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2026.03.07(sat) [30-16] 持統天皇16 ▼▲ |
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32目次 【七年十月~十二月】 《詔自今年始於親王下至進位觀所儲兵》
〈天武〉・〈持統〉朝において、朝廷の軍を整えてきた経過を振り返ろう。 〈天武〉四年十月「諸王以下初位以上、毎レ人備兵」では、 軍備をこれまでの各氏族に任されていた実態を改め、朝廷直轄体制に移行するものである。これは、軍事面における律令国家の構築と位置付けられる。 五年九月「王卿遣二京及畿内一、校二人別兵一」、 八年二月「及二于辛巳年〔天武十年〕一、検二-校親王諸臣及百寮人之兵及馬一。故、予貯焉」として、実施状況を点検。 十三年閏四月「凡政要者軍事也…」では軍事の充実を指示する。 十四年九月「於二京及畿内一、各令レ校二人夫之兵一」として、宮処王など五人の王で分担して京と畿内の兵を検校させた。 〈持統〉三年七月では「築二習レ射所一」で弓射の技能を習得、 閏八月「其兵士者毎二於一国一四分而点二其一一令レ習二武事一」、すなわちそれぞれの国の軍を4グループに分け、四日に一日を武術の習得にあてさせた。 九月には「褒二-美追廣貳高田首石成之閑於三兵一」、すなわち人並み以上に武術の習得に励んだ者を公開の場で表彰して気運を高めた。 すなわち〈持統〉朝になると、兵士の技能を高めて軍を質的に強化した。 今回の詔では、さらに各人ごとに武具と馬を整えておくように指示した。 直冠以上は騎馬兵、それに達しない者は歩兵としている。 《浄冠至直冠》 文章としては不完全で、「(*)浄冠至直冠」の(*)に自・従などが置かれるべきである。よって詔の原文を稚拙なまま収めたかと思われる。 ただ、四年四月条の詔では「已上」、「已下」を用いていて正確であった。 それでは、こちらは書紀執筆者が潤色したのであろうか。 しかし、これには「一畐一部」という独特な用語も使われているのでこちらも詔の原文のままかも知れない。 だとすればこれらの文体の違いは、作成者が異なることによるものかも知れない。 ここで「冠」が用いられていることについては、〈天武〉紀では「爵位」が使われたが、〈持統〉紀では「冠位」に戻り(《冠位》項)、〈続紀〉にも継承される。 通常の勤務においては冠は冠位とは無関係に、漆紗冠《漆紗冠》、もしくは圭冠〈天武〉十三年閏四月を着用することになった※)が、 徴 ※)…〈天武〉紀の文章の流れでは両者は同一と読めるが、その形状には何らかの相違があった可能性もある。 《仁王経》 仁王経は、『仁王護国般若波羅蜜多経』の略。 「大乗仏教の般若思想を強調するもの」だが、「護国思想および鎮護国家の必要性を強調していることが特色」という(『日本大百科全書』小学館1994)。 《幸吉野宮》 十九回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《賜耽羅王子佐平》 前回の耽羅使では、「佐平加羅、来献二方物一」と記されていた二年八月以来(《耽羅王》)。 今回の「佐平」は、人物名が略されて位階のみが記されたもの。 「献調」、賜物の「物」、「饗」も略されて形だけである。〈続紀〉では遂に「耽羅」に関する記事は皆無となる。 かつては新羅への南からの抑えとして関係が重視されてきたが、時と共にその意識は薄れつつあったように見える。 《法員/善往/真義》
〈倭名類聚抄〉{近江国・野洲郡}。
〈延喜式-祥瑞〉では、「大瑞」〔大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の四段階〕とされ、 「醴泉:美泉也。其味美甘。状如二醴酒一」とされる。 漢語としての醴泉は酒ではなく甘味のある湧水を指す。「甘酒のような」という比喩であろう。 「醴泉」への書紀古訓「コサケノイヅミ」は、醴と泉を別々に直訳して繋いだもの。 この訓みは書紀古訓特有と見られる。ただ、〈続紀〉養老元年十二月に「令二美濃国一。立春暁把二醴泉一而、貢二於京都一。為二醴酒一也」 あるので、醴酒(こさけ)の泉と訓むことに一定の根拠はある。 その泉の伝承地については、『近江輿地志略』〔寒川辰清;1733年〕によると、 「甘香池:同村〔=守山村〕大光寺の南数歩にあり。是所謂野洲郡都賀山の醴泉也。周廻一町許の池也、醴池に作る。 都賀山の遺址三宅村にあり。之を以て思ふに都賀山は往古大山にて此辺迄 『大日本地名辞書』には「大光寺と云禅刹あり、寺紀曰 持統天皇七年、近州益須郡醴泉出、刺史奏之、 勅法真善往真義等試嘗…醴泉之蹤至今在寺門南、俗呼曰甘香池…」。 その大光寺の現在の住所表記は滋賀県守山市守山1-9-23。 〈釈紀-述義〉には「醴泉:私記曰。愚案。白武通云。醴泉者状如二醴酒一。可二以養一レ老」とある。 これについては『藝文類聚』-祥瑞の部に「白虎通曰…醴泉者美泉也。状如醴酒、可以養老」。 『白武通』は原題『白虎通』〔後漢〕から、唐の初代皇帝李淵の祖父の名「李虎」を避諱したもの。 この地域は野洲川の南の分流の流域にあたり、この分流は野洲郡と栗太郡の境界になっている。 流域の、守山町の西隣金森 すなわち、野洲川の南分流は大量の伏流水で、それが湧き出して幾筋もの川の源流となっていた。近江国益須郡の醴泉は、湧き上がった泉のひとつと考えられる。 《引田朝臣少麻呂》
