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2025.04.21(mon) [29-09] 天武天皇下9 ▼▲ |
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41目次 【八年六月~九月】 《氷零大如桃子》
桃の実サイズの雹。この日はグレゴリオ暦の679年7月17日。 これまでに、〈推古〉三十六年四月十日〔グレゴリオ暦:628年五月21日〕「雹零、大如桃子」、翌日「雹零、大如李子」。 現代の大きな雹の記録は、『気象要覧』大正六年六月〔気象庁〕によると、 大正六年〔1917〕6月29日に降雹。「〔埼玉県〕長井村大正寺飯野住職の測リタル雹塊ハ径七寸八分〔23.6cm〕アリタリト云フ」。 《雩》 六月二十三日は、グレゴリオ暦では679年8月8日、七月六日は8月20日。 7月17日には大きな雹が降ったから激しい雷雨だったが、それ以後は旱魃が続いたようだ。 前項〈推古〉三十六年も、次に旱魃となった。かと言って降雹と旱魃の間の相関関係は、直接には考えられない。 一般的な傾向としては、気候が温暖になると偏西風の蛇行が激しくなったり〔寒冷渦の南下が雷雲を発達させる〕、特定の場所の旱魃などの極端な天候が現れる。 《大伴杜屋連》
《祠風神…》項参照。 この年以後、毎年四月と七月の祭祀が欠かさず記されるようになる。 《諸氏貢女人》 采女(改新詔其四)を求めたことも考えられるが、「女人」とあるから年齢を問わず、 二年五月詔「婦女者無レ問二有レ夫無レ夫及長幼一。欲二進仕一者聴矣」の実施が不十分だったので、更に求めたと読むのが妥当か。 《葛城王》
『大日本地名辞書』は「迹驚淵は白川の宮山の下に在り、枕草子に「轟の瀑はいかにかしましく恐ろしからん」と記せるも此なるべし。天武紀云、白鳳八年、幸泊瀬、宴迹驚淵上」と記す。 関連して「秉田神社:延喜式秉田神社二坐…今初瀬村大字白川轟湯の上に在り」と述べる。 秉田神社については、次の記述が見える。 ◎〈延喜式〉:{城上郡/曳田神社二座/鍬靫}。 ◎『五畿内志』(大和志)-城上郡: ・「神廟:秉田神社二座:在白川村轟瀧上今称白山」、 ・「村里:白川」。 ・「山川:迹驚淵:并瀧在二白川村一。天武天皇白鳳八年。帝幸二泊瀬宴迹驚淵上一。 枕草子曰。轟乃滝者何爾加志麻之久於曽呂師香良武即此」。 このように、『大日本地名辞書』は大和志に拠っている。秉田神社は第202回で見た。 『枕草子』の原文は、第61「はし〔橋〕は」段:「たきは。…なちのたきはくまのにありときくがあはれなるなり。とゞろきのたき。いかにかしがましかるらん」。 「那智の滝」は「熊野にありと聞く」というから「轟の滝」も名前を聞いたことがあるのみであろう。そして、その名前から轟音を想像して述べた文と考えられる。 よって、この文章は迹驚滝の位置を表すものではない。 実際には白川〔現在名白河川〕は小河川で、現在その途中に「滝」は見えない。 上代語のタキは、「流れが滾(たぎ)るところ」〔川の激しい流れのところ〕が原意だが、『枕草子』では那智の滝と並べているから、清少納言の頭の中では轟の滝も垂直落下型であったことだろう。 結局、大和志の「秉田神社の近くの滝」説は、枕草子の実際の文意からは飛躍している。 一方、靇山池とする説もある。 [桜井市公式]サイト内で観光地紹介する『わかざくら』2016/9〔桜井市総務課〕(p.23)には、 「天武天皇行幸の地「迹驚淵」:淵の隣には高山神社が鎮座しています。祭神は雨乞いの神でもある善女竜王…」とある。 その位置を調べると、同誌のいう「迹驚淵」は靇山池のことで、 白河川とは直接繋がっているようには見えないが、大雨で溢れれば山道が流水路となって白河川に注ぐであろう。 靇山池を迹驚淵と考えた理由はわからないが、その前の雨乞いの話と関連付けたのかも知れない。 ただ「迹驚」という語からは少なくとも激しい流れのところが思い浮かぶ。山中の静かな池ではイメージが合わない。 結局、迹驚淵は現在の白河川のどこかであるのは確実だが、それ以上特定することは無理である。 《迹見駅家》 迹を迹驚〔トドロキ〕の略とする古訓は誤りと見てよい。 〈神武〉即位前13段に、霊鵄(くすしきとび)を地名の由来とする鳥見邑が見える。 また、その地の出現期の前方後円墳の存在から「鳥見山王朝」を想定した(【初期古墳】項)。 この地が「泊瀬迹驚淵」から浄御原宮への帰路に当たることから見ても、迹見が鳥見であるのは明らかである。 「大和の古駅」(坂本太郎) 『古代学論叢―末永先生古稀記念』〔末永先生古稀記念会 編;1967〕は、 〈天武〉紀の内容から「迹見駅は初瀬から飛鳥に通ずる路上にあつたことになり」、「磯城郡城島村大字外山〔とみ〕」はその経路で、 『類聚三代格』元慶五年十月十六日の太政官符に「登美山に宗像神社がある由が見え」、「その神社は今も鳥見山山麓に鎮座する」、 「トミの名はきわめて古い由緒をもつから、…迹見駅がここにあったとして、少しもおかしくはない」と述べる(p.327)。 迹見駅家が「〔〈天武〉紀〕以後全く駅として名を現わさない」のは、平常遷都に伴い廃止された故と見る(p.328)。 横大路は伊勢街道に繋がる。その経由地外山(大字)に迹見駅があったとする見方は妥当であろう。 《縵造忍勝》
〈延喜式〉治部省/祥瑞には「嘉禾:或異畝同穎。或孳連数穂。或一粰二米也」とあり、「下瑞」の項に置かれる。 「異畝同穎」は、隣り合った畝から伸びた個体が空中で合体して一本の穂先となったと読める。 はたして嘉禾は、そのような異常な姿を指すものであろうか。 そこで、中国の典籍ではどのように描かれているかを調べてみる。 [中国哲学書電子化計画]/[字典]で「嘉禾」を調べると、具体的にその形態を説明した例は意外に少ない。そのうち、次の文は分かりやすい。 ◎『水経注』〔魏晋南北朝〕:済水〔川の名前〕 「東觀漢記曰:光武以二建平元年一生二于済陽県一。是歳有二嘉禾生一。一茎九穗。大二于凡禾一。県界大熟。因名曰レ秀。」 〔光武帝は建平元年に済陽県に生まれた。この年嘉禾が生えることがあた。一本の茎に九穂をつけ、他のあらゆる禾よりも大きく、済陽県の県界で大きく熟した。よって、秀と名付けた。〔光武帝の本名は劉秀〕〕 ◎『太平広記』伎巧一/因祇国 「周成王五年:…又貢二嘉禾一。一茎盈レ車。」 〔嘉禾を貢いだ。一茎の実で車は満載となった〕 これらを見ると、嘉禾は多くの穂をつけた大型の粟、または非常にたくさんの実をつけた粟である。 他の例も大体このようなもので、極端に奇形的な姿を述べた例は見えない。 よって「異畝同穎」は、空中で合体して一本の穂になったというよりは、特別な大きな穂をつけた粟が、畝が異なっていても同じように多数育っていたと読むのが順当であろう。 《大宅王》
