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[05-01]  崇神天皇紀

2016.04.11(mon) [06-01] 垂仁天皇紀1 
01目次 【即位前】
㠜(嶷)…〈汉典〉山名、在湖南省。
岐嶷…〈汉典〉形容小孩才智出眾、聡明特異。晋書巻九、簡文帝紀「幼而岐嶷、為元帝所愛。」〔幼くして岐嶷にして、元帝に愛さるを為す。〕
…(古訓)さかりなり。たけし。
さかり(壮、盛)…[名] 勢いの盛んな状態。
倜傥…〈汉典〉tìtǎng 洒脱;不拘束。独立していて他から拘束されないさま。才能が人より非常に優れている。(古訓)しはし。めつらし。
めづらし(珍し、稀見し)…[形] 珍しい。たぐいまれである。(万)0196 益目頬染 いやめづらしみ
率性…〈汉典〉順着本性、指平素的性情
…(古訓) こころさし。ひととなり。
ひととなり…[名] うまれつきの性質。
矯飾…〈汉典〉偽装造作以為掩飾。〔偽装造作し、掩(おおい)飾ろうとする〕
活目入彥五十狹茅天皇、御間城入彥五十瓊殖天皇第三子也。
母皇后曰御間城姬、大彥命之女也。
天皇、以御間城天皇廿九年歲次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮。
生而有岐㠜之姿、及壯倜儻大度、率性任眞、無所矯飾。
天皇愛之、引置左右。
廿四歲、因夢祥、以立爲皇太子。
六十八年冬十二月、御間城入彥五十瓊殖天皇崩。

活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇(すめらみこと)、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにゑ)天皇の第三(だいさむの)子(みこ)也(なり)。
母は皇后(おほみさき)御間城姫(みまきひめ)と曰ひ、大彦命(おほひこのみこと)之(の)女(むすめ)也(なり)。
天皇、以御間城天皇の廿九年(はたとせあまりここのとせ)の歳次(さいぢ、おほとし)壬子(みづのえね)春正月(むつき)己亥(つちのとゐ)の朔(つきたち)[於]瑞籬宮(みづかきのみや)に生まれたまふ。
生(うまれながらにして)[而]岐㠜之(ぎぎの、さとき)姿(すがた)有り、壮(さかり)に及び倜傥(てきとう、めづらしみ)大(おほきに)度(わたり)、率性(ひととなり)真(まこと)の任(まにま)に、矯飾(けうしよく、いつはりてかざること)[所]無(なし)。
天皇之(こ)を愛(め)で、左右(もとこ)に引き置きたまふ。
廿四歳(はたとせあまりよとし)、夢(いめ)の祥(きざし)に因り、以(も)ちて立たし皇太子(ひつぎのみこ)と為したまふ。
六十八年(むそとせあまりやとせ)冬十二月(しはす)、御間城入彦五十瓊殖天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。

《歳次》
 歳次は、としまわりを意味する。「次」は歳星(木星)の留まる星座。約12年で最初の星座に戻るので、 その年に木星がある星座によって、十二年周期で年を示した。これが歳次で、十二支による年回りの起源となった (関連資料[B])。  〈木簡データベース〉(奈良文化財研究所)を検索すると、平安時代の祭礼文と見られる「維当年次大歳庚辰永暦元年四月十日奉驚…〔1160〕がある。 〔惟(これ)歳次は大歳庚辰、永暦元年四月十日に当たり、奉驚…(以下本文)〕とよむようである。 既に平安時代末期のものであるから、サイジあるいは、サイヂと音読みしたのであろう。
 〈時代別上代〉によると書記古訓に「ほしのやどり」もあったが、歳次自体が書紀執筆時期にはまだ一般化せず、 執筆者グループの中だけで使われ、内輪でサイジと音読みしていたと想像される。
 平安時代でも現代でも一般人が「星の宿り」を聞いて、十干十二支の意味だと受け止めるのは困難であろう。 万葉集には「歳次」はなく、「太歳」は一か所、4353右注に「丸子連大歳」がある。これは人名であるから、「おほとし」あるいは「おほとせ」と訓んだのは確実である。 人名と思われるものは、養老七年〔723〕の木簡の「大歳」である。その上下に干支が書いてないから、人名だと思われる。 このように、「おほとし」なら飛鳥時代から存在したと思われるから、歳次も「おほとし」と訓んだ方が、通用しただろう。
《大意》
 活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇は、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇の第三子です。
 母は皇后・御間城姫(みまきひめ)といい、大彦命(おおひこのみこと)の女(むすめ)です。
天皇、以御間城天皇の二十九年、歳次壬子(みずのえね)、正月一日、瑞籬(みずかき)の宮に生まれました。
生(うまれながらにして)[而]岐㠜之(ぎぎの、ひいでにたる)姿(すがた)有り、壮(さかり)に及び倜傥(てきとう、めづらしみ)大(おほきに)度(わたり)、率性(ひととなり)真(まこと)の任(まにま)に、矯飾(けうしよくするは、いつはりかざるは)[所]無(なし)。
天皇は皇子を愛で、身近に置いて引き連れられました。
二十四歳のとき、夢の瑞祥により、皇太子になされました。
六十八年十二月、御間城入彦五十瓊殖天皇は崩御されました。


02目次 【即位】
元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子卽天皇位……〔続き〕


03目次 【蘇那曷叱智の帰国】
むら(匹)…[助数詞] 布の面積。〈時代別上代〉賦役令(礼義解)によれば、美濃絁(あしきぬ)の幅二尺(さか)二寸(き)、 長さ五丈(つゑ)一尺の布地を匹(むら)と言う。 
新羅・任那…5世紀には、両国とも倭の属国、もしくは倭と友好関係にあったようである (倭の五王【好太王碑】)。 しかし、新羅・任那相互の関係はよくなかったと思われる。
是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。
蓋先皇之世來朝未還歟。
故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、賜任那王。
然、新羅人遮之於道而奪焉。
其二國之怨、始起於是時也。

是(この)歳、任那(みまな)の人、蘇那曷叱智(そなかしち)請(ねが)ひまつらく[之]、「[于]国に帰らむと欲(ねが)ひまつる。
蓋(けだし)先(さき)の皇(みかど)之(の)世(よ)に朝(みつき)に来(き)未(いまだ)還(かへ)りまつらざりつ[歟]」とねがひまつる。
故(かれ)蘇那曷叱智を敦(あつ)く賞(ほ)めたまひ、仍(すなはち)赤き絹(きぬ)一百(もも)匹(むら)を齎(もたら)し、任那の王(きみ)に賜る。
然(しかれども)、新羅(しらき)の人[於]道を[之]遮(さ)へて[而]奪ひにけり[焉]。
其の二国(ふたくに)之(の)怨(うらみ)、始(はじめ)て[於]是の時に起こりつ[也]。

《一書その1》
…(万)0608 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如 おほてらの がきのしりへに ぬかつくごとし
はつ(泊つ)…[自・他]タ下二 停泊する。
笥飯…〈神名帳〉{越前国/敦賀郡/気比神社七座【並名神大】
 〔比定社は気比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)〕
穴門…長門の古名。
一云、御間城天皇之世、額有角人、
乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。
問之曰「何國人也。」
對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、
亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。
傳聞日本國有聖皇、以歸化之。
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、
謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』
然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。
不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」

一云(あるいはく)、御間城(みまき)天皇(すめらみこと)之世(よ)、額(ぬか)に角(つの)有る人、
一船(あるふね)に乗り、[于]越国(こしのくに)の笥飯(けひ)の浦に泊(は)て、故(かれ)其の処(ところ)を号(なづ)け角鹿(つぬか)と曰(い)ふ[也]。
之(こ)を問ひたまはく[曰]「何(いづくの)国(くに)の人か[也]。」ととひたまひ、
対(こたへ)曰(まをさく)「意富加羅(おほから)の国の王(きみ)之(の)子(みこ)、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、
亦(また)の名は于斯岐阿利叱智(うしきありしち)于岐〔干岐〕(かむき)と曰(まを)す。
日本国に聖皇(ひじりのみかど)有りと伝へ聞きまつり、以ちて帰化之(わたりまゐたり)。
[于]穴門(あなと)に到りし時、其の国に人有り、名は伊都々比古(いつつひこ)、
臣(やつかれ)に謂(のたまは)く[曰]『吾(われ)則(すなはち)是の国の王(きみ)にて[也]、吾を除き復(また)二(ふた)王(きみ)無き故(ゆゑ)、他(ほか)の処(くに)に往(ゆ)く勿(な)かれ。』とのたまひき。
然(しかれども)、臣(やつかれ)、其の為(な)せる人を究(きは)め見れば、必ず王に非(あらざ)るを知るや[也]、即ち更に[之]還(かへ)る。
道路(みち)を不知(しらず)、嶋(しま)浦(うら)に留(と)め連(つら)ね、北の海自(ゆ)[之]廻(めぐ)り、出雲の国を経て[於]此の間(ま)に至りまつればや[也]。」とこたへまつる。

…(古訓) まうてて。いたる。おもふく。
…こほり。〈継体天皇紀24年〉毛野臣、聞百済兵來、迎討背評【背評地名、亦名能備己富里也】〔のびこほり〕。 「評」の時代から「こほり」と訓まれ、朝鮮半島でもまた「こほり」と呼ばれたと思われる。
こほりのつかさ(郡司)…[名] 郡の長官。
…〈倭名類聚抄〉近衛府【由介比乃豆加佐】など。省・職・坊・寮・司・監・署・府もみな「豆加佐〔つかさ〕」である。
是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。
天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」
對諮「甚望也。」
天皇詔阿羅斯等曰
「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。
是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」
仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。
故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。
於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。
新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。

是の時に、天皇の崩(ほう、かむあがり)に遇ひ、便(すなは)ち[之]留(とど)まり、活目天皇に仕(つか)へ[于]三年(みとせ)に逮(いた)る。
天皇、都怒我阿羅斯等に問ひたまはく[曰]「汝(いまし)の国に帰ることを、欲りまつる耶(や)。」ととひたまふ。
対諮(こたへまをさく)「甚(はなはだ)望みまつる(也)。」とこたへまをす。
天皇阿羅斯等に詔たまはく[曰]
「汝(いまし)道に不迷(まどはざりてば)、必ず速(とく)詣(ま)ゐたり[之]、先(さき)の皇(みかど)に遇ひて[而]仕へてむ歟(かな)。
是(こ)を以ちて、汝(いまし)が本の国の名を改め、御間城(みまき)天皇の御名(みな)を追ひ負(お)ほし、便(すなはち)汝(いまし)が国の名に為(し)たまふ。」とのたまふ。
仍(すなはち)赤織絹を以ち阿羅斯等に給(たま)はり、[于]本土(もとのくに)に返したまふ。
故(かれ)、其の国を号(なづ)け彌摩那(みまな)の国と謂ふ、其れ是(こ)之(の)縁(よし)なり[也]。
於是(ここに)、阿羅斯等給(たまは)りし[所の]赤絹(あかきぬ)を以(も)ち、[于]己(おのが)国の郡府(こほりのつかさ)に蔵(をさ)む。
新羅(しらき)の人之(これ)を聞き、兵(いくさ)を起こし之(ここ)に至り、皆其の赤絹(あかきぬ)を奪ふ。是(これ)二国(ふたくに)相(あひ)怨(うらむ)[之]始(はじめ)也(なり)。

