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2021.06.30(wed) 弘仁私記序[1] ▼ |
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『日本書紀私記上巻并序』の名で残る「序」は、一般に「私記甲本」の序とされる。
同書は、序文によれば、弘仁四年〔813〕に日本紀の「講」〔書紀の解釈の研究発表会〕が行われ、
その発表内容を一年かけて三巻にまとめたものである。
ここでは、その序〔以下、略称〈弘仁序〉〕を精読した。 ここで用いたのは『国史大系』〔吉川弘文館;黒坂勝美編 2003年版〕(以下〈国史大系〉)で、 「日本書紀私記」は、影印で納められている。頭注には漢文を用いていて実に古風なので、初版〔1932〕から手を加えられていないと見られる。 序文は、概ね次の部分からなっている。 ① 日本書紀撰詔:『日本書紀』について。 ② 記紀の成立:帝王本紀や先代旧事から古事記の編纂、そして書紀へ。 ③ 日本書紀の概略:天地開闢から多様な世界の有様まで。また、氏族や渡来族のこと、荒唐無稽な伝説も含む。 ④ 記紀以外の諸文書:それぞれの信憑性の評価 ⑤ 弘仁の日本紀講筵:発表者及び参加者。発表のまとめとしての私記について。 ⑥ 編年について:神武天皇以後の部分に、編年体を用いる。 以下、各部分ごとに精読する。 【日本書紀撰詔】
日本書紀は、古訓に「日本書紀巻第一」とある(〔内閣文庫本〕)。 平安の古訓者はヤマト(ノ)フミと訓んだと思われる。 音読は、「日」の呉音はニチであるから、「日本」は「にちほむ」であろう。 《倭》 「倭」という文字の中古音〔隋~宋初〕が"ワ"であったのは、音仮名"ワ"として使われているから間違いないと見られる。 古代日本を倭と呼んだ起源が倭人の一人称の代名詞「ワ(我)」だったとすれば、ワは上古音〔周~漢〕まで遡ると思われる。 《山跡》 「跡」=ト乙は、「あと乙」による訓仮名。 「止」(ト乙)も「と乙む」による訓仮名。 割注は「天地剖判」から間もない頃はまだ土地が湿っていて、山を行き来する人の足跡が固まったことによる名称という。 無論、当時における語解のひとつである。 《武玄曰東海女国》 「武玄」をひっくり返した玄武は天球の「北」に位置する神獣の名前で、「南」に朱雀、「東」に青龍、「西」に白虎がある。 なお、これらの方角は天球に固定されたものであって、ある日時において地球から見る星の方角とは無関係である。 (参考[A])。 「武玄」は、あまり見ない語である。 〈中国哲学書電子化計画〉を検索したところ、たまたま字が並んだ例として、 『太平御覧』「蟲豸部」"蟻"の項に、「漢光武建武玄年。山陽有二小虫一。類二人形一甚衆。明日,皆懸二樹枝一而死。乃大蟻也。」 〔漢の光武帝の「建武玄年」。山陽郡に小さな虫があり、人の形に似てはなはだ多い。翌日、皆木にぶら下がって死んでいた。大蟻であった〕がある。 しかし、「武玄」が熟語として使われたと見られる例はない。 同書には、また「玄年」という語が見える。「后魏顕宗天安玄年六月」とある。 后魏=後魏は北朝の北魏のことで、その年号に、天安〔466年~467年〕がある。その時期の皇帝は献文帝で、廟号を「高宗」というから、「顕宗」は別名または誤りかも知れない。 「玄年」は、辞書にもみつからないので、「元年」の誤りだろうと思われる。 「武玄曰東海女国」の文脈においては、「武玄」は、王朝名、皇帝名、年号が考えられるが、何れにも該当するものがない。 〔今後もし発見できたら報告する。〕 「東海女国」については、 『後漢書』-東夷列伝に「歴年無レ主。有二一女子一名曰二卑彌呼一」、「自二女王国一東度レ海千余里至二拘奴国一」が見え、関係がありそうである。 また、『漢書』-地理志に「玄菟・楽浪。武帝時置。皆朝鮮〔中略〕楽浪海中有二倭人一。分為二百余国一。以二歳時一来献見云」とある。 後者には、"玄"、"武"という字はあるが、それぞれ朝鮮半島の郡名と皇帝名で、どうやっても「武玄曰」とはならない。 この部分を正しく書くとすれば、「漢書曰武帝時東海在倭人。亦後漢書曰東海女王国」であろう。 結局「武玄曰東海女国」は、漢書や後漢書から文字を拾って感覚的に並べたもののように思われる。 《舎人親王》 〈天武紀下〉二年二月に、「妃二新田部皇女一、生二舎人皇子一」とある。 割注は、太安万侶を「神八井耳命之後〔子孫〕」と記す。 《勲五等》 「勲」の倭訓は不明である。 〈神武紀-二年〉に、道臣命の功を褒めて宅地を賜る場面の古訓に「定レ功行レ賞」とある(〔北野本〕)。 「-サ」は、「長"さ"」のサであろう。 実際に訓読があったかどうかは定かではないが、平安時代に古訓者が「勲」の訓を求められたとすれば、イサヲシと訓んだことは考えられる。 《太安万侶》 太氏は、〈姓氏家系大辞典〉によると、多、大、意富、於保、飫富とも表記され、 神武天皇段(第101回)に「神八井耳命者。意富臣…等之祖也」とある。 【大意】 日本書紀私記巻上并序 さて日本書紀は 日本の国は唐から東に行くこと、一万里余里り。
太陽は、東方から出て扶桑を昇る。よって、日の本という。
古くは倭国といった。
但し、倭の義は未詳である。
ある説では、我(わ)と自称する声を取って漢の人に名付けられた字という。
一品(いちほん)舎人親王(とねりのみこ)と、 浄御原(きよみはら)天皇〔天武〕の第五の皇子。 従四位下(じゅしいのげ)勳五等太(おお)の朝臣安麻呂(やすまろ)らが、 〔神武天皇の〕皇子神八井耳命(かむやいのみこと)の子孫。 詔勅を拝命して撰したものである。 まとめ〈弘仁序〉においては、古事記を撰した太安万侶が、書紀の撰者としても舎人皇子と横並びで挙げられるところが目を惹く。 〈続紀-養老四〉〔720〕五月癸酉〔二十一日〕には「一品舎人親王奉勅。修二日本紀一。至レ是功成奏上。紀二卅巻系図一巻一。」となっていて、 安万侶の名はないのである。 しかし、〈弘仁序〉の次の段(次回)では古事記から日本書紀に連続的に移行したことが示される。 また書紀が成立した後になっても、古事記の延長線上にある倭国自身の文献としてかみ砕いて理解しようとする顕著な動きがあり、 その中心に引き続き太安万侶がいたのは確実である。 日本紀講筵の記録者の立場なら、書紀の編纂の始めから関わっていた安万侶の名を特記するのは当然であろう。 〈続紀〉が安万侶の名を挙げなかったのは、舎人皇子が皇族であるのに対して安万侶は朝廷に仕える官僚だったからだろう。いわば、立場の差がある。 公式の代表者は皇子一人で十分である。 |
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2021.07.01(thu) 弘仁私記序[2] ▼▲ |
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【記紀の成立】
