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2026.03.07(sat) [30-16] 持統天皇16 

32目次 【七年十月~十二月】
《詔自今年始於親王下至進位觀所儲兵》
冬十月丁巳朔戊午。

「自今年始、
於親王下至進位、
觀所儲兵。
淨冠至直冠、
人甲一領
大刀一口
弓一張
矢一具
鞆一枚
鞍馬。
勤冠至進冠、
人大刀一口
弓一張
矢一具
鞆一枚。
如此、預備。」
親王下…〈北野本〔以下北〕始於親鞍馬 オケル 
〈内閣文庫本〔以下閣〕於親王ヨリ下至 セムコトニ甲一領
  ヨ ヨリ 
〈兼右本〉ミソナハサン儲兵[ヲ]
 淨- ヨリ[テ]チキ-官ヒトコト[ニ]甲一-領ヨロイヒトツ [切]
 大刀一口[切]弓一ハリ[切]矢一ソナヘ[切]トモヒラ[切]鞍-馬クラオケル カサリムマ 

進位諸臣四十八階第四十一位~四十八位。
みそなはす…[他]サ四 『高橋氏文』曽奈波佐牟止」により四段。
浄冠諸王十二階第五位~八位。
直冠諸臣四十八階第九位~十六位。
…[名] 第45回
鞍馬…[名] (万)2201「馬桉置而 うまにくらおきて」。訓みは〈天武〉元年六月で検討した。
勤冠諸臣四十八階第十七位~二十四位。

冬十月(みなづき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として戊午(つちのえうま)。〔二日〕
詔(みことのり)のりたまはく
「今年(ことし)自(よ)り始めて、
[於]親王(みこ)より下(しもつかた)進位(しんゐ)至(まで)、
所儲兵(まうけてあるつはもの)を観(みそなは)さむ。
浄(じやう)の冠(かがふり)より直(ぢき)の冠(かがふり)至(まで)は、
人(ひとり)に甲(よろひ)一領(ひとつ)
大刀(たち)一口(ひとつ)
弓(ゆみ)一張(ひとはり)
矢(や)一具(ひとそなへ)
鞆(とも)一枚(ひとひら)
鞍馬(くらま、くらおけるうま)。
勤冠(ごんのかがふり)より進冠(しんのかがふり)至(まで)は、
人(ひとり)に大刀(たち)一口(ひとつ)
弓(ゆみ)一張(ひとはり)
矢(や)一具(ひとそなへ)
鞆(とも)一枚(ひとひら)。
如此(かく)、預(あらかじ)め備(そな)へよ。」とのりたまふ。
己卯。
始講仁王經於百國、四日而畢。
始講仁王経…〈北〉講仁 トカ 王經於百クニ。 〈兼右本〉トカシム アリ
己卯(つちのとう)。〔二十三日〕
始めて仁王経(にんわうきやう)を[於]百国(ももつくに)に講(と)かしめて、四日(よか)にして[而]畢(を)ふ。
十一月丙戌朔庚寅。
幸吉野宮。
十一月(しもつき)丙戌(ひのえいぬ)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)。〔五日〕
吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
壬辰。
賜耽羅王子佐平等、各有差。
壬辰(みづのえたつ)。〔七日〕
耽羅(とむら)の王子(わうし、せしむ)佐平(さへい)等(ら)に賜(ものたま)ふこと、各(おのもおのも)有差(しなあり)。
乙未。
車駕還宮。
乙未(きのと)。〔十日〕
車駕(しやか、すめらみこと)宮に還(かへ)ります。
己亥。
遣沙門法員
善往
眞義等、
試飲服近江國益須郡醴泉。
沙門法員…〈北〉法員ホウ イン善往セン ワウ シム飲服近ノマシメタマフイツミ ユヒケノ  
〈閣〉
  ニノマシメタマフ近江コサケノ ヲ
〈釈紀〉法員ホウイム善往センワウ眞義シムギ醴泉。 コマケノイツミ私記説
〈兼右本〉[ニ]- イ无ノマシメタマフ近江國益須ヤス[ノ]コサケ[ノ]-イツミ[ヲ]

飲服…〈汉典〉「喝下或服用薬物」。
…[名] 一晩だけ作った酒。かすかに酒の味がする。
 〈倭名類聚抄〉「醴:【和名古佐介】」。
こさけ…[名] 〈時代別上代〉「濃い酒か」。また〔粉酒という表記から〕粉のある酒という語感があったことが推定できる」。
…あまみのある水がわくという泉。〈汉典〉「甘甜的泉水」。
こみづ…[名] 米の煮汁。おも湯。〔よって、"醴泉"の訓読には使えない〕

己亥。〔十四日〕
沙門(ほふし)法員(ほふゐん)
善往(ぜんわう)
真義(しんぎ)等(たち)を遣(や)りて、
試(ためし)に近江国(ちかつあふみのくに)の益須郡(やすのこほり)の醴泉(れいせん、こさけのいづみ)を飲服(の)ましめたまふ。
戊申。
以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、
仍賜食封五十戸。
引田朝臣…〈北〉少麿仍 スクナマロ 。 〈閣〉少麿 スクナマロ  スクニ  ニ
〈兼右本〉ヒケ-田スクナ麿イ乍
戊申(つちのえさる)。〔二十三日〕
直大肆(ぢきだいしゐ)を以ちて直広肆(ぢきくわうし)引田朝臣(ひけたのあそみ)少麻呂(すくなまろ)に授(さづ)く、
仍(よ)りて食封(じきふ)五十戸(いそへ)を賜(たま)ふ。
十二月丙辰朔丙子。
遣陣法博士等、教習諸國。
陣法博士…〈北〉陣  イクサノ法博士ノリノハカセ教-習
〈兼右本〉-習ヲシヘナラハシム諸-國 クニ[ニ]
十二月(しはす)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)。〔二十一日〕
陣法博士(いくさののりのはかせ)等(ら)を遣(や)りて、諸国(もろもろのくに)に教(をし)へ習(なら)はしむ。
《観所儲兵》
 〈天武〉・〈持統〉朝において、朝廷の軍を整えてきた経過を振り返ろう。
 〈天武〉四年十月諸王以下初位以上、毎人備兵」では、 軍備をこれまでの各氏族に任されていた実態を改め、朝廷直轄体制に移行するものである。これは、軍事面における律令国家の構築と位置付けられる。
 五年九月王卿遣京及畿内、校人別兵」、 八年二月于辛巳年〔天武十年〕、検-校親王諸臣及百寮人之兵及馬。故、予貯焉」として、実施状況を点検。
 十三年閏四月凡政要者軍事也…」では軍事の充実を指示する。
 十四年九月京及畿内、各令人夫之兵」として、宮処王など五人の王で分担して京と畿内の兵を検校させた。
 〈持統〉三年七月では「射所」で弓射の技能を習得、 閏八月其兵士者毎於一国四分而点其一武事」、すなわちそれぞれの国の軍を4グループに分け、四日に一日を武術の習得にあてさせた。 九月には「-美追廣貳高田首石成之閑於三兵」、すなわち人並み以上に武術の習得に励んだ者を公開の場で表彰して気運を高めた。
 すなわち〈持統〉朝になると、兵士の技能を高めて軍を質的に強化した。 今回の詔では、さらに各人ごとに武具を整えておくように指示した。 直冠以上は騎馬兵、それに達しない者は歩兵としている。
《浄冠至直冠》
 文章としては不完全で、「(*)浄冠至直冠」の(*)などが置かれるべきである。よって詔の原文を稚拙なまま収めたかと思われる。 ただ、四年四月条の詔では「已上」、「已下」を用いていて正確であった。 それでは、こちらは書紀執筆者が潤色したのであろうか。 しかし、これには「一畐一部」という独特な用語も使われているのでこちらも詔の原文のままかも知れない。 だとすればこれらの文体の違いは、作成者が異なることによるものかも知れない。
 ここで「」が用いられていることについては、〈天武〉紀では「爵位」が使われたが、〈持統〉紀では「冠位」に戻り(《冠位》)、〈続紀〉にも継承される。 通常の勤務においては冠は冠位とは無関係に、漆紗冠《漆紗冠》、もしくは圭冠〈天武〉十三年閏四月を着用することになった※)が、 しるしとしての位冠は大宝元年〔701〕に「位記」に移行するまでは授与されていたようである(《位記》)
 ※)…〈天武〉紀の文章の流れでは両者は同一と読めるが、その形状には何らかの相違があった可能性もある。
《仁王経》
 仁王経は、『仁王護国般若波羅蜜多経』の略。 「大乗仏教の般若思想を強調するもの」だが、「護国思想および鎮護国家の必要性を強調していることが特色」という(『日本大百科全書』小学館1994)。
《幸吉野宮》
 十九回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
《賜耽羅王子佐平》
 前回の耽羅使では、「佐平加羅、来献方物」と記されていた二年八月以来(《耽羅王》)
 今回の「佐平」は、人物名が略されて位階のみが記されたもの。 「献調」、賜物の「物」、「饗」も略されて形だけである。〈続紀〉では遂に「耽羅」に関する記事は皆無となる。
 かつては新羅への南からの抑えとして関係が重視されてきたが、時と共にその意識は薄れつつあったように見える。
《法員/善往/真義》
法員 ここだけ。
善往 文武二年〔698〕以…善往法師為律師」。
 大宝二年〔702〕以…善往法師為大僧都(「牒」項参照)
真義 ここだけ。
《近江国益須郡》
三宅町 (旧三宅村) 守山町 (旧守山村)
 〈釈紀-述義〉「近江国益須郡:私記曰今之野洲郡也」。
 〈倭名類聚抄〉{近江国・野洲郡}。
近江国野洲郡
《醴泉》
 〈延喜式-祥瑞〉では、「大瑞〔大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の四段階〕とされ、 「醴泉:美泉也。其味美甘。状如醴酒」とされる。
 漢語としての醴泉は酒ではなく甘味のある湧水を指す。「甘酒のような」という比喩であろう。 「醴泉」への書紀古訓「コサケノイヅミ」は、醴と泉を別々に直訳して繋いだもの。 この訓みは書紀古訓特有と見られる。ただ、〈続紀〉養老元年十二月に「美濃国。立春暁把醴泉而、貢於京都。為醴酒」 あるので、醴酒(こさけ)の泉と訓むことに一定の根拠はある。
 その泉の伝承地については、『近江輿地志略』〔寒川辰清;1733年〕によると、 「甘香池:同村〔=守山村〕大光寺の南数歩にあり。是所謂野洲郡都賀山の醴泉也。周廻一町許の池也、醴池に作る。 都賀山の遺址三宅村にあり。之を以て思ふに都賀山は往古大山にて此辺迄〔このあたりまで〕尾続〔をつづき〕にて有りしと見えたり」とある。 その守山村大光寺三宅村の位置は、右図に示した。
 『大日本地名辞書』には「大光寺と云禅刹あり、寺紀曰 持統天皇七年、近州益須郡醴泉出、刺史奏之、 勅法真善往真義等試嘗…醴泉之蹤至今在寺門南、俗呼曰甘香池…」。
 その大光寺の現在の住所表記は滋賀県守山市守山1-9-23
 〈釈紀-述義〉には「醴泉:私記曰。愚案。白武通云。醴泉者状如醴酒。可以養一レ」とある。 これについては『藝文類聚』-祥瑞の部に「白虎通曰…醴泉者美泉也。状如醴酒、可以養老」。 『白武通』は原題『白虎通』〔後漢〕から、唐の初代皇帝李淵の祖父の名「李虎」を避諱したもの。
 この地域は野洲川の南の分流の流域にあたり、この分流は野洲郡と栗太郡の境界になっている。
 流域の、守山町の西隣金森かねがもり町に「金森湧水公園」がある〔北緯35度3分24.2秒、東経135度59分2.8秒〕。 その案内板〔2000年設置〕よると、 かつてそこには「金ヶ橋の池」があり「一年を通して清らかで豊かな地下水がこんこんと湧き出ていた」、 しかし、戦後は「地下水のくみ上げや、野洲川の改修による地下水位の低下等で干しあがり」、「昭和五十年代〔1975~〕初頭には水源としての役目を終え」、「河川公園として埋め立て整備」されたという ([野洲川物語/南北流跡探訪])
 すなわち、野洲川の南分流は大量の伏流水で、それが湧き出して幾筋もの川の源流となっていた。近江国益須郡醴泉は、湧き上がった泉のひとつと考えられる。
《引田朝臣少麻呂》
引田朝臣少麻呂  阿倍臣は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。支族の引田臣も連動して朝臣姓になったと見られる。 〈姓氏家系大辞典〉は「阿倍引田臣」は「阿倍氏の族」で〈延喜式-神名〉{大和国/城上郡/曳田神社}の「地より起こりしか(【引田】項参照)。 但し越前国敦賀郡にも匹田なる地あり。此の氏に由あるか」と述べる。
 少麻呂は、大宝二年〔702〕十二月「以…従五位上引田朝臣宿奈麻呂…為大殿垣」。
 慶雲元年〔704〕十一月「従四位下引田朝臣宿奈麻呂。賜阿倍朝臣」。 そして阿倍氏の氏上になったと考えられている。
 二年〔705〕四月「以…従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂…為中納言」。 四年〔707〕十月「以…従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂…為御竈」。
 和銅元年〔708〕三月「以…従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂…為中納言」。
 七月乙巳「召…中納言…阿倍朝臣宿奈麻呂…等於御前。勅曰…授従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂正四位上。…賜禄各有」。
 九月「以正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂…為平城京司長官」。
 二年〔709〕正月「授正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂…従三位」。
 和銅五年〔712〕十一月「従三位阿倍朝臣宿奈麻呂」は、同族の引田朝臣・久努朝臣・長田朝臣の6名に「本姓」阿倍朝臣への改姓を願い出て認められた。
 養老元年〔717〕春正月「従三位阿倍朝臣宿奈麻呂正三位」。 冬十月「正三位阿倍朝臣宿奈麻呂…等。益封各有」。
 二年〔718〕三月「以正三位…安倍朝臣宿奈麻呂並為大納言」。
 四年〔720〕正月庚辰「大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝〔斉明〕筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也」。
 父阿倍比羅夫については、〈斉明〉四年四月阿陪臣【闕名】」、 四年是歳阿倍引田臣比羅夫」、 五年三月是月阿倍臣【闕名】」・「或本云。阿倍引田臣比羅夫」、 六年三月に「阿倍臣【闕名】」が(現代地名)秋田市から渡島半島と奥尻島に及ぶ遠征、 六年五月に「阿倍引田臣【闕名】」が「」。
 「大錦上」は〈天智〉三年制定の「冠二十六階」の第七位。 比羅夫は〈斉明〉朝で筑紫師となり、〈天智〉三年以後に薨じたことになる。
《陣法博士》
 陣法は〈汉典〉によれば「布陣的方法」のことで、「古代軍隊作戦時採用的戦門隊形和防禦部署」との解釈を示す。
 博士は〈令義解-職員令〉に、 文章博士・明法博士・大学博士・陰陽博士・暦博士・医博士・書博士・咒禁博士・天文博士・音博士・ 筭博士・大宰博士・漏尅博士・針博士・按摩博士が見えるが、陣法博士はない。
 〈職員令〉の関連項目は「軍団:大毅一人 …簡閲陳列【謂検閲軍行之陣列也】少毅二人、主帳一人、校尉五人、旅帥十人、隊正廿人」 である。これまでに兵の整備の詔は京と畿内についてであったが、〈持統〉七年になって「教習諸国」と記される。ようやく各地方に「軍団」を置く段階に至り、 その立ち上げのためには「陣法博士」を派遣して指導にあたらせることが必要だったのであろう。 『令義解』では消えているから、遅くとも養老令の時点では必要なくなっていたと見られる。
 ※)軍団が地方組織とされることについては、〈令義解-職員令〉において、「軍団」の項目がの次におかれていることがそれを示している。
《大意》
 十月二日、 詔を発しました。
――「今年から始めるに、 親王から下は進位まで、 用意した兵装を観閲する。
 浄冠(じょうかん)から直冠(じきかん)までは 一人につき鎧一領、 太刀一口、 弓(ゆみ)一張(はり) 矢一揃え、 鞆(とも)一枚、 鞍馬(くらま)を。 勤冠(ごんかん)から進冠(しんかん)までは、 一人につき太刀一口、 弓一張、 矢一揃え、 鞆一枚。 以上を予め備えておけ。」
 二十三日、 初めて仁王経(にんのうきょう)を百国に講じ、四日にして終えました。
 十一月五日、 吉野宮に行幸しました。
 七日、 耽羅(とんら)の王子と佐平〔名を記さない〕たちにそれぞれに応じて賜わり物をされました。
 十日、 車駕は宮に帰還されました。
 十四日、 沙門法員(ほういん)、 善往(ぜんのう)、 真義(しんぎ)等を遣わし、 近江国の益須郡(やすのこおり)の醴泉(こさけのいずみ)の水を試飲させました。
 二十三日、 直大肆(じきだいし)位を直広肆(じきこうし)引田朝臣(ひけたのあそん)少麻呂(すくなまろ)に授(さづ)け、 よって食封(じきふ)五十戸を賜りました。
 十二月二十一日、 陣法(じんぽう)博士たちを派遣し、諸国に教習させました。


