上代語で読む日本書紀〔天武天皇下(9)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 日本書紀―天智天皇紀

2025.09.07(sun) [29-20] 天武天皇下20 

68目次 【十四年四月~六月】
《牟婁湯泉沒而不出也》
夏四月丙子朔己卯。
紀伊國司言
「牟婁湯泉沒而不出也。」
牟婁湯泉…〈北野本〔以下北〕牟婁ムロノ湯-泉不出也。 〈兼右本〉ウモレ
夏四月(うづき)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)。〔四日〕
紀伊国(きいのくに)の司(つかさ)言(まを)さく
「牟婁湯泉(むろのゆ)没(しづ)みて[而]不出(いでず)[也]。」とまをす。
丁亥。
祭廣瀬龍田神。
丁亥(ひのとゐ)。〔十二日〕
広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
壬辰。
新羅人金主山、歸之。
壬辰…〈北〉
壬辰(みづのえたつ)。〔十七日〕
新羅(しらき)の人金主山(こむしゆせん)、帰之(まかりかへる)。
庚寅。
始請僧尼安居于宮中。
庚寅…〈内閣文庫本〔以下閣〕寅イ
庚寅。〔十五日〕
始めて僧(ほふし)尼(あま)に請(こ)ひたまひて[于]宮中(おほみやのうち)に安居(あんご)せしめたふ、
五月丙午朔庚戌。
射於南門。
天皇、幸于飛鳥寺、
以珍寶奉於佛而禮敬。
五月…〈北〉五-月サツキ
珍宝…〈北〉珎-寶タカラモノ於佛而礼-。 〈兼右本〉於佛礼- タマフ
五月(さつき)丙午(ひのえうま)を朔(つきたち)として庚戌(かのえいぬ)。〔五日〕
南(みかど)の門(みかど)に射(いくふ、ゆみいる)。
天皇(すめらみこと)、[于]飛鳥寺(あすかてら)に幸(いでま)して、
珍宝(めづらしきたから)を以ちて[於]仏(ほとけ)に奉(たてまつ)りて[而]礼敬(ゐやま)ひたまふ。
甲子。
直大肆粟田朝臣眞人、
讓位于父、然勅不聽矣。
眞人…〈閣〉真人マ ヒト ニ テ。 〈兼右本〉 
直大四位爵位四十八階の第十五位。
甲子(きのえね)。〔十九日〕
直大肆(ぢきだいし)粟田朝臣(あはたのあそみ)真人(まひと)、
位(くらゐ)を[于]父(ちち、かそ)に譲(ゆづ)りまつりて、然(しかれども)勅(みことのり)のりたまひて不聴(ゆるしたまはじ)[矣]。
是日。
直大參當麻眞人廣麻呂卒
以壬申年之功贈直大壹位。
直大参…〈北〉アタヒ大-サン。 〈閣〉申○之
直大三位……四十八階の第十三位。
直大一位……四十八階の第九位。
是(この)日。
直大参(ぢきだいさむ)当麻真人(たぎまのまひと)広麻呂(ひろまろ)卒(そつす、みまかる)、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて直大壱位(ぢきだいいちゐ)を贈(おく)りたまふ。
辛未。
高向朝臣麻呂
都努朝臣牛飼等、
至自新羅、
乃學問僧觀常
雲觀
從至之。
都努朝臣牛飼…〈北〉ヌノヲンウシカヒ觀常クワンシヤウ雲觀ウンクワン
〈閣〉高向○臣交本。 〈兼右本〉霊觀イ乍
辛未(かのとひつじ)。〔二十六日〕
高向朝臣(たかむこのあそみ)麻呂(まろ)
都努朝臣(つのあそみ)牛飼(うしかひ)等(ら)、
新羅(しらき)自(ゆ)至(まゐた)る、
乃(すなはち)学問僧(ものならふほふし)観常(くわんじやう)
雲観(うんくわん)
従(したが)ひて至之(まゐた)れり。
新羅王獻物、
馬二疋
犬三頭
鸚鵡二隻
鵲二隻
及種種寶物。
献物…〈北〉 ハ二疋フタツ犬三-頭ミツ 鸚-鵡アウム二隻 フタツ■二カサゝキ-フタツ
新羅王(しらきわう、しらきのこきし)の献(たてまつ)れる物は、
馬二疋(ふたつ)
犬三頭(みつ)
鸚鵡(あうむ)二隻(ふたつ)
鵲(かささぎ)二隻(ふたつ)
及びに種種(くさぐさ)の宝物(たからもの)なり。
六月乙亥朔甲午。
大倭連
葛城連
凡川內連
山背連
難波連
紀酒人連
倭漢連
河內漢連
秦連
大隅直
書連、
幷十一氏賜姓曰忌寸。
大倭連…〈北〉 大-倭ヤマトノ ムラシ葛城カツラキノヲフシ川内カウチノ山背ヤマシロノ難波ナニハノキノ酒人サカヒトノ倭漢ヤマトノアヤノ河内漢カウチノアヤノハタノ大-隅ヲホスミノアタヒ フミノ○姓/賜忌寸イムキト
〈釈紀〉忌寸イミキト
六月(みなづき)乙亥(きのとゐ)を朔(つきたち)として甲午(きのえうま)。〔二十日〕
大倭連(やまとのむらじ)
葛城連(かつらきのむらじ)
凡川内連(おほしかふちのむらじ)
山背連(やましろのむらじ)
難波連(なにはのむらじ)
紀酒人連(きのさかひとのむらじ)
倭漢連(やまとのあやのむらじ)
河内漢連(かふちのあやのむらじ)
秦連(はたのむらじ)
大隅直(おほすみのあたひ)
書連(ふみのむらじ)の
并(あは)せて十一氏(とをうぢあまりひとうぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて忌寸(いみき)と曰ふ。
《牟婁湯泉没而不出》
 牟婁湯泉は、和歌山県西牟婁郡白浜町の城崎温泉付近と考えられている(〈斉明〉三年《牟婁温湯》)。
 「没而不出」とあるが、〈持統〉四年八月の「紀伊」は、牟婁湯泉が含まれていたように思われる。 後に大宝元年〔701〕に〈持統〉上皇と〈文武〉天皇が連れ立って牟婁温泉に行幸している(【紀温泉】)。 すなわち〈天武〉十四年に「」した牟婁湯泉は、後に復旧したことが分かる。
 「」は直接的には源泉が枯渇した意味だが、「没而」と組み合わせると、地震などで施設が没してまだ温泉として使えないとも読める。 牟婁温泉の推定地は海岸に近いから、津波あるいは高潮による水没はあり得る。また「」は、土砂流入による埋没、さらには建物の崩壊による機能の消滅を表した言葉であることも考えられる。
 この「没而不出」の四文字は、十三年十月の大地震のによる「伊予湯泉、没而不出」と同じである。 このことから、牟婁湯泉もまた、同じ地震によって損害を受けたことを暗示するものかも知れない。この「紀伊国司言…」の段は、案外十三年大地震の記録から抜き出し、その日付によってここに収めたものかも知れない。 だとすれば、この「紀伊国司言」は地震から半年が過ぎても未だ温泉設備が復旧していない現状を報告したものとなる。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《金主山》
金主山 十二年十一月十三日、進調。十三年正月二十三日に筑紫で饗。同年三月二十三日にも帰国の記事がある。重出であろう。
《庚寅》
 「安居于宮中」の日付として一般的な庚寅〔十五日〕は、前段の「壬辰〔十七日〕と逆転している。 〈内閣文庫本〉は異なり、本文「庚子〔二十五日〕に「壬寅イ〔二十七日〕を傍書する。 〈伊勢本〉は「壬印イ十五」、[頭注]「印本作庚子。庚子二十五日也」とする。
 もし庚子だとすれば日付の逆転は解消する。しかし、そもそも「金主山」段「安居」段共に重出の可能性があるくらい曖昧だから、 日付を突き詰めることに大した意味はないだろう。
《安居于宮中》
 十二年夏にも「始請僧尼-居于宮中」の重出か。 十四年条には日付がある分、十二年条よりはやや鮮明である。
 また、重出ではなく十二年の「安居」を見落として、誤って十四年に「」をつけたことも考えられる。
《射於南門》
 《射于南門》参照。 今年は正月に「」がない。前年を七月に十三氏を真人、十一月に五十二氏を朝臣、十二月に五十氏を宿祢と立て続けに賜姓した。対象の氏上にすべて呼び出しをかけて儀式を行ったとすれば、宮廷職員は相当忙しかっただろう。 よって、正月にはゆっくり骨休めさせたとも考えられる。そのために「」行事を五月に移したのかも知れない。
《飛鳥寺》
 飛鳥寺は一時官寺から外すことも検討されたようだが、結局残された (九年《飛鳥寺》)。
 〈天武〉天皇が飛鳥寺に行幸した記事は、ここが唯一。
《粟田朝臣真人》
粟田朝臣真人  粟田臣真人
 栗田真人と〈孝徳〉朝の学問僧道観と同一人物といわれる。その説は〈釈紀〉〔1275年〕には見えず、〈兼右本〉〔1540年〕からと見られる。
 道観が唐に渡ったのは、白雉四年〔653〕。 以下、仮に当時20歳だったとした場合の、節目の年齢を計算してみる。真人は大宝律令撰定のメンバーであった。その大宝律令成立は〔701〕で、真人68歳。 その大宝元年には遣唐執節使となり、慶雲元年〔704〕に帰国した。このときは71歳。
 この時代にこの年齢で果たして遣唐使が務まっただろうかとも思えるが、鑑真が日本への渡航に成功したときには既に65歳だったから、元気なら不可能ではなさそうである。なお、養老三年〔719〕に薨じたときには、86歳となる。
 〈天武〉十四年〔685〕には自身の爵位を父親に譲ろうとしたから、父親はまだ存命だろう。 このとき真人は52歳。父親が20~40歳のとき生まれたとすると、父親の年齢は72~92歳となる。これも、あり得なくはない。
 このように「学問僧道観」が20歳前後だったとすればぎりぎりで成り立つが、30歳だとするとほぼあり得なくなる。 できたら、追加史料がほしいところである。
《譲位于父然勅不聴矣》
 おそらく父親の爵位は低いか、あるいは無位だったのであろう。爵位が個人を対象とするものであることは真人も承知していたはずだから「譲位」は言葉の綾で、 実際には父親への叙位を要請したのであろう。しかし父には叙位し得るだけの条件を備えていないからできないという、官僚的な判断がなされたと思われる。
 もし栗田真人道観なら、父の名前は「春日粟田臣百済」となる(白雉四年五月)。
《当麻真人広麻呂》
当麻真人広麻呂 当麻公は前年七月に賜姓されて当麻真人になった。 当麻公広麻呂は、 四年四月に出仕禁止となったが、〈壬申〉の功績によって贈位を賜ったことを見ると名誉は恢復されたようである。
《高向朝臣麻呂/都努朝臣牛飼》
高向朝臣麻呂  麻呂は十年十月に小錦下位を賜った。 参議朝政中納言摂津大夫を歴任して和銅元年〔708〕閏八月丁酉に薨。
都努朝臣牛飼 角臣は、十三年十一月に朝臣姓を賜った。牛飼はこの年の五月と九月のみ。
観常 ここだけ。
雲観 ここだけ。
 この四人の帰国は、十三年十二月六日に土師宿祢甥らが唐から新羅経由で帰国したことに続くものであろう。
 唐からの帰国が続くのは、この時期に唐国内の社会不安が増してきたことが考えられる。 《星隕東方》項で 天文記録が684年11月11日~707年11月16日〔ユリウス暦〕の期間、空白になっていることを見出した。 高宗が683年〔天武十二年〕に崩じた後、実権を握った武則天は690年に武周を建てて自ら帝位に登り、705年に崩じた。 『天文志』の空白部分がこの期間と丁度重なるのは確かである。唐の官僚機構の混乱の現れとも考えられる。
 だとすれば、唐の社会の不安定化に伴い在住日本人のうち、少なくとも一部は帰国を考えた可能性がある。同じ理由で帰国する新羅人とともに新羅に向かい、そこから日本に向かったと考えられる。
 新羅が使者抜きで献上品のみ日本人に託すのも不自然なので、このときも、遣使して高向麻呂らを日本まで送り届けさせたと見た方がよいと思われる。
《新羅王献物》

オウム

カササギ
オウムの生息域
[ナショナル ジオグラフィック]/連載/物大図鑑/オウム
カササギの生育域
[佐賀県公式]/カササギ(カチガラス)の紹介/カササギの分布図
 鸚鵡          
 オウムについてはこれまでに大化三年の新羅が献上した一羽、斉明二年遣百済使が持ち帰った一羽が見える。
 その生息域は、南アメリカ、アフリカの熱帯、南アジア、オセアニア(右図)なので、新羅には交易もしくは外交における献上品として持ち込まれたものと見られる。
 
