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2025.06.30(mon) [29-15] 天武天皇下15 

56目次 【十一年八月】
《八月甲子夕昏時大星自東度西》
八月壬戌朔。
令親王以下及諸臣、
各俾申法式應用之事。
法式応用…〈北野本〔以下北〕法式ノリトシテ用之事
八月(はつき)壬戌(みづのえいぬ)の朔(つきたち)。
親王(みこ)より以下(しもつかた)及びに諸臣(もろもろのおみ)に令(おほ)せて、
各(おのもおのも)法式(みのり)に応用之(もちゐるべき)事を申(まを)さ俾(し)めたまふ。
甲子。
饗高麗客於筑紫。
是夕昏時、大星自東度西。
夕昏…〈北〉夕昏時イヌノトキ
…[形] くらい。[名] 日暮れ。
いぬ〔時刻〕…午後7時~9時。
甲子(ひのえね)。〔三日〕
高麗(こま)の客(まらひと)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)したまふ。
是(この)夕昏時(たそかれとき、いぬ〔戌〕のとき)、大(おほきなる)星東(ひむがし)自(ゆ)西に度(わた)る。
丙寅。
造法令殿內。
有大虹。
法令…〈北〉ツクル法-令殿アムノリノフミトノノウチニ大-虹 ヌシ オホキナルヌシ。 〈釈紀〉殿内ミアラカノウチニヲホキナルニジ■■
ぬじ…[名] 虹。
丙寅(ひのえとら)。〔五日〕
法令(みのり)を殿(おほとの)の内(うち)に造(つく)らしめたまふ。
大(おほ)きなる虹(ぬじ)有り。
壬申。
有物、形如灌頂幡而火色、
浮空流北。
毎國皆見、或曰入越海。
灌頂幡…〈北〉クワンチヤウノハタ。 〈内閣文庫本〔以後閣〕
壬申(みづのえさる)。〔十一日〕
物有りて、形(かた)は灌頂(くわんちやう)の幡(はた)の如くして[而]火(ほ)の色(いろ)なりて、
空に浮かびて北に流(なが)る。
国毎(ごと)皆見ゆ、或(ある)に曰へらく越(こし)の海に入りぬといへり。
是日。
白氣起於東山、其大四圍。
白気…〈北〉シルシ○於起イ東山
ほけ…[名] 火の気。煙。
いだき…[助数詞] 周囲1尋〔両手を広げたときの指先から指先まで〕の面積。
むだく…[自] ウダク・イダクとも。〈時代別上代〉「上代に確かな仮名書き例はいずれもムダクである」。 助数詞イダキについても、もともとはムダキであろう。
是(この)日。
白気(しろきほけ)[於]東山(ひむがしのやま)に起(た)てり、其の大(おほきさ)四囲(よむだき)。
癸酉。
大地動。
癸酉(みづのととり)。〔十二日〕
大(おほ)きに地動(なゐふる)。
戊寅。
亦地震動。
地震動…〈兼右本〉地震イ无
戊寅(つちのえとら)。〔十七日〕
亦(また)地震動(なゐふる)。
是日。
平旦、有虹當于天中央、
以向日。
平旦…〈北〉平-旦トラノトキ虹當于天中-央モナカ以向。 〈閣〉ソラノ モナカニ
もなか…[名] 真ん中。
是(この)日。
平旦(あかとき、とら〔寅〕のとき)、虹(ぬじ)有りて[于]天(あめ)の中央(もなか)に当たりて、
以ちて日に向へり。
甲戌。
筑紫大宰言、有三足雀。
有三足雀…〈閣〉 ノ アル
甲戌(きのといぬ)。〔十三日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)言(まを)さく、三(みつ)の足ある雀(すずめ)有りとまをす。
癸未。
詔禮儀言語之狀。
礼儀言語…〈北〉礼-儀ヰヤハヒ言-語 モノイハム之状。 〈閣〉礼-ヰヤハヒウヤハヒ言-語 モノイハン ○且之狀 
〈兼右本〉礼-儀イヤマイ
癸未(みづのとひつじ)。
礼儀(ゐやまひ)言語之(ものいふ)状(かたち)を詔(みことのり)のりたまふ。
詔曰
「凡諸應考選者、
能檢其族姓及景迹、
方後考之。
若雖景迹行能灼然、
其族姓不定者不在考選之色。」
応考選者…〈北〉應-考-選者シナヒサタメカゝフリタマハム/族姓及ウカラカハネ 景迹 コゝロハセ行-能ハワサ 灼-然イチシロ
〈閣〉 モノハ ハ テ考之サム行-能 シワサ シナニ。 〈兼右本〉灼-然イチシロナリイチシロシ
景迹…行跡、経歴。〈汉典〉「業跡;行跡」。
行能…品行と才能。
こころばせ…[名] こころもち。行為についてもいう。
しなさだめ…[名] 品評すること。源氏箒木「品定まりたる中にも」。
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)諸(もろもろ)の応考選(かむがへえらふべき)者(もの)は、
能(よく)其の族(うがら)姓(かばね)及びに景迹(こころばせ)を検(はか)りて、
方(はじめて)後(のち)に之(こ)を考(かむがへえら)へ。
若(もし)景迹(こころばせ)行能(しわざかど)灼然(いちしろ)くあれ雖(ど)、
其の族(うがら)姓(かばね)不定(さだまらざる)者(もの)は考選之(かむがへえらふ)色(くさ)に不在(あらじ)。」とのりたまふ。
己丑。
勅、
爲日高皇女
【更名新家皇女】之病、
大辟罪以下男女幷一百九十八人
皆赦之。
…〈兼右本〉 スラク テ
日高皇女…〈閣〉◰◱皇女。 〈兼右本〉更-名ニヒノ-ノ -女
大辟罪…〈北〉大-辟シヌル -罪アハセテ
己丑(つちのとうし)。〔二十八日〕
勅(みことのり)したまひて、
日高(ひだか)の皇女(ひめみこ)
【更(また)の名は新家皇女(にひのみのひめみこ)】之(が)病(みやまひ)の為(ため)に、
大辟(だいへきの、ころす)罪(つみ)より以下(しもつかた)男(をのこ)女(をみな)并(あは)せて一百九十八人(ももあまりここのそあまりやたり)をば
皆(みな)赦之(ゆる)したまふ。
庚寅。
百卌餘人出家於大官大寺。
出家…〈北〉-家イヘテセシムヲホツカサノオホキテラニ
庚寅(かのえとら)。〔二十九日〕
百四十余人(ももたりあまりよそたりあまり)[於]大官大寺(だいくわんだいじ)に出家(いへで)せしめたまふ。
《各俾申法式應用之事》
 「各俾申~」は「〔親王以下すべての臣までの〕それぞれに~を言上させる」であろう。
 その目的語節「法式応用之事」は、「法式をどう用いることにするか」と読める。「法式」は受事主語。 全体として、それぞれの部署で法式に基づいてことが行われているかどうかを点検して報告せよと命じたと理解される。 法もノリ、式もノリで、美称ミノリを用いるべきと思われる。
 命じる相手の主眼は「諸臣」で、「親王以下」は率先垂範すべしということであろう。
《饗高麗客於筑紫》
 「高麗客」は助有卦婁毛切大古昴加。六月一日に来朝した。帰国の記事は欠落と見られる。
《夕昏》
   夕昏の類語と見られる黄昏はタソガレである。(万)2240「誰彼 我莫問 たそかれと われをなとひそ」について、 〈時代別上代〉は「〔万葉歌における使い方は〕いずれも原義〔誰そ彼〕のままであるが、 カハタレは…暁闇を表す語としてかなり固定した用法を持っているらしいところをみると、黄昏としての意味もあったのではないか〔「彼は誰」は暁の闇を表すカハタレに転用されているので、「誰そ彼」も既に黄昏に転用されていたのではないか〕と述べる。
 『太平広記』には「雀目夕昏:人有夕昏上レ物者、謂雀盲是也〔「雀目夕昏」とは、人が夕昏時に物が見えなくなることから雀の目が見えないことをいう〕。 〈汉典〉には「昏夕:傍晩。黄昏」、 「昏黄:形容天色、燈光等呈幽暗的黄色或有風沙的天色〔灯光のほの暗い黄色、あるいは黄砂などで黄色くなった空〕とある。
 夕昏が戌刻にあたると明瞭に述べる出典は、なかなか見つからない。 よって、書紀古訓が戌刻〔19~21時〕にあてたのは、古訓者による解釈と見られる。
 〈天武〉十二年八月三日は、グレゴリオ暦では683年9月2日で、奈良市における2025年9月2日の日没時刻は18:22となっている。 天文薄明〔星明りより明るい状態〕は日没後1.5時間とされる。それに従うと黄昏は、卯四剋~戌二剋ぐらいに相当するから、戌刻とするのは妥当である 《日中/四剋》参照〕
 〔参考: 国立天文台/[日の出入り]国立天文台/[薄明]
《大星自東度西》
 火球であろう。流星と本質的な違いはないが、特に明るいものをいう。
《有大虹》
 自体は珍しいものではないので、あえて書かれたのは天瑞の詔を補強するためであろうか。 しかし、古代の中国では虹は不吉とされたから、飛鳥時代の日本でもそうだったとすれば、逆の意味になってしまう。
《如灌頂幡而火色》
 灌頂幡
東京国立博物館[研究情報アーカイブズ] 「法隆寺献納宝物」〔明治十一年〔1878〕皇室に献納〕
 法隆寺縁起并資財帳〔『寧楽遺文上』竹内理三;東京堂1944〕合法分灌頂幡壱拾肆具:金埿銅灌頂壱具 右片岡御祖命納賜不知納時」。
 「国皆見」とあるから、広い地域で観察されたようだ。 「火色」とあるから、〈推古〉紀《赤気》と同じく低緯度のオーロラだと思われる。
 「如灌頂幡」の比喩からは、高緯度で見るカーテン状のオーロラが連想されて興味深いが、低緯度のオーロラでこの形が見られるかどうかは分からない。
 なお、「入越海」は「レリノクニノ」であろう。「海に入り越ゆ」という言い方が成り立たないのは明らかである。
 灌頂は、もともと仏像や弟子がある資格を得る際に頭から水をかける儀式であるが、実際には宗派によってさまざまな意味や形態がある。 [元興寺伽藍縁起…]には「灌仏之器」が出てくる。 「灌頂幡」は、その灌頂の様をデザイン化した装飾物と考えられる右写真は法隆寺の献納物〕
《白気起於東山》
 「白気起於東山」には、次の場合が考えられる。
  酒舟石遺跡の方向にある、比較的近い山での水蒸気爆発。
  伊豆方面の噴火が雲に映る。《如鼓音》で伊豆嶋の火山活動を想定した。
 のように山の上空が明るくなったことに対して「四囲」と単位付きでサイズをいうことは考えにくいから、と読む方がよさそうに思える。 すると問題は、その方面に活火山があったかどうかに移る。
 これについて、『奈良の伝説』〔岩井宏実;角川書店1976〕には、 「古来なにか変事があるときは鎌足の像の頭部が破裂し、妙楽寺背後の御廟山が鳴動するという神異があったという。だからこの山を御破裂ごはれつ山という」と書かれている。 その出典と思われるのが『多武峯破裂記』『大日本仏教全書』118〔仏書刊行会;1912~1822〕〕 で、「慶長十二年。潤卯月二日…御廟山多ニ鳴動シ神光四海輝キ光物国々ニ飛行す」とある。
 このように御破裂山は古来鳴動があるといい、安土桃山時代に大噴火の記録があるから、活火山であろう。よって、をとりたい。
《大地動》
 戊寅〔17日〕と、「三足雀」の話の甲戌〔十三日〕は、日付が逆転している。 錯誤かも知れないが、癸酉〔12日〕の大地震から繋がる地震活動として意図的に連続された可能性もある。
《平旦有虹》
   平旦=寅刻と述べた文が、次に見える。
 『論衡』〔後漢80年 王充著〕𧬘時「分為十二時、平旦寅、日出卯也〔一日を十二の時に分けると、平旦は寅刻、日の出は卯刻にあたる〕。 ただし『百度百科』に「平旦、是指太陽停留在地平線上」とあるのが本来の意味で、「寅刻」はその結果的な解釈である。
 虹は太陽を背にして見る現象なので、日の出前に「天中央」にあるのは当然である。
《三足雀》
 『食鳥検査の手引き』〔一般社団法人岩手県獣医師会 食鳥検査センター;2023〕は、 「単脚、3ないし4本脚、胸骨癒合不全などの奇形として認められる」とする(p.23、「偽足突起物」の写真あり)。
 「朱雀」は噂に留まるのに対して、「三足雀」は宴席で群卿に見せたことまで書かれていて十分具体的である。 よって、足様突起物の奇形をもつ雀が実際に捕獲されたと見てよい。
 前年八月十三日に一報を入れた後、本年正月二日に現物を持ち込み、七日に宴で披露している。 死体になれば腐敗する。剥製の技術があったとすれば話は別だが、おそらくしばらく手元で飼育していたのであろう。
 なお、かつて白雉元年二月には、生きた白雉を輿に載せて大々的に披露している。
《礼儀言語之状》
 宮殿内での立ち振る舞いの作法を定めたと見られる。
《凡諸応考選》
 「考選」に書紀古訓は「シナサダメ」をあてる。 シナサダムは源氏に見えるが、〈時代別上代〉には取り上げられないので、上代にはこの言い回しは見えないである。 ただ、個別語としてのシナサダムがそれぞれ上代語であることは確かである。
《族姓不定者》
 「其族姓不定者不考選之色」という。 ここで判断基準として個人の才覚よりも氏族の格を優先させるのは、合理性を重んじる〈天武〉にあるまじきことと思える。
 ただ、諸族の序列を最優先するのは、諸族間の抗争の芽を未然に摘み取るためであろう。 古い時代には、天皇の代替わりの度に氏族がそれぞれに皇子を担いで抗争した。その慣習を遂に終わらせようとするのである。
《日高皇女》
 日高皇女は、霊亀元年〔715〕に即位して、〈元正〉天皇となる。
日高皇女  〈続紀〉元正天皇即位前紀「日本根子高瑞浄足姫天皇。諱氷高。天渟中原瀛真人天皇天武之孫。日並知皇子尊草壁皇子之皇女也。天皇、神識沈深。言必典礼」。

