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2025.03.05(wed) [29-03] 天武天皇下3 

29目次 【四年四月】
《請僧尼二千四百餘大設齋》
夏四月甲戌朔戊寅。
請僧尼二千四百餘而
大設齋焉。
…〈兼右本〉マセ
設斎…〈北野本〔以後北〕設齋 ヲカミス
夏四月(うづき)甲戌(きのえいぬ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔五日〕
僧(ほふし)尼(あま)二千四百(ふたちあまりよほたり)余(あまりに、あまりを)請(こひて、ませて)[而]
大(おほきに)設斎(せつさい、をがみ)す[焉]。
辛巳。

「小錦上當摩公廣麻呂
小錦下久努臣麻呂二人
勿使朝參。」
当摩公広麻呂…〈北〉 タイマノキミヒロヌノヲン使朝-参ミカト マイリ
〈閣〉使 ヿ朝◰-參◰。 〈兼右本〉 レ使朝-泰ミカトマウリセ
小錦上冠位二十六階第十位。
小錦下…冠位二十六階第十二位。
辛巳(かのとみ)〔八日〕
勅(みことのり)たまはく
「小錦上(せうきむじやう)当摩公(たぎまのきみ)広麻呂(ひろまろ)
小錦下(せうきむげ)久努臣(くぬのおみ)麻呂(まろ)の二人(ふたり)は、
勿使朝参(みかどになまゐらしめそ)。」とのりたまふ。
壬午。
詔曰
「諸國貸税自今以後、
明察百姓先知富貧
簡定三等
仍中戸以下應與貸。」
貸税…〈北〉イラス察百姓シナ /ハル  イラシタマフ
〈閣〉ミテ ヲヨリ以下-與タウヘ タウヘ イラシ イラシタマフ
〈兼右本〉貸-税イラシノオホチカラ應-与-貸ヘシ✓アタヘ✓イラシヲイ点
おほぢから…[名] 正税。
壬午(みづのえうま)〔九日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「諸(もろもろの)国の貸(いらし)の税(おほぢから)は、今自(よ)り以後(のち)、
明(あきらけく)百姓(たみ)を察(み)て先(まづ)富(ゆたかなる)や貧(まづしかる)やを知りて、
三等(みしな)に簡(え)り定(さだ)めて、
仍(よ)りて中(なかつ)戸(へ)より以下(しもつかた)に貸(いらし)を与(あたふ)応(べ)し。」とのたまふ。
癸未。
遣小紫美濃王
小錦下佐伯連廣足、
祠風神于龍田立野。
遣小錦中間人連大蓋
大山中曾禰連韓犬、
祭大忌神於廣瀬河曲。
小錦下…〈北〉 セウキン/祠風神セウキンチウ間-人ハシヒトノ フタオホムラシ
 ノ連韓犬イハ大忌神於廣瀬河
〈閣〉大蓋オホフタイ本  フタ ノ河-曲 カハ ワニ
小錦中冠位二十六階第十一位。
大山中…冠位二十六階第十四位。
癸未(みづのとひつじ)〔十日〕
小紫(せうし)美濃王(みののおほきみ)
小錦下(せうきむげ)佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を遣(まだ)して、
風神(かぜのかみ)を[于]龍田(たつた)の立野(たつの)に祠(まつ)らしめたまひて、
小錦中(せいきむちう)間人連(はしひとのむらじ)大蓋(おほふた)
大山中(だいせむちう)曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)を遣(まだ)して、
大忌神(おほいみのかみ)を[於]広瀬(ひろせ)の河曲(かはわ)に祭(いは)はしめたまふ。
丁亥。
小錦下久努臣摩呂、
坐對捍詔使、官位盡追。
久努臣…〈北〉久イ奴イ ヨリコハメルムカヒ -ミカトツカヒコハメル -使ミカトツカヒ 位盡 トラル
〈閣〉 ミヨリ-コハメル詔-使ミカト ツカヒ。 〈兼右本〉ムカイコハメル
小錦下冠位二十六階第十二位。
丁亥(ひのとゐ)〔十四日〕
小錦下(せうきむべ)久努臣(くぬのおみ)摩呂(まろ)、
坐(つみなひ)て詔(みことのり)の使(つかひ)に対(むか)ひ捍(こば)みて、官位(つかさのくらゐ)尽(ことごと)に追(やら)ふ。
庚寅。
詔諸國曰
「自今以後制諸漁獵者、
莫造檻穽及施機槍等之類。
制諸漁猟者…〈北〉 イサメ諸- ス マナオリタミチ- シゝアナ施機 フムハナチフムハナチオク槍等之
〈閣〉檻穽 オリシゝアナ。 〈兼右本〉ナカレタミナヲリ-シゝアナオク機-槍フンハナチタクイ
すなどる…[他]ラ四 漁をする。
庚寅(かのえとら)〔十七日〕
諸(もろもろの)国に詔(みことのり)曰(のたまはく)
「今自(よ)り以後(のち)諸(もろもろの)漁(すなどり)猟(かり)する者(もの)に制(いさ)む、
檻穽(かむせい、をりししのあな)及びに機(き、はた)を施(もちゐ)る槍(うつぎ)等(ら)之(の)類(たぐひ)を造(つくること)莫(な)せそ。
亦四月朔以後九月卅日以前
莫置比彌沙伎理梁。
且莫食牛馬犬猨鶏之完。
以外不在禁例。
若有犯者罪之。」
亦四月…〈北〉𡖋四月朔。〈閣〉亦四月。 〈兼右本〉タクイ[句]└イ无
卅日以前…〈北〉 ヨリ以前
比彌沙伎理…〈北〉比彌沙伎理ヤナ。 〈閣〉 ヿ滿
〈釈紀-述義〉「比濔沙伎理。簗。〔見出しのみで説明なし〕
〈兼右本〉比-彌沙-伎-理
莫食牛馬…〈北〉牛馬犬サル鶏之完。 〈閣〉 ヿ牛馬犬猿 ノ之完
〈兼右本〉猨鶏之完。 〈通証〉完当
不在禁例…〈北〉〈兼右本〉カキリ。 〈閣〉禁-例カキリ ム。 〈兼右本〉 シム
以外…〈北〉(〈天武〉二年九月段)以外ソノホカハ
亦(また)四月(うづき)の朔(つきたち)より以後(のち)九月(ながつき)の三十日(みそか)以前(まで)は、
比弥沙伎理(ひさきり)梁(やな)を莫(な)置(お)きそ。
且(また)牛(うし)馬(うま)犬(いぬ)猨(さる)鶏(とり)之(の)宍(しし)を莫(な)食(くら)ひそ。
以外(そのほか)は禁(いさ)むる例(ならひ)に不在(あらじ)。
若(も)し犯(をか)せる者(もの)有(あ)らば之(こ)を罪(つみ)なへ。」とのたまふ。
辛卯。
三位麻續王有罪流于因播。
一子流伊豆嶋、
一子流血鹿嶋。
三位麻続王…〈北〉三位ミツノクラヰウミノヲホキミ罪流于因播
〈閣〉 ノ ヲハ流伊 ノ ニ鹿カノ。 〈兼右本〉血鹿肥前國
辛卯〔十八日〕
三位(さむゐ)麻続王(をみのおほきみ)罪有りて[于]因播(いなば)に流す。
一子(ひとりのこ)は伊豆嶋(いづのしま)に流して、
一子は血鹿嶋(ちかのしま)に流せり。
丙申。
簡諸才藝者給祿各有差。
簡諸才芸者…〈北〉諸才藝者祿各有
〈閣〉才-藝カトアル ヒトヲ。 〈兼右本〉カツケモノ
才芸…生まれながらの才能と、修得した技芸。
かど…[名] 才能。
丙申(ひのえさる)〔二十三日〕
諸(もろもろ)の才芸(かどある)者(ひと)を簡(えら)ひて給禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
是月。
新羅王子忠元到難波。
是(この)月。
新羅(しらき)の王子(わうし、せしむ)忠元(ちうぐゑん)難波(なには)に到る。
《大設斎》
 書紀古訓では、設斎を「ヲガミ」と訓んでいる。ただ、この読み方は書紀古訓以外には見られず、どの程度一般的であったかは分からない。