 [佐賀県公式]/[カササギ]によると、 「海外では、イギリス、ヨーロッパ全域、ロシア平原、中央アジア、モンゴルアムール地方、ウスリー地方、朝鮮半島、ベトナム北アメリカ西部に生息しており、北半球では決して珍しい鳥ではありません。 ところが日本では、田んぼとクリークが広がる平野、つまり佐賀、福岡、熊本、長崎にまたがる有明海周辺地域に集中して生息しています」という。
 佐賀平野中心という狭い地域に限られていることについては、「16世紀から17世紀初頭に朝鮮半島から移入された」説が有力という。
 [国立環境研究所]公式ページ[カササギ - 日本の外来生物]には、 「カササギは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に「カチカチ(勝ち勝ち)」と鳴くことから縁起が良い鳥として持ち帰られたものが野生化した」とある。 また、同じサイトの[侵入生物データベース/カササギ]では 「九州の個体群は400年ほど前に輸入されたものに由来するとされている」と述べる。
《賜姓曰忌寸》
01大倭連  〈姓氏録〉には大倭連・大倭忌寸の項目がないが、〖大和宿祢〗項は、事実上それを語っている。
 いわく〖大和宿祢/大和国/神別/地祇/大和宿祢/出自神知津彦命也。 神日本磐余彦天皇…到速吸門時。有漁人乗艇而至…臣是国神、名宇豆彦。…仍号神知津彦【一名椎根津彦】…任大倭国造。是大倭直始祖也〗。 このように「椎根津彦―大倭国造―大倭直―〔大倭連〕―大和宿祢」という氏族の歩みを示す。 これは、次の記紀及び〈続紀〉の記述に合致している。
 すなわち〈神武〉段では東征の途上、速吸門に来たところで「槁根津日子」に出会い、この神が「倭国造之祖」だとする(第96回)。 〈神武〉即位前紀、甲寅年十月には「椎根津彦、此即倭直部始祖也」とある。 その後〈天武〉十二年九月に至り、倭直姓を賜った(倭直龍麻呂)。 さらに、この十四年に忌寸姓を賜った。
 〈続紀〉には、文武元年〔697〕十一月「進…遣大壱大倭忌寸五百足於陸路…以迎新羅使于筑紫〔この頃までに山陽道が作られたことが窺われる〕。 和銅七年〔714〕二月「従五位下大倭忌寸五百足氏上。令神祭」。 養老七年〔723〕十月に「大倭国造大倭忌寸五百足」とあるのは、〈神武〉段「倭国造」に拠るものではあるが、同時に「主神祭」家を国造であることを再確認したものと言える〔すなわち律令国造〕。 そして、天平九年〔737〕十一月「散位正六位上大倭忌寸小東人、大外記従六位下大倭忌寸水守二人、賜宿祢。自余族人連姓、為神宣」。 ここに至って遂に〈姓氏録〉の大和宿祢に到達した。なお、小東人水守を除く族人は忌寸姓から逆に連姓に戻された如くに読めるが、この問題はひとまず保留しておく。
 〈続紀〉には、「大倭忌寸」は上記を含めて11例。
 大倭忌寸が宿祢姓を賜るほど隆盛となったのは、714~723年の期間に大和国主祭家かつ律令国造として公認されたのがきっかけではないだろうか。〈天武〉十四年当時はまだそれほど高貴ではなかったから忌寸姓に留まり、宿祢に届かなかったと考えられる。
02葛城連  『国造本紀』に「剣根命葛城国造。即葛城直祖」とあり、葛城直葛城国造家であった。
 十二年八月に、  葛城直姓を賜った。
 〈続紀〉には、天平二十年〔748〕葛城忌寸豊人」の1例のみ。朝臣姓の氏人は見えない。 〈姓氏録〉に〖葛城朝臣〗があることについて、〈姓氏家系大辞典〔以下大辞典〕〉は 「その朝臣姓を賜へる年月不明」、〖日本紀。続日本紀。官符改姓並合〗とあるは疑ふべし。何によりて云ふか」と述べる。 実際、葛城忌寸が朝臣姓を賜る記事は、書紀と〈続紀〉には見えない。
03凡川内連  十二年八月に、  凡河内直姓を賜って凡川内連となった。
 〈姓氏録〉〖河内国/神別/天孫/凡河内忌寸/〔天津彦根命之後〕。 記上巻に「天津日子根命者…凡川内国造」(第47回)と書かれるのは、 凡河内忌寸が律令国造としての凡川内国造家に公認されたことを反映していると見られる。
 というのは、摂津に移った凡河内忌寸の分家が摂津国造として公認されたことから見て、宗家はそれ以前に凡河内国造として公認されていたと見られるからである。
 すなわち〈続紀〉慶雲三年〔706〕十月に「摂津国造従七位上凡河内忌寸石麻呂…進位一階」、 〈姓氏録〉に〖摂津国/神別/天孫〗凡河内忌寸/額田部湯坐連同祖〔=天津彦根命子明立天御影命之後〕、 及び凡河内忌寸/同神〔=天穂日命〕十三世孫可美乾飯根命之後也〗〖河内国/凡河内忌寸〗の祖天津彦根命は天照・素戔嗚による誓の場面で天照から生った三番目の神、〖摂津国/凡河内忌寸〗の祖天菩比命は同じく二番目の神である。分家に当たって、出自を少しずらしたと見られる。
 ただ、記が天津彦根命や天菩比命を「…之祖」として挙げるリストの中に「摂津国造」は含まれていない。 その事情については、〈続紀〉に「摂津国造」が載る「慶雲三年〔706〕は古事記が献上された712年に近いので、「摂津国造」の公認は、既に記上巻が書かれた後だったためかも知れない。
04山背連  『国造本紀』に「天目一命山代国造。即山代直祖」とあり、山背直山代国造家であった。
 十二年八月に、  山背直は連姓を賜って山背連となった。 直姓当時の人物には、〈壬申紀〉「山背直小林」、〈天武〉五年十月大乙中山背直百足」が見える。 その山背直小林で見たように、〈続紀〉に「山背忌寸品遅」が見える。 天平勝宝八歳〔756〕七月には「河内国石川郡人漢人広橋。漢人刀自売等十三人、賜山背忌寸姓」とあり、漢人の男女十三人をまとめて山背忌寸の一族に加入させたことが興味深い。 〈続紀〉には文筆の業に優れた者を氏族に加入させる例があった。ここでも何らかの理由によって加わったわけである。
05難波連  〈天武〉十年に、「草香部吉士大形」が「難波連」姓を賜った。 大形は十年定帝紀及上古諸事」の一人 (草香部吉士大形)。渡来人の「吉士」姓の人たちは、文筆の職に採用された。 大形は、とりわけ能力が高かったようである。難波連は十四年にさらに忌寸姓を賜わった。
 〈続紀〉には1例。慶雲三年〔706〕十月に「従八位上難波忌寸浜足…進位一階」。 〈姓氏録〉〖右京/諸蕃/高麗/難波連/出自高麗国好太王也〗では連姓のままなので、分流であろう。
 一方、全く別の起源をもつ「難波忌寸」が〈姓氏録〉皇別に見える。いわく〖河内国/難波忌寸/大彦命之後也/阿倍氏遠祖大彦命。 磯城瑞離宮御宇天皇〔崇神〕御世。遣蝦夷之時。至於兎田墨坂忽聞嬰児啼泣。即認覓、獲棄嬰児。 大彦命見而大歓、即訪-求乳母、得兎田弟原媛。便付嬰児曰「能養長安功。於是成人奉送之」。大彦命為子愛育。号曰得彦宿祢者。異説並存〗 〔〈崇神〉帝の御世、大彦が蝦夷征伐に向かう途中、兎田〔宇陀〕墨坂で嬰児の鳴き声を聞いた。その声の辺りを探したところ捨て子を見つけた。 大彦は大喜びし、乳母を求め兎田弟原媛を得て嬰児につけ「よく育てれば功に報いる。立派に成人させよ」と命じた。大彦は愛育し、得彦宿祢と名付けた〕
 これは、同名異族と見るべきであろう。草香部吉士大形を祖とする難波忌寸は「皇別」ではなく、必ず諸蕃の中にあるべきだからである。 〈大辞典〉は、「阿倍流の難波忌寸」として、「〔大形の〕難波忌寸」と別項を立てる。しかし、この「阿倍流」も「猶ほ吉士族とすべきか」という。 なぜなら、「〔大形の〕難波忌寸:吉士族也。もと吉士は阿倍氏の管理せし者なるが故に、此の族は多く阿倍氏を冒す」からである。
06紀酒人連  〈天武〉十二年十月に、「紀酒人直」が姓を賜った。 〈続紀〉天応元年〔781〕十一月「従七位下酒人忌寸刀自古」。紀酒人と見られる酒人忌寸は、この1例。 よって〈大辞典〉「「酒人忌寸刀自古」とあるは此〔=(紀)酒人忌寸〕の氏人なるべし」と述べる。 また「(紀)酒人直:倭漢坂上氏の族にして、紀伊酒人部の伴造なり」。これは、坂上系図の「鳥直注」によるものという。
 確認すると「坂上系図:漢高祖皇帝―石秋王―康王―阿知王【誉田天皇(諡応神)御世。避本国乱…七姓漢人等帰化…】―都賀使王―志努直―鳥直【姓氏録曰。志努直第五子直。是酒人忌寸祖也】」とある 『続類書群従』第七輯
 とすれば次項の「倭漢連」に含まれるはずだが、別項に挙げられたのは、他の倭漢と離れて紀伊国にいたか、または特に功績があったからであろう。
07倭漢連  「倭漢」は、阿知使主を始祖とする大和国在住の渡来族の総称で、坂上氏を宗家とする(資料[25]《坂上大宿祢》)。 〈姓氏録〉にあって倭漢連に属する諸族を、〈壬申紀〉の《諸直等》項で列挙した。
 そのうち「坂上忌寸」は、〈続紀〉文武三年〔699〕五月「坂上忌寸」(坂上直老)など多数出てくる。 そのほか〈続紀〉には〈姓氏録〉に載る族のうち、「内蔵忌寸」(天平勝宝二年〔750〕他)、「山口忌寸」(和銅七年〔714〕他)、「平田忌寸」(延暦六年〔787〕)、「佐太忌寸」(慶雲元年〔704〕他)が見える。 これらはすべてが忌寸姓だから、「倭漢忌寸」が坂上氏を宗家に戴く諸族をひとまとめにして賜姓したものであるのは間違いない。
 なお、〈続紀〉神亀三年〔726〕十二月「東文忌寸」は倭漢忌寸の総称またはそのうちの一族(次項参照)。
08河内漢連  「河内漢」は王仁を祖とする河内の渡来族の総称である。 姓氏録〖左京/諸蕃/漢〗文宿祢/出漢高皇帝之後鸞王也〗文忌寸/文宿祢同祖/宇尓古首之後也〗〖武生宿祢/文宿祢同祖/王仁孫阿浪古首之後也〗がある。
 〈続紀〉延暦十年〔791〕に「文忌寸等元有二家。東文称直。西文号」とある(資料[25]《文宿祢》)。 また文武二年〔698〕に「務広弐文忌寸博士」、以下「文忌寸」がいくつか見える。 前項の「東文忌寸」という表記を見れば、「文忌寸」は暗黙裡に「西文忌寸」であろうと思われる。 実際、前述《文宿祢》項では「文忌寸」は「漢高帝…鸞…狗―○―王仁」を祖とすると自認しているから「西文」である。
 なお「(西)文」という語には河内漢に属する一氏族、または河内漢の別名、という二重の意味があると理解すべきであろう。東文も同様で、大和国の阿知使主の末裔の総称またはそのうち一氏族の意味があると見られる。
09秦連  〈天武〉十二年九月に、秦造は連姓を賜った(秦造)。
 〈壬申紀〉14では、秦造熊が坂上直熊毛の配下に入っていた。 その背景として、「記が書かれた時点で三者〔東漢、西文、秦造〕の間に同族に近い仲間意識があった」と見た。 この十四年条の忌寸賜姓リストに、倭漢連河内漢連秦連が並んでいるのも、それを裏付けるものであろう。
 〈姓氏録〉〖左京/諸蕃/漢/太秦公宿祢/出自秦始皇帝三世孫孝武王也〗は、秦忌寸の宗家がさらに宿祢姓を賜ったものと見られる。 一方忌寸姓に留まるのが〖左京/秦忌寸太秦公宿祢同祖/融通王五世孫丹照王之後也〗〖左京/秦忌寸/太秦公宿祢同祖/融通王四世孫大蔵秦公志勝之後也〗である。 これらは、同族が分かれるにあたって祖を少しずらす操作をしたことが窺われる。 さらに傍流と見られる〖秦長蔵連〗〖秦造〗もある。
 〈続紀〉には天平三年〔730〕正月「秦忌寸朝元」はじめ、「秦忌寸」は数多い。秦造は延暦三年〔784〕十一月以後に3例あり、すべて「秦造子嶋」である。 しかし、「秦宿祢」はまだ見えない。〈大辞典〉によると、「秦宿祢」の初出は大同元年〔806〕の「秦宿祢都伎麻呂」で、〈続紀〉がカバーする年代の後になってからである。
10大隅直  〈続紀〉に「大隅忌寸」は一例、宝亀六年〔775〕四月「外従五位下大隅忌寸三行為隼人正」。 他に「大住忌寸三行」が、神護景雲三年〔769〕など二か所。
 〈天武〉十三~十四年の賜姓は、みな畿内の氏族が対象だったから、大隅も畿内の氏族のはずだと思われた。 しかし畿内の氏族を対象とする〈姓氏録〉に大隅〔あるいは大住〕はない。一方〈大辞典〉は「大隅忌寸:大隅国造の族にして大隅直の忌寸姓を賜へるもの也」、 すなわち大隅国の氏族で、「大隅国造:国造本紀に「〔略〕」…隼人の酋長を以て国造となしたるならんか。文意詳らかならず」と述べる。 その〈国造本紀〉の原文は「大隅国造:纏向日代朝御世。治-平隼人同祖初小。仁德帝代者。伏部為日佐。賜国造〔纏向日代朝〔景行〕の御世、隼人の祖初小〔人名〕を治(をさ)め平(たひら)げたまへり。仁徳帝の代(みよ)には部を伏せて日佐(をさ)〔通訳〕として国造を賜ふ〕。 このうち〈景行〉朝の件は〈景行〉親征あるいは倭建命伝説である。そして〈仁徳〉朝のときには現地のひとつの部を手懐けてまず通訳として征討軍を導かせ、後に国造に任じたと読める。 〈大辞典〉はさらに「大住直:又大隅直とも…〔忌寸姓を賜ったのは〕宗族の家にて、自余の氏人は其の後も直姓を称せり」と述べる。 このように〈大辞典〉は大隅忌寸が、大隅国の氏族であると明確に断じている。
 だとすれば、「大隅忌寸」は忌寸以上に賜姓された中で唯一辺境の氏族である。そこに、いかなる意味があるのだろうか。
 そもそも〈天武〉紀における隼人の描き方を見ると、宮庭で相撲を取らせたり、明日香寺西で饗したりしていて、まだまだ異国扱いである。 それを見ると、周辺地域のうち、南九州を国家の正規の統治下に組み込むことを当面の重要課題としている気配が濃厚である。
 そのために、大隅直には連姓を経ずに一気に忌寸姓を賜り中央氏族に列したと考えられる。
11書連  十年十一月に、  書直は連姓を賜った (書直智徳)。
 「」は「」の別表記だから、「書宿祢」は上記「河内漢宿祢」と重複する。
 この謎を解く上で注目されるのは、書直が連姓を賜ったときに智徳の名前を特別に挙げていたことである。 つまり智徳文連に所属していたが、そこから智徳を中心とする勢力が袂を分かって独立た可能性がある。 あるいは、智徳らには顕著な功績があり、それによって特に「書忌寸」という別名としての氏姓を賜ったことも考えられる。
 十一氏のうち、五氏はもともと国造家で、直姓〔大倭直、葛城直、凡川内直、山背直、大隅直〕であった。 それぞれに伝わる出自を根拠として、改めて各国の神事を担う律令国造家として公認したと考えられる。 但し、大隅直に限っては神事家ではなく現実的な政治勢力として楔を打ち込んだとものと考えられる。
 残りの六氏はもともと半島からの渡来民で、直・吉士・首・公姓〔難波吉士、紀酒人直、倭漢直、河内漢首、秦公〕であった。 古くから外交の任にあたった者も多い。
 渡来系、辺境在住、古代の国造の氏族に対しては一線を画して宿祢には上らせず、忌寸に留めたわけである。
《大意》
 四月四日、 紀伊の国司が、 「牟婁湯泉が没して湯が出ません〔または湯を出せません〕。」と言上しました。
 十二日、 広瀬龍田の神を祭祀されました。
 十七日、 新羅の人金主山(こんしゅせん)が、帰国しました。
 十五日、 初めて僧尼を請い宮中で安居(あんご)させられました。
 南門で弓射させました。
 天皇(すめらみこと)は、飛鳥寺に行幸し、 珍宝を仏に奉り礼敬されました。
 十九日、 直大肆(じきだいし)粟田の朝臣(あそん)真人(まひと)は、 爵位を父に譲ろうとしましたが、勅により許可されませんでした。
 この日、 直大参(じきだいさん)当麻真人(たぎまのまひと)広麻呂(ひろまろ)が卒しました。 壬申年の功により、直大壱(じきだいいち)位を贈られました。
 二十六日、 高向(たかむこ)の朝臣麻呂、 都努(つの)の朝臣牛飼らが、 新羅から到着しました。 このとき、学問僧観常(かんじょう)、 雲観(うんかん)が 従って来ました。
 新羅王からの献上品は、 馬二頭、 犬三頭、 鸚鵡(おうむ)二羽、 鵲(かささぎ)二羽、 及び種々の宝物でした。
 六月二十日、 大倭(やまと)の連(むらじ)、 葛城(かつらき)の連、 凡川内(おおしかふち)の連、 山背(やましろ)の連 難波の連、 紀の酒人(さかひと)の連、 倭漢(やまとのあや)の連、 河内漢(かふちのあや)の連、 秦(はた)の連、 大隅(おおすみ)の直(あたい)、 書(ふみ)の連の あわせて十一氏に忌寸(いみき)の姓(かばね)を賜りました。


