| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.10.29(wed) [30-01] 持統天皇1 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
持統1目次 【斉明三年~朱鳥元年九月】 高天原廣野姬天皇〔持統〕。少名鸕野讚良皇女。天命開別天皇第二女也……〔続き〕 2目次 【朱鳥元年十月】 《皇子大津謀反發覺逮捕皇子大津》
《謀反》 大津皇子の謀反のことが『懐風藻』に載る。
『懐風藻』の詩集としての性格はその伝記部分にも及び、物語風に潤色されていると思われるからである。 《逮捕》 書紀古訓は「逮レ捕二皇子大津一」〔皇子大津を捕えるに逮〔=至〕る〕と訓み、逮と捕を分離している。 汉典では「逮捕、是指二公安機関…一而依レ法剝二-奪其人身自由一、予以二羈押一的一種強制措施」と述べ、これは現代の法制度における「逮捕」である。しかし、古典では異なるかも知れない。 そこで古文献を見ると、『漢書』高帝紀下「貫高等〔人名〕謀逆発覚、逮二-捕高等一」というこの場面に似た文がある。 他にも漢籍に「逮捕」は多く、例えば『史記』淮南衡山列伝「有司請レ逮二-捕衡山王一」、 『通典』〔801年〕刑法一「廄律有二逮捕之事一」〔"廄律"はうまやのきまり〕などがあるが、見る限り「逮捕」は動詞熟語である。 よって、ここの書紀古訓は適切ではないと思われる。 《捕為皇子大津所詿誤》 詿誤は熟語動詞で、「人を欺いて誤らせる」。 為P所Vは、受動文の形式のひとつ〔Pは行為者〕。 「為」はタメニと訓まざるを得ない(《為蝦夷見敗》項参照)。 この文字列は「捕」への修飾節「為皇子大津所詿誤」が後置されたと思われるが、漢文にはあり得ない構文である。 本来は「為皇子大津所詿誤而被捕者」であろう。和習としても度が過ぎている。 《八口音橿/壱岐博徳/中臣臣麻呂/巨勢多益須/行心/礪杵道作》
《賜死皇子大津》 新天皇が即位する際には、必ずと言ってよいほど一人の皇子が謀反する。これまでの例からいくつかを見る。 有間皇子は、〈斉明〉四年十一月 蘇我赤兄に唆され、謀反を起こした。 古人大兄皇子は、〈孝徳〉即位前(〈皇極〉四年六月十四日)、〈天武〉の前触れのように「出レ家入二于吉野一勤二-修仏道一」とある。 そして、大化元年九月に遂に「謀反」した。 〈皇極〉四年六月の時点で、軽皇子は古人大兄皇子にあなたが即位すべきですとはたらきかけている。 これらは、それぞれの皇子が謀反を起こしそうだという噂の種とする謀略だと思われる。 その噂により、皇子には反朝廷諸族が寄ってきて御輿に担ぐであろう。これが一層皇子への疑いを増し、結局謀反に追い込まれるのである。 大海人皇子の決起の発端も実はこれであろう。但しこのときは近江朝廷への反感は国内に広範に湧き上がっていて、例外的に謀反が成功してしまった。 一般的には謀反の勢力を駆逐して見せることにより支配者として権威を高め、新体制を盤石としようとする。 端的に言えば、謀反を工作して新朝発足の露払いとする習慣があった。 今、朝廷は挙げて忍壁皇子即位に向かっている。大津皇子は、自身が謀反を演じる役割を負わせられていることを、即座に察知したと思われる。 大津皇子はとても知的な人物だったので、どの道自らの死は免れないと理解しただろう。国家を騒乱状態に陥らせることもよしとしなかったから、 超然としてその筋書きを受け入れた。そして死を賜ったと称して直ちに自死して、国家の混乱を未然に防いだと思われる。 《譯語田》 〈敏達〉天皇の訳語田宮の地と思われる。 その訳語田宮の候補地には、戒重春日神社の地と他田坐天照御魂神社の地がある (【訳語田宮】)。 万葉に、(万)0416「大津皇子被レ死之時磐余池陂流レ涕御作歌一首〔大津皇子の被死(ころされたまへる)時、磐余陂(いはれのつつみ)に涕を流して御作(よみたまふ)歌一首〕: 百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟 ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ」がある。 磐余池に近いのは、戒重村の方である。 《皇女山辺》
敢えて〈天智〉が大津皇子を愛でたと書く。〈天智〉王朝に対する親近感を暗示して、わずかに謀反の動機に結び付けようとするのであろう。 《容止墻岸…弁有才学》 謀反を起こした人物に、これほどの賛辞は首尾一貫しない。 おそらく「謀反」が濡れ衣であることが、既に万人の認識になっていたのであろう。書紀もそれを前提にしてむしろ優れた判断をしたと書かれたと考えられる。 山辺皇女の取り乱したさまを見て皆がすすり泣く場面を敢えて入れたのも、それ故と思える。 草壁皇子が即位に至らずに夭折したのは、自分の即位のための策謀と見られていることを気に病み、遂には体を壊したのかも知れない。 《墻岸》 「墻」は「牆」の異体字で、意味は「垣」である。岸に建てた垣は、すなわち堤防となる。 牆岸の用例を[中国哲学書電子化計画]で探したところ、一例が見つかった。
その文章を丸ごとGoogle検索にかけてみたところ「AIによる概要」が示され、その中で「牆岸高嶷」の部分の訳は「人としての垣根が高く、威厳がある」となっている。 誰かがこのように翻訳したデータが存在していたのでなければ、機械が一定のアルゴリズムによって作文したはずである。 「人柄を表す語句である」+「牆は垣根のことである」という手掛かりによって演算してこの文章を組み立てたと考えられる。 これが故事成語でなければ、字そのものの意味に基づいて解釈することになる。 自我が確立されていて容易に言いなりにならず、また他人の人格を尊重して安易に干渉しない態度を表現したとする解釈は確かにあり得る。 《詩賦》 詩賦は、中国の韻文をいう。 〈汉典〉によると「①詩和賦。 ②指二雅楽一」〔①詩と腑。②雅楽を指す。〕。 用例を探すと、『漢書』王貢両龔鮑伝に「著二詩賦数十篇一」。同じく元后伝に「誦二-読詩賦一」などが見える。 詩と賦の違いについては、「詩は詠唱〔歌謡〕され、賦は朗読される」あるいは「詩は叙情詩、賦は叙事詩」という解説を見る。 『古今和歌集』の「真名序」に、「詩賦之興自二大津一始也」への言及がある。 曰く「自三大津皇子之初作二詩賦一、詞人才子慕レ風継レ塵。移二彼漢家之字一化二我日域之俗一。民業一改和哥漸衰。」 〔大津皇子が初めて詩賦を作って以来、我が国では漢詩が一般的になり、和歌は次第に廃れた〕 「真名序」は続けて、「けれども和歌の価値は不変だから万葉には収められていない歌を集めて古今和歌集を編んだ」旨を述べる。日付は「延喜五年〔905〕歲次乙丑四月十五日」。 『古今和歌集』には「真名序」〔漢文による序〕とともに「仮名序」が添えられている。 その「仮名序」でも、真名序と同様に奈良時代には万葉集が親しまれたが今は廃れているので 「いにしへのことをもわすれじ、ふりにしことをおこしたまふとて」和歌を後世に伝えるために古今和歌集の編纂を命じられたと述べる。 