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2026.06.03(wed) [01-10] 神代上10 ▼▲ |
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20目次 【次生海次生川次生山/一書[6]-(5)】 《一書[6]-(5)》
それに対して、一書[6]では「…橘之檍原而秡除焉遂將盪滌身之所汚」と「乃興言曰上瀬是太疾…」が直結していて、 "投棄御杖"は「因曰自此莫過」の後ろにある(《投其杖是謂岐神也》項)。 思うに、"投棄御杖"はもともとこの前後の物語の流れの中には存在せず、別個の伝承として存在していたのではないだろうか。 そして、それをどこに入れるかについて記と一書[6]で異なる判断がなされたと思われる。 《筑紫日向小戸橘之檍原》 「筑紫日向小戸橘之檍原」は、記では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」と表記される。 筆者はかつて、この地を禊の地と規定された理由として、「神話で天孫降臨の地を日向の国とし「民族のふるさとを取り返す」という「根拠」を与えたと考えることができる」という仮説を提起した(第42回)。 その後、記紀の読み込みを深めるにつれ、この仮説を裏付ける歴史的・地理的背景が次々と浮かび上がってきた。 第一に、〈景行〉十七年の《夷守》項において、 「夷守」の地名や志布志湾沿岸の古墳群や西都原古墳群は、朝廷勢力が東海岸から進出した最前線を示していると見た。 第二に、倭建命の西征伝説(第125回以下)も、この地域に中央政権が浸透していく歴史的経過が伝説へと昇華したものと捉えられる。 第三に、海幸彦山幸彦神話は、中央政権が熊襲を征圧しようとした歴史を色濃く反映したものである(第93回) 同神話では隼人 少なくとも、日向は蛮族の住処として征圧すべき土地であり、その実現が暦年の課題であったことを、書紀自身全く隠していない。 これまでに、「泉津平坂」の所在地については出雲という具体的な土地から精神世界に移して、ローカル伝説の色合いを払拭しようとしていた跡を見てきた(《其於泉津平坂》項)。 それとは対照的に、伊弉諾尊の禊地が日向にあったことは、驚くほど明瞭に語られる。この不自然なまでの強調は、強い政治的意図を伴う作為と見るべきであろう。 そもそも「筑紫日向小戸橘之檍原」という地名表記は異例に長く、その「筑紫日向」は後から作為的に付け加えられた印象を拭えない。 また一書[10]に登場する「粟門」や「速吸名門」も、本来は鳴門海峡や明石海峡を指す可能性が高く、原伝承は淡路を中心とする地域のものではないかと思わせる。 言うまでもなく伊邪那岐伊邪那美神話の本来のふるさとは淡路島であった。 こうして概観すると、やはり日向あるいは隼人を強圧的に服属させるために、「国家の発祥の地を取り返す」という大義名分を掲げたという見立ては、やはり確実性を帯びてくる。 そして、こと日向という地の政治目的による利用に関しては、記紀は足並みを揃えているのである。
禊によって化成した神を記と一書[6]で比べると、記では共通する神に加えて、大禍津日神と伊豆能売を挙げている(右図)。 《八十枉津日神/神直日神/大直日神》 「穢れを灌ぐ」過程を細分化して、まず穢れた汚物そのものから悪役の「八十枉津日神」〔記では加えて大禍津日神〕が化成し、 次にそれを濯ぐはたらきをする「神直日神」・「大直日神」〔記では加えて伊豆能売〕が生じる。神は大変細かくあらわれるのである。 「将矯其枉而生神号」の"将"はもし副詞ならその枉を矯正しようとしている意、もし前置詞ならば「矯其枉而生神」を「将(も)って〔=以て〕」、すなわち号(なづく)の目的語であることを表す。 おそらくどちらを選んでも、なお残りのニュアンスが漂うと考えられる。 これを「其の枉(まが)を矯(なほ)さむとして生(な)れる神を号(なづ)けて」と和読すれば両方の意を込めることができる。 《沈濯於海底/潮中/潮上》 上瀬、中瀬、下瀬は川の上中下流を表すもので、そのうち禊を行った中瀬を更に上中下層に分けたのが海底・潮中・潮上だとすれば何とか辻褄を合わせられるが、 何とも苦しい。こうなったのは、どうやら筒男三神、また綿津見三神を奉斎する別氏族の神話が習合した結果のようである。 綿津見三神を奉斎する安曇氏は古い起源をもつ海洋氏族で、海運・海産物の供給を担って朝廷を支えていた。 一方、住吉大社の筒男三神を奉斎する津守氏は都と直結する超重要な港湾である難波津を要とする海の交通を取り仕切っていた。 この二つの重要な氏族を朝廷と深く結びつけるために、このような神話上の位置づけがなされたと考えられる。 《沈/潜》 ここでは川底まで達することを「沈」、深さ半ばに留まることを「潜」と使い分けている。 本来の意味は「沈」;意思のない物体が重力により底まで達すること、「潜」:当時盛んであった潜水漁のように意志をもって潜ることと考えられるが、 ここでは水中の位置を表す語として使い分けたようである。書紀古訓は、両方とも「カヅク」とするが、少なくともシヅム/カヅクのように語を使い分けるべきであろう。 《其底筒男命》
三神セットへの奉斎は海洋氏族に共通する特徴で、宗像氏の「胸形之奧津宮/中津宮/辺津宮」でも見られる(第47回)。 《墨江大神》 底筒男命・中筒男命・表筒男命は住吉大社の祭神である(《住吉大神》項)。 その宮司家は津守 津守氏の祖は「田裳見 『姓氏家系大辞典』〔以下〈大辞典〉〕は、現在の住吉大社が「津守氏の本居」となったことについて、概略次のように述べる。 すなわち「神功皇后摂政前紀」(《祭三大神荒魂》)には、 穴門直の祖践立と津守連の祖田裳見宿祢は、住吉三神が「荒魂を穴門の山田邑に、和魂を大津の渟中倉に祀れ」と告げたため、これを皇后に奏上した。 ここには、践立を荒魂の神主に任じたことだけしか書いていない。 しかし「摂政元年紀」には「〔筒男三神の〕和魂は大津渟中倉の長狭に居り」とあり、その渟中倉の和魂の神主が田裳見宿祢であったことは、 「後世此の社〔渟中倉の和魂〕の神主が、此の人〔田裳見宿祢〕の子孫なるによりて、容易に推察」できるという。 そして「此の〔和魂を祀る大津の渟中倉の〕住吉神社は、仁徳朝、今の住吉〔=住吉大社〕…に遷り給ひ、此の地は津守氏の本居となれり」と述べる。 〈大辞典〉がいう「大津の渟中倉」は、 【大津渟中倉之長峽】項で 本住吉神社〔神戸市東灘区〕に確定した。 そこでは、住吉大社に移転した時期は「記紀に書かれた時点で、既に住吉郡にあったと考えるのが自然であろう」と考えた。 上で見たように〈大辞典〉はその遷座の時期を「仁徳朝」と見ている。 《阿曇連等所祭神》
安曇連は〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る(安曇連)。 さて、安曇氏が奉斎した底津少童命・中津少童命・表津少童命の社は、 〈延喜式/神名〉{筑前国/糟屋郡/志加海神社三座【並名神大】}とされ、 比定社は志賀島の志賀海神社〔福岡市東区志賀島877〕とされる。 志賀島は安曇氏発祥の地とされ、また「漢委奴國王」印の発見地(魏志倭人伝(21))として有名である。 [志賀海神社公式|志賀海神社とは]によれば、 「祭神:左殿 仲津綿津見神。中殿 底津綿津見神。右殿 表津綿津見神」、 「古くは志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、 それぞれ「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られていました。 二世紀から四世紀の間に表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座」という。 現在の摂社、仲津綿津見神社、表津綿津見神が遷座前の位置そのままとは限らないが、島の北側の外洋に面した位置にあるので、 古い時代にもその近辺にあって海路の守り神であったと想像される。 