| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.09.07(sun) [29-20] 天武天皇下20 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
68目次 【十四年四月~六月】 《牟婁湯泉沒而不出也》
牟婁湯泉は、和歌山県西牟婁郡白浜町の城崎温泉付近と考えられている(〈斉明〉三年《牟婁温湯》)。 「没而不出」とあるが、〈持統〉四年八月の「幸二紀伊一」は、牟婁湯泉が含まれていたように思われる。 後に大宝元年〔701〕に〈持統〉上皇と〈文武〉天皇が連れ立って牟婁温泉に行幸している(【紀温泉】)。 すなわち〈天武〉十四年に「没」した牟婁湯泉は、後に復旧したことが分かる。 「不レ出」は直接的には源泉が枯渇した意味だが、「没而」と組み合わせると、地震などで施設が没してまだ温泉として使えないとも読める。 牟婁温泉の推定地は海岸に近いから、津波あるいは高潮による水没はあり得る。また「没」は、土砂流入による埋没、さらには建物の崩壊による機能の消滅を表した言葉であることも考えられる。 この「没而不出」の四文字は、十三年十月の大地震のによる「伊予湯泉、没而不出」と同じである。 このことから、牟婁湯泉もまた、同じ地震によって損害を受けたことを暗示するものかも知れない。この「紀伊国司言…」の段は、案外十三年大地震の記録から抜き出し、その日付によってここに収めたものかも知れない。 だとすれば、この「紀伊国司言」は地震から半年が過ぎても未だ温泉設備が復旧していない現状を報告したものとなる。 《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項。 《金主山》
「安居于宮中」の日付として一般的な庚寅〔十五日〕は、前段の「壬辰」〔十七日〕と逆転している。 〈内閣文庫本〉は異なり、本文「庚子」〔二十五日〕に「壬寅イ」〔二十七日〕を傍書する。 〈伊勢本〉は「庚 もし庚子だとすれば日付の逆転は解消する。しかし、そもそも「金主山」段「安居」段共に重出の可能性があるくらい曖昧だから、 日付を突き詰めることに大した意味はないだろう。 《安居于宮中》 十二年夏にも「始請二僧尼一安二-居于宮中一」の重出か。 十四年条には日付がある分、十二年条よりはやや鮮明である。 また、重出ではなく十二年の「安居」を見落として、誤って十四年に「始」をつけたことも考えられる。 《射於南門》 《射于南門》項参照。 今年は正月に「射」がない。前年を七月に十三氏を真人、十一月に五十二氏を朝臣、十二月に五十氏を宿祢と立て続けに賜姓した。対象の氏上にすべて呼び出しをかけて儀式を行ったとすれば、宮廷職員は相当忙しかっただろう。 よって、正月にはゆっくり骨休めさせたとも考えられる。そのために「射」行事を五月に移したのかも知れない。 《飛鳥寺》 飛鳥寺は一時官寺から外すことも検討されたようだが、結局残された (九年《飛鳥寺》項)。 〈天武〉天皇が飛鳥寺に行幸した記事は、ここが唯一。 《粟田朝臣真人》
道観が唐に渡ったのは、白雉四年〔653〕。 以下、仮に当時20歳だったとした場合の、節目の年齢を計算してみる。真人は大宝律令撰定のメンバーであった。その大宝律令成立は〔701〕で、真人68歳。 その大宝元年には遣唐執節使となり、慶雲元年〔704〕に帰国した。このときは71歳。 この時代にこの年齢で果たして遣唐使が務まっただろうかとも思えるが、鑑真が日本への渡航に成功したときには既に65歳だったから、元気なら不可能ではなさそうである。なお、養老三年〔719〕に薨じたときには、86歳となる。 〈天武〉十四年〔685〕には自身の爵位を父親に譲ろうとしたから、父親はまだ存命だろう。 このとき真人は52歳。父親が20~40歳のとき生まれたとすると、父親の年齢は72~92歳となる。これも、あり得なくはない。 このように「学問僧道観」が20歳前後だったとすればぎりぎりで成り立つが、30歳だとするとほぼあり得なくなる。 できたら、追加史料がほしいところである。 《譲位于父然勅不聴矣》 おそらく父親の爵位は低いか、あるいは無位だったのであろう。爵位が個人を対象とするものであることは真人も承知していたはずだから「譲位」は言葉の綾で、 実際には父親への叙位を要請したのであろう。しかし父には叙位し得るだけの条件を備えていないからできないという、官僚的な判断がなされたと思われる。 もし栗田真人が道観なら、父の名前は「春日粟田臣百済」となる(白雉四年五月)。 《当麻真人広麻呂》
唐からの帰国が続くのは、この時期に唐国内の社会不安が増してきたことが考えられる。 《星隕東方》項で 天文記録が684年11月11日~707年11月16日〔ユリウス暦〕の期間、空白になっていることを見出した。 高宗が683年〔天武十二年〕に崩じた後、実権を握った武則天は690年に武周を建てて自ら帝位に登り、705年に崩じた。 『天文志』の空白部分がこの期間と丁度重なるのは確かである。唐の官僚機構の混乱の現れとも考えられる。 だとすれば、唐の社会の不安定化に伴い在住日本人のうち、少なくとも一部は帰国を考えた可能性がある。同じ理由で帰国する新羅人とともに新羅に向かい、そこから日本に向かったと考えられる。 新羅が使者抜きで献上品のみ日本人に託すのも不自然なので、このときも、遣使して高向麻呂らを日本まで送り届けさせたと見た方がよいと思われる。 《新羅王献物》
