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2026.05.20(wed) [01-06] 神代上6 

11目次 【次生海次生川次生山】
次生海。
次生川。
次生山。
次生木祖句句廼馳。
次生草祖草野姬、亦名野槌。
生海…〈内閣文庫本〔以下閣〕ウナハラ
草野姫…〈日本紀私記甲本〔以下甲本〕草野カヤノヒメ
〈閣〉 ノオヤチヲ[ノ]祖菓オヤ カヤノヒメ ツクツチト
次に海(わた)を生む。
次に川(かは)を生む。
次に山を生む。
次に木祖(きのおや)句句廼馳(くぐのち)を生む。
次に草祖(くさのおや)草野姫(かやのひめ)、亦(また)野槌(のづち)と名(なづくる)を生む。
既而伊弉諾尊伊弉冉尊、
共議曰
「吾已生大八洲國及山川草木。
何不生天下之主者歟。」
共議曰…〈閣〉ハカテイカソイカソ生不サラムウマアメノシタノキミタルヘキ/キミタルモノヲ
既(すで)にして[而]伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
共に議(はか)りて曰(のたま)へらく
「吾(われ)已(すでに)大八洲国(おほやしまのくに)及(と)山川草木(やまかはくさき)とを生みき。
何(いかにそ)天下之(あめのしたの)主者(つかさどるもの)を不生(うまざりき)歟(や)。」とのたまへり。
於是、共生日神號大日孁貴
【大日孁貴、
此云於保比屢咩能武智、
孁音力丁反。
一書云天照大神。
一書云天照大日孁尊。】。
此子、光華明彩、
照徹於六合之內。
大日孁貴…〈日本紀私記乙本〔以下乙本〕大日孁貴一書云天照大神遠保比屢咩能ヒルメノ武智
 光華比加利女天留明彩宇留波志久志氐六合之内安女乃志太乃宇知
〈甲本〉オホヒルメノムチトヲシ
〈閣〉[ニ]/ウミマツル/ウミマツリマスヒノカミヲマウスヲホ ヒルメノムチト
 大日孁貴タイシツレイクヰマウス
 ○一書コエハリヨクテイノカエシ云一書云アマテラスヲホムカミ一書云アマテラスヲホルメノミコト
 光-華ヒカリ明-彩ウルワシクシテ-徹テリトホルクニノ合之ウチニ。」

…女性の名に用いる字。[漢音] レイ・リヤウ。
力丁反〔隋唐音〕[lɪək]+[t]=[leŋ]

於是(ここに)、共に日神(ひのかみ)を生みて大日孁貴(おほひるめのむち)と号(なづ)けり
【大日孁貴、
此をば於保比屢咩能武智(おほひるめのむち)と云ふ、
孁の音(こゑ)は力丁反(りきていはん)。
一書(あるふみ)に天照大神(あまてらすおほみかみ)と云ふ。
一書(あるふみ)に天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)と云ふ。】。
此の子(みこ)、光華(くわうくわ、ひかり)明彩(めいさいなり、うるはしかり)て、
[於]六合(りくがふ)之(が)内(うち)に照(て)り徹(とほ)る。
故、二神喜曰
「吾息雖多、
未有若此靈異之兒。
不宜久留此國。
自當早送于天而
授以天上之事。」。
是時、天地相去未遠、
故以天柱舉於天上也。
雖多…〈乙本〉雖多左波奈礼止毛霊異久志比尒安也志久
 自當早送于天美津加良波也久安女尒遠久里安介牟止志天
 以天上之事安末乃波良乃古止遠毛知氐須舉於天上安末乃波良尓遠久里安介津

〈甲本〉天柱アマノミハシラ
〈閣〉ヨロコムテ[カ]イヘトモサハアリト ス タアラ- カク異之クシ/ヒニアヤシキ/ミコハ
 ヘカラヨロシク/トゝメマツル/トゝメマツル[ノ][ニ] ミツカラマサニスミヤカニ/ハヤク ヲクリマツヲクリミケムトシテアメ[ニ]
 [テ]サツクルニアメノ-上之事
 アイサルコト タ カラ天柱アマノミハシラ弘仁記アメノ ミ ヲクリアクアメ-

…[名] たましい。霊の異体字。〈類聚名義抄〉「:ミタマ ミカゲ スタマ ネカフ アヤシ メツラシ タマシヒ アキラム カミ ワリヤウ」。
故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜びて曰(のたま)はく
「吾息(わがこ)多(さはなり)と雖(いへど)も、
未(いまだ)若此(かく)霊異之(あやしきくすしき)児(こ)有(あ)らじ。
宜(よろしく)此の国に久しく留(とど)むべから不[ず]。
自(おのづから)当(まさ)に早く[于]天(あめ)に送りて[而]、
天上之事(あめのこと)をば以(も)ちて授(さづ)くべし。」とのたまふ。
是(この)時に、天地(あめつち)相(あひ)去(ゆくこと)未(いまだ)遠(とほ)からずて、
故(かれ)天柱(あめのみはしら)を以ちて[於]天上(あめ)に挙(あ)げまつりたまひき[也]。
《次生海》
 古事記では島生みの後に大量の神を生んだ(第36回)が、書紀ではかなり絞り込まれている。
 「」においては、記では海神は「大綿津見ヲホワタツミ神」だから、海はワタと訓むべきかとも思えるが、ウミ、あるいは書紀古訓のウナハラも普通に使われる上代語なので、これらでも差し支えないであろう。
《次生川》
 記の神生み段における川の神としては、「水戸〔河口〕の神として「速秋津日子神」・「速秋津比売神」、 そして「此速秋津日子速秋津比売二神因河海持別而生名沫那芸神沫那美神〔この速秋津日子・速秋津比売の二神は河海に因りて、特に別けて生れし名、沫那芸神沫那美神、 「天之水分〔クマリ:水を分流する意〕」・「国水分神」が相当する。
《次生山》
 記では「山神名。大山津見神」。「~津見」は、「~ツ〔属格の助詞〕〔ミ〕」。
《生木祖句句廼馳》
 の発音には、がある。「木のおや」は「の葉」・「の実」のような合成語になりきっていないので、が適当か。
 記では「木神、名久久能智神」に対応する。
《生草祖草野姫亦名謂野椎神》
 記では「野神、名鹿屋野比売神。亦名謂野椎神」に対応する(第36回)
 一書[6]では自然界の神は本文よりやや増え、風神・土神が加わっている。
《共生日神》
 書紀本文では大幅に簡略化され、記にあった「伊邪那美命が軻遇突智神を生んで死に…」以後の場面はすべてなくなっている。 記では天照大神らは伊弉諾尊の禊によって出現するが、 書紀本文では伊弉冉尊は健在で、天照大神らは二神が一連の子を生んだ後に続けて生んている。
 伊弉冉尊の最後については、古事記では「伊邪那美命」が「黄泉津よもつ大神」となって鎮座するが、書紀本文では日神らを生んだ場面を最後にその後のことについては何も書かれていない。
 記の物語の方は、概ね一書[6]として収められる。
《授以天上之事》
 授以天上之事は古事記が天照大神に「所知高天原矣、事依而賜」と命じたことに対応する(第44回)
 「授以天上之事」は訓読しにくいが、 「」を接続詞として、「以授天上之事」の和習と判断することがもっとも自然である。
 もし「以天上之事授」の語順ならば、「以」は動詞「授」への目的語の倒置を示すための助詞として必要だが、 通常のⅤOの語順なら「以」は不要で「授天上之事」でよい。
《大意》
 次に海を生みました。 次に川を生みました。 次に山を生むみました。 次に木の祖である句句廼馳(くぐのち)を生みました。 次に草の祖である草野姫(かやのひめ)、別名野槌(のづち)を生みました。
 既にこれだけの神を生みましたが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、 ともに計るに、 「私たちは既に大八洲国(おおやしまのくに)と山川草木を生んだ。 どうして天下の主となる神を生まなくてよいのか。」とおっしゃりました。
 こうして、ともに日の神を生み大日孁貴(おおひるめのむち)と名付けました 【大日孁貴 は「おほひるめのむち」と訓む。 孁の音よみは力丁反(りきていはん)。 一書では天照大神(あまてらすおおみかみ)という。 一書では天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)という。】。 この御子は光華明彩にて、 六合(りくごう)の中を漏らすところなく照らしました。
 よって、二神は喜んで 「我が子は多くいるとはいえ、 未だこのような霊異の子はいなかった。 この国に長く留め置いてはならない。 自ずから早く天に送り、 よって天上の事を授けるべきである。」と言いました。
 この時は、天地の通行はまだ遠くなく、 よって天の御柱を使って天上に上げました。


12目次 次生海次生川次生山/次生月神其光彩亞日】
次生月神 【一書云月弓尊
月夜見尊
月讀尊。】。
其光彩亞日、
可以配日而治。
故、亦送之于天。
生月神…〈閣〉ウマリマスツキノツキユミノツキミ ノ
其光彩…〈乙本〉其光彩曽乃比加里宇留波志。 〈甲本〉亞日ヒニツケリ
〈閣〉ヒカリウルワシキコトツケリヘシナラム日而シラス タ/ヲクリマツルヲクリタテマツル○天[ニ]

…[形] 主たるものに次ぐ位置づけをあらわす。「亜流」など。
可以…〈汉典〉「① 表示可能或能够。② 表示許可」〔够:足りる〕。
…[動] つきそう。〈類聚名義抄-僧下〉「配:タグヒ アツ クハシ」。

次に月神(つきのかみ)を生む
【一書(あるふみ)に月弓尊(つきゆみのみこと)
月夜見尊(つきよみのみこと)
月読尊(つきよみのみこと)と云ふ。】。
其の光彩(くわうさい、ひかりうるはしさ)日(ひ)に亜(つ)ぎて、
可以(よく)日に配(たぐ)ひて[而]治(し)らさむ。
故(かれ)、亦(また)之(こ)を[于]天(あめ)に送(おく)れり。
次生蛭兒。
雖已三歲、脚猶不立、
故載之於天磐櫲樟船而
順風放棄。
蛭児…〈甲本〉ヒル。 〈閣〉ナルマテニ[ニ]三歲ミトセニアシ猶不タゝ
故載…〈乙本〉天磐櫲樟舩安末乃伊波久須乃不祢。 〈甲本〉天磐アメノイハクスフネ
〈閣〉カレノセ之於アマノイハ櫲-樟 クス フネ[ニ][テ]順風カセノマニカセノマゝニ放棄ハナチスツ

次に蛭児(ひるこ)を生む。
已(すで)に三歳(みつ)なれ雖(ど)、脚(あし)猶(なほ)不立(たたず)、
故(かれ)之(こ)を[於]天磐櫲樟船(あめのいはくすぶね)に載(の)せて[而]
風の順(まにま)に放(はな)ち棄(う)ちき。
次生素戔嗚尊。
【一書云神素戔嗚尊、
速素戔嗚尊。】
此神有勇悍以安忍、
且常以哭泣爲行。
故、令國內人民多以夭折、
復使靑山變枯。
素戔嗚尊…〈閣〉 [ニ]スサ安氏説ウミマツリマス ソサノヲノ
 【一書曰カミ ノヲノ トハヤサノヲノ尊】
有勇悍以安忍…〈乙本〉有勇悍以安忍以左美太介久志氐以不利奈留古止安利
 哭泣奈岐以左津留遠毛天ス人民於保イロ可良人草於保三陁可良オホミタカラであろう(《公民》)
 夭折安加良左万尓之太之牟靑山變枯安遠也末毛加良也末尓ナリヌ
〈閣〉アリイサミタケクシテ安忍イフリナルコトマタツネ哭泣ナキイサツルヲ[テ]ワサト
  レ[ノ][ノ]人民ヲホムタカラ ヒトクサヲ/サハヲホク[テ]夭折アカラサマニシナシムシヌ私説アカラサマニス
青山…〈甲本〉靑山アヲヤマモ變枯カラヤマニ。 〈閣〉-使タヨリニスルコト /マタ青山アヲヤマモアヲ ヤマヲ變枯ナス カラヤマカラヤマニナリヌ弘仁説記/カラヤマニナス