ここでは使者の名前、また出発の記事を欠く。帰朝して拝したと特に書かれるので、何らかの政治交渉のための派遣でその結果を報告したことが伺われる。 その政治的課題が何であったかを、下の《調物…馬狗騾駱駝》項で推定する。 《遣高麗使人》 下述。 《遣耽羅使人》 下述。 《大意》 〔八年〕六月一日。 雹が降り、大きさは桃の実ぐらいありました。 二十三日、 雨乞いをしました。 二十六日、 大錦上(だいきんじょう)大伴の杜屋(もりや)の連(むらじ)が卒しました。 七月六日、 雨乞いをしました。 十四日、広瀬の龍田(たつた)の神の祭祀をしました。 十七日、〔諸王〕四位葛城王(かつらきのおおきみ)が卒しました。 八月一日、 詔「諸氏は女人を献上せよ。」を発しました。 十一日、 泊瀬(はつせ)に行幸され、迹驚(とどろき)の淵の上で宴されました。 その前に予め、王(おおきみ)卿(まえつきみ)に詔し、 「乗るための馬の外に更に細馬を用意して、 召されるままにお出しせよ。」と命じました。 こうして泊瀬(はつせ)から宮に帰る日に、 群卿の備えた細馬を迹見(とみ)の駅家の道のところで御覧になり、 細馬を皆走らせました。 二十二日、 縵造(かつらのみやつこ)忍勝(おしかつ)は嘉禾(かか)を献(たてまつ)りました。異なる畝(うね)に同じ頴〔穂先〕がありました。 二十五日、 大宅王(おおやけのおおきみ)が薨じました。 九月十六日、 新羅に遣わした使者は、帰国して拝朝しました。 二十三日、 高麗に遣わした使者、耽羅(とんら)に遣わした使者らは、 帰国して共に拝朝しました。 42目次 【八年十月】 《詔曰上責下過下諫上暴乃國家治》
巷間に犯罪者が目立つが、その取り締まりを怠るなという。 諸王が諸卿とともに現実的課題に積極的に関与すべきだと言って諭す。 旧体制では左右大臣に任せておけばよかったことを、現体制では皇子たちが直接差配しなければならない。そこに弱さがあるのだろう。 この事態は、すでに〈壬申紀〉13段で危惧されていたといえる。 《或聞》 或聞~、或見~は対句構造で、同義語によって置き換えられる。 その点では「暴悪者」-「悪人」は不自然である。もともと「暴者」-「悪人」であったものが筆写の段階で誰かが補ったのであろう。 「而」の訓読には、いつもは万葉風に接続助詞テを用いることにしているが、ここでは「以」に対応しているので、 「以」もテと訓むか「而」を接続詞として扱うかのどちらかであろう。 《僧尼等威儀及法服之色》 ここで規定した威儀と僧衣の色などの作法は、従来は各寺に任されていたものであろう。 この詔制は、国家による直接的な統制が強まりつつあることを示す。 また、「往二-来巷閭一之状」、すなわち馬や従者の装いや作法を規定した。 大路や建物の建造が進んでいて、通行する人や馬にその風景に合う外観を求めたものといえる。既に先行条坊の建造が一定程度進んでいたことを示すと思われる(《将都新城》項)。 《巷閭》 [中国哲学書電子化計画]の文献内には「巷閭」という熟語が見つからない。「巷間」の誤写かも知れない。 《阿飡金項那/沙飡薩虆生》
《調物…馬狗騾駱駝》 ここに特に調物の内訳が書かれるのは、質量ともに近年にない規模だったからであろう。 加えて天皇・皇后・皇太子への個別にプレゼントされた書かれている。その狙いは何だろうか。 ひとつの可能性として、耽羅の帰属問題が考えられる。この新羅による遣使に先立って、日本は新羅、高麗、耽羅に使者を遣わして何らかの交渉をして帰国した。 この年は、『三国史記』新羅本紀:文武王十九年〔679;〈天武〉八年〕「二月。発レ使略二耽羅国一」とある。 「略」は普通に考えれば軍事的な侵略であるが、だとすれば発するのは将軍であって「使」とは書かないだろう。 よって「政略」〔=外交交渉〕となるが、それでも軍勢を引き連れて威嚇したことは十分に考えられる。 近年、耽羅国は、日本に朝貢する国としての振る舞いを強めている。 日本は、新羅・耽羅の思惑を慮って、極力両国の使者を都に同時に滞在させないように気を遣ってきた。 この状況下で新羅は日本に対して、耽羅にはこれ以上手を突っ込むなと、膨大な調物を伴って申し入れたと考えることができる。 加えて天皇らにも、個別の贈り物によって懐柔したのであろう。 この新羅の来朝に先んじて、九月十六日に遣新羅使が帰国して拝朝している。 その任務は耽羅を新羅が所有することを止めさせるためであったが、協議は恐らく不調に終わった。「拝朝」の際にその旨復命したと思われる。 新羅は、このとき日本の強い意志を知り、断念させるために贈り物攻勢をかけたのだろう。 結果的に、耽羅国にからの遣日本使は〈天武〉八年を最後にして途絶えている。 九月二十三日に帰朝した遣高句麗使は、渡島〔北海道〕の粛慎に手を出すなと言いに行ったと見ることができる。 同日に帰朝した遣耽羅使は、新羅に屈した耽羅国への見舞、及び状況の視察であろうか。 逆に日本近海においては新羅に隙を見せて付け込まれることを警戒して、多祢嶋〔種子島〕との結びつきを強める(十一月二十三日段。下述)。 このように、この時期の一連の外交活動は、新羅と日本の間の海域の支配権を巡る争いと見ることができる。 《馬・狗》 下で見るように、駱駝は大変珍しい動物なので「馬」、「狗」も選りすぐりの名馬と特色のある犬と見られる。 ただし、騾は農作業や物資の運搬に役立つ動物なので、馬、犬も実用に供するために一定の頭数が献上されたと考えることもできる。
馬と驢馬の混血とされる「騾」も、まだ日本では一般化していなかったかも知れない。 騾の〈類聚名義抄〉にはウサキムマとあるが、ウサギウマ〔=ロバ〕ではその珍しさが伝わらないので、書紀古訓では音読を推奨したと考えられる。 ただ、書記古訓の「ルイ」は、旁の累によったらしく、騾の本来の音は呉音・漢音ともにラ、〈倭名類聚抄〉も音読みして「螺〔ラ〕」とする。 ウマの雌とロバの雄による一代雑種。粗末なえさで、かなりの労働に耐えるという。『日本百科全書』〔平凡社;2014〕によると、「紀元前7世紀のメソポタミアの壁画にラバと思われるもの」が見られるという。 《駱駝》
【吐火羅国】項でTochara地域などの西域と長安の間の、シルクロード経由の交流を見た。 長安には、東域からは倭国とともに新羅からも、活発に遣使されたと考えられる。 よって、新羅人は長安などで西域の人からヒトコブラクダを手に入れ、新羅に連れ帰ったことが考えられる。 一方、フタコブラクダについては、北方から高句麗経由でもたらされた可能性もあるが、長安で西域の隊商と接触してヒトコブラクダを手に入れるチャンスの方がずっと多かったのではないだろうか。 こうして手に入れた駱駝は、新羅の宮廷で珍獣として飼育されていたと考えられる。 これを、日本への献上品に加えたところに、この交渉に対する新羅の並々ならぬ意気込みが感じられる。 《諸僧尼/及老或患病》 「進止不便」は、老化や病気によって勤行の立ち振る舞いが満足にできなくなることだと読める。 すると「浄地亦穢」は、堂内でのその見苦しい姿が、神聖な雰囲気を損なうという心無い言葉のように読めてしまう。 