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2026.02.09(mon) [30-13] 持統天皇13 ▼▲ |
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26目次 【六年五月~閏五月】 《相摸國司獻赤鳥鶵二隻》
阿古志推定地 (阿古師神社) 「阿胡行宮」とあるから、六年三月の伊勢行幸で「造行宮丁」と書かれた「行宮」の、少なくとも一つはここであった。 風光明媚な土地である。ただし、中心会場であったはずの伊勢神宮からは離れている。 政治的かつ宗教的な性格の強い伊勢行幸ではあったが、〈持統〉自身は同時に観光を楽しんだと見られる。 天皇を迎えるにあたって伊勢志摩の国司は当然最大限のもてなしを考えたから、宿泊地についても十分に考慮したのであろう。 《進贄者》 贄(ニヘ)は神やその祭祀のための供物。また諸国から神や朝廷に献上する特産品。 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕によれば、ニヘはニヒ〔新〕と同根で、「新穀を神に捧げる稲」をいう。 オホニヘは美称。 海部(あま)は漁業の族である。「阿古志の海部の河瀬麻呂等」が進上した贄は、きっと伊勢エビや鮑などを含む新鮮な海産物であったことだろう。 その贄による接待を喜び、兄弟三人の戸〔一戸は20名程度〕毎に負う「調役雑徭」を十年間も免除した。 孫の珂瑠皇子らとともに存分に現地の滞在を楽しんだと考えられる。「挾杪」〔舵取り〕八人にも今年の調役を免じたというから、船で遊覧したのであろう。 《紀伊国牟婁郡》 紀伊国牟婁郡から献上した贄については、 木簡「紀伊国无漏郡進上御贄礒鯛八升」(平城宮造酒司地区)([木簡庫])が見える。 无漏郡から平城宮に「御贄」として送った「礒鯛」〔イシダイ〕の荷札。 《阿古志海部河瀬麻呂》 阿古志は、熊野市の「阿古師神社」〔三重県熊野市甫母町607〕の地域に比定される。 〈神武〉紀「丹敷浦」の候補地(錦)に近い。 現地の案内板には 「二木島湾を抱く東の岬にあり対して西の岬に室古神社がある…阿古志海部河瀬麻呂の兄弟が鮮魚を献上したとあるのはこの神社である…平成二十年六月二〇日 熊野市教育委員会」とある。
「服」は、文脈からユルス〔=免〕と訓むことになる。 誤写を疑ったが、複数個所にあるから誤写ではない。 〈類聚名義抄〉には「服:キモノ キヌ キル フカシ ■ラム ツク サトル ヨソオヒ コロモ ウヘシホカラ ナラフ カヘル シタカフ ツカフ ハトリ ナツク トゝノフ」とある。 服はこのように、主に服装または服従を意味する。つまり本来の意味は「服する」で、「免す」とは正反対である。 結局「免レ服」から「免」を省略した形である。現代の感覚では分かり辛いが、 上代語のカゲに「光」と「影」という相反する二重の意味があることを考えると、これに類する感覚かも知れない。 《雜徭》 五年十月《徭役》項参照。 《挾杪》 〈類聚名義抄-仏下本〉「扶杪:カヂトリ」、「檝師:カヂトリ」が見える。 文脈から見て、「挾杪」=舵取りは間違いない。 《赤鳥鶵》 〈延喜式-治部省〉「祥瑞」項に「赤烏」・「赤燕」・「赤雀」があり、いずれも「上瑞」に分類される。 幼鳥の意のヒナは、上代語の資料にはなかなか見えない。 〈時代別上代〉は、「ヒナノコ」を『日本国現報善悪霊異記』〔訓釈に平安時代初期の姿があるという〕の訓点に見出している。
〈倭名類聚抄〉{相模【佐加三】国・御浦【美宇良】郡}。三浦半島である。 《幸吉野宮》 十二回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《遣二大夫謁者一祠二名山岳涜一請レ雨》 『後漢書』孝順孝沖孝質帝紀に「敕三郡国二千石各祷二名山岳涜一。遣二大夫謁者一、詣二嵩高首陽山一、并祠二河洛一、請レ雨」 〔郡国に勅して二千石をもって名のある山岳と涜に祈祷させた。大夫謁者を遣わして嵩高(山名)、首陽山に詣(ゆ)かせ、併せて河洛(黄河と洛陽の間の地域)で祭祀させて雨を請うた〕 とある。これを用いたもの。 《大夫謁者》 謁者は、〈汉典〉「① 通報与接待賓客的近侍。② 職官名。秦始置、替国君掌伝達事宜。漢沿之、掌賓讚受事。唐時改称為通事舎人。③ 星名:晋書天文志「左執法東北一星曰謁者、主贊賓客也」」。 〔① 連絡や賓客の接待のために近侍。② 職官名としては、秦代に初めて置かれ君主に代わって事を伝えることを掌る。漢代には賓客への対応を掌る。唐代には「通事舎人」に改称〕。 書紀のここの文脈では、賓客に応対する役目は考えにくい。「謁」は主君にまみえて申し上げる意味なので、「納言」の唐名〔唐の官職に準えた呼び名〕とみてよいであろう。 書紀古訓の「モノマウシ」もその解釈を用いたことを示している。 《文忌寸智徳》
四年十月に高市皇子、十二月に天皇が藤原を視察して「宮地」が決定された。 《伊勢/大倭/住吉/紀伊大神》 伊勢大神については、改めていうまでもない。 大倭、住吉、紀伊の大神は、それぞれ朱鳥元年七月の「飛鳥四社」、「住吉大神」、「居二紀伊国一々懸神」を指す (《奉下幣於居紀伊国国懸神…》以下)。 藤原宮造営のことをそれぞれの大神に報告した。 《脩行》 「修行」のままではまったく文脈に合わない。 『通証』は「修行【修当レ造レ循】」〔修は循に作るべし〕という。 『集解』でははじめから「循行」に作っている。 書紀古訓では、既に「修」を循にあてて訓んでいる。 『後漢書』孝和孝殤帝紀に「遣使循行郡国、稟貸被災害不能自存者、令得漁采山林池沢、不収仮税」とあり、 〈持統〉紀がこれを用いて潤色したことは明白である。 《郡国》 漢代には封建制度の「郡」と諸侯の「国」が共存し、併せて郡国という。郡は天子に直属し、国は諸侯に封じた領土。 漢籍には「郡国」という語が頻出する。 〈持統〉紀の「郡国」はこの中国の言い回しを取り入れたもの。日本の大化以後の制度では「国郡」というべきである。 したがって、郡国をコホリクニと訓むのは適切ではない。 《禀貸災害不能自存者》 漢籍から禀貸の他の用例を見る。 ● 『後漢書』〔南北朝445〕-王充王符仲長統列伝に「天災流行、開二倉庫一以稟貸、不二亦仁一乎」〔天災流行し、倉庫を開け以て稟貸するは、亦 ● 『群書治要』〔唐631〕巻八-周礼-地官の「以保二-息六畜萬民一:一曰慈幼、二曰養老、三曰振窮、四曰恤貧、五曰寬疾」 の注釈に「恤貧:貧無二財業一、禀食貸之也」〔貧を恤 「禀」の原義はこめぐら、そこから転じて「俸給としての穀物」、「下の者が上から授かる」。 書紀古訓「カヒオヒ」は、禀を「頴(カビ)」〔稲などの穂〕、貸を「負ふ」と読んだと推定される。 カビオヒは古語辞典類にないから、書紀古訓のみと見られる。〈兼右本〉の「カレオヒ」からは「カシオヒ」〔貸シ負ヒ〕と訓じた本があったことを覗わせる。 