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2025.09.23(tue) [29-22] 天武天皇下22 ▼▲ |
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74目次 【朱鳥元年正月十六日~三月】 《御窟殿前而倡優等賜祿》
「以無端事」は、やはり勤務実績を報告させるときの形式的文言であろう。 そして「当時得レ実重給絁綿」した。これは、回答に実績が伴うと認められれば、絁綿〔布〕が追加給付されたと読める。 対象となる「群臣」の人数については、〈舒明〉即位前紀では12人の実名が挙げられ、 少なくともこれよりは多かったと考えられる。爵位は四十八階に細分化されたから、官人は少なくとも数十名はいたであろう。そのうち「臣」と呼ばれるライン内にいたのが「群臣」ということになろう。 天皇がその人数の群臣すべてに個別に査問するとは考えられない。実際の流れとしては、 各臣が実績報告を書面で提出し、担当官が面接してその内容について質問し、絁綿の追加給付に値するかどうかを判定する手続きが想像される。 これなら、天皇の病状がどうであろうと実施可能である。 《宴後宮》 後宮への言及は〈天武〉紀でここが唯一である。皇后が存在感を増している現れとも読める。 《大酺》 〈清寧〉四年では、「大酺」は民を巻き込んだ大規模な祝宴を意味することを見た。 〈安閑〉二年には、五日間かけて「大酺」して天下に歓びを分かち合った。 「大酺」はそれ以来で、〈天武〉朝におけるこの行事の性格は判然としない。 ただ、これを含めて正月の行事は前年よりむしろ盛沢山で、天皇はすっかり回復したが如くに見える。しかし、話の全体的な流れは天皇が病気であることを前提となっている。 とりわけ、新羅使の行事をすべて筑紫で行うことにしたことは、重要なポイントであろう。 新羅使は毎回都まで呼ばれたわけではないが、その饗のために多くのスタッフや川原寺の伎楽を急遽筑紫に行かせたことを見ると、 本来は京に呼ぶ予定だったと思わせるものがある。 うがった見方をすれば、むしろ正月の諸行事を賑やかに組むことによって、天皇を元気づけようとしたとも考えられる。 かつ、天皇は小康を得ていたかも知れない。 もしもこの想像が当たっているとすれば、このようなめりはりのある判断ができたのは皇后だけであろう。 《御窟殿》 来る七月にも「設斎於宮中御窟院」とある。
『史跡 飛鳥宮跡(飛鳥京跡第191次調査)現地調査会資料』によると、 調査区は「飛鳥宮跡Ⅲ期遺構の内郭の北西隣接地」にあたる。 その「掘立柱建物」は「東西南北に廂が付く四面廂建物で、「桁行11間(約35.4m)×梁行5間(約15.0m)の大規模な東西棟」の 「柱は全て抜き取られ」、「柱抜き取り穴には、径50~60cmの大型の石」が「抜取穴を埋める際に入れたと考えられ」るという。 この掘立柱建物は「建物の構造と規模がⅢ-B期のエビノコ大殿と類似することから、Ⅲ-B期※)の遺構である可能性が高いと」考えられるという。 ※)…「Ⅲ-B期」の遺跡は、天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられている(資料[54]《飛鳥宮跡》項)。 この遺跡については「飛鳥宮跡の最大建物跡、天武天皇の「御窟殿」か 病気平癒を祈った場と名大教授研究」との見出しで報道されている (『産経新聞』2024/11/29)。その記事中では「天皇の私的空間の中でも重要」で、「今回の建物跡も、天武の時代に築かれたことから御窟殿と考えられる」 との説を紹介する一方、「宮殿中枢の「内郭」の外側にあり」、やはり用途は不明であるとする意見を併せて載せている。 さらに、2025年3月、その南側に隣接する大型建物跡の発見が、県立橿原考古学研究所によって発表された。 『毎日新聞』(2025/03/18)は、上記第191次調査対象地の「南の隣接地に別の建物の北東部分の柱穴計35カ所を発見し」、 「内側にも柱を配置して頑丈に造った「総柱建物」と判明した」とする。 『朝日新聞』(2025/03/18)によると、この「総柱建物」が、既に確認されていた南北の大型建物に挟まれて配置していることを図で説明している。 同記事は、「県立橿原考古学研究所」は「宮殿の中枢部「内郭」の外側に、想定外の大規模建物群があったことがわかり、専門家は「飛鳥宮の宮殿構造の理解を塗り替える重要な成果」と話す」という。 これらの矩形の建物の配置を見ると相互の距離が近いので、倉庫であろうと思われる。御窟殿説は、考えにくくなったようである。 「宮中御窟院」の「宮中」はやはり内郭の範囲内と見るのが自然であろう。ただそのどの建物にあたるかは決定し難い。 《倡優/歌人》 正月に恒例の「射」が書かれず、一方で初めて倡優〔俳優〕に禄、歌人に袍袴を賜ったことは以前と趣が異なる。 政は事実上皇后に移っていたのかも知れない。なお、正月の「射」は〈持統〉八年に復活している。 《金智祥》
《羽田真人八国》
貴人の地位によって、快癒願いのために出家させる僧の人数が決められているところが興味深い。 《雪之》 朱鳥元年三月十日は、グレゴリオ暦の686年4月11日にあたる。この時期の雪は特に珍しいわけではない。飛鳥においては、強い冬型または南岸低気圧によると思われる。 《大意》 十六日、 天皇(すめらみこと)は大安殿にいらっしゃり、 諸王卿を喚(め)して宴を開かれました。 よって、絁(ふときぬ)、綿、布をそれぞれに応じて賜りました。 この日、 天皇は群臣に問い「無端事(あとなしこと)」によって、 すなわち、その時に実績が得られれば重ねて絁(あしきぬ)と綿(わた)を賜りました。 十七日、 後宮(こうきゅう)にて宴をなされました。 十八日、 朝廷の庭で大酺(だいほ)〔人民への酒食の振る舞い〕をなされました。 この日、 御窟殿(みむろのとの)の前にいらっしゃり、芸人等にそれぞれに応じて禄を賜りました。 また、〔雅楽寮の〕歌人(うたびと)等に袍(ほう)、袴(はかま)を賜わりました。 十九日、 地震あり。 この月には、 新羅の金智祥を饗するために、 浄広肆(じょうこうし)川内王(かうちのおおきみ)、 直広参(じきこうさん)大伴宿祢(おおとものすくね)安麻呂(やすまろ)、 直大肆(じきだいし)藤原朝臣(ふじわらのあそん)大嶋(おおしま)、 直広肆(じきこうし)境部宿祢(さかいのすくね)鯯魚(このしろ)、 直広肆(ぢきこうし)穂積朝臣(ほずみのあそん)虫麻呂(むしまろ)らを筑紫に派遣しました。 二月四日、 大安殿(だいあんでん)にいらっしゃり、侍臣六人に勤位(ごんい)を授けられました。 五日、 勅により、 諸国司から功ある者九人を選んで勤位(ごんい)を授けました。 三月六日、 大弁官直大参(じきだいさん)羽田真人(はたのまひと)八国は病気となり、 この為に僧三人を出家させました。 十日、 雪が降りました。 二十五日、 羽田真人八国が卒しました。 壬申年の功により、直大壱位(じきだいいちい)を贈られました。 75目次 【朱鳥元年四月~五月】 《為饗新羅客等運川原寺伎楽於筑紫》
《運川原寺伎楽於筑紫》 「運」ぶものは、役者・衣装・仮面・楽器・舞台設備一切合切が考えられる。 雅楽の楽器には管楽器(笙・篳篥・龍笛・高麗笛・神楽笛)、弦楽器(琵琶・箏・和琴)、打楽器(鞨鼓・三の鼓・太鼓・鉦鼓)がある。 大太鼓(だだいこ)が当時の伎楽でつかわれたかどうかは不明だが、もし必要だったとすれば直径が2mあるので大型船で運ぶしかない。 これを考えると、当初は新羅使への接受を京で行う予定だったのが筑紫に変更され、それでも豪華な接待を要するレベルの使者だったから、川原寺伎楽を丸ごと運ばせたという成り行きが考えられる。