ただ、和歌が廃れた原因が大津皇子が始めた詩賦の普及にあるとする件りは、「仮名序」には入っていない。 《今皇子大津已滅》 大津皇子に騙されたことはやむを得ない。大津皇子が亡びた今、関与した者は二人を除いて赦免すると詔する。 三十人余りが関わる大事件であったが、あっという間に連座から赦された。 ここからも、もともと「謀反」計画に関する確たる証拠はなかった印象を受ける。 下級官一人を流したのは、建前上全く処罰しないわけにはいかないからであろう。 行信僧については名目は処罰であるが、もともと飛騨国寺院を充実させるために予定されていた一環とも考えられる。 大津皇子は追い詰められて謀反に決起するだろうという予定の筋書きに反して、全く抵抗を示すことなく早々に自ら命を絶った。 これでは、皇子は朝廷の意を体して尊い犠牲を払った悲劇の人物となってしまう。 この経過は、既に当時の人々には見え見えで、故なく犠牲となった大津皇子には同情が集まったと見られる。 書紀の記述もそれを前提としていたからこそ、大津皇子の人柄と業績を讃えたのであろう。 草壁皇子もこれを気に病んで寿命を縮めたのかも知れない。 結局この策謀が祟って草壁皇子の即位をならなかったのだとすれば、〈持統〉天皇の大きな計算違いであった。 《飛騨国伽藍》 飛騨国は、白鳳期に畿内に匹敵する立派な寺院がいくつも建てられていたと見られる(別項)。 行信の派遣も、実際にはその寺院の営みを充実させるためと見られる。 《大意》 十月二日、 大津皇子の謀反が発覚して、 皇子を逮捕しました。 併せて大津皇子によって騙されて捕えられた者には、 直広肆(じきこうし)八口朝臣(やぐちのあそん)音橿(おとかし)、 小山下(しょうせんげ)壱伎連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)と、 大舎人(おおとねり)中臣朝臣臣麻呂(おみまろ)、 巨勢(こせ)の朝臣多益須(たやかす)、 新羅の沙門行心(ぎょうしん)、 及び帳内(とねり)礪杵(とき)の道作(みちつくり)ら、 三十人あまりがいました。 三日、 訳語田の宿舎で、大津皇子に死を賜りました。 その時、二十四歳でした。 妃の山辺(やまのべ)の皇女(ひめみこ)は、 髪を乱し素足で駆けつけ殉死し、 見る者皆、すすり泣きしました。 大津皇子は、 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)〔天武〕の第三子で、 振る舞いは墻岸〔けじめがあり〕、声言葉は賢明で明朗でした。 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕に愛され、 長じてことをわきまえ才学がありました。 文筆を最も愛され、 詩賦(しふ)の興は、大津皇子から始まりました。 二十九日、 詔され 「皇子大津の謀反で、 欺かれたとしても吏民、帳内(とねり)はやむを得なかった。 大津皇子が既に滅びた今、 大津皇子に従ったことにより連座すべしとされた者は、皆これを赦せ。 ただ、礪杵(とき)の道作(みちつくり)は伊豆に流せ」とおっしゃりました。 また詔され 「新羅の沙門行心は大津皇子の謀反に関与したが、 朕は法による処罰を加えるのは忍びない。よって飛騨国の伽藍に移せ」とおっしゃりました。 【飛騨国の廃寺跡】 《寿楽寺廃寺》
以下、その抜粋を見る。
〈倭名類聚抄〉{飛騨国・荒城郡・高家【加木倍】郷}。ただし、訓「カキヘ」は不審である。 {佐渡国・羽茂郡・高家【多加倍】}、{信濃国・安曇郡・高家【太木倍】}を見れば、「加木倍」は明らかに多木倍の誤写である。 よって、「高家寺」はタキヘ寺と訓むことになる。 ● 「出土した軒丸瓦のなかで、Ⅰ・Ⅱ型式軒丸瓦の瓦当文様は白鳳期のものだと思われる」、 「本遺跡の寺院跡は白鳳期に創建されたとして間違いないだろう」(p.211)。 単弁八弁蓮華文軒丸瓦は、八弁は共通だが実際には様々なデザインが見られる。ただ、どれも白鳳期〔大化改新から平城遷都まで〕に収まるようである。 ● 「発掘区域から南光山寿楽寺の境内までが、…一続きの平場… 発掘調査区域から農地に掛けて講堂があり、南光山寿楽寺のあたりに塔や金堂があったと考えると、収まりがよい」(p.209)。 ● 「D地区では、僧坊跡、西側回廊跡、講堂基壇跡等の一部を検出した」。 「この図は、寿楽寺境内までを主要堂塔のある区域として、推測を大胆に加味して描いている」(p.208)と述べるのは、前項の推定によるもの。 ● 「三彩陶器…〔は〕奈良三彩である」。「搬入品だと思われる三彩陶器や暗文土器が出土したことは、中央との強い結びつきを示している」。 「笵〔木製の瓦型〕や摸骨を持ち込んだか、工人や工人集団が移動して技術を伝えた可能性が高い。 このような伝搬の仕方であれば、空間的に離れている場所にそっくりの技術があっても不思議ではない。持ち込んだ技術をそのまま再現しているのだろう」(p.212)。 奈良三彩は「多彩釉陶器」で「奈良時代から平安初期まで、韓栄工房で限定的に生産された」という([奈良国立博物館/正倉院展用語解説])。 すなわち、「中央との強い結びつき」は奈良時代まで続く。 《杉崎廃寺跡》
調査の結果、杉崎廃寺は「火災によって焼失」したことがわかり、その時期は「概ね8世紀末から9世紀初頭頃と考えられる」(p.3)。 伽藍配置は法起寺式だが、中門ー講堂のラインが「伽藍の中軸線に対して西に寄っ」て金堂に合わられている点は「他に例をみない」という(p.43)。 創建の年代については、「時期の決め手となる遺物が少ない」が、 「一本柱塀あるいは整地層から出土した猿投窯編年の岩崎41号窯式並行の須恵器坏類や平城宮Ⅰと推測される畿内産土師器坏Aなどを手がかりに考えると、概ね7世紀末から8世紀初頭の年代が推測された」という(p.3)。 ここで推定された建造の時期は、朱鳥元年よりは幾分新しい。 《飛騨国の廃寺跡》
『杉崎廃寺跡』は「序」において「古川町内ではこの他に4ヶ寺、国府町域でも6ヶ寺の古代寺院が確認されており、 これだけの数の寺院が集中するのは全国的にも珍しく、飛鳥の宮殿や寺院の造営に携わった「飛驒匠」の経験が土壌になっていると言われています」と述べる。 同書があげる廃寺跡のうち、寿楽寺廃寺を除く9カ所は次の通りである。それぞれに参考となる資料の一部を添えた。
《新羅沙門行心の寺》 杉崎廃寺・寿楽寺廃寺は畿内と同水準の寺だと考えられるので、「新羅沙門行心」が移された寺ととしては自然である。 ただ、杉崎廃寺の創建時期はやや遅いようなので、寿楽寺廃寺の方が考えやすい。 しかし、『杉崎廃寺跡』(p.44)が述べるように、この地域のほとんどの寺には本格的な発掘調査が行われていないので、寿楽寺廃寺に匹敵、あるいはそれを上回る伽藍遺跡が眠っているかも知れない。 それを考えると、行心が移された寺を寿楽寺廃寺と決めるのは早計であろう。 3目次 【朱鳥元年十一月~潤十二月】 《奉伊勢神祠皇女大來還至京師》
