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2025.06.10(tue) [29-12] 天武天皇下12 ▼▲ |
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48目次 【十年正月~二月】 《立草壁皇子尊爲皇太子》
十年の年初の行事は、神祇への幣帛の配布、百寮諸人の宴、朝庭での射技が記されている。 《御向小殿》 「御向」は向の尊敬語にも見えるが、ミ-〔御〕は基本的に名詞への接頭語なのでそれでは動詞がなくなってしまう。 ここでは「御」を動詞〔オホマシマス〕、「向」は小殿の連体修飾語としておく。 《内安殿/外安殿/大極殿》 「大極殿」は〈皇極〉紀から見えるが、修辞と思われる。書紀における朝堂院の公的建物の一般名称はすべてアンドノ〔安殿〕であって、それが書紀古訓に繋がったと思われる (〈皇極〉四年《大極殿》項)、《小殿/大殿》項)。 浄御原宮にも実際には大極殿と名付けられた施設はなく、これも修辞であろう。ただ後の藤原宮は朱雀大路の正面に置かれた姿から見て、その中心施設に実際に大極殿という名称が使用されたことが考えられる。 《草香部吉士大形》 姓「吉士」は、吉志と表記されたこともあったと思われる。
《射于朝庭》 この年も「射二于朝庭一」と書かれる(《射于南門》項)。 初位(うい)の小建の授与は成人の儀式である。「射」は成人を祝す場でもあったと思われる。 《定律令改法式》 いずれ大宝律令に結実するが、〈天武〉朝の段階でも既に律令が整えられた可能性があり、〈持統〉三年に諸司に配布した「一部廿二巻」がそれにあたると考えられている (二年五月《先令仕大舎人》項) ここでは「定二律令一改二法式一」が通常の政務の遂行の妨げになりかねないことに注意喚起した。律令の制定はそれだけ重大事であったことが分かる。 《大極殿》 上述。 《尊》
これで高市皇子との差は一層広がった。壬申の功労者が中枢から遠ざけられる傾向は、明瞭である。 新しい秩序を築く時期に、かつての武闘派が大きな顔をして残っていることは妨げにしかならない。この法則は、後世の豊臣政権の末期や徳川幕府の立ち上げでも見られた。 《阿倍夫人》 夫人が「出身氏族名+"夫人"」と呼ばれる習慣は一般的であった(《夫人》項)。 この夫人は、〈天智〉紀では「嬪」と呼ばれた(天智七年)。 〈天智〉七年、〈天武〉二年の妃リストから「阿倍夫人」に該当する夫人を探すと、唯一阿部倉梯麻呂大臣女の「橘姫」が該当する。
《大意》 十年正月二日、 幣帛(みてぐら)を[於]諸神祗頒布されました。 三日、 百官はこぞって朝庭で拝礼しました。 七日、 天皇(すめらみこと)は、向いの小殿にいらっしゃり宴を賜りました。 この日は、 親王、諸王を内安殿に招き入れ、 諸臣は皆外安殿に侍り、 ともに御酒(みき)を置かれ、音楽舞踏を賜わりました。 大山上(だいせんじょう)草香部吉士(くさかのきし)大形(おおがた)に 小錦下位(しょうきげい)を授け、 さらに姓(かばね)を賜わり難波連(なにわのむらじ)とされました。 十一日、 境部連(さかいのむらじ)石積(いしつみ)に勅して、六十戸を封し、 よって絁(ふときぬ)三十匹(ひつ)、 綿百五十斤、 布百五十端、 鍬(くわ)百本を給いました。 十七日、 親王以下小建以上が、朝庭で弓射しました。 十九日、 畿内と諸国に詔して、天社、地社、神宮の整備を命じました。 二十五日、 天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)はともに大極殿にいらっしゃり、 親王、諸王、諸臣を喚(め)して、 詔されました。 ――「朕は今また律令の定め法式の改めを、 ともに撰集させる。 しかし、ひたすらこの務めばかりに専念すれば、公事におろそかになる。 よって、人を分けて事を行うべし。」 この日、 草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を立太子されました。 そして摂政として政を委ねられました。 二十九日、 阿倍夫人(あべのおおとじ)が薨じました。 三十日 小紫位当摩公(たぎまのきみ)豊浜が薨じました。 49目次 【十年三月~四月】 《令記定帝紀及上古諸事》
上述。 《令記定帝紀及上古諸事》
〈天武〉紀・〈持統〉紀・〈続紀〉を総合すれば、弥努王・美努王が三野王と同一人物であったことは動かない。 ここでは、〈壬申紀〉の美濃王について考える。 壬申年六月二十六日には、 大海人皇子の東国入りを知って近江朝内がパニックに陥り、慌てて筑紫大宰の栗隅王に使者を送ったことになっている。 そのとき三野王は、父栗隅王の傍らに立って大友皇子が送った使者に睨みをきかせた(A)。 一方、六月二十四日甘羅村を過ぎたところで美濃王を呼び寄せた(B)。 これでは、美濃王・三野王は同一人物とはなり得ない。 しかし、〈天武〉・〈持統〉朝に弥努王のはたらきが書かれ、〈続紀〉では左京大夫、摂津大夫を歴任した美努王は、〈続紀〉天平宝字元年条で栗隈王の子であることが明確化される。 このように業績を重ねた人物であるから、その端緒として六月二十四日条に「美濃王」のこと(B)が置かれたことは考え得る。 すると〈壬申紀〉では各地に使者を送ったことを二十六日段に書くが、実際に使者を送った時期はそれより何日か前だと考えてみたらどうであろうか。近江から筑紫までの使者の行程は少なくとも数日を要したはずである。既に皇大弟への警戒して手が打たれていたと考える方が自然である。 そこでBを三野王の功のひとつに加えたとする判断を優先し、 Aの実際の日付を遡らせることを選びたい。 