《于斯岐阿利叱智于岐》
 〈続紀〉の古訓は「ウシキアリシチウキ」。しかし最後の2字「于岐」は、一般に「かんき」と読まれている。「于」は「干」の誤記という解釈らしい。 さらに調べてみると継体天皇紀二十三年条に、「任那王己能末多干岐、來朝【言己能末多者、蓋阿利斯等也】」がある。 また"旱岐(干岐と同じ)は欽明天皇紀に頻出し、姓のように人名の下につく。注目されるのは、五年十一月条の「宜与日本臣任那旱岐等倶奉遣使〔日本臣・任那旱岐に与(あづ)け、ともに遣使奉らせよ〕である。 ここでは「日本の臣」と「任那の旱岐」が並列されているので、旱岐は倭の臣に相当することがわかる。
《帰化》
 岩波文庫版は「まうおもぶく」。まを、まゐ(参)は、「まゐたる」などのように尊敬語をつくる。 帰順は「まつろふ」は戦いに負けて服従することを意味し、帰化とはニュアンスが異なる。 異国からやってくるから、意訳して「わたりく」などが適当か。ただ、「之」があるので、単に来るのではなく尊敬して服する意味が込められる。
《不迷道必速詣之》
 これの意味が、「もし道に迷わなければ早く来ることができたに違いない」という反実仮想であることは、明らかである。
 仮定形・已然形が導く接続助詞「ば」は「者」に相当するが、書紀では省略されることがある。
《一書その2》
黄牛…〈倭名類聚抄〉黄牛【弁色立成云阿米宇之】〔あめうし〕。 〈汉典〉huáng niú 哺乳綱偶蹄目。因其毛多黄色、故称為「黄牛」
あめうし…[名] 毛色が暗黄色の牛。
田舎…〈和名類聚抄〉田舎人【和名井奈加比止】
…(古訓) あと。
…(古訓) おしはかる。おもみれは。
…[動] もうける。(古訓)まうく。[接] もし。(古訓)たとひ。もし。
まうく(設く)…[他]カ下二 あらかじめ用意し整えておく。
あたひ(価)…[名] 相当するもの。
あたひ(直)…[名] 律令以前の姓の一。
…(古訓) にはかに。しはらく。しはらくありて。
しまらく(暫く)…(万)3471 思麻良久波 祢都追母安良牟乎 しまらくは ねつつもあらむを。〈時代別上代〉シバラクという形になったのは、平安時代以後であろう。
一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。
黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰
「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰
『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』
卽殺食也。
若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」

一云(あるいはく)、初(はじめ)都怒我阿羅斯等、国に有りし[之]時、黄牛(あめうし)に田(た)の器(うつはもの)を負(お)ほし、田舎(いなか)に将(ひき)ゐ往(ゆ)きき。
黄牛忽(たちまち)失せ、則(すなはち)迹(あと)を尋ね之(こ)を覓(ま)ぎ、跡(あと)一(ある)郡家(ぐうけ、こほりのみやけ)の中に留(とど)まり、時に一(ある)老夫(おきな)有りて曰く
「汝(いまし)が所求(もとむる)牛者(は)、此の郡家の中に於(お)きてあり。然(しかれども)郡公(こほりのきみ)等(ら)曰く
『牛の所負(おふ)物に由(よ)りて[而][之を]推(おしはか)れば、必(かならずや)殺し食(くら)ふことを設(まう)く。若(もし)其の主(ぬし)覓(ま)ぎ至らば、則(すなはち)物を以ちて償(つぐの)ふ耳(のみ)』といひ、
即ち殺し食(くら)はむ[也]。
若し牛の直(あたひ)に何物を欲得(えむとす)やと問はば、財物(たからもの)を望む莫(な)かれ。便(すなはち)欲(ねがはくは)郡(こほり)の内(うち)に祭る神を得(う)と爾(これ)云ひたまへ。」

俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」、
對如老父之教。
其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。
因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。
於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。
阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」
則尋追求、遂遠浮海以入日本國。
所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神、
並二處見祭焉。

俄而(しまらくありて)郡公(こほりのきみ)等(ら)到(いた)りて[之]曰く「牛の直(あたひ)に何物を欲得(えむとす)や。」といひ、
老父(おきな)之教(をしへ)の如く対(こた)へり。
其の[所]祭(まつりし)神は、是(これ)白石(しらいし)なれば[也]、乃(すなは)ち白石を以ち牛の直(あたひ)として授く。
因以(しかるがゆゑに)将(も)ち来(き)、[于]寝(い)ぬる中(なか)に置けば、其の神(くすしき)石美麗(うるはしき)童女(をとめ)に化(かは)る。
於是(ここに)、阿羅斯等、大(おほきに)[之を]歓びて欲合(あはむとし)、然(しかれども)阿羅斯等、他処(ほかのところ)に去(いぬる)[之]間(ま)、童女(をとめ)忽(たちまち)に失(う)す[也]。
阿羅斯等、大(おほきに)驚き[之]、己(おのが)婦(つま)に問はさく[曰]「童女何処(いづく)に去(い)ぬや[矣]。」ととはし、対(こた)はく[曰]「向東方。」とこたへり。
則(すなはち)尋ね追ひ求め、遂に遠(とほ)く海に浮かぶ、以ちて日本(やまと)の国に入りぬ。
所求(もとむる)童女(をとめ)者(は)、[于]難波(なには)に詣(ゆ)きて、比売語曽(ひめごそ)の社(やしろ)の神と為(な)り、且(また)豊国(とよのくに)の国前郡(くにさきのこほり)に至りて、復(また)比売語曽社神と為り、
二処(ふたところ)に並(な)べて見祭(まつられ)にけり[焉]。

《応神天皇段》
 類似する話が、古事記の応神天皇段に収められている。 「新羅国主之子名謂天之日矛是人参渡来也…(中略) 〔天之日矛は、いろいろあって船で逃げた妻を追って来日する。妻は比売碁曽社の阿加流比売になった。〕此者坐難波之比売碁曽社、謂阿加流比売神者也」 しかし、書紀では比売碁曽社の神を追ってやって来たのは任那の王子だから、話は混線している。
《比売碁曽社》
 摂津国の比売語曽社は、神名帳に{摂津国/東生郡/比売許曽神社〈名神大・月次・相甞・新甞〉}また、{比売許曽神社一座・亦号下照比売/已上〔以上は〕摂津国}とある。 <wikipedia要約>天正年間、織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭って社殿を焼失し、所在が不明となった。 1788年、ある者の「旧記神宝を発見した」との報告により、 牛頭天王社を式内・比売許曽神社に当てたが、『大阪府神社史資料』では、その縁起は「信ずべきものにあらず」と記している</同要約>という。 なお、その疑わしい「比売許曽神社」の所在地は、大阪府大阪市東成区東小橋3-8-14。
 一方、豊国の比売語曽社については、在地豊国・国前郡は〈和名類聚抄〉に {豊後【止与久邇乃美知乃之利】国・国埼【君佐木】郡・国前郷}とある。
 現在の「比売語曽社」は式外社で、国東半島の北の姫島にある(大分県東国東郡姫島村5118)。創建は不明。
《大意》
 この年、任那(みまな)の人、蘇那曷叱智(そなかしち)はこのように願い出ました。
「帰国をお許しくださるよう、お願い申し上げます。 と申しますのは、先皇の世に朝貢に参りましたが、未だ帰れずにおるのです。」と。
 そこで、蘇那曷叱智を敦く賞められ、早速赤絹を百匹(ひつ)を持たせ、任那王に賜りました。
 ところが、新羅の人が道を遮り、これを奪ってしまいました。 この二国の怨みは、この時に初めて起こりました。
――あるいは、こう伝わります。御間城(みまき)天皇の世、額に角のある人が ある船に乗り、越の国の笥飯(けひ)の浦に停泊しました。そこで、その地は角鹿(つぬか)と名付けられました。
 このことを、「お前はどの国の人か。」と問われ、 お答え申し上げました。 「大加羅(おおから)国王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、
またの名は于斯岐阿利叱智(うしきありしち)旱岐(かんき)と申します。 日本(やまと)の国に聖皇有りと伝え聞き、帰化して参りました。
 穴門(あなと)に来た時、その国に人がおり、名は伊都々比古(いつつひこ)といい、 臣に『私は、この国の王にて、私を以外に王は二人となきゆえ、他のところに行ってはならない。』と仰られました。
 しかし、臣がそのように振る舞う人をよく調べて見ると、これは絶対に王ではないと確信しましたので、はじめのところに戻りました。 道も分からず、島や浦に泊めることを重ね、北の海沿いに廻り、出雲の国を経て、この有様となりました。」とお答え申し上げました。
 その間に天皇の崩御に遭遇したのですが、そのまま留まり、活目天皇に出仕し、三年が経ちました。
 天皇は、都怒我阿羅斯等にお尋ねになりました。「お前の国に、帰りたいことであろう。」と。
 都怒我阿羅斯等は、「それは、とても帰りとうございます。」とお答え申し上げました。
 そこで天皇は、天皇阿羅斯等に
「お前がもし道に迷っていなければ、必ずやもっと早く参り、先皇に遇って仕えることができたであろう。 これを以って、お前の本国の名を改め、御間城(みまき)天皇の御名(みな)を追号として戴き、お前の国の名とするがよい。」と詔されました。
 そして赤織の絹を阿羅斯等に賜り、本国にお返しになりました。 その国が「みまなの国」と呼ばれるのは、これがその由縁であります。
 ここに、阿羅斯等は賜った赤絹を持ち、自分の国の郡府に納めました。 新羅の人はこれを聞き、兵を起こしてそこに至り、その赤絹のすべてを奪いました。これが、この二国がお互いに怨みあうようになった始めです。
――あるいは、こう伝わります。初めに都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が国にいた時、黄牛(あめうし)に農耕具を背負わせて、田舎に連れて行きました。 黄牛は忽然と消え、その足跡を尋ね求めたところ、その足跡はある郡家の中に達していました。時に、一人の翁がいて、こう言いました。
「お前が求めている牛は、この郡家の中に置かれている。ところが郡公らは、
『この牛がもつもの〔姿形〕から推し量れば、〔きっと美味であるに違いないから〕構わずに殺して食べてしまおう。もしその飼い主が探してやってきたら、物で償ってやるだけのことだ。』と言い、 すぐに殺して食べてしまうでしょう。
 もし牛の対価に何が欲しいかと聞かれたら、財物を望んではならない。よろしいのは、願わくば郡内に祭る神をいただきたいと、このように言うことです。」と。
 暫くあって、郡公らが来て「牛の対価として何が欲しいか。」と言ったので、 翁の教えのごとく答えました。
 その村の祭神は白石なので、その白石を牛の対価としていただきました。
 そしてそれを持ってきて、家族の寝ている中に置いておいたところ、その神聖な石は美しい乙女に変わりました。 それで阿羅斯等は大いに歓び、娶ろうと思いました。ところが阿羅斯等が、他のところに行っている間に、乙女は忽然と消えました。
 阿羅斯等はすごく驚き、自分の妻に「乙女はどこへ行ったのだ。」と聞いたところ、「東の方に向かったわよ。」と答えました。 すぐに行方を尋ね、追い求め、遂に遠く海に浮かぶ、日本(やまと)の国に入りました。
 探し求めた乙女は難波に行き、比売語曽(ひめごそ)の社(やしろ)の神となり、また豊国(とよのくに)の国前郡(くにさきのこおり)に行って、これまた比売語曽社の神となり、 この二箇所に並び祭られています。


