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2026.08.27(thu) [01-22] 神代上22 ▼▲ |
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48目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[1]】 《一書[1]》
「簸之川上」は、本文と同じ表現。古事記は「肥河上名鳥髮地」(第52回)。 〈神元記〉には「出雲樋川上鳥上山」。 表記は簸、樋、肥、斐とさまざまだが、いずれもヒ乙。 髪、上はともに「カミ乙」。 《稲田宮主簀狭之八箇耳》 「稲田宮主簀狭之八箇耳」の「稲田宮」については、鳥上山を遥拝する地域にあったと見てよいであろう。現在の稲田神社や鬼神神社の地域である(次項)。 問題はここに「簀狭」〔須佐〕が入っているところである。この問題については、次の段の《稲田宮主簀狭之八箇耳》で精査する。 《稲田媛》 一書[1]では美称抜きの「稲田媛」。もともとは「稲田」地域の土着神であろう。一書[2]では「真髮觸奇稲田媛」。 また〈神元記>の「久斯那多比祢」の祢
よって奇稲田媛は各地域で稲の田の神として広まっていたことも考えられる。 ● 稲田神社 稲田神社の地は、鳥上山〔船通山に比定〕の遥拝地と考えられる。 船通山がよく見える場所は、鬼神神社〔稲田神社の北東約3km〕(鳥上村)の辺りという(右写真)。 その鬼神神社〔島根県仁多郡奥出雲町大呂2058番地2〕の前には、「岩船大明神」と呼ばれる磐座がある。 一書[4]で素戔嗚尊が「五十猛神」を率いて「出雲國簸川上所在鳥上之峯」に降りたとあり、そのとき乗ってきた埴土の舟がこの磐座だと言い伝えられている ([奥出雲町公認観光ガイド|鬼岩神社の岩船とご陵墓])。 《清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠》 〈神元記>の「蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴」〔[す、そ甲]がのゆやまぬしみ甲なさむろひこやしましの甲;"弥"は『栗鹿大明神元記』項の注記参照〕 は、一書[1]の「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠」〔すがのゆやまぬしみ甲なさ[もる、ろ]ひこやしましの甲〕とほぼ同じである。 この長大な名前の構成は「須賀の湯山主、御名は狭漏彦、〔亦名〕八島篠耳」と見られる。 なお、別名が並記されていることは、異伝も含めて幅広く資料を蒐集したことを示している。その意味で、一書[1]は学術的な性格がある。 ● 一書[1]の性格 一書[1]は、簸之川上への天降りと稲田姫との結婚という入れ物のみで、中身となる八岐大蛇の話がない。 本文と共通な部分を省いたとも考え得るが、むしろこれが原伝承の形と考えることができる。 それは、上で述べたように一書[1]がこの原伝承を忠実に記録した性格をもつからである。 本文では八岐大蛇伝説は古事記の段階で挿入した可能性が濃厚と見たが、一書[1]はそれを裏付けるものとなっている。 この問題については〈神元記論文〉は、 〈三品説〉からの引用として、「素佐乃乎命とイナダヒメの聖婚のみを語る第一の一書の素朴な書伝こそ、大蛇退治神話の原初的な形にほかなならぬ」 と述べている(p.140)。 《清之湯山主》
●〈風土記〉大原郡「海潮郷:…、東北須我小川之湯。渕村川中温泉【不レ用レ号】。同川上毛間村川中温泉出【不レ用レ名】」 〔東北に須我の小川の湯。渕村の川中の温泉 が見える。「清の湯山主」は、須我の温泉の山の支配者または管理者と読める。 《此神五世孫》 書紀の伝承蒐集スタッフは、確実に〈神元記〉または同じ内容の書を把握していたと考えられる。 ここではその一世の〔…八嶋篠〕だけを示し、二世以下は省略されている。知りたければ古事記(第55回)を参照せよと言うが如きである。 古事記の系図では「八島士奴美神」を起点とすれば大国主は五代孫にあたるから、「此神〔=八嶋篠〕五世孫」と合致している。 《大意》 【一書(あるふみ)(1)に曰く、 素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 天から出雲の簸(ひの)川の川上に降りられた。 その地で、 稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)の娘、 名前は稲田媛(いなだひめ)を見いだされ、 くみどに起こして〔=性行為して〕生まれた子の、 名は清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさもるひこやしましの)、 あるいは、清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのかけなさかかるひこやしまてのみこと)、 あるいは、清之湯山主三名狭漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさもるひこやしまの)という。 この神の五世孫が、大国主神(おおくにぬしのかみ)である 〈篠は小竹の意味で「しの」と訓む〉。】 【粟鹿大明神元記】 〈神元記論文〉によると 『栗鹿大明神元記』と『栗鹿大神元記』は「但馬国朝来郡粟鹿 一方、「『粟鹿大神元記』は明治四十年に谷森善臣翁が田中教忠氏所蔵の「古巻」を書写して袋綴一冊に作ったもの」という 〔現在、[国書データベース|粟鹿大神元記]で閲覧できる〕。 『粟鹿大神元記』の方も、その末尾に添え書きされた「神祇官」による「勘録帳証」〔長保四年〔1002〕正月二十一日付〕の中では「但馬国朝来郡栗鹿明神元記」の表記が用いられている。 明治四十年〔1907〕の写本なので、神仏分離令を慮って本来の題名「大明神元記」を改めて「大神元記」に改めたと思われる。
「娶淤迦美之女日河比売生児深淵之水夜礼花」の代は『粟鹿大明神元記』にはなく『粟鹿大神元記』のみに見える。この部分の表記は古事記と全く同じなので、明治時代の筆写者による挿入が疑われる。 とはいえ、この部分がなければ古事記と一致せず、また大国主命は「五世孫」になってしまうので一書[1]とも合わなくなる。よって、もともとは存在したと見られる。ただし、古事記とは多少の表記の違いがあったかも知れない。 《記紀との比較》
