上代語で読む日本書紀〔景行天皇1〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 古事記―景行天皇段

2016.06.02(thu) [07-01] 景行天皇紀1 
01目次 【大足彦忍代別天皇】
大足彥忍代別天皇、活目入彥五十狹茅天皇第三子也。
母皇后曰日葉洲媛命、丹波道主王之女也。
活目入彥五十狹茅天皇卅七年、立爲皇太子、時年廿一。
九十九年春二月、活目入彥五十狹茅天皇崩。
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)の第三(だいさむの)子(みこ)也(なり)。
母は皇后(おほみさき)、日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)と曰ひたまひ、丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)之(の)女(むすめ)也。
活目入彦五十狭茅天皇三十七年(みそとせあまりななとせ)、立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ、時に年(よはひ)二十一(はたちあまりひとつ)。
九十九年(ここのそとせあまりここのとせ)春二月(きさらぎ)、活目入彦五十狭茅天皇崩(ほうず、かむあがりたまふ)。
元年秋七月己巳朔己卯、太子卽天皇位、因以改元。
是年也、太歲辛未。
元年(はじめのとし)秋七月(ふみづき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔十一日〕、太子(ひつぎのみこ)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)き、因以(しかるがゆゑをもち)改元(かいぐゑむす、はじめのとしにあらたむ)。
是年(このとし)[也]、太歳(おほとし)辛未(かのとひつじ)。
《大意》
 大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)天皇は、活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇の第三子です。
母は皇后、御名は日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)で、丹波道主王(たんばのみちぬしのみこ)の娘です。
 活目入彦五十狭茅天皇三十七年に、立太子され、皇太子となられました。時に二十一歳でした。
 九十九年二月、活目入彦五十狭茅天皇は崩御されました。
 元年七月十一日、皇太子は天皇に即位され、よって改元しました。 太歳辛未です。


02目次 【即位】
二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬……〔続き〕


03目次 【熊襲親征】
《豊後国まで》
十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。
八月乙未朔己酉、幸筑紫。
九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。
時天皇南望之、詔群卿曰
「於南方烟氣多起、必賊將在。」
則留之、先遣多臣祖武諸木、
國前臣祖菟名手、物部君祖夏花、
令察其狀。
筑紫…(万)0866 都久紫能君仁波 つくしのくには
周芳…〈倭名類聚抄〉{周防【須波宇】
娑麼…〈倭名類聚抄〉{周防国・佐波【波音馬】郡〔さま〕
…(古訓) みる。つまひらかに。
十二年(ととせあまりふたとせ)秋七月(ふみづき)、熊襲(くまそ)反(そむ)きて[之]不朝貢(みつきたてまつらず)。
八月(はつき)乙未(きのとひつじ)朔己酉(つちのととり)〔十五日〕、筑紫(つくし)に幸(いでま)す。
九月(ながつき)甲子(きのえね)朔戊辰(つちのえたつ)〔五日〕、周芳(すはう)の娑麼(さま)に到ります。
時に天皇南(みなみ)に望み[之]、群卿(まへつきみたち)に詔(のたま)はく[曰]、
「[於]南方(みなみのかた)に烟気(けぶり)多(さは)に起(た)ち、必(かならずや)賊(あた)将在(あらむ)。」とのたまひ、
則(すなは)ち留(とど)め[之]、先(ま)づ多臣(おほのおみ)の祖(おや)武諸木(たけもろき)、
国前臣(くにさきのおみ)の祖菟名手(うなて)、物部君(もののべのきみ)の祖夏花(なつはな)を遣はし、
其の状(かたち)を令察(つまひらかにみさしむ)。
爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。
聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、
以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、
亦素幡樹于船舳、
參向而啓之曰
徒衆…〈丙本〉也加良〔やから〕
おほし(多し)…[形] (万)0220 彼此之 嶋者雖多 をちこちの しまはおほけど。 (万)0156 不寝夜叙多 いねぬよぞおほき
たける(梟帥、魁帥)…[名] 〈時代別上代〉威勢があって強い者の称。特に、地方に威をふるっていた異種族の長。
…[動] 耳を澄まして聞く。(古訓) きく。みみとし。
上枝・中枝・下枝第49回参照。
ふなへ(船舳)…[名] ふねのへさき。
しらはた(白幡、素幡)…[名] 降伏帰順を表す。
爰(ここに)女人(をみな)有り、神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰ひ、其の徒衆(ともがら)甚(いと)多(おほ)く、一国(あるくに)之(の)魁帥(たける)也(なり)。
天皇之使者(つかひ)至(いたる)と聆(き)き、[則ち]磯津山(いそつやま)之賢木(さかき)を抜き、
以(もちて)上枝(ほつえ)に八握剣(やつかのつるぎ)を挂(か)け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたのかがみ)を挂け、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を挂け、
亦(また)素幡(しらはた)を[于]船舳(ふなへ)に樹(た)て、
参向(まゐむか)ひて[而]啓(まをさく)[之曰]
「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。
唯有殘賊者、
一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。
二曰耳垂、殘賊貪婪、屢略人民、是居於御木
【木、此云開】川上。
三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。
四曰土折猪折、隱住於緑野川上、
獨恃山川之險、以多掠人民。
是四人也、其所據並要害之地、
故各領眷屬、爲一處之長也。
皆曰『不從皇命。』願急擊之。勿失。」
将帰徳矣…〈丙本〉【末宇氐志太加比奈牟】〔まうてしたかひなむ、参出従ひなむ〕
…(古訓) いつはり。みたり。
…(古訓) あまた。むらかる。いくさ。ふさく。
…(古訓) むさほる。
…[動] おかす(掠に当てた用法)。
…(古訓)かすむ。とる。むはう。
かすむ…[他]マ四 奪う。かすめとる。
…(古訓) くくる。ひそかに。
…(古訓) けはし。さかしき。
眷属…〈汉典〉①親人、家属。②夫婦。
ぬみぬま…[名] 要害。
菟狭川…現在の宇佐川は、駅館川(やっかんがわ)の別称。〈倭名類聚抄〉{豊前国・宇佐郡
「願(ねが)はくは兵(つはもの)を下(くだ)すこと無かれ。我之(わが)属(うがら)類(ともがら)、必ずや不有違(たがふことあらざれ)者(ば)、今(いま)将(まさ)に徳(のり)に帰(したが)はむとす[矣]。
唯(ただ)残る賊(あた)有者(あるは)、
一曰(ひとつ)鼻垂(はなたれ)、妄(みだりに)仮名(かりな)を号(なの)り、山谷(やまたに)に響(とよ)み聚(むらが)り、[於]菟狭(うさ)の川上(かはかみ)に屯(あつ)め結ぶ。
二曰(ふたつ)耳垂(みみたれ)、残(のこ)れる賊(あた)貪婪(むさぼ)り、屢(しばしば)人民(ひとくさ)を略(かす)め、是(これ)[於]御木(みけ)【木、此開(け)と云ふ】
の川上に居(を)り。
三曰(みつ)麻剥(をはぎ)、潜(ひそかに)徒党(ともがら)を聚(あつ)め、[於]高羽(たかは)の川上に居り。
四曰(よつ)土折猪折(つちをりゐをり)、[於]緑野(みどりの)川上(かはかみ)に隠れ住み、
独(ひとり)山川(やまかは)之(の)険(さがしき)を恃(たの)み、以(も)ちて多(さはに)人民(たみくさ)を掠(かす)む。
麻剥
 習慣的な訓の使用状況をネット上から調査した。
〈検索結果〉をはぎ:686件、あさはぎ:89件、まはぎ:38件。
 「をはぎ」は普通名詞で、収穫した麻の表皮を除く作業を意味する語。 「」の訓は、万葉集にはアサもある。
勿失
 〈丙本〉【奈宇志奈以玉ヒソ】〔なうしないたまひそ、=な失ひ賜ひそ〕
是の四人(よたり)は[也]、其の拠(よ)る所(ところ)要害(ぬみ、えうがい)之地(ところ)並(なら)び、
故(かれ)各(おのもおのも)眷属(うがら、けむぞく)を領(をさ)め、一処(ひとところ)之(の)長(をさ)を為す[也]。
皆(みな)曰(まをさ)く『皇(すめらみこと)の命(おほせこと)に不従(したがはず)。』とまをす。願(ねがはくは)急(すみやかに)之(こ)を撃ちたまへ。〔ときを〕勿失(なうせそ)。」とまをす。
於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。
仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令撝不服之三人。
乃率己衆而參來、悉捕誅之。
天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、
興行宮而居、故號其處曰京也。
( )付きの地名は、『風土記(下)』(角川ソフィア文庫)による推定。