すなわち、皇大弟側の事前工作によって栗隅王はすでに皇大弟についていて、決戦の火ぶたが切られれば美濃王を送ることが約束された。 大友皇子が送った使者は既に時遅く、Aという結果に終わった。この筋書きを用いれば、全体像はかなりすっきりする。 なお、ミノ甲王の表記の多様さは、それだけ多くの文献資料に登場したことの表れであろう。大活躍したのである。 《帝紀及上古諸事》 日本書紀の編纂はこの〈天武〉の指示によってスタートしたといわれるが、それにしては681年は720年までの歳月は長すぎるので、俗論とも思われる。 これに関しては、古事記序文の「撰録帝紀。討覈旧辞」が書紀の「記定帝紀及上古諸事」と同じ表現であることが注目される(第18回)。この文は天武天皇の段の中にあるので、〈天武十年〉の「令記定帝紀及上古諸事」を指すように思われる。 なお、古事記と書紀との関係については、書紀のために集めた伝承資料を繋ぎ合わせて古事記にまとめられたと見た(第251回)。 古事記序文には、「然運二-移世異一、未レ行二其事一矣」〔しかるに、世は移り事は成し遂げられなかった〕。 そして、〈元明〉天皇〔在位707~715〕の詔旨によって「惜二旧辞之誤忤一。正二先紀之謬錯一」して和銅四年〔711〕九月十八日に献上した。これは文脈から見て元明天皇の詔旨に応えたものである。 これは古事記に関する記述ではあるが、元明天皇の詔は実際には中断されていた書紀編纂の再開を命じたものであって、並行してまとめられた古事記がまず〈元明〉在位中に献上されたと読むことは可能である。 古事記は書紀とは独立した書であるが、両者の編纂は共通スタッフによって不可分の形で進められていたから、古事記もまた〈天武〉〈元明〉の詔に応えたものに含まれるという自負が、太安万侶にはあったのであろう。 なお、〈天武〉九年で命じられたメンバーのうち、書紀が献上された時点で確実に生存していたのは広瀬王と桑田王に過ぎない。筆記を担当した阿曇連稲敷と難波忌寸大形は恐らく若手であろうが、700年代にはそれぞれの氏上と見られる人物は別名であるから、生存していなかっただろう。 舎人親王の生まれ年〈天武〉五年が確かだとすれば(〈天武〉七年《兄弟長幼并十余王》項)、元明元年には三十二歳である。 川嶋皇子や忍壁皇子らの作業の途中のまま残されていた資料や草稿を引き継ぎ、作業を再開したとみられる。 《地震》 詳細は不明。 《新宮井上》 「新宮井上」を特定しようとする試みは、〈釈紀〉、集解、通証には見えない。 一方、七年四月条に「霹靂新宮西庁柱」とある。 そこではエビノコ郭は新築と見られるが、むしろ後飛鳥宮だった全体に手を加えて新宮と称したと見た。 地名「井上」もなかなか見えないので、宮殿の敷地の一角を指したと見るのが妥当か。 《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項参照。 《禁式九十二条》 「庶民」とはいうが、宝飾品や高級な衣服を用いる富裕層が対象であろう。 《辞具有詔書》 主語は「辞」であるからこの場合「在」を使うのが正しい。「有詔書」では「詔書」自体が存在するという意味となる。 《姓曰連》
《椹此云武矩》 「武規」とする本も見るが、万葉仮名一覧には殆ど「規」は拾われていない。一サイトだけ「規:キ乙」があったが、それは書記のこの個所を「武規」と読んだことによると思われる。 椹は、『新撰字鏡』に「牟久乃木」とあるので、植物名ムクに宛てた字のひとつであった。 これを見れば、訓注はもともと「武矩」であったことは明白である。 《高麗客卯問》
三月四日、 阿倍の夫人(おおとじ)を葬しました。 十七日、 天皇(すめらみこと)は大極殿にいらっしゃいまして、 以って川嶋皇子、 忍壁(おさかべ)皇子、 広瀬王(おおきみ)、 竹田王、 桑田王、 三野王、 大錦(だいきん)下(げ)上毛野君(かみつけののきみ)三千(みち)、 小錦中(ちゅう)忌部連(いんべのむらじ)首(おびと)、 小錦下阿曇連(あづみのむらじ)稲敷(いなしき)、 難波連(なにわのむらじ)大形(おおかた)、 大山上中臣連(むらじ)大嶋、 大山下平群臣(おみ)子首(こびと)に詔され、 帝紀と上古の諸事を記し定めさせました。 大嶋と 子首は、 自ら筆を取って録しました。 二十一日、 地震あり。 二十五日、 天皇は新宮の井の上にいらっしゃり、 鼓笛の音を発しさせてみて、 よって調習させました。 四月二日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。 三日、 禁式九十二条を立てられ、 詔されました。 ――「親王以下庶民まで、諸々着用するものは、 金、銀、珠玉、 紫や錦の刺繍や綾織り、 及び氈(おりかも)の褥(とこしき)〔寝具〕、冠、帯、 そして種々の類を、 それぞれの格によって着用せよ。」 言辞は具(つぶさ)には詔書にあります。 十二日、 錦織造(にしこりのみやつこ)小分(こきだ)、 田井直(たいのあたい)吉摩呂(よしまろ) 次田倉人(すきたのくらひと)椹足(むくたる) 石勝(いしかつ)、 川内直(かふちのあたい)県(あがた)、 忍海造(おしのみのみやつこ)鏡(かがみ) 荒田(あらた) 能麻呂(よしまろ)、 大狛造(おおこまのみやつこ)百枝(ももえだ) 足坏(あしつき)、 倭直(やまとのあたい)龍麻呂(たつまろ)、 門部直(かどべのあたひ)大嶋、 宍人造(ししひとのみやつこ)老(おゆ)、 山背狛(やましろのこま)の烏賊麻呂(いかまろ)の、 併せて十四人は姓(かばね)を賜り、連(むらじ)となりました。 十七日、 高麗の客卯問(みょうもん)たちを筑紫で饗して、 それぞれに応じて賜禄しました。 50目次 【十年五月~七月】 《六月壬戌地震》
