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2018.11.13(tue) [1] 浦嶼子――丹後国風土記逸文▼ |
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〈釈日本紀〉巻十二「述義八」第十四(雄略天皇)に、『丹後国風土記』・『本朝神仙伝』・『天書』から浦嶋子伝説の引用がある。
これは、雄略天皇紀二十二年七月「丹波國余社郡管川人。瑞江浦嶋子。乗舟而釣。…」の部分の参考資料として掲載されたものである。
第一回は、「丹後国風土記曰」とされる部分を読む。 〈釈日本紀〉の原文は、『新訂増補 国史大系 第八巻』(黒坂勝美編輯。吉川弘文館;2003年。初版1932年)の「釈日本紀」 (以下『国史大系8』)による。 『国史大系8』の「凡例」には、「前田侯爵家所蔵本を原本」としたとされる。 前田侯爵家所蔵の釈日本紀については、現在『尊経閣善本影印集成27~29』 (前田育英会尊経閣文庫編・八木書店2004年)〔以下〈前田本影〉〕が出版されている。 この書は前小田家所蔵本を写真撮影したもので、その浦嶋子の部分を見ると『国史大系8』における読み取りは、前田家所蔵本にまことに忠実である。 なお、〈前田本影〉の訓点は朱書なので、卜部兼方本人ではなく前田家所蔵本の筆写者、あるいはその後加筆した人による解釈によるものと思われる。 本サイトではその訓点は採用せず、加えられた返り点は独自の解釈による。 併せて、『風土記下』(中村啓信監修訳注。角川ソフィア文庫;2015年)(以下『角川風土記下』)を参考にした。 同書もまた、参考文献に〈前田本影〉を挙げているが、いくつかの字について不一致がある。 【筒川嶼子】
『史籍要覧27』(近藤出版部;1902)によると、「注進丹後国諸庄郷保田数目録帳 正応元年〔1288〕八月」の 「与謝郡」の項に、「一 筒河保 卅四町四段五十五歩 公方御料所」とある。 〔「保」は、荘園の公認に生じた行政区画。同じく群・郷があるが、横並びの関係。〕 町村制〔1889年〕において、与謝郡菅野村・野村・本坂村を村域として「筒川村」成立。1954年に周辺3村と合併して伊根町になった。 〈神名帳〉に{丹後国/與謝郡廿座/宇良神社}があり、 比定社は「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町字本庄浜(字)141)。浦嶋神社の 公式ページによると、 「創祀年代は淳和天皇の天長二年〔825〕浦嶋子を筒川大明神として祀る。」 恐らくは、与謝郡のうち丹後半島先端部が「筒川」であろう。嶼子が帰ってきたところでは「筒川郷」と表現されるから、 一時的に行政区画「筒川郷」が存在し、後に「日置郷」に統合されたのではないかと思われる。 町村制における「日置村」は狭いが、「日置郷」はもっと広く、筒川地域を含んでいたのであろう。 《嶼子》 物語末の第一歌「美頭能睿能。宇良志麻能古賀。」〔水の江のうらしまの子が〕によれば、嶼子は「しまのこ」となる。 一方、「水江浦嶼子」は明らかに「みづのえうらのしまこ」である。 恐らくは「しまこ」が正式名、「しまのこ」は字名(あざな)という関係であろう。 〈時代別上代〉によれば、字名は「実名のほかにもっている名」で、「実名を人に知られてはならないという禁忌があって、人に知られてよい通称のアザナが別にあったのだといわれている」という。 そこで物語に入ってからは、言い伝えられた「しまのこ」を用いたと思われる。 《伊与部馬養連》 伊与部馬養については、 〈持統天皇紀〉三年〔689〕六月一日に、「以二…勤廣肆〔勤広四;後の従六位に相当〕伊余部連馬飼…〔計七名〕等一。拝二撰善言司一。」の記事がある。 「撰善言司」とは『善言』なる書の撰〔=編集〕にあたる役職である。但し、諸事典によると『善言』は未完成に終わったらしい。 さらに〈続記〉文武四年〔700〕六月甲午〔17日〕には、「勅二…直広肆〔後の従五位下〕伊余部連馬養…〔計十九名〕等一。撰二-定律令一。」 とあり、大宝律令の撰定に関わっている。 このように伊与部馬養が中央で活躍したのは689~701年頃で、恐らくその前に丹波国に「宰」として赴いていた期間に、 浦嶼子の伝説を書き留め、概ねそれと同内容のものを713年以後に丹後国風土記に収めたということであろう。 《大意》 丹後国(たにはのみちのしりのくに)風土記(ふどき)にいいます。 与謝郡(よさのこおり)日置里(ひおきのさと)、 この里に筒川村があり、 この人は日下部(くさかべ)の首(おびと)の先祖で、 名は筒川嶼子(つつかわのしまこ)といい、 為人(ひととなり)と容姿は人並み以上に麗しく、 風流なこともたぐい希で、 それが所謂水江浦嶼子(みずのえのうらしまのこ)という人です。 この言い伝えは、以前に宰(つかさ)であった伊与部(いよべ)の馬養連(うまかいのむらじ)によって記されたことと、互いにそんなに異なることはありません。 そこで、これによって概略を述べます。 長谷(はつせ)朝倉宮に知ろしめす天皇(すめらみこと)〔雄略天皇〕の御世(みよ)、 嶼子(しまのこ)は独りで小船に乗り、遠くの海に漂い出て釣をして、 三日三晩を経て一尾の魚も獲れませんでした。 その時、五色の亀が捕まりました。 心に奇異と思い、船の中に置いて、 そのまま寝ました。 すると突然女性となり、 その容姿は麗しく、誰とも比較になりませんでした。 【嶼子問曰】