69目次 【十四年七月~八月】
《定明位已下進位已上之朝服色》
秋七月乙巳朔乙丑。
祭廣瀬龍田神。
祭広瀬…〈北〉/瀬龍田神
秋七月(ふみづき)乙巳(きのとみ)を朔(つきたち)として乙丑(きのとうし)。〔二十一日〕
広瀬龍田の神を祭(いは)ひたまふ。
庚午。
勅定明位已下進位已上之朝服色、
淨位已上並着朱花
【朱花此云波泥孺】
正位深紫
直位淺紫
勤位深緑
務位淺緑
追位深蒲萄
進位淺蒲萄。
朝服…〈閣〉朝-服ミカト コロモノ已上キル ヨ。 〈兼右本〉ミカト-服コロモ-色シナ
着朱花…〈北〉朱花ハネス 深-蒲-萄エヒソメ。 〈閣〉朱-花ハネスヲ深紫フカムラサキ深蒲エヒラメ 
庚午(かのえうま)。〔二十六日〕
勅(みことのり)ありて明位(みやうゐ)より已下(しもつかた)進位(しんゐ)より已上(かみつかた)之(の)朝服(みかどのころも)の色(いろ)を定(さだ)めたまふ。
浄位(じやうゐ)より已上(かみつかた)は並びに朱花(はねず)
【朱花、此をば波泥孺(はねず)と云ふ】を着(き)よ。
正位(しやうゐ)は深紫(ふかむらさき)、
直位(ぢきゐ)は浅紫(あさむらさき)、
勤位(ごんゐ)は深緑(ふかみどり)、
務位(むゐ)は浅緑(あさみどり)、
追位(ついゐ)は深蒲萄(ふかえびぞめ)、
進位(しんゐ)は浅蒲萄(あさえびぞめ)をきよ。
辛未。
詔曰
「東山道美濃以東
々海道伊勢以東
諸國有位人等、
並免課伇。」
東海道…〈閣〉東-山 ヤマノ 道美濃以 ノ○海 ム位人 ヿヲ
〈兼右本〉以東々海ウメツチ セ課-伇ツキ エタチ
辛未(かのとひつじ)。〔二十七日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「東山道(やまのみち)は美濃(みの)より以東(ひむがしかた)、
東海道(うみつみち)は伊勢(いせ)より以東(ひむがしかた)の
諸国(もろもろのくに)の有位人(くらゐをもてるひと)等(たち)には、
並びに役(えたち)を課(おほすること)を免(や)めよ。」とのりたまふ。
八月甲戌朔乙酉。
天皇幸于淨土寺。
浄土寺…〈北〉シヤウ
八月(はつき)甲戌(きのえいぬ)を朔(つきたち)として乙酉(きのととり)。〔十二日〕
天皇(すめらみこと)[于]浄土寺(じやうどじ)に幸(いでま)す。
丙戌。
幸于川原寺、施稻於衆僧。
川原寺…〈北〉川原カハラテラ/施オクリタマフクハリタマフ稲於衆-僧
丙戌(ひのえいぬ)。〔十三日〕
[于]川原寺(かはらてら)に幸(いでま)して、稲(しね)[於]を衆(おほ)き僧(ほふし)に施(おく)りたまふ。
癸巳。
遣耽羅使人等還之。
癸巳(みづのとみ)。〔二十日〕
耽羅(とむら)に遣(や)りてある使人(つかひ)等(ら)還之(まゐかへる)。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《明位已下進位已上之朝服色》
着朱花深紫浅紫深緑浅緑深蒲萄浅蒲萄(出典)
はねずこきむらさき あさむらさきふかみどりあさみどりえびぞめ
#F4A57A#493759#C4A3BF#004025#9BCF97#7A4171伝統色のいろは
こきいろうすいろふかみどりあさみどりえびぞめ
#6e4c55#c7b0cd#00582d#8bc782#845e6eカラーセラピーライフ
はねずこきむらさきうすむらさきふかみどりうすみどり
#DF9D9F#493759#C4A3BF#00552E#69B076F-Factory/色見本
 ハネズは、〈時代別上代〉によれば「はねず:[名] 初夏に赤い花の咲く植物の名であるが、未詳」。
 万葉に2786山振之 尓保敝流妹之 翼酢色乃 赤裳之為形 夢所見管 やまぶきの にほへるいもが はねずいろの あかものすがた いめにみえつつ」と詠まれる。 (万)3074唐棣花色之 移安 情有者 はねずいろの うつろひやすき こころあれば」では枕詞である。
 については、(万)3791羅丹津蚊経 色丹名著来 之 大綾之衣 さにつかふ いろになつける むらさきの おほあやのころも」。 音仮名表記としては、(万)3500牟良佐伎 むらさき」がある。
 浅緑は、(万)1847淺緑 染懸有跡 見左右二 春楊者 目生来鴨 あさみどり そめかけたりと みるまでに はるのやなぎは もえにけるかも」。
 葡萄は、第40回に「蒲子〔えびかづら〕」。 『令義解』衣服令には「凡服色…𮑱𬞌エヒソメ【…𮑱𬞌者紫色之最浅者也】」、 すなわちエビゾメは紫色のうち最も浅いものをいうと説明される。〈時代別上代〉は「青みがかったうす紫」というが、いくつかのサイトが示すエビゾメとは色調が異なる。
 上代語において、アヲについてはblueとは限らず漠然とした色調であるが、ハネズムラサキエビゾメは染料を得る植物名などに結びついているから具体的な色名と見てよい。 ミドリは、語源はミドリゴのように生まれたての意であるが、専ら若葉に使われるようになったことからgreenと見てよい。
 右図は現代の色名であるが、それぞれ伝統に基づいて染料をとる植物種を用い、その技法を再現してなされた染色の結果を数値化したものと考えられる。 よって、基本的には古代の色彩が一定程度再現されていると考えてよい。ただエビゾメについては上述したように「紫色之最浅」とは言い難いので問題が残る。
 さて〈天武〉朝においては冠による位階の表現こそ廃止されたが、代わって朝服の色で爵位を表すようになった。視覚的には確かに冠よりも直感的で、宮廷内での秩序を明確化する。 制服の色調の意義は現代でも変わらず、特に病院や航空機などの命を預かる仕事において、各スタッフの果たすべき役割を明確化するために必須となっている。
《免課役》
 『令義解』賦役令では「凡正丁歳役十日。若須収庸者布二丈六尺〔正丁〔二十一歳から六十歳の男子〕は、年に十日の役、もし須(すべか)らく庸〔代わりとなる物品〕を収めるべきは布二丈六尺〕と規定されている。 令前には細かい点での相違はあろうが、概ねこのようなものであろう。
 「東山道…並免課役」の詔により、東山道は美濃国以東、東海道は伊勢国以東の諸国の有位者には課役を免除した。
 この部分に関して、「畿内と古代国家」〔吉川聡;『史林』79(史学研究会)1996〕は、 「地方の有位者は、当然の特典である課役の免除さえまだうけていなかった」ことは「外国〔畿内以外〕の人は特例であった」ことを示すという意見に対して、 「畿内で有位者の課役が免除されていたかどうか確認できないので、この記事からは何も言えまい」と述べる(p.720)。 検索しても、この詔を論じた記事は他にはなかなか見つからないので、読み取り方についての定説はないようである。
 直感的には、遠方に住む有位者を京まで出仕させるのは負担が重いから免除するという意味かと思える。 なお、ここで「京まで出仕させる」と述べた根拠は、『令義解』賦役令「歳役十日【謂役之」にある。
 それでは、南海道・西海道はどうなのだろう。こちらは、既に免除されていたのかも知れない 〔ただし、西海道は大宰府への出仕が考えられる〕。 そして今までは東国在住で爵位を得る者は一人もいなかったが最近はぼつぼつ出てきたから、それに対応するためにこの規定ができたのだとすればひとまず理解することができる。
《浄土寺》
 『上宮聖法王帝説』裏書には「浄土寺…山田寺是也」とあり、 その中の記述「己酉年三月廿五日。大臣遭害」も〈孝徳〉紀の大化五年〔649〕三月二十五日と日付が一致するので、浄土寺は山田寺の別名と見てよい (〈孝徳〉大化五年三月二十五日【山田寺】)。
《川原寺》
 〈斉明〉川原宮の跡地で、創建は〈天智〉朝と考えられている (〈孝徳〉白雉四年六月【川原寺】)。
《遣耽羅使人》
 十三年十月に「県犬養連手繦大使川原連加尼小使、遣耽羅」とあるから、この者たちであろう。 派遣の目的としては、耽羅が主体的に日本との関係を復活するように働きかけたことが考えられる。
 しかしこの時期には耽羅が日本に遣使した記録がなくなっているので、新羅の属国という立場から抜け出そうとする意志はなかったようである。
《大意》
 七月二十一日、 広瀬龍田神を祭祀されました。
 二十六日、 勅により明位(みょうい)以下、進位(しんい)以上の朝服の色を定められました。
――「浄位(じょうい)以上はみな朱花(はねず) を着用せよ。 正位(しょうい)は深紫(ふかむらさき)、 直位(じきい)は浅紫(あさむらさき)、 勤位(ごんい)は深緑(ふかみどり)、 務位(むい)は浅緑(あさみどり)、 追位(ついい)は深蒲萄(ふかえびぞめ)、 進位(しんい)は浅蒲萄(あさえびぞめ)を着用せよ。」
 二十七日、 詔されました。
――「東山道は美濃以東、 東海道は伊勢以東の 諸国の位ある人らには、 みな課役を免ぜよ。」
 八月十二日、 天皇(すめらみこと)は浄土寺に行幸しました。
 十三日、 川原寺(かわらでら)に行幸し、稲を衆僧に施されました。
 二十日、 遣耽羅使たちが帰ってきました。


70目次 【十四年九月】
《巡察國司郡司及百姓之消息》
九月甲辰朔壬子。
天皇宴于舊宮安殿之庭。
天皇宴…〈北〉宴于フルトヨノアカリキコシメスミヤノ安殿アントノオ■ハ
〈閣〉安殿之オホムニ。 〈兼右本〉オホニハ
九月甲辰朔壬子。〔九日〕
天皇(すめらみこと)[于]旧宮(ふるみや)の安殿(あんどの)之(の)庭(おほには)に宴(とよのあかり、うたげ)したまふ。
是日。
皇太子以下至于忍壁皇子、
賜布各有差。
以下至…〈閣〉マテニ
是(この)日。
皇太子(ひつぎのみこ)より以下(しもつかた)[于]忍壁皇子(おさかべのみこ)までに至りて、
布(ぬの)を賜(たまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
甲寅。〔十一日〕
遣宮處王
廣瀬王
難波王
竹田王
彌努王於京及畿內、
各令校人夫之兵。
宮処王…〈北〉宮處ミヤ トコノヲホキミ
各令校…〈北〉/令カムカヘ人-夫 ヲホムタカラ之兵
於京…〈閣〉ミサト
甲寅(きのえとら)。〔十一日〕
宮処王(みやところのおほきみ)
広瀬王(ひろせのおほきみ)
難波王(なにはのおほきみ)
竹田王(たけたのおほきみ)
弥努王(みののおほきみ)を[於]京(みさと)及びに畿内(うちつくに)に遣(や)りて
各(おのもおのも)人夫(たみ)之(の)兵(つはもの)を校(かむが)へ令(し)めたまふ。
戊午。
直廣肆都努朝臣牛飼
爲東海使者。
直廣肆石川朝臣蟲名
爲東山使者。
直廣肆佐味朝臣少麻呂
爲山陽使者。
直廣肆巨勢朝臣粟持
爲山陰使者。
直廣參路眞人迹見
爲南海使者。
直廣肆佐伯宿禰廣足
爲筑紫使者。
各判官一人史一人、
巡察國司郡司及百姓之消息。
東海使…〈北〉東海使ウヘツミチノツカヒ虫名ムシナ東山ヤマノミチ使-者スクナ麻呂マロ陽使者カケトモノミチ粟-持アハチ山陰使ソトモノミチミチノ真-人迹見トノ南海■ムノミチ使者廣足ヒロタリ史一サウクワン巡-察ミセシム メスフ消-息アルカタチ
〈閣〉山陽カケトモノミチカトモフミチトノヲ ミナムノミチノ巡- セシムマヲシメタマフ
〈釈紀〉東海使者ウヘツミチノツカヒ山陽カケトモノミチ 迹見トミ
〈兼右本〉巡-察ミヲシメタマフメクリミセシム

