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2026.06.03(wed) [01-10] 神代上10 

20目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(5)】
《一書[6]-(5)》
伊弉諾尊既還、
乃追悔之曰
「吾前
到於不須也凶目汚穢之處。
故當滌去吾身之濁穢。」
既還…〈内閣文庫本〔以下閣〕[テ]クヒテ
  レサキニ[ニ] ル- イナ-凶目シコメキ汚穢キタナキ之處[ニ]
滌去…〈乙本〉滌去安良比天牟汚穢介加良波志支毛乃
〈閣〉 レ[ニ]-アラヒウテム[カ][ノ]濁穢ケカラハシキモノ[ヲ]
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)既(すで)に還(かへ)りて、
乃(すなはち)追悔之(くいて)曰(のたま)はく
「吾(われ)前(さきに)
[於]不須也凶目汚穢之(いなしこめききたなき)処(ところ)に到(いた)りつ、
故(かれ)当(まさに)吾身之(あがみが)濁穢(けがらはしき)を滌去(あらひうて)む。」とのたまふ。
則往、
至筑紫日向小戸橘之檍原而
秡除焉、
遂將盪滌身之所汚、
乃興言曰
「上瀬是太疾、下瀬是太弱。」
秡除…〈乙本〉盪滌須々支゛宇氐牟秡除美曽岐須所汚介加良波志支毛乃乎
 興言古止安介゛太疾波也之大弱波奈波太ヨ太ハシ

〈閣〉[テ]イタリマシテ筑紫[ノ]日向[ノ]小戸ヲ トノ 橘[ノ]檍原アハキノハラ[ニ]日向无国●世地●降臨之特例之ナソラヘ名ク三月三日塩●日向●
 [テ]-ミソキハラヘ宣盪滌スゝキタマハムト
 所汚タナキモナタナキノヲ 興言コトアケシカミツ レハナハタハヤシシモツ是太ユルシト宣

みそぎ…[名] 河原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落とすこと。
盪滌…水をかけて洗いすすぐ。
ことあげ…[名] ことばに出していいたてること。
…「あはき」(一書[7]訓注)。記(第42回)に「阿波岐」。
則(すなはち)往(ゆ)きて、
筑紫(つくし)の日向(ひむか)の小戸(をど)の橘(たちばな)之(の)檍原(あはきはら)に至(いた)りまして[而]
秡除(みそぎ)す[焉]、
遂(つひに)将(まさに)身(み)之(の)所汚(けがらはしき)を盪滌(すす)ぎたまはむとして、
乃(すなはち)興言(ことあげ)して曰(い)はく
「上瀬(かみつせ)是(これ)太(はなはだ)疾(はや)し、下瀬(しもつせ)是(これ)太(はなはだ)弱(ゆる)し。」とことあげしたまふ。
便濯之於中瀬也。
因以生神、號曰八十枉津日神。
次將矯其枉而生神、
號曰神直日神、
次大直日神。
八十枉津日神…〈乙本〉八十枉津日神也曽万加豆比乃神將矯奈乎左牟止之天

〈閣〉スゝキ給之於ナカツ[ニ]ウメルマカ
  トシ ナホサムトナホ[ノ]ヲホナヲ[ノ]

便(すなはち)[於]中瀬(なかつせ)に濯之(すす)ぎたまふ[也]。
因(よ)りて生(なれる)神を以(も)ちて、号(なづ)けて八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と曰ふ。
次に其の枉(まがり)を矯(なほ)さむとして[而]生(な)れる神を将(も)ちて、
号(なづ)けて神直日神(かむなほひのかみ)と曰ひて、
次に大直日神(おほなほひのかみ)といふ。
又沈濯於海底、
因以生神、號曰底津少童命、
次底筒男命。
沈濯…〈閣〉-カツキスゝクワタ[ノ][ニ][テ]-ソコ ツ-ワタツミノ童命[ト]
 ソコツゝヲノ
又(また)[於]海底(わたのそこ)に沈(しづ)み濯(すす)ぐ、
因(よ)りて生(な)れる神を以ちて、号(なづ)けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と曰ひて、
次に底筒男命(そこつつのをのみこと)といへり。
潛濯…〈閣〉-カツキスゝク[ノ]/シホウシホ[ニ]-ナカツワタツミノ-
 ナカツゝヲノ[ノ]
又(また)[於]潮中(しほのなか)に潛(かづ)き濯(すす)ぎたまふ、
因(よ)りて生(なれる)神を以ちて、号(なづ)けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と曰ひて、
次に中筒男命(なかつつのをみこと)といへり。
又浮濯於潮上、
因以生神、號曰表津少童命、
次表筒男命。
凡有九神矣。
浮濯…〈閣〉=ウキ スゝクウ [ノ]/上[ニ]表筒ウハ ツ少童[ノ][ト]
 ウハツゝヲノ[テ] マスイマウ九神コゝノハシラノカミ
又(また)[於]潮上(しほのへ)に浮(う)かび濯(すす)ぎたまふ、
因(よ)りて生れる神を以ちて、号(なづ)けて表津少童命(うはつわたつみのみこと)と曰ひて、
次に表筒男命(うはつつのをのみこと)といへり。
凡(およ)そ九(ここのはしら)の神有(ま)す[矣]。
其底筒男命
中筒男命
表筒男命、
是卽住吉大神矣。
底津少童命
中津少童命
表津少童命、
是阿曇連等所祭神矣。
表津…〈乙本〉表津宇波豆
〈閣〉住吉スミノエノ大神ヲホム カミツムノムラシ-イツキマツル ナリ
其の底筒男命(そこつつのをのみこと)
中筒男命(なかつつのをのみこと)
表筒男命(うはつつのをのみこと)、
是(こ)は即(すなはち)住吉(すみのえ)の大神(おほみかみ)なり[矣]。
底津少童命(そこつわたつみのみこと)
中津少童命(なかつわたつみのみこと)
表津少童命(うはつわたつみのみこと)、
是(こ)は阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)の所祭(いはふ)神なり[矣]。
《乃興言曰上瀬是太疾》
一書[6]古事記
 …橘之檍原而秡除焉遂將盪滌身之所汚 …橘小門之阿波岐原而禊祓也
故於投棄御杖所成神…
乃興言曰上瀬是太疾…
於是詔之上瀬者瀬速…
 右表のように、記では「…橘小門之阿波岐原而禊祓也」と「於是詔之上瀬者瀬速…」の間に「故於投棄御杖所成神…」段〔以後"投棄御杖"〕が置かれていた。
 それに対して、一書[6]では「…橘之檍原而秡除焉遂將盪滌身之所汚」と「乃興言曰上瀬是太疾…」が直結していて、 "投棄御杖"は「因曰自此莫過」の後ろにある(《投其杖是謂岐神也》項)
 思うに、"投棄御杖"はもともとこの前後の物語の流れの中には存在せず、別個の伝承として存在していたのではないだろうか。 そして、それをどこに入れるかについて記と一書[6]で異なる判断がなされたと思われる。
《筑紫日向小戸橘之檍原》
 「筑紫日向小戸橘之檍原」は、記では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」と表記される。 筆者はかつて、この地をの地と規定された理由として、「神話で天孫降臨の地を日向の国とし「民族のふるさとを取り返す」という「根拠」を与えたと考えることができる」という仮説を提起した(第42回)
 その後、記紀の読み込みを深めるにつれ、この仮説を裏付ける歴史的・地理的背景が次々と浮かび上がってきた。
 第一に、〈景行〉十七年の《夷守》において、 「夷守」の地名や志布志湾沿岸の古墳群や西都原古墳群は、朝廷勢力が東海岸から進出した最前線を示していると見た。
 第二に、倭建命の西征伝説(第125回以下)も、この地域に中央政権が浸透していく歴史的経過が伝説へと昇華したものと捉えられる。
 第三に、海幸彦山幸彦神話は、中央政権が熊襲を征圧しようとした歴史を色濃く反映したものである(第93回) 同神話では隼人はやとの一族が朝廷で披露する舞踊のルーツを「其溺時之種種之態不絶仕奉〔溺れ苦しむさま〕として描き、明らかに蔑視している。
 少なくとも、日向は蛮族の住処として征圧すべき土地であり、その実現が暦年の課題であったことを、書紀自身全く隠していない。
 これまでに、「泉津平坂」の所在地については出雲という具体的な土地から精神世界に移して、ローカル伝説の色合いを払拭しようとしていた跡を見てきた(《其於泉津平坂》)
 それとは対照的に、伊弉諾尊の禊地が日向にあったことは、驚くほど明瞭に語られる。この不自然なまでの強調は、強い政治的意図を伴う作為と見るべきであろう。 そもそも「筑紫日向小戸橘之檍原」という地名表記は異例に長く、その「筑紫日向」は後から作為的に付け加えられた印象を拭えない。 また一書[10]に登場する「粟門」や「速吸名門」も、本来は鳴門海峡や明石海峡を指す可能性が高く、原伝承は淡路を中心とする地域のものではないかと思わせる。 言うまでもなく伊邪那岐伊邪那美神話の本来のふるさとは淡路島であった。
 こうして概観すると、やはり日向あるいは隼人を強圧的に服属させるために、「国家の発祥の地を取り返す」という大義名分を掲げたという見立ては、やはり確実性を帯びてくる。 そして、こと日向という地の政治目的による利用に関しては、記紀は足並みを揃えているのである。
一書[6]古事記
伊弉諾尊の禊で化成した神
 八十枉津日神  八十禍津日神 
 大禍津日神
 神直日神 神直毘神
 大直日神 大直毘神
 伊豆能売
 底津少童命 底津綿津見神
 底筒男命 底筒之男命
 中津少童命 中津綿津見神
 中筒男命 中筒之男命
 表津少童命 上津綿津見神
 表筒男命 上筒之男命
《濯之於中瀬》
 禊によって化成した神を記と一書[6]で比べると、記では共通する神に加えて、大禍津日神伊豆能売を挙げている(右図)。
《八十枉津日神/神直日神/大直日神》
 「穢れを灌ぐ」過程を細分化して、まず穢れた汚物そのものから悪役の「八十枉津日神〔記では加えて大禍津日神が化成し、 次にそれを濯ぐはたらきをする「神直日神」・「大直日神〔記では加えて伊豆能売が生じる。神は大変細かくあらわれるのである。
 「将矯其枉而生神号」の""はもし副詞ならその枉を矯正しようとしている意、もし前置詞ならば「矯其枉而生神」を「将(も)って〔=以て〕」、すなわち号(なづく)の目的語であることを表す。 おそらくどちらを選んでも、なお残りのニュアンスが漂うと考えられる。 これを「其の枉(まが)を矯(なほ)さむとして生(な)れる神を号(なづ)けて」と和読すれば両方の意を込めることができる。
《沈濯於海底/潮中/潮上》
 上瀬中瀬下瀬は川の上中下流を表すもので、そのうちを行った中瀬を更に上中下層に分けたのが海底潮中潮上だとすれば何とか辻褄を合わせられるが、 何とも苦しい。こうなったのは、どうやら筒男三神、また綿津見三神を奉斎する別氏族の神話が習合した結果のようである。
 綿津見三神を奉斎する安曇氏は古い起源をもつ海洋氏族で、海運・海産物の供給を担って朝廷を支えていた。
 一方、住吉大社の筒男三神を奉斎する津守氏は都と直結する超重要な港湾である難波津を要とする海の交通を取り仕切っていた。 この二つの重要な氏族を朝廷と深く結びつけるために、このような神話上の位置づけがなされたと考えられる。
《沈/潜》
 ここでは川底まで達することを「」、深さ半ばに留まることを「」と使い分けている。 本来の意味は「」;意思のない物体が重力により底まで達すること、「」:当時盛んであった潜水漁のように意志をもって潜ることと考えられるが、 ここでは水中の位置を表す語として使い分けたようである。書紀古訓は、両方とも「カヅク」とするが、少なくともシヅム/カヅクのように語を使い分けるべきであろう。
《其底筒男命》
一書[6]古事記
住吉大神などの表記
 住吉大神 墨江之三前大神
 阿曇連等所祭神  阿曇連等之祖神、以伊都久神 
 ここでも、一書[6]は古事記と一致する。
 三神セットへの奉斎は海洋氏族に共通する特徴で、宗像氏の「胸形之奧津宮/中津宮/辺津宮」でも見られる(第47回)。
《墨江大神》
 底筒男命中筒男命表筒男命住吉大社の祭神である(《住吉大神》)。 その宮司家は津守つもり氏。津守連は〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った。
 津守氏の祖は「田裳見たもみの宿祢すくね」で、『住吉大明神大社神代記』では「手槎たもみの足尼すくね」と表記される。
 『姓氏家系大辞典』〔以下〈大辞典〉〕は、現在の住吉大社が「津守氏の本居」となったことについて、概略次のように述べる。
 すなわち「神功皇后摂政前紀(《祭三大神荒魂》)には、 穴門直の祖践立と津守連の祖田裳見宿祢は、住吉三神が「荒魂を穴門の山田邑に、和魂を大津の渟中倉に祀れ」と告げたため、これを皇后に奏上した。 ここには、践立を荒魂の神主に任じたことだけしか書いていない。 しかし「摂政元年紀」には「〔筒男三神の〕和魂は大津渟中倉の長狭に居り」とあり、その渟中倉の和魂の神主が田裳見宿祢であったことは、 「後世此の社〔渟中倉の和魂〕の神主が、此の人〔田裳見宿祢〕の子孫なるによりて、容易に推察」できるという。 そして「此の〔和魂を祀る大津の渟中倉の〕住吉神社は、仁徳朝、今の住吉〔=住吉大社〕…に遷り給ひ、此の地は津守氏の本居となれり」と述べる。
 〈大辞典〉がいう「大津の渟中倉」は、 【大津渟中倉之長峽】項で 本住吉神社〔神戸市東灘区〕に確定した。 そこでは、住吉大社に移転した時期は「記紀に書かれた時点で、既に住吉郡にあったと考えるのが自然であろう」と考えた。 上で見たように〈大辞典〉はその遷座の時期を「仁徳朝」と見ている。
《阿曇連等所祭神》
志賀海神社(志賀島)
志賀海神社摂社
 安曇氏は海洋氏族で、その東進した様を物語る地名が各地に残る。 これまでに、【安曇連】項〈皇極〉元年正月《阿曇連比羅夫》などで見た。
 安曇連は〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る(安曇連)。
 さて、安曇氏が奉斎した底津少童命中津少童命表津少童命の社は、 〈延喜式/神名〉{筑前国/糟屋郡/志加海神社三座【並名神大】}とされ、 比定社は志賀島志賀海神社〔福岡市東区志賀島877〕とされる。 志賀島安曇氏発祥の地とされ、また「漢委奴國王」印の発見地(魏志倭人伝(21))として有名である。
 [志賀海神社公式|志賀海神社とは]によれば、 「祭神:左殿 仲津綿津見神。中殿 底津綿津見神。右殿 表津綿津見神」、 「古くは志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、 それぞれ「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られていました。 二世紀から四世紀の間に表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座」という。
 現在の摂社、仲津綿津見神社、表津綿津見神が遷座前の位置そのままとは限らないが、島の北側の外洋に面した位置にあるので、 古い時代にもその近辺にあって海路の守り神であったと想像される。
 祭神の名称が書紀の「少童」を用いず、古事記の「綿津見」に沿っているのは興味深い。 恐らく飛鳥・奈良時代当時から安曇氏族内部の由来文書や、朝廷への提出文書に「綿津見」の表記を使うなどして氏族のアイデンティティに結び付いた表記として使われ、 同時に記に取り入れられたと思われる。書紀は少童に置き換えたが、安曇氏族自身はそのようなことには左右されず、 それが現在の祭神名にも引き継がれていると考えられる。
《大意》
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は既に帰り、 後悔して、 「私は 前に不須也凶目汚穢(いなしこめききたなき)のところに行ってしまった。 だから、わが身の穢れを濯ぎ浄めよう。」と言った。
 そこで出かけて、 筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あわぎはら)に至り、 禊(みそぎ)して、 遂に身の汚濁を濯(すす)ごうとされ、 声高に 「上瀬(かみのせ)は流れが速すぎ、下瀬(しものせ)流れが遅すぎる。」と言われ、 よって、中瀬(なかのせ)で濯(すす)ぎをされた。
 これによって化成した神を、名付けて八十枉津日神(やそまがつひのかみ)という。 次にその枉(まがり)をなおそうとして化成した神を 名付けて神直日神(かむなほひのかみ)、 次に大直日神(おおなほひのかみ)という。
 また、海底に沈んで濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)、 次に底筒男命(そこつつのをのみこと)という。
 また、潮の中ほどに潜って濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)、 次に中筒男命(なかつつのをみこと)という。
 また、潮の上に浮かんで濯ぎ、 これによって化成した神を、名付けて表津少童命(うわつわたつみのみこと)、 次に表筒男命(うはつつのをのみこと)という。
 これで全部で九柱の神が坐す。
 その底筒男命(そこつつのをのみこと)・ 中筒男命(なかつつのをのみこと)・ 表筒男命(うはつつのをのみこと)は、 住吉(すみのえ)の大神(おほみかみ)である。
 底津少童命(そこつわたつみのみこと) 中津少童命(なかつわたつみのみこと) 表津少童命(うはつわたつみのみこと)、 これらは、阿曇連(あづみのむらじ)らが祀る神である[矣]。