 設斎は漢音「せつさい」、呉音「せちせ」。仏教行事だから音読みが適当か(〈推古〉十四年《設斎》)。
 「数多くの僧侶が仏典すべてを音読できたのであるから、呉音は仏典読誦音として広く浸透していたことになる」という (『日本漢字全史』〔沖森卓也;ちくま新書2024〕)。 したがって、設斎がセチセと読まれていたとしても何の不思議もない。ただし、セチセが直接見える実例が見えない。
 『日本漢字全史』はまた、万葉仮名は一般的に呉音が用いられ、書紀歌謡の音仮名のみに漢音が用いられているのは特異だと述べる。 それは「「漢書」「唐書」等に対する「日本書」…という正史編纂意識が働いているため」という。 その精神を敷衍すれば、書紀の語句に敢えて音読みを用いる場合は漢音が適切ということになる。
《当摩公広麻呂/久努臣麻呂》
当摩公広麻呂  〈天武〉十三年十月己卯「当麻公…賜姓曰真人」。 十四年五月甲子「直大参当麻真人廣麻呂卒。以壬申年之功直大壱位」。
久努臣麻呂  『国造本紀』に「久努国造」。〈倭名類聚抄〉{遠江国・山名郡・久努【久度】郷}。 〈姓氏家系大辞典〉は、訓み「久度」について「高山寺本に註なきをよしとす」としてクヌクノを推奨している。 同辞典「久奴臣:安倍氏の族にして、駿河国宇度郡※1)久努※2)、後の安倍郡久努の地より起る…久努臣麻呂とあるは此の氏人」。 朱鳥元年に「直広肆阿倍久努朝臣麻呂、誄刑官事」、すなわち〈天武〉の殯にあたって誄〔しのひこと〕を捧げた。
※1)…有渡郡か。有渡郡は1869年に安倍郡に吸収された。※2)…久能村か。
 当麻広麻呂の「小錦上」は、〈天武〉十四年制の冠制「直大三」に相当する(下述)。 卒する直前の「直大三位」はそれ以上の昇進こそなかったが、冠位の剥奪は免れたことを意味する。 よって、このときの出仕禁止は罪としては比較的軽度であったと思われる。壬申の功臣であったことも有利にはたらいたか。
 久努麻呂は十四日に詔使が罪を言い渡しに訪れたが、抗弁したので冠位を完全に剥奪された。 しかし、〈天武〉が崩じたときには「直広四」に復して誄を読み上げているから、やはり後には赦されたようである。
《諸国貸税》
 への古訓は「イラス」である。『伊呂波字類抄』を見ると、「イラス 擧 息 … 貸已上同」とあるが、『伊呂波字類抄』は1144~1165年の成立である。 書紀古訓以外の文例では、『日本国現報善悪霊異記』に「イ良シ」、「息利伊良之毛乃那里」を示す。 同書の訓釈には「上代特殊仮名遣いのコ・ヘの二種の別」があり、「万葉仮名の字母に平安時代初期の姿」を伝えるという(〈時代別城代-資料解説〉)。
 「」の「」は文法から見て名詞形である。
 万葉集
0075衣応借ころもかすべき終止形。
0126屋戸不借やどかさ未然形。
0361衣借益矣きぬかさましを未然形。
1242宿将借鴨やどかさむかも未然形。
1743屋戸借申尾やどかさましを未然形。
2088舟将借八方ふねかさめやも未然形。
3011衣借香之ころもかすがの終止形。
「春日」との掛詞
 カス(貸す)は万葉にいくつか出てくるから上代語である(右表)。ただ、その連体形名詞のカシが上代に使われていたかどうかは分からない。 その点を考えると、イラシの方が確実である。 貸稲は「吉備嶋皇祖母処々貸稲」(大化二年三月/《吉備嶋皇祖母》項)にも見える古い言葉だから、その頃からイラシという語がつかわれていたのかも知れない。
 イラシは、律令で規定された出挙の原型と考えられている。 出挙は、春から夏に種もみを貸し付け、収穫後に利子を付けて返させる仕組みである。 奈良時代に諸国からが中央政府に提出された「正税帳」によると、 「正税」は主要な税制費目で、財源は口分田から上がる租と、出挙の利息とされる([奈良国立博物館/正倉院展用語解説:正税帳])。 天平十七年〔745〕には、「論定稲」=各国が年ごとに出挙すべき量が定められ、これによって出挙が強制貸付となったという (『国史大辞典』)。出挙が強制ならその利払いも強制となるから、これは貸付に名を借りた税そのものである。
 それに比べると〈天武〉四年の「貸税」は、農家を貧富により三段階に分け、中・貧のクラスのみに貸付けるものというから、救済の性格をもつものと見てよいだろう。
 大化二年の「吉備嶋皇祖母処々貸稲」は吉備嶋皇祖母の権益で、それを〈皇極〉天皇が引き継いでいたと見た。 おそらく別業なりどころの農民を隷属させる形態として、春に「貸稲」して秋に元本と利子を徴収する形をとっていたと想像される。
《美濃王/佐伯連広足》
美濃王 二年十二月、「造高市大寺司」を拝した。
佐伯連広足 佐伯連については【佐伯】項。 広足は、十年七月「小錦下佐伯連広足為大使…遣高麗国」。五月「奏使旨於御所〔復命〕。 十三年十二月「佐伯連…賜姓曰宿祢」。十四年九月「直広肆佐伯宿祢広足…巡察国司郡司及百姓之消息」。
《祠風神于龍田立野
大忌神、風神の祭事
 〈天武〉
四年四月癸未(10)
五年四月辛丑(4) 七月壬午(16)
六年七月癸亥(3)
八年四月己未(9) 七月壬辰(14)
九年四月甲寅(10) 七月辛巳(8)
十年四月庚子(2) 七月丁丑(10)
十一年四月辛未(9) 七月壬寅(11)
十二年四月戊寅(21) 七月乙巳(20)
十三年四月甲子(13) 七月戊午(9)
十四年四月丁亥(12) 七月乙丑(21)
朱鳥元年七月甲寅(16)
 〈持統〉
四年四月己酉(11) 七月癸巳(18)
五年四月辛亥(11) 七月甲申(15)
 八月辛酉(23)(龍田のみ)
六年四月甲寅(19) 七月甲辰(11)
七年四月丙子(17) 七月己亥(12)
八年四月丙寅(13) 七月丁酉(15)
九年四月丙戌(9) 七月戊辰(23)
十年四月辛巳(10) 七月戊申(8)
十一年四月己卯(14) 七月丙午(12)
 「龍田」の遺称は斑鳩町の龍田龍田南など、「立野」の遺称は三郷町の立野立野北など。 「龍田立野」の形で所在地が示されるから、龍田は、現在より広域だったと思われる。
 龍田の大社は、延喜式に見える。
〈延喜式-神名〉{大和国/平群郡/龍田坐天御柱国御柱神社二座【並名神大。月次新甞】。竜田比古竜田比女神社二座}。
 〈天武〉〈持統〉朝には大忌神と風神への祭事が毎年のように四月、七月に行われた(右表)。それが後世に引き継がれたと見られる記述が、〈延喜式〉に見える。
〈延喜式-四時祭上〉「大忌風神祭並四月七月。四日。
〈延喜式-太政官〉「凡大忌風神二社者。四月七月。四日祭之。
〈延喜式-儀/事見儀式〉「凡春日。広瀬。龍田等社庫。鑰匙者。納-置官庫。祭使官人臨祭請取。事畢返納」。 〔凡そ春日。広瀬。龍田等の社庫の鑰匙〔かぎ〕は官庫に収め置け。祭使官人は祭りに臨みて請(ねが)ひ取り事畢(を)へて返納すべし〕
 このように、〈延喜式-四時祭〉によれば、大忌神風神の二社は四月四日と七月四日に祭事を行うのが通例となった。 龍田風神祭の祝詞から、一部を抜粋する。
 〈延喜式(巻八)-祝詞〉龍田風神祭
龍田稱辭竟奉皇神。志貴嶋大八嶋国知皇御孫命遠御膳長御膳
……
