| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024.03.26(wed) [29-06] 天武天皇下6 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
35目次 【六年正月~六月】 《饗多禰嶋人等於飛鳥寺》
年初の一連の行事は、五年と同様と思われる。六年条ではそのうち「射二于南門一」だけをピックアップしたと思われる。 《物部連摩呂》
それが感じ取れるのは、耽羅と日本との友好を新羅に見せることを注意深く避けた場面である。 また、新羅使が粛慎を連れてきたことには、渡島方面に触手を伸ばしていることを警戒したであろう。 多祢嶋人との関係の強化は、その文脈上に置くべきであろう。 この後、多祢嶋には八年十一月に正式な使者を送り、爵位を授与。 十年八月には使者が来朝して「多祢国図」を献上。十一年七月には、掖玖人・阿麻彌人とともに訪れ賜禄された。 《飛鳥寺西槻下》 〈斉明〉朝では、飛鳥寺西の須弥山石のある広場が外国人使節への接待会場であった(【飛鳥寺西の須弥山石】項)。 〈天智〉紀にはこの場所は全く見えず、久々の登場である。以後は〈天武〉十年九月に「饗二多祢嶋人等一」、〈持統〉二年九月に「饗蝦夷男女二百一十三人。授二冠位。賜レ物」が見える。 《新羅使人清平》
五月の告朔を中止した理由は不明。 《大博士百済人率母》
《新羅人阿飡朴刺破》
《神税》 神主に給する「二分」は、「三分の二」の意であろう。「擬供神」が神のものになるという意味なら、結局すべて神社に入るから分ける意味がない。 よって、「擬供神」とは、国家が神を祀る費用を名目として召し上げるという意味であろう〔"擬"、"税"の字にそれが表れている〕。 すなわち、社領に属する民による納税のうち三分の一を国庫、三分の二を社に配分したと読むのがもっとも解りやすい。 《東漢直》 東は倭〔やまと〕のことで、漢は文とほぼ同族である。 よって、東漢・倭漢・東文・倭文の4通りに書けるが、そのうち倭文だけは別族〔しとり;縫物の職業部〕であることに注意したい。 一方、西は河内を表す。 東西の文のうち、東文の祖は阿知使主、西文の祖は王仁吉師である (資料[25]/《文宿祢》項、 〈推古〉十六年九月●倭漢項)。 倭漢の諸族の上には、坂上直が宗家として立つ。 〈壬申紀〉14段において坂上直熊毛は、近江朝廷の飛鳥寺西軍営を乗っ取る工作を主導した。 この限りでは大海人皇子側に付いたことになるが、一面では正統な日嗣を覆す側に加わったことを意味する。 ここで、〈推古〉から〈孝徳〉までの時期の反乱の歴史を振り返ってみよう。 山背大兄王が〈舒明〉と継位を争った(〈舒明〉1)。 また、大化元年九月には古人皇子が反乱を起こした。 さらに〈斉明〉四年には、有間皇子が〈斉明〉天皇を謀略的に殺そうとした。 これらのうち、古人皇子に加わった倭漢文直麻呂以外に東漢直は明示されないが、これらを含め広い案件に関わっていたことを「七不可」と称したのであろう。 すなわち東漢直には伝統的に天下を覆す画策に与かろうとする性癖があり、〈天武〉はそれを諫めたということである。 なお、大化元年九月に古人皇子側に加わった朴市秦造田来津も後に復権した。 皇位争いも決着がつけばノーサイドで、反乱側についた氏族もいずれ赦されるという文化的伝統がうかがわれる。 《大意》 六年正月十七日、 南門で射技を行いました。 二月一日、 物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)は新羅から帰国しました。 この月、 多祢(たね)の嶋の人たちを飛鳥寺の西の槻の下で饗しました。 三月十九日、 新羅の使者清平(せいへい) 以下(しもつかた)の客十三人を京に召しました。 四月十一日、 𣏾田史(くいたのふみひと)名倉(なくら)は、輿に乗る人〔天皇〕を指斥(しせき)した〔悪しざまにいった〕ことを罪に問い、 伊豆の嶋に流しました。 十四日、 送使珍那(ちんな)らを筑紫で饗しました。 そして筑紫から帰りました。 五月一日、 この月は告朔を中止しました。 三日、 大博士、百済人率母(そちも)に勅して、 大山下位を授け、 三十戸を封戸としました。 同じ日、 倭〔大和国〕の画師音檮(おとかし)に、 小山下位を授け、 二十戸を封戸としました。 七日、 新羅人阿飡(あさん)朴刺破(ぼくしは)が、 三人と三僧を連れて、 血鹿嶋(ちかのしま)に漂着しました。 二十八日、 勅しました。 ――「天社(あまつやしろ)地社(くにつやしろ)の神税(かみたから)は、 三分の一は神に供するに擬(なぞら)える為のものとし、 三分の二は神主に給われ。」 この月は 旱魃で、京と畿内で雨乞いしました。 六月十四日、 大地震が起こりました。 この月、 東漢直(やまとのあやのあたい)らに詔しました。 ――「お前たち族党は、もともとの不可なることを犯した。 これにより、 小墾田(をはりだ)の御世〔推古天皇〕から近江朝〔天智天皇〕まで、 常に謀を用いてお前たちは事をなした。 今朕の世となり、 お前たちの不可なる有様を責めようとすれば、犯したことに隨い罰するべきである。 しかし、本意は漢直(あやのあたい)の氏(うじ)を絶やそうとは思わず、 よって大恩を垂れて赦す。 これからは、 もし犯す者が有れば必ず赦さない例に入れる。」 36目次 【六年七月~十二月】 《祭龍田風神廣瀬大忌神》