21目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(6)】
《一書[6]-(6)》
然後、
洗左眼、因以生神、
號曰天照大神。
復洗右眼、因以生神、
號曰月讀尊。
復洗鼻、因以生神、
號曰素戔嗚尊。
凡三神矣。
洗左眼…〈閣〉アラヒ給[ノ]ミメヲ 玉フミハナ三神ミハシラノカミマス
然(しかるが)後(のち)に、
左(ひだり)の眼(みめ)を洗(あら)ひたまひて、因(よ)りて生(な)れる神を以ちて、
号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰ふ。
復(また)右(みぎ)の眼(みめ)を洗ひたまひて、因りて生(な)れる神を以ちて、
号(なづ)けて月読尊(つくよみのみこと)と曰ふ。
復(また)鼻(はな)を洗ひたまひて、因りて生(な)れる神を以ちて、
号(なづ)けて素戔嗚尊(すさのをのみこと)と曰ふ。
凡(おほよそ)三神(みはしらのかみ)なり[矣]。
已而、伊弉諾尊、
勅任三子曰
「天照大神者、
可以治高天原也。
月讀尊者、
可以治滄海原潮之八百重也。
素戔嗚尊者、
可以治天下也。」
勅任…〈乙本〉勅任古止与左世天滄海原安乎宇奈波良
 潮之八百重志保乃也保部

勅任…〈閣〉-コトヨサシミハシラミコ[ニ]ヘシ[テ]シラス高天原[ヲ]
 月讀[ノ] 月随潮是也滄海アヲウナハラノ表津二字イ无也シホノ八百重ヤホヘシラス/ヲサム ノ[ヲ]

やほへ…[名] 幾重にも重なったもの。
已(すで)にして[而]、伊弉諾尊、
勅(おほせごと)して三子(みはしらのこ)に任(よさし)して曰(のたま)へらく
「天照大神者(は)、
可以(よく)高天原(たかまのはら)を治(をさむ、しらす)べし[也]。
月読尊者(は)、
可以(よく)滄海原(あをうなばら)の潮(うしほ)之(の)八百重(やほへ)を治(をさむ、しらす)べし[也]。
素戔嗚尊者(は)、
可以(よく)天下(あめのした)を治(をさむ、しらす)べし[也]。」とのたまへり
是時、素戔嗚尊、
年已長矣、復生八握鬚髯、
雖然不治天下、
常以啼泣恚恨。
年已長…〈乙本〉已長須氐仁遠以仁奈利啼泣恚恨奈岐伊加流

〈閣〉ヲヒタリヲヒタリ-ヤ ツカノ- ヒケ
 雖然シカレトモ スシテシラスシラセ[ノ][ヲ]-ナキ/ナキ /イサチ- フツク

是(この)時に、素戔嗚尊、
年(よはひ)已(すで)に長(おゆ)[矣]、復(また)八握(やつか)の鬚髯(ひげ)生(お)ふ、
雖然(しかれども)天下(あめのした)を不治(をさめず)て、
常(つね)に啼泣(なきいさちる)を以ちて恚(いか)り恨(うら)めり。
故伊弉諾尊問之曰
「汝、何故恆啼如此耶。」
對曰
「吾欲從母於根國、
只爲泣耳。」
伊弉諾尊惡之曰
「可以任情行矣。」
乃逐之。】
只為泣耳…〈乙本〉只為泣耳太々仁奈久乃美任情古古呂乃万尒々々
 乃逐之也良比也利ツ

〈閣〉イマシ[ノ]ユヘニ/[ニ]ツネニ-- カクナクヤ-
 [テ]ヤツカレヲモルシタカハムト母於イロハノミコトノ/ネノネツクニ[テ]タゝ為泣/マウシタト云江マフナカクノミトノタマフ秘
 /ワラテニクム---コゝロノマゝニイネト宣コゝロノマニイネト宣-行矣スナハチ逐之 /ヤラヒキヤライヤリキ

なにゆゑ…理由。
故(かれ)伊弉諾尊問之(とひたま)ひて曰はく
「汝(いまし)、何故(なにゆゑ)に恒(つね)に啼(なくこと)如此(かくのごとし)耶(か)。」ととひたまひて、
対(こた)へて曰(まを)さく
「吾(やつかれ)[於]根国(ねのくに)に母(はは)に従(したが)はむと欲(おも)ひまつりて、
只(ただ)泣(なくこと)を為(する)耳(のみ)。」
伊弉諾尊之(これ)を悪(にく)みて曰(のたま)はく
「可以(よく)情(こころ)の任(まにま)に行(ゆ)くべし[矣]。」とのたまひて、
乃(すなはち)逐之(やら)ひき。】
《洗左眼因以生神号曰天照大神》
 「左眼因以生神号曰天照大神」を記は「左御目時所成神名天照大御神」と書いた。意味は同じ。 月読尊、素戔嗚尊についても同様である。
《所知高天原》
一書[6]古事記(第44回)
 天照大神:所知高天原 天照大神:治高天原
 月読命:所知夜之食国 月読尊:滄海原潮之八百重 
 建速須佐之男命:所知海原  素戔嗚尊:治天下
 事依ことよせした統治の範囲は一書[6]の方が確かに適切で、記の記述をここで訂正した形になっている(《素戔嗚尊》)。 これを見ると記の文章が先に出来上がっていて一書[6]はそれを元にして書き、その過程で訂正を加えたように思われる。
《生八握鬚髯》
 ここでも「生八握鬚髯雖然不治天下」は、記「不知所命之国而八拳須至于心前」と同じことを言っている。
《吾欲従母於根国》
 ここでも記の「僕者欲罷妣国根之堅洲国故哭爾〔妣=亡き母〕に沿って書かれているのだが、 ここには問題がある。
 文章を忠実に読めば三貴神〔と一般にいわれる〕素戔嗚尊の禊によって化成したものであって、母は関与していない。 この問題について、〈釈紀〉に興味深い問答が載る。
 『釈日本紀』巻六 述義二/神代上「欲従母根国」
私記曰。問:…素戔嗚尊非伊弉冉尊所一レ生。何故欲於根国哉。
答:今如此一書并古事記之文者非伊弉冉尊之所一レ生也。但昔伊弉諾与伊弉冉共為夫婦。 素戔嗚尊縦非伊弉冉尊之所一レ生、猶為伊弉諾之子。因其本約仮云母耳。其実非母是明。是頗難会之文也。
問:…素戔嗚尊は伊弉諾尊の禊で生まれたのに、何故根の国で母に従いたいと言ったのですか。
答:一書と古事記の文には、素戔嗚尊は伊弉冉尊から生まれたのではないとある。 ただ、以前には伊弉冉尊と伊弉冉尊は夫婦だった。 素戔嗚尊は縦(たと)え伊弉冉尊から生まれていないとしても、なお伊弉諾尊の子である。 もともと伊弉諾と伊弉冉が夫婦だった元の約によって、仮に母と言っただけのことだが、 実際には母ではないのは明らかである。これは頗(すこぶ)る辻褄の合わない文である。
本文一書[6]古事記
生まれ方伊弉諾尊を父として母から生まれた。母が死んでから伊弉諾尊の禊によって鼻から化成した。
伊弉冉尊の死(記述なし)死んで黄泉にいる。死んで黄泉津大神となった。
伊弉冉尊の居所(記述なし)根之堅洲国。根国。
 「〔日本紀講例における博士〕の回答はいつもは断定的であるが、 ここでは大変珍しく、師さえも答えを見いだせずに終わっている。つまりは、当時の誰もがこれを持て余していたと見られる。
 本文一書の対照表()を見ると、物語のラインは書紀本文から記・一書[6]に斜めに繋がっている。心を柔らかくして、このラインをそのまま受け入れてみたらどうだろうか。 すなわち、異説の多様性を保ったまま束として受け入れるのである。
 結局、素戔嗚尊の出現の仕方が「生む」と描かれようが「化成」と描かれようが、伊弉冉尊を母とする血縁はそんなことはものともせずに定まっているとする。神話とはそういうものであろう。
《根国》
 伊弉冉尊がこの世から去った先は黄泉であった。だから、ここでは黄泉根国が同一視されている。 記で描かれた根堅洲国は、大国主が訪れそこにいた須佐能男命によって数々の試練を与えられた世界である(第59回)。 大国主の脱出口は(第61回)は「黄泉比良坂」であるから、やはり黄泉と根堅洲国は同一であった。
《可以任情行》
 伊弉諾尊は、素戔嗚尊が母の国に行きたいと言った、その言葉尻を捕えて「可以任情行」すなわち、希望通り根国へ行かせてやると言って追放した。 「こころのまにまに」という上代語の使い方が著しく明確に示された好例と言える。
 記でも文意は同じだが、任情という皮肉たっぷりの言葉を直接的には用いていない。
 なお、「可以」という熟語は、「」をベシよりもユルスに近づける。
《大意》
 そうした後に、 左眼を洗ったことにより化成した神を、 名付けて天照大神(あまてらすおおみかみ)という。
 また、右眼を洗ったことより化成した神を、 名付けて月読尊(つくよみのみこと)という。
 また、鼻を洗ったことにより化成した神を、 名付けて素戔嗚尊(すさのをのみこと)という。
 全部で三神である。
 その後、伊弉諾尊は、 勅して 「天照大神は、 高天原(たかまのはら)を治めるがよい。 月読尊は、 青海原の潮の重なる波を治めるがよい。 素戔嗚尊は、 天下を治めるがよい」と言ってそれぞれ任じた。
 この時、素戔嗚尊は、 既に年長となり、また八握(やつか)の髭が伸び、 けれども天下を治めることをせず、 いつも啼泣してばかりで怒り恨んでいた。
 よって、伊弉諾尊は 「あなたは、何故にこのようにいつも泣いていているのか。」と問うたところ、 それに答えて 「私は根の国で母に従いたいと欲して、 ただ泣くのみです。」と言った。
 伊弉諾尊はこれを憎んで、 「それなら心のままに行くがよい。」と言って、 追放した。】


まとめ
 一書[6]は、一見すると古事記の固有名詞などの表記を書紀に合わせるだけで、中身はそのまま収めているように見える。
 しかし、実際にはいくつかの修正がなされている。この三貴子への任(よさし)に関しては、明らかに古事記の記述を部分訂正して問題点を解消している。 古事記を発表した後にその訂正が必要になったとき、それ発表するために書紀の一書という空間を利用したように思える。 また、訂正というよりは〈天武〉紀に合わせた書き換えであるが、記述の変化を《又飢時生児》で見た。 さらに、[是時素戔嗚尊自天而降]段一書[6]では、大物主を大国主神の別名の一つに挙げるが、記では別名に加えず同一神かどうかは曖昧なままである。これも訂正のひとつと言える(第55回)
 ただ古事記の献上は712年、日本書紀の奏上は720年である。その間の八年間に一気に書紀を書き上げたのだとすれば、それはさすがにないであろう。 書紀編纂の最初は、〈天武〉十年〔681〕-定帝紀及上古諸事」に遡り、それ以来中断を挟みながら続けられたと考えられている。 したがって、712年の時点で既に書紀の多くの部分は草稿として概ね出来上がっていて、清書の段階で「一書曰…」を挟んで書き進めていったということならあり得るかも知れない。