伎楽の初出は、〈推古〉二十年是歳条で、「百済人味摩之」が帰化して「集二少年一令レ習二伎楽儛一」とある。 『令義解』職員令では、「雅楽寮」に「唐楽」・「高麗楽」・「百済楽」・「百済楽」・「伎楽」に関する人員が列記されている。 伎楽は「野外で行われた仮面劇の一種。呉楽ともいい、 南北朝~隋の時代に呉の地に置いて諸地域の楽舞を融合させて形成されたと考えられる」という([正倉院展用語解説]〔奈良国立博物館〕)。 《皇后宮之私稲》 かつて、〈推古〉紀において、天皇の別業の存在が示された(資料[48])。 「皇后宮之私稲」からは、〈天武〉朝においても皇后が依然として別業を私有していたことがわかり興味深い。 その所在地は、鸕野讚良姫の壬生がいた讃良郡、あるいはその中の菟野村が考えられる(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》項)。 「皇后宮」はその別業にあった私の宮と読むべきであろう。 川原寺伎楽への費用弁済は、最終的に国庫からであろう。ここでは皇后が川原寺に依頼する際の手土産で、国庫からの支出を待つと遅くなるから立て替えたと思われる。 ここでも、会場が急遽変更されことが窺われる。 ここで皇后自身の判断によると見られる行動が前面に出ているのは、やはり天皇が既に事実上引退していたことを示すものと見ることができる。 《新羅進調》 「従二筑紫一貢上」の「上」は「たてまつる」であるが、「筑紫従(よ)り」とあるから筑紫で進調された品が都まで運ばれたことを同時に表していると考えられる。 進調の儀式は、確実に筑紫で行われたと判断される。 《細馬一匹/騾一頭/犬二狗》 細馬は、小づくりでよい馬(八年六月)。 騾はラバ(《騾》)。
『学研新漢和』には、古訓「(新撰字鏡)コカネノチリハメ」とある。 『新撰字鏡』巻六〔六合館1916〕で確認すると、 「鏤:力豆反。刻也。蓋金乃○利知婆」〔…蓋し金乃知利婆〕。 力豆反は反切、すなわち「力[lik]+豆[du]=鏤[lu]」という発音の表し方([魏志倭人伝をそのまま読む]第18回参照)。 鏤は「きざむ。ちりばめる。」意。よって、鏤金器は金象嵌した美術品であろう。 《金銀》 「金銀」は順番が後の方になって出てくるので、霞錦に織り込まれた糸のようにも読めるが、次の「別献物…」文では先頭に置かれているのでやはり塊としての金・銀であろう。 《霞錦》 『三国史記』新羅本紀-景文王九年〔869〕七月「遣二王子蘇判金胤等一入レ唐。謝恩兼進奉」の品目に、「朝霞錦二十匹」が含まれている。 霞錦については、「錦織物の一種。模様になる部分に多数の色糸を横段式に織り込み、その中に菱形の模様をつくったもの」という説明を見る。 これは霞錦の一つかも知れないが、これで霞錦のすべてとは思われない。 もともと霞は、朝霞の空に由来する色名として使われる場合が多いようである。〈兼右本〉もそれによって「カスミイロノ」と訓んでいる。 この部分は〈天武〉十年十月「金銀錦霞幡皮」に類似する。 《綾羅》 辞書では「①あやぎぬとうすぎぬ。②美しくぜいたくな着物」。ここでは種々の高級織物の総称か。 《虎豹皮》 「虎豹」は勇猛さを形容する言葉として使われるが、動物としては虎と豹というそれぞれの動物種を指すのは明らかである。 《及薬物》 八年九月、十年十月には「薬」は調に含まれていなかった。よって、新羅は天皇が病気であることを認識していた可能性がある。 《智祥/健勲》
「別献二皇后皇太子一」があるのに、「献天皇」がないのは著しく不自然である。そこで「別献物」を「別献天皇物」として読めば事なきを得る。 しかしそれが簡単には行かないのは、「別献物」に挙げられた品目が、「新羅進調」にある品目との間にかなりの重なりがあるからである。 主語が「智祥健勲等」である点も前文「新羅進調…」とは書法が異なる。よって、ここには異なる出典から同じ事柄が重複して書かれた可能性がある。 ことによると、「別献物」は「或書曰所献物者…」の意味かも知れない。 だとすれば、やはり「献天皇」は見えなくなる。 結局「別献天皇」にあたる語句は、原典資料には本当になかった可能性がある。 それが、天皇が既に第一線を退いていたことを反映しているかも知れないのである。 《錦霞》 『集解』は前文に合わせて「霞錦」に作り現代の版本も継承しているが、前項で見たように出典資料の原形を残している可能性があるから、安易にその痕跡を消すことは避けるべきである。 《屏風》
中国では、『史記』孟嘗君列伝に「屏風後常有二侍史一」〔屏風の後ろには常に侍史あり〕、 『後漢書』伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝に「帝令レ主坐二屏風後一」〔帝は主〔人名〕を屏風の後ろに座らせ〕とある。 これらは衝立としての屏風と見られる。 美術品としては「北魏司馬金龍墓出土人物絵漆屏風」がある(図右)。その屏風とともに出土した墓誌に、司馬金龍は太和八年〔484〕に死亡とある (捜狐(sohu.com)/[文化財紹介])。 よってここで新羅から贈られた「屏風」が、中国や朝鮮半島に伝統的に存在した美術品としての屏風絵に位置づけられるのは明らかである。 その本体とともに「屏風」という言葉も流入し、この言葉は最初から呉音でよまれて書紀古訓の時代まで引き継がれたと考えられる。 《別献皇后皇太子》 類似表現に、八年十月「別献物天皇々后太子」、 十年十月「別献天皇皇后太子」がある。 これらからまず考えられるのは、「天皇」の脱落である。 しかし、八年条・十年条にはいくつかの品目が書かれるが、ここでは「各有レ数」のみで内訳がないので「別献天皇々后太子」などの誤写とは考えにくい。 《別献物》項で、この部分は複数の出典による文が混合したと見たが、それも含めて混乱が残された状態になっているということであろう。 《皇太子》
さて多紀皇女たちは、伊勢大神に回復を祈願するために出かけた如くに感じられる。 文章中にはそうとは明示されていないが、四月二十七日に出発して五月九日に帰京したという短い日程からは、 祈願を済ませたら早く天皇の許に帰りたいと思う気持ちが感じられる。 この時期の前後から、大赦、寺への寄進、爵位の付与・進位、以前の詔の贖罪的な取り消しなど、延命になると考え得ることは何でも行っているから、伊勢大神への祈願もその一環と位置付けることは不自然ではない。 《百済人億仁》
《大官大寺封七百戸乃納税三十万束》 700戸を大官大寺の封戸とした。 次の「納税三十万束」は国が税を寺に納めると読めるが、税は国が吸い上げるものだから向きが逆である。 よって、「令納税」の「令」の省略とも思われたが、封戸の寄進及び税の徴収という相反することを併せて書くのも不自然である。 この「納税三十万束」については、 出挙の出資元を大官大寺として春に農民に貸し出し、収穫後に支払わせた利息を大官大寺の収入としたという読み方を見る。 その根拠として『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の「論定出挙本稲三十万束」が挙げられている。 その妥当性を見るために、まず同資材帳の原文の該当部分を精読する。
