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2025.07.19(sat) [29-17] 天武天皇下17 

62目次 【十三年正月~四月】
《令視占應都之地》
十三年春正月甲申朔庚子。
三野縣主
內藏衣縫造
二氏賜姓曰連。
三野県主…〈北野本〔以下北〕三野ミノゝ縣主アカタヌシ内蔵クラノキヌヌヒノミヤツコ
十三年春正月(むつき)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)。〔十七日〕
三野(みの)の県主(あがたぬし)
内蔵衣縫(くらのきぬぬひ)の造(みやつこ)
二氏(ふたうぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて連(むらじ)と曰ふ。
丙午。
天皇御于東庭、群卿侍之。
時召能射人及侏儒
左右舍人等射之。
東庭…〈兼右本〉オホニハイクフ-人侏-儒ヒキヒト左-右[ノ]舎-人
丙午(ひのえうま)。〔二十三日〕
天皇(すめらみこと)[于]東庭(ひむがしのおほみは)に御(おほましま)して、群卿(まへつきみたち)侍之(はべる)。
時に能(よく)射人(ゆみいるひと、いくふひと)及びに侏儒(ひきひと)を召(め)したまひて、
左右(もとこ)の舎人(とねり)等(ら)に射之(ゆみいらせたまふ、いくはしめたまふ)。
二月癸丑朔丙子。
饗金主山於筑紫。
二月(きさらき)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)。〔二十四日〕
金(こむ)主山(しゆせん)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)す。
庚辰。
遣淨廣肆廣瀬王
小錦中大伴連安麻呂
及判官錄事陰陽師工匠等
於畿內、
令視占應都之地。
浄広肆…〈北〉シヤウクワウヒロセノヲホキミ大伴┌イ无錄-事フムヒト ヲムミヤウ畿内ウチツクニ-占ノシ ヘキ 都之ミヤコツクル トコロ
〈内閣文庫本〔以下閣〕視占ミシメ
〈釈紀〉ヲンミヤウ。 〈兼右本〉録-事フンヒト
まつりごとひと(判官)…[名] 四等官制の第三位。
ふみひと(佑官)…[名] 四等官性の第四位。のちにサクワン(佐官)。
しむ(占、標)…[他]マ下二 占有する。所有の標章を示す。ここでは「定める」意と読める。
庚辰(かのえたつ)。〔二十八日〕
浄広(じやうくわう)肆(し)広瀬(ひろせ)の王(おほきみ)、
小錦中(せうきむちう)大伴連(おほとものむらじ)安麻呂(やすまろ)
及びに判官(まつりごとひと)録事(ふみひと)陰陽師(おむやうし)工匠(たくみ)等(たち)を
[於]畿内(うちつくに)に遣(や)りて、
応都之(みやこつくるべき)地(ところ)を視占(みし)め令(し)めたまふ。
是日。
遣三野王
小錦下采女臣筑羅等
於信濃
令看地形、
將都是地歟。
采女臣…〈北〉采女ウネメノヲン ツク形将 アリカタ
是(この)日。
三野(みの)の王(おほきみ)
小錦下(せうきむげ)采女臣(うねめのおみ)筑羅(つくら)等(たち)を
[於]信濃(しなの)に遣(や)りて
地形(ところのありさま)を看(み)令(し)めて、
将(まさ)に是(この)地(ところ)に都(みやこ)つくらむとしたまふ[歟]。
三月癸未朔庚寅。
吉野人宇閉直弓、
貢白海石榴。
宇閉直弓…〈北〉ヘノアタヒ ユミ海石榴。 〈閣〉シラ海-石-榴
〈兼右本〉宇閉直人名也
三月(やよひ)癸未(みづのとひつじ)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)。〔八日〕
吉野(よしの)の人宇閉直(うへのあたひ)弓(ゆみ)、
白(しろ)き海石榴(つばき)を貢(たてまつ)る。
辛卯。
天皇、
巡行於京師而定宮室之地。
宮室之地…〈北〉宮-室ミヤトコロミヤコトコロ-之-地。 〈兼右本〉-行メクリタマヒ宮-室-之-地ミヤトコロ四字ハ合
辛卯(かのとう)。〔九日〕
天皇(すめらみこと)、
[於]京師(みやこ)に巡行(めぐりま)して[而]宮室之地(みやのところ)を定めたまふ。
乙巳。
金主山歸國。
乙巳(きのとみ)。〔二十三日〕
金主山(こむしゆせん)国に帰(まかりかへ)る。
夏四月壬子朔丙辰。
徒罪以下皆免之。
徒罪…〈兼右本〉徒-罪ミツカフヨリ以下徒刑項〕
夏四月(うづき)壬子(みづのえね)を朔(つきたち)として丙辰(ひのえたつ)。〔五日〕
徒罪(みつかひのつみ)より以下(しもつかた)を皆免之(ゆる)したまふ。
甲子。
祭廣瀬大忌神龍田風神。
甲子(きのえね)。〔十三日〕
広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
辛未。
小錦下高向臣麻呂爲大使
小山下都努臣牛甘爲小使、
遣新羅。
都努臣…〈北〉ヌノヲンウシカヒ。 〈閣〉カヒヲ
小錦下冠位二十六階第十二位。
小山下冠位二十六階第十八位。
辛未(かのとひつじ)。〔二十日〕
小錦下(せうきむげ)高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)を大使(おほつかひ)と為(し)たまひて、
小山下(せうせんげ)都努臣(つぬのおみ)牛甘(うしかひ)を小使(そひつかひ)と為(し)たまひて、
新羅(しらき)に遣(や)りたまふ。
《賜姓曰連》
三野県主  〈延喜式-神名〉に{河内国/若江郡/御野県主神社二座/鍬靫}。
 〈姓氏家系大辞典〉は「清寧紀に「河内三野県主小根」」、 「三野県は…〔〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・英多郷}および〕若江、渋川等の諸郡を包含す。 〔三野県主〕は…英多郷に居つて、此の県を治め…御野県主神社は…氏神」であろうと述べる。
 比定社は御野県主神社〔八尾市上之島町南1丁目71〕 主祭神は角凝魂命、天湯川田奈命。
内蔵衣縫造 〈姓氏家系大辞典〉「内蔵衣縫部 クラノキヌヌヒベ:職業部の一にして、内蔵に使役せし衣縫部なり」、 「内蔵衣縫造:内蔵衣縫部の伴造」。
 もともとは国家の財政を取り仕切る「大蔵」に対して、中務省内の財政部門が「内蔵」と呼ばれた(資料[24][25])。 「内蔵」はクラと訓まれる。
《召能射人》
 年頭の恒例行事の弓射は、この年は能射人侏儒を招き、舎人に射させて群臣は見物する側に回ったようである。 能射人〔弓の達人〕に腕前を披露させ、侏儒〔本来は小人症の芸人だが、単に芸人を指す可能性が高い〕の演芸を見て賑やかに楽しんだようである。
《饗金主山》
金主山 十二年十一月十三日、金長志と共に進調。十三年三月二十三日に帰国。但し十四年四月壬辰にも「帰之」記事がある。
《広瀬王》
広瀬王 浄広四位」は十四年制定の位階。ここでは冠位を遡及させて付す。「-定帝紀及上古諸事」を命じられた一人。以後〈持統〉六年三月「浄広肆広瀬王…等、為留守官」など。養老六年卒。
大伴連安麻呂 〈壬申〉では飛鳥寺西槻下の軍営を丸ごと寝返らせたことを不破宮に行って報告し、大海人皇子を大喜びさせた(14)。 和銅七年「大納言兼大将軍」として薨。
三野王 十一年三月に小紫三野王らに「于新城見其地形」。
采女臣筑羅 采女臣竹羅は、十年五月に大使となり新羅に派遣。 《采女臣摩礼志》参照。
《於畿内視占応都之地》
 畿内に都とすべき地を求めさせたという書き方から見て、既に工事を進めていた先行条坊とは別であろう。 なお、下述の「宮室之地」は、先行条坊内のことと見られる。
 次の段では信濃国を新都の候補地にしたことを述べている。 畿内信濃国を両天秤にかけて一方を選ぼうとしたと見るのが常識的だが、 派遣したメンバーを見ると両方に本気度が伺われる。想像をたくましくすれば、副都設置構想を知った地方氏族が誘致合戦に乗り出し、それぞれ諸王を窓口として働きかけたことも考えられる。
 条坊制の都を計画を含めてすべて拾い上げると、藤原京先行条坊難波京畿内の新都信濃国大宰府の計五都が挙げられる。
《於信濃令看地形将都是地》
 信濃国内の遺跡には更埴条里遺跡があり、また国衙の候補地がいくつか論じられているが、都としての条坊などは見いだされていないようである。
 だが、信濃に都を作ることについては相当前のめりな書きっぷりなので実際に着手しているかも知れず、将来遺跡が発見される可能性は残る。
 信濃建都はあくまでも都複数化構想によるもので、遷都ではない。 潤四月の詔で武装の強化を命じたことと併せると、これも外国から攻め込まれたときの対応策かも知れない。 つまり、内陸に副都を作っておいて、首都が危うくなれば遷都できるようにしたと考えてみたらどうだろうか。 実際に〈天智〉の近江京遷都の理由に、この発想を採る説がある。 590年後には実際に元寇があったわけだから、決して杞憂とは言えない。
 〈天智〉朝の朝鮮式山城とは手段が異なるが、〈天武〉朝でも国家の防御体制が十分に考えていたのは確かである。
《宇閉直弓》
宇閉直弓 〈時代別上代〉「於 ウヘ:於は上、宇閉と通じ用ひらる」、 「倭漢氏の族」で、「〔〈延喜式-神名〉{大和国/広瀬郡/於神社【鍬】}〕より出でたるか」。
 宇閉直はここだけ。
《白海石榴》
白いツバキの花
 白い花をつける椿は現在では珍しくないが、瑞祥としての報告だから当時は実際に稀であったか、あるいは当時は自生地が知られていなかったことが考えられる。 なお、シラ-をつけるのは定着した品種の場合で、突然変異の場合はシロキ~と訓む傾向があると見た(〈仁徳〉五十五年白雉元年二月)。
《宮室之地》
 「宮室之地」は藤原京の先行条坊の区画で、後に朝堂院内裏として現実化されたものであろう。
《金主山帰国》
金主山 上述
《徒罪以下》
 徒罪以下の比較的軽い罪が赦される。 今回の恩赦の理由は示されていない。
《祭広瀬大忌神龍田風神》
 《祠風神…》
 ここでは、神名を例年よりやや詳しく表記している。
《遣新羅》
高向臣麻呂 和銅三年薨。最終の官職は摂津大夫〔摂津のかみ〕
都努臣牛甘 都奴臣の祖は、武内宿祢の子紀角宿祢(〈孝元〉段/)。 十三年十一月「角臣…賜姓曰朝臣」。
 〈姓氏録〉〖皇別/角朝臣/紀朝臣同祖/紀角宿祢之後也〗。 〈時代別上代〉「都努国造家の氏」、「角朝臣:武内宿祢の裔。周防の大族都努臣…朝臣性を賜へる」。
 『国造本紀』は周防国造と穴門国造の間に「都怒国造」を置く。〈倭名類聚抄〉{周防国・都濃郡・都濃}。
 牛甘はここだけ。
《大意》
 十三年正月十七日、 三野の県主(あがたぬし) 内蔵衣縫(くらのきぬぬい)の造(みやつこ)の 二氏に連(むらじ)姓を賜わりました。
 二十三日、 天皇(すめらみこと)は東の庭にいらっしゃり、群卿が伺候しました。 その時、優秀な射手及び侏儒を呼ばれ、 仕える舎人たちに射させました。
 二月二十四日、 〔新羅使〕金(こん)主山(しゅせん)を筑紫で饗(きょう)されました。
 二十八日、 浄広(じょうこう)肆(よん)〔=四〕広瀬の王(おおきみ)、 小錦(しょうきん)中大伴連(おおとものむらじ)安麻呂(やすまろ) 及び判官(まつりごとひと)録事(ふみひと)陰陽師(おんみょうし)工匠(たくみ)らを 畿内に派遣し、 都にすべき地を見定めさせました。
 この日、 三野の王(おおきみ)、 小錦下(しょうきんげ)采女臣(うねめのおみ)筑羅(つくら)たちを 信濃に派遣して、 地勢を観察させ、 まさにこの地を都にしようと思われました。
 三月八日、 吉野の人宇閉直(うへのあたい)弓(ゆみ)は、 白い椿を献上しました。
 九日、 天皇(すめらみこと)は 京師を巡行され、宮室の場所を定められました。
 二十三日、 金主山(こんしゅせん)が帰国しました。
 四月五日、 徒罪以下の全員を赦免されました。
 十三日、 広瀬の大忌神(おおいみかみ)、龍田の風神を祭祀されました。
 二十日、 小錦(しょうきん)下高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)を大使、 小山(しょうせん)下都努臣(つぬのおみ)牛甘(うしかい)を副詞として、 新羅に派遣されました。


63目次 【十三年閏四月~五月】
《進信濃國之圖》
閏四月壬午朔丙戌。
詔曰
「來年九月必閲之、
因以、教百寮之進止威儀。」
来年九月…〈北〉 テ來年 コムトシ九月必閲 ケミ■ム進-止威-儀フルマヒヨソホヒ
〈閣〉 スケミナシム。 〈釈紀〉閲之ケムセム。 〈兼右本〉ケミナシムケミセン
くるつ…〈連体詞〉翌(日・朝・年)などの意を添える。 
閏四月(うるふうづき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔五日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「来年(くるつとし)の九月(ながつき)に必ず閲之(かむが)へむ、
因(よ)りて以ちて、百寮(ももつかさ)之(の)進止威儀(ふるまひのかたち)を教(をし)へよ。」とのりたまふ。
又詔曰
「凡政要者軍事也。
是以、
文武官諸人務習用兵及乘馬。
則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。
其有馬者爲騎士无馬者爲步卒、
並當試練。
以勿障於聚會。
政要…〈北〉ヌミ-身裝-束 ヨソヒ務具ソナヘ タス騎-士 ムマノリヒト馬者為步-卒 カチヒト試-練 トゝノヘサハルコト
〈閣〉 モノヲハ ランヲ馬者步-卒カチイクサカチヒト試-練コゝロミトゝノヘテ トゝノヘ 以勿サウルコト サハリ 聚會アツ
〈兼右本〉當-身ミゝ裝-束 ヨソイ ラン ランモノラハ ラン
ぬみ…[名] ① 要害。② 大切な個所。
又(また)詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「凡(おほよそ)政(まつるごと)の要(ぬみ)者(は)軍事(いくさのこと)なり[也]。 是(こ)を以ちて、
文武官(ふみのつかさつはもののいくさ)の諸(もろもろ)の人は、務(つと)めて用兵(いくさをもちゐること)及びに乗馬(うまにのること)を習(なら)へ。
則(すなはち)馬(うま)兵(つはもの)并(あは)せて身に当(き)る裝束(よそほひ)之(の)物(もの)をば務めて具(つぶさに)儲(まう)け足(た)せ。
其(それ)馬を有(も)てる者(もの)は騎士(うまいくさ)と為(な)して、馬无(な)き者は歩卒(かちいくさ)と為(な)して、
並(ならびに)当(まさに)試(こころ)み練(ね)るべし。
以ちて[於]聚会(うごはなること)に勿(な)障(さは)りそ。
若忤詔旨、
有不便馬兵亦裝束有闕者、
親王以下逮于諸臣、
並罰之。
大山位以下者、
可罰々之可杖々之。
若忤詔旨…〈北〉 若忤/○有不便モヤ\/ナル馬兵𡖋裝束有闕者罰之カウカヘシ罰々カムカヘフ之可ウツ
〈閣〉タ あり便 モヤ\/ ハ。 〈兼右本〉 カウカヘシム 
若(もし)詔(みことのり)の旨(むね)を忤(たが)へて、
馬(うま)兵(つはもの)不便(ととのはず)有りて、亦(また)裝束(よそほひ)闕(かけ)て有ら者(ば)、
親王(みこ)より以下(しもつかた)[于]諸臣(もろもろのおみ)逮(まで)は、
並びに罰之(つみせよ)。
大山位(だいせんゐ)より以下(しもつかた)者(は)、
罰(きたむ)可(べき)は罰之(きためよ)、杖(すはゑうつ)可(べき)は杖之(すはゑうて)。
其務習以能得業者、
若雖死罪則減二等。
唯恃己才以故犯者不在赦例。」
其務習…〈北〉其務-習以能得業者 ヨリ己才
〈閣〉 タノムテ ヨリテ 。 〈兼右本〉[ニ]コトサラ ン[ハ]カキリ
其(それ)務(つと)めて習(なら)ひて以ちて能(よく)業(わざ)を得てあら者(ば)、
若(もし)死罪(ころすつみ)にあれ雖(ど)も則(すなはち)二等(ふたしな)を減(へ)らせ。
唯(ただ)己(おのが)才(かど)を恃(たの)みて以ちて故(ことさら)に犯(をか)せる者(もの)は赦(ゆるす)例(たぐひ)に不在(あらじ)。」とのりたまふ。
又詔曰 「男女並衣服者、
有襴無襴及結紐長紐、
任意服之。
其會集之日着襴衣而長紐。
唯男子者有圭冠々而着括緖褌。
衣服者…〈北〉衣-服 コロモ 者有襴无 スソツキ會-集之 マウゝコナハラム日着襴衣而長-紐男子者 有圭冠/主イ/ハシハカフリ/イ ハシハカウフリ々而 括緖クゝリ ハカマ
〈閣〉結紐ムスム ヒモ[切]ナカマゝニ ノ キヨ會-集マウゝコナハラム ニ ノ ヲ而着ツケヨ  ナカヒモ レ圭-冠ハシハカウフリ[切]カ  テクゝリ ノハカマ
〈釈紀〉ハムカフリ
〈兼右本〉結-紐ムスヒ ヒホ[ニ]マカセテ コゝロニマゝ  ココロノキヨ會-集マイウコナハラン長-紐ナカヒモツケヨアレ圭-冠ハシハカウフリ[切]カウフリシ[テ]キルヿキヨ括-緖クゝリ ヲ[ノ]ハカマ[ヲ][句]
〈兼右本/頭注〉「圭冠今之烏帽子也」。

