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2026.03.23(mon) [30-19] 持統天皇19 ▼▲ |
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38目次 【十年正月~五月】 《饗公卿大夫》
宴は上下一体となった賑やかな酒宴であるのに対して、饗では下の地位の者に一線を画したが如くである。 とは言え〈延喜式〉では「賜宴」に戻っている(下述)ので、〈持統〉紀特有の語法と見るべきであろう 〔書紀としての一貫性を重視するならむしろ誤用というべきか〕。 〈持統〉朝における年頭行事を右表にまとめた。これを見ると、三年間の喪が明けてから徐々に元の形に戻したことが覗われる。 なお、記載漏れの行事も若干あったかも知れない。 〈延喜式-太政官〉では年頭行事として「凡正月七日。賜宴於五位已上」。「凡正月十六日。賜宴於次侍従以上」。「凡正月十七日大射」が見え、〈持統〉朝の行事はこれらの行事日が決まる出発点になったことが覗われる。 なお、〈持統〉紀の「公卿大夫」の範囲が、既に平安時代の定義「公卿:三位以上」、「大夫:五位以上」に合致することは注目される。 さらに「進御薪」が十五日に固定されたことは、既に〈天武〉四年正月《進薪》項で見た。 「蹈歌」については〈持統〉七年正月《踏歌》項で見たように十六日~十七日頃であるが、毎年ではなかったようである。 《百済王南典》
〈天武〉朝の「射」の会場は《射于南門》項参照。〈持統〉十年の会場は、当然藤原宮の「南門」だったはずである。 《幸吉野宮》 この期間においては、二十七、二十八回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《幸二槻宮》 二槻宮については、〈斉明〉二年に「於〔田身〕嶺上両槻樹辺起観、号為両槻宮」 〔田身嶺の上の日本の槻の木の辺りに楼台を建て、両槻宮と名付けた〕とある。 その嶺にはさらに「冠周垣」〔嶺に冠して垣を巡らした〕とされるが、これに相当する石垣列は現在の多武峰には見いだされていない。 むしろ、酒船石遺跡に丘陵を巡るように築かれた四重の石垣が検出されている (《於田身嶺冠周垣》項、 《酒船石遺跡》)。 この酒船石遺跡の考古学的調査結果から見て、「田身嶺」の「観」〔楼台〕と「冠周垣」は実際には酒船石遺跡を指すと見た。 もし石垣で囲まれた内部に楼台の礎石行列などが見つかれば、かなり決定的となる。 「多武峰」考(資料[88])で検討した結果、 多武嶺が大織冠〔藤原不比等〕の霊地とされたのは早くても不比等が右大臣になった708年以降であろうと判断するに至った。 すなわち〈斉明〉二年条に「田身嶺」、〈持統〉七年条の「多武嶺」の文字は右大臣不比等の意向によって書き込まれたことが考えられる。 さもなければ田身嶺は、酒船石遺跡から談山寺まで及ぶ長い峰を指したことになる。 《越度嶋蝦夷伊奈理武志/粛慎志良守叡草》 当時は出羽国はまだ存在せず(和銅五年〔712〕成立)、北陸道以北はすべての範囲が越後国であった。出羽国の成立は和銅五年〔712〕(《越辺蝦夷》)。 この文で「越度嶋」は「粛慎」にもかかるので、 度嶋は現在の北海道渡島半島と見るべきであろう 〔阿倍比羅夫は粛慎からヒグマの毛皮を得たが、ヒグマの生息域は津軽海峡以北である: 《渡嶋蝦夷》、《渡嶋》〕。
蝦夷への書紀古訓は、ずっと「エミシ」であったがここに至り「エビス」となった。平安時代にはエビスが普通の語で、エミシは古語として記憶されていたものが用いられたと想像される。 書紀の第三十巻においては、古訓学者による厳密な検討が不十分であったことの現れかも知れない。 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕によれば、エミシは「人、男を意味するアイヌ語enchiuに由来するという」。 [国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ]によれば、「enciw:ひと、おとこ」。 《粛慎》 八年三月には粛慎二人に「務広肆」を授位した記事が載る。 〈斉明〉六年三月の段階では阿倍臣【闕名】との最初の接触は、渡島蝦夷から手法を学んだ沈黙交易に依るものであったが、間もなく粛慎47人を招いて接待するに至る。 〈持統〉朝では、再び関係を深め〔中華思想における〕諸侯並みの待遇となった。 