オウムについてはこれまでに大化三年の新羅が献上した一羽、斉明二年遣百済使が持ち帰った一羽が見える。 その生息域は、南アメリカ、アフリカの熱帯、南アジア、オセアニア(右図)なので、新羅には交易もしくは外交における献上品として持ち込まれたものと見られる。 ■鵲 [佐賀県公式]/[カササギ]によると、 「海外では、イギリス、ヨーロッパ全域、ロシア平原、中央アジア、モンゴルアムール地方、ウスリー地方、朝鮮半島、ベトナム北アメリカ西部に生息しており、北半球では決して珍しい鳥ではありません。 ところが日本では、田んぼとクリークが広がる平野、つまり佐賀、福岡、熊本、長崎にまたがる有明海周辺地域に集中して生息しています」という。 佐賀平野中心という狭い地域に限られていることについては、「16世紀から17世紀初頭に朝鮮半島から移入された」説が有力という。 [国立環境研究所]公式ページの[カササギ - 日本の外来生物]には、 「カササギは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に「カチカチ(勝ち勝ち)」と鳴くことから縁起が良い鳥として持ち帰られたものが野生化した」とある。 また、同じサイトの[侵入生物データベース/カササギ]では 「九州の個体群は400年ほど前に輸入されたものに由来するとされている」と述べる。 《賜姓曰忌寸》
残りの六氏はもともと半島からの渡来民で、直・吉士・首・公姓〔難波吉士、紀酒人直、倭漢直、河内漢首、秦公〕であった。 古くから外交の任にあたった者も多い。 渡来系、辺境在住、古代の国造の氏族に対しては一線を画して宿祢には上らせず、忌寸に留めたわけである。 《大意》 四月四日、 紀伊の国司が、 「牟婁湯泉が没して湯が出ません〔または湯を出せません〕。」と言上しました。 十二日、 広瀬龍田の神を祭祀されました。 十七日、 新羅の人金主山(こんしゅせん)が、帰国しました。 十五日、 初めて僧尼を請い宮中で安居(あんご)させられました。 南門で弓射させました。 天皇(すめらみこと)は、飛鳥寺に行幸し、 珍宝を仏に奉り礼敬されました。 十九日、 直大肆(じきだいし)粟田の朝臣(あそん)真人(まひと)は、 爵位を父に譲ろうとしましたが、勅により許可されませんでした。 この日、 直大参(じきだいさん)当麻真人(たぎまのまひと)広麻呂(ひろまろ)が卒しました。 壬申年の功により、直大壱(じきだいいち)位を贈られました。 二十六日、 高向(たかむこ)の朝臣麻呂、 都努(つの)の朝臣牛飼らが、 新羅から到着しました。 このとき、学問僧観常(かんじょう)、 雲観(うんかん)が 従って来ました。 新羅王からの献上品は、 馬二頭、 犬三頭、 鸚鵡(おうむ)二羽、 鵲(かささぎ)二羽、 及び種々の宝物でした。 六月二十日、 大倭(やまと)の連(むらじ)、 葛城(かつらき)の連、 凡川内(おおしかふち)の連、 山背(やましろ)の連 難波の連、 紀の酒人(さかひと)の連、 倭漢(やまとのあや)の連、 河内漢(かふちのあや)の連、 秦(はた)の連、 大隅(おおすみ)の直(あたい)、 書(ふみ)の連の あわせて十一氏に忌寸(いみき)の姓(かばね)を賜りました。 69目次 【十四年七月~八月】 《定明位已下進位已上之朝服色》
《祠風神…》項。 《明位已下進位已上之朝服色》
万葉に2786「山振之 尓保敝流妹之 翼酢色乃 赤裳之為形 夢所見管 やまぶきの にほへるいもが はねずいろの あかものすがた いめにみえつつ」と詠まれる。 (万)3074「唐棣花色之 移安 情有者 はねずいろの うつろひやすき こころあれば」では枕詞である。 紫については、(万)3791「羅丹津蚊経 色丹名著来 紫之 大綾之衣 さにつかふ いろになつける むらさきの おほあやのころも」。 音仮名表記としては、(万)3500「牟良佐伎波 むらさきは」がある。 浅緑は、(万)1847「淺緑 染懸有跡 見左右二 春楊者 目生来鴨 あさみどり そめかけたりと みるまでに はるのやなぎは もえにけるかも」。 葡萄は、第40回に「蒲子〔えびかづら〕」。 『令義解』衣服令には「凡服色…𮑱𬞌 上代語において、アヲについてはblueとは限らず漠然とした色調であるが、ハネズ、ムラサキ、エビゾメは染料を得る植物名などに結びついているから具体的な色名と見てよい。 ミドリは、語源はミドリゴのように生まれたての意であるが、専ら若葉に使われるようになったことからgreenと見てよい。 右図は現代の色名であるが、それぞれ伝統に基づいて染料をとる植物種を用い、その技法を再現してなされた染色の結果を数値化したものと考えられる。 よって、基本的には古代の色彩が一定程度再現されていると考えてよい。ただエビゾメについては上述したように「紫色之最浅」とは言い難いので問題が残る。 さて〈天武〉朝においては冠による位階の表現こそ廃止されたが、代わって朝服の色で爵位を表すようになった。視覚的には確かに冠よりも直感的で、宮廷内での秩序を明確化する。 制服の色調の意義は現代でも変わらず、特に病院や航空機などの命を預かる仕事において、各スタッフの果たすべき役割を明確化するために必須となっている。 《免課役》 『令義解』賦役令では「凡正丁歳役十日。若須収庸者布二丈六尺」〔正丁〔二十一歳から六十歳の男子〕は、年に十日の役、もし須(すべか)らく庸〔代わりとなる物品〕を収めるべきは布二丈六尺〕と規定されている。 令前には細かい点での相違はあろうが、概ねこのようなものであろう。 「東山道…並免課役」の詔により、東山道は美濃国以東、東海道は伊勢国以東の諸国の有位者には課役を免除した。 この部分に関して、「畿内と古代国家」〔吉川聡;『史林』79(史学研究会)1996〕は、 「地方の有位者は、当然の特典である課役の免除さえまだうけていなかった」ことは「外国〔畿内以外〕の人は特例であった」ことを示すという意見に対して、 「畿内で有位者の課役が免除されていたかどうか確認できないので、この記事からは何も言えまい」と述べる(p.720)。 検索しても、この詔を論じた記事は他にはなかなか見つからないので、読み取り方についての定説はないようである。 