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2026.01.21(wed) [30-10] 持統天皇10 ▼▲ |
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20目次 【五年正月~二月】 《賜親王諸臣內親王女王內命婦等位》
内親王は初出、これまでの表記は皇女。内親王は〈続紀〉に引き継がれる。 《女王》 王 〈舒明〉即位前紀の「諸女王」、「栗下女王」は、 〈持統〉紀以後の「女王」表記を遡って用いたと見られる。 これを除けば〈持統〉紀以前は、「舎人姫王」(〈推古〉)、「吉備姫王」(〈皇極〉)、「倭姫王」(〈天武〉下)などと表記されてきた。 その「姫」が名前の一部か称号の一部かは微妙である。なお、古事記の女性名「銀王」を見ると、「王」自体には男女の区別はあまりなかったようである(第135回)。 〈続紀〉になると「豊国女王」、「与射女王」などが見え、個人名にも例外なく女王が用いられる。この経過を見ると、女王がヒメオホキミと訓まれるようになったのは明らかである。 《内命婦》 初出は、〈仁徳〉四十年「賜二酒於内外命婦等一」。ここでは女官の意であろう。 令制による内命婦は〈天武〉五年八月が初出で、『令義解』では五位以上の女官と規定される(〈天武〉五年八月)。 〈続紀〉には天平五年〔733〕正月「内命婦正三位県犬養橘宿祢三千代薨」が見える。 天平宝字四年〔760〕六月乙丑条によると、三千代は藤原不比等の妻で「贈正一位」を授かっている。 《百済王余禅広/遠宝/良虞/南典》
《高市皇子/穂積皇子/川嶋皇子/丹比真人嶋/百濟王禅広/布勢朝臣御主人/大伴宿祢御行》
封戸から徴収した税・調が本人に届くまでの経路は、吉野宮にいた大海人皇子に送る「私粮」の運搬が妨害された箇所で考察した(《遮皇大弟宮舎人運私粮事》) すなわち、封戸から国司が徴収した大税 ただ、その一方で私有耕作地である別業(なりどころ)も残存していた。こちらは収穫物の管理、運搬は家政機関が担ったと考えられる。 《筑紫史益》
《大宰府典》 〈倭名類聚抄〉「祐官:…大宰府曰典…【皆佐官】」。すなわち、典は大宰府における四等官の第四位。第四位は〈倭名類聚抄〉の時代は左官 魏志倭人伝(57)の「一大率」には、大宰府と同様の機能があったと考えられている。 書紀においては大宰の原形は〈宣化〉元年〔536〕「那津之口官家」と見られ、「筑紫大宰」の初出は〈推古〉十七年〔609〕である (《大宰府》)。 【朝倉橘広庭宮の探求】では、サイト主の私見として「朝倉橘広庭宮は大宰府政庁の出発点であった」と述べた。 〈持統〉五年〔691〕の二十九年前は〈天智〉二年〔663〕と見られ、ちょうど白村江の戦いの年にあたる。 太宰の機能は、この頃に唐軍の侵攻を警戒して内陸に移されることになり、〈斉明〉朝倉橘広庭宮が大宰府政庁にあてられたのではないだろうか。 筑紫史益は、このタイミングで典を拝して大宰府に赴任し、その体制の構築を担ったと考えられる。 その後二十九年にわたって実務の柱を果たしながら、昇進の機会に恵まれなかった。恐らく〈持統〉天皇は初めてそれを知って驚き、お詫びの気持ちも込めて顕彰することになったのであろう。 《絁・綿・布・稲》 四年十月の大伴部博麻への賜物と同じ組み合わせである。 この時代の物品貨幣と見られる。 《幸吉野宮》 八回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《月六斎》 「月六斎」の各日付については、『令義解』雑令に「凡月六斎日。公私皆断殺生【謂二六斎八日。十四日。十五日。廿三日。廿九日。卅日一】」とある。 仏教書から「月六斎日」に触れた部分の一端を見る。いずれも聖徳太子の業績を語る中にある。 ● 『上宮太子拾遺記』〔鎌倉末期;全七巻〕――「毎月六斎日。寺町四面内殺生禁断」。 ● 『太子伝古今目録抄』〔(法隆寺僧)顕真;13世紀前半:〕。 ――「六斎日事:諸経論中挙年三月六月。六者毎月六斎日也。 依之太子言:此日、梵王帝尺四王、見下国政被上レ禁二殺生一。是仁之基也、乃至云云。諸善奉レ行諸悪莫レ作。以二此日一可レ存事也。精霊院、此日々必法花勝鬘両部大乗講説云云。又寺院辺殺生禁断云云。寺院四十里云云」 〔六斎日の事:諸経論で「挙年三月六月」が論じられた中で、六は「毎月六斎日」をいう。 これによって太子が仰るに「この日は、梵天・帝釈天・四天王が国政で殺生が禁じられた様子を見て、これが仁の基(もとい)である、ないしは云々。諸善を行い諸悪を行なわない、これが必ずこの日にあるべき形である。精霊院はこの日々には必ず『法華経疏』と『勝鬘経疏』の大乗を講説すべし云々。また寺院の辺りは殺生を禁断云々。寺院から四十里は云々」〕。 《朕世亦如之》 歴代の天皇と同様に、朕の御代でもまた「当三勤レ心奉二仏法一也」〔心を慎み仏法をたてまつるべし〕と自身の思いを吐露する。 当然、諸臣もまた朕と同じくせよと促すものである。 《位記》 本人の位階を記して交付する書類が位記である。 〈続紀〉大宝元年〔701〕三月「始停賜冠。易以位記」〔冠を賜ることを廃止して位記に替える〕。 「中世以前の古い位記は、全く現存していない」(『日本国語大辞典』〔小学館2002〕)という。 検索すると、一例として「従五位藤原朝臣忠裕」〔青山忠裕;丹波国篠山藩4代藩主〕を「従四位下」とする「寛永十二年十月一日」付の位記が確認できる。 現在は大正十五年〔1926〕の勅令325号「位階令」がまだ有効で、該当者に「位記」が交付されている。 《大意》 五年正月一日、 親王、 諸臣、 内親王、 女王、内命婦(ないみょうぶ) たちに位を賜わりました。 七日、 公卿に食物衣裳を賜わりました。 正広肆(しょうこうし)百済王(くだらのこきし)余禅広(よぜんこう)、 直大肆(じきだいし)遠宝(おんほう)、 良虞(りょうぐ)、 そして南典(なんてん)を褒めるものをそれぞれに応じて賜りました。 