祭神の名称が書紀の「少童」を用いず、古事記の「綿津見」に沿っているのは興味深い。 恐らく飛鳥・奈良時代当時から安曇氏族内部の由来文書や、朝廷への提出文書に「綿津見」の表記を使うなどして氏族のアイデンティティに結び付いた表記として使われ、 同時に記に取り入れられたと思われる。書紀は少童に置き換えたが、安曇氏族自身はそのようなことには左右されず、 それが現在の祭神名にも引き継がれていると考えられる。 《大意》 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は既に帰り、 後悔して、 「私は 前に不須也凶目汚穢(いなしこめききたなき)のところに行ってしまった。 だから、わが身の穢れを濯ぎ浄めよう。」と言った。 そこで出かけて、 筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あわぎはら)に至り、 禊(みそぎ)して、 遂に身の汚濁を濯(すす)ごうとされ、 声高に 「上瀬(かみのせ)は流れが速すぎ、下瀬(しものせ)流れが遅すぎる。」と言われ、 よって、中瀬(なかのせ)で濯(すす)ぎをされた。 これによって化成した神を、名付けて八十枉津日神(やそまがつひのかみ)という。 次にその枉(まがり)をなおそうとして化成した神を 名付けて神直日神(かむなほひのかみ)、 次に大直日神(おおなほひのかみ)という。 また、海底に沈んで濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)、 次に底筒男命(そこつつのをのみこと)という。 また、潮の中ほどに潜って濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)、 次に中筒男命(なかつつのをみこと)という。 また、潮の上に浮かんで濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて表津少童命(うわつわたつみのみこと)、 次に表筒男命(うはつつのをのみこと)という。 これで全部で九柱の神が坐す。 その底筒男命(そこつつのをのみこと)・ 中筒男命(なかつつのをのみこと)・ 表筒男命(うはつつのをのみこと)は、 住吉(すみのえ)の大神(おほみかみ)である。 底津少童命(そこつわたつみのみこと) 中津少童命(なかつわたつみのみこと) 表津少童命(うはつわたつみのみこと)、 これらは、阿曇連(あづみのむらじ)らが祀る神である[矣]。 21目次 【次生海次生川次生山/一書[6]-(6)】 《一書[6]-(6)》
「洗二左眼一因以生神号曰二天照大神一」を記は「洗二左御目一時所レ成神名天照大御神」と書いた。意味は同じ。 月読尊、素戔嗚尊についても同様である。 《所知高天原》
《生八握鬚髯》 ここでも「生八握鬚髯雖然不治天下」は、記「不知所命之国而八拳須至于心前」と同じことを言っている。 《吾欲従母於根国》 ここでも記の「僕者欲罷妣国根之堅洲国故哭爾」〔妣=亡き母〕に沿って書かれているのだが、 ここには問題がある。 文章を忠実に読めば三貴神〔と一般にいわれる〕は素戔嗚尊の禊によって化成したものであって、母は関与していない。 この問題について、〈釈紀〉に興味深い問答が載る。
本文・一書・記の対照表(右)を見ると、物語のラインは書紀本文から記・一書[6]に斜めに繋がっている。心を柔らかくして、このラインをそのまま受け入れてみたらどうだろうか。 すなわち、異説の多様性を保ったまま束として受け入れるのである。 結局、素戔嗚尊の出現の仕方が「生む」と描かれようが「化成」と描かれようが、伊弉冉尊を母とする血縁はそんなことはものともせずに定まっているとする。神話とはそういうものであろう。 《根国》 伊弉冉尊がこの世から去った先は黄泉であった。だから、ここでは黄泉と根国が同一視されている。 記で描かれた根堅洲国は、大国主が訪れそこにいた須佐能男命によって数々の試練を与えられた世界である(第59回)。 大国主の脱出口は(第61回)は「黄泉比良坂」であるから、やはり黄泉と根堅洲国は同一であった。 《可以任情行》 伊弉諾尊は、素戔嗚尊が母の国に行きたいと言った、その言葉尻を捕えて「可以任情行」すなわち、希望通り根国へ行かせてやると言って追放した。 「こころのまにまに」という上代語の使い方が著しく明確に示された好例と言える。 記でも文意は同じだが、任情という皮肉たっぷりの言葉を直接的には用いていない。 なお、「可以」という熟語は、「可」をベシよりもユルスに近づける。 《大意》 そうした後に、 左眼を洗ったことにより化成した神を、 名付けて天照大神(あまてらすおおみかみ)という。 また、右眼を洗ったことより化成した神を、 名付けて月読尊(つくよみのみこと)という。 また、鼻を洗ったことにより化成した神を、 名付けて素戔嗚尊(すさのをのみこと)という。 全部で三神である。 その後、伊弉諾尊は、 勅して 「天照大神は、 高天原(たかまのはら)を治めるがよい。 月読尊は、 青海原の潮の重なる波を治めるがよい。 素戔嗚尊は、 天下を治めるがよい」と言ってそれぞれ任じた。 この時、素戔嗚尊は、 既に年長となり、また八握(やつか)の髭が伸び、 けれども天下を治めることをせず、 いつも啼泣してばかりで怒り恨んでいた。 よって、伊弉諾尊は 「あなたは、何故にこのようにいつも泣いていているのか。」と問うたところ、 それに答えて 「私は根の国で母に従いたいと欲して、 ただ泣くのみです。」と言った。 伊弉諾尊はこれを憎んで、 「それなら心のままに行くがよい。」と言って、 追放した。】 まとめ 一書[6]は、一見すると古事記の固有名詞などの表記を書紀に合わせるだけで、中身はそのまま収めているように見える。 しかし、実際にはいくつかの修正がなされている。この三貴子への任(よさし)に関しては、明らかに古事記の記述を部分訂正して問題点を解消している。 古事記を発表した後にその訂正が必要になったとき、それ発表するために書紀の一書という空間を利用したように思える。 また、訂正というよりは〈天武〉紀に合わせた書き換えであるが、記述の変化を《又飢時生児》項で見た。 さらに、[是時素戔嗚尊自天而降]段一書[6]では、大物主を大国主神の別名の一つに挙げるが、記では別名に加えず同一神かどうかは曖昧なままである。これも訂正のひとつと言える(第55回)。 ただ古事記の献上は712年、日本書紀の奏上は720年である。その間の八年間に一気に書紀を書き上げたのだとすれば、それはさすがにないであろう。 書紀編纂の最初は、〈天武〉十年〔681〕「令レ記二-定帝紀及上古諸事一」に遡り、それ以来中断を挟みながら続けられたと考えられている。 したがって、712年の時点で既に書紀の多くの部分は草稿として概ね出来上がっていて、清書の段階で「一書曰…」を挟んで書き進めていったということならあり得るかも知れない。 |
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2026.06.08(mon) [01-11] 神代上11 ▼▲ |
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22目次 【次生海次生川次生山/一書[7]】 《一書[7]》
その三神のうち雷神・高龗については、他では次のようにして化成している。 まず、雷神は記の「建御雷之男」及び一書[6]の「武甕槌神」と同一神と考えられる。
よって、この二神については、記と一書[6]では同じことが書かれていると見てよい。 ここで闇龗と一書[7]の高龗はと同一か、少なくとも同グループの神と考えられている。 [貴船神社公式ページ]によれば「貴船神社の御祭神である高龗神は闇龗神とも伝わります。社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されています」という。 同サイトでは龗神自体の性格については「龍神」・「水源の神」と説明している。 以上から、三神のうち雷神・高龗は三段斬り以外の方法による化成から移ってきていると見てよい。 残る大山祇神については、一書[8]で五段斬りの神の一柱が「大山祇神」である。 その五段に斬ったすべてが「~山祇」であった。 記では八つの部位からすべて「~山津見」を化成した。 但し大山津見神自体はその中にはなく、神生みの一神とであった(第36回)。 ただトータルに見て、一書[7]で純粋に三段斬りに属するのは大山祇神と見てよいであろう。 《於天八十河中所在五百箇磐石》