直感的には、遠方に住む有位者を京まで出仕させるのは負担が重いから免除するという意味かと思える。 なお、ここで「京まで出仕させる」と述べた根拠は、『令義解』賦役令「歳役十日【謂二於レ京役之一】」にある。 それでは、南海道・西海道はどうなのだろう。こちらは、既に免除されていたのかも知れない 〔ただし、西海道は大宰府への出仕が考えられる〕。 そして今までは東国在住で爵位を得る者は一人もいなかったが最近はぼつぼつ出てきたから、それに対応するためにこの規定ができたのだとすればひとまず理解することができる。 《浄土寺》 『上宮聖法王帝説』裏書には「浄土寺…山田寺是也」とあり、 その中の記述「己酉年三月廿五日。大臣遭害」も〈孝徳〉紀の大化五年〔649〕三月二十五日と日付が一致するので、浄土寺は山田寺の別名と見てよい (〈孝徳〉大化五年三月二十五日【山田寺】)。 《川原寺》 〈斉明〉川原宮の跡地で、創建は〈天智〉朝と考えられている (〈孝徳〉白雉四年六月【川原寺】)。 《遣耽羅使人》 十三年十月に「県犬養連手繦為二大使一、川原連加尼為二小使一、遣二耽羅一」とあるから、この者たちであろう。 派遣の目的としては、耽羅が主体的に日本との関係を復活するように働きかけたことが考えられる。 しかしこの時期には耽羅が日本に遣使した記録がなくなっているので、新羅の属国という立場から抜け出そうとする意志はなかったようである。 《大意》 七月二十一日、 広瀬龍田神を祭祀されました。 二十六日、 勅により明位(みょうい)以下、進位(しんい)以上の朝服の色を定められました。 ――「浄位(じょうい)以上はみな朱花(はねず) を着用せよ。 正位(しょうい)は深紫(ふかむらさき)、 直位(じきい)は浅紫(あさむらさき)、 勤位(ごんい)は深緑(ふかみどり)、 務位(むい)は浅緑(あさみどり)、 追位(ついい)は深蒲萄(ふかえびぞめ)、 進位(しんい)は浅蒲萄(あさえびぞめ)を着用せよ。」 二十七日、 詔されました。 ――「東山道は美濃以東、 東海道は伊勢以東の 諸国の位ある人らには、 みな課役を免ぜよ。」 八月十二日、 天皇(すめらみこと)は浄土寺に行幸しました。 十三日、 川原寺(かわらでら)に行幸し、稲を衆僧に施されました。 二十日、 遣耽羅使たちが帰ってきました。 70目次 【十四年九月】 《巡察國司郡司及百姓之消息》
「旧宮」は、エビノコ郭ができる前からあった後飛鳥宮のことか。しかし、先行条坊とともに既に宮殿の建築が一部始まっていて、浄御原宮全体を旧殿と称した可能性は捨てきれない。 安殿、すなわちアンドノは政堂の一般的な呼び名である(〈天武〉十年正月)。 《皇太子以下至于忍壁皇子》
《巡察国司郡司及百姓之消息》
派遣先として、七道のうち北陸道を欠くことは問題をはらんでいる。 そこでまず、そもそも〈天武〉朝に北陸道が存在しなかったと考えてみる〔例えば東山道の一部だったとする〕。これについては、〈崇神〉紀十年に大彦命の「北陸道」に派遣したと書かれたこと、〈斉明〉朝には大彦を祖とする阿倍氏が越国を支配していたことから見て、即座に否定される。 次に東山道巡察使が併せて北陸道も巡察したとする。しかし、両道は近江国で分岐するからこれも考えにくい。 あるいは、越が阿倍氏族が支配する半ば独立国となっていて、朝廷による巡察を拒んだとする。しかしこれも、阿部氏が朝臣を賜姓されるほど朝廷とがっちり結びついていたからあり得ないだろう。 結局、北陸道にも他の六道と同様に巡察使を派遣したが、その記載が漏れたと見るのが妥当であろう。 《歌男/歌女/笛吹》 『令義解』職員令に「雅楽寮:…歌人卅人。歌女一百人」が見える。 すなわち、「伝二己子孫一令レ習二歌笛一」は、新たな品部が創設された如くに読めるが、ほどなく雅楽寮に所属することになる。 その歌人・歌女の上にある「歌師四人」は、明らかに歌唱の指導者である。笛吹に関しては「笛師」、「笛生」、「笛工」が見え、さらに「以下の唐楽等のセクションのそれぞれに「吹レ笛人」が所属する」と注されている。 そのセクションには他に「高麗」・「百済」・「新羅」・「伎楽」が列記され、かなり組織として充実していた様が窺われる。 なお、歌男が「歌人」の別称であることは明らかである。 《博戯》 〈持統〉三年九月に「禁二-断双六一」とあるので、博戯は双六であった可能性が高い。博戯が大好きな〈天武〉と、それをよく思わない皇后鸕野讚良皇女という夫婦像が浮かび上がる。 《凡十人賜御衣袴》 全文から繋がるとすれば、この十人は博戯に参加していて、賜った「御衣袴」は、その景品となる。
〈天武〉紀〈持統〉紀では藤原朝臣大嶋が6例、藤原朝臣史〔不比等〕が1例出てくる。 しかし、その藤原朝臣が「改レ姓賜二朝臣一」五十二氏に明記されていないという問題がある。 さらに〈続紀〉を見ると、その中に「中臣朝臣」は200個、「藤原朝臣」は1058個ある。このことから、藤原は中臣の分流だから自動的に朝臣姓を引き継いだと直感される。 その直感は、次のようにして裏付けられた。 すなわち〈続紀〉における「藤原朝臣」の初出は、文武元年〔697〕八月癸未「以藤原朝臣宮子娘為夫人」である。 それは、文武二年〔698〕の八月丙午「詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復旧姓焉」に先行している。 その詔の「意美麻呂等は、神事に供することに縁って、旧姓に復するべし」(ア)の部分の意味は、 文武三年〔699〕十二月庚子「始置二鋳銭司一。以二直大肆中臣朝臣意美麻呂一為二長官一」によって明確になった。 すなわち、アは、「意美麻呂ら神事に携わるグループは「中臣」のままでいよ」という意味であった。 よって、文武二年詔の正確な意読は「中臣連鎌足は一代限りの称「藤原」を賜った。今あらためてその「藤原」を中臣不比等らが継承せよ。但し神事に供する意美麻呂たちは中臣のままとせよ。」