04目次 【天日槍】
宍粟邑…〈和名類聚抄〉{播磨国・完粟【志佐波】郡〔しさはのこほり〕
  〈時代別上代〉「完」は「宍」の誤りであるが、ほとんど通用と見られるほど例が多い。
三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、
羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・
出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。
一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。
時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰
「汝也誰人、且何國人也。」
天日槍對曰
「僕、新羅國主之子也。
然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」

三年春三月(やよひ)、新羅の王(きみ)の子(みこ)、天日槍(あめのひぼこ)来(き)帰(まゐたり)[焉]、将来(もちきたる)物(もの)は、
羽太玉(はふとのたま)一箇(ひとつ)・足高玉(あしたかのたま)一箇・鵜鹿々赤石玉(うかかあかしのたま)一箇・出石小刀(いづしのかたな)一口(くち)・
出石桙(いづしのほこ)一枝(ひとえ)・日鏡(ひのかがみ)一面(ひとおもて)・熊神籬(くまのひもろき)一具(そなへ)、并(あはせて)七物(ななくさ)、則(すなはち)[于]但馬国(たぢまのくに)に蔵(をさ)め、常に神物(くすしきもの)と為(す)[也]。
一云(あるいはく)、初(はじめに)天日槍、艇(ふね)に乗り、[于]播磨国(はりまのくに)に泊(は)て、[於]宍粟邑(しさはむら)に在り。
時に天皇、三輪君の祖(おや)、大友主(おほともぬし)与(と)倭直(やまとのあたひ)の祖、長尾市(ながをち)を[於]播磨に遣(つか)はして[而]天日槍に問ひたまはく[曰]
「汝(いまし)は[也]誰人(たれ)か、且(また)何(いづく)の国の人か[也]。」ととひたまふ。
天日槍対(こたへ)曰(まをさく)
「僕(やつかれ)は、新羅の国の主(ぬし)之(の)子(みこ)也(なり)。
然(しかれども)、日本(やまと)の国に有聖(ひじり)の皇(みかど)有りと聞こえ、[則ち]己(おのが)国を以ちて弟(おとと)知古(ちこ)に授(さづ)けて[而]之に化帰(まゐたる)。」とこたへまをしき。

…(古訓) さかのほる。
菟道河…〈和名類聚抄〉{山城国・宇治郡}。淀川の京都府内の部分を宇治川と言う。
吾名邑…〈和名類聚抄〉{近江国・坂田郡・阿那郷}。 後の息長村(おきながむら、1889~1955)の位置と言われる。
陶人…(万)3886 陶人乃 所作缻乎 すゑひとの つくれるかめを
鏡村谷…竜王町(蒲生郡)と野洲市の境の鏡山に、鏡山古窯址群がある。須恵器の窯跡が多数ある。古墳時代後期~飛鳥・奈良時代。 (『埋蔵文化財活用ブックレット4』滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、2010年)
つかひひと(従人、資人)…[名] 従者。
出島…〈和名類聚抄〉{但馬国・出石【伊豆志】郡・出石【以都之】〔いづし〕
仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物。
仍詔天日槍曰
「播磨國宍粟邑、淡路島出淺邑、是二邑、汝任意居之。」時、
天日槍啓之曰「臣將住處、若垂天恩聽臣情、
願地者、臣親歷視諸國則合于臣心欲被給。」
乃聽之。
於是、天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。
復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。
是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之従人也。
故天日槍、娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏、生但馬諸助也。諸助、生但馬日楢杵。
日楢杵、生淸彥。淸彥、生田道間守也。

仍(すなはち)貢献(たてまつりし)物は、葉細珠(はほそのたま)・足高珠(あしたかのたま)・鵜鹿々赤石珠(うかかあかしのたま)・出石刀子(いづしのかたな)・出石槍(いづしのほこ)・日鏡(ひのかがみ)・熊神籬(くまのひもろき)・胆狭浅大刀(いささのたち)、并(あはせて)八物(やくさ)。
仍天日槍に詔(のたまはく)[曰]
「播磨の国の宍粟邑(しさはむら)、淡路(あはち)の島の出浅邑(いでさむら)、是(これ)二邑(ふたむら)、汝(いましが)任意(まにまに)居(をれ)[之]。」とのたまひし時に、
天日槍啓(まをさく)[之曰]「臣(やつかれ)の将住(すまむとする)処(ところ)、若(もし)天(あまつ)恩(めぐみ)を垂らし臣(やつかれ)が情(こころ)を聴きたまわば、
願(ねが)ひまつる地(ところ)者(は)、臣(やつかれ)親(みづから)諸(もろもろの)国を歴(めぐ)り視(み)て、則(すなはち)[于]臣の心に合はせ被給(たまは)らく欲(ねが)ひまつる。」とまをし、
乃(すなはち)之(これ)を聴きたまふ。
於是(ここに)、天日槍、菟道(うぢ)の河自(よ)り之(これ)を泝(さかのぼ)り、北に近江(ちかつあふみ)の国の吾名邑(あなむら)に入りて[而]暫(しまらく)住む。
復(また)更に、近江自(より)若狭国(わかさのくに)を経て、西に但馬国(たぢまのくに)に到り則(すなはち)住処(すみか)を定む[也]。
是(これ)を以ち、近江国の鏡(かがみ)村の谷の陶人(すゑひと)、則(すなはち)天日槍之(の)従人(つかひひと)也(なり)。
故(かれ)天日槍、但馬国の出嶋(いづしま)の人太耳(ふとみみ)の女(むすめ)麻多烏(またのを)を娶(めあは)せ、但馬諸助(たぢまのもろすく)を生む[也]。諸助、但馬日楢杵(たじまのひならき)を生む。
日楢杵、清彦(きよひこ)を生む。清彦、田道間守(たじまもり)を生む[也]。

《大意》
 三年三月、新羅王の子、天日槍(あめのひぼこ)が来て帰化し、持ってきたものは、 羽太玉(はふとのたま)一個・足高玉(あしたかのたま)一個・鵜鹿々赤石玉(うかかあかしのたま)一個・出石小刀(いづしのかたな)一口・ 出石桙(いづしのほこ)一口・日鏡(ひのかがみ)一面・熊神籬(くまのひもろき)一揃い、併せて七種で、但馬国に所蔵し、常に神宝としました。
 ある謂れによれば、始めに天日槍は船に乗り、播磨国(はりまのくに)に泊め、宍粟邑(しさわむら)にいます。 時に天皇は、三輪君の祖・大友主(おおともぬし)と倭直(やまとのあたい)の祖・長尾市(ながをち)を播磨に遣わして、天日槍に、 「お前は誰だ。またどこの国の人か。」と。
 天日槍は、このように答えました。
「私目は、新羅国主の子です。 けれども、日本(やまと)の国に聖皇ありと聞こえ、己の国を弟の知古(ちこ)に授け、帰化いたしました。」と。
 そして貢献した物は、葉細珠(はほそのたま)・足高珠(あしたかのたま)・鵜鹿々赤石珠(うかかあかしのたま)・出石刀子(いづしのかたな)・出石槍(いづしのほこ)・日鏡(ひのかがみ)・熊神籬(くまのひもろき)・胆狭浅大刀(いささのたち)、合わせて八種類です。
 すると天日槍に「播磨の国の宍粟邑(しさわむら)、淡路(あはち)の島の出浅邑(いでさむら)、この二村のうち、お前が好きな方を選び住め。」と詔されました。
 天日槍は「臣の住むところは、もし天恩を垂らし臣の気持ちをお聴きくだされば、 お願いしたい地は臣自ら諸国を巡って見て、臣の気持ちに合うところを給わりますようお願いいたします。」と申し上げ、
これを聞き入れられました。
 ここに、天日槍は、菟道(うじ)川を遡り、北に近江の国の吾名邑(あなむら)に入り、暫く住みました。
 そして探索を再開し、更に近江から若狭の国を経て、西に但馬の国に到り、住居を定めました。
是(これ)を以ち、近江国の鏡(かがみ)村の谷の陶人(すゑひと)、則(すなはち)天日槍之(の)従人(つかひひと)也(なり)。
 さて天日槍は、但馬国の出嶋(いづしま)の人の太耳(ふとみみ)の娘、麻多烏(またのお)を娶り、但馬諸助(たじまのもろすく)を生みました。諸助は、但馬日楢杵(たじまのひならき)を生みました。 日楢杵は、清彦(きよひこ)を生みました。清彦は、田道間守(たじまもり)を生みました。


【任那王の子の異称】
 蘇那曷叱智は、ソン+アカシチと見られ、 ソンは現在の韓国の姓(せい)、「孫」(손、son)などに通ずるものと思われる。 ツヌガは地名譚にある通り、上陸地の角我(後の敦賀に通ず)に因む。  カ⇒ラ、チ⇒チの音韻変により、ソン・アカシチ、ツヌガ・アラシト、ウシキ・アラシチは同一名と見られる。

【天日槍】
 〈新撰姓氏録〉から天日槍を拾うと、 〖左京/諸蕃/新羅/橘守/三宅連同祖/天日桙命之後也〗〖右京/諸蕃/新羅/三宅連/連/新羅国王子天日桙命之後也〗〖大和国/諸蕃/新羅/糸井造/造/三宅連同祖/新羅国人天日槍命之後也〗 〖摂津国/諸蕃/新羅/三宅連/連/新羅国王子天日桙命之後也〗 などがある。「諸蕃」は渡来系の氏族という意味である。 三宅連は、記にも「三宅連等之祖、名は多遅摩毛理」と記されている (第121回【三宅連】)。
 記応神天皇段、垂仁天皇紀に、それぞれ天日槍から但馬守に到る系図が示されている。 垂仁天皇紀八十八年条でも系図に触れ、太耳の別名が示される(《昔有一人乗艇》)。