冬十月、到碩田國。
其地形廣大亦麗、因名碩田也。【碩田、此云於保岐陀。】
到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長。
其聞天皇車駕而自奉迎之諮言
「茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟、
一曰靑、二曰白。
又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、
一曰打猨、二曰八田、三曰國摩侶。
是五人、並其爲人强力、亦衆類多之、
皆曰『不從皇命。』若强喚者、興兵距焉。」
天皇惡之、不得進行、卽留于來田見邑權興宮室而居之。
…(古訓) とも。ともから。
…(古訓) さしまねく。
さし…(接頭)〈時代別上代〉原義としてのサスが多少感じられるものもある。
豊前国…〈倭名類聚抄〉{豊前【止与久邇乃美知乃久知】国・京都【美夜古】郡
於是(ここに)、武諸木(たけもろき)等(ら)、先づ麻剥(をはぎ)之徒(ともがら)を誘(いざな)ふ。
仍(すなは)ち赤衣(あかごろも)、褌(はかま)及び種々(くさくさ)の奇(くすしき)物を賜はり、兼(か)ねて不服之(したがはざりし)三人(みたり)を撝(さしまね)か令む。
乃(すなはち)己(おのおのが)衆(ともがら)を率(ひきゐ)て[而]参来(まゐき)たれば、悉(ことごとく)捕へ[之]誅(ころ)したまひき。
天皇遂に筑紫に幸(いでま)し、豊前国(とよくにのみちのくちのくに)の長狭県(ながさあがた)に到り、
行宮(かりみや)を興(た)たして[而]居(ましまし)、故(かれ)其の処(ところ)を号(なづ)け京(みやこ)と曰ふ[也]。
碩田国…〈倭名類聚抄〉{豊後国・大分【於保伊多】郡
速見邑…〈豊後国風土記〉速見郡。此村有女人名曰速津媛~ 名曰速津媛国後人改曰速見郡
直入県…〈倭名類聚抄〉{豊後国・直入【奈保里】郡
禰疑野…禰疑野神社(大分県竹田市大字今506)は式外社。
…[動] へだたる。こばむ。(古訓) こゆ。ふせく。
…(古訓) あらし。はかり。
冬十月(かむなづき)、碩田国(おほきたのくに)に到る。
其の地(つち)の形(かたち)広くして大(おほ)し、亦(また)麗(うるは)し、因(しかるがゆゑに)名は碩田(おほきた)也(なり)。【碩田、此於保岐陀(おほきた)と云ふ。】
速見邑(はやみむら)に到り、女人(おみな)有り、速津媛(はやつひめ)と曰ひ、一処(あるところ)之長(をさ)を為す。
天皇(すめらみこと)車駕(いでます)と聞きて[而]自(みづか)ら迎[之](むかへ)を奉(たてまつ)り諮(まを)さく[言]
「茲(この)山に大(おほ)き石窟(いはや)有り、鼠(ねずみ)の石窟と曰ひ、二(ふたりの)土蜘蛛(つちぐも)有り、其の石窟に住むは、
一曰(いちいはく)青(あを)、二曰(にいはく)白(しろ)、
又[於]直入県(なほりのあがた)の祢疑野(ねぎの)に、三人(みたり)の土蜘蛛有り、
為人=ひととなり
 漢籍の「為人」も大体同じ意味。〈汉典〉「behave〔振る舞い〕。人的外表、形貌。」 和語の「ひととなり」は、その訓読に由来すると思われる。
来田見邑
 〈倭名類聚抄〉地名「くた~」はない。〈現代地名〉「くたみ」「くたに」があるが、大分県にはない。
是五人並其為人強力亦衆類多之
 豊後国風土記では「是五人並其為人強暴衆類亦多在」。 「多之」を「多在」と分かり易く直している。「強力」を「強暴」にするのも妥当である。「之」は形容詞「多」を動詞化する。 『豊後国風土記』は書紀の引用を含み、著者には相応の漢文の理解力があったことが察せられる。
一曰青二曰白
 豊後国風土記は「土蜘蛛住之其名曰青白」。 よって、書紀においては「一曰」「二曰」…は不読であったと思われる。編者の間では「ひとつ、」あるいは音読み「いち」を用いたか。
一曰(いちいはく)打猿(うちさる)、二曰(にいはく)八田(やた)、三曰(さむいはく)国摩侶(くにまろ)。
是の五人(いつたり)、並(なら)び其の為人(ひととなり)強力(つよし)、亦(また)衆類(ともがら)多之(あまたあり)、
皆曰(まをさく)『皇(すめらみこと)の命(おほせこと)に不従(したがひまつらず)。』とまをす。若し強(し)ひて喚(め)さ者(ば)、兵(いくさ)を興(あ)げ距(ふせ)がむ[焉]。」とまをす。
天皇之(これ)を悪(にく)み、不得進行(えすすみゆかず)、[即ち][于]来田見邑(くたみむら)に留まり、権(はか)らひて宮室(みやむろ)を興(おこ)して[而]居(まします)[之]。
仍與群臣議之曰
「今多動兵衆、以討土蜘蛛。
若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」
則採海石榴樹、作椎爲兵。
因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、
襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。
故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、
亦血流之處曰血田也。
…(古訓)揺:うこかす。揮:うこかす。
…(古訓) つふふし。
つぶなき(踝)…[名] くるぶし。「つぶふし」とも。
…[名] ざくろ。〈倭名類聚抄〉〔山榴〕【和名阿伊豆々之】〔あいつつじ〕
海石榴市・血田…〈豊後国風土記〉〔大野郡〕海石榴市・血田【並在郡南】 〈丙本〉採海石榴木【津波支乎止氐】〔つばきをとって〕
海石榴市(つばきち)…三輪山の南西の市。(万)2951 海石榴市之 八十衢尓 つばきちの やそのちまたに
…(古訓)ならのき。つち。
…[動] 〔簡=フダに辞令を書いて〕任命する。〈古訓〉ふた。えらふ。
仍(すなはち)群臣(まへつきたち)与(と)議(はかりたまはく)[之][曰]
「今多(さはに)兵衆(いくさひと)を動かし、以ちて土蜘蛛を討たむ。
若し其(それ)我が兵(いくさ)の勢(いきほひ)を畏(おそ)り、[将]山野(やまの)に隠れむとし、必ず後(のち)の愁(うれへ)と為(な)さむ。」とのたまふ。
則(すなは)ち海石榴(つばき)の樹(き)を採りて、椎(つち)を作り兵(つはもの)と為(す)。
因(しかるがゆゑに)猛(たけ)き卒(つはもの)を簡(えら)ひ、兵(いくさひと)に椎(つち)を授(さづ)け、以(も)ちて山を穿(うが)ちて草を排(ひら)かしめ、
石室の土蜘蛛を襲ひて[而][于]稲葉(いなば)の川上(かはかみ)に破り、悉(ことごと)く其の党(ともがら)を殺し、血流れ踝(つぶなき)に至る。
故(かれ)、時の人、其の海石榴(つばき)を椎(つち)に作りし[之]処(ところ)を海石榴市(つばきち)と曰ひ、
亦(また)血(ち)の流(ながれたる)[之]処(ところ)を血田(ちだ)と曰(い)ふ[也]。
復將討打猨、侄度禰疑山。
時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。
天皇、更返城原而卜於水上、
便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。
爰打猨謂不可勝而請服、
然不聽矣、皆自投澗谷而死之。
…①[名] 甥、姪。②[形] おろか。
…(古訓) よこさま。
よこしま…[名] ①横向きに水平なさま。②邪悪なさま。
みなうら…[名]〈時代別上代〉古代占法の一。その方法は詳しくはわからないが、縄などを使うものか。
…(古訓) あらたむ。きはむ。
…(古訓) いふ。おもふ。
…(古訓) したかふ。つかふ。
…(古訓) たに。たにの水。
復(また)[将]打猿を討たむとし、侄(ひたすら)祢疑山(ねぎのやま)に度(わた)る。
時に賊虜(あた)之矢、横(よこしまに)山自(よ)り射(い)、[於]官軍(すめらみくさ)の前(さき)に流れ雨の如し。
天皇、更に城原(きはら)に返りて[而][於]水上(みなかみ)に卜(うらな)ひ、
便(すなはち)兵(つはもの)を勒(あらた)め、先に[於]八田を祢疑野に撃ちて[而]破りたまふ。
爰(ここに)打猿、不可勝(えかちまつらず)と謂(おも)ひて[而]服(したがはむ)と請(ねが)ひまつり、
然(しかれども)不聴(ききたまはず)[矣]、皆自ら澗谷(たにのみづ)に投げて[而]死にす[之]。
天皇、初將討賊、次于柏峽大野。
其野有石、長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。
天皇祈之曰
「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」
因蹶之、則如柏上於大虛。
故、號其石曰蹈石也。
是時禱神、則志我神、直入物部神、直入中臣神三神矣。
…〈倭名類聚抄〉【和名加閉】〔かへ〕〈古訓〉かしは。
…[名] はざま。〈古訓〉山のかひ。
…[動] 宿営する。(古訓) つき。ならふ。やとる。
…(古訓) つまつきてたふる。ふむ。
踏石…〈丙本〉【保牟志】〔ほむし〕
ふむ…[他]マ四 踏む。ホムとも。 (万)3957 安佐尓波尓 伊泥多知奈良之 暮庭尓 敷美多比良氣受 あさにはに いでたちならし ゆふにはに ふみたひらげず 〔朝庭に出で立ち平し夕庭に踏み平らげず〕
天皇、初めに賊(あた)を将討(うたむとし)、[于]柏峡大野(かしはをのおほの)に次(やど)りたまふ。
其の野に石(いし)有り、長み六尺(むさか)、広み三尺(みさか)、厚み一尺五寸(ひとさかあまりいつき)なり。
天皇祈(いの)りたまはく[之][曰]
「朕(われ)土蜘蛛を得(え)滅(ほろぼ)したまは者(ば)、[将]茲(この)石を蹶(ふ)みて、柏葉(かしはば)の如くして[而]挙がらむ[焉]。」
因(しかるがゆゑに)[之を]蹶(ふ)みたまへば、則(すなはち)柏の如く於大虚(おほぞら)に上がりぬ。
故(かれ)、其の石を号け踏石(ふみし)と曰ふ[也]。
是の時祷(いの)りし神は、則(すなはち)志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりのもののべのかみ)、直入中臣神(なほりのなかとみのかみ)の三(みはしら)の神矣(なり)。
《侄度祢疑山》
〈学研新漢和辞典〉…①おい(甥)。②同世代の親戚や同輩の男の子。
〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉①甥、姪。②癡獃〔=痴呆〕的樣子。
〈諸橋大漢和〉①かたい。おろか(癡)。とどまる(侄仡)。虎の一種(侄獣)。②姪の俗字。
 「」は珍しい字で、一見「仍」〔すなはち〕の誤りに思える。しかし結論を急がず、まずはこの字のもともとの意味を確認してみる。 その意味は、主な辞書では右表の通りである。
 〈諸橋大漢和〉は、さらに『字彙』〔1615年〕巻末「醒誤」〔誤用しやすい字〕編からの引用として、 「姪、陳入声、兄弟之子、俗誤作侄、侄、音質、堅也。又、癡也。〔要するに「姪・堅・癡に誤用される」〕と書く。
 〈諸橋大漢和〉は、甥・姪以外の意味を載せている。そのうち、「侄仡」の「仡」は「仡立」〔きつりつ=屹立、決然と立つ〕などに使われる。 「侄仡」の意味は「とどまる」とされるが、「侄」単独では「とどまる」意味はなさそうである。 「侄」を姪として使うのは誤用とされるが、姪の意味を広げるために人偏に変えたという理解の仕方もあるようである。ただし、姪はもともと男子(おい)を含み、女偏は、「叔母・叔母」との関係性を表す。 意味を広げるとは、叔父・伯父の子まで含めるということである。
 次に「かたし」は一般の漢和辞典には採用されていないが、「堅し」は「屹立」する姿に通じ、また「かたくなさ」として「愚か」に通じ、さらに揺るぎない猛獣の姿にも通ずるから、一定の説得力がある。
 ここでは「甥」は勿論ありえず※※、「祢疑山に渡る」を連用修飾する副詞だから、戦いに決然と向かう姿を表す語として「かたく」と訓むことは可能である。 またその様子を「ひたすら」などと意訳することもできよう。 あるいは「便」を、「都合よく」という意味を暗に込めて「すなはち」と訓読することに倣えば、 「侄」にも「決然と」の意味を暗に込めて「すなはち」と訓むことも許されるかも知れない。
…『大漢和辞典』(大修館書店。1955~1990)
※※…垂仁天皇の系図には、景行天皇の兄弟の子は示されていない(第116回)。
《素旗》
 後世、源氏が白旗を掲げて戦ったように、白旗は様々の勢力の旗として用いられた。
 それとは別に、白旗は降伏の表現に用いられた。 <wikipedia>『常陸国風土記』の行方郡のくだりには、降伏の意図で「白幡」をかがけた</wikipedia>というので確認すると、原文は以下の通りである。
寸津毘古きつひこ天皇之いでまし背化そむきてなし粛敬ここにぬき御剣 登時すぐさま斬滅。於是ここに寸津毘売きつひめ懼悚おそりうれへておもてにあげ白幡道奉拝。
 〔キツヒコは天皇の命を違え、背いて全く敬わなかったので殺された。キツヒメは恐ろしくなり、白旗を高々と掲げて道に迎え拝みまつった。〕
 この時代の文献から白旗の意味が、現代の我々に違和感なく伝わってくることは興味深い。 思い起こされるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦における『白旗の少女』の実話である。命を失うかどうかのぎりぎりの局面で、 降伏を敵に明確に伝える行為は極めて重い。 限界状況における白旗は、人類に備わったほとんど先天的な意思表示法であろう。
《豊前国の地名》
 周防国佐波(さば)郡は、現防府市と、山口市の東部。次に豊前国京都郡は、現在は福岡県東部行橋市付近。 神夏磯媛が船でやってきたことから見て、豊前国までは海路を用いたと考えられる。 菟狭川・御木・高羽川のうち、菟狭川が宇佐川であることはほぼ確かだが、他の三川と現代河川名との対応は不明である。
《豊前国の四族の制圧》
 四族はいずれも山中に籠り要害の地を拠点とし、その攻略は容易ではない。 一計を案じて、まず麻剥を一本釣りして勧誘し、贈り物を与えて信用させ、残りの三族も優遇するから連れてこいと言って誘い出した。 誘いに乗って一族を連れて来たところを一気に殺した。 強敵と戦うとき、一部を懐柔して突破口とする手法は、現代の国際・国内政治でも普通に見られる。
 その間、天皇は周防国佐波郡で待機し、結果を見届けた後に渡海し、豊前国京都郡に行宮を設置した。 京都郡から宇佐郡までは相当離れているから、「京」の地名譚は語呂によって観念的に作られた印象である。
《神夏磯媛・速津媛》
 女性の首長が山間部の諸族を束ねているようすから、古代はそのような社会制度であったかと思わせる。 記紀の時代にも太古の部族社会の記憶が、大国主伝説の高志国の女王・沼河比売などの伝説として残っていたと見られる。
 神武即位前の、名草戸畔、丹敷戸畔も女性首長であった第97回)。 中央から離れた地域では、まだ弥生時代の社会制度が残っていたという見方もできるが、 神武東征で使われなかった素材がまだあり、初めてここで使われたとも考えられる。
《柏峡》
 豊後国風土記によれば「直入郡」に、柏原郷宮處郷の二郷がある。 しかし〈倭名類聚抄〉{豊後国・直入郡}にあるのは{三宅郷/直入郷/三宅郷}で、柏原郷はない。
 現代地名としては、柏尾(かしわお)が岐阜県など3か所にある。「柏峯(を)」の意味か。 峡は「はざま」で、古訓にも「を」はない。「峡」を「を」と訓む根拠はなかなか見つからないが、少なくとも現代では、そう訓まれている。
《次于柏峽大野》
 「」については、歳次(もともと木星が位置する星座)を「ほしのやどり」と訓む例がある。「席次」は「歳次」と同様の使い方。 「滞在」を意味する「次」は、万葉集には一例ある。(万)1292 江林 次完也物 えばやしに やどるししやも〔江林=海岸沿いの林。完は宍の誤用で、イノシシ・シカ〕。 これ以外は「宿」が使われている。また「次」には、軍隊の宿営の意味もある。ここでは皇軍の軍事行動中だから、これに該当する。
 一方、『豊後国風土記』は、この部分を「幸于柏峽大野」としている。この方が一般には分かり易いだろう。 これは風土記による置き換えと思われるが、当時の書紀の写本に「幸」とするものがあったのかも知れない。
《志我神・直入物部神・直入中臣神》
志我神…志加若宮神社(大分県豊後大野市朝地町宮生2)の主祭神。
