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2025.12.30(tue) [30-07] 持統天皇7 ▼▲ |
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14目次 【三年閏八月~十二月】 《詔諸國司曰今冬戸籍可造宜限九月糺捉浮浪》
造籍については、庚午年籍(〈天智〉九年〔670〕)が有名で、〈続紀〉にしばしば言及される。 ●大宝三年〔703〕七月「詔曰。籍帳之設。国家大信。逐時変更。詐偽必起。宜以庚午年籍為定。更無改易」。 すなわち、「しばしば改めるうちには必ず詐偽が起るから、必ず庚午年籍に立ち戻れ」と詔された。 ●延暦〔791〕十年九月戊寅「養老五年〔721〕。造籍之日…」によると、 綾公菅麻呂は「699年に朝臣姓を賜ったが、721年に庚午年籍に基づいて取り消されてしまった。朝臣姓を賜ったことは確かだから復活してほしい」と願い出て認められた (《讃岐綾君》)。 ●宝亀四年〔773〕五月辛巳に「長費人立」が「費」姓は庚午年籍に「直」姓と注記されたことにより「直」姓を名乗っていた。 天平宝字二年〔758〕にその注記を無効として「費」に直された。しかし「庚午年籍」後の表記の変更が通用している例はいくらでもあるから、「直」姓を認めてほしいと申し出た (【続日本紀】宝亀四年五月)。 このように、大宝三年詔で庚午年籍を厳守せよと言った結果、せっかくの賜姓や表記変更が取り消されたことに不満が生じている。 庚午年籍の実物は失われたが長期間保管され、奈良時代にもしばしば参照されていたことがわかる。 それでは、〈持統〉三年の造籍は庚午年籍に匹敵するものであろうか。そう思って調べると、次の記述があった。 ●和銅四年〔711〕八月丙午「酒部君大田。粳麻呂。石隅三人。依二庚寅年籍一、賜二鴨部姓一」。 庚寅は、翌〈持統〉四年〔690〕にあたる。〈続紀〉に庚寅年籍が見えるのはこの一か所のみであるが、三年の詔による造籍は確かに実ったことがわかる。 《糺捉浮浪》 ここでは「糺二-捉浮浪一」〔浮浪人を把握〕した上で、〈天武〉六年九月詔「凡浮浪人其送二本土一者、猶復還到則彼此並科二-課役一」と同様のことが行われたのであろう。 「戸籍可レ造」とともに、税逃れを防ぐ策といえる。 これについて〈時代別上代〉は、「税負担の過重からそれら〔浮浪、逃亡〕の大量発生をみ、天武紀六年のような厳しい詔ともなった」との見方を述べる。 《毎於一国四分…令習武事》 国ごとに兵士を四つのグループに分け、非番のときに交互に武術を習得させよという意味か(ア)。 ちなみに『令義解』軍防令を見ると 「凡衛士者中分一日上一日下。毎二下日一即令丁於二当府一教丙-習弓馬用乙刀弄槍及発レ弩抛甲レ石」 〔衛士は中(なかば)に分かち一日は上り、一日は下れ。下る日毎に即ち当府に於きて弓馬、刀(たち)弄槍(ほこゆけ)及び発弩抛石を用ゐることを教へ習はしめよ〕とある。 これは衛士は二つのグループに分け、一日交替で任務に当たり、非番の日には当府の教習所で武術、馬術、武器操作法を教習させよと読める。 ここの「衛士」については、 「凡兵士向レ京者名二衛士一。守レ辺名二防人一」、すなわち上京して任務にあたる者を衛士と名付け、辺境を防衛する者を防人と名付けると定義されている。 この軍防令を参照すれば、アの読み方は妥当であろう。 《河内王》
上記のように表記は大宰帥から大宰率に変わっている。その後、八年八月には「三野王拝二筑紫大宰率一」。 一方、〈続紀〉では大宝二年〔702〕八月「大宰師」が多数。 例外的に和銅二年〔709〕六月の一か所のみ「大宰率」。 音よみはソチだが、これは率の呉音である。和読は〈倭名類聚抄〉「長官:…大宰府曰帥…【已上皆加美】」とあり、カミと訓む。 《丹比真人嶋》
これまでから百戸を増封したのなら「通前」をつける必要はないから、従来の封戸と合算して百戸になったという意味であろう。 〈続紀〉和銅元年〔708〕八月庚辰「兵部省更加二史生六員一。通前十六人」、 養老三年〔719〕十月辛丑「益二-封八百戸一。通前二千戸」 は、その判断を裏付ける。〈続紀〉にこの書法は多い。 ただし、ここでは「通前」の次にあった「〇〇戸」が脱落した可能性がある。 《石上朝臣麻呂/石川朝臣虫名》
「位を送る記(ふみ)」は、すなわち大宰管内〔九州〕の者への叙位を記したリストであろう。 「送」は「大宰に送付」だが、同時に「賜る」意味も兼ねているように思われる。 浮浪人の把握、兵士の武術の習得と併せると、軍事体制の強化として括ることができる。すなわち、浮浪人を戸籍に加えるのは同時に徴兵人数の確保であり、 また太宰には兵器の授与し、現地の公卿大夫への進階は対馬海峡への軍備の強化の意味合いが窺われる。 《且監新城》 前文の石上朝臣麻呂らが「監新城」の行為者かと思われたが、九月十日のうちに筑紫から帰って藤原京予定地を視察するのは不可能なので、「監」の主語は天皇と見ざるを得ない。書紀古訓も読んでいる。 しかし、〈壬申紀〉(10段)の「監軍事」、〈持統〉七年の「監物」の「監」には派遣されて任務に当たる語感がある。 よって、実際には別の日に派遣されたことがここに付記されたと見るのが妥当かも知れない。 《新城》 新城が藤原京を指すのは明らかである。 〈天武〉五年「将都二新城一」では藤原京の先行条坊を表していて、 その「城」は都城を意味することが明確になった (《将都新城》項)。 《高安城》 高安城については、資料[74]において詳細に調べた。 結論的には朝鮮式山城の外郭建造は部分的に着手されたが、ほどなく中止されたと見られる。 名前こそ建造時の「城」を残しているが、実際に長く使われたのは税として徴収した穀物の貯蔵庫群としてであった。 〈壬申〉においては、坂本臣財らが高安城に上り大津道と丹比道を進んでくる敵軍を見たシーンに(〈壬申〉18段)より、その存在が強く印象付けられている。 〈持統〉太政天皇は、大宝二年〔702〕に三河行幸の帰路、尾張-美濃-伊勢-伊賀を経由した(【太政天皇〈持統〉の美濃国行幸】)。 これは〈壬申〉の思い出の土地巡りと見られる。〈高安〉城についても、そこから大津道と丹比道方面の眺めを自分の目で見たいと思ったのであろう。 ただ、なお軍事の拠点としての性格を残す城と見れば、その視察も一連の軍事体制強化の一環ともいえよう。 《下毛野朝臣子麻呂》
五色の賤のうち、私奴婢を良民化したと考えられる(資料[15])。 しかし「六百口」は、子麻呂一族の私奴婢としては多すぎるようにも思える。朝廷の裁可を求めたところを見ると、下野国内の行政行為かも知れない。 ただ、国家として賤民を良民化を推し進めた動きはどの資料からも見えてこない。 《於中市》 「中市」という地名は見えない。 『類聚国史』〔892〕巻七十八賞宴下にはこの部分の引用において「十一月己卯朔丙戌於市中…」とある。 書紀古訓も「イチナカ」としているところを見ると、平安時代にはそのように解釈されたと見られる。 《褒美…閑於三兵》 八月詔「其兵士者…令レ習二武事一」は、兵士としての技量を高めようとしたもの。 ここではよく励んだものに褒美を与えたことを公にして、その風潮を高めることを狙ったと考えられる。 それなら「市中」、すなわち公衆の面前で行われたとする解釈が成り立つ。 しかし、原文の語順を勝手に変えることを潔しとしないなら、失われた地名「中市」がどこかにあったと考えざるを得ない。 その場合も「公衆の面前で」という意味合いは残る。 《高田首石成》
