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2025.09.23(tue) [29-22] 天武天皇下22 

74目次 【朱鳥元年正月十六日~三月】
《御窟殿前而倡優等賜祿》
丁巳。
天皇御於大安殿、
喚諸王卿賜宴、
因以賜絁綿布各有差。
王卿賜宴…〈北野本〔以下北〕王卿○宴
〔朱鳥元年正月〕丁巳(ひのとみ)。〔十六日〕
天皇(すめらみこと)[於]大安殿に御(おほましま)して、
諸(もろもろ)の王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちを喚(め)して宴(とよのあかり、うたげ)を賜(たまは)る。
因(よ)りて以ちて絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を賜ふこと各(おのもおのも)差(しな)有り。
是日。
天皇問群臣以無端事、
則當時得實重給絁綿。
以無端事…〈北〉无端事則當-トキニ
〈内閣文庫本〔以下閣〕當-時 トキニ  ハ ヲ[切] テ
是(この)日。
天皇(すめらみこと)群臣(まへつきみたち)に問ひたまひて無端事(あとなしこと)を以ちて、
則(すなは)ち当(その)時実(まこと)を得(え)ば重(かさ)ねて絁(ふときぬ)綿(わた)を給(たま)はむ。
戊午。
宴後宮。
宴後宮…〈北〉キサキノミヤ
戊午(つちのえうま)。〔十七日〕
後宮(きさきのみや)に宴(とよのあかり、うたげ)したまふ。
己未。
朝庭大酺。
朝庭…〈北〉朝-廷ミカトサケノミス。 〈閣〉朝-庭ミカトニ大酺サケノミ。 〈兼右本〉イ乍
己未(つちのとひつじ)。〔十八日〕
朝(みかど)の庭(おほには)に大酺(だいほ)したまふ。
是日。
御々窟殿前而倡優等賜祿有差、
亦歌人等賜袍袴。
御窟殿…〈北〉オハ-窟ムロ-殿トノニ倡-優ワサヒト𡖋𡖋歌-人-等キヌ
〈閣〉オハテムロトノ殿 ノ ニキヌ
〈兼右本〉オハシマシ御-窟ミ ムロ[ノ]殿[ノ]-前[ニ][テ]

倡優…役者。俳優。
わざひと…[名] 役者。俳優。
うたびと…[名] 歌を歌う人。特に雅楽寮に属する歌い手。

是(この)日。
御窟殿(みむろのとの)の前(さき)に御(おほましま)して[而]倡優(わざひと)等(たち)に禄(もの)を賜(たま)ふこと差(しな)有り、
亦(また)歌人(うたびと)等(たち)に袍(きぬ)袴(はかま)を賜ふ。
庚申。
地震。
庚申(かのえさる)。〔十九日〕
地震(なゐふる)。
是月。
爲饗新羅金智祥、
遣淨廣肆川內王
直廣參大伴宿禰安麻呂
直大肆藤原朝臣大嶋
直廣肆境部宿禰鯯魚
直廣肆穗積朝臣蟲麻呂等于筑紫。
為饗…〈北〉境部宿祢スクネ 鯯-魚コノシロ
コノシロ

浄広四諸王十二階中十二位。
直広三諸臣四十八階中十四位。
直大四…諸臣四十八階中十五位。
直広四…諸臣四十八階中十六位。
鯯魚…〈倭名類聚抄〉「:…【和名古乃之呂】。」
コノシロ…[名] ニシン目ニシン科。
是(この)月。
新羅(しらき)の金智祥(きむちしやう)を饗(みあへ)したまふ為(ため)に、
浄広肆(じやうくわうし)川内王(かふちのおほきみ)
直広参(ぢきくわうさむ)大伴宿祢(おほとものすくね)安麻呂(やすまろ)
直大肆(ぢきだいし)藤原朝臣(ふじはらのあそみ)大嶋(おほしま)
直広肆(ぢきくわうし)境部宿祢(さかひのすくね)鯯魚(このしろ)
直広肆(ぢきくわうし)穂積朝臣(ほづみのあそみ)虫麻呂(むしまろ)等(ら)を[于]筑紫に遣(や)りたまふ。
二月辛未朔甲戌。
御大安殿、侍臣六人授勤位。
辛未…〈北〉
侍臣…〈北〉侍臣六人オモトマチキミ。 〈閣〉侍臣オモトマチキミ ニ。 〈兼右本〉侍-臣オホトマチキミ
二月(きさらき)辛未(かのとひつじ)を朔(つきたち)として甲戌(きのえいぬ)。〔四日〕
大安殿(おほあむどの)に御(おほましま)して、侍(もとこの、おもとの)臣(まへつきみ)六人(むたり)に勤位(ごんゐ)を授(さづ)けたまふ。
乙亥。
勅、
選諸國司有功者九人授勤位。
有功者…〈兼右本〉有-功イサヲシキ ヒト
乙亥(きのとゐ)。〔五日〕
勅(みことのり)ありて、
諸(もろもろ)の国司(くにのつかさ)より有功者(いさをしきひと)九人(ここのたり)を選(え)りて勤位(ごんゐ)を授けたまふ。
三月辛丑朔丙午。
大辨官直大參羽田眞人八國病、
爲之度僧三人。
大弁官…〈北〉大弁官ヲホトモヒノツカサ僧三人。 〈兼右本〉[ス][句]タメニ[切]
大弁…〈倭名類聚抄〉「大辨:【於保伊於保止毛比】」。
直大三諸臣四十八階中十三位。
三月(やよひ)辛丑(かのとうし)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)。〔六日〕
大弁官(おほきおほともひのつかさ)直大参(ぢきだいさむ)羽田真人(はたのまひと)八国(やくに)病(やまひ)して、
之(この)為(ため)に僧(ほふし)三人(みたり)を度(いへで)せしむ。
庚戌。
雪之。
庚戌(かのえいぬ)。〔十日〕
雪之(ゆきふる)。
乙丑。
羽田眞人八國卒、
以壬申年之功贈直大壹位。
直大一位…諸臣四十八階中九位。
乙丑(きのとうし)。〔二十五日〕
羽田真人(はたのまひと)八国(やくに)卒(そつす、みまかる)、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年(とし)之(の)功(いさみ)を以ちて直大壱位(ぢきだいいちゐ)を贈(おく)りたまふ。
《天皇問群臣以無端事》
 「以無端事」は、やはり勤務実績を報告させるときの形式的文言であろう。 そして「当時得実重給絁綿」した。これは、回答に実績が伴うと認められれば、絁綿〔布〕が追加給付されたと読める。
 対象となる「群臣」の人数については、〈舒明〉即位前紀では12人の実名が挙げられ、 少なくともこれよりは多かったと考えられる。爵位は四十八階に細分化されたから、官人は少なくとも数十名はいたであろう。そのうち「臣」と呼ばれるライン内にいたのが「群臣」ということになろう。
 天皇がその人数の群臣すべてに個別に査問するとは考えられない。実際の流れとしては、 各臣が実績報告を書面で提出し、担当官が面接してその内容について質問し、絁綿の追加給付に値するかどうかを判定する手続きが想像される。
 これなら、天皇の病状がどうであろうと実施可能である。
《宴後宮》
 後宮への言及は〈天武〉紀でここが唯一である。皇后が存在感を増している現れとも読める。
《大酺》
 〈清寧〉四年では、「大酺」は民を巻き込んだ大規模な祝宴を意味することを見た。 〈安閑〉二年には、五日間かけて「大酺」して天下に歓びを分かち合った。 「大酺」はそれ以来で、〈天武〉朝におけるこの行事の性格は判然としない。
 ただ、これを含めて正月の行事は前年よりむしろ盛沢山で、天皇はすっかり回復したが如くに見える。しかし、話の全体的な流れは天皇が病気であることを前提となっている。 とりわけ、新羅使の行事をすべて筑紫で行うことにしたことは、重要なポイントであろう。 新羅使は毎回都まで呼ばれたわけではないが、その饗のために多くのスタッフや川原寺の伎楽を急遽筑紫に行かせたことを見ると、 本来は京に呼ぶ予定だったと思わせるものがある。
 うがった見方をすれば、むしろ正月の諸行事を賑やかに組むことによって、天皇を元気づけようとしたとも考えられる。 かつ、天皇は小康を得ていたかも知れない。
 もしもこの想像が当たっているとすれば、このようなめりはりのある判断ができたのは皇后だけであろう。
《御窟殿》
 来る七月にも「設斎於宮中御窟院」とある。
総柱構造の建物周辺
(『朝日新聞』2025/03/18)
総柱構造の建物写真
(『毎日新聞』2025/03/18)
飛鳥京跡第191次調査区〔一部加筆〕
大型掘立柱建物
飛鳥宮跡の遺構配置図
〔一部加筆〕
『史跡 飛鳥宮跡(飛鳥京第191次調査) 現地説明会資料』より
 御窟殿については、「飛鳥京跡第191次調査」で調査された大型掘立柱建物跡に比定する説がある。
 『史跡 飛鳥宮跡(飛鳥京跡第191次調査)現地調査会資料』によると、 調査区は「飛鳥宮跡Ⅲ期遺構の内郭の北西隣接地」にあたる。 その「掘立柱建物」は「東西南北にひさしが付く四面廂建物で、「桁行11間(約35.4m)×梁行5間(約15.0m)の大規模な東西棟」の 「柱は全て抜き取られ」、「柱抜き取り穴には、径50~60cmの大型の石」が「抜取穴を埋める際に入れたと考えられ」るという。
 この掘立柱建物は「建物の構造と規模がⅢ-B期のエビノコ大殿と類似することから、Ⅲ-B期※)の遺構である可能性が高いと」考えられるという。
 ※)…「Ⅲ-B期」の遺跡は、天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられている(資料[54]《飛鳥宮跡》項)。
 この遺跡については「飛鳥宮跡の最大建物跡、天武天皇の「御窟殿」か 病気平癒を祈った場と名大教授研究」との見出しで報道されている (『産経新聞』2024/11/29)。その記事中では「天皇の私的空間の中でも重要」で、「今回の建物跡も、天武の時代に築かれたことから御窟殿と考えられる」 との説を紹介する一方、「宮殿中枢の「内郭」の外側にあり」、やはり用途は不明であるとする意見を併せて載せている。
 さらに、2025年3月、その南側に隣接する大型建物跡の発見が、県立橿原考古学研究所によって発表された。 『毎日新聞』(2025/03/18)は、上記第191次調査対象地の「南の隣接地に別の建物の北東部分の柱穴計35カ所を発見し」、 「内側にも柱を配置して頑丈に造った「総柱建物」と判明した」とする。
 『朝日新聞』(2025/03/18)によると、この「総柱建物」が、既に確認されていた南北の大型建物に挟まれて配置していることを図で説明している。 同記事は、「県立橿原考古学研究所」は「宮殿の中枢部「内郭」の外側に、想定外の大規模建物群があったことがわかり、専門家は「飛鳥宮の宮殿構造の理解を塗り替える重要な成果」と話す」という。
 これらの矩形の建物の配置を見ると相互の距離が近いので、倉庫であろうと思われる。御窟殿説は、考えにくくなったようである。
 「宮中御窟院」の「宮中」はやはり内郭の範囲内と見るのが自然であろう。ただそのどの建物にあたるかは決定し難い。
《倡優/歌人》
 正月に恒例の「イクヒ」が書かれず、一方で初めて倡優〔俳優〕に禄、歌人に袍袴を賜ったことは以前と趣が異なる。 政は事実上皇后に移っていたのかも知れない。なお、正月の「」は〈持統〉八年に復活している。
《金智祥》
金智祥 下記参照。
《川内王/大伴宿祢安麻呂/藤原朝臣大嶋/境部宿祢鯯魚/穂積朝臣虫麻呂》
川内王  朱鳥元年九月、〈天武〉宮で「浄広肆川内王、誄左右大舎人事」。〈持統〉三年「筑紫大宰師」。
 同八年四月戊午「浄大肆大宰率川内王、并賜賻物」すなわち、その前に薨じた。
大伴宿祢安麻呂  大伴宿祢については、大伴連。 和銅七年〔714〕五月「大納言兼大将軍」として薨。〈孝徳朝〉右大臣大伴長徳の子。
藤原朝臣大嶋  中臣連大嶋は、十年十月-定帝紀及上古諸事」の一人。 〈持統〉七年二月頃に薨。
 中臣朝臣については、中臣連参照。 藤原朝臣姓を賜ったのは文武二年で、ここの「藤原朝臣大嶋」は遡及と見た(《藤原朝臣大嶋》)。 ただ、藤原朝臣鎌足の子であることにより、俗称されていた可能性はある。
境部宿祢鯯魚  境部宿祢については、境部連参照。
 鯯魚はここだけ。
穂積朝臣虫麻呂  穂積朝臣については、穂積臣参照。
 以後、虫麻呂は〈朱鳥〉元年九月「諸国司事」。
 この多数の王・臣の派遣は、当初難波で予定していた行事を筑紫に変更したためかも知れない。 だとすれば、天皇の不予により畿内には警戒態勢が敷かれ、海外からの使者の入域も制限されていたことが考えられる。
《羽田真人八国》
羽田真人八国  羽田公矢国は、〈壬申紀〉15段で「入越」。 ただ、これは古代の将軍大彦(〈崇神〉十年)に擬えて称号としての「征北国将軍」を拝した可能性がある。実際の戦闘の記事は、琵琶湖西岸の三尾城攻略であった(17段)。
 〈天武〉朝では、十二年十二月に「-行天下而限-分諸国之境堺」の一人。 羽田公十三年十月に真人姓を賜った。
《度僧三人》
 貴人の地位によって、快癒願いのために出家させる僧の人数が決められているところが興味深い。
《雪之》
 朱鳥元年三月十日は、グレゴリオ暦の686年4月11日にあたる。この時期の雪は特に珍しいわけではない。飛鳥においては、強い冬型または南岸低気圧によると思われる。
《大意》
 十六日、 天皇(すめらみこと)は大安殿にいらっしゃり、 諸王卿を喚(め)して宴を開かれました。 よって、絁(ふときぬ)、綿、布をそれぞれに応じて賜りました。
 この日、 天皇は群臣に問い「無端事(あとなしこと)」によって、 すなわち、その時に実績が得られれば重ねて絁(あしきぬ)と綿(わた)を賜りました。
 十七日、 後宮(こうきゅう)にて宴をなされました。
 十八日、 朝廷の庭で大酺(だいほ)〔人民への酒食の振る舞い〕をなされました。
 この日、 御窟殿(みむろのとの)の前にいらっしゃり、芸人等にそれぞれに応じて禄を賜りました。 また、〔雅楽寮の〕歌人(うたびと)等に袍(ほう)、袴(はかま)を賜わりました。
 十九日、 地震あり。
 この月には、 新羅の金智祥を饗するために、 浄広肆(じょうこうし)川内王(かうちのおおきみ)、 直広参(じきこうさん)大伴宿祢(おおとものすくね)安麻呂(やすまろ)、 直大肆(じきだいし)藤原朝臣(ふじわらのあそん)大嶋(おおしま)、 直広肆(じきこうし)境部宿祢(さかいのすくね)鯯魚(このしろ)、 直広肆(ぢきこうし)穂積朝臣(ほずみのあそん)虫麻呂(むしまろ)らを筑紫に派遣しました。
 二月四日、 大安殿(だいあんでん)にいらっしゃり、侍臣六人に勤位(ごんい)を授けられました。
 五日、 勅により、 諸国司から功ある者九人を選んで勤位(ごんい)を授けました。
 三月六日、 大弁官直大参(じきだいさん)羽田真人(はたのまひと)八国は病気となり、 この為に僧三人を出家させました。
 十日、 雪が降りました。
 二十五日、 羽田真人八国が卒しました。 壬申年の功により、直大壱位(じきだいいちい)を贈られました。