となる。 藤原氏の姓 以上の経過により、大嶋が生存した時代におけるリアルな呼び方は、〈天武〉十三年詔「…五十二氏賜姓曰朝臣」の前日まで「中臣連大嶋」、詔の日以後は「中臣朝臣大嶋」となった。 そして、後の文武二年八月詔に至り初めて「藤原朝臣大嶋」になったのである。 よって、その日以前に用いられた表記「藤原連大嶋」は、書紀による遡及となる。 しかしその遡及は不徹底にならざるを得なかった。というのは、〈持統〉五年「神祗伯中臣朝臣大嶋」はその職務「神祗伯」により「中臣」姓のままとせざるを得なかったからである。 こうして見ると文武三年の「藤原朝臣宮子」もやはり遡及である。事実上の最高権力者まで昇りつめた女性だから、その栄光が過去に投影されたということであろう。 《羆皮》 〈斉明〉四年是年条では、「羆」は北海道で生息するヒグマであって、熊ではないと見た。ここでも、粛慎との交易によって畿内にもたらされたと見るべきであろう。 なお、この幅広い授与は、前日の天皇の行動を皇后が強く批判した結果ではないだろうか。 皇后(鸕野讚良皇女)は「博戯に勝った者だけに物を賜るとは、一体何をしているのですか。賜るなら全員にしなさい」と言って諫めたとするのが、サイト主の想像である。 《遣二高麗国一使人》 「遣二高麗国一使」は、十三年五月二十八日に派遣した 「三輪引田君難波麻呂〔大使〕桑原連人足〔小使〕」と見られる。 〈新羅本紀〉の日付の通りなら、その滞在中だった〈天武〉十三年十一月に「報徳王」政権が廃止されたことになる。 使者が帰国した同じ月に「化来高麗人等…」とあるので、政権が崩壊したために日本に亡命する高麗人を伴った可能性がある。 《大官大寺川原寺飛鳥寺》 九年三月の詔で、官寺をニ三に絞ることとした。 その詔では飛鳥寺を外そうとの議論があったが、官寺に残すことに決めたと述べている (九年《飛鳥寺》項)。 その「ニ三」に該当するのが、この大官大寺、川原寺、飛鳥寺であろう。 《化来高麗人等》 《「報徳国」への日本の対応》 で、安勝王政権が独立志向を見せ日本に援助を求めていたと見た。 日本がその要請を受け入れたとは考えられないが、それでも高麗は日本に信頼感をもっていて新羅国内にい辛くなった高麗人のうち相当数が日本に移ってきたことが考えられる。 「賜禄」とは、実際には着の身着のままでやってきた人に対して行った衣食住の支援であろう。 《大意》 九月九日、 天皇(すめらみこと)は、旧宮の安殿の庭で宴を賜りました。 この日、 皇太子以下忍壁皇子まで、 それぞれに応じて布を賜りました。 十一日、 宮処王(みやところのおおきみ)、 広瀬王(ひろせのおおきみ)、 難波王(なにわのおおきみ)、 竹田王(たけだのおおきみ)、 弥努王(みののおほきみ)を京及び畿内に派遣して、 それぞれの人民の武器を点検させました。 十五日、 直広肆(じきこうし)都努朝臣(つののあそん)牛飼(うしかい)を 東海道への使者、 直広肆石川の朝臣虫名(むしな)を 東山道への使者、 直広肆佐味(さみ)の朝臣少麻呂(すくなまろ)を 山陽道への使者、 直広肆巨勢(こせ)の朝臣粟持(あわもち)を 山陰道への使者、 直広参路(みち)の真人迹見(とみ)を 南海道への使者、 直広肆佐伯の宿祢広足(ひろたり)を 筑紫への使者とされ、 それぞれ判官一人、史(さかん)一人をともなわせて、 国司、郡司及び民の様子を巡察させました。 この日、 詔を発しました。 ――「凡そ諸々の歌男、歌女、笛吹は、 即ち自分の子孫に伝えて歌笛を習わせよ。」 十八日、 天皇(すめらみこと)は大安殿にいらっしゃり、 王卿らを宮殿の前に喚(め)し、博戯(ばくぎ)をさせました。 この日、 宮処王、 難波王、 竹田王、 三国の真人友足(ともたり)、 県(あがた)犬養の宿祢大侶(おおとも)、 大伴の宿祢御行(みゆき)、 境部(さかい)の宿祢石積(いしつみ)、 多(おお)の朝臣品治(ほんじ)、 采女の朝臣竹羅(ちくら)、 藤原の朝臣大嶋の 計十人に、御衣と御袴を賜わりました。 十九日、 皇太子以下、諸王卿に至るまで、 併せて四十八人に羆(ひぐま)の皮、山羊(かましし)〔=カモシカ〕の皮をそれぞれに応じて賜わりました。 二十日、 高麗国に派遣した使者らが帰還しました。 天皇(すめらみこと)のお体が病気になられたため、 三日間大官大寺、川原寺、飛鳥寺で読経しました、 よって、稲を三寺のそれぞれに応じて納められました。 二十七日、 帰化した高麗人たちにそれぞれに応じて賜禄されました。 まとめ 宿祢姓を賜った氏のうちいくつかは、同時に律令国造として認められた。 古事記の「~者…国造之祖」は、いわばその根拠として古代から国造家であったことを示したと見られる。 ただ、同じように律令国造として公認された出雲国造は出雲臣、紀伊国造は紀直のままなので、 国造家への忌寸賜姓は畿内に留まる。このような差が生まれたのは、やはり畿内は倭国における華夏であったからであろう。 このように考えると、大隅直への忌寸賜姓はかなり異例で、明確な政治的意図があったと考えざるを得ない。 さて、新羅が「報徳国」を取り潰した理由は、やはり傀儡であることをよしとしない一部の者が反乱を起こしたからであろう。 それに伴い、高麗人に与えられた位階も剥奪、若しくは有名無実化され、おそらくは相当の弾圧がなされたと考えられる。 このように極めて居辛くなった新羅から逃れて、日本に移る高麗人は多かったであろう。十四年二月の「賜爵位」においては、それぞれの旧位階に見合う爵位が与えられたと思われる。 こうして、十四年九月庚午の「化来高麗人」という表現に至った。 〈天武〉十一年~十四年の高麗関連の記述からは、大体このような流れを読み取ることができる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.09.16(tue) [29-21] 天武天皇下21 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
