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2025.04.21(mon) [29-09] 天武天皇下9 

41目次 【八年六月~九月】
《氷零大如桃子》
六月庚戌朔。
氷零大如桃子。
氷零…〈北野本〔以下北〕フレリ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕氷零 アラレ  
〈兼右本〉氷零アラレ フレリ
六月(みなづき)庚戌(かのえいぬ)の朔(つきたち)。
氷(あられ)零(ふ)る、大(おほき)なること桃子(もものみ)の如(ごと)し。
壬申。
雩。
〈兼右本〉アマヒキ
壬申。〔二十三日〕
雩(あめをこふ)。
乙亥。
大錦上大伴杜屋連卒。
大伴杜屋連…〈北〉大伴杜- モリ ノ。 〈兼右本〉イ乍モリ-屋
大錦上冠位二十六階第七位。
乙亥(きのとゐ)。〔二十六日〕
大錦上(だいきむじやう)大伴(おほとも)の杜屋(もりや)の連(むらじ)卒(そつ)す。
秋七月己卯朔甲申。
雩。
秋七月(ふみつき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)。〔六日〕
雩(あめをこふ)。
壬辰。
祭廣瀬龍田神。
壬辰(みづのえたつ)。〔十四日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ふ。
乙未。
四位葛城王卒。
乙未(きのとひつじ)。〔十七日〕
四位(しゐ、よつのくらゐ)葛城王(かつらきのおほきみ)卒(そつ)す。
八月己酉朔。
詔曰「諸氏貢女人。」
詔曰…〈北〉詔曰諸-氏 ウチノ 。 〈閣〉諸-氏 ウチ\/ 。 〈兼右本〉 レリ女-人
八月己酉(つちのととり)の朔(つきたち)。
詔(みことのり)曰(のたまはく)「諸氏(もろもろのうぢ)は女人(おむなご)を貢(たてまつ)れ。」とのたまふ。
己未。
幸泊瀬。以宴迹驚淵上。
先是、詔王卿曰
「乘馬之外、更設細馬、
以隨召出之。」
迹驚淵…〈北〉迹驚トゝロキ乗馬之/外ヨキ馬以 マゝ。 〈閣〉
細馬…小づくりでよい馬。〈汉典〉「①駿馬。②指小馬。
己未(つちのとひつじ)。〔十一日〕
泊瀬(はつせ)に幸(いでま)して、以ちて迹驚(とどろき)の淵上(ふちのへ)に宴(とよのあかり、うたげ)をたまふ。
是(こ)に先(さきだ)ちて、王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちに詔(おほせこと)して曰(のたまひしく)
「乗る馬(うま)之(の)外(ほか)に、更(さらに)細馬(よきうま)を設(まう)けて、
以ちて召(めさゆる)隨(まにま)に出之(いでまつれ)。」とのたまひき。
卽自泊瀬還宮之日、
看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、
皆令馳走。
即自泊瀬…〈北〉泊瀬迹見 トゝロキ 
〈閣〉 テ ノ ノ細- ヲトトロキ ノ驛- ノ ノ ニ
〈兼右本〉 玉フ シム群-卿 タルヨキ-馬於迹-トゝロキ驛-家 ミマヤ ホトリ
即(すなはち)泊瀬(はつせ)自(よ)り宮(おほみや)に還(かへ)りませる[之]日、
群卿(まへつきみたち)の儲(まうけ)てある細馬(よきうま)を[於]迹見(とみ)の駅家(うまや)の道の頭(ほとり)に看(みそなは)して、
皆馳走(は)せ令(し)めたまふ。
庚午。
縵造忍勝獻嘉禾、異畝同頴。
縵造忍勝…〈北〉 カツラノミヤツコ ヲシカツ嘉-禾ヨキ コトゝシテウネヲナシカヒ 
〈閣〉 ニウチカヒ。 〈釈紀〉嘉禾ヨキアハ。 〈兼右本〉 レリヨキ[ヲ]
…[名]〈汉典〉「古代指粟、即今之小米〔小粒の穀類〕」。
かび…[名] 稲などの穂。〈時代別上代〉「和名抄に「加尾カビ」とあり、…カビまたはカミと訓むべきかと思われる。ただし…神頴カムカヒはヒが清音…などで、決定が難しい」。
庚午(かのえうま)。〔二十二日〕
縵造(かつらのみやつこ)忍勝(おしかつ)嘉禾(かくわ、よきあは)を献(たてまつ)る、異畝(ことうね)に同(おなじ)き頴(かび)あり。
癸酉。
大宅王薨。
大宅王…〈北〉大-ヤケ王薨。 〈閣〉大宅王薨。 〈兼右本〉大宅王卒
癸酉(みづのととり)。〔二十五日〕
大宅王(おほやけのおほきみ)薨(こう)ず。
九月戊寅朔癸巳。
遣新羅使人等、返之拜朝。
遣新羅…〈兼右本〉 ヤル新羅
九月(ながつき)戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として癸巳(みどのとみ)。〔十六日〕
新羅(しらき)に遣(や)りてある使人(つかひ)等(ら)、返之(まゐかへり)て朝(みかど)を拝(をろが)む」。
庚子。
遣高麗使人遣耽羅使人等、
返之共拜朝庭。
庚子。〔二十三日〕
高麗(こま)に遣りてある使人(つかひ)耽羅(とむら)に遣りてある使人(つかひ)等(ら)、
返之(まゐかへ)りて共に朝庭(みかど)を拝(をろが)む。
《氷零》
 桃の実サイズの雹。この日はグレゴリオ暦の679年7月17日。 これまでに、〈推古〉三十六年四月十日〔グレゴリオ暦:628年五月21日〕雹零、大如桃子」、翌日「雹零、大如李子」。
 現代の大きな雹の記録は、『気象要覧』大正六年六月〔気象庁〕によると、 大正六年〔1917〕6月29日に降雹。「〔埼玉県〕長井村大正寺飯野住職の測リタル雹塊ハ径七寸八分〔23.6cm〕アリタリト云フ」。
《雩》
 六月二十三日は、グレゴリオ暦では679年8月8日、七月六日は8月20日。 7月17日には大きな雹が降ったから激しい雷雨だったが、それ以後は旱魃が続いたようだ。
 前項〈推古〉三十六年も、次に旱魃となった。かと言って降雹と旱魃の間の相関関係は、直接には考えられない。 一般的な傾向としては、気候が温暖になると偏西風の蛇行が激しくなったり〔寒冷渦の南下が雷雲を発達させる〕、特定の場所の旱魃などの極端な天候が現れる。
《大伴杜屋連》
大伴杜屋連  大伴連については、 《佐伯子麻呂連》項、 【大伴連・久米直】項、 《大伴連馬飼》項、 《大伴連》項などで触れた。  杜屋はここだけだが、「」の位置が名前の後なので、高い地位に就いていた可能性がある。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》参照。 この年以後、毎年四月と七月の祭祀が欠かさず記されるようになる。
《諸氏貢女人》
 采女(改新詔其四)を求めたことも考えられるが、「女人」とあるから年齢を問わず、 二年五月詔「婦女者無夫無夫及長幼。欲進仕者聴矣」の実施が不十分だったので、更に求めたと読むのが妥当か。
《葛城王》
葛城王 血縁不明。ここだけ。
 なお、同名の人物に〈天智〉天皇の諱「葛城皇子」(〈舒明〉二年)、 父〈敏達〉母〈推古〉の皇子「葛城王〔古事記のみ〕(第241回)、 〈欽明〉の皇子葛城皇子(母は蘇我稲目大臣の女小姉君)(第239回)が見える。
白河(しらが)…桜井市白河(大字)。『五畿内志』-城上郡/村里「白川」。
 (範囲:国勢調査町丁・字等別境界データセット/奈良県桜井市大字白河による)
外山(とび)…桜井市外山(大字)。『五畿内志』-城上郡/村里「外山トビ」。
脇本遺跡…〈雄略〉初瀬朝倉宮、〈欽明〉磯城島金刺宮、〈天武〉泊瀬斎宮に比定。
靇山池
《泊瀬迹驚淵》
 『大日本地名辞書』は「迹驚淵は白川の宮山の下に在り、枕草子に「轟の瀑はいかにかしましく恐ろしからん」と記せるも此なるべし。天武紀云、白鳳八年、幸泊瀬、宴迹驚淵上」と記す。 関連して「秉田神社:延喜式秉田神社二坐…今初瀬村大字白川轟〔ママ〕の上に在り」と述べる。
 秉田神社については、次の記述が見える。
◎〈延喜式〉:{城上郡/曳田神社二座/鍬靫}。
◎『五畿内志』(大和志)-城上郡:
 ・「神廟秉田ヒキダ神社二座:在白川村轟瀧上今称白山」、
 ・「村里:白川」。
 ・「山川迹驚トトロキ淵:并瀧在白川村。天武天皇白鳳八年。帝幸泊瀬宴迹驚トトロキ淵上。 枕草子曰。轟乃滝者イカ爾加志麻之久於曽呂師香良武即此」。
 このように、『大日本地名辞書』は大和志に拠っている。秉田神社第202回で見た。
 『枕草子』の原文は、第61「はし〔橋〕は」段:「たきは。…なちのたきはくまのにありときくがあはれなるなり。とゞろきのたき。いかにかしがましかるらん」。 「那智の滝」は「熊野にありと聞く」というから「轟の滝」も名前を聞いたことがあるのみであろう。そして、その名前から轟音を想像して述べた文と考えられる。 よって、この文章は迹驚滝の位置を表すものではない。
 実際には白川〔現在名白河川〕は小河川で、現在その途中に「滝」は見えない。 上代語のタキは、「流れが滾(たぎ)るところ」〔川の激しい流れのところ〕が原意だが、『枕草子』では那智の滝と並べているから、清少納言の頭の中では轟の滝も垂直落下型であったことだろう。
 結局、大和志の「秉田神社の近くの滝」説は、枕草子の実際の文意からは飛躍している。
 一方、靇山りょうさんとする説もある。 [桜井市公式]サイト内で観光地紹介する『わかざくら』2016/9〔桜井市総務課〕(p.23)には、 「天武天皇行幸の地「迹驚淵」:淵の隣には高山神社が鎮座しています。祭神は雨乞いの神でもある善女竜王…」とある。 その位置を調べると、同誌のいう「迹驚淵」は靇山りょうさんのことで、 白河川とは直接繋がっているようには見えないが、大雨で溢れれば山道が流水路となって白河川に注ぐであろう。 靇山池を迹驚淵と考えた理由はわからないが、その前の雨乞いの話と関連付けたのかも知れない。
 ただ「迹驚」という語からは少なくとも激しい流れのところが思い浮かぶ。山中の静かな池ではイメージが合わない。 結局、迹驚淵は現在の白河川のどこかであるのは確実だが、それ以上特定することは無理である。
《迹見駅家》
 迹驚〔トドロキ〕の略とする古訓は誤りと見てよい。
 〈神武〉即位前13に、霊鵄(くすしきとび)を地名の由来とする鳥見邑が見える。 また、その地の出現期の前方後円墳の存在から「鳥見山王朝」を想定した(【初期古墳】項)。 この地が「泊瀬迹驚淵」から浄御原宮への帰路に当たることから見ても、迹見鳥見であるのは明らかである。
 「大和の古駅」(坂本太郎) 『古代学論叢―末永先生古稀記念』〔末永先生古稀記念会 編;1967〕は、 〈天武〉紀の内容から「迹見駅は初瀬から飛鳥に通ずる路上にあつたことになり」、「磯城郡城島村大字外山〔とみ〕」はその経路で、 『類聚三代格』元慶五年十月十六日の太政官符に「登美山に宗像神社がある由が見え」、「その神社は今も鳥見山山麓に鎮座する」、 「トミの名はきわめて古い由緒をもつから、…迹見駅がここにあったとして、少しもおかしくはない」と述べる(p.327)。 迹見駅家が「〔〈天武〉紀〕以後全く駅として名を現わさない」のは、平常遷都に伴い廃止された故と見る(p.328)。
 横大路伊勢街道に繋がる。その経由地外山とび(大字)に迹見駅があったとする見方は妥当であろう。
《縵造忍勝》
縵造忍勝  縵造は、十二年九月に姓を賜る。 『姓氏家系大辞典』-「 カヅラ」「縵造:縵部の伴造にして大和にあり。百済族なり」、 「縵部:職業部の一にして、縵、即ち頭髪の装飾品をつくるを職とせしが如し」。 忍勝はここだけ。
《嘉禾》
 〈延喜式〉治部省/祥瑞には「嘉禾:或異畝同穎。或孳連数穂。或一粰二米也」とあり、「下瑞」の項に置かれる。
 「異畝同穎」は、隣り合った畝から伸びた個体が空中で合体して一本の穂先となったと読める。 はたして嘉禾は、そのような異常な姿を指すものであろうか。
 そこで、中国の典籍ではどのように描かれているかを調べてみる。 [中国哲学書電子化計画]/[字典]で「嘉禾」を調べると、具体的にその形態を説明した例は意外に少ない。そのうち、次の文は分かりやすい。
◎『水経注』〔魏晋南北朝〕:済水〔川の名前〕
 「東觀漢記曰:光武以建平元年于済陽県。是歳有嘉禾生。一茎九穗。大于凡禾。県界大熟。因名曰秀。
 〔光武帝は建平元年に済陽県に生まれた。この年嘉禾が生えることがあた。一本の茎に九穂をつけ、他のあらゆる禾よりも大きく、済陽県の県界で大きく熟した。よって、秀と名付けた。〔光武帝の本名は劉秀〕〕
◎『太平広記』伎巧一/因祇国
 「周成王五年:…又貢嘉禾。一茎盈車。
 〔嘉禾を貢いだ。一茎の実で車は満載となった〕
 これらを見ると、嘉禾は多くの穂をつけた大型の粟、または非常にたくさんの実をつけた粟である。 他の例も大体このようなもので、極端に奇形的な姿を述べた例は見えない。
 よって「異畝同穎」は、空中で合体して一本の穂になったというよりは、特別な大きな穂をつけた粟が、畝が異なっていても同じように多数育っていたと読むのが順当であろう。
《大宅王》
大宅王 血縁不明。ここだけ。
《遣新羅使人》
 ここでは使者の名前、また出発の記事を欠く。帰朝して拝したと特に書かれるので、何らかの政治交渉のための派遣でその結果を報告したことが伺われる。
 その政治的課題が何であったかを、下の《調物…馬狗騾駱駝》項で推定する。
《遣高麗使人》
 下述
《遣耽羅使人》
 下述
《大意》
 〔八年〕六月一日。 雹が降り、大きさは桃の実ぐらいありました。
 二十三日、 雨乞いをしました。
 二十六日、 大錦上(だいきんじょう)大伴の杜屋(もりや)の連(むらじ)が卒しました。
 七月六日、 雨乞いをしました。
 十四日、広瀬の龍田(たつた)の神の祭祀をしました。
 十七日、〔諸王〕四位葛城王(かつらきのおおきみ)が卒しました。
 八月一日、 詔「諸氏は女人を献上せよ。」を発しました。
 十一日、 泊瀬(はつせ)に行幸され、迹驚(とどろき)の淵の上で宴されました。 その前に予め、王(おおきみ)卿(まえつきみ)に詔し、 「乗るための馬の外に更に細馬を用意して、 召されるままにお出しせよ。」と命じました。
 こうして泊瀬(はつせ)から宮に帰る日に、 群卿の備えた細馬を迹見(とみ)の駅家の道のところで御覧になり、 細馬を皆走らせました。
 二十二日、 縵造(かつらのみやつこ)忍勝(おしかつ)は嘉禾(かか)を献(たてまつ)りました。異なる畝(うね)に同じ頴〔穂先〕がありました。
 二十五日、 大宅王(おおやけのおおきみ)が薨じました。
 九月十六日、 新羅に遣わした使者は、帰国して拝朝しました。
 二十三日、 高麗に遣わした使者、耽羅(とんら)に遣わした使者らは、 帰国して共に拝朝しました。


