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2016.06.02(thu) [07-01] 景行天皇紀1 ▼▲ |
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01目次
【大足彦忍代別天皇】
大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)天皇は、活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇の第三子です。 母は皇后、御名は日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)で、丹波道主王(たんばのみちぬしのみこ)の娘です。 活目入彦五十狭茅天皇三十七年に、立太子され、皇太子となられました。時に二十一歳でした。 九十九年二月、活目入彦五十狭茅天皇は崩御されました。 元年七月十一日、皇太子は天皇に即位され、よって改元しました。 太歳辛未です。 02目次 【即位】 二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬……〔続き〕 03目次 【熊襲親征】 《豊後国まで》
〈諸橋大漢和※〉は、さらに『字彙』〔1615年〕巻末「醒誤」〔誤用しやすい字〕編からの引用として、 「姪、陳入声、兄弟之子、俗誤作レ侄、侄、音質、堅也。又、癡也。」 〔要するに「姪・堅・癡に誤用される」〕と書く。 〈諸橋大漢和〉は、甥・姪以外の意味を載せている。そのうち、「侄仡」の「仡」は「仡立」〔きつりつ=屹立、決然と立つ〕などに使われる。 「侄仡」の意味は「とどまる」とされるが、「侄」単独では「とどまる」意味はなさそうである。 「侄」を姪として使うのは誤用とされるが、姪の意味を広げるために人偏に変えたという理解の仕方もあるようである。ただし、姪はもともと男子(おい)を含み、女偏は、「叔母・叔母」との関係性を表す。 意味を広げるとは、叔父・伯父の子まで含めるということである。 次に「かたし」は一般の漢和辞典には採用されていないが、「堅し」は「屹立」する姿に通じ、また「かたくなさ」として「愚か」に通じ、さらに揺るぎない猛獣の姿にも通ずるから、一定の説得力がある。 ここでは「甥」は勿論ありえず※※、「祢疑山に渡る」を連用修飾する副詞だから、戦いに決然と向かう姿を表す語として「かたく」と訓むことは可能である。 またその様子を「ひたすら」などと意訳することもできよう。 あるいは「便」を、「都合よく」という意味を暗に込めて「すなはち」と訓読することに倣えば、 「侄」にも「決然と」の意味を暗に込めて「すなはち」と訓むことも許されるかも知れない。 ※…『大漢和辞典』(大修館書店。1955~1990) ※※…垂仁天皇の系図には、景行天皇の兄弟の子は示されていない(第116回)。 《素旗》 後世、源氏が白旗を掲げて戦ったように、白旗は様々の勢力の旗として用いられた。 それとは別に、白旗は降伏の表現に用いられた。 <wikipedia>『常陸国風土記』の行方郡のくだりには、降伏の意図で「白幡」をかがけた</wikipedia>というので確認すると、原文は以下の通りである。 寸津毘古当二天皇之幸一違レ命背化 甚无二粛敬一。爰抽二御剣一 登時斬滅。於是寸津毘売懼悚心愁、 表挙二白幡一迎レ道奉レ拝。 〔キツヒコは天皇の命を違え、背いて全く敬わなかったので殺された。キツヒメは恐ろしくなり、白旗を高々と掲げて道に迎え拝みまつった。〕 この時代の文献から白旗の意味が、現代の我々に違和感なく伝わってくることは興味深い。 思い起こされるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦における『白旗の少女』の実話である。命を失うかどうかのぎりぎりの局面で、 降伏を敵に明確に伝える行為は極めて重い。 限界状況における白旗は、人類に備わったほとんど先天的な意思表示法であろう。 《豊前国の地名》 周防国佐波(さば)郡は、現防府市と、山口市の東部。次に豊前国京都郡は、現在は福岡県東部行橋市付近。 神夏磯媛が船でやってきたことから見て、豊前国までは海路を用いたと考えられる。 菟狭川・御木・高羽川のうち、菟狭川が宇佐川であることはほぼ確かだが、他の三川と現代河川名との対応は不明である。 《豊前国の四族の制圧》 四族はいずれも山中に籠り要害の地を拠点とし、その攻略は容易ではない。 一計を案じて、まず麻剥を一本釣りして勧誘し、贈り物を与えて信用させ、残りの三族も優遇するから連れてこいと言って誘い出した。 誘いに乗って一族を連れて来たところを一気に殺した。 強敵と戦うとき、一部を懐柔して突破口とする手法は、現代の国際・国内政治でも普通に見られる。 その間、天皇は周防国佐波郡で待機し、結果を見届けた後に渡海し、豊前国京都郡に行宮を設置した。 京都郡から宇佐郡までは相当離れているから、「京」の地名譚は語呂によって観念的に作られた印象である。 《神夏磯媛・速津媛》 女性の首長が山間部の諸族を束ねているようすから、古代はそのような社会制度であったかと思わせる。 記紀の時代にも太古の部族社会の記憶が、大国主伝説の高志国の女王・沼河比売などの伝説として残っていたと見られる。 