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2025.08.27(wed) [29-19] 天武天皇下19 

66目次 【十三年十二月】
《五十氏賜姓曰宿禰》
十二月戊寅朔己卯。
大伴連
佐伯連
阿曇連
忌部連
尾張連
倉連
中臣酒人連
土師連
掃部連
境部連
櫻井田部連
伊福部連
巫部連
忍壁連
草壁連
三宅連
兒部連
手繦丹比連
靫丹比連
漆部連
大湯人連
若湯人連
弓削連
神服部連
額田部連
津守連
縣犬養連
稚犬養連
玉祖連
新田部連
倭文連【倭文此云之頭於利】
氷連
凡海連
山部連
矢集連
狹井連
爪工連
阿刀連
茨田連
田目連
少子部連
菟道連
小治田連
猪使連
海犬養連
間人連
舂米連
美濃矢集連
諸會臣
布留連、
五十氏賜姓曰宿禰。
大伴連…〈北野本〔以下北〕
 トモノムラシ 佐伯サヘキ阿曇ア ツミノ連忌ヘノ尾張ヲハリノクラノ中臣酒人ナカトムノサカヒトノ土師ハシノ掃部カモンノ境部サカハ櫻井田部サクラヰノタヘノ伊福部イフヘノ巫部連カムナキノ 忍壁ヲシカヘノ草壁クサカヘノ三宅ミヤケノ兒部コ ヘノスキノ丹比タンヒノ靫丹比ユキノタンヒノ○漆部/靫ヌリヘノ大湯人ヲホユヱノ若湯人ワカユヱノ弓削ユ ケノ神服部カムハトリノ額田部ヌカタヘノ津守ツモリノ縣犬養アカタノイヌカヒノ稚犬養ワカイヌカヒノ玉祖タマノヤノ田連ニヒタヘノ  倭文■ツヲリノシトリ倭文此云之於利 氷連コヲリノ凡海 ヲフアマノ山部ヤマノ矢集ヤ ツメノ 爪工連ツメタクミノ 阿刀アトノ茨田連ムハラタノ 田目タメノ小子部チヒサコヘノ菟道ウ チノ〔小治田連を欠く〕猪使ヰ ツカヒノ海犬養アマノイヌカヒノ間人ハシヒトノ舂米ツキメノ美濃ミノゝ連矢集連■■イ无   諸-會モロアヒ 布留フ ルノ
〈内閣文庫本〔以下閣〕
 伊福部イフヘノ手繦[切]丹比連[切]○比/丹[切]ヌリ部連 [切]大湯ヲホユヱノ神服カムハトリノ部連玉祖タマノヤ タマヲヤノ倭文シツヲリシトリ 凡海 ヲフサマノ 小目部連菟道○猪[切]使連〔小治田連を欠く〕美濃連
〈釈紀〉
 掃部カモムノ境部サカヘノ巫部カムナキノ  不讀部字スキノ連。丹比タムヒノ漆部ヌリヘノ 私記説大湯人ヲホユヱノ 私記説額田部連ヌカタノ不讀部字玉祖タマノヤノ 私記説倭文シヲリノ凡海 ヲフサマノ連。 私記説 ツミノ小目部チヒサコヘノ美濃ミノゝ諸會モロアヒノ私記説
〈兼右本〉
 神-服カンハトリ-部連倭-文シトヲリシツヲリ-連凡-海ヲウ サマ少-子-部連小-治-田連〔〈兼右本〉には有り〕舂-米連[切]美-濃矢-集連[切]諸-
〈伊勢本〉
 菟道連猪使連┌少治田連。 頭注:「官本有少治田連四字」。 美濃矢集
十二月(しはす)戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)。〔二日〕
大伴(おほとも)の連(むらじ)
佐伯(さへき)の連
阿曇(あづみ)の連
忌部(いむべ)の連
尾張(をはり)の連
倉(くら)の連
中臣酒人(なかとみのさかひと)の連
土師(はにし)の連
掃部(かもん)の連
境部(さかひべ)の連
桜井田部(さくらゐのたべ)の連
伊福部(いほきべ)の連
巫部(かむなき)の連
忍壁(おさかべ)の連
草壁(くさかべ)の連
三宅(みやけ)の連
児部(こべ)の連
手繦丹比(たすきのたぢひ)の連
靫丹比(ゆきのたぢひ)の連
漆部(ぬりべ)の連
大湯人(おほゆゑ)の連
若湯人(わかゆゑ)の連
弓削(ゆげ)の連
神服部(かむはとり)の連
額田部(ぬかたべ)の連
津守(つもり)の連
県犬養(あがたいぬかひ)の連
稚犬養(わかいぬかひ)の連
玉祖(たまのや)の連
新田部(にひたべ)の連
倭文(しつおり)の連【倭文。此(こ)をば之頭於利(しつとり)と云ふ】
氷(ひ)の連
凡海(おほあま)の連
山部(やま)の連
矢集(やつめ)の連
狭井(さゐ)の連
爪工(つめたくみ)の連
阿刀(あと)の連
茨田(むばらだ)の連
田目(ため)の連
小子部(ちひさこべ)の連
菟道(うぢ)の連
小治田(をはりた)の連
猪使(ゐつかひ)の連
海犬養(あまのいぬかひ)の連
間人(はしひと)の連
舂米(つきめ)の連
美濃矢集(みののやつめ)の連
諸会(もろあひ)の臣
布留(ふる)の連の、
五十氏(いそうぢ)に、姓(かばね)を賜(たま)ひて宿祢(すくね)と曰(い)ふ。
癸未。
大唐學生、土師宿禰甥
白猪史寶然、
及百濟伇時沒大唐者、
猪使連子首
筑紫三宅連得許、
傳新羅至。
則新羅遣大奈末金物儒、
送甥等於筑紫。
学生…〈北〉大唐學生モノナラフヒトゝモヲヒ白-猪シラヰノフムヒト寶然 ホウ ネン伇-時エタチ ヲヒメシラレタル モロコシニ使ツカヒノムラシカウヘ得許トク コマウ■/羅タイ-奈-未コムモツ
〈閣〉 ノエタチノ ヲサメシラレ大唐者 モロコシニヲサメラレ
〈釈紀〉大唐學生モロコシノモノナラヒゝトヲサメラレタル子首コ カウ得許トク コ私記曰音讀 ヨリマウケリ
〈兼右本〉學生モノナラヒヒトトモ
癸未(みづのとひつじ)。〔六日〕
大唐(だいたう、もろこし)の学生(ものならふひと、ふむやわらは)、土師宿祢(はにしのすくね)甥(をひ)
白猪史(しらゐのふむひと)宝然(ほね、ほうねん)、
及びに百済(くたら)の役(えたち)の時に大唐(だいたう、もろこし)に没(しづ)まゆる者(は)、
猪使連(ゐつかひのむらじ)子首(こびと)
筑紫三宅連(つくしのみやけのむらじ)〔闕名か〕得許(ゆるさえしことをえて、〔または人名〕とくこ)、
新羅(しらき)を伝(つた)ひて至(まゐく)。
則(すなはち)新羅(しらき)大奈末(だいなま)金物儒(こむもつじゆ)を遣(まだ)して、
甥(をひ)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
庚寅。
除死刑以下罪人皆咸赦焉。
死刑…〈北〉死-ツミ。 〈兼右本〉ヲイテ死-ツミ以-下シモツカタ玉フ
庚寅(かのえとら)。〔十三日〕
死刑(ころすつみ)を除(お)きて以下(しもつかた)の罪人(つみなへるひと)をば皆咸(みな)赦(ゆる)したまふ[焉]。
《五十氏賜姓曰宿祢》
 宿祢と言えば武内宿祢に代表されるように、古墳時代には朝廷に仕える有力な個人への称号であった。
 〈天武〉朝に至り、これを復古的に八色の姓の第三位の称として用い、これまでの連姓を中心に有力な氏にあてた。 ここで挙げられた「五十氏」については、別項にまとめた(【宿祢姓を賜った五十氏】)。
《大唐学生》
土師宿祢甥  土師宿祢は、以前は連姓だったが、早速宿祢姓が用いられている。 学生として唐に滞在していたが渡来した記事はなく、書紀でははここだけ。
 〈続紀〉和銅二年〔709〕正月に「…正六位上土師宿祢甥…並従五位下」が見える。
白猪史宝然  〈欽明〉三十年に、王辰爾の甥「胆津」は、白猪田部の戸籍を作った功により「白猪史」姓を賜った。 これが白猪史の起源とされる。
 〈姓氏家系大辞典〉「白猪 シラヰ:地名なるも、其の所在不明。蓋し備作〔吉備・美作〕の間にあるべし」。 これは〈欽明〉十六年に「使于吉備五郡、置白猪屯倉」とあることによる。
 〈続紀〉では文武四年〔700〕白猪史骨」に大宝律令撰定スタッフとして賜禄。「白猪史」の氏人は他に阿麻留広成が見える。 養老四年〔720〕五月には「白猪史氏葛井連姓」。以後「葛井連」の例は多数。
猪使連子首  猪使連も宿祢姓を賜った直後であるが、子首は連姓のまま。 百済救援軍(〈天智〉称制前)の一員として派遣され、捕虜となって唐に連れ帰られたようである。
 子首は以後見えず。
筑紫三宅連得許  三宅連については、三宅連石床で見たように、屯倉を管理したと思われる。 〈垂仁〉紀では「田道間守」を三宅連の始祖とする。
 「筑紫三宅連」は、字の通り筑紫の屯倉を管理した氏族と見るのが自然であろう。
 得許が名前だとすれば、ここだけ。
《得許》
 猪使連子首らは、唐に送られて捕虜となっていたが、この度解放されたのだろう。
 ならば、「猪使連子首三宅連【闕名】、得」と読むのが自然である。 しかし、「闕名」という原注はない。よって、書紀が成立した時点から「得許」は人物名で、これが正式である。 それでも、草稿段階で執筆者が「許しを得て」というつもりで書いたことは十分考えられる。 この意味でのユルスは「」だが、「」でもその意味になり得ると思われる。
 漢籍に「得許」はいくつかあり、例えば『漢書』萬石衛直周張伝に「自以為得許、欲上印綬」がある。 その前後には「反室」という難解な語句もあるが、少なくともこの部分は「自身は許可を得たと思い、印綬を献上しようとした」の意味と見てよい。 よって「」という表現は、漢文中に存在する。
《新羅遣大奈末金物儒》
大奈末〔十位〕一覧金物儒 二月丙午に筑紫で饗し、日本に流着していた新羅人七人を連れて帰国した。
《罪人皆咸赦》
 土師宿祢甥らが帰国できたことから、それを喜んで恩赦したとの読み方を見る。しかし、この帰国がそこまでの重大事であろうか。 確かに白猪史法然〔骨〕は大宝律令撰定に名を残しているが、それより上位に書かれた甥が特に活躍した記事はない。 単純に庚寅の日の事柄を記したと読むのが妥当か。
 ただ、唐から新羅に逃れた日本人を新羅が丁寧に送り届けてくれたことは確かで、お礼に不法入国扱いしていた漂着人を帰国させたぐらいに喜んでいる。 高麗傀儡政権の報徳王の件により新羅の動きに警戒を強め、朝廷には緊張感が高まっていた。
 ここで新羅が一転して友好的な態度を示したことは緊張を緩める上で大きな意味があり、それをもって恩赦したと考えることはできる。
《大意》
 十二月二日、 大伴の連(むらじ)、 佐伯(さへき)の連、 阿曇(あずみ)の連、 忌部(いんべ)の連、 尾張の連、 倉の連、 中臣酒人(なかとみのさかひと)の連、 土師(はにし)の連、 掃部(かもん)の連、 境部(さかいべ)の連、 桜井田部(さくらいのたべ)の連、 伊福部(いほきべ)の連、 巫部(かんなぎ)の連、 忍壁(おさかべ)の連、 草壁の連、 三宅の連、 児部(こべ)の連、 手繦丹比(たすきのたんぴ)の連、 靫丹比(ゆきのたんぴ)の連、 漆部(ぬりべ)の連、 大湯人(おおゆえ)の連、 若湯人(わかゆえ)の連、 弓削(ゆげ)の連、 神服部(かんはとり)の連、 額田部(ぬかたべ)の連、 津守(つもり)の連、 県(あがた)犬養の連、 稚(わか)犬養の連、 玉祖(たまのおや)の連、 新田部(にったべ)の連、 倭文(しとり)の連、 氷(ひ)の連、 凡海(おおあま)の連、 山部(やま)の連、 矢集(やつめ)の連、 狭井(さい)の連、 爪工(つめたくみ)の連、 阿刀(あと)の連、 茨田(いばらだ)の連、 田目(ため)の連、 小子部(ちいさこべ)の連、 菟道(うじ)の連、 小治田(おはりた)の連、 猪使(いつかひ)の連、 海(あまの)犬養の連、 間人(はしひと)の連、 舂米(つきめ)の連、 美濃の矢集(やつめ)の連、 諸会(もろあい)の臣、 布留(ふる)の連の 五十氏に、姓(かばね)を賜わり宿祢(すくね)とされました。
 六日、 大唐に渡った学生、土師宿祢(はにしのすくね)甥(おい)と 白猪史(しらいのふひと)宝然(ほうねん)、 そして百済の役の時に大唐に囚われていた、 猪使連(いつかひのむらじ)子首(こびと)と 筑紫三宅連(つくしのみやけのむらじ)〔欠名〕は許しを得て〔または得許(人名"とくこ")らは〕、 新羅を伝って帰ってきました。
 すなわち、新羅が大奈末(だいなま)金物儒(こんもつじゅ)を派遣して、 甥たちを筑紫に送らせました。
 十三日、 死刑を除き、それ以下の罪人は、皆赦免されました。


【宿祢姓を賜った五十氏】
01大伴連
〈姓氏録〉
〖左京/神別/天神/大伴宿祢/高皇産霊尊五世孫天押日命之後也
初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也、
天押日命大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯
然後以大来目部天靱部。靱負之号起於此也。
雄略天皇御世。以入部※1)靱負大連公
奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身堪。
愚児語、相伴奉二上-衛左右
奏。是大伴佐伯二氏掌左右開闔之縁也〗
〔はじめ、天孫彦火瓊々杵尊の神駕が天降りされたとき、 天押日命と大来目部は御前に立ち、日向国高千穂峰に降りた。 その後、大来目部は天靱部(あめのゆけひ)となった。靱負(ゆけひ)の号はこのときに起る。
 〈雄略〉天皇の御世、入部靱負は大連公を賜った。 奏上して曰く、「衛門開闔〔=開閉〕の務めは既に重く、一身では耐えがたい。愚児の語〔謙遜していう〕に与り、相伴い左右を奉衛することを望みまつる。」
 この奏上によって詔した。これが大伴と佐伯の二氏が左右の開闔を掌る由縁である。〕
※1)…御子代に取り立てられた部と解されている。
 本貫は桃花鳥つき坂(【桃花鳥坂】)。鳥坂神社(橿原市鳥屋町)がある。 〈宣化〉「桃花鳥坂上陵」については、大伴連内部の伝承において、〈宣化〉陵を大伴連の本貫に寄せて描いたと考えた。