42目次 【八年十月】
《詔曰上責下過下諫上暴乃國家治》
冬十月戊申朔己酉。
詔曰
「朕聞之、
近日暴惡者多在巷里。
是則王卿等之過也。
暴悪者…〈北〉アラク悪者。 〈兼右本〉近-日コノコロ アラク-悪 キ ノ
〈閣〉アラクサト-里
冬十月(かむなづき)戊申(つちのえさる)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)。〔二日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「朕(われ)聞之(きこす)。
近日(このころ)暴(あらく)悪(あしき)者(もの)多(さはに)巷里(ちまたさと)に在り。
是(これ)則(すなはち)王卿等(おほきみまへつきみたち)之(が)過(あやまち)なり[也]。
或聞暴惡者也煩之忍而不治、
或見惡人也倦之匿以不正。
其隨見聞以糺彈者、
豈有暴惡乎。
煩之忍而…〈北〉煩之ワツラハシ[テ]忍而不カムカヘ悪-/[テ]倦之オコタリ[テ]糺-彈 タゝサハ
〈閣〉煩之ワツラハシテ  テ而不 └讀勘カムカヘ〔"勘"と読め〕
倦之ヲコタリテ ム  コト
〈兼右本〉煩之ワツラハシトオモヒ[テ]
暴悪…〈汉典〉「①残暴凶悪。 2.指残暴凶悪的人或行為。」
…[動] つかれる。うむ。(古訓) うみぬ。つかる。ものうし。をこる。
或(ある)は暴[悪](あらき)者(もの)をば[也]、煩之(わづら)ひ忍(しの)びて、而(しかるがゆゑに)不治(をさめず)と聞こゆ、
或(ある)は悪(あしき)人(ひと)をば[也]、倦之(う)み匿(かく)して、以(ちたるゆゑに)不正(たださず)と見(み)ゆ。
其(それ)見ゆる聞こゆる隨(まにま)に以ちて糺弾者(をさめたださば)、
豈(あに)暴(あら)く悪しきこと有らむ乎(や)。
是以、自今以後、
無煩倦而上責下過下諫上暴、
乃國家治焉。」
無煩倦…〈北〉煩-倦[テ][ハ] ノ[切][ハ]アハメ上-暴國-家 アメノシタ治焉[句]
〈閣〉 ハイサメハ アハメ。 〈兼右本〉 ン
是以(こをもちて)、今自(より)以後(のち)、 煩(わづらひ)倦(うむ)こと無(な)くして[而]上(かみ)は下(しも)の過(あやまち)を責めて下(しも)は上(かみ)の暴(あらき)を諫(いさ)めば、 乃(すなはち)国家(あめのした)治(をさ)まらむ[焉]。」とのたまふ。
戊午。
地震。
戊午(つちのえうま)。〔十一日〕
地震(なゐふる)。
庚申。
勅制
僧尼等威儀及法服之色
幷馬從者往來巷閭之狀。
勅-制 イサム威儀…〈北〉威-儀 ヨソホ ヨソヒ法-コロモ従者 トモ 往-來 カヨフ 巷-閭 サト 之狀
〈閣〉勅-ミ テ イサ イサムヨソヒ-儀 ヨソホヒ  ノコロモトモヒト 往-來 カヨフ  巷-閭 サトニ 
〈兼右本〉威-儀ヨソホイ
ヨソヒ…[名] ヨソフの連用形名詞。身支度すること。
ヨソホヒ…[名] ヨソフと同じ。「未然形ヨソハの転+反復の動詞語尾フ」の連用形名詞。
…[名] 二十五戸を単位とした村里の入り口の門。またその二十五戸。(古訓) かと。ともから。
庚申。〔十三日〕
勅(みことのり)のりたまひて、
僧尼(ほふしあま)等(たち)の威儀(よそほひ)及びに法服(のりのころも)之(の)色(いろ)
并(なら)びに馬(うま)従者(ともひと)の巷(ちまた)閭(かど)を往来(かよふ)[之]状(かたち)を制(いさ)む。
甲子。
新羅
遣阿飡金項那
沙飡薩虆生、朝貢也。
阿飡金項那…〈北〉阿-飡ア サム コン カウ サム サツ ルイ セイ朝- ル
〈閣〉金項サツルイ
甲子。〔十七日〕
新羅(しらき)
阿飡(あさん)金項那(こむかうな)
沙飡(ささん)薩虆生(さつるいせい)を遣(まだ)して、朝(みかどををろがみ)貢(みつきたてまつ)らしむ[也]。
調物、
金銀鐵鼎錦絹布皮馬狗騾駱駝之類、
十餘種。
亦別獻物、天皇々后太子、
貢金銀刀旗之類、各有數。
絹布皮馬狗…〈北〉絹布カトリ 皮馬イヌ ルイ ラク タ𡖋別獻物
〈閣〉調 ノ ハルイ ニ獻物
〈釈紀〉ルイ私記曰。音讀。 〈兼右本〉太-子ヒツキノミコ[切] レル
…[名] 雌の馬と雄のろばの間の雑種。
〈類聚名義抄〉「タクノムマ:ウサキムマ」。
〈倭名類聚抄〉「驢騾:…【…和名宇佐岐無麻】似馬長耳。【音父馬母所生也」。
駱駝…〈倭名類聚抄〉「駱駝【洛陀二音。良久太乃宇萬】」。
太子…この時点では、草壁皇子尊。
調物(みつきせるもの)は、
金(くがね)銀(しろかね)鉄(くろかね)鼎(かなへ)錦(わた)絹(かとり)布(ぬの)皮(かは)馬(うま)狗(いぬ)騾(ら)駱駝(らくだ)之(の)類(たぐひ)、
十余種(とくさあまり)なり。
亦(また)別(わ)けて物(もの)献(たてまつ)りて、天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)太子(ひつぎのみこ)に、
金(くがね)銀(しろかね)刀(たち)旗(はた)之(の)類(たぐひ)を貢(たてまつ)れるは、各(おのもおのも)数(あまた)有り。
是月。
勅曰
「凡諸僧尼者、
常住寺內以護三寶。
常住寺…〈北〉ハムヘ寺内以 マモ三寶
〈兼右本〉ハンヘ寺-内[ニ][テ] レ三-寶[ヲ]
是(この)月。
勅(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)諸(もろもろ)の僧尼(ほふしあま)者(は)、
常(つね)に寺の内(うち)に住(すま)ひて以ちて三宝(さむほう)を護(まも)りまつれり。
然、或及老或患病、
其永臥狹房久苦老疾者、
進止不便淨地亦穢。
或及老…〈北〉及-老 オイ 患-病 ヤミ 狹房サハキ ムロ進-止 フルマヒ[切]便[テ]モヤ\/モヤモゝ淨地[切]
〈閣〉 ヤミ-病ヤマヒ  テ陜-房セハキ ムロニ地亦穢
〈兼右本〉[ハ]及-老オイハ合[ハ]患-病ヤミハ合[テ]浄-地イ  トコロ。 [頭注]悲田院本縁
もやもや…[名] 頼りないこと。心もとない。
然(しかれども)、或(ある)は老(おい)に及びて、或は病(やまひ)に患(わづら)ふ。
其(それ)永く狭(せばき)房(ねや)に臥(ふ)して久しく老(おい)疾(やまひ)に苦しま者(ば)、 進止(ふるまひ)は不便(おほつかな)かりて、浄地(きよきところ)は亦(また)穢(けが)れむ。
是以自今以後、
各就親族及篤信者而
立一二舍屋于間處、
老者養身病者服藥。」
就親族…〈北〉 アル舍-屋 ヤカス 間處 ■ナシ クラヘ
〈閣〉アル ニ 〔ウガラヤカラ及アツキマコトアル者ニ〕ムナシ ニ
〈兼右本〉親族ウカラ ヤカラ
やかす…[名] 住居。
…[名] すきま。[動] へだてる。
むなし…[形]シク 空しい。ここの「間処」は「邪魔にならない場所」あるいは「使われていない場所」の意か。
是(こ)を以ちて今自(よ)り以後(のち)、
各(おのもおのも)親(うから)族(やから)及びに篤(あつ)き信(まこと)ある者(ひと)に就(つ)けて[而]
一二(ひとつふたつ)の舎屋(いへ、やかす)を[于]間(はざま)の処(ところ)に立(た)たして、
老者(おいひと)は身を養(やしな)はしめ、病者(やめるひと)は薬(くすり)を服(くら)はしめよ。」とのりたまふ。
《近日暴悪者多在巷里》
 巷間に犯罪者が目立つが、その取り締まりを怠るなという。 諸王が諸卿とともに現実的課題に積極的に関与すべきだと言って諭す。 旧体制では左右大臣に任せておけばよかったことを、現体制では皇子たちが直接差配しなければならない。そこに弱さがあるのだろう。
 この事態は、すでに〈壬申紀〉13で危惧されていたといえる。
《或聞》
 或聞~或見~は対句構造で、同義語によって置き換えられる。 その点では「暴悪者」-「悪人」は不自然である。もともと「暴者」-「悪人」であったものが筆写の段階で誰かが補ったのであろう。
 「」の訓読には、いつもは万葉風に接続助詞を用いることにしているが、ここでは「」に対応しているので、 「」もと訓むか「」を接続詞として扱うかのどちらかであろう。
《僧尼等威儀及法服之色》
 ここで規定した威儀僧衣の色などの作法は、従来は各寺に任されていたものであろう。 この詔制は、国家による直接的な統制が強まりつつあることを示す。
 また、「-来巷閭之状」、すなわち馬や従者の装いや作法を規定した。 大路や建物の建造が進んでいて、通行する人や馬にその風景に合う外観を求めたものといえる。既に先行条坊の建造が一定程度進んでいたことを示すと思われる(《将都新城》)。
《巷閭》
 [中国哲学書電子化計画]の文献内には「巷閭」という熟語が見つからない。「巷間」の誤写かも知れない。
《阿飡金項那/沙飡薩虆生》
阿飡〔六位〕一覧金項那 翌年四月二十五日、筑紫で饗。六月五日、帰国。
沙飡〔八位〕薩虆生 同上。
 阿飡は、〈天武〉朝におけるこれまでの遣使の最高位である。 新羅がこの頃の外交課題を重視していたことをうかがわせる。
《調物…馬狗騾駱駝》
 ここに特に調物の内訳が書かれるのは、質量ともに近年にない規模だったからであろう。 加えて天皇・皇后・皇太子への個別にプレゼントされた書かれている。その狙いは何だろうか。
 ひとつの可能性として、耽羅の帰属問題が考えられる。この新羅による遣使に先立って、日本は新羅、高麗、耽羅に使者を遣わして何らかの交渉をして帰国した。
 この年は、『三国史記』新羅本紀:文武王十九年〔679;〈天武〉八年〕二月。発使略耽羅国」とある。 「」は普通に考えれば軍事的な侵略であるが、だとすれば発するのは将軍であって「使」とは書かないだろう。 よって「政略〔=外交交渉〕となるが、それでも軍勢を引き連れて威嚇したことは十分に考えられる。
 近年、耽羅国は、日本に朝貢する国としての振る舞いを強めている。 日本は、新羅・耽羅の思惑をおもんばかって、極力両国の使者を都に同時に滞在させないように気を遣ってきた。
 この状況下で新羅は日本に対して、耽羅にはこれ以上手を突っ込むなと、膨大な調物を伴って申し入れたと考えることができる。 加えて天皇らにも、個別の贈り物によって懐柔したのであろう。
 この新羅の来朝に先んじて、九月十六日に遣新羅使が帰国して拝朝している。 その任務は耽羅を新羅が所有することを止めさせるためであったが、協議は恐らく不調に終わった。「拝朝」の際にその旨復命したと思われる。 新羅は、このとき日本の強い意志を知り、断念させるために贈り物攻勢をかけたのだろう。
 結果的に、耽羅国にからの遣日本使は〈天武〉八年を最後にして途絶えている。
 九月二十三日に帰朝した遣高句麗使は、渡島〔北海道〕の粛慎に手を出すなと言いに行ったと見ることができる。
 同日に帰朝した遣耽羅使は、新羅に屈した耽羅国への見舞、及び状況の視察であろうか。
 逆に日本近海においては新羅に隙を見せて付け込まれることを警戒して、多祢嶋〔種子島〕との結びつきを強める(十一月二十三日段。下述)。
 このように、この時期の一連の外交活動は、新羅と日本の間の海域の支配権を巡る争いと見ることができる。
《馬・狗》
 下で見るように、駱駝は大変珍しい動物なので「」、「」も選りすぐりの名馬と特色のある犬と見られる。
 ただし、は農作業や物資の運搬に役立つ動物なので、馬、犬も実用に供するために一定の頭数が献上されたと考えることもできる。
ラバの頭部
ja.wikipedia.org
《騾》
 馬と驢馬ろばの混血とされる「」も、まだ日本では一般化していなかったかも知れない。 の〈類聚名義抄〉にはウサキムマとあるが、ウサギウマ〔=ロバ〕ではその珍しさが伝わらないので、書紀古訓では音読を推奨したと考えられる。 ただ、書記古訓の「ルイ」は、旁のによったらしく、の本来の音は呉音・漢音ともに、〈倭名類聚抄〉も音読みして「〔ラ〕」とする。
 ウマの雌とロバの雄による一代雑種。粗末なえさで、かなりの労働に耐えるという。『日本百科全書』〔平凡社;2014〕によると、「紀元前7世紀のメソポタミアの壁画にラバと思われるもの」が見られるという。
《駱駝》
ヒトコブラクダ    フタコブラクダ
 ラクダの生息域
 (オーストラリアには19世紀に人為的に持ち込まれた)
 [ナショナル ジオグラフィック]よりヒトコブラクダフタコブラクダそれぞれの生息域図とを合成。
ヒトコブラクダフタコブラクダ
 ラクダの生息域(右図)からは、新羅は遠く離れている。よって、ヒトコブラクダだとすれば西域から持ち込まれたものである。
 【吐火羅国】項でTochara地域などの西域と長安の間の、シルクロード経由の交流を見た。 長安には、東域からは倭国とともに新羅からも、活発に遣使されたと考えられる。 よって、新羅人は長安などで西域の人からヒトコブラクダを手に入れ、新羅に連れ帰ったことが考えられる。
 一方、フタコブラクダについては、北方から高句麗経由でもたらされた可能性もあるが、長安で西域の隊商と接触してヒトコブラクダを手に入れるチャンスの方がずっと多かったのではないだろうか。
 こうして手に入れた駱駝は、新羅の宮廷で珍獣として飼育されていたと考えられる。 これを、日本への献上品に加えたところに、この交渉に対する新羅の並々ならぬ意気込みが感じられる。
《諸僧尼/及老或患病》
 「進止不便」は、老化や病気によって勤行の立ち振る舞いが満足にできなくなることだと読める。 すると「浄地亦穢」は、堂内でのその見苦しい姿が、神聖な雰囲気を損なうという心無い言葉のように読めてしまう。
 それでは好ましくないので、ひとまず彼らを「そのまま放置すること」が衆生を救済するという教えを穢すという意味として読んでおきたい。
 なお〈内閣文庫本〉の頭注はこれを悲田院の起源と位置付けているが、今回の詔の趣旨はそれとは異なる。 
《大意》
 十月二日、 詔を発しました。
――「朕が聞くに、 最近は暴悪が巷間に多くある。 これは、王卿らの過失である。
 或いは暴悪があるが、煩わしいので忍び〔=見逃し〕対処しないと聞く。 或いあは悪人がいても、倦(う)み〔=疲れて〕て隠して正さないことを見る。 これらは、見聞きするままに応じて糾弾(きゅうだん)すれば、 暴悪が起こることがあろうか。
 よって今後は、 煩わしいとか倦み疲れたと言わず、上は下の過失を責め下は上の横暴を諫めれば、 国家は治まるであろう。」
 十一日、 地震あり。
 十三日、 勅制して、 僧尼ら威儀と法服の色、 そして馬の従者が巷間を往来するときの形状〔=服装や作法〕を定めました。
 十七日、 新羅は 阿飡(あさん)金項那(こんこうな) 沙飡(ささん)薩虆生(さつるいせい)を派遣して、朝貢しました。
 調の内訳は、 金、銀、鉄、鼎(かなえ)、錦、絹(かとり)、布、皮、馬、狗、騾(ら)、駱駝(らくだ)など、 十種余りありました。
 また、それとは別に、天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)、太子(ひつぎのみこ)に、 金、銀、太刀、旗などを献上し、それぞれ多数ありました。
 この月、 勅を発しました。
――「凡(およ)そ諸々の僧尼は、 常に寺の中に住み三宝を護ってきた。
 しかし、或いは年老い、或いは病を患う者がいる。 長い間狭い房に臥し、久しく老いや疾病に苦しめば、 振る舞いは覚束なく、また清浄なところが穢れてしまう。
 よって今から後は、 それぞれを親族や篤信の者の許に置き、 一二の家屋を空いている場所に建て、 老人には身を養わせ、病人には薬を服用させよ。」


