上代語で読む日本書紀〔持統天皇(2)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 日本書紀―天武天皇紀

2025.11.23(sun) [30-04] 持統天皇4 

目次 【二年七月~十二月】
《命百濟沙門道藏請雨》
秋七月丁巳朔丁卯。
大雩。旱也。
旱也…〈北野本〔以下北〕旱也 ナリ 
 〈内閣文庫本〔以下閣〕 ス。 〈兼右本〉アマコイ
秋七月(ふみづき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として丁卯(ひのとう)。〔十一日〕
大(おほき)に雩(あめをこひまつる)。旱(ひでり)なり[也]。
丙子。
命百濟沙門道藏請雨。
不崇朝、遍雨天下。
…〈兼右本〉メシ
請雨…〈北〉請雨 アマヒキ 崇-朝遍 アシタコロニモアラ
 〈釈紀〉二 アラサルニ崇朝 アシタコロニモ。 〈兼右本〉請-雨アマヒキス
丙子(ひのえね)。〔二十日〕
百済(くたら)が沙門(ほふし)道蔵(だうざう)に命(おほ)せて雨を請(こは)しめたまふ。
朝(あした)を不崇(すぐることなか)りて、遍(あまね)く天下(あめのした)に雨ふりぬ。
八月丁亥朔丙申。
嘗于殯宮而慟哭焉、
於是、大伴宿禰安麻呂誄焉。
…〈兼右本〉ナフラヒタテマツル殯-宮
八月(はつき)丁亥(ひとのゐ)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)。〔十日〕
[于]殯宮(もがりのみや)に嘗(なほらひ)して[而]慟哭(みねたてまつる、ねなきまつる)[焉]、
於是(ここに)、大伴宿祢(おほとものすくえ)安麻呂(やすまろ)誄(しのひことたてまつる)[焉]。
丁酉。
命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。
奉宣…〈北〉奉-宣 ノタウハシム ミ ヨソホヒ。 〈閣〉ノヨソホヒ
〈兼右本〉-宣ノタウハシム 葬-儀ミハウフリヨソホヒ
浄大肆諸王十二階第十一位。
丁酉(ひのととり)。〔十一日〕
浄大肆(じやうだいし)伊勢王(いせのおほきみ)に命(おほ)せて葬儀(みはぶりのこと)を奉宣(のりたてまつ)らしむ。
辛亥。
耽羅王遣佐平加羅來獻方物。
来献…〈北〉 マウキ クムツ。 〈閣〉佐◰平◱加◱羅◱マウキマウキクムツ
〈釈紀〉佐平加羅カラ。 〈兼右本〉クニツ-物
辛亥(かのとゐ)。〔二十五日〕
耽羅(とむら)王(わう、のこきし)佐平(さへい)加羅(から)を遣(まだ)して来(まゐき)て方物(くにつもの)を献(たてまつ)る。
九月丙辰朔戊寅。
饗耽羅佐平加羅等於筑紫館、
賜物各有差。
九月(ながつき)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)。〔二十三日〕
耽羅(とむら)の佐平(さへい)加羅(から)等(ら)を[於]筑紫(つくし)の館(たて、むろつみ)に饗(みあへ)したまふ。
賜物(たまふもの)各(おのもおのも)差(しな)有り。
冬十一月乙卯朔戊午。
皇太子、
率公卿百寮人等與諸蕃賓客、
適殯宮而慟哭焉。
諸蕃…〈北〉蕃賓 トナリノクニ。 〈閣〉 ヲ蕃賓トナリノクニノ 
冬十一月(しもつき)乙卯(きのとう)を朔(つきたち)として戊午(つちのえうま)。〔四日〕
皇太子(ひつぎのみこ)、
公卿(まへつきみ)百寮人(もものつかさびと)等(ら)と諸蕃(しよはん、もろもろのとなりのくに)の賓客(まらひと)与(と)を率(ゐ)て、
殯宮(もがりのみや)に適(ゆ)きたまひて[而]慟哭(みね、ねなき)したまふ[焉]。
於是、奉奠。
奏楯節儛。
諸臣各舉己先祖等所仕狀、
遞進誄焉。
奉奠…〈北〉イケ ツカマツル 節儛 タテヲシ。 〈兼右本〉ミケ先- ヲヤ レル
〈閣〉 タ テ クマ ツカマツルタゝフシノ タテ フシノケシ テ カ先-祖 オヤ  ノ所- レル ヲ ニ テ
〈釈紀〉楯節儛タゝフサノマヒ。 〈兼右本〉タゝタテ-節儛フシ マヒタカヒ誄己シノヒコトタテマツル
…[副] かわるがわる。
於是(ここに)、奠(みたむけ、おほみけ)を奉(たてまつ)りて、
楯節儛(たてふしのまひ)を奏(かな)づ。
諸臣(まへつきみたち)各(おのもおのも)己(おのが)先祖(おや)等(たち)の所仕状(つかへまつれるかたち)を挙(あ)げて、
遞(たがひに)進みて誄(しのひこと)たてまつる[焉]。
己未。
蝦夷百九十餘人、
負荷調賦而誄焉。
負荷…〈兼右本〉-荷 オイ 調-賦
己未(つちのとひつじ)。〔五日〕
蝦夷(えみし)百九十余人(ももあまりここのそたりあまり)、
調賦(みつき)を負荷(お)ひて[而]誄(しのひこと)たてまつる[焉]。
乙丑。
布勢朝臣御主人
大伴宿禰御行
遞進而誄。
大伴宿祢…〈釈紀〉御行ミユキ
乙丑(きのとうし)。〔十一日〕
布勢朝臣(ふせのあそみ)御主人(みあるじ)
大伴宿祢(おほともおすくね)御行(みゆき)
遞(たがひに)進みて[而]誄(しのひこと)たてまつる。
直廣肆當麻眞人智德
奉誄皇祖等之騰極次第。
禮也。
古云日嗣也。
畢、葬于大內陵。
当麻…〈閣〉真人トコ 
騰極次第…〈北〉等之 タチ 騰-極-次 ヒツキノツイテ リ
〈閣〉皇祖タチノ騰-極 ヒツキノ-次-第[句]ヰヤナリ リ[句] ニハ-嗣ヒツキト 
〈釈紀〉智德チ トコタテマツルシノヒコト皇祖等スメミヲヤタチ騰極ヒツキノ次第ツイテ。 〈兼右本〉禮也 ナリ 
直広肆(ぢきくわうし)当麻真人(たぎまのまひと)智徳(ちとこ)
皇祖等之(が)騰極(どうごく)の次第(つぎて)を奉誄(しのひことたてまつ)る。
礼(ゐや)なり[也]。
古(いにしへ)には日嗣(ひつぎ)と云ふ[也]。
畢(を)へて、[于]大内陵(おほちのみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。
十二月乙酉朔丙申。
饗蝦夷男女二百一十三人
於飛鳥寺西槻下。
仍授冠位、
賜物各有差。
西槻下…〈北〉西槻
仍授冠位…〈北〉冠位。 〈閣〉 コト
十二月(しはす)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)。〔十二日〕
蝦夷(えみし)の男(をのこ)女(をみな)二百一十三人(ふたほあまりとをあまりみたり)、
[於]飛鳥寺(あすかてら)の西の槻(つき)の下(もと)に饗(みあへ)したまふ。
仍(よ)りて冠位(かがふりのくらゐ)を授(さづ)けたまひて、
物(もの)賜(たま)ふこと各(おのもおのも)差(しな)有り。
《百済沙門道蔵》
道蔵  〈天武〉十二年八月にも雨乞い。養老五年〔721〕に八十歳になり、 養老のために「四時施物」として「絁五疋、綿十屯、布廿端」を賜った(〈続紀〉)。
 論文「百済道蔵の『成実論疏』の逸文について」〔金天鶴;『불교학리뷰』〔仏教学レビュー〕vol.4〕によると、 「凝然の『三国仏法伝通縁起』の日本成実宗条には百済出身の道蔵が『成実論疏』16巻を著したとする記述がある」という。
 『三国仏法伝通縁起』は東大寺の凝然が、印中日三国の仏法伝通を著した書。応長元年〔1311〕成立。
 その巻中の末尾近くに「成実論宗。由来良久日日本仏法初伝之時、成実宗与三輪宗同時伝来」、 「百済道蔵法師-成論疏十六巻。上古伝来。于今有之。昔以成実即附三論」とあることが確認できる。
《不崇朝》
 「不崇朝」を「朝廷を崇めず」と読むと意味不明だが、崇朝は一つの特殊な言い方で「朝の初めから朝の終わりまで」を意味する。 書紀古訓「アシタコロニモアラスあした頃にも非ず〕はこれに沿ったものである。
 〈汉典〉によると「朝。従天亮早飯時。有時喻時間短暫、猶言一個早晨。亦指整天。崇、通"終"〔朝が終わる。天亮〔太陽が地平線から昇るときに放つ光〕より早飯の時まで。時に時間が短いことを譬える。なお早晨〔早朝〕の言い方の一つ、また整天〔日中〕を指す。崇は"終"に通ず〕と説明される。
 漢籍に用例は多く、例えば『風俗通義』〔応劭;後漢末〕に「觸石而出、膚寸而合、不崇朝徧雨天下、唯泰山乎」とある 〔徧は遍と同じ〕
 書紀が、この書とは限らないが類する漢籍の語句を用いたことは明らかである。
《大伴宿祢安麻呂》
大伴宿祢安麻呂  大伴連安麻呂は〈孝徳〉朝、右大臣大伴長徳の第六子。 〈壬申紀〉14が初出。使者として飛鳥寺西営での勝利を不破宮に報告した。
 大伴連は〈天武〉十二年に宿祢姓を賜る。 和銅元年〔708〕に大納言。同七年〔715〕五月一日に薨。
《伊勢王》
伊勢王  〈天武〉十二年十二月-行天下而限-分諸国之境堺」が初出。 〈朱鳥〉元年九月に〈天武〉の喪に誄を奉った。
 八月十一日に、間もなく喪を終えて葬儀を行うことを宣言した。
《耽羅王》
 これまでの耽羅国〔済州島〕との交流は、 〈天武〉二年六月に耽羅王子久麻芸ほかを派遣、 同八月に筑紫に留め置かれた。京にいる新羅使と重なることを避けたためと見られる。 四年六月王子久麻伎、続けて八月に王姑如が訪れた。 翌年に朝廷が船一艘を賜り、五年七月に帰国。
 〈天武〉六年八月に王子都羅が朝貢、 翌七年正月に京で拝朝〔饗と帰国の記事を欠く〕
 八年九月には日本からの遣耽羅使が帰国〔その前の派遣の記事を欠く〕。  翌十月に新羅から遣使。同年二月に「新羅が使を発して耽羅国を略した」(『三国史記』)ことから、 「耽羅は自らの勢力圏に置いたから、日本はこれ以上手を突っ込むな」と申し入れたと見た(《調物…馬狗騾駱駝》項)。
 十三年十月、久しぶりに日本から遣使《遣耽羅》 十四年八月に帰国《遣耽羅使人》。 耽羅からの遣使を促したと思われる。だが、しばらく反応なし。
 今回は久しぶりに耽羅が遣使。その使者の位階「佐平」が注目される。 「耽羅の位階制はもともと百済に倣ったもの」であった (《当其国之佐平位)。 新羅は、旧百済・旧高麗に新羅の位階の網をかけた(新羅の位階)が、 耽羅はその対象から外れている。 「〔攻略?〕の後も、なお一定の独立性を保っていたと考えられる。
 日本への遣使の復活は、耽羅の内部で新羅派の優勢から転じて親日派が巻き返したようにも感じられる。
 この後を見ると、〈持統〉七年十一月に「賜耽羅王子佐平等各有差」。来日と帰国の記事を欠き断片的である。 以後耽羅関係の記事はなく、〈続紀〉にも全く見えない。
 これまでの耽羅との関係強化は、対新羅戦線の構築という意味があった。 〈持統〉以後は、積極的に対抗する意欲を失ったように見える。 そのためかどうかは分からないが、奈良時代の外交は新羅から押され気味である。
《佐平加羅》
佐平〔二位〕百済の位階加羅 九月に筑紫で饗。
《皇太子適殯宮而慟哭》
草壁皇子尊 〈天武〉十年二月に立太子。
 皇太子による慟哭行事への先導は五回目を迎え、最終である (元年十月《皇太子》項参照)。 この時初めて慟哭に「諸蕃賓客」が列した。
《諸蕃賓客》
 「」が付いているが、は既に新羅のみとなっている〔強いて加えるなら耽羅。698年からは渤海国〕
 「賓客」については、書紀はこれまでに「」を正式な使節への呼称として用いてきた。 〈推古〉紀の「唐客〔裴世清〕、 〈舒明〉紀〈皇極〉紀の「高麗百済客」、 〈天武〉紀の「新羅客」、「耽羅客」、「高麗客」がそれである。
 故〈天武〉への新羅弔使は、公式には〈持統〉三年三月の「新羅遣級飡金道那等奉弔瀛眞人天皇喪」で、 二年十一月の時点ではまだ来日していない。また耽羅使は筑紫でことを済ませ、上京していない。
 よってこの時点では「諸蕃賓客」は来ていない。 ただ国内に住む三韓・唐出身者には爵位を得た者もいるから「諸蕃賓客」がそれを指すと見れば、 参集して慟哭していただいたことへの感謝を込めた表現ということはできる。よって、全くの虚構とは言い切れない。
 それでも、あたかも大国日本のために各国が弔使が送ったかの如くに描く潤色であろう。
 なお、「」の読み方については、神功皇后段(第141回)の【西蕃】項で検討した。
《奏》
 カナヅには鎌倉時代頃までは音楽演奏の意味はなく、「手を動かす、踊る」意味であったという。 〈允恭〉段(第189回)に 「儛訶那伝【自訶下三字以音】〔=舞かなで〕」がある。
 ここではであるからカナヅが使える。
 なお、舞踊には音楽が伴うからカナヅが音楽演奏に転ずること自体は自然であろう。 たまたま文献資料がないだけで、上代からその傾向があったことは考えられる。
《楯節儛》
 楯節舞についての資料を見る。
 〈釈紀〉楯節儛:私記曰。師説。今之吉士舞也。手以楯為節度故名」。
   〔今の吉士舞。手に楯を持ち節度するので、このように名づけられた〕
 〈続紀〉天平勝宝四年〔752〕夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。…行-幸東大寺…設斎大会。雅楽寮及諸寺種種音楽、並咸来集。復有王臣諸氏五節、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等哥舞」。
   〔盧舍那大仏像が完成した。大仏開眼に、東大寺に天皇〔〈聖武〉〕が行幸して設斎大会し、雅楽寮と諸寺の種々の音楽が並び集まって奏された。また王臣諸氏がいて、五節・久米舞・楯伏・踏歌・袍袴等を歌い踊った〕
 『令集解』巻四/職員令/雅楽寮
 「大属尾張浄足説。今有寮儛曲等如左…。久米儛…。五節儛…。楯臥儛十人五人土師宿禰等五人文忌寸等、右着甲并持刀楯。筑紫儛…。婆理儛…〔以下略〕」。
   〔尾張浄足の説によれば、今雅楽寮の舞曲は次の通り……楯臥儛は十人で土師宿禰から五人、文忌寸から五人を出し、これは甲冑を着け刀楯をもって舞うもの…〕
 論文「東西史部の文化―楯節舞と大祓を中心に―」(新川登亀男)『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(39)〔早稲田大学大学院文学研究科1994〕
 「楯節儛に関しては、とくに楯を伏すことで服属をあらわしているという見方があるが、 …そもそも、楯臥(尾張浄足説)や楯伏(…『続日本紀』)に先行して、『日本書紀』が楯節としているのはやはり無視できない」、 「〔〈釈紀〉が〕「…為節度、故名」というのは、あらためて検討に値しよう」、 「破陣楽では…「趨歩金堤、各有其節」といわれて、金鼓などで「節」を示したことが知られる」、 「目に訴える楯で「節」をとって、あるいは示して舞う軍事色の濃いものであった可能性がある〔「節をとって」とは、「音楽の拍節に合わせて」の意であろう〕
 〈釈紀〉は、当時の吉士舞がそれであろうというが、その吉士舞も既に消滅している。
 「大属尾張浄足説」に用具と衣装の説明はあるが、実際の舞の内容は何も伝わらず、結局は甲冑をつけて楯や剣を持って踊る舞であろうとの想像に留まる。
 〈続紀〉の表記による「楯を伏せる舞」からは、たとえば隼人が中央政権に服属する舞のようなものが想像される。しかし、喪の締めくくりの舞としては、 国家を守る兵の姿を力強く表現して、心置きなく神上がりしてもらうことこそが相応しいであろう。 すると、「」とは拍節に合わせて足で地面を踏みつけたり、新川論文が述べるように手に持った楯を振り上げるなどの力強い動作だと想像することが可能となる。
《諸臣各挙己先祖等所仕状》
 「先祖等所仕状」は、〈持統〉五年八月に「上進」させた「其祖等墓記」に類する内容と思われる。
《遞進誄》
 「進誄」は「誄をたてまつる」とも訓めるが、続く文には「遞進」とあるので、両方とも「交代で一歩前に出て」であろう。
《蝦夷百九十余人負荷調賦》
 ここでは特に「負荷調賦」と述べることによって、進んで国家に服属する姿を描いている。
 はまた、周辺勢力を国家への統合を進める機会として活用されたといえよう。
《布勢朝臣御主人/大伴宿祢御行》
布勢朝臣御主人  朱鳥元年九月太政官事」が初出。 右大臣まで昇り、大宝三年〔703〕閏四月一日に薨。
大伴宿祢御行  〈天武〉四年二月兵政官」の「大輔」任命が初出。 大納言となり、大宝元年〔701〕正月己丑に薨。
《当麻真人智徳》
当麻真人智徳  当麻公は、〈天武〉十三年七月真人姓を賜った。 智徳はここが初出。
 〈持統〉六年三月「直広参当麻真人智徳…為留守官〔伊勢行幸(三月辛未〔六〕~乙酉〔二十〕)の留守官〕
 〈続紀〉大宝三年〔703〕十二月 「従四位上当麻真人智徳諸王諸臣-誄太上天皇〔持統〕」。
 慶雲四年〔707〕十一月「〔〈文武〉崩により〕従四位上当麻真人智徳誄人奉誄」。
 和銅四年〔711〕五月「乙卯。従四位上当麻真人智得」。
《奉誄皇祖等之騰極次第》
騰極」は天子が帝位につくこと、「日嗣」は天皇の血統の継承。すなわち、歴代天皇の即位記を誄として読み上げたと読める。
 古代中国においては、天球の北極星を中心とする区画である紫微垣しびえんに、地上の帝宮が投影されていた(資料[69])。 皇帝への即位を「登極〔騰極と同意〕というのは、紫微垣に登ると表現したと見られる。
 つまり天皇の即位の中国風の表現が「騰極」である。書紀の用例としては、〈皇極〉紀と〈天武〉紀において新羅から「騰極使」が派遣された。 また〈持統〉即位〔四年正月〕にあたって、国内の臣が「騰極」している。
《礼也》
 書紀執筆者は、「当麻真人智徳」の誄に対して特に「礼也」と註している。 同じ註は「布勢朝臣御主人」と「丹比眞人麻呂」の誄にも加えられていた(元年)。
 これに関しては、 「古墳の葬礼と楯伏舞」福岡澄男〔NPO法人 国際文化財センター主催第115回 なみはや歴史講座;2019〕に考察がある。 そこには、「『礼記』曽子問第七にいう、「賤不貴、幼不長、礼也。唯天子、称天以之。 諸侯相誅、非礼也。」との誅の本来からは変容がはなはだしい。 しかし、持統天皇元年正月の、布勢御主人による誅の後と、同年3月の丹比真人麻呂の誅および、同2年11月11日に当摩智徳が行った誄の後には、 「礼也」という、『書紀』筆者の評価を一言加えて、他と区別しているのが注意される。『礼記』をよく承知している人物ならではの評価である」と述べられている。
 ここで引かれた『礼記』は、「賤が貴に誄したり、年少者が年長者に誄することは礼に反する。しかし〔それでは天子の崩には誰も誄できなくなってしまうので〕天の誄と称して諸侯が相誄することは、「礼」による規定の例外とする」と読める。
 福岡論文の趣旨は、 「自分の職分についてそれぞれに報告するような「誄」は、礼記のいう「誄」からは外れている。 書紀の筆者は『礼記』を知っているから、布勢御主人・丹比麻呂・当摩智徳の誄は『礼記』が言う礼に当てはまるものとして「礼也」と書き添えた」 のようである。
 たしかに官庁の代表による職務に関する報告は「天を称しての誄」とは言い難い。 それでは、天皇の系図の読み上げは「天を称しての誄」になるのだろうか。
 これについて考えてみると、天皇の系図〔血筋の継承〕は高皇産霊神が邇邇芸命に天降りさせたところから始まる。その後の系図も全体が丸ごと天の意志だと規定すれば、 その読み上げは「天を称しての誄」となり得るであろう。
 すると、布勢御主人丹比麻呂が奉った誄も、天を称しての誄だったから「礼也」が付くのであろう。実際、この二者には他の者のような「~の事」がない。
 結局、職務や氏族が仕えた実績を報告する「」とは別の範疇に属する、「天以之」の「」であることを「礼也」が示していると考えられる。
《古云日嗣也》
 「騰極次第」という語は、古い倭語では日嗣〔ヒツギ〕にあたると説明している。この文の流れでは、騰極は音読みした方がよいことになる。
《葬于大内陵》
 葬ったのは二年十一月十一日。「始築大内陵」の元年十月十二日から、ちょうど一年後である。 しかし、五段構成の八角墳は、一年間という短い期間で本当に完成したのだろうか。 遺体の埋納は必ずしも大内陵の最終的な完成を意味せず、喪の期間を〈持統〉二年の末までと定めたことによるかも知れない。 実際にはこの時点ではまだ土盛であったかも知れない。
 更に言えば、〈持統〉二年に埋葬されたのは野口王墓とは別の場所で、 その後に完成した八角墳に改葬したのかも知れない。 ただ、〈持統〉紀の期間に改葬されたなら、その時点で何らかの記事が載ると考えられる。 よって、改装はまず考えられない。
 次に、〈斉明〉八角墳と大内陵のどちらが先に造られたかを検討する。 〈斉明〉陵にほぼ比定される牽牛子塚古墳は、〈続紀〉では「越智山陵」と表記されるが、 これは699年に築陵を開始したものと見てよい (《小市岡上陵》項)。 この築陵は、〈天智〉朝末期には計画されていたが、壬申の乱によって立ち消えになっていたと見られる (《為造山陵予差定人夫》)。
 【牽牛子塚古墳】項の「凝灰岩石敷コーナー部分拓影」を見ると、石の加工はきわめて精緻である。 それに比べると、【檜隈大内陵の調査記録】の敷石の写真では、 これだけでは確かなことは言えないが、石の置き方は無造作に見える。
 だから、大内陵は〈斉明〉八角陵よりも古いと思われる。 〈続紀〉大宝三年〔703〕十二月「壬午。合-葬於大内山陵」とある。 遅くとも〈持統〉の遺骨の入った金銅器を合葬したときには出来上がっていたと見るべきであろう。
 さらに遡って〈持統〉六年六月甲申には「直丁八人官位、美其造大内陵時勤而不一上〔直丁八人に官位を賜り、大内陵を造ったときに真面目には勤め怠らなかったことを褒めた〕とある。 これが完成から間もない時期のことだとすれば、完成は〈持統〉五年〔691〕頃かも知れない。
《饗蝦夷男女二百一十三人》
 己未に上京して調賦を納め誄した「蝦夷百九十余人」であろう。 人数の相違については、訪れた人数に加えて在京の蝦夷約二十人を招いたとすれば理屈は合う。
《飛鳥寺西槻下》
 飛鳥寺の西では、様々な出来事が描かれている。 初出は皇極三年正月で「中臣鎌子」が「たまさかにあづか中大兄於法興 の の樹之下打毱くうるまりともに」った記事。
 〈皇極〉から〈孝徳〉に譲位するとき、群臣の面前で盟約した。すなわち、 皇極四年六月天皇々祖母尊皇太子於大槻樹之下召集群臣」。
 その後、噴水設備などを備えた庭園を整備して仏教行事や、西アジアからの使節接待の会場となった。 斉明三年七月須弥山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓫会。暮饗覩貨邏人」 (〈斉明〉三年【飛鳥寺西の須弥山石】項)。
 壬申では、 〈天武元年〉六月二十九日飛鳥寺西槻下」、すなわち近江朝廷軍が軍営を敷いたが、大伴吹負らによって軍勢ごと乗っ取られた。
 〈天武〉朝では隼人や多祢嶋人などを接待した。 〈天武〉六年正月多祢嶋人等於飛鳥寺西槻下」。
 同十年九月多祢嶋人等于飛鳥寺西河辺、奏種々楽」。 同十一年七月〔大隅、阿多〕隼人等於明日香寺之西、発種々楽仍賜禄各有差。道俗悉見之」、すなわち様々な楽舞が披露されて多くの見物人を集めた。
 そして、〈持統〉二年に飛鳥寺西で蝦夷を饗した。この場所は決して新羅使の饗には使われないが、 南は隼人や多祢人、北は蝦夷、また西アジアからの来訪者の接待に使われた。それがこの会場の特別な性格を物語っている。 新羅使の応対には国家間のいろいろな駆け引きがあって緊張を伴うから、公開の場での饗は難しかったのかも知れない。 それに対して飛鳥寺西は見物人も許されるような開放的な場所なので、フランクに接待できる相手を招いたとも考えられる。
《冠位》
 〈天武〉紀では「爵位」が使われている。冠による位階の表示を廃止したことに伴うものと見られる。 ところが〈持統〉紀では「冠位」に戻った。
 〈続紀〉を見ると「冠位」は多く出てくるがすべて詔の中で、とりわけ宣命中の定型句「冠位上賜治賜〔冠位をあげたまひをさめたまふ〕が多くを占める。習慣的な言い回しが残ったものと思われる。 事実の記録としての文章中では位階が大部分。他に爵位が二例、「其爵位〔天平宝字二年八月;爵位を返上した〕、「-授爵位〔延暦九年二月〕が見える。
《大意》
 〔二年〕七月十一日、 大雩(おおう)〔=雨乞い〕しました。旱魃でした。
 二十日、 百済沙門の道蔵(どうぞう)に命じて雨乞いしました。 朝まだ早くに、遍(あまね)く天下に雨が降りました。
 八月十日、 殯宮(もがりのみや)で直会して慟哭し、 於是(ここに)、大伴宿祢安麻呂(やすまろ)が誄しました。
 十一日、 浄大肆(じょうだいし)伊勢王(いせのおほきみ)に命じて葬儀を宣言させました。
 二十五日、 耽羅王(とんらおう)は佐平(さへい)加羅を派遣し、来日して方物〔=特産物〕を献上しました。
 九月二十三日、 耽羅の佐平加羅らに筑紫の館(むろつみ)で饗(あえ)されました。 それぞれに応じて物を賜りました。
 十一月四日、 皇太子は、 公卿、百寮の人らと諸蕃の賓客を率いて、 殯宮に行かれ慟哭されました。
 そして、奠を奉納し、 楯節舞(たてふしまひ)を踊りました。 諸臣は、それぞれ自身の先祖らの仕えた様子をを挙げて、 互いに進み出て誄(しのひこと)しました。
 五日、 蝦夷(えみし)百九十人余が、 調賦を荷に負って〔参上し〕誄しました。 直広肆(じきこうし)当麻真人(たいまのまひと)智徳(ちとこ)は 皇祖らの騰極の次第〔=即位記〕を誄として奉納しました。 これは礼です。 古くは日嗣(ひつぎ)と言いました。 〔喪の行事を〕すべて終え、大内陵に埋葬しました。
 十二月十二日、 蝦夷(えみし)の男女二百一十三人を、 飛鳥寺の西の槻(つき)の木の下で饗(あえ)されました。 そして冠位を授け、 それぞれに応じて物を賜りました。