浦嶋子伝説を詠んだ万葉歌の「(万)1740 神之女 かみのをとめ」に倣って、 「女娘」を「をとめ」、「神女」を「かみのをとめ」と訓むことにする。 《風雲》 〈時代別上代〉は「「就二風雲一来〔中略〕風雲何処来」(逸文丹後風土記)のような例もあり、漢詩文の影響も考えなければならない。」と述べる。 漢籍に、「風雲」の用例は極めて多い。 ●『史記』-老子漢非列伝「至二於龍一、吾不レ能レ知下其乗二風雲一而上上レ天。」 〔龍に至り、其の風雲に乗りて天に上るを知ること能(あた)はず〕 ●『芸文類衆』(唐代)巻三十四-懐旧「又詩曰:…調与金石諧。思逐風雲上。…」 わが国でも「風雲急を告げる」など、風雲を用いた慣用句が定着している。 《大意》 嶼子が 「人家は遙に遠く、 海の広がるところに、人は殆どいない。 どうして人が突然に来たのか」と尋ねると、 娘子は微咲んで 「風流な人が独り青海原を漂い、 近くで語らいたいのにそれが出来かねて、 風雲(かざぐも)につかまってやって来ましたのよ。」と答えました。 嶼子はまた、 「風雲とは、どこからやって来たのですか。」と尋ね、 娘子は 「私は、天上の仙家(せんけ)に住む人です。 お願いですから、あなたは私のことを疑いませんように。 二人で相語らうことに乗っかって、愛(いつく)しんでくださいませ。」と答えました。 こうして嶼子は、娘子が神の女だということが分かり、 恐れ疑う心は鎮まりました。 娘子はこのように語りました。 「私の心は、 あなたと共に天地が終わるまで、あなたと共に年月の尽きるところまで…。 ただ早く知りたいのは、あなたの心がそれを受け入れるか否かということです。」 嶼子は、 「どう答えたらよいのか、これ以上言葉が見つかりません。 どうしたらあなたの心に適うのでしょうか。」と答えました。 娘子は、 「あなたは、棹を廻らせて蓬山(ほうせん)〔蓬莱山〕に赴いてくださいませ。」と言い、 嶼子はそれに従い行きました。 娘子は教えて、目を閉じて眠っていなさいと命じて 意識をなくしている間に、 海の真ん中の広大な島に到着しました。 【到一太宅】
そこは一面に玉を敷いたような所で、 闕台(けつたい)は晻映(おんえい)し〔楼門は陰影あざやかで〕、 楼堂(ろうどう)は玲瓏(れいる)で〔楼台は涼しげに美しく〕、 目にその謂れを見たこともなく、 耳にも聞いたことがありませんでした。 手を取り合って緩やかに歩いて行き、 ある大邸宅の門に到りました。 娘子は、 「あなたは暫く、ここで立っていてくださいませ。」と言って、 門を開いて家の中に入りました。 間もなく七人の仕える童子が来て、 口々に 「これが亀比売(かめひめ)の夫だ。」と言い合いました。 また八人の仕える童子が来て、 口々に 「これが亀比賣の夫だ。」と言い合いました。 このとき、娘子の名前が亀比売であることを知りました。 そして、娘子が出てきました。 嶼子は、使える童子たちの事を話しました。 娘子は、 「その七人の童子は昴星(すばるぼし)です。 八人の童子は畢星(ひつぼし)です。 あなたは、怪しむことはありませんわ。」と言って、 前に立って導き、 家の中に進み入りました。 娘子の父母共に迎え、 敬い畏まって座りました。 このようにして、人の世界と仙都(せんと)の別を比べて説き、 人と神とが偶然に遇えた喜びを語りました。 そして、数々の尊い美味を薦め、 兄弟姉妹らは坏を挙げてお互いに献杯し、 隣の里の少女たちは顏を赤らめ、戯れて接待しました。 仙人の歌声は寥亮(れいりょう)で〔澄み渡り〕、 神の舞は逶進(いしん)し〔なまめかしく体をくねらせ〕、 その歓宴のさまは、 人の世をはるかに勝るものでした。 【既逮三歲】
〈時代別上代〉「たそ:誰か。「誰彼と我をな問ひそ〔中略〕」(万に二二四〇) 〔中略〕は原義のままであるが、カハタレは「暁の加波多例等枳に」(万四三二四)のように暁闇を 表す語としてかなり固定した用法を持っているらしいところをみると、 黄昏としての意もあったのではないか。」 〔万葉には「誰ぞ彼」の意味で出て来るのみだが、「カハタレ」に暁の闇の意味があるところを見ると、黄昏の意味もあったのではないか〕。 《𨒬》 ●『集韻』巻一:「𨒬:走貌」〔走るさま〕。 「走るさま」を時間に拡張すれば、「年月を経る」意味を表せないわけではないが、 『角川風土記下』は「逕」に直し、「なりぬ」と訓む。逕は「みち」の意味だが、古訓に「へて」があるので、糸偏の經に当てたものか。 しかし「逕」を空間から時間に転用する点は「𨒬」も同じで、大差はない。 ここでの文意は「三歳(みとせ)にいたる」だと見られる。書紀だとこの場合は、「逮于三年」(垂仁天皇紀)、「逮于七日七夜」(神功皇后紀)など「逮」が多用される。 記にも、「当レ旦日者、逮二淡道嶋一」(仁徳天皇段)などが見られる。 よって、「𨒬」は「逮」を誤写したと見るのが妥当であろう。 《䢚》 『国史大系8』では「辶+更」で、〈前田本影〉を見ると、この読み取りは正確である。 この字も『諸橋大漢和』にあり、意味を「うさぎみち」とする。 ユニコードでは一点しんにょうで、「䢚〔U+489A〕」である。 䢚の異体字には、𨁈・迒がある。やはり古い辞書を見る。 ●『集韻』巻四:「䢚・𨁈:兔逕。或从レ足。」〔ウサギのみち。或は足に従う。〕 ●『集韻』巻三:「迒・𨁈:說文獸跡也。或作レ𨁈。」〔説文:獣の跡。或は𨁈に作る。〕 「うさぎみち」では全く意味が通じないので、前田本に至るまでに「匳」〔こばこ〕あるいは、 「匣」〔くしげ;原意は櫛を入れる箱〕、 「匧」〔篋の異体字〕の何れかのうちから誤写されたと思われる。 『角川風土記下』は「匣」を用いている。 《くしげ・はこ》 浦嶋子伝説を詠んだ(万)1740には、一つの歌の中に「くしげ」と「はこ」が共存している。 すなわち、「此篋 開勿勤常 このくしげ ひらくなゆめと」と「此筥乎 開而見手齒 このはこを ひらきてみてば」。 さらに調べると、筥については「(万)1175 足柄乃 筥根飛超 あしがらの はこねとびこえ」〔箱根飛び越え〕によって、 「筥=ハコ」は確定する。