上記の漢籍の用法に沿って、はっきりと「倉庫を開けて穀物を貸し出す」ことがわかる上代語で読むのがよいと思われるが、古訓者はそこまで及んでいない。 なお、『通証』は「禀ハ給也。貸ハ与也」と注する。生産を回復して税を一層納めれば結果的にそれが返済であるという考え方はあり得るが、「貸」という言葉自体はやはり「与える」とは区別した方がよいだろう。 《令得漁採山林池沢》 被災者が飢えないように、〈天武〉四年四月詔の狩猟制限を一時的に解除したと見られる。 ただ、漢籍による潤色なので、実際の制限解除の内容を正確に掴むことは難しい。実際には何も行わなかった可能性もある。 書紀古訓が採を「キコル」〔伐る〕とするのは「山林」があるからと思われる。しかし、食物に困っている者を救おうというときに「樵(きこり)を許す」のは完全にすれ違っている。 ここでは、食物にするために植物を「摘む」意であろう。 『類聚名義抄』仏下本「採:トル ツム ヒロフ ヲサム イロトル ネラフ カキミル トフラフ」を見れば、 「菜を摘む」は全く採の本義に沿うものである。上記『後漢書』孝和孝殤帝紀「得漁采山林池沢」の采の原義も「つまみとる」である。 《金光明経》 日本大百科全書〔小学館;1994〕によると、 金光明経は「4世紀ごろおそらく北インドで成立したとみられる中期大乗経典」で、 原名は「Suvara-prabhāsa-uttama-indra-rāja(『金光明最勝帝王』)」。 漢訳は、『金光明最勝王経』(唐の義浄訳)など。 「四天王、吉祥天、地居天などの仏法守護や、国家鎮護の信仰を配した幅広い、物語性に富む経典」で、 「わが国では国分寺の所依経典」とされたという。 《沙門観成》
《鉛粉》 鉛白は白色の顔料。塩基性炭酸鉛のひとつ、炭酸水酸化鉛(Ⅱ)〔化学式2PbCO3•Pb(OH)2〕の慣用名。主成分とする白色顔料名もいう。かつて、おしろいにも用いられたが、有毒である (世界大百科事典〔平凡社2014〕、大辞源〔小学館2012〕)。 《伊勢大神奏天皇》 伊勢神宮が天皇に奏上する。この「奏」する文章はかなり分かりにくいが、その理由は下述するとして、 ひとまず逐語的に理解を試みる。 《二神郡》 六年三月の《神郡》項で見たように、 「二神郡」は伊勢国の度会郡・多気郡と考えられる。 《免伊勢国今年調役》 伊勢国については、既に六年三月壬午に「免二今年調役一」が決定済みである。 よって、既成の事実を述べたものであってここで改めて願い出たわけではない。 《輸》 輸は、租を官に納めること。たとえば荘園に認められた「不輸不入権」の「不輸」は租税が免除されることを意味する。 もともとは倉に「輸」〔=車で運び込む〕することに由来するとされる。 ここの「応輸其二神郡…」においても、「輸」する行先は官倉と確定して読むべきであろう。 《赤引糸》 〈延喜式-伊勢太神宮〉に「六月月次祭【十二月准此】太神宮赤引糸卌絇…度会宮赤引絲卅絇…」とあり、六月と十二月の月次祭のために用意される。 現在奉献上される「赤引糸」は赤色ではない。古来神宮で斎服に用いられただろうから、当時から「赤色」はあり得ない。「明」、「清浄」を意味するアカに、「赤」の字があてられたのであろう。 『繭の中で:愛知蚕糸界の歴史と群像』中村為又〔中日出版社1980〕には 「東三河地方では、平安時代の伊勢神宮生糸献納の故事に従い、昔から神御衣が奉献され」、 「七半夏至〔ママ;半夏生〔7月2日頃〕であろう〕の翌日、…"お糸船"が、…渥美半島のの最先端、伊良子岬港」から船出するとある。 [伊勢湾フェリー]/[お糸船(伊勢神宮御衣奉献上)] のページによると、三河赤引糸奉献は応仁の乱〔1467〕によって途絶えていたが、明治34年〔1901〕に復活して現在に至るという。 三河国渥美郡は神郡ではないが、おそらく赤引糸の奉献がこの地域まで広がり、後にはむしろ主要な産地になったのであろう。 渥美半島が伊勢神宮と関係が深かったことは、〈持統〉太政天皇が三河行幸に志摩半島からの海路を用いたところにも現れている(資料[76]) このように、赤引糸は神宮に奉献されるためのものであった。 もともと神戸からの税は、租の二分の一が国に納められるほかは、租の残りと庸調のすべてが神に納められる。すなわち赤引糸はすべて神宮のものである。 よって、「応レ輸二其二神郡赤引糸参拾伍斤一」は、神郡で作られた赤引糸は伊勢大神に納められるの通例だが「赤引糸のうち35斤を朝廷に献上します」と申し出たと読めば、統一的に理解することができる。 すなわち、今回の「輸」は伊勢国が「免二伊勢国今年調役一」してくれたことに対するお礼なのである。 《於来年当折其代》 「於来年当折其代」の其代〔そのしろ〕とは、 「代わりに輸(いた)す赤引糸」と読むのが順当であろう。そして、それを「折 「お礼に神郡から赤引糸を納めます」と言いながら「来年からはゼロにします」と付け加えるのはけち臭いが、契約文書には必要な文言かも知れない。 すなわち、後々揉めることのないように必要なことははっきり書いたということなら理解できる。 ● この奏上文は、書紀編者が文書として残されていた史料を原形のまま収めたものと思われる。 おそらく神宮が遣わした使者は、口頭ではこれよりも詳しく奏上したであろう。その覚書として要点のみを記したものだったので、かなり端折ったものになったと考えられる。 この分かりにくさは、逆に史料の信頼性を増すものであろう。 《筑紫大宰率河内王》
〈天武〉十一年七月、隼人が都を訪れて方物を献上し、その接待行事において大隅と阿多の力士に相撲を取らせて余興とした。 また大隅直は、〈天武〉十四年六月に宿祢姓を賜った。辺境の氏族では異例である。 その目的を、「南九州を国家の正規の統治下に組み込むことを当面の重要課題としている」ためと見た。この地域に仏教の普及を図ろうとするのも、まさにそれが目的であろう。 《郭務悰》
《為…所造》 これは「"阿弥陀像" that has been made by "天智天皇"」という構文で、「為」は by にあたる。 上代語による訓読においては、受け身構文において行為者を表す助詞はニが順当である。 〈時代別上代〉によると、漢籍で行為者を表す「為」がタメと訓まれた例は、訓点本に見られるという。ただ、それは全くの直訳であろう。 ここではもしタメニと訓むと、あたかも〈天智〉に献上する目的で阿弥陀像が造られたが如き文章になってしまうので、とても使えない。 《阿弥陀像》 〈天智〉が作らせた阿弥陀仏だが、〈持統〉はこれを郭務悰に託して「唐」〔この時点では武周〕に送らせた。 上記〈天智〉八年〔669〕または十年の筑紫への唐軍の配置は、南から新羅に向かうためと見た。 その後〈天武〉五年〔676〕に、新羅は伎伐浦の戦いに勝利して、百済地域から唐を排除することに成功した (《請政》項)。 唐の前線は遼東半島に後退し、また吐蕃に軍事力を向けざるを得なくなったことで、朝鮮半島を攻撃することができなくなった。 