もし、一書[6]の伝承が古事記に先行していたとすれば、記は一書[6]に一書[7]をミックスして書かれたことになる。 《倉稲魂此云宇介能美拕磨…》 「倉稲魂此云宇介能美拕磨」以下は、一書[6]への訓注である。すなわち一書[7]は一書[6]を修正・補足する関係にある。 正規漢文を用いる方針は一書にも貫かれているのだが、同時にもともとの口承の原形を訓注という形で残したと考えられる。 一書[6]への訓注の多さは、それだけ伝承の原形に近いことを物語る。 《大意》 【一書(あるふみ)(7)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、 剣を抜いて軻遇突智(かぐつち)を斬って 三段として、 その一段は雷神(みかづちのかみ)、 一段は大山祇神(おおやまつみのかみ)、 一段は高龗(たかおかみ)となった。 また曰く、 軻遇突智(かぐつち)を斬った時、その血は飛び散って、 天八十河(あまのやそかわ)の中にある五百箇磐石(いほついわむら)を染め、 そこから化成した神の名を、 磐裂神(いわさくのかみ)、 次に根裂神(ねさくのかみ)、 その子は磐筒男神(いわつつのをのかみ)と、 次に磐筒女神(いわつつめのかみ)で、 その子を経津主神(へつぬしのかみ)という。 〈倉稲魂は 「うけのみたま」と訓む。 少童は 「わたつみ」と訓む。 頭辺は 「まくらへ」と訓む。 脚辺は 「あとへ」と訓む、 熯は火のことで、音は而善(しせん)反(はん)。 龗は 「おかみ」と訓み、音は力丁(りょくちょう)反。 吾夫君は 「あがなせ」と訓む。 湌泉之竈は 「よもつへぐい」と訓む。 秉炬 は「たひ」と訓む。 不須也凶目汚穢は 「いなしこめききたなき」と訓む。 醜女は 「しこめ」と訓む。 背揮は 「しりへてにふく」と訓む。 泉津平坂は 「よもつひらさか」と訓む。 尿は 「ゆまり」と訓む、音は乃弔(だいちょう)反。 絶妻之誓は 「ことど」と訓む。 岐神は 「ふなとのかみ」と訓む。 檍は 「あはき」と訓む。〉】 23目次 【次生海次生川次生山/一書[8]】 《一書[8]》
三、五、八は記紀においてすこぶる好まれる数である。これは極めて古い時代からだろうと思われ、 江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣(資料[28])の 「八十練●十振三寸」を本来は「八十練五十振三十寸」であったと判断した。 一書[8]の五段斬り化成神は、記の山津見八神に比較的近い。記が手足をそれぞれ左右に分けたのは対称性に拘ったためとも思われ、八雷(下述)の身体図八分割とも完全に一致する。 大山祇神については、記は既に神生み段に置いてしまったので、ここから除いたとも考えられる。 代わりに頭に置くリーダーとして、マサカ山津見を昇格させている。 記独自の2・3・4・7・8は当時数多く言い伝えられていた「~山津見」の中から記が拾ったとも考えられるが、 記と一書[8]の中間の伝承が存在したと考えた方が自然かも知れず、決め難い。 《染於石礫樹草》 血が飛び散った先の「石礫」には「樹草」が加えられ、湯津石村〔記〕、五百箇磐石〔一書[6]・[7]〕よりも一般的な語になっている。 ただ石礫への書紀古訓「伊波牟良」は、記の「湯津石村」に准じたと思われる。 それでもイハムラは本来、石が群がっている状態を表す言葉である。したがって樹木と並べ置くとほぼ一般名詞に戻る。 この振れ幅を押さえておかないと、次の「草木沙石」との繋がりが理解不能となる。 《此草木沙石自含火之縁也》 「草木沙石」が「自含レ火」〔自ら火を含む〕意味については、 『通証』は「生通曰木石中火固有草萌花莟皆紅火精尤著」 〔忌部正通〔南北朝時代の神道家〕曰く、木石の中に火は固く有り、草は萌え花蕾は皆紅の火精にもっとも著しい〕を引用する。 さらに「兼倶曰穂訓保火謂也。今按伊佐古石少子也。萌与燃同訓義。花将開俗謂火登毛須杜詞山青花欲燃」 〔吉田兼倶〔室町。唯一神道を成す〕曰く、穂(ホ)は火(ほ)と同根である。私〔谷川士清〕が按ずるに伊佐古〔=砂〕※)と訓まれているが実は石少子〔火打石〕であろう。 萌は燃と同じで、花が開こうとすることを俗に火ともす〔灯す〕と言い、杜甫の詩では山青くして燃えんと欲すとある〕と述べる。 ※)…〈倭名類聚抄〉「砂:水中細礫也【和名以左古 文中の「伊佐古石少子也」〔イサゴは石少子なり〕については、 「石少子」という名詞は一般に存在しないので、「漢字で表すとすれば"石少子"とでも書くべきもので、イサゴは砂ではなく石を意味すると考えられ、ここでは火打石と解釈すべきである」という意味であろう。 すなわち『通証』は「草木沙石自含火」=「草木は萌え、石は火打石になる」と解釈したのである。 これでその論旨はこれでひとまず理解できた。 その上で原文に戻ると、「沙石」は前文の「石礫」に対応するが「沙」はどう見ても砂であるから、やはり粒は突然小さくなったことになる。 これについては一書は本文に比べて雑に書かれる傾向が時折見られるから、ここでも不用意にこの語を使ってしまった可能性はある。 しかし、「石礫樹草」と「草木沙石」は明らかに異なる語句だから、草木沙石を用いた諺が実際に存在していたに違いない。 「沙は石を指す」はどう見てもこじつけで、正真正銘の砂にまつわる伝承が実在したと見るべきであろう。 これまでに、カグツチ伝説についてはタタラ製鉄に纏わるとの見通しを得た(神代上8まとめ)。よってここでもイサゴは砂鉄であると考えて見る。すると草木は燃料・還元剤になるから、これもタタラ製鉄のことであろう。 この方が「火打石+草木萌ゆ」説よりも納得感は強い。それは、タタラ製鉄の方が火打石よりダイナミックな営みで、かつ草木まで直結するからであろう。 《麓山足曰麓》 「麓山足曰麓」について、『集解』は「原有足曰麓三字私記攙入」すなわち「麓山此云簸耶磨」が正しいとする。 この文は、正しくは「麓山、山足曰麓、此云簸耶磨」でなければならず、山が一個足らない。『集解』は、私記がその三文字を傍書し、それが筆写されるうちに誤って正字になったということらしい。しかし書紀が厳密に研究されるようになった私記の時代以後に、このようなことは起こり得ないであろう。 しかも三文字を削っても「山」は一個足らないままである。 むしろ元の「麓山々足曰麓此云簸耶磨」を筆写する過程で「々」が脱落したと見るのが妥当であろう。 《大意》 【一書(8)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬って五段とした。 ここからそれぞれ五体の山祇(やまつみ)となり、 第一に頭から、大山祇(おおやまつみ)となり、 第二に胴体から、中山祇(なかやまつみ)となり、 第三に手から、麓山祇(はやまつみ)となり、 第四に腰から、正勝山祇(まさかやまつみ)となり、 第五に足から、䨄山祇(しぎやまつみ)となった。 この時に斬った血が飛び散り、 石、礫、樹、草を染めた。 これが草木と砂が自ら火を含む縁りである。 〈麓山、山麓を麓(は)といい、 これを「はやま」訓む。 正勝は 「まさか」、 あるいは「まさかつ」と訓む。 䨄は 「しぎ」と訓む、音は鳥含(ちょうかん)反。〉】 24目次 【次生海次生川次生山/一書[9]】 《一書[9]》
