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2024.03.26(wed) [29-06] 天武天皇下6 

35目次 【六年正月~六月】
《饗多禰嶋人等於飛鳥寺》
六年春正月甲子朔庚辰。
射于南門。
…〈兼右本〉イクフ。 〈北野本〔以下北〕于南門
六年(むとせ)春正月(むつき)甲子(きのね)を朔(つきたち)として庚辰(かのえたつ)〔十七日〕
[于]南門(みなみのみかど)に射(いくふ、ゆみいる)。
二月癸巳朔。
物部連摩呂至自新羅。
至自新羅…〈北〉新羅。 〈兼右本〉マウ
二月(きさらき)癸巳(みづのとみ)の朔(つきたち)。
物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)新羅(しらき)自(よ)り至(まゐく)。
是月。
饗多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下。
多祢嶋人…〈北〉ネノシマ
西槻下…〈兼右本〉西槻モト
是(この)月。
多祢嶋(たねのしま)の人等(たち)を[於]飛鳥寺(あすかてら)の西の槻(つき)の下(もと)に饗(みあへ)す。
三月癸亥朔辛巳。
召新羅使人淸平
及以下客十三人於京。
以下客…〈北〉・〈内閣文庫本〔以下閣〕-下シモヘ-客。 〈兼右本〉以-下シモ ヘハ合-客
しもべ…[名] 身分の低い人。〔平安以後か〕
三月(やよひ)癸亥(みづのとゐ)を朔(つきたち)として辛巳(かのとみ)〔十九日〕
新羅(しらき)が使人(つかひ)清平(せいへい)
及びに以下(しもつかた)の客(まらひと)十三人(とあまりみたり)を[於]京(みやこ)に召したまふ。
夏四月壬辰朔壬寅。
𣏾田史名倉、坐指斥乘輿、
以流于伊豆嶋。
𣏾田史…〈北〉𣏾田 クヒタノフムヒトクラ。 〈閣〉 ノ
〈釈紀〉𣏾田クヒタノフムヒト。 〈兼右本〉材田史。〈伊勢本〉𣏾田[ノ]
坐指斥…〈北〉ヨリテ指-斥 ソシリ奉レリト乗-輿云尓 キミ  一 ソシレマツレリト云尓  。 〈閣〉坐指-屏■乗輿ソシリマツレ又説タハフレリト云
〈釈紀〉ヨリテ-斥ソシレマツレリト云尓キミ輿。 〈兼右本〉 ヨリタハレリト云ソシリタテマツレリト云乗-輿 キミ 
𣏾…〈汉典〉「non-standard variant of 材〔材の非標準異体字〕
指斥(しせき)…特定の人を指して排除する。
伊豆嶋《伊豆嶋》
夏四月(うづき)壬辰(みづのえたつ)を朔(つきたち)として壬寅(みづのえとら)〔十一日〕
𣏾田史(くひたのふみひと)名倉(なくら)、乗輿(みこしにのりたまふきみ)を指斥(そしりまつれること)を坐(つみな)ひて、
以ちて[于]伊豆嶋(いづのしま)に流す。
乙巳。
送使珎那等饗于筑紫。
卽從筑紫歸之。
珎那…〈閣〉 ヨリ
乙巳(きのとみ)〔十四日〕
送使(おくりつかひ)珍那(ちんな)等(たち)を[于]筑紫(つくし)で饗(あへ)す。
即(すなはち)筑紫(つくし)従(よ)り帰之(まかりかへる)。
五月壬戌朔。
不告朔。
不告朔…〈北〉
五月(さつき)壬戌(みづのえいぬ)の朔(つきたち)。
朔(つきたち)を不告(つげたまはず)。
甲子。
勅大博士百濟人率母、
授大山下位、
因以封卅戸。
大博士…〈北〉オホイ ハカセ-士百-済-クタラクノ ヒトソツ タン。 〈閣〉
封卅戸…〈北〉ヨサス卅-戸 ミソヘヒト
甲子(きのえね)〔三日〕
大(おほき)博士(はかせ)百済人(くたらのひと)率母(そちも)に勅(みことのり)したまひ、
大山下位(だいせんげゐ)を授(さづ)けて、
因(より)以ちて封(ふこ)三十戸(みそへ)をたまふ。
是日。
倭畫師音檮、
授小山下位、
乃封廿戸。
倭画師…〈北〉ヤマトノ畫- オト カシ山下位。 〈閣〉畫師エシ オトカシ
是(この)日。
倭(やまと)の画師(ゑかき)音檮(おとかし)に、
小山下位(せうせんげゐ)を授(さづ)く、
乃(すなはち)封(ふこ)二十戸(はたへ)をたまふ。
戊辰。
新羅人阿飡朴刺破
從人三口僧三人、
漂着於血鹿嶋。
阿飡朴刺破…〈北〉阿-セン ホク○○刺-破シハ。 〈閣〉ボク[切]トモ
漂着…〈兼右本〉-着タゝヨヒツケリ
血鹿嶋《五島列島》参照。
戊辰(つちのえたつ)〔七日〕
新羅人(しらきのひと)阿飡(あさん)朴刺破(ぼくしは)、
人(ひと)三口(みたり)僧(ほふし)三人(みたり)を従(したが)へて、
漂(ただよ)ひて[於]血鹿嶋(ちかのしま)に着(つ)けり。
己丑。

「天社地社神税者、
三分之一爲擬供神、
二分給神主。」
神税…〈北〉神-税 カム チカラ者三-分之一為擬-供 ツカマツル二分- ヘ神-主
〈閣〉神-税 オムチカラ  ハ テ ヲハ擬-供ツカムマツリ三字ツカムマツルカ[切] ヲハ分- ヘ ニ
〈釈紀〉神税カムツカラ。 〈兼右本〉神-税オム チカラ-擬-タメニ✓ツカマツルカ供神  ツカマツリ三字ハ合
己丑(つちのとうし)〔二十八日〕
勅(みことのり)のたまはく
「天社(あまつやしろ)地社(くにつやしろ)が神税(かむたから)者(は)、
三(みつ)に分(わかち)てある[之]一(ひとつ)は神に供(そなふること)に擬(なそふる)が為(ため)として、
二(ふたつ)は神主(かむぬし)に分かち給(たま)はれ。」とのたまふ。
是月。
旱之、於京及畿內雩之。
雩之…〈閣〉アマコヒス。 〈兼右本〉アマヒキアマコヒ
…[名/動] 雨乞い(する)。
是(この)月。
旱之(ひで)りて、[於]京(みさと)及びに畿内(うちつくに)に雩之(あめをこひまつる)。
六月壬辰朔乙巳。
大震動。
六月(みなづき)壬辰(みづのえたつ)を朔(つきたち)として乙巳(きのとみ)〔十四日〕
大(おほき)に震動(なゐふる)。
是月。
詔東漢直等曰
「汝等黨族之自本犯七不可也。
是以、
從小墾田御世至于近江朝、
常以謀汝等爲事。
今當朕世、
將責汝等不可之狀以隨犯應罪。
東漢直…〈北〉 ノ漢直アヤノ 黨-族 ヤカラ 自-本モトヨリ不-可 アシキコト小墾田/御 ワサマゝ シ
〈閣〉 マテニ于近 ノ ニ テ ヲ ヲ-責セメラ 
〈兼右本〉汝-等イマシタチ黨-族 ヤカラ  セリ[ノ]不-可アシキ [コト][ヲ]-セメハ合汝等
小墾田御世…〈推古〉朝。
近江朝…〈天智〉朝。
是(この)月。
東漢直(やまとのあやのあたひ)等(ども)に詔(みことのり)曰(のたまはく)
「汝等(いましら)が党族(うがら)之(の)、自本(もとより)七(ななつ)の不可(ゆるすべからざりしこと)を犯(をか)せり[也]。
是(こ)を以ちて、
小墾田(をはり)たにあめのしたしろしめす御世(みよ)従(よ)り[于]近江(ちかつあふむ)の朝(みかど)に至りて、
常(つね)に謀(はかりごと)を以(もち)ゐて汝等(いましら)事(しわざ)を為(な)せり。
今朕世(わがみよ)に当たりて、
将(まさ)に汝等(いましら)が不可(ゆるすべからざる)[之]状(ありさま)を責めむとせば、以ちて犯(をか)せる隨(まにま)に罪なふ応(べ)し。
然頓不欲絶漢直之氏、
故降大恩以原之。
從今以後、
若有犯者必入不赦之例。」
頓不欲…〈北〉 ヒタフル漢直之代イ原之ユリシタマフ○後以イ 若有犯者必入赦之カキリ
〈閣〉 ンヿヲ ノ直之氏 タル ヲ以後 ユキサキ
〈兼右本〉三レ-欲ホシ タエサマクメクミ
然(しかれども)頓(ひたふる)に漢直(あやのあたひ)之(の)氏(うぢ)を絶やさむと不欲(おもほさざり)て、
故(かれ)大(おほき)恩(めぐみ)を降(た)れて以ちて原之(ゆるしたまふ)。
今従(よ)り以後(のち)は、
若(もし)犯(をか)す者(もの)有らば必ず不赦之(ゆるさざる)例(たぐひ)に入(い)れむ。」とのたまふ。
《射于南門》
 年初の一連の行事は、五年と同様と思われる。六年条ではそのうち「于南門」だけをピックアップしたと思われる。
《物部連摩呂》
物部連摩呂  五年十月に新羅に派遣された。
《多禰嶋人》
 政府は、新羅が日本周辺をその勢力下に取り込もうとする動きには敏感になっていたようである。
 それが感じ取れるのは、耽羅と日本との友好を新羅に見せることを注意深く避けた場面である。 また、新羅使が粛慎を連れてきたことには、渡島方面に触手を伸ばしていることを警戒したであろう。
 多祢嶋人との関係の強化は、その文脈上に置くべきであろう。 この後、多祢嶋には八年十一月に正式な使者を送り、爵位を授与。 十年八月には使者が来朝して「多祢国図」を献上。十一年七月には、掖玖人阿麻彌人とともに訪れ賜禄された。
《飛鳥寺西槻下》
 〈斉明〉朝では、飛鳥寺西須弥山石のある広場が外国人使節への接待会場であった(【飛鳥寺西の須弥山石】項)。
 〈天智〉紀にはこの場所は全く見えず、久々の登場である。以後は〈天武〉十年九月に「多祢嶋人等」、〈持統〉二年九月に「饗蝦夷男女二百一十三人冠位」が見える。
《新羅使人清平》
沙飡〔八位〕一覧金清平 五年十一月請政使として派遣。六年三月に、一行十三人が京に召される。
《𣏾田史名倉》
𣏾田史名倉  〈姓氏家系大辞典〉「杭田 クヒタ:地名なるべし」、 「咋田 クヒタ:此れも地名ならん」、 「咋田史:天平五年の右京計帳に「咋田史真利女」等見ゆ。猶ほ天武紀にもあれど、〔ある〕本村田に作れり」。
 𣏾(杭)田史名倉はこだけ。
《送使珍那》
奈末〔十一位〕被珍那 五年十一月金清平らへの送使として来朝、筑紫に滞在。
《不告朔》
 五月の告朔を中止した理由は不明。
《大博士百済人率母》
許率母 〈天智〉十年正月以小山上授…許率母【明五経】」。
《倭画師音檮》
  『新撰姓氏録』-諸蕃 
〖大崗忌寸/出魏文帝之後安貴公。大泊瀬幼武天皇〈雄略〉御世。率四部衆帰化。男龍一名辰貴善絵工。 小泊瀬稚鷦鷯天皇〈武烈〉〔ほめたまひ〕其能〔おびと〕。 五世孫勤大壱〔天武十四年の位階〕恵尊。亦工絵才。天命開別天皇〈天智〉御世。賜姓倭画師。亦高野天皇神護景雲三年。依居地改賜大崗忌寸姓
倭画師音檮 〈姓氏録〉()によれば〈雄略〉朝に帰化したというから、新漢(いまきのあや)の一氏族であろう。〈雄略〉【七年是歳(三)】条には「画部因斯羅我いんしらが」の名がある。 神護景雲三年〔769〕に氏姓大崗忌寸を賜る。
 画師に「」(やまと)がつくのは、〈雄略〉のとき新漢大和国に安置され、そのまま定住したためと見られる。安置された土地真神原飛鳥寺の辺り、桃原石舞台古墳の辺りに比定されている (《真神原》)。
《新羅人阿飡朴刺破》
阿飡〔六位〕一覧朴刺破 八月二十七日に金清平とともに帰国。
 一行には僧も含まれることを見ると日本への帰化が目的だったと考えられるが、だとすれば意に反して帰されたことになる。
《神税》
 神主に給する「二分」は、「三分の二」の意であろう。「擬供神」が神のものになるという意味なら、結局すべて神社に入るから分ける意味がない。 よって、「擬供神」とは、国家が神を祀る費用を名目として召し上げるという意味であろう〔""、""の字にそれが表れている〕
 すなわち、社領に属する民による納税のうち三分の一を国庫、三分の二を社に配分したと読むのがもっとも解りやすい。
《東漢直》
 〔やまと〕のことで、とほぼ同族である。 よって、東漢倭漢東文倭文の4通りに書けるが、そのうち倭文だけは別族〔しとり;縫物の職業部〕であることに注意したい。 一方、西河内を表す。
 東西ののうち、東文の祖は阿知使主西文の祖は王仁吉師である (資料[25]/《文宿祢》〈推古〉十六年九月●倭漢項)。