よって、唐が日本を攻撃する危惧もまた薄らいだと言える。ただ、日本は潜在的な脅威を軽視せず防人などにより軍事体制を維持している。 この時期の警戒の対象は、むしろ新羅である。この情勢下では唐とは友好関係を維持することが大切になり、〈持統〉六年の阿弥陀像の上送もこの文脈に位置づけられよう。 さて〈持統〉六年当時の中国王朝は武周で、武則天が690年〔持統四年〕に即位したばかり。 阿弥陀像上送の本筋は国家外交にあるが、加えてお互い女帝という共感性は考えられないだろうか。これは興味深いテーマである。 阿弥陀像については、三年四月《阿弥陀像》項参照。 〈天智〉天皇は観世音寺を大宰府に建立し、かつ大宰率に命じて阿弥陀像を上送させているので、〈天智〉が作らせた阿弥陀像も大宰府周辺に安置されていたと考えられる。 《大意》 五月六日、 阿胡(あこ)の行宮(あんぐう)に滞在されたときに、 贄(おおにえ)〔土地の産物〕を進上した、 紀伊国の牟婁郡(むろのこおり)の人、 阿古志(あこし)の海部(あま)の河瀬麻呂(かわせまろ)らの 兄弟三戸に、 十年の調と役、雑徭(ぞうよう)を免除されました。 また、舵取り八人の今年の調と役を免除されました。 七日、 相摸の国司が赤鳥の雛二羽を献上し、 「御浦郡〔三浦郡〕で獲りました。」と言上しました。 十二日、 吉野宮に行幸しました。 十六日、 車駕が吉野宮から帰還しました。 十七日、 大夫、謁者(えつしゃ)を派遣して、 名のある山と川を祠(まつ)り、雨乞いさせました。 二十日、 文忌寸(ふみのいみき)智徳(ちとこ)に直大壱位を贈り、 併せて賻物(ふもつ)〔死者への品〕を賜りました。 二十三日、 浄広肆(じょうこうし)難波王(なにわのおおきみ)らを遣わして、 藤原の宮地を鎮祭しました。 二十六日、 使者を遣わして幣(みてぐら)を四か所、 伊勢、 大倭、 住吉、 紀伊の大神(おおみかみ)に奉じ、 新宮を用いることを告げさせました。 閏五月三日、 大水があり、 使者を遣わして国々を巡行させ、 災害に自ら立ち行かない者に倉の糧を貸し出し、 山林、池沢に漁労、採取を可能とさせました。 詔して、 京師及び畿内の四国に 金光明経(こんこうみょうきょう)を講説させました。 四日、 沙門観成(かんじょう)に、 絁(ふときぬ)十五匹(むら) 綿三十屯(みぜ) 布五十端(むら)を賜り、 その鉛粉(えんぷん)を作ったことを褒められました。 十三日、 伊勢大神は天皇(すめらみこと)に奏上しました。 ――「伊勢国は今年の調と役が免除されました。 けれども、その二つの神郡が 赤引糸(あかひきいと)三十五斤(はかり)を納入いたします。 〔ただ〕来年にはその代(しろ)を削減します。」 十五日、 筑紫大宰率(だざいそち)河内王(かふちのおおきみ)らに詔されました。 ――「宜く沙門を大隅と阿多に遣わして、 仏教を伝えさせるべし。 また、大唐大使郭務悰(かくむそう)に 近江の大津宮に知ろし召した天皇〔天智〕によって造られた阿弥陀像を上送せよ。」 27目次 【六年六月~七月】 《勅郡國長吏各禱名山岳瀆》
郡国は上述。 長吏は、漢代は丞相などの次官。魏晋には刺使の属官など。よって、長・吏を別々に訓読する意味はない。 《大夫謁者》 漢籍に多く見られる「大夫謁者」という言い回しを用いたもの。 《大内陵》 二年十一月/《葬于大内陵》項において、 大内陵の完成は五年ぐらいであろうと考えた。 《観藤原宮地》 建造中の藤原宮を視察した上述。 予定地への度重なる視察、鎮祭、四大神への報告など折に触れて繰り返し書かれているところに、新益京と中枢施設の藤原宮の造営への並々ならぬ意欲が示されている。 《十悪盗賊不在赦例》 大赦の除外対象として、従来の「盗賊」に「十悪」が加わった。 『隋書』刑法志に、 「置二十悪之条一。多採二後斉之制一而頗有二損益一。一曰謀反,二曰謀大逆,三曰謀叛,四曰悪逆,五曰不道,六曰大不敬,七曰不孝,八曰不睦,九曰不義,十曰内乱」とある。 ただ、「五曰」~「九曰」はどちらかといえば道徳としての悪で、大赦から除くほどではないように思える。 〈持統〉紀における「十悪」はこれらとは内容が異なるか、あるいは重罪を概念的に表す語かも知れない。 《布勢朝臣色布智/鹿嶋臣櫲樟》
なお、ここでは〈持統〉紀の他とは異なり、「氏-姓-名」順の表記になっている。 もし当時の文献史料をそのまま写した結果だとすれば、この部分は史実性が増す。ここにも「服」とあることとの関連を考えると興味深い。 《相模国/御浦郡》 上述 《幸吉野宮》 十三回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《遣使者祀広瀬与龍田》 《祠風神…》項参照。 《熒惑与歳星》 「七世紀の日本天文学」谷川清隆他〔国立天文台報11巻;2008〕によると、 〈持統〉六年七月辛酉にあたる「692年9月14日〔ユリウス暦〕の両星間の角距離は5.5°であった。9月24日には角距離2.4°まで近づいた」という。 ただ「同じ時期に、同様な現象は他にもいくつも観測出来たはず」だが、「9月14日の現象が選ばれて記録された理由は不明である」と述べる(p.42)。 これについては、吉野宮行幸からの帰京が夜となり、車輿からたまたま夜空の二惑星の接近を見たときのことが書かれたのだとすれば、一応理解することができる。 《一歩内》 天球上の視距離の単位「歩」の定義は不明。 ちなみに中国では、天球上の視角の単位に「度」が用いられる。 前漢では全周365度、後漢では365.25度で、太陽の年周運動の一日分にあたる(資料[70])。 度の細分には唐代以後「分」、「秒」が用いられているが、「歩」はなかなか見つからない。 《乍光乍没相近相避四遍》 「乍光乍没」〔=光ったり見えなくなったりして〕は雲によるかも知れないからともかくとして、 「相近相避四遍」〔=互いに近づいたり遠ざかったりすること四たび〕は惑星の動きとしては考えられない。 もしこの文章が途中から数日間の話に移っているとすれば、たまたま見た時刻によって天頂に近い位置にあれば二つの星はより近づいて見え、地平線に近い位置ならより離れて見える。 こうやって現実的に解釈できないこともないが、かなり恣意的である。 基本的には車輿が見た夜空の話が広まるうちに尾ひれがつき、伝説化したものを収めたと見るべきであろう。 《大意》 六月九日、 国々の長吏に勅して、 それぞれ名のある山川に祈らせました。 十一日、 大夫謁者(えっしゃ)を遣わして、 畿内四国に行かせ、雨乞いさせました。 二十一日、 直丁(じきてい)八人に官位を賜り、 その大内陵を造営した時、勤(いそ)しんで怠らなかったことを褒められました。 三十日、 天皇(すめらみこと)は藤原宮の地をご覧になりました。 七月二日、 天下に大赦されました。 ただ、十悪を犯した者と盗人は赦す例とされませんでした。 