直入物部神…籾山八幡社(大分県竹田市直入町大字長湯8352)の主祭神。
直入中臣神…直入中臣神社(大分県由布市庄内町阿蘇野3784)の主祭神。社殿横に踏石(ほみし)がある。
 これらの三神のうち二神に「直入」の地名がつくことから、書紀編纂の時点で直入郡のどこかに実際に祭られていたと思われる。 現在、右の三社がこれらの神を主祭神としているが、何れも式外社である。 このように割り振られたのは、近代であろう。江戸時代から明治にかけて、神社から仏教の要素を排除して書紀や神名帳と対応させるべく、各地で神社の祭神・名称の再定義が行われた。
 『釈日本紀』巻十述義六は、神名帳から{筑前国/糟屋郡/志加海神社三社【並名神大】}を見出しているが、 豊後国とは離れすぎている。ただ、神が勧請されて他の土地に同名の神社ができることは珍しくない。
《日向国へ》
十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。
十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。
於是、天皇詔群卿曰
「朕聞之、襲國有厚鹿文、迮鹿文者、
是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。
是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、
少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。
何不假鋒刃之威、坐平其國。」
日向国…〈倭名類聚抄〉{日向【比宇加】}
厚鹿文迮鹿文…〈甲本〉厚鹿文【アツカヤ】。迮鹿文【サカヤ】。文の古訓アヤがカと融合している。
高屋宮…宮崎県に高屋神社が二社(《豊国別皇子》)。
たふ(遮ふ、勝ふ)…[他]ハ下二 さえぎる。こらえる。
ずて…「」の連用形+接続助詞「」。(万)0130 丹生乃河 瀬者不渡而 にふのかは せはわたらずて。「~ずて」が「~で」になるのは平安時代。
十一月(しもつき)、日向国(ひむかのくに)に到り、行宮(かりみや)を起(た)たし以ちて居(ましまし)[之]、是(これ)高屋宮と謂ふ。
十二月(しはす)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)とし丁酉(ひのととり)〔五日〕、熊襲(くまそ)を討たむことを議(はか)りたまふ。
於是(ここに)、天皇群卿(まへつきみたち)に詔(の)りたまはく[曰]
「朕(われ)聞(ききたまはく)[之]、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(せかや)有る者(は)、
是の両人(ふたり)熊襲(くまそ)之(の)渠帥(たける)なれ者(ば)[也]、衆類(ともがら)甚(いと)多(おほ)しとききたまふ。
是(ここに)謂(おもへらく)、熊襲(くまそ)の八十梟帥(やそたける)、其の鋒(ほこ)不可当(あつべからず)[焉]、
少(すくなく)師(いくさ)を興すは、則(すなはち)賊(あた)を滅ぼすこと不堪(たへず)、多(さはに)兵(いくさ)を動すは、是(これ)百姓(あをひとくさ)之(の)害(そこなふること)なりとおもふ。
何(いか)にや鋒(ほこ)の刃之(の)威(おそり)を不仮(からずて)、其の国を平(たひ)らげ坐(まさ)む。」
時有一臣進曰
「熊襲梟帥有二女、
兄曰市乾鹿文【乾、此云賦】、弟曰市鹿文、
容既端正、心且雄武。
宜示重幣以撝納麾下。
因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」
天皇詔「可也。」
…(古訓) かほかたち。
端正…(万)1738 其姿之 端正尓 そのかほの きらきらしきに
麾下(きか)…大将の指揮下にあること。将軍直々の家来。
やぶる(破る)…[自]ラ下ニ 負ける。
ちぬる(血塗る)…[自]ラ四 刃を血で染める。
…(古訓) よし。ゆるす。
重幣(ちゅうへい)…手厚い贈り物。〈丙本〉示重幣【末比奈比弖美世玉ヒテ】〔賂て見せ賜ひて〕
おもと(御座)…[名] 高貴な人のもと。
時に一臣(あるおみ)有り進(まをさく)[曰]
「熊襲(くまそ)梟帥(たける)に二(ふたり)の女(むすめ)有り、
兄(あね)は市乾鹿文(いちふかや)【乾、此賦(ふ)と云ふ】と曰ひ、弟(おと)は市鹿文(いちかや)と曰ひ、
容(かほかたち)既に端正(きらきらしき、たむせい)にして、心且(また)雄武(たけし)。
宜(よろし)く重き幣(まひなひ)を示(み)せたまひて、以ちて撝(さしまね)きて麾下(おもと)に納(をさ)めませ。
因(かくなるゆゑ)を以ちて其の消息(ゆくへ)を伺(うかが)へば、不意之処(おもはざるところ)を犯(をか)し、則(すなはち)会(あへて)刃(は)を不血(ちぬらず)て、賊(あた)必ず自ら敗れむ。」とまをしき。
天皇詔たまはく「可(ゆるし)たまふ[也]。」とのたまふ。
於是、示幣欺其二女而納幕下。
天皇則通市乾鹿文而陽寵、
時市乾鹿文奏于天皇曰
「無愁熊襲之不服。妾有良謀、
卽令從一二兵於己。」
而返家、以多設醇酒令飲己父、
乃醉而寐之。
市乾鹿文、密斷父弦、
爰從兵一人進殺熊襲梟帥。
天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、
仍以弟市鹿文賜於火國造。
…(古訓) あざむく。いつはる。
(緒、弦)…[名] 糸。細く長く絶えずに続くものの比喩。
…[名] 水で薄めないもとの濃い酒。[形]①まじりけのない。②あつ(厚)い。(古訓) あつし。さけ。
醇酒…〈丙本〉【加良支左介】〔からきさけ〕。アルコール濃度が高いから「辛い」。 〈倭名類聚抄〉【日本紀私記云醇酒加太佐介かたさけ】厚酒也。 厚酒に訓がないのは、普通の訓(あつさけ、あつきさけ)だからであろう。
於是(ここに)、幣(まひなひ)を示(み)せ、其の二(ふたり)の女(むすめ)を欺きて[而]幕下(おもと)に納(をさ)めり。
天皇[則(すはなち)]市乾鹿文に通ひて[而]陽(いつは)りて寵(め)で、
時に市乾鹿文[于]天皇に奏(まを)さく[曰]
「熊襲之(の)不服(したがはざる)を愁(うれ)ふること無かれ。妾(われ)に良き謀(はかりごと)有り、
即ち一(ひとり)二(ふたり)の兵(つはもの)を[於]己(われ)に令従(したがはしめたまへ)。」
とまをして[而]家(いへ)に返り、以ちて多(さはに)醇酒(あつさけ)を設(まう)けて己(おのが)父に飲ま令めて、
乃(すなはち)醉(ゑひ)て[而]寐(いね)き[之]。
市乾鹿文、密(ひそかに)父の弦(を)を断ち、
爰(ここに)従(したが)ひし兵(つはもの)一人を進め熊襲梟帥(たける)を殺さしむ。
天皇、則(すなはち)其の不孝(こうならざる、うやまはざる)こと之(の)甚(はなはだしみ)を悪(にく)みて[而]市乾鹿文を誅(ころ)し、
仍(すなはち)弟(おと)市鹿文を以ちて[於]火国造(ひのくにのみやつこ)を賜はる。
《醇酒》
 熊襲梟帥の名、アツカヤ・サカヤは、物語の「醇酒=あつさけ」に因んだ名前かも知れない。 登場人物の名は、しばしば物語の内容に関連している。例えば、神武即位前紀で、高倉下(たかくらじ)という人物は、庫裏(高倉の下)に剣があるのを見つけた。 私記の「からきさけ」「かたさけ」という訓は、そこまでは意識をしていないようだ。
《儒教的道徳観》
 「断父弦」の意味は、「父との絆を断つ」である。 そのように決断して娘は父を殺したが、その行為は罰せられるべきものであった。 ここから忠よりも孝を優先するのが、書紀の道徳観であることが分かり、興味深い。
 「」の古訓に「うやまふ」「たかし」「かしこまる」があるが、どれも、忠孝思想における「孝」を表現するには不十分である。 この文中では「うやまふ」でも通じるが、それでも徳目としての「孝」は表現しきれないから、音読みが適切だろう。
《火国造》
 女性が国造になったのは興味深い。これも、古くは女性首長の社会であったことの反映かと思われる。 しかし、どの名前にも「鹿文」がついて似通っている。また、女性名なのに「」がつかない。原型は弟が兄を誅して服従するという定型通りだったのかも知れない。 なお〈国造本紀〉では、「火国造。瑞籬朝、大分国造同祖志貴多奈彦命児、遅男江命、定賜国造。」とあり、 志貴多奈彦命の男子、遅男江命が火国造の祖となっている。
《物語の特徴》
 厚鹿文・迮鹿文の兄弟が首領であるから、弟が天皇に服従して兄を誅すといういつものパターンかというと、 ここでは趣が違う。  登場するのは熊襲梟帥の二人の娘だが、兄弟のどちらの娘かは、不明。 熊襲梟帥をおびき出すために娘を誘拐したが、おびき出す前に姉は勝手な判断で父を謀殺してしまう。
 それでも厚鹿文・迮鹿文のどちらかが生き残っているはずだが、話はこれっきりで後のことは分からない。
 結末の定型としては、妹が妃として納められるはずだが、火国造として送られる。これも異例である。 娘が父を謀殺するところはインパクトがあって面白いが、話の筋そのものにはいくつかの疑問が残る。
《大意》
 十二年七月、熊襲(くまそ)は背き、朝貢しませんでした。
 八月十五日、筑紫(ちくし)に出陣しました。
 九月五日、周防(すおう)国の娑波に到着しました。 時に天皇は南方を望み、側近たちに、 「南方に煙が多数立ち上るから、敵がいるだろう。」と仰り、 直ちに一行を留め、まず、多(おお)臣(おみ)の先祖の武諸木(たけもろき)、国前(くにさき)臣の先祖の菟名手(うなて)、物部君(もののべきみ)の先祖の夏花(なつはな)を遣わし、 その様子を観察させました。
 ここに女人がおり名前を神夏磯媛(かむなつそひめ)といい、その配下の者たちの数は非常に多く、一国の首領です。 天皇の使者が到来したと聞き、磯津山(いそつやま)の榊を抜き、 上枝(ほつえ)に八握剣(やつかのつるぎ)を懸け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を懸け、 さらに白旗を舳先(へさき)に立て、 参上してこう申し上げました。
「願わくば、皇軍を差し向けられませぬように。私の仲間は絶対に背くことはないので、これから天皇の徳に帰順いたします。 ただ敵対する者がまだおり、 一つ、鼻垂(はなたれ)は、勝手に名を賜ったと称し、山谷に騒ぎ群がり、菟狭(うさ)川の川上(かはかみ)に仲間を集めており、 二つ、耳垂(みみたれ)は、その他の敵を漁って集め、しばしば民を略奪し、御木(みけ)川の川上におり、 三つ、麻剥(をはぎ)は、密かに徒党を集め、高羽川の川上におり、 四つ、土折猪折(つちおりいおり)は、緑野川の川上に隠れ住み、ひとり山川の険しさを頼りに、多数の民を掠奪しております。
 この四人は、その拠点は要害の地が並び、よって各々が眷属(けんぞく)〔一族〕を治め、その地の長(おさ)となっています。 皆は、『皇命(おうめい)に従わず。』と申しております。願わくば、速やかに彼らをお撃ちください。時を失ってはなりませぬ」と。
 そこで、武諸木(たけもろき)らは、まず麻剥の勢力を勧誘しました。 すなわち、赤衣(あかごろも)、袴をはじめ、種々の珍しい物を与えられ、かねて従わずにいた三人を差し招かせました。 そこで、各々の勢力を率いて参上したところ、悉く捕えられ殺されました。
 天皇は遂に筑紫に出でまし、豊前国(とよくにのみちのくちのくに)の長狭県(ながさあがた)に到り、 行宮を立てて滞在され、よってその所を名付けて京(みやこ)といいます。
 十月、碩田国(おほきたのくに)に到りました。 その地形は広大でまた麗しく、よって名を碩田(おおきた)と言います。
 速見邑(はやみむら)に到り、女人がおり名前を速津媛(はやつひめ)といい、一定の土地の長(おさ)です。 天皇がいらっしゃったと聞き、自らお迎えしてこう申し上げました。
「この山に大きな石窟(いわや)があり、その名を鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛(つちぐも)がおり、その石窟に住んでおりまして、 一人目は青、二人目は白と言います。 また、直入県(なおいりのあがた)の祢疑野(ねぎの)に、三人の土蜘蛛がおり、 一人目は打猿(うちざる)、二人目は八田(やた)、三人目は国摩侶(くにまろ)といいます。
 この五人は、揃ってその為人(ひととなり)は強暴で、また、大勢力です。 皆『皇命には従いませぬ。』と申します。もし強いて召喚すれば、兵を挙げて対抗するでしょう。」と。
 天皇はこれは具合が悪いと思われ、それ以上進行できず、来田見邑(くたみむら)に留まり考えた結果、ひとまず宮室(みやむろ)を立てて滞在されました。 そして側近の者に議り、
「今多くの兵どもを動かして、土蜘蛛を討ちたい。 もし、我が兵の勢いを恐れれば、山野に隠れるであろう。これは必ず後の憂いとなる。」と仰りました。
 そこで、海石榴(つばき)の樹を採り、石椎棒(いしづちぼう)を作り武器としました。 そして、勇猛な兵士を選び、武器としてに石椎棒を授け、山に穴を掘り、草を開かせ、 石室の土蜘蛛を襲って稲葉川の川上に破り、悉くその勢力を殺し、血が流れ踝(くるぶし)に達しました。 そこで、時の人はその海石榴(つばき)を石椎棒に作った場所を海石榴市(つばきち)といい、 また血が流れた処(ところ)を血田(ちだ)といいます。
 さらに打猿を討つために、ひたすら祢疑山(ねぎやま)に渡りました。 その時、敵の矢が山から横に射られ、官軍の行く先に流れ雨の如きでした。 天皇は、再び城原(きはら)に戻って上流で占い、 兵の体制を整え、先に八田を祢疑野で撃ち破りました。 その結果、打猿はもう勝てないと思い、服属を請うたのですが 聞き入れられず、皆、谷に自ら身を投じて死にました。
 天皇が、初めに敵を討とうとしたとき、柏峡大野(かしはをのおほの)に宿営されました。 そこに長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の石がありました。 天皇はこのように祈られました。
「もし朕(ちん)が土蜘蛛を滅し得るなら、この石を踏みつければ、柏葉ように舞い上がるであろう。」
 そのように踏みなされたところ、柏葉のように大空に上がりました。 よって、その石は踏石(ふみし)と名付けられました。
 この時祈った神は、志我(しが)神、直入の物部神、直入の中臣神の三柱の神です。
 十一月、日向(ひむか)国に到り、行宮を建てて滞在され、これを高屋宮といいます。
 十二月五日、熊襲(くまそ)を討つ計画を議られました。 そのとき、天皇は側近にこう仰りました。
「朕が聞くには、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(せかや)がおり、 この二人は熊襲(くまそ)の魁帥で、その勢力はとても多い。 そこで思うに、熊襲の勢力と鋒(ほこ)を交えてはならぬ、 少ない軍勢では、敵を滅ぼしきれず、多くの軍勢を動すと、民を害することになってしまうと思う。 どうしたら鋒の刃の威力を借りずに、この国を平定することができるか。」と。
 その時、一人の臣が進言しました。
「熊襲梟帥(くまそたける)に二人の娘がおり、 姉は市乾鹿文(いちふかや)、妹は市鹿文(いちかや)といい、 容姿は既に端正にして、心はまた雄々しい者たちです。
 よろしければ厚い賂(まいない)を示して差し招き、麾下(きか)に納めなさいませ。 そうすれば、熊襲梟帥はその消息を求め、思わぬところまで来てしまい、よって敢えて刃を血で染めずして敵は必ず自ら敗れるでしょう。」と。
 天皇は「そのようにせよ。」と仰りました。
 ここに賂を示し、その二人の娘を欺いて幕下に納めました。 天皇は市乾鹿文のところに通い偽って愛で、 ある時、市乾鹿文は天皇に申し上げました。
「熊襲が服さないことを憂うることはありません。わらわに良い謀(はかりごと)がございます。 一人か二人の兵士を私に従わせてください。」
 このように申し上げて実家に帰り、大量の醇酒(じゅんしゅ)〔濃い酒〕を用意し自らの父に飲ませ、 父は醉って寝入りました。
 市乾鹿文は密かに父との緒を断ち、 従ってきた兵士一人に指示して熊襲梟帥を殺させました。
 天皇は、その不孝の甚しきを憎み市乾鹿文を誅殺し、 妹の市鹿文に火国造(ひのくにのみやつこ)を賜りました。