それでは好ましくないので、ひとまず彼らを「そのまま放置すること」が衆生を救済するという教えを穢すという意味として読んでおきたい。 なお〈内閣文庫本〉の頭注はこれを悲田院の起源と位置付けているが、今回の詔の趣旨はそれとは異なる。 《大意》 十月二日、 詔を発しました。 ――「朕が聞くに、 最近は暴悪が巷間に多くある。 これは、王卿らの過失である。 或いは暴悪があるが、煩わしいので忍び〔=見逃し〕対処しないと聞く。 或いあは悪人がいても、倦(う)み〔=疲れて〕て隠して正さないことを見る。 これらは、見聞きするままに応じて糾弾(きゅうだん)すれば、 暴悪が起こることがあろうか。 よって今後は、 煩わしいとか倦み疲れたと言わず、上は下の過失を責め下は上の横暴を諫めれば、 国家は治まるであろう。」 十一日、 地震あり。 十三日、 勅制して、 僧尼ら威儀と法服の色、 そして馬の従者が巷間を往来するときの形状〔=服装や作法〕を定めました。 十七日、 新羅は 阿飡(あさん)金項那(こんこうな) 沙飡(ささん)薩虆生(さつるいせい)を派遣して、朝貢しました。 調の内訳は、 金、銀、鉄、鼎(かなえ)、錦、絹(かとり)、布、皮、馬、狗、騾(ら)、駱駝(らくだ)など、 十種余りありました。 また、それとは別に、天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)、太子(ひつぎのみこ)に、 金、銀、太刀、旗などを献上し、それぞれ多数ありました。 この月、 勅を発しました。 ――「凡(およ)そ諸々の僧尼は、 常に寺の中に住み三宝を護ってきた。 しかし、或いは年老い、或いは病を患う者がいる。 長い間狭い房に臥し、久しく老いや疾病に苦しめば、 振る舞いは覚束なく、また清浄なところが穢れてしまう。 よって今から後は、 それぞれを親族や篤信の者の許に置き、 一二の家屋を空いている場所に建て、 老人には身を養わせ、病人には薬を服用させよ。」 43目次 【八年十一月~是歳】 《倭馬飼部造連等遣多禰嶋》
《遣多祢嶋》 多祢嶋への遣使の目的は新羅の進出を警戒して、近海の島との結びつきを強めるためと見た(上述)。 《賜爵一級》 《爵五級》項で、 「爵五級」は、中央官に属さない人に授ける名誉的な称号と見た。 ここの「爵一級」も同様で、賜ったのは多祢嶋〔種子島〕の王、または酋長であろう。 《関於龍田山》
まず龍田山について『大日本地名辞書』を見る。 ◎「龍田山:三郷村の西なる嶺を云ふ、信貴山の南に接し河内堅上村(大県郡)に跨る山なり、而も一峯の名つくべきなし」という。 このように、龍田山という特定の山はなく、信貴山南方の山地全体を大まかに指す。 この地の関について、『通証』は次のように述べる。 ◎「関屋趾在二平群郡立野村西一。天文八年収二立野関銭一事見二信貴山寺日録一」 〔関屋の跡は平群郡立野村の西にあり、天文八年に立野関銭〔通行料のようなもの〕のことを信貴山寺の日録に見る〕 とある。龍田の関に因んで置かれたと思われる関の地蔵について、 [奈良県公式]/[龍田古道とは]は次のように述べる。 ◎「関の地蔵:龍田の関跡。往時は現在地より西側の大和川北岸にあったとも…川の氾濫で…お堂ごと流され…のちに今の場所に祀られた」。 龍田古道のうち関の地蔵あたりから西が、懼坂道であろうと判断した。 この地は、〈壬申紀〉18段において紀臣大音が守ったが、近江軍に攻め込まれて撤退した。 《大江山》
〈倭名類聚抄〉には{山城国・乙訓郡・大江【於保江】郷}がある。 山陰道の山城国、丹波国の境界に老ノ坂があり、その峠の山城国側の手前に大江関が置かれたとされる。 『地名辞書』は、 「大江関址:大江山の中なる手向の辺に在る歟、または沓掛の駅中にある歟、不詳」、 その「手向」については、大江山の項で「大枝村沓掛」から「丹波国篠村大字王子」に達する路の「絶頂を手向と云ふ」と述べる。 現代地名には「京都府亀岡市篠町王子大江山」が老ノ坂の近くに見える。 大江関に因んだ「大江の関明神」がある。[京都市公式][大枝桂坂]よれば、 「大江の関明神:平安時代、山陰道の丹波国と山城国の境界に関所が設けられ…関所跡とされる「関の明神」の小祠が残されて」いるという。 大枝山について『通証』は「万葉集云丹波道之大江乃山」、「続日本後紀五関之一大枝道」などと述べる。 その万葉歌は、(万)3071「丹波道之 大江乃山之 真玉葛 絶牟乃心 我不思 たにはぢの おほえのやまの たまかづら たえむのこころ わがもはなくに」である。 『続日本後記』の該当個所については、承和九年七月己酉条に「令レ固二山城国五道一」、「清原真人秋雄守二大枝道一」 〔山城国の五道を固めさせ、そのうち清原秋雄には大枝道を守らせた〕とある。 大江関に関する直接記録としては、 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1981〕に「大江関跡:初見は応永五年〔1398〕12月24日の室町幕府奉行人過所案(三宝院文書)で、醍醐寺領丹波黒岡庄の年貢運送について当関の通過を認めたもの」とある。 《大坂山》
大坂山については、現在地名「大坂」は見られない。 〈壬申紀〉18段の《大坂》項で、 〈履中〉段の伝説から、大坂道は二上山の北側の街道と判断した。 〈延喜式-神名〉{葛下郡/大坂山口神社}の論社が、香芝市穴虫3140及び香芝市逢坂5丁目831にある。 〈壬申紀〉19段では、大坂道から攻めてきた近江軍との戦闘の記事に「当麻衛」とあり、小字「千股」が候補になり得ることを見た。 〈倭名類聚抄〉には{大和国・葛上郡・太坂郷}は、大坂山の可能性がある。 以上から、二上山の北の街道が大坂道で、これが北西に延びて大津道と繋がっていたと見てよい。 〈壬申紀〉では、龍田懼坂と大坂当麻衛が激戦地となった。 このときの経験から、〈天武〉八年に難波方面との交通をチェックする要所として、龍田山の道と大阪山の道に関を設けたと理解することができる。 「関屋」が大坂山関に由来するとすれば、大坂道を北西に進んで関屋に近いにところ関があったことになる。 鎌倉時代とみられる※)〈北野本〉では「大坂山」なので、誤って大枝になったのはそれ以降と見られる。※)…八木書店コラムによる。 その原因としては、筆写の頃に大江関が重要な関として現実に機能していたことが考えられる。 その一方で、本来の「大坂関」は平城遷都で廃されたから、既に忘れ去られていたと見られる。 その現実により、ある筆写者が「大坂」を「大枝」と読み、江戸時代にはそれが定着して「活版」で刷られたのであろう。 《難波羅城》