関係の重要性を意識するようになった一つのきっかけは、〈天武〉五年に新羅使が粛慎七人を連れてきたことであろう。 そのとき新羅が北海道に触手を伸ばしていることに気づき、粛慎を日本の勢力圏内に囲い込むことを意識するようになったと考えた。 《錦袍袴/緋紺絁/斧》 ● 錦〔にしき〕は「経 ● 袍袴は、《袍袴》参照。 ● 絁〔ふときぬ〕は、〈時代別上代〉によれば「ふときぬ」は「太い糸で織った荒い絹」、〈延喜式〉にはさまざまな「布帛の名」があるが、「実物についての詳細は不明である」という。 結局、「太い糸で織った」絹であること以上には、詳細なことは分からない。 ● 斧については、日本武尊東征段に 「持斧鉞、以授日本武尊」、 〈壬申〉15段「授斧鉞拝将軍」においては、 斧鉞を授けることは、将軍に任命するという意味がある。ここで斧を与えたのはそれに類する意味があろう。 袍袴の授与が朝廷に出仕を任じたことの表現であることと斧が将軍の任命であることを併せて考えると、中華思想によって周辺の族が諸侯となって国家に形式的に服属する形態を表現するものと考えられる。 〈斉明〉朝で阿倍比羅夫が切り拓いた北方との関係を、再確認する意義があろう。 〈孝徳〉朝の頃の国家の境界線は磐船柵(《越辺蝦夷》項)のあたりで、〈天武〉〈持統〉朝ではこの範囲には仏教が広められるなどして律令国家への同化が推進されていたようである(〈持統〉三年三月の《城養蝦夷脂利古》、《越蝦夷沙門道信》)。 〈斉明〉朝では飽田(秋田)、渟代、津軽に名目上とはいえ「郡」〔実際は評〕を置き、緩い友好関係で囲い込まれたと見られる。 出羽国が分離するのは和銅元年〔708〕で、それまでは「越」はその北方の広大な地域まで広がっている。 奈良・平安時代には実効支配の及ぶ範囲は秋田城あたりまで後退した(資料[72]飽田郡)。国家の法制に従わせることを急いだ結果反発を招いたと見られる。 《祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《伊予国風速郡/肥後国皮石郡》
伊予国風速郡(風早郡) 伊予国風速郡(風早郡)は、現在の松山市の北部。 《物部薬/壬生諸石》
白村江の役〔663〕(天智二年八月)の時期に、百済戦線で捕虜となって唐に送られたと思われる。〈持統〉十年〔696〕はそれから33年後。 九年三月の新羅使が連れてきた可能性もあるが、それを思わせる記述は全くないので未知数である。 《秦造綱手》
その是非を検討するために、〈持統〉紀で贈位・賻物が記載された臣を右表にまとめた。 すると結節点にあるのが若桜部朝臣五百瀬で、その「元従之功」は〈壬申〉紀と合致する。 よって佐伯宿祢大目、大伴宿祢友国、文忌寸智徳の贈位・賻物も同じく元従之功によることとなろう。 逆に蚊屋忌寸木間には〈持統〉紀に「壬申年之役功」があるが、〈壬申〉紀にはこの名前は出てこない。その「功」の中身は不明だが、功臣であったことは確定する。 両者ともに記述されないのが赤麻呂と百枝だが、この表全体を見ればこの二名も同様に壬申の功臣であったとすることに妥当性はある。 結局〈持統〉紀の書き手は、壬申の功臣への贈位・賻物のすべてにその旨を記す丁寧さを欠いていたようだ。 《大意》 十年春正月七日、 公卿大夫に饗(きょう)されました。 十一日、 直大肆(じきだいし)位を百済王(くたらのこんきし)南典(なんてん)に授けられました。 十五日、 御薪(みかまき)を進上しました。 十六日、 公卿、百寮の人らに饗されました。 十八日、 公卿、百寮の人は、南門で弓射しました。 二月三日、 吉野宮に行幸されました。 十三日、 吉野から帰還されました。 三月三日、 二槻宮(ふたつきのみや)に行幸されました。 十二日、 越(こし)の度嶋(わたりしま)の蝦夷(えみし)伊奈理武志(いなりむし)と 肅慎(みしはせ)志良守叡草(しらすえそう)に、 錦の袍袴(ほうこ)、 緋(ひ)紺(はなだ)の絁(あしぎぬ)、 斧などを賜りました。 四月十日、 使者を遣わして広瀬の大忌(おおいみ)の神と龍田の風の神の祭祀をさせました。 二十七日、 追大弐(ついだいに)位を伊予国の風速(かざはや)郡の物部の薬(くすり)と 肥後国の皮石(かわし)郡の壬生(みぶ)の諸石(もろし)に授けました。 併せて一人ごとに絁(あしきぬ)四匹(むら)、 糸十絇(め)、 布二十端(むら) 鍬(くわ)二十丁、 稲千束(つか) 水田四町を賜り、 それぞれの戸の調役を赦免し、 以って久しく唐の地で苦しんだことを慰労されました。 