十三日、 増封され、皇子高市(たけち)には二千戸 通前(つうぜん)三千戸、 浄広弐(じょうこうに)皇子穂積(ほづみ)皇子には五百戸、 浄大参(じょうだいさん)皇子川嶋には百戸 通前五百戸、 正広参(しょうこうさん)右大臣丹比(たじま)の嶋の真人(まひと)には三百戸 通前五百戸、 正広肆(しょうこうし)百済王(くだらのこきし)禅広には百戸 通前二百戸、 直大壱(じきだいいち)布勢の御主人(みうし)の朝臣と 大伴の御行(みゆき)の宿祢に八十戸 通前三百戸としました。 そのほか、それぞれに応じて増封されました。 十四日、 詔(みことのり)を発しました。 ――「直広肆(じきこうし)筑紫史(つくしのふみひと)益(まさる)は、 筑紫大宰府の典(さかん)を拝して以来、 今は二十九年。 清白忠誠を持ち、敢えて怠惰に陥らなかった。 この故に、食封五十戸、 絁(ふときぬ)十五匹(むら)、 綿二十五屯(みぜ)、 布五十端(むら)、 稲五千束(つか)を賜れ。」。 十六日、 天皇(すめらみこと)は吉野の宮に行幸しました。 二十三日、 天皇は吉野の宮から帰られました。 二月一日。 天皇は公卿らに詔しました。 ――「卿たちはこれまでの天皇の御世には仏殿経蔵を作り、 月の六斎を行い、 天皇は時どきに大舎人(おおとねり)を遺して尋ねさせられた。 朕の御世にもまたかくの如くして、 故に心を勤(つつし)み、仏法を奉じるべし。」 この日、 宮人に位記を授けました。 21目次 【五年三月~六月】 《宴公卿於西廳》
三月三日は曲水宴の日である(〈顕宗〉元年三月)。 以後の例としては、〈続紀〉大宝元年〔701〕「三月丙子〔三日〕。賜宴王親及群臣於東安殿」。これも「曲水宴」と明示しない。 天平宝字六年〔762〕三月「壬午〔三日〕。於宮西南。新造池亭。設曲水之宴」では明示されている。 古代中国における曲水の宴の様子は『蘭亭集序』に見える。これは王義之〔東晋〕が、永和九年〔353〕三月初めに蘭亭で催された曲水宴で詠まれた詩集の序文。その書き出しを読む。 ――「永和九年歳在癸丑暮春之初。会二于会稽山陰之蘭亭一、修二禊事一也。群賢畢至、少長咸集。此地有二崇山峻領一茂レ林修レ竹。又有二清流一激湍、映帯左右。引以為流觴曲水、列坐其次」 〔永和九年、歳(ほし)癸丑にあり三月のはじめ、会稽郡山陰の蘭亭に集い禊の事〔祭事〕を催す。賢者が群がり来て、老若が皆集まった。この地は山高く峰険しく林が茂り竹が生える。また清流がたぎり、一帯の景色は映える。そこに觴(さかづき)を曲水に流すことを思い、列になって坐った〕。 ここには、曲水の宴が曲がりくねった水路を作って水を流し、酒を注いだ盃を浮かべて歌を詠む行事であったことが、明瞭に示されている。 『蘭亭集』は四世紀の書であるから、曲水の宴がどのようなものか、飛鳥時代までの日本に伝わっていたことは確実である。よって、顕宗元年〔485;乙丑〕などの曲水宴も実際に「乙丑年三月上巳曲水宴」などと書かれた史料があり、それが書紀に入れられたことも否定されない。 このことから、〈持統〉紀や〈続紀〉大宝元年の三月三日の「宴」が曲水の宴であった可能性はかなり高まる。 《西庁》
その候補として「飛鳥京跡苑池」を挙げてもよいかも知れない(《白錦後菀》項)。 その「北池の北東角」に「湧水を利用した流水施設」が見つかり、「幅約4m、奥行き約3.5mの石積み区画の中に正方形の石組みがあるが、正面だけは板でせき止めていた。板は上部が切られており、湧き水の上澄みが流れ出る仕組み」という(『日本経済新聞』2019.8.8)。 ただし、その場合は「西庁」は、内郭周辺を広く表す語となる。「西庁」が当時の不正確な記録か、逆に内郭の内部にに小規模な曲水が設けられていたことも考えられる。 《御苑》 〈天武〉十四年十一月に散策した「白錦後菀」は、飛鳥京跡苑池の可能性があると見た。 相当の広さがあるので、馬揃えした「御苑」もここかも知れない。 《百姓弟為兄見売者》 兄が弟を売った場合は良民とし、父母が子を売った場合は賤民とせよという。 弟を売ることは禁止で、もしこれまでに売られて賤民になっていた者は良民とせよということであろう。 《准貸倍没賤者》 貸倍は「貸して倍すること」、つまり利子をつけることである。よって書紀古訓「カリモノ〔ノ〕コ」は利子を意味すると見られる。〈持統〉元年七月の書紀古訓「利 詔では、利子が膨れ上がって返せない者の身を売ることは禁止された。 《配奴婢所生》 上文では、奴婢のまま置かれるのは父母が売った場合に限られる。このケースにおいてのみ、その生んだ子の段階で良を回復すると解釈される。 大化元年の「男女之法」では、良民と奴婢の間に生まれた子は奴婢と決められている。 これが延暦八年〔789〕の「太政官奏言」によって改められたというから、それまでずっと継続していたのであろう。 《大学博士》 2026.02.22改 『令義解』職員寮「大学寮:…博士一人」と定められている。大学寮は式部省に付属する。 〈倭名類聚抄〉に和訓はない(資料[24])が、〈令義解〉にはある(上述)。 前身は「学職頭」か。これは〈天智〉十年正月に鬼室集斯が任じられた職。 〈釈紀〉の「大学 《上村主百済》
なお、上村主は書紀古訓ではカムツスグリと訓まれている。 属格の助詞ツは、慣用的にカミ、シモ、ナカに用いられているからであろう。 ただ、氏の名称と姓の間はノが通例である。〈姓氏家系大辞典〉は「その族人の多きより見て、本貫は河内国なるべし」として、「安宿郡か、然らざれば大県郡」の「賀美郷」を発祥地の候補に挙げる。それから考えれば「カミノスグリ」かも知れない。 しかし、同辞典は一方で「此の氏は姓氏録に下村主の次に収めたるを思へば、両者は最初相対立せしより起こりなるべきか」〔もともとは上村主・下村主が対になっていたか〕といい、その場合は「カミツスグリ」となる。 《祭広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。〈持統〉四年に復活した。 《幸吉野宮》 九回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《百済淳武微子》
