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2025.07.19(sat) [29-17] 天武天皇下17 ▼▲ |
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62目次 【十三年正月~四月】 《令視占應都之地》
年頭の恒例行事の弓射は、この年は能射人と侏儒を招き、舎人に射させて群臣は見物する側に回ったようである。 能射人〔弓の達人〕に腕前を披露させ、侏儒〔本来は小人症の芸人だが、単に芸人を指す可能性が高い〕の演芸を見て賑やかに楽しんだようである。 《饗金主山》
畿内に都とすべき地を求めさせたという書き方から見て、既に工事を進めていた先行条坊とは別であろう。 なお、下述の「宮室之地」は、先行条坊内のことと見られる。 次の段では信濃国を新都の候補地にしたことを述べている。 畿内と信濃国を両天秤にかけて一方を選ぼうとしたと見るのが常識的だが、 派遣したメンバーを見ると両方に本気度が伺われる。想像をたくましくすれば、副都設置構想を知った地方氏族が誘致合戦に乗り出し、それぞれ諸王を窓口として働きかけたことも考えられる。 条坊制の都を計画を含めてすべて拾い上げると、藤原京先行条坊、難波京、畿内の新都、信濃国、大宰府の計五都が挙げられる。 《於信濃令看地形将都是地》 信濃国内の遺跡には更埴条里遺跡があり、また国衙の候補地がいくつか論じられているが、都としての条坊などは見いだされていないようである。 だが、信濃に都を作ることについては相当前のめりな書きっぷりなので実際に着手しているかも知れず、将来遺跡が発見される可能性は残る。 信濃建都はあくまでも都複数化構想によるもので、遷都ではない。 潤四月の詔で武装の強化を命じたことと併せると、これも外国から攻め込まれたときの対応策かも知れない。 つまり、内陸に副都を作っておいて、首都が危うくなれば遷都できるようにしたと考えてみたらどうだろうか。 実際に〈天智〉の近江京遷都の理由に、この発想を採る説がある。 590年後には実際に元寇があったわけだから、決して杞憂とは言えない。 〈天智〉朝の朝鮮式山城とは手段が異なるが、〈天武〉朝でも国家の防御体制が十分に考えていたのは確かである。 《宇閉直弓》
《宮室之地》 「宮室之地」は藤原京の先行条坊内の区画で、後に朝堂院や内裏として現実化されたものであろう。 《金主山帰国》
徒罪以下の比較的軽い罪が赦される。 今回の恩赦の理由は示されていない。 《祭広瀬大忌神龍田風神》 《祠風神…》項。 ここでは、神名を例年よりやや詳しく表記している。 《遣新羅》
十三年正月十七日、 三野の県主(あがたぬし) 内蔵衣縫(くらのきぬぬい)の造(みやつこ)の 二氏に連(むらじ)姓を賜わりました。 二十三日、 天皇(すめらみこと)は東の庭にいらっしゃり、群卿が伺候しました。 その時、優秀な射手及び侏儒を呼ばれ、 仕える舎人たちに射させました。 二月二十四日、 〔新羅使〕金(こん)主山(しゅせん)を筑紫で饗(きょう)されました。 二十八日、 浄広(じょうこう)肆(よん)〔=四〕広瀬の王(おおきみ)、 小錦(しょうきん)中大伴連(おおとものむらじ)安麻呂(やすまろ) 及び判官(まつりごとひと)録事(ふみひと)陰陽師(おんみょうし)工匠(たくみ)らを 畿内に派遣し、 都にすべき地を見定めさせました。 この日、 三野の王(おおきみ)、 小錦下(しょうきんげ)采女臣(うねめのおみ)筑羅(つくら)たちを 信濃に派遣して、 地勢を観察させ、 まさにこの地を都にしようと思われました。 三月八日、 吉野の人宇閉直(うへのあたい)弓(ゆみ)は、 白い椿を献上しました。 九日、 天皇(すめらみこと)は 京師を巡行され、宮室の場所を定められました。 二十三日、 金主山(こんしゅせん)が帰国しました。 四月五日、 徒罪以下の全員を赦免されました。 十三日、 広瀬の大忌神(おおいみかみ)、龍田の風神を祭祀されました。 二十日、 小錦(しょうきん)下高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)を大使、 小山(しょうせん)下都努臣(つぬのおみ)牛甘(うしかい)を副詞として、 新羅に派遣されました。 63目次 【十三年閏四月~五月】 《進信濃國之圖》
新たに連姓の者が数多く加わったから、改めて朝廷内の所作と礼儀の決め事を教える必要がでてきたのであろう。 《凡政要者軍事也》 軍事に関わることを、武官だけではなく文官にも求めている。 新羅は耽羅を領土化するなど、その勢力拡張の野心は軽視できない。 しかし、かつての朝鮮式山城の建造などに人民を動員するやり方は、不満が噴出して遂に政権の崩壊を招いた。〈天武〉朝はそれを反面教師として、別のやり方を用いる。すなわち官と人民に自ら自覚的に戦力を装備させようとした。 ただ、今回は期限を定めて不履行の者に対して厳しい罰を与えるという厳しさを見せている。その背景として、新羅とその傀儡であったはずの高麗安勝王との間に生じた新たな緊張状態が考えられる(後述)。 《可罰々之可杖々之》 大山位以下の比較的位の低い者には、罰せず杖打ちとする場合もあるという意味の文章だから、「杖之」は「罰之」よりも刑が軽いと読める。 