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2025.06.30(mon) [29-15] 天武天皇下15 ▼▲ |
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56目次 【十一年八月】 《八月甲子夕昏時大星自東度西》
「各俾申~」は「〔親王以下すべての臣までの〕それぞれに~を言上させる」であろう。 その目的語節「法式応用之事」は、「法式をどう用いることにするか」と読める。「法式」は受事主語。 全体として、それぞれの部署で法式に基づいてことが行われているかどうかを点検して報告せよと命じたと理解される。 法もノリ、式もノリで、美称ミノリを用いるべきと思われる。 命じる相手の主眼は「諸臣」で、「親王以下」は率先垂範すべしということであろう。 《饗高麗客於筑紫》 「高麗客」は助有卦婁毛切と大古昴加。六月一日に来朝した。帰国の記事は欠落と見られる。 《夕昏》
『太平広記』には「雀目夕昏:人有下至二夕昏一不上レ見レ物者、謂二雀盲一是也」 〔「雀目夕昏」とは、人が夕昏時に物が見えなくなることから雀の目が見えないことをいう〕。 〈汉典〉には「昏夕:傍晩。黄昏」、 「昏黄:形容天色、燈光等呈幽暗的黄色或有風沙的天色」〔灯光のほの暗い黄色、あるいは黄砂などで黄色くなった空〕とある。 夕昏が戌刻にあたると明瞭に述べる出典は、なかなか見つからない。 よって、書紀古訓が戌刻〔19~21時〕にあてたのは、古訓者による解釈と見られる。 〈天武〉十二年八月三日は、グレゴリオ暦では683年9月2日で、奈良市における2025年9月2日の日没時刻は18:22となっている。 天文薄明〔星明りより明るい状態〕は日没後1.5時間とされる。それに従うと黄昏は、卯四剋~戌二剋ぐらいに相当するから、戌刻とするのは妥当である 〔《日中/四剋》項参照〕。 〔参考: 国立天文台/[日の出入り]、 国立天文台/[薄明]〕。 《大星自東度西》 火球であろう。流星と本質的な違いはないが、特に明るいものをいう。 《有大虹》 虹自体は珍しいものではないので、あえて書かれたのは天瑞の詔を補強するためであろうか。 しかし、古代の中国では虹は不吉とされたから、飛鳥時代の日本でもそうだったとすれば、逆の意味になってしまう。 《如灌頂幡而火色》
「如灌頂幡」の比喩からは、高緯度で見るカーテン状のオーロラが連想されて興味深いが、低緯度のオーロラでこの形が見られるかどうかは分からない。 なお、「入越海」は「入レリ二越ノクニノ海ニ一」であろう。「海に入り越ゆ」という言い方が成り立たないのは明らかである。 灌頂は、もともと仏像や弟子がある資格を得る際に頭から水をかける儀式であるが、実際には宗派によってさまざまな意味や形態がある。 [元興寺伽藍縁起…Ⅰ]には「灌仏之器」が出てくる。 「灌頂幡」は、その灌頂の様をデザイン化した装飾物と考えられる〔右写真は法隆寺の献納物〕。 《白気起於東山》
A 酒舟石遺跡の方向にある、比較的近い山での水蒸気爆発。 B 伊豆方面の噴火が雲に映る。《如鼓音》項で伊豆嶋の火山活動を想定した。 Bのように山の上空が明るくなったことに対して「四囲」と単位付きでサイズをいうことは考えにくいから、Aと読む方がよさそうに思える。 すると問題は、その方面に活火山があったかどうかに移る。 これについて、『奈良の伝説』〔岩井宏実;角川書店1976〕には、 「古来なにか変事があるときは鎌足の像の頭部が破裂し、妙楽寺背後の御廟山が鳴動するという神異があったという。だからこの山を御破裂山という」と書かれている。 その出典と思われるのが『多武峯破裂記』〔『大日本仏教全書』118〔仏書刊行会;1912~1822〕〕 で、「慶長十二年。潤卯月二日…御廟山多ニ鳴動シ神光四海輝キ光物国々ニ飛行す」とある。 このように御破裂山は古来鳴動があるといい、安土桃山時代に大噴火の記録があるから、活火山であろう。よって、Aをとりたい。 《大地動》 戊寅〔17日〕と、「三足雀」の話の甲戌〔十三日〕は、日付が逆転している。 錯誤かも知れないが、癸酉〔12日〕の大地震から繋がる地震活動として意図的に連続された可能性もある。 《平旦有虹》
