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2025.06.10(tue) [29-12] 天武天皇下12 

48目次 【十年正月~二月】
《立草壁皇子尊爲皇太子》
十年春正月辛未朔壬申。
頒幣帛於諸神祗。
頒幣帛…〈北野本〔以下北〕幣-帛於アカチマタス イハヒノミテクラ諸神祗
〈内閣文庫本〔以下閣〕アカチ幣帛於マタスイハヒノミテクラヲミテクラアカチマタシタマウ神祗
〈兼右本〉アカチマタスアカチシメ玉フ
みてぐら…[名] 木に布、紙をつけて神に捧げるもの。また神への捧げもの全般。
十年(とをとせ)春正月(むつき)辛未(かのとひつじ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)。〔二日〕
幣帛(みてぐら)を[於]諸(もろもろ)の神(あまつかみ)祗(くにつかみ)に頒(あか)ちたまふ。
癸酉。
百寮諸人拜朝庭。
癸酉(みづのととり)。〔三日〕
百寮(もものつかさ)諸人(もろひと)朝(みかど)の庭(おほには)に拝(をろが)む。
丁丑。
天皇、御向小殿而宴之。
御向…〈兼右本〉ムカヒ小殿
むかひ…[名] 向こう側。ムカフの名詞形。
…(呉音・漢音)アン。
丁丑(ひのとうし)。〔七日〕
天皇(すめらみこと)、向(むかひ)の小殿(こどの)に御(おほましま)して[而]宴之(とのあかりをしたまふ、うたげをたまふ)。
是日。
親王諸王引入內安殿、
諸臣皆侍于外安殿、
共置酒以賜樂。
則大山上草香部吉志大形
授小錦下位、
仍賜姓曰難波連。
引入内安殿…〈北〉-入 メシ 内安殿ウチノアントノ置酒 メシ 以賜ウタマヒ草香クサ カノ部吉大形オホカタ
〈閣〉安殿アム トノニメシテ酒。 草香部𠮷志キタワタ
〈釈紀〉外安殿トノアントノ草香クサカノ不讀部字大形オホカタ
〈兼右本〉草-香-部吉士
大山上冠位二十六階第十三位。
小錦下…冠位二十六階第十二位。
是日(このひ)。
親王(みこ)諸王(もろもろのおほきみ)内安殿(うちあんどの)に引き入れたまひて、
諸臣(もろもろのおみ)は皆(みな)[于]外安殿(とのあんどの)に侍(はべ)りて、
共(とも)に酒(みき)を置きたまひて以ちて楽(うたまひ)を賜(たま)へり。
則(すなはち)大山上(だいせんじやう)草香部吉志(くさかのきし)大形(おほがた)に
小錦下位(せうきんげゐ)を授(さづ)けたまひて、
仍(よ)りて姓(かばね)を賜(たま)ひて難波連(なにはのむらじ)と曰(い)ふ。
辛巳。
勅境部連石積、封六十戸、
因以給絁卅匹
綿百五十斤
布百五十端
钁一百口。
封六十戸…〈北〉ヨサシ六十ヘ ヲ錦百 /綿 五十斤布五十端クワ
〈閣〉 テスキ└説文云大鋤也百口。 〈兼右本〉ヨサシ玉フ
くは…[名] 農耕具のくわ。〈時代別上代〉「土地占有のしるし」や、「兵士のもちもののひとつ」にもなる。
すき…[名] 土地を掘り起こす器具。スクの名詞形。
辛巳(かのとみ)。〔十一日〕
境部連(さかひのむらじ)石積(いしつみ)に勅(おほ)して、封六十戸(むそへをほうず、へひとむそへをたまふ)、
因(よ)りて以ちて絁(ふときぬ)三十疋(みそむら)
綿(わた)百五十斤(ももはかりあまりいそはかり)
布(ぬの)百五十端(ももむらあまりいそむら)
钁(くは)一百口(ももち)を給(たま)ふ。
丁亥。
親王以下小建以上、射于朝庭。
小建…冠位二十六階中二十六位。
丁亥(ひのとゐ)。〔十七日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)小建(せうけん)以上(まで)、[于]朝庭(みかどのおほには)に射(いくふ、ゆみいる)。
己丑。
詔畿內及諸國修理天社地社神宮。
己丑…〈北〉己■
修理…〈北〉 ヲ-理。 〈閣〉修-理 ヲサム 。 〈兼右本〉-理ヲサム=合ヲサメツクラシム
己丑。〔十九日〕
畿内(うちつくに)及(およ)びに諸国(もろもろのくに)に詔(みことのり)たまひて、天社(あまつかむやしろ)地社(くにつかむやしろ)神宮(かむみや)を修理(をさ)めしむ。
二月庚子朔甲子。
天皇々后共居于大極殿、
以喚親王諸王及諸臣、
詔之曰
「朕今更欲定律令改法式、
故倶修是事。
然頓就是務公事有闕、
分人應行。」
共居…〈北〉共居モロトモ 大-極-殿オホアムトノメシテ律-令ノリノフミマツリコト公事
〈閣〉共居モロトモニヲハシマス大極殿オホアム トノ ヲサメヨ ノ ヲ モニハカニナサハ コレノミヲマツリコトニ[切]公事オホヤケハサ ムカクコト
〈兼右本〉公-事オホヤケワサ ンカク
ひたふるに…[副] 一途なこと。〈類聚名義抄〉「:ニハカニ タチマチニ … ヒタフル」。
二月(きさらき)庚子(かのえね)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)。〔二十五日〕
天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)共(ともに)[于]大極殿(おほあんとの)に居(おほましま)して、
以ちて親王(みこ)諸王(おほきみたち)及びに諸臣(まへつきみたち)を喚(め)して、
詔之(みことのり)のたまひて曰(のたま)はく
「朕(われ)今更(また)律令(りつりやう)を定めて法式(のり)を改めて、
故(かれ)倶(とも)に是事(このこと)を修(をさ)めむと欲(おも)ほす。
然(しかれども)頓(ひたふるに)是(この)務(つとむること)に就(つ)きてあらば公事(おほやけわざ)に闕(かくること)有らむ、
人を分(あか)ちて行(おこな)ふ応(べ)し。」とのたまふ。
是日。
立草壁皇子尊爲皇太子、
因以令攝萬機。
攝万機…〈北〉万機フサネヲサメマツ/ヨロツノリコト。 〈閣〉攝萬フサネヲサメ マツリコトヲ。 〈兼右本〉 玉フフサネヲサメ
是(この)日。
草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ、
因(よ)りて以ちて万機(よろづのまつりごと)を摂(ふさねをさめ)令(し)めたまふ。
戊辰。
阿倍夫人薨。
夫人…〈北〉夫-人 オトシ。 〈兼右本〉夫-人オフトシ
戊辰(つちのえたつ)。〔二十九日〕
阿倍夫人(あべのおほとじ)薨(こう)ず。
己巳。
小紫位當摩公豐濱薨。
当摩公…〈兼右本〉當-イ乍
己巳(つちのとみ)。〔三十日〕 小紫位(せうしゐ)当摩公(たぎまのきみ)豊浜(とよはま)薨(こう)ず。
《頒幣帛》
 十年の年初の行事は、神祇への幣帛の配布、百寮諸人の宴、朝庭での射技が記されている。
《御向小殿》
 「御向」は向の尊敬語にも見えるが、ミ-〔御〕は基本的に名詞への接頭語なのでそれでは動詞がなくなってしまう。 ここでは「」を動詞〔オホマシマス〕、「」は小殿の連体修飾語としておく。
《内安殿/外安殿/大極殿》
 「大極殿」は〈皇極〉紀から見えるが、修辞と思われる。書紀における朝堂院の公的建物の一般名称はすべてアンドノ〔安殿〕であって、それが書紀古訓に繋がったと思われる (〈皇極〉四年《大極殿》)、《小殿/大殿》)。
 浄御原宮にも実際には大極殿と名付けられた施設はなく、これも修辞であろう。ただ後の藤原宮は朱雀大路の正面に置かれた姿から見て、その中心施設に実際に大極殿という名称が使用されたことが考えられる。
《草香部吉士大形》
 姓「吉士」は、吉志と表記されたこともあったと思われる。
草香部吉士大形  姓吉士は、《難波吉士雄成》参照。  〈安康〉元年に「難波吉士日香蛟」が大草香皇子に殉死。 〈雄略〉四年に名誉が回復され子孫に「大草香部吉士」姓を賜った。 〈天武〉十四年に忌寸姓を賜る。 大形は、三月に「-定帝紀及上古諸事」(下述)。それ以外には見えない。
《境部連石積》
境部連石積  坂合部は伝統的に「境界を定むる為の品部」(〈姓氏家系大辞典〉)で、その成り立ちの延長線上で外交に関わるようになったと思われる(《境部臣摩理勢》項)。 石積は、〈天智〉四年十二月「唐使人〔劉德高〕」を担当し、おそらくそのまま熊津都督府に滞在していて、六年十一月に帰国した(「大山下境部連石積等於筑紫都督府」)。 〈天武〉十一年三月「はじめて しむ新字一部卅四卷」とあり、『新字』〔現存せず〕編纂を担当。十四年九月「凡十人賜御衣袴」の一人。
 石積は辞書の編纂に関わったので、おそらく漢語に通じていた。その重用は、対新羅など外交活動体制の強化に伴うものと推定される。
《射于朝庭》
 この年も「于朝庭」と書かれる(《射于南門》)。 初位(うい)の小建の授与は成人の儀式である。「」は成人を祝す場でもあったと思われる。
《定律令改法式》
 いずれ大宝律令に結実するが、〈天武〉朝の段階でも既に律令が整えられた可能性があり、〈持統〉三年に諸司に配布した「一部廿二巻」がそれにあたると考えられている (二年五月《先令仕大舎人》)
 ここでは「律令法式」が通常の政務の遂行の妨げになりかねないことに注意喚起した。律令の制定はそれだけ重大事であったことが分かる。
《大極殿》
 上述
《尊》
草壁皇子 母は〈持統〉天皇。〈天武〉十年立太子。 〈持統〉三年四月乙未に薨じた。  八年五月の盟約で「先進盟」。
 実際に草壁皇子が「~尊」と称されるようになったのは、このときからであろう。
 これで高市皇子との差は一層広がった。壬申の功労者が中枢から遠ざけられる傾向は、明瞭である。 新しい秩序を築く時期に、かつての武闘派が大きな顔をして残っていることは妨げにしかならない。この法則は、後世の豊臣政権の末期や徳川幕府の立ち上げでも見られた。
《阿倍夫人》
 夫人が「出身氏族名+"夫人"」と呼ばれる習慣は一般的であった(《夫人》)。 この夫人は、〈天智〉紀では「」と呼ばれた(天智七年)。
 〈天智〉七年、〈天武〉二年の妃リストから「阿倍夫人」に該当する夫人を探すと、唯一阿部倉梯麻呂大臣女の「橘姫」が該当する。
阿倍夫人 阿部倉梯麻呂大臣の女橘郎〔たちばなのいらつめ〕は〈天智〉嬪となり、飛鳥皇女新田部皇子を生んだ。
《当摩公豊浜》
当摩公豊浜 当麻公の祖は〈用明〉皇子麻呂子皇子(元年)。 《当摩公広嶋》参照。 十三年「当麻公…十三氏賜姓曰真人」。 豊浜はここだけ。
 その死は「」と記されるから、高位の卿であった。
《大意》
 十年正月二日、 幣帛(みてぐら)を[於]諸神祗頒布されました。
 三日、 百官はこぞって朝庭で拝礼しました。
 七日、 天皇(すめらみこと)は、向いの小殿にいらっしゃり宴を賜りました。
 この日は、 親王、諸王を内安殿に招き入れ、 諸臣は皆外安殿に侍り、 ともに御酒(みき)を置かれ、音楽舞踏を賜わりました。
 大山上(だいせんじょう)草香部吉士(くさかのきし)大形(おおがた)に 小錦下位(しょうきげい)を授け、 さらに姓(かばね)を賜わり難波連(なにわのむらじ)とされました。
 十一日、 境部連(さかいのむらじ)石積(いしつみ)に勅して、六十戸を封し、 よって絁(ふときぬ)三十匹(ひつ)、 綿百五十斤、 布百五十端、 鍬(くわ)百本を給いました。
 十七日、 親王以下小建以上が、朝庭で弓射しました。
 十九日、 畿内と諸国に詔して、天社、地社、神宮の整備を命じました。
 二十五日、 天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)はともに大極殿にいらっしゃり、 親王、諸王、諸臣を喚(め)して、 詔されました。
――「朕は今また律令の定め法式の改めを、 ともに撰集させる。 しかし、ひたすらこの務めばかりに専念すれば、公事におろそかになる。 よって、人を分けて事を行うべし。」
 この日、 草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を立太子されました。 そして摂政として政を委ねられました。
 二十九日、 阿倍夫人(あべのおおとじ)が薨じました。
 三十日 小紫位当摩公(たぎまのきみ)豊浜が薨じました。