我御名者天御柱命。国御柱御名者悟奉。 吾前幣帛者。御服者明妙。照妙。和妙。荒砂。五色物。楯。戈。御馬御鞍具。品品幣帛備。 吾宮者朝日日向処。夕日日隠処龍田立野小野吾宮定奉。 吾前稱辭竟奉者。天下公民作作物者。五穀。草片葉万弖。成幸閇奉牟止悟奉。…
龍田に称辞竟(を)へ奉(たてまつ)る。皇神の前(みまへ)に白(まう)さく。志貴嶋(しきしま)に大八嶋(おほやしまの)国知らしめしし皇御孫命(すめみまのみこと)の遠(とほつ)御膳(みけ)の長(ながき)御膳と
……
我が御名は天(あめ)の御柱の命(みこと)、国の御柱の命と御名は悟(さと)し奉(たてまつ)りて、 吾(わ)が前(みまへ)に奉らむ幣帛(みてぐら)は、御服(みけ)は明妙(あかるたへ)、照妙(てるたへ)、和妙(にぎたへ)、荒砂(あらたへ)。五色(いつくさ)の物(たなつもの)、楯、戈、御馬に御鞍具(そな)へて、品々(くさぐさ)の幣帛(みてぐら)備へて、 吾が宮は朝日の日向かふ処、夕日の日隠るる処、龍田の立野の小野に吾が宮は定め奉りて、 吾が前を称辞竟へ奉るは、天下の公民の作る作物は、五穀を始めて、草の片葉に至るまで、成り幸閇(さきはへ)奉らむと悟り奉りて、…
 祭りの名称は「風神祭」であるが、祝詞の中に「風神」という神名は出て来ない。
 ここに出てきた「志貴嶋大八嶋国知皇御孫命」がどの天皇を指すかということについては、 〈敏達〉五年六月に「磯城嶋天皇」、大化元年八月に「磯城嶋宮御宇天皇」が見え、欽明天皇のことである。 「大八嶋国知らしめす」は、「御宇」と同じ。
 この祝詞に出てきた神名「天御柱命」・「国御柱命」によって、〈神名帳〉の「龍田坐天御柱国御柱神社」が龍田風神であることが確定する。
 比定社は、龍田大社〔奈良県生駒郡三郷町立野南1丁目29−1〕で、同社公式ページによれば、
主祭神:天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ))国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ))
摂社:龍田比古命(たつたひこのみこと)・龍田比売命(たつたひめのみこと)
 となっている。
 上述したように、「風神」という神は明示的に祀られていない。 遠く伊勢神宮外宮別宮に、風宮がある。その祭神が級長津彦命しなつひこのみこと級長戸辺命しなとべのみことである。 これが、龍田大社の主祭神の別名とされていた理由かも知れない。
 龍田比古命龍田比売命は、〈神名帳〉では別社である。もともとの場所から、恐らく龍田大社の境内に移されたのであろう。
《間人連大蓋/曽祢連韓犬》
間人連大蓋  間人連は(●間人連塩蓋項)。本貫は丹後国竹野郡か。 中臣間人連老白雉五年五月に遣隋使の一員。
 大蓋〈天智〉二年三月に「打新羅」の「前将軍」。 〈天武〉十三年十二月「間人連…賜姓曰宿祢」。
曽祢連韓犬  〈姓氏家系大辞典〉「真神田曽祢連:本貫大和か。物部氏の族…此の氏は真神田氏より別る」。 「曽祢連〔真神田曽根連〕と同族也」、「廣瀬社神主曽根系図に廣瀬郡城戸郷河合村に類代居住云々…天武紀なる曽根連韓犬の後裔なり」。 〈姓氏録〉には〖曽祢連/石上同祖〗〖真神田曽祢連/神饒速日命六世孫伊香我色乎命男気津別命之後也〗韓犬は〈天武〉十年十一月に「曽祢連韓犬…授小錦下」。
《祭大忌神於広瀬河曲
龍田大社廣瀬大社>
ja.wikipedia.org
 広瀬大忌祭の祝詞から、その祭神を見る。
 〈延喜式(巻八)-祝詞〉広瀬大忌祭
広瀬川合称辞竟奉皇神御名。御膳持須留若宇加御名者白。… 広瀬の川合に称辞竟(を)へ奉(たてま)つる皇神(すめかみ)の御名を白(まう)さく。御膳(みけ)持たする若宇加売命(わかうかのめのみこと)と御名は白して…
 皇神(すめかみ)は、「各地に鎮まります諸々の国ツ神」をいう(〈時代別上代〉)。
 この祝詞から、広瀬大忌祭の社は広瀬坐和加宇加能売命神社(ひろせにますわかうかのめのみことのかむやしろ)であったことが知れる。
〈延喜式-神名〉{大和国/広瀬郡/広瀬坐和加宇加能売命神社【名神大。月次新甞】}。
 比定社は廣瀬大社〔奈良県北葛城郡河合町大字川合99〕。 同社公式ページによると、「主神 若宇加能売命」。
 宇加能売命は、古事記の「宇気毘売神」(第37回)。 また、伊勢神宮外宮の豊受大御神
 天照大神に仕える「御膳神」という関係は記紀には見えないが、『止由気宮儀式帳』(延暦二十三年〔804〕)に次のように書かれる。
『止由気宮儀式帳』-「等由気太神宮院事」『群書類従』による〉
天照坐皇太神始巻向玉城宮御宇天皇〔垂仁〕御世国々処々大宮処求賜時 渡会宇治伊須々河上大宮供奉
 尓時大長谷天皇〔雄略〕御夢誨覚賜 吾高天原坐真岐賜志都真利 然吾一所耳坐甚苦加以大御饌安不聞食坐故 丹波国比治真奈井坐我御饌都神等由気太神我許欲 誨覚奉
〔 天照坐皇太神は〈垂仁〉天皇の御世、大宮の処を国中に求め宇治の渡会の五十鈴に大宮を供奉した。 すると〈雄略〉天皇の夢に天照大神が現れて告げるに、吾は高天原から見て求めた場所に鎮座する。 しかし、一か所のみにいるのは苦しく、大御饌〔食事〕も安心して食べられないので、丹波国比治の真奈井にいる等由気大神を私のところに来させてほしい… 〕
倭名類聚抄 日本紀云保食神【和名宇介毛知乃加美】…宇気者食之義也〔ウケモチノカミ;ウケは食の義なり〕
日本紀云稲魂【和名宇介毛乃美太万】俗云【宇加毛乃美太万】〔ウケノミタマ、俗にウカノミタマ〕
 広瀬大忌神若宇加売命については、天照大神専属というわけではない。 しかし、大忌神という呼び名には、天照大神を奉斎する大神であるというニュアンスも確かに感じられる。
 ただ、ウケ〔もしくは転じてウカは、どちらにしても食物、特に稲の神であることを意味する()。 よって宇加能売命を祭ることにより、国中の作物の実りを祈願したのは確実である。
 また、風神祠は、特に暴風を忌避する願いを込めたと考えられる。 太陽太陰暦四月は田植えの前、七月は収穫前にあたり、農作物の順調な生育を願う毎年の行事であったことだろう。
 以前から各地で行われていた祭りではあろうが、この〈天武〉三年に至り盛大な国家行事として位置づけたものといえよう。
《坐対捍詔使》
〈天智〉三年⇒〈天武〉十四年
久努臣摩呂 上記
 「」は「罪する」。「対捍」は、「相手に歯向かう」。 すなわち「詔使〔詔を伝達する使者〕に向かって、罪を問われるようなことは何もないと言って抗弁した。
 よって久努臣摩呂は「官位悉追」、すなわち冠位「小錦下」を奪われ官職から追放された。「」の訓にはヤラフがよいであろう。
 後に復位した「直広四」は小錦を四分した最下層であるから、確かに戻したがそれは大変渋い戻し方である。 久努摩呂当麻広麻呂の場合と同じく、生きている間にはそれ以上の進階はなかったであろう。
《檻穽》
 は、〈類聚名義抄-仏下〉「:…圏ヲリ〔圏も檻の意〕。 それでは、ヲリは上代語だろうか。 『類聚名義抄』は鎌倉時代なのでヲリが平安時代頃の語彙だったことは確認できるが、上代まで遡るかどうかはわからない。
