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2026.09.09(wed) [01-24] 神代上24 ▼▲ |
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54目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[6]-(1)】 《一書[6]-(1)》
多数の別名については、〈内閣文庫本〉の傍書による解釈が興味深い。 すなわち、それぞれの名前ごとに固有の神格を表し、その総体が大国主であると規定されている。 多数の「亦名」は、元々様々な場面で登場する異種の神であったと想像される。その時期については、『粟鹿大明神元記』において既に統合されていた。 ここでひとつの考え方として、各地のローカル神が習合したと考えてみる。 その色合いが明瞭なのは、八千矛神である。記には「此八千矛神 将婚高志国之沼河比売 幸行」とあり(第63回)、 この名前を含む「夜知富許能迦微能美許登…故志能久邇…」という歌謡を載せている(第64回)。 大己貴神は、『出雲国風土記』の「大穴持神」に重なる。また、大神神社の大物主は言うまでもない。 葦原醜男は『播磨国風土記』揖保郡粒丘条に「葦原志挙乎命」、宍禾郡伊奈加条に「葦原志許乎命」がある。 大国玉神・顕国玉神については、各地の式内社に「大国魂」・「大国玉」が見える。 大国主命への統合の時期については、律令国家作りの一環として神話を統合する人為的操作かも知れない。だが、古い時代の日本海文化圏〔いわゆる「日本海王国」〕の時代から、既に共通神であった可能性はないのだろうか。 統合神の名称「大国主」は概念的だから、この名前自体が日本海王国の頃からはあったとは考えられない。だが『出雲国風土記』では「所造天下大神」という冠称がつき、 一書[6]の「国作大己貴命」はそれを受けたものである。だから、民族の精神的な土壌として、大穴持神、八千矛神、葦原志許乎神などを日本海王国時代の王国全体の共通神とする意識が以後脈々と伝わり、 だからこそ、飛鳥時代に「大国主」にまとめられても、抵抗なく受け入れられたのではないかと思えるのである。 すなわち「古代の日本海沿岸における共通神観念の存在」と「律令国家構築期における神格の概念的統合」という二層構造で読み解いてみたらどうであろうか。 《其子凡有一百八十一神》 古事記では「百八十神」とされた(第79回)。 《少彦名命》 記では「少名毘古那神」(第69回)。 なお、少彦名命の最初の登場は、一書[6]-(4)段において時計の針を巻き戻して書かれる。 大三輪神社では三磐座のひとつに坐す (【大神神社】)。他の磐座は大物主命と大己貴命である。
その他、各地にある温泉の神社の祭神となっている 『兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第4輯〔兵庫県 編;1927〕 に「神名帳ヨリ温泉神社ヲ摘記スレバ左ノ如シ」とあった。同書によれば右表の通りである。但し、一部不正確だったので修正した。 なお、このうち陸奥国玉造郡の「温泉神社」については、同書は論社二社を並べて挙げている。 これら温泉系の祭神には大物主がいないことが注目される。 出雲あるいは摂津系の大己貴・少彦名ペアと、三輪氏系の大物主を加えたトライアングルとは系列がきっちり区分けされるようである。 《戮力》 戮・勠は、互いに通用したようである。 なお、文中の漢熟語の意味については、既に第69回【紀一書六(その1)】で詳しく見た。 《一心》 書紀古訓古訓「こころをひとつにして」は、中世の漢文訓読体風である。 上代語における「一心」の表し方については、(万)2602「黒髪 白髪左右跡 結大王 心一乎 今解目八方 くろかみの しろかみまでと むすびてし こころひとつを いまとかめやも」により、 「こころひとつ」という言い方があったことがわかる。 