稗田阿礼については、〈姓氏家系大辞典〉は、この「弘仁私記序」が稗田阿礼が天宇受売命を祖とすることを紹介し、また稗田氏が猿女を派遣する一族であったことを見出している (「古事記の精読を終えて」)。 【大意】 これより先、浄御原(きよみはら)天皇〔天武〕の御世、 気長帯日(おきながたらしひ)天皇〔舒明〕の皇子、近江天皇〔天智〕の同母の弟。 舎人(とねり)に、姓(かばね)は稗田(ひえた)、名は阿礼(あれ)という、二十八歳の者がいた。 天鈿女命(あめのうづめのみこと)の子孫。 為人(ひととなり)は慎みがあり、聞くこと見ることに聡明であった。 〔天武〕天皇は、阿礼に勅を賜り、帝王本記及び先代旧事を習わせたが、 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇〔推古〕二十八年、 上宮太子(かみつみやのみこ)〔聖徳〕は、嶋大臣〔蘇我馬子〕と共に計り、 天皇記及び国記、 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部、 公民らの本記を記された。 また、天地の開闢(かいびゃく)から豊御食炊屋姫天皇〔推古〕までを、 「旧事」という。 未だ撰録がならないうちに、世は巡り代は替わった。 豊国成姫(とよくになりひめ)天皇〔元明〕が臨軒された年、 天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇〔天智〕の第四の皇女である。 軒とは杉の上板(うわいた)である。 「臨軒」とは「御世」を「馬が軒に臨む」と言ったもの。 正五位上、太朝臣安麻呂に詔して、阿礼の誦んだ言葉を撰集させ、 和銅五年正月二十八日に、 豊国成姫天皇〔元明〕の年号。 初めてその書を献上した。 これが、いわゆる古事記三巻である。 清足姫(きよたらしひめ)天皇〔元正〕が扆(え)を負われた時、 浄御原天皇〔天武〕の孫、日下太子(くさかのみこ)の子。 世に飯高(いいたか)天皇と号す。 「扆」は、戸と帳の間をいう。 「負扆」という言葉は、その場所の名前によっていう。 今案ずるに天子の座す後方である。 〔舎人〕親王及び安麻呂らは、更にこの日本書紀三十巻并せて帝王系図一巻を撰した。 今、図書寮及び民間にあることが見える。 養老四年〔720〕五月二十一日、 浄足姫(きよたらしひめ)天皇〔元正〕の年号。 功なり、初めて有司に届けて献上した。 今の図書寮がそれである。 まとめ古事記の成立までの経過は、記の序文そのままである。 そして、古事記の完成後も引き続き安万侶が関わり、連続的に書紀に移行したような書き方になっている。 これについては、太安万侶の子孫が一族の存在感を際立たせるために、このような記述をねじ込んとする論も見る。 しかし本サイトでは、「古事記の精読を終えて」 で述べたが、古事記のスタッフはもともと書紀チームのひとつのセクションであり、 書紀前半の素材とするために伝承・古記録の蒐集を担当したと結論づけた。 彼らは、書紀とは別に古事記を残すことにした。その理由としては、仏教は民族固有の神学に馴染まないことや、 虚像に過ぎない任那国の記述、そして初期天皇までも編年を捏造したことをよしとせず、それらを取り除いた形の書を残そうとしたと推定した。 それでも、神代の大筋や、どの大王を天皇に認定するかの判断、天皇の名前や家系などの核心部分では両者は基本的に一致しており、 記紀の緊密な関係は揺るがない。 第五段(「弘仁の日本紀講筵」)で出てくる主催者の多人長は、太安万侶の一族と考えられる。 古事記と書紀の関係についての記憶が人長にも引き継がれていて、それがこの段に反映していると見るべきであろう。 |
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2021.07.03(sat) 弘仁私記序[3] ▼▲ |
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【日本書紀の概略】
「天地混淪」が〈神代巻上〉の「古。天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。」に対応するのは明らかである。 ●渾沌…〈北野本〉は訓点なし。〈図書寮本〉は巻の始めの部分の欠落により失われている。 〈内閣文庫本〉「イロカレタルコト ムラカレタルコト 須義河岐良加奈留〔すぎかきらかなる〕」 「イロカレタル」は「ムロカレタル」の誤写か。 《甄成》
《神胤皇裔》 割注は、「神胤」の例として、中臣氏、忌部氏を挙げる。 中臣連の祖天児屋命と、忌部の祖太玉命は、 「五伴緖」として天孫の天降りに随伴した神で、皇孫の系図の外にある(第49回)。 『古語拾遺』のいう「高皇産霊神所生之…男名曰天太玉命」に従えば、「神胤=太玉命」とするときの「神」は高皇産霊神となる。 天児屋命については思兼神と同一という見方もあり、その場合はやはり高皇産霊神が父となる。 割注は次に「皇裔」として、息長真人、三国真人を挙げる。 〈応神段〉によれば「応神天皇―若沼毛二俣王(稚野毛二派皇子)―大郎子(意富富杼王):三国君・息長君の祖」(第159回)だから、皇の裔である。 〈天武十三年十月〉に八色の姓を定めたが、その当日に三国公・息長公ら十三氏に「賜レ姓曰二真人一」した。 《慕化古風》 「慕化」〔"慕"は倭を慕う。"化"は帰化。〕の例として、 東漢(やまとのあや)、西漢(かふちのあや)、百済氏を挙げる。 記では応神朝に集約され、書紀では雄略朝における秦氏の伸長が描かれる。 実際には古墳時代から飛鳥奈良時代に至る広い期間に及ぶ。 「古風」は、高句麗、新羅からの移民に当てている。 《東部後部氏》 「東部後部氏」については、〈姓氏家系〉「東部 トウブ ヒガシベ:異人種部の一にして、高麗族也。もと高麗五族の一・順奴部。」とある。 『後漢書』高句麗条によれば、「五部」は上部・下部・前部・後部・東部を指す。 〈天武紀上〉元年「高麗遣二前部富加抃等一進調」。 『日本後紀』〔弘仁二年〕八月己丑〔二十七日〕。「山城国人正六位上高麗人東部黒麻呂。賜二姓弘宗連一」。 《異端小説》 「一書及或説為異端」の"一書"と"或説"はほとんど同じ意味。"異端"は、まともに信じるべきでない話という意味だろう。 「反語及諺曰為小説」の"反語"とは疑問文「Aか?」という形で、真意は「非A」だと表現する。 ここではもう少し幅広く、敢えて荒唐無稽な話が承知の上で書かれているということであろう。 「諺曰」の"曰"にはあまり意味はなく、「反語」と字数を揃えるためにつけたと見られる。 「小説」は娯楽的な読み物の類で、現代語の「小説」とあまり変わらない。 つまりは、書紀にはかなり怪しげな話を納めた面もあると述べる。 《恠力乱神》 「恠力乱神」は、恠力=「あやしげな力」、乱神=「取り乱れて不思議である」という文章である。 割注は、これを一字ずつ分解して、 ・「恠 異也」〔"恠"は異(け)なり〕、 ・「力 多力也」〔"力"は多き力なり〕、 ・「乱 逆也」〔"乱"は逆(さからふこと)なり〕、 ・「神 鬼神也」〔"神"は鬼神なり〕 と述べる。以下、それぞれの例に対応する箇所を書紀から拾い出す。 ただし「恠力乱神」が一文であることは注釈者も恐らく承知していて、敢えて分割して一字ごとの該当箇所を示す形をとるのは、一種の修辞法であろう。 ●白鳥陵人化為白鹿:〈仁徳六十年〉、陵守の目杵(めきね)が白鹿に変身して走り去る。 ●蝦夷叛之堀上野田道墓:〈仁徳五十五年〉、 田道は蝦夷を制圧しに向かったが、伊峙水門で戦死した。 妻は使者から手渡された遺品の手纏を、胸に抱いて首を吊って死んだ。 その後蝦夷は村を襲い、田道の墓を暴いたところ大蛇が飛び出し、その毒でほとんどの蝦夷を殺した。 ●膳臣巴提便…〈欽明六年〉 百済に派遣された巴提便は、連れて行った息子が虎に殺された。 巴提便はその虎を見つけ、口を開いて襲い掛かってきた虎の舌を左手で掴み、右手で刺し殺した。 ●蜾嬴捕大蛇:〈雄略七年〉、 蜾蠃は、雄略天皇に三諸山の大物主神を捕らえて来いと命じられ、大蛇を捕まえて届けた。 大蛇を見た天皇は。その赤々とした鋭い目に恐れをなして三諸山に返させた。 ●蘇我入鹿:〈皇極二年〉に、中臣鎌子は「憤二蘇我臣入鹿失君臣長幼之序一」とある。 入鹿は一時権力を掌握したが、中臣鎌子らによって乙巳の変で殺された。 ●一言主神:〈雄略段206回・雄略紀四年〉雄略天皇が狩りをしに葛城山に訪れたとき、天皇にうり二つの神の一行に出会った。それが一言主神である。 一言主神は言葉の力によって天皇を感服させた。 《該備也》 「為備多聞:莫不該博」の対句構造をとる。「該」は「備」と同じ意味だが字を変えたもの〔古事記序文(第1回~)参照〕。 「博(ひろ)く該(そなへ)ざること莫(な)かれ」は二重否定文で、結局「為備多聞」の同意反復である。 【大意】 上は天地混淪(こんりん)の先から起こし、 「混」は大波。「淪」は小さく沈む小波。 下は品彙(ほんい)甄成(けんせい)〔諸族形成〕の後に終える。 「品」は多(た)。「彙(い)」は類(るい)。「甄(けん)」は成(せい)。 神胤(しんいん)皇裔(こうえい)が指し掌(つかさど)ったことは灼然としている。 中臣(なかとみ)朝臣、忌部(いんべ)宿祢らを「神胤」とする。 息長真人(おきながのまひと)、三国真人(みくにのまひと)らを「皇裔」とする。 慕化(ぼか)古風(こふう)の列挙は、自(おのずか)ら明白である。 東漢(やまとのあや)西漢(かふちのあや)の史(ふひと)及び百済の氏らを「慕化」として、 高麗(こま)新羅(しらき)及び東部や後部の氏らを「古風」とする。 異端小説恠力乱神、 一書及び或る説を異端、
反語及び諺を小説という。
多く聞こえることを備え、広く該(そなわ)らないことなどない。 「該(がい)」は「備(そなわ)る」。 まとめ書紀は神代から始まり、最後は大伴氏、中臣氏、物部氏、蘇我氏などの諸族に支えられながら国政が展開する。 また有力氏族には庶蕃〔三韓など〕出身者も含まれる。 それが、「上起二天地混淪之先一。下終二品彙甄成之後一。 神胤皇裔指掌灼然。慕化古風挙自明白。」の意味と見られる。 また書紀はさらに荒唐無稽な伝説の類を載せていて、それを「異端小説。恠力乱神」という。 「為備二多聞一。莫レ不レ該レ博。」は、 以上を幅広く網羅しているということであろう。 この段では、日本書紀の特徴を簡潔に表している。 いくつかの珍しい語句が出てくるが、そのうち「品彙」は自然や歴史の産物としての多様な品々とも読める。 しかし、次の「甄」には〈汉典〉に優秀な人材の選別とあるように、人を喩える用法が目立つから、「品彙」は朝廷に人材を送り込む諸族と読むべきか。 「神胤」と「皇裔」の区別について割注は前者を五部神、後者を皇孫として読み分けている。 しかし、神が天照大神だとすれば、神胤と皇裔は同意語の反復である。神胤の方を敢えて五部神(五伴緖)に当てたのは、奈良時代に藤原氏が権力を握っていった時代背景があるように思われる。 藤原氏の前身は中臣氏である。 さて「恠力乱神」の四文字を、割注が一字ずつに割ったのはユニークである。 これについては上で一種の修辞法だと述べたが、これは「割注者が厳密な論建てではなく、ちょっと面白い言い方をしてみたもの」という意味である。 実際には「恠力乱神」は四文字熟語であるが、塊として割注が例示した奇妙な伝説を意味するのは確かであろう。 |
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2021.07.05(mon) 弘仁私記序[4] ▼▲ |
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【諸書について】
『神別記』の影印はいくつくのサイトに見える。その一つ、「新潟大学 古典籍データベース」に『神別記』に画像データがある。 巻一の始めのところで、次のような各巻の構成を記している。
ただ、〈弘仁序〉に「神別記」という言葉があることにより、後世にそれを装って作られた可能性はある。 新潟大『神別記』の内容の一部を抜き出す(「陰陽別記」の部分)。
小文字で助詞や送り仮名を表すのは、宣命体〔奈良時代後半〕の形式であるが、最初から宣命体で書かれたのか、後世の校訂者が付記したものかは不明である。 ここでは、天御中主尊が地上を観察する歳、天磐座から現れて天香久山に上り、棚雲を開いて地上を見下ろしたことになっている。 しかし、磐座・棚雲は記紀では邇邇藝命が降臨した箇所における表現で、この場所では違和感がある。 どうも、記紀の語句を脈略なく用いた作文のような印象を受ける。 まだごく一部を見ただけだから何とも言えないのだが、宣命体の時期になってから記紀を知った上で書かれたのではないだろうか。 そもそも「神別」という語は、少なくとも記紀や先代旧事本紀には出てこない。恐らく『新撰姓氏録』編纂の時期からの言葉ではないかと思われる。 日本古典文学大系『春雨物語』(p.246)の頭注に忌部浜成〔803年前後の人〕を『神別記』の著者とするが、根拠は不明である。 仮に浜成の著だった場合、〈弘仁序〉がそれを知っていれば「年紀夐〔=遥〕遠。作者不レ詳」などと書くはずがない。 それでも〈弘仁序〉は「神別記」なる名称を使うから、800年頃の浜成の書を記紀以前の書と思い込んだ可能性はある。 宣命体の時期〔奈良後半〕だとすれば、〈弘仁序〉と時代が近い。 〈弘仁序〉は、「発二-明神一事最為二証拠一」 として、内容そのものへの評価は高い。 しかし、仮に記紀の後に書かれた書だとすれば、内容が記紀と矛盾しないのは当たり前である。 《帝王系図》 『国史大辞典』いわく「普通名詞的な書名であるので、同名の複数の書が存したとみられる」。 そして『本朝書籍目録』〔鎌倉後半〕に、 (イ)「帝王系図 一巻 舎人親王撰」、 (ロ)「帝王系図 一巻 菅為長卿撰」、 (ハ)「帝王広系図 百巻 基親卿撰」、 (ニ)「帝王系図 一巻 兼直宿禰抄」、 (ホ)「帝王系図 二巻 神武以降至二白川院一、記二代々君臣事一、中原撰」があるという。 また、〈釈紀〉巻第四に「帝皇系図」として、神代から持統天皇までの系図が図示されている 〔但し天皇ごとにまとめられ、それぞれの皇子の代止まり〕。 これについて『国史大辞典』は、「あるいは『日本書紀』などによって卜部兼方が編んだものであろうか。」 〔釈紀の一部として、兼方自身が書紀から作成したものか〕と述べる。 《庶民雑姓記》 「或以二甲後一爲二乙胤一 或以二乙胤一爲二甲後一」。 これは、いわゆる循環論法になっていることの指摘であろう。 つまり、個所Aでは「Bの所で甲の子孫というから、乙は甲の血筋だ」と理由づけ、箇所Bでは「Aの所で乙は血筋というから甲の子孫である」と根拠づけるようなことをいう。 《庶蕃雑姓記》 「庶蕃」は百済・新羅・高句麗のことで、それぞれから帰化した氏族の家系を集めたのが『庶蕃雑姓記』であるのは明らかである。 割注に出てくる氏を〈姓氏家系大辞典〉から拾う。 ●田辺吏…「河内の大族にして、漢王の後と称す。」 〈雄略紀〉九年七月に田辺伯孫の伝説。 ●上毛野公…田辺史は「後世毛野氏と密接なる関係を結び、その系を冒し、遂に上毛野君姓を冒す。」 〈新撰姓氏録〉には次のようにある。 ●上毛野朝臣・多奇波世君…〖皇別/上毛野朝臣/下毛野朝臣同祖。豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也。