 は、〈類聚名義抄-法下〉「:正井水 シゝノアナ 依阱字〔正しくは井の水だが、シシノアナは阱〔落とし穴〕に転用したもの〕。 「檻穽」は、動物を捕らえる器具一般を表す語かも知れない。ならばワナとなるが、上代のワナはワ=輪のイメージのものに限られるようにも思える。
〈汉典〉には「檻阱:捕捉野獣的机具和陥坑」とあり、罠と落とし穴をまとめたものとしている。
《施機槍》
 施機槍は「機槍:機を施した槍」で、罠の一種であろう。はハタと訓むが、ハタは織機である。 古訓の「フムハナチオク」は、動物が踏むと槍が突き出る仕掛けの意と見られる。槍
 は、〈類聚名義抄-仏下本〉に「:…ウツキ」。 〈類聚名義抄-仏下末〉「弄槍:ホコトリ」にはホコが見えるが、単独ではホコはない。
 ヤリについては、『古典基礎語辞典』所引『日葡辞書』〔1603〕に「Yaride fitouo tcçuqu(鑓で人を突く)」が見える。 上代には確認できない。
 詔のこの部分までは、総じて罠など器具を用いた漁労や狩猟を禁ずるものである。 現実的に考えれば、誤って人が罠にかかる事故が続発していることを危惧したのかも知れない。
 一方、動物の残酷な捕らえ方を忌み嫌う感情が仏教界に広がっていたことも、やはりありそうに思える。
《比弥沙伎理梁》
 比弥沙伎理比満沙伎理とも〕は、未だに意味不明の語である。これについて、まず江戸時代の『集解』、『通証』の説を見る。
『集解』「梁【梁上原有比満沙伎理五字。是訓梁傍註者、遂攙-入訓義詳釈訓
〔梁の上にもとは「比満沙伎理」の五字があったが、これは梁の訓を示す傍註が訓義の詳釈訓として攙入したもの〔訓み仮名が説明として本文中に紛れ込んだ〕〕
『通証』「比満沙伎理梁:比満沙伎理者遮隙之義也。『荀子註』石絶水為簗所以取魚也。 『捜神後記』所謂蟹断亦此意。『唐書』咸亨中禁簺捕一レ
〔比満沙伎理は隙を遮る意である。『荀子註』〔荀子の注釈本〕に石で水を絶って簗となす所以は魚を取る、 『捜神後記』〔六朝時代の小説集〕のいわゆる蟹絶もまたこの意。『唐書』咸亨年間〔670~674〕に簺を作って魚を捕ることを禁じた〕
 いずれも、ひみさきり(ひまさきり)をの同義語だとする。
 おそらく比弥沙伎理(比満沙伎理)は書紀が参照した資料にそう書かれていたままではないだろうか。書記原文作者にはその意味がわからかなったので漢語に直すことができず、文字をそのまま写したと思われる。 もし、例えばこれがであると知っていれば、「〃此云比弥沙伎理」と書くことたできたはずである〔もし他の意味だった場合は、「梁」が別の漢語に代わる〕。 筆写者も滿を取り違えるくらいだから意味が知られぬままに時が経過したと思われる。
 現代には「小さな魚を避ける」などとする解説を見る。これはヒミをヒメと解釈したらしいが、同意できない。小さな魚の捕獲を禁止するというなら、一年の半分をフリーにするのは理解できない。 もしヒマなら、「(すき間)+サ(接頭語)+き(水をきるの連用形名詞)」と解釈できないこともないが、確信は持てない。
 とは言え(マ)サキリは、やはり梁の古称と見るのが妥当か。という字にはヤナのほかに、建物のハリの意味もあるので念入りに「(マ)サキリ梁」と書いたのかも知れない。
 なおの禁止は、夏秋の半年間に限定される点で、罠の禁止よりも緩い。農繁期は耕作に専念せよという意味にもとれる。
《牛馬犬猨鶏之宍。》
引用元 『集解』…河村秀根、他〔1785〕書紀集解 国民精神文化文献5 巻下:国民精神文化研究所1937
『法苑珠林』…道世〔唐;668〕撰。法苑珠林 第1 巻1-9:藤田祐真1890
『通証』…谷川士清〔1751〕日本書紀通證 35巻 丗三、丗四:五條天神宮1762
『全浙兵制考』付録『日本風土記』五巻。…侯継高〔明代:万暦年間(1573~1620)〕『日本風土記 : 全浙兵制考』:京都大学国文学会1961
〔リンク先はいずれも国立国会図書館デジタルコレクション〕
 『集解』に「法苑珠林畜生部述意曰。犬勤夜吠鶏競暁鳴牛弊田農馬労行陳」、「本草綱目曰。時珍曰。猴状似人眼如愁胡陥有…」。
〔犬は夜吠ゆることに勤め、鶏は暁に競って鳴き、牛は田の農に弊(つか)れ、馬は行い陳(老)いることを労(わずら)う…〕
 本草綱目の「時珍」は作者名〔李時珍:明代〕。「〔サルの一種〕は人に似て…」という。
 これらが五獣の食肉禁止に通ずるということであろうが、果たしてその読み方は妥当であろうか。そこで引用部分の前後を見てみよう。
 「法苑珠林畜生部」は十の段落に分けられている。 「犬勤夜吠~」の一節は、その最初の段落「述意部」にあり、 書き始めは「夫論畜生癡報所咸種類既多条緒非一〔畜生を論ずることについては、癡報(おろかなるむくい)の種類が多くひとまとめには言えない〕、 しかし「稟茲穢質生此悪塗頓罷慧明多貧患〔後述〕という。 そして、毒蛇を筆頭に様々な動物の特徴を列挙し、その中に「犬勤夜吠~」の部分がある。 「述意部」段では、最後に「~如此之流悉皆代為懺悔〔これらは皆、代わりに懺悔を為す〕とまとめている。
 このように、犬鶏牛馬は優れた役割を果たしていると述べる。 それらの動物を「茲穢質生此悪塗〔この穢〔=けがれた〕質〔=品性〕を稟(もう)して悪で塗りつぶすこと〕は、「頓罷慧明多貧患〔慧明を頓罷し〔=やめ〕、貧患を多くする〕という。 直接的に「食べるなかれ」とは言っていないが、食用にするのは間違いなく「悪塗」であろう。
 『通証』には 「完当宍。…全浙兵制録日本風土記曰。餙饌以鹿脯魚物常品海味甚多。不鶏謂鶏乃徳信之禽。無牛脯以為牛代力之牲不」、 「法苑珠林畜生部…又猿類人故不食。見涅槃経不上レ進御〔完は宍に作るべし※1)。…『全浙兵制』の録す『日本風土記』に曰く。飾饌〔お供えの食物〕は鹿の脯〔干し肉〕魚の物を以て常の品となす。海の味甚だ多し。鶏を食べざるは鶏すなはち徳信の禽と謂ふ。牛脯の無きことは以為(おもへらく)牛、力を代(か)はりて牲(いけにへ)にして食ふに忍ばず、… 『法苑珠林』畜生部には…又、猿は人に類(に)るが故に食はず。涅槃経に進御することを得ずと見ゆ〕
 ※1)…〈時代別上代〉「「完」は「宍」の誤りであるが、ほとんど通用とみられるほど例が多い」。
 『日本風土記』の描く日本は室町時代と考えられているが、農耕で役立つ牛は生贄にするには忍びないから、牛脯は供えないとする。この感覚は、古い時代から続くものであろう。 〈釈紀〉天平十三年〔741〕二月戊午「詔曰。馬牛代人勤労養人。因茲先有明制不屠殺。今聞国郡未上レ禁止。百姓猶有屠殺。宜其有犯者不蔭贖先決杖一百然後科上レ〔馬牛は人の代わりに勤労し、人を養う。よって以前屠殺を許さじと明制したが、今国郡は禁止することができず百姓は猶屠殺する。宜(よろ)しく犯した者は蔭贖するか否かを問わず先ず杖百し、その後に罪を科すべし〕。 蔭贖〔罪を銅などの献納で代替〕するつもりでも、杖100回分だけは必ず科すという。