 大伴氏の始祖については、邇邇芸命の天降りに「天忍日命【此者大伴連等之祖】天津久米命【此者久米直等之祖也】」が邇邇芸命の御前に立った(第84回)。 一方「大伴連等之祖・道臣命」は〈神武〉に仕えて国家の創始に貢献した〔両祖の関係については【大伴連・久米直】参照〕。
 大伴室屋大連が権勢を誇ったのは、〈雄略〉・〈清寧〉朝。大伴金村大連は〈継体〉・〈安閑〉・〈宣化〉に見える。〈欽明〉元年に至り失脚した(〈皇極〉元年《大伴連馬飼》)。
 しかし大伴連は存続し、〈敏達〉~〈斉明〉に氏人が見える。〈壬申紀〉には「大伴連友国」、「大伴連馬来田」、「大伴連安麻呂」そして「大伴連吹負」。
 〈天武〉朝には「大伴連国麻呂」、「大伴杜屋連」、「大伴連御行」。
 その後9世紀になって、大伴は、避諱によってトモとなった(〈崇峻〉紀《大伴連》)。
 このように氏族の始祖以来の実績は申し分なく、〈壬申〉の功も絶大であるが、八色姓下では朝臣から漏れて宿祢姓の筆頭に留められる。 その理由は、〈天武〉が大伴連吹負を個人的に警戒していたこと以外には考えられない。氏上の公認制と八色の姓による氏族の新たな格付けは、氏族は朝廷に従属すべき存在であることを明確化したものであった。 しかし、こと大伴吹負に対してはもし実効性ある役職を与えれば、その功績を盾にとって間違いなく中枢の政策決定に介入してくるだろう。
 〈壬申〉での功は絶大であるが、その作戦は常に謀略的賭博的であったことから、警戒すべき人物と見られていたと思われる。 恐らくは、朝臣は実務を担うが、宿祢は名誉職の性格が強いのであろう。
 〈続紀〉には大宝元年〔701〕正月「己丑。大納言正広参大伴宿祢御行」が見える。 以下、「安麻呂」、「旅人」、「道足」、「牛養」を始め氏人の名が大量にあり、相変わらずの大族ぶりを見せる。
02佐伯連  〈姓氏録〉〖大伴宿祢〗に、佐伯宿祢は〈雄略〉のとき大伴宿祢とともに宮殿の護衛を務め、〖…是大伴佐伯二氏掌二左右開闔一之縁也〗 と書かれる(〈仁賢〉【佐伯】項)。
 佐伯宿祢の項には〖佐伯宿祢/大伴宿祢同祖/道臣命七世孫室屋大連公之後也〗とある。 連姓のままの傍流〖神別/天孫/佐伯連〗も載る。
 佐伯部は、倭建命が東国から連れ帰った蝦夷の後とする伝説をもつ。〈姓氏録〉には佐伯直が、播磨の佐伯部を統率したと載る(第112回《播磨別(佐伯直)》)。 佐伯造佐伯首も各地の佐伯部を統率したと見られる。佐伯連も同様で、軍事部門佐伯部を率いて朝廷に仕えていたと考えられる。
 佐伯連の氏人は〈欽明〉・〈敏達〉・〈崇峻〉に見える。
 さらに〈皇極〉紀では乙巳の変において「佐伯連子麻呂」らが蘇我入鹿を斬る。〈斉明〉紀「佐伯連𣑥縄」は西海使。
 〈壬申紀〉では「佐伯連大目」が大海人皇子側、「佐伯連」が大友皇子側。〈天武〉朝に「佐伯連広足」。
 〈続紀〉には〈文武〉四年六月「直広肆佐伯宿祢麻呂遣新羅大使」はじめ「佐伯宿祢」が大量に表れる。
03阿曇連  阿曇は海洋氏族で、発祥は筑紫の志賀島、東遷して安曇野に至る(【阿曇連】)。
 阿曇連の初出は早くも〈神代上〉一書にあり、住吉大神を祀る氏族とされる。
 〈姓氏録〉には〖右京/神別/地祇/安曇宿祢 /海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也〗。分流安曇連〖地祇/安曇連/綿積神命児穂高見命之後也〗とあるので、関係は宗家に近い。
 〈応神〉紀には「阿曇連祖大浜宿祢」。〈履中〉紀では「阿曇目」、すなわち黥面の風習があったことを示す。
 〈推古〉・〈皇極〉では海洋氏族の伝統により、半島との交渉を担う。
 〈孝徳〉紀では、新しく設置し国司職の失政を咎める中に、「阿曇連(闕名)」が見える。
 〈天智〉紀では「阿曇連頰垂」を遣新羅使に任ずる。このように、朝廷の国家の創生期からの地位を占めた。
 〈壬申〉紀で「安曇連稲敷が登場し、〈天武〉十年「-定帝紀及上古諸事」の一人。
 〈続紀〉では慶雲元年〔704〕従六位下阿曇宿祢虫名」に「従五位下」を授けた、他3例。
04忌部連  忌部自体は、祭事を担当する部として各地に存在したようだ。 〈姓氏家系大辞典〔以下大辞典〕〉は「諸国の忌部は神祇官隷属の品部て、地方にありて朝廷神殿祭祀に要する諸物を送るを職とし…」と述べる。
 首姓忌部は、〈天武〉九年に連姓を賜った。 忌部連〔首は人名〕が〈天武〉十年に「-定帝紀及上古諸事」のメンバーとなったことが、記紀において先祖「太玉命」の神代における活躍を強調することに繋がったとも考えられる  (《忌部首子人》)。
 これについて〈大辞典〉は、「忌部は中臣と対抗する大部族なるが如きは」、 「天武朝連姓を賜ひし際も、書紀に氏人等が大いに喜びて朝に拝する事を載せたれば、到底中臣と匹敵せしむべきにあらず」と見る。
 〈持統〉即位儀式では、「忌部宿祢色夫知」が「神璽剣鏡」を奉上した。
 〈続紀〉大宝元年六月「忌部宿祢色布知卒」。以下「忌部宿祢」は31例。 〈姓氏録〉には忌部宿祢はなく、〖右京/神別/天神/斎部宿祢/高皇産霊尊子天太玉命之後也〗となっている。 〈大辞典〉によれば「貞観十一年〔869〕十月紀に…忌部を改めて斎部と為す」という。
05尾張連
 〈大辞典〉は、尾張連は葛城が発祥の地で、乎止与のときに尾張国に移ったという。 これは、十一世孫乎止与命が尾張大印岐〔大忌寸であろう〕の女真敷刀婢を娶ったとあることによるものであろう。 ただ、発祥の地は髙市郡ではないだろうか。饒速日命の子「天香語山命」は「天香久山」だからである。
 〈神代紀〉下巻では「火明命」が「尾張連等始祖」とされる。
 〈神代紀〉が火明命を「ばわ天津彦彦火瓊瓊杵尊」の子とするのに対して、記上巻は天火明命を「天津日高日子番能邇邇芸能命」の兄とする不一致がある。さらに尾張連の始祖に関する記述は記にはない(第87回)。
 記における尾張連の初出は、〈孝昭〉段尾張連之祖奧津余曽」まで下る。 一方、『天孫本紀』で「尾治連〔=尾張連〕の系図を辿ると饒速日命の子天香語山命から始まる(資料[38])。 饒速日命は、書紀では〈神武〉即位前紀《甲寅年》において、天孫に先んじて天降りして大和国の地を占拠する邪魔者と規定し、天孫との血縁を認めない。
 ところが『天孫本紀』では、饒速日命の別名のひとつに「天火明命」を挙げ、これによって天孫との血縁が細い糸で繋がれる。これさえ認めれば、『天孫本紀』のいう「尾張連の祖は饒速日命」と、〈神代紀〉下の「火明命は尾張連等始祖」を統一することができる。 『天孫本紀』が「天火明命」を饒速日命の一つの別名として書き添えたたのは、まさにこれが理由であろう。
 さて、『天孫本紀』で最初に連姓とつけるのは十四世孫で、そのうち「意乎己連」は〈仁徳〉朝で「大連供奉」とある。
 書紀には〈仁徳〉朝に大連という地位は存在しないが、尾張連は〈允恭〉五年「尾張連吾襲」が初出だから、〈仁徳〉の頃から連姓となったと見ることは可能である。 以後〈孝安〉紀「尾張連遠祖瀛津世襲」、〈継体〉紀「尾張連草香」、〈宣化〉紀「尾張連」が見える。
 倭建命は伊吹山で絶命した。そのようなストーリーになるのは尾張は朝廷との結びつきが深かったからで、倭建命の畿内入りを嫌う朝廷の意向に沿った動きをしたと捉えることができる。
 後に〈壬申〉紀では、逆に尾張国が皇太弟側に着いたことが、勝敗を決したと見られる。
 〈続紀〉中の氏人には和銅二年〔709〕五月「尾張国愛知郡大領外従六位上尾張宿祢乎己志」。
 さらに、霊亀二年〔716〕四月「壬申年功臣…贈従五位上尾張宿祢大隅息正八位下稲置等一十人。賜田各有」とある。大隅の功は、〈壬申〉《野上行宮》項で詳しく述べた。
 〈続紀〉には、以下尾張宿祢は9例ある。
06倉連  〈姓氏家系大辞典〔以下大辞典〕〉の見解は「此の氏の出自は未詳なれど、恐らく斎蔵の司にて、忌部の族かと考へらる」。
 斎蔵は『古語拾遺』にいう「三蔵」のひとつである(資料[25])。
 〈続紀〉には「内蔵宿祢」が見えるが、これは延暦四年〔785〕に「内蔵…忌寸〔河内漢の諸氏〕が宿祢姓を賜ったもので、ここの倉連とは無関係である。 倉連に関する史料はほぼ皆無である。
07中臣酒人連  〈姓氏録〉〖天神/中臣酒人宿祢/大中臣朝臣同祖/天児屋根命十世孫臣狭山命之後也〗。 〈大辞典〉「中臣酒人 ナカトミノサカヒト ナカトミサカト:」、「中臣酒人連:中臣氏の族にて、本貫河内也」、「酒人部の伴造たりし者なり」、 「酒人部:醸造を業とせし品部と考へらる。或は…酒人氏の部曲〔かきべ〕」。
 〈続紀〉には、天平勝宝六年〔754〕正月「中臣酒人宿祢虫麻呂…外従五位下」など、「虫麻呂」が2か所に出てくる。
08土師連  〈神代紀〉には「天穂日命、是出雲臣・土師連等祖也」(第47回【天菩比命の子孫】)とある。 記には「土師連」・「土部連」は出てこない。
 〈垂仁〉紀に「土部連等、つかさどる天皇喪葬之緣也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也」とある (《土師臣・土師部》)。
 以後、土師連が次に見える。
 〈仁徳〉六十年では、白鳥陵に陵守を役丁〔人民の使役〕に置き換えたところ奇怪なことが起こったので、再び陵守を置くことにして「土師連」に託した。 〈雄略〉九年五月には、「土師連小鳥」に紀小弓宿祢を葬るために「冢墓」を作らせた話が載る。 〈崇峻〉即位前紀の「土師連磐村」は穴穂部皇子らの暗殺を命じられた。これは土師連の職務とは無関係。 〈推古〉十一年には「土師連猪手」が来目皇子の殯を掌る。〈皇極〉二年でも吉備嶋皇祖母命の喪を手配。 同十八年には、新羅使・任那使の朝拝において「土部連」が「任那使」の先導役を担う。これも本来の職務とは無関係。 〈孝徳〉大化五年の「土師連」は大伴狛連の配下で蘇我倉山田麻呂大臣攻撃に参加した。職務とは無関係。
 〈壬申〉で功を挙げた土師連馬手」、「土師連真敷」は、職務に無関係。
 〈持統〉四年の「土師連富杼」は連姓のままであるが、これは〈天智〉三年当時を振り返る昔話の中の言葉である。
 土師部は古墳時代の初めには専ら埴輪を作っていたのはハニ〔〔焼き物の原料の土の意〕〕から明らかだが、次第に喪・葬用具の製作に広がったであろう。その伴造の土師連が朝廷に仕え、その葬儀を掌るようになったのは上記書紀の記述が示している。 〈天武〉朝に至り土師連も既に一氏族として規格化されたが、伝統によりなお葬儀関係の仕事を担っていたと思われる。
 〈続紀〉には「諸陵頭〔諸陵寮の頭〔かみ:長官〕〕として、天平三年〔731〕に「土師宿祢千村」、同九年〔737〕に「土師宿祢三目」、 同十八年〔746〕土師宿祢牛勝」が見える。
 しかし以後の諸陵頭は、天平五年〔733〕に「角朝臣家主」、そして神護景雲二年〔768〕以後はすべて土師宿祢以外で、指定席ではなくなる。
 これらを含め、〈続紀〉に土師宿祢は全57例。そこには和銅二年〔709〕土師宿祢甥」(上述)も含む。 時とともに、「凶儀〔葬儀〕の職種から離れる人が増えたようで、延暦年間には菅原秋篠大枝に改姓し、後にはさらに朝臣姓を賜る。
 ただ、爵位の低い者は相変わらず土師宿祢のままであった(下述)。
09掃部連  〈大辞典〉によれば「掃守部 カニモリベ カモリベ:職業部の一にして、宮中掃除の事を掌りし品部也」、「大蔵省の神官に掃部司あり」。
 〈姓氏録〉には〖左京/掃守連/振魂命四世孫天忍人命之後也〗〖河内国/神別/掃守連/〔振魂命〕四世孫天忍人命之後也〗〖河内国/掃守宿祢/振魂命之後也〗〖河内国/神別/掃守造/〔振魂命〕四世孫天忍人命之後也〗がある。
 〈大辞典〉は「掃部連(掃守連):掃守造の連姓を賜うえるものなり」、「掃守造〔〈倭名類聚抄〉{大和国・高安郡・掃守郷}は〕蓋し此の氏の住居せし地ならむ」と述べる。
 書紀には〈孝徳〉記のみ、大化五年五月「遣…大山上掃部連角麻呂等於新羅」、白雉四年五月「大唐…副使小乙上掃守連小麻呂」。
 〈続紀〉には一か所、「従六位下掃部宿祢広足」らに従三位を賜る。これは恵美押勝の乱を鎮圧したことへの行賞である。
10境部連  境部と言えば、「境部臣」が〈推古〉八年にある。「史上に有名な境部摩理勢臣」(〈大辞典〉)は、〈舒明〉即位前紀において山背大兄を次期天皇に推し、最後は馬子に殺された。ただし、この摩理勢臣境部連との関係は不明。
 境部連については、〈雄略〉即位前紀坂合部連贄宿祢、抱皇子屍而見燔死」。
 〈大辞典〉は「坂合黒彦皇子」の名は、皇子を養育した坂合部の名を負うものと述べる(《坂合》《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》項)。
 〈孝徳〉白雉四年では「坂合部連磐積」を「大唐大使」とともに学生として派遣。 〈斉明〉四年十一月には「坂合部」を流刑に処す。その後赦されたようで〈壬申〉16境部連薬」は近江朝廷軍に属する。 〈斉明〉五年七月坂合部連石布」を唐に派遣。
 〈天智〉六年十一月に「境部連石積」。百済に行き来して外交活動を担う。 〈天武〉十年正月に封戸を賜る。十一年三月に新字三十四巻を編纂。