『論衡』〔後漢80年 王充著〕𧬘時「分為十二時、平旦寅、日出卯也」〔一日を十二の時に分けると、平旦は寅刻、日の出は卯刻にあたる〕。 ただし『百度百科』に「平旦、是指三太陽停留在二地平線上一」とあるのが本来の意味で、「寅刻」はその結果的な解釈である。 虹は太陽を背にして見る現象なので、日の出前に「天中央」にあるのは当然である。 《三足雀》 『食鳥検査の手引き』〔一般社団法人岩手県獣医師会 食鳥検査センター;2023〕は、 「単脚、3ないし4本脚、胸骨癒合不全などの奇形として認められる」とする(p.23、「偽足突起物」の写真あり)。 「朱雀」は噂に留まるのに対して、「三足雀」は宴席で群卿に見せたことまで書かれていて十分具体的である。 よって、足様突起物の奇形をもつ雀が実際に捕獲されたと見てよい。 前年八月十三日に一報を入れた後、本年正月二日に現物を持ち込み、七日に宴で披露している。 死体になれば腐敗する。剥製の技術があったとすれば話は別だが、おそらくしばらく手元で飼育していたのであろう。 なお、かつて白雉元年二月には、生きた白雉を輿に載せて大々的に披露している。 《礼儀言語之状》 宮殿内での立ち振る舞いの作法を定めたと見られる。 《凡諸応考選》 「考選」に書紀古訓は「シナサダメ」をあてる。 シナサダムは源氏に見えるが、〈時代別上代〉には取り上げられないので、上代にはこの言い回しは見えないである。 ただ、個別語としてのシナ、サダムがそれぞれ上代語であることは確かである。 《族姓不定者》 「其族姓不レ定者不レ在二考選之色一」という。 ここで判断基準として個人の才覚よりも氏族の格を優先させるのは、合理性を重んじる〈天武〉にあるまじきことと思える。 ただ、諸族の序列を最優先するのは、諸族間の抗争の芽を未然に摘み取るためであろう。 古い時代には、天皇の代替わりの度に氏族がそれぞれに皇子を担いで抗争した。その慣習を遂に終わらせようとするのである。 《日高皇女》 日高皇女は、霊亀元年〔715〕に即位して、〈元正〉天皇となる。
草壁皇子は即位しなかったから、日高皇女は厳密には「王」であるが、 草壁皇子は潜在的な天皇として、758年になって「岡宮御レ宇天皇」〔岡の宮に宇(あめのした)御(し)らす天皇〕を追号された。日高皇女も潜在的な皇女である。 《新家皇女》 〈兼右本〉は「ニヒノミ」と訓むが、〈北〉・〈閣〉・〈釈紀〉では訓みは付かない。 地名としては、〈倭名類聚抄〉{讃岐国・阿野郡・新居【爾比乃美】}があるので、どこかの地名による名前かと思われる。 『大日本地名辞書』は、尾張国海部郡新家郷項で「新家は新居と同義にて、或にニヒノミと唱ふ、諸国に多く見ゆる地名にして、 本来は宮家屯倉などの新に置かれしものを呼べるにや、又ノミとは単純に家宅の事を古語にかくも曰へるにや、不詳」と述べる。 《大辟罪》 罪の赦免の際に常に「大辟罪以下」の文言を用いるところに、〈天武〉ができることなら死刑の執行を避けたい心理を見るのはサイト主だけであろうか。 《大官大寺》 この年の198人の出家も日高皇女の快癒を願ってのものと読める。 九年十一月十二日には、皇后の病気の回復を願って百人が出家した。 二年十二月には美濃王らが「造高市大寺【今大官大寺是】」を拝している。 十二年には、最小限の法要ができるだけの建物ができ上がっていたのであろう。 《大意》 八月一日、 親王以下、及び諸臣に令じて、 それぞれ法式に応用している事を述べさせました。 三日、 高麗の客に筑紫で饗(あえ)しました。 この日の黄昏時、大きな星が東から西に渡りました。 五日、 法令を殿内に備えさせました。 この日、大きな虹が出ました。 十一日、 物が現れ、その形は灌頂幡(かんじょうばん)の如く、火の色をして、 空に浮かんで北に流れました。 国毎に皆見え、或る人は越(こし)の海に入ったと言いました。 この日、 白い蒸気が東の山から昇り、その大きさは周囲四囲(いだき)〔6mあまり〕でした。 十二日、 大地震が起こりました。 十七日にも、 また地震がありました。 この日、 平旦〔暁頃〕に、虹の天の中央にあって、 太陽に向いました。 十三日、 筑紫の大宰が、三本足の雀が見つかったと報告しました。 二十二日、 礼儀と言語のさまを詔されました。 また詔を発しました。 ――「凡そ諸々の考選すべき人は、 よくその族姓、及びに行状を検査て、 はじめてその後で考選せよ。 もし、行状、才能が明瞭であっても、 その族姓が定まらない者は、考選の対象から外せ。」 二十八日、 勅され、 日高(ひだか)の皇女(ひめみこ) 【別名、新家(にいのみ)の皇女】が病気となられたため、 大辟罪〔=死罪〕以下の男女、併せて一百九十八人を 皆赦免しました。 二十九日、 百四十人余りが大官大寺に出家しました。 57目次 【十一年九月~十二月】 《勅曰跪禮匍匐禮並止之》
〈推古〉十二年九月「凡一出-入宮門二:以二両手一押レ地両脚跪之越レ梱則立行」が久しぶりに改定された。 難波宮〔〈天智〉朝〕では既に立礼が用いられていたが、飛鳥の後岡本宮では跪礼匍匐礼が相変わらず維持されていたと読める。 これからは、浄御原宮〔後岡本宮を増改築〕でも難波宮方式に改めよと勅された。 《難波朝廷》 本により「難波朝庭」。一般的に朝庭は朝廷に通用するから混用に問題はない。ただ、十年正月の「射于朝庭」の場合には特に「庭」の意として読まねばならない。 《数百鸖》 諸本は、すべて「鸖」で、書紀古訓はオホトリと訓んでいる。 ところが、鸖は鶴の異体字である。 オホトリと読まれるのは鸛である。 〈倭名類聚抄〉「鸛:【音舘。和名於保止利】水鳥。似鵠而巣樹者也」。 中国語の鸛はコウノトリである。 一方〈時代別上代〉は、オホトリを「鷺・鶴・鸛 《日中/四剋》
