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2025.11.23(sun) [30-04] 持統天皇4 ▼▲ |
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8目次 【二年七月~十二月】 《命百濟沙門道藏請雨》
『三国仏法伝通縁起』は東大寺の凝然が、印中日三国の仏法伝通を著した書。応長元年〔1311〕成立。 その巻中の末尾近くに「成実論宗。由来良久日日本仏法初伝之時、成実宗与三輪宗同時伝来」、 「昔百済道蔵法師作二-成論疏一有二十六巻一。上古伝来。于今有レ之。昔以二成実一即附二三論一」とあることが確認できる。 《不崇朝》 「不崇朝」を「朝廷を崇めず」と読むと意味不明だが、崇朝は一つの特殊な言い方で「朝の初めから朝の終わりまで」を意味する。 書紀古訓「アシタコロニモアラス」〔朝 〈汉典〉によると「終レ朝。従二天亮一到二早飯時一。有三時喻二時間短暫一、猶言二一個早晨一。亦指二整天一。崇、通レ"終"」 〔朝が終わる。天亮〔太陽が地平線から昇るときに放つ光〕より早飯の時まで。時に時間が短いことを譬える。なお早晨〔早朝〕の言い方の一つ、また整天〔日中〕を指す。崇は"終"に通ず〕と説明される。 漢籍に用例は多く、例えば『風俗通義』〔応劭;後漢末〕に「觸石而出、膚寸而合、不崇朝徧雨天下、唯泰山乎」とある 〔徧は遍と同じ〕。 書紀が、この書とは限らないが類する漢籍の語句を用いたことは明らかである。 《大伴宿祢安麻呂》
《耽羅王》 これまでの耽羅国〔済州島〕との交流は、 〈天武〉二年六月に耽羅王子久麻芸ほかを派遣、 同八月に筑紫に留め置かれた。京にいる新羅使と重なることを避けたためと見られる。 四年六月王子久麻伎、続けて八月に王姑如が訪れた。 翌年に朝廷が船一艘を賜り、五年七月に帰国。 〈天武〉六年八月に王子都羅が朝貢、 翌七年正月に京で拝朝〔饗と帰国の記事を欠く〕。 八年九月には日本からの遣耽羅使が帰国〔その前の派遣の記事を欠く〕。 翌十月に新羅から遣使。同年二月に「新羅が使を発して耽羅国を略した」(『三国史記』)ことから、 「耽羅は自らの勢力圏に置いたから、日本はこれ以上手を突っ込むな」と申し入れたと見た(《調物…馬狗騾駱駝》項)。 十三年十月、久しぶりに日本から遣使《遣耽羅》 十四年八月に帰国《遣耽羅使人》。 耽羅からの遣使を促したと思われる。だが、しばらく反応なし。 今回は久しぶりに耽羅が遣使。その使者の位階「佐平」が注目される。 「耽羅の位階制はもともと百済に倣ったもの」であった (《当二其国之佐平位一》)。 新羅は、旧百済・旧高麗に新羅の位階の網をかけた(新羅の位階)が、 耽羅はその対象から外れている。 「略」〔攻略?〕の後も、なお一定の独立性を保っていたと考えられる。 日本への遣使の復活は、耽羅の内部で新羅派の優勢から転じて親日派が巻き返したようにも感じられる。 この後を見ると、〈持統〉七年十一月に「賜耽羅王子佐平等各有差」。来日と帰国の記事を欠き断片的である。 以後耽羅関係の記事はなく、〈続紀〉にも全く見えない。 これまでの耽羅との関係強化は、対新羅戦線の構築という意味があった。 〈持統〉以後は、積極的に対抗する意欲を失ったように見える。 そのためかどうかは分からないが、奈良時代の外交は新羅から押され気味である。 《佐平加羅》
《諸蕃賓客》 「諸」が付いているが、蕃は既に新羅のみとなっている〔強いて加えるなら耽羅。698年からは渤海国〕。 「賓客」については、書紀はこれまでに「客」を正式な使節への呼称として用いてきた。 〈推古〉紀の「唐客」〔裴世清〕、 〈舒明〉紀〈皇極〉紀の「高麗百済客」、 〈天武〉紀の「新羅客」、「耽羅客」、「高麗客」がそれである。 故〈天武〉への新羅弔使は、公式には〈持統〉三年三月の「新羅遣級飡金道那等奉弔瀛眞人天皇喪」で、 二年十一月の時点ではまだ来日していない。また耽羅使は筑紫でことを済ませ、上京していない。 よってこの時点では「諸蕃賓客」は来ていない。 ただ国内に住む三韓・唐出身者には爵位を得た者もいるから「諸蕃賓客」がそれを指すと見れば、 参集して慟哭していただいたことへの感謝を込めた表現ということはできる。よって、全くの虚構とは言い切れない。 それでも、あたかも大国日本のために各国が弔使が送ったかの如くに描く潤色であろう。 なお、「蕃」の読み方については、神功皇后段(第141回)の【西蕃】項で検討した。 《奏》 カナヅには鎌倉時代頃までは音楽演奏の意味はなく、「手を動かす、踊る」意味であったという。 〈允恭〉段(第189回)に 「儛訶那伝【自訶下三字以音】〔=舞かなで〕」がある。 ここでは舞であるからカナヅが使える。 なお、舞踊には音楽が伴うからカナヅが音楽演奏に転ずること自体は自然であろう。 たまたま文献資料がないだけで、上代からその傾向があったことは考えられる。 《楯節儛》 楯節舞についての資料を見る。 ● 〈釈紀〉「楯節儛:私記曰。師説。今之吉士舞也。手以レ楯為二節度一故名」。 〔今の吉士舞。手に楯を持ち節度するので、このように名づけられた〕 ● 〈続紀〉天平勝宝四年〔752〕「夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。…行二-幸東大寺一…設斎大会。雅楽寮及諸寺種種音楽、並咸来集。復有二王臣諸氏一五節、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等哥舞」。 〔盧舍那大仏像が完成した。大仏開眼に、東大寺に天皇〔〈聖武〉〕が行幸して設斎大会し、雅楽寮と諸寺の種々の音楽が並び集まって奏された。また王臣諸氏がいて、五節・久米舞・楯伏・踏歌・袍袴等を歌い踊った〕 ● 『令集解』巻四/職員令/雅楽寮 「大属尾張浄足説。今有寮儛曲等如左…。久米儛…。五節儛…。楯臥儛十人五人土師宿禰等五人文忌寸等、右着甲并持刀楯。筑紫儛…。婆理儛…〔以下略〕」。 〔尾張浄足の説によれば、今雅楽寮の舞曲は次の通り……楯臥儛は十人で土師宿禰から五人、文忌寸から五人を出し、これは甲冑を着け刀楯をもって舞うもの…〕 ● 論文「東西史部の文化―楯節舞と大祓を中心に―」(新川登亀男)『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(39)〔早稲田大学大学院文学研究科1994〕 「楯節儛に関しては、とくに楯を伏すことで服属をあらわしているという見方があるが、 …そもそも、楯臥(尾張浄足説)や楯伏(…『続日本紀』)に先行して、『日本書紀』が楯節としているのはやはり無視できない」、 「〔〈釈紀〉が〕「…為節度、故名」というのは、あらためて検討に値しよう」、 「破陣楽では…「趨歩金堤、各有其節」といわれて、金鼓などで「節」を示したことが知られる」、 「目に訴える楯で「節」をとって、あるいは示して舞う軍事色の濃いものであった可能性がある」 〔「節をとって」とは、「音楽の拍節に合わせて」の意であろう〕。 〈釈紀〉は、当時の吉士舞がそれであろうというが、その吉士舞も既に消滅している。 「大属尾張浄足説」に用具と衣装の説明はあるが、実際の舞の内容は何も伝わらず、結局は甲冑をつけて楯や剣を持って踊る舞であろうとの想像に留まる。 〈続紀〉の表記による「楯を伏せる舞」からは、たとえば隼人が中央政権に服属する舞のようなものが想像される。しかし、喪の締めくくりの舞としては、 国家を守る兵の姿を力強く表現して、心置きなく神上がりしてもらうことこそが相応しいであろう。 すると、「節」とは拍節に合わせて足で地面を踏みつけたり、新川論文が述べるように手に持った楯を振り上げるなどの力強い動作だと想像することが可能となる。 《諸臣各挙己先祖等所仕状》 「先祖等所仕状」は、〈持統〉五年八月に「上進」させた「其祖等墓記」に類する内容と思われる。 《遞進誄》 「進誄」は「誄を進 《蝦夷百九十余人負荷調賦》 ここでは特に「負荷調賦」と述べることによって、進んで国家に服属する姿を描いている。 喪はまた、周辺勢力を国家への統合を進める機会として活用されたといえよう。 《布勢朝臣御主人/大伴宿祢御行》