33目次 【八年正月~三月】
《以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行増封人二百戸並爲氏上》
八年春正月乙酉朔丙戌。
以正廣肆
授直大壹布勢朝臣御主人
與大伴宿禰御行、
増封人二百戸、通前五百戸、
並爲氏上。
増封…〈閣〉 コト氏-コ ト。 〈兼右本〉マス  コト[ニ][切]フタ-百-戸
八年(やとせ)春正月(むつき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔二日〕
正広肆(せうくわうし)を以ちて
直大壱(ぢきだいいち)布勢朝臣(ふせのあそみ)御主人(みあるじ)と
大伴宿祢(おほとものすくね)御行(みゆき)与(と)に授(さづ)けて、
封人(へひと)二百戸(ふたほへ)を増(くは)へて、前(さき)に通(あは)せること五百戸(いほへ)、
並びに氏上(うぢのかみ)と為(し)たまふ。
辛卯。
饗公卿等。
辛卯(かのとう)。〔七日〕
公卿等(まへつきみたち)に饗(みあへ)したまふ。
己亥。
進御薪。
己亥(つちのとゐ)。〔十五日〕
御薪(みかまき)を進(たてまつ)る。
庚子。
饗百官人等。
庚子(かのえね)。〔十六日〕
百官人等(もものつかさびとたち)に饗(みあへ)したまふ。
辛丑。
漢人奏蹈歌。
五位以上射。
奏蹈歌…〈北〉奏諭歌 ツカマツル アラシ。 〈閣〉ツカマツルイ无𨂻-歌 アラシ 
〈兼右本〉ツカマツルイ无𨂻-歌 アラシ  ヨリイクフ
辛丑(かのとうし)。〔十七日〕
漢人(あやひと)蹈歌(たうか)を奏(うたまひ)す。
五位(いつのくらゐ)より以上(かみつかた)射(ゆみいる、いくひす)。
壬寅。
六位以下射、四日而畢。
四日而畢…〈閣〉日○畢。 〈兼右本〉四- アリ
壬寅(みづのえとら)。〔十八日〕
六位(むつのくらゐ)より以下(しもつかた)射(ゆみい、いくひし)て、四日(よか)をして[而]畢(を)ふ。
癸卯。
唐人奏蹈歌。
蹈歌…〈兼右本〉𨂻-歌 アラレ 
癸卯(みづのとう)。〔十九日〕
唐(たう、もろこし)の人蹈歌(たうか)を奏(うたまひ)す。
乙巳。
幸藤原宮、卽日還宮。
乙巳。〔二十一日〕
藤原(ふぢはら)の宮に幸(いでま)して、即日(そのひ)に宮に還(かへ)ります。
丁未。
以務廣肆等位
授大唐七人與肅愼二人。
務広肆等位…〈北〉位○大
〈閣〉務廣肆大唐モロコシヒト七人与粛慎ミシハセノヒト 
務広四諸臣四十八階第三十二位。
丁未。〔二十三日〕
務広肆(むくわうし)等(ら)の位(くらゐ)を以ちて
大唐(だいたう、もろこし)の七人(ななたり)と肅愼(みしはせ)の二人(ふたり)与(と)に授(さづ)けたまふ。
戊申。
幸吉野宮。
戊申(つちのえさる)。〔二十四日〕
吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
三月甲申朔。
日有蝕之。
蝕之…〈閣〉コト
三月(やよひ)甲申(きのえさる)の朔(つきたち)。
日有蝕之(ひはゆ)。
乙酉。
以直廣肆大宅朝臣麻呂
勤大貳臺忌寸八嶋
黃書連本實等、
拜鑄錢司。
臺忌寸八嶋…〈北〉イム ウテナノ シマ フミノムラシ ホム シツ 
 鑄錢 セニノ ツカサ 
〈閣〉 音讀 セニノ
〈釈紀〉ウテナノ忌寸イムキシマフミノムラシホムジツ私記曰音讀鑄錢セニノ ツカサ
〈兼右本〉オカム鑄-錢 セニ [ノ][ニ]
乙酉(きのととり)。〔二日〕
直広肆(ぢきくわうし)大宅朝臣(おほやけのあそみ)麻呂(まろ)
勤大弐(ごんだいに)台忌寸(うてなのいみき)八嶋(やしま)
黄書連(きふみのむらじ)本実(ほんじつ)等(ら)を以ちて、
鋳銭司(せにのつかさ)に拝(よさ)したまふ。
甲午。
詔曰
「凡以無位人任郡司者、
以進廣貳授大領、
以進大參授小領。」
任郡司…〈北〉rubu 任郡マクル -司大願/カミノミヤコ / 