帝紀の記定と軌を一とするものと言えよう。皇統を、国のアイデンティティの根幹とするのである。 《恭敬宮人過之甚》 官職として権限を持つものに対しては、必然的に陳情や賄賂が発生する。官職は特権になることを防ごうとする。 また、皇親政治に伴うものともいえよう。 《高麗卯問》 上述。 《新羅客若弼》
今年も雨乞い儀式が行われた。やはり恒例行事化していたように思われる(九年七月)。 《地震》 詳細は不明。 《朱雀》 九年七月「朱雀有南門」の重出の可能性もある。 なお、そこでは「造朱雀門」が誤った形で伝説化したのではないかと考えた。 《遣新羅国/遣高麗国》
《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項参照。 《天下悉大解除》 この時期は、「祭二皇祖御魂一」とともに神道への復帰傾向が見える。 《国造》 国造は、かつての地方統治の実権を有する者から転じて祭祀家となっていった〔律令国造〕ことが、ここにも表れている。 ただし、初期の郡大領・少領には国造が横すべりした。〈壬申紀〉20段の「高市県主許梅」は祭祀家と郡大領の両者を兼ねていたと思われる。 しかし、祭祀家としての律令国造と群大領は時の流れとともに分離していったようである。 《大意》 五月十一日、 皇祖の御魂の祭祀をしました。 この日、 詔を発しました。 ――「凡(およ)そ、百寮の諸人は、 官人を恭敬することが度を過ぎて甚だしい。 あるいは門前に詣でて自身の訴えを告げる。 あるいは賄(まいない)を捧げてその家に媚びる。 今後、 もしこのようなことがあれば、事に応じて両者の罪とせよ。」 二十六日、 高麗の卯問(みょうもん)が、帰国しました。 六月五日、 新羅からの客〔=使者〕金若弼(じゃくひつ)を築紫で饗して、 それぞれに応じて賜禄しました。 十七日、 雨乞いしました。 二十四日、 地震あり。 七月一日、 朱雀が見られました。 四日、 小錦下(しょうきんげ)采女臣(うねめのおみ)竹羅(つくら)を大使、 当摩公(たぎまのきみ)楯(たて)を副使として、 新羅国に派遣しました。 同じ日に、 小錦下佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を大使に、 小墾田臣(おはりたのおみ)麻呂(まろ)を副使として、 高麗国に派遣しました。 十日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。 三十日、 天下に悉く大解除(おおはらえ)させました。 この時に当り、 国造(くにのみやつこ)らは、それぞれ祓柱(はらえつもの)と奴婢一人を出して、 解除(はらえ)しました。 まとめ 天照大神が石窟に閉じこもり、何とか引き出そうとする場面では「中臣・忌部が天照の近くで存在感を際立たせようと張り合う」、 そして「物語は天上世界で展開するが、それを編纂する現場ではとても人間臭い駆け引きが繰り広げられた」と述べた(第50回)。 この天児根命と太玉命の功名争いは、中臣氏と忌部氏が執筆陣内で有力な立場にあった結果と考えられている。 すると、〈天武〉十年に「令レ記二-定帝紀及上古諸事一」により始まった事業は一定程度進み、 長い中断を経て日本書紀に繋ったと考えて差し支えないであろう。 さて、古くは〈推古〉二十八年是年条の太子と蘇我馬子による「録天皇記及国記」があった。書紀のためにこれも十分に用いられたと思われる。 というのは、神功皇后段の「新羅国者定二御馬甘一。百済国者定二渡屯家一」(第141回)という規定は、〈天武〉では既に現実的な意味を失っている。 〈推古〉十八年には新羅からの使者を二班に分けさせ、その一方に「任那使」を装わせた。 この時期、任那を何とか形式的に維持し、つまりは三韓全体が倭国に従属する姿を見ようとして躍起になっていた。 神功皇后像の創出は当時の情勢を反映したもので、それが「天皇記及国記」に書かれていたのであろう。 〈天武〉朝においては百済は既に滅び、神功皇后紀などはきれいに忘れ去られた如くで、新羅は普通に隣国としての付き合いとして描かれている〔ただ使者を朝貢使と称するのは形式的記述で、国家の自尊心による〕。 現実的には百済の再興のための再攻などは起こり得ず、書紀内にある断絶は顕著である。これは、つまりは太子・馬子時代の文献資産をそのまま取り入れたことを示すものであろう。 |
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2025.06.20(fri) [29-13] 天武天皇下13 ▼▲ |
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51目次 【十年閏七月~九月】 《遣多禰嶋使人等貢多禰國圖》
閏は書紀古訓では一般に「ノチノ」と訓まれているが、〈北野本〉を見るとウルフもあったことが分かる。ウルフは「潤」の直訳であろう。 《皇后誓願之大斎》 ここでは、主語が皇后になっているところが注目される。これまでに、皇后は独自の権力を持っていたことが見えた。 八年《皇后之盟》項では、皇后の実権はほぼ〈天武〉と同等と見た。 《丙子》 丙子〔十日〕は、前段の「八月丁卯朔丁丑」〔十一日〕とは日付が逆転している。 次の日付「壬午」までの戊寅・己卯・庚辰・辛巳に「丙子」と誤読されそうな日はないので、実際に逆転していると見られる。 文章にして書く段階での錯誤で、以後も見落とされたと思われる。 《毛野君三千》