「騰極」は天子が帝位につくこと、「日嗣」は天皇の血統の継承。すなわち、歴代天皇の即位記を誄として読み上げたと読める。 古代中国においては、天球の北極星を中心とする区画である紫微垣 つまり天皇の即位の中国風の表現が「騰極」である。書紀の用例としては、〈皇極〉紀と〈天武〉紀において新羅から「賀騰極使」が派遣された。 また〈持統〉即位〔四年正月〕にあたって、国内の臣が「奏レ賀二騰極一」している。 《礼也》 書紀執筆者は、「当麻真人智徳」の誄に対して特に「礼也」と註している。 同じ註は「布勢朝臣御主人」と「丹比眞人麻呂」の誄にも加えられていた(元年)。 これに関しては、 「古墳の葬礼と楯伏舞」福岡澄男〔NPO法人 国際文化財センター主催第115回 なみはや歴史講座;2019〕に考察がある。 そこには、「『礼記』曽子問第七にいう、「賤不レ誅レ貴、幼不レ誅レ長、礼也。唯天子、称レ天以之。 諸侯相誅、非レ礼也。」との誅の本来からは変容がはなはだしい。 しかし、持統天皇元年正月の、布勢御主人による誅の後と、同年3月の丹比真人麻呂の誅〔4段〕および、同2年11月11日に当摩智徳が行った誄の後には、 「礼也」という、『書紀』筆者の評価を一言加えて、他と区別しているのが注意される。『礼記』をよく承知している人物ならではの評価である」と述べられている。 ここで引かれた『礼記』は、「賤が貴に誄したり、年少者が年長者に誄することは礼に反する。しかし〔それでは天子の崩には誰も誄できなくなってしまうので〕天の誄と称して諸侯が相誄することは、「礼」による規定の例外とする」と読める。 福岡論文の趣旨は、 「自分の職分についてそれぞれに報告するような「誄」は、礼記のいう「誄」からは外れている。 書紀の筆者は『礼記』を知っているから、布勢御主人・丹比麻呂・当摩智徳の誄は『礼記』が言う礼に当てはまるものとして「礼也」と書き添えた」 のようである。 たしかに官庁の代表による職務に関する報告は「天を称しての誄」とは言い難い。 それでは、天皇の系図の読み上げは「天を称しての誄」になるのだろうか。 これについて考えてみると、天皇の系図〔血筋の継承〕は高皇産霊神が邇邇芸命に天降りさせたところから始まる。その後の系図も全体が丸ごと天の意志だと規定すれば、 その読み上げは「天を称しての誄」となり得るであろう。 すると、布勢御主人と丹比麻呂が奉った誄も、天を称しての誄だったから「礼也」が付くのであろう。実際、この二者には他の者のような「~の事」がない。 結局、職務や氏族が仕えた実績を報告する「誄」とは別の範疇に属する、「称レ天以之」の「誄」であることを「礼也」が示していると考えられる。 《古云日嗣也》 「騰極次第」という語は、古い倭語では日嗣〔ヒツギ〕にあたると説明している。この文の流れでは、騰極は音読みした方がよいことになる。 《葬于大内陵》 葬ったのは二年十一月十一日。「始築大内陵」の元年十月十二日から、ちょうど一年後である。 しかし、五段構成の八角墳は、一年間という短い期間で本当に完成したのだろうか。 遺体の埋納は必ずしも大内陵の最終的な完成を意味せず、喪の期間を〈持統〉二年の末までと定めたことによるかも知れない。 実際にはこの時点ではまだ土盛であったかも知れない。 更に言えば、〈持統〉二年に埋葬されたのは野口王墓とは別の場所で、 その後に完成した八角墳に改葬したのかも知れない。 ただ、〈持統〉紀の期間に改葬されたなら、その時点で何らかの記事が載ると考えられる。 よって、改装はまず考えられない。 次に、〈斉明〉八角墳と大内陵のどちらが先に造られたかを検討する。 〈斉明〉陵にほぼ比定される牽牛子塚古墳は、〈続紀〉では「越智山陵」と表記されるが、 これは699年に築陵を開始したものと見てよい (《小市岡上陵》項)。 この築陵は、〈天智〉朝末期には計画されていたが、壬申の乱によって立ち消えになっていたと見られる (《為造山陵予差定人夫》)。 【牽牛子塚古墳】項の「凝灰岩石敷コーナー部分拓影」を見ると、石の加工はきわめて精緻である。 それに比べると、【檜隈大内陵の調査記録】の敷石の写真では、 これだけでは確かなことは言えないが、石の置き方は無造作に見える。 だから、大内陵は〈斉明〉八角陵よりも古いと思われる。 〈続紀〉大宝三年〔703〕十二月「壬午。合二-葬於大内山陵一」とある。 遅くとも〈持統〉の遺骨の入った金銅器を合葬したときには出来上がっていたと見るべきであろう。 さらに遡って〈持統〉六年六月甲申には「賜二直丁八人官位一、美下其造二大内陵一時勤而不一上懈」〔直丁八人に官位を賜り、大内陵を造ったときに真面目には勤め怠らなかったことを褒めた〕とある。 これが完成から間もない時期のことだとすれば、完成は〈持統〉五年〔691〕頃かも知れない。 《饗蝦夷男女二百一十三人》 己未に上京して調賦を納め誄した「蝦夷百九十余人」であろう。 人数の相違については、訪れた人数に加えて在京の蝦夷約二十人を招いたとすれば理屈は合う。 《飛鳥寺西槻下》 飛鳥寺の西では、様々な出来事が描かれている。 初出は皇極三年正月で「中臣鎌子」が「偶 〈皇極〉から〈孝徳〉に譲位するとき、群臣の面前で盟約した。すなわち、 皇極四年六月「天皇々祖母尊皇太子於二大槻樹之下一召集二群臣一盟」。 その後、噴水設備などを備えた庭園を整備して仏教行事や、西アジアからの使節接待の会場となった。 斉明三年七月「作二須弥山像於飛鳥寺西一、且設二盂蘭瓫会一。暮二饗覩貨邏人一」 (〈斉明〉三年【飛鳥寺西の須弥山石】項)。 壬申では、 〈天武元年〉六月二十九日「拠二飛鳥寺西槻下一為レ営」、すなわち近江朝廷軍が軍営を敷いたが、大伴吹負らによって軍勢ごと乗っ取られた。 〈天武〉朝では隼人や多祢嶋人などを接待した。 〈天武〉六年正月「饗二多祢嶋人等於飛鳥寺西槻下一」。 同十年九月「饗二多祢嶋人等于飛鳥寺西河辺一、奏二種々楽一」。 同十一年七月「饗〔大隅、阿多〕隼人等於明日香寺之西、発二種々楽一仍賜レ禄各有レ差。道俗悉見之」、すなわち様々な楽舞が披露されて多くの見物人を集めた。 そして、〈持統〉二年に飛鳥寺ノ西ノ槻ノ下で蝦夷を饗した。この場所は決して新羅使の饗には使われないが、 南は隼人や多祢人、北は蝦夷、また西アジアからの来訪者の接待に使われた。それがこの会場の特別な性格を物語っている。 新羅使の応対には国家間のいろいろな駆け引きがあって緊張を伴うから、公開の場での饗は難しかったのかも知れない。 それに対して飛鳥寺西は見物人も許されるような開放的な場所なので、フランクに接待できる相手を招いたとも考えられる。 《冠位》 〈天武〉紀では「爵位」が使われている。冠による位階の表示を廃止したことに伴うものと見られる。 ところが〈持統〉紀では「冠位」に戻った。 〈続紀〉を見ると「冠位」は多く出てくるがすべて詔の中で、とりわけ宣命中の定型句「冠位上賜治賜」〔冠位をあげたまひをさめたまふ〕が多くを占める。習慣的な言い回しが残ったものと思われる。 事実の記録としての文章中では位階が大部分。他に爵位が二例、「辞二其爵位一」〔天平宝字二年八月;爵位を返上した〕、「加二-授爵位」〔延暦九年二月〕が見える。 《大意》 〔二年〕七月十一日、 大雩(おおう)〔=雨乞い〕しました。旱魃でした。 