また、一書[1]でも上で見たように「清之湯山主…」の名が一致し、その神を起点とする五世孫を「大国主命」とするから、これも確実に〈神元記〉自体または共通資料によったと見られる。 《「偽書説」について》 〈神元記〉に出てくる神名は、訓読した範囲においては記と適合する。 よって、少なくとも大国主命までの部分に関しては、平安以後に作られた偽書とは考えにくい。 またヒメを比弥と表記する例(上記)は『上宮紀』に見られた。『上宮紀』は、7世紀半ば以前と考えられる(資料[20]まとめ)(ア)。 さらに「A児B児C」は「Aの子はB。Bの子はC」を意味する。これも『上宮記』の書法である(イ)。 古事記では神名にすべて「~神」をつけるがこれは編者の方針によるもので〔(書紀「野槌」⇒紀「野椎神」など。《野槌》項〕)、 より古い〈神元記〉では「~神」に統一されることはなかった見られる(ウ)。 これらについて〈神元記論文〉でも同様のことが指摘されていた。 すなわち、(ア)については「田中卓氏」の論考〔『芸林』七巻四号、昭和三十一年〕を引いて 「「弥 (イ)については、「『記』の系譜記載様式は…「此神」の一句を挿入」するが、「『元記』は、…、に「此神」の一句が挿入されて」いないと述べる。 (ウ)については、 「神名の末尾に画一的に神字を書き加え「神」概念のなかでとらえなおした『記』にくらべ、大山都美 《特徴的な例》 「蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古夜斯麻斯奴」は特徴的で、 一書[1]ではこの音のままだが表記のみを分かりやすく改め「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠」とする。 一方、古事記では「八島士奴美〔やしましのみ〕」としている。これは、名前から肩書や別名を取り除いた「八嶋篠」に「霊(み)」をつけた形である。 これは、既に〈神元記〉に存在していていた神名を、一書[1]では忠実に引き、記ではその主要部分だけを抜き出して用いたと考えられる。 和銅元年〔708〕以前に既に〈神元記〉〔またはその原史料〕が存在し、記はその初めから大国主命までの部分を、一書[1]では須佐乃乎命の子の代のみを収めたと思われる。 《但馬国朝来郡粟鹿神社》 〈神元記〉は、大三輪氏の氏文である。祖神は大物主だが、大物主は大国主の別名だから祖は素戔嗚尊まで遡ることになる。 これが但馬国朝来郡という僻地で発見されたことが注目される。 恐らく中央の大三輪氏の先祖由来書は書紀と矛盾しない形で新たに作り直され、古い氏文は廃棄されたのであろう。 古い氏文の写本は各地方にも配られていて、周辺地域においてそれが残されていたと考えられる。 【稲田神社】
現地案内板〔東出雲町2012年設置〕に、 「国つ神のアシナヅチ、テナヅチの夫婦、…、ここ稲原に耕作に来ている時、テナヅチがにわかに産気づき、 …生まれたのが、稲田姫です。二人は、この池を産湯として使い、アシナヅチは 近くにあった竹でヘラを作り、臍の緒を切った」、「「笹宮」という、笹をご身体とする宮」は、 臍の緒を切ったヘラを逆さまに刺しておいたところ、そこから萌芽して現在のようになったといわれています」との説明がある。 稲田神社周辺には、このように稲田姫にまつわる伝承がある。これらの伝承は記紀の記述によって、後世に形成されたと見られる。 《船通山》 〈風土記〉仁多郡に「鳥上山:郡家東南卅五里【伯耆与出雲二国之堺有塩味葛】」とある。 船通山〔1142m〕は仁多郡と伯耆国の境界で最高峰で、中腹に斐伊川の源流があるからこれが鳥上山であることは、ほぼ確定する。 これは古くから言われていることで、『古事記伝略』には「鳥髪地は、風土記に…〔上述〕と見ゆ、 此山今俗に船通山といふ、此山の東に室原山あり、其間を越れば、伯耆国、日野郡に至とそ」とある。 船通山の斐伊川源流近くの滝は、「鳥上滝」と名付けられている。 船通山の北には、かつて鳥上村があった。但し、これは明治二十二年の町村制によって、大呂村と竹崎村を併せてつけた復古地名である〔現在の大字名は大呂・竹崎に戻っている〕。 「鳥上滝」の名称もこの復古地名によってつけられたと思われる。 49目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[2]-(1)】 《一書[2]-(1)》
[国土数値情報河川データセット|江の川・斐伊川] 『高田郡史』上巻〔高田郡町村会;1972〕は、 「可愛の川はすなわち現在吉田町を流れる川で、吉田川ともいったが、江の川の上流になり、 …、この伝説の地は吉田辺、であろうという」(p.46)と述べる。 そして、その「江の川の上流」に近いところに「吉田祇園社」があったという。 『芸藩通志』〔安芸国広島藩の地誌;1825〕には次のように載る。
すなわち、安芸国高田郡の吉田祇園社の祭神は素戔嗚尊・稲田姫・足摩乳・手摩乳で、周辺に素戔嗚尊大蛇伝説があったというからから、近くを流れる江の川が「可愛之川」だと古くから考えられてきたのは明らかである。 祇園社は、一般的に牛頭天王〔素戔嗚尊の神仏習合の時代の名称〕を祀っていた。明治時代に神仏分離令によって「祇園社」の名称が禁止され、 牛頭天王は素戔嗚尊に戻された(【『備後風土記』逸文】項)。 安芸国高田郡「吉田祇園社」の「清(すが)神社」への改称も神仏分離令によるものであろう。 ● 吉田祇園社の伝承 おそらく、吉田祇園社で素戔嗚尊らが祀られるようになったのは書紀成立後で、ことによると中世になっていたかも知れない。 ただ、記紀成立以前にはこの地に大蛇退治伝説があった。それが細々と続いて吉田祇園社の由緒に繋がったと考えられなくもない。 《脚摩手摩》 一書[2]では奇稲田媛の父の名が「脚摩手摩」、その妻の名が「稲田宮主簀狭之八箇耳」でかなりアンバランスである。 しかし、その名前はもう一度でてきて「真髮觸奇稲田媛」を生むので、話は一応成り立っている。 おそらく脚摩乳・手摩乳は大蛇切伏せの古伝承のもので、 「稲田宮主、名は須賀之八耳神」は「素佐乃乎命降臨+奇稲田媛婚姻」伝承由来のものとと思われる。 これが記及び本文になると、「脚摩乳」・「手摩乳」は後にまとめて「稲田宮主須賀之八耳神」〔書紀は「稲田宮主神」〕を任じられた形に整理されている。 一方〈神元記〉では職名「稲田宮主」、名前「須佐の八箇耳」。これは父一人の名前と思われ、また脚摩乳・手摩乳の名前は出てこない。 以上から、原伝承は次の二伝に明瞭に分離される。 ●A伝[安芸国可愛之川上]「八岐大蛇」伝承:父母は脚摩乳・手摩乳。 ●B伝[出雲国簸之川上]「素佐乃乎命降臨+奇稲田媛婚姻」伝承:父は稲田宮主を務めていた須佐の八箇耳。 一書[2]の夫=「脚摩手摩」、妻=「田宮主簀狭之八箇耳」という名前の分離はこの二伝を合成する際に現れた過渡的なプランで、とても不器用な割り振りの跡を残している。 そこから古事記に至り、遂にきれいに合成することに成功し、本文もその形を採用したという経過が浮かび上がってくる。 それでは、A伝から切り離されたB伝において、大蛇を切り伏せた英雄神は誰であろうか。 この問題については、別項【安芸国の大蛇伝説の英雄名】を立てて検討する。 《稲田宮主簀狭之八箇耳》 古事記では「稲田宮主須賀之八耳神」となっていて、これなら「櫛稲田姫」を八岐大蛇から救った須賀の地で宮主の地位を賜るわけだからとても自然である (第54回)。 ところが〈神元記>では「伊那多美甲夜奴斯名須佐能乙夜都美甲弥甲」で、これは「稲田宮主、名は須佐の八箇耳」と読める 〔能〔ノ乙〕は格助詞のノであるから、「簀狭能」="Susa's"である〕。 よって、一書[1]・[2]の「稲田宮主簀狭之八箇耳」はまさに古伝承に由来する。 従って、本来スサであったが、古事記が物語の流れを重視して潤色したのは確実である。 古事記編者も理解困難と見たこの「須佐」を、どう考えたらよいのであろうか。 あれこれ理屈を考えてみたが、結論的には須佐から稲田に及ぶ広い範囲に人々の活発な交流があったことを反映したと見るのが妥当とする結論に達した。 