「既訖」は十年の納税猶予が終了した、よって納税を再開せよとも読めるが、後半が「加えて子孫の課役や税も免除せよ」という内容なので繋がらない。 よって「既訖」は、「十年間免税せよと既に指示した」という意味であろう。 詔全体としては、三韓からの帰化者を優遇している。おそらく、優れた技能・才能をもつ人を迎え入れることによって国力を充実させる意図であろう。 《伊勢国貢白茅鴟》 茅鴟は、フクロウまたはミミズク(〈皇極〉三年三月《休留》項)。種々の動物の白色個体は、見つかるたびに祥瑞として報告された。多くはアルビノであろう。
八年十一月には、多祢国王に爵位一級を賜って関係を強化した。 ここでは土地の図面を献上し、さらに「多祢嶋人等」を「飛鳥寺西河辺」で饗するという内容を見ると、多祢国が朝廷に遣使したと読むのが自然である。 しかし、「遣二多祢嶋一使人」は朝廷が多祢嶋に遣わした使者という意味であって、これ以外には読めない。 これを「多祢国遣遣使人朝貢」に作りたくなるが、ひとまず原文を重んじて、朝廷が使者を多祢嶋に派遣して遣使を促し、使者を連れてきたと読むことにする。 なお、多祢嶋との関係強化は新羅の海洋進出への警戒が背景にあり、今回もその続きと言える(《調物…馬狗騾駱駝》)。
多祢嶋=種子島であろうことは、〈崇峻〉五年、〈推古〉二十四年で見た通りである。 《去レ京五千余里》 球面上の二点間の距離は、中心角1°あたりの孤長×中心角である。飛鳥宮跡〔34.472253N 135.821936E〕―種子島西之表〔30.72531N 130.994659E〕を通る大円の弧の中心角は、5.528338358°である。 これに中心角一度の弧長111.11kmをかけると614kmとなる。 一方令制の1里=300歩、1歩=1.8mなので、1里=540m。 すると、614km=1137里となる。したがって「去レ京五千余里」は現実の数値とは無関係で、遠距離を表す観念的な表現ということになる。 《一殖両収》 「一殖両収稲」は、再生二期作であろう。刈り取った後のひこばえから再び伸びてつけた穂を、もう一度収穫する農法をいう。 現代の実例は「高知県南国市における水稲再生二期作栽培の事例」〔田所 学;『日本作物学会紀事』68巻4号1999〕に見える。 温暖な土地ならではである。 したがって、「ひとたびうゑてふたたびをさむ」と訓読する。 《支子》
〈続紀〉天平十四年〔742〕正月「給二武官酒食一…仍齎〔=贈る〕…主典已上支子袍帛袴」が見える。 支子袍はクチナシ染めの袍〔朝服の上衣〕である。 〈倭名類聚抄〉には「梔子:梔【音:支】子。木実可レ染二黄色一者也。【和名:久知奈之】」とあり、すなわち梔子 支子が梔子の別表記であったことは間違いない。 書紀古訓では支子にクチナシが添えられる。クチナシという倭語は上代からあったかも知れないが、〈時代別上代〉が見出し語にしていないのは飛鳥・奈良時代の文献に仮名書きが見つからなかったためと見られる。 《莞子》
(万)3417「可美都氣努 伊奈良能奴麻乃 於保為具左 かみつけの いならのぬまの おほゐぐさ」がある。 書紀古訓「ガマ」については、「莞蒲」という熟語があり、これは蓆 《若弼》
「遣高麗新羅使人等」は、采女臣竹羅・当摩公楯〔遣新羅使〕、 及び佐伯連広足・小墾田臣麻呂〔遣高麗使〕。五月四日に派遣された。ここでは復命したことを意味する。 高麗の安勝王は〈天武〉十三年に取り潰される。 安勝王は新羅による傀儡政権であるが、内々に自立を志向していたことは十分考えられる。 高麗からの遣日本使は常に新羅送使によって監視されていたが、それでも自立に向けて日本政権の協力を得ようとしていたと見てよいであろう。 今回の「拝朝」は、両者に調べさせた新羅高麗の情勢を聞き、その件への対応を綿密に協議したとみられる。 《周芳国》 周芳国〔周防国〕は、ここが文献における初出。周芳が音仮名表記だとすれば、もともとはスハ国と呼ばれていたことになる。 ただ〈倭名類聚抄〉は「周防【須波宇】」なので、少なくとも平安中期にはスハウ 《赤亀》 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に赤亀はない。「赤-」には赤羆・赤熊・赤兎・赤烏・赤燕・赤雀〔上瑞〕、赤狐・赤豹〔中瑞〕が見える。 「亀」は神亀〔大瑞〕、これは年号に用いられた。 一般に書記に載る祥瑞の実例は、〈延喜式〉には拾われていない。 《嶋宮》
《氏上未定者》 四年《甲子年諸氏被給部曲》項では、 〈天武〉が皇大弟時代の〈天智〉三年に自ら与えた栄誉を、〈天武〉四年にはご破算にしたことを見た。 しかし、ここでは再び氏上を定めて報告することを求めた。 どうやら、氏族との距離感の取り方に苦労している。氏族の側から見れば、氏上を報告してしまうと、同時に統制下に置かれることを警戒していたと考えられる。 《理官》 2025.09.25 〈倭名類聚抄〉「治部省【乎佐牟留都可佐】」の前身であろう(資料[24]) 《飛鳥寺西河辺》 飛鳥寺西は、シルクロードの西方からの客や、蝦夷、粛慎などを接待する会場として用いられてきたが、 唐や三韓の使者をここで接待した記事は見えない。特異な性格の空間だったようだ (【飛鳥寺西の須弥山石】項)。 《篲星》 『新唐書』-天文志。開耀元年九月丙申〔10/20〕「有二彗星於天市中一。長五丈。漸小、東行至二河鼓一」、「癸丑〔十八〕〔11/6〕:不レ見」(資料[69])。 ☆現代のそれぞれの星の位置(資料[68]による): ●宦者(天市垣):星数4。〔推定〕「ヘルクレス座60番星 赤経 17h 05m 22.66s 赤緯 +12° 44'27.1"」。 ●河鼓 ☆681年当時 ●宦者:「赤経 15h 59m 13.70s 赤緯 +15°44' 04.36"」 ●河鼓:「赤経 18h 44m 16.33s 赤緯 +03°40' 21.31"」