〈閣〉ヨ ニハマクルオホ コホノミヤツコスケ
〈兼右本〉 ランマクルヨサゝンオホ-領コホノミヤツコ小-領スケノミヤツコ

甲午(きのとうま)。〔十一日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「凡(おほよそ)位(くらゐ)無き人を以ちて郡司(こほりのつかさ)に任(よさし)してあれ者(ば)、
進広弐(しんくわうに)を以ちて大領(かみ)に授(さづ)けよ、
進大参(しんだいさむ)を以ちて小領(すけ)に授けよ。」とのりたまふ。
己亥。
詔曰
「粤以七年歲次癸巳、
醴泉涌於近江國益須郡都賀山。
諸疾病人停宿益須寺而
療差者衆。
粤以七年…〈北〉 コゝ以七年歲次 トシ 癸巳醴泉 ク
 病人停宿 ヤト ヲ者衆
〈閣〉コゝニトシヤトル ヲ疾_病 ヤマヒゝト 停_宿 ヤトテ  
 療_ ヲイユルモノ 

〈兼右本〉 テ\七-年トシ-\ツイテヤトル 癸-\ ノトシ ノトシイ点无コサケ-泉ワク
 スノ都賀ツカ疾-病 ヤマイ  イ无ヒト

…[助] ここに。[感] ああ。
己亥(つちのとゐ)。〔十六日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「粤(ここに)七年(ななとせ)歳(ほし)癸巳(みづのとみ)に次(やど)れるを以ちて、
醴泉(れいせん、こさけのいづみ)[於]近江国(ちかつあふみのくに)の益須郡(やすのこほり)の都賀山(つかやま)に涌(わ)きぬ。
諸(もろもろ)の疾(や)み病(や)める人(ひと)益須寺(やすでら)に停(とど)まり宿(やど)りて[而]
療(い)え差(い)ゆる者(もの)衆(おほ)し。
故入水田四町
布六十端、
原除益須郡今年調役雜徭、
國司頭至目進位一階。
原除…〈北〉_除ミクル ユルシミ徭国ミユキ 司頭至目進 フムヒト
〈閣〉原_除 アタル ユルシヤメ  ヨリ テニフムヒトニメシム
〈兼右本〉原-除ユルシ ヤメ クサ[ノ]ミユキ
 ミコトモチ[切]カミヨリ[テ][ニ]フンヒトサウクワン[切] メシム

四町…1町は一辺108mの正方形の面積。
えつき…[名] 公役(え)と調(つき)。税全般。

故(かれ)水田(こなた)四町(よまち)
布(ぬの)六十端(むそむら)を入れよ。
益須郡()今年(ことし)の調役(えつき)雑徭(くさぐさのえたち)を原除(ゆる)せ。
国司(くにのつかさ)の頭(かみ)より目(ふみひと)至(まで)位(くらゐ)一階(ひとしな)を進めよ。
賜其初驗醴泉者、
葛野羽衝
百濟土羅々女、
人絁二匹
布十端
鍬十口。」
葛野羽衝…〈北〉 ツキ百済 ツ羅々女鍬十 スキ 
〈閣〉ミシルス醴泉ツキメニ ヒトニ
〈兼右本〉ミシルシスヒトコト[ニ]
…[助数詞] 物品貨幣としての反物の単位〔〈持統〉四年「むら(匹)」項以下〕
其(その)初(はじ)めて醴泉(こさけのいづみ)を験(しる)せる者(もの)、
葛野(かどの)の羽衝(はつき)
百済(くたら)の土羅々女(とららめ)には、
人(ひとり)に絁(ふときぬ)二匹(ふたむら)
布(ぬの)十端(とをむら)
鍬(すき)十口(とをち)を賜(たま)へ。」とのりたまふ。
乙巳。
奉幣於諸社。
乙巳(きのとみ)。〔二十二日〕
幣(みてくら)を[於]諸(もろもろ)の社(やしろ)に奉(たてまつ)る。
丙午。
賜神祇官頭至祝部等
一百六十四人絁布、
各有差。
祝部…〈北〉祝部 ハフリ。 〈閣〉 ヨリハフリ
丙午(ひのえうま)。〔二十三日〕
神祇官(かみのつかさ)の頭(かみ)より祝部(はふり)等(たち)至(まで)
一百六十四人(ももたりあまりむそたりあまりよたり)に絁(ふときぬ)布(ぬの)を賜(たま)ふこと、
各(おのもおのも)有差(しなあり)。
《布勢朝臣御主人/大伴宿祢御行》
布勢朝臣御主人  八年正月に阿倍氏の氏上、大宝元年に右大臣。大宝三年〔703〕閏四月辛酉に「」。
大伴宿祢御行  八年正月に大伴氏の氏上。大宝元年〔701〕正月己丑に大納言として「」。
《進御薪》
 四年正月《進薪》参照。
《蹈歌》
 蹈歌は、七年正月に初出 (《踏歌》)。
《射》
 〈天武〉六年六月《射于南門》参照。  〈持統〉三年八月の「観射」は、習射所の成果発表会だったかも知れない。
 正月行事としては〈持統〉紀では初出。
《唐人》
 白村江の戦いの当時に百済の捕虜となり、倭に献上された唐人の可能性もある(次々項)
《幸藤原宮》
 藤原宮、藤原京の建造の視察した。
《大唐七人》
 百済戦線で俘虜となり、倭国に送られた続守言薩弘恪は音博士に取り立てられた《続守言/薩弘恪》。 ここの「大唐七人」も同様に倭国に送られた俘虜であった可能性が高い。
《肅慎二人》
 粛慎は古くは〈欽明〉五年十二月に、佐渡島に上陸した。 【肅慎】項において漢籍における由来、訓みについて検討した。
 阿倍比羅夫(上述)は、 四年是歳六年三月に、粛慎と接触した (《粛慎》)
 〈天武〉五年に新羅使が粛慎を連れてきたときには、新羅が渡島〔北海道南西部〕に進出していることを知って慌てたであろう (《肅慎七人》)
 ここでは爵位を与えるほどの関係の深まりが見られる。大隅阿多は寺を建てる段階となり(六年閏五月)、ほぼ律令国家の統治下に組み込まれた今、 視線は北方に向けられている。
《幸吉野宮》
 二十回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
《日有蝕之》
 八年三月甲申朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。
《大宅朝臣麻呂/台忌寸八嶋/黄書連本実》
大宅朝臣麻呂  〈持統〉三年二月に「判事」となった。
台忌寸八嶋  〈姓氏録〉〖諸蕃/漢/台忌寸/河内忌寸同祖。漢孝献帝男白龍王之後也〗台直/台忌寸同祖/漢釈吉王之後也〗
 東漢の坂上大忌寸に統率された諸族の一と見られる(資料[25]《坂上大宿祢》)
 〈孝徳〉大化二年三月に「台直須弥」がいた。
 八嶋は、慶雲元年〔704〕正月「詔。以…正六位上台忌寸八嶋、並授従五位下」。
黄書連本実  〈天智〉十年三月に「水臬〔ミヅハカリ;水準器と考えられている〕を献上した。
《鋳銭司》
 令制では大蔵省の「管司五」の一つとして「典鑄司」が置かれている。 鋳銭司との関係は微妙と見た(資料[24])が、 〈令義解-職員令〉には「典鋳司:正一人【掌造鋳金銀銅鉄塗餝瑠璃】」とあり、 それとは別に承和元年十月九日「太政官符」に「銭鋳司」が出てくるので、令外官と見られる。
 〈倭名類聚抄〉には「鋳銭司【樹漸〔シユセム〕乃司】」とあり、音読みされている。 もっとも書紀古訓「セニノツカサ」のセニ自体が銭の音読みに由来する。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十二月に「始置鋳銭司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂長官」。 この「鋳銭司」は官署と見られる。
 〈持統〉八年の「鋳銭司」の三名については〔長官〕〔副官〕などの肩書はないので、明確な組織ではなく命じられた職務を負う個人のグループだと考えられる。
 この問題を論じた「官制からみた銭貨鋳造官司の変遷について」仁藤敦史〔『国立歴史民俗博物館研究報告 第210集』2018 〕は、 「浄御原令官制においては明瞭な等差が官司においても官人序列においても明瞭でない段階」と述べ、〈持統〉朝「鋳銭司」においては内部の序列制は明確ではないが一応は組織体であったと見たようである。
 この点に関しては、〈天武〉四年三月条の「…為兵政官長…為大輔」や、〈持統〉三年閏八月条の「筑紫大宰帥」などを見ると、 「浄御原令官制」において「官人序列」は既に「明瞭」であろう。
 よって、三名の「鋳銭司」は、やはり官人としてのツカサに""の字をあてたものであろう。 ゆくゆくは組織体としての「鋳銭司」を設立するための準備にあたったのかも知れない。
 通貨の歴史としては、〈天武〉十二年四月の「今以後必用銅銭」は富本銭に対応すると考えられている。 このときはまだ銀銭が一般的で、通貨の主流を占めるには至らなかったようである。
 和同開珎の登場は、和銅元年〔708〕である。
《大領/小領》
 大領少領はそれぞれ郡の四等官の一位、二位である。 すなわち〈倭名類聚抄〉「長官:…郡曰大領…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰少領…【已上皆須介】」とある。
 「大領神社」(資料[76])、「改新詔其二曰」参照。
《七年歳次癸巳》
 〈持統〉七年は癸巳であるから、「七年歳次癸巳」自体に問題はない。ただ称制年を元年とするのは書紀特有の表し方で、それまではなかったであろう。 本来なら「元年」は即位年であろう。よって詔の原文は「歳次癸巳」のみまたは「四年歳次癸巳」だったと見るのが自然である。
 「」は木星で、約十二年で天球上を一巡することから古くはその位置する星座によって十二年周期で年を表したことが十二支の起源である(関連する資料[B]資料[68])。 このことにより歳次は「ほしやどる」と訓読される。
 「歳次癸巳」は韻文的であるから、「疾病」、「療差」の訓読はそれぞれ「やみやむ」、「いえいゆ」と同語反復することも考えられる。 古事記には「なりなる第34回、「つどひつどふ(第49回)の例があるからである。
《益須寺》
:過去の発掘調査地。:第13次調査地。
守山市教育委員会 編『守山市文化財調査報告書』第29冊 p.6の図による
 守山市教育委員会 編『守山市文化財調査報告書』第29冊 (益須寺遺跡発掘調査報告書)によれば、 この地域は「多くの発掘調査が過去に実施され、今回の調査は13次調査となる」、 そして「「益須寺」に直接、間接的に関連する遺構とみることができる」という。
 同報告書は 「調査⑧では数百点を数えるものの、〔他は〕数点みられるのみ」、 調査全体では「軒丸瓦では素弁八葉蓮花文と複弁系3種の都合4種…軒平瓦は四重弧文、忍冬唐草文、均正唐草文の3種」 (p.30)。 すなわち瓦の出土は右図の⑧の地域に圧倒的に多いから、そこが「益須寺」に最も近かったと思われる。
 13次調査の出土瓦については、文様の判別できるものの一つは均整唐草文で8世紀中頃の時期が比定でき、 もう一つの忍冬唐草文は法隆寺式という(p.21、p.31)。 そして、「従来より確認されていた軒平瓦3種に該当し、それらは7世紀後半から8世紀頃という時期が考えられる」(p.30)という。 つまり飛鳥奈良時代である。
 金堂や塔と見られる礎石は未だ発見されていないようなので、主要な伽藍配置は不明である。
《入水田四町》
 益須寺に、寺田四町を与えたという意味であろう。
《雜徭》
 五年十月《徭役》参照。
《国司頭至目》
 〈倭名類聚抄〉では国の四等官は「」。「」は、寮の長官に用いられている。
 〈持統〉朝の頃は、国司の一等官はだったようであるが、頭至目という表現からは官司における四等官制がほぼ確立していたことが覗われる。
《葛野羽衝/百済土羅々女》
葛野羽衝  〈倭名類聚抄〉{山城国・葛野【加止乃】郡・葛野【加度乃】郷}が本貫か。 〈姓氏家系大辞典〉は「近江の葛野氏:持統紀に「…葛野羽衝」と見ゆ。山城より移りし族ならん」と述べる。
 葛野羽衝はここだけ。
百済土羅々女  〈天智〉四年二月百済百姓男女四百余人于近江国神前郡」、 八年十月佐平余自信佐平鬼室集斯等男女七百余人遷居近江国蒲生郡」、 そして石塔寺三十石塔はこの地に居住した百済人が建てたと考えられている(《遷居蒲生郡/石塔寺(1)》)
 〈姓氏家系大辞典〉は「これ等は、本国の滅亡によりて帰化したるものとす」と述べ、「近江の百済氏:」項では、百済土羅々女もその人物と見る。
 土羅々女はここだけ。
《神祇官頭》
 〈倭名類聚抄〉では、神祇官の一等官は「」であるが、〈持統〉朝当時には「」だったようである。
《大意》
 八年正月二日、 正広肆(しょうこうし)位を 直大壱(じきだいいち)布勢朝臣(ふせのあそん)御主人(みあるじ)と 大伴宿祢(おおとものすくね)御行(みゆき)に授け、 二百戸を増封して、これまでと併せて五百戸とし、 二人を氏上(うじのかみ)としました。
 七日、 公卿らに饗(あえ)されました。
 十五日、 御薪(みかまき)を進上しました。
 十六日、 百官人らに饗(あえ)されました。
 十七日、 漢人(あやひと)は蹈歌(とうか)を奏しました。 五位以上が弓射しました。
 十八日、 六位以下が弓射して、四日間で終えました。
 十九日、 唐人が蹈歌を奏しました。
 二十一日、 藤原宮に行幸し、その日のうちに帰還されました。
 二十三日、 務広肆(むこうし)などの位を 大唐の七人と肅愼(みしはせ)の二人に授けました。
 二十四日、 吉野宮に行幸しました。
 三月一日、 日食がありました。
 二日、 直広肆(じきこうし)大宅朝臣(おほやけのあそん)麻呂(まろ)、 勤大弐(ごんだいに)台忌寸(うてなのいみき)八嶋(やしま)、 黄書連(きふみのむらじ)本実(ほんじつ)らを、 鋳銭司(ぜにのつかさ)に任命されました。
 十一日、 詔を発しました。
――「凡そ無位の人を郡司に任命した場合は、 進広弐(しんこうに)位を大領(かみ)に授け、 進大参(しんだいさん)位を小領(すけ)に授けよ。」
 十六日、 詔を発しました。
――「粤(ここ)に七年歳次癸巳を以て、 醴泉(こさけのいずみ)が近江国の益須郡(やすのこおり)の都賀山(つかやま)に涌いた。 諸々の疾病の人が益須寺(やすでら)に宿泊して、 療養して回復する者は多い。
 よって、寺に水田四町と 布六十端(むら)を入れよ。 益須郡の今年の調と役、雑徭を免除せよ。 国司の頭(かみ)から目(さかん)まで一位づつ進階せよ。
 最初に醴泉を発見した、 葛野(かどの)の羽衝(はつき)と 百済の土羅々女(とららめ)には、 それぞれに絁(ふときぬ)二匹(むら)と 布十端(むら) 鍬(すき)十口を賜れ。」
 二十二日、 幣帛を諸社に奉じました。
 二十三日、 神祇官の頭(かみ)から祝部(ほうり)らまで一百六十四人に、それぞれに応じて絁(ふときぬ)布を賜りました。