目次 【三年正月】
《天皇朝萬國于前殿》
三年春正月甲寅朔。
天皇朝萬國于前殿。
朝万国…〈北〉朝萬國マウコシム クニ\/。 〈兼右本〉于前-殿ミアラカ
前殿…〈汉典〉「正殿」。
三年(みとせ)春正月(むつき)甲寅(きのえとら)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)[于]前殿(おほとの)に万国(よろづのくに)に朝(むか)ひたまふ。
乙卯。
大學寮獻杖八十枚。
大学寮…〈閣〉大學 オホツカヒ 。 〈釈紀〉大學寮 オホツカヒ三字引合
〈兼右本〉大-學オホツカヒ[ノ]
杖八十枚…〈北〉杖八ミツ■カラ。 〈閣〉ミツエ
〈兼右本〉八十ヒラ
乙卯(きのとう)。〔二日〕
大楽寮(だいがくのつかさ)杖(みつゑ)八十枚(やそひら)を献(たてまつ)る。
丙辰。
務大肆陸奧國優𡺸曇郡
城養蝦夷脂利古男
麻呂
與鐵折、
請剔鬢髮爲沙門。
務大肆陸奥国…〈北〉務◱大◱肆優◰𡺸◰曇◰城◱ カフ脂◰利◰古◰
〈閣〉 チノ𡺸ムノ ノカフ 蝦夷脂[切]
〈兼右本〉優-ウ 𡺸-タ ンノ城-養キ カフ
鉄折…〈北〉カナ ヲリ ソリ ヒケ爲沙門 ナラム ホウシ 
〈閣〉カナヲリ[切]ソリテ鬢- ヒケ ヲナラムコト ト。 〈兼右本〉鬢-髪ヒケ カミ

務大肆爵位四十八階中第三十一位。
陸奥…〈倭名類聚抄〉{陸奥【三知之於久】国}。

丙辰(ひのえたつ)。〔三日〕
務大肆(むだいし)陸奧国(みちのおくのくに)の優(う)𡺸(き)曇(とま)の郡(こほり)の
城養(きかふ)の蝦夷(えみし)脂利古(しりこ)が男(こ)
麻呂(まろ)と
鉄折(かなおり)与(と)、
鬢(ひげ)髪(かみ)を剔(そ)りて沙門(ほふし)と為(な)らむと請(ねが)ひまつる。
詔曰
「麻呂等少而閑雅寡欲。
遂至、於此蔬食持戒。
可隨所請出家修道。」
閑雅寡欲…〈北〉閑-雅 ミヤヒ 寡欲スクナウシ遂至モノホゝリスル於此蔬食 クサヒラ 持戒 タマツイムコト
 出家修道ヲコナヒ
〈閣〉トモミヤヒ-雅  テ スクナシスクナフシ欲遂モノホノリノホリスルコト
 於此クサヒラヲ テ タモツイムコトヲ[句]所-請[切]出-家[切]修-オコナヒ  
〈兼右本〉スクナシ モノホリスクナフシモノホゝりスル[コト]マゝ[ニ]所-請マウス出-家修-道オコナフオコナフ

閑雅…ものしずかで上品なこと。
…[形] ゆったりしている。間に通ず。
みやび…[名] 優雅。風流。〈時代別上代〉「ミヤブの名詞形」。
…[名] ①食用になる植物の総称。あおもの。②粗末なさま。
蔬食…粗食に同じ。
くさひら…[名] あおもの。「草-枚」。

詔(みことのり)曰(のりたまひしく)
「麻呂(まろ)等(たち)少(わかか)れとも[而]閑雅(みやびか)なりて寡欲(ほりすることすくなし)。
遂(つひ)に至りて、於此(ここに)蔬食(くさひらくらひ)て戒(いましむること)持(たも)てり。
所請(ねがへる)隨(まにま)に出家(いへで)して修道(おこなひ)す可(べ)し。」とのりたまひき。
庚申。
宴公卿賜袍袴。
袍袴…〈北〉袍-袴キ■。 〈閣〉袍-袴 キヌ 
庚申(かのえさる)。〔七日〕
公卿(まへつきみたち)に宴(とよのあかり、うたげ)をたまひて、袍袴(きぬはかま)を賜(たま)ふ。
辛酉。
新羅使人田中朝臣法麻呂等
還自新羅。
法麻呂等…〈北〉 レ。 〈閣〉 レリ
辛酉(かのととり)。〔八日〕
新羅(しらき)の使人(つかひ)田中朝臣(たなかのあそみ)法麻呂(のりまろ)等(ら)
新羅(しらき)自(ゆ)還(まゐかへ)る。
壬戌。
詔出雲國司、
「上送遭値風浪蕃人。」
遭値風浪…〈北〉。 〈閣〉ミコトモチ遭-値アヘル
遭値…めぐりあう。
壬戌(みづのえいぬ)。〔九日〕
出雲(いづも)の国の司(つかさ)に詔(みことのり)のりたまはく、
「風(かぜ)浪(なみ)に遭値(あ)へる蕃(となりのくに)の人を送り上(たてまつ)れ。」とのりたまふ。
是日。
賜越蝦夷沙門道信、
佛像一軀
灌頂幡鍾鉢各一口
五色綵各五尺
綿五屯
布一十端
鍬一十枚
鞍一具。
道信…〈閣〉
仏像一体…〈北〉軀灌 ハシラ ◱頂◱幡鍾◱鉢◰。 〈閣〉カネハチ
〈釈紀〉沙門ホウシ道信ダウシム
五色綵…〈北〉色綵 シミノキヌ スキ一十枚鞍一ヨソヒ
〈兼右本〉ミセムラ

