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2026.07.19(sun) [01-17] 神代上17 ▼▲ |
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35目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状】
素戔嗚尊のしたことは「甚無状」〔いとあぢきなし〕と言ったことに対して「それは何?」との反問を受け、その中身を列挙していく構成となっている。 《重播種子》 〈延喜式/祝詞〉「六月晦大祓十二月准之」に、「天津罪止畔放。溝埋。樋放。頻蒔。串刺。生剥。逆剥。屎戸。許許太久乃罪乎」とある (【天津罪】)。 素戔嗚尊のわるさとされる「重播二種子一」と「放二天斑駒一使レ伏二田中一」は、 かつてアマツカミ族とクニツカミ族の戦闘によって田が荒らされたことが民族の記憶の深層にあった故に生まれた神話かも知れない。 新嘗の神殿に屎がまかれて荒らされたことも軌を一とする。 だとすれば、その戦いの時期は米作が伝わった弥生時代以後となる。 《放天斑駒使伏田中》 この件 「使伏」の構文は使役文である。漢籍には『後漢書』班梁伝「召始入、使伏床下」〔班始〔人名〕を召し入れ、床下に伏せさせた〕がある。 しかし天斑駒の「使伏」はこれとは異なり、実際には「伏」の他動詞化のために使役形を借りたものである。 ただ、実際には他動詞と使役の境目は連続的で和習とは言い切れない。 なお、和読では、他動詞〔下二〕のフスを用いることができる。 《新嘗》
その後〈仁徳〉紀「ニハノアヒ」。〈顕宗〉即位前「ニハナエ」。 そして〈仁徳〉紀以後は「ニハナヒ」で安定する。 平安時代の書紀古訓研究は初めは神代巻が中心で、後になってその他の巻が検討されたと仮定すると、はじめのうちはさまざまな訓が試みられたものが次第にニハナヒに統一されていったと見ることができる。 一方、仮名書きに記〈雄略〉段歌謡「爾比那閇 書紀執筆時代の呼び名は〈雄略〉段歌謡の存在が重い。 《新宮》 新宮は「新嘗宮」と同じと思える。ただ、同様の区別が一書[2]にも見られ、また略した結果が別語と一致してしまうような略し方には問題があるので、 特に「新嘗のために新しく造った宮」を強調するためにこの語を用いた可能性もある。 《剥天斑駒》 古事記では「逆剥天斑馬剥」。「剥天斑駒穿殿甍」をそのまま「剥げる天斑駒、殿の甍を穿ちて」と訓むと言葉足らずで〈延喜式〉祝詞とも合わないので、 これも「さかはぎにはげる天斑駒、殿の甍を穿ちて」と訓むことになっていた可能性がある。 《天照大神驚動以レ梭傷レ身》 記では「天服織女見驚而於梭衝陰上而死」となっている(【天服織女】)。 一書[1]では「稚日女尊乃驚而墮機以所持梭傷体而神退矣」、すなわち「稚日女尊」が梭で負傷して死んだ。 もともと「稚」はなく、あとから付け加えたのは確実である。さもでなければ「尊」は用いることはなく「稚日女命」と表記したはずである。 すなわちもともと天照大神はこのとき死んだのである。その背景として皆既日食または冬至を太陽の死として恐れた感情が古来からあったことは明らかである。 記紀は、原伝承で太陽神の死と復活だったものを、とても人格神ぽく潤色した。すなわち天照大神は生きたままで天岩戸に隠れたと描かれ、 被害者を天服織女〔記〕あるいは稚日女〔一書[1]〕に置き換えたり、単に負傷とする〔本文〕などの細工をしたわけである。 よって、記紀以前の伝承では天照大神は死んでいた可能性が高い。 興味深いのは箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が、やはりホトに箸を刺して死んだと描かれていることである(《倭迹々姫命待明以見櫛笥遂有美麗小蛇》)。 倭迹迹日百襲姫命に卑弥呼の影があることを考えると、卑弥呼の死との共通性が見えてくる。 ここには非常に古い時代の記憶がおぼろげに残っているように感じられるのである。 なお、天照大神が「死んだ」筋書きでは、当然その復活を願う祭祀が存在することに留意しておく必要がある 「生存」の筋書きでは、天岩戸からの引っ張り出し天鈿女命と手力雄神の功績であって、 中臣・忌部の祖神の活躍は神事を含めた丸ごとの強引な書き込みとなるが、「死んだ」筋書きなら神事があったこと自体の必然性はあるからである (後述)。 《大意》 この後、 素戔嗚尊(すさのをのみこと)のしたことは、とてもひどいものでした。 それは何かと言えば、 天照大神(あまてらすおおみかみ)を天の狭田(さた)長田(ながた)を御田として作られたときに、 素戔嗚尊は、 春には重播種子(しきまき) 〔重ねて種子をまくこと〕して、 畔(あぜ)を壊し て、 秋には天斑駒(あまのふちこま)を放って田の中に横たわらせました。 また、天照大神が新嘗(にいなめ)しようとされているのを見て、 密かに新嘗の宮に屎(くそ)をまき散らしました。 また、天照大神が 神衣を織ろうとして斎服殿(いみはたでん)にいらっしゃるのを見て、 逆剥(さかはぎ)剥いだ天斑駒(あまのふちこま)を、宮殿の甍〔屋根〕を穿ちて投げ入れました。 この時、 天照大神は驚いて梭(ひ)〔横糸を通すのに使う道具〕によって御身を傷つけられ、 これによって激怒して天石窟(あまのいわや)に入り、 磐戸(いわと)を閉ざして籠られました。 よって六合(りくごう)〔天地〕の中はまったくの闇となり昼夜の境目もなくなりました。 そこで、八十万(やおよろず)の神は、天の安川の河辺に集い、 その祈祷の方法を相談しました。 36目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/故思兼神深謀遠慮】 《故思兼神深謀遠慮》
記では「高御産巣日神之子思兼神」とあるが、書紀では「思兼神」のみである第49回)。 高皇産霊神を奉斎する代表的な氏族は大伴宿祢であった。 ● 大伴宿祢 大伴宿祢の始祖天忍日命は、邇邇芸命の天降りのとき御前に立った。 大伴氏の本貫は築坂邑(大伴連) 〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る。佐伯宿祢も同祖 (【佐伯】)。 但し、瓊々杵尊の天降りへの随伴は書紀本文([天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊]段)にはなく、その一書[4]の「大伴連遠祖天忍日命」の記述に留まる(A)。 一方古事記では天降り段に「天忍日命天津久米命二人…立御前而仕奉」とちゃんと書いているる(第84回)。 また、高皇産霊神が神代巻で存在感を示すのは瓊々杵尊の天降りの場面で、それまでは姿が見えない (《高天原所生神》)。 つまり、記紀の天岩戸段には、大伴氏の祖や高皇産霊神の姿は見えない。 ここで、天岩戸段の執筆時期における大伴氏の立場を見てみよう。 大伴吹負は壬申の大功臣として申し分のない活躍をしたが、天武朝では政務から遠ざけられて生きた記念碑の如き立場に棚上げされた。 むしろ政務への口出しを警戒したためか、大伴連は八色の姓による賜姓では上から三番目の宿祢姓に留められている (大伴連)。 すなわち、〈天武〉十~十二年と見られる天岩戸段の執筆時期は、大伴連が敬遠された時期と重なる。 執筆陣はこの風潮を敏感に感じ取り、 それによって(記)にはある天岩戸段の「高御産巣日神之子」及び天降り段の「天忍日命天津久米命二人…立御前而仕奉」を書紀では黙殺することに繋がった可能性がある。 一方、これらをちゃんと記述した古事記には、書紀よりも広い公平な目配りがあったわけである。中臣・忌部の執筆姿勢に曲学阿世を感じ取ったのかも知れない。 ただし、書紀を全体として見ると、決して大伴氏を軽んじたわけではない。 大伴氏に関しては、〈神武〉即位紀になると「大伴氏之遠祖日臣命」の活躍が華々しく描かれている (《戊午年(55)六月(三)》)。 