すなわち、〈風土記〉には「所造天下大神」〔=大穴持命、=大国主命〕がさまざまな地域に登場し、また「須佐乃乎命」も五つの郡で登場している(『出雲国風土記』に見る神須佐乃袁命)。 これらの伝承の広がりを生み出したのは、確実に人々の広範囲の移動・交流であろう。 だとすれば、須佐の祭祀氏族が稲田宮の祭祀を担うようになったことは、十分あり得ることになる。 その神話上の表現が、「須佐のヤツミミが稲田の宮主になった」である。 この見方によれば八箇耳神信奉族の本貫を須佐に置くことになるから、A伝とB伝の分離はさらに深まる。 《此神正在姙身》 すなわち一書[2]では大蛇が襲ってきたときはまだ妊娠中だから、奇稲田媛は生まれていない。 これは、A伝の中には奇稲田媛の名前がなかったことの現れではないかと思われる。 ひとつの仮説としては、A伝で名前が奇稲田媛とは異なっていたから、まだ生まれていないことにしたことが考えられる。 あるいは、原伝承の段階で本当に妊娠中だったのかもしれない。 どちらにしても、一書[2]で真髪触奇稲田媛という名前がつくのは、A伝が終り、B伝に切り替わってからである。 《必彼大蛇当戸》 ここの「必」は文脈に合わない。本文の「至期果有大蛇」なら完全に意味が通るから、 「必」は「果」に作るべきである。もともと一書は割注として小さな文字で書かれていたから誤りは生じ易いであろう。 だが、1300年間苦労して解釈してきた歴史の重みを考えると、安易に書き換えることは躊躇される。ひとまず字はそのままにして「はたして」とルビを振って凌ぐことにする。 次の「当戸」も相当怪しい。例えば頭が八つあったから「毎戸」かも知れない。しかし、こちらは「必」とは異なり、頭が入り口の戸にどんとぶつかったと読むことは可能である。 《大意》 【一書(2)に曰く、 この時、素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 安芸(あき)の国の可愛川(えのかわ)の川上に下りた。 そこには神がおり、 名前を脚摩手摩(あしなづちてなづち)といった。 そしてその妻の名前は稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだみやぬしすさのやつみみ)といい、 この神はまさに孕んでいた。 夫妻は共に憂いていて、やってきた素戔嗚尊に告げて 「私は多くの子を生んだが、 生まれるたびにすぐ八岐大蛇(やまたのおろち)がやって来て呑みこまれ、一人も生存できませんでした。 今、私が産めば、また呑まれるだろうと恐れ、 だから哀しんでいるのです。」と申し上げた。 素戔嗚尊は、このように教えた。 すなわち「お前は、木の実を集めて酒八甕(かめ)を釀(か)もすがよい。 私は、お前のために大蛇(おろち)を殺してやろう」と仰り、 二神は教えられたままに酒を設けた。 時は産むに至り、果たしてその大蛇は入り口の戸に体当たりして、まさに子を呑みこもうとした。 50目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[2]-(2)】 《一書[2]-(2)》
海岸線…伊勢湾台風(1959年)時の高潮浸水域から推定した過去の海岸線。 厚田・作良・成海…倭名類聚抄 阿由知通・桜・鳴海…現代地名。 熱田神宮…現在の位置。 年魚市方…年魚市潟の推定位置。 局所的地名「吾湯市 古代の海岸線は、伊勢湾台風の高潮による浸水範囲によって、新田開発や干拓以前の自然地形を推定することができる([中部災害アーカイブス|伊勢湾台風])。 年魚市潟の位置は、「桜田へ田鶴(タヅ)鳴き渡る」と詠まれたことから、現代地名の桜に近い海岸線に近く現代地名の阿由知通から極端に離れていないところを推定した。 熱田神宮は熱田台地の南端。おそらく弥生時代から現代まで変わらず信仰の地であったと考えられる。 また、〈倭名類聚抄〉の{厚田郷}・{作良郷}・{成海【奈留美】郷}の遺称が現代の熱田(名古屋市熱田区)・桜(同南区)・鳴海(同緑区)だと考えられる。 厚田郷と吾湯市村との関係については、村は郷を細分化した単位と考えられている。 郷はもともと五十戸とされ一戸あたりの人数は20.6人とする研究(《俘人七十戸為一郡》)によれば、ひとつの郷の人口は一応1000人程度が考えられる。 吾湯市村はその一部で熱田神の祝部 《熱田祝部》 熱田神宮の神職を務める一族。「部」は一般的には隷民〔但し、良民〕であるが、「祝部」は奉斎の民であるから良民一般よりは随分地位が高かったと考えられる。 〈姓氏家系大辞典〉「祝部 ハフリベ:もと職業部の一にして、神社に奉仕する人たちを、総称する場合に用ふ」、 「熱田祝部:熱田縁起に…、「稲種公は云々、実に尾張氏の祖也、茲に因りて 熱田明神を以つて尾張氏の神と為し、便ち尾張氏人を以つて神主祝唐の職に補する也」 と見え、尾張連の族裔たるなり」、「この祝部代々此神宮を主語奉仕しけるに尾張員職に至り、外孫季範にゆづり、血統藤原氏となれり」という。 「稲種公」は、尾張連の饒速日命十二世孫(資料[38]) 「尾張員職(かずもと)」は、平安後期の大宮司職という。 《蛇之麁正》 蛇之麁正を安置したとされる石上神宮は、物部氏がかつて武器の貯蔵保管を担う一族であったことを、色濃く反映する神宮である (第116回【石上神宮】項、 資料[37])。 《遷置於出雲国簸川上》 「遷二-置於出雲国簸川上一」、すなわち大蛇退治の舞台「安芸国可愛之川上」から「出雲国簸川上」に奇稲田媛を移して養育したとする。 ここには、物語が接合された跡がありありである。 「遷」の文字はなかなか意味深で、八岐大蛇伝説の舞台そのものを安芸から出雲に移す操作をしたことを暗示するかの如くである。 結局、一書[1]・[2]は古事記で八岐大蛇段が完成されるまでの舞台裏を白状するものとなっている(《脚摩手摩》)。 《真髮觸奇稲田媛》 「真髮觸-」は稲田媛への美称であるが、「速須佐之男命乃於湯津爪櫛取二-成其童女一而刺二御美豆良一」(第53回)が連想される。 すなわち櫛に変身して美豆良の髪に触れたという伝承によってこの名前があり、またその伝承が記に取り入れられたという過程が想像される。 だとすれば、これもまた一書[2]が記や本文のストーリーへの途中経過であることへの、ひとつの裏付けとなる。 《所生児之六世孫》 「児」を起点として機械的に読むと、「大己貴命」は素戔嗚尊の七代孫となる。 既に〈神元記〉・記の内容が書紀編者に認識されていた以上、「七世孫」説がどこかにあったと安易に考えることはできない。 これが一書[1]・記・〈神元記〉に沿うものだと見た場合「児」を第一世として数えていることは明白である。 一書に時に見られる不用意さの一例であろう。 一書[1]の「生児号清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠…此神五世孫、即大国主神」を要約して「六世孫」と書こうとしたときに、不用意に「之」を入れてしまったと見られる。 訂正するなら「自所生児、六世孫」か。 なお、『集解』は特に問題にしていない。『通証』は「六世孫与二古事記説一同」とするから、結果的に「所生児」を一世と数えている。 些細に見えるが、このようなミスがあり得ると認めるか否かは、書紀全体をどのような性格の書として捉えるかに繋がる。 