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2026.06.24(wed) [01-14] 神代上14 ▼▲ |
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28目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教】
古事記では「伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也」(第44回)の後に 「速須佐之男命言 然者請天照大御神」(第45回)する。 すなわち伊邪那岐大神が引退した後、最高神になった天照大御神に請う形になっている。 それに対して、書紀本文では穏退する前の伊弉諾尊神に請う形になっている。「請」という文字が共に使われているから、この部分に関しては書紀が古事記の記述を修正したと考えられる。 素戔嗚尊が天に上ってくることに対して天照大神は極端なまでに警戒しているから、その前に「請」を可(ゆる)すことは不思議である。 書紀はおそらくそう考えて修正したのであろう。 しかし、今度は伊弉諾尊は素戔嗚尊は根の国へ行けとあれほど強く命令しながら、その前に一度天に上って天照大神に挨拶したいと言ったことを許すのも変な話ではある。 これは、古事記の方はもともと筋が通っている。何故なら、須佐之男命が後に天であれほどの乱行をしながら、天照大神はそれを赦してやってほしいという融和的な態度を示すからである(第48回)。 すなわち、須佐之男命は極めて乱暴であるが、天照大神はその本当の心を信じようとしていると描かれている。天に上って挨拶したいという須佐之男命の言葉についても、これを信用したいという心理を描いたものと読める。 《根国》 根国は、地上とは切り離された別世界である。一方黄泉国は死後に行く国である。古事記では、両者を同じ国としている (《根国》項) 《与姉相見》 天照大神は、ここの「故欲暫向高天原与姉相見」という文によって女性神であることを明示されている。 ただし、最初に「日孁」の訓注「比屢咩」によって女性神としての名が示されていた(11段)。 それでも後の誓の場面において、素戔嗚尊に五男神を生ませるところは男性の役割である。 今段の自らミヅラを結い武器を取る場面は表層としての男装として済ませてはいけないかも知れない。本質として両性具有の神と規定すべきか。 そもそも、太陽神を男性とするか女性とするかは民族によって様々である。それは、自然の苛烈な支配者としての太陽と、大地に豊かな恵みを生み出すという太陽という、本質的な両面性によるものであろう。 天照大神の両性具有性は、そのひとつの現れと位置付けることができる。 《伊弉諾尊神功既畢》 これまで幅広く見てきたように、イザナギイザナミ神話の淡路島由来は確実である。 一方、日神月神神話は、日神は対馬から(〈顕宗〉三年四月) 月神は壱岐から(顕宗三年二月)もたらされた。 すなわち、この段は実際には全く異種であった神話を繋ぎ合わせた縫い目にあたる。記紀ともにそのつなぎ目で、伊弉諾尊の役割が終了したことを律儀に明示したのである。 こうして、伊弉諾尊は「淡路洲幽宮」〔書紀〕または「淡国多賀」〔記〕に穏退した。 ところが、伊弉冉尊の最後については書紀本文においては何も書かれていない(《共生日神》項) これを解決するのは実際には簡単で、淡路洲の幽宮に一緒に穏退させればいいだけの話である。 なぜそうしなかったのか? ●伊弉冉尊の最後が書かれていない理由 思うに一書や古事記の伊弉諾尊が黄泉に出かけるストーリーにおいても、伊弉諾尊は黄泉国から地上に脱出でき、禊をして身を浄めたから、幽宮に収まることに問題はない。 しかし、伊弉冉尊の場合は黄泉から救出しようにも、あまりにも広範な伝承において黄泉に絡め取られているのである。 一般的な伝承ではイザナギは生の神、イザナミは死の神という構図は強固となっており、今更人々の心から消し去ることはできないだろう。 よって、書紀全体としては伊弉冉尊が黄泉大神になったことは認めざるを得なかったのであろう。 本文では黄泉の物語を明記こそしなかったが、暗黙裡に一書の黄泉の物語を認めているのではないだろうか。 本文における書き換えは、三貴子の誕生のタイミングをイザナミがカグツチを生む前に移したこと、これで精いっぱいであった。 しかしこれによって、三貴子の御身に黄泉の汚穢が影を落としていたことだけは回避できたから、ぎりぎりセーフなのである。 やはり、律令国家に相応しい起源神話は、形而上の美しい構造としての高天原から始まらねばならず、古代的な汚穢は何とか拭い去りたかったのであろう。 《霊運当遷》 「霊運当遷」は貴人がこの世を去ることの婉曲的に表現する言葉と見られる。 実際に、〈乙本〉における「カムアガリマシナム〔ト〕ス」〔ナは完了ヌの未然形〕のカムアガリは「崩」の訳語である。 また〈内閣文庫本〉の「アツシレタマフ」は重病を付加したもので、文学的な修辞である。 古事記では「伊邪那岐大神者坐淡海之多賀」、すなわち伊邪那岐命は大神となって近江多賀社の祭神になったと表現される。 冷静に見れば伊弉諾尊の穏退が生物学的な死の範疇に入るか否かはあまり重要なことではなく、人格神が理神に切り替わった程度の捉え方で十分であろう。 しかし、念のために漢籍における「霊運」の使い方を見ておこう。一例として『晋書』帝紀「我皇祖有虞氏誕膺靈運」は「有虞氏」が霊運〔天賦の皇位〕を誕膺する〔受け継ぐ〕意。 この意を適用すれば、伊弉諾尊の「霊運当遷」は天賦の役割はいずれ終るものであると読めるから、やはりこれは天命を迎えた意と受け止めてよい。 すなわち古訓「カムアガリ」を用いることは問題ない。しかしもうひとつの古訓「アツシル」については原文には病気とは書いていないから、潤色が加わっている。 一方、原形のまま「霊運遷(うつ)るべし」も感慨に浸る語感があり使える。「霊運」の音読は呉音ならリヤウウンであるが、仏教経典における用語にはないので、漢音レイウンが適当か。 なお、直訳「ミタマノメグリ」は「天賦」の意味から離れるから適さない。 《構幽宮於淡路之洲》 古事記では「伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也」(【伊邪那岐大御神の引退】)。 〈延喜式-神名〉{近江国/犬上郡七座【並小】/多何神社二座}に対応すると見られる(第44回)。 比定社は多賀大社〔滋賀県犬上郡多賀町多賀604〕。祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。神名帳から伊邪那美大神が祭神に含まれていた可能性がある。 伊弉諾神の隠退先は、書紀では「淡路洲」の「幽宮」に。 〈延喜式-神名〉{淡路国/津名郡【大一座/小八座】/淡路伊佐奈伎神社【名神大】}。 比定社は伊弉諾神宮〔兵庫県淡路市多賀740〕。祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神。 なお、こちらも大字多賀〔江戸時代の多賀村〕にあるが、古事記が成立した後にその記述によって名付けられた可能性がある。 古事記の「淡海之多賀」については、これを「淡路之多賀」とする写本も多いことから、現在は「もともとは淡海」説が有力視されている。 確かに、その写本の一例に「故其伊邪那岐大神者坐淡路之多賀也」 (伊勢一本)が見える。 但し、この説は慎重に見るべきである。 ●古事記写本誤記説について 通説のひとつの根拠として『古事記伝』が上げられているので、そこに実際に書かれていることを見る。 『伝略』(古事記伝略巻3-4)では 「多賀は〔延喜〕式に近江国犬上郡多何神社二坐見ゆ、和名抄に同郡田可郷あり是なるべし。書紀に…此記と異なる伝なり」。 そして、『先代旧事本記』〔以下〈旧事〉〕陰陽本紀「是以構幽宮於淡路之洲、寂然長隱。亦坐淡海之多賀者矣。」を紹介している。 さらに『古事記伝七之巻』(古事記伝第1)はこれよりも長文であるが、 その趣旨は、天照大神が「長に天上に坐ませども」、「坐御社」は伊勢五十鈴宮をはじめ、添下郡、葛下郡、城上郡、伊勢度会郡など多数あることに准えて、 伊邪那岐命の「現御身」は「天上なる日少宮」にましまし、「多賀」は「拝祭神社」という関係だという。 すなわち、神自身は天上にいらっしゃり、祭神とする神社が地上にあることを述べたものだとする。 宣長はこれらの事実を客観的に述べるのみで、「記の『淡海之多賀』は『淡路之多賀』の誤写である」と主張しているとはとても読めない。 むしろ文中では「路ノ字を海に写し誤れるかとも疑ふべけれど、淡路に古より多賀てふ名聞えず、 近江には今にも名高くて、御社も坐ませば、此記は固り淡海なり」として誤写説を真っ向から否定している。 以上から、誤写説の根拠として宣長の主張を挙げることは根本的な誤りと言える。 『伊勢一本』に「故其伊邪那岐大神者坐淡路之多賀也」となっているのは確かだが、室町時代(応永33年・1426年)の書とされている。 何といっても真福寺本(1371年)の古さは群を抜いているので、後の書紀を知る筆写者が筆写する段階において「淡海の多賀は淡路之多賀の誤りだ」との判断により書き換えた可能性は否定しきれない。 さらに言えば、〈旧事〉では書紀と古事記の両論表記なので、同書が書かれた時代の写本では古事記は「淡海之多賀」であった可能性が高い。 〈旧事〉の成立時期の下限は、序文・国造本紀は823年、それ以外の巻は慎重に見積もって746年頃〔石上乙麻呂が中央政界に復権した年〕が下限である(資料[55])。 したがって〈旧事〉陰陽本紀は、「淡路多賀」とする『伊勢一本』などよりも圧倒的に古い。 また「『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常」という説も見るが、実際に古事記全文を調べると「近淡海」11、「淡海」8なのでこれも事実に反する。 さらには、古事記が意識的に近江国の多賀を選ぶ理由もなくはない。それは畿内の鬼門の守り神とするためである。 以上から、「淡路之多賀の誤写」説には慎重にならざるを得ない。以後はひとまず「淡海」説を前提として論を進める。 《淡路之洲》