神代紀天降り段では一書[4]の「大伴連遠祖天忍日命」のみであるが、〈神武〉即位前紀になるに及んで、本文中で2か所とも「大伴氏之遠祖」となっている。 この事実からは、〈神武〉紀が大伴氏が復権した後に執筆された可能性を感じさせる。 すなわち天降り段が執筆された時点では「大伴連」は一書に追いやられた。 しかし〈神武〉紀執筆時点ではその歴史的な存在は正当に位置づけようという編集方針に転じたという推定が可能となった。 このように考えると、〈神武〉紀の執筆は少なくとも〈天武〉天皇が崩じた後と考えられる。 実際、以後〈文武〉朝にかけて大伴氏の復権が進み、大宝元年には大伴宿祢御行の薨去にあたって御行に「贈右大臣」が追贈されている (大伴連御行)。 ● 天降り段の執筆時期 なお、時系列をもう少し厳密に見ると、上記(A)において、皇祖を天照大神から高皇産霊神に付け替えた時点ではまだ大伴氏の復権は不十分、または反映されなかったことになる。 この皇祖の付け替えは、〈天武〉朝で壬申の功によって伊勢神宮が優遇され増長したことに対して反伊勢神宮勢力が巻き返した結果と見た ((《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》))。 反伊勢神宮勢力の反撃については、〈持統〉六年二月の伊勢行幸計画についての記述が注目される(〈持統〉紀24段)。 このとき、「三輪朝臣高市麻呂」が〈持統〉伊勢行幸に反発して強硬に諫言した。ここからは、大神 以上の事柄を矛盾がないようにして突合すると、次の経過を描くことができる。 ● 天岩戸段〔〈天武〉十~十三年〔681~684〕執筆〕ではあてつけのように、大伴氏が奉斎した高皇産霊神を無視した。 ● 天降り段〔〈持統〉六年〔692〕以後執筆〕ではまだ大伴氏の復権は不十分だが、その動向とは無関係に反伊勢神宮の宗教勢力が連合して皇祖を「高皇産霊神」に付け替えさせた。 ● 〈神武〉紀〔〈文武〉元年〔697〕以後の執筆〕では、大伴氏は既に十分に復権し、その遠祖の活躍が思う存分記述された。 《中臣連》 中臣連は〈天武〉十三年十一月戊申に朝臣姓を賜った。 したがって、天岩戸段は〈天武〉十三年以前にその原稿が出来上がっていたと見てよい。 〈天武〉十年三月丙戌「令レ記二-定帝紀及上古諸事一」と命じられたメンバーには「中臣連大嶋」、「忌部連首」が含まれていた。 すると、天岩戸段の執筆時期は何と〈天武〉十年三月から十三年十一月の間に絞り込まれてしまう。中臣連大嶋は間もなく朝臣姓を賜り、そして忌部連首は宿祢姓を賜る〔次項〕が、 結局天岩戸段は訂正されなかった。次の部分の執筆に追われて後回しされるうちに、遂に失念されたとも考え得るが、実際にこの姓であった期間は長かったから、歴史的事実と見れば誤りではない。 ここからは「帝紀及上古諸事」の編纂が始まって早々に、中臣連大嶋と忌部連首が競い合うように自らの祖を書き込ませたという生々しい情景が浮かび上がってくる。 この部分においては、一書[1]において死んだと描かれる「稚日女尊」は、「日女尊」に稚をつけてカモフラージュしたものであって、 古来の原伝承では天照大神は死んだものと見られる(前述)。皆既日食または冬至で太陽が死に、祈祷によって復活するのが本来の伝承であってそのために地上で天に向かって祭礼をした。 形は飛鳥時代の祭祀であっても祭祀自体は古い伝統があり、その意味では中臣連・忌部が古来から役割を果たしてきたと考えることには一定の根拠がある。 むしろ、稗田阿礼の意を受けた太安万侶が天鈿女命の活躍の場面を描くために天照大神を死なさなかったと考えるべきかも知れない。 なお、古事記においては、天岩戸段では「天児屋命・布刀玉命に「中臣連の祖」、「忌部首の祖」は添えられていない。「~祖」という記述が加わるのは天降り段が初出である(第83回)。 記で天岩戸段執筆時点では、中臣・忌部の意向は入らず、その内容を書紀の天岩戸段に移す時点になってはじめて「~遠祖」を加えることになり、 記ではその後に執筆された天降段になって初めて、それを書き加えたとする時系列が成り立つ。 ところがここには一つの問題がある。記に記された「忌部首」は既に〈天武〉九年に連姓を賜っていたからである。 改姓したことの周囲への浸透には一定の時間がかかるとすればよいかも知れないが、そうすると執筆を天武十二以前とする根拠として他の氏族の改姓を挙げたことが揺らいでしまう。 しかし、この問題にはひとつの解答を得る方法がある。それは、神代紀では「中臣」に「連」姓がつくが、「忌部」には「首」姓も「連」姓もつかないことである。 〈天武〉九年の「忌部首首賜レ姓曰レ連」については、連姓を賜ったのは、「首」(人名)とおそらく弟の「色弗」への属人的な賜姓であったと考えられる。 すなわち、他の多くの者はまだ「忌部首」のままだったのであろう。このように忌部には「連」・「首」が混在していたからこそ、書紀は姓なしの「忌部」と書いたと解釈できる。 一方、記は一部連姓の者もいたとはいえ少数で、氏族全体を指すものとして相変わらず「忌部首」を用いたと考えることができる。これによって、記においても天岩戸段の執筆は〈天武〉十年頃であると見做すことができる。 だとすれば、書紀における姓付きの「中臣連」と姓抜きの「忌部」の並立は極めて律儀な書き分けであったことになる。 《忌部》 忌部首は、〈天武〉九年に連姓、十三年十二月己卯に宿祢姓を賜った (《忌部首子人》、忌部連)。 前項で見たように、この時点ではまだ属人的な賜姓であったと見られる。 そもそも八色の姓が一律に全員に機械的に適用されたのは、むしろ一部のケースに留まることを見た (《賜姓の適用範囲》) ましてや、忌部首が連姓を賜ったのは八色の姓制が施行される以前のことであるから、むしろ賜姓は属人的である方が普通であったと思われる。 《和幣此云尼枳底》 和幣には、訓注「尼枳底」〔ニギテ〕が添えられる。これは古事記の「丹寸手」に依ったものである。
中臣連と忌部が自らの祖の業績を書き込もうとしたのは、書紀においてであった。 しかし、中臣連と忌部の祖の業績は、古事記でも全く同様に描かれる。 よって、少なくとも天岩戸段においては、書紀と古事記の執筆は同時期で両者には密接な交流があり、その結果かなり近い内容になったと考えられる。 したがって、書紀の訓注はその記の書きっぷりに合わせて加えられたのは確実となる。 だとすれば、後の時代の書紀古訓が「掘」に記による「根許士爾許士」をあて、「逐降」に記による「神夜良比夜良比岐」を用いるのは、 原注が指示した方向性の延長線上となるから、一定の合理性があるわけである(結論A)。 《上枝懸八坂瓊之五百箇御統》 榊の「上枝」、「中枝」、「下枝」にそれぞれ「八坂瓊之五百箇御統」、「八咫鏡」、「青和幣白和幣」を懸けて、という件は宮廷祭祀における飾りつけのマニュアルのように見える。 同様の記述はここ以外にもいくつか見られる(《抜取五百枝賢木以立船之舳》)。 しかし、実際に天岩戸から引っ張り出したのは俳優した天鈿女命と御手を取って引っ張り出した手力雄神の功績であって、祭祀自体は役に立っていない。 よって、中臣連と忌部が担ってきた宮廷行事そのものの形をここに描いたように見える 〔ただし、原伝承では祭祀によって太陽の再生を願ったと考えられるから、神事を行ったこと自体まで潤色とするのは言い過ぎである(前述)〕。 その理由はそれぞれの天児屋命と太玉命の活躍を華々しく描き、氏族の存在感を浮き立たせるためだと考えられる。 これまた、〈天武〉十年頃から中臣連・忌部がこの部分の執筆を主導したことの裏付けとなる(上記)。 《猨女君遠祖天鈿女命》 記では「天宇受売命」のみで「猨女君遠祖」はつかない(第49回)。 後に邇邇芸命の天降りに随伴するところで猨女君と呼ばれるようになった経過が語られる。 「~の遠祖」が天降り段で初めて書かれたところは、中臣連・忌部首の場合と共通する(上述)。 中臣・忌部の祖の祖を明記するのなら、天宇受売命が猨女君の祖になったことも明確にしようとしたのかも知れない (第85回)。 