倭人伝 白珠五千孔,靑 | 2700件 | 2710件 |
魏志倭人伝 白珠五千,孔靑 | 2140件 | 2150件 |
表はその結果である。ほぼ互角であるが、「孔」を真珠の個数を数える量詞の方が若干上回っている。今の所、どちらかも決定的な根拠を欠くらしい。
【異文親錦】
「異文」の一般的な意味は、同じ原典からの複数の写本や引用で、対応する個所に異なる文字が使われること。例えば、「邪馬臺国」と「邪馬壹国」のような関係を指す。
しかしここでの意味は、明らかに刺繍や織物の紋様である。無理に「異文」の意味にこだわって解釈すれば、「漢字のような柄。ただ、そのような漢字は中国には存在しない。」となるが、もちろんこの説は単なる想像である。
【臺と邪馬"臺"国】
改めて、「邪馬台国」を諸文献から拾い上げてみる。『後漢書』(432年)「邪馬臺國」(今は邪摩(惟)堆、音これ訛る)『隋書』(636年)「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。」(都は邪靡堆、魏志に邪馬臺という所である)『梁書』(629年)「又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。」『太平御覧』(977-983年)「耶馬臺國」
邪馬台国の文中に「宮室楼観城柵厳設」と、楼観という「臺」のような建造物があるので、曹操が建造した「臺」の倭国版だと思われていたかも知れない。しかし、隋書では銅爵臺に匹敵するほどではないと考え、「堆」にしたのだろうか。隋書は、魏志に比べ、倭人をやや文化的に低く見ようとする傾向が感じられる。
よく言われるように、これらの史書は『三国志』魏書東夷伝、倭人の条を参考にして書かれたので、少なくとも魏書の多くの写本で「邪馬臺國」であったとする根拠がある。しかし、ある写本においては"臺"という格調高い名称を用いたくない意図がはたらいたかもしれない。この特殊な写本が、「紹興本」「紹煕本」の元になったかも知れない。ただ隋書のように、"臺"を"堆"にするのはまだ論理的であるが、"臺"を"壹"にする理由は、全く不明である。これは残された課題である。
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