うごなはる…[自]ラ四 参集する(大化二年)。
…[名] 王が卿にしるしとして与える。公式の場には手にもって参加する。玉圭。

又(また)詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「男(をのこ)女(をみな)並びに衣服(ころも)者(は)、
襴(すそつき)有り襴(すそつき)無し及びに結紐(むすびひも)長紐(ながひも)は、
意(こころ)の任(まにま)に服之(きよ)。
其(それ)会集之(うごなはる)日は襴(すそつき)の衣(ころも)を着(き)て[而]長紐(ながひも)をつけよ。
唯(ただ)男子(をのこ)者(は)有(も)てる圭冠(くゑいくわん、はしはかがふり)をば冠(かがふ)りて、[而]括(くく)り緖(を)の褌(はかま)を着(き)よ。
女年卌以上、
髮之結不結及乘馬縱横、
並任意也。
別巫祝之類、不在結髮之例。」
乗馬縱横…〈北〉/タ/ヨ巫-祝之カムナキハウリノ。 〈兼右本〉縦-横タテサマ ヨコサマ
女(をみな)は年(よはひ)四十(よそち)より以上(かみつかた)、
髮之(の)結(ゆふこと)不結(ゆはざること)及びに馬に乗ることの縦(たてさま)横(よこさま)は、
並びに意(こころの)の任(まにま)にせよ[也]。
別(こと)巫(かむなき)祝(はふり)之(の)類(たぐひ)は、結髮之(かみをゆふ)例(たぐひ)に不在(あらじ)。」とのりたまふ。
壬辰。
三野王等、進信濃國之圖。
…〈北〉信濃國之カタ
壬辰(みづのえたつ)。〔十一日〕
三野王(みののおほきみ)等(たち)、信濃国(しなののくに)之(の)図(かた)を進(たてまつ)る。
丁酉。
設齋于宮中、
因以赦有罪舍人等。
設斎…〈兼右本〉-齋ヲカミ 
丁酉(ひのととり)。〔十六日〕
[于]宮中(おほみや)に設斎(せちせ)したまふ、
因りて以ちて罪(つみ)有りし舎人(とねり)等(ども)を赦(ゆる)したまふ。
乙巳。
坐飛鳥寺僧福楊、
以入獄。
僧福楊…〈北〉ホウシ福楊フクヤウイル ヒトヤニ。 〈閣〉ツミ飛鳥寺僧福
〈釈紀〉イルヒトヤニ私記説。 〈兼右本〉ツミシイ乍非也入獄
乙巳(きのとみ)。〔二十四日〕
飛鳥寺(あすかてら)の僧(ほふし)福楊(ふくやう)を坐(つみな)ひて、
以ちて獄(ひとや)に入(い)る。
庚戌。 僧福楊、自刺頸而死。
…〈兼右本〉 ヌ
庚戌(かのえいぬ)。〔二十九日〕
僧(ほふし)福楊(ふくやう)、自(みづから)頸(くび)を刺して[而]死にす。
五月辛亥朔甲子。
化來百濟僧尼及俗男女
幷廿三人、
皆安置于武藏國。
化来…〈北〉化-來オクツカラ俗-人シロキヌ男女廿ニイ
〈閣〉化-來オノツカラ。 〈兼右本〉化-來オノツカラ マウケリシロキヌ○男 人イナ-置ハンヘラシム
五月(さつき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)。〔十四日〕
化来(まゐきた)りし百済(くたら)の僧(ほふし)尼(あま)及びに俗(しらきぬ)の男女(をのこをみな)
并(あは)せて二十三人(はたあまりみたり)、
皆(みな)[于]武蔵国(むさしのくに)に安けく置(お)く。
戊寅。
三輪引田君難波麻呂爲大使
桑原連人足爲小使、
遣高麗。
三輪引田君…〈北〉ワノヒケタノキミナニハ-波麻呂桑原クハ ハラノムラシ 人-足ヒト タル
〈閣〉原○人 ヲ テ ソヒ使。 〈兼右本〉ヒケ-田
戊寅(つちのえとら)。〔二十八日〕
三輪引田君(みわのひけたのきみ)難波麻呂(なにはまろ)を大使(おほつかひ)と為(し)て、
桑原連(くははらのむらじ)人足(ひとたる)を小使(そへつかひ)と為(し)て、
高麗(こま)に遣(や)りたまふ。
《百寮之進止威儀》
 新たに連姓の者が数多く加わったから、改めて朝廷内の所作と礼儀の決め事を教える必要がでてきたのであろう。
《凡政要者軍事也》
 軍事に関わることを、武官だけではなく文官にも求めている。
 新羅は耽羅を領土化するなど、その勢力拡張の野心は軽視できない。 しかし、かつての朝鮮式山城の建造などに人民を動員するやり方は、不満が噴出して遂に政権の崩壊を招いた。〈天武〉朝はそれを反面教師として、別のやり方を用いる。すなわち官と人民に自ら自覚的に戦力を装備させようとした。 ただ、今回は期限を定めて不履行の者に対して厳しい罰を与えるという厳しさを見せている。その背景として、新羅とその傀儡であったはずの高麗安勝王との間に生じた新たな緊張状態が考えられる(後述)。
《可罰々之可杖々之》
 大山位以下の比較的位の低い者には、罰せず杖打ちとする場合もあるという意味の文章だから、「杖之」は「罰之」よりも刑が軽いと読める。 果たして刑は刑に入らないのであろうか。
 それを探るために『令義解』に検索をかけたところ、『類聚三代格巻十九』の中に次の文が見つかった〔『国史大系』12巻〔1900年〕に両書が入っていたからである〕。 『続紀』延暦三年十月二十日※1)に現状は「京中盗賊稍多。掠物街路。放火人家」だと述べる。 そのため「其遊食博戯之徒。不蔭贖※2)杖一百。放火劫略之類。不必拘一レ法。懲以殺罰」とある。
 ※1)…元になった〈続紀〉の記事は、延暦三年〔784〕丁酉〔三十日〕付である。
 ※2)…蔭位(おんい)をもつものが代償に物品を納めて刑を逃れること。蔭位は、父の位階によって賜る一定の位階。

 放火には「殺罰」を科すが、「遊食博戯之徒」は「杖一百」を定める。ここから「」は死罪を含む思い処罰のことであって、程度には使わないことが確かに読み取れる。
 恐らく〈天武〉紀の用法もこれであろう。ただ訓読は悩ましい。 『類聚名義抄』(僧中)には「罰罸:音伐 ウツ コロス ツミ」。コロス刑とは限らないから、ツミしか残らない。 ツミの動詞化にはツミナフ・ツミスがあるが、重刑に限定することは難しい。音読されたのかも知れない。 書紀古訓が「」に「カムガフ」を当てたのは、ツミには杖刑も含まれると考えて別の語を使おうとしたのであろう。
[日本服飾史]/[天武・持統朝文官朝服] 唐李賢墓壁画/客使図
〔陜西省博物館等編;文物出版〕
高松塚古墳壁画 (左)西壁女子群像 (右)西壁男子群像
[文化庁]/[高松塚古墳の概要]
《男女並衣服》


 〈時代別上代〉「すそ」、「〔〈天武〉十三年の〕すそつき」は、袍などの裾についている横ぎれである」。

 [日本服飾史]-[天武・持統朝文官朝服]によると、飛鳥時代の服装について「高松塚古墳の発掘によってこれが解明の緒を見るに至った」という。
高松塚古墳壁画壁画(右図)では、男女とも結紐を着用している。
圭冠
 十一年四月《漆紗冠》
括緖褌
 「唐の李賢墓壁画や永泰公主墓石槨線刻画の官人所用の袴の裾括りから推考される〔『国史大辞典』吉川弘文館;2009〕といわれる。
 李賢は唐高宗と則天武后の第二子の第二子。その『唐李賢墓壁画』の「客使図」(右図)で足首のあたりを見るとそれほど明瞭ではないが、 「括緖」の意味から見て、足首のところを締めた袴であろう。

《任意服之》
 十一年二月の「…並莫服」は、これまでの服装を全面的に廃止せよとはいうが、それでは何を着るべきかは述べていない。 従って、法制としてのとは言えず単に方向性を語ったものに過ぎなかった。
 この十三年の詔に至ってようやく具体的な規定が示された。
《着襴衣而長紐》
 「而長紐」は、動詞を欠く。
 〈続紀〉になるとその傾向が目立つ。 例えば、養老元年十一月癸丑「当耆郡多度山美泉」した。その水が若返りに絶大な効果があるとして、養老に改元した。そして「復当耆郡来年調庸。余郡庸」。すなわちその当耆郡〔=多芸郡〕には翌年の調庸を復〔=免除〕し、美濃国の他の郡は庸を免除した。 ここでは、「復余郡庸」のが省略されている。このような省略は〈続紀〉の詔では通常となるが、漢籍にはない。ここまでの書記にもほとんどなかった。 おそらくは詔における飛鳥時代からの和習であったと思われる。
《有圭冠冠而》
 圭冠ハシハカウブリは、書紀古訓特有語のように思える。 ただ『類聚名義抄』〔法中〕には「:ハシハ 治 カサヌ ハカリ」とある。 〈時代別上代〉は「ハシハは円筒形で上端が丸く、その上に小さな突起のある玉の名」と解説する。 その主な根拠は恐らく『説文解字』〔後漢〕で、そこには「圭:瑞玉也、上円下方。公執桓圭九寸。侯執信圭・伯執躬圭皆七寸。子執穀璧・男執蒲璧皆五寸。以封諸侯〔圭は瑞玉をいう。上が円形下が方形。公は桓圭を執り9寸。侯は信圭、伯は躬圭を執りどちらも7寸。子は穀璧、男は蒲璧を執りどちらも5寸。これにより諸侯を封ずる〕とある。 すなわち玉圭は「作六瑞,表示爵位等次〔〈汉典〉;六種類あり、爵位の等級を表す〕
 これでのことは分かったが、倭語ハシハが中国で諸侯に封じた印として与えた玉圭を、ストレートに表す語であったとはとても考えられない。 『類聚名義抄』のハシハも書紀古訓が出典だとすれば、根拠を広げる材料にはならない。あったとすれば、ハシハと呼ばれる何ものかが存在し、その形によって漆紗冠を比喩的に表したということであろう。
 次に、この部分の古点は「圭冠・冠而着括緖褌〔圭冠有れ。冠(かうぶ)りて括緖褌を着よ〕と、 「圭冠々而着括緖褌〔圭冠冠(かうぶ)りて括緖褌を着ること有れ〕の二通りがある。 〈北野本〉は前者のみ、〈内閣文庫本〉は両者ともに不完全な形で混合し、〈兼右本〉は前者を黒点、後者を朱点で示している。
 近代になると『集解』は「」で後者。『仮名日本紀』は「はしはある冠かぶりて〔有圭冠かぶり而〕は言葉としての繋がりはよいが、ハシハカウブリを分断する点で恣意的である。
 一方「有れば」・「有らば」は現代になってからである。岩波文庫版は「圭冠有ればかうぶりして」で、これは「圭冠のある者は(かぶれ)」と受け止められがちであるが、 アレバは已然形+バであるから、「圭冠があるはずだから(着用せよ)」となる。その点『日本古典文学全集』〔小学館〕は「有らば」とする。これなら完全に仮定条件文となる。 「~バ」は現代になってからだと言うのは、古点には「」を表すヲコト点が全く見られないからである。未然形の仮定文とすれば確かに自然に読めるが、「有圭冠冠而」を「若有圭冠者冠之而」の略とするものだから、やはり恣意的であろう。 そもそも「襴衣長紐着括緖褌」を着用せよというときに、圭冠の不着用だけを許容したとは考えられない。「有圭冠」はむしろ、持っていなかったら手に入れた上で必ず着用せよとのニュアンスであろう。
 以上を踏まえて訓読はいくつか考えられる。たとえば「」には「持つ」意味があるから、「有(も)てる圭冠をかがふりて」。「圭冠をかがふること有りて」でもよいだろう。これらは「圭冠」は受事主語とするから、それを嫌うならう命令文「有れ〔=用意せよ〕も可能。 已然形「圭冠有れば」でも「以前の詔で圭冠を用いよと命じたから持っているはずだよね?」と念押しする意味になるから可能。しかし、未然形だけはない。
 また、二つ目のが動詞カガフルだとすると、「圭冠」は音読みの可能性が高まる。「カガフリをカガフル」という言い方は考えにくいからである。音読ならハシハの語釈の泥沼を避けることができる。
 結局「有圭冠冠而」に多様な訓み方が生まれたのは、〈天武〉時代に倭風漢文で書かれた詔だからであろう。 〈天武〉詔には、正規の文法は通用しないと割り切ったほうがよい。その意味を曲げないように留意しつつ、自然な上代語に翻訳すればよいのである。
 なお、書紀が古い詔の不自然な漢文を変形せずに収めたことは資料的価値を増す。改新詔についても同じことが言え、書かれた当時の倭風の書法を残していることが、書記による創作説を打ち消す根拠となった。
《女年四十以上》
 十一年に詔(のたま)った言葉は法制ではなく、男女の髪型、女性の乗馬スタイルの改革は方向性を示したのみであった。十三年に実施段階を迎え、正式な詔として適用外となる事例を具体的に示した。 その内容を見ると、ある程度の年齢に達した女性に対して、それまでに身に染み付いた習慣を改めさせることには無理があったということであろう。また巫祝においても、その儀式を取り仕切る格好が結髪ではさまにならない。 ここでは現実的な判断が示されたものといえる。
 なお、皇后〔鸕野讃良皇女;〈持統〉天皇〕は『本朝皇胤紹運録』によると〈孝徳〉元年〔645〕生まれで、〈天武〉十三年〔684〕には四十歳なので、皇后が「私は「髮不」にしたい」と言った結果「女年四十以上、髮之結不結…任意也」となったことは、十分考えられる。この文2025/10/01付加
 「乗馬縦横」の「」は馬にまたがること、「」は鞍に腰を乗せ両足を一方に投げ出すスタイルと見られる。 ヨーロッパでは、女性が乗馬するときはロングスカートを着用して横乗りする習慣が1930年代まで続いていたという([乗馬メディアEQUIA/女性の乗馬とファッションの歴史])
 なお、飛鳥時代には女性が乗馬することに何の拘りもなく、かえって男性と同じく跨って乗ることが推奨されたことが注目される。 ここでも鵜野讃良皇女が私も縦乗りしたいと言ったことがきっかけになったことは、十分に考えられる。
《進信濃国之図》
 信濃国の都の候補地の立地調査(上述)を終え、調査結果を図面付きで報告した。
三野王 上述
Ⅲ期内郭とエビノコ郭
『飛鳥宮跡保存活用構想』〔明日香村2014〕(p.20)
《設斎于宮中》
 設斎の会場は、エビノコ郭またはⅢ期の南正殿が考えられる (右図、および《浄御原宮》)。
 「宮室之地」はまだ候補地の調査段階であるから、先行条坊の建物ではないであろう。
 設斎は通例飛鳥寺が会場だが、今次は宮中で行ったのは、僧福楊の騒動の真っ只中だったからと思われる。 宮内に福楊に関わって捕えられた舎人がいて、一応の決着がついてこの日に放免されたことも考えられる。ただ、真相は不明である。
《僧福楊》
僧福楊 ここだけ。 
 罪状は不明。
《化来百済僧尼及俗男女》
 「化来」は「百済僧尼及俗男女」を連体修飾する。
 百済から難民が倭に逃れた記事は、〈天智〉二年九月、二十五日に弖礼城(てれさし)から「船始向日本」したの記事がある。 その居住地は、次に見えるが一部であろう。
 〈天智〉四年四百人余を近江国神崎郡へ。
 〈天智〉五年には、二千人を東国に移した。彼らは〈天智〉二年に百済から逃れて倭にやってきた僧と民で、三年間官食を賜ったとある。
 〈天智〉八年十月には七百名を近江国蒲生郡へ。
 「化来」という熟語は諸辞書なく漢籍にも見えないが、「帰化」の意であることは明らかである。 書紀古訓の「オノヅカラ」は苦し紛れの印象を受ける。
 なお、「二十三名」は「」というには少な過ぎるから、誤写かも知れない。なお、武蔵国に移る前にどこにいたのかは明らかではない。
《遣高麗三輪引田君難波麻呂/桑原連人足》
三輪引田君難波麻呂 〈姓氏家系大辞典〉「三輪氏の族にして大和国城上郡曳田邑より起る」秉田ヒキダ神社二座 (第202回【引田】項) 〈持統〉七年五月「引田朝臣広目」は、安倍引田臣〈斉明〉四年阿部引田臣比羅夫」〕で、三輪引田とは別族。 〈続紀〉神護景雲二年〔768〕二月「大神引田公足人」は大神朝臣姓を賜る〔三輪氏族については第112回【神君】など〕。 よって、それ以前に数多く出てくる「引田朝臣」はすべて安倍引田である。
 難波麻呂はここだけ。
桑原連人足  朱鳥元年四月「侍医桑原村主訶都…賜姓曰連」。 したがって、この時点では桑原村主なので、桑原は遡及か。
 〈姓氏家系大辞典〉「坂上流桑原村主:坂上系図、阿智使主に随ひ来りし村主の内に此の氏見ゆ」。 また「桑原漢人:大和国葛上郡桑原郷にありし新羅俘人なり」。そして神功皇后紀五年に 「襲津彦、…詣新羅…還之。是時俘人等、今桑原、佐糜、高宮、忍海、凡四邑漢人等之始租也」とあることについて、 この「俘人」は実際には「新羅に道を阻まれし帯方漢人」だと考えれば「此の伝よし」とする。
 なお、『坂上系図』には、阿智使主は〈応神〉の御世に「七姓漢人」と共に帰化し、「檜隈郡郷」に住んだが本の国で人民がばらばらになっているので、 高麗百済新羅に使者を送って呼び寄せてほしいと奏上し、天皇は受け入れた。そして〈仁徳〉の御世に挙って帰化し、それが今の「桑原村主」を含む三十村主だとある。 そこには高宮村主忍海村主佐味村主も含まれ、襲津彦が連れ帰った「俘人」の居住地と重なる。
 人足はここだけ。
《遣高麗》
 高麗政権の報徳王安勝は、前年十月から「新羅京〔金城〕に住まわされているので、難波麻呂らはその邸宅に向かったと思われる。
 十一年六月には、日本が送った使者の派遣先を「高麗国」ではなく特に「高麗王」としていることが目を惹く。 高麗からの使者は新羅が冠位を与えた者ではないので、高麗王安勝が息のかかったものを派遣したのだろうと見た。
 安勝はこの頃から独立志向を強めていた可能性がある。日本への使者の派遣は、その援助を求めるためとも考えられる。 それに対して、今回の難波麻呂らは、決して新羅に歯向かうなと説得しに行ったのだろう。もし日本が安勝を援助すれば新羅と敵対する意味を持ち、新羅は直ちに日本本土を攻撃する恐れがある。 よって朝廷が安勝を支援することはないと考えられる。
 とは言え、これをきっかけにして新羅と日本との間に思わぬ緊張が生まれる可能性がある。凡政要者軍事也…の詔は、不測の事態に備えて国内の軍事態勢のレベルを引き上げたものと見ることもできる。
《大意》
 閏四月五日、 詔を発しました。
――「来年九月に必ず観閲する よって、百寮(ももつかさ)に作法儀礼を教えよ。」
 また、詔されました。
――「凡そ政(まつりごと)の要(かなめ)は軍事である。 であるから、 文武の官の諸君は、務めて用兵と乗馬を習え。 すなわち、兵馬が身に着ける裝束の用品を務めて事細かく準備して増やせ。 馬を持つ者は騎士として、馬のない者は歩卒として、 それぞれ試し鍛錬すべし。 そして一堂に会することに支障のないようにせよ。
 もし詔旨に反して、 兵馬が不十分で、また裝束が不足していれば、 親王以下諸臣まで、 すべて罰せよ。 大山位以下の者は、 罰するべき者は罰し、杖で済ますべき者は杖せよ。
 ただし、務めて習いよく成果を得た者は、 たとえ死罪であっても、罪二等を減ぜよ。 しかし、自らの才覚を恃(たの)み意識的に罪を犯した者は、赦す対象とはしない。」
 また、詔を発しました。
――「男女とも、衣服は 襴(すそつき)が有っても無くても、及び結び紐でも長紐でも、 自由に着させよ。
 ただし、会集の日は襴(すそつき)の衣を着て長紐をつけよ。 そして、男子は各自用意した圭冠(けいかん)をかぶり、括緖(くくりお)の袴を着けよ。
 女子の四十歳以上は、 髮を結ぶか結ばないか、および馬の縦乗り横乗りは、 どちらも自由とせよ。
 これとは別に巫(かんなき)祝(ほうり)の類は、髮を結ぶ対象から除け。」
 十一日、 三野王(みののおおきみ)らは、信濃の国の図面を献上しました。
 十六日、 宮中で設斎(せちせ)されました。 よって、罪を負っていた舎人たちを赦されました。
 二十四日、 飛鳥寺の僧福楊(ふくよう)に罪を科し、 獄に入れました。
 二十九日、 僧福楊は、自ら頸を刺して死にました。
 五月十四日、 帰化していた百済の僧尼、及び俗人男女 併せて二十三人を、 皆武蔵国に住まわせました。
 二十八日、 三輪引田君(みわのひけたのきみ)難波麻呂(なにわまろ)を大使、 桑原連(くわはらのむらじ)人足(ひとたる)を副使として、 高麗に派遣しました。