75目次 【朱鳥元年四月~五月】
《為饗新羅客等運川原寺伎楽於筑紫》
夏四月庚午朔丁丑。
侍醫桑原村主訶都授直廣肆、
因以賜姓曰連。
侍医…〈北〉侍-醫オモト■■スシ桑原クハ ハラノ村-主スクリ訶都カト
〈閣〉侍-醫オモトクスシ。 〈兼右本〉侍-醫オホトクスシ

おもと…[名] 貴人のそば。書紀古訓以外の辞書の文例は『宇津保物語』〔10世紀末〕
直広四諸臣四十八階中十六位。

夏四月(うづき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として丁丑(ひのとうし)。〔十一日〕
侍(はべる、おもと)医(くすりし)桑原村主(くははらのすぐり)訶都(かつ)に直広肆(ぢきくわうし)を授(さづ)けたまひて、
因(よ)りて以ちて姓(かばね)を賜(たまは)りて連(むらじ)と曰ふ。
壬午。
爲饗新羅客等、
運川原寺伎樂於筑紫。
仍以皇后宮之私稻五千束、
納于川原寺。
伎楽…〈北〉クレカク。 〈兼右本〉ハコヘリ
つか…[助数詞] 質量〔1束=2.27kg〕(改新詔《其三曰》)。
壬午(みづのえうま)。〔十三日〕
新羅(しらき)の客(まらびと)等(ら)に饗(みあへ)せむが為(ため)に、
川原寺(かはらでら)の伎楽(くれがく)を[於]筑紫(つくし)に運ぶ。
仍(よ)りて皇后(おほきさき)の宮(みや)之(の)私(わたくし)の稲(しね)五千束(いつちつか)を以ちて、
[于]川原寺(かはらでら)に納(をさ)めたまふ。
戊子。
新羅進調。
從筑紫貢上、
細馬一匹
騾一頭
犬二狗
鏤金器
及金銀
霞錦綾羅
虎豹皮
及藥物之類
幷百餘種。
細馬…〈北〉 細馬ヨキ ウマ一匹ヒトツ ルイ一-頭ヒトツイヌ二-狗フタツ鏤-金コカネノ ウツハモノ及金銀霞-錦カスミイロノニシキ綾-ウスハタトラ豹皮オカツカミノカハ
〈閣〉音讀鏤金コカネ引合 綾羅―引合 ウスハタ [切]虎豹オカツカミノ[切]
〈釈紀〉細馬ヨキムマ鏤金器コカネノウツハモノトラナカツカミノカハ或引合テナカカツカサノカミト讀也
〈兼右本〉チリハメ-金霞-錦カスミイロノニシキ-ウスハタウスハタ二字引合イ点[切][切]ナカツカミ[ノ]
戊子(つちのえね)。〔十九日〕
新羅(しらき)調(みつき)を進(たてまつ)る。
筑紫(つくし)従(よ)り貢(みつき)を上(のぼ)らしむは、
細馬(よきうま)一匹(ひとつ)
騾(ら)一頭(ひとつ)
犬(いぬ)二狗(ふたつ)
金(くがね)の鏤(ちりば)むる器(うつはもの)
及びに金(くがね)銀(しろかね)
霞錦(かすみのにしき)綾(あや)羅(うすきぬ)
虎(とら)豹(なかつかみ)が皮(かは)
及びに薬(くすり)の物(もの)之(の)類(たぐひ)
并(あはせ)て百余種(ももくさあまり)。
亦智祥健勳等別獻物、
金銀
錦霞綾羅
金器
屏風
鞍皮
絹布
藥物之類、
各六十餘種。
別獻皇后皇太子及諸親王等之物
各有數。
金銀錦…〈閣〉○錦銀╭─╮霞綾羅屏◳風◰○太后皇
〈釈紀〉屏風ビヤウ ブ。 〈集解〉金銀霞錦【原作錦霞倒】
亦(また)智祥(ちしやう)健勲(けむくん)等(ら)の別(こと)に献(たてまつ)れる物は、
金(くがね)銀(しろかね)
錦霞(にしきかすみ)綾(あや)羅(うすきぬ)
金器(くがねのうつはもの)
屏風(びやうぶ)
鞍皮(くらのかは)
絹布(きぬぬの)
薬物(くすりのもの)之(の)類(たぐひ)、
各(おのもおのも)六十余種(むそくさあまり)。
別(こと)に皇后(おほきさき)皇太子(ひつぎのみこ)及びに諸(もろもろ)の親王(みこ)等(たち)に献(たてまつ)れる[之]物(もの)は
各(おのもおのも)数(あまた)有り。
丙申。
遣多紀皇女山背姬王石川夫人
於伊勢神宮。
石川夫人…〈北〉石川夫-人オトシ。 〈閣〉夫-人オトシヲ。 〈兼右本〉山-背[ノ]姫-王
丙申(ひのえさる)。〔二十七日〕
多紀皇女(たきのひめみこ)山背姫王(やましろのおほきみ)石川夫人(いしかはのおほとじ)を
[於]伊勢(いせ)の神宮(かむみや)に遣(や)りたまふ。
五月庚子朔戊申。
多紀皇女等至自伊勢。
五月(さつき)庚子(かのえね)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)。〔九日〕
多紀皇女等(ら)伊勢自(よ)り至(まゐた)る。
是日。
侍醫百濟人億仁、病之臨死、
則授勤大壹位、仍封一百戸。
臨死…〈北〉マカラムト。 〈閣〉億仁ヲクニ 
是(この)日。
侍(はべる、おもとの)医(くすりし)百済(くたらく)の人億仁(おくに)、病之(やまひして)臨死(まからむ)として、
則(すなはち)勤大壱位(きむだいいちゐ)を授(さづ)けたまひて、仍(よ)りて一百戸(ももへ)を封(ふうず、へひととす)。
癸丑。
勅之大官大寺封七百戸。
乃納税卅萬束。
封七百戸…〈北〉ヨサシテ七百戸。 〈兼右本〉オホチカラ
癸丑(みづのとうし)。〔十四日〕
勅之(みことのり)のりたまひて大官大寺(だいくわんだいじ)に七百戸(ななほへ)を封(ふうず、へひととす)。
乃(すなはち)税(おほちから)三十万束(みそよろづつか)を納(をさ)めしむ。
丙辰。
宮人等増加爵位。
宮人等…〈北〉宮人タチニ
丙辰(ひのえたつ)。〔十七日〕
宮人(みやびと)等(たち)に爵位(くらゐ)を増加(くは)へたまふ。
癸亥。
天皇始體不安、
因以於川原寺說藥師經。
安居于宮中。
体不安…〈北〉躰-不安アツシレ玉フヤクキヤウ。 〈兼右本〉躰-不-安アツシシタマフ
癸亥(みづのとゐ)。〔二十四日〕
天皇(すめらみこと)始(はじ)めて体(みみ)不安(やすからず)、
因(よ)りて以ちて[於]川原寺(かはらでら)におきて薬師経(やくしきやう)を説(と)かしめたまふ。
[于]宮中(おほみやのうち)に安居(あんご)せしむ。
戊辰。
饗金智祥等於筑紫、
賜祿各有差。
卽從筑紫退之。
戊辰。〔二十九日〕
金智祥(きむちしやう)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)したまひて、
禄(もの)賜(たまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
即(すなはち)筑紫(つくし)従(よ)り退之(まかりかへる)。
是月。
勅遣左右大舍人等掃淸諸寺堂塔、
則大赦天下、囚獄已空。
堂塔…〈北〉堂塔タウ タウ■■ユルス囚-獄 ヒトヤ。 〈閣〉
是(この)月。
勅(みことのり)のりたまひて左右(もとこ)の大舎人(おほとねり)等(ら)を遣(や)りて諸(もろもろ)の寺の堂塔(だうたう)を掃淸(きよ)めたまふ、
則(すなはち)大(おほき)に天下(あめのした)に赦(ゆる)したまひて、囚獄(ひとや)已(すで)に空(むな)し。
《桑原村主訶都》
桑原村主訶都  『坂上系図』によると〈仁徳〉朝に阿智王に随って帰化した者の子孫として挙げられた三十村主すぐりのうちの一氏が、桑原村主である。 桑原邑については、〈神功皇后〉紀では襲津彦が連れ帰った俘虜が桑原邑など四邑の漢人の祖であるとするが、 これについて〈姓氏家系大辞典〉は、帯方郡の漢人が新羅による圧迫を逃れて倭国に帰化したのが実際ではないかと述べる (桑原連人足)。
 訶都はここだけ。
 村主はもともと渡来人の姓であったが、朝廷の侍臣が負う姓に引き上げられた。 侍医への叙位と賜姓は、天皇の病気の恢復を願う心情の現れであろう。
《運川原寺伎楽於筑紫》
 「」ぶものは、役者・衣装・仮面・楽器・舞台設備一切合切が考えられる。 雅楽の楽器には管楽器(笙・篳篥・龍笛・高麗笛・神楽笛)、弦楽器(琵琶・箏・和琴)、打楽器(鞨鼓・三の鼓・太鼓・鉦鼓)がある。 大太鼓(だだいこ)が当時の伎楽でつかわれたかどうかは不明だが、もし必要だったとすれば直径が2mあるので大型船で運ぶしかない。
 これを考えると、当初は新羅使への接受を京で行う予定だったのが筑紫に変更され、それでも豪華な接待を要するレベルの使者だったから、川原寺伎楽を丸ごと運ばせたという成り行きが考えられる。
木造迦楼羅(伎楽面)
奈良時代後期
京都国立博物館所蔵
文化遺産オンライン
《伎楽》
 伎楽の初出は、〈推古〉二十年是歳条で、「百済人味摩之」が帰化して「少年伎楽」とある。 『令義解』職員令では、「雅楽寮」に「唐楽」・「高麗楽」・「百済楽」・「百済楽」・「伎楽」に関する人員が列記されている。
 伎楽は「野外で行われた仮面劇の一種。呉楽ともいい、 南北朝~隋の時代に呉の地に置いて諸地域の楽舞を融合させて形成されたと考えられる」という([正倉院展用語解説]〔奈良国立博物館〕)。
《皇后宮之私稲》
 かつて、〈推古〉紀において、天皇の別業の存在が示された(資料[48])。 「皇后宮之私稲」からは、〈天武〉朝においても皇后が依然として別業を私有していたことがわかり興味深い。 その所在地は、鸕野讚良姫の壬生がいた讃良郡、あるいはその中の菟野村が考えられる(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》)。 「皇后宮」はその別業にあった私の宮と読むべきであろう。
 川原寺伎楽への費用弁済は、最終的に国庫からであろう。ここでは皇后が川原寺に依頼する際の手土産で、国庫からの支出を待つと遅くなるから立て替えたと思われる。 ここでも、会場が急遽変更されことが窺われる。
 ここで皇后自身の判断によると見られる行動が前面に出ているのは、やはり天皇が既に事実上引退していたことを示すものと見ることができる。
《新羅進調》
 「筑紫貢上」の「上」は「たてまつる」であるが、「筑紫従(よ)り」とあるから筑紫で進調された品が都まで運ばれたことを同時に表していると考えられる。  進調の儀式は、確実に筑紫で行われたと判断される。
《細馬一匹/騾一頭/犬二狗》
 細馬は、小づくりでよい馬(八年六月)。
 はラバ(《騾》)。