みせ(屯)…[助数詞] 綿の質量。=2斤=1.68kg。以下《筑紫大宰請儲用物》参照。
むら(端)…[助数詞] 布の面積。長さ五丈二尺〔15.6m〕、幅二尺四寸〔72cm〕

是(この)日。
越(こし)の蝦夷(えみし)の沙門(ほふし)道信(だうしん)に、
仏像(ほとけのみかた)一体(ひとはしら)
灌頂幡(くわんちやうのはた)鍾鉢(かねはち)各(おのもおのも)一口(ひとつ)
五色(いつくさ)の綵(しみのきぬ、いろどりのきぬ)各(おのもおのも)五尺(いつさか)
綿(わた)五屯(いつみせ)
布(ぬの)一十端(とをむら)
鍬(すき)一十枚(とをひら)
鞍(くら)一具(ひとよそひ)を賜ふ。
筑紫大宰粟田真人朝臣等
獻隼人一百七十四人、
幷布五十常
牛皮六枚
鹿皮五十枚。
筑紫大宰…〈北〉宰田真人五十 キタ

きだ(常)…[助数詞] 庸布の面積。時代により変動するが、飛鳥時代後期は長さ二丈六尺〔7.8m〕、幅一尺八寸〔54cm〕程度と見られる。

筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)粟田(あはた)の真人(まひと)の朝臣(あそみ)等(ら)
隼人(はやひと)一百七十四人(ももあまりななそあまりよたり)、
并(あは)せて布五十常(いそきだ)
牛の皮(かは)六枚(むひら)
鹿(か)の皮(かは)五十枚(いそひら)を献(たてまつ)る。
戊辰。
文武官人進薪。
文武官人…〈北〉文-武官 フミ ツハモノ  トモ。 〈兼右本〉ミカマキ
戊辰(つちのえたつ)。〔十五日〕
文武官(ふみのつかさつはもののつかさ)の人薪(みかまき、たきぎ)を進(たてまつ)る。
己巳。
賜百官人等食。
…〈北〉食辛 ヲシモノ 
をす…[自] 食らふの尊敬語。
己巳(つちのとみ)。〔十六日〕
百官人(もものつかさびと)等(たち)に食(くらひもの、をしもの)を賜(たま)ふ。
辛未。
天皇幸吉野宮。
辛未(かのとひつじ)。〔十八日〕
天皇(すめらみこと)吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
甲戌。
天皇至自吉野宮。
至自…〈北〉至自𠮷 カヘリタマフ 野宮
甲戌(きのえいぬ)。〔二十一日〕
天皇吉野宮自(ゆ)至(かへ)ります。
《朝万国》
 非常に簡潔な表現であるが、諸国の国司が京に集まって朝見したと読める。 書紀古訓「マウコシム」は、まゐく〔参来〔都や朝廷に参上する〕〕の未然形+しむ〔使役〕で、すなわち国司の参集と読んでいる。 しかし、まだ即断できない。
 漢籍に「朝万国」の用例はいくつかある。一例として『通典』礼三十「元正冬至受朝賀」を見る。
 そこには「伏以冬至、一陽始生,萬物潜動,所以自古聖帝明王、皆此日朝萬国、観雲物、礼之大者、莫是時〔冬至には太陽が再生し、万物は潜み動き出す。よって古より聖帝明王は、皆この日に"万国に朝し"、雲の様を見る。礼の大きなること、この時以上にはない〕とある。 雲物は、太陽の周りに現れる運気の色とされ、また〈汉典〉は「①雲的色彩。②雲気、雲彩。③景物」とする。 その「雲物」とともに置かれるから、"万国"は全世界、""は「向かって感謝する」と読むのが妥当である。
 〈汉典〉では「万国:万邦、天下、各国」とあり、広く「天下」をいう場合もある。また「〔動詞として〕:向着、対着。〔熟語〕~向。~前。~陽。坐北~南」を見ると、皇帝による朝見とは必ずしも限定されず幅広く向かい合うのがである。
 書紀は漢籍の文章のうち「冬至」を「元日」に移したものである。その新鮮な気分で「朝万国于前殿」というのは心情としての「天下に向かう」であろう。元日早々諸国の国司を集めるよりも、 新年にあたり天下に感謝する気持ちを表現したと読む方が自然である。
《前殿》
 〈汉典〉では端的に「正殿」と同じとする。 『太平御覧』居処部/殿「山謙之丹陽記曰:太極殿、周制路寝也。秦、漢曰前殿、今称太極曰前殿〔山謙著『丹陽記』〔南宋〕にいう:大極殿は周制では路寝〔=正殿〕である。秦・漢では前殿といい、今も大極を前殿という〕
 書記に「前殿」はここだけで、「大殿」が一般的である。 万葉では「おほとの」が8例〔表記はすべて大殿〕、「みあらか」が2例〔御在香、都宮〕。「前殿」は1例もない。 宮殿の称はオホトノが一般的で、かつ漢籍での用法を見ると前殿もオホトノが妥当か。太極殿とすればアムドノ。〈兼右本〉のミアラカもあり得る。
 ただ、もとの形は「於殿前」だったかも知れない。「殿の前に立って…」なら、前項の読み方と大変よく合うからである。
《大学寮》
 〈持統〉三年正月には、〈天武〉四年正月の様々な新年行事が復活している。 〈天武〉四年には正月一日に大学寮諸学生他が「薬及珍異等」を献上している。
 一方、新年行事として各国から国司が集まっての謁見は〈天武〉紀のどの年にも見えない。このことからも「朝万国」は心の中で天下に感謝すると読むのが妥当と思われる。
《陸奧國優𡺸曇郡》
 𡺸[U+21EB8]の音は、旁のによると見られる。 「優𡺸曇郡」は〈倭名類聚抄〉{出羽国・置賜郡}のことだと言われる。okitamaがもともとukidomaだったとすれば、 そのmaを、閉音節の[dəm]〔曇〕の韻尾を借りて表したと理解することができる。この用字法は地名にしばしば見られ、 『日本漢字全史』〔沖森卓也;ちくま新書2024〕は「信濃:信のn音尾をnaに用いる」などの例を挙げている(p.91)。
 置賜郡は、和銅五年〔712〕に陸奥国から出羽国に移された 日本海側の倭人の北上のペースは太平洋側より遅かったと思われる。越が北方に延びて出羽国を分離し、さらに陸奥国から置賜郡などが出羽国に移された (資料[72])。
《城養蝦夷脂利古》
 〈斉明〉四年七月柵養蝦夷」二人に冠位一階が授けられたことが載る。 越国の対蝦夷の最前線には、(城)が築かれた (《越辺蝦夷》「磐舟柵」、 大化三年の《渟足柵》)。
 柵戸は、柵に隷属する戸。賤民の一種か。《柵戸》) 柵養蝦夷は、倭人に同化、もしくはその支配下となった蝦夷の柵戸を指すと思われる。 一口に蝦夷というが、越から北海道南部までの広い範囲だからゲノムが倭人に近い者から遠い者まで連続的に分布している。 事実上はほぼ倭人でも、敵対すれば蔑称として蝦夷が用いられることもあり得よう。
 さて、境界域在住の蝦夷が倭人に隷属して「柵養」、すなわち日常的には田を耕作しながら、柵の修理などを担う賤民となった。 その一族をまとめていた「脂利古」が、その優秀さを認められて爵位「務大肆」を授かるまで昇ったわけである。 そして脂利古は、自ら壇越となって氏寺を創建したいと考え、わが子を出家させてその僧にすることを願い出たのかも知れない。
 陸奥国は辺境であるが、飛騨国には既に飛鳥に匹敵する寺院が林立しつつあった(【飛騨国の廃寺跡】)。 仏教文化が、さらに広がりつつあったことを示す事象といえよう。
《宴公卿》
 これも年頭行事の再開。〈天武〉四年正月五日には「賜宴群臣於朝庭」とある。
《新羅使人》
 「新羅使人」は基本的に「新羅が遣した使者」の意味なので、ここでは文法に無頓着である。 〈天武〉紀では、八年九月新羅使人等返之」などと表して、正確を期している。
《田中朝臣法麻呂》
田中朝臣法麻呂  「直広肆田中朝臣法麻呂」は、元年正月「守君苅田」らとともに「使於新羅天皇喪」。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月「越智山陵〔〈斉明〉天皇陵〕の修陵に派遣。
《遭値風浪蕃人》
 遭値の意味は、[百度百科]に「意為遭遇、遭逢、属動詞性用法。 其構詞中"遭"指-見不利之事、"値"含遇到之意。常見于古籍如『天演論』〔清朝〕:「遭值之時」、『七諌』〔漢代〕没江:「遭值君之不聡」等用例」とある。
 筑紫航路の新羅船が風浪で操船できなくなり、対馬海流に流されて出雲に漂着することは普通に考えられる。
《越蝦夷沙門道信》
道信 ここだけ。
 城養蝦夷脂利古の子を仏門に入れる記事に続けて、道信僧が寺院を建立する記事が載る。 いずれも辺境に仏教を広げて国家に属させようとする動きといえる。
《灌頂幡》
 《如灌頂幡而火色》参照。
《筑紫大宰粟田真人朝臣》
 真人が名、朝臣かばね
 なお、の挟み方は、
 ・氏-姓-名の場合:粟田朝臣真人。
 ・氏-名-姓の場合:粟田真人朝臣。
 という習慣になっている。
粟田朝臣真人  粟田臣真人は、学問僧道観が還俗した人物とも言われる。
 粟田臣は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。 筑紫大宰に任じられた時期は不明。 慶雲二年〔705〕中納言。 養老三年〔719〕薨。
《布五十常》
 〔キダ〕は庸布〔庸役の代替の布〕の単位。布には通常〔ムラ〕を用いる。
《文武官人進薪》
 〈天武〉四年正月三日には「百寮諸人初位以上進薪」。 《進薪》では、「高価な献上品を持ってこられない」者に献上を呼び掛けたものと見た。 それが後に儀礼化したと思われる。〈天武〉五年、そしてこの〈持統〉三年の正月十五日に行われ、これが〈延喜式〉の「進薪」の日付「毎年正月十五日」に繋がったと見られる。
《賜百官人等食》
 〈天武〉四年正月十七日には「初位以上射于西門庭」 とあったが、「いくは」は未だ復活せず、「」を賜うのみとなっている。
〈持統〉天皇吉野宮行幸
日数
1三年春正月辛未天皇幸吉野宮
2秋八月甲申天皇幸吉野宮-
3四年二月甲子天皇幸吉野宮-
4五月戊寅天皇幸吉野宮-
5八月戊申天皇幸吉野宮-
6冬十月戊申天皇幸吉野宮-
7十二月甲寅天皇幸吉野宮
8五年春正月戊子天皇幸吉野宮
9夏四月丙辰天皇幸吉野宮
10秋七月壬申天皇幸吉野宮10
11冬十月庚戌天皇幸吉野宮
12六年五月丙子幸吉野宮
13秋七月壬寅幸吉野宮20
14冬十月癸酉幸吉野宮
15七年三月乙未幸吉野宮
16五月己丑朔幸吉野宮
17秋七月甲午幸吉野宮10
18八月甲戌幸吉野宮
19十一月庚寅幸吉野宮
20八年春正月戊申幸吉野宮-
21夏四月庚申幸吉野宮28
22九月乙酉幸吉野宮-
23九年閏二月丙戌幸吉野宮
24三月己未幸吉野宮
25六月甲午幸吉野宮
26十二月戊寅幸吉野宮
27十年二月乙亥幸吉野宮11
28夏四月己亥幸吉野宮
29六月戊子幸吉野宮
30十一年夏四月壬申幸吉野宮
 日数「-」…帰還日の記事なし。
宮滝遺跡の遺構配置図 (宮滝遺跡第70次発掘調査記者発表資料)
《吉野宮》
 〈斉明〉二年吉野宮」とある。 それ以前には、〈応神〉紀十九年十月で「吉野宮」、土着の「国栖」との交流が載る。 その土地に〈応神〉行幸の伝説があったと思われる。 また〈雄略〉紀二年十月に「于吉野宮」がある。
 〈壬申〉において、鸕野皇女(〈持統〉)は吉野宮から単騎駆け出した大海人皇子を追って、輿を急がせた。 吉野宮跡は、宮瀧遺跡に比定される(【阿岐豆野】項)。
 その遺跡は、『宮滝遺跡第70次発掘調査記者発表資料』〔吉野町・奈良県立橿原考古学研究所2019〕 によると、堀立柱建物の「抜き取り穴からは奈良時代前半の軒瓦が出土している」。 その他の調査成果から判断して「奈良時代前半のものと考えられ」、 「元正天皇や聖武天皇の行幸があった吉野宮(吉野離宮)が機能していた時期と符合する」という。
 ただ、「それぞれの遺構に切りあい関係が認められる」ことにより 「奈良時代前半の遺構に先行する、より古い時期の遺構が確認できた」という。 よって〈壬申〉以前の吉野宮も、この場所にあったと考えてよいと思われる。
 〈持統〉紀には「幸吉野宮」が30回ある(右表)。 そして〈続紀〉大宝元年〔701〕六月「太上天皇幸吉野離宮」が最後の吉野宮行幸と見られる。
 〈持統〉天皇が吉野宮行幸をこれほど多く繰り返した理由は何だろう。それに至るきっかけや吉野宮滞在中の政治的な行動などは描かれておらず、実証的に検討する材料は少しも見つからない。 その考察には、むしろ文学的なアプローチを用いることになろう。
《大意》
 三年正月一日、 天皇(すめらみこと)は前殿にて万国に思いを向けられました。
 二日、 大楽寮が御杖(みつえ)八十本を献上しました。
 三日、 務大肆(むだいし)陸奧の国の優𡺸曇(うきとま)〔置賜〕郡の 城養(きかう)の蝦夷(えみし)脂利古(しりこ)の息子 麻呂(まろ)と 鉄折(かなおり)は、 髭と髪を剃り僧になることを請いました。
 よって詔されました。
――「麻呂たちは若くして閑雅(かんが)で無欲である。 遂には、蔬食〔菜食〕して自戒を保つに至った。 請(ねが)うまま、出家して修道すべし。」
 七日、 公卿のために宴され、袍袴(ほうこ)を賜りました。
 八日、 新羅に派遣した使者田中朝臣(たなかのあそん)法麻呂(のりまろ)たちは、 新羅から帰国しました。
 九日、 出雲の国司に 「風浪に遭遇した蕃人を送れ。」と詔されました。
 この日、 越の蝦夷(えみし)の僧道信は、 仏像一体、 灌頂幡(かんちょうばん)、鍾鉢(かねはち)各一個、 五色の綵(さい)〔いろどりの絹〕各五尺、 綿五屯(みせ)、 布十端(むら)、 鍬(すき)十丁、 鞍(くら)一揃えを賜わりました。
 筑紫の大宰粟田真人(あわたのまひと)朝臣(あそん)らは、 隼人一百七十四人に 併せて、布五十常(きだ)、 牛皮六枚、 鹿皮五十枚を献上しました。
 十六日、 百官人等に食糧を賜りました。
 十八日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。
 二十一日、 天皇は吉野宮から帰られました。