〈難波京の防衛〉は、近年筑紫大野城など古代山城の築城方法が明らかになっていることにより、 「細工谷遺跡の遺構をそれに鑑みる時、難波羅城の城門であった可能性が高いと思われる」と述べる(p.126)。 図2は、その「遺構」の位置、図3はその柱列である。 もともと細工谷遺跡は「かつて和同開珎の枝銭や百済尼寺の存在をしめす墨書土器が出土」(〈細工谷報告Ⅲ〉序文)ことから注目されていた。 〈難波京の防衛〉が取り上げた柱列は、この〈細工谷報告Ⅲ〉の調査によって明らかになったものである。 同報告は、三種の柱列の複合から「少なくとも3時期の建て建替えがあったものと思われる」と述べる(p.38)。 そして「谷の中に…盛り土が施された古墳時代中期以降、この盛り土の上には溝や塀、掘立柱を用いた構造物が立ち並」んでいたが、「7世紀後半の谷の中の洪水の後、一段掘り窪んだ地面を利用した水田が営まれるようになった」ものと推定している(p.83)。 そこに、柱列を〈天武〉羅城とする発想は見られない。
〈古代都城〉によれば難波京の条坊は、初期難波京〔〈孝徳〉〕では「南北3区画までは〔復元〕可能」、 前期難波京〔〈天武〉〕では 「朱雀大路の東2区画、西4区画、難波宮朱雀門から南へ11区画まで…は復元できる」(図1)という(p.8)。 その復元朱雀大路を〈難波京の防衛〉の図(図2)に書き加えて見ると、同論文がいう「羅城」の位置は朱雀大路から外れ、その向きも大路への垂直線から30度ほど傾いている。 既に〈天智〉朝において、内裏南門がきちんとした向きと位置にあったことを見れば(【大津京跡】)、〈細工谷報告Ⅲ〉の柱列が羅城門であるとは到底言えないのは明らかである。 それでは、羅城門の真の位置はどこであろうか。 〈細工谷報告Ⅲ〉は「四天王寺隣接地においても、天武朝の斜行する方位の遺構がみられる」という。 〈天武〉八年の坊条の南限がその北なら、「羅城」〔門〕は北から8区画目の南の大路と朱雀大路の交点となる。 もし11区画まで進んでいれば、羅城門はその南の大路上である。遺跡は、未だ地下に眠っていることだろう。 なお、〈難波京の防衛〉が「〔壬申の乱において〕近江軍の難波宮奪取は致し方のないところであった。反逆者の立場から為政者となった天武帝が、関防に力を入れ」たものとして羅城を位置づけた点については、書紀の記述に一致する。 羅城が龍田関、大坂関を併せた防御機構の一部として位置づけられていたことは、接続詞「仍」〔よって〕が示している。 ただこれは書紀による解釈であって、実際には難波京の坊条整備の一環として捉えるべきものであろう。藤原京の先行条坊とともに、副都の整備も同時進行していたのは明らかである。 《嘉禾》 前述。 《紀伊国伊刀郡》
《芝草》
〈延喜式〉治部省/祥瑞「芝草:形似二珊瑚一枝葉連結。或紫。或黒。或金色。或随四時変色一云二一年三華一。食之令二眉寿〔=長寿〕一…右、下瑞」とある。 もともとは、霊芝(マンネンタケ)〔担子菌類、サルノコシカケ目マンネンタケ科〕を意味する。 傘は類円形,初めは卵黄色のちに赤褐色から黒色となり、径20cmに達する。道教では瑞祥の象徴とした 〔日本大百科全書(小学館;1994)、世界大百科事典(平凡社;2014)など〕。 〈延喜式〉の説明で、色を述べた部分はマンネンタケに合致している。 この段では芝草について、その柄とカサのことを述べているから、巨大なマンネンタケであろう。 《囲》 「囲」はイダキ〔円周を表す助数詞。=1尋〕と訓める。1尋=1.8mを用いると2尋=周囲3.6m〔直径1.12m〕となり異常に広いが、誇張かも知れない。 〈北野本〉の音読み「ヰ」は、中国の助数詞「囲」〔1囲=5寸または1尺〕を用いたと考えられる。 しかし、「1囲=1尺」を用いたとしても周囲2尺は直径19cmで、通常の大きさの範囲内である。やはりイダキと訓むべきであろう。 《毎茎有枝》 稲の穂には、もともと1~2次の枝分かれがある。 ここでは、もう少し根元に近い主軸から分岐してそれぞれが穂をつける品種が突然変異的に表れたことが考えられる。 《大意》 十一月十四日、 地震あり。 二十三日、 大乙下(だいおつげ)倭馬飼部(やまとのまかい)の造(みやつこ)連(つら)を正使、 小(しょう)乙下上寸主(かみすぐり)の光欠(こうけん)を副使として、 多祢(たね)の嶋〔=種子島〕に派遣し、〔その王に〕爵一級を賜わりました。 この月には、 初めて関を龍田山と大坂山に設置し、 よって難波には羅城(らじょう)を築きました。 十二月二日、 嘉禾(かか)の出現により、 親王、諸王、諸臣及び百官の人たちに それぞれに応じて禄を給い、 死罪以下悉くが恩赦されました。 この年、 紀伊国伊刀郡は芝草(しそう)を献上、 その状は茸に似て、茎の長さは一尺〔=30cm〕、 その蓋(ふた)は周りが二囲(いだき)〔直径1.1m〕ありました。 また、因播(いなば)の国は瑞稲(ずいとう)を献上し、 その茎ごとに枝分れがありました。 まとめ 八年条の後半は、字数は少ないがなかなか重要なことが読み取れる。 新羅によるラクダの献上と耽羅問題を結びつける発想は、突飛と思われるかもしれない。 しかし、耽羅と新羅の来朝に関してはメンバーや日程が詳しく記述され、両国使者の同時滞在を避けたことを示唆しているところに、耽羅の帰属が日羅間の重要な外交問題として存在していたことが伺われる。 最終的に新羅のものとするに当たって日本にはかなり気を遣い、駱駝などの貢物もそのためと見ることは十分に可能であろう。 その際、駱駝の生息域を調べてみると、乾豆波斯達阿(〈斉明〉六年)の渡来経路を絡めて考えれば珍獣の献上であり、新羅による気遣いの大きさを裏付けるものであった。 一方国内では、律令国家にふさわしい坊条造りへ相当の熱意が感じられる。 その大路に通行する人の服装に、その風景に相応しいものを求めようとしたのが十月庚申の勅制の動機だったと思われる。 また、街頭に老いや病で亡くなった死体が放置されるのも見苦しい。十月のもう一つの詔、老病の救済は直接的には僧尼が対象であるが、暗に一般人にも及ぼせと篤信者に呼びかけたとも読める。 その意味では悲田院の萌芽とする見方を一応は否定したが、あながち的外れとも言えない。 龍田関・大坂関・難波京羅城門の所在地は、資料に分け入って調べた結果一定の範囲が見えてきた。遺跡の形態は、堀立柱の跡が考えられる。墨書土器で出てくれば言うことはない。 最近の遺跡発見は、道路工事などの事前の考古学調査によるものが多いことを考えると、今後も道路などが計画されれば偶発的に見つかるかも知れない。 |
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2025.04.25(fri) [29-10] 天武天皇下10 ▼▲ |
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44目次 【九年正月~四月】 《宴王卿於大殿之庭》
〈皇極〉五年では、書紀古訓において「大極殿」をオホアムトノと訓むのを見た。 アム(アン)は、大安殿、大晏殿の発音に由来すると思われる。この段では小殿を「コアムトノ」、大殿を「オホアントノ」と訓む。 十年条には「内安殿」・「外安殿」があり、浄御原宮の建物を一般的に安殿と称したことが古訓に反映したように思われる。 殿の音訓については、源氏物語では殿に漢字が用いられるが文脈から見て多くはトノだろう。ただ「大極殿」だけはダイゴクデンのように思える。 〈倭名類聚抄〉は、「殿」一文字には「和名止乃」と付すが、紫宸殿など大部分には和名を付さない。例外は「常寧殿【岐佐岐万知】〔后町〕」、 「武徳殿【俗云牟万岐止乃】」、「寝殿【祢夜・与止乃】」である。俗称を除けば音読であろう。もともと漢風の名称である。 《忌部首首/忌部首色弗》