熒惑〔ケイゴク・ケイワク〕は火星。火星食と見られるが、実際には接近のみともいわれる。 「日本書紀天文言己録の信頼性」〔河鰭公昭;『国立天文台報』第五巻(2002)〕は、 「火星が月の縁をかすめたもので,地球回転の減速の補正値の取り方次第で掩蔽は起こらない計算になる」と述べる。 《大意》 閏七月十五日、 皇后(おほきさき)は、 誓願され大斎され、 経を京内の諸寺に説かせられました。 八月十一日、 大錦下(だいきんげ)上毛野君(かみつけのきみ)三千(みち)が卒しました。 十日、 三韓の諸々の人に詔しました。 ――「先日、十年間は調と税を免除させることを、既に訖えた。 また加えて、帰化の初年に共に来た子孫は、 並びに課役を悉に免除せよ。」 十六日、 伊勢国は、白い茅鴟〔ミミヅク〕を献上しました。 二十日 多祢(たね)の嶋に派遣した使者らが、多祢国の図を献上しました。 その国は京を去ること五千余里、 筑紫の南の海中にあります。 髮を切り草の裳をもちいます。 粳稲〔=うるち米〕は常に豊かで、一度植えて二度収穫します。 土毛〔=国の産物〕は、支子(くちなし)、莞子(ふとい)及び種々の海産物など多くあります。 この日、 若弼(じやくひつ)は帰国しました。 九月三日、 高麗と新羅に派遣した使者たちは共に帰国して拝朝しました。 五日、 周芳国は、赤亀を献上し、 嶋の宮の池に放ちました。 八日、 詔を発しました。 ――「凡そ、諸氏に氏上(うじのかみ)を未だ定めていない者がいる。 それぞれ氏上を定め、理官に申し送れ。」 十四日、 多祢の嶋の人らを飛鳥寺の西の河の畔で饗し、 種々の楽を奏しました。 十六日、 彗星が見られました。 十七日、 熒惑(けいわく)〔火星〕が月に入りました。 52目次 【十年十月~十二月】 《十月丙寅日蝕》
資料[83]で行ったシミュレーションでは、飛鳥で部分日食が見えるのは昼前の二時間ほどで、食分の最大値は0.21となっている。 この程度では、予備知識がなければ見逃されたかも知れない。 しかし、〈天武〉四年には占星台の記事から、天体観測が継続的になされていたことが考えられる。 中国の暦法によって予定日を知り、待ち構えて観測した可能性はある。 なお、天体望遠鏡のない時代でも、ピンホールカメラの原理で日光を小さな穴を通して投影して観測することができる。 木漏れ日は木の葉の隙間がピンホールとなって、欠けた太陽の像を数多く地面に投影する。庶民がこれに気づいた可能性もある(右図)。 国立天文台公式の[過去の日食の画像]に、日食時の木漏れ日の記事がある。 《地震》 詳細は不明。 《金忠平/金壹世》
《鹿皮》 (万)3885「佐男鹿乃 来立嘆久 頓尓 吾可死 王尓 吾仕牟 吾角者 御笠乃波夜詩…吾皮者 御箱皮尓… さをしかの きたちなげかく たちまちに われはしぬべし おほきみに われはつかへむ わがつのは みかさのはやし…わがかはは みはこのかはに…」から、 鹿皮が箱の外装などに利用されていたことが知れる。 《霞幡》 もともと「綿霞幡」であるが、岩波文庫、『日本古典文学全集』〔小学館〕ともに「霞綿幡」に作る。 〈釈紀〉の時代は、述義で「霞幡:私記曰。師説。此幡之製。似朝霞之色故名」〔この旗の製は朝霞の色に似る。故に名づく〕とあるように、まだ綿霞幡である。 「霞錦」説は江戸時代になって現れた。 『通釈』は「霞錦;本に錦霞に作る。今旧本の訓にカスミイロノニシキとあると。下文朱鳥元年に霞錦とあるに依る」と述べる。 確かに、朱鳥元年四月には「金銀霞錦綾羅」とある。 ここで霞について調べると、『芸文類倭名聚』に「言下黄帝乗レ龍升レ雲、登二上朝霞一」とある。 〈汉典〉は「朝霞:太陽升起時東方的雲霞」すなわち、太陽が昇るときの東の空の色をいう。 色の名であるから、綿の色・幡の色のどちらもあり得る。したがって、他の個所に「霞綿」があったとしてもそれに合わせるべきとまでは言えない。 《天皇皇后太子》 この時点の太子は、草壁皇子尊。 以前に天皇皇后太子に贈り物攻勢をかけたときは、日本に耽羅から手を引かせる意図があった(《調物…馬狗騾駱駝》)。 新羅は高麗の安勝王が自立志向をもって日本の協力を求めていることを既に把握していて(上述)、今回の天皇皇后太子への贈り物攻勢には高麗から手を引かせる意図が伺われる。 《各述意見》 冠位二十六階の最下位の小建まで広げて、積極的に意見具申を求める。 一方で氏族への統制は強めているから、外からの干渉に左右されず、官の正規の機関が責任をもって活動すべきだという考え方の現れであろう。 そのために位階の区別なく積極的に発言することを促し、組織を活性化させようとする。 《広瀬野》
『大日本地名辞書』は「今百済村に属す、葛城川の東畔に居る。「…広瀬野、而行宮…」とあるは此地ならん」と述べる。 広瀬行宮に比定し得るような遺跡が発見されているわけではないから、その候補地は概念的な推定に留まる。 なお、[木簡庫]によると、飛鳥池遺跡南地区から「散支宮」と読める木簡が出土している。 散支は〈倭名類聚抄〉{大和国・広瀬郡・散吉郷}にあたり、「「散支宮」は広瀬行宮そのものを指す可能性もある」という。 《軽市》 軽市は、下ツ道と安倍山田道〔横王子〕の交差点付近に開かれ、活発な商業活動が行われていたと考えられる。 〈懿徳〉天皇段(第104回)で「軽之堺原宮」の位置を考察するのに伴って述べた(【軽】項)。 《検校》 「親王以下及群卿」を主語とすると、小錦以上の大夫が木の下で並んで座って参観し、大山位以下の者が馬に乗って行進したことになる。 これでは見る側の人数が多すぎて、検校のイメージに合わない。 やはり「検校」の主語は天皇とするのが自然か。 つまり、当初は広瀬野で観閲することを予定して行宮を建てたが、辺鄙な土地なので賑やかな軽市に会場を変更し、そこで天皇が「検校」したと読んでみたらどうだろうか。 なお、「共に」は「小錦以上」及び「大山位以下」とも読めるが、高位の者がぞろぞろ歩き、低位の者が馬に乗って行くのは逆である。 よって「共に」は「大山位以下者」の部分のみにかかると読むべきである。 《新羅王薨》 『三国史記』-新羅本紀:文武王二十一年「秋七月一日王薨。諡曰二文武一。群臣以二遺言一葬二東海口大石上一。俗伝二王化為一レ龍、仍指二其石一為二大王石一」と記される。 《地震》 詳細は書かれない。 《河辺臣子首》