《祠風神…》項参照。 この年は四月の祭りが書かれないが、単なる欠落かも知れない。 《大設斎於飛鳥寺》 飛鳥寺は出発点こそ蘇我氏の氏寺であったが、〈天武〉朝には国家管理の大寺となっている。 《毎人賜出家一人》 「毎レ人賜二出家一人一」という。 この文は「天皇が親王・諸王・群卿に、各一人出家者を与える」としか読めないが、文脈からは「親王以下に各一人の出家者を出させる」である。 「賜」の原意を無理やり維持するなら「親王以下に出家人を一人出すことの許可を賜う」となるが、実質的には「宣」〔べし〕である。 すなわち親王〔皇子〕、諸王〔皇子皇女の子女以下、概ね五代孫まで〕、群卿のそれぞれに、身内や配下の者一人を出家させよと命じた。 なお、「毎人…」以下の部分は詔の引用とも、詔によって実施された事柄とも読めるが、細目の規定を含むから前者であろう。 《金清平》
《凡浮浪人》 本籍地から離れて税を納めない者への対策が定められた。この問題が浮かび上がってきたということは、班田収授法と徴税の体制が既に相当程度出来上がっていたことを示す。 《還到則彼此並科課役》 『類聚三代格』延暦十七年〔798〕四月十六日太政官符の「浮二-浪他郷一忌二-避課役一。自レ今以後浮浪逗留経二三月以上一輸二調庸一」 は、流浪人でも三か月滞在したら調庸を課せという。 これと同様に、〈天武〉六年詔は流浪していた期間もその分の役を課せという趣旨であろう。 「其送二本土一者」とあるから、流浪人が見つかったら強制送還するのが建前だったかも知れない。さらに「彼此並」の文字からは、帰郷したら懲罰的に両方の土地の課役を科したようにも読める。 ただ、この文章ではそれと厳密に確定するのは難しい。「科二課役一」は現地の分だけと読むのが穏当かも知れない。 《内小錦上》 内位の場合「内-」は自明だから普通はつけないが、大三輪子人君の例では贈位が贈官を伴うことを示したと見た(五年八月)。それ以外に「内…位」は、なかなか見いだせない。 ここの「内小錦上」は、これまで外位だったものを、任官と同時〔もしくは直前〕に内位に昇らせたことを示したのかも知れない。 なお、この構文では被任命者の頭に「以」を付けるのが書紀の通常仕様である。よって、古記録を原型のまま収めた可能性がある。すると「内小錦上」という珍しい位階表記も、古記録によるものかも知れない。 《河辺臣百枝》
「民部省」は資料[24]、 〈倭名類聚抄〉に「長官:省曰卿…【已上皆加美】」とある。 すなわち、民部(省)、およびその長官の卿という呼び名が、大宝令以前から存在したのである。 《丹比公麻呂》
〈倭名類聚抄〉の「長官:勘解由職曰大夫…【已上皆加美】」に摂津職大夫も準じるだろうから、「長官:大夫」は明らか。 「摂津職」がそこにないのは、同書が成立した10世紀初めには摂津職大夫が既に廃されていたからであろう〔延暦十三年〔793〕廃止〕。 (資料[19])。 《不告朔》 十一月の告朔中止は「雨」を理由とするが、新嘗による中止が既に決まっていたかも知れない。 翌十二月の中止は「雪」を理由としている。 《赤鳥》 赤鳥の献上に伴い、捕獲者、当該郡、郡司への恩賞や進階、百姓の免税、さらに天下の大赦まで及び、すこぶる慶事であった。 白雉の献上に匹敵する扱いだから、直ちに改元があっても不思議はない。 ところが、実際の朱鳥への改元はこれから9年後になる。何か理由があったのだろうか。 《爵五級》 〈続紀〉天平十一年〔739〕三月癸丑に、「神馬」進上の記事がある。 その馬は「青馬白髦尾」であったという。そこには「対馬嶋目正八位上養徳馬飼連乙麻呂所レ獲神馬」すなわち、獲た人は対馬嶋の目〔さくゎん、四等官四位〕養徳馬飼連乙麻呂で、さらに「其進レ馬人、賜二爵五級并 「養徳馬飼連乙麻呂」は神馬を受け取って報告した役人で、直接の「進レ馬人」〔野山または牧場でたまたま神馬を見つけて連れて来た人〕は馬飼の一人と思われる。 一介の馬飼がいきなり冠位を賜ることはあり得ないから「爵五級」は名誉としての恩賞で、冠位制の外にあった制度と見るべきであろう。 《侍奉新嘗》