《射南門》 年頭行事のひとつ。《射于南門》項参照。 初位も含まれるので、初参加者の成人を祝う意味合いもあったかも知れない。 《摂津国活田村》
生田神社公式由緒には、 「当初は砂子山に鎮座していた。延暦十八年〔799〕に洪水で布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊し、 社殿が傾斜する被害が及んだため、生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い7、8日間鎮座地を探し巡り、 生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。これはご神意であろうとその場所に安置した」という。 移転前の位置は「徳光院〔神戸市中央区葺合町布引山2-3〕すぐ前の砂子山(通称円山)」とされる。 《桃李》 同じ話が〈推古〉二十四年条にもあり、 「モモ・スモモの収穫時期は、太陰暦でも5~6月と思われるので、「正月」は異常な現象を述べた」と見た。 〈舒明〉十年九月にもある。 《如鼓音》 十三年十月壬申条にも「有二鳴声一如レ鼓、聞二于東方一」とあり、このときはさらに「伊豆嶋西北二面、自然増増三百余丈、更為一嶋。」とある。 すなわち伊豆大島あるいは伊豆諸島の他の島で大噴火があり、その音が聞こえたとの推定を載せている。 伊豆諸島方面の噴火音が果たして飛鳥京で聞こえるかという問題があるが、 Anchaorage Daily News に、「Volcano eruption near Tonga causes booms heard by Alaskans nearly 6,000 miles away」 〔トンガ王国近くの火山の爆音が約6000マイル〔=9600km〕離れたアラスカで聞こえた〕という記事がある。 これは史上まれにみる大爆発だったとされ、またこのように音が届くことも稀だという。 しかし、それよりはずっと小さい噴火であったとしも、この6000マイルに比べれば伊豆大島-飛鳥間の距離などはほんの僅かだから、 伊豆諸島の噴火音が畿内で聞こえたということは必ずしも荒唐無稽ではない。 遠距離の音波の伝搬は、上空に向かって放たれた音波が高度による密度差、あるいは風速差によって屈折して地上に向かうメカニズムが考えられる。
葛城山については、〈雄略〉段(206回)に一言主神の伝説がある。 《鹿角》 正式な記録の場合は「〇〇郡言…」のように書かれる。 「有レ人…」という書き方は、書紀原文執筆者自身が事柄の真偽を疑っている現れかも知れない。 また、云「…」の閉じ括弧の位置は判然としないが、 どこで区切るにしても、その奇妙さを語る部分は「蓋驎角歟」まで及んでいる。 鹿が熊に食い散らかされた跡のようにも思えるが、現実的な想像をしてみてもあまり意味はないだろう。 《新羅仕丁八人》 四年正月条に「…新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進」とある。 また、占星台を作る技術者であったかも知れないと考えた (四年正月)。
〈時代別上代〉によれば「しとと:[名] 燕雀目すずめ科の、ほおじろ・あおじ等の小鳥」。 〈神武〉段に「阿米都都 知杼理麻斯登登」(第100回)。 「白」は、変異個体の場合は「シラ-」ではなく「シロキ-」というようである〔白雉元年二月の白雉など〕。 《菟田吾城》 万葉にも歌われ、推定地は現在の人麻呂公園〔宇陀市大宇陀拾生76番地の1〕 (〈壬申紀〉8段《菟田吾城》項)。 壬申の故地を訪れ、景色を楽しんだのかも知れない。 《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項。 《橘寺》
時代が比較的近い資料では、『法隆寺縁起資材帳』〔747〕〈推古〉と東宮上宮聖徳法王敬造の七寺に「橘尼寺」。 これは、書紀の「尼房」に合致する。 時代が下ると『太子伝暦』〔平安中期〕の「初起…十一院」に「橘樹寺【時人名二菩提寺一】」、 『聖徳太子伝私記』〔13世紀〕の「七ヵ伽藍」のひとつに「菩提寺」。 また、伝『七代記』〔宝亀二年〔771〕とも〕には「上宮太子造立寺舎八所」に「菩提寺【時人呼為橘尼寺】」 (以上、資料[53])。 総合すると「橘尼寺」は聖徳太子造立の七~十一寺に属し、一名「菩提寺」である。 『法隆寺東院縁起資材帳』に次の記述がある。
《国大寺》 「天武朝の仏教政策」(御子柴大輔)〔『城西大学女子短期大学部紀要』1991(pp.43~53)〕 によると、「國大寺二三」は「大官大寺(百済大寺)」、「川原寺(後の弘福寺)」、「飛鳥寺(元興寺)」の三寺があげられ「一般的な説となっている」という。 大官大寺はもともと百済大寺が移転して高市大寺、改名して大官大寺となったもの(【百済川側九重塔】項)。 〈天武〉二年十二月には「造高市大寺司」が任命された。 大官大寺は、まさにその名が体を表す。 川原寺は、〈天武〉二年三月に一切経の写経が恐らく大量に行われたことから、国の大寺の性格が知れる。 《唯其有食封者》 「唯其有食封者先後限三十年若数年満三十則除之」は読み取りにくい。 逆接の接続詞「唯」は「限」に繋がらないように思われるが、むしろ「限二三十年一」は、直ちに停止しないことに主眼を置いた語句であろう。 「数年」は、スウネンと読むと意味不明になるが古点は「数レ年」〔年をかぞふ〕と読んで意味を通す。妥当であろう。 「先後」は、〈汉典〉では「先後:先和後。早和晚」〔=早かれ遅かれ〕。ただし、現代語の説明である。 それでも、食封はそれぞれ開始したときを起点として三十年を数えるという意味であろう。 すなわち昔から食封を給わっていた寺では年限が迫り、まだ最近になって食封が割り振られた寺ではしばらく後のことになる。 しかし、30年を経た後は、結局すべて私領での耕作が運営の糧となるから、これはもう寺は班田収授法の枠外と宣言するに等しい。 寺を国家管理から外す意味については、一般的に諸寺はその創建において氏族との結びつきがあったと考えられる。政権が氏族の代表者の寄り合いであった頃にはそれぞれ関係の深い寺を管理することにより、すべて国家の寺と表現し得る。 しかし、政権中枢から氏族を排除した今、諸王が直接管理するには手が回らなくなったということのように思われる。 今後の国家管理の形態は、各寺は三綱〔都維那・上座・寺主〕によって自律的に運営され僧綱〔大僧都以下〕がその監督にあたる体制となる(実例は[元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む][Ⅳ])。 