殯斂は本来、埋葬の前に一定期間もがりの宮に置くことである。しかし、文脈では墓の中なので、 これは一書に見られる記述の雑さのひとつであろう。 《猶如生平/忽然不見》 一書[9]は、前項「殯斂之処」の不用意さはあるが、全体的には簡潔で読みやすい。 古事記では、雷の他に黄泉軍千五百、黄泉津醜女 一書[9]に出てくるのは雷と桃だけで、個別の伝承はこのように簡潔なものだったと考えてよいのではないか。 《脹満太高》 第40回【一書九】項参照。 《八色雷公》 神代上巻次生海段の一書群は、古事記ガグツチ段からイザナミ黄泉段に対応している。特に一書[6]はかなり記に近い。 しかし記に書かれたうち八雷や桃は一書[6]にはなかった。一書[9]はそれを補う形になっている。 それでは、一書[6]は記を元にして書かれたが、その際脱落があったことに気づき、あとから一書[9]で補ったのだろうか。 しかし、この筋書きはやはり不自然である。むしろ一書の方が、伝承の元々の形だ見るのが順当であろう。 記はさまざまな素材を部品として組み立てて一貫性のある物語を構成し、興味深く読ませる形にしている。 ただ、これまでに記の訂正のために使用された部分が見出だされたと述べた。 ということは記の方が一書より先にあった。これはどう説明したらよいのだろうか。 仮に書紀を執筆する前に記が書かれていたとしても、その記を構成するのに使われた複数の伝承を、 一書では原形のまま並べて置いたと見ればよいであろう。 また一書そのものに融通性があり、時には古事記の修正を記す空間として使われたと受け止めるのがよいかも知れない。 ただし、記「於後手布伎都都」を、一書[6]は「背揮」と簡潔に漢字で表記する。 記「伊那志許米志許米岐」、書紀「不須也凶目汚穢」なども同様である。 だから正規漢文で記述しようとする書紀の方針は一書にも貫かれている。 ただ古い形を残したいと思う部分には訓注が添えられ、元々の言葉遣いを残すようにしたと考えられる。 《走還》 「走還」に〈内閣文庫本〉では尊敬語タマフを右訓にはつけ、左訓にはつけない。 伊弉諾尊は基本的に尊敬語を用いる対象であるが、すべての動詞にタマフをつけるとかなり煩わしい。この箇所のように臨場感を伴う場面では省くのが自然であろう。 《用桃避鬼》 記では、黄泉平坂にきたとき、そこにあった桃の実を三個投げたところ八雷神と黄泉軍を追い払うことができた。 よって桃に向かって、人民が苦難に陥ったときに救えと命じてオホカムツミ〔大神つ実〕の名を賜ったとある(【おほかむつみ】)。 《投其杖》 「投其杖…」は、一書[6]では「自此莫過」の後ろに置かれていた (《自此莫過》項)。 記では伊弉諾尊の禊の前に置かれ、本来は独立した伝承であった「投其杖…」を、挿入する位置が異なったと見た。 一書[9]では雷が越えて来ることがないように結界を張ったとする。ここでは投げたのは杖だけなので、この話が置かれた場面は筋が通る。 「岐」の字は、結界に相応しい。 《是謂岐神》 〈時代別上代〉によると「「岐」の字があてているので、分かれ道をフナトといったことが推定できる。道の分岐点は村境でもあって、そこには魔物をさえぎるフナトノカミ、すなわち道祖神が祭られた場所でもあった」という。 ここでは原注「此本号曰二来名戸之祖神一焉」によって、クナトが本来の呼び名であったと述べる。「終止形+ナ」は禁止文の形なので、もともと「来ナ」であったとする語釈を述べたものかも知れない。 [ɸ]⇒[k]、あるいはこの逆方向の音韻変化はしばしば見られるという。よって、どちらの形が古いかの判断は難しい。 少なくとも上代には両方の形が存在したことが、この訓注から知れる。 《所謂八雷》
一書[9]の「八色雷公」と記の「八雷」とは、その神名に幾らかの差異がある。 伝承自体に変種があったと考えられる。 また八雷のうち、山雷(やまつち)・野雷(のづち)だけは~イカヅチの形ではない※1)。 これは、おそらくヤマツチ、ノヅチが既に馴染みのある神であったことと、 そもそもチだけでイカヅチの意を含んでいたためと考えられている。 このうちノヅチについては、記では神生み段に「野椎神」が見え、書紀本文の「野槌」もそれを継承している(右表)。 ヤマツチについては、[是後素戔嗚尊之為行也甚無状]段一書[2]において「野槌」とともに「山雷」が出てくる。 これを見ると、古事記は「山雷」・「野雷」は神生みで出現したものだからここでは取り除くべきだとして、意図的に「鳴雷」・「伏雷」に差し替えた可能性がある。 そして差し替えた後の「鳴雷」という名前を見ると、記は「雷」を気象現象としての雷とかなり近いイメージで見ていたことになる※3)。 このように記が原伝承に手を加えたのだとすれば、更に出現部位に関しても改変があった可能性がでてくる。 考えてみると手足は左右にあるから、物理的には左右の手足から計四体の雷が出現した方が辻褄が合う※3)。 また、仰向けに横たわっていたのなら、背中や尻から出現することも理屈が合わない。よって、出現部位を変更して雷を配置換えしたことはあり得よう※4)。それでも、頭・胸という重要な部位は原伝承を維持した。興味深いのは陰のサク雷で、部位と神名のイメージがぴったり合うからこれも維持されたことになる※5)。 さらに、この身体の部位:頭・胸・腹・陰・左手・右手・左足・右足が順番まで含めて《斬軻遇突智命為五段》項で見た軻遇突智の身体の部位に完全に一致することは極めて興味深い。これらの部位の設定は統一性をもってなされたと見られ、これが古事記執筆者によってなされたことは確実になったと言ってもよいのではないか。 この想像を前提とすれば、古事記を書くために用いた伝承資料は少なくとも日本書紀の編纂スタッフに共有され、書紀はその原伝承をそのままの形で『一書』として収めたことは確実と思われる※6)。
【一書(9)に曰く、 伊弉諾尊は、妻を見たいと思い、 殯斂(もがり)のところに行った。 この時、伊弉冉尊は、なお生きていた時の如く、 出迎えてともに語らった。 それを終えて、伊弉諾尊は 「わが夫君、請わくば私を見ないようにしてください。」と言った。 言い終えてたちまち姿が見えなくなり、その時真っ暗になった。 そこで伊弉諾尊が一片の火を灯して見たところ、 伊弉冉尊の体が腫れて膨れそれは甚だしく盛り上がっていた。 その上には八種類の雷(いかづち)がいたので、 伊弉諾尊は驚いて逃げ帰った。 その時、雷たちは皆起き上がって追いかけてきた。 その時、道辺に大きな桃の木があった。 よって伊弉諾尊は、その木の下に隠れ、 実っていた桃の実を採り雷(いかづち)に投げつけたところ、 雷たちは皆退去して逃げた。 これが桃を用いて鬼を避けることの縁りである。 時に伊弉諾尊は持っていた杖を投げて 「これで、以後は雷が敢えて来ることはないだろう。」と言った。 これを岐神(ふなとのかみ)といい、 この本の名は来名戸(くなと)の祖神(おやがみ)という。 〈いわゆる八種類の雷(いかづち)は、 頭にあったものを大雷(おおいかづち)、 胸にあったものを火雷(ほのいかづち)、 腹にあったものを土雷(つちのいかづち)、 背中にあったものを稚雷(わかいかづち)、 尻にあったものを黒雷(くろいかづち)、 手にあったものを山雷(やまつち)、 足の上にあったものを野雷(のづち)、 陰部(ほと)の上にあったものを裂雷(さくいかづち)という。〉】 まとめ 古事記に記された伊弉冉尊が黄泉に行った後の部分は書紀本文では触れられなかった。 大雑把に見れば、一書[6]~[9]は併せ技でその部分を補ったものと受け止め得る。 しかし、細部を詳細に解析してみたところ事柄はそれほど単純ではなかった。 古事記は、とりわけカグツチや伊邪那美命の身体から神を化成する際の区分けに、強い拘りがあったことが分かる。 そして、その部分には明らかに原伝承に改変を加えたと見るのが妥当である。 よって、古事記は独自の美学によって加工され、形を整えられて異説は排除している。 同時に作者にはさまざまに語り継がれた伝説への愛着は強く、だからこそその整わない素朴な形を一書として書紀に収めさせたのは安万侶自身の意向ではないかと思うのである。 これは心情の問題なので資料から実証することは難しいが、文芸論的なアプローチとして是非このように捉えたいところである。 |
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2026.06.12(fri) [01-12] 神代上12 ▼▲ |