71目次 【十四年十月】 《於信濃令造行宮》
《百済僧法蔵/益田直金鍾》
《白朮》
[くすりプロムナード]〔長崎国際大学教授 正山征洋〕によると、「日本薬局方の白朮は基原植物がキク科のオオバナオケラまたはオケラ」、 「中国湖南、湖北、江西、浙江、安徽各省に分布」する「多年生草本」で「日本の野草でもっとも美味しいものとされる」という。 「煎」は異本に「並」が見えるが、薬草の服用法には既に「煎」が見えるから※)、「煎」が正しいであろう。 ※)…『神農本草経』:「薬性有宜丸者、宜散者、宜水煮者、宜酒浸者、宜膏煎者」〔薬性を有するは、丸薬よし、散薬よし、水煮よし、酒浸よし、膏煎よし〕。 《軽部朝臣足瀬》
『大日本地名辞書』には「白糸 現在は「美ヶ原温泉郷」〔長野県松本市里山辺湯の原〕と名付けられ、現在の宿泊施設数は19軒とされる。 《泊瀬王/巨勢朝臣馬飼》
畿内においても新羅を意識した備えがなされたかもしれないが、 天皇の重病によることも考えられる。これまで、代替わりの時に次期天皇の座を巡っての氏族の蜂起はつきものであった。 《伊勢王等亦向于東国》
なお、「因以賜衣袴」は、翌年正月二日に賜ったことの重出であろう。 《金剛般若経》 金剛般若経はサンスクリット名「Vajracchedikā-prajñāpāramitā」。その原典はチベット語訳、漢訳6種とともに現存し、 そのうち,鳩摩羅什訳『金剛般若波羅蜜経』1巻(5世紀初め)が広く用いられているという〔『改定新版 世界大百科事典』平凡社2007〕。 『仏教を読む3』〔松原泰道・平川彰;集英社1983〕によると、 紀元前200~150年頃、「自ら大乗仏教徒と称した一群の人たちが小乗仏教の経典に対抗して…結集の運動を起こし」、その初期の経典のうち「般若系統の経典は最も早く作られた」といわれているという。 そしてその「般若経典」は小乗経典に見られる語句を引用したうえで、それらを「一つ一つ否定しながら一切皆空 その核心は、小乗仏教が「諸法は無我であるといいながら、その教えだけは「我 《大意》 十月四日、 百済僧常輝(じょうき)に三十戸を封じました、 この僧は、年齢百歳でした。 八日、 百済僧法蔵(ほうぞう)と 優婆塞(うばそく)益田直(ますだのあたい)金鍾(こんしゅ)を美濃に派遣し、 白朮(おけら)を煎じさせました。 よって、絁(ふときぬ)、綿、布を賜りました。 十日、 軽部(かるべ)の朝臣足瀬(たるせ)、 高田の首(おびと)新家(にいのみ)、 荒田尾連(あらたおのむらじ)麻呂を 信濃に遣わし、行宮を造らせました。 おそらく、束間温湯(つかまのゆ)に行幸しようとなされたのでしょう。 十二日、 浄大四(じょうだいし)泊瀬王(はつせのおおきみ)、 直広四(ちょくこうし)巨勢の朝臣馬飼と、 判官以下(しもつかた)併せて二十人を、 畿内の用役に任じました。 十七日、 伊勢王(いせのおおきみ)らは、またも東国に向い、 よって衣と袴を賜わりました。 この月に、 金剛般若経を宮中で説かせました。 72目次 【十四年十一月~十二月】 《詔曰大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類咸收于郡家》
大宰府の手前に、中継的な指令所を設けたことは興味深い。組織として、この形が合理的だったのであろう。 〈景行〉十二年に筑紫島親征に向かったが、途中「周芳娑麼」に立ち寄って態勢を整えた。 〈雄略〉二十三年に「娑婆水門」がある。何れも〈倭名類聚抄〉{周防国・佐波【波、音馬】郡・佐波郷}にあたると考えられる。 『豊後風土記』〔豊国史料第1集;工藤覚次1926〕速水郡「昔者纏向日代宮御宇天皇〔景行〕。欲レ誅二玖摩囎唹一行二-幸於筑紫一。従二周防国佐婆津一発レ船」とあり、 「佐婆津」が見える。 『大日本地名辞書』は「〔佐波郡〕佐波郷:今佐波村、三田尻町是なり」と述べる〔現在は防府市内〕。 佐波郡の佐婆津は古くから難波津と筑紫を結ぶ海路の中継点であり、よってその近くに「周芳総令所」が設けられたと思われる。 《筑紫大宰請儲用物》 「絁一百疋/糸一百斤/布三百端/庸布四百常/鉄一萬斤/箭竹二千連」の単位を見る。 疋〔ムラ〕:絁〔あしきぬ、あらきぬ〕に用いる。一疋は長さ五丈一尺、幅二尺二寸。※1) 斤〔ハカリ〕:質量の単位で、一斤=十六両。隋代の一両は42.5gとされる。※2) 端〔ムラ〕:布に用いる。一端は五丈二尺、幅二尺四寸。※1) 常〔キダ〕:庸布に用いる。庸布は、成人男子に課せられた歳役の代用に収める布。養老六年〔722〕には「長一丈三尺。濶〔=幅〕一尺八寸」。 天平八年〔736〕には「長一丈四尺。闊一尺九寸」。※3) 連〔ムラ〕:塊になったものを数える助数詞。 ※1)…〈仁徳〉十七年《匹》項 ※2)…第141回【御裳之石】 ※3)…次の表のように、時代と共に変動がある。
そこから考えると、疋・端・常は面積の単位と説明されるが、実用上はむしろ通貨としての布の単位の性格が強かったと思われる。 《大角小角鼓吹幡旗及弩抛》 〈倭名類聚抄〉「角:…大角【波良乃布江】小角【久太能布江】」。「征戦具第百七十五」項にあることから、専ら戦闘で使われたことが分かる。