『新撰字鏡』
《鏤金器》
『学研新漢和』には、古訓「(新撰字鏡)コカネノチリハメ」とある。
 『新撰字鏡』巻六〔六合館1916〕で確認すると、 「:力豆反。刻也。蓋金乃○利知╭─╮〔…けだコガネ知利婆チリバ力豆反は反切、すなわち「[lik]+豆[du]=鏤[lu]」という発音の表し方([魏志倭人伝をそのまま読む]第18回参照)
 は「きざむ。ちりばめる。」意。よって、鏤金器は金象嵌した美術品であろう。
《金銀》
 「金銀」は順番が後の方になって出てくるので、霞錦に織り込まれた糸のようにも読めるが、次の「別献物…」文では先頭に置かれているのでやはり塊としての金・銀であろう。
《霞錦》
 『三国史記』新羅本紀-景文王九年〔869〕七月「王子蘇判金胤等唐。謝恩兼進奉」の品目に、「朝霞錦二十匹」が含まれている。
 霞錦については、「錦織物の一種。模様になる部分に多数の色糸を横段式に織り込み、その中に菱形の模様をつくったもの」という説明を見る。 これは霞錦の一つかも知れないが、これで霞錦のすべてとは思われない。
 もともとは、朝霞の空に由来する色名として使われる場合が多いようである。〈兼右本〉もそれによって「カスミイロノ」と訓んでいる。
 この部分は〈天武〉十年十月金銀錦霞幡皮」に類似する。
《綾羅》
 辞書では「①あやぎぬとうすぎぬ。②美しくぜいたくな着物」。ここでは種々の高級織物の総称か。
《虎豹皮》
 「虎豹」は勇猛さを形容する言葉として使われるが、動物としては虎と豹というそれぞれの動物種を指すのは明らかである。 
《及薬物》
 八年九月、十年十月には「」は調に含まれていなかった。よって、新羅は天皇が病気であることを認識していた可能性がある。
《智祥/健勲》
金智祥 十四年十一月二十七日に来朝した。
金健勲 同上。
《別献物》
 「別献皇后皇太子」があるのに、「献天皇」がないのは著しく不自然である。そこで「別献物」を「別献天皇物」として読めば事なきを得る。
 しかしそれが簡単には行かないのは、「別献物」に挙げられた品目が、「新羅進調」にある品目との間にかなりの重なりがあるからである。 主語が「智祥健勲等」である点も前文「新羅進調…」とは書法が異なる。よって、ここには異なる出典から同じ事柄が重複して書かれた可能性がある。 ことによると、「別献物」は「或書曰所献物者…」の意味かも知れない。 だとすれば、やはり「献天皇」は見えなくなる。
 結局「別献天皇」にあたる語句は、原典資料には本当になかった可能性がある。 それが、天皇が既に第一線を退いていたことを反映しているかも知れないのである。
《錦霞》
 『集解』は前文に合わせて「霞錦」に作り現代の版本も継承しているが、前項で見たように出典資料の原形を残している可能性があるから、安易にその痕跡を消すことは避けるべきである。
《屏風》
正倉院鳥毛立女屏風北魏司馬金龍墓出土人物絵漆屏風
(宮内庁/[正倉院]/ 鳥毛立女屏風 第一扇)。 (sohu.com)
 古い時代の屏風絵としては、正倉院鳥毛立女屏風〔奈良時代〕が名高い(図左)。
 中国では、『史記』孟嘗君列伝に「屏風後常有侍史〔屏風の後ろには常に侍史あり〕、 『後漢書』伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝に「帝令主坐屏風後〔帝は主〔人名〕を屏風の後ろに座らせ〕とある。 これらは衝立としての屏風と見られる。
 美術品としては「北魏司馬金龍墓出土人物絵漆屏風」がある(図右)。その屏風とともに出土した墓誌に、司馬金龍は太和八年〔484〕に死亡とある (捜狐(sohu.com)/[文化財紹介])。
 よってここで新羅から贈られた「屏風」が、中国や朝鮮半島に伝統的に存在した美術品としての屏風絵に位置づけられるのは明らかである。 その本体とともに「屏風」という言葉も流入し、この言葉は最初から呉音でよまれて書紀古訓の時代まで引き継がれたと考えられる。
《別献皇后皇太子》
 類似表現に、八年十月別献物天皇々后太子」、 十年十月別献天皇皇后太子」がある。
 これらからまず考えられるのは、「天皇」の脱落である。 しかし、八年条・十年条にはいくつかの品目が書かれるが、ここでは「各有」のみで内訳がないので「別献天皇々后太子」などの誤写とは考えにくい。
 《別献物》項で、この部分は複数の出典による文が混合したと見たが、それも含めて混乱が残された状態になっているということであろう。
《皇太子》
草壁皇子尊 十年二月に立太子。
《多紀皇女/山背姫王/石川夫人》
多紀皇女 〈天武〉皇女 母は𣝅媛娘
山背姫王  「」だから、天皇の二代孫以後である。系譜は不明。
石川夫人  外戚「○○氏」から天皇に納められた女は「○○夫人」と呼ばれる(《夫人》)。 「石川夫人」に該当しそうなのは、〈天智〉が娶った「蘇我山田石川麻呂大臣」の女、遠智娘または姪娘である。 ただ「石川」は「石川麻呂」という名前の一部であるから疑問であるが、他には該当するものがない。「石川」を名前から外して「蘇我+山田+石川」という複姓だとすれば、ひとまず解決する。
 〈続紀〉慶雲元年〔704〕正月壬寅に「詔。御名部内親王石川夫人、益封各一百戸」とある〔内親王=皇女〕御名部内親王と〈元明〉天皇は、ともに姪娘を母とする。 〈元明〉は〈文武〉の母であるから、御名部内親王は〈文武〉の伯母〔あるいは叔母〕にあたる。 増封は、〈文武〉が親族に対して行ったと見られることから、「石川夫人」が御名部内親王の母であることに不自然ではない。 よって「石川夫人」が姪娘と同一人物であることは確定的である (第258回:〈天武〉系図)。
 石川夫人に関しては、(万)0154に「石川夫人歌一首神樂浪乃 大山守者 為誰可 山尓標結 君毛不有國 ささなみの おほやまもりは たがためか やまにしめゆふ きみもあらなくに」がある。 また木簡に 石川夫人進米一升 受乙女 十一月廿日廣嶋石川大刀自進五升…がある。 いずれも出土地は「遺跡:平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸」で「遺構の年代観:710-717」とされる。 これらから、当時実際に「石川夫人」と呼ばれていたことがわかる。また夫人がオホトジと訓まれたことをさらに裏付ける。
 さて多紀皇女たちは、伊勢大神に回復を祈願するために出かけた如くに感じられる。 文章中にはそうとは明示されていないが、四月二十七日に出発して五月九日に帰京したという短い日程からは、 祈願を済ませたら早く天皇の許に帰りたいと思う気持ちが感じられる。
 この時期の前後から、大赦、寺への寄進、爵位の付与・進位、以前の詔の贖罪的な取り消しなど、延命になると考え得ることは何でも行っているから、伊勢大神への祈願もその一環と位置付けることは不自然ではない。
《百済人億仁》
億仁 ここだけ。
 「百済人〇〇」という表記は〈天武紀〉特有である。〈天智〉十年の「許率母」は〈天武〉六年では「百済人率母」となっている。
《大官大寺封七百戸乃納税三十万束》
 700戸を大官大寺の封戸とした。 次の「納税三十万束」は国が税を寺に納めると読めるが、税は国が吸い上げるものだから向きが逆である。 よって、「令納税」の「令」の省略とも思われたが、封戸の寄進及び税の徴収という相反することを併せて書くのも不自然である。
 この「納税三十万束」については、 出挙の出資元を大官大寺として春に農民に貸し出し、収穫後に支払わせた利息を大官大寺の収入としたという読み方を見る。
 その根拠として『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の「論定出挙本稲三十万束」が挙げられている。 その妥当性を見るために、まず同資材帳の原文の該当部分を精読する。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳〔『寧楽遺文』竹内理三;東京堂出版1943/1962〕-抜粋-
合食封壱仟戸 在土佐備後播磨丹波尾張伊勢遠江
信濃相模武蔵下野常陸上総等国
 参佰戸
  右飛鳥岡基宮御宇天皇歳次己亥納賜者
 漆佰戸
  右飛鳥浄御原宮御宇天皇歳次癸酉納賜者
合論定出挙本稲参拾万束
 在遠江駿河伊豆甲斐相模常陸等国
  右飛鳥浄御原宮御宇天皇歳次癸酉納賜者
合はす。食封一千戸 土佐・備後・播磨・丹波・尾張・伊勢・遠江・信濃・相模・武蔵・下野・常陸・上総等の国に在り
 三百戸。
  右は飛鳥岡本宮に御宇(あめのしたしらす)天皇〔舒明〕歳次(ほしやどれる)己亥〔639;舒明十一年〕に納め賜ふ者なり。
 七百戸。
  右は飛鳥清原宮に御宇天皇〔天武〕歳次癸酉〔673:天武二年〕に納め賜はる者なり。
合はす。論定(あげつらひさだ)むる出挙(すいこ)の本(もと)の稲三十万束(つか)。
 遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・常陸等の国に在り。
  右は飛鳥浄御原宮に御宇天皇歳次癸酉〔同上〕に納め賜はる者なり。
★ 大官大寺は平城京に移転して大安寺になったと考えられている。
 〈続紀〉大宝二年〔702〕八月「己亥。以正五位上高橋朝臣笠間大安寺」。すなわち、「造大安寺司」が任命され、移転計画が明らかになる。
 その前年の大宝元年〔701〕六月壬寅朔。令正七位下道君首名僧尼令于大安寺〔下道君首名に大安寺で僧尼令を説かせた〕からは、移転前の大官大寺の名称が既に「大安寺」であったと読める。
 天平十六年〔744〕十月辛卯「律師道慈法師卒」の記事の中で、法師の生前の業績として「-造大安寺於平城〔大安寺の平城移転のメンバーに属した〕が見える。
★ 716年移転説がある。
 これは〈続紀〉霊亀二年〔716〕に、五月辛卯〔十六日〕始徙-建元興寺于左京六条四坊」の「元興寺」を「大安寺」の誤りと見たもの。
 「左京六条四坊」は正真正銘大安寺の位置である。ただし、「元興寺」は正しく「六条四坊」の方が誤りである可能性もある (元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む(Ⅵ))
 原文のうち「飛鳥浄御原宮御宇天皇…納賜」は、〈天武〉二年における国から寺への納入を意味するから、朱鳥元年条の「」も「国が寺に納めた」可能性が高まる。
 次に、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の「〔天武朝における封〕七百戸」・「論定出挙本稲三十万束」は、〈天武〉紀の「封七百戸」・「納税三十万束」と外形が類似する。 「出挙本稲三十万束」とは、各国が出挙〔農民に貸し出す元手〕の稲のうち三十万束を名目上大安寺からの出挙として、農民が支払う利子は国司ではなく大安寺に納めるという意味だと思われる。
 公出挙においては、出挙が強制されて収穫後に利子を払わさせられれば結局税と同じだから「出挙を寺からとする」ことにより、農民が国に治めていた税の行き先が寺に置き換わることになる。 これを書紀はザックリと「寺に税を納む」と表現したというのが、通説の意味と思われる。
 「納税三十万束」という字面のみからでは、これだけのことはとても読み取れない。 結局、朱鳥元年条に時々見られる、文章が整えきれていない箇所の一つであろう。
 なお、その年天武二年が朱鳥元年と一致しないのは、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』が形式的に〈天武〉即位年を用いたためと考えられる。
《於川原寺説薬師経》
 「『薬師瑠璃光如来本願功徳経』は通称『薬師経』」で、「玄奘三蔵法師が翻訳」、650年に「長安大慈恩寺翻経院において漢訳」されたという([薬師寺]ブログより)。 薬師信仰は、「薬師如来の12の大願に基づき、主として病気平癒、苦悩除去といった続命の利益を期待するもの」とされる (『新編日本史辞典』〔兄弟日本史辞典編纂会編;東京創元社1990〕)。 皇族や諸臣は〈天武〉の延命を願って、薬師経の説法を聞きに川原寺に集まったのである。
 以後、〈天武紀〉の基調は天皇の病状を憂える一色になっていく。
《金智祥》
金智祥 上述
《掃清諸寺堂塔》
 宗教における〔ハラヘ〕は災いをはらい除くことだが、 ここでは大舎人を派遣して行わせたことなので、単純に清掃の意味かと思われる。奉仕活動として環境を清浄にしたと読むべきであろう。 宗教活動としての祓いは、七月条になると「解除」が出てくる。
《大赦天下》
 七月癸丑にも「大赦之」とあるのは、重出か。 ただ「囚獄已空」なる比喩表現は物語風だから、そもそも日付のある史実として扱うこと自体が野暮かも知れない。
《大意》
 十一日、 侍医桑原村主(くわはらのすぐり)訶都(かつ)に直広肆(じきこうし)を授けられ、 よって連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。
 十三日、 新羅の使者たちに饗(みあえ)するために、 川原寺の伎楽(ぎがく)を筑紫に運びました。 そのために、皇后の宮の私の稲五千束(つか)を、 川原寺に納められました。
 十九日、 新羅は進調しました。 筑紫から京に上らせた貢は、 細馬一匹、 騾馬(らば)一頭、 犬二匹、 金を鏤(ちりば)めた器、 及び金、銀、 霞錦(かすみのにしき)、綾(あや)、羅(うすぎぬ)、 虎豹の毛皮、 及び薬の物の類(たぐい) 併せて百余種です。
 また智祥(ちしょう)健勲(けんくん)らが別に献上した〔と書かれた〕物は、 金、銀、 錦霞(にしきのかすみ)、綾(あや)、羅(うすぎぬ)、 金の器(うつわ)、 屏風、 鞍の皮、 絹布、 薬の物の類 各六十余種でした。
 別に皇后、皇太子及び諸親王らに献上した物が それぞれ多数ありました。
 二十七日、 多紀皇女(たきのひめみこ)、山背姫王(やましろのおおきみ)、石川夫人(いしかわのおおとじ)を伊勢神宮に派遣されました。
 五月九日、 多紀皇女らが伊勢から帰りました。
 この日、 侍医百済の人億仁(おくに)が病気になって死に臨み、 よって勤大壱位(きんだいいちい)を授けられ、百戸を封じました。
 十四日、 勅により大官大寺に七百戸を封じました。 そして、税〔を得るために寺が出挙する稲〕三十万束を納めました。
 十七日、 宮人(みやびと)らに爵位を増加させました。
 二十四日、 天皇の御身体が危ぶまれ始め、 よって川原寺で薬師経を説かせました。
 宮中で安居しました。
 二十九日、 金智祥(きんちしょう)らを筑紫で饗(あえ)し、 それぞれに応じて賜禄されました。 そして、筑紫から帰国しました。
 この月には、 勅により、側近の大舎人たちを派遣して諸寺の堂塔を清掃させました。 そして、天下(あめのした)に大赦し、囚獄は空になってしまいました。


まとめ
 〈天智〉三年三月で見た『善隣国宝記』所引『海外国記』によると、唐大使は唐から30人、百済人100人余りを伴って来朝した。 〈天武〉朝における新羅使の場合も、毎回数十人程度を引き連れて来たと考えられる。 天皇の病状悪化に伴い飛鳥京や副都難波京は厳戒態勢だったと考えられ、そこに大量の新羅人を入れることはできない。
 今回の新羅からの遣使は高位で、本来は難波京に迎えるべきレベルだったが、今回はその水準の接受を筑紫で行うことになった。 その準備のために川内王らの多くのスタッフを派遣した。そして川原寺伎楽を運ぶことになったが急なことだったので、そのための巨額の費用を皇后の私財で建て替えざるを得なくなった。このように読んでみると、いろいろと辻褄が合う。
 これらの活動が既にすべて皇后の主導で行われていたとすれば、その結果「別献物」の記録も何気なく皇后を先頭に置いて書かれたように思える。
 さて、大安寺には〈天武〉朝において出挙の原資とする稲の栽培田の所有、及び利子の受け取りが認められたと判断される。朱鳥元年の大官大寺の記事は、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の記述を指すと考えてよいであろう。



2025.10.03(fri) [29-23] 天武天皇下23 

76目次 【朱鳥元年六月】
《槻本村主勝麻呂賜姓曰連》
六月己巳朔。
槻本村主勝麻呂賜姓曰連、
仍加勤大壹位、封廿戸。
槻本村主勝麻呂…〈北野本〔以下北〕槻本ツキ モトノ村主スクリ カチ麻呂マロ
勤大一位諸臣四十八階中十七位。
六月(みなづき)己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)。
槻本(つきもと)の村主(すぐり)勝麻呂(かちまろ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて連(むらじ)と曰ふ、
仍(よ)りて勤大壱位(ごんだいいちゐ)を加(くは)へて、封二十戸(はたへのふこをたまふ、へひとはたへをたまふ)。
庚午。
工匠
陰陽師
侍醫
大唐學生及一二官人、
幷卅四人授爵位。
工匠…〈内閣文庫本〔以下閣〕工-匠タクミ
侍医…〈兼右本〉オ -醫モ -生
工匠/陰陽師…訓読は十三年二月参照。
庚午(かのえうま)。〔二日〕
工匠(たくみ)
陰陽師(おむやうし)
侍(はべる、おもと)医(くすりし)
大唐(だいたう、もろこし)の学生(ものならふひと、ふむやわらは)及びに一二(ひとりふたり)の官人(つかさ)、
并(あは)せて三十四人(みそあまりよたり)に爵位(くらゐ)を授(さづ)けたまふ。
乙亥。
選諸司人等有功廿八人、
増加爵位。
有功…〈兼右本〉有-功イサウシキ
乙亥(きのとゐ)。〔七日〕
諸(もろもろ)の司人(つかさ)等(たち)より有功(いさをしき)廿八人(はたたりあまりやたり)を選(え)りて、
爵位(くらゐ)を増(ま)し加(くは)へたまふ。
戊寅。
卜天皇病、祟草薙劒。
卽日送置于尾張國熱田社。
祟草薙剣…〈北〉タゝレリ熟/。 〈兼右本〉草-ナキアツ田社
戊寅(つちのえとら)。〔十日〕
天皇(すめらみこと)が病(みやまひ)を卜(うらな)へば、草薙剣(くさなぎのつるぎ)祟(たた)れり。
即日(そのひ)に送りて[于]尾張国(をはりのくに)の熱田社(あつたのやしろ)に置きたまふ。
庚辰。
雩之。
庚辰(かのえたつ)。〔十二日〕
雩之(あめをこふ)。
甲申。
遣伊勢王及官人等於飛鳥寺、
勅衆僧曰、
「近者朕身不和、
願頼三寶之威、
以身體欲得安和。
是以、僧正僧都及衆僧應誓願。」
則奉珍寶於三寶。
勅衆僧…〈北〉 テ衆僧不-和願ヤクサム寶威身-體 之 カシコキミタマノフユ安-和ヤスラカ
 誓-願コヒチカフ
〈閣〉不-和ヤクサム。 三寶之[切][テ]カシコキミタマノフユニ ミ-體[切]欲得安-和ヤスラカナル[句]珍寶メツラシキタカラヲ
〈兼右本〉近-者コノコロ[切]身-不-和 ヤクサム コフ[切]頼-三-寶-之-威サンホウノカシコキミタマノフユニ
 身-體[切] シメン安-和ヤスラカナル珎-寶メツラシキタカラモノやくさむ…[自] 病気になる。 〈神代上〉「是後素戔嗚尊之為行也甚無狀」段一書(2):〈内閣文庫本〉美々古曽利弖コソリテ ミゝ[テ]不平也久左美太万不ヤクサミタマフ
〈時代別上代〉「ヤはまたはヤミ、クサムはクサムで、体が病いで臭くなるの意という」。
甲申(きのえさる)。〔十六日〕
伊勢王(いせのおほきみ)及びに官人(つかさ)等(たち)を[於]飛鳥寺(あすかでら)に遣(や)りて、
衆(もろもろ)の僧(ほふし)に勅(みことのり)したまひて曰はく、
「近者(このころ)は朕(わが)身(みみ)不和(やはらがず、やくさむ)。
願(ねがはく)は三宝(さむほう)之(が)威(みたまのふゆ)を頼(たより)になして、
以ちて身体(みみ)に安和(やすらけきこと)を得しめむと欲(おもほ)す。
是(こ)を以ちて、僧正(そうじやう)僧都(そうづ)及びに衆(もろもろ)の僧(ほふし)は、誓願(こひちか)ふ応(べ)し。」とのりたまひて、
則(すなはち)珍宝(めづらしきたからもの)を[於]三宝(さむほう)に奉(たてまつ)る。
是日。
三綱律師
及四寺和上知事、
幷現有師位僧等、
施御衣御被各一具。
四寺和上…〈北〉和上ワシヤウ現-有イマ アル師位ノリノクラヰ僧等ホウシトモニ一-ヨソヒ
〈釈紀〉師位リノシノ師位イ説クラヰ。 〈兼右本〉現-有 今疑也イマ師-位ノリシノクライシイ