 『本朝皇胤紹運録』「天武天皇――草壁皇子【追号長岡天皇 浄広住皇太子 母持統天皇】─元正天皇┌文武天皇【白鳳十降誕。和銅八九三受禅即日即位。霊亀二十一大嘗会。同八二四禅位四十四。同日為太政天皇治九年。諱飯高】」。
 〈続紀〉天平宝字二年〔758〕八月戊申「勅。日並知皇子草壁皇子命。天下未天皇。追-崇尊号。古今恒典。自今以後。宜岡宮御宇天皇」。
 天平二十年〔748〕四月「庚申。太上天皇元正崩於寝殿。春秋六十有九」。

 恩赦198人、出家140人余の規模の快癒祈願は、皇太子の娘であった故であろう。ちなみに、〈続紀〉天平二十年「崩…春秋六十有九」から逆算すると、当時三歳である。
 草壁皇子は即位しなかったから、日高皇女は厳密には「王」であるが、 草壁皇子は潜在的な天皇として、758年になって「岡宮御宇天皇〔岡の宮に宇(あめのした)御(し)らす天皇〕を追号された。日高皇女も潜在的な皇女である。
《新家皇女》
 〈兼右本〉は「ニヒノミ」と訓むが、〈北〉・〈閣〉・〈釈紀〉では訓みは付かない。 地名としては、〈倭名類聚抄〉{讃岐国・阿野郡・新居【爾比乃美】}があるので、どこかの地名による名前かと思われる。
 『大日本地名辞書』は、尾張国海部郡新家郷ニヒ ヤで「新家は新居と同義にて、或にニヒノミと唱ふ、諸国に多く見ゆる地名にして、 本来は宮家屯倉などの新に置かれしものを呼べるにや、又ノミとは単純に家宅の事を古語にかくも曰へるにや、不詳」と述べる。
《大辟罪》
 罪の赦免の際に常に「大辟罪以下」の文言を用いるところに、〈天武〉ができることなら死刑の執行を避けたい心理を見るのはサイト主だけであろうか。
《大官大寺》
 この年の198人の出家も日高皇女の快癒を願ってのものと読める。 九年十一月十二日には、皇后の病気の回復を願って百人が出家した。
 二年十二月には美濃王らが「造高市大寺【今大官大寺是】」を拝している。 十二年には、最小限の法要ができるだけの建物ができ上がっていたのであろう。
《大意》
 八月一日、 親王以下、及び諸臣に令じて、 それぞれ法式に応用している事を述べさせました。
 三日、 高麗の客に筑紫で饗(あえ)しました。 この日の黄昏時、大きな星が東から西に渡りました。
 五日、 法令を殿内に備えさせました。
 この日、大きな虹が出ました。
 十一日、 物が現れ、その形は灌頂幡(かんじょうばん)の如く、火の色をして、 空に浮かんで北に流れました。 国毎に皆見え、或る人は越(こし)の海に入ったと言いました。
 この日、 白い蒸気が東の山から昇り、その大きさは周囲四囲(いだき)〔6mあまり〕でした。
 十二日、 大地震が起こりました。
 十七日にも、 また地震がありました。
 この日、 平旦〔暁頃〕に、虹の天の中央にあって、 太陽に向いました。
 十三日、 筑紫の大宰が、三本足の雀が見つかったと報告しました。
 二十二日、 礼儀と言語のさまを詔されました。
 また詔を発しました。
――「凡そ諸々の考選すべき人は、 よくその族姓、及びに行状を検査て、 はじめてその後で考選せよ。 もし、行状、才能が明瞭であっても、 その族姓が定まらない者は、考選の対象から外せ。」
 二十八日、 勅され、 日高(ひだか)の皇女(ひめみこ) 【別名、新家(にいのみ)の皇女】が病気となられたため、 大辟罪〔=死罪〕以下の男女、併せて一百九十八人を 皆赦免しました。
 二十九日、 百四十人余りが大官大寺に出家しました。


57目次 【十一年九月~十二月】
《勅曰跪禮匍匐禮並止之》
九月辛卯朔壬辰。

「自今以後、
跪禮匍匐禮、並止之。
更用難波朝廷之立禮。」
跪礼匍匐礼…〈北〉匍-ハフ難波朝庭。 〈閣〉跪礼ヒサマツクヰヤ匍匐 ハフ ヰヤ難波朝廷
〈兼右本〉難-波朝-○之庭 。 〈伊勢本〉難波朝庭
九月(ながつき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として壬辰(みづのえたつ)。〔二日〕
勅(みことのり)のりたまはく
「今自(よ)り以後(のち)は、
跪礼(ひざまつくゐや)匍匐礼(はふゐや)をば、並びに止之(や)めて、
更(あらためて)難波(なには)の朝廷(みかど)之(の)立礼(たつゐや)を用ゐよ。」とのりたまふ。
庚子。
日中、數百鸖、
當大宮以高翔於空、
四剋而皆散。
日中…〈北〉日-中マト数百鸖 アマタモゝノオホトリ四-剋トキノヲハリニ。 〈兼右本〉四-剋ヨトキノヲハリニモヨトキハカリ
四剋…ひと時〔二時間〕を四等分した最後の部分。
とき…[助数詞] 〈時代別上代〉「約十五分にあたる」。
かける…[自]ラ四 空高くとぶ。
庚子(かのえね)。〔十日〕
日中(ひるのもなか)、数百(あまたほ)ちの鸖(たづ、おほとり)、
大宮(おほみや)に当(むか)ひて以ちて高く[於]空(そら)に翔(かけ)る。
四剋(うまのよとき)になりて[而]皆(みな)散(あか)れぬ。
冬十月辛酉朔戊辰。
大餔。
大餔…〈北〉大餔サケノミス。 〈閣〉 サケノミス 
〈釈紀〉オホキニサケノミス。 〈兼右本〉酺改為字イ本 サケノミ
冬十月(かむなづき)辛酉(かのととり)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)。〔九日〕
大(おほ)きに餔(さるのときのみけ)をたまはる。
十一月庚寅朔乙巳。 詔曰
「親王諸王及諸臣至于庶民、
悉可聽之。
凡糺彈犯法者、
或禁省之中
或朝庭之中、
其於過失發處
卽隨見隨聞、
無匿弊而糺彈。
庶民…〈兼右本〉庶-民オホンタカラ悉可
糺弾…〈北〉-タゝ禁-省オホウチウモ朝-庭マツリコトトコロモ其於過-失アヤマチ發處オコラム即隨-見隨-聞ミキカムマゝニ-弊
〈閣〉糺-弾タゝサムハ禁-省 オホウチ-之-ウモニ朝-庭 マツリヿ-之-トコロニモ匿-弊カ カヿ
〈兼右本〉禁-省-之 オホウチ=合-中朝-庭-之 マツリコトトコロ-中發處オコラン トコロ隨-見-隨-聞ミキカンマゝニ四字引合ミルマゝ  キクマゝ匿-弊カクレ カクス
十一月(しもつき)庚寅(かのえとら)を朔(つきたち)として乙巳(きのとみ)。〔十六日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「親王(みこ)諸王(おほきみたち)及びに諸臣(もろもろのおみ)より[于]庶民(たみ、おほみたから)に至りて、
悉(ことごと)に聴之(きく)可(べ)し。
凡(おほよそ)法(のり)を犯(をか)す者を糺弾(ただす)は、
或(ある)は禁省(おほみや)之(が)中(うち)にあれど、
或(ある)は朝庭(まつりごととの)之(が)中(うち)にあれど、
其(それ)過失(あやまち)発(おこ)れる処(ところ)に於(お)きて、
即(すなはち)見ゆる隨(まにま)に聞こゆる隨(まにま)に、
匿(かくし)弊(そこなふ)こと無(な)くして[而]糺弾(ただ)せ。
其有犯重者、
應請則請、
當捕則捉。
若對捍以不見捕者、
起當處兵而捕之。
応請則請…〈北〉捕即對-捍 コハム 當-處ソノ兵而捕○當之イ
〈閣〉 ハ シ ヿ ハマウス當處。 〈兼右本〉カスイヨカラメヨ對-捍ムカイ コハン
…[動] ふせぐ。
其(その)犯(をか)して有ること重(おも)くあら者(ば)、
応請(まをすべき)は則(すなはち)請(まを)して、
当捕(とらふべき)は則(すなはち)捉(から)めよ。
若(もし)対(むかひ)捍(ふせ)きて以ちて不見捕(とらはれざ)ら者(ば)、
当処(そこの)兵(つはもの)を起(お)こして[而]之(こ)を捕(とら)へよ。
當杖色、
乃杖一百以下、節級決之。
亦犯狀灼然、
欺言無罪則不伏辨以爭訴者、
累加其本罪。
杖色…〈北〉フトツヱフトスミ色乃杖一百モゝタヒ以下節-級 シナ\/ウチ灼-然イチシロキ伏-ウヘナハ
〈閣〉 ハフトツヱノキフトツヱ ニ。 〈兼右本〉フトスワエフトツエウタヘ累-加カサネ ヨ

すはゑ…[名] 刑罰に用いる杖、鞭。〈時代別上代〉「エ・ヱどちらが原型か不明」。上代語では母音が連続することは少ないので、ヱか。
伏弁[]…自分から罪に服すること。