「大錦上」は〈天智〉三年制定の「冠二十六階」の第七位。 比羅夫は〈斉明〉朝で筑紫師となり、〈天智〉三年以後に薨じたことになる。 《陣法博士》 陣法は〈汉典〉によれば「布陣的方法」のことで、「古代軍隊作戦時採用的戦門隊形和防禦部署」との解釈を示す。 博士は〈令義解-職員令〉に、 文章博士・明法博士・大学博士・陰陽博士・暦博士・医博士・書博士・咒禁博士・天文博士・音博士・ 筭博士・大宰博士・漏尅博士・針博士・按摩博士が見えるが、陣法博士はない。 〈職員令〉の関連項目は「軍団:大毅一人 …簡閲陳列【謂検閲軍行之陣列也】少毅二人、主帳一人、校尉五人、旅帥十人、隊正廿人」 である。これまでに兵の整備の詔は京と畿内についてであったが、〈持統〉七年になって「教習諸国」と記される。ようやく各地方に「軍団」を置く段階に至り、 その立ち上げのためには「陣法博士」を派遣して指導にあたらせることが必要だったのであろう。 『令義解』では消えているから、遅くとも養老令の時点では必要なくなっていたと見られる。 ※)…軍団が地方組織とされることについては、〈令義解-職員令〉において、「軍団」の項目が国、郡の次におかれていることがそれを示している。 《大意》 十月二日、 詔を発しました。 ――「今年から始めるに、 親王から下は進位まで、 用意した兵装を観閲する。 浄冠(じょうかん)から直冠(じきかん)までは 一人につき鎧一領、 太刀一口、 弓(ゆみ)一張(はり) 矢一揃え、 鞆(とも)一枚、 鞍馬(くらま)を。 勤冠(ごんかん)から進冠(しんかん)までは、 一人につき太刀一口、 弓一張、 矢一揃え、 鞆一枚。 以上を予め備えておけ。」 二十三日、 初めて仁王経(にんのうきょう)を百国に講じ、四日にして終えました。 十一月五日、 吉野宮に行幸しました。 七日、 耽羅(とんら)の王子と佐平〔名を記さない〕たちにそれぞれに応じて賜わり物をされました。 十日、 車駕は宮に帰還されました。 十四日、 沙門法員(ほういん)、 善往(ぜんのう)、 真義(しんぎ)等を遣わし、 近江国の益須郡(やすのこおり)の醴泉(こさけのいずみ)の水を試飲させました。 二十三日、 直大肆(じきだいし)位を直広肆(じきこうし)引田朝臣(ひけたのあそん)少麻呂(すくなまろ)に授(さづ)け、 よって食封(じきふ)五十戸を賜りました。 十二月二十一日、 陣法(じんぽう)博士たちを派遣し、諸国に教習させました。 33目次 【八年正月~三月】 《以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行増封人二百戸並爲氏上》
四年正月の《進薪》項参照。 《蹈歌》 蹈歌は、七年正月に初出 (《踏歌》項)。 《射》 〈天武〉六年六月《射于南門》項参照。 〈持統〉三年八月の「観射」は、習射所の成果発表会だったかも知れない。 正月行事としては〈持統〉紀では初出。 《唐人》 白村江の戦いの当時に百済の捕虜となり、倭に献上された唐人の可能性もある(次々項)。 《幸藤原宮》 藤原宮、藤原京の建造の視察した。 《大唐七人》 百済戦線で俘虜となり、倭国に送られた続守言と薩弘恪は音博士に取り立てられた《続守言/薩弘恪》。 ここの「大唐七人」も同様に倭国に送られた俘虜であった可能性が高い。 《肅慎二人》 粛慎は古くは〈欽明〉五年十二月に、佐渡島に上陸した。 【肅慎】項において漢籍における由来、訓みについて検討した。 阿倍比羅夫(上述)は、 四年是歳と 六年三月に、粛慎と接触した (《粛慎》)。 〈天武〉五年に新羅使が粛慎を連れてきたときには、新羅が渡島〔北海道南西部〕に進出していることを知って慌てたであろう (《肅慎七人》項)。 ここでは爵位を与えるほどの関係の深まりが見られる。大隅阿多は寺を建てる段階となり(六年閏五月)、ほぼ律令国家の統治下に組み込まれた今、 視線は北方に向けられている。 《幸吉野宮》 二十回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《日有蝕之》 八年三月甲申朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。 《大宅朝臣麻呂/台忌寸八嶋/黄書連本実》