三綱律師…僧綱の役職としての律師であろう(《三綱律師及大官大寺知事佐官》)。
のりのし…[名] 法師の訓読。

是(この)日。
三綱(さむがう)の律師(りつし)
及びに四つの寺の和上(わじやう)知事(ちじ)、
并(あは)せて現(うつ)しき師位(しゐ)を有(もて)る僧(ほふし)等(ら)に、
御衣(みほふえ)御被(みほふひ)各(おのもおのも)一具(ひとよそひ)を施(おく)りたまふ。
丁亥。
勅之遣百官人等
於川原寺爲燃燈供養、
仍大齋之悔過也。
燃燈供養…〈北〉燃燈ネントウ供養クヤウス悔過クヱクワス。 〈閣〉゛供養クヱ  クワス  
〈釈紀〉ネムドウヤウス私記曰四字音讀クヱクワス私記曰四字音讀。 〈兼右本〉悔-過ケ クワ
…[動][名] (漢音)クワイ。(呉音)クヱ。
丁亥(ひのとゐ)。〔十九日〕
勅之(みことのりしたまひて)、百官人(もものつかさ)等(たち)を遣(や)りて
[於]川原寺(かはらでら)に燃燈供養(ねんとうくやう)為(す)、
仍(よ)りて大斎之(だいせして、おほきにをがみして)悔過(くゑくわ)す[也]。
丙申。
法忍僧
義照僧、
爲養老各封卅戸。
法忍僧…〈北〉法忍ホウニムホウシセウタメヤシナハムヲヒヲ。 〈閣〉
丙申(ひのえさる)。〔二十八日〕
法忍(ほふにむ)僧(ほふし)
義照(ぎしやう)僧(ほふし)に、
老(おひ)を養(やしな)はむが為(ため)に各(おのもおのも)封三十戸(ふこみそへをたまふ)。
庚寅。
名張厨司災之。
名張…〈閣〉。 〈北〉災之ヒツケリ
くりや…[名] 食物を調理する場所。
名張…〈倭名類聚抄〉{伊賀国・名張【奈波利】郡}(《隠郡隠駅家》)
庚寅(かのえとら)。〔二十二日〕
名張(なばり)の厨司(くりやのつかさ)に災之(もゆるわざはひ)あり。
《槻本村主勝麻呂》
槻本村主勝麻呂 〈倭名類聚抄〉に{摂津国・西成郡・槻本【都木乃毛止】郡}。 〈姓氏家系大辞典〉によると「槻本 ツキモト ツキノモト:…摂津志に冢本村かと云ふ」、 「槻本村主:倭漢氏の族にして、後漢献帝の後裔と称す」。
 同辞典が「倭漢氏の族」というのは、村主姓の多くが坂上氏族に属することによると思われる (桑原連人足)。 「後漢献帝の後裔」とするのは次の『続日本後紀』によるもの。
 『続日本後紀』承和四年〔837〕三月戊辰 「右京人遣唐知乗船事槻本連良棟。民部少録同姓豊額等。賜姓安墀宿祢。其先。出自後漢献帝後也」。
 勝麻呂はここだけ。 〈続紀〉に載る氏人は、天平十七年〔745〕正月「槻本連若子」。  
《工匠/陰陽師/侍医/大唐学生/官人》
 工匠陰陽師官人については、十三年二月に 「判官、録事、陰陽師、工匠」に畿内に都の候補地を調査させた記事がある。
 侍医については、四月に「桑原村主訶都」に直広四位を授けた。侍医は複数いて、まだ無位だった者もいたようである。
 大唐学生については、十三年十二月に新羅経由で帰国した「土師宿祢甥」・「白猪史実然」の名が見える。
《諸司人等有功二十八人》
 諸司の人は既に爵位があり、ここでは功あるものを選んで爵位を「増加」させた。
 多くの人への爵位の授与・増加は、延命祈願の文脈にある。
《祟草薙剣》
 〈天智〉七年九月に「沙門道行盗草薙剣逃向新羅」。 しかし「中路風雨荒迷而帰〔途中荒天で〔海〕路で迷い、帰った〕とあるので、草薙剣は回収され朝廷に置かれていたようである(《盗草薙剣》)。 草薙剣に纏わる伝説と出来事については第53回にまとめた。
 天皇の病の原因を占ってみたら草薙剣を朝廷に置いていたことの祟りと出て、よって「熱田社」に返したというから、〈天智〉七年までは熱田社に安置されていたことは確実である。
 尾張氏が朝廷との関係を深めた時代に、朝廷は東国の未だ服さない勢力への守り神として草薙剣を尾張氏に授け、それ以来ずっと熱田社に安置されていたと推定される。 尾張氏が朝廷に属していた証は、日本武尊伝説に見られる。 それによると日本武尊は東国蝦夷を制圧するために遣わされたが帰る頃には手の平返しされ、東国俘虜を畿内に引き入れる忌むべき人物として警戒されたようである。
 日本武尊は尾張氏に受け入れられず、結局伊吹山で亡びた(第131回まとめ)。
《雩之》
 〔雨乞い〕十三年六月以来。 十四年には記事がないが、「」は旱魃の有無に関係なく年中行事化していたと考えられる(九年七月)。
 この項は延命祈願とは無関係と見られる。
《伊勢王》
伊勢王 十三年十月「諸国堺」など。
《近者朕身不和》
 「近者身不和」は文章上の表現で、実際には皇后などの周辺がこの「勅」を作成したものであろう。
《身不和》
 「身不和」もしくは「不和」への古訓ヤクサムは、書紀古訓以外に用例が見えない。 よって、上代にこの語が存在したかどうかは疑問である。勅「近者朕身不和…」はほぼ当時の原文のままかも知れない。 だとすれば、勅が発せられた頃に字面から離れた修辞的な訓みがなされたとは考えにくく、おそらく「不和」の字のままでヤハラガズなどと訓まれていたと思われる。
《三綱律師及四寺和上知事并現有師位僧》
 「三綱律師」の律師僧綱〔諸寺を監督統制する機関〕の役職で、三綱〔=寺の自治組織〕を律する意味で「三綱律師」と表記したと見られる(《三綱律師及大官大寺知事佐官》)。
 以下、項目を細分化して述べる。
《四寺》
 九年三月の勅で、国家直轄の「国大寺」は「ニ三」に絞られた (《飛鳥寺》)。 「四寺」のうち三寺は、その大官大寺川原寺飛鳥寺と見てよい。
 残る一寺は、薬師寺または山田寺が考えられる。 薬師寺は、 九年十一月に〈天武〉が皇后の不予となったので回復を期して発願した。 文武二年に「構作略了」とあるので、朱鳥元年にはまだ工事中である。 しかし、〈持統〉二年に「無遮大会」が催されているので、金堂などが既に出来上がっていたことも考えられる (《初興薬師寺》)。
 だが、もし薬師寺の三綱がまだ未成立であった場合は山田寺も考えられる。 天皇は十四年八月に「浄土寺」に行幸した。浄土寺は山田寺の別名である(【山田寺】項)。
《和上知事》
 和上の方が知事より格上の如き書き方なので、知事大官大寺限定の役職とする判断は怪しくなった。
 和上は書紀ではこの一例のみである。 〈続紀〉では、文武四年〔700〕道照和尚」追悼の文中で「和上」を用いている。 その他は鑑真のみに用いられ、 天平勝宝八歳〔756〕に「鑑真和上」、天平宝字二年〔758〕大和上」。天平宝字七年〔763〕に「大和上鑑真物化」。 この頃には、和上は授戒させる公的な資格を持つ僧を指すようになったと見てよい。
 類似する「和尚」は、天平勝宝元年〔749〕大僧正行基和尚遷化」に見える。これも他には道照のみである。
 寺の自治組織である三綱は「上座・寺主・維那(都維那)(元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[4])で、そこに和上は見えない。 よって和上は役職名ではなく、個人への尊敬の称号である。
 すると「和上知事」は「和上や知事のような高僧」の意味と見られる。この時期文献に見える名前は道照だけだが、実際には和上と呼ばれた僧が何人かはいたはずである 〔そうでなければ文章が成り立たない〕。個人の称号たる和上は、役職名としての知事とは次元が異なる。よって、知事はやはり大官大寺固有の役職名と見てよいだろう。 結局、このとき知事を務めていた人物は和上と呼ばれ得るような高僧だったのであろう。
《有師位僧》
 〈続紀〉天平宝字四年〔760〕七月に僧綱が「制四位十三階」を要請したが、認められなかった。 それ以前に僧位について述べた記事は見えない。
《御衣御被》
 「御被」は他に用例が見つからないが、法被かと思われる。これを法被(ほふひ)とよむと袈裟である。法被(ハッピ)とよむと禅院で須弥壇や椅子にかける布、または職人のしるしばんてんである。
 御衣は内衣、御被は袈裟とすれば理解しやすい。
《燃燈供養》
 〈孝徳〉白雉二年十二月燃二千七百余燈於朝庭内」以来の燃燈行事である。 これも、延命を願ってかつて行われていた行事を復活したようにも読める。
《為養老》
 これについては、天皇延命祈願とする下心があったとすれば品がない。
梁瀬水路が縦横に流れる範囲
黒線…梁瀬水路 赤線…初瀬街道
「三重県名張市旧町の簗瀬水路」p.91
《庚寅》
 庚寅〔二十二日〕は、丙申〔二十八日〕と日付が逆転している。
 仮にどちらか一方が誤写だとしてみる。
 丙申〔二十八日〕が正しいとした場合:
  庚寅は丁酉〔二十九日〕と戊戌〔三十日〕のどちらにも似ていない。
 庚寅〔二十二日〕が正しいとした場合:
  丙申は戊子〔二十日〕と己丑〔二十一日〕のどちらにも似ていない。
 よってこれらの誤写は考えにくい。ひとまず、それぞれ日付は正しくただ順番が逆転しているものとしておく。
《名張厨司》
 名張厨司は、梁で魚を捕えて朝廷に送る施設であったとする論を見る。 その根拠は、名張村の旧称「梁瀬村」にあるようである。
 梁瀬村が名張村に改称されたのは、明治22年〔1889〕という。
 その旧梁瀬村の範囲を探ると、 [三重県名張市旧町の簗瀬水路]田中和幸他〔近畿大学工業高等専門学校研究紀要(14)2021〕が見つかった。
 同論文は「三重県名張市の旧町」の範囲にある「梁瀬水路」の実相を明らかにしたもので、 「旧町が広がるあたりは、かつて簗瀬村と呼ばれていたが、その名称はアユをとる簗に由来するとされている。旧町の多くは名張川に囲まれた低地で名張川の高岩井堰から取水した簗瀬水路が張り巡らされている」という(p.90)。
 同論文が明らかにした簗瀬水路右図の通りである。
 すなわち、梁瀬村は概ねこの水路がめぐらされた範囲に相当するようである。
 さらに『大日本地名辞書』には「名張は梁瀬ヤナセとも曰ふ、 倭姫世紀に梁作瀬の細鱗魚を奉る由見る、是地名の起る所也」と簡単に書かれていた。
 その『倭姫命世紀』を精読する。
『倭姫命世紀』禰宜五月麿〔鎌倉中期〕
六十四年丁亥※1)
-幸伊賀国隠イ市守宮。二年奉斎矣。
六十六年己丑※1)
于同国穴穂宮四年奉斎。
爾時、伊賀国造進箆山葛山神戸並地口御田
細燐魚取淵梁作瀬等※2)
朝御気夕御気供進矣。
〔崇神天皇〕六十四年丁亥。
伊賀国陰(なばり)市守(いちもり)の宮に遷幸(うつりま)せり。二年(ふたとせ)奉斎(いつきたてまつる)。
六十六年己丑。
同じき国の穴穂宮に遷りて四年(よとせ)を積(つ)みて奉斎(いつきたてまつる)。
爾(この)時、伊賀の国造(くにのみやつこ)箆山(みふじやま※3))葛山(かづらやま)神戸(かむべ)並びに地(ところ)の口(くち)の御田(みた)を進(たてまつ)りき。
細燐魚(あゆ)を淵に取ること、梁を瀬に作ることの等(たぐひ)しまつりて、
朝(あした)の御気(みけ)夕(ゆふへ)の御気(みけ)を供進(たてまつ)りき。
※1)…書紀による干支と一致している。
※2)…文法的にはここまでが「進」の目的語になるが、それでは意味が通じない。ここではひとまず「等」を動詞化した。
※3)…写本に書き込まれた訓点による。
 これを飛鳥時代ないしは奈良時代に、梁漁で得た鮎などを名張の厨司に集約して都に送っていたという事実を反映したものと見ることは可能である、 すなわち、その起源を〈崇神〉朝の頃に遡って伝説化したと捉えることができる。
 [木簡庫]には「奈波利評□〔奈ヵ〕」(荷札-石神遺跡)がある。 送り主は〈倭名類聚抄〉{伊賀国・名張【奈波利】郡・名張【奈波利】郷}の人と見られる。
 もし、欠落した部分に「年魚」とでも書いてあれば、郡が評だった時代に「厨司」が名張の漁獲物を集めて朝廷に送る司であったことが裏付けられよう。更なる木簡の発見を待ちたい。
《大意》
 〔朱鳥元年〕六月一日 槻本(つきもと)の村主(すぐり)勝麻呂(かちまろ)に連(むらじ)姓賜りました。 よって、勤大壱位(ごんだいいちい)を加えて、二十戸を封じました。
 二日、 工匠(たくみ)、 陰陽師(おんみょうし)、 侍医、 大唐の学生及び一人二人の官人、 併せて三十四人に爵位を授けました。
 七日、 諸々の司人等から功ある人二十八人を選び、 爵位を増加しました。
 十日、 天皇の病を占ったところ、草薙剣の祟りと出ました。 即日、送って尾張国の熱田社に置きました。
 十二日、 雩(あまごい)しました。
 十六日、 伊勢王と官人らを飛鳥寺に遣わし、 衆僧に、 「最近は、朕の御身は安らがない。 願わくば、三宝の威を頼りにして、 身体に安らぎを得ようと思し召す。 これを以て、僧正(そうじょう)僧都(そうづ)及び衆僧(しゅうぞう)は、誓願すべし。」と勅しました。 そして、珍宝を三宝に奉じました。
 この日、 三綱(さんごう)の律師、 及び四寺の和上(わじょう)や知事、 併せて現に師位をもつ僧らに、 御法衣(ほうい)、御法被(ほうひ)をそれぞれ一揃え施しました。
 十九日、 勅され、百官の人らを遣わして 川原寺で燃燈供養(ねんとうくよう)を行い、 さらに大斎、悔過(けか)しました。
 二十八日、 法忍(ほうにん)僧と 義照(ぎしょう)僧に、 養老の為に各三十戸を封じました。
 遡って二十二日、 名張の厨司(くりやのつかさ)に火災がありました。