43目次 【八年十一月~是歳】
《倭馬飼部造連等遣多禰嶋》
十一月丁丑朔庚寅。
地震。
十一月…〈北〉十一月シモツキ
十一月(しもつき)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)。〔十四日〕
地震(なゐふる)。
己亥。
大乙下倭馬飼部造連爲大使
小乙下上寸主光欠爲小使、
遣多禰嶋、仍賜爵一級。
倭馬飼部…〈北〉タイ○○-ヲツ-下○○ヤマトノ ムマ-飼 カヒノ-部ミヤツコミヤツコ-連 ツラ
 ○○-乙-下○○カミノ寸主スクリノ クワウカム
〈閣〉村之スクリ カン攵イ。 〈兼右本〉飼-部ムマカイ カウ-カンソヒ-使
『仮名日本紀』:光欠
岩波文庫版「光父くわうぶ」。 『日本古典文学全集』(小学館)「光父」。
己亥(つちのとゐ)。〔二十三日〕
大乙下(だいおつげ)倭馬飼部(やまとのまかひ)の造(みやつこ)連(つら)を大使(おほつかひ)と為(し)て、
小乙下(せうおつげ)上寸主(かみのすぐり)の光欠(くわうけむ)を小使(そひつかひ)と為(し)て、
多祢嶋(たねのしま)に遣(や)りて、仍(よ)りて爵(かがふり)一級(ひとしな)を賜(たま)ふ。
是月。
初置關於龍田山大坂山、
仍難波築羅城。
初置関…〈北〉初置セセ龍田山大坂山 ツク羅城○○一ラ シヤウ
〈閣〉江之エノジヤウ
〈兼右本〉初置セキオホイ乍枝可也ジヤウ
〈伊勢本〉龍田山[切] 技イ[ノ][ニ]
『通証』大江。『集解』サカノ坂原作江拠活版
『仮名日本紀』大江山
…[名] ①柱の上にかぶせる枡形。②関に同じ。
是(この)月。
初めて関(せき)を[於]龍田山(たつたやま)大坂山(おほさかやま)に置きて、
仍(よ)りて難波(なには)に羅城(らじやう)を築(つ)く。
十二月丁未朔戊申。
由嘉禾、
以親王諸王諸臣及百官人等
給祿各有差、
大辟罪以下悉赦之。
以親王…〈北〉 テ親王大-辟-罪 シヌルツミ。 〈閣〉百官人 トモニ
〈兼右本〉ツミヨリ以下悉赦
…[名] 重罪。
大辟…死刑。
十二月(しはす)丁未(ひのとひつじ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)。〔二日〕
嘉禾(かか、よきあは)に由(よ)りて、
親王(みこ)諸王(おほきみたち)諸臣(まへつきみたち)及びに百官(ももつかさ)の人等(ら)を以ちて
給禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)、
大辟罪(しにするつみ)より以下(しもつかた)悉(ことごと)に赦之(ゆるしたまふ)。
是年。
紀伊國伊刀郡貢芝草、
其狀似菌、莖長一尺、
其蓋二圍。
亦因播國貢瑞稻、
毎莖有枝。
伊刀郡…〈北〉○○トノ コヲリ芝草シ サウソノ-秋タケ モトノ長一尺[句]二圍/フタノヰイタゝキ イタキ 𡖋因- ノ レリアヤシキ モト マタ
〈閣〉 ノイタゝキ。 〈釈紀〉ソノイタゝキフタ
〈兼右本〉 レリサウ[ヲ] タリタケイタゝキ二-イタキアヤシキ
いだき…[助数詞] 周囲一尋の面積〔直径57cm〕
…[助数詞] 円周。五寸または一尺。〔直径4.8cmまたは9.5cm〕
是(この)年。
紀伊国(きいのくに)伊刀郡(いとのこほり)芝草(しさう)を貢(たてまつ)る、
其(その)状(かたち)菌(きのこ)に似て、茎(くき)は長さ一尺(ひとさか)、
其(その)蓋(かさ)は二囲(ふたいだき)なり。
亦(また)因播国(いなばのくに)瑞稲(みづしね)を貢(たてまつ)る、
茎(くき)毎(ごと)に枝(え)有り。
《倭馬飼部造連/上寸主光欠》
倭馬飼部造連  〈姓氏家系大辞典〉「倭馬飼造 ヤマトノウマカヒ:倭馬飼部の伴造家」。〈天武〉十二年九月、連姓を賜る。 〈同辞典〉「倭飼部 ヤマトノウマカヒベ:職業部の一にて、大和に住居せし馬飼部也」。つらはここだけ。
上寸主光欠  〈姓氏家系大辞典〉「上 カミ ウヘ:賀美、加美等と通ず。…地勢より来りしものなれど、時に上氏の住居せしより起 りす地名もなきにあらず〔逆に上氏がそこに住むようになった後で地名化したかもしれない〕」。 「上村主:何処のカミ村より起りしか、詳かならざれど、…発祥地を決する事難きも、〔河内国内で和名抄に"賀美郷"がある〕安宿郡か、然らざれば大県郡なるべし。 氏人は、天武紀…に「小乙下上村主光欠」とあるを初見…」。光欠はここだけ。
 村主(すぐり)は帰化人の姓。光欠は音読みなので、そのアイデンティティが色濃い。 現代の刊本「光父」は、〈兼右本〉による。
《遣多祢嶋》
 多祢嶋への遣使の目的は新羅の進出を警戒して、近海の島との結びつきを強めるためと見た(上述)。
《賜爵一級》
 《爵五級》項で、 「爵五級」は、中央官に属さない人に授ける名誉的な称号と見た。
 ここの「爵一級」も同様で、賜ったのは多祢嶋〔種子島〕の王、または酋長であろう。
《関於龍田山》
「関の地蔵」所在地 関の地蔵
 龍田山は、《懼坂道》項で見た見龍田古道の辺りが想定される。
 まず龍田山について『大日本地名辞書』を見る。
◎「龍田山:三郷村の西なる嶺を云ふ、信貴山の南に接し河内堅上カタカミ村(大県郡)に〔またが〕る山なり、〔しかれど〕も一峯の名つくべきなし」という。
 このように、龍田山という特定の山はなく、信貴山南方の山地全体を大まかに指す。
 この地のについて、『通証』は次のように述べる。
◎「関屋趾在平群郡立野村西。天文八年収立野関銭事見信貴山寺日録
 〔関屋の跡は平群郡立野たちの村の西にあり、天文八年に立野関銭〔通行料のようなもの〕のことを信貴山寺の日録に見る〕
 とある。龍田の関に因んで置かれたと思われる関の地蔵について、 [奈良県公式]/[龍田古道とは]は次のように述べる。
◎「関の地蔵:龍田の関跡。往時は現在地より西側の大和川北岸にあったとも…川の氾濫で…お堂ごと流され…のちに今の場所に祀られた」。
 龍田古道のうち関の地蔵あたりから西が、懼坂道かしこさかのみちであろうと判断した。 この地は、〈壬申紀〉18において紀臣大音が守ったが、近江軍に攻め込まれて撤退した。
《大江山》
大江の関
大坂山関の関連地
 大坂山は、〈兼右本〉〔1539~40〕は「大枝山」。他の本でも「」「」を傍書するものがある。 『集解』及び『通証』が参照した本では「大江山」であった。 江戸時代には大枝山大江山説が根強くなったようなので、ひとまず大江関について調べた。
 〈倭名類聚抄〉には{山城国・乙訓郡・大江【於保江】郷}がある。
 山陰道の山城国、丹波国の境界に老ノ坂があり、その峠の山城国側の手前に大江関が置かれたとされる。
 『地名辞書』は、 「大江関オホエノセキ址:大江山の中なる手向タムケの辺に在る歟、または沓掛の駅中にある歟、不詳」、 その「手向」については、大江山の項で「大枝村沓掛」から「丹波国篠村大字王子」に達する路の「絶頂を手向と云ふ」と述べる。 現代地名には「京都府亀岡市篠町王子大江山」が老ノ坂の近くに見える。
 大江関に因んだ「大江の関明神」がある。[京都市公式]
[大枝桂坂]よれば、 「大江の関明神:平安時代、山陰道の丹波国と山城国の境界に関所が設けられ…関所跡とされる「関の明神」の小祠が残されて」いるという。
 大枝山について『通証』は「万葉集云丹波道之大江乃山」、「続日本後紀五関之一大枝道」などと述べる。 その万葉歌は、(万)3071丹波道之 大江乃山之 真玉葛 絶牟乃心 我不思 たにはぢの おほえのやまの たまかづら たえむのこころ わがもはなくに」である。 『続日本後記』の該当個所については、承和九年七月己酉条に「山城国五道」、「清原真人秋雄守大枝道〔山城国の五道を固めさせ、そのうち清原秋雄には大枝道を守らせた〕とある。
 大江関に関する直接記録としては、 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1981〕に「大江関跡:初見は応永五年〔1398〕12月24日の室町幕府奉行人過所案(三宝院文書)で、醍醐寺領丹波黒岡庄の年貢運送について当関の通過を認めたもの」とある。
《大坂山》
龍田山と大坂山
 前項『通証』は、大江関についての考察に続けて「活板作大坂山。倭名鈔葛上郡大坂。今属下郡所謂岩窟越也。関屋、大坂村里相隣可以証〔版本は大坂山に作る。…関屋・大坂の村里が隣接するのがその証しと言えよう〕と述べる。
 大坂山については、現在地名「大坂」は見られない。 〈壬申紀〉18《大坂》で、 〈履中〉段の伝説から、大坂道は二上山の北側の街道と判断した。 〈延喜式-神名〉{葛下郡/大坂山口神社}の論社が、香芝市穴虫3140及び香芝市逢坂5丁目831にある。 〈壬申紀〉19では、大坂道から攻めてきた近江軍との戦闘の記事に「当麻〔ちまた〕」とあり、小字「千股」が候補になり得ることを見た。 〈倭名類聚抄〉には{大和国・葛上郡・太坂郷}は、大坂山の可能性がある。
 以上から、二上山の北の街道が大坂道で、これが北西に延びて大津道と繋がっていたと見てよい。
 〈壬申紀〉では、龍田懼坂大坂当麻衛が激戦地となった。 このときの経験から、〈天武〉八年に難波方面との交通をチェックする要所として、龍田山の道と大阪山の道に関を設けたと理解することができる。
 「関屋」が大坂山関に由来するとすれば、大坂道を北西に進んで関屋に近いにところ関があったことになる。
 鎌倉時代とみられる※)〈北野本〉では「大坂山」なので、誤って大枝になったのはそれ以降と見られる。※)八木書店コラムによる。 その原因としては、筆写の頃に大江関が重要な関として現実に機能していたことが考えられる。 その一方で、本来の「大坂関」は平城遷都で廃されたから、既に忘れ去られていたと見られる。 その現実により、ある筆写者が「大坂」を「大枝」と読み、江戸時代にはそれが定着して「活版」で刷られたのであろう。
《難波羅城》
図1 〈古代都城〉の付図(p.7)に加筆
 参考文献略称
〈古代都城〉…「古代都城形成史―王都における条坊制の導入―」相原嘉之;『明日香村文化財調査研究紀要』〔明日香村;2018〕
〈難波京の防衛〉…「難波京の防衛システム―細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽―」黒田慶一;『大坂上町台地の総合的研究』〔大阪市博物館協会大阪文化財研究所;2014〕
〈細工谷報告Ⅲ〉…『細工谷遺跡発掘調査報告Ⅲ』〔公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所;2018〕
図2 〈難波京の防衛〉(p.130)に加筆
 細工谷遺跡で見つかった柱列をもって難波羅城跡と解釈する説がある。
 〈難波京の防衛〉は、近年筑紫大野城など古代山城の築城方法が明らかになっていることにより、 「細工谷遺跡の遺構をそれに鑑みる時、難波羅城の城門であった可能性が高いと思われる」と述べる(p.126)。 図2は、その「遺構」の位置、図3はその柱列である。
 もともと細工谷遺跡は「かつて和同開珎の枝銭や百済尼寺の存在をしめす墨書土器が出土」(〈細工谷報告Ⅲ〉序文)ことから注目されていた。 〈難波京の防衛〉が取り上げた柱列は、この〈細工谷報告Ⅲ〉の調査によって明らかになったものである。
 同報告は、三種の柱列の複合から「少なくとも3時期の建て建替えがあったものと思われる」と述べる(p.38)。 そして「谷の中に…盛り土が施された古墳時代中期以降、この盛り土の上には溝や塀、掘立柱を用いた構造物が立ち並」んでいたが、「7世紀後半の谷の中の洪水の後、一段掘り窪んだ地面を利用した水田が営まれるようになった」ものと推定している(p.83)。
 そこに、柱列を〈天武〉羅城とする発想は見られない。
図3 〈難波京の防衛〉(p.132)
図4 [京都市公式][平安京復元模型など 画像一覧] 図5 [京都市公式][平安京の条坊]に加筆
 そもそも羅城は、 中国においては、都を防備のための城壁で囲んだものをいった。倭国は〈孝徳〉以後の律令国家化の一環として、中国の坊条スタイルを手本にして都を築いたが城壁は作られず、ただ朱雀大路と仮想の城郭との交点に象徴的に羅城門を設けた。 実際、平安京では羅城門が九条大路と朱雀大路の交点にあたる(図4・5)。
 〈古代都城〉によれば難波京の条坊は、初期難波京〔〈孝徳〉〕では「南北3区画までは〔復元〕可能」、 前期難波京〔〈天武〉〕では 「朱雀大路の東2区画、西4区画、難波宮朱雀門から南へ11区画まで…は復元できる」(図1)という(p.8)。
 その復元朱雀大路を〈難波京の防衛〉の図(図2)に書き加えて見ると、同論文がいう「羅城」の位置は朱雀大路から外れ、その向きも大路への垂直線から30度ほど傾いている。 既に〈天智〉朝において、内裏南門がきちんとした向きと位置にあったことを見れば(【大津京跡】)、〈細工谷報告Ⅲ〉の柱列が羅城門であるとは到底言えないのは明らかである。
 それでは、羅城門の真の位置はどこであろうか。 〈細工谷報告Ⅲ〉は「四天王寺隣接地においても、天武朝の斜行する方位の遺構がみられる」という。 〈天武〉八年の坊条の南限がその北なら、「羅城〔門〕は北から8区画目の南の大路と朱雀大路の交点となる。 もし11区画まで進んでいれば、羅城門はその南の大路上である。遺跡は、未だ地下に眠っていることだろう。
 なお、〈難波京の防衛〉が「〔壬申の乱において〕近江軍の難波宮奪取は致し方のないところであった。反逆者の立場から為政者となった天武帝が、関防に力を入れ」たものとして羅城を位置づけた点については、書紀の記述に一致する。 羅城龍田関大坂関を併せた防御機構の一部として位置づけられていたことは、接続詞「〔よって〕が示している。
 ただこれは書紀による解釈であって、実際には難波京の坊条整備の一環として捉えるべきものであろう。藤原京の先行条坊とともに、副都の整備も同時進行していたのは明らかである。
《嘉禾》
 前述
《紀伊国伊刀郡》
祥瑞の報告地
 〈倭名類聚抄〉{紀伊国・伊都郡}。
《芝草》
マンネンタケ
 芝草は、〈皇極〉三年三月《芝草》で見た。
 〈延喜式〉治部省/祥瑞「芝草:形似珊瑚枝葉連結。或紫。或黒。或金色。或随四時変色一云一年三華。食之令眉寿〔=長寿〕…右、下瑞」とある。
 もともとは、霊芝(マンネンタケ)〔担子菌類、サルノコシカケ目マンネンタケ科〕を意味する。 傘は類円形,初めは卵黄色のちに赤褐色から黒色となり、径20cmに達する。道教では瑞祥の象徴とした 〔日本大百科全書(小学館;1994)、世界大百科事典(平凡社;2014)など〕。 〈延喜式〉の説明で、色を述べた部分はマンネンタケに合致している。
 この段では芝草について、その柄とカサのことを述べているから、巨大なマンネンタケであろう。
《囲》
 「」はイダキ〔円周を表す助数詞。=1尋〕と訓める。1尋=1.8mを用いると2尋=周囲3.6m〔直径1.12m〕となり異常に広いが、誇張かも知れない。 〈北野本〉の音読み「」は、中国の助数詞「〔1囲=5寸または1尺〕を用いたと考えられる。 しかし、「1囲=1尺」を用いたとしても周囲2尺は直径19cmで、通常の大きさの範囲内である。やはりイダキと訓むべきであろう。
《毎茎有枝》
 稲の穂には、もともと1~2次の枝分かれがある。 ここでは、もう少し根元に近い主軸から分岐してそれぞれが穂をつける品種が突然変異的に表れたことが考えられる。
《大意》
 十一月十四日、 地震あり。
 二十三日、 大乙下(だいおつげ)倭馬飼部(やまとのまかい)の造(みやつこ)連(つら)を正使、 小(しょう)乙下上寸主(かみすぐり)の光欠(こうけん)を副使として、 多祢(たね)の嶋〔=種子島〕に派遣し、〔その王に〕爵一級を賜わりました。
 この月には、 初めて関を龍田山と大坂山に設置し、 よって難波には羅城(らじょう)を築きました。
 十二月二日、 嘉禾(かか)の出現により、 親王、諸王、諸臣及び百官の人たちに それぞれに応じて禄を給い、 死罪以下悉くが恩赦されました。
 この年、 紀伊国伊刀郡は芝草(しそう)を献上、 その状は茸に似て、茎の長さは一尺〔=30cm〕、 その蓋(ふた)は周りが二囲(いだき)〔直径1.1m〕ありました。
 また、因播(いなば)の国は瑞稲(ずいとう)を献上し、 その茎ごとに枝分れがありました。