 倭漢の諸族の上には、坂上直が宗家として立つ。 〈壬申紀〉14において坂上直熊毛は、近江朝廷の飛鳥寺西軍営を乗っ取る工作を主導した。 この限りでは大海人皇子側に付いたことになるが、一面では正統な日嗣を覆す側に加わったことを意味する。
 ここで、〈推古〉から〈孝徳〉までの時期の反乱の歴史を振り返ってみよう。
 山背大兄王が〈舒明〉と継位を争った(〈舒明〉1)。 また、大化元年九月には古人皇子が反乱を起こした。 さらに〈斉明〉四年には、有間皇子が〈斉明〉天皇を謀略的に殺そうとした。
 これらのうち、古人皇子に加わった倭漢文直麻呂以外に東漢直は明示されないが、これらを含め広い案件に関わっていたことを「七不可」と称したのであろう。 すなわち東漢直には伝統的に天下を覆す画策に与かろうとする性癖があり、〈天武〉はそれを諫めたということである。
 なお、大化元年九月古人皇子側に加わった朴市秦造田来津も後に復権した。 皇位争いも決着がつけばノーサイドで、反乱側についた氏族もいずれ赦されるという文化的伝統がうかがわれる。
《大意》
 六年正月十七日、 南門で射技を行いました。
 二月一日、 物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)は新羅から帰国しました。
 この月、 多祢(たね)の嶋の人たちを飛鳥寺の西の槻の下で饗しました。
 三月十九日、 新羅の使者清平(せいへい) 以下(しもつかた)の客十三人を京に召しました。
 四月十一日、 𣏾田史(くいたのふみひと)名倉(なくら)は、輿に乗る人〔天皇〕を指斥(しせき)した〔悪しざまにいった〕ことを罪に問い、 伊豆の嶋に流しました。
 十四日、 送使珍那(ちんな)らを筑紫で饗しました。 そして筑紫から帰りました。
 五月一日、 この月は告朔を中止しました。
 三日、 大博士、百済人率母(そちも)に勅して、 大山下位を授け、 三十戸を封戸としました。
 同じ日、 倭〔大和国〕の画師音檮(おとかし)に、 小山下位を授け、 二十戸を封戸としました。
 七日、 新羅人阿飡(あさん)朴刺破(ぼくしは)が、 三人と三僧を連れて、 血鹿嶋(ちかのしま)に漂着しました。
 二十八日、 勅しました。
――「天社(あまつやしろ)地社(くにつやしろ)の神税(かみたから)は、 三分の一は神に供するに擬(なぞら)える為のものとし、 三分の二は神主に給われ。」
 この月は 旱魃で、京と畿内で雨乞いしました。
 六月十四日、 大地震が起こりました。
 この月、 東漢直(やまとのあやのあたい)らに詔しました。
――「お前たち族党は、もともとの不可なることを犯した。 これにより、 小墾田(をはりだ)の御世〔推古天皇〕から近江朝〔天智天皇〕まで、 常に謀を用いてお前たちは事をなした。 今朕の世となり、 お前たちの不可なる有様を責めようとすれば、犯したことに隨い罰するべきである。
 しかし、本意は漢直(あやのあたい)の氏(うじ)を絶やそうとは思わず、 よって大恩を垂れて赦す。 これからは、 もし犯す者が有れば必ず赦さない例に入れる。」


36目次 【六年七月~十二月】
《祭龍田風神廣瀬大忌神》
秋七月辛酉朔癸亥。
祭龍田風神廣瀬大忌神。
龍田風神…〈閣〉田○廣 風神 
秋七月(ふみづき)辛酉(かのととり)を朔(つきたち)として癸亥(みづのとゐ)〔三日〕
龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)を祭(いは)ひたまふ。
八月辛卯朔乙巳。
大設齋於飛鳥寺以讀一切經。
便天皇御寺南門而禮三寶。
大設斎… 〈北〉 タマフ。 〈閣〉設齋
〈兼右本〉-ヲカミス-齋於飛鳥寺[ニ] シム一切經[ヲ]
礼三宝…〈北〉三寶
八月(はつき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として乙巳(きのとみ)〔十五日〕
[於]飛鳥寺(あすかでら)に大設斎(だいせちせ)したまひて、以ちて一切経(いつさいけふ)を読ましむ。
便(すなはち)天皇(すめらみこと)寺の南の門(みかど)に御(おほましま)して[而]三宝(さむほう)を礼(ゐやま)ひたまふ。。
是時、詔親王諸王及群卿、
「毎人賜出家一人。
其出家者、不問男女長幼、
皆隨願度之。
因以會于大齋。」。
毎人賜出家…〈閣〉出-家イヘテ一人。 〈北〉○家出イマテフ于大-ヲカミ。 〈閣〉マゝニ[ニ][テ]ノイ点度之イヘテセシム マワウ于大ヲカミ
是(この)時、親王(みこ)諸王(もろもろのおほきみ)及びに群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)のたまはく、
「人毎(ごと)に出家(いへで)せしむ一人(ひとり)を賜(たま)はむ。
其の出家(いへで)せむ者(ひと)は、男女(をのこめのこ)長幼(このかみおと)を不問(とはず)て、
皆願(ねがひ)の隨(まにま)に度之(わたら)しめよ。
因(よ)りて、以ちて[于]大斎(だいせ)に会(つど)へしめよ。」とのたまふ。
丁巳。
金淸平歸國。
卽漂着朴刺破等、
付淸平等返于本土。
漂着…〈北〉 ケシ 朴判破伎等/身イ/付サツケ/清イツカハス。 〈閣〉刺破 ヲ[切]サツケテ清平 ニ
〈兼右本〉漂-着タゝ マシ本-土 ツ クニ
丁巳(ひのとみ)〔二十七日〕
金清平(こむせいへい)国に帰(まかりかへる)。
即(すなはち)漂(ただよひ)着(つ)けてある朴刺破(ぼくしは)等(ども)を、
清平(せいへい)等(ら)に付(そ)へて[于]本土(もとつくに)に返(かへ)しぬ。
戊午。
耽羅遣王子都羅、朝貢。
王子都羅…〈北〉王子 セシム 。 〈閣〉。 〈釈紀〉/ツ
戊午(つちのえうま)〔二十八日〕
耽羅(とむら)の王子(わうし、せしむ)都羅(とら)を遣(まだ)して、朝(みかづををろがみ)貢(みつきたてまつ)らせむ。
九月庚申朔己丑。
詔曰
「凡浮浪人其送本土者、
猶復還到則彼此並科課役。」
九月…〈北〉九-月ナカツキ
浮浪人…〈北〉浮-浪 ウカレ 人。 還到則 モ モオホキ課-■ツキ。 〈閣〉 セヨオホキ課- ミツキ
〈兼右本〉ヲホセヨ課役 ミツキエタチ[ヲ]
うかれひと…[名] 本籍地を離れ異郷に流浪する人。
九月(ながつき)庚申(かのえさる)を朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)〔三十日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「凡(おほよそ)浮浪人(うかれひと)の其(その)本土(もとつくに)に送らえし者(もの)は、
猶(なほ)復(また)還(かへり)到(いた)らば、則(すなはち)彼此(かもこも)並びに課役(えつき)を科(おほ)せ。」とのたまふ。
冬十月庚寅朔癸卯。
內小錦上河邊臣百枝
爲民部卿、
內大錦下丹比公麻呂
爲攝津職大夫。
内小錦上ウチノ○○ カハ ヘノ ヲン モゝ民部カキヘノカキト ウチノ○○○○タン ヒノ キミロヲ攝-津ツノツカサノ大-夫 カミト
〈閣〉民部カキヘノカミ○内。 〈続紀〉百枝モゝエタ
冬十月(かむなづき)庚寅(かのえとら)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔十四日〕
内(うちつ)小錦上(せうきむじやう)河辺臣(かはべのおみ)百枝(ももえ)を
民部(たみのつかさ)の卿(かみ)と為(す)。
内(うちつ)大錦下(だいきむげ)丹比公(たぢひのきみ)麻呂(まろ)を
攝津職(つのつかさ)の大夫(かみ)と為(す)。
十一月己未朔。
雨不告朔。
筑紫大宰獻赤鳥。
則大宰府諸司人賜祿各有差。
且專捕赤鳥者賜爵五級。
乃當郡々司等加増爵位。
因給復郡內百姓以一年之。
専捕…〈北〉タクメ トレル私記曰 専字説ミツ■
〈閣〉ミツカラタクメトレル。 〈釈紀〉專捕タクメトレル私曰。専又説美ツ加良
給復…〈北〉・〈閣〉給復ツキユルシタマフ
十一月(しもつき)己未(つちのとひつじ)の朔(つきたち)。
雨ふりて朔(つきたち)を不告(つげたまはず)。
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)赤鳥(あかきとり)を献(たてまつ)る。
則(すなはち)大宰(おほみこともち)の府(つかさ)の諸(もろもろ)の司人(つかさのひと)に禄(もの)賜(たまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
且(また)専(もはら)赤鳥を捕(とらへ)てある者(ひと)に爵(かがふり)五級(いつしな)を賜(たま)ふ。
乃(すなはち)当郡(そのこほり)の郡司(こほりのつかさ)等(ら)に爵(かがふり)の位(くらゐ)を加増(くは)へたまふ。
因(よ)りて郡(こほり)の百姓(たみ、おほみたから)に給復(みつきかへしたま)ひて以ちて一年(ひととせ)之(ゆ)けり。
是日、大赦天下。
大赦…〈兼右本〉[二]天-下[ニ]
是(この)日、大(おほきに)天下(あめのした)に赦(ゆる)したまふ。
己卯。
新嘗。
新嘗…〈兼右本〉新-嘗ニハナヒキクシメ[ス]
己卯(つちのとう)〔二十一日〕
新嘗(にひなめ)したまふ。
辛巳。
百寮諸有位人等賜食。
賜食…〈閣〉 イヒ
辛巳〔二十三日〕
百寮(もものつかさ)、諸(もろもろ)の位(かがふり)を有(もてる)人等(たち)に食(くらひもの)を賜ふ。
乙酉。
侍奉新嘗神官及國司等賜祿。
神官…〈北〉神官カムツカサ
乙酉〔二十七日〕
新嘗(にひなめ)に侍(はべ)り奉(まつ)れる神官(かむつかさ)及びに国司(くにのつかさ)等(たち)に禄(もの)賜ふ。
十二月己丑朔。
雪不告朔。
不告朔…〈北〉雪不。 〈閣〉 テ不告朔。 〈兼右本〉 フリ[テ]
十二月己丑朔。
雪ふりて朔(つきたち)を不告(つげたまはず)。
《龍田風神広瀬大忌神》
 《祠風神…》参照。 この年は四月の祭りが書かれないが、単なる欠落かも知れない。
《大設斎於飛鳥寺》
 飛鳥寺は出発点こそ蘇我氏の氏寺であったが、〈天武〉朝には国家管理の大寺となっている。
《毎人賜出家一人》
 「人賜出家一人」という。 この文は「天皇が親王・諸王・群卿に、各一人出家者を与える」としか読めないが、文脈からは「親王以下に各一人の出家者を出させる」である。
 「」の原意を無理やり維持するなら「親王以下に出家人を一人出すことの許可を賜う」となるが、実質的には「〔べし〕である。 すなわち親王〔皇子〕、諸王〔皇子皇女の子女以下、概ね五代孫まで〕、群卿のそれぞれに、身内や配下の者一人を出家させよと命じた。
 なお、「毎人…」以下の部分は詔の引用とも、詔によって実施された事柄とも読めるが、細目の規定を含むから前者であろう。
《金清平》
沙飡金清平 五年十一月請政使として来朝。六年七月帰国。
《耽羅王子都羅》
都羅 四年閏六月にも朝貢。
 ここでも耽羅使は、新羅使の帰国を待って入国したかの如きタイミングである。両者のバッティングを避けることは通例化したと見てよいだろう (《耽羅使人》《耽羅王姑如》)。
《凡浮浪人》
 本籍地から離れて税を納めない者への対策が定められた。この問題が浮かび上がってきたということは、班田収授法と徴税の体制が既に相当程度出来上がっていたことを示す。
《還到則彼此並科課役》
 『類聚三代格』延暦十七年〔798〕四月十六日太政官符の「-浪他郷-避課役。自今以後浮浪逗留経三月以上調庸」 は、流浪人でも三か月滞在したら調庸を課せという。 これと同様に、〈天武〉六年詔は流浪していた期間もその分の役を課せという趣旨であろう。