奈良時代の禁令では、〈続紀〉天平勝宝六年〔754〕十月乙亥に「勅:官人百姓、不畏憲法、私聚徒衆、任意双六、 至於淫迷。子無順父、終亡家業、亦虧孝道。因斯遍仰京畿七道諸国、固令禁断」 〔官人百姓をとわず、法を恐れず私的に徒衆を集め、意(こころ)の任(まま)に双六して淫迷に至る。子は父に順わず、終(つい)には家業を亡ぼし、また孝道を虧(そこな)う。 斯(これ)に因り遍(あまね)く京畿七道諸国に仰して〔公文書を出して〕、固く禁断せ令(し)めよ〕とある。 〈天武〉十四年九月に、〈天武〉天皇は王卿たちを大安殿に集め「博戲」を行った。 その勝者と見られる十名に「御衣袴」を賜った。皇后の鸕野讃良皇女はこれを快く思わず、そのために翌日敗者の四十八名にも「羆皮山羊皮」を賜ることになったと読んだ。 天皇が博戲を主催することは、一般人に蔓延する賭博をさらに助長することになるからである。 この皇后の姿勢が、〈持統〉三年の「禁断双六」に繋がったとみられる。 《双六》 「インド起源説もあるが、祖型は紀元前3千年紀の古代エジプトに見られ」、「この型の遊戯盤はギリシアやローマに伝えられて、古代世界の代表的な盤上ゲーム」、 「ギリシアの植民地を通じて西南アジアから中近東に伝えられ、さらにシルクロードを通って中央アジア、インド、中国へも達した」 という(『世界大百科事典』〔平凡社;2007〕)。 《大意》 潤八月十日、 諸国の国司に詔を発しました。 ――「今年の冬に戸籍を造るべし。 九月を期限として浮浪人〔=籍から離脱した者〕を把握すること。 兵士は、 一つの国ごとに四組に分け、 その一組ずつ〔順番に〕武術を習わせよ。」 二十七日、 浄広肆(じょうこうし)河内王(かわちのおおきみ)を筑紫の大宰の帥(そち)として、 兵仗と賜物を授けました。 直広壱(じきこういち)を直広弐(じきこうに)丹比真人(たじひのまひと)嶋(しま)に授け、 増封して、これまでの分と合わせて百戸としました。 九月十日、 直広参(じきこうさん)石上朝臣(いそのかみのあそん)麻呂(まろ)、 直広肆(じきこうし)石川朝臣(いしかわのあそん)虫名(むしな)らを派遣し、 筑紫に送位記を送らせ、 また、〔別の日には〕新城〔=藤原京の予定地〕を視察させました。 十月十一日、 天皇(すめらみこと)は高安城(たかやすのき)に行幸しました。 二十二日、 直広肆(じきこうし)下毛野(しもつけの)の朝臣(あそん)子麻呂(こまろ)は、 「奴婢六百人を免れさせたい〔=良民に上げたい〕と存じます。」 と奏上して許可されました。 十一月八日、 中市〔市中とも〕、 追広弐(ついこうに)高田首(たかたのおびと)石成(いわなり)が 三種の武器を習得したことを褒め、 褒美の物を賜わりました。 十二月八日、 双六を禁断としました。 15目次 【四年正月~二月】 《物部麻呂朝臣樹大盾》
中臣氏・忌部氏が現実に果たしていた役割が、神代紀に反映されたものと見られる。 《神璽剣鏡》 〈継体〉紀《璽符》《勾玉》項では、 中国人の原文著者が倭語の表し方を研究する途上において、「初期はまだ三種の神器への理解が不十分で、践祚を中国文化における璽符の受領と表現した」と見た。 その後、文章中の「璽」が次第に勾玉として読まれるようになっていったと思われる。 中国語の「璽」については、漢籍の『独断』〔蔡邕;後漢〕には「璽者、印也。…天子璽以玉螭虎紐」とある。 [zh.wikipedia.org/zh-tw]〔ウィキペディア繁体字版〕「伝国璽」項には「作二-為中国皇帝的信物二、歷代王朝視其為正統皇権的象徵。其方円四寸」、 〔歴代王朝の正統王権を象徴するもので、一辺4寸〕という。藍田玉製と伝わり、拓片は「受命於天既壽永昌」などと読み取られている。 書紀での記述を見ると(《奏上剣鏡》項)、〈舒明〉天皇までは璽印の意味が漂う。 璽・剣・鏡の「三種」が揃って書かれるのは〈継体〉二年と〈持統〉紀の二例に限られ、 〈持統〉紀においては"璽"に"神"をつけることによってそれが勾玉の意であることをようやく明確にしたと思われる。 その後の「神璽」をめぐる歴史は、 壇ノ浦の戦いで海中に沈んだが、『平家物語』巻十一「神璽は海上にうかびたるを、かた岡の太郎経春が取り上げ奉りたりけるとかや」 さらに南北朝統合の後、再興を目指した後南朝は神璽を奪取し、赤松党がそれを取り戻そうとして長禄の変が起こった。 最終的に長禄二年〔1458〕十二月二十日に「赤松党、神璽を北朝宮廷に献じ、赤松政則、幕府に赦免され播磨の守護となる」(『後南朝新史』市川元雅ほか〔南正会1967〕)。 これらを見ると、「神璽」の物質としての連続性は必ずしも保障されないが、御霊は移されることができるから特に問題はない。 神璽は現在皇居に安置されていて公開されることはないから、その形状は不明である。 ことによると勾玉の形ではなく、宝石を刻んだ印かも知れない。 《皇后》 〈持統〉は皇后⇒天皇⇒太政天皇で、「皇太后」と呼ばれた時期はなかった。 皇太后については、一般的に「〇〇即天皇位、尊皇后曰皇太后」の形で記述されている。すなわち、皇太后は皇太子が即位してからの呼称である。 なお、新天皇の母が皇后でなかった場合、「[皇太夫人」が見える(葛城韓媛〔〈清寧〉の母〕、堅塩媛〔〈用明〉〈推古〉の母〕)。 《丹比嶋真人/布勢御主人朝臣》
〈天武〉四年正月が初出(《進薪》項)。翌五年から日付が正月十五日に固定され、この年も同様である。 《大赦天下》 適用範囲は、次第に具体的に示されるようになっていく (《以大辟罪以下皆赦之》項)。 《爵一級》 〈天武〉十四年正月に爵位制が諸王十二階、諸臣四十八階に改められられた。 同十一年には冠による表示が廃止され、十四年七月に朝服の色で爵位を大まかに表すことになった。したがって、それ以後に「爵」にカガフリの訓をあてることは理屈が合わない。 〈兼右本〉が「爵 一方、〈天武〉四年六月に「爵 《鰥寡孤独》 『孟子』〔戦国〕梁恵王下「老而無レ妻曰レ鰥。老而無夫曰寡。老而無子曰獨。幼而無父曰孤」〔老いて妻無きを鰥と曰ふ…etc.〕とある。 ただ孤独を分割して孤児・独老にあてるのはあくまでもこの文中における修辞で、一般的には孤独は孤立して独りでいることである。 漢籍には、鰥寡孤独が熟語となって大量に使われ、いずれも困窮している人に国家が援助する文脈中にある。 例えば『史記』〔前漢〕孝文本紀「賜二天下鰥寡孤独窮困及年八十已上孤児九歲已下布帛米肉各有数一」などが見える。 