まとめ
 醴泉の水は美味であったとともに病を癒すと信じられ、その水を求めて益須寺には多くの人が滞在したという。 想像するに、この水でかしいだ米もまた美味で、滞在者はそれを食したと考えられる。 さらに〈続紀〉養老元年十二月条(上述)を見ると、その米から醴酒こさけかもしたことも考えられるので、その薬効を言ったものかも知れない。
 古代中国の思想において、瑞祥は天子の徳が高く治世が安定していることを天が認め、褒めるしるしとして現れるものとされた。
 〈持統〉七年に醴泉が湧水した報告が上げられたが、確認のために三人の僧を派遣して試飲させる慎重さが見られる。 その結果確かに醴泉であるとの判定を得て、国司の四等官を進階させ、益須寺に寺領などを、発見者二名には禄を賜った。
 これら関係者に多大な褒美を賜ることにより、この瑞祥を天皇の治世を天が褒めた徴として喧伝させたと考えられる。
 後の〈元正〉霊亀三年十一月には、天皇は「〔美濃国〕当耆郡多度山美泉」に行幸したとき、その美泉の功能を知ったとされる。 それにより詔を発し「美泉即かなへり に」、「符瑞書曰。醴泉 なり」として長寿者への賜り物、鰥寡孤独などへの恩恵、天下大赦を行うとともに 「美濃国司及当耆郡司等。加位一階。又ゆるせ当耆 の来年調 を」と命じ、「養老元年」に改元している。 〈持統〉八年の醴泉の記録は、この〈元正〉養老元年の詔の下敷きになったと考えられる。 この〈元正〉の祥瑞について、『奈良時代』〔木本好信;中公新書2022〕は藤原不比等が太政官体制の弱体化により「危急にあった自己政権」という現状を一気に打開するために演出したものとの見方を示している(pp.21~22)。



2026.03.11(wed) [30-17] 持統天皇17 

34目次 【八年四月~六月】
《以淨大肆贈筑紫大宰率河內王幷賜賻物》
夏四月甲寅朔戊午。
以淨大肆贈筑紫大宰率河內王、
幷賜賻物。
筑紫大宰率…〈北野本〔以下北〕大宰 カミ
夏四月(うづき)甲寅(きのえとら)を朔(つきたち)として戊午(つちのえうま)。〔五日〕
浄大肆(じやうだいし)を以ちて筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)の率(かみ)河内王(かふちのおほきみ)に贈りたまひて、
并(あは)せて賻物(はぶりもの)を賜(たま)ふ。
庚申。
幸吉野宮。
庚申(かのえさる)。〔七日〕
吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
丙寅。
遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
丙寅(ひのえとら)。〔十三日〕
使者(つかひ)を遣(や)りて広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)与(と)を祀(いは)はしめたまふ。
丁亥。
天皇至自吉野宮。
丁亥…〈北〉・〈内閣文庫本〔以下閣〕〉「丁亥」。〈兼右本〉「丁未」。
〈集解〉「丁卯【卯原作亥。此月丁亥無。在丙寅庚午之間丁卯明矣】」。
〈通証〉「丁亥【十四日也】」。
丁亥(ひのとゐ)。〔丁卯、十四日か〕
天皇(すめらみこと)自吉野宮自(よ)り至(かへ)ります。
庚午。
贈律師道光賻物。
律師…〈北〉リツ道光タウクワウ。 〈閣〉。 〈釈紀〉律師リツシ道光ダウクワウ
庚午(かのえうま)。〔十七日〕
律師(りつし)道光(だうくわう)に賻物を贈(おく)りたまふ。
五月癸未朔戊子。
饗公卿大夫於內裏。
五月(さつき)癸未(みづのとひつじ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)。〔六日〕
[於]内裏(おほうち)に公卿大夫(まへつきみたち)を饗(みあへ)したまふ。
癸巳。
〔詔〕
以金光明經一百部送置諸國、
必取毎年正月上玄讀之、
其布施以當國官物充之。
金光明経…〈閣〉一百トモヲアタテ。 〈兼右本〉アタ毎-年トシコトノ
上玄…〈北〉上玄カンツ ユハリノ日 メ布施以オクリモノハ レ_國官物オホヤケモノ充之
〈閣〉カムツ ユハリノ日ユハリニ。 〈釈紀〉カムツユハリノ日布施オクリモノハ
〈兼右本〉 レル-國[ノ]オホ-物[ヲ][テ]アテヨ
癸巳(みづのとみ)。〔十一日〕
〔詔のりたまはく〕
金光明経(こむくわうみやうきやう)一百部(ももとも)を以ちて諸国(もろもろのくに)に送り置かしめて、
必ず毎年(としごと)の正月(むつき)上玄(かむつゆばり)に取(あ)たりて之(こ)を読(よ)ましめよ、
其(その)布施(おくりもの)は当(あた)れる国の官物(つかさのもの)を以ちて之(こ)に充(あ)てよ。〔とのりたまふ。〕
六月癸丑朔庚申。
河內國更荒郡獻白山鶏。
賜更荒郡大領小領位人一級、
幷賜物。
以進廣貳賜獲者刑部造韓國、
幷賜物。
更荒郡…〈北〉更荒 サラゝ レリシロキ山鶏 ヤマトリ韓國カラ クニ
〈閣〉―音讀  ヤマトリヲ刑部造韓。 〈釈紀〉シロキ/ヤマケイトリ私記曰。鶏音讀
〈兼右本〉大-領コホノミヤツコスケノ-領刑-ウタヘ
六月(みなづき)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として庚申(かのえさる)。〔八日〕
河内国(かふちのくに)の更荒郡(さららのこほり)白(しろ)き山鶏(やまどり)を献(たてまつ)る。
更荒郡(さららのこほり)の大領(かみ)小領(すけ)に、位(くらゐ)人(ひとごと)に一級(ひとしな)を賜(たま)ひて、
并(あは)せて物を賜(たま)ふ。
進広弐(しんくわうにゐ)を以ちて獲(とら)へてある者(ひと)刑部造(おさかべのみやつこ)韓国(からくに)に賜(たま)ひて、
并(あは)せて物を賜(たま)ふ。
鏡山大神社
(福岡県田川郡香春町大字鏡山705)
《河内王》
河内王  初出は朱鳥元年、新羅使を饗する使者として、筑紫に派遣。 同年九月〈天武〉喪に「」する。〈持統〉三年閏八月から「筑紫大宰帥」。
 万葉集に、手持女王河内王の葬のときに詠んだ歌三首がある。
 (万)0417題詞:「河内王葬豊前國鏡山之時手持女王作歌三首」。
  「王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流 おほきみの にきたまあへや とよくにの かがみのやまを みやとさだむる」。
 0418豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座 とよくにの かがみのやまの いはとたて こもりにけらし まてどきまさず」。
 0419石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦 いはとわる たぢからもがも たよわき をみなにしあれば すべのしらなく」。
 詠み手の「手持女王」は妻であろう。
 [福岡県香春町公式]『第3期香春町教育振興基本計画』〔福岡県香春町教育委員会2022〕によると、 「径3.6m、高さ1mの円墳が鏡山大神社の麓」にあり、宮内庁により陵墓参考地「勾金陵墓(河内王陵墓)」に指定されている(明治二十七年〔1894〕指定。香春町大字鏡山岩原)
《幸吉野宮》
 二十一回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
《祀広瀬大忌神与龍田風神》
 《祠風神…》参照。
《丁亥》
 甲寅朔の場合丁亥は三十四日、〈兼右本〉の「丁未」では五十四日で、ともにあり得ない日付である。
 〈集解〉は、これを「丁卯〔十四日〕に作り、これなら「丙寅〔十三日〕と「庚午〔十七日〕の間に入るとの考えを示す。妥当であろう。
 丁卯とすると、「幸吉野宮」の日程は七泊八日となり、行幸の日数一覧を見ても妥当である。
《律師道光》
道光  白雉四年五月に「学問僧」として唐に渡った。
 律師は、僧綱の職「僧正・僧都・律師」のひとつ(【弘福寺:牒】項)
《金光明経》
 この段は「」の脱落と見るべきであろう。原文のままでは訓読が困難である。
 金光明経については、また〈天武〉五年十一月参照。
 発想は〈聖武〉天皇による国分寺設置と同様で、その先駆けと位置付けられよう。
讃良郡
《上玄》
 上弦の月。〈倭名類聚抄〉「弦月:弦月之半名也。其形一旁曲一旁直。若弓弦也。弦【和名由美八利。有上弦下弦〔弦は月の半分の名。その形は一方が曲線一方が直線で弓に弦を張るがごとくである。和名ユミハリ。上弦と下弦がある〕
 ユバリユミハリの両形があったと見られる。
《河内国更荒郡》
 〈倭名類聚抄〉{河内国・讃良【佐良々】郡}。
 ここには娑羅々馬飼造がいた(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》)。
《白山鶏》
 《山鶏》参照。
 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に白山鶏は入っていない。近いのは「白雉」で、「中瑞」とされる。
 それでも動物の種類を問わず、白色の変異個体は祥瑞とされたようである。
《刑部造韓国》
刑部造韓国  〈姓氏家系大辞典〉によれば「刑部 オサカベ ウタヘ キヤウブ:允恭皇后忍坂大中姫の御名を負ひし部」。 その出典は〈允恭〉二年、および記〈允恭〉段にある (〈垂仁〉三十九年《刑部》、 〈天武〉十三年《刑部》)
 刑部造の宗家は〈天武〉十二年に連姓を賜り、 さらに忍壁連は同十三年に宿祢姓を賜った。
 〈姓氏家系大辞典〉によれば、
・「刑部造(物部氏族):刑部の総領的伴造なり。…垣部とは部曲…即ち允恭后の封民となりしを知る。〔刑部造は〕其の封民を支配する伴造なるを知るべし。此の氏天武朝に至り連を賜ふ」。
・「河内の刑部造(物部氏族):当国若江郡に刑部郷あり」。
 すなわち資料[39]『天孫本紀』に「十一世孫:麥入宿禰之子―物部石持連公【刑部・垣部・刑部造等祖】」、 〈倭名類聚抄〉{河内国・若江郡・刑部郷」。
 宗家は宿祢姓まで上ったが、河内国在住の分流は造姓のままである。 韓国はここだけ。
《大意》
 四月五日、 浄大肆(じょうだいし)を筑紫大宰(おおみこともち)の率(そち)河内王(かふちのおおきみ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました。
 七日、 吉野宮に行幸しました。
 十三日、 使者を遣わして広瀬の大忌神(おほいみのかみ)と龍田の風神(かぜのかみ)の祭礼をさせました。
 〔十四日か、〕 天皇(すめらみこと)は吉野宮から帰還されました。
 十七日、 律師道光(どうこう)に賻物を贈られました。
 五月六日、 内裏にて公卿大夫らを饗されました。
 十一日、 詔を発しました。
――「金光明経(こんこうみょうきょう)百部を諸国に送り置かせ、 必ず毎年の正月の上弦〔七~八日〕に読経させよ、 その布施には当国の官物を充てよ。」
 六月八日、 河内国(かふちのくに)の更荒郡(さららのこおり)は白い山鶏(やまどり)を献上しました。 更荒郡の大領小領に、位をそれぞれ一級進め、 併せて賜り物されました。 進広弐(しんこうに)位を、白い山鶏を獲らえた刑部造(おさかべのみやつこ)韓国(からくに)に賜り、 併せて賜り物されました。