しかし、古墳時代には角笛を吹き鳴らして狩猟する文化が、確かに存在した。それを実証するのが「角笛をもつ手」埴輪である。 「猪甘と角笛―考古資料による比較検討を中心として―」〔基峰修;『人間社会環境研究』33/2017〕は、昼神車塚古墳のテラス面に配置した埴輪群について、 「角笛をもつ人物埴輪の手前には、犬形埴輪2点によって、獲物である猪形埴輪1点が、挟み撃ちとなるような状態で配置されていたことが明らかになって」いると述べる。 また、その角笛埴輪は、「角笛とそれを握る手のみが残存するもので、湾曲した中空の角笛を、籠手らしきものを付けた左手で、親指を外側に向けて下方から握っている」と説明する。 なお、基峰論文はこの角笛は「「猪甘の角笛」である可能性が指摘できる」と述べる。ただ、この点に関しては「猪甘」は家畜化した猪を飼う職業部と考えられるから、むしろ狩猟犬を飼う「犬飼部」をあてるべきであろう。 該当する埴輪は、今城塚古代歴史館〔大阪府郡家本町48-8〕で展示されている(右写真)。吹き口が唇に当たっていたことは間違いないだろう。 出土した昼神車塚古墳は「6世紀中ごろにつくられた全長56mの前方後円墳」で、同古墳を「最後に、三島の王墓から前方後円墳は姿を消」したという(同博物館の説明文)。 角笛埴輪は他に小幡北山埴輪製作遺跡E地区第2工房趾(茨城県茨城町)があるが「古墳に樹立された埴輪としては,昼神車塚古墳のみ」という(基峰論文)。 現在のところ、角笛の実在を物質的に裏付けるのは、この埴輪ぐらいである。 しかし、『隋書』倭国伝の大業三年条 「倭王遣下小徳阿輩台従二數百人一設二儀仗一鳴二鼓角一来迎上」を見逃すことはできない。 その大業四年〔608〕の使者の来朝は、〈推古〉十六年の記事と一致している。 すなわち、6世紀半ばの「角笛をもつ手」埴輪⇒608年の隋書の記事「鳴二鼓角一」⇒685年の〈天武〉紀「大角小角」⇒701年の大宝令「大角小角」〔ただし、『令義解』による〕が、 角笛に関する資料の系譜である。 《不応存私家咸収于郡家》 『令義解』軍防令には「凡私家:不得有鼓鉦弩牟稍具裝大角少角及軍幡」、 そして「凡親王一品:…大角五十口小角一百口幡四百竿…」以下爵位ごとに備えるべき数量が定められている。 私家による所有を禁じるのは、〈天武〉十四年詔の「不応存私家」を引き継ぐものと言える。 大角や幡は、軍本営の所在を誇示する。私家がこれらを押し立てればすなわち私闘となるから、これを未然に防止する措置であろう。 《白錦後菀》
『飛鳥京跡苑池 第15次調査 現地説明会資料』〔奈良県立橿原考古学研究所2021〕 によると、「飛鳥京跡苑池」は、1999年の「発掘調査で、はじめてその存在が明らかに」なったもので、 「南北2つの池(南池・北池)と渡堤、水路、掘立柱塀などで構成され」、その範囲は「南北約280m、東西約100m」という。 また第15次調査の結果、「北池満水時の…水深は2m以上と判断」できるという。 これ以前に第1次調査では南池流水施設の石、第8次調査では南池の中島が見いだされている。 この「飛鳥京跡苑池」が「白錦後菀」であると断定できるか否かについては何ともいえないが、後飛鳥宮の北西に隣接しているので「後苑」と言うことはできる。 「後苑」の類語「後庭」には、建物後方の庭のほかに後宮の庭の意味がある。「後苑」も同様であろう。 天皇の病状には波がありこの時期は小康状態で、庭園を散策したと想像される。皇后が病身の天皇を連れて後宮の苑を散策した情景を思い浮かべてもよいのかも知れない。 《招魂》 「招魂」は死者の霊魂を呼び寄せることをいうが、ここでは天皇は生存しているから理屈に合わない。 〈汉典〉には「迷信的人指三-招回二死者的霊魂一、比下-喩給二死亡的事物復活一造二上声勢一」。 すなわち、死者の霊魂を指し招くことだが、比喩として死んだようになった物事に勢いを取り戻させる意味もある。 他の辞書には「生きている人のからだからぬけ出した魂をよびかえす(それによって失神したからだの生気をとりもどすことができる)」という説明も見る〔学研新漢和など〕。 ここの「招魂」はこのような比喩であろう。 書紀古訓を見ると、〈北野本〉には「ミタマフリシキ」とあり、何かと思わせるが、〈釈紀〉は「ミタマフリス」として「~シキ」を「サ変動詞+完了の助動詞」と見たようである。 「ミタマフリ」は「御霊振り」で、おそらく霊魂が振り子のように体を出たり入ったりすることを意味すると思われる。 《金智祥》
この頃の出来事から推定すると、その内容は、報徳国を廃したことの正当性を説明、また高宗が崩じた時点における唐への対応がテーマとして考えられる。 前者については、日本に逃れてきた高麗人は当然新羅の非道ぶりを吹聴しただろうから、新羅の側の立場からの説明は当然必要である。 後者については、新羅が把握している唐国内の現状、及び今後新羅が唐と一線を画する旨を述べたことが考えられる。 これを受けて日本が軍備を強化した理由としては、ア:新羅の脅威を感じた。イ:唐に対抗する新羅を、軍事的に支援する。が考えられるが判断は難しい。 新羅が日本国内に逃れた高麗人の扱いに釘を刺しに来たと感じたのなら、アである。 一方、新羅の唐への対抗姿勢に友好的に応じようとしたならイである。 しかし、実はその両方かも知れない。すなわち新羅向けにイを装いつつ、本音はアだと考えることができる。 《筑紫防人等飄蕩海中》 防人の初出は、改新詔「其二曰」である。 『令義解』国防令に、防人についての詳細な規定がある(《防人》項)。 〈天智〉三年是年条には「於二對馬嶋壹岐嶋筑紫国等一、置二防与烽一」、 すなわち防〔=防人〕を筑紫国・壱岐嶋・対馬嶋に配置して、防衛した。 「遣二筑紫一防人等」からは筑紫への途上での遭難のように読めるが、実際には筑紫から壱岐・対馬に向かう玄界灘で遭難したのであろう。 なお、「布四百五十八端」の「端」は上述したように、布の量の単位である。 《絁綿布以施大官大寺僧等》 〈内閣文庫本〉は「絁綿布以」を「絁綿布を以て」と訓んでいる。 これはもろに和習で、正規漢文なら「以絁綿布」と書く。次の「皇后命以」も同様で、正しくは「皇后以命」もしくは「以皇后之命」である。 その訓点の書き込み方を見ると、書紀古訓の段階において既に正規漢文でないことが認識されていたようである。 おそらく、出典に用いた原資料の段階でそうなっていて、それをそのまま書紀に書き込んだのであろう。 