 「其送本土」とあるから、流浪人が見つかったら強制送還するのが建前だったかも知れない。さらに「彼此並」の文字からは、帰郷したら懲罰的に両方の土地の課役を科したようにも読める。
 ただ、この文章ではそれと厳密に確定するのは難しい。「課役」は現地の分だけと読むのが穏当かも知れない。
《内小錦上》
 内位の場合「内-」は自明だから普通はつけないが、大三輪子人君の例では贈位が贈官を伴うことを示したと見た(五年八月)。それ以外に「内…位」は、なかなか見いだせない。
 ここの「小錦上」は、これまで外位だったものを、任官と同時〔もしくは直前〕内位に昇らせたことを示したのかも知れない。
 なお、この構文では被任命者の頭に「」を付けるのが書紀の通常仕様である。よって、古記録を原型のまま収めた可能性がある。すると「内小錦上」という珍しい位階表記も、古記録によるものかも知れない。
《河辺臣百枝》
河辺臣百枝 斉明二年八月に百済救軍の「前将軍」を拝する。
《民部卿》
 「民部省」は資料[24]、 〈倭名類聚抄〉に「長官:省曰卿…【已上皆加美】」とある。
 すなわち、民部(省)、およびその長官のという呼び名が、大宝令以前から存在したのである。
《丹比公麻呂》
丹比公麻呂  〈宣化〉元年三月「〔〈宣化〉皇子〕上殖葉皇子、亦名椀子。是丹比公偉那公凡二姓之先也」。この後〈天武〉十三年十月に、真人姓を賜る。
《摂津職大夫》
 〈倭名類聚抄〉の「長官:勘解由職曰大夫…【已上皆加美】」に摂津職大夫も準じるだろうから、「長官:大夫」は明らか。 「摂津職」がそこにないのは、同書が成立した10世紀初めには摂津職大夫が既に廃されていたからであろう〔延暦十三年〔793〕廃止〕。 (資料[19])。
《不告朔》
 十一月の告朔中止は「」を理由とするが、新嘗による中止が既に決まっていたかも知れない。 翌十二月の中止は「」を理由としている。
《赤鳥》
 赤鳥の献上に伴い、捕獲者、当該郡、郡司への恩賞や進階、百姓の免税、さらに天下の大赦まで及び、すこぶる慶事であった。 白雉の献上に匹敵する扱いだから、直ちに改元があっても不思議はない。
 ところが、実際の朱鳥への改元はこれから9年後になる。何か理由があったのだろうか。
《爵五級》
 〈続紀〉天平十一年〔739〕三月癸丑に、「神馬」進上の記事がある。 その馬は「青馬白髦尾」であったという。そこには「対馬嶋目正八位上養徳馬飼連乙麻呂所獲神馬」すなわち、獲た人は対馬嶋の目〔さくゎん、四等官四位〕養徳馬飼連乙麻呂で、さらに「其進馬人、賜爵五級〔ならびに〕」とある。 続けて、「馬郡今年庸調、自余郡之庸。国司史生以上、亦各賜」とあることは、赤鳥の場合と共通する。
 「養徳馬飼連乙麻呂」は神馬を受け取って報告した役人で、直接の「馬人〔野山または牧場でたまたま神馬を見つけて連れて来た人〕は馬飼の一人と思われる。 一介の馬飼がいきなり冠位を賜ることはあり得ないから「爵五級」は名誉としての恩賞で、冠位制の外にあった制度と見るべきであろう。
《侍奉新嘗》
国郡占卜不告朔新嘗賜禄
二年 ○ ―○(大嘗)十二月丙戌〔五日〕
三年 ー ー ー ー
四年 ー ー ー ー
五年九月丙戌〔二十一日〕以新嘗事不告朔 ○ ―
六年 ―雨不告朔十一月己卯〔二十一日〕十一月乙酉〔二十七日〕 
:文脈により実施が確定。:記載なし。
 新嘗に関する記事は右表に示したのみであるが、米の供出郡の占いによる決定、関係者への賜禄、11月の告朔の中止は恒例化していたと思われる。
 なお、「侍奉」は「」を補助動詞マツルに用いたもので、和習である。
《雪不告朔》
 の動詞形は「雪ふる」であることが、(万)0892布流欲波 ゆきふるよは」によって確定する。
《大意》
 七月三日、 龍田の風の神、広瀬の大忌(おおいみ)の神を祀りました。
 八月十五日、 飛鳥寺で大設斎(だいせちせ)し、一切経(いっさいきょう)を読経しました。 よって、天皇(すめらみこと)は寺の南門で三宝に拝礼されました。
 この時、親王、諸王、そして群卿に詔されました。
――「一人に付き一人の出家させてよいと賜る。 その出家者は男女長幼を問わず、 皆を願いのままに出家させよ。 その者を、大設斎に参集させよ。」
 二十七日、 金清平(こんせいへい)は帰国しました。 そして、漂着した朴刺破らを、 清平と共に本国に帰しました。
 二十八日、 耽羅(とんら)の王子(せしむ)都羅(とら)を遣して、朝貢しました。
 九月三十日、 詔しました。
――「凡そ浮浪人(うかれびと)は本国に送り、その者には なお行った先と再び帰った土地の分の課役をともに科せ。」
 十月十四日、 内(うち)の小錦上(しょうきんじょう)河辺(かわべ)の臣百枝(ももえ)を 民部省の卿(かみ)としました。 内(うち)の大錦下(だいきんげ)丹比公(たじひのきみ)麻呂(まろ)を 摂津職(せっつしき)の大夫(かみ)としました。
 十一月一日、 雨が降り告朔を中止しました。
 筑紫の大宰は赤い鳥を献上しました。 そして、大宰府の諸々の官司にそれぞれに応じて禄を賜りました。 また、直接赤鳥を捕えた者に爵五級を賜りました。 すなわち、当郡の郡司らに爵位を加増しました。 これにより、郡の百姓に調(みつき)の免除を、一年間としました。
 同日、天下に大赦しました。
 二十一日、 新嘗しました。
 二十三日、 百寮、諸々の位をもつ人たちに食物を賜りました。
 二十七日、 新嘗に侍した神官及び国司らに禄を賜りました。
 十二月一日、 降雪のために告朔を中止しました。


まとめ
 正月行事や新嘗のことが〈天武〉紀二年~六年にいくつか書かれるのは、宮廷での伝統行事の出発点が〈天武〉朝にあったことを示すためであろう。 風神・大忌神の件を毎年欠かさないのは、年中行事として定着させたい意図があるのかも知れない。
 耽羅、多祢嶋、粛慎の件は、新羅が日本周辺海洋に積極的に進出している動きと関連づけて読むべきであろう。
 さて、「爵五級」に注目してその性格を考察した論は、なかなか見つからない。 また「三分之一為擬供神」の意味は、書記原文執筆者自身も正確に理解していなかったように思える。 『日本書紀』研究史には膨大な積み重ねがあるが、未解明の部分もまだ多いと思われる。



2025.03.30(sun) [29-07] 天武天皇下7 

37目次 【七年正月~九月】
《十市皇女薨》
七年春正月戊午朔甲戌。
射于南門。
正月…〈北野本〔以下北〕正月ムツキ/イクフ于南門
七年(ななとせ)春正月(むつき)戊午(つちのえうま)を朔(つきたち)として甲戌(きのえいぬ)〔十七日〕
[于]南門(みなみのみかど)に射(いくふ、ゆみいる)。
己卯。
耽羅人向京。
向京…〈兼右本〉マウク
己卯(つちのとう)〔二十二日〕。 耽羅(とむら)の人(ひと)京(みさと)に向(まゐむかふ)。
是春。
將祠天神地祗而天下悉祓禊之
竪齋宮於倉梯河上。
祓禊…〈北〉祓-禊ハラヘ 倉-梯クラハシノ
〈内閣文庫本〔以下閣〕祓-ハラヘス ノ河-上カハカミニ 
〈兼右本〉祓-禊オホンハラヘ
是春(このはる)。
将(まさ)に天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を祠(いは)ひまつりて[而]天下(あめのした)悉(ことごと)に祓禊之(みはらへ)せむとおもほして、
斎宮(いむみや)を[於]倉梯(くらはし)の河上(かはのへ)に竪(た)たしたまふ。
夏四月丁亥朔。
欲幸齋宮卜之。
丁亥…〈北〉卜之ウラナフ。 〈兼右本〉卜之ウラフル 
夏四月(うづき)丁亥(ひのとゐ)の朔(つきたち)。 [欲]斎宮(いむみや)に幸(いでま)さむとおもほして卜之(うらへたまふ)。
癸巳。
食卜。
仍取平旦時。
警蹕既動
百寮成列
乘輿命蓋。
食卜…〈北〉アヘリ卜仍取平旦 トラ 警-蹕ミサキオヒ 既- メ百-寮/成列乗-輿キミオホムカサメシテ
〈閣〉命蓋ヲホムカサメシ。 〈兼右本〉メシオホンカサ
とら(時刻)…午前3時~5時。
平旦…夜明け時。
あさけ…[名] 明け方。〈時代別上代〉「アカトキ…より朝に近い時をさす」。
癸巳〔七日〕
卜(うら)を食(を)したまふ。
仍(よ)りて平旦(あさけ)の時を取りたまひて、
警蹕(みさきばらひ)既(すで)に動(た)ちぬ。
百寮(もものつかさ)列(つら)を成(な)して、
輿(みこし)に乗りて命蓋(きぬがさせしめ)たまふ。
以未及出行、
十市皇女卒然病發、
薨於宮中。
由此、鹵簿既停、
不得幸行。
遂不祭神祗矣。
未及出行…〈北〉未及-出-行オハシマシ病-オコ ウセヌ[テ]鹵-簿ミユキノツラ[切] トゝ[テ]幸行オハシマス [句]
〈閣〉病-オコテ幸-行ヲハシマスヿ。 〈兼右本〉トゝマヤン 
つら…[名] 列。
鹵簿…天子の行列。は警備に用いる盾。簿は行列の並び順を記した書。
以ちて未(いま)だ出行(いでまし)に及ばざりて、
十市(とをち)の皇女(みこ)卒然(たちまち)に病(やまひ)発(おこ)りて、
[於]宮中(おほとののうち)に薨(こうず、みうせぬ)。
此(こ)に由(よ)りて、鹵簿(ろぼ、みゆきのつら)既(すで)に停(とど)まりて、
幸行(いでますこと)を不得(えず)。
遂(つひ)に神(あまつかみ)祗(くにつかみ)を不祭(いははず)[矣]。
己亥。
霹靂新宮西廳柱。
霹靂新宮…〈北〉-靂カムトキス新宮 ニヒミヤノ西ニシノマツリコトゝノハシラニ。 〈兼右本〉-靂 カントキ 
かむとけ…[名] 落雷。
まつりごとどの…[名] 政殿。
己亥(つちのとゐ)〔十三日〕
新宮(にひみや)の西の庁(まつりごとどの)の柱(はしら)に霹靂(かむとけ)あり。
庚子。
葬十市皇女於赤穗。
天皇臨之、降恩以發哀。
臨之…〈北〉臨之ミソナハシ發-哀ミネシタマフ
〈兼右本〉ミソナハシイテマシ[テ]
赤穂…〈閣〉
庚子〔十四日〕
十市皇女(とをちのみこ)を[於]赤穂(あかほ)に葬(はぶ)りまつる。
天皇(すめらみこと)之(こ)に臨(のぞ)みたまひて、恩(めぐみ)を降(た)れ以ちて発哀(ほつあい、みね)したまふ。
秋九月。
忍海造能摩呂、獻瑞稻五莖。
毎莖有枝。
由是、徒罪以下悉赦之。
三位稚狹王薨之。
忍海造…〈北〉ヲシウミノミヤツコ能ヨシ-呂アヤシキ稲五モトモト徒罪/ミツカフツミ三-位ミツノクラヰワカサノヲホキミ。 〈閣〉毎莖 モトコトニ  リマタ徒-罪 ミツカラ 〔ミツカフツミの誤写〕
もと…[助数詞] 草木などを数える。
秋九月(ながつき)。
忍海造(おしのみのみやつこ)能摩呂(のまろ)、瑞(みづ)稲(しね)五茎(いつもと)を献(たてまつ)る。
茎(ひともと)毎(ごと)に枝(え)有り。
是(こ)に由(よ)りて、徒罪(みつかひのつみ)より以下(しもつかた)悉(ことごと)に赦之(ゆるしたまふ)。
三位(さむゐ)稚狭王(わかさのおほきみ)薨之(こうず、みまかる)。
《射于南門》
『飛鳥宮跡 解説書』(p.10)に加筆
四年正月壬戌〔十七日〕西門
五年正月乙卯〔十六日〕西門庭
六年正月庚辰〔十七日〕南門
七年正月甲戌〔十七日〕南門
八年正月己亥〔十八日〕西門
九年正月癸巳〔十七日〕南門
十年正月丁亥〔十七日〕朝庭
十三年正月丙午〔二十三日〕東庭
十四年五月庚戌〔五日〕南門
 「射」は、正月十七日前後の恒例行事となっている。 『飛鳥宮跡 解説書』〔関西大学文学部考古学研究室/奈良県明日香村;2017〕 は、西門南門右図の位置に想定している。エビノコ郭は〈天武〉朝で新たに設置されたと見られている(資料[54])。
《耽羅人》
都羅 耽羅遣王子都羅は、六年七月朝貢〔筑紫に到着した日か〕。八年九月に帰る。
《倉梯河上の斎宮》