二十八日、 吉野宮に行幸されました。 五月三日、 詔して大錦上(だいきんじょう)秦造(はたのみやつこ)綱手(つなて)に 忌寸(いみき)姓を賜りました。 四日、 吉野から帰還されました。 八日、 直広肆(じきこうし)位を尾張宿祢(おわりのすくね)大隅(おおすみ)に授けられ、 併せて水田四十町を賜りました。 十三日、 直広肆(じきこうし)位を大狛連(おおこまのむらじ)百枝(ももえ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました。 39目次 【十年六月~十二月】 《幸吉野宮》
二十九回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《日有蝕之》 十年七月辛丑朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。 《祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《後皇子尊薨》
以前、草壁皇子に「尊」をつけたのは即位対象者として他の皇子から峻別するためであった。 草壁皇子への継位は皇后の意向のみならず、〈天武〉紀で既に「皇子尊」と称されているので〈天武〉自身の意思でもあったと思われる。 「皇太子」の称を避けた背景には、大津皇子擁立派がまだ数多かった中で軋轢 その後、草壁皇子が薨じた時点では尊は本来は美称なので、「皇子尊」を名乗る者はもういないと〈持統〉は考えていたかも知れない。 しかし、周囲では空位となった「皇子尊」の称を負うのは誰かという議論が始まってしまい、結局太政大臣であった高市皇子を「皇子尊」と呼ぶことに落ち着いたという成り行きが想像される。 この時点で、高市皇子支持勢力の中心は壬申の功臣たちではないだろうか。 〈天武〉が即位して以後、壬申の功臣は新しい世の出発点である壬申の乱の、生きた記念碑であることのみが存在意義とされた。 律令国家作りのためには実務能力のある文官が登用が求められ、功臣はむしろ政権中枢から遠ざけられた 〔豊臣政権末期において、実務処理能力に長けた石田三成が重用され、武勇に優れた福島正紀などの反感をかったことが想起される〕。 それは、大伴吹負の冷遇に伴い大伴連への賜姓において朝臣姓が得られず宿祢姓に留まったことにも表れている。 さて、壬申では軍監として全軍を勝利に導いた高市皇子の立ち位置は、壬申の功臣の側であろう。 よって高市皇子への皇位継承を未だ強く望んでいたの壬申の功臣たちであり、高市皇子を後皇子尊と称して尊敬の対象としたのは彼らへの融和策であったと考えられる。 〈持統〉天皇にとっては卑母の子である高市皇子よりも、自ら腹を痛めて生んだ草壁皇子の遺児の方が可愛いというのは人情である。しかしそれよりもむしろ、 壬申の功臣は棚上げにして律令国家を築く実務能力に優れた官僚を中心に据えるのが時代の要請であったということであろう。その担い手は大宝律令を撰定したメンバーとして名前が挙がる藤原不比等たちの一群であったと考えられる。 そして高市皇子が薨じた今、遂に軽皇子即位〔〈文武〉天皇〕への道が大きく開けることになった。 《多臣品治/若桜部朝臣五百瀬》
若桜部朝臣五百瀬の功績とされた「元従之功」とは、〈壬申〉において大海人皇子に初めから従っていたことへの功績(上述)。 多臣品治の場合は、大海人皇子が吉野宮を発つ前に既に皇子の指示により美濃国安八磨郡で作戦行動に着手していたことを指す(【元年六月二十二~二十四日】)。 ここでも文章は端折られ、本来なら「於壬申年之役」を加えるべきである。 《丹比真人》
書紀古訓は「致」を「オイテマカル」すなわち、"老いて罷る"〔老齢による引退〕と読んでいる。 しかし、丹比真人嶋は四年後の〈文武〉四年には左大臣に昇進するので、この読み方は完全に事実誤認である。 「哀」の意味は、必ずしも悲しみに限らない。 魏志倭人伝71回「是汝之忠孝我甚哀汝」では 明帝が卑弥呼を愛しむ意である。この場合は帝が臣下への親愛の情を表す語として「哀」が使われる。 倭語でも、(万)1285「春日尚 田立羸 公哀 はるひすら たにたちつかる きみしかなしも」では、カナシは悲しさではなく可愛さを表す。 それでは、「哀致事」の場合はどうであろうか。 「致事」は、『礼記』曲礼上「大夫七十而致事」のように、引退する意味に使われるのは確かである。 