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2026.08.03(mon) [01-19] 神代上19 ▼▲ |
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40目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[3]-(1)】 《一書[3]-(1)》
本文やこれ以外の一書に倣えば、「是後」は誓段の後にあたる。 他の書では、根の国に行く前に一度姉に会っておきたいと言って上り、誓の場面に繋がる。 ところが一書[3]では誓段は天岩戸段の後に回され、 諸神によって追放されたところで、「如何不二与レ我姉相見一而擅自俓去歟」〔根国に行くまでに、一度天に上って姉と会っておきたい〕と言って天に上ってくることになっている。 もし、一回目に根国に追放された後も姉に会いたいと言って上ってきたのだとすれば、そこから日神の田を妬んで破壊するまでに何があったのだろうか。 その辺りが、一書[3]では不明である。 《田有三處》 天照大神、素戔嗚尊の田として3つずつが挙げられている。 安田・平田は平穏な田のイメージ、邑并〔ムラアハセ〕田、樴〔クヒ〕田はその成り立ち、川依、口鋭〔クチト〕は付近の地形を思わせる。 それぞれ具体的に特徴を表す名称なので、空想の産物には思えない。 地上で実際にこのように呼ばれていた田が存在し、それらを天界に写したと見るのが妥当であろう。ただ、それらは俗称の類で確立された地名ではないと思われる。 《旱則焦之》 「焦之」の書紀古訓は「ヤク」。一方、焦(コ)グをあてることも考えられる。 (万)2649「置蚊火之 下粉枯耳 余戀居久 おくかひの したこがれのみ あがこひをらく」、すなわちコガルは上代語に存在する。 この訓として、〈類聚名義抄〉には、コガス・コガル・ヤクが載る。漢字「焦」は会意文字で、鳥に下から火をあてるさま。 焦の中心的な意味は「黒く焦げる、ひからびる」である。一書[3]原文作者は、作物が干からびるイメージで「焦」を用いたと見られる。 よって、コグは日照りによる作物の状態を表す語として適切であるが、ヤクでも決して誤りではない。 《素戔嗚尊妬害姉田》 本文では、「かつてアマツカミ族とクニツカミ族の戦闘によって田が荒らされたことが民族の記憶の深層」にあったことの現れと見た。 ここでは田の名称が比較的微視的なので、直接的には狭い地域内の部族による農地の奪い合いがしばしば起ったことを反映したものと考えられる。 《廃渠槽/埋溝/毀畔/重播種子》 〈延喜式-祝詞〉天津罪のいくつかに相当する。 「廃渠槽」:(祝詞)「樋放」〔ひはなち〕。「埋溝」:溝埋〔みぞうめ〕。「毀畔」:畔放〔あはなち〕。「重播種子」:頻播〔しきまき〕。 書紀古訓は基本的に平安時代のものだが、ここでは祝詞に残されていた古い時代の天津罪が当てられたと思われる。 《捶籤/伏馬》 「捶籤」:(祝詞)串刺〔くしさし〕。 「伏馬」:本文にも「放天斑駒使伏田中」があったが、祝詞にはない。。「廃渠槽」~「捶籤」の「VレO⇒連用形名詞とする」という読み方に従えば、ウマフセとなる。 《日神不慍》 本文は、古事記の描く「日神恩親之意」を一度打ち消したが、一書[3]は一書[2] (《日神恩親之意不慍不恨》) とともに再びその属性を描いている。 《相容焉云々》 本文ではこの後逆剥駒が投げ込まれる事件が起こる。 神衣ををどの神が織っていたのか、また「負傷」or「死」については異説が並べられている。一書[3]ならどう書いただろうか。 深読みすれば原伝承では天照大神はやはりこの時神退〔カムサリ;=死〕したとするものが主流で、一書[3]ではこれ以上潤色を重ねることを避けたのかも知れない(《稚日女尊》)。 《大意》 【一書(3)に曰く、 この後、日神には御田が三か所あり、 名前を天安田(あまのやすた)、 天平田(あまのひらた)、 天邑并田(あまのむらあはせた)という。 こられは皆良田で、 霖(ながあめ)、旱(ひでり)をがあっても損なわれなかった。 素戔嗚尊の田もまた三か所あり、 名前を天樴田(あまのくひた)、 天川依田(あまのかはよりた)、 天口鋭田(あまのくちとた)という。 これらは皆瘦せ地で、 雨が降れば流れ、旱魃では干からびた。 よって、素戔嗚尊はこれを妬み姉の田を壊し、 春には廃渠槽(みぞうめ)、埋溝(みぞうめ)、 毀畔(あはなち)、重播種子(しきまき)を、 秋には捶籤(くしさし)、伏馬(うまふせ)した。 凡そこのような悪事が、やむ時はなかった。 しかし、日の神は怒ることもなく、 常に平恕心をもってお赦しになった、云々。 41目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[3]-(2)】 《一書[3]-(2)》
一書[3]では、一書[2]と共に高皇産霊神と思兼神が消えている (《諸神憂之》)。 本文では「高皇産霊神」がなく「思兼神」がある(《思兼神》)。 それに対して、一書[1]では猛然と自己主張して取り入れさせた様子が窺われる(《時有高皇産霊之息思兼神云者》) 《中臣連遠祖興台産霊児天児屋命》 「興台産霊」については、『先代旧事本紀』神代本紀に「興登魂命」が見える。 『先代旧事本紀』―「神代本紀」によると天地開闢直後の神はユニークで、その「七代神」〔第七世代〕に七柱の神、 伊弉諾尊、伊弉冉尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊、津速魂尊、振魂尊、万魂尊が坐す。 そのうちの一柱津速魂尊から、「津速魂―市千魂尊―興登魂命―天児屋命【中臣連等祖】」という神系が示される。 〈姓氏録〉には〖藤原朝臣/出自津速魂命三世孫天児屋命也〗。 また〖中村連/己々都生須比命子天乃古矢根命之後也〗。中村連は宗家〖大中臣朝臣〗の分流と見られる。 ここにある「古矢根」が、児屋が「こやね」と読まれていたと判断する根拠となる。〈姓氏録〉は815年成立、 平安時代になってから急にネがついてとは考えにくいので、おそらく記紀成立当時からコヤネ、あるいは最低限コヤと併存していたと思われる。 ここで、記紀においてコヤネに「児屋」をあてたものと仮定して、その事情を推定してみる。 好字令では地名に二文字の良字をあてることが推奨された。好字令自体は713年(資料[13])だが、明日香⇒飛鳥のように、その感覚は古い時代からあった。神名においても「古矢根」などの音仮名ではなく漢字二文字で表そうとしたと考えてみたらどうだろうか。 すなわち、原伝承には欠けていた「天ノコヤネ命」の活躍を中臣氏が書き加えさせた際に、「コヤネ」を漢字二文字で格調高く表すために、ヤネに「屋」をあてたと考えることができる。 《掘天香山之真坂木》 「掘」は、訓注の示す方向性によれば、ここでも古事記風にネコジニコズと訓読すべきことになる。 《鏡作遠祖天抜戸児石凝戸》 天抜戸は天糠戸であろう。 親子関係の順は『古語拾遺』に一致する(《鏡作部》)。 《八咫鏡》
なお、一書[3]では、上枝と中枝に懸けるものが入れ替わっている(右表)。 《玉作遠祖伊弉諾尊児天明玉》 「伊弉諾尊」の子とするのは、他に見えない。 なお玉作遠の遠祖の名前が多様なのは、氏文によって定式化されなかったことのあらわれと見た(《玉作部遠祖豊玉》)。 《粟国忌部遠祖天日鷲》