猨女君は稗田阿礼に繋がるとされ、その関係については、 「売太(めた)神社は、天石屋戸神話で知られる天宇受売命(天鈿女命)を遠祖とする猿女君稗田氏の居住地・稗田に鎮座する神社です。 現在のご祭神は稗田氏の功績のあった祖先・稗田阿礼命ですが、さらに創祀の頃に遡れば稗田氏の祖神・天宇受売命を奉斎した神社だとも考えられます」 といわれる(奈良新聞:2025.09.14) すなわち、一般には猨女君がその居住地によって稗田氏とも呼ばれるようになったと見做されている。 《俳優》 「俳優への古訓は〈乙本〉の「和佐於支」と〈内閣文庫本〉の「ワサヲキ」。於は本来オであるから、これらは既にオとヲが同化していた平安時代後期の特徴を示している。 従って、この語が上代に存在していたとして、それがワサオキ、ワサヲキのどちらであったかは判別できない。 辞書がワザヲキを採用しているのは、古訓の文字にヲが用いられているからである。 これは書紀古訓特有語である。 俳優は、書紀ではここ以外には4例ある。 そのうち3例は神代下巻で、内閣文庫本での付訓は1つ目と2つ目にワサヲキ、3つ目は右訓イサヲキ、左訓ワサヲキ。 文脈ではいずれも古事記の「其溺時之種種之態不絶仕奉」に相当し、隼人が朝廷で披露する舞踊「隼人舞」のこと。 その舞踊は海幸彦が山幸彦をいじめたことの報いとして、水に溺れかけてもがく姿を模したものと説明されている(第93回)。 残る一例は〈皇極〉紀四年六月「俳優 これらを見ると、ワザは演技や舞踏のワザとして理解できる。ヲキは前述のようにオキで、その舞踏や演技を「置く」〔人前で披露する〕ととれないことはない。 名詞を動詞化する語尾はサ変動詞のほか、-ナフ、-サブ。-オクは「霜オク」がある。 しかし、ワザオクは万葉集には見えず、古語辞典の用例も書紀古訓のみなので、書紀古訓学者の狭いサークルの外に存在した形跡はない。 その点、エラク(下述)の方は、万葉や宣命に見出すことができるのでまだ上代語としての実質がある。 仮に文法的に一定の説明がつくとしても、研究者が頭の中で捻りだしたに過ぎなければ一般的な語とは言えない。現在ワザヲキが市民権を得ているのは、書紀古訓がスタートでそれが太い伝統になったに過ぎない。 それでは俳優の一般的な訓みは何だろうか。一つの手がかりとして、「俳」が実際にはどう訓まれていたかを探ってみる。 ●〈類聚名義抄〉仏上「徘佪:タチモトホル トタゝスム トヤスラフ フム 上タハフル メクル タヒモトヲル 下メクリ このうちタハフルについては、 ●たはぶる…[自]ラ下二 たわむれる。(万)0904「吾子古日者…立礼杼毛 居礼杼毛 登母尓戯礼 あがこふるひは…たてれども をれども ともにたはぶれ」。 が見える。このように、少なくともタハブルには上代語としての実質があり、ここの文脈にも合う。対してワザヲキは書紀古訓のみの語である。 したがって、書紀が書かれた時点ではワザオキよりもタナブルであった可能性の方が大きいと思える。 《火処焼覆槽置》 「火処」は、記による「番登」〔女性の陰部〕の露出が猥褻 また「覆槽置」への古訓「ウケフセトドロカセ」について、〈時代別上代〉は「簡単な表記にもかかわらず、古訓が長くて古事記の文に近いのは、おそらく古い言い伝えのままの文章なのであろう」との判断を示す。 原訓の「覆槽 《顕神明之憑談》 「顕神明之憑談」は、その字を忠実に追うことでも訓読可能である〔「かみのあきらけくつきてかたることをあらはす」など〕。しかし、原注では古事記の「カムガカリス」にあてて訓むことが推奨されている。 これは天岩戸段が書かれた時点で、既に両方の訓み方〔「字の並びに忠実」、および「物語口調の上代語翻訳体」〕が許容されていたということであろう。 《㖸樂》 「㖸樂」の書紀古訓に「ヱラク」とある。
しかし、書紀の「云何天鈿女命㖸楽如此者乎」に対応するのは記の「何由以天宇受売者為楽 亦八百萬神諸咲」に対応する。 よって、書紀の原文においては記の「咲」を「㖸樂」と表記したと考えられる。 前項の結論Aに従えば、㖸樂はまさに「ワラフ」あるいは「ワラヒタノシブ」と訓むべきとなりそうである。 もし訓注に「㖸樂、此云輪良久」とでもあれば、古訓ヱラクは現れなかったであろう。 その点、乙本の「㖸樂如此:加久和良非左加由留古止」〔斯く咲ひ盛ゆる事〕は注目される。 サカユは、華やぎ盛り上がる意で「楽」の訳としてあり得る。書紀原注が示す訓読の方向性にどちらが沿うかは明白であろう。 《中臣神忌部神》 古事記では「布刀玉命」のみであったが、書紀ではすかさず天児屋命を功績の主に追加する。 ここで注目されるのは本来は「布刀玉命天児屋命」と書くべきところが「中臣神忌部神」となっていることである。 これでは露骨すぎて身も蓋もない。中臣連が自身の記載の欠落を見つけて慌てて書き直させた印象を受ける。 《界以端出之繩》 ここでも字のままに訓読することは可能で、説明的な訓読及び物語的な口調の訓読が共存していたことが分かる。 すなわち「界以端出之縄」は「端(ほとり、かたはら)に出(い)でし縄を以て界(さか)ふ」と訓むことを基本とした上で、別訓として「シリクメナハ」とよまれていたと考えられる。
《亦云左繩端出》 その原注の中の語句「亦云左繩端出」の意味は初めはよく分からず、「左」は衍字ではないかとも考えたのだが、飛鳥時代の文化に実際にこのような形状のシメクリナハが存在し、 その作法として「その端出は正面から見て左側になるように飾るという」と説明した文章だとすれば、 なかなかうまく読める。 《千座置戸》 文脈から、「千座置戸」とは罪の贖いとして多数の品々を台の上に並べて供出する行為、またその品々であることが容易に読み取れる。 実際、辞書ではそのように説明されている。 この千座置戸については、〈延喜式-祝詞〉「六月晦大祓十二月准之」に「千座置座 よってここの段は、中臣氏が担う大祓神事の神話的な起源を語るために置かれたものであろう。この文章もまた、中臣氏や忌部氏の役割を誇示するものになっている。 《使抜髪以贖其罪》 あるいは「抜其手足之爪」ともいう。これらが原伝承であって「千座置戸」の部分は前項で述べたように中臣氏らのアピールのために挿入したのかも知れない。 律における五刑は「笞・杖・徒・流・死」(『令集解』巻二十考課令など)の形に整えられているので、 髪を抜く・爪を抜くなどはそれ以前のとても古い時代からの伝承なのだろう。 《大意》 そこで思兼(おもいかね)の神は深謀遠慮し、 遂に常世(とこよ)の長鳴(ながなき)の鳥を集めて競い合うように長鳴きさせました。 また、手力雄(たぢからを)の神を磐戸の傍に立たせました。 そして、中臣連の遠祖(とおつおや)天児屋命(あめのこやねのみこと)と 忌部(いんべ)の遠祖(とおつおや)太玉命(ふとたまのみこと)は、 天香山の五百箇真坂樹(いほつまさかき)を根こそぎ掘り出し、 上枝(かみつえ)には八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる)を懸け、 中枝(なかつえ)には八咫鏡(やあたのかがみ) 【一説には真経津鏡(まへつのかがみ)】を懸け、 下枝(しもつえ)には青和幣(あおにきて)と 白和幣(しらにきて)を懸けて、 これらを相与って祈祷をした。 また、猨女君(さるめのきみ)の遠祖(とおつおや)天鈿女命(あまのうづめのみこと)は、 手に茅纒(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、 天石窟戸(あまのいわやど)の前に立ち、巧みにおどけて踊りました。 すなわち、天香山(あまのかぐやま)の真榊(まさかき)を鬘(かづら)〔枝で作った頭の装飾具〕として、 蘿(ひかげ)を 手繦(たすき)として、 火処(ほところ)に火を焚き、槽(うけ)を伏せ置いて、 神明の憑談を顕(あらわ)にしました 【「神明の憑談を顕ず」とは、神懸かりのことである】。 この時、天照大神はこれが聞こえてきたので 「私はこのところ石窟(いはや)に閉じ籠っていたからには、 思うに豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は必ず長い夜となったはずである。 