35目次 【八年七月~十二月】
《遣巡察使於諸國》
秋七月癸未朔丙戌。
遣巡察使於諸國。
巡察使…〈北〉 ミルメクリミル 使ツカヒ。 〈閣〉巡_察 メクリミルミル 。 〈釈紀〉巡察メクリミル使ツカヒ
秋七月(ふみづき)癸未(みづのとひつじ)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔四日〕
巡察(めぐりみ)る使(つかひ)を[於]諸国(もろもろのくに)に遣(や)りたまふ。
丁酉。
遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
丁酉(ひのととり)。〔十五日〕
使者(つかひ)を遣(や)りて広瀬の大忌神と龍田の風神与(と)を祀(いは)はしめたまふ。
八月壬子朔戊辰。
爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。
沙門…〈北〉一百四○九。 〈閣〉イヘテセシム沙門。 〈釈紀〉皇-女飛天智之女持統之妹也-鳥
八月(はつき)壬子(みづのえね)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)。〔十七日〕
皇女(ひめみこ)飛鳥(あすか)の為(ため)に、沙門(ほふし)一百四口(ももたりあまりよたり)を度(いへでせ)しめたまふ。
九月壬午朔。
日有蝕之。
有蝕之…〈閣〉 コト
九月(ながつき)壬午(みづのえうま)の朔(つきたち)。
日有蝕之(ひはゆ)。
乙酉。
幸吉野宮。
乙酉(きのととり)。〔四日〕
吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
癸卯。
以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率。
大宰率…〈北〉大宰カミ
癸卯(みづのとう)。〔二十二日〕
浄広肆(じやうくわうし)三野王(みののおほきみ)を以ちて筑紫大宰(つくしのおほみこともち)の率(かみ)を拝(よさし)したまふ。
冬十月辛亥朔庚午。
以進大肆
賜獲白蝙蝠者
飛騨國荒城郡弟國部弟日、
幷賜絁四匹
綿四屯
布十端
其戸課役限身悉免。
白蝙蝠…〈北〉シロキ蝙-蝠 カハホリ

 タノクニアラキノ郡弟 ヒトオコヲリノ ヲトクニヘノヲトヒ免  タマフ
〈閣〉コホリサトオト ヘノ ツキ ハ
〈釈紀〉荒城郡アラキノコヲリ弟國オトクニ部歟ヘノ

〈兼右本〉荒-城コホリヒト オトヲト-日 ヒ課-ツキ[ニ][テ]悉- 玉フ

…[助数詞] 物品貨幣としての反物の単位〔〈持統〉四年「むら(匹)」項以下〕

冬十月辛亥朔庚午。〔二十日〕
進大肆(しんだいしゐ)を以ちて
白(しろ)き蝙蝠(かはほり)を獲(とら)へてある者(ひと)
飛騨国(ひだのくに)の荒城郡(あらきのこほり)の弟国部(おとくにべ)の弟日(おとひ)に賜(たま)ふ、
并(あは)せて絁(ふときぬ)四匹(よむら)
綿(わた)四屯(よむら)
布(ぬの)十端(とをむら)を賜(たま)ひて
其の戸(へ)の課役(えつき)は身(み)に限りて悉(ことごと)に免(ゆる)したまふ。
十一月辛巳朔丙午。
赦殊死以下。

殊死…〈北〉赦殊死 オモキツミ以下ユルシ■フヲモキツミヨリシテツカタ。 〈閣〉ユルシタマフ殊-死ヲモキツミヨリ
〈釈紀〉ユルシタマフ殊死以下ヲモキツミヨリシモツカタ