通常は土着伝承に寄り添うのは古事記の方だが、 この箇所では逆転現象が起こっていることが、頗る興味深い。 その背景としては、イザナギ伝説の当時既に相当程度広まっていて、イザナギを祭神とする社は各地にあったと考えられる。 記はそのうち比較的大きかった多賀社を、たまたま拾い上げただけかも知れない。 ところが淡路海人はこの古事記の書きように不満を募らせ、書紀において改めたというようなことがあったのかも知れない。 だとすれば、当時淡路海人を配下に置いていた阿曇宿祢(〈天武〉十三年・阿曇連)のパワーはなかなかのものであった。 前述したように、〈延喜式-神名〉では淡路伊佐奈伎神社は津名郡唯一の大社であった。 当時から存在感があったのであろう。すると、檍の伝承地を阿波国東岸に見たが、淡路島にも伝承地が存在していた可能性が再び浮き上がってくる(《橘之小門》) しかし、「伝承地はその伝承をもって生活する人々の生活場所を表現する」(《全国の浦嶋伝説》)という原則に立ち返れば、 ①阿波国橘浦の安曇氏族:イザナギの「禊(阿波岐原)」の伝承と共に生き、保持していた生活圏。 ②淡路の淡路海人:イザナギの「幽宮」の伝承と共に生き、保持していた生活圏。 と見ることもできる。よって、割り切って橘浦は海上交通の要地で古くから住吉三神などさまざまな神が出現し、それがイザナギの禊に結び付けられたもの。 一方、淡路伊佐奈伎神社はもともとは非常に古い時代から祭祀された地元の大切な磐座で、後にイザナギが習合したと考えてみたらどうだろうか。 因みに伊弉諾神宮にもっとも近い磐座は岩上神社にあり、伊弉諾神宮の南南西1.8kmにあたる(右図)。神籬(ひもろぎ)岩、別名烏帽子岩と呼ばれ周囲約16m、高さ約12mという ([淡路島観光協会|岩上神社])。 淡路島には磐座が他にもあり古代から祭祀が行われていたと見られる。その信仰は松帆銅鐸(5段)以来連綿と続いていたかも知れない。 この背景があったとすれば、古事記でその祭祀の伝統の地を無視されたことへの淡路海人の心情はいかほどのものだったかとも思われる。 《淡路之洲》 シマについて、シマ生みによる島は「洲」、その他は「嶋」と使い分けられている(《大八洲国之号》)。 《徳》 徳への書紀古訓「イキホヒ」は書紀古訓特有である。 〈類聚名義抄〉「徳:メクリ サイハイ メクム トル ヲクル アツシ ノホル アツカフ ワトク」。 このうちメグム・アツシは、やはり人格者のもつ高い道徳性をイメージさせる。 漢字としての「徳」は、 [国際電脳漢字及異体字知識庫]では「道徳、品行、節操、指下有二道德的賢明之一人上、恩惠、恩德、感恩、感激、徳政、善教、客觀規律、性質、属性、心意」がずらっと並んでいる。 これらを見れば、イキホヒという語のもつ、ときには凶暴性も厭わない権力のイメージとは真逆である。 本来の意味に沿った上代語としては、メグミ、ヒシリなどが思いつくが、なかなか意を尽くせない。 それでは音読を用いたらどうであろうか。音読の例としては人物名「博徳」〔ハカトコ〕(〈雄略〉十二年)、 地名に〈倭名類聚抄〉{常陸国・鹿島郡・徳宿郷}、{出羽国・村山郡・徳有郷}。一応音読は存在した。 《日之少宮》 一部に、日之少宮を淡路伊佐奈伎神社の別称とする記述を見る。 その妥当性を検討する。 日之少宮については、〈釈紀-述義〉に考察がある。 そこでは「問少宮。其義如何」なる問に対して、博士は次のように答えている。
そのよりどころを調べてみた。「伏羲八卦次序図」〔北宋960~1127の儒学者邵雍作〕によると、少陽(⚎)は、坎(☵)・巽(☴)から成るグループをいう。しかし、「少陽」に「艮」をあてた説明は今のところ漢籍には見つからず根拠不明である。 それでもここでは、日本紀講筵の博士がとにかくそう言っているのである。 おそらく、畿内または淡路島から見て「犬神郡多賀之宮」が艮〔=東北〕の方角ににあたることを「少日〔=陽〕之宮」に結び付けようとしたことが動機で、 それを云うための便宜的な理屈をひねり出したと思われる。 強いて言うなら、『周易』卷九/説卦第九雑卦第十一に「艮、東北之卦也。萬物之所成終而所成始也。故曰成言乎艮。」 〔=艮は万物が終ったあとに、改めて始まることを表す〕とあることから、 オール陰である坤(☷)から陽の生まれ初め〔=少し陽〕にあたる卦として艮(☶)をあてた独自説かも知れない。 このように文章自体は読み取りにくいが、むしろこの述義の意義は日本紀私記が記された当時に「少宮者是近江宮」と現実に語られていたことが実証できる点にある。 これによって古事記「淡海之多賀」が「淡路之多賀」の誤写であるとする俗論を、さらに充分に退けるものになっているのである。 興味深いのは、日本紀講筵の場でありながら博士が古事記説に基づく論を展開しているところである。この博士は近江系氏族の出身、もしくはごく親しい関係にあったとしか考えようがない。 この件に関する書紀による記の訂正を併せて見ると、それぞれの地元氏族による幽宮所在地誘導論争は、相当根深いものであったことが窺われる。 なお、〈釈紀〉所引私紀が日少宮を「犬神郡多賀之宮」と同一とすること自体についての『古事記伝』(古事記伝第1)の見解は、「古意にあらず。日少宮は、天上にあること、仍留二字にて著きものをや」 〔「仍(よ)って〔天に〕留まる」とはっきり書いているから、日之少宮が近江国犬上郡にあるなどというのは古くからの考え方ではない〕というもので、酷評している。 さて、最初の問題設定「日之少宮を淡路伊佐奈伎神社の別称とする記述」の是非に戻ると、日少宮の所在地を私記は近江国、宣長は天上というから、歴史上の文献には根拠を見いだせない俗説であることは明らかである。 《大意》 このとき、素戔嗚尊(すさのをのみこと)は 「わたしは今命を承り、根の国に就きます。 そこで暫(しば)し高天原(たかまのはら)に向い、 姉上とお会いして、 その後に永遠に退こうと思います。」と願い、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は勅して許されました。 そして天に昇り参上しました。 この後、伊弉諾尊の神の功は既に成し遂げ、 霊運(れいうん)は移り、 これによって、幽宮(かくれのみや)を淡路洲(あはじのしま)に構え、 寂然として永遠に隠れられました。 また曰く、伊弉諾尊の功は既に至り、 その徳はまた大でした。 そして、天に登り復命され、 そのまま天に留って日の少宮(わかみや)にお住まいになったといいます 【少宮は、「わかみや」と訓む。】。 29目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/始素戔嗚尊昇天之時】 《始素戔嗚尊昇天之時》
この段は、ほとんど古事記(第45回)と同じ表現が用いられている。 神代の伝説の中核的な部分については、古事記スタッフと書紀中枢スタッフ共同で、よく練られたのだろうと思われる。 《溟渤以之鼓盪/山岳為之鳴呴》 「溟渤以之鼓盪」の「以之」はなくてもよいように思えるが、「以二素戔嗚尊昇天一」の意と見られる。 さらに「山岳為之鳴呴」の「為之」は、「以之」に対応して対句構造をなし、視覚効果をもしくは語調を整えるものである。 ただ問題は、これが意味が通る上代語に直せないことである。現代の感覚では「之の為に」は「"素戔嗚尊昇天"が原因となって」と理解されるが、 上代のタメは目的を表すのみで、原因をあらわす用法はまだない。しかし、漢文においてはこの「為」は明確に原因となる事柄を表す前置詞である。 ところが書紀古訓を探った時代には、まだタメに原因を表す用法がなかったので、「「為之」二字不読」と書き添えられたと思われる。 このように不読としても、日本語の言語感覚なら「以之」が暗黙のうちにここにもかかるから、妥当な判断であろう。 書紀古訓については納得できないものも多い〔徳をイキホヒと訓むことなど〕が、この箇所に関しては古訓者の判断は真っ当である。 日本紀講筵に呼ばれた学者には、極めて原則的に文法に拘る者と、国家の権威を誇る方向に特有の意味付けをして訓んでしまおうという者の両方がいたと考えられる。 《天照大神》 2026.06.26 次生海次生川次生山段本文においては、「日神・大日孁貴 本文が「大日孁貴」を前面に出した動機としては、本文は伊弉諾尊の禊による化成をないことにしたから、天照大神も連動して一書に入れたことが考えられる。 