粟国忌部もその一つと思われるが、その名は基本的文献のいくつかに現れるので有力氏族と考えられる。 その所在地については、〈倭名類聚抄〉{阿波国・麻殖郡・忌部【伊無倍】郷}が見える。 また〈延喜式-神名〉{阿波国/麻殖郡八座/忌部神社【名神大/月次新甞/或号麻殖神/或号天日鷲神】}。 ● 「忌部神社」の所在地論争 後継社は「忌部神社」〔徳島県徳島市二軒屋町2丁目48〕。 論社「忌部神社」〔徳島県吉野川市山川町忌部山14-8〕。 摂社「御所神社」〔徳島県美馬郡つるぎ町貞光字吉良〕。 この三社の関係については、 明治七年〔1874〕の考証により一度は山川町の論社が式内忌部神社と判断されたが、その後御所神社を式内社とすべしという強い主張があり、 調停の結果徳島市二軒屋町に「後継社」を新設し、明治十四年〔1881〕御所神社をその摂社とすることで決着したという ([徳島県立博物館|博物館ニュース058])。 ● 天日鷲命 〈国造本紀〉「磐余尊発レ自二日向一。赴二-向倭國一東征之時、於大倭国見二漁夫一。謂二左右一曰:「浮二海中一者、何物之耶」乃遺二粟忌部首祖天日鷲命一、使レ見レ之。還来復命曰:「是有レ人耳、名二椎根津彦一」」。 〔神武東征のとき漁夫が見えたので、「粟忌部首祖天日鷲命」に見に行かせ、椎根津彦という人だったと復命した〕 (神武即位前2)。 ● 粟国忌部 ここに粟国忌部が登場することから、一書[3]は阿波国の伝承を含む可能性が見えてくる。すると、理解しにくかった「伊弉諾尊児天明玉」もピースとして嵌る。 イザナギイザナミ伝説は、淡路・阿波地域に起源を持つと考えられているからである。 素戔嗚尊が神々に雨宿りを断られたという特異な伝承も、そのローカル色によって一定程度理解できる。その伝承の類型が『備後国風土記』に見えるからである(下述)。 よって天岩戸神話は畿内や出雲に限らずかなり広い地域に広がっていたことが見えてくる。 冬至に太陽が死に、再生を願って祭祀する文化のもつ普遍性の故であろう。 但し、一書[3]全体のテーマは、中央氏族中臣氏の祖神の推し出しなので、阿波国の地方伝承は部分的な構成要素に留まる。 《作木綿》 下枝 《使忌部首遠祖太玉命執取》 「使二忌部首遠祖太玉命一執取」は、使役文である。その使役主は、文章を遡っていくと天児屋命に辿り着く。「執取」を任されたと読めるから太玉命も指導的立場と見られるが、結局天児屋命のサブである。 ただ、「遣…天児屋命」および「使…太玉命」の両文の使役主を「諸神」と見ることもでき、この読み方をすると太玉命は天児屋命と対等になる。 《忌部首》 本文においては、忌部について注意深く姓「首」の使用を避けたことを見た(《中臣連》・《忌部》)。 一書[3]における「首」姓の付加は、古事記と同様にやや大雑把である。本文においてのみ精査されたということであろう。 《使…太玉命執取而広厚称辞祈啓》 「広厚…」は「太玉命執取而」に続くから、太玉命が「広厚称辞祈啓」〔=祝詞〕の作成者のように読める。 実際、〈内閣文庫本〉はこの「祈啓」を「伊乃利万宇左之牟」〔祈り申さしむ〕と訓んでいる。 この場合「使」のスコープに含むから「祈啓」の動作主は太玉命で、よって日神に「若此言之麗美」と言わせたことは太玉命の偉大な功績となる。 しかし、以後の朝廷の祭事の歴史においては祝詞は中臣、祭具は忌部の役割分担がなされるから、これでは両者の役割が逆転してしまう。 それを考えると「而」以下は前の「使…太玉命執取」とは切り離して、「広厚称辞祈啓」の主語は天児屋命に戻すべきであろう。 この区切りによれば「使…太玉命執取」は、装飾を終えた真坂木を太玉命に持たせる意味となる。 ただ、ここでもう一段階の考察が必要となる。すなわち、単に真坂木を持たせただけなら「使…太玉命取持其真坂木」と書いたかも知れない。 しかし、実際には「執取」に目的語がなく、さらに「取」に同意の「執」を付け加えて動詞を重々しくしている。 これを見れば、「執取」は「上枝・中枝・下枝の装飾スタッフによる作業を掌らせた」と読むことが順当ではないだろうか。 何よりもこの読み方こそが、祭具を総括的に管轄した忌部の役割にも合うのである。 以上から、「而広厚称辞祈啓」は真坂木の装飾を終えた時点で天児屋命が唱えたと訓むことが妥当で、 書紀古訓が用いた使役形「伊乃利万宇左之牟」は不適切となる。 「広厚称辞祈啓」は最初の「於是、天児屋命掘天香山之真坂木」と並んで天児屋命を実行者とする文であって、決して使役文ではない。 なお、よって前々項で「使…太玉命」の使役主が諸神であった可能性を見たが、このように考えると、やはり天児屋命と見るべきであろう。 《未有若此言之麗美者也》 日神は流れてくる美声に聞きほれたと読みたくなるところだが、あくまでもその言辞〔内容と修辞法〕が美麗であったことに感じ入ったのである。 なお「いまだ聞いたことがない」という言葉により、普段から人々の祈りの声はすべて神に届いているという構図になっているところが興味深い。 一書[3]においては、天鈿女の俳優も石窟に鏡を差し入れることも要さず、ただ天児屋命による美麗な祝詞だけで十分なのである。 他の書にくらべて、天児屋命の本務〔=祝詞主〕による貢献が際立っている。 祝詞を担う氏族としての中臣連の姿を際立たせるために、これ以上のストーリーはないであろう。 《日神之光満於六合》 〈内閣文庫本〉による「六合」への訓「クニノウチ」はかなり不適切である。六合の語源は、xy平面に垂直なz軸を加えた、三次元空間〔=宇宙〕を表すものである。 よって六合は、天地〔アメツチ〕全体である。クニは、その下面の「地」に限られる。さらに言えば「クニノウチ」は多くの場合畿内を指す語である。 よって、「クニノウチ」は誤用のレベルとなる。 《大意》 日の神が天石窟(あまのいはや)に閉じこもるに至り、 諸神は 中臣連の遠祖(とおつおや)興台産霊(こことむすび)の子、 天児屋命(あまのこやねのみこと)を派遣して祈らせた。 そこで、天児屋命は 天香山(あまのかぐやま)の真榊を掘り出し、 上枝(かむつえ)には 鏡作(かがみつくり)の遠祖天抜戸(あまのぬかと)の子、 石凝戸辺(いしこりとべ)が作った八咫鏡(やあたのかがみ)を懸け、 中枝(なかつえ)には 玉作(たまつくり)の遠祖伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子、 天明玉(あまのあかるたま)が作った八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を懸け、 下枝(しもつえ)には 阿波の国の忌部(いんべ)の遠祖 天日鷲(あまのひわし)が作った木綿(ゆう)を懸け、 以上のことを忌部首の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)に掌握させて、 広く厚く言辞を唱えて祈りを奏上した。 その時、日の神はそれをお聞きになり、 「この頃は人は多く請(ねが)いを申すといえども、 未だこのように言葉の麗美なことはない。」と仰り、 よって細く磐戸(いわど)を開けてその様子を窺った。 この時、天手力雄(あまのたぢからのを)の神は、 磐戸の傍らに控えていて、このタイミングで引き開けたところ、 日の神の光は、六合〔世界〕に満ちた。 よって、諸神は大喜びした。 42目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[3]-(3)】 《一書[3]-(3)》
本文「科之以千座置戸」《千座置戸》、 一書[2]「有手端吉棄物足端凶棄物」《手端吉棄物足端凶棄物》と重なる。 なお、一書[3]では、「千座置戸」が手足の爪をもって替えられたことを、はっきり示す書き方になっている。 《以手爪》 〈乙本〉の訓「手乃豆免乎毛知氐 《使天児屋命掌其解除之太諄辞而宣之》 天児屋命はここでも解除(はらへ)を主導して太祝詞を宣ずる。ここで、またまた中臣連の祖神が活躍する場面が加わる。 《諸神嘖素戔嗚尊》 ここでも天児屋命に命じたのは諸神である。高皇産霊神の存在には触れない方針は徹底している。 《底根之国》 底根之国は、黄泉、根の国と同義(《根国》項)。 《無頼》 古訓は、「アヂキナシ」、「タノミケナシ」、「サイハイナシ」、「ヨカラズ」、「タノモシケナシ」と多様である。一書の隅々までは十分詰め切れていないと見られる。 すなわち、《使…太玉命執取而広厚称辞祈啓》項、《日神之光満於六合》項で見た訓読の不適切さは、読み方がよく練られていないことの現れであろう。 《乞宿於衆神》 素戔嗚尊が宿を頼んで断られる話の類型は、『備後風土記』逸文にある(別項)。 素戔嗚尊は行疫神の性格を帯びるうちに、平安時代に牛頭天王と習合したと考えられている(『国史大辞典』〔吉川弘文館1997〕)。 『備後風土記』逸文を見ると、「牛頭天王」の称が確立する以前には、武塔神と呼ばれることがあったようである。 一書[3]のこの伝承は、後に『備後風土記』のような伝承を生む源流の一つかも知れない。 《逐降去》 ここでも「かむやらひやらひき」と訓まれるべきものであろう(本文)。 《見逐謫者》 〈乙本〉による古訓「也良比世女羅流々非止」〔逐(やら)ひ謫(せ)めらるる〕は正しい。ラルルは受け身のラルの連体形で、この助動詞ラルが「見」に対応するからである。 ただ、これは平安時代の話である。上代語で読もうとした場合、ラルに対応する上代語はラユだが、助動詞ラユの用法はヌ〔寝〕の一例しか知られていないから、かなり使いづらい。 