二十日、 百済沙門の道蔵(どうぞう)に命じて雨乞いしました。 朝まだ早くに、遍(あまね)く天下に雨が降りました。 八月十日、 殯宮(もがりのみや)で直会して慟哭し、 於是(ここに)、大伴宿祢安麻呂(やすまろ)が誄しました。 十一日、 浄大肆(じょうだいし)伊勢王(いせのおほきみ)に命じて葬儀を宣言させました。 二十五日、 耽羅王(とんらおう)は佐平(さへい)加羅を派遣し、来日して方物〔=特産物〕を献上しました。 九月二十三日、 耽羅の佐平加羅らに筑紫の館(むろつみ)で饗(あえ)されました。 それぞれに応じて物を賜りました。 十一月四日、 皇太子は、 公卿、百寮の人らと諸蕃の賓客を率いて、 殯宮に行かれ慟哭されました。 そして、奠を奉納し、 楯節舞(たてふしまひ)を踊りました。 諸臣は、それぞれ自身の先祖らの仕えた様子をを挙げて、 互いに進み出て誄(しのひこと)しました。 五日、 蝦夷(えみし)百九十人余が、 調賦を荷に負って〔参上し〕誄しました。 直広肆(じきこうし)当麻真人(たいまのまひと)智徳(ちとこ)は 皇祖らの騰極の次第〔=即位記〕を誄として奉納しました。 これは礼です。 古くは日嗣(ひつぎ)と言いました。 〔喪の行事を〕すべて終え、大内陵に埋葬しました。 十二月十二日、 蝦夷(えみし)の男女二百一十三人を、 飛鳥寺の西の槻(つき)の木の下で饗(あえ)されました。 そして冠位を授け、 それぞれに応じて物を賜りました。 9目次 【三年正月】 《天皇朝萬國于前殿》
非常に簡潔な表現であるが、諸国の国司が京に集まって朝見したと読める。 書紀古訓「マウコシム」は、まゐく〔参来〔都や朝廷に参上する〕〕の未然形+しむ〔使役〕で、すなわち国司の参集と読んでいる。 しかし、まだ即断できない。 漢籍に「朝万国」の用例はいくつかある。一例として『通典』礼三十「元正冬至受朝賀」を見る。 そこには「伏以二冬至一、一陽始生,萬物潜動,所以自レ古聖帝明王、皆此日朝二萬国一、観二雲物一、礼之大者、莫レ逾二是時一」 〔冬至には太陽が再生し、万物は潜み動き出す。よって古より聖帝明王は、皆この日に"万国に朝し"、雲の様を見る。礼の大きなること、この時以上にはない〕とある。 雲物は、太陽の周りに現れる運気の色とされ、また〈汉典〉は「①雲的色彩。②雲気、雲彩。③景物」とする。 その「観二雲物一」とともに置かれるから、"万国"は全世界、"朝"は「向かって感謝する」と読むのが妥当である。 〈汉典〉では「万国:万邦、天下、各国」とあり、広く「天下」をいう場合もある。また「朝〔動詞として〕:向着、対着。〔熟語〕~向。~前。~陽。坐北~南」を見ると、皇帝による朝見とは必ずしも限定されず幅広く向かい合うのが朝である。 書紀は漢籍の文章のうち「冬至」を「元日」に移したものである。その新鮮な気分で「朝万国于前殿」というのは心情としての「天下に向かう」であろう。元日早々諸国の国司を集めるよりも、 新年にあたり天下に感謝する気持ちを表現したと読む方が自然である。 《前殿》 〈汉典〉では端的に「正殿」と同じとする。 『太平御覧』居処部/殿「山謙之丹陽記曰:太極殿、周制路寝也。秦、漢曰前殿、今称太極曰前殿」〔山謙著『丹陽記』〔南宋〕にいう:大極殿は周制では路寝〔=正殿〕である。秦・漢では前殿といい、今も大極を前殿という〕 書記に「前殿」はここだけで、「大殿」が一般的である。 万葉では「おほとの」が8例〔表記はすべて大殿〕、「みあらか」が2例〔御在香、都宮〕。「前殿」は1例もない。 宮殿の称はオホトノが一般的で、かつ漢籍での用法を見ると前殿もオホトノが妥当か。太極殿とすればアムドノ。〈兼右本〉のミアラカもあり得る。 ただ、もとの形は「於殿前」だったかも知れない。「殿の前に立って…」なら、前項の読み方と大変よく合うからである。 《大学寮》 〈持統〉三年正月には、〈天武〉四年正月の様々な新年行事が復活している。 〈天武〉四年には正月一日に大学寮諸学生他が「薬及珍異等」を献上している。 一方、新年行事として各国から国司が集まっての謁見は〈天武〉紀のどの年にも見えない。このことからも「朝万国」は心の中で天下に感謝すると読むのが妥当と思われる。 《陸奧國優𡺸曇郡》 𡺸[U+21EB8]の音は、旁の耆によるキ・シと見られる。 「優𡺸曇郡」は〈倭名類聚抄〉{出羽国・置賜郡}のことだと言われる。okitamaがもともとukidomaだったとすれば、 そのmaを、閉音節の[dəm]〔曇〕の韻尾を借りて表したと理解することができる。この用字法は地名にしばしば見られ、 『日本漢字全史』〔沖森卓也;ちくま新書2024〕は「信濃:信のn音尾をnaに用いる」などの例を挙げている(p.91)。 置賜郡は、和銅五年〔712〕に陸奥国から出羽国に移された 日本海側の倭人の北上のペースは太平洋側より遅かったと思われる。越が北方に延びて出羽国を分離し、さらに陸奥国から置賜郡などが出羽国に移された (資料[72])。 《城養蝦夷脂利古》 〈斉明〉四年七月「柵養蝦夷」二人に冠位一階が授けられたことが載る。 越国の対蝦夷の最前線には、柵 柵戸は、柵に隷属する戸。賤民の一種か。《柵戸》) 柵養蝦夷は、倭人に同化、もしくはその支配下となった蝦夷の柵戸を指すと思われる。 一口に蝦夷というが、越から北海道南部までの広い範囲だからゲノムが倭人に近い者から遠い者まで連続的に分布している。 事実上はほぼ倭人でも、敵対すれば蔑称として蝦夷が用いられることもあり得よう。 さて、境界域在住の蝦夷が倭人に隷属して「柵養」、すなわち日常的には田を耕作しながら、柵の修理などを担う賤民となった。 その一族をまとめていた「脂利古」が、その優秀さを認められて爵位「務大肆」を授かるまで昇ったわけである。 そして脂利古は、自ら壇越となって氏寺を創建したいと考え、わが子を出家させてその僧にすることを願い出たのかも知れない。 陸奥国は辺境であるが、飛騨国には既に飛鳥に匹敵する寺院が林立しつつあった(【飛騨国の廃寺跡】)。 仏教文化が、さらに広がりつつあったことを示す事象といえよう。 《宴公卿》 これも年頭行事の再開。〈天武〉四年正月五日には「賜宴群臣於朝庭」とある。 《新羅使人》 「新羅使人」は基本的に「新羅が遣した使者」の意味なので、ここでは文法に無頓着である。 〈天武〉紀では、八年九月「遣二新羅一使人等返之」などと表して、正確を期している。 《田中朝臣法麻呂》
遭値の意味は、[百度百科]に「意為二遭遇、遭逢一、属二動詞性一用法。 其構詞中"遭"指レ遇二-見不利之事一、"値"含二遇到之意一。常見二于古籍一如『天演論』〔清朝〕:「遭值之時」、『七諌』〔漢代〕没江:「遭值君之不聡」等用例」とある。 筑紫航路の新羅船が風浪で操船できなくなり、対馬海流に流されて出雲に漂着することは普通に考えられる。 《越蝦夷沙門道信》
《灌頂幡》 《如灌頂幡而火色》項参照。 《筑紫大宰粟田真人朝臣》 真人が名、朝臣が姓 なお、ノの挟み方は、 ・氏-姓-名の場合:粟田ノ朝臣真人。 ・氏-名-姓の場合:粟田ノ真人ノ朝臣。 という習慣になっている。
常〔キダ〕は庸布〔庸役の代替の布〕の単位。布には通常端〔ムラ〕を用いる。 《文武官人進薪》 〈天武〉四年正月三日には「百寮諸人初位以上進薪」。 《進薪》では、「高価な献上品を持ってこられない」者に献上を呼び掛けたものと見た。 それが後に儀礼化したと思われる。〈天武〉五年、そしてこの〈持統〉三年の正月十五日に行われ、これが〈延喜式〉の「進薪」の日付「毎年正月十五日」に繋がったと見られる。 《賜百官人等食》 〈天武〉四年正月十七日には「初位以上射二于西門庭一」 とあったが、「射