〔〈雄略紀〉伯孫〔百尊〕土馬伝説と同内容〕 因リ負二姓陵辺君一。〔努賀君の男〕百尊の男徳尊-孫斯羅。謚皇極御世に賜二〔所領〕河内山下田を一。 以二解文書一為二田辺史一。…天平勝宝二年改二-賜上毛野公一。今上弘仁元年改二-賜朝臣姓一〗(詳しくは第110回)。 ●池原朝臣…〖皇別/池原朝臣/住吉同氏。多奇波世君之後也〗。 ●住吉朝臣…〖皇別/住吉朝臣/上毛野同祖/豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也〗。 ●和徳…〖諸蕃/百済/大県史/百済国人和徳之後也〗 「多奇波世君」は、仁徳紀の「竹葉瀬君」であろう。 〈仁徳五十三年〉に、 「新羅不二朝貢一。…遣二上毛野君祖竹葉瀬一。令三問二其闕一レ貢。」 〔朝貢を欠いたことへの詰問使として新羅に遣わされた〕とある。 「竹合」も、「たけ-あはせ」が母音融合して「たけはせ」だと思われる。 〈新撰姓氏録〉と〈仁徳紀〉を合成すると、仁徳帝が新羅に送った詰問使「竹葉瀬=多奇波世=竹合」は豊城入彦命〔崇神帝の皇子〕の五世孫で、 その雄略帝の時代の子孫が努賀君-百尊。百尊は、姓「陵辺君」を負う。子孫は百尊-徳尊-斯羅。斯羅のとき田辺史の姓氏を賜り、後に上野公、さらに上野朝臣となる。 割注によると「竹葉瀬が現地に残した一族の子孫の思須美と和徳は、帰化して諸蕃となった。ところが私は実は竹葉瀬の子孫であると申し出て、倭人として上毛野君に加えられた経過がある。 ところが、『庶蕃雑姓記』には「諸蕃」に入ったままになっている」として、誤りを指摘する。 〈新撰姓氏録〉では和徳は大県史の祖と述べ、依然として蕃別に入っている。 思須美の名前は出てこない。 《新撰姓氏目録》 現存の『新撰姓氏録』の上表文には、「弘仁六年〔815〕七月二十日」の日付がある。 また、上記「上毛野朝臣・多奇波世君」の項に、「今上弘仁元年改二-賜朝臣姓一」とあるから、 今上天皇=弘仁元年以後、嵯峨天皇退位まで〔810~823年〕の期間となり、815年頃の成立は間違いないであろう。 現存本は、抄録〔原書の抜き書き〕とされている。 割注は、桓武朝の時に若狭国が提出した「本系」がそのまま『新撰姓氏目録』に納められた例を挙げ、 「民間加以引二神胤一」〔民間の諸氏が自由に神胤からラインを引き〕、 「尊卑雑乱」なものだから、「無レ由取信」〔信じる根拠はない〕とする。 よって、この書は太政官に置いて一般には見せない。「錐迎禁駟不レ及耳也」は、門外不出の意と見られる。 「錐迎」、「禁駟」という語は辞書や漢籍の書にもほぼ見られないから、確実に誤写であろう。 「錐迎」は「錯迎」に似ている。「錯」には錯覚、錯視、錯綜などに使われ、紛らわしいものを取り違える意味である。 「禁駟」は「禁錮」か。本来は犯罪者を閉じ込めたり昇進を止める意味であるが、物を門外不出にすることにも転用可能であろう。 「不及」の「及」は他動詞で、この書の中身を一般に広めてはならない意味であろう。 「耳(のみ)」は、文末助詞として限定の意を加えると見られる。ところが、それに「也」がつくので文末ではなくなるという問題が生じる。 これについて、次項で考察する。 《耳也》 「耳」に「也」(断定の語気詞)がつくと文末ではなくなるが、それでもなお「のみ」なのだろうか。 「中国哲学書電子化計画」を検索して、「…耳也」の具体例を見る。 (ア) 身体器官の「耳」。 ・「衣服容貌者、所以説レ目也。応対言語者、所以説レ耳也。」 〔衣服容貌は、ゆゑを目に説く。対応する言語は、ゆゑを耳に説く。〕(漢詩外伝 巻二)。 ・「言決於口、聴決於耳也。」〔言は口に決し、聴は耳に決す。〕(文始真経/九薬)。 これらの「耳」が身体器官であるのは明らかである。 (イ) 語気詞「耳」。 ・『管子』―「臣乗馬」の段。 桓公曰:「何謂春事二十五日之内」。 管子対曰:「日至六十日而陽凍釋。七十日而陰凍釋。陰凍釋而秇稷。百日不秇稷。故春事二十五日之内耳也…」。 サイト(「管子/匡乗馬」)は、「七十日」に"五"を補って「七十五日」としている。 この文は「春の農事はどうして25日以内かと聞かれ、60日で地上が解凍し、70〔75〕日で地下が解凍し、100日を過ぎると種は蒔けなくなるので、春の農事は25日間に限られる…と答えた」と読み取ることができる。 この文脈では、「耳」が「25日のみ」の意で使われていることは明らかである。 (ア)のように身体器官として使われる例は大変多いが、 (イ)を見ると文末助詞「耳」に断定の語気詞「也」を重ねる使い方も確実に存在する。 《神感天皇》 『三代実録四』貞観二年十月二十五日「法隆寺牒曰」の中に、 「功徳安居講者。上宮太子之本願。官安居講者。勝宝感神天皇之本願也。昔日僧等。件二色講。互当其次。」が見られる。 また、同巻五、貞観三年〔861〕三月十四日に東大寺で「無遮大会」が行われた記事があり、東大寺大仏について 「此是仏像〔東大寺大仏〕。感神聖武皇帝天平十五年創造。」と述べる。 なお、後者の「感神」は文脈的には称号ではなく、「神に感(かな)ひて」である。 聖武天皇〔701~756〕在位中に天平十五年〔743〕、天平勝宝年間〔749~757〕が含まれる。 「感神天皇」が聖武天皇を指すのは間違いない。 《官禁而令焚人悪而不愛》 民間に流布している「本系」は誤りが多いので、「官禁而令レ焚」〔官は禁じて焼かせた〕、 これを「人悪而不レ愛」〔人々は憎み、官に反感を持った〕。 すなわち、諸族が大切にしてきた系図が禁止されて焼かれ、反発した。 だが「今猶遺漏遍在二民間一」〔今なお漏れて民間に広く存在する〕と述べる。 《是則不読旧記》 「是則不レ読二旧記一」、即ち諸族が勝手に作る「本系」は「旧記」を読まないからだという。 割注は「旧記」として、記紀に加えて「諸族〔の記〕」も認めている。記紀でカバーしきれない部分は、一定程度の書を認めている。 《翻士為師弟子為資》 「翻士為レ師弟子為レ資」の 「資」は批判的に読み取るべき素材という意味であろう。所謂「反面教師」である。 「翻」は「これまでに書いたことを振り返って」であろう。 そして、「士=見識のある人の言うことは、師とせよ=そのまま学べ」、「弟子=民間で誤謬を振りまく人の言うことは、資とせよ=批判的に読み正しい理解に至るための材料とせよ」の意と見られる。 《坐月櫓丘》
〈国史大系〉頭注にも、「月櫓、當下據二谷本傍書及書紀一作上二甘橿一」 〔月櫓:谷本傍書及び書紀に拠り「甘橿」に作る当(べ)し〕とある。 《探熱湯》 〈允恭天皇四年七月〉に、 「一氏蕃息更為二万姓一、難知其実。故…各為二盟神探湯一」。 その割注に「盟神探湯、此云二区訶陀智一」〔盟神探湯は、"くがたち"と訓む〕とある。 当時、各氏が勝手に系図を作って混乱していたから、盟神探湯によって真偽を定めようということになった。 そのために「於二味橿丘之辞禍戸𥑐一、坐二探湯瓮一」〔味橿丘の辞禍戸𥑐に、探湯瓮を設置した〕。 「大和国高市郡に釜有り」という。 垂仁天皇段(第119回)「甜白檮之前」〔あまかしのさき〕がある。 味橿丘は高市郡にあり、小墾田宮跡の南、飛鳥寺跡の西にあたる。 ※ウマカシ・アマカシはどちらにも訓まれる。 《後世帝王見彼覆車》 允恭天皇のときは盟神探湯によって、諸族の系図の真偽を判定した。 現在は、天皇が即位するごとに系図を洗いざらい広げて点検するということであろう。 【大意】 世に『神別紀』十巻がある。 天神天孫の事は、具(つぶさ)にこの書にある。 