この年の六月は、グレゴリオ暦では691年7月4日~8月2日の期間である。古訓雨水 あえて「四十」の所と書くから普通の雨ではなく、洪水を伴う大雨であったと思われる。 《六月/戊子》 本サイトの元嘉暦モデルによると、六月は庚子朔である〔これは一般的にも確定している〕。その六月のうちには「戊子」にあたる日は存在しない。前後の戊子は五月(辛未朔)十八日、七月(庚午朔)十九日にあたる。 この問題については、「六月京師及郡国四十雨水」は誤って「戊子詔曰此夏…」の後に書かれたとする説を見る。 ただこれを直したとしてもまだ前に「五月辛未朔辛卯〔二十一日〕」があり「五月戊子〔十八日〕」はなお逆転している。このように錯誤は著しい。 一方、「戊子」が「戊午」の誤りだとしてみると、六月十九日となる。 この場合、長雨の解消を祈願する詔を発した翌日に大赦し、流れはよい。この判断の方が妥当ではないだろうか。 《庶有補》 「庶有補」の文例を漢籍から探すと、 『後漢書』孝桓帝紀「比者星辰謬越、坤霊震動。災異之降、必不空発。敕己修政、庶望有補。」が見つかった。 これは、地震後に発した詔である。文意は次の如くであろう。
それでは、「補」はどう訓読すべきか。 ● 〈類聚名義抄〉法中「補:ツゝル ヌフ オキヌフ タスク」。 ● オギヌフ:① 布を当てて縫い付ける。② 補充する。 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕は「中古は第二音節が清音だった」、文例:「補〈おぎぬふ〉こと有らむ(大唐西域記/長寛元年〔1163〕点)」と述べる。 すなわち、オキヌフの語源は、布の補修のために当て布を縫い付けることである。 オク・ヌフは上代語であるから、オキ-ヌフが上代から使われたかも知れないが、確認できない。 タスクは上代語であるから、無難である。 《天下大赦》 天に長雨の解消を求めるために、憐み深い統治を見てもらうためと考えられる。 《但盗賊不在赦例》 大赦には、除外対象が明示されるようになった (《以大辟罪以下皆赦之》項)。 《大意》 三月三日、 公卿と西庁で宴されました。 五日、 天皇(すめらみこと)は公私の馬を御苑で観閲されました。 二十二日、 詔を発しました。 ――「もし百姓の弟が兄によって売られたなら、良に入れよ。 もし子が父母によって売られたなら、賤に入れよ。 もし貸の利子に準えて賤に落とされた者は、良に入れよ。 その子が奴婢を配して生まれたとしても、また皆良に入れよ。」 四月一日、 詔を発しました。 ――「もし氏の祖先のとき解放された奴婢で既に籍から除かれた者は、 その眷族らが更に訴訟を起こして我が奴婢であると言うことはできない。 大学寮の博士上村主(かみのすぐり)の百済に大税千束(つか)を賜わる。 その学業を勤めたことを以ってである。」 十一日、 使者を遣わして広瀬の大忌(おおいみ)の神と龍田(たつた)の風の神に祭礼させました。 十六日、 天皇は吉野の宮に行幸しました。 二十二日、 天皇は吉野宮から帰られました。 五月二十一日、 百済の淳武微子(じゅんむびし)の壬申年の功を褒め、 直大参(じきだいさん)位を賜り、よって絁と布を賜りました。 六月、 京師と郡、国の四十か所で雨で〔被害が出ま〕した。 〔十九日〕、 詔されました。 ――「今夏は陰雨で節が過ぎ、必ず稼業を損なうだろうことを恐れる。 夕べに惕(おそ)れ朝まで憂え懼(おのの)き、その過ちを思う。 そこで公卿百寮の人等には酒肉を禁断とさ令せ、 心を合わせて過ちを悔いよ。 京及び畿内の諸寺の梵衆は、また五日間誦経(じゅきやう)すべし。 庶(ねがはく)ば救われんことを。」 四月から雨ふり、この月に至りました。 二十日、 天下に大赦されました。 但し盗賊は大赦の対象から除かれました。 まとめ 詔して仏法への一層の帰依を誓う。天候不順に直面して公卿宮人に節制を求めるとともに、自らも恩赦して天に救いを求めている。 一方、高市筆頭に四親王、官上層の布勢御主人と大伴御行に増封する。 さらに百済王一族や、これまで陽が当たらなかった筑紫史益、上村主百済、淳武微子の功績を称えた。 この時期の〈持統〉帝は、かくも謙虚である。こうして親王と臣たちを感謝の心で覆うことによって波風立つことを防ぎ、軽皇太子の即位の実現に向けて地ならししたのであろう。 |
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2026.01.29(thu) [30-11] 持統天皇11 ▼▲ |
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22目次 【五年七月~九月】 《天皇幸吉野宮》
十回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《伊予国司田中朝臣法麻呂》
田中朝臣法麻呂は、〈持統〉三年八月の時点では「伊予総領」として、おそらく管内数か国を監督していた。 今回は「伊予国司」という肩書だからこの間に総領制が廃止されたという説も見るが、《伊予総領》項で見たように、〈文武〉四年〔700〕になっても幾人かの総領が任命されている。 おそらく伊予総領は伊予国司による兼任で、三年八月の件は讃岐国のことであるから管轄する伊予総領の肩書が用いられたのであろう。 なお、「国司」というだけで地位が分からないが、総領を兼務するからには長官の国守であったことは確実であろう。 《伊予国宇和郡御馬山》 〈倭名類聚抄〉{伊予国・宇和郡・三間【美万】郷}。遺称は三間町。現在は宇和島市内の旧三間町地域。 《白銀》 伊予国に銀山が存在した記録は見られない。ただ早い時期に廃絶したことも考えられ、いつか遺跡が発見される可能性は残る。 《祭広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《上進其祖等墓記》