【三国史記/新羅本記】
 新羅文武王〈天武〉十年に薨じた。  そして神文王が即位し、〈天武〉十三年は同四年にあたる。
〈新羅本紀〉神文王三年 〔683(癸未)=天武十二年〕
冬十月。徴報徳王安勝為蘇判、賜姓金氏。留京都。賜甲第良田 冬十月。報徳王安勝を徴(め)して蘇判※1)と為(な)し、姓金氏を賜ふ。京都※2)に留め、甲第※3)良田を賜ふ。
※1)新羅の位階第三位迊飡の別称。※2)…新羅の首都金城〔現慶州市〕※3)…邸宅。
● 高句麗は唐に滅ぼされたが、新羅は咸亨元年〔670〕高句麗から新羅に逃れた皇族の安勝を王にたて、高句麗の故地を報勝国として独立させる形をとった。 報徳国は、ほぼ新羅の傀儡政権と見なされている(《高麗》)。
● 安勝は神文王三年に呼ばれて金姓および邸宅良田を与えられたが、新羅の首都に留め置かれたことでほぼ飼い殺しの状態になった。
四年 〔684(甲申)=天武十三年〕
十一月。安勝族子将軍大文、在金馬渚※1)叛、事発伏誅。
余人見大文誅死、殺-害官吏、拠邑叛。
王命将士討之。逆闘、幢主※2)逼実死之、陥其城
其人於国南州郡、以其地為金馬郡※3)
〔十一月。安勝一族の子大文が将軍となって金馬渚で叛乱を計画したが、露見して殺された。 一族の人々は大文が殺されたのを見て、官吏を殺害し、邑を拠点として叛乱を起こした。 新羅王は将士に命じて討たせた。反撃されて幢主逼実が殺される局面もあったが、最後は落城させた。
 一族は南部の州郡に移され、その地は金馬郡と名付けられた。〕
※1)…旧百済の地で現益山市内。 ※2)…武官の官名。逼実は新羅側の武官で、安勝一族から反撃を食らって殺されたと読むべきであろう。 ※3)…現益山市内。
● 一族が制圧されて以後、安勝の消息は不明。
《「報徳国」への日本の対応》
十年七月 新羅神文王即位
十年七月四日 采女臣竹羅らを新羅国に、佐伯連広足らを高麗国に派遣
十年九月三日 帰国した広足ら拝朝
十年十月二十日 新羅から献貢とは別に、天皇・皇后・太子に贈り物
十一年五月十六日 広足ら、高麗派遣時の「」を奏上。
十一年六月一日 「高麗王」が、位階のない使者を派遣。
十二年十月 安勝王は新羅の都に召され、そのまま都に置かれる。
十三年五月 三輪引田君難波麻呂らを高麗〔おそらく安勝の許〕に派遣
十三年十一月 将軍大文と安勝一族が叛乱、制圧される。
 「高麗」(報徳国)と日本朝廷の関わりについては動きがある度に触れたが、ここにまとめる。
 十年七月の新羅高麗への使者の派遣は、高麗の安勝政権にどの程度独立性があったのかを調べるためかも知れない。 九月に帰国して「拝朝」したときに、その結果を報告したものと思われる。
 十月二十日の新羅からの献貢では、調とは別に天皇・皇后・太子に個別に豪華な宝物を贈った。これには前例(八年十月)があり、そのときは個別に耽羅から手を引かせようとする意図が推察された。 それに倣えば、今回は高麗を傀儡のまま新羅に従属させたいので、その独立志向を助長しないように釘を刺したと見ることができる。
 五月十六日に、再び広足らを呼び、高麗に行ったときの様子を詳しく聞いた。高麗政権への対応の検討が続けられていたようである。
 六月一日の高麗からの使者の派遣は、特に「高麗」からと書かれる。さらに、このときの使者には位階が付されていない。位階は新羅によって授与されるものであるから当然新羅に忠誠を求められるが、その縛りのない者を使者に選んだと解釈することができる。 すなわち、相変わらず新羅の「送使」によって監視されているが、何とか安勝王の内密の意向を伝えさせようとしたのであろう。
 十二年十月に、安勝王は新羅の首都金城に移され、監視下に置かれる。やはりその独立を画策する動きが、間諜によって報告されていたことは確実である。
 よって、十三年五月二十八日の難波麻呂らの派遣は、やはり安勝王にこれ以上変な動きをするなと諫めるためであった可能性が濃厚となる。 その甲斐なく、十一月には安勝一族が暴発して遂に「報徳国」は消滅した。

まとめ
 一か所だけ「高麗」に「王」がついていて、またそのとき王が送った使者に位階がついてないのは些細なことである。 しかし、これを見逃さずに三国史記を併せ読んで追究していくと、安勝王を巡る騒動に日本が巻き込まれかけたことが見えてくる。 そこからさらに、「高麗」に遣わした使者が説明のために二度も呼ばれたこと、天皇皇后太子に特別にプレゼントを贈ったこと、突然起源を決めて軍備の増強を命じたことも関連ありと見られる。
 また「有圭冠冠而」については、この理解困難な構文を突き詰めていった結果、書記は古い詔を原文通り載せている可能性が高まった。
 今回もまた、些細な個所への疑問が糸口となった。まさに「真実は細部に宿る」である。



2025.08.09(sat) [29-18] 天武天皇下18 

64目次 【十三年六月~十月】
《作八色之姓》
六月辛巳朔甲申。雩之。
辛巳朔甲申…〈北野本〔以下北〕辛巳/朔
六月(みなづき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)。〔四日〕
雩之(あめをこふ)。