まとめ
 八年条の後半は、字数は少ないがなかなか重要なことが読み取れる。
 新羅によるラクダの献上と耽羅問題を結びつける発想は、突飛と思われるかもしれない。 しかし、耽羅と新羅の来朝に関してはメンバーや日程が詳しく記述され、両国使者の同時滞在を避けたことを示唆しているところに、耽羅の帰属が日羅間の重要な外交問題として存在していたことが伺われる。 最終的に新羅のものとするに当たって日本にはかなり気を遣い、駱駝などの貢物もそのためと見ることは十分に可能であろう。 その際、駱駝の生息域を調べてみると、乾豆波斯達阿(〈斉明〉六年)の渡来経路を絡めて考えれば珍獣の献上であり、新羅による気遣いの大きさを裏付けるものであった。
 一方国内では、律令国家にふさわしい坊条造りへ相当の熱意が感じられる。 その大路に通行する人の服装に、その風景に相応しいものを求めようとしたのが十月庚申の勅制の動機だったと思われる。
 また、街頭に老いや病で亡くなった死体が放置されるのも見苦しい。十月のもう一つの詔、老病の救済は直接的には僧尼が対象であるが、暗に一般人にも及ぼせと篤信者に呼びかけたとも読める。 その意味では悲田院の萌芽とする見方を一応は否定したが、あながち的外れとも言えない。
 龍田関・大坂関・難波京羅城門の所在地は、資料に分け入って調べた結果一定の範囲が見えてきた。遺跡の形態は、堀立柱の跡が考えられる。墨書土器で出てくれば言うことはない。 最近の遺跡発見は、道路工事などの事前の考古学調査によるものが多いことを考えると、今後も道路などが計画されれば偶発的に見つかるかも知れない。



2025.04.25(fri) [29-10] 天武天皇下10 

44目次 【九年正月~四月】
《宴王卿於大殿之庭》
九年春正月丁丑朔甲申。
天皇
御于向小殿而宴王卿於大殿之庭。
向小殿…〈北野本〔以下北〕向小殿ムカヒノコアムトノ王卿ヲマ殿アントノ
〈内閣文庫本〔以下閣〕殿 ノオホニハ。 〈兼右本〉ムカイ小-殿コアントノ
九年(ここのとせ)春正月(むつき)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)。〔八日〕
天皇(すめらみこと)
[于]向(むかひ)小(せう)殿(あんどの)に御(おほましま)して[而]王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちに[於]大(だい)殿(あんどの)之(の)庭(おほには)に宴(とよのあかり、うたげ)をたまふ。
是日。
忌部首々賜姓曰連、
則與弟色弗共悅拜。
忌部首…〈北〉忌部インヘノ カウヘ/ヲヒトカウヘニ賜姓。 〈閣〉 ノオフトオフヒト カウヘニ
〈兼右本〉忌部イムヘノヲヒトカフヘニ私記曰。上讀於比止。下讀加宇倍
色弗…〈北〉色弗シコ フツシコフチシロ/色。 〈閣〉色弗/シコ フツシコフチ シロ
悦拝… 〈北〉悅拜ヨロコヒキコユ。 〈閣〉悦-拜ヨロコヒキコユヨロコヒテキコエ
おびと…古い姓。
是(この)日。
忌部首(いむべのおびと)首(おびと)に姓(かばね)を賜(たま)ひ連(むらじ)と曰ひて、
則(すなはち)弟(おとと)色弗(しこふつ)与(と)共に悦(よろこ)び拝(たば)る。
癸巳。
親王以下至于小建、射南門。
以下至…〈閣〉以下マテニ
小建冠位二十六階第二十六位。
癸巳(みづのとみ)。〔十七日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)[于]小建(せうけん)至(まで)、南の門(みかど)に射(いくふ、ゆみいる)。
丙申。
攝津國言「活田村桃李實也。」
丙申…〈北〉活-イク 治イ宴也//ナレリ
丙申。〔二十日〕
摂津国(つのくに)言(まを)さく「活田村(いくたむら)に桃(もも)李(すもも)の実(みなれり)[也]。」とまをす。
二月丙午朔癸亥。
如鼓音聞于東方。
如鼓音…〈閣〉 テ ノ
二月(きさらき)丙午(ひのえうま)を朔(つきたち)として癸亥(みづのとゐ)。〔十八日〕
鼓(つづみ)が如き音(こゑ)[于]東(あづま)の方(かた)に聞こゆ。
辛未。
有人云
「得鹿角於葛城山。
其角、本二枝而末合有完、
々上有毛々長一寸。
則異以獻之。
蓋驎角歟。」。
得鹿角…〈閣〉鹿
本二枝…〈北〉二-枝而 マタニ テアヤシヒ驎角リンノツノ。 〈閣〉マタニシテ有完
〈釈紀〉リムノツノ私記曰。麟音讀。 〈兼右本〉リン
麟角…麒麟の角。めったにないことのたとえ。
辛未(かのとひつじ)。〔二十六日〕
人有りて云はく、
「鹿(か)の角(つの)を[於]葛城山(かつらきやま)に得(う)。
其の角、本(もと)は二枝(ふたまた)なりて[而]末(すゑ)に合ひて宍(しし)有り、
宍の上(うへ)に毛有りて、毛の長さは一寸(ひとき)なり。
則(すなはち)異(あやし)びて以ちて献之(たてまつれり)。
蓋(けだし)驎角(りんかく)歟(か)。」といふ。
壬申。
新羅仕丁八人返于本土、
仍垂恩以賜祿有差。
仕丁…〈北〉仕-丁 ヨホロ 。 〈閣〉 ノ-ヨホロ テ テ ヲ
壬申(みづのえさる)。〔二十七日〕
新羅(しらき)が仕丁(つかへのよほろ)八人(やたり)[于]本土(もとつくに)に返(かへ)りつ、
仍(よ)りて恩(めぐみ)を垂(た)れて以ちて賜禄(ものたまはること)有差(しなあり)。
三月丙子朔乙酉。
攝津國貢白巫鳥
【巫鳥、此云芝苔々】。
巫鳥…〈閣〉巫-鳥シトゝヲ
三月(やよひ)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)として乙酉(きのととり)。〔十日〕
摂津国(つのくに)白き巫鳥(しとと)を貢(たてま)つる
【巫鳥、此をば芝苔々と云ふ】。

戊戌。
幸于菟田吾城。
菟田吾城…〈北〉菟- ノ吾城アキ
戊戌(つちのえいぬ)。〔二十三日〕
[于]菟田(うだ)の吾城(あき)に幸(いでま)す。
夏四月乙巳朔甲寅。
祭廣瀬龍田神。
夏四月(うづき)乙巳(きのとみ)を朔(つきたち)として甲寅(きのえとら)。〔十日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
乙卯。
橘寺尼房失火、以焚十房。
尼房失火…〈北〉失-火ミツナカレシ。 〈閣〉尼房アマ ヤニ。 〈兼右本〉尼房アマ ムロ[ニ]失-ヒツキミツナカレシ[テ]
みづながれ…[名] 出火。〈時代別上代〉「忌詞〔忌み言葉〕として、出火を、逆に水流レといったもの」。
乙卯(きのとう)。〔十一日〕
橘寺(たちばなてら)の尼房(あまのや)に失火(ひつき、みづながれし)て、以ちて十房(とをや)を焚(や)く。
己巳。
饗新羅使人項那等於筑紫、
賜祿各有差。
項那…〈閣〉
己巳(つちのとみ)。〔二十五日〕
新羅(しらき)の使人(つかひ)項那(かうな)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に饗(みあへ)して、
賜禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
是(この)月。

