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2018.11.13(tue) [1] 浦嶼子――丹後国風土記逸文

 〈釈日本紀〉巻十二「述義八」第十四(雄略天皇)に、『丹後国風土記』・『本朝神仙伝』・『天書』から浦嶋子伝説の引用がある。 これは、雄略天皇紀二十二年七月「丹波國余社郡管川人。瑞江浦嶋子。乗舟而釣。…」の部分の参考資料として掲載されたものである。
 第一回は、「丹後国風土記曰」とされる部分を読む。
 〈釈日本紀〉の原文は、『新訂増補 国史大系 第八巻』(黒坂勝美編輯。吉川弘文館;2003年。初版1932年)の「釈日本紀」 (以下『国史大系8』)による。 『国史大系8』の「凡例」には、「前田侯爵家所蔵本を原本」としたとされる。
 前田侯爵家所蔵の釈日本紀については、現在『尊経閣善本影印集成27~29』 (前田育英会尊経閣文庫編・八木書店2004年)〔以下〈前田本影〉〕が出版されている。 この書は前小田家所蔵本を写真撮影したもので、その浦嶋子の部分を見ると『国史大系8』における読み取りは、前田家所蔵本にまことに忠実である。
 なお、〈前田本影〉の訓点は朱書なので、卜部兼方本人ではなく前田家所蔵本の筆写者、あるいはその後加筆した人による解釈によるものと思われる。 本サイトではその訓点は採用せず、加えられた返り点は独自の解釈による。
 併せて、『風土記下』(中村啓信監修訳注。角川ソフィア文庫;2015年)(以下『角川風土記下』)を参考にした。 同書もまた、参考文献に〈前田本影〉を挙げているが、いくつかの字について不一致がある。

【筒川嶼子】
丹後國風土記曰。
與謝郡日置里。
此里有筒川村
此人夫部首等先祖。
名云筒川嶼子。
人姿容秀美。
風流無類。
斯所-謂水江浦嶼子者也。
是舊宰伊與部馬養連所記無相乖
故略-陳所由之旨
丹後国…〈倭名類聚抄〉{丹後国【太邇波乃美知乃之利】}。
与謝郡日置里…〈倭名類聚抄〉{与謝【与佐】郡}。{日置郷}。
筒川村…明治時代に一時存在。
風流…(古訓) おもしろし。
…(古訓) おほむね。ほほ。
…(古訓) つらぬ。のふ。
…(古訓) むね。よし。
丹後国(たにはのみちのしりのくに)風土記(ふどき)に曰ふ。
与謝郡(よさのこほり)日置里(ひおきのさと)、
此の里に筒川村有り。
此の人、夫(それ)日下部(くさかべ)の首(おびと)等(ら)の先の祖(おや)にありて、
名は筒川嶼子(つつかわのしまこ)と云ひて、
為人(ひととなり)姿容(すがたかたち)美(うるはしみ)秀(ひで)て、
風流(おもしろ)きこと類(たぐひ)無し、
斯(それ)所謂(いはゆる)水江浦嶼子(みづのえうらのしまこ)といふ者(ひと)也(なり)。
是(これ)旧(ふる)く宰(つかさ、みこともち)、伊与部(いよべ)の馬養連(うまかひのむらじ)の[所]記(しる)さえしところに相(あひ)乖(はな)るること無し。
故(かれ)[所]之(こ)に由(よ)りし旨(むね)を略(おほむね)陳(の)ぶ。
長谷朝倉宮御宇天皇御世。
嶼子獨乘小船-出海中釣。
三日三夜一魚
乃得五色龜
心思奇異于船中
卽寐。
忽爲婦人
其容美麗更不比。
…[名] 群島。つくりの「與(与)」は寄り集まる意を表す。「島嶼」。
…[動] ただよう。[副] あまねく。(古訓) たたよふ。うかふ。
五色…〈時代別上代〉「五色イツいろナル雲」(皇極天皇紀)〔古訓〕
…[名] (古訓) かほかたち。
長谷朝倉宮(はつせあさくらのみや)に御宇天皇(しろしめすすめらみこと)〔雄略天皇〕の御世(みよ)、
嶼子(しまのこ)独(ひとり)小船に乗りて海中(わたなか)に汎出(ただよひで)て釣を為(し)て、
三日三夜(みかみよ)を経て一(ひとつ)の魚(いを)を不得(えず)。
乃(すなはち)五色(いついろ)の亀(かめ)を得(う)。
心に奇異(あやし)と思ひて[于]船の中(うち)に置きて、
即(すなはち)寐(ぬ)。
忽(たちまち)に婦人(をみな)と為(な)りて、
其の容(かほかたち)の美麗(うるは)しきこと更に比(くら)ぶ不可(べくもなし)。
《筒川邑》
 〈姓氏家系大辞典〉には、「筒川 ツツカハ:丹後国与謝郡に筒川保あり、正応田数目録に公方御料所と。 古の筒川村なり。」 「丹後の日下部首:与謝郡の古大族にして、有名なる浦嶋太郎は此の氏也。
 『史籍要覧27』(近藤出版部;1902)によると、「注進丹後国諸庄郷保田数目録帳  正応元年〔1288〕八月」の 「与謝郡」の項に、「筒河保 卅四町四段五十五歩 公方御料所」とある。 〔「保」は、荘園の公認に生じた行政区画。同じく群・郷があるが、横並びの関係。〕
 町村制〔1889年〕において、与謝郡菅野村・野村・本坂村を村域として「筒川村」成立。1954年に周辺3村と合併して伊根町になった。
 〈神名帳〉に{丹後国/與謝郡廿座/宇良神社}があり、 比定社は「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町字本庄浜(字)141)。浦嶋神社の 公式ページによると、 「創祀年代は淳和天皇の天長二年〔825〕浦嶋子を筒川大明神として祀る。
 恐らくは、与謝郡のうち丹後半島先端部が「筒川」であろう。嶼子が帰ってきたところでは「筒川郷」と表現されるから、 一時的に行政区画「筒川郷」が存在し、後に「日置郷」に統合されたのではないかと思われる。 町村制における「日置村」は狭いが、「日置郷」はもっと広く、筒川地域を含んでいたのであろう。
《嶼子》

 物語末の第一歌「美頭能睿能。宇良志麻能古賀。〔水の江のうらしまの子が〕によれば、嶼子は「しまのこ」となる。 一方、「水江浦嶼子」は明らかに「みづのえうらのしまこ」である。 恐らくは「しまこ」が正式名、「しまのこ」は字名(あざな)という関係であろう。
 〈時代別上代〉によれば、字名は「実名のほかにもっている名」で、「実名を人に知られてはならないという禁忌があって、人に知られてよい通称のアザナが別にあったのだといわれている」という。 そこで物語に入ってからは、言い伝えられた「しまのこ」を用いたと思われる。
《伊与部馬養連》
 伊与部馬養については、 〈持統天皇紀〉三年〔689〕六月一日に、「…勤廣肆〔勤広四;後の従六位に相当〕伊余部連馬飼…〔計七名〕。拝撰善言司」の記事がある。 「撰善言司」とは『善言』なる書の撰〔=編集〕にあたる役職である。但し、諸事典によると『善言』は未完成に終わったらしい。
 さらに〈続記〉文武四年〔700〕六月甲午〔17日〕には、「…直広肆〔後の従五位下〕伊余部連馬養…〔計十九名〕。撰-定律令」 とあり、大宝律令の撰定に関わっている。
 このように伊与部馬養が中央で活躍したのは689~701年頃で、恐らくその前に丹波国に「宰」として赴いていた期間に、 浦嶼子の伝説を書き留め、概ねそれと同内容のものを713年以後に丹後国風土記に収めたということであろう。
《大意》
 丹後国(たにはのみちのしりのくに)風土記(ふどき)にいいます。 与謝郡(よさのこおり)日置里(ひおきのさと)、 この里に筒川村があり、 この人は日下部(くさかべ)の首(おびと)の先祖で、 名は筒川嶼子(つつかわのしまこ)といい、 為人(ひととなり)と容姿は人並み以上に麗しく、 風流なこともたぐい希で、 それが所謂水江浦嶼子(みずのえのうらしまのこ)という人です。
 この言い伝えは、以前に宰(つかさ)であった伊与部(いよべ)の馬養連(うまかいのむらじ)によって記されたことと、互いにそんなに異なることはありません。 そこで、これによって概略を述べます。
 長谷(はつせ)朝倉宮に知ろしめす天皇(すめらみこと)〔雄略天皇〕の御世(みよ)、 嶼子(しまのこ)は独りで小船に乗り、遠くの海に漂い出て釣をして、 三日三晩を経て一尾の魚も獲れませんでした。
 その時、五色の亀が捕まりました。 心に奇異と思い、船の中に置いて、 そのまま寝ました。
 すると突然女性となり、 その容姿は麗しく、誰とも比較になりませんでした。


【嶼子問曰】
嶼子問曰
人宅遙遠。
海庭人乏。
詎人忽來
女娘微咲。
對曰
風流之士獨汎蒼海
近談
風雲
には…[名] ①ことを行うための場所。②家屋の周囲の空地。③海面。
うみのには…[名] (万)0256 飼飯海乃 庭好有之 けひのうみの にはよくあらし
…[副] なんぞ。いやしくも。
ほの…[連用修飾語] 動詞、形容詞への接頭語のようにして用いる。
かぬ(不勝)…[他+助動] ~することができない。 (万)2885 妹門 去過不勝都 久方乃 雨毛零奴可 其乎因将為 いもがかど ゆきすぎかねつ ひさかたの あめもふらぬか そをよしにせむ 〔恋人の門を通り過ぎかねる。雨が降らないかな。それを口実にして訪問できるのに〕
…[動] ①ある物事・人物につきしたがう。②ある場所に近づく。③はじめる。④ことをなす。
かぜくも…[名] 風や雲。風に流される雲。
嶼子問ひて曰はく
「人の宅(やか)遙(はるか)に遠(とほ)くありて、
海庭(うみのには)に人乏(とも)し。
詎(なにそ)人の忽(たちまち)に来たるか。」ととへば、
女娘(をとめ)微(ほの)咲(ゑ)みて、
対(こた)へて曰ひしく
「風流之(おもしろき)士(ひと)独り蒼海(あをうなはら)を汎(ただよ)ひて、
近く談(かた)り不勝(かね)て、
風雲(かぜくも)に就(つ)きて来(きた)り。」いひき。
嶼子復問曰
風雲何處來
女娘答曰
天上仙家之人也。
君勿疑。
-談之
爰嶼子知神女
懼疑心
…[副] 禁止の意。接頭語的に用いる。「な+動詞の連用形+そ」の形が基本。
のる…[動]ラ四 ①馬・輿などにのる。②道を行く。③心にのる。 〈時代別上代〉万葉で、男女の愛情に関して言うときに、数多く使われている。 「まカナしみれば言にさ寝なへば心の緒ろに能里のりカナしも」(万三四六六)」
嶼子復(また)問ひて曰はく
「風雲、何処(いづく)よりか来たるや。」ととへば、
女娘答へて曰ひしく
「天上(あめのうへ)の仙(ひじり)の家(いへ)の之(の)人也(なり)。
請(ねがはくは)君(きみ)、勿(な)疑ひそ。
[之]相談(かたらひ)に乗りて愛(かなしび)たまへ。」といひき。
爰(ここに)嶼子、神(かみ)の女(をとめ)と知りて、
懼(おそ)り疑ふ心を鎮(しづ)めき。
女娘語曰
賤妾之意。
共天地畢。俱日月極。
但君奈何早先許不之意
嶼子答日
更無言。
何觸乎
賤妾…夫に対して、妻が自分を謙遜していう言葉。
やつかれ…[人称代] 一人称の謙称。男女を通じて用いる。
ひつき…[名] ① 太陽と月。② 歳月。
…[助] 文末について、そうなのか否かを聞くときの言葉。
女娘語りて曰はく
「賤妾(やつかれ)之(の)意(こころ)、
共に天地(あめつち)畢(を)へて、俱(とも)に日月(ひつき)極(きは)めむ。
但(ただ)君(きみ)奈何(いかに)か早(はや)先(さき)に許すや不(いなや)之(の)意(こころ)なりや。」といひて、
嶼子答へらく[日]
「更に所言(いふこと)無(な)し。
何(いかに)か〔こころ〕触れむ乎(や)。」とこたへり。
女娘曰
君宜掉赴上二于蓬山
嶼子從往。
女娘教令目。
卽不意之間。
海中博大之嶋
めぐらす…[他]サ四 メグルの他動詞。
…[動] ① ふる。空中でゆり動かす。② ふれる。不安定に揺れる。(古訓) うこく。わななく。さほ。さほさす。〔「棹」にあてたか〕
…[名] さお。[動] さおさす。
蓬莱…[名] もともとは山東半島の東の海上にある、想像上の島。仙人が住むという。
ねぶる…[自]ラ四 眠る。
おしふ…[他]ハ下二 教える。
海中…〈時代別上代〉「わたなか」は、岸から遠くはなれた大海の中。海上のまん中。
…(古訓) ひろし。
女娘曰はく
「君宜しく掉(さほ)を廻(めぐ)らせて[于]蓬山(ほうせむ)に赴(おもぶ)きたまふべし。」といひて、
嶼子従ひ往く。
女娘教へて目(まなこ)眠(ねぶ)ら令(し)めて、
即ち不意之(こころあらざりし)間(と)に、
海中(わたなか)の博大之(ひろきおほき)嶋(しま)に至りつ。
《女娘》
 浦嶋子伝説を詠んだ万葉歌の「(万)1740 神之女 かみのをとめ」に倣って、 「女娘」を「をとめ」、「神女」を「かみのをとめ」と訓むことにする。
《風雲》
 〈時代別上代〉は「「就風雲〔中略〕風雲何処来」(逸文丹後風土記)のような例もあり、漢詩文の影響も考えなければならない。」と述べる。
 漢籍に、「風雲」の用例は極めて多い。
●『史記』-老子漢非列伝「於龍、吾不其乗風雲而上上レ天。〔龍に至り、其の風雲に乗りて天に上るを知ること能(あた)はず〕
●『芸文類衆』(唐代)巻三十四-懐旧「又詩曰:…調与金石諧。思逐風雲上。…
 わが国でも「風雲急を告げる」など、風雲を用いた慣用句が定着している。
《大意》
 嶼子が 「人家は遙に遠く、 海の広がるところに、人は殆どいない。 どうして人が突然に来たのか」と尋ねると、 娘子は微咲んで 「風流な人が独り青海原を漂い、 近くで語らいたいのにそれが出来かねて、 風雲(かざぐも)につかまってやって来ましたのよ。」と答えました。
 嶼子はまた、 「風雲とは、どこからやって来たのですか。」と尋ね、 娘子は 「私は、天上の仙家(せんけ)に住む人です。 お願いですから、あなたは私のことを疑いませんように。 二人で相語らうことに乗っかって、愛(いつく)しんでくださいませ。」と答えました。
 こうして嶼子は、娘子が神の女だということが分かり、 恐れ疑う心は鎮まりました。
 娘子はこのように語りました。 「私の心は、 あなたと共に天地が終わるまで、あなたと共に年月の尽きるところまで…。 ただ早く知りたいのは、あなたの心がそれを受け入れるか否かということです。」
 嶼子は、 「どう答えたらよいのか、これ以上言葉が見つかりません。 どうしたらあなたの心に適うのでしょうか。」と答えました。
 娘子は、 「あなたは、棹を廻らせて蓬山(ほうせん)〔蓬莱山〕に赴いてくださいませ。」と言い、 嶼子はそれに従い行きました。 娘子は教えて、目を閉じて眠っていなさいと命じて 意識をなくしている間に、 海の真ん中の広大な島に到着しました。