殊死…〈汉典〉「① 斬首的刑罰。② 竭尽死力」。
十一月辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)。〔二十六日〕
殊死(ころすつみ)より以下(しもつかた)を赦(ゆる)したまふ。
十二月庚戌朔乙卯。
遷居藤原宮。
遷居遷-オハシマ
十二月(しはす)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として乙卯(きのとう)。〔六日〕
藤原宮(ふぢはらのみや)に遷(うつ)り居(おほましま)す。
戊午。
百官拜朝。
戊午(つちのえうま)。〔九日〕
百官(もものつかさびと)朝(みかど)を拝(をろが)む。
己未。
賜親王以下至郡司等絁綿布
各有差。
賜親王…〈閣〉 コト。 〈兼右本〉 コト親- ヨリ以-下
己未(つちのとひつじ)。〔十日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)郡司等(こほりのつかさたち)至(まで)絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を賜(たま)ふこと
各(おのもおのも)有差(しなあり)。
辛酉。
宴公卿大夫。
辛酉(かのととり)。〔十二日〕
公卿大夫(まへつきみたち)に宴(とよのあかり、うたげ)をたまふ。
《巡察使》
 その「巡察」の内容については何も書かれていない。ただ、陣法博士を各国に派遣して軍団を創設したことを併せると、 七道の諸国を統率して中央集権的な律令国家を形成する動きの一環であろう。
《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》
 《祠風神…》参照。
《皇女飛鳥》
皇女飛鳥  八年八月、天皇が「飛鳥皇女田荘」に行幸。
《度沙門一百四口
 これまでの例※)から見て、飛鳥皇女の病気回復祈願か。
  ※)〈天武〉九年十一月皇后体不予…度一百僧」、「天皇病之。因以度一百僧」。朱鳥元年二月羽田真人八国病。為之度僧三人」。
《日有蝕之》
 八年九月壬午朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。
《幸吉野宮》
 二十二回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
 今回は帰還日の記事がない。
《三野王》
三野王
2026.3.12改
 《美濃王/紀臣訶多麻呂》項 では、〈持統〉八年の三野王は、〈天武〉二年十二月に「造高市大寺司」に任命された三野王とは別人だと判断した。
 《栗隈王之二子》項では、 大海人皇子に同行した「美濃王」と「栗隈王」の子「三野王」とは別人と見た。 一方、〈天武〉十年《美濃王》項では、同一人物としたときの解釈を試みた。
 〈壬申〉紀《美濃王》項 で見た〈姓氏録〉「〈敏達〉―難波皇子―栗隈王―美努王―橘諸兄」の「美努王」は、〈持統〉八年の三野王とするのが妥当であろう。 父の栗隈王が筑紫大宰で(〈壬申〉11)、子も同職に任命されたと考えられるからである。
 結局、ミノ王〔〈壬申〉で大海人皇子に随伴。〈天武〉二年十二月に「造高市大寺司」〕は終始畿内で活動していたのに対して、 ミノ王〔栗隈王の子。筑紫大宰率〕は筑紫大宰率の任が解かれるまではずっと筑紫にいたと見て、両者は別人であったとした方が自然であろう。
《筑紫大宰率》
土師宿祢
師友
大宰師
兼右本内閣文
庫本
北野本
 ●土師、師友の"師"と大宰帥の"帥"は明らかに字体が異なる。
 〈持統〉三年六月までは「筑紫大宰」、同年閏八月で初めて「筑紫大宰帥〔字体は右図六年閏五月以後、八年四月と八月は「筑紫大宰率」。 〈続紀〉天平三年〔730〕九月以後は「大宰帥」が定着する。
 〈持統〉五年正月条において、「筑紫史益」は〈天智〉二年から「大宰府典〔四等官制では第四位〕を務めたとと述べている。 〈続紀〉養老四年には阿倍比羅夫が「後岡本朝」で「筑紫大宰帥」だったと述べる。
 これらの「」、「」の用字は遡及であろうが、 長官や史にあたる職自体は、当然存在したはずである。ただ、官組織に共通する枠組みの基準を四等官制として定式化するようになったのは〈持統〉朝の頃であろうと推定される。
《白蝙蝠》
「扇」厳島神社蔵 平安〔12世紀〕
「平安貴族社会における扇と社会的関係」野田有紀子
大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書 平成19年度 海外研修事業編 〔お茶の水女子大学大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」事務局;2008〕
 蝙蝠は〈倭名類聚抄〉「蝙蝠:【辺福二音】一名伏翼【和名加波保里】」。 コウモリに転じたことからみて、""は濁音かも知れない。[b]子音と[m]子音はしばしば相互転換するからである。
 平安時代の用例は、カハホリアフギ〔蝙蝠扇〕の略として出てくるものである。 その形状がコウモリが羽を広げた状態に似る故とされる(右図)。
――『枕草子』過ぎにし方恋しきもの「雨などふりつれづれなる日さがし出でたるこぞ去年のかはほり」。
 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に白山鶏は入っていない。「白兎」、「白雀」は「中瑞」とされる。
 白山鶏(上述)と同じように、一般的に白色の変異個体は祥瑞とされたようである。
飛騨国荒城郡〔吉城郡〕
《飛騨国荒城郡》
 〈倭名類聚抄〉{飛騨国・荒城【阿良木】}、 〈延喜式-神名〉{飛騨国/荒城郡五座}が見える。
 後に「吉城郡」に改称された (【飛騨国の廃寺跡】項)
 改称の時期について、『大日本地名辞書』は 「東鑑〔あづまかがみ〕に、建久四年〔1193〕荒木郷地頭職を多好方に命ずとあり、又門前村安国寺、明徳元年〔1390〕庚午、一切経龕文に 「飛騨州吉城郡荒城郷、大平山安国禅寺」とあり、江間系図「八代、荒城郡司平徳盛、永和四年〔1378〕父時則に継き、応永八年〔1401〕卒」 とあれば、明徳の前に改めしならん」と述べる。
 『日本歴史地名大系』〔平凡社1989〕によれば「吉城郡は上宝村永昌えいしよう寺蔵の大般若波羅蜜多経の嘉暦元年〔1326〕四月晦日の奥書に「吉城郡角川村」とあるのが初見」で、 「中世には併用され、近世になって吉城郡に統一された」という。
《弟国部弟日》
弟国部弟日  〈姓氏家系大辞典〉「弟国部 オトクニベ:山城国乙訓郡弟国宮名を負ひし品部にて、継体天皇の御名代部と考へらる」。 〈継体〉十二年都弟国」。
 乙訓郡については、「乙国評」の木簡が出土している(《弟国》)。 実際にはオトクニに居住していたオトクニ氏の名称が先にあり、後に〈継体〉の御名代になったと考えられる。〈継体〉は越出身(資料[20])だからオトクニ族の分流も北陸経由で飛騨国に至ったと想像される。
 弟日はここだけ。
《赦殊死以下》
 殊死は「死を恐れずに奮戦する。斬首刑。」とされる。
 用例を見ると、 『通典』〔唐801〕兵九「賊衆殊死戦、散而復合者数焉」は
 『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀「其大赦天下、自殊死以下、謀反大逆諸犯不当得赦者、皆赦除之〔その天下への大赦は、"殊死"より以下、謀反大逆で大赦すべきでないとされている者も、みな赦除〔=刑罰を免除〕せよ〕 では。なお、斬首以外の手段による死刑も殊死と言ったようである。
《遷居藤原宮》
 もし「遷居藤原宮」だけならぎりぎり住める状態とも読めるが、 以下の「百官拝朝」、「賜親王以下…」、「宴公卿大夫」はその祝賀行事であろうから、ほぼ完成を迎えたと考えられる。
《大意》
 七月四日、 巡察使を諸国に遣わしました。
 十五日、 使者を遣わして広瀬の大忌神と龍田の風神を祭祀させました。
 八月十七日、 飛鳥皇女のために、沙門一百四人を出家させました。
 九月一日、 日食がありました。
 四日、 吉野宮に行幸しました。
 二十二日、 浄広肆(じょうこうし)三野王(みののおおきみ)を筑紫大宰の率(そち)に任じました。
 十月二十日、 進大肆(しんだいし)位を、 白い蝙蝠(こうもり)を獲らえたところの 飛騨国の荒城郡(あらきのこおり)の弟国部(おとくにべ)の弟日(おとひ)に賜り、 併せて絁(ふときぬ)四匹(むら)、 綿四屯(むら)、 布十端(むら)を賜りました。 その戸の課役は一代に限り悉く免じられました。
 十一月二十六日、 殊死〔死刑〕以下を赦免されました。
 十二月六日、 藤原宮(ふじわらのみや)に遷居されました。
 九日、 官人たちは朝廷に拝しました。
 十日、 親王以下郡司等に至るまで、それぞれに応じて絁(ふときぬ)、綿、布を賜りました。
 十二日、 公卿大夫に宴を賜りました。


まとめ
 新益京の大路はまだ一部工事中であっただろうが、大極殿、朝堂院、内裏など藤原宮の中枢は概ね完成を見たと思われる。 これが国家の大事業であったことは、その前の白山鶏、白蝙蝠の祥瑞に示されている。すなわち天も京の造立を褒め、 「赦殊死以下」も、やはり藤原宮完成の記念である。
 ただ、藤原宮の完成の記述は「遷居藤原宮」のみ、その祝賀行事の記述は「百官拝朝」程度で、極めて簡潔である。 これは決して実際の行事が抑制的だったことを意味せず、書紀の記述がどんどん細り骨子のみになっていることの現れと見られる。 その文章が貧弱になりつつあることについては、八年四月癸巳条の「詔」の脱落などはこれまでならあり得ないことである。
 さて、今回の「郡大領小領」、「大宰率」、そして前回の八年三月「国司頭至目」などからは、四等官制が確立されつつあったことが知れる。 このような中央の官僚組織の細密化とともに、地方にも陣法博士の派遣、巡察使、金光明経の諸国への配置、そして新益京の完成を併せて、トータルで律令国家の確立に向かっている。



2026.03.17(tue) [30-18] 持統天皇18 

36目次 【九年正月~四月】
《饗公卿大夫於內裏》
九年春正月庚辰朔甲申。
以淨廣貳授皇子舍人。
浄広二諸王十二階第八位。
九年(ここのとせ)春正月(むつき)庚辰(かのえたつ)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)。〔五日〕
浄広弐(じやうくわうに)を以ちて皇子(みこ)舎人(とねり)に授(さづ)く。
丙戌。
饗公卿大夫於內裏。
丙戌(ひのえいぬ)。〔七日〕
公卿大夫(まへつきみたち)に[於]内裏(おほうち)に饗(みあへ)したまふ。
甲午。
進御薪。
甲午(きのえうま)。〔十五日〕
御薪(みかまき)を進(たてまつ)る。
乙未。
饗百官人等。
乙未(きのとひつじ)。〔十六日〕
百官人(もものつかさびと)等(ら)に饗(みあへ)したまふ。
丙申。
射、四日而畢。
…〈兼右本〉イクフ
丙申(ひのえさる)。〔十七日〕
射(ゆみいる、いくひす)、四日(よか)にして[而]畢(を)へり。
閏二月己卯朔丙戌。
幸吉野宮。
閏(うるふ、のちの)二月(きさらき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔八日〕
吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
癸巳。
車駕還宮。
癸巳(みづのとみ)。〔十五日〕
車駕(しやか、すめらみこと)宮(みや)に還(かへ)ります。
三月戊申朔己酉。
新羅遣王子金良琳
補命薩飡朴强國等
及韓奈麻金周漢
金忠仙等
奏請國政、
且進調獻物。
王子金良琳…〈北野本〔以下北〕王-子 セシン コム リヤウリン或本作麻 ミヤウ
 サツ サン モク強  キヤウ■クカンコムシユ 漢金 チウ
〈内閣文庫本〔以下閣〕金良 或本作麻 冠名 
 韓奈 冠名金周金忠
〈釈紀〉王子セシムコムリヤウ琳 リンミヤウサツサムモクキヤウコク
 カムコムシウカンコムチウコクセム
〈兼右本〉金良イ乍韓-奈-イ乍韓忠○仙イナ等奏-イ无
奏請…天子に申し上げて裁決をあおぐ。
三月(やよひ)戊申(つちのえさる)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)。〔二日〕
新羅(しらき)王子(わうし、せしむ)金良琳(こむりやうりん)
補命(ほみやう)薩飡(さつさん)朴強国(もくきやうこく)等(ら)
及びに韓奈麻(かんなま)金周漢(こむしうかん)
金忠仙(こむちうせん)等(ら)を遣(まだ)して
国の政(まつりごと)を奏請(まを)して、
且(また)調(つき)を進(たてまつ)りて物(もの)を献(たてまつ)る。
己未。
幸吉野宮。
己未(つちのとひつじ)。〔十二日〕
吉野宮に幸(いでま)す。
壬戌。
天皇至自吉野。
壬戌(みずのえいぬ)。〔十五日〕
天皇(すめらみこと)吉野自(よ)り至(かへ)ります。
庚午。
遣務廣貳文忌寸博勢
進廣參下譯語諸田等
於多禰求蠻所居。
文忌寸…〈北〉文忌寸博勢アヤノイムキノハカセ下譯-シモヲサノモロ蠻  ヒナノ所居ヰトコロ
〈閣〉ハカ
〈釈紀〉アヤノ忌寸イムキノ博勢ハカセシモ譯語ヲサノ諸田モロタヒナ所-居イトコロ

務広二諸臣四十八階第二十六位。
進広三…諸臣四十八階第四十六位。

庚午。〔二十三日〕
務広弐(むくわうに)文忌寸(あやのいみき)博勢(はかせ)
進広参(しんくわうさむ)下訳語(しもをさ)の諸田(もろた)等(ら)を遣(や)りて
[於]多祢(たね)に蛮(えみし)の所居(すまふところ)を求(ま)がしむ。
夏四月戊寅朔丙戌。
遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
夏四月(うづき)戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔九日〕
使者(つかひ)を遣(や)りて広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)与(と)を祀(いは)はしむ。
甲午。
以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷
幷賜賻物【本位勤大壹】。
以直大肆贈文忌寸赤麻呂
幷賜賻物【本位大山中】。
赤麻呂…〈閣〉赤麿。 〈兼右本〉麻呂麿イ乍