〈斉明〉二年「作二吉野宮一」とある。 それ以前には、〈応神〉紀十九年十月で「幸二吉野宮一」、土着の「国栖」との交流が載る。 その土地に〈応神〉行幸の伝説があったと思われる。 また〈雄略〉紀二年十月に「幸二于吉野宮一」がある。 〈壬申〉7段において、鸕野皇女(〈持統〉)は吉野宮から単騎駆け出した大海人皇子を追って、輿を急がせた。 吉野宮跡は、宮瀧遺跡に比定される(【阿岐豆野】項)。 その遺跡は、『宮滝遺跡第70次発掘調査記者発表資料』〔吉野町・奈良県立橿原考古学研究所2019〕 によると、堀立柱建物の「抜き取り穴からは奈良時代前半の軒瓦が出土している」。 その他の調査成果から判断して「奈良時代前半のものと考えられ」、 「元正天皇や聖武天皇の行幸があった吉野宮(吉野離宮)が機能していた時期と符合する」という。 ただ、「それぞれの遺構に切りあい関係が認められる」ことにより 「奈良時代前半の遺構に先行する、より古い時期の遺構が確認できた」という。 よって〈壬申〉以前の吉野宮も、この場所にあったと考えてよいと思われる。 〈持統〉紀には「幸吉野宮」が30回ある(右表)。 そして〈続紀〉大宝元年〔701〕六月「太上天皇幸吉野離宮」が最後の吉野宮行幸と見られる。 〈持統〉天皇が吉野宮行幸をこれほど多く繰り返した理由は何だろう。それに至るきっかけや吉野宮滞在中の政治的な行動などは描かれておらず、実証的に検討する材料は少しも見つからない。 その考察には、むしろ文学的なアプローチを用いることになろう。 《大意》 三年正月一日、 天皇(すめらみこと)は前殿にて万国に思いを向けられました。 二日、 大楽寮が御杖(みつえ)八十本を献上しました。 三日、 務大肆(むだいし)陸奧の国の優𡺸曇(うきとま)〔置賜〕郡の 城養(きかう)の蝦夷(えみし)脂利古(しりこ)の息子 麻呂(まろ)と 鉄折(かなおり)は、 髭と髪を剃り僧になることを請いました。 よって詔されました。 ――「麻呂たちは若くして閑雅(かんが)で無欲である。 遂には、蔬食〔菜食〕して自戒を保つに至った。 請(ねが)うまま、出家して修道すべし。」 七日、 公卿のために宴され、袍袴(ほうこ)を賜りました。 八日、 新羅に派遣した使者田中朝臣(たなかのあそん)法麻呂(のりまろ)たちは、 新羅から帰国しました。 九日、 出雲の国司に 「風浪に遭遇した蕃人を送れ。」と詔されました。 この日、 越の蝦夷(えみし)の僧道信は、 仏像一体、 灌頂幡(かんちょうばん)、鍾鉢(かねはち)各一個、 五色の綵(さい)〔いろどりの絹〕各五尺、 綿五屯(みせ)、 布十端(むら)、 鍬(すき)十丁、 鞍(くら)一揃えを賜わりました。 筑紫の大宰粟田真人(あわたのまひと)朝臣(あそん)らは、 隼人一百七十四人に 併せて、布五十常(きだ)、 牛皮六枚、 鹿皮五十枚を献上しました。 十六日、 百官人等に食糧を賜りました。 十八日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。 二十一日、 天皇は吉野宮から帰られました。 まとめ ここには読み取りに注意を要する部分がいくつかある。 「不崇朝遍雨天下」、「朝万国」については、もともとの中国古文献中の文脈に戻って意味を探らなければならなかった。 また「諸蕃賓客」は実態を伴わなず、「礼也」なる注記の解釈にも難しさがあり、「楯節儛」の実際の姿も分からない。 これらについてはひとまず解釈を示したが、確定はできていない。 内容に関しては、二年十月の埋葬をもって喪を終え、明けて三年から通常の正月行事が復活した。 目を惹くのは、越国から出羽方面への寺院の設置である。周辺地域を国家に統合するためには、仏教化がひとつの重要な要素であったと言えそうである。ここでは蝦夷出身者でさえも仏教に帰依させようとしている。 さて〈持統〉天皇の度重なる吉野宮行幸については、その心境は如何なるものであっただろうか。 想像するに、かつて〈壬申〉前に吉野宮に滞在した当時、大海人皇子と肩を並べて眺めた景色がとても素晴らしかったのであろう。 〈持統〉天皇は判断に迷ったときなど折に触れて吉野宮を訪れ、思い出の場所にたたずみ〈天武〉の声を聞こうとしていたように思える。 三年一月の行幸に関しては、喪が明け復活した正月行事で多忙であったが、それが一段落ついたタイミングかと思われる。 |
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2025.12.01(mon) [30-05] 持統天皇5 ▼▲ |
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10目次 【三年二月~四月】 《筑紫防人滿年限者替》
〈天武〉十四年十二月には、「遣二筑紫一防人」が海路で遭難した(《筑紫防人等飄蕩海中》項)。 防人の任期の規定は令義解/軍防令に 「凡兵士上番者:向レ京一年。向レ防三年。不レ計二行程一」。 「下番」はないから、「上レ番」は「当番に上る」意であろう。防人の任期は三年で、行き帰りの行程に要する日数は除くと読める。 〈持統〉朝における任期は分からないが、 わざわざ年限を満たしたら交替させよと命じたのは、実態においてそれが守られていなかったからであろう。 《竹田王…》
「竹田王」以下の「判事」九名は、刑部省の大・中・小判事計十名に近い人数なので、刑部省の前身の刑官に属したと考えられる(《宮内/左右大舎人/…》項)。 《大赦》 大赦については、その適用範囲が次第に具体的に示されるようになっていく (《以大辟罪以下皆赦之》項)。 《投化新羅人》 ここでも、新羅からの移民を東国の下野国に移して公民化している (《賦田受稟使安生業》項)。 《皇太子草壁皇子尊薨》
なお、〈持統〉紀の表記法に従うなら「皇太子皇子草壁尊」となる。「皇子-尊」は切り離せなかったためか。 あるいは草稿段階ではこの一文すらなかったが、他の人の手によって補われたとも考えられる。 《級飡金道那》
しかし、〈天武〉十三年十二月には「大唐学生」が新羅を経由して、新羅使に送られて帰国した。 〈天武〉十四年五月の観常・雲観の帰国も同様と見た。 度重なる学生・学問僧の帰国の流れから見て、今回も唐から新羅を経由しての帰国とも思われる。 その両方の可能性があるが、何れにしても「上」がつくのは、同時に送られた阿弥陀三尊像とともに仏教の振興に役立ててくださいということであろう。
阿弥陀は「西方浄土にいる教主の名。いっさいの衆生を救うために、四十八の誓いをたてた仏。平安中期、源信の『往生要集』の前後から、この仏の信仰が流行」したという(『例文 仏教語大辞典』〔小学館1997〕)。 飛鳥時代まで遡ると、法隆寺の阿弥陀如来像が「阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例」〔e国宝〕という。 《観世音菩薩像/大勢至菩薩像》 阿弥陀三尊像では、左脇侍の観音菩薩、右脇侍の勢至菩薩とともに三尊をなす。 観世音菩薩は《観世音経》参照。 勢至菩薩は別名大勢至菩薩、得大勢菩薩で、知恵の光をもって一切を照らして無常の力を得させる(『デジタル大辞泉』〔小学館2012〕)。単独で祀られることは稀という(『国史大辞典』〔吉川弘文館1997〕)。 《春日王》