勇悍…いさましく、荒々しい。
…[形] (古訓) いさむ。たけし。
安忍…平然として残忍なことをする。

次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生む
【一書(あるふみ)に神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、
速素戔嗚尊(はやすさのをのみと)と云ふ。】。
此(この)神に勇悍(ゆうかん)有(あ)りて、安忍(あんにん)を以(おも)へり。
且(また)常(つね)に哭泣(いさちる)ことを以ちて行(おこなひ)と為(な)せり。
故(かれ)、[令]国内(くにち)の人民(あをひとくさ)をして多(さは)に以ちて夭折(えうせつ)せしむ、
復(また)[使]青山(あをやま)をして変枯(からやまとせ)しむ。
故、其父母二神勅素戔嗚尊
「汝甚無道。
不可以君臨宇宙。
固當遠適之於根國矣。」
遂逐之。
其父母…〈乙本〉無道安知岐奈志君臨宇宙安女乃志太尓君太利
 逐之也良比也利ツ
〈甲本〉逐之ヤラヒキ
〈閣〉[ノ]父母カソイロハノ/コトヨサセ給ハク/コトヨサシタマハクミコトノリシタマウ戔嗚尊イマシハナハタ/アチキナシ
 ヘカラ[テ]キミ-タル宇宙 アメノシタニマコト[ニ] ニ ク-イネト宣之於-黄泉也 クニ
 [ニ]逐之ヤラヒキ 
故(かれ)、其の父母(ちちはは)二(ふたはしら)の神、素戔嗚尊(すさのをのみこと)に勅(おほせこと)のたまはく
「汝(いまし)甚(いと)無道(あぢきなし)。
[不]以可(よく)君臨宇宙(あめつちをつかさどること)あらじ。
固(かたく)当(まさ)に遠(とほく)[於]根国(ねのくに)に適之(ゆく)べし[矣]。」とのたまひて、
遂(つひ)に逐之(やら)ひき。
《生月神》
 月神については、「可以配日而治」、すなわち日神の配下となってともに天を治めよという。
 古事記では「所知夜之食国矣 事依也」、すなわち夜の世界を司る(第44回)
《可以配日而治》
 「可以」は「可能」とほぼ同じ意味である。
《蛭児》
 蛭児は古事記では磤馭慮嶋の柱巡りのときの生み損ないの子であったが、書紀本文では「大日孁貴-月神-蛭児-素戔嗚尊」の位置に移されている。
 一書[2]では磤馭慮嶋での「陰神先発喜言」が遠因となって、今になって蛭児が生まれたとして、記の伝説と書紀本文とを融和させている。
《素戔嗚尊》
 古事記では「所知海原矣 事依也」すなわち海の治めを命じられたと書く(第44回)が、 実際の文脈では地上の国を治めるのが任務だから、「所知天下矣 事依也」とするのが正しい。 「所知海原」は本来月読命の役目だから、書き込む位置を誤った可能性がある。
 しかし、速須佐之男命は泣いてばかりいて地上の国を治めなかったから「青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以 悪神之音如狭蝿皆満 万物之妖悉発」なる状況に陥る。 書紀本文にはこの部分が取り入れられている。
 その結果、伊弉諾尊素戔嗚尊を根の国に追放した。記で「伊邪那岐大御神」が「大忿怒」して「神夜良比爾夜良比」したと書かれていることに沿っている。
《有勇悍以安忍》
 は荒々しさを表す。文脈から見ての荒っぽさがの肯定的な語感を打ち消すであろう。 上代語「タケシ」に相当する。〈乙本〉の「イサミタケクシテ」は、勇-悍を逐語的に訓んだものだが、 「イサミ」は後文の「哭泣」にそぐわない。
 次に、安忍の本来の意味は〈汉典〉「安于做残忍的事」、すなわち平然として残忍な行いをすること。
 その古訓「イブリナル」の類語について辞書を見ると、
イブリナリ…[形動] すねる。用例は『卯月紅葉』〔1706〕
イブリモノ…[名] ひねくれ者。用例は『諸道聴耳世間猿』〔1766〕
 上代には、
イフカシ…[形] 気がかりである。(万)2641伊布加之 イフカシ」。
イブセシ…[形] 鬱陶しい。(万)4113移夫勢美等 いぶせみと」。
イブカル…[動] いきどおる。倭姫命世記〔鎌倉中期〕神倭磐余彦天皇御宇。悪神伊不加利人民亡。火気発起而天下不安留仁」。
 これらの語根イブは、心の晴れないさま、あるいは憤怒を示すと見られる。
 よって、書紀古訓「イブリナル」は、安忍の意味:「顔色ひとつ変えずに暴虐をはたらく」とは食い違う。
 この意に沿った上代語としては、「ヤスクシヘタク」〔易く虐ぐ〕などが考えられる。 しかし、これに繋がる伝統的な材料があまりにも存在しないので、これを用いることは自制すべきであろう。
 なお、ここの「」はオモフであろう。
 日本書紀は時折漢籍にある熟語を用いているが、原文を作成した段階では適切な倭語による訓読にたどり着けないものが残されていたと見てよい。 古訓学者はそこに倭語を当てる努力をしたが、「安忍」については漢語の意味と離れているから、ここに関しては適切な和訓を求めるという課題は解決されていない。
 よって、本来の書紀の形に忠実であろうとするなら、このような箇所においては音読が適切であろう。 なお、「勇悍」への訓「タケシ」はこれよりは適切であるが、隣り合う語句に訓読と音読が並ぶのはエレガントではないので音読に揃えるべきであろう。
《令国内人民多以夭折》
 夭折は〈乙本〉では「アカラサマニシナシム」と訓読される。アカラサマは「俄かに」の意味で、アカラシマカゼは突然の疾風を意味する。 夭折は、周囲にとっては確かに突然だが、突然の死が必ず夭折〔若くして死ぬ〕とは言えない。よってこの古訓は正確ではない。
 ここにも「」がある。この段全体で「以」の使い方を比べると、ここでも接続詞「以」が和習によりイレギュラーな位置に置かれたと思われる。
《君臨宇宙》
 〈乙本〉の訓「天下アメノシタに君タリ」の天下よりも、「宇宙〔=天地、乾坤〕の方が範囲が広い。 初めに統治を命じられたのは確かに「地上の国」だが、このときは言葉としてより強く「天にも地にも君臨できるところはない」と言ったと読むことができる。
《遂逐之》
 「」への書紀古訓ヤラフについては、記に「夜良比爾夜良比(第44回)、 「夜良比夜良比(第45回)が見える。
《大意》
 次に月の神を生みました 【一書に月弓尊(つきゆみのみこと)、 月夜見尊(つきよみのみこと)、 月読尊(つきよみのみこと)という。】。
 その光彩は日に次ぎ、 よって日を補佐して天を治めるべきとされました。 故に、また天に送りました。
 次に蛭児(ひるこ)を生みました。 既に三歳になっても、脚はなお立てませんでした。 故に、天磐櫲樟船(あめのいわくすぶね)に載せて 風のままに放ち棄てました。
 次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生みました 【一書に神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、 速素戔嗚尊(はやすさのをのみと)という。】。 この神は勇悍で安忍を思い、 また常に哭泣することばかりを行いとしました。
 故に、国内の多くの人民を夭折させ、 また青山を枯山に変えました。
 故に、その父母二神は、素戔嗚尊に 「お前はとても無道である。 よって宇宙に君臨してはならない。 必ず遠い根の国に行くべきである。」と勅して、 遂に放逐しました。


まとめ
 「安忍」は書紀古訓によって意味が薄められたが、本来は朝廷の国家に従わない勢力を峻烈に非難する立ち位置から用いた言葉であろう。 素戔嗚尊と大国主の国であった出雲国に対する厳しい姿勢が見えるのが、〈崇神〉六十年の振根に宝物を供出させた記事である。
 しかし、それでも書紀に「一書」として古事記の記述を大幅に取り入れざるを得なかったのは、 現実的には政権が各地方を本貫とする多様な氏族によって支えられていたためで、それぞれが誇りとするアイデンティティーに対して一定の配慮を払う必要があったからであろう。
 さて、書紀は天照大神などの誕生を、なぜ二神の夫婦としての通常の営みとして描いたのであろうか。 結局は古事記神話では、埋葬された遺体が腐敗していく場面などにあまりに生々しい肉体性のある姿として描かれていたためと考えられる。 伝統的な神話は、穢れや怪異に彩られた呪術的なものであった。
 それに対して書紀は、宇宙は陰陽五行説のような論理的な秩序によって成り立っていて、神はその宇宙の形而上に置くことがあるべき神話の姿であると考えたのであろう。



2026.05.24(sun) [01-07] 神代上7 

13目次 次生海次生川次生山/一書[1]】
《一書[1]》
【一書(1)曰。
伊弉諾尊曰
「吾欲生御宇之珍子。」
乃以左手持白銅鏡
則有化出之神、
是謂大日孁尊。
御宇之珍子…〈乙本〉御宇之珍子安女乃志太遠左女牟宇豆乃古白銅鏡万須美乃加々見

〈閣〉 レノタマウマムトシラスヘキアメノシタミコゝ/ウツノ/ミコヲヒタリ[ノ]ミテ[ヲ]
 トリタマフトキ白銅マスミノカゝミ[ヲ]マス化出ナリイツル ミ[ヲ]マウスヲホ日孁ヒルメノ

うづの…[連体詞] 高貴な、珍しいなど対象をほめていう。
【一書(あるふみ)に(1)曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)曰(のたま)はく
「吾(われ)[欲]御宇之(あめのしたしらす)珍子(うづのこ)を生(な)さむとす。」とのたまふ。
乃(すなはち)左手(ひだりのみて)に持てる白銅鏡(ますみのかがみ)を以ちて
則(すなは)ち化出之(なりいづる)神有(ま)して、
是(こ)をば大日孁尊(おほひるむちのみこと)と謂ふ。
右手持白銅鏡
則有化出之神、
是謂月弓尊。
右手…〈閣〉ミキムノミテ月弓[ノ]
右手(みぎのみて)に持てる白銅鏡(ますみのかがみ)に、
則(すなは)ち化出之(なりいづる)神有(ま)す、
是(こ)をば月弓尊(つくゆみのみこと)と謂ふ。
又廻首顧眄之間
則有化神、
是謂素戔嗚尊。
顧眄之間…〈閣〉メクラシ ミクシ マサミル╭─╮ ╰─╯ カリ
 マスナル[テ][ヲ]マウスサノヲノ[ト]
顧眄…〈汉典〉「to turn one's head and look around」。
又(また)首(かしら)を廻(めぐら)して顧眄之間(かへりみるま、みるまさかり)に
則(すなは)ち化(なれる)神有(ま)す、
是(こ)をば素戔嗚尊(すさのをのみこと)と謂ふ。
卽大日孁尊及月弓尊
並是質性明麗、
故使照臨天地。
質性…〈乙本〉質性比止々奈留明麗天利宇留波志。 〈閣〉質性ヒトゝナリテリウルハシ

あかし…[形]ク 明るい。(万)0892日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 ひつきは あかしといへど あがためは てりやたまはぬ」。

即(すなはち)大日孁尊(おほひるめのみこと)及(と)月弓尊(つくゆみのみこと)と
並(なら)びに是(こ)の質性(ひととなり)明(あか)く麗(うるは)し、
故(かれ)天地(あめつち)を照臨(おして)ら使(し)む。
素戔嗚尊、是性好殘害、
故令下治根國。
〈珍、此云于圖。
顧眄之間、
此云美屢摩沙可梨爾。〉】
是性好残害…〈乙本〉比止々奈留
〈閣〉カムサカヒトゝナリコノムソコナヒヤフルコト[ヲ]-シム クタシ シラサ[ノ][ニ]
 チム顧眄之コ メム ノミル マサ カリアヒタカム