直広三諸臣四十八階第十四位。
勤大一…諸臣四十八階第十七位。
直大四…諸臣四十八階第十五位。
大山中冠位二十六階第十四位〔勤広二(第20位)~勤大三(第21位)に相当〕

甲午(きのえうま)。〔十七日〕
直広参(ぢきくわうさむ)を以ちて賀茂朝臣(かものあそみ)蝦夷(えみし)に贈(おく)りたまふ、
并(あは)せて賻物(はぶりもの)を賜(たま)ふ【本位(もとのくらゐ)は勤大壱(ごんだいいちゐ)なり】。
直大肆(ぢきだいし)を以ちて文忌寸(あやのいみき)赤麻呂(あかまろ)に贈りたまふ、
并せて賻物(はぶりもの)を賜ふ【本位(もとのくらゐ)は大山中(だいせんちう)なり】。
《皇子舎人》
皇子舎人  『公卿補任』によれば〈天武〉五年〔676〕生まれ。〈持統〉九年〔695〕にはニ十歳。
 日本書紀を奏上した養老四年〔720〕には四十五歳。
 川嶋皇子らは〈天武〉十年〔681〕に「-定帝紀及上古諸事」を命じられた。筆頭の川嶋皇子は〈持統〉五年〔691〕九月薨去。 メンバーのうち〈神代紀〉にその遠祖「天児屋命」が描かれた(《中臣/忌部》)中臣連大嶋は〈持統〉七年〔693〕に卒し、 同じくその遠祖「太玉命」が描かれた忌部連首は養老三年〔713〕に卒した。
 川嶋皇子薨の前月の〈持統〉五年八月には、十八氏に墓記を提出させているので、まだ書紀編纂作業を継続していたと思われる。
 古事記スタッフは、日本書紀の文字記録のない時代のための伝承蒐集班だったと見た。従って古事記の序文に記された時期は、同時に書紀の編纂過程を表すと見てよいであろう。 よって古事記序文(第十七回)の〈天武〉天皇の「諸家之所賷帝紀及本辞」云々は、〈天武〉十年の「-定帝紀及上古諸事」を指すと見られる。 「-習帝皇日継及先代旧辞。然、運移世異、未其事」(第二十回)は書紀においても同様であろう。
 〈元明〉天皇〔在位707~715〕に、「和銅四年〔711〕九月十八日の詔で「安万侶」に「撰録」を命じられたとある(第24回)。 書紀の再開もこのときであったとすれば、書紀編纂の中断期間は691年~711年ぐらいということになる。 
《幸吉野宮》
 二十三回目、二十四回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
《王子金良琳/朴强國/金周漢/金忠仙》
王子金良琳 ここだけ。『三国史記』にもこの名は出てこない。
薩飡〔八位〕一覧朴强國 ここだけ。
韓奈麻〔十位〕参照金周漢 ここだけ。
〔十位〕金忠仙 ここだけ。
《補命》
 『三国史記』に「補命」という語句は出てこない。漢籍もこれまで検索した範囲では見つかっていない。 文脈では王子を補佐する役目だが、官職名か一時的な呼び名かも不明である。 書紀古訓では音読。〈釈紀〉に考察なし。『集解』は「補命【不詳】」とする。
《請国政》
 新羅は孝昭王四年にあたる。「請国政」は何らかの外交交渉が行われたときの表現である。 ただこの時点では喫緊の課題はあまり考えられず、武周〔武則天の治世〕の動向に関する情報提供程度かも知れない。
《文忌寸博勢/下訳語諸田》
文忌寸博勢  書首根摩呂で見たように、西〔河内〕文首と東〔倭〕文直の二流があった(《文宿祢》項)。 両者とも連姓を賜り、〈天武〉十四年では「河内漢連」・「倭漢連」と表記された上で両者とも忌寸姓を賜っている。 よって、「文忌寸」では西漢・東漢のどちらか判別できない。
 〈続紀〉〈文武〉二年〔698〕四月「務広弐文忌寸博士等八人于南嶋国。因給戎器〔=武器〕」。
 同三年〔699〕十一月「文忌寸博士…自南嶋至。進位各有」。
下訳語諸田  〈姓氏家系大辞典〉「下 シモ」項で{大和国・宇智郡・資母郷}{伊勢国・川曲郡・資母【之毛】郷」他の「資母郷」、{三河国・賀茂郡・信茂郷}、{甲斐国・都留郡・征茂郷}などの地名による族とし、 「下訳語;漢族にして、下村主の族なり」、「下村主族:光武帝の裔と称す。河内国安宿郡資母郷を根拠とせし大族」と述べる。
 〈姓氏録〉には〖諸蕃/漢/下村主/出自後漢光武帝七世孫慎近王也〗〖諸蕃/漢/曰佐〔ヲサ〕(無姓)/出自漢高祖男斉掉恵王肥之後也〗がある。
 諸田はここだけ。
《多祢求蠻所居》
 〈天武〉八年十一月には多祢嶋に大使を送り、おそらく現地の酋長または国王に爵一級を賜った。 続いて十年八月に送った使者は国の「〔地図か〕を朝廷に献上し、また多祢国人を飛鳥寺西河辺で接待した。 よって、首長との関係は一定程度成立していたと見てよい。
 多祢の首長らは、島の奥地にはその支配に服していない種族がまだ幾つか居住すると話したのであろう。文忌寸博勢らはその調査に向かったと思われる。 多祢王の宮殿から見れば、「」の居住地はである。その限りでは書紀古訓「ヒナ」は適切である。
《蠻》
 の新字体は。中華思想においては四周を未開民族と見做して、東夷西戎北狄南蛮と呼んだ。
《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》
 《祠風神…》参照。
《賀茂朝臣蝦夷/文忌寸赤麻呂》
賀茂朝臣蝦夷  鴨君は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。
 鴨君蝦夷は〈壬申〉で将軍大伴吹負の麾下で乃楽(なら)に向かった(14)。
文忌寸赤麻呂  文忌寸は文忌寸博勢参照。
 赤麻呂はここだけ。冠位は〈天智〉三年当時の二十六階によるものなので、しばらく国外に滞在していたと思われるか。
《大意》
 九年正月五日、 浄広弐(じょうこうに)位を舎人(とねり)皇子(みこ)に授けました。
 七日、 公卿大夫に内裏で饗(きょう)されました。
 十五日、 御薪(みかまき)を進上しました。
 十六日、 百官らに饗されました。
 十七日、 弓射し、四日間で終えました。
 閏二月八日、 吉野宮に行幸しました。
 十五日 車駕は宮に帰還されました。
 三月二日、 新羅王子金良琳(こむりょうりん)、 補命(ほみょう)薩飡(さつさん)朴強国(もくきょうこく)ら、 及び韓奈麻(かんなま)金周漢(こむしゅうかん)、 金忠仙(こむちゅうせん)らを派遣して、 国政を奏請し、 また進調献物しました。
 十二日、 吉野宮に行幸しました。
 二十三日、 務広弐(むこうに)文忌寸(あやのいみき)博勢(はかせ)、 進広参(しんこうさん)下訳語(しもおさ)の諸田(もろた)らを派遣して、 多祢(たね)に蛮族の住む所を探索させました。
 四月九日、 使者を遣して広瀬の大忌神(おおいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)を祭祀させました。
 十七日、 直広参(じきくこうさん)を賀茂朝臣(かものあそん)蝦夷(えみし)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました【元の位は勤大壱(ごんだいいち)でした】。 直大肆(じきだいし)を文忌寸(あやのいみき)赤麻呂(あかまろ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました【元の位は大山中(だいせんちゅう)でした】。


37目次 【九年五月~十二月】
《饗隼人大隅》
五月丁未朔己未。
饗隼人大隅。
丁未朔…〈北〉
五月(さつき)丁未(ひのとひつじ)を朔(つきたち)として己未(つちのとひつじ)。〔十三日〕
隼人(はやひと)大隅(おほすみ)を饗(みあへ)したまふ。
丁卯。
觀隼人相撲於西槻下。
…〈北〉/隼。 〈兼右本〉ミルモト
丁卯(ひのとう)。〔二十一日〕
隼人(はやひと)の[於]西の槻(つきのき)の下(もと)に相撲(すまひ)せるを観(み)そなはす。
六月丁丑朔己卯。
遣大夫謁者
詣京師及四畿內諸社請雨
六月(みなづき)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)。〔三日〕
大夫(まへつきみ)謁者(ものまをすひと)を遣(まだ)して、
京師(みさと)及(およ)びに四(よつ)の畿内(うちつくに)の諸社(もろもろのやしろ)に詣(まゐた)りて雨を請(ねが)はしむ。
壬辰。
賞賜諸臣年八十以上及痼疾、
各有差。
賞賜…〈北〉賞‗コト
痼疾…〈北〉 オモキ疾各ヤマヒヒト ヤマヒスル 。 〈閣〉痼-疾 ヤマヒトニ オモキヤマヒスル人ニ
〈釈紀〉痼疾オモキヤマヒト。 〈兼右本〉痼-ヤマヒスルヒトオモキヤマヒト

…[名][動] 病状が固定した長い病。持病。
痼疾…〈汉典〉「久治不愈的疾病」。

壬辰(みづのえたつ)。〔十六日〕
諸臣(まへつきみたち)の年(よはひ)八十(やそち)より以上(かみつかた)及びに痼疾(いたくやむひと)に賞賜(ものたまふこと)、
各(おのもおのも)有差(しなあり)。
甲午。
幸吉野宮。
甲午(きのえうま)。〔十八日〕
吉野宮に幸(いでま)す。
壬寅。 至自吉野。 壬寅(みづのえとら)。〔二十六日〕
吉野(よしの)自(よ)り至(かへ)ります。
秋七月丙午朔戊辰。
遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
秋七月丙午朔戊辰。〔二十三日〕
使者(つかひ)を遣(や)りて広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)与(と)を祀(いは)はしむ。
辛未。
賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野
務大貳伊吉連博德等物、
各有差。
伊吉連…〈北〉吉連。 〈釈紀〉毛野ケノ。 〈兼右本〉伊-吉ユ キ