《食封》 今のところの理解では寺院への食封とは、寺にある地域を割り振り、その土地の口分田の良民が税として納めた穀物のうち一定の割合が寺院に入る仕組みである。 それに対して、寺領では農民が隷属し、収穫物は一定の割合で寺に入るが全量ではなく、ある部分が税として国家に徴収される。 結局、どちらも徴収した収穫物を国家と寺が山分けするのだから、本質は同じではないかと思われる。 《飛鳥寺》 飛鳥寺は官寺と私寺のどちらにするかで議論があったが、結局官寺としたようである。 ここで、飛鳥寺の創建を見る。 ● 〈用明〉二年七月蘇我馬子の発誓「願レ当下奉レ為二諸天与大神王一、起二-立寺塔一流二上-通三宝一」。 ● 〈崇峻〉元年是年蘇我馬子宿祢「始作二法興寺一」〔=建立に着手〕。 ● 〈推古〉四年十一月「法興寺造竟」。 なお『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、書名こそ「元興寺…」であるが、実質的には豊浦尼寺の由緒である。 創建時の姿は資料[50]で見た。 このように当初は蘇我氏の私寺として創建されたが、乙巳の変(〈皇極〉五年)で蘇我宗家が滅びた後は、事実上官寺になったと考えられている。 名称「飛鳥寺」の初出は〈斉明〉三年七月「作二須弥山像於飛鳥寺西一」。 寺本体もさることながら、西の槻木の広場は主に外国使節のための接待会場として整備された。 今、官寺を大官大寺〔まだ高市大寺〕とせいぜい川原寺に集約する方針が立てられ、飛鳥寺も私寺にすることが検討されたようである。 返す相手は蘇我氏となるが、蘇我氏は既に衰退していて新嘗などの重要行事を請け負うには力不足だったのかも知れない。 結局、現状のまま官寺に留めたと思われる。 《大意》 九年正月八日、 天皇(すめらみこと)は 向いの小殿に御座され、王卿に大殿の大庭で宴を賜りました。 同じ日、 忌部首(いんべのおびと)首(かしら)に姓(かばね)を賜わり連(むらじ)とされ、 弟の色弗(しこふつ)と共に悦びつつ拝しました。 十七日、 親王以下、小建(しょうけん)に至るまで、南門で射技しました。 二十日、 摂津の国が「活田村(いくたむら)に桃(もも)李(すもも)の実がなりました。」と言上しました。 二月十八日、 鼓のような音が東の方角に聞こえました。 二十六日、 ある人のいうには、 「鹿の角を葛城山で得た。 その角は、根元が二股に分かれ、先端で合わさって肉がつき、 肉の上には毛が生え、毛の長さは一寸であった。 よって、異(け)なりと思って献上した。 ことによると、麟角か」と言いました。 二十七日、 新羅の仕丁(つかへのよほろ)八人が本国に帰国しました。 よって、恩を垂れてそれぞれに応じて賜禄しました。 三月十日、 摂津国は白い巫鳥(しとと)を献上しました。 二十三日、 菟田(うだ)の吾城(あき)に行幸しました。 四月十日、 広瀬と龍田の神を祭祀しました。 十一日、 橘寺(たちばなてら)の尼房に失火があり、十房を焼きました。 二十五日、 新羅の使者項那(こうな)らを筑紫で饗(あえ)して、 それぞれに応じて賜禄しました。 この月に、 勅が発せられました。 ――「凡(おおよ)そ、諸寺は今より以後は、 国の大寺とするための二三を除き、それ以外は、官司の治めるものとはしない。 ただ、その食封(じきふ)を有する寺は、〔開始が〕遅くも早くも三十年に限って継続する。 もし年を数えて三十に達すれば停止せよ。 また、飛鳥寺は司の治が関与しないようにも思われるが、 元来大寺にして常に官司に治にあり、 さらに新嘗祭に功績があるので、これをもって猶(なお)官治の例に入れる。」 45目次 【九年五月~六月】 《新羅遣使送高麗使人等於筑紫》
『新抄格勅符抄』の「宝亀十一年〔780〕十二月十日騰勅符」の 「太宰観音寺・西大寺・法花〔法華〕寺・知識寺・豊浦寺・葛水〔葛木〕寺・岡本寺・小治田寺・●師寺・角院寺・妙見寺・招提寺・神通寺・陳城寺・橘寺・大安寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺・荒陵寺〔四天王寺〕・山階寺・法隆寺・崇福寺・東大寺」の二十四寺が、 数としては一致する(資料[53])。 この中で大宰観音寺が「京内」と言えるのかという問題があるが、坊条を整備したから西国の副都と見てよいだろう(【朝倉橘広庭宮の探求】)。 荒陵寺は、副都難波京である。 崇福寺の大津京は廃されたが、大寺であるからかつての「京内」ということでよいだろう。 ただ「二十四寺」の内訳については、常識的には時期によって出入りがあっただろうと考えられる。 《金光明経》 五年十一月段参照。 《卯問/俊徳/考那》
詔には既に定められた十名が列挙され、続けて今新たに功田を与える者十四名が書かれる。
《金項那》
伊豆諸島の噴火に伴う降灰範囲については、平安時代の同地域の2つの火山活動について調べた研究がある ([伊豆諸島,神津島天上山と新島向山の噴火活動](杉原重夫/『地学雑誌110(1)』〔東京地学協会;2001〕)。 同論文は、承和五年〔838〕の神津島天上山火山と、仁和二年〔886〕の新島向山火山によるテフラ〔火山噴出物の総称〕を峻別しようとしたもの。 その中で、『続日本後紀』の記述による降灰範囲が右図のように示されている。 その原文は、
これを見ると、気象条件によっては伊豆諸島の噴火による降灰が畿内に及ぶことは十分にあり得る。 よってこの日の降灰と、二月十八日「如レ鼓音聞二于東方一」は、 十三年の記事とともに伊豆諸島における火山活動によるものと考えて差し支えないだろう。 《雷電》 九年六月十四日は、グレゴリオ暦で680年7月18日。 梅雨末期の大雨と考えられる。 《大意》 五月一日、 勅を発して、 絁(かとり)、綿、糸、布を 京内二十四寺にそれぞれに応じて施されました。 この日、 初めて金光明経(こんこうみょうきょう)を宮中及び諸寺に説きました。 十三日、 高麗は南部(なんほう)大使(だいし)卯問(みょうもん)、 西部(さいほう)大兄(だいけい)俊徳(しゅんとく)らを派遣して朝貢し、 よって新羅は大奈末(だいなま)考那(こうな)を派遣して、 高麗の使者の卯問らを筑紫に送らせました。 二十一日、 小錦下(しょうきんげ)秦造(はたのみやつこ)綱手(つなで)が卒しました。 壬申年の功によって大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。 二十七日、 小錦中(しょうきんちゅう)星川臣(ほしかわのおみ)摩呂(まろ)が卒しました。 壬申年の功をもって大紫(だいし)位を贈られました。 六月五日、 新羅の客項那(こうな)らが帰国しました。 八日、 降灰がありました。 十四日、 雷電甚し。 まとめ 寺院への食封と寺領との区別については、サイト主の現時点での理解を述べたがもう少し学びを深めなければならない。 その結果もし誤りとわかれば、その時点で訂正する。 降灰や東方の鼓様の音の記事は、自然科学や古記録によって検討すると実際にあり得た現象である可能性がでてきた。 これらには相当の信憑性を考えてもよいだろうが、その一方で鹿の角の件は真偽を疑わせるもので、記事は結局玉石混交である。 しかし、見方を変えれば公的な報告や流布されていた噂話の別なく、得られた資料を原型に近い形で収めたと判断することができる。 むしろ余計な解釈による変形を加えない分、事実と受け止め得る個所も多いと思われる。 |