相模の国司、布勢朝臣(ふせのあそん)色布智(しこぶち)ら、 御浦郡(みうらのこおり)の少領(しょうりょう)【姓名不明】と 赤烏を捕獲した人の鹿嶋臣(かしまのおみ)櫲樟(くす)に、 位と禄を賜りました。 御浦郡の二年の調と役を免除されました。 七日、 公卿に宴を賜りました。 九日、 吉野宮に行幸しました。 十一日、 使者を遣わして広瀬と龍田を祭祀させました。 二十八日、 車駕は宮に帰還しました。 この夜、熒惑(けいこく)〔火星〕と歳星(さいせい)〔木星〕は、 一歩(ぶ)の内に或いは光り、或いは隠れながら、 相近づき相離れること四度でした。 まとめ 五月から六月には漢籍を利用した潤色がある。 伝説を交えた古い時代のことならともかく、〈持統〉紀に元の史料には存在したはずのない漢籍の語句を用いる執筆態度には、首をかしげざるを得ない。 〈持統〉紀に時折見られる雑さのひとつの現れと感じられる。 一方で、「服」を用いた部分や「赤引糸」奏上文には資料の原形が伺われ、貴重である。 このように記述の厳密性に関しては玉石混交であるが、細かに検討すればその精度を見極めることは十分可能である。 さて、内容としては阿古志海部への感謝と伊勢神宮の赤引糸の件は、伊勢行幸の後日譚である。また、大雨があり被害者を救済した。 藤原宮は、いよいよ工事が始まった。七月にはまたも大赦があり、今回の理由は赤鳥の雛という祥瑞の出現であろう。 |
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2026.02.18(wed) [30-14] 持統天皇14 ▼▲ |
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28目次 【六年八月~十二月】 《幸飛鳥皇女田莊》
《班田》 〈北野本〉他は「班 この和読の不安定さは、班田音読みが普通であったことを示すものかも知れない。 《班田大夫》 以後〈続紀〉で班田の担当官を追うと、天平元年〔729〕(七二九)十一月「任二京及畿内班田司一」。 天平十四年〔742〕九月「任二左右京畿内班田使一」。 延暦五年〔786〕「以二正四位上神王一為二大和国班田左長官一」。 このときは同時に、大和国班田左次官、右長官、右次官、「河内和泉」、「摂津」、「山城」のそれぞれに班田長官、班田次官、 かつそれぞれに「判官二人。主典二人」を加えて四等官が揃っている。 すなわち延暦五年になると畿内と山城の各国に「班田」〔管理の司〕が置かれ、それぞれが置かれた。大和国は左右に分割し、河内と和泉は併せて一つとされる。 班田収授に伴う事務処理のために、基本的に国ごとに「班田司」が置かれたわけである。このときは781年に即位した〈桓武〉天皇のもとで、畿内の班田収授を抜本的に再編成するためと考えられる。財政は危機に陥っていたのであろう。 それ以前の班田大夫、班田司、班田使は、各国の国司による班田収受を監督する為に中央から派遣されたと思われる。 《神祇官》 資料[24]参照。 《神宝書/鑰/木印》 神宝書は、神祇官が保有していた財宝のリスト。財宝は『古語拾遺』(資料[25])によれば「斎蔵」で保管されていた。 鑰〔カギ〕は9個というから、斎蔵は複数あった。 カギとともに木印も召し上げられ、独自の文書発給権限を失った。 これによって神祇官の権限は、事実上太政官に移った。形式的には神祇官と太政官は対等な立場で官職を二分しているが(資料[25])、実質的に太政官の管理下に置かれることになった。 この神祇官の独立性の廃止は、律令国家構築に向けて国政を一元化する流れの一環であろう。 《嘉禾》 〈延喜式-治部省〉祥瑞:嘉禾は「下瑞(〈天武〉八年《嘉禾》項、第23回(古事記序文)参照)。 《白蛾》
《蛾》 〈倭名類聚抄〉「蛾:【和名比々流】蚕作飛虫也」。「蝱:【今案即是蚊虻之虻字也。見二下文一。和名比々流】繭内老蚕也」、 「蝱:【和名阿夫】嚙人飛虫也」。すなわち「蛾」はガ、またはアブであるという。 〈時代別上代〉は「ヒヒルとよばれたものが蛾だけとは限らない。現在、方言でも…〔蛭(ヒル)、カイコガ、蝶・蛾など〕ヒヒルに由来するかと思われる語形がかなり広く分布している」と述べる。 《越前国》 「越前国」はここが初出。祥瑞とされた「白蛾」については、献上を賞された記事が続くことから当時の記録文書によると思われる。 「越前国司」がその文書中の語句だったとすれば、〈持統〉六年の時点で既に越国が前中後に分割されていた可能性は高い。 「越国」として書かれた最後は、「越国献二燃土与燃水一」(〈天智〉七年七月)。 まだ分割以前と見てよい。 〈天武〉元年七月には「羽田公矢国」の「入越」は地域名。 最後の「越」は〈持統〉三年七月の「越蝦夷八釣魚」、これは氏族名なので越国の分割を判断する材料にはならない。 越国の分割については、第119回《髙志国》項、 越地域の国造については、第230回《三国》項で見た。 改めて考えると、「白蛾」は実際に捕獲されたのだろうが、白い蛾はカイコガをはじめとしていくらでもあるので、本来は祥瑞といえるほどのものではないだろう。 越前国の成立はまさにこの直前であって、その記念として気比神宮にこのささいな祥瑞を名目として恩賞を与えたことは十分考えられる。
〈倭名類聚抄〉{越前国・敦賀郡}に相当。 〈垂仁〉紀「是歳任那人蘇那曷叱智」段で 「加羅国」から渡来した王子の名前「都怒我阿羅斯等」〔ツヌガアリシト〕にツヌガが見える。 《浦上之浜》 『大日本地名辞書』は、〈倭名類聚抄〉{敦賀郡・神戸郷}が「笥飯神二十戸」にあたると見た上で、 「其浦上とあるに当り、松原村并 町村制〔1889〕で成立した東浦村のもとの十村には、すべて「浦」がついている(田結浦・赤崎浦など)。 同じく松原村ではもとの「~浦」は15村中11ある(二村浦など)。その他には「浦」がつく村はない。 よって「浦上之浜」は敦賀湾沿岸と見られる。中でも平地の海岸で気比神宮に近い右図のA~A’の範囲ではないだろうか。 なお、表記は浦上だが訓みはウラノヘで「浦の辺」ではないかと思われる。 《笥飯神》 気比神宮に比定される (第145回/【気比神宮】)。 〈垂仁〉紀「是歳任那人蘇那曷叱智」段に地名「越国笥飯浦」が見える。 《山田史御形》 《前為沙門学問新羅》 〈兼右本〉は「学問」を動詞化して、「前為二沙門一学二-問新羅一」と訓む。妥当であろう。 前は"以前"で、すなわち過去に学問僧として新羅に渡り、帰国して還俗したと読まれている。 ただ、文章のぎこちなさは否めない。 これまでの書法を用いるなら「以務廣肆授山田史御々形々於昔為学問僧而度新羅」などとなろう。 《幸吉野宮》 十四回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《級飡朴億徳/金深薩》