当(あた)れる杖(すはゑ)の色(しな)は、
乃(すなはち)杖(すはゑ)は一百(ももたび)より以下(しもつかた)、節級(しなじな)に決之(さだめよ)。
亦(また)犯(をか)せる状(かたち)灼然(いちしろか)れど、
言(こと)を罪無しと欺(あざむ)きて則(すなはち)不伏弁(うべなはず)て以ちて争(あらそひ)訴(うたふる)者(もの)は、
其の本の罪に累加(かさねくはへ)よ。」とのりたまふ。
十二月庚申朔壬戌。
詔曰
「諸氏人等、
各定可氏上者而申送。
亦其眷族多在者、
則分各定氏上、
並申於官司。
詔曰…〈北〉 テ曰 諸氏-人等各定ヨキ氏-上コノカミヲ養-族ヤカラ
〈閣〉ナル。 〈兼右本〉氏-コノカミニナル
十二月(しはす)庚申(かのえさる)を朔(つきたち)として壬戌(みづのえいぬ)。〔三日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「諸(もろもろ)の氏人(うぢびと)等(ども)は、
各(おのもおのも)氏上(うぢのかみ)となす可(べ)き者(もの)を定(さだ)めて[而]申(まを)し送れ。
亦(また)其(その)眷族(うがら)多(さは)に在(あ)ら者(ば)、
則(すなわち)分(あ)かちて各(おのもおのも)氏上(うぢのかみ)を定めて、
並びに[於]官司(つかさつかさ)に申(まを)せ。
然後、斟酌其狀而處分之、
因承官判。
唯、因小故而非己族者、
輙莫附。」
斟酌…〈北〉-酌 ハカリ其状處分 オコナヘ之因承官-/ 唯因イサ コトヒト ク○ /一イ
〈閣〉 テウケヨ ノ ヲヒトヲハ ヲ。 〈兼右本〉[ノ]-コトワリ小故イサゝナキコトタヤスク
いささけし…[形]ク わずかである。
然後(しかるのち)に、其の状(かたち)を斟酌(はか)りて[而]処分之(さだ)めよ、
因(よ)りて官(つかさ)が判(ことわり)を承(うけたまは)れ。
唯(ただ)、小(いささ)けき故(ゆゑ)に因(よ)りて[而]己(おのが)族(うがら)に非(あらざ)ら者(ば)、
輙(たやすく)莫(な)附(つ)けそ。」とのたまふ。
《跪礼匍匐礼並止之》
 〈推古〉十二年九月「出-入宮門:以両手地両脚跪之越梱則立行」が久しぶりに改定された。 難波宮〔〈天智〉朝〕では既に立礼が用いられていたが、飛鳥の後岡本宮では跪礼匍匐礼が相変わらず維持されていたと読める。 これからは、浄御原宮〔後岡本宮を増改築〕でも難波宮方式に改めよと勅された。
《難波朝廷》
 本により「難波朝庭」。一般的に朝庭朝廷に通用するから混用に問題はない。ただ、十年正月の「射于朝庭」の場合には特に「」の意として読まねばならない。
《数百鸖》
 諸本は、すべて「」で、書紀古訓はオホトリと訓んでいる。 ところが、の異体字である。
 オホトリと読まれるのはである。
 〈倭名類聚抄〉「:【音舘。和名於保止利】水鳥。似鵠而巣樹者也」。 中国語のはコウノトリである。
 一方〈時代別上代〉は、オホトリを「鷺・鶴・こうづるくぐいなど大きな鳥」全般をいうとする。 また、タヅ・ツルについても「上代において…大形の鳥を広くさすものであったようである」と述べる。 結局、オホトリがどの種類の鳥を指すか特定することは難しい。
《日中/四剋》
   〈延喜式〉左兵衛府「凡駕行之日」項に「亥一剋〔=終〕子四剋」などが見える。他に「寅二剋」・「卯三剋」が見えるが、五剋以上はないので、 「n剋〔n=1~4〕は十二支による時刻表記の一区切り2時間を、四分したひとつとなる。 よって、ここの「四剋」は「午四剋〔12:30~13:00〕と見られる。
 ということは「日中」は書紀古訓通り午剋で、あるいは特に中央点の正午かも知れない。
《大餔》
 字は大酺に似る。大酺は人民に肉・酒を賜うことで、〈安閑〉二年正月の五日間実施された。〈天武〉紀では後に、朱鳥元年正月に「朝庭大酺」が見える。
 しかし、は別の字で、〈汉典〉「①吃。②申時吃的飯食。③申時〔①たべる。②申刻の食事。③申刻〕、すなわち申の時刻の食事、単に食事、また申の刻の意味がある。 『説文解字』には「:日加申時食也」。「𩚏:餔也」。
 「」がつくから、親王、群卿などが参集した食事会であろう。 当然酒も出るであろうが、書紀古訓サケノミスは一面的である。
《凡糺弾犯法者》
 犯罪の取り締まりに関する詔が発せられた。
《禁省/朝庭》
 禁省朝庭とは何を指すのだろうか。
 【大津京跡】で見たように、 都の中枢建造物は「北に内裏、南に朝堂院が配置」が一般的な形式で、内裏が天皇一家の生活空間、朝堂院が公の政庁と考えられる。 ここでは「禁省」が内裏、「朝庭」が朝堂院にあたる。
 すなわちたとえ宮中・政庁の中であっても特権的に事実を秘匿したりもみ消したりしてはならないという。
《有犯重者》
 「」はカサヌとも訓めるが、以下の文章は累犯による罰の強化を述べたものではない。 むしろ抵抗する者がいれば武力を用いてでも確実に捕まえよというから、は、「罪が重い」意であろう。
 文脈は強気で当たることを強調しているから、「」は被疑者の言い分を聞けという意味ではなく、担当者の手に負えなければどんどん上部機関の出動を要請せよという意味であろう。 要するに重罪の者には毅然として対応せよという。
 この指示は国家なら当然のことで、犯罪は漏らすことなく、かつ公平に対応することを求めるものである。
《各定可氏上》
 諸氏は氏上の登録をなかなか申請しなかったが、どうやら揃ってきたようである。氏上の公認は氏族への国家統制を意味するが、これが八色之姓の制度の前提となる。 氏族の存在意義は、仕官に相応しい人材の供給元のみとなりつつある。
※…十一年《氏神未定者》項。〈時代別上代〉「〔十年〕の詔は十一年にもさらに強力に出されていて、いまだ公式の氏上を定めず参集しないものがあったことを伝えている」。
《因少故而非己族者輙莫附。》
 大きな族は分割してそれぞれに氏上を申し出よと命じた。官司はそれを斟酌して細分化が過ぎる場合は認めない。 ただ、「独自の起源をもつ氏族についてはそれぞれの成り立ちを尊重して、人数は少なくても統合する必要はない」としたと読める。
《大意》
 九月二日、 勅を発しました。
――「今後は、 跪礼(きれい)〔=ひざまづく礼〕、匍匐礼(ほふくれい)〔=四つん這いの礼〕は、共に止めよ。 改めて難波の朝廷の立礼(りつれい)を用いよ。」
 十日、 正午ごろ、数百の鸛〔=こうのとり〕が、 大宮に向かって高く空に翔けました。 午の四剋(よつのこく)〔=午の時の最後の三十分〕に皆散りました。
 十月九日、 大餔(だいほ)〔=申刻の会食〕を行いました。
 十一月十六日、 詔を発しました。
――「親王、諸王及び諸臣から庶民に至り、 皆聴くべし。
 凡そ法を犯す者への糾弾は、 或いは禁中〔=内裏〕、 或いは朝廷〔=朝堂院〕にあっても、 過失が発生したところに於いて、 見たまま、聞いたままに、 秘匿したり破棄すること無く糾弾せよ。
 その犯罪が重ければ、 〔上に〕要請すべきは要請し、 捕えるべきは捉えよ。 もし反抗して捕らえられない場合は、 当所の兵力を起して捕えよ。
 相当する杖刑の種類は、 杖は百以下として、種類を定めよ。 また、犯状が歴然としているのに、 罪は無いと言って欺き、受け入れることなく争い訴える者は、 その本の罪に累加せよ。」
 十二月三日、 詔を発しました。
――「諸々の氏人らは、 それぞれ氏上(うじのかみ)とすべき者を定めて申し送れ。 また、その眷族が多人数ならば、 分割してそれぞれに氏上を定めて、 どちらも官司に申せ。
 然る後に、その状況を斟酌して決定し、 その官の判断を承れ。 ただ、小人数なるが故に己と異なる族に入ってしまう場合は、 安易に合同させるな。」