次に、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の「〔天武朝における封〕七百戸」・「論定出挙本稲三十万束」は、〈天武〉紀の「封七百戸」・「納税三十万束」と外形が類似する。 「出挙本稲三十万束」とは、各国が出挙〔農民に貸し出す元手〕の稲のうち三十万束を名目上大安寺からの出挙として、農民が支払う利子は国司ではなく大安寺に納めるという意味だと思われる。 公出挙においては、出挙が強制されて収穫後に利子を払わさせられれば結局税と同じだから「出挙を寺からとする」ことにより、農民が国に治めていた税の行き先が寺に置き換わることになる。 これを書紀はザックリと「寺に税を納む」と表現したというのが、通説の意味と思われる。 「納税三十万束」という字面のみからでは、これだけのことはとても読み取れない。 結局、朱鳥元年条に時々見られる、文章が整えきれていない箇所の一つであろう。 なお、その年天武二年が朱鳥元年と一致しないのは、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』が形式的に〈天武〉即位年を用いたためと考えられる。 《於川原寺説薬師経》 「『薬師瑠璃光如来本願功徳経』は通称『薬師経』」で、「玄奘三蔵法師が翻訳」、650年に「長安大慈恩寺翻経院において漢訳」されたという([薬師寺]ブログより)。 薬師信仰は、「薬師如来の12の大願に基づき、主として病気平癒、苦悩除去といった続命の利益を期待するもの」とされる (『新編日本史辞典』〔兄弟日本史辞典編纂会編;東京創元社1990〕)。 皇族や諸臣は〈天武〉の延命を願って、薬師経の説法を聞きに川原寺に集まったのである。 以後、〈天武紀〉の基調は天皇の病状を憂える一色になっていく。 《金智祥》
宗教における祓〔ハラヘ〕は災いをはらい除くことだが、 ここでは大舎人を派遣して行わせたことなので、単純に清掃の意味かと思われる。奉仕活動として環境を清浄にしたと読むべきであろう。 宗教活動としての祓いは、七月条になると「解除」が出てくる。 《大赦天下》 七月癸丑にも「大赦之」とあるのは、重出か。 ただ「囚獄已空」なる比喩表現は物語風だから、そもそも日付のある史実として扱うこと自体が野暮かも知れない。 《大意》 十一日、 侍医桑原村主(くわはらのすぐり)訶都(かつ)に直広肆(じきこうし)を授けられ、 よって連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。 十三日、 新羅の使者たちに饗(みあえ)するために、 川原寺の伎楽(ぎがく)を筑紫に運びました。 そのために、皇后の宮の私の稲五千束(つか)を、 川原寺に納められました。 十九日、 新羅は進調しました。 筑紫から京に上らせた貢は、 細馬一匹、 騾馬(らば)一頭、 犬二匹、 金を鏤(ちりば)めた器、 及び金、銀、 霞錦(かすみのにしき)、綾(あや)、羅(うすぎぬ)、 虎豹の毛皮、 及び薬の物の類(たぐい) 併せて百余種です。 また智祥(ちしょう)健勲(けんくん)らが別に献上した〔と書かれた〕物は、 金、銀、 錦霞(にしきのかすみ)、綾(あや)、羅(うすぎぬ)、 金の器(うつわ)、 屏風、 鞍の皮、 絹布、 薬の物の類 各六十余種でした。 別に皇后、皇太子及び諸親王らに献上した物が それぞれ多数ありました。 二十七日、 多紀皇女(たきのひめみこ)、山背姫王(やましろのおおきみ)、石川夫人(いしかわのおおとじ)を伊勢神宮に派遣されました。 五月九日、 多紀皇女らが伊勢から帰りました。 この日、 侍医百済の人億仁(おくに)が病気になって死に臨み、 よって勤大壱位(きんだいいちい)を授けられ、百戸を封じました。 十四日、 勅により大官大寺に七百戸を封じました。 そして、税〔を得るために寺が出挙する稲〕三十万束を納めました。 十七日、 宮人(みやびと)らに爵位を増加させました。 二十四日、 天皇の御身体が危ぶまれ始め、 よって川原寺で薬師経を説かせました。 宮中で安居しました。 二十九日、 金智祥(きんちしょう)らを筑紫で饗(あえ)し、 それぞれに応じて賜禄されました。 そして、筑紫から帰国しました。 この月には、 勅により、側近の大舎人たちを派遣して諸寺の堂塔を清掃させました。 そして、天下(あめのした)に大赦し、囚獄は空になってしまいました。 まとめ 〈天智〉三年三月で見た『善隣国宝記』所引『海外国記』によると、唐大使は唐から30人、百済人100人余りを伴って来朝した。 〈天武〉朝における新羅使の場合も、毎回数十人程度を引き連れて来たと考えられる。 天皇の病状悪化に伴い飛鳥京や副都難波京は厳戒態勢だったと考えられ、そこに大量の新羅人を入れることはできない。 今回の新羅からの遣使は高位で、本来は難波京に迎えるべきレベルだったが、今回はその水準の接受を筑紫で行うことになった。 その準備のために川内王らの多くのスタッフを派遣した。そして川原寺伎楽を運ぶことになったが急なことだったので、そのための巨額の費用を皇后の私財で建て替えざるを得なくなった。このように読んでみると、いろいろと辻褄が合う。 これらの活動が既にすべて皇后の主導で行われていたとすれば、その結果「別献物」の記録も何気なく皇后を先頭に置いて書かれたように思える。 さて、大安寺には〈天武〉朝において出挙の原資とする稲の栽培田の所有、及び利子の受け取りが認められたと判断される。朱鳥元年の大官大寺の記事は、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』の記述を指すと考えてよいであろう。 |
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2025.10.03(fri) [29-23] 天武天皇下23 ▼▲ |
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76目次 【朱鳥元年六月】 《槻本村主勝麻呂賜姓曰連》
工匠・陰陽師・官人については、十三年二月に 「判官、録事、陰陽師、工匠」に畿内に都の候補地を調査させた記事がある。 侍医については、四月に「桑原村主訶都」に直広四位を授けた。侍医は複数いて、まだ無位だった者もいたようである。 大唐学生については、十三年十二月に新羅経由で帰国した「土師宿祢甥」・「白猪史実然」の名が見える。 《諸司人等有功二十八人》 諸司の人は既に爵位があり、ここでは功あるものを選んで爵位を「増加」させた。 多くの人への爵位の授与・増加は、延命祈願の文脈にある。 《祟草薙剣》 〈天智〉七年九月に「沙門道行盗二草薙剣一逃向二新羅一」。 しかし「中路風雨荒迷而帰」〔途中荒天で〔海〕路で迷い、帰った〕とあるので、草薙剣は回収され朝廷に置かれていたようである(《盗草薙剣》)。 草薙剣に纏わる伝説と出来事については第53回にまとめた。 天皇の病の原因を占ってみたら草薙剣を朝廷に置いていたことの祟りと出て、よって「熱田社」に返したというから、〈天智〉七年までは熱田社に安置されていたことは確実である。 尾張氏が朝廷との関係を深めた時代に、朝廷は東国の未だ服さない勢力への守り神として草薙剣を尾張氏に授け、それ以来ずっと熱田社に安置されていたと推定される。 尾張氏が朝廷に属していた証は、日本武尊伝説に見られる。 それによると日本武尊は東国蝦夷を制圧するために遣わされたが帰る頃には手の平返しされ、東国俘虜を畿内に引き入れる忌むべき人物として警戒されたようである。 日本武尊は尾張氏に受け入れられず、結局伊吹山で亡びた(第131回まとめ)。 《雩之》 雩〔雨乞い〕は十三年六月以来。 十四年には記事がないが、「雩」は旱魃の有無に関係なく年中行事化していたと考えられる(九年七月)。 この項は延命祈願とは無関係と見られる。 《伊勢王》