 地名「倉梯」は〈崇峻〉段「倉椅柴垣宮」の地で、概ね桜井市倉橋を遺称とする (第247回)。 ただ、「倉梯河上の斎宮」の位置を積極的に突き止めようとした研究は今のところ見つからない。
 斎宮(いつきのみや)は、「斎王イツキノミコのおられる御殿」で、「実際には伊勢神宮を指したもの」(〈時代別城代〉)とされる。 大来皇女は伊勢で奉斎する前に、「泊瀬斎宮」で潔身した(〈天武〉二年四月)。
 ただ、「竪斎宮…」で述べるのは天神地祇を祀り祓禊するための宮である。 したがってここの「斎宮」は一般的な忌みの宮と見たほうがよい。
 ただ、直感的には次の筋書きが考えられる
 十市皇女の突然の死に至るまでの経過は、次のように整理できる。
 〈天武〉が倉梯河上斎宮に出発する前夜までは、十市皇女は健康であった。
 十市皇女は四年二月に伊勢神宮を訪れたことにより、斎王の生活がどんなものかを知っていた。
 斎宮」という名称は、 大来皇女が斎王になるために潔身した「泊瀬斎宮」と同じである。
 十市皇女が薨じたことにより、斎宮自体が廃された。
 これらの外形的事実に拠れば、十市皇女は斎王になることを命じられていたが、直前になっても納得することができず自死したと捉えることができる。
 ただ、この説の前には『懐風藻』が立ちはだかる。それによれば、十市皇女は斎王になるには高齢なのである(次項)。
 〈天武〉の皇女の一人が〈天智〉の妃となり葛野王を生んだところまでは史実であろう。 しかし、本説を貫こうとすれば、その母の名が誤って伝わったことを証明しなければならない。これが大変に困難であることも、また確かである。
《十市皇女薨去》
十市皇女 母は額田姫王(《娶額田姫王:十市皇女》)。 四年二月丁亥〔十三日〕に「十市皇女…参-赴於伊勢神宮」。
 十市皇女は、大友皇子の妃であったとされる。
 その根拠とされるのは『懐風藻』〔漢詩集;天平勝宝三年〔751〕成立〕の 「葛野王二首」の項の記述である。
王子〔葛野王〕〔は〕淡海帝〈天智〉之孫、大友太子之長子也。母浄御原帝〈天武〉之長女十市内親王」、「正四位。拝式部卿。年三十七」。
 葛野王の死亡については、〈続紀〉にも次の記事がある。
 〈続紀〉慶雲二年〔705〕十二月「丙寅。正四位上葛野王」。
 すなわち、十市皇女は大友皇子の妃となり、葛野王を生んだ。葛野王の生まれ年は〈天智〉八年〔669〕ぐらいで、 仮に出産可能年齢を15~30歳とすると、〈天武〉七年〔679〕には十市皇女は25~40歳となる。
 『大日本地名辞書』近江滋賀郡「堅田」項には「宇治拾遺云、大友皇子の妃は大海人皇子の女、十市皇女なり、 近江の謀を父に告申さむとおぼし…、鮒のつゝみ焼のありける腹に、小さく文をかきて押入れて奉り給へり云々」とある。
 その『宇治拾遺物語』〔13世紀はじめ〕原文の該当箇所は、巻十五「清見原天皇合戦の事」にある。 原文は「この大とものわうじ〔大友皇子〕の妻にては春宮〔大海人皇子〕の御女ましければ、父のころされたまはんことをかなしみ給て…」というもので、 実際には「」の名前は略されている。これを「十市皇女」と読むのは、『大日本地名辞書』が『懐風藻』に依ってそう判断したのであろう。
《霹靂新宮西庁柱》
 「新宮」は、飛鳥宮にエビノコ郭を増築する際、既存部分も化粧直しをしたからそう称したのであろう。 落雷の痕跡が発見されているかどうかについては、「飛鳥宮跡」の調査報告を検索したところでは「霹靂」の語句は見つからない。 恐らく西庁の柱の落雷跡は未検出と思われる。
《赤穂墓》
 〈延喜式-諸陵寮〉に赤穂墓のことは載らない。
 〈倭名類聚抄〉の{播磨国・赤穂郡}があるが、明日香からはかなり遠いので現実的ではない。
《忍海造能摩呂》
忍海造能摩呂 忍海造忍海造大国参照。能麻呂らは〈天武〉十年に連姓を賜る。
《瑞稲五茎》
 〈延喜式-祥瑞〉に瑞稲はないが、「嘉禾【…或孳連数穂。或一稃二米】〔孳=しげる。稃=もみがら。〕が見え、「下瑞」に分類されている。
《稚狭王》
稚狭王 〈壬申紀〉14飛鳥寺西軍営に布陣。吹負が謀略的に軍営を乗っ取っとったとき、高坂王とともに稚狭王も大海人皇子側に寝返った。
《大意》
 七年正月十七日、 南門で射技を催しました。
 二十二日、 耽羅(とんら)の客人は京に向かいました。
 この春、 天神地祗を祠(まつ)り、天下(あめのした)に悉く祓禊しようと思われ、 斎宮を倉梯(くらはし)の河上に立てられました。
 四月一日、 斎宮に行幸しようと思われ、〔出発の日時を〕占いました。
 七日、 占いで得ていた 結果を採用してその日の夜明けに、 警蹕(けいひつ)〔先払い〕がまず出発しました。 百寮は列を成し、 輿に乗り蓋(きぬがさ)をささせられました。
 すると、未だ出発に至らぬときに、 十市皇女(とおちのひめみこ)が突然発病し、 宮中で薨じました。 これにより、鹵簿(ろぼ)〔行列〕は停止し、 行幸できませんでした。 遂に神祗を祀りませんでした。
 十三日、 新宮殿の西庁の柱に落雷しました。
 十四日、 十市皇女(とおちのひめみこ)を赤穂に葬りました。 天皇(すめらみこと)はこれに臨まれ、恩を垂れ発哀(ほつあい)されました。
 九月、 忍海造(おしのみのみやつこ)能摩呂(のまろ)は、瑞稲(みずしね)を五本を献上しました。 一本ごとに枝分かれがありました。 これにより、徒刑〔強制労働の刑〕以下の者を悉く赦しました。
 〔諸王〕三位稚狭王(わかさのおおきみ)が薨じました。


38目次 【七年十月~是歳】
《官人等議其優劣則定進階》
冬十月甲申朔。
有物如綿、
零於難波。
長五六尺廣七八寸、
則隨風以飄于松林及葦原。
時人曰甘露也。
零於難波…〈北〉フレリ於難波五六ハカリ/■■フ
〈閣〉五六ハカリ[テ]廣七八ハカリ[テ]マゝラニ ノ[切]ヒゝル于松 ハラ。 〈兼右本〉マゝ風以ヒゝル
時人…〈北〉時人曰 カム。 〈閣〉特人曰甘◳露◱也。〈兼右本〉甘- キ ナリ
甘露…『類聚名義抄』法下「甘露:アマキツユ」。
冬十月(かむなづき)甲申(きのえさる)の朔(つきたち)。
物有りて綿(わた)の如(ごと)くありて、
[於]難波(なには)に零(ふ)る。
長さは五六尺(いつさかむさか)ばかり、広さは七八寸(ななきやき)ばかり、
則(すなはち)風の隨(まにま)に[ありて以ちて][于]松の林(はやし)及びに葦原(あしはら)に飄(ただよへり、ひひる)。
時の人甘露(かむろ)なり[也]と曰(い)へり。
己酉。
詔曰
「凡內外文武官、毎年、
史以上其屬官人等
公平而恪懃者、
議其優劣則定應進階。
内外文武官…〈北〉内-文-武-官フムツカサツハモノツカサ / サミ以上
スヘラルゝ官人等公平オホヤケコゝロミ恪懃ツトメ イソカラ者 議其マサリヲトレル テ

〈閣〉サウクワムサカ以上公-平オホヤケコゝロミテ[切]恪懃ツトメ イソカツゝシミイソカラムモノヲハマサリ オトレルヲ
〈兼右本〉文武官フンツカサ ツハモノゝツカサフミ ツハモノゝツカサ
サカセウクワンヨリ-上トモ[切]公-平オホヤケノコゝロアリ[テ]恪-懃ツゝシミイソシキツゝシミツトメイソカシカランモノ
恪懃…「恪勤」はまじめでよくつとめる。
…[動・形] つつしむ。
…[形] ねんごろ。
いそし…[形]シク 勤勉である。
己酉(つちのととり)〔二十六日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)内外(うちとと)の文武官(ふみのつかさつはもののつかさ)は、毎年(としごとに)、
史(ふみひと、さくわん)より以上(かみつかた)、其の属(つ)ける官人(つかさ)等(たち)の、
公(おほやけ)の平(ならす)こころありて[而]恪(つつし)みて懃(いそし)き者(もの)に、
其の優(まされる)劣(おとれる)を議(はか)りて則(すなはち)進む応(べ)き階(しな)を定めよ。
正月上旬以前、具記送法官。
則法官校定、申送大辨官。
上旬…〈兼右本〉上-旬トウカヨリ。 〈北〉上旬/次■
大弁官…〈北〉 トモヒ。 〈閣〉大辨オホ トモヒノツカサニ
〈倭名類聚抄〉「大弁:於保伊於保止毛比〔オホイオホトモヒ〕
正月(むつき)の上旬(とうか)以前(までに)、具(つぶさ)に記(しる)して法官(のりのつかさ)に送れ。 則(すなはち)法官(のりのつかさ)校(かむが)へ定めて、大弁(おほきおほともひ)の官(つかさ)に申(まを)し送れ。
然、緣公事以出使之日、
其非眞病及重服、
〔輕或本
緣小故而辭者、
不在進階之例。」
及重服…〈北〉 オヤノウ輕緣イサゝカコト 辞- サレル
〈閣〉 テ オヤノウレヘニ[切]スナハチ テ小故 イサゝカコトニ辞-サレル
〈兼右本〉スナハチ小-故イサゝカナルコトサレラ階之アトカト
重服…〈汉典〉「服喪過度;重喪服」〔程度の高い服喪、重い喪服〕。
出使…①外に使いに出る。②使いを出す。ここでは「出仕」の誤りと見るのがよいだろう。
いささけし…[形]ク 少しばかりであること。
然(しかれども)、公(おほやけ)の事に縁(よ)りて以ちて出使之(つかひにいでむ)日、
其(それ)真(まこと)の病(やまひ)及びに重服(おもきも)に非(あらず)て、
輒(たやすく)〔軽(あなづりて)或る本
小(いささけ)き故(ゆゑ)に縁(よ)りて[而]辞(いなぶる)者(もの)は、
進階之(しなをすすむる)例(たぐひ)に不在(あらじ)。」とのりたまふ。
十二月癸丑朔己卯。
臘子鳥弊天自西南飛東北。
子鳥…〈北〉臈-子- アトリ鳥弊。 〈閣〉臈-子-鳥アトリ阿止利[切] テ テ
〈兼右本〉𦡳-イ乍子-鳥[切]カクレ[ニ][テ]西-南ヒツシサルノスミ東-北ウシトラノスミ
…[動] たおれる。死ぬ。止まる。尽きる。破れる。疲れる。
十二月(しはす)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔二十七日〕
臘子鳥(あとり)天(あめ)を弊(やぶ)りて西南(ひつじさる)自(ゆ)東北(うしとら)にむかひて飛ぶ。
是月。
筑紫國大地動之、
地裂廣二丈長三千餘丈、
百姓舍屋毎村多仆壞。
舎屋…〈北〉舎-屋ヤカス仆-壞タ ヤ。 〈兼右本〉仆-壊タフレ ヤフレリ
…[助数詞] 1丈=10尺。正倉院尺で約3.0m。
是(この)月。
筑紫(つくし)の国大(おほ)きに地動之(なゐふる)、
地(つち)裂(さ)けて広さ二丈(ふたつゑ)長さ三千丈(みちつゑ)余り、
百姓(たみ)の舎屋(いへ)村毎(ごと)に多(さは)に仆(たふ)れ壊(こほ)れり。
是時、百姓一家有岡上、
當于地動夕以岡崩處遷、
然家既全而無破壞、
家人不知岡崩家避、
但會明後知以大驚焉。
有岡上…〈北〉[辶+㟵]-上。 〈閣〉有岡上
当于地動夕…〈北〉以㟵崩。 〈兼右本〉當于地-動ナイフル
会明…〈北〉會-アケホ。 〈兼右本〉會-明アケホノ 
…[動] (古訓) さる。のかる。まぬかる。
是(この)時、百姓(たみ)の一家(ひとや)岡上(をかのへ)に有り、
[于]地動(なゐ)の夕(ゆふへ)に当たりて以ちて岡(をか)崩(くづ)れて処(ところ)遷(うつ)りて、
然(しかれども)家(いへ)既(すで)に全(また)くありて[而]破壊(こほるること)無し、
家の人岡(をか)の崩(くづ)れて家避(まぬかるる)ことを不知(しらず)て、
但(ただ)会明(あけぼの)にいたれる後(のち)に知りて以ちて大(おほ)きに驚けり[焉]。
是年。
新羅送使奈末加良井山
奈末金紅世、
到于筑紫曰
送使奈末…〈北〉便/使奈末ナマリヤウセイ セム奈未金紅世コン コウ セイ
〈閣〉
是(この)年。