【到一太宅】
其地如玉。
闕臺晻映。
樓堂玲瓏。
目所以不見。
耳所不聞。
手徐行。
一太宅之門
女娘曰。
君且立此處。
開門入内。
…[名] 宮殿の門。
闕台…『太平広記』神仙十九:「乃見溪上宮闕台殿甚厳。
…[形] くらい。(古訓) くらし。
…[動] 光の照らす所と暗いかげのけじめがはっきりする。(古訓) かかやく。てる。ひかり。
晻映…『芸文類衆』巻四十七:「晻映留芳。煙熅作義。
…[名] たかとの。
…(古訓) との。
玲瓏…玉が触れってすみきった音をたてるさま。また冷たくかがやくさま。 (古訓) てる。なかかやく。ゆらめく。
たづさはる…[他]ラ四 互いに手を取り合う。 〈時代別上代〉は「たづさふ(下二段)の派生語」と述べつつ見出し語「たづさふ」はない。すなわち「たづさふ」そのものは上代に発見していない。
…(古訓) をそし。やうやく。しつか。
おほやけ…[名] 大きな建物。〈時代別上代〉「この意味のオホヤケは地名にだけ残っている。」 即ち風土記成立の時代にこの意味に用いることはできない。
…[副] しばらく。
其地(そこ)玉を敷(し)けるが如くありて、
闕台晻映(けつたいおむやう、かどうてなひかりて)、
楼堂玲瓏(るたうりやうる、たかどのかかやきて)、
目に所以(ゆゑ)も不見(みえざりて)、
耳にも所不聞(きこえず)。
手を携(たづさは)りて徐(やくやくに)行(ゆ)きて、
一(ある)太(ふと)き宅(やけ)之(の)門(かど)に到りき。
女娘曰はく
「君且(しまらく)此処(ここ)に立ちたまへ。」といひて、
門(かど)を開きて内(うち)に入りき。
即七竪子來。
相語曰
是龜比賣之夫也
亦八竪子來。
相語曰
是龜比賣之夫也
茲知女娘之名龜比賣
乃女娘出來。
嶼子語竪子等事
…大人のそばに立って仕える子どもの召使。竪子。(古訓) いよたつ。
つかひひと…[名] 召使。
即(すなはち)七(ななたり)の竪子(つかひのわらは)来たりて、
相語(かたら)ひて曰ひしく
「是(これ)亀比売(かめひめ)之(の)夫(をひと)也(なり)。」といひき。
亦(また)八(やたり)の竪子来たりて、
相語ひて曰ひしく
ヒアデス星団
アルデバラン(おうし座アルファ)は除外される
プレアデス星団
(すばる)
「是亀比賣之夫也。」といひき。
茲(ここに)女娘之(の)名亀比売なるを知りつ。
乃(すなはち)女娘出(い)で来(く)。
嶼子、竪子等(ら)の事を語りき。
女娘曰
其七竪子者昴星也。
其八竪子者畢星也。
君莫恠焉
即立前引導。
-入于内
女娘父母共相迎。
揖而定坐。
…(古訓) あやしふ。
あやしぶ…[他]バ上ニ いぶかる。怪しむ。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「昴星:音与卯同。【和名須八流】〔すばる〕。」
西方七宿の第五宿(資料[A])。 おうし座のプレアデス星団。
(ひつ)…[名] 西方七宿の第六宿。おうし座のヒアデス星団に相当。「あめふりぼし」。 ただし〈倭名類聚抄〉に載る恒星・星団は、牽牛【比古保之】織女【太奈八太豆女】昴星【須八流】のみ。
…敬意を表すために、両手を胸の前で組み、囲みを作った形にする。(古訓) あはす。うやまふ。
…(古訓) さたむ。しつむ。ゐる。
女娘(をとめ)曰はく
「其の七竪子者(は)昴星(すばる)也(なり)。
其の八竪子者(は)畢星(ひつぼし)也(なり)。
君莫(な)恠(あやし)びそ[焉]。」といひて、
即ち前(さき)に立ちて引導(みちび)きて。
[于]内に進み入りき。
女娘の父母(ちちはは)共に相(あひ)迎へて、
揖(うやま)ひて[而]定(しづ)み坐(を)り。
于斯稱-說人間仙都之別
-議人神偶會之嘉
乃薦百品尊味
兄弟姉妹等舉坏獻酬。
隣里幼女等紅顏戲接。
仙哥寥亮。
神儛逶進。
其爲歡宴
-倍人間
…(古訓) はかる。なつく。ほむ。
…(古訓) あらはす。いふ。
人間…人が住む世。世間。(古訓) よのなか。
仙都…『太平御覧』地部九:「崗巒嶺崿相-連千里。上有仙都
わき…[名] 区別。けじめ。
談議…〈汉典〉批評議論
たまさかに…[副] 偶然。たまたま。
…[形] よい。[動] よみする。よいと認めてほめる。(古訓) よし。よみす。
…[動] むくいる。(古訓) むくゆ。こたふ。
酬応…返杯。
献酬…〈汉典〉「飲酒時、賓主相互敬酒。
…(古訓) をさなし。いとけなし。
あからぶ…[自]バ四 赤みがさす。
たはぶる…[自]ラ下二 戯れる。
…(古訓) つく。ましはる。
…[形] さびしい。(古訓) しつか。ひろし。むなし。
寥亮…声や音が澄んだ音色で響き渡るさま。 『太平御覧』楽部十一:「其歌喉寥亮」 楽部十八:「鄰家有吹笛。発声寥亮。」 釈部四:「楽則寥亮振空。
…うねうねと曲がって伸びる、また行くさま。(古訓) たをやかなり。
たわたわ…擬声語。たわみしなうさまを表す。
…(古訓) まさる。
于斯(ここに)人間(よのなか)と仙都(ひじりのみやこ)と之(の)別(わき)を称(はか)り説(い)ひて、
人と神との偶(たまさかに)会之(あひし)嘉(よろこび)を談議(かたら)ひき。
乃(すなはち)百品(ももくさ)の尊(たふと)き味(うましもの)を薦(すす)めて、
兄弟姉妹(はらがら)等(ら)坏(さかづき)を挙げて献酬(あひたてまつ)りて、
隣(となり)里(さと)の幼(をさな)き女(めのこ)等(ら)顏を紅(あから)びて戯(たはぶ)れ接(まじは)りき。
仙(ひじり)の哥(うた)寥亮(れいりやうにて、すみわたりて)、
神の儛(まひ)逶進(いしむして、たわたわに)、
其の歓(よろこび)の宴(うたげ)為(な)ること、
人間(よのなか)に万(よろづ)倍(まさ)れり。
《大意》
 そこは一面に玉を敷いたような所で、 闕台(けつたい)は晻映(おんえい)し〔楼門は陰影あざやかで〕、 楼堂(ろうどう)は玲瓏(れいる)で〔楼台は涼しげに美しく〕、 目にその謂れを見たこともなく、 耳にも聞いたことがありませんでした。
 手を取り合って緩やかに歩いて行き、 ある大邸宅の門に到りました。 娘子は、 「あなたは暫く、ここで立っていてくださいませ。」と言って、 門を開いて家の中に入りました。
 間もなく七人の仕える童子が来て、 口々に 「これが亀比売(かめひめ)の夫だ。」と言い合いました。
 また八人の仕える童子が来て、 口々に 「これが亀比賣の夫だ。」と言い合いました。
 このとき、娘子の名前が亀比売であることを知りました。
 そして、娘子が出てきました。 嶼子は、使える童子たちの事を話しました。 娘子は、 「その七人の童子は昴星(すばるぼし)です。 八人の童子は畢星(ひつぼし)です。 あなたは、怪しむことはありませんわ。」と言って、 前に立って導き、 家の中に進み入りました。
 娘子の父母共に迎え、 敬い畏まって座りました。
 このようにして、人の世界と仙都(せんと)の別を比べて説き、 人と神とが偶然に遇えた喜びを語りました。
 そして、数々の尊い美味を薦め、 兄弟姉妹らは坏を挙げてお互いに献杯し、 隣の里の少女たちは顏を赤らめ、戯れて接待しました。
 仙人の歌声は寥亮(れいりょう)で〔澄み渡り〕、 神の舞は逶進(いしん)し〔なまめかしく体をくねらせ〕、 その歓宴のさまは、 人の世をはるかに勝るものでした。