ところが何ということか、天鈿女命(あまのうづめのみこと)がこのように噱楽(えらく)〔大笑いして楽しむ〕させているとは。」と仰り、 御手で細く磐(いわや)の戸を開けて様子を窺った時、 手力雄神(たちからをのかみ)は、 すかさず天照大神の御手をとり、引っぱり出しました。 そこで、中臣の神と忌部(いんべ)の神は、 ただちに端出(はしだし)の繩で境界をつくり 【この「繩」については、また左側を繩の端出しをするものと伝わる。 これは「しりくめなわ」のことである】、 「再び戻られてはなりません。」とお願い申し上げました。 このようにことがあった後に、八百万(やおよろず)の神は、 罪過を素戔嗚尊に帰し、これを科すとして千座置戸(ちぐらのおきど)を用いて、 とうとう供出することを促し、髪を抜かせてその罪を贖(あがな)わせました。 また、その手足の爪を抜いて贖わせたともいいます。 こうして、遂に逐降(かみやらいやらい)〔=天から追放して降らせること〕しました。 まとめ 天岩戸段は、朝廷の神事を掌る中臣氏や忌部氏の矜持の反映が見られ、とても興味深い部分である。 〈天武〉紀から読み取れる大伴氏への一時期の敬遠、そして〈持統〉紀・続紀から読み取れるその復権も、書紀の各箇所の内容に反映されていることが伺えた。 古事記の天岩戸段から天降り段の執筆時期は、大体書紀の対応する部分に重なっているが、 神名への「遠祖」の付加の有無などの微妙な記述の変化を見ると、書紀よりも1~2年程度先行していたと見て概ね間違いなさそうである。 原伝承では一度死んだ天照大神を生きていたことにする潤色は、古事記を書く段階でなされたと判断される。 今回の部分の精読によって、記紀の神代の一部及び〈神武〉段・紀の執筆時期と、その現場の空気まで感じられるに至ったのはひとつ成果と言ってよいだろう。 また、今回は「㖸樂」「俳優」への古訓の妥当性を疑ったが、一般に書紀の古訓点なるものは、必ずしも書紀が書かれた当時の訓みと一致しないと思われる。 よって日本書紀は原文当時の読みが正しく、書紀古訓およびその後の研究史では何かとそれを歪めたと言いたくなるが、 事柄はそれほど単純ではない。 書紀訓読の試みは書紀が成立した瞬間から始まり〔更にいうなら原注から既に始まっていて〕、 そこから場合によっては鎌倉時代まで及ぶ連続的な営みであった。そこまでの丸ごとが日本書紀であるとも言えるからである。 それでも、書紀の中の言葉について①原文執筆時点で存在した語彙、②執筆時点でまだ適切な倭読ができず音読されていたと見られる熟語、③実は中古になってから出現した語彙の遡及、④古訓サークルの狭い世界限定の創作語の何れであるかを、客観的に区別していくことには意義があろう。 なお、①②のみで読むことは可能であるが、実際には④でも相当数が既に一般化して辞書に載り、学術用語にもなっているのでので、違和感はあるだろう〔ムロツミ、ミシハセなど〕。 さて、天岩戸段を検討した結果、少なくともこの部分は中国語の文章ではない。 基本的に漢字を用いて中国語文法が成り立つ構文にはなってはいるが、本質において正真正銘の日本語である。 この天岩戸段については、①個々の字義に忠実に沿った訓読、②文字を時には意訳して、話し言葉による物語を引き出すとするという二通りの利用法が共存していたと判断される。 そもそも、中臣氏と忌部氏の勢力の誇示をたっぷりと盛り込んだ段だから、どちらにしても官人や各氏族の知識層が読めなければ宝の持ち腐れなのである。 ただし、書紀については唐の学者に読まれても恥ずかしくないように、時折難しい漢字を使って恰好をつけた面がある。 後世の古訓家はそれに惑わされて、普通の倭語にはないような言葉をわざわざ創出しようとする傾向があった。 その典型がワザオキやエラクであったと考えれば、随分見通しがよくなる。 |
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2026.07.27(mon) [01-18] 神代上18 ▼▲ |
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37目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[1]】 《一書[1]》
天津罪:「逆剥斑駒」の投げ入れによって、稚日女尊は死んだ。それを受けて「天照大神」は素戔嗚尊を詰(なじ)っているから、文章上では 天照大神は稚日女尊とは別人である。 しかしながら、「尊」は最高レベルの神に用いられる敬称で、「神退」も貴人の死であるから、 原伝承では「稚日女尊=天照大神」であったことはほぼ確実である。別人とするために「大日女」の「大」を「稚」に替えたとも考えられるが、 もともとは「日女尊」の幼名として「稚」がついていた可能性も十分ある。 そして、素戔嗚尊に「汝猶有二黒心一。不レ欲二与レ汝相見一」と詰った部分は蛇足で、ストレートに「稚日女尊〔=天照大神〕の神退」⇒「于天石窟而閉二-著磐戸一」とする方が文章の力ははるかに強い。 原伝承に潤色を加えた結果、もともとあった衝撃が弱まったのである。それでも一書[1]には「尊」と「神退」の文字がある点は、他のどの書よりも原伝承に近いと考えられる。 この神話の性格については、天石窟は古代の磐座信仰と確実に結びついていると考えられる。 またこの伝説が生まれた背景には当然皆既日食の衝撃があると思われるが、実際にそれを体験するチャンスは稀なので、 その言い伝えを背景としながら、実際の祭礼は冬至を太陽の死としてその再生を祈る行事だったと考えるのが順当であろう。 《殿内》 古訓には、「オホトノ」、「ミアラカ」が併記される。想像上の天上の宮殿ならアラカであるが、屋根に穴を空けて斑駒を投げ込むという話においてはイメージは具体的である。 さらに「殿」の字により、ここではオホトノを選ぶべきか。 《墮機》 墮には「コボツ」意もある。織機に倒れこんで壊したと読むことが場面に合う。 《以所持梭傷体》 記「梭衝二陰上 《閉著磐戸》 「閉著磐戸」は、〈吉田本〉や〈内閣文庫本〉では「閉着磐戸」である。書紀筆写の時代の著・着は事実上異体字である。 〈汉典〉によると「~著」は助詞〔動詞語尾〕として、「表二-示動作正持続進行一」という。用例は「坐著」など。 「~着」も同様に「表二-示動作正在進行或状態的持続一」。すなわち、どちらも動詞に下接して動作の進行、継続を表す。 用例を探すと『魏志』鍾会伝「所請群官、悉閉著益州諸曹屋中」があった。これは「閉じ込めたままにしておく」意なので汉典の説明に適合する。 文章作成者がこの表現を知っていて使ったのなら、漢籍への造詣が深いと言える。 その書紀古訓「閉着 《天高市》 「天高市」はそこに神々が集うから天界である。 一方、[天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊]段一書[2]に 「帰順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合二八十萬神於天高市一、帥以昇レ天、陳二其誠款之至一」とある (第79回)。 こちらの文脈では「天高市」は地上の高市郡のことである。 もともと、地上のある場所がそのイメージのまま、天界に転写されることはごく普通にある。両者はその関係と言えよう。 《会八十万神》 原注が古事記風訓読を用いよと促す方針によれば、「会」は「カムツドヒツドフ」と訓まれることになる(第49回)。 この箇所の書紀古訓が「カムツドヘツドヘ」とするのは、ここの「会」が他動詞〔下二段〕だからである。 すなわち、誰かが八十万神を招集した。 すると「会」には主語がある。ところが天照大神は既に天岩戸の中にいる。それではこのときの招集者は誰かというと、次の文に「有高皇産霊之息思兼神」があるからまさにその高皇産霊神となろう。 つまり、このⅤ-Oという語順には、高皇産霊神を一層強力に押し出す作用がある。すなわち、「高皇産霊神」を隠した書紀本文に対するアンチテーゼとしての一書[1]の性格を際立たせるのである。 