 〈天武〉朱鳥元年正月是月に「境部宿祢鯯魚」。
 境部連の祖に関しては、〈神武〉段(第101回):「〔皇子〕神八井耳命者、意富臣・小子部連坂合部連…等之祖」とある。 ただし〈大辞典〉は「此氏・同姓にして三流あれば、何れを本とすべきかよしなし」と述べる。「三流」とは、この意富臣流(「坂合部連(多臣族)」)に加えて、「坂合部連(安倍氏族)」、「境部連(尾張氏族)」を指す(別項)。 同書は、上記〈雄略〉紀から宿祢姓を賜る「境部(坂合部)」までのすべてが、このうち尾張氏族に属すると見ている。
 〈続紀〉には文武四年〔700〕勤大肆坂合部宿祢」。大宝元年〔701〕正月「〔以〕右兵衛率直広肆坂合部宿祢大分為〔遣唐〕副使」など全15例。
11桜井田部連  桜井田部連は、〈大辞典〉「河内国河内郡桜井屯倉に使役せし田部、並びに其の伴造家の裔なり」。
 〈応神〉紀二年に「桜井田部連男鉏之妹糸媛」、 〈応神〉段(第148回)に「桜井田部連之祖嶋垂根之女糸井比売」。 よって〈大辞典〉は「〔古事記の〕如く桜井田部連の祖とあるをよしとすべきか」と述べる。
 〈安閑〉二年八月桜井田部連…主-掌屯倉之税」。 〈崇峻〉即位前紀桜井田部連胆渟所養之犬」が見える。
 〈続紀〉に「田部宿祢」が6例あるが、〈大辞典〉はそれらを「桜井田部宿祢」と同族とは見ていない。「五十氏賜姓曰宿祢」のリストに「〔「桜井」のつかない〕田部連」はない。
 〈大辞典〉が「桜井田部宿祢」の氏人として挙げるのは「元慶元年」、「貞観十五年」に名前が出てくる人である。
12伊福部連  〈姓氏録〉には〖左京/神別/天孫/伊福部宿祢/尾張連同祖。火明命之後也〗〖山城国/神別/天孫/伊福部〔火明命之後也〕〖大和国/神別/天孫/伊福部宿祢〔天火明命子天香山命之後也(尾張連と同じ)〕〖大和国/神別/天孫/伊福部連/伊福部宿祢同祖〗
 『天孫本紀』(資料[38])には「〔尾張連系九世孫〕若都保命【五百木辺連祖】」。
 これらによれば、伊福部連は尾張連と同祖である。
 〈大辞典〉は「伊福部 イホキベ:又廬城部とも五百木部ともあり」、 「余は其の濃尾地方に栄えたる尾張氏との関係の極めて密接…景行皇子五百木之天日子命の御名代と思考す」、 「伊福部連:伊福部の総領的伴造なり」と述べる。
 〈続紀〉には2例。神護景雲三年〔769〕十月「授…正六位上伊福部宿祢紫女外従五位下〔女性への叙位も行われた〕。 宝亀三年〔772〕正月「授…正六位上伊福部宿祢毛人外従五位下」。
13巫部連  〈大辞典〉によれば「巫部 カンナギベ:職業的部の一にして、巫は「神和の意、神に仕ふる女なり」と云ふ」。
 巫部連については、『天孫本紀』に「〔宇摩志摩治命系列十一世孫〕物部真椋連公【巫部連・文島連・須佐連等祖】」。
 〈姓氏録〉〖和泉国/神別/天神/巫部連〔神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〕/雄略天皇御体不予。因是召-上筑紫豊国奇巫。令真椋巫仕奉。仍賜姓巫部連 〔〈雄略〉の病により筑紫豊国の奇(くす)しき巫(かんなぎ)を召し、真椋に巫を率いて仕奉させた。よって「巫部連」の氏姓を賜った〕。 〈大辞典〉は「此の族、和泉国大島郡人…承和十二年〔844〕に常世宿祢を賜へり」と述べる。
 他に〖右京/巫部宿祢〖山城国/巫部連〖摂津国/巫部宿祢があり、いずれも〖神饒速日命…後〗とする。 〈大辞典〉は「巫部連:…其の家、巫部を掌りし氏と考へらる。…物部氏の族也。天武朝十三年に朝臣姓〔宿祢姓の誤り〕を賜ふ。有勢の氏たりし也」、すなわち宿祢姓を賜るほど勢いある氏だったという。 〖右京〗〖摂津〗〖和泉〗〖山城〗巫部連にはそれぞれ独立性があり、前二者が選別的に宿祢姓を賜ったことになる。
 〈続紀〉に巫部宿祢は2例。大宝二年〔702〕三月「従七位下巫部宿祢博士…並進位一階」。 天平勝宝四年〔752〕五月「官奴鎌取。根足。鎌取賜巫部宿祢。根足賀茂朝臣〔鎌取・根足を官奴から開放する。鎌取には巫部宿祢を賜り、根足には賀茂朝臣を賜る〕
 この例から、同族ではなくても氏姓を賜り所属させることがあったことがわかる。
14忍壁連  〈天武〉十二年に「刑部造」が連姓を賜わった。忍壁連はその刑部連と同じものであろうか。これに関して〈大辞典〉は、刑部忍壁とを全く同一視している。
 品部御名代部という「刑部」の二通りの性格については、別項で考察する。 なお、〈持統〉八年六月に「刑部造韓国」があることを見ると、連姓になったのは宗家のみである。
 〈姓氏録〉には〖摂津国/神別/天孫/刑部首/〔火明命〕十七世孫屋主宿祢之後也〗以外に、刑部・忍壁は見えない。
 〈続紀〉に忍壁宿祢・刑部宿祢は見えないが、 『類聚符宣抄第七』には 「従八位下刑部宿祢福秀【但馬国美含郡人】、望当郡小領刑部福保補任之後経年不考帳…天慶二年〔939〕五月廿ニ日」と載る。
 なお、〈大辞典〉が刑部宿祢(忍壁宿祢)を「物部氏族歟」とするのは、上記〖刑部首〗」が尾張連と同祖〔火明命〕とされるためと思われる。
15草壁連  草壁部は、日下部とも表記される。
 〈姓氏録〉に〖河内国/皇別/日下部連/彦坐命子狭穂彦命之後也〗
 〈開化〉段(第109回) では「〔皇子〕日子坐王」の子「沙本毘古王者、日下部連甲斐国造之祖」とされる。
 以後、〈顕宗〉即位前紀日下部連使主」。 〈孝徳〉白雉元年には「穴戸国司草壁連醜経」が白雉を献上した。
 〈続紀〉には、和銅元年〔708〕正月「日下部宿祢」はじめ28例。
 なお神護景雲元年〔767〕日下部連虫麻呂」など、連姓が4例見える。宗家以外の人と思われる。 そのうち「河内国河内郡人日下部意卑麻呂」ははじめは無姓で、神護景雲二年〔768〕に「日下部連」、さらに神護景雲三年〔769〕に「宿祢」となった。
 その本拠地日下については、〈神武〉即位前紀に「孔舎衛坂〔東大阪市日下町に比定〕、また近くに草香江〔河内湖〕があった。
 〈大辞典〉によれば、日下部は「もと仁徳天皇の皇子大日下王、若日下王の為に設けたる御名代部より発達し、後に天下の大姓となれり」(第162回で詳述)。 この例においても、もともと氏族「日下部」がいて、その部が養育した皇子の名前の呼び名になったと見るのが自然である。ただ、伝説の時代のことなので確実ではない。
 〈大辞典〉は日下部連はもともと但馬道主族と見る。それは、弘計王と億計王が日下連の一族の居住地であった但馬国余社郡に身を隠したからだという。日下連使主は二皇子発見の功により恩賞を得て、名族として全国展開したのはこれが起因となったとする。 その但馬道主の系図は「〈開化〉天皇―彦坐王―丹波道主」(〈垂仁〉五年)だから、祖は確かに彦坐王となる。
 ただ、この二皇子発見譚について、本サイトは〈雄略〉即位前に迫害から逃れて身を隠した弘計・億計が〈雄略〉崩の後に発見されたとき、まだ膝の上に座る少年だったのは全く理屈が合わないので、全くの伝説と見た(第216回)。
16三宅連  三宅連の始祖については、〈垂仁〉九十九年の明年に「田道間守、是三宅連之始祖也」とある。 田道間守は、新羅から渡来した天日槍の子孫(第121回【多遅摩毛理】)。
 〈壬申〉の功臣に「伊勢国司守三宅連石床がいる。
 〈延喜式-神名〉に{伊勢国/鈴鹿郡/三宅神社}。かつての屯倉の地か。
 〈大辞典〉は、「筑紫三宅連:筑紫那津官家の首長たりしならん」として、また「天日桙裔」、そして摂津尾張武蔵越後伊勢の各国に「三宅連」を見出している。各地の屯倉に関わったと見られる。
 〈続紀〉に「三宅宿祢」は見えない。〈大辞典〉は「三宅宿祢」の氏人を挙げないから一人も見出さなかったのであろう。
17児部連  別族「少子部連」と、性格が類似する。
 〈姓氏録〉には〖右京/神別/天孫/子部/火明命五世孫建刀米命之後也〗。祖は「火明命」だから、尾張連系。
 〈大辞典〉は「子部:職業部の一、もと宮中に於て、天皇の御側近く使役せし品部にて、中古に至りても殿部の一部としてその名残を止めたり」、 「児部連:子部の伴造なり。その出自の明記するものなけれど…〔無姓の子部〕と同様、尾張氏の族ならん」という。
 〈続紀〉には1例、天平十四年〔742〕十月、塩焼王に連座して「配流…子部宿祢小宅女於上総国」が見える。
 〈延喜式-巻第七践祚大甞祭〉には「燭奉迎。車持朝臣一人執菅蓋。子部宿祢一人」がある。
18手繦丹比連  〈姓氏録〉に〖河内国/神別/天孫/襷多治比宿祢/火明命十一世孫殿諸足尼命之後也。男兄男庶其心如女。故賜襷為御膳部。次弟男庶其心勇健。其力足制十千軍衆。故賜号四十千健彦。因負姓靱負 〔殿諸足尼命の子、兄男庶はその心女の如くして、故に襷を賜り御膳部となす。次の弟男庶はその心勇健にして、その力は〔四〕十千の群衆を制するに足る。故に靱と四十千健彦の名を賜わり、姓靱負を負う〕(たすき)は手繦。火明命が祖だから尾張連系である。
 〈大辞典〉「手繦連:尾張氏の族にして、多治比の膳部の伴造家なり。本貫河内か」、 「襷多治比宿祢:手繦連の宿祢姓を賜へる者にて、手繦宿祢と云ふに同じ」。
19靫丹比連  前項の〈姓氏録〉から、弟男庶(四十千健彦)を祖とする「靱負多治比連」があったと読み取れる。〈姓氏録〉がこの氏を載せないのは欠落であろう。
 〈大辞典〉は「靱負多治比 ユケヒノタヂヒベ:反正帝の御名代部として残れる靱負部也」、 「靱負多比宿祢:尾張氏の族也。タヂヒ条を見よ」という。 それを見ると「丹比連:…此の族に襷多治比連、靱多治比連、及び蝮壬部連等あり。水歯別命(反正帝)の膳部、靱負部、及び壬生部たりし部民の、それぞれの伴造家」とまとめている。
 この「丹比連」は「河内国丹比郡を本拠」とするとして、その地は〈反正〉紀に 「元年…冬十月、都於河内丹比、是謂柴籬宮」((反正〉元年)と見える「丹北・丹南両郡」と述べる。
 なお、〈姓氏録〉に連姓の〖河内国/丹比連/火明命之後也〗が載ることについて、〈大辞典〉は「庶流には猶ほ連姓を称するものあり」と述べる。
 〈続紀〉には「丹比宿祢」が17例ある。前項「手繦丹比宿祢」とこの項「靫丹比連」の総称だと思えるが、完全には確認できない。
20漆部連  〈大辞典〉は「漆部 ヌリベ ウルシベ:漆器を製するを職とせし品部」というが、その名称から判断したものであろう。
 品部としての漆部の人は、〈壬申紀〉元年六月に「漆部友背」が見える。 造姓の漆部造は、〈用明〉二年四月に「漆部造兄」があり、この人は物部守屋大連の配下であった。 〈大辞典〉には「漆部造:漆部の伴造なるが、…漆部連との関係は詳らかならず」。
 連姓については、「漆部連:物部氏の族にして、漆部の総領的伴造也」。 『天孫本紀』に「宇摩志摩治命…―(四世孫)三見宿祢命【漆部連等祖】」とある。
 〈続紀〉には天平宝字八年〔764〕漆部宿祢道麻呂」の1例。 但し、これは慶雲元年〔704〕になってから「漆部造道麻呂」が宿祢姓を賜ったもの。 傍系の者が宗家に准じて賜ったものか。
21大湯人連  〈大辞典〉には「大湯坐連:大湯坐部の伴造家なり」、「湯坐部 ユヱベ:職業部の一にして、又湯人に作る」、 「大湯坐 オホユヱ:若湯坐に対する語にて共に湯坐の一種也」とある。
 垂仁段に「大湯坐若湯坐日足奉」(第118回)。 日足〔ヒタス〕は、乳幼児を養育する意。
 〈姓氏録〉、〈続紀〉に大湯坐連・大湯坐宿祢は見えない。
 ただ、「大湯坐部」については〈大辞典〉が遠江にいくつかの例を見出している。 曰く、神護景雲四年八月二日の『刑部広浜優婆塞貢進文』に「大湯坐部浄山【遠江国城飼郡朝蝦郷戸主大湯坐部子根麻呂戸】」、 天平十二年『浜名郡輸祖帳』に「津築郷大湯坐部牧夫」、天平十年の『駿河国正税帳』に「遠江国使磐田郡散事大湯坐部小国」。
22若湯人連  〈大辞典〉「若湯坐宿祢:…若湯坐連の後にして、天武紀十三年条に「若湯人連、云々に、姓を賜ひて宿祢と曰ふ」と載せ」といい、 すなわち、「湯人連」は「湯坐連」の別表記と見ている。
 〈姓氏録〉〖摂津国/神別/天神/若湯坐宿祢/石上朝臣同祖/神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〗、よって物部系である。 〈大辞典〉も「若湯坐連:物部氏の族にして、若湯坐部の伴造家也」という。
 確認すると、『天孫本紀』に「宇摩志摩治命…―(六世孫)伊香色雄命―(七世孫)大咩布命【若湯坐連等祖】」とある(資料[39])。
 〈続紀〉には養老三年〔719〕五月「大初位下若湯坐連家主…賜宿祢姓」とあるので、宗家以外はしばらく「若湯坐連」のままだったようである。
 〈続紀〉に「連」姓を経ずに出てくる例は、神亀五年〔728〕五月「若湯坐宿祢小月」ほか4例あるが、宗家か傍流が後から宿祢姓を賜ったものかは判別できない。
23弓削連  弓削連は、弓削部の伴造家と見られる。〈大辞典〉によれば「弓削部 ユゲベ:弓を作るを職業とせし品部也」。
 〈雄略〉九年二月に「弓削連豊穂」。 〈持統〉四年十月「弓削連元宝児」は、〈天智〉三年を振り返った話の中。
 〈姓氏録〉〖左京/神別/天神/弓削宿祢/石上同祖〗〖石上朝臣/神饒速日命之後也〗だから、弓削連は物部氏族。