2026.06.08(mon) [01-11] 神代上11 

22目次 次生海次生川次生山/一書[7]】
《一書[7]》
【一書(7)曰。
伊弉諾尊、
拔劒斬軻遇突智爲三段。
其一段是爲雷神、
一段是爲大山祇神、
一段是爲高龗。
斬軻遇突智…〈内閣文庫本〔以下閣〕---カクツチナスキタ[ニ]
  レナルヲホヤマツミノ[ト]高龗タカヲカミ
【一書(あるふみ)(7)に曰はく。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
剣(つるぎ)を抜きて軻遇突智(かぐつち)を斬(き)りて三段(みきだ)と為(な)せり。
其(その)一段(ひときだ)は是(これ)雷神(みかづちのかみ)と為(な)りて、
一段(ひときだ)は是(これ)大山祇神(おほやまつみのかみ)と為(な)りて、
一段(ひときだ)は是(これ)高龗(たかおかみ)と為(な)りぬ。
〈又曰。
斬軻遇突智時、其血激越、
染於天八十河中所在五百箇磐石而、
因化成神
號曰磐裂神。
次根裂神、
兒磐筒男神、次磐筒女神、
兒經津主神。
其血激越…〈乙本〉河中所在五百箇磐石加波良尓安流伊保豆伊也无良尓
〈閣〉-ソゝイソム○八アマノ-カハラニ- アル五百箇イホツ磐石イハムラ[ニ]/[ヲ]
 シカクシ不讀之[テ]-ナル[ヲ]ナツケ[テ]○磐裂神
 磐筒男[ノ]神次磐筒男女[ノ]神兒ヌシノ
又(また)曰はく。
軻遇突智(かぐつち)を斬(き)りてある時、其(その)血(ち)激越(たばし)りて、
[於]天八十河(あまのやそかは)の中に所在(ある)五百箇磐石(いほついはむら)を染めて[而]、
因(よ)りて化成(な)れる神は、
号(なづ)けて[曰]磐裂神(いはさくのかみ)。
次に根裂神(ねさくのかみ)、
児(こ)は磐筒男神(いはつつのをのかみ)、次に磐筒女神(いはつつめのかみ)、
児(こ)は経津主神(へつぬしのかみ)といふ。
〈倉稻魂、此云宇介能美拕磨。
少童、此云和多都美。
頭邊、此云摩苦羅陛。
脚邊、此云阿度陛、
熯、火也。音而善反。
倉稲魂…〈閣〉 倉稲魂サウタウコム介能カノ拕磨タマ少童セウトウ和多都美ハタツミ頭邊トウ ヘムマクラヘ
 脚邊キヤク ヘムアトヘセムヒナリ也音-シ セムノカヘシ
〈倉稲魂、此(こ)をば宇介能美拕磨(うけのみたま)と云ふ。
少童、此をば和多都美(わたつみ)と云ふ。
頭辺、此をば摩苦羅陛(まくらへ)と云ふ。
脚辺、此をば阿度陛(あとへ)と云ふ、
熯は火(ひ)なり[也]。音(こゑ)は而善(しせん)反(はん)。
龗、此云於箇美。音力丁反。
吾夫君、此云阿我儺勢。
湌泉之竈、此云譽母都俳遇比。
秉炬、此云多妣。
…〈閣〉レイ於箇ヲカ吾夫コフアカ ナセクムサムセムサウ
 ヘイタヒキヨ
龗、此をば於箇美(おかみ)と云ふ、音(こえ)は力丁(りよくたう)反(はん)。
吾夫君、此をば阿我儺勢(あがなせ)と云ふ。
湌泉之竈、此をば誉母都俳遇比(よもつへぐひ)と云ふ。
秉炬、此をば多妣(たひ)と云ふ。
不須也凶目汚穢、
此云伊儺之居梅枳枳多儺枳。
醜女、此云志許賣。
背揮、此云志理幣提爾布倶。
泉津平坂、此云餘母都比羅佐可。
不須也〈閣〉 シユケウエイ此云シウ志許賣シコメ
 背揮ハイ クヰ志理幣提爾布倶シリヘキニフク泉津平坂セムシムヘイハム余母都比羅佐可ヨモツヒラサカ
泉津平坂…〈乙本〉泉津平坂與毛豆平良左加
不須也凶目汚穢、
此をば伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこめききたなき)と云ふ。
醜女、此をば志許売(しこめ)と云ふ。
背揮、此をば志理幣提爾布倶(しりへてにふく)と云ふ。
泉津平坂、此をば余母都比羅佐可(よもつひらさか)と云ふ。
尿、此云愈磨理。音乃弔反。
絶妻之誓、此云許等度。
岐神、此云布那斗能加微。
檍、此云阿波岐。〉】
尿…〈閣〉𣭼テウユハリタイチヨウノ シ
絶妻之誓…〈乙本〉絶妻之誓許等度
〈閣〉タツセツコトノサイメノセイチカヒ許等度コトト岐神キ シム布那斗能フナトノヨク阿波岐アハキ
尿、此をば愈磨理(ゆまり)と云ふ。音(こゑ)は乃弔(だいてう)反(はん)。
絶妻之誓、此をば許等度(ことど)と云ふ。
岐神、此をば布那斗能加微(ふなとのかみ)と云ふ。
檍、此をば阿波岐(あはき)と云ふ。〉】
《抜剣斬軻遇突智為三段》
三段斬りの神と同一と考えられる神 ( )内は三段斬りではない場合の化成の方法。
一書[7]古事記一書[6]一書[8]
 雷神 建御雷之男(御刀本血)  武甕槌神(剣鍔垂血) 
 大山祇神  大山祇(斬為五段) 
 高龗 闇淤加美神(集御刀之手上血。自手俣漏出)  闇龗(剣頭垂血)
 《斬軻遇突智為三段》項で見たように、 一書[6]の「為三段」は神名を欠き空っぽであった。一書[7]ではそこに入るべき神を補った形になっている。
 その三神のうち雷神高龗については、他では次のようにして化成している。
 まず、雷神は記の「建御雷之男」及び一書[6]の「武甕槌神」と同一神と考えられる。
 ミカツチは、イカツチの美称「ミ-イカツチ」の母音融合。
 記は「御雷」、一書[6]は「甕槌」と表記。
 タケ-は荒々しさを強調する接頭語。記は「建-」、書紀は「武-」の字を用いる。
   次にオカミと訓む。
 龗は一書[7]の訓注に「於箇美」とあるから、一書[6]の「闇龗」は記の「闇淤加美」と同じ。
   建御雷之男/武甕槌神が化成した剣の部位「剣鐔」/「御刀本」は同一と考えられる。 闇淤加美神/闇龗の「剣頭」/「御刀之手上〔=刀の柄〕も同じ。
 よって、この二神については、記と一書[6]では同じことが書かれていると見てよい。
 ここで闇龗と一書[7]の高龗はと同一か、少なくとも同グループの神と考えられている。 [貴船神社公式ページ]によれば「貴船神社の御祭神である高龗神は闇龗神とも伝わります。社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されています」という。 同サイトでは龗神自体の性格については「龍神」・「水源の神」と説明している。
 以上から、三神のうち雷神高龗は三段斬り以外の方法による化成から移ってきていると見てよい。
 残る大山祇神については、一書[8]で五段斬りの神の一柱が「大山祇神」である。 その五段に斬ったすべてが「~山祇」であった。
 記では八つの部位からすべて「~山津見」を化成した。 但し大山津見神自体はその中にはなく、神生みの一神とであった(第36回)
 ただトータルに見て、一書[7]で純粋に三段斬りに属するのは大山祇神と見てよいであろう。
《於天八十河中所在五百箇磐石》
神名対応図 (第38回)
磐裂神のグループの比較
古事記一書[6]一書[7]
行先 走就湯津石村(記述なし) 染於天八十河中所在五百箇磐石
石拆神
根拆神
石筒之男神
磐裂神
根裂神
磐筒男命(一云磐筒男命磐筒女命) 
磐裂神
根裂神―(児)磐筒男神磐筒女神―(児)経津主神
 古事記では「剣鋒垂血」より化成したグループが「走就湯津石村」に「走就」したが、一書[6]はそれを取り消す形になっていた。 その取り消した部分は、一書[7]で再び記の形に戻っている(上表) (《五百箇磐石》)
 もし、一書[6]の伝承が古事記に先行していたとすれば、記は一書[6]に一書[7]をミックスして書かれたことになる。
《倉稲魂此云宇介能美拕磨…》
 「倉稲魂此云宇介能美拕磨」以下は、一書[6]への訓注である。すなわち一書[7]は一書[6]を修正・補足する関係にある。 正規漢文を用いる方針は一書にも貫かれているのだが、同時にもともとの口承の原形を訓注という形で残したと考えられる。
 一書[6]への訓注の多さは、それだけ伝承の原形に近いことを物語る。
《大意》
【一書(あるふみ)(7)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、 剣を抜いて軻遇突智(かぐつち)を斬って 三段として、 その一段は雷神(みかづちのかみ)、 一段は大山祇神(おおやまつみのかみ)、 一段は高龗(たかおかみ)となった。
 また曰く、 軻遇突智(かぐつち)を斬った時、その血は飛び散って、 天八十河(あまのやそかわ)の中にある五百箇磐石(いほついわむら)を染め、 そこから化成した神の名を、 磐裂神(いわさくのかみ)、 次に根裂神(ねさくのかみ)、 その子は磐筒男神(いわつつのをのかみ)と、 次に磐筒女神(いわつつめのかみ)で、 その子を経津主神(へつぬしのかみ)という。
 〈倉稲魂は 「うけのみたま」と訓む。 少童は 「わたつみ」と訓む。 頭辺は 「まくらへ」と訓む。 脚辺は 「あとへ」と訓む、 熯は火のことで、音は而善(しせん)反(はん)。 龗は 「おかみ」と訓み、音は力丁(りょくちょう)反。 吾夫君は 「あがなせ」と訓む。 湌泉之竈は 「よもつへぐい」と訓む。 秉炬 は「たひ」と訓む。 不須也凶目汚穢は 「いなしこめききたなき」と訓む。 醜女は 「しこめ」と訓む。 背揮は 「しりへてにふく」と訓む。 泉津平坂は 「よもつひらさか」と訓む。 尿は 「ゆまり」と訓む、音は乃弔(だいちょう)反。 絶妻之誓は 「ことど」と訓む。 岐神は 「ふなとのかみ」と訓む。 檍は 「あはき」と訓む。〉】


23目次 次生海次生川次生山/一書[8]】
《一書[8]》
【一書(8)曰。 伊弉諾尊、
斬軻遇突智命爲五段。
此各化成五山祇。
一則首、化爲大山祇。
二則身中、化爲中山祇。
三則手、化爲麓山祇。
四則腰、化爲正勝山祇。
五則足、化爲䨄山祇。
斬軻遇突智命…〈乙本〉身中牟久呂正勝万左可豆
 䨄山祇之支也末宇美也末豆美
〈閣〉ナス五段-ナル ノ-ヤマ ツミ[ト]カシラ-ナル大山祇ヲホヤマツミ[ト]
 - ムクロ中山祇ナカヤマツミ麓山祇ハヤマツミコシマサ/マサ/カツヤマカ 江家正随ツミアシ
 䨄山祇シキヤマツミ
【一書(あるふみ)(8)に曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬(き)りて五(いつつ)の段(いつきだ)と為す。
此(こ)は各(おのもおのも)五(いつはしら)の山祇(やまつみ)と化成(な)りて、
一則(ひとはしらは)首(かしら)より、大山祇(おほやまつみ)と化為(な)る。
二則(ふたはしらは)身中(むくろ)より、中山祇(なかやまつみ)と化為(な)る。
三則(みはしらは)手(て)より、麓山祇(はやまつみ)と化為(な)る。
四則(よはしらは)腰(こし)より、正勝山祇(まさかやまつみ)と化為(な)る。
五則(いつはしらは)足(あし)より、䨄山祇(しぎやまつみ)と化為(な)る。
是時、斬血激灑、
染於石礫樹草。
此草木沙石自含火之緣也。
是時…〈閣〉是時[ニ]キル-ソゝイ[テ]ソマル石礫イシムラ-キ クサ[ヲ]
〈乙本〉石礫伊波牟良
〈閣〉 レ草木-イサコノ ラ[ニ]フクム ヒ緣也コトノモトナリ
…[前] (古訓) に。を。
是(この)時に、斬(き)りし血(ち)の激灑(たばし)りて、
[於]石礫(いはむら)樹草(きくさ)を染(そ)めつ。
此(これ)草木(くさき)沙石(いさご)の自(みづか)ら含火之(ひをふくめる)縁(よし)なり[也]。
〈麓山[々]足曰麓、此云簸耶磨。
正勝、此云麻沙柯、
一云麻左柯豆。
䨄、此云之伎、音鳥含反。〉】

…〈閣〉ハヤマハヤマノフモトイフハヤマト正勝セイシヨウ麻左柯菀マサカツ
 カム■■■シ鳥含ヲウ カムノ

…[名] 〈倭名類聚抄〉「:山足也。音禄。【和名不毛止】」。
山足…〈汉典〉「山脚:山体接近平地的部分」。
ウズラシギ
しぎ…[名] シギ科。〈時代別上代〉「「䨄」は」、「うずらの一種であるが、しぎはうずらと並び称される猟鳥で形状の似寄りからシギにあてたものか」。
〈麓山、[山]足(ふもと)を麓(は)と曰(い)ふ、此をば簸耶磨(はやま)と云ふ。
正勝、此をば麻沙柯(まさか)と云ふ、
一(ある)に麻左柯豆(まさかつ)と云ふ。
䨄、此をば之伎(しき)と云ふ、音(こゑ)は鳥含(をかむ)反(はん)。〉】
《斬軻遇突智命為五段》
n段斬りで化成した神 数字はそれぞれの文書内での記述順。
※)数字の付かないものは〔他の化成〕により現れて同一神と考えられるもの。
古事記(八神)一書[8](五段)一書[7](三段)一書[6](三段)書紀本文
 大山津見神〔神生み〕※)大山祇神()大山祇神(神名なし) 〔次生海段〕
中山祇(身中)
羽山津見神(右手)麓山祇()
正鹿山津見神()正勝山祇()
志芸山津見神(左手)䨄山祇()
淤縢山津見神()
奧山津見神()
闇山津見神() 闇山祇〔剣頭〕
原山津見神(左足)
戸山津見神(右足)
 建御雷之男〔御刀本〕雷神 武甕槌神〔剣鍔〕
高龗 闇龗〔剣頭〕
 n段斬り〔n=3,5,8〕で化成した神は、一書[6]⇒[7]⇒[8]⇒記の順番で古事記に近づいている。
 は記紀においてすこぶる好まれる数である。これは極めて古い時代からだろうと思われ、 江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣(資料[28])の 「八十練●十振三寸」を本来は「八十練五十振三十寸」であったと判断した。
 一書[8]の五段斬り化成神は、記の山津見八神に比較的近い。記が手足をそれぞれ左右に分けたのは対称性に拘ったためとも思われ、八雷(下述)の身体図八分割とも完全に一致する。
 大山祇神については、記は既に神生み段に置いてしまったので、ここから除いたとも考えられる。 代わりに頭に置くリーダーとして、マサカ山津見を昇格させている。
 記独自の2・3・4・7・8は当時数多く言い伝えられていた「~山津見」の中から記が拾ったとも考えられるが、 記と一書[8]の中間の伝承が存在したと考えた方が自然かも知れず、決め難い。
《染於石礫樹草》
 血が飛び散った先の「石礫」には「樹草」が加えられ、湯津石村〔記〕五百箇磐石〔一書[6]・[7]〕よりも一般的な語になっている。 ただ石礫への書紀古訓「伊波牟良」は、記の「湯津石村」に准じたと思われる。 それでもイハムラは本来、石が群がっている状態を表す言葉である。したがって樹木と並べ置くとほぼ一般名詞に戻る。
 この振れ幅を押さえておかないと、次の「草木沙石」との繋がりが理解不能となる。
《此草木沙石自含火之縁也》
 「草木沙石」が「自含〔自ら火を含む〕意味については、 『通証』は「生通曰木石中火固有草萌花莟皆紅火精尤著〔忌部正通〔南北朝時代の神道家〕曰く、木石の中に火は固く有り、草は萌え花蕾は皆紅の火精にもっとも著しい〕を引用する。
 さらに「兼倶曰穂訓保火謂也。今按伊佐古石少子也。萌与燃同訓義。花将開俗謂火登毛須杜詞山青花欲燃
 〔吉田兼倶〔室町。唯一神道を成す〕曰く、穂(ホ)は火(ほ)と同根である。私〔谷川士清〕が按ずるに伊佐古〔=砂〕※)と訓まれているが実は石少子〔火打石〕であろう。 萌は燃と同じで、花が開こうとすることを俗に火ともす〔灯す〕と言い、杜甫の詩では山青くして燃えんと欲すとある〕と述べる。
 ※)…〈倭名類聚抄〉「砂:水中細礫也【和名以左古イサゴ須奈古スナゴ」。
 文中の「伊佐古石少子也〔イサゴは石少子なり〕については、 「石少子」という名詞は一般に存在しないので、「漢字で表すとすれば"石少子"とでも書くべきもので、イサゴは砂ではなく石を意味すると考えられ、ここでは火打石と解釈すべきである」という意味であろう。 すなわち『通証』は「草木沙石自含火」=「草木は萌え、石は火打石になる」と解釈したのである。 これでその論旨はこれでひとまず理解できた。
 その上で原文に戻ると、「沙石」は前文の「石礫」に対応するが「」はどう見ても砂であるから、やはり粒は突然小さくなったことになる。 これについては一書は本文に比べて雑に書かれる傾向が時折見られるから、ここでも不用意にこの語を使ってしまった可能性はある。
 しかし、「石礫樹草」と「草木沙石」は明らかに異なる語句だから、草木沙石を用いた諺が実際に存在していたに違いない。 「沙は石を指す」はどう見てもこじつけで、正真正銘の砂にまつわる伝承が実在したと見るべきであろう。
 これまでに、カグツチ伝説についてはタタラ製鉄に纏わるとの見通しを得た(神代上8まとめ)。よってここでもイサゴは砂鉄であると考えて見る。すると草木は燃料・還元剤になるから、これもタタラ製鉄のことであろう。 この方が「火打石+草木萌ゆ」説よりも納得感は強い。それは、タタラ製鉄の方が火打石よりダイナミックな営みで、かつ草木まで直結するからであろう。
《麓山足曰麓》
 「麓山足曰麓」について、『集解』は「原有足曰麓三字私記攙入」すなわち「麓山此云簸耶磨」が正しいとする。 この文は、正しくは「麓山、山足曰麓、此云簸耶磨」でなければならず、山が一個足らない。『集解』は、私記がその三文字を傍書し、それが筆写されるうちに誤って正字になったということらしい。しかし書紀が厳密に研究されるようになった私記の時代以後に、このようなことは起こり得ないであろう。 しかも三文字を削っても「山」は一個足らないままである。 むしろ元の「麓山々足曰麓此云簸耶磨」を筆写する過程で「」が脱落したと見るのが妥当であろう。
《大意》
 【一書(8)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬って五段とした。
 ここからそれぞれ五体の山祇(やまつみ)となり、 第一に頭から、大山祇(おおやまつみ)となり、 第二に胴体から、中山祇(なかやまつみ)となり、 第三に手から、麓山祇(はやまつみ)となり、 第四に腰から、正勝山祇(まさかやまつみ)となり、 第五に足から、䨄山祇(しぎやまつみ)となった。
 この時に斬った血が飛び散り、 石、礫、樹、草を染めた。 これが草木と砂が自ら火を含む縁りである。
 〈麓山、山麓を麓(は)といい、 これを「はやま」訓む。 正勝は 「まさか」、 あるいは「まさかつ」と訓む。 䨄は 「しぎ」と訓む、音は鳥含(ちょうかん)反。〉】