しかし、実際には以後の天照大神中心の物語全体は神代巻の中核をなし、それが丸ごと一書になるわけがなかった。つまりこれは、次生海段の文章を製作した時点での判断ミスであろう。 《謂当有奪国之志歟》 「吾弟之来豈以二善意一乎。謂当レ有二奪レ国之志一歟」。 ここの「謂」には「況 よって、ここでは思い切って「謂はむや」と訓読してみたらどうだろう。ただ、漢文訓読の常道に従えば「謂レ当レ有二奪レ国之志一歟」、 すなわち「~謂はむや」が文末に回され勢いが弱まる。もし「謂也當有奪國之志歟」なら"也"が中断の語気を示すので「謂」を文頭で言い切ってしまうことが可能になる。暗黙裡に"也"を入れてもよいかも知れない。 《結髪為髻》 髪を束ねて縛り、髻(みずら)にした。天照大神の両性具有的な面については《与姉相見》項で見た。 《背負千箭之靫与五百箭之靫》 現実的には靫〔ユキ〕2ケースを一度に背負うことは考えにくい。また「千箭」〔千本の矢〕も「五百箭」〔五百本の矢〕も単に数が多いことを表すから、 「背負千箭之靫与五百箭之靫」は全体として矢を満載した靫を背負って準備万端にした様子を表す修辞である。 一個目の靫の矢を使い果たしたときのために予備の靫を用意したとも読める。 古事記では「負二千入之靫一、附二五百入之靫一」と動詞が別々に割り当てられている。 負でも附でも実質的な差はなく、これもまた修辞である。 《大意》 素戔嗚尊(すさのをのみこと)が天に昇り始めた時、 溟渤(めいぶつ)〔=大海〕は、これを以って鼓盪(ことう)〔=とどろきふるえる〕し、 山岳は、この為に鳴呴(めいこう)〔=鳴り響く〕しました。 これは神性の雄健、このことにより然るべくさせたものです。 天照大神(あまてらすおおみかみ)は、平素よりその神の暴悪なことをご存じで、 やって来るさまをお聞きになるに至り、 勃然として〔むっとして〕驚き仰るに、 「私の弟が来るにあたって、豈(あに)善意を抱いてくることがあろうか。 況(いわん)や、必ず国を奪う志をもってくるだろう。 それについては、父母は既に諸子に任じてそれぞれに境界を守らせた。 どうして就任すべき国を棄て置いて 敢てここを窺(うかが)い穿(うが)つか。」と仰りました。 そして髪を結んで美豆良(みずら)を作り、裳(も)を縛って袴としました。 さらに八坂瓊(やさかに)の津美須麻流(いほつみすまる)の珠 を用いて美豆良と 腕に纏(まと)いました。 また、背には千箭(ちのり)〔千本の矢〕の靫(ゆき) と 五百箭(いほのり)〔五百本の矢〕の靫を負いました。 手首には稜威(いつ)の高鞆(たかとも) を着け、 弓弭(ゆはず)を振り立て、 素早く剣の柄(たかみ)を握り、 堅い〔土の〕庭を踏み太ももまで沈ませ、 淡雪の如くに蹴散らしました。 そして稜威(いつ)の雄叫び を奮い立たし、 稜威(いつ)の嘖讓(ころひ)〔叱責する声〕 を発して、 このように面と向かって詰問されました。 まとめ 古事記「淡海」の「淡路」誤写説の是非を巡って『古事記伝』や『釈日本紀』なども含めて検討してみた結果、イザナギの幽宮については近江国犬上郡多賀宮推しと淡路国伊邪那岐社推しが長らく拮抗していたという事実が浮かび上がってきた。 淡路の伊佐奈伎神社については、ことによると縄文時代からの超古代的な信仰を引き継いでいるとすれば、地元の伝承への氏族の思い入れは相当強かったと考えられる。 これまでの阿波国の橘之檍原の扱い〔原伝承を一書に載せた〕なども併せて見ると、諸族にかかわる伝承が記紀にどう取り上げられるかということは、それぞれの面子をかけた大問題であったことがわかる。 それは単なる面子とどまらず、朝廷組織における氏族の人数の割合、役職の重さ、発言力、利権に直結したと考えられる。 その調整のために伝承資料の提出が各氏族に求められたことが、〈持統〉五年の「墓記 |
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2026.07.03(fri) [01-15] 神代上15 ▼▲ |
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30目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/素戔嗚尊対曰吾元無黒心】 《素戔嗚尊対曰吾元無黒心》
万葉におけるクロの用例は「黒髪」、「黒駒」、「黒馬」などが見えるが色彩名である。〈時代別上代〉でも、色名のみである。邪心をクロキココロとする言い回しはほぼないようである。 中国古典には『西遊記』に「黒心」の例がある。そこでは胸を割いてみたが「紅心」、「白心」、「利名心」、「嫉妒心」などの心がいっぱいがあったが「更無二一個黒心一」 〔黒心だけはなかった〕という。『西遊記』は明代まで下る。漢代や隋唐における黒心の用例は、少なくとも[中国哲学書電子化計画]では見つからなかった。 隋唐時代までの中国でも使われなかった言葉だとすれば、書紀が中国の文献に出てきた「黒心」を見て使った可能性は消える。 書紀ではこの他に十巻、十二巻にも出てくるが、少なくともα群(第193回《α群》)とされる巻には皆無なので和習による造語の疑いが強まる。 よってこの語は、キタナシ、ケガラハシ、アシなどと和読することとなろう。 《将永就乎根国》 「就乎根国」は"乎"を"於"として用いるもの。漢籍における用例は、『論語』泰伯に、 「菲飲食、而致孝乎鬼神。悪衣服、而致美賦乎黻冕。卑宮室、而尽力乎溝洫。」 〔飲食を粗末にして先祖に孝する。衣服を粗末にして儀礼で着飾る。宮殿を粗末にして農民の水路に尽力する〕がある。 《但父已》 卜部兼煕本、卜部兼敦本では「但父母已」となっているが、他の本は「但父已」とする。書紀本文では「次生月神」段(第47回【次生月神其光彩亞日】) において「其父母二神」が「当遠適之於根国」と勅しているから、「母」を補うことは筋が通っている。 しかし、この段に至り書紀の世界は古事記が描いた世界に近づきつつある。すると、執筆者の無意識下で次第に伊弉冉尊の姿が薄れていったようにも思えるのである。 なお、〈乙本〉では「但父有嚴勅」となっており母も已もない。 《父已有厳勅》 この語順では〈乙本〉の「加曽乃美伊豆久之岐美己止安利」〔父 《跋渉雲霧》 跋渉の漢籍における用例は『春秋左伝』昭公/元年 「昔我先王熊繹、辟在荊山。篳路藍縷、以処草莽、跋涉山林、以事天子」 〔昔、わが先の王熊繹(ゆうえき)は辟(さ)けて荊山に在り、篳路〔粗末な車〕藍縷〔ぼろぼろの衣服〕、以て草莽〔原野〕に処(ところ)し、山林を跋涉し〔踏み分け〕、以て天子に事(つか)えた〕がある。 《遠自来参》 〈乙本〉は「遠自」を「遠くより」と訓むが、この語順ではそうは訓めない。「自」はミヅカラとして、素戔嗚尊の思いが強いさまを表現したと見るべきである。 ただ、直前の「父(母)已有厳勅」の語順は和習だから、ここでも敢えて和習と判断したという弁護論がありそうである。 それでも、一方で「永就乎根國」の「乎」は漢籍の用法(上述)で、このように漢籍を参照する部分と「勅」の主語である「父」を「有」の前に置くという和習が共存するというやっかいな問題がある。 フラットに見ると「遠自」が和習であるという見方も一概に否定できないのは確かで、結局文脈に合う方を選ぶことになるが、 文脈では「遠く自ら」または「遠くより」のどちらでも成り立つ。 このように決し難い場合は、中国語文法に忠実な方を選ぼうというのが、サイト主の判断基準である。 《厳顏》 「厳顏」は、『後漢書』宦者列伝に「〔蔡倫は〕有才学、尽心敦慎、数犯厳顔、匡弼得失」 〔才学あり、尽心敦慎にして数(しばしば)厳顔を犯し〔=必要なら天子に対して厳しいことも言い〕得失に匡弼〔=補佐〕する〕がある。 上代語には、厳しさを顔に表すという表現はなかったようである。書紀古訓が「カヲ」あるいは「オモテ」の語を用いないところにもそれが現れている。 《誓》 誓約 そもそもスサノヲが結果的に赤心か黒心であるかは本筋から見れば些末なことだから、 古事記がその結果に触れなかったのは、ひとつの見識ではある。 しかし、この誓約自体には話としての面白さがあり、これが伝承として存在したことが書紀の一書から覗われる。 その判定の中身に踏み込んだ書紀の方が、ある意味律儀だったと言えよう。 《必当生子》 伊邪那岐段までは、肉体的に生む場合は生(ウム)、自然現象的に発生する場合は化成(ナル)が使い分けられていた。 その基準によれば「吹二-棄気噴一之狭霧」による神の出現はナルに該当するはずだが、書紀古訓ではウムを用いている。 ただ、誓約の結果をどう判断するかにおいては、「所生」という行為の主体が物実を提供する側を指すか、 実際に生んだ側を指すかは重要な問題となっている。物実の提供は受精における雄性を象徴し、口から噴き出すことは出産に似て雌性を象徴する。 このように、生殖行為をぎりぎりで想像させる形で語られていることを考えると、ウムが適当かと思われる。 書紀古訓において「生」の訓みにウム・アレマスが用いられていることは、この捉え方を示しているものと言えよう。 《索取》 書紀古訓では「索」を「乞」にあてて訓まれている。古事記に倣ったものであろう(第46回)。 ただ、「索」自体にも「求める」意がある。これは紐を手繰り寄せることから転じたと解釈されている。 