【出石】
 〈神名帳〉に、{但馬国/出石郡廿三座【大九座、小十四座】/伊豆志坐神社八座【並名、神大】}。 比定社は出石神社(いずし神社、兵庫県豊岡市出石町宮内99)。
 同社のご由緒によれば、天日槍が将来した八種の神宝を、出石八前大神として天日槍命と共に祀る。
 〈神名帳〉にはまた、{同/同/御出石神社【名神、大】}もある。 比定社は御出石神社(みいずしじんじゃ、兵庫県豊岡市出石町桐野986)。

まとめ
 新羅の王子の天日槍、任那の王子の蘇那曷叱智には、どちらも日本海側の各地を移動する話がでてくる。 それらの伝説は、明確に分離しているとは言えない。 比売語曽神社の由来譚に絡むのは、垂仁天皇紀では蘇那曷叱智、応神天皇段では天之日桙である。 ところが、新羅と任那は敵対していたことだけは強調されている。
 天日槍には陶(すえ)の工人の話が出てくる。須恵器の発祥は、5世紀中ごろと言われている。しかし、 <wikipedia>鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない</wikipedia> とされるので、この地の須恵器は加羅由来と見られる。ここにも新羅・任那の伝説の混合が見られる。 その詳細は明確ではないが、少なくとも半島から須恵器の工人が渡来し、職業部となった歴史を反映していると言える。
 丹後半島から若狭湾が、5世紀ごろの渡来人の流入ルートであったことが、ここに現れていると思われる。 そこに、任那国との外交関係を関連付けて書いたと思われるが、実際の外交関係の時期よりもずっと遡らせたものであろう。
 かくして、記には書かれなかったことが書紀の段階で加えられたのである。
 

2016.04.17(sun) [06-02] 垂仁天皇紀2 
05目次 【狭穂彦王之謀叛第一】
四年秋九月丙戌朔戊申、皇后母兄狹穗彥王、謀反、欲危社稷……〔続き〕


06目次 【狭穂彦王之謀叛第二】
卽發近縣卒、命上毛野君遠祖八綱田、令擊狹穗彥。……〔続き〕


07目次 【野見宿祢】
当麻邑…〈和名類聚抄〉「大和国・葛下郡・当麻【多以末】〔たいま〕
勇悍士…(万)4331 伊佐美多流 多家吉軍卒等 いさみたる たけきいくさと。
…(古訓)つよし。こはし。
…(古訓)はけし。たけし。〈丙本〉有有悍士【伊左美古波支比止安利】〔いさみこはきひとあり〕
こほつ(毀つ)…[自]タ四 こわす。
…[動] のばしてまっすぐにする。
のぶ…[他] 延べる。述べる。
…(古訓) たちまちに。ひたふる。
ひたふる…[形動] ひたすら。一途なこと。
…(古訓) まつ。かきる。
争力…〈丙本〉【知加良久良部〟】〔ちからくらべ〕
まへつきみ…[名] 側近の高級官僚。(万)4276 卿大夫等 まへつきみたち。
くらぶ(試ぶ)…[他]バ下ニ 比較して優劣を争う。
七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言
「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。
其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰
『於四方求之、豈有比我力者乎。
何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」
天皇聞之、詔群卿曰
「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」、
一臣進言
「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」

七年(ななとせ)秋七月(ふみづき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)とし乙亥(きのとゐ)〔七日〕、左右(もとこ)言(こと)を奏(まをさく)
「当麻邑(たいまむら)に、勇(いさ)みたる悍士(たけきひと)有り、当摩蹶速(たいまのけはや)と曰(まを)す。
其の為人(ひととなり)也(や)、力強く以ちて能(よく)角(すみ)を毀(こほ)ち鉤(ち)を申(の)べ、恒(つね)に衆(もろもろ)の中に語らはく[曰]
『[於]四方(よも)に[之を]求むらく、豈(あに)我(おのが)力を比(くら)ぶる者(ひと)有り乎(や)。
何(いかに)力強き者(ひと)に遇(あ)ひて[而]死にも生きも不期(かぎらず)、頓(ひたふる)に得(え)力(ちから)争(あらそはむや)[焉]。』とかたらふ」とまをす。
天皇之を聞きたまひ、群卿(まへつきみたち)に詔(のたまはく)[曰]、
「朕(わが)聞こゆるに、当摩蹶速者(は)天下(あめのした)之(の)力士(ちからひと)也(なり)。若(もしや)此(こ)に比(くら)ぶる人有り耶(や)。」とのたまひ、
一(ある)臣(まへつきみ)の進言(まをさく)、
「臣(やつかれ)の聞こゆるに、出雲の国に勇士(たけきひと)有り、野見宿祢(のみのすくね)と曰(まを)す。是の人を召(め)し、[于]蹶速に当(あてむ)こと試(こころみ)むと欲(のぞ)みまつる。」とまをす。


そのひ…(万)0703 相見之其日 至于今日 あひみしそのひ けふまでに
すまひ(相撲、捔力)…[名] 力くらべ。すもう。 〈丙本〉令捔力【須末比止良之牟】〔すまひとらしむ〕
…(古訓) ふむ。あしをる。たふる。やふる。
くじく(折く)…[他]カ四 曲げくだく。
卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。
於是、野見宿禰、自出雲至。
則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。
二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。
故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。
是以、其邑有腰折田之緣也、野見宿禰乃留仕焉。

即日(そのひ)に、倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)を遣(つか)はし、野見宿祢を喚(め)さしむ。
於是(ここに)、野見宿祢、出雲自(よ)り至る。
則(すなはち)当摩蹶速与(と)野見宿祢と、捔力(すまひ)とら令(し)む。
二人(ふたり)相(あひ)対立(むかひたち)、各(おのもおのも)足を挙げ相蹶(ふ)み、則(すなはち)当摩蹶速之(の)脇骨(わきぼね)を蹶(ふみ)折(くじき)、亦(また)其の腰を踏み折(を)りて[而][之を]殺す。
故(かれ)、当摩蹶速之地(ところ)を奪ひ、悉(ことごと)野見宿祢に賜(たまは)る。
是以(こをもちて)、其の邑(むら)に有る腰折田(こしをれた)之(の)縁(よし)は[也]、野見宿祢乃(の)留(とど)まり仕(つか)へまつればなり[焉]。

《不期死生》
(万)1785 成吾身者 死毛生毛 公之随意常 なれるあがみは しにもいきも きみがまにまと
(万)3797 死藻生藻 しにもいきも
(万)3849 生死之 二海乎 猒見 いきしにの ふたつのうみを いとはしみ
 「左右」を「もとこ」と訓むように、「死生」の字を宛てる和語がある可能性も考え、万葉集を探った(右表)。
 その結果、死生はあくまでも「死す+生く」であった。
 この「不期死生」はなかなか意味が取りにくいが、""の古訓(名義抄)の「かぎる」を採用すれば、生死を考えずにとことん戦うという意味か。 つまり、自らの生死に構わず、ひたすらに強敵と戦う勇者の出現を望んでいる。
《腰折田》
 香芝市の磯壁と良福寺付近に腰折田の伝承がある (香芝市公式サイト(香芝市の紹介)
 その出典を探したところ、『五畿内志』〈大和国之七・葛下郡〉に
【古蹟】腰折田 在良福寺村 垂仁天皇時当麻蹶速者強力無敵好侮-慢人人甚悪之 上憂民之害天下剛勇者倭直長尾市将出雲国人野見宿祢 即命与蹶速角力野見手搏而砕蹶速腰骨 立死矣賞賜当麻宅地人呼腰折田
〔垂仁天皇の時、当麻蹶速は強力にして敵無く、よく人を侮慢(ぶまん、=見下げて傲慢な態度をとる)す。人甚だこれを悪し。 上に民の害を憂へ、天下に募り、剛勇の者を徴(め)し、 倭の直(あたひ)長尾市、出雲国の人野見宿祢を将(ひき)ゐ、 即ち蹶速と角力(すまう)を命じ、野見手搏(しゅはく、=格闘技で手で打つ)し蹶速の腰骨を砕き、 立ちどころに死にすかな、賞に当麻の宅地を賜り、人「腰折田」と呼ぶと云ふ。〕 があった。
 次のように、奈良時代、相撲は七夕の宮中行事になっていたようである。
 〈続紀〉 「天平六年〔734〕七月秋庚申朔丙寅〔7日〕。天皇観相撲戯。」 また「天平十年〔738〕七月丁卯朔癸酉〔7日〕。天皇御大蔵省、覧相撲。
 相撲の会を七夕に開くのは、この当麻蹶速と野見宿祢の相撲伝説に因むものである。
《大意》
 七年七月七日、側近はこう奏上しました。
「当麻邑(たいまむら)に、勇悍(ゆうかん)〔いさましく気が荒い〕の士あり、当摩(たいま)の蹶速(けはや)と申します。 その人となりや、力が強いので角(かど)を潰し、曲がった金棒をまっすぐに伸ばすことができます。恒に衆人々の間では 『四方に求めたい。自ら進んで力を較べようとする人はいるか。 何とかして力の強い人、自分の生死も構わず、ひたすら力を競うことができる人を見つけられないものか。』と語られいます。」と。
 天皇はこれをお聞きになり、並みいる側近に詔しました。 「朕(ちん)聞こゆるに、当摩の蹶速は天下の力士である。もしやこれに立ち向かう人はいるか。」と。
 ある臣が進言しました。 「臣の聞くところでは出雲の国に勇士がおり、名を野見(のみ)の宿祢(すくね)と申します。この人を召し、蹶速に当てることを試すよう、希望いたします。」と。
 即日、倭直(やまとのあたい)の祖、長尾市(ながおち)を遣わし、野見宿祢を喚させました。 こうして、野見宿祢が出雲からやって来ました。
 そして、当摩の蹶速と野見の宿祢とで、相撲を取らせました。 二人は、相向かい立ち、それぞれ足を挙げ蹴り合い、当摩の蹶速の脇骨(わきぼね)を蹴り折り、また腰を踏み折り殺しました。
 それにより、当摩の蹶速の領地を奪い、ことごとく野見の宿祢に賜りました。 このことから、その村にある腰折田の謂れは、野見の宿祢がこの地に留まってお仕えしたことによります。


08目次 【是丹波道主王之五女】
十五年春二月乙卯朔甲子、喚丹波五女、納於掖庭。……〔続き〕


09目次 【誉津別王第一】
廿三年秋九月丙寅朔丁卯、詔群卿曰……〔続き〕


10目次 【誉津別王第二】
由是、以敦賞湯河板舉、則賜姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部。……〔続き〕