したがって、実質的に同じものを表す二語を、五・七の字数に合わせて使い分けたものと見られる。 なお篋については、「(万)0522 [女+感]嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 をとめらが たまくしげなる たまくしの」がある。 歌意から玉櫛を入れておく箱を意味し、文字数から見ても「たまくしげ」である。 ところが、「(万)0100 荷向篋乃 荷之緒尓毛 のさきのはこの にのをにも」では、同じ篋を「はこ」と訓む。 おそらく「くしげ」、「はこ」ともにごく身近な語であって、両者を特に区別する意識もなかったのだろう。 『丹後国風土記』逸文に戻ると、第三歌に「たまくしげ」が出てくるから、玉䢚は結局「たまぐしげ」であろう。 《大意》 こうして、日の暮れたことも知らず、 ただ黄昏の時となり、 群集した仙呂(せんりょ)たちは次第に退出して散りました。 そして娘子独りが留まり、 双肩の袖が触れあって、 夫婦の理(ことわり)を果たしました。 そのうちに、嶼子が旧い郷土の人を残して、 仙都に遊ぶこと 既に三年に及び、 突如、郷土を懐しむ心が起り、 独り親族が恋しくなりました。 そのようなわけで、吟哀(ぎんあい)〔悲しみのうめき声〕を頻繁に放ち、 嘆く声は日に日に増しました。 娘子は、 「この頃夫であるあなたの顔を拝見すると、 いつもと異なります。 どうかその志を聞かせてくださいませ。」と尋ね、 嶼子は、このように答えました。 「古(いにしえ)の人は言ったものだ。 『成人しない人は、故郷を懐かしく思う。 死にゆく狐は山に赴く。』と。 私は、あり得ない話だと思っていたが、 今になっては、そうだと信じるようになった。」 娘子は 「あなたは帰りたいとお思いですか。」と尋ね、 嶼子は 「私は近くは親族や知人の郷土を離れ、 遠くは神仙の仙境に入り、 故郷を慕う気持ちを我慢できなくなった。 そこで申し上げます。軽慮するに、 暫く元の郷土に帰ることを所望し、 両親に拝します。」と答えました。 娘子は涙を拭い、 嘆いて言いました。 「私の心は金や石と同じになりました。 共に万(よろず)の年を契りました。 どうして郷里を偲ぶのですか。 私を棄て置くのは、ひと時だけにしてください。〔=必ず帰ってきてください〕」 そして手を取り合ってあちこち歩き回り、 談らって悲しみにくれました。 遂に、袖を引かれながら退出することになりました。 分かれ道に着き、 娘子の父母、親族はただ別れを悲しみ見送りました。 娘子は玉櫛笥(たまくしげ)を手に取って嶼子に授け、 「あなたがいつか遂に私を棄てることができなくなって、慕い尋ねようとすることが有り得るなら、 この箱を堅く握りしめて、ゆめゆめ開けて見ることのないように。」と言い、 互いに分かれて船に乗りました。 そして教えて、目を閉じて眠っていなさいと命じました。 【到本土筒川郷】
たちまちにして故郷の筒川郷に到着し、 村々を眺めました。 人や物は移り変わり、 昔の痕跡もありません。 そこで里人に 「水江浦嶼子の家人は、今どこに住んでいますか。」と尋ねると、 里人はこう答えました。 「あなたはどこの人か。 旧く遠くなった人のことを問うとは。 私が聞くところでは、 古老や村人の言い伝えでは 先の世に水江浦嶼子がいて、 独りで青海原に遊び、 再び帰って来なかったと言う。 今、三百年余りを経たことを、 どうして突然聞くのかのか。」 こうして道を歩くうちに心は廃れて、 郷里を巡っても、 独りの親族にも遇えませんでした。 既に旬日からひと月に至り、 箱を撫でると心が動き、神の女のことを思いました。 そして、嶼子は去る日の契りを忘れて、 突然何気なく玉櫛笥を開けてしまいました。 すると、これを見る間もなく、 芳蘭(ほうらん)の何かが風雲(かざぐも)に引かれて、 大空に飛んでいきました。 嶼子はそれを見て、必ず帰ると契りしたことに背き、 再び会い難いことに気付きました。 そして頭を振りながら当てどなく、 涙に咽んで歩き回りました。 【哥曰】
『国史大系8』頭注に「多以下十字、六人部氏云、蓋多麻久志気波都賀爾安気志之訛」 〔多以下の十字は、六人部氏に伝わる「多麻久志気波都賀爾安気志」の訛りであろう〕と述べる。 「六部氏」を、〈姓氏家系大辞典〉は「六人部 ムトリベ ムトベ:職業部の一なるべし。但し如何なる職に従事せしか詳らかなら」ず。 「丹波の六人部:天田郡に六部郷ありて和名抄に見え」などと述べる。 「頭注」は、原形が「たまくしげはつかにあけし〔玉櫛笥はつかに開けし〕」であったというが、 その前後は原形が無傷で残っているのに、この部分だけ変形したとは考えにくい。 『角川風土記下』は「多由万久母波都賀末等比志」、 すなわち「女久女」は「万久母」となり、「末等」の後に「比志」が挿入されている。 この形の出所は示されていないが、これまで多くの人々を悩ませてきたことが伺われる。 とはいえ、歌意から考えれば「多由女久女(多由万久母)」が本来「多麻久志義」であった可能性は十分ある。 ある写本においてこの部分が虫食いなどで損傷していて、それを何とか筆写した結果がこれなのかも知れない。 ここで「虫食い」を持ち出すこともどうかとは思うが、歌謡は全体に平易な言葉ばかり使われるので、少なくともここだけが難解な言葉ということはないだろう。 もし『角川風土記下』のように「末等」が「賀末比志」だとすれば、「はつかまとひし」は「廿日纏ひし」という言葉として成り立つ。 「廿日」が、「旬」(一か月の三分の一)・「月」の平均値にあたるのは注目される。「纏」は通常「まつふ」だが、〈時代別上代〉によると「マトフ・マトハルの形も使われている」。 ただ、〈時代別上代〉に「はたとせ(廿年)」は載るが、「はつか」はない。