49目次 【十年三月~四月】
《令記定帝紀及上古諸事》
三月庚午朔癸酉。〔四日〕
 葬阿倍夫人。
三月(やよひ)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として癸酉(みづのととり)。〔四日〕
阿倍夫人(あべのおほとじ)を葬(はぶ)りたまふ。
丙戌。〔十七日〕
天皇御于大極殿、
以詔川嶋皇子
忍壁皇子
廣瀬王
竹田王
桑田王
三野王
大錦下上毛野君三千
小錦中忌部連首
小錦下阿曇連稻敷
難波連大形
大山上中臣連大嶋
大山下平群臣子首、
令記定帝紀及上古諸事。
大嶋
子首、
親執筆以錄焉。
桑田王…〈北〉田○三野王上毛野イ无キミ忌部連 カウヘ平群臣子帝-紀及スメラミコトノフミ上-諸事 テシルス/焉
〈閣〉タマフ帝紀ミカトノフミスミラミコトノフミ ヲ ヲ
〈釈紀〉カミツケキミ
〈兼右本〉カウヘシメ玉フ-定シルシサタメ
ふみて…[名] フデ〔筆〕の上代語。
丙戌(ひのえいぬ)。〔十七日〕
天皇(すめらみこと)[于]大極殿(だいごくとの、だいあんとの)に御(おほましま)して、
以ちて川嶋皇子(かはしまのみこ)
忍壁皇子(おさかべのみこ)
広瀬王(ひろせのおほきみ)
竹田王(たけたのおほきみ)
桑田王(くはたのおほきみ)
三野王(みのおほきみ)
大錦下(だいきむげ)上毛野君(かみつけのきみ)三千(みち)
小錦中(せうきむげ)忌部連(いむべのむらじ)首(おびと)
小錦下(せうきむげ)阿曇連(あづみのむらじ)稲敷(いなしき)
難波連(なにはのむらじ)大形(おほかた)
大山上(だいせんじやう)中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おほしま)
大山下(だいせんげ)平群臣(へぐりのおみ)子首(こびと)に詔(みことのり)たまひて、
帝紀(みかどのふみ)及びに上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記(しる)し定(さだ)め令(し)めたまふ。
大嶋(おほしま)
子首(こびと)は、
親(みづから)筆(ふみて)を執(と)りて以ちて録(しる)せり[焉]。
庚寅。
地震。
庚寅(かのえとら)。〔二十一日〕
地震(なゐふる)。
甲午。
天皇居新宮井上而
試發鼓吹之聲、
仍令調習。
天皇居新宮…〈北〉甲午○天居イ-皇新宮井上調ト■
〈閣〉新宮井上而試鼓吹ツゝミ フヘノ之聲調トゝ-習
〈兼右本〉オ 玉
甲午(きのえうま)。〔二十五日〕
天皇(すめらみこと)新宮(にひみや)の井上(ゐのへ)に居(おほましま)して[而]
鼓(つづみ)吹(ふえ)之(の)声(こゑ)を発(おこすこと)を試(こころ)みたまひて、
仍(より)て調(ととの)へ習(なら)は令(し)めたまふ。
夏四月己亥朔庚子。
祭廣瀬龍田神。
四月…〈北〉四-月ウツキ
夏四月(うづき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)。〔二日〕
広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
辛丑。
立禁式九十二條、
因以詔之曰
「親王以下至于庶民諸所服用。
金銀珠玉
紫錦繡綾
及氈褥冠帶
幷種々雜色之類、 服用各有差。」
辭具有詔書。
禁式…〈北〉禁式イサメノノリ/十十二條金銀タマ氈褥冠オリカモトコシキ
〈閣〉マテニ于庶民諸 ノ-種々雜-クサイロ色之アレ
〈兼右本〉九十二ヲチ庶-民オホンタカラニ服-用キ タル
をち…[助数詞] 細長いものを数える。
とこしき…[名] 寝具、あるいは座すための敷物。
辛丑(かのとうし)。〔三日〕
禁式(いさめののり)九十二条(ここのあまりふたをち)を立たして、
因(よ)りて以ちて詔之(みことのりのりたまひて)曰(いはく)
「親王(みこ)より以下(しもつかた)[于]庶民(たみ、おほみたから)至(まで)諸(もろもろ)の所服用(きるべきもの)は、
金(くがね)銀(しろがね)珠玉(たま)
紫(むらさき)錦(にしき)の繡(ぬひもの)綾(あや)
及びに氈(おりかも)の褥(とこしき)冠(かがふり)帯(おび)
并(あはせ)て種々雑色(くさぐさ)之(の)類(たぐひ)をば、
服用(きること)各(おのもおのも)差(しな)有れ。」とのりたまふ。
辞(こと)は具(つぶさ)に詔書(みことのりのふみ)に有り。
庚戌。
錦織造小分
田井直吉摩呂
次田倉人椹足【椹此云武矩】
石勝
川內直縣
忍海造鏡
荒田
能麻呂
大狛造百枝
足坏
倭直龍麻呂
門部直大嶋
宍人造老
山背狛烏賊麻呂、
幷十四人賜姓曰連。
錦織造…〈北〉錦織造ニシコ■ノ ヤツコアタヒヨシ次田スキタノ倉人クラヒト椹足 ムク タリ
石勝イシカツ 川内カウチノアタヒアカタ ノウミノカゝミ荒田アラタノヨシ大狛ヲホ コマノ百枝モゝエタ足坏アシツキヤマトノアタヒタツ門部カトヘノアタヒ大嶋オホシマ宍人シゝヒトノミヤツコオキナ山背ヤマシロノコマ烏賊 イカ 
〈閣〉足坏アシツキ
〈釈紀〉ニシコリノミヤツコキタヰノアタヒヲシウミノミヤツコオホコマノミヤツコ
〈兼右本〉足杯
…『新撰字鏡』七巻「:…牟久乃木」。
武矩…〈北・閣〉〔規の異体字〕。〈兼右本〉
〈時代別上代〉「むく武矩むく〉足」。
…(呉音・漢音)キ。
庚戌(かのえいぬ)。〔十二日〕
錦織造(にしこりのみやつこ)小分(こきだ、をきだ)
田井直(たゐのあたひ)吉摩呂(よしまろ)
次田倉人(すきたのくらひと)椹足(むくたる、むくたり)【椹、此を武矩(むく)と云ふ】
石勝(いしかつ)
川内直(かふちのあたひ)県(あがた)
忍海造(おしのみのみやつこ)鏡(かがみ)
荒田(あらた)
能麻呂(よしまろ)
大狛造(おほこまのみやつこ)百枝(ももえだ)
足坏(あしつき)
倭直(やまとのあたひ)龍麻呂(たつまろ)
門部直(かどべのあたひ)大嶋(おほしま)
宍人造(ししびとのみやつこ)老(おゆ、おきな)
山背狛(やましろのこま)の烏賊麻呂(いかまろ)、
并(あは)せて十四人(とたりあまりちょたり)姓(かばね)を賜(たまは)りて連(むらじ)と曰ふ。
乙卯。
饗高麗客卯問等於筑紫、
賜祿有差。
卯問…〈兼右本〉卯問モウモン
乙卯(きのとう)。〔十七日〕
高麗(こま)の客(まらびと)卯問(めうもん)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)して、
賜禄(ものたまふこと)差(しな)有り。
《阿倍夫人》
 上述
《令記定帝紀及上古諸事》
川嶋皇子  〈天智〉皇子。母は忍海造小龍の女、色夫古娘。〈持統〉五年薨。吉野の盟約(八年五月)のメンバーの一人。
忍壁皇子  母は宍人臣大麻呂の女𣝅媛娘かぢひめのいらつめ大海人皇子に吉野から同行(〈壬申紀〉)。 三年八月に石上神宮に派遣。 吉野の盟約(八年五月)のメンバー。 〈続紀〉大宝二年〔702〕十二月「三品刑部親王…為大殿垣」。慶雲二年〔705〕薨。
広瀬王 十三年二月「-占応都之地。十四年九月「於京及畿内、各令かむがふ人夫之兵」。 〈持統〉六年三月「為留守官」。大宝二年十二月「従四位下広瀬王…為大殿垣」。 大宝三年〔703〕太上天皇〔持統〕御葬司。以二品穂積親王御装長官…従四位下広瀬王…為」。 和銅元年〔708〕三月「従四位上広瀬王為大蔵卿」。養老六年〔722〕正月庚午「散位正四位下広湍王」。
竹田王 十四年九月「於京及畿内、各令人夫之兵」。同月「御衣袴」。〈持統〉三年正月「浄広肆竹田王…為判事」。 和銅元年〔708〕三月「従四位上竹田王為刑部卿」。霊亀元年〔715〕三月「丙申。散位従四位上竹田王」。
桑田王 天平元年〔729〕二月癸酉「無位桑田王…自経〔長屋王の変に連座〕
三野王  十一年三月「小紫三野王于新城其地形、仍将」。十四年九月「弥努王於京及畿内、各令人夫之兵」。
 〈持統〉八年九月「以浄広肆三野王筑紫大宰率」。 大宝元年〔701〕十一月「始任大幣。以正五位下弥努王…為長官」。 大宝二年〔702〕正月「正五位下美努王左京大夫」。慶雲二年〔705〕従四位下美努王摂津大夫」。 天平宝字元年〔757〕正月「乙卯。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。…大臣、贈従二位栗隈王之孫。従四位下美努王之子也」。 〈姓氏録〉〖橘朝臣〗項に「〈敏達〉―難波皇子―栗隈王―美努王―橘諸兄」。 なお、〈壬申紀〉甘羅村」のとき大海人皇子が「美濃王」を呼び寄せた(《美濃王》)
上毛野君三千  毛野〔上野・下野〕は古来独立勢力の地域であった (《上毛野国》) 豊城命上毛野君・下毛野君の伝説上の始祖。 〈天武〉十三年十一月に「上毛野君…賜姓曰朝臣」。 三千は、十年八月丁丑「大錦下上毛野君三千」。
忌部連首  忌部首は、太玉命を祖として祭祀を掌り、〈天武〉九年に連姓を賜った(《中臣/忌部》)。 は、忌部首子人と同一人物と見られる。養老三年〔719〕卒。
阿曇連稲敷  阿曇連は海洋系氏族で、古くから朝廷に仕えた(第43回、 〈皇極〉紀《阿曇連比羅夫》)。〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る。 安曇連稲敷は、〈天武〉元年に近江朝廷に天皇の喪を報告するために郭務悰の許に遣わされた。 稲敷は十年以後には見えず。次に出てくる氏人は、〈続紀〉慶雲元年〔704〕阿曇宿祢虫名」。
難波連大形 上述
中臣連大嶋  中臣連は天児屋命を祖として(第49回)、神祇を掌る (〈推古〉紀《中臣連国》、〈皇極〉紀《神祗伯》)。 〈天武〉十三年「姓曰朝臣」。  大嶋は、〈天武〉十年十一月「小錦下位」。十二年十一月「-行天下而限-分諸国之境堺」。十四年正月「藤原朝臣大嶋…賜御衣袴」。 朱鳥元年正月「新羅金智祥…遣…直大肆藤原朝臣大嶋…于筑紫」。〈天武〉喪に「藤原朝臣大嶋、誄兵政官事」。 〈持統〉五年十一月「大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、読天神寿詞」。七年二月「庚子。賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物〔賻物とは、死者に贈る品をいう〕
平群臣子首  孝元段によれば、建内宿祢の子平群都久宿祢が「平群臣…祖」である。 平群谷がその縁の地と見られる(第200回【平群谷】項)。 子首平群臣の氏上と思われるが、以後見えない。〈持統〉五年平群氏など十八氏に「詔:上-進其祖等墓記」。 次の氏人は〈続紀〉慶雲四年〔707〕平群朝臣安麻呂」。
《三野王》
 〈天武〉紀・〈持統〉紀・〈続紀〉を総合すれば、弥努王美努王三野王と同一人物であったことは動かない。 ここでは、〈壬申紀〉の美濃王について考える。
 壬申年六月二十六日には、 大海人皇子の東国入りを知って近江朝内がパニックに陥り、慌てて筑紫大宰の栗隅王に使者を送ったことになっている。 そのとき三野王は、父栗隅王の傍らに立って大友皇子が送った使者に睨みをきかせた()。
 一方、六月二十四日甘羅村を過ぎたところで美濃王を呼び寄せた()。 これでは、美濃王三野王は同一人物とはなり得ない。
 しかし、〈天武〉・〈持統〉朝に弥努王のはたらきが書かれ、〈続紀〉では左京大夫、摂津大夫を歴任した美努王は、〈続紀〉天平宝字元年条で栗隈王の子であることが明確化される。 このように業績を重ねた人物であるから、その端緒として六月二十四日条に「美濃王」のこと()が置かれたことは考え得る。
 すると〈壬申紀〉では各地に使者を送ったことを二十六日段に書くが、実際に使者を送った時期はそれより何日か前だと考えてみたらどうであろうか。近江から筑紫までの使者の行程は少なくとも数日を要したはずである。既に皇大弟への警戒して手が打たれていたと考える方が自然である。
 そこで三野王の功のひとつに加えたとする判断を優先し、 の実際の日付を遡らせることを選びたい。
 すなわち、皇大弟側の事前工作によって栗隅王はすでに皇大弟についていて、決戦の火ぶたが切られれば美濃王を送ることが約束された。 大友皇子が送った使者は既に時遅く、という結果に終わった。この筋書きを用いれば、全体像はかなりすっきりする。
 なお、ミノの表記の多様さは、それだけ多くの文献資料に登場したことの表れであろう。大活躍したのである。
《帝紀及上古諸事》
 日本書紀の編纂はこの〈天武〉の指示によってスタートしたといわれるが、それにしては681年は720年までの歳月は長すぎるので、俗論とも思われる。
 これに関しては、古事記序文の「撰録帝紀。討覈旧辞」が書紀の「記定帝紀及上古諸事」と同じ表現であることが注目される(第18回)。この文は天武天皇の段の中にあるので、〈天武十年〉の「令記定帝紀及上古諸事」を指すように思われる。 なお、古事記と書紀との関係については、書紀のために集めた伝承資料を繋ぎ合わせて古事記にまとめられたと見た(第251回)。
 古事記序文には、「然運-移世異、未其事〔しかるに、世は移り事は成し遂げられなかった〕。 そして、〈元明〉天皇〔在位707~715〕の詔旨によって「旧辞之誤忤。正先紀之謬錯」して和銅四年〔711〕九月十八日に献上した。これは文脈から見て元明天皇の詔旨に応えたものである。 これは古事記に関する記述ではあるが、元明天皇の詔は実際には中断されていた書紀編纂の再開を命じたものであって、並行してまとめられた古事記がまず〈元明〉在位中に献上されたと読むことは可能である。
 古事記は書紀とは独立した書であるが、両者の編纂は共通スタッフによって不可分の形で進められていたから、古事記もまた〈天武〉〈元明〉の詔に応えたものに含まれるという自負が、太安万侶にはあったのであろう。
 なお、〈天武〉九年で命じられたメンバーのうち、書紀が献上された時点で確実に生存していたのは広瀬王桑田王に過ぎない。筆記を担当した阿曇連稲敷難波忌寸大形は恐らく若手であろうが、700年代にはそれぞれの氏上と見られる人物は別名であるから、生存していなかっただろう。 舎人親王の生まれ年〈天武〉五年が確かだとすれば(〈天武〉七年《兄弟長幼并十余王》項)、元明元年には三十二歳である。 川嶋皇子忍壁皇子らの作業の途中のまま残されていた資料や草稿を引き継ぎ、作業を再開したとみられる。
《地震》
 詳細は不明。
《新宮井上》
 「新宮井上」を特定しようとする試みは、〈釈紀〉、集解、通証には見えない。
 一方、七年四月条に「霹靂新宮西庁柱」とある。 そこではエビノコ郭は新築と見られるが、むしろ後飛鳥宮だった全体に手を加えて新宮と称したと見た。
 地名「井上」もなかなか見えないので、宮殿の敷地の一角を指したと見るのが妥当か。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》参照。
《禁式九十二条》
 「庶民」とはいうが、宝飾品や高級な衣服を用いる富裕層が対象であろう。
《辞具有詔書》
 主語は「」であるからこの場合「」を使うのが正しい。「有詔書」では「詔書」自体が存在するという意味となる。
《姓曰連》
錦織造小分  〈姓氏家系大辞典〉〔以下〈辞〉〕百済族にて錦織部の伴造也」。〈倭名類聚抄〉{河内国・錦部【爾之古里】郡}を「根拠とす」。〈天武〉十二年、錦織造が氏族として連姓を賜る。 小分はここだけ。
田井直吉摩呂  〈倭名類聚抄〉{河内国・志紀郡・田井郷}。 〈辞〉「田井直:坂上氏の一族」。「坂上流の田井連:田位直の連姓を賜へる者也」。吉摩呂はここだけ。
次田倉人椹足/石勝  〈辞〉「次田倉人 スキタノクラビト:こは霊異記中巻に所謂、河内国安宿郡鋤田寺の地なるべし」、 「此の地にありし倉庫に使役せし部民にして椹足は「其の首長たりし人と思はる」。 椹足石勝はここだけ。
川内直県  〈姓氏録〉〖河内連/出自百済国都慕王男陰太貴首王也〗。 〈辞〉「貞観四年三月〔続日本〕紀に「河内国河内郡大領正六位河内連田村麻呂云々、借外従五位下を授く」 とあるにより、旧族凡河内氏に代りて郡政を執りしを知る」。はここだけ。
忍海造鏡/荒田/能麻呂  忍海造については、忍海造大国参照。十二年、氏として連姓。 能摩呂七年九月に瑞稲を献上。 荒田はここだけ。
大狛造百枝/足坏  十二年、大狛造は氏族全体がむらじを賜る。 〈辞〉「狛造:高麗人、狛部の伴造なり」。 〈姓氏録〉〖河内国/諸蕃/高麗/大狛連/出自高麗国人伊利斯沙礼斯也〗〖諸蕃/高麗/大狛連/出自高麗国溢士福貴王也〗。 両者の関係については、〈辞〉は「二氏を載せたり」とするのみ。 百枝については、〈持統〉十年三月甲寅「直広肆大狛連百枝、并賜賻物」。 足坏はここだけ。
倭直龍麻呂  〈神武〉段「槁根津日子…倭国造等之祖」、〈神武〉紀「椎根津彦…倭直部始祖」(第101回)。 『国造本紀』「大倭国造:橿原朝御世以椎根津彦命初為大倭国造」。 よって〈辞〉は「倭直:椎根津彦の裔にして、大倭国造家の氏姓也」とする。 〈仁徳〉即位前に「倭直祖麻呂」など。
 十二年、氏全体が連姓を賜る。龍麻呂はここだけ。  
門部直大嶋  門部については《門部金》 〈辞〉「門部直:門部の伴造たりし氏にして、久米氏の族」。
 十二年、氏全体が連姓を賜る。大嶋はここだけ。
宍人造老 〈辞〉「宍人造:宍人部の伴造」、「宍人部:獣肉を調理するを職とせし品部なり」。宍人臣参照。 宍人造老はここだけ。
山背狛烏賊麻呂  〈辞〉は「山背の狛造」(上述)と見る。 山背狛烏賊麻呂はここだけ。
 八色の姓以後、〔かばね〕は氏族単位で賜るようになったが、十年の時点ではまだ個人を対象とする。
《椹此云武矩》
 「武規」とする本も見るが、万葉仮名一覧には殆ど「規」は拾われていない。一サイトだけ「:キ乙」があったが、それは書記のこの個所を「武規」と読んだことによると思われる。 は、『新撰字鏡』に「牟久乃木」とあるので、植物名ムクに宛てた字のひとつであった。
 これを見れば、訓注はもともと「武矩」であったことは明白である。
《高麗客卯問》
卯問 九年五月十三日筑紫到着。十年四月十七日筑紫で饗。五月二十六日に帰国。
《大意》
 三月四日、 阿倍の夫人(おおとじ)を葬しました。
 十七日、 天皇(すめらみこと)は大極殿にいらっしゃいまして、 以って川嶋皇子、 忍壁(おさかべ)皇子、 広瀬王(おおきみ)、 竹田王、 桑田王、 三野王、 大錦(だいきん)下(げ)上毛野君(かみつけののきみ)三千(みち)、 小錦中(ちゅう)忌部連(いんべのむらじ)首(おびと)、 小錦下阿曇連(あづみのむらじ)稲敷(いなしき)、 難波連(なにわのむらじ)大形(おおかた)、 大山上中臣連(むらじ)大嶋、 大山下平群臣(おみ)子首(こびと)に詔され、 帝紀と上古の諸事を記し定めさせました。 大嶋と 子首は、 自ら筆を取って録しました。
 二十一日、 地震あり。
 二十五日、 天皇は新宮の井の上にいらっしゃり、 鼓笛の音を発しさせてみて、 よって調習させました。
 四月二日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。
 三日、 禁式九十二条を立てられ、 詔されました。
――「親王以下庶民まで、諸々着用するものは、 金、銀、珠玉、 紫や錦の刺繍や綾織り、 及び氈(おりかも)の褥(とこしき)〔寝具〕、冠、帯、 そして種々の類を、 それぞれの格によって着用せよ。」
 言辞は具(つぶさ)には詔書にあります。
 十二日、 錦織造(にしこりのみやつこ)小分(こきだ)、 田井直(たいのあたい)吉摩呂(よしまろ) 次田倉人(すきたのくらひと)椹足(むくたる) 石勝(いしかつ)、 川内直(かふちのあたい)県(あがた)、 忍海造(おしのみのみやつこ)鏡(かがみ) 荒田(あらた) 能麻呂(よしまろ)、 大狛造(おおこまのみやつこ)百枝(ももえだ) 足坏(あしつき)、 倭直(やまとのあたい)龍麻呂(たつまろ)、 門部直(かどべのあたひ)大嶋、 宍人造(ししひとのみやつこ)老(おゆ)、 山背狛(やましろのこま)の烏賊麻呂(いかまろ)の、 併せて十四人は姓(かばね)を賜り、連(むらじ)となりました。
 十七日、 高麗の客卯問(みょうもん)たちを筑紫で饗して、 それぞれに応じて賜禄しました。