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25目次 【次生海次生川次生山/一書[10]】 《一書[10]》
「所在処への乙本の訓「安留止古呂万志末寸」は、「〔伊弉諾尊は伊弉冉尊の〕アルトコロニマシマシキ」であったものが筆写の過程で変形したと見られる。 アルトコロは尊敬表現を用いていないが、 神であるから「マストコロ」が自然か。 一書[10]の基調はドラマ仕立てではなく要点を簡潔に記した形だから、尊敬語が臨場感を阻害する心配はあまりない。 《汝已見我情我復見汝情》 情の意味は一義的にはココロであるが、真の姿という意味もある。文脈ではこちらが合う。 すなわち、「あなたは私の腐敗して蛆がわく姿を見た。今度は私があなたのあたふたして逃げる姿を見に行くわ」と読み取るのが適当であろう。 他の記・書紀本文・一書では、黄泉から八雷・醜女・黄泉軍とともに伊弉冉尊が追いかける様が描かれる。ここでもそのストーリーを前提としていると考えられるからである。 《族離》 「族離」を[中国哲学書電子化計画]で調べたところでは熟語ではなく、文章中に偶然現れるのみである。 ・『太平御覧』に「宗族離散」。これは文字通り宗族の離散である。 ・『康煕字典』は「離」の用例として「支分族離、各為大家」〔一族は支族に分かれそれぞれが大家となった〕。 したがって、「族離」を離婚の意味に使うのは書紀特有である。ここでもコトドを用いてもよいかも知れない(一書[6]、第41回)。 《不負於族》 夫婦は簡単に別れてはいけないという一般的な規範、あるいは相手と別れたくないという自分の気持ちには負けないぞと読める。 《不直黙帰》 文字通りこのまま黙って帰ることはできず、捨て台詞を残したと読める。 《速玉之男》 〈釈紀〉述義に「速玉之男:神名帳曰。紀伊国牟婁郡熊野早玉神社(大)、熊野坐神社(名神大)」。 『集解』「延喜式神名曰出雲国意宇郡速玉神社・紀伊…早玉神社」。 〈延喜式-神名〉で確認すると、{紀伊国/牟婁郡/熊野早玉神社【大】}、{出雲国/意宇郡/速玉神社}が見える。 速玉之男神は唾から化成したとされるから、「族離」〔あるに「不負族」という〕は伊弉諾尊が別れ際に吐き捨てるように言い、 文字通り唾を飛ばしたのであろう。 「速玉」は、飛び散った唾液の粒が玉として神聖化されたが如きである。 ただ、ここでは既に存在していた神を場面に合う名前の神として用いたように思われる。 《泉津事解之男》 一書[6]の禊の場面では、濁穢から、そしてそれを矯(ただ)すところに神が対になって現れた。ここでも同様で唾の神と掃(はら)う神が対になって現れる。 事解之男を主祭神としているのは、たとえば阿須賀神社(神武段6)がある。 《吾之怯》 「怯」をオビエルと訓むと意味が分からなくなる。 〈類聚名義抄〉「怯:オソル ハゝカル ツタナシ ヤハラカナリ オチナシ オロカナリ ワツカニ ヨハシ ワカフ」を見ると、 何かことがあると怖気づく、そのもとになる心の弱さにシフトしているようである。 〈汉典〉では、最初に挙げられた意味が「胆小、畏縮」でむしろこちらが本義であったことが覗われる。 「怯」は、書紀古訓では「ツタナシ」。「をぢなし」という語もあり、本稿はこちらを選んだ。 「始為族悲及思哀者是吾之怯矣」は、あのとき伊弉冉尊のために悲しみ哀れんだのは判断が至らなかったというニュアンスである。 即ち、見に行ったことでとんでもないことになってしまったからである。 《泉守道者》 モリ〔モルの連用形名詞〕は、既に「~の人」の意味を含んでいる。「者」は人であることを表す形式的表記であるから、書紀古訓の「ミチモリヒト」には重複がある。 「者」に訓をあてなければならないという観念に囚われていたのかも知れない。 《菊理媛神》 「菊理媛神」は、ククリヒメという名称から見てその言葉によって伊弉諾・伊弉冉を和解させたと考えられる。 では、それはどのような言葉か。それはここには示されていない。 一書[10]は原伝承を要約して粗筋のみを書いたが如き文体なので、言葉そのものは省略されたようである。 記と一書[6]では、伊弉冉尊は一日千人を殺す、伊弉諾尊は一日千五百人を産ませると互いに宣言して決着がついたので、 それを導く提案であったのかも知れない。 《粟門/速吸名門》
二つの「速吸門」については、第96回で考察した。 書紀〈神武〉紀では甲寅年十月条に、「速吸之門」に至った。 日向を出発して「一柱騰宮」に至る途中で、これが早吸日女神社の豊予海峡に比定されている。 一方、記〈神武〉段では第96回 に「乗亀甲爲釣乍打羽挙来人遇于速吸門」とある。 この箇所は「吉備之高嶋宮」と「浪速之渡」の間で、明石海峡に比定される。 両者の行程は、【ここまでの東征の行程】にまとめた。 また関係地名の配置については、【橘】に図示した。 【東遷の経路】項において、 〈神武〉東征の初めの部分について、記では高千穂峡から岡田宮までを陸路としていたが、 書紀では高千穂峰をより南に動かした上でそこから日向灘に出て海路を北上し、その途中で通る豊予海峡を速吸門としたことを見た。 そこでは「「高千穂」を霧島連峰辺りに設定すれば、 神聖な天孫降臨の地を奪還するという口実が生まれ、大義名分を掲げて制圧に向かうことができる」という見方を示した。 一方、粟門が鳴門であるのは確実であろう。 速吸名門が明石海峡だとすれば、もともと淡路島の伝承であったと見られる伊邪那岐伊邪那美伝説にぴったりである。 書紀本文が天孫降臨の地を日向に移す前の伝承の原形が、この一書[10]に残っている可能性は濃厚である。 《筑紫日向小戸橘之檍原》では、 「原伝承は淡路を中心とする地域のものではないかと思わせる」と見た。一書[10]では本文の「筑紫日向小戸橘之檍原」から「筑紫日向」が除かれているので、これが伝承の原形だと考えることができる。 すると、伊弉諾尊の本来の禊の場所は淡路島またはその周辺地とするのが自然となる。 《橘之小門》 それでは、その「橘之小門」を淡路島周辺に置くことは可能だろうか。
当地には式内「賀志波比売神社」〔阿南市見能林町柏野22〕があり、天照大神の幼名とも伝わる。 その北方約230m、小山が岬状に突き出したところが「みそぎ岩」と名付けられ、「小門神社」という小祠が置かれている〔徳島県阿南市見能林町東浦16〕 ([四国地方整備局|道は - 四国地方整備局])。 橘については、『阿波志』〔藤原憲;1815〕那賀郡〔現阿南町を含む〕に「橘浦」、「橘港」が見え、現在の橘港に繋がる。
すなわち、檍浦の位置は特定できず、安房国内に候補地三か所を示すのみで、それらは互いに遠く離れている(右図)。 しかしこれは、檍浦が日向国ではなくわが阿波国にあったという主張の根強さを、むしろ物語るものといえよう。すなわち、言い伝えが広い地域に広がっているからこそ各地に伝承地が生まれるのである。 なお『阿波志』には「禊川」も見えるが、川田川となり吉野川に繋がるというから無関係である。 阿波岐については『阿波志』で見たように比定地は定まらないが、「淡島」が現代の地名にも島生み伝説にもあるから、その深く根付いた「アハ」からアハギが派生したと見れば、阿波国の沿岸から淡路島までの範囲内と見てよいかも知れない。 ヲド(小門・小戸)については、特徴的な入江があればどれでも地名になり得る。 以上を冷静に見れば橘之小門に直接繋がりそうなのは橘浦のみである。しかし、そこはアハギとして想定される範囲内だから、「橘浦の周辺」程度の推定は恐らく可能である。 一方、淡路島はイザナギイザナミ伝説の発祥の地であるから、橘之小門の本命とも思える。 こちらにはあまり候補地が上がらないないのは、橘之小門の地であるとアピールする熱量が阿波国にはあり、淡路にはあまりなかったからであろう。 さて、論点は我が土地こそがイザナギ禊の地だとアピールしていることへの検証に移ってしまったが、ここで本筋に戻す。 これまで述べてきたように、禊の地を日向国と描くようになったのは政治的な思惑(上述)によるもので、一書[10]はそれ以前の形を残したものと考えられる。 