24目次 次生海次生川次生山/一書[9]】
《一書[9]》
【一書(9)曰。 伊弉諾尊、欲見其妹、
乃到殯斂之處。
是時、伊弉冉尊、猶如生平、
出迎共語。
已而謂伊弉諾尊曰
「吾夫君尊請勿視吾矣。」
欲見其妹…〈乙本〉其妹曽乃伊呂遠殯斂之處毛加里乃止古呂
 如生平伊岐太里志止支乃古止久尓請勿視吾安礼遠奈美太万比曽

〈閣〉ヲモ ミマサムト其字不讀也イロト[ヲ] イマス-モカリノ ソ ノ
  クマシ生平イケリシトキノ-イテムカ[テ]トモ[ニ] ル
 [カ]-ナセノミコトコフ-ナミマシソト[ヲ]

【一書(あるふみ)(9)に曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、其の妹(いも)を欲見(みまくほり)て、
乃(すなはち)殯斂之処(もがりのところ)に到ります。
是の時に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、猶(なほ)生平(いきてありしとき)の如(ごと)くに、
出迎(いでむか)へて共(とも)に語(かた)らふ。
已(を)へて[而]伊弉諾尊(いざなぎのみこと)に謂(まを)して曰(まを)ししく
「吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、請(ねがはくは)吾(あれ)を勿視(なみそなはしそ)[矣]。」とまをしき。
言訖忽然不見于時闇也。
伊弉諾尊乃舉一片之火而視之時、
伊弉冉尊脹滿太高。
上有八色雷公、
伊弉諾尊驚而走還。
言訖…〈閣〉言訖/ノタマフコトヲハテ<ノタマヒヲハテ/rt>タチマチ-[ニ]クラシ
一片之火…〈乙本〉舉一比止豆片之火止毛之天脹滿太高波礼多々倍利
 八色雷公也久左乃伊加豆゛知
〈閣〉トモシ- ヒトツヒ--ミソナハスハレ-滿- タゝヘリ
 ウヘニ リ-クサノ-イカツチ/ニケ-    ル/カヘリタマフ
たたふ…[自]ハ四 充満する。
言(こと)訖(を)へて忽然(たちまち)に不見(みえず)、于時(ときに)闇(くら)し[也]。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)乃(すなは)ち一片(ひとひら)之(の)火(ほ)を挙げて[而]視之(め)してある時に、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)脹満(はれてたたふること)太(はなはだ)高(たか)し。
上(うへ)に八色(やくさ)の雷公(いかづち)有りて、
伊弉諾尊驚(おどろ)きて[而]走(に)げ還(かへ)りつ。
是時、雷等皆起追來、
時道邊有大桃樹、
故伊弉諾尊、隱其樹下、
因採其實、以擲雷者、
雷等皆退走矣。
此用桃避鬼之緣也。
皆起追来…〈乙本〉擲雷者伊加豆知尓奈計゛志加波゛
 避鬼於尓乎不世久゛
〈閣〉雷等イカツチトモ[テ]- ル リ ナルモゝノ
 [ノ]キノ[ニ][ヲ]ナケシカハ[ニ]退-シリソキヌフセク ヲニ[ヲ]
 緣也コトノモトナリ
是(この)時、雷(いかづち)等(たち)皆(みな)起(た)ちて追(お)ひ来(きた)れり。
時に道辺(みちのへ)に大(おほ)きなる桃樹(もものき)有り。
故(かれ)伊弉諾尊、其の樹下(きのもと)に隠(かく)りて、
因(よ)りて其の実(み)を採(と)りて、以ちて雷(いかづち)に擲(なげう)て者(ば)、
雷(いかづち)等(たち)皆(みな)退(しりぞ)き走(に)げぬ([矣]。
此(こ)は桃を用ゐて鬼(おに)を避(さ)くる[之]縁(よし)なり[也]。
時伊弉諾尊乃投其杖曰
「自此以還、雷不敢來。」
是謂岐神、
此本號曰來名戸之祖神焉。
投其杖…〈乙本〉雷不敢來伊加豆゛知奈古曽岐神布奈止乃神
 祖神遠保知

〈閣〉ナケウテ-コノカタ-エコシ-三字引合エコシ岐神フナトノカミ
 此本[ノ][ヲ][ハ]トノ-ヲホチ[ト]

以還…以来。
岐神…「ふなとのかみ」(一書[7]訓注)。
時に伊弉諾尊乃(すなはち)其の杖(つゑ)を投げて曰(のたま)はく
「此(これ)自(よ)り以還(このかた)、雷(いかづち)不敢来(あへてくましじ)。」とのたまふ。
是(これ)岐神(ふなとのかみ)と謂(い)へり、
此(この)本号(もとのな)は来名戸(くなと)之(の)祖神(おやがみ)と曰ふ[焉]。
〈所謂八雷者、
在首曰大雷、
在胸曰火雷、
在腹曰土雷、
在背曰稚雷、
在尻曰黑雷、
在手曰山雷、
在足上曰野雷、
在陰上曰裂雷。〉】
八雷…〈乙本〉在背世奈加尓安流遠波山雷也万豆知野雷乃豆゛知

〈閣〉-イフ八雷ヤクサノイカツチ[ハ]ヲホイカツチホノツチノワカ
 シリ/カクレニクロヤマ-也万都知-乃都知ツチ陰上二字引合ホトノウヘニ裂雷サク イカツチ

〈所謂(いはゆる)八雷(やくさのいかづち)者(は)、
首(かしら)に在りて大雷(おほいかづち)と曰ふ、
胸(むね)に在りて火雷(ほのいかづち)と曰ふ、
腹(はら)に在りて土雷(つちのいかづち)と曰ふ、
背(そびら)に在りて稚雷(わかいかづち)と曰ふ、
尻(しり)に在りて黒雷(くろいかづち)と曰ふ、
手(て)に在りて山雷(やまつち)と曰ふ、
足(あし)の上(うへ)に在りて野雷(のづち)と曰ふ、
陰(ほと)の上(うへ)に在りて裂雷(さくいかづち)と曰ふ。〉】
《殯斂之処》
 殯斂は本来、埋葬の前に一定期間もがりの宮に置くことである。しかし、文脈では墓の中なので、 これは一書に見られる記述の雑さのひとつであろう。  
《猶如生平/忽然不見》
 一書[9]は、前項「殯斂之処」の不用意さはあるが、全体的には簡潔で読みやすい。 古事記では、の他に黄泉軍千五百黄泉津醜女よもつしこめも一緒になって追って来る。 またの他に蒲子(エビカズラ)やも生える。 初めに戻ると黄泉神黃泉戸喫〔黄泉の食物〕、頭に刺したも出てきて、盛りだくさんである。ストーリーに破綻はないが、散漫さは否めない。 これは、存在した多種多様な伝承を一本のストーリーに綴り合せようとした結果であろうと推定される。
 一書[9]に出てくるのはだけで、個別の伝承はこのように簡潔なものだったと考えてよいのではないか。
《脹満太高》
 第40回【一書九】項参照。
《八色雷公》
 神代上巻次生海段の一書群は、古事記ガグツチ段からイザナミ黄泉段に対応している。特に一書[6]はかなり記に近い。
 しかし記に書かれたうち八雷は一書[6]にはなかった。一書[9]はそれを補う形になっている。
 それでは、一書[6]は記を元にして書かれたが、その際脱落があったことに気づき、あとから一書[9]で補ったのだろうか。 しかし、この筋書きはやはり不自然である。むしろ一書の方が、伝承の元々の形だ見るのが順当であろう。 記はさまざまな素材を部品として組み立てて一貫性のある物語を構成し、興味深く読ませる形にしている。
 ただ、これまでに記の訂正のために使用された部分が見出だされたと述べた。 ということは記の方が一書より先にあった。これはどう説明したらよいのだろうか。
 仮に書紀を執筆する前に記が書かれていたとしても、その記を構成するのに使われた複数の伝承を、 一書では原形のまま並べて置いたと見ればよいであろう。 また一書そのものに融通性があり、時には古事記の修正を記す空間として使われたと受け止めるのがよいかも知れない。
 ただし、記「於後手布伎都都」を、一書[6]は「背揮」と簡潔に漢字で表記する。 記「伊那志許米志許米岐」、書紀「不須也凶目汚穢」なども同様である。
 だから正規漢文で記述しようとする書紀の方針は一書にも貫かれている。 ただ古い形を残したいと思う部分には訓注が添えられ、元々の言葉遣いを残すようにしたと考えられる。
《走還》
 「走還」に〈内閣文庫本〉では尊敬語タマフを右訓にはつけ、左訓にはつけない。 伊弉諾尊は基本的に尊敬語を用いる対象であるが、すべての動詞にタマフをつけるとかなり煩わしい。この箇所のように臨場感を伴う場面では省くのが自然であろう。
《用桃避鬼》
 記では、黄泉平坂にきたとき、そこにあったの実を三個投げたところ八雷神と黄泉軍を追い払うことができた。 よって桃に向かって、人民が苦難に陥ったときに救えと命じてオホカムツミ〔大神つ実〕の名を賜ったとある(【おほかむつみ】)
《投其杖》
 「投其杖…」は、一書[6]では「自此莫過」の後ろに置かれていた (《自此莫過》)。 記では伊弉諾尊の禊の前に置かれ、本来は独立した伝承であった「投其杖…」を、挿入する位置が異なったと見た。
 一書[9]ではが越えて来ることがないように結界を張ったとする。ここでは投げたのは杖だけなので、この話が置かれた場面は筋が通る。 「」の字は、結界に相応しい。
《是謂岐神》
 〈時代別上代〉によると「「岐」の字があてているので、分かれ道をフナトといったことが推定できる。道の分岐点は村境でもあって、そこには魔物をさえぎるフナトノカミ、すなわち道祖神が祭られた場所でもあった」という。
 ここでは原注「此本号曰来名戸之祖神」によって、クナトが本来の呼び名であったと述べる。「終止形+ナ」は禁止文の形なので、もともと「来ナ」であったとする語釈を述べたものかも知れない。 [ɸ]⇒[k]、あるいはこの逆方向の音韻変化はしばしば見られるという。よって、どちらの形が古いかの判断は難しい。 少なくとも上代には両方の形が存在したことが、この訓注から知れる。
《所謂八雷》
八雷 数字は各文書内での記載順。
一書[9]古事記〔他の箇所〕に見える同一神
在首曰大雷於頭者大雷
在胸曰火雷於胸者火雷
在腹曰土雷於右手者土雷 
在背曰稚雷於左手者若雷
在尻曰黒雷於腹者黒雷
在手曰山雷 山雷〔[是後素戔嗚尊之為行也甚無状]段一書[2]〕
在足上曰野雷  野椎神記神生み段野槌書紀次生海段
在陰上曰裂雷於陰者拆雷居
於左足者鳴雷
於右足者伏雷
 「」・「」のみに「」がつくのは単に記述のぶれで、一書における"雑さ"の表れであろう。
 一書[9]の「八色雷公」と記の「八雷」とは、その神名に幾らかの差異がある。 伝承自体に変種があったと考えられる。
 また八雷のうち、山雷(やまつち)・野雷(のづち)だけは~イカヅチの形ではない※1)。 これは、おそらくヤマツチノヅチが既に馴染みのある神であったことと、 そもそもだけでイカヅチの意を含んでいたためと考えられている。
 このうちノヅチについては、記では神生み段に「野椎神」が見え、書紀本文の「野槌」もそれを継承している(右表)。 ヤマツチについては、[是後素戔嗚尊之為行也甚無状]段一書[2]において「野槌」とともに「山雷」が出てくる。
 これを見ると、古事記は「山雷」・「野雷」は神生みで出現したものだからここでは取り除くべきだとして、意図的に「鳴雷」・「伏雷」に差し替えた可能性がある。 そして差し替えた後の「鳴雷」という名前を見ると、記は「」を気象現象としてのとかなり近いイメージで見ていたことになる※3)。
 このように記が原伝承に手を加えたのだとすれば、更に出現部位に関しても改変があった可能性がでてくる。 考えてみると手足は左右にあるから、物理的には左右の手足から計四体の雷が出現した方が辻褄が合う※3)
 また、仰向けに横たわっていたのなら、背中や尻から出現することも理屈が合わない。よって、出現部位を変更して雷を配置換えしたことはあり得よう※4)。それでも、という重要な部位は原伝承を維持した。興味深いのはサク雷で、部位と神名のイメージがぴったり合うからこれも維持されたことになる※5)
 さらに、この身体の部位:頭・胸・腹・陰・左手・右手・左足・右足が順番まで含めて《斬軻遇突智命為五段》で見た軻遇突智の身体の部位に完全に一致することは極めて興味深い。これらの部位の設定は統一性をもってなされたと見られ、これが古事記執筆者によってなされたことは確実になったと言ってもよいのではないか。
 この想像を前提とすれば、古事記を書くために用いた伝承資料は少なくとも日本書紀の編纂スタッフに共有され、書紀はその原伝承をそのままの形で『一書』として収めたことは確実と思われる※6)
 ※1)…書紀古訓に「也万都知」・「乃都知」が見える。
 ※2)…もうひとつの伏雷については、蛟〔みづち:水中に潜んで龍に変態する前の形態〕が連想される。
 ※3)…これもあるが、むしろ禊の「左目:天照大神。右目:月読神(第43回)、天照大神・素戔嗚尊誓の誓の件の 「左右の鬟、左右の御手(第45回)のように、左右の対称性に拘る傾向は強く、ここでもそれが表れた可能性が高い。 この時代はすべてにおいて左が優位とされ、これは左大臣右大臣の序列にも現れている。 なお、古事記が排除したについては、鍼灸術における陰陽道において、背・尻が陽、胸・腹が陰にあたる([麹町はり灸指圧治療院])といい、伝承は中国の陰陽思想の影響を受けていたとする見方もある。
 ※4)…それでも雷の柱数「」は維持される。これは、記紀の各所や天皇陵の八角墳(【檜隈大内陵の調査記録】ほか)などに見える数字八の神聖視を示すものと言える。
 ※5)…伊弉冉尊は、カグツチを出産したときに、陰部が焼けて死亡した。このこととの直接的な繋がりが見える。
 ※6)…想像に過ぎないが、もしかして太安万侶が原伝承を改変したことを気にしていて、原形を一書に残すよう指示したのだとすれば大変面白い。
《大意》
 【一書(9)に曰く、 伊弉諾尊は、妻を見たいと思い、 殯斂(もがり)のところに行った。
 この時、伊弉冉尊は、なお生きていた時の如く、 出迎えてともに語らった。 それを終えて、伊弉諾尊は 「わが夫君、請わくば私を見ないようにしてください。」と言った。
 言い終えてたちまち姿が見えなくなり、その時真っ暗になった。 そこで伊弉諾尊が一片の火を灯して見たところ、 伊弉冉尊の体が腫れて膨れそれは甚だしく盛り上がっていた。 その上には八種類の雷(いかづち)がいたので、 伊弉諾尊は驚いて逃げ帰った。
 その時、雷たちは皆起き上がって追いかけてきた。 その時、道辺に大きな桃の木があった。 よって伊弉諾尊は、その木の下に隠れ、 実っていた桃の実を採り雷(いかづち)に投げつけたところ、 雷たちは皆退去して逃げた。
 これが桃を用いて鬼を避けることの縁りである。
 時に伊弉諾尊は持っていた杖を投げて 「これで、以後は雷が敢えて来ることはないだろう。」と言った。 これを岐神(ふなとのかみ)といい、 この本の名は来名戸(くなと)の祖神(おやがみ)という。
 〈いわゆる八種類の雷(いかづち)は、 頭にあったものを大雷(おおいかづち)、 胸にあったものを火雷(ほのいかづち)、 腹にあったものを土雷(つちのいかづち)、 背中にあったものを稚雷(わかいかづち)、 尻にあったものを黒雷(くろいかづち)、 手にあったものを山雷(やまつち)、 足の上にあったものを野雷(のづち)、 陰部(ほと)の上にあったものを裂雷(さくいかづち)という。〉】