『類聚名義抄』にも「索:ナハ モトム コフ トル アナクル ツゝメ ツクス アツカル ナフ」のようにモトムがある。 《素戔嗚尊十握剣》 天照大神は、素戔嗚尊の帯びていた十握剣 この十握剣と御統の提供は、それぞれの雄性を暗示する。ここが天照大神の両性具有の神格を表現する場面であることは、既に考察した(28段)。 イザナギイザナミ神話においては、性交渉そのものずばりを即物的に描いていた。両神話の表現の趣きは対照的である。 やはり、記紀神話における異種の伝承を継ないだ構造を示すひとつの事例であろう。 神の生殖は象徴的に表現することが基調で、むしろイザナギ・イザナミの生殖行為神話の方が例外的かも知れない。これはまた、民間で性教育の題材として語られていた神話を導入として用いることによって、 庶民を国家起源神話に引き付けることが狙いだったようにも感じられる。 《天真名井》 天真名井・𪗾然咀嚼・吹棄氣噴之狭霧については、記【天之眞名井】項以下を参照。 《田心姫》 田心姫は、書紀古訓以来「タゴリヒメ」と訓まれてきたが実に不自然である。本来は古事記の「多紀理毘売」〔一書[3]の「田霧姫」〕とは別神で、宗像三神の別伝で語られていた「田心姫」と習合したのであろう。 その習合した結果に後付けして、タゴリは「タギリの音韻変化」かつ「ココロ」の訛りとしての「コリ」と解釈して人為的に作られたと見るのが自然だと考えられる。 その点〈内閣文庫本〉には、「タゴコロヒメ」が大江匡房家説(「江」)として添えられていることが注目される。 《凡三女矣》 「女」への訓はヒメカミ・メカミが考えられるが、どちらもあり得る。 「男」へのヒコカミ・ヲカミも同様である。 ●〈延喜式-祝詞〉竜田風神祭「比古神尓御服明妙。照妙。…比売神尓御服備。金能麻笥」。 ●(万)1753「男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 をかみも ゆるしたまひ めかみも ちはひたまひて」。 《大意》 素戔嗚尊(すさのをのみこと)はそれに答えて 「私は元より濁心はありません。 ただ、父から既に厳勅を受け永く根の国に就くのですが、 もし姉上と相見(まみ)えることができなければ、私はどうして敢て行くことができましょうか。 そこで、雲霧を踏み渉り遠路を自ら参上しましたところ、 心ならずも、姉上は翻って厳しいお顏であられました。」と申し上げました。 その時、天照大神(あまてらすおおみかみ)が重ねて 「もしそういうことなら、どうやってあなたの清心を証明するのですか。」と問われました。 答えて、 「請わくば、姉上と共に誓(うけひ)したいです。 そして誓約の中で 必ず子が生まれ、 もし私が生んだ子、これが女子ならば濁心ありと思うべきで、 もしこれが男子ならば、清心ありと思うべきです。」と申し上げました。 こうして天照大神は、 素戔嗚尊の十握(とつか)の剣を求めて取られ、 打ち折って三段として、 天真名井(あまのまない)で濯ぎ、 さ噛みに噛まれ て 吹き棄てた息吹の狭霧(さぎり) から 生まれた神は、 その名を田心姬(たごころひめ、たごりひめ)、 次に湍津姬(たぎつひめ)、 次に市杵嶋姬(いちきしまひめ)といい、三柱の女神です。 31目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/既而素戔嗚尊乞取天照大神髻鬘】 《既而素戔嗚尊乞取天照大神髻鬘》
それぞれの代の名前は、記紀で概ね一致している。 〈神武〉天皇は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊の四代孫と規定されている。
《天穗日命》 天穗日命は、高皇産霊尊によって大国主を祀る宮の祭司に任じられたことから出雲国造の祖とされる (【一書2】)。 《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》 ● 出雲臣は『出雲国造伝略』によれば天穗日命から国造系統が始まり、第十九代から「国造出雲臣」を名乗っている。 出雲臣は複数見えるが、出雲大社に仕える氏族だと自任する点で共通している(出雲臣狛)。 ● 土師連は〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った (【天菩比命の子孫】)。 ● 凡川内直は〈天武〉十二年に連姓を賜り(凡川内連)、同十四年に忌寸姓を賜った (【天津日子根命の子孫】)。 ● 山背直(山背直小林)は、〈天武〉十二年に連姓(山背連)、同十四年に忌寸姓を賜った。 原注にある「土師連」・「凡川内直」・「山代直」の 姓 よってAへの反論は「書き加えはなかったはずだから」ではなく、説自体の脆弱性〔珂瑠皇子への禅譲を合理化するための根拠として、神代巻の書き換えが必要とは思われない〕によるものと考えられる。 天降りを瓊瓊杵に変更した真の理由は、高皇産霊神の血を引く皇孫が天降りしたことにするためである(【なぜ天降りが、天照の子から孫に変更になったか】)。 《原其物根》 モノザネという言葉は、いわゆる「子種」を連想させる。その意図をもって意識的に用いた言葉であろう。 《五男神悉是吾児》 結局素戔嗚尊の心は赤心、黒心のどちらだったのだろうか。ここで記・書紀本文・書紀一書群からその判定についての記述をまとめる。
しかし物根の提供者に子の所有権があると述べることによって、「所生」の主は物根提供側を指すとの印象を与える仕掛けになっている。 それに従えば、素戔嗚尊の「所生」は三女神であるから、素戔嗚尊は「黒心」である。 一書[1]では、明確に「赤心」と結論し、なおかつ日神もその結果を認めたとまで述べている。 一番わかりやく、かつ結果が明瞭なのは一書[3]である。一書[3]では「所生」主は明確に物種を受領する側で、よって素戔嗚尊は赤心である。 これらに対して、古事記では判定基準の提示を避けている。だが天照大神が勝ち誇る言葉を入れることにより、素戔嗚尊は黒心であったと印象付ける構成になっている。 これは、事前の判定基準と結果の間のねじれを説明することを回避したように思われる。 全体的に見て、原伝承では素戔嗚尊は赤心であったが、記および書紀本文において黒心に捻じ曲げられたと考えることができる。 赤心か黒心かを相反する判定する一書を複数並べて添えた書紀は、ある意味律儀である。 「赤心」と描く立場は出雲氏族に寄り添い、「黒心」と描く立場は中央政権による律令国家構築の路線に資する。 これは、結局大国主国譲りの描き方と軌を一にするものと言えよう。 《三女神》 (記・本文・一書における三女神の名前の対照表) 宗像三女神は、五男神の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊らに比べて、随分格下でバランスを欠く印象を受ける。 素戔嗚尊の子孫は大国主から出雲氏に及び、宗像氏とは別の氏族なので、木に竹を接いだ如き印象を受ける。 この経緯については、宗像氏が朝廷に服従する過程でその航海技術や独自の外交関係が朝廷管理下に組み込まれるにあたって、引き換えに三女神が天照大神の娘という神話上の地位を得たという考え方も成り立つ。
ここで出雲と半島との交流の跡を見てみよう。 ● 須佐之男命の子である大年神の子に、「韓神」・「曽富理神」〔新羅の地名と見られる〕がいる(【大國御魂神以下、大土神以前の神】) ● 「是時素戔嗚尊自天而降」段一書[4]に「素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之処」とある。すなわち初めに新羅の地に降りたがこの土地には不満で、行先を変えて「出雲国簸川上所在鳥上之峯」に至ったと書かれている(第52回) これらに現れた出雲と三韓との交流を見れば、宗像氏と出雲族とは同じ海路を用いる隣人であったと言える。 この海路網は3世紀ごろには既に確立していて、魏志倭人伝の「不弥国-(水行二十日)-投馬国-(水行十日)・(陸行)」の経路も含まれると見ることはごく自然であろう (魏志倭人伝原文を読む(23))。 魏志倭人伝にいう「投馬国」は太平御覧に「於投馬国」の表記も見られ、出雲国と見ることができた。 また、上陸地点は青谷上寺地遺跡と見た(同(24))。 なお「南至」、すなわち経路を南向きにとると書かれた点については、『後漢書』「会稽の東に在り儋耳と相近し」のような古来の伝説的地理観が当時の人々の頭に染み込んでいたため、魏志においてもそれに合わせて敢えて「東行」から「南行」への修正が行われたと見た (同(35)、資料[40])。 このように三女神神話と魏志倭人伝を並べてみると、両者の間に相互に裏付けになり得る関係が浮かび上がってくる。 《筑紫胸肩君》 胸方君は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。 ここで君(公)姓となっていることは、誓段の文章の原文が既に〈天武〉十三年〔684〕以前に成立していたことを窺わせる(上述)。 《大意》 こうして、今度は素戔嗚尊(すさのをのみこと)が、 天照大神(あまてらすおおみかみ)に、美豆良(みずら)と腕に 纏(まと)った八坂瓊(やさかに)の五百箇御統(いほつみすまる)をお願いして取り、 天(あま)の真名井(まない)で濯(すす)いで、𪗾然咀嚼(さがみにか)み、 吹き棄てた息吹の狭霧(さぎり)から生まれた神は、 その名を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさやあかつかつのはやひあまおしほみみのみこと)、 次に天穂日命(あまのほひのみこと) 【この神は出雲の臣、土師連(はにしのむらじ)等の祖です】、 次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、 【この神は凡川内直(おおしかうちのあたい)山代直(やましろのあたい)等の祖です】、 次に活津彦根命(いくつひこねのみこと)、 次に熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)といい、全部で五柱の男神です。 この時、天照大神は勅され 「もともとその物種(ものざね)、 すなわち八坂瓊の五百箇御統は私のものです。 だから、その五柱の男神は、全部我が子ですわ。」と仰り、 自分の側に納めて養育されました。 また勅され 「さきほどの十握剣(とかつのつるぎ)は、素戔嗚尊の物でした。 よって、この三柱の女神は全部あなたの子ですよ。」と仰り、 素戔嗚尊に授けられました、 これが筑紫の胸肩君等が奉斎する神です。 32目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[1]】 《一書[1]》