11目次 【詔五大夫
…[動] おもう。[代][副] これ。[副] ただ~のみ。
叡(睿)…〈汉典〉睿智。睿哲(明智、英明)。
…[形] さとい。(古訓)ふかし。
…[動] つくる。おきる。おこす。なる。(古訓) いたる。かはる。つくる。はしむ。
欽明…つつしむ深く道理に明るいこと。  『呉書』「周瑜伝」に 「竊惟陛下欽明稽古」、稽古は「〈汉典〉考察古事」。竊(窃)は「ひそかに」、臣下が遜って提言するときの言葉。
…(古訓) つつしむ。たふとふ。〈汉典〉恭敬。
聡達(そうたつ)…かしこくて、よく物事に通じている。
…(古訓) あきらかなり。さとし。
…(古訓) いたる。さとる。とほる。
…(古訓) とる。とらふ。
謙損…『太平御覧』人事部貞女「功蓋天下、夫人恒自謙損、不以富貴驕物」。前後から見て「謙遜」と同じと思われる。
…(古訓)いたく。おもひ。いむたく。
沖退…〈汉典〉謙譲。
へる(謙る)…[自]ラ四 へりくだる。
へりくだる(倹下る)…[自]ラ四 へりくだる。
綢繆(ちゅうびゅう、ちうびう)…まつわりつく。すきまなく連続するさま。(古訓)たしかに。むつまやかに。〈汉典〉chóumóu。親密、纏綿。
むつまかに…[副] 睦まじく。
機衡…〈汉典〉jī héng。1.星名。為北斗七星中的第三和第五顆星。也用以代指北斗。2.比喩機要的官署或職位 『通典』食貨九・銭幣下「尚書官為機衡之任。」 すなわち、重要な官署あるいは役職のこと。
(こう、かう)
…かつ。相手にうちかつ。=克。(古訓) かつ。
人民…ここでは、文脈上オホミタカラを用いる。(2023.03.04)
廿五年春二月丁巳朔甲子、
詔阿倍臣遠祖武渟川別・
和珥臣遠祖彥國葺・
中臣連遠祖大鹿嶋・
物部連遠祖十千根・
大伴連遠祖武日、
五大夫曰
「我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、
惟叡作聖、
欽明聰達、
深執謙損、
志懷沖退、
綢繆機衡、
禮祭神祇、
剋己勤躬、
日愼一日。
是以、人民富足、天下太平也。
今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」

二十五年(はたとせあまりいつとせ)春二月(きさらぎ)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)とし甲子(きのえね)〔八日〕、
阿倍臣(あべのおみ)の遠祖(とほつおや)武渟川別(たけぬなかはわけ)・
和珥臣(わにのおみ)の遠祖彦国葺(ひこくにふく)・
中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖大鹿嶋(おほかしま)・
物部連(もののべのむらじ)の遠祖十千根(とちね)・
大伴連(おほとものむらじ)の遠祖武日(たけひ)、
五大夫(ごだいぶ、いつますらを)に詔(みことのり)たまはく[曰]
「我(わが)先(さき)の皇(みかど)御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにゑ)天皇(すめらみこと)を、
惟叡作聖(ゆいえさくせい、おもひふかくひじりとなし)、
欽明聡達(きむめいそうたつ、つつしみてさとく)、
深執謙損(しむしふけむそむ、ふかくとらへてへりだり)、
志懐沖退(しくわいちうたい、こころざしにつつしみをむだき)、
綢繆機衡(ちうびうきかう、むつまかにつかさどり)、
礼祭神祇(あまつかみ・くにつかみをうやまひまつり)、
剋己(おのれにかち)勤躬(みづからつとめ)、
日(ひ)に一日(ひとひ)を慎(つつし)め。
是(こ)を以ちて、人民(おほみたから)の富(とみ)足り、天下(あめのした)太平(おほきにたひらがむ)[也]。
今当(まさに)朕(わが)世(よ)に、神祇(あまつかみくにつかみ)を祭祀(まつ)る、豈(あに)怠(おこたること)得(え)有(あらむ)乎(や)。」とのたまふ。

《大夫》
 「大夫」は、万葉集に(万)0061 大夫之 ますらをの。など多数がある。「ますらを」は立派な男子の意味。
 〈和名類聚抄〉には、「職官部」の「長官」の項に「勘解由使職曰大夫」とある。 同項では、さまざまな役所の長官にあたる地位の名称として「卿・長官・大夫・奉膳・首・大将・督・将軍」などを挙げ、最後に「已上皆加美〔以上、すべて"カミ"〕とするので、 「大夫」も「かみ」である (資料[11])。
 養老令(757)による官位には、従四位に「中宮大夫春宮大夫」正五位に「大膳大夫左右京太夫摂津大夫」が見られる。
 魏志倭人伝には「自古以来其使詣中国皆自称大夫〔古きより以来、その使者は中国に来て、皆大夫を自称する。〕がある。
 大夫の漢籍における意味は基本的に諸侯の家老。官吏の身分のひとつ。である。中国人から見ると、 訪れる使者がすべて「大夫」を自称するが、もっと別の身分もあるはずなのにと訝(いぶか)ったのである。 古墳時代初期には官僚の上位を大雑把に大夫と呼んでいたようだが、飛鳥時代に職官を整備したときに、その階級の一つに従来あった大夫の語を用いたと思われる。
 仮に魏志の時代(3世紀前半)に使者が自分を「ますらを」と称していたとすれば、絶対に「大夫」の字を宛てることはない※1から、 当時は、倭人自身が[taipu]※2あるいは[daibu]と発音していたと思われる。
※1…例えば、倭人の「鄙守」は、発音から「卑奴母離」と書かれた。 ※2…ハ行の発音は、古くは[]であった。
 それとは別に、古事記の音仮名による表記には、「(万)0804 麻周羅遠乃 ますらをの」がある。 飛鳥時代の倭国内では、おそらく漢籍の「大夫」に「身分有る立派な男」の意味があると理解されていたからこそ、 万葉集の編者は「大夫」の字を借りて、マスラヲと訓ませたのであろう。
 〈時代別上代〉によれば、日本書紀古訓にもマスラヲの例があるという。 書紀が逆に万葉集の影響を受け、マスラヲと訓むこともあったということである。
 私記・続紀を探しても訓注がないところから見て、職名としては、「タイフ(ダイブ)、あるいはカミ」、派生して立派な男を指すときは「マスラヲ」が常識的だったと思われる。
《五大夫》
 阿倍臣は、第8代孝元天皇―大彦―建沼河別命の末裔 (記―第108回D1安倍臣)。 葛下郡または十市郡発祥か。
 和珥臣は、第5代孝昭天皇―天足彦国押人命の末裔 (記―第105回)。 孝昭天皇紀は「和珥臣の始祖」とするが、記には和珥臣の後裔を多数挙げながら「和珥臣」自体は出てこない。 天武天皇の時代に、その後継氏族のいくつかに朝臣姓が与えられる。 『姓氏家系大辞典』は、孝昭天皇―天足彦国押人命―彦国姥津命―伊富都久命―彦国葺の系図を推定する。
 本稿は崇神天皇のとき、纏向政権に敗れて各地に散ったのではないかと推定した (記―第114回【和邇氏後継諸氏の展開との相似】)。 書紀では、彦国葺は政権側の将軍として描き、埴安彦を討ち果たしたかの如きである。 和珥氏の本家は古くに廃れ、記にもその名はないが書紀では再び光を当てている。
 中臣連の祖は、神代まで遡る。始祖の天児屋命(あめのこやねのみこと)は、天の岩戸に閉じこもった天照大御神を引っ張り出すために行う祭事の準備に当たった。 (記―第49回【登場する神々】)。 そして、邇邇芸命に随伴して降りた五部神の一人である (記―第83回《五部神》)。
 物部連は、職業部のひとつである (記―第99回《物部氏》)。 書紀で最初に触れられたのは、神武天皇即位前期の塩土老翁(しおつちのおじ)の話。饒速日(にぎはやひ)は、天孫より先に降りていた (記―第96回《物部氏》)。 記では、邇芸速日命は邇邇芸命を追って後から降り、物部連の祖となったとされる(第99回)。 纏向政権初期において、その勢力は始め鳥見山の辺りにあり、後に石上神宮に移ったと思われる (記―第116回《物部氏》)。 なお686年の時点で、物部連は後継の石上氏になっている。
 記では物部連の記述はほぼ皆無だが、書紀ではその起源神話を多く取り入れている。
 大伴連の祖、天忍日命は邇邇芸命の降臨に随伴した (記―第84回《天忍日命・天津久米命》)。 また、書紀で大伴氏の祖とされる日臣命(道臣命に改名)は、八咫烏が神武天皇を誘導する場面に登場した (記―第97回《日臣命・道臣命》)。
 大伴家持の父、旅人(665~731)は、<wikipedia>710年に元明天皇の朝賀に朱雀大路を行進し、 720年には征隼人持節大将軍に任じられて隼人の反乱の制圧にあたる</wikipedia>など、朝廷で華々しく活躍した。 記にはなかったにも関わらず、大伴氏の神武天皇紀に書き加えたのは、旅人の活躍を反映しているかのようである。
《儀礼文の性格》
 「作聖〔聖に作る〕は、先帝を聖に位置づけたという意味である。そして続く文に「つつしむ」意味の語が何回も出てくるから、 五大夫に、朝廷に対してとるべき態度を促す命令の性格をもつことが分かる。
 この詔の意味するところは、先帝を鑑として謙遜の気持ちを失わず、よくまとまって部下の仕事を掌れという程度のもので、見慣れぬ漢籍の語の連続であるがそんなに深い内容ではない。
《各氏族との距離感》
 中臣連と大伴連は天孫との血縁関係がなく、祖は天孫と横並びで降りてきた。もちろん天孫に仕えて助けるが、根本はお友達の関係である。 物部連に至っては、天孫とは別に既に地上に降りていて、後から降りて来た天孫と争った。 古事記では、邇芸速日命は天孫が降りたと聞いて急いで降りてきたことになっており、書紀とは時間の順序が逆転している。
 また和珥臣は古事記では雲散霧消したが、書紀では幾つかの氏の伝説上のルーツとして存在感を取り戻している。 このように、書紀では朝廷の中枢を担う諸氏は、逆にその独立性が復活する。
 天武天皇が中国の史書に対抗して日本の国史の編纂を命じた時点では、各氏族の独自の起源神話など認めたくなかったのは明らかで、 古事記にはその姿勢が反映していると言える。 しかし、奈良時代の初期には各氏族が息を吹き返し、天孫の地位は相対化される。 中でも物部連が最もわがままで、邇芸速日命は天孫の前に降りていたことを堂々と書紀に書かせる。 大伴氏の遠祖の日臣命は、神武天皇のとき八咫烏の道案内の仕事に割り込んだ。
 このように蠢く各氏族に対して、彼ら独自の起源神話を認めざるを得ないのだが、その上で各自が行動を自重して天孫の下に結集することを求めるのである。 こうして諸族にタガをはめようとするために必要だったのが、それぞれの祖・五大夫への詔である。 その中では、先帝を作聖〔神聖なものとして崇敬〕し、ひたすら欽明・謙損・沖退〔謙虚〕に、綢繆〔団結〕して、機衡〔各部門の要〕を担うことを要求する。
《大意》
 二十五年二月八日、 阿倍臣(あべのおみ)の遠祖、武渟川別(たけぬなかわわけ)・ 和珥臣(わにのおみ)の遠祖、彦国葺(ひこくにふく)・ 中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖、大鹿嶋(おおかしま)・ 物部連(もののべのむらじ)の遠祖、十千根(とちね)・ 大伴連(おおとものむらじ)の遠祖、武日(たけひ) の以上五大夫(だいぶ)に、このように詔されました。
「我が先皇、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇を、
惟叡作聖(ゆいえさくせい)〔思い深く聖(ひじり)となし〕、
欽明聡達(きんめいそうたつ)〔慎み深く、聡明に〕、
深執謙損(しんしゅうけんそん)〔思慮深く、謙遜し)、
志懐沖退(しかいちゅうたい)〔志に慎みを抱き〕、
綢繆機衡(ちゅうびゅうきこう)、〔睦まじく司り〕、
礼祭神祇(れいさいじんぎ)、〔神祇を礼(うやま)い祭り〕
克己(おのれにかち)勤躬(みづからつとめ)、
日一日と慎(つつし)め。
 これを以って、人民の富は満ち足り、天下太平となる。 今まさに朕の世に神祇を祭祀すること、あに怠ることがあり得ようか。」と詔しました。