「凡諸寺者自今以後、
除爲國大寺二三以外、官司莫治。
唯、其有食封者先後限卅年、
若數年滿卅則除之。
除為国…〈兼右本〉オイテ ニ國大-寺二三
莫治…〈閣〉 コト
有食封者…〈北〉食封滿卅則除ミソトゝセ ヤメ
〈兼右本〉食-封ヘヒトカソヘル年滿ミソトモ
かぞふ…[他]ハ下二 かぞえる。
是(この)月。
勅(みことのり)のたまはく
「凡(おほよそ)諸(もろもろ)の寺者(は)今自(よ)り以後(のち)、
国の大寺(おほてら)の為(ため)の二(ふたつ)三(みつ)を除(お)きて以外(そのほか)は、官司(つかさつかさ)莫(な)治(をさ)めそ。
唯(ただ)、其(その)食封(じきふ)を有(たまは)れる者(もの)は、先後(さきのち)に三十年(みそとせ)に限らむ、
若(もし)年を数(かぞ)へて三十(みそ)に満(み)たば則(すなはち)除之(のぞ)け。
且以爲飛鳥寺不可關于司治、
然元爲大寺而官司恆治、
復嘗有功、是以猶入官治之例。」
関于司治…〈北〉アツ于司治有-功タヌカレタリ カキリ
〈閣〉不可閞。 〈兼右本〉 モ ヨリ大寺
…[動] かかわる。(古訓) あつかる。せき。
且(また)以為(おもへらく)飛鳥寺(あすかでら)は[于]司(つかさ)の治(をさむること)に不可関(あづくましじ)とおもへれど、
然(しかれども)元(もともと)大寺(おほてら)に為(し)て[而]官司(つかさつかさ)恒(つね)に治(をさ)めてありて、
復(また)嘗(にひなへ)に功(いさみ)有り、是(こ)を以ちて猶(なほ)官治之(つかさのをさむる)例(たぐひ)に入れよ。」とのたまふ。
《小殿/大殿》
 〈皇極〉五年では、書紀古訓において「大極殿」をオホアムトノと訓むのを見た。 アム(アン)は、大安殿、大晏殿の発音に由来すると思われる。この段では小殿を「コアムトノ」、大殿を「オホアントノ」と訓む。 十年条には「内安殿」・「外安殿」があり、浄御原宮の建物を一般的に安殿と称したことが古訓に反映したように思われる。
 殿の音訓については、源氏物語では殿に漢字が用いられるが文脈から見て多くはトノだろう。ただ「大極殿」だけはダイゴクデンのように思える。 〈倭名類聚抄〉は、「殿」一文字には「和名止乃」と付すが、紫宸殿など大部分には和名を付さない。例外は「常寧殿【岐佐岐万知】〔后町〕」、 「武徳殿【俗云牟万岐止乃】」、「寝殿【祢夜・与止乃】」である。俗称を除けば音読であろう。もともと漢風の名称である。
《忌部首首/忌部首色弗》
忌部首首 氏族忌部首については《中臣/忌部》
忌部首色弗 〈持統〉四年即位儀式に「忌部宿祢色夫知-上神璽剣鏡於皇后。皇后、卽天皇位」。 〈続紀〉大宝元年〔701〕六月「癸卯。正五位上忌部宿祢色布知卒。詔贈従四位上壬申年功」。
 中臣氏は〈欽明〉朝から既に姓であった。忌部氏は、やっと姓を得て中臣連に並んだので、一同喜びに沸いたと見られる。
《射南門》
 年頭行事のひとつ。《射于南門》参照。 初位も含まれるので、初参加者の成人を祝う意味合いもあったかも知れない。
《摂津国活田村》
 活田は神功皇后の伝承地(神武元年《活田長峡国》)、 〈倭名類聚抄〉に{摂津国・八田部郡・生田【以久多】郷}。 現生田神社〔神戸市中央区下山手通1丁目2−1〕がその伝承に関わる。
 生田神社公式由緒には、 「当初は砂子山いさごやまに鎮座していた。延暦十八年〔799〕に洪水で布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊し、 社殿が傾斜する被害が及んだため、生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い7、8日間鎮座地を探し巡り、 生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。これはご神意であろうとその場所に安置した」という。
 移転前の位置は「徳光院〔神戸市中央区葺合町布引山2-3〕すぐ前の砂子いさご山(通称円山)」とされる。
《桃李》
 同じ話が〈推古〉二十四年条にもあり、 「モモ・スモモの収穫時期は、太陰暦でも5~6月と思われるので、「正月」は異常な現象を述べた」と見た。 〈舒明〉十年九月にもある。
《如鼓音》
 十三年十月壬申条にも「鳴声鼓、聞于東方」とあり、このときはさらに「伊豆嶋西北二面、自然増増三百余丈、更為一嶋。」とある。 すなわち伊豆大島あるいは伊豆諸島の他の島で大噴火があり、その音が聞こえたとの推定を載せている。
 伊豆諸島方面の噴火音が果たして飛鳥京で聞こえるかという問題があるが、 Anchaorage Daily News に、「Volcano eruption near Tonga causes booms heard by Alaskans nearly 6,000 miles away〔トンガ王国近くの火山の爆音が約6000マイル〔=9600km〕離れたアラスカで聞こえた〕という記事がある。 これは史上まれにみる大爆発だったとされ、またこのように音が届くことも稀だという。 しかし、それよりはずっと小さい噴火であったとしも、この6000マイルに比べれば伊豆大島-飛鳥間の距離などはほんの僅かだから、 伊豆諸島の噴火音が畿内で聞こえたということは必ずしも荒唐無稽ではない。
 遠距離の音波の伝搬は、上空に向かって放たれた音波が高度による密度差、あるいは風速差によって屈折して地上に向かうメカニズムが考えられる。
葛城山
《葛城山》
 葛城山については、〈雄略〉段(206回)に一言主神の伝説がある。
《鹿角》
 正式な記録の場合は「〇〇郡言…」のように書かれる。 「人…」という書き方は、書紀原文執筆者自身が事柄の真偽を疑っている現れかも知れない。 また、云「…」の閉じ括弧の位置は判然としないが、 どこで区切るにしても、その奇妙さを語る部分は「蓋驎角歟」まで及んでいる。
 鹿が熊に食い散らかされた跡のようにも思えるが、現実的な想像をしてみてもあまり意味はないだろう。
《新羅仕丁八人》
 四年正月条に「…新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進」とある。 また、占星台を作る技術者であったかも知れないと考えた (四年正月)。
ホオジロ
《巫鳥》
 〈時代別上代〉によれば「しとと:[名] 燕雀目すずめ科の、ほおじろ・あおじ等の小鳥」。
 〈神武〉段に「阿米都都 知杼理麻斯登登」(第100回)。
 「」は、変異個体の場合は「シラ-」ではなく「シロキ-」というようである白雉元年二月の白雉など〕
《菟田吾城》
 万葉にも歌われ、推定地は現在の人麻呂公園〔宇陀市大宇陀拾生76番地の1〕 (〈壬申紀〉《菟田吾城》)。
 壬申の故地を訪れ、景色を楽しんだのかも知れない。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《橘寺》
 橘寺は、書紀ではここが初出。
 時代が比較的近い資料では、『法隆寺縁起資材帳』〔747〕〈推古〉と東宮上宮聖徳法王敬造の七寺に「橘尼寺」。 これは、書紀の「尼房」に合致する。
 時代が下ると『太子伝暦』〔平安中期〕の「初起…十一院」に「橘樹寺【時人名菩提寺」、 『聖徳太子伝私記』〔13世紀〕の「七ヵ伽藍」のひとつに「菩提寺」。 また、伝『七代記』〔宝亀二年〔771〕とも〕には「上宮太子造立寺舎八所」に「菩提寺【時人呼為橘尼寺】」 (以上、資料[53])。
 総合すると「橘尼寺」は聖徳太子造立の七~十一寺に属し、一名「菩提寺」である。
 『法隆寺東院縁起資材帳』に次の記述がある。 
「法隆寺東院縁起」抜粋:『大日本仏教全書117』〔仏書刊行会;1913〕による
推古天皇即位…十四年…秋七月。
天皇詔太子曰。於朕前講-説勝鬘経。則依詔太子講説三日。講竟夜蓮花零。花長二三尺溢方三四丈之地。則其地誓-立寺院。是今菩提寺也。
天皇、太子〔聖徳太子〕に詔したまひて曰(のたま)はく勝鬘経〔しょうまんきょう〕を説きたまへとのたまふ。則ち詔に依りて太子講説しまつること三日。講竟(を)へたる夜に蓮の花零(ふ)れり。 花の長さ二三尺、方三四丈の地(ところ)に溢(あふ)れり。則ち其の地に寺院を誓ひ立てたまふ。是、今の菩提寺なり。
 …天平十九年二月廿九日〔三綱署名〕 〔746年〕
《項那》
金項那 前年十月十七日、薩虆生とともに来朝。本年六月五日、帰国。
 普通は饗と賜禄は帰国直前の行事だが、ここではなお一か月以上筑紫に留まっていたことになる。どうしたのだろう。
《国大寺》
 「天武朝の仏教政策」(御子柴大輔)〔『城西大学女子短期大学部紀要』1991(pp.43~53)〕 によると、「國大寺二三」は「大官大寺(百済大寺)」、「川原寺(後の弘福寺)」、「飛鳥寺(元興寺)」の三寺があげられ「一般的な説となっている」という。
 大官大寺はもともと百済大寺が移転して高市大寺、改名して大官大寺となったもの(【百済川側九重塔】項)。 〈天武〉二年十二月には「造高市大寺司」が任命された。
 大官大寺は、まさにその名が体を表す。 川原寺は、〈天武〉二年三月に一切経の写経が恐らく大量に行われたことから、国の大寺の性格が知れる。
《唯其有食封者》
 「唯其有食封者先後限三十年若数年満三十則除之」は読み取りにくい。
 逆接の接続詞「」は「」に繋がらないように思われるが、むしろ「三十年」は、直ちに停止しないことに主眼を置いた語句であろう。
 「数年」は、スウネンと読むと意味不明になるが古点は「〔年をかぞふ〕と読んで意味を通す。妥当であろう。
 「先後」は、〈汉典〉では「先後:先和後。早和晚〔=早かれ遅かれ〕。ただし、現代語の説明である。
 それでも、食封はそれぞれ開始したときを起点として三十年を数えるという意味であろう。 すなわち昔から食封を給わっていた寺では年限が迫り、まだ最近になって食封が割り振られた寺ではしばらく後のことになる。
 しかし、30年を経た後は、結局すべて私領での耕作が運営の糧となるから、これはもう寺は班田収授法の枠外と宣言するに等しい。
 寺を国家管理から外す意味については、一般的に諸寺はその創建において氏族との結びつきがあったと考えられる。政権が氏族の代表者の寄り合いであった頃にはそれぞれ関係の深い寺を管理することにより、すべて国家の寺と表現し得る。 しかし、政権中枢から氏族を排除した今、諸王が直接管理するには手が回らなくなったということのように思われる。
 今後の国家管理の形態は、各寺は三綱〔都維那・上座・寺主〕によって自律的に運営され僧綱〔大僧都以下〕がその監督にあたる体制となる(実例は[元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む][Ⅳ])。
《食封》
 今のところの理解では寺院への食封とは、寺にある地域を割り振り、その土地の口分田の良民が税として納めた穀物のうち一定の割合が寺院に入る仕組みである。 それに対して、寺領では農民が隷属し、収穫物は一定の割合で寺に入るが全量ではなく、ある部分が税として国家に徴収される。
 結局、どちらも徴収した収穫物を国家と寺が山分けするのだから、本質は同じではないかと思われる。
《飛鳥寺》
 飛鳥寺は官寺と私寺のどちらにするかで議論があったが、結局官寺としたようである。
 ここで、飛鳥寺の創建を見る。
  〈用明〉二年七月蘇我馬子の発誓「諸天与大神王、起-立寺塔二上-通三宝」。
  〈崇峻〉元年是年蘇我馬子宿祢「始作法興寺〔=建立に着手〕
  〈推古〉四年十一月法興寺造竟」。
 なお『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、書名こそ「元興寺…」であるが、実質的には豊浦尼寺の由緒である。
 創建時の姿は資料[50]で見た。
 このように当初は蘇我氏の私寺として創建されたが、乙巳の変(〈皇極〉五年)で蘇我宗家が滅びた後は、事実上官寺になったと考えられている。 名称「飛鳥寺」の初出は〈斉明〉三年七月須弥山像於飛鳥寺西」。 寺本体もさることながら、西の槻木の広場は主に外国使節のための接待会場として整備された。
 今、官寺を大官大寺〔まだ高市大寺〕とせいぜい川原寺に集約する方針が立てられ、飛鳥寺も私寺にすることが検討されたようである。 返す相手は蘇我氏となるが、蘇我氏は既に衰退していて新嘗などの重要行事を請け負うには力不足だったのかも知れない。
 結局、現状のまま官寺に留めたと思われる。
《大意》
 九年正月八日、 天皇(すめらみこと)は 向いの小殿に御座され、王卿に大殿の大庭で宴を賜りました。
 同じ日、 忌部首(いんべのおびと)首(かしら)に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)とされ、 弟の色弗(しこふつ)と共に悦びつつ拝しました。
 十七日、 親王以下、小建(しょうけん)に至るまで、南門で射技しました。
 二十日、 摂津の国が「活田村(いくたむら)に桃(もも)李(すもも)の実がなりました。」と言上しました。
 二月十八日、 鼓のような音が東の方角に聞こえました。
 二十六日、 ある人のいうには、 「鹿の角を葛城山で得た。 その角は、根元が二股に分かれ、先端で合わさって肉がつき、 肉の上には毛が生え、毛の長さは一寸であった。 よって、異(け)なりと思って献上した。 ことによると、麟角か」と言いました。
 二十七日、 新羅の仕丁(つかへのよほろ)八人が本国に帰国しました。 よって、恩を垂れてそれぞれに応じて賜禄しました。
 三月十日、 摂津国は白い巫鳥(しとと)を献上しました。
 二十三日、 菟田(うだ)の吾城(あき)に行幸しました。
 四月十日、 広瀬と龍田の神を祭祀しました。
 十一日、 橘寺(たちばなてら)の尼房に失火があり、十房を焼きました。
 二十五日、 新羅の使者項那(こうな)らを筑紫で饗(あえ)して、 それぞれに応じて賜禄しました。
 この月に、 勅が発せられました。
――「凡(おおよ)そ、諸寺は今より以後は、 国の大寺とするための二三を除き、それ以外は、官司の治めるものとはしない。 ただ、その食封(じきふ)を有する寺は、〔開始が〕遅くも早くも三十年に限って継続する。 もし年を数えて三十に達すれば停止せよ。
 また、飛鳥寺は司の治が関与しないようにも思われるが、 元来大寺にして常に官司に治にあり、 さらに新嘗祭に功績があるので、これをもって猶(なお)官治の例に入れる。」