残害…きずつけて殺す。
まさかりに…〈時代別上代〉「まさかりに:最中に、の意か。唯一例。

素戔嗚尊(すさのをのみこと)、是(この)性(ひととなり)残害(そこなひころすこと)を好む、
故(かれ)根国(ねのくに)に下(お)ろし治(をさ)め令(し)めき。
〈珍、此をば于図(うづ)と云ふ。
顧眄之間、
此をば美屢摩沙可梨爾(みるまさかりに)と云ふ。〉】
《左手持白銅鏡》
 大日孁尊などについて、一書[1]では伊弉諾尊伊弉冉尊が夫婦となって生んだ形をとらず、伊弉諾尊の持った白銅鏡などから「化出」する。
 またここには伊弉冉尊も出てこないので、禊によって「所生」した古事記神話の系列に属することになる。
《白銅鏡》
 書紀古訓「マスミカガミ」は、マソカガミと同じとみられる。 マソカガミは、(万)0619真十鏡 磨師情乎 まそかがみ とぎしこころを」のように、しばしば枕詞として使われ「研ぐ」などを引き出すから、 精密に磨き上げられた金属鏡ということになる。 マスミカガミの形は、(万)3885吾目良波 真墨乃鏡 わがめらは ますみのかがみ」に見える。
 「白銅鏡」については、現在の白銅は銅-ニッケル合金のことだが、「中国古代の文献においては、白色の銅合金は総称して白銅と呼ばれ」、 「正倉院が所蔵する奈良時代の中国製白銅鏡の一群は、分析によれば錫約25%、鉛約5%を含」むという([百度百科])。 これについては、[ようこそ、深遠なる古代鏡の世界へ]によると、 正倉院の銅鏡は「A群鏡:銅約70%、スズ約25%、鉛約5%。B群鏡:銅約80%、スズ約20%、ヒ素1~3%」という。 すなわち、Cu-Sn合金であるが、白色に見える。
 伊弉冉尊は精緻に磨かれたマスミカガミを手にとり、これに「白銅鏡」の表記をあてたと見ても特に問題はないであろう。
《廻首顧眄之間》
 「顧眄〔首を回して見る〕には「」の意も含まれ同語反復的である。
 原注「ミルマサカリニ顧眄る真盛りに〕は 「之間」をかなり強調して「~の真っ最中に」と訓めというものである。これには多分に原注者の主観が入っていると考えられるので、そういうことなら原注は全くの一次資料ではあるが、必ずしもそれに忠実に従う必要はないとする考え方もあり得る。
 そもそもこの段で言いたいことは、振り返ってよそ見をしたすきにとんでもない神〔=素戔嗚尊〕ができてしてしまったということであろう。 だとすれば「之間」をわざわざ「その真盛りに」と誇張しなくても意は伝わりそうである。
《照臨》
 語順を逆転した「臨照」は、万葉でオシテルと訓む。オシテルのかな書きの例は、(万)4361「難波乃海 於之弖流宮尓 伎許之賣須奈倍 なにはのうみ おしてるみやに きこしめすなへ」に見える。 万葉で他の表記は押光押照忍照忍光。 もっぱら難波を引き出す枕詞として用いられるのは難波京をほめ讃えることによるから、オシテルには「まばゆく輝き光る」語意があったということであろう。
 よって、照臨オシテルと訓むことは至極妥当だと考えられる。
《残害》
 「残害」は主に惨たらしく殺す意で、ここでは本文の「夭折」にあたるからコロスという強い言葉を用いるべきであろう。
《珍此云于図》
 一書の中では原注をそれぞれの一書の末尾にまとめている。もともとは一書そのものが割注だったから(〈北野本〉がその形)、 割注の割注としてさらに小さい字を用いることを避け、末尾に集約する形をとったと見られる。
《大意》
 【一書(あるふみ)(1)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 「私は御世を治める珍(うづ)の子〔=貴い子〕を生み出したい。」と言った。 そこで左手に持った白銅鏡から 化生した神があり、 これを大日孁尊(おおひるむちのみこと)という。
 右手に持った白銅鏡から 化生した神があり、 これは月弓尊(つくゆみのみこと)という。
 また、首を回して見る最っ盛りに〔=よそ見していたときに〕 化生した神があり、 これを素戔嗚尊(すさのをのみこと)という。
 こうして生じた大日孁尊と月弓尊は、 並んで性質は光り輝き麗しかったので、 天地を広く照らすことを任じた。
 素戔嗚尊は、性質は残害を好んだので、 根の国に降ろして治めさせた。
 〈珍は、「うづ」と訓む。 顧眄之間は 「みるまさかりに」と訓む。〉】


15目次 次生海次生川次生山/一書[2]】
《一書[2]》
【一書(2)曰、
日月既生、
次生蛭兒。
此兒年滿三歲、脚尚不立。
日月…〈閣〉○既日月[ニ]ウマレタマヒ
満三歳…〈乙本〉満三歳美止世尓奈留万氐
〈閣〉滿ナルマテニ/ナリヌレトモトセニ[ニ]タゝ
【一書(あるふみ)(2)に曰はく。
日(ひ)月(つき)既(すで)に生まれて、
次に蛭児(ひるこ)を生む。
此児(このこ)の年(よはひ)三歳(みつ)に満(みつ)れど、脚(あし)尚(なほ)不立(たたず)。

伊弉諾伊弉冉尊巡柱之時、
陰神先發喜言、
既違陰陽之理、
所以、今生蛭兒。
巡柱…〈閣〉給也アクヨロコフコト[ヲ]タカヘリ陰陽メヲノコトハリ[ニ]
 所以コノユヘニ蛭兒[ヲ]
初(はじめ)に
伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の尊(みこと)柱(みはしら)を巡(めぐ)りし[之]時に、
陰神(いむしん)先(さき)に喜(よろこび)言(こと)を発(あ)げて、
既(すで)に陰陽(おむやう、めを)之(の)理(ことわり)を違(たが)へり。
所以(このゆゑ)に、今蛭児(ひるこ)を生みつ。
次生素戔嗚尊、
此神性惡常好哭恚、
國民多死、靑山爲枯。
性悪…〈閣〉ヒトゝナリサカナウシテ
  ムナキ/恚フツクリ 國民クニノ ヒトクササハニ/コトハリシヌカラヤマニ

…[動] 怒る。〈類聚名義抄〉「:イカル フツクム」。
フツクム…[自]マ四 怒る。

次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生む、
此の神性(さが)悪(あ)しくて常(つねに)哭(なき)恚(いか)ることを好みて、
国の民(たみ、ひとくさ)多(さは)に死にて、青山(あをやま)枯(からやま)と為(な)りぬ。
故、其父母勅曰
「假使汝治此國、
必多所殘傷。
故汝可以馭極遠之根國。」
其父母…〈閣〉 [ノ]父母カソ イロハ勅曰ミコトノリシテ
 假使タトヒイマシシラハ[ノ][ヲ]ヲホケムトヲモフトコロソコナヒヤフル
  シヘシ[テ]しらすキハメテ キ之根[ノ]

きはまる…[自]ラ四 極まる。
 (万)0342極 貴物者 きはまりて たふときものは」。

故(かれ)、其の父母(ちちはは)勅(おほせごと)曰(のたま)はく
「仮使(たとひ)汝(いまし)此(この)国を治(し)らさば、
必ず所残傷(そこなひやぶること)多(おほ)けむ。
故(かれ)汝(いまし)は可以(よく)極(きはま)りて遠之(とほき)根の国を馭(をさ)めよ。」
次生鳥磐櫲樟船、
輙以此船載蛭兒、
順流放棄。
順流放棄…〈乙本〉順流水乃万万仁

〈閣〉 ム[ノ]イハ櫲-樟クススナハチ順流放=/カセミツニシタカヒテ ナカシ スツマニミツノ /ハナチ/スツ

次に鳥磐櫲樟船(とりのいはくすふね)を生む、
輙(すなはち)此船(このふね)を以ちて蛭児(ひるこ)を載せて、
流(なが)せる順(まにま)に放(はな)ち棄(う)ちつ。
次生火神軻遇突智。
時伊弉冉尊、
爲軻遇突智、所焦而終矣。
其且終之間、
臥生土神埴山姬及水神罔象女。
火神…〈閣〉ホノカミ軻遇突智カクツチ
所焦而終矣…〈乙本〉終矣加美左里万志奴罔象美都波
〈閣〉 レテヤカ[テ]終矣カミサリマシヌ[ノ]スルカムサリマサムトアヒタ
 フシナカラ ムツチ[ノ]埴山姫ハニヤマヒメミツ[ノ]罔象ミツハノ[ヲ]
…[助動] まさに~せんとす。
次に火神(ほのかみ)軻遇突智(かぐつち)を生む。
時に伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
軻遇突智が為(ため)に、所焦(やかえ)て[而]終(かみさ)りつ[矣]。
其(その)且終之(まさにかみさらむとせし)間(ま)に、
臥(ふ)して土神(つちのかみ)埴山姫(はにやまひめ)及(と)水神(みづのかみ)罔象女(みつはのめ)とを生(う)みき。
卽軻遇突智、
娶埴山姬生稚産靈。
此神頭上生蠶與桑、
臍中生五穀。
〈罔象、此云美都波。〉】
娶埴山姫…〈閣〉アヒテ埴山姬ハニヤマヒメ[ニ] ムワカ産靈ムスヒヲ
頭上…〈乙本〉五穀以豆々乃太奈豆毛乃
〈閣〉カウヘノ/カシラノウヘ[ニ]ナレリカヒコトゝクハホソノ[ノ]ナカニ[ニ]ナレリ五穀イツクサノタナツモノ
 ハウシヤウ
即(すなはち)軻遇突智(かぐつち)、
埴山姬(はにやまひめ)を娶(めあは)せて稚産霊(わかむすび)を生(う)む。
此の神の頭(かしら)の上(へ)に蚕(こ)与(と)桑(くは)とを生(な)して、
臍(ほぞ)の中(うち)に五穀(いつくさのたなつもの)を生(な)せり。
〈罔象、此をば美都波(みつは)と云ふ。〉】
《次生蛭児》
 大日孁尊以下四神を二神が夫婦として生んだとされることと蛭児が生まれたタイミング、 そして素戔嗚尊を根の国に追放したところは、書紀本文の通りである。一書[2]では、そこに次の3点が付け加えられている。
  蛭児が生まれた遠因として、柱巡りのときの「陰陽之理」があったこと。
  次に鳥磐櫲樟船を生んだこと。
  次に軻遇突智を生み、それによって伊弉冉尊が死んだこと。
 ただ、大日孁尊などは既にこのときに生まれたから、伊弉諾尊がの後に伊弉冉尊の墓を訪ねてから禊によって三神が生まれるまでの話は必要がなくなる。
《脚尚不立》
 古事記の「水蛭子」には、ヒトの形になる前に未熟なまま生まれた如きイメージが湧く。 一方、書紀では「蛭児」は足の不自由な子として描かれている。
《既違陰陽之理》
 一書2では、「柱之時(於天浮橋之上段)に遡り、そのときの「陰神先発喜言」が「陰陽之理」だったのがわざわいし、 蛭児が生まれたという因果応報譚を加える。
 これによって、書紀本文と古事記神話との間で折り合いをつけた形になっている。
《此神性悪》
 「性悪説」は人は生まれながら悪なので、正しく修養することによって克服する努力が必要とする考え方である。  書紀の素戔嗚尊の「此神性悪」にも、これを生まれつきの性質とするニュアンスがある。
《常好哭恚国民多死青山為枯》
 記紀における一般的な素戔嗚尊の描き方である。
《鳥磐櫲樟船》
 鳥磐櫲樟船は、古事記では「迦具土神〔軻遇突智〕の二柱前に生まれ、 「鳥之石楠船神。亦名謂天鳥船」とある(第37回)。記の神生み段で大量に生まれた神の大部分は書紀では省かれているが、 鳥磐櫲樟船は特別に、蛭児を載せて流す船として生まれている。この神の登場も記への歩み寄りのひとつと言えよう。
《軻遇突智》
 ここでも記への歩み寄りが見られる。 記では伊邪那美神は「火之夜芸速男神、亦名謂火之炫毘古神、亦名謂火之迦具土」を産んだ時に「美蕃登みほとやか」て死んだ (同上)
《埴山姫/罔象女》
 埴山姫は記の「波邇夜須毘売神」に対応するであろう。
 罔象女は訓注「罔象:美都波ミツハ」で、記の「弥都波能売みつはのめ」に対応する(同上)
 記では波邇夜須毘売神は伊邪那美神のくそから成り、弥都波能売は尿ゆまりから成ったから、記との同一性を貫くなら「」はウムではなくナルと訓まねばならない。
《稚産霊》
 稚産霊は、一書[2]では「軻遇突智」と「埴山姫」の間に生まれた子とされる。
 記では「和久産巣日神」と表記され、前項の弥都波能売とともに伊邪那美神の尿から成ったとされ、「豊宇気毘売神」は和久産巣日神の子とされる。
 稚産霊の姿は、記の「大気津比売神」に類似する(第51回)。 また一書[11]「保食神」も同様に描かれる。保食神は豊宇気毘売神と同一視して差し支えないであろう。
 結局、保食神の性格をもつ神は、さまざまな神となって出現するのである。
《大意》
 【一書(2)に曰く、 日〔の神〕と月〔の神〕が既に生まれ、 次に蛭児(ひるこ)を生んだ。 この子は満三歳になっても、脚はなお立たなかった。
 以前に 伊弉諾尊と伊弉冉尊が御柱を巡った時、 陰神が先に喜ぶ言葉を発したことは、 既に陰陽の理(ことわり)を違えた。 この故に、今蛭児を生むことになった。
 次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生んだ。 この神は性悪で常に泣き怒ることを好み、 国の民は多く死に、青山は枯山となった。
 故に、その父母は勅して 「もしお前がこの国を治めれば、 必ずむごく痛めつけることが多かろう。 故にお前は極めて遠くにある根の国を馭(ぎょ)すのがよい。」と命じた。
 次に鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)を生んだ。 そしてこの船に蛭児を載せて、 流れるままに放棄した。
 次に火の神軻遇突智(かぐつち)を生んだ。 その時に伊弉冉尊は、 軻遇突智によって焼かれて命を終えた。 その終えようとする間に、 臥して土の神埴山姫(はにやまひめ)と水の神罔象女(みつはのめ)とを生んだ。
 そして軻遇突智は、 埴山姫を娶って稚産霊(わかむすび)を生んだ。 この神は頭の上に蚕と桑を生じ、 臍(ほぞ)の中に五穀を生じた。
 〈罔象は「みつは」と訓む。〉】


14目次 次生海次生川次生山/一書[3][4][5]】
《一書[3]》
【一書(3)曰。
伊弉冉尊、生火産靈時、
爲子所焦而神退矣
〈亦云神避〉。
生火産霊…〈閣〉ホノ-ムスヒ為○所タメ子レヤカ[テ]○退矣カムサリマシヌ神避カミサル
【一書(あるふみ)(3)に曰はく。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火産霊(ほのむすび)を生みし時に、
子の為に所焦(やかえ)て[而]神退(かみさる)[矣]
〈亦(また)神避(かみさかる)と云ふ〉。
其且神退之時、
則生水神罔象女及土神埴山姬、
又生天吉葛。
〈天吉葛、
此云阿摩能與佐圖羅、
一云與曾豆羅。〉】
天吉葛…〈乙本〉天吉葛安末乃輿左豆良
〈閣〉スルカミ退サリマサムトアマノ吉葛ヨサツラテムキツカツ与曽豆羅ヨソツラ