一方『周礼』天官冢宰「歳終、則令二百官府各其治一、受二其会一聴二其致事一」〔年末にあたり、諸官府に命じて、会したときに「致事」を報告させた〕においては、 この年に実施した事柄を意味する。いずれも「致」自体は「ことをなす」意味であって、文脈によってそれぞれの意味をもつわけである。 ここでは輿と杖を賜るというから、年齢とともに足腰が弱っていたのであろう〔当時73歳〕。 よって「致事」〔いたすこと;=職務〕のための移動が困難になったことを心配して「輿」〔及びその運び手〕と「杖」を賜ったのである。 実際の経過ではこのときは引退していないから、「哀」は歩行が大変なのに働いていることを思いやる言葉で、 むしろ、輿と杖を賜るからこれからもしっかり働いてほしいと読める。 そもそもこの直後に「仕人」、すなわち手足となって働く人120名を賜るのだから、右大臣は現役ばりばりである。 〈釈紀〉によると、「オイテマカル」は『日本紀私記』に基づくという。だがその日本紀講筵参加者は、丹比真人嶋がこの時引退するどころか後に左大臣に就任したことを無視していたことになる。 《仮賜》 仮授は〈汉典〉によれば「非正式授与官職」という。よって仮賜も「非正式に賜る」か。とすれば、正規の定員外の仕人となる。 ただ、〈持統〉朝の頃に既に定員が厳密に決められていたとは考えにくい。 むしろ、官員はすべて公に所属するものであって、 そこから一定の人数を"仮に"〔=臨時に〕高位の人の私用に割り当てるという考え方によるものであろう。 なお、二人目から後は「仮授」が省略されている。動詞は先頭として次の文以下には省略する書法は、後の〈続紀〉では一般的である。 この書法は、正規漢文として訓読することが困難である。 《阿倍朝臣御主人/石上朝臣麻呂/藤原朝臣不比等》
六年五月《金光明経》項参照。 《大意》 六月十八日、 吉野宮に行幸されました。 二十六日、 吉野から帰還されました。 七月一日、 日蝕がありました。 二日、 罪人を赦(ゆる)されました。 八日、 使者を遣わして広瀬の大忌神と龍田の風神を祭礼させました。 十日、 後皇子尊(のちのみこのみこと)〔高市皇子〕が薨じました。 八月二十五日、 直広壱(じきこういち)位を多臣(おおのおみ)品治(ほむじ)に授け、 併せて物を賜わりました。 〔壬申年の役で〕最初から〔大海人皇子に〕従った功と堅く〔不破〕関を守った事とを褒められたものです。 九月十五日、 直大壱(じきだいいち)位を若桜部朝臣(わかさくらべのあそん)五百瀬(いほせ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜わりました。 最初から従った功を顕(あらわ)すためです。 十月十七日、 右大臣丹比真人(たじひのまひと)〔嶋(しま)〕に輿(こし)と杖を賜わりました。 〔職務を〕いたすこと〔の不自由〕を気の毒に思われたからです。 二十二日、 仕人(つかまつりびと)を仮賜(かし)され、正広参(しょうこうさん)位右大臣丹比真人(たじひのまひと)〔嶋(しま)〕には 百二十人、 正広肆(しょうこうし)大納言阿倍朝臣(あべのあそん)御主人(みあるじ)と 大伴宿祢(おおとものすくね)御行(みゆき)には それぞれ八十人、 直広壱(じきこういち)石上朝臣(いそのかみのあそん)麻呂と 直広弐(じきこうに)藤原朝臣(ふじわらのあそん)不比等(ふひと)には それぞれ五十人でした。 十一月十日、 大官大寺の沙門(しゃもん)弁通(べんつう)に、 食封(じきふ)三十戸を賜わりました。 十二月一日、 勅旨があり、 金光明経(こんこうみょうきょう)を読ませるために、 毎年十二月の晦の日に浄行者十人を度(わた)らせることとされました。 まとめ 〈斉明〉朝に阿倍比羅夫が探索に向かって以来、奈良時代の初めころまでは渡島地域との友好関係が、冊封と言える程度まで深まっていた可能性がある。 ただ、その後の秋田城地域の蝦夷の抵抗によって以北との関係が断たれたことにより、その以前の友好の時期のことには霞がかかっている。 当時の朝廷が岩船柵以北の地域と結んだ関係の実像については、より細密に研究されることが望まれる。 また、高市皇子が「後皇子尊」と呼ばれたことの意味を検討すると、高市皇子を次代天皇に推戴しようとする動きが諸臣の間では相変わらず根強かったことが浮かび上がってくる。 だが、白村江の敗北によって露わになった大国唐の勢いにこれから対抗していくには、律令国家を作り上げることが緊急の課題であることが明らかになった。 官僚群にはそれに資する実務能力を備えた人の台頭が求められている。逆に、壬申の功臣には口出しせずに見守るだけにしてもらわなければならない。それが高市皇子の即位を防ごうとする背景にあったと思われる。 さて、〈持統〉紀はこれのみによって歴史を語る文献としては不完全である。全体像を概ね把握している人だけが正しい意味をとらえることができる言葉が、断片的に並べられた形になっている。 そのため、まず全体の流れを理解してモデルを構築し、個々の語句はそのピースとしてしかるべき位置には嵌めることによって、はじめて正しく読み取ることができる。 |