〔つまり、ハツカは実例が見つかっていない〕。 もし「十日;とをか」に準じて「廿日;はたか」が「はつか」になったとすれば、実はこの「波都賀」がその実例なのかも知れない。 《大意》 そして涙を拭って、 歌を詠みました。 ――常世辺に 雲起ち渡る 水の江の 浦嶼の子が 琴持ち渡る 神の女は遙かに飛び、 芳しい音にのせて歌を詠みました。 ――倭辺に 風吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居り友よ 我を忘らすな 嶼子は更に乞い望むことはできず、 歌に詠みました。 ――子等に恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 浪の音(なみのと)聞こゆ 後に時の人は、追加して歌を詠みました。 ――水の江の 浦嶼の子が 玉篋(たまくしげ) 開けず有りせば 復(また)会はましを 常世辺に 雲[辺に雲]起ち渡る たゆめくめ〔玉篋?〕 はつかまと〔ひし〕〔廿日纏ひし?〕 吾れそ哀しき 《第一歌》 「等許」を「琴」と読むのは物語に合わないが、独立歌としてはこの方が優れている。 一方、物語に合致させるためには、嶼子は女娘と語らうから「言持つ」となる。 しかし、「言持ち」からは「宰」(みこともち)を派生するように、予め用意された大切な言葉を持って行く語感があるので、よく吟味するとしっくり来ない。 この疑問を合理的に解消するとすれば、 ●海中(わたなか)に船を浮かべて、風流の人が琴を弾く別伝があった。 ●筒川嶼子は、実は日置郷の「こともち」という役人で、「浦嶼の子がこともち」とは、「浦嶼の子と云うこともち」を意味する。 という二つの考えが思い浮かぶが、今のところ想像の域を出ない。 《第二歌》 第一歌と第二歌には対称性があり、「常世辺」と「倭辺」、「雲起つ」と「雲離る」、「渡る」と「退く」が対応する。 「倭辺」は、やまとの国から船を漕ぎだす浜が思い浮かぶ。ここでは丹後国が、広く「やまと」の範囲に含まれるということであろう。 《第三歌》 「遙飛」からは、幻想的な物語として本人が飛んできたと読める。 「芳音」からは本人は仙境にいて、風の音に乗せて歌を送ったと読める。どのように読むかは、読み手の想像に任される。 《第四歌》 「まし」は反実仮想の助詞で、「開けず有りせばまた会はましを」は、「開けずにおけば、また会えたものを」の意。 前半は文字数が五七七五七〔但し最後は字余り〕で、意味も完結するのでこれだけで短歌として成り立っている。 第四歌は二首の歌を繋いだものかも知れない。 【成立時期】 丹後国の成立は、和銅六年〔713〕であった (第197回)。 各国の史籍(地誌)言上の詔も同じ和銅六年に発せられ、各国で風土記が編纂された (資料[13])。 『海部氏勘注系図』割注の「丹後国風土記逸文」は国号「丹後国」について、 「丹後国。元与二丹波国一合為二一国一。 于時日本根子天津御代豊国成姫天皇御宇。 詔。割二丹波国五郡一。置二丹後国一也。 所三-以号二丹波一者…」 〔丹後国、元丹波国と合はせて一国を為せり。元明天皇の御宇〔707~715〕、 詔したまひて丹波国の五郡を割きて丹後国を置く。丹波と号(なづ)けらるるゆゑは…〕と述べる。 続けて書かれるのは「丹波国」のことばかりだから、『丹後国風土記』が書かれたのは分割して日が浅い時期だと思われる。 注目されるのは初めに「日置里」と書かれていることである。 里の表記は基本的に701年に郷になった。 「里」は、まだ記憶に新しかったのであろう。 ところが、終わりの方で嶼子は「筒川郷」に帰ってきたと書かれる。 <wikipedia>によると、隠岐国では大量の木簡によって、714~740年の間には「郡-郷-里」の階層があったというから、 丹後国では逆に「郡-里-郷」の階層だったのだろうか。 或いは、既に筒川郷が日置郷から分離独立していたか。 何れにしても、筒川郷が「郷」であった現実を、帰って来た場面には反映させたと思われる。 それに対して嶼子が出かけたときは非常に古い過去である。 よって、敢て古い地理区分「筒川村は日置里の一部であった」を適用したのではないだろうか。 書き手が何気なく混同して書いただけのことを、深く考えすぎているのかも知れない。しかし、 国郡郷に好字をつけて報告させることが史籍言上の詔の根幹だから、 それに応えた風土記において里・郷の表現をいい加減にしたとは思えないのである。 まとめ さて、丹後風土記逸文には、最後の煙を浴びて白髪の老人になる件がない。『本朝神仙』、万葉歌にはそれがある。 風土記逸文はこれらより古い形なのか。それとも最後の部分が省かれたのか。 ここで要になるのは、「芳蘭の体が飛び翔けた」が何を意味するかである。 中には、これを「嶼子の若さが風雲とともに飛び去った」とする解釈を見る。「瞬時に白髪の老人になる」という一般的な筋書きに馴染んでいれば、そのように読んでも不思議はない。 しかしその前に、「未だ之を見ぬ間に」と書いてある。ということは、玉匣の中には見ることができる実体が入っていたのである。 思うに、亀比売は最初に風雲にぶら下がってやって来た。再び風雲にぶら下がって飛んでいくのであるから、 玉匣に入っていたのは亀比売ではなかったのか。むしろ、そのように読まれ得ることを意識して書かれたように思われる。 だから、上空にいた亀比売は嶼子の歌を聞き、返歌することができたのである。 こう読めばすっきりする。 そうして、万葉歌4346の「白雲之 自箱出而」〔白雲が箱から出て〕 「若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴」〔若かった皮膚が皺になり、黒い髪が白くなった〕 部分は、後になって締めくくりの部分を変更して加えられたのではないかと思えるのである。 |