12目次 【天照大御神】
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。……〔続き〕


13目次 【大国魂神】
是時倭大神、著穗積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰
「太初之時期曰
『天照大神、悉治天原、
皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂神。
我、親治大地官者。』
言已訖焉。
然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。
故其天皇短命也。
是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。」

是時(このとき)倭大神(やまとのおほかみ)、穂積臣遠祖大水口宿祢に著(つ)きて[而]誨[之](をしへたまはく)[曰]
「太(ふと)初(はじめ)之(の)時期(とき)に曰(のりたまはく)
『天照大神(あまてらすおほみかみ)、悉(ことごとく)天原(あまがはら)を治(をさ)めたまひ、
皇御孫尊(すめみまのみこと)、専(もはら)葦原中国(あしはらのなかつくに)之(の)八十魂神(やそみたまのかみ)を治めたまふ。
我(われ)、親(みづから)大地(おほつち)を治めたまふ官(つかさ)なれ者(ば)。』
とのりたまひし言(こと)、已(すでに)訖(を)ふ[焉]。
然(しかれども)先(さき)の皇(みかど)御間城(みまき)天皇(すめらみこと)、[雖]神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を祭祀(まつ)れども、微細(すこしきに)未(いまだ)其の源根(みなもと)を探らず、以ちて粗(あら)に留(とど)め枝葉(えだは)を於(お)く。
故(かれ)其の天皇、命短(みじか)し[也]。
是(こ)を以ちて、今汝(いまし)御孫尊(みまのみこと)、先の皇之(の)不及(およばざる)を悔いて[而]慎(しづ)め祭れば、則(すなはち)汝(なが)尊(たふと)き寿命(いのち)を延長(のべ)、復(また)天下(あめのした)太(ふと)平(たひら)がむ[矣]。」とおしへたまふ。

…(古訓) まつる。
身体…(古訓) すかた。
しむ(令む)…[助動]下二型 平安時代には「たまふ」と重ねて最高敬語になるが、上代の用法は使役のみ。
時天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之誰人以令祭大倭大神。
卽渟名城稚姬命、食卜焉。
因以、命渟名城稚姬命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。
然、是渟名城稚姬命、既身體悉痩弱、以不能祭。
是以、命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。

時に天皇、是の言を聞きたまひ、則(すなはち)中臣連の祖(おや)探湯主(くかぬし)に仰(おほ)せて[而]卜[之](うらな)はしむらく、誰人(たれ)を以ちて大倭大神(おほやまとのおほかみ)を祭ら令むやとうらなはしむ。
即ち渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)、卜(うら)を食(を)す[焉]。
因(しかるがゆゑ)を以ち、渟名城稚姫命に命(おほせごと)し、神地(かむところ)を[於]穴磯邑(あなしむら)に定めたまひ、[於]大市(おほいち)の長岡岬(ながをかのさき)に祠(まつ)らしめます。
然(しかれども)、是(これ)渟名城稚姫命、既に身体(すがた)悉(ことごとく)痩せて弱く、以ちて不能祭(まつることあたはず)。
是を以ちて、大倭直(おほやまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)の宿祢に命(おほせごと)し、祭ら令めませり[矣]。

《大倭神・大国魂神》
 大和国の大国魂神社は、〈神名帳〉{大和国二百八十六座/山辺郡十三座/大和坐大国魂神社三座【並名神大 月次相甞新甞】}が当てはまる。 比定社は大和神社(おおやまとじんじゃ)、奈良県天理市新泉町星山306。
 この話は、崇神天皇紀にもあった (記―
第111回《倭大国魂神》)
 厳密に読むと、この神の名前を、神代紀・崇神天皇紀では「大国魂神」、垂仁紀では「倭大神」と呼び、名前は不一致だが内容から見て同一神である。
 ここでは、大水口宿祢に憑いた大倭神は「天神を束ねる天照大御神は厚く祀られ、 天孫は八十地祇も祀り、それを司るのが私だと昔に言われた。ところが先帝はこの私を蔑ろにしたではないか。」と文句をつけている。
 そこで渟名城稚姫命を神主にして鎮めようとしたが、大倭神はそれでは気に入らず、改めて長尾市宿祢を神主にした。 始めに渟名城稚姫命に祭らせた大市長岡岬は、右図の×と想像した。 長尾市宿祢は大倭直(直は国の首長の姓)であるから、大倭神はもともと大倭の国〔律令国以前の"国"、大和神社周辺地域〕の氏神だったのだろう。
 大和神社の三神を並べて祀る形態は、大神神社や率川神社と共通なので、大物主系列と思われる。 崇神天皇紀では、大水口宿祢などが見た夢のお告げの中で 「以大田々根子命為祭大物主大神之主、 亦以市磯長尾市為祭倭大国魂神主」のように 大物主と同列に扱った。またそれを祭ることを蔑ろにしたから不幸が起こったとする点でも、両神は似通っている。 このように、大物主神と大国魂神は混ざりあっている。この点では、大国魂神の存在を無視した記の方が明快である。
 一方、書紀は神代紀において、二神とも大国主神の亦の名として一体化し、この混乱を乗り切ろうとした 第55回【紀一書6】)。
《崇神天皇は短命か》
 崇神天皇紀では120歳とされる。その前の開化天皇は115歳 (第102回)、 その次の垂仁天皇は140歳で、崇神天皇だけ特に短命というほどではない。
 日本書紀はその文案が概ねでき上った後に、神武天皇以後の暦年を決定したのだろうと思われる。
《長尾市》
 天皇に仕え、帰化した天日槍の審問、野見宿祢の招来、大和坐大国魂神社の初代の祭主に関わる。 記には登場しない。
《大意》
 このとき、倭大神(やまとのおおかみ)が、穂積臣の遠祖、大水口の宿祢に憑き、このように教えました。
「太初の時期、 『天照大神は、ことごとく天原(あまがはら)を治められ、 皇御孫尊(すめみまのみこと)、もっぱら葦原の中つ国〔地上の国〕の八十魂神(やそみたまのかみ)を治められます。 我は、自ら大地を治める要の官なるぞ。』 と、これは既に言い終えられた通りである。
 しかし、先皇の御間城(みまき)天皇は神祇を祭祀したが、微細については未だその根源まで探らず、粗いまま留まり枝葉は放置されている。 だからこの天皇は、短命であったのだ。
 これを以って今、お前、御孫尊(みまのみこと)が先皇の及ばざることを悔いて慎め祭れば、お前の尊い寿命は延長され、また天下太平となろう。」と教えられました。
 時に天皇、この言葉を聞かれ、中臣連の祖、探湯主(くかぬし)に命じ、誰を以ちって大倭大神(おおやまとのおおかみ)を祭らせるのがよいかと、占わせました。 すると、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が卜の結果でした。
 この結果をもって、渟名城稚姫命に命じ、神の地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市(おおいち)の長岡岬に祠(まつ)らせました。 ところが、この渟名城稚姫命、全く身体は痩せて衰弱し、祭ることができなくなりました。
 そのため、大倭(おおやまと)の直(あたい)の祖、長尾市(ながおち)の宿祢に命じ、祭らせました。


14目次 【出雲之神宝】
検校(けんこう)…ひきあわせて調べる。
あなぐる(探る、捜る)…[他]ラ四 さがす。くわしくしらべる。
分明…(古訓) あきらかなり。
廿六年秋八月戊寅朔庚辰、天皇勅物部十千根大連曰
「屢遣使者於出雲國、雖檢校其國之神寶、無分明申言者、
汝親行于出雲、宜檢校定。」
則十千根大連、校定神寶而分明奏言之、
仍令掌神寶也。

二十六年(はたとせあまりむとせ)秋八月(はつき)戊寅(つちのえとら)朔庚辰(かのえたつ)〔三日〕、天皇物部十千根大連(もののべのとちねのおほむらじ)に勅(おほせごと)たまはく[曰]
「屢(しばしば)使ひの者を[於]出雲の国に遣はし、其の国之神宝(かむたから)を雖検校(けむかうすれども、あなぐれども)、分明(あきらかに)申(まを)す言(こと)無(な)かれば[者]。
汝(いまし)親(みづから)[于]出雲に行(ゆ)き、宜(よろしく)検校(けむかうし、あなぐり)定めたまへ。」とのたまふ。
則(すなはち)十千根大連、神宝を校定して[而]分明(あきらかに)奏言[之](ことまをし)、
仍(すなはち)神宝を掌(つかさど)ら令(し)めたまふ[也]。

《出雲の神宝》
 崇神天皇紀六十年条にも、出雲の神宝を見ようとする話があった (記―第115回【書紀(3)】)。
 現在の出雲大社宝物殿の収蔵品を見ると、古墳時代以前と思われるものは摂社命主社で発掘された銅矛と勾玉がある。 鎌倉時代から神仏習合が進み、江戸時代初期までは境内に仏堂・仏塔が建つ状態となるなど、 その陣容は大きく変遷しているので、伝説上の神宝の行方は全く知れない。
 ただ、奈良時代にはその運営は朝廷によってしばしば干渉され、実質的に国家管理下にあったことが伺われる。 その神学的な根拠とされるのが、大国主の居所として高皇産霊尊が作り与えたという神話であろう。
《大意》
 二十六年八月三日、天皇は物部十千根大連(もののべのとちねのおおむらじ)に勅(みことのり)しました。
「しばしば使者を出雲の国に遣わし、その国の神宝を検校〔点検〕するが、分明〔あきらか〕に申告することがない。 お前は自ら出雲に出向き、しっかり検校を定めよ。」と命じました。
 そこで、十千根大連は神宝を校定して分明に奏上しました。 よって、神宝を掌るよう任じました。