直広四四十八階第十六位。
直広三…四十八階第十四位。
山陽/山陰〈成務〉五年「山陽曰影面。山陰曰背面」。
かげとも…[名] 「カゲ〔影;光の意〕-ツ-オモ〔面〕〔光の当たる面〕の母音融合。
判官…[名] 四等官制の第三位。〈倭名類聚抄〉「判官…【皆万豆利古止比止】」。
…[名] 四等官制の第四位。〈倭名類聚抄〉「佑官:神祇曰史【与大政官同】…【皆佐官】」。

戊午。〔十五日〕
直広肆(ぢきくわうし)都努朝臣(つののあそみ)牛飼(うしかひ)を
東海(うみつみち)の使者(つかひ)と為(し)たまふ。
直広肆石川朝臣(いしかはのあそみ)虫名(むしな)を
東山(やまのみち)の使者(つかひ)と為たまふ。
直広肆佐味朝臣(さみのあそみ)少麻呂(すくなまろ)を
山陽(かげとも)の使者(つかひ)と為たまふ。
直広肆巨勢朝臣(こせのあそみ)粟持(あはもち)を
山陰(そとも)の使者(つかひ)と為たまふ。
直広参(ぢきくわうさむ)路真人(みちのまひと)迹見(とみ)を
南海(みなみのみち)の使者(つかひ)と為たまふ。
直広肆佐伯宿祢(さへきのすくね)広足(ひろたり)を
筑紫(つくし)の使者(つかひ)と為たまふ。
各(おのもおのも)判官(まつりことひと)一人(ひとり)史(ふみひと、さくわん)一人、
国司(くにのつかさ)郡司(こほりのつかさ)及びに百姓(たみ、おほみたから)之(の)消息(あるかたち)を巡(めぐ)り察(み)しむ。
是日。
詔曰
「凡諸歌男歌女笛吹者、
卽傳己子孫令習歌笛。」
歌男歌女…〈閣〉ウタヲ。 〈兼右本〉[ノ]-ウタヲヲノコ[切]歌-女
是(この)日。
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)諸(もろもろの)歌男(うたを)歌女(うため)笛吹(ふえふき)者(は)、
即(すなは)ち己(おのが)子孫(はつこ)に伝へて歌(うた)笛(ふえ)を習は令(し)めよ。」
辛酉。
天皇御大安殿、
喚王卿等於殿前以令博戲。
御大安殿…〈兼右本〉オハシマシ
令博戯…〈北〉博戲ハクキセ。 〈閣〉博戲―音讀。 〈釈紀〉博戲ハクキセ私記云音讀
辛酉(かのととり)。〔十八日〕
天皇(すめらみこと)大安殿(だいあんとの)に御(おほましま)して、
王(おほきみ)卿(まへつきみ)等(ら)を[於]殿(おほとの)の前(まへ)に喚(め)して、以ちて博戯(ばくぎ)せ令(し)めたまふ。
是日。
宮處王
難波王
竹田王
三國眞人友足
縣犬養宿禰大侶
大伴宿禰御行
境部宿禰石積
多朝臣品治
采女朝臣竹羅
藤原朝臣大嶋、
凡十人賜御衣袴。
県犬養…〈北〉友足トモタリ イ无甘イ宿祢大伴宿祢○侶御行ミ ユキ石積イシツミ朝臣竹羅ツク ラ
御衣袴…〈北〉御-オホムハカマ
是(この)日。
宮処王(みやところのおほきみ)
難波王(なにはのおほきみ)
竹田王(たけたのおほきみ)
三国真人(みくにのまひと)友足(ともたり)
県犬養宿祢(あがたいぬかひのすくね)大侶(おほとも)
大伴宿祢(おほとものすくね)御行(みゆき)
境部宿祢(さかひのすくね)石積(いしつみ)
多朝臣(おをのあそみ)品治(ほむぢ)
采女朝臣(うねめのあそみ)竹羅(ちくら)
藤原朝臣(ふぢはらのあそみ)大嶋(おほしま)の、
凡(すべて)十人(とたり)に御衣袴(みそみはかま)を賜(たま)ふ。
壬戌。〔十九日〕
皇太子以下及諸王卿、
幷卌八人賜羆皮山羊皮各有差。
賜羆皮…〈北〉シクマ山羊/カモシゝカマシゝノカハ各有
かましし…[名] カモシカ。〈皇極〉紀二年十月歌麻之々能烏膩かまししのをぢ」。二年十一月毛似山羊かましし」。
壬戌(みづのえいぬ)。〔十九日〕
皇太子(ひつぎのみこ)より以下(しもつかた)諸(もろもろ)の王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちに及びて、
并(あは)せて四十八人(よそたりあまりやたり)に羆(しくま)の皮(かは)山羊(かましし)の皮(かは)を賜ふこと各(おのもおのも)差(しな)有り。
癸亥。
遣高麗國使人等還之。
癸亥(みづのとゐ)。〔二十日〕
高麗国(こまのくに)に遣(や)りてある使人(つかひ)等(ら)還之(まゐかへる)。
丁卯。
爲天皇躰不豫之、
三日誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺、
因以稻納三寺各有差。
体不予…〈北〉躰不豫ミヤマヒシタマフヨマシム 。 〈閣〉ヨム ス
〈兼右本〉ヨム-シヨキヤウス イ点
丁卯(ひのとう)。〔二十四日〕
天皇(すめらみこと)の体(みみ)不予(やまひしたまふ)之(が)為(ため)に
三日(みか)[於]大官大寺(だいくわんだいじ)川原寺(かはらてら)飛鳥寺(あすかてら)に経(きやう)を誦(よ)みまつる、
因(も)ちて稲(しへ)を以ちて三寺(みつのてら)に納(おく)りたまふこと各(おのもおのも)差(しな)有り。
庚午。
化來高麗人等賜祿各有差。
庚午。〔二十七日〕
化来(まゐきた)れる高麗(こま)の人等(ら)に禄(もの)賜(たまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
《旧宮安殿之庭》
 「旧宮」は、エビノコ郭ができる前からあった後飛鳥宮のことか。しかし、先行条坊とともに既に宮殿の建築が一部始まっていて、浄御原宮全体を旧殿と称した可能性は捨てきれない。
 安殿、すなわちアンドノは政堂の一般的な呼び名である(〈天武〉十年正月)。
《皇太子以下至于忍壁皇子》
草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・川嶋皇子・忍壁皇子  十四年正月《草壁皇子尊》参照。
《宮処王…》
宮処王 血縁不明。この十四年九月条の二つの記事以外には見えず。
広瀬王  十年三月令記定帝紀及上古諸事」の一人。 十三年二月於畿内令視占応都之地」。 〈持統〉六年三月「浄広肆広瀬王…等、為留守官」。
 養老六年〔722〕卒」。
難波王  〈持統〉三年五月「浄広肆難波王等、鎮-祭藤原宮地」。
竹田王  上記令記定帝紀及上古諸事」。
 〈持統〉三年二月「以浄広肆竹田王…為判事」。
 〈続紀〉和銅元年〔708〕三月「従四位上竹田王刑部卿〔=刑部省長官〕」。霊亀元年〔715〕三月「丙申。散位従四位上竹田王卒」。
弥努王  三野王の別表記と見られる。 上記令記定帝紀及上古諸事」。
 十一年三月「于新城見其地形」。 十三年二月「三野王…等於信濃令地形、将都是地」。
 難波王を厩戸皇子の孫、難波麻呂古王と同一とする説がある。 『上宮聖徳法王定説』には「聖徳法王ー山代大兄王―難波麻呂古王」(第57回)とあるが、 同一と考え得る資料は見つからない。山代大兄王の一族が滅ぼされた経過を見ると、その子が取り立てられて浄広四位まで上ったことはかなり考えにくい。
《巡察国司郡司及百姓之消息》
都努朝臣牛飼東海道  牛飼の登場はこの年の五月と九月のみ。
石川朝臣虫名東山道 〈持統〉三年九月「筑紫送位記、且監新城」。他には見えず。
佐味朝臣少麻呂山陽道  宿那麻呂は、〈持統〉三年に「善言」。
巨勢朝臣粟持山陰道  粟持は、〈持統〉十一年二月「直大肆巨勢朝臣粟持為〔春宮〕〔亮は次官〔すけ〕〕
路真人迹見南海道  迹見は、〈持統〉元年十月「直廣参路真人迹見、為新羅勅使」〔=新羅使を饗するために派遣〕。
 同十一年二月「直広参路真人跡見春宮大夫」。大宝二年〔702〕十月「乙未朔。従四位下路真人登美」。
佐伯宿祢広足筑紫嶋  広足は、四年四月「風神于龍田立野」。以後、十年に遣高麗国使など。
 西海道が「筑紫」と表記される。 筑紫は九州全体を指す意味にも使われていたが、まだ大隅薩摩が中央政権に属していなかったことも事実である。
 派遣先として、七道のうち北陸道を欠くことは問題をはらんでいる。 そこでまず、そもそも〈天武〉朝に北陸道が存在しなかったと考えてみる〔例えば東山道の一部だったとする〕。これについては、〈崇神〉紀十年に大彦命の「北陸道」に派遣したと書かれたこと、〈斉明〉朝には大彦を祖とする阿倍氏が越国を支配していたことから見て、即座に否定される。 次に東山道巡察使が併せて北陸道も巡察したとする。しかし、両道は近江国で分岐するからこれも考えにくい。 あるいは、越が阿倍氏族が支配する半ば独立国となっていて、朝廷による巡察を拒んだとする。しかしこれも、阿部氏が朝臣を賜姓されるほど朝廷とがっちり結びついていたからあり得ないだろう。
 結局、北陸道にも他の六道と同様に巡察使を派遣したが、その記載が漏れたと見るのが妥当であろう。
《歌男/歌女/笛吹》
 『令義解』職員令に「雅楽寮:…歌人卅人。歌女一百人」が見える。 すなわち、「己子孫歌笛」は、新たな品部が創設された如くに読めるが、ほどなく雅楽寮に所属することになる。 その歌人歌女の上にある「歌師四人」は、明らかに歌唱の指導者である。笛吹に関しては「笛師」、「笛生」、「笛工」が見え、さらに「以下の唐楽等のセクションのそれぞれに「笛人」が所属する」と注されている。 そのセクションには他に「高麗」・「百済」・「新羅」・「伎楽」が列記され、かなり組織として充実していた様が窺われる。
 なお、歌男が「歌人」の別称であることは明らかである。
《博戯》
 〈持統〉三年九月に「-断双六」とあるので、博戯は双六であった可能性が高い。博戯が大好きな〈天武〉と、それをよく思わない皇后鸕野讚良皇女という夫婦像が浮かび上がる。
《凡十人賜御衣袴》
 全文から繋がるとすれば、この十人は博戯に参加していて、賜った「御衣袴」は、その景品となる。
宮処王 上述
難波王 上述
竹田王 上述
三国真人友足  〈続紀〉に友足は見えないが、同族の人足に進階の記事がある。
 すなわち、慶雲二年〔705〕十二月「正六位上三国真人人足…並従五位下」、 霊亀元年〔715〕四月「…従五位上」、養老四年〔720〕正月「…正五位下」。
県犬養宿祢大侶  〈壬申紀〉六月二十四日是日条で、 吉野からの出発を急ぐ大海人皇子に「鞍馬」を提供した件が特記される。
 のちに〈壬申〉の論功により封百戸。 大宝元年〔701〕正月癸卯に「」 (県犬養連大伴)。
大伴宿祢御行  〈続紀〉大宝元年〔701〕七月の記事には、〈壬申〉の功により百戸を「論功行封」。
 大宝元年〔701〕正月己丑「」 (九年大伴連御行)。
境部宿祢石積  〈天智〉四年十二月に百済に派遣、六年十一月に帰国。九年に辞書『新字』を作る (九年境部連石積)。
 十年正月に「六十戸。給絁三十匹綿百五十斤布百五十端钁一百口」。
多朝臣品治  〈壬申〉では「安八磨郡湯沐令」。大海人皇子側で参戦。
 〈持統〉紀では姓なので〈天武〉紀十四年の朝臣姓は遡及で、品治自身は、十三年賜姓の時点では賜姓から漏れていた可能性がある (《多臣品治》)。
 十三年の時点では賜姓は宗家に限定され、傍系の品治への賜姓は〈持統〉十年より後にずれ込んだかも知れない。
采女朝臣竹羅  十年七月に新羅使に筑紫で饗(采女臣竹羅)。
 十三年正月、都の候補地の調査のために小錦下采女臣筑羅を信濃に派遣。
藤原朝臣大嶋  十年三月に「大山上中臣連大嶋」らに「令記定帝紀及上古諸事」。
 〈持統〉七年二月までに「葛原朝臣大嶋」の名で薨じた(中臣連大嶋)
《藤原朝臣大嶋》
 〈天武〉紀〈持統〉紀では藤原朝臣大嶋が6例、藤原朝臣史〔不比等〕が1例出てくる。
 しかし、その藤原朝臣が「姓賜朝臣」五十二氏に明記されていないという問題がある。 さらに〈続紀〉を見ると、その中に「中臣朝臣」は200個、「藤原朝臣」は1058個ある。このことから、藤原は中臣の分流だから自動的に朝臣姓を引き継いだと直感される。 その直感は、次のようにして裏付けられた。
 すなわち〈続紀〉における「藤原朝臣」の初出は、文武元年〔697〕八月癸未「以藤原朝臣宮子娘為夫人」である。 それは、文武二年〔698〕の八月丙午「詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復旧姓焉」に先行している。 その詔の「意美麻呂等は、神事に供することに縁って、旧姓に復するべし」()の部分の意味は、 文武三年〔699〕十二月庚子「始置鋳銭司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂長官」によって明確になった。 すなわち、は、「意美麻呂ら神事に携わるグループは「中臣」のままでいよ」という意味であった。
 よって、文武二年詔の正確な意読は「中臣連鎌足は一代限りの称「藤原」を賜った。今あらためてその「藤原」を中臣不比等らが継承せよ。但し神事に供する意美麻呂たちは中臣のままとせよ。」となる。 藤原氏のかばねに関しては、中臣連は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜ったから、藤原となった後も「朝臣」姓を継承するのは当然である。
 以上の経過により、大嶋が生存した時代におけるリアルな呼び方は、〈天武〉十三年詔「…五十二氏賜姓曰朝臣」の前日まで「中臣連大嶋」、詔の日以後は「中臣朝臣大嶋」となった。 そして、後の文武二年八月詔に至り初めて「藤原朝臣大嶋」になったのである。 よって、その日以前に用いられた表記「藤原連大嶋」は、書紀による遡及となる。
 しかしその遡及は不徹底にならざるを得なかった。というのは、〈持統〉五年「神祗伯中臣朝臣大嶋」はその職務「神祗伯」により「中臣」姓のままとせざるを得なかったからである。
 こうして見ると文武三年の「藤原朝臣宮子」もやはり遡及である。事実上の最高権力者まで昇りつめた女性だから、その栄光が過去に投影されたということであろう。
《羆皮》
 〈斉明〉四年是年条では、「」は北海道で生息するヒグマであって、熊ではないと見た。ここでも、粛慎との交易によって畿内にもたらされたと見るべきであろう。
 なお、この幅広い授与は、前日の天皇の行動を皇后が強く批判した結果ではないだろうか。 皇后(鸕野讚良皇女)は「博戯に勝った者だけに物を賜るとは、一体何をしているのですか。賜るなら全員にしなさい」と言って諫めたとするのが、サイト主の想像である。
《遣高麗国使人》
 「高麗国使」は、十三年五月二十八日に派遣した 「三輪引田君難波麻呂〔大使〕桑原連人足〔小使〕」と見られる。 〈新羅本紀〉の日付の通りなら、その滞在中だった〈天武〉十三年十一月に「報徳王」政権が廃止されたことになる。
 使者が帰国した同じ月に「化来高麗人等…」とあるので、政権が崩壊したために日本に亡命する高麗人を伴った可能性がある。
《大官大寺川原寺飛鳥寺》
 九年三月の詔で、官寺をニ三に絞ることとした。 その詔では飛鳥寺を外そうとの議論があったが、官寺に残すことに決めたと述べている (九年《飛鳥寺》)。
 その「ニ三」に該当するのが、この大官大寺川原寺飛鳥寺であろう。
《化来高麗人等》
 《「報徳国」への日本の対応》 で、安勝王政権が独立志向を見せ日本に援助を求めていたと見た。 日本がその要請を受け入れたとは考えられないが、それでも高麗は日本に信頼感をもっていて新羅国内にい辛くなった高麗人のうち相当数が日本に移ってきたことが考えられる。
 「賜禄」とは、実際には着の身着のままでやってきた人に対して行った衣食住の支援であろう。
《大意》
 九月九日、 天皇(すめらみこと)は、旧宮の安殿の庭で宴を賜りました。
 この日、 皇太子以下忍壁皇子まで、 それぞれに応じて布を賜りました。
 十一日、 宮処王(みやところのおおきみ)、 広瀬王(ひろせのおおきみ)、 難波王(なにわのおおきみ)、 竹田王(たけだのおおきみ)、 弥努王(みののおほきみ)を京及び畿内に派遣して、 それぞれの人民の武器を点検させました。
 十五日、 直広肆(じきこうし)都努朝臣(つののあそん)牛飼(うしかい)を 東海道への使者、 直広肆石川の朝臣虫名(むしな)を 東山道への使者、 直広肆佐味(さみ)の朝臣少麻呂(すくなまろ)を 山陽道への使者、 直広肆巨勢(こせ)の朝臣粟持(あわもち)を 山陰道への使者、 直広参路(みち)の真人迹見(とみ)を 南海道への使者、 直広肆佐伯の宿祢広足(ひろたり)を 筑紫への使者とされ、 それぞれ判官一人、史(さかん)一人をともなわせて、 国司、郡司及び民の様子を巡察させました。
 この日、 詔を発しました。
――「凡そ諸々の歌男、歌女、笛吹は、 即ち自分の子孫に伝えて歌笛を習わせよ。」
 十八日、 天皇(すめらみこと)は大安殿にいらっしゃり、 王卿らを宮殿の前に喚(め)し、博戯(ばくぎ)をさせました。
 この日、 宮処王、 難波王、 竹田王、 三国の真人友足(ともたり)、 県(あがた)犬養の宿祢大侶(おおとも)、 大伴の宿祢御行(みゆき)、 境部(さかい)の宿祢石積(いしつみ)、 多(おお)の朝臣品治(ほんじ)、 采女の朝臣竹羅(ちくら)、 藤原の朝臣大嶋の 計十人に、御衣と御袴を賜わりました。
 十九日、 皇太子以下、諸王卿に至るまで、 併せて四十八人に羆(ひぐま)の皮、山羊(かましし)〔=カモシカ〕の皮をそれぞれに応じて賜わりました。
 二十日、 高麗国に派遣した使者らが帰還しました。
 天皇(すめらみこと)のお体が病気になられたため、 三日間大官大寺、川原寺、飛鳥寺で読経しました、 よって、稲を三寺のそれぞれに応じて納められました。
 二十七日、 帰化した高麗人たちにそれぞれに応じて賜禄されました。