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2018.11.16(fri) [2] 浦嶋子――本朝神仙伝逸文▼▲ |
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『釈日本紀』巻十二の「浦嶋子」の項には『丹後国風土記』の引用に続けて、『本朝神仙伝』から「浦嶋子」の部分が引用される。
『本朝神仙伝』は、わが国で最初の神仙説話集とされる。平安時代後期の承徳二年〔1098〕頃成立。 著者の大江匡房(おおえのまさふさ)は、公卿、儒学者、歌人で、長久二年〔1041〕生まれ、 天永二年〔1111〕に没した。 37人の伝記からなるが、現存するのは31人の伝記だという。 平安後期の書であることから、ここでは中古語による訓読を試みた。 訓読にあたっては源氏物語などの文学の表現法や、 現代語古語類語辞典(芹生公男;三省堂。以下〈現古〉)を参考にした。 【浦嶋子】
平安後期には、「いはく」がイハク、「かへる」がカウェルなどと発音されていたことが、 明らかになっている (「仮名遣いの歴史」など)。 しかしこれらは歴史的な変遷の一断面であり、現代仮名遣いで表しきれるほど固定的ではないので、歴史的仮名遣いに統一した。 「ん」は当時は存在しない文字で平安文学では表示されなかったが、釈日本紀(鎌倉時代)では基本的に「ム」が用いられているので、 便宜的に「む」を用いた。 《閑色無双》
漢和辞典類に熟語「閑色」はない。容姿を「~色」で表す熟語としては「麗色」、「容色」が見られるが種類は比較的少ない。 そもそも「閑」の典型的な使い方は「閑散としている」「閑職に追いやられた」などで、単独で容姿に用いた例はなかなか見つからない。 そして『諸橋大漢和』に、やっと「みやびやか。うるはしい」が見つかった。その文例として挙げられた「[曹植、美女篇]美女妖且閑」を確認すると、 『太平御覧』-美婦人下に「曹植『美女篇』曰:美女妖且閑」とあった。 『諸橋大漢和』はまた、熟語として 「閑雅:①しづかでしとやか。」「閑媚:しとやかでうつくしい。」「閑麗:みやびやかでうるはしい。」を挙げる。 女性の属性としての「閑」は、原義の「ひま」を「おとなしい、淑(しと)やか、物静か」に拡張したものだろう。 これが雅・麗・美などと共に使われた結果、「閑」にそれらの意味合いが染み移ったと見られる。 だから、「閑」の一字だけを使って「麗」の意味で使われることは少ない。 「閑色無双」が確かならば、その僅かな例のひとつと言えるが、「麗色」「容色」の誤写である可能性は否定できない。 《被婦引級》 「被婦引級」は、直感的には意味が分かりづらい。試しに「google翻訳」で英訳すると、"Guided by women."となった。 「被」は受け身を表す助動詞であるが、『漢辞海』によると、前置詞にも使う。 ●被…[前置詞] 動作主を表す。前置詞句「被レ婦」に続く動詞は、そのままで受け身になる。西晋〔265~316〕ごろからの用法。 次の「引級」という熟語は日中の各辞書に見えず、〈中国哲学書電子化計画〉による検索でも一件もない。 「級」の意味のひとつに、「首」〔=あたま〕があるので、これが使えるかも知れないと思って調べてみた。 すると、これは「首級」から転じたもので、戦場での論功行賞の証拠として提出する「首」の「級」(格付け)に由来する。 これでは亀姫が浦嶋子の首を切り取って持って行くという物騒なことになり、とても使えない。 『丹後国風土記』では、亀比売が浦嶼子の袂(そで)を引く場面がでてくるから、「級」が「袂」あるいは「袖」の誤写か。 「被レ婦引レ袂」〔婦によって袂(袖)を引かれる〕なら、ごく自然である。 《失步》 今のところ「失歩」を見出し語に挙げる辞書を見ない。 〈百度百科〉によると「失步 釈義:①指下該レ去而没上レ有二去成一。 ②乱了步伐。③畏レ避二-不前二。 ④失二其故步一。比下-喩摹二-仿〔=模倣〕別人一不レ成、反而喪上二-失固有的技能一。」 〔 ①去〔=行〕く該(べ)くして、成らず没す。 ②整然とした歩みが乱れてしまう。「了」は完了の助詞。「步伐」は軍隊の行進から転じて規則正しい足並みを意味する。 ③恐れて、前進を避けるか否か迷う。 ④故步〔=固有の技能〕を失う。人まねして失敗し、せっかく自分が持っていた技量を生かせなかったことの譬え。 〕 大まかに言えば、これまでの「歩み、実績、行動」を失うことである。 《邯鄲》 ここでは「邯鄲」を、唐代の小説『枕中記』に載る故事「邯鄲の枕」の譬えに用いたものと見られる。 『枕中記』の粗筋は、「盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、 富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱(こうりょう)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であった」 (〈デジタル大辞泉〉)というものである。 《如失步於邯鄲》 よって「邯鄲に失步するが如し」とは、「長年経験したことが、実は一瞬の夢として失われたと描く『邯鄲の夢』のようなものだ」という意味であろうと思われる。 《通得》 各種の辞書を見ても、熟語「通得」はない。可能の助動詞(~うる)の場合は、「得通」の語順になる。 「百度百科」で検索すると、会社名などの固有名詞であった。その中に「沖縄県糸満市通得川」があったが、これは「報得川」の誤り。 〈中国哲学書電子化計画〉で、文章中に出てくる「通+得」を探すと、分かりやすい例が一つあった。 ●『後漢書』-列伝/李王鄧来:「会事発覚。通得亡走」〔たまたま事があって発覚し、あまねく得て逃亡した〕。 