ということは「日中」は書紀古訓通り午剋で、あるいは特に中央点の正午かも知れない。 《大餔》 字は大酺に似る。大酺は人民に肉・酒を賜うことで、〈安閑〉二年正月の五日間実施された。〈天武〉紀では後に、朱鳥元年正月に「朝庭大酺」が見える。 しかし、餔は別の字で、〈汉典〉「①吃。②申時吃的飯食。③申時」〔①たべる。②申刻の食事。③申刻〕、すなわち申の時刻の食事、単に食事、また申の刻の意味がある。 『説文解字』には「餔:日加申時食也」。「𩚏:餔也」。 「大」がつくから、親王、群卿などが参集した食事会であろう。 当然酒も出るであろうが、書紀古訓サケノミスは一面的である。 《凡糺弾犯法者》 犯罪の取り締まりに関する詔が発せられた。 《禁省/朝庭》 禁省・朝庭とは何を指すのだろうか。 【大津京跡】で見たように、 都の中枢建造物は「北に内裏、南に朝堂院が配置」が一般的な形式で、内裏が天皇一家の生活空間、朝堂院が公の政庁と考えられる。 ここでは「禁省」が内裏、「朝庭」が朝堂院にあたる。 すなわちたとえ宮中・政庁の中であっても特権的に事実を秘匿したりもみ消したりしてはならないという。 《有犯重者》 「重」はカサヌとも訓めるが、以下の文章は累犯による罰の強化を述べたものではない。 むしろ抵抗する者がいれば武力を用いてでも確実に捕まえよというから、重は、「罪が重い」意であろう。 文脈は強気で当たることを強調しているから、「請」は被疑者の言い分を聞けという意味ではなく、担当者の手に負えなければどんどん上部機関の出動を要請せよという意味であろう。 要するに重罪の者には毅然として対応せよという。 この指示は国家なら当然のことで、犯罪は漏らすことなく、かつ公平に対応することを求めるものである。 《各定可氏上》 諸氏は氏上の登録をなかなか申請しなかった※が、どうやら揃ってきたようである。氏上の公認は氏族への国家統制を意味するが、これが八色之姓の制度の前提となる。 氏族の存在意義は、仕官に相応しい人材の供給元のみとなりつつある。 ※…十一年《氏神未定者》項。〈時代別上代〉「〔十年〕の詔は十一年にもさらに強力に出されていて、いまだ公式の氏上を定めず参集しないものがあったことを伝えている」。 《因少故而非己族者輙莫附。》 大きな族は分割してそれぞれに氏上を申し出よと命じた。官司はそれを斟酌して細分化が過ぎる場合は認めない。 ただ、「独自の起源をもつ氏族についてはそれぞれの成り立ちを尊重して、人数は少なくても統合する必要はない」としたと読める。 《大意》 九月二日、 勅を発しました。 ――「今後は、 跪礼(きれい)〔=ひざまづく礼〕、匍匐礼(ほふくれい)〔=四つん這いの礼〕は、共に止めよ。 改めて難波の朝廷の立礼(りつれい)を用いよ。」 十日、 正午ごろ、数百の鸛〔=こうのとり〕が、 大宮に向かって高く空に翔けました。 午の四剋(よつのこく)〔=午の時の最後の三十分〕に皆散りました。 十月九日、 大餔(だいほ)〔=申刻の会食〕を行いました。 十一月十六日、 詔を発しました。 ――「親王、諸王及び諸臣から庶民に至り、 皆聴くべし。 凡そ法を犯す者への糾弾は、 或いは禁中〔=内裏〕、 或いは朝廷〔=朝堂院〕にあっても、 過失が発生したところに於いて、 見たまま、聞いたままに、 秘匿したり破棄すること無く糾弾せよ。 その犯罪が重ければ、 〔上に〕要請すべきは要請し、 捕えるべきは捉えよ。 もし反抗して捕らえられない場合は、 当所の兵力を起して捕えよ。 相当する杖刑の種類は、 杖は百以下として、種類を定めよ。 また、犯状が歴然としているのに、 罪は無いと言って欺き、受け入れることなく争い訴える者は、 その本の罪に累加せよ。」 十二月三日、 詔を発しました。 ――「諸々の氏人らは、 それぞれ氏上(うじのかみ)とすべき者を定めて申し送れ。 また、その眷族が多人数ならば、 分割してそれぞれに氏上を定めて、 どちらも官司に申せ。 然る後に、その状況を斟酌して決定し、 その官の判断を承れ。 ただ、小人数なるが故に己と異なる族に入ってしまう場合は、 安易に合同させるな。」 58目次 【十二年正月~三月】 《筑紫大宰貢三足雀》