45目次 【九年五月~六月】
《新羅遣使送高麗使人等於筑紫》
五月乙亥朔。

絁綿絲布
以施于京內廿四寺各有差。
…〈兼右本〉カトリ
施于京内…〈北〉ヲクル于京内廿卅イ四寺。 〈閣〉オクルヿ。 〈兼右本〉オクリ玉フミヤコ-内
五月(さつき)乙亥(きのとゐ)の朔(つきたち)。
勅(みことのり)したまひて、
絁(かとり)綿(わた)糸(いと)布(ぬの)を、
以ちて[于]京内(みやこのうち)二十四(はたちあまりよつ)の寺に施(おく)りたまふこと各(おのもおのも)有差(しなあり)。
是日。
始說金光明經于宮中及諸寺。
是(この)日。
始めて金光明経(こむくわうめいきやう)を[于]宮中(みやのうち)及びに諸(もろもろ)の寺に説く。
丁亥。
高麗遣南部大使卯問
西部大兄俊德等朝貢、
仍新羅遣大奈末考那、
送高麗使人卯問等於筑紫。
南部大使卯問…〈北〉南-部ナン ホウ○○-使タイ シモウン門モン 門西-部 サイホウ-兄シユン トク○○-奈-末カウ ナ
〈閣〉大◱◱使◱モウ音門。 〈釈紀〉俊德シユムトクタイ奈未那那
〈兼右本〉使
…[呉音] ナム。[漢音] ダム。
丁亥(ひのとゐ)。〔十三日〕
高麗(こま)南部(なむほう)大使(だいし)卯問(めうもん)
西部(さいほう)大兄(だいくゐゑい)俊徳(しゆんとく)等(ら)を遣(まだ)して朝(みかどををろがみ)貢(みつきたてまつ)らしむ、
仍(よ)りて新羅(しらき)大奈末(だいなま)考那(かうな)を遣(や)りて、
高麗(こま)の使人(つかひ)卯問等(ら)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
乙未。
小錦下秦造綱手卒、
由壬申年之功贈大錦上位。
秦造…〈閣〉大錦下秦造
小錦下…〈北〉綿/錦
小錦下位冠位二十六階第十二位。
大錦上位…冠位二十六階第七位。
乙未(きのとひつじ)。〔二十一日〕
小錦下(せうきむげ)秦造(はたのみやつこ)綱手(つなで)卒(そつ)す、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)に由(よ)りて大錦上位(だいきむじやうゐ)を贈(おく)りたまふ。
辛丑。
小錦中星川臣摩呂卒、
以壬申年之功贈大紫位。
星川臣…〈北〉 ノヲム
小錦中位…冠位二十六階第十一位。
大紫位…冠位二十六階第五位。
辛丑。〔二十七日〕
小錦中(せうきむちう)星川臣(ほしかはのおみ)摩呂(まろ)卒(そつ)す、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて大紫位(だいしゐ)を贈りたまふ。
六月甲辰朔戊申。
新羅客項那等歸國。
六月(みなづき)甲辰(きのえたつ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)。〔五日〕
新羅(しらき)の客(まらひと)項那(かうな)等(ら)国に帰(かへ)る。
辛亥。
灰零。
灰-零…〈北〉灰-零ハヒ リ
はひ…[名] 灰。
辛亥(かのとゐ)。〔八日〕
灰(はひ)零(ふ)る。
丁巳。
雷電之甚也。
雷電…〈北〉雷電イナツルヒ。 〈閣〉雷電イナツルヒスルヿ
いなつるひ…[名] 〈倭名類聚抄〉「電【和名伊奈比加利】一云【奈流加美】一云【伊奈豆流比】」。 〈時代別上代〉「イナツルビのツルビはツルムことで稲の成長と関係づけた古代信仰による命名かという」。
いなびかり…[名] 雷光。 〈兼右本〉 ナリ電之イナツルヒスル
丁巳(ひのとみ)。〔十四日〕 雷電(いなびかり、いなつるび)[之]甚(はなはだ)し[也]。
《京内二十四寺》
 『新抄格勅符抄』の「宝亀十一年〔780〕十二月十日騰勅符」の 「太宰観音寺・西大寺・法花〔法華〕寺・知識寺・豊浦寺・葛水〔葛木〕寺・岡本寺・小治田寺・●師寺・角院寺・妙見寺・招提寺・神通寺・陳城寺・橘寺・大安寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺・荒陵寺〔四天王寺〕・山階寺・法隆寺・崇福寺・東大寺」の二十四寺が、 数としては一致する(資料[53])。
 この中で大宰観音寺が「京内」と言えるのかという問題があるが、坊条を整備したから西国の副都と見てよいだろう(【朝倉橘広庭宮の探求】)。 荒陵寺は、副都難波京である。 崇福寺の大津京は廃されたが、大寺であるからかつての「京内」ということでよいだろう。
 ただ「二十四寺」の内訳については、常識的には時期によって出入りがあっただろうと考えられる。
《金光明経》
 五年十一月段参照。
《卯問/俊徳/考那》
南部/(大使)〔大相(沙湌(八位)に相当)?〕一覧卯問 十年四月十七日筑紫で饗。五月二十六日に帰国。
西部/大兄〔大奈麻(十位)に相当か〕俊徳 同上。
大奈末〔十位〕考那 新羅が付き添わせた送使。最後まで高麗使に同行したか。
《秦造綱手/星川臣摩呂》
秦造綱手  秦造は、応神段(5)(第152回)参照。綱手は〈壬申紀〉に見えず。〈持統〉十年五月甲辰「詔大錦上秦造綱手、賜姓為忌寸」〔忌寸姓を追贈〕。
星川臣摩呂  星川臣孝元段に「建内宿祢之子、波多八代宿祢は…星川臣…らの祖」。〈天武〉十三年「星川臣…凡五十二氏賜姓曰朝臣」。 摩呂は〈壬申紀〉に見えず。子の黒麿は功田を継ぐ(〈続紀〉霊亀二年)。 
 〈続紀〉に、壬申その他の功績のリストがある。これは天平元年十二月詔で、以前の「功田記」に載る者と同等の功績を挙げたが、そこに漏れている者に功田を授けるという趣旨である。
 詔には既に定められた十名が列挙され、続けて今新たに功田を与える者十四名が書かれる。
〈続紀〉天平宝字元年〔757〕十二月壬子
事項功田大/中/小(理由)*1*2初出
太政官奏曰。…功田記文、或落其品。今故比-校昔今。議-定其品〔功田記には欠落がある。今昔を比べて品を定める〕
大織藤原内大臣鎌足。乙巳年功田一百町。大功世世不絶。一百町大功〈皇極〉四年(中臣鎌子)。〈天智〉八年薨。
贈小紫村国連小依。壬申年功田一十町。一十町中功(壬申年)★百二十戸壬申年六月
贈正四位上文忌寸祢麻呂八町中功(壬申年)★一百戸壬申年六月
贈直大壱丸部臣君手。並同年功田各八町。八町中功(壬申年)★八十戸壬申年六月
贈直大壱文忌寸智徳。同年功田四町。四町中功(壬申年)★一百戸壬申年六月
贈小錦上置始連莵。同年功田五町。五人並中功。合伝二世。四町中功(壬申年)壬申年七月
正四位下下毛野朝臣古麻呂十町下功(大宝律令)〈持統〉三年六月
贈正五位上調忌寸老人十町下功(大宝律令)〈持統〉三年六月
従五位上伊吉連博徳十町下功(大宝律令)〈斉明〉七年五月
従五位下伊余部連馬養。並大宝二年修律令功田各十町。四人並下功。合伝其子。十町下功(大宝律令)〈持統〉三年六月 
  【以上十条。先朝所定】〔以上十名が、これまでに定められた〕
贈大錦上佐伯連古麻呂。乙巳年功田四十町六段。被他駆率。効力誅姦。〔中略〕 …。依令上功。合伝三世。四十町六段上功(乙巳変) 〈皇極〉四年六月
従五位上尾治宿禰大隅。壬申年功田四十町。淡海朝廷諒陰〔中略〕…。依令上功。合伝三世。四十町上功(壬申年)壬申年六月
贈大紫星川臣麻呂。壬申年功田四町。四町中功(壬申年)〈天武〉九年(この段)
贈大錦下坂上直熊毛。同年功田六町。六町中功(壬申年)壬申年六月
贈正四位下黄文連大伴。同年功田八町。八町中功(壬申年)★一百戸壬申年六月
贈小錦下文直成覚。同年功田四町。四町中功(壬申年)〈続紀〉霊亀十六年
  四人、並歴渉戎場。輸忠供事。立功雖異。労効是同。比校一同村国連小依等。依令中功。合伝二世。
   〔以上四人はいずれも戦場を巡り忠を致した。立てた功は異なるが、功労は同じである。一同を村国連小依らと比較して中功とし、二世〔孫の代〕まで継がせる〕
〔以下笠臣志太留ら八名。いずれも功の理由は壬申以外。〕
 *1〈続紀〉霊亀二年〔716〕に記述あり。  *2〈続紀〉大宝元年〔701〕の功封リストに載る。
 この表をまとめたのは、星川臣摩呂が〈壬申紀〉に登場しないのに、宝字元年十二月詔に名前があったので他にも同様の例がないかを見るためである。 結局該当したのは、星川臣摩呂のみであった。
《金項那》
金項那 前年十月十七日、薩虆生とともに来朝。本年四月二十五日、筑紫で饗。
《灰零》
『続日本後紀巻七』で降灰の報告のあった国
(●○は国府の位置)
実線は「野外調査による天上山の降灰範囲」
「伊豆諸島,神津島天上山と新島向山の噴火活動」図1(p.95)を改変
 この降灰も伊豆諸島の火山活動に伴うものかも知れない。しかし、通常は偏西風によって火山灰は西から東に流れると思われる。
 伊豆諸島の噴火に伴う降灰範囲については、平安時代の同地域の2つの火山活動について調べた研究がある ([伊豆諸島,神津島天上山と新島向山の噴火活動](杉原重夫/『地学雑誌110(1)』〔東京地学協会;2001〕)。 同論文は、承和五年〔838〕の神津島天上山火山と、仁和二年〔886〕の新島向山火山によるテフラ〔火山噴出物の総称〕を峻別しようとしたもの。
 その中で、『続日本後紀』の記述による降灰範囲が右図のように示されている。 その原文は、
『続日本後紀巻七』
承和五年九月〔丙辰朔〕
甲申〔十一日〕。 従七月至今月。河内。参河。遠江。駿河。伊豆。甲斐。武蔵。上総。美濃。飛騨。信濃。越前。加賀。越中。播磨。紀伊等十六国。 一一相続言「有物如灰。従天而雨。累日不止。」但雖恠異損害。今茲畿内道俱是豊稔。五穀価賤。老農名此物米華云。
〔七月から今月にかけて、河内、参河…十六国から、一国ごとに相次いで「灰のようなものが、雨とともに降った。日を重ねて止まらず」との言上あり。 怪異だが被害はなく、畿内各道は豊作で五穀の価格は下がった。老農夫は米花と名付けた。〕
 すなわち、各国とも農作物に損害を与えるほどの降灰はなく、むしろ豊作の吉兆だったと捉えられたようである。
 これを見ると、気象条件によっては伊豆諸島の噴火による降灰が畿内に及ぶことは十分にあり得る。
 よってこの日の降灰と、二月十八日「鼓音聞于東方」は、 十三年の記事とともに伊豆諸島における火山活動によるものと考えて差し支えないだろう。
《雷電》
 九年六月十四日は、グレゴリオ暦で680年7月18日
 梅雨末期の大雨と考えられる。
《大意》
 五月一日、 勅を発して、 絁(かとり)、綿、糸、布を 京内二十四寺にそれぞれに応じて施されました。
 この日、 初めて金光明経(こんこうみょうきょう)を宮中及び諸寺に説きました。
 十三日、 高麗は南部(なんほう)大使(だいし)卯問(みょうもん)、 西部(さいほう)大兄(だいけい)俊徳(しゅんとく)らを派遣して朝貢し、 よって新羅は大奈末(だいなま)考那(こうな)を派遣して、 高麗の使者の卯問らを筑紫に送らせました。
 二十一日、 小錦下(しょうきんげ)秦造(はたのみやつこ)綱手(つなで)が卒しました。 壬申年の功によって大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。
 二十七日、 小錦中(しょうきんちゅう)星川臣(ほしかわのおみ)摩呂(まろ)が卒しました。 壬申年の功をもって大紫(だいし)位を贈られました。
 六月五日、 新羅の客項那(こうな)らが帰国しました。
 八日、 降灰がありました。
 十四日、 雷電甚し。


まとめ
 寺院への食封と寺領との区別については、サイト主の現時点での理解を述べたがもう少し学びを深めなければならない。 その結果もし誤りとわかれば、その時点で訂正する。
 降灰や東方の鼓様の音の記事は、自然科学や古記録によって検討すると実際にあり得た現象である可能性がでてきた。 これらには相当の信憑性を考えてもよいだろうが、その一方で鹿の角の件は真偽を疑わせるもので、記事は結局玉石混交である。
 しかし、見方を変えれば公的な報告や流布されていた噂話の別なく、得られた資料を原型に近い形で収めたと判断することができる。 むしろ余計な解釈による変形を加えない分、事実と受け止め得る個所も多いと思われる。