「饗禄新羅朴憶徳於難波館」はかなり雑で、原稿化する前のメモの如きである。 〈天武〉十一年七月の類似文に倣えば「饗新羅朴憶徳等於難波館仍賜祿各有差」などとなろう。 最小限「等」は補うべきである。 《難波館》 【難波館】項では、難波館の位置は大郡にあり難波宮に近いと見た。 難波宮自体は小郡にあった。ただ、その位置は小郡が大郡に食い込んだ部分である(〈斉明〉六年五月)。 新羅使はもっぱら筑紫に留めて接待したが、今回は特に難波に迎えた。 流れ着いて奴婢になっていた者の返還(下述)や、直ちに遣新羅使を決定したこと、新羅の調を四大社に配ったことを併せると、格段に友好的である。 特に三年五月の金道那への対応とは雲泥の差である。 その理由としてひとまず考えられるのは、前月の山田史御形返還への謝意である。 御形の以後の栄進を見ると、なかなか優秀な人物であったと見られる(上述)。 かつて〈天武〉十四年三月には、前年に土師宿祢甥などを送り届けてくれた金物儒に厚く礼して「流着新羅人七口」を返している。今回の「流来新羅人…三十七人」の返還はこれに類似している。 四年九月には、学問僧智宗などを送り届けてくれた金高訓に、〈天武〉十四年の例に倣って慰労せよと命じている。 したがって、今回の朴億徳らも山田史御形を伴って来日した可能性がある。だとすれば、厚遇の理由となり得るであろう。 〈持統〉は基本的に新羅に対して警戒感を維持しているが、相手方の行動が友好を示す場合にはすかさず友好で返し、チャンスがあれば協調しようとする柔軟性があったと見られる。 《続守言/薩弘恪》
新羅の調を社に奉ることは、〈続紀〉慶雲三年〔706〕閏正月「奉二新羅調於伊勢太神宮及七道諸社一」、 慶雲三年〔706〕閏正月「奉<二b>新羅調於伊勢太神宮及七道諸社一」のように、以後恒例化している。 逆に、新羅との関係が悪化したときには、天平九年〔737〕四月「遣二使於伊勢神宮。大神社〔=大三輪社〕。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮一。奉レ幣、以告二新羅無礼之状一」とある。 このように、良きにつけ悪しきにつけ朝廷の外交に重要な案件があるときは、その外交の後押しを神に願ったと見られる。 《伊勢/住吉/紀伊/大倭社》 伊勢社〔伊勢大神〕については、改めていうまでもない。 住吉、紀伊、大倭の社は、それぞれ朱鳥元年七月の「住吉大神」、「居二紀伊国一々懸神」、「飛鳥四社」を指す (《奉下幣於居紀伊国国懸神…》以下)。 《菟名足社》
(佐保川の流路:国土数値情報河川データセット/大和川水系/佐保川) 『大和志料 上巻』〔奈良県教育委員会1987復刻;初版1914〕によると、 「往時盛大なる社頭なりしも稍く衰微し、今所在を確知する能わざるに至れり、案ずるに春日若宮神主祐房の長承註進状A)に井栗明神又実名宇奈太理坐高皇産霊神又 山陵廻り日記B)に古き検地帳を見侍りしに法蓮村の佐保殿村C)と法華寺D)との間の田地の字に雨多利 ●A)…「長承二年 中臣祐房注進」の原文にはなかなか辿り着けなかったが、 『埋もれた巨像 : 国家論の試み (哲学叢書)』〔岩波書店1977〕に引用されているのが見つかった。 書き出しは「注進 春日御社少神名并社在所等事 長承二年〔1133〕十二月廿四日神宮預中臣祐房注進也 已上廿二社之中卅六所也」。 該当個所は「外院:自二御宝殿一 南廿余町去座穴栗明神【又実名穴吹神申】井栗明神【又実名宇奈太理坐高御魂神】」。 「御宝殿」は春日大社の本殿と見られ、そこから南二十町〔約2200m〕余にある境外摂社二社のうち「井栗明神」の「実名」が「宇奈太理坐高御魂神」だという。 〈延喜式〉{大和国/添上郡/穴吹神社}があり、比定社「穴吹神社」〔奈良市横井一丁目〕。伊栗社、穴栗社、青榊社、辛榊社の四祠から成る。 ここが長承註進状がいう場所かどうかについては、真南より西に振れて距離は29.2町なので、「南廿余町」はかなり大雑把な記述か、さもなければ現在の場所は近辺の他の場所から移動した結果かと思われる。 ●B)…『山陵取調巡廻日記』〔小林仙三;慶応二~四年〕と見られる。 ●C)…佐保殿村は、『五畿内志』添上郡:「村里:法蓮【属邑二】」の属邑と思われる。 同「古蹟:佐保殿址:在南都宿院町相伝左大臣長屋王亭」。佐保殿邑はこの佐保殿に因む地名であろう。 奈良女子大学構内遺跡 発掘調査概報 I 〔奈良女子大学;1982〕「長屋王の邸宅の故地については『大和志』には佐保殿址として「南都宿院町ノ西二在り、左大臣長屋王ノ亭卜相ヒ伝フ」とみえ、 本学の西側の地ということになる。また大伴家持邸の故地については、本学の地に求めようとする説もある」という。「法蓮村の属邑」という位置には当てはまる。 ●D)…法華寺および現法華寺町〔大体法華寺村の範囲であろう〕は、右図の通り。 ●E)…[小字データベース]に、「雨多利」はなかった。おそらくどれかの字の旧名であろう。 中臣祐房注進〔1133年〕の時点では大社宇奈太理坐高御魂神社と小社穴吹神社はともに廃絶していて、小さな社地にそれらを名とする祠を置いて春日大社の摂社とされたと想像される。 元々名のある式内大社であっためその後他の場所でも祀られるようになり、現在の「宇奈多理坐高御魂神社」は法華寺の付属社として作られたと考えられる。 なお、祭神の高御魂神〔高皇産霊神〕は、書紀では天照大神よりも上位の皇祖神であるが(第81回【なぜ天降りが、天照の子から孫に変更になったか】、第83回【天照と高御産巣日神の関係】)、 祀る社は早い時期に衰退し、天照の伊勢神宮とは対照的である。 衰退した理由については、山城国に{山城国/乙訓郡/羽束師坐高御産日神社【大。月次新甞】}があるので、 平安遷都に伴って平城京近傍の高御魂神社の影が薄れたとも想像されるが、今のところ確かなことは解らない。 《大意》 八月三日、 罪を赦されました。 十七日 天皇は飛鳥皇女(あすかのひめみこ)の田荘に行幸し、 その日に宮に帰られました。 九月九日、 班田大夫たちを畿内の四か国に遣わしました。 十四日、 神祇官は 神宝書四巻、 鍵九本、 木の印一個を奏上しました。 二十一日、 伊勢国司は嘉禾(かか)二本を献上しました。 越前国司は白色の蛾を献上しました。 二十六日、 詔を発しました。 ――「白い蛾を角鹿郡(つぬかのこおり)の浦上(うらかみ)の浜で捕獲した故に、 笥飯(けひ)の神に増封して通前二十戸とする」。 十月十一日、 山田史(やまだのふみひと)御形(みかた)に務広肆(むこうし)を授けました。 御形は以前僧となり新羅で学問しました。 十二日、 吉野宮に行幸しました。 十九日、 車駕は宮に帰られました。 十一月八日、 新羅国は級飡(きゅうさん)朴億徳(ぼくよくとく)と 金深薩(こむしんさつ)らを遣わして、 進調しました。 新羅に遣使する予定の直広肆(じきこうし)息長真人(おきながのまひと)老(おゆ)と 務大弐(むだいに)川内忌寸(かふちのいみき)連(つら)たちに、それぞれに応じて禄を賜りました。 十二月十四日、 音博士(おんはかせ)続守言(ぞくしゅうげん)と 薩弘恪(さつこうかく)に、 水田一人につき四町を賜りました。 二十四日、 大夫らを遣わし、 新羅の調を五社、 すなわ伊勢、 住吉、 紀伊、 大倭、 菟名足の各社に奉納しました。 29目次 【七年正月~二月】 《以淨廣壹授皇子高市淨廣貳授皇子長與皇子弓削》