これらは、すべて諸臣及び人民すべてに幅広く語り掛ける詔において用いられている。呼びかける相手は表2のように記述される。 「集侍」〔ウゴナハレル〕があるものとないものがあるが、何れも大衆を集めて読み上げる性格の詔だったと思われる。 すなわち「明神御大八洲倭根子」は大衆に向けて天皇を特別に偉大化する語である。 このうち「明(御)神 このうち〈孝徳〉朝では天皇号はにはまだ存在しないから「天皇」は書紀が大王を置き換えたか、あるいは何もなかったところに挿入したものである。 〈天武〉朝は、十二年〔683〕の時点では微妙である(資料[41])。 試しに大化二年詔から「天皇」を抜いてみると面白いことになる。 すなわち「明神御宇日本倭根子詔於集侍卿等」となり、根子はあたかも大王 また欠史八代の〈孝霊〉・〈孝元〉・〈開化〉も和風諡号に「日本根子彦」〔記は「倭根子日子」〕が含まれている。この根古も大王の古い時代の称号だったと考えてみると、妙に説得力が出てくる〔なお、ヒコは太陽の子の意〕。 《天瑞》
《黎民》 黎は「黒い」。黎民〔黎元とも〕は浅黒く日焼けした民を意味するとされる。元は首より上の部分。 書紀古訓が「オホムタカラ」を宛てる典型例のひとつである。 ここで詔を倭読する習慣について考察すると、〈続紀〉の宣命体は、まさに詔が倭読されたことを示している。 〈文武〉などの即位発表の詔(前述)は、〈天武〉十二年詔と類似する文章が宣命体で示されている。 〈天武〉十二年詔も庶民レベルまで広く伝えるべきものだから、当然倭読されたであろう。 ただ、発布当時において黎民がオホミタカラと訓まれていたことはないと思われる(【人民】項)。 《以大辟罪以下皆赦之》 大辟罪以下という言い方は、死刑はできるだけ避けたいという思いがここにも滲むのかも知れない。 なお、今次は大赦の例外規定がないが、以後次第に除外範囲が具体的に示されるようになる。 ●〈持統〉三年三月「大赦天下。但盗賊不レ在二赦例一」。 ●〈文武〉即位時の宣命:大宝二年〔702〕四月乙巳「大赦天下。唯盗人不レ在二赦限一」〔盗人は赦す限りにあらず〕。 ●〈元明〉即位時の宣命:慶雲四年〔707〕七月壬子「其八虐之内、已殺訖、及強盗窃盗、常赦不レ免者並不レ在二赦例一」〔実際に殺人を犯した者、強盗犯、窃盗犯、通常対象外とされている者を除く〕 もし大赦が漏れなく実施されれば重罪人まで赦免されることになり、当然異論が出る。かと言って個別に例外を作れば今度は不公平を抗議され、何れにしても困るのは現場の担当者である。 よって、除外対象の明文化は必然的な方向である。 《百姓課役並免》 これも「百姓課役並免」というざっくりとした表現である。仮にすべての税を免ずれば、国家経営にかなりの支障をきたすであろう。 但し、田租については庸・調ではないから通常通り徴収すると読むこともできる。 後の時代には表現が具体化される。 ●〈文武〉即位時の宣命:「仍免二今年田租雑徭并庸之半一。又始レ自二今年一三箇年。不レ収二大税之利一」。 すなわち今年は諸税を半分免除。貸稲の利払いは三年間免除する。 ●〈元明〉即位時の宣命:「畿内及大宰所部諸国今年調。天下諸国今年田租復賜」。 "復"は免税の意。「天下諸国」は七道(畿内以外)の国々の意であろう。畿内は調〔特産物〕、七道は田租〔米〕の免除に限るが、それでもかなりの規模である。 《小墾田儛》 「小墾田儛」及び「三国楽」は、詔とともに新年行事のひとつと見られる。 小墾田は〈推古〉朝の宮である。かつてその敷地にあったと見られる桜井道場に由来するか。 〈推古〉二十年是年に百済人味摩之を「安二-置桜井一而集二少年一令レ習二伎楽儛一」とある。 〈釈紀-述義〉も「兼方案之。小墾田宮朝(推古天皇)処レ製之楽歟」と述べる。 《高麗百済新羅三国楽》 この一文は、高麗・百済・新羅からの帰化族の中に、それぞれ音楽芸能集団がいたことを示す。 決して本国から派遣された歌舞団というわけではない〔百済国が既に存在しないことは言うまでもない〕。 彼らは朝廷の方針として音楽文化の振興が図られていたことを知り、新年の祝賀のために馳せ参じたものと考えられる。 《大津皇子》
《僧正僧都律師》 僧正・僧都・律師は僧綱を構成する。僧綱は玄蕃寮に属して僧尼を監督する官署で、僧尼を統率し諸寺の管理にあたる([元興寺伽藍縁起…:Ⅳ])。 僧正・僧都は〈推古〉三十二年に僧尼を検校する職として初めて定められた。 律師は〈敏達〉(六年)、〈崇峻〉(元年)に僧の一種として出てくるが、僧綱の職としてはここが初出である。 《遣多祢使人》
このとき帰国した「使人」は、多祢人を島まで送り届ける任を負った。 これについて、〈北野本〉の訓点「遣 《大意》 十二年正月二日、 百寮(もものつかさ)は宮廷の庭で拝礼しました。 筑紫の大宰丹比(たじひ)の真人(まひと)嶋(しま)らは、 三本足の雀を献上しました。 七日、 親王以下と群卿を、 大極殿の前に召して宴を開かれました。 よって、三本足の雀を群臣に示されました。 十八日、 詔しました。 ――「明神(あらみかみ)と大八洲(おほやしま)に所知(しら)す倭(やまと)根子(ねこ)天皇(すめらみこと)の 勅命は、 諸々の国司(くにのつかさ)、国造(くにのみやつこ)、郡司(こおりのつかさ)及び百姓たちの、 諸々は聴くべし。 