なお、この歌の「とかめやも」の已然形+ヤは反語で、意味は「二人の関係は決して解かない」である。 《経営天下》 「国作大己貴命」(一書[6])、「所造天下大神」(『出雲国風土記』)という言い方をするので、「経営」をツクルと訓む古訓は適切である。 《畜産・鳥獣》 文脈から判断すると、書紀古訓は畜産〔=家畜〕を「ケモノ」、獣を「ケダモノ」として使い分けている。 〈倭名類聚抄〉では「獣:【和名介毛乃】」、「畜:【和名介太毛乃】」とあり書紀古訓とは逆。これについて〈時代別上代〉は「「畜」「獣」の差別を訓でも表そうとした結果おこった現象か」と述べる。 すなわち、家畜を動物から明瞭に抜き出して表す語は、上代語には存在しなかった。 《昆虫》 昆虫は、学術的には節足動物のうち三対の脚をもつ仲間の分類名〔insect〕であるが、言葉のもともとの意味は広く「虫類的総称」(〈汉典〉)である。 古訓のハフムシは、鳥獣と区別してムシ一般をいう。 《百姓》 古訓オホミタカラは、12段で「人民」に付されたのが初出。 この古訓が書紀古訓限定語であろう。これについては、第164回【人民】項などで検討した。 《大意》 【一書(6)曰く、 大国主神(おおくにぬしのかみ)は、 別名は大物主神(おおものぬしのかみ)、 また、国作(くにつくる)大己貴命(おおなむちのみこと)と名付け、 また、葦原醜男(あしはらのしこお)、 八千戈神(やちほこのかみ)、 大国玉神(おほくにたまのかみ)、 顕国玉神(うつしくにたまのかみ)という。 その子には、全部で一百八十一柱の神がまします。 大己貴命と少彦名命(すくなひこなのみこと)は、 戮力一心〔力を合わせ、心ひとつに〕して天下を作られた。 また顕見蒼生(うつしきあおひとくさ)〔人民〕と家畜のために、 その病を癒すやり方を定められた。 また鳥獣、昆虫の災害を取り除くために、 その禁厭(きんえん)〔防ぐまじない〕のやり方を定められた。 これにより、百姓は今に至り、皆恩頼(みたまのふゆ)を賜っている。 55目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[6]-(2)】 《一書[6]-(2)》
大己貴命は少彥名命に国造りはうまくいっているだろうかと聞いた。少彦名命はうまくいっているところもあれば、うまくいっていないところもあると答えた。 この会話は有幽深之致、すなわち意味深であるという。ではその秘められた意味とは何か? 例えば、このモザイク状態を解消するには、天孫を降ろして委ねるしかないという意味であろうか。 だが、後文で「吾已摧伏莫不和順」と言うから、独力で「不成」を克服することに成功している。 有幽深之致は、まつろわぬものを組み伏せた後のことを言っているのかも知れない。 そこで実際の経過を見ると、敵を服従させた後の国家運営の段階になると助けとして他の神格が必要となり、そこに大物主が現われた。 さらに将来には、自分の作った国を天孫に献上する運命が待っている。 すると有幽深之致は、仮に独力で全土の制圧を成し遂げられとしても、さらに大物主の助力を要し何れは天孫降臨があることを暗示する言葉かも知れない。 《熊野之御碕》 出雲国の熊野大社は内陸だが、稜線が平野に突き出たところもミサキという。ただ常世の国に向かって飛び去るのなら海に向かってということなら、 紀伊国の熊野が有力視される (第69回【紀一書六(その2)】) 熊野之御碕にもっとも近い表記は、〈仁徳〉紀「皇后遊行紀国、到熊野岬」である(〈仁徳〉三十年九月)。 また、伊弉冉尊の伝承地「熊野之有馬村」は紀伊国である(15段) さらに、〈神武〉紀の紀伊国「熊野村」(《熊野神邑》)地域のどこかの岬がイメージされていたと見るのが順当であろう。 紀伊国は一書[4][5]の舞台なので関係は深い。 