春日王は「薨」なので、従三位以上に相当したと見られる。 《諸司仕丁》 丁(よほろ)は、21歳以上60歳以下の男子で、公の労働に供される(改新詔其四曰)。 《一月放仮四日》 「仮(假)」は「暇」に通ずる用法。すなわち、ひと月に四日の休暇を与えよと詔した。 『令義解』仮寧令「凡在京諸司毎六日並給休仮一日。 中務宮内供奉諸司及五衛府別給仮五日」など。 《大意》 二月十一日、 詔を発しました。 ――「筑紫の防人の年限を満たした者は交替させよ。」 二十六日、 浄広肆(じょうこうし)竹田王(たけたのおおきみ)、 直広肆(じきこうし)土師(はにし)の宿祢根麻呂(ねまろ)、 大宅(おおやけ)の朝臣麻呂(まろ)、 藤原(ふじわら)の朝臣史(ふひと)〔不比等〕、 務大肆(むだいし)当麻(たいま)の真人(まひと)桜井(さくらい)と、 穂積(ほずみ)の朝臣山守(やまもり)、 中臣の朝臣臣麻呂(おみまろ)、 巨勢(こせ)の朝臣(こせのあそみ)多益須(たやかす)、 大三輪(おおみわ)の朝臣安麻呂(やすまろ)を、 判事(ことわるつかさ)としました。 三月二十四日、 天下(あめのした)に大赦されました。 但し、常の赦で免れないものは、〔今回も〕赦の対象から除かれました。 四月八日、 帰化した新羅人を、下毛野(しもつけの)の国に居住させました。 十三日、 皇太子(ひつぎのみこ)草壁の皇子尊(みこのみこと)が薨じました。 二十日、 新羅は、 級飡(きゅうさん)金道那(こんどうな)らを遣わして、 瀛真人天皇(おきのまひとのすめらみこと)〔天武〕の喪を弔(とぶら)わせました。 併せて学問僧明聡(みょうそう)、 観智(かんち)らを送り献上しました。 別に金銅の阿弥陀像、 金銅の観世音菩薩像、 大勢至(だいせいし)菩薩像各一体、 綵(しみ)の帛(きぬ)錦(にしき)綾(あや)を献上しました。 二十二日、 春日王(かすがのおおきみ)が薨じました。 二十七日、 詔を発しました。 ――「諸司の仕丁には、 一月に四日の暇(いとま)を与えよ。」 11目次 【三年五月】 《詔新羅弔使級飡金道那等》
書紀古訓では、「奉宣」を「ノタマハシムラク」と訓む。これは 「ノタマフの未然形+使役の助動詞シムの終止形+接尾語ラク」、すなわち天皇の意を受けて詔を伝達する文として、詔の本体を導く。 《遣田中朝臣法麻呂等》 〈兼右本〉は「遣 万葉集の伝統訓においては遣は圧倒的にヤルと訓む場合が多い。ツカハスは5例。マクが1例(3291「天皇之 遣之万〃 おほきみの まけのまにまに」)。マダスはない。 ツカハスの仮名書きは(万)0894「勅旨〔大命〕 戴持弖唐能 遠境尓 都加播佐礼 おほみこと〔おほみこと〕 いただきもちて もろこしの とほきさかひに つかはされ」に見える。 ツカハスの語としての成り立ちは、「ツカフの未然形+尊敬の動詞語尾ス」なので、天皇が遣使する場合に、ツカハスを使うことは当然である。 一方、「遣」に書紀古訓で多用されるマダスは、「参-出」の変と考えられている。 これは諸蕃から朝廷への遣使の場合に、中華思想によりマヰ-イダスを用いたものと思われる。 倭国から喪告使を諸蕃に送る場合は、当然ツカハスである。 ただし諸蕃から倭国に使者を送り出す場合であっても、諸蕃の王は使者よりは上位だからツカハスでも問題はない。結局、マダスは書紀古訓研究者の狭い世界に限られた用語法と見るべきであろう。 《田中朝臣法麻呂》
「相-」は基本的に「互いに」の意味であるが、喪を告げに行くのだから、アフ=会フであろう。実際「相」には六朝時代以後「二者の間に生じる動作につける」副詞の用法が生まれたという(『学研新漢和』〔学研教育出版2013〕)。 《大行天皇》 書紀ではこの一か所のみ。〈続紀〉にもない。 漢籍には、儒家『孔叢子』広名:「諱レ死。謂二之大行一」〔死の忌み言葉を"大行"という〕。 現代の用例は、[宮内庁/御誄]に見える。 ・殯宮移御後一日祭の儀(平成元年1月20日):「御父大行天皇の御霊に申し上げます」。 ・追号奉告の儀(平成元年1月31日):「御父大行天皇…追号して昭和天皇と申し上げます」。 このように崩御してから諡が定まるまでの間の呼び名として使われている。 《蘇判位》
日本紀私記は、判を「干」と同じだからカンと発音すべしという。しかしそれは無理だと思われる。 《難波宮治天下天皇》 万葉歌では、天皇の統治を(万)0029〔柿本朝臣人麻呂〕「天下 所知食之乎 あめのした しらしめししを」、 (万)4465〔大伴宿祢家持〕「安米能之多 之良志賣之祁流 あめのした しらしめしける」などと表現する。 「治天下」への書紀古訓「アメノシタシラシメス」(白雉元年二月など)は、これを用いたもの。 しかし、この個所では字のままに「アメノシタヲヲサメタマフ」と訓まれている。 大まかに言って、「シラスメス」という表現自体は柿本人麻呂の飛鳥時代から既に一般的だったが、書紀古訓〔奈良~平安前期〕において「治天下」に「シラシメス」を適用するかどうかは固定的ではなかったということであろう。 《巨勢稲持》
〈孝徳〉紀を見ると、大化五年四月に「於小紫巨勢徳陀古臣授二大紫為左大臣一」がある。巨勢稲持を巨勢徳陀古の錯誤と見れば、一応成立する。 両者の名前は全く似ていないが、例えば巨勢氏の家伝において時代を超えて名前を混同したことはあり得るかも知れない。 仮に巨勢大臣だったとすると、大臣は白雉二年に新羅攻撃を提案したが採用されなかったから、外交関係は継続していただろう。 したがって巨勢大臣が〈孝徳〉崩に伴い告喪使を新羅に送り、金春秋が対応したことはあり得なよう。 岩波文庫版『日本書紀』(五)は、(〈天武〉十四年九月)の「巨勢粟持」の別表記「巨勢禾持」を書紀著者が「巨勢稲持」と書いたのではないかと推定する。 ただ、〈孝徳〉紀あるいは〈斉明〉紀に巨勢粟持(または禾持)の名前は見えないから判断のしようがない。 《翳飡金春秋》 翳飡位は『三国史記』には見えない。 金春秋の位階として書かれるのは、 『三国史記』善徳王十一年〔642〕「冬。…遣二伊飡金春秋於高句麗一。以請レ師」がある。 「難波宮治天下天皇」(〈孝徳〉)が崩じた年〔654〕は、金春秋が即位する年〔同年四月;武烈王〕にあたる。 よって翳飡は伊湌〔第二位〕か。またはそのときすでに伊伐湌〔第一位〕に上がっていて、それが翳飡なのかも知れない。 ただ、翳の発音[エイ]は伊[イ]に近い。 いずれにしても、蘇判〔第三位〕よりは高い。 《金薩儒》
《又新羅元来奏云》 一見すると「又新羅元来奏云…詐求幸媚」の部分は、書紀による潤色のように見える。 「並舳不干檝…」は、以下に見るように倭国固有の伝統的な歴史観による物言いだからである。 しかし、書紀の執筆時期は〈持統〉朝からそれほどの年月は経ていないから、概ね現実資料を用いたと見るべきであろう。 「巨勢稲持」の錯誤も、原資料に由来するかも知れないのである。 よって、この部分は初めから詔内にあった言葉だが、ただその位置づけは単なる言葉の綾のようなものと思われる。 《並舳不干檝》 「並レ舳二不干檝一」、すなわち二つの船が舳〔へさき〕を並べ、檝〔かじ〕が乾くひまもなく頻繁に調を運ぶとかつての新羅は誓った。 遡ると、神功皇后段では「毎年双船不レ乾二船腹一不レ乾二柂檝一」と言った(第141回)。 〈推古〉紀では八年条に「新羅任那二国遣レ使貢レ調」、「不レ乾二船柁一、毎歳必朝」が見える。 また、「双船」については〈推古〉三十一年条に次の件がある。 ――「初磐金等度新羅之日、比及レ津、荘船一艘迎二於海浦一。磐金問之曰「是船者何国迎船」。対曰「新羅船也」。磐金亦曰「曷無二任那之迎船一」。 即時更為二任那一加二一船一。其新羅以二迎船二艘一、始二于是時一歟。」 〔以前磐金らが新羅に渡った日、津に至った頃に荘船 この件では「二艘」は迎え船のことだが、 〈推古〉十八年に新羅使を二班に分け一方に任那使を装わせたことも併せて読めば、 調賦の「二艘の船」もまた、新羅の調船と任那の調船を意味するものとなろう。 こうして〈推古〉の時代のことまで持ち出して、新羅は自らを「並レ舳不レ干レ檝奉仕之国」と称したではないかというのである。 《調賦与別献並封以還之》 〈天武〉朝では高価かつ大量の調賦と別献が繰り返されてきた。 今回「調賦与別献並封以還之」、すなわちすべて返すと言ったのは、そこに日本を自国に有利な方向に動かそうとする意図を見ていたからであろう。 