【既逮三歲】
於茲不日暮
但黃昏之時。
群仙侶等漸々退散。
卽女娘獨留。
雙屓〔肩〕袖。
夫婦之理
于時嶼子遺舊俗
遊仙都。
既𨒬〔逮〕三歲。
忽起土之心
獨戀于親
故吟哀繁發。
嗟歎日益。
黄昏(こうこん)…夕方。(古訓) ゆふくれ。ゆふまくれ。
…『国史大系』版頭注に「屓、恐當作肩〔恐らく肩に作るべし〕
仙侶(せんりょ)…なかまの仙人。
たちまちに…[副] 動作が短時間に起こる場合のほか、ある状態が突然予期しない形で現れる場合にもいう。
…[動] うめく。(古訓) かなしふ。なけく。
しげし…[形] 草木がよく茂っている。物事が度重なる。
…[感] ああ。[動] なげく。
嗟歎…舌打ちしてなげく。
ひにひに…[副] 日ごとに。
於茲(ここに)日の暮れしを不知(しらず)。
但(ただ)黄昏(ゆふぐれ、たそかれ)之(の)時、
群(む)れる仙侶(ひじりのともがら)等(ら)漸々(やくやく)退(そ)き散りき。
即ち女娘(をとめ)独(ひとり)留(とどま)りて、
双(ふたりの)肩袖(そで)に接(ふ)れて、
夫婦(をひとめ)之(の)理(ことわり)を成しき。
于時(ときに)嶼子旧(ふる)き俗(くにびと)を遺(のこ)して、
仙(ひじり)の都(みやこ)に遊ぶこと、
既(すで)に三歳(みとせ)に逮(いた)りて、
忽(たちまちに)懐土之(くにになつかしみおもへる)心を起して、
独(ひとり)[于]親(うがら)を恋(こひ)しかりけり。
故(かれ)、吟哀(かなしびのこゑ)繁(しげ)く発(はな)ちて、
嗟歎(なげき)日(ひにひに)益(ま)しき。
女娘問曰
比來觀君夫之㒵
於常時
願聞二上其志
嶼子對曰
古人言
少人懷土。
死狐首上レ岳。
僕以虛談
今斯信然也
の異体字。
…(古訓) かたち。かほ。
少者…年若い人。
…[動] (古訓) むかふ。おもむく。すすむ。
女娘問ひて曰はく
「比来(このころ)君(きみ)なる夫(つま)之(の)貌(かほ)を観(み)まつれば、
[於]常(つね)なる時と異(こと)としたまふ。
願はくは其の志(こころざし)を聞かせたまへ。」ととひて、
嶼子対(こた)へて曰ひしく
「古(いにしへ)の人言へらく
『少人(をさなきひと)土(くに)を懐(なつ)かしくおもふ。
死にゆく狐(きつね)岳(やま)に首(おもぶ)く。』といへり。
僕(やつかれ)虚(むな)しき談(かたりごと)と以(おも)へれど、
今斯(ここに)然(しかり)と信(う)けり[也]。」といひき。
女娘問曰
君欲歸乎
嶼子答曰
僕近離親故之俗
遠入神仙之境
戀眷。
輙申天下輕慮
-望蹔還本俗
上レ二親
親故…親戚の者と昔なじみの人。
神仙…人間界を離れて不老不死の生活に入った人。(古訓) のいきほとけ〔「~の生き仏」か;特定の文脈における訓と思われる〕
…[副] しばらく。に同じ。
軽慮…いいかげんで浅はかな考え。遜って言う。
…かえりみる。
眷恋…思い慕う。
眷族…一族。
女娘問ひて曰はく
「君還(かへりたまはむ)と欲(おもほす)乎(か)。」ととひて、
嶼子答へて曰ひしく
「僕(やつかれ)近き親故(うがらともがら)之(の)俗(くに)を離れて、
遠(とほ)き神仙(くすしきひじり)之(の)境(さかひ)に入りて、
恋眷(したへること)を不忍(しのばず)。
輙(すなはち)申(まをさく)、軽き慮(おもひはかり)しまつるに、
蹔(しまらく)本(もと)の俗(くに)に還(かへ)らむとする所望(のぞみ)ありて、
二(ふたりの)親に拝(をろが)み奉(まつ)るとまをす。」といひき。
女娘拭淚。
歎曰。
意等金石
共期万歲
何眷鄉里
棄遺一時。
卽相携徘徊。
相談慟哀。
…[形] (古訓) ひとし。あまねし。 …[動] のこす。すてる。(古訓) うしなふ。すつ。のこす。はなる。 …[動] なげく。(古訓) いたむ。 〈時代別上代〉「従来イタムの例とされていた万葉の〔中略〕〔中略〕イタキ」と訓むと、 イタムの例は古訓のみとなる。
女娘涙(なみた)を拭(のご)ひて、
歎(なげ)きて曰はく
「意(こころ)金石(かねいし)に等し。
共に万(よろづ)歳(とせ)を期(ちぎ)りき。
何(いか)にか郷里(さと)を眷(しの)ぶや。
棄遺(うちすつ)は一時(ひととき)なるべし。」といひて、
即ち相(あひ)携(たづさ)はりて徘徊(もとほ)りて、
相談(かたら)ひて慟(いたく)哀(かなし)びき。
遂接袂退去。
于岐路
於是女娘父母親族但悲別送之。
女娘取玉䢚〔匧〕嶼子
謂曰。
君終不賤妾眷尋者。
堅握〔匧〕
愼莫開見
卽相分乘船。
仍教令目。
以下、図版は『尊経閣善本影印集成28』より引用。
…(古訓) つく。ましはる。
…[名] そで。
…『国史大系8』頭注「別、原作副。今従刊本
岐路…わかれみち。ここでは「別れの道」の意を兼ねるか。
…『国史大系8』は「略」だが〈前田本影〉は「路」。
…(古訓) ちまた。
…『国史大系8』頭注に「別、原作副、今従刊本
わかれ…(万)4332 和可礼乎乎之美 わかれををしみ〔別れを惜しみ〕。
…[名] はこ。広く手回りの品を入れるこばこ。(古訓) かかみはこ。からくしけ。はこ。 
…[名] はこ。ふたをぴたっと合わせたはこ。(古訓) はこ。ふむはこ。
(匧)…[名] はこ。書物などを入れる竹の箱。(古訓) はこ。ふむはこ。ころもはこ。
遂に袂(そで)を接(つ)ぎて退(そ)き去(ぬ)。
[于]岐路(ちまた)に就(つ)きて、
於是(ここに)女娘の父母(ちちはは)親族(うがら)但(ただ)別れを悲しびて之(こ)を送りき。
女娘、玉篋(たまくしげ)を取りて嶼子に授けて、
謂曰(いはく)
「君終(つひ)に賤妾(やつかれ)を不遺(すてざ)りて、眷(した)ひ尋(たづ)ねむこと有ら者(ば)、
堅く篋(はこ)を握りて慎(ゆめ)開(あ)け見ること莫(な)かれ。」といひて、
即ち相(あひ)分(わか)れて船に乗りき。
仍(すなはち)教(をし)へて目(まなこ)眠(ねぶ)ら令(し)む。
《黄昏》
 〈時代別上代〉「たそ:誰か。「誰彼たそカレと我をな問ひそ〔中略〕」(万に二二四〇) 〔中略〕は原義のままであるが、カハタレは「暁の加波多例等枳カハタレトキに」(万四三二四)のように暁闇を 表す語としてかなり固定した用法を持っているらしいところをみると、 黄昏としての意もあったのではないか。〔万葉には「誰ぞ彼」の意味で出て来るのみだが、「カハタレ」に暁の闇の意味があるところを見ると、黄昏の意味もあったのではないか〕
𨒬
 『国史大系8』には「辶+至」という珍しい字となっているが、この字は『諸橋大漢和』にあり、意味は「はしるさま。」とする。 ユニコードでは一点しんにょうの形「𨒬〔U+284AC〕」になっているが、これを用いる。 ここで、中国の古い辞書を見る。
 ●『集韻』巻一:「𨒬:走貌〔走るさま〕
 「走るさま」を時間に拡張すれば、「年月を経る」意味を表せないわけではないが、 『角川風土記下』は「」に直し、「なりぬ」と訓む。は「みち」の意味だが、古訓に「へて」があるので、糸偏のに当てたものか。 しかし「逕」を空間から時間に転用する点は「𨒬」も同じで、大差はない。
 ここでの文意は「三歳(みとせ)にいたる」だと見られる。書紀だとこの場合は、「逮于三年」(垂仁天皇紀)、「逮于七日七夜」(神功皇后紀)など「」が多用される。 記にも、「旦日者、逮淡道嶋」(仁徳天皇段)などが見られる。 よって、「𨒬」は「」を誤写したと見るのが妥当であろう。

 『国史大系8』では「辶+更」で、〈前田本影〉を見ると、この読み取りは正確である。
 この字も『諸橋大漢和』にあり、意味を「うさぎみち」とする。 ユニコードでは一点しんにょうで、「〔U+489A〕」である。
 の異体字には、𨁈がある。やはり古い辞書を見る。
 ●『玉篇』辵部第一百二十七:「𨁈:胡唐切。獸跡。與迒同。〔獣の跡。迒と同じ。〕
 ●『集韻』巻四:「䢚・𨁈:兔逕。或从足。〔ウサギのみち。或は足に従う。〕
 ●『集韻』巻三:「迒・𨁈:說文獸跡也。或作𨁈。〔説文:獣の跡。或は𨁈に作る。〕
 「うさぎみち」では全く意味が通じないので、前田本に至るまでに「〔こばこ〕あるいは、 「〔くしげ;原意は櫛を入れる箱〕、 「の異体字〕の何れかのうちから誤写されたと思われる。 『角川風土記下』は「」を用いている。
《くしげ・はこ》
 浦嶋子伝説を詠んだ(万)1740には、一つの歌の中に「くしげ」と「はこ」が共存している。 すなわち、「此篋 開勿勤常 このくしげ ひらくなゆめと」と「此筥乎 開而見手齒 このはこを ひらきてみてば」。
 さらに調べると、については「(万)1175 足柄乃 筥根飛超 あしがらの はこねとびこえ〔箱根飛び越え〕によって、  「筥=ハコ」は確定する。したがって、実質的に同じものを表す二語を、五・七の字数に合わせて使い分けたものと見られる。
 なおについては、「(万)0522 [女+感]嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 をとめらが たまくしげなる たまくしの」がある。 歌意から玉櫛を入れておく箱を意味し、文字数から見ても「たまくしげ」である。
 ところが、「(万)0100 荷向篋乃 荷之緒尓毛 のさきのはこの にのをにも」では、同じを「はこ」と訓む。
 おそらく「くしげ」、「はこ」ともにごく身近な語であって、両者を特に区別する意識もなかったのだろう。
 『丹後国風土記』逸文に戻ると、第三歌に「たまくしげ」が出てくるから、玉䢚は結局「たまぐしげ」であろう。
《大意》
 こうして、日の暮れたことも知らず、 ただ黄昏の時となり、 群集した仙呂(せんりょ)たちは次第に退出して散りました。
 そして娘子独りが留まり、 双肩の袖が触れあって、 夫婦の理(ことわり)を果たしました。
 そのうちに、嶼子が旧い郷土の人を残して、 仙都に遊ぶこと 既に三年に及び、 突如、郷土を懐しむ心が起り、 独り親族が恋しくなりました。
 そのようなわけで、吟哀(ぎんあい)〔悲しみのうめき声〕を頻繁に放ち、 嘆く声は日に日に増しました。
 娘子は、 「この頃夫であるあなたの顔を拝見すると、 いつもと異なります。 どうかその志を聞かせてくださいませ。」と尋ね、 嶼子は、このように答えました。 「古(いにしえ)の人は言ったものだ。 『成人しない人は、故郷を懐かしく思う。 死にゆく狐は山に赴く。』と。 私は、あり得ない話だと思っていたが、 今になっては、そうだと信じるようになった。」
 娘子は 「あなたは帰りたいとお思いですか。」と尋ね、 嶼子は 「私は近くは親族や知人の郷土を離れ、 遠くは神仙の仙境に入り、 故郷を慕う気持ちを我慢できなくなった。 そこで申し上げます。軽慮するに、 暫く元の郷土に帰ることを所望し、 両親に拝します。」と答えました。
 娘子は涙を拭い、 嘆いて言いました。 「私の心は金や石と同じになりました。 共に万(よろず)の年を契りました。 どうして郷里を偲ぶのですか。 私を棄て置くのは、ひと時だけにしてください。〔=必ず帰ってきてください〕」
 そして手を取り合ってあちこち歩き回り、 談らって悲しみにくれました。
 遂に、袖を引かれながら退出することになりました。 分かれ道に着き、 娘子の父母、親族はただ別れを悲しみ見送りました。 娘子は玉櫛笥(たまくしげ)を手に取って嶼子に授け、 「あなたがいつか遂に私を棄てることができなくなって、慕い尋ねようとすることが有り得るなら、 この箱を堅く握りしめて、ゆめゆめ開けて見ることのないように。」と言い、 互いに分かれて船に乗りました。 そして教えて、目を閉じて眠っていなさいと命じました。