《時有高皇産霊之息思兼神云者》 「時有二高皇産霊之息思兼神云者一」 〔時に高皇産霊神の息(みこ)に思兼神という者あり〕という。この言い方はこれでもかというアピールを伴うものだが、それだけに本文が「高皇産霊神」を伏せたことが意図的だった可能性が際立つ。 《図造彼神之象》 「図二-造彼神之象一」、すなわちここで石凝姥に作らせたのは天照大神の像であって鏡ではない。 ところが『古語拾遺』〔806年、資料[25]〕の対応箇所は次のようになっていて、作ったのは既に鏡になっている。 ――「令下石凝姥神【天糠戸命之子。作鏡遠祖也】取二天香山銅一以鋳中日像之鏡上」。 「於是、従二思兼神議一、令三石凝姥神鋳二日像之鏡一。初度所鋳、少不レ合レ意【是、紀伊国日前神也】。次度所鋳、其状美麗【是、伊勢大神也】」。 すなわち、最初に作った鏡は思兼神の気に入らず作り直した。そして一番目の鏡は日前神宮で、二番目の鏡は伊勢神宮で奉斎されているという。 このように、『古語拾遺』は一書[1]の「像」を「鏡」に置き換えた上で、一書[2]との間で折り合いをつける形になっている。奈良時代のうちに両神宮の間で話がついたのであろう。 さらに、『先代旧事本紀』神祇本紀ではさらに詳しくなっている。 ――「鏡作祖石凝姥命為二冶工一…採二天香山之銅一、令レ鑄二-造日矛一。此鏡少不レ合レ意、則紀伊国所レ坐日前神是也。 復使二鏡作祖天糠戸神【即、石凝姥命之子也】一。採二天香山之銅一、使レ図レ造二日像之鏡一。其状美麗矣而觸二窟戶一有二小瑕一、其瑕於今猶存、即是伊勢崇祕太神、所謂八咫鏡」。 すなわち最初の鏡は石凝姥命が作ったが、その出来は少し意に合わなかった。これが日前神宮の鏡。 改めて石凝姥の子天糠戸神が作り直した鏡は美麗であった。これが伊勢神宮の鏡であるという。 古語拾遺の内容を包含しつつ、鏡作の祖として「石凝姥命」・「天糠戸神」(《鏡作部遠祖天糠戸》)の二説があったのを神祇本紀がうまく一つの話にまとめたような印象を受ける。
鏡はその裏面のデザインにこそ重要な意味があるから、「象」は実際には鏡を指し、裏面に天照大神像〔または日神を象徴する何らかのデザイン〕を彫刻したものと読めば、最初から鏡だったとしてなんとか筋を通すことはできる。 なお、「図」はハカルとも読めるが、像だから「図(か)き造る」と訓むべきと思われる。 《石凝姥》 一書[1]には本文で祭事を主導した天児屋命と太玉命の姿はなく、思兼神と石凝姥に絞られている。 天岩戸が開かれたところまでは書かれていないので、他の神の関与を否定している訳ではない。 しかし、敢えて「高皇産霊神の息」および、石凝姥を中心に据えたところは、本文への強烈なアンチテーゼとなっている。 中臣忌部以外の氏族からの抗議があったためかどうかは分からないが、一書は本文とバランスを取った形になっている。 《天香山之金》 銅鏡の原料は青銅〔主な成分は銅と錫〕であるから、ここの「金」は金属一般、または神話として敢えてクガネ〔黄金〕として描いたかのどちらかであろう。 現実的に奈良時代の銅の産地として知られているのは、長登銅鉱山〔山口県美祢市〕で、同鉱産出の銅が東大寺大仏に使用されたとされる。 これについては「東大寺大仏の同原料についての考案」〔久野雄一:『考古學論攷 : 橿原考古学研究所紀要』14(1990)〕という論文が見つかった。そのまとめには、 成分分析により「大仏鋳造関係品、長登山出土銅滓に含まれる鉛の同位体比は、ほぼ一致しているので、両者の関係はより濃いものとなった」と述べている。 一方、天香久山の鉱山は文献には見えず、鉱山跡のような遺跡も見つかっていないという。 よって、ここで「金」を採って云々という「天香久山」は天界にイメージされたものである。 《作日矛》 「金」は「象」の材料かと思って読んでいくと、「日矛」すなわち彫刻で使う器具の材料に転じていて、文章はねじれている。 〔なお、この点については、『神祇本紀』前出では「日矛」を鏡の名称とする措置がなされている〕。 前項を併せて考えると、「採二天香山之金一以作二日矛一」は神話上の文飾に過ぎない。 すなわち文脈お構いなしに神聖な文字を並べたパッチワークであった。 この部分は、とにかく鏡造部の遠祖を登場させられればよかったのである。 高皇産霊神の部分はしっかりとした文章で、その存在を力強く描くものであった。ところが石凝姥の部分になると文章は断片的である。 これらはもともと別々の伝承だったのかも知れない。 結局一書[1]の後半は本文になかったことについて、最も先鋭的な2項目のみの伝承をくっつけて述べたものだとすると納得がいく。 《天羽韛》 [なぶんけんブログ|「あめのはぶき」と鹿の皮] に、鹿革で「天羽韛」を作ってみたという記事があった。 それによると、「丸ごと剥いだ獣皮で作る鞴は、おそらく「ふきかわ(吹皮)」と呼ぶ、袋状の鞴であったと思われ… …「延喜式」には、牛皮が吹皮の材料として上がって」いたという。 そして「より古い時代には鹿皮が使われていたのかどうかと」を調べるため、 「実際に鹿皮を使って鞴を作り、…鞣(なめ)して袋状に形を整え、先端には長めの送風管を装着、後部は弁のついた蓋でふさぎ… 蓋の部分に取っ手を付けて、…カメラの蛇腹のように前後に動かしてみたところ、結構、勢いよく風を送ることが」 できたという。 《紀伊国所坐日前神》 日前神については、〈天武〉朱鳥元年の国懸神社への「奉幣」のところで見た(《奉下幣於居二紀伊国一国懸神…上》) (【木国造之祖】) 〈持統〉四年九月の紀伊国巡行のところで、その日程には、日前神宮の祭祀が含まれていたのではないかと見た (《巡行紀伊》) 《大意》 【一書(1)曰く、 この後に、稚日女尊(わかひるめのみこと)は、 斎服殿(いみはたとの)にいて神の御服(みそ)を織っていた。 素戔嗚尊(すさのをのみこと)はこれを見て、 斑駒(ふちこま)を逆剥(さかはぎ)にして殿内に投げ入れた。 稚日女尊は、 驚いて織機に倒れこんで壊し、 持っていた梭(ひ)で御身を傷つけて神退(かむさり)〔=死〕した。 そこで、天照大神(あまてらすおおみかみ)は素戔嗚尊に語りかけ 「あなたには、なお黒心があります。 あなたともう会いたいとはと思いません。」と仰り、 天石窟(あまのいはや)に入って磐戸(いわと)を閉ざした。 すると、天下の常闇(とこやみ)となり、 また昼夜の区別もなくなった。 よって、〔高皇産霊(たかみむすび)の神は〕八十万神(やそよろずのかみ)を天高市(あまのたけち)に集めて策を問うた。 その時、高皇産霊の息子である思兼神(おもいかねのかみ)といふ者がいた。 思慮の知恵があり、 思いを巡らせて 「宜く彼の神の像を描き造り、 お招きして祈祷すべし。」と申した。 すなわち、石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、 天香山(あまのかぐやま)の金(かね)を採って、日矛(ひぼこ)を作らせた。 また、真名鹿(まなしか)の皮を全剥(うつはぎ)にして〔=丸ごと剥ぎ〕、 天羽韛(あまのはぶき)を作り、 これを用いて作り奉った神は、 すなわち紀伊国にまします日前(ひのくま)の神である。 〈石凝姥は、「いしころどめ」と訓む。 全剥は「うつはぎ」と訓む〉。】 38目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[2]-(1)】 《一書[2]-(1)》
カキツ(垣内)は、「①垣の内側。②開墾した田畑に山野を含む広大な領域。」という。②はカイト(垣内)として各地の地名に残っている。 そして、②の内部の田がカキツタで、垣田もほぼその意味であろうと考えられている。 《塡渠/毀畔/冒以絡繩》 これらは、〈延喜式-祝詞〉の天津罪に該当する。 塡渠(みぞうめ)は、祝詞では「溝埋」。毀畔(あ-はなち)は、「畔放」にあたる。 「冒以絡繩」は、他人の田を冒(おか)す、すなわちそこに勝手に縄張りして我が田とすると読める。 天津罪にある「串刺」(くしさし)は、その縄張りのための杭を打ち込む意と推定できる。 直接的には個人間の田地の奪い合いの延長線上として描かれるが、その背景としてはここでも非常に古い時代のアマツカミ信奉勢力とクニツカミ信奉勢力が国土を奪い合う戦争の民族的記憶が反映していると考えられる(《重播種子》項)。 《絡繩》 絡はどう訓むべきか。