新羅(しらき)の送使(おくりつかひ)奈末(なま)加良井山(かりやうせいせん)
奈末(なま)金紅世(こむこうせい)、
[于]筑紫(つくし)に到りて曰(まを)さく
「新羅王、
遣汲飡金消勿
大奈末金世々等、
貢上當年之調。
汲飡金消勿…〈北〉級飡 仍イ キフ サンコン セウ モツ大奈末 コン セイセイ
〈閣〉波飡金消勿。 〈兼右本〉 レル
「新羅(しらき)の王(わう、こきし)、
汲飡(きふさん)金消勿(こむせうもつ)
大奈末(だいなま)金世々(こむせいせい)等(ら)を遣(まだ)して、
当年(ことし)之の調(みつき)を貢上(たてまつ)らしむ。
仍遣臣井山、送消勿等。
倶逢暴風於海中、
以消勿等皆散之、不知所如。
唯井山僅得着岸。」
遣臣井山…〈北〉ヤツカレ井山
コゝ消勿等ス シラ トコロヲ イニケン僅得キシニホトリ
〈閣〉コゝテ消勿等 ヲ イニケム マ ホトリニ
〈兼右本〉暴-アラキコゝヲモ[テ]消-勿等[ヲ][切]アカレ
仍(よ)りて遣(まだ)せてある臣(やつかれ)井山(せうせん)、消勿(せうこつ)等(ら)を送れり。
倶(とも)に[於]海中(わたなか)に暴風(はやち)に逢(あ)ひて、
以ちて消勿(せうこつ)等(ら)皆(みな)散之(あか)ちて、所如(ゆくへ)を不知(しらず)。
唯(ただ)井山(せいせん)のみ僅(わづかに)岸(きし)に着けることを得(え)まつる。」とまをす。
然、消勿等遂不來焉。 然(しかれども)、消勿(せうこつ)等(ら)遂(つひ)に不来(まゐきたらず)[焉]。
《隨風以飄》
 直訳すると「風に隨(したが)ひて以て松林及び葦原に漂(ただよ)ふ」となるが、ぎこちない。 「風のまにまに松林及び…」と訓めばよいだろう。
 の古訓「ママラ」は、「ママ〔恐らく平安時代の形〕+ラ〔語調を整える〕」と見られる。 の古訓「ヒヒル」は〈時代別上代〉などの辞書類を見ると、書紀古訓の特有語と見られる。タダヨフの方が、普通に使われる。
《甘露》
 天子に徳があると「甘露降(る)」とされ、漢代から用例は著しく多い。その一例を見る。
『白虎通徳論』〔前漢〕巻五/封禅
天下太平符瑞所-以来至者、以為王者承統理、調-和陰陽万物序、休気充塞、故符瑞並臻、皆応徳而至。 徳至天則斗極明、日月光、甘露降。 天下太平、符瑞至り来た所以(ゆゑ)は、以為(おもへらく)王者統理を承(うけたまは)り、陰陽万物の序を調和し、気休み充塞せし故に符瑞並べに臻(いた)り、皆徳に応じ而(しこう)して至る。 徳天に至り則ち斗〔=北斗〕明きを極め、日月光り、甘露降る。
甘露者美露也、降則物無盛者也。 甘露は美(うまし)露なり、降りたるは則ち盛りならざること無きものなり。
 『前漢記』序文に、漢代の瑞祥が列挙され、その中には甘露も含まれる。
『前漢記』〔後漢〕
凡祥瑞。黄龍見。鳳皇集。麒麟臻。神馬出。神鳥翔。神雀集。白虎仁獸獲。宝鼎昇。宝磬神光見。山称万歳。甘露降。芝草生。嘉禾茂。玄稷降。醴泉涌。木連理。 凡そ瑞祥は、黄竜見ゆ、麒麟臻(いた)る、神馬出づ、…、甘露降る、…
 甘露はしばしば年号に用いられている。
《凡内外文武官》
 『礼義解』には、例えば 令義解-選叙令:「凡任内外文武官而本位有高下者、若職事卑為行高為〔凡そ文武官に任ずるは、本位に高下あれば若し職の事、卑ならば「行」として、高ならば「守」とせよ〕 とある。この他にもしばしば、「内外文武官」という言い回しが見える。
 文官武官を区別して書かれた例は、わずかにひとつの太政官符に見つかった。 それは、「式部掌内外文官禄賜名帳。兵部掌内外武官名帳禄賜」()なる一文である。
 その全文の概略を示す〔原文は略す〕
 太政官符 弘仁六年〔815〕十一月十四日
●「定式部兵部相論給季禄日儀式事
 兵部省による「解」〔上申〕がいうには、 「大蔵省が春夏の禄を給付する儀式で、整列の仕方を巡って混乱があった。 刀称※)が、この年は式部と兵部に別々に立てられた。 これまでは「式部」の刀称のところに混ざって並んでいたのに、どうしたことかと不審に思い整列できない事態が生まれた。 そこで、明法曹司に問い合わせたところ、()のように名帳をそれぞれの省で管理しているから、別々の刀称のところに並ぶべしという返答を得た」。
 式部省も「解」を提出した。その主張は「禄賜が式部と兵部を別々にして行なうことに異論はないが、儀式の次第は式部省の管轄だから両者を混合して並ばせたい。 式部省は礼儀を掌る職だが、兵部省に礼儀の職はないではないか」というものであった。
 太政官が出した結論は、「元日や大嘗では文武の列を混合する。これは論ずるまでもない。しかし、こと賜禄に関しては省ごとに行うものだから、賜禄の儀式では文武の列を分けよ」というものであった。
※)刀称…並び位置の表示か。表示札を太刀に付けて列の先頭に立てたものと推察される。
 このように内容を読み取ると、題名「式部省と兵部省による季禄を賜る日の儀式についての相論を定む」はよく分かる。 内容は式部省と兵部省の間の権限を巡っての縄張り争いに決着を付けようとするものである。興味深いが、ここでは文官武官という言葉の使われ方を知ることが目的なので、深入りを避ける。
 これを見ると「文武官」は「文官」と「武官」の総称である。 また文官武官は特定の官職名ではなく、ほぼ現代における使い方と同じである。 この大宰官符からは、式部省は名帳によって広く文官を管理したが、武官に関しては兵部省が独自に名帳を備えて管理していたことが分かる。
《史以上》
 〈倭名類聚抄〉に「佑官:神祇曰史【〔と〕大政官同】…【皆佐官】」とある。佑官は、四等官の第四位である。 〈時代別上代〉によれば「フミヒト:文案を審署勘造し、公文を読むことを掌る官庁の第四等の官。のちにはサクヮンという方が一般となる」。 したがって、書記古訓はサクヮンが一般的になった時代の呼称を用いている。さらに、サカ(ン)〔平安時代の書法ではンを書かない〕、セウクヮン〔少官か〕とも言われたようである。
《法官大弁官》
 法官式部省の前身と見られる(〈天智〉十年《法官大輔…》)。
 太政官〔省庁の上にあって統括する〕に左右の大弁中弁が置かれる。倭読は〈倭名類聚抄〉に「大弁【於保伊於保止毛比】」、「中弁【奈加乃於保止毛比】」。
《非真病及重服》
 敢えて「真病」と書くのは、仮病による不出仕が横行していたからであろう。
 「重服」は『令義解』軍防令に「重服【謂父母喪也】」とある。分注は平安前期の解釈ではあるが、「重い」とする基準は古くから概ね父母であろう。
《輒・軽》
 は、『令義解』僧尼令に多く使われ、例えば「尼不輒入僧寺」が見える。タヤスクが伝統訓のようである。 『令義解』には「」を「かろんじて」として用いる例は見えないので、が正解であろう。
《臘子鳥》
アトリ
 「臘子鳥」は、〈倭名類聚抄〉に{臈觜鳥【阿止里。一云胡雀】。獦子鳥【和名同上。今案両説所出未詳。但本朝国史用獦子鳥。 又或説云。此鳥群飛如列卒之山林故名獦子鳥也】〔…この鳥群れて列卒のゆくが如く飛びて山林に満つが故に獦子鳥と名づく〕とあり、アトリと訓まれる。 の異体字。
 (万)4339久尓米具留 阿等利加麻氣利 由伎米具利 くにめぐる あとりかまけり ゆきめぐり」。
 アトリはスズメ目アトリ科。全長16cm。橙色の胸と白色の腹。
《弊天》
 が誤写でなければ、「空を引き裂くが如く」などと比喩的に表現されたことになる。
《筑紫國大地動之》
 [天武七年の筑紫地震と水縄断層] (『地震予知連絡会会報』52〔国土地理院1994〕)によると、 「福岡県久留米市での多数地点の遺跡調査と山川前田遺跡での活断層のトレンチ掘削調査によって、 「日本書紀」記載の天武七年筑紫地震の起震断層が水縄(みのう)断層であることが判明した」。
 それによると、過去7000年間に「少なくとも3回の大地震動の記録が得られ」、 「そのうちの最新の大地震動の記録は史料にある天武7年の筑紫の大地震と年代的に一致する」という。
[天武七年の筑紫地震と水縄断層]付図に加筆
 同書は、次の個所について「天武地震の可能性有り」とする。
時期位置(朱書は右図)内容
弥生後期終末期以後9世紀前半以前筑紫国府跡()遺構下の逆断層と非変形の建物跡
7世紀後半~8世紀後半官衙城東限(11)埋没した噴砂・液状化層
7世紀後半ごろ~8世紀後半上津土塁跡版築土の崩壊・擂り鉢状窪地
古墳時代~中世山川前田遺跡()水縄断層露頭での土師器を含む地割れ
《地裂》
 「地裂」は地割れを意味するが、実際には地表面に現れた断層だと思われる。 その食い違い量が6m、長さが9km余ということであろう。
《百姓一家有岡上》
 「一家有岡上」は和習で、「一家在岡上」が正しい。
 一軒の家が丘の崩壊で流されたが、家そのものは壊れなかった。朝になって家人がそれを知って驚いたという。 地震の時刻は「」とある。まだ薄明だから気付かないのは不審であるが、夕方からずっと家の中にいて明け方に初めて外に出たと解釈することはできる。
《新羅送使》
 到着した送使。
奈末〔十一位〕一覧加良井山 八年正月に京に向かう。
奈末〔十一位〕金紅世 八年正月に京に向かう。
 遭難した貢調使。
汲飡〔八位〕金消勿 ここだけ
大奈末〔十位〕金世々 ここだけ
《暴風》
 〈倭名類聚抄〉「暴風:八夜知又乃和木乃加世〔ハヤチ、ノワキノカゼ〕
はやち…[名] 突風。ハヤテとも。
のわき…[名] 台風。ノワケとも。ワキは分ク(四段)の連用形名詞。〈時代別城代〉「四段のワクを古形と見ようとする説もある」。
 「是年」とあるだけで時期が書かれないから、気象条件は不明である。一般的には台風や急発達する低気圧、顕著な寒冷前線の通過が考えられる。
《大意》
 十月一日、 綿のような物があり、 難波に降りました。 長さ五六尺〔1.5~1.8m〕、幅七八寸〔21~24cm〕、 風のままに松林や葦原に漂いました。 当時の人は、甘露だと言いました。
 二十六日、 詔しました。
――「凡そ内外の文武官は、毎年、 史(さかん)以上の属する官人らのうち、 公平恪懃(かくきん)〔=慎み深く勤勉〕な者に、 その優劣を議って、進めるべき位階を定めよ。
 正月の上旬までに、つぶさに記して法官(のりのつかさ)に送れ。 法官は勘考して、大弁官(おおいおおともいのつかさ)に申し送れ。
 しかし、公事により出仕すべき日に、 真病及び重服〔=父母の喪〕ではなく、 安易に取るに足らない理由をつけて来ない者は、 進階の例には入れない。」
 十二月二十七日、 獦子鳥(あとり)が空を突き破って西南から東北に向かって飛びました。
 同じ月に、 筑紫国に大地震があり、 大地が裂け、幅が二丈〔=3m〕長さが三千丈〔=9km〕余に及び、 百姓の家屋は村毎に多くが倒壊しました。
 この時、百姓の家が一軒岡の上にあり、 地震は夕方に当たり、岡は崩れ家は移動しましたが、 家は既に無事で破壊されず、 家人は岡が崩れ家が免れたことを知らず、 ただ、夜が明けた後に知って大変驚きました。
 この年、 新羅の送使奈末(なま)加良井山(かりょうせいせん)、 奈末(なま)金紅世(こんこうせい)が、 筑紫に到着して申し上げました。
――「新羅の王(こきし)は、 汲飡(きゅうさん)金消勿(こんしょうもつ) 大奈末(だいなま)金世々(こんせいせい)らを派遣して、 今年の調を献上させました。
 そこで遣わされた臣、井山(せいせん)は、消勿(しょうこつ)らを送りましたが、 共に海中で暴風に逢い、 消勿(しょうこつ)らは皆散り散りとなり、行方は不明です。 ただ、私井山(せいせん)は僅かに岸に着きました。」