令制では大蔵省の「管二司五一」の一つとして「典鑄司」が置かれている。 鋳銭司との関係は微妙と見た(資料[24])が、 〈令義解-職員令〉には「典鋳司:正一人【掌造鋳金銀銅鉄塗餝瑠璃】」とあり、 それとは別に承和元年十月九日「太政官符」に「銭鋳司」が出てくるので、令外官と見られる。 〈倭名類聚抄〉には「鋳銭司【樹漸〔シユセム〕乃司】」とあり、音読みされている。 もっとも書紀古訓「セニノツカサ」のセニ自体が銭の音読みに由来する。 〈続紀〉文武三年〔699〕十二月に「始置二鋳銭司一。以二直大肆中臣朝臣意美麻呂一為二長官一」。 この「鋳銭司」は官署と見られる。 〈持統〉八年の「鋳銭司」の三名については正〔長官〕・佑〔副官〕などの肩書はないので、明確な組織ではなく命じられた職務を負う個人のグループだと考えられる。 この問題を論じた「官制からみた銭貨鋳造官司の変遷について」仁藤敦史〔『国立歴史民俗博物館研究報告 第210集』2018 〕は、 「浄御原令官制においては明瞭な等差が官司においても官人序列においても明瞭でない段階」と述べ、〈持統〉朝「鋳銭司」においては内部の序列制は明確ではないが一応は組織体であったと見たようである。 この点に関しては、〈天武〉四年三月条の「…為二兵政官長一…為二大輔一」や、〈持統〉三年閏八月条の「筑紫大宰帥」などを見ると、 「浄御原令官制」において「官人序列」は既に「明瞭」であろう。 よって、三名の「鋳銭司」は、やはり官人としてのツカサに"司"の字をあてたものであろう。 ゆくゆくは組織体としての「鋳銭司」を設立するための準備にあたったのかも知れない。 通貨の歴史としては、〈天武〉十二年四月の「自レ今以後必二用銅銭一」は富本銭に対応すると考えられている。 このときはまだ銀銭が一般的で、通貨の主流を占めるには至らなかったようである。 和同開珎の登場は、和銅元年〔708〕である。 《大領/小領》 大領、少領はそれぞれ郡の四等官の一位、二位である。 すなわち〈倭名類聚抄〉「長官:…郡曰二大領一…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰二少領一…【已上皆須介】」とある。 「大領神社」(資料[76])、「改新詔其二曰」参照。 《七年歳次癸巳》 〈持統〉七年は癸巳であるから、「七年歳次癸巳」自体に問題はない。ただ称制年を元年とするのは書紀特有の表し方で、それまではなかったであろう。 本来なら「元年」は即位年であろう。よって詔の原文は「歳次癸巳」のみまたは「四年歳次癸巳」だったと見るのが自然である。 「歳」は木星で、約十二年で天球上を一巡することから古くはその位置する星座によって十二年周期で年を表したことが十二支の起源である(関連する資料[B]、資料[68])。 このことにより歳次は「ほしやどる」と訓読される。 「歳次癸巳」は韻文的であるから、「疾病」、「療差」の訓読はそれぞれ「やみやむ」、「いえいゆ」と同語反復することも考えられる。 古事記には「なりなる」第34回、「つどひつどふ」(第49回)の例があるからである。 《益須寺》
守山市教育委員会 編『守山市文化財調査報告書』第29冊 p.6の図による 同報告書は 「調査⑧では数百点を数えるものの、〔他は〕数点みられるのみ」、 調査全体では「軒丸瓦では素弁八葉蓮花文と複弁系3種の都合4種…軒平瓦は四重弧文、忍冬唐草文、均正唐草文の3種」 (p.30)。 すなわち瓦の出土は右図の⑧の地域に圧倒的に多いから、そこが「益須寺」に最も近かったと思われる。 13次調査の出土瓦については、文様の判別できるものの一つは均整唐草文で8世紀中頃の時期が比定でき、 もう一つの忍冬唐草文は法隆寺式という(p.21、p.31)。 そして、「従来より確認されていた軒平瓦3種に該当し、それらは7世紀後半から8世紀頃という時期が考えられる」(p.30)という。 つまり飛鳥奈良時代である。 金堂や塔と見られる礎石は未だ発見されていないようなので、主要な伽藍配置は不明である。 《入水田四町》 益須寺に、寺田四町を与えたという意味であろう。 《雜徭》 五年十月《徭役》項参照。 《国司頭至目》 〈倭名類聚抄〉では国の四等官は「守>介>掾>目」。「頭」は、寮の長官に用いられている。 〈持統〉朝の頃は、国司の一等官は頭だったようであるが、頭至目という表現からは官司における四等官制がほぼ確立していたことが覗われる。 《葛野羽衝/百済土羅々女》