朕が初めて鴻祚(こうそ)に登って〔=即位して〕以来、 天瑞(てんずい)は一つ二つにとどまらず、多く表れて今に至る。 伝え聞くに、その天瑞は、 政(まつりごと)の理(ことわり)が天道に適うとき、お応えくださるものである。 これが今、朕の御世に当たり、毎年に重ねて至った。 あるいは懼(おそ)れをもち、 あるいは嘉(よろこ)びをもち、 これにより、 親王、諸王、及び群卿、百寮、併せ天下の黎民(れいみん)は、 共に相歓(よろこ)べ。 よって、小建以上にそれぞれに応じて禄を給わる。 よって、大辟(だいへき)罪〔=死罪〕以下皆赦免せよ。 また、百姓の課役はともに免ぜよ。」 この日、 小墾田(おはりた)の舞、 及び高麗・百済・新羅三国の楽を宮廷の庭で奏しました。 二月一日。 大津の皇子が、始めて朝政を聴(き)こしめしました。 三月二日、 僧正(そうじょう)、僧都(そうづ)、律師(りっし)を任命して、よって 「僧尼を法の如く統率せよ、云々。」と勅しました。 十九日、 多祢(たね)に派遣した使者たちが、帰国しました。 まとめ 十二年正月詔のうち、大赦と免税の部分の表し方があまりに大雑把なので、書紀による潤色が疑われた。 しかし、後の代の宣命を照合してみると、次第に条件を細かくしていく様子が手に取るように分かる。 これで〈天武〉朝では実際にこの詔が広布され、そこで起こった問題に以後対応していったと見ることができるようになった。 十二年詔は、即位から11年たってやっと発せられた。 ここで〈孝徳〉大化二年の類似詔の出された状況を見ると、そのときは蘇我宗家を滅ぼして政権を把握したときであった。 〈天武〉十二年正月詔は、やっと殆どの氏族に氏上を登録させるまでこぎつけ、八色の姓制によって構造化することを可能にした。 すなわち、両者のタイミングには氏族に分散していた主権を朝廷に集約したという共通性がある。 〈天武〉は、これを新しい形の中央集権国家をスタートとした。 ただ、一般向けの表現としては、朕の政治は天から認められた。その証拠に数々の瑞祥を見よ。これから苦楽を共にして国作りに励もうと呼びかける文章になっている。 以下はかなりの想像であるが、オホキミの新名称として定めた天皇号を一般に発表したのも、まさにこの詔によってではないかと思えてくる。 それがはっきり読み取れないのは、このとき過去のオホキミにも天皇号を遡及させることにして、誰を当てはめるべきかを研究した。記紀はその結果に基づき、古い時代のオホキミにも区別なく「天皇」を呼称として用いたために境目が見えなくなったからだと考えられる。 |
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2025.07.10(thu) [29-16] 天武天皇下16 ▼▲ |
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59目次 【十二年四月~七月】 《詔曰自今以後必用銅錢》
この銅銭は、現在では富本銭であろうと考えられている。
ところが、1999年になって飛鳥池遺跡から大量の富本銭が出土し、〈天武〉十二年の銅銭にあたる可能性が浮上した。 その発見を最も新鮮な驚きをもって述べた報告は、『奈良国立文化財研究所/年報1999Ⅱ』に見える。 それによると、 「炭層1をはじめ、谷に堆積する廃棄物届と東岸の工房整地土から計70点が出土」、 「いずれも枝銭から切断したままの鋳放し銭」で、「鋳損じた銭の破片が大半を占めるが、完形に近いものが6点、半分程度が残るものが4点」あり 「平均寸法は24.4㎝、厚さ1.5㎜前後で、中央に約6㎜の方孔があく。完形に近いもの3点の平均重量は4.59g」、 「富本銭は1つの銭笵で少なくとも16枚以上を同時鋳造したものと推測でき、和銅開弥と同様、量産化をめざした鋳銭技術の存在を想定できる」(p.45)。 そして、これまでは「古代の富本銭が、出土品もしくは伝世品として後世に伝わり、稀少銭の収集熱が高揚した江戸時代に絵銭として模作された」が、 今回の飛鳥池遺跡の調査によって、富本銭が700年以前に鋳造された銅銭であることを確認することができた」という(p.47)。
「飛鳥池」かつ「郡」による検索では0件なので、「飛鳥池遺跡は701年以前」説はほぼ確定する (「郡評論争」、「郡―評―五十戸」参照)。 飛鳥寺・浄御原宮に近い点も併せれば、ここが〈天武〉・〈持統〉年代の工房跡であったことは確実である。 さらに傍証として、「富本銭はその重さや大きさが中国の唐の通貨、開元通寳とほぼ同一規格である[和同開珎はそれらよりも軽い]ことから、開元通寳をモデルにした」とする説がある([三菱UFJ銀行/貨幣・浮世絵ミュージアム])。 《銀銭》