2025.05.21(wed) [29-11] 天武天皇下11 

46目次 【九年七月~十月】
《八月丙辰大風折木破屋》
秋七月甲戌朔。
飛鳥寺西槻枝、自折而落之。
自折…〈内閣文庫本〔以下閣〕 ニ。 〈兼右本〉 タリ
おのづから…[副] 自然に。〈時代別上代〉「訓点類には…オノヅカラニとある例が多い」。
秋七月(ふみづき)甲戌(きのえいぬ)の朔(つきたち)。
飛鳥寺(あすかてら)の西の槻(つきのき)の枝(えだ)、自(おのづから)折(を)りて[而]落之(おつ)。
戊寅。
天皇幸犬養連大伴家以臨病。
卽降大恩云々。
大伴家…〈閣〉 カ ニ
臨病…〈北野本〔以下北〕 ミタマフ 。 〈兼右本〉 ミ大- ナルメ 
戊寅(つちのえとら)。〔五日〕
天皇(すめらみこと)犬養連(いぬかひのむらじ)大伴(おほとも)が家(いへ)に幸(いでま)して以ちて病(やまひ)を臨(み)たまふ。
即(すなはち)大恩(おほきめぐみ)を降(くだ)したまへり云々(しかしか)。
是日。
雩之。
雩之…〈兼右本〉雩之アマヒキ 
是(この)日。
雩之(あめをこひまつる)。
辛巳。
祭廣瀬龍田神。
辛巳(かのとみ)。〔八日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ふ。
癸未。
朱雀有南門。
朱雀…〈北〉朱雀アカキ スゝミミカト。 〈閣〉朱雀[切]南門  ミカトニ
〈鐘右本〉朱-雀アカキトリカト
癸未。〔十日〕
朱雀有南門(すざくにみなみのみかどをたてり、あかきとりみなみのみかどにあり)。
庚寅。
朴井連子麻呂、授小錦下位。
朴井連…〈北〉朴-井エイノ
庚寅(かのえとら)。〔十七日〕
朴井連(ゑゐのむらじ)子麻呂(こまろ)に、小錦下位(せうきむげゐ)を授(さづ)けたまふ。
癸巳。
飛鳥寺弘聰僧終。
遣大津皇子
高市皇子而弔之。
弘聡僧…〈北〉弘總コウ チヤウ僧終 ホウシ ウセヌトフ。 〈釈紀〉コウチヤウホウスウセヌ
〈鐘右本〉弘-聡僧イ乍チヤウウセヌトフラハセ玉フ
癸巳。〔二十日〕
飛鳥寺(あすかてら)の弘聡僧(こうそうほふし)終(う)せり。
大津皇子(おほつのみこ)
高市皇子(たけちのみこ)を遣(や)りて[而]弔之(とぶらは)しめたまふ。
丙申。
小錦下三宅連石床卒、
由壬申年功贈大錦下位。
三宅連石床…〈北〉石床イハ トコ。 〈閣〉大錦下位ヲ
小錦下冠位二十六階第十二位。
大錦下…同第九位。
丙申(ひのえさる)。〔二十三日〕
小錦下(せうきむげ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いはとこ)卒(そつ)す。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)に由(よ)りて大錦上位(だいきむじやうゐ)を贈(おく)りたまふ。。
戊戌。
納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死、
則遣高市皇子而訊之。
納言兼…〈北〉納-言モノ申ツカサ カネテ宮内卿 ミヤノウチノカミ 五位イツゝノクラヰ舎人 トネリノ ヲホキミ 病-之( ナ)/訪
〈閣〉納言モノマウスツカサカ テ ツミヤノウチノカミ テ スナント。 〈兼右本〉臨-死シナントス
戊戌(つちのえいぬ)。〔二十五日〕
納言(ものまをすつかさ)兼ねて宮内卿(みやのうちのつかさのかみ)五位(ごゐ)舎人王(とねりのおほきみ)病之(やまひ)して死(しに)に臨みて、
則(すなはち)高市皇子(たけちのみこ)を遣(や)りて[而]訊之(とぶらはし)めたまふ。
明日卒、天皇大驚。
乃遣高市皇子
川嶋皇子。
因以臨殯哭之。 百寮者從而發哀。
明日卒…〈北〉(明日 クルツ卒)天皇 ミソ哭之ネツカフ發-哀ネ■■■
〈閣〉クルツミソ ヲ[切]ワツラフ發-哀ネツカフ。 〈鐘右本〉 玉ミノソンネツカフ
明日(くるつひ)卒(そつ)して、天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚(おどろ)きたまふ。
乃(すなはち)高市皇子(たけちのみこ)
川嶋皇子(かはしまのみこ)を遣(や)りたまふ。
因(よ)りて以ちて殯(もがり)に臨(のぞ)みて哭之(ねなきたまふ、みねしたまふ)。
百寮者(もものつかさ)従(したが)ひて[而]発哀(かなしびまつる、みねしまつる)。
八月癸卯朔丁未。
法官人貢嘉禾。
八月(はつき)癸卯(みづのとう)を朔(つきたち)として丁未(ひのとひつじ)。〔五日〕
法官(のりのつかさ)の人、嘉禾(かか)を貢(たてまつ)る。
是日始之三日、雨大水。
三日…〈兼右本〉三- ノウチ フリ大- アリ
是(この)日より始之(はじま)りて三日(みか)、雨ふりて大水(おほみづ)あり。
丙辰。
大風折木破屋。
大風…〈閣〉 テ。 〈倭名類聚抄〉「大風:此間云【於保加世】」。
丙辰(ひのえたつ)。〔十四日〕 大風(おほかぜ)ふきて木を折(を)り屋(や、やかす)を破(こほ)つ。
九月癸酉朔辛巳。
幸于朝嬬。
因以看大山位以下之馬於長柄杜、
乃俾馬的射之。
朝嬬…〈北〉朝-嬬アサ ツマ長-柄-杜ラ モリ馬-的ウマユミ射之イサセ■
〈閣〉 ヲナカラナカ エノ モリニ馬-的 ムマ ユミ イサセ給
〈釈紀〉長柄杜ナカラノモリナカエノモリ私記説 俾馬的射之ウマユミイサセタマフ 私記説
〈兼右本〉ミソナハ大-山 ヨリナカウ-柄ナカ エシテシメ玉馬-的ムマ ユミイサセ玉フイサセ 
九月(ながつき)癸酉(みづのととり)を朔(つきたち)として辛巳(かのとみ)。〔九日〕
[于]朝嬬(あさづま)に幸(いでま)す。
因りて以ちて大山位(だいせんゐ)より以下(しもつかた)之(が)馬を[於]長柄(ながら)の杜(もり)に看(みそなは)して、
乃(すなはち)馬をして的(いくは)に射之(ゆみい)ら俾(し)めたまふ。
乙未。
地震。
乙未(きのとひつじ)。〔二十三日〕
地震(なゐふる)。
己亥。
桑內王卒於私家。
桑内…〈北〉桑内王以下桑門
己亥(つちのとゐ)。〔二十七日〕
桑内王(くはちのおほきみ)[於]私(わたくし)の家(いへ)に卒(そつ)す。
冬十月壬寅朔乙巳。
恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而
賑給之、
一[毎]僧尼、
各絁四疋
綿四屯
布六端。
〔一〕沙彌及白衣、
各絁二疋
綿二屯
布四端。
賑給之…〈北〉賑給之 ユヘタマヒス ○僧毎イ  コト/施四疋布六 ラ 沙彌サシヤ ミ白衣シロキヌ/絁ムラ
〈閣〉ユヘ由倍タマヒス 綿四ミセシヤ
〈兼右本〉ミサト[ノ]-内[ノ] コトニイ无僧- コトニカトリ四-ムラ四-ミキアキ
賑給…金銭や品物を与えて元気づける。
にぎほふ…[他]ハ下二 手厚くものを恵み豊かならしめる。
みせ…[助数詞] 綿の質量。モヂとも。二はかりにあたる。
沙弥…僧尼になって間もないもの。
しろぎぬ…僧以外の俗人。
冬十月(かむなづき)壬寅(みづのえとら)を朔(つきたち)として乙巳(きのとみ)。〔四日〕
京(みさと)の内の諸(もろもろ)の寺の貧乏(まづしきともしき)僧(ほふし)尼(あま)及びに百姓(たみ)を恤(あはれ)びて[而]
賑給之(にぎほひたまふこと)は。
一(ひとつ)、僧(ほふし)尼(あま)[毎]は、
各(おのもおもも)絁(ふときぬ)四疋(よむら)
綿四屯(よもぢ)
布六端(むむら)。
〔一(ひとつ)、〕沙弥(さみ)及びに白衣(しろぎぬ)は、
各(おのもおのも)絁(ふときぬ)二疋(ふたむら)
綿二屯(ふたもぢ)
布四端(よむら)。
《飛鳥寺西槻枝》
 飛鳥寺西槻の下は、しばしば重要な出来事の舞台になった。
 初出は〈皇極〉三年正月 で、中臣鎌子〔藤原鎌足〕が中大兄〔〈天智〉〕が打毱しているところにたまたま通りかかり、誘われて加わった。 その場所が「法興寺槻樹之下」であった。
 〈孝徳〉に譲位した直後、皇祖母尊〔〈皇極・斉明〉〕、皇太子〔中大兄〕と三者で盟約(〈皇極〉四年六月十九日)。その場所が「大槻樹之下」。
 飛鳥寺西は、外国使節の接待会場で、須弥山石などで飾る。飛鳥寺西遺跡の「」は槻樹の跡かも知れない (〈斉明〉三年/【飛鳥寺西の須弥山石】)。
 壬申には六月二十九日拠飛鳥寺西槻下、為営」とあり大友皇子側の軍営が置かれたが、丸ごと大海人皇子側に寝返った。
《自折》
 の古訓に見られるオノヅカラニは、カラに名詞〔柄〕の語感が残る故であろう〔再帰代名詞オノ+属格の助詞+名詞カラ
 折は自動詞〔現代語は"折れる"〕として訓みたくなるが、自動詞の下二段ヲルについては〈時代別上代〉は上代語に存在を認めず、『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川〕の挙げる文例も源氏以後である。 ただ同辞典は、(万)1168白浪之 八重折之於丹 しらなみの やへをるがうへに」を四段の自動詞の用例に挙げている。
 基本的に他動詞であっても、実質的に自動詞として使われることはあり得よう。オノヅカラがつけばなおさらである。
《犬養連大伴》
犬養連大伴  県犬養連大伴とも。吉野を急ぎ発つ大海人皇子に、馬を提供。 大宝元年に直広一位で卒。贈正広三位。
 大宝元年に「」とあるから、〈天武〉九年には回復した。なお、ここでは冠位を付していない。
《雩》
 前年に旱魃と雩〔雨乞い〕の記事。今年も旱魃だったとすれば、その甲斐あって八月には大雨になった。しかし、恒例行事化していたことも考えられる。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》
《朱雀》
 正しい読み方は「朱雀に南門有り」であるが不自然なので、朱雀が南門に現れた如くに読まれている。 実際には「建南門於朱雀」が、誤って伝えられたのではないだろうか。
 ただ、浄御原宮の南門は朱雀大路に面していないので、想像は先行条坊とともに初めて大極殿が作られたが未完に終わったところまで膨らむ。
《朴井連子麻呂》
朴井連子麻呂  榎井とも。朴井連については、〈斉明〉四年十一月《物部朴井連鮪》項。 元年五月是月条朴井連雄君など。  子麻呂はここだけ。〈壬申紀〉にも登場せず、以後〈続紀〉にも名前はない。
《飛鳥寺弘聡僧》
弘聡  ここだけ。弘聴とも書かれるが、確認できない。
 大津皇子・高市皇子が弔問したのを見ると、おそらく飛鳥寺の最高位の僧であろう。
《弘聡僧》
 「弘聡僧」という表記に関しては、「「僧~」という呼び方の方が『日本書紀』では普通であり、 「~僧」と書く例は…限られる〔石川一成/『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上); 駒澤大学研究紀要第73号2015〕という。 同論文は、「~僧」は〈推古〉紀、〈舒明〉紀、〈天武〉紀(いずれもβ群)の中の九例に限られ、 「『日本書紀』は様々な系統の資料を切り貼りして用いており、全体にわたる表記の統一がなされていないことが知られる」と述べる。
《大津皇子/高市皇子/川嶋皇子》
大津皇子 母は〈持統〉天皇の姉の大田皇女。朱鳥元年に反乱の罪によって〈持統〉によって死を賜る。
高市皇子 母は胸形君徳善の女尼子娘。壬申には近江方面軍の軍監。
河嶋皇子 川嶋皇子は〈天智〉天皇皇子。母は忍海造小龍の女、色夫古娘。
 いずれも八年五月の盟約のメンバー。
《三宅連石床》
三宅連石床  〈壬申紀〉で、 鈴鹿郡に到着した大海人皇子の許に「国司守三宅連石床」らが結集した。
《舎人王》
舎人王 血縁不明。ここだけ。
 「五位」は諸王五位。
《納言》
 〈天智〉十年の「大納言」は、「御史大夫」に後世の称をあてたものと説明される。 〈倭名類聚抄〉では「大納言・中納言・小納言」に分化している。
 しかし、「」、「発哀」、二皇子の派遣を見ると「納言」が相当の高位であったようだから、大中小の分化はまだなかったと思われる。
《宮内卿》
 宮内卿は、宮内省の令前形態の長官職。〈倭名類聚抄〉に「長官:省曰卿…【以上皆加美】」。
《高市皇子/川嶋皇子》
 上述
《法官》
 法官は令前省で、式部省に繋がる(〈天智〉十年《法官大輔…》)。 七年十月条では、官人の進階を掌る省であったことが示される。
《嘉禾》
 九年年八月条《嘉禾》項参照。
《大水》
 八月五日は、グレゴリオ暦680年9月6日。
《大風》
 八月十四日はグレゴリオ暦680年9月15日。しばしば大きな台風が襲来した時期にあたる。
《朝嬬》
 『五畿内誌』「村里:朝妻」。現代地名に御所市朝妻(大字)。
《長柄杜》
 〈延喜式-神名〉{葛上郡/長柄神社/鍬靫}。比定社は長柄神社〔奈良県御所市名柄271〕。 祭神は下照姫命。
《俾馬的射之》
 俾馬的射之は、文法的には馬を標的にして矢を射ったことになるがあり得ない。実際には恐らく後世の流鏑馬と見られる。
 この「的射」という語順は理解し難い。 〈汉典〉の見出し語にはなく、ただ「射的:①用箭射靶。 ②指箭靶〔靶はマト〕とある。
 漢籍に"的射"を検索すると、『太平御覧』工芸部/"射"上に「故慈復植的射〔故に慈しみ的を植(た)て之を射る〕が見えるが、 の目的語であってとは切り離される。 これらを見れば、書紀古訓の「馬的ムマユミ」は苦しい意訳と言えよう。
 さらに「俾馬〔馬をして~せしむ〕を「乗馬して」の意味に使っていることも、明らかに倭習である。 日本紀私記は、「馬的射」を名詞化することによって辻褄を合わせようとする。
《地震》
 詳細不明。
《桑内王》
桑内王 血縁不明。ここだけ。
《恤京内諸寺貧乏僧尼及百姓》
 「一毎僧尼」という字の並びは成り立ち得ない。 「」は箇条書きを示す文字で、第2項の「沙弥白衣」から「」が脱落し、本来の形は「一僧尼各…」、「一沙弥白衣各…」であったとするするのが考え易い。
 「」は異本になしとも付記される。おそらく第2項の「」が脱落した結果「一僧尼」が意味不明となったので、補うために加えたのではないだろうか。
《大意》
 〔九年〕七月一日、 飛鳥寺の西の槻の枝が、自然に折れて落ちました。
 五日、 天皇(すめらみこと)は犬養連大伴の家に行かれ、病を見舞われました。 そして大恩を垂れられ…云々。
 この日、 雨乞いをしました。
 八日、 広瀬龍田の神を祭礼しました。
 十日、 朱雀の南門を建てられました〔または、朱雀が南門に現れました〕。
 十七日、 朴井連(えいのむらじ)子麻呂(こまろ)に、小錦下位を授けられました。
 二十日、 飛鳥寺の僧弘聡が入滅しました。 大津皇子と 高市皇子とを遣わし、弔いさせられました。
 二十三日、 小錦下(しょうきんげ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いわとこ)が卒しました。 壬申年の功に由って大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。
 二十五日、 納言(なごん)兼宮内(くない)の卿(かみ)、五位舎人(とねり)王は病気で死に臨み、 高市皇子を遣わして見舞わせました。
 その翌日に卒しました。天皇(すめらみこと)は大いに驚かれました。 そして高市皇子と 川嶋皇子を遣わしました。
 よって殯(もがり)に臨み哀哭されました。 百寮の人も従い、発哀しました。
 八月五日、 法官(のりのつかさ)の人が嘉禾(かか)を献上しました。
 この日より始まり三日間、雨で大水となりました。
 十四日、大風が吹き木を折り屋を壊しました。
 九月九日、 朝嬬(あさづま)に行幸されました。 これにより、大山位以下の馬を長柄(ながら)の杜(もり)で御覧になり、 馬で的を射させられました。
 二十三日、 地震あり。
 二十七日、 桑内王が私家で卒しました。
 十月四日、 京内諸寺の貧乏な僧尼及び人民を憐み、 賑賜(しんし)されました。
 一、僧尼には、 各絁(ふときぬ)四疋(むら)、 綿四屯(もぢ)、 布六端(むら)。
 一、沙弥(さみ)と素服〔世俗の人〕には、 各絁二疋、 綿二屯、 布四端。