 しかし、消勿等が来ることは遂にありませんでした。


まとめ
 少なくとも十市皇女の薨が、倉梯河上斎宮での祭祀の中止と強く関連付けられていることは確かである。 その裏には、伏せられた事情があったことが暗示されているように思える。
 四月に十市皇女と阿閉皇女が伊勢神宮を訪れたときに、大来皇女との間で何らかの話し合いが行われ、既にややこしいことになっていたことも考えられる。
 そうしてみると、大友皇子の妃とされていることについても、もうしばらくは受け入れずに置くほうがよいのかも知れない。



2025.04.06(sun) [29-08] 天武天皇下8 

39目次 【八年正月~三月】
《新羅送使加良井山金紅世等》
八年春正月壬午朔丙戌。
新羅送使加良井山
金紅世等向京。
八年(やとせ)春正月(むつき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔五日〕
新羅(しらき)が送使(おくりつかひ)加良井山(かりやうせいせん)
金紅世(こむこうせい)等(ら)京(みやこ)に向(まゐく)。
戊子。
詔曰
「凡當正月之節、
諸王諸臣及百寮者、
除兄姉以上親及己氏長以外、
莫拜焉。
当正月之節…〈北野本〔以下北〕正月之 トキ オイテ兄姉以上親及  カソ ウカラ 己氏コノカミ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 テ テ
 オイテ兄姉コノカミ イロト以上ウカヲ カ氏長 ウチコノカミヲ以- ハコト
〈兼右本〉イロトヨリイロネヨリウカラ氏-長ウチノカミ
戊子(つちのえね)。〔七日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「凡(おほよそ)正月(むつき)之(が)節(せち)に当りて、
諸王(おほきみたち)諸臣(まへつきみたち)及びに百寮(もものつかさ)者(は)、
兄(このかみ)姉(いろね)より以上(かみつかた)親(おや)及びに己(おの)が氏長(うぢのかみ)を除(お)きて以外(ほか)は、
莫(な)拝(をろが)みそ[焉]。
其諸王者雖母非王姓者莫拜。
凡諸臣亦莫拜卑母。
雖非正月節復准此。
若有犯者隨事罪之。」
雖母非王…〈北〉イロハヤカラ王-姓者莫
〈閣〉其諸王○雖 ト ヿ。 〈兼右本〉カハネ シム
其の諸王(おほきみたち)者(は)、母(はは)と雖(いへども)王(おほきみ)の姓(かばね)に非(あらざ)ら者(ば)莫(な)拝(をろが)みそ。
凡(おほよそ)諸臣(まへつきみたち)は亦(また)卑母(いやしきはは)を莫(な)拝(をろが)みそ。
正月(むつき)の節(せち)に雖非(あらねど)復(また)此(こ)に准(なそ)へ。
若(もし)犯(をかせる)者(もの)有らば事の隨(まにま)に罪之(つみなへ)。」とのりたまふ。
己亥。
射于西門。
…〈兼右本〉イクフ
己亥(つちのとゐ)。〔十八日〕
[于]西門(にしのみかど)に射(いくふ、ゆみいる)。
二月壬子朔。
高麗
遣上部大相桓欠
下部大相師需婁等朝貢。
因以、新羅遣奈末甘勿那、
送桓父等於筑紫。
上部大相桓欠…〈北〉上部大シヤウ ホウ タイ○○-クワンカト カ ホウ○○-相師-需シ シユ
 [テ]カ■シ■
〈閣〉カン大相師需 テ送桓
〈釈紀〉シヤウホウタイシヤウ桓欠クワムカム奈未カム
〈兼右本〉カンイ乍
…(呉音)コム、ケチ。(漢音)ケム、ケツ。
二月(きさらき)壬子(みづのえ)の朔(つきたち)。
高麗(こま)、
上部(じやうほう)大相(だいしやう)桓欠(くわんけむ)
下部(かほう)大相(だいしやう)師需婁(しじゆる)等(ら)を遣(まだ)して朝(みかどにをろがみ)貢(みつきたてまつ)らしむ。
因(よ)りて以ちて、新羅(しらき)奈末(なま)甘勿那(かむもな)を遣(まだ)して、
桓欠(くわんけむ)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
甲寅。
紀臣堅摩呂卒。
以壬申年之功贈大錦上位。
大錦上冠位二十六階第七位。
甲寅(きのえとら)。〔三日〕
紀臣(きのおみ)堅摩呂(かたまろ)卒(そつ)す。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて大錦上位(だいきむじやうゐ)を贈りたまふ。
乙卯。
詔曰
「及于辛巳年、
檢校親王諸臣及百寮人之兵及馬。
故豫貯焉。」
親王諸臣…〈閣〉王○臣及百 ノトモノ之兵及 ヲ故豫ソナヘヨソナヘム
〈兼右本〉檢- シムソナヘヨアラカシメ ソナフ
乙卯(きのとう)。〔四日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「[于]辛巳(かのとみ)の年〔再来年〕に及びて、
親王(もろもろのおほきみ)諸臣(まへつきみたち)及びに百寮人(もものつかさのひと)之(の)兵(つはもの)及びに馬(うま)を検校(かむが)へしめたまはむ。
故(かれ)予(あらかじめ)貯(たくは)へよ[焉]。」とのりたまふ。
是月。
降大恩恤貧乏以給其飢寒。
降大恩…〈北〉タレテ大-恩 ミメクミヲ貧-乏 メクムテ マツシキモノヲ其飢寒 モノタマフソノ ウヱコゝイタルモノニ
〈兼右本〉貧-乏マツシキトモシキ
こゆ…[自]ヤ上二 こごえる。
こごる…[自]ラ四 凝り固まる。
…[動] あわれむ。うれえる。
是(この)月。
大(おほ)き恩(うつくしび)を降(た)れて、貧(まづしき)乏(ともしき)ものを恤(あはれ)びたまふ、以ちて其の飢(う)ゑ寒(こ)ゆるものに給(ものたまふ)。
三月辛巳朔丙戌。
兵衞大分君稚見死。
當壬申年大役、
爲先鋒之破瀬田營。
由是功、贈外小錦上位。
兵衛…〈北〉兵-衞 トネリ 大-分オホキタ  キミノワカ。 〈閣〉兵-衛トネリ。 〈兼右本〉大-エタチ
為先鋒…〈北〉 シテ先-鋒 サキ ト-小錦上位
〈閣〉為先 トシテ ノ小錦 ノ先-鋒サキ レリ
兵衛…〈倭名類聚抄〉{近衛府・兵衛府・衛門府【由介比乃豆加佐】}。
小錦上冠位二十六階第十位。
三月辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)。〔六日〕
兵衛(ゆけひのつかさ)大分君(おほきたのきみ)稚見(わかみ)死(しに)せり。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年の大役(おほきえたち)に当(あた)りて、
先鋒(さき)と為(な)りて之(ゆ)きて瀬田営(せたのいほり)を破りつ。
是の功(いさみ)に由(よ)りて、外(と)の小錦上位(せうきむじやうゐ)を贈(おく)りたまふ。
丁亥。
天皇幸於越智拜後岡本天皇陵。
後岡本天皇…〈斉明〉天皇。
丁亥(ひのとゐ)。〔七日〕
天皇(すめらみこと)[於]越智(をち)に幸(いでま)して、後岡本(のちのをかもと)みやにあめのしたしろしめし天皇(すめらみこと)〔斉明〕の陵(みささき)を拝(をろが)みまつりたまふ。
己丑。
吉備大宰石川王病之薨於吉備。
天皇聞之大哀則降大恩、云々。
贈諸王二位。
諸王二位…〈北〉諸王二位ヲホキミタチノフタツノクラヰ
己丑(つちのとうし)。〔九日〕
吉備(きび)の大宰(おほみこともち)石川(いしかは)の王(おほきみ)、病之(やまひ)して[於]吉備(きび)に薨(こうず、みまかる)。
天皇(すめらみこと)聞之(きこ)して大(おほき)に哀(かなし)びたまひて、則(すなはち)大恩(おほきめぐみ)を降(た)る、云々(しかしか)。
諸王(おほきみたち)の二位(にゐ)を贈(おく)りたまふ。
壬寅。
貧乏僧尼施絁綿布。
…〈北〉フトキヌ。〈倭名類聚抄〉「:和名阿之岐沼」(改新詔四曰)。
壬寅(みづのえとら)。〔二十二日〕
貧(まづしき)乏(ともしき)僧(ほふし)尼(あま)に、絁(ふときぬ)綿(わた)布(ぬの)を施(あた)ふ。
《新羅送使》
加良井山 七年に漂着した。京に向かう。帰国の記事なし。
金紅世 同上
 新羅の派遣した送使は筑紫止まりが通例である (二年《送使》四年《送使》)。 今回は朝貢使が遭難してしまったので、代わって京に喚されたと見られる。あるいは、苦難を労うためかも知れない。
《莫拝》
 日付は戊子だが、実際には詔は前年の暮れまでに発せられていて、「戊子」とあるのは年頭の拝礼の実施日のように思われる。
《諸王者雖母非王姓者莫拝》
 諸王の母ならこれまでは拝礼行事に参加できた。しかし以後は、その人自身が親王諸王の子でなければ、拝礼行事に参加することが許されないという(右図)。 拝礼行事への参加は、その出身氏族の権威付けになるからであろう。
《莫拝卑母》
 ここでいう「」は親王〔おそらく内親王を含む〕の母のことで、当然諸臣が拝礼する対象となる。 ところが、その人が「卑母」である場合には拝礼してはならないという。 それでは、「卑母」であるかは否かはどこで線引きされるのであろうか。
 〈天武〉二年条の系図を見ると、夫人の呼び分けは、
 ()…〈天智〉天皇の皇女。()夫人…大臣の息女。()(呼称なし)…大臣以外の者のむすめ
 となっている。参考のために〈天智〉紀を見ると、
 ()…該当者なし。()…大臣の息女。()宮人…大臣以外の者のむすめ
 と称されていた。
 は当然卑母であろうが、が卑母かどうかは分からない。しかし、〈天武〉の皇親政治のさまを見れば、も卑母に含めるのが順当であろう。 夫人などに向かって拝礼することは、必然的にその出身氏族の権威を高める。それを嫌って「卑母」としたのであろう。
 皇親政治志向は、既に壬申の発軍の時点に遡る。 それは、大海人皇子が高市皇子に「近江朝の大臣や群臣を凌駕するはたらきを見せよ」と叱咤激励した場面である(〈壬申紀〉13)。
 壬申の勝利後は、諸族が権力に介入することを最大限に防ぐ。仮に壬申の功臣であったとしても行賞は官職ではなく、位階封戸のみとする。
 ただ、早くも〈持統〉三年には右大臣が復活した。それでも、その上に重しとして高市皇子太政大臣として置く。 また藤原史(不比等)は三年に「判事」、十年に「直広二位」を賜り、奈良朝における藤原氏の台頭に道を開いた。
 なお、不比等が藤原姓を賜ったのは〈文武〉二年で、書紀の表記はそれを遡らせたもの。〈持統〉朝の頃には実際の名前は「中臣史なかとみのふひと」であったと見てよい。 不比等は正二位右大臣まで昇り、養老四年〔720〕に薨じた。
《射于西門》
 〔古訓イクヒ〕は、毎年正月十七日前後に実施される恒例行事になっている(七年《射于南門》)。
《高麗遣使》
上部大相〔沙飡(八位)に相当〕一覧桓欠 ここだけ。
下部大相〔同上〕師需婁 ここだけ。
 を〈北野本〉は「」とするが、そのよみはケムで、ではない。 カムケムの誤写で、に誤写される前にそのよみが定着していたとみられる。現代の刊本はを用いている。
 新羅は、今回も高麗使に送使を付けて監督した。
奈末〔十一位〕甘勿那 ここだけ
《紀臣堅摩呂卒》
紀臣堅摩呂 紀臣訶多麻呂は、二年十二月造高市大寺司を拝す。
 内位が贈られたのは、中央の官職についていたからであろう。 贈位されたのは壬申での活躍故だが、その功の記事は〈壬申紀〉からは漏れている。
〈天武〉干支西暦
八年己卯679
九年庚辰680
十年辛巳681
《検校親王諸臣及百寮人之兵及馬》
 四年六月詔「諸王以下初位以上、毎人備兵」について、再度念を押す。 この詔では、その期限を辛巳年〔再来年〕に切った(右表)。
《給其飢寒》