15目次 【兵器為神幣】
祠官(しかん)…かんぬし。神官。
かむぬし(神主)…[名] ①神を祭る主者。②神官の長。配下に禰宜、祝部など。
みてぐら(幣)…[名] 神にささげ供えるものの総称。 〈和名類聚抄〉幣帛【和名美天久良】
ぬさ(幣)…[名] 幣帛。木綿・麻・紙などで作る。
神幣…幣帛の美称だと思われるが、「かむ」を発音したかどうかは判断しがたい。
廿七年秋八月癸酉朔己卯、令祠官卜兵器爲神幣、吉之。
故、弓矢及横刀納諸神之社。
仍更定神地・神戸、以時祠之。
蓋兵器祭神祇、始興於是時也。
是歲、興屯倉于來目邑。【屯倉、此云彌夜氣。】

二十七年(はたとせあまりななとせ)秋八月癸酉(みづのととり)朔己卯(つちのとう)〔七日〕、祠官(かむぬし)をして兵器(つはもの)を神幣(みてくら)と為(な)すことを卜(うら)へ令め、[之]吉(よし、きち)なり。
故(かれ)、弓矢(ゆみや)及び横刀(たち)を諸(もろもろの)神(かみ)之社(やしろ)に納(をさ)む。
仍(すなはち)更に神地(かむところ)・神戸(かむべ)を定め、時を以ちて之を祠(まつ)る。
蓋(けだし)兵器(つはもの)を神祇(あまつかみくにつかみ)に祭ること、始(はじめて)[於]是の時に興(おこ)れり[也]。
是の歳、屯倉(みやけ)を[于]来目邑(くめむら)に興こす。【屯倉、此彌夜気(みやけ)と云ふ。】

《令祠官卜兵器為神幣》
 幣を「まひ」とする古訓もある。「まひ」は人への感謝の品。あるいは神に捧げ奉るもの。
 (万)0985 天尓座 月讀壮子 幣者将為 あめにます つくよみをとこ まひはせむ
 一方、「みてくら」は和名類聚抄には、項目「祭祀具」にある。 「まひ」はどちらかと言えば個人的な捧げもの、「みてくら」は儀式に位置づけられた形式ばったものという性格が見える。 ここでは朝廷が武器を供える格式ばった儀式だから、気軽な「まひ」は合わないと思う。
 「」は使役動詞。「兵器為神幣」は名詞化して動詞「」の目的語。 訓読は、祠官ヲシテうらな三上兵器スコトヲ神幣。 ここでは珍しく漢文本来の使役文の構造〔"令"+目的語+動詞句〕を取る。だから読みやすい。 いつもの和風漢文の書法なら、「遣祠官令卜兵器為神幣」となるはずである (第51回【「神産巣日御祖命令取茲成種」における令の日本語用法】 )。
《吉之》
 書紀で「」は、しばしば占いの結果に使われる。これを「よし。」とだけ訓んで文を閉じると一般的な形容詞と区別がつかず、占いの結果という特別な意味が消えてしまう。だから、「よし」を体言化して「よしなり」「よしとなす」などと訓む方が適切であろう。 形式目的語""がつくのも、「吉」が動詞化されることを示す。 また、呉音「きち」を用いていたとしても不思議ではない。
《石上神宮との関連》
 記には「〔垂仁天皇の御子〕印色入日子命者…令横刀壱千口是奉-納石上神宮」 とあり、石上神宮は物部氏の武器庫であったと想定されている (記―第116回【石上神宮】)。 ここでは石上神宮を念頭に置いた上で、一般化して「諸神之社に納む」としたと考えられる。
 他に兵器を幣帛とした例は、後に天武天皇元年七月「遣許梅而祭拝御陵〔神武天皇陵〕、因以奉馬及兵器」がある。 これは大海人皇子(翌年即位して天武天皇)が壬申の乱にあたって神武天皇陵に馬・兵器を奉納し、戦勝を祈願したものである。
《大意》
 二十七年八月七日、祠官〔神主〕をして兵器を神幣とすることを卜させたところ、吉でした。 そこで、弓矢及び太刀を諸々の神社に奉納しました。 そして更に神所・神戸(かんべ)を定め、時々に〔祭礼のとき〕祠らせました。 けだし、兵器を神祇に祭ることは、初めてこの時に興こりました。
 この歳、屯倉(みやけ)を来目邑(くめむら)に興こしました。


まとめ
 ここでは相撲節会(すまひのせちえ)や、武器の奉納など、宮中の各種行事の起源をのべる。 また、二十五年条では朝廷中枢の諸氏族がそれぞれの起源神話を誇る動きに対して、統制を強めようとする。 他にも二十六年条において、何かと独立性を見せる出雲国に、朝廷自身の神宝検査によってたがを嵌める。
 全体として、朝廷内部で行われている行事や諸族の統制を、垂仁朝に由来するものとして紹介している。


2016.04.20(wed) [06-03] 垂仁天皇紀3 
16目次 【埴輪第一】
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。……〔続き〕


17目次 【立太子第一】
卅年春正月己未朔甲子、天皇詔五十瓊敷命・大足彥尊曰……〔続き〕


18目次 【埴輪第二】
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。……〔続き〕


19目次 【山背苅幡戸邊】
卅四年春三月乙丑朔丙寅、天皇幸山背。……〔続き〕


20目次 【遣五十瓊敷命作池】
卅五年秋九月、遣五十瓊敷命于河內國……〔続き〕


21目次 【立太子第二】
卅七年春正月戊寅朔、立大足彥尊、爲皇太子。……〔続き〕


22目次 【五十瓊敷命作剣一千口】
卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。……〔続き〕


23目次 【石上神宮】
八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姬曰……〔続き〕


24目次 【天日槍持来之宝物】
《天日槍の宝物》
曽孫…〈和名類聚抄〉曽孫【爾雅云孫之子曽孫 和名比々古】〔爾雅(じが、中国最古の辞典)に孫の子を曽孫と云ふ。和名ひひこ〕
…(古訓) はしむ。もと。
欲見…(万)0164 欲見 吾為君毛 みまくほり わがするきみも。 (万)0560 欲見為礼 みまくほりすれ。 (万)4120 見麻久保里
八十八年秋七月己酉朔戊午、詔群卿曰
「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。
元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」
卽日、遣使者、詔天日槍之曾孫淸彥而令獻。
於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、

八十八年(やそとせあまりやとせ)秋七月(ふみづき)己酉(つちのととり)を朔(つきたち)とし戊午(つちのえうま)のひ〔十日〕、群卿(まへつきみたち)に詔(の)たまはく[曰]
「朕(われ)、新羅(しらき)の王(きみ)の子(みこ)天日槍(あまのひぼこ)、初(はじめて)来之(こし)時、宝物(たからもの)を将(も)ち来(き)たり、今但馬(たぢま)に有りと聞こゆ。
元(もと)の国の人を為(し)て見貴(たふとびられ)、則(すなはち)神宝(かむたから)と為(な)す[也]。朕(われ)其の宝物を欲見(みまくほり)。」とのたまふ。
即日(そのひ)、使者(つかひ)を遣はし、天日槍之(の)曽孫(ひひこ)清彦に詔(みことのり)して[而]献(たてまつ)ら令(し)む。

…(古訓)うへのきぬ。ころも。
…(古訓) かくす。かくる。
…(古訓) こころ。なさけ。まこと。
おほみやところ(大宮所、大宮地)…皇居のある場所。
於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、
羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。
唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。
天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之賜酒於御所。

於是(ここに)、清彦勅(みことのり)を被(おほ)せ、乃(すなはち)自(みづか)ら神宝を捧(ささ)げて[而]之(これ)、
羽太玉(はふとのたま)一箇(ひとつ)・足高玉(あしたかのたま)一箇・鵜鹿鹿赤石玉(うかかあかしのたま)一箇・日鏡日鏡(ひのかがみ)一面(ひとおもて)・熊神籬(くまのひもろき)一具(そなへ)を献(たてまつる)。
唯(ただ)小刀(かたな)一(ひとくち)有り、名は出石(いづし)と曰ひ、則(すなはち)清彦忽(たちまち)刀子(かたな)を非献(まつらじ)と以為(おもひ)、仍(すなはち)袍(ころも)の中に匿(かく)して[而]自ら之を佩(は)く。
天皇、未だ小刀(かたな)を匿(かく)しし[之]情(こころ)を知(し)らず、清彦を欲寵(あはればむとし)て[而]召[之]し、[於]御所(おほみやところ)にて酒(みき)を賜(たまは)る。

《出石の小刀》
刀子(とうす)…木簡の訂正用の文具。(古訓) かたな。
…(古訓) みつから。したし。
…(古訓) なむち。なむたち。
…(古訓) みな。あまねし。
時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰
「爾袍中刀子者、何刀子也。」
爰淸彥、知不得匿刀子而呈言
「所獻神寶之類也。」
則天皇謂淸彥曰
「其神寶之、豈得離類乎。」
乃出而獻焉。皆藏於神府。

時に、刀子袍の中従(より)出(い)でて[而]之を顕(あらは)し、天皇之を見(め)し、親(したしく)清彦に問ひたまはく[曰]
「爾(なむち)が袍の中の刀子(かたな)者(は)、何(いかなる)刀子(かたな)か[也]。」
爰(ここに)清彦、刀子(かたな)を不得匿(えかくさざる)を知りて[而]言(こと)を呈(あらはさく)
「所献(たてまつりし)神宝(かむたから)之(の)類(たぐひ)也(なり)。」とあらはす。
則(すなはち)天皇清彦に謂(のたまはく)[曰]
「其の神宝、之(これ)、豈(あに)類(たぐひ)より得(え)離(さかる)乎(や)。」
乃(すなはち)出(い)でて[而]献(たてまつり)き[焉]。皆(あまねく)[於]神府(ほくら)に蔵(をさ)む。

昨日…(万)2324 昨日暮 きのふのゆうへ。(万)2391 昨夕 きのふのゆふへ
明旦…(万)0904 開朝者 あくるあしたは。 (万)09043769 奴婆多麻乃 欲流見之君乎 安久流安之多 ぬばたまの よるみしきみを あくるあした
…(古訓) おそる。かしこまる。
…(古訓) いふ。かたる。おもふ。
然後、開寶府而視之、小刀自失。
則使問淸彥曰
「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。」
淸彥答曰
「昨夕、刀子自然至於臣家、乃明旦失焉。」
天皇則惶之、且更勿覓。
是後、出石刀子、自然至于淡路嶋。
其嶋人、謂神而爲刀子立祠、是於今所祠也。
然(しかりして)後(のち)、宝府(ほくら)を開きて[而]之を視(み)れば、小刀自(おのづから)失せり。
則(すなはち)清彦に問は使(し)むらく[曰]
「爾(なむち)が所献(たてまつりし)刀子(かたな)忽(たちまち)失せり[矣]。若(もしや)汝(なが)所に至るや[乎]。」ととはしめ、
清彦答へ曰(まを)さく
「昨夕(きのふのゆうへ)、刀子自然(おのづから)[於]臣(やつかれ)の家(いへ)に至り、乃(すなはち)明旦(あくるあした)に失(う)せり[焉]。」
天皇則(すなはち)之を惶(かしこま)り、且(また)更(さらに)覓(もと)むること勿(なし)。
是(この)後(のち)、出石(いづし)の刀子(かたな)、自然(おのづから)[于]淡路(あはぢ)の嶋に至る。
其の嶋の人、神と謂(かた)りて[而]刀子の為(ため)に祠(ほくら)を立て、是(これ)[於]今にいたり所祠(まつらるる)也[なり]。