まとめ
 宿祢姓を賜った氏のうちいくつかは、同時に律令国造として認められた。 古事記の「~者…国造之祖」は、いわばその根拠として古代から国造家であったことを示したと見られる。
 ただ、同じように律令国造として公認された出雲国造は出雲臣、紀伊国造は紀直のままなので、 国造家への忌寸賜姓は畿内に留まる。このような差が生まれたのは、やはり畿内は倭国における華夏であったからであろう。 このように考えると、大隅直への忌寸賜姓はかなり異例で、明確な政治的意図があったと考えざるを得ない。
 さて、新羅が「報徳国」を取り潰した理由は、やはり傀儡であることをよしとしない一部の者が反乱を起こしたからであろう。 それに伴い、高麗人に与えられた位階も剥奪、若しくは有名無実化され、おそらくは相当の弾圧がなされたと考えられる。 このように極めて居辛くなった新羅から逃れて、日本に移る高麗人は多かったであろう。十四年二月の「賜爵位」においては、それぞれの旧位階に見合う爵位が与えられたと思われる。
 こうして、十四年九月庚午の「化来高麗人」という表現に至った。 〈天武〉十一年~十四年の高麗関連の記述からは、大体このような流れを読み取ることができる。



2025.09.16(tue) [29-21] 天武天皇下21 

71目次 【十四年十月】
《於信濃令造行宮》
冬十月癸酉朔丙子。
百濟僧常輝封卅戸、
是僧壽百歳。
常輝…〈北野本〔以下北〕常輝シヤウクヰ
〈内閣文庫本〔以下閣〕。 〈兼右本〉ヨサセ玉フ卅-戸
冬十月(かむなづき)癸酉(みづのととり)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)。〔四日〕
百済(くたら)の僧(ほふし)常輝(じやうくゐ)に封卅戸(みそへのふこをたまふ、へひとみそへをたまふ)、
是(この)僧(ほふし)は寿(よはひ)百歳(ももとせ)なり。
庚辰。
遣百濟僧法藏
優婆塞益田直金鍾於美濃、
令煎白朮、
因以賜絁綿布。
法蔵…〈北〉法蔵ホウサウソク益田マスタノアタヒ金鍾コムシユ白朮/ヲケラヒヤクシユ
〈閣〉○○○○コンシユ/ヲケラ
〈釈紀〉シムネラ白朮/ヲケラヲ ビヤクジユツヲ。 〈兼右本〉益-田イタ金-鍾コン シユ

優婆塞…(梵)Upāsakaの音写。在家の男性仏徒。
…[動] (古訓) いる。にる。煎薬はせんじぐすり。
うけら…[名] キク科の草本。(万)3379「牟射志野乃 宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎 むざしのの うけらがはなの ときなきものを」。

庚辰。〔八日〕
百済僧(くたらのほふし)法蔵(ほふざう)
優婆塞(うばそく)益田直(ますだのあたひ)金鍾(こむしゆ)を[於]美濃(みの)に遣(や)りて、
白朮(うけら)を煎(に)令(し)めたまふ、
因(よ)りて以ちて絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を賜(たま)ふ。
壬午。
遣輕部朝臣足瀬
高田首新家
荒田尾連麻呂
於信濃、令造行宮、
蓋擬幸束間温湯歟。
軽部朝臣…〈北〉 ノ朝臣アソン■■ 高田タカタノヲフト新家ニヒノミ荒田アラタヲノムラシ麻呂マロ擬幸束-間ツカマノ温-湯[切]タミニヒノミ
〈釈紀〉輕部カルヘノ朝臣アソム足瀬タルセ。 〈兼右本〉新-家ニイノミカリ-宮
にひのみ《新家皇女》参照。
壬午(みづのえうま)。〔十日〕
軽部朝臣(かるべのあそみ)足瀬(たるせ)
高田首(たかたのをびと)新家(にひのみ)
荒田尾連(あらたをのむらじ)麻呂(まろ)を
[於]信濃(しなの)に遣(や)りて、行宮(かりみや)を造ら令(し)めたまふ、
蓋(けだし)束間温湯(つかまのゆ)に幸(いでま)さむとしたまふことに擬(なぞ)ふか[歟]。
甲申。
以淨大肆泊瀬王
直廣肆巨勢朝臣馬飼
判官以下幷廿人
任於畿内之伇
泊瀬王肆泊瀬王/直廣肆巨勢朝臣馬飼ムマカヒヨサス

判官…[名] 四等官中第三位。まつりごとひと。
浄大四諸王十二階中十一位。
直広四諸臣四十八階中十六位。

甲申(きのえさる)。〔十二日〕
浄大肆(じやうだいし)泊瀬王(はつせのおほきみ)
直広肆(ぢきくわうし)巨勢朝臣(こせのあそみ)馬飼(うまかひ)
判官(まつりごとひと)より以下(しもつかた)の并(あはせて)廿人(はたたり)を以ちて
[於]畿内(うちつくに)之(が)役(えたち)に任(よさ)したまふ。
己丑。
伊勢王等亦向于東國、
因以賜衣袴。
伊勢王等…〈北〉𡖋𡖋向于アツマノ。 〈兼右本〉マカル
己丑(つちのとうし)。〔十七日〕
伊勢王(いせのおほきみ)等(ら)亦(また)[于]東国(あづま)に向(ゆ)きて、
因りて以ちて衣袴(ころもはかま)を賜(たま)ふ。
是月。
説金剛般若經於宮中。
金剛般若経…〈北〉日イコンカウハムニヤキヤウ
是(この)月。
金剛般若経(こむがうはんにやきやう)を[於]宮中(おほみやのうち)に説(と)かしめたまふ。
《百済僧常輝》
常輝 ここだけ。
 この年、百歳の長寿を祝って三十戸を封じられた。白村江で敗北した年〔天智三年〕には既に78歳だったことになる。
《百済僧法蔵/益田直金鍾》
法蔵 〈持統〉六年に銀二十両を賜った。
益田直金鍾  〈姓氏家系大辞典〉は「益田 マスダ マシダ:」、「益田直:大和国益田より起りしか。…倭漢坂上氏の族か」と述べる。 「大和国益田」は、益田池の地であろう。 同辞典が「坂上氏の族」とするのは、姓であることによる推定と思われる。
 金鍾はここだけ。
 美濃国が薬草白朮の産地であった故に派遣したと考えられる。金鍾は渡来人の名前と思われ、薬草の知識があったと思われる。
《白朮》
オケラオオバナオケラ
 『神農本草経』〔後漢~三国時代〕には、 「:味苦温。主治湿痹、死肌、痙疸、止汗除熱、消食、化煎餌。久服、軽身延年不饑。一名山薊。生鄭山山谷」とある。
 [くすりプロムナード]〔長崎国際大学教授 正山征洋〕によると、「日本薬局方の白朮は基原植物がキク科のオオバナオケラまたはオケラ」、 「中国湖南、湖北、江西、浙江、安徽各省に分布」する「多年生草本」で「日本の野草でもっとも美味しいものとされる」という。
 「」は異本に「」が見えるが、薬草の服用法には既に「」が見えるから※)、「」が正しいであろう。
※)…『神農本草経』:「薬性有宜丸者、宜散者、宜水煮者、宜酒浸者、宜膏煎者〔薬性を有するは、丸薬よし、散薬よし、水煮よし、酒浸よし、膏煎よし〕
《軽部朝臣足瀬》
軽部朝臣足瀬 軽部臣は十三年に朝臣姓を賜った。足瀬はここだけ。
高田首新家  〈姓氏録〉〖諸蕃/高麗/高田首/出自高麗国人多高子使主也〗。 〈姓氏家系大辞典〉には「〔〈倭名類聚抄〉{山城国・葛野郡・高田郷}〕とある地名を負ひしなるべし」。
 〈孝徳〉白雉四年七月高田根麻呂」、〈持統〉三年九月「追広弐高田首石成」が見える。 新家はここだけ。
荒田尾連麻呂  〈壬申紀〉16に「荒田尾直赤麻呂」項参照。麻呂はここだけ。
《束間温湯》
束間温湯推定地
長野県〔概ね信濃国
 束間(ツカマ)については、〈倭名類聚抄〉に{信濃国・筑摩郡【豆加万。国府】}が見える。 『宇治拾遺』巻六に「今は昔信濃国に筑摩の湯といふ所に万づの人の浴みける薬湯あり…」とある。
 『大日本地名辞書』には「白糸シライト温泉:里山辺村の湯の原に在り、塩類泉、熱百零五度。 松本の東三十町、浴場三所三槽に分ち客舎は十数戸あり、古より筑摩の湯と称して世著れ、四時男女群至の浴地也」。
 現在は「美ヶ原温泉郷〔長野県松本市里山辺湯の原〕と名付けられ、現在の宿泊施設数は19軒とされる。
《泊瀬王/巨勢朝臣馬飼》
泊瀬王 十二年四月に大伴連望多が薨じたときの弔使。
巨勢朝臣馬飼 巨勢臣は十三年に朝臣姓を賜った。馬飼はここだけ。
 諸王や朝臣の有力者が自ら労役に就くことは考えにくいから、「」とはおそらく軍備の強化であろう。
 畿内においても新羅を意識した備えがなされたかもしれないが、 天皇の重病によることも考えられる。これまで、代替わりの時に次期天皇の座を巡っての氏族の蜂起はつきものであった。
《伊勢王等亦向于東国》
伊勢王  十二年十二月に「-分諸国之境堺」。十三年十月にも「諸国堺」。 いずれも筆頭に書かれる。
 この年の東国への派遣も、「-分諸国之境堺」の続きであろう。
 なお、「因以賜衣袴」は、翌年正月二日に賜ったことの重出であろう。
《金剛般若経》
 金剛般若経はサンスクリット名「Vajracchedikā-prajñāpāramitā」。その原典はチベット語訳、漢訳6種とともに現存し、 そのうち,鳩摩羅什訳『金剛般若波羅蜜経』1巻(5世紀初め)が広く用いられているという〔『改定新版 世界大百科事典』平凡社2007〕
 『仏教を読む3』〔松原泰道・平川彰;集英社1983〕によると、 紀元前200~150年頃、「自ら大乗仏教徒と称した一群の人たちが小乗仏教の経典に対抗して…結集の運動を起こし」、その初期の経典のうち「般若系統の経典は最も早く作られた」といわれているという。 そしてその「般若経典」は小乗経典に見られる語句を引用したうえで、それらを「一つ一つ否定しながら一切皆空いっさいかいくうを説いていくのが原則」とされたという。
 その核心は、小乗仏教が「諸法は無我であるといいながら、その教えだけは「くうほうなり」と絶対化していること「否定排除」し、 「我も法も二つとも空なり」としたことだという(pp.157~158)。
《大意》
 十月四日、 百済僧常輝(じょうき)に三十戸を封じました、 この僧は、年齢百歳でした。
 八日、 百済僧法蔵(ほうぞう)と 優婆塞(うばそく)益田直(ますだのあたい)金鍾(こんしゅ)を美濃に派遣し、 白朮(おけら)を煎じさせました。 よって、絁(ふときぬ)、綿、布を賜りました。
 十日、 軽部(かるべ)の朝臣足瀬(たるせ)、 高田の首(おびと)新家(にいのみ)、 荒田尾連(あらたおのむらじ)麻呂を 信濃に遣わし、行宮を造らせました。 おそらく、束間温湯(つかまのゆ)に行幸しようとなされたのでしょう。
 十二日、 浄大四(じょうだいし)泊瀬王(はつせのおおきみ)、 直広四(ちょくこうし)巨勢の朝臣馬飼と、 判官以下(しもつかた)併せて二十人を、 畿内の用役に任じました。
 十七日、 伊勢王(いせのおおきみ)らは、またも東国に向い、 よって衣と袴を賜わりました。
 この月に、 金剛般若経を宮中で説かせました。