潮岬には「御埼大明神社」〔一般には潮御岬神社〕がある。 これについては、「御埼大明神社 本社 祀神 少彦名命」、「潮御埼にあり」、 「串本浦笠島といふ地に本宮と称する神社あり是御埼明神の旧地にしてそれより今の地に遷し奉るといふ其年月詳ならす」 (『紀伊続風土記』第2輯〔仁井田好古他編;1910〕)。 ただ、この遠隔地が飛鳥時代に知られていたとはあまり思えない。 『日本古代の道と役』〔木下良;吉川弘文館2009〕でも、街道は牟婁温湯までで途切れ、その先は空白である。 御埼大明神社は、後世に伝承の縁の地を地元に寄せたものであろう。 それでも書紀全体から見ると、一書「6」の筆者の頭の中にあった「熊野之御碕」は紀伊国が有力である。 ただ、次項の『伯耆国風土記』に見るように、各地の伝承においては縁の地は地元に生まれるから出雲国熊野にもこの伝承があったことは十分あり得る。 《彈渡而至常世郷》 別伝では少彦名命は粟の茎をしならせて、その反動で弾き飛ばされて常世の郷に行ってしまった。 本来は古事記に載るような伝承である。記の著者がこれを書き漏らし、もったいないことをしたと思って一書[6]に書き加えたようにも思える。 これに近い伝承として〈釈紀〉は「伯耆国風土記曰。相見郡。々家西北有余戸里。有粟島。少日子命蒔粟。莠実離々。即載粟。弾渡常世国。故云粟島也」 〔"莠"は穂の意味に用いたのであろう。少日子命がまいた粟が実り、穂から実が飛び散ったときにその弾かれた実に乗って常世の国に渡った〕を紹介している。 ただ、「弾」の字は粟の穂または茎が弾いたとも読めるところが悩ましい。これについては書紀に引きずられて混入したものと見て割り切ることにする。 《至及磐石草木咸能強暴》 強暴への書紀古訓は「アシカル」で、すなわち連体形である。 当初は「至及」は熟語接続詞と考え〔乃至と同類〕、よって係り結びを導く「磐石草木ゾ」が脱落したと見た。 しかし、漢籍を見ると至・及は実際には常に分離して使われている。〈汉典〉にも連語としての見出し語はない。 よって、及の目的語は「磐石草木」、至の目的語は「及二磐石草木咸能強暴一」で、これによって強暴を体言化するために連体形になった可能性が高まった。 なお、「アシビ」は悪シを動詞化した「悪しぶ」の連用形とみられる。この語は古語辞典の見出し語にはないが、アラシ⇒アラブから類推した。 音仮名非はヒ乙。参考にしたアラブは上二段活用で連用形はビ乙だから、その点は矛盾がない。 ただここでは「非」を濁音としたが、〈時代別上代〉によれば「非」は清音のみである。 本来清音の音仮名を濁音に転用したとすれば平安時代に音仮名表記を模した疑いが生まれる。 よって〈乙本〉の時代をみてみよう。 〈内閣文庫本〉はアシブの部分を棄てたので、この動詞は院政期にはもう死語となっていたのかも知れない アシビアシという反復語法はヤラヒヤラフ、ツドヒツドフと同様に上代語固有とも考えられる。 〈乙本〉が古いと見られる他の例には「人民:於保三陁可良」があった(《公民》)。 古い時代の語で、意味も特異ではないのでここでは古訓を採用することに妥当性がある。 《独能巡造遂到出雲国》 『出雲国風土記』の「所造天下大神大穴持命」が「越八口平賜而還坐」〔越の八口を平げ賜ひて還り坐せり〕などが、ここの「独能巡造遂到出雲国」に符合する (【出雲国風土記に描かれた大穴持神】) ただ、風土記には続けて「造坐而命国者御皇孫命平世所知依奉」〔〔大穴持神の〕造り坐して皇孫命(すめみまのみこと)が平(たひら)げし世(みよ)に所知(しらしめす)に依(よ)せ奉(まつ)る〕とあり、 大穴持命がまつろわせて作り上げた国ではあるが、結局はそれを皇孫に献上するという構図になっている。 これこそが上記「有幽深之致」の意味と見たわけである。 《大意》 以前、大己貴命は少彦名命に語りかけ、 「我らが作る国は、 一体善く成ったと言えるのだろうか」と言い、 少彥名命は答えて 「或いは成り、或いは成らない所がある。」