よさづら…[名] 〈時代別上代〉「ひさご」。 それはこの一書[3]を〈延喜式-祝詞鎮火祭〉「〔伊佐奈美乃命〕更生子。水神。匏。川菜。埴山姫。四種物生給」と同内容と見たため。
つら…[名] 蔓性植物。

其(その)且(まさ)に神退之(かみさらむ)とせし時、
則(すなはち)水の神罔象女(みつはのめ)及(と)土の神埴山姫(はにやまひめ)を生(な)せり、
又(また)天吉葛(あまのよづら)を生(な)す。
〈天吉葛、
此をば阿摩能与佐図羅(あまのよさづら)と云ふ、
一(ある)は与曽豆羅(よそづら)と云ふ。〉】
《生火産霊時》
 一書[3]は、一書[2]を部分修正するものである。
 産霊は「高皇産霊神」のように、ムスビと訓まれた。「火産靈」は軻遇突智の新たな別名として加えられる。 また、伊弉冉尊が神避ったときにる神として、ここでは「天吉葛」が追加されている。
《一書[4]》
【一書(4)曰、 伊弉冉尊、
且生火神軻遇突智之時、
悶熱懊惱。
因爲吐、此化爲神、
名曰金山彥。
悶熱懊惱…〈乙本〉悶熱懊惱己々呂太江之安豆加不為吐太久里須
〈閣〉スル ト-アツカヒ- ナヤムナル-為神金山カナヤマヒコト

あつかふ…[自]ハ四 ① あつさに苦しむ。② 心わずらう。
なやむ…[自]マ四 〈時代別上代〉「本来病気による肉体的な苦痛をいうか」。
たぐる…[自]ラ四 嘔吐する(第37回)

【一書(あるふみ)(4)に曰はく。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
且(まさ)に火(ほ)の神軻遇突智(かぐつち)を生まむとせし[之]時、
悶熱懊悩(あつかひてなや)めり。
因(よ)りて為吐(たぐ)りて、此(これ)神と化為(な)りて、
名(なづ)けて金山彦(かなやまひこ)と曰ふ。
次小便、化爲神、
名曰罔象女。
次大便、化爲神、
名曰埴山媛。】
小便…〈乙本〉小便由波゛里万留大便久曽万留
〈閣〉小便ユハリマル罔象ミツハノ大便クソマル
次に小便(ゆまり)より、神と化為(な)りて、
名づけて罔象女(みつはのめ)と曰ふ。
次に大便(くそ)より、神と化為(な)りて、
名づけて埴山媛(はにやまひめ)と曰ふ。】
《金山彦》
 一書[4]は、伊弉冉尊が死んで生じた神のことのみを記す。その内容は一書[3]からさらに記に近づいている。
 金山彦は、記の「金山毘古神」と同じ。 また、埴山媛は大便〔屎〕罔象女は小便〔尿〕から生じたと明記されている点も、記と一致する (第37回)
 一書[3]では埴山媛は「土神」、罔象女は「水神」、軻遇突智は「火神」であった。 金山彦は間違いなく金神である。 句句廼馳は、一書[6]で「木神〔本文では「木租」〕とされる。 これらの神にはわざわざ「土神」、「水神」などが添えられていることから見て、間違いなく五行思想の木・火・土・金・水が意識されている。
《一書[5]》
【一書(5)曰。
伊弉冉尊、
生火神時、被灼而神退去矣。
故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。
被灼…〈乙本〉神退去加美左里万志奴
〈閣〉ヤカ/カクシマツルハフリマツル有馬アリ マ[ノ][ニ]
【一書(あるふみ)(5)に曰はく。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
火神(ほのかみ)を生(う)みてある時に、灼(や)か被(え)て[而]神退去(かみさります)[矣]。
故(かれ)[於]紀伊国(きいのくに)の熊野(くまの)之(の)有馬(ありま)の村に葬(はぶ)りまつる[焉]。
土俗、祭此神之魂者、
花時亦以花祭、
又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣。】
土俗…〈乙本〉土俗久尓比止
〈閣〉-ヒトマツルニハミタマヲツゝミフエハタ-ウタヒマウ ル
くにひと…[名] 土着の人。
土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るかたち者(は)、
花の時に亦(また)花の祭(まつり)を以ちて、
又(また)鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)歌舞(うたまひ)を用(もち)ゐて[而]祭(まつ)る[矣]。】
《葬》
 記では伊邪那美神の埋葬地は「出雲国与伯伎国堺比婆之山(第37回)とされた。
 一書[5]で「紀伊国熊野之有馬村」とされることについては、第54回【森林開発の功績】で、出雲国から紀伊国への移民があった可能性を見た。 出雲国と紀伊国の共通地名に、熊野須佐美保がある。移民が故郷を懐かしんで、新しい土地に馴染みのある地名をつけることは一般的に見られる。
 紀伊国熊野有馬村という伊弉冉尊埋葬伝承地の存在は、出雲国から紀伊国への移民があったことをさらに裏付ける材料となる。
《紀伊国熊野之有馬村》
花の窟神社 御神体の磐座
花の窟神社 所在地 (三重県熊野市有馬町)
紀伊国熊野」については、神武天皇段《熊野神邑》参照。
 『大日本地名辞書』によれば「有馬アリマ:木本の南一里今井戸ヰノヘと合同し 有井アリヰ村と改む、神代の名跡有馬の花窟は木本有馬二村の中間に在り」という。
 その花の窟はなのいわや神社〔三重県熊野市有馬町130〕は、 [熊野市公式|花の窟] 「花の窟には古来から社殿がなく、熊野灘に面した高さ45mもの巨大な磐座を御神体とし、参拝者はご神体に直接触れることができる珍しい神社」という。
 社を建てるようになる以前の古い時代においては、磐座いわくらに神を迎えた。よって非常に古い時期から信仰されていたと考えられる。 おそらくは古くから祭祀が行われていた磐座に、伊邪那美神埋葬地が習合したものであろう。
《花時》
 「花時」は「花が咲き誇る時期に」の意で、先頭に「」または「」を補うべきであろう。
《大意》
【一書(3)に曰く、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火産霊(ほのむすび)を生んだ時、 その子によって焼かれて神避(かみさ)りした〔=死んだ〕 〈または、神避(かみさかる)という〉。
 そのまさに神避ろうとした時、 水の神罔象女(みつはのめ)と土の神埴山姫(はにやまひめ)を生じ、 また天吉葛(あまのよさづら)を生じた。
 〈天吉葛は、 「あまのよさずら」と訓む。 あるいは、「よそずら」ともいう。〉】

【一書(4)に曰く。 伊弉冉尊が 火の神軻遇突智(かぐつち)を生もうとしたとき、 熱に悶えて懊悩(おうのう)した。
 よって嘔吐して、これが神となって、 その名を金山彦(かなやまひこ)という。
 次に小便から神となって、 その名を罔象女(みつはのめ)という。 次に大便から神となって、 その名を埴山媛(はにやまひめ)という。】

【一書(5)に曰く、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)は 火の神を生んだ時に、灼(や)かれて神避(かみさり)した。 そして紀伊国の熊野の有馬村に葬った。
 土地の人は、この神の御霊の祭りとして、 花の時に、また花の祭で、 また鼓、笛、旗、歌舞によって祭る。】


まとめ
 伊弉冉尊の葬りの伝承地は、出雲と紀伊という遠く離れた場所に存在する。
 柱巡り伝説の発祥地は淡路説で定着しているが、こと伊弉冉尊の軻遇突智出産伝説についてはその発祥は出雲国にあり、移民によって紀伊に伝わったとも考えられる。 火の神を生んだときに美蕃登みほと〔御陰〕を灼いて死んだというストーリーには相当のインパクトがあり、幅広い人々の共感を呼んだと考えられる。 一書[5]によって、書紀が書かれた時点で有馬村の伊弉冉尊埋葬伝承地で花の祭りが盛大に行われていたことが実証されるが、これもその一つの表れであろう。
 書紀本文が火神出産の話を避けたのは、結局この話の結末として天照大神が禊によって出現したことに繋がってしまうためと見られる。 書紀は、大日孁尊〔天照大神〕の出現を穢れと禊という呪術的な伝説から、儒教や五行思想に依る理神的な営みに置き換える方針をとったと考えられる。例えば《金山彦》項でみた五行思想による神名の規定はそのひとつの現れである。 しかしそれ以上に、国家の起源神話はそもそも朝廷が主体となって体系化すべきものであって、出雲の土着神話に依存することをよしとしなかった可能性がある。
 ところが、現実問題として伊弉冉尊による火神出産神話の存在は強固で、結局のところ書紀本文は火神出産を語る多くの一書によって包囲された格好になっている。



2026.05.27(wed) [01-08] 神代上8 

16目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(1)】
《一書[6]-(1)》
【一書(6)曰。 伊弉諾尊與伊弉冉尊、
共生大八洲國。
然後、伊弉諾尊曰
「我所生之國、
唯有朝霧而薫滿之哉。」
共生…〈内閣文庫本〔以下閣〕[ニ] タマフ[カ]- ウメル生之アサキリノミ
薫満之哉…〈乙本〉薫滿之哉加牟利美知多留己止

〈閣〉-滿之哉カホリミテルカナトノタマ 

【一書(あるふみ)(6)に曰はく。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)与(と)、
共に大八洲国(おほやしまのくに)を生む。
然(しかる)が後(のち)に、伊弉諾尊曰(のたま)へらく
「我(わが)所生之(うみし)国には、
唯(ただ)朝霧(あさきり)有りて[而]薫満之哉(かほりのみつるのみや)。」とのたまへり。
乃吹撥之氣化爲神、
號曰級長戸邊命、
亦曰級長津彥命、
是風神也。
吹撥…〈乙本〉級長之奈加止倍止倍
〈閣〉 -フキ ハラフ氣化イキ ナル-ミナ ス--ナカ ト○命メノヘノ
 𡖋 スシナナカ大和国龍田社是也[ノ][ト]カセ[ノ]神也 ミナリ
乃(すなは)ち吹撥之(ふきはらへる)気(いき)神(かみ)と化為(な)りて、
号(なづ)けて級長戸辺命(しながとべのみこと)と曰ふ、
亦(また)級長津彦命(しながつひこのみこと)と曰ひて、
是(これ)風神(かぜのかみ)なり[也]。
又飢時生兒號倉稻魂命。
又生海神等號少童命、
山神等號山祇、
水門神等號速秋津日命、
木神等號句句廼馳、
土神號埴安神。
然後、悉生萬物焉。
飢時…〈乙本〉倉稲魂宇介乃美太万海神等宇美乃加美太知其母和太津美

〈閣〉ヤハシカシ[ニ] /メルムメシミコ[ニ]
 ウカ- ミタマ大和國廣瀬社是也 ム╭此神水神也次一水之涵養万品之生根源義ナリ海神 龍神之類ワタツミノカムタチ[ヲ]
  ツク-ワタツミノ[ト]-ヤマ ツミト- ミトノ/ミナトノ門神
  クハヤ[ノ][ト]句句埴安ハニ ヤスノ万物ヨロツノモノ