50目次 【十年五月~七月】
《六月壬戌地震》
五月己巳朔己卯。
祭皇祖御魂。
五月(さつき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)。〔十一日〕
皇祖(すめろき)の御魂(みたま)を祭(いは)ひまつる。
是日。
詔曰
「凡百寮諸人、
恭敬宮人過之甚也。
或詣其門謁己之訟、
或捧幣以媚於其家。
自今以後、
若有如此者隨事共罪之。」
諸人…〈北〉 モ シ ノ内イアツラフ己之訟マヒナヒモノマゝ ノ
〈閣〉諸人
〈兼右本〉カトマイナヒコフ
すぐ…[自]ガ四 ①通過する。②消滅する。③程度が過ぎる。
…[動] ① まみえる。② つげる。会って申し上げる。
是の日。
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)百寮(もものつかさ)の諸人(もろもろのひと)、
宮人(みやびと)を恭敬(ゐやまふこと)過之(す)ぎて甚(はなはだ)し[也]。
或(ある)は其の門(かど)に詣(まゐ)でて己之(おのが)訟(うるたへ)を謁(まを)す、
或は幣(まひなひ)を捧(ささ)げて以ちて[於]其の家(へ)に媚(こ)ぶ。
今自(よ)り以後(のち)は、
若(もし)如此(かく)有らば[者]事の隨(まにま)に共に罪之(つみなへ)。」とのたまふ。
甲午。
高麗卯問、歸之。
甲午(きのえうま)。〔二十六日〕
高麗(こま)の卯問(めうもん)、帰之(まかりかへる)。
六月己亥朔癸卯。
饗新羅客若弼於築紫、
賜祿各有差。
六月(みなづき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)。〔五日〕
新羅(しらき)の客(まらひと)若弼(じやくひつ)を[於]築紫(つくし)に饗(みあへ)して、
賜禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
乙卯。
雩之。
乙卯(きのとう)。〔十七日〕
雩之(あめをこふ)。
壬戌。
地震。
壬戌。〔二十四日〕
地震(なゐふる)。
秋七月戊辰朔。
朱雀見之。
見之…〈兼右本〉ミユ
秋七月(ふみづき)戊辰(つちのえたつ)の朔(つきたち)。
朱雀(あかきすずめ)見之(みゆ)。
辛未。
小錦下采女臣竹羅爲大使
當摩公楯爲小使、
遣新羅國。
采女臣采女臣ウネメノヲン/ツク當摩公タイマノキミタテソヒ使。 〈閣〉ツク豆久ラヲ
辛未(かのとひつじ)。〔四日〕
小錦下(せうきむげ)采女臣(うねめのおみ)竹羅(つくら)を大使(おほつかひ)と為(し)て
当摩公(たぎまのきみ)楯(たて)を小使(そひつかひ)と為て、
新羅(しらき)の国に遣(つかは)す。
是日。
小錦下佐伯連廣足爲大使
小墾田臣麻呂爲小使、
遣高麗國。
是(この)日。
小錦下(せうきむげ)佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を大使(おほつかひ)と為て、
小墾田臣(をはりたのおみ)麻呂(まろ)を小使(そひつかひ)と為て、
高麗(こま)の国に遣す。
丁丑。
祭廣瀬龍田神。
丁丑(ひのとうし)。〔十日〕
広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
丁酉。
令天下悉大解除。
當此時、
國造等各出祓柱奴婢一口而
解除焉。
令天下…〈北〉 コト天下祓-柱ハラヘツサハラヘツモノ
はらへつもの…[名] 祓のための物品。
丁酉(ひのととり)。〔三十日〕
天下(あめのした)に悉(ことごとく)大解除(おほはらへ)せ令(し)む。
此の時に当りて、
国造(くにのみやつこ)等(たち)各(おのもおのも)祓柱(はらへつもの)奴婢(やつこ)一口(ひとり)を出(いだ)して[而]
解除(はらへ)しまつる[焉]。
《祭皇祖御魂》
 帝紀の記定と軌を一とするものと言えよう。皇統を、国のアイデンティティの根幹とするのである。
《恭敬宮人過之甚》
 官職として権限を持つものに対しては、必然的に陳情や賄賂が発生する。官職は特権になることを防ごうとする。 また、皇親政治に伴うものともいえよう。
《高麗卯問》
 上述
《新羅客若弼》
金若弼 九年十一月進調使として来朝。十年八月帰国。
《雩之》
 今年も雨乞い儀式が行われた。やはり恒例行事化していたように思われる(九年七月)。
《地震》
 詳細は不明。
《朱雀》
 九年七月朱雀有南門」の重出の可能性もある。 なお、そこでは「造朱雀門」が誤った形で伝説化したのではないかと考えた。
《遣新羅国/遣高麗国》
采女臣竹羅  采女臣は采女部の管理する氏、あるいは各地の地名によるとされる(《采女臣摩礼志》)。 十三年正月、都の候補地の調査のために小錦下采女臣筑羅を信濃に派遣。同年十一月、采女臣に朝臣姓を賜る。 十四年九月、博戯の日に「采女朝臣竹羅」らは御衣袴を賜わる。〈朱鳥〉元年九月「采女朝臣竺羅」は〈天武〉喪に「誄内命婦事」。以後は見えず。
当摩公楯 当摩公は上述。 〈続紀〉慶雲二年〔705〕十一月「庚辰。従五位下当麻真人楯為斎宮頭」。 
佐伯連広足  佐伯連は、〈壬申紀〉佐伯連大目参照。十三年、宿祢姓を賜る。 広足は、四年四月に「祠風神于龍田立野」。 十一年五月「使旨於御所〔復命〕。それ以後は見えず。
小墾田臣麻呂  小治田臣は、蘇賀石河宿祢を祖とする(108回) 小墾田推古天皇の宮。十三年朝臣性を賜る。 麻呂は、十一年五月佐伯連広足とともに復命。それ以後は見えず。
 高句麗は新羅による支配下にあったが名目上は独立国家としての外交活動を行い、日本もそれに応えて遣高麗国使を送った。 独自の外交課題としては、北海道の粛慎が日本による支配下にあることを認めさせることが考えられる。 五年十一月に新羅の使者が粛慎七名を連れてきたことは、新羅の領土的な進出を示すものとして朝廷を慌てさせたと見た。 現場の北海道は高句麗に近い。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》参照。
《天下悉大解除》
 この時期は、「皇祖御魂」とともに神道への復帰傾向が見える。
《国造》
 国造は、かつての地方統治の実権を有する者から転じて祭祀家となっていった〔律令国造〕ことが、ここにも表れている。
 ただし、初期の郡大領・少領には国造が横すべりした。〈壬申紀〉20の「高市県主許梅」は祭祀家と郡大領の両者を兼ねていたと思われる。 しかし、祭祀家としての律令国造群大領は時の流れとともに分離していったようである。
《大意》
 五月十一日、 皇祖の御魂の祭祀をしました。
 この日、 詔を発しました。
――「凡(およ)そ、百寮の諸人は、 官人を恭敬することが度を過ぎて甚だしい。
あるいは門前に詣でて自身の訴えを告げる。 あるいは賄(まいない)を捧げてその家に媚びる。
 今後、 もしこのようなことがあれば、事に応じて両者の罪とせよ。」
 二十六日、 高麗の卯問(みょうもん)が、帰国しました。
 六月五日、 新羅からの客〔=使者〕金若弼(じゃくひつ)を築紫で饗して、 それぞれに応じて賜禄しました。
 十七日、 雨乞いしました。
 二十四日、 地震あり。
 七月一日、 朱雀が見られました。
 四日、 小錦下(しょうきんげ)采女臣(うねめのおみ)竹羅(つくら)を大使、 当摩公(たぎまのきみ)楯(たて)を副使として、 新羅国に派遣しました。
 同じ日に、 小錦下佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を大使に、 小墾田臣(おはりたのおみ)麻呂(まろ)を副使として、 高麗国に派遣しました。
 十日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。
 三十日、 天下に悉く大解除(おおはらえ)させました。 この時に当り、 国造(くにのみやつこ)らは、それぞれ祓柱(はらえつもの)と奴婢一人を出して、 解除(はらえ)しました。


まとめ
 天照大神が石窟に閉じこもり、何とか引き出そうとする場面では「中臣・忌部が天照の近くで存在感を際立たせようと張り合う」、 そして「物語は天上世界で展開するが、それを編纂する現場ではとても人間臭い駆け引きが繰り広げられた」と述べた(第50回)。 この天児根命と太玉命の功名争いは、中臣氏と忌部氏が執筆陣内で有力な立場にあった結果と考えられている。
 すると、〈天武〉十年に「-定帝紀及上古諸事」により始まった事業は一定程度進み、 長い中断を経て日本書紀に繋ったと考えて差し支えないであろう。
 さて、古くは〈推古〉二十八年是年条の太子と蘇我馬子による「録天皇記及国記」があった。書紀のためにこれも十分に用いられたと思われる。 というのは、神功皇后段の「新羅国者定御馬甘。百済国者定渡屯家」(第141回)という規定は、〈天武〉では既に現実的な意味を失っている。 〈推古〉十八年には新羅からの使者を二班に分けさせ、その一方に「任那使」を装わせた。 この時期、任那を何とか形式的に維持し、つまりは三韓全体が倭国に従属する姿を見ようとして躍起になっていた。 神功皇后像の創出は当時の情勢を反映したもので、それが「天皇記及国記」に書かれていたのであろう。
 〈天武〉朝においては百済は既に滅び、神功皇后紀などはきれいに忘れ去られた如くで、新羅は普通に隣国としての付き合いとして描かれている〔ただ使者を朝貢使と称するのは形式的記述で、国家の自尊心による〕。 現実的には百済の再興のための再攻などは起こり得ず、書紀内にある断絶は顕著である。これは、つまりは太子・馬子時代の文献資産をそのまま取り入れたことを示すものであろう。