 『天孫本紀』では十三世孫物部尾輿連公は「弓削連祖倭古連女子、阿佐姫」を娶った。ただし「(十三世孫)物部目連公―(十四世孫)物部倭古連公【流羅田部連等祖】」の「倭古連公」には「弓削連祖」がない。
 〈姓氏録〉には〖左京/神別/天神/弓削宿祢/高魂命孫天日鷲翔矢命之後也〗〖河内国/神別/天神/弓削宿祢/天高御魂乃命孫天毗和志可気流夜命之後也〗。天日鷲翔矢命(天日鷲神)は忌部の祖神。
 また、〖左京/神別/地祇/弓削宿祢/出天押穂根命洗御手。水中化生神尓伎都麻也〗天押穂根命は天照大神と素戔嗚尊の誓約で成った男神の第一で瓊瓊杵尊の父。
 〈続紀〉に「弓削宿祢」は全27例。 そのうち天平神護元年正月〔二月から765年〕に「弓削御清朝臣秋麻呂。弓削宿祢牛養」が見える。 天平宝字八年〔764〕七月に「弓削連浄人」。
 宝亀元年〔770〕四月には「弓削連耳高等三十八人」が宿祢姓を賜った。 よって、一定数の弓削が連姓のまま存続していたことになる。庶流であろう。
 その後、弓削氏の姓は上昇したかと思えば降下し、ジェットコースター状態である(別項)。
24神服部連  神服部連神服部の伴造家と見られる。〈大辞典〉によれば「神服部 カンハトリベ:職業部の一にして服部の一種なり。神衣を織るを職とす。{山城国・相楽郡・蟹幡【加無波多】}と関係あるか」。 また「綺 カンハトリ カンハタ:神服に同じ」、「綺連:姓氏録、和泉神別に…。大島郡に住みしかと云ふ」という。
 〈姓氏録〉には〖和泉国/神別/天孫/綺連/津守連同祖/天香山命之後也〗とある。 よって〈大辞典〉は「神服部連:神服部の伴造にして、尾張氏の族なり」と見る。
 『天孫本紀』尾張連系列には「饒速日尊―天香語山…(六世孫)建田背命【神服連…等祖】」とある(資料[38])。
 〈続紀〉には、宝亀元年〔770〕十月「授…正八位上神服連毛人女〔えみしめ〕…並外従五位下」。
 宝亀二年〔771〕三月「従五位下神服宿祢毛人女従五位上」。 天応元年〔781〕十一月にも再び「授…従五位下神服宿祢毛人女従五位上」。
 その間に何らかの理由により一度降位したのだろうか。あるいは重出の可能性もあるが、詳細は不明。
25額田部連  記上巻に、「天津日子根命者…額田部湯坐連…等之祖也」とある(第47回)。 天津日子根命は、天照大神と須佐之男命の誓(うけひ)によって成った五男神第二の、天菩比命の子である
 〈神代紀〉には、「天津彦根命、此茨城国造・額田部連等遠祖也」。
 〈姓氏録〉には〖左京/神別/天孫/額田部湯坐連/天津彦根命子明立天御影命之後也。允恭天皇御世。被薩摩国隼人
 復奏之日。献御馬一匹。額有町形廻毛。天皇嘉之賜額田部也〗
 〔〈允恭〉朝に、薩摩隼人の制圧に向かい、馬を連れ帰って献上した。その馬は額に「町型に毛を巡らし」天皇はこれを喜び額田部姓を賜った〕
 また、〖右京/神別/天神/額田部宿祢/明日名門命三世孫天村雲命之後也〗。他に〖額田部〗〖額田部河田連〗が見える。
 〈欽明〉二十二年には「額田部連」が新羅使を調賦儀式に案内。新羅使は百済使の下席だったことに腹を立て穴戸に向かった。
 〈推古〉十六年には「額田部連比羅夫」が唐客に礼辞を告げる。同十八年額田部連比羅夫」が新羅客を迎え「荘馬かざりうま之長」を務める。
 〈孝徳〉大化元年八月に「額田部連」を法頭とした。
 額田部の本拠地としては、〈倭名類聚抄〉{大和国・平群郡・額田【奴加多】郷}が考えられる(【額田邑】)。 〈大辞典〉は他に摂津、河内、伊勢、尾張、三河、伊賀、武蔵、上総、常陸、美濃、上野、越前、加賀、丹波、出雲、石見、播磨、備中、備後、周防、長門、讃岐、筑前、豊後の諸国に「額田部」を見出している。 そして「額田部連:大河内氏の族人として、ヌカタベの伴造家也」、〈天武〉十三年に「額田宿祢」を賜ったは「本宗の家にして庶流には連姓の者猶ほ尠〔すくな〕からず」と述べる。
 〈続紀〉文武四年〔700〕に「進大壱額田部連林…撰定律令」が見え、大宝律令撰定スタッフの一人であった。 このように有力な者でさえ、宿祢姓から漏れている。さらに〈続紀〉に「額田部宿祢」の者の名は見えない。
 おそらく多数の中小氏族がばらばらに「額田部連」を名乗り統制を欠いていたと見られる。その結果、「宿祢」姓を賜ったのはそのうち比較的大きな、もしくは功績のある一つの族に留まったのであろう。
26津守連  〈姓氏録〉〖津守宿祢〗は尾張連族で、宗家は住吉大社の神主家。津守宿祢は「津を守る」氏族であることを、仁徳段【墨江之津】項で見た。
 『天孫本紀』の天香語山系列〔尾張連系〕に「(五世孫)建筒草命【津守連…祖】」。
 〈神功皇后紀〉に「津守連之祖田裳見宿祢」。
 〈欽明〉紀四年十一月に「津守連百済」、すなわち百済に派遣されて外交交渉にあたる(〈四~五年)。 書紀はその名前が「己麻奴跪〔百済本記などが出典か〕の可能性を示すが、原注において訛りがあるだろうから不詳とする。
 〈皇極〉元年には「津守連大海」を高麗に派遣した。
 〈続紀〉に「津守宿祢」は、天平神護元年〔764〕二月「授従六位下津守宿祢真前外従五位下」など4例。 一方、和銅七年〔714〕津守連道(通)」の名前が4か所にあり、傍流であったと思われる。
27県犬養連  〈安閑〉紀には、二年八月「国々犬養部」、同九月「県犬養連…主-掌屯倉之税」が見える。 〈大辞典〉によれば犬養部は「犬を飼養して狩猟等に従事する品部」。
 〈姓氏録〉には〖左京/神別/天神/県犬養宿祢/神魂命八世孫阿居太都命之後也〗神魂命は、記上巻冒頭「天地初発之時」に成れる三番目の神「神産巣日神」(第30回)。
 〈壬申紀〉に「県犬養連大伴」。その項で「県-」は〈倭名類聚抄〉{河内国/大県郡}であろうと考えた。
 〈続紀〉は大宝元年〔701〕正月「直広壱県犬養宿祢大侶卒」。「県犬養宿祢」は他に75例。
 一方、〈続紀〉には〈県犬養連〉は2か所ある。大宝元年〔701〕七月「県犬養連大侶」は、詔の中でまだ連だった頃のことを語った言葉。 神亀四年〔727〕十二月「正三位県犬養橘宿祢三千代言。県犬養連五百依。安麻呂。小山守。大麻呂等。是一祖子孫。骨肉孔親。請、共沐天恩。同給宿禰姓。詔許之」 〔県犬養橘宿祢三千代は言う。「県犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂らは祖を同一とする親族であるが、天恩に蒙っていない。同じように宿祢姓を賜りたい。」これを許す〕。
 この件では実際に連姓のままだったことが分かるが、「宿祢」が大量に出てくるのに比べ、漏れは比較的少数のようである。遠隔地に住んでいるなどして、連絡が及ばず手続きが漏れたことが想像される。 一般的に、氏族が丸ごと姓を賜った場合であっても、個人別に戸籍を直したと考えられる。この例では届け出の時点で漏れたため、手続きされなかったのではないだろうか。
28稚犬養連  乙巳の変(〈皇極〉四年六月)で「(葛城)稚犬養連網田」は中大兄皇子〔〈天智〉天皇〕の配下で蘇我入鹿を殺した。 同一人物であることから、葛城稚犬養連と稚犬養連は同一と見られる。
 〈姓氏録〉は〖河内国/神別/天孫/若犬養宿祢/〔火明命〕十六世孫尻綱根命之後也〗〖和泉国/神別/天孫/若犬養宿祢/火明命十五世孫古利命之後也〗
 『天孫本紀』の天香語山命系列に「(六世孫)建多乎利命【笛連・若犬甘連等祖】」とあるから、尾張連系である。
 〈大辞典〉には「若犬甘連:尾張氏の族にして、若犬甘部の伴造家也」、「葛木稚犬連〔若犬甘連〕に同じ」とある。
 〈続紀〉は、慶雲元年〔704〕従六位下若犬養宿祢檳榔〔あぢまさ〕…並授従五位下」。 天平十五年〔743〕五月、天平二十年〔748〕に「若犬養宿祢東人」。「若犬養連」はない。
29玉祖連  〈倭名類聚抄〉に{河内国・高安郡・玉祖【多末乃於也】}。現代地名タマツクリは各地にある。
 〈姓氏録〉〖右京/神別/天神/玉祖宿祢/高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也〗〖河内国/神別/天神/玉祖宿祢〔天高御魂乃命〕十三世孫建荒木命之後也〗
 高御牟須比天高御魂の書紀における表記は「高皇産霊神」。天孫の直系の祖は、記の天照大神から書紀ではこの高皇産霊神に移る (第81回【なぜ天降りが、天照の子から孫に変更になったか】項、第84回まとめ)。
 品部としては、忌玉作/高魂命孫天明玉命之後也/天津彦火瓊々杵命。降-幸於葦原中国時。ともに五氏神部。陪-従皇孫降来。是時造-作玉璧以為神幣みてぐら。故号玉祖連。亦号玉作連
 すなわち、忌玉作玉祖連の別名で、天孫の天下りに随伴した五部神の一柱「玉祖命」を祖とする(第83回《五部神》)。
 〈大辞典〉「玉祖 タマノヤ タマノヲヤ:玉作部の伴造にて、玉作氏と同一なるが如し」。
 「玉作部 タマツクリベ:玉を作るを職とする品部なり」と述べるのは部の名前から推定したものと見られるが、誰もがそう考えるであろう。
 〈続紀〉に玉祖宿祢、玉祖連やその別表記と見られる名称は出て来ない。
30新田部連  新田部連は、〈斉明〉四年十一月に「舎人新田部米麻呂」および「舎人新田部連米麻呂」がある。前者はの脱落であろう。
 〈天智〉紀と〈天武〉紀の「新田部皇女」は、新田部が皇女の壬生〔養育部〕だったのであろう。
 〈姓氏録〉に〖左京/皇別/新田部宿祢/安寧天皇皇子磯津彦命之後也〗。 〈大辞典〉はこの〈姓氏録〉の記載について、「新田部朝臣(考証本には宿祢に作る)」と述べる。 その「磯津彦命」は〈安寧〉段の「師木津日子命」、〈安寧〉紀の「磯城津彦命」にあたると思われるが、記紀ともに「新田部連の祖」という記述は見えない (第103回)。
 〈大辞典〉は「新田部 ニヒタベ ニツタベ ニフタベ:職業部の一にして、田部の一種と考へらる」と述べる。 あるいは、開拓を専門とした職業部であろうか。
 〈続紀〉に、新田部宿祢、新田部連の氏人は見えない。
31倭文連  地名「倭文」は、〈倭名類聚抄〉{美作国・久米郡・倭文郷}、{淡路国・三原郡・倭文【之止里】郷}、{常陸国・久慈郡・倭文郷}に見える。 〈延喜式-神名〉には{伊勢国/鈴鹿郡/倭文神社}はじめ駿河、伊豆、甲斐、信濃、丹波〔二社〕、但馬、因幡、伯耆〔二社〕の各国にある。   これは全国各地に倭文部が居住して、倭文織〔しづりおり、しとり〕の生産に従事していたことを物語っている。その倭文織と見られる現物が、下池山古墳で発見されている(下述)。
 〈神代〉紀には「倭文神、此云斯図梨俄未〔しどりかみ〕」とある。 〈垂仁〉紀に「倭文部…并十箇品部」。
 〈姓氏録〉では「」に替えて「」が用いられる。〖大和国/神別/天神/委文宿祢/出神魂命之後大味宿祢也〗〖摂津国/神別/天神/委文連/角凝魂命男伊佐布魂命之後也〗
 また、〖河内国/神別/天神/委文宿祢/角凝魂命之後也〗角凝魂命は、〖税部/神魂命子角凝魂命之後也〗によって、神魂命の子であることが知れる。
 〈続紀〉には、倭文・委文(宿祢・連)の人は見えない。
32氷連  〈姓氏録〉には、〖左京/神別/天神/氷宿祢/石上同祖〗〖河内国/神別/天神/氷連/石上朝臣同祖。饒速日命十一世孫伊己灯宿祢之後也〗がある。
 〈大辞典〉は「氷 ヒ コホリ」、「氷部:氷室の氷を掌るを職とせし品部也」、 「氷連:物部氏の族にして、氷部の総領的伴造家也」と述べる。
 〈仁徳〉六十二年に「氷室」による氷の貯蔵の方法が載る。 氷部が実際に存在して氷室に従事したことを反映していると見てよいであろう。
 『天孫本紀』宇摩志摩治命系列(資料[39])に「〔麦入宿祢之子〕十一世孫:物部大前宿祢連公【氷連等祖】」とある。
 〈孝徳〉紀四年五月に「氷連老人」。 〈持統〉紀の「氷連老」は宿祢姓ではないが、これは〈天智〉三年を振り返る昔話の中に出てきたもの。
 〈続紀〉に氷宿祢・氷連の氏人は見えない。
33凡海連  〈姓氏録〉に〖右京/神別/地祇/凡海連/〔海神綿積命〕男穂高見命之後也〗〖摂津国/神別/地祇/凡海連/安曇宿祢同祖。綿積命六世孫小栲梨命之後也〗
 〈大辞典〉は、〖右京/未定雑姓/凡海連/火明命之後也〗について、これも実際は海神族だが、尾張氏の族にも大海氏があるので混同して火明命の後と言ったらしいと述べる。
 〈崇神〉紀に「妃…【一云。大海宿祢女八坂振天某辺】」。「宿祢」がついているが、〈崇神〉の時代の「宿祢」は、武内宿祢のように個人名につけた尊称。
 〈天武〉朱鳥元年九月「大海宿祢荒蒲、誄壬生事」。〈天武〉天皇の喪にあたり、壬生の事を誄〔しのひこと〕する。 この記事に関して〈大辞典〉は「大海連:天武天皇の壬生〔養育部〕は此の氏なりしより、天皇の御諱を大海人と申し奉るは之に因る」、 そして「凡海宿祢(海神族):朱鳥元年条には「大海宿祢荒蒲・壬生事を誄す、」とあるにより大海と凡海とが全く区別無〔き〕を知るべし」と述べる。
 〈続紀〉大宝元年〔701〕三月に「追大肆凡海宿祢麁鎌」。宿祢姓はこの1例。 養老五年〔721〕正月に「従七位下凡海連興志」。姓はこの一例。