果たして杖刑は罰刑に入らないのであろうか。 それを探るために『令義解』に検索をかけたところ、『類聚三代格巻十九』の中に次の文が見つかった〔『国史大系』12巻〔1900年〕に両書が入っていたからである〕。 『続紀』延暦三年十月二十日※1)に現状は「京中盗賊稍多。掠二物街路一。放二火人家一」だと述べる。 そのため「其遊食博戯之徒。不レ論二蔭贖※2)一決レ杖一百一。放火劫略之類。不二必拘一レ法。懲以二殺罰一」とある。 ※1)…元になった〈続紀〉の記事は、延暦三年〔784〕丁酉〔三十日〕付である。 ※2)…蔭位(おんい)をもつものが代償に物品を納めて刑を逃れること。蔭位は、父の位階によって賜る一定の位階。 放火には「殺罰」を科すが、「遊食博戯之徒」は「杖一百」を定める。ここから「罰」は死罪を含む思い処罰のことであって、杖程度には使わないことが確かに読み取れる。 恐らく〈天武〉紀の用法もこれであろう。ただ訓読は悩ましい。 『類聚名義抄』(僧中)には「罰罸:音伐 ウツ コロス ツミ」。コロス刑とは限らないから、ツミしか残らない。 ツミの動詞化にはツミナフ・ツミスがあるが、重刑に限定することは難しい。音読されたのかも知れない。 書紀古訓が「罰」に「カムガフ」を当てたのは、ツミには杖刑も含まれると考えて別の語を使おうとしたのであろう。
●襴
十一年二月の「…並莫服」は、これまでの服装を全面的に廃止せよとはいうが、それでは何を着るべきかは述べていない。 従って、法制としての詔とは言えず単に方向性を語ったものに過ぎなかった。 この十三年の詔に至ってようやく具体的な規定が示された。 《着襴衣而長紐》 「而長紐」は、動詞を欠く。 〈続紀〉になるとその傾向が目立つ。 例えば、養老元年十一月癸丑「覧二当耆郡多度山美泉一」した。その水が若返りに絶大な効果があるとして、養老に改元した。そして「復当耆郡来年調庸。余郡庸」。すなわちその当耆郡〔=多芸郡〕には翌年の調庸を復〔=免除〕し、美濃国の他の郡は庸を免除した。 ここでは、「復余郡庸」の復が省略されている。このような省略は〈続紀〉の詔では通常となるが、漢籍にはない。ここまでの書記にもほとんどなかった。 おそらくは詔における飛鳥時代からの和習であったと思われる。 《有圭冠冠而》 圭冠:ハシハカウブリは、書紀古訓特有語のように思える。 ただ『類聚名義抄』〔法中〕には「圭:ハシハ 治 カサヌ ハカリ」とある。 〈時代別上代〉は「圭 これで圭のことは分かったが、倭語ハシハが中国で諸侯に封じた印として与えた玉圭を、ストレートに表す語であったとはとても考えられない。 『類聚名義抄』のハシハも書紀古訓が出典だとすれば、根拠を広げる材料にはならない。あったとすれば、ハシハと呼ばれる何ものかが存在し、その形によって漆紗冠を比喩的に表したということであろう。 次に、この部分の古点は「有二圭冠一・冠而着二括緖褌一」〔圭冠有れ。冠(かうぶ)りて括緖褌を着よ〕と、 「有下圭冠々而着中括緖褌上」〔圭冠冠(かうぶ)りて括緖褌を着ること有れ〕の二通りがある。 〈北野本〉は前者のみ、〈内閣文庫本〉は両者ともに不完全な形で混合し、〈兼右本〉は前者を黒点、後者を朱点で示している。 近代になると『集解』は「有下…」で後者。『仮名日本紀』は「圭 一方「有れば」・「有らば」は現代になってからである。岩波文庫版は「圭冠有れば冠 以上を踏まえて訓読はいくつか考えられる。たとえば「有」には「持つ」意味があるから、「有(も)てる圭冠をかがふりて」。「圭冠をかがふること有りて」でもよいだろう。これらは「圭冠」は受事主語とするから、それを嫌うならう命令文「有れ」〔=用意せよ〕も可能。 已然形「圭冠有れば」でも「以前の詔で圭冠を用いよと命じたから持っているはずだよね?」と念押しする意味になるから可能。しかし、未然形だけはない。 また、二つ目の冠が動詞カガフルだとすると、「圭冠」は音読みの可能性が高まる。「カガフリをカガフル」という言い方は考えにくいからである。音読ならハシハの語釈の泥沼を避けることができる。 結局「有圭冠冠而」に多様な訓み方が生まれたのは、〈天武〉時代に倭風漢文で書かれた詔だからであろう。 〈天武〉詔には、正規の文法は通用しないと割り切ったほうがよい。その意味を曲げないように留意しつつ、自然な上代語に翻訳すればよいのである。 なお、書紀が古い詔の不自然な漢文を変形せずに収めたことは資料的価値を増す。改新詔についても同じことが言え、書かれた当時の倭風の書法を残していることが、書記による創作説を打ち消す根拠となった。 《女年四十以上》 十一年に詔(のたま)った言葉は法制ではなく、男女の髪型、女性の乗馬スタイルの改革は方向性を示したのみであった。十三年に実施段階を迎え、正式な詔として適用外となる事例を具体的に示した。 その内容を見ると、ある程度の年齢に達した女性に対して、それまでに身に染み付いた習慣を改めさせることには無理があったということであろう。また巫祝においても、その儀式を取り仕切る格好が結髪ではさまにならない。 ここでは現実的な判断が示されたものといえる。 