まとめ
 ここには読み取りに注意を要する部分がいくつかある。
 「不崇朝遍雨天下」、「朝万国」については、もともとの中国古文献中の文脈に戻って意味を探らなければならなかった。 また「諸蕃賓客」は実態を伴わなず、「礼也」なる注記の解釈にも難しさがあり、「楯節儛」の実際の姿も分からない。 これらについてはひとまず解釈を示したが、確定はできていない。
 内容に関しては、二年十月の埋葬をもって喪を終え、明けて三年から通常の正月行事が復活した。 目を惹くのは、越国から出羽方面への寺院の設置である。周辺地域を国家に統合するためには、仏教化がひとつの重要な要素であったと言えそうである。ここでは蝦夷出身者でさえも仏教に帰依させようとしている。
 さて〈持統〉天皇の度重なる吉野宮行幸については、その心境は如何なるものであっただろうか。
 想像するに、かつて〈壬申〉前に吉野宮に滞在した当時、大海人皇子と肩を並べて眺めた景色がとても素晴らしかったのであろう。 〈持統〉天皇は判断に迷ったときなど折に触れて吉野宮を訪れ、思い出の場所にたたずみ〈天武〉の声を聞こうとしていたように思える。
 三年一月の行幸に関しては、喪が明け復活した正月行事で多忙であったが、それが一段落ついたタイミングかと思われる。



2025.12.01(mon) [30-05] 持統天皇5 

10目次 【三年二月~四月】
《筑紫防人滿年限者替》
二月甲申朔丙申。

「筑紫防人滿年限者替。」
防人…〈北野本〔以下北〕紫防人 セキモリ  ミチ年限
〈内閣文庫本〔以下閣〕ミチハ。 〈兼右本〉防-人セキモリカヘヨ
二月(きさらき)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)。〔十一日〕
詔(みことのり)のたまはく
「筑紫(つくし)の防人(さきもり)は年の限りを満(み)て者(ば)替(か)へよ。」とのたまふ。
己酉。
以淨廣肆竹田王
直廣肆土師宿禰根麻呂
大宅朝臣麻呂
藤原朝臣史
務大肆當麻眞人櫻井
與穗積朝臣山守
中臣朝臣々麻呂
巨勢朝臣多益須
大三輪朝臣安麻呂
爲判事。
土師宿祢…〈北〉士師 圡-■ 宿祢○麻イ 大宅 ヲオ ヤ朝臣朝臣史務 フムヒト 大肆与積朝臣中臣朝臣アソム 臣麿多-/タヤカ益-判事三 コト\/ワルツカサト
〈閣〉ヤカ安麿判事コト\/ハルツカサヒト
〈釈紀〉大宅オホヤヱノ朝臣フムヒト山守ヤマモリ。 〈兼右本〉フンヒト

浄広四位諸王十二階中十二位。
直広四位諸臣四十八階中十六位。
務大四位…諸臣四十八階中三十一位。

己酉(つちのととり)。〔二十六日〕
浄広肆(じやうくわうし)竹田王(たけたのおほきみ)
直広肆(ぢきくわうし)土師宿祢(はにしのすくね)根麻呂(ねまろ)
大宅朝臣(おほやけのあそみ)麻呂(まろ)
藤原朝臣(ふぢはらのあそみ)史(ふひと)
務大肆(むだいし)当麻真人(たぎまのまひと)桜井(さくらゐ)と、
穂積朝臣(ほづみのあそみ)山守(やまもり)
中臣朝臣(なかとみのあそみ)臣麻呂(おみまろ)
巨勢朝臣(こせのあそみ)多益須(たやかす)
大三輪朝臣(おほみわのあそみ)安麻呂(やすまろ)与(と)を以ちて
判事(ことわるつかさ)と為(し)たまふ。
三月癸丑朔丙子。
大赦天下。
唯常赦所不免不在赦例。
癸丑朔丙子…〈北〉癸丑丙子 レヌ。 〈閣〉 カレ レヌ
〈兼右本〉 ユルサレヌ アト
三月(やよひ)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)。〔二十四日〕
天下(あめのした)に大(おほ)きに赦(ゆる)したまふ。
唯(ただ)常(つね)の赦(ゆるし)に所不免(まぬがれざるもの)は赦(ゆるし)の例(たぐひ)に不在(あらじ)。
夏四月癸未朔庚寅。
以投化新羅人居于下毛野。
以投化…〈北〉 タマ ル新羅人。 〈閣〉タマル。 〈兼右本〉下-毛- ノクニ
夏四月(うづき)癸未(みずのとひつじ)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)。〔八日〕
投化(まゐきたる)新羅(しらき)の人を以ちて[于]下毛野(しもつけの)のくにに居(すま)はしむ。
乙未。
皇太子草壁皇子尊薨。
…〈北〉薨壬 カムサリマシ。 〈閣〉皇太子○尊草壁皇子カンサリマシヌ
乙未。〔十三日〕
皇太子(ひつぎのみこ)草壁(くさかべ)の皇子尊(みこのみこと)薨(こうず、かむさります)。
壬寅。
新羅、
遣級飡金道那等
奉弔瀛眞人天皇喪。
幷上送學問僧明聰
觀智等。
級飡金道那…〈北〉キフ-飡-  サム コン道那等奉 ヌ
〈閣〉
〈釈紀〉級飡キフサム金道那コムタウナ明聡ミヤウソウ クワム
瀛真人天皇…天渟中原瀛真人天皇(〈天武〉)。
壬寅(みづのえとら)。〔二十日〕
新羅(しらき)、
級飡(きふさん)金道那(こむだうな)等(ら)を遣(まだ)して
瀛真人天皇(おきのまひとのすめらみこと)の喪(も)を弔(とぶら)ひ奉(まつ)らしむ。
并(あはせて)学問(ものならふ)僧(ほふし)明聡(みやうそう)
観智(くわんち)等(ら)を送(おく)り上(たてまつ)る。
別獻金銅阿彌陀像
金銅觀世音菩薩像
大勢至菩薩像各一軀
綵帛錦綾。
阿弥陀像阿弥陀像観 金銅世音ハシラ シミ帛錦綾甲 アリ 
〈閣〉金銅アカゝネノ阿弥陀菩薩シミノ
〈釈紀〉金銅アカゝネノタノミカタクワンヲムサツノミカタダイセイ
〈兼右本〉シミイ无/カトリ アリ

金銅…銅に金メッキしたもの。
…[名] 彩色の布。古訓はシミ・イロドリ(《彩絹/金銀彩色》)。
…[名] 白い絹布。転じて絹織物一般。
にしき(錦)…[名] 色糸を用いて模様を織り出した厚手の絹布。
あや(綾)…[名] 模様を浮き出した絹織物。

別(こと)金銅(こむどう)阿弥陀(あみだ)の像(みかた)
金銅観世音菩薩(くわんぜおむぼさつ)の像(みかた)
大勢至(だいせいし)菩薩の像(みかた)各(おのもおのも)一躯(ひとはしら)
綵(しみ)の帛(きぬ)錦(にしき)綾(あや)を献(たてまつ)る。
甲辰。
春日王薨。
…〈兼右本〉ミウセヌ
甲辰。〔二十二日〕
春日王(かすがのおほきみ)薨(こうず、みうせぬ)。
己酉。

「諸司仕丁
一月放假四日。」
放仮…〈北〉放仮ユルシタマフ。 〈閣〉イトマ ユルシタマフ四日
〈兼右本〉ユルシ玉フイトマ四-日
(假)…[名] いとま。暇に通ず。
己酉(つちのととり)。〔二十七日〕
詔(みことのり)のりたまはく
「諸(もろもろ)の司(つかさ)の仕丁(つかへのよほろ)は
一月(ひとつき)に假(いとま)四日(よか)を放(はな)て。」とのりたまふ。
《筑紫防人》
 〈天武〉十四年十二月には、「筑紫防人」が海路で遭難した(《筑紫防人等飄蕩海中》)。 防人の任期の規定は令義解/軍防令に 「凡兵士上番者:向京一年。向防三年。不行程」。
 「下番」はないから、「」は「当番に上る」意であろう。防人の任期は三年で、行き帰りの行程に要する日数は除くと読める。 〈持統〉朝における任期は分からないが、 わざわざ年限を満たしたら交替させよと命じたのは、実態においてそれが守られていなかったからであろう。
《竹田王…》
竹田王  和銅元年〔708〕刑部卿」。霊亀元年〔715〕三月丙申「(〈天武〉十年三月〈天武〉十四年九月)
土師宿祢根麻呂  土師連は〈天武〉十三年二月に宿祢姓を賜った。
 根麻呂は、〈持統〉三年五月に「新羅弔使級飡金道那」に詔を伝達。
 〈続紀〉:〈文武〉三年〔699〕十月「遣…直広参土師宿祢根麻呂…於越智山陵…分功修造」。
大宅朝臣麻呂  〈天武〉十三年十一月大宅臣朝臣姓を賜わった。
 〈持統〉八年三月「直広肆大宅朝臣麻呂…拝鋳銭司」。
藤原朝臣史  十年十月「仮賜…直広弐藤原朝臣不比等〔資人〔=舎人〕〕五十人」。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕六月「勅…直広壱藤原朝臣不比等〔計十九名〕等撰-定律令。賜禄各有」。
 大宝元年〔701〕正月「大伴宿禰御行薨…遣直広壱藤原朝臣不比等就第宣詔」。 三月「授…直広壱藤原朝臣不比等正正三位。…中納言正正三位…藤原朝臣不比等…並為大納言」。 八月「遣…正三位藤原朝臣不比等…等、撰-定律令於是始成。大略以浄御原朝庭為正。仍賜有差」。
 慶雲元年〔704〕正月「大納言従二位藤原朝臣不比等〔益封〕八百戸」。
 和銅元年〔708〕正月「授…従二位藤原朝臣不比等…正二位」。 三月「以…大納言正二位藤原朝臣不比等右大臣」。
 養老四年〔720〕三月「特加右大臣正二位藤原朝臣不比等刀資人卅人」。 八月「右大臣正二位藤原朝臣不比等病。賜卅人」。
 八月癸未「右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。…近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也(〈天智〉八年十月/《授大織冠与大臣位》)
当麻真人桜井  当麻公は、〈天武〉十三年に真人姓を賜った。 桜井は、〈続紀〉:慶雲二年〔705〕従五位上当麻真人桜井伊勢守」。
 和銅元年〔708〕三月「以…正五位下当麻真人桜井武蔵守」。
 霊亀元年〔715〕正月「授…正五位下当麻真人桜井…並従四位下」。 二月丙寅「従四位下当麻真人桜井卒」。
穂積朝臣山守  穂積臣は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。
 山守は、〈続紀〉:慶雲元年〔704〕正月「以…正六位上穂積朝臣山守…並授従五位下」。
 和銅五年〔712〕正月。従五位上穂積朝臣山守…並正五位下」。
中臣朝臣臣麻呂  朱鳥元年十月に大津皇子謀反に関与して捕えられたが許された。
 〈文武〉三年〔699〕鋳銭司」。和銅元年〔708〕神祇伯」、「中納言」。 和銅四年〔711〕閏六月乙丑「正四位上」で「」。
巨勢朝臣多益須  朱鳥元年十月に大津皇子謀反に関与して捕えられたが許された。
 慶雲三年〔706〕式部卿」。 和銅元年〔708〕大宰「大弐」。 和銅三年〔710〕六月辛巳「従四位上」で「」。
大三輪朝臣安麻呂  大三輪君は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。
 〈続紀〉慶雲四年〔707〕九月「正五位下大神朝臣安麻呂氏長」。
 和銅元年〔708〕九月「以…正五位上大神朝臣安麻呂摂津大夫」。
 和銅二年〔709〕正月「授…正五位…大神朝臣安麻呂…並従四位下」。
 和銅七年〔714〕正月「授…従四位下大神朝臣安麻呂従四位上」。 正月「丙戌。兵部卿従四位上大神朝臣安麻呂」。
《判事》
 『令義解』職員令
刑部省:卿一人。大輔一人。少輔一人。大丞二人。少丞二人。大録一人。少録二人。史生十人。 大判事二人【掌鞠状。断-定刑名。判二上諸争訟】。中判事四人。少判事四人。
大宰府:主神一人。師一人。大弍一人。少弐一人。大監二人。少監二人。大典二人。少典二人。 大判事一人【掌犯状。断-定刑名。判二上諸争訟】。小判事一人。
 すなわち判事四等官:卿・輔・丞・録。大宰府:師・弍・監・典〕の外官で、 犯状を覆すか否かの吟味、刑名の断定、訴訟の判決を担う。
 「竹田王」以下の「判事」九名は、刑部省大・中・小判事計十名に近い人数なので、刑部省の前身の刑官に属したと考えられる(《宮内/左右大舎人/…》)
《大赦》
 大赦については、その適用範囲が次第に具体的に示されるようになっていく (《以大辟罪以下皆赦之》)。
《投化新羅人》
 ここでも、新羅からの移民を東国の下野国に移して公民化している (《賦田受稟使安生業》)。
《皇太子草壁皇子尊薨》
草壁皇子尊 〈天武〉十年二月に立太子。
 皇太子として実に重く扱われていたのに、その病や誄などが一切書かれないことは、打撃の大きさを物語る。万葉集には数多くの挽歌を納める(01670193)〔柿本人麻呂と舎人が詠んだ〕から、痛恨の出来事であったことは間違いない。
 なお、〈持統〉紀の表記法に従うなら「皇太子皇子草壁尊」となる。「皇子-尊」は切り離せなかったためか。 あるいは草稿段階ではこの一文すらなかったが、他の人の手によって補われたとも考えられる。
《級飡金道那》
級飡〔八位〕一覧金道那  五月甲戌に叱責の詔を承る。六月乙巳に筑紫小郡で「〔饗〕」。賜物。七月一日帰国。
《学問僧明聡観智》
明聡 六月辛丑。綿一百四十斤を賜り、新羅の師友に送る。
観智 同上。
 「〔たてまつる〕がつくから、ここだけを見れば新羅人僧の献上である。
 しかし、〈天武〉十三年十二月には「大唐学生」が新羅を経由して、新羅使に送られて帰国した。 〈天武〉十四年五月の観常・雲観の帰国も同様と見た。 度重なる学生・学問僧の帰国の流れから見て、今回も唐から新羅を経由しての帰国とも思われる。
 その両方の可能性があるが、何れにしても「」がつくのは、同時に送られた阿弥陀三尊像とともに仏教の振興に役立ててくださいということであろう。
銅造阿弥陀如来及両脇侍像
(法隆寺から皇室に献納)
銅造鋳造鍍金 像高(中尊)28.4cm
e国宝
《阿弥陀像》
 阿弥陀は「西方浄土にいる教主の名。いっさいの衆生を救うために、四十八の誓いをたてた仏。平安中期、源信の『往生要集』の前後から、この仏の信仰が流行」したという(『例文 仏教語大辞典』〔小学館1997〕)。
 飛鳥時代まで遡ると、法隆寺阿弥陀如来像が「阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例e国宝という。
《観世音菩薩像/大勢至菩薩像》
 阿弥陀三尊像では、左脇侍の観音菩薩、右脇侍の勢至菩薩とともに三尊をなす。
 観世音菩薩《観世音経》参照。 勢至菩薩は別名大勢至菩薩、得大勢菩薩で、知恵の光をもって一切を照らして無常の力を得させる(『デジタル大辞泉』〔小学館2012〕)。単独で祀られることは稀という(『国史大辞典』〔吉川弘文館1997〕)
《春日王》
春日王 ここだけ。系譜不明。爵位の記載なし。
 〈続紀〉では、王・女王の「」はすべて従三位以上である。それに対して「」は必ず正四位以下である。
 春日王は「」なので、従三位以上に相当したと見られる。
《諸司仕丁》
 (よほろ)は、21歳以上60歳以下の男子で、公の労働に供される(改新詔其四曰)。
《一月放仮四日》
 「(假)」は「」に通ずる用法。すなわち、ひと月に四日の休暇を与えよと詔した。
 『令義解』仮寧令凡在京諸司毎六日並給休仮一日。 中務宮内供奉諸司及五衛府別給仮五日」など。
《大意》
 二月十一日、 詔を発しました。
――「筑紫の防人の年限を満たした者は交替させよ。」
 二十六日、 浄広肆(じょうこうし)竹田王(たけたのおおきみ)、 直広肆(じきこうし)土師(はにし)の宿祢根麻呂(ねまろ)、 大宅(おおやけ)の朝臣麻呂(まろ)、 藤原(ふじわら)の朝臣史(ふひと)〔不比等〕、 務大肆(むだいし)当麻(たいま)の真人(まひと)桜井(さくらい)と、 穂積(ほずみ)の朝臣山守(やまもり)、 中臣の朝臣臣麻呂(おみまろ)、 巨勢(こせ)の朝臣(こせのあそみ)多益須(たやかす)、 大三輪(おおみわ)の朝臣安麻呂(やすまろ)を、 判事(ことわるつかさ)としました。
 三月二十四日、 天下(あめのした)に大赦されました。 但し、常の赦で免れないものは、〔今回も〕赦の対象から除かれました。
 四月八日、 帰化した新羅人を、下毛野(しもつけの)の国に居住させました。
 十三日、 皇太子(ひつぎのみこ)草壁の皇子尊(みこのみこと)が薨じました。
 二十日、 新羅は、 級飡(きゅうさん)金道那(こんどうな)らを遣わして、 瀛真人天皇(おきのまひとのすめらみこと)〔天武〕の喪を弔(とぶら)わせました。 併せて学問僧明聡(みょうそう)、 観智(かんち)らを送り献上しました。
 別に金銅の阿弥陀像、 金銅の観世音菩薩像、 大勢至(だいせいし)菩薩像各一体、 綵(しみ)の帛(きぬ)錦(にしき)綾(あや)を献上しました。
 二十二日、 春日王(かすがのおおきみ)が薨じました。
 二十七日、 詔を発しました。
――「諸司の仕丁には、 一月に四日の暇(いとま)を与えよ。」