34山部連  〈景行〉十八年に、〈景行〉天皇は「山部阿弭古之祖小左」に葦北で出会った。阿弭古アビコは古代の姓〔我孫子〕
 〈仁徳〉段に「山部大楯連」(第172回)。 〈清寧〉段では「山部連小楯〔〈顕宗〉即位前期では「山部連先祖、伊予来目部小楯」〕が億計・弘計兄弟〔〈顕宗〉・〈仁賢〉〕を発見した。 〈安閑〉元年閏十二月には「筑紫国胆狭山部〔筑紫の胆狭イサ山の山部〕
 〈大辞典〉「山部連〔大楯〕:山部の伴造家。…〔久米族の山部連〕とは別也」、 「久米族の山部連〔二王子を発見した小楯〕:山部の総領的伴造なれど〔上述〕とは流を異にす」。
 〈続紀〉に「山部宿祢」、「山部連」は見えない。
 「山部宿祢赤人」は有名な歌人。万葉に、(万)0317題詞「山部宿祢赤人望不尽山歌一首」、0322題詞「山部宿祢赤人至伊予温泉作歌一首」など多数の歌を残す。
 〈続紀〉延暦四年〔785〕五月に「臣子之礼。必避君諱。比者先帝御名及朕之諱。…改姓白髪部為真髪部。山部為」とある。 その〈桓武〉の諱は「山部」。先代〈光仁〉の諱は「白壁」。避諱のために「山部」は「」に改められた。
 〈大辞典〉は、「山部 ヤマベ:太古以来の大氏族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族…此の部は早く散乱…品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、 加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称中絶せしかば、これを研究すること甚だ難し」と嘆く。
35矢集連  〈姓氏録〉には〖左京/神別/天神/矢集連〔伊香我色乎命之後也〕〖右京/神別/天神/箭集宿祢〔神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〕、すなわち物部氏族
 『天孫本紀』宇摩志摩治命系列に「(八世孫)物部大母隅連公【矢集連等祖】」(資料[39])。
 〈大辞典〉によると「矢集 ヤツメ:矢ッ部の意にて、矢部の伴造かと云ふ」、 「矢集連:物部氏の族にて、矢部の伴造家かと云ふ」、 「矢部 ヤハギベ ヤベ:職業部の一にして、矢作部と云ふに同じく、矢を製する部民也」。
 〈続紀〉養老六年〔722〕二月「賜正六位上矢集宿祢虫麻呂田五町」、「矢集宿祢大唐」(2か所)。 天平三年〔730〕正月「箭集宿祢虫麻呂」(3か所)。天平十七年〔745〕正月「箭集宿祢堅石」。姓の「矢集連」は見えない。
36狭井連  〈天智〉即位前に「大山下狹井連檳榔〔あぢまさ〕」。
 本拠は〈神武〉段(第101回)の歌謡にある「狭井河」の地と考えられている。 山の辺の道に沿って、大神神社の北数百メートル北に行くと伝承地と狭井神社がある。
 〈姓氏録〉には〖左京/神別/天神/佐為連/速日命六世孫伊香我色乎命之後也〗
 〖山城国/神別/天神/佐為宿祢〔饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〕〖同上/佐為連〔饒速日命八世孫物部牟伎利足尼之後也〕
 〖大和国/神別/天神/佐為連/石上朝臣同祖。神饒速日命十七世孫伊己止足尼之後也〗。 よって、連姓の傍流が残存する。
 『天孫本紀』(資料[39])宇摩志摩治命系列には「(十世孫)物部石持連公【佐為連祖】」、 「(十一世孫)物部御辞連公【佐為連等祖】」。
 〈続紀〉には、文武四年〔700〕六月「狭井宿祢尺麻呂」の一例。「狭井連」は見えない。
37爪工連  〈姓氏録〉に〖左京/神別/天神/爪工連/神魂命子多久都玉命三世孫天仁木命之後也〗
 〖和泉国/神別/天神/爪工連/神魂命男多久豆玉命之後也。雄略天皇御世造紫蓋爪并奉-餝御座。仍賜爪工連姓
 〈大辞典〉は姓氏録が示すままに「爪工部 ツマタクミベ ハツクリ:紫蓋爪を造り、并に御座を餝り奉る品部なり」と述べる。 同辞典によると、美濃国の戸籍、および遠江国の『浜名郡輸租帳』に爪工部の人の名前があるという。
倭名類聚抄
 [十巻本] 巻六 服玩具八十六  :本朝式云齊王行具翳二枚【翳。音於計反。波】
 [ニ十巻本] 巻十四 服玩具百七十八  :本朝式云齊王行具十二枚【翳。音於計反。和名波】
 〈続紀〉に1例。天平宝字二年〔758〕八月「授…従六位上爪工宿祢飯足、並外従五位下」がある。
 「爪工」について〈大辞典〉は、「爪は和名抄に、「爪、本朝式・齊王行具の翳二枚」と「翳、和名・波」とあるが如く、至尊の玉体を翳蔽する具にして、所謂御蔭と称するものなり」 という。
 実際には、〈倭名類聚抄〉十巻本、ニ十巻本ともに「」とは書かれていない()。 しかし、それはともかくとしても、同書はを「〔身分の高い人の姿を隠すために、侍者が持ってかざす羽根の扇〕と同じものと解釈している。
 「紫蓋爪」の「」は高貴または帝の座をあらわし、「」は頭上の飾りである。 「」の形状は不明であるが、「併せて「御座」を餝(かざ)り奉(まつ)る」というから、御座周辺で用いる用具の一つであろう。
 「」を指先の「爪」以外で、装飾品類の名前に用いた例はなかなか見つからないが、橋の両端をツメという〈天智〉紀歌謡。二人の侍従が翳〔=爪?〕を持ち、両側から帝の座の前面を覆う使い方が想像ができないことはない。
38阿刀連  〈大辞典〉によれば「阿刀 アト:或は安斗、阿斗、迹、阿杼等に作る」。 阿斗はかつて物部守屋大連別業なりどころで、〈倭名類聚抄〉{河内国・渋川郡・跡部【阿止倍】郷}にあたり、 式内{跡部神社}の地と考えられる (〈推古〉十八年《阿斗河辺館》、 〈用明〉二年《阿都》、 〈敏達〉十二年に「阿斗桑市」)。
 したがって、この地の阿刀部を統率していた阿刀連は、物部族であろう。 実際〈姓氏録〉の〖阿刀連〗〖阿刀宿祢〗では、饒速日命を祖としている。
 すなわち〖山城国/神別/天神/阿刀連/同上〔饒速日命孫味饒田命之後也〕〖摂津国/神別/天神/阿刀連/神饒速日命之後也〗
 〖和泉国/神別/天神/阿刀連〔神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〕〖左京/神別/天神/阿刀宿祢/石上同祖〔神饒速日命之後也〕
 〖山城国/神別/天神/阿刀宿祢/石上朝臣同祖。饒速日命孫味饒田命之後也〗
 〈大辞典〉は「阿刀部 アトヘ:物部の一族にして阿刀物部と云ふに同じかるべし」、 「阿刀:阿刀部…の伴造の後裔なり」、 「阿刀連:阿刀造が後に連姓を賜ひしものなるべし」と述べる。
 〈壬申紀〉に「安斗連智徳」。 〈天武〉朱鳥元年正月に見える「阿斗連」は、連姓だから傍系であろう。
 〈続紀〉には和銅元年〔708〕正月「大伴宿祢宿奈麻呂…阿刀宿祢智徳」、 宝亀二年〔771〕十一月「阿刀宿祢真足」。
 また、慶雲元年〔704〕二月に「従五位上村主百済。改賜阿刀連」。 霊亀元年〔715〕四月「上村主通改賜阿刀連」。
 このように、上村主の者が阿刀連に編入された例がある。
 これについて論文「改氏姓からみた古代中下級官人氏族の社会様態」(濱道孝尚)〔 『大阪公大日本史』巻26;2023〕は、この改姓に注目して、 「阿刀氏」は、延喜年間には「学問・文筆分野での活躍」するようになり、「阿刀氏に帰化系で文筆を旨とする上村主氏が編入したことにより、このような氏族の性格の変化が生じた」と述べる。 阿刀連は、文筆という未経験の仕事を命じられたか、またはこの分野に自ら進出しようとして招き入れたことが考えられる。
 以後も、養老三年〔719〕五月「正八位下阿刀連人足等三人、並賜宿祢姓」、 神護景雲三年〔769〕七月「左京人阿刀造子老等五人賜阿刀宿祢」とあり、 傍系の人が五月雨さみだれ式に阿刀宿祢に編入されることが続く。
39茨田連  本拠と見られる「茨田」の地を見る。〈倭名類聚抄〉{河内国・茨田【万牟多】郡}があり、また〈仁徳〉段に「茨田堤」が出てくる第163回)。  茨田連の祖については、〈神武〉段に皇子「日子八井命者、茨田連手嶋連之祖」とある(第101回)。
 〈姓氏録〉には〖右京/皇別/茨田連/多朝臣同祖/神八井耳命男彦八井耳命之後也〗。彦八井耳命を神八井耳命の子とする点が、記〔神八井耳命の兄〕とは異なっている。
 また〖山城国/皇別/茨田連茨田宿祢同祖。彦八井耳命之後也〗〖河内国/皇別/茨田宿祢/多朝臣同祖。彦八井耳命之後也。男野現宿祢、仁徳天皇御代造茨田堤
 〈大辞典〉によると「茨田連:多臣の族にして、河内茨田屯倉の首長たりし氏也」。 この「茨田屯倉」は〈仁徳〉段「秦人茨田堤及茨田三宅」を指すようである(第163回)。
 以後、〈継体〉元年妃…茨田連小望女【或曰妹】曰關媛」、 〈皇極〉二年茨田池水大臭」が見える。
 〈続紀〉には、天平十七年〔745〕正月「茨田宿祢弓束」など「茨田宿祢」は9例。
 連姓は養老五年〔721〕正月「茨田連刀自女」、神護景雲三年〔769〕八月「茨田連稲床」が見える。
40田目連  〈皇極〉二年舎人田目連」。ただし、この「田目」は舎人連の個人名と見られる。
 〈大辞典〉によれば「多米部 タメベ:大炊の事に仕へ奉りし品部也」、 「多米連:神魂命五世孫天日鷲命之後と称す」、「田目 タメ〔多米〕氏に同じ」。
 〈姓氏録〉〖神別/天神/左京/多米連/多米宿祢同祖/神魂命五世孫天日和志命之後也。成務天皇御世。仕奉炊職賜多米連也〗
 以下はすべて〖神別/天神〗で、 〖右京/多米宿祢〔神御魂命〕五世孫天日鷲命之後。成務天皇御世。仕奉大炊寮。御飯香美。特賜嘉名〗
 〖大和国/多米宿祢〔神魂命〕神廿二世孫意保止命之後也〗
 〖摂津国/多米連/神魂命五世孫天比和志命之後也〗〖河内国/多米連/神魂命児天石都倭居命之後也〗
 〈続紀〉には、延暦七年〔788〕六月「多米連福雄」の1例が見える。
41少子部連  記では〈神武〉皇子神八井耳命を祖とする。
 〈雄略〉六年、 皇后が養蚕を希望したので、蜾蠃(すが)に国内の蚕〔コ〕を集めよと命じた。 蜾蠃はこれを「(人間の)子」と勘違いして嬰児を集めて天皇に献上した。〈雄略〉は大笑いして「お前が自分で養育せよ」と言った。 よって、蜾蠃は宮殿の下で嬰児を育て、少子部連の姓を賜った。
 〈姓氏録〉には〖左京/皇別/小子部宿祢/多朝臣同祖。神八井耳之後也。大泊瀬幼武天皇御世、所諸国、取-斂蚕児。誤聚小児之。天皇大哂。賜姓小児部連 があり、書紀と同内容の伝説が載る。
 また、〖和泉国/皇別/小子部連〔多朝臣同祖〕神八井耳命之後也〗
 〈大辞典〉はこれを「宮中の雑役に服せし品部…侏儒」と見て、〈天武〉四年の詔「侏儒を献上せよ」は、「我が国にも古くより侏儒を使役」したことを裏付けるものとする。
 ただ〈雄略〉紀の伝説自体は史実とは思われないが、それでも少年少女が宮廷で使役されたことが実際にあったからこそこの伝説が生まれたと見るべきであろう。 「浦嶼子」に「竪子」が出てくることは、少年を侍従とする文化があったことを伺わせる。 〈敏達〉即位前紀の「女孺」は、その場面ではたまたま成人女性だった可能性もあるが、起源は女児であったことによる名称と思われる。 よって、〈大辞典〉の「実際には侏儒である」との主張には同意し難い。
 〈続紀〉に「小(少)子部」宿祢・連は見えない。
42菟道連
 
宇治宿祢墓誌 クリックで拡大
京都市西京区大枝塚原町
宇治宿祢墓出土
(文化遺産オンライン)
 地名菟道、川の名前菟道河については、 〈垂仁〉三年菟道河泝之」、 〈仲哀〉元年菟道河」、 神功皇后-摂政元年菟道」・「菟道河」などに見える。
 〈仁徳〉即位前紀には、「菟道稚郎子」の「菟道宮」、および「菟道山上墓」(〈延喜式-諸陵寮〉)。
 {山城国・宇治【宇知】郡・宇治郷}は「菟道」。宇治橋がある(〈天武〉即位前紀《自菟道返焉》)。
 宇治宿祢は〈姓氏録〉には〖山城国/神別/天神/宇治宿祢/饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〗
 『天孫本紀』宇摩志摩治命系列には「(六世孫)伊香色雄命―(七世孫)多弁宿祢命(母は山城県主祖長溝の女真木姫)【宇治部連・交野連等祖】」。(資料[39])
 〈大辞典〉によれば「宇治 ウヂ:日本書紀菟道に作る。…稚郎子の御座せし地にて、其の御名代部なる宇治部は諸国に栄えしかは、此の宇治部の住みしより起りし宇治邑も多かるべし」、 「宇治連:天武紀には菟道連に作る、十三年条宿祢姓を賜ふ。宇治部連ともあるを以つて、宇治部の伴造なるより、其の名を負ふと見るも可なり。物部氏の一族とす」。
 〈続紀〉に「宇治(菟道)」宿祢・連は見えない。
 しかし〈大辞典〉は「宇治宿祢:…天平二十年〔747〕八月廿六日に山城国宇治郡加美郷家地売買券に「地主加美郷戸主宇治宿祢大国…」」はじめ「宇治宿祢」五名の名を見出していて、「この氏は宇治郡にて勢力を振ひしや明白なり」という。
 また「大正六年一月十五日山城国乙訓郡大枝村塚原・字富田の竹藪より宇治宿祢の墓誌発見さる。(銅製骨壺、銅版誌に納む)」という。
 その墓誌は右図で、「前誓願物部神」、「八継孫宇治宿祢」と読める。日付は「■雲二年十二月〔慶雲二年〔十二月二日から706年〕か〕と読める。