《大意》 素戔嗚尊は、大蛇に勅して 「あなたは、畏(かしこ)き神にあられますから、敢て饗しないことがありましょうか。」と仰り、 八甕(かめ)の酒を、口ごとに注ぎ入れた。 その大蛇は酒を飲んで眠ってしまった。 素戔嗚尊は、剣を抜いて斬った。 尾を斬るに至り、剣の刃が少し欠けたので、 割いて見たところ 剣が尾の中にあり、これは草薙剣と名付けられている。 この剣は、現在は尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にあり、 熱田の祝部(ほうり)が掌る神が、これである。 大蛇を断った剣は、蛇之麁正(おろちのあらまさ)と名付けられ、 現在は石上(いそのかみ)〔神宮〕にある。 この後、 稲田の宮主、簀狭之八箇耳(すさのやつみみ)が生んだ子、 真髪触奇稲田媛(まかみふるくしなだひめ)を、 出雲国の簸(ひ)の川の川上に移し置き、 しばらく養った。 この後に、素戔嗚尊は、 妃とされ、生まれた児から数えて六世の孫を、 大己貴命(おおあなむちのみこと)という。 〈大己貴は「おほあなむち」と訓む。〉】 【安芸国の大蛇伝説の英雄名】 《A伝の英雄名》 安芸国に独立的にA伝が存在したとすれば、大蛇を切り伏せた英雄神は誰であろうか。 安芸国にもスサノヲがいた可能性については、〈倭名類聚抄〉には安芸国の郡・郷名にスサはない。 木簡庫でスサを探すと、 「須佐」が二例あった。なお、須狭などの異表記でも検索したが見つからなかった。 ●「尾張国知多郡●●郷須佐里●●部小」。 ●「須佐里丹比部百嶋」。 二例目も恐らく尾張国知多郡であろう。 これにより、少なくとも出雲国以外にも須佐という地名があり得ることだけは確かめられた。 その地名の由来としては、例えば動詞「スサブ」〔自然の勢いに任せるしかない様子〕の語根などが考えられ、各地に存在した可能性がある。 《記紀における「亦名」ルール》 記紀においては、神に別名があったときには、必ず「亦名」・「一名」が付記される。その中には複数の神を一つの神に習合した場合もあろう。 これは、神名自体に神威があるから安易に省けないと捉えられていたためと思われる。 天照大神でさえ、別名「大日孁貴」を添えている。大国主命の大量の別名は言わずもがなである。 ところが、ことスサノヲに関しては全く別名が出てこないのである。 もし、A伝の英雄が別の神なら、素戔嗚尊に必ず「亦名●●」として添えられたであろう。 よって、安芸国のA伝にはスサノヲの名前で登場していた可能性が極めて高いことになる。 《B伝と合体するハードル》 A伝の主人公の名前もスサノヲであったとすれば、B伝と合成するときのハードルはそれほど高くない。 安芸にも出雲にも元々「スサノヲ」が存在したからこそ、編纂者は大きな心理的な抵抗なしに、安芸のオロチ退治(A伝)を出雲の説話(B伝)に組み込むことができたと考えられる。 《広域神話におけるスサノヲ》 〈風土記〉における「須佐乃袁命」は、地名「須佐」と結びついた在地の神「須佐の男 スサノヲは、中国山地の交通路(江の川・斐伊川水系等)や鉄・山林資源の利用を通じて交流していた古代人たちの間で、地域ごとに異なる説話や属性を伴いながら広がっていた広域神格であったと見るべきであろう。 《ペルセウス・アンドロメダ型説話》 【八岐大蛇神話の成り立ち】では、 大蛇切伏せ神話の根源をペルセウス・アンドロメダ型説話の流入まで遡らせ、その影響下の伝説が複数の土地にあったのだろうと考えた。 だがこの説明は一般的な概論のレベルに止まり、そのあまりの漠然さに居心地の悪さがあった。しかし、ここに至り極めて具体的に安芸国のA伝まで絞り込むことができた。 この認識の進展は、一書[1]・[2]を改めて詳細に検討したことに加え、何よりも〈神元記〉の存在を知ったことによる。 《再び〈神元記〉の信憑性について》 もし、〈神元記〉が平安以後に作られた偽書だとすれば、既に記紀が定着した時代において、B伝にまったくA伝を紛れ込ませずに作ることはあり得ないであろう。 特に、〈神元記〉に足摩乳・手摩乳の名前が出てこないことの意味は大きい。 したがって、一書[1]・[2]の検討による八岐大蛇段の形成過程の精査とかけ合わせることにより、却って〈神元記〉の真書性も深まるという相互実証的な関係にあったわけである。 まとめ もともとの素戔嗚尊と奇稲田媛の婚姻伝説に大蛇は登場せず、古事記の段階で後から組み込んだものらしい。 その構図は『粟鹿大明神元記』によって堅固なものとなった。 ならば、その大蛇伝説はどこから持ってきたものだろうか。あれこれ検討した結果、結局出どころは安芸国という実に堅実な結論に達した。 さらに改めて考えると、この「素戔嗚尊」は全く別名を持たない神であることに気づいた。 ということは、安芸国の古い大蛇伝承の英雄神も最初からスサノヲだったことになる。それなら物語の合成にそれほどアクロバティックな操作は不要である。 また、スサノヲが出雲に限らず、中国地方に広く共有される神であったこともわかる。 なお、細かい点を付け加えると、書紀が本文において記では書かれていた「鳥髪山」を省いたのは、完全に出雲の物語にすることに若干の遠慮があったためかも知れない。 さて、一書[2]は、二つの伝承の合成を試みた途中経過を残すもので、興味深い。 これを残したのは安芸の現地氏族への配慮とも、書紀のスタッフが経過を資料として未来に残そうとした学究的な態度の現れとも考えられる。多分その両方なのであろう。 |
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2026.09.05(sat) [01-23] 神代上23 ▼▲ |
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51目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[3]】 《一書[3]》
「欲幸奇稻田媛~然後幸者宜也」の部分はB伝によって付け加えたかも知れない。 その他の部分はA伝でも古い形を残している可能性がある(次々項)。 《脚摩乳手摩乳》 B伝による名前「須佐宮主名須賀之八耳神」はなく、A伝固有名「脚摩乳手摩乳」のみが用いられる。 《毎頭各有石松兩脇有山》 「有二石松一両脇有レ山」には河川氾濫のイメージが色濃いので、比較的古い形かも知れない。 ただ「毎頭」とあることについては、執筆者の頭にあった古事記の「八岐」が混合したことが考えられる。 《以飲之蛇醉而睡》 酒を飲ませて「蛇醉而睡」させる謀 《草薙剣》 一書[3]には剣を天に献上する部分がないが、現在は熱田神宮にあるという部分は共通する。 書記が書かれた時点で熱田神宮に安置されていたことは史実と見てよい。それは〈天武〉紀に朝廷が保管していた草薙剣を熱田神宮に返した記録(【朱鳥元年六月】)が載るからである。 《以蛇韓鋤之剣》 「以蛇韓鋤之剣斬頭斬腹」においては、文法的には「蛇韓鋤之剣」が剣の名前となる。 しかし、〈私記〉では「韓鋤之剣」が使われ、これが本来の名前と見られる。 ならば、本来は「以韓鋤之剣斬蛇」とすべきか。 古訓ではヲコト点によって「蛇[ノ]韓鋤之剣」としている。 すなわち、「韓鋤之剣」に「蛇を斬ったところの」の意を付け足した拡張的な名称となり、一応成り立つ。 