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2025.05.21(wed) [29-11] 天武天皇下11 ▼▲ |
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46目次 【九年七月~十月】 《八月丙辰大風折木破屋》
飛鳥寺西槻の下は、しばしば重要な出来事の舞台になった。 初出は〈皇極〉三年正月 で、中臣鎌子〔藤原鎌足〕が中大兄〔〈天智〉〕が打毱しているところにたまたま通りかかり、誘われて加わった。 その場所が「法興寺槻樹之下」であった。 〈孝徳〉に譲位した直後、皇祖母尊〔〈皇極・斉明〉〕、皇太子〔中大兄〕と三者で盟約(〈皇極〉四年六月十九日)。その場所が「大槻樹之下」。 飛鳥寺西は、外国使節の接待会場で、須弥山石などで飾る。飛鳥寺西遺跡の「穴」は槻樹の跡かも知れない (〈斉明〉三年/【飛鳥寺西の須弥山石】)。 壬申には六月二十九日「拠飛鳥寺西槻下、為営」とあり大友皇子側の軍営が置かれたが、丸ごと大海人皇子側に寝返った。 《自折》 自の古訓に見られるオノヅカラニは、カラに名詞〔柄〕の語感が残る故であろう〔再帰代名詞オノ+属格の助詞ツ+名詞カラ〕。 折は自動詞〔現代語は"折れる"〕として訓みたくなるが、自動詞の下二段ヲルについては〈時代別上代〉は上代語に存在を認めず、『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川〕の挙げる文例も源氏以後である。 ただ同辞典は、(万)1168「白浪之 八重折之於丹 しらなみの やへをるがうへに」を四段の自動詞の用例に挙げている。 基本的に他動詞であっても、実質的に自動詞として使われることはあり得よう。オノヅカラがつけばなおさらである。 《犬養連大伴》
《雩》 前年に旱魃と雩〔雨乞い〕の記事。今年も旱魃だったとすれば、その甲斐あって八月には大雨になった。しかし、恒例行事化していたことも考えられる。 《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項。 《朱雀》 正しい読み方は「朱雀に南門有り」であるが不自然なので、朱雀が南門に現れた如くに読まれている。 実際には「建南門於朱雀」が、誤って伝えられたのではないだろうか。 ただ、浄御原宮の南門は朱雀大路に面していないので、想像は先行条坊とともに初めて大極殿が作られたが未完に終わったところまで膨らむ。 《朴井連子麻呂》
《弘聡僧》 「弘聡僧」という表記に関しては、「「僧~」という呼び方の方が『日本書紀』では普通であり、 「~僧」と書く例は…限られる」〔石川一成/『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上); 駒澤大学研究紀要第73号2015〕という。 同論文は、「~僧」は〈推古〉紀、〈舒明〉紀、〈天武〉紀(いずれもβ群)の中の九例に限られ、 「『日本書紀』は様々な系統の資料を切り貼りして用いており、全体にわたる表記の統一がなされていないことが知られる」と述べる。 《大津皇子/高市皇子/川嶋皇子》
《三宅連石床》
《納言》 〈天智〉十年の「大納言」は、「御史大夫」に後世の称をあてたものと説明される。 〈倭名類聚抄〉では「大納言・中納言・小納言」に分化している。 しかし、「哭」、「発哀」、二皇子の派遣を見ると「納言」が相当の高位であったようだから、大中小の分化はまだなかったと思われる。 《宮内卿》 宮内卿は、宮内省の令前形態の長官職。〈倭名類聚抄〉に「長官:省曰レ卿…【以上皆加美】」。 《高市皇子/川嶋皇子》 上述。 《法官》 法官は令前省で、式部省に繋がる(〈天智〉十年《法官大輔…》項)。 七年十月条では、官人の進階を掌る省であったことが示される。 《嘉禾》 九年年八月条《嘉禾》項参照。 《大水》 八月五日は、グレゴリオ暦680年9月6日。 《大風》 八月十四日はグレゴリオ暦680年9月15日。しばしば大きな台風が襲来した時期にあたる。
『五畿内誌』「村里:朝妻」。現代地名に御所市朝妻(大字)。 《長柄杜》 〈延喜式-神名〉{葛上郡/長柄神社/鍬靫}。比定社は長柄神社〔奈良県御所市名柄271〕。 祭神は下照姫命。 《俾馬的射之》 俾馬的射之は、文法的には馬を標的にして矢を射ったことになるがあり得ない。実際には恐らく後世の流鏑馬と見られる。 この「的射」という語順は理解し難い。 〈汉典〉の見出し語にはなく、ただ「射的:①用レ箭射レ靶。 ②指二箭靶一」〔靶はマト〕とある。 漢籍に"的射"を検索すると、『太平御覧』工芸部/"射"上に「故慈復植レ的射レ之」〔故に慈しみ的を植(た)て之を射る〕が見えるが、 植の目的語であって射とは切り離される。 これらを見れば、書紀古訓の「馬的 さらに「俾馬」〔馬をして~せしむ〕を「乗馬して」の意味に使っていることも、明らかに倭習である。 日本紀私記は、「馬的射」を名詞化することによって辻褄を合わせようとする。 《地震》 詳細不明。 《桑内王》
「一毎僧尼」という字の並びは成り立ち得ない。 「一」は箇条書きを示す文字で、第2項の「沙弥白衣」から「一」が脱落し、本来の形は「一僧尼各…」、「一沙弥白衣各…」であったとするするのが考え易い。 「毎」は異本になしとも付記される。おそらく第2項の「一」が脱落した結果「一僧尼」が意味不明となったので、補うために加えたのではないだろうか。 《大意》 〔九年〕七月一日、 飛鳥寺の西の槻の枝が、自然に折れて落ちました。 五日、 天皇(すめらみこと)は犬養連大伴の家に行かれ、病を見舞われました。 そして大恩を垂れられ…云々。 この日、 雨乞いをしました。 八日、 広瀬龍田の神を祭礼しました。 十日、 朱雀の南門を建てられました〔または、朱雀が南門に現れました〕。 十七日、 朴井連(えいのむらじ)子麻呂(こまろ)に、小錦下位を授けられました。 二十日、 飛鳥寺の僧弘聡が入滅しました。 大津皇子と 高市皇子とを遣わし、弔いさせられました。 二十三日、 小錦下(しょうきんげ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いわとこ)が卒しました。 壬申年の功に由って大錦上(だいきんじょう)位を贈られました。 二十五日、 納言(なごん)兼宮内(くない)の卿(かみ)、五位舎人(とねり)王は病気で死に臨み、 高市皇子を遣わして見舞わせました。 その翌日に卒しました。天皇(すめらみこと)は大いに驚かれました。 そして高市皇子と 川嶋皇子を遣わしました。 よって殯(もがり)に臨み哀哭されました。 百寮の人も従い、発哀しました。 八月五日、 法官(のりのつかさ)の人が嘉禾(かか)を献上しました。 この日より始まり三日間、雨で大水となりました。 十四日、大風が吹き木を折り屋を壊しました。 九月九日、 朝嬬(あさづま)に行幸されました。 これにより、大山位以下の馬を長柄(ながら)の杜(もり)で御覧になり、 馬で的を射させられました。 二十三日、 地震あり。 二十七日、 桑内王が私家で卒しました。 十月四日、 京内諸寺の貧乏な僧尼及び人民を憐み、 賑賜(しんし)されました。 一、僧尼には、 各絁(ふときぬ)四疋(むら)、 綿四屯(もぢ)、 布六端(むら)。 一、沙弥(さみ)と素服〔世俗の人〕には、 各絁二疋、 綿二屯、 布四端。 47目次 【九年十一月】 《壬申朔日蝕之》