 貧乏の民に、もの〔食料・衣料か〕を給わった。「飢寒」は、「飢ゑ寒(こご)ゆる」の意である。 動詞をそのまま名詞化すること自体は文法違反ではないが、ここでは言葉足らずは否めない。漢籍に「飢寒」は多数ある中で、「~人」の意をこめた名詞化ははなかなか見つからない。
《兵衛大分君稚見死》
大分君稚見 朝明郡で大海人皇子に合流(〈壬申紀〉10)。 大分君稚臣は、瀬田橋を先頭を切って渡り戦況を切り開いて「勇敢士」と称えられた(17)。
 兵衛は令制では省外官で、左兵衛府右兵衛府があった(資料[24])。 『職員令』には「〔長官〕〔次官〕大尉少尉〔判官〕大志少志〔佑官〕」が各一人。 「医師一人。番長四人。兵衛四百人。使部三十人。直丁一人」。 職務は「閤門〔宮殿の門〕の警備、定時の巡検〔見回り〕、車駕の前後の警備などが読み取れる。 令前には、まだ左右に分かれていなかったであろう。大分君稚見の死が「」ではなく「」なのは、四等官ではなくその下に仕える「兵衛」だったからだと考えられる。
 だとすれば、贈られた「外小錦上位」は破格である。小錦上は養老令では正五位上に相当する。左右兵衛府では、長官の「」でも従五位上に過ぎない。
 稚臣が生前に与えられたのは、「勇敢士」の称号に過ぎない。やはり、壬申の功臣への叙位叙官は生きている間には極めて渋かった。
《後岡本天皇陵》
 〈天武〉元年五月の時点で「山陵」の造営が話題に上っていた(〈壬申紀〉)。これが「後岡本天皇陵〔または〈天智〉陵を含めて二陵〕を指した可能性は高い。 最終的に精緻な八角墳として整えられたのは〈文武〉三年である。 「牽牛子塚古墳〔考古学名〕がその真陵だとする見方は、2009~2010年の発掘調査によって確定的になっている(【牽牛子塚古墳】)。
 少なくとも〈天武〉元年〔672〕ごろから文武三年〔699〕までの長い間、〈斉明〉のための新たな陵の造営はずっと朝廷の関心事であったと考えられる。 しかし、その工事に約30年も要したとは考えられない。 恐らくは幾度か造陵が計画され、その度に立ち消えになったと考えるのが合理的であろう。
 それが既存陵の修陵なのか、あるいは改葬陵なのかの判断は難しい。 これについては、考古学名「車木ケンノウ古墳〔宮内庁治定「越智崗上陵」〕が元の陵〔厳密にいうと初葬は筑紫でその次の陵〕で、「牽牛子塚古墳」は改葬の可能性があると見た (〈天智〉六年《小市岡上陵》)。 ただ、〈皇極〉の時代に築かれた押坂陵(〈舒明〉)は、既に八角墳である(〈皇極〉二年九月) から、「車木ケンノウ古墳」が〈斉明〉陵ならば八角墳でなければならない〔発掘調査したくても、宮内庁治定陵だから当分は無理である〕
 以下、ひとつのあり得そうな筋書きを描いてみる。大友皇子は〈天武〉元年に〈斉明〉陵の修陵または改葬陵の造営を命じたが、それが〈壬申〉の騒動で立ち消えになった。 〈天武〉八年になり、放置された造陵を改めて実施すべきか否か判断するために天皇が〈斉明陵〉を訪れたことが考えられる。 その結果、もし〈天武〉朝で造陵されたなら〈文武〉三年の整備はその修陵、何も行われていなければ〈文武〉三年にやっと本格造陵となる。
《吉備大宰石川王》
石川王 近江から脱出して鈴鹿関に大津皇子が到着したとき、その一行の一人が、「石川王」と間違われている (〈壬申紀〉10)。
 筑紫以外に「大宰」が出てくるのは、古い時代の「東山道都督〔大宰に相当〕※)を除けば、ここが唯一である。理屈の上では、いくつかの国司の上に置かれたものである。
※)…〈景行〉五十五年二月「以彦狭嶋王、拝東山道十五国都督」(〈景行〉五十五年)。
 『播磨国風土記』揖保郡/広山里には、旧名は都可(つか)村だったが「以後石川王為総領之時改為広山里」とある。 よって、少なくとも播磨国吉備全域〔備前、備中、備後〕の広域を担当する職だったと考えられる。
 但し、その行政としての機能はほぼなかったと思われる。思い返すと〈推古〉朝の頃はまだ『隋書』に「軍尼〔クニ〕と書かれる〔後の郡〕が地方政治の単位であった(隋書倭国伝(4))。 後に改新詔のころに初めて国司が定められる。これが律令国に繋がるが、飛鳥時代にはまだ行政機能は発展途上である(【大化元年八月五日】)。 さらにその上の大宰となれば、何をかいわんやである。実際にこの名前の職が置かれていたとしても、名目のみであろう。
 ただし、筑紫大宰は別である。北九州は弥生時代から独立性を保ち、その伝統は卑弥呼の時代の一大率(魏志倭人伝(57))まで遡る。
《諸王二位》
 諸王の位階は、一位が小紫〔後の四品〕の下と思われる。
《貧乏僧尼》
 「貧乏僧尼」がここに出てくるのは、寺間の格差が大きくなってきたことの現れと思われる(下述)。
《大意》
 八年正月五日、 新羅の送使、加良井山(かりょうせいせん) 金紅世(こんこうせい)らは京に向いました。
 七日、 詔を発しました。
――「凡そ正月節に当たり、 諸王諸臣及び百寮は、 兄姉以上、親及び自らの氏上(うじのかみ)を除き、それ以外には、 拝礼するな。
 その諸王については、母といえども王姓に非ざれば、拝礼するな。
 凡そ、諸臣はまた卑母には拝礼するな。 正月節でなくとも、またこれに准(なら)え。 もし、犯した者が有れば事のままに罪せよ。」
 十八日、 西門で射技しました。
 二月一日、 高麗は、 上部(じょうほう)大相(だいしょう)桓欠(かんけん) 下部(かほう)大相(だいしょう)師需婁(しじゅる)らを遣わして朝貢しました。 これにより、新羅は奈末(なま)甘勿那(かんもな)を遣わして、 桓欠(かんけん)らを筑紫に送らせました。
 三日、 紀臣(きのおみ)堅摩呂(かたまろ)が卒しました。 壬申年の功により大錦上位(だいきんじょうい)を贈られました。
 四日、 詔を発しました。
――「辛巳(かのとみ)の年〔再来年〕に及び、 親王諸臣及び百寮の人の兵馬を点検させる。 よって、予め貯えよ。」
 同じ月。 大恩を垂れて貧乏を憐み、よってその飢え寒い人に給する。
 三月六日、 兵衛(ゆけいのつかさ)の大分君(おおきだのきみ)稚見(わかみ)が死にました。 壬申年の大役(たいえき)にあたり、 先鋒となって進み、瀬田の軍営を破りました。 この功により、外小錦上位(がいしょうきんじょうい)を贈られました。
 七日、 天皇(すめらみこと)は越智(おち)に行幸され、後岡本天皇陵〔斉明〕に拝礼されました。
 九日、 吉備の大宰、石川の王(おおきみ)は、病となり吉備で薨じました。 天皇(すめらみこと)はこれを聞かれ大きく哀しまれ、大恩を垂れ云々、 諸王二位を贈られました。
 二十二日、 貧乏の僧尼に、絁(あしぎぬ)、綿、布を施しました。


40目次 【八年四月~五月】
《草壁皇子尊等盟》
夏四月辛亥朔乙卯。
詔曰
「商量諸有食封寺所由而、
可加々之、可除々之。」
是日、定諸寺名也。
商量諸有食封…〈北〉-量 ハカリテ カソヘ 諸有食-封 ヘヒト 所由 ヨシヲ/ヨルトコ 而 可加加之可 ヤム々之
〈閣〉 ハ加々之。 〈兼右本〉ヤム ヨ
…[動] はかる。
商量…斟酌する。
夏四月(うづき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として乙卯(きのとう)。〔五日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「諸(もろもろ)の食封(じきふ)を有(も)てる寺の所由(ゆゑ)を商量(はか)りて[而]、
可加(くはふべき)は加之(くは)へよ、可除(のぞくべき)は除之(のぞ)け。」とのりたまふ。
是(この)日、諸(もろもろ)の寺の名を定む[也]。
己未。
祭廣瀬龍田神。
己未(つちのとひつじ)。〔九日〕
広瀬(ひろせ)龍田(たつた)の神を祭(いは)ひたまふ。
五月庚辰朔甲申。
幸于吉野宮。
吉野宮…〈閣〉吉野乙酉
五月(さつき)庚辰(かのえたつ)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)。〔五日〕
[于]吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。
乙酉。
天皇、詔皇后
及草壁皇子尊
大津皇子
高市皇子
河嶋皇子
忍壁皇子
芝基皇子曰
「朕、
今日與汝等倶盟于庭而
千歲之後欲無事、
奈之何。」
草壁皇子尊…〈北〉河-┌阿イ島皇子。 〈閣〉阿嶋皇子皇子
〈兼右本〉草-壁皇母持統 元正文武之父子尊 大津母大田皇女皇子 高-市 母尼子娘皇子 河-嶋 天智之子皇子
 忍-壁皇天智之子-天武也芝-基シキ 天智之子 光仁之父
倶盟倶盟于庭…〈北〉オホハ欲無事。 〈閣〉。 〈兼右本〉 シメン
乙酉(きのととり)。〔六日〕
天皇(すめらみこと)、皇后(おほきさき)
及びに草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)
大津皇子(おほつのみこ)
高市皇子(たけちのみこ)
河嶋皇子(かはしまのみこ)
忍壁皇子(おさかべのみこ)
芝基皇子(しきのみこ)に詔(のたま)ひて曰(いはく)
「朕(われ)、
今日(けふ)汝等(いましら)与(と)倶(とも)に[于]庭(おほには)に盟(ちか)ひて[而]
千歳(ちとせ)之(の)後(のち)に事(こと)無(なか)らめと欲(おもほ)す、
奈之何(こはいかにや)。」とのたまふ。
皇子等共對曰
「理實灼然。」
理実灼然…〈北〉コトワリ灼-然イヤチコナリ。 〈閣〉理-實 コトワリ 
いやちこなり…[形動] 書紀古訓特有語と見られる。
皇子(みこ)等(たち)共に対(こた)へて曰(まを)さく
「理(ことわり)実(まことに)灼然(あきらけし)。」とまをす。
則草壁皇子尊、
先進盟曰
「天神地祗及天皇證也。
吾兄弟長幼幷十餘王、
各出于異腹、
然不別同異、
倶隨天皇勅而相扶無忤。
先進盟…〈北〉盟曰天皇證也アキラメアキラメタマヘオノレオイ-幼コトハラヨリ/-サカフル
〈閣〉オイ ヒ モワカスヲナシクコトナリヿマゝニ
〈兼右本〉長-幼オイタル イトケナキ ス ワカ  ス ワキタメ同-異オナシク コトナリ
…[動] さからう。(古訓) さかふ。そむく。
則(すなはち)草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)、
先(ま)ず進みて盟(ちか)ひて曰(まを)せらく
「天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)及びに天皇(すめらみこと)証(あらはしたまへ)[也]。
吾(おのが)兄弟(このかみおとと)長(ながらへ)幼(いとけなき)并(あはせ)て十余(とはしらあまり)の王(みこ)、
各(おのもおのも)[于]異腹(あたしはら)ゆ出(い)づ、
然(しかれども)同(おなじこと)異(あたしこと)を不別(わかたず)て、
倶(とも)に天皇(すめらみこと)の勅(おほせごと)の隨(まにま)にして[而]相(あひ)扶(たす)けて忤(さかふること)無し。
若自今以後不如此盟者、
身命亡之子孫絶之。
非忘非失矣。」
不如此盟…〈北〉アラ此盟身- シ忘非アヤマタ
〈兼右本〉身-命 イノチ亡○ホロヒ子-孫 ン
若(も)し今自(よ)り以後(のち)此(この)盟(ちかひ)の不如(ごとくあらざら)者(ば)、
身命(いのち)は亡之(ほろびむ)、子孫(はつこ)は絶之(たへむ)。
忘るること非(あら)じ、失(うすること)非じ[矣]。」とまをせり。
五皇子、以次相盟如先。
然後、天皇曰
「朕男等各異腹而生、
然今如一母同産慈之。」
則披襟抱其六皇子。
次相盟…〈北〉マサ相盟如男等 コトモ 一-母-同 オモゝハラカラハゝハラカラ -産 メリ之 則襟抱ミソノヒモ イタキ