【到本土筒川郷】
忽到本土筒川鄉
卽瞻-眺村邑
人物遷易。
更無所由
爰問鄉人曰。
水江浦嶼子之家人今在何處
さとびと…(万)3973 佐刀毘等能 安礼邇都具良久 さとびとの あれにつぐらく 〔里人の吾に告ぐらく〕
いへびと…(万)3653 伊敝妣等能 麻知古布良牟尓 いへびとの まちこふらむに 〔家人の待ち慕ひらむに〕
忽(たちまちに)本の土(くに)筒川(つつかは)の郷(さと)に到りて、
即ち村邑(むらむら)を瞻(み)て眺(なが)む。
人(ひと)物(もの)遷(うつ)り易(かは)りて、
更に所由(ゆゑ)無し。
爰(ここに)郷人(さとびと)に問ひて曰はく
「水江浦嶼子之(の)家人(いへびと)や今何処(いづく)に在りか。」といひて、
鄉人答曰
君何處人。
舊遠人乎。
吾聞古老等郷人。答曰
〔吾聞古老等相傳曰。〕
先世有水江浦嶼子
獨遊蒼海
復不上二還來
今經三百餘歲者。
何忽問此乎
相伝…『国史大系8』頭注:相伝、原闕、更補郷人答三字、今従刊本〔「相伝」原書に欠け、更に「郷人答」を補う。今刊本に従う〕
郷人(さとびと)答へて曰ひしく
「君何処(いづく)の人なりや。
旧(ふる)く遠き人を問ひし乎(や)、
吾、古老等郷人に聞くに、答へて曰はく、
〔吾聞くに、古老(おきな)等(ら)相(あひ)伝へて曰はく、〕
『先の世に水江浦嶼子有りて、
独り蒼海(あをうなはら)に遊びて、
復(ふたたび)不還来(かへりきたらざ)り。』といふ。
今三百余歳(みももとせあまり)を経たれ者(ば)、
何(いかに)か忽(たちまち)此を問ふ乎(か)。」といひき。
卽衑弃心。
鄉里
一親
既𨒬〔逮〕旬月
乃撫〔匧〕而感思神女
於[是]嶼子忘前日期
忽開玉䢚〔匧〕
卽未之間。
芳蘭之體卛于風雲
-飛蒼天
嶼子卽乖-違期要還
復難一レ會。
首踟蹰。
淚徘徊。
(れい)…[名] 人馬が通る道。
…「棄」の異体字。
…(古訓) すつ。こほす。すたる。
すたる…[自]ラ下二 おとろえていく。
…[名] おや。身近な身内。
…『国史大系8』頭注:是、今意補。
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉:「率」的古文。
…[動] ひきいる。(ルートに)したがう。(古訓) ひきゐる。したかう。
…[前] 「動詞+于+実行主」で受け身の形となり、「実行主によって動詞される」を表す用法がある。
…香りのよい蘭。
…(古訓) かうはし。にほふ。
かぐはし…[形]シク ① においがよい。② 心ひかれる。
…(古訓) かたち。すかた。
…[形] 軽々と飛ぶさま。(古訓) とくとふ〔疾く飛ぶ〕。とひかける〔飛び翔ける〕
おほぞら(蒼天)…[名] 大空。(万)2001蒼天 徃来吾等須良 おほそらゆ かよふわれすら
踟蹰(踟躊)…行きつ止まりつする。(古訓) たちもとほる。たちやすらふ。
たちもとほる…[自]ラ四 行きつもどりつする。
むせふ…[自]ハ四 咽(むせ)ぶ。
…[動] なみだする。
徘徊…(古訓) たたすむ。たちもとほる。
…[名] かうへ。かしら。
かしら…[名] 頭。(万)4346 知〃波〃我 可之良加伎奈弖 ちちははが かしらかきなで
即ち衑(みち)に心棄(すた)れて、
[雖]郷里(さと)を迴(めぐ)れども、
一(ひとりの)親(うがら)に不会(あはず)。
既に旬月(とをかひとつき)に逮(いた)りて、
乃(すなはち)篋(はこ)を撫(な)でて[而]感(かな)ひて神女(かみのをとめ)を思ふ。
於是(ここに)嶼子前(さき)の日の期(ちぎり)を忘れて
忽(たちまちに)玉篋(たまくしげ)を開(あ)けつ。
即ち未だ之(こ)を瞻(み)ぬ間(ま)に、
芳蘭(はうらむ、かぐはしきあららき)之(の)体(すがた)[于]風雲(かぜくも)に率(したが)はえて、
蒼天(おほぞら)に翩飛(とびかけ)り。
嶼子即ち要(かならず)還(かへ)ると期(ちぎ)りしことに乖(そむ)き違(たが)へて、
復(またも)会ひ難(がた)しと知る。
首(かしら)を廻(めぐら)して踟蹰(たちもとほ)りて、
涙(なみた)に咽(むせ)ひて徘徊(たちもとほ)る。
《大意》
 たちまちにして故郷の筒川郷に到着し、 村々を眺めました。 人や物は移り変わり、 昔の痕跡もありません。
 そこで里人に 「水江浦嶼子の家人は、今どこに住んでいますか。」と尋ねると、 里人はこう答えました。 「あなたはどこの人か。 旧く遠くなった人のことを問うとは。 私が聞くところでは、 古老や村人の言い伝えでは 先の世に水江浦嶼子がいて、 独りで青海原に遊び、 再び帰って来なかったと言う。 今、三百年余りを経たことを、 どうして突然聞くのかのか。」
 こうして道を歩くうちに心は廃れて、 郷里を巡っても、 独りの親族にも遇えませんでした。
 既に旬日からひと月に至り、 箱を撫でると心が動き、神の女のことを思いました。 そして、嶼子は去る日の契りを忘れて、 突然何気なく玉櫛笥を開けてしまいました。 すると、これを見る間もなく、 芳蘭(ほうらん)の何かが風雲(かざぐも)に引かれて、 大空に飛んでいきました。
 嶼子はそれを見て、必ず帰ると契りしたことに背き、 再び会い難いことに気付きました。
 そして頭を振りながら当てどなく、 涙に咽んで歩き回りました。


【哥曰】
于斯拭淚。
哥曰。
等許余𦿔爾。
久母多智和多留。
美頭能睿能。
宇良志麻能古賀。
許等母知和多留。
𦿔〔U+26FD4〕
とこよ(常世)…[名] 不老不死の神仙の世界。少彦名神は、大国主神を助けて国を作ったが、とこよに去った (第69回)。
(辺)…[名] あたり。海岸。
于斯(ここに)涙(なみた)拭(のご)ひて、
哥(うたよみて)曰はく。
等許余𦿔爾(とこよへに)
久母多智和多留(くもたちわたる)
美頭能睿能(みづのえの)
宇良志麻能古賀(うらしまのこが)
許等母知和多留(こともちわたる)
神女遙飛。
芳音哥曰。
夜麻等弊爾。
加是布企阿義天。
久母婆奈礼。
所企遠理等母与。
和遠和須良須奈。
わすらす…「わする」の未然形+上代の軽い尊敬の助動詞「す」(四段)。
神女遙かに飛びて、
芳(かぐはし)き音(ね)に哥(うたよみ)て曰はく。
夜麻等弊爾(やまとに)
加是布企阿義天(かぜふきあげて)
久母婆奈礼(くもはなれ)
所企遠理等母与(そきをりともよ)
和遠和須良須奈(わをわすらすな)。
嶼子更不勝戀望。
哥曰。
古良爾古非。
阿佐刀遠比良企。
和我遠礼波。
等許与能波麻能。
奈美能等企許由。
あさと(朝戸)…[名] 朝に開ける戸。
…[名] 音。「おと」の第一音が、直前の母音に吸収された形。
嶼子更に恋ひ望み不勝(かね)て。
哥みて曰はく。
古良爾古非(こらにこ)
阿佐刀遠比良企(あさとをひらき)
和我遠礼波(わがをれば)
等許与能波麻能(とこよのはまの)
奈美能等企許由(なみのときこゆ)
後時人追加哥曰。
美頭能睿能。
宇良志麻能古我。
多麻久志義。
阿氣受阿理世波。
麻多母阿波麻志遠。
等許與弊爾。
久母
[弊爾久母]。
多知和多留。
多由女久女。
波都賀末等。
和礼曽加奈志企。
弊爾久母…『国史大系8』頭注;弊爾久母、重複当衍〔重複して、衍(あま)るべし〕
[比志]…『角川風土記下』には、この二字が挿入されている。
後(のち)に時の人追ひ加へて哥みて曰はく。
美頭能睿能(みづのえの)
宇良志麻能古我(うらしまのこが)
多麻久志義(たまくしげ)
阿気受阿理世波(あけずありせば)
麻多母阿波麻志遠(またもあはましを)
等許与弊爾(とこよへに)
久母(くも)
[弊爾久母(へにくも)]
多知和多留(たちわたる)
多由女久女(たゆめくめ)
波都賀末等[比志](はつかまと[ひし])
和礼曽加奈志企(われそかなしき)。
《多由女久女波都賀末等》
 『国史大系8』頭注に「多以下十字、六人部氏云、蓋多麻久志気波都賀爾安気志之訛〔多以下の十字は、六人部氏に伝わる「多麻久志気波都賀爾安気志たまくしげはつかにあけし」の訛りであろう〕と述べる。
 「六部氏」を、〈姓氏家系大辞典〉は「六人部 ムトリベ ムトベ:職業部の一なるべし。但し如何なる職に従事せしか詳らかなら」ず。 「丹波の六人部:天田郡に六部郷ありて和名抄に見え」などと述べる。
 「頭注」は、原形が「たまくしげはつかにあけし〔玉櫛笥はつかに開けし〕」であったというが、 その前後は原形が無傷で残っているのに、この部分だけ変形したとは考えにくい。
 『角川風土記下』は「多由万久母波都賀末等比志たゆまくもはつかまとひし」、 すなわち「女久女」は「万久母」となり、「末等」の後に「比志」が挿入されている。 この形の出所は示されていないが、これまで多くの人々を悩ませてきたことが伺われる。
 とはいえ、歌意から考えれば「多由女久女(多由万久母)」が本来「多麻久志義」であった可能性は十分ある。 ある写本においてこの部分が虫食いなどで損傷していて、それを何とか筆写した結果がこれなのかも知れない。 ここで「虫食い」を持ち出すこともどうかとは思うが、歌謡は全体に平易な言葉ばかり使われるので、少なくともここだけが難解な言葉ということはないだろう。
 もし『角川風土記下』のように「末等」が「賀末比志」だとすれば、「はつかまとひし」は「廿日纏ひし」という言葉として成り立つ。 「廿日」が、「旬」(一か月の三分の一)・「月」の平均値にあたるのは注目される。「」は通常「まつふ」だが、〈時代別上代〉によると「マトフ・マトハルの形も使われている」。
 ただ、〈時代別上代〉に「はたとせ(廿年)」は載るが、「はつか」はない。〔つまり、ハツカは実例が見つかっていない〕。 もし「十日;とをか」に準じて「廿日;はたか」が「はつか」になったとすれば、実はこの「波都賀」がその実例なのかも知れない。
《大意》
 そして涙を拭って、 歌を詠みました。
――常世辺に  雲起ち渡る  水の江の  浦嶼の子が  琴持ち渡る
 神の女は遙かに飛び、 芳しい音にのせて歌を詠みました。
――倭辺に  風吹き上げて  雲離れ  退(そ)き居り友よ  我を忘らすな
 嶼子は更に乞い望むことはできず、 歌に詠みました。
――子等に恋ひ  朝戸を開き  吾が居れば  常世の浜の  浪の音(なみのと)聞こゆ
 後に時の人は、追加して歌を詠みました。
――水の江の  浦嶼の子が  玉篋(たまくしげ)  開けず有りせば  復(また)会はましを  常世辺に  雲[辺に雲]起ち渡る  たゆめくめ〔玉篋?〕  はつかまと〔ひし〕〔廿日纏ひし?〕  吾れそ哀しき

《第一歌》
 「等許」を「」と読むのは物語に合わないが、独立歌としてはこの方が優れている。 一方、物語に合致させるためには、嶼子は女娘と語らうから「言持つ」となる。 しかし、「言持ち」からは「宰」(みこともち)を派生するように、予め用意された大切な言葉を持って行く語感があるので、よく吟味するとしっくり来ない。
 この疑問を合理的に解消するとすれば、
 ●海中(わたなか)に船を浮かべて、風流の人が琴を弾く別伝があった。
 ●筒川嶼子は、実は日置郷の「こともち」という役人で、「浦嶼の子がこともち」とは、「浦嶼の子と云うこともち」を意味する。
 という二つの考えが思い浮かぶが、今のところ想像の域を出ない。
《第二歌》
 第一歌と第二歌には対称性があり、「常世辺」と「倭辺」、「雲起つ」と「雲離る」、「渡る」と「退く」が対応する。
 「倭辺」は、やまとの国から船を漕ぎだす浜が思い浮かぶ。ここでは丹後国が、広く「やまと」の範囲に含まれるということであろう。
《第三歌》
 「遙飛」からは、幻想的な物語として本人が飛んできたと読める。 「芳音」からは本人は仙境にいて、風の音に乗せて歌を送ったと読める。どのように読むかは、読み手の想像に任される。
《第四歌》
 「まし」は反実仮想の助詞で、「開けず有りせばまた会はましを」は、「開けずにおけば、また会えたものを」の意。
 前半は文字数が五七七五七〔但し最後は字余り〕で、意味も完結するのでこれだけで短歌として成り立っている。 第四歌は二首の歌を繋いだものかも知れない。