なお、皇后〔鸕野讃良皇女;〈持統〉天皇〕は『本朝皇胤紹運録』によると〈孝徳〉元年〔645〕生まれで、〈天武〉十三年〔684〕には四十歳なので、皇后が「私は「髮不レ結」にしたい」と言った結果「女年四十以上、髮之結不レ結…任意也」となったことは、十分考えられる。この文2025/10/01付加 「乗馬縦横」の「縦」は馬にまたがること、「横」は鞍に腰を乗せ両足を一方に投げ出すスタイルと見られる。 ヨーロッパでは、女性が乗馬するときはロングスカートを着用して横乗りする習慣が1930年代まで続いていたという([乗馬メディアEQUIA/女性の乗馬とファッションの歴史])。 なお、飛鳥時代には女性が乗馬することに何の拘りもなく、かえって男性と同じく跨って乗ることが推奨されたことが注目される。 ここでも鵜野讃良皇女が私も縦乗りしたいと言ったことがきっかけになったことは、十分に考えられる。 《進信濃国之図》 信濃国の都の候補地の立地調査(上述)を終え、調査結果を図面付きで報告した。
設斎の会場は、エビノコ郭またはⅢ期の南正殿が考えられる (右図、および《浄御原宮》)。 「宮室之地」はまだ候補地の調査段階であるから、先行条坊の建物ではないであろう。 設斎は通例飛鳥寺が会場だが、今次は宮中で行ったのは、僧福楊の騒動の真っ只中だったからと思われる。 宮内に福楊に関わって捕えられた舎人がいて、一応の決着がついてこの日に放免されたことも考えられる。ただ、真相は不明である。 《僧福楊》
《化来百済僧尼及俗男女》 「化来」は「百済僧尼及俗男女」を連体修飾する。 百済から難民が倭に逃れた記事は、〈天智〉二年九月、二十五日に弖礼城(てれさし)から「発レ船始向二日本一」したの記事がある。 その居住地は、次に見えるが一部であろう。 ● 〈天智〉四年四百人余を近江国神崎郡へ。 ● 〈天智〉五年には、二千人を東国に移した。彼らは〈天智〉二年に百済から逃れて倭にやってきた僧と民で、三年間官食を賜ったとある。 ● 〈天智〉八年十月には七百名を近江国蒲生郡へ。 「化来」という熟語は諸辞書なく漢籍にも見えないが、「帰化」の意であることは明らかである。 書紀古訓の「オノヅカラ」は苦し紛れの印象を受ける。 なお、「二十三名」は「皆」というには少な過ぎるから、誤写かも知れない。なお、武蔵国に移る前にどこにいたのかは明らかではない。 《遣高麗三輪引田君難波麻呂/桑原連人足》
高麗政権の報徳王安勝は、前年十月から「新羅京」〔金城〕に住まわされているので、難波麻呂らはその邸宅に向かったと思われる。 十一年六月には、日本が送った使者の派遣先を「高麗国」ではなく特に「高麗王」としていることが目を惹く。 高麗からの使者は新羅が冠位を与えた者ではないので、高麗王安勝が息のかかったものを派遣したのだろうと見た。 安勝はこの頃から独立志向を強めていた可能性がある。日本への使者の派遣は、その援助を求めるためとも考えられる。 それに対して、今回の難波麻呂らは、決して新羅に歯向かうなと説得しに行ったのだろう。もし日本が安勝を援助すれば新羅と敵対する意味を持ち、新羅は直ちに日本本土を攻撃する恐れがある。 よって朝廷が安勝を支援することはないと考えられる。 とは言え、これをきっかけにして新羅と日本との間に思わぬ緊張が生まれる可能性がある。「凡政要者軍事也…」の詔は、不測の事態に備えて国内の軍事態勢のレベルを引き上げたものと見ることもできる。 《大意》 閏四月五日、 詔を発しました。 ――「来年九月に必ず観閲する よって、百寮(ももつかさ)に作法儀礼を教えよ。」 また、詔されました。 ――「凡そ政(まつりごと)の要(かなめ)は軍事である。 であるから、 文武の官の諸君は、務めて用兵と乗馬を習え。 すなわち、兵馬が身に着ける裝束の用品を務めて事細かく準備して増やせ。 馬を持つ者は騎士として、馬のない者は歩卒として、 それぞれ試し鍛錬すべし。 そして一堂に会することに支障のないようにせよ。 もし詔旨に反して、 兵馬が不十分で、また裝束が不足していれば、 親王以下諸臣まで、 すべて罰せよ。 大山位以下の者は、 罰するべき者は罰し、杖で済ますべき者は杖せよ。 ただし、務めて習いよく成果を得た者は、 たとえ死罪であっても、罪二等を減ぜよ。 しかし、自らの才覚を恃(たの)み意識的に罪を犯した者は、赦す対象とはしない。」 また、詔を発しました。 ――「男女とも、衣服は 襴(すそつき)が有っても無くても、及び結び紐でも長紐でも、 自由に着させよ。 ただし、会集の日は襴(すそつき)の衣を着て長紐をつけよ。 そして、男子は各自用意した圭冠(けいかん)をかぶり、括緖(くくりお)の袴を着けよ。 女子の四十歳以上は、 髮を結ぶか結ばないか、および馬の縦乗り横乗りは、 どちらも自由とせよ。 これとは別に巫(かんなき)祝(ほうり)の類は、髮を結ぶ対象から除け。」 十一日、 三野王(みののおおきみ)らは、信濃の国の図面を献上しました。 十六日、 宮中で設斎(せちせ)されました。 よって、罪を負っていた舎人たちを赦されました。 二十四日、 飛鳥寺の僧福楊(ふくよう)に罪を科し、 獄に入れました。 二十九日、 僧福楊は、自ら頸を刺して死にました。 五月十四日、 帰化していた百済の僧尼、及び俗人男女 併せて二十三人を、 皆武蔵国に住まわせました。 二十八日、 三輪引田君(みわのひけたのきみ)難波麻呂(なにわまろ)を大使、 桑原連(くわはらのむらじ)人足(ひとたる)を副使として、 高麗に派遣しました。 【三国史記/新羅本記】 新羅文武王は〈天武〉十年に薨じた。 そして神文王が即位し、〈天武〉十三年は同四年にあたる。