まとめ
 景行天皇が親征してみたら、豊前・豊後は女性の首長を戴く古代的な社会であった。 まるで、神武天皇の即位前に戻ったかのようである。
 物語自体については、はじめは神夏磯媛の船に立てた榊に幣帛が懸けられた様子などを、細かく書き込んでいる。 しかし、市乾鹿文による父の謀殺の辺りまで来ると、筋が荒くなっている。 このように、次第に雑になっていく印象を受ける。
 物語の舞台については、直入郡内の戦いは地名に現実感があるが、それ以外は漠然としている。
 これらの特徴は、後から親征を、作為的に盛り込んだ結果かも知れない。 書紀では、この地方の制圧は国の形成における重要なトピックだから、記のように日本武尊に任せきりにせず、天皇主導の事績にすべきだと考えたのだろう。 そのために、素材となる伝承を集めたが、あまり芳しくないものも混ざっている印象である。
 それでも、纏向政権が九州に侵攻して支配域を広げた歴史的事実は、間違いなく存在した。 だから、たとえ天皇親征自体はフィクションであっても、政権軍と土着勢力との間にさまざまな戦闘は存在し、 そのいくつかの言い伝えが素材となったと想像することができる。
 ただ女性首長制の古い社会も描かれるので、神武東征からこぼれた話も紛れ込んだのかも知れない。