直広四諸臣四十八階第十五位。
務大二…諸臣四十八階第二十七位。

辛未(かのとひつじ)。〔二十六日〕
新羅(しらき)に遣(つかは)さむ使(つかひ)に擬(なそ)ふる直広肆(ぢきくわうし)小野朝臣(をののあそみ)毛野(けの)
務大弐(むだいに)伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)等に物(もの)を賜(たまふこと)、
各(おのもおのも)有差(しなあり)。
八月丙子朔己亥。
幸吉野。
…〈兼右本〉 ス吉-野[ニ]
八月(はつき)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)として己亥(つちのとゐ)。〔二十四日〕
吉野(よしの)に幸(いでま)す。
乙巳。
至自吉野。
乙巳(きのとみ)。〔三十日〕
吉野自(よ)り至(かへ)ります。
九月乙巳朔戊申。
原放行獄徒繋。
原放行獄徒繋…〈北〉-放ユルシタマフ ユルシタマフ -獄徒繋サフラフトラヘヒトサフラハシムツミムト
〈閣〉-行獄サフラハシムサフラフトラヘヒトユルシタマフ徒-繋 アツムト 
〈釈紀〉-放ユルシタマフ行獄サフラフ徒繋トラヘヒト
〈兼右本〉-放ユルシタマフ行-獄サリラハシム/サリラフ 徒-繋ツミント /トラヘヒト
九月(ながつき)乙巳(きのとみ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)。〔四日〕
獄(ひとや)に行(ゆ)ける徒繋(とらへひと)を原放(ゆる)したまふ。
庚戌。
小野朝臣毛野等、發向新羅。
毛野…〈北〉毛野ケノ發-向 タチマカル。 〈閣〉發_向タチマカル
庚戌(つちのといぬ)。〔六日〕
小野朝臣(をののあそみ)毛野(けの)等(ら)、新羅(しらき)に発(た)ち向(ゆ)く。
十月乙亥朔乙酉。
幸菟田吉隱。
吉隠…〈北〉田𠮷隠ヨナハリ。 〈閣〉𠮷_隠 ヨナハリニ 。 〈釈紀〉吉隱ヨナハリ
〈兼右本〉菟-田[ノ]𠮷-隠ヨナハリ[ニ]
十月(かむなづき)乙亥(きのとゐ)を朔(つきたち)として乙酉(きのととり)。〔十一日〕
菟田(うだ)の吉隠(よなばり)に幸(いでま)す。
丙戌。
至自吉隱。
吉隠…〈北〉𠮷隠 ヨナハリ
丙戌(ひのえいぬ)。〔十二日〕
吉隠(よなばり)自(よ)り至(かへ)ります。
十二月甲戌朔戊寅。
幸吉野宮。
十二月(しはす)甲戌(きのえいぬ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)。〔五日〕
吉野宮に幸(いでま)す。
丙戌。
至自吉野。
賜淨大肆泊瀬王賻物。
浄大四諸王十二階第十一位。
丙戌(ひのえいぬ)。〔十三日〕
吉野自(よ)り至(かへ)ります。
浄大肆(じやうだいし)泊瀬王(はつせのおほきみ)に賻物(はぶりもの)を賜(たま)ふ。
《隼人大隅》
 〈天武〉十一年七月には 「大隅隼人与阿多隼人」などとあり、隼人は大隅や薩摩の種族をいう。 「隼人大隅」の形では、適切に訓読することは困難である。
《隼人相撲》
 〈天武〉十一年七月にも 「大隅隼人与阿多隼人相-撲於朝庭。大隅隼人勝之」とあった。
《西槻下》
 「西槻下」は「飛鳥寺西槻下」の略。
 〈天武〉十一年七月隼人等於明日香寺之西」、 〈斉明〉三年【飛鳥寺西の須弥山石】項参照。
《賞賜》
 「賞賜」は「痼疾」にまでかかる構文になっているため、ホメルと読むことは不適切である。 「功労に報いる」ことに重点を置くべきであろう。ここでは"賞"への古訓『類聚名義抄』仏下本 仏下末タマフ」、「タマ〔タマヒモノス〕が適当と考えられる。
《幸吉野宮》
 この期間においては、二十五、二十六回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》)。
《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》
 《祠風神…》参照。
《擬遣新羅使》
 遣新羅使は、六年十一月七年三月にも事前に呼ばれて禄を賜った。
 今回も新羅からの「国政奏請」に対応するために遣使を事前に呼び、その方針を綿密に確認したと思われる。「賜…物」はその際に下賜されたものであろう。 ただ前述したように、この時点で緊急を要する課題はあまり考えられないが、 対新羅外交については常に慎重に取り組まれていたようである。
《小野朝臣毛野/伊吉連博徳》
小野朝臣毛野  小野臣は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。
 毛野は、〈続紀〉文武四年〔700〕十月「以…直広参小野朝臣毛野為〔筑紫〕大弐」。 大宝二年〔702〕五月「勅…従四位下…小野朝臣毛野。令参議朝政」。
 慶雲二年〔705〕十一月己卯「正四位上小野朝臣毛野中務卿」。 同四年〔707〕六月〔〈文武〉崩に伴い〕「以…正四位上小野朝臣毛野。供-奉殯宮事」。
 和銅元年〔708〕三月「以…正四位上小野朝臣毛野…並為し2中納言」。 同二年〔709〕正月「授…正四位上小野朝臣毛野並従三位」。
 同七年夏四月辛未「中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也」。 すなわち遣隋使小野妹子(推古十五年)の孫。
伊吉連博徳  壱伎連博徳は、朱鳥元年十月に大津皇子の謀反に連座したが、赦された。
《原放行獄徒繋》
 「原放行獄徒繋」は、どのように区切られるのだろうか。
 原放 〈汉典〉「免罪釈放」。
 行獄 熟語としては諸辞書にない。
  用例は、たとえば『晋書』曹攄伝。愍之曰:卿等不幸致此非所、如何…〔曹攄は獄を見に行き、愍(あわれ)んで言った。「あなたたちは不幸にしてこの非ざるところにいることになった…」〕
  単純に「獄に行く」で、囚人として行くか、巡察するために行くかを問わないと見られる。
 徒繋 〈汉典〉「徒繋:被関押的犯人」。なお「関押:put in prison〔関はかんぬきで閉ざす意〕
 原放を検索すると、「屈原放逐」が大量に出てくるが、これは戦国の楚の人屈原が放遂された故事がフレーズになったもの。
 本来の「原放」は、『宋書』武帝紀、孝武帝紀にいくつかあり、そのうち「孝武帝紀」四年五月丁未「車駕幸建康県-獄囚」が最も分かりやすい。
 検索するうちに、『宋書』孝武帝紀:七年十一日乙未に「原放行獄徒繫」そのものが見つかった。〈持統〉紀はこれを用いたようである。
 よってこの文は純正漢文として扱うことができ、 訓読は「-放行獄徒繫ひとや行ける徒繫とらへびと原放ゆるしたまふ〕 とすればよいこととなる。
 なお、『集解』は「蓋倒-写"行獄原放徒繋"也。"行"謂巡検〔もともと「行獄原放」であったものを誤って筆写した。「行」は巡検の意である〕と見る。 上記『晋書』曹攄伝()では「行獄」は巡察の意味なので、この見方には一定の妥当性がある。但し、その場合は「倒写」が出典の孝武帝紀まで遡らせるという困難がある。 ただ敢えて逆転させなくても「行獄徒繫」の「行獄」を「徒繫」への連体修飾句として、「行獄」に意味を補って「獄を巡りて観たところの」と読むことは必ずしも不可能ではない。
 ただし、これは文章そのものがもつ可能性を論じたものあって、このとき天皇が獄を巡察したと書いたものではないことは明らかである。
《菟田吉隠》
吉隠 (現在の奈良県桜井市吉隠の範囲)
 現在の桜井市吉隠地区が遺称であろうが、近世の郡境界では宇陀郡ではなく、式上郡に属している(右図)。 考えられるのは、当時の郡境界は今よりも西側にあった()、さもなければ郡境界は変わっていないが「吉隠」はより広く宇陀郡まで広がっていた()ことである。
 〈持統〉天皇がこの地を訪れた理由が〈壬申〉の故地を懐かしむためだったとすれば、が妥当である。 〈壬申〉紀において、大海人皇子一行が吉野宮を発ってから不破行宮に至るまでの経路はかなり確定的に推定できるからである(経路推定図)。
 ただ、郡境界と吉隠村の位置が近代と同じであったとしても、読む方法はある。 〈持統〉紀の書法は全体に端折られていて、ここでも「菟田吉隠」は「初瀬街道を通って菟田方面に向かい、吉隠に至った」と読み得るからである。 吉隠には行宮があり、そこで宿泊して〈壬申〉故地に足を延ばしたとすれば、事柄は一応成り立つ。
 吉隠は由緒ある土地で[吉隠]/[村の歴史]、万葉にも詠まれている。
――(万)0203 題詞:「但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首  但馬皇女の薨(みまか)りし後に、穂積皇子の冬の日雪落(ふ)り遥かに御墓を望みて悲しび傷み涕(なみだ)流したまひて御作(よみたまへる)歌一首(ひとうた)
 「零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒有巻尓 ふるゆきは あはになふりそ よなばりの ゐかひのをかの さむくあらまくに」。
 歌碑が吉隠公民館〔奈良県桜井市吉隠726〕前にある。
《泊瀬王》
泊瀬王   〈天武〉十二年四月大伴連望多が薨じたときに弔問使。同十四年十月には、「畿内之役」に派遣。
《大意》
 五月十三日、 隼人(はやと)大隅を饗(あえ)されました。
 二十一日、 隼人の相撲を〔飛鳥寺〕西の槻の木の下で観覧されました。
 六月三日、 大夫謁者(えっしゃ)を遣わし、 京師及び四国の畿内の諸社に詣して雨乞いさせました。
 十六日、 諸臣の八十歳以上及び痼疾の者にそれぞれに応じて〔功労と見舞いの〕ものを賜りました。
 十八日、 吉野宮に行幸しました。
 二十六日、 吉野から帰還されました。
 七月二十三日、 使者を遣して広瀬の大忌神と龍田の風神を祭祀させました。
 二十六日、 新羅への遣使に擬(なぞら)えた〔=予定した〕直広肆(じきこうし)小野朝臣毛野(けの)、 務大弐(むだいに)伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)らにそれぞれに応じてものを賜りました。
 八月二十四日、 吉野に行幸しました。
 三十日、 吉野から帰還されました。
 九月四日、 獄に入った囚人を赦免されました。
 六日、 小野朝臣毛野らは、新羅に出発しました。
 十月十一日、 菟田(うだ)の吉隠(よなばり)に行幸しました。
 十二日、 吉隠から帰還されました。
 十二月五日、 吉野宮に行幸しました。
 十三日、 吉野から帰還されました。 浄大肆(じょうだいし)泊瀬王(はつせのおおきみ)に賻物(ふもつ)を賜りました。


まとめ
 「隼人大隅」という記述は、読む人を悩ませる。 「西槻下」の前の「飛鳥寺」が略されたことを併せると、この一節は十三年前の〈天武〉十一年七月条にあった類似部分を、不完全な形で引き写した印象を受ける。 おそらく簡略な記録は存在し、それに基づいて書こうとしたが意を十分に表し得る文章にできなかったのであろう。 執筆者には、隼人は種族名、阿多・大隅は郡〔当時は評〕名という理解がなかったと考えざるを得ない。
 「菟田吉隠」にも、同様の粗雑さが感じられる。
 一方、「原放行獄徒繫」とある。ここは逆に「赦罪人」〔元年六月〕で十分で、漢籍による潤色は不要である。
 ここに至り文章の劣化は否めない。



[30-19]  持統天皇(7)