だとすれば、これらの部分は一次資料に近い姿だから真実性を増すことになる。 《皇后命以…賜朝服》 「皇后の命を以て」が事実だったとしても、通常は天皇の行為としての形式で書かれる。 ここは内実をそのまま描いた珍しい箇所と言える。前項の「和習」を併せて考えれば、原資料が生の姿を見せたものと言えそうである。 よって、天皇は既に公務から離れていたと思われる。 ここまで氏上を定め、八色の姓による多くの氏族のランク付けを遂に成し遂げた。こうしてひとまず国家を支える氏族群を支配機構に組み込んだところで、緊張が解けて発病したのかも知れない。 《大意》 十一月二日、 備えの鉄一万斤を、 周芳(すおう)の総令所(そうれいじょ)に送りました。 この日、 筑紫の大宰の要請による備えの品、 絁(ふときぬ)百匹、 糸百斤、 布三百端、 庸布(ようふ)四百常(きだ)、 鉄一万斤、 箭竹(やたけ)二千連を、 筑紫に送りました。 四日、 四方(よも)の国に詔を発しました。 ――「大角笛、小角笛、鼓、笛、幡旗及びに弩(ど)、抛の類は、 私家に存ずるべきではなく、皆郡家に収めよ。」 六日、 白錦の後苑に行かれました。 二十四日、 法蔵(ほふぞう)法師と 金鍾(こんしゅ)は、 白朮(うけら)の煎じ薬を献上しました。 この日、 天皇(すめらみこと)の為に招魂しました。 二十七日、 新羅は、 波珍飡(はちんさん)金智祥(こんちしょう)と 大阿飡(だいあさん)金健勲(こんけんくん)を遣わして、 政(まつりごと)を請うて進調しました。 十二月四日、 筑紫に派遣した防人(さきもり)たちは、 海中に漂い皆衣裳を失ないました。 そこで、防人の衣服の為として、 布四百五十八端を、 筑紫に給付しました。 十日、 西から起る地震がありました。 十六日、 絁(ふときぬ)、綿、布を大官大寺の僧らに施しました。 十九日、 皇后の命をもって 王卿ら五十五人に朝服をそれぞれ一揃えを賜りました。 73目次 【朱鳥元年正月二日~十四日】 《難波大藏省失火宮室悉焚》
大極殿に昇殿して宴を主催し、高市皇子・伊勢王に褒美を与えたから、病気からはすっかり回復した如くである。 但し、詔は代読が通例と思われ、褒美の授与も実際には担当者が手渡すだろうから、天皇は大極殿で座っているだけで行事を進行させることは可能である。 ただ、仮に病身だったとしてもその旨の指示は行ったであろう。 《対言得実必有賜》 「無端事」は意味不明の言葉である。 その後の丁巳条でも群臣にものを賜り、同じく「天皇問群臣以無端事則…」とあるのを見ると、どうやら臣下にものを賜るときの定型句のようである。 さて、その意味であるがその「以無端事」の後に、一回目だけ「仍対言得実」〔=よって、立派な言葉で答え、その言葉に実がある〕なら、「必有賜」〔必ず褒美を与えよう〕とある。 これが実は「以無端事」と同じ意味の言葉で、あまり見ない語の初出にあたって、その説明のために付け加えたものと理解することができる。 すなわち、物を賜るにあたって「お前の仕事はどのような状況か」と下問し、それに対して「このような成果を挙げることができました」と答えるのが儀式の定型で、それを「以無端事」というのである。 だとすれば、「無端事」は「枝葉末節にとらわれない本質的な事柄」という意味となる。これを言い換えれば「得レ実」だから辻褄は合う。 倭語のアトナシゴト〔またはアドナシゴト〕もその意味であろうが、語の成り立ちは理解不可能である。訓点の誤写が伝搬したことも十分考えられる。 《高市皇子/伊勢王》
もう一人の伊勢王については、業績は「限分諸国之境堺」である。伊勢王への恩賞の大きさは、これが国家の将来に関わる大事業であったことを物語るものと言えよう。 高市皇子には過去のことを、伊勢王には未来に向かうことを褒めたのある。 《百済新興》
「めのう:玉髄の一種。主成分はSiO2であるが少量の水を含む。乳白、灰、青白、灰緑、赤褐色、紫など、きれいな色と模様を有する。これらは少量存在する金属イオンによる」 (『デジタル化学辞典(第2版)』)〔森北出版2009〕。 《三綱律師及大官大寺知事佐官》 三綱は、各寺における僧の組織の幹部で、上座・寺主・維那(都維那)で構成される(元興寺伽藍縁起…[4]「諜」)。 しかし、大官大寺の前に各寺の構成員が書かれることは理屈が合わず、またこれを含めて全部で九名では少なすぎる。 律師は僧綱の三役の一つである。 よって、律師は文字通り「律する師」で、「三綱律師」は僧綱に属する「三綱を律する師」と捉えるのがもっとも合理的であろう。 僧綱は僧尼を統率し、諸寺を管理監督する官職で、幹部は僧正・僧都・律師から成る。 次の「知事」は二年十二月に大官大寺の「知事福林僧」が見える。 知事は、おそらく大官大寺固有で、その最高位と思われる。 前出「諜」によると、佐官は、僧綱の構成員で実務に当たる職だが、「薬師寺主」や「興福寺主師位」などが兼任していたことが見える。 ここでは大官大寺所属の佐官とも読めるが、「三綱律師・大官大寺知事・佐官」と並べた形においては、僧綱に属する佐官を示すかも知れない。 《以俗供養々之》 「々之」は「養之」で、これを書紀古訓は「クレキ」と訓む。クル〔下二段〕に、完了のキをつけたと思われる。 それが〈仮名日本紀〉「養 ものを与える・もらう意味のクル〔下二段〕の初出は、古語辞典を見ると『土左物語』〔935年〕の「この長櫃のものはみな人童までにくれたれば」のようである。 書紀古訓は平安時代に使われていた語をあてたと思われる。ただ古訓者がこの部分の意味をどの程度理解していたかは疑問である。 完了のキは書紀古訓では滅多に使われないが、ここにきて2例現れる。普段の古訓者とは別の人の手が入ったのかも知れない。 さて、「養之」は「供養」とは別の語として割り切って、はっきりヤシナフと訓めばよいと思われる。その対象は、貧民と見るのが自然であろう。 すなわち、俗人の供養によって幅広く食糧を集め、貧民を養うために用いる活動であるとひとまず理解したい。 文章には省略が著しいから意味を取りにくいが、もともとはもっと長文の詔であったものを端折った結果、貧民救済が目的だと述べた部分がなくなったとすれば納得できる。 その事業の主導を幹部クラスの九僧に請い、そのお礼に絁・綿・布をそれぞれに施したと読んでおきたい。