2016.06.10(fri) [07-02] 景行天皇紀2 
04目次 【豊国別皇子】
十三年夏五月、悉平襲國……〔続き〕


05目次 【日向国】
《日向国から火国まで》
十七年春三月戊戌朔己酉、
幸子湯縣、遊于丹裳小野、
時東望之謂左右曰
「是國也直向於日出方。」
故號其國曰日向也。
是日、陟野中大石、
憶京都而歌之曰、
子湯県…〈倭名類聚抄〉{日向国・児湯【古由国府】郡〔こゆのこほり、国府所在地〕
丹裳小野…〈太宰管内志〉(伊藤常足、1841)「日向国人云、丹裳ノ小野は三宅村ノ内なり」。 三宅村⇒(1889合併)下穂北村⇒1995西都町⇒1889西都市
…(古訓) のほる。すすむ。たかし。
(野)…[名] 〈時代別上代〉広々とした野原はハラといい、ノは山裾のゆるい傾斜地などをいったようである。
十七年(ととせあまりななとせ)春三月(やよひ)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔十二日〕、
子湯県(こゆのあがた)に幸(いでま)し、[于]丹裳小野(にものをの)に遊ばし、
時に東(ひむかし)に[之]望み左右(もとこ)に謂(のたまはく)[曰]
「是の国は[也][於]日出づる方(かた)に直(ひた)向かふ。」とのたまふ。
故(かれ)其の国を号(なづ)け日向(ひむか)と曰ふ[也]。
是の日、野を陟(のぼ)り大石(おほいし)に中(あた)り、
京都(みやこ)を憶(おも)ひて[而]歌(うたよみたまはく)[之][曰]、
波辭枳豫辭和藝幣能伽多由
區毛位多知區暮
夜摩苔波區珥能摩倍邏摩
多々儺豆久阿烏伽枳
夜摩許莽例屢夜摩苔之于屢破試
異能知能摩曾祁務比苔破
多々瀰許莽幣愚利能夜摩能
志邏伽之餓延塢于受珥左勢許能固
はしきやし・はしきよし…いとおしい。「我家」「妹」などにかかる慣用的形容句。
わぎへ…わがいへ(我が家)の約。
まほろま…[名] すぐれてよい所。まほろばとも。
たたなづく…[枕] 青垣(山)にかかる。
まそし(雅し)…[形] 「正しい」か。
たたみこも(畳薦)…[枕] 幾重にも重なる意味。「へ(重)」で始まる語、「かさ(重)ぬ」にかかる。
うず(髻華)…[名] 頭髪や冠にさす飾り。花や枝葉、金銀の細工など。
波辞枳予辞(はしきよし)和芸幣能伽多由(わぎへのかたゆ)
区毛位多知区暮(くもゐたちくも)
夜摩苔波(やまとは)区珥能摩倍邏摩(くにのまほらま)
多々儺豆久(たたなづく)阿烏伽枳(あをかき)
夜摩許莽例屢(やまごもれる)夜摩苔之于屢破試(やまとしうるはし)
異能知能(いのちの)摩曽祁務比苔破(まそけむひとは)
多々瀰許莽(たたみこも)幣愚利能夜摩能(へぐりのやまの)
志邏伽之餓延塢(しらかしがえを)于受珥左勢(うずにさせ)許能固(このこ)
是謂思邦歌也。
思邦歌…〈丙本〉【久爾須乃比宇太】〔くにすのひうた〕「国忍び(くにしのび)歌」か。
是(これ)謂(い)はく思邦歌(くにしのひうた)といふ[也]。
十八年春三月、天皇將向京、
以巡狩筑紫國。
始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、
於是天皇遙望之、詔左右曰
「其集者何人也、若賊乎。」
乃遣兄夷守、弟夷守二人令覩。
乃弟夷守、還來而諮之曰
「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」
…(古訓) むらかる。あまた。もろもろ。
巡狩…天子が諸国を回り、視察すること。
巡狩(じゅんしゅ)…〈丙本〉【女久里美曽奈波須】〔めくりみそなはす〕
みそなはす(見そなはす)…[他]サ四 見るの尊敬語。「見-具ふ」の尊敬体か。
石瀬河…岩瀬川が、宮崎県小林市~熊本県球磨郡あさぎり町。
…[動] みる。視線を集めて見る。
…(古訓) あつまる。あふ。
諸県…〈倭名類聚抄〉{日向国・諸県【牟良加多】郡〔むらかたのこほり〕
あへ(饗、食)…[名] もてなしの食事。
十八年(ととせあまりやとせ)春三月(やよひ)、天皇京(みやこ)に将向(むかはむとし)、
以(も)ちて筑紫国(つくしのくに)を巡狩(めぐりめします)。
始めに夷守(ひなもり)に到り、是の時、[於]石瀬河辺(いはせのかはへ)に人(ひと)衆(あまた)聚集(あつまり)、
於是(ここに)天皇遙(はるか)に望み[之]、左右(もとこ)に詔(のたまはく)[曰]
「其の集まれる者(ひとども)は何人(なにびと)なる也(や)、若(もしや)賊(あた)乎(か)。」とのたまひ、
乃(すなはち)兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の二人を遣はし覩(み)令(し)む。
乃弟夷守、還来(かへりまゐき)て[而]諮(まをさく)[之][曰]
「諸県(むらかた)の君(きみ)泉媛(いづみひめ)、大御食(おほあへ)を献(まつ)らむとするに依(よ)りて[而]其の族(うがら)会(あつま)れり[之]。」とまをす。
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。
其處有熊津彥者、兄弟二人。
天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。
因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。
壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、
時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。
適是時、嶋中無水、不知所爲、
則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、
乃酌以獻焉。
故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。
熊県…〈倭名類聚抄〉{肥後【比乃美知乃之利】国・球麻【久万】郡〔ひのみちのしりのくに・くまのこほり〕
葦北小嶋…(現代地名)熊本県葦北郡芦北町波多島小島。 〈倭名類聚抄〉{肥後国・葦北【阿之木多】郡・葦北郷〔あしきた〕
小嶋…文脈から地名ではなく、普通名詞「小さな島」である。
…(古訓) きよし。さむし。すすし。ひややかなり。
冷水…〈丙本〉【左牟支美毛比】〔さむきみもひ〕
…(古訓) かなふ。あたる。まさに。たまたま。
…(古訓) いのる。ねかはくは。
寒泉…〈丙本〉【志美〝津】〔しみづ〕
しみづ(清水、寒泉)…[名] 清水。 〈時代別上代〉スミヅとも。どちらの語形が古いかは未詳。
…(古訓) きし。ほとり。
きし(岸、崖)…[名] がけ。水際の断崖。
水嶋…(現代地名)熊本県八代市水島町。球磨川の南。
夏四月(うづき)壬戌(みづのえいぬ)朔甲子(きのえね)〔三日〕、熊県(くまあがた)に到る。
其の処(ところ)に熊津彦(くまつひこ)有る者(は)、兄弟(はらがら)の二人なり。
天皇、先(ま)ず使兄熊(えくま)を徴(め)さ使(し)め、[則(すなはち)]使(つかひ)に従ひ詣(まゐづ)[之]。
因(よりて)弟熊(おとくま)を徴し、而(しかれども)不来(まゐこず)、故(かれ)兵(つはもの)を遣はし誅(ころ)したまふ[之]。
壬申(みづのえさる)〔十一日〕、海路(うみぢ)自(よ)り[於]葦北(あしきた)の小嶋(をじま)に泊(と)まりて[而]食(みけ)を進めたまひ、
時に山部(やまのべ)の阿弭古(あびこ)之祖(おや)小左(をひだり)を召し、冷水(さむきみもひ)を進め令む。
適(まさに)是の時、嶋の中に水(みもひ)無く、所為(なさむこと)を不知(しらず)、
[則(すなはち)]仰(あふ)ぎて[之][于]天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)に祈(ねが)ひ、忽(たちまちに)寒泉(しみづ)崖(きし)の傍(ほとり)従(よ)り涌出(わきいで)、
乃(すなはち)酌(く)み以ちて献(まつ)りぬ[焉]。
故(かれ)其の嶋を号(なづ)けて水嶋(みづしま)と曰ふ[也]、其の泉猶(なほ)今に水嶋の崖(きし)に在り[也]。
五月壬辰朔、從葦北發船到火國。
於是日沒也、夜冥不知著岸。
遙視火光、天皇詔挾杪者曰「直指火處。」
因指火往之、卽得著岸。
天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」
國人對曰「是八代縣豐村。」
亦尋其火「是誰人之火也。」
然不得主、茲知非人火。
故名其國曰火國也。
…(古訓)いる。しすむ。をさむ。(万)4245 日入國尓 所遣 ひのいるくにに つかはさる
挟杪…〈丙本〉【加〝知 止利】
八代県…〈倭名類聚抄〉{肥後国・八代【夜豆志呂】郡
豊村…豊原村⇒1889高田村⇒1954八代市編入。
五月壬辰(みづのえたつ)朔〔一日〕、葦北従(よ)り船を発(た)たしたまひ火国(ひのくに)に到る。
於是(ここに)日(ひ)の没(いる)也(や)、夜(よる)冥(くら)く著(つ)く岸を不知(しらず)。
遙(はるかに)火(ほ)の光れるを見(め)し、天皇挟杪者(かぢとり)に詔(の)たまはく[曰]「直(ひた)火(ほ)の処(ところ)に指せ。」
因(よりて)火を指し往(ゆ)き[之]、即ち岸に得(え)著く。
天皇其の火の光之(ひかりし)処(ところ)を問ひたまはく[曰]「何と謂(まを)す邑(むら)なる也(や)。」ととひたまひ、
国の人対(こた)へ曰(まを)さく「是八代県(やつしろあがた)の豊村(とよむら)なり。」とまをす。
亦(また)其の火を尋ねたまはく「是誰人(たれ)之(の)火(ひ)なる也(や)。」とたづねたまふ。
然(しかれども)主(ぬし)を不得(えず)、茲(ここに)非人(ひとによらざる)火(ひ)と知りたまふ。
故(かれ)其の国を名(なづ)け火の国と曰ふ[也]。
《熊津彦》
 二人の名前が兄熊津彦(えくまつひこ)・弟熊津彦(おとくまつひこ)であることは文脈から分かるが、省略した書法になっている。 神武天皇の頃は兄が反逆し、弟は恭順するパターンだったが、ここでは逆転していることが注目される。
《熊襲》
 「」に対応する地域名は、〈倭名類聚抄〉{大隅国・囎唹【曽於】郡〔そおのこほり〕がある。 襲に対する戦いについては、何も書かれていない。
《水嶋》
 『万葉集註釈』〔仙覚、1269年〕巻第三、二四六。
 「風土記云 球磨県 々乾七十里 海中有嶋 積可七里 名曰水嶋 嶋出 寒水 逐潮高下云々〔球磨県、県(あがた)の乾(北西)に七十里(さと)の海中に嶋有り、積(ひろさ)七里可(ばかり)、名は水島と曰ひ、嶋に寒水(しみづ)出で…〕
《不知火》
 不知火は、古くから八代海・有明海の怪奇現象とされてきたが、大正・昭和の時代になって蜃気楼の一種であろうとする考えが受け入れられている。 旧歴の八月朔日ごろは、大潮により広がった干潟が高温となり、水温との温度差が大きくなって大気に密度の不均一が生じ、漁火(いさりび、漁船の灯火)が屈折して大量の光源があるように見えるという。
 風土記・書紀の記事から、その時代には既に、八代海の不知火が知られていたことが分かる。
《火の国》
 「火の国」は律令国として肥前・肥後が定められる以前の、広い地域の呼称であった。ただ、八代県の狭い範囲もまた、火の国と呼ばれていたことがわかる。 このように同一地名が広域・狭域に使い分ける例は、多数ある。 このことは、「火国」とは別に「阿蘇国」が書かれていることから明らかである。国造本紀の火国造・阿蘇国造も、その区分による。 「火国」が、阿蘇山によることは明らかで、不知火を理由とする地名譚は後付けであろう。
 『釈日本紀』巻十引用の『肥後国風土記』逸文は「本与肥前国合為一国〔元肥前国と併せて一国〕とした上で、 肥後の国号の由来について、次のように述べる。
 益城郡の朝来名峯の土蜘蛛、打猿・頚猿を健緒組〔人名〕に命じて殺させたとき、「其夜虚空有火自然而燎稍々降下着焼此山〔夜空に火が自然に燃え広がり、徐々に降下して山に着いて焼いた〕。天皇は、この恠(あや)しい火の下の国だから、火の国と名付けた。
 また、火国八代郡火邑の「未審火」は「所燎之火非俗火也」〔燃える火は人の火ではない〕と天皇は群臣に仰った。
 そして、「此等文二義〔これらの文により、二義ありというべし〕と、 両説を併記する。
 は、阿蘇山の噴火を描写したものであろう。 阿蘇山の最後の破局噴火は9万年前の旧石器時代とされるが、民族の記憶に強烈な爪跡を残す出来事だったから、その頃からその一帯は「ひ」の意味の語で呼ばれたであろう。 その後も噴火の度に呼び名が確認されたと思われる。記紀の時代から現代まで、基本語彙は1300年伝わるが、 9万年はその69倍もある。しかし例え単語は変化したとしてもても、同意語がリレーされ得ると考えるものである。
《夷守》
 魏志倭人伝において、対馬国・一支国・奴国・不弥国の副官が「卑奴母離」とされる。 当時、帯方郡を窓口としての魏国との外交関係は成立していたが、帯方郡は三韓地域の住民を十分掌握していたとは言えず、 情勢は不安定だった。鄙=辺境を守るために夷守が置かれたのは必然であった。
 越後国は、東北地方の蝦夷を日本海岸沿いに制圧していく前線に当たる。その後、征圧した地域から出羽国が分離独立するなどの動きがある。 最前線に置かれた夷守が、郷の名として残ったと考えられる。
 美濃国の比奈守神社が、国境地帯であった確証はないが、草薙の剣が尾張国の熱田神宮に置かれていることから、 尾張国・美濃国が東の境界であった可能性がある。
 一方、上総国の発生期前方後円墳や、志布志湾沿岸の古墳群から見て、早期から海路で遠隔地に渡り、陸路に先立って飛び地として植民地が築かれた可能性がある。 志布志湾とは別に、日向国の西都原古墳群の辺りに東海岸から上陸した動きも見える。
 現在小林市にある夷守という地名も、その近くに夷守が置かれたと思われる。この場所は南九州への前線である。
 夷守が東国進出前の国境を示すと仮定すると、図の範囲が当時の勢力圏ということになる。
《阿蘇国から御木国》
六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、
時殺其處之土蜘蛛津頰焉。
丙子、到阿蘇國、其國也郊原曠遠、不見人居、
天皇曰「是國有人乎。」
時有二神、曰阿蘇都彥、阿蘇都媛、
忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」
故號其國曰阿蘇。
秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、
居於高田行宮。
時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。
時人歌曰、
高来県…〈倭名類聚抄〉{肥前【比乃三知乃久知】国・高来【多加久】郡〔ひのみちのくちのくに・たかくのこほり〕
玉杵名邑…〈倭名類聚抄〉{肥後国・玉名【多万伊奈】郡〔たまいなのこほり〕。平安時代にはすでにキ→イの音韻変化があったと思われる。
郊原…町はずれの野原。
曠遠…はるかに遠い。
遊詣…〈丙本〉遊詣之【伊太利弖】〔いたりて〕。しかし、「遊」を「あそぶ」と訓み、地名譚としたか。 ただ、阿蘇都彦・阿蘇都媛の神名をもって地名としたとも考えられる。
筑紫後国御木…〈倭名類聚抄〉{筑後【筑紫乃三知乃之利】国・御毛【三計】郡〔つくしのみちのしりのくに・みけのこほり〕。 〈倭名類聚抄〉の別ページには「御井郡」とあるが、誤りであろう。
筑紫後国…地名は二文字と定められる前は、「筑紫後国」と表記されたことが分かる。
高田…(現代地名)福岡県三池郡。岩田村など⇒1931高田村⇒高田町⇒2007みやま市。「高田」は復古地名か。
…[動] たおれる。(古訓)くつす。たふる。ふせり。
百僚…百官。多くの官僚。
六月(みなづき)辛酉(かねのととり)朔癸亥(みづのとゐ)〔三日〕、高来県(たかくあがた)自(ゆ)、玉杵名邑(たまきなむら)に渡りたまひ、
時に其の処(ところ)之土蜘蛛(つちぐも)津頰(つづら)を殺しき[焉]。
丙子(ひのえね)〔十六日〕、阿蘇の国に到り、其の国は[也]郊原(のはら)曠遠(ひろくとほく)、人居(ひとのをる)を不見(みえず)、
天皇曰(のたまはく)「是の国に人や有る[乎]。」とのたまひ、
時に二(ふたはしらの)神有り、阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都媛(あそつひめ)と曰ひ、
忽(たちまちに)人と化(な)り以ちて遊び詣(まゐで)[之]曰(まをさく)「吾(われら)二人在り、何(な)そ人無きとのたまふ耶(や)。」とまをしき。
故(かれ)其の国を号(なづ)け阿蘇と曰ふ。
秋七月(ふみつき)辛卯(かのとう)朔甲午(きのえうま)〔四日〕、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到りて、
[於]高田(たかた)の行宮(かりみや)に居(まします)。
時に僵(たふれし)樹(き)有り、長(ながみ)九百七十丈(ここのほあまりななそつゑ)なりて[焉]、百寮(もものつかさ)其の樹を蹈(ふ)みて[而]往来(ゆきく)。
時の人歌(うたよみ)し曰(いはく)、
阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志
魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮
瀰開能佐烏麼志
あさしもの(朝霜の)…[枕] け(消)にかかる。
さをばし…[名] 橋。サ・ヲともに接頭語。
いわたらす…接頭語ワタルの未然形+助動詞。スは軽い尊敬の意を添える上代の助動詞。
阿佐志毛能(あさしもの) 瀰概能佐烏麼志(みけのさをばし)
魔幣菟耆瀰(まへつきみ) 伊和哆羅秀暮(いわたらすも)
瀰開能佐烏麼志(みけのさをばし)
爰天皇問之曰「是何樹也。」
有一老夫曰「是樹者歷木也。
嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、
當夕日暉亦覆阿蘇山也。」
天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」
丁酉、到八女縣。
則越藤山、以南望粟岬、
詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。
若神有其山乎。」
時水沼縣主猨大海奏言
「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」
故八女國之名、由此而起也。
八月、到的邑而進食。
是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、
今謂的者訛也。
昔筑紫俗號盞曰浮羽。
…(古訓) つたふ。ふ。みる。(万)1065 百世歴而 ももよへて
歴木…〈倭名類聚抄〉【和名久沼木】〔くぬき〕
…(古訓) てる。かかやく。ひかる。
杵嶋山…〈倭名類聚抄〉{肥前国・杵嶋【岐志万】郡・杵嶋【木之万】郷〔きしま〕
…(古訓) よし。よろしく~すへし。
八女県…八女郡は、〈倭名類聚抄〉{筑後国・上妻【加牟豆万】郡}{下妻【准上】郡〔上に準ず(しもつま)〕の二郡に分割。 (現代地名)福岡県八女市付近。
…〈倭名類聚抄〉【布知】
…[名] いわあな。詩文では深い山あいのこと。(古訓)くき。ほら。
水沼…〈倭名類聚抄〉{筑後国・三瀦【美無万】郡〔みむま〕
…(古訓) さかつき。
うくは(盞)…〈時代別上代〉さかずき。筑紫の方言か。
…〈倭名類聚抄〉{筑後国・生葉【以久波】郡〔いくは〕
…(古訓) ならひ。
爰(ここに)天皇問ひたまはく[之][曰]「是は何(いかなる)樹か[也]。」ととひたまひ、
一(ある)老夫(おきな)有り曰(まをさく)「是の樹者(は)歴木(くぬぎ)なり(也)。
嘗(かつて)未僵之(いまだたふれざりし)先(さき)、朝日に当たり暉(かがや)きて[則(すなはち)]杵嶋山(きしまのやま)を隠して、
夕日(ゆふひ)に当たり暉きて亦(また)阿蘇山(あそのやま)を覆(おほ)ひたり[也]。」とまをす。
天皇曰(のたまはく)「是の樹者(は)神(かむ)の木なるが故(ゆゑ)、是の国は宜(よろしく)御木国(みけのくに)と号(なづ)くべし。」とのたまふ。
丁酉(ひのととり)〔七日〕、八女県(やめのあがた)に到る。
則(すなはち)藤山(ふぢのやま)を越へ、以(もちて)南に粟岬(あはのさき)を望みたまひ、
詔(のたまはく)[之][曰]「其の山峯(みね)岫(ほら)重畳(ちよふでふ、かさね)、且(また)美麗(うるはしき)こと[之]甚(はなはだし)。
若(もしや)神其の山に有り乎(や)。」とのたまふ。
時に水沼(みむま)の県主(あがたぬし)猿大海(さるのおほあま)奏(まをさく)[言]
「女神有り、名は八女津媛(やめつひめ)と曰ひ、常に山の中に居(を)り。」
故(かれ)八女国(やめのくに)之(の)名、此(こ)に由(よ)りて[而]起これり[也]。
八月(はつき)、的邑(いくはむら)に到りて[而]食(みけ)を進めしめたまふ。
是の日、膳夫(かしはで)等(ら)盞(うくは)を遺(のこ)し、故(かれ)時の人其の盞を忘れし処(ところ)を号(なづ)け浮羽(うくは)と曰ひ、
今に謂ふ的(いくは)者(は)訛(よこなまり)也(なり)。
昔筑紫の俗(くにのひと)、盞(うくは)と号(なづ)け浮羽(うくは)と曰ふ。
十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。
至自日向…「還」が省かれている。「至」につく暗黙の尊敬表現の補助動詞「ます」が、「帰る」意味を含むからであろう。
十九年秋九月(ながつき)甲申(きのえさる)朔癸卯(みづのとう)〔二十日〕、天皇日向(ひむか)自(ゆ)至ります。
《阿蘇郡》
 『肥後国風土記』逸文、阿蘇郡の項にはのように書かれる。内容は、景行天皇紀とほぼ同じである。
 肥後国風土記曰 昔者 纏向日代宮御宇天皇 発玉名郡長渚浜 幸於此郡 徘徊四望 原野曠遠 不人物 即歎曰 此国有人乎 時有二神 化而 為人曰 吾二神 阿蘇都彦 阿蘇都媛 見此国 何無人乎 既而忽然不見 因号阿蘇郡 斯其縁也 二神之社 見郡以東云々
〔景行天皇、玉名郡の長渚浜(ながすのはま)を発(た)ちて、此の郡(こほり)に幸(いでま)し、徘徊(めぐりて)四(よもを)望みたまふに、原野(はらや)曠遠(ひろくとほく)、 人物(ひともの)を見えず、即ち歎(なげ)き曰(のたまはく)「此の国に人有りや」とのたまふ。時に二柱の神有り、化(かは)りて人と為(な)り曰(まうさく)「吾ら二神、阿蘇都彦・阿蘇都媛、此の国に在るを見たまへ。 いかに人無かるや」とまうし、既にして忽然(たちまちに)見えず。因りて阿蘇郡と名付く、斯(これ)其の縁(よし)なり。二神の社(やしろ)郡の以東(ひむがしかた)に在るを見ゆ…〕
 記紀神話でも、上代に夫婦神が出現する。この地にも、同じ類型の神話があったことが分かる。 阿蘇山への信仰は、極めて古い時代から続くものであろう。これまでも、火中出産した彦火火出見尊(古事記をそのまま読む―第87回)と阿蘇山信仰との関連に触れてきた。 また、アソはポリネシア語に由来するとも言われる(古事記をそのまま読む―第101回《磯輪上秀真国の別解》)。
《三池郡》
 倭名類聚抄では、「みけ(御毛)のこほり」。後に三池郡。書紀の地名譚は、御木(みけ)が倒れた言い伝えによるとする。歌の枕詞「朝霜の」がかかるのは「け」だから「みけ」は確定している。 前回、神夏磯媛到来の段に、御木を「みけ(開)」とする訓注があったから、筑紫国巡幸の段に於いては完全に「木=け」である。 〈時代別上代〉は、「木=け」は書紀の筑後・豊前の地名にあるという事実のみを示し、「方言だったかも知れない」と書く。
《生葉郡》
筑後国風土記云。……膳司在此村。忘此村云々。 天皇勅曰。惜乎朕之酒盞。(俗語云酒盞宇枳。) 因曰宇枳波夜郡。後人誤号生葉郡
〔……天皇のたまはく「朕(わ)が酒盞(さかづき)や惜し。(俗語に酒盞を云ひて宇枳(うき)となす。) よって宇枳波夜(うきはや)郡と云ふ。後の人誤りて生葉郡と号く。〕
 『釈日本紀』引用の筑後国風土記に、生葉郡の地名由来譚がある。盃を意味する筑後国の言葉を、書紀はウクハ、筑後国風土記はウキとする。 風土記ではさらに、初めはウキハヤ郡だったという。
 盃がないことに気付いたときに「盞(うき)はや?〔ウキはどうしたのか?〕という言葉を発したことをもって、由来としたのであろう。 地方語については風土記の方が真実に近いと思われるから、ウキが正しいのだろう。
《郡と県》
 景行天皇が巡狩(じゅんしゅ)した地名は、概ね奈良時代以後の郡名に対応している。 「(こほり)―五十戸(さと)」の階層が制度として明確になったのは、孝徳朝の650年ごろと考えられている。 その後、680年ごろに五十戸がに、701年に評がに改められる。(『飛鳥の木簡』市 大樹、中公新書)
 書紀が完成した720年には、郡になっていたが景行天皇の時代を考慮してを用いたと思われる。 縣の古訓にもコホリがあるので、コホリと訓むべきかとも思えるが、 「水沼縣主」なる語が出てくる。この縣主をコホリノミヤツコと訓むのは苦しく、普通にアガタヌシと訓むとすれば、縣もアガタとなる。 また的、御木もあるので、全体として国・郡・郷の階層が確立する以前の、古色蒼然とした呼称をわざわざ用いたと見ることができる。
子湯県諸県熊県葦北八代県高来県
児湯郡諸県郡球磨郡葦北郡八代郡高来郷
御木国杵嶋山八女県水沼県的邑
御毛郡杵嶋郡上妻郡下妻郡三瀦郡生葉郡
 なお、巡狩の地名と郡名との対応をまとめてみると(右表)、その関係はむしろ単純に過ぎる。 本物の古い伝承に基づいているならば、もっと多様かつ不明な地名が出てくるはずである。 書記は、その執筆時点の地名を用いて、景行天皇巡狩物語を仕立て上げたと見るのが順当であろう。 もちろん、各地の伝承が素材にはなったのではあろうが。
《経路》
 筑紫島の制圧に来たはずだが、日向国に入ると戦闘は球磨郡の弟熊津彦と玉名郡の津頰のみで、全体としては風土記のような趣になっている。 順路は、日向国から肥後国、肥前国、そして筑後国に到る。その全体が「巡狩筑紫国」で表されるので、 筑紫国は、筑前・筑後に限らず九州全体の地域名を意味する場合もあることが分かる。
 また、ここでは「百寮蹈其樹而往来」の言葉が注目される。この地方には装飾古墳が多く、独自の文化圏があった。 その一族が畿内に移ってそこでも装飾古墳に与り、交流は活発だったと思われる。 朝鮮半島にも近く、朝廷からの使節も頻繁に訪れたことが、この言葉に現れている。
 総じて肥後・肥前・筑後の巡狩には物見遊山の雰囲気が感じられ、大和政権初期からその支配下にあって安定していたのであろう。
《大意》
 十七年三月十二日、 子湯県(こゆのあがた)に出でまし、丹裳小野(にものおの)にあそばし、 その時、東を眺めて側近に 「この国は日の出る方真っ直ぐ向かっている。」と仰りました。
 故に、その国を名付けて日向〔ひむか、後にひゅうが〕といいます。
 この日、野のゆるやかな傾斜を登り、大きな石に突き当たり、 都を思い出して歌を詠まれました。
わが家の方から 雲たち昇り来る 大和は国の宝 幾重も重なる青垣の 山に囲まれ大和は麗し 命の雅し人は 平群の山の白樫の枝を 髪飾りに挿せ この子
 ――愛(はし)きよし 我家(わぎへ)の方由(ゆ)  雲居騰ち来(く)も  大和は 国のまほらま  たたなづく 青垣  山籠れる 大和し麗し  命の 雅(まそ)けむ人は  畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の  白樫が枝(え)を 髻華(うず)に挿せ 此の子
 この歌は、国偲び歌といわれます。
 十八年三月、天皇は都に向かおうとされ、 その途上、筑紫の国々を巡幸されました。
 始めに夷守(ひなもり)に到った時、石瀬川の川辺に群衆が集まりました。 これを遙かに望み、側近に 「あの集まりし者は何者か、もしや敵か。」と仰りました。 そして兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の二人を派遣し調べさせました。 そして弟夷守が戻り、ご報告申し上げました。 「諸県〔むらかた、今のもろがた郡〕の君、泉媛(いずみひめ)は、大饗〔おおあへ、もてなしの会食〕 を献上するために一族が集まっている様子です。」と。
 四月三日、熊県〔くまあがた、球磨郡〕に到着しました。 その場所に、熊津彦の兄弟二人がいました。
 天皇は、まず兄熊〔=兄熊津彦〕を召喚させたところ、使者に従って詣でました。 よって弟熊〔=弟熊津彦〕も召喚しましたが来ず、よって兵を遣わして誅殺しました。
 十一日、海路経由で葦北〔あしきた郡〕の小島に泊まり食事を進められ、 その時に山部(やまのべ)の我孫子の先祖、小左(おひだり)を召し、冷水を求めました。 たまたまその時に島の中に水は無く、どうしてよいか分からず 天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を仰ぎ祈ったところ、たちまち清水が崖のほとりから涌き出したので、 すぐに酌んで持っていき、献上しました。
 よってその島を名付けて水嶋(みずしま)といい、その泉は今なお水嶋の岸にあります。
 五月一日、葦北より出航し火国(ひのくに)に到着しました。 そして、日没となったので、夜の暗さに着岸地が分かりません。 遙かに火の光りが見え、天皇は舵取りに「真っ直ぐ火の所を目指せ。」と命じられました。 よって火を指して行き、岸に着くことができました。
 天皇はその火の光った場所を捜し、「ここは何という村か。」と尋ねられ、 その国の人は、「ここは八代県(やつしろあがた)の豊村(とよむら)と申します。」とお答えしました。 またその火について「これは誰のところの火か。」と尋ねられました。 けれどもその主を得ず、ここに人によらざる火であることをお知りになりました。
 そこで、その国の名を火の国といいます。
 六月三日、高来県(たかくあがた)から、玉杵名邑(たまきなむら)に渡られ、 その場所にいた土蜘蛛の津頰(つづら)を殺しました。
 十六日、阿蘇の国に到り、その国は郊原曠遠にして〔見渡す限り荒涼として〕、人のいる様子が見えず、 天皇が「この国に人はいるのか」と仰ったところ、 二柱の神がおり、その名を阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都媛(あそつひめ)といい、 たちまち人と化して遊びながら参上し「われら二人がいますよ。どうして誰もいないと仰るのですか。」と申しました。
 そこでその国を名付け、阿蘇といいます。
 七月四日、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到り、 高田(たかた)の行宮に滞在されました。 その時、倒れた樹があり、長さ九百七十丈で、百寮(もものつかさ)がその樹を踏んで往来しました。
 当時の人が詠んだ歌は、
御毛〔地名〕の小橋、使節らが渡るのも御毛の小橋。
 ――朝霜の 御毛のさを橋 卿(まへつきみ) い渡らすも 御毛のさを橋
 です。
 ここに天皇は「これはいかなる樹か。」と問われ、 ある老人は「この樹には歴史があります。 かつて、まだ倒れる前には、朝日に当たり輝く光が杵嶋山を隠し、 夕日に輝く光が、また阿蘇山を覆いました。」と申し上げました。 天皇は、「この樹は神の木であるから、この国は御木国(みけのくに)と名付けるのがよい。」と仰りました。
 七日、八女県(やめのあがた)に到りました。 藤山を越え、南に粟岬(あわさき)を遠望され、 「その山は峯や洞を重畳(ちょうじょう)し〔=幾重にも重ね〕、またとても麗しい。 もしや神がその山にいるのでは。」と仰りました。 その時、水沼(みむま)の県主(あがたぬし)、猿大海(さるのおおあま)が 「女神がおります。名は八女津媛(やめつひめ)といい、常に山の中におります。」と申し上げました。
 さて、八女国(やめのくに)の名は、これによって起りました。
 八月、的邑(いくはむら)に到り、食事をされました。 この日、膳夫(かしわで)等は盞(うくは)を残したので、当時の人はその盞を忘れた場所を浮羽(うくは)と名付け、 今にいう的(いくは)は、その訛りであります。 昔、筑紫では俗に盞(うくは)から名付け、浮羽(うくは)といいます。
 十九年九月二十日、天皇は日向から帰京しました。