神武即位前の、名草戸畔、丹敷戸畔も女性首長であった第97回)。 中央から離れた地域では、まだ弥生時代の社会制度が残っていたという見方もできるが、 神武東征で使われなかった素材がまだあり、初めてここで使われたとも考えられる。 《柏峡》 豊後国風土記によれば「直入郡」に、柏原郷・宮處郷の二郷がある。 しかし〈倭名類聚抄〉{豊後国・直入郡}にあるのは{三宅郷/直入郷/三宅郷}で、柏原郷はない。 現代地名としては、柏尾(かしわお)が岐阜県など3か所にある。「柏峯(を)」の意味か。 峡は「はざま」で、古訓にも「を」はない。「峡」を「を」と訓む根拠はなかなか見つからないが、少なくとも現代では、そう訓まれている。 《次于柏峽大野》 「次」については、歳次(もともと木星が位置する星座)を「ほしのやどり」と訓む例がある。「席次」は「歳次」と同様の使い方。 「滞在」を意味する「次」は、万葉集には一例ある。(万)1292 江林 次完也物 えばやしに やどるししやも〔江林=海岸沿いの林。完は宍の誤用で、イノシシ・シカ〕。 これ以外は「宿」が使われている。また「次」には、軍隊の宿営の意味もある。ここでは皇軍の軍事行動中だから、これに該当する。 一方、『豊後国風土記』は、この部分を「幸于柏峽大野」としている。この方が一般には分かり易いだろう。 これは風土記による置き換えと思われるが、当時の書紀の写本に「幸」とするものがあったのかも知れない。 《志我神・直入物部神・直入中臣神》
『釈日本紀』巻十述義六は、神名帳から{筑前国/糟屋郡/志加海神社三社【並名神大】}を見出しているが、 豊後国とは離れすぎている。ただ、神が勧請されて他の土地に同名の神社ができることは珍しくない。 《日向国へ》
熊襲梟帥の名、アツカヤ・サカヤは、物語の「醇酒=あつさけ」に因んだ名前かも知れない。 登場人物の名は、しばしば物語の内容に関連している。例えば、神武即位前紀で、高倉下(たかくらじ)という人物は、庫裏(高倉の下)に剣があるのを見つけた。 私記の「からきさけ」「かたさけ」という訓は、そこまでは意識をしていないようだ。 《儒教的道徳観》 「断父弦」の意味は、「父との絆を断つ」である。 そのように決断して娘は父を殺したが、その行為は罰せられるべきものであった。 ここから忠よりも孝を優先するのが、書紀の道徳観であることが分かり、興味深い。 「孝」の古訓に「うやまふ」「たかし」「かしこまる」があるが、どれも、忠孝思想における「孝」を表現するには不十分である。 この文中では「うやまふ」でも通じるが、それでも徳目としての「孝」は表現しきれないから、音読みが適切だろう。 《火国造》 女性が国造になったのは興味深い。これも、古くは女性首長の社会であったことの反映かと思われる。 しかし、どの名前にも「鹿文」がついて似通っている。また、女性名なのに「め」がつかない。原型は弟が兄を誅して服従するという定型通りだったのかも知れない。 なお〈国造本紀〉では、「火国造。瑞籬朝、大分国造同祖志貴多奈彦命児、遅男江命、定賜国造。」とあり、 志貴多奈彦命の男子、遅男江命が火国造の祖となっている。 《物語の特徴》 厚鹿文・迮鹿文の兄弟が首領であるから、弟が天皇に服従して兄を誅すといういつものパターンかというと、 ここでは趣が違う。 登場するのは熊襲梟帥の二人の娘だが、兄弟のどちらの娘かは、不明。 熊襲梟帥をおびき出すために娘を誘拐したが、おびき出す前に姉は勝手な判断で父を謀殺してしまう。 それでも厚鹿文・迮鹿文のどちらかが生き残っているはずだが、話はこれっきりで後のことは分からない。 結末の定型としては、妹が妃として納められるはずだが、火国造として送られる。これも異例である。 娘が父を謀殺するところはインパクトがあって面白いが、話の筋そのものにはいくつかの疑問が残る。 《大意》 十二年七月、熊襲(くまそ)は背き、朝貢しませんでした。 八月十五日、筑紫(ちくし)に出陣しました。 九月五日、周防(すおう)国の娑波に到着しました。 時に天皇は南方を望み、側近たちに、 「南方に煙が多数立ち上るから、敵がいるだろう。」と仰り、 直ちに一行を留め、まず、多(おお)臣(おみ)の先祖の武諸木(たけもろき)、国前(くにさき)臣の先祖の菟名手(うなて)、物部君(もののべきみ)の先祖の夏花(なつはな)を遣わし、 その様子を観察させました。 ここに女人がおり名前を神夏磯媛(かむなつそひめ)といい、その配下の者たちの数は非常に多く、一国の首領です。 天皇の使者が到来したと聞き、磯津山(いそつやま)の榊を抜き、 上枝(ほつえ)に八握剣(やつかのつるぎ)を懸け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を懸け、 さらに白旗を舳先(へさき)に立て、 参上してこう申し上げました。 「願わくば、皇軍を差し向けられませぬように。私の仲間は絶対に背くことはないので、これから天皇の徳に帰順いたします。 ただ敵対する者がまだおり、 一つ、鼻垂(はなたれ)は、勝手に名を賜ったと称し、山谷に騒ぎ群がり、菟狭(うさ)川の川上(かはかみ)に仲間を集めており、 二つ、耳垂(みみたれ)は、その他の敵を漁って集め、しばしば民を略奪し、御木(みけ)川の川上におり、 三つ、麻剥(をはぎ)は、密かに徒党を集め、高羽川の川上におり、 四つ、土折猪折(つちおりいおり)は、緑野川の川上に隠れ住み、ひとり山川の険しさを頼りに、多数の民を掠奪しております。 