《名為草薙剣》 「草薙剣」という名称は巻七の日本武尊の伝説(景行紀《草薙剣》段)に因むものだから、ここでは「この剣が有名な日本武尊の草薙剣である」という説明を書いたものである。 ここで名をナヅケテと訓んだとしても、こう名付けられているという意味だから特に誤りではない。 なお、「為」をうっかりシタマフと訓んでしまうと、素戔嗚尊が命名したことになってしまうので注意が必要である。 《断蛇之剣今在吉備神部許也》 「在二吉備神部許一也」は、一書[3]における独自伝承である。 よって、ここまでの部分はA伝の吉備国伝承版を収めたものと位置付けられよう。 《吉備神部》 〈姓氏家系大辞典〉によれば「吉備神部:吉備にありし神部を云ふ。…、一説に云ふ、「吉備を一に寸簸に作る、出雲簸川上山・是れなり」と。されど恐くは非なるべし。 神名帳、当国赤坂郡に石上布都之魂神社あり、此の神釼を祀るか。然らば此の氏は此の地に存せしものならん」という。 〈延喜式-神名〉{備前国二十六座/赤坂郡六座【並小】/石上布都之魂神社}。 比定社は「石上布都魂神社」〔岡山県赤磐市石上1448〕 『古伊部神伝録』〔1849〕 「素戔嗚尊、大蛇を征し給ひし時、一徳神に勅命ありて、八瓶を造らしめ賜ふ。八岐八頭の大蛇、八瓶の毒酒にくるしみ、 終に宝剣の威徳に命を絶。其時瓶を造りたるは、赤阪郡石上なり。同所の土にて作りたり。…宝剣、…、布都魂神社御神体となり。…八瓶は尊の神伝の大器なり」。 同書は伊部焼の沿革を述べた書で、その「八瓶」も神代の伊部焼だという。この伝承自体は後世の付会だろうが、 一書[3]に既に「在吉備神部許」とある以上、書紀の前から細々と残っていた伝承が、書紀によって再び肉付けされたことは十分考えられる。 「地域の原伝承⇒書紀⇒地域へのフィードバック」の構図は、吉田祇園社の伝承項で見た。 なお、一書[2]の「石上」もここを指す可能性があるが、それぞれの地域伝承として別個に存在したことも考えられ、一概には決めきれない。 タタラ製鉄の中心地であった吉備国が(まとめ)、鉄剣の産地として結び付きやすいのは確かである。 「赤坂郡石上布都之魂神社」の存在は、前項「A伝の吉備国伝承版」の見方を強めることになる。 《出雲簸之川上山是也》 吉備神部が赤坂郡石上布都之魂神社の地にいたとすれば、「出雲簸之川上山」とは合わない。 そもそも「出雲簸之川上山」は、素戔嗚尊が天から降り立った場所であった。 あるいは、最後の最後になって一書[3]の話はここから始まると、不器用な形で付け足したのかも知れない。 《大意》 【一書(3)に曰く、 素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 奇稲田媛(くしなだひめ)を娶ろうと欲して乞うた。 脚摩乳(あしなづち)手摩乳(てなづち)はお答えして、 「願わくばまず大蛇(おろち)を殺してください。その後に娶っていただるなら同意いたします。 その大蛇は、頭ごとに石、松があり、 両脇に山があり、甚だ恐ろしいものでございす。 どうやって殺してくださいますか。」と申し上げた。 素戔嗚尊はそこで計略を立て毒酒を醸(かも)して、 これを飲ませることによって、大蛇は醉って眠った。 素戔嗚尊は、 そこで韓鋤之剣(からすきのつるぎ)によって、大蛇の頭を斬り腹を斬り、 尾を斬った時に、剣の刃は少し欠けた。 そこで、尾を裂いてご覧になると、 別に一口の剣が有り、これは名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。 この剣は昔は素戔嗚尊の許にあったが、 今は尾張国にある。 素戔嗚尊が大蛇を断った剣は、 今は吉備の神部(かんべ)の許にある。 出雲の簸之川(ひのかわ)の川上の山がこれである。】 52目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[4]】 《一書[4]》
《素戔嗚尊…降到於新羅国》
● 3つ目の「素戔嗚神」 「素戔嗚神:天書ニハ摩多羅神ト云。山門常行堂ノ内ニ祭奉神、是也」。 「祭●神」の「レ+」のような文字が不明だったが、他の字より力が入っているので筆写するとき「奉」が解読不明だったから見たままの形を写したと思われる。 但し、本来は「奉祭神」が正しく、「祭奉神」は和習によく現れる〔訓読に引きずられたもの〕。
● 2つ目の「大唐青龍寺」 「大唐青龍寺鎮守素戔也:弘法大師帰朝醍醐清龍社。〔慈〕覚大師赤山明神。智證大師新羅明神」。 「慮」は、おそらく「唐」の誤写。青龍寺は唐の大寺〔711年に観音寺から改称〕。新羅には「青龍寺」は見えない。 「慈」がないことについては、草書の「慈」を誤って本文の「乗」のルビ「ノテ」〔促音便のツを書かない平安時代の表記、またはノリテを部分的に書いた形〕として読んだと思われる。 それぞれ帰朝する際の海路の加護神を、帰国後に祀ったもの。すなわち、弘法大師:醍醐寺清瀧社。慈覚大師:赤山明神。智証大師:新羅明神。 いずれの神も素戔嗚神が派遣した神、もしくは自身の化身という意味であろう。 これは、素戔嗚神を新羅どころか大唐の青龍寺の鎮守神とするもので、恐るべき誇大妄想である。 ● 1つ目の「支羅岐」 「本漢地ノ惣名。神功皇后征伐之時最初帰伏之故以新羅其名ニ訓也」。 すなわち、新羅は漢の地全体の入り口を意味する言葉だという。 よって、素戔嗚神の神威は唐全体とその周辺に及ぶと本気で考えていたことがわかる。 なお、「支」をシに用いていることから、これらの頭注の書き込みは平安中期以後と思われる。 内閣文庫本でこれほど特定の教義に拘った頭注はここだけで、他の部分は私記の引用など無難なものばかりである。 僧侶たちは学術的に真摯に書紀を理解する態度はあったが、 素戔嗚神信仰を中心に据えた教団だったことが浮かび上がってくる。この写本は、その基本的文献として使用されていたものと考えられる。 これは、まさに天台宗の立場――真言宗の空海だけでなく、天台宗の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)のことも全く同じように守護した。だから天台宗にも真言宗に劣らない正統性がある――に沿うものとなっている。 さらに、素戔嗚神を青龍寺の鎮守とした誇大妄想は、元寇後に高まった神国思想そのものかも知れない。 だとすれば、この頭注は13世紀末以後ということになる。 《曽尸茂梨》 江原道春川郡に「牛頭山」がある。それを新羅語に訳したものを音写したものが「曽尸茂梨」だとする説を見る。 その説の出どころを探したところ、『那珂通世遺書』〔故那珂通世功績記念会;1915〕は「八阪社旧記集録」〔1870〕に「…曽尸茂梨は、即牛頭の韓語にして、…」、「韓語に牛を소시 江原道牛頭山に近い「江原道春川郡春川邑」に、1918年に「春川神社」が創立、1938年に「江原神社」に改称、 祭神は「天照大神、明治天皇、国魂大神、素盞鳴大神」という([海外神社(跡地)|江原神社])。 朝鮮が日本による統治下にあった時代に、日本朝鮮同祖論が現れ、ずばり『日鮮同祖論』〔金沢庄三郎;1943〕と題した書まである。 その流れの中で、「牛頭山に神宮を興し、恒に素戔嗚尊の神霊を斎奉」〔『朝鮮古史の研究』今西竜;1937所引の明治39年八坂神社発行『八坂誌』〕となったと考えられる。 同書には、さらに「素尊檀君同一説は耳学の徒の間に流行し」などとある〔檀君は古代朝鮮の伝説上の王〕。 