「銀銭」の廃止は、僅か三日間で撤回された。全くの朝令暮改である。 それでは、銀銭に置き換えようとした銅銭はどのような性格だったのだろうか。 富本銭には、厭勝銭〔流通目的の貨幣ではなく、儀式で使う貨幣様のもの〕説もある。 『天武・持統・文武天皇の富本銭』〔吉原啓;『万葉古代学研究年報』18(2020)〕によると、 厭勝銭説は「富本銭を"まじない"用の銭とする見解」で「飛鳥池工房遺跡で富本銭が出土する以前に定説的であった」が、出土以後は「流通貨幣を目指して発行されたとみる説が優勢であるように思われる」という。 同論文は双方の立場の諸説を紹介するが、決定的といえる説はないようである。 〈天武〉紀を素直に読めば、流通貨幣を銀銭から銅銭〔富本銭〕に置き換えようとしたことは明らかである。 しかし、その方針を公表した直後に実施部署から現在の生産体制ではとても無理ですと上奏され、それによって銀銭からの置き換えは直ちには不可能であると悟ったと読める。 この流れは常識的だから、わざわざ書紀が「厭勝銭」を「流通貨幣」に潤色したと読む必要はない。 議論すべきは、貨幣の全流通量のうち、富本銭がどの程度の割合を占めるに至ったかであろう。 《銭》 銭には書紀古訓がつかない。後世にはゼニであるが、果たして上代からであろうか。少なくとも〈時代別上代〉はゼニを取り上げていない。 〈倭名類聚抄〉には、「銭:鏹【…訓世邇都良】銭貫也。鎔【…和名世邇波太毛能】」が見える。 鏹は銭の穴に紐を通して固く締めて百枚、千枚とまとめたもの。鎔は銭を鋳造する鋳型である。 また、「癬:【…俗云銭加佐】」。カサは皮膚のできものを意味する上代語。ゼニカサは銭のような形状のカサであろうが、これが上代語かどうかは分からない。 また鋳銭司(〈文武〉三年に設置;資料[24])は俗にゼニノツカサと読まれるが、〈倭名類聚抄〉では「鋳銭司【樹漸乃司】」で、音読み〔シユゼンのつかさ〕している。 よって、ゼニという語が確認できるのは平安時代であるが、倭語のゼニは、もともと隋唐音[dziɛn]の語尾に母音イがついて二音節化したものである。 音は古くから入ってきていただろうから、二音節化のペースが早ければ飛鳥時代のうちにゼニが現れたこともあり得る。〈時代別上代〉が載せないのは、資料に仮名書きが確認できる例のみを取り上げる編集方針によるものと思われる。 《祭広瀬龍田神(四月)》 《祠風神…》項。 《大伴連望多》
《泊瀬王》
安居は夏季の修業であるが、語源の「安んじて居す」の意味も残る。続けて「浄行者三十人」を選んで出家させたとあるから、 全体として宮中に安吾院を設置して、優秀な僧尼を選んで住まわせたと読むのが妥当であろう。 《雩之》 その後本当の日照りとなり道蔵が雨乞いしたら雨が降ったとあるから、ここの「雩之」は恒例行事であったことが分かる (九年《雩》、十年《雩之》)。 《巡行京師》 造営中の新城、もしくはその候補地を巡回したと思われる(《将都新城》)。 十年三月に「新宮井上」で行っていた鼓笛の練習に顔を出す。十一年三月には「新城」の新たな候補地の調査。 全体として見ると、新城の造営は試行錯誤的である。天命を予感して、中枢施設〔朝堂院・内裏〕の位置の選定を急いでいる印象を受ける。 《祭広瀬龍田神(七月)》 《祠風神…》項。 《旱之》 前述。 《道蔵》
四月十五日、 詔され 「今より以後、必ず銅銭を用いよ、 銀銭は用いるな。」と命じられました。 十八日、 詔され 「銀を用いることを止めるな。」と命じられました。 二十一日、 広瀬神、龍田神を祭祀しました。 六月三日、 大伴の連(むらじ)望多(まくた)が薨じました。 天皇(すめらみこと)は甚だ驚かれ、 泊瀬王(はつせのおおきみ)を遣わし、弔(とぶら)いさせられました。 よって、壬申年の勲績、 及び先祖たちの度々の有功を挙げ、 顕著な寵賞を賜りました。 すなわち大紫位を贈られ、鼓と笛で葬儀しました。 六日、 諸王三位高坂の王(おおきみ)が薨じました。 秋七月四日、 天皇(すめらみこと)は鏡姫の王(おおきみ)の家にお出かけになり、病を見舞われました。 五日、 鏡姫の王が薨じました。 この夏に、 始めて僧尼に請い、宮中で安居させました。 よって、浄行者三十人を選び出家させました。 十五日、 雨乞いしました。 十八日、 天皇(すめらみこと)は京師を巡行されました。 二十日、 広瀬神、龍田神を祭祀しました。 この月から八月まで、 旱魃となりました。 百済僧道蔵(どうぞう)が雨乞いして、雨を得ました。 60目次 【十二年八月~九月】 《凡卅八氏賜姓曰連》
正月詔の「大辟罪以下皆赦之」を、八月に実行したか。 これくらいの時間差は通例かも知れない。ただ、以後の即位大赦では適用対象外が示されたことを考えると、 このときも実際には適用除外があり、その線引きで揉めて調整に時間を要したこともあり得る(《以大辟罪以下皆赦之》)。 《大伴連男吹負》
《大風》 〈天武〉十二年九月二日はグレゴリオ暦683年9月30日。 台風シーズンの只中である。 《三十八氏賜姓曰連》