この四人は、その拠点は要害の地が並び、よって各々が眷属(けんぞく)〔一族〕を治め、その地の長(おさ)となっています。 皆は、『皇命(おうめい)に従わず。』と申しております。願わくば、速やかに彼らをお撃ちください。時を失ってはなりませぬ」と。 そこで、武諸木(たけもろき)らは、まず麻剥の勢力を勧誘しました。 すなわち、赤衣(あかごろも)、袴をはじめ、種々の珍しい物を与えられ、かねて従わずにいた三人を差し招かせました。 そこで、各々の勢力を率いて参上したところ、悉く捕えられ殺されました。 天皇は遂に筑紫に出でまし、豊前国(とよくにのみちのくちのくに)の長狭県(ながさあがた)に到り、 行宮を立てて滞在され、よってその所を名付けて京(みやこ)といいます。 十月、碩田国(おほきたのくに)に到りました。 その地形は広大でまた麗しく、よって名を碩田(おおきた)と言います。 速見邑(はやみむら)に到り、女人がおり名前を速津媛(はやつひめ)といい、一定の土地の長(おさ)です。 天皇がいらっしゃったと聞き、自らお迎えしてこう申し上げました。 「この山に大きな石窟(いわや)があり、その名を鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛(つちぐも)がおり、その石窟に住んでおりまして、 一人目は青、二人目は白と言います。 また、直入県(なおいりのあがた)の祢疑野(ねぎの)に、三人の土蜘蛛がおり、 一人目は打猿(うちざる)、二人目は八田(やた)、三人目は国摩侶(くにまろ)といいます。 この五人は、揃ってその為人(ひととなり)は強暴で、また、大勢力です。 皆『皇命には従いませぬ。』と申します。もし強いて召喚すれば、兵を挙げて対抗するでしょう。」と。 天皇はこれは具合が悪いと思われ、それ以上進行できず、来田見邑(くたみむら)に留まり考えた結果、ひとまず宮室(みやむろ)を立てて滞在されました。 そして側近の者に議り、 「今多くの兵どもを動かして、土蜘蛛を討ちたい。 もし、我が兵の勢いを恐れれば、山野に隠れるであろう。これは必ず後の憂いとなる。」と仰りました。 そこで、海石榴(つばき)の樹を採り、石椎棒(いしづちぼう)を作り武器としました。 そして、勇猛な兵士を選び、武器としてに石椎棒を授け、山に穴を掘り、草を開かせ、 石室の土蜘蛛を襲って稲葉川の川上に破り、悉くその勢力を殺し、血が流れ踝(くるぶし)に達しました。 そこで、時の人はその海石榴(つばき)を石椎棒に作った場所を海石榴市(つばきち)といい、 また血が流れた処(ところ)を血田(ちだ)といいます。 さらに打猿を討つために、ひたすら祢疑山(ねぎやま)に渡りました。 その時、敵の矢が山から横に射られ、官軍の行く先に流れ雨の如きでした。 天皇は、再び城原(きはら)に戻って上流で占い、 兵の体制を整え、先に八田を祢疑野で撃ち破りました。 その結果、打猿はもう勝てないと思い、服属を請うたのですが 聞き入れられず、皆、谷に自ら身を投じて死にました。 天皇が、初めに敵を討とうとしたとき、柏峡大野(かしはをのおほの)に宿営されました。 そこに長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の石がありました。 天皇はこのように祈られました。 「もし朕(ちん)が土蜘蛛を滅し得るなら、この石を踏みつければ、柏葉ように舞い上がるであろう。」 そのように踏みなされたところ、柏葉のように大空に上がりました。 よって、その石は踏石(ふみし)と名付けられました。 この時祈った神は、志我(しが)神、直入の物部神、直入の中臣神の三柱の神です。 十一月、日向(ひむか)国に到り、行宮を建てて滞在され、これを高屋宮といいます。 十二月五日、熊襲(くまそ)を討つ計画を議られました。 そのとき、天皇は側近にこう仰りました。 「朕が聞くには、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(せかや)がおり、 この二人は熊襲(くまそ)の魁帥で、その勢力はとても多い。 そこで思うに、熊襲の勢力と鋒(ほこ)を交えてはならぬ、 少ない軍勢では、敵を滅ぼしきれず、多くの軍勢を動すと、民を害することになってしまうと思う。 どうしたら鋒の刃の威力を借りずに、この国を平定することができるか。」と。 その時、一人の臣が進言しました。 「熊襲梟帥(くまそたける)に二人の娘がおり、 姉は市乾鹿文(いちふかや)、妹は市鹿文(いちかや)といい、 容姿は既に端正にして、心はまた雄々しい者たちです。 よろしければ厚い賂(まいない)を示して差し招き、麾下(きか)に納めなさいませ。 そうすれば、熊襲梟帥はその消息を求め、思わぬところまで来てしまい、よって敢えて刃を血で染めずして敵は必ず自ら敗れるでしょう。」と。 天皇は「そのようにせよ。」と仰りました。 ここに賂を示し、その二人の娘を欺いて幕下に納めました。 天皇は市乾鹿文のところに通い偽って愛で、 ある時、市乾鹿文は天皇に申し上げました。 「熊襲が服さないことを憂うることはありません。わらわに良い謀(はかりごと)がございます。 一人か二人の兵士を私に従わせてください。」 このように申し上げて実家に帰り、大量の醇酒(じゅんしゅ)〔濃い酒〕を用意し自らの父に飲ませ、 父は醉って寝入りました。 