《篤癃》 動詞アツユの文例は、『源氏』澪標「大宮も頼もしげなくのみ篤いたまへるに、我が世残り少なき心地する」。ここでは四段活用。 書紀古訓「アツエヒト」は、下二段活用である。 癃については、[国際電脳漢字及異体字知識庫]:「①足不能行。②廃疾。③重病。④小便不暢。⑤老」。 他の辞書では②、④に加えて「せなかが盛り上がって曲がる病気」。 『後漢書』光武帝紀/六年正月辛酉「給二稟高年鰥寡孤獨及篤𤸇無家属貧不能自存者一、如レ律」。『康煕字典』はこの部分を引用して「註:癃、病也」と注を加える。 また、『三国志』魏書二/文帝紀「鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀」とあり、〈持統〉紀はこれらを用いた可能性がある。 詔勅にこのような表現が使われたとは考えにくいので、この部分は〈持統〉紀執筆者による潤色かと思われる。 ただし、『後漢書』には「如レ律」と書き添えれらているので、もともと中国の律令にこの語句があったものが大宝律令に取り入れられ、これがさらに〈持統〉紀に用いられた可能性もある。 すなわち、「『孟子』⇒唐代の律⇒隋唐期の律⇒大宝律令⇒〈持統〉紀」の経路も考えられる。 訓読については、『後漢書』では「稟」を給う対象として「高年、鰥寡孤独及び篤癃の者のうち、家属〔養ってくれる家族〕がなく貧しいことによって自存が不能な者」と明瞭に読めるので、 これに沿って訓むことにしたい。 《解部》 大宝令の後は、『令義解』職員令 「刑部省:…大解部十人【掌問窮争訟】中解部廿人…少解部卅人」とあるので、〈持統〉紀の「解部一百人」に近い体制が維持されたようである。 解部については、〈釈紀〉所引『筑紫国風土記』逸文に 「有二一石人一縱容立レ地号曰二解部一」とある(【筑後国風土記】)。 これは「磐井墓の北東隅にある別区に配された人物計石製品群の情景を裁判と見立てた」もの(『遺跡を学ぶ94:筑紫君磐井と「磐井の乱」』〔新泉社2014〕(p.52))。 〈姓氏家系大辞典〉は「解部 トキベ:職業部の一にして、訴訟を裁判するを職とする品部」、 「此の部は太古より存せしと見え、」と述べ『筑後風土記』の件を引用している。 品部は縫部や巧などの生産部門に限らず、公の権力行使に関わる機能まで担っていて、解部もその一つであったことがわかる。 古墳時代から飛鳥時代前半の行政は品部が分担し、その連合が国家であった。 改新詔の頃から、さまざまな品部が正規の国家機関に組み込れていき、専門集団として伝統的に蓄積してきた技能が活用されたと考えられる。 《刑部省》 朱鳥元年九月の誄では「刑官」であった(《宮内…》)。 それから三年後に上記のように解部を丸ごと組織に吸収する形で再編したと考えられる。 したがって、実際に〈持統〉三年をもって「刑部省」の名称が使われ始めたと考えてよいであろう。 《増神戸田地》 神戸〔社領の民〕からは、収穫物から一定の割合で神税が納められていた。 『令義解』賦役令の 「調庸全給。其田租為二分:一分入官、一分給主」によれば、調庸のすべてと租の半分が社の取り分で国家の取り分は租の残りである。 神戸には国家への税はかからないからその点で神戸と封戸は区別されるという考え方も見るが、 少なくとも大宝令以後は、神戸と封戸は事実上同じだと見るのが現実的であろう。 その「神戸田地」を「増」す事情については、〈天武〉朝では明らかに寺が優遇されていたので、 神社にも相応の配慮をせよとの声が高まり、その結果としての措置ではないかと思われる。 《腋上陂》 陂は堤、また堤で囲まれた池を指す。 「公卿大夫之馬」を観閲したというから、堤の上からであろう。 腋上池の所在地については、〈孝昭〉【掖上池心宮】(第105回)、 〈推古〉二十一年で考察した。 それによるとこれまでに挙げられてきた候補地には御所と池之内の間、井戸、本間があるが、これらは互いに大きく離れている。 「掖上池心宮址」碑の北側には確かに池があり、これを腋上池として碑が立ったとみられる。 しかし、この付近を「掖上」とする明らかな根拠はない。旧「掖上村」〔現在は御所市の一部〕の名は1889年に発足する時点で新たに名付けられたものである。 《新羅沙門詮吉/級飡北助知》
吉野宮行幸は三回目である(三年正月《吉野宮》項)。 《韓奈末許満》
新羅からの渡来民は、しばしば東国に移しされた(《賦田受稟使安生業》項)。 戊午〔八日前〕に五十人が帰化したが、その一部だとすれば残りの三十八人は筑紫に留まったことになる。 ということは、東国への移住は希望した者のみなのであろうか。 《大意》 四年正月一日、 物部麻呂(もののべのまろ)の朝臣(あそん)は 大盾(おおたて)を立て、 神祗伯(じんぎはく)〔=神祇省の長官〕中臣大嶋(なかとみのおおしま)の朝臣は、 天神(あまつかみ)の寿詞(ことほぎこと)を読みました。 それを終え、忌部宿祢(いんべのすくね)色夫知(しこぶち)は 神璽(しんじ)〔=勾玉〕、剣、鏡を皇后(おおきさき)に奉げ、 皇后(おおきさき)は天皇(すめらみこと)に即位されました〔持統天皇〕。 公卿と百寮の人は、 列をなして皆で拝礼して手を打ちました。 二日、 公卿と百寮の人の 朝廷を拝する様子は、年頭に会集する姿の如くでした。 丹比(たじひ)の嶋(しま)の真人(まひと)と布勢(ふせ)の御主人(みあるじ)の朝臣とで、 騰極〔=即位〕の賀詞を奏上しました。 三日、 内裏で公卿に宴を賜り、よって衣裳を賜わりました。 十五日、 百寮の人は薪(みかまき)を進上しました。 十七日、 天下に大赦しました。 ただし、いつも赦免されない人は赦免の例から外れました。 位を有する人には、爵一級を賜わりました。 鰥寡〔=夫または妻に先立たれた人〕、孤独、 篤癃〔=重い病気〕により、 貧しくて自活できない人には、 稲を賜わり、調役〔=調税と労役〕に服することを免除されました。 二十日、 解部(ときべ)の百人を、刑部省(うったえたたすつかさ)に所属させました。 二十三日、 幣帛を[於]機内の天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)に分配して供え、 神戸(かんべ)の田地を加えられました。 二月五日、 天皇(すめらみこと)は腋上池の堤に行幸され、 公卿大夫の馬を観閲されました。 十一日、 新羅の沙門詮吉(せんきつ)、 級飡(きゅうさん)北助知(ほくじょち)ら 五十人が帰化しました。 十七日、 天皇は吉野宮に行幸されました。 十九日、 内裏で設斎されました。 二十五日、 帰化していた新羅の韓奈末(かんなま)許満(こま)等十二人を、 武蔵国(むさしのくに)に居住させました。 まとめ 三年後半の軍事体制の強化は、特に〈持統〉即位に備えて引き締めるものと考えられる。 国内的には即位がいざ現実のものとなると反対勢力を刺激し、いずれかの皇子を推したてて反乱を起こす危険を増すであろう。 また対外的には、筑紫対馬の辺境で警備を厳重にしておく必要があった。 