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2026.04.14(tue) [30-20] 持統天皇20 ▲ |
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40目次 【十一年正月~八月】 《賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者》
[(続9)日付に元嘉暦を適用する試み]によれば、 〈持統〉十一年正月は戊戌朔である。すると「甲辰」は七日となり、六年以後の正月に記載された「饗公卿大夫等」の日付に一致する。 よって「戊戌朔」であったことは確実である。 《鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者》 四年正月《鰥寡孤独》項・《篤癃》項参照。 《当麻真人国見/路真人跡見/巨勢朝臣粟持》
東宮大伝・大夫・亮の任命は珂瑠(軽)皇子の立太子に伴うものと読み取れるが、立太子そのものについての記事を欠く。これについては古くから次のように論じられていた。
書紀に欠落していたのは「史」〔フミヒト〕の失誤とされている。書紀の最終的な責任者は舎人皇子だが、舎人親王が失誤したとは恐れ多くて誰も言えなかったからであろう。 《東宮大伝/大夫/亮》 〈倭名類聚抄〉では「職」における四等官は、「長官:…職曰大夫」、「次官:…職曰亮」と表記される。ところが、ここでは屋上屋を架すが如くに「大夫」〔長官〕の上に「大伝」が置かれている。これはどういうことだろうか。 〈令義解〉には「東宮職員令:伝一人。学士一人。春宮坊:大夫一人。亮一人。大進一人。少進二人。大属一人。少属二人…」とあり、 「春宮坊」という組織の外側に"伝"と"学士"が置かれている。即ちこの組織形態が〈持統〉朝の時点で定まっていたことになる。 大伝・大夫・亮の任命は、軽皇子が正式に東宮と決定されたことに伴うと考えられる。 「東宮」という語自体は〈敏達〉紀が「聖徳」(厩戸皇子)を指して言ったものが初出である。以来皇太子の同義語として使われている。 家政機関としての東宮も当然存在していたと思われるが、〈令義解〉の組織形態が固まった時期は、この〈持統〉十一年二月ではないだろうか。 大夫・亮と大伝との関係については、大夫・亮が春宮坊内の役職であるのに対して、大伝は皇太子の御意向を春宮坊に伝える役目であったと考えられる。 《大伝》 大伝への書紀古訓は「カシヅキ」または「オホキカシヅキ」である。 〈類聚名義抄〉には「傳:ツリ カシツク 倭語カシヅクのカシは一般にカシラと解されているが、 『枕草子』〔国文大観版〕に 「関白殿その御次の殿ばらおはする限り、もてかしづき奉らせ給ふいみじうめでたし」などの用例があり、 平安時代には使われていた。 よって、書紀古訓は平安時代に東宮がカシヅキと呼ばれていた事実を反映したと見られる。 カシヅクのカシは一般にカシラと解されていて、カシラもツクも上代語であるから、カシヅキという呼称が既に〈持統〉の時代から用いられていた可能性はある。 《設無遮大会於春宮》 「於春宮」はの春宮は宮殿を指す。大衆を集める行事によって皇太子に選ばれた人を盛り立てたと見られる。 《満選者》 「満選者」は「選ばれるに値する者」の意だから、優秀な者を選んで進爵させたと読める。 その判断の妥当性を探るために漢籍を見ると、僅かに『太平広記』夢二:「饒陽李瞿曇、勲官番満選」が見つかった。文脈では「饒陽〔地名〕の李瞿曇〔人名〕の勲官が番満〔任期満了〕したので、〔次の職に〕選ばれるとき」の意である。 この使い方に従えば、満選者は単に「進爵位する時期にあたった者」の意となる。 書紀古訓は「カフリタマフヘキ人」〔冠賜ふべき人〕。異訓「…ベイヒト」は「ベキヒト」の音便。 《幸吉野宮》 三十回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 在位中最後。太政大臣になってからの記載は一回だけ。実際にあまり行かなくなったのか、記載漏れかは不明である。 《遣使者祀広瀬与龍田》 《祠風神…》項参照。ここでの文は、極限まで簡略化されている。 《五位以上》