ただ、「中臣氏に関わる祭祀関係」に関しては、中臣連大嶋が〈天武〉十年三月に「令記定帝紀及上古諸事」された一人なので、 この詔よりも古い時期に既に原形が出来上がっていたと思われる。 《祭龍田風神》 毎年四月と七月の広瀬・龍田の祭礼に加えて、この年は龍田風神の祭礼が八月に実施された。 《信濃須波神》 古事記国譲り段(第78回)では、 建御名方神は出雲国伊那佐の小浜で建御雷神らと力比べしたが負けて走り去った。 しかし、諏訪の地で追いつかれ、命乞いして諏訪から外に出ないと誓って国土を天津神の御子に献上した。 〈延喜式-神名〉{信濃国/諏方郡/南方刀美神社二座【名神大】}の「南方」は「御名方」である。比定社は諏訪大社、四宮〔前宮、本宮、春宮、秋宮〕からなる。 現在建御名方神、八坂刀売を主祭神、八重事代主神を配祀とする。 《信濃水内神》 〈延喜式-神名〉{水内郡九座/大一座小八座}のうち、大社は{健御名方富命彦神別神社【名神大】}。 「健御名方富命彦神別神社」を称する論社が三社ある。 《続守言/薩弘恪/末士善信》
《皇子川嶋》
《大意》 七月三日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。 この日、 伊予の国司田中朝臣(たなかのあそん)法麻呂(のりまろ)らは、 宇和の郡(こおり)の御馬山(みまやま)の銀三斤八両と 鉱物一籠(かご)を献上しました。 七日、 公卿のために宴を開かれ、そこで朝服を賜りました。 十二日、 天皇が吉野から帰られました。 十五日、 使者を派遣して広瀬の大忌神(おおいみかみ)と龍田の風神の祭礼を行いました。 八月十三日、 十八氏【大三輪、 雀部(ささき)、 石上(いそのかみ)、 藤原、 石川、 巨勢(こせ)、 膳部(かしわで)、 春日、 上毛野(かみつけの)、 大伴、 紀伊、 平群(へぐり)、 羽田(はた)、 阿倍(あべ) 佐伯、 采女(うねめ) 穂積、 阿曇】に詔して、 それぞれの先祖の墓記を進上させました。 二十三日、 使者を龍田の風神、 信濃国の須波〔=諏訪〕郡、 水内郡の神に派遣して祭礼させました。 九月四日、 音博士(おんはかせ)大唐の続守言(ぞくしゅげん) 薩弘恪(さつこうかく)、 書博士(しょはかせ)百済の末士善信(ばつしせんしん)に 銀を一人当たり二十両を賜りました。 九日、 浄大参(じょうだいさん)川嶋皇子が薨じました。 二十三日、 直大弐を佐伯の宿祢大目(おおめ)に贈られ、 賻物(ふもつ)を賜りました。 23目次 【五年十月~十二月】 《凡先皇陵戸者置五戸以上自餘王等有功者置三戸》
そこで、NASA Eclipse Web Siteで歴史上の日食のデータを参照すると、〈持統〉紀の「日有蝕之」の記事の日については実際に日食が起こっていた。 但しそれらは地球上のどこかの話で、日本では観測できる範囲からはすべて外れている。 それに対して『新唐書』天文志の記録は、同サイトによれば日食帯が中国を通るので、実測で得られた視認資料と見てよい。 それに対して、〈持統〉紀は歴法の理論による事前の予測資料によったと思われる。 〈持統〉紀著者はそれを見て、該当日に「日有蝕之」を書き込んだのであろう。 しかし予測資料の精度は単にその日に日食が起こるというのみで、その日食帯の位置までは予測し得なかったと考えられる※)。
《先皇陵戸者置五戸以上》 大宝令・養老令での該当する規定は、『令義解』喪葬令「凡先皇陵:置陵戸令守。非陵戸令守者十年一替」に見える。 〈延喜式-諸陵寮〉で規定された陵戸、墓戸、および守戸の戸数を見る。なお表中の「戸数」は陵戸(または墓戸)と守戸の合計数である。
「先皇陵戸」:「五戸以上」は概ね維持されている。 「王」や「有レ功者」は「三戸」とされるが比較的限られ、無戸も多い。 注目されるのは「押坂彦人大兄皇子」の「五烟」で、兆域が広大であるためかも知れないが、 古事記において天皇と同格に扱われていることとの関連も考えられる(【押坂彦人大兄皇子】項、第252回)。 さて、陵戸は「五色の賤」に含まれる(資料[35])。 奴婢のように売買されることはなく、氏をもち課税の対象と見られる。 これについては、「大宝戸令では陵戸は賤民とされておらず,養老令で新たに賤民に加えられた可能性が高い」という説を見る。 陵戸は実質的には良民であるが、穢れの意識によって「賤」に入れられたことが考えられる。 《徭役》 徭役は、『令義解』に定義された語としては見えない。 相当するのは賦役令「凡正丁歳役十日。若須収庸者布二丈六尺」の「歳役」を負う正丁である。 その他「太政官符:禁断兵士差科雑役事…天平勝宝五年十月二十一日」とあるので、非公式に徴用する「雑役」も見える。 それらの徴用は一般にはエタチという。「ミユキ」は書紀古訓の特有語と見られる。 《置長生地各一千歩》 「長生地」は、〈釈紀-述義〉「長生地 〈持統〉三年八月「讃岐国御郡所レ獲白燕宜二放養一」はこの詔に先んじて、讃岐国に「長生地」を設けて放てとも読める。 書紀古訓「長生地 これに類する施設が奈良時代にもあればはっきりさせられようが、〈持統〉紀以後には見えない。 《幸吉野宮》 十一回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《鎮祭》 地霊を鎮める祭祀である。しかし書紀古訓がシヅムを書かないのは、字の原義までは掘り下げずに単なる行事と捉えたことを示す。 これが当時の感覚で、そのまま受け止めるのがよいと思われる。 《新益京》 四年十二月に「天皇幸二藤原一観二宮地一」により、 正式に藤原宮建造の位置が決定された。その条坊制の都が「新益京」と呼ばれることになった。 「新益京」という名前については、「新城」は以前から着手され既に先行条坊が作られていたが(《藤原宮》)、計画を変更して一回り大きな姿に作り直したことによる命名かも知れない。 なお、一般的にはこの呼び名は飛鳥京を北に拡張して作られたことによるものとされる。 さて「藤原宮」と「新益京」の語は当時からあったが、「藤原京」は現代に作られた学術用語とされる。 しかし、(万)0079の題詞に「従二藤原京一遷二于寧楽宮一」があるから、必ずしも古い時代になかったわけではない。 むしろ言語は自然に発展し、よって多様な呼び名が存在することは自然だから、肩ひじ張って「藤原京」を排除する必要もないであろう。 ただし、和読として「アラマシノミヤコ」が通用していることに関しては、その出どころが分からない。 