さて、皇后は草壁皇子の夭折という事態を受けてその子の珂瑠皇子を即位させることにして、 まず自ら皇位に即いて成長を待った。 その心の内はどこにも明文化されていないが、誰もがこのように見て取っている。 この、草壁皇子への継位がならず珂瑠皇子に継位することになった経過が、〈神代紀〉の天降りの部分に投影されとする説を見る。 それは、「天照大神」の子である「正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊」は天降りせず、その子〔天照の孫〕「天津彦彦火瓊瓊杵尊」を「葦原中国之主」とした件である(第81回)。 しかし、この図式では高皇産霊神のポジションに〈天智〉天皇が来てしまう(《草壁皇子尊》項系図)。 さらに、高皇産霊神、天照大神、瓊瓊杵尊周辺の系図は〈顕宗〉(三年四月)の頃から長い年月をかけて形成されてきたと考えられ、〈持統〉即位後の短い期間に簡単に書き換えられるようなものではないであろう。 そもそも〈持統〉からの継承を天降りの件に準えることに、どれだけの意味があるのだろうか。 このように考えると、単なる現象的な類似に過ぎないように思える。 |
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2026.01.05(mon) [30-08] 持統天皇8 ▼▲ |
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16目次 【四年三月~四月】 《賜京與畿內人年八十以上者嶋宮稻人廿束》
嶋宮はもともと蘇我馬子大臣の邸宅で、後に公的施設としての宮となった(〈推古〉三十四年五月《家》項)。 〈天武〉天皇は壬申の行きと帰りにそれぞれ嶋宮に滞在している。 [明日香村公式]/[島庄遺跡調査速報]によると、 「『万葉集』に「橘の嶋宮」とあるように現在の島庄から飛鳥川を超えて東橘の範囲までの広範囲にわたっていた」と考えられている。 その万葉歌は(万)0179「橘之 嶋宮尓者 たちばなの しまのみやには」で、日並皇子〔草壁〕への挽歌の一首。 同サイトは「草壁皇子の「嶋宮」が存在した」とされるという。それは万葉集の挽歌群〔0167~0193〕の四か所に「嶋宮」が詠みこまれているためと思われる。 同書はさらに、「嶋宮自体は奈良時代まで官によって維持・管理」されていたという。 さて「嶋宮稲」という言葉からは、嶋宮が独立的に経営されていたことを伺わせる。 すなわち嶋宮は国家管理の施設でありながら、施設自身が運営のための広い田地と田戸を抱えていた姿が想定される。神戸田地に準えると、嶋宮には田戸からの庸調のすべてと租の半分が納められ、租の残りが国家に収められたとも考えられる。 時代を遡り、〈安閑〉二年条において各地に設置された「屯倉」には「屯倉における先駆的な方格地割の施行」の形跡が認められるとする説を見た(【播磨国】など)。 個々の比定地についてその確証を実証的に得ることは難しそうだが、各地の屯倉が独立的に田地とその隷属民を抱えていたことは確実である。飛鳥時代になっても、類似する形態が所々の宮に遺存していたのかも知れない。 飛鳥時代後半から奈良時代の期間は、班田収授法によって国家が所有する口分田と、社寺田や有力氏族や皇子・皇后が所有する別業 《祭広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。〈天武〉喪の期間には記事がなく、実際に行われなかったと思われる。 〈持統〉即位後は、再び毎年四月と七月に行われている。 《考仕令》 「考仕令」は、浄御原令の項目が具体的にわかる僅かな例。『令義解』の「考課令」★の祖形とみられる。 その性格を論じた研究論文に、「浄御原考仕令と持統四年詔の意義」がある(村島 秀次/『学習院史学』62〔学習院大学文学部史学科;2024〕)。 同論文はそのまとめにおいて、 ――「選限※1の導入により大宝令へと繋がる画期性は有した一方で、 出勤日数を引き続き重視※2することや、同時に氏族制をも維持※3するという伝統的な側面も強く残していることが判明した。 持統四年詔の段階ではまだ唐制を体系的には継受しておらず、部分的な適用に留まっている」
このように、本論文は「善最功能」については書紀が大宝令を遡らせて潤色した可能性が高いと見ている。 〈持統〉詔によれば、機械的に勤務日数でランクを決めるのは九等から五等までの範囲である。 そのうえで、勤務日数が一定の水準に達している四等以上については「善最功能」で評価するという(次項)。 この評価法は現実的で、実際に行われたと見ても不自然ではない。 アはすなわち浄御原令から大宝令までに相当の飛躍があったと見るものだが、 〈続紀〉は大宝律令を「大略以二浄御原朝庭一為二准正一」と述べている点から見て、 浄御原令から大宝令まではそれほど極端な飛躍はないと思われる。 かつ法隆寺五重塔のように精緻な建築が既に存在していたことを思えば、当時の人の論理的思考の水準をことさら過小評価する必要はないであろう。 そもそも大宝令・養老令の「考課令」の判定法(次項)を具体的に見れば、善・最の判断基準はそれほど「複雑で儒教的」なものではなく、 〈持統〉の時代でも十分こなし得る水準だと思われる。 ★「考課令」の概略は資料[87]に示した。 《四等以上者…》
「考課令」における評価は「上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下」の九等で、等級の数は〈持統〉詔の「九等」と一致する。 最と善の数をポイントとして決められる(右表)。 「考課令」の概略は、資料[87]に示した。 善は人徳を評価するもので、四項目からなる。各項目ごとにそれに値すれば一善で、全項目満たせば四善である。 最は、それぞれの職務ごとに決められた評価基準によるポイントである。ただし、その具体的な内容については、浄御原令から大宝令の間に修正、加筆があっただろうと思われる。 「考課令」においては、上上〔一等〕から中中〔五等〕までは善・最によるポイント制なので、〈持統〉詔にいう「考仕令」の「四等以上」の評価法もこれに近いと思われる。 あるいは仕組みは全く同じで、書紀の方が「五等以上」とすべきところをやや誤った可能性がある。 下位のランク付けについては考課令が人物の振る舞いによるのに対し、〈持統〉詔では「上日」〔出仕した日数〕によっていて、そこが相違点である。 〈持統〉詔にある「善最功能」の四文字のうち、「考課令」では善・最が評価ポイントであるのに対して、功能は「考課令」説明文の中で出てくる「功過行能」の略である。 〈持統〉詔の訓読は、その用語法に沿って行うべきであろう。 なお「考課令」の「下中」の「背レ公向レ私職務廃闕」は、私事を優先して出仕しない日が多いことだと読める。 ここに〈持統〉四年詔が、下位の判定基準を「上日」〔出仕した日数〕とした名残が感じられる。 《量授冠位》 2026.01.13改 ここで「冠位」と表記されていることは見逃せない〔〈天武〉紀以後は"爵位"が用いられている〕。 しかし、〈続紀〉では「冠位」の語が使われ、冠の授与自体も大宝元年〔701〕三月まで続いていた(《爵位》項)。