なお、「侍奉」は「奉」を補助動詞マツルに用いたもので、和習である。 《雪不告朔》 雪の動詞形は「雪ふる」であることが、(万)0892「雪布流欲波 ゆきふるよは」によって確定する。 《大意》 七月三日、 龍田の風の神、広瀬の大忌(おおいみ)の神を祀りました。 八月十五日、 飛鳥寺で大設斎(だいせちせ)し、一切経(いっさいきょう)を読経しました。 よって、天皇(すめらみこと)は寺の南門で三宝に拝礼されました。 この時、親王、諸王、そして群卿に詔されました。 ――「一人に付き一人の出家させてよいと賜る。 その出家者は男女長幼を問わず、 皆を願いのままに出家させよ。 その者を、大設斎に参集させよ。」 二十七日、 金清平(こんせいへい)は帰国しました。 そして、漂着した朴刺破らを、 清平と共に本国に帰しました。 二十八日、 耽羅(とんら)の王子(せしむ)都羅(とら)を遣して、朝貢しました。 九月三十日、 詔しました。 ――「凡そ浮浪人(うかれびと)は本国に送り、その者には なお行った先と再び帰った土地の分の課役をともに科せ。」 十月十四日、 内(うち)の小錦上(しょうきんじょう)河辺(かわべ)の臣百枝(ももえ)を 民部省の卿(かみ)としました。 内(うち)の大錦下(だいきんげ)丹比公(たじひのきみ)麻呂(まろ)を 摂津職(せっつしき)の大夫(かみ)としました。 十一月一日、 雨が降り告朔を中止しました。 筑紫の大宰は赤い鳥を献上しました。 そして、大宰府の諸々の官司にそれぞれに応じて禄を賜りました。 また、直接赤鳥を捕えた者に爵五級を賜りました。 すなわち、当郡の郡司らに爵位を加増しました。 これにより、郡の百姓に調(みつき)の免除を、一年間としました。 同日、天下に大赦しました。 二十一日、 新嘗しました。 二十三日、 百寮、諸々の位をもつ人たちに食物を賜りました。 二十七日、 新嘗に侍した神官及び国司らに禄を賜りました。 十二月一日、 降雪のために告朔を中止しました。 まとめ 正月行事や新嘗のことが〈天武〉紀二年~六年にいくつか書かれるのは、宮廷での伝統行事の出発点が〈天武〉朝にあったことを示すためであろう。 風神・大忌神の件を毎年欠かさないのは、年中行事として定着させたい意図があるのかも知れない。 耽羅、多祢嶋、粛慎の件は、新羅が日本周辺海洋に積極的に進出している動きと関連づけて読むべきであろう。 さて、「爵五級」に注目してその性格を考察した論は、なかなか見つからない。 また「三分之一為擬供神」の意味は、書記原文執筆者自身も正確に理解していなかったように思える。 『日本書紀』研究史には膨大な積み重ねがあるが、未解明の部分もまだ多いと思われる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.03.30(sun) [29-07] 天武天皇下7 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
37目次 【七年正月~九月】 《十市皇女薨》
《耽羅人》
地名「倉梯」は〈崇峻〉段「倉椅柴垣宮」の地で、概ね桜井市倉橋を遺称とする (第247回)。 ただ、「倉梯河上の斎宮」の位置を積極的に突き止めようとした研究は今のところ見つからない。 斎宮(いつきのみや)は、「斎王 ただ、「竪斎宮…」で述べるのは天神地祇を祀り祓禊するための宮である。 したがってここの「斎宮」は一般的な忌みの宮と見たほうがよい。 ただ、直感的には次の筋書きが考えられる
〈天武〉の皇女の一人が〈天智〉の妃となり葛野王を生んだところまでは史実であろう。 しかし、本説を貫こうとすれば、その母の名が誤って伝わったことを証明しなければならない。これが大変に困難であることも、また確かである。 《十市皇女薨去》
その根拠とされるのは『懐風藻』〔漢詩集;天平勝宝三年〔751〕成立〕の 「葛野王二首」の項の記述である。 ●「王子〔葛野王〕者 葛野王の死亡については、〈続紀〉にも次の記事がある。 ● 〈続紀〉慶雲二年〔705〕十二月「丙寅。正四位上葛野王卒」。 すなわち、十市皇女は大友皇子の妃となり、葛野王を生んだ。葛野王の生まれ年は〈天智〉八年〔669〕ぐらいで、 仮に出産可能年齢を15~30歳とすると、〈天武〉七年〔679〕には十市皇女は25~40歳となる。 『大日本地名辞書』近江滋賀郡「堅田」項には「宇治拾遺云、大友皇子の妃は大海人皇子の女、十市皇女なり、 近江の謀を父に告申さむとおぼし…、鮒のつゝみ焼のありける腹に、小さく文をかきて押入れて奉り給へり云々」とある。 その『宇治拾遺物語』〔13世紀はじめ〕の原文の該当箇所は、巻十五「清見原天皇合戦の事」にある。 原文は「この大とものわうじ〔大友皇子〕の妻にては春宮〔大海人皇子〕の御女ましければ、父のころされたまはんことをかなしみ給て…」というもので、 実際には「妻」の名前は略されている。これを「十市皇女」と読むのは、『大日本地名辞書』が『懐風藻』に依ってそう判断したのであろう。 《霹靂新宮西庁柱》 「新宮」は、飛鳥宮にエビノコ郭を増築する際、既存部分も化粧直しをしたからそう称したのであろう。 落雷の痕跡が発見されているかどうかについては、「飛鳥宮跡」の調査報告を検索したところでは「霹靂」の語句は見つからない。 恐らく西庁の柱の落雷跡は未検出と思われる。 《赤穂墓》 〈延喜式-諸陵寮〉に赤穂墓のことは載らない。 〈倭名類聚抄〉の{播磨国・赤穂郡}があるが、明日香からはかなり遠いので現実的ではない。 《忍海造能摩呂》