《金忠平》
《授小錦下位》
舎人連糠虫は同じ日に連姓を賜っているから、授位儀式への病気欠席は考えられない。想像をたくましくすると、糠虫と同じく連姓を賜った書連智徳が一人小錦下位を授かったことが後から分かり、糠虫はどうなっているのかと一族が騒いだ。 その結果翌年正月癸卯に小錦下を授けられ、書類上の日付は他の九名に合わせて十二月癸巳とされた。 このような頗 《賜姓曰連》
十月一日、 日食あり。 十八日、 地震あり。 二十日、 新羅の沙㖨(さたく)部一吉飡(いつきつさん)金忠平(こんちゅうへい)と 大奈末(だいなま)金壱世(こんいちせい)を派遣して貢調したものは、 金、銀、銅、鉄、錦、絹、鹿革(しかがわ)、細布の類で、 それぞれ多数ありました。 それとは別に天皇、皇后、皇太子に献上したものは、 金・銀・錦・霞(かすみ)色の幡〔=旗〕、革の類で、 それぞれ多数ありました。 二十五日、 「大山(だいせん)位以下、小建(しょうけん)以上の人たちは、 それぞれ意見を述べよ。」と詔されました。 この月には、 天皇(すめらみこと)は、 広瀬野に集めて検校したいと思われ、 行宮を構え終えました。 宮の装いは既に整っていましたが、 天皇の車駕は遂に来ませんでした。 ただ、親王以下群卿まで、 皆が軽の市に集まり、 裝束、鞍馬を検校されました。 小錦以上の群卿は皆樹の下に列して座りました。 大山位以下の者は皆自ら鞍馬に乗って、 共に大路沿いに南から北に行進しました。 新羅の使者が来て 「国王(こきし)が薨じました。」と告げました。 十一月二日、 地震あり。 十二月十日、 小錦下(しょうきんげ)河辺臣(かわべのおみ)子首(こびと)を筑紫(つくし)に派遣し、 〔翌年正月十一日に〕新羅の客忠平に饗させました。 二十九日、 田中臣(たなかのおみ)鍛師(かぬち)、 柿本臣(かきもとのおみ)猨(さる)、 田部連(たべのむらじ)国忍(くにおし) 高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)、 粟田臣(あわたのおみ)真人(まひと)、 物部連(もののべのむらじ)麻呂(まろ)、 中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おおしま)、 曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)、 書直(ふみのあたひ)智徳(ちとこ)、 合計十人〔ママ〕に小錦下位を授けました。 この日、 舎人造(とねりのみやつこ)糠虫(ぬかむし) 書直(ふみのあたい)智徳(ちとこ)に、連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。 まとめ 〈天武〉朝のはじめは軍政を解除し、芸能の振興を促すなどして国内は明るい空気に満ちていた。 後半になると、次第に諸族への統制を強め、自立した官僚組織の確立に向かう。 群卿への進階は、政府機関の機能を強化するのが狙いである。舎人連糠虫の進階に伴うトラブルがあったとすれば、その文脈中に位置づけることができよう。 外交面では、新羅との対応が引き続き重要課題であった。多祢嶋との関係強化の背景には、新羅の海洋進出がある。 この時期には、自立志向を見せて日本へ接近を試みる高麗と、それを防ごうとする新羅の綱引きが繰り広げられている。 |
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2025.06.24(tue) [29-14] 天武天皇下14 ▼▲ |
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53目次 【十一年正月~三月】 《遣于新城令見其地形仍將都矣》
上述。贈大錦上位は、四段階特進。〈壬申紀〉にはでてこないが、功は格別に大きかったのであろう。 《三野王》
令制宮内省の前身(資料[24])。 〈倭名類聚抄〉による訓みは「宮内省【美夜乃宇知乃都加佐】」。 《新城》 「新城」については、五年是年《将都新城》項にもあり、考察した。 ここでも特定の地名ではなく、新しい都の意味であろう。五年に建都を中止したから、再び始めたことになる。 己酉には、天皇が親ら視察する。 《陸奧国蝦夷》 日本海側の越蝦夷に対して、太平洋側の蝦夷を陸奧国蝦夷という(下述)。 朝廷領の北方ラインは、まだ多賀柵(天平九〔737〕、多賀城市)には達していないと見られる(資料[72])。 境界では交易により関係を深めつつ、うまくいくようなら倭人の行政下に組み込んでいく。それを形で表すのが、爵位の授与である。 《境部連石積》