明位〔諸王の上位〕については、今回は規定されていない。おそらく〈天武〉十四年勅で定められた朱花(はねず)色のままだと思われる。 今回浄位は、朱花色から外されたことになる。さらに浄位参肆は正位と同じ色となった。 これは、諸王の下位は権威を落とし、逆に諸臣の上層部は権威を高めたことを物語る。久々の右大臣の登用とも無関係ではないだろう。 なお、緋や赤紫という華やいだ色が加わった。朝廷を明るくしたいという〈持統〉天皇の気持ちかも知れない。 《一畐一部》 部にあてた書紀古訓「ツボ」の原義は中庭〔垣・建物で囲まれた庭〕。転じて正方形の区画。条里制の基本区画一町〔109m〕四方に用いられた。 江戸時代の一坪は一間〔1.8m〕四方。 ツボは、格子のひと升も意味する。『枕草子』に用例「風は…野分…格子のつぼなどに…こまごまと吹き入りたるこそあらかりつる風のしわざ」が見える。 動詞化したツボヌ[下二段]は、仕切って囲う意。その連用形名詞ツボネが局の語源という。 したがって、ある大きさの布への助数詞にツボを用いることにはそれなりの妥当性がある。 ただし、漢字の助数詞「部」はもともと複数の物体をまとめて一つとしたものを数えるときの助数詞である。 右図は、文章に忠実に従って「一畐一部」、「一畐二部」の適用範囲を図示したものである。 これを見ると、「一部」の方が「二部」より高級品のはずである。よって「一部」は一つながりの長い布一枚、「二部」は短い布二枚とも考えられるが、想像し得るのはこの程度である。
《綺》 『新釈華厳経音義倭訓攷』岡田希雄〔京都大学国文学会1962〕によると、 「綺:音奇、訓加尼波多 〈倭名類聚抄〉{山城国・相良郡・蟹幡【加無波多】〔カムバタ〕郷}も、カニハタの音便と見られる。 《大意》 三月二十日、 京と畿内の人のうち、 八十歳以上の者に嶋宮(しまのみや)の稲を一人あたり二十束を賜わりました。 そのうち有位者には加えて布二端(むら)を賜わりました。 四月三日、 使者を遣わして広瀬の大忌(おおいみ)の神と龍田の風の神の祭礼を行いました。 七日、 京と畿内の老人老女五千三十一人に 稲を一人あたり二十束を賜りました。 十四日、 詔を発しました。 ――「官人たち及び畿内の人に、 有位は六年を限り、 無位は七年を限って、 その上日〔出勤した日〕の数によって、九等を定めよ。 四等以上は、 考仕令(こうしりょう)に依って、 その善と最の功能と、氏姓の大小により、 量って冠位を授けよ。 その朝服は、 浄大壱(じょうだいいち)以下、広弐(こうに)以上は黒紫(ふかむらさき)、 浄大参(じょうだいさん)以下、広肆(こうし)以上は赤紫、 正(しょう)の八段階は赤紫、 直(じき)の八段階は緋(あけ)色、 勤(ごん)の八段階は深緑、 務(む)の八段階に浅緑、 追(つい)の八段階は深縹(はなだ)、 進(しん)の八段階は浅縹とせよ。 それとは別に、浄広弐(じょうこうに)以上は、 一幅一部(ひとのひとつぼ)の綾羅など、 種々のものを用いることを許せ。 浄大参(じょうだいさん)以下直広肆(じきこうし)以上は、 一幅二部の綾羅など、 種々のものを用いることを許せ。 〔爵位の〕上下を通じて綺(かんばた)の帯と白袴を用いよ。 その他はいつものままとせよ。」 二十二日、 所々で雨乞いを始めました。 旱魃でした。 17目次 【四年五月~七月】 《天皇幸吉野宮》
吉野宮行幸は四回目(三年正月《吉野宮》項)。 《百済男女》 旧百済地域の人の帰化。百済国は新羅に吸収されて久しい。 〈斉明〉六年〔660〕に唐新羅連合の攻撃により敗北して滅亡。 復興運動が起こるが〈天智〉二年〔663〕に白村江の戦いで敗北。多数が倭国に逃れる。 唐が熊津都督府を置き直轄支配。〈天武〉五年〔676〕新羅が唐を排除して新羅統一政権下となった。 《安居講説》 〈天武〉十二年四月に、初めて安居が宮中で行われた。 講説は、仏典などを講義して説明すること。 《幸泊瀬》 泊瀬には〈雄略〉泊瀬朝倉宮〔記の表記:長谷朝倉宮〕(第198回)、〈欽明〉磯城嶋金刺宮〔記:師木嶋大宮〕(第238回)が置かれ、脇本遺跡に比定される。 〈天武〉二年には「大来皇女」が伊勢神宮の斎王となり、その前に泊瀬斎宮で「潔身」(〈天武〉二年)。 朝倉遺跡の大型の掘立柱建物は6世紀に建てられたが火災に遭い、飛鳥時代に建て替えられたと見られる(【師木嶋大宮】)。 泊瀬に行幸した目的は書かれていないが、かつて大来皇女に同行し、それを懐かしんで同所を訪れた可能性もある。 《始着新朝服》 四月十四日の詔のあと、約二か月半で新しい朝服が製作された。染色、縫製の職人は忙しい日々を過ごしたことだろう。 詔により「赤紫」、「緋」が加わり色調は明るくなり、さらに「綾、羅など種々の織りを用いてもよい」というから高級感を増し、朝廷の景色は一変したであろう。 〈持統〉天皇の好みかも知れない。 《以皇子高市為太政大臣》
太政大臣の任命は大友皇子以来。右大臣を置く以上、その皇族による抑えとして太政大臣を設ける必要がある。 一方高市皇子は既に三十七歳になっていたから、これで僅かに残っていた即位の希望もなくなったと見られる。 《八省》 八省はここが初出。『令義解』によれば、八省は中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大藏省・宮内省 (資料[24])。 朱鳥元年の時点では、官の機構はこの八省にかなり近づいていた(《宮内/左右大舎人…》項)。 《皆遷任》 八省、国司や大宰府の官人たちの配置を全面的にシャッフルして任命し直したようである。 書紀古訓「遷任 《唱知位次与年歯》 熟語「唱知」は辞書になく、漢籍にも見えないから、単純に声を出して知らせる意である。 「位次」はこれまでの経歴と見られ、和読は「くらゐのつぎて」であろう。 「年歯」〔年齢〕を、官が本人に告げることは理屈に合わない。よって「唱知」は本人が官に向かって「唱へ知らしむ」であろう。記録と本人の申告とを突き合わせて、官員の籍簿の正確化を図ったと思われる。 《於家內着朝服》 従来は出勤してから朝服に着替えていたが、これからは着てから家を出て、開門前に出勤せよという。 ほっておくと、綱紀は緩むものであろう。 《凡朝堂座上見親王者》 「見」の訓読においては〈兼右本〉の「見ムトキニ」のように、動詞の体言化のために「時」を用いるのもひとつの方法である。しかし、〈持統〉の時代にこれが読み上げられたときに「時」を入れたとは考えにくい。 実際には、動詞の名詞化には連体形をそのまま用いることが多い。 (万)3641「宇良未欲理 可治乃於等須流波 安麻乎等女可母 うらみより かぢのおとするは あまをとめかも」〔浦廻より梶の音するは海女娘かも〕は音仮名表記なので確実である。 また、次の「大臣と王には」、「二王以上には」と統一的に読むためには、ニハ〔格助詞+係助詞〕を用いるのがよさそうである。 