58目次 【十二年正月~三月】
《筑紫大宰貢三足雀》
十二年春正月己丑朔庚寅。
百寮拜朝庭。
筑紫大宰丹比眞人嶋等、
貢三足雀。
貢三足雀…〈閣〉 ノアル ヲ
十二年(とをとせあまりふたとせ)春正月(むつき)己丑(つちのとうし)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)。〔二日〕 百寮(もものつかさ)朝(みかど)の庭(おほには)を拝(ゐやまふ)。 筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)丹比(たじひ)の真人(まひと)嶋(しま)等(ら)、 三つの足ある雀(すずめ)を貢(たてまつ)る。
乙未。
親王以下及群卿、
喚于大極殿前而宴之。
仍以三足雀示于群臣。
三足雀…〈北〉 アル タマフ。 〈閣〉 タマフ于群臣。 〈兼右本〉ミセタマフ
乙未(きのとひつじ)。〔七日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)及びに群卿(まへつきみたち)を、
[于]大極殿(おほあむとの)の前(まへ)に喚(め)して[而]宴之(とよのあかり、うたげ)したまふ。
仍(よ)りて三つの足ある雀を以ちて[于]群臣(まへつきみたち)に示(しめ)したまふ。
丙午。
詔曰
「明神御大八洲倭根子天皇
勅命者、
諸國司國造郡司及百姓等、
諸可聽矣。
朕、初登鴻祚以來、
天瑞非一二多至之。
明神御大八洲…〈北〉 テ明神アラミカミシラス大八洲勅命者オホムコトノリシラシ鴻-祚アマ■ヒツキ ミツ
〈兼右本〉登-鴻-祚アマツヒツキシラシゝヨリ天-瑞アマツミツ
丙午(ひのえうま)。〔十八日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「明神(あらみかみ)と大八洲(おほやしま)に御(しら)す倭(やまと)根子(ねこ)天皇(すめらみこと)が
勅命(おほみことのり)者(は)、
諸(もろもろの)国司(くにのつかさ)国造(くにのみやつこ)郡司(こほりのつかさ)及びに百姓(たみ)等(ども)、
諸(もろもろ)は聴(き)く可(べ)し[矣]。
朕(われ)、初(はじ)めて鴻祚(あまつひつぎ)に登りてあるより以来(このかた)、
天瑞(あまつみづ)一二(ひとつふたつ)に非(あらず)て多(さは)に至之(いたれり)。
傳聞、其天瑞者、
行政之理協于天道、則應之。
是今當于朕世、毎年重至、
一則以懼。
一則以嘉。
是以、
親王諸王及群卿百寮幷天下黎民、
共相歡也。
伝聞…〈北〉其天-瑞者行 ハ則以懼共相。 〈兼右本〉コタフ
…[動] (古訓) かなふ。やはらく。
…[形] くろい。(古訓) くろし。ひと。もろもろ。
伝へ聞こすに、其の天瑞(あまつみづ)者(は)、
行政(まつりごと)之(の)理(ことわり)[于]天道(あまつみち)に協(かな)ひて、則(すなはち)之(こ)に応(こた)へたまふ。
是(これ)今[于]朕世(わがみよ)に当(あた)りて、年(とし)毎(ごと)に重ね至れり。
一(あるは)則(すなはち)懼(おそり)を以(も)ちゐむ。
一(あるは)則(すなはち)嘉(よろこび)を以ちゐむ。
是(こ)を以ちて、
親王(みこ)諸王(おほきみたち)及びに群卿(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)并(あはせて)天下(あめのした)の黎民(もろもろのたみ、おほみたから)は、
共に相(あひ)歓(よろこ)べ[也]。
乃小建以上給祿各有差。
因以大辟罪以下皆赦之。
亦百姓課役並免焉。」
大辟罪…〈北〉大-辟-罪シヌルツミ以下皆赦。 〈兼右本〉小-建以 ノクライヨリ-上課-役ツキ エタチ
乃(すなはち)小建(せうけん)より以上(かみつかた)に禄(もの)給(たまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
因(よ)りえ大辟(だいへき)の罪より以下(しもつかた)を以ちて皆(みな)赦之(ゆるせ)。
亦(また)百姓(たみ、おほみたから)の課(つき)役(えたち)をば並びに免(ゆる)せ[焉]。」とのりたまふ。
是日。
奏小墾田儛
及高麗百濟新羅三國樂於庭中。
奏小墾田儛…〈北〉 ツカマツル小墾田儛
是(この)日。
小墾田(をはりた)の儛(まひ)
及びに高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらぎ)三(みつ)の国の楽(うたまひ)を[於]庭中(おほには)に奏(な)しまつる。
二月己未朔。
大津皇子、始聽朝政。
始聴朝政…〈兼右本〉キコシメ-政
二月(きさらき)己未(つちのとひつじ)の朔(つきたち)。
大津(おほつ)の皇子(みこ)、始(はじ)めて朝(みかど)の政(まつりごと)を聴(き)こしめす。
三月戊子朔己丑。
任僧正僧都律師、因以勅曰
「統領僧尼如法云々。」
任僧正…〈北〉 ソウマケタマフヤウソウツ律師リツ シ スヘ領僧/ヲサメ 
〈釈紀〉僧正ソウジヤウ僧都ソウヅ律師リツシ 〈兼右本〉統-領ツカサトリヲサムスヘ ヲサメ
三月(やよひ)戊子(つちのえね)を朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)。〔二日〕
僧正(そうじやう)僧都(そうづ)律師(りつし)を任(ま)けて、因(よ)りて勅(おほせごと)を以ちて曰(のたま)はく
「僧(ほふし)尼(あま)を法(のり)の如く統(す)べ領(をさ)めよ、云々(しかしか)。」とのたまふ。
丙午。
遣多禰使人等、返之。
遣多祢使人…〈北〉クタ多禰使-人等。 〈閣〉クタ多祢[切]使人等
〈兼右本〉多-祢使-人等返之マウカヘレリ
丙午(ひのえうま)。〔十九日〕
多祢(たね)に遣(や)りてある使人(つかひ)等(ら)、返之(まゐかへる)。
《筑紫大宰丹比真人嶋》
丹比真人嶋  左大臣まで昇り、大宝元年〔701〕七月壬辰薨。
《明神御大八洲倭根子天皇》
表2 呼びかける対象
〈孝徳〉大化二年〔646〕集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓
〈天武〉十二年〔683〕諸国司国造郡司及百姓等
〈文武〉元年〔697〕集侍皇子等王等百官人等天下公民
〈聖武〉神亀元年〔724〕親王諸王諸臣百官人等天下公民
…〈天武〉から〈文武〉の間に国造クニノミヤツコの性格の変化が見えて興味深い。
表1 天皇の称号
〈孝徳〉大化二年〔646〕明神御宇日本倭根子天皇
〈天武〉十二年〔683〕明神御大八洲倭根子天皇
〈文武〉元年〔697〕現御神大八嶋国所知天皇
〈聖武〉神亀元年〔724〕現神大八洲所知倭根子天皇
〈孝謙〉天平宝字元年〔757〕明神大八洲所知倭根子天皇
 「明神御大八洲倭根子」は、複数の天皇において称号として用いられている(表1)。
 これらは、すべて諸臣及び人民すべてに幅広く語り掛ける詔において用いられている。呼びかける相手は表2のように記述される。
 「集侍〔ウゴナハレル〕があるものとないものがあるが、何れも大衆を集めて読み上げる性格の詔だったと思われる。
 すなわち「明神御大八洲倭根子」は大衆に向けて天皇を特別に偉大化する語である。 このうち「明(御)神アラミカミ」は現人神、「シロス大八洲オホヤシマ」は、日本全土を統治する意である。 ただ「ヤマト根子ネコ」については、説得力のある説明を見ない。
 このうち〈孝徳〉朝では天皇号はにはまだ存在しないから「天皇」は書紀が大王を置き換えたか、あるいは何もなかったところに挿入したものである。 〈天武〉朝は、十二年〔683〕の時点では微妙である(資料[41])。
 試しに大化二年詔から「天皇」を抜いてみると面白いことになる。 すなわち「明神御宇日本倭根子詔於集侍卿等」となり、根子はあたかも大王オホキミの称号のように見えてくる。
 また欠史八代の〈孝霊〉・〈孝元〉・〈開化〉も和風諡号に「日本根子彦〔記は「倭根子日子」〕が含まれている。この根古も大王の古い時代の称号だったと考えてみると、妙に説得力が出てくる〔なお、ヒコは太陽の子の意〕
《天瑞》
噂の類
七年十月甘露(如綿)
九年七月朱雀
十年六月朱雀
国や官司からの報告
二年三月白雉
四年正月瑞鶏・白鷹・白鵄
八年是年芝草・瑞稲
九年三月白巫鳥
九年八月嘉禾
十年八月白茅鴟
十年九月赤亀
 これまでに祥瑞としていくつかの国や官司の報告があり、また噂の類も載る(右表)。
《黎民》
 は「黒い」。黎民〔黎元とも〕は浅黒く日焼けした民を意味するとされる。は首より上の部分。 書紀古訓が「オホムタカラ」を宛てる典型例のひとつである。
 ここで詔を倭読する習慣について考察すると、〈続紀〉の宣命体は、まさに詔が倭読されたことを示している。 〈文武〉などの即位発表の詔(前述)は、〈天武〉十二年詔と類似する文章が宣命体で示されている。 〈天武〉十二年詔も庶民レベルまで広く伝えるべきものだから、当然倭読されたであろう。
 ただ、発布当時において黎民がオホミタカラと訓まれていたことはないと思われる(【人民】項)。
《以大辟罪以下皆赦之》
 大辟罪以下という言い方は、死刑はできるだけ避けたいという思いがここにも滲むのかも知れない。
 なお、今次は大赦の例外規定がないが、以後次第に除外範囲が具体的に示されるようになる。
〈持統〉三年三月「大赦天下。但盗賊不赦例」。
〈文武〉即位時の宣命:大宝二年〔702〕四月乙巳「大赦天下。唯盗人不赦限〔盗人は赦す限りにあらず〕
〈元明〉即位時の宣命:慶雲四年〔707〕七月壬子「其八虐之内、已殺訖、及強盗窃盗、常赦不免者並不赦例〔実際に殺人を犯した者、強盗犯、窃盗犯、通常対象外とされている者を除く〕
 もし大赦が漏れなく実施されれば重罪人まで赦免されることになり、当然異論が出る。かと言って個別に例外を作れば今度は不公平を抗議され、何れにしても困るのは現場の担当者である。 よって、除外対象の明文化は必然的な方向である。
《百姓課役並免》
 これも「百姓課役並免」というざっくりとした表現である。仮にすべての税を免ずれば、国家経営にかなりの支障をきたすであろう。 但し、田租については庸・調ではないから通常通り徴収すると読むこともできる。 後の時代には表現が具体化される。
〈文武〉即位時の宣命:「仍免今年田租雑徭并庸之半。又始今年三箇年。不大税之利」。
 すなわち今年は諸税を半分免除。貸稲の利払いは三年間免除する。
〈元明〉即位時の宣命:「畿内及大宰所部諸国今年調。天下諸国今年田租復賜」。
 "復"は免税の意。「天下諸国」は七道(畿内以外)の国々の意であろう。畿内は調〔特産物〕、七道は田租〔米〕の免除に限るが、それでもかなりの規模である。
《小墾田儛》
 「小墾田儛」及び「三国楽」は、詔とともに新年行事のひとつと見られる。
 小墾田は〈推古〉朝の宮である。かつてその敷地にあったと見られる桜井道場に由来するか。 〈推古〉二十年是年に百済人味摩之を「-置桜井而集少年伎楽儛」とある。 〈釈紀-述義〉も「兼方案之。小墾田宮朝(推古天皇)処製之楽歟」と述べる。
《高麗百済新羅三国楽》
 この一文は、高麗百済新羅からの帰化族の中に、それぞれ音楽芸能集団がいたことを示す。 決して本国から派遣された歌舞団というわけではない〔百済国が既に存在しないことは言うまでもない〕
 彼らは朝廷の方針として音楽文化の振興が図られていたことを知り、新年の祝賀のために馳せ参じたものと考えられる。
《大津皇子》
大津皇子  母は大田皇女。朱鳥元年に死を賜る。その時「年廿四」だから、〈天武〉十二年には二十一歳。
 「聴朝政」は、摂政になったという意味ではない。上には依然として草壁皇子がいる。 草壁皇子は、〈持統〉即位前紀に「天命開別天皇元年〔662〕、生草壁皇子尊於大津宮」とあるので、〈天武〉十二年〔683〕には二十二歳。 すなわち、ほぼ同年代の大津皇子が政務の中枢に割り込んできたことを意味する。 後に謀反を疑われるに至る伏線と読むこともできよう。
《僧正僧都律師》
 僧正僧都律師は僧綱を構成する。僧綱は玄蕃寮に属して僧尼を監督する官署で、僧尼を統率し諸寺の管理にあたる([元興寺伽藍縁起…:Ⅳ])。 僧正僧都〈推古〉三十二年に僧尼を検校する職として初めて定められた。
 律師は〈敏達〉(六年)、〈崇峻〉(元年)に僧の一種として出てくるが、僧綱の職としてはここが初出である。
《遣多祢使人》
北野本内閣文庫本兼右本
 十年九月十四日に多祢人に饗を賜り、十一年七月二十五日に賜禄の記事。
 このとき帰国した「使人」は、多祢人を島まで送り届ける任を負った。
 これについて、〈北野本〉の訓点「クタ多祢・使-人等」は、多祢国が送ってきた使者を帰したと読むもの。 すなわち「」をツカハスヤルではなくクタ〔゛ス〕として多祢使を返したとするが、無理な読み方である。 〈内閣文庫本〉は「 クタ多祢使人等」すなわち「多祢に遣(くだ)せる使人ら」と訓み語順は正しいが、〈北野本〉の「クタ」の影響が残っている。 〈兼右本〉では「」、すなわちツカハスと訓むに至り、やっと正常な読み方に帰している。 なお、〈兼右本〉の訓「返之マウカヘレリ」の接頭辞マウ-は都に向かっての移動を意味し、朝廷が派遣した使者が帰ってきたと読むことを明確にする。
《大意》
 十二年正月二日、 百寮(もものつかさ)は宮廷の庭で拝礼しました。 筑紫の大宰丹比(たじひ)の真人(まひと)嶋(しま)らは、 三本足の雀を献上しました。
 七日、 親王以下と群卿を、 大極殿の前に召して宴を開かれました。 よって、三本足の雀を群臣に示されました。
 十八日、 詔しました。
――「明神(あらみかみ)と大八洲(おほやしま)に所知(しら)す倭(やまと)根子(ねこ)天皇(すめらみこと)の 勅命は、 諸々の国司(くにのつかさ)、国造(くにのみやつこ)、郡司(こおりのつかさ)及び百姓たちの、 諸々は聴くべし。
 朕が初めて鴻祚(こうそ)に登って〔=即位して〕以来、 天瑞(てんずい)は一つ二つにとどまらず、多く表れて今に至る。 伝え聞くに、その天瑞は、 政(まつりごと)の理(ことわり)が天道に適うとき、お応えくださるものである。
 これが今、朕の御世に当たり、毎年に重ねて至った。 あるいは懼(おそ)れをもち、 あるいは嘉(よろこ)びをもち、 これにより、 親王、諸王、及び群卿、百寮、併せ天下の黎民(れいみん)は、 共に相歓(よろこ)べ。
 よって、小建以上にそれぞれに応じて禄を給わる。 よって、大辟(だいへき)罪〔=死罪〕以下皆赦免せよ。 また、百姓の課役はともに免ぜよ。」
 この日、 小墾田(おはりた)の舞、 及び高麗・百済・新羅三国の楽を宮廷の庭で奏しました。
 二月一日。 大津の皇子が、始めて朝政を聴(き)こしめしました。
 三月二日、 僧正(そうじょう)、僧都(そうづ)、律師(りっし)を任命して、よって 「僧尼を法の如く統率せよ、云々。」と勅しました。
 十九日、 多祢(たね)に派遣した使者たちが、帰国しました。


まとめ
 十二年正月詔のうち、大赦と免税の部分の表し方があまりに大雑把なので、書紀による潤色が疑われた。
 しかし、後の代の宣命を照合してみると、次第に条件を細かくしていく様子が手に取るように分かる。 これで〈天武〉朝では実際にこの詔が広布され、そこで起こった問題に以後対応していったと見ることができるようになった。
 十二年詔は、即位から11年たってやっと発せられた。 ここで〈孝徳〉大化二年の類似詔の出された状況を見ると、そのときは蘇我宗家を滅ぼして政権を把握したときであった。 〈天武〉十二年正月詔は、やっと殆どの氏族に氏上を登録させるまでこぎつけ、八色の姓制によって構造化することを可能にした。 すなわち、両者のタイミングには氏族に分散していた主権を朝廷に集約したという共通性がある。 〈天武〉は、これを新しい形の中央集権国家をスタートとした。 ただ、一般向けの表現としては、朕の政治は天から認められた。その証拠に数々の瑞祥を見よ。これから苦楽を共にして国作りに励もうと呼びかける文章になっている。
 以下はかなりの想像であるが、オホキミの新名称として定めた天皇号を一般に発表したのも、まさにこの詔によってではないかと思えてくる。 それがはっきり読み取れないのは、このとき過去のオホキミにも天皇号を遡及させることにして、誰を当てはめるべきかを研究した。記紀はその結果に基づき、古い時代のオホキミにも区別なく「天皇」を呼称として用いたために境目が見えなくなったからだと考えられる。