【成立時期】
 丹後国の成立は、和銅六年〔713〕であった (第197回)。 各国の史籍(地誌)言上の詔も同じ和銅六年に発せられ、各国で風土記が編纂された (資料[13])。
 『海部氏勘注系図』割注の「丹後国風土記逸文」は国号「丹後国」について、 「丹後国。元与丹波国合為一国。 于時日本根子天津御代豊国成姫天皇御宇。 詔。割丹波国五郡。置丹後国也。 所-以号丹波者…〔丹後国、元丹波国と合はせて一国を為せり。元明天皇の御宇〔707~715〕、 詔したまひて丹波国の五郡を割きて丹後国を置く。丹波と号(なづ)けらるるゆゑは…〕と述べる。 続けて書かれるのは「丹波国」のことばかりだから、『丹後国風土記』が書かれたのは分割して日が浅い時期だと思われる。
 注目されるのは初めに「日置」と書かれていることである。 の表記は基本的に701年にになった。 「里」は、まだ記憶に新しかったのであろう。
 ところが、終わりの方で嶼子は「筒川」に帰ってきたと書かれる。 <wikipedia>によると、隠岐国では大量の木簡によって、714~740年の間には「郡-郷-里」の階層があったというから、 丹後国では逆に「郡-里-郷」の階層だったのだろうか。 或いは、既に筒川郷が日置郷から分離独立していたか。 何れにしても、筒川郷が「」であった現実を、帰って来た場面には反映させたと思われる。 それに対して嶼子が出かけたときは非常に古い過去である。 よって、敢て古い地理区分「筒川村は日置里の一部であった」を適用したのではないだろうか。
 書き手が何気なく混同して書いただけのことを、深く考えすぎているのかも知れない。しかし、 国郡郷に好字をつけて報告させることが史籍言上の詔の根幹だから、 それに応えた風土記において里・郷の表現をいい加減にしたとは思えないのである。

まとめ
 さて、丹後風土記逸文には、最後の煙を浴びて白髪の老人になる件がない。『本朝神仙』、万葉歌にはそれがある。 風土記逸文はこれらより古い形なのか。それとも最後の部分が省かれたのか。
 ここで要になるのは、「芳蘭の体が飛び翔けた」が何を意味するかである。 中には、これを「嶼子の若さが風雲とともに飛び去った」とする解釈を見る。「瞬時に白髪の老人になる」という一般的な筋書きに馴染んでいれば、そのように読んでも不思議はない。 しかしその前に、「未だ之を見ぬ間に」と書いてある。ということは、玉匣の中には見ることができる実体が入っていたのである。
 思うに、亀比売は最初に風雲にぶら下がってやって来た。再び風雲にぶら下がって飛んでいくのであるから、 玉匣に入っていたのは亀比売ではなかったのか。むしろ、そのように読まれ得ることを意識して書かれたように思われる。 だから、上空にいた亀比売は嶼子の歌を聞き、返歌することができたのである。 こう読めばすっきりする。
 そうして、万葉歌4346の「白雲之 自箱出而〔白雲が箱から出て〕若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〔若かった皮膚が皺になり、黒い髪が白くなった〕 部分は、後になって締めくくりの部分を変更して加えられたのではないかと思えるのである。



2018.11.16(fri) [2] 浦嶋子――本朝神仙伝逸文

 『釈日本紀』巻十二の「浦嶋子」の項には『丹後国風土記』の引用に続けて、『本朝神仙伝』から「浦嶋子」の部分が引用される。
 『本朝神仙伝』は、わが国で最初の神仙説話集とされる。平安時代後期の承徳二年〔1098〕頃成立。 著者の大江匡房(おおえのまさふさ)は、公卿、儒学者、歌人で、長久二年〔1041〕生まれ、 天永二年〔1111〕に没した。 37人の伝記からなるが、現存するのは31人の伝記だという。
 平安後期の書であることから、ここでは中古語による訓読を試みた。 訓読にあたっては源氏物語などの文学の表現法や、 現代語古語類語辞典(芹生公男;三省堂。以下〈現古〉)を参考にした。

【浦嶋子】
本朝神仙傳曰。
浦嶋子者。
丹後國水江浦人也。
…〈現古〉「中古:せんかい「仙界」。せんけ「仙家」。せんきゃう「仙境」。
本朝神仙伝(ほむてうしむせむでむ)に曰ふ。
浦嶋子(うらしまのこ)者(は)、
丹後(たにはのみちのしり)の国の水江浦(みづのえのうら)の人也(なり)。
昔釣得大龜
-成婦人
閑色無雙。
卽為夫婦
婦引〔袂〕
於蓬萊
通得長生
おほき…平安時代にはイ音便か。〈倭名類聚抄〉職名:大弁【於保伊於止毛比おほいおともひ
…(古訓) とほる。あまねし。
…(古訓) いく。
昔(むかし)釣(つり)して大(おほ)い亀を得(え)て、
婦人(をむな)に変はり成れり。
閑色(うるはしきすがた)双(ふたり)無くて、
即ち夫婦(ふうふ)に為りぬ。
[被]婦(をむな)に袂(そで)を引かれて、
[於]蓬萊(ほうらい)に到りて、
通(あまねく)長き生(お)ひを得(え)たり。
銀臺金闕。
錦帳繡屏。
仙薬随風。
綺饌弥日。
之三年。
春月初暖。
群鳥和鳴。
煙霞瀁蕩。
花樹競開。
…ぬいとり。「(古訓) ぬむもの。ぬひもの。」平安にはイ音便になっていたと思われる。
…かべがき。ついたて。(古訓) かくす。へたつ。
…今昔物語に薬師(やくし)が出てくるから、ヤクともよんだであろう。 〈現古〉中古:やくじ[薬餌]。やくせき[薬石]。
随風…①次々とかさなって吹いてくる風。②風にまかせる。③世の中の大勢にしたがう。
弥日…日数を重ねて長引くこと。
…(古訓) みつ。かさなる。へて。
…あや(模様を織り込んだ絹織物)。うつくしい。
…〈現古〉上代:あたたけし。中古:あたたか。
むらとり…[名]〈時代別上代〉群れをなす鳥。
…(古訓) やはらかなり。
(やう)…水や心のゆらゆらはてしないさま。(古訓) うれふ。おほふなり。たたふ。ひろし。
(とう)…広くゆきわたる。うごく。(古訓) うこく。あそふ。おほひなり。ゆたか。
…〈現古〉中古:きそふ[競]。
銀台(しろかねのうてな)金闕(こがねのけつ)、
錦帳(にしきのとばり)繡屏(ぬひとりのかべかき)に、
仙薬(せむやく)風(ならひ)の随(まま)に、
綺(あや)の饌(け)に日を弥(かさ)ねて、
之(こ)に居(を)りしこと三年(みとせ)。
春の月初めに暖(あたた)かくて、
群鳥(むらとり)和(やはら)ぎ鳴きて、
煙霞(けぶりかすみ)瀁蕩(おほひて、やうたうなりて)
花樹(はなのき)競(きそ)ひ開(ひら)けり。
歸歟之計
婦曰
列仙之陬。
一去難再來
縱歸故鄉
上レ往日
…[助] 文末につけて疑問・反問・感嘆の語気を表す。
…(古訓) はかりこと。はかりみる。
おもひはかる…[自]ラ四 思いめぐらす。
…[名] すみ。くま。(古訓) すみ。まかき。すむ。すみか。
帰歟之計(かへらむやとおもひはかること)を問へば、
婦、曰はく
「列仙之陬(つらぬるせむのすみか)、
一(ひとたび)去らば再(ふたたび)来たるは難(かた)し。
縦(ほしいままに)故郷(ふるさと)に帰(かへらば、
往(ゆ)きし日に非(あら)ざること定まれり。」といふ。
浦嶋子爲親舊
强催歸駕
婦与一筥
慎莫此。
若不開者。
自再相逢
親旧…親族と、昔なじみの人。
しぞく…〈現古〉「しぞく[親族/親属]。」平安の仮名書きは「ん」を省く。
…〈現古〉「仙人の乗物 中古:ほうが[宝駕]。
ひらく…[他]カ四 開く。
あたふ…[他]ハ下二 与える。
浦嶋子親旧(しむぞくふるきひと)を訪れむと為(おも)ひて、
強(し)ひて帰駕(かへること、かへりのか)を催(うなが)しつ。
婦、一(ひとつ)の筥(はこ)を与(あた)へて曰はく
「慎(ゆめゆめ)此(こ)を莫開(ひらくな)。
若し不開(ひらかざら)者(ば)、
自(おのづから)再び相(あひ)逢はむ。」といひぬ。
浦嶋子到本鄉
林園零落。
親舊悉亡。
人問之。

昔聞浦嶋子仙化而去
漸過百年
零落…①草木の葉が枯れ落ちる。②栄えていたものが落ちぶれる。
浦嶋子本の郷(さと)に到れり。
林園零落(りむえむれいらくして、はやしそのすたれて)、
親旧悉(ことごとく)亡ぶ。
人に逢ひて之(こ)を問へば、
曰はく
「昔、浦嶋子仙化し而(て)去(い)ぬと聞く。
漸(やうやく)過ぎしこと百年(ももとせ)となりぬ。」
といひき。