2025.06.20(fri) [29-13] 天武天皇下13 

51目次 【十年閏七月~九月】
《遣多禰嶋使人等貢多禰國圖》
閏七月戊戌朔壬子。
皇后、
誓願之大齋、
以說經於京內諸寺。
閏七月…〈北野本〔以下北〕/ノチノウルフ七月 フツキ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕ノチノ
誓願…〈北〉誓-願之コヒチカヒシ
閏(うるふ)七月(ふみづき)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね)。〔十五日〕
皇后(おほきさき)、
誓願之(ちかひこひねが)ひて大(おほきに)斎(せつさい、をがみ)せしめたまひて、
以ちて経(きやう)を[於]京(みさと)の内(うち)の諸寺(もろもろのてら)に説(と)かしめたまふ。
八月丁卯朔丁丑。
大錦下上毛野君三千卒。
上毛野君三千…〈北〉上毛野カムツケノキミ三千ミチ。 〈釈紀〉カムフケ
〈倭名類聚抄〉{東山国:上野【加三豆介乃】}。
八月(はつき)丁卯(ひのとう)を朔(つきたち)として丁丑(ひのとうし)。〔十一日〕
大錦下(だいきむげ)上毛野君(かみつけのきみ)三千(みち)卒(そつ)す。
丙子。
詔三韓諸人曰
「先日復十年調税既訖。
且加以歸化初年倶來之子孫、
並課役悉免焉。」
諸人…〈北〉諸-人 ヒト\/復十ユルシタマフ歸-化マウオモフク初年來之
〈閣〉ユルシタマフコト加以シカノミナラス歸-化マウヲモフク[句]  ノマタ マウクハ之子 ハ ニ課-役ヲツ エツキ免焉[句]
〈兼右本〉カラクニ調-ミ オ  マタトモマウケル
さきつひ…[名] 先日。
おほぢから…[名] 正税。
丙子(ひのえね)。〔十日〕
三韓(みつのからくに)の諸人(もろびと)に詔(みことのり)のりたまひて曰(い)はく
「先日(さきつひ)に十年(とをとせ)の調(みつき)税(おほぢから)を復(ゆる)したまふこと既(すで)に訖(を)へり。
且(また)加へて以ちて、帰化(まゐき)たる初(はじめ)の年に倶(ともに)来之(まゐき)たる子孫(うみのこ)は
並(な)べて課役(えつき)をば悉(ことごと)に免(ゆるせ)[焉]。」とのりたまふ。
壬午。
伊勢國貢白茅鴟。
白茅鴟…〈北〉白茅鴟シロ イヒ トヨ
壬午(みづのえうま)。〔十六日〕
伊勢の国、白き茅鴟(いひとよ)を貢(たてまつ)る。
丙戌。
遣多禰嶋使人等貢多禰國圖。
其國去京五千餘里、
居筑紫南海中。
切髮草裳。
粳稻常豐、一殖兩收。
土毛支子莞子及種々海物等多。
多祢国図…〈北〉多禰國カタアリ筑紫キリテ カ■ヲ クサノ-モキ■-稲イネ常豊-殖-收土-毛クニツモノクチナシ カマ及種々 ツ物等 ニヘサナリ
〈閣〉カタヲ加太 ノ コト ヲ リ ノ モキタリ粳-稻 イネ  ニ ナリ テ土-毛クムツモノハ支子 クチナシ[切]カマ[切] ノ ツ
〈兼右本〉ヤレリキ多-祢[ノ][ニ]トヨメリ ナリ
…[名] うるち。粳稲はうるち米。
くちなし…[名] 〈倭名類聚抄〉「梔子【和名久知奈之】」。〈新撰字鏡〉「支子:久知奈之」。
かま…[名] 〈倭名類聚抄〉「蒲【和名加末】」。
おほゐ…〈倭名類聚抄〉「:【於保井】」。
にへさ…[形動] たくさん。
丙戌。〔二十日〕
多祢嶋(たねのしま)に遣(や)りてある使人(つかひ)等(たち)多祢国(たねのくに)の図(かた)を貢(たてまつ)る。
其の国京(みやこ)を去ること五千余里(いつちさとあまり)、
筑紫(つくし)の南の海中(わたなか)に居(あ)り。
髮を切りて草(かや)の裳(も)をきる。
粳稲(いね)常に豊(ゆたか)なりて、一(ひとたび)殖(う)ゑて両(ふたたび)収(をさ)む。
土毛(くにつもの)は、支子(くちなし)莞子(おほゐ、がま)及びに種々(くさぐさ)の海物(うみつもの)等(ら)多(さはにあり、にへさなり)。
是日。
若弼歸國。
若弼…〈北〉若-弼シヤクヒツ
是(この)日。
若弼(じやくひつ)国に帰(まかりかへ)る。
九月丁酉朔己亥。
遣高麗新羅使人等共至之拜朝。
九月(ながつき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)として己亥(つちのゐ)。〔三日〕
高麗(こま)新羅(しらき)に遣(や)りてありし使人(つかひ)等(たち)共に至之(まゐたり)て朝(みかど)を拝(をろが)む。
辛丑。〔五日〕
周芳國貢赤龜、
乃放嶋宮池。
赤亀…〈北〉赤龜カハカメ
辛丑(かのとうし)。〔五日〕
周芳(すはう)の国赤き亀(かめ)を貢(たてまつ)る、
乃(すなはち)嶋宮(しまのみや)の池に放(はな)てり。
甲辰。
詔曰
「凡諸氏有氏上未定者、
各定氏上而申送于理官。」
氏上…〈北〉氏上コノカミヲサムル。 〈閣〉 コトモノ。 〈兼右本〉ノヘ- レヲサム-官[ニ]
甲辰(きのえたつ)。〔八日〕
詔(みことのり)のりたまひて曰(い)はく
「凡(おほよそ)諸(もろもろ)の氏(うぢ)に氏上(うぢのかみ)を未(いまだ)定めざる者(もの)有り、
各(おのもおのも)氏上(うぢのかみ)を定めて[而][于]理官(をさむるつかさ)に申(まを)し送(おく)れ。」とのりたまふ。
庚戌。
饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊、
奏種々樂。
奏種々楽…〈北〉オコス。 〈兼右本〉河-ツラウタマイ
庚戌(かのえいぬ)。〔十四日〕
多祢嶋(たねしま)の人等(たち)を[于]飛鳥寺(あすかでら)の西の河(かは)の辺(ほとり)に饗(あへ)して、
種々(くさぐさ)の楽(うたまひ)を奏(な)す。
壬子。
篲星見。
篲星…〈北〉ハゝキ。 〈閣〉彗星
…[名] ほうき。竹ぼうき。彗と同じ。
ははき…[名] ほうき。
壬子(みづのえね)。〔十六日〕
篲星(ははきほし)見ゆ。
癸丑。
熒惑入月。
熒惑入月…〈北〉熒惑ケイコク。 〈閣〉ケイ○○
熒惑…火星。
…(呉音)ワク。(漢音)コク。
癸丑(みづのとうし)。〔十七日〕
熒惑(くゑいこく)月に入(い)る。
《閏七月》
 は書紀古訓では一般に「ノチノ」と訓まれているが、〈北野本〉を見るとウルフもあったことが分かる。ウルフは「」の直訳であろう。
《皇后誓願之大斎》
 ここでは、主語が皇后になっているところが注目される。これまでに、皇后は独自の権力を持っていたことが見えた。 八年《皇后之盟》では、皇后の実権はほぼ〈天武〉と同等と見た。
《丙子》
 丙子〔十日〕は、前段の「八月丁卯朔丁丑〔十一日〕とは日付が逆転している。 次の日付「壬午」までの戊寅己卯庚辰辛巳に「丙子」と誤読されそうな日はないので、実際に逆転していると見られる。 文章にして書く段階での錯誤で、以後も見落とされたと思われる。
《毛野君三千》
上毛野君三千  三月に「-定帝紀及上古諸事」を命じられたばかりだが、早くも卒した。
《詔三韓諸人》
 「既訖」は十年の納税猶予が終了した、よって納税を再開せよとも読めるが、後半が「加えて子孫の課役や税も免除せよ」という内容なので繋がらない。 よって「既訖」は、「十年間免税せよと既に指示した」という意味であろう。
 詔全体としては、三韓からの帰化者を優遇している。おそらく、優れた技能・才能をもつ人を迎え入れることによって国力を充実させる意図であろう。
《伊勢国貢白茅鴟》
 茅鴟は、フクロウまたはミミズク(〈皇極〉三年三月《休留》項)。種々の動物の白色個体は、見つかるたびに祥瑞として報告された。多くはアルビノであろう。
《遣多祢嶋使人》
 八年十一月には、多祢国王に爵位一級を賜って関係を強化した。
 ここでは土地の図面を献上し、さらに「多祢嶋人等」を「飛鳥寺西河辺」で饗するという内容を見ると、多祢国が朝廷に遣使したと読むのが自然である。 しかし、「多祢嶋使人」は朝廷が多祢嶋に遣わした使者という意味であって、これ以外には読めない。
 これを「多祢国遣遣使人朝貢」に作りたくなるが、ひとまず原文を重んじて、朝廷が使者を多祢嶋に派遣して遣使を促し、使者を連れてきたと読むことにする。
 なお、多祢嶋との関係強化は新羅の海洋進出への警戒が背景にあり、今回もその続きと言える(《調物…馬狗騾駱駝》)。
 ひこばえ
 農研機構/プレスリリース
《多祢嶋》
 多祢嶋=種子島であろうことは、〈崇峻〉五年〈推古〉二十四年で見た通りである。
《去京五千余里》
 球面上の二点間の距離は、中心角1°あたりの孤長×中心角である。飛鳥宮跡〔34.472253N 135.821936E〕種子島西之表〔30.72531N 130.994659E〕を通る大円の弧の中心角は、5.528338358°である。 これに中心角一度の弧長111.11kmをかけると614kmとなる。
 一方令制の1里=300歩、1歩=1.8mなので、1里=540m。 すると、614km=1137里となる。したがって「京五千余里」は現実の数値とは無関係で、遠距離を表す観念的な表現ということになる。
《一殖両収》
 「一殖両収稲」は、再生二期作であろう。刈り取った後のひこばえから再び伸びてつけた穂を、もう一度収穫する農法をいう。 現代の実例は「高知県南国市における水稲再生二期作栽培の事例〔田所 学;『日本作物学会紀事』68巻4号1999〕に見える。 温暖な土地ならではである。
 したがって、「ひとたびうゑてふたたびをさむ」と訓読する。
《支子》
 クチナシ(梔子) 花(左)と実(右)
 双子葉類アカネ科クチナシ属
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 染料の色
出典[梔子染]
 支子は、〈汉典〉では「①支撐物体的東西。②一種鉄製的架在火上烤肉的用具。③宗法制度下、称正妻所生的嫡長子以下的和妾所生的児子」。 すなわち、中国語としての支子は、支えの器具全般・肉焼きのグリル・正妻の嫡子のうち長子と妾の庶子を意味する語で、植物名クチナシは日本語用法。
 〈続紀〉天平十四年〔742〕正月「武官酒食…仍齎〔=贈る〕…主典已上支子袍帛袴」が見える。 支子袍はクチナシ染めの袍〔朝服の上衣〕である。
 〈倭名類聚抄〉には「梔子:梔【音:支】子。木実可黄色者也。【和名:久知奈之】」とあり、すなわち梔子クチナシの実からは黄色の染料が得られる。
 支子梔子の別表記であったことは間違いない。
 書紀古訓では支子クチナシが添えられる。クチナシという倭語は上代からあったかも知れないが、〈時代別上代〉が見出し語にしていないのは飛鳥・奈良時代の文献に仮名書きが見つからなかったためと見られる。
《莞子》
 フトイ
 単子葉類イネ目カヤツリグサ科フトイ族
 『類聚名義抄』「:オホヰ」、 〈倭名類聚抄〉「:【於保井】可-為席」が見える。 〈時代別上代〉は「おほゐ太藺フトヰ。かやつり草科の多年生草本…茎を刈ってむしろなどを作る」と述べる。
 (万)3417可美都氣努 伊奈良能奴麻乃 於保為具左 かみつけの いならのぬまの おほゐぐさ」がある。 書紀古訓「ガマ」については、「莞蒲」という熟語があり、これはむしろを作る材料としてとまとめたものなので、書紀古訓は「」をガマと混同したように思える。
《若弼》
金若弼 九年十一月進調使として来朝。六月五日に筑紫で饗、賜録。
《遣高麗新羅使人》
 「遣高麗新羅使人等」は、采女臣竹羅当摩公楯〔遣新羅使〕、 及び佐伯連広足小墾田臣麻呂〔遣高麗使〕五月四日に派遣された。ここでは復命したことを意味する。
 高麗の安勝王は〈天武〉十三年に取り潰される。 安勝王は新羅による傀儡政権であるが、内々に自立を志向していたことは十分考えられる。 高麗からの遣日本使は常に新羅送使によって監視されていたが、それでも自立に向けて日本政権の協力を得ようとしていたと見てよいであろう。
 今回の「拝朝」は、両者に調べさせた新羅高麗の情勢を聞き、その件への対応を綿密に協議したとみられる。
《周芳国》
 周芳国〔周防国〕は、ここが文献における初出。周芳が音仮名表記だとすれば、もともとはスハ国と呼ばれていたことになる。 ただ〈倭名類聚抄〉は「周防【須波宇】」なので、少なくとも平安中期にはスハと呼ばれていた。 国の成立時から漢字名が付けられ、最初から音読みだったことも考えられる。
《赤亀》
 〈延喜式-治部省/祥瑞〉に赤亀はない。「赤-」には赤羆赤熊赤兎赤烏赤燕赤雀〔上瑞〕赤狐赤豹〔中瑞〕が見える。 「」は神亀〔大瑞〕、これは年号に用いられた。 一般に書記に載る祥瑞の実例は、〈延喜式〉には拾われていない。
《嶋宮》
現代の天市垣・宦者・河鼓の位置 資料[67]図7「宿の境界」(原図:CaldwellStarChart.svg)に加筆
天市垣の位置は、資料[68]『平天儀図解』-「恒星之図」を元に推定。
 嶋宮はもともとは蘇我馬子の邸宅で、馬子が薨じた後は朝廷管理施設となった。その池には小島があったという。島庄遺跡に比定される(〈推古〉三十四年)。
《氏上未定者》
 四年《甲子年諸氏被給部曲》項では、 〈天武〉が皇大弟時代の〈天智〉三年に自ら与えた栄誉を、〈天武〉四年にはご破算にしたことを見た。 しかし、ここでは再び氏上を定めて報告することを求めた。 どうやら、氏族との距離感の取り方に苦労している。氏族の側から見れば、氏上を報告してしまうと、同時に統制下に置かれることを警戒していたと考えられる。
《理官》 2025.09.25
 〈倭名類聚抄〉「治部省【乎佐牟留都可佐】」の前身であろう(資料[24])
《飛鳥寺西河辺》
 飛鳥寺西は、シルクロードの西方からの客や、蝦夷、粛慎などを接待する会場として用いられてきたが、 唐や三韓の使者をここで接待した記事は見えない。特異な性格の空間だったようだ (【飛鳥寺西の須弥山石】項)。
《篲星》
 『新唐書』-天文志。開耀元年九月丙申〔10/20〕彗星於天市中。長五丈。漸小、東行至河鼓」、「癸丑〔十八〕〔11/6〕:不」(資料[69])。
 ☆現代のそれぞれの星の位置(資料[68]による):
宦者(天市垣):星数4。〔推定〕ヘルクレス座60番星 赤経 17h 05m 22.66s 赤緯 +12° 44'27.1"」。
河鼓かこ(牛宿):星数2。〔推定〕わし座β星 赤経 19h 55m 18.77s 赤緯 +06°24'28.6"」。
 ☆681年当時
宦者:「赤経 15h 59m 13.70s 赤緯 +15°44' 04.36"
河鼓:「赤経 18h 44m 16.33s 赤緯 +03°40' 21.31"
681年の宦者河鼓の位置
《熒惑入月》
 熒惑〔ケイゴク・ケイワク〕は火星。火星食と見られるが、実際には接近のみともいわれる。
 「日本書紀天文言己録の信頼性」〔河鰭公昭;『国立天文台報』第五巻(2002)〕は、 「火星が月の縁をかすめたもので,地球回転の減速の補正値の取り方次第で掩蔽は起こらない計算になる」と述べる。
《大意》
 閏七月十五日、 皇后(おほきさき)は、 誓願され大斎され、 経を京内の諸寺に説かせられました。
 八月十一日、 大錦下(だいきんげ)上毛野君(かみつけのきみ)三千(みち)が卒しました。
 十日、 三韓の諸々の人に詔しました。
――「先日、十年間は調と税を免除させることを、既に訖えた。 また加えて、帰化の初年に共に来た子孫は、 並びに課役を悉に免除せよ。」
 十六日、 伊勢国は、白い茅鴟〔ミミヅク〕を献上しました。
 二十日 多祢(たね)の嶋に派遣した使者らが、多祢国の図を献上しました。 その国は京を去ること五千余里、 筑紫の南の海中にあります。 髮を切り草の裳をもちいます。 粳稲〔=うるち米〕は常に豊かで、一度植えて二度収穫します。 土毛〔=国の産物〕は、支子(くちなし)、莞子(ふとい)及び種々の海産物など多くあります。
 この日、 若弼(じやくひつ)は帰国しました。
 九月三日、 高麗と新羅に派遣した使者たちは共に帰国して拝朝しました。
 五日、 周芳国は、赤亀を献上し、 嶋の宮の池に放ちました。
 八日、 詔を発しました。
――「凡そ、諸氏に氏上(うじのかみ)を未だ定めていない者がいる。 それぞれ氏上を定め、理官に申し送れ。」
 十四日、 多祢の嶋の人らを飛鳥寺の西の河の畔で饗し、 種々の楽を奏しました。
 十六日、 彗星が見られました。
 十七日、 熒惑(けいわく)〔火星〕が月に入りました。