正冠の場合は冠名と位号を組み合わせて、「正正一位」、「正従一位」などと呼ぶ。ならば正四位上は「直正四位上」のはずであるが、 実際には「正四位上」のみで直冠以下は冠名が省略されている。形式的には〈天武〉四十八階の冠名を継承するが、冠名は事実上消滅している。 《掃灑京寺》 掃灑については、〈汉典〉「灑掃:用水噴灑地面,然後進行打掃」、すなわち打ち水して地面を掃く意。 灑については、[国際電脳漢字及異体字知識庫]「① 散二-水於地一、以免二灰塵飛揚一。② 散落、散播。③ 投、拋。〔以下略〕」。 倭読の候補としては、 ア はらふ…[自]ハ四 塵などをはらい除く。 イ はらふ…[他]ハ下二 神に祈って害悪を除く。名詞形はハラヘ。 ウ はく…[他]カ四 掃く。 書紀古訓「ハラヒ」はアの連用形名詞で、心を込めて掃き拭う行為として読んだものと考えられる。 神祇には班幣したことと対となっているから、寺の掃灑も同じく宗教行為と見られる。こうして即位儀式に備えて都を清浄化したのであろう。 《為天皇病所願仏像》 言葉通りに読めば〈持統〉天皇は、この時期に病気したことになる。 しかし、流れで読めば薬師寺の本尊の薬師如来像を指すと読むのが自然と思える。 すなわち、〈天武〉九年十一月に〈天武〉天皇が皇后であった鸕野讃良皇女の病気回復のために薬師寺が発願されたことにより、 「その本尊としての薬師如来像が作られ始めていた」ことが、ここに書かれると考えることができる。 もともと、〈天武〉が皇后〔鸕野讃良皇女〕の為に薬師寺の建立を発願したものであるから〈持統〉自身が造像を命じるのは筋が通らず、公卿百寮が亡き〈天武〉の遺志を継いで自発的に造像したと考えることができる。 この日以前に造り始めていたことは、この文の後ろに「至是日造畢」を補うだけでその意を表すことができるから、 〈持統〉紀における言葉足らずの一例かも知れない。 《癸卯》 「癸卯」は六月には存在しない。一応「癸巳」の誤写と考えておくが、五月の癸卯条がそのままここに重出した可能性がある。 《夜半》 夜半は盗みの時刻であるから、夜半に盗賊を捕えた記事と、赦免記事が混合したようにも思われる。 ただ、文章が正しいのなら、どうしてわざわざ夜半に赦免したのであろうか。 仮にこれが史実だとすれば、「盗人に追い銭」の如きは大っぴらにできないためと考えられる。 《赦常𨰃盗賊一百九人》 〈持統〉天皇は盗みに走らざるを得ない背景に貧困があることから、哀れんでものを賜ったということであろうか。 しかし、ここでは盗み常習者への懐柔と読むこともできる。すなわち、即位儀式を目前にした京を浄化するためである。 畿外の人には布に加えて稲を賜ると読めば、できたら畿内から出るように促したことになるからである。 しかし、「但」以下は、畿外で現物通貨として機能するものとして布ではなく稲を賜ったとも読め、だとすればやはり犯罪を生む土壌としての貧困への対応策となる。 《常𨰃》 直感的には、原文では婁〔しばしば〕だったものを縷に作り、それがさらに誤写されたように思われる。 《遣使者祀広瀬与龍田》 〈続紀〉にはこの記事はなくなるが、〈延喜式〉に規定があるから、毎年四月、七月の行事として欠かさず続けられていたと見られる。 《開仏眼会於薬師寺》 〈天武〉九年十一月に「皇后体不予」となったことにより、〈天武〉天皇は「初興薬師寺」、すなわち薬師寺造立を発願した(《初興薬師寺》)。 〈持統〉二年正月に「設二無遮大会於薬師寺一」。 薬師三尊像は薬師寺に移転したときに作り直された説と、本薬師寺から移した説がある。 『橿原市史』本編 /下巻第三章〔改訂橿原市史編纂委員会編1987〕(または、『橿原市史』本編 /下巻)には、次のようにまとめられている。