爰恨然如於邯鄲
心中大恠。
匣見之。
於是浦嶋子忽變衰老皓白之人
去而死。
事見別傳幷於万葉集
今注大概
…[助] 形容詞・副詞について状態を表す。
…「怪」の異体字。
衰老(すいろう)…年とって体力がおとろえること。
…[形] しろい。
皓白…しろいさま。
…①そそぐ。②つける。③しるす。④註󠄀をつける。(古訓) そそく。つく。ととむ。まをす。 
爰(ここに)恨然(うらめること)[於]邯鄲(かむたむ)に歩みを失(う)すが如くありて、
心の中大いに怪しめり。
匣(くしげ)を開きて之(これ)を見て、
於是(ここに)浦嶋子忽(たちまち)衰老(すいらう)皓白(かうはく)之(の)人に変はれり。
去(いねず)而(て)死にせり。
事、別伝(ほかのつたへ)[於]万葉集(まにえふしふ)に并(あは)せて見ゆ。
今大概(おほむね)を注(まう)す。
《仮名遣い》
 平安後期には、「いはく」がイハク、「かへる」がカウェルなどと発音されていたことが、 明らかになっている (「仮名遣いの歴史」など)。 しかしこれらは歴史的な変遷の一断面であり、現代仮名遣いで表しきれるほど固定的ではないので、歴史的仮名遣いに統一した。
 「」は当時は存在しない文字で平安文学では表示されなかったが、釈日本紀(鎌倉時代)では基本的に「ム」が用いられているので、 便宜的に「む」を用いた。
《閑色無双》
閑・級・通に疑問の余地はない。
 現代語としての閑色の意味は、「両種原色相互混合而成的顏色。」「紅黄混合成橙色〔赤色と黄色とを混ぜて橙色を合成するが如し〕(<百度百科>)で、「間色」と同義とされる。 古文での意味は、これとは明らかに異なる。 少なくとも「閑色無双」が、『丹後国風土記』の「其容美麗更不」と同じことを意味するのは明らかである。
 漢和辞典類に熟語「閑色」はない。容姿を「~色」で表す熟語としては「麗色」、「容色」が見られるが種類は比較的少ない。
 そもそも「」の典型的な使い方は「閑散としている」「閑職に追いやられた」などで、単独で容姿に用いた例はなかなか見つからない。 そして『諸橋大漢和』に、やっと「みやびやか。うるはしい」が見つかった。その文例として挙げられた「[曹植、美女篇]美女妖且閑」を確認すると、 『太平御覧』-美婦人下に「曹植『美女篇』曰:美女妖且閑」とあった。
 『諸橋大漢和』はまた、熟語として 「閑雅:①しづかでしとやか。」「閑媚:しとやかでうつくしい。」「閑麗:みやびやかでうるはしい。」を挙げる。 女性の属性としての「」は、原義の「ひま」を「おとなしい、淑(しと)やか、物静か」に拡張したものだろう。 これが雅・麗・美などと共に使われた結果、「」にそれらの意味合いが染み移ったと見られる。
 だから、「」の一字だけを使って「麗」の意味で使われることは少ない。 「閑色無双」が確かならば、その僅かな例のひとつと言えるが、「麗色」「容色」の誤写である可能性は否定できない。
《被婦引級》
 「被婦引級」は、直感的には意味が分かりづらい。試しに「google翻訳」で英訳すると、"Guided by women."となった。 「被」は受け身を表す助動詞であるが、『漢辞海』によると、前置詞にも使う。
 ●…[前置詞] 動作主を表す。前置詞句「被婦」に続く動詞は、そのままで受け身になる。西晋〔265~316〕ごろからの用法。
 次の「引級」という熟語は日中の各辞書に見えず、〈中国哲学書電子化計画〉による検索でも一件もない。 「」の意味のひとつに、「首」〔=あたま〕があるので、これが使えるかも知れないと思って調べてみた。 すると、これは「首級」から転じたもので、戦場での論功行賞の証拠として提出する「首」の「」(格付け)に由来する。 これでは亀姫が浦嶋子の首を切り取って持って行くという物騒なことになり、とても使えない。
 『丹後国風土記』では、亀比売が浦嶼子の袂(そで)を引く場面がでてくるから、「」が「」あるいは「」の誤写か。 「婦引〔婦によって袂(袖)を引かれる〕なら、ごく自然である。
《失步》
 今のところ「失歩」を見出し語に挙げる辞書を見ない。
 〈百度百科〉によると「失步 釈義:①指去而没上レ去成。 ②乱了步伐。③畏-不前。 ④失其故步。比-喩摹-仿〔=模倣〕別人成、反而喪上二-失固有的技能〔 ①去〔=行〕く該(べ)くして、成らず没す。 ②整然とした歩みが乱れてしまう。「了」は完了の助詞。「步伐」は軍隊の行進から転じて規則正しい足並みを意味する。 ③恐れて、前進を避けるか否か迷う。 ④故步〔=固有の技能〕を失う。人まねして失敗し、せっかく自分が持っていた技量を生かせなかったことの譬え。 〕
 大まかに言えば、これまでの「歩み、実績、行動」を失うことである。
《邯鄲》
 邯鄲は、中華人民共和国河北省の地名で、<wikipedia>によれば『漢書』地理志の注釈まで遡る。
 ここでは「邯鄲」を、唐代の小説『枕中記』に載る故事「邯鄲の枕」の譬えに用いたものと見られる。 『枕中記』の粗筋は、「盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、 富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱(こうりょう)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であった」 (〈デジタル大辞泉〉)というものである。
《如失步於邯鄲》
 よって「邯鄲に失步するが如し」とは、「長年経験したことが、実は一瞬の夢として失われたと描く『邯鄲の夢』のようなものだ」という意味であろうと思われる。
《通得》
 各種の辞書を見ても、熟語「通得」はない。可能の助動詞(~うる)の場合は、「得通」の語順になる。 「百度百科」で検索すると、会社名などの固有名詞であった。その中に「沖縄県糸満市通得川」があったが、これは「報得川」の誤り。
 〈中国哲学書電子化計画〉で、文章中に出てくる「通+得」を探すと、分かりやすい例が一つあった。
 ●『後漢書』-列伝/李王鄧来:「会事発覚。通得亡走〔たまたま事があって発覚し、あまねく得て逃亡した〕
 「通得」は、悪事が露見したことを「すべて悟った」意味と見られる。
 よって「通得長生」の「」は副詞で、「あまねく」かと思われる。やや意味が通りにくいきらいがあるが、 「全くもって」というような強調の言葉と受け取ればよいのかも知れない。 仮に誤写だとすれば、「」に置き換えると字形も類似し、文の流れから見ても極めて自然である。

【大意】
 本朝神仙伝に言う。
 浦嶋の子は、 丹後の国の水の江浦の人です。
 昔、釣をして大きな亀を得、 女性に変成しました。 それは麗色無双の人で、 すぐに夫婦となりました。 妻に袖を引かれて 蓬萊に到り、 まことに長い命を得ました。
 銀の楼台、金の闕門(けつもん)、 錦の帳(とばり)、文繡の壁に、 仙薬は随風〔仙界の習いのまま〕に、 綺(あや)なる神饌(しんせん)〔食物〕に日を重ねて、 住むこと三年。 春月は初めから温暖で、 群鳥は和して鳴き、 煙霞(えんか)は瀁蕩(ようとう)し〔霞に覆われ〕、 花樹は競って咲きました。
 帰りたいが、どうなのだろうと慮りてこれを問うと、 妻は、 「列仙の住処(すみか)は、 一度去れば再び来ることは難しいのです。 欲しいままにして故郷に帰れば、 過ぎし日々はもうないと定まります。」と言いました。
 浦嶋の子は、親族、旧知の人を訪れようと思い、 強いて帰ることを促しました。
 妻は一つの箱を与え、 「ゆめゆめこの箱を開いてはなりません。 もし開かなければ、 自ずと再び逢うことができるでしょう。」と言いました。
 浦嶋の子は故郷に到りました。 その林園は零落し、 親族、旧知の人は悉く亡びていました。
 人に逢ってこれを問うと、 その人は 「昔、浦嶋の子は仙化して去ったと聞く。 それから次第に時が過ぎて、百年になる。」 と言いました。
 ここで恨む様は、邯鄲に過去の歩みを失った〔邯鄲の夢の話の〕ようであり、 心中大いに怪しみました。
 櫛笥を開いて見ると、 その時浦嶋の子は、突然に衰老皓白(すいろうこうはく)〔老衰白髪〕の人に変わり、 そのままどこへ行くこともなく死にました。
 事は別伝として、万葉集に併せて見えます。 今は概略を記しました。


まとめ
 「引級」は、確実に誤写であろう。 ここでは、丹後国風土記に合わせて一応「引袂」としたが、「引導」、「引率」でも成り立つ。 ただ、「袂」の方が字形が似る。
 「閑色」「通得」にもやや疑義が残るが、全体としては概ね合理的な訓みが可能である。 なお〈前田本影〉を見ると、『国史大系8』による読み取りに誤りはない。 仮に誤写があったとすれば、前田本以前の段階である。
 さて、『本朝神仙伝』では玉櫛笥を開けた後は「衰老皓白」となり、万葉集に見合ったものになっている。 この部分の『丹後国風土記』との相違については、前回考察した通りである。



2018.11.18(sun) [3] 浦嶋子――天書

 〈釈日本紀〉の「浦嶋子」の項には、最後に『天書』巻八からの引用が載る。
 <wikipedia>によれば、『天書』(てんしょ・あまつふみ・あめのふみ)は、奈良時代末期の藤原浜成の撰とされる編年体の歴史書。

【浦嶋子】
天書第八曰。
廿二年秋七月。
丹波人水江浦嶋子入海龍宮神仙
天書第八に曰ふ。
二十二年(はたとせあまりふたとせ)秋七月(ふみづき)。
丹波(たには)の人、水江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)海龍宮(わたのたつのみや)に入りて、神仙(しむせむ、ひじり)を得(う)。
《書記との相違》
 ここでは、「海龍宮」だが、書記は「蓬萊山」、丹後国風土記は「蓬山」、万葉歌は「海若神之宮 わたつみのかみのみや」とする。
 書記とは日付が一致し、「丹後国」成立前の古い「丹波国」を用いているから書紀を下敷きにしている。
 しかし、書記の「蓬萊山」とは不一致である。 恐らくは、別系統の伝説が混合したと思われる(別項)。
《大意》
 二十二年七月、 丹波(たには)の人、水江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)は海龍宮(わたのたつのみや)に入り、 神仙になりました。


【海龍宮】
 かつて山幸彦も、亡くした鉤(つりばり)を求めて海底の国を訪れた。
《山幸彦海幸彦伝説》
 山幸彦海幸彦伝説において、彦火火出見尊は(記では「火遠理命)は、「海神之宮」を訪れる (第90回)。  ※…さまざまな別名がある。第87回で整理した。
 〈神代紀〉(兄火闌降命自有海幸段)一書(1)において、弟の彦火火出見尊は 「海底自有可怜小汀。乃尋汀而進。忽到海神豊玉彦之宮〔海底(わたのそこ)に自ずから可怜(うまし)小汀(をはま)有り。汀を尋ねて進みて、忽ち海神(わたつみ)豊玉彦之宮に到りき〕 と記す。「海神豊玉彦之宮」が「海底」にあったと明記されるのは、ここが唯一である。
 その海神の宮を、〈神代記本文〉は 「忽至海神之宮。其宮也。雉堞整頓。台宇玲瓏。〔忽ち海神之宮に至る。その宮は、雉堞整頓・台宇玲瓏(華麗な垣が整い、楼閣がかがやく)。〕と描く。 これは、丹後国風土記の「闕台晻映。 楼堂玲瓏。」に重なるものである
 遂に彦火火出見尊は、〈記〉「爾海神自出見云『此人者天津日高之御子虚空津日高矣』〔ここに海神自ら出で見て「この人は天津日高の御子、虚空津日高なり」〕、すなわち海神と対面する。
 「海神の宮」が「龍宮」と同じものだと考えられていたのは明らかである。 因みに「維基百科」(ウィキペディア中国語版/zh.wikipedia.org)が、「海宮(山幸彦與海幸彦-豊玉彦居住的宮殿)」を、龍宮城の例に加えているのは興味深い。 外から見ると、同じ範疇に入るのであろう。
《龍宮伝説》
 書記は、恐らく当時に存在したと思われる龍宮伝説の様々な変種を整理して、
 ●「彦火火出見尊は海に潜って、海底の海神の宮を訪れた
 ●「浦嶋子は、舟に乗って遠い海に浮かぶ仙界の島(蓬莱山)を訪れた
 という二つの話に選り分けたと考えられる。両者の元になった伝説がもともと混在していた結果として、上記のという類似を生んだのであろう。 書記は、海底の国の王である海神と、伝説の蓬莱山に住む仙人とが自ずから別物であることを、神学として定式化したのである。
 『丹後国風土記』は書紀の立場を遵守して、浦嶼子の行き先を蓬莱山=「海中博大之嶋〔海中(陸から遠く離れた海上)の広大な島〕としたと見られる。
 しかし、民衆レベルでは、浦嶋の子が人の世から離れて辿り着いた海の国なら、龍宮も仙界も同じであろう。 『天書』は書紀の拘りを気に留めず、通俗的な認識によって「海龍宮」の語を用いたと思われる。 書記から『天書』まではそれだけの時間の隔たりがあったのである。

【仙界】
 <wikipedia>の「龍宮」の項で、『道教の本』(学研:Books Esoteria4/1992。以下〈道教の本〉)が紹介されていた。
 その〈道教の本〉を読むと、蓬莱山などについて、 黄河が注ぐ渤海の岸に立ち「遥か東の海上を望んだとき、忽然と島影が浮かび上がることがあ」り、 「船を遣わせても、決してたどり着くことはない。いわゆる蜃気楼の類いと推察される」と述べている。
 古代の人は、その海上に蓬萊・方丈・瀛州の三山があり、仙人が住む所と思い描いた。 『山海経』〔古代の地理誌;前5世紀頃~後3世紀頃〕巻十二には、 「蓬萊山在海中上有仙人宮室。 皆以金玉之。鳥獣尽白。望之如雲。在渤海中也。〔蓬萊山、海中に在りて仙人の宮室有り。皆金玉を以て之を為す。鳥獣尽(ことごと)く白く、之を望めば雲の如し。渤海の中に在り〕。 また、『沖虚至徳真経四解』巻十二には「三神山在渤海中。諸仙人及不死之薬皆在焉。」などとある。
 〈道教の本〉は、龍宮について「三神山は、会場に浮かぶ聖域だが、深い海の底、 ないしは湖の底にも神仙の住む理想郷があるはずであるという思想から生まれたのが、龍宮」だが、 「むしろ、日本に移入されてから人口に膾炙されるようになる。いわゆる浦嶋伝説である」。
 そして、中国にあったと思われる龍宮伝説については、洞庭湖周辺の「溺れる少女を救い、その恩返しに海中の別世界に案内されて…」 という説話を「下地として、日本化したものと推察されている。」と述べる。
 それに該当する材料のひとつとして、『拾遺記』の洞庭湖の説話が複数のサイトで指摘されている。 参考のために、その原文から関係する部分を抜き出して読む。