72目次 【十四年十一月~十二月】
《詔曰大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類咸收于郡家》
十一月癸卯朔甲辰。
儲用鐵一萬斤、
送於周芳總令所。
儲用鉄…〈北〉儲-用マウケノ銭一/鐵カネ-萬ヨロツハカリツカハス於周芳スフルヲサノモト
〈閣〉儲-用マウケノ カネ捴令スフルオサノモトスフル  ノ■■ニ。 〈兼右本〉儲-用マウケ クロカネ
周芳…〈倭名類聚抄〉{山陽国:…周防【須波宇】}。
十一月(しもつき)癸卯(みづのとう)を朔(つきたち)として甲辰(きのえたつ)。〔二日〕
儲用(まうけ)の鉄(くろがね)一万斤(ももはかり)を、
[於]周芳(すはう)の総(すぶ)る令(をさ)の所(ところ)に送りたまふ。
是日。
筑紫大宰請儲用物、
絁一百疋
絲一百斤
布三百端
庸布四百常
鐵一萬斤
箭竹二千連、
送下於筑紫。
儲用物…〈北〉庸-布チカラヌノ四百■■ヤノシノ二千フタチムラ。 〈閣〉庸布チカラ ヌノ四百キタ
ふときぬ…[名] 太い糸を編んだ粗い絹。
是(この)日。
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)の請(ねが)ひてある儲用(まうけ)の物、
絁(ふときぬ)一百疋(ももむら)
糸(いと)一百斤(ももはかり)
布(ぬの)三百端(みほむら)
庸布(ちからしろのぬの)四百常(よほきだ)
鉄(くろがね)一万斤(ももはかり)
箭竹(やのしの)二千連(ふたちむら)をば、
[於]筑紫(つくし)に送下(おく)りたまふ。
丙午。
詔四方國曰
「大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類、
不應存私家、咸收于郡家。」
大角小角…〈北〉大-角 ハラ  小-角 クタ  オホユミ抛之 イシハシキオクヲサメヨ于郡ミヤケ
〈閣〉大-波良 ハラハ合■字[切]小角クタ 久太  ノミヤケニ
〈兼右本〉存イ乍オク[ノ]-ヤケ[ニ]
丙午(ひのえうま)。〔四日〕
四方(よも)の国に詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「大角(はらのふえ)小角(くだのふえ)鼓(つづみ)吹(ふへ)幡旗(はた)及びに弩(おほゆみ)抛(いしはじき)之(の)類(たぐひ)は、
私(わたくし)の家(やけ)に存(も)つ不応(べきにあらず)、咸(みな)[于]郡(こほり)の家(みやけ)に収(をさ)めまつれ。」とのりたまふ。
戊申。
幸白錦後菀。
白錦後苑…〈北〉シラニシキミソノ。 〈閣〉 ノ-菀ミソノニ
〈釈紀〉シラニシキノ後菀。ミソノ私記説
後苑…〈汉典〉「屋後的花園〔建物の後方に設けた花園〕
戊申(つちのえさる)。〔六日〕
白錦(しらにしき)の後苑(みその)に幸(いでま)す。
丙寅。
法藏法師
金鍾、
獻白朮煎。
白朮煎…〈北〉白朮ヲケラ-煎。 〈閣〉ヲケラ ノ ヲ。 〈釈紀〉白朮煎ヲケラ。 三字引合
丙寅(ひのえとら)。〔二十四日〕
法蔵(ほふざう)法師(ほふし)
金鍾(こむしゆ)、
白朮煎(うけら)を献(たてまつ)る。
是日。
爲天皇招魂之。
招魂…〈北〉招-魂之ミタマフリシキ。 〈閣〉・〈兼右本〉招-魂ミタマフリシキ。 〈釈紀〉招魂。ミタマフリス
是(この)日。
天皇(すめらみこと)が為(ため)に招魂之(みたまふり)しまつる。
己巳。
新羅、
遣波珍飡金智祥
大阿飡金健勲、
請政仍進調。
金智祥…〈北〉サンコンシヤウタイ-阿-サンコンケンクン ウケマ
〈閣〉方尓交本 [切]○○大阿飡金健