すなわち、一書の性格については、中央政権が本書で正史を述べつつ、支えてくれる地方氏族に対して、「あなた方の伝承も一書〔=異説〕として歴史書に納めて後世に残す」という配慮を示したものと見てきた。 ここではその性格を典型的に表すものである。 淡路の氏族に対してこのようの配慮がなされた背景を、具体的に考える。淡路の海人が中央政権を支えていた事例としては、たとえば塩づくりがある。 「畑田遺跡や引野遺跡、旧城内遺跡、貴船神社遺跡」は、塩づくりの技術の発展を物語り、「塩は、畿内の王権にも供給されたと考えられて」いるとされる ([淡路島日本遺産|]古代国家を支えた海人の営み)。 また、「御陵水として都に運ばれた御井の清水」(同)ともいう(【淡道嶋之寒泉】参照) そして淡路は「海人が獲ったさまざまな魚介も都へと運ばれました。天皇の食膳を司る御食国〔みけつくに〕」(同)だったという。 その地の淡路海人について〈姓氏家系大辞典〉は、「阿波の阿曇連」の項で「安曇氏の発祥地は筑前国志賀島にして、…後には根拠地を阿波国に移せしものと想像せらる。 …淡路野島の海人を率ゐて仲皇子に味方…蓋し当時阿波に在りて淡路の海人を率ゐしものならむ」、すなわち淡路の海人は阿波の安曇氏に統率されていたという。 朝廷が阿波国の阿曇連に気を使ったのなら、原伝承における檍浦の伝承地は改めて阿波国に傾くことになる。 飛鳥奈良時代の伝承がごく細い糸で『阿波志』の江戸時代まで繋がっていることはないだろうか。〈釈紀〉、『阿波国風土記』逸文からは見出すことはできなかったが、これからも平安~室町の資料の探索を続けたい。 《吹生》 吹生は、化成と同じかも知れないが、 「吹」をひとまず水に入る前の深呼吸と、自ら出た後に溜めていた息を吐き出すと読んでおく。 《磐土命/大直日神/底土命/大綾津日神/赤土命》 五柱の神のうち、記・一書[6]と共通するのは大直日神(一書[6]-(5))のみで、それ以外の神は他に見えない。 大直日神の性格から考えて、「入水」で化成したのが汚穢の神、「出水」で化成したのが矯(ただ)す神ということになる。 ただ、最後の「大地海原之諸神」はその対とは無関係に詰め込んだように見える。 この五柱の神を「唐津大明神」が祭神としたことが、『松浦記集成』に載る。
唐津大明神の祭神は極めて特殊である。日本書紀の奥深いところから引っ張り出して祭神としたのは、 おそらく周辺の社との勢力争いが激しく緊張状態にあり、他社とは大きく異なる特徴を示して誇る必要があったためではないかと想像される。 なお、現在の祭神は磐土命以下六神は消滅し、一ノ宮が筒男三神、ニノ宮が神田宗次公、相殿が水波能女神となっている。 《大地海原之諸神》 最後に水を出たときに、その他大勢の神が一斉に化成したとする。この書き方はどうもバランスが悪い。これも一書特有の"雑さ"のように感じられる。上記「唐津大明神」ではこれを「海原神」一柱に置き換えている。 神の坐すところを「大地」とする言い方は他には見えない。記や一書六では、禊のときに日神、月神も化生したことを考えると、本来は「天地」だったようにも思える。ただ、そのような異本の存在は今のところ見えない。 さまざまな一書には独自性があり、伝承がそのままの形で収められたことを重視すれば、やはり大地のまま置くのが妥当か。 《大意》 【一書(10)に曰く、 伊弉諾尊は、 伊弉冉尊のいる処に追い至った。 そして語らい、伊弉諾尊は「あなたを悲しむ故にここまで来た。」と言ったところ、 伊弉冉尊は「夫よ、私を見ないでください」と答えた。 伊裝諾尊は言うことをきかず、なおその姿を見た。 伊弉冉尊はよって恥らい恨み 「あなたは既に私の実の姿を見たのだから、今度は私があなたの実の〔逃げ惑う〕姿を見ましょう。」と言った。 そうなったら伊弉諾尊は恥だと思い、よってそこから出て帰ろうとしたが、 その時、ただ黙って帰ることはせず、誓って 「妻とは離縁する。」と言った 〈あるいは「妻には負けない。」と言ったともいう〉。 そのとき唾を吐いて現れた神を、名付けて速玉之男(はやたまのを)という。 次にそれをきれいにした神を、泉津事解之男(よもつことさかのを)という 〈併せて二柱の神〉。 それで妹と黄泉津平坂(よもつひらさか)で相争うことになり、 伊弉諾尊は 「はじめに妻のために悲しみ、哀れに思ったことは、 私の愚かさだった。」と言った。 その時、泉守道者(よもつみちもり)が来て申し上げるに 「伊弉冉尊から伝言があります。 『私は、既にあなたと共に国を生み終わりました。 どうして更に生きることを求めましょうか〔反語〕。 私は、この黄泉の国に留まるべきで、共に行くことはありません。』とのことです」と言った。 この時に、菊理媛神(くくりひめのかみ)もまたあることを申し上げ〔内容は記されない〕、 伊弉諾尊はそれを聞いて喜ばれた。 こうして別れて去った。 ただ、自ら黄泉津国を見たことは、既に芳しくない。 よって、その穢悪を濯(すす)ぎ除こうと思われ、 禊の場所を求めて行き粟門(あわのと)と速吸名門(はやすうなと)とをご覧になった。 けれどもこの二つの海峡は、潮は既に甚だ急であった。 そこで、橘之小門(たちばなのおど)に戻り、払い濯がれた。 その時、水に入って息を吹いて磐土命(いわつつのみこと)が化成し、 水から出て息を吹いて大直日神(おおなおひのかみ)が化成した。 また入って吹き底土命(そこつつのみこと)が化成し、 出て吹き大綾津日神(おおあやつひのかみ)が化成した。 また入って吹き赤土命(あかつつのみこと)が化成し、 出て吹き大地や海原の諸々の神が化成した。 〈不負於族は、「うがらまけじ」と訓む〉】 まとめ 一書[10]は橘之小門から「筑紫日向」を除外している。これは淡路方面に存在した禊伝説の原形に忠実であったことを示す。 姓氏家系大辞典によると、淡路の海人は阿波国の安曇連の支配下にあった。橘は現阿南市の橘浦村に地名を残すと見て、ここで配慮を示した対象は、ずばり阿波国の安曇連であったと見る。 この見方によれば、「吹生」には潜水漁を生業とする海人の生々しい身体感覚が反映しているようにも感じられる。 また、「大地海原」に「天」が不在であることは、これが中央政権による三貴子の神話体系とは異なる、独立したローカルな伝承をそのままの形で収めていることを示す。 この事例もまた、数々の一書を書紀に収める狙いが諸族との円満な関係を保つところにあったことを、鮮やかに示しているものといえよう。 |
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2026.06.17(wed) [01-13] 神代上13 ▼▲ |
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26目次 【次生海次生川次生山/一書[11]-(1)】 《一書[11]-(1)》
書紀古訓は、治〔ヲサム〕を、もっぱらシラスと訓む。だが、《汝所治国民》項で見たように、ヲサムでも特に違和感はなかった。 御にもシラスは可能だが、この段では月夜見尊の「知」にシラスをあて、御はヲサムとしたい。 なお、「可三以[テ]御二高天之原[ヲ]一也[句]」〔以て高天之原を御 《素戔嗚尊/御滄海之原》
よって古事記(第44回)では「汝命者 所知海原矣 事依也」のは文脈に合わず、一書[6]([6]-(6))ではそれが正されたと見たが、 一書[11]の「御滄海之原」は古事記に一致する〔《素戔嗚尊》項参照〕。 一方、書法においては「可以治…」は、一書[6]に一致する(右表)。 これを何とか辻褄が合うように解釈しようとすると、一書[6]にあたる部分の原伝承に対して、①古事記は原伝承全体を文学的に美しく書き直した。②一書[6]は原伝承に戻すとともに、「御滄海之原」の部分については原伝承から記に引き継がれた誤りを訂正した。 ③一書[11]は「御滄海之原」を一書[6]が訂正する前の原伝承に引き戻した、というややこしい経過を辿ったことになる。 これまでに検討してきたことを結論づけると、次のようになる。