市乾鹿文は密かに父との緒を断ち、 従ってきた兵士一人に指示して熊襲梟帥を殺させました。 天皇は、その不孝の甚しきを憎み市乾鹿文を誅殺し、 妹の市鹿文に火国造(ひのくにのみやつこ)を賜りました。 まとめ 景行天皇が親征してみたら、豊前・豊後は女性の首長を戴く古代的な社会であった。 まるで、神武天皇の即位前に戻ったかのようである。 物語自体については、はじめは神夏磯媛の船に立てた榊に幣帛が懸けられた様子などを、細かく書き込んでいる。 しかし、市乾鹿文による父の謀殺の辺りまで来ると、筋が荒くなっている。 このように、次第に雑になっていく印象を受ける。 物語の舞台については、直入郡内の戦いは地名に現実感があるが、それ以外は漠然としている。 これらの特徴は、後から親征を、作為的に盛り込んだ結果かも知れない。 書紀では、この地方の制圧は国の形成における重要なトピックだから、記のように日本武尊に任せきりにせず、天皇主導の事績にすべきだと考えたのだろう。 そのために、素材となる伝承を集めたが、あまり芳しくないものも混ざっている印象である。 それでも、纏向政権が九州に侵攻して支配域を広げた歴史的事実は、間違いなく存在した。 だから、たとえ天皇親征自体はフィクションであっても、政権軍と土着勢力との間にさまざまな戦闘は存在し、 そのいくつかの言い伝えが素材となったと想像することができる。 ただ女性首長制の古い社会も描かれるので、神武東征からこぼれた話も紛れ込んだのかも知れない。 |
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2016.06.10(fri) [07-02] 景行天皇紀2 ▼▲ |
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04目次
【豊国別皇子】
十三年夏五月、悉平襲國……〔続き〕 05目次 【日向国】 《日向国から火国まで》
二人の名前が兄熊津彦(えくまつひこ)・弟熊津彦(おとくまつひこ)であることは文脈から分かるが、省略した書法になっている。 神武天皇の頃は兄が反逆し、弟は恭順するパターンだったが、ここでは逆転していることが注目される。 《熊襲》 「襲」に対応する地域名は、〈倭名類聚抄〉{大隅国・囎唹【曽於】郡}〔そおのこほり〕がある。 襲に対する戦いについては、何も書かれていない。 《水嶋》 『万葉集註釈』〔仙覚、1269年〕巻第三、二四六。 「風土記云 球磨県 々乾七十里 海中有レ嶋 積可二七里一 名曰二水嶋一 嶋出二 寒水一 逐潮高下云々」 〔球磨県、県(あがた)の乾(北西)に七十里(さと)の海中に嶋有り、積(ひろさ)七里可(ばかり)、名は水島と曰ひ、嶋に寒水(しみづ)出で…〕 《不知火》 不知火は、古くから八代海・有明海の怪奇現象とされてきたが、大正・昭和の時代になって蜃気楼の一種であろうとする考えが受け入れられている。 旧歴の八月朔日ごろは、大潮により広がった干潟が高温となり、水温との温度差が大きくなって大気に密度の不均一が生じ、漁火(いさりび、漁船の灯火)が屈折して大量の光源があるように見えるという。 風土記・書紀の記事から、その時代には既に、八代海の不知火が知られていたことが分かる。 《火の国》 「火の国」は律令国として肥前・肥後が定められる以前の、広い地域の呼称であった。ただ、八代県の狭い範囲もまた、火の国と呼ばれていたことがわかる。 このように同一地名が広域・狭域に使い分ける例は、多数ある。 このことは、「火国」とは別に「阿蘇国」が書かれていることから明らかである。国造本紀の火国造・阿蘇国造も、その区分による。 「火国」が、阿蘇山によることは明らかで、不知火を理由とする地名譚は後付けであろう。 『釈日本紀』巻十引用の『肥後国風土記』逸文は「本与二肥前国一合為二一国一」〔元肥前国と併せて一国〕とした上で、 肥後の国号の由来について、次のように述べる。 ① 益城郡の朝来名峯の土蜘蛛、打猿・頚猿を健緒組〔人名〕に命じて殺させたとき、「其夜虚空有レ火自然而燎稍々降下着焼二此山一」 〔夜空に火が自然に燃え広がり、徐々に降下して山に着いて焼いた〕。天皇は、この恠(あや)しい火の下の国だから、火の国と名付けた。 ② また、火国八代郡火邑の「未審火」は「所レ燎之火非二俗火一也」〔燃える火は人の火ではない〕と天皇は群臣に仰った。 そして、「因一此等文一可レ謂レ有二二義一歟」〔これらの文により、二義ありというべし〕と、 両説を併記する。 《夷守》 魏志倭人伝において、対馬国・一支国・奴国・不弥国の副官が「卑奴母離」とされる。 当時、帯方郡を窓口としての魏国との外交関係は成立していたが、帯方郡は三韓地域の住民を十分掌握していたとは言えず、 情勢は不安定だった。鄙=辺境を守るために夷守が置かれたのは必然であった。 越後国は、東北地方の蝦夷を日本海岸沿いに制圧していく前線に当たる。その後、征圧した地域から出羽国が分離独立するなどの動きがある。 最前線に置かれた夷守が、郷の名として残ったと考えられる。 美濃国の比奈守神社が、国境地帯であった確証はないが、草薙の剣が尾張国の熱田神宮に置かれていることから、 尾張国・美濃国が東の境界であった可能性がある。 一方、上総国の発生期前方後円墳や、志布志湾沿岸の古墳群から見て、早期から海路で遠隔地に渡り、陸路に先立って飛び地として植民地が築かれた可能性がある。 志布志湾とは別に、日向国の西都原古墳群の辺りに東海岸から上陸した動きも見える。 現在小林市にある夷守という地名も、その近くに夷守が置かれたと思われる。この場所は南九州への前線である。 夷守が東国進出前の国境を示すと仮定すると、図の範囲が当時の勢力圏ということになる。 《阿蘇国から御木国》