素戔嗚尊赤心説をとる一書[1]・一書[3]において、「日神」を用いていることは興味深い。 書紀本文が「天照大神」の名称に歩み寄ったとすれば、黒心説もまた古事記の立場を受け入れたと思われる。 古事記は中央に弾圧された族に同情的だから赤心説ではないかと思われたが、実際には黒心説に曲げる方の立場であった。 古事記は国譲りにおいては大国主を尊重するが、素戔嗚尊に対しては実は厳しいのかも知れない。結局素戔嗚尊の功績を讃えるのは八岐大蛇を成敗した場面のみとなる。 ただ、書紀本文は日神のことを最初は大日 ここで改めてヒルメムチについて考えてみると、これが書紀が創出した名称かと言えば、そうでもない。 (万)0168「天照 日女之命 あまてらす ひるめのみこと 一云 指上 日女之命 さしのぼる ひるめのみこと」。 この歌は、題詞「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」とあるように、柿本人麻呂が草壁皇子の夭折を悼んだ歌で、ヒルメの呼称もまた古くからあったと考えられる。 また。この歌の「天照」はアマテルとも訓めるのだが、一般にアマテラスと訓まれるのは既に天照大神の呼称が一般的であったとためと考えられる。 アマテラスについては、〈顕宗〉紀でアマテル神が対馬から伝わったことを見た(【天照御霊神社】)。 アマテラスの成り立ちは「アマテル+尊敬の動詞語尾ス」であろう。 テラスは、またテルの他動詞ではあるのは確かだが、周囲に光を当てるという機能による呼称は自らヒカリを発する中心性を弱めるから、自動詞の尊敬形と見るべきであろう。 元のアマテルが古くから厳として存在した神名であることは〈顕宗〉紀の記述から見て疑いない。 一方、前述(万)0168のヒルメもまた日神の呼称であった。ヒル〔昼〕は、「日中」を指すが、もともとは「-ル」はヒ・ヨ〔夜〕につく属格の助詞だったように思われる。 ヒルメもまた古い時代からあった神名と考えられる。 一書[1]・一書[3]はアマテラスではなくヒノカミだから、原伝承に近かった可能性が高い。すると、ヒノカミを天照大神に置き換えたのは古事記だったことになる。 そして書紀本文も古事記の筋書きを採用した。その時点で、初めは「大日孁貴」を正規としていたことをうっかり失念したのだろうか。 しかし、「大日孁貴」の誕生こそ禊説を否定したが、天照大神が高天原の支配者になって以後の部分は古事記の筋書きが大いに気に入り、ここで意識してソースを切り替えたと思われる。 神名は物語と切り離せない※)から、名前が途中で切り替わることも承知の上だった可能性もある。 ※1)…「天照」の名は、天岩戸からやっと出できた瞬間の実感と結びついている。 それでも、原注者がこれを見咎めて[次生海次生川次生山]段の本文に「一書云天照大神」を加えた可能性はある。 惜しむらくは「一書云」としたことで、これによって本文から完全に外された印象を与える。もし「或云」あるいは「亦名」だったとすれば問題はない。 原注の多くは原文に後から加えられたようで必ずしも適切ではない場合もある。 例えば、神武即位前紀の「怡奘過【過、音倭】」の原注が、原文がカラスの鳴き声のオノマトベとしてクヮと書いたことを見落としている(〈神武〉戊午年十一月)。 このように、原注には時に不適切である。それでも、「一書曰」と区別して「一書云」とするところに、1ミリの言い訳の余地がある〔「"曰"ではなく"云"だから本文の一部である」など〕。 《躬帯十握剣》 一書[1]では日神が自ら「十握剣・九握剣・八握剣」を帯びたことになっているが、 その後の筋は、本文・古事記・他の一書と同様に十握剣は素戔嗚尊が持っていて、それを取って食い三女神を生んだとしか読めない。 よって、文章には明らかに錯誤がある。 その背景としては、伝承蒐集スタッフの一人がストーリーをよく理解しないままに文章化し、それがノーチェックで一書に加えられてしまったことが考えられる。 ただ、これについては一書[2]ではモノザネの逆転があり、アマテラスからは十握剣、スサノヲからは五百箇御統を物根とするから、一書[1]の半分だけが一書[2]に染まったことも考えられる。 《素戔嗚尊…食之》 「食(を)す」は尊敬語であるから天照大神に用いるのは当然だが、素戔嗚尊にはクフ・クラフを用いるのはバランスが悪い。 天照大神―素戔嗚尊の関係においては素戔嗚尊が遜るのは当然だが、素戔嗚尊自身の動作に対しては、八岐大蛇神話では英雄視され、また「-尊」がついていることを考慮すれば一般的な神への尊敬表現が基底にあると考えられる。 よって、素戔嗚尊を主語とする場合にもヲスを用いるのが適当と思われる。 《正哉吾勝勝速日天忍骨尊》 書紀本文では「天忍穂耳」〔アマオシホ-ミミ〕だが、一書[1]では「天忍骨」〔アマオシホ-ネ〕に置き換わっている。「-ネ」は一般に親しみを表す接尾辞で、神名には敬意である。 「-ミミ」は魏志倭人伝の人名にもついていた(魏志倭人伝(23))。もともと首長や祖を尊敬する接尾辞で、神名の場合は魂・霊を表すミ〔例:ワタツミ=海+ツ〔属格の助詞〕+霊〕を重ねたと考えられている。 「-ミミ」と「-ネ」はその役割が近かったため、同義の神の別名として違和感なく混用・置換されていたことが窺える。 《熊野忍蹈命》 本文・紀・一書[2]では「熊野クスヒ」となっている。この名称不一致の問題は、一書[3]のところで考察する。 《既得勝験》 誓の結果は、男神を生んだから浄心であるとする。さらに日神も「方知素戔嗚尊固無悪意」〔まさに固く悪意無きことを知った〕と、これ以上ないほど明瞭に述べてダメ押ししている。 記・本文に比べ、はるかに明瞭に判定を示す点が特徴的である。 《宜降居道中》 「降於筑紫洲」・「降居道中奉助天孫」だけを見ると、あたかも高千穂に天降りしたニニギを道案内したように読める (第82回、第84回)。 実際に一書[1]の筆記者がそのように理解していたとも感じさせる書き方である。 しかし、一書[3]の「日神所生三女神者…今在海北道中、号曰道主貴」と併せて見ると、 「路」とは海路のことで、「奉助天孫」は宗像氏が独占していた海上交通管理権を献上した事実を反映した記述と見るべきであろう。 《為天孫所祭》 「宜降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」は、普通に読めば「宜」が「為天孫所祭」までかかる。 これは受け身文で天孫が行為者、三女神が受動者で、すなわち「三女神は天孫によって祀られる」という意味である。 だが、「お前たち三女神は地に降りて道の中にいて天孫をお助けし、天孫によって祀られよ」では中間がすっ飛ばされた言葉足らずと感じられる。 またこれを「天孫の為に祭られるべし」と読んでみると「天孫の無事を願って三神の許に集う人々の祈りを受けよ」いう意が成り立ってしまう。しかし、これは本来の受動文の読み方ではない。 だとすれば、三神も天孫を敬えという意味で「祭天孫」と書けばよいのに、生半可な知識によって「為天孫所祭」と書いてしまった可能性がある。 一書[1]の前半には素戔嗚尊がもっていたはずの十握劒九握劒八握劒を日神がもっていたと描く誤りがあり、このような作者が「爲天孫所祭」の意味を正しく理解していたとはとても思えないからである。 しかし、よくよく考えてみると「爲天孫所祭也」自体には問題はない。朝廷が海運の所有権を譲ってくれた宗像氏に感謝して、朝廷も三女神を祭祀するというサービスはあってよいからである。 むしろ読みにくくなった原因は、「為天孫所祭」までを「宣」のスコープに入れてしてしまったところにある。 もし「而爲天孫所祭也」を「教之曰」の目的語から切り離して、「因教之曰『汝三神、宜降居道中奉助天孫也』。故其三神為天孫所祭也。」とすれば、このとき三女神が貢献したことにより後に朝廷によって祭られたという文章になって十分読める。 ただし、もとの文のままでも「而」の前ではっきり区切って読めばよいかも知れない〔訓読はこれを用いておいた〕。