〈倭名類聚抄〉では、神祇官の一等官は「伯」であるが、〈持統〉朝当時には「頭」だったようである。 《大意》 八年正月二日、 正広肆(しょうこうし)位を 直大壱(じきだいいち)布勢朝臣(ふせのあそん)御主人(みあるじ)と 大伴宿祢(おおとものすくね)御行(みゆき)に授け、 二百戸を増封して、これまでと併せて五百戸とし、 二人を氏上(うじのかみ)としました。 七日、 公卿らに饗(あえ)されました。 十五日、 御薪(みかまき)を進上しました。 十六日、 百官人らに饗(あえ)されました。 十七日、 漢人(あやひと)は蹈歌(とうか)を奏しました。 五位以上が弓射しました。 十八日、 六位以下が弓射して、四日間で終えました。 十九日、 唐人が蹈歌を奏しました。 二十一日、 藤原宮に行幸し、その日のうちに帰還されました。 二十三日、 務広肆(むこうし)などの位を 大唐の七人と肅愼(みしはせ)の二人に授けました。 二十四日、 吉野宮に行幸しました。 三月一日、 日食がありました。 二日、 直広肆(じきこうし)大宅朝臣(おほやけのあそん)麻呂(まろ)、 勤大弐(ごんだいに)台忌寸(うてなのいみき)八嶋(やしま)、 黄書連(きふみのむらじ)本実(ほんじつ)らを、 鋳銭司(ぜにのつかさ)に任命されました。 十一日、 詔を発しました。 ――「凡そ無位の人を郡司に任命した場合は、 進広弐(しんこうに)位を大領(かみ)に授け、 進大参(しんだいさん)位を小領(すけ)に授けよ。」 十六日、 詔を発しました。 ――「粤(ここ)に七年歳次癸巳を以て、 醴泉(こさけのいずみ)が近江国の益須郡(やすのこおり)の都賀山(つかやま)に涌いた。 諸々の疾病の人が益須寺(やすでら)に宿泊して、 療養して回復する者は多い。 よって、寺に水田四町と 布六十端(むら)を入れよ。 益須郡の今年の調と役、雑徭を免除せよ。 国司の頭(かみ)から目(さかん)まで一位づつ進階せよ。 最初に醴泉を発見した、 葛野(かどの)の羽衝(はつき)と 百済の土羅々女(とららめ)には、 それぞれに絁(ふときぬ)二匹(むら)と 布十端(むら) 鍬(すき)十口を賜れ。」 二十二日、 幣帛を諸社に奉じました。 二十三日、 神祇官の頭(かみ)から祝部(ほうり)らまで一百六十四人に、それぞれに応じて絁(ふときぬ)布を賜りました。 まとめ 醴泉の水は美味であったとともに病を癒すと信じられ、その水を求めて益須寺には多くの人が滞在したという。 想像するに、この水で炊 古代中国の思想において、瑞祥は天子の徳が高く治世が安定していることを天が認め、褒める徴 〈持統〉七年に醴泉が湧水した報告が上げられたが、確認のために三人の僧を派遣して試飲させる慎重さが見られる。 その結果確かに醴泉であるとの判定を得て、国司の四等官を進階させ、益須寺に寺領などを、発見者二名には禄を賜った。 これら関係者に多大な褒美を賜ることにより、この瑞祥を天皇の治世を天が褒めた徴として喧伝させたと考えられる。 後の〈元正〉霊亀三年十一月には、天皇は「〔美濃国〕当耆郡多度山美泉」に行幸したとき、その美泉の功能を知ったとされる。 それにより詔を発し「美泉即合 |
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2026.03.11(wed) [30-17] 持統天皇17 ▼▲ |
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34目次 【八年四月~六月】 《以淨大肆贈筑紫大宰率河內王幷賜賻物》
(福岡県田川郡香春町大字鏡山705)
(万)0417題詞:「河内王葬豊前國鏡山之時手持女王作歌三首」。 「王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流 おほきみの にきたまあへや とよくにの かがみのやまを みやとさだむる」。 0418「豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座 とよくにの かがみのやまの いはとたて こもりにけらし まてどきまさず」。 0419「石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦 いはとわる たぢからもがも たよわき をみなにしあれば すべのしらなく」。 詠み手の「手持女王」は妻であろう。 [福岡県香春町公式]/『第3期香春町教育振興基本計画』〔福岡県香春町教育委員会2022〕によると、 「径3.6m、高さ1mの円墳が鏡山大神社の麓」にあり、宮内庁により陵墓参考地「勾金陵墓(河内王陵墓)」に指定されている(明治二十七年〔1894〕指定。香春町大字鏡山岩原)。 《幸吉野宮》 二十一回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《丁亥》 甲寅朔の場合丁亥は三十四日、〈兼右本〉の「丁未」では五十四日で、ともにあり得ない日付である。 〈集解〉は、これを「丁卯」〔十四日〕に作り、これなら「丙寅」〔十三日〕と「庚午」〔十七日〕の間に入るとの考えを示す。妥当であろう。 丁卯とすると、「幸吉野宮」の日程は七泊八日となり、行幸の日数一覧を見ても妥当である。 《律師道光》