2025.07.10(thu) [29-16] 天武天皇下16 

59目次 【十二年四月~七月】
《詔曰自今以後必用銅錢》
夏四月戊午朔壬申。
詔曰
「自今以後必用銅錢、
莫用銀錢。」
夏四月(うづき)戊午(つちのえうま)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)。〔十五日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「今自(よ)り以後(のち)必ず銅(あかがね)の銭(ぜん)を用ゐよ、
銀(しろがね)の銭(ぜん)は莫用(なもちゐそ)。」とのりたまふ。
乙亥。
詔曰
「用銀莫止。」
乙亥(きのとゐ)。〔十八日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「銀(しろがね)を用ゐること莫(な)止(や)めそ。」とのりたまふ。
戊寅。
祭廣瀬龍田神。
戊寅…〈北野本〔以下北〕
戊寅(つちのえとら)。〔二十一日〕
広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
六月丁巳朔己未。
大伴連望多薨。
天皇大驚之
則遣泊瀬王而弔之。
仍舉壬申年勳績
及先祖等毎時有功
以顯寵賞。
乃贈大紫位發鼓吹葬之。
大伴連望多…〈北〉望多ウマクタ勲績イクサノイタハリ毎時有功 イサヲシモ
〈閣〉ウマク有-功イサヲシモヲヲ鼓吹葬ツゝミウチフエフキテ
〈釈紀〉望多ウマクタ。 〈兼右本〉望多マウクタ先-祖オヤ有-功イサヲシサ鼓吹ツゝミウチフエフキテオ ツツミウチフエフキ
大紫冠位二十六階第五位。
六月(みなづき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として己未(つちのとひつじ)。〔三日〕
大伴連(おほとものむらじ)望多(まくた)薨(こうず、みまかる)。
天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚之(おどろ)きたまひて、
則(すなはち)泊瀬王(はつせのおほきみ)を遣(や)りて[而]弔之(とぶら)はしめたまふ。
仍(よ)りて壬申(じむしん、みづのえさる)の年の勲績(いさみ)
及びに先祖(さきつおや)等(ら)の時(とき)毎(ごと)に有(たもてる)功(いさみ)を挙(あ)げて、
以ちて顕(あきらけき)寵(めぐみ)の賞(たまもの)をたまふ。
乃(すなは)ち大紫位(だいしゐ)を贈りたまひて、発鼓(つづみう)ち吹(ふえふき)て葬之(はぶ)らしむ。
壬戌。
三位高坂王薨。
壬戌(みづのえいぬ)。〔六日〕
三位(さむゐ)高坂王(たかさかのおほきみ)薨(こう)ず。
秋七月丙戌朔己丑。
天皇幸鏡姬王之家訊病。
己丑…〈北〉丙戌朔/禾夫皇
秋七月(ふみづき)丙戌(ひのえいぬ)を朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)。〔四日〕
天皇(すめらみこと)鏡姫王(かがみひめのおほきみ)之(が)家(いへ)に幸(いでま)して病(やまひ)を訊(とぶら)ひたまふ。
庚寅。
鏡姬王薨。
庚寅(かのえとら)。〔五日〕
鏡姫王(かがみひめのおほきみ)薨(こう)ず。
是夏。
始請僧尼安居于宮中、
因簡淨行者卅人出家。
安居…〈北〉安居アンコス宮中ミヤウチニ  ヨテ行者 オコナ/ヒヒト。 〈閣〉行者オコナフヒト卅人
〈釈紀〉-居アムゴス宮中ミヤノウチニ。 〈兼右本〉マセ安◳-居◰ シム
安居(あんご)…四月十五日から七月十五日の間、一か所にこもって修行すること。
是(この)夏。
始めて僧(ほふし)尼(あま)に請(こ)ひたまひて[于]宮中(おほみやのうち)に安居(あんご)せしめたふ、
因(よ)りて浄(きよ)き行(おこなひ)する者(ひと)三十人(みそたり)を簡(えら)ひて出家(いへで)せしむ。
庚子。
雩之。
庚子(かのえね)。〔十五日〕
雩之(あめをこふ)。
癸卯。
天皇巡行京師。
巡行…〈北〉-行 オハシマス。 〈閣〉ミヤコ
癸卯(みづのとう)。〔十八日〕
天皇(すめらみこと)京師(みさと)を巡行(めぐりいでます)。
乙巳。
祭廣瀬龍田神。
乙巳(きのとみ)。〔二十日〕
広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
是月始至八月。
旱之。
百濟僧道藏雩之、得雨。
道蔵…〈北〉道蔵タウサウ。 〈閣〉●●道蔵
是(この)月より始まりて八月(はつき)至(まで)。
旱之(ひでる)。
百済(くたら)の僧(ほふし)道蔵(だうざう)雩之(あめをこひ)て、雨(あめふること)を得(う)。
《銅銭》
 この銅銭は、現在では富本銭であろうと考えられている。
富本銭 (模造) 富本銭 鋳棹と富本銭 (完品と破片) 飛鳥池遺跡の位置
「三菱UFJ銀行 貨幣・浮世絵ミュージアム」展示物 『奈良国立文化財研究所/年報1999Ⅱ』(p.47) 『飛鳥池遺跡発掘調査報告/図版編Ⅱ』〔奈良文化財研究所学報71;2005〕(PL.298) 『飛鳥藤原第98次調査 現地説明会資料』〔奈良文化財研究所;1999〕
 富本銭の製造年代は、かつては奈良時代と考えられてきた。一例として『平城京を掘る』〔田辺征夫;吉川弘文館1992〕には 「〔1990年に〕大和郡山市の…奈良時代の井戸のなかで、たくさんの土器の下から見つかった」もので、そこは「奈良時代の側溝」であったから「和同開珎の祝い銭か?」と考えられている。
 ところが、1999年になって飛鳥池遺跡から大量の富本銭が出土し、〈天武〉十二年の銅銭にあたる可能性が浮上した。
 その発見を最も新鮮な驚きをもって述べた報告は、『奈良国立文化財研究所/年報1999Ⅱ』に見える。 それによると、 「炭層1をはじめ、谷に堆積する廃棄物届と東岸の工房整地土から計70点が出土」、 「いずれも枝銭から切断したままの鋳放し銭」で、「鋳損じた銭の破片が大半を占めるが、完形に近いものが6点、半分程度が残るものが4点」あり 「平均寸法は24.4㎝、厚さ1.5㎜前後で、中央に約6㎜の方孔があく。完形に近いもの3点の平均重量は4.59g」、 「富本銭は1つの銭笵で少なくとも16枚以上を同時鋳造したものと推測でき、和銅開弥と同様、量産化をめざした鋳銭技術の存在を想定できる」(p.45)。
 そして、これまでは「古代の富本銭が、出土品もしくは伝世品として後世に伝わり、稀少銭の収集熱が高揚した江戸時代に絵銭として模作された」が、 今回の飛鳥池遺跡の調査によって、富本銭が700年以前に鋳造された銅銭であることを確認することができた」という(p.47)。
木簡〈倭名類聚抄〉による郡名
高志■新川評越中国・新川郡}。
尾張海評尾張国・海部郡}。
加夜評備中国・賀夜郡}。
 その「700年以前」の根拠としては、例えば飛鳥池遺跡出土の木簡がある。 [木簡庫]で「飛鳥池」かつ「」で検索をかけると、32件あった。その一部を左表に示す。 これらは飛鳥京に運びこまれた税の産地を記した荷札が廃棄されたものと見られている。
 「飛鳥池」かつ「」による検索では0件なので、「飛鳥池遺跡は701年以前」説はほぼ確定する (「郡評論争」「郡―評―五十戸」参照)。 飛鳥寺・浄御原宮に近い点も併せれば、ここが〈天武〉・〈持統〉年代の工房跡であったことは確実である。
 さらに傍証として、「富本銭はその重さや大きさが中国の唐の通貨、開元通寳とほぼ同一規格である[和同開珎はそれらよりも軽い]ことから、開元通寳をモデルにした」とする説がある([三菱UFJ銀行/貨幣・浮世絵ミュージアム])
《銀銭》
無文銀銭
直径約3cm、厚さ2mm、質量約10g
出典:ColBase
 銀銭としては、崇福寺(資料[51])跡から「無文銀銭」と呼ばれる貨幣様のものが出土している(〈顕宗〉二年《銀銭》)。
 「銀銭」の廃止は、僅か三日間で撤回された。全くの朝令暮改である。
 それでは、銀銭に置き換えようとした銅銭はどのような性格だったのだろうか。
 富本銭には、厭勝銭〔流通目的の貨幣ではなく、儀式で使う貨幣様のもの〕説もある。 『天武・持統・文武天皇の富本銭』〔吉原啓;『万葉古代学研究年報』18(2020)〕によると、 厭勝銭説は「富本銭を"まじない"用の銭とする見解」で「飛鳥池工房遺跡で富本銭が出土する以前に定説的であった」が、出土以後は「流通貨幣を目指して発行されたとみる説が優勢であるように思われる」という。 同論文は双方の立場の諸説を紹介するが、決定的といえる説はないようである。
 〈天武〉紀を素直に読めば、流通貨幣を銀銭から銅銭〔富本銭〕に置き換えようとしたことは明らかである。 しかし、その方針を公表した直後に実施部署から現在の生産体制ではとても無理ですと上奏され、それによって銀銭からの置き換えは直ちには不可能であると悟ったと読める。
 この流れは常識的だから、わざわざ書紀が「厭勝銭」を「流通貨幣」に潤色したと読む必要はない。 議論すべきは、貨幣の全流通量のうち、富本銭がどの程度の割合を占めるに至ったかであろう。
《銭》
 には書紀古訓がつかない。後世にはゼニであるが、果たして上代からであろうか。少なくとも〈時代別上代〉はゼニを取り上げていない。
 〈倭名類聚抄〉には、「:鏹【…訓世邇都良】銭貫也。鎔【…和名世邇波太毛能】」が見える。 は銭の穴に紐を通して固く締めて百枚、千枚とまとめたもの。は銭を鋳造する鋳型である。
 また、「:【…俗云銭加佐】」。カサは皮膚のできものを意味する上代語。ゼニカサは銭のような形状のカサであろうが、これが上代語かどうかは分からない。 また鋳銭司(〈文武〉三年に設置;資料[24])は俗にゼニノツカサと読まれるが、〈倭名類聚抄〉では「鋳銭司【樹漸乃司】」で、音読み〔シユゼンのつかさ〕している。 よって、ゼニという語が確認できるのは平安時代であるが、倭語のゼニは、もともと隋唐音[dziɛn]の語尾に母音イがついて二音節化したものである。 音は古くから入ってきていただろうから、二音節化のペースが早ければ飛鳥時代のうちにゼニが現れたこともあり得る。〈時代別上代〉が載せないのは、資料に仮名書きが確認できる例のみを取り上げる編集方針によるものと思われる。
《祭広瀬龍田神(四月)》
 《祠風神…》
《大伴連望多》
大伴連望多  壬申:大伴連馬来田は、倭京の家に籠って情勢を見極めた末、菟田吾城で大海人皇子に合流した。
 壬申の勲績とともに、大伴一族のかつての功を讃えている。ということは、望多はこの時点で氏上だったのであろう。
《泊瀬王》
泊瀬王  血縁不明。十四年十月に浄大肆泊瀬王、巨勢朝臣馬飼は「判官以下并二十人任於畿内之役」した。 〈持統〉九年十二月丙戌「浄大肆泊瀬王賻物〔賻物は死後に賜る品〕
《高坂王》
高坂王  壬申:留守司として、大海人皇子への駅鈴を発行を拒む。 飛鳥寺西槻下で大友皇子軍の軍営に加わっていたが、吹負による襲撃を受けて大海人皇子側に寝返った。
《鏡姫王》
鏡姫王  鏡王女が万葉に登場する。いずれも題詞に(万)0091天智天皇…賜鏡王女御歌一首」。 (万)0092鏡王女奉和御歌一首」。(万)0093内大臣藤原卿〔=鎌足〕〔=娶る〕鏡王女時、鏡王女内大臣歌一首」。 (万)0094内大臣藤原卿報-贈鏡王女歌一首」。 鎌足の妻であったと思われる。
《僧尼安居于宮中》
 安居は夏季の修業であるが、語源の「安んじて居す」の意味も残る。続けて「浄行者三十人」を選んで出家させたとあるから、 全体として宮中に安吾院を設置して、優秀な僧尼を選んで住まわせたと読むのが妥当であろう。
《雩之》
 その後本当の日照りとなり道蔵が雨乞いしたら雨が降ったとあるから、ここの「雩之」は恒例行事であったことが分かる (九年《雩》十年《雩之》)。
《巡行京師》
 造営中の新城、もしくはその候補地を巡回したと思われる(《将都新城》)。 十年三月に「新宮井上」で行っていた鼓笛の練習に顔を出す。十一年三月には「新城」の新たな候補地の調査。 全体として見ると、新城の造営は試行錯誤的である。天命を予感して、中枢施設〔朝堂院・内裏〕の位置の選定を急いでいる印象を受ける。
《祭広瀬龍田神(七月)》
 《祠風神…》
《旱之》
 前述
《道蔵》
道蔵 〈持統〉二年七月にも雨乞い:「丁卯、大雩。旱也。丙子、命百済沙門道蔵雨、不朝、遍雨天下」。 〈続紀〉養老五年〔721〕六月戊戌「百済沙門道蔵。寔惟法門袖領釈道棟梁。年逾八十。気力衰耄。非束帛之施、豈称養老之情哉。宜仰所司四時施物…」。
《大意》
 四月十五日、 詔され 「今より以後、必ず銅銭を用いよ、 銀銭は用いるな。」と命じられました。
 十八日、 詔され 「銀を用いることを止めるな。」と命じられました。
 二十一日、 広瀬神、龍田神を祭祀しました。
 六月三日、 大伴の連(むらじ)望多(まくた)が薨じました。 天皇(すめらみこと)は甚だ驚かれ、 泊瀬王(はつせのおおきみ)を遣わし、弔(とぶら)いさせられました。
 よって、壬申年の勲績、 及び先祖たちの度々の有功を挙げ、 顕著な寵賞を賜りました。 すなわち大紫位を贈られ、鼓と笛で葬儀しました。
 六日、 諸王三位高坂の王(おおきみ)が薨じました。
 秋七月四日、 天皇(すめらみこと)は鏡姫の王(おおきみ)の家にお出かけになり、病を見舞われました。
 五日、 鏡姫の王が薨じました。
 この夏に、 始めて僧尼に請い、宮中で安居させました。 よって、浄行者三十人を選び出家させました。
 十五日、 雨乞いしました。
 十八日、 天皇(すめらみこと)は京師を巡行されました。
 二十日、 広瀬神、龍田神を祭祀しました。
 この月から八月まで、 旱魃となりました。 百済僧道蔵(どうぞう)が雨乞いして、雨を得ました。