52目次 【十年十月~十二月】
《十月丙寅日蝕》
冬十月丙寅朔。
日蝕之。
日蝕…〈北〉蝕之ハエタリ
冬十月(みなづき)丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)。
日蝕之(ひはゆ)。
癸未。
地震。
癸未(みづのとひつじ)。〔十八日〕
地震(なゐふる)。
乙酉。
新羅遣沙㖨一吉飡金忠平
大奈末金壹世貢調、
金銀銅鐵錦絹鹿皮細布之類
各有數。
大奈末金壱世…〈北〉金壹 ヲ貢調金○͡鐵絹 /綿 鹿 ノ細布ホソヌノタクヒ
〈釈紀〉沙㖨サトク一吉飡イツキツセムコンチウヘイダイ奈未コムイツセイ細布ホソヌノホソノ 
〈兼右本〉カトリ
乙酉(きのととり)。〔二十日〕
新羅(しらき)沙㖨(さたく)一吉飡(いつきつさん)金忠平(こむちうへい)
大奈末(だいなま)金壱世(こむいつせい)を遣(まだ)して貢調(たてまつれるみつき)は、
金(くがね)銀(しろかね)銅(あかがね)鉄(くろがね、ねりかね)錦(わた)絹(きぬ、かとり)鹿皮(かのかは)細布(ほそきぬの)之(の)類(たぐひ)
各(おのもおのも)数(あまた)有り。
別獻天皇皇后太子、
金銀錦霞幡皮之類
各有數。
別献…〈閣〉 ニ
霞錦幡皮…〈北〉霞-幡カス ハタ。 〈閣〉霞-幡カスミ ハタ
錦霞…現代の版本は霞錦に作る(下述)。
別(こと)に天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)太子(ひつぎのみこ)に献(たてまつ)るものは、

金(くがね)銀(しろかね)錦(わた)霞(かすみ)の幡(はた)皮(かは)之(の)類(たぐひ)、 各(おのもおのも)数(あまた)有り。
庚寅。
詔曰
「大山位以下小建以上人等
各述意見。」
意見…〈北〉意見■■ロハヘ。 〈閣〉コゝロハヘ-見
〈兼右本〉マウセ
大山/小建冠位二十六階で大山上は第十三位、小建は第二十六位。
こころばへ…[名] 心情。〈時代別上代〉「ハフ(下二段)に思いを及ぼす意があり、それとココロの複合であろう」。
庚寅(かのえとら)。〔二十五日〕
詔(みことのり)のたまひて曰はく
「大山位(だいせんゐ)より以下(しもつかた)小建(せうけん)より以上(かみつかた)の人等(ひとたち)は、
各(おのもおのも)意見(こころばへ)を述(まを)せ。」とのたまふ。
是月。
天皇、
將蒐於廣瀬野而
行宮構訖。
裝束既備、
然車駕遂不幸矣。
将蒐…〈北〉/ミ車-駕スメラミコト。 〈閣〉ツクリ-訖[切]ヨソヒ-束。 〈兼右本〉 ニケミシタマハント
…[動] あつめる。かくす。さがす。(古訓) えらふ。かくる。
けみ…[名] 検分すること。検見のンが表記されない形。
是(この)月。
天皇(すめらみこと)、
将(まさに)[於]広瀬野(ひろせの)に蒐(あつ)めむとおもほして[而]
行宮(かりみや)を構(つく)り訖(を)ふ。
裝束(よそひ)既(すで)に備(そなは)れど、
然(しかれども)車駕(しやか、すめらみこと)遂(つひ)に不幸(いでまさざり)[矣]。
唯親王以下及群卿、
皆居于軽市而
検校裝束鞍馬。
小錦以上大夫皆列坐於樹下、
大山位以下者皆親乗之、
共隨大路自南行北。
検校…〈北〉-校裝-束ヨソヒ■ル鞍-馬 カサリママゝ大路
〈閣〉裝-束ヨソヒセル 鞍-馬カサリマ 。 〈兼右本〉[ノ]-モト[ニ]
小錦/大山冠位二十六階で小錦下は第十二位、大山上は第十三位。
唯(ただ)親王(みこ)より以下(しもつかた)群卿(まへつきみたち)に及びて、
皆(みな)[于]軽市(かるのいち)に居(はべ)りて[而]
裝束(よそひ)鞍馬(くらま、かざりま)を検校(かむが)へたまふ。
小錦(せうきむ)より以上(かむつかた)の大夫(まへつきみ)は皆(みな)[於]樹(き)の下に列(なら)び坐(を)りて、
大山位(だいせんゐ)より以下(しもつかた)の者は皆親(みづか)ら之(これ)に乗りて、
共に大路(おほち)の隨(まにま)に南自(ゆ)北に行(ゆ)けり。
新羅使者至而告曰
「國王薨。」
新羅(しらき)の使者(つかひ)至(まゐき)て[而]告げて曰はく
「国の王(わう、こきし)薨(こう)ず。」とつぐ。
十一月丙申朔丁酉。
地震。
十一月(しもつき)丙申(ひのえさる)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)。〔二日〕
地震(なゐふる)。
十二月乙丑朔甲戌。
小錦下河邊臣子首遣筑紫、
饗新羅客忠平。
子首…〈兼右本〉子-首コ カウヘ
小錦下冠位二十六階第十二位。
十二月(しはす)乙丑(きのとうし)を朔(つきたち)として甲戌(きのえいぬ)。〔十日〕
小錦下(せうきむげ)河辺臣(かはべのおみ)子首(こびと)を筑紫(つくし)に遣(や)りて、
新羅(しらき)の客(まらひと)忠平(ちうへい)に饗(あへ)せしめたまふ。
癸巳。
田中臣鍛師
柿本臣猨
田部連國忍
高向臣麻呂
粟田臣眞人
物部連麻呂
中臣連大嶋
曾禰連韓犬
書直智德、
幷壹拾人授小錦下位。
田中臣鍛師…〈北〉田中臣タナカノヲン鍛-師カヌチ柿-本臣カキノモトヲンサル 田部タヘノムラン國忍クニヲシ高向臣タカムクノヲン麻呂マロ粟田臣アハタノヲン眞人マヒト 物部連麻呂中 ノ連大嶋ネノムラシ韓犬カライヌ書直 フミノアタヒトコ
〈釈紀〉田中タナカノヲンカヌ。 私記説
かぬち…[名] 作業として鍛冶。また鍛冶する人。ここでは人名。
小錦下冠位二十六階第十二位。
癸巳(みづのとみ)。〔二十九日〕
田中臣(たなかのおみ)鍛師(かぬち)
柿本臣(かきもとのおみ)猨(さる)
田部連(たべのむらじ)国忍(くにおし)
高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)
粟田臣(あはたのおみ)真人(まひと)
物部連(もののべのむらじ)麻呂(まろ)
中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おほしま)
曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)
書直(ふみのあたひ)智徳(ちとこ)、
并(あは)せて壱拾人(とをたり)に小錦下位(せうきむげゐ)を授(さづ)けたまふ。
是日。
舍人造糠蟲
書直智德、賜姓曰連。
舎人造糠虫…〈北〉舍人ト■リノミヤツコ ヌカ ムシ
是(この)日。
舎人造(とねりのみやつこ)糠虫(ぬかむし)
書直(ふみのあたひ)智徳(ちとこ)に、姓(かばね)を賜(たま)ひて連(むらじ)と曰ふ。
《日蝕》
日食の木漏れ日
 ユリウス暦681年11月16日。金環食
 資料[83]で行ったシミュレーションでは、飛鳥で部分日食が見えるのは昼前の二時間ほどで、食分の最大値は0.21となっている。 この程度では、予備知識がなければ見逃されたかも知れない。
 しかし、〈天武〉四年には占星台の記事から、天体観測が継続的になされていたことが考えられる。 中国の暦法によって予定日を知り、待ち構えて観測した可能性はある。
 なお、天体望遠鏡のない時代でも、ピンホールカメラの原理で日光を小さな穴を通して投影して観測することができる。 木漏れ日は木の葉の隙間がピンホールとなって、欠けた太陽の像を数多く地面に投影する。庶民がこれに気づいた可能性もある(右図)。
 国立天文台公式の[過去の日食の画像]に、日食時の木漏れ日の記事がある。
《地震》
 詳細は不明。
《金忠平/金壹世》
沙㖨一吉飡〔七位〕一覧金忠平 十二月乙丑朔甲戌、筑紫で饗。十一年正月乙巳筑紫で饗。同二月乙亥帰国。
大奈末〔十位〕金壱世 恐らく金忠平と同一行動。
 沙㖨は、六部〔新羅建国時代の王畿の地域区分に由来〕のひとつ(〈推古〉十八年)。
《鹿皮》
 (万)3885佐男鹿乃 来立嘆久 頓尓 吾可死 王尓 吾仕牟 吾角者 御笠乃波夜詩…吾皮者 御箱皮尓…  さをしかの きたちなげかく たちまちに われはしぬべし おほきみに われはつかへむ わがつのは みかさのはやし…わがかはは みはこのかはに…」から、 鹿皮が箱の外装などに利用されていたことが知れる。
《霞幡》
 もともと「綿霞幡」であるが、岩波文庫、『日本古典文学全集』〔小学館〕ともに「霞綿幡」に作る。
 〈釈紀〉の時代は、述義で「霞幡:私記曰。師説。此幡之製。似朝霞之色故名〔この旗の製は朝霞の色に似る。故に名づく〕とあるように、まだ綿霞幡である。
 「霞錦」説は江戸時代になって現れた。 『通釈』は「霞錦;本に錦霞に作る。今旧本の訓にカスミイロノニシキとあると。下文朱鳥元年に霞錦とあるに依る」と述べる。 確かに、朱鳥元年四月には「金銀霞錦綾羅」とある。
 ここでについて調べると、『芸文類倭名聚』に「黄帝乗龍升雲、登二上朝霞」とある。 〈汉典〉は「朝霞:太陽升起時東方的雲霞」すなわち、太陽が昇るときの東の空の色をいう。 色の名であるから、綿の色・幡の色のどちらもあり得る。したがって、他の個所に「霞綿」があったとしてもそれに合わせるべきとまでは言えない。
《天皇皇后太子》
 この時点の太子は、草壁皇子尊
 以前に天皇皇后太子に贈り物攻勢をかけたときは、日本に耽羅から手を引かせる意図があった(《調物…馬狗騾駱駝》)。
 新羅は高麗の安勝王が自立志向をもって日本の協力を求めていることを既に把握していて(上述)、今回の天皇皇后太子への贈り物攻勢には高麗から手を引かせる意図が伺われる。
《各述意見》
 冠位二十六階の最下位の小建まで広げて、積極的に意見具申を求める。 一方で氏族への統制は強めているから、外からの干渉に左右されず、官の正規の機関が責任をもって活動すべきだという考え方の現れであろう。 そのために位階の区別なく積極的に発言することを促し、組織を活性化させようとする。
《広瀬野》
 広瀬野は、広瀬郡内の野であろう。
 『大日本地名辞書』は「今百済村に属す、葛城川の東畔に居る。「…広瀬野、而行宮…」とあるは此地ならん」と述べる。 広瀬行宮に比定し得るような遺跡が発見されているわけではないから、その候補地は概念的な推定に留まる。
 なお、[木簡庫]によると、飛鳥池遺跡南地区から「散支宮」と読める木簡が出土している。 散支は〈倭名類聚抄〉{大和国・広瀬郡・散吉郷}にあたり、「「散支宮」は広瀬行宮そのものを指す可能性もある」という。
《軽市》
 軽市は、下ツ道安倍山田道〔横王子〕の交差点付近に開かれ、活発な商業活動が行われていたと考えられる。 〈懿徳〉天皇段(第104回)で「軽之堺原宮」の位置を考察するのに伴って述べた(【軽】項)。
《検校》
 「親王以下及群卿」を主語とすると、小錦以上の大夫が木の下で並んで座って参観し、大山位以下の者が馬に乗って行進したことになる。 これでは見る側の人数が多すぎて、検校のイメージに合わない。 やはり「検校」の主語は天皇とするのが自然か。
 つまり、当初は広瀬野で観閲することを予定して行宮を建てたが、辺鄙な土地なので賑やかな軽市に会場を変更し、そこで天皇が「検校」したと読んでみたらどうだろうか。
 なお、「共に」は「小錦以上」及び「大山位以下」とも読めるが、高位の者がぞろぞろ歩き、低位の者が馬に乗って行くのは逆である。 よって「共に」は「大山位以下者」の部分のみにかかると読むべきである。
《新羅王薨》
 『三国史記』-新羅本紀:文武王二十一年「秋七月一日王薨。諡曰文武。群臣以遺言東海口大石上。俗伝王化為一レ龍、仍指其石大王石」と記される。
《地震》
 詳細は書かれない。
《河辺臣子首》
河辺臣子首 河辺臣については河辺百枝臣項。子首はここだけ。
 書紀古訓ではカウヘ〔かうべ〕と訓むが、〈時代別上代〉は、頭を意味するカウベについて「書紀古訓および和名抄の中にみえる」語で、カブ〔頭〕=ヘ〔上〕の音便と見ている。 音便は平安になってからだから、事実上上代語であることを否定している。姓の「」はオビトと読むことは定着していたから、それを名に用いたと見るのが適切であろう。 そしてコ+オビトは、母音融合によってコビトとなったと考えられる。
《金忠平》
金忠平 十月乙酉来朝。十一年正月乙巳筑紫で饗。同二月乙亥帰国。
 「饗於筑紫」が十一年正月乙巳にもあることが、読む者を戸惑わせる。「十二月甲戌」は、河辺臣子首が「新羅客忠平」のために派遣された日付として読み、饗の実施日は翌年正月乙巳と読むのがよいであろう。
《授小錦下位》
田中臣鍛師  田中臣については、〈壬申段〉田中臣足麻呂参照。 〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。鍛師はここだけ。
柿本臣猨  柿本臣の祖は〈孝昭〉皇子天押帯日子命。本貫は葛下郡柿本(〈孝昭〉段/柿本臣。 〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。は、和銅元年〔708〕四月壬午「従四位下柿本朝臣佐留」。
田部連国忍  〈姓氏家系大辞典〉「田部連:物部氏の族にして、田部の伴造家なり」。 すなわち〈天孫本紀〉十一世孫:「麦入宿祢連公―物部小前宿禰連公【田部連等祖】」(資料[39])。 国忍はここだけ。
高向臣麻呂  高向臣の祖は建内宿祢の子蘇我石河宿祢。本貫は{越前国・坂井郡・高向郷} (〈孝元〉段/高向臣、〈舒明〉即位前《高向臣宇摩》)。 十三年四月「小錦下高向臣麻呂為大使…遣新羅」。同十一月「高向臣…賜姓曰朝臣」。 〈続紀〉大宝二年〔702〕五月「従四位上高向朝臣麻呂…令参議朝政」。「」 慶雲二年〔705〕四月「正四位下…高向朝臣麻呂…為中納言」。 和銅元年〔708〕正月「授…正四位上高向朝臣麻呂従三位」。 同三月「従三位高向朝臣麻呂為摂津大夫」。 同閏八月丁酉「摂津大夫従三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷〔孝徳〕刑部尚書大花上国忍之子也」。
粟田臣真人  粟田臣の祖は〈孝昭〉皇子天押帯日子命。本貫は愛宕郡粟田(〈孝昭〉段/粟田臣/《粟田》)。
 真人は、〈孝徳〉白雉四年原注に「春日粟田臣百済の子」と書かれるところの、唐に渡った学問僧道観と同一人物と考えられている(道観)。
 ある本に〈天武〉十三年十一月戊申「田臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」は確実に田臣※)。 十四年五月「直大肆粟田朝臣真人、讓位于父、然勅不聴矣」。
 〈持統〉三年正月及び六月「筑紫大宰粟田真人朝臣」。
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月「遣…直大弐粟田朝臣真人…於山科山陵。並分功修造焉」。 同四年〔700〕六月「勅浄大参刑部親王、直広壱藤原朝臣不比等、直大弐粟田朝臣真人…等撰定律令」。
 大宝元年〔701〕正月「守民部尚書直大弐粟田朝臣真人遣唐執節使」。 同五月「入唐使粟田朝臣真人節刀」。 同二年五月「勅…正四位下粟田朝臣真人…令-議朝政」。
 慶雲元年〔704〕七月「正四位下粟田朝臣真人唐国」。十月「粟田朝臣真人等拝」。 十一月「正四位下粟田朝臣真人大倭国田廿町穀一千斛」。
 慶雲二年〔705〕四月「正四位下粟田朝臣真人…為中納言」。八月「遣唐使粟田朝臣真人従三位」。
 霊亀元年〔715〕四月「従三位粟田朝臣真人正三位」。
 養老三年〔719〕二月「甲子。正三位粟田朝臣真人」。
※)…〈北野本〉「栗田クリタ」。〈内閣文庫本〉「栗田」。〈兼右本〉「粟田」。 『仮名日本紀』「くりた栗田おん」。 岩波文庫「粟田臣」。『日本古典文学全集』〔小学館〕粟田臣」。
物部連麻呂  物部連は、十三年に朝臣性を給わる。
 朱鳥元年「石上朝臣麻呂」が〈天武〉の喪に「誄兵政官事」。物部氏の氏族名変更については、資料[37]/《天武天皇紀に見る物部氏》で考察した。
 〈持統〉三年九月「直広参石上朝臣麻呂…於筑紫給送位記、且監新城」。
 十年九月「-賜…直広壱石上朝臣麻呂」。
 〈続紀〉文武四年〔700〕十月「直大壱石上朝臣麻呂、為筑紫総領」。
 大宝元年〔701〕三月「授…中納言直大壱石上朝臣麻呂。…中納言正正三位石上朝臣麻呂…為大納言。是日罷中納言官」。 七月「…多治比真人嶋薨。遣…正三位石上朝臣麻呂。就第吊賻之」。
 二年〔702〕八月「正三位石上朝臣麻呂大宰師」。
 三年〔703〕閏四月「…阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂弔賻之」。
 慶雲元年〔704〕正月癸巳「詔:以大納言従二位石上朝臣麻呂右大臣」。丁酉「益封…右大臣従二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸」。
 和銅元年〔708〕正月「…従二位石上朝臣麻呂…正二位」。三月「以…右大臣正二位石上朝臣麻呂左大臣」。 七月「召…左大臣石上朝臣麻呂…勅曰…宜知此意各自努力」。
 和銅三年〔710〕三月「辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂留守」。
 養老元年〔717〕三月癸卯。左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八。…大臣、泊瀬朝倉朝〔〈雄略〉〕庭大連物部目之後。難波朝〔〈孝徳〉〕衛部大華上宇麻乃之子也」。
中臣連大嶋  十年四月令記定帝紀及上古諸事」の一人。
曽祢連韓犬  四年四月に広瀬に派遣され、はじめて大忌神を祀る。
書直智徳  大海人皇子が吉野を出たとき、最初から随行したメンバーの一人。
壱拾人」には一人足らない。岩波文庫版は、翌年一月に小錦下位を授けられた舎人連糠虫が、予定ではこの日に小錦下位を授かることになっていて、それを加えた数字だと解釈する。 『日本古典文学全集』〔小学館〕も「次行の「舎人連糠虫」を加えた人数であろう」とする。
 舎人連糠虫は同じ日に連姓を賜っているから、授位儀式への病気欠席は考えられない。想像をたくましくすると、糠虫と同じく連姓を賜った書連智徳が一人小錦下位を授かったことが後から分かり、糠虫はどうなっているのかと一族が騒いだ。 その結果翌年正月癸卯に小錦下を授けられ、書類上の日付は他の九名に合わせて十二月癸巳とされた。 このようなすこぶる人間的な筋書きが思い浮かぶ。
《賜姓曰連》
舎人造糠虫  〈姓氏家系大辞典〉「舎人 トネリ:職名の一にして、古代以来、天皇、皇子等に近侍して雑役に仕えし者を云ふ」。 「舎人造:舎人部の伴造たりし氏なり」。
 十一年正月「大山上舎人連糠虫、授小錦下位」。二月是月「小錦下舎人連糠虫卒、以壬申年之功贈大錦上位」。すなわち〈壬申紀〉には記されないが、大海人皇子側に属して戦功を挙げた。
書直智徳 上述
《大意》
 十月一日、 日食あり。
 十八日、 地震あり。
 二十日、 新羅の沙㖨(さたく)部一吉飡(いつきつさん)金忠平(こんちゅうへい)と 大奈末(だいなま)金壱世(こんいちせい)を派遣して貢調したものは、 金、銀、銅、鉄、錦、絹、鹿革(しかがわ)、細布の類で、 それぞれ多数ありました。
 それとは別に天皇、皇后、皇太子に献上したものは、 金・銀・錦・霞(かすみ)色の幡〔=旗〕、革の類で、 それぞれ多数ありました。
 二十五日、 「大山(だいせん)位以下、小建(しょうけん)以上の人たちは、 それぞれ意見を述べよ。」と詔されました。
 この月には、 天皇(すめらみこと)は、 広瀬野に集めて検校したいと思われ、 行宮を構え終えました。 宮の装いは既に整っていましたが、 天皇の車駕は遂に来ませんでした。
 ただ、親王以下群卿まで、 皆が軽の市に集まり、 裝束、鞍馬を検校されました。
 小錦以上の群卿は皆樹の下に列して座りました。 大山位以下の者は皆自ら鞍馬に乗って、 共に大路沿いに南から北に行進しました。
 新羅の使者が来て 「国王(こきし)が薨じました。」と告げました。
 十一月二日、 地震あり。
 十二月十日、 小錦下(しょうきんげ)河辺臣(かわべのおみ)子首(こびと)を筑紫(つくし)に派遣し、 〔翌年正月十一日に〕新羅の客忠平に饗させました。
 二十九日、 田中臣(たなかのおみ)鍛師(かぬち)、 柿本臣(かきもとのおみ)猨(さる)、 田部連(たべのむらじ)国忍(くにおし) 高向臣(たかむこのおみ)麻呂(まろ)、 粟田臣(あわたのおみ)真人(まひと)、 物部連(もののべのむらじ)麻呂(まろ)、 中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おおしま)、 曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)、 書直(ふみのあたひ)智徳(ちとこ)、 合計十人〔ママ〕に小錦下位を授けました。
 この日、 舎人造(とねりのみやつこ)糠虫(ぬかむし) 書直(ふみのあたい)智徳(ちとこ)に、連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。