11目次 【三年五月】
《詔新羅弔使級飡金道那等》
五月癸丑朔甲戌。
命土師宿禰根麻呂、
詔新羅弔使級飡金道那等、
土師宿祢…〈北〉云師圡无 宿祢
五月(さつき)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として甲戌(きのえいぬ)。〔二十二日〕
土師宿祢(はにしのすくね)根麻呂(ねまろ)に命(おほ)せて、
新羅(しらき)の弔(とぶらふ)使(つかひ)級飡(けふさん)金道那(こむだうな)等(ら)に詔(みことのり)のりたまはしめて、
曰(いはく)。
「太政官卿等奉勅奉宣。
二年、
遣田中朝臣法麻呂等、
相告大行天皇喪。
太政官卿…〈閣〉 ノ ノ
奉勅奉宣…〈北〉奉-勅奉-宣 ノタマハシムラク ノタウハシラク大行 サ■ 
〈閣〉 テ○ イ汝 ヲ奉宣 ノタマハシムラク 相-告ア ツ大-行 サキノ 
〈兼右本〉 二字イ无奉-宣ノタマハシムラクマタシ

太政官…〈倭名類聚抄〉「大政官【於保伊万豆利古止乃官】」。
らく…[接尾語] ク語法に類する。クが四段未然形につくのにたいして、ラクは上二・下二・カ変・サ変の終止形、及び上一の未然形につく。

「太政官(おほきまつりごとのつかさ)の卿(かみ)等(ども)勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて宣奉(のりたまはしむらく)。
二年(ふたとせ)、
田中(たなか)の朝臣(あそみ)法麻呂(のりまろ)等(ら)を遣(つかは)して、
大行(さきの)天皇(すめらみこと)の喪(も)を相(あひ)告(つ)げしめたまひき。
時、新羅言、
『新羅奉勅人者元來用蘇判位、
今將復爾。』
由是、
法麻呂等不得奉宣赴告之詔。
奉勅人…〈閣〉 ヲ ハ
蘇判位…〈北〉蘇-レ迊 サフレ寒判。
〈閣〉カ 迊 サフ ―音読㇥寒 ノ ヲオモフ ニカヘサムトイマシヲ テ ニ法麿等
〈釈紀〉蘇判サフカム私記曰。蘇音迊。判音干。 〈兼右本〉蘇-判 六迊 六寒サウ カン
奉宣…〈閣〉-宣ノタマハシムルコト赴-告ツケツクル  ヲ
時に、新羅(しらき)の言(まを)ししく、
『新羅の勅(みことのり)を奉(うけたまはる)人者(は)元来(もとより)蘇判位(さうばんゐ)を用(もちゐ)てありて、
今将(まさ)に復(また)爾(いまし)にもちゐむ。』とまをしき。
是(こ)に由(よ)りて、
法麻呂(のりまろ)等(ら)赴告之(もをつぐる)詔(みことのり)を奉宣(のりたまはしむること)を不得(えず)。
若言前事者、
在昔難波宮治天下天皇崩時、
遣巨勢稻持等告喪之日、
翳飡金春秋奉勅。
而言用蘇判奉勅、
卽違前事也。
在昔…〈兼右本〉在-昔ムカシ
難波宮治天下天皇…〈北〉難波宮 シ天下 ヘリ前事也
〈閣〉 ニヲサメタマヒシ ノ ヲ エイマミ ハ テ
〈兼右本〉難-波宮[ニ]ヲサメ玉ヒシ天-下[ヲ]シカモ蘇-判上レ
若(もし)前事(さきのこと)を言(い)は者(ば)、
昔(むかし)難波宮(なにはのみや)に天下(あめのした)治(しらしめ)しし天皇(すめらみこと)〔孝徳〕の崩(ほう)ぜし時には、
巨勢稲持(こせのいなもち)等(ら)を遣(つか)はして喪(もがり)を告げし[之]日に、
翳飡(えいさん)金春秋(こむしゆんじう)の勅(みことのり)を奉(たてま)つれること在り。
而(しかるがゆゑ)に蘇判(さうばん)を用(もち)ゐて勅(みことのり)を奉(たてまつる)と言(いふ)は、
即(すなはち)前事(さきのこと)に違(たが)へり[也]。
又於近江宮治天下天皇崩時、
遣一吉飡金薩儒等奉弔。
而今以級飡奉弔、
亦違前事。
一吉飡…〈閣〉ヒトリノ モ ヲ〔シカルヲ/シカレドモ〕
〈北(〈天武〉二年閏六月)一吉飡イツキツサン
奉弔…〈北〉奉弔𡖋違  ヘリ
又[於]近江(ちかつあふみ)の宮に天下(あめのした)を治(しろしめ)し天皇(すめらみこと)〔天智〕の崩(ほう)ぜし時には、
一吉飡(いつきつさん)金薩儒(こむさつぬ)等(ら)を遣(まだ)して弔(とぶらひ)奉(たてま)つりき。
而(しかるがゆゑ)に今級飡(きふさん)を以ちて弔(とぶらひ)奉(たてまつる)こと、
亦(また)前事(さきのこと)に違(たが)へり。
又新羅元來奏云、
『我國、自日本遠皇祖代、
並舳不干檝、奉仕之國。』
而今一艘、亦乖故典也。
元来…〈北〉元-來 モト  ツ皇祖 ミ ハホサ檝奉 カチヲ一-艘𡖋 フナノミアル  ヘリ故典也 ノ ノリ
〈閣〉 テ ヘヲホサ カチヲ一-艘フナノアカルコト〔"(ヒト)フナノミアルコト"であろう〕
  ヘリ フ ノリニ
〈兼右本〉[テ]マウサク皇-祖[ノ]ミヨ
 奉-仕ツカマツル ナリ一-艘ヒトフナノミアル ケリ故典フルキノリ[ニ]
又(また)新羅(しらき)元来(もとより)奏(まを)して云へらく、 『我(わが)国は、日本(やまと)の遠(とほつ)皇祖(すめろき)の代(みよ)自(よ)り、 舳(へ)を並(なら)べ檝(かぢ)不干(かわかず)て、奉仕之(つかへまつる)国なり。』といへり。 而(しかるがゆゑ)に今一艘(ひとふな)なるは、亦(また)故(ふるき)典(のり)に乖(たが)へり[也]。
又奏云
『自日本遠皇祖代、
以淸白心仕奉。』
而不惟竭忠宣揚本職。
而傷淸白、詐求幸媚。
以清白心…〈北〉清白心アキラケキ 竭-忠宣 マメコゝロアリ -揚本 ツカサ淸-白
 幸-媚マタキコフル
〈閣〉 ヲ-忠マメコゝロヲツクシテマメコゝロアリテ幸-媚 マメキ コフルコトヲ
〈兼右本〉宣-揚ノヘ アクル

…[動] 力をつくす。
まめ…[形動] 忠実。〈時代別上代〉「上代に確例は見えない」。 

又奏(まを)して云(い)へらく
『日本(やまと)の遠(とほ)つ皇祖(すめろき)の代(みよ)自(よ)り、
清白(あきらけき)心(こころ)を以ちて仕奉(つかへまつ)れり。』といへり。
而(しかれども)忠(まこと)を竭(つ)くして本(もと)の職(つかさ)を宣(の)べ揚(あ)げむと不惟(おもはず)て、
[而]清白(あきらけきこころ)を傷(こほ)ちて、詐(いつは)りて幸(さき)を求め媚(こ)びぬ。
是故、
調賦與別獻並封以還之。
然、自我國家遠皇祖代、
廣慈汝等之德、不可絶之。
是故…〈閣〉是故
調賦…〈北〉 レル封以ユヒカタメ還之我國  ミカト-家イキホヒ
〈閣〉不可タヘス
〈兼右本〉 トモメクミ玉フイマシ-等[ヲ]イキホヒ
すめろき…[名] 皇祖。
是(この)故(ゆゑ)に、
調賦(みつき)と別(こと)献(たてまつ)れるもの与(と)は並(ならびに)封(ゆひかた)めて以ちて之(こ)を還(かへ)したまふ。
然(しかれども)、我が国家(くにいへ)の遠(とほ)つ皇祖(すめろき)の代(みよ)自(よ)り、
広く汝(いまし)等(ら)を慈(めぐ)みたまひし[之]徳(のり、いきほひ)は、之(こ)を絶(た)つ不可(べからじ)。
故、彌勤彌謹戰々兢々、
脩其職任奉遵法度者、
天朝復廣慈耳。
汝道那等、
奉斯所勅奉宣汝王。」
彌勤彌謹…〈北〉ツト弥謹 オチ-々兢-々 カシコマ 脩其ツカサコト
 天朝 ミカト 汝道那等奉-斯 タマヘ 
〈閣〉オチ-々カシコマテ-々 四字ヲチイミテ   テ職-任 ツカフコトヲタテマツテハ法- ノリ ニ ヲハ
  ノミタマハリタマヘ テ ノ勅奉ノヘ カ ニ
〈兼右本〉戦-々兢-々オチカシコマ四字ハ合タテマツリキシタカヒ法-度ノリハ合[ニ]モノ[ヲ]
 慈耳メクミタマハンノミイマシ道-那タウナタチウケタマハリ斯所-勅[ヲ][テ]-宣ノヘタマヘ /ノヘ  イマシ[ガ]キミ/コキシ[ニ]