〈延喜式-祥瑞〉に瑞稲はないが、「嘉禾【…或孳連数穂。或一稃二米】」〔孳=しげる。稃=もみがら。〕が見え、「下瑞」に分類されている。 《稚狭王》
七年正月十七日、 南門で射技を催しました。 二十二日、 耽羅(とんら)の客人は京に向かいました。 この春、 天神地祗を祠(まつ)り、天下(あめのした)に悉く祓禊しようと思われ、 斎宮を倉梯(くらはし)の河上に立てられました。 四月一日、 斎宮に行幸しようと思われ、〔出発の日時を〕占いました。 七日、 占いで得ていた 結果を採用してその日の夜明けに、 警蹕(けいひつ)〔先払い〕がまず出発しました。 百寮は列を成し、 輿に乗り蓋(きぬがさ)をささせられました。 すると、未だ出発に至らぬときに、 十市皇女(とおちのひめみこ)が突然発病し、 宮中で薨じました。 これにより、鹵簿(ろぼ)〔行列〕は停止し、 行幸できませんでした。 遂に神祗を祀りませんでした。 十三日、 新宮殿の西庁の柱に落雷しました。 十四日、 十市皇女(とおちのひめみこ)を赤穂に葬りました。 天皇(すめらみこと)はこれに臨まれ、恩を垂れ発哀(ほつあい)されました。 九月、 忍海造(おしのみのみやつこ)能摩呂(のまろ)は、瑞稲(みずしね)を五本を献上しました。 一本ごとに枝分かれがありました。 これにより、徒刑〔強制労働の刑〕以下の者を悉く赦しました。 〔諸王〕三位稚狭王(わかさのおおきみ)が薨じました。 38目次 【七年十月~是歳】 《官人等議其優劣則定進階》
直訳すると「風に隨(したが)ひて以て松林及び葦原に漂(ただよ)ふ」となるが、ぎこちない。 「風のまにまに松林及び…」と訓めばよいだろう。 随の古訓「ママラ」は、「ママ〔恐らく平安時代の形〕+ラ〔語調を整える〕」と見られる。 飄の古訓「ヒヒル」は〈時代別上代〉などの辞書類を見ると、書紀古訓の特有語と見られる。タダヨフの方が、普通に使われる。 《甘露》 天子に徳があると「甘露降(る)」とされ、漢代から用例は著しく多い。その一例を見る。
《凡内外文武官》 『礼義解』には、例えば 令義解-選叙令:「凡任二内外文武官一而本位有二高下一者、若職事卑為レ行高為レ守」 〔凡そ文武官に任ずるは、本位に高下あれば若し職の事、卑ならば「行」として、高ならば「守」とせよ〕 とある。この他にもしばしば、「内外文武官」という言い回しが見える。 文官と武官を区別して書かれた例は、わずかにひとつの太政官符に見つかった。 それは、「式部掌二内外文官禄賜名帳一。兵部掌二内外武官名帳禄賜一」(ア)なる一文である。 その全文の概略を示す〔原文は略す〕。
これを見ると「文武官」は「文官」と「武官」の総称である。 また文官・武官は特定の官職名ではなく、ほぼ現代における使い方と同じである。 この大宰官符からは、式部省は名帳によって広く文官を管理したが、武官に関しては兵部省が独自に名帳を備えて管理していたことが分かる。 《史以上》 〈倭名類聚抄〉に「佑官:神祇曰レ史【与 《法官大弁官》 法官は式部省の前身と見られる(〈天智〉十年《法官大輔…》項)。 太政官〔省庁の上にあって統括する〕に左右の大弁・中弁が置かれる。倭読は〈倭名類聚抄〉に「大弁【於保伊於保止毛比】」、「中弁【奈加乃於保止毛比】」。 《非真病及重服》 敢えて「真病」と書くのは、仮病による不出仕が横行していたからであろう。 「重服」は『令義解』軍防令に「重服【謂二父母喪一也】」とある。分注は平安前期の解釈ではあるが、「重い」とする基準は古くから概ね父母であろう。 《輒・軽》 輒は、『令義解』僧尼令に多く使われ、例えば「尼不レ得三輒入二僧寺一」が見える。タヤスクが伝統訓のようである。 『令義解』には「軽」を「かろんじて」として用いる例は見えないので、輒が正解であろう。 《臘子鳥》
(万)4339「久尓米具留 阿等利加麻氣利 由伎米具利 くにめぐる あとりかまけり ゆきめぐり」。 アトリはスズメ目アトリ科。全長16cm。橙色の胸と白色の腹。 《弊天》 弊が誤写でなければ、「空を引き裂くが如く」などと比喩的に表現されたことになる。 《筑紫國大地動之》 [天武七年の筑紫地震と水縄断層] (『地震予知連絡会会報』52〔国土地理院1994〕)によると、 「福岡県久留米市での多数地点の遺跡調査と山川前田遺跡での活断層のトレンチ掘削調査によって、 「日本書紀」記載の天武七年筑紫地震の起震断層が水縄(みのう)断層であることが判明した」。 それによると、過去7000年間に「少なくとも3回の大地震動の記録が得られ」、 「そのうちの最新の大地震動の記録は史料にある天武7年の筑紫の大地震と年代的に一致する」という。
「地裂」は地割れを意味するが、実際には地表面に現れた断層だと思われる。 その食い違い量が6m、長さが9km余ということであろう。 《百姓一家有岡上》 「一家有岡上」は和習で、「一家在岡上」が正しい。 一軒の家が丘の崩壊で流されたが、家そのものは壊れなかった。朝になって家人がそれを知って驚いたという。 地震の時刻は「夕」とある。まだ薄明だから気付かないのは不審であるが、夕方からずっと家の中にいて明け方に初めて外に出たと解釈することはできる。 《新羅送使》 ●到着した送使。