60目次 【十二年八月~九月】
《凡卅八氏賜姓曰連》
八月丙辰朔庚申。
大赦天下。
大伴連男吹負卒、
以壬申年之功贈大錦中位。
男吹負…〈北〉男-吹-負ヲフケヒ
大錦中冠位二十六階第八位。
八月(はつき)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として庚申(かのえさる)。〔五日〕
大(おほきに)天下(あめのした)に赦(つみゆる)したまふ。
大伴連(おほとものむらじ)男吹負(をふけひ)卒(そつす、みまか)りて、
壬申(じむしん、みずのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて大錦中位(だいきむちうゐ)を贈りたまふ。
九月乙酉朔丙戌。
大風。
九月(ながつき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔二日〕
大風(おほかぜ)ふく。
丁未。
倭直
栗隈首
水取造
矢田部造
藤原部造
刑部造
福草部造
凡河內直
川內漢直
物部首
山背直
葛城直
殿服部造
門部直
錦織造
縵造
鳥取造
來目舍人造
檜隈舍人造
大狛造
秦造
川瀬舍人造
倭馬飼造
川內馬飼造
黃文造
蓆集造
勾筥作造
石上部造
財日奉造
泥部造
穴穗部造
白髮部造
忍海造
羽束造
文首
小泊瀬造
百濟造
語造、
凡卅八氏賜姓曰連。
倭直栗隈首…〈北〉 倭直ヤマトノアタヒ栗隈首クリスミノヲフト水取造モムトレノミヤツコ矢田部造ヤタヘノ藤原部造不讀部字
 刑部ヲサカヘノ福草サイクサノ不讀部字凡河内ヲフシカウチノ川内漢カウチノアヤノ物部モノヘノヲフト
 山背ヤマシロノ葛城カツラキノ殿服部造トノハトリノミヤツコ門部カトヘノ錦織ニシコリノカツラノ鳥取トゝリノ來目舍人クメノトネリノ
 檜隈舍人造ヒクマノトネリノミ大狛ヲホコマノハタノ川瀬舍人造カハセノトネリノミ倭馬飼ヤマトノムマカヒノ川内馬カウチノムマ飼造/黃フミノ
 蓆集コモツミノ勾苔作マカリノコケツクリノ石上部造イソノカミノミヤツコ財日奉タカラヒヘキノ泥部ハシツカヘノ穴穗部造アナホノミヤツコ
 白髮部造シラカノミヤツコウミノ羽束造ハツカセノミ文首フミノヲフト小泊瀬造ヲハツセノミ百濟造クタラノミ語造カタラヒノミ
 卌八氏ミソアマリヤウチニタマフカハネヲイフムラシト
〈閣〉栗隈水取造殿服トノハトイリノ未目舍人造マカリノ筥作造財日 ヒヘキノ 奉造
 ハセツカヘ部造ツカセ卅八氏
〈釈紀〉栗隈首クリクマノヲフト水取造モムトムノミヤツコ物部モノゝヘノヲフト蓆集コモツムノ/コモツミノ勾苔作マカリノコケツクリノ
 石上イソノカミノ  不讀部字百濟クタラクノ
〈兼右本〉モン取造-父イ乍[ノ][切]-「マツリヘキ
丁未(きのとひつじ)。〔二十三日〕
倭直(やまとのあたひ)
栗隈首(くりくまのおびと)
水取造(もひとりのみやつこ)
矢田部造(やたべのみやつこ)
藤原部造(ふじはらのみやつこ)
刑部造(おさかべのみやつこ)
福草部造(さきくさのみやつこ)
凡河内直(おほしかふちのあたひ)
川内漢直(かふちのあやのあたひ)
物部首(もののべのおびと)
山背直(やましろのあたひ)
葛城直(かつらきのあたひ)
殿服部造(とのはとりのみやつこ)
門部直(かどべのあたひ)
錦織造(にしこりのみやつこ)
縵造(かづらのみやつこ)
鳥取造(ととりのみやつこ)
来目舎人造(くめのとねりのみやつこ)
檜隈舎人造(ひのくまのとねりのみやつこ)
大狛造(おほこまのみやつこ)
秦造(はたのみやつこ)
川瀬舎人造(かはせのとねりのみやつこ)
倭馬飼造(やまとのうまかひのみやつこ)
川内馬飼造(かふちのうまかひのみやつこ)
黄文造(きふみのみやつこ)
蓆集造(こもつめのみやつこ)
勾筥作造(まがりのはこづくりのみやつこ)
石上部造(いそのかみのみやつこ)
財日奉造(たからのひへきのみやつこ)
泥部造(はつかしべのみやつこ)
穴穗部造(あなほべのみやつこ)
白髮部造(しらかのみやつこ)
忍海造(おしのみのみやつこ)
羽束造(はつかしのみやつこ)
文首(ふみのおびと)
小泊瀬造(をはつせのみやつこ)
百済造(くたらのみやつこ)
語造(かたらひのみやつこ)の、
凡(おほよそ)三十八氏(みそあまりやうぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひて連(むらじ)と曰(い)ふ。
《大赦天下》
 正月詔の「大辟罪以下皆赦之」を、八月に実行したか。 これくらいの時間差は通例かも知れない。ただ、以後の即位大赦では適用対象外が示されたことを考えると、 このときも実際には適用除外があり、その線引きで揉めて調整に時間を要したこともあり得る(《以大辟罪以下皆赦之》)。
《大伴連男吹負》
大伴連男吹負  壬申:大伴連吹負は、倭の家で形成を見た後、豪傑を招いて独自に決起した。 賭博的な作戦を好んだ結果、時に大敗北、時に大勝利した。
 吹負の死は「」ではなく「」だから、著しい功績の割には高い役職には就けなかった。結局、与えられたのは死後の贈位だけである。 やはり、その野心溢れる人柄の故に遠ざけられたことは確実である。
《大風》
 〈天武〉十二年九月二日はグレゴリオ暦683年9月30日。 台風シーズンの只中である。
《三十八氏賜姓曰連》
倭直 〈神武〉紀「椎根津彦」を祖とする(倭直龍麻呂)。
栗隈首 本貫は京都府宇治市大久保町(栗隈首徳万)。
水取造 第98回弟宇迦斯は宇陀水取の祖」。 職業部水取部の伴造家と見られる。 『常陸国風土記』茨木郡/桑原岳:「昔倭武天皇〔日本武尊〕-留岳上-奉御膳時令水部新掘清水」とある。
 〈姓氏家系大辞典〔以下大辞典〕〉は、これにより「水部 モトリベ モヒトリベ」項でその「職掌を知るべし」という。 『令義解』職員令宮内省配下の「主水司」に引き継がれる。 また〈姓氏録〉水取連:速日命六世孫伊香我色乎命之後也〗。よって〈大辞典〉は「物部氏の族」とする。
矢田部造 〈仁徳〉の妃の八田若郎女〔矢田皇女〕の御名代を起源とすると伝わる。 『天孫本紀』では矢田皇女の弟を祖として、物部の一族とする(第170回)。
藤原部造 藤原部の伴造。藤原部は、衣通郎姫のための御名代を起源とする(〈允恭〉十一年《藤原部》)。 〈続紀〉天平宝字元年〔757〕三月「勅。自今以後。改藤原部姓久須波良部」。
 〈大辞典〉「以後、多く葛原部と記せり。皇室の外戚藤原氏の氏名〔うぢな〕を避けし也」、「和泉の葛原部:衣通郎姫は当国茅渟宮に住居せられしなれば、当国には多かりしならん」。
刑部造 刑部は、〈允恭〉皇后忍坂大中姫の御名代を起源とする(第186回【刑部】)。 『天孫本紀』宇摩志摩治命系列:十一世孫に「物部石持連公【刑部垣部〔=部曲〕・刑部造等祖】」。
 〈大辞典〉「刑部造(物部氏族):刑部の総領的伴造」、「〔物部石持連公は〕允恭后の村民となり」、刑部造は「其の村民を支配する伴造」。
福草部造 福草部の伴造と見られる。福草部は〈顕宗〉の御名代〈顕宗〉三年四月《福草部》)。
凡河内直  〈雄略〉九年に「凡河内直香賜」。 凡河内国造家の氏姓(《凡河内直》)。
川内漢直 〈大辞典〉「:朝鮮半島を経由して帰化したる漢人の裔なり」。 「河内漢直」は「王仁の後かと思へど、彼の氏は首姓にして此氏は直姓なれば別系」、むしろ「倭漢氏と同族ならんか」。 川内漢直河内漢直と同一であろう。
物部首 春日臣市河を祖とする(〈垂仁〉三十九年)。また物部の一族とも。〈姓氏録〉〖〔神饒速日命の〕子、味島乳命之後也〗。味島乳命は宇摩志摩治命(資料[39])。
山背直  天照大神三男天津彦根命を祖とする(山背直小林)。
葛城直 葛城直(名を欠く)は〈欽明〉二十二年に新羅からの使者に挑発的な接待をした。
 〈姓氏録〉〖左京/皇別/葛城朝臣/葛城襲津彦命之後也〗葛城襲津彦〈仁徳〉段神功皇后紀などで活躍した。 ここで葛城連となり、さらに〈天武〉十四年六月に忌寸姓。〈続紀〉天平二十年〔748〕三月「正六位上葛城忌寸豊人」が見える。
 その後朝臣となったものが〈姓氏録〉に載ったとすれば、葛城直襲津彦を祖としたことになる。 第162回《葛城氏》項で「葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりが、まとめて「葛城」族と呼ばれた」と見た。
殿服部造 殿服部の伴造家。「織部」が〈応神〉二十二年、 〈応神〉段に呉服(くれはとり)(第152回)。織物の技術をもって渡来した集団が、職業部となったと見られる。
 〈大辞典〉「服部の一種也」、ただ「殿-」の意味は示さない。「御殿に仕える」意、もしくは地名か。〈大辞典〉「戸野:安芸等に此の地名存す」。現代地名に広島県東広島市河内町戸野
門部直 職業部「門部〔門番に由来か〕の伴造家。〈孝徳〉白雉四年《門部金》
錦織造 錦織部の伴造(錦織造小分)。
縵造 縵部の伴造(八年八月《縵造忍勝》)。
鳥取造 鳥取部は各地に見える。〈垂仁〉紀では湯河板挙が鳥取造の姓を賜り、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた(〈垂仁〉二十三年第120回《鳥取部》以下)。
 〈姓氏録〉は記紀を要約して〖鳥取連/角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也/垂仁天皇皇子誉津別命。年向三十不語。于時見くぐひ。問曰。此何物。ここに天皇悦之。遣天湯河桁尋求。詣出雲国宇夜江。捕貢之。天皇大嘉。即賜鳥取連と述べる。