古訓には共通して「私記により音読しべし」と書き添えられ、『通証』『集解』もそれを踏襲しているので 少なくとも幕末までは「シンヤクノミヤコ」と音読することが正統であった。改めて上代における新の訓みを見ると、万葉集では「新」の訓はすべてアラタまたはニヒである。アラはあくまでも荒であって、 新の訓みが「アラタ…」「ニヒ…」に限られるのは確実である。 よってアラマシは俗説で、それが繰り返し引用されるうちにあたかも標準的な訓みの如くとなったのが真相と見てよいだろう。それではアラマシノミヤコという訓み方はがいつごろどうやって生まれたのだろうか。 ● アラマシノミヤコのはじまりは… 「あらましのみやこの花をあくまでにみつゝかへりて君にかたらん」という歌が見つかった。 これは、室町時代の中原遠忠〔1497~1545〕の詠んだもの〔『国立国会図書館所蔵貴重書解題 第9巻 (古写本の部 第2)』国立国会図書館1978〕。 アラマシ(名詞)は現在では「概要」を意味するが、もともと計画や願望を意味し、有リの未然形+反実仮想の助詞マシからできたと考えられている。 この歌におけるアラマシノミヤコは、「こうあってほしい」あるいは「こうであろう」都の風景を思い描くもので、飛鳥時代の「新益京」と無関係なのは明らかである。 ただ、この語が「新益京」和読論者に影響を与えた可能性は考えられる。 論文として見つかったのは「新益京」(笹谷良造)(『大和文化研究』大和文化研究会1960) で、それには「実際に何と発音したかわからぬが、語意の上からは「新益」はアラマシだと私は思う」とある。そして『徒然草』『源氏物語』などの用例を引いて 「予定する意であることは間違いない」と述べる。 その30年後の、「天武紀の新城と藤原京」(西本昌弘)(『信濃[第3次]』42(4)〔信濃史学会1990〕)では 「近年では…「あらましのみやこ」と読み、これを「新たに拡大された都」と解する論者が多い」と述べるとともに、宣長の「新城」と同じに読むべしとする説を紹介している。 その『地名字音転用例』〔本居宣長〕(勉誠社1979)は、 「にひき 新益和:持統紀ニ見ユ、天武紀又持統紀ニモ、トコロ〴〵ニ新城 ここから、少なくとも本居宣長の時代には決して「アラマシノミヤコ」とは訓まれていなかったことがわかる。 「私は思う」、すなわち史料に基づかない個人の見解として提唱されたのが1960年、「近年では…あらましのみやこ」と読まれると述べられたのが1990年であるから、 「新益京 《十一月戊辰》 十一月には朔日が書かれていない。〈持統〉五年〔辛卯、691〕の十一月はどの暦資料を見ても一日は戊辰なので、 「戊辰朔」から朔が脱落したものと断定できる。 《大嘗》 〈天武〉即位年の大嘗に関する事項は、〈天武〉二年十二月「侍二-奉大嘗一中臣忌部及神官人等并播磨丹波二国郡司亦以下人夫等…」で示されている。 これを見れば、〈持統〉紀の「供奉播磨因幡国郡司以下至百姓男女」の「供奉」の次に「大嘗」を補うべきであることは明らかである。 〈持統〉紀では十一月条全体が大嘗に関する記事と見てよい。 《神祇伯中臣朝臣大嶋》
「食」は〈北野本〉〈兼右本〉にはあるが〈内閣文庫本〉にはない。『集解』『通証』では省かれているから、異本における衍字と見なしたようである。 公卿への賜物に「食」は異例だが、「衾」も珍しい。 その三日後の乙未条で、改めて「饗」され「絹等」を賜る。「食衾」は乙未条の重出で、同じことを俗っぽい表現〔饗⇒食、絹等⇒衾〕で記した別の資料があったのかも知れない。 《公卿以下至主典》 主典は四等官の第四位で、〈倭名類聚抄〉「勘解由曰二主典一【余使准此】…【皆佐官】」とある。 和訓は、上代:「ふみひと」、中古:「さくわん」。 《神祇官長上》 長上は、「① 常勤者〔番上(当番勤務)の対〕。② 上官、目上、先輩の類」とされる。 ①としては、太政官符に「定匠寮雑工数事:長上二十三人。…番上一百人。」などが見える。 ここでは「長上以下至神部等」と「郡司以下至百姓男女」が対なので、②と見られる。 書紀古訓「ナカツカヘ」は、中間管理職を指すとの理解によるものであろう。 《神部》 部は古い時代の組織体で、氏族に隷属する耕作民〔部曲 トモノヲは、部のこと。 神部は、神〔実質的に神官〕に隷属して耕作に勤めつつ奉斎する集団であった。改新詔以後は次第に国家支配機構に組み込まれて神戸に移行したと考えられる。 神部では所属民の収める税は神社が独占したが、神戸になると庸調のすべてと租の半分が神社に、租の残り半分が国家に納められる。 〈持統〉朝では、多くが神戸に移行済みと考えられる。ここではその呼称として、古い「神部」が用いられたと考えられる。 《供奉播磨因幡国郡司》 播磨・因幡は大嘗のために献納する米の産地と考えられる。 亀卜によって定められた(《播磨丹波》項)。 〈天武〉二年十二月丙戌にも「侍奉大嘗…播磨丹波二国郡司」があった。 播磨国は亀卜で連続して当たったわけである。 《医博士/呪禁博士》 『令義解』-職員令「典薬寮:…医博士一人。医生四十人。針師五人。針博士一人。…呪禁博士一人。呪禁生六人…」とある。 典薬寮は宮内省に付属(資料[24])。 医博士、呪禁博士の選び方については、『令義解』-医疾令 「医博士:取二医人内法術優長者一為之。按摩呪禁博士亦准レ此」とある。 呪禁はいわゆるまじないで、この時代は呪術が未だ医術と未分化であったことを示している。