【拾遺記】
 『拾遺記』は中国の説話を集めた書。全10巻。 作者は後秦(五胡十六国時代の国。384~417)の王嘉(おうか)。 原本は失われ、現在のものは南朝梁(502~557)の蕭綺(しょうき)が再編したものという。
 第十巻は、崑崙山・蓬萊山・方丈山・瀛洲・員嶠山・岱輿山・昆吾山・洞庭山の説話である。
《巻十:洞庭山》
洞庭山浮於水上。其下有金堂數百間。玉女居之。
〔中略〕
其山又有靈洞。入中常如於前。中有異香芬馥。泉石明朗。
〔中略〕
藥石之人入中。如行十里
迥然天清霞耀。花芳柳暗。丹樓瓊宇。宮觀異常。
乃見眾女。霓裳冰顏艷質。與世人殊別。
-邀採藥之人。飲瓊漿金液。延入璇室。奏簫管絲桐
餞令家。贈丹醴之訣
慕戀。且思其子息。卻還洞穴
燈燭導一レ前。便絕饑渇。而達舊郷
已見邑里人戶。各非故郷鄰。唯尋-得九代孫
之。
「遠祖入洞庭山藥不還。今經三百年。」
其人説於鄰里。亦失之。
洞庭山、水上に浮かび、其の下、金堂数百間有り、玉女ここに居り。
〔中略〕
其の山、又霊洞有り。中に入れば燭の前に有るが如し。中に異なる香(かほり)芬馥(よきかほり)有り。泉石明朗なり。
〔中略〕
薬石を採りし人中に入り、如(すなは)ち十里を行く。
迥然(とほく)天清く霞耀(かがや)き、花芳(かんば)しく柳暗し。丹楼、瓊宇、宮観常と異なれり。
乃(すなはち)衆女を見れば、霓裳、氷顔、艶質なること、世人と殊(こと)に別る。
薬採りし人を来(き)邀(むか)へり。瓊漿金液を以って飲み、璇室(せんしつ)に延(ひ)き入れ、簫(しょう)管糸桐を以って奏す。
餞(せん)して家に還(かへ)ら令め、丹醴の訣に之(お)いて贈れり。
慕恋を懐(おも)へ雖(ど)も、且(また)其の子息を思ひて、却(しりぞ)きて洞穴に還(かへ)る。
燈燭前に導く若(ごと)くして還れり。便(すなはち)饑渇(きかつ)絶へて旧き郷に達す。
已(すで)に邑里の人戸見れば、各(おのおの)故(ふる)き郷隣に非ず。唯九代の孫を尋ね得(う)。
之に問へば、
「遠祖洞庭山に入り、薬を採りて還らず。今三百年を経(ふ)。」と云ふ。
其の人隣里を説きて、亦(また)之(ゆ)く所を失ひぬ。
…[動] 引き入れる。
…[量詞] 柱の間を数えて家の大きさを表す。
…[形] かんばしい。[名] かおり。
芬香…よいかおり。
…[形] かんばしい。[名] かおり。
迥然…はるかに遠いさま。
柳暗花明…柳が茂ってほの暗く、花は明るく咲く春の田舎の風景。
宮観異常…宮の眺めは常ならず壮麗である。
…霓(にじ)のように美しい裳。
氷顔…「氷肌」は透き通るような清らかな肌。
…[動] 迎える。まちうける。
瓊漿…瓊の水。
金液…金の水。
…[名] まるい玉。
璇室…玉で飾った美しい部屋。
…しょう。24本が束になった笛。
糸桐…琴の別名。
…はなむけ。旅だつ人への小宴の料理、贈り物。
令還家…ここでは、家に帰れと命じたのではなく、帰りたいと言うのを認めたということであろう。
…一晩だけ醸して作った酒。
丹醴…仙酒。
…[前] ~において。
…[動] わかれる。[名] 秘伝の急所。「秘訣」。
…却の異体字。
饑渇…飢えと渇き。
郷隣…となり近所。
 〔洞庭山は水上に浮かび、その下に数百間の金堂があり、玉女がいる。
 〔中略〕 その山にはまた霊洞が有り、中に入れば燭灯が目の前に有るように明るい。中は他にはないよい香りで満ち、泉や石は明るかった。
 〔中略〕 薬石の草を採りに人が中に入り、十里を行くと、 そこは遠く天は澄み渡り、霞は耀き、花香柳暗の景色であった。丹塗りの楼閣、玉の堂宇の宮観は、見たこともないものだった。 そして多くいる女を見ると、虹色の裳、涼やかに透き通った顔、艶っぽさは、世の人からは飛び抜けていた。
 そこに薬採りの人が来て、迎えられた。宝石の水、金の水を飲み、宝石を巡らせた室に招き入れられ、簫(しょう)、琴を奏でていた。
 そして餞別のものを渡して家に帰し、仙酒を醸す秘訣を贈った。 〔玉女を〕恋い慕う思いはあったが、また故郷の我が子のことを思い、辞して洞穴を帰った。
 燭灯は、帰りもまた道を案内する如く前を照らした。そして帰りたいとの渇望から解き放たれて、ついに旧郷に到着した。
 既に村里の人家を見ても、どこも昔の隣近所ではなかった。ただ九代目の子孫を尋ね当てることができた。 聞いてみると、 「遠い祖先は薬草を採りに洞庭山に入ったが還らず、もう三百年が過ぎた。」と答えた。 その人は隣里のことを説明したが、もはや行く所はなかった。〕
《仙界は洞窟の奥》
 第十巻には崑崙山、蓬萊山などを含み、仙人伝説に纏わる山を集められたものと言える。
 洞庭山の説話においては仙界は洞窟の奥にあり、海底ではない。 また「三百年」が丹後国風土記と一致するところは興味深い。 『拾遺記』も倭国に伝わり、浦嶋子伝説の素材の一つになったのであろう。
 洞庭山の仙界では時間の進み方がごく遅くなるから、竜宮もまた仙界なのである。

まとめ
 海底の龍宮については、どちらかと言えば鉤喪失譚の発祥の地、オセアニア文化圏にルーツがあると思われる (第93回)。 それが中華文化圏の仙人の世界と融合して、浦嶋子伝説が形作られたのであろう。
 だから浦嶋子の行き先が、ある話では蓬萊山、他の話では海龍宮になっているのである。



2018.11.21(wed) [4] 詠水江浦嶋子一首

 浦嶋子を詠んだ万葉歌1740のことは、本朝神仙伝にも触れられている。 ここで精読して、丹後国ではなく「墨江に帰った」とされている問題についても検討する。

【万葉集09-1740
《題詞》
詠水江浦嶋子一首 并短歌 水江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)を詠みたる一首(ひとうた)。短歌を并(あは)せり。
《歌》
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而
釣船之 得乎良布見者 古之 事曽所念
水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日
家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓
墨吉…〈倭名類聚抄〉{摂津国・住吉郡} (資料[16])。
とほらふ…〈時代別上代〉未詳。浪のまにまに船が動揺することをいうか。
はるのひの かすめるときに すみのえの きしにいでゐて
つりぶねの とをらふみれば いにしへの ことそおもほゆる
みづのえの うらしまのこが かつをつり たひつりほこり なぬかまで
いへにもこずて うなさかを すぎてこぎゆくに
海若 神之女尓 邂尓 伊許藝趍
相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至
海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓
携 二人入居而 耆不為 死不為而
…[動] おもむく。足早にいく。
…[動] いどむ。言葉でひっかけて思う方向に仕向ける。(古訓)あつらふ。こしらふ。
あとらふ・あつらふ…[他]ハ下二 相手に誘う。頼んで思うようにさせる。
わたつみの かみのをとめに たまさかに いこぎむかひ
あひあとらひ ことなりしかば かきむすび とこよにいたり
わたつみの かみのみやの うちのへの たへなるとのに
たづさはり ふたりいりゐて おいもせず しにもせずして
永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓
告而語久 須臾者 家歸而
父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆
…(古訓) おろかなり。
告而語久…(異訓) のりてかたらく。つけてかたらく。
…(古訓) かたらふ。つく。まうす。
ながきよに ありけるものを よのなかの おろかひとの わぎもこに
かたりていはく しましくは いへにかへりて
ちちははに こともかたらひ あすのごと われはきなむと いひければ
妹之答久 常世邊 復變来而
如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常
曽己良久尓 堅目師事乎
…伝統訓は「いへらく」。
此篋…(異訓) このはこを
そこらくに…[副] 幾度も。あんなにも強く。〈私説〉「其処-有り」のク用法か。
いもがこたへらく とこよへに またかへりきて
いまのごと あはむとならば このくしげ ひらくなゆめと
そこらくに かためしことを
墨吉尓 還来而 家見跡
宅毛見金手 里見跡 里毛見金手
恠常 所許尓念久 従家出而
三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡
みとせのあひだに…(異訓) みとせのほとに。みとせのからに。
…(古訓) あひた。ま。
すみのえに かへりきたりて いへみれど
いへもみかねて さとみれど さともみかねて
あやしみと そこにおもはく いへゆいでて
みとせのあひだに かきもなく いへうせめやと
此筥乎 開而見手齒 如本 家者将有登
玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者
たなびく…[自]カ四 雲や霞の薄い層が重なった様子となってなびく。
このはこを ひらきてみてば もとのごと いへはあらむと
たまくしげ すこしひらくに しらくもの はこよりいでて とこよへに たなびきゆけば
立走 叨袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴
若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴
由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流
水江之 浦嶋子之 家地見
こいまろぶ…[自]バ四 転がって身もだえする。こゆ〔=寝転ぶ〕+まろぶ。
…[副] とみに。(古訓) たちまちに。にはかに。
若有之…(異訓) わかかりし
ゆなゆな…[名] 〈時代別上代〉「未詳。後々のちのちの意味か。」 〈私説〉「ゆ」は「行く」の語根で助詞「ゆ(経由)」に通じ、「な」は「朝な夕な」の「な」か。
たちはしり さけびそでふり こいまろび あしずりしつつ たちまちに こころけうせぬ
わかくありし はだもしわみぬ くろくありし かみもしらけぬ
ゆなゆなは いきさへたえて のちつひに いのちしにける
みづのえの うらしまのこが いへところみゆ
《常代・常世》
 少彦名神は常世に去った(第69回)。
 また、田道間守は垂仁天皇に命じられ、非時香菓(ときじくのかぐのみ)を求めて「常世国」に旅だった (第121回)。
 これらから見て、とこよは神仙の住む蓬莱山などのことである。
《告而語久》
 その次にある「父母尓 事毛告良比」の「告良比」は明らかに「かたらひ」だから、 「告而」も「かたりて」であろう。
 この会話文を後ろで受けている動詞「言家礼婆」(いひければ)との対応を考えれば、「語久」は「いはく」となる。
《歌意》
春の日の 霞める時に 墨吉すみのえの 岸に出で居て 釣船の とをらふ見れば 古の 事そ思ゆる 水の江の 浦嶋子が 堅魚釣り 鯛釣り誇り 七日まで 家にも来ずて 海界を 過ぎて漕ぎ行くに 海神わたつみの 神の乙女に たまさかに い漕ぎ向い 相とぶらひ 言成りしかば 掻き結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内の辺の 妙なる殿に 携り 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永き世に 有りける物を 世間よのなかおろか人の 吾妹子わぎもこに 語りて言はく しまらくは 家に帰りて 父母に 事も語らひ 明日のごと 吾はなむと 言ひければ 妹が答へらく 常世へに また帰り来て 今の如 逢はむとならば 此のくしげ 開くなゆめと そこらくに 固めし事を 墨吉に 還り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 怪しみと 其処に思はく 家ゆ出でて 三年みとせあひだに 垣も無く 家失せめやと 此の箱を 開きて見てば 本の如 家は有らむと 玉筪 少し開きて 白雲の 箱より出でて 常世辺に 棚引けぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ 忽ちに 心消失けうせぬ 若く有りし 皮膚はだも皺みぬ 黒く有りし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶へて 後遂に 命死にける 水の江の 浦嶋の子が 家所見ゆ
〔  春の陽が霞む時に墨吉(住之江)の岸に出て止まり、 釣船が漂うのを見れば、古のことが思われる。
――水の江の浦嶋の子が堅魚釣り、鯛釣ることを誇り、七日を経て 家にも帰らず、海境(うなさか)を過ぎて漕ぎ行くと、 海神(わたつみ)の神女に偶然遇い、漕いで神の宮に向い、 互いに言葉を交わし、話が成立したので結ばれ、常世〔仙界〕に至りました。
 海神の神の宮の中に仕切られた妙なる宮殿に、 手を携えて二人で入って住み、老いもせず死にもせずに、 永い世に住んだものを、 世間の垢にまみれた愚かな人〔である浦嶋の子〕は愛する妻に 語りました。「暫く家に帰り、 父母と物事なども語らい、その次の日の頃になったら、私はここに参りましょう」と言うと、 妹は答えて「常世に再び帰って来て、 もし今のように会おうとすれば、この櫛笥をゆめゆめ開いてはなりません」と言いました。
 そのようにしっかり固めたのに、 墨吉(住之江)に帰って家を見ても 家は見えず、里を見ても里は見えず、 怪しんで 、その場所で「家から出て 三年の間に、垣も無く家も消えた。 この箱を開いて見たら、元のように家があるかも」と思い、 玉櫛笥を少し開くと白雲が箱から出て、常世の方に向かって棚引いたので、 走り回り叫び、袖を振り身悶えして転がり、足を引きずり、忽ち心を失ないました。
 若かった皮膚は皺だらけになり、黒かった髪も白くなりました。 行く行くは息も絶え、後に遂に死んでしまいました。
――その水の江の浦嶋の子の家が見える〔ような気がする〕。 〕