他には、「曽は金の朝鮮古音「そい」〔쇠〕の音借字、尸は連辞(格助詞ノ)、茂梨は山(鷲益嶺(すりもり)――黄海道鳳山(こうかいどうほうさん))」 〔『日本大百科全書(ニッポニカ)』〕説を見る。国立国会図書館デジタルアーカイブで検索して「鷲益嶺」がヒットするのは、このジャッポニカが唯一で、極めて限られた説である。 そもそも、「曽尸茂梨」という語句しかないのに、それを朝鮮半島の古い時代の名称も不確かな山の中から特定することは不可能であろう。それを無理にでも特定しようとした背景には、日朝併合を合理化しようとする心理があったと思われる。 ● モリ 最低限いえることは、モリを山と見ることぐらいである。発音の近いムレ〔=山〕が「朝鮮語に由来する語」〈時代別上代〉といわれる。 書記には神功皇后四十九年「辟支山:〈丙本〉【倍支牟礼】〔へきむれ〕」、 五十二年「谷那鉄山:〈釈日本紀巻十七〉【コクナテツノムレ】」などが見える。 これらは、書紀古訓が、加羅方面の地名に当時の新羅語のムレをあてたものと考えられる。 《以埴土作舟》 「乗之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯」を字のままに読めば、海を舟で渡り、対馬海峡を経て出雲国の斐伊川を上って鳥上の嶺に達したことになる。 ここには、朝鮮半島と出雲を繋ぐ海路が反映している。その経路で鉄や製鉄技術が持ちこまれたのであろう。 だが、一般的には空中を飛んできて鳥上に降りたと受け止められるであろう。 鬼神神社の前の岩船大明神〔磐座〕も、間違いなく天から降りて来たと思われているだろう。 神話の世界のことだから、これでも決して誤りではない。 半島からの海上交通網については、《三女神》項参照。 船で天降りするパターンについては、饒速日が「天磐船」に載って「鳥見白庭山」に降り立ったとされる(資料[37])。 なお、「埴土で作った舟」には、葬礼を担う氏族として朝廷に仕えた出雲国の土師氏の存在がオーバーラップしていると思われる (〈天武〉十三年/土師連)。 《彼処有呑人大蛇》
ここで、各伝における登場人物の名前や事柄の対照を右表にまとめる。 A伝は次第に簡略化されていき、一書[5]に至り遂に記述がなくなる。 地方氏族への歩み寄りとしては、 ● 一書[2]⇒安芸国、 ● 一書[2][3]⇒尾張国、 ● 一書[4][5]⇒紀伊国 への傾斜が見える。 《天蠅斫之劒》 〈釈紀-述義〉「此釼尤利釼也。若居其刃上者即其蝿自斫。此鋭鋒之基也」。 すなわち、蝿が止まっただけで真っ二つになる鋭い刃の意味だという〔斫…[動] きる。割り裂く〕。 なお、古訓のハハキリが元から伝わる名前で、「蝿が云々」は名前がハヘキリに変形した後の付会かも知れない。 《五世孫天之葺根神》 「天之葺根」〔アマノフキネ〕は、アマノフユキヌ〔記(天之冬衣)と〈神元記〉(天布由伎奴)の五世孫〕と同一神であろう。各地に伝搬する過程で起こった変形と見られる。 人間なら本人の存命中に「五世孫」が存在することはほぼあり得ないが、神の系図は時間経過とは無関係の形而上的な図式と考えられる。 ただし、「遣」の直前に書かれていた神名〔素戔嗚尊の三世か四世孫ぐらいか〕が書かれていて脱落した可能性もなくはない。 《初五十猛神天降之時》 「初」、すなわち最初に新羅に降りたときに時計の針を戻しているが、ここでは筑紫を起点としており、上陸地に食い違いがある。 したがって、一書[4]の中に組み込まれているが、実際には別伝であろう。 もともと五十猛神を伴ってやってきた話に「鳥上峰」降臨から始まる大蛇伝説を合体させたことが、辻褄の合わなさを生んだ原因だと思われる。 但し、大蛇神話のひとつの変種に五十猛神を伴う型もあったのかも知れない〔だとすれば、大蛇神話は紀伊国まで広がっていたことになり、再びペルセウスとアンドロメダ型神話の広域への広がりが想起される〕。 五十猛神は紀国の偉大な神で、紀国が森林豊かで木材供給国であったことから、その功績を全国に拡大して誇る形でこの神話が形成されたと思われる。 新羅を植物の育たない痩せた土地と描いたところには、倭国を優越的に描こうとした下心が見える。 《紀伊国所坐大神》 五十猛神は、伊太祁曽神社の祭神となっている。 《五十猛命/大屋津姫命/枛津姫命》項で述べる。 《大意》 【一書(4)曰く、 素戔嗚尊の行状はひどく、 諸神は、 千座置戸(ちくらおきと)を科して遂に追放した。 この時、 素戔嗚尊は、その子五十猛神(いそたけるのかみ)を率いて、 新羅国に降り到り、曽尸茂梨(そしもり)の処にいた。 そして、 「この土地に、私はいたいとは思わない。」と言い放ち、 遂に埴土(はに)で舟を作り、 これに乗って東に渡り、 出雲国の簸(ひ)の川の川上にある鳥上の嶺に到った。 すると、そこには人を呑む大蛇(おろち)がいた。 素戔嗚尊は、 天蝿斫之剣(あまのははきりのつるぎ)でその大蛇を斬った。 その時、大蛇の尾斬ると刃が欠け、 そこで裂いてご覧になると、尾の中に一口の奇(くす)しき剣があった。 素戔嗚尊は、 「これは私が私用にするべきではない。」と言い、 五世の孫、天之葺根神(あめのふきねのかみ)を遺わして、 天に上奉された。 これが、今にいう草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。 最初に五十猛神が、天降りした時、 多くの木の種を持って下ったが、 韓の地には殖えず、すべて持ち帰った。 遂に、始めは筑紫から大八洲国(おおやしまのくに)全土に、 蒔き植えないところはなく青山とした。 ゆえに、五十猛命を称えて、功有る神とする。 すなわち、紀伊国にまします大神はこれである。】 53目次 【是時素戔嗚尊自天而降/一書[5]】 《一書[5]》
「韓郷之嶋、是有金銀。若使吾児所御之国、不有浮宝者、未是佳也」は、 五十猛神に三韓を治めさせると読める。 ところが、素戔嗚尊が各種木材の用途を教える文では「為二顕見蒼生一」〔人民の為に〕という言葉を使っているから、 森林豊かにするのは当然大八島国〔日本〕のことである。 それを明確にするには、「若使吾児所御之国」を「然、若使吾児所御之大八洲国」に作るべきであろう。 それにしても「吾児所御之国」は素戔嗚尊の子を国家を支配するという意味だから、とんでもない物言いである。 本来なら「吾児為天所仕之国」〔我が子が仕える国〕などとすべきであろう。 よって、牙は抜かずに意図的に三韓の続きの如く誤解させる形にして、ただ目立たなくしたと思うのである。 ● 後世の「所御之国」への解釈 このように「御」は毒牙である。これを後世にどう扱ったかはとても興味深い。 〈内閣文庫本〉では何の躊躇もなく、所御に古訓「シラス」を付している。〈釈紀〉にはこのポイントについての考察はない。 近世になり、『集解』を見ると「按指二吾勝尊一也。天照大神雖二養而為一レ子。即是素戔嗚尊子故曰二吾童一」、 すなわち、正哉吾勝勝速日天忍骨尊を指すという。この子は確かに天上に献上されたが、直接的には素戔嗚尊から生まれた子である。 また『通証』は「吾子泛 これらについては、一書[4]で「其子五十猛神」を「帥」(ひき)いてと言い、一書[5]でも「五十猛命」を「素戔嗚尊之子」の筆頭に置くから、 ここの「吾子」だけを天忍骨尊に切り替えて読むのはどう考えても無理だが、この問題に気付いていたことは分かる。 