〈時代別上代〉:「上代文献に…黄葉・黄土などがあるが、それぞれ赤葉・赤土などと差なく用いられていて、黄色を独自の色として把握した証拠とはならない」。 ただ「クガネまたはコガネのクやコの中に、キとつながるものを見ることは可能である」という〔木(キ)がコに転ずる類。金から独自の色としての「黄色」を見る〕。 「染」は万葉にはソム、シム両方のよみが見られる。意味は同じで何れも四段が自動詞・下二段が他動詞であるが、時代とともにソム〔下二段〕が他動詞専用、シム〔四段〕が自動詞専用に使い分けられる。 「黄染」は、天平勝宝二年〔750〕八月十七日の「造東大寺司牒正倉院文書」に「法華経壱拾部【以黄染凡紙奉写着黄麻紙…】」(『大日本古文書』3)、 神護景雲四年〔770〕七月九日「奉写一切経料紙墨納帳」に「納黄染紙壱萬伍仟張」(『大日本古文書』6) などいくつかの用例がある。これがキソメと訓まれていて、その語の存在が平安時代の書紀古訓に反映したと見てよいであろう。 《奴皁衣》 「令天下百姓服黄色衣/奴皁衣」においては、令・服は「奴皁衣」にもかかる。この場合、漢文法に基づいた正確な訓読は不可能となる。 この衣服令では良民・賤民の身分の違いを可視化した。 有位者については、位で朝服の色が規定されていた(《其朝服》)。 これは朝服の規定だから日常生活を縛るものではないが、四年七月詔で着てから家を出よと命じたから、 日常の特に外出時には影響を及ぼしたことが考えられる。無位の官人は、良民と共に「黄色衣」だったのだろう。 くりぞめについては、〈時代別上代〉は「クリ(水中の黒土)」を用いたと見る。ただ、栗のいがや鬼皮〔外側の堅い殻〕も、草木染めに用いられるという。 縄文時代から栗染めがあったと見る根拠として、当時クリが建材や食物として広く利用されていたことが挙げられる。 「縄文時代の木柱からみたクリ材の加工技術とクリの生育環境―三内丸山遺跡を中心に―」荒川隆史([三内丸山遺跡]/特別研究)によると、 「三内丸山遺跡における縄文時代のクリ材の加工技術とクリの生育環境を明らかにする」ために研究した結果、 「第12号掘立柱建物をはじめとする木柱…クリであった可能性が高い。三内丸山遺跡のクリ林は成長速度が速い…果実の収穫量も確保できるものであったと推定される」という。 このように日常生活の中に溶け込んでいれば、染料としても利用されたであろう。 一方、漢語における皁の語源は、ハンノキなどの球果とされる。タンニンを含み、黒色の染料を得たという。また「皁衣」は漢代の下級官吏の制服で、黒絹である。 書紀は「皁衣」を「黒色に染めた衣」を表すために用いたことは明白である。 その染料として、涅 《百済王善光》
船瀬は船舶の退避場所として整備された。 『類聚三大格』 「太政官符 応レ令三摂津国司検二-校大輸田船瀬一事〔寛平九年〔897〕九月十五日;大輸田(おおわだ)は現神戸市の港〕」に 「若有二疎略非理致損一遷替之時拘二其勘解由一」〔もし疎略、非理、致損があれば任期による交代のときに勘解由史が関わる件とする〕 などが見える。 船瀬沙門は宗教における善行とて船瀬の修理に努めたと考えられている。
〈釈紀-述義〉: 「奏蹹歌:私記曰。今俗曰阿良礼走。師説。此歌曲之終。必重称万歳阿良礼。今改曰万歳楽。是古語之遺也」 〔現在もアラレハシルという言葉がある。師の説くに歌曲の終わりには必ずヨロヅトセアラレと繰り返し唱える。今は万歳楽といい、古語を残す〕。 万歳楽については、〈倭名類聚抄〉「曲調類」に「平調曲:…万歳楽」が見える。
(A)歌頭は、『源氏』竹河「男踏歌せられけり。…勝れたるをえらせたまひて、この四位の侍従、右の歌頭なり」が、その立場を示している。 天平勝宝三年の歌頭の「忍海伊太須」は、女嬬の管理部門の男性とする解釈も成り立つが、 「錦部河内」とともに女嬬のリーダー格の女性と読むのが自然だと思われる。 天平宝字七年ではその歌頭が内教坊を率い、その後に「主典以上」の官人が続いた。 ここに、踏歌が鑑賞型ではなく参加型の芸能であることを物語っている。 現代の阿波踊りのような雰囲気が想像される。天平宝字三年には踏歌が舞台ではなく庭で奏されたとある。 (B)内教坊は天平宝字三年が初出。 雅楽寮とは別に設けられた令外官で、踏歌を中心とする養成組織と見られる。 天平十四年では踏歌を少年少女が奏し、天平勝宝三年では女嬬が奏した。 〈持統〉紀は、その出発点が新羅人が奏したものであることを示している。 〈続紀〉で複数の楽が書かれる場合は、いずれもその最後に踏歌が置かれているので、締めくくりの賑やかな音舞が想像される。 漢籍では、『全唐詞』〔清代〕には多くの「踏歌」の歌詞が載る。 『太平広記』〔北宋;977~984〕「神仙」には「持大拍扳。長三尺餘。常醉踏歌。老少皆隨看之…笑皆絶倒」、 「於燈下踏歌三日夜。観楽之極、未始有之」などとあり、随分賑やかである。 現在演奏される「万歳楽」はゆったりとした曲調の雅楽で、踏歌が万歳楽に転じたとする説は何らかの混同による疑いがある。 よって書紀古訓の「アラレ」〔"ヨロヅトセアラレ"による万歳楽の俗称であろう〕には疑問が残る。 《沙飡金江南/奈麻金陽元》 2026.3.13改
使者は、新羅神文王が薨じたことを告げた。 『三国史記』-新羅本紀: ● 元年〔辛巳;681;〈天武〉十年〕「神文王立。諱政明。文武大王長子也」。 ● 十二年〔壬辰;692;〈持統〉六年〕「秋七月。王薨。諡曰神文」。 《衣縫王》
ここでは助数詞は「人」であるが、〈天武〉十四年「流来新羅人」の助数詞は「口」であった。流れ着いた新羅人は奴婢のような扱いであったと見られる。 《新羅人牟自毛礼》