〈倭名類聚抄〉「暴風:八夜知又乃和木乃加世」〔ハヤチ、ノワキノカゼ〕。
《大意》 十月一日、 綿のような物があり、 難波に降りました。 長さ五六尺〔1.5~1.8m〕、幅七八寸〔21~24cm〕、 風のままに松林や葦原に漂いました。 当時の人は、甘露だと言いました。 二十六日、 詔しました。 ――「凡そ内外の文武官は、毎年、 史(さかん)以上の属する官人らのうち、 公平恪懃(かくきん)〔=慎み深く勤勉〕な者に、 その優劣を議って、進めるべき位階を定めよ。 正月の上旬までに、つぶさに記して法官(のりのつかさ)に送れ。 法官は勘考して、大弁官(おおいおおともいのつかさ)に申し送れ。 しかし、公事により出仕すべき日に、 真病及び重服〔=父母の喪〕ではなく、 安易に取るに足らない理由をつけて来ない者は、 進階の例には入れない。」 十二月二十七日、 獦子鳥(あとり)が空を突き破って西南から東北に向かって飛びました。 同じ月に、 筑紫国に大地震があり、 大地が裂け、幅が二丈〔=3m〕長さが三千丈〔=9km〕余に及び、 百姓の家屋は村毎に多くが倒壊しました。 この時、百姓の家が一軒岡の上にあり、 地震は夕方に当たり、岡は崩れ家は移動しましたが、 家は既に無事で破壊されず、 家人は岡が崩れ家が免れたことを知らず、 ただ、夜が明けた後に知って大変驚きました。 この年、 新羅の送使奈末(なま)加良井山(かりょうせいせん)、 奈末(なま)金紅世(こんこうせい)が、 筑紫に到着して申し上げました。 ――「新羅の王(こきし)は、 汲飡(きゅうさん)金消勿(こんしょうもつ) 大奈末(だいなま)金世々(こんせいせい)らを派遣して、 今年の調を献上させました。 そこで遣わされた臣、井山(せいせん)は、消勿(しょうこつ)らを送りましたが、 共に海中で暴風に逢い、 消勿(しょうこつ)らは皆散り散りとなり、行方は不明です。 ただ、私井山(せいせん)は僅かに岸に着きました。」 しかし、消勿等が来ることは遂にありませんでした。 まとめ 少なくとも十市皇女の薨が、倉梯河上斎宮での祭祀の中止と強く関連付けられていることは確かである。 その裏には、伏せられた事情があったことが暗示されているように思える。 四月に十市皇女と阿閉皇女が伊勢神宮を訪れたときに、大来皇女との間で何らかの話し合いが行われ、既にややこしいことになっていたことも考えられる。 そうしてみると、大友皇子の妃とされていることについても、もうしばらくは受け入れずに置くほうがよいのかも知れない。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.04.06(sun) [29-08] 天武天皇下8 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
39目次 【八年正月~三月】 《新羅送使加良井山金紅世等》
《莫拝》 日付は戊子だが、実際には詔は前年の暮れまでに発せられていて、「戊子」とあるのは年頭の拝礼の実施日のように思われる。
諸王の母ならこれまでは拝礼行事に参加できた。しかし以後は、その人自身が親王諸王の子でなければ、拝礼行事に参加することが許されないという(右図)。 拝礼行事への参加は、その出身氏族の権威付けになるからであろう。 《莫拝卑母》 ここでいう「母」は親王〔おそらく内親王を含む〕の母のことで、当然諸臣が拝礼する対象となる。 ところが、その人が「卑母」である場合には拝礼してはならないという。 それでは、「卑母」であるかは否かはどこで線引きされるのであろうか。 〈天武〉二年条の系図を見ると、妃・夫人の呼び分けは、
Cは当然卑母であろうが、Bが卑母かどうかは分からない。しかし、〈天武〉の皇親政治のさまを見れば、Bも卑母に含めるのが順当であろう。 夫人と嬪などに向かって拝礼することは、必然的にその出身氏族の権威を高める。それを嫌って「莫レ拝二卑母一」としたのであろう。 皇親政治志向は、既に壬申の発軍の時点に遡る。 それは、大海人皇子が高市皇子に「近江朝の大臣や群臣を凌駕するはたらきを見せよ」と叱咤激励した場面である(〈壬申紀〉13段)。 壬申の勝利後は、諸族が権力に介入することを最大限に防ぐ。仮に壬申の功臣であったとしても行賞は官職ではなく、位階と封戸のみとする。 ただ、早くも〈持統〉三年には右大臣が復活した。それでも、その上に重しとして高市皇子を太政大臣として置く。 また藤原史(不比等)は三年に「判事」、十年に「直広二位」を賜り、奈良朝における藤原氏の台頭に道を開いた。 なお、不比等が藤原姓を賜ったのは〈文武〉二年で、書紀の表記はそれを遡らせたもの。〈持統〉朝の頃には実際の名前は「中臣史 《射于西門》 射〔古訓イクヒ〕は、毎年正月十七日前後に実施される恒例行事になっている(七年《射于南門》)。 《高麗遣使》
新羅は、今回も高麗使に送使を付けて監督した。