43小治田連  小治田については、〈允恭〉五年に「小墾田采女」。「小墾田」は采女の出身地であろう。また〈安閑〉元年に「小墾田屯倉」。 〈欽明〉十三年では、釈迦金銅像または稲目宿祢を「-置小墾田」。
 〈推古〉天皇の「小治田宮」(小墾田宮)の位置は、雷丘付近に確定している(第249回)。 〈斉明〉元年には「小墾田」に新たに寺院様式によって宮殿を作ろうとしたが、資材の調達ができずあきらめたとある。
 氏族としては、〈壬申〉に「小墾田猪手」の名前がある。
 〈姓氏録〉には〖左京/神別/天神/小治田宿祢/石上同祖〔神饒速日命之後也〕。欽明天皇御代。依-開小治田鮎田小治田大連
 〖右京/神別/天神/小治田連〔神饒速日命〕六世孫伊香我色雄命之後也〗
 『天孫本紀』には「饒速日尊―宇摩志摩治命―産湯支命―出雲醜大臣命―(四世孫)六見宿祢命【小治田連等祖】」(資料[39])。 よって〈大辞典〉は「小治田連:物部氏の族」とする。
 〈続紀〉神護景雲二年〔768〕十二月甲子「尾張国山田郡人従六位下小治田連薬等八人賜姓尾張宿祢」 を見ると、小治田連は尾張系のようにも思えるが、〈姓氏録〉の「宇摩志摩治命」系列の方が本流で、尾張に移った人を対象としたと見るべきであろう。
 〈続紀〉には「小治田朝臣」が大量にあるが「小治田宿祢」は見えない。「小治田朝臣」(〖皇別/武内宿祢五世孫稲目宿祢之後〗)は「小墾田臣」がさる十三年十一月に朝臣姓を賜った一族であってここの小治田連とは別族である。
 「小治田連」の後の「小治田宿祢」が〈続紀〉に見えないのは、たまたま書くべき人物がいなかったのであろう。
44猪使連  〈安寧〉紀には皇子「磯城津彦命、是猪使連之始祖也」。 〈姓氏録〉には〖右京/皇別/猪使宿祢/安寧天皇皇子志紀都比古命之後也〗とあり、書紀と一致する。 一方、記では「師木津日子命」と表記しつつ、その子孫が「猪使連」であるとは書かれていない。
 なお、「五十氏賜姓曰宿祢」の記事の直後に「猪使連子首」のことが載る。
 〈大辞典〉によれば「猪使部 ヰツカヒベ:猪飼に同じ、即ち家猪(豕)を飼養とせし品部なり。…古代共に名族を出せるを見れば、相当繁盛せし品部」、 「猪使連:猪使部の伴造家にして、〔神代本紀によれば〕神魂命の後裔と云ふ」。 『神代本紀』には「七代…神皇産霊尊児…生魂命【猪使連等祖】」とある。
 〈続紀〉に「猪使」・「猪飼」・「猪養」・「猪甘」は見えない。
45海犬養連  海犬養連の氏人は、〈皇極〉四年六月に「海犬養連勝麻呂」。乙巳の変において、中大兄皇子の配下であった。
 〈姓氏録〉には〖右京/神別/地祇/海犬養/海神綿積命之後也〗があるが、無姓。宿祢姓を賜った宗家の傍流か。宗家を含めて、海神綿積豊玉彦神の子を祖とする安曇氏と同族と考えられる。
 〈大辞典〉によれば「海犬養 アマノイヌカヒ:海部族にして犬養の職にありしものを云ふ」。
 〈続紀〉には、天平十二年〔740〕十一月「差軍曹海犬養五百依。発遣令迎逆人」が見えるが、無姓。
 〈大辞典〉には「海犬養連:天平二十年〔748〕の写書所解に「海犬甘連広足(年卅六…)」」。『写書所解』は、写書所の人事管理のための書類。 連姓だから傍流である。結局、宗家は宿祢姓のはずだが、その人物の記述は見られない。
46間人連  間人氏族については、〈大辞典〉は「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か」という。
 連姓の人物については、〈推古〉十八年間人連塩蓋」。拝朝行事で任那使を先導した。 〈孝徳〉白雉五年には遣唐使一行に「中臣間人連」。〈斉明〉三年には「間人連御廐」。新羅相手に外交交渉。 〈天智〉二年間人連大蓋」は新羅に送ったとされる〔本サイトは懐疑的〕大軍の将軍の一人。 〈天武〉の四年四月には広瀬大忌神を祀るために派遣。
 〈姓氏録〉〖皇別〗〖左京/間人宿祢/仲哀天皇皇子誉屋別命之後也〗〖山城国/間人造/間人宿祢同祖/誉屋別命之後也〗〖阿閉間人臣〗
 〈大辞典〉は「間人宿祢(皇別):仲哀帝裔にして、〔間人造〕の宿祢姓を賜へる者也」、 「間人造:間人とは蓋し一種の部民にして、此の氏はその伴造かと考へらる」と述べる。
 〈姓氏録〉は〖神別〗〖左京/天神/間人宿祢/神魂命五世孫玉櫛比古命之後也〗
 〈大辞典〉によれば「間人宿祢(神別):神魂尊の裔、間人連の宿祢姓を賜へる者也」。よって、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った間人連は神別である。 〈大辞典〉はさらに「間人連:神魂尊の裔にして、天神本紀に「天玉櫛彦命、間人連等の祖」」と述べる。
 〈続紀〉には大宝二年〔702〕正月「丹比間人宿祢足嶋」。「丹比間人宿祢」は他に2例。 〈大辞典〉によれば「丹比間人宿祢:尾張氏の族」。
 臣姓の「阿閉間人臣人足」が延暦四年〔785〕六月以下4例。 〈大辞典〉によれば「阿閉間人臣:安倍氏の族」。
47舂米連  〈仁徳〉十三年に「始立茨田屯倉、因定舂米部」。
 〈姓氏録〉は〖左京/神別/天神/舂米宿祢/石上同祖/〔神饒速日命之後也〕
 〈大辞典〉によれば「舂米 ツキシネベ:米を舂くを職とせし品部なり」、 「河内の舂米部:茨田屯倉の舂米部」、 「舂米連:物部氏の族にして、舂米部の総領的伴造たりし氏也。本貫は河内か」という。
 〈続紀〉に「舂米」宿祢・連は見えない。
48美濃矢集連  〈倭名類聚抄〉{美濃国・可児郡・矢集郷}があるから、その地を本拠とする矢集部か。
 〈姓氏録〉、〈続紀〉には「美濃矢集」という族は見えない。 矢集連の分流で、美濃国に本拠をもつのだろうと思われるが、それ以外は分からない。 ただ、宿祢姓を賜ったという以上、独立した有力勢力であったことだろう。
 なお、「美濃連」とする古写本もある。これについては〈大辞典〉に「中臣美濃連:中臣氏の族と称す」がある。
49諸会臣  〈姓氏録〉、〈続紀〉に見えない。
 〈大辞典〉「諸会 モロアヒ:」、  「諸会臣:天武朝、宿祢姓を賜ふ」、「諸会宿祢:天武紀十三年条に「諸会臣云々、姓を賜ひて宿祢と曰ふ」と見ゆ」。
 資料は以上がすべてで、他には何も見出されない。
50布留連
〈姓氏録〉
〖大和国/皇別/布留宿祢/柿本朝臣同祖/
天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後也。
-男木事命-男市川臣。大鷦鷯天皇御世。
〔建?〕倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地
市川臣神主
四世孫額田臣〔男〕武蔵臣、斉明天皇御世、
宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首
玆失臣姓物部首
男正五位上日向。
天武天皇御世依社地名布瑠宿祢姓
日向三世孫邑智等也〗
……天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の七世(ななよ)の孫(むまご)米餅搗大使主命(たがねつきのおほおみのみこと)の後なり。
〔米餅搗大使主命の〕男(をとこ)木事命の男(をとこ)市川臣(いちかはのおみ)、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)〔仁徳〕の御世、
倭賀布都努斯(わかふつぬし)の神社(かむやしろ)を石上(いそのかみ)の御布瑠村(みふるむら)の高庭(たかには)の地(ところ)に建(つく)りたまひて、
市川臣を以て神主(かむぬし)と為(な)したまふ。
四世(よよ)の孫額田臣(ぬかたのおみ)〔の男〕武蔵臣(むさしのおみ)は、斉明天皇の御世、
宗我蝦夷(そがのえみし)の大臣(おほまへつきみ)、武蔵臣(むさしのおみ)を物部首(もののべのおびと)并(ならびに)神主首(かむぬしのおびと)と号(なづ)けり。
玆(これ)に因りて、臣(おみ)の姓(かばね)を失ひて物部首(もののべのおびと)と為れり。
男(おとこ)正五位上日向(ひむか)は、天武天皇の御世(みよ)、社地(やしろのところ)の名に依りて布瑠宿祢(ふるのすくね)の姓(かばね)に改めたまふ。
日向の三世(みよ)の孫は、邑智(むらち)等(ら)なり。
 〈姓氏録〉〖皇別/布留宿祢〗全文を読み下す()。
 倭賀布都努斯稚-経津主であろうが、経津主神にワカ-をつけた神名は他に見ない。 フツは、その地名布留から派生したものか。布留は石上〔イソノカミ〕の同地、または隣接地である。
 〈孝昭〉段(第105回)では、 皇子「天押帯日子命」は、春日臣ら十六臣の祖とされ、〈書紀〉の「天足彦国押人命」に対応する。
 〈大辞典〉所引の「駿河浅間大社の大宮寺家」所蔵系図によると、「天足彦国押人命…(八世孫)米餅搗大臣命―市河臣」とあり、 〈姓氏録〉の〖天足彦国押人命…(七世孫)米餅搗大使主命―木事命―市川臣〗とかなり類似する。
 さらに〈垂仁〉三十九年には「〔石上神宮の〕神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河治、是今物部首之始祖也」とあり、 すなわち、春日臣族市河が神主となり、物部首の始祖となったとする〔なお、〈姓氏録〉はこれを〈仁徳〉御世のこととしている〕
 結局〈姓氏録〉〖布留連〗にいう〖物部首〗は春日氏族であって、饒速日命を祖とする物部氏族とは無関係であることが確定する。 「物部首」は〈天武〉十二年九月に連姓を賜った。
 それから一定期間は同名異族の「物部連」が共存したことを、資料[37]の《天武天皇紀に見る物部氏》項で見た。 最終的には春日氏族が「布留宿祢」、饒速日命氏族が「石上朝臣」となり、公式の名称としての「物部」は消滅した。
 なお、〈続紀〉に「布留宿祢」は見えない。
《土師宿祢のその後》
『続日本紀』 延暦元年〔782〕五月
癸卯。少内記正八位上土師宿祢安人等言。
「臣等遠祖野見宿祢。造-作物象以代殉人裕後昆生民頼之。
而其後。子孫動〔勤?〕-預凶儀-念祖業意不茲。
是以土師宿祢古人等。前年因居地名姓菅原
当時安人任在遠国不及例。望請。土師之字改為秋篠。」
詔許之。於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠
癸卯(みづのとう)〔二十一日〕。少内記正八位上土師宿祢安人等(ら)言(まう)さく
「臣等(やつかれども)の遠祖(とほつおや)野見宿祢(のみのすくね)は、物象(ものかた)〔埴輪〕を造作(つく)りて、以ちて殉(おひてしぬ)〔殉死する〕人に代はりて裕(ゆたけき)を後(のち)の昆(はらから)に垂れて民(おほみたから)を生くこと之に頼(たよ)れり。
而(しかれども)其の後(のち)、子孫(うみのこ)凶儀(はぶりのこと)を勤め預(あづか)れど、祖(おや)の業(なり)を尋(たづ)ね念(おも)へば意(こころ)茲(ここ)に不在(あらず)。
是(こ)を以て土師宿祢の古人(ふるひと)等(ら)、前年(こぞ)に居(はべ)る地(ところ)の名に因(よ)りて姓(かばね)を菅原に改ためたり。当(その)時安人任(おほ)して遠国(とほつくに)に在りて例(あと)に預(あづ)かるに不及(およばず)。望み請(まを)す。土師之(の)字(あざな)を改めて秋篠と為(な)したまへ。」とまうす。
詔(みことのり)して許之(ゆるしたまふ)。於是(ここに)安人の兄弟(はらから)男女(をとこをみな)六人(むたり)姓(かばね)秋篠を賜ふ。
 〈続紀〉にあるように(上述)、天応元年〔781〕に土師宿祢古人らが菅原宿祢、延暦元年〔782〕に土師宿祢安人らが秋篠宿祢に改姓した。 ただ、改姓は申し出た者に限られたようで、以後も「土師宿祢」は残り、また遅れて「秋篠」に改姓する者も見える。
 すなわち、延暦二年〔783〕正月になっても「土師宿祢公足」が見え、また延暦四年〔784〕八月に「右京人土師宿祢淡海、其姉諸主等。改本姓秋篠宿祢」とある。
 延暦九年〔789〕十二月壬辰〔一日〕には桓武天皇の「外祖母土師宿祢〔真妹〕」を「大枝朝臣」に改める。 同月辛酉〔三十日〕には「菅原宿祢道長。秋篠宿祢安人等。並賜姓朝臣。又正六位上土師宿祢諸士等賜姓大枝朝臣」、すなわち菅原・秋篠は朝臣姓を賜り、土師宿祢もおそらく正六位上以上ならば朝臣姓を賜った。 逆に言えば、菅原または秋篠に改姓せず、かつ冠位が正六位上未満は土師宿祢のままで置かれたことになる。
 土師宿祢の氏人の多くは既に「凶儀」からは離れていたから、先祖の業を引きずる土師姓を改めたいと考えたのである。〈姓氏録〉はその心理を正直に語っている。 穢れを忌み嫌い日常から切り離したい意識は、時代と共に高まったきた。宿祢姓という高貴な格を誇りたいのに、「土師」がもつ穢れのイメージを引きずることに耐え切れなくなったのであろう。
《境部連の三流》
 〈大辞典〉は、境部連(坂合部連)には次の「三流」があると述べる。
多臣族」:
 〈神武〉段(第101回):「〔皇子〕神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連…等之祖」とあることによる族。
坂合部連(安倍氏族)」:
 〈姓氏録〉〖摂津国/坂合部〔連〕/大彦命之後也/允恭天皇御世。造-立国境之標よりて坂合部連によるもの。
 すなわち〈允恭〉朝に国境の標識を立てたので坂合部連姓を賜ったとする。なお、この時代の「国」は国造あるいは県主〔いずれも後の郡レベル〕をいう。 〖国境之標〗〖造立〗した範囲はせいぜい畿内の一部に留まるだろう。 ただ、後世になって河内・和泉1)・摂津2)三国の境界を決定したことを〈允恭〉朝に遡らせて崇高化した可能性がある。
  1)…河内国から和泉地域が分離したのは、716年の「和泉監」の設置(〈允恭〉紀:【河内茅渟】項)。
  2)…摂津国の起源は、646年に国司を配置した国のひとつ「津の国」(改新詔其二曰)、もしくは677年の「摂津職」の設置( 〈天武〉六年十月)。
 もしそれなら、境部連の本貫は、この三国の境界であることが地名化した「」である可能性が高まる。
 さて、この〈姓氏録〉説に対して、記紀では、
 記〈孝元〉段「〔〈孝元〉皇子〕大毘古命之子建沼河別命者、阿倍臣等之祖」(第108回)。
 〈孝元紀〉〔皇子〕大彦命、是阿倍臣阿倍臣・膳臣・阿閉臣…」。
 となっていて、ともに大彦の子孫に「坂合部(臣・連)」は含まれず、根拠は〈姓氏録〉のみである。
境部連(尾張氏族)」・「坂合部連(尾張氏族)」:
 国立国会図書館デジタルコレクションの検索機能をつかって〈大辞典〉を隈なく調べたが、「尾張氏族の境部連」の存在の典拠は同書にはどうやら示されていない。
 広く調べると、〈姓氏録〉〖左京/神別/天孫/坂合部宿祢/火明命八世孫迩倍足尼之後也〗〖神別/天孫/尾張連/火明命五世孫武礪目命之後也〗が共通の祖、「火明命」をもつことによるようだ。 尾張連の祖については、〈神代紀〉にも第87回【書紀本文】項「〔瓊瓊杵尊の子(記では兄)〕火明命。是尾張連等始祖也」とある。
 〈大辞典〉は一つめの「多臣族境部連」は、「境部連(尾張氏族)」と「姻籍などの関係ありて、同じ此の氏を称するに至りしならん」との推定を示す。 これは「尾張氏族のある代の子が多臣族の安倍氏から女を娶り、その子孫が『多臣を祖とする境部連』と名乗るようになった」という意味だと思われる。
《刑部》
 刑部オサカベと訓む根拠は、〈倭名類聚抄〉{伊勢国・三重郡・刑部【於佐加倍】}はじめ、{遠江国・引佐郡}、{備中国・賀夜郡および英賀郡}の{刑部郷}がすべて「於佐加倍」と注されるところにある。 刑部には罪人を取り締まり裁く品部としての刑部と、御名代としての刑部の二種類がある。 『令義解』、及び〈持統〉紀の令前官として出てくる「刑部省」は、前者の性格を物語っている。
 〈天武〉紀以前には刑部が三例ある。
 そのうち〈垂仁〉三十九年の「神刑部」は前者の神話的由来、 〈敏達〉十二年の「刑部」も前者。
 一方、〈允恭〉二年の「刑部」は忍坂大中姫のための御名代なので後者である。 もともと忍坂(また押坂)を本拠とする部がオサカベ〔忍坂部〕で、大中姫の壬生であったことが姫の名に反映したと見られる。 その「忍坂部」が同時に「刑部」なる職務を負っていたとしても、別に不思議ではない。〈允恭〉紀の表記は、それを示すものと解釈できる。 あるいはその「忍坂部」が二流に分かれて、それぞれの性格を負うようになったことも考えられる。
 〈大辞典〉も同じ判断で、「「此のオサカベの人が後に刑部(ウタヘ)の職に仕奉りし事にありしによりてなるべし」との記伝〔本居宣長の古事記伝〕の説に従ふべきか。 兎に角、単に刑部と記せるときは御名代部なるや、ウタヘの職に仕ふる品部なるや決し難き訳なり」という。
《弓削への賜姓と剥奪》
 弓削連浄人は、天平宝字八年〔764〕七月に宿祢を賜った後に急激に出世し、同年九月「弓削宿祢浄人、賜姓弓削御浄朝臣」、すなわち朝臣姓を賜る。
 宝亀元年〔770〕四月には「従五位上弓削宿祢牛養等九人賜姓弓削朝臣。外従五位下弓削連耳高等卅八人宿祢」、 すなわち九人の弓削宿祢が朝臣姓、三十八人の弓削連が宿祢姓を賜った。浄人の栄誉が一族に波及したのであろう。
 しかし、浄人はその後兄の道鏡の非行の罪を背負わされ、同じ年〔770〕同八月「道鏡弟弓削浄人、浄人男広方・広田・広津於土左国〔無姓となりその子らとともに土佐国に流刑〕となった。
 そして、宝亀六年〔775〕先是。天平宝字八年〔764〕。以弓削宿祢御清朝臣。連為宿祢。至是皆復本姓。〔天平宝字八年〔以後?〕弓削宿祢を御清朝臣に、連を宿祢に上げたが、本の姓に戻せ〕として、弓削一族の姓は764年以前に戻された。
 宝亀七年〔776〕三月には「勅。前日改弓削宿祢。復弓削連。但故従五位下弓削宿祢薩摩。依旧勿〔前日〔前年のことか〕弓削宿祢を連姓に戻したが、故人となった弓削宿祢薩摩は元の宿祢姓のままとせよ〕と勅された。
 この薩摩は初出〔765〕の時点では「弓削宿祢薩摩」だが、764年の時点で以前の連姓から宿祢姓を賜ったことになる。
 天応元年〔781〕六月になり「河内国若江郡人弓削浄人…去宝亀元年配土左国。宜其罪二上-還本郷。但不入京〔河内国若江郡の人、弓削浄人は去る宝亀元年に土左国に配流されたが、罪を赦して解放し、元の郷へ戻すべし。但し京に入ってはならない〕として、流刑が取り消された。
 この経過から、八色の姓における序列:「朝臣>宿祢>連」が奈良時代になっても維持されていたことが分かる。その賜姓は、基本的には個人に対して行われたようである。 また、〈天武〉十三年の後にもなお連姓の者が残っていたようで、宿祢への賜姓の対象になり得るか否かには何らかの線引きがあったことになる。
《倭文織》
 
縞織物 1つの縞織物にみられる異なる縞模様を示す。
「天理市下池山古墳出土の繊維製品についての調査」より
 1996年2月に、天理市池山古墳(前方後方墳、3世紀末)から大型内行花文鏡と共に縞織物などの繊維類が発見され、次の報告の著者の元にその調査依頼があったという。 その調査報告が、「天理市下池山古墳出土の繊維製品についての調査」布目順郎『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第22冊;奈良県立橿原考古学研究所1999〕に載る。 一部抜粋する。
――「弥生時代になると、九州、近畿、東海地方などから大麻布が出土しているから、古墳時代前期には日本各地で生産していたと見られる」。 下池山古墳で発見された「縞織物の縞部分のタテ糸は、茶縞も藍縞もともに大麻であるのに対し、 地部分のタテ糸は絹、また、ヨコ糸は縞部分と地部分に共通して、すべで絹でであることが判明した」(p.58)。
――「絹織物の場合…糸に撚りをかけないのが普通である。しかし、我が国の弥生絹の多くは撚られている」、 「下池山の縞織物や平織物の絹の織糸に撚りが見られることは、…日本製と見て誤りないであろう」(p.60)。
――「万葉歌の中に「いにしへの倭文機帯しつはたおび」などとあり、そのイニシヘという語は「倭文という織物の古さを物語っている」、 「下池山古墳の縞織物の絹繊維が日本製とみられることと、それが3世紀末という古い時代のものであることからすれば、これは倭文以外の何物でもないであろう」(p.64)。
――「しどり」には「一般には倭文の二文字で表現されることが多い。それはおそらく、しどりの素材が一定しないところから、総括的名称として通用するようになったものであろう」、 「しどりの呼び名に倭文の字を当てたのは、おそらく天神系の知識人であったに違いない」(p.63)。
 つまり、絹織物の絹に撚りをかけるのは、弥生時代から見られる日本特有の技法である。 その特徴が見られることから池山古墳出土の繊維製品は日本製で、これが「倭文」と呼ばれた製品の現物だと断定できるという。
 その起源は弥生時代に遡るとのことで、当然全国的な広がりが考えられる。「倭文部」はその生産に従事した品部だから、各地に存在したと理解することができる。
 日本書紀においては「」は律令「大和国」を指すために使われるが、だからと言って「倭文」が「大和国地域から発祥」を決して意味しないことは明らかである。 日本を「倭」を呼ぶ中国の流儀を用いたものであろう。おそらく史〔ふみひと〕の職を担った渡来人がこの字をあてたものと想像される。
 なお、〈姓氏録〉の表記「委文部」からは、志賀島出土の「漢委奴國王」印が連想されて興味深いが、時代が全く異なるので無関係である。 人偏を省いた形の通用は、日本独自の習慣であろう〔同様に、"村"を"寸"とする例が見られる〕
《賜姓の適用範囲》
 「五十氏賜姓曰宿祢」を文字通りに読めば、次のAとなる。 しかし、実際の適用範囲には境界線があったたのではないだろうか。考え得るのは次のBDで、下に行くほど対象は狭まる。
 A 賜姓は、名前が挙がった氏族に所属する全員に機械的に適用された。
 B 原則はAだが、戸籍に反映する段階で漏れて元の姓の者が残った。
 C 実際には同名の氏族が複数存在し、そのうち宗家筋、もしくは国家に顕著な貢献のあった氏族に対して選択的に賜姓された。
 D 対象はその氏族全員ではなく、その氏上クラス、または貢献が認められた一部の者を選んで賜姓された。  
 〈大辞典〉の見方はCで、同書は宿祢姓を賜った族を「本宗の家」、連姓に留まったものを「庶流」と呼んでいる。
 ここまでに各氏族について〈続紀〉、〈姓氏録〉を見たが、 ADのすべての場合があったと見るのが現実的と思われる。
 ひとつのケースとして、分流がなく固くまとまっている氏族についてはAは可能だが、その場合は人数が少なく大きな力を持ち得なかっただろうから、むしろDになるように思われる。

67目次 【十四年正月~三月】
《更改爵位之號仍増加階級》
十四年春正月丁未朔戊申。
百寮拜朝庭。
十四年(とあまりよとせ)春正月(むつき)丁未(ひのとひつじ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)。〔二日〕
百寮(もものつかさ)朝庭(みかど)を拝(をろが)みまつる。
丁卯。
更改爵位之號、
仍増加階級。
明位二階
淨位四階、
毎階有大廣、
幷十二階、 以前諸王已上之位。
爵位…〈閣〉爵位 クラヰ 之号階級シナ\/ヲ[句]ミヤウ[句]交本
〈兼右本〉明-ミヤウ浄-シヤウ
以前…〈北〉并十二階以-コレ。 〈閣〉以-前 コレハ 。 「以前」は、「ここまでに書いたことは」の意。
…[名] 酒器。功を挙げたものに酒器の爵を与えたことから、爵位の意に転じた。
丁卯(ひのとう)。〔二十一日〕
爵位(くらゐ)之(の)号(な)を更改(あらた)めて、
仍(よ)りて階級(しな)を増加(くは)へたまふ。
明位(みやうゐ)は二階(ふたしな)
浄位(じやうゐ)は四階(よしな)、
階(しな)毎に大(だい)広(くわう)を有(も)ちて、
并(あは)せて十二階(とあまりふたしな)、
以前(こをもちて)諸王(もろもろのみこ)より已上(かむつかた)之(の)位(くらゐ)としたまふ。
正位四階
直位四階
勤位四階
務位四階
追位四階
進位四階、
毎階有大廣、
并四十八階、
以前諸臣之位。
正位四階…〈北〉チキ○四
〈閣〉シヤウコン○○ ムツイ
〈兼右本〉ゴン-位
正位(しやうゐ)四階(よしな)、
直位(ぢきゐ)四階、
勤位(ごんゐ)四階、
務位(むゐ)四階、
追位(ついゐ)四階、
進位(しんゐ)四階、
階(しな)毎に大(だい)広(くわう)を有(も)ちて、
并(あは)せて四十八階(よそあまりやしな)、
以前(こをもちて)諸臣(もろもろのおみ)之(の)位(くらゐ)としたまふ。
是日。
草壁皇子尊
授淨廣壹位。
大津皇子
授淨大貳位。
高市皇子
授淨廣貳位。
川嶋皇子
忍壁皇子
授淨大參位。
自此以下諸王諸臣等
増加爵位各有差。
浄広壱位…〈閣〉┌塵清本壹位
是(この)日。
草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)に
浄広壱位(じやうくわういちゐ)を授(さづ)けたまふ。
大津皇子(おほつのみこ)に
浄大弍位(じやうだいにゐ)を授けたまふ。
高市皇子(たけちのみこ)に
浄広弍位(じやうくわうにゐ)を授けたまふ。
川嶋皇子(かはしまのみこ)、
忍壁皇子(おさかべのみこ)に
浄大参位(じやうだいさむゐ)を授けたまふ。
此(これ)自(よ)り以下(しもつかた)の諸王(もろもろのみこ)諸臣(もろもろのおみ)等(たち)に
爵位(くらゐ)を増加(くはふること)各(おのもおのも)差(しな)有り。
二月丁丑朔庚辰。〔四日〕
大唐人百濟人高麗人、
幷百卌七人賜爵位。
二月(きさらき)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として庚辰(かのえたつ)。〔四日〕
大唐(だいたう、もろこし)の人、百済(くたら)の人、高麗(こま)の人、
并(あは)せて百四十七人(ももあまりよそあまりななたり)に爵位(くらゐ)を賜(たま)ふ。
三月丙午朔己未。
饗金物儒於筑紫、
卽從筑紫歸之。
仍流着新羅人七口附物儒還之。
流着新羅人…〈北〉新羅人
三月(やよひ)丙午(ひのえうま)を朔(つきたち)として己未(つちのとひつじ)。〔十四日〕