しかし、書紀古訓でも「イツカレヨ」と訓んでいるところを見ると、 このように読ませてしまうのは、やはり原文自体がもっていた欠陥の故であろう。 《大意》 【一書(1)に曰く、 日の神は、 平素から素戔嗚尊(すさのをのみこと)が武健で物を凌(しの)ぐ心の持ち主であることをご存じで、 その上り来て至るに及んで、 「弟が来る理由は、善意があるはずはないから、 必ず我が天の原を奪うために違いない。」と仰った。 そこで丈夫(ますらお)の武備を設け、 御身に十握(とつか)の剣、 九握(ここのつか)の剣、 八握(やつか)の剣を帯び、 背中には靫〔矢のケース〕を負い、 手首には稜威(いつ)の高鞆(たかとも)を装着し、 手には弓矢を取り、 親(みづか)ら迎え防禦された。 この時、素戔嗚尊の告げるには 「私には元々悪心などはありません。 ただ、姉上にお会いしたいと望み、暫く参上することをしただけです。」というので、 日の神は素戔嗚尊と共に、 相対して立って誓(うけひ)〔=占い〕して 「もし、あなたの心が明浄で凌ぎ奪おうとする心がないのなら、 あなたが生む子は、必ず男でしょう。」と言い終えたところで、 まず〔日の神が帯びていたというのは誤りで、正しくは素戔嗚尊が〕帯びていた十握(とつか)の剣を口に入れて子を生み、名は瀛津嶋姫(おきつしまひめ)、 また九握の剣を口に入れて子を生み、名は湍津姫(たぎつひめ)、 また八握の剣を口にいれて子を生み、名は田心姫、 全部で三柱の女神である。 これを終えて、今度は素戔嗚尊が、 その〔日の神の〕首に回してかけていた五百箇御統之瓊(いほつみすまるのに)を、 天渟名井(あまのまない) 〈別名、去来之真名井(いざのまなゐ)といもいう〉で濯(すす)ぎ、 口に入れた。 こうして生まれた御子は、 正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさやあかつかつのはやひあまおしほねのみこと)という名前で、 次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、 次に活津彦根命(いきつひこなのみこと)、 次に天穂日命(あまほひのみこと)、 次に熊野忍蹈命(くまのおしふみのみこと)の、全部で五柱の男神である。 これにより素戔嗚尊は、既に勝ちの験(しるし)を得た。 そして日の神は、 まさに素戔嗚尊に悪意が無いことを確かにお知りになった。 すなわち日の神の生んだ三柱の女神を 筑紫の洲(しま)に降ろし、 よって教えるに 「あなたたち三柱の神は、 降りて道〔海の道であろう〕の中に居て、 天孫をお助けしなさい。」とおっしゃった。 そしてその三柱の女神は天孫によって奉斎されるようになった。】 まとめ 一書には「六男神」とするものがあった。記と本文において五行説による「五男神」にしたと考えられるので、その一書の方が原伝承に近いであろう。 そして、原伝承では「日神」であったものが、記と本文において天照大神の人格神神話に組み込まれたと見られる。 原伝承においては、スサノヲは明確に浄心の持ち主であったが、記と本文では濁心であるかの如くに捻じ曲げられた。 これについては、単純に官製神話においては皇祖アマテラスの方が正統であったからで、それ以上の理由はないであろう。 ただ、誓約そのものは実際には物語に組み込まれた娯楽的要素に過ぎないからその結果はそれほど重要な問題ではない。 読み取るべき主題は、日本海側及び三韓との交通網を握っていた宗像氏の服属であろう。その融和のための配慮として、宗像三女神を朝廷の祭神に加えたわけである。 なお、五男神のうち天穗日命と天津彦根命を祖として書かれた氏族の姓から、この部分の原文が684年以前に書かれていたことが確実になった。 これによって、中臣氏と忌部氏の勢力争いが天岩戸神話に反映されたことが歴史的事実として裏付けられたことになった。これは日本紀の成り立ちを推定する上で極めて重要である。 |
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2026.07.10(fri) [01-16] 神代上16 ▼▲ |
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33目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[2]】 《一書[2]》
[素戔嗚尊之爲行也甚無狀]段一書[3]:「以玉作遠祖伊弉諾尊子児天明玉所作八坂瓊之曲玉」があり、 この天明玉が「羽明玉」の別名と考えられている。 次の玉祖命・豊玉も同一と見られる。 ・古事記「科二玉祖命一令レ作二八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠一」(第49回)。 ・[素戔嗚尊之爲行也甚無狀]段一書[2]:「玉作部遠祖豊玉造レ玉」。 《瑞八坂瓊之曲玉》 勾玉は、古墳から出土する装飾品もしくは宝物(魏志倭人伝(86))だが、天照大神の「八坂瓊之曲玉」についてはどのようなものが想像されていたかは明らかではない。 本文では「八坂瓊之五百箇御統」であった。 ヤサカは寸法の八尺〔1尺は漢代約23cm(資料[36])、正倉院尺約30cm(【御身長・御脛長】)〕から転じて「大きい」、「立派な」の意を表す。 弥 「八坂瓊之曲玉」は固有名詞となっており、瑞〔ミヅ-〕は美称の接頭語。 《瓊玉》 「瓊玉」は八坂瓊之曲玉の短縮。ニ-タマはタマの書紀古訓の異訓に見られるが、通常使われる上代語には見いだせない。 タマと訓むのが安全であろう。 《天照大神》 一書[1]・[3]の「日神」に対して、一書[2]では「天照大神」が用いられている。 名称「天照大神」の導入は、原伝承のスサノヲ赤心説から黒心説に転換したことに連動すると見た (《日神》)。一方の「日神」は漢籍の神名にはほぼ見えず、書紀固有語である。どこかの地域伝承にあったか、あるいは書紀で造語されたものかを判断する材料はない。 《起兵》 起レ兵〔ツハモノヲオコシテ〕は、本文「背負千箭之靫与五百箭之靫」に対応する。 従ってこれはアマテラス個人の武装であるが、この言い回しには、かつてアマツカミを信奉する軍勢とクニツカミを信奉する軍勢の戦いが投影しているように感じられる。 一書[2]を記述する際にも、そのようなイメージがあったのではないだろうか。 伝承の古い形はアマテラスがスサノオの剣を奪い、噛み砕いて敵を圧倒する神話だったのではないだろうか。すなわちアマツカミ勢力とクニツカミ勢力の戦闘の記憶から生まれたことが考えられる。 但し一書[2]では天照大神が口に入れたのは八坂瓊之曲玉だから、この説をいうためには他の一書や本文・記と混合しなければならない。 それでも起兵がアマツカミ族とクニツカミ族の間でかつて繰り広げられた戦闘の残像だとすれば、これが誓約段と国譲り段という異なる場面に別々に反映していることが興味深い。 《生女為黒心/生男為赤心》 一書[2]では黒心or赤心の判定結果を明示していないが、男を化生したからすなおに赤心と読めばよいであろう。「物根」の提供側が云々という理屈は持ち込まれていないからである。 書紀本文の場合は、とにかくアマテラスが勝ったと宣言することが大切であったと思われる。 記では、結果について各々都合のよい理屈で自分が勝ったと言い張っている(第48回)から、判定基準は一定しなくなっている。 さて、「女を生んだら黒心」とするのは男性優位思想そのもので、国生み段でイザナミが先に「憙哉、遇可美少男焉」と言ったのが間違いとされたことに通じる(5段)。 《掘天真名井三処》 「三処」〔三か所〕に天真名井を掘った経緯は書かれていないが、その意味を語る伝承が別にあったのかも知れない。 その水面に八坂瓊之曲玉と剣を浮かべて相手方に送ったというから、天真名井を挟んで天照大神と素戔嗚尊が向い立ったわけである。 なお「井」は現代的な垂直な井戸ではなく、湧水を湛 各地にある自然に形成された清涼な湧水が「天真名井」と名付けられ、 宮崎県西臼杵郡高千穂町「天真名井」、島根県松江市山代町「眞名井神社」、鳥取県米子市淀江町「天の真名井」、京都府亀岡市出雲大神宮「真名井の水」などが見える。 イメージとして、そこに神が掘ったという伝説を伴ったものであろう(【天之眞名井】)。 「三処」については、ひとつの考えとしては三女神に対応していて、それぞれの泉に八坂瓊之曲玉を流したのが原伝承だったと見れば理屈が合うのだが、不都合なのは男神が五柱いることである。 一本の剣を五段に噛み折って五男神を生んだというから、3つの真名井のうち2つは使われなかったと読んでおこう。 原伝承は実は三女神誕生で終わっていて、五男神は別の伝承から持ってきて繋いだのかも知れない。 一書[2]だけ「日神」を「天照大神」に置き換えたのも、伝承合成の跡かも知れない。 《素戔嗚尊以所持剣》 文脈から「素戔嗚尊以〔*〕所持剣」の*には天照大神が入る。この省略には、読み間違えを生む危うさがある。 《化生》 「化生」という言葉は、「所生」と「化成」の中間である。「吹出気噴之中」だから、一書[2]の筆者の頭には「化成」の範疇ではないかとする意識は確実にあったであろう。 本文で「生」を用いたのは、血縁関係を重要視したことにより「生む」に準ずるとする判断がなされたようである。 