四年六月詔「諸王以下初位以上、毎人備兵」について、再度念を押す。 この詔では、その期限を辛巳年〔再来年〕に切った(右表)。 《給其飢寒》 貧乏の民に、もの〔食料・衣料か〕を給わった。「飢寒」は、「飢ゑ寒(こご)ゆる人」の意である。 動詞をそのまま名詞化すること自体は文法違反ではないが、ここでは言葉足らずは否めない。漢籍に「飢寒」は多数ある中で、「~人」の意をこめた名詞化ははなかなか見つからない。 《兵衛大分君稚見死》
だとすれば、贈られた「外小錦上位」は破格である。小錦上は養老令では正五位上に相当する。左右兵衛府では、長官の「督」でも従五位上に過ぎない。 稚臣が生前に与えられたのは、「勇敢士」の称号に過ぎない。やはり、壬申の功臣への叙位叙官は生きている間には極めて渋かった。 《後岡本天皇陵》 〈天武〉元年五月の時点で「山陵」の造営が話題に上っていた(〈壬申紀〉5段)。これが「後岡本天皇陵」〔または〈天智〉陵を含めて二陵〕を指した可能性は高い。 最終的に精緻な八角墳として整えられたのは〈文武〉三年である。 「牽牛子塚古墳」〔考古学名〕がその真陵だとする見方は、2009~2010年の発掘調査によって確定的になっている(【牽牛子塚古墳】)。 少なくとも〈天武〉元年〔672〕ごろから文武三年〔699〕までの長い間、〈斉明〉のための新たな陵の造営はずっと朝廷の関心事であったと考えられる。 しかし、その工事に約30年も要したとは考えられない。 恐らくは幾度か造陵が計画され、その度に立ち消えになったと考えるのが合理的であろう。 それが既存陵の修陵なのか、あるいは改葬陵なのかの判断は難しい。 これについては、考古学名「車木ケンノウ古墳」〔宮内庁治定「越智崗上陵」〕が元の陵〔厳密にいうと初葬は筑紫でその次の陵〕で、「牽牛子塚古墳」は改葬の可能性があると見た (〈天智〉六年《小市岡上陵》項)。 ただ、〈皇極〉の時代に築かれた押坂陵(〈舒明〉)は、既に八角墳である(〈皇極〉二年九月) から、「車木ケンノウ古墳」が〈斉明〉陵ならば八角墳でなければならない〔発掘調査したくても、宮内庁治定陵だから当分は無理である〕。 以下、ひとつのあり得そうな筋書きを描いてみる。大友皇子は〈天武〉元年に〈斉明〉陵の修陵または改葬陵の造営を命じたが、それが〈壬申〉の騒動で立ち消えになった。 〈天武〉八年になり、放置された造陵を改めて実施すべきか否か判断するために天皇が〈斉明陵〉を訪れたことが考えられる。 その結果、もし〈天武〉朝で造陵されたなら〈文武〉三年の整備はその修陵、何も行われていなければ〈文武〉三年にやっと本格造陵となる。 《吉備大宰石川王》
※)…〈景行〉五十五年二月「以彦狭嶋王、拝東山道十五国都督」(〈景行〉五十五年)。 『播磨国風土記』揖保郡/広山里には、旧名は都可(つか)村だったが「以後石川王為二総領一之時改為二広山里一」とある。 よって、少なくとも播磨国と吉備全域〔備前、備中、備後〕の広域を担当する職だったと考えられる。 但し、その行政としての機能はほぼなかったと思われる。思い返すと〈推古〉朝の頃はまだ『隋書』に「軍尼」〔クニ〕と書かれる評〔後の郡〕が地方政治の単位であった(隋書倭国伝(4))。 後に改新詔のころに初めて国司が定められる。これが律令国に繋がるが、飛鳥時代にはまだ行政機能は発展途上である(【大化元年八月五日】)。 さらにその上の大宰となれば、何をかいわんやである。実際にこの名前の職が置かれていたとしても、名目のみであろう。 ただし、筑紫大宰は別である。北九州は弥生時代から独立性を保ち、その伝統は卑弥呼の時代の一大率(魏志倭人伝(57))まで遡る。 《諸王二位》 諸王の位階は、一位が小紫〔後の四品〕の下と思われる。 《貧乏僧尼》 「貧乏僧尼」がここに出てくるのは、寺間の格差が大きくなってきたことの現れと思われる(下述)。 《大意》 八年正月五日、 新羅の送使、加良井山(かりょうせいせん) 金紅世(こんこうせい)らは京に向いました。 七日、 詔を発しました。 ――「凡そ正月節に当たり、 諸王諸臣及び百寮は、 兄姉以上、親及び自らの氏上(うじのかみ)を除き、それ以外には、 拝礼するな。 その諸王については、母といえども王姓に非ざれば、拝礼するな。 凡そ、諸臣はまた卑母には拝礼するな。 正月節でなくとも、またこれに准(なら)え。 もし、犯した者が有れば事のままに罪せよ。」 十八日、 西門で射技しました。 二月一日、 高麗は、 上部(じょうほう)大相(だいしょう)桓欠(かんけん) 下部(かほう)大相(だいしょう)師需婁(しじゅる)らを遣わして朝貢しました。 これにより、新羅は奈末(なま)甘勿那(かんもな)を遣わして、 桓欠(かんけん)らを筑紫に送らせました。 三日、 紀臣(きのおみ)堅摩呂(かたまろ)が卒しました。 壬申年の功により大錦上位(だいきんじょうい)を贈られました。 四日、 詔を発しました。 ――「辛巳(かのとみ)の年〔再来年〕に及び、 親王諸臣及び百寮の人の兵馬を点検させる。 よって、予め貯えよ。」 同じ月。 大恩を垂れて貧乏を憐み、よってその飢え寒い人に給する。 三月六日、 兵衛(ゆけいのつかさ)の大分君(おおきだのきみ)稚見(わかみ)が死にました。 壬申年の大役(たいえき)にあたり、 先鋒となって進み、瀬田の軍営を破りました。 この功により、外小錦上位(がいしょうきんじょうい)を贈られました。 七日、 天皇(すめらみこと)は越智(おち)に行幸され、後岡本天皇陵〔斉明〕に拝礼されました。 九日、 吉備の大宰、石川の王(おおきみ)は、病となり吉備で薨じました。 天皇(すめらみこと)はこれを聞かれ大きく哀しまれ、大恩を垂れ云々、 諸王二位を贈られました。 二十二日、 貧乏の僧尼に、絁(あしぎぬ)、綿、布を施しました。 40目次 【八年四月~五月】 《草壁皇子尊等盟》