『肥後国風土記』逸文、阿蘇郡の項にはのように書かれる。内容は、景行天皇紀とほぼ同じである。
《三池郡》 倭名類聚抄では、「みけ(御毛)のこほり」。後に三池郡。書紀の地名譚は、御木(みけ)が倒れた言い伝えによるとする。歌の枕詞「朝霜の」がかかるのは「け」だから「みけ」は確定している。 前回、神夏磯媛到来の段に、御木を「みけ(開)」とする訓注があったから、筑紫国巡幸の段に於いては完全に「木=け」である。 〈時代別上代〉は、「木=け」は書紀の筑後・豊前の地名にあるという事実のみを示し、「方言だったかも知れない」と書く。 《生葉郡》
盃がないことに気付いたときに「盞(うき)はや?」〔ウキはどうしたのか?〕という言葉を発したことをもって、由来としたのであろう。 地方語については風土記の方が真実に近いと思われるから、ウキが正しいのだろう。 《郡と県》 景行天皇が巡狩(じゅんしゅ)した地名は、概ね奈良時代以後の郡名に対応している。 「国―評(こほり)―五十戸(さと)」の階層が制度として明確になったのは、孝徳朝の650年ごろと考えられている。 その後、680年ごろに五十戸が里に、701年に評が郡に改められる。(『飛鳥の木簡』市 大樹、中公新書) 書紀が完成した720年には、郡になっていたが景行天皇の時代を考慮して縣を用いたと思われる。 縣の古訓にもコホリがあるので、コホリと訓むべきかとも思えるが、 「水沼縣主」なる語が出てくる。この縣主をコホリノミヤツコと訓むのは苦しく、普通にアガタヌシと訓むとすれば、縣もアガタとなる。 また的邑、御木国もあるので、全体として国・郡・郷の階層が確立する以前の、古色蒼然とした呼称をわざわざ用いたと見ることができる。
《経路》 筑紫島の制圧に来たはずだが、日向国に入ると戦闘は球磨郡の弟熊津彦と玉名郡の津頰のみで、全体としては風土記のような趣になっている。 順路は、日向国から肥後国、肥前国、そして筑後国に到る。その全体が「巡狩筑紫国」で表されるので、 筑紫国は、筑前・筑後に限らず九州全体の地域名を意味する場合もあることが分かる。 また、ここでは「百寮蹈其樹而往来」の言葉が注目される。この地方には装飾古墳が多く、独自の文化圏があった。 その一族が畿内に移ってそこでも装飾古墳に与り、交流は活発だったと思われる。 朝鮮半島にも近く、朝廷からの使節も頻繁に訪れたことが、この言葉に現れている。 総じて肥後・肥前・筑後の巡狩には物見遊山の雰囲気が感じられ、大和政権初期からその支配下にあって安定していたのであろう。 《大意》 十七年三月十二日、 子湯県(こゆのあがた)に出でまし、丹裳小野(にものおの)にあそばし、 その時、東を眺めて側近に 「この国は日の出る方真っ直ぐ向かっている。」と仰りました。 故に、その国を名付けて日向〔ひむか、後にひゅうが〕といいます。 この日、野のゆるやかな傾斜を登り、大きな石に突き当たり、 都を思い出して歌を詠まれました。
この歌は、国偲び歌といわれます。 十八年三月、天皇は都に向かおうとされ、 その途上、筑紫の国々を巡幸されました。 始めに夷守(ひなもり)に到った時、石瀬川の川辺に群衆が集まりました。 これを遙かに望み、側近に 「あの集まりし者は何者か、もしや敵か。」と仰りました。 そして兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の二人を派遣し調べさせました。 そして弟夷守が戻り、ご報告申し上げました。 「諸県〔むらかた、今のもろがた郡〕の君、泉媛(いずみひめ)は、大饗〔おおあへ、もてなしの会食〕 を献上するために一族が集まっている様子です。」と。 四月三日、熊県〔くまあがた、球磨郡〕に到着しました。 その場所に、熊津彦の兄弟二人がいました。 天皇は、まず兄熊〔=兄熊津彦〕を召喚させたところ、使者に従って詣でました。 よって弟熊〔=弟熊津彦〕も召喚しましたが来ず、よって兵を遣わして誅殺しました。 十一日、海路経由で葦北〔あしきた郡〕の小島に泊まり食事を進められ、 その時に山部(やまのべ)の我孫子の先祖、小左(おひだり)を召し、冷水を求めました。 たまたまその時に島の中に水は無く、どうしてよいか分からず 天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を仰ぎ祈ったところ、たちまち清水が崖のほとりから涌き出したので、 すぐに酌んで持っていき、献上しました。 よってその島を名付けて水嶋(みずしま)といい、その泉は今なお水嶋の岸にあります。 五月一日、葦北より出航し火国(ひのくに)に到着しました。 そして、日没となったので、夜の暗さに着岸地が分かりません。 遙かに火の光りが見え、天皇は舵取りに「真っ直ぐ火の所を目指せ。」と命じられました。 よって火を指して行き、岸に着くことができました。 天皇はその火の光った場所を捜し、「ここは何という村か。」と尋ねられ、 その国の人は、「ここは八代県(やつしろあがた)の豊村(とよむら)と申します。」