と言った。 この語りには、おそらく幽深の極致があろう。 その後、少彦名命は、 熊野の御碕(みさき)に至り、遂に常世郷(とこよのくに)に行った。 また曰く、 淡嶋(あわしま)に至り粟の茎に寄り、 すると弾き渡して常世郷に至った。 これより後に、国の中にまだ成らないところがあれば、 大己貴神は、独りで巡って造ることができ、 遂に出雲国に到った。 こうして言い放ちなさるに 「葦原中国(あしはらなかつくに)は、もともと荒芒で、 磐(いわ)石草木まで、皆強暴となるに至った。 しかし、私は既に摧(くだ)き伏したので、帰順しない者はもういない。」とおっしゃった。 これによって、遂におっしゃった。 「今この国を治めようとするのは、唯私一人のみに終わる。 私と共に天下を治めるのに相応しい者は、 果たしているのだろうか。」と。 まとめ 出雲あるいは摂津系の大己貴・少彦名ペアと、三輪氏系の大物主を加えたトライアングルとは系列がきっちり区分けされるようである。 『粟鹿大明神元記』は大神社系のローカル社に遺されていた文書で、そこでは大物主が実質的な祖であり、大国主までの系図はその前置きという扱いである。 一方書紀での描き方を見ると、その〈崇神〉紀においては大物主があたかも初期朝廷の主祀神の如くで、天照大神を災禍の神として描くほどの暴走を見せる(第111回まとめ)。 そして書紀本文においては、大国主と大物主は完全に分離されている。古事記が大物主を大国主の「亦名」から外したのは、実はそれに合致するものであった。 それに対して、三輪氏は大国主の活躍を大物主の前史として位置づけ、その権威を包摂しようとした。 だから、一書[6]は大国主を描いたように見えて、実は三輪氏が唱える大国主・大物主の構図を尊重して三輪一族に寄り添ったものということになろう。 |
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2026.09.15(tue) [01-25] 神代上25 ▼▲ |
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56目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[6]-(3)】 《一書[6]-(3)》
記には「吾是汝之幸魂奇魂也」がない。これは古事記が「亦名大物主命」を取り除いたことに対応する。 そして記は大穴牟遅神〔大国主〕が、海からやってきた大物主に出会い、大物主を御諸山〔三輪山〕に鎮座させるストーリーを作り上げた。 一書[6]では、この粗筋を維持したまま「亦名大物主神」に合わせるために、 「吾是汝之幸魂奇魂也」と名乗らせている。 すなわち、見かけ上は二神であるが、同一神に分身の術を使わせた。 魂の分割については、神功皇后紀において表筒男・中筒男・底筒男三神が自らを和魂と荒魂に分けてそれぞれ摂津国と長門国に祀らせた例がある (《祀天神地祇》・《祭三大神荒魂》) そこは神であるから、その魂をいくつにでも分けることができるのである。 だが、ここではやはり苦し紛れの印象は否めない。 古事記側は、三輪族の立場を受け入れて一書として添えることは認めたが、 それでもせっかく作り上げた筋書きの修正を最小限に止めようと腐心したとしか考えられないのである。 ● 多氏の三輪氏への対抗意識 古事記が大物主を大国主命の「亦名」から取り除いた理由としては、多氏が三輪氏に強い対抗意識を持っていたことによる可能性がある。 太安万侶の墓誌が1979年に発見され、そこには「以癸亥年〔養老七;723〕七月六日卒之」とある。生前の最高冠位は従四位下。 古事記を献上した和銅五年〔712〕時点では正五位上。 〈続紀〉によればその前後の三輪氏の氏人の冠位は、 ・大神朝臣安麻呂:慶雲四年〔707〕「正五位下で氏上」。