十年七月の新羅・高麗への使者の派遣は、高麗の安勝政権にどの程度独立性があったのかを調べるためかも知れない。 九月に帰国して「拝朝」したときに、その結果を報告したものと思われる。 十月二十日の新羅からの献貢では、調とは別に天皇・皇后・太子に個別に豪華な宝物を贈った。これには前例(八年十月)があり、そのときは個別に耽羅から手を引かせようとする意図が推察された。 それに倣えば、今回は高麗を傀儡のまま新羅に従属させたいので、その独立志向を助長しないように釘を刺したと見ることができる。 五月十六日に、再び広足らを呼び、高麗に行ったときの様子を詳しく聞いた。高麗政権への対応の検討が続けられていたようである。 六月一日の高麗からの使者の派遣は、特に「高麗王」からと書かれる。さらに、このときの使者には位階が付されていない。位階は新羅によって授与されるものであるから当然新羅に忠誠を求められるが、その縛りのない者を使者に選んだと解釈することができる。 すなわち、相変わらず新羅の「送使」によって監視されているが、何とか安勝王の内密の意向を伝えさせようとしたのであろう。 十二年十月に、安勝王は新羅の首都金城に移され、監視下に置かれる。やはりその独立を画策する動きが、間諜によって報告されていたことは確実である。 よって、十三年五月二十八日の難波麻呂らの派遣は、やはり安勝王にこれ以上変な動きをするなと諫めるためであった可能性が濃厚となる。 その甲斐なく、十一月には安勝一族が暴発して遂に「報徳国」は消滅した。 まとめ 一か所だけ「高麗」に「王」がついていて、またそのとき王が送った使者に位階がついてないのは些細なことである。 しかし、これを見逃さずに三国史記を併せ読んで追究していくと、安勝王を巡る騒動に日本が巻き込まれかけたことが見えてくる。 そこからさらに、「高麗」に遣わした使者が説明のために二度も呼ばれたこと、天皇皇后太子に特別にプレゼントを贈ったこと、突然起源を決めて軍備の増強を命じたことも関連ありと見られる。 また「有圭冠冠而」については、この理解困難な構文を突き詰めていった結果、書記は古い詔を原文通り載せている可能性が高まった。 今回もまた、些細な個所への疑問が糸口となった。まさに「真実は細部に宿る」である。 |
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2025.08.09(sat) [29-18] 天武天皇下18 ▼▲ |
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64目次 【十三年六月~十月】 《作八色之姓》
《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項。 《彗星出于西北》 天武十三年〔甲申〕七月壬申は、〔二十三日〕ユリウス暦684年9月7日にあたる。 中国ではこの年に改元が二回あり、嗣聖元年、文明元年、光宅元年にあたる。
《八色之姓》 この姓の再定義にあたっては、氏上の名前とともに氏文の類を提出させて吟味したと推定される。 その実際は後述(《雀部朝臣の祖》項、《雀部朝臣の祖》項)によって、伺われる。 これによって氏族への統制を強め、官による管理下に置いたことは確実にいえる。諸氏が独立性を奪われるのを嫌ったことは、《各定可氏上》項で見た。 《賜姓曰真人》
《伊勢王》
八年九月の帰国以来、遣耽羅使は久しぶりである。 また耽羅側からの遣使も、〈天武〉八年の帰国を最後にして途絶えている(《耽羅人》、八年十月)。 新羅は耽羅をわが物にしたと言って誇っていたようだが(《調物…馬狗騾駱駝》)、〈天武〉朝廷は新羅何するものぞと、強気を示したものであろう。 久しぶりの耽羅への派遣は、王卿に軒並み武装の強化を命じたこととも繋がると見ることができる。
〈天武〉十三年十月十四日〔ユリウス暦684年11月29日〕の地震は、 図が『本朝年代記図会』に載るが、江戸時代の書だから全くの想像図である(右図)。 この地震が「白鳳大地震」と呼ばれるのは、 『土佐古今ノ地震』〔寺石正路;土佐史談会1923〕に「白鳳十三年土佐大地震」とあり、同書が書かれた頃から用いられた名称と見られる。 同書は天武元年を白鳳元年とするが、実際には「白鳳」は私年号であって、書により異なる年代に当てられているので、地震の名称には相応しくない。 「天武十三年地震」あるいは「684年(南)地震」と呼ぶべきであろう。 美術史における「白鳳時代」は、大化改新〔645〕~平城京遷都〔710〕の期間とされ、 複数の「白鳳」年代はいずれもこの範囲内なので、これについては差し支えないとだろう。 [内閣府/防災情報のページ/南海トラフ地震防災対策]の[資料2:南海トラフで過去に発生した大規模地震]には、 「684年白鳳(南海)地震」について「震源域:足摺岬沖から潮岬沖にかけての領域。御前崎沖に及ぶ可能性がある」、 「規模:M8¼」とある。 