とお答えしました。 またその火について「これは誰のところの火か。」と尋ねられました。 けれどもその主を得ず、ここに人によらざる火であることをお知りになりました。 そこで、その国の名を火の国といいます。 六月三日、高来県(たかくあがた)から、玉杵名邑(たまきなむら)に渡られ、 その場所にいた土蜘蛛の津頰(つづら)を殺しました。 十六日、阿蘇の国に到り、その国は郊原曠遠にして〔見渡す限り荒涼として〕、人のいる様子が見えず、 天皇が「この国に人はいるのか」と仰ったところ、 二柱の神がおり、その名を阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都媛(あそつひめ)といい、 たちまち人と化して遊びながら参上し「われら二人がいますよ。どうして誰もいないと仰るのですか。」と申しました。 そこでその国を名付け、阿蘇といいます。 七月四日、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到り、 高田(たかた)の行宮に滞在されました。 その時、倒れた樹があり、長さ九百七十丈で、百寮(もものつかさ)がその樹を踏んで往来しました。 当時の人が詠んだ歌は、
です。 ここに天皇は「これはいかなる樹か。」と問われ、 ある老人は「この樹には歴史があります。 かつて、まだ倒れる前には、朝日に当たり輝く光が杵嶋山を隠し、 夕日に輝く光が、また阿蘇山を覆いました。」と申し上げました。 天皇は、「この樹は神の木であるから、この国は御木国(みけのくに)と名付けるのがよい。」と仰りました。 七日、八女県(やめのあがた)に到りました。 藤山を越え、南に粟岬(あわさき)を遠望され、 「その山は峯や洞を重畳(ちょうじょう)し〔=幾重にも重ね〕、またとても麗しい。 もしや神がその山にいるのでは。」と仰りました。 その時、水沼(みむま)の県主(あがたぬし)、猿大海(さるのおおあま)が 「女神がおります。名は八女津媛(やめつひめ)といい、常に山の中におります。」と申し上げました。 さて、八女国(やめのくに)の名は、これによって起りました。 八月、的邑(いくはむら)に到り、食事をされました。 この日、膳夫(かしわで)等は盞(うくは)を残したので、当時の人はその盞を忘れた場所を浮羽(うくは)と名付け、 今にいう的(いくは)は、その訛りであります。 昔、筑紫では俗に盞(うくは)から名付け、浮羽(うくは)といいます。 十九年九月二十日、天皇は日向から帰京しました。 まとめ 景行天皇の巡狩は夷守を南限とし、大隅国・薩摩国までは足を踏み入れていない。 鹿児島県には志布志湾周辺を除いて前方後円墳がなく、7世紀まで中央政権による支配の外にあったと考えられる。 (古事記をそのまま読む―第42回【大和政権による熊襲征服の歴史】)。 書紀はこれを歴史的事実として認識していたので、景行天皇の時代に大隅・薩摩まで行ったとは、とても書けなかった。 対照的に有明海周辺は、早くから畿内と深く繋がっていたようだ。景行天皇が周防国から海路豊前国に入ったと書かれることから、 その主要な交通路は瀬戸内海であったと思われる。大陸との交流のルートは、相変わらず朝鮮半島であっただろう。 書紀は、最初に「熊襲反之不朝貢」と書き、熊襲を従わせるために親征したとする。その結果は、入り口の豊後国でこそ激しい戦闘があったが、 肝心の熊襲については、「徴弟熊而不来故遣兵誅之」と書くのみで、 熊襲の「襲」に至っては、全くの手つかずである。 帰りに廻った有明海周辺は既に安定した支配地域で、不知火、阿蘇山などを風土記風に描いて帰還する。 結局、親征の目的は達成されなかった。 豊後国では戦闘があったと言っても、昔の神武東征に伴う話が流用された気配がある。 それ以上、戦闘場面を創作して盛り込むことはできなかったと見られる。 書紀では日本武尊に先行して景行天皇の親征があった形に描こうとしたが、結果としてうまくいっていないのである。 |
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2016.06.15(wed) [07-03] 景行天皇紀3 ▼▲ |
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06目次
【親征帰還後】
《五百野皇女》 五百野皇女は、景行天皇と水歯郎女の間に生まれた皇女。記には出てこない。 「令レ祭レ天照大神」 は、斎宮制の継承を意味する。伊勢神宮への皇女の派遣は、記では崇神天皇、書紀では垂仁天皇に始まる (第116回【斎宮】)。 《日高見国》 一方、式内社に日高見神社がある。〈神名帳〉{陸奥国/桃生郡/日高見神社}。 比定社は、日高見神社(宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73)。 この辺りの地域が、日高見国と呼ばれていた可能性はある。 日高見国には黥面文身の習慣があり、着るものは皮衣である。また、後ろの髪を上向きに縛るという特徴のある髪型をしている。 さらに、『天書』(奈良時代末期)によれば、裘〔かはごろも=皮衣〕を着る(資料[08])。 関連して、東山道で蝦夷が騒動を起こして征圧され、その子孫が今も残るとある(第123回) ただ、その首魁の名は和風であった。