月夜見尊が人格神としてその振舞が描かれるのは一書[11]が唯一で、他にはない。 《葦原中国》 伊弉諾尊伊弉冉尊立於天浮橋之上一書[1]に「豊葦原千五百秋瑞穂之地」があった。葦原中国はその略称であるが、神代巻上下で11回、〈神武〉紀に1回、〈垂仁〉紀に1回使われている。 魏志倭人伝で、本土に上陸して訪れた最初の国、「末盧国」の項に「草木茂盛行不見前人」とある(魏志倭人伝(15))。 中国から訪れた人が受けた印象によって「葦原」の国と呼んだことに影響を受け、倭人自身が用いるようになった呼称のようにも思えるが、確たる根拠はない。 他には大八洲国が神代上巻に5回。日本国は、ほとんどが外国が倭国を呼ぶときに用いられている。 〈神武〉三十一年には「秋津洲・安国・細戈千足国・玉牆内国・磯輪上秀真国・虚空見日本国」。場面を見ると大和国のこととするのが順当だが、編者は国家全体をいう意識で扱った可能性もある。 島生み段の大日本豊秋津洲は、一応国家そのものではなく構成する八洲のひとつとされ現在の本州の西日本の部分にあたる。 《保食神》 保食神(うけもちのかみ)は、 一書[6]「飢時生児」の倉稲魂命(うけのみたまのみこと)と同一神と見てよい。 〈天武〉四年四月《祭二大忌神於広瀬河曲一》項でも類似する神名を見た。 すなわち宇加能売命(うかのめのみこと)・豊宇気毘売(とようけびめ)(第37回)、 等由気太神(とゆけのおほみかみ)、豊受大御神(とようけのおほみかみ)。 類話の第51回「大気津比売」(おほげつひめ)のケは食。 宇加能売命(うかのめのみこと)などに共通するウケは、稲などの食物を供給する神格を表す。 ケが食、饌であることは確実である。しかし、ウケのウの解釈については、さまざまな説がある。 「豊受大御神」という表記を見ると、ウケを「受」と理解されることは普通であったと見られる。ただしこの場合はケが二重の役割を兼ねるので、言語構造としては破綻する。 実際の起源は、やはりケ(食)につけた接頭辞ウ-であろう。それは、本来はミであったとも考えられる。 一般にミが唇の緊張を失ってウやンになる現象は珍しくない。 ところがもし神をミケノミタマ、ミケノカミと呼んだとすると、ミ-はケのみに結び付く美称となり、神への敬意がうすれる感は否めない。 そこで、ミ-はウ-に変化し得るという傾向があることから、饌自体への美称はミ-、神名の一部になったケにはウ-を用いる使い分けられるようになったと考えてみたらどうであろう。 この仮説には一定の説得力が感じられるので、ひとまずこれを採用したい。 《国/海/山》
国家・律令国以外の「クニ」に国の字をあてた例としては、 (万)0426「草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待真國 くさまくら たびのやどりに たがつまか くにわすれたる いへまたまくに」がある。 この歌の題詞に「柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌」、 すなわち人麻呂が香久山で行き倒れになった人の死体を見て哀れみ、妻が家で待っているだろうにと詠んだもの。 「国忘有」は国を忘れそうになるほど遠くに来て長い日が経ったとの意で、この歌の「国」は故郷を意味する。 《忿然作色》 「作色」はイロヲナシテと訓みたくなるが、これは中世以後の漢文訓読体による読み方である。漢語「色」には表情の意もあるが、上代語にはイロを表情に用いる用法はないようである。 書紀古訓の「オモホテル」〔面火照る〕はイロの意に近づけた意訳であるが、 この語自体は上代語として存在したようである。書紀古訓については極めて不適切と感じられるものもあるが、これについては許容したい。 《寧可以口吐之物敢養我乎》 寧は書紀古訓では「ムシロ」と訓むが、寧自体は反語の副詞でもある。 古訓のムシロは、ひとつのことを遠ざけて他を優先する意。 反語の文頭副詞であっても寧もムシロと訓む習慣になったようであるが、上代には適切ではない。 寧を反語の助詞として訓もうとすれば、後世の漢文訓読体ではイヅクンゾであるが、既に平安時代の音便を含み、イヅク〔何処〕も上代は場所に限定されるから、結局上代語ではナソか。 「可以」は、上記「天照大神者可以…」では熟語であったが、ここでは「以」は「口吐之物」への前置詞なので分離される。 よって「可」は動詞で、ユルスと訓むことになる。すなわち全体は反語文で「私が~ことを許すか?いや許さない」。 「養レ我」はここでは単に食物を与える意味であるが、こうやって私をありがたく養おうというのかという皮肉が感じられる。 《大意》 【一書(11)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、三子に任務を勅して 「天照大神(あまてらすおおみかみ)は、 高天原(たかまのはら)を治めるがよい。 月夜見尊(つくよみのみこと)は、 日を補佐して天のことを司るがよい。 素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 海原を治めるがよい。」と命じた。 こうして天照大神が天上にいらっしゃった後、 「葦原中国(あしはらのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)がいると聞く。 あなた、月夜見尊が行って様子を見てまいれ。」と勅した。 月夜見尊は、勅を受けて降りた。 保食神の許(もと)に到着してみると、 保食神は、 首を回して国〔=里〕に向かって口から飯を出し、 海に向かって鰭広(はたのひろもの)鰭狭(はたのさもの)〔=魚たち〕をまたも口から出し、 山に向かって毛麁(けのあらもの)毛柔(けのにこもの)〔=獣たち〕をまたも口から出した。 その各種の物をことごとく用意し、百机(ももとりのつくえ)に並べて御饗(みあえ)した。 この時、月夜見尊は、 忿然と色をなして 「なんと穢(けがらわし)く、鄙(いやし)いことか。 こともあろうに口から吐き出した物を敢て私に食べさせることを許せというのか。」と言って、 体を巡らせて剣を抜いてうち殺した。 その後、復命して、 ありのままにその事を申し上げた。 27目次 【次生海次生川次生山/一書[11]-(2)】 《一書[11]-(2)》
日神が月神に対して激しく怒った結果、太陽は昼の世界、月は夜の世界に住み分けられるようになった。 《天熊人》 この神は、この場面のみの登場である。 《保食神実已死》 保食神の神話は、ハイヌウェレ式神話のひとつと言われている。 『神話の話』〔大林太良;講談社/学術文庫1979〕によると、 「農耕の起源と女性との結びつきを語る神話のなかに、原告において女神が殺されて、その死体から作物が発生したという一群の神話がある」、 代表的な「インドネシア東部のセラム島西部のヴェマーレ族の神話」では、 「ハイヌヴェレ〔ママ〕の死体」を父のアメダは小刻みに刻んで全域に埋めた。この 「埋められた死体の各部分は、当時まだ存在していなかった…イモ類に変化し、それ以来人類はこのイモ類を食べて生活している」という。 そして「日本神話の場合には、死体から発生した作物はイモ類や果樹ではなく、水田につくる稲と焼畑につくる粟や麦や豆であるから、 …何らかの穀物栽培文化が背景にあったと見るのが適当」、 「大事なことは、この場合も女神が殺されることを契機として農耕が始まっていることである」、 「日本書紀の場合…月が一役買って出ていることも、月と死と豊穣と死のシンボリズムがまだ尾を引いていることを示している」などと述べる(pp.133~142)。 稲作文化によって変形してから伝搬してきたとすると、長江方面の稲作地帯から伝わったことになる。 稲作技術の伝搬経路については、①中国の江准地域(長江・准河の間)から朝鮮半島南部経由、 ②長江下流部から直接九州、または朝鮮半島を経由、③中国南部から琉球列島を北上して南九州に伝わったなどの説があるという([米穀機構米ネット])。 〔なお、南九州は稲作に適さない土地なので③は相当厳しいと思われる。〕 但し、ヤマイモ型ハイヌウェレ式神話が日本に伝わってから稲作型に変形した可能性も十分考えられる。