《賜右大臣宅地四町…》 一町は一辺108mの正方形の面積。文字通り地位に応じて邸宅の広さを規定するものであろう。 《上戸/中戸/下戸》 〈続紀〉養老元年〔717〕十一月「九等戸、以二賤多少一勿レ長。准レ財為定レ矣」が見える 〔「所有する奴婢の数で上中下を決めず、財力によって定めよ」の意か〕。 その「九等戸」の内訳については、 『令義解』賦役令「凡一位以下」条に見える。 いわく「凡一位以下及百姓雑色人等皆取戸栗以為義倉。上々戸二石。 上中戸一石六斗。上下戸一石二斗。中上戸一石。中々戸八斗。中下戸六斗。下上戸四斗。下中戸二斗。下々戸一斗。…」。 〈延喜式-主計上〉には 「凡輸義倉穀者。一位五斛。二位四斛。三位三斛。四位二斛。内五位一斛。外五位五斗。上上戸二斛。上中戸一斛六斗。上下戸一斛二斗。中上戸一斛。中中戸八斗。…其帳。若応賑給者。国司熟量貧乏。…」などとあり、中下戸以下には供出が義務付けられていない。 「義倉」については「義倉とよばれる国衙の倉に貯え、飢饉の時に備えておく」ものという(『国士大辞典』吉川弘文1997)。 すなわち各戸の経済力によって粟などの義倉への供出を命じたもの。 戸の上中下の判定基準については、田令への注記に「謂凡戸上中下者計口多少臨時量定」〔戸の上中下は人数の多少で計るが、時に応じて加減される〕とあるのみ。 正丁の人数による区分をもっともらしく示した例も見るが、諸資料を勘案した推定らしい。財力や人数などの総合力によると説明する辞書もあり、『令義解』を見ればおそらくこちらの見方が妥当であろう。 《大意》 十月一日、 日食がありました。 八日、 詔(みことのり)を発しました。 ――「凡そ先皇の陵戸は、五戸以上を置け。 それ以外の王(おおきみ)等や功ある者には三戸を置け。 もし陵の戸が不足するなら、百姓を充てよ。 その徭役(ようえき)を免じ、三年に一度交代させよ。」 十三日、 畿内及び諸国に、 長生地をそれぞれ千坪置きました。 この日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。 二十日、 天皇は吉野から帰られました。 二十七日、 使者を遣して新益京(しんやくきょう)を鎮祭させました。 十一月〔一日〕、 大嘗において、 神祗伯(じんぎはく)中臣朝臣(なかとみのあそん)大嶋は、 天神の寿詞を読みました。 二十五日、 公卿に食物と衾(ふすま)〔=寝具〕を賜りました。 二十八日、 公卿以下主典までに、饗(あえ)され、 併せて絹などをそれぞれに応じて賜りました。 三十日、 神祗官の長上〔=幹部〕以下、 神部(かんべ)たちまで、 及び〔大嘗〕に供奉した播磨、因幡の国郡の司以下、 百姓男女まで饗(あえ)され、 併せて絹などをそれぞれに応じて賜りました。 十二月二日、 医(くすし)博士務大参(むだいさん)徳自珍(とくじちん)、 呪禁(じゅごん)博士木素丁武(もくそちょうむ) 沙宅万首(さたくまんしゅ)に 銀を一人二十両ずつ賜りました。 八日、 詔を発しました。 ――「右大臣は宅地を四町、 直広弐(じきこうに)位以上は二町、 直大参位以下は一町、 勤(ごん)位以下無位までは その戸口により、 上戸は一町、 中戸は半町、 下戸は四分の一町をそれぞれ賜れ。 王(おおきみ)たちはまたこれに准ぜよ。」 まとめ 陵戸・墓戸の戸数は〈延喜式-諸陵寮〉の規定に近い。上中下戸は細分化されて九等戸となったようである。 ここでも〈天武〉〈持統〉朝での取り決めが後の制度に繋がっているので、令制との対応を調べることは書紀の末期の記述を理解する上で重要である。 ただ、「徭役」・「長上」は令において定義された用語ではなく、一般的な名詞であった。詔の原文に含まれていた語かも知れないが、 〈持統〉紀の原文執筆者が内容を概念的に書いた中で使われた可能性もある。 というのは、日食記録の扱いに不用意さが伺われ、また「大嘗」の文字の省略などを見ても、〈持統〉紀の執筆作法はやや雑だと思われるからである。 さて、「あらましのみやこ」は現代の造語で、そもそも上代語による訓読として考えられないものであった。辞書や解説書に多数用いられて一般化しているが、 これ以上不適切な表現が広がることがよいこととは思えないので、今からでも取り消されるべきであろう。 上中下戸の人数による区分も同様で、もっともらしく語られるが少なくとも『令義解』からは根拠を見いだすことができない。 |
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2026.02.03(tue) [30-12] 持統天皇12 ▼▲ |
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24目次 【六年正月~三月辛未】 《増封皇子高市二千戸》
下述するように、政務の運営においては多くの臣を登用せざるを得ず、その結果当然彼らの発言権が増す。太政大臣にその抑えとしての役割が求められるから、その権威付けとしての増封が考えられる。 ただし、ここでは太政大臣の肩書がついていない。 《観新益京路》 朱雀大路をはじめとする条坊路の、工事の進捗状況を視察したと思われる。 《高宮》
それとは別に、〈倭名類聚抄〉{葛上郡・高宮郷}もまた歴史的な地名である。神功皇后摂政五年に 葛城襲津彦が新羅から連れ帰った俘人が「今桑原、佐糜、高宮、忍海、凡四邑漢人等之始祖也」とある。 蘇我氏の祖とされる蘇賀石河宿祢は葛城長江曽都毘古(葛城襲津彦)とともに建内宿祢の子とされ、葛上郡が発祥の地と見られる(〈孝元〉段;第108回)。 〈推古〉三十二年十月に蘇我馬子大臣が「葛城県…元臣之本居也…欲レ為二臣之封県一」 〔葛城県は私ども蘇我氏の本貫であったから、封県として賜りたい〕と申し出たことも、それを裏付けている〔なお、この申し出は許されなかった〕。 『古代日本の交通路1』藤岡謙二郎編〔大明堂1978〕は、〈持統〉天皇が「葛城斜向道路」を通ってこの「高宮」の地を訪れたと見做している。 既に蘇我氏〔改称して石川氏〕は往年の隆盛を失っていたが、その招きによって春の景色を見に行ったのだろうか。想像はできるが実際のところは分からない。 ただ、少なくとも一泊二日という日程を考えれば葛上郡の方が現実的である。人力の輿に乗って運ばれたはずだが、片道20kmほどなので半日で到着できたと考えられる。 《将幸伊勢》 三月壬午条以下で見るように、大変大掛かりな行事であった。三輪朝臣高市麻呂はそれが農作業の妨げになることに、大きな危惧を抱いたのである。 《陰陽博士》 『令義解』職員令に「陰陽寮:頭一人。助一人。允一人。大属一人。少属一人。陰陽師一人。陰陽博士一人。陰陽生十人。天文博士一人。天文生十人。漏尅博士二人。守辰丁二十人。使部二十人。直丁二人」 と規定されている。まだ大宝令の前だが、〈持統〉四年六月には「八省」とあり令制にかなり近づいている。 《沙門法蔵/道基》