「通得」は、悪事が露見したことを「すべて悟った」意味と見られる。 よって「通得長生」の「通」は副詞で、「あまねく」かと思われる。やや意味が通りにくいきらいがあるが、 「全くもって」というような強調の言葉と受け取ればよいのかも知れない。 仮に誤写だとすれば、「遂」に置き換えると字形も類似し、文の流れから見ても極めて自然である。 【大意】 本朝神仙伝に言う。 浦嶋の子は、 丹後の国の水の江浦の人です。 昔、釣をして大きな亀を得、 女性に変成しました。 それは麗色無双の人で、 すぐに夫婦となりました。 妻に袖を引かれて 蓬萊に到り、 まことに長い命を得ました。 銀の楼台、金の闕門(けつもん)、 錦の帳(とばり)、文繡の壁に、 仙薬は随風〔仙界の習いのまま〕に、 綺(あや)なる神饌(しんせん)〔食物〕に日を重ねて、 住むこと三年。 春月は初めから温暖で、 群鳥は和して鳴き、 煙霞(えんか)は瀁蕩(ようとう)し〔霞に覆われ〕、 花樹は競って咲きました。 帰りたいが、どうなのだろうと慮りてこれを問うと、 妻は、 「列仙の住処(すみか)は、 一度去れば再び来ることは難しいのです。 欲しいままにして故郷に帰れば、 過ぎし日々はもうないと定まります。」と言いました。 浦嶋の子は、親族、旧知の人を訪れようと思い、 強いて帰ることを促しました。 妻は一つの箱を与え、 「ゆめゆめこの箱を開いてはなりません。 もし開かなければ、 自ずと再び逢うことができるでしょう。」と言いました。 浦嶋の子は故郷に到りました。 その林園は零落し、 親族、旧知の人は悉く亡びていました。 人に逢ってこれを問うと、 その人は 「昔、浦嶋の子は仙化して去ったと聞く。 それから次第に時が過ぎて、百年になる。」 と言いました。 ここで恨む様は、邯鄲に過去の歩みを失った〔邯鄲の夢の話の〕ようであり、 心中大いに怪しみました。 櫛笥を開いて見ると、 その時浦嶋の子は、突然に衰老皓白(すいろうこうはく)〔老衰白髪〕の人に変わり、 そのままどこへ行くこともなく死にました。 事は別伝として、万葉集に併せて見えます。 今は概略を記しました。 まとめ 「引級」は、確実に誤写であろう。 ここでは、丹後国風土記に合わせて一応「引袂」としたが、「引導」、「引率」でも成り立つ。 ただ、「袂」の方が字形が似る。 「閑色」「通得」にもやや疑義が残るが、全体としては概ね合理的な訓みが可能である。 なお〈前田本影〉を見ると、『国史大系8』による読み取りに誤りはない。 仮に誤写があったとすれば、前田本以前の段階である。 さて、『本朝神仙伝』では玉櫛笥を開けた後は「衰老皓白」となり、万葉集に見合ったものになっている。 この部分の『丹後国風土記』との相違については、前回考察した通りである。 |
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2018.11.18(sun) [3] 浦嶋子――天書▼▲ |
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〈釈日本紀〉の「浦嶋子」の項には、最後に『天書』巻八からの引用が載る。
<wikipedia>によれば、『天書』(てんしょ・あまつふみ・あめのふみ)は、奈良時代末期の藤原浜成の撰とされる編年体の歴史書。 【浦嶋子】
ここでは、「海龍宮」だが、書記は「蓬萊山」、丹後国風土記は「蓬山」、万葉歌は「海若神之宮 わたつみのかみのみや」とする。 書記とは日付が一致し、「丹後国」成立前の古い「丹波国」を用いているから書紀を下敷きにしている。 しかし、書記の「蓬萊山」とは不一致である。 恐らくは、別系統の伝説が混合したと思われる(別項)。 《大意》 二十二年七月、 丹波(たには)の人、水江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)は海龍宮(わたのたつのみや)に入り、 神仙になりました。 【海龍宮】 かつて山幸彦も、亡くした鉤(つりばり)を求めて海底の国を訪れた。 《山幸彦海幸彦伝説》 山幸彦海幸彦伝説において、彦火火出見尊は(記では「火遠理命」※)は、「海神之宮」を訪れる (第90回)。 ※…さまざまな別名がある。第87回で整理した。 〈神代紀〉(兄火闌降命自有海幸段)一書(1)において、弟の彦火火出見尊は 「海底自有二可怜小汀一。乃尋レ汀而進。忽到二海神豊玉彦之宮一。」 〔海底(わたのそこ)に自ずから可怜(うまし)小汀(をはま)有り。汀を尋ねて進みて、忽ち海神(わたつみ)豊玉彦之宮に到りき〕 と記す。「海神豊玉彦之宮」が「海底」にあったと明記されるのは、ここが唯一である。 その海神の宮を、〈神代記本文〉は 「忽至二海神之宮一。其宮也。雉堞整頓。台宇玲瓏。」 〔忽ち海神之宮に至る。その宮は、雉堞整頓・台宇玲瓏(華麗な垣が整い、楼閣がかがやく)。〕と描く。 これは、丹後国風土記の「闕台晻映。 楼堂玲瓏。」に重なるものである〔Ⓐ〕。 遂に彦火火出見尊は、〈記〉「爾海神自出見云『此人者天津日高之御子虚空津日高矣』」 〔ここに海神自ら出で見て「この人は天津日高の御子、虚空津日高なり」〕、すなわち海神と対面する。 「海神の宮」が「龍宮」と同じものだと考えられていたのは明らかである。 因みに「維基百科」(ウィキペディア中国語版/zh.wikipedia.org)が、「海宮(山幸彦與海幸彦-豊玉彦居住的宮殿)」を、龍宮城の例に加えているのは興味深い。 外から見ると、同じ範疇に入るのであろう。 《龍宮伝説》 書記は、恐らく当時に存在したと思われる龍宮伝説の様々な変種を整理して、 ●「彦火火出見尊は海に潜って、海底の海神の宮を訪れた」 ●「浦嶋子は、舟に乗って遠い海に浮かぶ仙界の島(蓬莱山)を訪れた」 という二つの話に選り分けたと考えられる。