神の発現の事は最も証拠をなすが、しかし年紀は夐(はる)か遠く作者は不詳である。 「夐」は、遠く見ること。反切は「隳(き)正(しょう)」。 この他、更に『帝王系図』、 天孫の後を、悉く帝王〔帝と王子〕とする。 しかし、この書では、或る場合は新羅高句麗までも国王とし、或る場合は民間にいて帝の王子だという。 これにより、延暦年中に諸国に符を下してこれを焚(や)かせた。 しかし、今なお民間にある。 『諸民雑姓記』、 ある個所では甲の子孫であることを以て乙を胤(たね)として、ある箇所では乙が胤であることを以て甲の子孫とする。 徃々にして山のような誤りがあり、苟(いやし)くも曲解、もしくは無知の人のなすことである。 『諸蕃雑姓記』、 田辺史(たなべのふひと)・上毛野公(かみつけののきみ)・池原朝臣(いけはらのあそん)・住吉朝臣(すみよしのあそん)らの祖、 思須美(しすみ)・和徳(わとく)両人は、大鷦鷯(おおさざき)天皇〔仁徳〕の御世、百済国から帰化して申し上げるに、 「私たちの先祖は、貴き国〔=倭〕の将軍、上野公(かみつけののきみ)の竹合(たけはせ)である」というので、 天皇は矜憐(きょうりん)し〔=憐み〕、その族に混ぜて処理した。けれどもこの書では諸蕃の人という。 このような事は、類(たぐい)に触れて多い。 『新撰姓氏目録』があり、 柏原天皇(かしははらのすめらみこと)〔桓武〕の御世、若狭国の人は新たな本系に事を同じくしたいと申し上げた。 今諸国は本系を献上し、この書に納めた。けれどもその主、当人ら未だ真偽を弁(わきま)えず、誤書を抄集した。 これを施して民間に加えるをもって、神胤を引いて上〔祖先〕とし、皇裔を推して方便とする。 尊卑雑乱し、由(よし)無く信じた。 但し、正書の目録は、今太政官にある。 今この書はいわゆる書の外側にあり、恣(ほしいまま)新意を申す。 よって、錐迎禁駟〔錯迎禁錮〕して及ぼさないようにするのみ。 このような書は、その類(たぐい)に触れることが夥(おお)い。 「夥」(わ)は、「多」である。 旧説を踳駁(しゅんばく)して〔=いり乱れ〕、人の見るところをを眩曜する〔=惑わせる〕。 「踳駁」は雑貌(ざつぼう)〔入り乱れたさま〕を指す。 或る箇所では馬を牛とし、或る箇所では羊を犬とする。 すなわち、よく知られた号〔呼び名〕を借り、述べる者の名とする。 古人及び当代の人の名を借りることをいう。 すなわち、官書の外(ほか)に、穿(うが)つ人の多さが知れる。 これにより、官は禁書として焚(や)かせ、人は官を憎んで愛さない。 今なお、遺漏は遍(あまね)く民間にあり、偽り多く真(まこと)は少なく、理由なく誤謬を刊する。 これは、すなわち旧記を読まないのである。 〔旧記とは〕日本書紀、古事記、諸の民〔記〕などの類をいう。 師と資の至ったことを差し置いてはならない。 翻って〔=ここまでを振り返って言うと〕士〔「正しい書」を比喩〕を師〔=正しい教え〕として、弟子〔「誤謬の書」を比喩〕を資〔=批判的に見る材料〕とする。 およそ、天平勝宝の前は、 感神(かんじん)天皇〔聖武〕の年号。〔聖武天皇は〕世に法師天皇と号する。 〔天皇〕一代毎に天下の諸民にそれぞれの本系を献上させた。 遍(あまね)く講じさせて、それを「本系」という。 永く秘府に所蔵して、容易に出さない。今ある図書寮がそれである。 雄朝妻稚子宿祢(おあさづまわくごのすくね)天皇〔允恭〕の御世、姓氏は紛(まぎ)れ謬(あや)まり尊卑は決め難い。
よって、月櫓丘〔甘橿丘〕に据えて、探熱湯(くがたち)をさせて真偽を定めた。
今、大和の国の高市郡(たかいちのこおり)に釜があるのはこれである。
ここでは割注において、『神別記』、『帝王系図』、『諸民雑姓記』、『諸蕃雑姓記』、『新撰姓氏目録』などの文献について述べ、それぞれに割注がついている。 割注に関しては、前段の「恠力乱神」への特異な割注は、後世の注釈者によるものと考えた。 しかし殊(こと)この段に関しては、「踳駁旧説。眩曜人看」という一括りの結論に向けて、各書毎に評価を述べて根拠づけしているので執筆者自身の手によると思われる。 諸族がそれぞれの系図を大切にしたことは、既に「金錯銘鉄剣」の銘文(資料[27])に見える。 各氏族がその祖に有力な神や皇族を奉るのは当然で、それぞれが恣意的なものであるから、 諸族の系図を統合してみると矛盾だらけになる。 帝王の系図は記紀における本質的な縦糸であるから、諸族が提出した「本系」や民間に流通する雑多な系図をどのように取扱うかは重要な課題である。 ここでは、書紀の研究においては欠かせない観点としてこの問題に触れたわけである。 そして、雑多な系図は全般にかなり錯乱していて、図書寮に秘蔵して門外不出となっていると述べる。 結論として、書紀を超える系図は認められないのである。ただし、「資」〔=研究の素材〕としては意義を認めるという、学究的な態度を示している点が注目される。 |
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2021.07.06(tue) 弘仁私記序[5] ▼▲ |
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【弘仁の日本紀講延】
「冷然聖主」は、嵯峨天皇の譲位後の呼び名。 冷然院は、嵯峨天皇が退位後の住居として造営した。 記録上の初見。 ●『類聚国史』所引用『日本紀略』:「弘仁七年〔816〕八月丁巳〔二十四日〕。幸冷然院。」 譲位〔823〕後、〔834〕まで居住。 その後、冷然院は幾度か火災に見舞われる。 ●『日本三代実録巻廿七』〔清和天皇〕貞観十七年〔875〕正月。 「廿八日壬子。夜 冷然院火 延二-燒舍五十四宇一 秘閣收藏圖籍文書爲二灰燼一 自餘財寳無有孑遺 唯御願書寫一切經 因二-縁衆救一 僅得レ令レ存」。 〔夜、冷然院に火。舎五十四宇に延焼す。秘閣収蔵図籍文書、灰燼と為(な)れり。余す財宝自(よ)り孑遺(のこり)有ること無し。唯(ただ)御願書写一切経、衆の救(すくひ)に因縁(よ)りて、僅かに存(のこ)ら令(し)むを得(う)。〕 ※ 日本三代実録は、清和・陽成・光孝三代。858~897年。 ●『日本紀略』〔村上天皇〕「天暦三年十一月十四日癸丑 園韓神祭 子刻許〔ばかり〕冷然院焼亡」。 ※…日本紀略は、神代~1069年。 「 然」が「燃」に通ずることから「冷泉院」に改称した。 ●天暦八年〔954〕一般に「3月11日、冷然院を冷泉院と改める」とされる〔日付の出典は調査中〕。 『拾芥抄中』諸名所部第二十「依二火災一改二然字一爲レ泉」。 《漢風諡号》 淡海三船による漢風諡名の勅撰は、 762~764年かと推定される(資料[38])。 よって、〈弘仁序〉の時点では既に漢風諡号が存在していたが、一か所を除いて使用されていない。 私記は何といっても書紀のための注釈書であるから、敢えて書紀当時の呼び名によったのかも知れない。 但し、使用されたのが一か所あり、それがこの段の天智天皇である。 《多人長》 多朝臣人長は、大同三年に従五位下に昇格した。すなわち、 ●『日本後記巻十七』―大同三年〔808〕十一月:「甲午〔十七日〕。正六位上〔中略〕多朝臣人長〔中略〕従五位下」。 「散位」:司に職掌がなく位階のみをもつ者。 ●『同巻二十二』―弘仁三年〔812〕六月:「戊子〔二日〕。 始令二参議従四位下紀朝臣広浜。陰陽頭正五位下阿倍朝臣真勝等十余人一読二日本紀一。散位従五位下多朝臣人長執レ講。」 〔始めて紀広浜、阿倍真勝ら十余人に日本紀を読ま令(し)む。