前項で見たように縄を張り巡らせて境界とするという意味だと思われるので、メグラスぐらいが適当と思われる。 《生剥斑駒納其殿内》 書紀古訓はここの「納」を他に合わせてナゲイルと訓んでいる。 ただ、一書[2]では、「生剥斑駒」を屋根を破って投げ込まんだとは書いていない。 また日神が怒るに至るのは「送糞」のときで、「生剥斑駒」の時点にはまだ「恩親之意」によって赦されている。 岩窟入りは原伝承では日の神の死を表すものであったと想定されるが、一書[2]ではまだ岩窟に入らないから織女の死・負傷はないであろう。 よって一書[2]ではナゲイルではなく「納(い)れる」に留めるべきである。 なお「生剥」は「逆剝」の別伝だがさすがに「サカハギニハグ」に合わせることはできず、古訓も「イケハギ」としている。 《日神恩親之意不慍不恨》 「恩親之意」の四文字は古事記に縷々書かれた天照大神の寛容さを端的に表したもので、一書[2]の執筆者の言語能力の高さを感じさせる。 この属性は記には描かれたが、本文では取り除かれた(第48回)。 これは、本文の誓約段で素戔嗚尊を絶対的な「黒心」と規定した路線に沿ったものといえる。 しかし、八岐大蛇段では素戔嗚尊は英雄である。出雲氏族への配慮ももちろんあるが、そのような狭い配慮には留まらない。 素戔嗚尊は表面的にはひどい振る舞いばかりだが、本質的には高貴な神格をもち、国造りに関わるメインの神々の一員との位置づけがなされていた。 国家は、もともとアマツカミとクニツカミの連合がその基層にある。 何よりも素戔嗚に「尊」がつくことが、それを物語っている。 ただ書紀本文の誓約段・天岩戸段においては不倶戴天の敵の如く描かれる。そこには国家の起源がアマツカミにあるとして、それを徹底的に純化したいという執筆者の意思が感じられるが、 それは神話のトータルな構造が物語る国家の基層を見れば、全く先走った立場であった。 すなわち一書[2]の「恩親之意」は、その先走りにブレーキをかけているのである。 《恩親》 恩親への〈乙本〉の訓「ヒノカミオトトムツマシキココロモチテ」は「日神」から通しでつけたもの。 〈内閣文庫本〉の「コノカミヲトゝイフムツマシキコゝロヲモチテ」〔兄と弟と云ふ睦ましき心を持ちて〕は説明そのものである。 コノカミは基本的に男性〔すなわち兄〕。実際はヒがコに誤られたのに、これを正しいと信じた上で姉にも使うであろうと考えられた可能性もある。 なお、コノカミには集団の長の意味もあり、その場合のみ女性もあり得る。 恩の基本的な訓みとしては、〈類聚名義抄〉法中「恩:メクム ネムコロ ウツクシム ネムコロナリ ヲシム」。 このうちネムコロの上代語はネモコロ、ネモコロゴロニである。 親については、〈同〉仏中「親:シタシ チカシ ミツカラ ウツクシフ マノアタリ ムツマシ ムカフ ハゝ オヤ」。 「恩親」の訓読についてには、これらから上代語として確認できるものを適当に選ぶことができるから、音読に留める必要はない。書紀古訓に見える姉と弟の関係性によるとの説明は自明なので省いて差し支えないだろう。 《不慍》 「不慍」への古訓「トガメズ」は、記の「登賀米受」によったと思われる(第48回)。 一書[2]全体の表記法は全体に古事記よりも概念的なので、本来の「イカラズ」でよいと思われる。 《新宮》 本文《新宮》項参照。 《自送屎》 「自」によって素戔嗚尊自身が御坐に脱糞した(①)という文意になるが、「送」からは他の場所からそこに運び込む(②)意味にもとれる。 しかし、クソマルに本文が用いた「送」に一書[2]も合わせたと考えられるので、①であろう。 《挙体不平》 「不平」への古訓ヤクサムは、病気の意である。「体」があるからであろう。 しかし、これは上文の「平心」〔生剥斑駒を納れたときは心を乱さなかった〕と対になる語で、「送屎」に及びさすがに耐えられなくなったたという文意である。 すると、「挙レ体」は、「飛びあがって」または「全身を怒りで震わせて」の意味が考えられる。もし飛びあがったのなら「跳」などを用いると思われるので、後者と見るべきか。 《諸神》 他の書では「八十万神」である。一書[2]は概念的な書法を用いているが、本文の原訓が示す方向性〔古事記風を用いる〕に従えばヤソヨロヅノカミと訓むことも可能であろう。 《諸神憂之》 一書[2][3]には思兼神が見えない。思兼神の主導は原伝承段階にはなく、もともと諸神の自発的な協議として描かれていたと見るのが自然であろう。 古事記の段階で、一書[1]に示された高皇産霊神奉斎族による猛アピールを受け入れた。本文でもこれを取り入れが、そこから少し割り引いた。すなわち「高皇産霊神の子」の部分を削除したのである。 本文を検討した際に、これは高皇産霊神を奉斎する大伴氏への嫌がらせであろうと推測した 〔執筆時期(天武10~13年)は大伴連が敬遠されていた時期と重なるからである〕(●大伴宿祢)。 《使鏡作部遠祖天糠戸者》 者は名詞〔~コト、~ヒト、~モノ〕、または助詞〔ハ、バ〕である。 〈内閣文庫本〉が「天糠戸者」を「天糠戸ノカミ」と訓むのは「モノ」を「ヒト」に拡張したものだが、書紀古訓特有である。 一方、係助詞「ハ」を用いたらどうなるであろうか。使役動詞の訓読には「~ヲシテ」を用いるが、これは「サ変動詞の連用形シ+接続助詞テ」である。 そして、「動詞の連用形+テ+ハ」は実は普通にある。一例を挙げると(万)1106「河豆鳴 清川原乎 今日見而者 かはづなく きよきかはらを けふみては」など。 よって「使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡」を「鏡作部遠祖天糠戸をしては鏡を造らしむ」と訓むのはややぎこちないが文法的には成り立つ。 ただ、二文目以下の「使」の省略は倭化漢文の特徴であるから、倭語として比較的自由に意訳するなら「者」を「カミ」とすることはあり得る。 しかし、下文の「山雷」(やまつみ)、「野槌」(のづち)についてはヤマツミの神、ノヅチの神という言い方は基本的にしない〔下述〕。 ここで注目されるのは〈乙本〉が「使山雷者」を「山津薇〔乎〕之天波」〔ヤマツミ〔ヲ〕シテハ〕と訓んでいることである。 さらに、天糠戸の後ろには潜在的に「命」または「神」がある。この省略は、鏡・幣・玉の場合と共通する簡略化である〔下述〕から、 よってわざわざ「者」に「神」をあてなくとも、潜在的にある~ミコトや~カミを補って読めばよい。 ならば「者」はやはり「ハ」として、天糠戸を「アマノヌカトノミコト」と訓むのがよいであろう。なお、ここでカミでなくミコトを用いるのは、 対応する本文では主に「~ミコト」が使われているためである。 《鏡作部》
鏡作伊多神社2社 (田原本町大字宮古字補屋60、田原本町保津150) 鏡作麻気神社(田原本町小阪244) 〈延喜式-神名〉城下郡{鏡作坐天照御魂神社【大/月次新甞】}は地名を負う。 比定社は鏡作坐天照御魂神社〔奈良県磯城郡⽥原本町⼤字⼋尾816〕。 [田原本町公式|鏡作神社]によると、 「祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天糠戸命」。「社宝として三神二獣鏡が伝えられるが、これは三角縁神獣鏡の外区が欠落したものと考えられる」という。 〈延喜式-神名〉にはまた{鏡作伊多神社}、{鏡作麻気神社}がある。 右図は比定社の所在地。これらの名称が明治時代に復古したものであることを考えると飛鳥時代の位置と一致するかどうかは分からないが、 この一帯が鏡造部の本拠地で、「鏡作郷」があったことは間違いないだろう。 黒塚古墳には三角縁神獣鏡が大量に納められていた。 ([黒塚古墳])。 それが中国国内で鋳造された可能性もまだ残るが、いずれにしても国内でそれが大量に複製されていたのは明らかである。 当時〔3世紀後半〕から職能集団がこの地で三角縁神獣鏡作りに励み、その子孫が鏡作部となった可能性は十分にある。 さて、前出『古語拾遺』には石凝姥神は「天糠戸命之子」とある。 一方、前出神祇本紀では天糠戸神を石凝姥命の子としていた。 よって〈姓氏家系大辞典〉は「此の神系・天糠戸と石凝姥と、孰れが親子か詳らかならず」とする。 ● 鏡作造