地層調査としては、[日本地球惑星科学連合2019年大会:地層に記録された東南海地域の歴史時代・先史時代の津波]によれば、 「三重県の沿岸低地で機械ボーリングとハンドコアリングによる掘削調査を行ったところ」、「見つかった砂層の内、上位3層の年代値は明応地震津波(1498年)、永長地震津波(1096年)、白鳳地震津波(684年)に重なる」という。 三重県に津波が襲ったことから、「白鳳地震」は南海地震に東海地震を伴っていたものと思われる。なお、両地震には時間差のある場合がある。 『1854安政東海地震・安静南海地震報告書』には、 「嘉永7年/安政元年11月4日(太陽暦では1854年12月23日)の午前9時頃に紀伊半島東南部の熊野沖から遠州沖、駿河湾内に至る広い海域を震源として起きた 安政東海地震と、その約31時間後の翌11月5日の午後4時頃に紀伊水道から四国にかけての南 方海域を震源として起きた安政南海地震」とあり 〔中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会;内閣府2005〕、これは東海地震と南海地震が連続して起こった例である。 《山崩河涌》 「河涌」は、津波が川を遡る様と見られる。それは、水が吹きあがる如くであるという。 《伊予湯泉没而不出》
〈斉明〉天皇は、西征の途上「石湯行宮」に立ち寄った。その「石湯」は伊予温湯と同一であったと見た(七年《石湯》)。 それは、『伊予国風土記』における〈斉明〉天皇の伊予温湯行幸が、〈斉明〉紀「石湯行宮」に対応すると考えられるからである。 さらに、『伊予国風土記』に出てくる「伊社邇波之岡」の、式内{伊佐尓波神社}は元々は湯築城の位置というが、それでも道後温泉に近接している。 風土記の書き方から見て、伊予国の湯は屈指の温湯である。それは、ずばり現在の道後温泉に繋がるであろう。伊予国の湯として時々出てくるうちのいくつかが、別の無名の湯であるとすることにはかなり無理がある。 さて、「没」には水没と土地の陥没が考えられる。左図のようにこの地の標高を見ると、津波は考えられないから周辺の土地が崩壊して埋もれたのであろう。 「不出」は地盤の変化により、温泉水の噴出がなくなったということか。ただ、取水の井戸や配管が破壊されたという意味かも知れない。 《土左国田菀五十余万頃没為レ海》
これだけの「田苑」の土地全体が一気に降下して海面下になったとは考えにくい。実際には、津波によって海水で覆われて「没如レ海」となったことを「没為レ海」と表現したものであろう。 しかし、土地全体の降下の言い伝えもある。 前述『土佐古今ノ地震』には、陥没を伝える「国中口碑」が載り、そのうち最も具体的な記述は「高岡郡に伝ふる所」として、「諸村の山上に無数の古墓あり…此等の場所は孰れも大昔須崎の海上にありし大市街の墓山にして白鳳大震の時市街は陥没し名残とし墓山のみを残せる」を紹介している (p.10)。しかし、「海中陥没都市」伝説は世界中でいくらでも自然発生する。 実際には同書のいう「口碑」は基本的に書紀の後の時代に生まれたと考えられ、その「没為海」に影響されたものであろう。 右図は、これが津波であったと仮定して、現在の標高で2.5m以下の部分を地理院地図「自分で作る色別標高図」によって彩色したもの。 ただし、「大津」(下述)を中心とする広い範囲は、当時は海であった可能性があるので、海抜1m以下の部分を除外した。 こうして求めた標高1m~2.5mの部分の各箇所を近似矩形にして、大雑把に面積を概算したところ合計15.7km²であった 〔これを2.2mぐらいまで下げれば11.4km²に近づくと思われるが、「自分で作る色別標高図」は0.5m刻みである〕。 その範囲は現在公表されている「高知市津波ハザードマップ(平成26年〔2014〕3月発行)」とかなり似ている。 これを見ると、「五十余万頃」はやはり「没如レ海」であった感が強まる。 《有鳴声如鼓聞于東方》 「鳴声如鼓」は「是夕」とあるから、土佐国の地震「人定」〔就寝の頃〕より数時間早い。 上述したように、東海地震が南海地震に先行していてその音かも知れないが、次項によれば「声如鼓」は火山噴火となる。 《伊豆嶋西北二面自然増益三百余丈更為一嶋》 まず「自然増益」の幅「300丈」については、1丈=10尺、1正倉院尺≒30cmによれば、約900mである(第116回)。 しかし「伊豆嶋の海岸が西と北の二面が拡大し三百丈余が増え、改めて一つの島となった」は文章としてぎこちない。 このまま読めば、島の浜は北西に広がったが、その後元の島との間が陥没して新しい島ができたとなる。 他の読み方は、拡大した後も相変わらずひとつの島であったことを「為一嶋」と現したものとする。ただ、この場合はわざわざ「為一嶋」は付け加えないであろう。 ここで、近年の西ノ島新島の経過を見る。この例では、始めに元の西ノ島と離れたところに新島ができたが、その後新島が拡大して旧島と合体して一つの島となった。 もし「西北二面自然増益三百余丈」が「更為一嶋」の結果であったとすれば、西ノ島新島と同じことが考えられる。 したがって、書紀が原資料を簡略化したときに順番が逆転してこのような文章になったとも思えるのである。 