その『薬師寺縁起』の原文は、 「金堂一宇:…其堂中央安置丈六金堂須弥座。薬師像躯。円光中半出。七仏薬師仏像。火炎間刻。 像立無数飛天也。左右脇士。日光遍照。月光遍照菩薩像各一体。已上持統天皇奉造請座。已上流記文。今略抄之」。 ここに書かれた「持統天皇奉造請座」により、〈持統〉朝の時代に造られた像が平城京薬師寺に遷坐されたことになるわけである。 なお、〈一考察〉の中の「長和四年」は本文の中にある「本寺。自二養老二年一至二長和四年一…都合三百三十八年。」によるもので、奥書の日付は「承保二年〔1075〕十月五日」である。 従来は、ここに漢風諡号「持統天皇」が用いられていることから新しい時代の文献とされていたが、 〈一考察〉は「「奉造請坐」という記述が、天平19年〔747〕に書かれた『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』など、奈良時代の資財帳に見られるのに対して、平安時代以降に成立した文献には見られない」とする説に同意し、 加えて内容と流記資材帳との類似から「金堂条は、奈良時代の資財帳から金堂に関係のある事項を抜き出し、できる限り縁起文としての体裁に合わせて書かれた」ものと見る。 よって「典拠が古いとすれば、金堂条は移坐説にとって十分な証拠と言えよう。」と述べる。 つまり薬師寺の移転からまだあまり時を経ていない時代に書かれた点に、確実性を見るわけである。 なお、流記は、奈良時代における諸寺が僧綱に提出した報告書(流記資材帳の例)。 淡海三船による漢風諡号の一斉撰進は762~785年の間と見られる。 《八月乙丑朔》 〈続紀〉「元年八月甲子朔。受禅即位」との不一致が、書紀古写本への書き添えの時点から指摘されている。 [(続9)日付に元嘉暦を適用する試み]で検討した結果、 〈続紀〉の日付は進朔による可能性が一応考えられると見た。 記録に残っているのは「八月朔日」のみで、干支はそれぞれ異なる暦に基づいて書きこまれたことを示している。 《定策禁中》 〈孝徳〉即位前紀には「策曰:咨、爾軽皇子云々」とあるので、 ここの「定策」も同じように天皇位の皇太子への禅譲を正式に禁中に諮ったものと考えられる。実際はこの時点までに表立って反対する者はいなくなっただろうから、形式的手続きとなる。 《禅》 禅の原意は天子が神を祀ること。その行為が天子の特権であることから、譲位の意味に転じた。 「禅二天皇位一」を普通に訓めば「すめらみことのみくらゐをゆづりたまふ」となるはずだが、書紀古訓は「クニサリタマフ」〔国避り賜ふ〕と訓む。 しかし、禅をユヅルと訓み得ることは〈類聚名義抄〉「禅:ユヅル マツリ シヅカナリ シケシ ホシイマゝニ」に示されている。 また、高い位であってもクラヰヲユヅルと表現され得ることについては〈時代別上代〉ユヅルの文例「「大位ヲ推 書紀古訓は、天皇の即位を「アマノヒツギシロシメス」〔天の日嗣知ろしめす〕(〈持統〉四年)などと表し、「クラヰニツキタマフ」と訓むことを避けている。 天皇位を諸王諸臣の位階と同じ言葉で表すのは恐れ多いということかと思われる。 禅を「クニサル」と訓むのもその感覚によると思われるが「皇太子に国避る」では文章が成り立たない。またクニサルはカミサル〔崩〕に通じ生前の譲位には相応しくない。 同じ書紀の譲位の記事でも、〈皇極〉から〈孝徳〉への場合(皇極四年六月)の訓点は、「譲給位ヲ」などとなっており、クラヰと訓むことを忌避しない。 結局、天皇位の「位」をクラヰと訓むことを避けようとしたが、譲位についてはうまく訓むことができなかったようである。 《禅天皇位於皇太子》 〈文武〉天皇については、〈続紀〉即位前紀に次のように記されている。
その追号の記事は、〈続紀〉天平宝字二年〔758〕八月戊申「勅:日並知皇子命、天下未レ称二天皇一。追二-崇尊号一、古今恒典。自今以後、宜レ奉レ称二岡宮御宇天皇一」。 「岡宮」は、どこの宮のだろうか。 まず考えられるのは、飛鳥岡本宮の名前の元になった地名が「岡」である(資料[54]【岡本宮(舒明天皇・斉明天皇)】)。 理屈の上ではこの地にあった草壁皇子の宮が「岡宮」と呼ばれたことが考えられるが、それを示す史料は見えない。 一方、万葉集に「皇子尊宮舎人等慟傷作歌」二十三首(0171~0193)があり、(0174)「檀乃岡 まゆみのをか」、(0179)「佐太乃岡辺 さだのをかへ」が見える。 0179「橘之 嶋宮尓者 不飽鴨 佐田乃岡辺 侍宿為尓徃 たちばなの しまのみやには あかねかも さだのをかへに とのゐしにゆく」 は、岡辺の陵を訪れることを、侍宿〔宮に宿直する〕と表したと解されている。 「佐田乃岡」は「檀乃岡」(真弓の丘)の別名、または峰が連続する関係と見られる(《真弓丘陵》)。 この陵の地に、天皇の坐した岡宮を仮想したという見方が一般的である。これは万葉歌の「侍宿」にも通ずるもので、当時の人には確かにこの感覚があったことが覗われる。 しかし、「佐田岡宮御宇」や「檀岡宮御宇」とは書かれないから、これらとは無関係に「岡宮」が存在したと見ることもでき、草壁皇子の「岡宮」が実在した可能性はなお残る。 《皇太子》 珂瑠皇子を立太子するに至るまでに、草壁皇子の兄弟を推す意見がでて「紛紜」したことが『懐風藻』に述べられる。