まとめ
 古事記に記された伊弉冉尊が黄泉に行った後の部分は書紀本文では触れられなかった。 大雑把に見れば、一書[6]~[9]は併せ技でその部分を補ったものと受け止め得る。 しかし、細部を詳細に解析してみたところ事柄はそれほど単純ではなかった。
 古事記は、とりわけカグツチや伊邪那美命の身体から神を化成する際の区分けに、強い拘りがあったことが分かる。 そして、その部分には明らかに原伝承に改変を加えたと見るのが妥当である。
 よって、古事記は独自の美学によって加工され、形を整えられて異説は排除している。 同時に作者にはさまざまに語り継がれた伝説への愛着は強く、だからこそその整わない素朴な形を一書として書紀に収めさせたのは安万侶自身の意向ではないかと思うのである。 これは心情の問題なので資料から実証することは難しいが、文芸論的なアプローチとして是非このように捉えたいところである。



2026.06.12(fri) [01-12] 神代上12 

25目次 次生海次生川次生山/一書[10]】
《一書[10]》
【一書(10)曰。 伊弉諾尊、
追至伊弉冉尊所在處。
便語之曰「悲汝故來。」
答曰「族也、勿看吾矣。」
伊裝諾尊、不從猶看之。
所在処…〈乙本〉所在處安留止古呂万志末寸
 悲汝故來奈牟知゛乎加奈志止 フ加由倍尒岐岐
 族也宇加良勿看吾矣安礼遠奈万志曽

〈内閣文庫本〔以下閣〕ヲヒ[テ]イタリマシ伊弉冉尊[ノ]- マス[ニ][テ]
 イマシカナシトヲモフカ[ヲ]ユヘ[ニ]キツウカラ-ナミマシソ[ヲ]スシしたかひたま[テ]ミソナハス

【一書(あるふみ)(10)に曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
追(お)ひて伊弉冉尊(いざなみのみこと)が所在処(ますところ)に至(いた)ります。
便(すなはち)語之(かたらひ)て曰(のたま)はく「汝(いまし)を悲(かなし)ぶが故(ゆゑ)に来たり。」とのたまひて、
答(こた)へて曰(のたま)はく「族(うがら)[也]、吾(あれ)を勿看(なめしそ)[矣]。」
伊裝諾尊、不従(したがはず)て猶(なほ)之(こ)を看(め)す。
故伊弉冉尊恥恨之曰
「汝已見我情。我復見汝情。」
時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、
于時、不直默歸而盟之曰
「族離。」
〈又曰「不負於族。」〉。
恥恨…〈閣〉カレハチ- ミテイマシ[ニ]ミツ[カ][ヲ]ミムイマシ[カ][ヲ]
 𡖋ハチタマフ[テ]イテ-カヘリナムト
族離…〈乙本〉族離宇加良波奈礼奈牟不負於族宇波我良麻概曽
〈閣〉二スb>直タゝ/モタサヤマ カヘリタマフ[テ]チカフ族離ウカラ ハナレナム
 マケウカラ
…[名] (古訓) こころ。まこと。
故(かれ)伊弉冉尊恥(は)ぢ恨之(うらみ)て曰(のたま)はく
「汝(いまし)已(すで)に我(わが)情(まこと、かたち)を見(め)したまひき。我(あれ)復(また)汝(いまし)が情(まこと、かたち)を見(み)む。」とのたまふ。
時に、伊弉諾尊亦(また)慙(は)ぢ[焉]て、因(よ)りて将(まさ)に出(い)で返(かへ)らむとす、
于時(ときに)、直(ひた)黙(もだ)して帰(かへ)ら不(ず)て[而]、盟之(ちか)ひて曰(のたま)はく
「族離(うがらさか)る。」とのたまふ
〈又「不負於族(うがらにまけじ)。」と曰ふ〉。
乃所唾之神、號曰速玉之男。
次掃之神、號泉津事解之男。
〈凡二神矣。〉
所唾之神…〈乙本〉所唾之神津波久神事解之男古止左加乃乎
〈閣〉-ツハク之神[ヲ][テ]ハヤタマ[ト]
 ハラフ之神[ヲ]ヨモコトサカ[ト][テ]二神フタハシラノカミマス
乃(すなは)ち所唾之(つはく)神、号(なづ)けて速玉之男(はやたまのを)と曰へり。
次に掃之(はらふ)神をば、泉津事解之男(よもつことさかのを)と号(なづ)けり。
〈凡(おほよ)そ二(ふたはしら)の神[矣]。〉
及其與妹相鬪於泉平坂也、
伊弉諾尊曰
「始爲族悲及思哀者、
是吾之怯矣。」
其与妹…〈乙本〉與妹伊毛比止々
 始為族悲及思哀者波志女宇可良奈之比加奈之止於毛比介留己止波

〈閣〉イロトアヒ- アラソフ-ヨモツ ヒラ-
 ウカラ[ノ]カナシヒヲヨヒ-シノヒケルコト[ハ] レ[カ]ツタナシツタナキナリケリ

…[形・動] 〈汉典〉「胆小、畏縮、虚弱」。
をぢなし…[形]ク 劣っている。しっかりしていない。
つたなし…[形]ク 愚かだ。
其(それ)妹(いも)与(と)[於]泉平坂(よもつひらさか)に相(あひ)闘(あらそふ)に及びて[也]、
伊弉諾尊曰(のたま)はく
「始(はじめ)に族(うがら)の為(ため)に悲(かな)しび思哀(あはれぶ)に及(およ)べる者(は)、
是(これ)吾之(あが)怯(をぢなきこと)なりき[矣]。」とのたまふ。
時、泉守道者白云
「有言矣曰
『吾、與汝已生國矣、
奈何更求生乎。
吾則當留此國、不可共去。』」
泉守道者…〈乙本〉泉守道者与毛豆知毛利比止有言古止安利
〈閣〉[ニ]--ヨモツチモリヒト- シテ[テ]マウサク リノタマウコト[句]
 ノ ハク イマシ[ニ]ウムテキ[ニ]-イカムソ[ニ]モトメムヤイカムコトヲ ヤ
 トゝマ[ノ][テ]ストイフヘカラ[ニ]
時に、泉守道者(よもつみちもり)白(まを)して云(まを)さししく
「言(こと)有り[矣]て曰(のたま)へらく
『吾(あれ)、汝(いまし)与(と)生国を生むことを已(を)へ[矣]て、
奈何(いかに)か更(さら)に生(いくこと)を求(もと)むる[乎]。
吾(あれ)則(すなはち)当(まさ)に此(この)国に留(とどま)るべし、共(とも)に去(ゆ)く不可(ましじ)。』とのたまへり」とまをしき。
是時、菊理媛神亦有白事、
伊弉諾尊聞而善之。
乃散去矣。
菊理媛神…〈乙本〉菊理久々理媛神比女神善之与呂古比玉布散去矣安加礼伊奴
〈閣〉クゝヒメノ-マウス コトキコシメシ[テ]ホメタマフ散去アラケヌ
是(この)時、菊理媛神(くくりひめのかみ)亦(また)白事(まをすこと)有りて、
伊弉諾尊聞(きこ)して[而]善之(よろこびたまふ)。
乃(すなはち)散去(あかれゆ)きき[矣]。
但親見泉國、此既不祥。
故、欲濯除其穢惡、
乃往見粟門及速吸名門、
然此二門、潮既太急。
故、還向於橘之小門而拂濯也。
此既不祥…〈乙本〉穢惡介加゛良波良之支毛乃太急波奈波太゛波也之
 還向加倍利伊太利氐還向加倍利伊太利氐

〈閣〉ヲホシ-スゝキ ハラハムト穢悲ケカラハシキモノ[ヲ]乃往ミソナハス アハノ[ノ]/ミトミナト
  ヒハヤスフ[ヲ]シカルニ[ノ]フタツ[ノ]ウシホ[ニ]-/ハナハタヤハシ /ハヤシハナハタシ
 還向カヘリタマフ小門ヲト[ニ][テ]-ハラヒ スキタマフ