《是有金銀》 神功皇后段の「西方有国金銀為本 目之炎耀種種珍宝多在」と軌を一にする(第139回) 〈天武〉紀にはしばしば、新羅からの金銀献上の記事がある(八年十月など)。 《浮宝》 下文の「杉及櫲樟此両樹者、可以為浮宝」においては、「浮宝」が船を意味することは明白である。 ここでも浮宝=船だとした場合、韓郷から金銀を大八島国に運ぶための舟がないという文章となる。 しかし、続けて述べる文では要するに国土を森林で満たし、その木材を作って様々な価値あるものを作ろうという。だから、「船がないのは困る」という読みではまったく意味が通じない。 すなわち、「浮宝」は木材を金銀に匹敵するとして表現する語と読むべきである。 その背景には、書紀が執筆された〈天武〉朝~大宝年間における新羅の優勢に対する対抗意識が考えられる。 「浮宝」は法隆寺などの偉大な建築物をも生み出し得る優秀な材料であり、金属と対比した物理的性質として「浮」をつけたのだろう。 それでは下文の「浮宝」とのすれ違いはどうしたらよいのだろう。これについては浮宝を用いて造った水に浮かべる乗り物としての船も、また美称として「浮宝」と呼んだものと理解される。 《鬚髯》
〔京都国立博物館 館蔵品データベース〕
一文字目は大体䰅で、鬚の異体字とされている。 二文字目の脚は、冊に横線を追加した字。 古写本では「伊弉冉命」の「冉」にこの書体が見え、その異体字は「冄」。よって二文字目は髯、異体字髥と判断される。 すなわち、「鬚髯」と読むのは妥当。 さらに、この字は『論衡』〔後漢;王充〕に「高祖之相、龍顏、隆準、項紫、美鬚髯」とあるから、確実である。 《胸毛》 ムナゲ、ムネノケは〈時代別上代〉などの古語辞典にはない。おそらく訓点資料が存在しない。 推定の確度が高い場合でも、古語辞典には確実に文献資料がある語を載せる原則が見える。 胸毛に訓点がつかないのは、あまりにも当たり前の訓みだったためと見られる。 ムネが複合語ではムナ-に転じることが多いのは、ムナカタなどの例で明らかである。 〈吉田本〉のヲコト点では、尻毛・眉毛にノが入るが、胸毛にはない。それがムナケと訓まれていたからか、単なる脱落かの判断は難しい。 〈内閣文庫本〉、〈嘉暦三年本〉ではノが入っている。漢文訓読体において漢字を字ごとに分けて訓もうとする傾向が強まった結果、ノを入れるようになった可能性もある。 ムナケは上代から存在し、漢文訓読体を潜り抜けて現代のムナゲまで繋がった可能性は十分ある。 《即成杉》 書紀古訓では、スギに「~ノキ」を付ける。文脈から植物のスギであることは明白だから、蛇足の印象を受ける。ヒノキと統一するためかも知れないが、 マキ、クスにはつけないから一貫性はない。 ヒノキの場合は、ヒ甲が一音節語で同音異義語が極めて多いのでヒノキの使用頻度が大きくなったと思われる。 クスについては〈時代別上代〉では、見出し語は「くす」で、クスノキを派生語としている。 《顕見蒼生奧津棄戸将臥之具》 顕見蒼生は人民。奧津棄戸は奧津城(おくつき)〔=墓地〕の類語として、「将臥之具」は棺に対応すると見るのがよいであろう。 実際、槙の木は棺に適していたといわれる。 〈時代別上代〉は「奧津棄戸」の方を棺と解釈するが、「将臥之具」の方が棺で、奧津棄戸は棺を納めた墓地の一角を指すと読むのが合理的である。 オクツキは、「奥-ツ〔属格の助詞〕-城」。城(キ)は柵で囲った領域だから、墓地の一区画と見ることができる。 「棄戸」は、その「城」の部分に対応している。すると「棄」は遺体を棄てる意で、 戸(へ乙)は戸籍の「戸」で「家」も意味する。墓地の一区画を死後の我が家の住処としてスタヘと表すことはあり得るだろう。 スタについては、スツ、あるいはステが音韻変化によってスタになることはあり得る。 これは「柀可以人民之棺」を書けばさそうなものを、このように持って回った表現にしたのは、使者の埋葬という重々しい事柄に直面した人々の感情に寄り添うためであろう。 この丁寧な言葉遣いからは、死者の埋葬地に訪れた庶民の一家が、小さな墳丘の前で祭礼する姿が見えてくる。それをイメージすれば、おそらくその一角は溝によって隣と区画されていただろうから、一戸として「棄戸」を用いた意味が見えてくる。 なお、その溝で区画されたという想定は「方形周溝墓」の知見による。 《奉渡於紀伊国也》 「渡」はワタルかワタスか。またそのワタル/ワタスものは木種、三神のどちらだろうか。 まず一書[5]においては、この三神が紀伊の神の大神に坐すことがど真ん中の主題だから、「渡」の対象は間違いなく三神である。 また、奉-は謹んで奉仕する意を添える助動詞〔または副詞〕だから、他動詞のワタスであろう。 この時点における素戔嗚尊は、草薙剣を天に献上するなどして恭順の意を示している。 ここでも、子の三神を天による国土統治に奉仕させるために紀伊国に置いたということであろう。 加えて、その後に「素戔嗚尊居熊成峯而遂入於根国者矣」とあり、 文章の主語は、一貫して素戔嗚尊だと見られる。 更に、次項で見るように、日前国懸神宮がもともと祀られていた五十猛神らを押しのけて置かれたとすれば、 素戔嗚尊は三神を渡し奉ったとする表現に合致する。
五十猛命・大屋津姫命・枛津姫命の三神は、伊太祁曽神社に祭られている。 これについては、【木国造之祖】において論じた。その要点は次の通り。
「分遷」されたという三社は、すべて式内大社で、 〈延喜式〉{紀伊国/名草郡/}、 {伊太祁曽神社【名神大。月次。相甞。新甞。】}、 {大屋都比売神社【名神大。月次。新甞。】}、 {都麻都比売神社【名神大。月次。新甞。】}。 伊太祁曽神社は、比定社「伊太祁曽神社」〔和歌山県和歌山市伊太祈曽558〕。 大屋都比売神社は、比定社は「大屋都姫神社」〔和歌山県和歌山市宇田森59〕。 都麻都比売神社の所在地については定説がなく、論社として 「都麻都比売神社」〔和歌山県和歌山市吉礼911〕、 「都麻都比売神社」〔和歌山県和歌山市平尾字若林957〕、 「高積神社」〔和歌山県和歌山市禰宜1557〕がある(右図)。 伊太祁曽神社の由来については、 『紀伊続風土記』第1輯〔仁井田好古等編;1910〕によると、 「垂仁天皇の御世伊勢大神は伊勢国五十鈴川上に鎮座し日前国懸両大神は名草浜宮より伊太祈曽大神の旧地名草万代宮に遷り鎮まり坐せり」(p.270) 「国造家旧記曰…至于垂仁天皇十六年自浜宮遷于同郡神宮名草浜宮而鎮座」、 「伊太祁曽神社家の伝に此御神昔は加宇の宮と申す所に御草創ありしか是より山の東伊太祁曽といへる所あれは御跡を日前宮に譲り此伊太祁曽の地へ遷り給ふとあり…」(pp.270-271)。 「寛永記曰伊太祁曽明神は和銅六年〔713〕十月初亥の日当所に遷り給ふ」と『寛永記』にある日付と〈続紀〉の「大宝二年二月己未」との11年のずれについては、 「大宝は勅命の詔を書るにて夫より修造の功を畢へて和銅六年に至りて遷座の儀整ひたる」(p.361)と推定している。 すなわち、伊太祁曽神社はもともと名草万代宮のところにあったが、〈崇神〉十六年に日前国懸神宮に譲り、移転したという。 さらに、「垂仁天皇十六年なれは此時三神共に今の山東荘へ遷坐し給へる事必せり。 然れとも其地は今の社地にはあらず今の社地南の方四町許にある亥の森という所なり」(p.361)、 すなわち、遷座した位置は現在の場所の南にあたる「亥の森」だったという。