これについては、(万)3791「緑子之 若子蚊見庭 垂乳為 母所懐 みどりこの わくごがみには たらちし ははにうだかえ」〔尊い子が赤ん坊であったときには、母に抱かれ〕の用例がある。 係助詞ハには、ある対象をとりたてて示して他と対照する機能がある。 《座上見》 「座上見」の区切り方は、書紀古訓では「座(くらゐ)の上にて」とする(〈内閣文庫本〉)。すなわち「それまで座の上にいて、親王が来るたときには」と読むが、「座上」のみでそこまで読み切ることは難しい。 さらに、「座上」を「坐る敷物の上」と読むと「起立堂前」とは繋がらずおかしなことになる。 よって「座」:朝堂内でそれぞれがいる場所において、「上」:高位の人に「見」:対面するときと読むのが自然だと思われる。 《二王》 「二」への書紀古訓「フタシナ」は諸王位階と解釈したもの。しかし、この時代の諸王の位階は「明~」「浄~」だから表記が異なる。また上から二番目の位だとしても、これは上位の皇子の位であるからあり得ない。 ここでは「親王⇒王⇒二王」の順に出てくる。これは、天皇の「子⇒孫⇒曽孫」を表したものであろう。 曽孫以後〔玄孫、来孫…〕を「以上」と表現するのは不自然だが、三代孫、四代孫、五代孫…と数値が増加するからかも知れない。 このように「二王」は「二代目の王〔三代孫〕」であろうから、訓は「フタヨノオホキミ」とすべきであろう。 《朝堂座上見大臣》 先の詔の「大臣与王起立堂前」は朝堂での作法の間に堂に入場するときの作法が紛れ込んだもので、一貫性のない文章になっていた。 よって、七日後の詔でその部分が訂正されたようである。 《奉施七寺》 大官大寺、川原寺、飛鳥寺が「七寺」に入るのは確実である(《飛鳥寺》項)。 この三寺に加え、小墾田豊浦寺、坂田寺で無遮大会が行われた(〈持統〉朱鳥元年)。 薬師寺は未完成であるが、二年正月には無遮大会ができる程度には建造が進んでいたようなので七寺に含まれてもよいであろう。 〈天武〉紀の浄土寺(十四年八月)は、歴史ある山田寺(大化五年【山田寺】)の別名。 以上で一応七寺となり、これらはいずれも飛鳥京にある。 他に〈天武〉/〈持統〉紀には出てこないが、法隆寺(斑鳩寺)(〈推古〉・〈天智〉)、四天王寺(〈崇峻〉・〈推古〉)は由緒ある大寺である。 また〈天武〉紀に橘寺(九年四月)、 檜隈寺・軽寺・大窪寺・巨勢寺(朱鳥元年八月)。 〈持統〉紀八年に近江国益須寺。 〈推古〉紀に蜂岡寺/(別名葛野秦寺、広隆寺、秦氏の氏寺)、金剛寺(南淵坂田尼寺)。 〈舒明〉紀に吉野寺、長安寺。 〈孝徳〉紀に鹿薗寺、阿曇寺などの名前が見える。 《別為皇太子》 「為二皇太子一」が「草壁皇子を追悼するために」を意味することは確実である。 《祭広瀬大忌神与龍田風神》 《祠風神…》項参照。 《大意》 五月三日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。 十日、 百済の男女二十一人が帰化しました。 十五日、 内裏で安居(あんご)講説(こうせち)を始めました。 六月六日、 天皇(すめらみこと)は泊瀬(はつせ)に行幸しました。 二十五日、 ことごとく有位者を召して、 位次と年齢を唱え報告させました。 七月一日、 公卿、百寮人(もものつかさびと)らは、初めて新しい朝服を着ました。 三日、 幣帛を天神地祗に頒布しました。 五日、 高市の皇子を太政大臣とし、 正広参(しょうこうさん)位を丹比嶋(たじひのしま)の真人(まひと)に授けて右大臣とされました。 併せて八省の官人を、皆移して任じられました。 六日、 大宰(おおみこともち)と国司を、皆移して任じられました。 七日、 詔を発しました。 ――「公卿、百寮の人、すべて有位の者に、 今後は 家の中で朝服を着てから開門する前に参上させよ。」 蓋(けだ)し、以前は宮門に着いてから朝服を着ていたものか。 九日、 詔を発しました。 ――「凡そ朝堂の座で上(かみ)に親王を見るときには、これまでと同じである。 大臣(おおまえつきみ)と王(おおきみ)には堂の前で起立せよ。 二代目の王(おおきみ)〔三代孫〕以後には座を下がり跪(ひざまづ)け。」 十四日、 詔を発しました。 ――「朝堂の座で上に大臣を見るときには、座を外して跪(ひざまづ)け。」 この日、 絁(ふときぬ)糸綿布を 七寺(ななつのてら)で 安居(あんご)する僧三千三百六十三人に施されました。 別に皇太子(ひつぎのみこ)の為として、 三寺で 安居(あんご)する僧三百二十九人に施されました。 十八日、 使者を遣して広瀬の大忌(おおいみ)の神と龍田の風の神の祭祀を行わせました。 まとめ 上(かみ)に向かうときの礼儀作法を決めなおし、新たな朝服を制定し、身なりを整えてからの出勤を命じるなど、朝堂に上るときのルールが次々と定められる。 〈天武〉朝では、十一年九月の匍匐礼の廃止など、礼儀が簡略化された。 それが規律の緩みを生んでいたのかも知れない。 浄御原令に含まれていた考仕令も実施段階に至った。 こうして新天皇の即位を機会に、官人の引き締めを図ったと受け止められる。 さて、〈持統〉元年に至り大臣が復活した。〈壬申紀〉元年六月二十七日条では、 大海人皇子は、近江朝には「左右大臣及智謀群臣」がいるがわが方には「幼少孺子」しかいないと言って嘆いたが、皮肉にもその危惧は現実となった。 やはり、親王のみによる政治体制には限界がある。 限られた人数の親王に比べれば、層の厚い官人層から飛びぬけて有能な人物が出現する確率は高いから、 そのような人物は大臣のような地位に登用した方が、明らかに政治は充実安定する。 しかし、その結果大臣独自の権力が強まって天皇家を凌駕することは防がなくてはならない。そのために親王を太政大臣に任命して重しとしたのである。 |
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2026.01.13(tue) [30-09] 持統天皇9 ▼▲ |
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18目次 【四年八月~十月戊午】 《以歸化新羅人等居于下毛野國》
五回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《帰化新羅人等》 新羅からの帰化人は、しばしば東国に移された(《賦田受稟使安生業》項)。ここもそのひとつ。 《凡造戸籍者》 三年閏八月に「今冬戸籍可造」はその三年九月~十二月には終わらず、四年九月の時点でまだ続いているようだ。 《戸令》 「戸令」も「考仕令」とともに、浄御原令の項目がわかる数少ない例である。 『令義解』にも「戸令」がある。改新詔其二曰などにも、『令義解』「戸令」に対応する部分がある。 浄御原令の「戸令」は、両者の中間に位置することになる。 改新詔「其二曰」で、戸令に関する改新詔が『令義解』に似ていることを見た。 ここで改めて両者を比較してみる。