この文章は、寺に対して食封を給付する制度があったことを示す。 しかし、寺が独自に開墾して寺領を広げることについては、それが妨げられることは飛鳥時代以後一貫してなかったと思われる。 〈孝徳〉大化二年三月辛巳詔において、 「入レ田与レ山」を寺に独自に開墾して私有する権利を与えたと読んだ (《於脱籍寺入田与山》項)。 それがそのまま荘園に移行したと思われる。 それでも食封の給付を考えなければなかったのは、前出の「貧乏僧尼」と関係があろう。 すなわち、それぞれの寺では檀越〔後援者、資料[45]〕の存在、寺の政治力、開墾能力、教えで門徒を引き付ける僧の資質などによって格差が広がり、その結果極めて貧しくなる寺もあったと思われる。 国家はその救済に乗り出し、裕福な寺から寺領を強制的に没収して貧困な寺に食封として給付する仕組みを考えたものと推察される。 またこの政策は、諸寺が従来の氏族が所有する氏寺の性格を色濃くしたことから脱して、国家の直接管理下に移行することを意味するものと言えよう。 《祭広瀬龍田神》 《祠風神…》項参照。 《吉野宮》 第204回で、ヨシノの古称エシノや、吉野宮跡と目される宮瀧遺跡について考察した。 壬申の乱は吉野宮から大海人皇子が脱出したことから始まった(3段)。 この五月五日という日付から見て、薬猟(くすりがり)〈推古〉二十年五月などを吉野で行った可能性がある。その皇子たちが勢ぞろいした機会を利用して、盟約を行ったことが考えられる。 《天皇詔二皇后及草壁皇子尊…一》
この場面は〈天智〉晩年の太政大臣大友皇子以下による盟約とそっくりである(〈天智〉十年十一月)。〈天智〉の盟約のメンバーは太政大臣を筆頭に、左右大臣と三人の大納言であった。 〈天武〉八年にの盟約においては、草壁皇子がその太政大臣に相当する立場で、他の五皇子を大臣・大納言に擬えることができる〔両方とも人数が六人であることも、偶然とは思われない〕。 すなわち、この「盟」は、皇親政治の姿をもっとも端的に表しているものと言える。 《兄弟長幼并十余王》 六名のうち河嶋皇子と芝基皇子は、〈天智〉の皇子のうち大友皇子以外の二人である。 〈天武〉の親王で誓約メンバーに入っていないのは、舎人親王、穂積親王、長親王、弓削皇子、新田部親王、磯城皇子。 そのうち、舎人親王は、『公卿補任』によれば〈天武〉五年頃に生まれたばかりで、まだ幼少である。 他の皇子は生まれ年が明らかではないが、多くは同じく幼少であったと思われる。 ただ磯城皇子に関しては、朱鳥元年八月に誓約メンバーの六皇子と並んで加封〔百~四百戸、磯城皇子は二百戸〕を賜っているので、 誓約に加わり得る年齢に達していたと思われる。本人の資質の問題かも知れないが、「六名」に拘わるあまり、ぎりぎりで外れたことも考えられる。 逆に実際には誓約に加わってり計七名であったが、記事から名前が漏れたことも考えられる。 《不別同異》 「不別同異」の同・異は名詞形である。異〔コト〕は、形容動詞コトナリの語幹だが上代では連体詞「コト-」、あるいは副詞「コトニ」以外の用法は見あたらない。 よって訓みコトを用いるのは難しそうなので、「異〔アタシ〕」を用いてみる。これについては「アタシ神」などの例があり、シク活用形容詞語幹による連体修飾と解釈し得る。〔ウマシクニ〔美し国〕とパターン。〈時代別上代〉は終止形の連体修飾用法と説明している〕。 ただ、「アタシ」がそのまま名詞になり得るかどうかは分からない。 同〔オナジ〕についても、(万)4073「於奈自久尓奈里」〔同じ国なり〕があり、「美し国」と同じ用法である。 「オナジ」も、そのままの形で名詞になり得るかは不明である。よって、それぞれに形式名詞コトをつけて「オナジコト」、「アタシコト」とするのが安全であろう。 《然今如一母同産慈之》 この「盟」では、伝統的な「異腹」による対立関係の克服に強く拘っている。 異腹の皇子は自動的に皇位継承におけるライバルとなり、氏族がそれぞれを御輿に担ぎ上げて争ったのがこれまでの通例であった。 〈天智〉皇子であった河嶋皇子と芝基皇子がここに加わっているのも、大友皇子とは異腹であったことを考えれば何ら不思議ではない。 異腹の皇子を団結させるのは二本の磁石の同極を合わせて束ねるようなもので、相当の意識改革が必要である。 実際、〈天武〉が崩じた直後に大津皇子の反逆が疑われ、〈持統〉は死を賜うという強硬な処断をせざるを得なかった。 