そこで、謫のニュアンスはヤラフに含まれているとして、謫を捨ててみる。ヤラフは四段だから、「ヤラハ-ユル」が可能になる。 「オモハ-ユル」が万葉にあるから許容されそうである。そもそもヤラフ自体が記紀のこの場面限定の稀な語だから、 助動詞を繋いでもどうということはないだろう。 さらには、和読では謫・謫を倒置して「セメ-ヤラハユル」でもいいかも知れない。 そもそも逐〔追放する〕、謫〔罪を責める〕の組み合わせは、漢字では「逐謫」が一体で違和感はないのだが、倭語にすると順序性が生まれ「ヤラヒ-セム」では順番が逆と感じられる。 よって、倒置も考えられる。 《大意》 こうして素戔嗚尊に千座置戸(ちぐらのおきど)の解除(はらえ)を課して、 手の爪を吉爪棄物(よしきらいもの)として、 足の爪を凶爪棄物(あしきらひもの)とした。 そして、 その祓(はらえ)の太祝詞を掌らせてこれを宣じさせました。 世の人が慎んで自分の爪を収めることは、これがその由来である。 これを終え、諸々の神は、素戔嗚尊を叱責して 「お前の所業は甚だ無頼である。 よって天上に住むべからず、 また葦原中国(あしはらのなかつくに)にも住むべからず。 速やかに底根国(そこつねのくに)に行け。」と言い 皆で逐降去(かむやらいやらい)〔=追放〕した。 時に、長雨となった。 素戔嗚尊は、 青草を結い束ねて笠、蓑(みの)として 宿を神皆に乞うた。 神たちは皆、 「お前は、自らの所業が濁悪だったから追放された者である。 どうして宿を私に乞うことができようか。」と言い、 遂に皆同じように拒否した。 これにより、風雨が甚だしくとも、 留まり休むことができず辛苦して降った。 これ以来、 世は笠、蓑を着て他人の家の中にに入ることを諱(い)む。 また、束にした草を背負って他人の家の中に入ることを諱む。 これを犯した者がいれば必ず祓(はらえ)を負わせる、 これが太古から遺る法である。 【『備後風土記』逸文】 〈釈紀〉述義所引の『備後風土記』逸文を読む。
後に武塔神が八人の子とともに訪れ、お礼として茅の輪を腰に着けさせた。その夜、(茅の輪を着けていたと見られる)女子一人を残して、皆死んでしまった。 そして、武塔神はその女子に「私は速須佐雄能神である。後世に疫病が流行ったときには、 お前の子孫は蘇民将来の子孫であると言って茅の輪を腰に着けていれば難を免れられる」と告げた。 《「先師申云」》 〈釈紀〉は『備後国風土記』の引用の後に「先師申云」として、次を載せる〔抜粋〕。私記からの引用であろうがこの項では「私記曰」を明示していない。 ・「祇園為行疫神。武塔天神御名」。 ・「御霊会之時。於四条京極奉備粟御飯之由伝承。是蘇民将来之因縁也。 又祇園神殿下有通龍宮穴之由。古来申伝之。北海神通南海神女子之儀符合歟」 〔御霊会の時は、四条京極で粟御飯を奉るのはこの伝承により、蘇民将来の縁である。 また、祇園社の神殿の下には龍宮に繋がる穴があると伝わる。これは北海神が南海の神の女子のところに行こうとしたことと符合する〕。 ここでの「先師申云」の申は、日本紀講筵の場で自説を開陳するにあたって、上座の博士への敬意を示したものであろう。 《須佐能袁能神社》 〈延喜式-神名〉に{備後国/深津郡【一座小】/須佐能袁能神社}。 「疫隅国社」がこの須佐能袁能神社だったとすれば、後に祇園社となったのは、素戔嗚尊が神仏習合によって牛頭天王となったことによる。牛頭天王は祇園の守り神とされる。 書紀古訓時代には既に祇園社という社名が存在したことが、〈釈紀〉の「祇園」から分かる。 この祇園社は明治時代の神仏分離によって、名称が素戔嗚神社となった。これは、〈延喜式〉{須佐能袁能神社}への回帰と言える。 《疫隅国社》 ただ、疫隅国社は〈式〉須佐能袁能神社と本当に同一としてよいのだろうか。そこで〈延喜式-神名〉を見ると備後国内の神社には疫隅国社に直接結びつくような名前は見られず、 結局、武塔神と素戔嗚尊の同一視により須佐能袁能神社になったと見ることに、もっとも妥当性がある。 風土記上表の詔〔713〕(資料[13])の時期から見て、備後国風土記の執筆は奈良時代前半に収まると思われる。 当時は既に神仏習合が進んでいたが、「疫隅国社」のエ、クマは上代語だから仏教の影響による社名ではなく、疫病を遠ざける意と読める。 武塔神は中国の神名には見られないので、倭語のムタフに字をあてたことも考えられる。 従って武塔神が素戔嗚神と同一視されるようになったのが奈良時代半ばと見ることは可能だから、その頃に「エノクマノクニノカムヤシロ」が、これによって「須佐能袁能神社」に改称された可能性は十分にある。 まとめ 天児屋命の活躍を押し出し、高皇産霊神の子思兼神を後景に退かせたことは、既に本文の段階でなされていた。 ところが、一書[3]ではその作為がさらに先鋭化している。天の岩戸を開かせた功績は、太祝詞を唱えた天児屋命が完全に独占し、一方の思兼神は影も形もない。一書[3]は本文に対する要求事項を示したが如くである。 但し、一書[3]のテーマはそれだけではなく、さらに他の伝承がいくつか複合している。 その一つは、天日鷲を中心とする阿波国のローカルな伝承である。これはまた、地方の忌部が木綿などの神具を担い中央の忌部に送るという役割分担を物語るものにもなっている。 もう一つは素戔嗚尊が雨中どの神からも宿を断られて難渋した話である。ここにはそこまでは書いていないが、素戔嗚尊の強烈な神威の故にもし断ればその報いを受けるはずだとする発想は当然生まれ得る。それが後の武塔神伝説に繋がっていったと考えられる所以である。 また、人々は書紀編纂の時代以後、幾度も疫病禍に遭遇する。よって人々の意識の中に行疫神は必ず存在する。その役割を無頼の極みであった素戔嗚が負うことになるのは当然の成り行きであろう。 行疫神はまた、その威力ゆえに疫病を免れさせる神にも転化する。こうして、素戔嗚は武塔神や牛頭天王に移り変わっていったと考えられる。 |
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2026.08.10(mon) [01-20] 神代上20 ▼▲ |
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43目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[3]-(4)】 《一書[3]-(4)》
一書[3]では誓約段と天岩戸段の順番が逆転していが、この逆転にはそれなりに妥当性がある。 なぜなら本文で「自分が生んだ五男神を謹んで天上に献上したのに、その後天照大神に嫌がらせする」とする筋書きは、確かに不自然だからである。 けれども、一書[3]では最初の場面に無理がある。すなわち、日の神の良田を破壊した場面において、素戔嗚尊はいつの間にか天上にいるが、いつどういう成り行きで上ってきたのだろうか(《是後》項)。 この問題がうまく処理できなかったから、記や本文では結局採用されなかったのであろう。しかし、検討過程で出て来たひとつのプランを、このような形で残したのかも知れない。 結局、誓約段と天岩戸段は元々はそれぞれ独立した伝承で、両者をひとつに繋いだこと自体に無理があったのだろう。 《扇天扇国》 扇への書紀古訓は「トヨモス」〔鳴り響かせる〕。これは本文の「鼓盪」、「鳴呴」にあてたもの。ただ、字の意味のままアフク〔扇(あお)ぐ〕と訓んでも文脈的に問題はない。 むしろ嵐を巻き起こす情景が目に浮かび、好ましいとも思える。 なお、アメに対になるのはツチであるが、ここでは天に国を対置していて変則的である。 《天鈿女》 天鈿女の登場は、稗田阿礼一族の存在感の誇示のためと見た(《猨女君遠祖天鈿女命》) 一書[3]ではそれが天岩戸段からこの場面に移されている。 《吾弟所以上來来非復好意》 「吾弟所以上来、非復好意。必欲奪之我国者歟」は、本文の「吾弟之来、豈以善意乎。謂当有奪国之志歟」とほぼ同じである。 ただ本文の「父母既任諸子各有其境」はここにはない。根の国に堕とされた理由が、 本文では地上の国の統治をさぼったことであったが(12段)、一書[3]では日の神への嫌がらせにより天岩戸閉じ籠りに至らしめたことだからである。 《躬裝武備云々》 「云々」は、本文([始素戔嗚尊昇天之時]段)にあたる。 