《無遮大会》 無遮大会は、「道俗で、貴賤の別なく、一切平等に財施と法施とを行ずる法会」(『例文 仏教語大辞典』小学館1997)。 すなわち「無レ遮」は「さえぎることのない」意と理解される。 「天渟中原瀛真人天皇」の為に設けられたというから、道俗が集まって〈天武〉天皇を偲ぶ会の性格があったと思われる。 《大官大寺》 百済大寺が移転して高市大寺、改名して大官大寺となった(【百済川側九重塔】項)。 その位置は、藤原京の十条東四坊と見られる(資料[54])。 《飛鳥寺》 〈天武〉九年四月勅では、議論はあったが「官寺」として維持されることになった (成り立ちについては、《飛鳥寺》)。 《川原寺》 〈斉明〉川原宮の跡地で、創建は〈天智〉朝と考えられている (〈孝徳〉白雉四年六月【川原寺】)。 《小墾田豊浦寺》 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、題名とは裏腹に主に豊浦寺の縁起が書かれている。 別名向原寺、飛鳥寺と対の尼寺として位置づけられている。 現向原寺の周辺発掘調査で、講堂・金堂・塔の跡が確認されている (資料[48])。 位置は小墾田宮に近い。 《坂田寺》 〈用明〉二年四月に鞍部多須奈が坂田寺及び「木丈六物像挾侍菩薩」を造ると誓った。 坂田寺廃寺跡が石舞台古墳南方にある(《南淵坂田寺》項)。 《孤独高年》 〈汉典〉によれば「幼而无レ父和老而无レ子的人」〔幼くして父無き、老いて子無きを合わせていう〕、また「孤立无二所依附一」〔単に孤立〕の二つの意味がある。 『荀子』〔戦国〕-王覇「雖二孤独鰥寡一必不レ加焉」では、孤〔孤児〕・鰥〔寡夫〕・寡〔寡婦〕と並べられるので、「独」は「老いて子無き」にあたる。 一方、『礼記』〔戦国〕-楽記「老幼孤独」では、独り身一般を意味する。 よって「孤独高年」は「孤・独と長生きした人」、または「孤独な高齢者」という二通りの解釈があり得る。 書紀古訓は前者。「孤」にあたる上代語「みなしご」はあるが、「老而无子的人」にあたる上代語はなく、書紀古訓は「ヒトリヒト」とするが不十分である。 これまでの仁政は、 〈仁徳〉六十七年に「弔死問疾、以養孤孀」。 〈顕宗〉即位前「天皇、久居二辺裔一、悉知二百姓憂苦一」、よって「䘏レ貧養レ孀」 〔袁祁王(〈顕宗〉)は長らく辺境の地にいて百姓の憂苦をよく知るので、貧者を憐み、寡婦を養った〕。 《三国高麗百済新羅》 「三国高麗百済新羅」は、「A:即ちa、b、c」のように先頭語の内訳を示す構文である。 「五寺:大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」、そして 前段の「従者:当レ坐二皇子大津一者」も同じで、まず概念で括り、続けてその内容を展開する。 この書法は、第三十巻になって初めて現れた。 《高麗百済新羅百姓男女》 百済の民については、百済国の滅亡後〈天智〉二年〔663〕に再興を望む百済民の要請により救軍を送ったが白村江で完敗し、大量の百済人が船で日本に逃れた(〈天智〉二年九月)。 高麗国も668年(〈天智〉七年)に新羅によって滅ぼされ、避難民の来帰も考えられるが書紀に記事はない。 一方〈天武〉十三年に「報徳国」政権が崩壊したときには、高麗の民が多数逃れて来たことが示唆される (《大唐人百済人高麗人》項)。 〈続紀〉霊亀二年〔716〕五月「以二駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七国高麗人千七百九十九人一、遷二于武蔵国一。始置二高麗郡一焉」 〔…七か国に住んでいた高麗人1799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置した〕とあるから、 帰化は必ずしも国が滅びたときに限らなかったようである。 新羅人の場合は難民ではなく、平和裏の来日である。前段の「新羅沙門行心」など、新羅僧の来日は文化交流と言える。 〈天武〉四年には「新羅仕丁」が本土に帰った記述があり、技術者なども招いていたようである。 海難による漂着もあり、〈天武〉六年六月には朴刺破らの漂着が載る。 このとき中央に送られた「六十二人」は一部と思われるが、僧尼を含めて献上したとあるので、知識人や技術者など国家に役立つ者を選んで送る意味合いがあったと考えられる (《新羅仕丁》)。 〈続紀〉天平宝字元年〔757〕四月「其高麗百済新羅人等、久慕聖化来附二我俗一。志二-願給一レ姓、悉聴許之」 〔高麗百済新羅の人は、帰化して久しく同化している。姓を賜ることを願う者は皆許せ〕という表現からは、 三国からの帰化は戦乱を逃れて来るとは限らず、古い時代から間段なくあったことが窺える。 《蛇犬相交》 伝説であるから、蛇の訓みはヘミよりもヲロチの方が相応しいであろう。 この奇妙な伝説から何らかの寓意を読み取った例はなかなか見つからない。 もし「相交」が「相闘」なら、蛇を大津皇子、犬を草壁皇子に譬えることが可能かも知れない。しかし「相交」を交尾以外の意味で読むことは難しい。 さらに草壁皇子は〈天智〉元年の戌年生まれであるが、大津皇子は〔朱鳥元年に二十四歳だから〕〈天智〉二年亥年生まれある。よってこの解釈は無理である。 それでも大津皇子を巳年生まれとする別伝はなかったのだろうか。 その僅かな可能性が、『懐風藻』の「〔大津皇子〕浄御原帝〔天武〕之長子也」にある。 大津皇子を長子とすると、草壁皇子の生まれた順が逆転する。 これを、生まれ年を癸亥〔663〕ではなく、六年前の丁巳〔657〕とする伝承が一部にあったことの表れとする。ただ、これでは場合大津皇子は大来皇女の兄になってしまう。 これについては万葉集に、(万)0165「大来皇女哀傷御作歌」の「弟世登吾将見 いろせとあがみむ」がある。 イロセは基本的には「同母兄」で、既に定着していた大津皇子天智二年生まれ説に基づき、万葉編者は「弟」の字をあてたとも考えられる。 もはや想像に想像を重ねた泥沼状態であるが、ひとまず一部に「大津皇子は巳年生まれ」なる伝承が存在した可能性がごく僅かに残ると見ておく。 《大意》 十一月十六日、 伊勢神祠(いせのかみほこら)に奉斎していた大来(おおく)の皇女(ひめみこ)は 京師に帰還しました。 十七日、 地震あり。 十二月十九日、 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)〔天武〕の為に奉り、 無遮大会(むしやたいえ)を五つの寺、 大官〔大寺〕、 飛鳥寺、 川原寺、 小墾田(おはりた)の豊浦(とよら)寺、 坂田寺で開催しました。 二十六日、 京師の身寄りのない子と老人、長寿の人に布帛(ふはく)をそれぞれに応じて賜りました。 閏十二月、 筑紫大宰は、 高麗・百済・新羅三国の 百姓の男女と僧尼六十二人を献上しました。 この年、 蛇と犬とが相交わり、にわかに両方とも死にました。 まとめ 大津皇子の「謀反」は、謎に包まれている。 謀反に連座させられそうになった壱伎連博徳は、後に大宝律令の撰定に関わり褒美を賜る。 同じく中臣朝臣意美麻呂も、後に中納言兼神祇伯に昇る。 