秋七月庚戌朔癸丑。幸于廣瀬。
秋七月(ふみづき)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として癸丑(みづのとうし)。〔四日〕
[于]広瀬(ひろせ)に幸(いでま)す。
戊午。
祭廣瀬龍田神。
戊午(つちのえうま)。〔九日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
壬申。
彗星出于西北、長丈餘。
彗星…〈兼右本〉ハゝキ-星
長丈余…〈北〉長丈-餘 ヒトツヱアマリ。 〈釈紀〉ナカサヒトツヱアマリ。 〈兼右本〉西-北イヌイノスミ
壬申(みづのえさる)。〔二十三日〕
彗星(ははきほし)[于]西北(いぬゐ)に出(い)づ、長さは丈(ひとつゑ)余(あまり)。
冬十月己卯朔。 詔曰
「更改諸氏之族姓、
作八色之姓、
以混天下萬姓。
一曰眞人、
二曰朝臣、
三曰宿禰、
四曰忌寸、
五曰道師、
六曰臣、
七曰連、
八曰稻置。」
十月…〈北〉十月カムナツ
諸氏之族姓…〈北〉諸-氏之/族-姓作クサ之姓マロカス一曰真人五曰道師 ミチノシ
〈内閣文庫本〔以下閣〕真人マ ヒト朝臣アソミ宿祢スクネ忌寸イミキ道師ミチノシミチシセムノコムラシ稲置イナキ
〈兼右本〉朝臣アソム六曰オムノコ
まろかす…[他]サ四 まとめる。ひとかたまりにする。
冬十月(かむなづき)己卯(つちのとう)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「諸(もろもろ)の氏(うぢ)之(の)族(うから)の姓(かばね)を更改(あらた)めて、
八色之姓(やくさのかばね)と作(な)して、
以ちて天下(あめのした)の万(よろづ)の姓(かばね)を混(まじへたまふ、まろかしたまふ)。
一(ひとつ)は真人(まひと)と曰(い)へ、
二(ふたつ)は朝臣(あそみ)と曰へ、
三(みつ)は宿祢(すくね)と曰へ、
四(よつ)は忌寸(いみき)と曰へ、
五(いつつ)は道師(みちし)と曰へ、
六(むつ)は臣(おみ)と曰へ、
七(ななつ)は連(むらじ)と曰へ、
八(やつ)は稲置(いなき)と曰へ。」とのりたまふ。
是日。
守山公
路公
高橋公
三國公
當麻公
茨城公
丹比公
猪名公
坂田公
羽田公
息長公
酒人公
山道公、
十三氏賜姓曰眞人。
守山公…〈北〉守山公モリヤマノキミ路公ミチノキミ /髙橋公タカハシノキミ 三國ミクニノ當麻タイマノ茨城ムハラ キ公 丹ヒノ/猪ヰナノ坂田サカ タノ羽田ハ タノ息長ヲキナカノ酒人サカ ヒトノ山道ヤマチノ
〈閣〉ムハラ城公。 〈釈紀〉茨城/ムハラキノウハラキ 。 〈兼右本〉モル-山公
是(この)日。
守山公(もりやまのきみ)
路公(みちのきみ)
高橋公(たかはしのきみ)
三国公(みくみのきみ)
当麻公(たぎまのきみ)
茨城公(むばらきのきみ)
丹比公(たぢひのきみ)
猪名公(ゐなのきみ)
坂田公(さかたのきみ)
羽田公(はたのきみ)
息長公(おきながのきみ)
酒人公(さかひとのきみ)
山道公(やまぢのきみ)の、
十三氏(とあまりみうぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて真人(まひと)と曰ふ。
辛巳。
遣伊勢王等、定諸國堺。
辛巳(かのとみ)。〔三日〕
伊勢王(いせのおほきみ)等(たち)を遣(や)りて、諸国(もろもろのくに)の堺(さかひ)を定(さだ)めしむ。
是日。
縣犬養連手繦爲大使
川原連加尼爲小使、
遣耽羅。
県犬養…〈北〉縣犬養アカタノイヌカヒノムラシスキ川原カハラノムラシ
〈閣〉ネヲ。 〈釈紀〉手繦タスキ
是(この)日。
県犬養連(あがたいぬかひのむらじ)手繦(たすき)を大使(おほづかひ)と為(し)て
川原連(かはらのむらじ)加尼(かね)を小使(そひつかひ)と為(し)て、
耽羅(とむら)に遣(や)りたまふ。
壬辰。
逮于人定。大地震。
舉國、男女叫唱不知東西。
逮于人定…〈北〉逮于人-定ヰノトキ挙-國クニコソテ男女サケムテ不-知-東-西 /マヨヒテ マトヒヌ 。 〈閣〉叫唱サケムテ不-知 マトヒヌ-東-西
〈釈紀〉人定ヰノトキ私記説不知東西マトヒヌ。 〈兼右本〉叫-唱サケヒ ヨハ不-知-東-西 マトイヌ四字ハ合
人定…人が寝静まる。またそのとき。
壬辰(みづのえたつ)。〔十四日〕
[于]人定(ひとのやすめるとき、ゐのとき)に逮(いた)りて大(おほきに)地震(なゐふる)。
国(くぬち)挙(こぞ)りて、男女(をのこをみな)叫唱(さけ)びて不知東西(せむすべをしらず、まどひつ)。
則山崩河涌、
諸國郡官舍
及百姓倉屋寺塔神社、
破壞之類不可勝數。
諸国郡…〈北〉諸-國郡クニ\/コヲリノ官-舍ツカサ ヤカス 及百姓倉屋クラ寺-塔 テラ 神-社 ヤシロ 不可
〈閣〉倉屋 クラ [切]寺塔 テヲ [切]ヤシロ 不可 テ
…[動] (古訓) あかる。わく。たきる。
則(すなはち)山崩(やまくづ)れ河涌(かはたぎ)ちて、
諸(もろもろ)の国(くに)郡(こほり)の官舍(つかさのやかす)より
百姓(たみ、おのみたから)の倉屋(くらや)、寺塔(てらのたふ)、神社(かむやしろ)に及びて、
破壊之(こほ)てる類(たぐひ)数(かぞふること)不可勝(たふべからじ)。
由是、人民及六畜、多死傷之。
時、伊豫湯泉、沒而不出。
土左國田菀五十餘萬頃沒爲海。
人民及六畜…〈北〉人民及六-ムクサノ ケモノサハニ死-傷 ソコナハルウモレ而不
ハタケ五十余万シロ
〈閣〉ケモノ ムクサノ 死傷 ソコナヘル 沒而ウモレテ 。 〈釈紀〉多死傷之サハニソコナハル 没為ウナ
是(こ)に由(よ)りて、人民(たみ、おほみたから)及びに六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷之(そこなはれ)り。
時に、伊予(いよ)の湯泉(ゆ)、没(うづも)れて[而]不出(いでず)。
土左国(とさのくに)の田菀(たその)五十余万頃(いそよろづしろあまり)没(しづ)みて海(うみ)と為(な)りぬ。
古老曰
「若是地動、未曾有也。」
古老…〈北〉古-老オイヒト若-是 カゝル 地-動 ナヰ イマタ ムカシヨリアラス
〈釈紀〉若是カゝル地動ナヰ□來未曾有ムカシヨリイマタアラス
古老(おきな)の曰(い)へらく
「若是(かかる)地動(なゐ)は、未曽有也(いまだいむさきにはあらじ)。」といへり。
是夕。
有鳴聲如鼓、聞于東方。
是(この)夕(ゆふへ)。
鳴る声(おと)鼓(つづみ)の如く有りて、[于]東(ひむがし)の方(かた)に聞こゆ。
有人曰
「伊豆嶋西北二面、
自然増益三百餘丈、
更爲一嶋。
則如鼓音者、
神造是嶋響也。」
増益…〈兼右本〉増-益マサレル
神造是嶋響…〈北〉ツクル/■
有る人の曰(まを)せらく 「伊豆嶋(いづのしま)の西(にし)北(きた)二面(ふたおも)、
自然(おのづから)三百余丈(みほつゑあまり)を増益(ま)して、
更(さら)に一嶋(ひとつのしま)と為(な)れり。
則(すなはち)鼓(つづみ)の如き音(おと)者(は)、
神の是の嶋を造れる響(ひびき)なり[也]。」とまをせり。
甲午。
諸王卿等賜祿。
諸王卿…〈北〉王卿
甲午(きのえうま)。〔十六日〕
諸王卿等(おほきみたちまへつきみたち)に禄(もの)を賜(たま)ふ。
《雩之》
684年の彗星 (ニュールンベルグの年代記)
 この年に日照りの記事はない。やはり、「〔雨乞い〕は旱魃の有無に関係なく年中行事化していたと考えられる(九年七月)。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《彗星出于西北》
 天武十三年〔甲申〕七月壬申は、〔二十三日〕ユリウス暦684年9月7日にあたる。
 中国ではこの年に改元が二回あり、嗣聖元年、文明元年、光宅元年にあたる。
『新唐書』志第二十二 天文二
文明元年七月辛未〔〔二十二〕〔684/9/6〕〕:夕、有彗星於西方。長丈餘。 八月甲辰〔二十五〕〔10/12〕:不見。是謂天攙
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉「通「〔彗星〕」。
 ハレー彗星と見られている。 『アジモフ博士のハレー彗星ガイド : 太陽系の長距離ランナー』〔アイザック=アジモフ;社会思想社1985〕によると、 「684年9月28日〔ユリウス暦〕。ドイツはニュールンベルグの町の年代記には、…真にせまったその彗星と尾のスケッチが載せられている。これはわかっているかぎり最古の彗星のスケッチ」という(右図)。
《八色之姓》
 この姓の再定義にあたっては、氏上の名前とともに氏文の類を提出させて吟味したと推定される。 その実際は後述(《雀部朝臣の祖》項、《雀部朝臣の祖》項)によって、伺われる。
 これによって氏族への統制を強め、官による管理下に置いたことは確実にいえる。諸氏が独立性を奪われるのを嫌ったことは、《各定可氏上》項で見た。
《賜姓曰真人》
01守山公  〈姓氏録〉〖皇別/守山真人真/路真人同祖/難波親王之後也〗
 〈続紀〉には、天平宝字八年〔764〕正六位上守山真人綿麻呂」のみが見える。
02路公  〈姓氏録〉〖皇別/路真人/出自【謚】敏達皇子難波王之後也〗
 〈欽明〉三十一年に「道君」。越国の郡司と言われる(
《道君》)。 また同七年に越道君。〈延喜式-神名〉{加賀国/石川郡【並小】/味知神社}。
 〈文武〉三年〔799〕直広参路真人大人」以下「路真人」は多数。
03高橋公  〈姓氏家系大辞典〉「高橋:古今に亘り栄えし氏…地名・天下に多〔く〕の偉人を偉人出せしに拠る」。「高橋公:皇別姓なるや明かなれど、出自不明。…当時、尊貴の氏たりしや必せり〔「後世に高橋真人は全く見えないが、当時は尊貴の家系だったはずである」の意〕
 書紀は他に見えず。〈続紀〉にも「高橋真人」はない。「高橋朝臣」は大量にあるが、これは膳臣の子孫で別氏。
04三国公  〈応神〉段に「品陀天皇之御子…意富富杼王者、三国君波多君息長〔君〕坂〔田〕君酒人君山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖也」(第159回)。
 〈継体〉元年三月〔妃〕三尾君堅楲女曰倭媛…椀子皇子、是三国公之先也」。 よって、記と整合を取るには三尾君の祖を意富富杼王としなければならない。
 〈延喜式-神名〉に{越前国/坂井郡/三国神社}。《三国》項、 【若野毛二俣王…】三国君参照。
 「三国麻呂公」が〈孝徳〉大化五年三月白雉元年二月三国真人は、〈続紀〉慶雲二年〔705〕正六位上三国真人人足」など15例。
05当麻公  〈用明〉元年〔嬪〕葛城直磐村女広子…麻呂子皇子、此当麻公之先也」、 〈天武〉十年二月「小紫位当摩公豊浜」(《当摩公豊浜》)など。
 「当摩公」は同七月副使として新羅に派遣された。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月「当麻真人国見」以下当麻真人は大量に見える。
06茨城公  茨城国造は、『天孫本紀』:「軽島豊明朝御世、天津彦根命孫-筑紫刀禰,定賜国造」。〈倭〉に{常陸国・茨城郡【牟波良岐。国府】}。
 〈姓氏家系大辞典〉「茨木公:皇別姓なるや著しけれど、何天皇の後なるや詳かならず」、「茨木真人:天武紀十三年条に…見ゆるのみ」。 〈続紀〉に「茨城真人」は見えず。
07丹比公  〈宣化〉元年三月「億計天皇〔仁賢〕女橘仲皇女為皇后…生一男…上殖葉皇子、亦名椀子。是丹比公偉那公凡二姓之先也」。
 「丹比公麻呂」は〈天武〉六年十月に「摂津職大夫」。
 〈続紀〉には〈文武〉四年〔700〕正月「左大臣多治比真人霊寿杖及輿台。優高年〔長寿を褒められる〕、 以下多治比真人が多数。
08猪名公  上記〈宣化〉元年三月「上殖葉皇子…是丹比公偉那公凡二姓之先也」。【韋那君(偉那公)】参照。
 〈壬申〉では「韋那公磐鍬」は大友皇子側に属し東国に派遣され、 途中東軍に捕まりそうになったが、辛うじて逃げ帰った。
 〈続紀〉には大宝三年〔703〕正五位下猪名真人石前」など十一か所。
09坂田公  【若野毛二俣王…】坂田君参照。 〈継体〉元年三月〔妃〕根王女曰広媛…中皇子、是坂田公之先也」。 記と整合を取るには根王の祖を意富富杼王としなければならない。 《坂田公雷》参照。
 〈続紀〉に「坂田真人」は見えず。
10羽田公  【若野毛二俣王…】波多君羽田公八国参照。
 〈続紀〉は宝亀十一年〔780〕正月「八多真人唐名」の一例。
11息長公  【若野毛二俣王…】息長君参照。
 〈続紀〉には大宝二年〔702〕正六位上息長真人子老」など24例。
12酒人公  【若野毛二俣王…】酒人君〈継体〉元年三月〔妃〕根王女曰広媛…兔皇子、是酒人公之先也」。
 〈姓氏家系大辞典〉「酒人公には二流ある…稚渟毛二俣王〔若野毛二俣王〕〔と〕…継体帝の裔」、これは酒人公に限らず「坂田君…三国公…皆然り」。 この「二流」の整合を取るには、根王の祖を若野毛二俣王とする方法がある。すなわち、若野毛二俣王を祖とする酒人公〔=根王〕が、娘婿に兔皇子を迎えたことにより、兔皇子も酒人公の祖と言われるようになったと見ることができる。
 〈続紀〉に「酒人真人」は見えず。〈姓氏家系大辞典〉「承和六年〔839〕七年紀に「大和国酒人真人広公」」。
13山道公  【若野毛二俣王…】山道君参照。 〈姓氏家系大辞典〉「応神帝の御裔」。
 記紀には名前が見えない。〈続紀〉にも「山道真人」は見えない。
 第231回《三尾君》項以下で見たように、阿倍氏の分流である布勢氏は十市郡から坂田郡、伊香郡を経て北国に遷る。 記で〈応神〉-皇子の若野毛二俣王-意富富杼王を祖とする三国君・波多君・息長君・坂本君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君は、実にこの安倍-布勢系氏族である。
《伊勢王》
伊勢王  十二年十二月の「限分諸国之境堺」は完了しなかった。その続きとして、前回とほぼ同じメンバーを派遣したと見られる。
《県犬養連手繦/川原連加尼》
県犬養連手繦  県犬養連は、〈壬申〉県犬養連大伴参照。 手繦はここだけ。
川原連加尼  〈続紀〉で「川原連」の初出は、天平宝字元年〔757〕五月に「川原連凡」。 その以前の神亀二年〔725〕七月に「河内国丹比郡人正八位下川原椋人子虫等四十六人、賜河原史姓」とあり、 椋人〔蔵人〕は史姓に上る。そして神亀四年〔727〕七月「周防目〔さくわん;四等官四位〕川原史石庭」がある。 〈続紀〉において川原氏・河原氏はこれですべて。
 〈姓氏家系大辞典〉は、「河原連:河原毘登、河原蔵人等の連姓を賜へるものなり。…河原連凡と云う人あり。これも、もと川原蔵人也」と述べ、 河原連は川原蔵人の後とする。となると〈天武〉十三年の「川原連」は一体どうなるのだろうか。
 いろいろ探すと、『川原城遺跡Ⅰ―南阪奈道路建設に伴う発掘調査報告書―』〔大阪府文化財研究センター2000〕は、「「川原氏」は河内国丹比郡東北部の氏族で…天武…条に「川原加尼」」の名が見えるとして、つまり〈天武〉十三年の時点で丹比郡東北部に連姓の川原氏がいたことを認めている。 すなわち〈姓氏家系大辞典〉が〈天武〉紀の「川原連」を載せないのは、見落しであろう。
 加尼はここだけ。
《遣耽羅》
 八年九月の帰国以来、遣耽羅使は久しぶりである。 また耽羅側からの遣使も、〈天武〉八年の帰国を最後にして途絶えている(《耽羅人》八年十月)。
 新羅は耽羅をわが物にしたと言って誇っていたようだが(《調物…馬狗騾駱駝》)、〈天武〉朝廷は新羅何するものぞと、強気を示したものであろう。
 久しぶりの耽羅への派遣は、王卿に軒並み武装の強化を命じたこととも繋がると見ることができる。
本朝年代記圖會』(弘前市立弘前図書館所蔵)享和二年〔1802〕
国書データベース/本朝年代記圖會/ (92)
《大地震》
 〈天武〉十三年十月十四日〔ユリウス暦684年11月29日〕の地震は、 図が『本朝年代記図会』に載るが、江戸時代の書だから全くの想像図である(右図)。
 この地震が「白鳳大地震」と呼ばれるのは、 『土佐古今ノ地震』〔寺石正路;土佐史談会1923〕に「白鳳十三年土佐大地震」とあり、同書が書かれた頃から用いられた名称と見られる。
 同書は天武元年を白鳳元年とするが、実際には「白鳳」は私年号であって、書により異なる年代に当てられているので、地震の名称には相応しくない。 「天武十三年地震」あるいは「684年(南)地震」と呼ぶべきであろう。
 美術史における「白鳳時代」は、大化改新〔645〕~平城京遷都〔710〕の期間とされ、 複数の「白鳳」年代はいずれもこの範囲内なので、これについては差し支えないとだろう。
 [内閣府/防災情報のページ/南海トラフ地震防災対策][資料2:南海トラフで過去に発生した大規模地震]には、 「684年白鳳(南海)地震」について「震源域:足摺岬沖から潮岬沖にかけての領域。御前崎沖に及ぶ可能性がある」、 「規模:M8¼」とある。
 地層調査としては[日本地球惑星科学連合2019年大会:地層に記録された東南海地域の歴史時代・先史時代の津波]によれば、 「三重県の沿岸低地で機械ボーリングとハンドコアリングによる掘削調査を行ったところ」、「見つかった砂層の内、上位3層の年代値は明応地震津波(1498年)、永長地震津波(1096年)、白鳳地震津波(684年)に重なる」という。 三重県に津波が襲ったことから、「白鳳地震」は南海地震に東海地震を伴っていたものと思われる。なお、両地震には時間差のある場合がある。
 『1854安政東海地震・安静南海地震報告書』には、 「嘉永7年/安政元年11月4日(太陽暦では1854年12月23日)の午前9時頃に紀伊半島東南部の熊野沖から遠州沖、駿河湾内に至る広い海域を震源として起きた 安政東海地震と、その約31時間後の翌11月5日の午後4時頃に紀伊水道から四国にかけての南 方海域を震源として起きた安政南海地震」とあり 〔中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会;内閣府2005〕、これは東海地震と南海地震が連続して起こった例である。
《山崩河涌》
 「河涌」は、津波が川を遡る様と見られる。それは、水が吹きあがる如くであるという。
《伊予湯泉没而不出》
松山市の標高10m以下の範囲
 〈舒明〉十一年に「伊予温湯宮」行幸したとある(《伊予温湯》)。 〈釈紀〉及び『万葉集注釈』〔仙覚〕に『伊予国風土記』-湯郡の逸文がある【伊予国風土記逸文】)。
 〈斉明〉天皇は、西征の途上「石湯行宮」に立ち寄った。その「石湯」は伊予温湯と同一であったと見た(七年《石湯》)。 それは、『伊予国風土記』における〈斉明〉天皇の伊予温湯行幸が、〈斉明〉紀「石湯行宮」に対応すると考えられるからである。 さらに、『伊予国風土記』に出てくる「伊社邇波之岡」の、式内{伊佐尓波神社}は元々は湯築城の位置というが、それでも道後温泉に近接している。
 風土記の書き方から見て、伊予国の湯は屈指の温湯である。それは、ずばり現在の道後温泉に繋がるであろう。伊予国の湯として時々出てくるうちのいくつかが、別の無名の湯であるとすることにはかなり無理がある。
 さて、「」には水没土地の陥没が考えられる。左図のようにこの地の標高を見ると、津波は考えられないから周辺の土地が崩壊して埋もれたのであろう。 「不出」は地盤の変化により、温泉水の噴出がなくなったということか。ただ、取水の井戸や配管が破壊されたという意味かも知れない。
《土左国田菀五十余万頃没為海》
国土地理院地図「自分で作る色別表構図」で作成した図に、近似矩形を加筆
 第163回で、 「1代〔頃〕=7.2歩。1歩=6尺平方=(0.296×6)² m²=3.15m²。∴1代=3.15m²×7.2=22.7m²」の関係を見た。 従って、五十余万頃=11,400,000m²=11.4km²余りとなる。
 これだけの「田苑」の土地全体が一気に降下して海面下になったとは考えにくい。実際には、津波によって海水で覆われて「没如」となったことを「没為」と表現したものであろう。 しかし、土地全体の降下の言い伝えもある。
 前述『土佐古今ノ地震』には、陥没を伝える「国中口碑」が載り、そのうち最も具体的な記述は「高岡郡に伝ふる所」として、「諸村の山上に無数の古墓あり…此等の場所は孰れも大昔須崎の海上にありし大市街の墓山にして白鳳大震の時市街は陥没し名残とし墓山のみを残せる」を紹介している (p.10)。しかし、「海中陥没都市」伝説は世界中でいくらでも自然発生する。 実際には同書のいう「口碑」は基本的に書紀の後の時代に生まれたと考えられ、その「没為海」に影響されたものであろう。
 右図は、これが津波であったと仮定して、現在の標高で2.5m以下の部分を地理院地図「自分で作る色別標高図」によって彩色したもの。 ただし、「大津」(下述)を中心とする広い範囲は、当時は海であった可能性があるので、海抜1m以下の部分を除外した。 こうして求めた標高1m~2.5mの部分の各箇所を近似矩形にして、大雑把に面積を概算したところ合計15.7km²であった 〔これを2.2mぐらいまで下げれば11.4km²に近づくと思われるが、「自分で作る色別標高図」は0.5m刻みである〕
 その範囲は現在公表されている「高知市津波ハザードマップ(平成26年〔2014〕3月発行)」とかなり似ている。 これを見ると、「五十余万頃」はやはり「没如」であった感が強まる。
《有鳴声如鼓聞于東方》
 「鳴声如鼓」は「是夕」とあるから、土佐国の地震「人定〔就寝の頃〕より数時間早い。
 上述したように、東海地震が南海地震に先行していてその音かも知れないが、次項によれば「声如鼓」は火山噴火となる。
《伊豆嶋西北二面自然増益三百余丈更為一嶋》
 まず「自然増益」の幅「300丈」については、1丈=10尺、1正倉院尺≒30cmによれば、約900mである(第116回)。
 しかし「伊豆嶋の海岸が西と北の二面が拡大し三百丈余が増え、改めて一つの島となった」は文章としてぎこちない。 このまま読めば、島の浜は北西に広がったが、その後元の島との間が陥没して新しい島ができたとなる。 他の読み方は、拡大した後も相変わらずひとつの島であったことを「為一嶋」と現したものとする。ただ、この場合はわざわざ「為一嶋」は付け加えないであろう。
 ここで、近年の西ノ島新島の経過を見る。この例では、始めに元の西ノ島と離れたところに新島ができたが、その後新島が拡大して旧島と合体して一つの島となった。 もし「西北二面自然増益三百余丈」が「更為一嶋」の結果であったとすれば、西ノ島新島と同じことが考えられる。 したがって、書紀が原資料を簡略化したときに順番が逆転してこのような文章になったとも思えるのである。
 旧西ノ島は650m×200m〔東西×南北、以下同じ〕、近くの海域に生まれた新島は東西長、南北長ともに30~50m〔1973年以前〕。新島は拡大して2014年には旧島に接続し、全体の最大サイズは2000m×2100m〔2015年〕となった。 〔この部分に関しては、その出典がしっかりしているのでjp.wikipedia.orgを用いた〕。 西ノ島新島の場合、東西方向の増加1900mを取って、書紀と同じ書き方をすれば「自然増益六百余丈更為一嶋」となる。 だとすれば「鳴声如一レ鼓、聞于東方」は火山噴火である。但し、東南海地震に誘発された可能性は十分考えられる。 なお「伊豆嶋」は伊豆大島とは限らず、伊豆諸島の他の島かも知れない。
 「更為一嶋」がどのような経過を辿ったにせよ、西ノ島新島の例を見ればこの規模の島の拡大には10~20年程度は要すると思われる。よって、この日一日の出来事ではなく「有人曰」は長い期間の活動について語った言説といえよう。 要するに、書紀は「こういう話もある」と言って参考事項として付け加えたのである。 だとすれば、「鳴声如一レ鼓聞于東方」はやはり東海地震による可能性が高まる。
《諸王卿等賜禄》
 記録があったから書いたのだろうが、何かの理由があって臨時に行われたことか、通例のことかは不明である。
《大意》
 六月四日、 雨乞いしました。
 七月四日、 広瀬(ひろせ)に行幸しました。
 九日、 広瀬と龍田の神を祭祀されました。
 二十三日、 彗星が西北の空に洗われました。長さは一丈あまりでした。
 十月一日。 詔を発しました。
――「諸氏族の姓(かばね)を改め、 八色之姓(やくさのかばね)とする。 天下の万の今までの姓(かばね)を混合して〔改めて〕 一つ真人(まひと)、 二つ朝臣(あそみ)、 三つ宿祢(すくね)、 四つ忌寸(いみき)、 五つ道師(みちし)、 六つ臣(おみ)、 七つ連(むらじ)、 八つ稲置(いなき)に分けよ。」
 同じ日に、まず 守山公(もりやまのきみ)、 路公(みちのきみ)、 高橋公(たかはしのきみ)、 三国公(みくにのきみ)、 当麻公(たぎまのきみ)、 茨城公(むばらきのきみ)、 丹比公(たぢひのきみ)、 猪名公(いなのきみ)、 坂田公(さかたのきみ)、 羽田公(はたのきみ)、 息長公(おきながのきみ)、 酒人公(さかひとのきみ)、 山道公(やまぢのきみ)、 以上十三氏に姓(かばね)を賜わり真人(まひと)としました。
 三日、 伊勢王(いせのおおきみ)らを派遣して、諸国の境界を定めさせました。
 この日、 県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)手繦(たすき)を大使、 川原連(かわらのむらじ)加尼(かね)を小使として、 耽羅(とんら)に派遣しました。
 十四日、 人の寝静まった頃に大地震がありました。 国中挙って、男女は叫び大混乱となりました。
 すなわち山は崩れ川は滾(たぎ)り、 諸国郡の官舎から 百姓の蔵、寺塔、神社に及び、 破壊された類はとても数えきれませんでした。
 これによって、人民及び六畜は、多く死傷しました。 この時、伊予の温泉は、埋もれて出なくなりました。 土佐国の田畑五十余万頃は、水没して海のようになりました。
 古老の言うに、 「このような地震は、未曽有である。」と言いました。
 この日の夕べには、 音が鼓のように鳴るのが、東方に聞こえました。
 ある人の申すには、 「伊豆の嶋の西と北の二面に、 自然に三百丈余りを増して、 更に一つの嶋となりました。 鼓のような音は、 神がこの嶋を造った響きである。」と申しました。
 十六日、 諸王、群卿らに禄を賜わりました。