《新字一部四十四巻》 『新字』は逸書。古事記の序文には、倭語を漢字で表現する方法を研究したとある(第25回)。その際、そもそもどのような漢字が存在するかを知らねばならない。 字典の充実は必須なのである。 「新字」と名付けたのは、以前からそれなりに字典が存在したからであろう。 《位冠及襅褶脛裳》 「位冠」は廃止され、六月丁卯条で「漆紗冠」に置き換えられた。 次に書かれる「襅褶脛裳」とは、何だろうか。 ●襅 一般的には「ちはや」。巫女が用いるたすき、また巫女の上衣を指すが、ここでは文意に合わない。 ●褶 一般的な意味は「ひだ〔地層が波打つ変形を地学用語で「褶曲」という〕。あわせの衣類。乗馬用上着」だが、ここでは衣類の一種を指す。
●脛裳 書紀古訓では、ハバキ、ハバキモ。
〈倭名類聚抄〉「行纏」項に、「…脛巾【俗云波々岐】」。
脚絆のようなものと解されている。
「位冠」が廃されたことについては、「圭冠」(漆紗冠)に置き換えられる。 十一年の「詔」は方向性のみで詔勅としては不完全なので、ミコトノリと訓読することは避けるべきか。 《手繦肩巾》 ●手繦 神代紀「由此、発慍、乃入于天石窟」段に「【手繦、此云多須枳】」とある (第49回) ●肩巾 大国主命段(第59回)では魔除けとしての比礼を語る。
〈欽明〉二十三年《歌意》
実際には、これ以後にも増封の記事がある。 〈持統〉五年正月「直広肆筑紫史増、…賜二食封五十戸…一」、 七年二月「賜二大学博士勤広弐上村主百済、食封卅戸一、以優二儒道一」、 七年十一月「以二直大肆一授二直広肆引田朝臣少麻呂一、仍賜二食封五十戸一」が見える。 よって、ここでは食封そのものの廃止ではなく、白紙に戻して再配分する意味であろう。どのように再配分するかの方針が示されないので、これも完全な詔勅とは言えない。 《土師連真敷》
十一年正月九日、 大山上(だいせんじょう)舎人連(とねりのむらじ)糠虫(ぬかむし)に、 小錦下(しょうきんげ)位を授けられました。 十一日、 金忠平(こんちゅうへい)を筑紫で饗されました。 十八日、 氷上(ひかみ)の夫人(おおとじ)が宮殿内で薨じました。 十九日、 地震あり。 二十七日、 氷上の夫人を赤穂に埋葬しました。 二月十二日、 金忠平が帰国しました。 この月、 小錦下舎人連糠虫(ぬかむし)が卒し、 壬申年の功により大錦上位を贈られました。 三月一日、 小紫(しょうし)三野王(みののおおきみ)及び宮内官(みやうちのつかさ)の大夫(かみ)らに命じて、 新城(にいき)に派遣してその地の状況を見させ、 よって都にしようと思われました。 二日、 陸奧国の蝦夷(えみし)二十二人に爵位を賜りました。 七日、 地震あり。 十三日、 境部連(さかいのむらじ)石積(いしづみ)らに命じて、 さらに初めて新字(にいな)一部四十四巻を作らせました。 十六日、 新城に行幸しました。 二十八日、 詔を発しました。 ――「親王以下、百寮の人々は、 今後、 位冠及び襅(まえも)、褶(ひらおび)、脛裳(はばき)を着けてはならない。 また、膳夫(かしわで)采女(うねめ)らの手繦(たすき)、肩巾(ひれ) を、 ともに着るな。」 この日。 詔を発しました。 ――「親王以下諸臣に至り、 給されていた食封を、皆止め、 さらに公(おおやけ)に返せ。」 この月、 土師連(はにしのむらじ)真敷(ましき)が卒し、 壬申年の功により大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。 54目次 【十一年四月~六月】 《新羅遣使送高麗使人於筑紫》
《祠風神…》項。 《丹比真人嶋》 《大鐘》
筑紫大宰の献上先として、観世音寺は〈天智〉が〈斉明〉を偲んで建造に着手したものだから、可能性はなくはない。 《越蝦夷》 当時の越は、後の出羽国を含む広大な地域であった。 《越国守》項。 出羽国の成立は和銅五年〔712〕である(資料[12]「出羽国の成立」)。 〈斉明〉朝には、阿部比羅夫〔もしくは闕名〕が遠征して一時的に齶 越蝦夷日本海側の蝦夷を指す。太平洋側の蝦夷は陸奥蝦夷という(〈斉明〉六年)。
『令義解』戸令「凡戸:以二五十戸一為レ里」。 「凡郡:以二廿里以下十六里以上一為二大郡一。十二里以上為二上郡一。八里以上為二中郡一。四里以上為二下郡一。二里以上為二小郡一」。 よって、「七十戸為二一郡一」は、郡となる最小の条件を満たしている。 資料[72]「出羽国の成立」で見たように、 和銅元年〔708〕に越後国に出羽郡が置かれ、 同五年〔712〕には越後国から出羽国が分離し、 その年のうちに陸奥国から最上郡・置賜郡を出羽国に移している。 出羽国は形式的には秋田県まで含むが、712年において実効的には磐舟柵を南限として、田川・最上・置賜の範囲であろう。 〈天武〉十二年より以前は、磐舟柵以北に郡はなかったと思われる。 「俘人」は朝廷に服さなかった頃の呼び名で、ここでは融和して朝廷国家に組み込まれることに同意した人たちであろう。 「俘人七十戸」の郡は、和銅元年には「出羽郡」の一部になったと思われる。 なお、一戸の人数については、 『経済研究』Vol. 71, No. 1, Jan. 2020「奈良時代における収入格差について」は、 平均値「1戸あたり20.6人」を算出している。 《男女悉結髮》 ヘアスタイルを唐風に改めさせたといわれる。当時、それが文明的だったのだろう。 十三年四月には「女年四十以上、髮之結不レ結及乗馬縦横、並任レ意也。別巫祝之類、不レ在二結髪之例一」と例外が示されている。 「男夫始結髮」は六月六日付になっている。 《婦女乗馬如男夫》 前項「乗馬縦横」と併せると、従来女子は横乗りしていたが、男子のように跨って乗ることも始まったという意味になる。 《倭漢直》 〈壬申紀〉14段「坂上直熊毛」参照。 その後、十四年六月に忌寸姓を賜る。 宗家の坂上氏の姓には「大」がつくようになる。初出は天平宝字八年〔764〕十月「坂上大忌寸苅田麻呂」。 延暦四年〔785〕に宿祢姓を賜る(資料[25]《坂上大宿祢》)。 《遣高麗使》