「和銅七年〔714〕従四位上で卒」、 ・大神朝臣狛麻呂:和銅元年〔708〕「従五位上で丹波守」。霊亀元年〔715〕正五位上」。 ・大神朝臣忍人:霊亀元年〔715〕「正五位上で氏上」。 ・大神朝臣興志:和銅六年〔713〕「従五位下で讃岐守」。 冠位から見て、特に安麻呂や狛麻呂は太安万侶と同世代だったかも知れない。 一書[6]には「大三輪君」の姓で書かれているので、この部分の執筆は〈天武〉十三年〔684〕以前の可能性がある。 だとすれば、冠位を示した時期よりは相当若かったことになるが、その頃から競い合っていてとも考えられる。 〈天武〉十三年に、大三輪君と多臣は共に朝臣姓を賜ったことから氏族としての対抗意識は十分考えられる。 次に、朝廷が体制として三輪氏を冷遇していて太安万侶がそれに乗った可能性も考えて見る。 まず三輪君子首は壬申の功臣で、諱「大三輪真上田迎君」を賜り大宝元年に封戸百戸を賜っている。 〈天武〉朝においては、壬申の功臣が政務に就くことは全般に敬遠され、その存在価値はもっぱら生きた記念碑たるところにあった。 皇親政治によって、左右大臣の職自体が置かれいなかった。 よって、朝廷は特に三輪氏だけを疎外していたわけではなく、本質的には多氏の三輪氏に対する同僚としての対抗意識ではないかと思われる。 多氏も神八井耳命を始祖とするから(〈神武〉の皇子;【日子八井命・神八井耳命の末裔】)、神話的出自への誇りも相当なものであったであろう よって、古事記においては三輪氏を随分貶めて書いたが、 諸族への公平な扱いを旨とする書紀のトップにたしなめられて一書[6]における訂正に至ったという筋書きには、 随分現実感が見えてくる。 《由吾在故汝得建其大造之績矣》 ここには「由」と「故」が重複している。 〈内閣文庫本〉の訓点は、「吾が在(あ)るに由(よ)[っ]ての故(ゆへ)に」となっている。 この読み方では全く和化漢文であるが、書紀の文体にはさすがにここまでの和習はない。 一方「由」には「なほ~の如し」との用法がある。しかしこの場合も「吾有るが故に」と和化漢文にしなければ読めない。 結局、意味の重複はあるが、「吾在るに由りて、故(かれ)汝、…を得(う)」と訓まざるを得ない。 本来なら「所以吾在汝得建其大造之績矣」とするべきところであろう。 なお、ここは古事記の「吾能共与相作成。若不然者国難成」〔吾(われ)能(よ)く共に与(あづか)りて相(あひ)作成(つく)らむ。若し然ずば国成り難し〕 の方が自然で、書紀は妙に肩に力が入っている。 《其大造之績》 「績」の書紀古訓は「イタハリ」。 〈天武〉紀では、壬申の功を賞する場合に多用され、 「大伴連望多」への「勲績」(十二年)、 「物部雄君連」への「大功」(五年六月)、 「大三輪子人君」への「功」(五年八月)などに見える。 三年二月の「紀臣阿閉麻呂」に対する「以労壬申年之役贈大紫位」〔壬申年之役を労るを以て〕は、正真正銘の「いたはる」である。 以後、その名詞形イタハリが、イタハリを受けるに値する功績の意に転じていったと思われる。 この語はもともと天子が臣下の功績を褒めるニュアンスだから、 天下の主として国造りに励んだことに用いるのは筋が違う。 無理すれば、後世の天皇治政の基礎を、神代に築いたことへの功績と理屈づけることはできるが、 古訓者はそこまでは考えずに、機械的に「績」にイタハリを当てたのではないだろうか。 《大三輪之神》 古事記はこの場面では「大物主」という名前さえ明示しない。記において「大物主」の初出は神武天皇段だが、そこでも「美和之大物主」というよそよそしい書き方で、 「其美人為大便之時、化丹塗矢、自其為大便之溝流下、突其美人之富登」という下品な登場のさせ方である(第100回)。 古事記側は、三輪氏が朝廷で大きな顔をしていることが面白くないかの如くである。 一書[6]の「由吾在故…」の段は、全体に文章が冗長である。たとえば「幸魂奇魂」はどちらか一つに絞った方が文章が引き締まるだろう。 