「近者朕身不和」は文章上の表現で、実際には皇后などの周辺がこの「勅」を作成したものであろう。 《身不和》 「身不和」もしくは「不和」への古訓ヤクサムは、書紀古訓以外に用例が見えない。 よって、上代にこの語が存在したかどうかは疑問である。勅「近者朕身不和…」はほぼ当時の原文のままかも知れない。 だとすれば、勅が発せられた頃に字面から離れた修辞的な訓みがなされたとは考えにくく、おそらく「不和」の字のままでヤハラガズなどと訓まれていたと思われる。 《三綱律師及四寺和上知事并現有師位僧》 「三綱律師」の律師は僧綱〔諸寺を監督統制する機関〕の役職で、三綱〔=寺の自治組織〕を律する意味で「三綱律師」と表記したと見られる(《三綱律師及大官大寺知事佐官》)。 以下、項目を細分化して述べる。 《四寺》 九年三月の勅で、国家直轄の「国大寺」は「ニ三」に絞られた (《飛鳥寺》)。 「四寺」のうち三寺は、その大官大寺・川原寺・飛鳥寺と見てよい。 残る一寺は、薬師寺または山田寺が考えられる。 薬師寺は、 九年十一月に〈天武〉が皇后の不予となったので回復を期して発願した。 文武二年に「構作略了」とあるので、朱鳥元年にはまだ工事中である。 しかし、〈持統〉二年に「無遮大会」が催されているので、金堂などが既に出来上がっていたことも考えられる (《初興薬師寺》)。 だが、もし薬師寺の三綱がまだ未成立であった場合は山田寺も考えられる。 天皇は十四年八月に「浄土寺」に行幸した。浄土寺は山田寺の別名である(【山田寺】項)。 《和上知事》 和上の方が知事より格上の如き書き方なので、知事を大官大寺限定の役職とする判断は怪しくなった。 和上は書紀ではこの一例のみである。 〈続紀〉では、文武四年〔700〕「道照和尚」追悼の文中で「和上」を用いている。 その他は鑑真のみに用いられ、 天平勝宝八歳〔756〕に「鑑真和上」、天平宝字二年〔758〕「大和上」。天平宝字七年〔763〕に「大和上鑑真物化」。 この頃には、和上は授戒させる公的な資格を持つ僧を指すようになったと見てよい。 類似する「和尚」は、天平勝宝元年〔749〕「大僧正行基和尚遷化」に見える。これも他には道照のみである。 寺の自治組織である三綱は「上座・寺主・維那(都維那)」(元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[4])で、そこに和上は見えない。 よって和上は役職名ではなく、個人への尊敬の称号である。 すると「和上知事」は「和上や知事のような高僧」の意味と見られる。この時期文献に見える名前は道照だけだが、実際には和上と呼ばれた僧が何人かはいたはずである 〔そうでなければ文章が成り立たない〕。個人の称号たる和上は、役職名としての知事とは次元が異なる。よって、知事はやはり大官大寺固有の役職名と見てよいだろう。 結局、このとき知事を務めていた人物は和上と呼ばれ得るような高僧だったのであろう。 《有師位僧》 〈続紀〉天平宝字四年〔760〕七月に僧綱が「制四位十三階」を要請したが、認められなかった。 それ以前に僧位について述べた記事は見えない。 《御衣御被》 「御被」は他に用例が見つからないが、法被かと思われる。これを法被(ほふひ)とよむと袈裟である。法被(ハッピ)とよむと禅院で須弥壇や椅子にかける布、または職人のしるしばんてんである。 御衣は内衣、御被は袈裟とすれば理解しやすい。 《燃燈供養》 〈孝徳〉白雉二年十二月「燃二千七百余燈於朝庭内」以来の燃燈行事である。 これも、延命を願ってかつて行われていた行事を復活したようにも読める。 《為養老》 これについては、天皇延命祈願とする下心があったとすれば品がない。
庚寅〔二十二日〕は、丙申〔二十八日〕と日付が逆転している。 仮にどちらか一方が誤写だとしてみる。 ○丙申〔二十八日〕が正しいとした場合: 庚寅は丁酉〔二十九日〕と戊戌〔三十日〕のどちらにも似ていない。 ○庚寅〔二十二日〕が正しいとした場合: 丙申は戊子〔二十日〕と己丑〔二十一日〕のどちらにも似ていない。 よってこれらの誤写は考えにくい。ひとまず、それぞれ日付は正しくただ順番が逆転しているものとしておく。 《名張厨司》 名張厨司は、梁で魚を捕えて朝廷に送る施設であったとする論を見る。 その根拠は、名張村の旧称「梁瀬村」にあるようである。 梁瀬村が名張村に改称されたのは、明治22年〔1889〕という。 その旧梁瀬村の範囲を探ると、 [三重県名張市旧町の簗瀬水路]田中和幸他〔近畿大学工業高等専門学校研究紀要(14)2021〕が見つかった。 同論文は「三重県名張市の旧町」の範囲にある「梁瀬水路」の実相を明らかにしたもので、 「旧町が広がるあたりは、かつて簗瀬村と呼ばれていたが、その名称はアユをとる簗に由来するとされている。旧町の多くは名張川に囲まれた低地で名張川の高岩井堰から取水した簗瀬水路が張り巡らされている」という(p.90)。 同論文が明らかにした簗瀬水路は右図の通りである。 すなわち、梁瀬村は概ねこの水路がめぐらされた範囲に相当するようである。 さらに『大日本地名辞書』には「名張は梁瀬 その『倭姫命世紀』を精読する。
[木簡庫]には「奈波利評□〔奈ヵ〕」(荷札-石神遺跡)がある。 送り主は〈倭名類聚抄〉{伊賀国・名張【奈波利】郡・名張【奈波利】郷}の人と見られる。 もし、欠落した部分に「年魚」とでも書いてあれば、郡が評だった時代に「厨司」が名張の漁獲物を集めて朝廷に送る司であったことが裏付けられよう。更なる木簡の発見を待ちたい。 《大意》 〔朱鳥元年〕六月一日 槻本(つきもと)の村主(すぐり)勝麻呂(かちまろ)に連(むらじ)姓賜りました。 よって、勤大壱位(ごんだいいちい)を加えて、二十戸を封じました。 二日、 工匠(たくみ)、 陰陽師(おんみょうし)、 侍医、 大唐の学生及び一人二人の官人、 併せて三十四人に爵位を授けました。 七日、 諸々の司人等から功ある人二十八人を選び、 爵位を増加しました。 十日、 天皇の病を占ったところ、草薙剣の祟りと出ました。 即日、送って尾張国の熱田社に置きました。 十二日、 雩(あまごい)しました。 十六日、 伊勢王と官人らを飛鳥寺に遣わし、 衆僧に、 「最近は、朕の御身は安らがない。 願わくば、三宝の威を頼りにして、 身体に安らぎを得ようと思し召す。 これを以て、僧正(そうじょう)僧都(そうづ)及び衆僧(しゅうぞう)は、誓願すべし。」と勅しました。 そして、珍宝を三宝に奉じました。 この日、 三綱(さんごう)の律師、 及び四寺の和上(わじょう)や知事、 併せて現に師位をもつ僧らに、 御法衣(ほうい)、御法被(ほうひ)をそれぞれ一揃え施しました。 十九日、 勅され、百官の人らを遣わして 川原寺で燃燈供養(ねんとうくよう)を行い、 さらに大斎、悔過(けか)しました。 二十八日、 法忍(ほうにん)僧と 義照(ぎしょう)僧に、 養老の為に各三十戸を封じました。 遡って二十二日、 名張の厨司(くりやのつかさ)に火災がありました。 77目次 【朱鳥元年七月】 《改元曰朱鳥元年》