【反歌/09-1741】
常世邊 可住物乎 劔刀 己之行柄 於曽也是君
…[動] 行く。[名] おこない。(古訓) おこなふ。こころ。みち。
つるぎたち…[枕] 「名」「汝が心」にかかる。「刀(な)」によるか。
おそ…形容詞「おそし」の語幹。①遅いこと。②気の利かないこと。愚かなこと。
とこよへに すむべきものを つるぎたち ながこころから おそやこのきみ

《歌意》
常世辺に 往くべきものを 剣刀 汝が心から おそやこの君
〔 仙界に行くだろうものを、あなたの心によって愚かなことになってしまったね。 〕


【墨江】
 (万)1740では、話の舞台が摂津国住之江郡になっているように読める。 その真相を探る。
《高橋虫麻呂》
 第1740歌を含む、 第九巻の173917601780178118071811の29首は、 左注に「右…高橋連蟲麻呂之歌集中出」と記されている。
 高橋虫麻呂は、奈良時代の歌人。第九巻で、各歌の題詞に出てくる年をすべて拾うと、 神亀二年〔725〕~天平宝字元年〔757〕の範囲である。第1740歌は、この期間内に詠まれたと見てよいだろう。
 さて、論文 「 高橋虫麻呂ーその閲歴及び作品の制作年次についてー」(井村哲夫;1963。以後〈井村論文〉) によれば、虫麻呂の歌は概ね製作順に収められているが、一部は抜き出して共通する類型によってまとめられている。
 特に①1738~1739「詠常総末珠名娘子」、②1740~1741「詠水江浦嶋子」、③1742~1743「見河内大橋独去娘子歌」について、 「①と②とは共に、伝説をモチーフとする作品でもあり、③もまた 「説話的色彩に富ん」だ歌(久松潜一博士『万葉集の新研究』297頁)と言え」 「この三首一群は類集的なまとまりを示している」と述べる。
 これらの歌が詠まれた土地について、同論文で①は東国、②③は「大和居住中の製作らしい」と述べる。 第1740歌が一般に「大和居住中」に詠まれたと言われるのは、一重に「墨吉尓還来而」という語句によるものであろう。
《全国の浦嶋伝説》
 それでは、この歌が詠まれた当時に、浦嶋子説話は河内郡住吉郡まで伝播していたのであろうか。
 まずは、浦嶋子伝説の全国的な広がりを探ったところ、 〈古代史の扉-浦島太郎伝説〉 というサイトが見つかった。そこに紹介された各地の浦嶋太郎伝説のうち、丹後半島を除いてそれぞれの要点を示す。
 香川県庄内半島…「浦嶋」は大浜浦など七浦の総称。地名「」もある。筋書きは標準的。
 愛知県武豊町富貴…名古屋鉄道河和線に「富貴(ふき)」駅がある。地元の人の話では、地名「富貴」は「負亀(おぶかめ)」を音読みしたことに由来するという 〔〈私見〉知多半島は全国有数のフキの産地でもあるので、これは俗説かも知れない〕。 浦嶋橋、浦嶋川あり。「龍宮神社」もあり、天長二年〔825〕に、大綿津見神を祭神として建立されたものという。
 鹿児島県揖宿郡山川町の長崎鼻〔現鹿児島県指宿市山川岡児ケ水〕龍宮神社」があり、豊玉姫が祀られている。
 長野県木曽郡上松町の寝覚の床…丹後水之江に帰った浦島太郎は、飛行自在の秘術を得てこの地までやって来たが、この地でうっかり玉筐を開いて300歳の老人になった。
 神奈川県横浜市の慶雲寺〔神奈川区神奈川本町18-2〕相模国三浦に浦島太郎の父が住んでいて、丹後の国に移って生まれたのが浦嶋太郎。 そして「太郎が20歳頃、澄(すみ)の江(与謝の筒川)から龍宮に行った」。
 沖縄県島尻郡南風原町与那覇390。ウサン嶽…「穏作根子」(ウサネコ、地元の人はウサンシーと発音)は海岸で乙姫に出会い、海の中の竜宮城に連れて行かれて楽しい時を過ごした。 帰りに渡されたのは箱ではなく紙包み。帰ってみると、すでに33世代が経っていた。 紙包みを開くと白髪が入っており、「この白髪が飛んで穏作根子の体につき、急に年をとってそこで死んでしま」った。
 浦嶋子伝説が伝わった土地はこれだけではなく、これら以外にも広く伝わっていたのは、当然であろう。 そこが海沿いであれば、土地の人によって伝説に因む場所が定められる。 もし海亀が産卵するために上がってくる海岸なら、なおさら身近に感じられたであろう。
 これらのうち、鹿児島県指宿の龍宮神社に祀られている「豊玉姫」は山幸彦と結ばれた姫だから、山幸彦海幸彦の話が混合している。 また、沖縄の「穏作根子」は、伝説が伝来してから浦嶋子の名が置き換えられたのかも知れないが、 それ以前から土着していた民話の中に「穏作根子」の名があった可能性はある。
 鉤喪失譚は、もともと大隅地域との関わりが深い (第92回)。 これらのことは、もともと九州南部から沖縄にあった海底の海神国の伝説が 〔遡れば、オセアニアから持ち込まれたか〕、浦嶋子伝説の泉源の一つであることを強く示唆する。
 もう一つ注目されるのは、横浜の慶雲寺の言い伝えに、「澄の江(与謝の筒川)」とあることである。
 万葉歌の「墨吉」が丹後国与謝郡の「澄江」ではないかという疑問については、 〈井村論文〉も「注1」において、「群書類従所収「浦嶋子伝」「続浦嶋子伝」等に「故郷澄江浦」等と見えていること」から 「「丹後・摂津両説のいずれとも私自身は決しかねている」と述べる。 ただし、「注1」の結論は「作者は住吉の貴志に立って、書物で読んだ浦嶋伝説を思ひ出し、 ここを舞台にして作者の浦嶋伝説を『創作』した」説に「興味と共感を覚える」というものである。〔後述
 これらの引用元に書かれたところを確認すると、『群書類従』巻第百三十五「浦嶋子伝」に「忽以至故郷澄江浦」、 『続浦嶋子伝記』(「承平二年壬辰〔932〕四月廿二日甲戌」)に「常遊墨江浦」 「帰去。忽到故郷墨江浦。而廻見旧里」とある。
《摂津国住吉》
 住吉大社の公式ページの 「コラム」 の「浦嶋太郎と住吉っさん」によれば、 「住吉大社の周りには、玉手箱を埋めたとされる塚で「玉手箱」という地名(現・住吉区遠里小野)や、 すぐ近くにある帝塚山古墳は「浦島太郎のお墓」という俗説が残って」いるという。
 よって、浦嶋子伝説が摂津国住吉にも存在したのは確かである。ただ、それは虫麻呂が詠む以前にはなく、 虫麻呂の詠んだ歌が発端になって生じた可能性もある。

【墨川か澄川か】
 結局、虫麻呂の歌については次の3つの可能性がある。
  虫麻呂は、実は丹後国に出かけており、与謝郡水江でこの歌を詠んだ。
  摂津国にも浦嶋伝説が存在した。
  虫麻呂が摂津国住吉で海を眺め、説話の舞台を頭の中でこの地に移した。〔前述
 虫麻呂は常陸国に在任し、武蔵国・上総国にも行ったことがある。「虫麻呂歌集」の歌はそれらの土地と、 河内・摂津で詠まれたものである。 よって、丹後国に行ったことを積極的に裏付ける材料はない。 残るは、またはである。
 ここで浦嶋子伝説を時系列で並べ、それぞれに書かれた浦嶋子の出身地と行き先を比較してみよう。  
文書可能性がある時期成立時期(推定)出身地/帰還地行き先
書紀~720710頃丹波国余謝郡管川蓬萊山
〈丹後国成立〉713713
丹後国風土記713~720頃丹後国与謝郡日置里筒川村/筒川郷蓬山
万葉1740725~757730頃?墨吉海若(わたつみ)神の宮・常世
天書790頃丹波海龍宮
浦嶋子伝800~900?丹後国水江/故郷澄江浦蓬山・蓬莱仙宮
続浦嶋子伝記932932何許人。常遊澄江浦/到故郷墨江浦・江浦蓬莱山・蓬莱山仙宮
本朝神仙伝10981098頃丹後国水江浦蓬莱
 このように並べてみると、丹後国風土記までは澄江はなく、虫麻呂の歌で墨江が初めて現れている点が注目される。 もし「澄江」が本当なら、最初から丹後国風土記にそう書かれたはずである。
 『浦嶋子伝』の頃にはこの万葉歌は、既によく知られていたと思われる。と言うのは、本朝神仙伝に「別伝万葉集にあり」と記されているからである。 だから『浦嶋子伝』は虫麻呂の歌が詠まれた後に、その中の「墨江」の影響を受け、丹後国水江に「澄江」を加えたのではないだろうか。 「澄江」の字を当てたのは地名としての確信が持てず、普通名詞にも取れるようにしたように思える。
 時代が下って『続浦嶋子伝記』の頃になると浦嶋子伝説は各地で固有化し、もはや「丹後国水江」に特定できなくなった。 よって、遂に「知何許人〔いづこの人か知れず〕になったのだろう。 ただ「澄江」については、『浦嶋子伝』を継承している。
 このように考えていくと、虫麻呂の歌は上記であると思われる。 即ち、虫麻呂は墨江津の浜に出てたたずみ、釣り人が船を漕ぎだすのを眺めていた。そのとき頭に浮かんだ浦嶋子を重ね合わせ、 伝説の舞台をこの地に移して作歌したのだろう。
 なお、浦嶋子の行き先を「龍宮」と書くのは『天書』だけである。ただ民間の説話では、海神(わたつみ)豊玉彦と習合していたのは明らかで、『天書』のみにその影響が及んだようだ。 浦嶋子伝・続浦嶋子伝記が蓬莱とするのは、これらが神仙思想の路線で書かれたためで、再び海龍宮を排除したと見られる。

まとめ
 海の民の生活においては、息子が漁に出たまま永遠に帰らないとき、 海神の宮で永遠の命を得て暮らすおとぎ話は慰めになったかも知れない。 それが、沿岸地域で浦嶋子伝説が広がる素地としてあったように思われる。 ところが、これが文字となって残されるとき、専ら道教における神仙思想の延長線上に位置づけられる。 つまりは、庶民の口誦伝承では浦嶋子の行き先は海神の宮であったが、 知識層がこの物語を字で書く時に行き先が蓬莱山に変わるのである。
 さて、虫麻呂はどのようにして浦嶋子伝説を知ったのであろうか。 虫麻呂は東海道を旅して東国に赴任したが、東海道は古くは海路であったから、虫麻呂も或いはそうしたかも知れない。 その途上に沿岸地域で触れあった人から聞いたことが考えられる()。
 あるいは、釈日本紀編者が丹後国風土記の浦嶼子を全文丸ごと引用したことからも分かるように、 どの時代であっても、人々を強く惹きつける話であった。 だから虫麻呂を含む中央の知識層に、丹後国発祥の「浦嶼子」が読まれていたことも想像し得る()。
 この歌の「海若神之宮」からは、 「常代常世」からはが伺われる。 ここにも海神伝承と仙人説話の二重性が見える。