古事記は大物主を大国主の別名から一度は取り除いたが、一書[6]に至り『粟鹿大明神元記』の「亦名」の形に戻した(《大国主神亦名》)。 この書き換えは、書紀制作の首脳部が三輪氏に配慮して太安万侶に要請したもので(前述)、安万侶はそれを受け入れたが執筆は下位の者に任せたと想像される。 《甘茂君》 〈崇神〉段に「意富多多泥古命者【神君鴨君之祖】」(第112回)とあり、鴨君〔甘茂君〕は大三輪君と同祖。 鴨氏が氏神とする高鴨神社の祭神、阿治須岐高日子根命は出雲族に共有される(【鴨君】) 一方同じく祭神とする事代主神(下文)は、出雲国風土記には登場しない (【鴨都波神社・高鴨神社】) よって鴨君には出雲から一部が合流した可能性も考えた(【鴨都波神社・高鴨神社】)が、形式として三輪氏と始祖を共有して同族関係になったタイミングは判断が難しい。 「鴨君蝦夷」は壬申の功臣。鴨君は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。 この時点〔684年〕では、まだ大三輪君と鴨君は別族として賜姓されている。その後、記〔712年〕では同祖となった。だから、その間に両者の関係は急速に深まり同族化したと見ることができる。 ただ、ただ、大国主と大物主が同一化した例を見ると、出雲から葛城地域への移民は、かなり古い時代から鴨氏の構成部分になっていた。その近親感が土壌にあって、統合を容易にしたと考えることもできそうである。 氏人の〈続紀〉での初出は、慶雲四年〔707〕五月「従七位上賀茂朝臣吉備麻呂」。 《大三輪君》 三輪君子首は諱「大三輪真上田迎君」、壬申の功臣で大宝元年に封戸百戸〔神麻加牟陀君児首と表記〕 大三輪君は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。 したがって、[是時素戔嗚尊自天而降]段や、記の対応部分の執筆時期は〈天武〉十三年〔684〕以前の可能性がかなり高い。
本説では、姫蹈鞴五十鈴姫命を大物主の子とするところは古事記と共通する。 ただ、「又曰」として、事代主神の子とする説を併記し、こちらは〈神武〉紀に一致する。 (【比売多多良伊須気余理比売】) さらに、その母の名前について「或云」で分岐する(右図)。 ここに事代主神を加えたことも、鴨君への配慮であろう。 一書の役割のひとつに、諸族の誇りとする始祖伝承を収めることによって、顔を立てて協調を図る役割があった。 〈神武〉紀には、「三嶋溝樴姫」によく似た「三嶋溝樴耳神―玉櫛姫」が示される。 この三嶋溝樴耳神について、〈姓氏家系大辞典〉は 「三島溝杭耳〔三嶋溝樴耳神〕なる名称は他の例から推して個人の名ではなく、 三島溝杭なる土地の貴族を現はすものと考へる。即ち三島は後の三島縣、溝杭は邑名、後世は荘名にもなった土地である」、 「四国の東南部なる長、都佐、波多の三国造が、何れも大体に於いて、三島溝杭の後裔と思はれ、…、 溝杭の族人が摂津から阿波に移り、漸次土佐一国に蔓延した事を表はして居るやうに思ふ」と述べ、 三島溝杭の子孫は阿波から土佐に広がったと推定している。なお、「三島」は{摂津国島上・島下郡}に分割された。 さらに、「〔土佐国〕幡多郡には神名式〔延喜式-神名〕に賀茂神社を載せ」、 『土佐国風土記』逸文に「神河は三輪川と訓む。源北山の中より出で、伊予国に届く。水清き故に大神の為に酒を醸すに、此の河水を用ふ」と大神神社の地を土佐国に投影したような記述がある。 これらにより、「此の氏族は至る所に於いて、事代主、及び同系の神々、…三輪の神と密接なる関係を持って居る」と述べる。 このように、三嶋溝樴耳と鴨氏、大三輪氏との各地における密接な関係を見出している。 鴨氏と大三輪氏の密接な関係が土佐国進出においても保たれていることは、 両族の結合が記紀成立期の単なる形式上の処理ではなく、より古くから実体としての深い関係があったことを物語っていると考えられる。 