振り返ると十一年三月には「位冠及襅褶脛裳、莫着」、すなわち脛裳は廃止された。 そして十一年四月に「自今以後、男女悉結髮」で方向性を示し、 十三年閏四月に「有襴無襴及結紐長紐」は任意だが「会集之日」は規定を守れと命じされた。 髪型はすべて「結髮」にするのが基本だが、女子四十歳以上と巫・祝は例外とされたのがこれまでの経過である。 今回の「婦女垂髮于背、猶如故」は明らかに結髮令の取り消しである。 男子については「男夫着脛裳」、すなわち十一年三月に止めた脛裳が、元に戻された。 [木簡庫]〔奈良文化財研究所〕に「脛裳」木簡があり(右図)、 「大宝元年・二年頃のもので、脛裳の着用が認められていた時期に合致する」と解説されている。 脛裳は朱鳥元年に認められた後、〈続紀〉大宝元年〔701〕三月「其袴者。直冠以上者皆白縛口袴。勤冠以下者白脛裳」とされ、 慶雲三年〔706〕十二月「令天下脱脛裳。一着白袴」で再び廃止され、認められていた時期は686年~706年であった。 「婦女」の部分については、女子にとって髪型は現代と同じく敏感な事柄であったと思われる。「垂髮于背」が具体的に書かれたところに、それを望む気持ちが強かったことが窺われる。 故に、天皇の病状は意に反して強いたことへの天罰と考えられたのである。 男子の脛裳への拘りはそれほどではないだろうが、男女の対称性を確保するために加えられたと思われる。 《垂髮于背》 書紀古訓の「スベシモトゝリスルヿ」〔総し髻する事〕は「垂髮于背」〔髪を背に垂らすこと〕とは正反対である。 古訓者は、どうやら原文の文意について「髪をまとめて髻にしたことを昔に戻せ」と表すことが正確だと考えたようである。 しかし、原文をそのまま読んで「髪を降ろすことについては昔に戻す」としても十分意味は通る。もし古訓者の意図を貫くなら「着脛裳」についても「ハゝキモヲヤメタルコト」と訓まねばならない。 《僧正僧都》 僧正、僧都、律師は僧綱の職で、僧尼を統率し諸寺を監督する(元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[4])。 《悔過》 一般に悔過は宗教行事である。ただ、この日に僧綱が揃って宮中で悔過を行ったのは、天皇の病状を招いた責任を表明するが如くである。 《諸国大解除》 これまでの結髪令の取り消し、僧綱の宮中での悔過に加え、諸国大解除、調の半減と徭役の免除、紀伊・飛鳥・住吉の神への奉幣が連続する。 延命祈願として考え得るだけのことが盛り込まれた構成になっている。 《徭役》 〈汉典〉では「徭役:古時官府向人民攤派〔=各方面に分散配置〕的無償労動」と説明される。 『令義解巻三』 賦役令では「凡正丁歳役十日。若須収庸者布二丈六尺」、すなわち正丁〔21歳以上60歳以下の男子〕に課される歳役と表現され、庸布をもって代替することができる。 「徭役」そのものを用いた文章としては、 「凡遭二父母喪一並免二期年徭役一」が見える。 《奉下幣於居二紀伊国一国懸神…上》 〈持統〉六年五月にも「伊勢、大倭、住吉、紀伊大神、告以新宮」とある。このうち「紀伊大神」が国懸神であろう。 〈延喜式-神名〉には{紀伊国/名草郡/日前神社【名神大。月次相甞新甞】}、{同/国懸神社【名神大。月次相甞新甞】}。 紀国造家は、日前国懸の神官となって現在まで存続している。 いわゆる律令国造家であろう。 その祖に関して、古事記では「宇豆比古」を「木国造之祖」とするが、 『国造本紀』では「天道根命」を紀伊国造の祖としていて、一定しない。 その背景として、紀伊国名草郡の古代の族に「名草戸部、伊太祁曽三神〔五十猛命など〕、天道根命、木臣」などが乱立していたことが考えられる (第108回 《名草郡》)。 〈神代上〉「見畏開天石屋戸」段【一書1】 には、「冶工に任じられた石凝姥は、天香山から鉱物を発掘し、天羽韛で精錬し、日矛で彫刻し、日の神の像(日像鏡)を作り上げた。 この鏡が、紀伊の国の日前神宮のご神体である」とある(第49回)。 つまり、日矛は鏡の造作に使ったホコで、作り上げた鏡が日前神として祀られる。 日前神宮國懸神宮の語由緒ではこの話が若干変形され、石凝姥が日矛鏡と日像鏡という二鏡を作り、前者を日前神社、後者を国懸神社の御神体とする([日前神宮國懸神宮]公式/語由緒)。 一書1は、明らかに石凝姥が八咫鏡を作った話の変種で、その祀るところを伊勢神宮から名草郡の神社に移したものである〔一般的に各地に広がった伝説では、縁の場所を地元に引き寄せる〕。 よって語由緒が「鏡」を伊勢神宮と別鏡とするのは書紀本文と両立させるためと思われるが、それでも「日前神」については、一書1に根拠がある。 しかし、「国懸神」にはなかなかもともとの根拠が見いだせない。〈延喜式〉では別社だから、現在隣接しているのは移転した結果であろう。 もともと「国懸神」には独自の伝承があったが、失われたのだろう。前述の乱立した族のどれかの祖神かも知れない。 さらに、本来は「国縣神」だった可能性もあり、だとすれば縣 《飛鳥四社》
『日本紀略』所引の『日本後紀』巻三十七の逸文に、 天長六年〔829〕三月「己丑。大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷二同郡同郷鳥形山一」とあり、 829年に「甘南備山」から鳥形山に移転したとされる。 甘南備山の位置に雷丘説、甘樫丘説、南淵山説、ミハ山説などがあるというが、 [飛鳥の神奈備山の比定に関する実景論的考察]〔藤田富士夫(『人文社会科学研究所年報』12;敬和学園大学2014〕は、「岡寺山」を推している。 同論文は、その理由として三輪山に匹敵する山容であることを挙げている。 なお、「賀美郷」の範囲については『大日本地名辞書』によると、「今飛鳥高市の二村是なり」という。 これは現在の大字飛鳥や大字岡なども含む広い地域で、比定社も岡寺山も共にこの範囲内にある。 比定社は飛鳥坐神社〔奈良県 高市郡明日香村飛鳥708〕。 [飛鳥坐神社公式]によれば、現在の祭神は「本社:八重事代主命、下照姫命(飛鳥神奈備三日女神)、高照光姫命、建御方命」、 「中の社:大物主神、素戔嗚尊」、「奥の社;高皇産霊神、天照皇大神」とされる。 〈延喜式〉で「四座」とされる四神は文献ごとに相違が見られる(別項)。 諸文献で挙げられた八重事代主神・建御名方神・下照姫神・高照光姫神・木俣神・大物主(大己貴)神・神南火三日女神は、 結局すべてが飛鳥坐神で、〈延喜式〉の「四座」に合わせて、それぞれの判断でピックアップしたと見るのがよいだろう。 神南火三日女神は氏神もしくは産土神としての甘南備山の神と思われるが、それ以外はすべて大国主系の地祇 この段では「奉幣」先に伊勢神宮が含まれていない。 この点については、既に四月丙申に多紀皇女ら三人を伊勢神宮に遣わしている (《多紀皇女/山背姫王/石川夫人》)。 天神 《住吉大神》