魏志倭人伝は、黥面文身は広く普及して、氏族ごとに特徴があるという。 神武天皇段でも安曇氏の目の黥が出てきて、(第100回【あめつつちどりましとと】) 宗像氏は「胸形=文身」が語源ではないかとも言われる。 皮衣については、倭人でも山の狩猟民は普通に着ていたかも知れない。 アイヌは4世紀には南下し、倭人との接触は仙台平野と新潟平野を結ぶラインに達したが、 その後北方に戻り、6世紀には東北地方北部の太平洋岸まで撤退したという(『アイヌ学入門』瀬川拓郎、講談社現代新書)。 だから記紀の時代には、日高見国の民はアイヌではなく、倭人の一族であった。 ただし、その風習が畿内とは大きく異なって見えたのは確かである。日高見神社のあたりで4世紀ころアイヌと接触したことが、記憶されているかどうかは何とも言えない。 また、書紀の段階では「日高見国」は、陸奥方面を漠然と指したものであろうが、その後の解釈によって、常陸国信太郡になったのかも知れない。だからこの条ではやはり、アイヌと特定したと考えることもできる。 ただ、神武天皇紀から景行天皇紀の間の「蝦夷」は特定民族というよりも、東日本で朝廷の支配に服しない様々な族を総称すると見る方が妥当である。 奈良時代末になると「蝦夷」は確実にアイヌの意味で使われていたことが、続紀〔797〕の 文武元年〔697〕十月壬午条「陸奥蝦夷貢二方物一。」から分かる。 「方物を貢ぐ」なる表現は、蝦夷を他民族の国として扱っているからである。 《大意》 二十年二月四日、 五百野皇女(いほのひめみこ)を遣わし、天照大神(あまてらすおほみかみ)を祭らせました。 二十五年七月三日、 武内宿祢(たけのうちのすくね)を遣わし、 北陸と東方諸国の地形、人民の様子を視察させました。 二十七年二月十二日、 武内宿祢は、東国より帰還してこう復命しました。 「東夷の中に、日高見国(ひたかみのくに)があります。 その国の人は、男女を問わず椎結〔ついけつ、後頭部のまげ〕し、文身〔体への入れ墨〕し性格は勇悍で、総て蝦夷(えみし)だということです。 またその土地は肥沃にして広大で、攻め取るべきであります。」と。 07目次 【日本武尊西征】 秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止……〔続き〕 08目次 【到於熊襲国】 十二月、到於熊襲國……〔続き〕 まとめ 日高見国は常陸国風土記に特定しようとする動きは見られるが、具体的な国というより、東方にある豊かな土地を象徴的に表現したと見られる。 そして、異文化を持った先住民の存在を認識し、蝦夷の呼称をもつ対象として絞り込まれていったようだ。 武内宿祢は、この豊かな土地を攻め取れと進言するところに、倭人の支配域が陸奥に向かって拡張したとする歴史認識をもっていたことを示す。 武内宿祢の言葉遣いは、先住民を勇悍とし、「撃可レ取」と進めていて勇ましい。 書紀は、神武東征以来、軍事的に蝦夷を制圧したと描き続けていて、東国進出もその流れで書かれる。 しかし、実際はどうであろうか。倭からの植民は、先住民と小競り合いはあっても友好的に進めれたのかも知れないのである。 書紀が書かれた時期が唐の外圧をひしひしと感じ、軍事的に身構えた時代であったことが、東国進出の書きっぷりに反映したということはないのだろうか。 |
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2016.09.16(fri) [07-04] 景行天皇紀4 ▼▲ |
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09目次
【還奏】
未及之死、川上梟帥叩頭曰……〔続き〕 10目次 【大碓命追放】 卌年夏六月、東夷多叛……〔続き〕 11目次 【日本武尊東征】 於是日本武尊、雄誥之……〔続き〕 12目次 【草薙剣】 是歲、日本武尊初至駿河……〔続き〕 13目次 【至甲斐国】 爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國……〔続き〕 14目次 【尾張宮簀媛】 則日本武尊、進入信濃……〔続き〕 15目次 【胆吹山】 至膽吹山、山神、化大蛇當道……〔続き〕 16目次 【崩于能褒野】 逮于能褒野、而痛甚之……〔続き〕 17目次 【日本武尊化白鳥】 天皇聞之、寢不安席、食不甘味……〔続き〕 まとめ 以上の部分で記と相違するのは、大碓命の追放の仕方、甲斐国に入る峠の場所などである。 特に景行天皇が日本武尊を寵愛する言葉については、記には全くないことが大幅に盛り込まれている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.09.17(sat) [07-05] 景行天皇紀5 ▼▲ |
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18目次
【立稚足彦尊為皇太子】