…[副] いよいよ。ますます。
いや-…[接頭] 程度の大きいさまを表す。 
…[形] ①緊張して慎む。②緊張してびくびくする。

故(かれ)、弥(いや)勤(つと)め弥(いや)謹(つつ)しみ戦々兢々(わななきかしこみ)て、
其の職(つかさ)の任(よさし)を修(をさ)めまつりて法度(のり)に遵(したが)ひ奉(たてまつ)ら者(ば)、
天朝(みかど)復(また)広く慈(めぐ)みたまふ耳(のみ)。
汝(いまし)道那(だうな)等(たち)、
斯(その)所勅(みことのりのむね)を奉(うけたまは)りて汝(いまし)が王(きみ、こきし)に宣(の)べ奉(たてまつれ、たまへ)。」とのりたまはしむ。
《土師宿祢根麻呂》
土師宿祢根麻呂 三年二月に判事に任じられた。
《金道那》
金道那  三月壬寅に新羅からの弔使として来朝。
《奉勅奉宣》
 書紀古訓では、「奉宣」を「ノタマハシムラク」と訓む。これは 「ノタマフの未然形+使役の助動詞シムの終止形+接尾語ラク」、すなわち天皇の意を受けて詔を伝達する文として、詔の本体を導く。
《遣田中朝臣法麻呂等》
 〈兼右本〉は「マタシ田中朝臣」と訓んでいる。その妥当性を検討する。
 万葉集の伝統訓においてはは圧倒的にヤルと訓む場合が多い。ツカハスは5例。マクが1例(3291天皇之 遣之万〃 おほきみの まけのまにまに」)マダスはない。 ツカハスの仮名書きは(万)0894「勅旨〔大命〕 戴持弖唐能 遠境尓 都加播佐 おほみこと〔おほみこと〕 いただきもちて もろこしの とほきさかひに つかはさ」に見える。
 ツカハスの語としての成り立ちは、「ツカフの未然形+尊敬の動詞語尾」なので、天皇が遣使する場合に、ツカハスを使うことは当然である。
 一方、「」に書紀古訓で多用されるマダスは、「参-出」の変と考えられている。 これは諸蕃から朝廷への遣使の場合に、中華思想によりマヰ-イダスを用いたものと思われる。
 倭国から喪告使を諸蕃に送る場合は、当然ツカハスである。 ただし諸蕃から倭国に使者を送り出す場合であっても、諸蕃の王は使者よりは上位だからツカハスでも問題はない。結局、マダスは書紀古訓研究者の狭い世界に限られた用語法と見るべきであろう。
《田中朝臣法麻呂》
田中朝臣法麻呂  元年正月、守君苅田等らとともに新羅に告喪使として派遣された。
《相告大行天皇喪》
 「相-」は基本的に「互いに」の意味であるが、喪を告げに行くのだから、アフ=会フであろう。実際「」には六朝時代以後「二者の間に生じる動作につける」副詞の用法が生まれたという(『学研新漢和』〔学研教育出版2013〕)
《大行天皇》
 書紀ではこの一か所のみ。〈続紀〉にもない。 漢籍には、儒家『孔叢子』広名:「死。謂之大行〔死の忌み言葉を"大行"という〕
 現代の用例は、[宮内庁/御誄]に見える。
殯宮移御後一日祭の儀(平成元年1月20日):「御父大行天皇の御霊に申し上げます」
追号奉告の儀(平成元年1月31日):「御父大行天皇…追号して昭和天皇と申し上げます」
 このように崩御してから諡が定まるまでの間の呼び名として使われている。
《蘇判位》
『三国史記』巻三十八雑志/第七職官上
儒理王九年。置十七等。
 一曰伊伐飡 或云伊罰干 或云于伐飡 或云角干 或云角粲 或云舒発翰 或云舒弗邯
 二曰伊尺飡 或云伊飡
 三曰迊湌 或云迊判 或云蘇判
 四曰波珍飡 或云海干 或云破彌干
 五曰大阿飡 此至伊伐湌。唯眞骨受之。他宗則否。 
 六曰阿湌 或云阿尺干 或云阿粲 自重阿湌至四重阿飡
 七曰一吉飡 或云乙吉干
 八曰沙飡 或云薩飡 或云沙咄干
 九曰級伐湌 或云級飡 或云及伐干
 十曰大奈麻 或云大奈末 重奈麻九重奈麻
 十一曰奈麻 或云奈末 重奈麻七重奈麻
 十二曰大舍 或云韓舍
 十三曰舍知 或云小舍
 十四曰吉士 或云稽知 或云吉次
 十五曰大烏 或云大烏知
 十六曰小烏 或云小烏知
 十七曰造位 或云先沮知
 『三国史記』職官()によれば、蘇判迊飡(第三位)に相当する。
 日本紀私記は、を「」と同じだからカンと発音すべしという。しかしそれは無理だと思われる。
《難波宮治天下天皇》
 万葉歌では、天皇の統治を(万)0029〔柿本朝臣人麻呂〕天下 所知食之乎 あめのした しらしめししを」、 (万)4465〔大伴宿祢家持〕安米能之多 之良志賣之祁流 あめのした しらしめしける」などと表現する。
 「治天下」への書紀古訓「アメノシタシラシメス(白雉元年二月など)は、これを用いたもの。 しかし、この個所では字のままに「アメノシタヲヲサメタマフ」と訓まれている。
 大まかに言って、「シラスメス」という表現自体は柿本人麻呂の飛鳥時代から既に一般的だったが、書紀古訓〔奈良~平安前期〕において「治天下」に「シラシメス」を適用するかどうかは固定的ではなかったということであろう。
《巨勢稲持》
巨勢稲持  許勢臣稲持は、〈欽明〉元年八月難波祝津宮行幸に同行。
 〈欽明〉元年は540年。崩は三十二年〔571〕。 だから、〈欽明〉紀の許勢臣稲持は、金春秋とは全く時期が合わない。
 〈孝徳〉紀を見ると、大化五年四月に「於小紫巨勢徳陀古臣授大紫為左大臣」がある。巨勢稲持巨勢徳陀古の錯誤と見れば、一応成立する。 両者の名前は全く似ていないが、例えば巨勢氏の家伝において時代を超えて名前を混同したことはあり得るかも知れない。
 仮に巨勢大臣だったとすると、大臣は白雉二年に新羅攻撃を提案したが採用されなかったから、外交関係は継続していただろう。 したがって巨勢大臣が〈孝徳〉崩に伴い告喪使を新羅に送り、金春秋が対応したことはあり得なよう。
 岩波文庫版『日本書紀』(五)は、(〈天武〉十四年九月)の「巨勢粟持」の別表記「巨勢禾持」を書紀著者が「巨勢稲持」と書いたのではないかと推定する。 ただ、〈孝徳〉紀あるいは〈斉明〉紀に巨勢粟持(または禾持)の名前は見えないから判断のしようがない。
《翳飡金春秋》
 翳飡位は『三国史記』には見えない。
 金春秋の位階として書かれるのは、 『三国史記』善徳王十一年〔642〕冬。…遣伊飡金春秋於高句麗。以請」がある。 「難波宮治天下天皇」(〈孝徳〉)が崩じた年〔654〕は、金春秋が即位する年〔同年四月;武烈王〕にあたる。 よって翳飡伊湌〔第二位〕か。またはそのときすでに伊伐湌〔第一位〕に上がっていて、それが翳飡なのかも知れない。 ただ、の発音[エイ][イ]に近い。
 いずれにしても、蘇判〔第三位〕よりは高い。
《金薩儒》
一吉飡〔七位〕一覧金薩儒  〈天武〉二年閏六月十五日。弔先皇〔天智〕喪使
 これによって、〈天智〉のときよりも弔使の位階が低い〔級飡〔八位〕金道那〕ではないかと言って非難する。
《又新羅元来奏云》
 一見すると「又新羅元来奏云…詐求幸媚」の部分は、書紀による潤色のように見える。 「並舳不干檝…」は、以下に見るように倭国固有の伝統的な歴史観による物言いだからである。
 しかし、書紀の執筆時期は〈持統〉朝からそれほどの年月は経ていないから、概ね現実資料を用いたと見るべきであろう。 「巨勢稲持」の錯誤も、原資料に由来するかも知れないのである。
 よって、この部分は初めから詔内にあった言葉だが、ただその位置づけは単なる言葉の綾のようなものと思われる。
《並舳不干檝》
 「不干檝」、すなわち二つの船が舳〔へさき〕を並べ、檝〔かじ〕が乾くひまもなく頻繁に調を運ぶとかつての新羅は誓った。
 遡ると、神功皇后段では「毎年双船不船腹柂檝」と言った(第141回)。
 〈推古〉紀では八年条に「新羅任那二国遣使貢調」、「船柁、毎歳必朝」が見える。
 また、「双船」については〈推古〉三十一年条に次の件がある。
――「初磐金等度新羅之日、比及津、荘船一艘迎於海浦。磐金問之曰「是船者何国迎船」。対曰「新羅船也」。磐金亦曰「曷無任那之迎船」。 即時更為任那一船。其新羅以迎船二艘、始于是時歟。
 〔以前磐金らが新羅に渡った日、津に至った頃に荘船かざりぶねが海浦で迎えた。 磐金がこの船はどの国の船かと聞いたところ、新羅の船であると答えた。磐舟はなぜ任那の迎え船はないのかと聞いた。そこで任那の船を加えた。 新羅が迎え船を二艘にしたのはこのときに始まった〕
 この件では「二艘」は迎え船のことだが、 〈推古〉十八年に新羅使を二班に分け一方に任那使を装わせたことも併せて読めば、 調賦の「二艘の船」もまた、新羅の調船と任那の調船を意味するものとなろう。
 こうして〈推古〉の時代のことまで持ち出して、新羅は自らを「舳不檝奉仕之国」と称したではないかというのである。
《調賦与別献並封以還之》
 〈天武〉朝では高価かつ大量の調賦と別献が繰り返されてきた。
 今回「調賦与別献並封以還之」、すなわちすべて返すと言ったのは、そこに日本を自国に有利な方向に動かそうとする意図を見ていたからであろう。
 また、〈天武〉朝の豪華な献上品の中に仏像はなかったが、今回は阿弥陀三尊像が中心で、かつ学問僧が上送された。 これまで百済僧・高麗僧はしばしば登場したが、新羅僧は稀である。百済高麗出身僧が重要な部分を占める国内の仏教界にとっては、新羅に手を突っ込まれたことに反発が起こったことも考えられる。
 表向きの理由として弔使の位階の低さや船の数一艘を挙げてはいるが、本当の理由はこれらかも知れない。
 これ以後を見ると、六年十一月「進調」、九年三月「奏請国政、且進調献物」。 いずれも調献物の内訳は載らないので、極端に高価なものや仏像の類はもうなかったのではないか。 意向が伝わったのかも知れない。
《以還之》
 外交というものを常識的に考えれば、返還が実行されたとは考えにくい。 金道那が詔旨を本国でよく説明して理解を得るので、返還はそれまでお待ちくださいなどとうまく対応して、うやむやになったことも考えられる。
《然自我国家遠皇祖》
 皇祖スメロキと訓まれ、天皇家の祖先あるいはその血筋全体をいう。
 (万)2508皇祖乃 神御門乎 すめろきの かみのみかどを」などとあり、仮名書きは(万)4006須賣呂伎能 須久尓奈礼婆 すめろきの をすくになれば」が見える。
 さて、詔は続けて「然自我国家遠皇祖代広慈汝等之徳不〔そうはいっても、遠く皇祖のときから貴国を慈しんできた徳を絶やすべきではない〕と言って、叱責を緩和する。
 「其職任法度者天朝復広慈耳〔職任を修め法度を遵守してくれるなら、また広く慈しむのみ〕は「もし守ってくれれば~」と条件付けるよりは、むしろ「期待に応えて守ってくれるだろうから」という許容を示す意味合いであろう。
 結局、詔の本意は下心ある多大な調賦及び別献に不快感を示すところにあり、それにいくつかの名目的な理由付けをした上で、最後に礼儀として全体を友好の言葉でくるんだものと見做される。 実際、金道那らはいつもの使者と同じように〔""と書かれるところに若干の問題は残る〕と「賜物」を受けた上で帰国した。決して追放された訳ではない。
《奉宣汝王》
 書紀古訓は、「奉宣汝王」の「」を「タマヘ」と訓む。 ところが、タマヘは、尊敬語タマフ〔四段〕の命令形だから「」には合わない。 しかし謙譲〔実行者が下〕タマフ〔下二段〕もあるから、古訓は誤りとは言えない。
 ただ、命令形は四段活用ではタマヘ、下二段活用ではタマヘである。 よって、タマヘを採用する場合は頭の中で乙類だと意識すべきとなる。
《大意》
 五月二十二日、 土師宿祢(はにしのすくね)根麻呂(ねまろ)に命じて、 新羅の弔使級飡(きゅうさん)金道那(こんどうな)らに詔を伝えさせました。
――「太政官卿〔=長官〕らは勅を受けて奉宣する。
 〔持統〕二年、 田中の朝臣法麻呂(のりまろ)らを遣わして、 大行天皇〔天武〕の喪を面前で告げさせた。
 その時、新羅が言うには 『新羅が勅を承る人は、元来蘇判(そうばん)位を用いていて、 今また、あなたにも適用する。』と言った。 これにより、 法麻呂らは赴告の詔を宣ずることができなかった。
 もし前例を言うなら、 昔、難波宮に天下を知らしめた天皇(すめらみこと)〔孝徳〕が崩じた時には、 巨勢稲持(こせのいなもち)らを遣わして喪を告げた日に、 翳飡(えいさん)金春秋(こんしゅんじゅう)が勅を受けたことがあった。 よって、蘇判(そうばん)を用いて勅を承ると言うのは、 即ち前例を違(たが)えている。
 また、近江の宮に天下を知らしめた天皇(すめらみこと)〔天智〕が崩じた時には、 一吉飡(いつきつさん)金薩儒(こんさつぬ)らを遣して弔いを奉った。 よって今、級飡(きゅうさん)に弔いをさせたことは、 これも前例を違えている。
 また、新羅は元来奏上するに、 『我が国は、日本(やまと)の遠い皇祖の御代より、 〔二艘が〕舳(へ)先を並べて舵の乾くことなく、奉仕する国でありました。』と奏上した。 よって、今一艘だけで来たことは、また故典〔=昔からのきまり〕を違えている。
 また〔新羅の〕奏上するに、 『日本(やまと)の遠い皇祖の御代より、 清白な心で奉仕してまいりました。』と奏上した。 しかし、忠を竭(つ)くして元の職を述べ挙げようとは思わず、 清白を傷つけ、偽って幸〔=利益〕を求め媚びた。
 その故に、 調賦及び別献されたものはともに封をして還す。 とはいえ、我が国家が遠い皇祖の御代に、 広くあなた方を慈しんだ徳は、これを絶やすべきではない。
 よって、いよいよ勤め、いよいよ謹しみ、戦々兢々(せんせんきょうきょう)として、 その職の任を修め法度に遵(したが)うなら、 天朝は再び復広く慈しみしよう。 あなた道那(どうな)たちは、 その勅旨を承りあなたの王に宣べよ。」


まとめ
 三年五月詔のうち「並舳不干檝」の段落については、はじめに読んだときには書紀が挿入して潤色したように思われた。 その言葉は神功皇后段・紀や〈推古〉紀に見られるものだからである。
 しかし、既に〈持統〉朝の頃にはこの言葉を使った何らかの言い伝えや文書が存在していたであろう。 それは持統三年〔689〕と古事記の成立〔712〕との間が、僅かに23年間だからである。
 よって、この詔に最初からこの段落が含まれてとしても、それほどの無理はない。 そしてこの文章なら、言いたいことは概ね伝わったであろう。ただ、二艘のうち一艘はもともと任那の調船を称したものだったことは知られていなかったと思われる。



2025.12.09(tue) [30-06] 持統天皇6 

12目次 【三年六月】
《賜衣裳筑紫大宰等》
六月壬午朔。
賜衣裳筑紫大宰等。
賜衣裳…〈内閣文庫本〔以下閣〕衣裳 キモノ テ
大宰等…〈北野本〔以下北〕大宰
六月(みなづき)壬午(みづのえうま)の朔(つきたち)。
衣裳(きぬはかま)を筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)等(ら)に賜ふ。
癸未。
以皇子施基
直廣肆佐味朝臣宿那麻呂
羽田朝臣齊【齊此云牟吾閉】
勤廣肆伊余部連馬飼
調忌寸老人
務大參大伴宿禰手拍
與巨勢朝臣多益須等
拜撰善言司。
皇子施基…〈北〉/ムコヘ勤◱廣◱肆◱伊余部調忌寸
 務◱大◱參◰大伴宿祢牟-ウチ メス キツカサ
〈閣〉皇子施宿 スク麿オキテ
〈釈紀〉宿スク麻呂マロムコヘヘノムラシ馬飼ウマカヒ調ツキノ忌寸イムキ老人オキナウテ
 メス エラフ善言ヨキコト ツカサニ
〈兼右本〉手-ウチ多-益-須ヤカスエラヒ