その場合は必ずしも長江方面を経由する必要はない。 だから、台湾方面から黒潮に乗って南九州に渡来した人が神話を持ってきたというルートを考えたくなるが、 近年のミトコンドリアDNAの調査によると「琉球列島と九州の系統は1万年ほど前に分岐し、それ以降は混じり合うことがなかった可能性がある」という(『人類の起源』〔篠原謙一;中公新書2022〕pp.203~204)。 また「琉球列島に本格的な農耕が入るのは、北部九州への到達から2000年近く遅れてのことである」(同p.244) というから縄文時代に人の移動はなく、弥生時代以後も北から南に向かっての移動ということになるので、「黒潮に乗って九州に伝搬」説はひとまず保留しておく。 《天邑君/天狭田及長田》 「狭田及長田」に「天」が付くから、一見高天原かと読めてしまう。 しかし、天邑君は地上の人であり、天狭田及長田は地上の田である。なぜなら耕作の開始は「顕見蒼生可食而活之也」の為だからである。 地上にあっても「天香久山」というように、地にあっても神聖なものにはしばしば「天-」がつく。 〈時代別上代〉によれば、アマ~・アメ~には「ⓐ天の意、ⓑ天に関する事物に添える、ⓒ美称、の三段階がある」。 《有其神之頂化為牛馬》 牛馬は「化為」、植物は「生」となっている〔繭については下述〕。これについては、 ① 動物と植物で使い分けた〔この場合「生」はオフと訓むことになる〕。 ② 出典の異なる神話をミックスして文なので、それぞれ元の表現が用いられた。 の二通りが考えられる。 伝承が史(ふひと)によって漢文化された時点でこのように書かれていたと考えられる。 彼らは一般的に、動物の出現は「化為」、植物は「生」とする言語感覚が身についていたことも考えられる〔文部省が用語を定めるまでは、長らく動物は成長、植物は生長であった〕。 ①はもちろん、②であってもそれは言えることである。 それでも、動物の化為と、植物が芽を出すことでは趣が異なるので、もともとは独立した伝説であったものが合成されたと見るのが自然と思われる。 繭については、それ以外の「粟・稗・稲・麦・豆」で五穀をカバーしている。繭〔蚕〕が異質であるから、 この文が既に複数の伝承が混合した可能性を伺わせる。但し、この混合は既に原伝承の段階で行われたと考えられる(下述) 《垂穎八握莫々然甚快也》 「莫々然」への書紀古訓「シナフ」は、日本紀講筵に集った狭い学者グループの議論の中で現れた特異な読み方であろう。 そこでは莫々然の意味の解釈に悩んだ末に、稲穂の「垂穎」と同意の「撓 〈釈紀〉はこの「シナフ」を取り上げていないので、おそらく鎌倉時代の兼方でも相手にしなかった訓み方だと思われる。 ところが現代の版本を見ると「シナフは草木の繁茂するさま」、 「稲穂が茂ってしなやかな状態をいう」なる注をつけて、なんとか古訓に沿う理屈を考え出そうとしている。 それらの註〔一社に限らない〕は、『文選』の註にある「莫莫、茂也」を引用してはいるが、 茂みの草が必ずシナヤカとは限らないし、そもそもシナヤカとシナフは全く異なる。 このような理屈で読者が納得できると考えて堂々と注釈を載せたのだとすればとても残念である。 解説はこの古訓を批判的に論評するわけでもなく、明らかに書紀古訓を神聖不可触としている。 現代の日本紀解釈における学問界は、鎌倉時代からも退化していると言わざるを得ない。 それでは、「莫々然」の適切な読みは何だろうか。まず、「莫〔なし〕」だから、本来ものがない様子を表すはずである。 漢籍の用例を見ておこう。
ここでは青空の下、稲穂を垂れた田の整然とした静かな風景を文学的に表現したと読むのが最も意味が通る。 この読み方をすれば、前項の「天狭田及長田」を地上の田とする見方がさらに強化される。 田に稲穂の垂れる風景が美しく描かれることによって、天照大神が地上を見下ろして喜ぶ姿が浮かび上がってくるからである。 《八握》 八握はここでは穂の実際の長さというよりも、実った穂の立派さを称える修辞と見られる。 《始有養蚕之道》 ここでは農耕の起源伝説に養蚕の起源伝説を付け加えた形になっている。 「口裏~」の主語は、文脈からみて天照大神だと解されている。 だがここでは話題が耕作から養蚕に切り替わるから、主語は省略すべきでない。 よって、この部分は別に存在した伝承から一部を切り出して、付け加えたように感じられる。 それでは、前段についても、保食神の死体からとする「顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆」のうち、「眉上生蠒」も異質だから編者が挿入したものだろうか。 ところが、これについては類話の「大気津比売」伝説(上記)でも、体の各部から稲種・粟・小豆・麦に加えて蚕が化成している。 さらに「顱上生粟…」段の文章はきれいに整っており、「眉上生蠒」がこのように上手に入れられるなら「又口裏含繭…」以下がなぜかくも不器用な文章になっているのだろうか。 これを考えれば、「眉上生蠒」の混入については書紀編者がまとめた段階ではなく、すでに原伝承の段階から入っていたと見た方が自然であろう。 《大意》 その時天照大神は、 怒り甚だしく 「あなたは悪しき神です。顔を合わせることはできません。」と仰り、 これによって月夜見尊(つくよみのみこと)とは、 一日の昼と夜に隔て離れて住むこととなった。 この後、天照大神は、 再び天熊人(あめくまひと)を派遣して見に行かせた。 この時、保食神(うけもちのかみ)は実際に死んでいた。 ただ、あったことはその神の頭頂に牛と馬が化成し、 頭の上に粟が生え、 眉の上に繭が成り、 眼の中に稗が生え、 腹の真ん中に稲が生え、 陰部に麦と大豆、小豆が生えた。 天熊人(あめくまひと)、悉く取って持ち帰り、奉進した。 [于]時に、天照大神は喜ばれ、 「これらの物は、 顕見蒼生(うつしきあおひとくさ)が食べて活きるべきです。」と仰った。 そこで、粟、稗、麦、豆を陸田種子(はたつもの)〔畑に蒔く種子〕として、 稲を水田種子(たなつもの)〔田に蒔く種子〕とした。 また、これによって天邑君(あまのむらきみ)を定め、 その稲の種を、 はじめて天(あま)の狭田(さた)と長田(ながた)に殖えた。 秋になり、穂を八握(やつか)の長さで垂らし、 静まり返った中で甚だ快かった。 また、〔天照大神は〕口裏に繭を含み、糸を抽出することを得た、 ここから、養蚕の道が始まった。 〈保食神は、 「うけもちのかみ」と訓む。 顕見蒼生は、 「うつしきあおひとくさ」と訓む。〉】 まとめ 最後の一書[11]は、同系の複数の伝承のパッチワークであるように感じられる。 他の一書が火の神カグツチや、イザナギの禊が中心的なテーマであったのに対して、一書[11]は趣を異とする。 しかし、ここに描かれた農耕の起源については、何といっても人民の生活の基盤であるから、国の起源神話としては本来は中核となるべきである。本来は本文中にあるべきものかと思われるが、 元になった神話が海洋族とタタラ製鉄の地の族のものだったので、農耕は傍らに添えられる形になっている。 海洋族の安曇氏・津守氏〔住吉三海神を奉斎〕は海上交通、外交の中心的役割を果たした。 一方、タタラ製鉄族の吉備氏・出雲氏は、武器や農機具の製造で存在感を示した。 一書[1]~[10]は、これらの氏族の存在の重さがそのまま反映したと考えられる。 さて、一書[11]は、大過なく通過できるかと思われたが、ここで本サイトの根幹に関わる語句にぶちあたった。 本サイトの出発点は、日本書紀がその後の長い歴史の中で原形が歪められてきたことに対して、 その手垢を拭い取りたいという問題意識によるものであった。その検討対象をさらう網にずばり「莫々然」がかかってきたのである。 この部分への版本の解説をみたが、そこに書いてあることは全く人文科学の体を為していないというのが、率直な感想である。 |
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⇒ [01-14] 神代上(4) |
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