 〈天武〉四年の牛馬犬猨鶏のうち、少なくともについてはこの天平十三年詔のように労役に対する感謝と受け止められていったようである。ただ、詔を見るとこの時期になってもまだ禁令は行き渡っていない。 も人のために働く。については、「伊勢神宮の式年遷宮の「遷御の儀」では、天の岩戸の話に倣い、神職が鶏の鳴き声を模した「カケコー」の声を3度上げて儀式が始まる」ことが見える。このような神道における神聖視の影響があると思われる(第49回)。 については、容姿が人に似るからというのはその通りであろう。
 の不食は、現代日本に引き継がれている。の食用は、牛と同様に明治に入ってからだという。 ただし、野鳥類は当時も食されていたと思われる(下述)。
 仏教における不殺生の意識も、確かにあった。天平十三年〔741〕三月乙巳「詔:…毎月六斎日※)。公私不漁猟殺生」が見える。※)…8、14、15、23、29、30日。。 肉食の忌避が浸透するにつれて、蛋白源は魚介類や大豆に移る。「海味甚多」というように海産物には恵まれていた。
 なお、以上のように「莫食牛馬犬猨鶏之宍」は季節には関係ないことだから、「四月朔日~九月三十日」がかかるのは「比弥沙伎理梁」までであろう。
《以外不在禁例》
 「以外は禁例にあらず」という。『全浙兵制考』-『日本風土記』に「鹿脯」は供えられたというから、鹿や猪も普通に食されていたのだろう。 ヰノシシは「ノ宍」、カノシシは「鹿ノ宍」である。 結局、牛馬犬猨鶏以外は、罠仕掛けに依らない限り自由であった。 また、梁については冬・春はOKである。
 奈良時代には〈聖武〉、〈桓武〉の遊猟の記録がある。〈続紀〉に天平十二年〔740〕十一月丁亥「遊猟于和遅野」(〈聖武〉)、 延暦二年〔783〕十月戊午「行幸交野。放鷹遊猟」(以下〈桓武〉)、 延暦四年〔785〕九月庚子「行幸水雄岡。遊猟」、 延暦六年〔787〕十月丙申「天皇行幸交野。放鷹遊猟」、 延暦十年〔791〕冬十月丁酉「行幸交野。放鷹遊猟」が見える。
 ただ〈天武〉、〈持統〉紀に「」は見えない。やはり両天皇は個人の信念としてに殺生を忌み嫌っていたと見るべきであろう。
 なお、鳥類については、江戸時代に鶴、白鳥、雁、鴨、雉子、山鳥、鷺、鶉、雲雀、鳩、雀などが広く食されていた (『鷹将軍と鶴の味噌汁 江戸の鳥の美食学』〔菅豊;講談社2021〕)。
《麻続王》
麻続王 とも。血縁不明。ここだけ。
 万葉歌では、麻續王の流刑地は伊良虞嶋となっている。
 (万)0023「(題詞)麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須 うちそを をみのおほきみ あまなれや いらごのしまの たまもかります」がある。 伊良虞嶋は伊良湖岬〔参河国〕またはその近くの島。
 (万)0024に関連歌。 「(題詞)麻續王聞之感傷和歌空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食 うつせみの いのちををしみ なみにぬれ いらごのしまの たまもかりをす」。
 (万)0024の左注には、流刑地が書紀の「因播」と食い違うことについて、 「是云于伊勢国伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎〔これ、伊勢国伊良虞嶋に配(なが)すと云へるは、若しや後の人の歌辞に縁(よ)りて誤り記せるかと疑ふ〕と述べる。
 どうやら左注者は、伊良虞と流刑地を関連付ける歌枕があり、後世にそれを使って詠んだ歌に過ぎなかったが、題詞を付けた人は誤って史実だと受け止めたと考えたようである。
 この「伊勢国」がまた難解である。伊勢国から志摩半島―伊良湖岬の航路があり、 伊良湖岬に向かう途中にある答志島神島などを伊良虞嶋と呼んだと見るのが順当か。
《伊豆嶋》
 〈推古〉二十八年掖玖人二口、流来於伊豆嶋」があった。 伊豆半島は伊豆国一国をなしていて、それをあまり伊豆嶋とは言わないと思われるので、おそらく伊豆大島であろう。
《血鹿嶋》
 知訶嶋は国生み神話に「知訶嶋亦名謂天之忍男」(第36回)。 五島列島全体を呼ぶ《五島列島》項)。
 二人の子には、国土の東端および西端という極端な流し方をする。まったく連携をとれなくしたところに、警戒感の大きさが伺われる。 やはり麻続王は、皇位を狙い得る立場にいると見られたのであろう。
 四年四月条には、罪人の処罰や人民を規制する詔がまとまって出てくる。即位二年目の夏を迎え、ようやく統制の強化が表に出てきたようである。
《諸才芸者》
 現代語の感覚では音楽や舞踊の芸才のある人をイメージさせるが、芸の古訓はウフワサが中心で、それぞれ植物の栽培人の技術一般を意味する。 よって、才芸者は優れた技をもつ者の意となる。ただ、そこには技術者から彫刻家や画家、楽器奏者などまで含まれるであろう。
《新羅王子忠元》
忠元 二月筑紫到着。この後八月二十五日難波から帰る。 四月段には忠元一人の名前のみだが、当然進調使全員(金比蘇・金天沖・朴武摩・金洛水等)であろう。
 『三国遺事』に「新羅真骨第二十一主神文王代。永淳二年癸未〔683〕(本文云元年誤)宰相忠元公。萇山国(即東萊県亦名萊山国)温井沐浴」が見える。 その「宰相」と「王子」との不一致に関しては、「八世紀に見られる渡日の期間に限定された「仮王子」であったと見る余地もある」とも言われる (『新羅人の渡日動向―七世紀の事例―』〔濱田耕策;九州大学学術情報リポジトリ〕)。
《大意》
 四月五日、 僧尼二千四百人余を請うて、 大設斎しました。
 八日、 勅あり。
――「小錦上(しょうきんじょう)当摩公(たぎまのきみ)広麻呂(ひろまろ)、 小錦下(しょうきんげ)久努臣(くぬのおみ)麻呂(まろ)の二人は、 朝参させてはならない」。
 十日、 小紫(しょうし)美濃王(みののおおきみ)と 小錦下佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を遣わして、 風神(かぜのかみ)を龍田(たつた)の立野(たつの)に祠祭し、 小錦中(しょうきんちゅう)間人連(はしひとのむらじ)大蓋(おおふた)と 大山中(だいせんちゅう)曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)を遣わして、 大忌神(おおいみのかみ)を広瀬の河曲(かわわ)に祭祀しました。
 十四日、 小錦下久努臣(くぬのおみ)摩呂(まろ)は、 罪しても詔使に対捍(たいかん)し〔反抗して〕、ことごとく官位を追われました。
 十七日、 諸国に詔あり。
――「今より以後、諸々の漁、猟する者に制す。 檻と穽(おとしあな)、及び施機(しき)の槍(やり)の類を作ってはならない。 また四月朔日以後、九月の三十日以前は、 比弥沙伎理(ひみさきり)〔未詳〕梁を置いてはならない。
 また、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならない。 これら以外は禁例ではない。 もしこれを犯す者がいれば、罪に問え。」
 十八日、 三位麻続王(おみのおおきみ)に罪があり因播(いなば)に流しました。 その一子は伊豆嶋、 一子は血鹿嶋(ちかのしま)に流しました。
 同じ月、 新羅の王子(せしむ)忠元(ちゅうげん)は難波(なには)に到着しました。