袍は朝服の上衣をいう(右図)。 《才人/博士/陰陽師/医師者》 いずれも知的な分野の人で、その業績が評価されたと思われる。年頭の祝賀行事の一つとしての表彰式であろう。 《難波大蔵省失火》
[大阪歴史博物館]のブログ(2016.6.8)に[前期難波宮「朱雀門」の焼けた柱穴(はぎ取り)] 「宮城南門(朱雀門)の柱穴には焼壁や炭が多く入り、火災が事実であったことを物語ります」とあり、その剥ぎ取った部分が同博物館に展示されている(右図)。 その出典と考え得る調査記録を探したところ、 『難波宮址の研究[第3]』〔大阪市立大月難波宮址研究会;1960〕が見つかった。 その核心部分を抜き出す。 ●「孝徳天皇長柄豊碕宮の研究」〔山根徳太郎〕: 「第八次発掘調査に際して、〔後期〕難波宮址に属することの明かな掘立柱の遺構と 複合して層位的にも、明確に一時代前のもので、内に焼土や焼壁を包蔵している柱穴が、相当量存在していることに気付き、 …天武紀の朱鳥元年正月十四日夜の難波宮消失の記事に関係せしめて考えうることの道理を思い、…発掘の回数を重ねた所、 遂にこの種焼土を含む柱穴を数十個見出し得ることになった」。 そしてこの遺跡は四つの時期が複合していて、焼土を含むものは第二期、聖武天皇の〔後期〕難波宮は第四期に属することが立証できたという(pp.32~33)。 ●「難波宮址第八次・第九次発掘調査報告」〔藤原光輝〕: 「第八次調査」は「昭和三十三年」に実施され(p.63)、 「柱穴及び柱の抜け穴の埋没が、何れも焼土化した壁土等によって行われていることが注目された」(p.65)。 すなわち、燃えた壁で埋まった多数の柱穴を発見したのは、1959年の発掘調査の時であった。
「大蔵省」の「省」は書紀による遡及であろうと言われている。 続く文「兵庫職」とあり、これが兵部省の前身なら「大蔵」も同じようにまだ「省」ではなかったかも知れない。 朱鳥元年八月条の「誄二大蔵事一」には、省も職も官もついていない。 「省」の初出は〈持統〉四年正月の「刑部省」で、続けて七月に「八省」が見える。少なくともそれまでには八省制が確立していたであろう。 ただ、朱鳥元年の時点で既にひとつふたつの「省」があったと判断する根拠は乏しい。 仮に朱鳥元年における「省」そのものは遡及だったとしても、その前身と言い得るような集約機能をもったツカサが存在したと見るのが妥当であろう。 むしろ、敢えて「省」と称したことによって、宮の中枢部分を焼失したことの重大性を表現しているとも言える。 このことから、難波京には副都としての存在感があり、首都機能の相当部分を担っていたと考えてよいと思われる。 《大意》 朱鳥元年正月二日、 大極殿にいらっしゃり、宴を諸々の王卿に賜わりました。 この日、 「朕は王卿に問いに無端事(あとなしごと)をもって、 よって答えの言葉に実りがあれば必ずものを賜わろう。」と詔されました。 そして、 高市皇子(たけちのみこ)に問われて実りある答えを申されたので、 榛揩(はりすり)の御衣を三揃え、 錦の袴を二揃え、 併せて絁(あしきぬ)二十匹、 糸五十斤、 綿百斤、 布一百端を賜わりました。 伊勢王(いせのおおきみ)もまた実質を得て、 皁(くりそめ)の御衣三揃え、 紫の袴二揃え、 絁七匹、 糸二十斤、 綿四十斤、 布四十端を賜わりました。 同じ日に、 摂津国の人百済(くたらく)の新興(しんこう)は、 白い馬瑙(めなう)を献上しました。 九日、 三綱の律師、及び 大官大寺の知事、佐官の合計九人の僧に要請して、 俗人の供養によって 〔貧民を〕養わせました。 これにより絁、綿、布をそれぞれに応じて施しました。 十日、 諸々の王卿にそれぞれ袍(ほう)袴(はかま)を一揃えを賜わりました。 十三日、 諸々の才人、 博士、 陰陽師(おんみょうし)、 医師である者、 併せて二十人余りを召して、食糧と禄を賜わりました。 十四日、 酉の刻に、 難波の大蔵省に失火があり、 宮室は悉く燃えました。 或いは、 「阿斗連(あとのむらじ)薬(くすり)の家に失火があり、宮室に延焼した。 ただ、兵庫(つわものぐら)の職は燃えなかった」といいます。 まとめ 筑紫大宰に送った「儲用物」や、高市皇子らへの賜物などには品目別に数量が詳細に記されている。 それらは、担当部署において物品の出納を記録した資料に基づいて書かれたに違いないから、史実としての相当の信頼性を考えてよい。 よって高市皇子と伊勢王への賜物が朱鳥元年正月二日に行われたのは確かとなる。 「御二大極殿一」とあるから、天皇は臨席していたと見るべきであろう。上述したように、詔は代読が通例で賜物の手渡しも担当官が行ったと考えられるから、 座っていることさえできれば病身でも臨席できるのである。ただ、「御二大極殿一」の主語が皇后である可能性も考えなければならない。これについては、四月戊子条のところで検討する。 さて、大宰府を中心とした軍備の強化は、新羅の動きへの警戒を怠らなかったことの現れであろう。 ただ、畿内については天皇の代替わりが近づき、諸族の跋扈を未然に防ごうとしたことは確かだろう。天皇が崩じた直後に大津皇子に厳しい対応をとったことも、その警戒感の故と思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [29-22] 天武天皇下(10) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||