20目次 【十三年十一月~是歳】
《五十二氏賜姓曰朝臣》
十一月戊申朔。
大三輪君
大春日臣
阿倍臣
巨勢臣
膳臣
紀臣
波多臣
物部連
平群臣
雀部臣
中臣連
大宅臣
栗田臣
石川臣
櫻井臣
采女臣
田中臣
小墾田臣
穗積臣
山背臣
鴨君
小野臣
川邊臣
櫟井臣
柿本臣
輕部臣
若櫻部臣
岸田臣
高向臣
宍人臣
來目臣
犬上君
上毛野君
角臣
星川臣
多臣
胸方君
車持君
綾君
下道臣
伊賀臣
阿閉臣
林臣
波彌臣
下毛野君
佐味君
道守臣
大野君
坂本臣
池田君
玉手臣
笠臣、
凡五十二氏賜姓曰朝臣。
大三輪君…〈北〉 大三輪君オホミワノキミ 大春日臣オホカスカノヲン 阿倍アヘノ巨勢臣コセノヲンカシハテノキノ波多ハタノ物部連モノゝヘノムラシ 平群臣ヘクリノヲン 雀部サゝキヘノ/スゝミヘノ 中臣連/ナカトンノムラシ 大宅臣 栗田クリタ石川イシカハ櫻井サクラヰ采女ウネメノ田中タナカノタノ穗積ホ ツミノ山背ヤマシロノ二十/カモノ小野ヲノゝ川邊カハヘノ櫟井臣イチヰノヲン 柿本カキノモトノ輕部カルヘノ若櫻部ワカサクラノ岸田キシタノ高向タカムクノ宍人シゝヒトノ 來目/クメノ犬上イヌカンノ上毛野カムツケノツノゝ星川ホシカハノ臣○多臣オホノ 胸方ムナカタノ車持クルマモチノアヤノ下道シモツミチノ伊賀イカノ四十 阿閉アヘノ林臣ハヤシノ 波彌ハミノ下毛シモツケノ野君 佐味サ ミノ道守チ モリノ大野オホノゝ坂本サカモトノ池田イケタノ五十 玉手/タマテノカサノ
〈閣〉栗田臣。 〈釈紀〉雀部スゝミヘノ大宅オホイヘノ粟田アハタノ犬上イヌカムノ
〈兼右本〉サゝ-部臣粟田臣
十一月(しもつき)戊申(つちのえさる)の朔(つきたち)。
大三輪君(おほみわのきみ)
大春日臣(おほかすかのおみ)
阿倍臣(あべのおみ)
巨勢臣(こせのおみ)
膳臣(かしはでのおみ)
紀臣(きのおみ)
波多臣(はたのおみ)
物部連(もののべのむらじ)
平群臣(へぐりのおみ)
雀部臣(ささきのおみ)
中臣連(なかとみのむらじ)
大宅臣(おほやけのおみ)
栗田臣(あはたのおみ)
石川臣(いしかはのおみ)
桜井臣(さくらゐのおみ)
采女臣(うねめのおみ)
田中臣(たなかのおみ)
小墾田臣(をはりたのおみ)
穗積臣(ほづみのおみ)
山背臣(やましろのおみ)
鴨君(かものおみ)
小野臣(をのおおみ)
川辺臣(かはべのおみ)
櫟井臣(いちゐのおみ)
柿本臣(かきのもとのおみ)
軽部臣(かるのおみ)
若桜部臣(わかさくらのおみ)
岸田臣(きしだのおみ)
高向臣(たかむこのおみ)
宍人臣(ししひとのおみ)
来目臣(くめのおみ)
犬上君(いぬかみのおみ)
上毛野君(かみつけのきみ)
角臣(つのおみ)
星川臣(ほしかはのおみ)
多臣(おほのおみ)
胸方君(むなかたのきみ)
車持君(くるまもちのきみ)
綾君(あやのきみ)
下道臣(しもつみちのおみ)
伊賀臣(いがのおみ)
阿閉臣(あへのおみ)
林臣(はやしのおみ)
波弥臣(はみのおみ)
下毛野君(しもつけのきみ)
佐味君(さみのきみ)
道守臣(ちもりのおみ)
大野君(おほののきみ)
坂本臣(さかもとのおみ)
池田君(いけだのきみ)
玉手臣(たまてのおみ)
笠臣(かさのおみ)の
凡(おほよそ)五十二氏(いそちあまりふたつのうぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて朝臣(あそみ)と曰ふ。
庚戌。
土左國司言
「大潮高騰海水飄蕩、
由是、運調船多放失焉。」
大潮高騰…〈北〉シホ高騰海水 ウナツ飄-蕩  タゝヨフ 運調 ハコフ  船多放失/ハナレ ウセ■
〈閣〉大潮オホ シホ海-水 ウナツ ハコフ調舩多ヲチリヌ
庚戌(かのえいぬ)。〔三日〕
土左国司(とさのくにのつかさ)言(まを)さく
「大潮(おほしほ)高く騰(のぼ)りて海水(わたのみづ、うなづ)飄蕩(ただよ)ふ、
是(こ)に由(よ)りて、調(みつき)を運ぶ船多(さは)に放(はな)れ失(う)せり[焉]。」とまをす。
戊辰。
昏時、七星倶流東北則隕之。
昏時…〈北〉昏時イヌノトキ
いぬのとき…19時~21時。
戊辰(つちのえたつ)。〔二十一日〕
昏時(たそかれ、いぬのとき)に、七星(ななつのほし)倶(とも)に東北(うしとら)に流れて則(すなはち)隕之(おつ)。
庚午。
日沒時、星隕東方大如瓮。
日没時…〈北〉没時トリノトキ
とりのとき…17~19時。
(瓮)…[名] 酒食を入れる容器。また調理用具。
くる…[自]ラ下二 日が暮れる。(万)0485晝波 日乃久流留麻弖 ひるは ひのくるるまで」。
庚午(かのえうま)。〔二十三日〕
日没時(ひのくるるとき、とりのとき)、星東(ひむがし)の方(かた)に隕(お)ちて大きさ瓮(へ)の如し。
逮于戌、
天文悉亂以星隕如雨。
天文…〈北〉テム-モム
いぬのとき…19時~21時。
[于]戌(いぬのとき)に逮(いた)りて、
天文(てんもん)悉(ことごとく)乱れて以ちて星(ほし)隕(おつること)雨の如し。
是月。
有星孛于中央、
與昴星雙而行之。
及月盡失焉。
孛于中央…〈北〉ヒコロヘリ中-央 ナカニ 月-ツコモリ。 〈兼右本〉モウ
ひころふ…[自]ハ四 〈時代別上代〉は「未詳」とする。ヒカルの未然形+動詞語尾フから、ア⇒オの音韻変化したとすれば一応説明できる。
…[名] 彗星。
つきこもり…[名] 月末。ツゴモリとも。
是(この)月。
星(ほし)有りて[于]中央(なかば)に孛(ははきほし)となりて、
昴星(すばる)と与(とも)に行之(ゆく)。
月尽(つきこもり)に及びて失(う)せり[焉]。
是年。

「伊賀伊勢美濃尾張四國、
自今以後、
調年免伇々年免調。」
免役…〈北〉エタチ。 〈兼右本〉エキエタチ
〈閣〉「自今以後」に傍書「交本是年以下犢已上在末十四年ノサキ可也」。
是(この)年。
詔(みことのり)のりたまはく
「伊賀(いが)伊勢(いせ)美濃(みの)尾張(をはり)の四つの国、
今自(よ)り以後(のち)、
調(みつき)の年は役(えたち)を免(ゆる)し役(えたち)の年は調(みつき)を免(ゆる)せ。」とのりたまふ。
倭葛城下郡言
「有四足鶏。」
四足鶏…〈北〉 アル。 〈閣〉 ノ アル
葛城下郡…〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下【加豆良木乃之毛】郡}。
倭(やまとのくに)の葛城下郡(かつらきのしものこほり)言(まを)さく
「四つの足ある鶏(とり)有り。」とまをす。
亦丹波國氷上郡言
「有十二角犢。」
十二角犢…〈北〉十二 アル ウシ。 〈閣〉ウシノコ。 〈兼右本〉ウシノココウシ
氷上郡…〈倭名類聚抄〉{丹波【太邇波】国・氷上【比加三】郡}。
亦(また)丹波国(たにはのくに)の氷上郡(ひかみのこほり)言(まを)さく
「十二(とあまりふたつ)の角(つの)ある犢(こうし)有り。」とまをす。
《賜姓曰朝臣》
 有力氏族が初めの方に書かれていることは明らかである。ただ、中臣連巨勢臣膳臣平群臣雀部臣の後塵を拝している。 巨勢臣平群臣の先祖が大臣であったことが、天児屋命の天岩戸や天降りのときの貢献よりも評価されたことになる。 この時点での氏族の力関係、あるいは氏文の文筆力によって左右されたことは、十分考えられる。
 大三輪君が「」姓なのに真人ではなく朝臣に留まるのは、国つ神が祖だからであろう。これは一応理解できる。
 朝臣を賜った五十二氏については、別項にまとめる。
《土左国司言運調船多放失焉》
 この日、調を運ぶ船の多くを失ったからとして、この年の調の免除を要請した。当然認められたであろう。
大津浦戸の遺称地 土左日記』の航路と飛鳥時代の調の推定運搬経路
 飛鳥京調〔多分も〕を運ぶ主要な手段は、舟であったと考えられる。 その航路は、紀貫之『土左日記』が参考になる(資料[84])。
 『土左日記』では、スタート地点は土左国の「大津」である。 『事典日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕は 「国津としては…紀貫之が船出した「大津」が考えられ、…高知市に入る旧大津村がその遺称地で、高知湾奥に流入する舟入川流域であるが、…その船戸地名」が「注目」されていると述べる。 次の「浦戸」についても、浦戸湾および旧浦戸村〔現高知市〕が見える。
 その後、貫之の乗った船は土左国と阿波国の海岸に沿って航行し、鳴門海峡から淡路島の南を経て、和泉国沿岸を進んだ。 そして、木津川口から淀川を通り、山崎で下船して、陸路で平安京に向かった。
 飛鳥時代の税・調は、大津で積み込まれたと思われる。そして難波津の手前まで『土左日記』と同じであろう。 以後、難波津から河内湖経由で大和川〔付替え前〕を飛鳥京に向かったことが考えられる。
 あるいは、住之江で陸揚げして、陸路で丹比道〔または大津道〕-横大路を経由するルートも考えられる(《大津道》・《丹比道》)。
《七星倶流東北則隕之》
 〈天武〉十三年十一月二十一日は、ユリウス暦685年1月1日。
 火球と見られ、地上に達すれば隕石となる。目撃は狭い範囲〔半径100km程度か〕に限られるから、中国では観測されない。
 「七星倶流」をそのまま読めば、大気圏に突入するときに7つに分かれた。 ただ、もとの文章は「北斗七星方面のところから」であったことも考えられる。
《星隕東方》
 〈天武〉十三年十一月二十三日は、ユリウス暦685年1月3日。これも、中国では観測されない範囲である。 その後に書かれた「星隕如雨」は流星群であろう。
 流星群なら中国でも記録されることはあり得る。ただ、『新唐書』天文志は「光宅元年九月丁丑〔684/11/11:ユリウス〕の次は 景龍元年十月壬午〔707/11/16:ユリウス〕で、その間23年間も飛ぶので、記録が失われた可能性がある。 『旧唐書』でも同じく「光宅元年九月二十九日」から「景龍元年十月十八日」の間がない。
 この期間は、高宗が崩御して武則天が権力を握り、さらに武周朝を建てた時期と一致するが、天文記録がないこととの関係は今のところ不明。
《星孛》
 この年十一月の彗星の記事は『新唐書』・『旧唐書』天文志にはない。前項で見た空白期間にあたるためであろう。
《昴星》
 〈倭名類聚抄〉「昴星:…六星火神也…【和名須八流】」。
『本朝年代記圖會』(弘前市立弘前図書館所蔵)享和二年〔1802〕
国書データベース/本朝年代記圖會/ (90)
《伊賀伊勢美濃尾張四国調年免役役年免調》
 「調年免役役年免調」は、「調の年は役を免(ゆる)し役の年は調を免す」、 すなわち調と役を一年毎に交互にしたと思われる。負担軽減であろう。
 少なくとも今後数年以上にわたるから、天災による救済ではない。 対象地域から見て、〈壬申〉で大海人皇子を助けた功績によるものであろう。
 なお、これは令に見られる和風の書法で、漢文なら「於所納調年免役且於所課役年免調」などが考えられる。
《倭葛城下郡言》
 〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下【加豆良木乃之毛】郡}。
 葛城県は〈天武〉朝の時点で既に分割されていたことが分かる。なお、大宝令以前は実際には「葛城下評」であった(表が)。 北が「」なのは、飛鳥京を基準にしたためである〔国や郡を分割するとき、一般に都に近いほうが「上」となる〕。 後に城を省いて「葛下」の二文字としたのは、好字令(資料[13])によると見られる。
 「十二角犢」と並べて書かれるから「四足鶏」も信憑性が疑われるが、実際にあったとすれば、十一年八月「三足雀」と同じく「偽足突起物」と思われる(《三足雀》)。
《丹波國氷上郡》
 〈倭名類聚抄〉{丹波【太邇波】国・氷上【比加三】郡}。
 「十二本の角のある子牛」は、理解に苦しむ。右図は、江戸時代の『本朝年代記図会』に収められたもの。 文字通りを想像した姿が書かれている。
《大意》
 十一月一日、 大三輪(おおみわ)の君(きみ)、 大春日(おおかすが)の臣(おみ)、 阿倍臣、 巨勢(こせ)の臣、 膳(かしわで)の臣、 紀臣、 波多(はた)の臣、 物部連、 平群(へぐり)の臣、 雀部(ささき)の臣、 中臣(なかとみ)の連(むらじ)、 大宅(おおやけ)の臣、 栗田臣、 石川臣、 桜井臣、 采女(うねめ)の臣、 田中臣、 小墾田(おはりた)の臣、 穗積臣、 山背(やましろ)の臣、 鴨君、 小野臣、 川辺臣、 櫟井(いちゐ)の臣、 柿本(かきのもと)の臣、 軽部(かる)の臣、 若桜部(わかさくら)の臣、 岸田臣、 高向(たかむこ)の臣、 宍人(ししひと)の臣、 来目臣、 犬上(いぬかみ)の君、 上毛野(かみつけの)の君、 角(つの)の臣、 星川臣、 多(おお)の臣、 胸方君、 車持(くるまもち)の君、 綾(あや)の君、 下道(しもつみち)の臣、 伊賀臣、 阿閉(あへ)の臣、 林臣、 波弥(はみ)の臣、 下毛野(しもつけの)の君、 佐味(さみ)の君、 道守(ちもり)の臣、 大野君、 坂本臣、 池田君、 玉手(たまで)の臣、 笠(かさ)の臣の 全部で五十二氏に姓(かばね)を賜わり、朝臣(あそみ)といいます。
 三日、 土左国(とさのくに)の司(つかさ)は、 「大潮が高く上がり、海水がただよい、 これによって、調(みつき)を運ぶ船は多くが流されて失われました。」と言上しました。
 二十一日、 黄昏時に、七つの流星が東北の空を流れて隕(お)ちました。
 二十三日、 日没の時、星が東方に隕(お)ちました。大きさは瓮(へ)ぐらいありました。
 戌(いぬ)の時〔20時前後〕に至り、 天文は悉く乱れて以ちて星が雨のように隕(お)ちました。
 この月は、 空の中央に孛星〔=彗星〕が現れ、 昴(すばる)とともに進みました。 月末になり、消滅しました。
 この年、 詔を発しました。
――「伊賀、伊勢、美濃、尾張の四国は、 今から以後、 調(みつき)の年は役(えたち)を免除し、役(えたち)の年は調(みつき)を免除せよ。」
 倭(やまと)の国の葛城下郡(かつらきのしものこおり)は、 「四つ足の鶏がいました。」と言上しました。
 また、丹波国(たんばのくに)の氷上郡(ひかみのこおり)は、 「十二本の角がある犢〔=子牛〕が生まれました。」と言上しました。