まとめ
 〈天武〉朝のはじめは軍政を解除し、芸能の振興を促すなどして国内は明るい空気に満ちていた。
 後半になると、次第に諸族への統制を強め、自立した官僚組織の確立に向かう。 群卿への進階は、政府機関の機能を強化するのが狙いである。舎人連糠虫の進階に伴うトラブルがあったとすれば、その文脈中に位置づけることができよう。
 外交面では、新羅との対応が引き続き重要課題であった。多祢嶋との関係強化の背景には、新羅の海洋進出がある。 この時期には、自立志向を見せて日本へ接近を試みる高麗と、それを防ごうとする新羅の綱引きが繰り広げられている。



2025.06.24(tue) [29-14] 天武天皇下14 

53目次 【十一年正月~三月】
《遣于新城令見其地形仍將都矣》
十一年春正月乙未朔癸卯。
大山上舍人連糠蟲、
授小錦下位。
十一年…〈北野本〔以下北〕十一
大山上冠位二十六階第十三位。
小錦下…冠位二十六階第十二位。
十一年(ととせあまりひととせ)春正月(むつき)乙未(きのとひつじ)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)。〔九日〕
大山上(だいせんじやう)舎人連(とねりのむらじ)糠虫(ぬかむし)に、
小錦下位(せうきむげゐ)を授けたまふ。
乙巳。
饗金忠平於筑紫。
乙巳(きのとみ)。〔十一日〕
金忠平(こむちうへい)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)したまふ。
壬子。
氷上夫人薨于宮中。
氷上夫人…〈兼右本〉夫-人オフトシ ヌ
壬子(みづのえね)。〔十八日〕
氷上(ひかみ)の夫人(おほとじ)[于]宮(おほみや)の中(うち)に薨(こう)ず。
癸丑。
地動。
癸丑(みづのとうし)。〔十九日〕
地動(ないふる)。
辛酉。
葬氷上夫人於赤穗。
辛酉(かのととり)。〔二十七日〕
氷上(ひかみ)の夫人(おほとじ)を[於]赤穂(あかほ)に葬(はぶ)りたまふ。
二月甲子朔乙亥。
金忠平歸國。
二月(きさらき)甲子(きのえね)を朔(つきたち)として乙亥(きのとゐ)。〔十二日〕
金忠平(こむちうへい)国に帰(まかりかへ)る。
是月。
小錦下舍人連糠蟲卒、
以壬申年之功贈大錦上位。
大錦上…冠位二十六階第七位。
是(この)月。
小錦下(せうきむげ)舎人連(とねりのむらじ)糠虫(ぬかむし)卒す、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて大錦上位(だいきむじやうゐ)を贈りたまふ。
三月甲午朔。
命小紫三野王及宮內官大夫等
遣于新城令見其地形、
仍將都矣。
宮内官…〈北〉/ミヤ/ウチノ/ツカサノ大夫/カミ地形アリカタ仍将 ツリ
〈内閣文庫本〔以下閣〕トコロノアリカタヲ テ ツク。 〈兼右本〉ミヤコツクラン
小紫…冠位二十六階第六位。
大夫…〈倭名類聚抄〉「長官:省曰卿。…勘解由職曰大夫。…【已上皆加美】」。
三月(やよひ)甲午(きのえうま)の朔(つきたち)。
小紫(せうし)三野王(みののおほきみ)及びに宮内官(みやうちのつかさ)の大夫(かみ)等(ら)に命(おほ)せて
[于]新城(にひき)に遣(や)りて其の地(ところ)の形(ありさま)を見令(し)めて、
仍(よ)りて将都(みやこにせむ)とおもほす[矣]。
乙未。
陸奧國蝦夷廿二人賜爵位。
賜爵位…〈閣〉廿二 ニ○爵賜 
陸奥…〈倭名類聚抄〉{陸奥【三知乃於久】国}。
乙未(きのとひつじ)。〔二日〕
陸奧(みちのおく)の国の蝦夷(えみし)二十二人(はたあまりふたり)に爵(かがふり)の位(くらゐ)を賜(たま)ふ。
庚子。
地震。
庚子。〔七日〕
地震(なゐふる)。
丙午。
命境部連石積等、
更肇俾造新字一部卌四卷。
新字…〈北〉ニヒヒト トモ卌四卷ヨソアマリヨマキ。 〈閣〉トモ四十四 ヲ。 〈釈紀〉卌四卷ヨソアマリヨマキ
とも…[助数詞] 書物、経典。
丙午(ひのえうま)。〔十三日〕
境部連(さかひのむらじ)石積(いしづみ)等(ら)に命(おほ)せて、
更(さら)に肇(はじめ)て新字(にひな)一部(ひととも)四十四巻(よそあまりよまき)を造(つく)ら俾(し)む。
己酉。
幸于新城。
己酉(つちのととり)。〔十六日〕
[于]新城(にひき)に幸(いでま)す。
辛酉。
詔曰
「親王以下百寮諸人、
自今已後、
位冠及襅褶脛裳、莫着。
亦、膳夫采女等之手繦肩巾
【肩巾此云比例】
並莫服。」
襅褶脛裳…〈北〉マヘモ[切]ヒラオヒ[切]脛-裳ハゝキ莫着/ナキソ 𡖋膳 ヘ ヘ等之手繦ヒレ莫服ナキソ
〈閣〉マヘモ[切]褶-脛ヒラヲヒ ハゝキ[切][切]莫- ナセソ[切] ニ莫服ナセソ 
〈兼右本〉脛-裳ハゝキ モハゝキ=合 レキスル
辛酉(かのととり)。〔二十八日〕
詔(のたま)ひて曰(いはく)
「親王(みこ)より以下(しもつかた)百寮(もものつかさ)の諸人(もろもろのひと)は、
今自(よ)り已後(のち)、
位(くらゐ)の冠(かがふり)及びに襅(まへも)褶(ひらおび)脛裳(はばき)をば、莫(な)着(き)そ。
亦(また)、膳夫(かしはで)采女(うねめ)等(たち)之(の)手繦(たすき)肩巾(ひれ)
【肩巾、此を比例(ひれ)と云ふ】をば、
並(ならび)に莫(な)服(き)そ。」とのたまふ。
是日。
詔曰
「親王以下至于諸臣、
被給食封、皆止之、
更返於公。」
被給食封…〈北〉/給食封皆ヤメ。 〈閣〉ヤメテ
是(この)日。
詔(のたま)ひて曰はく
「親王(みこ)より以下(しもつかた)[于]諸臣(もろもろのおみ)至(まで)、
被給(たまはりてある)食封(じきふ)をば、皆(みな)止之(や)めて、
更(さら)に[於]公(おほやけ)に返(かへ)せ。」とのたまふ。
是月。
土師連眞敷卒、
以壬申年功贈大錦上位。
真敷…〈北〉真-敷マ ハキ
〈閣〉土師「喚王卿等於殿前已下照本無之仍銷之以令博戯是日言處王難波王竹…十二月壬申朔乙亥遣筑紫防人等飄蕩海」土師連真敷卒〔十四年九月辛酉条9文字目から十二月壬申朔乙亥の「遣筑紫防人等飄蕩海」までが紛れ込んでいる〕
大錦上…冠位二十六階第七位。
是(この)月。
土師連(はにしのむらじ)真敷(ましき)卒(そつ)す、
以壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて大錦上位(だいきむじやうゐ)を贈りたまふ。
《舎人連糠虫》
舎人連糠虫 進階は、遡って前年十二月癸巳付とされたと見られる。二月に卒す。
《金忠平》
金忠平 十年十月来朝。十一年二月帰国。
《氷上夫人》
氷上夫人 藤原鎌足の女。但馬皇女の母。
《糠虫卒》
 上述贈大錦上位は、四段階特進。〈壬申紀〉にはでてこないが、功は格別に大きかったのであろう。
《三野王》
三野王 栗隈王の子。左大臣橘朝臣諸兄の父。
  《宮内官》
 令制宮内省の前身(資料[24])。 〈倭名類聚抄〉による訓みは「宮内省【美夜乃宇知乃都加佐】」。
《新城》
 「新城」については、五年是年《将都新城》にもあり、考察した。 ここでも特定の地名ではなく、新しい都の意味であろう。五年に建都を中止したから、再び始めたことになる。
 己酉には、天皇が親ら視察する。
《陸奧国蝦夷》
 日本海側の越蝦夷に対して、太平洋側の蝦夷を陸奧国蝦夷という(下述)。 朝廷領の北方ラインは、まだ多賀柵(天平九〔737〕、多賀城市)には達していないと見られる(資料[72])。
 境界では交易により関係を深めつつ、うまくいくようなら倭人の行政下に組み込んでいく。それを形で表すのが、爵位の授与である。
《境部連石積》
境部連石積 〈天智〉四年に百済に派遣。〈天武〉六年に帰国。
 石積が辞書『新字』を担当したのは中国語に堪能だからであろう。
《新字一部四十四巻》
 『新字』は逸書。古事記の序文には、倭語を漢字で表現する方法を研究したとある(第25回)。その際、そもそもどのような漢字が存在するかを知らねばならない。 字典の充実は必須なのである。
 「新字」と名付けたのは、以前からそれなりに字典が存在したからであろう。
《位冠及襅褶脛裳》
 「位冠」は廃止され、六月丁卯条で「漆紗冠」に置き換えられた。
 次に書かれる「襅褶脛裳」とは、何だろうか。