近江朝末期とは異なり、浄御原宮朝では着々と律令国家造りが進んでいて国家は安定していたと見られる。 その時期に国家の重要人物として自歩を固めつつある臣が、謀反に関与することなどありそうもない。 大津皇子自身について、陰謀を疑われてもその高潔で思慮深い人柄の故に暴発することはなく、 冷静にそれが自分の役割だと受け入れて自死を選んだと見られる。 どうやら朝廷は過去の例に捉われ、新天皇の出発にあたっては有力な皇子の誰かが謀反を起こし、それを制圧する過程が欠かせないと考えたようである。 その盲信から抜け出せなかった故に、その実行者として大津皇子を選んだと思われる。 鸕野讃良皇女は〈天武〉生前には優れた実行力の持ち主として評価すべきだと考えるが、 こと我が子のこととなると冷静さを欠き、確実に即位させるために手段を選ばなかったのはまことに残念である。 〈持統〉天皇の画策が明確に書かれなかったのは、〈天武〉紀・〈持統〉紀が奈良時代の朝廷による重要な活動の出発点に位置づけられたからであろう。 そこに天皇がでっち上げたとあからさまに書くわけにはいかない。 さて、飛騨国荒城郡〔後に吉城郡〕の廃寺については、白鳳期において畿内に匹敵する寺院が林立した特別の地域であることがわかった。 その充実を見るにつけ、行心僧を移したことの懲罰としての性格はますます薄らいで見える。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.11.06(thu)[30-02] 持統天皇2 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
4目次 【元年正月~三月】 《皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉》
喪の行事における慟哭は第三十巻のみで、これもミネと訓むと思われる。その一方で、前巻までの「発哀」も引き続き使われている。 それでは、両者はどのように区別されるのだろうか。 この問題の研究としては、「殯宮儀礼と挽歌」菊池威雄〔『国文学研究』79集;早稲田大学1983〕があり、 そこでは慟哭の主語の多くが「皇太子・公卿・百寮人」で、発哀の主語が「梵衆」、「膳部」、「采女」であることから 「「慟哭」は哭礼のうちもっとも厳粛なもので、匍匐礼のごときものを伴っていたのではなかろうか」と述べる。 「匍匐礼」への言及は、伊邪那岐伊邪那美段(第37回)の「匍二-匐御枕方一匍二-匐御足方一」によるようである。 「発哀」は梵衆、膳部、采女について使われるから、「発」は組織的に集められた人たちに号令を発する意味かも知れない。 ならば「発」のない「慟哭」は号令によらない自発的な行為となる。皇太子が主語であるから、この解釈は辻褄が合う。 《納言》 大納言は、〈天智〉十年「御史大夫」への原注「御史蓋今之大納言乎」が初出 (《御史大夫》)。 〈壬申紀〉3段には「大納言蘇賀果安臣」。 〈倭名類聚抄〉には職名に「大納言【於保伊毛乃万宇須豆加佐】」・「中納言【奈加乃毛乃万宇須豆加佐】」・「少納言【須奈毛乃万宇須豆加佐】」とある。 すなわち、納言は「モノマウスツカサ」と倭読される。 〈持統〉朝の頃までは「納言」が何人かいて、その主席または上位者が「大納言」であったと理解される。 《布勢朝臣御主人》
述目構造VOを反転して「O之V」とする構文があるので、これにより誄を礼の目的語とすれば、 「誄をもって礼する」という意味として読めそうである。 しかし、二年十一月条では当麻真人智徳の誄と「礼也」は切り離されて、誄への注釈となっている。 その意図をどう見るかという問題は残るが、ひとまず注釈と位置付けておく。 なお誄に礼を付け加えることは〈天武〉紀にはなかったが、そもそも誄が礼であることは自明とも言える。 〈持統〉の第三十巻には他の巻には見られない書法がいくつか見え、これもその一つであろう。 《奉膳》 書紀古訓は、「奉膳」を「ウチノカシハデノツカサノカミ」と訓み、「内膳司」の長官と解釈している。すなわち、令前官に令制における呼び名を用いている。 内膳司は令制では宮内省に属し、〈倭名類聚抄〉では「内膳司【宇知乃加之波天乃官】」と訓ずることが確認できる(資料[24])。 ここで「膳部」と「采女」を率いているのは内膳司の長官としてだから、辻褄が合っている。 《紀朝臣真人》 もともと「乳朝臣」だったが「紀朝臣」に正したのは〈兼右本〉である。 〈姓氏家系大辞典〉「乳朝臣:持統紀元年条に「奉膳乳朝臣…」とあれど、一本に「紀朝臣」とあるをよしとす」。
治部省に属する「雅楽寮」の前身と見られる(資料[24])。 令制における「雅楽寮」の構成は、《歌男/歌女/笛吹》項参照。 《皇太子》
よって、朱鳥元年十二月条の「高年」の範囲も八十歳以上であろう。 《田中朝臣法麻呂/守君苅田》
「賦田受稟」は「班田収授」に似ている。意味も近いと思われる(〈孝徳〉紀《班田収授之法》)。 賦は税や役を課す。また田などを割り当てる意。 稟は「報酬としての穀物」。ここでは納税して残った自己の取り分であろう。よって「受レ稟」の主語は生産者と見られる。 「使安生業」は定住させることによって安心して生業に励めるようにする意と見られる。なお、ナリハイは上代語である。 以上から、賦田受稟は大まかにいって公民化を意味すると思われる。 高句麗人や新羅人を移した常陸国、下野国、四月条の武蔵国はいずれも東国。筑紫または畿内から遠ざけようとしたようであるが、その事情は明らかではない。 しかし、〈推古〉九年の「新羅之間諜者」を見過ごすことはできない。潜在的に間諜が紛れ込んでいて新羅に情報を漏らす可能性は常に意識されていたと思われる。 よって中央の情報が得られず、本国と連絡が取れない地域に置こうとしたことも考えられる。 なお、平安時代に新羅人に田と種もみと農具を与えて公民化した例がある。 曰く『類聚国史』巻159田地上:〈淳和〉天皇「天長元年〔824〕三月丁丑。授二新羅人一百六十五人乗田廿四町八段一。為二口分田一。賜二種子并農調度価一」。 《花縵》 二年三月条で再考 ハナカヅラは、花の髪飾り。(万)4154「今日曽和我勢故 花縵世奈 けふぞわがせこ はなかづらせな」。 ここでは、殯宮を装飾する華鬘 《御蔭》 『播磨国風土記』上前郡/蔭山里に「品太天皇堕二御蔭於此山一故蔭山」〔〈応神〉天皇がこの山で御蔭を落としたので蔭山という〕。 また、同飾磨郡安相 一方〈時代別上代〉などはこれを「御冠」として、やはり地名の由来だから「ミカゲ」と訓む。 カゲの原意はヒカゲノカヅラで、頭部の装飾に用いたことが貴人の「御冠」に繋がったのだと思われる。 結局、御蔭は花縵の尊敬語で、「花縵」が建物の装飾の意味に転じた後にも、その尊敬語「御蔭」がそのまま用いられたということであろう。 《丹比真人麻呂》