【朝臣姓を賜った五十二氏族】
01大三輪君  〈崇神〉七年八月から、大田田根子大物主神の祭主になったことが描かれる。 三輪一族は三輪山の麓で暮らす。三輪君大田田根子を始祖として〈雄略〉即位前紀でその地域を見た。 氏神の大神神社第112回
 大族三輪君神麻加牟陀君児首に至るまでの系図を三輪君子首項で見た。
 「大神朝臣」は〈続紀〉に大宝二年〔702〕正月「大神朝臣高市麻呂」以下大量にある。
02大春日臣  春日は巨大な氏族で、〈時代別上代〉「春日 カスガ:大和国添郡の春日より起る。春日の文字は…「ハルヒのカスガ」(武烈紀)…枕詞より転じた」。 〈孝昭天皇段〉で、皇子天押帯日命は「春日臣・大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壹比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壹師君・近淡海国造之祖也」(第105回)とあり、春日臣系氏族の祖。
 〈時代別上代〉「古く春日県あり、後世郷名となる」、〈倭名類聚抄〉(以下〈倭〉){大和国・添上郡・春日【加須加】郷}。 「春日臣は…多くの氏々の宗族にして、…代々后妃を出し、上古第一流の貴族なり。後には大春日臣と云ふ」。「大春日臣:孝昭皇子天押帯日子命の後也」。
 その「代々后妃」とは、〈雄略〉元年三月春日和珥臣深目女曰童女君」、 〈仁賢〉元年二月春日大娘皇女」、 〈継体〉元年三月和珥臣河內女曰荑媛」。
 天押帯日子命を祖とする一族は、和邇(和珥)氏としてスタートして、春日に移り「春日和珥臣」、後に単に「春日臣」となったようである (第105回【春日臣ら16氏】)。
 「大春日朝臣」は〈続紀〉和銅二年〔709〕正月「大春日朝臣赤兄」以下12例。
03阿倍臣  〈孝元〉段では、皇子大毘古命の子が「阿倍臣等之祖」、〈孝元〉紀では皇子大彦命阿倍臣らの祖とする(第108回/阿倍臣)。
 〈姓氏家系大辞典〔以下〈大辞典〉〕〉は、大彦親子の会津伝説に注目する。
 113回大毘古命者遣高志道、其子建沼河別命者遣東方十二道而、令-平其麻都漏波奴まつろはぬ人等」。 そして、(114回)「大毘古命者隨先命而、罷行高志国。爾、自東方所遣建沼河別与其父大毘古、共往遇于相津。故其地謂相津也〔大毘古命は最初の命令に従い高志国を行き、ここに東方に遣わされた建沼河別は父大毘古と相津で遭った。故にその土地を相津〔会津〕という〕
 つまり、大毘古〔大彦〕は北陸道経由で進出し、その子建沼河別命〔武渟川別〕は東海道経由で進み、会津で合流したという。 〈大辞典〉は、これは「地名付会の作り話」ではあるが「此氏族の分布の上から容易く否定ができない」、「東国に於ける此氏族の分布は二将軍遠征の経路とよく一致している」から、「後世阿倍氏の勢力が此の両道を東北進して会津に会合せしは之を事実と認めざるべからず」と述べる。
 第231回では、《三国君・息長君・坂田君・布勢君他》の項で、琵琶湖東岸に「阿倍朝臣⇒息長君・坂田君・酒人君⇒布勢朝臣⇒三国君」の進出経路を見出した。 阿倍臣は、〈垂仁〉紀から〈推古〉紀までしばしば登場する。
 さらに、〈斉明〉四年是年越国守阿部引田臣比羅夫」の肅愼討伐、五年三月の「阿倍臣【闕名】」の蝦夷国討伐が目を惹く。 越国の引田臣も巨大氏族阿倍氏の構成員で、やはり北陸道全体に阿倍系氏族が存在していたわけである。
 「阿倍朝臣」は〈続紀〉に、文武四年〔700〕八月「阿倍朝臣御主人」はじめ大量にある。
04巨勢臣  〈孝元〉段に許勢小柄宿祢者、許勢臣・雀部臣・軽部臣之祖也」 (第108回許勢臣)。
 祖は「巨勢男柄宿祢」の子、乎利宿祢(《雀部朝臣の祖》)。
 〈大辞典〉「{大和国・高市郡・巨勢郷}より起りたる氏なり」。〈継体〉・〈安閑〉に「許勢男人大臣」。〈欽明〉・〈舒明〉に「許勢臣」。 〈崇峻〉即位前紀、〈皇極〉元年、〈孝徳〉大化二年・白雉四年に「巨勢臣」。〈斉明〉四年には「左大臣巨勢徳太臣薨」。
 〈壬申〉では、「巨勢臣比等」は大友皇子側に属して進軍するが、内紛で山部王を殺害(15)。
 〈天武〉十四年に「巨勢朝臣辛檀努」、「巨勢朝臣粟持」、「巨勢朝臣馬飼」。〈持統〉紀に「巨勢朝臣多益須」、「巨勢朝臣麻呂」、「巨勢朝臣粟持」。
 〈続紀〉には慶雲元年〈704〉正月「巨勢朝臣久須比」はじめ大量にある。
05膳臣  大彦命の子、比古伊那許士別命を祖とする(膳臣)。〈孝元〉紀では大彦命の子。
 〈景行〉段(第123回)に「膳之大伴部」があり、『高橋氏文』(資料[07])にはその磐鹿六獦に賜ったとある。
 〈欽明〉紀に「膳臣巴提便」、〈崇峻〉即位前紀に「膳臣賀拕夫」。〈推古〉十八年には「<b>膳臣大伴為任那客荘馬かざりうま之長」とあるので、食事を含む接待を担ってきたと察せられる。 〈斉明〉紀には「遣高麗大使膳臣葉積」。
 『高橋氏文』(資料[07])を見ると、どう見ても高橋臣膳臣と同一であるが、これとは別に「高橋公」が真人を賜った(上述)とあることが戸惑わせる。 〈続紀〉には「高橋朝臣」が数多いが、「膳朝臣」は一例もない。「高橋朝臣」の初出「高橋朝臣嶋麻呂」は文武二年〔698〕七月だから、膳朝臣から高橋朝臣への改称は684年から698年の間となる。その後は〈続紀〉に「高橋朝臣」が大量にある。 一方〈続紀〉に「高橋真人」は出てこないから、結局「高橋公」は「高橋臣(膳臣)」とは別族ということになる。
06紀臣  〈孝元〉段に木角宿祢者、木臣都・都奴臣坂本臣之祖」とある(木臣【木国造之祖】)。
 〈欽明〉紀の多数の「紀臣」は、半島に渡って現地化した一族が旧氏姓を名乗ったもの。
 〈舒明〉即位前紀では、次期天皇選択〔〈舒明〉or 山背大兄王〕の議論に登場する。〈孝徳〉紀では、国守として過ち叱責される場面、および白雉の輿を持つ役割。 このように、由緒ある氏族であるがそれほど脚光を浴びていない。
 〈壬申〉では、紀臣阿閉麻呂が活躍。
 〈続紀〉では文武元年〔697〕八月に「紀朝臣」の「竈門娘」を妃に納める。以下「紀朝臣」は大量にある。
07波多臣  〈孝元〉段に「波多八代宿禰者、波多臣…之祖也」(波多臣)。
 登場は〈推古〉三十三年に一か所「…小徳波多臣広庭…副将軍、率数万衆以征-討新羅」のみ。
 〈続紀〉に「波多朝臣」は文武四年〔700〕十月「波多朝臣牟後閉」はじめ十数例。
08物部連  櫛玉饒速日命を祖とする。天孫より前に天磐船に乗って天から降りたとされる(〈神武〉即位前:戊午年)。 資料[37]で詳述。
 〈崇神〉〈垂仁〉〈雄略〉〈継体〉〈天智〉〈天武〉上・下に見える。〈雄略〉朝で「物部連」は大連。
 「物部朝臣」は、朱鳥元年九月までには「石上朝臣」に改名した。
 〈続紀〉は文武四年〔700〕十月に「石上朝臣麻呂」、以下大量にある。
09平群臣  〈孝元〉段に「平群都久宿祢者、平群臣…等祖也」(平群臣)。
 〈雄略〉朝に「平群臣真鳥大臣」。〈清寧〉「平群真鳥大臣…如故」。 以後〈崇峻〉前紀、〈推古〉紀、〈孝徳〉紀に見える。「平群臣子首」は〈天武〉十年-定帝紀及上古諸事」の一人。
 〈続紀〉慶雲四年〔707〕二月「平群朝臣安麻呂」はじめ「平群朝臣」は大量にある。
10雀部臣  (許勢小柄宿祢系(第108回/雀部臣)。 祖は「巨勢男柄宿祢」の子、星川建日子(《雀部朝臣の祖》)。
 〈姓氏録〉〖雀部朝臣/巨勢朝臣同祖/建内宿祢之後也/星河建彦宿祢。謚応神御世。代於皇太子大鷦鷯尊。繋木綿襷。掌監御膳。因賜名曰大雀臣〗 〔星河建彦宿祢は、〈応神〉の御世に皇太子大鷦鷯尊〔〈仁徳〉〕に代わって木綿(ゆう)の襷(たすき)をして御膳を掌ったことにより、鷦鷯の名を賜った〕
 〈大辞典〉「雀部〔〈倭〉{摂津国・兎原郡・佐才}が〕この部のありし地ならん」。 「雀部臣(武内宿祢裔巨勢氏族):仁徳天皇の御名代部にて、御諱・鷦鷯(雀)を名を負ひたる」。
 《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》項の考え方によれば、雀部が先に存在していて皇子を養育したことによって、氏族名「鷦鷯」の名を負ったことになる。
 〈続紀〉に天平勝宝三年〔751〕二月「雀部朝臣真人」はじめ「雀部朝臣」は9例。
11中臣連  中臣連大嶋で述べたように、 中臣連は天児屋命を祖として(第49回)、神祇を掌る (〈推古〉紀《中臣連国》、〈皇極〉紀《神祗伯》)。
 〈神代上〉〈垂仁〉〈欽明〉〈推古〉〈孝徳〉〈天武〉上・下に見える。 そのうち〈欽明〉紀では仏教導入に反対した。〈舒明〉即位前紀では天皇に〈舒明〉・山背大兄王のどちらを選ぶかの議論する諸氏の一人。 〈天武〉十三年「姓曰朝臣」。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十二月「中臣朝臣意美麻呂」以下「中臣朝臣」は大量にある。
12大宅臣  〈時代別上代〉は〈倭〉{大和国・添上郡・大宅郷}発祥と述べる。
 〈推古〉三十一年大宅臣軍が新羅征討副将軍。
 〈続紀〉は大宝元年〔701〕七月「大宅朝臣金弓」、以下「粟田朝臣」は大量にある。
13粟田臣  〈北野本〉〈内閣文庫本〉は栗田臣だが、〈釈紀〉〈兼右本〉は粟田臣に作る。 〈天武〉紀に「粟田臣真人」、〈持統〉紀に「粟田真人朝臣」があるから、粟田が正しいのは明白。
 粟田臣は他に〈推古〉十九年及び〈皇極〉紀に「粟田細目臣」、〈孝徳〉紀「粟田臣飯虫」。
 〈倭〉{山城国・愛宕郡・上粟田【阿波多】郷/下粟田郷〔現在の三条大橋から東山道・東海道沿い〕春日氏系の氏族(第105回/粟田臣)。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月「粟田朝臣真人」以下「粟田朝臣」は大量にある。
14石川臣  〈倭〉{河内国・石川郡}の地名、またその河名を負う。蘇我臣から改名。 第108回蘇我臣」。 「建内宿祢之子:蘇賀石河宿祢者、蘇我臣・河辺臣田中臣高向臣小治田臣桜井臣岸田臣等之祖也」。
 乙巳の変(皇極四年六月十二日)で蘇我宗家が滅ぼされた後、後継氏族は石川臣に改称した(【蘇我氏の盛衰】)。
 十四年九月、〈持統〉三年九月に「石川朝臣虫名」。〈続紀〉文武元年〔697〕八月「石川朝臣刀子娘為妃〔石川朝臣の女、刀子娘(とじのいらつめ)を妃に納めた〕。以下〈続紀〉に「石川朝臣」は大量にある。
15桜井臣  祖は蘇賀石河宿祢(上述、「櫻井臣」)。
 〈大辞典〉「{河内国・河内郡・桜井【佐久良井】郷より起りしなるべし」。
 〈舒明〉即位前紀で次期天皇に〈舒明〉・山背大兄王の選択を議論した場面に「桜井臣和慈古」。続紀に「桜井臣」なし。
16采女臣  〈神武〉段に「邇芸速日命 娶登美毘古之妹登美夜毘売 生子宇摩志麻遅命【此者、物部連・穂積臣・婇臣祖也】」(第99回)とあり、 邇芸速日命の子、宇摩志麻遅命を祖とする。したがって物部氏族(《采女臣摩礼志》)。
 『天孫本紀』に「宇摩志麻治命―彦湯支命―出雲石心大臣命―大水口宿祢命【穂積臣・采女臣等祖】」(資料[39])。
 〈孝徳紀〉「采女臣使主麻呂」、〈天武〉十三年二月采女臣竹羅」。
 〈続紀〉慶雲元年〔704〕正月「采女朝臣枚夫」、以下「采女朝臣」多数。
17田中臣  祖は蘇賀石河宿祢(上述、「桜井臣」)。
 〈倭〉{大和国・高市郡}の田中邑から起こったとされる(〈推古〉三十一年《田中臣》
 〈壬申〉田中臣足麻呂
 〈続紀〉文武二年〔698〕六月「丁巳。直広参田中朝臣足麿卒。詔贈直広壱。以壬申年功也」。 以下「田中朝臣」は大量に出てくる。
18小墾田臣  祖は蘇賀石河宿祢(上述、「小治田臣」)。
 〈姓氏録〉〖右京/皇別/小治田朝臣/〔武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也〕〖神別/小治田宿祢〗〔物部族、小治田連の後〕とは明確に区別される。
 〈推古〉小墾田宮の地(第249回)。
 〈舒明〉即位前紀で次期天皇に〈舒明〉・山背大兄王の選択を議論した場面に「小墾田臣」。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月「小治田朝臣当麻」以下、「小治田朝臣」多数。
19穂積臣  〈孝元〉段に「〔〈孝元〉は〕穂積臣等之祖、内色許男命妹、内色許売命」。
 〈開花〉紀には「母曰欝色謎命、穗積臣達祖、欝色雄命之妹也」として欝色雄命〔内色許男命〕を祖としている。
 一方〈崇神〉紀・〈垂仁〉紀には「穗積臣遠祖、大水口宿祢」。『天孫本記』でも、大水口宿祢命を祖とする。(上記参照)。
 これらを両立させるためには、欝色雄命大水口宿祢命が一本の家系ライン上にあることが必要である。別項で探る。
 穂積臣は、〈継体〉紀、〈推古〉紀、〈孝徳〉紀に見える。
 「穂積臣百足」は、〈壬申〉11で近江朝廷が飛鳥宮に派遣。 飛鳥寺西陣営で捕まったが、解放された。 〈天武〉朱鳥元年正月是月に「直広肆穂積朝臣虫麻呂」。
 〈続紀〉大宝三年〔703〕正月「穂積朝臣」以下「穂積朝臣」多数。
20山背臣  山背直(天津彦根命の子孫)とは別氏族。〈大辞典〉「皇別姓ならん」というが、〈姓氏録〉には載らない。
 山背朝臣(山代朝臣)は、以後〈天武〉紀、〈持統〉紀、〈続紀〉のいずれにも見えない。
21鴨君  本貫は葛上郡。三輪君とともに大田田根子を始祖とする【鴨君】
 〈壬申〉では「鴨君蝦夷」が吹負の麾下で不破行宮を出発し、後に当麻道に布陣(《三輪君高市麻呂》)。
 〈続紀〉「鴨朝臣」は、大宝元年〔701〕正月「鴨朝臣吉備麻呂」以下多数。
22小野臣  春日氏系の氏族(第105回/小野臣)。
 〈大辞典〉「(春日)小野臣:春日臣より分れしが故に、春日小野臣と云う也。近江国滋賀郡小野村より起ると云ふ」。 「小野臣:山城、近江は此の氏族第二の根拠地にして、殊に此の氏に関係ある神社、地名多」し。
 〈雄略〉紀に春日大野臣大樹」。〈推古〉紀に遣隋使「小野臣妹子」。
 〈続紀〉文武四年〔700〕十月「小野朝臣毛野」以下「小野朝臣」は大量にある。
23川辺臣  各地の地名「川辺」のうち、〈倭〉{大和国・十市郡・川辺【加八乃倍】郷}が最も飛鳥に近い。
 祖は蘇賀石河宿祢(上述、「川邊臣」)。
 〈欽明〉紀「河辺臣瓊缶」、〈推古〉紀「河辺臣闕名」・「河辺臣祢受」。
 〈舒明〉即位前紀で次期天皇を〈舒明〉・山背大兄王から選択する場面に「河辺臣」が登場。〈孝徳〉紀では「河辺臣」ら国守四名が叱責される。白雉五年「河辺臣麻呂」(遣唐使)。〈斉明〉紀にも「河辺臣」。
 〈天武〉朝では、六年に「河辺臣百枝」(「民部卿」)、十年に「河辺臣子首」。
 〈続紀〉和銅元年〔708〕正月「川辺朝臣母知」以下「川辺朝臣」は9か所。
24櫟井臣  春日氏系の氏族(第105回/壹比韋臣)。
 書紀では他に見えず。〈続紀〉にも「櫟井朝臣」は見えない。
 〈大辞典〉「天平五年の山城国ならむと思はるゝ計帳に、櫟井朝臣牛甘、他二人を載せたり」。
25柿本臣  大和国葛下郡に柿本神社(式外)。
 春日氏系の氏族(第105回/柿本臣)。
 〈天武〉十年十月に「柿本臣」。 〈大辞典〉「庶流の人は柿本臣と云へり」。
 〈続紀〉には、和銅元年〔708〕四月壬午「従四位下柿本朝臣佐留卒」。以下「柿本朝臣」は8か所。
26軽部臣  軽部臣は、許勢小柄宿祢系の氏族(第108回軽部臣)。 祖は「巨勢男柄宿祢」の子、伊刀宿祢(下述)。
 〈大辞典〉「軽部:御名代部の一にして、允恭帝の皇子木梨之軽太子の御名を負ひし也」。これも、養育した氏族の名が先にあって、それが皇子名となった。 「軽部臣:軽辯の総領的伴造ならんか」、「軽部中第一の大族也」。
 〈天武〉十四年十月に「軽部朝臣足瀬」。
 〈続紀〉天平勝宝三年二月の雀部朝臣真人による言上の中に「巨勢男柄宿祢之男:伊刀宿祢者、軽部朝臣等祖也」とある。これ以外〈続紀〉に「軽部朝臣」は見えず。
27若桜部臣  〈履中〉は磐余稚桜宮に坐して、〈履中〉三年に「膳臣余磯稚桜部臣」とした(市磯池で遊宴中に桜花が杯に舞い落ちた伝説による)。
 すなわち、もとは膳臣膳臣は別に存在するから、その分流と見るべきであろう。
 〈壬申〉、吉野宮を発った大海人皇子の最初の同行メンバーに「稚桜部臣五百瀬」。
 〈続紀〉に「若桜部朝臣」は、天平宝字八年〔764〕十月「若桜部朝臣上麻呂」ら3か所。
28岸田臣  発祥の地は、大和国山辺郡岸田村とされる。武内宿祢五代孫の稲目宿祢の後。
 祖は蘇賀石河宿祢(上述、「岸田臣」)。
 〈斉明〉七年、「岸田臣麿」は地中に埋もれていた宝剣を発見して献上した。
 〈続紀〉には一か所、天平宝字八年〔764〕十月に「岸田朝臣継手」。
29高向臣  〈延喜式-神名〉越前国/坂井郡【並小】/高向神社}。同郡{高向【多加無古】郷}発祥か。
 祖は蘇賀石河宿祢(上述、「高向臣」)。
 〈舒明〉即位前紀、次期天皇に〈舒明〉・山背大兄王の選択を議論した場面に「高向臣宇摩」。
 〈皇極〉二年十一月に「高向臣国押」。 〈天武〉十年十月に「高向臣麻呂」。
 〈続紀〉に「高向朝臣」は大宝二年〔702〕八月「高向朝臣麻呂」はじめ多数。
30宍人臣  〈大辞典〉「宍人部:獣肉を調理するを職とせし品部なり」。 宍戸臣は安倍氏の族で、宍人部の伴造で膳部臣と同族とされる。
 〈崇峻〉二年七月に「宍人臣」。 宍人臣大麻呂の女𣝅媛娘は、忍壁皇子らの御母(〈天武〉二年𣝅媛娘)。
 〈続紀〉に「宍人朝臣」は天平宝字二年〔758〕八月「宍人朝臣倭麻呂」はじめ8か所。
31来目臣  〈孝徳〉大化元年「久米臣【闕名】」が初出。〈壬申〉18で「来目臣塩籠」は大海人皇子に内応しようと企てたが、その動きが壱伎史韓国(大友皇子側)に知られて自死した。
 〈大辞典〉によると「来目臣」は蘇我氏の分派で、古来の大族久米部とは無関係。同書は「来目」という名称は古代の武内宿祢の女、久米能摩伊刀比売(第108回)の遺領を継承したことによると見ている (〈孝徳〉大化元年八月《来目臣》、 〈壬申〉18《来目臣塩籠》)。
 〈続紀〉の表記は「久米朝臣」。和銅元年〔708〕三月「従五位上久米朝臣尾張麻呂為伊予守」、はじめ10か所。
32犬上君  倭建命段(第135回)に、「倭建命之御子:稲依別王者【犬上君・建部君等之祖】」。 犬上郡の現多賀大社を氏神とする(《犬上君》)。
 一方、地理的には阿倍-布勢系に属することが考えられる。琵琶湖東岸~北陸の三国君息長君坂田君布勢君とはともに「」姓という共通性がある。
 神功皇后紀には「犬上君祖倉見別」。〈推古〉二十二年「犬上君御田鍬」が遣隋使、〈舒明〉二年「犬上君三田耜〔=御田鍬〕」が遣唐使。 〈斉明〉二年「犬上君白麻呂」は遣高麗使の大判官(大使・副使の次)。〈天智〉二年五月、「犬神君【闕名】」が高麗に行った帰りに豊璋と面会。 これらからは、越の阿倍比羅夫との間に、日本海を北に向かう氏族という共通性も感じられる。
 〈続紀〉に「犬上朝臣」は見えない。
33上毛野君  毛野には、太古から強大な独立勢力が存在したと見られる(〈斉明四年〉《上毛野国》) 〈崇神〉紀で皇子豊城命を上毛野君と下毛野君の祖としたのは、大和政権が現地氏族と関係を結ぶ際に、擬制的な親族関係になったことによる。
 その後〈垂仁〉紀〈応神〉紀〈仁徳〉紀に登場。 〈安閑〉元年閏十二月には、「上毛野君小熊」がこの地域の有力者であったことが示される。