《金光明経》 この段は「詔」の脱落と見るべきであろう。原文のままでは訓読が困難である。 金光明経については、また〈天武〉五年十一月参照。 発想は〈聖武〉天皇による国分寺設置と同様で、その先駆けと位置付けられよう。
上弦の月。〈倭名類聚抄〉「弦月:弦月之半名也。其形一旁曲一旁直。若レ張二弓弦一也。弦【和名由美八利。有二上弦下弦一】」 〔弦は月の半分の名。その形は一方が曲線一方が直線で弓に弦を張るがごとくである。和名ユミハリ。上弦と下弦がある〕。 ユバリ、ユミハリの両形があったと見られる。 《河内国更荒郡》 〈倭名類聚抄〉{河内国・讃良【佐良々】郡}。 ここには娑羅々馬飼造がいた(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》)。 《白山鶏》 《山鶏》項参照。 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に白山鶏は入っていない。近いのは「白雉」で、「中瑞」とされる。 それでも動物の種類を問わず、白色の変異個体は祥瑞とされたようである。 《刑部造韓国》
四月五日、 浄大肆(じょうだいし)を筑紫大宰(おおみこともち)の率(そち)河内王(かふちのおおきみ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました。 七日、 吉野宮に行幸しました。 十三日、 使者を遣わして広瀬の大忌神(おほいみのかみ)と龍田の風神(かぜのかみ)の祭礼をさせました。 〔十四日か、〕 天皇(すめらみこと)は吉野宮から帰還されました。 十七日、 律師道光(どうこう)に賻物を贈られました。 五月六日、 内裏にて公卿大夫らを饗されました。 十一日、 詔を発しました。 ――「金光明経(こんこうみょうきょう)百部を諸国に送り置かせ、 必ず毎年の正月の上弦〔七~八日〕に読経させよ、 その布施には当国の官物を充てよ。」 六月八日、 河内国(かふちのくに)の更荒郡(さららのこおり)は白い山鶏(やまどり)を献上しました。 更荒郡の大領小領に、位をそれぞれ一級進め、 併せて賜り物されました。 進広弐(しんこうに)位を、白い山鶏を獲らえた刑部造(おさかべのみやつこ)韓国(からくに)に賜り、 併せて賜り物されました。 35目次 【八年七月~十二月】 《遣巡察使於諸國》
その「巡察」の内容については何も書かれていない。ただ、陣法博士を各国に派遣して軍団を創設したことを併せると、 七道の諸国を統率して中央集権的な律令国家を形成する動きの一環であろう。 《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《皇女飛鳥》
これまでの例※)から見て、飛鳥皇女の病気回復祈願か。 ※)…〈天武〉九年十一月「皇后体不予…度二一百僧一」、「天皇病之。因以度二一百僧一」。朱鳥元年二月「羽田真人八国病。為レ之度二僧三人一」。 《日有蝕之》 八年九月壬午朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。 《幸吉野宮》 二十二回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 今回は帰還日の記事がない。 《三野王》
〈持統〉五年正月条において、「筑紫史益」は〈天智〉二年から「大宰府典」〔四等官制では第四位〕を務めたとと述べている。 〈続紀〉養老四年には阿倍比羅夫が「後岡本朝」で「筑紫大宰帥」だったと述べる。 これらの「典」、「帥」の用字は遡及であろうが、 長官や史にあたる職自体は、当然存在したはずである。ただ、官組織に共通する枠組みの基準を四等官制として定式化するようになったのは〈持統〉朝の頃であろうと推定される。 《白蝙蝠》
「平安貴族社会における扇と社会的関係」野田有紀子
平安時代の用例は、カハホリアフギ〔蝙蝠扇〕の略として出てくるものである。 その形状がコウモリが羽を広げた状態に似る故とされる(右図)。 ――『枕草子』過ぎにし方恋しきもの「雨などふりつれづれなる日さがし出でたるこぞ 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に白山鶏は入っていない。「白兎」、「白雀」は「中瑞」とされる。 白山鶏(上述)と同じように、一般的に白色の変異個体は祥瑞とされたようである。
〈倭名類聚抄〉{飛騨国・荒城【阿良木】郡}、 〈延喜式-神名〉{飛騨国/荒城郡五座}が見える。 後に「吉城郡」に改称された (【飛騨国の廃寺跡】項)。 改称の時期について、『大日本地名辞書』は 「東鑑 『日本歴史地名大系』〔平凡社1989〕によれば「吉城郡は上宝村永昌 《弟国部弟日》