《遠瀛/中瀛/海浜》 遠瀛への書紀古訓の「オキノミヤ」などは、宗像三社の名称をあてたもの。平安時代には三神を祀りにオキツミヤ・ナカツミヤ・ヘツミヤという名称が定着していたためと思われる。 しかし、書紀の原文が書かれた時点で「~宮」と読む前提で「遠瀛」などと書かれたとは考えられず、 しばらくは字のもともとの意味に近い語で訓まれていたはずである。 少なくとも誓約段を含む部分は684年以前に作られていたと見た(《…土師連…》)。 書かれた時代が遡れば、平安時代の古訓とはますます遠ざかる。 瀛の訓については、『類聚名義抄』法上「瀛:盈海中 オキ」がある。 オキ甲は、オク(奥)の母音変異でもあり、「海」にさらに遥か彼方の語感を加えるもの。 例えば遠瀛をトホツオキと訓むことは自然であろう。トホツアフミはチカツアフミ(琵琶湖)に対して浜名湖を指す。 さらに、万葉集にトホツは数多い。 海浜については、(万)0938「若狭在 三方之海之 濱清美 わかさなる みかたのうみの はまきよみ」があるので、ウミノハマと訓むことに問題はないであろう。 ただ、(万)1921「大海 方徃浪之 おほうみの へにゆくなみの」があるから、ウミノヘも考えられる。 万葉のウミヘはすべて「海辺」の字をあてるが、編者によって統一されたと思われ、また宗像の浜の社をヘツミヤというから「海浜」をウミヘと訓んだ可能性も否定しきれない。 《囓段剣末》 日神は、「瓊端」、「瓊中」、「瓊尾」として一個の瓊を順番に噛み断った。 素戔嗚尊は剣を噛むが、その噛んだ位置は第一子のみ「噛段剣末」とするが、以下は略されている。 略さなければ「剣末・剣中末・剣中・剣中本・剣本」であろう。 《正哉吾勝勝速日天忍骨尊》 一書[2]だけが「正哉吾勝勝速日天忍骨尊」を第二子としているところが特異である。 〈神武〉の頃の次男継位に合わせたと見られる(【弟による継承】)。 これも、一書[2]が様々な伝承のキメラであることの表れか。 《云爾》 二柱目からは、「囓断剣…而吹出氣噴之中化生神号」が省略されている。 「云爾」の「爾」は、この省略した部分を指すわけである。 《大意》 【一書(2)に曰く、 素戔嗚尊が天(あま)に昇ろうとしたとき、 一柱の神、名は羽明玉(はあかるたま)といい、 この神がお迎えして瑞(みず)八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を進上した。 そこで素戔嗚尊は、 その瓊玉(にぎょく)を持って天上に至った。 この時、天照大神は弟に悪心があるだろうと疑い、 軍備を起して詰問され、 素戔嗚尊は答えて 「私が参上した理由は、実(まこと)姉上とお会いしたいと思い、 また珍宝の瑞(みず)八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を献上しようと思ったのみです。 敢えて別の意はありません。」と申し上げた。 それに対して天照大神はまた 「あなたの言葉の虚実は、何を徴(しるし)とするか」と質問され、 お答えするに 「願わくば私は姉上と共に誓約(うけひ)を立てたいです。誓約の間に、 女子が生まれれば黒心、男子が生まれれば赤心とお思いください。」と申し上げた。 こうして、天真名井(あまのまない)を三か所に掘り、互いに関わって向かい合って立った。 この時に、天照大神が素戔嗚尊に語るに 「私が帯びている剣を、今あなたに差し上げましょう。 あなたはあなたが持っている八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を、 私に授けるがよい。」といい、 このように契りして、共に交換した。 こうして天照大神は、 八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を、 天真名井(あまのまない)に浮かべ寄せて、 瓊玉の端を囓み断って吹き出した息吹の中から化生した神は、 市杵嶋姫(いちきしまひめ)の命(みこと)という名で、この神は遠瀛(えんえい)に坐す神である。 また瓊玉の真ん中を囓み断って吹き出した息吹の中から化生した神は、 田心姫(たごころひめ、たこりひめ)の命という名で、この神は中瀛(ちゅうえい)に坐す神である。 また瓊玉の尾を囓み断って吹き出した息吹の中から化生した神は、 湍津姫(たぎつひめ)の命という名で、この神は海浜に坐す神である。 全部で三柱の女神が坐す。 そして、素戔嗚尊は〔天照大神〕がお持ちであった剣を、 天真名井に浮かべ寄せて、 剣の末(すえ)を噛み断って吹き出した息吹の中から化生した神は、 天穗日命(あまのほひのみこと)という名である。 次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさやあかつかつのはやひあまおしほねのみこと)、 次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、 次に活津彦根命(いきつひこなのみこと)、 次に熊野櫲樟日命(くまののくすひのみこと)、全部で五柱の男神、などという。】 34目次 【於是素戔嗚尊請曰吾今奉教/一書[3]】 《一書[3]》
天安河の初出は、[次生海次生川次生山/一書[6]-(2)]。その辺りに五百箇磐石があった。 古事記での初出は「宇気布」の場面。一書[3]に対応する(第46回)。 【天の安河】項参照。 《汝若不有奸賊之心者汝所生子必男》 「汝若不有奸賊之心者」は恒常条件〔=厳とした法則〕として提示されたと考えられるから、未然形接続〔もし~あらざらば〕ではなく已然形接続〔もし~あらざれば〕を用いるべきであろう。 漢籍における恒常条件の例は、『礼記』玉藻「若有疾風迅雷甚雨、則必変」に見え、実際「有れば」と訓読されている。すなわち漢文での「若~則」の構文は普遍的な法則を表す場合にも用いられる。 多くの訓読に見られる未然形接続の立場は、もし男子を生んだら赤心だと認めてやるというこの場限りの主観的な宣言と捉えるものである。 だが、サイト主にはもう少し格調高く一般原理を示した文と読める。 《予以為子而令治天原也》 「以為子」には「吾」を補って「以為吾子」とすべきなのは明らかである。 結果が明らかになった時点で、再び「取其六男以為日神之子、使治天原」と述べるが、こちらは完全な文となっている。 この問題に向き合った論は、あまり見えない。 唯一『集解』には「按長寛勘文藤原長光勘文引此文作以為太子」〔平安長寛年間の勘文〔=調査報告書〕、藤原長光勘文による引用では、この箇所は「太子」に作る〕とある。 《十握剣/九握剣/八握剣》 十握剣・九握剣・八握剣は素戔嗚尊日神に奉ったものだが、一書[3]はこれを「其」とするのみで、中身は本文や一書[2]に依存する形になっている。 一書[1]で剣の持ち主を日神とした誤りは、この部分を誤読した結果かも知れない(《躬帯十握剣》)。 ただ、そもそも素戔嗚尊が持っていた剣が立派過ぎることが、日神の持ち物だと錯覚させる原因になったとも考えられる。 3つの一書はそれぞれが完全に分離しておらず、相互に部分的な依存関係があることは見逃せない。 そもそも「十握剣」・「九握剣」・「八握剣」のそれぞれから女神を化生したというのも不自然で、 もともとは伝承の変種に剣を十握、九握、八握としたものがあり、それらをひとつの筋に合体した結果であるのは確実であろう。 《日神先食…化生》 この日神からの「化生」の書紀古訓には、「ウム」、またはその尊敬語である「アレマス」が用いられている。 《熯之速日命》 2026.08.12 『出雲国風土記』大原郡に 「斐伊郷:属郡家樋速日子命坐此処故云樋【神亀三年改字斐伊】」が見える(【出雲国風土記との対応】)。 この樋速日子命が「熯之速日命」に相当するであろう。 すなわち、六神が五神に丸められた段階で省略、または熊野忍蹈命などに習合されたと考えられる(上述)。 すなわち、陰陽五行説による調和を優先して、出雲のローカル神が削られたのかも知れない。 だとすれば、誓約段の原伝承はもともと出雲国のもので、出雲氏族、またはその意向を代表した太安万侶は、陰陽道による伝承の精緻化とローカル神の尊重を天秤にかけたという経過も想像し得る。 なお、軻遇突智を斬ったときに「剣鐔垂血」から化成した「熯速日命」〔記は樋速日神〕もいた (《剣鐔垂血》)。 こちらは吉備国系の神だから、一応『出雲国風土記』の「樋速日子命」とは別神としておく(まとめ)。 《瀛津嶋姫》 「亦名市杵嶋姬命」を見ると、イチキシマ姫はオキツシマ姫の訛りかも知れない。 《田霧姬命》 タギリヒメという称は、田心姫をタゴリと訓ませることに繋がったと思われる(《田心姫》)。 《含其左髻所纒五百箇御統之瓊》 「日神」とすべきところを「其」で済ます。僅か一文字の節約だが、文脈または本文や他の一書の記述に頼る形になっている。 《髻》 書紀古訓では、ミヅラ、モトドリの二説がほぼ拮抗している。 〈天武〉十一年「男夫始結髮」は「着漆紗冠」と共に書かれるから、成人するタイミングで美豆良をやめよの意と考えられている。 原注にある「土師連」・「川内直」・「山代直」の姓から見て、誓約段は〈天武〉十二年以前に既に書き上がって上がっていて (《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》)。 当時において美豆良は、まだ男子の一般的な髪型であったと思われる。 さらに古事記では「美豆良」と表記された(第46回)。 ならば、ミヅラが当時の訓みとして適切であるのは確定的である。 書紀古訓でモトドリとするのは、「髻」を平安時代のスタイルに馴染んだ目で読んだからであろう。 《著》 書紀古訓では「著」を前置詞「~において」とする。既に「於」があるから実質的に「著」をなかったことにするに等しいのはともかくとしても、 次のように「著」に前置詞としての用法は見えない。