30目次 【四年六月~十一月】
《大分君惠尺薨》
六月癸酉朔乙未。
大分君惠尺病將死。
大分君恵尺…〈北〉キタノ/将イ。 〈閣〉大-分ヲホキタノキミ恵尺
六月(みなづき)癸酉(みづのととり)を朔(つきたち)として乙未(きのとひつじ)〔二十三日〕
大分君(おほきたのきみ)恵尺(ゑさか)病(やまひ)して将(まさ)に死なむとす。
天皇大驚、
詔曰
「汝惠尺也、
背私向公不惜身命、
以遂雄之心勞于大役。
恆欲慈愛。
故爾雖既死、
子孫厚賞。
以遂雄之心…〈北〉ヲシ-雄之役恆 メクミ-愛タマモノ ム
〈閣〉 テ ヲ テ ニ タゝシ大-役 エタチニ慈-愛 メクミ  ラハ
〈兼右本〉 キエタチオ  慈-愛メクミセントタマモノセシム
天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚(おどろ)きたまひて、
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「汝(いまし)恵尺(ゑさか)は[也]、
私(わたくし)を背(そむ)きて公(おほやけ)に向かひて身命(わがいのち)を不惜(をしまず)て、
以ちて遂(つひ)に雄之(うるはしき)心(こころ)[于]大役(おほきえたち)に労(ねぎら)ひて、
恒(つね)に慈愛(めぐみ)せむと欲(おもほ)す。
故(かれ)爾(ここ)に既(すで)に死(しに)せる雖(と)も、
子孫(あなすゑ)に厚く賞(たまもの)せしめよ。
仍騰外小紫位。」
未及數日薨于私家。
騰外小紫位…〈北〉 アケタマ外小 ノ未-及- ヒモヘ-日 /ヒヘテ 引合 
〈閣〉 テ及-ヒモへ-/イマタヒヘテ。 〈兼右本〉イマタヒモヘテハ合數-日フル ヒ
小紫冠位二十六階第六位。
仍(よ)りて外(げ)小紫(せうし)の位(くらゐ)に騰(あ)げたまふ。」とのたまふ。
未(いまだ)数日(いくか)に及ばずて[于]私(わたくし)の家(いへ)に薨(こうず、みまかる)。
秋七月癸卯朔己酉。
小錦上大伴連國麻呂爲大使
小錦下三宅吉士入石爲副使、
遣于新羅。
大使…〈北〉國麻呂○大/為イ使 ミヤケキシ入-石 イリシ
副使…〈岩崎本〉〈推古〉十六年ソヒ使」。
小錦上…冠位二十六階第十位。
小錦下…冠位二十六階第十二位。
秋七月(ふみづき)癸卯(みづのとう)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔七日〕
小錦上(せうきむじやう)大伴連(おほとももむらじ)国麻呂(くにまろ)を大使(おほつかひ)と為(し)て
小錦下(せうきむげ)三宅吉士(みやけのきし)入石(いりし)を副使(そひつかひ)と為(し)て、
[于]新羅(しらき)に遣(つか)はす。
八月壬申朔。
耽羅調使王子久麻伎、
泊筑紫。
久麻伎…〈閣〉
泊筑紫…〈北〉レリ筑紫
八月(はつき)壬申(みづのえさる)の朔(つきたち)。
耽羅(とむら)の調(みつき)使(つかひ)王子(わうし、せしむ)久麻伎(くまき)、
筑紫(つくし)に泊(は)つ。
癸巳。
大風飛沙破屋。
大風…〈北〉 アケ コホツ
癸巳〔二十二日〕
大風(おほかぜ)ふき沙(いさご)を飛ばして屋(や)を破(こほ)つ。
丙申。
忠元、禮畢以歸之、
自難波發船。
礼畢…〈北〉 コト畢以マカリカヘル
発船…〈閣〉發舩フナタチス
ふなたつ…[自]タ四 船出する。
丙申〔二十五日〕
忠元(ちうぐゑん)、礼(ゐやのこと)畢(を)はりて以ちて帰之(まかりかへる)、
難波(なには)自(ゆ)発船(ふなたち)す。
己亥。
新羅高麗二國調使、
饗於筑紫賜祿有差。
饗於筑紫…〈北〉於筑紫禄有
己亥(つちのとゐ)〔二十八日〕
新羅(しらき)高麗(こま)二つの国の調使(みつきつかひ)、
[於]筑紫(つくし)に饗(あへ)たまはりて賜禄(ものたまはること)有差(しなあり)。
九月壬寅朔戊辰。
耽羅王姑如到難波。
耽羅王…〈北〉耽羅ト■ラノコキシ難波。 〈閣〉。 〈兼右本〉シヨ
九月(ながつき)壬寅(みづのえとら)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)〔二十七日〕
耽羅(とむら)の王(わう、こきし)姑如(こじよ)難波(なには)に到る。
冬十月辛未朔癸酉。
遣使於四方覓一切經。
四方…〈北〉/覓見一切経。 〈閣〉
冬十月(かむなづき)辛未(かのとひつじ)を朔(つきたち)として癸酉(みずのととり)〔三日〕
使(つかひ)を[於]四方(よも)に遣(つかは)して一切(いつさい)の経(けふ)を覓(ま)がしむ。
庚辰。
置酒宴群臣。
置酒…〈北〉メス宴群臣。 〈兼右本〉メシオホミキ[テ]ト 玉フ
庚辰(かのえたつ)〔十日〕
酒(みき)を置かしめして群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり、うたげ)したまふ。
丙戌。
自筑紫貢唐人卅口、
則遣遠江國而安置。
自筑紫貢…〈北〉筑紫 レリ安置 ハムヘシムハヘヨ  。 〈閣〉ハヘラ-置
〈兼右本〉安-置ハンヘラシム 
遠江国…〈倭名類聚抄〉遠江【止保太阿不三】」。
丙戌(ひのえいぬ)〔十六日〕
筑紫(つくし)自(よ)り唐(たう、もろこし)の人三十口(みそたり)を貢(みつ)ぐ、
則(すなはち)遠江(とほつあふみ)の国に遣(や)りて[而]安(やすらけ)く置けり。
庚寅。
詔曰
「諸王以下初位以上、
毎人備兵。」
諸王以下…〈北〉曰諸 ヨリ以下初 ヨリ以上
初位…古訓に「初位ウヰカウフリ」(【大化三年是歳(二)】)。
庚寅(かのえとら)〔二十日〕
詔(みことのり)たまひて曰(のたまはく)
「諸(もろもろの)王(おほきみ)より以下(しもつかた)初位(はつかがふり、うひかがふり)より以上(かみつかた)は、
人毎(ごと)に兵(つはもの)を備へよ。」とのたまふ。
是日。
相摸國言
「高倉郡女人生三男。」
生三男…〈北〉三男ウメリ ヲノコゝヲ ヒトタヒニ ウメリ一-月 /ヒトタヒニアタリノヲノコゝウメリ 私記
〈閣〉生三 ヒトタヒニウメリ[句]/ヒトタヒニアタリノオノコゝウメリ。 〈兼右本〉-三-[ノ]ミタリノヒトタヒニウメリ  ヲノコゝ[ヲ][句]十一ヒトタヒニミタリノヲノコゝウメリ イ点

相摸国高倉郡…〈倭名類聚抄〉{相模【佐加三】国・高座【太加久良】郡}。
是(この)日。
相摸国(さがみのくに)言(まを)さく
「高倉郡(たかくらのこほり)の女人(をみな)三(みたり)の男(をのこご)を生めり。」とまをす。
十一月辛丑朔癸卯。
有人、登宮東岳、
妖言而自刎死之。
當是夜直者、
悉賜爵一級。
辛丑朔…〈北〉 丑ノ
妖言…〈北〉人登官ノ東岳妖-言┌オホツ■コトシテ而自刎死クヒハネ 之 當是夜直者トノヰタル悉賜カフリ一級
〈閣〉妖-言オヨツレコトシテオヨツシコトシテ而自クヒハネテ死之直者 トノイセルモノ ニ
〈兼右本〉妖-言オヨツレコトシ[テ]
…[動] 自ら頸動脈を切って死ぬ。(古訓) きる。はぬ。
はぬ…[他]ナ下ニ はねる。はねのける。「首を刎(は)ぬ」用法が上代からあったかどうかは不明。