殊死は「①死を恐れずに奮戦する。②斬首刑。」とされる。 用例を見ると、 『通典』〔唐801〕兵九「賊衆殊死戦、散而復合者数焉」は①。 『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀「其大赦天下、自殊死以下、謀反大逆諸犯不当得赦者、皆赦除之」 〔その天下への大赦は、"殊死"より以下、謀反大逆で大赦すべきでないとされている者も、みな赦除〔=刑罰を免除〕せよ〕 では②。なお、斬首以外の手段による死刑も殊死と言ったようである。 《遷居藤原宮》 もし「遷居藤原宮」だけならぎりぎり住める状態とも読めるが、 以下の「百官拝朝」、「賜親王以下…」、「宴公卿大夫」はその祝賀行事であろうから、ほぼ完成を迎えたと考えられる。 《大意》 七月四日、 巡察使を諸国に遣わしました。 十五日、 使者を遣わして広瀬の大忌神と龍田の風神を祭祀させました。 八月十七日、 飛鳥皇女のために、沙門一百四人を出家させました。 九月一日、 日食がありました。 四日、 吉野宮に行幸しました。 二十二日、 浄広肆(じょうこうし)三野王(みののおおきみ)を筑紫大宰の率(そち)に任じました。 十月二十日、 進大肆(しんだいし)位を、 白い蝙蝠(こうもり)を獲らえたところの 飛騨国の荒城郡(あらきのこおり)の弟国部(おとくにべ)の弟日(おとひ)に賜り、 併せて絁(ふときぬ)四匹(むら)、 綿四屯(むら)、 布十端(むら)を賜りました。 その戸の課役は一代に限り悉く免じられました。 十一月二十六日、 殊死〔死刑〕以下を赦免されました。 十二月六日、 藤原宮(ふじわらのみや)に遷居されました。 九日、 官人たちは朝廷に拝しました。 十日、 親王以下郡司等に至るまで、それぞれに応じて絁(ふときぬ)、綿、布を賜りました。 十二日、 公卿大夫に宴を賜りました。 まとめ 新益京の大路はまだ一部工事中であっただろうが、大極殿、朝堂院、内裏など藤原宮の中枢は概ね完成を見たと思われる。 これが国家の大事業であったことは、その前の白山鶏、白蝙蝠の祥瑞に示されている。すなわち天も京の造立を褒め、 「赦二殊死以下一」も、やはり藤原宮完成の記念である。 ただ、藤原宮の完成の記述は「遷居藤原宮」のみ、その祝賀行事の記述は「百官拝朝」程度で、極めて簡潔である。 これは決して実際の行事が抑制的だったことを意味せず、書紀の記述がどんどん細り骨子のみになっていることの現れと見られる。 その文章が貧弱になりつつあることについては、八年四月癸巳条の「詔」の脱落などはこれまでならあり得ないことである。 さて、今回の「郡大領小領」、「大宰率」、そして前回の八年三月「国司頭至目」などからは、四等官制が確立されつつあったことが知れる。 このような中央の官僚組織の細密化とともに、地方にも陣法博士の派遣、巡察使、金光明経の諸国への配置、そして新益京の完成を併せて、トータルで律令国家の確立に向かっている。 |
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2026.03.17(tue) [30-18] 持統天皇18 ▼▲ |
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36目次 【九年正月~四月】 《饗公卿大夫於內裏》
川嶋皇子薨の前月の〈持統〉五年八月には、十八氏に墓記を提出させているので、まだ書紀編纂作業を継続していたと思われる。 古事記スタッフは、日本書紀の文字記録のない時代のための伝承蒐集班だったと見た。従って古事記の序文に記された時期は、同時に書紀の編纂過程を表すと見てよいであろう。 よって古事記序文(第十七回)の〈天武〉天皇の「諸家之所レ賷帝紀及本辞」云々は、〈天武〉十年の「記二-定帝紀及上古諸事一」を指すと見られる。 「令レ誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。然、運移二世異一、未レ行二其事一矣」(第二十回)は書紀においても同様であろう。 〈元明〉天皇〔在位707~715〕に、「和銅四年」〔711〕九月十八日の詔で「安万侶」に「撰録」を命じられたとある(第24回)。 書紀の再開もこのときであったとすれば、書紀編纂の中断期間は691年~711年ぐらいということになる。 《幸吉野宮》 二十三回目、二十四回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《王子金良琳/朴强國/金周漢/金忠仙》
『三国史記』に「補命」という語句は出てこない。漢籍もこれまで検索した範囲では見つかっていない。 文脈では王子を補佐する役目だが、官職名か一時的な呼び名かも不明である。 書紀古訓では音読。〈釈紀〉に考察なし。『集解』は「補命【不詳】」とする。 《請国政》 新羅は孝昭王四年にあたる。「請国政」は何らかの外交交渉が行われたときの表現である。 ただこの時点では喫緊の課題はあまり考えられず、武周〔武則天の治世〕の動向に関する情報提供程度かも知れない。 《文忌寸博勢/下訳語諸田》