 中央政権はこの地域に睨みを利かせるために武蔵に四つの屯倉を置いた。同二年の緑野屯倉の設置も同じ意味と思われる。 〈舒明〉紀に蝦夷征伐を命じられた「毛野君形名」には、冠位「大仁」があるのでこの頃には中央に服属していたようである。
 〈天智〉二年三月には「上毛野君稚子」らが二万七千を率いて新羅攻撃に向かったとある〔本サイトは直ちに史実と見ることを躊躇した〕。 「上毛野君三千」は、〈天武〉十年三月に帝紀と上古の諸事「記定」のメンバーのひとり。
 〈続紀〉文武四年〔700〕十月「上毛野朝臣小足」など「上毛野朝臣」は数多い。
34角臣  〈国造本紀〉では、都怒国造周防国造穴門国造の間に書かれている。〈倭〉{周防国・都濃郡・都濃郷}であろう。 ただ、ツノであるが、都濃ツヌである。
 の音仮名には奴・怒・努・濃がありそのうち奴・怒・努にも使われるので、は発音が近いと思われる。 よって、「都怒」自体にツノツヌ両方の発音が存在した、または〔他に見いだされてはいないが〕に使われることがあったことが考えられる。 美濃信濃も「…」である(【角国】)。
 〈雄略〉九年五月では、 小鹿火宿祢は百済滞在中に、本国から乗り込んできた紀大磐宿祢の振る舞いに強い反感を持った。帰国後もこの人物と共に朝廷に仕える気にならず、 「角国」に留まりたいと言った(【登場人物の相関図】)。 その希望は認められ、小鹿火宿祢一族はここに留まりそれ以来「角臣」と呼ばれるようになったとある。
 都奴臣木角宿祢を祖とする(都奴臣)。
 〈続紀〉天平四年〔732〕正月「角朝臣家主」をはじめとして、「角朝臣」は数名。
35星川臣  〈孝元〉段に建内宿祢の子「波多八代宿祢者、波多臣・林臣波美臣星川臣・淡海臣・長谷部君之祖也」とある(星川臣)。
 〈時代別上代〉「{大和国・山辺郡・星川【保之加波】郷より起る」。
 〈天武〉九年五月に「星川臣摩呂」、〈壬申〉の功により贈大紫位。
 〈続紀〉には、霊亀二年〔716〕、天平宝字元年〔757〕(七五七)「星川臣摩呂」の子孫が功田を賜った記事のみ。
36多臣  〈神武〉段、「〔皇子〕神八井耳命者、意富臣・小子部連…嶋田臣等〔全十九氏〕之祖也」。そのうち、朝臣姓を賜ったのは意富臣のみ。 〈倭〉{大和国・十市郡・飯富〔飫富であろう〕郷}がある。
 〈大辞典〉「皇別氏中第一の古族にして、一族〔すこぶ〕る多く、分派また尠からず」、 「故に多氏とは一族の多きよりの称なりとの説さへ生ずるに至れり」。「其の分布より考ふれば、或は肥後より起りしにあらずやと考へらる」。
 本サイトは、多氏系の分布は九州に上陸した天孫族の畿内への移動の跡を示すもので、それはまた〈神武〉東征伝説と同根と考えた(第101回)。
 〈景行〉紀「多臣祖武諸木」、〈天智〉紀「多臣蔣敷」。 〈壬申〉「多臣品治」は、「安八磨郡湯沐令」として登場(《多臣品治》)。
 〈続紀〉慶雲元年〔704〕など四か所にある「太朝臣安麻呂」は古事記著者。霊亀二年〔716〕氏長」。養老七年〔723〕七月庚午「」。 他に「太朝臣」数名。 また、「多朝臣犬養」が天平神護元年〔764〕三月以下10か所。
37胸方君  〈姓氏録〉〖神別/地祇/宗形朝臣/大神朝臣同祖/吾田片隅命之後也〗〖神別/地祇/宗形君/大国主命六世孫吾田片隅命之後也〗大国主神は宗像沖津宮の祀神である多紀理毘売を娶り、阿遅鉏高日子根神を生む(第68回)。吾田片隅命がその五代孫だとすれば、大国主と多紀理毘売の両方から繋がる。 なお、多紀理毘売は須佐之男命から生まれた三女神の第一。相手の性は天照大御神(第46回)。
 胸に彫られた文身が氏族名「胸方」の由来であろう。宗像大社がある。胸形については、建速須佐之男命段(第47回)で詳しく考察した。
 アマテラス族との擬制的親族関係を取らなかった点は特徴的である。 海洋族としては阿曇族と類似するが、阿曇族が東進したのとは対照的に、胸形族は筑前国宗像郡に腰を据えて動かない。
 天降り以後、胸方〔形〕の人物は見えず、 〈天武〉朝になってやっと外戚として「胸形君徳善女、尼子娘〔高市皇子の母〕が見える(《納尼子娘:高市皇子命》)。しかし、胸方氏は筑紫から半島に向かう出航地と経由する島に三女神を置き、航路をがっちり握って独自の存在感を見せる。
 〈続紀〉には一か所、養老五年〔721〕胸形朝臣赤麻呂」。
38車持君  〈履中〉五年に、筑紫の車持君の悪行を裁く場面がある。 その罪は、その地の人民を車持部として私有したことと、宗像の神領を奪ったことであった。 その結果、車持君を「長渚崎」で「祓禊」せしめ、車持君領を没収して一部を宗像三神に与えた。
 書紀に車持君が現れるのはこの場面だけ。「車持部」はもともとは天皇の車駕や皇族の輿を担当する職業部であったが、〈履中〉紀の車持君は既にその実務からは離れた一氏族である。車持君は各地に分散した(《車持部》)
 〈続紀〉に「車持朝臣」の氏人は、和銅三年〔710〕正月「車持朝臣」など10例。
39綾君  〈景行〉紀では、日本武尊の子、武卵王は「讚岐綾君之始祖」とされる。〈景行〉段では、倭建命の子、建貝児王讃岐綾君の祖(第135回)。
 『日本国現報善悪霊異記』中巻第十六に「聖武天皇御代讃岐国香川郡坂田里有一富人夫妻同姓綾君」。
 〈続紀〉延暦十年〔791〕には、「讃岐綾君」は和銅七年〔714〕年に「朝臣姓」を取り消されたが、復活してほしいと証拠を添えて願い出て許された(《讃岐綾君》)。 これ以後は〈続紀〉に出て来ない。
40下道臣  〈孝霊〉段では、皇子「若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣笠臣」とされる(第107回吉備下道臣)。
 〈応神〉二十ニ年に、御友別は吉備国内の支配地域を分割して三人の子と自身の兄・弟に配分した。 そのうち長子の稲速別には川嶋県が与えられて「下道臣之始祖」、中子の仲彦には上道県が与えられて「香屋臣之始祖」、弟彦には三野県が与えられて「三野臣之始祖」となった(【御友別一族】)。 川嶋県下道県の別名と見られる。よって上道・下道は実際には〈応神〉朝に分割されてできた県で、〈孝霊〉段(第107回)の「大吉備津日子命者吉備上道臣之祖」・「若日子建吉備津日子命者吉備下道臣笠臣祖」は、記が古い言い伝えを採用したものであろう。
 実際、紀では「吉備武彦」(〈景行〉紀)はあるが、吉備に〔若〕をつけた名前はなくなっている。
 〈続紀〉に「下道朝臣」は、天平七年〔735〕四月「下道朝臣真備」はじめ数多い。
 真備は留学生として入唐し、『唐礼』130巻を始めとして、暦書、天文観察用の尺、楽器、楽譜、武具などを大量に持ち帰った。
41伊賀臣  〈孝元〉紀に皇子「大彦命」は「阿倍臣膳臣阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡七族之始祖也」(伊賀臣)。
 〈宣化〉元年に、伊賀国の屯倉の穀物を新たに作った那津屯倉に運ばせた。このことから、伊賀臣という氏族名は所在地によるものであることが分かる。
 〈大辞典〉「阿倍氏の族にして伊賀国伊賀郡、其の本拠也」。『天孫本紀』尾張連系列(資料[38])八世孫「倭得玉彦命」 に「伊賀臣祖大伊賀彦女、大伊賀姫」が嫁いだというところの「大伊賀彦」は、「〔姓氏録で伊賀臣の祖とする〕彦屋主田心命の子、或は孫なるべし」と〈大辞典〉はいう。
 〈続紀〉に「伊賀朝臣」は見えない。
42阿閉臣  〈孝元〉紀、皇子「大彦命」は阿閉臣の祖。阿倍臣系。
 〈倭〉{伊賀国・阿拝郡}が本貫、〈延喜式-神名〉に{伊賀国/阿拝郡/敢国神社【大】}。
 〈雄略〉三年「阿閉臣国見【更名磯特牛】」、〈雄略〉三年「阿閉臣事代」、〈推古〉十八年「阿閉臣大籠」。
 〈続紀〉には、和銅元年〔708〕正月「授…正六位上阿閉朝臣大神…従五位下」の一か所。 〈姓氏録〉には〖皇別/阿閉臣/阿倍朝臣同祖〗〖皇別/阿閉臣/大彦命男彦背立大稲輿命之後也〗とあるので臣姓の者も併存したか。朝臣姓剥奪の可能性もあるが、それらしい資料は今のところ見つからない。
43林臣  武内宿祢の子、波多八代宿祢系(林臣)。
 〈大辞典〉は、まず「林連:大伴氏の族」の発祥の地について、拝志〔拝師〕郷は山城国(3か所)、尾張国、常陸国、加賀国にあるが〈倭〉{河内国・志紀郡・拝志郷}とする。それは、〈延喜式-神名〉{河内国/志紀郡/氏伴林神社}が氏神だと想像できるからである。 その上で林臣については、「伴姓林氏・古くよりありて、後婚戚などの関係より此の流起りしならん」と述べる。要するに、林臣林連の分流だという。
 〈続紀〉には一か所、延暦六年〔787〕六月「河内国志紀郡人林臣海主野守等。改臣賜朝臣」とある。それでは〈天武〉十三年の「賜姓曰朝臣」はどうなってしまったのだろうか。 これについて〈大辞典〉は、「其の宗族は朝臣姓を賜へど猶ほ延暦六年に…」と述べる。すなわち、宗族は朝臣姓を賜ったが末族は臣姓のままだったと解釈している。 《続紀の道守臣》の例のように、氏族名を改めさせるときに既に使われなくなっていた氏姓を与えたことも考えられる。
44波弥臣  武内宿祢の子、波多八代宿祢系(波美臣)。
 〈延喜式-神名〉{近江国/伊香郡【小二十五座】/波弥神社}。
 〈続紀〉に「波弥朝臣」・「波美朝臣」は見えない。
45下毛野君  豊城命上毛野君・下毛野君の祖。〈安閑〉紀には「上毛野君」があるから、少なくともその時点で分割されていたことになる。 しかし、「下毛野君」はこの〈天武〉十三年が初出だから、〈安閑〉朝の「上毛野」は遡及かも知れない。ただ、〈安閑〉紀の「上毛野君小熊」・「上毛野国緑野屯倉」の両方に後から「」を付けたとも考えにくい。 少なくとも、既に吉備は〈安閑〉朝において備前備後〔後の備中地域〕に分割されていた(【「備後国」の屯倉】)。よって、毛野も既に上下に分割されていたと見るのが穏当か。
 〈続紀〉に「下毛野朝臣」は、文武四年〔700〕六月「下毛野朝臣古麻呂」など数多い。
46佐味君  〈姓氏録〉〖皇別/佐味朝臣/上毛野朝臣同祖豊城入彦命之後也〗、すなわち豊城入彦命の裔とする。〈大辞典〉は〈舒明〉紀に出てくる「狹身君勝牛」を佐味君の祖とするが、〈舒明〉紀の人物は実際には「身狹君勝牛」である。 〈北野本〉「ムノ勝牛 カツシ 」、 〈内閣文庫本〉、〈伊勢本〉も狭身で、唯一あるのは兼右本の傍書である。 「身狹村主青」(〈雄略〉紀)、「牟佐坐神社」などがあるので、〈舒明〉紀の「身狹君」が実は狹身君ということはないであろう。
 書紀では〈壬申〉に「佐味君宿那麻呂」がある。 〈続紀〉には文武四年〔700〕佐味朝臣賀佐麻呂」をはじめとして「佐味朝臣」は数多い。
47道守臣  〈姓氏録〉は道守臣として、A〔武内宿祢の子〕〖波多八代宿祢之後〗」、B〔〈開化〉皇子〕〖武豊葉列別〔はつらわけ〕命〗の後」の二氏を載せる。 記はBのみで、A波多八代宿祢之後には「道守臣」は含まれない (〈天智〉七年道守臣麻呂)。
 このように道守臣A波多八代宿祢之後」とする記述は記紀にはないが、〈時代別上代〉は〈天武〉十三年に朝臣姓を賜ったのはAだとする。その理由はかばねにあり、A波多八代宿祢系は姓、B武豊葉列別系は姓だからである。 同書は、B武豊葉列別之後」の道守臣については「姻籍などの関係より此の氏を冒せしならん〔「道守臣系に所属しただれかが武豊葉列別系の女と婚姻して、別系の「道守臣」を名乗った」意か〕と述べる。
 以後、書紀・〈続紀〉に「道守朝臣」はない。ところが後の時代になって〈続紀〉に「道守臣」があることについては、 別項で考察する。
48大野君  〈大辞典〉は大野君の本貫を〈倭〉{山城国・愛宕郡・大野郷}とし、〈倭〉{上野国・山田郡・大野郷}発祥の大野君の分流で大荒田別命の後とする (《大野君果安》)。
 〈姓氏録〉〖皇別/大野朝臣/豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也〗。荒田別命は神功皇后四十九年に「荒田別…将軍、…至卓淳国、将新羅」。 〈応神〉十五年上毛野君祖荒田別・巫別於百済、仍徵王仁」。
 よって大野君上毛野君の一族をなす。
 大野君果安は、〈壬申〉では大友皇子側(16)。
 〈続紀〉和銅七年〔714〕十二月の「大野朝臣東人」を始めとして「大野朝臣」は数多い。
49坂本臣  坂本臣木角宿祢を祖とする(坂本臣)。 本貫は〈倭〉{和泉国・和泉郡・坂本【佐加毛止】郷}(【坂本臣】)。
 〈安康〉元年「坂本臣祖根使主」、〈雄略〉十四年「根使主の後を坂本臣と為す」。さらに〈欽明〉・〈崇峻〉・〈推古〉に名前がある。
 〈壬申〉18に大海人皇子側の坂本臣が龍田に布陣。
 〈続紀〉に「坂本朝臣」は〈文武〉元年「坂本朝臣鹿田」など多数。
50池田君  〈倭〉{上野国・那波郡・池田【伊介多】郷}、{同・邑楽郡・池田【伊岐太】郷}。 〈大辞典〉は、池田君はこれらの地名を負う氏で「豊城入彦命の裔毛野氏の一族…有力なる氏なりしを知るべし」とする。
 「池田朝臣」は〈続紀〉に和銅四年〔711〕池田朝臣子首」など多数。
51玉手臣  〈孝元〉段:「〔建内宿祢の子〕葛城長江曽都毘古者、玉手臣的臣生江臣阿芸那臣等之祖也」(第108回玉手臣)。 〈姓氏録〉〖皇別/玉手朝臣/〔武内〕宿祢男葛木曽頭日古〔=襲津彦〕命之後也〗。 すなわち、木角宿祢を祖とする。ただし〈孝元〉段の「木角宿祢者…」からは漏れている。
 本貫は〈孝安〉「玉手丘上陵」の地か(【玉手岡上】)。 〈倭〉{大和国・葛上郡}の玉手村〔現代地名:奈良県御所市大字玉手〕に比定される。 
 さらに〈大辞典〉は「河内国安宿郡にも玉手村ありて、その地・本貫とも考へらる」という。
 以後の書紀・〈続紀〉に「玉手朝臣」は見えない。
52笠臣   〈孝霊〉段では、笠臣は「若日子建吉備津日子命」を祖とする(笠臣)。 御伴別の弟鴨別には「波区芸県」が与えられた。鴨別は「」の名を賜り笠臣の祖となり、『国造本紀』に「笠臣国造」があることから、波区芸県=笠県と見てよい  (【御友別一族】)。
 〈続紀〉には、慶雲元年〔704〕正月「笠朝臣麻呂」を始めとして、「笠朝臣」は数多い。
《穂積臣の祖》
系図上の欝色雄命大水口宿祢命など
 穂積臣の祖は、欝色雄命、および大水口宿祢命とされる。それでは、両者は系図ではどのように繋がるのだろうか。
 〈姓氏家系大辞典〉は、まず穂積臣采女臣の祖とされる大水口宿祢が『天孫本紀』では「四代孫」、〈姓氏録〉では「伊香賀色雄の男」とする不一致について、 「大水口を大矢口と共に出石心命の子とし、孝元帝御世の人とするは誤れり。蓋し大矢口と名称、相似たるより誤りしものならん」、 「大水口は、書紀が崇神朝に活動せし人とすれば、姓氏録の如く、伊香賀色雄命の男とすべき也」と述べる。 実際、〈崇神〉紀・〈垂仁〉紀に「大水口宿祢」の名前が出てくる。〈大辞典〉による見解は「大水口と大矢口は一時は混同されていたが、それが正されたあとも同じ世代として書かれた」ということのようだ。
 そして同書は、「内色許男命は伊香色雄の叔父に当り、而して「穂積臣祖とあるより思へば、此の人・初めて穂積を領せしなるべし。而して前述の如く大水口も亦「穂積臣の祖」とあるなれば、此の人・内色許男の領土を継承せしを知るべし」と述べる。 このうち「内色許男命は伊香色雄の叔父」とするのは、大綜杵が鬱色謎命の兄弟だからであるが、その関係は記紀には載らず『天孫本紀』のみに載る〔両者とも大谷口宿祢の子〕。 同書はこの部分については『天孫本紀』の記述を認めている。
 同辞典の該当箇所の文章(国立国会図書館デジタルコレクション)はなかなか難しい文章なので、 書紀・記・『天孫本紀』の該当部分の系図を図にしてみる必要があった(右図)。その結果、同辞典が示した「略系」に誤りがあることが判明し、これが読み取りを困難とした一因であった。
《雀部朝臣の祖》
 雀部朝臣がアイデンティティを主張した興味深い記事が、〈続紀〉に見つかった。
〈続紀〉天平勝宝三年〔751〕二月
○己卯。典膳正六位下雀部朝臣真人等言。
「磐余玉穂宮〔継体〕。勾金椅宮〔安閑〕御宇天皇御世。
雀部朝臣男人為大臣供奉。而誤-記巨勢男人大臣
真人等先祖、巨勢男柄宿祢之男、有三人
星川建日子者、雀部朝臣等祖也。
伊刀宿祢者、軽部朝臣等祖也。
乎利宿祢者、巨勢朝臣等祖也。
浄御原朝庭〔天武〕定八姓之時。被雀部朝臣姓
然則、巨勢雀部。雖元同祖。而別姓之後。被大臣
当今聖運。不改正。遂絶骨名之緒。永為無源之民
望請。改巨勢大臣雀部大臣。流名長代。示栄後胤。」
大納言従二位巨勢朝臣奈弖麻呂。亦証-明其事
是。下-知治部。依請改正之。
〔 雀部朝臣真人らは言上した。
 「〈継体〉・〈安閑〉の御世、雀部朝臣男人は大臣となって供奉しました。しかし、これが巨勢男人大臣と誤まって記されております。
 わたくし真人どもの先祖、巨勢男柄宿祢には子が三人いました。
 星川建日子は雀部朝臣らの祖、伊刀宿祢は軽部朝臣らの祖、乎利宿祢は巨勢朝臣らの祖です。
 巨勢と雀部はもともと同祖で、別氏に分かれた後に雀部が大臣に任じられたのが真相です。 もし誤りが正されなければ、雀部は骨名の緒〔=名のある先祖の糸口〕が絶え永久に〔栄誉の〕源を持たない民となってしまうでしょう。 よって「巨勢大臣」を「雀部大臣」に訂正していただき、よって名を永代に残し、子孫に栄えを示すことを乞い願います。」
 大納言巨勢朝臣奈弖麻呂も、またこれを証明したので、治部に下知して要請通りに訂正した。〕
 よって、書紀の「許勢男人大臣」(継体三年正月)は、雀部の主張通りなら「雀部男人大臣」の誤りとなる。
 この要請文から、次のことがわかる。
 先祖が大臣であったことは大昔のことだが、奈良時代半ばになってもなお氏族の誇りの源になっている。
 記の巨勢小柄宿祢「三氏の祖」よりも詳細に、それぞれの祖の三子の名前を記した記録が存在していた。
《続紀の道守臣》
 養老七年〔723〕二月紀には、「但馬国人寺人小君等五人。改賜道守臣姓」とある。 この「寺人子君」は、どう解釈すべきか。
 注目すべきは、和銅七年〔714〕六月己巳「寺人姓、本是物部族也。而庚午年籍、因居地名。始号寺人。疑賎隷。故除寺人、改従本姓」で、 これは「「寺人」姓〔カバネではなくウヂ名〕は、もともと物部の族である。庚午年籍のとき地名によって「寺人」号が生まれた。しかし「疑渉賎隷」〔「寺所有の奴婢を思わせるからよくない」という意か〕だから寺人はやめて本の姓に戻せ」と読める。
〈大辞典〉の「寺人:上代は寺院に属せし家人にして、選民の一種なり。而して此の寺人の免るされて、此れを氏名〔うじな〕とせるあり。但し其の地名を負へるも存す」は、これを解釈したものであろう。
 すると、養老七年の「寺人小君等五人。改賜道守臣姓」も「寺人」姓をやめろという趣旨で、今後は「道守臣」に改めよということなのだろう。 かつての「道守臣」は、現在は「道守朝臣」となった。そこで、現在空きになっている「道守臣」を賜ったと解釈できる。 ただ、空いているというだけなら他の氏族名でもよいはずだから、「但馬国の寺人」一族は旧道守臣と近い関係にあったのだろう。
《表記》
 川邊臣若櫻臣は古事記の表記になっている。 小墾田臣は書紀の表記を用いているから、「河邊臣」「稚櫻臣」にすべきものを見落としたのであろう。
 墨書土器の「小治田宮」(第249回)を見ると、当時一般に使用されていた表記は古事記に近かったと考えられる。全般に難しい漢字を用いたのは書紀固有の表記法と見るべきであろう。