 一般的には「ちはや」。巫女が用いるたすき、また巫女の上衣を指すが、ここでは文意に合わない。

 一般的な意味は「ひだ〔地層が波打つ変形を地学用語で「褶曲」という〕。あわせの衣類。乗馬用上着」だが、ここでは衣類の一種を指す。
『播磨国風土記』宍禾郡「比良美村:大神之褶落於此村。故曰褶村。今人云比良美村」。 この「」に〈時代別上代〉はヒラオビヒラミの二通りの訓を付す。前者は「比良美村はヒラオビを変形したと述べたもの」、後者は「衣類のヒラミがそのまま村名になった」と解釈したもの。 『類聚名義抄』法中「:ウハミ ヒラミ」。 〈時代別上代〉「ひらおび:[名]衣服の名。平-帯か。男は袴の上、女は唐裳の上につける」。

脛裳

 書紀古訓では、ハバキハバキモ。 〈倭名類聚抄〉「行纏」項に、「…脛巾【俗云波々岐】」。 脚絆のようなものと解されている。
 の書紀古訓は「マヘモ」だが、ここ以外に用例はない。 "前裳"であろうが、裳だとすると襅褶脛裳はすべて腰より下の衣類となってしまうから、腰より上の衣類と見るべきであろう。しかし適切な上代語を探すのは難しい。

 さて、襅褶脛裳を廃した後は、何を着用するのであろうか。 これに関しては、十三年四月には「男女並衣服者、有襴無襴及結紐長紐、任意服之。其会集之日着襴衣而長紐、唯男子者有圭冠々而着括緖褌」として新たな制度を示す。
 「位冠」が廃されたことについては、「圭冠」(漆紗冠)に置き換えられる。
 十一年の「」は方向性のみで詔勅としては不完全なので、ミコトノリと訓読することは避けるべきか。
《手繦肩巾》

手繦

 神代紀「由此、発慍、乃入于天石窟」段に「【手繦、此云多須枳】」とある (第49回)

肩巾

 大国主命段(第59回)では魔除けとしての比礼を語る。 〈欽明〉二十三年《歌意》
 〈孝徳〉紀~〈天武〉紀では、采女の衣装の一部であるが、魔除けとする意識は残っていたであろう。

《被給食封皆止之》
 実際には、これ以後にも増封の記事がある。
 〈持統〉五年正月「直広肆筑紫史増、…賜食封五十戸…」、 七年二月「大学博士勤広弐上村主百済、食封卅戸、以優儒道」、 七年十一月「直大肆直広肆引田朝臣少麻呂、仍賜食封五十戸」が見える。
 よって、ここでは食封そのものの廃止ではなく、白紙に戻して再配分する意味であろう。どのように再配分するかの方針が示されないので、これも完全な詔勅とは言えない。
《土師連真敷》
土師連真敷 土師連は、〈仁徳〉六十年《土師連》項。十三年に宿祢姓を賜る。 真敷はここだけ。〈壬申紀〉には書かれない。
《大意》
 十一年正月九日、 大山上(だいせんじょう)舎人連(とねりのむらじ)糠虫(ぬかむし)に、 小錦下(しょうきんげ)位を授けられました。
 十一日、 金忠平(こんちゅうへい)を筑紫で饗されました。
 十八日、 氷上(ひかみ)の夫人(おおとじ)が宮殿内で薨じました。
 十九日、 地震あり。
 二十七日、 氷上の夫人を赤穂に埋葬しました。
 二月十二日、 金忠平が帰国しました。
 この月、 小錦下舎人連糠虫(ぬかむし)が卒し、 壬申年の功により大錦上位を贈られました。
 三月一日、 小紫(しょうし)三野王(みののおおきみ)及び宮内官(みやうちのつかさ)の大夫(かみ)らに命じて、 新城(にいき)に派遣してその地の状況を見させ、 よって都にしようと思われました。
 二日、 陸奧国の蝦夷(えみし)二十二人に爵位を賜りました。
 七日、 地震あり。
 十三日、 境部連(さかいのむらじ)石積(いしづみ)らに命じて、 さらに初めて新字(にいな)一部四十四巻を作らせました。
 十六日、 新城に行幸しました。
 二十八日、 詔を発しました。
――「親王以下、百寮の人々は、 今後、 位冠及び襅(まえも)、褶(ひらおび)、脛裳(はばき)を着けてはならない。 また、膳夫(かしわで)采女(うねめ)らの手繦(たすき)、肩巾(ひれ) を、 ともに着るな。」
 この日。 詔を発しました。
――「親王以下諸臣に至り、 給されていた食封を、皆止め、 さらに公(おおやけ)に返せ。」
 この月、 土師連(はにしのむらじ)真敷(ましき)が卒し、 壬申年の功により大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。