〈釈紀〉方尓サムコムシヤウダイサムコムケンクム

己巳(つちのとみ)。〔二十七日〕
新羅(しらき)、
波珍飡(はちんさん)金智祥(こむちしやう)
大阿飡(だいあさん)金健勲(こむけんくん)を遣(まだ)して、
政(まつりごと)を請(ねが)ひて仍(よ)りて調(みつき)進(たてまつ)る。
十二月壬申朔乙亥。〔四日〕
遣筑紫防人等、
飄蕩海中皆失衣裳。
則爲防人衣服
以布四百五十八端、
給下於筑紫。
筑紫防人…〈北〉-蕩タゝヨヒ海中衣-キモノセキ-人衣服キモノ-下オクリ於筑紫。 〈閣〉防-人セキモリ キモノ。 〈釈紀〉防人サヰモリ
十二月(しはす)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)として乙亥(きのとゐ)。〔四日〕
筑紫(つくし)に遣(まだ)してある防人(さきもり)等(ら)、
海中(わたなか)に飄蕩(ただよ)ひて皆衣裳(ころも)を失(う)せり。
則(すなはち)防人(さきもり)の衣服(ころも)の為(ため)として
布(ぬの)四百五十八(よほあまりいそあまりはち)端(むら)を以ちて、
[於]筑紫(つくし)に給下(たま)ふ。
辛巳。
自西發之地震。
自西発…〈閣〉西 テ。 〈兼右本〉西 カタ[切][テ]
辛巳(かのとみ)。〔十日〕
西(にしのかた)自(よ)り発之(おこ)りて地震(なゐふる)。
丁亥。〔十六日〕
絁綿布以施大官大寺僧等。
以施…〈閣〉絁綿布 ヲモテ。 〈兼右本〉絁綿布[ヲ]-以[テ]
丁亥(ひのとゐ)。〔十六日〕
絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を以(も)ちて大官大寺(だいくわんだいじ)の僧(ほふし)等(ら)に施(おく)りたまふ。
庚寅。
皇后命以、
王卿等五十五人賜朝服各一具。
命以…〈閣〉皇后 ヲ-以。 〈兼右本〉皇-后[ノ]今イ乍ミコト[ヲ]-以[テ]
朝服…〈北〉朝-服ミカトコロモ。 〈兼右本〉一-ヨソヒ
庚寅(かのえとら)。〔十九日〕
皇后(おほきさき)の命(おほせごと)を以ちて、
王(おほきみ)卿(まへつきみ)等(たち)五十五人(いそたりあまりいつたり)に朝服(みかどころも)を賜(たま)ふこと各(おのもおのも)一具(ひとよそひ)。
佐婆津の推定位置
《周芳総令所》
 大宰府の手前に、中継的な指令所を設けたことは興味深い。組織として、この形が合理的だったのであろう。
 〈景行〉十二年に筑紫島親征に向かったが、途中「周芳娑麼」に立ち寄って態勢を整えた。
 〈雄略〉二十三年に「娑婆水門」がある。何れも〈倭名類聚抄〉{周防国・佐波【波、音馬】郡・佐波郷}にあたると考えられる。
 『豊後風土記』豊国史料第1集;工藤覚次1926〕速水郡「昔者纏向日代宮御宇天皇〔景行〕。欲玖摩囎唹-幸於筑紫。従周防国佐婆津」とあり、 「佐婆津」が見える。
 『大日本地名辞書』は「〔佐波郡〕佐波郷:今佐波村、三田尻町是なり」と述べる〔現在は防府市内〕。 
 佐波郡佐婆津は古くから難波津と筑紫を結ぶ海路の中継点であり、よってその近くに「周芳総令所」が設けられたと思われる。
《筑紫大宰請儲用物》
 「絁一百/糸一百/布三百/庸布四百/鉄一萬/箭竹二千」の単位を見る。
〔ムラ〕:絁〔あしきぬ、あらきぬ〕に用いる。一疋は長さ五丈一尺、幅二尺二寸。※1)
〔ハカリ〕:質量の単位で、一斤=十六両。隋代の一両は42.5gとされる。※2)
〔ムラ〕:布に用いる。一端は五丈二尺、幅二尺四寸。※1)
〔キダ〕:庸布に用いる。庸布は、成人男子に課せられた歳役の代用に収める布。養老六年〔722〕には「長一丈三尺。濶〔=幅〕一尺八寸」。 天平八年〔736〕には「長一丈四尺。闊一尺九寸」。※3)
〔ムラ〕:塊になったものを数える助数詞。
 ※1)…〈仁徳〉十七年《匹》
 ※2)…第141回【御裳之石】
 ※3)…次の表のように、時代と共に変動がある。
 『続日本紀』
・慶雲三年〔706〕二月「正丁歳役収庸布二丈六尺」、すなわち正丁の歳役は、庸布二丈六尺に替えることができる。
・和銅五年〔712〕以銭五文准布一常」。これによって布が通貨として使われたことが分かる。
・和銅七年〔714〕二月「制「以商布二丈六尺為段。不得用常」。…上総国言。去京遥遠。貢調極重。請代細布〔すこぶる〕負担。其長六丈。闊二尺二寸。毎丁輸二丈。以三人端。許」。
 「不得用常」とは、「一常」のサイズは一丈三尺であるが、商用には二人分まとめて「二丈六尺」の布〔これを一段とする〕を使えという意味であろう。 というのは、続く「上総国言」で、調布を一人分ずつ細断して納めるのは不合理であるから、「長六丈。闊二尺二寸」のサイズのまま三人分として納めたいと要請して認められたとあり、これと同様の考え方と見られる。
 なお、この時点で庸布「一常」は慶雲三年の「一常:二丈六尺」から半減されたことになる。
・養老六年〔722〕閏四月「毎卒一人。輸布長一丈三尺。濶〔=幅〕一尺八寸」。これも庸布のことであろう。
・養老七年〔723〕布一常」、天平元年〔729〕布十常」に単位「」が見える。
・天平八年〔736〕五月「諸国調布、長二丈八尺闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺闊一尺九寸為端貢」。
 これも、庸布は二人分まとめて「一端(長二丈八尺)」にして納めよという意味と見られる。
 同じ布である「」と「庸布」が区別されていることが注目される。庸布は歳役に替えるための布である。税を取り扱う現場では調として納められた布と、庸布として納められた布は区別して集計されるであろう。 よって、両者を直感的に判別するために外見が明確に区別することが必要になったと思われる〔縛り紐の色や巻き方などが考えられる〕。 その外見による区別が、下賜品の段階まで及んでいたのであろう。
 そこから考えると、は面積の単位と説明されるが、実用上はむしろ通貨としての布の単位の性格が強かったと思われる。
《大角小角鼓吹幡旗及弩抛》
 〈倭名類聚抄〉「:…大角【波良乃布江】小角【久太能布江】」。「征戦具第百七十五」項にあることから、専ら戦闘で使われたことが分かる。
角笛をもつ手
昼神車塚古墳(6世紀半ば)
今城塚古代歴史館所蔵
 大角小角は『令義解』に頻繁に出てくるので、角笛は実際に軍事用品として存在していたことに疑いはない。 しかし、奈良時代以後の出土物の記録に角笛はなかなか見つからない。 ほら貝が、角笛に取って代わったとも考えられる。ほら貝は、平安時代に密教とともに伝わったと言われる〔ホラは「波良乃布江」に由来する語であろう〕
 しかし、古墳時代には角笛を吹き鳴らして狩猟する文化が、確かに存在した。それを実証するのが「角笛をもつ手」埴輪である。
 「猪甘と角笛―考古資料による比較検討を中心として―」〔基峰修;『人間社会環境研究』33/2017〕は、昼神車塚古墳のテラス面に配置した埴輪群について、 「角笛をもつ人物埴輪の手前には、犬形埴輪2点によって、獲物である猪形埴輪1点が、挟み撃ちとなるような状態で配置されていたことが明らかになって」いると述べる。 また、その角笛埴輪は、「角笛とそれを握る手のみが残存するもので、湾曲した中空の角笛を、籠手らしきものを付けた左手で、親指を外側に向けて下方から握っている」と説明する。
 なお、基峰論文はこの角笛は「「猪甘の角笛」である可能性が指摘できる」と述べる。ただ、この点に関しては「猪甘」は家畜化した猪を飼う職業部と考えられるから、むしろ狩猟犬を飼う「犬飼部」をあてるべきであろう。
 該当する埴輪は、今城塚古代歴史館〔大阪府郡家本町48-8〕で展示されている(右写真)。吹き口が唇に当たっていたことは間違いないだろう。 出土した昼神車塚古墳は「6世紀中ごろにつくられた全長56mの前方後円墳」で、同古墳を「最後に、三島の王墓から前方後円墳は姿を消」したという(同博物館の説明文)。
 角笛埴輪は他に小幡北山埴輪製作遺跡E地区第2工房趾(茨城県茨城町)があるが「古墳に樹立された埴輪としては,昼神車塚古墳のみ」という(基峰論文)。
 現在のところ、角笛の実在を物質的に裏付けるのは、この埴輪ぐらいである。 しかし、『隋書』倭国伝の大業三年条倭王遣小徳阿輩台従數百人儀仗来迎」を見逃すことはできない。 その大業四年〔608〕の使者の来朝は、〈推古〉十六年の記事と一致している。
 すなわち、6世紀半ばの「角笛をもつ手」埴輪⇒608年の隋書の記事「」⇒685年の〈天武〉紀「大角小角」⇒701年の大宝令「大角小角〔ただし、『令義解』による〕が、 角笛に関する資料の系譜である。
《不応存私家咸収于郡家》
 『令義解』軍防令には「凡私家:不得有鼓鉦弩牟稍具裝大角少角及軍幡」、 そして「凡親王一品:…大角五十口小角一百口幡四百竿…」以下爵位ごとに備えるべき数量が定められている。 私家による所有を禁じるのは、〈天武〉十四年詔の「不応存私家」を引き継ぐものと言える。
 大角や幡は、軍本営の所在を誇示する。私家がこれらを押し立てればすなわち私闘となるから、これを未然に防止する措置であろう。
《白錦後菀》
飛鳥京跡苑池の位置調査区
『飛鳥京跡苑池 第15次調査 現地説明会資料』
 [明日香村公式]/[指定文化財【51】飛鳥京跡苑池]によると、 「大正5年に二つの石造物がみつかった場所を中心に」調査したところ、「7世紀後半以降における苑池の様相が明らかにされ」、 これによって「『日本書紀』天武14年11月条にみえる「白錦後苑」との関わりを検討できるようになった」という。
 『飛鳥京跡苑池 第15次調査 現地説明会資料』〔奈良県立橿原考古学研究所2021〕 によると、「飛鳥京跡苑池」は、1999年の「発掘調査で、はじめてその存在が明らかに」なったもので、 「南北2つの池(南池・北池)と渡堤、水路、掘立柱塀などで構成され」、その範囲は「南北約280m、東西約100m」という。 また第15次調査の結果、「北池満水時の…水深は2m以上と判断」できるという。 これ以前に第1次調査では南池流水施設の石、第8次調査では南池の中島が見いだされている。
 この「飛鳥京跡苑池」が「白錦後菀」であると断定できるか否かについては何ともいえないが、後飛鳥宮の北西に隣接しているので「後苑」と言うことはできる。
 「後苑」の類語「後庭」には、建物後方の庭のほかに後宮の庭の意味がある。「後苑」も同様であろう。
 天皇の病状には波がありこの時期は小康状態で、庭園を散策したと想像される。皇后が病身の天皇を連れて後宮の苑を散策した情景を思い浮かべてもよいのかも知れない。
《招魂》
 「招魂」は死者の霊魂を呼び寄せることをいうが、ここでは天皇は生存しているから理屈に合わない。
 〈汉典〉には「迷信的人指-招回死者的霊魂、比-喩給死亡的事物復活二上声勢」。 すなわち、死者の霊魂を指し招くことだが、比喩として死んだようになった物事に勢いを取り戻させる意味もある。
 他の辞書には「生きている人のからだからぬけ出した魂をよびかえす(それによって失神したからだの生気をとりもどすことができる)」という説明も見る〔学研新漢和など〕。 ここの「招魂」はこのような比喩であろう。
 書紀古訓を見ると、〈北野本〉には「ミタマフリシキ」とあり、何かと思わせるが、〈釈紀〉は「ミタマフリス」として「~シキ」を「サ変動詞+完了の助動詞」と見たようである。 「ミタマフリ」は「御霊振り」で、おそらく霊魂が振り子のように体を出たり入ったりすることを意味すると思われる。
《金智祥》
波珍飡〔四位〕一覧金智祥  翌朱鳥元年戊子に「進調」。五月戊辰に筑紫で「」。帰国。
大阿飡〔五位〕金健勲 以後智祥に同行と見られる。朱鳥元年四月戊子に再び名前がある。
 今回は特に「」と書かれ、またいつもに比べて高い位階の使者を送ってきているので、重要な外交目的があったと見られる。 「」の内容は不明だが、この段の前後にさまざまな軍事の整備が置かれているので、新羅からの要請は外形的には日本の軍備強化を促す要因となっている。
 この頃の出来事から推定すると、その内容は、報徳国を廃したことの正当性を説明、また高宗が崩じた時点における唐への対応がテーマとして考えられる。
 前者については、日本に逃れてきた高麗人は当然新羅の非道ぶりを吹聴しただろうから、新羅の側の立場からの説明は当然必要である。 後者については、新羅が把握している唐国内の現状、及び今後新羅が唐と一線を画する旨を述べたことが考えられる。
 これを受けて日本が軍備を強化した理由としては、:新羅の脅威を感じた。:唐に対抗する新羅を、軍事的に支援する。が考えられるが判断は難しい。 新羅が日本国内に逃れた高麗人の扱いに釘を刺しに来たと感じたのなら、である。 一方、新羅の唐への対抗姿勢に友好的に応じようとしたならである。
 しかし、実はその両方かも知れない。すなわち新羅向けにを装いつつ、本音はだと考えることができる。
《筑紫防人等飄蕩海中》
 防人の初出は、改新詔其二曰である。 『令義解』国防令に、防人についての詳細な規定がある(《防人》)。
 〈天智〉三年是年条には「對馬嶋壹岐嶋筑紫国等、置防与烽」、 すなわち〔=防人〕筑紫国・壱岐嶋・対馬嶋に配置して、防衛した。
 「筑紫防人等」からは筑紫への途上での遭難のように読めるが、実際には筑紫から壱岐・対馬に向かう玄界灘で遭難したのであろう。
 なお、「布四百五十八端」の「」は上述したように、布の量の単位である。
《絁綿布以施大官大寺僧等》
 〈内閣文庫本〉は「絁綿布以」を「絁綿布を以て」と訓んでいる。 これはもろに和習で、正規漢文なら「以絁綿布」と書く。次の「皇后命以」も同様で、正しくは「皇后以命」もしくは「以皇后之命」である。
 その訓点の書き込み方を見ると、書紀古訓の段階において既に正規漢文でないことが認識されていたようである。
 おそらく、出典に用いた原資料の段階でそうなっていて、それをそのまま書紀に書き込んだのであろう。 だとすれば、これらの部分は一次資料に近い姿だから真実性を増すことになる。
《皇后命以…賜朝服》
 「皇后の命を以て」が事実だったとしても、通常は天皇の行為としての形式で書かれる。 ここは内実をそのまま描いた珍しい箇所と言える。前項の「和習」を併せて考えれば、原資料が生の姿を見せたものと言えそうである。
 よって、天皇は既に公務から離れていたと思われる。 ここまで氏上を定め、八色の姓による多くの氏族のランク付けを遂に成し遂げた。こうしてひとまず国家を支える氏族群を支配機構に組み込んだところで、緊張が解けて発病したのかも知れない。
《大意》
 十一月二日、 備えの鉄一万斤を、 周芳(すおう)の総令所(そうれいじょ)に送りました。
 この日、 筑紫の大宰の要請による備えの品、 絁(ふときぬ)百匹、 糸百斤、 布三百端、 庸布(ようふ)四百常(きだ)、 鉄一万斤、 箭竹(やたけ)二千連を、 筑紫に送りました。
 四日、 四方(よも)の国に詔を発しました。
――「大角笛、小角笛、鼓、笛、幡旗及びに弩(ど)、抛の類は、 私家に存ずるべきではなく、皆郡家に収めよ。」
 六日、 白錦の後苑に行かれました。
 二十四日、 法蔵(ほふぞう)法師と 金鍾(こんしゅ)は、 白朮(うけら)の煎じ薬を献上しました。
 この日、 天皇(すめらみこと)の為に招魂しました。
 二十七日、 新羅は、 波珍飡(はちんさん)金智祥(こんちしょう)と 大阿飡(だいあさん)金健勲(こんけんくん)を遣わして、 政(まつりごと)を請うて進調しました。
 十二月四日、 筑紫に派遣した防人(さきもり)たちは、 海中に漂い皆衣裳を失ないました。 そこで、防人の衣服の為として、 布四百五十八端を、 筑紫に給付しました。
 十日、 西から起る地震がありました。
 十六日、 絁(ふときぬ)、綿、布を大官大寺の僧らに施しました。
 十九日、 皇后の命をもって 王卿ら五十五人に朝服をそれぞれ一揃えを賜りました。


73目次 【朱鳥元年正月二日~十四日】
《難波大藏省失火宮室悉焚》
朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。
御大極殿而賜宴於諸王卿。
朱鳥元年…〈北〉朱鳥元年アカミトリノハシメノトシ
朱鳥(あかみとり)の元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬寅(みづのえとら)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)。〔二日〕
大極殿(おほあんどの)に御(おほましま)して[而]宴(とよのあかり、うたげ)を[於]諸王卿(おほきみたちおほまへつきみたち)に賜ふ。
是日。
詔曰
「朕問王卿以無端事、
仍對言得實必有賜。」
是日…〈北〉諸王卿○詔是日イ無端事アトナシコト
〈閣〉 ス無-端- アドナシコトニ[句] ハ ヲ[切]必有賜[句]
〈兼右本〉マウス シム

あとなしごと…[名] 〈時代別上代〉「不詳」。〈釈紀〉「兼方案之。今世何々ナト\/〔今の世はいかなるものか〕

是(この)日。
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「朕(われ)王(おほきみ)卿(まへつきに)に問ひて無端事(あとなしごと)を以(もちゐ)る、
仍(よ)りて対(こた)へ言(まを)して実(まこと)を得(う)れば必ず賜(ものたまふこと)有らむ。」とのたまふ。
於是、
高市皇子被問以實對、
賜蓁揩御衣三具
錦袴二具、
幷絁廿疋
絲五十斤
綿百斤
布一百端。
蓁揩御衣…〈北〉蓁揩ハリスリノ御衣三ヨソヒ

…[形] 草葉の茂盛。泛く植物茂盛のさまを指す。[名] 「榛」に通ず。
はり(榛)…[名] ハンノキ。果実、樹皮を染料とする。地名榛原(はいばら)〔奈良県〕はハリハラの変。 〈時代別上代〉「ハリスリコロモは、榛の実を蒸し焼きにして作った黒灰摺りの衣のことと考えられる」。

於是(ここに)、
高市皇子(たけちのみこ)被問(とはえ)て以ちて実(まこと)を対(こた)へまつりたまひて、
蓁揩(はりすり)の御衣(みけし)三具(みよそひ)、
錦(にしき)の袴(はかま)二具(ふたよそひ)、
并(あは)せて絁(ふときぬ)二十匹(はたむら)、
糸五十斤(いそはかり)、
綿百斤(ももはかり)、
布一百端(ももむら)を賜ふ。
伊勢王亦得實、
卽賜皁御衣三具
紫袴二具
絁七疋
絲廿斤
綿卌斤
布卌端。
皁御衣…〈北〉皁御クリソメ綿

くり…[名] 水中の黒土。またその黒色。〈時代別上代〉「クリソメの語があるのは、染料として用いられたものか」。

伊勢王(いせのおほきみ)亦(また)実(まこと)を得まつりて、
即(すなはち)皁(くりそめ)の御衣(みけし)三具(みよそひ)、
紫(むらさき)の袴(はかま)二具(ふたよそひ)、
絁(ふときぬ)七疋(ななむら)、
糸二十斤(はたはかり)
綿四十斤(よそはかり)
布四十端(よそむら)を賜ふ。
是日。
攝津國人百濟新興、
獻白馬瑙。
百済新興…〈北〉百済クタラクノ新-興 ニヒ キシロキ馬瑙 メナウ。 〈閣〉ニヒキ
〈釈紀〉百濟クタラクノ新興。ニヒキ私記説
めなう…[名] 〈倭名類聚抄〉「瑪瑙〔月偏〕:【俗音女奈宇】」。
是(この)日。
摂津国(つのくに)の人百済(くたらく)の新興(しんこう、にひき)、
白き馬瑙(めなう)を献(たてまつ)る。
庚戌。
請三綱律師及
大官大寺知事佐官幷九僧、
以俗供養
々之。 仍施絁綿布各有差。
三綱律師…〈北〉三綱サンカウノ律師リツシ知事チシ佐官サ クワンコゝノタリノホウシ モテ俗供養々之タゝヒトノクラヒモノヲクレキ
〈閣〉・・事佐 テタゝヒトノ供-養クラヒモノヲ[切]々之クレキ
〈釈紀〉三綱サムカウモテ俗供養タゝヒトノクラヒモノ々之クレキ
〈兼右本〉タゝヒト[ノ]供-養クラヒモノ[ヲ][テ]々之クレキ[句][テ]
庚戌(かのえいぬ)。〔九日〕
三綱(さむがう)の律師(りつし)及びに
大官大寺(だいくわんだいじ)の知事(ちじ)佐官(さくわん)并(あは)せて九(ここのたり)の僧(ほふし)に請(ねが)ひて、
俗(しろぎぬ)の供養(くやう)を以ちて
[之(こ)を]養(やしな)はしむ。
仍(よ)りて絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を施(おくること)各(おのもおのも)差(しな)有り。
辛亥。〔十日〕
諸王卿各賜袍袴一具。
袍袴一具…〈北〉キヌハカマ一具
〈閣〉 キヌ
辛亥(かのとゐ)。〔十日〕
諸(もろもろ)の王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちに各(おのおの)袍(きぬ)袴(はかま)一具(ひとよそひ)を賜(たま)ふ。
甲寅。〔十三日〕
召諸才人
博士
陰陽師
醫師者、
幷廿餘人、賜食及祿。
甲寅…〈北〉一具○■■ ノ 才人カトアルヒトアトアル 博士ハカセ陰陽ヲンミヤウシ ■■シ師者或本■字
〈閣〉カトアルアト   テ ヲ
〈釈紀〉才人カトアルヒト。 〈兼右本〉イヒ及禄
甲寅(きのえとら)。〔十三日〕
諸(もろもろ)の才人(かどあるひと)を召(め)して、
博士(はかせ)、
陰陽師(おむやうし)
医師(くすし)の者(もの)、
并(あはせて)二十人(はたたり)余りに、食(くらひもの)及びに禄(もの)を賜ふ。
乙卯。〔十四日〕
酉時。
難波大藏省失火、
宮室悉焚。
或曰
「阿斗連藥家失火之引及宮室。
唯、兵庫職不焚焉。」
大蔵省…〈北〉大藏オホクラノツカサ失火 ミツナカレ宮室 オホミヤ ハ阿斗アトノムラシクスリ家失火之引及ホコヒリテホヒコリ ツハモノゝ-庫ツカサ
〈閣〉引及ホヒコリテ 。 〈釈紀〉引。ホコヒリテ