また、〈天武〉朝の豪華な献上品の中に仏像はなかったが、今回は阿弥陀三尊像が中心で、かつ学問僧が上送された。 これまで百済僧・高麗僧はしばしば登場したが、新羅僧は稀である。百済高麗出身僧が重要な部分を占める国内の仏教界にとっては、新羅に手を突っ込まれたことに反発が起こったことも考えられる。 表向きの理由として弔使の位階の低さや船の数一艘を挙げてはいるが、本当の理由はこれらかも知れない。 これ以後を見ると、六年十一月「進調」、九年三月「奏請国政、且進調献物」。 いずれも調献物の内訳は載らないので、極端に高価なものや仏像の類はもうなかったのではないか。 意向が伝わったのかも知れない。 《以還之》 外交というものを常識的に考えれば、返還が実行されたとは考えにくい。 金道那が詔旨を本国でよく説明して理解を得るので、返還はそれまでお待ちくださいなどとうまく対応して、うやむやになったことも考えられる。 《然自我国家遠皇祖》 皇祖はスメロキと訓まれ、天皇家の祖先あるいはその血筋全体をいう。 (万)2508「皇祖乃 神御門乎 すめろきの かみのみかどを」などとあり、仮名書きは(万)4006「須賣呂伎能 須久尓奈礼婆 すめろきの をすくになれば」が見える。 さて、詔は続けて「然自二我国家遠皇祖代一広慈二汝等一之徳不レ可レ絶レ之」 〔そうはいっても、遠く皇祖のときから貴国を慈しんできた徳を絶やすべきではない〕と言って、叱責を緩和する。 「修二其職任一奉レ遵二法度一者天朝復広慈耳」 〔職任を修め法度を遵守してくれるなら、また広く慈しむのみ〕は「もし守ってくれれば~」と条件付けるよりは、むしろ「期待に応えて守ってくれるだろうから」という許容を示す意味合いであろう。 結局、詔の本意は下心ある多大な調賦及び別献に不快感を示すところにあり、それにいくつかの名目的な理由付けをした上で、最後に礼儀として全体を友好の言葉でくるんだものと見做される。 実際、金道那らはいつもの使者と同じように饗〔"設"と書かれるところに若干の問題は残る〕と「賜物」を受けた上で帰国した。決して追放された訳ではない。 《奉宣汝王》 書紀古訓は、「奉宣汝王」の「奉」を「タマヘ」と訓む。 ところが、タマヘは、尊敬語タマフ〔四段〕の命令形だから「奉」には合わない。 しかし謙譲〔実行者が下〕のタマフ〔下二段〕もあるから、古訓は誤りとは言えない。 ただ、命令形は四段活用ではタマヘ甲、下二段活用ではタマヘ乙である。 よって、タマヘを採用する場合は頭の中で乙類だと意識すべきとなる。 《大意》 五月二十二日、 土師宿祢(はにしのすくね)根麻呂(ねまろ)に命じて、 新羅の弔使級飡(きゅうさん)金道那(こんどうな)らに詔を伝えさせました。 ――「太政官卿〔=長官〕らは勅を受けて奉宣する。 〔持統〕二年、 田中の朝臣法麻呂(のりまろ)らを遣わして、 大行天皇〔天武〕の喪を面前で告げさせた。 その時、新羅が言うには 『新羅が勅を承る人は、元来蘇判(そうばん)位を用いていて、 今また、あなたにも適用する。』と言った。 これにより、 法麻呂らは赴告の詔を宣ずることができなかった。 もし前例を言うなら、 昔、難波宮に天下を知らしめた天皇(すめらみこと)〔孝徳〕が崩じた時には、 巨勢稲持(こせのいなもち)らを遣わして喪を告げた日に、 翳飡(えいさん)金春秋(こんしゅんじゅう)が勅を受けたことがあった。 よって、蘇判(そうばん)を用いて勅を承ると言うのは、 即ち前例を違(たが)えている。 また、近江の宮に天下を知らしめた天皇(すめらみこと)〔天智〕が崩じた時には、 一吉飡(いつきつさん)金薩儒(こんさつぬ)らを遣して弔いを奉った。 よって今、級飡(きゅうさん)に弔いをさせたことは、 これも前例を違えている。 また、新羅は元来奏上するに、 『我が国は、日本(やまと)の遠い皇祖の御代より、 〔二艘が〕舳(へ)先を並べて舵の乾くことなく、奉仕する国でありました。』と奏上した。 よって、今一艘だけで来たことは、また故典〔=昔からのきまり〕を違えている。 また〔新羅の〕奏上するに、 『日本(やまと)の遠い皇祖の御代より、 清白な心で奉仕してまいりました。』と奏上した。 しかし、忠を竭(つ)くして元の職を述べ挙げようとは思わず、 清白を傷つけ、偽って幸〔=利益〕を求め媚びた。 その故に、 調賦及び別献されたものはともに封をして還す。 とはいえ、我が国家が遠い皇祖の御代に、 広くあなた方を慈しんだ徳は、これを絶やすべきではない。 よって、いよいよ勤め、いよいよ謹しみ、戦々兢々(せんせんきょうきょう)として、 その職の任を修め法度に遵(したが)うなら、 天朝は再び復広く慈しみしよう。 あなた道那(どうな)たちは、 その勅旨を承りあなたの王に宣べよ。」 まとめ 三年五月詔のうち「並舳不干檝」の段落については、はじめに読んだときには書紀が挿入して潤色したように思われた。 その言葉は神功皇后段・紀や〈推古〉紀に見られるものだからである。 しかし、既に〈持統〉朝の頃にはこの言葉を使った何らかの言い伝えや文書が存在していたであろう。 それは持統三年〔689〕と古事記の成立〔712〕との間が、僅かに23年間だからである。 よって、この詔に最初からこの段落が含まれてとしても、それほどの無理はない。 そしてこの文章なら、言いたいことは概ね伝わったであろう。ただ、二艘のうち一艘はもともと任那の調船を称したものだったことは知られていなかったと思われる。 |
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2025.12.09(tue) [30-06] 持統天皇6 ▼▲ |
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12目次 【三年六月】 《賜衣裳筑紫大宰等》
このときの筑紫大宰は、粟田真人朝臣。 《撰善言司》
「善言」中国の典籍『古今善言』に倣って編まれたとされる。 坂本太郎博士還暦記念会 編『日本古代史論集』上巻〔吉川弘文館1962〕によると、 「古今の典籍から善言を捃摭して、子弟を教育するための書物」で、 「劉宋の范泰(355年生。428年没)は、「博二-覧篇籍一、好為し2文章一、愛レ奨二後世一、孜孜無レ倦」といはれ、 「古今善言二十四篇」を撰した」という。逸書であるが、書名は次に見える。 ・『隋書』巻三十四/志二十九/経籍三/子「『古今善言』三十卷宋車騎將軍范泰撰」。 ・『旧唐書』巻四十七/志第二十七/経籍下「『古今善言』三十卷範泰撰」。 ・『新唐書』巻第四十九/芸文三「範泰『古今善言』三十卷」。 逸文としては、『水経注』巻三十六/温水「范泰『古今善言』曰:日南張重、挙計入洛、正旦大会。明帝問"日南郡北向視日邪"…」などが見える。 〈持統〉朝の『善言』は結局完成を見なかったようである。ただ、そのために集められた逸話のいくつかが書紀に取り入れられたと言われる。 《続守言/薩弘恪》
《筑紫大宰粟田真人朝臣》
新羅の「師友」を見れば、明聡・観智はやはり新羅人か。 しかし、やはり日本人の学問僧で、唐からの帰国の途上で帰国を助けてくれた新羅僧にお礼がしたいと言ったという考え方もあり得る。 《設新羅弔使金道那》
だが、次に「賜物各有差」があるから頭隠して尻隠さずである。三年五月詔の厳しい言葉はやはり格好だけだったのだろう。