《神日本磐余彦火火出見天皇》 〈神武〉天皇である。 〈神武〉紀に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」(《甲寅年》) 古事記での表記は「神倭伊波礼毘古命」(第96回)。 《大意》 その時、奇(くす)しき光が海を照らし、 忽然と浮かび来たる者がいて、 その者の言うには「もし私がいなければ、 お前はどうやってこの国を治められるというのだ。 私がいることによって、 お前のその大いなる国造りの功績を立てることができよう。」といった。 この時、大己貴神(おおあなむちのかみ)は 「そういうお前は一体誰か。」と尋ねると、 それに答えて 「私はお前の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)である。」と言った。 大己貴神は、 「そういうことでございますか。 これであなたが私の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)であることが分かりました。 今、どこに住もうと思われますか。」と聞くと。 それに答えて 「私は大和の国の三諸山(みもろやま)に住みたい。」と言った。 そこで宮をそこに作り、 行かせて坐さしめた。 これが大三輪神(おおみわのかみ)である。 この神の子の子孫は、 甘茂君(かものきみ)たち、 大三輪君(おほみわのきみ)たちである。 また、大三輪神の子に姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)がいる。 この姫については、 また事代主神(ことしろぬしのかみ)が、 八尋(やひろ)の熊鰐(わに)となって、 三嶋溝樴姬(みしまのみぞくいひめ)〈あるいは、玉櫛姬(たまくしひめ)ともいう〉に通い、 生まれた子が、 姬蹈鞴五十鈴姬命(ひめたたらいすずひめのみこと)とも言い、 この姫は神日本磐余彦火々出見(かむやまといわれひこほほでみ)の 天皇(すめらみこと)〔神武天皇〕の后となった。 57目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[6]-(4)】 《一書[6]-(4)》
「初」、すなわち時計の針を少彦名命が登場する場面に巻き戻す。 古事記で対応する部分とは、第69回で比較した ((【紀一書六(その4)】))。 《出雲国五十狹々小汀》 天神が派遣した武甕槌神・経津主神が大国主と談判したのが「出雲国五十田狹之小汀」 (第78回【日本書紀本文】)。 古事記では「伊那佐之小浜」(第78回)。 イササ・イサタ・イナサは同一地名の発音の音韻変化であろう。サ・タ・ナは調音点が近い。 現在、「稲佐(いなさ)の浜」が出雲大社の近くにある (【いなさの小浜】)。 なお、記ではその舞台は「御大之御前」。「美保の岬」〔美保神社のところ〕説が有力である(【御大之前】)。 「御大:mi-ohoが母音融合してmiho」という説明は可能である。 あるいは、上代のホは、[po]または[ɸo]で、短い時間に大きな口唇の運動を伴うので[iɸo]と発音するときに、ときには[ioɸo]と短くoが挟まって発音される場合もあったかも知れない。そう考えると御大と三穂は意外に近い。 《海上》
ワタツウミの用例は、『玉葉和歌集』巻七賀歌に「和田津海よせてはかへる波の数かきりなき君が御代かな」。 『玉葉和歌集』は鎌倉時代後期で、〈時代別上代〉の見出し語に「ワタツウミ」はないから、 この書紀古訓は中古以後に付されたものと見られる。 これを上代語に戻すとすれば、海を表す上代語にはウミ、ウナ-、ワタがある。 ワタについてはワタナカ(海中)、ワタツソコ(海底)は海岸から遠く離れ、ワタツミ(海神)も含めると深淵な霊的異界のイメージがある。 なお、ワタツミが海そのものを表す場合もある。 