倉稲魂命…「うけのたまのみこと〔一書[7]訓注〕
少童命…「わたつみのみこと」(同上)。
又(また)飢(う)ゑてある時に生(あ)れまし児(こ)に倉稲魂命(うけのみたまのみこと)と号(なづ)く。
又海神等(わたのかみたち)を生みて少童命(わたつみのみこと)と号(なづ)く、
山神等(やまのかみたち)は山祇(やまつみ)と号く、
水門神等(みなとのかみたち)は速秋津日命(はやきつひのみこと)と号く、
木神等(きのかみたち)は句句廼馳(くくのち)と号く、
土神(つちのかみ)は埴安神(はにやすのかみ)と号く。
然(しかる)が後(のち)に、悉(ことごとく)万物(よろづのもの)を生みき[焉]。
《吹撥之気化為神》
 日本の神は、一般にはあらゆる現象から生じ得る。 しかし古事記の神生み段では、大量の神すべてを二神が夫婦となって生んだ枠組みに当てはめた。
 しかし一書[6]の「吹撥之気化為神」は、級長戸辺命を抜き出し、別の登場の仕方に書き直されたれたものである。 むしろこの方が伝承の原形に近いと考えられる。
《又飢時生児》
一書[6]本文古事記
風神級長戸辺命(亦名)級長津彦命風神志那都比古神
飢時倉稲魂命 宇迦之御魂神。須佐之男命の子。母は(大山津見の子)神大市比売(第55回)
海神等少童命 海神大綿津見神
山神等山祇 山神大山津見神
水門神等速秋津日命 水戸神速秋津日子神・妹速秋津比売神
木神等句句廼馳木租句句廼馳木神久久能智神
土神埴安神〔火神段〕於屎成神波邇夜須毘古神波邇夜須毘売神(第37回)
 登場する神の数は本文よりはいくらか多いが、古事記での神生みから見るとごく一部である。 それぞれの神の対応を、右表に示す。
 それでは一書[6]ではなぜ風神だけが特別の出現の仕方をするのであろうか。
 これについては、〈天武〉紀には、四年に初めて龍田風神広瀬大忌神が祀られた記事が注目される。以後、毎年四月・七月の恒例行事となったものである。 龍田風神級長戸辺命と見られる。 広瀬大忌神については、「倉稲魂命」(宇介能美拕磨うけのみたま)と同一と考えられる(《祠風神于龍田立野)。 倉稲魂命は神生みによるが、〔伊弉諾尊と伊弉冉尊の〕飢時」という特別の言い方が加えられている〔食物を生み出すという性格故であろう〕
 よって龍田の神と広瀬の神は神生みから抜き出して取り上げられていて、これは天武四年から龍野・広瀬両の祭祀が重視されたようになったことの表れと考えられる。その際、社の御由緒などに伝わる本来の出現の形が復活してのであろう。
 すなわち、古事記においては「志那都比古神」と「宇迦之御魂神」は神生みによる大量の神に埋もれていたが、現実に宮廷の重要行事になったことに合わせて抜き出されたのである。
 書紀には古事記から一歩進んだ記述が時折見られが、これもそのひとつの例と考えられる。 他の例としては、大吉備津彦のことがあった。そこでは、上道と下道の分割について記では〈孝霊〉朝の神話的起源を用いていたが、 書紀の調査によって「吉備国の分割は稲建別の時代まで下ることが判明した」と見た(【御友別一族】項)
《生海神等号少童命》
 「生海神等号少童命…」と書かれるが、複数の神に同じ名前がつくことは不合理である。
 ただ海神少童については、「大綿津見(第36回)、「底津綿津見・中津綿津見・上津綿津見(第43回)とある。 よって、「少童」は「〇〇少童」の総称と見ることができる。 それを正確に表すとすれば「生山神等号諸山祇」などが考えられ、これの略と見ることはできる。
 同様に、山神は、迦具土神から化成した「正鹿山津見」、「淤縢山津見」など多数あり、やはり「〇〇山津見」の総称と言い得る。
 水門神(みとのかみ)の速秋津日は、「速秋津日子」・「速秋津比売」をまとめたとも読める(第36回)
 一方、木神は久久能智のみだが、草祖草野姫〔記:鹿屋野比売〕を植物として包含するかも知れない〔やや苦しい〕
 土神は一書[2]の埴山姫だけだから等がつかないと、言えないことはない。
 なお二文目以下に「」が省略されているのは和習によるもので、正規漢文としての訓読は不可能である。
《大意》
 【一書(6)に曰く、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、 共に大八洲国(おおやしまのくに)を生んだ。 その後、伊弉諾尊は 「わが生ん国には、 ただ朝霧があって薫りが満ちるだけだ」と言った。 そこで、吹き払った息が神となり、 名付けて級長戸辺命(しながとべのみこと)といい、 また級長津彦命(しながつひこのみこと)ともいい、 これは風の神である。
 また、飢えた時に生まれた子は倉稲魂命(うけのみたまのみこと)〔ウカノミタマとも〕という名である。 また、海の神たちは〔さまざまな〕少童命(わたつみのみこと)、 山の神たちは山祇、 水門(みと)の神たちは速秋津日(はやつひ)〔速秋津日子・速秋津日売〕の命(みこと)、 木の神たちは句句廼馳(くくのち)〔など〕、 土の神は埴安神(はにやすのかみ)という名である。 その後に、万物をことごとく生んだ。


17目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(2)】
《一書[6]-(2)》
至於火神軻遇突智之生也、
其母伊弉冉尊、見焦而化去。
于時、伊弉諾尊恨之曰
「唯以一兒、
替我愛之妹者乎。」
軻遇突智…〈乙本〉其母曽乃以呂遠毛化去
 唯以一兒太々比止豆古遠毛氐加倍豆止乃玉比氐
 替我愛之妹者乎安加宇豆久之支那以毛乃美己止 曰クノ玉フ

〈閣〉[ニ]イロハヤカ[テ]-カムサリマシヌ
 唯以タゝ モ-コノヒトツケ[ヲ]カヘツルカナト宣 ワカ愛之 ウルハシキ妹者ナニモノミコト[ニ]

なにも…[名] 男から親しい女子に向かって親愛の情をもって呼びかける称。
[於]火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)之(の)生(うまるる)に至(いた)りて[也]、
其の母(はは)伊弉冉尊(いざなみのみこと)、見焦(やかえ)て[而]化去(かみさ)りぬ。
于時(ときに)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)之(これ)を恨(うらみ)て曰(のたま)はく
「唯(ただ)一児(ひとりのこ)を以ちて、
我(わが)愛之(うつくしき)妹(なぎも)にや替(か)ふ者(もの)乎(か)。」とのたまふ。
則匍匐頭邊、
匍匐脚邊而哭泣流涕焉、
其淚墮而爲神、
是卽畝丘樹下所居之神、
號啼澤女命矣。
匍匐…〈乙本〉匍匐波良波布頭邊摩苦良部脚邊安止部
 哭泣加奈志比万須畝丘樹下宇祢遠加乃古乃毛止尒所居末志万須
 啼澤女命奈岐左波倍乃美古止

〈閣〉- ハラハヒ- マクラヘ[ニ]- ハラハテ-アトヘ[ニ]
 -ナキ イサチ-ナカシムタマフオチ[テ] ル[ト]
 ウネヲノコノモトニ- マス ナリ[句] クナキサハ[ト]

頭辺…「まくらへ」(一書[7]訓注)。
脚辺…「あとへ」(同上)。
則(すなはち)頭辺(まくらへ)に匍匐(はらば)ひて、
脚辺(あとへ)に匍匐(はらば)ひて[而]哭泣(なきいさち)りて涕(なみだ)を流(なが)しつ[焉]、
其の涙(なみだ)墮(お)ちて[而]為(な)る神、
是(これ)即(すなはち)畝丘(うねを)の樹下(きのもと)に所居之(ます)神、
啼沢女命(なきさはめのみこと)と号(なづ)けり[矣]。
遂拔所帶十握劒、
斬軻遇突智爲三段、
此各化成神也。
抜所帯十握剣…〈乙本〉斬軻遇突智為三段可久津知乎美岐太仁岐留
〈閣〉ヌイ-ミハカセルツカノツルキなすキタ
  レオノ- ナス[ト]
遂(つひ)に所帯(みはかし)の十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、
軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)と為(し)て、
此(これ)各(おのもおのも)神と化成(な)りつ[也]。
復劒刃垂血、
是爲天安河邊所在五百箇磐石也、
卽此經津主神之祖矣。
天安河…〈乙本〉河邊所在加波倍尓安流磐石以波牟良
〈閣〉マタ[ノ]ハヨリ-シタゝルナルアマノヤスノ河邊カハヘナル  カハラ- アル--イホツ-イハ ムラト[ト]
 ヌシノ祖矣ミヲヤナリ
復(また)剣(つるぎ)の刃(は)より垂(しただ)る血(ち)、
是(これ)天安河(あまのやすのかは)の辺(へ)に所在(あ)る五百箇磐石(いほついはむら)と為(な)りつ[也]、
即(すなは)ち此(これ)経津主神(へつぬしのかみ)之(が)祖(おや)なり[矣]。
復劒鐔垂血激越爲神、
號曰甕速日神、
次熯速日神、
其甕速日神是武甕槌神之祖也。
亦曰甕速日命、
次熯速日命、
次武甕槌神。
剣鐔垂血…〈乙本〉劔鐔豆留岐乃豆波与利激越曽々岐氐
〈閣〉ツルキ[ノ]ツハ/ツカハヨリシタゝル-
 - ソゝキナツケ ス甕速ミカノハヤ[ノ][ト]熯速ヒノハヤカノ
 タケミカツキノ[ノ]祖也ミヲヤナリ𡖋イフ/イハクミカノヒノ

…「」(一書[7]訓注)。
…「おかみ」(同上)。

復(また)剣(つるぎ)の鐔(つば)より垂(しただ)る血(ち)激越(たばし)りて為(な)れる神、
号(なづ)けて曰はく甕速日神(みかはやひのかみ)
次に熯速日神(ひはやひのかみ)といふ、
其の甕速日神(みかはやひのかみ)、是(こ)は武甕槌神(たけみかつちのかみ)之(の)祖(おや)なり[也]。
亦(また)曰はく甕速日命(みかはやひのみこと)、
次に熯速日命(ひはやひのみこと)、
次に武甕槌神(たけみかつちのかみ)といふ。
復劒鋒垂血激越爲神、
號曰磐裂神、
次根裂神、
次磐筒男命、
一云磐筒男命及磐筒女命。
磐裂…〈乙本〉磐裂以波佐久太加美与利釼鋒豆留岐乃左岐与利
〈閣〉釼鋒ツルキノサキヨリ磐裂イハサクイハサキサク磐筒男イハツゝノヲノツゝノ[ノ]
復(また)剣(つるぎ)の鋒(さき)より垂(しただる)血(ち)激越(たばし)りて為(な)れる神、
号(なづ)けて曰はく磐裂神(いはさくのかみ)、
次に根裂神(ねさくのかみ)、
次に磐筒男命(いはつつのをのみこと)といふ。
一(ある)に磐筒男命(いはつつのをのみこと)及(およ)びに磐筒女命(いはつつのめのみこと)と云ふ。
復劒頭垂血激越爲神、
號曰闇龗、
次闇山祇、
次闇罔象。
剣頭…〈閣〉タカミカタミヨリ闇龗クラオカミト闇山祇クラヤマツミクラ-ミツハ
たかみ…剣のつか。
復(また)剣(つるぎ)の頭(たかみ)より垂(しただる)血(ち)激越(たばし)りて為(な)れる神、
号(なづ)けて曰はく闇龗(くらおかみ)、
次に闇山祇(くらやまつみ)、
次に闇罔象(くらみつは)といふ。
一書[6]古事記(第37回)
于時、伊弉諾尊恨之曰
「唯以一児、替我愛之妹者乎。」
則匍匐頭辺、匍匐脚辺
而哭泣流涕焉、其淚墮而為神。
是即畝丘樹下所居之神、号啼沢女命矣。
故、爾伊邪那岐命詔之
「愛我那邇妹命乎、謂易子之一木乎」
乃匍匐御枕方、匍匐御足方。
而哭時於御淚所成神。
坐香山之畝尾木本、名泣沢女。
《唯以一児替我愛之妹者乎》
 この部分は記と酷似していて、ほぼ同文といってよい(右表)。
 「頭辺」を書紀古訓でマクラヘと訓むのは、記の「枕方」によるものと思われる。
《啼沢女命》
 畝尾うねお都多つたもと神社〔奈良県橿原市木之本144〕があり、 祭神は「哭澤女神」、「玉垣で囲んだ空井戸をご神体」とする([橿原市公式|畝尾都多本神社])。 (万)0202哭澤之 神社尓三輪須恵 雖禱祈 我王者 高日所知奴 なきさはの もりにみわすゑ いのれども わごおほきみは たかひしらしぬ」と訓まれる。 この歌は「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」への反歌で、左注に「桧隈女王怨泣澤神社之歌也。案日本紀云"十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨"〔桧隈女王が泣沢神社を恨んで詠んだ歌。日本紀によれば〈持統〉十年七月に高市皇子が薨じた〕とある。 すなわち、神酒を須恵器に注いで啼沢神社に奉納して高市皇子の回復を願ったのに亡くなったことを恨みますと詠んだ歌。
畝尾都多本神社
 舞台は淡路または出雲から突然天香久山の麓に移るが、神話だから移動は自由自在である。
 この哭澤女伝説の挿入は、伊弉諾尊伊弉冉尊神話が既に飛鳥時代において、畿内に十分浸透していたことを物語るものである。
 ただし、古事記の執筆段階で、伊弉諾尊伊弉冉尊を畿内に結び付けようとして挿入された可能性も残る。
 あるいはこれらは二律背反ではなく、既に民衆レベルでは一定程度浸透していて、さらに畿内を中心とする国家意識に沿うものとして強力に上書きされたという形で統一できるかも知れない。
《遂抜所帯十握剣》
 以下の神の現れ方は記とは記述の順番が異なり、また神名についても若干の不一致がある。神名の対応図(第38回)参照。
一書[6]古事記(第38回)
遂拔所帯十握剣、斬軻遇突智、
為三段、此各化成神也。
於是伊邪那岐命抜所御佩之十拳剣、斬其子迦具土神之頸。
 