ツクの場合、一度口に入れたものを左手の上に出して…となるので、あまりエレガントではない。 アラハスならば「左手の手掌(たなうら)に著(あらは)して則ち男(をのこ)化生(な)れり」 となり十分に成り立つ。 《化生》 一書[3]も一書[2]と同じく「化生」を用いる(上述)。 〈内閣文庫本〉の訓点では、日神による女児の「化生」にはウムが用いられた。しかし、素戔嗚尊による男児の「化生」には貫徹されず、 一人目:ナル・ナス、二人目:ウム・ナス、三人目:ナス・ウム、 四人目:ナス、五人目:ナスとなっている〔太字は、訓点に推奨マークが付けられたもの〕。 すなわち初めは本文の「生」に合わせて訓点をつけ始めたが、次第に「化成」寄りとなり、結局どちらつかずに終わっている。
書紀古訓が全体的に一定していないのは、結局諸書の原文段階での不統一が反映した結果と思われる。 改めてどちらが適切かを考えてみると、書紀本文および一書[1]、[素戔嗚尊…甚無状]段一書[3]ではウム・アレマス、記ではナル・ナスとするのが趣旨に合う。 一書[2]、一書[3]においては、一概に決めきれない。 《稱之曰正哉吾勝》 一書[3]では「正哉吾勝勝速日天忍穗耳」から「正哉吾勝」を分離して素戔嗚尊の勝利を表す言葉になっていることが興味深い。 この名前に冠された経緯の説明を一書[3]を使って述べたか、あるいは最も古い伝承が一書[3]なのかも知れない。 この「正哉吾勝」は、書紀本文では天照大神のものとなる。一方古事記では、天照大神と須佐之男命の双方ともに主張する。 《含嬰頸之瓊》 日神から授けられた瓊は、左右の髻と頸に巻いていたものの3点であった。それを受けて、六男神のうち四神は頸の瓊から化生するという苦しい展開になっている。 また、六男神が化生した箇所も両掌(たなうら)、両腕、両足でかなり偏っている。 よって、この六男神の化生は複数の伝承の合成であった可能性が高い。 おそらくは複数の古い伝承⇒一書[3]〔六男神〕⇒本文・記・他の一書〔五行説による「五」男神〕の経過があったことが想定される。 一方、古事記では「左御美豆良・右御美豆良・御𦆅・左御手・右御手」につけた珠に各一男神が対応し、バランスよく整えられている (第46回)。 𦆅はおそらく鬘 書紀本文の「髻鬘及腕」は記と同じ内容を一括したと読めるが各男子との個別の対応は省かれ、古事記を読むことによって初めて理解できる。 ここは書紀で完結せずに古事記による補足を必要とする珍しい箇所である。 《宇佐嶋》
さて、宇佐神宮の祭神は八幡大神・比売大神・神功皇后であるが、このうち比売大神が三女神を一体化したものである。 その三女神の御霊の宿る御神体ともいわれる磐座が、御許山山頂の大元神社にあるという。 [宇佐市公式|御許山]によると、 御許山については、「宇佐神宮から南6km余にそびえるこの山には、山頂に宇佐神宮の奥宮である大元神社(おおもとじんじゃ)が鎮座する。標高は647m。」、 大元神社については「御祭神は宇佐神宮の二之御殿に祀られる比売大神(三女神)。社殿は拝殿のみで、山自体が本殿となっており、三体の巨石が御神体として祀られる」という。 三女神が宇佐神宮の祭神や大元神社の御神体になるのは、普通のケースでは書記成立後の時代に加えられたとなるところだが、必ずしもそうとは限らない。 磐座信仰は非常に古い時代のもので、加えて684年以前に既に文書化されていたと見られる(《出雲臣/土師連/凡川内直/山代直》) 誓約段に「宇佐嶋」の語句があることを考えると、 宇佐神宮成立よりずっと以前から御許山の磐座信仰が存在し、既に三女神が祀られていたことは十分に考えられる。すなわち、ことによると縄文時代から奉斎されてきた巨石に後に三女神が降臨し、その後の時代になって八幡神が降りて来たという順序にはかなりの確実性がある。 宇佐「嶋」と表記されることについては、寄藻川は古い時代は入江だったから島のように見えたという論をみる。 ただ、見かけ上の形が「島」らしいかどうかにはそれほど拘る必要はないであろう。 三女神は水上交通の神であるから海路で近づいてきた際、宇佐の地に「嶋」をつけて呼んだのではないだろうか。 本州は相当大きくても「秋津洲」という。筑紫嶋も国東半島から上陸するときの名前は「宇佐嶋」であったと見るのはそれほど不合理ではない。 宗像三女神のくだりはまさに海上交通の視点で描かれているから、その上陸地はしばしば嶋をつけて呼ばれると考えられる。 だから、宇佐嶋を無理に玄界灘の沖ノ島にもっていく必要はない。 さらに言えば、〈神武〉東征経路の「筑紫国菟狹【菟狹者地名也、此云宇佐】」のように(〈神武〉即位前:甲寅年十月)のウサは重要地だから、宇佐嶋の宇佐もここであったと見てよい。 《水沼君》
〈倭名類聚抄〉には「筑後国・三潴【美無萬】〔みむま〕郡」とあり、〈姓氏家系大辞典〉によれば「水沼県主 《日神方知素戔嗚尊元有赤心》 「日神方知三素戔嗚尊元有二赤心一」は、誓約の結果素戔嗚尊は赤心という判定を、これ以上ないほど明確に述べる文である。 結局、誓約神話のうち五男子誕生の部分は本来出雲の氏族に伝わっていたもので、天孫のルーツはスサノヲにあると強い自負をもって言い切るものであった。 《取其六男以為日神之子》 以為は、「日神之子と以為(おも)ひて」、「以て日神之子と為して」のどちらにも読める。 《大意》 【一書(3)に曰く、 日神(ひのかみ)と素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、天安河(あまのやすかわ)を隔てて、 相対して誓約(うけひ)を立てた。日神は 「あなたにもし敵対心がないのなら、 あなたが生む子は必ず男子となります。 もし男子が生まれれば、 予は〔自分の〕御子と思って天原を治めさせましょう。」と仰った。 そこで、日神は、 先にその十握剣(とかつのつるぎ)を食して、化生した子は、 瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)〈別名は、市杵嶋姬命(いちきしまひめのみこと)〉、 また九握剣(ここのかつのつるぎ)を食して化生した子は、湍津姬命(たぎつひめのみこと)、 また八握剣(やつかのつるぎ)を食して化生した子は、田霧姬命(たぎりひめのみこと)であった。 その後に素戔嗚尊は、 〔日神〕の左の御髻(みずら)に巻いた五百箇御統之瓊(いほつみすまるのに)を口に含み、 左の掌中に示現し、 男子を化生し、 〔素戔嗚尊は〕「正哉(まさや)吾勝(あかつ)」と唱えました。 よって、勝速日天忍穂耳尊(かつのはやひあまおしほみみのみこと)と名付けられた。 また右の語髻の瓊(に)を口に含み、 右の掌中に示現、 天穗日命を化生した。 また、御頸に巻いた瓊(に)を口に含み、左腕の中に示現し、 天津彦根命(あまつひこねのみこと)を化生した。 また、右腕の中から、 活津彦根命(いくひこねのみこと)を化生し、 また左足の中から、 熯之速日命(ひのはやひのみこと)を化生し、 また右の足の中から、 熊野忍蹈命(くまののおしほむのみこと)〈別名は熊野忍隅命(くまののおしすみのみこと)〉を化生した。 素戔嗚尊が生んだ御子は皆既に男であった。 よって、日神はまさに素戔嗚尊は元々赤心であったことを知り、 その六男神を引き取られ日神の御子として、天原(あまのはら)を治めさせました。 即ちこうして日神の生んだ三女神は、 葦原中国(あしはらなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降ろし坐させた。 今は海の北の道の中にあって曰道主貴(ひのちぬしのむち)と名付けられ、 これは筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らの奉斎する神である。 〈熯は干(ひ)、これを「ひ」と訓む。〉】 まとめ 三女神・五男神・合計八神の数の組み合わせは絶妙であるから、 記紀編者のよしこれで行こうという気持ちが伝わってくる。 なお、これだけ多様な伝承の集約があったということは、この誓約段のソースが各氏族、地域にかなり広範に広がっていたことを物語るものと言えよう。 宗像氏や水沼氏が海運利権の放棄と引き換えに朝廷の三女神への朝廷による奉斎を得た、出雲氏族が素戔嗚尊が赤心によって天孫の祖になったと自負したい、 またいくつかの氏族が祖を天忍穂耳尊の兄弟に押し込んだ結果その化生の物種や出現部位にかなり無理を生じたなど、 数々の氏族の思惑が交差したことが窺われる。深く読めば読むほど面白い部分である。 |
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⇒ [30-17] 神代上(5) |
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