この日の日食に対応する記録が 『新唐書』志第二十二/天文二 「日食:永隆元年十一月壬申朔。日レ有二食之一。在二尾十六度一。」に見える。 その「尾十六度」の妥当性を、資料[82]で検証した。 九年十一月一日はグレゴリオ暦で680年11月30日、ユリウス暦で11月27日にあたる。 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]のデータによって、 資料[81]で詳細にシミュレートした。 《東方明》 九年二月で、伊豆諸島の噴火の可能性を論じた。今回もその噴火により、地平線が薄っすら明るくなったのかも知れない。 《高麗人十九人返于本土》 この年、〈斉明〉天皇の喪に派遣された弔使の一行が、帰国できずに留まっていたと書かれる。 〈天智〉元年三月是月段には、「唐人新羅人伐二高麗一。高麗乞レ救二國家一。」とあり、 高麗は救軍の派遣を求めた。 このときに弔使が同行したことも考えられる。 〈斉明〉天皇の喪・葬に関わる記事は、〈天智〉六年二月 「合二-葬天豊財重日足姫天皇〔斉明〕…於小市岡上陵一」が初出である。 中大兄皇子〔〈天智〉〕は、称制のまましばらく軍政を敷いて唐新羅からの攻撃に備えた。 その間〈斉明〉の御屍は朝倉山陵に仮埋葬したままで、公式に喪に服する余裕はなかったと見られる。 高麗弔使も存在が忘れられ、徒 《初興薬師寺》 薬師寺は平城京遷都に伴って移され、飛鳥京の薬師寺は本薬師寺と呼ばれた。 後の記録には、〈持統〉二年正月丁卯「設二無遮大会於薬師寺一」。 〈持統〉十一年六月癸亥「公卿百寮、設下開二仏眼一会於薬師寺上」。 〈続紀〉文武二年〔698〕十月庚寅「以薬二師寺構作略了一詔二衆僧一令レ住二其寺一」。 〈続紀〉大宝元年〔701〕六月壬子「以二正五位上波多朝臣牟胡閉、従五位上許曽倍朝臣陽麻呂一、任下造二薬師寺一司上」が見える。 これらから、本薬師寺は〈持統〉朝にはひとまず出来上がっており、文武二年は僧坊〔僧の居住施設〕の設置と読める。大宝二年の造薬師寺司の任命は、平城京薬師寺建立のためと考えられている。
「飛鳥研究学史(1991~2000)-調査研究の現状と課題」〔相原嘉之/ 『明日香村文化財調査研究紀要』 (明日香村教育委員会2006)〕は、 「中門の下層から条坊道路が確認」、 「さらに道路側溝に沿って塀や建物の柱穴も確認でき、道路施施行後の一定期間にわたって同坪内が宅地と化していたことが判明した」、 「条坊道路を施行しこれに伴う宅地が先行し、これらを廃して本薬師寺が建立されたことを意味しており、藤原京の条坊施工は記録に残る本薬師寺建立よりも古い、天武五年の新城に求められることになった」と述べる(p.33)。 このように、藤原京に先行条坊が存在したひとつの証とされる(《将都新城》)。 平城京薬師寺が、新築か本薬師寺の解体移転かについては、長らく論争があった。 少なくとも東塔については、年代測定により伐採年代が729~730年が得られ、新造であったことが明らかになっている( 「国宝薬師東塔木部材の年代測定」〔星野安治;『奈良文化財研究紀要』奈文研2017〕)。 《月蝕》
11日15時は、日本標準時では12日0時であるから、日付を12日とすることに問題はない。 日食、月食はともに白道面が黄道面に重なったときに起こる現象なので、両者が半月の間隔で出現することは珍しくない。 《草壁皇子》
《恵妙僧》
「三皇子」のうち二柱は草壁皇子、高市皇子であろう。三柱目は大津皇子または川嶋皇子のどちらかであろうが、決定しがたい。 《沙飡金若弼/大奈末金原升》
日本語を習う人を連れてきたことから、日本との親交を積極的に深めようとしていたと見られる。 《臘子鳥》 七年十二月己卯に「臘子鳥弊天自西南飛東北」。 ここでは「蔽」で、これは群れが空一面を覆うと読むことができる。すると七年の「弊」も本来は「蔽」で、誤用もしくは誤写と考えられる。 《大意》 十一月一日、 日蝕あり。 三日、 戌(いぬ)刻〔20時前後〕より子(ね)刻〔0時前後〕に至り、東方が明るくなりました。 四日、 高麗人十九人が本国に帰りました。 これは後岡本(のちのおかもと)天皇〔斉明〕の御喪に当たり、 弔使が留まって還らなかった人です。 七日、 百官に詔されました。 ――「もし国家に利があるなら、 人民の術を宮闕に参上して自ら申すことを許せ。 その言葉が理に適えば立てて法規とせよ。」 十日、 西方に雷あり。 十二日、 皇后の御体が不予となられました。 そこで皇后の為に誓願され、 初めて薬師寺を興しました。 よって百人の僧に度(わた)らせ〔=出家〕ました。 これにより、快癒されました。 この日、 罪を恩赦しました。 十六日、 月蝕あり。 草壁皇子(くさかべのみこ)を遣わして、恵妙(えみょう)僧の病を見舞わせました。 翌日、 恵妙僧は入滅しました。 よって三柱の皇子を遣わして弔(ともらい)させられました。 二十四日、 新羅は沙飡(ささん)金若弼(こんじゃくひつ)、 大奈末(だいなま)金原升(こんげんしょう)を遣わして進調しました。 このとき言語学習者三人が若弼に従って来ました。 二十六日、 天皇(すめらみこと)は御病気になられました。 よって、百人の僧を度らせたところ、俄かに癒えました。 三十日、 臘子鳥(あとり)の群れが天を覆って東南から飛び、西北に渡りました。 まとめ 薬師寺の設立は、直接には皇后の病がきっかけと書かれている。 ただ、九年後半条には死去や病気の記事が多く書かれていることを見ると、薬師寺の創立の動機として一般的に病人の救済があったとも考えられる。 なお、「朱雀有南門」、「俾馬的射之」、「一毎僧尼」には首を傾げざるを得ない。これらは無理に解釈しようとするよりも、拙劣な文が紛れ込んでいると見た方がよいであろう。 |
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⇒ [29-12] 天武天皇下(5) |
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