旧西ノ島は650m×200m〔東西×南北、以下同じ〕、近くの海域に生まれた新島は東西長、南北長ともに30~50m〔1973年以前〕。新島は拡大して2014年には旧島に接続し、全体の最大サイズは2000m×2100m〔2015年〕となった。 〔この部分に関しては、その出典がしっかりしているのでjp.wikipedia.orgを用いた〕。 西ノ島新島の場合、東西方向の増加1900mを取って、書紀と同じ書き方をすれば「自然増益六百余丈更為一嶋」となる。 だとすれば「有二鳴声如一レ鼓、聞二于東方一」は火山噴火である。但し、東南海地震に誘発された可能性は十分考えられる。 なお「伊豆嶋」は伊豆大島とは限らず、伊豆諸島の他の島かも知れない。 「更為二一嶋一」がどのような経過を辿ったにせよ、西ノ島新島の例を見ればこの規模の島の拡大には10~20年程度は要すると思われる。よって、この日一日の出来事ではなく「有人曰」は長い期間の活動について語った言説といえよう。 要するに、書紀は「こういう話もある」と言って参考事項として付け加えたのである。 だとすれば、「有二鳴声如一レ鼓聞二于東方一」はやはり東海地震による可能性が高まる。 《諸王卿等賜禄》 記録があったから書いたのだろうが、何かの理由があって臨時に行われたことか、通例のことかは不明である。 《大意》 六月四日、 雨乞いしました。 七月四日、 広瀬(ひろせ)に行幸しました。 九日、 広瀬と龍田の神を祭祀されました。 二十三日、 彗星が西北の空に洗われました。長さは一丈あまりでした。 十月一日。 詔を発しました。 ――「諸氏族の姓(かばね)を改め、 八色之姓(やくさのかばね)とする。 天下の万の今までの姓(かばね)を混合して〔改めて〕 一つ真人(まひと)、 二つ朝臣(あそみ)、 三つ宿祢(すくね)、 四つ忌寸(いみき)、 五つ道師(みちし)、 六つ臣(おみ)、 七つ連(むらじ)、 八つ稲置(いなき)に分けよ。」 同じ日に、まず 守山公(もりやまのきみ)、 路公(みちのきみ)、 高橋公(たかはしのきみ)、 三国公(みくにのきみ)、 当麻公(たぎまのきみ)、 茨城公(むばらきのきみ)、 丹比公(たぢひのきみ)、 猪名公(いなのきみ)、 坂田公(さかたのきみ)、 羽田公(はたのきみ)、 息長公(おきながのきみ)、 酒人公(さかひとのきみ)、 山道公(やまぢのきみ)、 以上十三氏に姓(かばね)を賜わり真人(まひと)としました。 三日、 伊勢王(いせのおおきみ)らを派遣して、諸国の境界を定めさせました。 この日、 県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)手繦(たすき)を大使、 川原連(かわらのむらじ)加尼(かね)を小使として、 耽羅(とんら)に派遣しました。 十四日、 人の寝静まった頃に大地震がありました。 国中挙って、男女は叫び大混乱となりました。 すなわち山は崩れ川は滾(たぎ)り、 諸国郡の官舎から 百姓の蔵、寺塔、神社に及び、 破壊された類はとても数えきれませんでした。 これによって、人民及び六畜は、多く死傷しました。 この時、伊予の温泉は、埋もれて出なくなりました。 土佐国の田畑五十余万頃は、水没して海のようになりました。 古老の言うに、 「このような地震は、未曽有である。」と言いました。 この日の夕べには、 音が鼓のように鳴るのが、東方に聞こえました。 ある人の申すには、 「伊豆の嶋の西と北の二面に、 自然に三百丈余りを増して、 更に一つの嶋となりました。 鼓のような音は、 神がこの嶋を造った響きである。」と申しました。 十六日、 諸王、群卿らに禄を賜わりました。 20目次 【十三年十一月~是歳】 《五十二氏賜姓曰朝臣》
有力氏族が初めの方に書かれていることは明らかである。ただ、中臣連は 巨勢臣・膳臣・平群臣・雀部臣の後塵を拝している。 巨勢臣・平群臣の先祖が大臣であったことが、天児屋命の天岩戸や天降りのときの貢献よりも評価されたことになる。 この時点での氏族の力関係、あるいは氏文の文筆力によって左右されたことは、十分考えられる。 大三輪君が「君」姓なのに真人ではなく朝臣に留まるのは、国つ神が祖だからであろう。これは一応理解できる。 朝臣を賜った五十二氏については、別項にまとめる。 《土左国司言運調船多放失焉》 この日、調を運ぶ船の多くを失ったからとして、この年の調の免除を要請した。当然認められたであろう。