両者の元になった伝説がもともと混在していた結果として、上記のⒶという類似を生んだのであろう。 書記は、海底の国の王である海神と、伝説の蓬莱山に住む仙人とが自ずから別物であることを、神学として定式化したのである。 『丹後国風土記』は書紀の立場を遵守して、浦嶼子の行き先を蓬莱山=「海中博大之嶋」〔海中(陸から遠く離れた海上)の広大な島〕としたと見られる。 しかし、民衆レベルでは、浦嶋の子が人の世から離れて辿り着いた海の国なら、龍宮も仙界も同じであろう。 『天書』は書紀の拘りを気に留めず、通俗的な認識によって「海龍宮」の語を用いたと思われる。 書記から『天書』まではそれだけの時間の隔たりがあったのである。 【仙界】 その〈道教の本〉を読むと、蓬莱山などについて、 黄河が注ぐ渤海の岸に立ち「遥か東の海上を望んだとき、忽然と島影が浮かび上がることがあ」り、 「船を遣わせても、決してたどり着くことはない。いわゆる蜃気楼の類いと推察される」と述べている。 古代の人は、その海上に蓬萊・方丈・瀛州の三山があり、仙人が住む所と思い描いた。 『山海経』〔古代の地理誌;前5世紀頃~後3世紀頃〕巻十二には、 「蓬萊山在二海中一上有二仙人宮室一。 皆以二金玉一為レ之。鳥獣尽白。望レ之如レ雲。在二渤海中一也。」 〔蓬萊山、海中に在りて仙人の宮室有り。皆金玉を以て之を為す。鳥獣尽(ことごと)く白く、之を望めば雲の如し。渤海の中に在り〕。 また、『沖虚至徳真経四解』巻十二には「三神山在二渤海中一。諸仙人及不死之薬皆在焉。」などとある。 〈道教の本〉は、龍宮について「三神山は、会場に浮かぶ聖域だが、深い海の底、 ないしは湖の底にも神仙の住む理想郷があるはずであるという思想から生まれたのが、龍宮」だが、 「むしろ、日本に移入されてから人口に膾炙されるようになる。いわゆる浦嶋伝説である」。 そして、中国にあったと思われる龍宮伝説については、洞庭湖周辺の「溺れる少女を救い、その恩返しに海中の別世界に案内されて…」 という説話を「下地として、日本化したものと推察されている。」と述べる。 それに該当する材料のひとつとして、『拾遺記』の洞庭湖の説話が複数のサイトで指摘されている。 参考のために、その原文から関係する部分を抜き出して読む。 【拾遺記】 『拾遺記』は中国の説話を集めた書。全10巻。 作者は後秦(五胡十六国時代の国。384~417)の王嘉(おうか)。 原本は失われ、現在のものは南朝梁(502~557)の蕭綺(しょうき)が再編したものという。 第十巻は、崑崙山・蓬萊山・方丈山・瀛洲・員嶠山・岱輿山・昆吾山・洞庭山の説話である。 《巻十:洞庭山》
第十巻には崑崙山、蓬萊山などを含み、仙人伝説に纏わる山を集められたものと言える。 洞庭山の説話においては仙界は洞窟の奥にあり、海底ではない。 また「三百年」が丹後国風土記と一致するところは興味深い。 『拾遺記』も倭国に伝わり、浦嶋子伝説の素材の一つになったのであろう。 洞庭山の仙界では時間の進み方がごく遅くなるから、竜宮もまた仙界なのである。 まとめ 海底の龍宮については、どちらかと言えば鉤喪失譚の発祥の地、オセアニア文化圏にルーツがあると思われる (第93回)。 それが中華文化圏の仙人の世界と融合して、浦嶋子伝説が形作られたのであろう。 だから浦嶋子の行き先が、ある話では蓬萊山、他の話では海龍宮になっているのである。 |
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2018.11.21(wed) [4] 詠水江浦嶋子一首▲ |
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浦嶋子を詠んだ万葉歌1740のことは、本朝神仙伝にも触れられている。
ここで精読して、丹後国ではなく「墨江に帰った」とされている問題についても検討する。
【万葉集09-1740】 《題詞》
少彦名神は常世に去った(第69回)。 また、田道間守は垂仁天皇に命じられ、非時香菓(ときじくのかぐのみ)を求めて「常世国」に旅だった (第121回)。 これらから見て、とこよは神仙の住む蓬莱山などのことである。 《告而語久》 その次にある「父母尓 事毛告良比」の「告良比」は明らかに「かたらひ」だから、 「告而」も「かたりて」であろう。 この会話文を後ろで受けている動詞「言家礼婆」(いひければ)との対応を考えれば、「語久」は「いはく」となる。 《歌意》
【反歌/09-1741】
《歌意》
【墨江】 (万)1740では、話の舞台が摂津国住之江郡になっているように読める。 その真相を探る。 《高橋虫麻呂》 第1740歌を含む、 第九巻の1738~1760、 1780~1781、 1807~1811の30首は、 左注に「右…高橋連蟲麻呂之歌集中出」と記されている。 高橋虫麻呂は、奈良時代の歌人。第九巻で、各歌の題詞に出てくる年をすべて拾うと、 神亀二年〔725〕~天平宝字元年〔757〕の範囲である。第1740歌は、この期間内に詠まれたと見てよいだろう。 さて、論文 「 高橋虫麻呂ーその閲歴及び作品の制作年次についてー」(井村哲夫;1963。以後〈井村論文〉) によれば、虫麻呂の歌は概ね製作順に収められているが、一部は抜き出して共通する類型によってまとめられている。 特に①1738~1739「詠常総末珠名娘子」、②1740~1741「詠水江浦嶋子」、③1742~1743「見河内大橋独去娘子歌」について、 「①と②とは共に、伝説をモチーフとする作品でもあり、③もまた 「説話的色彩に富ん」だ歌(久松潜一博士『万葉集の新研究』297頁)と言え」 「この三首一群は類集的なまとまりを示している」と述べる。 これらの歌が詠まれた土地について、同論文で①は東国、②③は「大和居住中の製作らしい」と述べる。 第1740歌が一般に「大和居住中」に詠まれたと言われるのは、一重に「墨吉尓還来而」という語句によるものであろう。 《全国の浦嶋伝説》 それでは、この歌が詠まれた当時に、浦嶋子説話は河内郡住吉郡まで伝播していたのであろうか。 まずは、浦嶋子伝説の全国的な広がりを探ったところ、 〈古代史の扉-浦島太郎伝説〉 というサイトが見つかった。そこに紹介された各地の浦嶋太郎伝説のうち、丹後半島を除いてそれぞれの要点を示す。