第43回【書紀一書六】に 「其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣」。「四座」は、この三座に神功皇后を加えたもの。 『摂津国風土記』によれば、〈神功皇后紀〉の「大津渟中倉之長峽」は住吉の地を指す(【大津渟中倉之長峽】)。 〈斉明〉元年に「住吉松嶺」が出てくる(《住吉松嶺》項)。 現在の住吉大社には、第一本宮~第三本宮に筒男三神、第四本宮には神功皇后が祀られている。 神社の千木には、外剥ぎ(切断面が鉛直方向)と内剥ぎ(切断面が水平方向)がある。外剥ぎが男神、内剥ぎが女神というのは俗説とされるが、 住吉大社本宮の千木は、その「俗説」に沿ったものになっている(右画像)。 住吉三神は、素戔嗚尊が「日向国の橘小門の水底」で禊したときに海水中に出現した。これを素戔嗚尊の分身と見れば天神、 海水から析出したと見れば地祇となる。「三神一組」は宗像三女神と共通で、これが海洋系の神の特徴だとすれば、地祇説が有利となる。 《金光明経》 大乗仏教経典で、梵語"Suvarṇaprabhāsa"。「仏の寿命の長遠性、金光明懺法、四天王による国家護持や現世利益など雑多な要素を含み、密教的な色彩が強い」という(『改訂新版 世界大百科事典』平凡社2014)。 「金光明経」は曇無讖〔385~433〕が訳したもの(四巻)の題名。 《民部省》 〈倭名類聚抄〉では「民部省【多美乃都加佐】」(資料[24])。大蔵省(正月乙卯条)と同様、遡及の可能性がある。 法官は、式部省の前身と見られるが(《法官大輔…》)が、朱鳥元年九月になっても「法官」のままである。 ただ、「省」になったのは持統四年に一斉にではなく、それまでに順次行われていた可能性もある。 なお、書紀古訓「カキベ〔部曲〕ノツカサ」は〈倭名類聚抄〉と異なる。民は必ずオホミタカラと訓むべきとした故かも知れないが、 民部省が扱う対象は、部曲〔豪族の私有民〕限定ではなく、人民全般であろう。 《悉啓于皇后及皇太子》
《大赦之》 五月に「大赦天下」したばかりである。 もしこれが重出でなかったとすれば、前回の大赦以後に貯まった僅かな人数をまた赦免することになり、政 《祭広瀬龍田神》 広瀬神と龍田神には、〈天武〉四年以来、毎年ほぼ欠かさずに四月と七月に祭祀されてきた。 記述がないのは、四年七月、六年七月、そして朱鳥元年四月である (《祠二風神于龍田立野一》項)。 《天下百姓由貧乏而貸稲及貨財》 〈孝徳〉大化二年三月《吉備嶋皇祖母》項で「吉備嶋皇祖母処々稲」において、貸稲(いらしね)について考察した。 私出挙は、単純に借金である。公出挙は、それが強制される場合は事実上の税であるが、ここでは「貧乏に由(よ)りて」というから救済としての貸付を対象としたと思われる。 「貨財」はもともと「貸財」であった可能性があるが、「貸二稲及貨財一」と読むことは可能である。 いずれにしても、それらの返済義務を免除した。この善政も天皇の延命を願う文脈に位置づけられている。 《朱鳥元年》 九年七月に「朱雀有南門」とあった。十年七月にも「朱雀見之」。 前者については、朱雀門が作られたことが誤って語られた可能性を考えた。ただ、二度にわたって書かれるので、風聞そのものはあったと考えられる。 朱雀の出現は改元に値する吉兆だったが無視したことの祟りだと考え、遅ればせながら改元したことも考えられる。 《飛鳥浄御原宮》 〈天武〉二年の「即二帝位於飛鳥浄御原宮一」は遡及。 宮の名前は天皇の名前としても使われるので、定式的な記述においては遡及されるのである。 《選浄行者七十人以出家》 病状回復の祈願としての出家は、〈天武〉紀ではこれまでに九年十一月十日には皇后の病により「度二一百僧一」。同月二十六日天皇の病により「度一百僧」。何れもすぐに回復した。 朱鳥元年二月五日には、羽田真人八国の病のために「度僧三人」。このときは効なく二十五日に卒した。 《御窟院》 《御窟宮》参照。 院の原意は立派な家の周りの土塀。 和語となった「院(ゐん)」〔土塀で囲まれた貴人の邸宅または公的な施設の区域〕は平安時代からで、さらにそこに住む高位の人を指して使われるようになる。 書紀古訓「マチ」は、土塀で仕切られた一区画を表現したと見られる。 ヰンという語は、書紀古訓の時代にはまだ使われていなかった可能性がある。 《観世音像》 もともとは「観音像」だったが、〈兼右本〉から「世」が補われるようになり、現代の版本はそれを継承している。 文の流れから見て、その観世音菩薩像は大官大寺に奉納されたかも知れない。 大安寺には十一面観音〔190.5cm、一木造〕があり代表的な仏像と言われるが、 天平年間〔729~749〕作とされる。 移転後に改めて造られたなら、観世音菩薩像は旧寺から移動されなかったから、移転前の大官大寺も「元大安寺」などの名称でしばらく残っていた可能性がある。 《観世音経》 「『妙法蓮華経』第二十五「観世音菩薩普門品」の独立したもの」で、 中国では「梁代には『法華経』から独立して信仰されていた」という(『国史大辞典』吉川弘文館1997)。 観世音経(観音経)は「観世音菩薩が衆生の願いに応じて姿を変える三十三応身と、十九の説法について説き、衆生がその名を呼ぶことによって,あらゆる願いが満足されるとするもの」という (『改定新版 世界大百科事典』平凡社2014)。 辛亥年銘観音菩薩立像の「辛亥」年は孝徳〈白雉〉二年〔651〕にあたることが確実で、 その当時には既に観世音経による病気回復などの祈願が広まっていたと考えられる(資料[85])。 《大意》 七月二日、 勅しました。 ――「改めよ。男子の脛裳(ははぎも)を着ること、 女子の髮を背に垂らすことは、昔の如くに猶予する。」 この日、 僧正(そうじょう)僧都(そうず)らは、 宮中に参上して悔過(けか)しました。 三日、 諸国に詔して大解除(おおはらえ)させました。 四日、 天下の調(ちょう)を半減し、 そして悉く徭役(ようえき)を免除せよ。 五日、 奉幣(みてぐら)を紀伊の国に坐す国懸神(くにかけのかみ)、 飛鳥の四社、 住吉の大神に納められました。 八日、 百人の僧に請いて金光明経(こんこうみょうきょう)を宮中で読ませました。 十日、 雷が南方で光り、一度大きな雷鳴があり、 天災により民部省の庸蔵(ちからしろぐら)の建物が燃えました。 或いは、 「忍壁(おさかべ)皇子の宮に失火があり、民部省に延焼した」とも言われます。 十五日、 「天下の事は大小を問わず、 悉く皇后及び皇太子に啓(もう)せ。」と勅されました。 この日、 大赦されました。 十六日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。 十九日、 詔を発しました。 ――「天下の百姓の窮乏により、 稲や財を借りた者には、 乙酉年〔十四年〕十二月三十日以前の分は、 公私を問わず皆〔返済を〕免除せよ。」 二十日、 改元して朱鳥(あかみどり)元年としました 。 よって宮を飛鳥浄御原宮と名付けました。 二十八日、 浄行者七十人を選んで出家させ、 宮中の御窟院(みむろいん)で設斎しました。 この月には、 諸々の王臣たちは、天皇のために観音像を造り、 こうして観世音経(かんぜおんきょう)を大官大寺で説きました。 【飛鳥坐神社四座の祭神】 飛鳥坐神社の「四座」の内訳は、文献によって相違があるという。 ここではそれらの出典を調べた。