『土左日記』では、スタート地点は土左国の「大津」である。 『事典日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕は 「国津としては…紀貫之が船出した「大津」が考えられ、…高知市に入る旧大津村がその遺称地で、高知湾奥に流入する舟入川流域であるが、…その船戸地名」が「注目」されていると述べる。 次の「浦戸」についても、浦戸湾および旧浦戸村〔現高知市〕が見える。 その後、貫之の乗った船は土左国と阿波国の海岸に沿って航行し、鳴門海峡から淡路島の南を経て、和泉国沿岸を進んだ。 そして、木津川口から淀川を通り、山崎で下船して、陸路で平安京に向かった。 飛鳥時代の税・調は、大津で積み込まれたと思われる。そして難波津の手前まで『土左日記』と同じであろう。 以後、難波津から河内湖経由で大和川〔付替え前〕を飛鳥京に向かったことが考えられる。 あるいは、住之江で陸揚げして、陸路で丹比道〔または大津道〕-横大路を経由するルートも考えられる(《大津道》・《丹比道》)。 《七星倶流二東北一則隕之》 〈天武〉十三年十一月二十一日は、ユリウス暦685年1月1日。 火球と見られ、地上に達すれば隕石となる。目撃は狭い範囲〔半径100km程度か〕に限られるから、中国では観測されない。 「七星倶流」をそのまま読めば、大気圏に突入するときに7つに分かれた。 ただ、もとの文章は「北斗七星方面のところから」であったことも考えられる。 《星隕東方》 〈天武〉十三年十一月二十三日は、ユリウス暦685年1月3日。これも、中国では観測されない範囲である。 その後に書かれた「星隕如雨」は流星群であろう。 流星群なら中国でも記録されることはあり得る。ただ、『新唐書』天文志は「光宅元年九月丁丑〔684/11/11:ユリウス〕の次は 景龍元年十月壬午〔707/11/16:ユリウス〕で、その間23年間も飛ぶので、記録が失われた可能性がある。 『旧唐書』でも同じく「光宅元年九月二十九日」から「景龍元年十月十八日」の間がない。 この期間は、高宗が崩御して武則天が権力を握り、さらに武周朝を建てた時期と一致するが、天文記録がないこととの関係は今のところ不明。 《星孛》 この年十一月の彗星の記事は『新唐書』・『旧唐書』天文志にはない。前項で見た空白期間にあたるためであろう。 《昴星》 〈倭名類聚抄〉「昴星:…六星火神也…【和名須八流】」。
「調年免役役年免調」は、「調の年は役を免(ゆる)し役の年は調を免す」、 すなわち調と役を一年毎に交互にしたと思われる。負担軽減であろう。 少なくとも今後数年以上にわたるから、天災による救済ではない。 対象地域から見て、〈壬申〉で大海人皇子を助けた功績によるものであろう。 なお、これは令に見られる和風の書法で、漢文なら「於所納調年免役且於所課役年免調」などが考えられる。 《倭葛城下郡言》 〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下【加豆良木乃之毛】郡}。 葛城県は〈天武〉朝の時点で既に分割されていたことが分かる。なお、大宝令以前は実際には「葛城下評」であった(表が郡に)。 北が「下」なのは、飛鳥京を基準にしたためである〔国や郡を分割するとき、一般に都に近いほうが「上」となる〕。 後に城を省いて「葛下」の二文字としたのは、好字令(資料[13])によると見られる。 「十二角犢」と並べて書かれるから「四足鶏」も信憑性が疑われるが、実際にあったとすれば、十一年八月「三足雀」と同じく「偽足突起物」と思われる(《三足雀》)。 《丹波國氷上郡》 〈倭名類聚抄〉{丹波【太邇波】国・氷上【比加三】郡}。 「十二本の角のある子牛」は、理解に苦しむ。右図は、江戸時代の『本朝年代記図会』に収められたもの。 文字通りを想像した姿が書かれている。 《大意》 十一月一日、 大三輪(おおみわ)の君(きみ)、 大春日(おおかすが)の臣(おみ)、 阿倍臣、 巨勢(こせ)の臣、 膳(かしわで)の臣、 紀臣、 波多(はた)の臣、 物部連、 平群(へぐり)の臣、 雀部(ささき)の臣、 中臣(なかとみ)の連(むらじ)、 大宅(おおやけ)の臣、 栗田臣、 石川臣、 桜井臣、 采女(うねめ)の臣、 田中臣、 小墾田(おはりた)の臣、 穗積臣、 山背(やましろ)の臣、 鴨君、 小野臣、 川辺臣、 櫟井(いちゐ)の臣、 柿本(かきのもと)の臣、 軽部(かる)の臣、 若桜部(わかさくら)の臣、 岸田臣、 高向(たかむこ)の臣、 宍人(ししひと)の臣、 来目臣、 犬上(いぬかみ)の君、 上毛野(かみつけの)の君、 角(つの)の臣、 星川臣、 多(おお)の臣、 胸方君、 車持(くるまもち)の君、 綾(あや)の君、 下道(しもつみち)の臣、 伊賀臣、 阿閉(あへ)の臣、 林臣、 波弥(はみ)の臣、 下毛野(しもつけの)の君、 佐味(さみ)の君、 道守(ちもり)の臣、 大野君、 坂本臣、 池田君、 玉手(たまで)の臣、 笠(かさ)の臣の 全部で五十二氏に姓(かばね)を賜わり、朝臣(あそみ)といいます。 三日、 土左国(とさのくに)の司(つかさ)は、 「大潮が高く上がり、海水がただよい、 これによって、調(みつき)を運ぶ船は多くが流されて失われました。」と言上しました。 二十一日、 黄昏時に、七つの流星が東北の空を流れて隕(お)ちました。 二十三日、 日没の時、星が東方に隕(お)ちました。大きさは瓮(へ)ぐらいありました。 戌(いぬ)の時〔20時前後〕に至り、 天文は悉く乱れて以ちて星が雨のように隕(お)ちました。 この月は、 空の中央に孛星〔=彗星〕が現れ、 昴(すばる)とともに進みました。 月末になり、消滅しました。 この年、 詔を発しました。 ――「伊賀、伊勢、美濃、尾張の四国は、 今から以後、 調(みつき)の年は役(えたち)を免除し、役(えたち)の年は調(みつき)を免除せよ。」 倭(やまと)の国の葛城下郡(かつらきのしものこおり)は、 「四つ足の鶏がいました。」と言上しました。 また、丹波国(たんばのくに)の氷上郡(ひかみのこおり)は、 「十二本の角がある犢〔=子牛〕が生まれました。」と言上しました。 【朝臣姓を賜った五十二氏族】