77目次 【朱鳥元年七月】
《改元曰朱鳥元年》
秋七月己亥朔庚子。

「更男夫着脛裳
婦女垂髮于背、猶如故。」
脛裳…〈北〉脛-裳ハ■シ垂-髮スヘ■-于-背。 〈閣〉脛-裳ハゝキシ垂-スベシモゝリ髮- スルヿ于背
〈兼右本〉脛-裳ハゝキモ垂-髮-于-背スベシモトゝリスルヿ

…[動] (古訓) あらたむ。
もとどり…[名] 髪を頭の頂に集めてまとめたもの。

秋七月(ふみづき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)。〔二日〕
勅(みことのり)のたまはく
「更(あらた)めて男夫(をのこ)の脛裳(ははぎも)を着ること、
婦女(をみな)の髮(かみ)を[于]背に垂(たる)ることは、猶(なほ)故(いにしへ)の如(ごと)くせよ。」とのたまふ。
是日。
僧正僧都等、
參赴宮中而悔過矣。
悔過矣…〈北〉悔過クヱ クワス
悔過…罪過を懺悔すること、またその儀式。
是(この)日。
僧正(そうじやう)僧都(そうづ)等(ら)、
宮中(おほみや)に参(まゐ)赴(おもぶ)きて[而]悔過(くゑくわ)す[矣]。
辛丑。
詔諸國大解除。
辛丑(かのとうし)。〔三日〕
諸(もろもろ)の国に詔(みことのり)したまひて大解除(おほはらへ)せしめたまふ。
壬寅。
半減天下之調、
仍悉免徭役。
免徭役…〈北〉徭役アユキ。 〈閣〉徭-役ミユキ。 〈兼右本〉徭役ミツキ エタチ
徭役…公民に課した労役。歳役と雑役を併せていうが、雑役のみを指す場合もあるとされる。
壬寅(みづのえとら)。〔四日〕
天下(あめのした)之(が)調(みつき)を半(なかば)減(ゆる)せ、
仍(よ)りて悉(ことごと)に徭役(えたち)を免(ゆる)せ。
癸卯。
奉幣於居紀伊國々懸神
飛鳥四社
住吉大神。
国懸神…〈北〉紀伊國クニカゝリカゝルノカミ。 〈閣〉坐 紀伊國 々カゝルノカラ クニカラノ神私記 アスカノ
〈釈紀〉クニカゝルノカミ。 〈兼右本〉々-縣クニカラ カミ
癸卯(みづのとう)。〔五日〕
幣(みてぐら)を[於]紀伊の国に居(ま)す国懸神(くにかけのかみ)
飛鳥(あすか)の四(よはしら)の社(やしろ)
住吉(すみよし)の大神(おほみかみ)に奉(たてまつ)る。
丙午。
請一百僧讀金光明經於宮中。
請一百僧…〈兼右本〉一百僧
金光明経…〈北〉金光コンクワウ明經ミヤウキヤウ。 〈釈紀〉金光コンクワウ明經ミヤウギヤウ
丙午(ひのえうま)。〔八日〕
一百(ももたり)の僧(ほふし)に請(こ)ひて金光明経(こむくわうみやうきやう)を[於]宮中(おほみや)に読(よ)ましめたまふ。
戊申。
雷光南方而一大鳴、
則天災於民部省藏庸舍屋。
或曰
「忍壁皇子宮失火延燒民部省。」
雷光…〈閣〉[切]ヒカリテ ニ而一大鳴[句]
火災…〈北〉則/天-災ヒツケリ民部省カキヘノツカサノ蔵庸舍屋チカラテヲサムルヤ-延焼ホヒコリテ
〈閣〉チカラテヲサムルヤ ニ延焼ホトコロテ 。 〈釈紀〉民部省カキヘノツカサノ藏庸舍屋チカラヲヲサムルヤ
〈兼右本〉蔵-庸チカラノヲサムルヤ舎-屋ホヒコリ[テ] リ民-部[ノ][ヲ]
民部省…〈倭名類聚抄〉「民部省【多美乃豆加佐】」(資料[24])。
戊申(つちのえさる)。〔十日〕
雷(いかづち)南方(みなみのかた)に光りて[而]一(ひとたび)大(おほき)に鳴りて、
則(すなはち)天(あめ)の災(もゆるわざはひ)[於]民部省(たみのつかさ)の庸(ちからしろ)を蔵(をさむる)舎屋(や)にあり。
或(ある)は曰(い)へらく
「忍壁皇子(おさかべのみこ)の宮に失火(ひつきて、みづながれして)延(ほびこ)りて民部省(たみのつかさ)を焼(や)きつ。」といへり。
癸丑。
勅曰
「天下之事、不問大小、
悉啓于皇后及皇太子。」
悉啓[ニ] セ
癸丑(みづのとうし)。〔十五日〕
勅(みことのり)のりたまひて曰はく
「天下(あめのした)之(の)事、大(おほき)小(ちひさき)を不問(とはず)て、
悉(ことごと)に[于]皇后(おほきさき)及びに皇太子(ひつぎのみこ)に啓(まを)せ。」とのりたまふ。
是日。
大赦之。
是(この)日。
大(おほきに)赦之(つみゆるしたまふ)。
甲寅。
祭廣瀬龍田神。
甲寅。〔十六日〕
広瀬龍田(ひろせたつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
丁巳。
詔曰
「天下百姓由貧乏而
貸稻及貨財者、
乙酉年十二月卅日以前、
不問公私皆免原。」
貸稲…〈北〉貸稲/イラシノイネ イラヘラ  免-原ユルセ。 〈閣〉貨-財 タカラ
〈兼右本〉貸-稲イラシライネ資-材 タカラ 

いらふ…[他]ハ下二 借りる。イラス〔貸す〕の対。
乙酉年…〈天武〉十四年〔685〕
免原…免・原ともに「ユルス」。

丁巳(ひのとみ)。〔十九日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「天下(あめのした)の百姓(たみ、おほみたから)の貧乏(まづしさ)に由(よ)りて[而]
稲(しね)及びに貨財(たから)を貸(いら)へてある者は、
乙酉(きのととり)年〔十四年〕十二月(しはす)三十日(みそか)より以前(さきつかた)は、
公私(おほやけわたくし)を不問(とはず)て皆(みな)免原(ゆる)せ。」
戊午。
改元曰朱鳥元年
【朱鳥此云阿訶美苔利】、
仍名宮曰飛鳥淨御原宮。
改元…〈兼右本〉ハシメノトシ
朱鳥此云…〈北〉朱鳥。 〈閣〉
戊午(つちのえうま)。〔二十日〕
改元(かいぐゑん)して朱鳥(あかみどり)元年(はじめのとし)と曰ふ
【朱鳥此を阿訶美苔利(あかみとり)と云ふ】、
仍(よ)りて宮を名(なづ)けて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみやらのみや)と曰ふ。
丙寅。
選淨行者七十人以出家、
乃設齋於宮中御窟院。
浄行者…〈北〉浄行者ヲコナヒゝトセシムムロノマチ。 〈兼右本〉-齋ヲカミ御-ムロマチ

…[名] 垣。かこいのある建物。(古訓) かき。つかさ。
まち…[名] 田の一区画。
ゐん(院)…垣で囲まれた邸宅。初出は伊勢物語〔9世紀末~〕か。

丙寅(ひのえとら)。〔二十八日〕
浄(きよ)き行者(おこなひひと)七十人(ななそたり)を選(え)りて以ちて出家(いへで)せしめて、
乃(すなはち)[於]宮中(およみや)の御窟(みむろ)の院(かき)に設斎(せちせ、をがみ)す。
是月。
諸王臣等、爲天皇造觀音像、
則説観世音經於大官大寺
観世(音)像…〈北〉クワンヲンノミカタクワンヲンキヤウ。 〈閣〉観音
〈釈紀〉觀音像クワンヲンノミカタクワンヲンギヤウ。 〈兼右本〉 レリ觀世音像[ヲ]

…(呉音)オム。(漢音)イム。

是(この)月。
諸(もろもろ)の王(おほきみ)臣(おみ)等(たち)、天皇(すめらみこと)が為に観音(くわんおむ)の像(みかた)を造りまつりて、
則(すなはち)観世音経(くわんぜおむきやう)を[於]大官大寺(だいくわんだいじ)におきて説かしむ。
《男夫着脛裳婦女垂髮于背猶如故》
脛裳」木簡