〈天智〉皇子を盟約メンバーに加えたことについては、〈天智〉朝の「太政大臣+左右大臣+大納言三名」に匹敵する体制を作るのに、成人に達した〈天武〉皇子だけでは足らないかったのかも知れない。 もちろん十分な資質を備えていることは当然の条件で、二柱はそれをクリアしたのである。 原則的に〈天武〉朝では、皇子が個別に特定氏族と密接化する余地を極力排除する。卑母拝礼禁止も、その一環である。 また、氏族の者を大臣大納言クラスに引き立てて有力化させることも廃止した。 〈天武〉朝では、諸氏族は塊として朝廷に奉仕する存在と規定され、八色の姓によってランク付けをして支配を貫徹し、ひたすら下働きに徹しさせるのである。 《皇后之盟》 「天皇+六皇子」で盟約した後に、「皇后+六皇子」で同じ形の盟約をしたことが注目される。皇后の実権は、ほぼ〈天武〉天皇と同等であったことが分かる。 皇后の勝気な人柄は、大海人皇子が吉野宮から単騎で駆け出したとき、輿に乗って全力で後を追わせた場面で直感した(第12回)。 また〈天武〉自身は正月の射に景品を出したり、十四年九月の「博戯」の開催などを見ると、大の射幸好きだったようだが、その同じ人物が極めて道徳的な生類憐みの令〔後世の綱吉〕の如き詔を出したことに違和感を感じた。 生類憐みの部分は、専ら皇后の意志によるものではないだろうか。なお、皇后は〈持統〉三年に「禁断双六」を命じているので、〈天武〉の博戯好きには呆れていたと想像される。 皇后が相当の独自権力を有していた印象は、この「皇后之盟且如二天皇一」の一文によってさらに強まる。 《大意》 四月五日、 詔を発しました。 ――「諸々の食封(じきふ)を有する寺の根拠を量り、 加えるべきは加え、除くべきは除け。」 この日、諸寺の名を定めました。 九日、 広瀬と龍田の神を祭祀しました。 五月五日、 吉野宮に行幸しました。 六日、 天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)、 及び草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと) 大津皇子(おおつのみこ) 高市皇子(たけちのみこ) 河嶋皇子(かわしまのみこ) 忍壁皇子(おさかべのみこ) 芝基皇子(しきのみこ)におっしゃりました。 ――「朕は、 今日お前たちと共に庭で盟(ちかい)して 千歳の後も無事でありたいと思う。 いかがであろうか。」 皇子たちは共に、 「理(ことわり)は、実に灼然としております。」と答えました。 そこで草壁皇子尊が、 最初に進み出て盟して申し上げました。 ――「天神地祗、及び天皇は証しをなされてください。 私の兄弟、長幼を合わせて十人余の皇子は、 各々異腹です。 しかし同異の区別なく、 共に天皇の勅に随い、互いに扶助し反目することはありません。 もし今から後、この盟(ちかい)を守らなければ、 命は亡び、子孫は絶えることでしょう。 忘れることはなく、失うこともありません。」 五人の皇子は、次々に互いに草壁皇子尊と同じように盟しました。 この後に、天皇(すめらみこと)は仰りました。 ――「我が子たちは、各々腹違いで生まれた、 しかし、今は一人の母からの同胞(はらから)の如く慈しむものである。」 こうして胸襟を開き、その六人の皇子を抱かれました。 よって、盟(ちかい)して言われました。 ――「もし、この盟に違えば、ことごとく朕身(わがみ)は亡ぶであろう。」 皇后(おおきさき)の盟されたことも、また天皇と同様でした。 七日、 車駕(しゃか)は宮に帰られました。 十日、 六人の皇子は共に天皇に大殿の前で拝礼されました。 まとめ 八年前半で示された諸政策を一言でまとめるなら、氏族を権力機構の中に蔓延 諸氏族から納められた夫人、嬪、宮人は皇子を生んでも、「卑母」と貶められることになった。 また、氏族の人が左右大臣、大納言に栄達する道は塞がれ、政権中枢の業務は天皇血縁の皇子が担う。 壬申の功臣でさえ与えられたのは若干の増封だけで、冠位、官職は生前には得られない。 少子部連鉏鉤の自死(〈壬申紀〉21段)は、やはり期待した大臣クラスの地位が全く得られず、それを大海人皇子による裏切りと受け止めた故であろう。 さらに、寺への食封の商量には氏族からその私有する寺を取り上げ、国家による直接管理に移す意味がある。 こうして、皇室と有力氏族の合議体というかつての国の姿から完全に脱却し、権力を純粋化して律令国家形成に邁進 ただ、この六皇子合議制の実際の運用では、草壁皇子尊と他の五皇子こそ上下が明確であるが、 「太政大臣ー左大臣ー右大臣ー大納言」体制に比べて、五皇子の間の序列は必ずしも明確ではなく、ここが弱点であったように思われる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [29-09] 天武天皇下(4) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||