酉時…午後5時~7時。
みづながれ…[名] 火事。忌み言葉として「水流れ」を用いたもの。
ほびこる…[自]ラ四 広がる。はびこる。

乙卯(きのとう)。〔十四日〕
酉時(とりのとき)に。
難波(なには)の大蔵省(おほくらのつかさ)に失火(ひつき、みづながれし)て、
宮室(おほみや)悉(ことごと)に焚(も)ゆ。
或(ある)に曰はく
「阿斗連(あとのむらじ)薬(くすり)の家に失火(ひつき、みづながれし)て[之]宮室(おほみや)に引及(ほびこ)る。
唯(ただ)、兵庫(つはものくら)の職(つかさ)は不焚(もえず)[焉]。」といふ。
《御大極殿》
 大極殿に昇殿して宴を主催し、高市皇子・伊勢王に褒美を与えたから、病気からはすっかり回復した如くである。 但し、詔は代読が通例と思われ、褒美の授与も実際には担当者が手渡すだろうから、天皇は大極殿で座っているだけで行事を進行させることは可能である。 ただ、仮に病身だったとしてもその旨の指示は行ったであろう。
《対言得実必有賜》
 「無端事」は意味不明の言葉である。 その後の丁巳条でも群臣にものを賜り、同じく「天皇問群臣以無端事則…」とあるのを見ると、どうやら臣下にものを賜るときの定型句のようである。
 さて、その意味であるがその「以無端事」の後に、一回目だけ「仍対言得実〔=よって、立派な言葉で答え、その言葉に実がある〕なら、「必有賜〔必ず褒美を与えよう〕とある。 これが実は「以無端事」と同じ意味の言葉で、あまり見ない語の初出にあたって、その説明のために付け加えたものと理解することができる。 すなわち、物を賜るにあたって「お前の仕事はどのような状況か」と下問し、それに対して「このような成果を挙げることができました」と答えるのが儀式の定型で、それを「以無端事」というのである。 だとすれば、「無端事」は「枝葉末節にとらわれない本質的な事柄」という意味となる。これを言い換えれば「」だから辻褄は合う。
 倭語のアトナシゴト〔またはアドナシゴト〕もその意味であろうが、語の成り立ちは理解不可能である。訓点の誤写が伝搬したことも十分考えられる。
《高市皇子/伊勢王》
高市皇子 〈天武〉紀では五年正月八年四月九年七月十一年七月十四年正月に見える。
伊勢王 上述
 ここで高市皇子伊勢王のみが褒美を賜ったのは、その功績が格別だったからであろう。 高市皇子の場合、〈天武〉朝では活躍があまり目立たないから、やはり〈壬申〉における絶大な功績の故であろう (高市皇子)。 〈壬申〉13では、 大海人皇子の問いかけに対して、高市皇子はまことに力強い言葉で答え実際に勝利を得た。これは、まさに「朕問王卿以無端事仍対言得実」を体現している。
 もう一人の伊勢王については、業績は「限分諸国之境堺」である。伊勢王への恩賞の大きさは、これが国家の将来に関わる大事業であったことを物語るものと言えよう。 高市皇子には過去のことを、伊勢王には未来に向かうことを褒めたのある。
《百済新興》
百済新興  摂津国の無姓の百済氏について〈姓氏家系大辞典〉は「摂津の百済氏:…百済郡は、百済人によりて建置されたるものと考へらる。南部、東部、西部の三郷に分たるを見るも、 新開地にて百済人の多かりしを知るべし。…天武紀…に「摂津国人百済新興」とある人は此処に居住せし者か」と述べる。
 新興はここだけ。百済人としての名前だと思われる。
 百済郡はかつて摂津国に存在した郡で、後に廃止されて東生郡と住吉郡の一部となった (第240回《百済郡》)。 百済国の滅亡によって倭国に逃れた百済人の一部が居住したと考えられる。 「百済郡」の初出は、〈続紀〉延暦十年〔791〕摂津国百済郡」。
メノウ
《白馬瑙》
 「めのう:玉髄の一種。主成分はSiO2であるが少量の水を含む。乳白、灰、青白、灰緑、赤褐色、紫など、きれいな色と模様を有する。これらは少量存在する金属イオンによる」 (『デジタル化学辞典(第2版)』)〔森北出版2009〕
《三綱律師及大官大寺知事佐官》
 三綱は、各寺における僧の組織の幹部で、上座寺主維那(都維那)で構成される(元興寺伽藍縁起…[4]」)。 しかし、大官大寺の前に各寺の構成員が書かれることは理屈が合わず、またこれを含めて全部で九名では少なすぎる。
 律師僧綱の三役の一つである。 よって、律師は文字通り「律する師」で、「三綱律師」は僧綱に属する「三綱を律する師」と捉えるのがもっとも合理的であろう。
 僧綱は僧尼を統率し、諸寺を管理監督する官職で、幹部は僧正僧都律師から成る。
 次の「知事」は二年十二月に大官大寺の「知事福林僧」が見える。 知事は、おそらく大官大寺固有で、その最高位と思われる。 前出「」によると、佐官は、僧綱の構成員で実務に当たる職だが、「薬師寺主」や「興福寺主師位」などが兼任していたことが見える。
 ここでは大官大寺所属の佐官とも読めるが、「三綱律師・大官大寺知事・佐官」と並べた形においては、僧綱に属する佐官を示すかも知れない。
《以俗供養々之》
 「々之」は「養之」で、これを書紀古訓は「クレキ」と訓む。クル〔下二段〕に、完了のキをつけたと思われる。 それが〈仮名日本紀〉「くれき」、岩波文庫版・日本古典文学全集〔小学館〕れき」まで書紀古訓が継承されているが、その語釈を説明するものを見ない。
 ものを与える・もらう意味のクル〔下二段〕の初出は、古語辞典を見ると『土左物語』〔935年〕の「この長櫃のものはみな人童までにくれたれば」のようである。 書紀古訓は平安時代に使われていた語をあてたと思われる。ただ古訓者がこの部分の意味をどの程度理解していたかは疑問である。 完了のは書紀古訓では滅多に使われないが、ここにきて2例現れる。普段の古訓者とは別の人の手が入ったのかも知れない。
 さて、「養之」は「供養」とは別の語として割り切って、はっきりヤシナフと訓めばよいと思われる。その対象は、貧民と見るのが自然であろう。 すなわち、俗人の供養によって幅広く食糧を集め、貧民を養うために用いる活動であるとひとまず理解したい。 文章には省略が著しいから意味を取りにくいが、もともとはもっと長文の詔であったものを端折った結果、貧民救済が目的だと述べた部分がなくなったとすれば納得できる。
 その事業の主導を幹部クラスの九僧に請い、そのお礼に絁・綿・布をそれぞれに施したと読んでおきたい。
朝服
『ベネッセ古語辞典』〔ベネッセコーポレーション1997〕
《袍袴》
 は朝服の上衣をいう(右図)。
《才人/博士/陰陽師/医師者》
 いずれも知的な分野の人で、その業績が評価されたと思われる。年頭の祝賀行事の一つとしての表彰式であろう。
《難波大蔵省失火》
焼壁で埋まった柱穴跡
[大阪歴史博物館]のブログ(2016.6.8)
 前期難波宮に、朱鳥元年の火災の焼け跡と見らるものが検出されている (資料[17]《難波長柄豊碕宮》項)。
 [大阪歴史博物館]のブログ(2016.6.8)に[前期難波宮「朱雀門」の焼けた柱穴(はぎ取り)]宮城南門(朱雀門)の柱穴には焼壁や炭が多く入り、火災が事実であったことを物語ります」とあり、その剥ぎ取った部分が同博物館に展示されている(右図)。
 その出典と考え得る調査記録を探したところ、 『難波宮址の研究[第3]』〔大阪市立大月難波宮址研究会;1960〕が見つかった。 その核心部分を抜き出す。
孝徳天皇長柄豊碕宮の研究〔山根徳太郎〕: 「第八次発掘調査に際して、〔後期〕難波宮址に属することの明かな掘立柱の遺構と 複合して層位的にも、明確に一時代前のもので、内に焼土や焼壁を包蔵している柱穴が、相当量存在していることに気付き、 …天武紀の朱鳥元年正月十四日夜の難波宮消失の記事に関係せしめて考えうることの道理を思い、…発掘の回数を重ねた所、 遂にこの種焼土を含む柱穴を数十個見出し得ることになった」。
 そしてこの遺跡は四つの時期が複合していて、焼土を含むものは第二期、聖武天皇の〔後期〕難波宮は第四期に属することが立証できたという(pp.32~33)。
難波宮址第八次・第九次発掘調査報告〔藤原光輝〕: 「第八次調査」は「昭和三十三年」に実施され(p.63)、 「柱穴及び柱の抜け穴の埋没が、何れも焼土化した壁土等によって行われていることが注目された」(p.65)。
 すなわち、燃えた壁で埋まった多数の柱穴を発見したのは、1959年の発掘調査の時であった。
阿斗連薬  阿刀連は、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った。
 ここの阿斗連姓のままだから、傍系と思われる。はここだけ。
《大蔵省》
 「大蔵省」の「」は書紀による遡及であろうと言われている。 続く文「兵庫職」とあり、これが兵部省の前身なら「大蔵」も同じようにまだ「」ではなかったかも知れない。
 朱鳥元年八月条の「大蔵事」には、もついていない。
 「」の初出は〈持統〉四年正月の「刑部省」で、続けて七月に「八省」が見える。少なくともそれまでには八省制が確立していたであろう。 ただ、朱鳥元年の時点で既にひとつふたつの「」があったと判断する根拠は乏しい。
 仮に朱鳥元年における「」そのものは遡及だったとしても、その前身と言い得るような集約機能をもったツカサが存在したと見るのが妥当であろう。 むしろ、敢えて「」と称したことによって、宮の中枢部分を焼失したことの重大性を表現しているとも言える。
 このことから、難波京には副都としての存在感があり、首都機能の相当部分を担っていたと考えてよいと思われる。
《大意》
 朱鳥元年正月二日、 大極殿にいらっしゃり、宴を諸々の王卿に賜わりました。
 この日、 「朕は王卿に問いに無端事(あとなしごと)をもって、 よって答えの言葉に実りがあれば必ずものを賜わろう。」と詔されました。
 そして、 高市皇子(たけちのみこ)に問われて実りある答えを申されたので、 榛揩(はりすり)の御衣を三揃え、 錦の袴を二揃え、 併せて絁(あしきぬ)二十匹、 糸五十斤、 綿百斤、 布一百端を賜わりました。
 伊勢王(いせのおおきみ)もまた実質を得て、 皁(くりそめ)の御衣三揃え、 紫の袴二揃え、 絁七匹、 糸二十斤、 綿四十斤、 布四十端を賜わりました。
 同じ日に、 摂津国の人百済(くたらく)の新興(しんこう)は、 白い馬瑙(めなう)を献上しました。
 九日、 三綱の律師、及び 大官大寺の知事、佐官の合計九人の僧に要請して、 俗人の供養によって 〔貧民を〕養わせました。 これにより絁、綿、布をそれぞれに応じて施しました。
 十日、 諸々の王卿にそれぞれ袍(ほう)袴(はかま)を一揃えを賜わりました。
 十三日、 諸々の才人、 博士、 陰陽師(おんみょうし)、 医師である者、 併せて二十人余りを召して、食糧と禄を賜わりました。
 十四日、 酉の刻に、 難波の大蔵省に失火があり、 宮室は悉く燃えました。 或いは、 「阿斗連(あとのむらじ)薬(くすり)の家に失火があり、宮室に延焼した。 ただ、兵庫(つわものぐら)の職は燃えなかった」といいます。


まとめ
 筑紫大宰に送った「儲用物」や、高市皇子らへの賜物などには品目別に数量が詳細に記されている。 それらは、担当部署において物品の出納を記録した資料に基づいて書かれたに違いないから、史実としての相当の信頼性を考えてよい。
 よって高市皇子と伊勢王への賜物が朱鳥元年正月二日に行われたのは確かとなる。 「大極殿」とあるから、天皇は臨席していたと見るべきであろう。上述したように、詔は代読が通例で賜物の手渡しも担当官が行ったと考えられるから、 座っていることさえできれば病身でも臨席できるのである。ただ、「大極殿」の主語が皇后である可能性も考えなければならない。これについては、四月戊子条のところで検討する。
 さて、大宰府を中心とした軍備の強化は、新羅の動きへの警戒を怠らなかったことの現れであろう。 ただ、畿内については天皇の代替わりが近づき、諸族の跋扈を未然に防ごうとしたことは確かだろう。天皇が崩じた直後に大津皇子に厳しい対応をとったことも、その警戒感の故と思われる。



[29-22]  天武天皇下(10)