但(ただ)親(みづから)泉国(よもつくに)を見(め)して、此(これ)既(すで)に不祥(さがなし)。
故(かれ)、其(その)穢悪(けがらはしき)を濯(すす)ぎ除(はら)はむと欲(おもほ)して、
乃(すなは)ち往(ゆ)きて粟門(あはのと)及(と)速吸名門(はやすひなと)とを見(みそなは)す、
然(しかれども)此(この)二(ふたつ)の門(と)、潮(しほ)既(すで)に太(はなはだ)急(はや)し。
故(かれ)、[於]橘之小門(たちばなのをど)に還向(かへ)りまして[而]払(はら)ひ濯(すす)ぎたまふ[也]。
于時、入水吹生磐土命、
出水吹生大直日神、
又入吹生底土命、
出吹生大綾津日神、
又入吹生赤土命、
出吹生大地海原之諸神矣。
〈不負於族、此云宇我邏磨穊茸。〉】
入水吹生…〈閣〉-フキ ナス磐土イハツゝ[ノ][ヲ]
 ヲホナヲ[ノ]底土ソコツゝ[ノ]ヲホアヤ津日[ノ]赤土アカツゝ[ノ]
 [テ]-生○地 ヲホツチウナハラノモロ-カムタチソク宇我邏麻概茸ウカラマケシ
[于]時に、水(みづ)に入(い)り吹(ふ)きて磐土命(いはつつのみこと)生(な)れり、
水より出(いで)吹きて大直日神(おほなほひのかみ)生(な)れり、
又(また)入り吹きて底土命(そこつつのみこと)生(な)れり、
出で吹きて大綾津日神(おほあやつひのかみ)生(な)れり、
又入り吹きち赤土命(あかつつのみこと)生(な)れり、
出で吹きて大地(おほつち)海原(うなはら)之(の)諸(もろもろ)の神生(な)れり[矣]。
〈不負於族、此をば宇我邏磨穊茸(うがらまけじ)と云ふ。〉】
《伊弉冉尊所在処》
 「所在処への乙本の訓「安留止古呂万志末寸」は、「〔伊弉諾尊は伊弉冉尊の〕アルトコロニマシマシキ」であったものが筆写の過程で変形したと見られる。
 アルトコロは尊敬表現を用いていないが、 神であるから「マストコロ」が自然か。 一書[10]の基調はドラマ仕立てではなく要点を簡潔に記した形だから、尊敬語が臨場感を阻害する心配はあまりない。
《汝已見我情我復見汝情》
 の意味は一義的にはココロであるが、真の姿という意味もある。文脈ではこちらが合う。
 すなわち、「あなたは私の腐敗して蛆がわく姿を見た。今度は私があなたのあたふたして逃げる姿を見に行くわ」と読み取るのが適当であろう。 他の記・書紀本文・一書では、黄泉から八雷・醜女・黄泉軍とともに伊弉冉尊が追いかける様が描かれる。ここでもそのストーリーを前提としていると考えられるからである。
《族離》
 「族離」を[中国哲学書電子化計画]で調べたところでは熟語ではなく、文章中に偶然現れるのみである。
・『太平御覧』に「族離」。これは文字通り宗族の離散である。
・『康煕字典』は「離」の用例として「支分族離、各為大家〔一族は支族に分かれそれぞれが大家となった〕
 したがって、「族離」を離婚の意味に使うのは書紀特有である。ここでもコトドを用いてもよいかも知れない(一書[6]第41回)
《不負於族》
 夫婦は簡単に別れてはいけないという一般的な規範、あるいは相手と別れたくないという自分の気持ちには負けないぞと読める。
《不直黙帰》
 文字通りこのまま黙って帰ることはできず、捨て台詞を残したと読める。 
《速玉之男》
 〈釈紀〉述義に「速玉之男:神名帳曰。紀伊国牟婁郡熊野早玉神社(大)、熊野坐神社(名神大)」。
 『集解』「延喜式神名曰出雲国意宇郡速玉神社・紀伊…早玉神社」。
 〈延喜式-神名〉で確認すると、{紀伊国/牟婁郡/熊野早玉神社【大】}、{出雲国/意宇郡/速玉神社}が見える。
 速玉之男神は唾から化成したとされるから、「族離〔あるに「不負族」という〕は伊弉諾尊が別れ際に吐き捨てるように言い、 文字通り唾を飛ばしたのであろう。
 「速玉」は、飛び散った唾液の粒が玉として神聖化されたが如きである。 ただ、ここでは既に存在していた神を場面に合う名前の神として用いたように思われる。
《泉津事解之男》
 一書[6]の禊の場面では、濁穢から、そしてそれを矯(ただ)すところに神が対になって現れた。ここでも同様で唾の神と掃(はら)う神が対になって現れる。
 事解之男を主祭神としているのは、たとえば阿須賀神社(神武段6)がある。
《吾之怯》
 「」をオビエルと訓むと意味が分からなくなる。 〈類聚名義抄〉「:オソル ハゝカル ツタナシ ヤハラカナリ オチナシ オロカナリ ワツカニ ヨハシ ワカフ」を見ると、 何かことがあると怖気づく、そのもとになる心の弱さにシフトしているようである。 〈汉典〉では、最初に挙げられた意味が「胆小、畏縮」でむしろこちらが本義であったことが覗われる。
 「」は、書紀古訓では「ツタナシ」。「をぢなし」という語もあり、本稿はこちらを選んだ。
 「始為族悲及思哀者是吾之怯矣」は、あのとき伊弉冉尊のために悲しみ哀れんだのは判断が至らなかったというニュアンスである。 即ち、見に行ったことでとんでもないことになってしまったからである。
《泉守道者》
 モリ〔モルの連用形名詞〕は、既に「~の人」の意味を含んでいる。「者」は人であることを表す形式的表記であるから、書紀古訓の「ミチモリヒト」には重複がある。 「」に訓をあてなければならないという観念に囚われていたのかも知れない。
《菊理媛神》
 「菊理媛神」は、ククリヒメという名称から見てその言葉によって伊弉諾・伊弉冉を和解させたと考えられる。
 では、それはどのような言葉か。それはここには示されていない。 一書[10]は原伝承を要約して粗筋のみを書いたが如き文体なので、言葉そのものは省略されたようである。
 記と一書[6]では、伊弉冉尊は一日千人を殺す、伊弉諾尊は一日千五百人を産ませると互いに宣言して決着がついたので、 それを導く提案であったのかも知れない。 
《粟門/速吸名門》
速吸門の比定地
 『集解』には次のように記される。
『日本書紀集解』巻上
〔河村秀根〕
粟門:口訣※1)曰。今阿波鳴門是也。
速吸名門:口訣曰。豊後国海部郡有速吸姫神社。私説曰。豊後国海部郡海中有小嶋俗曰姫嶋。古老曰。蓋神代遺蹟也。
※1…『神代巻口訣』〔忌部正通;1367〕
速吸」は「速吸」のに母音変異したと思われる。 属格の助詞はしばしばに変異する〔水門:ミノト⇒ミナト
 〈延喜式-神名〉には{豊後国/海部郡一座【小】/早吸日女神社}がある。 「速吸名門」は一般に豊予海峡と解されているが、記神武段では明らかに明石海峡である。 ただ、『阿波志』(下述)第3巻「板野」は「鳴門:在阿淡之間古称速吸名門日本書記所謂伊弉諾尊往」すなわち鳴門海峡とする。
 二つの「速吸門」については、第96回で考察した。
 書紀〈神武〉紀では甲寅年十月条に、「速吸之門」に至った。 日向を出発して「一柱騰宮」に至る途中で、これが早吸日女神社の豊予海峡に比定されている。
 一方、記〈神武〉段では第96回 に「乗亀甲爲釣乍打羽挙来人遇于速吸門」とある。 この箇所は「吉備之高嶋宮」と「浪速之渡」の間で、明石海峡に比定される。
 両者の行程は、【ここまでの東征の行程】にまとめた。 また関係地名の配置については、【橘】に図示した。
 【東遷の経路】項において、 〈神武〉東征の初めの部分について、記では高千穂峡から岡田宮までを陸路としていたが、 書紀では高千穂峰をより南に動かした上でそこから日向灘に出て海路を北上し、その途中で通る豊予海峡を速吸門としたことを見た。 そこでは「高千穂」を霧島連峰辺りに設定すれば、 神聖な天孫降臨の地を奪還するという口実が生まれ、大義名分を掲げて制圧に向かうことができる」という見方を示した。
 一方、粟門が鳴門であるのは確実であろう。 速吸名門が明石海峡だとすれば、もともと淡路島の伝承であったと見られる伊邪那岐伊邪那美伝説にぴったりである。 書紀本文が天孫降臨の地を日向に移す前の伝承の原形が、この一書[10]に残っている可能性は濃厚である。
 《筑紫日向小戸橘之檍原》では、 「原伝承は淡路を中心とする地域のものではないかと思わせる」と見た。一書[10]では本文の「筑紫日向小戸橘之檍原」から「筑紫日向」が除かれているので、これが伝承の原形だと考えることができる。
 すると、伊弉諾尊の本来の禊の場所は淡路島またはその周辺地とするのが自然となる。
《橘之小門》
 それでは、その「橘之小門」を淡路島周辺に置くことは可能だろうか。
みそぎ岩と橘港 みそぎ岩と小門神社
 徳島県阿南市では、橘之小門を地元に寄せる郷土研究が盛んである。
 当地には式内「賀志波比売神社〔阿南市見能林町柏野22〕があり、天照大神の幼名とも伝わる。 その北方約230m、小山が岬状に突き出したところが「みそぎ岩」と名付けられ、「小門神社」という小祠が置かれている〔徳島県阿南市見能林町東浦16〕 ([四国地方整備局|道は - 四国地方整備局])
 については、『阿波志』〔藤原憲;1815〕那賀郡〔現阿南町を含む〕に「橘浦」、「橘港」が見え、現在の橘港に繋がる。
『阿波志』による「檍浦
 現代地名には、ここが「阿波岐〔檍〕と明瞭に言い得るものは見えない。しかしその候補地としては『阿波志』3巻(板野郡)に、3か所が示され「檍浦 亦在堂浦或称由岐浦又称船蔵」とある。 それぞれの候補地の現代地名は、堂浦:鳴門市瀬戸町堂浦。由岐浦:海部郡美波町〔旧由岐町域〕船蔵:徳島県徳島市安宅2丁目である。
 すなわち、檍浦の位置は特定できず、安房国内に候補地三か所を示すのみで、それらは互いに遠く離れている(右図)。 しかしこれは、檍浦が日向国ではなくわが阿波国にあったという主張の根強さを、むしろ物語るものといえよう。すなわち、言い伝えが広い地域に広がっているからこそ各地に伝承地が生まれるのである。
 なお『阿波志』には「禊川」も見えるが、川田川となり吉野川に繋がるというから無関係である。
 阿波岐については『阿波志』で見たように比定地は定まらないが、「淡島」が現代の地名にも島生み伝説にもあるから、その深く根付いた「アハ」からアハギが派生したと見れば、阿波国の沿岸から淡路島までの範囲内と見てよいかも知れない。
 ヲド(小門・小戸)については、特徴的な入江があればどれでも地名になり得る。
 以上を冷静に見れば橘之小門に直接繋がりそうなのは橘浦のみである。しかし、そこはアハギとして想定される範囲内だから、「橘浦の周辺」程度の推定は恐らく可能である。
 一方、淡路島はイザナギイザナミ伝説の発祥の地であるから、橘之小門の本命とも思える。 こちらにはあまり候補地が上がらないないのは、橘之小門の地であるとアピールする熱量が阿波国にはあり、淡路にはあまりなかったからであろう。
 さて、論点は我が土地こそがイザナギ禊の地だとアピールしていることへの検証に移ってしまったが、ここで本筋に戻す。
 これまで述べてきたように、禊の地を日向国と描くようになったのは政治的な思惑(上述)によるもので、一書[10]はそれ以前の形を残したものと考えられる。 すなわち、一書の性格については、中央政権が本書で正史を述べつつ、支えてくれる地方氏族に対して、「あなた方の伝承も一書〔=異説〕として歴史書に納めて後世に残す」という配慮を示したものと見てきた。 ここではその性格を典型的に表すものである。
 淡路の氏族に対してこのようの配慮がなされた背景を、具体的に考える。淡路の海人が中央政権を支えていた事例としては、たとえば塩づくりがある。 「畑田遺跡や引野遺跡、旧城内遺跡、貴船神社遺跡」は、塩づくりの技術の発展を物語り、「塩は、畿内の王権にも供給されたと考えられて」いるとされる ([淡路島日本遺産|]古代国家を支えた海人の営み)。 また、「御陵水として都に運ばれた御井の清水」(同)ともいう(【淡道嶋之寒泉】参照) そして淡路は「海人が獲ったさまざまな魚介も都へと運ばれました。天皇の食膳を司る御食国〔みけつくに〕」(同)だったという。
 その地の淡路海人について〈姓氏家系大辞典〉は、「阿波の阿曇連」の項で「安曇氏の発祥地は筑前国志賀島にして、…後には根拠地を阿波国に移せしものと想像せらる。 …淡路野島の海人を率ゐて仲皇子に味方…蓋し当時阿波に在りて淡路の海人を率ゐしものならむ」、すなわち淡路の海人は阿波の安曇氏に統率されていたという。 朝廷が阿波国の阿曇連に気を使ったのなら、原伝承における檍浦の伝承地は改めて阿波国に傾くことになる。 飛鳥奈良時代の伝承がごく細い糸で『阿波志』の江戸時代まで繋がっていることはないだろうか。〈釈紀〉、『阿波国風土記』逸文からは見出すことはできなかったが、これからも平安~室町の資料の探索を続けたい。
《吹生》
 吹生は、化成と同じかも知れないが、 「」をひとまず水に入る前の深呼吸と、自ら出た後に溜めていた息を吐き出すと読んでおく。
《磐土命/大直日神/底土命/大綾津日神/赤土命》
 五柱の神のうち、記・一書[6]と共通するのは大直日神(一書[6]-(5))のみで、それ以外の神は他に見えない。 大直日神の性格から考えて、「入水」で化成したのが汚穢の神、「出水」で化成したのが矯(ただ)す神ということになる。 ただ、最後の「大地海原之諸神」はその対とは無関係に詰め込んだように見える。
 この五柱の神を「唐津大明神」が祭神としたことが、『松浦記集成』に載る。
『松浦記集成』〔江戸時代〕
  唐津大明神 唐津城内 
宮之記曰
祭神
 一宮:磐土命 大直日神 赤土命 大綾日神 底土命 海原神
 ニ宮:八十住日神 底津少童神 中筒男神
    神直日神 底筒男神 表津少童神
    大直日神 中津少童神 表筒男神
記曰:当社ハ神功皇后三韓征伐之時船道静ナラサルヲ天ニ祈り玉ヒテ程ナク洋涛静ニ洛リ三韓平定御帰朝ノ後此所ニ勧請シ玉フト云フ
一説:天平勝宝七年勧請往古神田五郎宗次依夢想到海辺一箇之宝筐拾得宗次終尊教也孝謙天皇降詔奉号唐津大明神
私考此説疑アリ孝謙天皇ノ時ト神田五郎ノ時ト不合神田五郎ハ松浦党渡辺綱ニ始ル
〔社記では、神功皇后の三韓征伐のとき海路が荒れていたので天に祈られ、程なく海は静まった。三韓を平定して帰国した後にこの場所に勧請されたという。〕
〔一説には天平勝宝七年勧請。昔神田五郎宗次が見た夢により、海辺にいくと一個の宝箱があり、拾った宗次は〔箱の中の経典の〕教えを尊んだ。孝謙天皇は詔して唐津大明神と名付けられた。〕
〔私がこの説を考えるに疑念がある。孝謙朝〔奈良時代〕は神田五郎の時代と合わない。神田五郎の属した松浦党は〔平安時代〕渡辺綱によって創始された。〕
 [唐津神社公式]は、その由緒として 「孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります」 と述べるので、現在の唐津神社〔佐賀県唐津市南城内3−13〕は「唐津大明神」を継承していることを自認している。なお、その由緒では箱の中身は神功皇后の宝鏡としているが、「」だから経典であろう。 鏡なら「」となるはずである。多分神仏習合している。「」になったのは、明治時代の神仏分離のためと思われる。
 唐津大明神の祭神は極めて特殊である。日本書紀の奥深いところから引っ張り出して祭神としたのは、 おそらく周辺の社との勢力争いが激しく緊張状態にあり、他社とは大きく異なる特徴を示して誇る必要があったためではないかと想像される。
 なお、現在の祭神は磐土命以下六神は消滅し、一ノ宮が筒男三神、ニノ宮が神田宗次公、相殿が水波能女神となっている。
《大地海原之諸神》
 最後に水を出たときに、その他大勢の神が一斉に化成したとする。この書き方はどうもバランスが悪い。これも一書特有の"雑さ"のように感じられる。上記「唐津大明神」ではこれを「海原神」一柱に置き換えている。
 神の坐すところを「大地」とする言い方は他には見えない。記や一書六では、禊のときに日神、月神も化生したことを考えると、本来は「天地」だったようにも思える。ただ、そのような異本の存在は今のところ見えない。 さまざまな一書には独自性があり、伝承がそのままの形で収められたことを重視すれば、やはり大地のまま置くのが妥当か。
《大意》
 【一書(10)に曰く、 伊弉諾尊は、 伊弉冉尊のいる処に追い至った。
 そして語らい、伊弉諾尊は「あなたを悲しむ故にここまで来た。」と言ったところ、 伊弉冉尊は「夫よ、私を見ないでください」と答えた。 伊裝諾尊は言うことをきかず、なおその姿を見た。
 伊弉冉尊はよって恥らい恨み 「あなたは既に私の実の姿を見たのだから、今度は私があなたの実の〔逃げ惑う〕姿を見ましょう。」と言った。 そうなったら伊弉諾尊は恥だと思い、よってそこから出て帰ろうとしたが、 その時、ただ黙って帰ることはせず、誓って 「妻とは離縁する。」と言った 〈あるいは「妻には負けない。」と言ったともいう〉。
 そのとき唾を吐いて現れた神を、名付けて速玉之男(はやたまのを)という。 次にそれをきれいにした神を、泉津事解之男(よもつことさかのを)という 〈併せて二柱の神〉。
 それで妹と黄泉津平坂(よもつひらさか)で相争うことになり、 伊弉諾尊は 「はじめに妻のために悲しみ、哀れに思ったことは、 私の愚かさだった。」と言った。
 その時、泉守道者(よもつみちもり)が来て申し上げるに 「伊弉冉尊から伝言があります。 『私は、既にあなたと共に国を生み終わりました。 どうして更に生きることを求めましょうか〔反語〕。 私は、この黄泉の国に留まるべきで、共に行くことはありません。』とのことです」と言った。
 この時に、菊理媛神(くくりひめのかみ)もまたあることを申し上げ〔内容は記されない〕、 伊弉諾尊はそれを聞いて喜ばれた。 こうして別れて去った。
 ただ、自ら黄泉津国を見たことは、既に芳しくない。 よって、その穢悪を濯(すす)ぎ除こうと思われ、 禊の場所を求めて行き粟門(あわのと)と速吸名門(はやすうなと)とをご覧になった。 けれどもこの二つの海峡は、潮は既に甚だ急であった。 そこで、橘之小門(たちばなのおど)に戻り、払い濯がれた。
 その時、水に入って息を吹いて磐土命(いわつつのみこと)が化成し、 水から出て息を吹いて大直日神(おおなおひのかみ)が化成した。 また入って吹き底土命(そこつつのみこと)が化成し、 出て吹き大綾津日神(おおあやつひのかみ)が化成した。 また入って吹き赤土命(あかつつのみこと)が化成し、 出て吹き大地や海原の諸々の神が化成した。
 〈不負於族は、「うがらまけじ」と訓む〉】


まとめ
 一書[10]は橘之小門から「筑紫日向」を除外している。これは淡路方面に存在した禊伝説の原形に忠実であったことを示す。 姓氏家系大辞典によると、淡路の海人は阿波国の安曇連の支配下にあった。橘は現阿南市の橘浦村に地名を残すと見て、ここで配慮を示した対象は、ずばり阿波国の安曇連であったと見る。
 この見方によれば、「吹生」には潜水漁を生業とする海人の生々しい身体感覚が反映しているようにも感じられる。
 また、「大地海原」に「天」が不在であることは、これが中央政権による三貴子の神話体系とは異なる、独立したローカルな伝承をそのままの形で収めていることを示す。 この事例もまた、数々の一書を書紀に収める狙いが諸族との円満な関係を保つところにあったことを、鮮やかに示しているものといえよう。



2026.06.17(wed) [01-13] 神代上13 

26目次 次生海次生川次生山/一書[11]-(1)】
《一書[11]-(1)》
【一書(11)曰。
伊弉諾尊、勅任三子曰
「天照大神者、
可以御高天之原也。
月夜見尊者、
可以配日而知天事也。
素戔嗚尊者、
可以御滄海之原也。」
勅任…〈内閣文庫本〔以下閣〕-コトヨサシミハシラ[ノ]ミコ[ニ][テ]
 ヘシ[テ]シラ高天之原[ヲ]
 ○配[テ]ナラヘ[ニ][テ]シラス[ノ][ヲ]シラス-アヲウナ之原[ヲ]
【一書(あるふみ)(11)に曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、勅(おほせごと)して三子(みはしらのみこ)に任(よさし)して曰(のたま)へらく
「天照大神(あまてらすおほみかみ)者(は)、
可以(よく)高天之原(たかまのはら)を御(をさむ)べし[也]。
月夜見尊(つくよみのみこと)者(は)、
可以(よく)日(ひのかみ)に配(たぐ)ひて[而]天事(あめのこと)を知らすべし[也]。
素戔嗚尊(すさのをのみこと)者(は)、
可以(よく)滄海之原(あをうなばら)を御(をさむ)べし也。」とのたまへり。
既而、天照大神在於天上曰
「聞葦原中國有保食神。
宜爾月夜見尊就候之。」
月夜見尊、受勅而降。
在天上…〈乙本〉天上天原也就候由支氐美与