もし改新詔が大宝令を遡らせたものだとすれば、Cに見る郡制の変更は大宝令と養老令の間に行われたことになる。 『令義解』の原文は養老令だと見られるからである。しかし〈続紀〉では郡の分割の記事はごく僅かで、さらに分割によって「~上」・「~下」がついたと見られる郡は既に700年頃の記事から数多い。よって、郡の分割の多くは大宝令前に行われたと見た。 さらに、Eの「其郡司並取国造」は、国造がまだ現実の地方行政を実効的に担っていた大化の頃のみに必要な語句であった。 書紀の潤色が、時代に合わせてこの語句を挿入するほど器用になされたとは思われない。 また書紀による潤色なら「戸令」の条文をわざわざ改新詔の「其二」と「其三」に分けて置いたりはしないだろう。 ただし「評」⇒「郡」は書紀による潤色であるが、これについては、単に機械的な字の置き換えと見られる。 以上を見れば書記の改新詔は基本的には潤色されておらず、改新詔から変更の必要がない部分は後世の令でも原形のまま残されてきたと見るのが妥当であろう。 こうして見ると、〈続紀〉大宝元年八月「撰定律令。於是始成」に「大略以二浄御原朝庭一為二准正一」〔浄御原令を元にして適正に整えた〕と付け加えられていることも、さもあらんと思われる。 《巡行紀伊》 すぐに思いつくのは、牟婁温泉で湯治したとすることである(《牟婁温湯》、【紀温泉】)。 ただ、今回は「巡行」とされるから公式行事として複数の箇所を訪れたのであろう。さらに「今年の京師の田租口賦」を免ずるというから、大人数を動員したと考えられる。 六年三月の伊勢行幸では「三輪朝臣高市麻呂」が「欲レ幸二伊勢一妨二於農時一」だから中止すべしと諫言していることを見れば、紀伊巡行もまた農作業の妨げとなるような規模であったことだろう。
――(万)0034題詞:「幸二于紀伊国一時川嶋皇子御作歌 或云二山上憶良作一」。 「白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃経去良武 しらなみの はままつがえの たむけぐさ いくよまでにか としのへぬらむ」。 左注:「日本紀曰「朱鳥四年※1)庚寅秋九月天皇幸二紀伊国一」也」。 天皇即位年に特有の事情を考えると、初代〈神武〉天皇の熊野上陸の縁の地を訪れた可能性がある(第97回)。 さらに、名草郡も日前神宮・国懸神宮が石凝姥命が造った鏡を祀る神話の地で、これらの所での祭祀が考えられる(第108回)。 六年に反対を押し切って伊勢に大々的に行幸を行ったことと併せて考えると、遠い祖先の地を巡って祭礼ことが両行幸の共通項として浮かび上がってくる。 《智宗/義徳/浄願》
〈景行〉紀十七年に「八女県」、「八女津媛」が見える。 「八女郡」は明治二十九年〔1896〕の郡制による復古地名。これが現在の八女市に繋がる。 〈倭名類聚抄〉{筑後国・上妻【加牟豆万】郡/下妻【准レ上】郡}が概ね八女県であろう。 『大日本地名辞書』は「後世矢部 なお、「大伴部博麻公碑」が福岡県八女市室園(北川内公園内)にある。 現地案内板〔上陽町教育委員会;1998〕によると「文久3年〔1863〕」建立、 背面に「大日本史義烈伝の記述より博麻の全文を刻書」しているという。 この顕彰碑が示すように、幕末から以後、大伴部博麻の忠(《詔…大伴部博麻》項以下)を賞賛する動きが高まったようである。特に、戦時体制下では書記の「愛国」の文字がいたく愛国心を刺激したと思われる。 それを裏付ける資料を探したところ、『翼賛の道』〔近衛文麿;大政翼賛会宣伝部1941〕なる書籍が見つかった 〔全16ページなので、パンフレット程度〕。 これがまさにその典型で、「大伴部の博麻は、身をもって「愛国」を実践いたしました」という調子で熱烈に絶賛している。 《大伴部博麻》
吉野宮行幸は六回目(三年正月《吉野宮》項)。 《筑紫大宰河内王》
今回もこのときの例に倣って、金高訓に慰労の物を賜れと命じたもの。 《一依詔書》 書紀古訓では助詞ニを付すのみ。 「一」の訓みは、『類聚名義抄』仏上「一:ヒトツ ヒトリ モハラ トモシ トモ キハム チヒサシ ヒトタハ オナシ」など。 モハラは、私記乙本-神代下「全用【毛波良】未合時【末太不支安ハ世左留止支仁】」のように使われている。 文意は「賜わる物はもっぱら詔書に書いてあることに従え」なので、モハラはあり得る。 《大意》 〔四年〕八月四日、 天皇(すめらみこと)は吉野の宮に行幸しました。 十一日、 帰化した新羅の人たちを 下毛野(しもつけの)の国に居住させました。 九月一日、 諸国の国司らに詔を発しました。 ――「凡よそ、戸籍造りは、戸令(こりょう)に拠れ。」 十九日、 天皇(すめらみこと)は紀伊国に行幸しました。 二十三日、 唐の学問僧の智宗(ちそう)、 義徳(ぎとく)、 浄願(じょうごん)、 軍丁(ぐんてい)筑紫国の上陽咩郡(かむつやめのこおり)大伴部(おおともべ)の博麻(はかま)は 新羅の送使大奈末(だいなま)金高訓(こんこうくん)らに連れられ、 帰国して筑紫に到着しました。 二十四日、 天皇(すめらみこと)は紀伊国から帰られました。 十月五日、 天皇は吉野宮に行幸しました。 十日、 唐から帰った学問僧智宗らは京師〔飛鳥京〕に到着しました。 十五日、使者を遣わして筑紫の大宰河内王(かわちのおおきみ)らに向け、詔されました。 ――「新羅の送使大奈末(だいなま)金高訓(こんこうくん)らのための饗(あえ)は、 以前に学生土師宿祢(はにしのすくね)甥(おい)らを送り届けてくれた送使の例に準えよ。 その慰労の賜物は、専一に詔書によれ。」 19目次 【四年十月乙丑~十二月】 《詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻》
智宗らの一行は、十月十日に飛鳥京に到着した。二十二日、その一行の一人大伴部博麻に特別に詔してその忠を称賛した。 詔によれば、博麻は土師富杼らが帰国して唐の情勢を本国に知らせるのを助けるため、自身の身を売って費用を捻出したという。 その自己犠牲の行為が「尊レ朝愛レ国売レ己顕レ忠」として激賞された。 《救百済之役》 「救二百済之一役」の要点を見る。
《土師連富杼/氷連老/筑紫君薩夜麻/弓削連元宝児》
● この4人は「唐人所計」を本朝に知らせなければと思ったという。それでは〈天智〉三年の時点で、唐による倭国攻撃の計画は本当にあったのだろうか。 『旧唐書』劉仁軌…伝で「倭」への言及を見る。 白村江での勝利〔天智二年〕後、劉仁軌は上表して「熊津都督は扶餘隆に交代した方がよい。倭国には餘隆の弟の勇〔百済王善光〕がいてまだ百済再興を考えているから、 扶餘隆をその押さえにするのがよい。」と提案し、唐に帰還した。 このときの唐政府内の議論において、渡海して倭国を攻めるべしという声が出ていたことが漏れ聞こえてきた可能性はある。 ● 以上により、あり得そうな筋書きを描いてみる。