《吾若懷不善而復上来者》 誓約結果について事前に設定された判断基準は、他と同じである (《五男神悉是吾児》) なお、「若懐不善而復上来者」の「~バ」は、恒常条件〔客観的な法則性〕として已然形接続を用いるべきであろう〔未然形接続⇒…きたらば、已然形接続⇒…きたれば〕。 《於是日神先囓十握剣云々》 「云々」は本文の「天照大神乃索取素戔嗚尊十握剣」以下にあたる。 《大意》 その後、素戔嗚尊のいうには 「諸神は私を追放して、私は今ひたすら去ろうとしている。 だが、どうしてわが姉と会うこともなく自分の意思でただ行くことができようか。」といい、 再び天に風を起こし、国に風を起こして、天に上った。 この時、天鈿女(あまのうづめ)がこれを見て日の神に報告したところ、 日の神は、 「私の弟が上って来る所以は、また好意があるわけはなく、 必ず私の国を奪おうとしている。 私は女であるが、どうして逃げることがあろうか。」と仰り、 御身に武備を裝い、云々。 すると、素戔嗚尊は誓(うけい)して 「私がもし心善からずして、また上って来たのなら、 私が今玉を囓んで生む子は、必ず女子となる。 その場合は、その女子を葦原中国(あしわらのなかつくに)に降すのがよい。 もし清き心があれば必ず男子を生むであろう。 その場合は、男子に天上で御座していただきます。 また姉上の生んだ御子も、この誓(うけい)を同じくしてくださいませ。」と申した。 そこで、日の神が先ず十握剣(とかつのつるぎ)を囓み、云々。 44目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[3]-(5)】 《一書[3]-(5)》
[中国哲学書電子化計画]は、『漢書』揚雄伝の「轠轤不絶」を"the sound of chariots never ceasing"と英訳し、すなわち轠轤を二輪の馬車の音と解釈している。 『広韻』は「轠轤車属」〔=車の一種〕。また『康煕字典』、〈汉典〉ともに「轠轤」の文例は「揚雄伝」のみだから、他の書にはほぼ用例はないようである。 また[中国哲学書電子化計画]の「維基文字版:開放共同編輯的資料」では、ここの「轠轤」への各種の注が列挙されている。 ――孟康曰:「轠轤、連属貌」。如淳曰:「轠音雷。轤音盧」。師古曰:「轠轤、環展也」。 ● 乎謀苦留々爾 訓注の「乎謀苦留々爾」〔ヲモクルルニ〕は〈通証〉には「正通曰轠轤然解曳瓊綸貌」〔正通曰。轠轤然(ヲモクルルニ)は瓊綸を解き曳く貌(かたち)〕とある。 これは生糸などに用いる糸引き車をイメージして、「緒も繰るるに」を捉えたものと思われる。 揚雄伝師古註の「轠轤、環転也」は、車輪などが回転する意味であろう。これを転じて「巻いた様子」に用いたとすれば、「緒もゆららに」は、"美豆良を巻く緒"を表すとも考えられる。 「轠轤」をこのように用いることが適切であるか否かはさて置き、少なくとも書紀の原注者がこの意味に解釈していたことは確実である。 《左髻所纒五百箇御統之瓊綸》
ここでは、その四柱がどうやって化成したかの記述はない(右表)。 《正哉吾勝勝速日天忍穂根尊》 「正哉吾勝勝速日天忍穂根尊」は、「正哉吾勝勝速日天忍骨尊」([於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[1]]《正哉吾勝勝速日天忍骨尊》)と同じである。 六男神の名前は、[於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[3]]に近い ([於是素戔嗚尊…]《正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊》)。 《此出雲臣/武蔵国造/土師連/茨城国造/額田部連》 ● 出雲臣 [於是素戔嗚尊…]段《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》項参照。 ● 武蔵国造 〈倭名類聚抄〉{武蔵【牟佐之】国}。 安閑元年に「武蔵国造笠原直使主」の関わった事件がある。 記には、 「生五柱子之中、天菩比命之子建比良鳥命。此出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津嶋県直、遠江国造等之祖也」とある (《五男神悉是吾児》)。 『国造本紀』には「無邪志国造」、「胸刺国造」、「知知夫国造」がある。 そのうち「無邪志国造」には「志賀高穴穗朝世。出雲臣祖、名二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫、兄多毛比命、定賜国造」。 〈姓氏録〉には、〖出雲宿祢/天穂日命子天夷鳥命之後也〗、〖出雲/天穂日命五世孫久志和都命之後也〗が見える。 よって、無邪志国造の祖は出雲臣と同祖で、その遠祖はともに天穂日命となる。 ここでの「武蔵国造」が記の「无邪志国造」、書記「武蔵国造」は、書紀編纂〈成務〉朝で兄多毛比命が任じられた頃の「无邪志国造」を指すと考えられないこともないが、 やはり〈天武〉朝に実際に「武蔵国造」が存在していて、それを指すと見た方がよいであろう。 この時期の武蔵国造の実像がどうであったかは、別項で考察した。 ● 土師連 [於是素戔嗚尊…]段《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》項参照。 ● 茨城国造 〈倭名類聚抄〉{常陸国・茨城【牟波良岐。国府】郡}。 『国造本紀』「茨城国造:軽島豊明朝御世、天津彦根命孫筑紫刀祢、定賜国造」。
「壬生連麿」については、〈姓氏家系大辞典〉「壬生連:凡河内氏の族、茨城国造の一族にして、常陸なる壬生部の伴造たりし氏也」。 武蔵国造と同様に、〈孝徳〉朝という古い時代のことを書いたとは考えにくい。 だが、律令国造としての「茨城国造」の姿はなかなか見えない。 とはいえ、実際には存在し、その神主家が早い時期に滅びたため系図も残っていないと考えるべきであろう。 その点、上記武蔵国造は、有力な神主家が後世までしっかり残ったから系図が存在するということであろう。 ● 額田部連 額田部連は、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った。 《実以清心》 ここでは、「男」を所生したことから清心と判定された(《五男神悉是吾児》) 《当隨衆神之意》 これで日神に会うという目的を果たしたから、「衆神之意」に隨い素直に根の国に行くと語る。すなわち、遂に高皇産霊神は出てこない。 素戔嗚尊は、自身の生んだ子を天上の姉上に献上し、ここには既に粗暴ではない清い心の神がいる。 これなら、八岐大蛇を退治する場面への移行はスムースである。一書[3]は一書ではあるが、その最後の部分はあたかも本文に流れ込むが如き形になっている。 一書[3]の前に素戔嗚尊が天上に上ったとするちょうどよい伝承が見つかっていれば、こちらの筋書きが本文になっていたであろう。 《大意》 素戔嗚尊は、轠轤然(をもくるるに)〔緒が巻かれた〕、 その左の御髻(みずら)に巻かれた五百箇御統(いほつみすまる)の瓊(に)の糸を解き、 瓊響(ぬなと)〔=瓊のおと〕瑲々(ももゆら)に、天(あま)の渟名井(ぬない)に濯(すす)ぎ浮かべて、 その瓊(に)の端をさがみに噛み、これを左の掌(てのひら)に置いて生まれた御子は、 正哉吾勝勝速日天忍穗根尊(まさやあかつかつのはやひあまのおしほねのみこと)という。 また、右の瓊(に)をさがみに噛み、これを右の掌に置いて生まれた御子は、 天穗日命(あまのほひのみこと)といい、 これは出雲の臣、 武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)、 土師連(はにしのむらじ)らの遠祖(とおつおや)である。 次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)といい、 これは茨城国造(むばらきのくにのみやつこ)、 額田部連(ぬかたべのむらじ)らの遠祖(とおつおや)である。 次に活目津彦根命(いくめつひこねのみこと)という。 次に熯速日命(ひのはやひのみこと)という、 次に熊野大角命(くまののおおすみのみこと)といい、全部で六柱の男である。 ここで素戔嗚尊は、 日の神に申し上げた。 すなわち「私がさらに昇って来た所以は、 諸神が私を我(われ、やつかれ)に根の国を処とさせ、 今行こうとしましたが、もしも姉上と会わないまま、 遂に離れるならそれを忍ぶことはできません。 よって、実(まこと)に清き心をもって、再び上って来ただけです。 今、お会いすることを既に終えたので、 衆神の意のままに、 これよりひたすらに根の国に帰ります。 願わくば、姉上が天(あま)の国で臨照(おしてら)せば、自づから平安となりましょう。 また、私が清き心によって生んだ御子たちは、 姉上に奉ります。」と申し終えると、 再び還り降られた。 〈廃渠槽は「ひはがつ」と読む。 捶籤は「くしざし」と読む。 興台産霊は「こごとむすび」と読む。 太諄辞は「ふとのりと」と読む。 轠轤然は「をもくるるに」と読む。 瑲々乎は「ぬなとももゆらに」と読む。〉】 【武蔵国造の系譜】