〈閣〉 テ一-母-オモゝハラカラノ/ヒトツオモハラカラノハゝハラカラノ  メクマシムヒラキミソノヒモ タマフ
くび…[名] 着物のえり。
五(いつはしら)の皇子(みこ)、以ちて次(つぎつぎ)に相(あひ)盟(ちか)へること先(さき)の如し。
然後(しかるのち)、天皇(すめらみこと)曰(のたま)ひしく
「朕(わが)男(をのこご)等(たち)は、各(おのもおのも)異(こと)腹(はら)にして[而]生(あ)れませり、
然(しかれども)、今一母(ひとりのおもよりの)同産(はらから)の如(ごと)く慈之(うつくしび)したまふ。」とのたまひき。
則(すなはち)襟(みそのくび)を披(ひら)きて、其の六(むはしら)の皇子(みこ)を抱(むだ)きたまふ。
因以盟曰
「若違茲盟、忽亡朕身。」
皇后之盟、且如天皇。
忽亡朕身…〈閣〉皇后之 ヿ。 〈兼右本〉[ニ] サ朕身皇-后之 
因(よ)りて以ちて盟(ちか)ひたまひて曰(のたま)ひしく
「若(もし)茲(この)盟(ちかひ)に違(たが)はば、忽(ことごと)に朕身(わがみ)を亡(ほろぼ)さむ。」とのたまひき。
皇后(おほきさき)之(の)盟(ちか)ひたまへること、且(また)天皇(すめらみこと)が如し。
丙戌。
車駕還宮。
還宮…〈北〉宮己トツミヤコニ 〈閣〉トツミヤコニ。 〈兼右本〉トツミヤ[ニ]
丙戌(ひのえいぬ)。〔七日〕
車駕(しやか、すめらみこと)宮(みや)に還(かへ)ります。
己丑。
六皇子共拜天皇於大殿前。
拝天皇…〈兼右本〉 タテマツリ-皇
己丑(つちのとうし)。〔十日〕
六(むはしら)の皇子(みこ)共に天皇(すめらみこと)を[於]大殿(おほとの)の前(みさき)に拝(をろが)みまつりたまふ。
《商量諸有食封寺所由》
 この文章は、寺に対して食封を給付する制度があったことを示す。 しかし、寺が独自に開墾して寺領を広げることについては、それが妨げられることは飛鳥時代以後一貫してなかったと思われる。
 〈孝徳〉大化二年三月辛巳詔において、 「田与」を寺に独自に開墾して私有する権利を与えたと読んだ (《於脱籍寺入田与山》)。 それがそのまま荘園に移行したと思われる。
 それでも食封の給付を考えなければなかったのは、前出の「貧乏僧尼」と関係があろう。 すなわち、それぞれのでは檀越〔後援者、資料[45]の存在、寺の政治力、開墾能力、教えで門徒を引き付ける僧の資質などによって格差が広がり、その結果極めて貧しくなる寺もあったと思われる。 国家はその救済に乗り出し、裕福な寺から寺領を強制的に没収して貧困な寺に食封として給付する仕組みを考えたものと推察される。
 またこの政策は、諸寺が従来の氏族が所有する氏寺の性格を色濃くしたことから脱して、国家の直接管理下に移行することを意味するものと言えよう。
《祭広瀬龍田神》
 《祠風神…》参照。
《吉野宮》
 第204回で、ヨシノの古称エシノや、吉野宮跡と目される宮瀧遺跡について考察した。  壬申の乱は吉野宮から大海人皇子が脱出したことから始まった()。
 この五月五日という日付から見て、薬猟(くすりがり)〈推古〉二十年五月などを吉野で行った可能性がある。その皇子たちが勢ぞろいした機会を利用して、盟約を行ったことが考えられる。
《天皇詔皇后及草壁皇子尊…
草壁皇子尊 母は〈持統〉天皇。〈天武〉十年立太子。 〈持統〉三年四月乙未に薨じた。
大津皇子 母は〈持統〉天皇の姉の大田皇女。朱鳥元年に反乱の罪によって〈持統〉によって死を賜る。
高市皇子 母は胸形君徳善の女尼子娘。壬申には近江方面軍の軍監。
河嶋皇子 川嶋皇子は〈天智〉天皇皇子。母は忍海造小龍の女、色夫古娘。
忍壁皇子 母は宍人臣大麻呂の女、𣝅媛娘。
芝基皇子 施基皇子は〈天智〉天皇皇子。母は越道君(欠名)の女、伊羅都売。
《与汝等倶盟于庭》
 この場面は〈天智〉晩年の太政大臣大友皇子以下による盟約とそっくりである(〈天智〉十年十一月)。〈天智〉の盟約のメンバーは太政大臣を筆頭に、左右大臣と三人の大納言であった。 〈天武〉八年にの盟約においては、草壁皇子がその太政大臣に相当する立場で、他の五皇子を大臣・大納言に擬えることができる〔両方とも人数が六人であることも、偶然とは思われない〕
 すなわち、この「」は、皇親政治の姿をもっとも端的に表しているものと言える。
《兄弟長幼并十余王》
 六名のうち河嶋皇子と芝基皇子は、〈天智〉の皇子のうち大友皇子以外の二人である。
 〈天武〉の親王で誓約メンバーに入っていないのは、舎人親王穂積親王長親王弓削皇子新田部親王磯城皇子。 そのうち、舎人親王は、『公卿補任』によれば〈天武〉五年頃に生まれたばかりで、まだ幼少である。 他の皇子は生まれ年が明らかではないが、多くは同じく幼少であったと思われる。
 ただ磯城皇子に関しては、朱鳥元年八月に誓約メンバーの六皇子と並んで加封〔百~四百戸、磯城皇子は二百戸〕を賜っているので、 誓約に加わり得る年齢に達していたと思われる。本人の資質の問題かも知れないが、「六名」に拘わるあまり、ぎりぎりで外れたことも考えられる。 逆に実際には誓約に加わってり計七名であったが、記事から名前が漏れたことも考えられる。
《不別同異》
 「不別同異」のは名詞形である。〔コト〕は、形容動詞コトナリの語幹だが上代では連体詞「コト-」、あるいは副詞「コトニ」以外の用法は見あたらない。 よって訓みコトを用いるのは難しそうなので、「〔アタシ〕」を用いてみる。これについては「アタシ神」などの例があり、シク活用形容詞語幹による連体修飾と解釈し得る。〔ウマシクニ〔美し国〕とパターン。〈時代別上代〉は終止形の連体修飾用法と説明している〕
 ただ、「アタシ」がそのまま名詞になり得るかどうかは分からない。
 〔オナジ〕についても、(万)4073「於奈自久尓奈里〔同じ国なり〕があり、「美し国」と同じ用法である。 「オナジ」も、そのままの形で名詞になり得るかは不明である。よって、それぞれに形式名詞コトをつけて「オナジコト」、「アタシコト」とするのが安全であろう。
《然今如一母同産慈之》
 この「」では、伝統的な「異腹」による対立関係の克服に強く拘っている。 異腹の皇子は自動的に皇位継承におけるライバルとなり、氏族がそれぞれを御輿に担ぎ上げて争ったのがこれまでの通例であった。 〈天智〉皇子であった河嶋皇子芝基皇子がここに加わっているのも、大友皇子とは異腹であったことを考えれば何ら不思議ではない。 異腹の皇子を団結させるのは二本の磁石の同極を合わせて束ねるようなもので、相当の意識改革が必要である。 実際、〈天武〉が崩じた直後に大津皇子の反逆が疑われ、〈持統〉は死を賜うという強硬な処断をせざるを得なかった。
 〈天智〉皇子を盟約メンバーに加えたことについては、〈天智〉朝の「太政大臣+左右大臣+大納言三名」に匹敵する体制を作るのに、成人に達した〈天武〉皇子だけでは足らないかったのかも知れない。 もちろん十分な資質を備えていることは当然の条件で、二柱はそれをクリアしたのである。
 原則的に〈天武〉朝では、皇子が個別に特定氏族と密接化する余地を極力排除する。卑母拝礼禁止も、その一環である。 また、氏族の者を大臣大納言クラスに引き立てて有力化させることも廃止した。
 〈天武〉朝では、諸氏族は塊として朝廷に奉仕する存在と規定され、八色の姓によってランク付けをして支配を貫徹し、ひたすら下働きに徹しさせるのである。
《皇后之盟》
 「天皇+六皇子」で盟約した後に、「皇后+六皇子」で同じ形の盟約をしたことが注目される。皇后の実権は、ほぼ〈天武〉天皇と同等であったことが分かる。 皇后の勝気な人柄は、大海人皇子が吉野宮から単騎で駆け出したとき、輿に乗って全力で後を追わせた場面で直感した(第12回)。
 また〈天武〉自身は正月の射に景品を出したり、十四年九月の「博戯」の開催などを見ると、大の射幸好きだったようだが、その同じ人物が極めて道徳的な生類憐みの令〔後世の綱吉〕の如き詔を出したことに違和感を感じた。 生類憐みの部分は、専ら皇后の意志によるものではないだろうか。なお、皇后は〈持統〉三年に「禁断双六」を命じているので、〈天武〉の博戯好きには呆れていたと想像される。
 皇后が相当の独自権力を有していた印象は、この「皇后之盟且如天皇」の一文によってさらに強まる。
《大意》
 四月五日、 詔を発しました。
――「諸々の食封(じきふ)を有する寺の根拠を量り、 加えるべきは加え、除くべきは除け。」
 この日、諸寺の名を定めました。
 九日、 広瀬と龍田の神を祭祀しました。
 五月五日、 吉野宮に行幸しました。
 六日、 天皇(すめらみこと)、皇后(おおきさき)、 及び草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと) 大津皇子(おおつのみこ) 高市皇子(たけちのみこ) 河嶋皇子(かわしまのみこ) 忍壁皇子(おさかべのみこ) 芝基皇子(しきのみこ)におっしゃりました。
――「朕は、 今日お前たちと共に庭で盟(ちかい)して 千歳の後も無事でありたいと思う。 いかがであろうか。」
 皇子たちは共に、 「理(ことわり)は、実に灼然としております。」と答えました。
 そこで草壁皇子尊が、 最初に進み出て盟して申し上げました。
――「天神地祗、及び天皇は証しをなされてください。 私の兄弟、長幼を合わせて十人余の皇子は、 各々異腹です。 しかし同異の区別なく、 共に天皇の勅に随い、互いに扶助し反目することはありません。
 もし今から後、この盟(ちかい)を守らなければ、 命は亡び、子孫は絶えることでしょう。 忘れることはなく、失うこともありません。」
 五人の皇子は、次々に互いに草壁皇子尊と同じように盟しました。
 この後に、天皇(すめらみこと)は仰りました。
――「我が子たちは、各々腹違いで生まれた、 しかし、今は一人の母からの同胞(はらから)の如く慈しむものである。」
 こうして胸襟を開き、その六人の皇子を抱かれました。
 よって、盟(ちかい)して言われました。
――「もし、この盟に違えば、ことごとく朕身(わがみ)は亡ぶであろう。」
 皇后(おおきさき)の盟されたことも、また天皇と同様でした。
 七日、 車駕(しゃか)は宮に帰られました。
 十日、 六人の皇子は共に天皇に大殿の前で拝礼されました。


まとめ
 八年前半で示された諸政策を一言でまとめるなら、氏族を権力機構の中に蔓延はびこることを徹底的に防ぐということである。
 諸氏族から納められた夫人、嬪、宮人は皇子を生んでも、「卑母」と貶められることになった。
 また、氏族の人が左右大臣、大納言に栄達する道は塞がれ、政権中枢の業務は天皇血縁の皇子が担う。 壬申の功臣でさえ与えられたのは若干の増封だけで、冠位、官職は生前には得られない。 少子部連鉏鉤の自死(〈壬申紀〉21)は、やはり期待した大臣クラスの地位が全く得られず、それを大海人皇子による裏切りと受け止めた故であろう。
 さらに、寺への食封の商量には氏族からその私有する寺を取り上げ、国家による直接管理に移す意味がある。
 こうして、皇室と有力氏族の合議体というかつての国の姿から完全に脱却し、権力を純粋化して律令国家形成に邁進まいしんする体制を整えようとした。
 ただ、この六皇子合議制の実際の運用では、草壁皇子尊と他の五皇子こそ上下が明確であるが、 「太政大臣ー左大臣ー右大臣ー大納言」体制に比べて、五皇子の間の序列は必ずしも明確ではなく、ここが弱点であったように思われる。



[29-09]  天武天皇下(4)