 記では「迦具土」を三段斬りにはせず、体の八か所から神が成ったと描かれる。
《斬軻遇突智為三段》
 軻遇突智は「三段」斬りにされてそれぞれが神になるが、神名はここには示されない。 一書[7]では「三段」は「雷・大山祇・髙龗」とされる。
 一書[8]では五段に切り刻まれる。記では体は切り刻まれないが、体の八つの部分から神が成る。この三・五・八は、記紀に於いて象徴的な数字として頻繁に現れる。
《剣刃垂血》
一書[6]一書[7]
 剣刃垂血。 其血激越
行先 天安河邊所在五百箇磐石。 於天八十河中所在五百箇磐石。
成る神 五百箇磐石自体が神。「経津主神」の祖。 五百箇磐石から化成した磐筒女神の児が「経津主神」。
 経津主神は高皇産霊尊が葦原中国を平定するために遣わしたうちの一人(第77回)
神名対応図 (第38回)
《五百箇磐石》
 古事記の「湯津石村」は「御刀前」・「御刀本」からの血が走り就く先として幅広く描かれている。 それに対して一書[6]の「五百箇磐石」からは「剣鋒〔記では御刀前〕、「剣鍔〔紀では御刀本〕が除かれて「剣刃」に限定され、 そこからは経津主神のみが出現する。このように五百箇磐石の範囲を記から著しく絞り込んだ点と、そこに経津主神のみしか置かれない点に不自然さがある。
 それに対して一書[7]では、経津主神を磐裂神・根裂神のグループの「五百箇磐石」に属するものとする〔実質的に一書[6]の剣鋒垂血
 結局一書[7]は一書[6]における五百箇磐石の構造と経津主神の描き方の不自然さを改め、記との整合性を取り戻したものと受け止め得る。
 一書[7]は、一書[6]への訓注が多くの部分を占めることから見ても、一書[6]への修正・補足の性格をもつものと言える。
 このように流動的な状態のまま残されたのは、国譲り段で大活躍する経津主神を偉大化するためにその出自を後から書き加えようとして、 その過程における試行錯誤が生の形で表れているためではないかと思われる。
《剣鐔垂血》
一書[6]一書[7]古事記
 剣鐔垂血。 為三段著。 御刀本血。走就湯津石村。
成る神 激越為神」した神として2説 其一段:雷神甕速日神
樋速日神
建御雷之男神(亦名建布都神豊布都神)。
甕速日神(武甕槌神の祖)
熯速日神
甕速日命
熯速日命
武甕槌神
 武甕槌神は経津主神とともに葦原中国平定に派遣される(第83回)
《剣鐔垂血》
一書[6]一書[7]古事記
 剣鋒垂血。 染於天八十河中所在五百箇磐石。 御刀前之血。走就湯津石村。
成る神 磐裂神
根裂神
磐筒男命(一云磐筒男命磐筒女命)
磐裂神
根裂神―(児)磐筒男神磐筒女神―(児)経津主神
石拆神
根拆神
石筒之男神
 すなわち、一書[6]の「剣鐔垂血」による神が一書[7]では概ね「五百箇磐石」に移された上で、その子孫が経津主神となっている。
《剣頭垂血》
一書[6]一書[7]古事記
 剣頭垂血。 斬軻遇突智為三段。 集御刀之手上血。自手俣漏出(第38回)
成る神 闇龗
闇山祇
闇罔象
其一段「高龗」。

 
闇淤加美神
 (※)
闇御津羽神
(※)…古事記では迦具土の体の八か所から神が成り、「闇山津見」はそのうち陰部から成った神。
《大意》
 火の神軻遇突智(かぐつち)が生まれるに至り、 その母伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、焼かれて神去りした〔=死んだ〕。
 その時、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)はこれを恨み 「たった一人の子のために、 私の愛するお前が身代わりになってしまったのか。」と言って 枕元に腹這い、 足元に腹這いして声を上げて泣き、涙を流した。 その涙が落ちて成った神は、 畝丘(うねお)の樹の下に坐(ま)す神で、 その名を啼沢女命(なきさわめのみこと)という。
 遂に腰に帯びた十握(とつか)の剣(つるぎ)を抜いて、 軻遇突智(かぐつち)を三段斬りして、 それぞれが神に化成した。
 また、剣の刃(やいば)から滴り落ちた血は、 天安河(あまのやすかわ)の川辺にある五百箇磐石(いおついわむら)となった。 これが経津主神(へつぬしのかみ)の祖である。
 また、剣の鐔(つば)から滴り落ちた血が激越して成った神は、 その名を甕速日(みかはやひ)の神、 次に熯速日(ひはやひ)の神といい、 その甕速日神は、武甕槌(たけみかつち)の神の祖である。
 別の言い伝えでは、甕速日の命、 次に熯速日の命、 次に武甕槌の神という。
 また、剣の鋒(ほう)〔=きっさき〕から滴り落ちた血が激越して成った神は、 その名を磐裂(いわさく)の神、 次に根裂(ねさく)の神、 次に磐筒男(いわつつのお)の命(みこと)、 あるいは磐筒男の命及び磐筒女(いわつつのめ)の命という。
 また、剣の頭(たかみ)〔=柄(つか)〕から滴り落ちた血が激越して成った神は、 その名を闇龗(くらおかみ)、 次に闇山祇(くらやまつみ)、 次に闇罔象(くらみつは)という。


まとめ
 一書[6]のここまでの部分は、古事記を基本としつつ、龍田と広瀬の神をそこに加えている。 また、軻遇突智に関しては三段斬りと経津主を中途半端な形で取り入れたために、物語が崩壊している。一書[7]は明らかにこの修復のために置かれている。
 さて、湯津石村・五百箇磐石には血が飛び散って神が出現するので、どこかの赤鉄鉱の産出地帯をイメージした可能性がある。 中国地方の製鉄遺跡は、6~11世紀では吉備国に集中していたという([出雲国たたら風土記])。 鉄の精錬には高温の炉を用いるから、火の神軻遇突智との関連が考えられて興味深い。
 よって伝承の原形には、あ、これは吉備あるいは出雲の地名だと気づかせる記述が含まれていたかも知れない。しかし、一書[6]はそれを削ってローカル性を消すことにより、天安川を漠然と天界にあるものと印象付けた可能性がある。 こうして物語を純粋たる朝廷の起源神話として描いた。この目論見は成功して、却って日向地域の高千穂などに天安川伝承地を生みだすことになったと考えられる。 この中央の起源神話としての仕立て直しは、浄御原宮の近傍にある啼沢女神を突如登場させたことと軌を一にする。
 これは、既に古事記の方針であった。 これまでに古事記は地方諸族のアイデンティティに寄り添うものと見てきたが、その立ち位置は基本的に朝廷の国家側にあり、 地方氏族に対してはあくまでも恩恵的な拾い上げに留まるのであろう。



2026.05.30(sat) [01-09] 神代上9 

18目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(3)】
《一書[6]-(3)》
然後、伊弉諾尊、
追伊弉冉尊入於黃泉而
及之共語時、
伊弉冉尊曰
「吾夫君尊、何來之晩也。
吾已湌泉之竈矣。
雖然、吾當寢息請勿視之。」
入於黄泉…〈乙本〉ナンソ來之晩遠曽久伊末志豆留湌泉之竈矣輿毛豆比久比
 吾當安礼祢也寢息弥也須万牟請勿視之古布奈美万之曽

〈内閣文庫本〔以下閣〕オフ
 ヨモ /ヨモツクニツク アカ婦夫- ナセノミコト/ナソナムソ-- オソクイテマシツル
 --- ヨモツヒクヒセリ 䆴矣-シカレトモ-ネ ヤス○ムコフミタマヒソミマシソ

吾夫君…「あがなせ」(一書[7]訓注)。
湌泉之竃…「よもつへぐひ」(同上)。
…[名] かまど。
然(しかるが)後(のち)に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追ひて[於]黄泉(よもつくに)に入(い)りて[而]
之(ここ)に及びて共に語(かた)らへる時に、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)曰(のたま)へらく
「吾(あが)夫君尊(なせのみこと)、何(なにぞ)来之(きたること)晩(おそかれ)や[也]。
吾(われ)已(すで)に湌泉之竃(よもつひぐひ)せり[矣]。
雖然(しかれども)、吾(われ)当(まさに)寝(い)ね息(やす)まむとす、請(ねがは)くは勿視之(なみましそ)。」とのたまへり。
伊弉諾尊、不聽、
陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、
以爲秉炬而見之者、
則膿沸蟲流。
今世人、
夜忌一片之火又夜忌擲櫛、
此其緣也。
湯津爪櫛…〈乙本〉爪櫛豆末久之牽折其雄柱以曽乃保止利末氐比支加支弖
 為秉炬而太比豆比止毛須

〈閣〉スシキゝタマハ[テ]ヒソカ[ニ]湯津ユツスツマクシ[ヲ][テ]-ヒキ カキ=ホトリハ
 -タヒテミシカハ/ミル之者 チ-ウナワゝキ-ウシタカル
 イミ--イロナスコト-ヒトツヒトホスコトイム擲櫛ナケ クシ[ノ]緣也コトノモトナリ

秉炬…「たひ」(一書[7]訓注)。
…〈倭名類聚抄〉「:和名宇無。又云宇美之留」。
わかす…[他] 沸騰させる。
伊弉諾尊、不聴(きこさず)て、
陰(ひそかに)湯津(ゆつ)爪櫛(つまぐし)を取りて、其の雄柱(をばしら)を牽(ひ)き折(か)きて、
以ちて秉炬(たひ)と為(し)て[而]之(こ)を見(め)せ者(ば)、
則(すなはち)膿(うみしる)虫(むし、うじ)を沸(わ)かせて流(なが)る。
今世の人の、
夜(よる)に一片之(ひとひらの)火(ほ)を忌みて又(また)夜に櫛(くし)擲(なげうつる)を忌む、
此(これ)其の縁(よし)なり[也]。
時、伊弉諾尊大驚之曰
「吾不意、
到於不須也凶目汚穢之國矣。」
乃急走廻歸。
吾不意…〈乙本〉不意遠毛波須岐不須也凶目汗穢伊難之居梅枳々陀難儺枳
 走廻歸波志利加倍利太万不

〈閣〉曰○オモワス/キニケリト宣テイタルト宣テ イナ須也凶目シコメキ汚穢キタナキ之國
 [ニ]--ニケ  カエル

不須也凶目汚穢…「いなしこめききたなき」(一書[7]訓注)。
時に、伊弉諾尊大(はなはだ)驚之(おどろ)きて曰(のたま)はく
「吾(われ)は不意(こころせざ)りて、
[於]不須也(いな)凶目(しこめき)汚穢之(きたなき)国(くに)に至りつ[矣]。」とのたまひて、
乃(すなはち)急(すみやか)に走(に)げ廻(めぐ)り帰(かへ)りつ。
于時、伊弉冉尊恨曰
「何不用要言、令吾恥辱。」
乃遣泉津醜女八人
〈一云泉津日狹女〉、
追留之。
何不用要言…〈乙本〉何不用要言奈止加知里志古止乎毛知為須志天
 令吾恥辱安礼万志弖波豆加志牟流止以比弖泉津醜女与毛豆比左米乎之天

〈閣〉何不ナムソ スシ ヰ給ハ要言ツムキシチキリシコト[テ]-ワレニ--ハチミセマスト宣
 ヨモ-シコ メ八人ヤツヒト[ヲ]日狭女ヒサメ[テ]-トゝメマツル

醜女…「しこめ」(一書[7]訓注)。
とどむ…[他]下二 引き留める。上一段活用の形もある。
于時(ときに)、伊弉冉尊恨(うら)みて曰(のたま)はく
「何(なにそ)要(かならずいふべき)言(こと)を不用(もちゐず)て、吾(われ)をして恥辱(はづ)か令(し)めたまふか。」とのたまひて、
乃(すなは)ち泉津醜女(よもつしこめ)八人(はちにん)を遣(や)りて、
〈一(あるに)泉津日狭女(よもつひさめ)と云ふ〉、
追(お)ひ[之]留(とど)めしめき。
故伊弉諾尊拔劒背揮以逃矣。
因投黑鬘此卽化成蒲陶、
醜女見而採噉之、
噉了則更追。
伊弉諾尊、
又投湯津爪櫛此卽化成筍、
醜女亦以拔噉之、
噉了則更追。
背揮以逃…〈乙本〉背揮之利倍天尓不久豆々化成蒲陶化志弖衣比止奈利奴
 採噉止利弖波牟成筍太加牟奈止奈留拔噉奴伊波牟

〈閣〉シリヘテ[ニ]フキツゝニク[テ]ナケウツ江同之/ナケタマウクロキミカツラヲ江同之
 -ナル蒲陶 エヒニ醜女シコ メトリ[テ]ハム噉-了ハミ オハテナケタマフ湯津ツマ
 タカムナ-ヌキ ハム-

背揮…「しりへてにふく」(一書[7]訓注)。
故(かれ)伊弉諾尊剣(つるぎ)を抜きて背(しりへて)に揮(ふ)きて以ちて逃げつ[矣]。
因(よ)りて黒鬘(くろみかづら)を投げて此(これ)即(すなはち)蒲陶(えびかづら)と化成(な)りて、
醜女(しこめ)見て[而]採(と)りて之(これ)を噉(は)む。
噉(は)み了(を)へて則(すなはち)更(また)追(お)ひき。
伊弉諾尊、
又(また)湯津爪櫛(ゆつつまくし)を投げて此(これ)即(すなはち)筍(たかむな)と化成(な)りて、
醜女(しこめ)亦(また)以ちて抜きて之(これ)を噉(は)む。
噉(は)み了(を)へて則(すなはち)更(また)追(お)ひき。
後則伊弉冉尊、亦自來追。
是時、伊弉諾尊已到泉津平坂。
〈一云、
伊弉諾尊、乃向大樹放尿、
此卽化成巨川。
泉津日狹女將渡其水之間、
伊弉諾尊已至泉津平坂。〉
来追…〈乙本〉於比以弖万須