「海上」はウナカミとも訓めるが、この語は万葉では陸上の海辺を指す語として使われていて、この段には当てはまらない。 書紀古訓を上代語に戻せば、「ワタツミノウヘニ」となる。 《高皇産霊尊》 高皇産霊尊の千五百座のうちの一つが少彦名命だという。 しかし記では「神産巣日神」〔書紀での表記は神皇産霊尊〕が生んだとされ、ここには重大な食い違いがある (《高天原所生神》) 書記の編纂過程に於いて高皇産霊神への崇敬を強めた時期は、大伴氏の復権に連動すると見た (《思兼神》) ここもその現れのひとつと考えると、「初~」段の執筆時期は〈持統〉六年頃以降と考えられる。 ところが、一書[6]の前半部分の執筆時期は、「大三輪君」・「甘茂君」の姓により、朝臣姓を賜った〈天武〉十三年以前と見た。 これは、むしろ「初~」段が時計の針を遡って付け加えられたことをよく説明する。 すなわち、大伴氏復権による高皇産霊尊の書き加えが少彦名命の場面でも都合よく可能であることに気づき、最後の最後になって神代上巻に付け加えたわけである。 《大意》 以前に、大己貴(おおあなむち)の神が国を平定したとき、 出雲国の五十狹々小汀(いささのおばま)に着き、 食事しようとしていた。 その時、海の上で突然人の声がして、 驚いて探したが、見えるものは何もなかった。 しばらくして、一人の小さな男が、 白蘞(かがみ)〔白蓮(びゃくれん)〕の皮で舟を作り、 鷦鷯(ささき)〔ミソサザイ〕の羽を衣にして、 潮に浮かび流れに乗ってやってきた。 大己貴神は、 それ取り掌に置いて弄(もてあそ)んでいると、 飛び跳ねて頰に嚙みついた。 すなわちその様子を怪しみ、使者を遣わして天神(あまつかみ)に尋ねた。 すると、高皇産霊尊(たかみむすびみこと)がこれをお聞きになり、 「私の産んだ子は、凡そ一千五百座あり、 その中の一子は最悪で、教え養ったことに従わず、 指の間から漏れ墮ちた。必ず彼であろう。 よろしく可愛がって養ってください。」と仰った。 これが、すなわち少彦名命(すくなひこなみこと)である。 〈顕は「うつし」、 蹈鞴は「たたら」、 幸魂は「さきみたま」、 奇魂は「くしみたま」、 鷦鷯は「ささき」とよむ。〉】 まとめ 古事記が大物主神を大国主命から切り離そうとした裏には、多氏による大三輪氏へのライバル視があったと見た。 ただその理論的基盤には、天神-地祇の区分けの構図がきっちりと存在したと見るべきである。 すなわち、大国主命は地祇ではあったが、国譲り以後は天神の下で宗教の主として国家を支えるという役割を得た。 それに対して大物主神は全くの地祇として厳として存在し続け、崇敬を欠けば容赦なく疫病を起こして人民を死なせた。 その神格の相違を見れば、大国主命と大物主神をきっちり切り離すことは、理論的には当然の帰結である。 だから、古事記は原理に忠実であろうとしたが、現実として出雲移民と現住氏族が融合してきた長い歴史は否定のしようがない。 よって、書紀の一書に記述することで、なし崩し的に三輪氏系の始祖伝承を受け入れる形に収まったわけである。 一方書紀本文においては、大国主命を素戔嗚尊の一世の子とすることにより、五世孫として亦名云々という部分は完全に封印される。 したがって、表向けには大国主命と大物主神は全く別神のままである。 さて、氏族の融合は出雲移民-三輪氏に止まらない。三輪氏・鴨氏・三島氏がかなり融合していた歴史も、一書[6]から覗われる。 なお、一書[6]は一つの段であるが、[6]-(4)は随分後の時代になって書き加えられた推定される。 それは反伊勢神宮勢力の巻き返しと大伴氏復権の時代のようである。 神代上巻は特にその一書において多様な氏族の伝承が記録され、全体として〈天武〉朝以後のさまざまな勢力の消長が知れるものであった。 |
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⇒ [02-01] 神代下(1) |