《清彦の曽祖父・天日槍》
祖父…〈和名類聚抄〉祖父【於保知】〔おほち〕
昔有一人乘艇而泊于但馬國、因問曰
「汝何國人也。」
對曰
「新羅王子、名曰天日槍。」
則留于但馬、娶其國前津耳【一云前津見、一云太耳】女麻拕能烏、生但馬諸助。
是淸彥之祖父也。

昔一人(あるひと)有り艇(ふね)に乗りて[而][于]但馬国に泊(は)て、因(よりて)問(と)はく[曰]
「汝(いまし)や何(いづく)の国(くに)の人なる[也]。」ととひ、
対(こた)ふらく[曰]
「新羅の王の子、名は天日槍(あめのひぼこ)と曰ふ。」とこたふ。
則(すはなち)[于]但馬に留(とどま)り、其の国の前津耳(まへつみみ)、【一云(あるいはく)前津見(まへつみ)、一云太耳(ふとみみ)】の女(むすめ)麻拕能烏(またのを)を娶(めあは)し、但馬の諸助(もろすけ)を生む。
是(これ)清彦之(の)祖父(おほち)也(なり)。


【天日槍持来之宝物〈構文〉】
《有但馬》
 「有但馬」は誤り。  ""の構文は存在文と呼ばれ、目的語が事実上の主語となり、 「有り」と訓読する。従って「有但馬」は「但馬あり」で、但馬国が存在するという意味になってしまう。 正しくは「于但馬有之」「但馬有其宝物」などとする。なお「存但馬」なら問題はない。
《みまくほり》
 みまくほりは、見るの未然形+助動詞の未然形+名詞化の接尾語欲りの連用形で、 万葉集に多数出てくる。動詞「ほり」の活用は不完全で、終止形・已然形にしたいときはサ変の「す」「すれ」をつける。
 ここでは天皇の言葉だから、自敬表現を用いれば「みまくほりたまふ」となるが、引用文の前の「いはく」を重複後置する習慣に従うと、 「宣はく……その宝物を見まく欲り賜ふと宣ふ。」となり、不自然である(と思う)。 自敬表現とは天皇が本当に自分に行為に敬語を使ったのではなく、書き手による敬意を天皇の言葉の中に組み込んだものである。 だから、何がなんでも天皇の言葉の中に「たまふ」を加える必要はなく、文全体に自然に敬意が表れていれば十分と考えられる。 平安時代には天皇への敬語表現がエスカレートするが、上代はもう少し素朴だったと思われるので、「見まく欲りと宣ふ」が妥当ではないだろうか。
《袍》
 古訓「うへのきぬ」について調べる。
うへのきぬ…[名] 男性の束帯(正装)における上衣。但し、平安時代以後。
〈枕草子〉28 いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰強くひきゆひ、直衣、うへのきぬ、狩衣も袖かいまくり、よろづさし入れ、帯強くゆふ、にくし。
〈和名類聚抄〉【薄交反 和名宇倍乃岐沼】〔音バウ、和名うへのきぬ〕
 束帯(そくたい)は平安時代以降の公家の正装。その長い上着を袍(はう、うへのきぬ)と言う。
 漢籍のは、〈汉典〉gown. robe. つまり、もともとはという解字の通り、丈の長い綿入れなどの上衣一般を指す。上代においては、こちらの意味であろう。
《爾》
 なむちは、卑称とされるが、本来は尊称であった(貴様などと同じ)。 ここでは、天皇が清彦に対して尊称を使うのは相互の関係に反する。 従って「いまし」が安全であるが、爾の古訓(類聚名義抄)に「なむち」があって「いまし」がないのが気にかかる。 書紀が書かれた時点で「なむち」が尊敬を離れ、既に親しみをこめた二人称となっていた可能性があり、判断が難しい。

【天日槍持来之宝物〈解釈〉】
《暗殺の気配》
斑犀把白牙鞘御刀子 (20.8cm、上)
緑牙撥鏤把鞘御刀子(23.0cm、下)
出典:宮内庁ホームページ(正倉院宝物検索)
 「刀子」の訓みは小刀と同じくカタナであるが、 刀子(とうす)は、武器というより<wikipedia>木簡・竹簡が広く使用されていた時代において、書き間違えた文字を削って修正するため<wikipedia> のもので、正倉院宝物においては<同>武器ではなく文房具に分類される</同>という(右図)。
 ところが、清彦が刀子を見たときには、カタナは小刀と書かれる。懐に小刀を忍ばせて天皇との酒席に臨むとは、尋常ではない。 暗殺を意図する暗い心が小刀という字に影を落としている。 言うまでもなく、狭穂姫が衣服に小刀を忍ばせて天皇の命を狙ったことを連想させる。
 しかし、天皇は清彦に対してあくまでも融和的である。 天皇が見つけたときは再び刀子と呼び、清彦の行為から犯罪性が除去される。 天皇は清彦を罰せず、ただ提出させて他の神宝と一緒に祠に納めるのみであった。
《出石神社》
 淡路島の出石神社は、島の東岸にある(兵庫県洲本市由良町由良、生石公園内)。 但馬国の出石神社に比べると、ささやかである。 出石神社の約2km北に、式内社「由良湊神社」(ゆらみなとじんじゃ)がある(兵庫県洲本市由良3丁目5-2、 神名帳に{淡路国/津名郡/由良湊神社})。
《昔有一人乗艇》
三年条娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。
八十八年条娶其國前津耳【一云前津見、一云太耳】女麻拕能烏生但馬諸助。是清彦之祖父也。
 三年条(【天日槍】)にある、天日槍の渡来と系図を再録している。 これは整理が不十分なまま、重複して残ったと考えるのが妥当だろう。ただし、双方の系図には若干の違いがある()。 麻拕能烏から見て、麻多烏も「麻多乃烏」と訓まれのだろう。女性名だから「」は""ではなく""で、「子孫」の意味か。
《大意》
 八十八年七月十日、公卿(こうけい)たちに仰りました。 「朕は、新羅の王子、天日槍(あまのひぼこ)が始めに来た時、宝物をもって来て、今但馬(たんば)に有ると聞く。 元の国の人には尊ばれたものなので、神宝としたという。朕はその宝物を見たいものだ。」と。
 即日使者を遣わし、天日槍のひ孫、清彦に詔して献上させました。
 そして、清彦は勅(みことのり)を受け、自ら神宝を捧げ、 羽太玉(はふとのたま)一個・足高玉(あしたかのたま)一個・鵜鹿鹿赤石玉(うかかあかしのたま)一個・日鏡日鏡(ひのかがみ)一面・熊神籬(くまのひもろぎ)一揃えを献上しました。
 ただ、小刀一口、名は出石(いずし)があり、清彦はにわかに小刀を献上したくない気持ちが起こり、上衣の中に隠して身に着けました。
 天皇は、未だ小刀を隠した事情を知らず、清彦を可愛がってやろうと思って招き、御所で酒を振る舞いました。
 その時、刀子(とうす)が上衣の中から出て顕れ、天皇はこれを御覧になり、親しく清彦にお尋ねになりました。 「貴殿の上衣の中の刀子は、いかなる刀子か。」と。
 ここに清彦は、刀子をもう隠せないことを知り、ありのまま 「献上した神宝の類のものです。」と説明しました。 天皇は、清彦に 「その神宝ひとつだけ、その類から離してよいものか。」と仰りました。
 そこで差し出して献上いたしました。神宝全部をひとまとめにして、神庫に収蔵しました。 このようにして、その後で、神庫を開いて見たところ、小刀は自然に無くなっていました。
 そこで使者を通して 「貴殿が献上した刀子は突然なくなった。ひょっとして貴殿のところにあるか。」と尋ねさせました。 清彦はそれに答えて、 「昨夕、刀子は自然に臣の家に来て、朝になったらもうありませんでした。」と申し上げました。
 天皇はこれを恐れ、それ以上追求することはありませんでした。
 この後(のち)、出石の刀子は、自然に淡路島にやって来ました。 その島の人は、これを神だと語り、そのために祠を立て、今に祀られております。
 昔、ある人が船に乗って但馬国に停泊したので 「あなたは何という国のですか。」と聞きました。
 その人はそれに対して、 「新羅の王子、名は天日槍(あめのひぼこ)と申す。」と答えました。
 天日槍はそのまま但馬に留まり、その国の前津耳(まえつみみ)【一説に前津見(まえつみ)、あるいは太耳(ふとみみ)】の女(むすめ)、麻拕能烏(またのお)を娶り、但馬の諸助(もろすけ)を生みました。 この人が清彦の祖父です。


25目次 【田道間守及天皇崩】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。……〔続き〕


まとめ
 まことに神秘的な出石の小刀の伝説は、エピソードの一つとして垂仁天皇紀に収められている。 しかしその中の個々の言葉には、但馬の一族による朝廷への反発が見え隠れする。 まず、清彦が八神宝(ここでは六神宝)のうち一つでも手元に残そうとする行動に、先祖代々の宝物をすべて献上させられることへの抵抗感が見える。 次に、小刀を懐に佩いて天皇に面会したこと。 また、いったん献上した刀子を密かに盗み出したのではないかと、清彦が疑われたこと。 そして、清彦の一派の者が盗み出して宝物としたまま、淡路島に移住した疑いまで匂わせる。
 にもかかわらず、それらの疑惑は垂仁天皇自身によって糊塗され、何事もなかったかの如くされた。小刀の淡路島への移動も、結局神の仕業とされた。 その後、清彦の子の田道間守の忠臣ぶりも描く。 全体として、清彦の子孫に対して、お前たちの先祖には疑わしいところもあったとうっすら匂わせつつ、 垂仁天皇の頃からとても大切に思っているぞと朝廷の寛容さを強調する。融和もまた、統合の手段の一つである。
 崇神天皇紀・垂仁天皇紀には、出雲国や但馬国の財宝を接収したり管理下に置く話が目立つ。 書紀の編纂事業自体も中央集権化の流れの中にあり、当時は各国が財宝を隠し持つことは朝廷への反逆であったのだろう。 <崇神天皇紀―終>


[07-01] 景行天皇1