金物儒(こむもつじゆ)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)したまひて、
即(すなはち)筑紫(つくし)従(ゆ)帰之(まかりかへる)。
仍(よ)りて流れ着(つ)きてをりし新羅(しらき)の人七口(ななたり)を、物儒(もつじゆ)に附(つ)けて還之(かへ)しつ。
辛酉。
京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努卒。
京職大夫…〈北〉京職大夫ミサトノツカサノカミチキタイ○○サンタメ
〈閣〉巨勢許交本 朝臣辛檀努シタノ
〈釈紀〉ミヤコノ職大/ミサトノソカサノツミ辛檀努シタノ。 私記説
辛酉(かのととり)。〔十六日〕
京(みやこ、みさと)の職(つかさ)の大夫(かみ)直大参(ぢきだいさむ)巨勢朝臣(こせのあそみ)辛檀努(しんだんぬ)卒(そつす、みまかる)。
壬申。

「諸國毎家作佛舍、
乃置佛像及經、
以禮拜供養。」
仏舎…〈北〉佛-舍 テラ キヤウ供-養クヤウセヨ
〈閣〉佛舍ーーテラ ミアラカ オホトノヲ四字音讀セヨ
〈釈紀〉礼拜ライハイヤウ。  私記曰。四字音讀
壬申(みづのえさる)。〔二十七日〕
詔(みことのり)のりたまはく
「諸(もろもろ)の国毎(ごと)に家(やかす)に仏舍(てら)を作りて、
乃(すなはち)仏像(ほとけのみかた)及びに経(きやう)を置きて、
以ちて礼(ゐや)拝(をろが)みて供養(くやう)せよ。」とのりたまふ。
是月。
灰零於信濃國、
草木皆枯焉。
灰零…〈兼右本〉 レリ
是(この)月は。
[於]信濃(しなの)の国に灰(はひ)零(ふ)りて、
草木皆枯(か)れてあり[焉]。
(諸臣)
爵位
四十八階
正大一位
正広一位
正大二位
正広二位
正大三位
正広三位
正大四位
正広四位
直大一位
直広一位
直大二位
直広二位
直大三位
直広三位
直大四位
直広四位
勤大一位
勤広一位
勤大二位
勤広二位
勤大三位
勤広三位
勤大四位
勤広四位
務大一位
務広一位
務大二位
務広二位
務大三位
務広三位
務大四位
務広四位
追大一位
追広一位
追大二位
追広二位
追大三位
追広三位
追大四位
追広四位
進大一位
進広一位
進大二位
進広二位
進大三位
進広三位
進大四位
進広四位
《百寮拝朝庭》
 「朝庭」は朝廷とも朝堂院前の庭と考えられる。後者なら「拝於朝庭」と書かれただろうと思われるので、前者として読んでおく。
 十四年の年初の行事はこれだけである。 例年の「」は書かれなかっただけのようにも思えるが、五月庚戌に「射於南門」の記事があるから、延期と読むべきか。 その場合の理由としては、賜姓に関わる行事に忙殺されていたことが考えられる。
(諸王)
爵位十二階
十四年正月二日の
親王への叙位
明大一位
明広一位
明大二位
明広二位
浄大一位
浄広一位 草壁皇子尊
浄大二位 大津皇子
浄広二位 高市皇子
浄大三位 川嶋皇子 忍壁皇子
浄広三位
浄大四位
浄広四位
《更改爵位之号:諸王》
 諸王の爵位はこれまでは「諸王~位」であったが、各位の冠位二十六階との対応は明示されてない。
 これについては〈天武〉十二年十二月
《諸王五位》項でひとつの推定を示した。 そこでは、以前の「諸王一位」を大錦上相当と見た。今回それが「浄大一位」・「浄広一位」に分割されたことになる。
 同じ日に草壁皇子以下、諸王全員の爵位が発表された。これを見ると、草壁皇子が皇太子にしては爵位が低いように思われる(右表)。
 恐らく、今後の進階が織り込まれているのであろう。 実際、高市皇子の例では〈持統七年〉に「以浄広壱授皇子高市」とあり、〈天武〉十三年の「浄広弐」から二階進階している。草壁皇子ももし夭折していなければ進階を重ね、即位した暁には最高位まで登ったに違いない。
《更改爵位之号:諸臣》
 〈天智〉三年の冠位二十六階から更に細分化され、四十八階となった。二十六階では、という色あるいは織り方を思わせる語が用いられ、着用する冠によって位階が表現されていた。
 〈天武〉十一年三月に位冠廃止の方針が示され、六月にはすべて「漆紗冠」に統一された。これに伴い、爵位に冠の材質を思わせる字が使われなくなったことは辻褄が合う。 「冠有廿六階」だったものが「爵位」に変わった点もきめ細かい。
 その名称に用いられたはいずれもが呉音である。また退は漢呉同音である。
 仏典については既に漢音が導入されているが、日常化した語についてはより古い時代に流入していた呉音が定着していたことの現れであろう。
《草壁皇子尊》
草壁皇子尊 母は鸕野讚良皇女〔皇后、〈持統〉〕。吉野の盟約メンバー。〈持統〉十年薨。天平宝字二年〔758〕岡宮御宇天皇」追号。
大津皇子 母は大田皇女。吉野の盟約メンバー。〈天武〉崩に伴い自身の即位を狙ったことから〈持統〉によって死を賜った。
高市皇子 母は宗像氏の女尼子娘。〈壬申〉では軍を統括。吉野の盟約メンバー。〈持統〉七年太政大臣。〈持統〉十年薨。
川嶋皇子 〈天智〉皇子。母は忍海造の女色夫古娘。吉野の盟約メンバー。帝紀及上古諸事を記定。〈持統〉五年薨。
忍壁皇子 母は宍人臣の女𣝅媛娘。吉野の盟約メンバー。帝紀及上古諸事を記定。大宝三年〔703〕知太政官事」。慶雲二年〔705〕薨。
 吉野の盟約のメンバーの皇子うち、芝基皇子(〈天智〉皇子)のみが叙位から漏れている。 しかし無位とは考えられないので、進階しなかったということであろう。ただし、爵位の名称は変わったはずである。
 芝基皇子は、その後〈続紀〉和銅元年〔708〕正月に「四品志貴親王三品」とあり、大宝令〔701〕以後に四品となっている。 四品明広二位三品明大二位に相当する。
《大唐人百済人高麗人》
 〈天武〉十三年十一月には安勝王一族が暴発し、「報徳国」傀儡政権が崩壊した (《遣高麗》、新羅本紀/神文王三年)。 十四年九月「化来高麗人等賜禄各有」は、これに関連していると考えられる。 百済が滅びたときに大量に倭国への移民があったのと同様に、「報徳国」が崩壊したことによって高麗の人々が移ってきたことが考えられる。
 その中には爵位の対象になり得るような高位の者も含まれていたのであろう。この機会に百済の出身者も対象にしたようである。
 ここに「新羅人」がない理由の推定は難しいが、新羅出身者は本国との繋がりが切れていないから本国の位階が有効だったと考えられる。 百済高麗は国自体が存在しなくなったから、本国で得た位階は意味を失った。それに代わる爵位を授けたと理解することができる。 「大唐人」の多くは恐らく百済での戦闘で捕えて送られた俘虜で、もはや本国への帰還を希望せず日本人になることを選んだ者かも知れない。
《金物儒》
金物儒 十三年十二月六日に来朝した。
《流着新羅人七口》
 新羅から漂着した最新の記事は、六年五月新羅人阿飡朴刺破従人三口僧三人、漂着於血鹿嶋」まで遡る。 このときの人数と一致はするが八年も前のことだから、この七名と決定づけられるかどうかは微妙である。
 それはともかくとして、この漂着者の引き渡しは土師宿祢甥らを送り届けてくれたことに対する謝意を示すものであろう。 ということは、漂着した者は罪人扱いされて留め置かれていたと思われる。
《京職大夫》
 「京職大夫」の大夫カミと訓むことについては、〈倭名類聚抄〉に「長官:…勘解由職曰大夫…【已上皆加美】」があることによって裏付けられる。
 京職については、『令義解』に「左京職【右京職准此。管司一】:…掌左京戸口名籍字-義百姓-察所部貢挙孝義田宅雑徭良賤〔良民・賤民〕訴訟市厘度量倉廩祖調兵士器仗道橋過所闌遺雑物僧尼名籍事」とある。 すなわち、首都の行政全般を掌る。左京右京の初出は〈続紀〉大宝二年〔702〕正月乙酉「正五位下美努王為左京大夫」。すなわち大宝令によると考えられ、既に藤原京において朱雀大路を境にした行政区画が実施されていたことが分かる。
《巨勢朝臣辛檀努》
巨勢朝臣辛檀努  巨勢朝臣は、巨勢臣参照。辛檀努は、ここだけ。
 辛檀努の古訓は「シダノ」とされる。を音仮名として用いた例は他に見ないが、中国人が外国語の音声を写し取る特徴を示している。 すなわち、上代音の濁音[d]は鼻濁音に近かったと見られ([nd])、 「」の場合[sin]の韻尾が、半ば鼻音化した[nd]を写し取ることに利用されたからである(沖森卓也『日本漢字全史』〔ちくま書房;2024〕(pp.88~89)による)。 とすれば、もノ・ヌではなく[dan]によってドになるかも知れないが、シダドは日本人の名前としては考えにくい。
 一方、渡来人の姓としての「」は〈姓氏録〉〖諸蕃/百済/広田連/出自百済国人辛臣君也〗が見え、百済系の姓と見られる。 もし、辛檀努が外国人の名前だった場合、渡来人が巨勢朝臣に編入された可能性を考えなければならない。
 〈続紀〉を見ると、血縁関係のない者を氏族に加えることはそれほど珍しくない。阿刀宿祢の例は、渡来族の上村主を自族に迎え入れて文筆分野の職務に対応した。 これに倣えば、巨勢朝臣は読み書きの能力を要する職を引き受けるために渡来人の辛檀努を迎え入れ、 檀努は期待に応えて能力を発揮して、京職大夫まで上り詰めたという筋書きが浮かび上がる。
《諸国毎家作仏舍》
 「諸国毎家」の「」は、国衙の古い表記であろう。郡衙は広く郡家と呼ばれるからである。 そして国庁の近くに作る「仏舎」は、〈聖武〉帝による国分寺の発想の先駆けであろう。 実際に「天武朝国分寺造建説」は提唱されている。
 ただ、国分寺が作られた時期が〈聖武〉朝であることは明らかである。 〈天武〉朝に「国分寺」的なものが仮に存在したとすれば、「国の家」〔国庁〕の近くであろう。ただ、飛鳥時代の国庁・郡衙の遺跡自体が少ない。わずかな例として周防国府、久留倍官衙遺跡があるが、それらの近くに同時期の寺跡は見つかっていない。
 よって諸国の家毎に作ろうとした「仏舎」は計画倒れと見るのが穏当か。仮に未発見のものが存在したとしても、ごく少数であろう。
《諸国仏舎》 この項2025.10.25
 ただ、飛騨国については寿楽寺廃寺を始めとして白鳳期と考えられる廃寺跡が多数あり、〈天武〉朝に創建された寺院が存在すると思われる。 これを「諸国毎家作仏舎」が実行された数少ない例と見ることはできる。〈持統紀〉の朱鳥元年には、「新羅沙門行心」が「飛騨国伽藍」に移されている。
《灰零於信濃国》
 「灰零於信濃国」は、浅間山噴火であろう。
 ただ[気象庁/…/浅間山/浅間山 有史以降の火山活動]は、 「685(天武天皇14)年/噴火?/火砕物降下」と記し、クエスチョンマークをつけている。
 しかし、「草木皆枯」ほどの降灰なら、噴火は間違いなくあっただろう。
《大意》
 十四年正月二日、 各官署は挙げて朝廷に拝礼しました。
 二十一日、 爵位の号を更改し、 階級を増加されました。 明位(みょうい)は二階、 浄位(じょうい)は四階、 その階毎に大と広があり、 全部で十二階、 これをもって、諸王以上の位とされました。
 正位(しょうい)四階、 直位(じきい)四階、 勤位(ごんい)四階、 務位(むい)四階、 追位(ついい)四階、 進位(しんい)四階、 その階毎に大と広があり、 全部で四十八階、 これをもって、諸臣の位とされました。
 この日に、 草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)に 浄広壱位(じょうこういちい)を授けられ、 大津皇子(おおつのみこ)に 浄大弍位(じょうだいにい)を授けられ、 高市皇子(たけちのみこ)に 浄広弍位(じょうこうにい)を授けられ、 川嶋皇子(かわしまのみこ)と 忍壁皇子(おさかべのみこ)に 浄大参位(じやうだいさんい)を授けられ、 これ以下の諸王諸臣らに 爵位をそれぞれに応じ増加されました。
 二月四日に、 大唐人、百済人、高麗人、 合わせて百四十七人に爵位を賜りました。
 三月十四日、 金物儒(こんもつじゅ)に筑紫で饗(あえ)し、 筑紫から帰国しました。 よって以前に流れ着いた新羅人七人を、物儒に託して帰しました。
 十六日、 京職大夫、直大参(じきだいさん)巨勢朝臣(こせのあそみ)辛檀努(しんだんぬ)が卒しました。
 二十七日、 詔を発しました。
――「諸国毎に、家〔国庁〕に仏舎を作り、 仏像及び経〔典〕を置き、 礼拝供養せよ。」
 この月には、 信濃国に降灰し、 草木は皆枯れました。


まとめ
 「五十氏賜姓」と簡単にまとめられているが、実際には元は一つの族でも多くは支族に分裂しており、実際の賜姓は選別的にならざるを得ない。 分派がどの範囲まで対象になるかを巡っては、当然人間臭い駆け引きが繰り広げられたであろう。 〈続紀〉にしばしば見られる個人単位の賜姓や、〈姓氏録〉に見られるいわゆる「庶流」の存在に、その余韻が感じられる。
 なお、〈続紀〉では他の氏族からヘッドハンティングして氏姓を賜る現象も見られ、これは、「辛檀努」のよみ方にまで影響を与えるものとなった。
 「五十氏」の分量は多かったが、なるべく掘り下げようと努めてみて得られたものは多かった。



[29-20]  天武天皇下(9)