まとめ
 天平勝宝三年の雀部朝臣真人の申し出を見ると、遠い昔に先祖が得ていた役職であっても現在の氏族の格付けに重要な意味を持っていたことが分かる。 おそらく、八色の姓のそれぞれにどの氏族を割り振るかにあたっては、それぞれの氏族の過去が吟味されたのであろう。 各氏族は、自らの過去の実績を詳しく調べてアピールすることに躍起になったであろう。そうやって獲得した格付けは、子孫の良職への登用に直結するのである。 〈持統〉五年にも、有力氏族十八氏に「墓記」の提出を求め、さらに厳密に過去の実績を調べている。
 今回、久しぶりに古事記の欠史八代に載る氏族の出自を参照することになったが、太古の伝説でも〈天武〉以後の氏族の格付けにおいて現実的な意味をもったであろう。
 ただ〈続紀〉を見ると、同じ朝臣姓であっても華々しく活躍する名前もあれば、全く名前が見えない氏族もある。出身氏族の物語が描く格付けによって自動的に出世が決まるわけではなく、結局個人の才覚によるのである。
 さて、いわゆる「白鳳地震」については、その記述を実際の大地震で出現した現象の範囲内で理解することに務めた。当たらずといえども遠からずであろう。なお、その震源や規模の推定も見るが、これについては誰でも思いつくような概念的なものに過ぎずあまり意味はないと思われる。



[29-19]  天武天皇下(8)