まとめ
 景行天皇の巡狩は夷守を南限とし、大隅国・薩摩国までは足を踏み入れていない。 鹿児島県には志布志湾周辺を除いて前方後円墳がなく、7世紀まで中央政権による支配の外にあったと考えられる。 (古事記をそのまま読む―第42回【大和政権による熊襲征服の歴史】)。 書紀はこれを歴史的事実として認識していたので、景行天皇の時代に大隅・薩摩まで行ったとは、とても書けなかった。
 対照的に有明海周辺は、早くから畿内と深く繋がっていたようだ。景行天皇が周防国から海路豊前国に入ったと書かれることから、 その主要な交通路は瀬戸内海であったと思われる。大陸との交流のルートは、相変わらず朝鮮半島であっただろう。
 書紀は、最初に「熊襲反之不朝貢」と書き、熊襲を従わせるために親征したとする。その結果は、入り口の豊後国でこそ激しい戦闘があったが、 肝心の熊襲については、「徴弟熊而不来故遣兵誅之」と書くのみで、 熊襲の「」に至っては、全くの手つかずである。
 帰りに廻った有明海周辺は既に安定した支配地域で、不知火、阿蘇山などを風土記風に描いて帰還する。 結局、親征の目的は達成されなかった。 豊後国では戦闘があったと言っても、昔の神武東征に伴う話が流用された気配がある。 それ以上、戦闘場面を創作して盛り込むことはできなかったと見られる。
 書紀では日本武尊に先行して景行天皇の親征があった形に描こうとしたが、結果としてうまくいっていないのである。