〔持統天皇称制〕元年正月朔日。 皇太子は公卿、百寮の人らを率いて、 殯宮(ひんきゅう)に行き慟哭〔=涙する儀式〕されました。 納言布勢朝臣(ふせのあそん)御主人(みあるじ)は、 誄の礼をしました。 誄が終わったところで、衆庶は発哀〔=号令により涙する儀式〕しました。 次に梵衆が発哀しました。 そして、 奉膳(内膳司)紀朝臣(きのあそん)真人(まひと)らは、奠(でん)〔死者への捧げもの〕を奉りました。 奠を終わり、膳部(かしわで)、采女等が発哀しました。 楽官〔後の雅楽寮(うたまいのつかさ)〕は楽を奏でました。 五日、 皇太子は公卿と百寮人(ももつかさびと)らを率いて、 殯宮に行かれて慟哭しました。 梵衆〔=僧尼〕もそれに従って発哀しました。 十五日、 京師の八十歳以上、 及び篤い病や貧困で自活できない者に、 絁(ふときぬ)綿(わた)をそれぞれに応じて賜りました。 十九日、 使者直広肆(じきこうし)田中朝臣法麻呂(のりまろ)と 追大弐(ついだいに)守君(もりのきみ)苅田(かりた)らを 新羅に遣わして、天皇(すめらみこと)〔天武〕の喪を赴(つ)げさせました。 三月十五日、 帰化した高麗の五十六人を、 常陸の国に居住させ、 賦田受稟(ふでんじゅひん)〔=田を分配して収穫物を与える〕して、 生業(なりわい)に安んじさせました。 二十日、 花縵(はなかずら)を殯宮に飾り、 これを御蔭(みかげ)といいます。 この日、 丹比真人(たじひのまひと)麻呂(まろ)は、 誄の礼をしました。 二十二日、 帰化した新羅の十四人を、 毛野の国に居住させ、 賦田受稟して、 生業に安んじさせました。 5目次 【元年四月~八月】 《投化新羅僧尼及百姓男女居于武藏國》
僧尼と農民がともに送られた。それでは寺はどうするのだろうか。 石塔寺の三重石塔の例を見ると、百済からの移民が建てた寺と考えられている(《遷居蒲生郡/石塔寺(1)》)。 武蔵国に移された「新羅僧尼及百姓男女」も今のところはわずか二十二名だが、いずれは自分たちの寺を建てたいと考えていたに違いない。 《隼人大隈阿多魁帥》 ここでは、隼人は地域名としないと文が成り立たない。 (万)0248「隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 はやひとの さつまのせとを くもゐなす」 では、ハヤヒトノが薩摩への枕詞になっているので、やはり地名であろう。 その総勢337名は、次に記事がある七月辛未まで飛鳥に滞在していたと考えられる。 賞を賜ったのは、殯宮に詣でて誄 《魁帥》 魁帥の訳語については、〈持統〉1段の「桀豪」での考察と同様のことが言える。 もともと辺境で中央に服属しない強力な氏族であった意味合いを匂わせる呼び名である。 《赦罪人》 殯の一連の行事のうちにある。罪の赦免は、統治行為におけるひとつの慎みと考えられる。 《負債者自乙酉年》 乙酉年は〈天武〉十四年〔685〕。それ以前の負債の利子が免除される。 これも喪の期間の慎みか。ただ、この時期はたまたま凶作で借財に苦しむ多くの人がいた可能性もある。 債への古訓「モノノカヒ」は、書紀以外にも用例がある。 ・『日本国現報善悪霊異記』〔平安はじめ。弘仁十三年〔822〕成立か〕 『郡書類従第四百四十七』版 序文「債:母乃ゝカ比」、第二十三「債:毛乃乃可比乎」〔いずれも段末尾に置かれた注記〕。 ・『新撰字鏡』 (六合館版〔1916〕) 「債:毛乃乃比又於保須」〔モノノヒ。又オホス〕は「可」の脱落と見られる。 同書の成立は昌泰年間〔898~901;平安前期末〕だが、古い和語を多く収めるとされる。 よって、書紀古訓限定ではない上代語か。語源は「物の代へ」で、質草の類の意かと思われる。 《莫収利也》 利の書紀古訓「コノシロ」は古語辞典にはほとんど収められていない※)から、この個所以外には用例がないと思われる。 コは「利子」の"子"、シロは増加分であろう。 ※)…わずかな例は『現代語古語類語辞典』〔三省堂;2015〕に見える。 一般的な古訓は、『類聚名義抄』法下に 「利:トシ シルシ ●カ●●ゝ」〔一点は清音、二点は濁音。すなわちカガ〕。 書紀古訓でも他の箇所でカガが用いられている(〈天武〉九年十一月)。 カガは利益を意味し、利子に用いることにも問題はないであろう。 《若既役身者》 「役」は公による徴用ならばエまたはエタチと訓むが、ここでは私的な借財のカタとしての労働の提供である。この場合は書紀古訓のように、使役の意のツカフを用いることになろう。 《嘗》 ここではニヒナヘ〔新米を神に供えた上で、神とともに食する儀式〕でない。嘗の原意は「なめる(味わう)」。書紀古訓の「ナフライ」はナホライ〔直会〕の変で、すなわち書紀古訓は喪明けの会食と解している。 《此曰》 「曰」を日とする解釈もあるが、"この日"の表記はほとんど「是日」で、「此日」は〈孝徳〉紀の一例のみである。 やはり「曰」であって、嘗の内容が「御青飯」であると説明したと読むのが自然であろう。 《御青飯也》 曰の目的語には名詞が望ましい。 しかし「青」を連体形アヲキとすると、御を「ミ~」と訓むことは難しく、「御二青飯一」〔青飯をたてまつる〕と訓まざるを得ない。 古訓に併記されたヒシキ〔海藻のヒジキ;鹿尾菜〕は、「鹿尾菜」と記された木簡があるので当時から食用とされていたことがわかる([木簡庫])。よってヒシキ・ヒスキは古い時代から存在した言葉だと思われる。 古訓の「オホノ」は特異である。食物をノと称する例はどこにも見えない。よってヒの誤写と見るべきで、 オホヒ〔天皇の御饌〕であると判断される。よって「青飯」の書紀古訓は、もともとヒシキノオホヒまたはアヲキオホヒだったのであろう。 さらに「御」は、オホヒのオホを表す文字と見て、動詞とすることをやめるのが正解であろう。 これでひとまず訓読の見通しは立ったが、「御青飯」の実像は謎のままである。書紀古訓が複数説併記になっているのを見ると、宮廷の喪明けの直会における食事の内容についての、確かな記録は失われたようである。 青菜、またはヒジキの炊き込みご飯が想像される程度である。
「慟哭」はもっぱら皇太子を主語とするが、ここでは主語は「耆老男女」である。「発哀」でないのは組織された行動ではないからだと考えれば、「慟哭」はやはり自発的行動を指すことが裏付けられる。 《橋西》 橋の「西」というから、川は南北方向に流れている。おそらく飛鳥川であろう(右図)。 その西に集まったのは、浄御原宮周辺は飛鳥川を境として群衆の立ち入りが禁じられていたからであろう。 《藤原朝臣大嶋/黄書連大伴》
「龍象」は高徳の人物を龍と象に譬えたもので、形容詞または名詞として用いられる。「大徳」〔大きな徳〕も形容詞または名詞で僧に対して用いる。 よって「龍象大徳」はすぐれた僧を最大限に讃えた表現。おそらくこのときの詔にこの言葉が使われていたのであろう。 《酸割》 「酸」は、漢籍では大部分が味覚である。 わずかな例外は、「酸棗」〔地名〕と、「酸鼻」〔むごたらしくいたましいこと〕である。 「酸割」は、書紀のこの個所以外にはなかなか見つけられない。 「詔詞酸割不可具陳」を文脈から判断すると、詔の言葉「この僧衣は〈天武〉天皇の形見としてその御衣を仕立て直したものである」を読み上げようとしたが、 涙が込み上げてきてとても言葉にならなかったと読める。 ただ、それなら「不得」や「不能」であろう。「不可」では、実際の言葉は酸割すぎて書くことが許されないという書紀筆者の言葉となる。 それを判別する手がかりとして「陳」を調べたが、その原意は「ならべる」でこれだけでは書き言葉か話し言葉かは判別できない。 しかし、そもそも詔として公表された言葉だから、書紀に引用することが不許可になるはずがない。よって「不可」は使者が詔を読み上げられなかった意で、 本来「不得」を用いるべきだから、和習と見るべきであろう。 さて、「酸割」の他の用例を見る。