〈天武〉八年十一月には多祢嶋に大使を送り、おそらく現地の酋長または国王に爵一級を賜った。 続いて十年八月に送った使者は国の「図」〔地図か〕を朝廷に献上し、また多祢国人を飛鳥寺西河辺で接待した。 よって、首長との関係は一定程度成立していたと見てよい。 多祢の首長らは、島の奥地にはその支配に服していない種族がまだ幾つか居住すると話したのであろう。文忌寸博勢らはその調査に向かったと思われる。 多祢王の宮殿から見れば、「蛮」の居住地は鄙である。その限りでは書紀古訓「ヒナ」は適切である。 《蠻》 蠻の新字体は蛮。中華思想においては四周を未開民族と見做して、東夷、西戎、北狄、南蛮と呼んだ。 《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《賀茂朝臣蝦夷/文忌寸赤麻呂》
九年正月五日、 浄広弐(じょうこうに)位を舎人(とねり)皇子(みこ)に授けました。 七日、 公卿大夫に内裏で饗(きょう)されました。 十五日、 御薪(みかまき)を進上しました。 十六日、 百官らに饗されました。 十七日、 弓射し、四日間で終えました。 閏二月八日、 吉野宮に行幸しました。 十五日 車駕は宮に帰還されました。 三月二日、 新羅王子金良琳(こむりょうりん)、 補命(ほみょう)薩飡(さつさん)朴強国(もくきょうこく)ら、 及び韓奈麻(かんなま)金周漢(こむしゅうかん)、 金忠仙(こむちゅうせん)らを派遣して、 国政を奏請し、 また進調献物しました。 十二日、 吉野宮に行幸しました。 二十三日、 務広弐(むこうに)文忌寸(あやのいみき)博勢(はかせ)、 進広参(しんこうさん)下訳語(しもおさ)の諸田(もろた)らを派遣して、 多祢(たね)に蛮族の住む所を探索させました。 四月九日、 使者を遣して広瀬の大忌神(おおいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)を祭祀させました。 十七日、 直広参(じきくこうさん)を賀茂朝臣(かものあそん)蝦夷(えみし)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました【元の位は勤大壱(ごんだいいち)でした】。 直大肆(じきだいし)を文忌寸(あやのいみき)赤麻呂(あかまろ)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました【元の位は大山中(だいせんちゅう)でした】。 37目次 【九年五月~十二月】 《饗隼人大隅》
〈天武〉十一年七月には 「大隅隼人与阿多隼人」などとあり、隼人は大隅や薩摩の種族をいう。 「隼人大隅」の形では、適切に訓読することは困難である。 《隼人相撲》 〈天武〉十一年七月にも 「大隅隼人与阿多隼人相二-撲於朝庭一。大隅隼人勝之」とあった。 《西槻下》 「西槻下」は「飛鳥寺西槻下」の略。 〈天武〉十一年七月「饗二隼人等於明日香寺之西一」、 〈斉明〉三年【飛鳥寺西の須弥山石】項参照。 《賞賜》 「賞賜」は「痼疾」にまでかかる構文になっているため、ホメルと読むことは不適切である。 「功労に報いる」ことに重点を置くべきであろう。ここでは"賞"への古訓『類聚名義抄』仏下本 仏下末「タマフ」、「タマモ 《幸吉野宮》 この期間においては、二十五、二十六回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《擬遣新羅使》 遣新羅使は、六年十一月、 七年三月にも事前に呼ばれて禄を賜った。 今回も新羅からの「国政奏請」に対応するために遣使を事前に呼び、その方針を綿密に確認したと思われる。「賜…物」はその際に下賜されたものであろう。 ただ前述したように、この時点で緊急を要する課題はあまり考えられないが、 対新羅外交については常に慎重に取り組まれていたようである。 《小野朝臣毛野/伊吉連博徳》
「原放行獄徒繋」は、どのように区切られるのだろうか。 ●原放 〈汉典〉「免罪釈放」。 ●行獄 熟語としては諸辞書にない。 用例は、たとえば『晋書』曹攄伝A「攄行レ獄。愍之曰:卿等不幸致二此非所一、如何…」〔曹攄は獄を見に行き、愍(あわれ)んで言った。「あなたたちは不幸にしてこの非ざるところにいることになった…」〕。 単純に「獄に行く」で、囚人として行くか、巡察するために行くかを問わないと見られる。 ●徒繋 〈汉典〉「徒繋:被関押的犯人」。なお「関押:put in prison」〔関はかんぬきで閉ざす意〕。 原放を検索すると、「屈原放逐」が大量に出てくるが、これは戦国の楚の人屈原が放遂された故事がフレーズになったもの。 