《高麗王》 「高麗王」は、安勝王と見られる。 《助有卦婁毛切》
《男夫始結髮》 四月二十二日に、追って勅旨を待てと指示されていた。それがこの日であろう。 《漆紗冠》 『四国新聞』〔2013.06.27〕によると、 長岡京跡で「漆紗冠」が見つかった。「長岡京市埋蔵文化財センター」によると、 「漆紗冠は六条大路と東一坊大路の交差点の北西部にある溝から4点出土。奈良時代、目の粗い網状の編み物を袋状にとじ合わせ、黒漆を塗って仕上げたかぶり物で、五位以上の貴族がかぶっていた」という。 《位冠及襅褶脛裳》項で見たように、従来の位階により色や製法が区別されていた冠が廃止され、漆紗冠に統一された。 以後「冠位」は言葉のみとなり、物体としての冠とは切り離される。 《殖栗王》
《大意》 九日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。 二十一日、 筑紫の大宰丹比(たぢひ)の真人(まひと)嶋(しま)らは、 大鐘を献上しました。 二十二日、 越の蝦夷(えみし)伊高岐那(いこきな)らは、 俘虜七十戸を一つの郡にすることを請い、これを聴(ゆる)されました。 二十三日。 詔を発しました。 ――「今後、男女は悉く髪を結い、 十二月三十日までに、結い終えよ。 ただし、髪を結う日は、また待勅旨を待て。」 婦女が馬に乗ること男性と同様にすることは、 この日に始まりました。 五月十二日、 倭漢(やまとのあや)の直(あたい)らに連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。 十六日、 高麗に派遣された大使佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたる)、 副使小墾田臣(おはりたのおみ)麻呂(まろ)らは、 使いした旨を御所に報告しました。 二十七日、 倭の漢の直(あたい)の男女は悉く参上して、 姓(かばね)を賜ったことを喜び、拝朝しました。 六月一日、 高麗の王(こきし)は、 下部(かほう)助有卦婁毛切(じょうかるもうせつ)と 大古昴加(だいこきょうか)を派遣して、方物を献上しました。 そして新羅の大那末(おおなま)金(こん)釈起(しゃくき)を派遣して、 高麗の使者を筑紫に送らせました。 六日、 男子は始めて髮を結い、漆紗(うるしのしゃ)の冠を着けました。 十二日、 五位殖栗(えくり)の王(おおきみ)が卒去しました。 55目次 【十一年七月】 《大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭》
阿多は、天孫の天降りに出てきた地名(《吾田長屋笠狭之御碕》項)。 海幸彦が山幸彦に復讐されたとき、水に溺れてもがいた格好が隼人舞の元になったとされる (山幸彦海幸彦段【溺時之種種之態】項)。 《相撲》 〈垂仁〉紀野見宿祢段で神話的な相撲の起源。 〈垂仁〉七年七月七日「当摩蹶速と野見宿祢と、捔力(すまひ)とらしむ」。 《膳臣摩漏》
《祠風神…》項参照。 《多祢人/掖玖人/阿麻弥人》 多祢・掖玖・阿麻弥との関係を深めた背景には、新羅の海洋進出に対する警戒感があると見た。 《明日香寺之西》 十年九月にもここで多祢人を饗した(《飛鳥寺西河辺》項)。 《発種々楽》 「道俗悉見之」すなわち、多数の見物人が訪れる賑やかな催し物だったようである。 音楽・舞踊に関しては、次の記述が見える。
《霜降亦大風》 十一年七月二十七日は、グレゴリオ暦682年9月7日。霜害は実際には4~5月頃のことであろう。凶作の原因として夏の風害と並べて報告されたと思われる。 《大意》 七月三日、 隼人が多く来て、方物(ほうぶつ)〔特産物〕を献上しました。 この日、 大隅隼人と阿多隼人と、 朝廷の庭で相撲をとり、 大隅隼人が勝ちました。 九日、 小錦中(しょうきんちゅう)膳臣(かしわでのおみ)摩漏(まろ)が病気になり、 草壁皇子尊と高市皇子を遣わして、 病を見舞わせました。 十一日、 広瀬、龍田の神を祭祀しました。 十七日、 地震あり。 十八日、 膳臣摩漏が卒去しました。天皇は驚かれ大変悲しまれました。 二十一日、 摩漏臣に、 壬申年の功によって大紫位及び禄を贈り、 更に皇后の賜わった物は、また官への賜り物に准らえました。 二十五日、 多祢(たね)人、 掖玖(やく)人、 阿麻弥(あまみ)人に、それぞれに応じて禄を賜わりました。 二十七日、 隼人らに明日香寺西で饗され、 種々の楽を奏して、 よって、それぞれに応じて禄を賜りました。 僧俗は、悉くこれを見物しました。 この日、 信濃の国と吉備の国は、 霜が降り、また大風があり、 五穀不登ですと言上しました。 まとめ 飛鳥寺西での催し物には、国家としての豊かさを披露して周辺の民族を引き付けようとする意図はあろう。 同時に、隼人の相撲や「賜レ禄各有差」を見ると、各部族には芸能集団を連れて来させて、鑑賞して楽しんだのだろう。 「道俗悉見之」とあるから、行事は公開され飛鳥京の人々の娯楽に供された。 新羅、高麗の客が飛鳥寺西に呼ばれることはなく、饗はもっぱら筑紫、ときに難波で行われる。堅苦しく対応すべき相手であったと見られる。 飛鳥寺西は、須弥山石などの噴水装置のあるエキゾチックな接待会場であったが、また芸能を一般人に鑑賞させる開放的な空間でもあった。 |
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⇒ [29-15] 天武天皇下(6) |
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