《大意》 四月十日、 筑紫(つくし)の大宰(おおみこともち)は帰化した新羅の僧尼、 及び百姓の男女二十二人を献上し、 武蔵の国に居住させ、 賦田受稟して、 生業に安んじさせました。 五月二十二日、 皇太子は公卿、百寮の人らを率いて、 殯宮に行き慟哭されました。 そして、隼人(はやひと)大隈(おおすみ)阿多(あた)の棟梁は、 それぞれ自分の郷党を率いて、 交互に誄(しのひこと)を進上しました。 六月二十八日、 罪人に恩赦しました。 七月二日、 詔を発しました。 ――「凡そ負債は、 乙酉年〔天武十四年〕より以前のものは、利を収めてはならない。 もし既に身を役していれば、役の利〔利息としての追加労働〕を得てはならない。」 九日、 隼人、大隅、阿多の棟梁が率いた 三百三十七人のそれぞれに応じて、賞を賜りました 。 八月五日、 殯宮で直会(なおらい)されました。これを御青飯(あおきおおい)といいます。 六日、 京城の老齢の男女は皆橋の西に臨み、慟哭しました。 二十八日、 天皇(すめらみこと)は、 直大肆(じきだいし)藤原朝臣大嶋、 直大肆黄書連(きふみのむらじ)大伴に、 三百人の龍象大徳〔徳の高い僧〕ら飛鳥寺に願って集めさせ、 袈裟を一人につき一組を施されました。 そして、 「これは天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)〔天武〕の御衣をつかって、 縫って作ったものである」と読み上げるうちに、 詔の言葉は酸割を誘い〔=辛く苦しくなり〕、つぶさに陳べることができませんでした。 まとめ この時期、〈天武〉天皇の喪一色で、その他の事項は高麗人・新羅人を東国に移した程度である。 皇太子は公卿、官人らを引き連れ繰り返し慟哭する。また舎人、采女、僧侶たちにも発哀する。 さらには老齢の男女の慟哭、薩摩大隅からも魁帥が多くの者を引き連れて上京して殯宮で誄を述べる。 また、弔いの心の政治的表現として恩赦し、また借財の利子の免除を命ずる。 こうして亡くなった〈天武〉への弔いの行事を国家を挙げて大規模に行ったことの背景には、 この機会に朝廷への求心力を強めようとする狙いがありそうである。 さらにうがった見方をすれば、〈持統〉の我盲によって大津皇子を死なせて評判を落とし、草壁皇子による継位も危ぶまれる状況になったので、 亡き〈天武〉の力を借りて皇太子たる草壁皇子の権威を回復しようとしたとも考えられる。 「皇太子率公卿百寮人等」と繰り返し書かれていることは、この見方を裏づける。 さて、今回読んだ部分には、賦田受稟、御蔭、新嘗ではない嘗、青飯、酸割など馴染みのない語句が次々と出てきた。 それらに訓注が全くつかないこともひとつの特徴である。 交代して〈持統〉紀を担当した執筆者には、難しい言葉を用いて格調を高めようとする意識があったように感じられる。 すなわち、これまでに比べて読み手に不親切になった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.11.15(sat) [30-03] 持統天皇3 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
6目次 【元年九月~十二月】 《設國忌齋於京師諸寺》
忌斎は、周忌の仏教行事。 後の用例としては、〈続紀〉天平宝字五年〔761〕六月庚申〔七日〕「設二皇太后周忌斎於阿弥陀浄土院一。其院者在二法華寺内西南隅一。為レ設二忌斎一所造也」 〔皇太后の一周忌の忌斎を浄土院で設けた。浄土院は法華寺の南西隅にあり忌斎のために造られた〕がある。 その天平応真仁皇太后〔光明〕は聖武天皇の皇后、藤原不比等の三女で、前年〔760〕六月乙丑〔七日〕に崩じた。 朱鳥元年九月九日に崩じた〈天武〉の「国忌斎」も命日にあたる〈持統〉元年九月九日に行われた。 古訓「国忌 《新羅王子金霜林》
よって、「王子金霜林」は神文王の子ではないだろう〔理屈としては、以前に別の妃が生んだ子の可能性は残る〕。 一代前の神文王は「文武大王長子」とあるが、その文武王には次子以下の記録がない。その一人が金霜林である可能性はある。 〈天武〉四年〔675乙亥;文武王十五年〕の「王子忠元」もやはり他には見えない名前なので、両者ともに文武王の子と見るのが妥当かも知れない。 《金薩慕/金仁述/蘇陽信》
その「国政」については、何を「奏請」したのであろうか。それを探るために、新羅の当時の国情を見る。 『旧唐書』巻一百九十九〈高麗百済新羅倭国日本列伝〉には 「法敏以二開耀元年一卒、其子政明嗣レ位。垂拱二年、政明遣使来朝、因上表請二唐礼一部並雑文章一、則天令二所司一写二吉凶要礼一、並於二文館詞林一採下其詞涉二規誡一者上、勒二-成五十巻一以賜レ之。」 〔法敏〔文武王〕は開耀元年〔681〕に卒去、その子政明〔神文王〕が継位。垂拱二年〔686;朱鳥元年〕に唐に遣使して『唐礼』その他の書を請うた。皇帝は所司に命じて『吉凶要礼』を筆写させ、併せて『文館詞林』(唐代の勅撰漢詩集)からその語句が規誡に涉るものを選ばせ、五十巻にまとめて賜った〕とある。 この条について「日本通交初期における渤海の情勢について : 渤海武・文両王交替期を中心として」(石井正敏)〔『法政史学』25;法政大学史学会1973〕は、 「前代文武王の時の唐・新羅の抗争を想起するとき、両国が単なる文化事業の一端としてのみでなく、秩序維持の象徴として、今回の諸書の請求・下賜を捉えていると理解」されると述べる(p.58)。 すなわち、唐羅はこれまでの抗争に終止符を打ち、礼節ある関係を築こうとしていることの表れと見る。 唐側の状況としては、武則天は690年に武周朝を立てたが、その前に既に実権を握っていたと見られる。 国内情勢との関係についてはもう少し勉強を要するが、少なくとも新羅への武力行使は行われなくなっていたようである。 さて、その「奏請国政」の中身としては、羅唐関係を改善するとの方針を説明するとともに、日本にも新羅と横並びで唐に礼節を尽くすことを勧めたことが想像される。 しかし、日本側の姿勢はあくまでも自国を新羅の上に置こうとしたものだと見られる(下述) 《調賦》 日本が新羅の宗主国然と振る舞うのは形式のみだが、これまでの「調」の表現が「調賦」になるのは、その誇示を強めたとも感じられる。ただ、単に巻ごとの用語法の相違かも知れない。 なお、後に宝亀五年〔774〕には、新羅は名目上の「貢朝」もやめ「国信」に改めることと要求している(資料[12])。 《学問僧智隆》