しかし唐による謀を本朝に伝えようとするのに、唐使に連れられての帰国では様にならない。 よって、その後実際には唐が倭国に攻め込む計画はなかったことが分かり、ゆったりと帰国したことも考えられる(筋書き②)。 一方、「詔」が描く経過は根本的に史実と乖離していたかも知れない。実際には富杼は時期不明、老は〈天智〉四年、薩夜麻は〈天智〉十年、元宝児は〈持統〉四年の帰還で、 詔のストーリーはこれらが混合して生まれた伝説とも考えられる(筋書き③)。 最悪の筋書きとしては、「思三-欲奏二-聞唐人所計一」〔唐人の謀を知ったので本朝に知らせたい〕というのは偽りで、四人は博麻をだまして売り飛ばしたが、博麻の方は最後まで疑わなかったとする(筋書き④)。 ①には不自然さが残り、②はつぎはぎである。④は同時に③になり得るが、四人は博麻が莫大な報償を賜ったことを知ればバツが悪いであろう。 唐が実際に倭国への直接攻撃を計画したとは考えにくいが、各地に朝鮮式山城を築いたことから見て朝廷が相当脅威を感じていたのは事実である。 よって、たとえ史実とは異なるにしても、このような伝説が生まれ得る余地は十分ある。なお、博麻が唐に捕虜にされたこと、そして〈天智〉三年頃に何らかの成り行きにより身を売ることになり、 〈持統〉四年になって帰朝できたことだけは事実であろう。 《思欲奏聞唐人所計》 「聞」には目上の人に言上する〔聞いていただく〕用法があり、倭語の「きこしめす」も同様である。語順からはこちらの方が自然である。 《三族課役》 「三族」については、 『史記』巻五/秦本紀「文公…二十年。法初有三族之罪。【『集解』※)張晏曰:「父母、兄弟、妻子也。」如淳曰:「父族、母族、妻族也。」】」とある。 ※)…『史記集解』(しきしっかい)は、南朝宋の裴駰(裴松之の子)による『史記』の注釈書。 《高市皇子》
このとき、先行条坊(〈天武〉五年)の時点の計画とは異なる位置に決定されたと見ることができる。 『奈良国立文化財研究所年報2000-Ⅱ』によると、 「これまでの発掘の結果からは、藤原京の造営は宮に先立って開始」、「本薬師寺…の造営よりも先行することが確かめられている。 本薬師寺は、天武天皇発願の680年〔〈天武〉九年十一月〕からほどなく造営に着手したと推定されるから、京の造営開始は、そのころまでは確実に遡る」と見る。 そして「溝の変遷を中心に」整理すると、「Ⅰ期はⅡ期より遡る道路の側溝と見て誤りない」。 よって「宮に先行する条坊道路が付け替えられていたことが、初めて判明し」、Ⅱ期が先行条坊なので、Ⅰ期遺構は「先々行条坊とも呼ぶべき道路の側溝」となるという。 Ⅱ期の溝は「藤原宮造営当初まで存続し」、それをⅢ期とする。Ⅲ期だけに見られる溝は「位置からみて条坊側溝にはなりえない」から一時的なものと見る。 そして「Ⅳ期になると、Ⅲ期までの溝を全て埋め立て、…朝堂院回廊〔左下〕…を造営し、これに伴う雨落溝…が設けられる」という。 すなわち右図の発掘地域では、条坊道路から朝堂院に至り遺構は四次にわたって次々と上書きされている。これが、〈天武〉五年以後に幾度となく現れる「新城」、「藤原宮地」、さらに「新益京」〔〈持統〉五、六年〕の記事に対応するのであろう。 《送使金高訓》
元嘉暦については、参考[C]以下を参照。 ● 1太陽年=222070/608≒365.246710526315…(日)。 ● 1朔望月=22207/752≒29.5305851063829…(日)。 ● 平朔。 儀鳳暦は、中国では「麟徳歴」という〔[国立天文台:儀鳳暦(ぎほうれき)/麟徳暦]〕。 ● 1太陽年=489428/1340≒365.24477611940…(日)。 ● 1朔望月=39571/1340≒29.5305970149253…(日)。 ● 定朔。 定朔は実際の満ち欠けを用いる方法。平均値で月の満ち欠けを決める方法を平朔という。 《幸吉野宮》 七回目の吉野宮行幸(三年正月《吉野宮》項)。 《幸藤原観宮地》 高市皇子が決めた宮所を訪れ、正式決定したと見られる。 《大意》 〔十月〕二十二日、 軍丁(ぐんてい)筑紫国の上陽咩郡(かむつやめのこおり)の人、 大伴部の博麻(はかま)に詔されました。 ――「天豊財重日足姫(あめとよたからいかひたらしひめ)の天皇〔斉明〕七年の 百済を救う役で、 あなたは唐軍によって虜とされた。 天命開別(あめみことひらかすわけ)の天皇〔天智〕三年になり、 土師連(はにしのむらじ)富杼(ほと)、 氷連(ひのむらじ)老(おゆ)、 筑紫君(つくしのきみ)薩夜麻(さつやま)、 弓削連(ゆげのむらじ)元宝児(げんほうじ)の四人は、 唐人の策謀を報告しようと思ったが、 衣服食糧が無いことにより、達することができないと憂えていた。 そこで、博麻(はかま)は土師富杼らに向かって 『私はあなた方と共に本朝に帰りたいと思うが、 衣服食料が無いので、ともに行くことができません。 願わくば私の身を売ることによって、衣服食糧に充ててください。』と言った。 富杼たちは、 博麻の計らいによって、天朝に達することができたが、 あなたひとりが他界に淹滞すること、今に三十年。 朕はその朝廷を尊び国を愛し自分の身を売って忠誠を顕したことを嘉(よ)きこととする。 よって、務大肆(むだいし)位を賜り、 あわせて絁(あしぎぬ)五匹(むら)、 綿十屯(みぜ)、 布三十端(むら)、 稲千束(つか)、 水田四町(まち)を賜る。 その水田は、曽孫まで継承させ、 三族の課役を免ずる。 以てその功を顕(あらわ)そう。」 二十九日、 高市の皇子は藤原の宮の地を視察され、 公卿百寮が従いました。 十一月七日、 送使金高訓らにそれぞれに応じて賞賜されました。 十一日、 勅を奉じて、元嘉曆(げんかれき)と儀鳳曆(ぎほうれき)とを〔併用して〕使い始めました。 十二月三日、 送使金高訓らが退出して帰りました。 十二日、 天皇(すめらみこと)は吉野の宮に行幸しました。 十四日、 天皇は吉野の宮から戻られました。 十九日、 天皇は藤原に行幸して宮の地をご覧になり、 公卿百寮の皆が従いました。 二十三日、 公卿以下にそれぞれに応じて賞賜されました。 まとめ 〈天武〉喪の期間は、新羅を脅威として軍事的に構える動きが目立った。 しかし、四年になり新羅が〈天武〉十三年と同様に唐からの帰還者を送り届けてくれるに至り、同国の友好的な姿勢を感じ取ったようで手厚く謝意を表している。 四年十月詔によって、大伴部博麻の自己犠牲は絶賛された。ただそこに書かれた土師富杼らの帰国の件については、伊吉博徳の書と突き合わせると厳密に対応させることは難しい。 それは、結局この詔そのものがもつ不確かさに起因すると考えられる。 大伴部博麻の物語は1945年までの日本では「愛国」の先駆として、国策におけるイデオロギー構築のひとつの材料とされた。 これは現在の風潮を見ると、なお過去のこととして片づけることはできないと思われる。 |
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⇒ [30-10] 持統天皇(4) |
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