〈閣〉マシアメ-[ニ][テ]
 キク葦原[ノ]-ナカツ クニ[ニ][ト]-/ウケウケモチノ[ノ]
 イマシナムチユイ[テ]ミヨミコトノリ[ヲ][テ]クタリマス

既(すで)にして[而]、天照大神[於]天上(あめ)に在(ましま)して曰(のたま)はく
「葦原中国(あしはらのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)有りと聞(き)こす。
宜(よろしく)爾(いまし)月夜見尊(つくよみのみこと)就(ゆ)きて候之(み)るべし。」とのたまふ。
月夜見尊(つくよみのみこと)、勅(おほせごと)を受けて[而]降(くだ)ります。
已到于保食神許。
保食神、
乃廻首嚮國則自口出飯、
又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出、
又嚮山則毛麁毛柔亦自口出。
夫品物悉備、貯之百机而饗之。
保食神…〈乙本〉保食神宇介毛知乃神
 鰭廣波太比礼支毛乃鰭狹比礼世波岐毛乃

〈閣〉[ニ]イタリタマフ保食/ウケモチノ本也ウケモチノ[ノ]モト[テ]
 メクラシカウヘ[ヲ][テ]ムカヒシカハ[ニ]イツイヒウナハラ
 ハタノヒロモノハタノサモノケノアラモノケノニコモノ
 ソノクサ[ノ]モノ[ニ]ソナヘ[テ]ミサヘ百机トリノツクヘ[ニ][テ]
 饗之ミアヘタテマツル

はたのひろもの…[名] 大型の魚類。
はたのさもの…[名] 小型の魚類。
けのあらもの…[名] 荒い毛の獣類。
けのにこもの…[名] 柔らかい毛の獣類。
已(すで)に[于]保食神(うけもちのかみ)の許(もと)に到りませり。
保食神(うけもちのかみ)、
乃(すなは)ち首(かしら)を廻(めぐら)して国(くに)に嚮(むか)ひて則(すなはち)口(くち)自(よ)り飯(いひ)を出(い)だしぬ、
又(また)海(わた)に嚮(むか)ひて則ち鰭広(はたのひろもの)鰭狭(はたのさもの)を亦(また)口自(よ)り出(い)だしぬ、
又山に嚮(むか)ひて則ち毛麁(けのあらもの)毛柔(けのにこもの)を亦(また)口自(よ)り出(い)だしぬ。
夫(それ)、品物(くさぐさのもの)を悉(ことごと)に備(そな)へて、之(こ)を百机(ももとりのつくゑ)に貯(たくは)ひて[而]饗之(みあへたてまつる)。
是時、月夜見尊、
忿然作色曰
「穢哉、鄙矣。
寧可以口吐之物敢養我乎。」
廼拔劒擊殺。
然後復命、
具言其事。
忿然…〈閣〉忿-イカリ-ヲモホテリシ穢哉ケカラハシキカナ鄙矣イヤシキカナ
口吐之物…〈乙本〉口吐之物久知与利止也留毛乃
〈閣〉ムシロヘケム ヨリタクレル之物[ヲ]アフ[ニ]ヤト宣[テ]
 [ヲ][テ]-ウチ コロシツ[テ][ニ]復命カヘリコトマウス
 ツフサ[ニ]申シタマフ其事[ヲ]

おもほてる…[自] (怒りなどで)顔が赤くなる。
…[形] 〈類聚名義抄〉「鄙:イヤシ ウレフ ハチ ヰナカ ワヒ ヒナ アシ」。

是(この)時、月夜見尊、
忿然(いか)り作色(おもほてり)して曰(のたま)はく
「穢哉(けがらはしきや)、鄙矣(いやしきや)。
寧(なそ)口(くち)より吐之物(たぐれるもの)を以ちて敢(あ)へて我(われ)を養(やしな)はむことをや可(ゆる)す乎(か)。」とのたまひて、
廼(めぐ)りて剣(つるぎ)を抜きて擊殺(うちころ)しつ。
然後(しかるがのち)に復命(かへりごとまを)して、
具(つぶさ)に其(その)事を言(まを)しき。
《可以御高天之原》
 書紀古訓は、〔ヲサム〕を、もっぱらシラスと訓む。だが、《汝所治国民》で見たように、ヲサムでも特に違和感はなかった。 にもシラスは可能だが、この段では月夜見尊の「」にシラスをあて、ヲサムとしたい。
 なお、「[テ]高天之原[ヲ][句]〔以て高天之原をしらし;[ ]はヲコト点〕とする古訓点は、 を接続詞とするのものであるが、漢文において「助動詞-接続詞-動詞句」の語順はあり得ないので明らかに不適切である。 さらに言えば中国語における『可以』は分解不可能な一つの助動詞であるから、『以』を接続詞として取り出す訓読は誤りである。 ところが、後世の漢文訓読体においてはこれを「もって~べし」と訓読する習慣ができてしまっている。もはや接続詞の機能は失われてて単なる言い回しと化したもの。だが、せめて上代語による訓読に於いては拒否したい。
《素戔嗚尊/御滄海之原》
三貴子への任(よさし)の書き方の比較
一書[11]一書[6]([6]-(6))古事記(第44回)
天照大神 可以御高天之原也 可以治高天原也 汝命者 所知高天原矣 事依 而賜也 
月夜見尊 可以配日而知天事也 可以治滄海原潮之八百重也  汝命者 所知夜之食國矣 事依也
素戔嗚尊 可以御滄海之原也 可以治天下也  可以治天下也 汝命者 所知海原矣 事依也
 素戔嗚尊よさしを命じられたのは文脈では書紀本文にある「不可以君臨宇宙」の宇宙で、事実上天下であった。
 よって古事記(第44回)では「汝命者 所知海原矣 事依也」のは文脈に合わず、一書[6]([6]-(6))ではそれが正されたと見たが、 一書[11]の「御滄海之原」は古事記に一致する《素戔嗚尊》参照〕
 一方、書法においては「可以治…」は、一書[6]に一致する(右表)。
 これを何とか辻褄が合うように解釈しようとすると、一書[6]にあたる部分の原伝承に対して、古事記は原伝承全体を文学的に美しく書き直した。一書[6]は原伝承に戻すとともに、「御滄海之原」の部分については原伝承から記に引き継がれた誤りを訂正した。 一書[11]は「御滄海之原」を一書[6]が訂正する前の原伝承に引き戻した、というややこしい経過を辿ったことになる。
 これまでに検討してきたことを結論づけると、次のようになる。
 本来は月夜見神が青海原潮の八百重の神であったことは確固としていたはずである。月の満ち欠けが大潮と小潮に対応することは当時の漁労や海上交通の民に明確に認識されていたのは間違いない。
 また、スサノオが泣いてばかりいて地上の統治をさぼったから青山枯れ人民が夭折したという記述は、スサノオが本来地の国に派遣されたことを明確に示している。
 よって、この月神の任務とスサノオの任務の取り違えは、原伝承を伝承収集者が誤って記録したことに由来すると考えられる。これが記、一書[6]、一書[11]の混乱の出発点になったのであろう。 すなわち、最初のドキュメントのミスによって後続の官僚たちが右往左往したのである。
《月夜見尊》
 月夜見尊が人格神としてその振舞が描かれるのは一書[11]が唯一で、他にはない。
《葦原中国》
 伊弉諾尊伊弉冉尊立於天浮橋之上一書[1]に「豊葦原千五百秋瑞穂之地」があった。葦原中国はその略称であるが、神代巻上下で11回、〈神武〉紀に1回、〈垂仁〉紀に1回使われている。 魏志倭人伝で、本土に上陸して訪れた最初の国、「末盧国」の項に「草木茂盛行不見前人」とある(魏志倭人伝(15))。 中国から訪れた人が受けた印象によって「葦原」の国と呼んだことに影響を受け、倭人自身が用いるようになった呼称のようにも思えるが、確たる根拠はない。
 他には大八洲国が神代上巻に5回。日本国は、ほとんどが外国が倭国を呼ぶときに用いられている。
 〈神武〉三十一年には「秋津洲・安国・細戈千足国・玉牆内国・磯輪上秀真国・虚空見日本国」。場面を見ると大和国のこととするのが順当だが、編者は国家全体をいう意識で扱った可能性もある。
 島生み段大日本豊秋津洲は、一応国家そのものではなく構成する八洲のひとつとされ現在の本州の西日本の部分にあたる。
《保食神》
 保食神(うけもちのかみ)は、 一書[6]飢時生児」の倉稲魂命(うけのみたまのみこと)と同一神と見てよい。 〈天武〉四年四月《祭大忌神於広瀬河曲でも類似する神名を見た。 すなわち宇加能売命(うかのめのみこと)・豊宇気毘売(とようけびめ)(第37回)等由気太神(とゆけのおほみかみ)、豊受大御神(とようけのおほみかみ)。
 類話第51回大気津比売」(おほげつひめ)のは食。
 宇加能売命(うかのめのみこと)などに共通するウケは、稲などの食物を供給する神格を表す。
 であることは確実である。しかし、ウケの解釈については、さまざまな説がある。
 「豊受大御神」という表記を見ると、ウケを「」と理解されることは普通であったと見られる。ただしこの場合はが二重の役割を兼ねるので、言語構造としては破綻する。 実際の起源は、やはり(食)につけた接頭辞ウ-であろう。それは、本来はであったとも考えられる。 一般にが唇の緊張を失ってになる現象は珍しくない。 ところがもし神をミケノミタマ、ミケノカミと呼んだとすると、ミ-のみに結び付く美称となり、神への敬意がうすれる感は否めない。 そこで、ミ-ウ-に変化し得るという傾向があることから、饌自体への美称はミ-、神名の一部になったにはウ-を用いる使い分けられるようになったと考えてみたらどうであろう。
 この仮説には一定の説得力が感じられるので、ひとまずこれを採用したい。
《国/海/山》
様々なクニ
 天地アメツチ地祇クニツカミのクニ。
陸地・土地 『出雲国風土記』「毛々曽々呂々尓国々来々引来縫国」。
国家 日本国(大八洲国葦原中国)。新羅百済高句麗大唐
律令国 改新詔(二曰)で創始された国司のクニ。大和国出雲国紀伊国越前国
郡・評・県 多くは国造に由来。
国造くにのみやつこ 隋書(隋書倭国伝(1))の「軍尼クニ」もこのレベル
郷里 万葉歌0426国忘有」。
人里 人が定住し農耕が行われる平地や丘陵。
 は概念が異なり、この組み合わせはバランスが悪い。 しかし、首を国に向けて飯海に向けて魚山に向けて獣を口から出したのであるから、 ここでは多くの人が住み耕作が行われているような平地を山・海と対比してクニと呼んだと考えられる(右表)。 この「クニ」に、発音のみで国家・律令国の「」の字をあてたものである。
 国家・律令国以外の「クニ」に国の字をあてた例としては、 (万)0426草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待真國 くさまくら たびのやどりに たがつまか くにわすれたる いへまたまくに」がある。 この歌の題詞に「柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌」、 すなわち人麻呂が香久山で行き倒れになった人の死体を見て哀れみ、妻が家で待っているだろうにと詠んだもの。 「国忘有」は国を忘れそうになるほど遠くに来て長い日が経ったとの意で、この歌の「」は故郷を意味する。
《忿然作色》
 「作色」はイロヲナシテと訓みたくなるが、これは中世以後の漢文訓読体による読み方である。漢語「色」には表情の意もあるが、上代語にはイロを表情に用いる用法はないようである。
 書紀古訓の「オモホテル〔面火照る〕はイロの意に近づけた意訳であるが、 この語自体は上代語として存在したようである。書紀古訓については極めて不適切と感じられるものもあるが、これについては許容したい。
《寧可以口吐之物敢養我乎》
 は書紀古訓では「ムシロ」と訓むが、自体は反語の副詞でもある。
 古訓のムシロは、ひとつのことを遠ざけて他を優先する意。 反語の文頭副詞であってももムシロと訓む習慣になったようであるが、上代には適切ではない。
 を反語の助詞として訓もうとすれば、後世の漢文訓読体ではイヅクンゾであるが、既に平安時代の音便を含み、イヅク〔何処〕も上代は場所に限定されるから、結局上代語ではナソか。
 「可以」は、上記天照大神者可以…」では熟語であったが、ここでは「」は「口吐之物」への前置詞なので分離される。 よって「」は動詞で、ユルスと訓むことになる。すなわち全体は反語文で「私が~ことを許すか?いや許さない」。
 「」はここでは単に食物を与える意味であるが、こうやって私をありがたく養おうというのかという皮肉が感じられる。
《大意》
 【一書(11)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、三子に任務を勅して 「天照大神(あまてらすおおみかみ)は、 高天原(たかまのはら)を治めるがよい。 月夜見尊(つくよみのみこと)は、 日を補佐して天のことを司るがよい。 素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、 海原を治めるがよい。」と命じた。
 こうして天照大神が天上にいらっしゃった後、 「葦原中国(あしはらのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)がいると聞く。 あなた、月夜見尊が行って様子を見てまいれ。」と勅した。 月夜見尊は、勅を受けて降りた。
 保食神の許(もと)に到着してみると、 保食神は、 首を回して国〔=里〕に向かって口から飯を出し、 海に向かって鰭広(はたのひろもの)鰭狭(はたのさもの)〔=魚たち〕をまたも口から出し、 山に向かって毛麁(けのあらもの)毛柔(けのにこもの)〔=獣たち〕をまたも口から出した。 その各種の物をことごとく用意し、百机(ももとりのつくえ)に並べて御饗(みあえ)した。
 この時、月夜見尊は、 忿然と色をなして 「なんと穢(けがらわし)く、鄙(いやし)いことか。 こともあろうに口から吐き出した物を敢て私に食べさせることを許せというのか。」と言って、 体を巡らせて剣を抜いてうち殺した。 その後、復命して、 ありのままにその事を申し上げた。


27目次 次生海次生川次生山/一書[11]-(2)】
《一書[11]-(2)》
時天照大神、
怒甚之曰
「汝是惡神。不須相見。」
乃與月夜見尊、
一日一夜、隔離而住。
怒甚…〈閣〉イカリマスコトイマシ レアシキ ナリ
不須相見…〈乙本〉不須相見安比不倍゛加良須
〈閣〉--アヒミシトウシ-隔離ヘタテ ハナレ[テ]スミタマウ
時に天照大神、
怒(いかること)甚之(はなはだしか)りて曰(のたま)はく
「汝(いまし)は是(これ)悪(あ)しき神なり。相(あひ)見(まみゆ)不須(べからず)。」とのたまひて、
乃(すなはち)月夜見尊(つくよみのみこと)与(と)は、
一日(ひとひ)一夜(ひとや)、隔(へだ)て離(さか)りて[而]住(ましま)す。
是後、天照大神、
復遣天熊人往看之。
是時、保食神實已死矣。
唯有其神之頂化爲牛馬、
顱上生粟、
眉上生蠒、
眼中生稗、
腹中生稻、
陰生麥及大小豆。
天熊人…〈乙本〉天熊人安女久万比止顱上比太比乃宇倍尓
〈閣〉天熊人アメクマヒト[ヲ][テ]往者カシメタマフマコト[ニ]マカレリ シ アリ
  頂イタゝキ-ナルヒタヒノ[ニ]ナレリ[ノ][ニ] レリカヒコ
 ヒエイネホト[ニ] リムキ [切][切]マメ[切]アツキ