亥の森は伊太祁曽神社の南東430mにあり、三生神社〔和歌山県和歌山市伊太祈曽200〕という小祠がある。 現在もなお「旧暦十月初亥日午前11時。亥の森祭。三生神社の例祭」が行われている([伊太祁曽神社|年間祭事]) 日前神宮は天岩戸伝説の日像鏡を御神体としているから、天神である((37段)。 一方、五十猛神は素戔嗚尊の子だから地祇である。 よって、日前国懸の地を明け渡したという伝承は大国主命の国譲りの構図と類似する。 『紀伊続風土記』はその時期を〈崇神〉朝のこととする。明治時代の書だからその中では「史実」と扱われるが、 実際には霧の彼方の古代の伝説である。 しかし時代を特定しなければ、出雲からの移民と地付きの勢力から成るクニツカミ族と、この地を支配しようとしたアマツカミ族の抗争があり、 その結果クニツカミ族が大切な祭祀の地を明け渡したという史実が実際にあった可能性はある。 ただ、その根拠は今のところ 『紀伊続風土記』が引く「伊太祁曽神社家の伝」のみで、時期を〈崇神〉朝とするのも極めて伝説的である。 〈続紀〉大宝二年の三神の分遷は三神とも名神大社なので、朝廷が弱体化を狙ったとする論は疑わしく、その配置は日前国懸への包囲網を形成するが如くである。 むしろ大宝年間の五十猛神勢力は拡張しつつあり、日前国懸に譲ったとする出雲の国譲りの図式は、後世になって付会された可能性も否定しきれない。 この点は留意しておく必要がある。 なお、〈続紀〉大宝二年の三神の「分遷」については、その前にあった場所の記載がなく、伊太祁曽神社だけは神名によらないので、二柱の妹のための二社を独立させ、五十猛神はもとの伊太祁曽神社に留まったと解釈するのが自然か。 よって、亥の森から直接三社に分かれたのではなく、亥の森からまず三神まとめた形で伊太祁曽に移り、その後に大宝二年の分遷を迎えたことも考えられる。 ● 結論 確かに言えることは、〈続紀〉大宝二年条により、一書[4][5]は書紀が書かれた時代に伊太祁曽神社が厳として存在する現実に基づいて書かれたと見られることである。 当時の朝廷は、紀伊国名草郡における強大な在地神(樹木神・出雲系)を律令体制下に正式に組み込もうとした意図は間違いないであろう。 にも拘わらず「日前国懸神(天孫系・鏡信仰)を取り囲むように大屋都比売・都麻都比売・伊太祁曽が配置された構造は、むしろ現地氏族の勢いに押し切られて中央が消極的に認めたものではないかと思われる。 《熊成峯》 鳥上峯の場合は、「出雲簸之川上」と明記され、ほぼ船通山に特定できた。これは、記紀が書かれた頃に現実にそこを遥拝して祭礼する場所が存在したことを示すと考えられる。 一方、熊成峯の場合は、そのヒントになるような地名あるいは川名などがない。これは、熊成峯を遥拝する名所が現実には存在せず、 伝説中の言葉のみになっていたことを示すのではないだろうか。だから、その位置はそもそも漠然としている。 しかし、「熊」の字により一応は熊野に近い可能性がある。その場合、出雲国の熊野か紀伊国の熊野かということになるが、 書紀一書には一般的に各地に独自に伝わる伝承を資料として収めた性格があることを考えると、一書[5]の舞台は紀伊国であるから、どちらかと言えば紀伊国の可能性の方が高い(《熊野神邑》)。 前項で見たように、伊太祁曽神社信奉勢力のためにこの一書が書かれたとすればなおさらである。 《遂入於根国者矣》 文末に置かれた「者」の扱いは、古事記の訓読では悩まされた。 結局これは、文章で述べてきたこと全体を体言化して締めくくるものであろう。すなわち「~という者なり」である。 ただ、上代語では「~といふものなり」には違和感があるので、「連体形+なり」がよいかも知れない。 すなわち、ここでは「つひにねのくににいりませるなり」。 《大意》 【一書(5)曰く、 素戔嗚尊は、 「韓(から)のくにの島には、金銀がある。 もしも我が子が統治する国に、 浮く宝〔=貴重な木材〕がなければ、未だよくない。」と言った。 そこで、髭(ひげ)を抜いて散らすと、杉になった。 また、胸毛を抜いて散らすと、檜(ひのき)になった。 尻毛は槙(まき)になった。 眉毛は楠になった。 それを終えその用途を定め、 すなわち唱えて 「杉と楠の両樹は、 浮く宝〔=船舶〕を作るのがよい。 檜は瑞(みず)の宮の材を作るのがよい。 槙は顕見蒼生(うつしきあおひとくさ)〔=人民〕の奧津棄戸(おくつすたへ)〔=墓所〕に臥す具〔=棺〕を作るのがよい。 すべからく、食用にする多くの木の種は、皆よく播いて生やせ。」と仰った。 その時、素戔嗚尊の子、 名は五十猛命(いそたけるのみこと)、 妹の大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、 次に枛津姫命(つまつひめのみこと)、 凡そこの三柱の神は、 またよく木の種を広く蒔いた。そして〔素戔嗚尊はこの三子を〕紀伊国にお渡しになった。 この後、素戔嗚尊は、 熊成峯(くまなりのたけ)にいらっしゃり、遂に根の国に入られたのである。 〈棄戸は、「すたへ」と訓む。 柀は、「まき」と訓む。〉】 まとめ 一書[4][5]と〈続紀〉大宝二年二月己未条を併せて考察すると、五十猛命を信奉する紀伊の一族は、一時は天下の支配氏族の一として中央に打って出る意欲があったことが覗われる。 大宝年間には日前国懸神を包囲する力を誇示しつつ、国家のために木材資源を提供することを栄誉として称えられることを条件に、朝廷の配下に収まったという成り行きが読み取れる。 ミニ国譲りの伝承は、国家側の願望を込めて喧伝されたのではないかと見れば、これで図式は完結することになる。 ここで、五十猛命は紀伊国にます大神、五十猛命・大屋津姫命・枛津姫命を紀伊国に奉渡と書かれていることは、 書記が書かれた当時に現実的に大神として祀られていたことが明らかになった。草薙剣が尾張国にあると書かれることもそうだが、 「~に有り」、「~に坐す」などと書かれるときは、書紀が書かれた時点で確実に存在したことを示すことに留意する必要がある。 ストーリーは精神の内部で展開するが、そこに出てくる祭神、人、もの、場所などは書かれた当時に実際にあったものなのである。 さて、初めは素戔嗚尊の「吾児所御之国」という強烈な言葉に面食らったのであるが、考察を進めると五十猛命信奉族の朝廷に対して一歩も引かない強気があったようで、それがこの言葉を一書[5]に書き込ませたようである。 さらに、〈内閣文庫本〉の頭注の「祭●神」にある不思議な文字の正体を突き止めようとした。 その文脈を見るために全体を読み取った結果、素戔嗚尊を大唐青龍寺の守護神とする誇大妄想が書かれていて驚いた。ところが、さらに調べるとこれは正真正銘の天台宗の教理であり、さらに元寇を経た後に生まれた神国思想が背景にあることが分かってきた。 まさに意外な展開であった。この探索は寄り道だったようにも見えるが、その神像の変容の根源は素戔嗚尊の神格自体にあっただろうことを考えると、 やはり書紀の読み取りの一部をなすものであろう。 |
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⇒ [01-24] 神代上(8) |
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