本来の「原放」は、『宋書』武帝紀、孝武帝紀にいくつかあり、そのうち「孝武帝紀」四年五月丁未「車駕幸二建康県一。原二-放獄囚一」が最も分かりやすい。 検索するうちに、『宋書』孝武帝紀:七年十一日乙未に「原放行獄徒繫」そのものが見つかった。〈持統〉紀はこれを用いたようである。 よってこの文は純正漢文として扱うことができ、 訓読は「原二-放行レ獄徒繫一」 〔獄 なお、『集解』は「蓋倒二-写"行獄原放徒繋"一也。"行"謂二巡検一也」〔もともと「行獄原放」であったものを誤って筆写した。「行」は巡検の意である〕と見る。 上記『晋書』曹攄伝(A)では「行獄」は巡察の意味なので、この見方には一定の妥当性がある。但し、その場合は「倒写」が出典の孝武帝紀まで遡らせるという困難がある。 ただ敢えて逆転させなくても「行獄徒繫」の「行獄」を「徒繫」への連体修飾句として、「行獄」に意味を補って「獄を巡りて観たところの」と読むことは必ずしも不可能ではない。 ただし、これは文章そのものがもつ可能性を論じたものあって、このとき天皇が獄を巡察したと書いたものではないことは明らかである。 《菟田吉隠》
〈持統〉天皇がこの地を訪れた理由が〈壬申〉の故地を懐かしむためだったとすれば、イが妥当である。 〈壬申〉紀において、大海人皇子一行が吉野宮を発ってから不破行宮に至るまでの経路はかなり確定的に推定できるからである(経路推定図)。 ただ、郡境界と吉隠村の位置が近代と同じであったとしても、読む方法はある。 〈持統〉紀の書法は全体に端折られていて、ここでも「幸二菟田吉隠一」は「初瀬街道を通って菟田方面に向かい、吉隠に至った」と読み得るからである。 吉隠には行宮があり、そこで宿泊して〈壬申〉故地に足を延ばしたとすれば、事柄は一応成り立つ。 吉隠は由緒ある土地で[吉隠]/[村の歴史]、万葉にも詠まれている。 ――(万)0203 題詞:「但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望二御墓一悲傷流レ涕御作歌一首 但馬皇女の薨(みまか)りし後に、穂積皇子の冬の日雪落(ふ)り遥かに御墓を望みて悲しび傷み涕(なみだ)流したまひて御作(よみたまへる)歌一首(ひとうた)」 「零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒有巻尓 ふるゆきは あはになふりそ よなばりの ゐかひのをかの さむくあらまくに」。 歌碑が吉隠公民館〔奈良県桜井市吉隠726〕前にある。 《泊瀬王》
五月十三日、 隼人(はやと)大隅を饗(あえ)されました。 二十一日、 隼人の相撲を〔飛鳥寺〕西の槻の木の下で観覧されました。 六月三日、 大夫謁者(えっしゃ)を遣わし、 京師及び四国の畿内の諸社に詣して雨乞いさせました。 十六日、 諸臣の八十歳以上及び痼疾の者にそれぞれに応じて〔功労と見舞いの〕ものを賜りました。 十八日、 吉野宮に行幸しました。 二十六日、 吉野から帰還されました。 七月二十三日、 使者を遣して広瀬の大忌神と龍田の風神を祭祀させました。 二十六日、 新羅への遣使に擬(なぞら)えた〔=予定した〕直広肆(じきこうし)小野朝臣毛野(けの)、 務大弐(むだいに)伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)らにそれぞれに応じてものを賜りました。 八月二十四日、 吉野に行幸しました。 三十日、 吉野から帰還されました。 九月四日、 獄に入った囚人を赦免されました。 六日、 小野朝臣毛野らは、新羅に出発しました。 十月十一日、 菟田(うだ)の吉隠(よなばり)に行幸しました。 十二日、 吉隠から帰還されました。 十二月五日、 吉野宮に行幸しました。 十三日、 吉野から帰還されました。 浄大肆(じょうだいし)泊瀬王(はつせのおおきみ)に賻物(ふもつ)を賜りました。 まとめ 「隼人大隅」という記述は、読む人を悩ませる。 「西槻下」の前の「飛鳥寺」が略されたことを併せると、この一節は十三年前の〈天武〉十一年七月条にあった類似部分を、不完全な形で引き写した印象を受ける。 おそらく簡略な記録は存在し、それに基づいて書こうとしたが意を十分に表し得る文章にできなかったのであろう。 執筆者には、隼人は種族名、阿多・大隅は郡〔当時は評〕名という理解がなかったと考えざるを得ない。 「菟田吉隠」にも、同様の粗雑さが感じられる。 一方、「原放行獄徒繫」とある。ここは逆に「赦罪人」〔元年六月〕で十分で、漢籍による潤色は不要である。 ここに至り文章の劣化は否めない。 |
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⇒ [30-19] 持統天皇(7) |
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