伴造は職業部や御名代部・皇子代部の長であったが、これにより現地の部からは距離が離れる。 工芸品などの生産を担う職業部はそのまま存続するが、その生産物は調として国司が徴収する体制が整いつつある。 また、〈令義解〉「大蔵省」の「漆部司」の下に「漆部」、「縫部司」の下に「縫女部」、「織部司」の下に「染戸」等が見え、従来の職業部は引き続き存在するが、令制では直接官に所属するものもある。 それらの共通名称は「伴部」という。 よって古い時代の生産物献上のルート「部⇒伴造⇒朝廷」は基本的に消滅し、調が公に貢納したり、官に直接仕える伴部となっていく。 連に上ったことにより、上層部の一握りの者は都に住み食封を支給されるだろう。しかし、それだけでは一族は養えないから、下層の者は相変わらず部民と共に生産に従事したり、生産物を取り集めて販売して利益を得ていたことも考えられる。 《大意》 八月五日、 天下に大赦されました。 大伴の連(むらじ)男吹負(おふけい)が卒しました。 壬申年の功により大錦中(だいきんちゅう)位を贈られました。 九月二日、 大風が吹きました。 二十三日、 倭直(やまとのあたい)、 栗隈首(くりくまのおびと)、 水取造(もひとりのみやつこ)、 矢田部造(やたべのみやつこ)、 藤原部造(ふじわらのみやつこ)、 刑部造(おさかべのみやつこ)、 福草部造(さきくさのみやつこ)、 凡河内直(おおしかうちのあたい)、 川内漢直(かうちのあやのあたい)、 物部首(もののべのおびと)、 山背直(やましろのあたい)、 葛城直(かつらきのあたい)、 殿服部造(とのはとりのみやつこ)、 門部直(かどべのあたい)、 錦織造(にしこりのみやつこ)、 縵造(かずらのみやつこ)、 鳥取造(ととりのみやつこ)、 来目舎人造(くめのとねりのみやつこ)、 檜隈舎人造(ひのくまのとねりのみやつこ)、 大狛造(おおこまのみやつこ)、 秦造(はたのみやつこ)、 川瀬舎人造(かわせのとねりのみやつこ)、 倭馬飼造(やまとのうまかいのみやつこ)、 川内馬飼造(かふちのうまかいのみやつこ)、 黄文造(きふみのみやつこ)、 蓆集造(こもつめのみやつこ)、 勾筥作造(まがりのはこづくりのみやつこ)、 石上部造(いそのかみのみやつこ)、 財日奉造(たからのひへきのみやつこ)、 泥部造(はつかしべのみやつこ)、 穴穗部造(あなほべのみやつこ)、 白髮部造(しらかのみやつこ)、 忍海造(おしのみのみやつこ)、 羽束造(はつかしのみやつこ)、 文首(ふみのおびと)、 小泊瀬造(をはつせのみやつこ)、 百済造(くたらのみやつこ)、 語造(かたらいのみやつこ)の、 凡そ三十八氏に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)としました。 61目次 【十二年十月~十二月】 《十四氏賜姓曰連》
「名代について」〔告井幸男;『史窓』71(京都女子大学史学会2014〕は、 「名代氏族の名を負った皇子女の存在は、それらの氏族がその皇子女の養育を担当(乳母を出すことも含め)したことを示している」という(p.4)。 同論文は、例えば額田部皇女〔〈推古〉〕という名は、養育にあたった「額田部」を皇女の名前にしたのであって、皇女の名前が御名代の由来だとするのは話が逆であるとの考えを示す。 よって、娑羅皇女〔〈持統〉〕は、娑羅羅馬飼造が養育したことを示すという(p.3)。 だとすれば、「鸕野讃良皇女」の「鸕野」の部分も菟野馬飼造を意味するはずだから、これらが併記されるのは二つの馬飼造が対等の立場で協力して養育に当たったことを意味することになる。 よって、両馬飼部は近接していただろうから、菟野村はやはり讃良郡内であろう。 《狩于倉梯》 〈崇峻〉「倉梯柴垣宮」の地(第247回)。 《諸国習陣法》 軍備を氏族に依存しない体制作りが、大化年間以来の課題であった。「諸国習陣法」はその延長線上にある。 〈孝徳〉大化元年八月の時点では、辺境の軍備を従来のまま氏族、あるいは国造に委ねた(《猶仮授本主》項)。 一方、同年九月には、国が軍備を担うことを命じている。 《金主山/金長志》