七年正月二日、 浄広壱(じょうこういち)位を高市皇子に授けられました。 浄広弐位を長皇子と 弓削皇子とに授けられました。 この日、 詔して 天下の百姓〔良民〕に黄色の衣、 奴婢〔賤民〕に皁(くりそめ)の衣の着用を命じました。 七日、 公卿大夫ら饗されました。 十三日、 京師と畿内の位があり八十歳以上の人に、 一人につき衾(ふすま)一領(ひとつ)、 絁(ふときぬ)二匹(ふたむら)、 綿(わた)二屯(ふたみぜ)、 布(ぬの)四端(よむら)を賜りました。 十五日、 正広参(しょうこうさん)位を百済王善光を贈り、 併せて賻物を賜りました。 十六日、 京師の男女で八十歳以上、 及び窮乏者に、 それぞれに応じて布を賜りました。 船瀬(ふなせ)の沙門法鏡に、 水田三町を賜りました。 この日、 漢人(あやひと)たちは蹈歌(とうか)を奏しました。 二月三日、 新羅の沙飡(ささん)金江南(こむこうなん) 韓奈麻(かんなま)金陽元(こむようげん)らを遣して、 王の喪を告げました。 十日、 造京司(みやこをつくるつかさ)衣縫王(きぬぬひのおおきみ)らに詔して、 掘りだした屍を収容させました。 三十日、 流れ着いた新羅人、牟自毛礼(むじもれ)ら 三十七人を、 憶徳(よくとく)らに託されました。 まとめ この時期には班田大夫の派遣によって班田収受法の徹底を図り、また越前国が成立した。 これらは律令体制の確立を着々と進める動きとしてまとめることができる。 新羅との友好の進展も書かれているが、これも律令国家としてしっかり周辺国と関係を固めようとする姿勢の現れかもしれない。 さて、「踏歌」は奈良時代の行事の端緒として書かれた事柄の一つである。 もともと中国のものだったが、わが国にどのように受容されたかの研究の一つに「奈良、平安時代における中国音楽の受容―踏歌の場合」 〔趙維平;『日本研究43集』国際日本文化研究センター/2012〕があり、それによると 唐の集団歌舞であった踏歌が我が国に伝わり、天平はじめに伝統の歌垣と融合したという(p.27)。やがて「中国の民族的、娯楽的な踏歌」という「もともとの性格が変わり、上流社会とり入れられ、高級芸術化された」と結論づけている(p.37)。 なお、菟名足社の衰退の理由については平安遷都のためかとも考えてみたが、はっきりしない。その所在地の推移の経過も含め、課題は今後に残されている。 |
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2026.02.28(sat) [30-15] 持統天皇15 ▼▲ |
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30目次 【七年三月~五月】 《賜大學博士勤廣貳上村主百濟食封卅戸以優儒道》
七年三月庚寅朔の日蝕は、日本では見られなかったはずである(《日有蝕之》参照)。 《上村主百済》
〈汉典〉「儒道:[1] 儒家倡導〔=先導〕的道徳準則。[2] 儒家与道家的思想体系。[3] 需家学説的総称」。 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉「儒:① 春秋時従巫、史、祝、卜中分化出来的、熟悉詩書礼楽而為貴族服務的人 〔春秋時代に巫・史・祝から分化して、詩書礼楽に習熟して貴族のために仕えた人〕。 ② 旧時対学者、読書人的称呼。③ 孔子創立的一種学術流派」。 すなわち、熟語「儒道」においては③が該当する。 書紀古訓「ハカセノミチ」は②を用いている。 《幸吉野宮》 十五回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《葛原朝臣大嶋》
《息長真人老/大伴宿祢子君/弁通/神叡》
法相六祖像 興福寺 『仏像集成』5〔学生社;1993〕
遣新羅使には、また新羅王に供える賻物が託されたわけである。 《桑紵梨栗蕪菁》 〈倭名類聚抄〉「蔓菁:…【…和名阿乎奈】」。「蔓菁根:…【和名加布良】」。「辛芥:謂二蕪菁一為二大芥一。小者謂二-之辛芥一【…和名多加奈】」。 〈時代別上代〉は「あをな:…「蔓菁」はかぶらの意だが、本来、葉の青い菜をいずれもアヲナといったのだろう」と述べる。 カブラが上代語に含まれるか否かについては、記神武段(第98回)「以鳴鏑〔なりかぶら、かぶら矢〕待射返其使 故其鳴鏑所落之地謂訶夫羅前也」のかな書き「訶夫羅」によって上代語としての存在が確認できる。 《大夫謁者》 六年五月《大夫謁者》項参照。 《祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《内蔵寮允》 内蔵寮は中務省管轄の六寮のひとつ(資料[24])。 《大伴男人》
『令義解』中務省に「大典鑰」・「小典鑰」が見える。 官位令には「小典鑰 《置始多久/菟野大伴》
〈姓氏録〉には〖諸蕃〗に〖宇奴首/出レ自二百済国君男弥奈曽富意弥一也〗、〖宇努造/宇努首同祖〗、〖宇努連/新羅皇子金庭興之後也〗、 即ち首姓、造姓、連姓がある。 〈姓氏家系大辞典〉は「宇奴連:…姓氏録…に「宇奴〔ママ〕連、新羅皇子…」と見ゆ。 果して然らば菟野馬飼連の事か」と述べる〔ともに「連」姓であることから〕。 菟野馬飼は連姓を賜ったことにより朝廷に出仕するようになったかも知れず、その機会に「馬飼」を取り除いたことは十分考えられる。 ※)…よって、「大伴宿祢御行」より「大伴御行宿祢」の方が個人に対する尊敬の度合いを強く表したと思われる。 《監物》 中務省に置かれ、四等官より下位の役職のひとつ。『令義解』-職員令に 「中務省:…大監物二人。掌監察出納請進管鑰。中監物四人。少監物四人」が見える。 《巨勢邑治》
十六回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《無遮大会》 元年《無遮大会》参照。 《大意》 三月一日、 日食がありました。 五日、 大学博士勤広弐(ごんこうに)上村主(かむつすぐり)百済に、 食封(じきふ)三十戸を賜わりました。儒道(じゅどう)に優れたことによります。 六日、 吉野宮に行幸しました。 十一日、 直大弐(じきだいに)葛原〔=藤原〕の朝臣大嶋(おおしま)に賻物(ふもつ)を賜りました。 十三日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮から帰られました。 十六日、 新羅に遣す予定の使者直広肆(じきこうし)息長真人(おきながのまひと)老(おゆ)と 勤大弐(ごんだいに)大伴宿祢子君(こきみ)ら、 及び学問僧弁通(べんつう)と 神叡(しんえい)らに、 絁(ふときぬ)、綿、布(ぬの)をそれぞれに応じて賜りました。 また、新羅王に賻物を賜りました。 十七日、 詔して 天下に、 桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪菁(かぶら)などの草木を植えて、 五穀の足しとすることを勧めさせました。 四月十七日、 大夫謁者(えっしゃ)を遣わし、諸社を詣らせ雨を祈らせました。 また使者を遣わして 広瀬の大忌神と龍田の風神(かぜのかめ)を祭祀させました。 二十二日、 詔しました。 ――「内蔵寮(うちのくらのつかさ)の允(まつりことひと)大伴の男人(おとこひと)は 贓物〔=盗み〕を罰して、 位を二階落として、現任の官職を解け。 典鑰(かぎのつかさ)置始(おきそめ)の多久(おおく)と 菟野の大伴も また贓物を罰して、 位を一階落として、現任の官職を解け。 監物(けんもつ)巨勢(こせ)の邑治(おおじ)は、 私物化することはなかったが、意図を承知の上で盗ませたことにより、 位を二階落として、現任の官職を解け。 とはいえ、置始(おきそめ)の多久(おおく)は、 壬申年の役の功績により赦す。 但し贓物は律によって徴収して納めよ。」 五月一日、 吉野宮に行幸しました。 七日、 天皇は吉野宮から帰られました。 十五日、 無遮大会(むしゃだいえ)を内裏で催されました。 31目次 【七年六月~九月】 《詔高麗沙門福嘉還俗》