(『長登銅山跡』2〔美東町教育委員会1993〕) もともと鏡作造自体が奴隷的な部民ではなく、国家の祭祀に関わる重要物品を作る専門技術集団としての権威があり、 朝廷からは敬意を払われた結果、そのトップ自体が有力な氏族となったと考えられる。 古墳時代には、朝廷から地方有力氏族に八咫鏡を下賜する習慣があったことが、〈雄略〉九年五月 の小鹿火宿祢の記事から窺われる。このとき小鹿火宿祢は「奉二八咫鏡於大伴大連一」して「不レ堪下共二紀卿一奉事天朝上」と願い出た。 すなわち、下賜された八咫鏡を返上して引退し、「角国」を居とした。 よって、少なくとも古墳時代には神鏡が大量に必要とされ、鏡作造がその生産を担っていたであろう。 その銅の精錬などの技術の専門性については、長登銅山の当時の精錬炉の復元図によって知れる(右図)。 その後の鏡作については、連姓は書紀に見えるだけで実際の人物は見えず造性の人のみという。よって〈姓氏家系大辞典〉は「連姓鏡作氏は、はやく滅びうせ、造家のみ残れるか」という。 天武朝以後八咫鏡を氏族に下賜する習慣がなくなったことから、鏡作連自体が衰退したのではないだろうか。 《鏡作部遠祖天糠戸》 天石窟前で神事をする神の組み合わせは記、紀本文、一書ごとに異同がある。そのリストは【登場する神々】に示した。 一書〔2〕では神はもっとも多様である。天児屋神と太玉神も含まれてはいるが、多くの神に「遠祖」が付されていて扱いは比較的平等である。 その平等さは「諸神憂之」に合う。だから原伝承に近い形かも知れない〔あるいは各氏族ごとに伝わる天岩戸に関する伝承を、ここに集約した可能性もある〕。 ただ、ここには思兼神の姿はない。したがって「諸神」はリーダーシップなしに自発的に集まったことになる。 さらに、天鈿女命と手力雄神の姿も見えない。この2神は、古事記段階で猿女君〔=稗田氏〕のもつ伝承を収めた可能性が大きい。 また、一書[2]には天鈿女命の派手な活躍がないから日神は外の様子を気にすることはなく、 静かなままである。よって、日神「神退 これらの点から、一書[2]の内容が最も原伝承に沿うと考えられる。 すなわち、天岩戸段については次の形成過程が考えられる。
書紀本文と一書群、記では諸神の果たした役割についての自己主張がせめぎあっている。 《造鏡》 「鏡」は本文の「八咫鏡(やあたのかがみ)」を簡略化した記述である。訓読で八咫鏡を用いることは、むしろ推奨されるかもしれない。 《忌部遠祖太玉》 《中臣連》・《忌部》参照。 《造幣》 「幣」は本文の「青和幣白和幣」の簡略化である。 《玉作部遠祖豊玉》 ● 玉作部 〈姓氏家系大辞典〉「玉作部:玉を作るを職とする品部」。 ● 豊玉 〔命〕は、記では「玉祖命」。 玉祖命は、記で「日子番能邇邇芸命」の天降りに随伴した「五伴緖 ● 「玉祖」と「玉作」 部としての玉作部と、その伴造 〈姓氏録〉にも〖玉祖宿祢/宿祢/高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也〗。 〖忌玉作〔無姓〕/高魂命孫天明玉命之後也/…陪従皇孫降来。…号玉祖連。亦号玉作連〗。 すなわち玉祖、玉作〔別名忌玉作〕がありともにタカムムスビを祖神とする。 両者の関係について〈姓氏家系大辞典〉は、玉作の項:「玉作連:高魂尊の裔として、玉作部の伴造なり。一に玉祖連とも称す」、 玉祖の項:「玉祖 タマノヤ タマノヲヤ:玉作氏と同一なるが如し」として同じ氏の別名とする。 そしてどちらの名で呼んだ場合でも「玉造部の総領的伴造也」と規定する。 結局「玉祖」は「玉造の祖」の短縮ということであろう。 その「総領的伴造」とは、ある氏族が外部から部を私物化して隷属させる場合とは異なり「部内部の指導層が伴造家になった」意味と見られる。 《鏡作部》項で見た構造である(●鏡作造)。 ● 玉作部の本拠地
● 豊玉命のさまざまな異名 一書[3]では「中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊児天明玉所作八坂瓊之曲玉」とあり、名は「天明玉」、伊弉諾尊の子とする。 また素戔嗚尊が天に昇ってくるときに、羽明玉と出会い「瑞八坂瓊之曲玉」を受け取った (於是素戔嗚尊請曰吾今奉教段/一書[2]) ● 玉作、玉祖の姓 〈天武〉紀では八色の姓制により十二~十三年に多数の氏が改姓されたが、その対象から漏れている。 〈続紀〉には人名として「玉作金弓」、「玉作部広公」が見えるが無姓である。おそらく個人の才覚としての活躍と見られる。 また、姓氏録にある連姓、宿祢姓の者も見えないから、小数に留まったのであろう。 すなわち、中央氏族としての存在感は薄かった。 遠祖の名前が統一されず、氏族名も複数あるということは、氏族が「氏文 玉作はおそらく飛鳥時代に入る頃までは有力氏族であったが、記紀が書かれる頃には既に氏族としての統一性を失い、各地に分散した部となって埋没したと考えられる。 よって書紀本文から豊玉(命)が消えたのは、中臣・忌部の主導権争いに割って入るだけの氏族のパワーをなくした結果と思われる。 《造玉》 「玉」は本文の「八坂瓊之五百箇御統」の簡略化。 かつ記「八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠」に対応する。 《山雷》 山雷 また、迦具土神を斬ったとき八柱の「~山津見神」が所成した (第83回)。 書紀本文では「次生山」が「生山雷」に近いが、山雷は敢えて除外したのかも知れない。 [次生海次生川次生山]段一書[8]で、軻遇突智神の五段斬りから「五山祇」が化成したり、 同一書[9]では八段斬りから「山雷」が化成したりするからである。 山雷〔山祇〕の神格は、要するに山の神である。 一書[2]においては、山雷や野槌が含まれているから、登場する神は「~の遠祖」に限らない。 すなわち、文字通り「諸神」が挙って天石窟前の神事のために参集したというのが原伝承であったと考えられる。 《採五百箇真坂樹八十玉籤》 本文では「真坂樹」を根こそぎにして取り、枝に鏡・幣・玉を懸け付けたが、ここでは生えている榊の木の枝を採って玉籤とした。 玉籤はここでは玉串である。 本文にはないから、略すことなく具体的に書かれた。 《野槌》 記は神生み段に「生二野神名鹿屋野比売神亦名謂野椎神一」 (第36回)。 書紀は[次生海次生川次生山]段の神生みに「次生草祖草野姫、亦名野槌」(【次生海次生川次生山】)。 [次生海次生川次生山]段一書[9]では軻遇突智神の八段斬りから化成 (《所謂八雷》)。 古事記で迦具土神を斬って化成した中にノヅチはない。 野槌の神格は、野の神、草の神である。 なお、ヤマツミ・ノヅチには基本的に「神」はつかない。既に「ミ」、「チ」に神霊、精霊の意味があるからである 〔ツは古い属格の助詞〕。 万葉では0038「山神 やまつみ」で、書紀でも神はつけていない。 ただし、記では「神」を付ける。これは神はすべて神であることを明確化して、柱数をカウントするためである。 《凡此諸物皆来聚集》 「此諸物」を目的語とする動詞を欠く。ここに「持」を補い、万葉にいくつか見られる「持来」〔もちく〕にするのがよいであろう。 《大意》 【一書(あるふみ)(2)に曰く、 日神尊(ひのかみのみこと)は天垣田(あまのかきた)を御田とされた。 すると素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 春には塡渠(みぞうめ)毀畔(あはなち)し、 秋には穀物が実ったところで、 縄で囲って冒(おか)した。 