四年正月参照(《刑部省》)。 《中納言》 中納言はここが初出。〈天武〉壬申前には「大納言」がでてくるが、名称は御史大夫のままだったと思われる。 〈天武〉九年の《納言》項では、その時点では大中小の区分けはまだなかったと見た。 その頃は「納言…舎人王」とあるから、皇親体制であった。 ここでは「中納言…朝臣」とあるから、納言を増員して大中小を定めて体制の充実が図られ、臣の登用が復活しつつあると見られる。 《三輪朝臣高市麻呂》
《中納言大三輪朝臣高市麻呂》 「大三輪」と「三輪」が混在する。「大」は時にその美称としてつけられたものであったことが分かる。 乙卯条では爵位がついていないから、申し出の通り本当に無位にされたのかも知れない。 高市麻呂が卒した時点では「従四位上」で、これは〈持統〉六年の直大二位と同格である。これを見ると、やはりこのとき一旦無位とされ、後に復位したが以前の位に達するのが精いっぱいだったと見られる。 《脱其冠位》 〈天武〉十一年六月朝廷内ではすべて漆紗冠となり位冠は着用はしていなかったから、持参して返上したのであろう(《爵一級》項参照)。「脱」は多分に比喩的な表現と見られる。 《天皇不従諫》 三輪朝臣高市麻呂の意識は壬申で共に戦った同志のままだったので、その関係性によって諫言は受け入れられると思ったのであろう。 しかし、意に反して容れられなかった。意地になって冠位を返上して重ねて迫ったが、それでも〈持統〉の意思は変わらなかった。 高市麻呂は臣の一人として既に中納言に埋没していたが、その立場を十分に理解していなかったと見られる。 ただ、景雲三年に卒したときには「壬申年功」によって贈従三位を賜っている。 壬申の功臣は功臣であったこと自体が唯一の存在意義であって、発足した政権内での発言は却って邪魔になるのである。 《大意》 六年正月四日、 高市皇子に二千戸を増封、 通前五千戸です。 七日、 公卿らに饗(あえ)され、衣裳を賜りました。 十二日、 天皇(すめらみこと)は新益京(しんやくきょう)の大路を視察されました。 十六日、 公卿以下、初位以上に饗されました。 二十七日、 天皇は高宮に行幸しました。 二十八日、 天皇は高宮から帰還されました。 二月十一日、 諸官に詔しました。 ――「三月三日に伊勢を行幸しようと思う、 この意を知り諸々の衣、物を備えよ。」 陰陽(おんみょう)博士の沙門法蔵(ほうぞう)、 道基(どうき)に、銀を一人二十両を賜りました。 十九日、 刑部省に「軽い罪で捕えた人を放免せよ」と詔しました。 この日。 中納言の直大弐三輪朝臣(あそん)高市麻呂(たけちまろ)は、 上表して敢て直言してお諫めしました。 ――「天皇が伊勢に行幸しようと思われることは、農業の時に妨げとなります。」 三月三日、 浄広肆(じょうこうし)広瀬王(ひろせのおおきみ)、 直広参(じきこうさん)当摩真人智徳(ちとこ)、 直広肆(じきこうし)紀朝臣弓張(ゆみはり)等を、 留守官に任じました。 すると、 中納言の大三輪朝臣高市麻呂は、 その冠を脱ぎ、朝廷に捧げて、 重ねてお諫めました。 ――「農作業の節、車駕を動かされてはなりません。」 六日、 天皇は諫言に従うことなく、遂に伊勢国行幸に発たれました。 25目次 【六年三月壬午~四月】 《賜所過神郡及伊賀伊勢志摩國造等冠位幷免今年調役》
「神部」に作る異本もあるようだが、ひとまず神郡としてそれがどのようなものかを見る。 〈延喜式-式部省〉にいう。 ――「凡郡司者:一郡不レ得レ併二-用同姓一。若他姓中無レ人可レ用者。雖二同姓一除二同門一外聴レ任。神郡。陸奥縁辺郡。大隅馭謨。熊毛等郡者。不レ在二制限一 【謂二伊勢国飯野。度会。多気。安房国安房。下総国香取。常陸国鹿嶋。出雲国意宇。紀伊国名草。筑前国宗形等郡一為二神郡一】」 〔郡司には同姓の者を入れてはならない。ただもし他姓で用いる人物がいなければ同門以外の同姓を許す。 神郡、陸奥縁辺の郡、大隅国馭謨(ごむ)郡熊毛郡には制限はない。注:神部は伊勢国飯野…をいう〕。 郡司には原則として同じ氏姓の者を入れないが、例外として神郡などを示し、その注釈において「神郡」の具体名を列挙している。 選叙令には、 「凡同司主典以上不レ得レ用二三等以上親一」 〔四等官に三等以上の親を入れてはならない〕がある。 『令集解』巻十六のこの項目への注釈にいう。 ――「養老七年〔723〕十一月十六日太政官処分。伊勢国度相郡・竹郡、安房国安房郡、出雲国意宇郡、筑前国宗形郡、常陸国鹿嶋郡、 下総国香取郡、紀伊国名草郡合八神郡、聴レ連二-任三等親一也」。 すなわちこれらの八つの神郡は、養老七年に「不得用三等以上親」の例外となった。 〈延喜式〉と『令義解』の相違点は「伊勢国飯野」の有無である。それら伊勢国の二郡または三郡は、いずれも伊勢神宮の神郡であったと考えられる。 〈延喜式〉、『令義解』全体に「神郡」の語は大量に現れ、その存在は顕著である。 神郡とは結局、その郡内のすべての戸が神戸であるような郡であったと考えられる。あるいは郡に匹敵するような広大な神部ともいえる。 〈持統〉六年の時点での「神郡」については、六年閏五月条に「伊勢国…其二神郡」とあり、これらが既に度会郡と多気郡であろう。 神功皇后紀〈仲哀〉九年三月に「神風伊勢国之百伝度逢県之拆鈴五十鈴宮所居神」とある 「度逢県 《伊賀/伊勢/志摩国造》 ここでいう「国造」は律令国造、すなわち律令国ごとに定められたと祭祀家と考えられる(《国別国造》項)。 したがってこの伊勢行幸は、壬申記念行事と国家の神道振興という二重の性格があったと考えられる。 〈壬申〉では、大海人皇子が朝明郡で「望二-拝天照大神一」と書かれ、伊勢神宮を特別に取り立てている(〈神武〉元年六月二十六日)。 《詔免近江美濃尾張参河遠江等国》 会場の伊勢国にとどまらないので、伊勢国行幸は周辺の広い範囲の国々から人と資材を動員して行われた大事業であったことがわかる。 《供奉騎士/諸司荷丁/造行宮丁》 ● 「供奉騎士」、すなわち騎馬隊を伴わせたことが、壬申記念行事としての軍事的な性格を物語っている。 ● 「諸司荷丁」は、多くの諸司に仕えていた正丁が動員され、荷物の運搬にあたったことを示す。 ● 「造行宮丁」により、現地には行宮まで建てたことがわかる。 《大赦天下》 「盗賊不在赦例」については〈天武〉十二年正月《以大辟罪以下皆赦之》項、〈持統〉四年正月条、〈五年〉六月条参照。 《車駕還宮》 六日に出発して二十日に帰京したから、十五泊十六日であった。 《毎所到行輙会郡県吏民》 郡は、実際には「評」であった。また、県の範囲は郡ぐらいで古い時代の行政区画である(《五村苑人》)。 基本的にはコホリだが伝統的なアガタも時に用いられたかも知れない。 《吏民》 〈持統〉紀への書紀古訓では、百姓、民、良(民)への「オ(ホムタカラ)」が見られなくなっている。 《務労賜作樂》 「務」への古訓はどの本も「コトムコロ」だが、古い時代の筆写において「ネムコロ」を誤読したと考えられる。 務には、副詞ツトメテ〔=努力して〕の用法もあるので訓みにこれを用いても差し支えないと思われる。 《困乏窮者稲》 この文中には、明らかに「賜」が脱落している。最初の「令」は賜に作ってその前の「賜所過神郡…」と同じ形にすべきであろう。 しかし、「令」を残して「令賜」とすることには違和感がある。賜の主語は天皇だから、使役の対象にはなり得ないからである。 もし「令」を残すなら「令給」とすべきであろう。 《大伴宿祢友国》
「四畿」は大和・河内・摂津・山城(改新詔「其二曰」の《畿内国》項参照)。 この時は、まだ和泉国が河内国から分離する前である〔分離は霊亀二年〔716〕(【河内茅渟】項参照)〕。 《祀広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《難波大蔵鍫》 難波の大蔵省は、朱鳥元年正月に火災に遭った(《難波大蔵省失火》)が、依然として存在していた可能性がある。 『古代の難波』吉田晶〔教育社歴史新書 ;1982 〕は 「朱鳥元年…難波宮は全焼し、…現在までの発掘結果によると、…焼亡ののち、聖武朝に綱紀難波宮の造営が行われるまで、この地での増改築が行われることは全くなかった」が 「難波大蔵鍫」の配布は、「難波が西国からの貢納物の集積地でもあったため、それらを収納する倉庫や管理棟がまもなく再建されたことによるもの」と述べる。 そして「焼亡から再建までの期間の「難波宮」は…難波地域に増改築された宮室を総称するものであった」との考えが示されている(pp.178~180)。 「大蔵」は、既に古い時代から官の機関を表す固有名詞になっていたから、「難波大蔵」は大蔵省の中枢、あるいは少なくとも「難波に置かれていた大蔵省管理下の重要施設」と受け止めるのが当然と思われる。 《繋囚見徒》 徒は労役を課す刑(〈天武〉五年八月)。 和訓「ミツカフツミ」のミは身であろう。ツカフは連体形であるから四段活用である。 「繋囚見徒」は他にも見え、『類聚三大格』巻十七の「太政官符-元慶四年十二月七日」にある。 同官符は、従来大赦から除外されていた罪も対象に加えて幅広く大赦せよという詔が出たと伝えるものである。 「見徒」は漢語にあり、〈汉典〉「現今被拘禁服労役的囚犯」〔現在拘禁され労役に服している囚人〕とされる。 書紀古訓の「イマ-ミツカフツミ」は、「見」を「現在見えるところの~」と解釈したものと考えられる。 《大意》 十七日、 通過した神郡(かみごおり)、 及び伊賀、伊勢、志摩の国の国造(くにのみやつこ)らに冠位を賜り、 併せて今年の調役を免除されました。 また、 供奉(ぐぶ)の騎士、 諸司の荷の仕丁、 行宮(あんぐう)作りの仕丁の今年の調役(えつき)を免除されました。 天下に大赦し、ただ盗人は赦から除かれました。 十九日、 通過した志摩国の百姓の男女八十歳以上に、 稲を一人五十束を賜りました。 二十日、 車駕は宮に帰還しました。 行くところ毎に、 参集した郡県の吏民に、 努めて労い、賜物して楽を催されました。 二十九日、 詔を発しました。 ――「近江、 美濃、 尾張、 参河、 遠江等の国の、 供奉した騎士の戸(へ)、 及び諸国の荷の仕丁、 行宮作りの仕丁の今年の調役を免除せよ。」 詔を発しました。 ――「天下の百姓の、 窮乏者に稲を、男には三束、女には二束を給せよ。」 四月二日、 大伴宿祢(おおとものすくね)友国に直大弐(じきだいに)位を贈り、 併せて賻物(ふもつ)を賜りました。 五日、 畿内四国の百姓の荷の仕丁となった者には、今年の調役を除きました。 十九日、 使者を遣わして広瀬お大忌神(おおいみかみ)と龍田の風神の祭礼をしました。 二十一日、 有位の親王以下、進広肆(しんこうし)位までに、 難波の大蔵の鍫(すき)をそれぞれに応じて賜りました。 二十五日、 「凡そ繋囚見徒〔囚人と徒刑の者〕をすべて赦し、解放せよ。」と詔されました。 まとめ 伊勢国行幸において実施された行事そのものの内容は、全く記述されていない。 だが、税が免除された対象が書かれたことにより、行事の概要と性格を推察することができる。 「供奉騎士」からは、軍事的なデモンストレーションが行われたことがわかる。 そして、近江・伊賀以東から幅広く仕丁が徴発されたことから見て、第一に壬申の乱の記念行事であったことは確実である。 もうひとつの側面としては、伊賀・伊勢・志摩の国の国造によって大規模な祭祀が行われたと見られることである。 すなわち、第二に天照大神を国家の中心に確固として位置づける行事であった。 興味深いのは、行幸の経路の所々で「作楽」、すなわち雅楽寮を帯同したと見られ雅楽を人民に観覧させたことである。 すなわち、東国の人民に多大な負担を強いたが、税を免除し、お返しとして恩賞と娯楽を提供した。 これは、この地域の人々に八洲の国の構成員としての自覚を醸成したものとも言える。 こうして諸行事は盛りだくさんで大規模に展開されたが、それによって国造りの精神的な基盤に、改めて壬申と伊勢神宮を据えたものと考えられる。 |
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⇒ [30-13] 持統天皇(5) |
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