現在の小郡市に「小郡官衙遺跡」(福岡県小郡市大字大板井字向築地)がある。遺跡からは「溝の中から千本以上の鉄製の鏃が出土」し、 「7世紀末から8世紀前半の第2期には、溝に囲まれた一辺240mの区画の中に建物…役所の政務を行う「庁舎」、役人の宿舎である「官舎」、税として取り立てた米を蓄える「倉庫」…が計画的に配置されていた」という ([小郡市公式/小郡官衙遺跡群 小郡官衙遺跡])。 一方、『日本古代の道と駅』〔吉川弘文館2009〕は、同遺跡を〈持統〉紀の「「筑紫小郡」に当てる考えもあるが、筑紫小郡は博多湾側に設けられたとの見方が有力で、この遺跡では使節をもてなすときに使用される土器類は殆ど出土していない」と述べる。 接待施設が大宰府から見ても奥まったところにあったとするのは、確かに理解し難い。 筑紫の接待施設としては、鴻臚館跡が発見されている。 その辺りとすることも考えられるが、ただそこが「筑紫小郡」だったとする資料はなかなか見つからない。 《令一部二十二巻》 十年二月には律令の撰定が行われつつあったことを見える《定律令改法式》項 「令一部二十二巻」は令の部分に一応のまとまりを見たものと考えられ、これが「浄御原令」という学術用語で呼ばれている。 五年正月条では「凡任国司者…」が令の書式であることを見た。 よって五月雨式に発布された詔が、「令」の一部になったことも考えられる。ただ、大化年間の改新詔の条文には、『令義解』に繋がる初期的な表現が見えるので、 骨子は改新詔⇒近江令⇒浄御原令⇒大宝令⇒養老令の順に改正深化されていったと見るべきであろう。 〈続紀〉大宝元年八月条にある「大略以二浄御原朝庭一為二准正一」もその流れを示すものと言えよう。 《大意》 六月一日、 衣裳を筑紫の大宰(おおみこともち)らに賜りました。 二日、 皇子施基(しき)、 直広肆(じきこうし)佐味朝臣(さみのあそん)宿那麻呂(すくなまろ)、 同位羽田(はたの)朝臣斉(むごへ)、 勤広肆(ごんこうし)伊余部連(いよべのむらじ)馬飼(うまかい)、 同位調忌寸(つきのいみき)老人(おきな)、 務大参(むだいさん)大伴宿祢(おおとものすくね)手拍(てうち)、 そして巨勢(こせ)の朝臣多益須(たやかす)らを、 善言(よきこと)を撰ぶ司(つかさ)に任命しました。 十九日、 大唐の続守言(ぞくしゅうげん)、 薩弘恪(さつこうかく)らに それぞれに応じて稲田を賜りました。 二十日、 筑紫の大宰(おおみこともち)粟田の真人の朝臣らに詔され、 学問僧明聡(みょうそう)、 観智(かんち)らに 新羅の師友に送るための、 綿各一百四十斤を賜らせました。 二十四日、 筑紫の小郡(おごほり)に、 新羅の弔使金道那(こんどうな)らに饗を設けて、 それぞれに応じて物を賜りました。 二十九日、 諸司に令一部二十二巻を配布されました。 13目次 【三年七月~八月】 《新羅弔使金道那等罷歸》
《城養蝦夷脂利古》項に続けて、 縁辺地域での仏教化の振興が進む。国家の支配域に本格的に組み込むための重要な営みであろう。
「薬師仏像」は、言葉としては初出。ただ〈天武〉九年十一月に建造が始まった薬師寺では当然薬師如来像が本尊であろう。 観世音菩薩像については、朱鳥元年七月に〈天武〉のために「観音像」が造られたとある。 《娑羅》 沙羅は沙羅双樹の略だが、ここでは仏殿の調度品であるから文脈に合わない。 〈倭名類聚抄〉「鈔鑼:唐韻云二鈔鑼一【二音与二沙羅一同。俗云二沙布羅一。今案或説云二新羅金椀一。…】銅器也」 〔鈔鑼二音は沙羅と同じ。俗にサフラという。今案ずるに、ある説に新羅の金椀という…〕が見え、 すなわち沙羅と発音を同じくする「鈔鑼」があった。その和名「沙布羅」は「佐波理〔さはり〕」と同じと考えられている。 佐波理(響銅・砂張)は淡黄色の銅合金で、銅80%、錫20%が標準で、 正倉院には重鋺・皿・匙・水瓶・合子などの「佐波理」製品が伝わるという (『金属博物館紀要』(15)〔日本金属学会附属金属博物館1989〕)。 響銅はその美しい音による呼び名と見られ、仏具のリンに使われる。 よって娑羅は、「鈔鑼」の一表記と見るのが順当であろう。 《宝帳》 「宝帳」は所蔵宝物を記録した書の如くだがここには合わず、仏像安置の区域などを仕切る装飾的な帳(とばり)と考えられる。 仏殿の調度品の名称としては「舎利宝帳」が見える。これは「陝西省臨潼県新豊鎮慶山寺址(開元二九年〔741〕)」からの出土品である([平成10年度神戸市立博物館年報])。 布製の帳を模した石造容器で、高さ102cm、内部に舎利容器を納置するという([舎利宝帳])。 《金道那》
書紀の執筆は藤原京の時代にかかっているから、その時点では左京・右京の呼称が生まれているだろう。それを、修辞法的な表現として用いたと考えられる。 《習射所》 〈天武〉十三年閏四月に詔があり「凡政要者軍事也」だから「文武官諸人務習二用兵及乗馬一」と勧められた。 相変わらず新羅を警戒する必要があり、また内乱が起っても文武官が一丸となって実力で制圧できるように普段から備えを固めておけというのである。 その一環として、弓術の習得が奨励されたと見られる。 《偽兵衛》 兵衛は〈倭名類聚抄〉「兵衛府【由介比乃豆加佐】」に属する。書紀古訓では「トネリ」〔舎人〕と訓む。たしかに兵衛は兵衛府の舎人であるが、これだけでは兵衛府に所属することが消えてしまう。 由介比(ユケヒ)がよさそうに思えるが、これは弓矢をもって仕えた古い職業部を指す言葉なので意味がずれる。「ゆけひのつかさのとねり」とすれば正確だが、長すぎるのが難である。 「偽」の書紀古訓「カスイ」は辞書にない語である。おそらくは掠(カス)ムから変じたカスウの連用形と考えられる。 「偽(にせ)」という意味からは、兵衛府に採用もされていないのに紛れ込んだ者と読める。しかし、それだけなら追放すれば済む程度のこと、敢えて流罪に処す必要はない。 おそらくはことはもう少し悪質で、私党を率いての反乱、または悪巧みが露見したのであろう。「偽-」は、「表向きは忠実な兵衛を装うが実は犯罪者である」という意味かと思われる。 それにしても言葉足らずの感は否めない。
「生部連虎」には爵位を授けてその功を称えている。「柏原広山」がやらかしたことは相当悪質だったのだろう。
《八釣魚》
官は神祇官と太政官に大別される(資料[24])。 《幸吉野宮》 前回の正月十八日から七か月足らずである。今回は帰京の記事が無い。 《禁断漁猟》 いわゆる禁野にあたると考えられている。 禁野は「皇室の御猟場として一般の狩猟を禁止した原野で、標野(しめの)ともいう」(『国史大辞典』〔吉川弘文館1979〕)。 この段では野二か所に海一か所が混ざっているが、ともに禁断とされる。 《摂津国武庫郡》 神功皇后紀に、武庫郡の広田神社、務古水門が出てきた (《広田国》以下)。 〈孝徳〉天皇は大化三年十二月に「武庫行宮」に滞在した。 《海一千歩内》 『令義解』巻十「雑令第三十」 ・「凡度:十分為レ寸。十寸為レ尺。一尺二寸為二大尺一尺一十尺為レ丈」 〔1寸=10分。1尺=10寸。1丈=10尺。(大尺)1尺=(通常の尺)一尺二寸〕。 ・「凡度地:五尺為歩。三百歩為里」〔1歩=5尺。1里=300歩〕。
この条里の痕跡は現代でも広範に残っており、その一辺は概ね108mである 〔資料[45]、《他田庄》〕。 よって、1歩=108m÷60=1.8m。これは正倉院尺(≒0.3m)の6尺に相当する。 すると雑令でいう「五尺為レ歩」の「尺」は、大尺と読まなければならない。 それでは、大宝令以前の1歩はどれほどか。 〈時代別上代〉はそれを高麗尺の6尺〔=2.16m〕と述べるが、大宝令を境に田の単位面積が急に変わったとは考えにくい。 令前において、唐尺による「一歩=六尺」が既に定着しており、 大宝令においては一歩の実サイズを変えず、高麗尺によって表し直されたと考えるのが自然ではないだろうか。 なお、ここでは「海一千歩内」は大雑把な表現だから、1歩=1.8mか1歩=2.16mかは、それほど問題にはならない。 海岸から沖へ向かって2km内程度の海域の意味であろう。 《紀伊國阿提郡那耆野》