来目舎人造 舎人は宮中の仕え人。令では「中務省」に「大舎人寮」(二年五月《先令仕大舎人》)。 〈大辞典〉には「古代にありては…舎人に、御名、若しくは宮名を負はしめ給ひ、御名代部として後世に残」す、 「久米舎人 クメノトネリ:…詳からざれど、蓋し久米部より出し奉りし舎人ならん」、「久米舎人造:久米舎人の首長なりし氏」、「久米舎人連:…久米連と云ふは此の後か」。
檜隈舎人造 〈姓氏録〉檜前舎人連/火明命十四世孫波利那乃連公之後也〗天火明命は饒速日命の別名で、『天孫本紀』尾張連系列に 「十四世孫:尾治針名根連」とあるのがそれであろう。
 〈大辞典〉「檜前舎人:宣化天皇の御名代部にして、天皇の御座せし檜隈廬入宮宣化元年に仕へたる舎人、及び舎人部の後也」、「檜前舎人造:尾張氏の族にして、檜前舎人部の総領的伴造也」。
大狛造 狛部〔高麗からの渡来人〕の伴造(大狛造百枝/足坏)。
秦造 秦造酒〈雄略〉十五年に散り散りになっていた一族を糾合した。
 〈姓氏録〉〖秦造:始皇帝五世孫融通王之後也〗〖太秦公宿祢:…秦公酒。…〔雄略〕御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐
 すなわち、秦造酒は〈雄略〉のとき太秦公宿祢となったが、酒の直系の子孫以外は「秦造」のまま残ったことになる。 しかし秦造の拠点は山背国葛野、氏寺は広隆寺(〈皇極〉三年七月)。そこは京都市西区太秦なので、両者を完全に峻別することは難しい。
 〈天智〉前紀斉明七年秦造田来津
川瀬舎人造 川瀬舎人近江国犬神郡川瀬村を本拠とする御名代か(〈雄略〉十一年五月)。置かれたきっかけは白鵜を捕獲したことによるという。川瀬舎人造はその伴造。
倭馬飼造 倭馬飼部の伴造(八年十一月倭馬飼部造連)。朱鳥元年には「〔〈天武〉喪〕倭河内馬飼部造各誄之」で、まだ倭馬飼部""とある。
川内馬飼造 河内馬飼首荒籠(〈継体〉元年)は、〈大辞典〉「川内馬飼部の伴造なり」。 人名に、〈継体〉二十三年河内馬飼首御狩」、〈欽明〉二十二年河内馬飼首押勝」。 〈大辞典〉「川内馬飼造:川内馬飼首の造姓を賜へるものなるべし」。しかし、朱鳥元年にまだ「河内馬飼部造」とある。
黄文造 高麗からの渡来族(黄書造大伴)。
蓆集造 薦集部は座の薦席を作る職業部(〈欽明〉二十三年《薦集部》)。蓆集造はその伴造。
勾筥作造 〈大辞典〉「箱作 ハコツクリ:箱を作るを職とせし品部也」。 「勾苔作造:苔は筥の誤写にて、大和国勾の地にありし筥作部の伴造」。 は、勾大兄皇子(=〈安閑〉)の勾金橋宮の地(《勾大兄皇子》)。
石上部造 〈大辞典〉は、「石上は最初イソノ神なるべし、…後世熟語となりて更に神の字を加へ、イソノカミノカミと云ふに至り」と述べる。 しかし、カミカミなので、それは甲乙が消滅した時代のこととしなければならない。 実際には甲乙消滅以前に「」と表記されていることから、結局同書の論は成り立たない。
 〈大辞典〉は、〈仁賢〉三年「石上部舎人」は同帝の御名代で、これが石上部の起源とする。 〈倭名類聚抄〉{大和国・山辺郡・石上【伊曽乃加美】郷}、比定地は石上神宮周辺(資料[54]《石上山》)。
 〈大辞典〉「石上部造:石上部の総領的伴造家なり」。
財日奉造 〈大辞典〉「〔ある〕本財字の下に造字あるを採れば、財、日奉の二氏にて、かゝる氏は存在せざりし事となる」。 「財部 タカラベ:財宝と縁故ある品部ならむと思はるれど、…宝皇女〔〈皇極〉・〈斉明〉〕の御名代部たりし也」。「財部造〔続日本後紀〕承和四年十一月紀〔丁丑〕に…財部造継麿」。 「日祀部(日奉部) ヒマツリベ:日は天照大神を指し奉る」。〈敏達〉六年日祀部私部」。 「日奉造:大伴氏の族にして、日奉部の伴造家也」。
 〈姓氏録〉〖佐伯日奉造/天押日命十一世孫談連之後也〗は〈大辞典〉「〔日奉部〕と同族」。 とはいえ、〈続紀〉「日奉公」と「他田日奉直」、〈姓氏録〉〖佐伯日奉造〗など日奉氏に連姓以上が見られないことや、氏族合計数が「三十九」ではなく「三十八」と記されていることを見ると、誤写説にはやはり疑問が残る。
泥部造 泥部は〈大辞典〉瓦造りなどに従事する品部(埿部眡枳)。
穴穂部造 穴穂部は、〈雄略〉が設置した〈安康〉天皇の御名代に由来する(〈雄略〉十九年《穴穂部》)。 その本拠は地名として皇子皇女の名に用いられた〔穴穂部皇子(〈用明〉元年五月)、穴穂部間人皇女(〈用明〉元年正月)〕
白髪部造 白髪部は〈清寧〉無子による御子代(〈雄略〉段【白髪部】)。
 〈大辞典〉「白髪部造:物部氏の族にして、白髪部の総領的伴造たりしならん。…連姓を賜ひしも、猶ほ造姓のものも後世に残れり」。
忍海造 忍海造大国
羽束造 〈壬申紀〉10段 埿部眡枳参照。〈倭名類聚抄〉{山代国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}。 〈大辞典〉「摂津の泥部:又羽束〔ハツカシ〕部に作る」。「羽束造:山城泥部の伴造家。乙訓郡羽束郷を本拠とす」。
文首 もともと東文〔倭の文〕姓、西文〔河内の文〕姓だったという(《文宿祢》)。 だから、文首は河内に属する。連姓を賜れば「文連」となったはずだが、この族名は以後の〈天武〉紀・〈持統〉紀・〈続紀〉には登場しない。
 しかし「文忌寸」が〈持統〉紀に出てくる。これは西文〔河内の文〕である(《文宿祢》に「西文は忌寸に沈む」とある)。 また、天武十四年十月に「河内漢連」が忌寸姓を賜った。 これらの整合を得るには、文首=河内漢首文連=河内漢連文忌寸=河内漢忌寸とするのがよい。 すなわち、河内漢西文の別名であろう。
 なお、今回連を賜った中に「川内漢直」もある。 これは「」姓なので倭の漢の分流で、西文とは別族と見ておくことにする。
小泊瀬造 〈大辞典〉「小長谷:小初瀬とも…武烈天皇〔和風諡号:小泊瀬〕の御名代部なる小長谷部より起る」。
 〈神武〉段:皇子「神八井耳命者、意富臣〔多臣〕…小長谷造…等之祖(第101回)とあることによって、 〈大辞典〉は「小長谷造:小長谷部の伴造にして多臣の族なり」という。
百済造 〈大辞典〉「百済部 クダラベ:百済人を以て組織せし品部なり」。実際に見いだされるのは阿波の百済部、紀伊の百済戸のみだが同書は「猶ほ他国にも存す」と推定。そして「百済造:百済部の伴造なり」。
語造 〈大辞典〉「語部 カタリベ:上古の事を語り伝ふるを職とせし品部」として大和、尾張、遠江、 美濃、丹波、丹後、因幡、備中、淡路、阿波に「語部」を見出している。そして「語造:粟忌部氏の族にして語部の総領的伴造」と述べる。
 これは〈姓氏録〉天語連/神魂命七世孫天日鷲命之後也〗、〈神代上〉「是後素戔嗚尊之為行也」段一書3下枝懸以粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿」によるもの。
 〈孝徳〉大化二年詔における呼びかける対象に「臣連国造伴造」とある。 すなわち伴造より格下である。 よって、「姓曰」によって、総じて氏族の統率者としての格が引き上げられた。
 伴造は職業部や御名代部・皇子代部の長であったが、これにより現地の部からは距離が離れる。 工芸品などの生産を担う職業部はそのまま存続するが、その生産物は調として国司が徴収する体制が整いつつある。 また、〈令義解〉「大蔵省」の「漆部司」の下に「漆部」、「縫部司」の下に「縫女部」、「織部司」の下に「染戸」等が見え、従来の職業部は引き続き存在するが、令制では直接官に所属するものもある。 それらの共通名称は「伴部」という。
 よって古い時代の生産物献上のルート「部⇒伴造⇒朝廷」は基本的に消滅し、調が公に貢納したり、官に直接仕える伴部となっていく。
 に上ったことにより、上層部の一握りの者は都に住み食封を支給されるだろう。しかし、それだけでは一族は養えないから、下層の者は相変わらず部民と共に生産に従事したり、生産物を取り集めて販売して利益を得ていたことも考えられる。
《大意》
 八月五日、 天下に大赦されました。
 大伴の連(むらじ)男吹負(おふけい)が卒しました。 壬申年の功により大錦中(だいきんちゅう)位を贈られました。
 九月二日、 大風が吹きました。
 二十三日、 倭直(やまとのあたい)、 栗隈首(くりくまのおびと)、 水取造(もひとりのみやつこ)、 矢田部造(やたべのみやつこ)、 藤原部造(ふじわらのみやつこ)、 刑部造(おさかべのみやつこ)、 福草部造(さきくさのみやつこ)、 凡河内直(おおしかうちのあたい)、 川内漢直(かうちのあやのあたい)、 物部首(もののべのおびと)、 山背直(やましろのあたい)、 葛城直(かつらきのあたい)、 殿服部造(とのはとりのみやつこ)、 門部直(かどべのあたい)、 錦織造(にしこりのみやつこ)、 縵造(かずらのみやつこ)、 鳥取造(ととりのみやつこ)、 来目舎人造(くめのとねりのみやつこ)、 檜隈舎人造(ひのくまのとねりのみやつこ)、 大狛造(おおこまのみやつこ)、 秦造(はたのみやつこ)、 川瀬舎人造(かわせのとねりのみやつこ)、 倭馬飼造(やまとのうまかいのみやつこ)、 川内馬飼造(かふちのうまかいのみやつこ)、 黄文造(きふみのみやつこ)、 蓆集造(こもつめのみやつこ)、 勾筥作造(まがりのはこづくりのみやつこ)、 石上部造(いそのかみのみやつこ)、 財日奉造(たからのひへきのみやつこ)、 泥部造(はつかしべのみやつこ)、 穴穗部造(あなほべのみやつこ)、 白髮部造(しらかのみやつこ)、 忍海造(おしのみのみやつこ)、 羽束造(はつかしのみやつこ)、 文首(ふみのおびと)、 小泊瀬造(をはつせのみやつこ)、 百済造(くたらのみやつこ)、 語造(かたらいのみやつこ)の、 凡そ三十八氏に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)としました。