多人長講を執る〕とある。 すなわち、弘仁四年の前年の三年にも日本紀講筵が行われ、そのとき人長は「従五位下」であった。 よって〈弘仁序〉の「従五位下」は正しいと考えられる。 割注に「祖禰見上」とあるから、多氏は太氏と同族と見られる。 太安万侶〔723年卒去〕※から何代目かの継承者として、日本書紀の読み方の研究を主導したと想像される。 〈釈紀-巻一〉「開題」に、「日本紀講例【康保二年村上〔天皇〕外記勘申】」からの引用がある。 その「弘仁三年」の項に「多朝臣人長【今案 作者太●万侶後胤歟】」〔今案(かむがふ)。作者太安万侶の後胤か〕とあり、卜部兼方も安万侶の子孫であろうと推定している。 ※…〈続紀〉養老七年〔723〕七月「庚午〔七日〕。民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒。」 《使講日本紀》 「講」じたのは多人長で、大春日穎雄以下六名に「業を受けることを課した」と表現する。 三年の講筵で、人長が「執講」し、十余人に「読ま令めた」のと同じ形式の会であろう。 そこには授業のような光景が想像される。 受講者は「聴」ではなく、「読」・「業」と表現されているから、能動的に参加したと想像される。 一般に「講筵」と呼ばれているが、この語は『日本後紀』逸文に一か所だけ見える。 ●弘仁十三年〔823〕六月癸亥:「会屈二天台宗一道邃和尚為二座主一。儻預二講筵一。稟レ学略了。良縁有レ感。一面為レ歓。」 〔道邃和尚を座主として講筵に預かれば、よい学びができるだろう〕。 「講」については、『日本後紀』逸文には「講二仁王経於新宮一」など数多く使われ、大半は仏教の経典の学びだが「講二-論陰陽書一」のように陰陽道もある。 《大春日穎雄》 ●『類聚国史 巻九十九』-職官四:「〔弘仁〕十三年〔822〕正月己亥〔七日〕御二豊楽殿一宴二群臣及蕃客一。 授〔中略〕正六位下紀朝臣深江。大春日朝臣穎雄。〔中略〕従五位下。」とある。 弘仁四年「正六位上」から、弘仁十三年「正六位下」へのダウンはあり得ない。よって、〈弘仁序〉と『類聚国史』のどちらかが誤りである。 《藤原朝臣菊池麻呂》 ●『類聚国史 巻九十九』-職官四:「〔天長〕六年〔828〕正月戊子〔七日〕授〔中略〕従五位下〔中略〕藤原朝臣菊智麻呂〔中略〕滋野宿禰貞主〔中略〕従五位上。」とある。 813年「正六位上」→828年「従五位下」のようである。ただ、年数がかかり過ぎの感がある。 《安倍蔵継》 ●『類聚国史 巻九十九』-職官四:「〔弘仁〕十年〔819〕正月丙戌〔七日〕正六位上〔中略〕安倍朝臣倉継〔中略〕〔授〕従五位下 」とある。弘仁四年から弘仁十年まで正六位上だったとしても不自然ではないから、「倉継」は「蔵継」と同一人物であろう。 《文章生》 ●〈令集解〉〔730〕職員令 式部省―大学寮:「明法生十人。文章生二十人。【簡二-取雑任及白丁聰慧一。不レ須三限二年多少一也】」 〔雑任及び白丁〔=使用人もしくは庶民〕の聡恵より簡(えら)ひ取る。須(かならず)しも年の多少を限るべからず〕。 つまり、大学寮所属の学生。使用人などから、これはと思う者を取り立てたようである。 ●〈続紀〉天平二年〔730〕三月:「丁亥〔三日〕。天皇御二松林宮一。宴五位以上。引二文章生等一、令レ賦二曲水一。賜二絁布一有レ差」とあり、 曲水宴に文章生を呼んで「賦」をさせている。「賦」は恐らく即興的な歌詠みであろう。 《滋野貞主》 滋野貞主は、785年生、807年文章生、弘仁二年〔811〕少内記。 滋野宿祢は、 ●〈新撰姓氏録〉に〖天孫/滋野宿祢/神魂命五世孫天道根命之後也〗。 〈姓氏家系〉によれば、「中世以来の大姓」、 「滋野宿祢:紀国造の族にて、もと伊蘇志臣を称せしが、延暦年中〔782~806〕、此の氏姓を賜へり。」、 「滋野朝臣:仁寿二年〔852〕二月紀に「参議正四位下行宮内 兼相模守滋野朝臣貞主卒す… 父・尾張守従五位上家訳は、延暦年中、姓を滋野宿祢と賜ふ。貞主は云々」…」、 「貞主は博学多才、…古今の文書を探り、類を以つて集む。実に一千巻の大著述たり。」という。 祖の「神魂神」〔かむむすびのかみ〕は天地開闢のときの三柱神の一柱。「神生巣日神」とも表記する(第30回)。 ●『類聚国史 巻九十九』-職官四:「〔弘仁〕十一年〔820〕正月庚辰〔七日〕〔中略〕正六位下〔中略〕滋野宿禰眞〔貞〕主〔中略〕外従五位下」。 ●『日本紀略逸文 巻三十五』:「天長四年〔827〕五月庚辰〔二十日〕詔二中納言良岑朝臣安世。東宮学士従五位下滋野朝臣貞主等一。撰二近代詩人所作之詩一。勒二-成廿巻一。名曰二経国集一」 〔当時の詩を撰して『経国集』ニ十巻にまとめる〕。 ●(『類聚国史 巻九十九』-職官四;前出《菊池麻呂》)では、〔828〕「従五位上」となる。 弘仁四年「従八位上」→弘仁十一年初め「正六位下」となっている。同年一気に二段階上がって「外従五位下」となる。 八年間に七段階という急速な昇位をする。文学研究者として素晴らしく有能であったことが、反映したようにも見える。 ただ、前出の菊池麻呂は昇位が遅いように見えるが、実は従五位下ともなると一般官僚の限界に近かったのかも知れない。 《嶋田清田》 嶋田臣は、 ●〈新撰姓氏録〉に〖皇別/島田臣/多朝臣同祖/神八井耳命之後也。五世孫「武恵賀前命」孫「仲臣」子「上」〔人名〕。稚足彦天皇〔成務〕御代。尾張国島田上下二県有二悪神一。遣二子「上」一平二-服之一。復命之日賜二一也〗。 また、島田清田の名が、『文徳天皇実録』に見える。 重要人物だったようで、その卒〔=官僚レベルの死〕の記事に略歴が書き添えられる。 ●『文徳天皇実録』斉衡二年〔855〕 〈九月丁未朔〉:「甲子〔18日〕。散位従五位上嶋田朝臣清田卒。清田者正六位上村作之子也。」 続けて、経歴が載る。
《美努清庭》 〈姓氏家系〉によれば、「美努連:神魂尊の裔にして、河内国美野県主の後ならん。」、 元慶三年〔879〕十月に「河内国若江郡人…美努連清名」。 〈新撰姓氏録〉には〖天神/美努連/同神〔角凝魂命〕四世孫天湯川田奈命之後也〗、 〖神別/天神/税部/神魂命子角凝魂命之後也〗。 すなわち、「神魂命―角凝魂命-○-○-○-天湯川田奈命」。 《外記曹局》 ●曹…下級の役人。(古訓) つかさ。ともから。むらかる。 〈倭名類聚抄〉に「侍従局【於毛止比止女宇知岐美】〔おもとひとめうちきみ〕 内記局職員令云二中務省内記一【宇知乃之流須豆加佐有二大少一】」 〔内記局:職員令に中務省の内記と云ふ。【うちのしるすつかさ。於保伊・須奈伊有り】〕。 よって、曹局=「つかさ」で、外記曹局=「とのしるすつかさ」であろう。 《一周之後》 割注は「一周=一年」と解釈しているが、このときの講筵は弘仁三年の講筵の続きとも考えられる。 したがって、「一周」は複数年をかけた1回のシリーズを意味するのではないだろうか。 また、次の段で天皇の御宇を弘仁十年としているので、弘仁私記の完成を弘仁十年とする考えも成り立つ。ただし、それでは長すぎるかも知れない。 【大意】 冷然聖主〔嵯峨天皇〕は、弘仁四年〔813〕の在位中、 天智天皇の子孫、柏原天皇〔桓武〕の皇子である。 旧説がまさに滅びようとして、本紀に訛りを合わせていることを憂えられ、 刑部少輔従五位下、多(おお)の朝臣の人長(ひとなが)に詔して、 先祖は上を見よ。 日本紀の講を開かせた。 すなわち、大外記(だいげき)正六位上、大春日(おおかすが)の朝臣の穎雄(かびお)、 皇子天帯彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫、従五位下魚成(いをなり)の第一男。 