「那耆野」は〈倭名類聚抄〉{紀伊国・有田郡・奈郷郷}か。奈郷の訓みはナゴであろう。 『大日本地名辞書』は「和名抄、在田郡奈耆郷。書紀通証は那耆なるへしと云ふ、今之に従ふ」、 「按に奈耆郷は今の宮崎村田栖川村に当る如し」という。 『和歌山県有田郡誌』〔和歌山県有田郡編;1915〕〔以下〈郡誌〉〕を見る。 その「藤並村」項には、 「椰野 ここで字椰野里があるという「大字天満」は、藤並村に含まれる。 〈郡誌〉の「人文誌/奈耆郷」編では、奈耆郷を田殿村として、 「田殿村川南の平野総段別」は「日本紀に所那耆野二万頃」に合い、 「蓋し那耆郷は那耆野と有田川北なる那虞耶峰附近の村落を総称せるものならんか」 そして、湯浅村の西の海を那耆海とする説は「高脚海」と混同したことによる誤りとする(pp.78~79)。 藤竝 [和歌山県神社庁オフィシャルサイト]によると、藤竝神社の創始は〈政務〉の勅命により「武内宿祢が勅命を奉じて、水主神を勧請」したことで、 有馬皇子が紀伊国を訪れた際(〈斉明〉三年)にここで弊を俸げ、「翌年の秋天皇が牟漏温泉へ行幸の砌 地形図を見ると、天満(大字)は有田川の氾濫原からやや離れた平原に「二万頃」は確保できそうである。また字「椰野里」は那耆野の遺称であろう。 さらに〈郡誌〉に見る現地の直感も重視され、そこに〈斉明〉に纏わる古い伝承も考え合わせると、那耆野が大字天満の地域にあったことは十分に考えられる。 《二万頃》 頃は面積の単位で、代と同じ。1代=7.2歩、1歩=3.24m2(「1代(しろ)」)。 よって20,000頃=144,000歩=466,560m2。 1辺683mの正方形、または半径385mの円の面積にあたる。
『大日本地名辞書』は「身野は今美濃波多村蓋 〈安寧〉段に「〔皇子〕師木津日子命之子二王坐。一子孫者【伊賀須知之稲置。那婆理之稲置。三野之稲置之祖】」、 すなわち〈安寧〉皇子木津日子命の子のうち一子は、伊賀国の三野稲置の祖とされる (第103回)。 『名張の歴史』上巻〔中貞夫 著;名張地方史研究会1960〕は、 「字義どおり、皇室の猟場として使用するためだったろうかというに、…古墳群を保護するために一般の狩猟を禁じたものと解釈したい」(p.43)、 「古代からの原野で、…江戸時代になっても、この原野の状態が続いていた…のは、古墳群の存在によって開墾の鍬を入れることが伝統的に畏怖されてきたのではなかろうか」(p.345)と述べる。 「古墳群」には、馬塚(前方後円墳);墳丘長160m・倍塚2基。女良塚100m、殿塚130mなどがある。 以上のように身野は美濃波多村にあったとするのが、一般的理解である。 ただ常に典拠を挙げる『日本歴史地名大系』〔平凡社2004〕でも、 名張市(中村)においては「古くから身野・三野とよばれた早期開発地域であったと思われる 《河内国大鳥郡高脚海》 大鳥郡は和泉国の郡だが、和泉国はまだ存在せず河内国に属した(【河内茅渟】)。 (万)0066「太上天皇幸于難波宮時歌:大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 おほともの たかしのはまの まつがねを」がある。 また、『金葉和歌集』恋下469「音にきく たかしの浜の あだ波は」、 『古今和歌集』915「沖つ波 たかしの浜の 浜松の」(紀貫之)と詠まれている。 〈延喜式-神名〉:{大島郡/高石神社}、比定社「高石神社」〔大阪府高石市高師浜4-1-19〕もあり、由緒ある海岸である。 《伊予総領》
伊予総領の管轄範囲には少なくとも讃岐国が含まれていたことが、讃岐国のことを伊予総領に命じたことから読み取れる。 あるいは四国全域を管轄していたのかも知れない。 西日本特有であるから、軍事に広域的に即応するための体制と推定される。 〈文武〉四年を最後として、〈倭名類聚抄〉・〈延喜式〉には見えないので早い時期に廃止されたと思われる。 書紀古訓は「スベヲサ」と読む。長を一般的に表すヲサをあてたと思われる。 四等官制によることにすれば長官はすべてカミだから、総領はスベカミとなる。皇神と同じに見えるが、 上代特殊仮名遣いでは「神:カミ乙」、「長官:カミ甲」の区別がある。
〈倭名類聚抄〉{讃岐国・三木郡}。 《白燕》 書紀古訓は「ツバクラメ」。〈倭名類聚抄〉にも「鷰:和名豆波久良米」が見える。 一方、万葉集の (万)4144「燕来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧 つばめくる ときになりぬと かりがねは くにしのひつつ くもがくりなく」 では、和歌の音数五七五七七によりツバメと判断される。〈時代別上代〉が「ツバメ」を見出し語として、ツバクラメを平安時代の形と述べるのはそのためであろう。 《観射》 久しぶりに射が行われた。習射所の受講生も加わり、成果を披露したであろう。八年からは、新年行事に射が復活する。 《大意》 七月一日、 陸奧の蝦夷(えみし)の沙門自得(じとく)が 請願した 金銅の薬師仏、 観世音菩薩各一体、 鍾、 鈔鑼(さら)〔響銅〕、 宝帳、 香炉、 幡(はた)等を授けられました。 この日に、 新羅の弔使金道那(こんどうな)の一行が帰国しました。 十五日、 左右の京職、及び諸国の国司に詔して、 習射所を築かせました。 二十日、 偽装した兵衛(ひょうえ)河内国渋川郡の人柏原(かしははら)の広山(ひろやま)を 土左国に流しました。 よって追広参位を 偽装した兵衛広山を捕えた兵衛生部連(いくべのむらじ)虎(とら)に授けました。 二十三日、 越国の蝦夷(えみし)八釣魚(やつりな)らにそれぞれに応じて禄を賜りました 。 八月二日、 百官が〔=官こぞって〕神祇官庁に会集し、 天神地祗のことを奉宣しました。 四日、 天皇(すめらみこと)は吉野宮に行幸しました。 十六日、 摂津国の武庫(むこ)の海の〔海岸から〕千歩〔=約2km〕以内と、 紀伊国阿提(あて)郡〔後の有田郡〕の那耆野(なぎの)の二万代〔=約47ha〕、 伊賀国伊賀郡の身野(みの)の二万代で 漁猟を禁断としました。 守護人を置くことは、 河内国の大島郡の高脚(たかし)の海に准えたものです。 二十一日、 伊予の総領田中朝臣法麻呂(のりまろ)らに詔されました。 ――「讃岐国の御城郡〔=三木郡〕が捕獲した白燕は、 放し飼いして養うべし。」 二十三日、 弓射を観覧されました。 まとめ 那耆野の比定地については、地名辞書の推定よりも有田郡史の方が説得力がある。地元の研究ならではであろう。 一方、身野についてはずっと原野のまま置かれ、古墳群の土地でもあるので全面的に開墾が忌避されたという見解が示された。 神聖な土地なら、狩猟も禁じられたであろう。 ただ、ここにも守護人が置かれたとすれば、やはり朝廷の猟場だったことになる。 そもそもその古墳群の辺りを身野とする確かな根拠を示した説はなかなか見つからないので、一旦通説から離れるべきかも知れない。 さて、今回読んだ部分は「饗」に変えて「設」、まだ存在しなかった「左右京」、用字違いと見られる「娑羅」、実相が見えない「偽兵衛」など不正確あるいは不明瞭な個所が目立つ。 また、誤りではないが同じ爵位が連続するときの省略は〈続紀〉と同様な書法になっている。 このように、〈持統〉紀は書紀執筆の時代に最も近いにも関わらず、むしろこれまでよりも曖昧、あるいはやや雑に書かれる傾向が見え、その事情を探ることも一つの課題と言える。 |
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⇒ [30-07] 持統天皇(3) |
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