〈姓氏家系大辞典〉は、まず穂積臣・采女臣の祖とされる大水口宿祢が『天孫本紀』では「四代孫」、〈姓氏録〉では「伊香賀色雄の男」とする不一致について、 「大水口を大矢口と共に出石心命の子とし、孝元帝御世の人とするは誤れり。蓋し大矢口と名称、相似たるより誤りしものならん」、 「大水口は、書紀が崇神朝に活動せし人とすれば、姓氏録の如く、伊香賀色雄命の男とすべき也」と述べる。 実際、〈崇神〉紀・〈垂仁〉紀に「大水口宿祢」の名前が出てくる。〈大辞典〉による見解は「大水口と大矢口は一時は混同されていたが、それが正されたあとも同じ世代として書かれた」ということのようだ。 そして同書は、「内色許男命は伊香色雄の叔父に当り、而して「穂積臣祖とあるより思へば、此の人・初めて穂積を領せしなるべし。而して前述の如く大水口も亦「穂積臣の祖」とあるなれば、此の人・内色許男の領土を継承せしを知るべし」と述べる。 このうち「内色許男命は伊香色雄の叔父」とするのは、大綜杵が鬱色謎命の兄弟だからであるが、その関係は記紀には載らず『天孫本紀』のみに載る〔両者とも大谷口宿祢の子〕。 同書はこの部分については『天孫本紀』の記述を認めている。 同辞典の該当箇所の文章(国立国会図書館デジタルコレクション)はなかなか難しい文章なので、 書紀・記・『天孫本紀』の該当部分の系図を図にしてみる必要があった(右図)。その結果、同辞典が示した「略系」に誤りがあることが判明し、これが読み取りを困難とした一因であった。 《雀部朝臣の祖》 雀部朝臣がアイデンティティを主張した興味深い記事が、〈続紀〉に見つかった。
この要請文から、次のことがわかる。 ● 先祖が大臣であったことは大昔のことだが、奈良時代半ばになってもなお氏族の誇りの源になっている。 ● 記の巨勢小柄宿祢「三氏の祖」よりも詳細に、それぞれの祖の三子の名前を記した記録が存在していた。 《続紀の道守臣》 養老七年〔723〕二月紀には、「但馬国人寺人小君等五人。改賜道守臣姓」とある。 この「寺人子君」は、どう解釈すべきか。 注目すべきは、和銅七年〔714〕六月己巳「寺人姓、本是物部族也。而庚午年籍、因二居地名一。始号二寺人一。疑レ渉二賎隷一。故除二寺人一、改従二本姓一矣」で、 これは「「寺人」姓〔カバネではなくウヂ名〕は、もともと物部の族である。庚午年籍のとき地名によって「寺人」号が生まれた。しかし「疑渉賎隷」〔「寺所有の奴婢を思わせるからよくない」という意か〕だから寺人はやめて本の姓に戻せ」と読める。 〈大辞典〉の「寺人:上代は寺院に属せし家人にして、選民の一種なり。而して此の寺人の免るされて、此れを氏名 すると、養老七年の「寺人小君等五人。改賜道守臣姓」も「寺人」姓をやめろという趣旨で、今後は「道守臣」に改めよということなのだろう。 かつての「道守臣」は、現在は「道守朝臣」となった。そこで、現在空きになっている「道守臣」を賜ったと解釈できる。 ただ、空いているというだけなら他の氏族名でもよいはずだから、「但馬国の寺人」一族は旧道守臣と近い関係にあったのだろう。 《表記》 川邊臣、若櫻臣は古事記の表記になっている。 小墾田臣は書紀の表記を用いているから、「河邊臣」「稚櫻臣」にすべきものを見落としたのであろう。 墨書土器の「小治田宮」(第249回)を見ると、当時一般に使用されていた表記は古事記に近かったと考えられる。全般に難しい漢字を用いたのは書紀固有の表記法と見るべきであろう。 まとめ 天平勝宝三年の雀部朝臣真人の申し出を見ると、遠い昔に先祖が得ていた役職であっても現在の氏族の格付けに重要な意味を持っていたことが分かる。 おそらく、八色の姓のそれぞれにどの氏族を割り振るかにあたっては、それぞれの氏族の過去が吟味されたのであろう。 各氏族は、自らの過去の実績を詳しく調べてアピールすることに躍起になったであろう。そうやって獲得した格付けは、子孫の良職への登用に直結するのである。 〈持統〉五年にも、有力氏族十八氏に「墓記」の提出を求め、さらに厳密に過去の実績を調べている。 今回、久しぶりに古事記の欠史八代に載る氏族の出自を参照することになったが、太古の伝説でも〈天武〉以後の氏族の格付けにおいて現実的な意味をもったであろう。 ただ〈続紀〉を見ると、同じ朝臣姓であっても華々しく活躍する名前もあれば、全く名前が見えない氏族もある。出身氏族の物語が描く格付けによって自動的に出世が決まるわけではなく、結局個人の才覚によるのである。 さて、いわゆる「白鳳地震」については、その記述を実際の大地震で出現した現象の範囲内で理解することに務めた。当たらずといえども遠からずであろう。なお、その震源や規模の推定も見るが、これについては誰でも思いつくような概念的なものに過ぎずあまり意味はないと思われる。 |
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⇒ [29-19] 天武天皇下(8) |
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