…[名] あたま。どくろ。(古訓) カシラノカハラ。ひたひ。
おほす…[他]サ四 オフ(生)の他動詞。生やす。
あは…[名] 粟。イネ科。
まよ(眉)…[名] 眉。〈応神〉段(第150回)「麻用賀岐 許邇加岐多礼〔眉がき こに描き垂れ〕」
まゆ(眉)…[名] 〈倭名類聚抄〉「;【和名万由】目上毛也」。
…[名] 繭の異体字。
まよ(繭)…[名] 繭。(万)2495母養子 眉隠 ははがかふこの まよごもり」。"眉"は繭の借訓。
まゆ(繭)…[名] 〈倭名類聚抄〉「:【和名万由】蠶衣也」。
ひえ…[名] ひえ。イネ科。(万)2999水乎多 上尓種蒔 比要乎多 擇擢之業曽 吾獨宿 みづをおほみ あげにたねまき ひえをおほみ えらえしわざぞ あがひとりぬる」。
むぎ…[名] (万)3537武藝波武古宇馬能 むぎはむこうまの」。
まめ…[名] ①マメ類。(万)4352波保麻米乃 可良麻流伎美乎 はほまめの からまるきみを」。「ハホ」は「這フ」連体形の東国語形。②大豆。
あづき…[名] 〈応神〉紀二十二年歌謡「阿豆枳辞摩〔あづきしま〕

是後(こののち)に、天照大神、
復(また)天熊人(あめくまひと)を遣(や)りて往(ゆ)かしめ看之(み)しむ。
是の時に、保食神(うけもちのかみ)実(まこと)に已(すで)に死にき[矣]。
唯(ただ)有(ありける)は其の神之(が)頂(いただき)牛(うし)馬(うま)と化為(な)る、
顱(かしら)の上(うへ)に粟(あは)を生(お)ほす、
眉(まよ)の上(うへ)に繭(まゆ)を生ほす、
眼(め)の中に稗(ひえ)を生ほす、
腹(はら)の中に稲(いね)を生ほす、
陰(ほと)に麦(むぎ)及(と)大小豆(まめあづき)とを生ほす。
天熊人、悉取持去而奉進之、
于時、天照大神喜之曰
「是物者、
則顯見蒼生可食而活之也。」
悉取持去…〈閣〉--トリ モチ ユイ[テ]-タテマツル
 -ウツシキ-アヲヒトクサノ二レクラフヘキモノナリト宣[テ]イク之也
天熊人(あめくまひと)、悉(ことごと)に取(と)り持(も)ち去(ゆ)きて[而]奉進之(たてまつ)りき、
[于]時に、天照大神喜之(よろこびたまひ)て曰(のたま)はく
「是物(このもの)者(は)、
則(すなはち)顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)食(くら)ひて[而]活之(い)く可(べ)し[也]。」とのたまふ。
乃以粟稗麥豆爲陸田種子、
以稻爲水田種子。
又因定天邑君、
卽以其稻種、
始殖于天狹田及長田。
其秋、垂穎八握
莫々然甚快也。
陸田…〈乙本〉為陸田種子波太津毛乃止須天邑君安万乃牟良岐見
其秋垂穎八握曽乃秋乃乃垂ルゝコトヤツカホニシテ莫然太久万志甚快

〈閣〉マメ--ハタケツモノト--田種タナツモノト- ム天邑君アマノムラキミ
 -イナタネ[ヲ][テ][テ]ウフアマノ狹田サタ長田ナカタ
 [ノ]アキ-タリホ/ホタゝリ-八握ハ長也手ノ八束ソヤ ツカホニ-- シナヒテ タコゝロヨシ

はたつもの…[名] 畑に蒔く種子。
たなつもの…[名] 稲の種子。
かび…[名] 稲などの穂。
つか…[助数詞] 握りこぶしの指4本分の長さ。
乃(すなはち)粟(あは)稗(ひえ)麦(むぎ)豆(まめ)を以(も)ちて陸田種子(はたつもの)と為(し)て、
稲(いね)を以ちて水田種子(たなつもの)と為(す)。
又(また)因(よ)りて天邑君(あまのむらきみ)を定(さだ)めたまひて、
即(すなはち)其の稲種(いなだね)を以ちて、
始めて[于]天(あま)の狭田(さた)及(と)長田(ながた)に殖(う)う。
其(その)秋(あき)に、穎(かび)を八握(やつか)に垂(た)れて、
莫々然(しづけか)りて甚(はなはだ)快(こころよ)し[也]。
又口裏含蠒、便得抽絲、
自此始有養蠶之道焉。
口裏…〈閣〉[ノ]ウチ[ニ]フゝム[ヲ][テ]便エタリヒクコトイト
  リ-カヒコ コカヒ之道
又(また)口裏(くにのうら)に繭(まよ)を含(ふふ)めて、便(すなはち)糸(いと)を抽(ひくこと)を得(う)、 此(これ)自(よ)り始めて養蚕之(こをかふ)道(みち)有り[焉]。
〈保食神、
此云宇氣母知能加微。
顯見蒼生、
此云宇都志枳阿鳥比等久佐。〉】
保食神…〈閣〉ホウシヨクシム顯見蒼生ケムケムサウセイ宇都志枳阿鳥比等久佐ウツシキアヲヒトクサ
〈保食神、
此(こ)をば宇気母知能加微(うけもちのかみ)と云ふ。
顕見蒼生、
此をば宇都志枳阿鳥比等久佐(うつしきあをひとくさ)と云ふ。〉】
《一日一夜隔離而住》
 日神が月神に対して激しく怒った結果、太陽は昼の世界、月は夜の世界に住み分けられるようになった。
《天熊人》
 この神は、この場面のみの登場である。
《保食神実已死》
 保食神の神話は、ハイヌウェレ式神話のひとつと言われている。
 『神話の話』〔大林太良;講談社/学術文庫1979〕によると、 「農耕の起源と女性との結びつきを語る神話のなかに、原告において女神が殺されて、その死体から作物が発生したという一群の神話がある」、 代表的な「インドネシア東部のセラム島西部のヴェマーレ族の神話」では、 「ハイヌヴェレ〔ママ〕の死体」を父のアメダは小刻みに刻んで全域に埋めた。この 「埋められた死体の各部分は、当時まだ存在していなかった…イモ類に変化し、それ以来人類はこのイモ類を食べて生活している」という。
 そして「日本神話の場合には、死体から発生した作物はイモ類や果樹ではなく、水田につくる稲と焼畑につくる粟や麦や豆であるから、 …何らかの穀物栽培文化が背景にあったと見るのが適当」、 「大事なことは、この場合も女神が殺されることを契機として農耕が始まっていることである」、 「日本書紀の場合…月が一役買って出ていることも、月と死と豊穣と死のシンボリズムがまだ尾を引いていることを示している」などと述べる(pp.133~142)。
 稲作文化によって変形してから伝搬してきたとすると、長江方面の稲作地帯から伝わったことになる。 稲作技術の伝搬経路については、中国の江准地域(長江・准河の間)から朝鮮半島南部経由、 長江下流部から直接九州、または朝鮮半島を経由、中国南部から琉球列島を北上して南九州に伝わったなどの説があるという([米穀機構米ネット])。 〔なお、南九州は稲作に適さない土地なのでは相当厳しいと思われる。〕
 但し、ヤマイモ型ハイヌウェレ式神話が日本に伝わってから稲作型に変形した可能性も十分考えられる。その場合は必ずしも長江方面を経由する必要はない。 だから、台湾方面から黒潮に乗って南九州に渡来した人が神話を持ってきたというルートを考えたくなるが、 近年のミトコンドリアDNAの調査によると「琉球列島と九州の系統は1万年ほど前に分岐し、それ以降は混じり合うことがなかった可能性がある」という(『人類の起源』〔篠原謙一;中公新書2022〕pp.203~204)。 また「琉球列島に本格的な農耕が入るのは、北部九州への到達から2000年近く遅れてのことである(同p.244) というから縄文時代に人の移動はなく、弥生時代以後も北から南に向かっての移動ということになるので、「黒潮に乗って九州に伝搬」説はひとまず保留しておく。
《天邑君/天狭田及長田》
 「狭田及長田」に「」が付くから、一見高天原かと読めてしまう。 しかし、天邑君は地上の人であり、天狭田及長田は地上の田である。なぜなら耕作の開始は「顕見蒼生可食而活之也」の為だからである。
 地上にあっても「天香久山」というように、地にあっても神聖なものにはしばしば「天-」がつく。 〈時代別上代〉によれば、アマ~アメ~には「ⓐ天の意、ⓑ天に関する事物に添える、ⓒ美称、の三段階がある」。
《有其神之頂化為牛馬》
 牛馬は「化為」、植物は「」となっている〔繭については下述〕。これについては、
  動物と植物で使い分けた〔この場合「生」はオフと訓むことになる〕
  出典の異なる神話をミックスして文なので、それぞれ元の表現が用いられた。
 の二通りが考えられる。 伝承が史(ふひと)によって漢文化された時点でこのように書かれていたと考えられる。 彼らは一般的に、動物の出現は「化為」、植物は「」とする言語感覚が身についていたことも考えられる〔文部省が用語を定めるまでは、長らく動物は成長、植物は生長であった〕
 はもちろん、であってもそれは言えることである。
 それでも、動物の化為と、植物が芽を出すことでは趣が異なるので、もともとは独立した伝説であったものが合成されたと見るのが自然と思われる。
 については、それ以外の「粟・稗・稲・麦・豆」で五穀をカバーしている。繭〔蚕〕が異質であるから、 この文が既に複数の伝承が混合した可能性を伺わせる。但し、この混合は既に原伝承の段階で行われたと考えられる(下述)
《垂穎八握莫々然甚快也》
 「莫々然」への書紀古訓「シナフ」は、日本紀講筵に集った狭い学者グループの議論の中で現れた特異な読み方であろう。 そこでは莫々然の意味の解釈に悩んだ末に、稲穂の「垂穎」と同意の「シナフ」をあてたものと想像される。
 〈釈紀〉はこの「シナフ」を取り上げていないので、おそらく鎌倉時代の兼方でも相手にしなかった訓み方だと思われる。
 ところが現代の版本を見ると「シナフは草木の繁茂するさま」、 「稲穂が茂ってしなやかな状態をいう」なる注をつけて、なんとか古訓に沿う理屈を考え出そうとしている。 それらの註〔一社に限らない〕は、『文選』の註にある「莫莫、茂也」を引用してはいるが、 茂みの草が必ずシナヤカとは限らないし、そもそもシナヤカとシナフは全く異なる。 このような理屈で読者が納得できると考えて堂々と注釈を載せたのだとすればとても残念である。
 解説はこの古訓を批判的に論評するわけでもなく、明らかに書紀古訓を神聖不可触としている。 現代の日本紀解釈における学問界は、鎌倉時代からも退化していると言わざるを得ない。
 それでは、「莫々然」の適切な読みは何だろうか。まず、「莫〔なし〕」だから、本来ものがない様子を表すはずである。 漢籍の用例を見ておこう。
『康煕字典』
 『博雅』※)莫莫、茂也。『詩:周南』維葉莫莫。(註)莫莫、茂密之貌。
 『詩:小雅』君婦莫莫。(註)言清静而敬至也。
※)…三国時代の辞書『広雅』。忌避により「博雅」となった。
『学研新漢和』による解釈:はこんもり茂って覆い隠すさま。は黙々とつつしむさま。
 「莫莫、茂也」だが、これは人の手が加わることがない自然のままの茂みということであろう。 これでは、人が丹精込めて育てた稲穂には相応しくない。
 ここでは青空の下、稲穂を垂れた田の整然とした静かな風景を文学的に表現したと読むのが最も意味が通る。 この読み方をすれば、前項の「天狭田及長田」を地上の田とする見方がさらに強化される。 田に稲穂の垂れる風景が美しく描かれることによって、天照大神が地上を見下ろして喜ぶ姿が浮かび上がってくるからである。
《八握》
 八握はここでは穂の実際の長さというよりも、実った穂の立派さを称える修辞と見られる。
《始有養蚕之道》
 ここでは農耕の起源伝説に養蚕の起源伝説を付け加えた形になっている。 「口裏~」の主語は、文脈からみて天照大神だと解されている。 だがここでは話題が耕作から養蚕に切り替わるから、主語は省略すべきでない。 よって、この部分は別に存在した伝承から一部を切り出して、付け加えたように感じられる。
 それでは、前段についても、保食神の死体からとする「顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆」のうち、「眉上生蠒」も異質だから編者が挿入したものだろうか。
 ところが、これについては類話の「大気津比売」伝説(上記)でも、体の各部から稲種小豆に加えてが化成している。 さらに「顱上生粟…」段の文章はきれいに整っており、「眉上生蠒」がこのように上手に入れられるなら「又口裏含繭…」以下がなぜかくも不器用な文章になっているのだろうか。 これを考えれば、「眉上生蠒」の混入については書紀編者がまとめた段階ではなく、すでに原伝承の段階から入っていたと見た方が自然であろう。
《大意》
 その時天照大神は、 怒り甚だしく 「あなたは悪しき神です。顔を合わせることはできません。」と仰り、 これによって月夜見尊(つくよみのみこと)とは、 一日の昼と夜に隔て離れて住むこととなった。
 この後、天照大神は、 再び天熊人(あめくまひと)を派遣して見に行かせた。 この時、保食神(うけもちのかみ)は実際に死んでいた。 ただ、あったことはその神の頭頂に牛と馬が化成し、 頭の上に粟が生え、 眉の上に繭が成り、 眼の中に稗が生え、 腹の真ん中に稲が生え、 陰部に麦と大豆、小豆が生えた。
 天熊人(あめくまひと)、悉く取って持ち帰り、奉進した。 [于]時に、天照大神は喜ばれ、 「これらの物は、 顕見蒼生(うつしきあおひとくさ)が食べて活きるべきです。」と仰った。
 そこで、粟、稗、麦、豆を陸田種子(はたつもの)〔畑に蒔く種子〕として、 稲を水田種子(たなつもの)〔田に蒔く種子〕とした。
 また、これによって天邑君(あまのむらきみ)を定め、 その稲の種を、 はじめて天(あま)の狭田(さた)と長田(ながた)に殖えた。 秋になり、穂を八握(やつか)の長さで垂らし、 静まり返った中で甚だ快かった。
 また、〔天照大神は〕口裏に繭を含み、糸を抽出することを得た、 ここから、養蚕の道が始まった。
 〈保食神は、 「うけもちのかみ」と訓む。 顕見蒼生は、 「うつしきあおひとくさ」と訓む。〉】


まとめ
 最後の一書[11]は、同系の複数の伝承のパッチワークであるように感じられる。
 他の一書が火の神カグツチや、イザナギの禊が中心的なテーマであったのに対して、一書[11]は趣を異とする。 しかし、ここに描かれた農耕の起源については、何といっても人民の生活の基盤であるから、国の起源神話としては本来は中核となるべきである。本来は本文中にあるべきものかと思われるが、 元になった神話が海洋族とタタラ製鉄の地の族のものだったので、農耕は傍らに添えられる形になっている。
 海洋族の安曇氏・津守氏〔住吉三海神を奉斎〕は海上交通、外交の中心的役割を果たした。 一方、タタラ製鉄族の吉備氏・出雲氏は、武器や農機具の製造で存在感を示した。 一書[1]~[10]は、これらの氏族の存在の重さがそのまま反映したと考えられる。
 さて、一書[11]は、大過なく通過できるかと思われたが、ここで本サイトの根幹に関わる語句にぶちあたった。 本サイトの出発点は、日本書紀がその後の長い歴史の中で原形が歪められてきたことに対して、 その手垢を拭い取りたいという問題意識によるものであった。その検討対象をさらう網にずばり「莫々然」がかかってきたのである。 この部分への版本の解説をみたが、そこに書いてあることは全く人文科学の体を為していないというのが、率直な感想である。



[01-14]  神代上(4)