《喪服》 来日してはじめて〈天武〉の崩を知ったのなら、どうやって喪服を用意したのかと思えるが、 「着二喪服一東向三拝三発哭焉」は現実とは無関係の、儀礼的な文言かも知れない。 《東向》 筑紫から飛鳥京に向かって「三拝」、「三発哭」したという。 本来は「向レ東」かとも思われたが、漢籍を調べると「東向」は普通にあることがわかった。 《皇太子》
《国司国造》 「国司国造」という言い回しは、十七条憲法《第十二条》に見える。 これについて改めて考えてみると、〈推古〉朝の頃の地方行政の単位はアガタやコホリであった。 当時のクニは国造 よって、十七条憲法そのものが実際には改新詔以後に作られたもので、時代を遡らせて崇高化したことも考えられる。 しかし、資料[52]で「三経義疏」について調べた結果、 その執筆の「中心に才気に溢れた人物の存在がなければ、絶対成し得なかったことであろう。その人物は上宮太子以外に考えられない」という判断に達した(資料[53]まとめ)。 よって太子が優れた思想と文筆力により十七条憲法を執筆したと判断することは十分可能で、「国司国造」などは後の時代に部分的に加筆されたというのが、現時点での本サイトの見方である。 改新詔「其二曰」の「其郡司、並取二国造一」〔"郡司"は実際には評司〕から、地方統治の長としての国造が機能していたことがわかる。 時を経て〈天武〉朝には、かつての国造のうち有力なものが国の祭祀を掌る家に転じ、いわゆる律令国造となった。 〈持統〉紀における「国司国造」は、〈孝徳〉当時に用いられた言い回しが残り、後の時代でも慣習的に用いられたものと考えられる。
「檜隈大内陵」は明治時代の初めまでは丸山古墳に治定されていたが、 「1880年に『阿不幾 その『阿不幾乃山陵記』によると、陵内には「朱塗御棺。床金銅厚五分」、「金銅桶」、 「銀兵庫クサリ」・「種々玉飾」があったという (《此旧俗一皆悉断》項)。 「朱塗御棺」が〈天武〉天皇の棺、「金銅桶」が火葬された〈持統〉天皇の骨納器と見られる。 墳形は正八角形で、一連の天皇陵に相当すると見られる終末期古墳に共通する (《押坂陵》項)。 檜隈大内陵は「陵墓測量図では東西径38m、南北径45m、高さ9mの不定形な円墳に表現されているが、『阿不幾山陵記』には 八角形、五段構成で周囲に石檀があることを記述する」(『天皇陵古墳』〔森浩一;大巧社1996〕)という。 その後、2013年になって宮内庁が過去に調査を行った記録が存在することが明らかになった。それにより実際に八角墳であったことが確定的になり、 また五段構成の可能性が高まった。この調査結果については、別項【檜隈大内陵の調査記録】にまとめた。 なお、現地案内板(右図)のうち、「横口式石槨」は『阿不幾山陵記』による一つの推定と見られる。特に「朱塗棺」と「礼盤」の配置は概念的。 一方、「墳丘復元図」については『阿不幾山陵記』および宮内庁調査資料に基づいたものと見られ、比較的推定の確度は高い。 ただ、最上段については、〈牽牛子塚古墳報告〉の方は相当高く推定している(下述)。 《路真人迹見》
〔元年〕九月九日、 国忌(くにいみ)の斎(せ)を京師の諸寺に設けました。 十日、 斎を殯宮(もがりのみや)に設けました。 二十三日、 新羅は王子(せしむ)金霜林(こんそうりん)、 級飡(きゅうさん)金薩慕(こんさつも)、 及び級飡金仁述(こんにじゅつ)、 大舎(たさ)蘇陽信(そようしん)らを派遣して、 国政を奏請し、かつ調賦を献上しました。 学問僧智隆(ちりゅう)がともについて来ました。 筑紫の大宰(おほみこともち)は、そこで天皇の崩を霜林らに告げ、 その日に霜林らは皆喪服を着て、 東に向かって三度拝し、三度発哭(ほつこく)しました。 十月二十二日、 皇太子は、 公卿、百寮の人たち、 及び人民の男女を率いて、 大内陵(おおうちのみささぎ)の築造を開始しました。 十二月十日、 直広参(じきこうさん)路真人(みちのまひと)迹見(とみ)を、 新羅を饗する勅使とされました。 この年は、大歳丁亥(ひのとい)です。 【檜隈大内陵の調査記録】
その経緯については「「情報公開法」に基づき、宮内庁に開示請求したところ、同年5月17日(関西)と翌18日にNHKで放映され、大きな反響をよんだ」という(〈牽牛子塚古墳報告〉p.269)。 その調査結果の概略は、2013年3月の〈牽牛子塚古墳報告〉に含まれている。 同書は名称通り「牽牛子塚古墳」の調査報告であるが、八角形墳の系譜を総合的に述べた章〔第11章〕を特に設け、 その中の一項目に位置付ける形で宮内庁の調査内容を全面的に納め、かつその妥当性を検証している。 《1959年、1961年の写真資料》 宮内庁に残されていた記録は写真計80枚と現状報告の手紙に限られ、「最終的に報告書がまとめられた痕跡」はないので、 2007年に「当時の調査担への聴取調査を実施」して補っている(p.271)。この「聴取調査」も内部に留まり、結果が公表されることはなかった。 それらの写真のうち、正八角形の内角に繋がるものをピックアップすると、 「A地点」の「地覆石は裾石敷に接する部分が緩やかに湾曲…上面に浅い刳り込みが認められ…おそらくは、135度の角度を有するものと考えられる」という(図1)。 また「F地点」では、「隅角部の裾石敷、墳丘第一段の地覆石と貼石が検出されている」という(図2・図3)。 やはり正八角形の頂点のひとつを示すと思われる。 外辺の長さについては、「報告書(陸墓課1961)によれば、A-H間の距離は52尺(約15.8m)」、 「B地点に向かう敷石も、外周部の一石が51尺(約15.5m)の長さ」だという(p.273)。 《1985年の報告書》 1985年の調査は「奈良県立橿原考古学研究〔所〕」の末永正雄所長が中心となって、立ち入り調査を実施したもの。同氏は「書陵部委員」を兼ねる。 報告書〔以下"末永報告"〕には「復元初見」として、 「封土は凝灰岩切石を張石状に用いた八角形三段と観察できる。裾廻りは宮内庁実測図111mから112m等高線に沿い、 一辺の長さ約16m、最上部一辺約6m、高さ約7mと推定」、 「外護施設として二段の施設が匝る…第二段目にあたるところは平面状であり、さらにその外側に凝灰岩が敷かれ…両者には落差は殆ど見られない」、 「対角線の長さ50m、対辺間の距離47m、墳丘対角線の長さ41mとなる」という(p.283)。 八角墳の様式の各時期の変遷としては「舒明天皇陵・天智天皇陵が舌状尾根の先端を方形に修飾した上に、八角の墳丘が築かれ、 天武・持統天皇陵になると下部の方形檀はなくなり、八角の墳丘のみとなる」という。 〈牽牛子塚古墳報告〉は、末永報告が「一段目と二段目との上面に高低差は殆ど認められない」とする点に関して、 1959年、1961年の「調査写真や現地での所見を勘案すれば、裾石敷と外周石敷との間には、ある程度の高低差は想定しておくべき」 との考えを示す。 