 振り返ると十一年三月には「位冠及襅褶脛裳、莫着」、すなわち脛裳は廃止された。
 そして十一年四月に「自今以後、男女悉結髮」で方向性を示し、 十三年閏四月に「有襴無襴及結紐長紐」は任意だが「会集之日」は規定を守れと命じされた。 髪型はすべて「結髮」にするのが基本だが、女子四十歳以上と巫・祝は例外とされたのがこれまでの経過である。
 今回の「婦女垂髮于背、猶如故」は明らかに結髮令の取り消しである。
 男子については「男夫着脛裳」、すなわち十一年三月に止めた脛裳が、元に戻された。
 [木簡庫]〔奈良文化財研究所〕に「脛裳」木簡があり(右図)、 「大宝元年・二年頃のもので、脛裳の着用が認められていた時期に合致する」と解説されている。
 脛裳は朱鳥元年に認められた後、〈続紀〉大宝元年〔701〕三月「其袴者。直冠以上者皆白縛口袴。勤冠以下者白脛裳」とされ、 慶雲三年〔706〕十二月「令天下脱脛裳。一着白袴」で再び廃止され、認められていた時期は686年~706年であった。
 「婦女」の部分については、女子にとって髪型は現代と同じく敏感な事柄であったと思われる。「垂髮于背」が具体的に書かれたところに、それを望む気持ちが強かったことが窺われる。 故に、天皇の病状は意に反して強いたことへの天罰と考えられたのである。
 男子の脛裳への拘りはそれほどではないだろうが、男女の対称性を確保するために加えられたと思われる。
《垂髮于背》
 書紀古訓の「スベシモトゝリスルヿ〔総し髻する事〕は「垂髮于背」〔髪を背に垂らすこと〕とは正反対である。 古訓者は、どうやら原文の文意について「髪をまとめて髻にしたことを昔に戻せ」と表すことが正確だと考えたようである。 しかし、原文をそのまま読んで「髪を降ろすことについては昔に戻す」としても十分意味は通る。もし古訓者の意図を貫くなら「着脛裳」についても「ハゝキモヲヤメタルコト」と訓まねばならない。
《僧正僧都》
 僧正僧都律師僧綱の職で、僧尼を統率し諸寺を監督する(元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[4])。
《悔過》
 一般に悔過は宗教行事である。ただ、この日に僧綱が揃って宮中で悔過を行ったのは、天皇の病状を招いた責任を表明するが如くである。
《諸国大解除》
 これまでの結髪令の取り消し、僧綱の宮中での悔過に加え、諸国大解除、調の半減と徭役の免除、紀伊・飛鳥・住吉の神への奉幣が連続する。 延命祈願として考え得るだけのことが盛り込まれた構成になっている。
《徭役》
 〈汉典〉では「徭役:古時官府向人民攤派〔=各方面に分散配置〕的無償労動」と説明される。
 『令義解巻三』 賦役令では「凡正丁歳役十日。若須収庸者布二丈六尺」、すなわち正丁〔21歳以上60歳以下の男子〕に課される歳役と表現され、庸布をもって代替することができる。 「徭役」そのものを用いた文章としては、 「凡遭父母喪並免期年徭役」が見える。
《奉幣於居紀伊国国懸神…
 〈持統〉六年五月にも「伊勢、大倭、住吉、紀伊大神、告以新宮」とある。このうち「紀伊大神」が国懸神であろう。
 〈延喜式-神名〉には{紀伊国/名草郡/日前神社【名神大。月次相甞新甞】}、{同/国懸神社【名神大。月次相甞新甞】}。 紀国造家は、日前国懸の神官となって現在まで存続している。 いわゆる律令国造家であろう。
 その祖に関して、古事記では「宇豆比古」を「木国造之祖」とするが、 『国造本紀』では「天道根命」を紀伊国造の祖としていて、一定しない。
 その背景として、紀伊国名草郡の古代の族に「名草戸部、伊太祁曽三神〔五十猛命など〕、天道根命、木臣」などが乱立していたことが考えられる (第108回 《名草郡》)。
 〈神代上〉「見畏開天石屋戸」段【一書1】 には、「冶工に任じられた石凝姥は、天香山から鉱物を発掘し、天羽韛で精錬し、日矛で彫刻し、日の神の像(日像鏡)を作り上げた。 この鏡が、紀伊の国の日前神宮のご神体である」とある(第49回)。 つまり、日矛は鏡の造作に使ったホコで、作り上げた鏡が日前神として祀られる。
 日前神宮國懸神宮の語由緒ではこの話が若干変形され、石凝姥が日矛鏡と日像鏡という二鏡を作り、前者を日前神社、後者を国懸神社の御神体とする([日前神宮國懸神宮]公式/語由緒)。
 一書1は、明らかに石凝姥が八咫鏡を作った話の変種で、その祀るところを伊勢神宮から名草郡の神社に移したものである〔一般的に各地に広がった伝説では、縁の場所を地元に引き寄せる〕。 よって語由緒が「」を伊勢神宮と別鏡とするのは書紀本文と両立させるためと思われるが、それでも「日前神」については、一書1に根拠がある。
 しかし、「国懸神」にはなかなかもともとの根拠が見いだせない。〈延喜式〉では別社だから、現在隣接しているのは移転した結果であろう。 もともと「国懸神」には独自の伝承があったが、失われたのだろう。前述の乱立した族のどれかの祖神かも知れない。 さらに、本来は「国縣神」だった可能性もあり、だとすればあがた産土うぶすな神であったとも考えられる。
《飛鳥四社》
飛鳥坐神社
 〈延喜式-神名〉に{大和国/高市郡/飛鳥坐神社四座【並名神大。月次相甞新甞】}と載る。
 『日本紀略』所引の『日本後紀』巻三十七の逸文に、 天長六年〔829〕三月「己丑。大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷同郡同郷鳥形山」とあり、 829年に「甘南備山」から鳥形山に移転したとされる。 甘南備山の位置に雷丘説、甘樫丘説、南淵山説、ミハ山説などがあるというが、
[飛鳥の神奈備山の比定に関する実景論的考察]〔藤田富士夫(『人文社会科学研究所年報』12;敬和学園大学2014〕は、「岡寺山」を推している。 同論文は、その理由として三輪山に匹敵する山容であることを挙げている。
 なお、「賀美郷」の範囲については『大日本地名辞書』によると、「今飛鳥高市の二村是なり」という。 これは現在の大字飛鳥や大字岡なども含む広い地域で、比定社も岡寺山も共にこの範囲内にある。
 比定社は飛鳥坐神社〔奈良県 高市郡明日香村飛鳥708〕[飛鳥坐神社公式]によれば、現在の祭神は「本社:八重事代主命、下照姫命(飛鳥神奈備三日女神)、高照光姫命、建御方命」、 「中の社:大物主神、素戔嗚尊」、「奥の社;高皇産霊神、天照皇大神」とされる。
 〈延喜式〉で「四座」とされる四神は文献ごとに相違が見られる(別項)。
 諸文献で挙げられた八重事代主神建御名方神下照姫神高照光姫神木俣神大物主(大己貴)神神南火三日女神は、 結局すべてが飛鳥坐神で、〈延喜式〉の「四座」に合わせて、それぞれの判断でピックアップしたと見るのがよいだろう。
 神南火三日女神は氏神もしくは産土神としての甘南備山の神と思われるが、それ以外はすべて大国主系地祇くにつかみであることが特徴的である。
 この段では「奉幣」先に伊勢神宮が含まれていない。 この点については、既に四月丙申に多紀皇女ら三人を伊勢神宮に遣わしている (《多紀皇女/山背姫王/石川夫人》)。 天神あまつかみの坐す伊勢神宮には祈願したが、地祇くにつかみにはまだ祈願していなかったことを落ち度と考えて、この日の奉幣に至った可能性もある。 地祇が、どうしてこちらには祈願しないのだと言ってへそを曲げたことが病状を悪化させたとする構図である。 ただ、住吉大神が地祇か天神かは微妙である(次項)。
《住吉大神》
第四本宮(内削ぎ千木)第三本宮(外削ぎ千木)
(神功皇后)(表筒男命うわつつのおのみこと)
 〈延喜式-神名〉に{摂津国/住吉郡/住吉坐神社四座【並名神大。月次相甞新甞】}。現在の住吉大社
 第43回【書紀一書六】に 「其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣」。「四座」は、この三座に神功皇后を加えたもの。
 『摂津国風土記』によれば、〈神功皇后紀〉の「大津渟中倉之長峽」は住吉の地を指す(【大津渟中倉之長峽】)。
 〈斉明〉元年に「住吉松嶺」が出てくる(《住吉松嶺》)。
 現在の住吉大社には、第一本宮~第三本宮に筒男三神、第四本宮には神功皇后が祀られている。 神社の千木には、外剥ぎ(切断面が鉛直方向)と内剥ぎ(切断面が水平方向)がある。外剥ぎが男神、内剥ぎが女神というのは俗説とされるが、 住吉大社本宮の千木は、その「俗説」に沿ったものになっている(右画像)。
 住吉三神は、素戔嗚尊が「日向国の橘小門の水底」で禊したときに海水中に出現した。これを素戔嗚尊の分身と見れば天神、 海水から析出したと見れば地祇となる。「三神一組」は宗像三女神と共通で、これが海洋系の神の特徴だとすれば、地祇説が有利となる。
《金光明経》
 大乗仏教経典で、梵語"Suvarṇaprabhāsa"。「仏の寿命の長遠性、金光明懺法、四天王による国家護持や現世利益など雑多な要素を含み、密教的な色彩が強い」という(『改訂新版 世界大百科事典』平凡社2014)。 「金光明経」は曇無讖〔385~433〕が訳したもの(四巻)の題名。
《民部省》
 〈倭名類聚抄〉では「民部省【多美乃都加佐】(資料[24])。大蔵省(正月乙卯条)と同様、遡及の可能性がある。 法官は、式部省の前身と見られるが(《法官大輔…》)が、朱鳥元年九月になっても「法官」のままである。
 ただ、「」になったのは持統四年に一斉にではなく、それまでに順次行われていた可能性もある。
 なお、書紀古訓「カキベ〔部曲〕ノツカサ」は〈倭名類聚抄〉と異なる。民は必ずオホミタカラと訓むべきとした故かも知れないが、 民部省が扱う対象は、部曲〔豪族の私有民〕限定ではなく、人民全般であろう。
《悉啓于皇后及皇太子》
草壁皇子尊 十年二月に立太子。
 この勅は、天皇の容態が重篤であることを天下に公表したことになる。
《大赦之》
 五月に「大赦天下」したばかりである。 もしこれが重出でなかったとすれば、前回の大赦以後に貯まった僅かな人数をまた赦免することになり、まつりごとは冷静さを失っている。
《祭広瀬龍田神》
 広瀬神と龍田神には、〈天武〉四年以来、毎年ほぼ欠かさずに四月と七月に祭祀されてきた。 記述がないのは、四年七月、六年七月、そして朱鳥元年四月である (《祠風神于龍田立野)。
《天下百姓由貧乏而貸稲及貨財》
 〈孝徳〉大化二年三月《吉備嶋皇祖母》項で「吉備嶋皇祖母処々稲」において、貸稲(いらしね)について考察した。
 私出挙は、単純に借金である。公出挙は、それが強制される場合は事実上の税であるが、ここでは「貧乏に由(よ)りて」というから救済としての貸付を対象としたと思われる。
 「貨財」はもともと「貸財」であった可能性があるが、「稲及貨財」と読むことは可能である。 いずれにしても、それらの返済義務を免除した。この善政も天皇の延命を願う文脈に位置づけられている。
《朱鳥元年》
 九年七月に「朱雀有南門」とあった。十年七月にも「朱雀見之」。 前者については、朱雀門が作られたことが誤って語られた可能性を考えた。ただ、二度にわたって書かれるので、風聞そのものはあったと考えられる。
 朱雀の出現は改元に値する吉兆だったが無視したことの祟りだと考え、遅ればせながら改元したことも考えられる。
《飛鳥浄御原宮》
 〈天武〉二年の「帝位於飛鳥浄御原宮」は遡及。 宮の名前は天皇の名前としても使われるので、定式的な記述においては遡及されるのである。
《選浄行者七十人以出家》
 病状回復の祈願としての出家は、〈天武〉紀ではこれまでに九年十一月十日には皇后の病により「一百僧」。同月二十六日天皇の病により「度一百僧」。何れもすぐに回復した。 朱鳥元年二月五日には、羽田真人八国の病のために「度僧三人」。このときは効なく二十五日に卒した。
《御窟院》
 《御窟宮》参照。
 の原意は立派な家の周りの土塀。 和語となった「(ゐん)」〔土塀で囲まれた貴人の邸宅または公的な施設の区域〕は平安時代からで、さらにそこに住む高位の人を指して使われるようになる。
 書紀古訓「マチ」は、土塀で仕切られた一区画を表現したと見られる。 ヰンという語は、書紀古訓の時代にはまだ使われていなかった可能性がある。
《観世音像》
 もともとは「観音像」だったが、〈兼右本〉から「」が補われるようになり、現代の版本はそれを継承している。
 文の流れから見て、その観世音菩薩像は大官大寺に奉納されたかも知れない。 大安寺には十一面観音〔190.5cm、一木造〕があり代表的な仏像と言われるが、 天平年間〔729~749〕作とされる。
 移転後に改めて造られたなら、観世音菩薩像は旧寺から移動されなかったから、移転前の大官大寺も「元大安寺」などの名称でしばらく残っていた可能性がある。
《観世音経》
 「『妙法蓮華経』第二十五「観世音菩薩普門品」の独立したもの」で、 中国では「梁代には『法華経』から独立して信仰されていた」という(『国史大辞典』吉川弘文館1997)。
 観世音経(観音経)は「観世音菩薩が衆生の願いに応じて姿を変える三十三応身と、十九の説法について説き、衆生がその名を呼ぶことによって,あらゆる願いが満足されるとするもの」という (『改定新版 世界大百科事典』平凡社2014)。
 辛亥年銘観音菩薩立像の「辛亥」年は孝徳〈白雉〉二年〔651〕にあたることが確実で、 その当時には既に観世音経による病気回復などの祈願が広まっていたと考えられる(資料[85])。
《大意》
 七月二日、 勅しました。
――「改めよ。男子の脛裳(ははぎも)を着ること、 女子の髮を背に垂らすことは、昔の如くに猶予する。」
 この日、 僧正(そうじょう)僧都(そうず)らは、 宮中に参上して悔過(けか)しました。
 三日、 諸国に詔して大解除(おおはらえ)させました。
 四日、 天下の調(ちょう)を半減し、 そして悉く徭役(ようえき)を免除せよ。
 五日、 奉幣(みてぐら)を紀伊の国に坐す国懸神(くにかけのかみ)、 飛鳥の四社、 住吉の大神に納められました。
 八日、 百人の僧に請いて金光明経(こんこうみょうきょう)を宮中で読ませました。
 十日、 雷が南方で光り、一度大きな雷鳴があり、 天災により民部省の庸蔵(ちからしろぐら)の建物が燃えました。 或いは、 「忍壁(おさかべ)皇子の宮に失火があり、民部省に延焼した」とも言われます。
 十五日、 「天下の事は大小を問わず、 悉く皇后及び皇太子に啓(もう)せ。」と勅されました。
 この日、 大赦されました。
 十六日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。
 十九日、 詔を発しました。
――「天下の百姓の窮乏により、 稲や財を借りた者には、 乙酉年〔十四年〕十二月三十日以前の分は、 公私を問わず皆〔返済を〕免除せよ。」
 二十日、 改元して朱鳥(あかみどり)元年としました 。 よって宮を飛鳥浄御原宮と名付けました。
 二十八日、 浄行者七十人を選んで出家させ、 宮中の御窟院(みむろいん)で設斎しました。
 この月には、 諸々の王臣たちは、天皇のために観音像を造り、 こうして観世音経(かんぜおんきょう)を大官大寺で説きました。


【飛鳥坐神社四座の祭神】
 飛鳥坐神社の「四座」の内訳は、文献によって相違があるという。
 ここではそれらの出典を調べた。
 出 典
『和州五郡神社名帳大略註解』巻四補闕…『日本庶民生活史料集成 第二十六巻 神社縁起』〔谷川健一編;三一書房1983〕
『大神文身類社鈔並附尾』『三輪叢書』〔飛鳥坐神社四座大神神社々務所編;大神神社々務所/昭和3(1928)〕
『奈良県高市郡志料』『奈良県高市郡志料』〔奈良県高市郡編:奈良県高市郡/大正4(1915)〕
『広大和名勝志』第十九『飛鳥京跡関係史料集』3(近世地誌篇)〔奈良県立橿原考古学研究所編;奈良県教育委員会1981〕
《『和州五郡神社名帳大略註解 巻四補闕』》
 この書の成立時期については、後書きに「文安第三丙寅之歳黄鐘上旬〔1446年11月〕とある。
 その「飛鳥坐六箇処神社」項にいわく「社家者説曰飛鳥坐六箇処神社四座:第一、杵築大己貴命。第二、神南火飛鳥三日女神。第三、上鴨味耟高彦命。第四、下鴨八重事代主命」。
 杵築大己貴命〔大国主神〕が含まれるのは本書だけである。 神南火飛鳥三日女神は、移設前の所在地甘南備山の名を負う神と考えられる。 なお現在の同社の祭神では、飛鳥神南火三日女神下照姫命(下述)と同一神とされている。
 阿遅鉏高日子根神は下照姫命とともに、大国主神と多紀理毘売命の間に生まれた(第68回) (第76回)。
 八重事代主神は大国主神の子として国譲りの場面で登場した(第78回)。
《『大神文身類社鈔並附尾』》
 この書の時期は、「文永乙丑歳黄鐘〔1265年11月〕と記される。
 いわく「飛鳥坐神社四座:鴨都味歯八重事代主神 高照光姫命 マタ命 建御名方富命」。
 「大神文身類社鈔」は、大神〔三輪社に祀られている大物主神〕が分祀されている各地の社のリストという意味である。 ところが飛鳥坐神社の祭神には肝腎の大物主神はなく、大己貴神の二人の子に留まる。
 「高照光姫命」は記紀には見えない。 『先代旧事本紀』巻第四:地祇本紀に「大己貴神」と「辺都宮高津姫神〔宗像三女神の一柱。一般的には辺津宮の神は市杵島姫神で、湍津姫神は中津宮〕との間に生まれたのが 「児:都味歯八重事代主神、妹:高照光姫大神命【坐倭国葛上郡御歳神社」とある。 現在、葛木御歳神社の相殿に「高照姫命」が祀られている。
 木俣神は、大国主命が八上比売に産ませた子。八上比売は嫡妻須世理毘売を恐れ、子を木俣に差し挟んで帰ったことが、 名前の謂れである(第62回)。
 建御名方神八重事代主神とともに、大国主神の子として国譲りの場面で登場した(第78回)。
《いわゆる『社家縁起』》
 いくつかのサイトに「社家縁起によれば…」と載る。しかし『社家縁起』と題された文書は見つからなかった。 いろいろ工夫して探したところ『奈良県高市郡志料』〔1915年〕に「廣大和志に引ける社家縁起【大神土佐撰】に…」と書かれているのが見つかった。
 『広大和名勝志』(第十九)の原文は、『飛鳥京跡関係史料集』〔奈良県教育委員会〕に収められていた 〔『広大和名勝志』〔四十七巻〕は明和年間の書で、著者は植村禹言〕。 そこに書かれていたのは、「高市郡飛鳥社略縁起【大神土佐】曰。本社四座事代主神 高照光姫命 建御名方命 下照姫命 奥宮二座 天照太神宮 豊気大神宮」という文章であった。
 つまり、正確には「『広大和名勝志』所引の『高市郡飛鳥社略縁起』」と書くべきところを、『奈良県高市郡志料』は大雑把に「廣大和志に引ける社家縁起」と書いたのである。 これが"社家縁起"のはじめで、これがそのまま広まったのが真相であった。
 それはさておき、その『高市郡飛鳥社略縁起』によると、天照大神及び豊受大神が伊勢神宮から分祀して奥宮に祀られている。これを見ると、他の資料より新しいのではないかと思われる。
 高照光姫命は前項。
 下照姫命は大国主神と多紀理毘売命の間に生まれ、阿遅鉏高日子根神の妹である(第68回) (第76回)。

まとめ
 実態不明だった「名張厨司」について、『倭姫命世記』を見つけられたことは大きい。 それは、「厨司」が、梁で捕えた鮎などを集めて朝廷に送る役所であったことの、一定の根拠になり得ると考えられるからである。 その「災」が敢えて記載されことからは、それなりの事件だったことが窺われる。原因として現地氏族の反抗も想像し得るが今のところこれ以上のことは分からない。
 飛鳥坐神社四社の祀神の諸説については、何とか出典を確定することができた。 その祀神は明らかに大物主系で、住吉大神や国懸神とともに「奉幣」した記事は、これまで地祇を冷遇してきたことへの反省を伺わせる。
 六月七月条は、反省と神仏に赦しを乞う一色となった。その感情の中心地には皇后がいたであろう。天皇が確信をもって発した勅を自身で取り消すとは思えないからである。