2016.06.15(wed) [07-03] 景行天皇紀3 
06目次 【親征帰還後】
廿年春二月辛巳朔甲申、
遣五百野皇女、令祭天照大神。
廿五年秋七月庚辰朔壬午、
遣武內宿禰、
令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。
廿七年春二月辛丑朔壬子、
武內宿禰、自東國還之奏言
「東夷之中、有日高見國、
其國人、男女並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。
亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」
…(古訓) みる。あきらかにす。つまひらかに。
…(古訓) すへて。おほよそ。
百姓…〈丙本-崇神〉百姓【オホムタカラ】
 ここでは、文脈上オホミタカラを用いる。(2023.03.04)
勇悍…〈汉典〉勇猛強悍。
消息…(古訓) ありさま。
文身…からだ(首から下の部分)への入れ墨。
もどろく…[自]カ下に まだらにする。いれずみする。
椎髻…槌(つち)のような形のまげ。
椎結…〈丙本〉【加美乎安介氐】〔かみをあげて〕
二十年(ふたそとせ)春二月(きさらぎ)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)〔四日〕、
五百野皇女(いほのひめみこ)を遣はし、天照大神(あまてらすおほみかみ)を祭ら令む。
二十五年(ふたそとせあまりいつとせ)秋七月(ふみづき)庚辰(かのえたつ)朔壬午(みづのえうま)〔三日〕、
武内宿祢(たけのうちのすくね)を遣はし、
北陸(くぬかのみち)及(および)東方(あづま)の諸(もろもろの)国之(の)地形(すがた)、且(かつ)百姓(おほみたから)之(の)消息(ありさま)を察(み)さ令(し)む[也]。
二十七年(ふたそとせあまりななとせ)春二月(きさらぎ)辛丑(かのとうし)朔壬子(みづのえね)〔十二日〕、
武内宿祢、東国(あづま)自(よ)り[之]還(かへ)りまつりて奏言(まをさく)
「東夷(あづまのくに)之中、日高見国(ひたかみのくに)有り、
其の国の人、男女(をのこをみな)並(なべて)椎結(ついけつして、かみをあげて)文身(もどろけて)、為人(ひととなり)勇悍(たけくして)、是(これ)総(すべて)蝦夷(えみし)と曰(まを)す。
亦(また)土地(くにのところ)沃壌(ゆたか)にして[而]曠之(ひろく)、撃可取(うちとりたまふべし)[也]。」とまをす。

《五百野皇女》
 五百野皇女は、景行天皇と水歯郎女の間に生まれた皇女。記には出てこない。
 「天照大神」 は、斎宮制の継承を意味する。伊勢神宮への皇女の派遣は、記では崇神天皇、書紀では垂仁天皇に始まる (第116回【斎宮】)。
《日高見国》
 常陸国風土記に、「筑波茨城郡七百戸信太郡。 此地本日高見国」 とあり、日高見国は信太郡にあったとされる。
 一方、式内社に日高見神社がある。〈神名帳〉{陸奥国/桃生郡/日高見神社}。 比定社は、日高見神社(宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73)。 この辺りの地域が、日高見国と呼ばれていた可能性はある。
 日高見国には黥面文身の習慣があり、着るものは皮衣である。また、後ろの髪を上向きに縛るという特徴のある髪型をしている。 さらに、『天書』(奈良時代末期)によれば、〔かはごろも=皮衣〕を着る(資料[08])。
 関連して、東山道で蝦夷が騒動を起こして征圧され、その子孫が今も残るとある(第123回) ただ、その首魁の名は和風であった。魏志倭人伝は、黥面文身は広く普及して、氏族ごとに特徴があるという。 神武天皇段でも安曇氏の目の黥が出てきて、(第100回【あめつつちどりましとと】) 宗像氏は「胸形=文身」が語源ではないかとも言われる。 皮衣については、倭人でも山の狩猟民は普通に着ていたかも知れない。
 アイヌは4世紀には南下し、倭人との接触は仙台平野と新潟平野を結ぶラインに達したが、 その後北方に戻り、6世紀には東北地方北部の太平洋岸まで撤退したという(『アイヌ学入門』瀬川拓郎、講談社現代新書)。
 だから記紀の時代には、日高見国の民はアイヌではなく、倭人の一族であった。 ただし、その風習が畿内とは大きく異なって見えたのは確かである。日高見神社のあたりで4世紀ころアイヌと接触したことが、記憶されているかどうかは何とも言えない。 また、書紀の段階では「日高見国」は、陸奥方面を漠然と指したものであろうが、その後の解釈によって、常陸国信太郡になったのかも知れない。だからこの条ではやはり、アイヌと特定したと考えることもできる。
 ただ、神武天皇紀から景行天皇紀の間の「蝦夷」は特定民族というよりも、東日本で朝廷の支配に服しない様々な族を総称すると見る方が妥当である。
 奈良時代末になると「蝦夷」は確実にアイヌの意味で使われていたことが、続紀〔797〕の 文武元年〔697〕十月壬午条「陸奥蝦夷貢方物」から分かる。 「方物を貢ぐ」なる表現は、蝦夷を他民族の国として扱っているからである。
《大意》
 二十年二月四日、 五百野皇女(いほのひめみこ)を遣わし、天照大神(あまてらすおほみかみ)を祭らせました。
 二十五年七月三日、 武内宿祢(たけのうちのすくね)を遣わし、 北陸と東方諸国の地形、人民の様子を視察させました。
 二十七年二月十二日、 武内宿祢は、東国より帰還してこう復命しました。
「東夷の中に、日高見国(ひたかみのくに)があります。 その国の人は、男女を問わず椎結〔ついけつ、後頭部のまげ〕し、文身〔体への入れ墨〕し性格は勇悍で、総て蝦夷(えみし)だということです。 またその土地は肥沃にして広大で、攻め取るべきであります。」と。


07目次 【日本武尊西征】
秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止……〔続き〕


08目次 【到於熊襲国】
十二月、到於熊襲國……〔続き〕


まとめ
 日高見国は常陸国風土記に特定しようとする動きは見られるが、具体的な国というより、東方にある豊かな土地を象徴的に表現したと見られる。 そして、異文化を持った先住民の存在を認識し、蝦夷の呼称をもつ対象として絞り込まれていったようだ。
 武内宿祢は、この豊かな土地を攻め取れと進言するところに、倭人の支配域が陸奥に向かって拡張したとする歴史認識をもっていたことを示す。 武内宿祢の言葉遣いは、先住民を勇悍とし、「撃可取」と進めていて勇ましい。 書紀は、神武東征以来、軍事的に蝦夷を制圧したと描き続けていて、東国進出もその流れで書かれる。 しかし、実際はどうであろうか。倭からの植民は、先住民と小競り合いはあっても友好的に進めれたのかも知れないのである。
 書紀が書かれた時期が唐の外圧をひしひしと感じ、軍事的に身構えた時代であったことが、東国進出の書きっぷりに反映したということはないのだろうか。
 