この書の成立時期については、後書きに「文安第三丙寅之歳黄鐘上旬」〔1446年11月〕とある。 その「飛鳥坐六箇処神社」項にいわく「社家者説曰飛鳥坐六箇処神社四座:第一、杵築大己貴命。第二、神南火飛鳥三日女神。第三、上鴨味耟高彦命。第四、下鴨八重事代主命」。 杵築大己貴命〔大国主神〕が含まれるのは本書だけである。 神南火飛鳥三日女神は、移設前の所在地甘南備山の名を負う神と考えられる。 なお現在の同社の祭神では、飛鳥神南火三日女神は下照姫命(下述)と同一神とされている。 阿遅鉏高日子根神は下照姫命とともに、大国主神と多紀理毘売命の間に生まれた(第68回) (第76回)。 八重事代主神は大国主神の子として国譲りの場面で登場した(第78回)。 《『大神文身類社鈔並附尾』》 この書の時期は、「文永乙丑歳黄鐘」〔1265年11月〕と記される。 いわく「飛鳥坐神社四座:鴨都味歯八重事代主神 高照光姫命 木 「大神文身類社鈔」は、大神〔三輪社に祀られている大物主神〕が分祀されている各地の社のリストという意味である。 ところが飛鳥坐神社の祭神には肝腎の大物主神はなく、大己貴神の二人の子に留まる。 「高照光姫命」は記紀には見えない。 『先代旧事本紀』巻第四:地祇本紀に「大己貴神」と「坐二辺都宮一高津姫神」〔宗像三女神の一柱。一般的には辺津宮の神は市杵島姫神で、湍津姫神は中津宮〕との間に生まれたのが 「児:都味歯八重事代主神、妹:高照光姫大神命【坐二倭国葛上郡御歳神社一】」とある。 現在、葛木御歳神社の相殿に「高照姫命」が祀られている。 木俣神は、大国主命が八上比売に産ませた子。八上比売は嫡妻須世理毘売を恐れ、子を木俣に差し挟んで帰ったことが、 名前の謂れである(第62回)。 建御名方神は八重事代主神とともに、大国主神の子として国譲りの場面で登場した(第78回)。 《いわゆる『社家縁起』》 いくつかのサイトに「社家縁起によれば…」と載る。しかし『社家縁起』と題された文書は見つからなかった。 いろいろ工夫して探したところ『奈良県高市郡志料』〔1915年〕に「廣大和志に引ける社家縁起【大神土佐撰】に…」と書かれているのが見つかった。 『広大和名勝志』(第十九)の原文は、『飛鳥京跡関係史料集』〔奈良県教育委員会〕に収められていた 〔『広大和名勝志』〔四十七巻〕は明和年間の書で、著者は植村禹言〕。 そこに書かれていたのは、「高市郡飛鳥社略縁起【大神土佐】曰。本社四座事代主神 高照光姫命 建御名方命 下照姫命 奥宮二座 天照太神宮 豊気大神宮」という文章であった。 つまり、正確には「『広大和名勝志』所引の『高市郡飛鳥社略縁起』」と書くべきところを、『奈良県高市郡志料』は大雑把に「廣大和志に引ける社家縁起」と書いたのである。 これが"社家縁起"のはじめで、これがそのまま広まったのが真相であった。 それはさておき、その『高市郡飛鳥社略縁起』によると、天照大神及び豊受大神が伊勢神宮から分祀して奥宮に祀られている。これを見ると、他の資料より新しいのではないかと思われる。 高照光姫命は前項。 下照姫命は大国主神と多紀理毘売命の間に生まれ、阿遅鉏高日子根神の妹である(第68回) (第76回)。 まとめ 実態不明だった「名張厨司」について、『倭姫命世記』を見つけられたことは大きい。 それは、「厨司」が、梁で捕えた鮎などを集めて朝廷に送る役所であったことの、一定の根拠になり得ると考えられるからである。 その「災」が敢えて記載されことからは、それなりの事件だったことが窺われる。原因として現地氏族の反抗も想像し得るが今のところこれ以上のことは分からない。 飛鳥坐神社四社の祀神の諸説については、何とか出典を確定することができた。 その祀神は明らかに大物主系で、住吉大神や国懸神とともに「奉幣」した記事は、これまで地祇を冷遇してきたことへの反省を伺わせる。 六月七月条は、反省と神仏に赦しを乞う一色となった。その感情の中心地には皇后がいたであろう。天皇が確信をもって発した勅を自身で取り消すとは思えないからである。 |
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2025.10.08(wed) [29-24] 天武天皇下24 ▼▲ |
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78目次 【朱鳥元年八月~九月二十四日】 《爲天皇體不豫祈于神祗》
《観世音経》参照。 《秦忌寸石勝》
四年三月《土左大神》項。 《皇太子/大津皇子/高市皇子/川嶋皇子/忍壁皇子/芝基皇子/磯城皇子》
地名檜隈については、推古二十年「改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵」が丸山古墳であるのは確実と見た (《檜隈寺》項)。 《軽寺》 地名「軽」を負う軽市は、現在の丈六交差点周辺と推定した(第104回【軽】項)。 軽寺はその近くで、現在の春日神社と法輪寺のところの廃寺跡に比定されている。 法輪寺南に案内板がある(第148回【軽嶋明宮】項)。 《大窪寺》 大窪寺は、橿原市大久保町の廃寺跡とされる。
[大窪寺跡]によると、 「塔心礎と伝えられる礎石の位置などから、国源寺本堂のあたりが金堂であった可能性があります」、 「心礎の南側に大きな土坑〔心礎抜き取り穴〕と、その周辺に掘立柱建物の柱穴が多数見つかりました。…〔柱穴は〕土坑とは異なる時期の大窪寺、あるいは藤原京に関係する建物と考えられます」という。 資料[51]によって各時期の心礎と比較すると、大窪寺塔心礎(右写真)は「第一類」(三段式)に分類され、その時期は白鳳時代〔675~710〕で〈天武〉朝を含む。 内孔は舎利孔で、第二段には蓋をはめたと考えられている。 [伝四条遺跡内出土遺物についての考察]は、「綏靖陵の東側で採集されたと伝わる」「大窪寺採集及び出土瓦多数の瓦」の画像を収めている。 そのうち山田寺式複弁蓮華文軒丸瓦(右図)は「大久保町公民館建替時に出土」という。同形式の瓦は、七世紀半ばから後半にかけて日本各地の寺院に広く採用されたという。 《封百戸限三十年》 大化二年三月辛巳詔の「於脱籍寺入二田与山一」を、寺籍の民が公に接収されることにより失った寺田は、山野を切り開いて補えと読んだ。 以来、寺領は基本的に自力で開墾して得るものとされたようである(《於脱籍寺入田与山》)。 よって「限三十年」と限定したのは、自力で開墾して寺領を得るまでの経過措置と考えられる。 すなわち、これらの寺は創建から間がないと思われる。 次項の巨勢寺についても、「限三十年」を補うべきであろう。 この段も文脈上は延命祈願のための善政の一つと読めるが、実際には直接の関係なく行われたことかも知れない。 《巨勢寺》
その塔心礎(写真)も、大窪寺と同じく第一類に分類される。これも〈天武朝〉の時期の建立とする判断を妨げない。 《川原寺》 〈斉明〉川原宮の跡地で、創建は〈天智〉朝と考えられている (〈孝徳〉白雉四年六月【川原寺】)。 九年三月の勅で「ニ三」に絞られた官寺に含まれているのは確実である。 《殯于南庭》 「射」の会場は、内郭「南門」の南かつエビノコ郭「西門」の西とみた (《射于南門》)。 その区画が野外行事の会場であるから、殯宮もここに建てられたと見られる。 陵に埋葬するまでの相当の長期間に遺体を安置するわけだから、殯宮は野外の風通しのよいところに建てられたと考えられる。 《大津皇子謀反於皇太子》 詳細は〈持統〉紀で記述される。 《大意》 八月一日、 天皇(すめらみこと)の為(ため)に八十人の僧を出家させました。 二日、 僧尼併せて百人を出家させ、 これによって、百柱の菩薩を宮中に安置し、 観世音経二百巻を読経させました。 九日、 天皇の御病気のために、神祗に祈りました。 十三日、 秦忌寸(はたのいみき)石勝(いわかつ)を遣わし、 土左の大神に奉幣させました。 この日、 皇太子(ひつぎのみこ)、 大津皇子、 高市皇子にそれぞれ封戸四百戸を加えられました。 川嶋皇子、 忍壁(おさかべ)皇子にそれぞれ百戸を加えられました。 十五日、 芝基(しき)皇子、 磯城(しき)皇子にそれぞれ二百戸を加えられました。 二十一日〕、 檜隈(ひのくま)寺、 軽寺、 大窪(おおくぼ)寺に、それぞれ百戸を封じられ、三十年限りとしました。 二十三日、 巨勢(こせ)寺に二百戸を封じられました。 九月四日、 親王以下諸臣に至るまで、 悉く川原寺に集まり、 天皇の御病気のために誓願して、云々。 九日、 天皇の御病気は遂に癒えず、 正殿で崩じました。 十一日、 初めて発哭し、そして南庭に殯宮を建てました。 二十四日、 南庭で殯し、発哀しました。 まさにこの時、 大津皇子は、皇太子に謀反を起こしました。 79目次 【朱鳥元年九月二十七日~三十日】 《肇進奠卽誄之》