61目次 【十二年十月~十二月】
《十四氏賜姓曰連》
冬十月乙卯朔己未。
三宅吉士
草壁吉士
伯耆造
船史
壹伎史
娑羅々馬飼造
菟野馬飼造
吉野首
紀酒人直
采女造
阿直史
高市縣主
磯城縣主
鏡作造、
幷十四氏賜姓曰連。
三宅吉士…〈北〉 三宅𠮷士ミヤケノキシ草壁吉士クサカヘノキシ伯耆造ハゝキノミヤツコ船史フネノフヒト壹伎史/ユゝキノフンヒト
娑羅々サラゝノ馬飼造ムマカヒノミヤツコ菟野ウノゝ ノ𠮷野首ヨシノゝヲフト紀酒人直キノサカヒトノアタヒ采女ウネメノ直イ
阿直ア トキノフンヒト高市縣主タカイチノアカタヌシ磯城シキ縣主アカタヌシ鏡作造カゝミツクリノミ
〈閣〉馬飼トキ
〈釈紀〉船史フネノフムヒト壹伎史/ユキノフムヒト采女ウネメノ阿直アトキノフムヒト
〈兼右本〉草-香部カヘイ乍
冬十月(かむなづき)乙卯(きのとう)を朔(つきたち)として己(つちのと)未(ひつじ)。〔五日〕
三宅吉士(みやけのきし)
草壁吉士(くさかべのきし)
伯耆造(ははきのみやつこ)
船史(ふねのふみひと)
壱伎史(いきのふみひと)
娑羅々馬飼造(さららのうまかひのみやつこ)
菟野馬飼造(うののうまかひのみやつこ)
吉野首(よしののおびと)
紀酒人直(きのさかひとのあたひ)
采女造(うねめのみやつこ)
阿直史(あぢきのふみひと)
高市県主(たけちのあがたぬし)
磯城県主(しきのあがたぬし)
鏡作造(かがみづくりのみやつこ)の、
并(あはせて)十四氏(とをあまりようぢ)に姓(かばね)を賜(たま)ひ連(むらじ)と曰ふ。
丁卯。
天皇狩于倉梯。
倉梯…〈兼右本〉ハシ
丁卯(ひのとう)。〔十三日〕
天皇(すめらみこと)[于]倉梯(くらはし)に狩(みかり)したまふ。
十一月甲申朔丁亥。
詔諸國習陣法。
陣法…〈北〉陣法イクサノノリ
十一月(しもつき)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として丁亥(ひのとゐ)。〔四日〕
諸(もろもろ)の国に詔(みことのり)したまひて陣法(いくさののり)を習(なら)はしむ。
丙申。
新羅、遣沙飡金主山
大那末金長志、進調。
沙飡金主山…〈北〉サンコンシユセン●●タイコンチヤウ
丙申(ひのえさる)。〔十三日〕
新羅(しらき)、沙飡(ささん)金主山(こむしゆせん)
大那末(だいなま)金長志(こむちやうし)を遣(まだ)して、進調(みつきたてまつ)らしむ。
十二月甲寅朔丙寅。〔十三日〕
遣諸王五位伊勢王
大錦下羽田公八國
小錦下多臣品治
小錦下中臣連大嶋、
幷判官錄史工匠者等、
巡行天下而限分諸國之境堺。
然、是年不堪限分。
羽田公八国…〈北〉羽田公ハタノキミ八國ヤクニヲ■ノヲン品治ホンチ セウ
 判官マツリコトヒト錄-史 フムヒト工匠タクミ巡-行 アリキ 隈-分 サカフ /限 境-堺 サカヒ 
〈閣〉多臣品。 〈釈紀〉多臣ヲホノヲン品治ホンヂ
大錦下冠位二十六階第九位。
小錦下…冠位二十六階第十二位。
判官…四等官制の第三位。〈倭名類聚抄〉「判官:…【皆万豆利古止比止】」。
十二月(しはす)甲寅(きのえとら)を朔(つきたち)として丙寅(ひのえとら)。〔十三日〕
諸王(しよわう)五位(ごゐ)伊勢王(いせのおほきみ)
大錦下(だいきむげ)羽田公(はたのきみ)八国(やくに)
小錦下(せうきむげ)多臣(おほのおみ)品治(ほむぢ)
小錦下(せうきむげ)中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おほしま)、
并(あは)せて判官(まつりことひと)録史(ふみひと)工匠者(たくみ)等(ら)を遣(や)りて、
天下(あめのした)を巡行(めぐ)らしめて[而]諸国(もろもろのくに)之(の)境堺(さかひ)を限(かぎ)り分(わか)たしむ。
然(しかれども)、是年(このとし)は限り分(わか)つこと不堪(たへず)。
庚午。
詔曰
「諸文武官人及畿內有位人等、
四孟月必朝參。
若有死病不得集者、
當司具記申送法官。」
文武官…〈北〉武官ツハモノ  ハシメ
 朝-參ミカトマヰリモシ テ死病 ヲモキヤマヒ不得ウコナハル ソノ
〈閣〉朝-參ミカトマヰリセヨ
庚午(かのえうま)。〔十七日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「諸(もろもろ)の文武官人(ふみのつかさつはもののつかさ)及びに畿内(うちつくに)の位(くらゐ)有(も)てる人(ひと)等(ども)は、
四(よつの)孟月(はじめのつき)に必ず朝(みかど)に参(まゐ)でよ。
若(もし)死病(おもきやまひ)有りて集(うごなはること)不得(えざ)ら者(ば)、
当(その)司(つかさ)は具(つぶさ)に記(しる)して法官(のりのつかさ)に申(まを)し送れ。」とのたまふ。
又詔曰
「凡都城宮室、
非一處必造兩參、
故先欲都難波。
是以、百寮者各往之請家地。」
都城…〈北〉都-城 ミヤコ 宮-オホミヤ ラム兩參 ミトコロフタトコロ マカテ タウハレ  ヲ
〈閣〉兩參トコロ\/ニフタトコロニ マカリテタウハレトヲ
〈釈紀〉兩參トコロ\/私記説
又詔(みことのり)のりたまひて曰はく
「凡(おほよそ)都城(みやこ)の宮室(みやむろ)は、
一処(ひとところ)には非(あら)ずて必ず両(ふたところ)参(みところ)と造(つく)らむ。
故(かれ)先(まづ)難波(なには)を都(みやことせ)むと欲(おもほ)す。
是以(こをもちて)、百寮(もものつかさ)者(は)各(おのもおのも)往之(ゆ)きて家地(いへのところ)を請(うけたまは)れ。」とのりたまふ。
《十四氏賜姓曰連》
三宅吉士 吉士は、三韓から渡来した官人への姓 (第143回吉師三宅吉士入石)。 中心地は難波。「三宅」は屯倉に属したことを示すと見られる。
草壁吉士 大草香部に属するようになった吉士と見られる(〈皇極〉元年《草壁吉士磐金》)。 〈天武〉九年に草香部吉士大形に難波連姓。これは個人対象と見られる。
伯耆造 〈大辞典〉「伯耆 ハウキ ハハキ」、「伯耆国造:伯耆一国の大国造」、「当国川村郡に〔式内〕波波伎仁神社…其の氏神と考へらる」。 「伯耆造:〔伯耆〕国造家の氏姓か」。
船史 「王辰爾…賜姓為船史。今船連之先也」(〈欽明〉十四年)。 船史は、海運と史人の両道をこなしたが故の氏姓であろう(〈敏達〉元年《王辰爾》)。 以後、いくつかの場面に登場する (〈推古〉十五年《船史王平》 同十七年「船史龍」 〈皇極〉四年《船史恵尺》)。
壱伎史 壱岐島居住の渡来民の一族が〔ふみひと〕として仕え、一部は河内に移ったと思われる (《伊岐史》 壱伎史韓国)
娑羅々馬飼造 娑羅々馬飼部の伴造。 〈倭名類聚抄〉{河内国・讃良【佐良々】郡}。
菟野馬飼造 〈大辞典〉「菟野馬飼部 ウノノウマカヒベ ウヌノウマカヒベ:霊異記に河内国更荒郡馬甘里とある地の馬飼部。鸕鷀〔う〕野の新羅人を使役して馬飼部となしたものに他ならず」。 〈欽明〉紀二十三年七月条で、新羅から訪れた調賦使が帰国せず土着し、それが現在の「河内国更荒サララ鸕鷀野邑新羅人」の先祖とすることを指す。 持統天皇の名「鸕野讚良皇女」は娑羅々馬飼部が養育したことによるとも言われる。 鸕鷀野邑が讃良郡にあったとすると、「娑羅々馬飼」と「菟野馬飼」をどう区別すべきかという問題が生じる。 同一部の別名という考え方もあり得るが、鸕野讚良皇女が両者を並べて名を負うことを見れば、近接する地域の別の部と見るべきであろう(別項)。
吉野首 〈神武〉段に「尾人…僕者国神。名謂井氷鹿【此者吉野首等祖也】」(第98回)。 〈神武〉紀には「「臣是国神、名為井光。」此則吉野首部始祖也」(即位前)。 〈大辞典〉「吉野首:大和国吉野郡吉野の土豪也」。
紀酒人直 〈大辞典〉「紀酒人:紀国の酒部との関係は詳らかならず」、「紀酒人直:酒部阿比古、酒部公等とは別にて、倭漢氏の族なるが如し」。
采女造 改新詔其四に「采女者貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者」など。 〈大辞典〉は「采女部」を丹後、伊勢、参河他に見出している。ただ、采女部を采女の供給元にするのは改新詔以前の古い形態か。 既に本来の職務を失った一般的な氏族となっていたかも知れない。そして、采女造はその全体を統率する伴造か。
阿直史 〈応神〉段「阿知吉師者阿直史等之祖」(第152回)。 〈大辞典〉「近江の阿直史:天平十四年古市郷計帳に阿直史姪売見ゆ、犬上郡に安食郷あり、又阿自岐神社二座と神名式に見ゆ、 アヂキ、アジキ音通ず、此氏の住居せし地にして神社は氏神なるべし〔安食郷は阿直史の地で、式内阿自岐神社は阿直史の氏神と見られるから、阿直はアヂキまたはアジキと訓むのであろう〕の呉音はヂキであった。これについては、「「信濃」「相模」の「信・相」など韻尾を有する漢字一字に日本語の二音節があてられたものは少なくない」とされる(『日本漢字全史』〔沖森卓也;ちくま新書2024〕)。
高市県主 〈壬申紀〉20高市県主許梅がこれに当たる。 この時代には郡を統率する職名は大領であるが、古い時代の職名「県主」が姓として残ったと見られる。「国造」が祭祀家となったのと同じ意味合いだと思われる。
磯城県主 〈神武〉紀二年弟磯城名黒速。為磯城県主」。 また、〈綏靖〉は「師木県主之祖、河俣毘売」を妃とした(第102回)。 これらは伝説の時代のことだが、祝詞の六県が郡の前身として存在したことを反映したものと見られる。 〈延喜式-祝詞〉では「志貴」と表記される。
 磯城県主高市県主と同じく祭祀家として遺存していたのは確実で、さらに郡大領を兼ねていたことも考えられる。
鏡作造 天降り段「伊斯許理度売命者作鏡連等之祖」、〈神代紀上〉一書1「鏡作上祖石凝姥命」が見える(第83回)。 品部「鏡作部」は鏡作りに従事し、「鏡作造」がその伴造家であるのは明らかである。
《娑羅々馬飼造/菟野馬飼造》
 「名代について」〔告井幸男;『史窓』71(京都女子大学史学会2014〕は、 「名代氏族の名を負った皇子女の存在は、それらの氏族がその皇子女の養育を担当(乳母を出すことも含め)したことを示している」という(p.4)。 同論文は、例えば額田部皇女〔〈推古〉〕という名は、養育にあたった「額田部」を皇女の名前にしたのであって、皇女の名前が御名代の由来だとするのは話が逆であるとの考えを示す。 よって、娑羅皇女〔〈持統〉〕は、娑羅羅馬飼造が養育したことを示すという(p.3)。
 だとすれば、「鸕野讃良皇女」の「鸕野」の部分も菟野馬飼造を意味するはずだから、これらが併記されるのは二つの馬飼造が対等の立場で協力して養育に当たったことを意味することになる。 よって、両馬飼部は近接していただろうから、菟野村はやはり讃良郡内であろう。
《狩于倉梯》
 〈崇峻〉「倉梯柴垣宮」の地(第247回)。
《諸国習陣法》
 軍備を氏族に依存しない体制作りが、大化年間以来の課題であった。「諸国習陣法」はその延長線上にある。 〈孝徳〉大化元年八月の時点では、辺境の軍備を従来のまま氏族、あるいは国造に委ねた(《猶仮授本主》)。 一方、同年九月には、国が軍備を担うことを命じている。
《金主山/金長志》
沙飡〔八位〕一覧金主山 十三年二月丙子、筑紫で饗。三月乙巳、帰国。十四年四月壬辰にも「帰之」記事。
大那末〔十位〕金長志 以後は金主山に同行したと見られる。
《限分諸国之境堺》
伊勢王  十三年十月にも「諸国堺」。十四年十月「于東国、因以賜衣袴」。 朱鳥元年正月「言得」により種々の賜りものを得る。 同年六月、飛鳥寺に派遣され〈天武〉の病気を「安和」するために「三宝之威」。 九月辛丑〈天武〉崩、殯宮で「浄大肆伊勢王、誄諸王事」。
羽田公八国 〈壬申紀〉15羽田公矢国は北越方面将軍。17で三尾城を攻略。
多臣品治 〈壬申紀〉に「安八磨郡湯沐令」。
中臣連大嶋 十年三月定帝紀及上古諸事」の一人。持統七年に薨じた。
諸王n位」の推定
従来十四年正月丁卯
大織明大一位
小織
明広一位
大縫
小縫明大二位
大紫
明広二位
小紫
諸王一位浄大一位
浄広一位
諸王二位浄大二位
浄広二位
諸王三位浄大三位
浄広三位
諸王四位浄大四位
浄広四位
諸王五位
《諸王五位》
 「諸王n位」という表記は、四年三月の「諸王四位栗隈王」が初出。一方、四年四月の時点で「小紫美濃王」があるから、小紫以上は変更なしと見られる (《美濃王/紀臣訶多麻呂》)。
 よって「諸王一位」は小紫よりも下位だと考えられる。 伊勢王は十二年十二月「諸王五位」、朱鳥元年九月「浄大四」であるから、浄大四諸王五位よりもやや上であろう。
 「明広二位」以上の範囲が、養老令の一品四品に対応するところを見ると、「明広二位」と「浄広一位」の間に大きな区切りがある。
 以上から、諸王n位は「浄大n位+浄広n位」に分割されたと見ると理屈が合う(右表)。なお諸王五位以下は、浄広四位以上に吸収されたのであろう。とすれば、玉突き式に全体的に進階したと考えられる。
《四孟月必朝参》
 孟月は、四季それぞれの最初の月〔一月、四月、七月、十月〕をいう。 よって〈倭名類聚抄〉「十月:孟冬」という。ただ、他の三季は「一月:初春」・「四月:首夏」・「七月:初秋」となっている。
 今回に引き上げられた伴造などの多くは地方氏族の統率者であったから、中央官として定期的に朝廷に出仕すべきことを教育する必要があったと見られる。
《法官》
 法官は、令制の式部省の前身(七年十月《法官大弁官》)。
《都城宮室非一処》
 ここで、都の複数化を構想したことが示される。 実際、十三年二月には信濃が都に適するかどうかを調査させた。
 差しあたって難波京を再び都として整備するから、官人たちもそこに別宅を用意せよと命ずる。 難波京の摂津国は、奈良時代の終わりまで摂津職が治める特別の国であった (資料[19])。 さらに改新詔其二曰のところで見たように、難波宮には奈良時代の「正南北を意識した区割り〔条坊〕が見られるという。 これらのことから〈天武〉によるもう一つの都という位置付けは、奈良時代末まで継続したと見てよいだろう。
 その他、大宰府にも条坊が作られていて副都として位置づけられたと見てよい(《大宰府政庁説》)。
 なお、近江京の再興はなかった。近江朝廷の打倒のために大海人皇子の元に集まった氏族も、〈天武〉自身にとっても感情的にあり得ないのは当然である。
《百寮者各往之請家地》
 詔の閉じ括弧の位置は、"…欲都難波」"としても文章は成り立つ。しかし、詔である以上具体的な指示があるべきだから、"…請家地」"とすべきであろう。
《大意》
 十月五日、 三宅吉士(みやけのきし)、 草壁吉士(くさかべのきし)、 伯耆造(ははきのみやつこ)、 船史(ふねのふみひと)、 壱伎史(いきのふみひと)、 娑羅々馬飼造(さららのうまかいのみやつこ)、 菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)、 吉野首(よしののおびと) 紀酒人直(きのさかひとのあたい)、 采女造(うねめのみやつこ)、 阿直史(あぢきのふみひと)、 高市県主(たけちのあがたぬし)、 磯城県主(しきのあがたぬし)、 鏡作造(かがみづくりのみやつこ)の、 併せて十四氏に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)とされました。
 十三日、 天皇(すめらみこと)は倉梯(くらはし)で狩猟されました。
 十一月四日、 諸国に詔され、陣法を習わせました。
 十三日、 新羅は、沙飡(ささん)金主山(こんしゅせん)、 大那末(だいなま)金長志(こんちょうし)を派遣して、進調しました。
 十二月十三日、 諸王五位伊勢の王(おおきみ)、 大錦下(だいきんげ)羽田公(はたのきみ)八国(やくに)、 小錦下(せうきむげ)多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)、 小錦下(せうきむげ)中臣の連(むらじ)大嶋(おおしま)に、 併せて判官(まつりごとひと)録史(ふみひと)、工匠(たくみ)らを派遣し、 天下を巡行させ諸国の境界を確定させました。
 しかし、この年は確定させるに至りませんでした。
 十七日、 詔を発しました。
――「諸々の文武の官人、及び畿内の有位の人どもは、 四季の孟月〔一、四、七、十月〕には必ず朝廷に参集せよ。 もし死ぬような病のために参集できない者があれば、 その司は具(つぶさ)に記して法官(のりのつかさ)に申し送れ。」
 また、詔を発しました。
――「凡そ都城(みやこ)の宮室は、 一か所ではなく必ず二つ三つと作りたい。 よって、先ずは難波を都にしようと思う。 これにより、百寮の人はそれぞれ現地に行って家地の提供を受けよ。」


まとめ
 部民は公民化することにより、生産した富〔農産物、特産物、工芸品〕は国司経由で公に収められるようになる。 その結果、伴造は部民からの上納を失う。〈天武〉十二年のように伴造が連に取り立てられれば、上層部は食封を得られるが、下層は没落するという図式が見えてくる。 この見方に至ったのは、連に取り立てられた五十二氏を個別に見てみたからである。やはり細部に拘ることには意味がある。
 このように造・首・直姓を改め連姓を賜った背景には社会構造の変化があったに違いないが、その実態を詳しく知るためには更に勉強が必要である。引き続き文献や研究論文を探したい。
 なお、伴造のトモは、朝廷に仕える意味と説明するものが多いが、これは天孫降臨に同伴した「五伴緒いつのとものを神」(第83回)に引き摺られたと思われる。 実際には、同族の配下をトモと呼んだと考えるのがよい。なぜなら、伴造と対になる国造はクニのミヤツコ〔統率者〕だからである。



[29-17]  天武天皇下(7)