《引田朝臣広目/守君苅田/巨勢朝臣麻呂/葛原朝臣臣麻呂/巨勢朝臣多益須/丹比真人池守/紀朝臣麻呂》
十七回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《遣使者祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《幸藤原宮地》 造宮の進捗状況を視察したと見られる。 《幸吉野宮》 十八回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《日有蝕之》 七年九月丁亥朔には、日本では実際には観測されていない(《日有蝕之》参照)。 《幸多武嶺》
ただ、それは〈持統〉七年の時点では成り立たない。《藤原内大臣薨》で考察したように、 「多武峯」が大織冠の聖地となるのは10世紀になってからである(資料[88])。 藤原史(不比等)が右大臣になるのは和銅元年〔708〕で、実際には〈持統〉三年に判官になったばかりである。 当時の史の立場では、〈持統〉の行幸をお膳立てするようなことは到底考えられない。 多武嶺を大織冠の聖地にする動きがあったとしても、それは早くとも藤原不比等が右大臣になってからであろう。 よって〈持統〉帝の「幸多武嶺」は、大織冠の偉大化のために遡って加えられた話と思える。
多武嶺については、資料[54]《田身嶺》で、 酒船石遺跡の山を囲む石垣が確認されたことを受け、これが〈斉明〉二年でいう田身嶺の「冠」に巡らした垣であると読むのが自然だと思われた。 よって、《於田身嶺冠周垣》項では、 〈斉明〉の時代には「田身」と呼ばれた範囲は酒船石遺跡まで及んでいたと見た。 その範囲内に、現在の明日香村「万葉展望台」もあり、ここから藤原京の範囲全体を展望することができる。 〈持統〉天皇は、何度も建造中の藤原宮を視察しており、この時期に藤原京全体を眺めることができるところまで登って建造中の条坊路を視察したと見るのは合理的である。 ひとつの仮説として、このときの行幸先を敢えて「多武嶺」と表記することによって、作為的に大織冠を連想させたと考えて見たらどうであろうか。 遡って、〈斉明〉二年九月是歳において、実際には酒船石遺跡の所に築いた「両槻宮」の場所を敢えて「田身嶺冠」と表記したのも同じ理由かも知れない。 《多武峰》 2026.03.06加筆 一方、後に「藤原朝臣鎌足:多武峯墓」〈三大実録〉〔858年〕、「多武岑:墓淡海公藤原朝臣」〈延喜式〉〔928年〕 とされるずっと以前の古墳時代から多武峯は霊地であって、〈持統〉は宗教行事のために訪れたとする見方も可能である。 ただ、〈持統〉紀や〈続紀〉での行幸先は、ほとんどが藤原宮〔予定地または建造中の視察〕と〈壬申〉にゆかりの地である。〈持統〉の霊地多武峰への特別の思い入れを思わせる記述は見られず、「幸多武嶺」は孤立している。 それでも「多武」は、 (万)1704 題詞「献二舎人皇子一歌」:「捄手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留 ふさたをり たむのやまぎり しげみかも ほそかはのせに なみのさわける」と詠まれている。 舎人皇子は日本紀を「功成奏上」した人物であるから、この歌は書紀編纂と同時代である。 歌に出てくる「細川」は〈天武〉五年五月に草木の採取を禁じたから、 細川は景勝地であったと思われる。地形図を見るとその源流は多武山の中腹であるが、細川の流域全体の北側を多武山と称した可能性は残る。 総合的に見て、前項の仮説には反するが〈持統〉天皇はかつて〈天武〉と共に散策した思い出を胸に細川を訪れ、上流まで行って多武の峰を眺めたと読むこともまた可能である。 《為清御原天皇》 「清御原天皇」(〈天武〉)崩は〈朱鳥〉元年九月九日であった。今回の「無遮大会」の〈持統〉七年九月十日は、その八周忌の翌日にあたる。 《蚊屋忌寸木間》
六月一日、 詔して高麗(こま)の沙門福嘉(ふくか)を還俗させました。 四日、 直広肆(じきこうし)を引田(ひけた)の朝臣広目(ひろめ)、 守君(もりのきみ)苅田(かりた)、 巨勢(こせ)の朝臣麻呂(まろ)、 葛原(ふじわら)の朝臣(あそん)臣麻呂(おみまろ)、 巨勢(こせ)の朝臣多益須(たやかす)、 丹比真人(たぢひのまひと)池守(いけもり)、 紀の朝臣麻呂の七人に授けられました。 七月七日、 吉野宮に行幸しました。 十二日、 使者を遣して広瀬の大忌神と龍田の風神を祭祀しました。 十四日、 大夫謁者(えっしゃ)たちを遣して諸社に詣て雨を祈らせました。 十六日、 大夫謁者たちを遣して諸社に詣で雨を請わせました。 この日、 天皇は吉野から帰られました。 八月一日、 藤原宮の地に行幸しました。 十七日、 吉野宮に行幸しました。 二十一日、 車駕は浄御原宮に帰られました。 九月一日、 日食がありました。 五日、 多武嶺(たむのみね)に行幸しました。 六日、 車駕は浄御原宮に帰られました。 十日、 清御原(きよみはら)天皇〔天武〕のために、 無遮大会(むしやだいえ)を内裏で催しました。 囚人をことごとく赦されました。 十六日、 直広参(じきこうさん)を蚊屋忌寸(かやのいみき)木間(こま)に贈られ、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました。 もって壬申年の役の功績をお褒めになりました。 まとめ 藤原不比等は和銅五年〔708〕に右大臣。養老元年〔717〕に左大臣石上朝臣麻呂が薨じて、遂に右大臣が官の最高位となる。 そして養老四年〔720〕に薨じた。ちょうど「日本紀」が「功成奏上」された年である。 内大臣不比等は氏上として先祖の霊所に多武嶺を選び、鎌足もここに祀られた可能性がある。 そのころ日本書紀は編纂の最終段階にあり、その〈斉明〉二年の「両槻宮」の場所として「田身嶺」、〈持統〉七年の飛鳥宮東方の山の表記として「田武嶺」を入れさせたのではないだろうか。 それは、多武嶺という記念すべき地を時代を遡らせて偉大化するためである。 このように考えるに至ったのは、「田身嶺」・「田武嶺」が入る段落を読んだときに感じたぎこちなさが、どうしても拭えなかったからである。 この問題を詳細に検討するために、『多武峯略記』などを参照した(資料[88])。 その『荷西記』などの改葬伝説は、結局「阿威山に鎌足が葬られた」、「後に多武嶺が鎌足の霊所になった」という二つの史実を橋渡しするものとして形成されたのであろう。 |
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⇒ [30-16] 持統天皇(6) |
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