47目次 【九年十一月】
《壬申朔日蝕之》
十一月壬申朔。
日蝕之。
日蝕之…〈北〉蝕之ハエタリ
十一月(しもつき)壬申(みづのえさる)の朔(つきたち)。
日(ひ)蝕之(はゆ)。
甲戌。
自戌至子、東方明焉。
自戌至子…〈北〉 トキ トキ東方アカシ。 〈閣〉 トキ マテニ マテニアカシ
甲戌(きのえいぬ)。〔三日〕
戌(いぬ)自(よ)り子(ね)に至りて、東方(ひむがしのかた)明(あか)し[焉]。
乙亥。
高麗人十九人返于本土。
是當後岡本天皇之喪而
弔使留之未還者也。
返于本土…〈北〉 マカル于本土 モ テ ノ岡本天皇
〈兼右本〉本- ツクニミモ
乙亥(きのとゐ)。〔四日〕
高麗(こま)の人十九人(とたりあまりここのたり)[于]本土(もとつくに)に返(まかりかへる)。
是(これ)後岡本天皇(のちのをかもとのすめらみこと)〔斉明〕之(が)喪(みも)に当たりて[而]
弔使(とぶらへるつかひ)の留之(とどま)りて未(いまだ)還(かへ)らざりてある者(ひと)なり[也]。
戊寅。
詔百官曰
「若有利國家、
寛百姓之術者詣闕親申。
則詞合於理、立爲法則。」
若有利国家…〈北〉アラムカゝアカゝトラシメ百姓ミチミカト ハ利國カゝアラシメ -家ユ スル ヲ又説ハケミチ テミカトニ セカナヘラハ
〈釈紀〉ミチハケ私記曰讀道也。又説麻介。 〈兼右本〉百姓之ミチ/ハケコトハリ
ばけ…[名] 方法。術。 〈時代別上代〉「化けか」。「日本語には、本来、語頭が濁音ではじまる語はなかった。…もとはバは清音であったか、 あるいは語頭に単独母音を持つ形〔ウバケか〕だったかと推測されるが、未詳」。
みち…[名] 方法。
すべ…[名] 方法。ただし、ほとんどが否定の文中で用いられる。
戊寅(つちのえとら)。〔七日〕
百官(ももつつかさ)に詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「若(もし)国家(あめのした)に利(かが、くほさ)有らば、
百姓(たみ)之(が)術(みち)を者(ば)闕(みかど)に詣(まゐで)て親(みづから)申(のべまをすこと)を寛(ゆる)せ。
則(すなはち)詞(ことば)[於]理(ことわり)に合(かな)はば、立たして法則(のり)と為(せ)よ。」とのたまふ。
辛巳。
雷於西方。
辛巳。〔十日〕
[於]西の方(かた)に雷(かむとき)あり。
癸未。
皇后體不豫。
則爲皇后誓願之、
初興藥師寺、
仍度一百僧。
由是得安平。
不予…〈北〉體-ミヤマヒシ不-豫 則皇后誓-願 チカシ之 初/興タツヤクテライヘテ一百僧是得安-平ミヤマヒノユ
〈閣〉體-不-豫ミヤマイシタマウ安-平タヒラキタマフコト。 〈兼右本〉誓-願コイチカイ チカイ 安-平タヒラキタマフ
癸未(みづのとひつじ)。〔十二日〕
皇后(おほきさき)体不予(みやまひ)す。
則(すなはち)皇后(おほきさき)が為(ため)に誓願之(こひちか)ひて、
初めて薬師寺(やくしてら)を興(た)てたまふ。
仍(よ)りて一百(ももたり)の僧(ほふし)に度(いへで)せしめて。
由是(こによりて)安平(やすらけくたひらぎたまふこと)を得(う)。
是日。
赦罪。
是(この)日。
罪を赦(ゆる)したまふ。
丁亥。
月蝕。
遣草壁皇子、訊惠妙僧之病。
月蝕…〈北〉月- リ/訪惠妙ヱ メウ ホフシ之病。 〈兼右本〉 玉フ
丁亥(ひのとゐ)。〔十六日〕
月(つき)蝕(はゆ)。
草壁皇子(くさかべのみこ)を遣(や)りて、恵妙(えめう)僧(ほふし)之(が)病(やまひ)を訊(とぶら)はしめたまふ。
明日。
惠妙僧終。
乃遣三皇子而弔之。
明日(くるつひ)。
恵妙僧(えめうほふし)終(う)せり。
乃(すなはち)三皇子(みはしらのみこ)を遣(や)りて[而]弔之(とぶらはし)めたまふ。
乙未。 新羅遣沙飡金若弼
大奈末金原升進調。
則習言者三人從若弼至。
金若弼…〈北〉コム シヤク ヒツ○○大奈末金原升コン クヱン セウ習言者コトナラヒヒト マウス
〈兼右本〉習-言者コトナラヒヒト ヘ コト モノマウケリ
乙未(きのとひつじ)。〔二十四日〕
新羅(しらき)沙飡(ささん)金若弼(こむじやくひつ)
大奈末(だいなま)金原升(こむぐゑんせう)を遣(まだ)して進調(みつきたてまつ)らしむ。
則(すなはち)習言者(ことならふひと)三人(みたり)若弼(じやくひつ)に従ひて至(まゐく)。
丁酉。
天皇病之。
因以度一百僧、俄而愈之。
愈之…〈北〉イエヌ。 〈閣〉イヒヌ。 〈兼右本〉イエ玉ス
丁酉(ひのととり)。〔二十六日〕
天皇(すめらみこと)病之(みやまひ)す。
因(よ)りて以ちて一百(ももたり)の僧(ほふし)度(いへで)して、俄(にはか)にして[而]愈之(いえたまふ)。
辛丑。
臘子鳥蔽天自東南飛以度西北。
…〈北〉カクシ。 〈兼右本〉東- /カタ スミ
辛丑(かのとうし)。〔三十日〕
臘子鳥(あとり)天(あめ)を蔽(おほ)ひて東南(たつみ)自(よ)り飛びて以ちて西北(いぬゐ)に度(わた)れり。
《日蝕》
 この日の日食に対応する記録が 『新唐書』志第二十二/天文二日食:永隆元年十一月壬申朔。日食之。在尾十六度」に見える。 その「尾十六度」の妥当性を、資料[82]で検証した。
 九年十一月一日はグレゴリオ暦で680年11月30日ユリウス暦で11月27日にあたる。 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]のデータによって、 資料[81]で詳細にシミュレートした。
《東方明》
 九年二月で、伊豆諸島の噴火の可能性を論じた。今回もその噴火により、地平線が薄っすら明るくなったのかも知れない。
《高麗人十九人返于本土》
 この年、〈斉明〉天皇の喪に派遣された弔使の一行が、帰国できずに留まっていたと書かれる。 〈天智〉元年三月是月段には、「唐人新羅人伐高麗。高麗乞國家」とあり、 高麗は救軍の派遣を求めた。 このときに弔使が同行したことも考えられる。
 〈斉明〉天皇の喪・葬に関わる記事は、〈天智〉六年二月 「合-葬天豊財重日足姫天皇〔斉明〕…於小市岡上陵」が初出である。 中大兄皇子〔〈天智〉〕は、称制のまましばらく軍政を敷いて唐新羅からの攻撃に備えた。 その間〈斉明〉の御屍は朝倉山陵に仮埋葬したままで、公式に喪に服する余裕はなかったと見られる。
 高麗弔使も存在が忘れられ、いたずらに年月が過ぎたようだ。 十九年もの間、客舘〔むろつみ〕にいて接受され続けていたとは思えないので、ある時点で渡来民となって民間に埋没したのであろう。
《初興薬師寺》
 薬師寺は平城京遷都に伴って移され、飛鳥京の薬師寺は本薬師寺と呼ばれた。
 後の記録には、〈持統〉二年正月丁卯「無遮大会於薬師寺」。
 〈持統〉十一年六月癸亥「公卿百寮、設仏眼会於薬師寺」。
 〈続紀〉文武二年〔698〕十月庚寅「以薬師寺構作略了衆僧其寺」。
 〈続紀〉大宝元年〔701〕六月壬子「正五位上波多朝臣牟胡閉、従五位上許曽倍朝臣陽麻呂、任薬師寺」が見える。
 これらから、本薬師寺は〈持統〉朝にはひとまず出来上がっており、文武二年は僧坊〔僧の居住施設〕の設置と読める。大宝二年の造薬師寺司の任命は、平城京薬師寺建立のためと考えられている。
本薬師寺の位置 伽藍配置 文化財研究所年報1977Ⅱ(p.24)に加筆 東塔礎石 [橿原市公式/本薬師寺跡]
 本薬師寺の位置は、藤原京の西八条三坊にあたる。 現地案内板〔橿原市教育委員会設置〕には、 「中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました」とある。
 「飛鳥研究学史(1991~2000)-調査研究の現状と課題」〔相原嘉之/ 『明日香村文化財調査研究紀要』 (明日香村教育委員会2006)〕は、 「中門の下層から条坊道路が確認」、 「さらに道路側溝に沿って塀や建物の柱穴も確認でき、道路施施行後の一定期間にわたって同坪内が宅地と化していたことが判明した」、 「条坊道路を施行しこれに伴う宅地が先行し、これらを廃して本薬師寺が建立されたことを意味しており、藤原京の条坊施工は記録に残る本薬師寺建立よりも古い、天武五年の新城に求められることになった」と述べる(p.33)。
 このように、藤原京に先行条坊が存在したひとつの証とされる(《将都新城》)。
 平城京薬師寺が、新築か本薬師寺の解体移転かについては、長らく論争があった。 少なくとも東塔については、年代測定により伐採年代が729~730年が得られ、新造であったことが明らかになっている( 「国宝薬師東塔木部材の年代測定」〔星野安治;『奈良文化財研究紀要』奈文研2017〕)。
《月蝕》
Eclipse map/figure/table/predictions courtesy of Fred Espenak, NASA/Goddard Space Flight Center, from eclipse.gsfc.nasa.gov.〔引用元による推奨表記〕
 十一月十六日は、ユリウス暦で11月12日にあたる。 Catalog of Lunar Eclipses: 0601 to 0700には、 「最大時刻15:14:04、部分月食、半影最大1.8270、本影最大0.8455、天頂で最大月食になる位置は24N147E」という。
 11日15時は、日本標準時では12日0時であるから、日付を12日とすることに問題はない。 日食月食はともに白道面が黄道面に重なったときに起こる現象なので、両者が半月の間隔で出現することは珍しくない。
《草壁皇子》
草壁皇子 母は〈持統〉天皇。〈天武〉十年立太子。 〈持統〉三年四月乙未に薨じた。  八年五月の盟約で「先進盟」。
 ここでは「」をつけていない。書紀が参照した出典の、元の表記のままと解釈すべきか。
《恵妙僧》
恵妙 大化元年八月八日十師」、「百済寺寺主」を拝した。
《三皇子》
 「三皇子」のうち二柱は草壁皇子高市皇子であろう。三柱目は大津皇子または川嶋皇子のどちらかであろうが、決定しがたい。
《沙飡金若弼/大奈末金原升》
沙飡〔八位〕一覧金若弼 十年六月に筑紫で饗、賜禄。同八月帰国。
奈末〔十一位〕金原升 恐らく金若弼と同一行動。
《習言者三人》
 日本語を習う人を連れてきたことから、日本との親交を積極的に深めようとしていたと見られる。
《臘子鳥》
 七年十二月己卯に「臘子鳥弊天自西南飛東北」。 ここでは「」で、これは群れが空一面を覆うと読むことができる。すると七年の「」も本来は「」で、誤用もしくは誤写と考えられる。
《大意》
 十一月一日、 日蝕あり。
 三日、 戌(いぬ)刻〔20時前後〕より子(ね)刻〔0時前後〕に至り、東方が明るくなりました。
 四日、 高麗人十九人が本国に帰りました。 これは後岡本(のちのおかもと)天皇〔斉明〕の御喪に当たり、 弔使が留まって還らなかった人です。
 七日、 百官に詔されました。
――「もし国家に利があるなら、 人民の術を宮闕に参上して自ら申すことを許せ。 その言葉が理に適えば立てて法規とせよ。」
 十日、 西方に雷あり。
 十二日、 皇后の御体が不予となられました。
 そこで皇后の為に誓願され、 初めて薬師寺を興しました。 よって百人の僧に度(わた)らせ〔=出家〕ました。 これにより、快癒されました。
 この日、 罪を恩赦しました。
 十六日、 月蝕あり。 草壁皇子(くさかべのみこ)を遣わして、恵妙(えみょう)僧の病を見舞わせました。
 翌日、 恵妙僧は入滅しました。 よって三柱の皇子を遣わして弔(ともらい)させられました。
 二十四日、 新羅は沙飡(ささん)金若弼(こんじゃくひつ)、 大奈末(だいなま)金原升(こんげんしょう)を遣わして進調しました。 このとき言語学習者三人が若弼に従って来ました。
 二十六日、 天皇(すめらみこと)は御病気になられました。 よって、百人の僧を度らせたところ、俄かに癒えました。
 三十日、 臘子鳥(あとり)の群れが天を覆って東南から飛び、西北に渡りました。


まとめ
 薬師寺の設立は、直接には皇后の病がきっかけと書かれている。
 ただ、九年後半条には死去や病気の記事が多く書かれていることを見ると、薬師寺の創立の動機として一般的に病人の救済があったとも考えられる。
 なお、「朱雀有南門」、「俾馬的射之」、「一毎僧尼」には首を傾げざるを得ない。これらは無理に解釈しようとするよりも、拙劣な文が紛れ込んでいると見た方がよいであろう。



[29-12]  天武天皇下(5)