これらのうち、鹿児島県指宿の龍宮神社に祀られている「豊玉姫」は山幸彦と結ばれた姫だから、山幸彦海幸彦の話が混合している。 また、沖縄の「穏作根子」は、伝説が伝来してから浦嶋子の名が置き換えられたのかも知れないが、 それ以前から土着していた民話の中に「穏作根子」の名があった可能性はある。 鉤喪失譚は、もともと大隅地域との関わりが深い (第92回)。 これらのことは、もともと九州南部から沖縄にあった海底の海神国の伝説が 〔遡れば、オセアニアから持ち込まれたか〕、浦嶋子伝説の泉源の一つであることを強く示唆する。 もう一つ注目されるのは、横浜の慶雲寺の言い伝えに、「澄の江(与謝の筒川)」とあることである。 万葉歌の「墨吉」が丹後国与謝郡の「澄江」ではないかという疑問については、 〈井村論文〉も「注1」において、「群書類従所収「浦嶋子伝」「続浦嶋子伝」等に「故郷澄江浦」等と見えていること」から 「「丹後・摂津両説のいずれとも私自身は決しかねている」と述べる。 ただし、「注1」の結論は「作者は住吉の貴志に立って、書物で読んだ浦嶋伝説を思ひ出し、 ここを舞台にして作者の浦嶋伝説を『創作』した」説に「興味と共感を覚える」というものである。〔後述★〕 これらの引用元に書かれたところを確認すると、『群書類従』巻第百三十五「浦嶋子伝」に「忽以至二故郷澄江浦一。」、 『続浦嶋子伝記』(「承平二年壬辰〔932〕四月廿二日甲戌」)に「常遊二墨江浦一。」 「帰去。忽到二故郷墨江浦一。而廻二見旧里一。」とある。 《摂津国住吉》 住吉大社の公式ページの 「コラム」 の「浦嶋太郎と住吉っさん」によれば、 「住吉大社の周りには、玉手箱を埋めたとされる塚で「玉手箱」という地名(現・住吉区遠里小野)や、 すぐ近くにある帝塚山古墳は「浦島太郎のお墓」という俗説が残って」いるという。 よって、浦嶋子伝説が摂津国住吉にも存在したのは確かである。ただ、それは虫麻呂が詠む以前にはなく、 虫麻呂の詠んだ歌が発端になって生じた可能性もある。 【墨川か澄川か】 結局、虫麻呂の歌については次の3つの可能性がある。 ① 虫麻呂は、実は丹後国に出かけており、与謝郡水江でこの歌を詠んだ。 ② 摂津国にも浦嶋伝説が存在した。 ③ 虫麻呂が摂津国住吉で海を眺め、説話の舞台を頭の中でこの地に移した。〔前述★〕 虫麻呂は常陸国に在任し、武蔵国・上総国にも行ったことがある。「虫麻呂歌集」の歌はそれらの土地と、 河内・摂津で詠まれたものである。 よって、①=丹後国に行ったことを積極的に裏付ける材料はない。 残るは②、または③である。 ここで浦嶋子伝説を時系列で並べ、それぞれに書かれた浦嶋子の出身地と行き先を比較してみよう。
『浦嶋子伝』の頃にはこの万葉歌は、既によく知られていたと思われる。と言うのは、本朝神仙伝に「別伝万葉集にあり」と記されているからである。 だから『浦嶋子伝』は虫麻呂の歌が詠まれた後に、その中の「墨江」の影響を受け、丹後国水江に「澄江」を加えたのではないだろうか。 「澄江」の字を当てたのは地名としての確信が持てず、普通名詞にも取れるようにしたように思える。 時代が下って『続浦嶋子伝記』の頃になると浦嶋子伝説は各地で固有化し、もはや「丹後国水江」に特定できなくなった。 よって、遂に「不レ知二何許人一」〔いづこの人か知れず〕になったのだろう。 ただ「澄江」については、『浦嶋子伝』を継承している。 このように考えていくと、虫麻呂の歌は上記③であると思われる。 即ち、虫麻呂は墨江津の浜に出てたたずみ、釣り人が船を漕ぎだすのを眺めていた。そのとき頭に浮かんだ浦嶋子を重ね合わせ、 伝説の舞台をこの地に移して作歌したのだろう。 なお、浦嶋子の行き先を「龍宮」と書くのは『天書』だけである。ただ民間の説話では、海神(わたつみ)豊玉彦と習合していたのは明らかで、『天書』のみにその影響が及んだようだ。 浦嶋子伝・続浦嶋子伝記が蓬莱とするのは、これらが神仙思想の路線で書かれたためで、再び海龍宮を排除したと見られる。 まとめ 海の民の生活においては、息子が漁に出たまま永遠に帰らないとき、 海神の宮で永遠の命を得て暮らすおとぎ話は慰めになったかも知れない。 それが、沿岸地域で浦嶋子伝説が広がる素地としてあったように思われる。 ところが、これが文字となって残されるとき、専ら道教における神仙思想の延長線上に位置づけられる。 つまりは、庶民の口誦伝承では浦嶋子の行き先は海神の宮であったが、 知識層がこの物語を字で書く時に行き先が蓬莱山に変わるのである。 さて、虫麻呂はどのようにして浦嶋子伝説を知ったのであろうか。 虫麻呂は東海道を旅して東国に赴任したが、東海道は古くは海路であったから、虫麻呂も或いはそうしたかも知れない。 その途上に沿岸地域で触れあった人から聞いたことが考えられる(A)。 あるいは、釈日本紀編者が丹後国風土記の浦嶼子を全文丸ごと引用したことからも分かるように、 どの時代であっても、人々を強く惹きつける話であった。 だから虫麻呂を含む中央の知識層に、丹後国発祥の「浦嶼子」が読まれていたことも想像し得る(B)。 この歌の「海若神之宮」からはA、 「常代・常世」からはBが伺われる。 ここにも海神伝承と仙人説話の二重性が見える。 |