その「西角井家」について〈大辞典〉は「氷川神社の禰宜家にして、東西の両角井共に磐井氏の分流と云ふ」、 そして「〔武蔵国式内〕四十四座神社命附〔武蔵国の式内社を考証した書;江戸時代〕に「氷川神社。関神主角井氏二人、岩井氏一人」」とあるという。 その「武蔵国造家の系図」〔以下〈系図〉〕については「全部うそでもないが、全部事実とも云えぬ」と見る。 〈系図〉は「天穂日命。其の子天夷鳥命。其の子出雲建子命」に始まり、 「兄多毛比命…成務天皇の御時、五年秋九月、无邪志国造に定め賜ふ…此時より氷川の神の祭主として神事を行ふ」とあるという。 その〈系図〉は、「兄多毛比命―武曽宿祢―宇那毘足尼―筑麿(物部直祖)、弟八背直―牛頭直―押熊直―伊宣古直―馬養直―筑磨直―鯛執直。 鯛執直の子を水上〔ママ〕万呂と云ふ、中古初めの人であらう」という。 すなわち、筑麿・八背直の二系に分かれ、筑麿が物部直、八背直が大伴部直の系統という。 なお、〈姓氏家系大辞典〉の「武蔵」項は相当の分量があるが、同じ内容についても細項目によって若干の書き方の相違が見られ、 長年の研究の成果が未整理のまま並べられたようである。「水上」と「氷上」の表記の不統一もそのひとつの現れと思われる。 よって、書かれていることの概略を統一的に理解するのに努力を要したが、本稿は大体正確に読み取ったと思われる内容に基づいている。 《西角井氏系図》 右図は「西角井氏系図」の一部。 そこには「五代牛頭直-六代押熊直-七代佐宣古直-八代馬養直-九代竺麻呂直-十代鯛執直-十一代氷上万呂【至二足立郡大領一。叙二外正六位上一】…〔以下次々項〕」とある。〈大辞典〉と若干の字の相違があるのは、異写本によったためと見られる。 これらが「物部直」と同じく「直 氷上万呂の位階「外正六位」は、大宝元年〔701〕三月甲午「改制官名位号」以後の人物であったことを示す。 《物部直》 〈大辞典〉は、『太子伝暦』には推古朝に「物部連兄麿」が「武蔵国造に補せらる」とあるが、これは「物部直」の誤りと見る。 なぜなら「兄麿が特に武蔵国造に任ぜられたのから考へると…、物部直、…の一族と思はれる」(「(11)武蔵の物部族」項)。 すなわち「推古朝、…物部直・国造職を得たり。…然れども又長久なるを得ず、…大伴部直家と交替」したという(「(12)大伴直姓の武蔵国造」項)。 なお、『太子伝暦』は平安時代に太子を神聖化する意図で作られた文書であるから、「物部連兄麿」の記述は「筑麿」の代に分岐した「物部直」の祖を〈推古〉朝に遡らせて伝説化した性格のものであろう。 《大伴部直》 〈系図〉(上述)の続きは、「十一代水上万呂【…】-十二代道足【同郡少領】-十三代古麻呂【同郡司】-十四代【国守主改】」を載せる。「十四代」は名前が脱落したらしい。 〈大辞典〉はこの「十四代」を無視して、「氷上万呂の子道足、その子古麿、代々足立郡司にして、古麿の子不破麿に至り、…」と読んでいる(「(16)国造の直胤」項)。 続けて「十五代不破麿同郡大領叙外従五位神護景雲元年十二月壬午一族等改大部直賜姓武蔵宿祢同甲申日為武蔵国造」。 この記事の日付は、〈続紀〉と一致している。 ――〈続紀〉神護景雲元年〔767〕十二月壬午に「丈部直不破麻呂等六人賜姓武蔵宿祢」。同月甲申「外従五位下武蔵宿祢不破麻呂為武蔵国国造」。 なお、〈続紀〉の「丈部」〔はせつかべ〕(埿部眡枳)は誤りで、 「大部」〔大伴 また〈大辞典〉は「氷上麿」を、「中古の初めの人にて、郡の大領となりしは此の人がはじめなるべし。 されど此の氏はこれより前、おそらく武蔵直断絶後、氷川神社を奉斎し、又郡政にも携わりし家と思はる」と述べる(「(16)国造の直胤」)。 《武蔵宿祢不破麻呂》 以上のように〈大辞典〉は、物部直から大伴部直への武蔵国造の交代のタイミングを、「武蔵宿祢不破麻呂」の国造就任と見ている。 かつ、その前の「氷上麿」の頃には郡大領を務め、さらには氷川神社を奉斎していた推定している。
ことに武蔵国造の場合、「武蔵宿祢不破麻呂」以下、まず大領となった後で武蔵国造となっているから、 「国造」には政治的な実質を伴っていたと見られる。即ち、郡大領に箔付けする称号として賜ったようである。政治的な実権を失い氷川神社の奉斎家になったのは、このずっと後のことであろう。 不破麻呂に武蔵国造を賜ったことには、特別の意味があるようだ。すなわち、その直前に宿祢姓を賜ったからである。 すなわち、それまで「直」姓のものが名乗っていた「武蔵国造」を召し上げて宿祢姓が担うべきものとして改めて不破麻呂に与えた。 国造は、郡大領にさらに箔付けするものだから、東国ではまだまだ地方政治を掌る実質があった。 その後、国造は東国でも政治的な権力を失い、宗教家系の称となっていったと考えられる。氷川神社の禰宜「西角井家」の〈系図〉は、宗教色のない時代まで遡って「国造」の系列を繋いだようである。 史実としては不破麻呂が武蔵国造になる直前まで、物部直がずっと独占してきたのか、あるいはいくつかの「直」姓の家で回されてきたのかは分からないが、「武蔵国造」を称する家系が存在していたのは確かと考えてよい。 すなわち、僻地のことだから特別な事件が起こらない限りは中央の記録に残らなかったと考えられる。 書紀が「武蔵国造」として書いたのは、その「直」姓の頃のものであったと思われる。 むしろ一書[3]のこの部分こそが、逆に「武蔵国造」が確固として存在し続けていたことへの裏付けとなるものであろう。 まとめ 一書[3]の前半からは、その複合性格として、①太祝詞を唱えた天児屋命の姿を通して中臣連の押し出し、②逆に高皇産霊神の徹底的な抹消、③地方氏族の阿波国忌部の登場、 ④構成の行疫神牛頭天王に繋がる伝承の取入れを見た。 後半ではそれに加えて、⑤誓約段と天岩戸段の時間的順序の逆転が特徴的である。通常は一書は別伝承の並記という性格を持つが、 ここでは神話構成段階において一つのプランが存在した記録とも考えられる。このプランだと、素戔嗚尊は最後は清心の神となって八岐大蛇段にうまく繋がるのである。 ことによると、後々神代巻を改定する際の資料とする意図もあったのかも知れないが、 結果的には一度完成した書紀は神聖不可侵な存在となり、改められることは決してなかった。 なお、ここでの誓約段で化生した六男神は[於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[3]]に近く、やはり古事記が五男神に改める前の古い伝承の姿を留めたものと考えられる。 本来は天降りする神は正哉吾勝勝速日天忍穗根尊一柱で十分であるが〔結果的に天降りしたのは、その子の瓊瓊杵尊〕、 その兄弟を祖としようとする国造家などが群がって、男神はインフレ状態になったわけである。 そのうち、一書[3]のみ登場する武蔵国造が、記紀編纂期においてどのような存在であったかを突き止めようとした。 その結果、東国においてはまだしばらくは神の奉斎家に棚上げされることはなく、現実に統治にあたる郡大領を偉大化する称号として機能していたことがわかった。地方行政の形態において、東国では畿内や出雲などとの相違があったことは興味深い。 |
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2026.08.17(mon) [01-21] 神代上21 ▼▲ |
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45目次 【是時素戔嗚尊自天而降】