2016.09.16(fri) [07-04] 景行天皇紀4 
09目次 【還奏】
未及之死、川上梟帥叩頭曰……〔続き〕


10目次 【大碓命追放】
卌年夏六月、東夷多叛……〔続き〕


11目次 【日本武尊東征】
於是日本武尊、雄誥之……〔続き〕


12目次 【草薙剣】
是歲、日本武尊初至駿河……〔続き〕


13目次 【至甲斐国】
爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國……〔続き〕


14目次 【尾張宮簀媛】
則日本武尊、進入信濃……〔続き〕


15目次 【胆吹山】
至膽吹山、山神、化大蛇當道……〔続き〕


16目次 【崩于能褒野】
逮于能褒野、而痛甚之……〔続き〕


17目次 【日本武尊化白鳥】
天皇聞之、寢不安席、食不甘味……〔続き〕



まとめ
 以上の部分で記と相違するのは、大碓命の追放の仕方、甲斐国に入る峠の場所などである。 特に景行天皇が日本武尊を寵愛する言葉については、記には全くないことが大幅に盛り込まれている。


2016.09.17(sat) [07-05] 景行天皇紀5 
18目次 【立稚足彦尊為皇太子】
五十一年春正月壬午朔戊子〔七日〕、招群卿而宴數日矣。
時皇子稚足彥尊武內宿禰、不參赴于宴庭。
天皇召之問其故、因以奏之曰
「其宴樂之日、群卿百寮、必情在戲遊、不存國家。
若有狂生而伺墻閤之隙乎。故侍門下備非常。」
時天皇謂之曰「灼然。【灼然。此云以椰知舉。】」則異寵焉。
参赴…接頭語的な「まゐ-」は、「まゐのぼる(参上)」、「まゐふす(参伏)」などに見られる。 同様に参赴も「まゐおもぶく」か。
めす(招す)…[他]サ四 呼び寄せる。
狂生(きょうせい)…気のくるっている男。
…[名] 石や土で築いた塀。(古訓)かき。
…[名] くぐりど。大門のかたわらにある小門。
墻閤…〈汉典〉に項目なし。〈中国哲学書電子化計画〉に用例なし。したがって和語の「かきのと(垣戸)」の意味だと見られる。
閤・閣…岩波文庫版校異⇒熱田本・北野本に「閣」。「墻閣」も〈汉典〉〈中国哲学書電子化計画〉共になし。
非常…(古訓) あやふし。めつらし。
灼然…明るいさま。神仏の霊験あらたかなこと。(古訓)あきらかなり。
いやちこ…[形動] 歴然たるさま。
五十一年(いそとせあまりひととせ)春正月(むつき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)のひ、群卿(まへつきみたち)を招きて[而]宴(うたげ)したまふこと数日(しまらく)におよぶ[矣]。
時に皇子(みこ)稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、武内宿祢(たけのうちのすくね)、[于]宴の庭(には)に不参赴(まゐおもぶかず)。
天皇(すめらみこと)[之を]召し其の故(ゆゑ)を問(と)ひたまひ、因以(しかるがゆゑに)[之を]奏(まを)さく[曰]
「其の宴楽(うたげ)之(の)日、群卿(まへつきみたたち)百寮(もものつかさ)、必ず情(こころ)戯(たはぶれて)遊ぶところに在りて、国家(くに)のことに不存(あらず)。
若(も)しや狂生(くるひもの、くゐやうせい)有りて[而]墻閤(かきのと)之隙(すき)を伺(うかが)ふことやあらむ[乎]。故(かれ)門下(みかど)に侍(はべ)り非常(あやぶみ)に備ふ。」
時に天皇[之]謂(のたまはく)[曰]「灼然(いやちこ)なり。【灼然。此(これ)以椰知挙(いやちこ)と云ふ。」とのたまひ、[則(すなはち)]異(こと)に寵(め)ぢたまふ[焉]。
秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。
是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。
棟梁…①家のむな木とはり。②国や家にとって重要な人物。
棟梁之臣…〈丙本〉牟祢末知支〔ムネマチキミ〕は、「棟梁(むね)-まちきみ」か。 「乎」は筆写を重ねたことによる混乱と見られる。
まちきみ…[名] 朝廷に仕える高官。まへつきみ。
秋八月(はつき)己酉(つちのととり)を朔として壬子(みづのえね)〔四日〕、稚足彦尊を立たし、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
是の日、武内宿祢に命(おほ)せ、棟梁(むね)之(の)臣(まへつきみ)と為たまふ。
初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。
於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。
時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」
則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。
喧譁…=喧嘩。(古訓) かまひすし。
…(古訓) おく。やすし。おさふ。
安置…①きちんと置いておく。②寝る。
 ③刑罰に服している罪人に仕事をさせること。
初め日本武尊(やまとたけるのみこと)所佩(みはかし)の草薙横刀(くさなぎのたち)、是(これ)今、尾張国(おはりのくに)の年魚市郡(あゆちのこほり)の熱田社(あつたのやしろ)に在り[也]。
於是(ここに)、神宮(かむみや)に所献(まつられたる)蝦夷(えみし)等(ら)、昼夜(よるひる)に喧譁(かまみき)しくて、出入(いでいり)に無礼(ゐやなし)。
時に倭姫命曰(のたまは)く「是(この)蝦夷等、[於]神宮に不可近(ちかづくべからず)。」とのたまひ、
[則(すなはち)][於]朝庭(みかど)に進(まを)し上(あ)げて、[仍(すなはち)]御諸山(みもろやま)の傍(かたはら)に安(おさ)へ置か令(し)む。
未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。
天皇聞之、詔群卿曰
「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。
故、隨其情願、令班邦畿之外。」
是今、播磨讚岐伊豫安藝阿波、凡五國佐伯部之祖也。
叫呼…金切り声で叫ぶ。
獣心…獣のような、人間の道にはずれた心。
情願…感情のこもった真心からの願い。
…[名] 都からわずかしか離れていない領地。(古訓) ちかし。
うちつくに(畿内)…[名] 七道に対する畿内(大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国)。
未(いまだ)幾時(いくとき)を経ずて、悉(ことごと)く神山(かむやま)の樹(き)を伐(か)り、隣(となり)の里に叫呼(さけ)びて[而]人民(たみ、ひとくさ)を脅(おびやか)す。
天皇之(これ)を聞きたまひ、群卿(まへつきみたち)に詔(のたま)はく[曰]、
「其の神山の傍(ほとり)に置きし[之]蝦夷(えみし)、是(これ)本より獣(けだもの)の心有りて、中国(なかつくに)に住み難し。
故(かれ)、其の情(こころ)ゆ願(ねが)ふ隨(まにま)に、邦(くに)を畿(うちつくに)之(の)外(ほか)に班(あか)ち令(し)めよ。」とのたまふ。
是(これ)、今の播磨(はりま)讃岐(さぬき)伊予(いよ)安芸(あき)阿波(あは)、凡(おほよそ)五国(いつくに)の佐伯部(さへきべ)之祖(おや)也(なり)。
《草薙横刀》
 草薙剣は、現在に至るまで熱田神宮の主祭神となっている。その謂れは、『熱田神宮縁起』に詳しい (第131回)。 日本武尊が草薙剣の威力によって東国を制圧したことに因み、天武天皇は熱田社に草薙剣を篤く祀らせた。 これにより、尾張国を東国への睨みをきかせる拠点として位置づけたと考えられる。
 よって、ここでも特に「今在尾張国年魚市郡熱田社」 と書き添えたと思われる。
《佐伯部》
 「所献神宮蝦夷」とは、日本武尊が伊勢神宮に献上した「所俘蝦夷」のことである。 単に「神宮」というときは伊勢神宮を指す。景行天皇によってその地に遣わされた倭姫命が、天照大神を斎していた。 〈新撰姓氏録〉の「佐伯直」の項に、 「己等是日本武尊平東夷時。所俘蝦夷之後也。散遣於針間。阿藝。阿波。讃岐。伊豫等国。仍居此氏也。」という言葉がある。
 姓氏録では、応神天皇が播磨国神崎郡瓦村の地に人がいそうなので、伊許自別命に調べに行かせたところ、 このように名乗る一族と出会う。 そして、伊許自別命がその統率を命じられ、針間別佐伯直の姓を賜ったという筋書きの話になっている (第122回【書紀における皇子の裔】)。
 この部分が、書紀を直接取り入れたのは明らかである。 「所俘蝦夷」を祖とする言い伝えをもつ一族が、瀬戸内海の周囲に実際にいたのだろうと考えられる。 それを裏付けるように、倭名類聚抄に{讃岐国・大内郡・白鳥【之呂止利しろとり}がある。 江戸時代には白鳥村が存在した。 ただ、部族の移動が事実であったとしても、「その無法ぶりに、伊勢神宮⇒三諸山⇒讃岐国などに移動させられた」という物語自体は、創作であろう。
 書紀にはこのように所俘蝦夷が、大変行儀の悪い一族として描かれている。この一族を連れ帰り、事もあろうに伊勢神宮に献上したのは、 日本武尊である。こうやって間接的に責められるところに、書紀が隠そうとしていた本当の感情が滲み出ている。
《大意》
 五十一年正月七日、諸卿を招いて宴を開かれ、数日に及びました。 ところが、皇子(みこ)稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、武内宿祢(たけのうちのすくね)、宴の庭に参上しませんでした。 そこで天皇は彼らを召してその故を問いなされたところ、このようにお答え申し上げました。
 「その宴楽の日に、諸卿と官僚たちは、必ず心は遊戯にあって、国家にはないでしょう。 もし狂った者がいて垣の裏戸の隙を窺うこともないとは限りません。そこで門の元に待機し非常のことにに備えております。」
 それに、天皇は「それで分かった。」と仰り、殊に寵愛されました。
 八月四日、稚足彦尊を、皇太子に立てられました。 同じ日、武内宿祢に棟梁の近臣とされました。
 初めに日本武尊が帯刀された草薙太刀は、今、尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田社(あつたのやしろ)にあります。
 さて、伊勢神宮に献上された蝦夷らは、昼も夜も騒がしく、礼儀もわきまえずに出入りしておりました。 その時、倭姫命は、「この蝦夷らは、神宮に近づくべからず」と仰り、 朝庭に進上し、御諸山(みもろやま)の傍らに、言うことをきかせて住まわせました。
 ところが、未だ幾時も経ず、神山の木を悉く伐採し、隣の里に向かって大声で叫び、人々を脅かしました。 これが天皇に耳に入り、諸卿に勅されました。、
 「その神山のほとりに置いた蝦夷は、元々獣心があり、畿内に住むことはできぬ。 よって倭姫命の心からの願いの通り、畿外に国を分けて住まわせよ。」
 これが、今の播磨(はりま)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・安芸(あき)・阿波(あわ)計五国の佐伯部の祖先であります。


まとめ
 日本武尊の死後の後日譚として、熱田神宮神剣と佐伯部の由来を述べる。 何れも、古事記には載っていない。
 佐伯部については、<wikipedia>5~6世紀には、東国人の捕虜を讃岐など五国に移し、編成した</wikipedia> と言われるように、 東国から連れて来られた捕虜を、佐伯直(さへきのあたひ)が部民として隷属させた事実が、実際にあったのではないかと考えられている。
 

2016.10.02(sun) [07-06] 景行天皇紀6 
19目次 【日本武尊之御子】
初日本武尊、娶兩道入姬皇女爲妃……〔続き〕


20目次 【東国行幸】
五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨太郎姬薨……〔続き〕


21目次 【大足彦忍代別天皇崩】
五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國……〔続き〕


まとめ
 景行天皇の東国行幸は、書紀では倭建命を懐かしんで、その平定した国を巡狩した設定になっている。 これは、記の景行天皇段の最初の「又定東之淡水門」の拡張である。 記では、これが倭建命の東征の前に書かれている。 それは、陸路による東日本の制圧の以前に、海路で房総半島の先端に植民していたことを反映しているのではないかと考えたところである。


2016.10.03(mon) [07-07] 成務天皇紀 
22目次 【稚足彦天皇】
稚足彥天皇、大足彥忍代別天皇第四子也……〔続き〕


まとめ
 記では、極めて簡単な記述となっている。 書紀はそれを詳細化するが、その中で使用された用語、日縦・日横・背面・影面が議論を呼んでいる。


[08-01] 仲哀天皇・神功皇后(1)