2025.10.08(wed) [29-24] 天武天皇下24 

78目次 【朱鳥元年八月~九月二十四日】
《爲天皇體不豫祈于神祗》
八月己巳朔。
爲天皇度八十僧。
…〈兼右本〉 シム
八月(はつき)己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)が為(みため)に八十(やそたり)の僧(ほふし)を度(わたら、いへでせ)しむ。
庚午。
度僧尼幷一百、
因以、坐百菩薩於宮中、
讀觀世音經二百卷。
庚午…〈北野本〔以下北〕八十僧○度庚午僧尼百 モゝハシラノ菩薩
〈釈紀〉モゝハシラノサツ。 〈兼右本〉スヘ
まき…[助数詞] 書物の巻物。〈閣〉神代上:「マキノツイテヒトマキニアタルマキ」。
庚午(かのえうま)。〔二日〕
僧(ほふし)尼(あま)并(あは)せて一百(ももたり)を度(わたら、いへでせ)しむ、
因(よ)りて以ちて、百(ももはしら)の菩薩(ぼさつ、ほとけ)を[於]宮中(おほみや)に坐(す)ゑしめて、
観世音経(くわんぜおむきやう)二百巻(ふたほまき)を読(よま、どくきやうせ)しむ。
丁丑。
爲天皇躰不豫、祈于神祗。
体不予…〈北〉躰-不-豫 ミヤマヒノ。 〈兼右本〉躰-不-豫ミヤマヒシタマフ
丁丑(ひのとうし)。〔九日〕
天皇(すめらみこと)の体不予(みやまひ)が為(ため)に、[于]神(あまつかみ)祗(くにつかみ)に祈りまつる。
辛巳。
遣秦忌寸石勝、
奉幣於土左大神。
秦忌寸…〈北〉ハタノ忌寸イムキ 石-勝イハカツミテクラ。 〈釈紀〉石勝イシカツ/イハカツ
辛巳(かのとみ)。〔十三日〕
秦忌寸(はたのいみき)石勝(いはかつ)を遣(や)りて、
幣(みてぐら)を[於]土左(とさ)の大神(おほかみ)に奉(たてまつ)らしむ。
是日。
皇太子
大津皇子
高市皇子各加封四百戸、
川嶋皇子
忍壁皇子各加百戸。
大津皇子…〈北〉大津皇子
是(この)日。
皇太子(ひつぎのみこ)
大津皇子(おほつのみこ)
高市皇子(たけちのみこ)に各(おのもおのも)封(ふこ)四百戸(よほへ)を加(くは)へたまふ。
川嶋皇子(かはしまのみこ)
忍壁皇子(おさかべのみこ)に各(おのもおのも)百戸(ももへ)を加へたまふ。
癸未。
芝基皇子
磯城皇子各加二百戸。
各加二百戸…〈北〉皇子○加二百戸。 〈閣〉
癸未(みづのとひつじ)。〔十五日〕
芝基皇子(しきのみこ)
磯城皇子(しきのみこ)に各(おのもおのも)二百戸(ふたほへ)を加へたまふ。
己丑。
檜隈寺
輕寺
大窪寺各封百戸、限卅年。
檜隈寺…〈北〉ヒノクマテラ カルテラ邑-玖大窪-菩寺オホ ク ホ テラ
〈閣〉大窪 オホクホ。 〈釈紀〉大窪寺ヲホクホテラ邑玖菩寺イ 
己丑。〔二十一日〕
檜隈寺(ひのくまてら)
軽寺(かるてら)
大窪寺(おほくぼてら)各(おのもおのも)封(ふこ)百戸(ももへ)をたまふこと、三十年(みそとせ)に限れり。
辛卯。
巨勢寺封二百戸。
巨勢寺…〈北〉巨勢テラ
辛卯(かのとう)。〔二十三日〕
巨勢寺(こせてら)に封(ふこ)二百戸(ふたほへ)をたまふ。
九月戊戌朔辛丑。
親王以下逮于諸臣
悉集川原寺、
爲天皇病誓願云々
誓願…〈兼右本〉誓-願コヒチカフ
九月(ながつき)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)として辛丑(かのとうし)。〔四日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)[逮于]諸臣(まへつきみたち)まで
悉(ことごと)に川原寺(かはらてら)に集(うごなは)りて、
天皇(すめらみこと)が病(みやまひ)の為に誓願(ちかひこひねがふ)云々(しかしか)
丙午。
天皇病遂不差、
崩于正宮。
崩于正宮…〈北〉正宮ヲホミヤニ。 〈閣〉正-宮オホミヤニ
〈兼右本〉イエ正-宮オホトノ
丙午(ひのえうま)。〔九日〕
天皇(すめらみこと)が病(みやまひ)遂(つひ)に不差(いえず)、
[于]正宮(おほとの)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
戊申。
始發哭、則起殯宮於南庭。
発哭…〈北〉タテマツルミネ
戊申(つちのえさる)。〔十一日〕
始(はじめて)発哭(みねたてまつ)りて、則(すなはち)[於]南庭(みなみのおほには)に殯(あらき)の宮を起(た)たす。
辛酉。
殯于南庭、卽發哀。
當是時、
大津皇子、謀反於皇太子。
謀反…〈北〉-反於カタフケムトス皇太子。 〈兼右本〉謀-反カタフケマツラン
辛酉。〔二十四日〕
[于]南庭(みなみのおほには)に殯(あらき)しまつりて、即(すはなち)哀(かなしび、みね)を発(お)こしまつる。
当(まさ)に是(この)時に、
大津皇子(おほつのみこ)、[於]皇太子(ひつぎのみこ)に謀反(そむきまつる、かたぶけむとしまつる)。
《観世音経二百巻》
 《観世音経》参照。
《秦忌寸石勝》
秦忌寸石勝 秦連が十四年に忌寸姓を賜って秦忌寸となった。 石勝はここだけ。
《土左大神》
 四年三月《土左大神》
《皇太子/大津皇子/高市皇子/川嶋皇子/忍壁皇子/芝基皇子/磯城皇子》
草壁皇子尊大津皇子高市皇子川嶋皇子忍壁皇子  いずれも吉野の盟約のメンバー(十四年正月《草壁皇子尊》)。
芝基皇子  〈天智〉天皇の皇子。上記五名に加えて、吉野の盟約のメンバー。 霊亀二年〔716〕八月崩。宝亀元年〔770〕「御春日宮〔春日の宮にあめのしたしらす〕天皇」追号。
磯城皇子 母は𣝅媛娘忍壁皇子と同腹。ここが最後。
 この加封は親王たちは皇太子〔草壁皇子尊〕の即位を認め、謀反を起こすなという意味合いがあると思われる。恐らく皇后が天皇の意思を慮ってのもの。 なお、大津皇子高市皇子草壁皇子と同ランクにあることが注目される。
大窪寺跡の位置:奈良県橿原市大久保町404
大窪寺塔心礎 山田寺式複弁蓮華文軒丸瓦
《檜隈寺》
 地名檜隈については、推古二十年「改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵」が丸山古墳であるのは確実と見た (《檜隈寺》項)。
《軽寺》
 地名「」を負う軽市は、現在の丈六交差点周辺と推定した(第104回【軽】項)。 軽寺はその近くで、現在の春日神社と法輪寺のところの廃寺跡に比定されている。
 法輪寺南に案内板がある(第148回【軽嶋明宮】項)。
《大窪寺》
 大窪寺は、橿原市大久保町の廃寺跡とされる。
 出 典
『卯花日記』〔津川長道;1829〕『飛鳥京跡関係資料集2』〔奈良県立槇原考古学研究所;奈良県教育委員会1980〕
[大窪寺跡][橿原市公式]/[歴史文化財/…/大窪寺跡]
大窪寺塔心礎(画像)…[がらくた置場]
山田寺式複弁蓮華文軒丸瓦(画像)…[伝四条遺跡内出土遺物についての考察]〔『考古學論攷48』;2025〕(p.80)
 『卯花日記』に「大久保村…の北に大窪寺廃寺の跡とて東金堂、西金堂の礎石あり」、 「いまの礎石は大窪寺の物にてのちに天延二年に泰善法師の建立は国源寺と名つけたるにや」と書かれている。
 [大窪寺跡]によると、 「塔心礎と伝えられる礎石の位置などから、国源寺本堂のあたりが金堂であった可能性があります」、 「心礎の南側に大きな土坑〔心礎抜き取り穴〕と、その周辺に掘立柱建物の柱穴が多数見つかりました。…〔柱穴は〕土坑とは異なる時期の大窪寺、あるいは藤原京に関係する建物と考えられます」という。
 資料[51]によって各時期の心礎と比較すると、大窪寺塔心礎(右写真)は「第一類」(三段式)に分類され、その時期は白鳳時代〔675~710〕で〈天武〉朝を含む。 内孔は舎利孔で、第二段には蓋をはめたと考えられている。
 [伝四条遺跡内出土遺物についての考察]は、「綏靖陵の東側で採集されたと伝わる」「大窪寺採集及び出土瓦多数の瓦」の画像を収めている。
 そのうち山田寺式複弁蓮華文軒丸瓦(右図)は「大久保町公民館建替時に出土」という。同形式の瓦は、七世紀半ばから後半にかけて日本各地の寺院に広く採用されたという。
《封百戸限三十年》
 大化二年三月辛巳詔の「於脱籍寺入田与山」を、寺籍の民が公に接収されることにより失った寺田は、山野を切り開いて補えと読んだ。 以来、寺領は基本的に自力で開墾して得るものとされたようである(《於脱籍寺入田与山》)。 よって「限三十年」と限定したのは、自力で開墾して寺領を得るまでの経過措置と考えられる。
 すなわち、これらの寺は創建から間がないと思われる。 次項の巨勢寺についても、「限三十年」を補うべきであろう。
 この段も文脈上は延命祈願のための善政の一つと読めるが、実際には直接の関係なく行われたことかも知れない。
《巨勢寺》
巨勢寺塔心礎位置(御所市大字古瀬) 檜隈寺・軽寺・大窪寺・巨勢寺の配置
巨勢寺塔心礎 文化遺産オンライン
 『いにしえの御所を尋ねて』〔御所市教育委員会1994〕によると、 「昭和六二年〔1987〕から翌年にかけて、国道三〇九号線バイパス工事に伴い発掘調査と範囲確認調査が行われ、講堂・回廊・築地ついちなどが検出された。また、多量の瓦および土器・三彩などが出土した。 この調査により、白鳳期に創建され奈良・平安と存在し、平安時代に焼失したこと、法隆寺式の伽藍配置と考えられること、寺域は南北50m、東西100m程度と推定できることなどがわかった」という。
 その塔心礎(写真)も、大窪寺と同じく第一類に分類される。これも〈天武朝〉の時期の建立とする判断を妨げない。
《川原寺》
 〈斉明〉川原宮の跡地で、創建は〈天智〉朝と考えられている (〈孝徳〉白雉四年六月【川原寺】)。
 九年三月の勅で「ニ三」に絞られた官寺に含まれているのは確実である。
《殯于南庭》
 「」の会場は、内郭「南門」の南かつエビノコ郭「西門」の西とみた (《射于南門》)。 その区画が野外行事の会場であるから、殯宮もここに建てられたと見られる。
 陵に埋葬するまでの相当の長期間に遺体を安置するわけだから、殯宮は野外の風通しのよいところに建てられたと考えられる。
《大津皇子謀反於皇太子》
 詳細は〈持統〉紀で記述される。
《大意》
 八月一日、 天皇(すめらみこと)の為(ため)に八十人の僧を出家させました。
 二日、 僧尼併せて百人を出家させ、 これによって、百柱の菩薩を宮中に安置し、 観世音経二百巻を読経させました。
 九日、 天皇の御病気のために、神祗に祈りました。
 十三日、 秦忌寸(はたのいみき)石勝(いわかつ)を遣わし、 土左の大神に奉幣させました。
 この日、 皇太子(ひつぎのみこ)、 大津皇子、 高市皇子にそれぞれ封戸四百戸を加えられました。 川嶋皇子、 忍壁(おさかべ)皇子にそれぞれ百戸を加えられました。
 十五日、 芝基(しき)皇子、 磯城(しき)皇子にそれぞれ二百戸を加えられました。
 二十一日〕、 檜隈(ひのくま)寺、 軽寺、 大窪(おおくぼ)寺に、それぞれ百戸を封じられ、三十年限りとしました。
 二十三日、 巨勢(こせ)寺に二百戸を封じられました。
 九月四日、 親王以下諸臣に至るまで、 悉く川原寺に集まり、 天皇の御病気のために誓願して、云々。
 九日、 天皇の御病気は遂に癒えず、 正殿で崩じました。
 十一日、 初めて発哭し、そして南庭に殯宮を建てました。
 二十四日、 南庭で殯し、発哀しました。 まさにこの時、 大津皇子は、皇太子に謀反を起こしました。


79目次 【朱鳥元年九月二十七日~三十日】
《肇進奠卽誄之》
甲子。
平旦、
諸僧尼發哭於殯庭乃退之。
甲子平旦…〈北〉平-旦トラノトキ。 〈閣〉 ノミヤニ
平旦《平旦有虹》
寅時…午前3時~5時。
甲子(きのえね)。〔二十七日〕
平旦(あかとき、とらのとき)に、
諸(もろもろ)の僧(ほふし)尼(あま)[於]殯庭(あらきのには)に発哭(みねたてまつ)りて乃(すなは)ち退之(まかる)。
是日。
肇進奠。
卽誄之。
第一大海宿禰蒭蒲、
誄壬生事。
次淨大肆伊勢王、
誄諸王事。
次直大參縣犬養宿禰大伴、
總誄宮內事。
次淨廣肆河內王、
誄左右大舍人事。
次直大參當麻眞人國見、
誄左右兵衞事。
次直大肆采女朝臣竺羅、
誄內命婦事。
次直廣肆紀朝臣眞人、
誄膳職事。
進奠…〈北〉タテマツリミケ第-一ハシメ 大海ヲホミノ宿祢蒭蒲アラカマフノコト宮内事ミヤノウチノコト内王誄左右ヒタリミキノ大舍人事オホトネリノコト衛事トネリノ内-命-婦ヒメマチキミノ 膳職事カシハテノツカサノ 
〈閣〉大海 オホミ 蒭蒲アラ カマ左右兵トネリ
〈釈紀〉壬生ミ フノ事 コト私記説ス■兵衛トネリノ
〈兼右本〉誄之シノヒコトタテマツル荒-蒲アラ カマ竺-筑イ乍

…[動] 神前に供え物を置いてまつる。[名] そなえもの。
命婦…〈延喜式-中宮職〉「内外命婦」(五年八月)。
ひめとね…[名] 五位以上の女官の称(《内命婦》)。
兵衛…〈倭名類聚抄〉「近衛府兵衛府衛門府【由介比乃豆加佐】」。
浄大四諸王第十一位。
直大三爵位第十三位。
浄広四…諸王第十二位。
直大四…爵位第十五位。

是(この)日。
肇(はじめて)奠(もの、みけ)進(たてまつ)る。
即(すなはち)誄之(しのひことたてまつ)りて、
第(つぎて)の一(ひとつ)に大海宿祢(おほあまのすくね)蒭蒲(あらかま)〔麁蒲〕は、
壬生(みぶ)の事(こと)を誄(しのひこと)たてまつる。
次に浄大肆(じやうだいし)伊勢王(いせのおほきみ)は、
諸王(おほきみたち)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直大参(ぢきだいさむ)県犬養宿祢(あがたいぬかひのすくね)大伴(おほとも)は、
総(すべてある)宮内(みやのうち)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に浄広肆(じやうくわうし)河内王(かふちのおほきみ)は、
左右(ひだりみぎ)の大舎人(おほとねり)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直大参(ぢきだいさむ)当麻真人(たぎまのまひと)国見(くにみ)は、
左右(ひだりみぎ)の兵衛(ゆけのつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直大肆(ぢきだいし)采女朝臣(うねめのあそみ)竺羅(ちくら)は、
内命婦(うちつひめとね、ないみやうぶ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直広肆(ぢきくわうし)紀朝臣(きのあそみ)真人(まひと)は、
膳職(かしはでのつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
乙丑。
諸僧尼亦哭於殯庭。
哭於殯庭…〈北〉於殯庭ミネタテマツル ミヤ 。 〈閣〉哭於ミネタテマツル ミヤノ
乙丑(きのとうし)。〔二十八日〕
諸(もろもろ)の僧(ほふし)尼(あま)たち、亦(また)[於]殯庭(あらきのには)に哭(みね)たてまつる。
是日。
直大參布勢朝臣御主人、
誄太政官事。
次直廣參石上朝臣麻呂、
誄法官事。
次直大肆大三輪朝臣高市麻呂、
誄理官事。
次直廣參大伴宿禰安麻呂、
誄大藏事。
次直大肆藤原朝臣大嶋、
誄兵政官事。
布勢朝臣御主人…〈北〉御主人ミアルシ太政官事オホイマツリコトノツカサ法官ノリノツカサノ理官事ヲサムルツカサノ大蔵事オホクラノ 兵-政官ツハモノツカサノ
〈閣〉アルシ