書紀八岐大蛇段の内容は、古事記「八俣遠呂智」段と同じである。おそらく古事記によってはじめて「八俣遠呂智」神話が形作られ、 その意義を書紀も共有してほぼ記のままの形で載せたと思われる。 素戔嗚尊は、もともとは出雲国土着神の「神須佐乃袁命」〔『出雲国風土記』〕であったと見られる。 ● 須佐神社 〈延喜式-神名〉{出雲国/飯石郡五座【並小】/須佐神社} 須佐神社は、島根県出雲市佐田町須佐730。 [公式ページ]によると、 祭神は「須佐能袁命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家の祖神)」。 [御由緒]には「中世~近世には須佐大宮・出雲大宮・十三所大明神と称えられ、松平松江藩時代には一社一例国主守護之社として崇拝」された。 須佐国造家は、足摩槌命・手摩槌命を「稲田首」として、「成務天皇30年、第24代稲田宮主益成の時に国土開発に功ありし国津神の末裔であるということで須佐国造に任じられ」て以来連綿と続き「現当主は第79代須佐雲治郎建央氏」という。 「須佐国造」は『国造本紀』には見えない。なお『国造本紀』によると、出雲国造が定められたのは瑞籬朝(〈崇神〉)。〈成務〉の「志賀高穴穗朝御世」には、稲葉国造・伯岐国造・石見国造などが定められた。 ● 『出雲国風土記』に見る神須佐乃袁命
《出雲国簸之川上》 「簸之川」は、斐伊川を指すと考えられている。 〈風土記〉大原郡「斐伊川:郡家正西五十七歩西流入出雲郡多義村」。 その斐伊郡については、〈風土記〉大原郡「斐伊郷属二郡家一。樋速日子命坐二此処一故云レ樋【神亀三年。改二字斐伊一】」(【出雲国風土記との対応】) 「樋速日子」は、誓約段一書で化生した男神六柱中の第五子「熯速日命」に対応する (《熯之速日命》)。 斐伊は、地名の好字二文字化によって、「伊」を加えた結果と見られる。 一音節語では、しばしば母音が引き延ばされて発音されたようだ。「木国⇒紀伊国」の類。 〈倭名類聚抄〉{出雲国・大原郡・斐甲郷}の「甲」は、伊の誤写と考えられている。 〈風土記〉が書かれた時点では、郡家は斐伊郷に置かれていたが、以前は大原郷にあったと書かれる。 いわく「所三-以号二大原一者、群家正西一十里一百一十六歩田平原曰二大原一。往古之時此処有二郡家一今猶追レ旧号二大原一【今有二郡家一処号、云二斐伊村一】」 〔郡を大原という理由は、現在の郡家の真西十里にに…平原があったから大原という。昔はここに郡家があったからだが、そのときの古い名前をまだ使っている。 今の郡家のあるところは斐伊村という〕。 仁多郡にある「横田川」・「室原川」・「灰火川」・「阿伊川」・「阿位川」はすべて「斐伊(大)河上」とあるので、〈風土記〉「斐伊川」が現代の「斐伊川」と一致するのは間違いない。 さらに「斐伊」の旧称は「樋」、かつ斐・樋・簸はすべてヒ乙であるから、「簸之川」は「斐伊川」と同一と見てよい。 《中間置一少女》 「置」の古訓は「スウ」〔据う〕。 しかし、万葉に数多くある「置」は、すべてオクと訓まれている。 (万)2655「紅之 襴引道乎 中置而 妾哉将通 公哉将来座 くれなゐの すそびくみちを なかにおきて われかかよはむ きみかきまさむ」 は、二人の居場所をつなぐ道を、私が行くのかあなたが来るのかと問う歌。これは「中間置一少女」と同じ位置関係である。 よって、ここの「置」は、オクでよい。 「据う」と訓むべき必然性は全くない。 《奇稲田姫》 〈風土記〉飯石郡 「熊谷郷:久志伊奈大美等与麻奴良比売命。妊身及将産時求レ処二生之一。爾時到二-来此処一詔、甚久々麻々志枳谷在故云熊谷也」 〔妊身(はら)みて産まむとせし時、生む処(ところ)を求めき。この時此処(ここ)に到り来て詔(のたま)はく、甚(いと)くまくましき谷在りとのたまふ。故(かれ)、熊谷と云ふ〕。 この久志伊奈大美等与麻奴良比売 《八箇少女》 三人以上に助数詞-タリが使われたかどうかについては、実は確認できない(《八人》) 〈内閣文庫本〉古訓に「ヤタリノ」、「ヤツノ」という二通りがあるのは、その議論があった反映かも知れない。 それを考えると「ヤツノヲトメ」と訓んでおくのが安全であるが、その場合「八歳」との区別がつかなくなるという問題がある。ただ、ここでは文脈から八歳ではないことははっきりしている。 改めて考えると、〈持統〉八年三月の「一百六十四人」でタリをやめると、 「ももちあまりむそちあまりひとつのひと」が考えられる。ただ、それよりも「一百六十四人」のまま音読した可能性の方が高い。 奈良時代の流記資財帳には桁数の多い数値があるが、これは音読しか考えられないからである。 一般的に三桁以上になると「~アマリ…」は煩雑であろう。 この問題については、もう少し検討を重ねたい。 《汝当以女奉吾耶》 「汝当以女奉吾耶」〔そういうことなら、娘を私に奉るべきありましょう〕」は、高姿勢な物言いである。 古事記では、「そういうあなた様はどなたですか」と反問するクッションが置かれ、その答えも天照大神の威を借りたものになっている。 すなわち、記の方が謙虚に描き、それは読み物としての興味を搔き立てる効果がある。書紀はその余裕を持たない。 《毎年為八岐大蛇所呑》 「呑」には洪水に飲み込まれるイメージがあり、すると「毎年為八岐大蛇所呑」は毎年の洪水である。 大河の氾濫が大蛇に投影された面は、確かにあろう。 なお、『日本神話の起源』(下述)は、少女が呑まれることを「疑いもなく元来は人身供犠 《大意》 この時、 素戔嗚尊(すさのをのみこと)は天より、 出雲の国の簸之川(ひのかわ)の川上に降り立ちました。 時に、川上から聞こえてきたのは、すすり泣く声でした。 そこで、声のある方を尋ね求め行くと、 一人の翁と嫗(おうな)が、 そしてその間に一の少女を置き、その体を撫でて泣いていました。 素戔嗚尊が、 「あなたたちは誰か。 どうしてこのように泣いているか。」と問うたところ、 翁が答えるに 「私は国神で、 名前を脚摩乳(あしなづち)と言い、私の妻の名前は手摩乳(たなづち)です。 この童女は我が子で、名前を奇稲田姫(くしなだひめ)といいます。 泣いていた理由は、 以前に我が子に八人の少女がいましたが、 毎年八岐大蛇(やまたのおろち)の為に飲み込まれました。 今、この少女がまた飲み込まれるに臨み、 それを免れる方法はありません。 よって哀しみ傷んでいるのです。」と申し上げました。 素戔嗚尊は勅され、 「もしそういうことなら、あなたは娘を私に奉るのがよろしいでしょう。」と仰り、 それに答えて翁は、 「勅されるままに、献上いたします。」と申し上げました。 46目次 【是時素戔嗚尊自天而降/故素戔嗚尊立化奇稲田姫】 《故素戔嗚尊立化奇稲田姫》
〈汉典〉「立化:站立時死亡。[die standing]」〔立ったまま死ぬ〕というが、この場面では死ぬわけではない。ただ、「櫛に変身させた」は衝撃的だから、語感は近いかも知れない。 立への書紀古訓は、「タチドコロニ」である。 タチドコロニの用例は、〈延喜式-祝詞〉「遷却崇神」に見える。 この用例の使われ方を見るために文脈を見ると、諸神は豊葦原能水穂之国を平定するためにまず天穂日之命を遣わしたが帰らず、次に健三熊之命を遣わしたがやはり帰らなかった。そこで 「又遣志天若彦毛。返言不レ申弖。高津鳥殃尓依弖。立処弖身亡支」 〔また、遣しし天若彦も返言(かへりごと)申さずて、高津鳥の殃(わざはひ、とが)に依りて立処(たちどころ)にして身亡ぼしき〕となっている。ここから「あっという間に」という意味で用いられていることが分かる。 なお、ここの天穂日之命は、記の天菩比神に対応(第71回)、 天若彦は、記の天若日子に対応する(第72回)、 「高津鳥の殃〔=祟り〕」は、記では「射殺其雉」したことの祟りのことである(第73回)。 書紀古訓の異訓「タチナガラ」は、「立」一文字でタチドコロニと訓むことを躊躇した如きである。 ただ、ここで敢えて「立ったままの状態で」という必然性は感じられない。 古訓には、〈類聚名義抄〉法上「立:…タツ タチトコロ サタム」がある。 〈汉典〉では、副詞用法として「立時、立刻[immediately]」、用例「上大怒、立命斥出〈『唐語林』((宋)王讜撰)巻二〉」〔帝(宣宗)は激怒し、直ちに追い出せと命じた〕を示す。 以上のように、「立」への古訓「タチドコロニ」は字義に合い、祝詞〔概ね上代語〕にも出てくる言葉だから完全に正当である。 《草薙剣》 第53回【草那芸剣】項以下で、縷々述べた。 これは、鉄の生産地からの鉄剣の献上を象徴するもので、むしろ八岐大蛇伝説における主要なポイントと言える。 古事記では、八俣遠呂智が高志から来たとされる。実際に越は鉄の生産地であったとされるが、 吉備もまたタタラ製鉄が進んでいた。八岐大蛇が広範な地域の伝承であったことを考えると、特定の地域と結びつけるべきではないであろう。 