〈閣〉 尿毛由波利万留ミツカラ来追 ヲヒイテマス/イタリマスイタリマヒマスヨモ平坂ヒラ サカ
 大樹ヲホ キニ[ニ][テ]放尿ユハリマル-ヲホ カハ[ト]
将渡其水…〈閣〉ワタラムトスルイタリマシ

泉津平坂…「よもつひらさか」(一書[7]訓注)。
尿…「ゆまり」(同上)。
後(のち)に則(すなはち)伊弉冉尊(いだなみのみこと)、亦(また)自(みづから)来追(おひきたります)。
是(この)時、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)已(すで)に泉津平坂(よもつひらさか)に到りませり。
〈一(ある)に云はく、
伊弉諾尊、乃(すなはち)大樹(おほきき)に向ひて放尿(ゆばりまる)、
此(これ)即(すなは)ち巨川(おほきかは)に化成(な)れり。
泉津日狹女(よもつひさめ)将(まさ)に其の水(かは)を渡(わた)らむとせし[之]間(ま)に、
伊弉諾尊、已(すで)に泉津平坂に至れりといふ。〉
《黄泉》
 黄泉の書紀古訓「ヨモツクニ」は、古事記(第39回)の「黄泉国」に合わせたと見られる。 ヨモヨミの母音転化。は属格の助詞。
《吾夫君尊》
 記の「我那勢命」にあてた表記。
《湌泉之竃》
 一書[7]訓注の「誉母都俳遇比ヨモツヘグヒ」は、「黄泉-ツ-竃喰ひ」で、 すなわち黄泉の竃〔かまど〕で調理した食物を食することと解されている。 クヒは連用形名詞だから、動詞に戻した「ヨモツへヲクフ」も考えられるが、実際に用いられたかどうかは不明。
 既に名詞として固定したものと見られるから、サ変動詞またはクラフを補って読むことになる。
《雖然》
 逆接の接続詞「雖然」は、ここでは「もっと会話をつづけたいが(もう寝る)」と解される。
《雄柱》
 雄柱は、古事記(第39回)でも「男柱」が櫛の一部を表す語として使われている。 書紀古訓には「ホトリハ(゛)」。櫛の両端の太い歯「辺(ほと)り歯」か。
 この語は実際に上代語として存在したと思われるが、古事記にも書紀にもホトリバと明示する訓注がない。ホトリバを雄柱・男柱と表記することがよほど一般的だったか、 実際にはヲバシラ〔またはヲトコハシラ〕と訓まれていたかのどちらかである。書紀の「男柱」は記の「雄柱」にあてたものと思われるから、後者であろう。
 なお、橋・階段の左右の端の太い柱をオトコバシラという言い方は現代にもある。
《膿沸虫流》
 日本書紀神代巻への書紀古訓は「虫流」を「ウジタカル」と訓む。字のまま訓めば虫はムシであり、流はナガルであるから、 これが古事記の「宇士多加礼」に倣った意訳であることは確実である。
 字の通りに「膿沸虫流」を訓むなら、流れるのは膿で沸く(湧く)のは虫であるから、語順の誤りのようにも思える。 しかし、仮に語順が正しいとした場合でも、「」を他動詞として、膿が虫を湧かせて流れ出ていたと訓むことは不可能ではない。
 なお「」については、虫が沸くように現れたのであるから、これをタカルと訓むことは必ずしも困難ではない。
《吾不意到於不須也凶目汚穢之国矣》
 記では、伊邪那岐命がこの言葉を発するのはもう少し後ろの場面、逃げ切った後で禊を始めたときである(第42回)。 一書[6]では、記と同じ場面でもう一度出てくる。 記における表記は「吾者到於伊那志許米志許米岐穢国」である。
 すなわち、その「伊那志許米志許米岐穢」が書紀の「不須也凶目汚穢之」にあたる。「志許米志許米岐」の反復は省いて「不須也いな凶目しこめき汚穢之きたなき」が妥当である。 一書[7]の訓注及び書紀古訓もこうなっている。
 一書[6]では、この言葉を伊弉冉尊に面と向かって発した場面で、これによって逆上したと描かれる。場面が異なっても同じ言葉だから、口承において広く使われた特徴的な言葉だったのであろう。
《何不用要言令吾恥辱》
 「何不用要言令吾恥辱」は、記の「言令見辱吾」に対応する。記では伊邪那美の腐敗した姿を見た瞬間に伊邪那岐が驚きの表情を見せ、それによって辱めを受けたという文脈になっている。
 書紀古訓は「不用要言」を「契りし言を用ゐずして」、すなわち「契りを交わした関係なのだからもっと違う言葉を使うべきだろう」と言ったと訓む。
《泉津醜女八人》
 泉津醜女に、記では音仮名を用いて「予母都志許売」と表す。「八人」は記にはなく、おそらく記の「八雷神」から移されたと見られる。 「雷神」は一書[6]にはない。ただ一書[9]でこれを補って、記の形を回復する形になっている。
《八人》
 「八人」を、書紀古訓はヤタリではなく「ヤツヒト」と訓んでいることが注目される。助数詞タリについては、〈時代別上代〉にはヒトリ・フタリ・ミタリしかない。 実は平安時代になっても、あまり多い人数には使われていなかった可能性がある。文献では枕草子の「三人四人」などがあるが、漢字表記のみなので実際に~タリが使われたかは不明である。
 音読みの「~ニン」の方が言いやすかったので、早い時期にこちらが使われるようになったという論を見る。
《一云泉津日狭女》
 一云泉津日狭女は本来は割注とすべき部分であるが、一書自体が既に割注だったのでこれ以上小さな文字は用いられなかったと見られる(上述)。
《背揮以逃矣》
 記では「取黒御𦆅投棄」・「湯津津間櫛引闕而投棄」の後、雷神に対する場面でこの語が使われる(第40回)
 「抜剣背揮」は、記の「抜所御佩之十拳剣而於後手布伎都都〔…シリヘテニフキツツ〕を表したことがが、一書[7]原注に示されている。
《投黒鬘此即化成蒲陶》
 この部分について、記と比較する。
一書[6]古事記
投黒鬘此即化成蒲陶醜女見而採噉之噉了則更追取黒御𦆅投棄乃生蒲子是摭食之間逃行
投湯津爪櫛此即化成筍醜女亦以拔噉之噉了則更追刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄乃生笋是抜食之間逃行
 黒鬘について一書[6]は「投げて・蒲陶となり・見て・取って・食べて・食べ終わって・更に追う」と細かく刻んでいる。 これを記は「取って・投げ棄て・蒲子となり・食べている間に逃げた」とまとめ、比較的簡潔である。
 湯津爪櫛については、一書[6]は「投げて・筍になり・抜いて・食べて・食べ終わって・更に追う」。 記は「美豆良から抜いて・投げ棄て・笋が生え・抜いて・食べる間に逃げた」となっている。
 これらの内容自体は完全に一致する。
《泉津平坂》
 記では「黃泉比良坂」で、 「「揖夜神社」(島根県松江市東出雲町揖屋2229)から東南東300mのあたりが黄泉比良坂の比定地(第40回)とされる。
 一方、一書[6]においてはこれらは天界の物語の中として、現実の地名とは無関係とされる(下述)。
《向大樹放尿》
 「一云伊弉諾尊乃向大樹放尿…已至泉津平坂」の段落は本来は割注である。しかし、既に一書自体が割注なので同じ大きさの文字が用いられたと見られる(a href="#wari">上述)。
 ここは記にはなく、一書[6]独自である。記はこのあまり芳しくない話はここには合わないと考えて省いた可能性がある。 記は文学としての美しさを重視しているからである。
 しかし、ともかくもこの大河は泉津日狭女を足止めして、逃げるための時間稼ぎになったと位置付けられている。
《大意》
 こうなった後に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追って黄泉の国に行き、 こうして共に語らった時のこと。 伊弉冉尊は 「私の夫よ、どうして遅れて来たのですか。 私は既に湌泉竃(よもつひぐい)をしてしまいました。 もっと話したいのですが、私はもう寝ます。願わくは、私を見ないでください。」と言った。
 伊弉諾尊は聴かず、 暗陰で湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取り、その端の歯を引き折り、 これを灯火として見ると、 膿に虫〔あるいは蛆〕が湧いて流れていた。
 今、世の人は 夜に一片に火を付けることを忌み、また夜に櫛を投げることを忌む、 これはその縁(ゆかり)である。
 その時、伊弉諾尊は大いに驚き、 「私は思いもよらず、 不須也(いな)凶目(しこめき)汚穢之(きたなき)国(くに)に来てしまった」と言い、 ただちに急いで逃げ帰った。
 その時、伊弉冉尊は恨んで 「どうして言わなければならない言葉を使わず、私を辱めたのですか。」と言い、 泉津醜女(よもつしこめ)八人に命じて、 〈あるいは、泉津日狭女(よもつひさめ)ともいう〉、 追いかけて引き留めさせました。
 すると、伊弉諾尊は剣を抜いて後ろ手に振り回して逃げた。 そして黒鬘(くろみかずら)を投げると、これが蒲陶(えびかづら)〔野ブドウ〕に化成し、 醜女(しこめ)をそれを見て採って食べ、 食べ終わると再び追った。 伊弉諾尊は、 また湯津爪櫛(ゆつつまくし)を投げると、これが筍(たかむな)〔タケノコ〕に化成し、 醜女はまたこれを抜いて食べ、 食べ終わると再び追った。
 その後から伊弉冉尊が、また自ら追いかけて来た。 この時、伊弉諾尊は既に泉津平坂(よもつひらさか)に到った。
 〈あるいはいう。 伊弉諾尊は、大樹に向かって放尿し、 これが大河に化成した。 泉津日狹女(よもつひさめ)がその川を渡ろうとしている間に、 伊弉諾尊は、既に泉津平坂に着いたという。〉


19目次 次生海次生川次生山/一書[6]-(4)】
《一書[6]-(4)》
故便以千人所引磐石、
塞其坂路、
與伊弉冉尊相向而立、
遂建絶妻之誓。
千人所引磐石…〈乙本〉千人所引磐石知比岐乃伊之乎遂建乎豆和太須
〈閣〉---チヒキノ千人引磐今信濃国諏方郡ニアリ-イハ[テ]/フタクニフサヒ坂路サカチ
 [ニ]ワタス-コトゝ--
絶妻之誓…「ことど」(一書[7]訓注)。
故(かれ)便(すなはち)千人所引(ちひきの)磐石(いし)を以ちて、
其の坂路(さかち)を塞(ふた)ぎて、
伊弉冉尊与(と)相(あひ)向(むか)ひて[而]立ちて、
遂(つひ)に絶妻之誓(ことど)を建てり。
時伊弉冉尊曰
「愛也吾夫君、言如此者、
吾當縊殺汝所治國民日將千頭。」
伊弉諾尊、乃報之曰
「愛也吾妹、言如此者、
吾則當産日將千五百頭。」
因曰「自此莫過。」
愛也吾夫君…〈乙本〉吾夫君言知阿我奈世乃加久乃太末波々
 此者吾當縊殺汝所治國民日將千頭
  阿礼奈牟知加乎左牟流久尓乃於保牟太加良乎比尓千加宇倍久比利古呂左牟
 報之曰愛也吾妹言如此者吾則當産日將千五百頭
  安加奈以毛乃美古止之々可志乃知比尓知古宇倍安万利伊保宇不也太氐牟
 自此莫過古礼與利奈須岐曽

〈閣〉ウルハシキアカ-ナセノミコトノタマハク-カク-/クヒラム/コロサムクヒリコロサム
 イマシ-シラスクニノヒトクサヒトヒ ニカウヘコタヘ妹言/ナニモノミコトシナニモノノタマハ
 ウマシメムヒトヒニ[ニ]チカウヘアマリカウヘ クヨリ コレ- ナスキソト宣[テ]