毎朝早く殯庭に集まって、「発哭」して退出したという。 この拝礼は仏教の作法によって行われ、死者への哀悼に相応しい何らかの読経を捧げたものと見るのが自然であろう。 《麁蒲》 蒭は誤写と見られ、〈兼右本〉は「荒」に作る。現代版本は「蒭」とするが、マグサ〔飼料〕の意で「アライ」の用法は見えない。 〈続紀〉の「麁」〔麤;荒と同義〕を用いるべきであろう。 《肇進奠即誄之》
壬生は皇子・皇女のための養育部で、皇子代とほぼ同義である。 「壬生」の誄が冒頭に置かれたのは意味深長である。天皇を失い、皇子たちを束ねるたがが外れた。 即位を狙える立ち位置にある皇子に仕える壬生は、当然色めき立つことになる。 よって壬生及び諸王は盟約を守り互いに争わないと霊前で誓わなければならない。 《宮内/左右大舎人/左右兵衛/内命婦/膳職/太政官/法官/理官/大蔵/兵政官》
式部省・民部省はここには見えないが、「法官」が〈天智〉十年と〈天武〉七年十月に見える。 民部省は〈朱鳥元年〉七月条に「民部省」が出てきた。 その〈天智〉十年「法官」の役職「大輔」が〈倭名類聚抄〉「次官:…省曰レ輔【有二大小一】」に合致することが注目される。 よって八省の前身の形成は既に〈天智〉朝から始まっていたと考えられる。 このように長い年月をかけて形作られてきたものなら、「~省」の称も〈持統〉朝に一斉ではなく、〈天武〉朝から既に順次用いられつつあったとしても不思議ではない。 《直大参県犬養宿祢大伴》 「誄」を担った者のクラスは、どの程度であろうか。 〈続紀〉を見ると、「省」の「卿」〔長官〕の爵位は、〈続紀〉では慶雲二年〔705〕 十一月「以正四位上小野朝臣毛野為中務卿」など、従三位~従四位下の範囲である。 殯庭で「誄」した者の爵位は直大三~直広四〔正五位上~従五位下に相当〕で、卿より低い。 従って、「誄」のために派遣されたのは、恐らく各官の中堅クラスであろう。 《諸国国司》 「国」は〈孝徳〉朝で初めて設置。以来、地方の行政単位として整いつつある。 《大隅阿多隼人》 十一年七月に「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭」が催された。 十四年には大隅直に忌寸が賜姓されたことも、国家に組み入れつつあることの表れと見られる(大隅直)。 《倭河内馬飼部造》 八年十一月条に「倭馬飼部造連」〔"連"は個人名〕が見える。 また十二年十月に「娑羅々馬飼造」と「菟野馬飼造」に連姓を賜った。 両者は娑羅皇女の壬生であったと考えられる(《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》項)。 倭および河内のいくつかの馬養部造には連帯意識があり、連れ立って弔問し、皇后との関係が深い娑羅々馬飼造または菟野馬飼造が代表して誄したことが考えられる。 《僧尼発哀》 発哀は貴人が亡くなったときの行事で、書紀古訓では「ミネ」と訓まれる。例えば泣き女を集めて号泣させ、親族が共に涙するような形が考えられるが、想像に留まる。 《百済王良虞》
かつての国造は、この時代には国々で神事を掌るいわゆる律令国造に転じていた。 十四年に忌寸姓を賜った氏族のうちのいくつかは、その国造家と見られる(《賜姓曰忌寸》項)。 《奏種々歌儛》 この場面は、[魏志倭人伝](44)の 「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」を思い起こさせる。これは弥生時代の風俗を描いたものであるが、 飛鳥時代においても喪に際しては歌舞で見送る文化があったことが分かる。 「種々歌儛」とは高麗・百済・新羅・伎楽の楽を指し(十四年九月)、交互に演奏したと思われる。 《大意》 〔九月〕二十七日、 夜明け前〔または寅刻〕に、 諸々の僧尼は殯庭(もがりのにわ)で発哭し、退出しました。 この日、 初めて奠(でん)を奉(たてまつ)り、 そして誄(るい、しのひこと)しました。 第一に大海宿祢(おおあまのすくね)麁蒲(あらかま)が、 壬生(みぶ)の事を誄し、 次に浄大肆(じょうだいし)伊勢王は、 諸王の事を誄し、 直大参(じきだいさん)県犬養宿祢(あがたいぬかいのすくね)大伴(おおとも)は、 総ての宮内(くない)の事を誄し、 浄広肆(じょうこうし)河内王は 左右の大舎人(おおとねり)の事を誄し、 直大参当麻真人(たいまのまひと)国見(くにみ)は 左右の兵衛(ひょうえ)の事を誄し、 直大肆采女(うねめの)朝臣竺羅(じくら)は 内命婦(ないみょうぶ)の事を誄し、 直広肆紀の朝臣真人(まひと)は 膳職(ぜんしき)の事を誄しました。 二十八日、 諸僧尼は、また殯庭で発哭しました。 この日, 直大参布勢朝臣(ふせのあそん)御主人(みあるじ)は 太政官(だいじょうかん)の事を誄し、 次に直広参石上(いそのかみ)の朝臣麻呂(まろ)は 法官の事を誄し、 直大肆大三輪(おおみわ)の朝臣高市麻呂(たけちまろ)は 理官の事を誄し、 直広参大伴宿祢安麻呂(やすまろ)は 大蔵の事を誄し、 直大肆藤原朝臣大嶋(おおしま)は、 兵政官(ひょうせいかん)の事を誄しました。 二十九日、 僧尼はまた)発哀しました。 この日、 直広肆阿倍久努(あべのくど)の朝臣麻呂(まろ)は 刑官(ぎょうかん)の事を誄し、 次に直広肆紀の朝臣弓張(ゆみはり)は 民官(みんかん)の事を誄し、 直広肆穂積朝臣虫麻呂(むしまろ)は 諸国の国司の事を誄しました。 次に大隅(おおすみ)阿多(あた)の隼人(はやと)、 及び倭(やまと)河内(かふち)の馬飼部造(うまかいのみやつこ)が、 それぞれ誄しました。 三十日、 僧尼は発哀しました。 この日、 百済王(くだらくのこんきし)良虞(りょうぐ)は、 百済王善光(ぜんこう)の代理で誄しました。 次に国々の造(みやつこ)らは、参上するままに、それぞれ誄しました。 そして種々の歌舞を奏しました。 まとめ 〈天武〉天皇の最晩年の統治は、事実上皇后が握っていたと見られる。この時期に至り以前の勅の修正が見られるが、これは皇后の意向以外には考えられないからである。 さて「誄」の記述からは、〈持統〉紀以後の「八省」の原型が包括的に見えるところが興味深い。 その他、宮中の宗教行事なども〈天武〉紀で初めて記されたことが、後の時代に継続していく。代表的な寺院も、平城京に移転する形で引き継がれる。 この時期に頭角を現した人物は、しばしば〈続紀〉でもその活躍が描かれる。 まさに、様々な事柄について奈良時代の端緒は〈天武〉朝にあったことが分かる。 |
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⇒ [30-01] 持統天皇(1) |
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