《赤酸醤》 〈内閣文庫本〉注記に「赤面也」とある〔但し、"面"の中央のはしごがない(図)〕。 〈倭名類聚抄〉「顔面」項に「面子【師説加保波世。一云保々豆岐】」とある。 これは、日本紀私記の「赤酸醤」に関する記述が紛れ込んだものであろう。〈内閣文庫本〉は、この誤解による説明をそのまま書き込んだと思われる。 《松柏》 汉典「①松樹与柏樹。②比喩堅貞的清操。③指二墳墓一。因三古人墓地多植二松柏一而得レ名」。 ひとつの意「変わらぬ貞操」は、常緑樹のイメージによるものであろう。 ここでは常緑樹や針葉樹の林を表す漢語を用い、古訓「マツカヘ」は、その直訳である。ただ、万葉には(万)4169「松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 まつかへの さかえいまさね」があり、栄えへの枕詞として使われている。 倭語として既に馴染んでいたようである。 《松柏生於背上而》 「松柏生二於背上一而蔓二-延於八丘八谷之間一」は、斐伊川上流の山間部の景色の如くである。 記の「見其腹者悉常血爛也」も併せると、その山間部に軍勢が溢れた古い記憶の残影が見えてくる。 一時はヤマトの軍勢による中国山地越えの侵略ではないかと考えたのだが、ことはそれほど単純ではないであろう (第52回【八俣大蛇が象徴するもの】)。 素戔嗚尊は、この時に得た草薙の剣を天つ神に献上していて、また記では八俣遠呂智が高志〔=越〕から来ると書くのを見ると、 素戔嗚尊はヤマト側に立ち反ヤマト勢力と戦ったとも受け止め得るからである。 だから、古代出雲の在地勢力を守ってヤマト軍の侵攻を打ち破ったという図式ではなく、 関与した勢力は様々あり、倭国大乱の時代におけるひとつの局面の記憶と見るべきかと思われる。 八岐大蛇に多くあらわれる「八」の数字についても、大和政権の象徴と考えたりしたが、実際には神話そのものに散りばめられた修辞と見るべきであろう。 なお、八岐大蛇を斐伊川氾濫の表現とする見方については、「八頭八尾」は水流の分岐の表現とも受け止め得るから、 背景要素のひとつとなっていることも確かであろう。すなわち、八岐大蛇は河川の氾濫による洪水と倭国大乱の記憶の複合であると見ておきたい。 そもそも、英雄による怪物退治伝説自体は出雲国固有ではなく、記紀よりずっと古い時代から広範に存在したと考えられる(別項【八岐大蛇神話の成り立ち】で述べる)。 《大意》 よって、素戔嗚尊はたちどころに奇稲田姫(くしなだひめ)を、 湯津爪櫛(ゆつつまぐし)と化して御髻(みみずら)に挿されました。 そして、脚摩乳(あしなづち)手摩乳(たなづち)に命じて八醞酒(やしおおりのさけ)を醸(かも)させ、 併せて桟敷(さじき) 八間を作らせ、 それぞれ一つの酒槽(さかふね)を置き酒を盛って待ちました。 期した通り、果たして大蛇(おろち)が現れました。 その頭と尾はそれぞれ八またに分かれ、 眼は赤酸醤(せきさんしょう)〔ホオヅキ〕 の如く、 松柏(しょうはく)〔松などの林〕が背中に生え、 八つの丘、八つの谷の間にわたっていました。 酒を得るに及び、ひとつの頭ごとにひとつの酒槽から飲み、 醉って眠ってしまいました。 時に素戔嗚尊は、帯びた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、 蛇(おろち)をズタズタに斬ると、 尾に至り剣の刃が少し欠けたので、その尾を割り裂いて視ると、 中に一本の剣があり、これが所謂草薙剣(くさなぎのつるぎ)です 【草薙剣は「くさなぎのつるぎ」と訓む。 一書に曰く 「元々の名は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)という。大蛇(おろち)の居る所の上には、 常に雲があり、よって名づけたものか」という。 日本武(やまとたける)の皇子に至り、改めて草薙剣と名付けられた。】。 素戔嗚尊は 「これは奇(くす)しき剣である。どうして私が敢えて自分のものとして安置することができましょうか。」と仰り、 天つ神に献上しました。 47目次 【是時素戔嗚尊自天而降/然後行覓将婚之処】 《然後行覓将婚之処》
地名スガについては、〈風土記〉大原郡に「須我社」、「須我山。郡家東北一十九里一百八十歩」、 「須我小川。源出レ頂須我山西流」が見える。 『大日本地名辞書』(以下〈辞書〉)は、「諏訪:…、諏訪村の須我大明神は、風土記に云ふ須賀社にして、八雲立つの 御歌をよみ玉ふも、此所なり、我が心すが〳〵し宣ひてより、宮尾所もすがと神代より唱え来たりたるを、 中古天文年中、牛尾の領主…、信州の産なるに依て諏訪明神を勧請し、…、村名も諏訪と改めぬる」と述べる。 また〈風土記〉には「御室山:郡家東北一十九里一百八十歩。神須佐乎命御室令レ造所宿。故云二御室一」。 この「御室」は、「妻籠み」であろう。よって、「八雲立つ」の歌は出雲由来と思われる。 〈辞書〉は「須賀宮址は御室山に求むへきこと明白」とのべる。 この御室山の推定位置についてはいくつかの論を見るが、根拠は不十分である。 須我山と御室山の両方が、「郡家」から「東北一十九里一百八十歩」となっているので、記述に混乱があるように思える。 「郡家」とされた斐伊郷から須我山〔八雲山に比定〕の距離は約27里で、〈風土記〉の記述では短すぎる。 移転前の郡家とされる大道町前原からでも約20里でまだ足らない。そもそも〈風土記〉の里程は道沿いだろうから、必ず直線距離より長くなるはずである。 よって〈風土記〉が述べる里程には、なお慎重な検討を要する。 ● 須我神社 比定社は「須我神社」〔島根県雲南市大東町須賀260〕。その[公式サイト|御由緒]によると、 「八雲立つ」歌により「和歌発祥の社」と呼ばれ、「奥宮には、大小三つの巨岩の岩倉があり、その巨岩は須佐之男命と櫛稲田比売命、その御子神である八島野命の神霊が鎮まっておられます」という。 その磐座は古墳時代もしくは弥生時代から崇拝されていて、後に須佐之男命と櫛稲田比売命が習合したと考えられる。 《夜句茂多免》 簸之川上に降り立ってからこの歌まで、古事記の通りに書かれている(第54回) 《大己貴神》 大己貴神〔大国主命〕を、書紀本文ではあっさりと素戔嗚尊の一代目の子としている。古事記では六世孫(第55回、系図)。 書記は、一書[2]で六世孫とする。 《稲田宮》 大己貴神は、おそらく「六代孫」の方が原伝承に近いであろう。 従って、稲田宮を大己貴神の養育のために設けたことも(次項)もこの本文でのみ作り出されたものであろう。 現在の稲田宮〔島根県仁多郡奥出雲町稲原2128番地1〕は、奇稲田姫を主祭神としている。おそらく、記紀の時代でも奇稲田姫を奉斎する社であろう。 書紀本文はずっと古事記に従ってきたが、「生児大己貴神…曰稲田宮主神」に至り記から離れた。 この段落は、書紀の段階で人為的に作り出されたと考えられる。 ● 八重垣神社
須我神社 (島根県雲南市大東町須賀260) 稲田神社 (島根県仁多郡奥出雲町稲原2128番地1) 八重垣神社 (島根県松江市佐草町227) ● 郡境界は『風土記上』〔中村啓信;角川ソフィア文庫〕(p.352)による。 〈辞書〉「佐草」項では、 「佐草八重垣宮は、…、懐橘談〔出雲国の地誌;1661頃〕云、佐草の里の八重垣明神は、風土記佐久佐社なるべし、…当社の神主媒 現在の八重垣神社[公式ページ|八重垣神社について]は、 「八岐大蛇を御退治になった素盞嗚尊は、ご両親の脚摩乳、手摩乳の御許しを得て夫婦となり、この佐草の地に宮造りされ、御夫婦の宮居」としたと述べ、祭神を「素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴命・青幡佐久佐日古命(佐草宮司先祖神)」とするのは、媒氏説に沿ったものである。 「青幡佐久佐日古命」が祭神に加わっているのは、〈風土記〉の記述(上述)によると見られる。 同社の「八重垣」説自体は〈辞書〉のいう通り後世の附会だったとしても、「八雲騰つ出雲八重垣」と訓まれた伝承の発祥地自体は、やはりこの地域であろう。 ● 稲田神社 『日本歴史地名大系』〔平凡社1729~2004〕によると、横田町稲原の 「稲田神社は文政五年〔1822〕原口天満宮の神主足立和泉が夢告により稲田姫を祀ったのが始まりという。昭和初年、現在地に各種社殿が建設され移された」という。 