また、日の神が織殿(はたとの)にいらっしゃるときに、 斑駒(ふちこま)を生剥(いけはぎ)にしてその殿内に入れた。 凡そこの諸々の事は尽(ことごと)く無体であった。 それでも日の神は、 恩親の情をかけて怒らず恨まず、 すべて平静な御心を以てお赦しになられた。 日の神が新嘗をなされる時に至り、 素戔嗚尊は、 新宮(にいみや)で座られる下に密かに自ら排便した。 日の神はそれを知らずすっとその席の上に座(すわ)られ、 これによって、日の神は平静でおられなくなり怒りを全身で表した。 よって怨恨を以って、 踵を返して天石窟(あまのいわや)に入り、その磐戸(いわと)を閉ざされた。 その時、諸神は憂えて、 鏡作部(かがみつくりべ)の遠祖(とおつおや)天糠戸命(あまのぬかとのみこと)には 鏡〔=八咫(やあたの)鏡〕を造らせ、 忌部(いんべ)の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)には 幣(にきて)〔=青和幣と白和幣〕を造らせ、 玉作部(たまつくりべ)の遠祖豊玉命(とよたまのみこと)には 玉〔=八坂瓊の五百箇御統〕を造らせた。 また、山雷(やまつみ)には、 五百箇真坂樹(いほつまさかき)の八十玉籤(やそたまぐし)を採らせ、 野槌(のづち)には、 五百箇野薦(いおつすすき)の八十玉籤(やそたまぐし)を採らせた。 凡そその諸々の物を皆が持ち寄り、聚集した。 39目次 【是後素戔嗚尊之為行也甚無状/一書[2]-(2)】 《一書[2]-(2)》
「~の遠祖〇〇命」という書法は他の神と同じだから、その点では平等である。 よって、一書[2]は原伝承の内容に近いと見られる。 しかし、「天児屋命」に限って「命」を省略せず、また祝詞を読む役割を与えられているから、他の神より一段上にいるのは確かである。 一書[3]によれば、日の神はその祝詞の声の美しさに何だろうと思って岩戸を開けた。 一方太玉(命)は、一書[2]では「天糠戸(命)」、「豊玉命」と同じレベルに沈んでいる。これを天児屋命と同格に引き上げられたのは本文によってである。 《鏡入其石窟》 この鏡〔八咫鏡の略〕については、日神が少し岩戸を開けたからすかさず差し入れたという文章になっている。 しかし、それが日神が出てくることにどのようにして関わったのかは、書かれていない。 記では、天照大神が天宇受売にどうして外では皆笑っているのかと聞き、天宇受売は「益汝命而貴神坐」〔御身以上に貴い神がいらっしゃるからですわ〕と答え、 そのタイミングで鏡を示したと書かれている。すなわち、その鏡に映った天照自身の像を「貴神」と錯覚させるためと読める。 それでますます不思議だと思って更に身を乗り出したところを、すかさず天手力男神が引っ張り出したという話になっている。 しかし、鏡に映った自分を他の神と錯覚したというストーリーはやや苦しいので、「益汝命而貴神坐」の言葉や、ことによると鏡を差し入れたことも記による潤色ではないだろうか。 「真賢木 記のストーリーを作為として取り除くと、鏡がどのように功能を発揮したかの真相は謎にもどる。 ただ想像するに、日神の霊力を反射させることによって、それを逆に日神自身を外に出させるパワーとして利用しようとしたのかも知れない。 すなわち天磐屋に閉じ籠るのも日神なら、そこから脱出させることができるのも日神のみだからである。 ひとつの仮説として、太陽の再生を願う古代祭祀において、鏡を空に向けた。それは、以前に太陽を移した鏡にはその太陽の魂が乗り移っていると考えられていたからである。 古代祭祀ではその霊力を使って、今度は太陽を再生させようとしたと考えて見たらどうであろうか。 《觸戸小瑕》 伊勢神宮で奉斎されている八咫鏡には小さな傷があると言い伝えらていたようである。現在では厳重に封入されているから、おそらくそれを確かめた人はいない。 神話においては、それが天磐屋の壁に当たったためとして後付けされたと考えられる。 《手端吉棄物足端凶棄物》 手端吉棄物足端凶棄物は、記の「手足爪令抜」、書紀本文の「其手足之爪」を、儀礼化した語。和幣は祭事に用いられるから、手端吉棄物・足端凶棄物も同様ではないかとも思われたが、祭具の名にはない。 祝詞にもないから、一書[2]のこの場面限りの語である。しかし、このような儀礼的な語なら、その名称で呼ばれる物品が祭事に用いられた時期があった可能性もある。 ただし、祝詞にもないからすぐに廃れたのであろう。 なお、「凶棄物」〔アシキラヒモノ〕は、「足」との語呂合わせである。よってその反対語「吉棄物」〔ヨシキラヒモノ〕が「手」に割り当てられたと判断される。 《洟》 「洟」は「鼻涕」〔鼻腔から分泌する液体〕、または「涕」の異体字である([国際電脳漢字及異体字知識庫]による)。 唾⇒白、洟⇒青の対応から見れは、洟は鼻汁である。書紀古訓「ヨダリ」については、〈時代別上代〉は涎、鼻汁、涙を広く指すと見ている。 鼻汁に限定する語としてはススバナがあるが、辞書に載る用例は宇治拾遺〔13世紀前半〕で、上代にはなかったようである。 なお、唾を白幣帛、洟を青幣帛に替えるのはここだけの文飾に過ぎないであろう。 《以神逐之理逐之》 すなわち「神逐(かむはらひ)の理(ことわり)を以て逐(はら)ふ」。 古事記の言い回しを、理知的に構文化しているところが興味深い。 しかしこれを漢語による表現として割り切り、原注が示す方向性により「カムヤラヒニヤラフ」和読しても差し支えないと思われる。 なお、「逐」は訓注では「ハラフ」、古事記では「ヤラフ」であるが、同じ意味の語と考えられていたようである。 《大意》 この時、中臣(なかとみ)の遠祖(とおつおや)天児屋命(あめのこやねのみこと)は、 よって神祝祝(かむほざきほざき)〔祝詞〕を唱えた。 すると、日の神は磐戸(いわと)を開けて出ようとなされた。 この時、すかさず鏡をその石窟(いわや)に入れ、 戸に触れて少し瑕(きず)がつき、その瑕は秡いで浄められて今なお残っている。 これが即ち伊勢に崇祕する大神である。 このことが終り、 素戔嗚尊に罪を科して、その秡具(はらえつもの)〔罪を祓うための代償〕を出すことを強いた。 よって出したものには、 手端吉棄物(たなすえのよしきらいもの)〔手の爪〕、足端凶棄物(あなすえのよしきらひもの)があった。 また、唾を白和幣(しらにぎて)として、 洟(はなみず)を青和幣(あおにぎて)とした。 これらを用いて解除(はらえ)を終えて、 遂に神逐(かむはらい)の道理をもって逐(はら)った〔=追放した〕。 〈 「玉籤」は「たまぐし」と訓む。 「秡具」は「はらえつもの」と訓む。 「手端吉棄」は 「たなすえのよしきらい)と訓む。 「神祝祝」は、 「かむほさきほさく」と訓む。 「遂」は、「はらう」と訓む。〉】 まとめ 鏡作部と玉作部は対照的である。いずれも伴造家は、「総領的伴造家」すなわち内部に司令塔の氏族を形成している。 鏡作はその技術の専門性や儀式に不可欠な鏡を作ったので、権威があった。それに対して玉造は既に衰退していた。 中央氏族の地位を失い、個人の装飾品の需要に応える職業部に戻ったように思われる。 それが一書[2]、一書[1]、記での扱い方の差に現れていると言えよう。 ところが、その鏡作も〈天武〉朝になると鏡の需要を失い没落に向かっている。 この現状が、古事記には伊斯許理度売〔石凝姥〕が残り、書紀本文では消えたところに反映したと思われる。 本文では、鏡を岩戸に差し入れる記述までもが消えている。 なお、玉作伴造家が既に廃れた根拠については、その始祖の名前が多様であるところに見出した。すなわちそこに氏文による定式化がなかったことを推定した。 また鏡作にかつて神鏡の大量の需要があったと見られることについては、〈雄略〉紀で八咫鏡が仕えていた有力氏族に下賜されていたことを見出した。 総じて記紀、その一書の天岩戸段の記述を比較しながら一言一句のレベルまで突き詰めて解剖した結果、登場する氏族の勢力の消長が鮮やかに見えてきたのである。 |
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⇒ [30-19] 神代上(6) |