直大三…爵位第十三位。
直広三…爵位第十四位。
直大四…爵位第十五位。

是(この)日。
直大参(ぢきだいさむ)布勢朝臣(ふせのあそみ)御主人(みあるじ)は、
太政官(おほきまつりごとのつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直広参(ぢきだいさむ)石上朝臣(いそのかみのあそみ)麻呂(まろ)は、
法官(のりのつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直大肆(ぢきだいし)大三輪朝臣(おほみわのあそみ)高市麻呂(たけちまろ)は、
理官(をさむるつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直広参(ぢきくわうさむ)大伴宿祢(おほとものすくね)安麻呂(やすまろ)を、
大蔵の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直大肆(ぢきだいし)藤原朝臣(ふぢはらのあそみ)大嶋(おほしま)は、
兵政官(つはもののつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
丙寅。
僧尼亦發哀。
発哀…〈北〉僧尼○發亦イ-哀
丙寅(ひのえとら)。〔二十九日〕
僧尼(ほふしあま)亦(また)発哀(みねたてまつる)。
是日。
直廣肆阿倍久努朝臣麻呂、
誄刑官事。
次直廣肆紀朝臣弓張、
誄民官事。
次直廣肆穗積朝臣蟲麻呂、
誄諸國司事。
次大隅阿多隼人
及倭河內馬飼部造、
各誄之。
紀朝臣…〈北〉刑官事ウタヘノツカサノ 弓張ユミハリ民官事カ ノツカサノ 諸-國司事クニ\/ミコトモチノ 大-隅オホスミ阿-多ア タノ隼人ハイトン馬-飼ムマカヒ -部ミヤツコ
〈閣〉阿倍久
〈釈紀〉民官カキノツカサノ隼人ハイトム
直広四…爵位第十六位。
是(この)日。
直広肆(ぢきくわうし)阿倍久努朝臣(あべのくどのあそみ)麻呂(まろ)は、
刑官(をさむるつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直広肆(ぢきくわうし)紀朝臣(きのあそみ)弓張(ゆみはり)は、
民官(たみのつかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に直広肆(ぢきくわうし)穂積朝臣(ほづみのあそみ)虫麻呂(むしまろ)は、
諸(もろもろ)の国の司(つかさ)の事を誄(しのひこと)たてまつる。
次に大隅(おほすみ)阿多(あた)の隼人(はやひと)
及びに倭(やまと)河内(かふち)の馬飼部造(うまかひのみやつこ)、
各(おのもおのも)誄之(しのひことたてまつる)。
丁卯。
僧尼發哀之。
丁卯(ひのとう)。〔三十日〕
僧尼(ほふしあま)発哀之(みねたてまつる)。
是日。
百濟王良虞、
代百濟王善光而誄之。
次國々造等、隨參赴各誄之。
仍奏種々歌儛。
百済王…〈北〉百濟クタラクノキシリヤウカハリテ百濟王クタラクノ/コキシ セムクワウニ參-赴マウテクル奏種ツカマツル 々歌儛
〈閣〉良虞○○
〈釈紀〉百濟クタラクノコキシリヤウツカムマツル/ツカマツル
是(この)日。
百済王(くたらくのこにきし)良虞(りやうぐ)、
百済王(くたらくのこにきし)善光(ぜむくわう)に代はりて[而]誄之(しのひことたてまつる)。
次に国々造(くにぐにのみやつこ)等(たち)、参赴(まゐおもぶく)隨(まにま)に各(おのもおのも)誄之(しのひことたてまつる)。
仍(よ)りて種々(くさぐさ)の歌儛(うたまひ)を奏(たてまつ)る。
《諸僧尼発哭》
 毎朝早く殯庭に集まって、「発哭」して退出したという。
 この拝礼は仏教の作法によって行われ、死者への哀悼に相応しい何らかの読経を捧げたものと見るのが自然であろう。
《麁蒲》
 は誤写と見られ、〈兼右本〉は「」に作る。現代版本は「」とするが、マグサ〔飼料〕の意で「アライ」の用法は見えない。
 〈続紀〉の「;荒と同義〕を用いるべきであろう。
《肇進奠即誄之》
大海宿祢麁蒲  麁蒲は、大宝元年〔701〕三月「追大肆凡海宿祢麁鎌于陸奥冶金〔陸奥に遣はして冶金せしむ〕。以後見えず。
伊勢王 十三年十月「諸国堺」など。
県犬養宿祢大伴  十四年九月に御衣袴を賜る。大宝元年〔701〕正月癸卯「」(県犬養連大伴項)。
川内王 朱鳥元年正月十九日、新羅調使を饗するために筑紫に派遣。〈持統〉八年に薨。
当麻真人国見  〈持統〉十一年二月「直広壱当麻真人国見東宮大伝〔恐らく長官〕」。 〈続紀〉〈文武〉三年「浄広肆衣縫王、直大壱当麻真人国見…於越智山陵…分功修造焉」。以後見えず。
采女朝臣竺羅  采女臣竹羅は、十年「新羅国」、十三年には信濃に派遣され副都候補地調査など。
紀朝臣真人  真人は〈持統〉元年正月に〈天武〉殯宮で「」。以後見えず。 宝亀十一年〔780〕以後の「紀朝臣真人」は別人。
布勢朝臣御主人  複姓として阿倍布勢朝臣、あるいは単に阿倍朝臣とも称される。
 〈持統〉元年正月「納言布勢朝臣御主人、誄之」。二年九月「遞進而誄」。四年正月〈持統〉即位にあたり「騰極」。
 五年正月「直大壱布勢御主人朝臣…八十戸通前三百戸」。八年正月「正広肆授直大壱布勢朝臣御主人増封人二百戸、通前五百戸…為氏上」。
 十年九月「仮賜…正広肆大納言阿倍朝臣御主人」。
 〈続紀〉:〈文武〉四年〔700〕八月「阿倍朝臣御主人…授正広参」。 大宝元年〔701〕三月「授…大納言正広参阿倍朝臣御主人正従二位」、「右大臣」。
 七月壬申年功臣…阿倍普勢臣御主人…百戸」の四分の一を子に伝える勅。 大宝三年〔703〕閏四月辛酉朔「右大臣従二位阿倍朝臣御主人」。
石上朝臣麻呂 石上朝臣物部朝臣から改名。
 麻呂は、養老元年〔717〕三月癸卯に左大臣正二位で薨(物部連麻呂項)。
大三輪朝臣高市麻呂  〈壬申紀〉14で、飛鳥寺西営に攻め込んだ大伴連吹負の側に転じた。 慶雲三年〔706〕二月庚辰に左京大夫として卒す(高市麻呂項)。
大伴宿祢安麻呂  〈壬申紀〉14で、吹負が飛鳥寺西で挙げた戦果を不破宮の大海人皇子に報告。 和銅七年〔714〕五月丁亥朔に「大納言兼大将軍」として薨ず(大伴連安麻呂項)。
藤原朝臣大嶋  この時点では、正式には「中臣朝臣大嶋」であるが藤原姓が遡及された〔既に非公式に称されていた可能性はある〕 (中臣連中臣連大嶋《藤原朝臣大嶋》)。
阿倍久努朝臣麻呂  〈倭名類聚抄〉{遠江国・山名郡・久努【久度】郷}。『国造本紀』に「久努国造」。
 和銅五年〔712〕十一月「阿倍朝臣宿奈麻呂言…久努朝臣御田次…六人。実是阿部氏正宗。但縁居処更成別氏…倶蒙本姓。詔許之〔阿倍朝臣宿奈麻呂は申す:「もとは久努朝臣御田次らも阿倍氏だったが居所にして別氏とされた。〔私と同じように〕本姓に戻してほしい」。申し出は許可された〕。 このように、もともとは阿倍朝臣の一派が居住地によって「阿倍久努」を称したもの。
 〈姓氏家系大辞典〉「久努朝臣:…後に安倍を省きて、単に久努朝臣と云ふ。和銅五年十二月紀…と見え、更に安倍朝臣に復せり」はこのことをいう。
 麻呂はここだけ。
紀朝臣弓張  〈持統〉六年三月〔伊勢行幸に際して〕…直広肆紀朝臣弓張等、為留守官」。以後見えず。 穂積朝臣虫麻呂  朱鳥元年正月十九日、新羅調使を饗するために筑紫に派遣。記事はここの「」で最後。
《壬生/諸王》
 壬生は皇子・皇女のための養育部で、皇子代とほぼ同義である。
 「壬生」の誄が冒頭に置かれたのは意味深長である。天皇を失い、皇子たちを束ねるたがが外れた。 即位を狙える立ち位置にある皇子に仕える壬生は、当然色めき立つことになる。
 よって壬生及び諸王は盟約を守り互いに争わないと霊前で誓わなければならない。
《宮内/左右大舎人/左右兵衛/内命婦/膳職/太政官/法官/理官/大蔵/兵政官》
宮内左右大舎人左右兵衛内命婦膳職太政官法官理官大蔵兵政官
令制宮内省左大舎人寮・右大舎人寮左兵衛府・右兵衛府内命婦大膳職太政官式部省治部省大蔵省兵部省
備考〔中務省〕〔省外官〕〔中務省〕〔宮内省〕〔(太政大臣・)左大臣
が組織を統括〕
 八省のうち宮内省式部省治部省大蔵省兵部省の五省は、それぞれ前身の「宮内」・「法官」・「理官」・「大蔵」・「兵政官」を引き継ぐと見てよい。中務省自体はないが、その下の左右舎人寮や「内命婦」が見える。 ここで「宮内」に「」がつくのは、宮内に属する「膳職」が別にあるから「宮内全体」の意味と思われる。
 式部省民部省はここには見えないが、「法官」が〈天智〉十年〈天武〉七年十月に見える。 民部省は〈朱鳥元年〉七月条に「民部省」が出てきた。
 その〈天智〉十年「法官」の役職「大輔」が〈倭名類聚抄〉「次官:…省曰輔【有大小」に合致することが注目される。 よって八省の前身の形成は既に〈天智〉朝から始まっていたと考えられる。 このように長い年月をかけて形作られてきたものなら、「~省」の称も〈持統〉朝に一斉ではなく、〈天武〉朝から既に順次用いられつつあったとしても不思議ではない。
《直大参県犬養宿祢大伴》
 「」を担った者のクラスは、どの程度であろうか。
 〈続紀〉を見ると、「」の「〔長官〕の爵位は、〈続紀〉では慶雲二年〔705〕 十一月「正四位上小野朝臣毛野為中務卿」など、従三位~従四位下の範囲である。
 殯庭で「」した者の爵位は直大三~直広四〔正五位上~従五位下に相当〕で、卿より低い。 従って、「」のために派遣されたのは、恐らく各官の中堅クラスであろう。
《諸国国司》
 「」は〈孝徳〉朝で初めて設置。以来、地方の行政単位として整いつつある。
《大隅阿多隼人》
 十一年七月に「大隅隼人阿多隼人相撲於朝庭」が催された。 十四年には大隅直忌寸が賜姓されたことも、国家に組み入れつつあることの表れと見られる(大隅直)。
《倭河内馬飼部造》
 八年十一月条に「倭馬飼部造〔"連"は個人名〕が見える。
 また十二年十月に「娑羅々馬飼造」と「菟野馬飼造」に連姓を賜った。 両者は娑羅皇女の壬生であったと考えられる(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》項)。 および河内のいくつかの馬養部造には連帯意識があり、連れ立って弔問し、皇后との関係が深い娑羅々馬飼造または菟野馬飼造が代表して誄したことが考えられる。
《僧尼発哀》
 発哀は貴人が亡くなったときの行事で、書紀古訓では「ミネ」と訓まれる。例えば泣き女を集めて号泣させ、親族が共に涙するような形が考えられるが、想像に留まる。
《百済王良虞》
百済王良虞  〈天智〉二年九月には、滅亡した百済から大量の民が倭国に亡命したと載る。 そして善光王をトップに戴き氏族を形成した。 その中心地は、〈倭名類聚抄〉{摂津国・百済【久太良】郡}と見られる (《百済郡》)。
 良虞は、大宝三年〔703〕八月「従五位上百済王良虞伊予守」。 霊亀元年〔715〕正月「授…正五位下…百済王良虞…正五位上」。養老元年〔717〕正月「授…正五位上百済王良虞従四位下」、十月「百済王良虞…益封」が見える。
百済王善光  〈続紀〉天平神護二年〔766〕六月壬子条によると、〈舒明〉朝に、百済義慈王は豊璋とともに「禅広王」を質として倭に送った。 その時期は〈舒明〉紀には〈舒明〉三年とされるが、実際には同十三年〔641〕と見られる (《百済王善光王》項)。
 『旧唐書』劉仁軌伝に出てくる「扶餘勇」が善光王であることは確実である。
 〈天武〉四年正月には「百済王善光」が祝賀のために朝廷を訪れ「珍異等物」を捧げた。 〈持統〉七年正月「乙巳。以正広三百済王善光。并賜賻物」とあるのでその時までに卒した。
《国々造》
 かつての国造は、この時代には国々で神事を掌るいわゆる律令国造に転じていた。 十四年に忌寸姓を賜った氏族のうちのいくつかは、その国造家と見られる(《賜姓曰忌寸》項)。
《奏種々歌儛》
 この場面は、[魏志倭人伝](44)の 「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」を思い起こさせる。これは弥生時代の風俗を描いたものであるが、 飛鳥時代においても喪に際しては歌舞で見送る文化があったことが分かる。
 「種々歌儛」とは高麗百済新羅伎楽の楽を指し(十四年九月)、交互に演奏したと思われる。
《大意》
 〔九月〕二十七日、 夜明け前〔または寅刻〕に、 諸々の僧尼は殯庭(もがりのにわ)で発哭し、退出しました。
 この日、 初めて奠(でん)を奉(たてまつ)り、 そして誄(るい、しのひこと)しました。 第一に大海宿祢(おおあまのすくね)麁蒲(あらかま)が、 壬生(みぶ)の事を誄し、 次に浄大肆(じょうだいし)伊勢王は、 諸王の事を誄し、 直大参(じきだいさん)県犬養宿祢(あがたいぬかいのすくね)大伴(おおとも)は、 総ての宮内(くない)の事を誄し、 浄広肆(じょうこうし)河内王は 左右の大舎人(おおとねり)の事を誄し、 直大参当麻真人(たいまのまひと)国見(くにみ)は 左右の兵衛(ひょうえ)の事を誄し、
 直大肆采女(うねめの)朝臣竺羅(じくら)は 内命婦(ないみょうぶ)の事を誄し、 直広肆紀の朝臣真人(まひと)は 膳職(ぜんしき)の事を誄しました。
 二十八日、 諸僧尼は、また殯庭で発哭しました。
 この日, 直大参布勢朝臣(ふせのあそん)御主人(みあるじ)は 太政官(だいじょうかん)の事を誄し、 次に直広参石上(いそのかみ)の朝臣麻呂(まろ)は 法官の事を誄し、 直大肆大三輪(おおみわ)の朝臣高市麻呂(たけちまろ)は 理官の事を誄し、 直広参大伴宿祢安麻呂(やすまろ)は 大蔵の事を誄し、
 直大肆藤原朝臣大嶋(おおしま)は、 兵政官(ひょうせいかん)の事を誄しました。
 二十九日、 僧尼はまた)発哀しました。
 この日、 直広肆阿倍久努(あべのくど)の朝臣麻呂(まろ)は 刑官(ぎょうかん)の事を誄し、 次に直広肆紀の朝臣弓張(ゆみはり)は 民官(みんかん)の事を誄し、 直広肆穂積朝臣虫麻呂(むしまろ)は 諸国の国司の事を誄しました。
 次に大隅(おおすみ)阿多(あた)の隼人(はやと)、 及び倭(やまと)河内(かふち)の馬飼部造(うまかいのみやつこ)が、 それぞれ誄しました。
 三十日、 僧尼は発哀しました。
 この日、 百済王(くだらくのこんきし)良虞(りょうぐ)は、 百済王善光(ぜんこう)の代理で誄しました。 次に国々の造(みやつこ)らは、参上するままに、それぞれ誄しました。
 そして種々の歌舞を奏しました。


まとめ
 〈天武〉天皇の最晩年の統治は、事実上皇后が握っていたと見られる。この時期に至り以前の勅の修正が見られるが、これは皇后の意向以外には考えられないからである。
 さて「誄」の記述からは、〈持統〉紀以後の「八省」の原型が包括的に見えるところが興味深い。
 その他、宮中の宗教行事なども〈天武〉紀で初めて記されたことが、後の時代に継続していく。代表的な寺院も、平城京に移転する形で引き継がれる。 この時期に頭角を現した人物は、しばしば〈続紀〉でもその活躍が描かれる。 まさに、様々な事柄について奈良時代の端緒は〈天武〉朝にあったことが分かる。



[30-01]  持統天皇(1)