直広肆諸臣四十八階の第15位。
勤広肆…同第24位。
務大参…同第29位。

癸未(みづのとひつじ)。〔二日〕
皇子(みこ)施基(しき)
直広肆(ぢきくわうし)佐味朝臣(さみのあそみ)宿那麻呂(すくなまろ)
〔直広肆〕羽田朝臣(はたのあそみ)斉(むごへ)【斎此を牟吾閉(むごへ)と云ふ】
勤広肆(ごんくわうし)伊余部連(いよべのむらじ)馬飼(うまかひ)
〔勤広肆〕調忌寸(つきのいみき)老人(おきな)
務大参(むだいさむ)大伴宿祢(おほとものすくね)手拍(てうち)
与(と)〔務大参〕巨勢朝臣(こせのあそみ)多益須(たやかす)等(ら)を以ちて
善言(よきこと)を撰(えら)ふ司(つかさ)を拝(をほ)す。
庚子。
賜大唐續守言
薩弘恪等
稻、各有差。
続守言…〈北〉続◲守◰言。 〈閣〉
〈釈紀〉大唐モロコシノ續守言ゾクシウゲム薩弘恪サツコウカク
庚子(かのえね)。〔十九日〕
大唐(だいたう、もろこし)の続守言(ぞくしうげん)
薩弘恪(さつこうかく)等(ら)に
稲を賜ふこと、各(おのもおのも)差(しな)有り。
辛丑。
詔筑紫大宰粟田眞人朝臣等、
賜學問僧明聰
觀智等
爲送新羅師友、
綿各一百四十斤
筑紫大宰… 〈閣〉大宰粟田真人朝臣等観智 カ為-送 オクリノ  ノ師-友 トモニ 
〈北〉為◳送新羅師-トモ。 〈兼右本〉師-友 トモ 
…[助数詞] 質量。1斤=約227g(《銅二万三千斤…》)。
辛丑(かのとうし)。〔二十日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)粟田(あはた)の真人(まひと)の朝臣(あそみ)等(ら)に詔(みことのり)のりたまひて、
学問(ものならふ)僧(ほふし)明聡(みやうそう)
観智(くわんち)等(ら)に
新羅(しらき)の師(ほふし)の友(とも)に送らむが為(ため)に、
綿(わた)各(おのもおのも)一百四十(ももあまりよそ)斤(はかり)を賜(たま)ふ。
乙巳。
於筑紫小郡、
設新羅弔使金道那等、
賜物各有差。
設新羅弔使…〈北〉設新アヘタマフ。 〈閣〉 コト
乙巳(きのとみ)。〔二十四日〕
[於]筑紫(つくし)の小郡(をごほり)に、
新羅(しらき)の弔使(とぶらふつかひ)金道那(こむどうな)等(ら)に設(まう)けて、
物(もの)賜(たまはること)各(おのもおのも)差(しな)有り。
庚戌。
班賜諸司令一部廿二卷。
令一部…〈北〉令一部ノリノフミ トモ廿二卷。 〈閣〉ノリノフミ トモ
〈釈紀〉-賜アカチタマフ ツカサ\/司令ニノリフミ一部ヒトゝモ廿ハタチアマリ二卷フタマキ
とも…[助数詞] 書物、経巻。
庚戌(かのえいぬ)。〔二十九日〕
諸司(もろもろのつかさ)に令(のりのふみ)一部(ひととも)二十二巻(はたあまりふたまき)を班(あ)かち賜(たま)ふ。
《筑紫大宰》
 このときの筑紫大宰は、粟田真人朝臣
《撰善言司》
施基皇子  芝基皇子は、〈天武〉八年、吉野の盟約に参加。霊亀二年〔716〕」。
佐味朝臣宿那麻呂  佐味君は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。 宿那麻呂は、〈壬申〉において飛鳥寺西営での勝利を不破宮に報告した。
羽田朝臣斉  羽田公は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜った。波多君参照。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕十月「以…直広参波多朝臣牟後閉周防総領」。
 大宝元年〔701〕六月「正五位上波多朝臣牟胡閉…任造薬師寺司」。
伊余部連馬飼  〈姓氏録〉:〖神別/天神/伊与部〔無姓〕/高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也〗〖神別/天孫/伊与部〔無姓〕/〔(尾張連と同じく)火明命五世孫武礪目命之後也〕
 〈姓氏家系大辞典〉:「伊与部:伊予国造家私有の部曲裔ならんか。…伊予部を管理せし氏なるべし」。 「伊与部連:前項伊予部の連姓を賜へる者なり。承和十二年〔835〕二月紀」に「伊予部連家守」の名前。「伊与部が連姓を賜ひし事、史に漏る〔=六国史には載らない〕」。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕六月「勅…直広肆伊余部連馬養…等。撰-定律令。賜禄各有」。
 大宝元年〔701〕八月「遣…伊余部連馬養等、撰定律令。於是始成。…仍賜禄有」。
 大宝三年〔703〕二月「詔:…等四人。預-定律令宜議功賞。於是…従五位下伊余部連馬養之男。〔賜〕田六町封百戸。其封戸止身。田伝一世〔封戸は一代限り。田は子の代まで〕
調忌寸老人  『坂上系図』:「阿智王―都賀使王―爾波伎直【姓氏録曰。弟原爾波伎是也。…調忌寸…等八姓の祖也】」。 すなわち坂上大忌寸が率いた倭漢(やまとのあや)の一族。阿智使主を祖とする(《坂上大宿祢》)。
 〈姓氏家系大辞典〉「調 ツキ ミツキ シラベ デウ」、 「調忌寸〔(檜前)調使、(高向)調使〕と同族也」。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕六月「勅…直広肆調伊美伎老人等。撰-定律令。賜禄各有」。
 大宝元年〔701〕八月辛酉「詔:贈従五位下調忌寸老人正五位上。以撰律令〔※…死後の追贈〕
 大宝三年〔703〕二月「詔:…等四人。預-定律令宜議功賞。於是…贈正五位上調忌寸老人之男。〔賜〕田十町封百戸。其封戸止身。田伝一世」。
 延暦四年〔785〕六月「坂上、内蔵、平田、大蔵、文、調、文部、谷、民、佐太、山口等忌寸十一姓十六人賜宿祢」。
大伴宿祢手拍  大伴連は、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った。
〈続紀〉:〈文武〉二年〔698〕十一月「己卯。大嘗。…直広肆大伴宿禰手拍楯桙」。 慶雲二年〔705〕五月「正五位下大伴宿祢手拍尾張守」。
 和銅元年〔708〕三月「以…正五位上大伴宿祢手拍造宮卿」。 和銅二年〔709〕正月「授…正五位上大伴宿禰手拍…並従四位下」。
 和銅六年〔713〕九月「丁丑。造宮卿従四位下大伴宿祢手拍」。
巨勢朝臣多益須  和銅三年〔710〕大宰大弐従四位上」として「」。
《善言》
 「善言」中国の典籍『古今善言』に倣って編まれたとされる。
 坂本太郎博士還暦記念会 編『日本古代史論集』上巻〔吉川弘文館1962〕によると、 「古今の典籍から善言を捃摭して、子弟を教育するための書物」で、 「劉宋の范泰(355年生。428年没)は、「博-覧篇籍、好為し2文章、愛後世、孜孜無倦」といはれ、 「古今善言二十四篇」を撰した」という。逸書であるが、書名は次に見える。
 ・『隋書』巻三十四/志二十九/経籍三/子「『古今善言』三十卷宋車騎將軍范泰撰」。
 ・『旧唐書』巻四十七/志第二十七/経籍下「『古今善言』三十卷範泰撰」。
 ・『新唐書』巻第四十九/芸文三「範泰『古今善言』三十卷」。
 逸文としては、『水経注』巻三十六/温水「范泰『古今善言』曰:日南張重、挙計入洛、正旦大会。明帝問"日南郡北向視日邪"…」などが見える。
 〈持統〉朝の『善言』は結局完成を見なかったようである。ただ、そのために集められた逸話のいくつかが書紀に取り入れられたと言われる。
《続守言/薩弘恪》
続守言  〈天智〉二年二月に百済戦線で俘虜となり、倭国に送られた。 〈持統〉五年九月「音博士大唐続守言薩弘恪…銀〔一〕人廿両」。六年十二月「音博士續守言、薩弘恪、水田〔一〕人四町」。
薩弘恪  続守言とともに音博士。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕六月「勤大壱薩弘恪…撰-定律令。賜禄各有」。
 音博士は、「儒学の書物をそのまま中国音で正しく音読することを教授する役職…経書を、和音(呉音)ではなく、 当代の中国音…で読むことが求められ、大学寮において音道として習う…そのために中国語のネイティブを雇う必要があった」とされる(『日本漢字全史』沖森卓也;筑摩新書2024)。
《筑紫大宰粟田真人朝臣》
粟田朝臣真人 三年正月に隼人や布などを献上した。
明聡 三年四月に学問僧として新羅から上送された。
観智 同上
《為新羅師友
 新羅の「師友」を見れば、明聡観智はやはり新羅人か。 しかし、やはり日本人の学問僧で、唐からの帰国の途上で帰国を助けてくれた新羅僧にお礼がしたいと言ったという考え方もあり得る。
《設新羅弔使金道那》
金道那  三年四月壬寅「奉弔瀛眞人天皇喪」。五月甲戌に叱責の詔を承る。六月乙巳「筑紫小郡」で「〔饗〕」、「賜物」。七月壬子朔「罷帰」。
 ""を""に作れば、新羅使へのいつもの接遇と同じ。よって、書紀古訓はアヘタマフと訓む。 しかし五月詔で厳しく非難した手前、使者は追放されたと描きたい。よって「」を用いたのは、事実上の""だが正式ではないという意味かも知れない。
 だが、次に「賜物各有差」があるから頭隠して尻隠さずである。三年五月詔の厳しい言葉はやはり格好だけだったのだろう。
《筑紫小郡》
 現在の小郡市に「小郡官衙遺跡」(福岡県小郡市大字大板井字向築地)がある。遺跡からは「溝の中から千本以上の鉄製の鏃が出土」し、 「7世紀末から8世紀前半の第2期には、溝に囲まれた一辺240mの区画の中に建物…役所の政務を行う「庁舎」、役人の宿舎である「官舎」、税として取り立てた米を蓄える「倉庫」…が計画的に配置されていた」という ([小郡市公式/小郡官衙遺跡群 小郡官衙遺跡])。
 一方、『日本古代の道と駅』〔吉川弘文館2009〕は、同遺跡を〈持統〉紀の「「筑紫小郡」に当てる考えもあるが、筑紫小郡は博多湾側に設けられたとの見方が有力で、この遺跡では使節をもてなすときに使用される土器類は殆ど出土していない」と述べる。
 接待施設が大宰府から見ても奥まったところにあったとするのは、確かに理解し難い。 筑紫の接待施設としては、鴻臚館跡が発見されている。 その辺りとすることも考えられるが、ただそこが「筑紫小郡」だったとする資料はなかなか見つからない。
《令一部二十二巻》
 十年二月には律令の撰定が行われつつあったことを見える《定律令改法式》
 「令一部二十二巻」は令の部分に一応のまとまりを見たものと考えられ、これが「浄御原令」という学術用語で呼ばれている。
 五年正月条では「凡任国司者…」が令の書式であることを見た。 よって五月雨式に発布された詔が、「令」の一部になったことも考えられる。ただ、大化年間の改新詔の条文には、『令義解』に繋がる初期的な表現が見えるので、 骨子は改新詔⇒近江令⇒浄御原令⇒大宝令⇒養老令の順に改正深化されていったと見るべきであろう。
 〈続紀〉大宝元年八月条にある「大略以浄御原朝庭准正」もその流れを示すものと言えよう。
《大意》
 六月一日、 衣裳を筑紫の大宰(おおみこともち)らに賜りました。
 二日、 皇子施基(しき)、 直広肆(じきこうし)佐味朝臣(さみのあそん)宿那麻呂(すくなまろ)、 同位羽田(はたの)朝臣斉(むごへ)、 勤広肆(ごんこうし)伊余部連(いよべのむらじ)馬飼(うまかい)、 同位調忌寸(つきのいみき)老人(おきな)、 務大参(むだいさん)大伴宿祢(おおとものすくね)手拍(てうち)、 そして巨勢(こせ)の朝臣多益須(たやかす)らを、 善言(よきこと)を撰ぶ司(つかさ)に任命しました。
 十九日、 大唐の続守言(ぞくしゅうげん)、 薩弘恪(さつこうかく)らに それぞれに応じて稲田を賜りました。
 二十日、 筑紫の大宰(おおみこともち)粟田の真人の朝臣らに詔され、 学問僧明聡(みょうそう)、 観智(かんち)らに 新羅の師友に送るための、 綿各一百四十斤を賜らせました。
 二十四日、 筑紫の小郡(おごほり)に、 新羅の弔使金道那(こんどうな)らに饗を設けて、 それぞれに応じて物を賜りました。
 二十九日、 諸司に令一部二十二巻を配布されました。


13目次 【三年七月~八月】
《新羅弔使金道那等罷歸》
秋七月壬子朔。
付賜陸奧蝦夷沙門自得
所請
金銅藥師佛像
觀世音菩薩像各一軀

娑羅寶帳
香爐
幡等物。
付賜…〈北〉 サツ-賜。 〈閣〉自◱得◲音読
〈釈紀〉沙門ホウシ自得シトク藥師ヤクシホトケノミカタ娑羅サラ私記曰音讀寶帳ホウチヤウ香爐カノロ
〈兼右本〉サツケ-賜娑羅六字音讀
秋七月(ふみづき)壬子(みづのえね)の朔(つきたち)。
陸奧(みちのおく)の蝦夷(えみし)の沙門(ほふし)自得(じとく)が
所請(こひまつれる)
金銅(こむどう)の薬師仏(やくしほとけ)の像(みかた)
観世音(くわんぜおむ)菩薩(ぼさつ)の像(みかた)各(おのもおのも)一躯(ひとはしら)
鍾(かね)
娑羅(さら)
宝帳(ほうちやう)
香炉(かうろ)
幡(はた)の等(たぐひ)の物を付賜(さづけたまふ)。
是日。
新羅弔使金道那等罷歸。
是(この)日。
新羅(しらき)の弔使(とぶらふつかひ)金道那(こむどうな)等(ら)罷(まか)り帰(かへ)る。
丙寅。
詔左右京職及諸國司、
築習射所。
左右京職…〈北〉京職ミサト イクサ。 〈閣〉左右ヒンカシ ニシ シムイクサ ヲ
〈兼右本〉諸-国クニ\/イクサ
丙寅(ひのえとら)。〔十五日〕
左右(ひむがしにし)の京(みさと)の職(つかさ)及びに諸(もろもろ)の国の司(すかさ)に詔(みことのり)たまひて、
射(いくひ)を習(なら)ふ所(ところ)を築(つく)らしむ。
辛未。
流偽兵衞河内国澁川郡人柏原廣山
于土左國、
以追廣參
授捉偽兵衞廣山兵衞生部連虎。
流偽兵衛…〈北〉偽兵衛カスヰノトネリカスヰ兵衞トラヘタルカスヰノ兵衛
〈釈紀〉澁川シフカハノコヲリノヒト柏原カシハハラノ廣山ヒロヤマ生部イクヘノムラシトラ
〈兼右本〉カスイノ兵-衛トネリトラヘタル

かそぶ…[他]バ四 盗む。奪う。カスムとも。〈時代別上代〉「日本書紀の古訓からカスウという語もあったかと思われるが、カソブやカスムとの関係は未詳」。
追広参諸臣四十八階の第38位。