段構造について末永報告は「墳丘部を三段に築成」と述べるが、高さ1.5mで三段だとすると、全体の高さ「7.5m」には達しないので、 〈牽牛子塚古墳報告〉は、二段目~四段目を各1.5m、五段目を3.0mとする復元案を提唱している(図5)。 そして「このように考えることにより、『阿不幾乃山陵記』の「形八角」・「石壇一匝」・「五重也」という記載を矛盾なく受け入れること ができよう。つまり、「五重也」とは裾石敷を含めた墳丘の段数であり、「石壇一匝」は外周石敷と考えられる」と述べ、 『阿不幾乃山陵記』と統一的に理解しようと努めている。 《調査資料の評価》 写真だけでは、内角=135°とは確定できない。しかし、全周を概ね八等分した各点で石列が屈折しているので正八角形という見通しを持つことはできよう。 それでも石の並びを定量的に測定した図面が求められる。 また、羨道と玄室内部も調べ、それらのサイズと『阿不幾乃山陵記』記載の値と比較し、さらには「朱塗御棺ノ床ノ金銅」や「其形如レ鼓金銅桶」〔骨納器であろう〕を置いた「礼盤」の痕跡の有無も確かめたいところである。 7目次 【二年正月~六月】 《皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉》
通常の新年祝賀行事は、この年はすべて喪に関する行事に置き換えられている。 後に三年正月には、拝朝、公卿の宴、進槙、官人への賜食が復活する。 なお、「射」が再開されるのは〈持統〉八年である。 《皇太子》 これで慟哭の先導は四回目である (元年十月《皇太子》項参照)。 《薬師寺》 〈天武〉九年に皇后の病気の快癒を願って建造を始めた(《初興薬師寺》項)。 無遮大会ができる程度には建造が進んでいたようである。すなわち、金堂または講堂が完成していたと見られる。 《大宰献新羅調賦》 すなわち、筑紫で大宰が受領した調賦は飛鳥京に送られた。加えて筑紫館で饗したと書かれているように、京に迎えることはなかった(《鴻臚館》項参照)。 前述した〈天武〉四年には「王子忠元」を難波副都に迎えているので、前例に従わない非礼となる。 喪に伴い首都は厳戒態勢が敷かれていて、新羅使を入れるわけにはいかなかったと見られる。 それでも、三年五月の新羅使に対する叱責を見ると〈持統〉朝の対新羅外交の基調には、厳しさが前面に出てきたように感じられる。 また、《賦田受稟使安生業》では、新羅からの投化者を相次いで東国に移したことの背景に、間諜が紛れ込んでいることへの警戒感を見た。 それに比べると、〈天武〉朝の頃は鷹揚であったと感じられる。 《調賦金銀》 ここでも概念を先に書き、続けて内訳を述べる書法が用いられている。 《彩絹/金銀彩色》 彩色には「彩色 ただ、 (万)1255「綵色衣 まだらのころも」は、「イロドリコロモ」とも(〈時代別上代〉)。 (万)1092「我衣 色取染 あがころも いろどりそめむ」も見える。 したがって、彩はまた、イロドリとも訓まれたと思われる。 《国忌日》 〈天武〉帝の命日であろう。「忌日」は汉典でも「anniversary of a death」と説明される。 「国忌」については、上述《国忌斎》項で見た。 薬師寺では、現在でも毎年10月9日に「天武忌」が開催されている([薬師寺公式/天武忌])。 2025年には、天武忌法要、万燈会、献香、次米献納、奉納演奏などが行われた。 《花縵》 花縵は、一度は殯宮の建具の一部としての金属製の装飾物かと考えた(元年三月条)が、だとすれば何度も供えられることはないだろう。 前回も三月だから、春の花を摘んで手作りした飾り物をお供えしたと見るのが妥当かも知れない。 だとすれば、御蔭(ミカゲ)も、植物名カゲ〔ヒカゲノカツラ〕の意を強く残しているとするのが自然な見方となる。 《藤原朝臣大嶋》
《減本罪一等》 「皆赦」などと大雑把に書かれた頃に比べて内容はきめ細かくなっている。 〈天武〉十二年正月《以大辟罪以下皆赦之》で「除外対象の明文化は必然的な方向」であると見た。 なお、「極刑」にも字を補って「自極刑以下」と読むべきであろう。 《皆半入今年調賦》 前項とともに、これも喪の期間の政治における慎みか(元年四月~八月段段)。 《大意》 二年正月一日、 皇太子(ひつぎのみこ)は公卿(くぎょう)百寮(ひゃくりょう)の人らを率いて、 殯宮(もがりのみや)に行って慟哭しました。 二日、 梵衆が殯宮で発哀しました。 八日、 無遮大会(むしゃだいえ)を薬師寺に設けました。 二十三日、 天皇(すめらみこと)の崩を、新羅の金霜林(こんそうりん)らに告げ、 金霜林らはよって三度発哭(ほっこく)しました。 二月二日、 大宰が献上した新羅の調賦は、 金、銀、絹(かとり)の布、毛皮、銅、鉄のたぐい十種あまり、 併せて別に献上したものは、 仏像、 種々の彩絹(いろどりのきぬ)、 鳥、馬のたぐい十種あまり、 及び霜林が献上した金、銀、彩色の絹、 種々の珍しい宝、 併せて八十種あまりです。 十日、 霜林らに筑紫の館(むろつみ)で饗(あえ)され、 それぞれに応じて物を賜わりました。 十六日、 詔を発しました。 ――「今より以後、国忌の日を迎えるごとに必ず設斎せよ。」 二十九日、 霜林一行は帰国しました。 三月二十一日、 花縵(みかげ)を殯宮に進上しました。 藤原朝臣大嶋が誄(しのひこと)を申しました。 五月八日、 百済の敬須徳那利(きょうすとくなり)を甲斐の国に移しました。 六月十一日。 詔を発しました。 ――「天下に、 繋がれた囚人は死罪〔「以下」であろう〕は本の罪を一等減ぜさせよ、 軽くして繋がれた者は皆赦免させよ。 天下に、皆今年の調賦を半減させよ。」 まとめ 草壁皇子が臣・官・民を挙って率いての喪の行事が繰り返し書かれる。その回数の多さは異様と思える。 それだけ、鸕野讚良皇女が草壁皇子の即位に躍起になっていることを感じさせる。 やはり、大津皇子を死に追いやったことへの評判の悪さが影を落として、草壁皇子即位への障害になっているのであろう。 興味深いのは、現代の薬師寺の〈天武忌〉において、食堂に〈天武〉・〈持統〉に並んで大津皇子の肖像画が掲げられることである。 それだけ、当時の人々による大津皇子への同情は深く、それが根付いて後世に伝わったことの表れと言えよう。 さて、今回の主な内容は、〈天武〉〈持統〉合葬陵とする見方が定着した野口王墓古墳のこととなった。 宮内庁が過去に行っていた調査内容が全面公開されるに至るまでの顛末については、〈牽牛子塚古墳報告〉には当時の報道の「なかには事実認識の異なる内容も含まれ」、 「誤った情報が一人歩きする危惧もあったため」に「宮内庁で把握されて」いる内容を報告することにしたと述べられている(p.270)。 ここではその調査結果からポイントになる部分を見た。今後は、羨道や玄室内に及ぶさらなる調査が望まれる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [30-04] 持統天皇(2) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||