民部少丞(しょうじょう)正六位上、藤原の朝臣の菊池麻呂(きくちまろ)、 天孫天児屋命(あめのこやねのみこと)の子孫、従五位下是人(これひと)の第四男。 兵部少丞(しょうじょう)正六位上安倍の朝臣の蔵継(くらつぐ)、 皇子大彦命の子孫、従四位下弟者〔弟老〕(おとゆ)の第二男。 文章生(もんじょうしょう)従八位上滋野(しげの)の朝臣の貞主(さだぬし)、 天孫神魂命(かむむすびのみこと)の)子孫、従五位上家訳(いへをさ)の第一男。 無位嶋田臣(しまたのおみ)清田(きよた)、 皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫、正六位上村田の第一男。 無位美努連(みぬのむらじ)清庭らに課して業を受けさせ、 天神角凝命(つのこりのみこと)の子孫、正六位上友依の第三男。 外記曹局(げきそうきょく)を就(つ)けて講席(こうせき)を開いた。 一周(めぐ)りの後、巻袟(かんじち)を既に終えた。 一年を一周りとする。 まとめこの段は、弘仁四年の日本紀の講の実務的な記録で、役所らしい緻密さがある。 おそらく外記曹局が事務局として運営し、特に出席者のことを正確に記録している。 日本紀講筵については、『康保二年外記勘申』(前出)に、養老五年〔721〕、 弘仁三年/私記云四年〔812/813〕、承和六年〔829〕、元慶二年〔878〕、 延喜四年/竟宴【同六年】〔904/906〕、承平六年〔926〕、康保二年〔965〕の計七回が記されている。 もともと書紀は唐の脅威に直面した情勢下で、国家の精神的統合のために編纂されたものである。 その日本民族固有の書である書紀を倭の言葉で読んで伝承し、ナショナリズムを高めようとする動機は、当初は確かに残っていたであろう。 実際、安万侶は古事記の序文において、唐を警戒して設けられた軍事的な情報伝達路「列烽」に言及している(第23回)。 安万侶は養老五年の講筵にその意図をもって臨み、後胤の多人長まではそれが引き継がれていたであろう。 その後、奈良~平安前期に九州が実際に直面したのは新羅による挑発で、唐への直接的な警戒感は薄らいでいったと思われる。 それに伴い、日本紀講筵本来の学問的研究会だった面は形骸化して、元慶二年以後は「歌人」の名前が添えられているように、 歌会を伴う雅な宮廷行事に変質していったようである。 |
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2021.07.07(wed) 弘仁私記序[6] ▲ |
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【編年について】
書紀では、国常立尊(くにとこたてのみこと)から惶根尊(かしこねのみこと)までの間に七神の名がある。 「日本の一書」によれば、その期間が八千万億年だという。 「万億」という表記は、大数〔(一億)2=一兆という位取り法〕を用いた場合に現れる。一万億=一万×一億=1012であるから、 八千万億年=8×1015年である。なお、科学的には地球ができてから4.6×109年、ビッグバンからは1.3×1011年ぐらいと推定されている。 「緊切」は「差し迫って重要なさま」。「雖二古記一尚不二緊切一」は、 ある古書にあるにはあるが、重視するには及ばないという意味であろう。 《漢風諡号》 漢風諡号は既に用いられている時代であるが、〈弘仁序〉では割注を含めて使われていない。 書紀成立の時点では、まだ漢風諡号は存在しない。あくまでも書紀に対する研究であることにこだわったために、使用を避けたと思われる。 《抄三十巻勒為三巻》 「凡抄二三十巻一勒為二三巻一」 すなわち、書紀全体から一部を抜き出して訓を付して三巻とした。〈甲本〉とされる『日本紀私記』には、 「仁徳天皇」の右肩に「巻中」が小さく添え書きされ、用明天皇の前には大きく「巻下」とあるから、一応は三巻である。 但し、冒頭の表題「日本紀私記」に割注「今案依養老五年私記作之」〔今案(かむがふ)に養老五年〔721〕、私記之に作る〕とあり、 この割注をつけた校訂者の推定に従うなら、〈弘仁序〉と『日本紀私記』〈甲本〉本文は別の時期の物である。 養老五年は、最初の日本紀講延の年である。しかし〈国史大系〉は、弘仁私記の本体としている。 《庶後賢君子留情》 「庶後賢君子留レ情々察之云爾」の 「庶」が副詞「こひねがはくば」〔ほかに冀、希、尚〕であるのは疑いないだろう。 「君子」は、徳の高い人、学識のある人、君主に仕える高位の官僚などの意味で、皇帝には使わないようである。 よって「賢君子」は天皇を指していない。 すると、前半は「賢君子」=「後世出現する優秀な学者」が、「留レ情」=「書紀の研究に心を留めていただくことを願う」であろう。 「情察之云」の主語は〈弘仁序〉の筆者で、「私の心に、それを察する〔=夢見る〕と申し上げる」の意と見られる。 「之」は、「云二情察一」のVO倒置を示す。 つまりは「将来、優秀な学者の手によっての研究の一層の発展を望む」というのだが、やや不自然に感じられる。 それまでの文脈からは、「永久に天皇の御世が栄えますように」などの賛辞で締めくくることが予想されるからである。 《結び》 結びの中途半端さは、異様である。 例えば古事記の結びは、「并録三巻謹以献上 臣安萬侶 誠惶誠恐 頓首頓首 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶」となっている。 これに倣えば、 「并録三巻謹以献上 臣人長 誠惶誠恐 頓首頓首 弘仁十年〇月〇日 刑部少輔従五位下多朝臣人長」となる。 もちろんこの通りではないだろうが、これに類似した書式で日付と署名があったはずである。 恐らくは、失われたのであろう。 【庚申年・一千五百五十七歳問題】 《庚申:天皇生年説》 〈弘仁序〉は、「自二神倭天皇庚申年一。至二冷然聖主弘仁十年一」の期間を1557年とカウントしている。 割注は、その起点の「庚申」を神武天皇の生まれ年だと判断している。 〈神武紀〉には、 ①「及年卌五歳…太歳甲寅」。 ②「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年」。 ③「七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳」。 とあり、これらから神武の生年を求めることができる。なお、干支の数値表現の起点は甲子=0とする。 ●四十五歳=甲寅(50)から求めた生年:甲寅(50)-(45-1)=庚午(6) ●神武元年=辛酉(57)から求めた崩年: (辛酉(57)+76-1)mod 60=12 ∴神武七十六年=丙子(12)。 ●神武の崩年から生年を求める:丙子(12)+60×2-(127-1)=庚午(6) 従って、神武四十五歳の干支と、神武崩年の干支と間に矛盾はなく、どちらにしても「神武一歳」=庚午(6)である。 よって、割注の「庚申(56)天皇生年」は計算が合わない。 むしろ、神武元年=辛酉(57)に近い。辛酉なら天皇統治の起点だから一番合理的なはずだが、そこから一年遡らせて庚申とする意味をくみ取るのは難しい。 《御宇五十二帝》 現代の数え方でも、神武天皇から嵯峨天皇までは「五十二帝」である。 しかし、そのうち第39代「弘文天皇」(大友皇子)は明治になってから加えられたものである。 