「諸王n位」という表記は、四年三月の「諸王四位栗隈王」が初出。一方、四年四月の時点で「小紫美濃王」があるから、小紫以上は変更なしと見られる (《美濃王/紀臣訶多麻呂》項)。 よって「諸王一位」は小紫よりも下位だと考えられる。 伊勢王は十二年十二月「諸王五位」、朱鳥元年九月「浄大四」であるから、浄大四は諸王五位よりもやや上であろう。 「明広二位」以上の範囲が、養老令の一品~四品に対応するところを見ると、「明広二位」と「浄広一位」の間に大きな区切りがある。 以上から、諸王n位は「浄大n位+浄広n位」に分割されたと見ると理屈が合う(右表)。なお諸王五位以下は、浄広四位以上に吸収されたのであろう。とすれば、玉突き式に全体的に進階したと考えられる。 《四孟月必朝参》 孟月は、四季それぞれの最初の月〔一月、四月、七月、十月〕をいう。 よって〈倭名類聚抄〉「十月:孟冬」という。ただ、他の三季は「一月:初春」・「四月:首夏」・「七月:初秋」となっている。 今回連に引き上げられた伴造・首などの多くは地方氏族の統率者であったから、中央官として定期的に朝廷に出仕すべきことを教育する必要があったと見られる。 《法官》 法官は、令制の式部省の前身(七年十月《法官大弁官》)。 《都城宮室非一処》 ここで、都の複数化を構想したことが示される。 実際、十三年二月には信濃が都に適するかどうかを調査させた。 差しあたって難波京を再び都として整備するから、官人たちもそこに別宅を用意せよと命ずる。 難波京の摂津国は、奈良時代の終わりまで摂津職が治める特別の国であった (資料[19])。 さらに改新詔其二曰のところで見たように、難波宮には奈良時代の「正南北を意識した区割り」〔条坊〕が見られるという。 これらのことから〈天武〉によるもう一つの都という位置付けは、奈良時代末まで継続したと見てよいだろう。 その他、大宰府にも条坊が作られていて副都として位置づけられたと見てよい(《大宰府政庁説》)。 なお、近江京の再興はなかった。近江朝廷の打倒のために大海人皇子の元に集まった氏族も、〈天武〉自身にとっても感情的にあり得ないのは当然である。 《百寮者各往之請家地》 詔の閉じ括弧の位置は、"…欲都難波」"としても文章は成り立つ。しかし、詔である以上具体的な指示があるべきだから、"…請家地」"とすべきであろう。 《大意》 十月五日、 三宅吉士(みやけのきし)、 草壁吉士(くさかべのきし)、 伯耆造(ははきのみやつこ)、 船史(ふねのふみひと)、 壱伎史(いきのふみひと)、 娑羅々馬飼造(さららのうまかいのみやつこ)、 菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)、 吉野首(よしののおびと) 紀酒人直(きのさかひとのあたい)、 采女造(うねめのみやつこ)、 阿直史(あぢきのふみひと)、 高市県主(たけちのあがたぬし)、 磯城県主(しきのあがたぬし)、 鏡作造(かがみづくりのみやつこ)の、 併せて十四氏に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)とされました。 十三日、 天皇(すめらみこと)は倉梯(くらはし)で狩猟されました。 十一月四日、 諸国に詔され、陣法を習わせました。 十三日、 新羅は、沙飡(ささん)金主山(こんしゅせん)、 大那末(だいなま)金長志(こんちょうし)を派遣して、進調しました。 十二月十三日、 諸王五位伊勢の王(おおきみ)、 大錦下(だいきんげ)羽田公(はたのきみ)八国(やくに)、 小錦下(せうきむげ)多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)、 小錦下(せうきむげ)中臣の連(むらじ)大嶋(おおしま)に、 併せて判官(まつりごとひと)録史(ふみひと)、工匠(たくみ)らを派遣し、 天下を巡行させ諸国の境界を確定させました。 しかし、この年は確定させるに至りませんでした。 十七日、 詔を発しました。 ――「諸々の文武の官人、及び畿内の有位の人どもは、 四季の孟月〔一、四、七、十月〕には必ず朝廷に参集せよ。 もし死ぬような病のために参集できない者があれば、 その司は具(つぶさ)に記して法官(のりのつかさ)に申し送れ。」 また、詔を発しました。 ――「凡そ都城(みやこ)の宮室は、 一か所ではなく必ず二つ三つと作りたい。 よって、先ずは難波を都にしようと思う。 これにより、百寮の人はそれぞれ現地に行って家地の提供を受けよ。」 まとめ 部民は公民化することにより、生産した富〔農産物、特産物、工芸品〕は国司経由で公に収められるようになる。 その結果、伴造は部民からの上納を失う。〈天武〉十二年のように伴造が連に取り立てられれば、上層部は食封を得られるが、下層は没落するという図式が見えてくる。 この見方に至ったのは、連に取り立てられた五十二氏を個別に見てみたからである。やはり細部に拘ることには意味がある。 このように造・首・直姓を改め連姓を賜った背景には社会構造の変化があったに違いないが、その実態を詳しく知るためには更に勉強が必要である。引き続き文献や研究論文を探したい。 なお、伴造のトモは、朝廷に仕える意味と説明するものが多いが、これは天孫降臨に同伴した「五伴緒 |
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⇒ [29-17] 天武天皇下(7) |
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