これを見ると、長親王などの「授浄広二」は、成人したタイミングのように思われる。 吉野の盟約のメンバーで唯一存命していたのが忍壁皇子で、おそらく最年長と見られる。 磯城皇子については位階や職務に関する記録がないので、成人する前に夭折した可能性がある。 『懐風藻』では、なお群臣の中にはなおそれぞれに草壁皇子の兄弟を推す声が上がったが、葛野王の一声によって珂瑠皇子即位の方向が定まったと描かれる。 これは葛野王の役割を持ち上げる文章である。『懐風藻』の著者を葛野王の孫である淡海三船とする説があり、だとすれば祖父を偉大化する意図が考えられる。 《大意》 十一年正月七日、 公卿大夫らに饗(あえ)されました。 十一日、 鰥寡(かんか)孤独、 篤癃(あつひと)、貧しくて自存できない人に、 それぞれに応じて稲を賜りました。 十六日、 公卿百寮に饗(あえ)されました。 二月二十八日、 直広壱(じきこういち)当麻真人(たいまのまひと)国見(くにみ)を東宮の大伝(かしづき)に、 直広参(じきこうさん)路真人(みちのまひと)跡見(あとみ)を春宮の大夫(かみ)に、 直大肆(じきだいし)巨勢朝臣(こせのあそん)粟持(あわもち)を亮(すけ)に任じました。 三月八日、 無遮大会(むしやだいえ)を春宮で開催しました。 四月四日、 選ぶのに十分な人に対して、それぞれに応じて浄(じょう)位から直(じき)位まで授けられました。 七日、 吉野宮に行幸しました。 十四日、 使者を遣わして広瀬と龍田の神を祭祀しました。 同じ日、 吉野宮から帰還されました。 五月八日、 大夫謁者(えっしゃ)を諸社に遣わして、雨乞いさせました。 六月二日、 罪人を赦免されました。 六日、 詔して、京畿の諸寺で読経させました。 十六日、 五位以上の人を遣わして、京の寺を掃き清めさせました。 十九日、 幣帛を神祇に分配されました。 二十六日、 〔かねてより〕公卿百寮らは、 天皇(すめらみこと)の御病気のために、祈願する仏像をお造りし〔ていたものが完成し〕ました。 癸卯の日〔存在しない日。癸巳(二十八日)か〕、 大夫謁者(えっしゃ)を諸社に遣わして、雨乞いさせました。 七月七日夜半、 常𨰃〔常習の意か〕の盗人百九人ををお赦しになり、 布を一人につき四常(きだ)を賜りました。ただし、畿外の人には稲を一人につき二十束(つか)を賜りました。 十二日、 使者を遣わして広瀬と龍田の神を祭祀しました。 二十九日、 公卿百寮は、仏像の開眼会(かいげんえ)を薬師寺で開催しました。 八月一日、 天皇(すめらみこと)は策を禁中に定められ、天皇位を皇太子に禅譲されました。 まとめ 珂瑠皇子の立太子の記事が本来書かれるべきものだったと、日本紀講筵でも指摘されていた。 その他断片的な記述が各所に見られ、全体として成文に仕上げる前のメモ書きのままである。 よって、いくつかの事柄については複数の解釈があり得、それらはそれぞれの項目に示した。 おそらくは日本書紀の提出が急がれ、持統紀については不十分なままになったと考えられる。 それなら〈天武〉紀までの二十九巻で終わりにしてもよかったと思われるが、 〈持統〉の業績は〈天武〉の業績と一体となって奈良時代の基礎を築いたので、それも難しそうである。 一方、〈持統〉天皇の業績の全体像を示そうとすればは、実際には太政天皇の時期まで包むべきである。 しかし、国家の最高位たる天皇が太政天皇の下位となった時期を書紀に含めることは困難である。 それは、日本書紀が天孫以来の血統を継ぐ天皇を偉大化神聖化するために編まれた書だからである。 この問題の扱いについての議論がなかなか進まず、〈持統〉紀の成文が完成しないままに終わったのが真相かも知れない。 結局〈持統〉の治世を譲位までで切り、太政天皇になってからの大宝律令成立などの業績を外すことで、天皇の偉大性を保つという消極策で凌いだことが考えられる。 よって、日本書紀の末尾は煮え切らない形で中途半端に終えることになった。 |
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