書紀はどう読んでも大友皇子は即位してないから、書紀に忠実なら「五十一帝」のはずである。 〈国史大系〉が〈甲本〉の一部とする『日本紀目録』には「日本紀三十巻」のところに「自二神武一迄二文武一四十代」〔返り点はサイト主〕と傍書されている。 書紀は持統天皇で終わり、文武はその次である。「文武」を「持統」の誤りだとすれば、「持統四十代」は正しい。 次項で述べるように「一千五百五十七歳」も誤りの可能性が高いので、数え間違いとするのが穏当と思われる。 ただ、平安時代には異説も広まっていたのも確かだと思われる。 『扶桑略記』を見ると、 大友皇子は天武天皇条に「〔天武〕元年。大友皇子既及二執政一。」 と執政したことを認めるが、天皇には数えていない。 一方、「神功天皇【第十五代】」、「飯豊天皇【第廿四代】」を天皇に加えている。 だから書紀では第三十九番目の天武天皇が、扶桑略記では「天武天皇【四十一代】」となるわけである。 よって嵯峨天皇は「五十三代」と書かれていたはずだが、肝心の嵯峨天皇の巻は欠けている。 ただ、嵯峨天皇の直前の平城天皇には「平城天皇【五十二代】」と書かれている。 『扶桑略記』は、堀川天皇を「今上皇帝」と表すから、堀川天皇の在位中〔1087~1107年〕の書と考えられる。 当時は、神功皇后・飯豊皇女を天皇に加える潮流が顕在化していたとも考えることができる。 もし天皇を追加するとすれば、その第一候補は飯豊皇女である。 〈顕宗即位前-清寧五年〉に「臨レ朝秉レ政。自二-称忍海飯豊青尊一。」、そしてその死は「崩」が使われているからである。 〔但し、日本武尊も崩である〕。 平安始めの810年の時点では、その途中経過としてまず飯豊皇女が天皇に加わっていたとすれば、 嵯峨天皇が第五十二代になり、一応筋は通る。 しかし、もしこの見方に従うなら『弘仁私記』においても、書紀を平安的な厚いフィルターを通して見ていたと考えざるを得ない。
この機会に、神武天皇以来の年数を書紀の太歳を繋いで追検した。 その結果、神武元年辛酉は、西暦で紀元前660年となった。 昭和15年〔1940〕には、「皇紀2600年」が盛大に祝われた。1940-2600+1=-659であるから、その計算は正しかったことになる。 参考のために、神武から嵯峨までの太歳表記と崩年〔または譲位の年〕から求めた開始年〔即位年とは限らない〕の表を示す(右)。 神武天皇元年から弘仁十年までは、通算819-(-599)+1=1479年となり、「1558年」とは一致しない。 起点を、神武天皇生年〔書紀〕の庚午(06)年としても1530年となり、やはり一致しない。 さらに、弘仁私記序が生年とする「庚申(56)」を使っても1540年となり、これも合わない。 仮に庚申(56)だとしても、弘仁十年(己亥(35))との間の年数を60で割ったときの剰余は40である。 ところが1557 mod 60=57だから、ある程度の知識があればすぐに誤りが判明したはずである。 数字の誤写ということも考えられないではないが、誤って「一千五百五十七」になる可能性は低いだろう。 あるいは、〈弘仁序〉全体を通してなかなか難しい字が用いられているのを見ると、本来なら大字を使って「壹阡伍佰伍拾漆歳」としたようにも思われる。 ことによると、「自神倭天皇庚申年」以下の部分は、別の人が俗説によって書き加えたものかも知れない。 弘仁の講の記録をまとめ終わったのが「弘仁五年」と、ここでいう「弘仁十年」には、五年の差がある。 この部分はその間に誰かが行ったいい加減な書き加えで、 問題となった「五十二代」、「庚申年」もそのいい加減さの故かも知れないのである。 仮に、この部分の記述を書紀に沿って正すなら、 誤:「神倭天皇庚申年至冷然聖主弘仁十年一千五百五十七歳御宇五十二帝」 正:「神倭天皇辛酉年至冷然聖主弘仁十年一千四百七十九歳御宇五十一帝」 となる。 【大意】 その第一第二の両巻は、語義が神代(かみよ)の言葉によるので古い性質のものが多い。 時代の特徴は、民(たみ)は淳(きよ)く〔純粋〕、言葉を今とは異にする。 授けられた〔=受け継ぐ〕人は、ややもすれば訛り、誤謬がありがちである。 「訛」(ぐわ)は、「化」(かわる)。 よって、倭の発音を以って言葉を弁別し、朱点を以って軽重を明らかにする。 凡そ三十巻から抄(ぬ)き出し、記して三巻とする。 天常立命(あまのとこたちのみこと)より 倭語に阿麻乃止己太知乃美己止(あまのとこたちのみこと)と言う。 畏根命(かしこみねのみこと)に至る、 倭語に加之古禰乃美己止(かしこねのみこと)と言う。 八千万億年、 日本の一書にはこの語句が有るが、ただ史官(しかん)〔史(ふひと)の官所〕にはなく、疑いに渉る。 これは古記といえども、なお緊切〔=重要〕ではない。 「緊切」〔なる熟語〕也(なり)。 伊諾命(いざなぎのみこと)より 天神、すなわち陽神(おがみ)である。倭語に伊左奈支乃美己止(いざなぎのみこと)と言う。 彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)まで、 天孫彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)の第一男。倭語に比古那支佐乃美己止(ひこなぎさのみこと)と言う。 史(ふひと)の司(つかさ)には歳次を備えず〔=歳次の資料がなく〕記さない。 但し、神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇〔神武〕の庚申年より 彦瀲尊の第四男。諱は狭野尊(さののみこと)。庚申は天皇の生年である。 冷然聖主〔嵯峨〕の弘仁十年まで、 一千五百五十七年間、五十二帝が統治なさってきた。 乞い願わくば、後世に賢君子が心に留めることを、心に想い見ると申すのみ。 まとめ 前段までは、解釈部分はともかくとして、基本的に十分実証的であった。 ところが、最後のところで突然怪しくなり、丁寧に読み進んできた者を落胆させる。 割注をみると、注釈を加える前の段階で既にこうなっていたようである。 「八千万億年」に確たる根拠はなく、重要ではないと本文で書いている。 それ以上に、「庚申年」は文脈では天皇の御宇の開始年であるから、神武の即位年の「辛酉」であるべきなのは明らかである。 校訂者も誤りであることはすぐに分かり、苦し紛れに「生年」と解釈したと思われるが、実際には生年でもない。 ことによると、〈弘仁序〉は本来「凡抄三十巻勒為三巻。」までで終えたのかも知れない。 「夫自天常立命」以下は他の人による書き足しで、内容の検証を怠り俗説を書き連ねたようにも思える。 さて、最後にあたって〈弘仁序〉全体を振り返ると、それは基本的に弘仁四年の「講」の報告書である。 書紀の成立に至る経過については、古事記からの流れに触れているところが注目される。 神代巻では、「神代語に古質多し、授受せし人動れば訛り謬つ」と述べ、上代語の探求が一大テーマであったことが知れる。 安万侶のスタッフによる古語研究は、古事記以来書紀の成立を挟んで連綿と続いていたと見られる。 書紀の倭読の出発点においても、太安万侶の業績は大きかったようである。その見解が多人長に引き継がれたと見られる。 なお、記紀以外の様々な書や諸族の「本系」についても取り上げ、全体に信ぴょう性を欠くが資料として役立ち得るというのがその評価である。 最終段の後半は、上で述べたように原書にあったかどうかが疑われるのが残念である。 |