うつくし…[形]シク いとしい。可愛い。
うるはし…[形]シク 容姿が端麗。心が誠実。〈時代別上代〉「ととのった美しさ・気高いまでに立派な美しさ、などを表す語であり、その点においてウツクシと相違する」。
なむち…[代名] 二人称。〈時代別上代〉「本来尊敬の意を含んで用いられた」。
いまし…[代名] 二人称。〈時代別上代〉「敬意を含んだ場合をみない。…ナ、ナレよりはていねいなことばであったらし」い。
…[前] =「以」の用法がある。
かしら…[助数詞] ~人。
時に伊弉冉尊曰(のたま)はく
「愛也(うつくし)吾(あが)夫君(せなのみこと)、如此(かく)言(のたま)へ者(ば)、
吾(われ)当(まさに)汝(いまし)が所治(しろしめ)す国の民(ひとくさ)を日(ひとひ)に千頭(ちがしら)を将(も)ちて縊(くびり)殺(ころ)しまつらむ。」とのたまふ。
伊弉諾尊、乃(すなは)ち之(これ)に報(こた)へて曰(のたま)はく、
「愛也(うつくし)や吾(あが)妹(なにものみこと)、如此(かく)言(のたま)へ者(ば)、
吾(われ)則(すなはち)当(まさ)に日(ひとひ)に千五百頭(ちあまりいほかしら)を将(も)ちて産みたまはむ。」とのたまふ。
因(よ)りて曰(のたま)はく「此(これ)自(よ)り莫過(なすぎそ)。」とのたまふ。
卽投其杖、是謂岐神也、
又投其帶、是謂長道磐神、
又投其衣、是謂煩神、
又投其褌、是謂開囓神、
又投其履、是謂道敷神。
長道磐神…〈乙本〉長道磐奈加゛知゛波煩神和豆良比神
 道敷神美知志岐乃神

〈閣〉岐神クナトノカミト/フナトノカミトナケタマウ ノオヒナカイハノ[ト]
 /ミソヲコロモワツライノハカマ開囓アキクヒノクツ道敷チ シキノ江/ミチ シキノ

岐神…「ふなとのかみ」(一書[7]訓注)。
即(すなはち)其の杖(みつゑ)を投げたまひて、是(これ)をば謂岐神(ふなとのかみ)と謂ふ[也]、
又(また)其の帯(みおび)を投げたまひて、是(これ)をば長道磐神(ながちはのかみ)と謂ふ、
又(また)其の衣(みそ)を投げたまひて、是(これ)をば煩神(わづらひのかみ)と謂ふ、
又(また)其の褌(みはかま)を投げたまひて、是(これ)をば開囓神(あきくひのかみ)と謂ふ、
又(また)其の履(みくつ)を投げたまひて、是(これ)をば道敷神(ちしきのかみ)と謂ふ。
其於泉津平坂
〈或所謂泉津平坂者、不復別有處所、
但臨死氣絶之際、是之謂歟。〉、
所塞磐石、是謂泉門塞之大神也、
〈亦名道返大神矣〉。
所謂泉津…〈乙本〉所謂泉門與美奈止尓アラスマタコトニアルニ-/トコロトコチラ
 タゝイキタユル タコレイフ
 - フサカル ト云ハ レ フ-ヨミ トニ塞之北極ヲ云フタカリマス大神ヲホム カミ道返チカヘシノ大神

処所…ところ。いるべきところ。
是之謂…述目構造VOを倒置して、「O之V」と表す用法がある。

其(それ)、[於]泉津平坂(よもつひらさか)に
〈或(ある)に所謂(いはゆる)泉津平坂(よもつひらさか)者(は)、復(また)別(こと)の処所(ところ)に有(あ)るには不(あらじ)、
但(ただ)死(しに)に臨(のぞ)みて気(いき)絶之(たゆる)際(きはみ)に、是之(これを)謂(いふ)歟(や)。〉、
所塞(ふたげる)磐石(いし)は、是(これ)を泉門塞之大神(よみとにふたぎますおほかみ)と謂ふ[也]
〈亦(また)の名は道返大神(ちがへしのおほかみ)といふ[矣]〉。
《建絶妻之誓》
 絶妻之誓は、記「千引石引塞其黄泉比良坂其石置中各対立而度事戸」 の「事戸」を指す。また動詞は記「〔わたす〕、一書[6]「」が用いられている。
 「コトド」については「異戸〔戸を分かつ〕と解釈した((第41回)。 「絶妻之誓」はこれを中国語で表現したもの。訓読においては一書[7]訓注ではコトドを用いているが、字のままに「つまをたつちかひ」でも差し支えないであろう。
《伊弉冉尊曰》
 記では「伊邪那美命〔いはく〕、「伊邪那岐命〔のたまはく〕と区別され、上下関係を示している。 ただ、書紀の「」の訓読においては、両方ともノタマフとしておくのが自然のように感じられる。
《千人所引磐石》
 「千人所引磐石」は、記の「千引石」を説明的に表記したもの((第41回)チヒキノイシの場合はこの場面と結び付いた固有名詞だから、一書[6]の訓読でもこれを用いるべきであろう。
《愛也吾夫君》
 この部分は、記と同じである。
一書[6]古事記(第41回)
愛也吾夫君言如此者吾当縊殺汝所治国民日将千頭愛我那勢命為如此者汝国之人草一日絞殺千頭
愛也吾妹言如此者吾則当産日将千五百頭愛我那邇妹命汝為然者吾一日立千五百産屋
 記で「産屋を立てる」と表現したところには、男性神が直接自分の腹から産むわけでないというこだわりが感じられる。 読み物として細部まで洗練された形で仕上げたいとする太安万侶の意思の表れのひとつであろうか。
《自此莫過》
 普通に読めば「自此莫過」は伊弉諾尊が発した言葉で、「汝は一日に千人を超えて殺すな、我も一日に千五百人を超えて産まない」と釘を刺したと読める。 しかし、伊弉諾尊の言葉と伊弉冉尊の言葉の対称性が失われるのであまりエレガントではない。
 これが、本来は「因二神曰」だったとすれば、ひとまず対称性は保たれる。
 さて、この言葉と杖を投げる行為を結び付けて、を結界にしたとする読み方も見る。すなわち「」を杖をまたぐ行為と読む。 ところが、それでは続けて帯・衣・褌・履を投げ捨てたことの意味が分からない。
 接続詞「」は、醜女に追われて逃げる途中にあったことを振り返ってここで述べるという区切りだと思われる。 また杖結界説においても、二神は非対称である。ここは二神が千頭絞殺と千五百頭産のことを互いに宣言したことをもって、美しく決別したと読むべきであろう。 その後に、この杖のラインを越えて追って来るなよと付け足すことは明らかに蛇足である。
《汝所治国民》
 〈乙本〉は「アレイマシガ所治ヲサムルクニノオホムタカラ」と訓んでいるところが注目される。 即ち、書紀古訓は国の統治を表すときの「」を通常はシラスと訓み、この箇所についても〈内閣文庫本〉では「所治シラスクニ」と訓んでいる。 しかし、〈乙本〉の「ヲサムル」は、書紀古訓の時代でも「」をヲサムと訓むことに特に抵抗がなかったことを示している。
 〈乙本〉はやや古い時代の古訓を反映している可能性がある。というのは、ここでは民をオホムタカラと訓むが、他の箇所ではオホミタカラと訓んでおり(《公民》)、 オホミが音便によってオホム〔[ofon]と発音〕に移行する前の記述が一部残存していたと考えられるからである。
一書[6]古事記
 杖:ふなとの 御杖:衝立つきたつ船戸ふなとの
 帯:長道磐ながちはの 御帯:道之みちのなが乳歯ちはの
 御囊:時量師ときはからしの
 衣:わづらひの 御衣:和豆良比能宇斯能わづらひのうしの
 御褌:道俣ちまたの
 褌:開囓あきくひの 御冠:飽咋之あきくひの宇斯能うしの
 履:道敷ちしきの
 左御手之手纒:奧疎おきさかる神・奧津おきつ那芸佐なぎさ毘古びこの神・奧津おきつ甲斐かひ弁羅べらの
 右御手之手纒:辺疎へさかる神・辺津那芸佐へつなぎさ毘古びこの神・辺津甲斐へつかひ弁羅べらの
《投其杖是謂岐神也》
 「投其杖…」段の中身は記「故於投棄御杖所成神…」段(第42回)と大体同じだが、それが置かれたストーリー上の位置が異なる。記においては、禊をする前の場面。 一書[6]では、醜女に追われて逃げる途中と見られる(上記《自此莫過》項)。
 さて、「投其杖是謂岐神也」は正確には「投其杖化成神号岐神也」であり、省略が著しい。一方、記の「於投棄御杖所成神名衝立船戸神」は完全な文章で丁寧である。 一書には、時たまこのような雑さが見られる。なお、この傾向は〈持統〉天皇紀に多く見られた ([30-20]項など)
 ゆくゆくは成文にする予定で取り敢えずメモ書きした部分がそのまま収められているように感じられる。
 なお、ここで化成する神は記よりも絞り込まれていて、また開囓神に関する不一致がある。道敷神は記には見えない(右表)。
 このようなバリエーションがあることは、この伝承が広く行き渡っていたことを物語っている。
《其於泉津平坂》
 「其於泉津平坂」の本来の語順は「於其…」であるべきだが、「其於…」のままでも「其(それ)、於…」と訓読することはできる。 この「」の存在は悩ましいが、やはり前置詞句「於泉津平坂」が「所塞磐石」を連体修飾すると見るのが合理的であろう。
 だとすれば、「或所謂泉津平坂者不復別有處所但臨死氣絶之際是之謂歟」は注釈として挿入された部分と位置付けられる 〔これまでにしばしば述べたように、すでに割注として書かれた「一書」の割注をさらに小字にはできなかった〕。 「泉津平坂」が繰り替えされていることも、それを物語っている 〔つまり、注釈中で「その泉津平坂については…」と言い直す〕
 この注釈では「」がキーワードである。これによって以下は「単に臨死で意識を失うときにあの世との境界を表すときに用いる言葉に過ぎない」と読める。 だとすれば、「或所謂泉津平坂者不復別有処所」は「現実に各地に存在する"泉津平坂"を指すものではない」という趣旨で読むことが自然となる。
 この捉え方が正しければ、この段では「泉津平坂」を神話内の空間に置いて現実世界から切り離し、「臨死の瞬間」に脳内に描かれる精神世界に昇華させている。 そして、ここでも出雲の地方伝説から脱して中央の朝廷の正統的な起源神話に位置づけようとする意図があると見ざるを得ない。
 これは、古事記が「其所謂黄泉比良坂者今謂出雲国之伊賦夜坂也〔ここでいう黄泉比良坂は現在の出雲国の伊賦夜坂である〕と述べたことを真っ向から否定するものとなっている (第41回)
《泉門塞之大神》
 泉門〔よみと、よもつとは、黄泉の国の入り口を意味する。
 記ではこの神の表記は「塞坐黄泉戸大神〔さやります(「ふたぎます」、「ふさぎます」とも)よみとのおほかみ〕(第41回)
 サヤルはサハル(障る)と同じ意味。〈神武〉段歌謡「しぎ(鴫)はさやらず…くぢら(鯨)さやる(第98回)などに見える。
 その別名「道返大神」は、記では「道反大神」(第41回)。
《大意》
 そこで千引石(ちびきのいし)で、 その坂道を塞ぎ、 伊弉冉尊と向かい合って立ち、 遂にことど〔夫婦の縁を断つ誓い〕をたてた。
 その時、伊弉冉尊は 「愛しい私の夫がそうおっしゃるなら、 私はあなたが治める国の民を一日あたり千人を絞め殺します。」と言った。 伊弉諾尊、これに応えて、 「愛しい私の妻がそうおっしゃるなら、 私は一日あたり千五百人を産もう。」と言った。 よって、〔二神は共に〕「これを過ぎないようにしよう」と言った。
 すなわちその杖を投げて化成した神を、岐神(ちまたのかみ)という。 また、その帯を投げて化成した神を、長道磐神(ながちはのかみ)という。 また、その衣を投げて化成した神を、煩神(わづらいのかみ)という。 また、その褌(はかま)を投げて化成した神を、開囓神(あきくいのかみ)という、 また、その履(くつ)を投げて化成した神を、道敷神(ちしきのかみ)という。
 その、泉津平坂(よもつひらさか)にあって 〈ちなみに、そのいわゆる泉津平坂は、特にある場所に存在するわけではない、 死に臨んで息絶える際(きわ)に、これをいうのである。〉、 塞いだ石を、泉門塞之大神(よみとにふたぎますおおかみ)という 〈また、その名を道返大神(ちがえしのおおかみ)という[矣]〉。


まとめ
 この段は古事記とかなり類似するが、ストーリーにおける場面の順番の入れ替えが見られる。しかし、特徴的な言葉についてはほぼ同じ形が共通して使われている点が特記される。 口承においては、物語の全体構成よりも、そこで使われた印象的な語句の方が形を崩さずに普遍的に維持されると考えられる。
 概念的には古事記の方がより原形を保っていると思われがちだが、 古事記においても、文学作品として印象深く整えるために原伝承の順番を入れ替えたことは十分に考えられるので、 一書[6]と古事記のどちらが伝承の原形に近いかは、一概に言い切れないところがある。
 すなわち太安万侶は文筆力に優れ、原伝承を重んじながら、それをバランスよく納得させる力のある作品として結晶化している。その過程で素材を部品に分けて再構成することがあったと考えられる。 しかし当時存在していた実際の伝承は素朴で、辻褄が合わず衝突する箇所も多く、却って一書の方がその原型を崩さずに収めていると考え得るからである。
 なお、「自此莫過即投其杖」の解釈については通説とは異なる結論に達した。 一書だから辻褄の合わないこともあろうと言って思考停止に陥ることなく、ひとまず最善の読み方を求めた上で次の検討に入るべきという姿勢で突き詰めた結果である。



[01-10]  神代上(3)