ただ、[島根県神社庁|稲田神社]によると、 「元亀四年癸酉〔1574〕神有月十一日の御棟札に「奉再造稲田大明神拝殿棟上」神主千原掃部助地頭三澤為清」という。 さらに「稲田村が神代の旧跡であることは、諸人の知る所である」、「境内地には姫が誕生の折産湯を使われた産湯の池」、「参道途中に姫塚なる旧跡の笹の宮あり、…、姫が誕生の時臍の緒を切る時に用いられた」という。 ● 奇稲田姫 確かに、『出雲国風土記』〔以下〈風土記〉〕には久志伊奈大美等与麻奴良比売命の名前があった(上述)。 しかし〈風土記〉には八岐大蛇の話はない。 八重垣神社や稲田神社の由来に、八岐大蛇伝説の内容が加えられたのは当然であるが、しかしそれは後の時代になってからであったと考えられる。 記紀に八岐大蛇神話が描かれるに至った経過については、別項で述べる。 《宮首》 書紀古訓は、「宮首」の首を「ツカサ」と訓むが、ツカサは官全般である。 「首」は通常オビトと訓むが、オビトは部〔氏族に隷属、あるいは品部として朝廷に仕える〕の首長をいうもので、宮の長官職にはそぐわない。 一方、首をカミと訓む場合があり、それは〈倭名類聚抄〉「長官:本朝職員令…、署曰首、…【已上皆加美】」である。 「署」は東宮職員令で規定されていて、東宮〔皇太子のための家政機関〕の下部組織である。 ここでは、その長官「首」を宮に準用した可能性がある。 素戔嗚尊がその子の養育のため設置したのがこの「宮」であるから、東宮に関連する職名を宛てたことは自然であろう。 「宮神」との混同については、上代においては「ミヤノカミ甲」が神「カミ乙」と混同される心配はない。 書紀古訓の時代には上代特殊仮名遣いが消滅していたから、古訓学者はその混同を心配して「ミヤノツカサ」に置き換えたとも考えられる。 『倭名類聚抄』が署の首を「カミ」、次官を「スケ」と訓むのは、平安期になってからの呼称ではなく、 「四等官の長官はカミ乙、次官はスケ、…」という律令以前に遡るの官員職制の呼び名が、継続していたと考えられる。 《大意》 この後出かけられ、結婚の住処を求め、 遂に出雲(いづも)の清(すが)の地に到(いた)りました。 そこで、「私の心はすがすがしい。」と語り 【それにより、この地は今、清(すが)と呼ばれる】、 そこに宮を建てられました 【或いはいう。 その時、武素戔嗚尊は歌を詠まれた。 ――八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を】。 そしてみとのまぐわいをされて生まれた御子が大己貴神(おおなむちのかみ)です。 よって勅して 「我が子の宮のカミ〔=長官〕は、 脚摩乳(あしなづち)手摩乳(たなづち)とする。」と定められ、 よって、名前を二柱の神に賜り、稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)といいます。 これらのことを終えて、素戔嗚尊は遂に根の国に就かれました。 【八岐大蛇神話の成り立ち】 〈風土記〉に八岐大蛇伝説は全く登場しない。すなわち、須佐乃袁命久と志伊奈大神は、〈風土記〉から外に出て八岐大蛇伝説の出演者となったのである。 しかし、八岐大蛇伝説の発祥が出雲国ではなかったとすれば、どこから持ち込まれたのであろうか。 《大蛇切り伏せ伝承の系譜》 ここで注目されるのは、滋賀県米原市醒井の伝承である(《居醒の清水》)。 その伝承では、日本武尊が伊吹山の大蛇を剣を抜いて切り伏せている。八岐大蛇の影響によって生まれたとも考えられるが、 実は英雄が剣で大蛇をズタズタにする伝説は、記紀が書かれる以前に既に広い地域に分布していたと考えてみたらどうだろうか。 すなわち、古事記はその類型の神話を須佐之男命に演じさせたと考えてみる。 そもそも八岐大蛇神話は、世界的にはペルセウスとアンドロメダ類型に属するという。 『日本神話の起源』〔大林太良;徳間文庫1990ほか〕によると、 この型はヨーロッパ、西アフリカまで分布しており、その標準的な筋は 「ある地方が、多頭の大蛇、竜あるいは他の怪物によって悩まされる。人身御供(一般に処女)を定期的に供えてやらないと、 怪物が住民を一人のこさず殺してしまう」、最後に残ったのは「王様自身の愛娘」で「やむなく彼女は怪物にその身を委ねることとなる」、 「一人の若者が現れて彼女のために怪物を退治し、その褒美として王女を得る」ものという。 それらの共通モチーフは、「東アジアから東南アジアに数多く存在し」、 「わがヤマタノオロチ神話に一番似たところの多い異伝は、中国の南半からインドネシアにかけて数多く、連続して、しかも相互に密接な類似を示して分布している」という。 同書はその共通の背景として「鉄剣文化」を挙げ、「日本と朝鮮、中国中部、南部やインドシナの鍛冶神剣伝説の間に」、「広範な一致」が見られるという。 そして「おそらく、ペルセウスとアンドロメダ型神話、鉄と神剣の神話は、起源前一千年紀ごろの何回にもわたる西から東への大きな文化の流れによって、 東アジアと東南アジアに伝えられたものらしい」とまとめている(pp.157~182)。 この類型は一方通行的にシルクロードを通って伝わってきたというよりは、世界各地で自然発生したものが相互の接触によって影響を受けて類似点が生まれたと見るのが正解かも知れない。 《八岐大蛇神話を取り入れた意義》 さて、これほどまでにしてこの類型を記紀に組み込む意義はどこにあったのだろうか。 そもそも書紀は、「令記定帝紀及上古諸事」が出発点であった(〈天武〉十年)。 「古諸事」、すなわち民族の歴史の全体を網羅的に記述しようとした。そこには民族の中で語られてきた神話の紹介も含まれるであろう。 神話自体は歴史ではないが、神話が語られてきたことは歴史である。 すなわち神話群は民族の貴重な共有財産である。 それらを幅広く蒐集して書紀執筆のための資料として用いた痕跡は、付加された大量の一書に残る。 また、それらを素材として文学的に結晶化したのが古事記であった。 《八岐大蛇神話の位置づけ》 八岐大蛇は各種の伝承の中でも魅力的なものだから、基盤的歴史書から落とすわけにはいかない。 太安万侶などはよって上代巻のどこかに入れようとして、その置き場所として素戔嗚尊が追放されて根の国に行く途中を選んだと考えられる。 《組み込んだ結果生じた作用》 ところがこうして繋ぎ合わせてみると、単に「伝承が無事に収容できた」だけでは終わらなかった。 結果的に、高天原での暴威や穢れを抱えたスサノオの凄絶なパワーが、そのまま八岐大蛇という絶望的な災厄を討ち滅ぼす神威へと転化した。 すなわち、清濁併せた圧倒的な深みをもつ神格へと昇華してしまったのである。 《誓約段/天岩戸段》 実は素戔嗚尊の天津罪から天岩戸までの部分も、八岐大蛇と同様に〈風土記〉にはない。 さらに古事記では、大国主命が「根堅洲国」にいた須佐能男命の許を訪れ、その娘須勢理毘売を妻とするにあたって数々の試練が課された(第58回以下)。 これらの須佐能男命の登場場面を、すべて太安万侶が創作したのであろうか。しかし、それは相当考えにくい。 やはり、〈風土記〉とは別に、天岩戸伝説や、根堅洲国に落とされた須佐能男命伝説の源流がどこかにあったと見る方が自然であろう。 『日本神話の起源』によれば、「海神の天空訪問」をテーマにした神話がモンゴルにあるという。その中には「天神は海神に日月を与えたので、全世界は暗黒になった」という場面がある。 古事記では確かに「建速須佐之男命」は最初に「所知海原 結局、〈風土記〉の「神須佐能袁命」は、記紀において各地の伝承を繋いで組み立てたさまざまな場面で登場するうちに、複雑で厚みのある神格が形成されていったのである。 まとめ 各地に大蛇切伏せ伝説が見えるが、実際には比較的新しい時代のもので八岐大蛇神話の影響によって生まれたと思われる。 よって八岐大蛇段が記紀執筆当時の伝承を基礎として作られたのは明らかであるが、記紀以前の古い形を見出すことは困難である。 また、一書においても英雄の名前はすべて素戔嗚尊に置き換えられたと考えられるので、もともとの英雄の名前を窺い知ることはできない。 結局ペルセウスとアンドロメダ型神話と八岐大蛇伝説の間に、何らかの形の伝承が存在しただろうという推定に留まらざるを得ない。 |
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⇒ [01-22] 神代上(7) |
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