およづれ/およづれこと…[名] 〈時代別上代〉「人をまどわすことばの意か」。(万)4220人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 ひとぞいひつる およづれか わがききつる たはことか」。
とのゐ…[名] 御殿に宿直すること。
十一月(みなづき)辛丑(かのとうし)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔三日〕
人有りて、宮の東(ひむがし)の岳(やま)に登りて、
妖言(およづれこと)して[而]自(みづから)刎(くびきり)て死之(しに)せり。
是夜(このよ)の直(とのゐ)に当たりし者(もの)には、
悉(ことごと)に爵(かがふり)一級(ひとしな)を賜(たま)ふ。
是月。
大地動。
地動…〈北〉 ニ地動 ナヰフル
是(この)月。
大(おほ)きに地動(なゐふる)。
《大分君恵尺》
大分君恵尺  壬申年六月二十二日に倭京に派遣され駅鈴を求めたが交付を拒まれ、 同二十六日までに鈴鹿関に大津皇子を伴って到着。
[大分の遺跡―古宮古墳―]より
古宮古墳
 古宮古墳〔大分県大分市大字三芳〔旧椎迫〕〕を、大分君恵尺の墓とする説がある。
 [大分市公式]/[大分の史跡-古宮古墳]によると、 古宮古墳は「椎迫しいざこ丘陵の南側斜面にある南北約12.5m、東西約12mの方墳」。
 「古宮古墳のようなくり抜き式の構造をもつ横口式石槨は、7世紀中頃前後に畿内の貴族の間で流行したもので、九州では他に例がないことから、 被葬者はヤマト王権と深くかかわっていた人物と推定され」、「与えられた高い冠位から恵尺がその有力な候補者として考えられ」るという。
 そして「この古墳は被葬者がほぼ特定できる数少ない古墳の一つ」と、かなり断定的に述べる。
 古宮古墳大分郡の中央部にある。 〈国造本紀〉に「大分国造」項はないが、「火国造」の項に「大分国造同祖」と記されている。 大分国造大分郡に移行し、大分君は郡令を担う氏族であろうと思われる。 大分君恵尺が氏族の本貫地で葬られ、 その際中央の高級官の墳墓のスタイルを用いたと推定することに、それほどの無理はない。
 副葬品に冠などの断片でもあれば有力な手掛かりになるはずだが、1981年に行われた発掘調査では「石室は早くから開口していて、副葬品等はまったく不明」だという (『日本歴史地名大系』〔平凡社1995〕)。但し、その調査で「須恵器の破片が出土しており、石室の形態と合せて七世紀中頃―後半の古墳とみられている」という(同)。
《遣于新羅》
大伴連国麻呂  大伴連の始祖日臣は「大伴氏之遠祖日臣命」と書かれ、〈神武〉を助けた(〈神武〉即位前/戊午年六月)。 国麻呂は翌五年二月に帰国する。
三宅吉士入石  〈姓氏家系大辞典〉「三宅吉士:難波吉士の一にして、難波屯倉〔みやけ〕に仕へし氏也」。 入石はおそらく国麻呂とともに翌五年二月に帰国。三宅吉士は〈天武〉十二年十月に姓。さらに十三年十二月に宿祢姓。
《耽羅調使王子久麻伎》
久麻伎 〈天智〉八年三月、〈天武〉二年閏六月八日に朝貢した。
 王子久麻伎は、さる二年閏六月の朝貢の時には朝見がかなわず、筑紫止まりで帰された
《大風》
 大風が吹いた八月癸巳〔二十二日〕は、グレゴリオ暦では676年10月4日
 まだ台風シーズンの内だが、「砂飛ぶ」とあるので観測地では雨はあまり降らなかった。 「」と書かれていることを見ると、竜巻かも知れない。なお、強い台風が北東方向に進むときには、南東象限でしばしば竜巻が発生する。
《新羅王子忠元》
忠元 二月筑紫到着。四月難波着。
 八月二十五日、難波津から帰路に就いた。忠元と進調使全員(金比蘇金天沖朴武摩金洛水等)の動きであろう。瀬戸内海航路を西に向かう。
《新羅高麗二国調使》
 「新羅高麗二国調使」は、三月に来朝した一行であろう(高麗富干多武新羅朴勤修金美賀)。 この八月二十八日に、筑紫でを賜り、帰国する。
 こちらの一行は、都に上ったことが書かれていない。しかし、五か月間筑紫に留まりそのまま帰ったとはとても考えられない。 前年、耽羅王子久麻芸が筑紫で返されたときのことが細かく書かれたのは、京で朝見することが通常のことだったからである(二年八月)。
 大兄富干の一行は名目上の独立国高麗からの朝貢使で、新羅使は保護国としての付き添いであった。したがって、正真正銘の新羅朝貢使である忠元一行とは、必然的に別物である。 両者は、それでも付かず離れずで、大まかには同一行程を取ったと見るのがよいのかも知れない。 だとすれば、高麗朝貢使も同じように四月に難波に移動して、八月二十五日頃に難波を離れて筑紫に向かったことになる。こういうこともありそうに思える。
 ただ帰国の接待会場を、忠元らは難波に、大兄富干らは筑紫に割り振った。何とも微妙な対応である。 王子の一行へのあへは当然豪華になる。同じ頃に同じ地の会場で行った饗に差がついてしまうことを避けるためか。
《耽羅王姑如》
姑如 〈天智〉五年耽羅遣王子姑如等貢献」。
 前年、耽羅王子久麻芸が都に入れず筑紫で返された(二年八月)ことは屈辱的で、耽羅王姑如に対しても同じ扱いができるのかと開き直ったように見える。
 今回は新羅の使者が帰った後に、難波に入ることができた。 王子久麻伎はしばらく筑紫に滞在していて、新羅の使者が帰国したことを耽羅王に連絡して、姑如はそのタイミングで出発したと見ることができる。 耽羅王が筑紫に到着した記事がないのは、筑紫を経由したが下船せずそのまま難波に向かったからではないだろうか。
 どうやら、新羅の客と耽羅の客が難波に同時滞在しないように日程調整したようである。 その理由は正確には分からないが、細かく神経を使っていたことは明らかである。 二年八月因命大宰、詔耽羅使人」の件はそれを表現するために敢えて置いたものであろう。 もともと、新羅からの使者は形式的にではあるが日本への朝貢使の形をとっていたと見られる※)ことが考えられる。
 一方で新羅耽羅を自らの附庸国と位置づけている。ひとつの可能性としては、 日本の都に同時に滞在すると両者が同格で朝見を受けることになるが、この景色は新羅には受け入れ難いであろう。 日本側も、耽羅は自らのものという意思表示をあからさまにするのは新羅に無用の刺激を与えることになり得策ではない。
 ※)…日本の使者が新羅に派遣されたときも、同様に朝貢使の形式をとったに違いないと考える。ともに外交的儀礼として割り切っていたと想像される。
《覓一切経
 学問僧たちが持ち帰ったさまざまな経が、それぞれの寺に所蔵されていたことだろう。この日は使者を四方の寺に派遣して、それらの経を集めさせたようである。 ここでいう「一切経」は学問的に定義されたリストではなく、文字通り一切の経を求めさせたという意味になる。
《唐人三十口》
 〈斉明〉六年十月に「佐平鬼室福信遣佐平貴智等、来献唐俘一百余人」とある。 その百人は、「〔書紀が書かれたとき〕は、美濃国不破郡方県郡に住むという。
 今回の「唐人三十口」も、かつて百済軍が獲て倭国に送られた俘虜で、しばらく筑紫に住まわせていたものであろう。
《諸王以下初位以上毎人備兵》