草薙剣は、現在に至るまで熱田神宮の主祭神となっている。その謂れは、『熱田神宮縁起』に詳しい (第131回)。 日本武尊が草薙剣の威力によって東国を制圧したことに因み、天武天皇は熱田社に草薙剣を篤く祀らせた。 これにより、尾張国を東国への睨みをきかせる拠点として位置づけたと考えられる。 よって、ここでも特に「今在二尾張国年魚市郡熱田社一」 と書き添えたと思われる。 《佐伯部》 姓氏録では、応神天皇が播磨国神崎郡瓦村の地に人がいそうなので、伊許自別命に調べに行かせたところ、 このように名乗る一族と出会う。 そして、伊許自別命がその統率を命じられ、針間別佐伯直の姓を賜ったという筋書きの話になっている (第122回【書紀における皇子の裔】)。 この部分が、書紀を直接取り入れたのは明らかである。 「所俘蝦夷」を祖とする言い伝えをもつ一族が、瀬戸内海の周囲に実際にいたのだろうと考えられる。 それを裏付けるように、倭名類聚抄に{讃岐国・大内郡・白鳥【之呂止利】}がある。 江戸時代には白鳥村が存在した。 ただ、部族の移動が事実であったとしても、「その無法ぶりに、伊勢神宮⇒三諸山⇒讃岐国などに移動させられた」という物語自体は、創作であろう。 書紀にはこのように所俘蝦夷が、大変行儀の悪い一族として描かれている。この一族を連れ帰り、事もあろうに伊勢神宮に献上したのは、 日本武尊である。こうやって間接的に責められるところに、書紀が隠そうとしていた本当の感情が滲み出ている。 《大意》 五十一年正月七日、諸卿を招いて宴を開かれ、数日に及びました。 ところが、皇子(みこ)稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、武内宿祢(たけのうちのすくね)、宴の庭に参上しませんでした。 そこで天皇は彼らを召してその故を問いなされたところ、このようにお答え申し上げました。 「その宴楽の日に、諸卿と官僚たちは、必ず心は遊戯にあって、国家にはないでしょう。 もし狂った者がいて垣の裏戸の隙を窺うこともないとは限りません。そこで門の元に待機し非常のことにに備えております。」 それに、天皇は「それで分かった。」と仰り、殊に寵愛されました。 八月四日、稚足彦尊を、皇太子に立てられました。 同じ日、武内宿祢に棟梁の近臣とされました。 初めに日本武尊が帯刀された草薙太刀は、今、尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田社(あつたのやしろ)にあります。 さて、伊勢神宮に献上された蝦夷らは、昼も夜も騒がしく、礼儀もわきまえずに出入りしておりました。 その時、倭姫命は、「この蝦夷らは、神宮に近づくべからず」と仰り、 朝庭に進上し、御諸山(みもろやま)の傍らに、言うことをきかせて住まわせました。 ところが、未だ幾時も経ず、神山の木を悉く伐採し、隣の里に向かって大声で叫び、人々を脅かしました。 これが天皇に耳に入り、諸卿に勅されました。、 「その神山のほとりに置いた蝦夷は、元々獣心があり、畿内に住むことはできぬ。 よって倭姫命の心からの願いの通り、畿外に国を分けて住まわせよ。」 これが、今の播磨(はりま)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・安芸(あき)・阿波(あわ)計五国の佐伯部の祖先であります。 まとめ 日本武尊の死後の後日譚として、熱田神宮神剣と佐伯部の由来を述べる。 何れも、古事記には載っていない。 佐伯部については、<wikipedia>5~6世紀には、東国人の捕虜を讃岐など五国に移し、編成した</wikipedia> と言われるように、 東国から連れて来られた捕虜を、佐伯直(さへきのあたひ)が部民として隷属させた事実が、実際にあったのではないかと考えられている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.10.02(sun) [07-06] 景行天皇紀6 ▼▲ |
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19目次
【日本武尊之御子】
初日本武尊、娶兩道入姬皇女爲妃……〔続き〕 20目次 【東国行幸】 五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨太郎姬薨……〔続き〕 21目次 【大足彦忍代別天皇崩】 五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國……〔続き〕 まとめ 景行天皇の東国行幸は、書紀では倭建命を懐かしんで、その平定した国を巡狩した設定になっている。 これは、記の景行天皇段の最初の「又定二東之淡水門一」の拡張である。 記では、これが倭建命の東征の前に書かれている。 それは、陸路による東日本の制圧の以前に、海路で房総半島の先端に植民していたことを反映しているのではないかと考えたところである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.10.03(mon) [07-07] 成務天皇紀 ▼▲ |
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22目次
【稚足彦天皇】
稚足彥天皇、大足彥忍代別天皇第四子也……〔続き〕 まとめ 記では、極めて簡単な記述となっている。 書紀はそれを詳細化するが、その中で使用された用語、日縦・日横・背面・影面が議論を呼んでいる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [08-01] 仲哀天皇・神功皇后(1) |