辛未(かのとひつじ)。〔二十日〕
偽(いつはれる)兵衛(つはもののとねり)河内国(かふちのくに)の渋川郡(しぶかはのこほり)の人柏原(かしははら)の広山(ひろやま)を
[于]土左国(とさのくに)に流す、
追広参(ついくわうさむのくらゐ)を以ちて
偽(いつはれる)兵衛(つはもののとねり)広山を捉(とら)へし兵衛(つはもののとねり)生部連(いくべのむらじ)虎(とら)に授(さづ)けたまふ。
甲戌。
賜越蝦夷八釣魚等、各有差
【魚此云儺】。
八釣魚…〈閣〉ツリメウヲ
甲戌(きのえいぬ)。〔二十三日〕
越(こし)の蝦夷(えみし)八釣魚(やつりな)等(ら)に賜ふこと、各(おのもおのも)差(しな)有り。
【魚此を儺(な)と云ふ】。
秋八月辛巳朔壬午。
百官會集於神祗官而、
奉宣天神地祗之事。
辛巳朔壬午…〈北〉辛巳朔百官會-集マウ ウコナハ。 〈閣〉マウ ウコナハリ
神祇官…〈釈紀〉神祇官カウツカサ
秋八月(はつき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として壬午(みづのえうま)。〔二日〕
百官(もものつかさ)[於]神祇官(かむつかさ)に会集(うごなは)りて[而]、
天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)之(の)事を奉宣(のべたてまつる)。
甲申。
天皇幸吉野宮。
甲申(きのえさる)。〔四日〕 天皇(すめらみこと)吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
丙申。
禁斷漁獦
於攝津國武庫海一千步內、
紀伊國阿提郡那耆野二萬頃、
伊賀國伊賀郡身野二萬頃。
置守護人、
准河內國大鳥郡高脚海。
禁断…〈閣〉禁- ノ 漁- ス  コトヲテノ郡那 ノ野二万 ニ
〈兼右本〉-断イサメヤム漁-獦スナトリカリスル加イ乍國伊加イ乍
那耆野二萬頃…〈北〉二万シロ守護 モリ -人 アシ
〈閣〉タカ シノ ニ
丙申(ひのえさる)。〔十六日〕
[於]摂津国(つのくに)の武庫(むこ)の海(うみ)の一千歩(ちあし)の内(うち)、
紀伊国(きいのくに)の阿提郡(あてのこほり)の那耆野(なぎの)の二万頃(ふたよろづしろ)、
伊賀国(いがのくに)の伊賀郡(いがのこほり)の身野(みの)の二万頃(ふたよろづしろ)に
漁(すなどり)猟(かり)することを禁断(いさめや)めしむ。
守護人(もり)を置くこと、
河内国(かふちのくに)の大島郡(おほしまのこほり)の高脚(たかし)の海(うみ)に准(なそ)ふ。
丁酉。
賞賜公卿各有差。
丁酉(ひのと)。〔十七日〕
公卿(まへつきみ)たちを賞(ほ)め賜(ものたまはること)各(おのもおのも)差(しな)有り。
辛丑。
詔伊豫總領田中朝臣法麻呂等
曰、
「讚吉國御城郡所獲白䴏、
宜放養焉。」
総領…〈北〉捴-領 スヘ ヲサ法麿 ホム 讃𠮷野-御城郡-燕-鳥ツハクラメ宜イ-養焉
〈閣〉白-䴏シロキ  ツハクラメ 
〈兼右本〉ホム-麻-呂讚-𠮷サノキ所- エタルシロキ-䴏ツハクラメヘシ ク
辛丑(かのとうし)。〔二十一日〕
伊予(いよ)の総領(すぶるかみ)田中朝臣(たなかのあそみ)法麻呂(のりまろ)等(ら)に詔(みことのり)のりたまひて
曰はく、
「讃吉国(さぬきのくに)の御城郡(みきのこほり)が所獲(え)てある白(しろき)燕(つばめ)は、
宜(よろ)しく放(はな)ち養(やしな)ふべし[焉]。」とのりたまふ。
癸卯。
觀射。
観射…〈北〉觀-射 イクサ 。 〈閣〉観- イクサス イクヒ
癸卯(みづのとう)。〔二十三日〕
射(いくひ)を観(みそなは)す。
《陸奧蝦夷沙門自得》
《城養蝦夷脂利古》に続けて、 縁辺地域での仏教化の振興が進む。国家の支配域に本格的に組み込むための重要な営みであろう。
自得 ここだけ。正月に脂利古が息子たちを出家させた話から繋がるとすれば、麻呂または鉄折の戒名の可能性がある。
《金銅薬師仏像/観世音菩薩像》
 「薬師仏像」は、言葉としては初出。ただ〈天武〉九年十一月に建造が始まった薬師寺では当然薬師如来像が本尊であろう。
 観世音菩薩像については、朱鳥元年七月に〈天武〉のために「観音像」が造られたとある。
《娑羅》
 沙羅は沙羅双樹の略だが、ここでは仏殿の調度品であるから文脈に合わない。
 〈倭名類聚抄〉「鈔鑼:唐韻云鈔鑼【二音与沙羅同。俗云沙布羅。今案或説云新羅金椀。…】銅器也〔鈔鑼二音は沙羅と同じ。俗にサフラという。今案ずるに、ある説に新羅の金椀という…〕が見え、 すなわち沙羅と発音を同じくする「鈔鑼」があった。その和名「沙布羅」は「佐波理〔さはり〕」と同じと考えられている。
 佐波理(響銅砂張)は淡黄色の銅合金で、銅80%、錫20%が標準で、 正倉院には重鋺・皿・匙・水瓶・合子などの「佐波理」製品が伝わるという (『金属博物館紀要』(15)〔日本金属学会附属金属博物館1989〕)響銅はその美しい音による呼び名と見られ、仏具のリンに使われる。
 よって娑羅は、「鈔鑼」の一表記と見るのが順当であろう。
《宝帳》
 「宝帳」は所蔵宝物を記録した書の如くだがここには合わず、仏像安置の区域などを仕切る装飾的な(とばり)と考えられる。
 仏殿の調度品の名称としては「舎利宝帳」が見える。これは「陝西省臨潼県新豊鎮慶山寺址(開元二九年〔741〕)」からの出土品である([平成10年度神戸市立博物館年報])。 布製の帳を模した石造容器で、高さ102cm、内部に舎利容器を納置するという([舎利宝帳])
《金道那》
金道那 上述
《左右京職》
 書紀の執筆は藤原京の時代にかかっているから、その時点では左京右京の呼称が生まれているだろう。それを、修辞法的な表現として用いたと考えられる。
《習射所》
 〈天武〉十三年閏四月に詔があり「凡政要者軍事也」だから「文武官諸人務習用兵及乗馬」と勧められた。 相変わらず新羅を警戒する必要があり、また内乱が起っても文武官が一丸となって実力で制圧できるように普段から備えを固めておけというのである。
 その一環として、弓術の習得が奨励されたと見られる。
《偽兵衛》
 兵衛は〈倭名類聚抄〉「兵衛府【由介比乃豆加佐】」に属する。書紀古訓では「トネリ〔舎人〕と訓む。たしかに兵衛は兵衛府の舎人であるが、これだけでは兵衛府に所属することが消えてしまう。 由介比(ユケヒ)がよさそうに思えるが、これは弓矢をもって仕えた古い職業部を指す言葉なので意味がずれる。「ゆけひのつかさのとねり」とすれば正確だが、長すぎるのが難である。
 「」の書紀古訓「カスイ」は辞書にない語である。おそらくは掠(カス)ムから変じたカスウの連用形と考えられる。
 「偽(にせ)」という意味からは、兵衛府に採用もされていないのに紛れ込んだ者と読める。しかし、それだけなら追放すれば済む程度のこと、敢えて流罪に処す必要はない。
 おそらくはことはもう少し悪質で、私党を率いての反乱、または悪巧みが露見したのであろう。「偽-」は、「表向きは忠実な兵衛を装うが実は犯罪者である」という意味かと思われる。 それにしても言葉足らずの感は否めない。
柏原広山  〈姓氏家系大辞典〉「河内の柏原氏:志紀の柏原邑より起りしか。…物部氏の族ならんか」。
 『五畿内志』河内国志紀郡に「村里:柏原【属邑二】」とあり、かつ「渋川郡」が志紀郡に隣接しているからと見られる。 「物部氏の族」ということに関しては、〈姓氏録〉に〖柏原連/同上〔伊香賀色雄男大水口宿祢之後也〕が見える。 伊香色雄命は物部氏宇摩志摩治命の六代孫である(資料[39])。
 広山はここだけ。
《以追広参授》
 「生部連虎」には爵位を授けてその功を称えている。「柏原広山」がやらかしたことは相当悪質だったのだろう。
生部連虎  〈姓氏家系大辞典〉「生部」の項では壬生を見よというのみで、生部や生部連の説明はない。 よって、壬生部〔皇子の養育部〕の別名かどうかも分からない。
 ただ、氏族としての存在感はあり、氏人に 「常陸国人生部連広成特授従八位下〔『日本後紀』延暦二十四年〔805〕七月丁亥条〕。が見える。
 かばね違いの〈続紀〉天応元年〔782〕三月戊辰「従六位上生部直清刀自」がいる。
 はここだけ。
 〈皇極〉三年七月に「大生部〔無姓〕、 神亀元年〔724〕二月に「大生部直三穂麻呂」が見える。上記天応元年に「行部直」がいるから、両者は一応別族と見られる。
《八釣魚》
八釣魚 ここだけ。
《神祇官》
 官は神祇官と太政官に大別される(資料[24])。
《幸吉野宮》
 前回の正月十八日から七か月足らずである。今回は帰京の記事が無い。
《禁断漁猟》
 いわゆる禁野にあたると考えられている。 禁野は「皇室の御猟場として一般の狩猟を禁止した原野で、標野(しめの)ともいう」(『国史大辞典』〔吉川弘文館1979〕)。
 この段では野二か所に海一か所が混ざっているが、ともに禁断とされる。 
《摂津国武庫郡》
 神功皇后紀に、武庫郡広田神社務古水門が出てきた (《広田国》以下)。
 〈孝徳〉天皇は大化三年十二月に「武庫行宮」に滞在した。
《海一千歩内》  『令義解』巻十「雑令第三十」
・「凡度:十分為寸。十寸為尺。一尺二寸為大尺一尺十尺為〔1寸=10分。1尺=10寸。1丈=10尺。(大尺)1尺=(通常の尺)一尺二寸〕
・「凡度地:五尺為歩。三百歩為里〔1歩=5尺。1里=300歩〕
 『令義解』巻三「田令第九」
 「凡田:長卅歩広十二歩為段。十段為
  〔およそ田は:長さ三十歩、広さ十二歩を段とす。十段を町とす〕
 よって、1町(面積)=30×12×10=3600歩
 これを五行二列に並べると、一辺60歩の正方形になる。
 ここから1町(長さ)=60歩が推定される。
 歴史的に長さ「1町=60歩」は確定しているが、『令義解』から読み取ろうとするとやや複雑である()。
 この条里の痕跡は現代でも広範に残っており、その一辺は概ね108mである 資料[45]《他田庄》
 よって、1歩=108m÷60=1.8m。これは正倉院尺(≒0.3m)の6尺に相当する。 すると雑令でいう「五尺為」の「」は、大尺と読まなければならない。
 それでは、大宝令以前の1歩はどれほどか。 〈時代別上代〉はそれを高麗尺の6尺〔=2.16m〕と述べるが、大宝令を境に田の単位面積が急に変わったとは考えにくい。 令前において、唐尺による「一歩=六尺」が既に定着しており、 大宝令においては一歩の実サイズを変えず、高麗尺によって表し直されたと考えるのが自然ではないだろうか。
 なお、ここでは「海一千歩内」は大雑把な表現だから、1歩=1.8mか1歩=2.16mかは、それほど問題にはならない。 海岸から沖へ向かって2km内程度の海域の意味であろう。
《紀伊國阿提郡那耆野》
『和歌山県有田郡誌』巻頭地図 は半径385mの円;面積二万頃に相当
有田川町天満(大字)の地勢
 阿提あて有田郡の旧称である。 『日本後紀』巻十四大同元年〔806〕七月戊戌「紀伊国安諦郡在田郡。以詞渉天皇諱」と明記される。 すなわち避諱ひきによって、郡の名が改められた。〈平城〉天皇〔在位806~809〕いみなを安殿(あて)という。
 「那耆野」は〈倭名類聚抄〉{紀伊国・有田郡・奈郷郷}か。奈郷の訓みはナゴであろう。
 『大日本地名辞書』は「和名抄、在田郡奈耆郷。書紀通証は那耆なるへしと云ふ、今之に従ふ」、 「按に奈耆郷は今の宮崎村田栖川村に当る如し」という。  『和歌山県有田郡誌』〔和歌山県有田郡編;1915〕〔以下〈郡誌〉〕を見る。 その「藤並村」項には、 「椰野ナギノサト: 天満に字椰野里【二十一番小字小橋本の西に続く東西五十六間南北十五間】あり、野田に字椰【七番小字今城の南に続く東西一町余南北亦同】あり、 地相近く、藤並神社に〔そ〕ひ田畑宅地あり。…那耆野は此地方より北有田川に至る一帯の地を指せるものならん」とある(p.399)。
 ここで字椰野里があるという「大字天満」は、藤並村に含まれる。 〈郡誌〉の「人文誌/奈耆郷」編では、奈耆郷を田殿村として、 「田殿村川南の平野総段別」は「日本紀に所那耆野二万頃」に合い、 「蓋し那耆郷は那耆野と有田川北なる那虞耶峰附近の村落を総称せるものならんか」 そして、湯浅村の西の海を那耆海とする説は「高脚海」と混同したことによる誤りとする(pp.78~79)。
 藤竝ふじなみ神社には「泣沢女の古墳」があり、〈斉明〉建皇子の墓と伝わる([和歌山県神社庁/藤竝神社])。 〈郡誌〉は「今城岡の古墳〔=泣沢女の古墳〕あり。是即皇孫の墳なりとぞ。憶ふに後持統天皇が此地方の漁猟を禁断せられしは蓋し之れが為ならんか」と述べる(p.400)。 ただし、発掘調査では「人歯が出土しており、被葬者は12歳前後の女性」と考えられるという([有田川町公式]/[藤並神社・泣沢女の古墳])。
 [和歌山県神社庁オフィシャルサイト]によると、藤竝神社の創始は〈政務〉の勅命により「武内宿祢が勅命を奉じて、水主神を勧請」したことで、 有馬皇子が紀伊国を訪れた際(〈斉明〉三年)にここで弊を俸げ、「翌年の秋天皇が牟漏温泉へ行幸の〔みぎり〕、弊帛を奠じ給い神戸田を殖された」と伝わるという(〈斉明〉四年参照)藤竝神社は式外社ではあるが、由緒や前方後円墳の存在から古い歴史が窺われる。
 地形図を見ると、天満(大字)は有田川の氾濫原からやや離れた平原に「二万頃」は確保できそうである。また字「椰野里」は那耆野の遺称であろう。 さらに〈郡誌〉に見る現地の直感も重視され、そこに〈斉明〉に纏わる古い伝承も考え合わせると、那耆野大字天満の地域にあったことは十分に考えられる。
《二万頃》
 は面積の単位で、と同じ。1代=7.2歩、1歩=3.24m(「1代(しろ)」)。
 よって20,000頃=144,000歩=466,560m。 1辺683mの正方形、または半径385mの円の面積にあたる。
美濃波多村(伊賀国伊賀郡) 美旗地区の古墳分布図
〔『名張の歴史』上巻(p.35)〕
《伊賀国伊賀郡身野》
 『大日本地名辞書』は「身野は今美濃波多村〔けだし〕是なり」、 「身野即ち禁野にして、薦原古山花垣に誇れる御料地なりけん」と述べる。
 〈安寧〉段に「〔皇子〕師木津日子命之子二王坐。一子孫者【伊賀須知之稲置。那婆理之稲置。三野之稲置之祖】」、 すなわち〈安寧〉皇子木津日子命の子のうち一子は、伊賀国の三野稲置の祖とされる (第103回)。
 『名張の歴史』上巻〔中貞夫 著;名張地方史研究会1960〕は、 「字義どおり、皇室の猟場として使用するためだったろうかというに、…古墳群を保護するために一般の狩猟を禁じたものと解釈したい」(p.43)、 「古代からの原野で、…江戸時代になっても、この原野の状態が続いていた…のは、古墳群の存在によって開墾の鍬を入れることが伝統的に畏怖されてきたのではなかろうか」(p.345)と述べる。 「古墳群」には、馬塚(前方後円墳);墳丘長160m・倍塚2基。女良塚100m、殿塚130mなどがある。
 以上のように身野美濃波多村にあったとするのが、一般的理解である。 ただ常に典拠を挙げる『日本歴史地名大系』〔平凡社2004〕でも、 名張市(中村)においては「古くから身野・三野とよばれた早期開発地域であったと思われる●●●●」というのみだから、歴史的地名の継続性などの直接的な手がかりはないようである。
《河内国大鳥郡高脚海》
 大鳥郡は和泉国の郡だが、和泉国はまだ存在せず河内国に属した(【河内茅渟】)。
 (万)0066太上天皇幸于難波宮時歌大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 おほともの たかしのはまの まつがねを」がある。
 また、『金葉和歌集』恋下469「音にきく たかしの浜の あだ波は」、 『古今和歌集』915「沖つ波 たかしの浜の 浜松の」(紀貫之)と詠まれている。
 〈延喜式-神名〉:{大島郡/高石神社}、比定社「高石神社〔大阪府高石市高師浜4-1-19〕もあり、由緒ある海岸である。
《伊予総領》
高石神社 (河内国大鳥郡)
 〈続紀〉文武四年〔700〕十月己未」に 「筑紫総領」、「大弐」、「周防総領」、「吉備総領」が任命されている。 「大弍」は大宰の次官だから、「筑紫総領」が筑紫大宰の別名であるのは確実である。 よって、総領は複数の国を総括的に監督する職と見られる。
 伊予総領の管轄範囲には少なくとも讃岐国が含まれていたことが、讃岐国のことを伊予総領に命じたことから読み取れる。 あるいは四国全域を管轄していたのかも知れない。
 西日本特有であるから、軍事に広域的に即応するための体制と推定される。 〈文武〉四年を最後として、〈倭名類聚抄〉・〈延喜式〉には見えないので早い時期に廃止されたと思われる。
 書紀古訓は「スベヲサ」と読む。長を一般的に表すヲサをあてたと思われる。 四等官制によることにすれば長官はすべてカミだから、総領はスベカミとなる。皇神と同じに見えるが、 上代特殊仮名遣いでは「神:カミ」、「長官:カミ」の区別がある。
《田中朝臣法麻呂》
田中朝臣法麻呂  元年正月に、告喪使として新羅に派遣。三年正月八日に帰国。
《讃吉国御城郡》
 〈倭名類聚抄〉{讃岐国・三木郡}。
《白燕》
 書紀古訓は「ツバクラメ」。〈倭名類聚抄〉にも「:和名豆波久良米」が見える。
 一方、万葉集の (万)4144来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧 つばめくる ときになりぬと かりがねは くにしのひつつ くもがくりなく」 では、和歌の音数五七五七七によりツバメと判断される。〈時代別上代〉が「ツバメ」を見出し語として、ツバクラメを平安時代の形と述べるのはそのためであろう。
《観射》
 久しぶりにが行われた。習射所の受講生も加わり、成果を披露したであろう。八年からは、新年行事に射が復活する。
《大意》
 七月一日、 陸奧の蝦夷(えみし)の沙門自得(じとく)が 請願した 金銅の薬師仏、 観世音菩薩各一体、 鍾、 鈔鑼(さら)〔響銅〕、 宝帳、 香炉、 幡(はた)等を授けられました。
 この日に、 新羅の弔使金道那(こんどうな)の一行が帰国しました。
 十五日、 左右の京職、及び諸国の国司に詔して、 習射所を築かせました。
 二十日、 偽装した兵衛(ひょうえ)河内国渋川郡の人柏原(かしははら)の広山(ひろやま)を 土左国に流しました。 よって追広参位を 偽装した兵衛広山を捕えた兵衛生部連(いくべのむらじ)虎(とら)に授けました。
 二十三日、 越国の蝦夷(えみし)八釣魚(やつりな)らにそれぞれに応じて禄を賜りました 。
 八月二日、 百官が〔=官こぞって〕神祇官庁に会集し、 天神地祗のことを奉宣しました。
 四日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。
 十六日、 摂津国の武庫(むこ)の海の〔海岸から〕千歩〔=約2km〕以内と、 紀伊国阿提(あて)郡〔後の有田郡〕の那耆野(なぎの)の二万代〔=約47ha〕、 伊賀国伊賀郡の身野(みの)の二万代で 漁猟を禁断としました。 守護人を置くことは、 河内国の大島郡の高脚(たかし)の海に准えたものです。
 二十一日、 伊予の総領田中朝臣法麻呂(のりまろ)らに詔されました。
――「讃岐国の御城郡〔=三木郡〕が捕獲した白燕は、 放し飼いして養うべし。」
 二十三日、 弓射を観覧されました。


まとめ
 那耆野の比定地については、地名辞書の推定よりも有田郡史の方が説得力がある。地元の研究ならではであろう。
 一方、身野についてはずっと原野のまま置かれ、古墳群の土地でもあるので全面的に開墾が忌避されたという見解が示された。 神聖な土地なら、狩猟も禁じられたであろう。 ただ、ここにも守護人が置かれたとすれば、やはり朝廷の猟場だったことになる。 そもそもその古墳群の辺りを身野とする確かな根拠を示した説はなかなか見つからないので、一旦通説から離れるべきかも知れない。
 さて、今回読んだ部分は「饗」に変えて「設」、まだ存在しなかった「左右京」、用字違いと見られる「娑羅」、実相が見えない「偽兵衛」など不正確あるいは不明瞭な個所が目立つ。 また、誤りではないが同じ爵位が連続するときの省略は〈続紀〉と同様な書法になっている。
 このように、〈持統〉紀は書紀執筆の時代に最も近いにも関わらず、むしろこれまでよりも曖昧、あるいはやや雑に書かれる傾向が見え、その事情を探ることも一つの課題と言える。



[30-07]  持統天皇(3)