54目次 【十一年四月~六月】
《新羅遣使送高麗使人於筑紫》
夏四月癸亥朔辛未。
祭廣瀬龍田神。
夏四月(うづき)癸亥(みづのとゐ)を朔(つきたち)として辛未(かのとひつじ)。〔九日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
癸未。
筑紫大宰丹比眞人嶋等、
貢大鐘。
筑紫大宰…〈北〉丹比タム ヒ真人大-カネ。 〈兼右本〉 ナル-鐘
癸未(みづのとひつじ)。〔二十一日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)丹比(たぢひ)の真人(まひと)嶋(しま)等(ら)、
大(おほ)きなる鐘(かね)を貢(たてまつ)る。
甲申。
越蝦夷伊高岐那等、
請俘人七十戸爲一郡、
乃聽之。
越蝦夷…〈北〉 ノ蝦夷レ古俘-人 トリコ七十戸 ナゝソヘ
〈閣〉┌レ古マウシテトリコ-人。 〈続紀〉々古
甲申(きのえさる)。〔二十二日〕
越(こし)の蝦夷(えみし)伊高岐那(いこきな)等(ら)、
請(こひねが)ひたまはく俘人(とりこ)七十戸(ななそへ)を一郡(ひとつのこほり)と為(な)したまへとこひねがひて、
乃(すなは)ち聴之(ゆるしたまふ)。
乙酉。
詔曰
「自今以後、男女悉結髮。
十二月卅日以前、結訖之。
唯結髮之日、亦待勅旨。」
婦女、乘馬如男夫、
其起于是日也。
詔曰…〈北〉 テユハリサソラハ 
〈閣〉アケヨカミサソラヘ ノ フ ニ ハ男夫。 〈兼右本〉ツ ナソラヘ
乙酉(きのととり)。〔二十三日〕
詔(のたま)ひて曰(いはく)
「今自(よ)り以後(もち)、男女(をのこをみな)悉(ことごと)に髪を結(ゆ)ひて
十二月(しはす)の三十日(つきこもり)以前(まで)に、結訖之(ゆひをへよ)。
唯(ただ)結髪之(かみをゆふ)日は、亦(また)勅旨(みことのり)を待て。」とのたまふ。
婦女(をむなめ)の馬に乗ること男夫(おのこご)が如きこと、
其(それ)[于]是(この)日に起これり[也]。
五月癸巳朔甲辰。
倭漢直等賜姓曰連。
五月(さつき)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)として甲辰(きのえたつ)。〔十二日〕
倭漢(やまとのあや)の直(あたひ)等(ら)に姓(かばね)を賜(たま)いて連(むらじ)と曰ふ。
戊申。
遣高麗大使佐伯連廣足
小使小墾田臣麻呂等、
奏使旨於御所。
小使…〈北〉ソヒ-使 オムト/。 〈兼右本〉ソイ使御-所オモト
戊申(つちのえさる)。〔十六日〕
高麗(こま)に遣(つかは)せる大使(おほつかひ)佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたる)
小使(そへつかひ)小墾田臣(をはりたのおみ)麻呂(まろ)等(ら)、
使(つかひ)の旨(むね)を[於]御所(おほましますところ)に奏(まを)す。
己未。
倭漢直等男女悉參赴之、
悅賜姓而拜朝。
参赴之…〈兼右本〉參-赴之イ乍
己未(つちのとひつじ)。〔二十七日〕
倭(やまと)の漢(あや)の直(あたひ)等(ら)男(をのこ)女(をみな)悉(ことごと)に参赴之(まゐおもぶ)きて、
姓(かばね)を賜はれることを悦(よろこ)びて[而]朝(みかど)を拝(をろが)む。
六月壬戌朔。
高麗王、
遣下部助有卦婁毛切
大古昴加、貢方物。
則新羅遣大那末金釋起、
送高麗使人於筑紫。
高麗王…〈北〉下部カ ホウシヨクワモウセツ 部クヰヨウ方物クニツモノヲタイコンシヤク道イ。 〈閣〉
六月(みなづき)壬戌(みづのえいぬ)の朔(つきたち)。
高麗王(こまのわう、こまのこきし)、
下部(かほう)助有卦婁毛切(じようくわるもうせつ)
大古昴加(だいこくゐようか)を遣(まだ)して、方物(くにつもの)を貢(たてま)つらしむ。
則(すなはち)新羅(しらき)大那末(おほなま)金(こむ)釈起(しやくき)を遣(まだ)して、
高麗(こま)の使人(つかひ)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
丁卯。〔六日〕
男夫始結髮、仍着漆紗冠。
結髪…〈北〉アケ髮仍 ス漆紗ウルシヌリノウスハタノカフリ。 〈閣〉キル。 〈兼右本〉 スキル
…[名] うすきぬ。
丁卯(ひのとう)。〔六日〕
男夫(をのこご)始めて髮を結(ゆ)ひて、仍(よ)りて漆紗(うるしのうすきぬ)の冠(かがふり)を着(つ)けり。
癸酉。
五位殖栗王卒。
殖栗王…〈北〉五位イツノクラヒクリノヲホキミ。 〈釈紀〉五位イツゝノクラヰ
癸酉(みづのととり)。
五位(ごゐ)殖栗(ゑくり)の王(おほきみ)卒(そつ)す。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《丹比真人嶋》
丹比真人嶋 丹比公が朝臣姓を賜ったのは十三年六月だから、ここでは遡及か。 〈時代別上代〉は「〔天武〕紀十一年条既に「…真人島」と記せるは追書なるべし」とする。
 〈持統〉三年閏八月「直広壱授直広弐丹比真人嶋、増封一百戸」。 四年「丹比嶋真人…、奏-賀騰極」。七月「正広參授丹比嶋真人右大臣」。
 五年正月「優賜…正広参右大臣丹比嶋真人三百戸通前五百戸」。 十年九月「-賜正広参位右大臣丹比真人資人一百廿人」。
 〈公卿補任〉文武四年「右大臣正広三多治比島真人:八月廿六日任左大臣」。
 〈続紀〉文武四年〔700〕正月「左大臣多治比真人嶋霊寿杖及輿台。優高年〔高齢を褒める〕」。
 大宝元年〔701〕三月「授左大臣正広弐多治比真人嶋正正二位」。 七月壬辰「左大臣正二位多治比真人嶋薨…大臣。宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也」、すなわち多治比王を祖とする。
《大鐘》
 飛鳥時代の梵鐘としては、観世音寺〔太宰府市観世音寺5-6-1〕の鐘が見える。 「鐘身は妙心寺の文武天皇2年〔698〕銘のある鐘とほとんど同寸で、竜頭は同趣ながらさらに雄渾、上下帯の文様もまた力強い。おそらく飛鳥時代に妙心寺鐘に先行して、同じ工房で制作されたものと思われる」 と解説される(福岡県の文化財:[工芸品]右図)。
 筑紫大宰の献上先として、観世音寺は〈天智〉が〈斉明〉を偲んで建造に着手したものだから、可能性はなくはない。
《越蝦夷》
 当時のは、後の出羽国を含む広大な地域であった。 《越国守》。 出羽国の成立は和銅五年〔712〕である(資料[12]「出羽国の成立」)。
 〈斉明〉朝には、阿部比羅夫〔もしくは闕名〕が遠征して一時的にあき田、能代両郡を置いた(〈斉明〉四年)が、長続きしなかったと思われる。
 越蝦夷日本海側の蝦夷を指す。太平洋側の蝦夷は陸奥蝦夷という(〈斉明〉六年)。
《伊高岐那》
伊高岐那 ここだけ。
《俘人七十戸為一郡》
 『令義解』戸令「凡戸:以五十戸」。 「凡郡:以廿里以下十六里以上大郡。十二里以上為上郡。八里以上為中郡。四里以上為下郡。二里以上為小郡」。
 よって、「七十戸為一郡」は、となる最小の条件を満たしている。
 資料[72]「出羽国の成立」で見たように、 和銅元年〔708〕に越後国に出羽郡が置かれ、 同五年〔712〕には越後国から出羽国が分離し、 その年のうちに陸奥国から最上郡・置賜郡を出羽国に移している。
 出羽国は形式的には秋田県まで含むが、712年において実効的には磐舟柵を南限として、田川・最上・置賜の範囲であろう。
 〈天武〉十二年より以前は、磐舟柵以北に郡はなかったと思われる。
俘人」は朝廷に服さなかった頃の呼び名で、ここでは融和して朝廷国家に組み込まれることに同意した人たちであろう。 「俘人七十戸」の郡は、和銅元年には「出羽郡」の一部になったと思われる。
 なお、一戸の人数については、 『経済研究』Vol. 71, No. 1, Jan. 2020「奈良時代における収入格差について」は、 平均値「1戸あたり20.6人」を算出している。
《男女悉結髮》
 ヘアスタイルを唐風に改めさせたといわれる。当時、それが文明的だったのだろう。
 十三年四月には「女年四十以上、髮之結不結及乗馬縦横、並任意也。別巫祝之類、不結髪之例」と例外が示されている。
 男夫始結髮は六月六日付になっている。
《婦女乗馬如男夫》
 前項「乗馬縦横」と併せると、従来女子は横乗りしていたが、男子のように跨って乗ることも始まったという意味になる。
《倭漢直》
 〈壬申紀〉14段「坂上直熊毛」参照。 その後、十四年六月に忌寸姓を賜る。 宗家の坂上氏の姓には「」がつくようになる。初出は天平宝字八年〔764〕十月「坂上大忌寸苅田麻呂」。 延暦四年〔785〕宿祢姓を賜る(資料[25]《坂上大宿祢》)。
《遣高麗使》
佐伯連広足 前年五月に高麗に派遣。既に前年九月に復命している。
小墾田臣麻呂 同上。
 御所で高麗と交渉した内容を報告したと見られる。前年九月条の「拝朝」が重出した可能性もあるが、朝廷は高麗との対応を苦慮して再度呼び出されたことも十分考えられる。 背景に、安勝政権と新羅の緊張が考えられる。新羅王が変わって安勝政権に冷たくなったかも知れない。
《高麗王》
 「高麗王」は、安勝王と見られる。
《助有卦婁毛切》
下部 (位階なし)助有卦婁毛切 八月。筑紫で饗。
  (位階なし)大古昴加 同上。
大那末〔十位〕一覧金釈起 ここだけ。
 大古大舎タサの誤記の可能性がなくはない。しかし今回は高麗からの使者に位階が付かないとすれば、高麗の冠位はこの時点では新羅が授与したものなので、 高麗王は新羅との繋がりの薄い者を使者に選んだのかも知れない。
《男夫始結髮》
 四月二十二日に、追って勅旨を待てと指示されていた。それがこの日であろう。
《漆紗冠》
 『四国新聞』〔2013.06.27〕によると、 長岡京跡で「漆紗冠」が見つかった。「長岡京市埋蔵文化財センター」によると、 「漆紗冠は六条大路と東一坊大路の交差点の北西部にある溝から4点出土。奈良時代、目の粗い網状の編み物を袋状にとじ合わせ、黒漆を塗って仕上げたかぶり物で、五位以上の貴族がかぶっていた」という。
 《位冠及襅褶脛裳》で見たように、従来の位階により色や製法が区別されていた冠が廃止され、漆紗冠に統一された。 以後「冠位」は言葉のみとなり、物体としての冠とは切り離される。
《殖栗王》
殖栗王 血縁不明。ここだけ。
 同名に〈用明〉殖栗皇子(元年)。「」は二世孫以後の呼称なので別人。さらに〈用明〉朝は天武朝から100年ほど昔なので、ここまで長生きすることも考えにくい。
《大意》
 九日、 広瀬龍田の神を祭祀しました。
 二十一日、 筑紫の大宰丹比(たぢひ)の真人(まひと)嶋(しま)らは、 大鐘を献上しました。
 二十二日、 越の蝦夷(えみし)伊高岐那(いこきな)らは、 俘虜七十戸を一つの郡にすることを請い、これを聴(ゆる)されました。
 二十三日。 詔を発しました。
――「今後、男女は悉く髪を結い、 十二月三十日までに、結い終えよ。 ただし、髪を結う日は、また待勅旨を待て。」
 婦女が馬に乗ること男性と同様にすることは、 この日に始まりました。
 五月十二日、 倭漢(やまとのあや)の直(あたい)らに連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。
 十六日、 高麗に派遣された大使佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたる)、 副使小墾田臣(おはりたのおみ)麻呂(まろ)らは、 使いした旨を御所に報告しました。
 二十七日、 倭の漢の直(あたい)の男女は悉く参上して、 姓(かばね)を賜ったことを喜び、拝朝しました。
 六月一日、 高麗の王(こきし)は、 下部(かほう)助有卦婁毛切(じょうかるもうせつ)と 大古昴加(だいこきょうか)を派遣して、方物を献上しました。 そして新羅の大那末(おおなま)金(こん)釈起(しゃくき)を派遣して、 高麗の使者を筑紫に送らせました。
 六日、 男子は始めて髮を結い、漆紗(うるしのしゃ)の冠を着けました。
 十二日、 五位殖栗(えくり)の王(おおきみ)が卒去しました。


55目次 【十一年七月】
《大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭》
秋七月壬辰朔甲午。
隼人、多來貢方物。
隼人…〈兼右本〉集-隼イ乍サハ-マウ為此族等人各 イ説
はやひと隼人…大隅、薩摩の土着の種族。ハヤトとも。
秋七月(ふみづき)壬辰(みずのえたつ)を朔(つきたち)として甲午(きのえうし)。〔三日〕
隼人(はやひと)、多(さは)に来(まゐき)て方物(くにつもの)を貢(たてまつ)る。
是日。
大隅隼人與阿多隼人
相撲於朝庭、
大隅隼人勝之。
阿多隼人…〈北〉大隅隼人与阿多アタノ隼人ハイト■-撲スマヒトル於朝。 〈釈紀〉タノ隼人ハイトム
是(この)日。
大隅(おほすみ)の隼人(やはひと)と阿多(あた)の隼人与(と)、
[於]朝庭(みかどのには)に相撲(すまひ)とりて、
大隅の隼人勝之(か)てり。
庚子。
小錦中膳臣摩漏病。
遣草壁皇子尊高市皇子而
訊病。
訊病…〈北〉/訪イ。 〈兼右本〉ト 玉フ
庚子(かのえね)。〔九日〕
小錦中(せうきむちう)膳臣(かしはでのおみ)摩漏(まろ)病(やまひ)す。
草壁皇子尊(くさなぎのみこのみこと)高市皇子(たけちのみこ)を遣(つか)はして[而]
病(やまひ)を訊(とぶら)はしめたまふ。
壬寅。
祭廣瀬龍田神。
壬寅(みづのえとら)。〔十一日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
戊申。
地震。
戊申(つちのえさる)。〔十七日〕
地震(なゐふる)。
己酉。
膳臣摩漏卒。天皇驚之大哀。
膳臣摩漏…〈北〉ヲンカシハテノ摩漏マロ。 〈兼右本〉 タマフ
己酉(つちのととり)。〔十八日〕
膳臣(かしはでのおみ)摩漏(まろ)卒す。天皇(すめらみこと)驚之(おどろ)きたまひて大(おほ)きに哀(かな)しびたまふ。
壬子。
摩漏臣、
以壬申年之功贈大紫位及祿、
更皇后賜物、亦准官賜。
大紫位冠位二十六階第五位。
壬子(みづのえね)。〔二十一日〕
摩漏臣(まろのおみ)に、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年の功(いさみ)を以ちて大紫位(だいしゐ)及びに禄(もの)を贈りたまふ、
更(さら)に皇后(おほきさき)の賜(たまは)れる物、亦(また)官(つかさ)に賜(たま)ふものに准(なぞ)へり。
丙辰。
多禰人
掖玖人
阿麻彌人、賜祿各有差。
多祢人…〈北〉ネノクノヒトミノヒト。 〈閣〉多禰人○阿掖玖人麻弥人
丙辰(ひのえたつ)。〔二十五日〕
多祢人(たねのひと)
掖玖人(やくのひと)
阿麻弥人(あまみのひと)に、禄(もの)賜(たまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
戊午。
饗隼人等於明日香寺之西、
發種々樂、
仍賜祿各有差。
道俗、悉見之。
隼人…〈北〉ハイトレ等於飛鳥穂々//道俗悉オコナヒゝトシロキヌ見之
〈閣〉飛鳥明香寺。 〈兼右本〉明-月-香飛鳥三字或為以乍
戊午(つちのえうま)。〔二十七日〕
隼人(はやひと)等(ら)を[於]明日香寺(あすかでら)之(の)西に饗(みあへ)したまふ、
種々(くさぐさ)の楽(うたまひ)を発(な)して、
仍(よ)りて禄(もの)賜(たまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
道(おこなひひと)俗(しろきぬ)、悉(ことごと)に之(これ)を見ゆ。
是日。
信濃國吉備國並言、
霜降亦大風、
五穀不登。
並言…〈北〉マウス。 〈閣〉大風。 〈兼右本〉ミノラ
是(この)日。
信濃国(しなののくに)吉備国(きびのくに)並びに言(まを)さく、
霜(しも)降(ふ)りて亦(また)大風(おほかぜ)ふきて、
五穀(いつのたなつもの)不登(みのらず)とまをす。
《大隅隼人/阿多隼人》
〈倭名類聚抄〉{大隅国・大隅郡・大隅郷}および{薩摩国・阿多郡・阿多郷}。
 阿多は、天孫の天降りに出てきた地名(《吾田長屋笠狭之御碕》)。
 海幸彦山幸彦に復讐されたとき、水に溺れてもがいた格好が隼人舞の元になったとされる (山幸彦海幸彦段【溺時之種種之態】項)。
《相撲》
 〈垂仁〉紀野見宿祢段で神話的な相撲の起源。 〈垂仁〉七年七月七日「当摩蹶速と野見宿祢と、捔力(すまひ)とらしむ」。
《膳臣摩漏》
膳臣摩漏 十三年に朝臣姓を賜る。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》参照。
《多祢人/掖玖人/阿麻弥人》
 多祢掖玖阿麻弥との関係を深めた背景には、新羅の海洋進出に対する警戒感があると見た。
《明日香寺之西》
 十年九月にもここで多祢人を饗した(《飛鳥寺西河辺》)。
《発種々楽》
 「道俗悉見之」すなわち、多数の見物人が訪れる賑やかな催し物だったようである。
 音楽・舞踊に関しては、次の記述が見える。
二年九月種々楽〔難波〕
四年二月所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上」。
十年正月〔内外安殿〕
十年三月鼓吹之声。仍令調習*1)
十年九月奏種々楽」(飛鳥寺西河邊)。十一年七月「発種々楽〔明日香寺之西〕
・十二年正月「小墾田儛及高麗百済新羅三国楽〔宮庭〕
・十四年九月「詔曰:凡諸歌男歌女笛吹者即伝己子孫歌笛*2)
・朱鳥元年四月「川原寺伎楽〔筑紫〕
 *1…〈天武〉自ら御前で演奏させ、まだまだだからもっと練習せよとはっぱをかけた。
 *2…音楽を担う一種の職業部として永続させることを求める。
 基本的には、文化国家として成熟度を高めようとするものである。ただ、〈天武〉自身が大の音楽好きであったことが伺われる。
《霜降亦大風》
 十一年七月二十七日は、グレゴリオ暦682年9月7日。霜害は実際には4~5月頃のことであろう。凶作の原因として夏の風害と並べて報告されたと思われる。
《大意》
 七月三日、 隼人が多く来て、方物(ほうぶつ)〔特産物〕を献上しました。
 この日、 大隅隼人と阿多隼人と、 朝廷の庭で相撲をとり、 大隅隼人が勝ちました。
 九日、 小錦中(しょうきんちゅう)膳臣(かしわでのおみ)摩漏(まろ)が病気になり、 草壁皇子尊と高市皇子を遣わして、 病を見舞わせました。
 十一日、 広瀬、龍田の神を祭祀しました。
 十七日、 地震あり。
 十八日、 膳臣摩漏が卒去しました。天皇は驚かれ大変悲しまれました。
 二十一日、 摩漏臣に、 壬申年の功によって大紫位及び禄を贈り、 更に皇后の賜わった物は、また官への賜り物に准らえました。
 二十五日、 多祢(たね)人、 掖玖(やく)人、 阿麻弥(あまみ)人に、それぞれに応じて禄を賜わりました。
 二十七日、 隼人らに明日香寺西で饗され、 種々の楽を奏して、 よって、それぞれに応じて禄を賜りました。 僧俗は、悉くこれを見物しました。
 この日、 信濃の国と吉備の国は、 霜が降り、また大風があり、 五穀不登ですと言上しました。


まとめ
 飛鳥寺西での催し物には、国家としての豊かさを披露して周辺の民族を引き付けようとする意図はあろう。 同時に、隼人の相撲や「禄各有差」を見ると、各部族には芸能集団を連れて来させて、鑑賞して楽しんだのだろう。 「道俗悉見之」とあるから、行事は公開され飛鳥京の人々の娯楽に供された。
 新羅、高麗の客が飛鳥寺西に呼ばれることはなく、饗はもっぱら筑紫、ときに難波で行われる。堅苦しく対応すべき相手であったと見られる。 飛鳥寺西は、須弥山石などの噴水装置のあるエキゾチックな接待会場であったが、また芸能を一般人に鑑賞させる開放的な空間でもあった。
 



[29-15]  天武天皇下(6)