 大化元年八月の東国国司あての詔では、 辺境では、軍備を国司が担うことを急がず、ひとまず「本主」に軍備を担わせよと命じている。 「本主」とは、地方氏族あるいは郡大領〔ほぼ国造がそのまま任じられた〕であろうと思われる。
 しかし、方向としては軍備も中央集権化は明瞭である。 ところが、皇親政治で左右大臣を置かないから、氏族に軍備を担わせようにも氏族を率いる大臣そのものがいない。 よって、軍備は諸王〔皇子の子以下の世代〕や、冠位のある官人が自ら担うことになった。
《女人生三男》
 一人の女性が三人を順番に出産することは別に珍しくないから、ここでは多胎児の出産であろう。 古訓もそう解釈して、「ヒトタビニ〔=一度に〕を補ったと見られる。
《登宮東岳妖言而自刎死之》
 「宮東岳」は浄御原宮〔以前の後飛鳥宮〕の東の山である。 この山に一人の人物が登って、意味不明のことを言って自死したという。
 〔後飛鳥〕宮東山には〈斉明〉天皇が謎に満ちた宗教施設を築いている (酒船石遺跡〈斉明〉二年資料[54]/《酒船石遺跡》項)。 ことによると、霊感をもつ者が引き寄せられる空間だったのかも知れない。
 当直には恩賞を与えられたという。混乱することなく対応できたことが褒められたようだ。
 ここだけを読むと、不吉なことの前触れかと思わせるが、〈天武〉紀は大事件を怪奇現象が予言※)するような構成を用いていない。※)〈皇極〉三年六月の猿歌など。 逆に翌年は、二つの祥瑞で始まっている。
《大地動》
 〈天武〉紀に大地動の記事は四年十一月、八年十二月、十一年八月〔5日間隔で2度〕、十三年十月〔人畜に死傷多数〕にある。
《大意》
 六月二十三日、 大分君(おおきたのきみ)恵尺(えさか)は、病してまさに死のうとしていました。
 天皇(すめらみこと)は大変驚かれ、 詔しました。
――「あなた恵尺(えさか)は、 私を顧みず、公に向かい身命を惜しまず、 遂に雄々しき心で大役(たいえき)に臨んだことを労い、 いつも慈愛しようと思(おぼ)していた。
 よって、これから既に死んだとしても、 子孫に厚く賞する。
 よって外(げ)小紫位(しょうしい)に上げる。」
 それから未だ数日に及ばず、私家で薨じました。
 七月七日、 小錦上(しょうきんじょう)大伴連(おおとももむらじ)国麻呂(くにまろ)を大使に、 小錦下(しょうきんげ)三宅吉士(みやけのきし)入石(いりし)を副使にして、 新羅に派遣しました。
 八月一日、
耽羅(とんら)の調使の王子(せしむ)久麻伎(くまき)が、 筑紫に着きました。
 二十二日、 大風が吹き、砂を飛ばし家を壊しました。
 二十五日、 忠元(ちゅうげん)は、礼を終えて辞して帰り、 難波から船出しました。
 二十八日、 新羅高麗の二国の調使を 筑紫で饗して、それぞれに応じて禄を賜りました。
 九月二十七日、 耽羅(とんら)の王(こきし)姑如(こじょ)が難波に到着しました。
 冬十月三日、 使者を四方に遣わして一切の経を探し求めさせました。
 十日、 御酒を置き群臣に宴を賜りました。
 十六日、 筑紫〔の大宰〕から唐人三十人が献上され、 よって遠江(とおとうみ)の国に送って住まわせました。
 二十日、 詔しました。
――「諸王以下初位以上は、 各自で兵器を備えよ。」
 この日、 相摸国は、 「高倉郡の女性が男の三つ子を生みました。」と言上しました。
 十一月三日、 ある人が、宮の東の山に登り、 妖言して自ら首を切って死にました。
 この夜に宿直した者は、 全員が爵一級〔の進階〕を賜わりました。
 この月に、 大地震がありました。


まとめ
 後の時代〈聖武〉天平十三年に、改めて食肉禁止詔が発せられた。その理念は、人の代わりに田を耕してくれる牛馬には感謝すべきであって、 それを食用にするなどもっての他というものである。その出発点に〈天武〉三年詔が位置付けられよう。
 ただ、〈天武〉詔には犬鶏猿も食用禁止に含まれていたが、これはそれらへの親近感によるものであろう。 そのほかの鹿、猪、雉、鴨などは適用外だったようだが、ただし罠を用いた残酷な捕獲を禁じている。
 仏教との関係においては、仏教が食肉を絶対的に禁じているわけではないが、修業はそもそも禁欲生活なので食肉は必然的に禁止されやすい傾向がある。
 一方〈天武〉〈持統〉紀には、天皇の遊猟の記事がない点が注目される。食肉禁止令と併せて見ると、トータルで動物を守りたい気持ちが強かったと言えそうである。 〈天武〉の食肉禁止令は、仏教精神を徹底するためというよりは、一般的な動物愛護精神に基づくものだったと考えるべきであろう。 仏教の教義が絡み、『法苑珠林』「畜生部」を読んでみたが、なかなか歯ごたえがある。さらに掘り下げるにはまだ随分の努力を必要としよう。
 もう一つ、以後の重要な朝廷行事の出発点になったのが、風神大忌神の祭である。 ここで興味深いのは、若宇加売命〔ウケノメ、ウカノメ〕がまだ伊勢神宮とは離れてたところにいることである。 伊勢神宮にトヨウケノカミの摂社程度はあっただろうが、豊受神が伊勢で大規模に祀られるようになったのはもう少し後の時代であったことを伺わせる 〔ただこれについては、さらに緻密な探索が必要である〕
 また貸稲は、出挙に繋がる。出挙は最終的に税の一種になってしまうが、〈天武〉朝の貸稲は救済の目的があったように見える。
 さて、新羅、新羅の傀儡政権としての高麗、耽羅との外交活動は引き続き活発である。 その日程を綿密に見ると、日本政府が随分きめ細かく対応している様子が浮かび上がる。 〈天智〉朝では軍政と書かれるように、朝鮮式山城築城への動員など、身を固くした対応がなされていたが、 〈天武〉朝では対新羅を中心に外交をダイナミックに展開する。それがうまく進むためには、細かな配慮を要したと見られる。



2025.03.14(fri) [29-04] 天武天皇下4 

31目次 【五年正月~四月】
《正月群臣百寮拜朝》
五年春正月庚子朔。
群臣百寮拜朝。
群臣…〈北野本〔以下北〕群臣 者イ 百寮朝イ
五年(いつとせ)春正月(むつき)庚子(かのえね)の朔(つきたち)。
群臣(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)朝(みかど)を拝(をろが)む。
癸卯。
高市皇子以下小錦以上大夫等、
賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖、
唯小錦三階不賜机。
高市皇子…〈北〉高市皇ヨリ以下小ヨリ以上 大夫等賜キヌ/ハカマ/ヒラヒヒラミ/マシヒ腰-帯ミユヒ/オヒミウシ オヒ脚帶及机-ツキオシマツキオシマツキ
〈内閣文庫本〔以下閣〕ヒラヒヒラオヒ-腰-[切]脚-アユヒ ノ ニハ
〈兼右本〉ヒラミヒラヒ[切]腰-帯 オヒ 脚-帯 アユヒオシマツキ ツヱ
ひらみ…[名] 袴の上につける。ヒラビとも。〈令義解-衣服令〉「太子礼服…白袴、白帯、深紫紗褶」。 『播磨国風土記』「宍禾郡:比良美村大神之褶落於此村故曰褶村〔大神がヒラミを落としたが故にヒラミ村と曰ふ〕
あゆひ…[名] アヨヒとも(〈皇極〉元年是年)。
おしまづき…[名] 小机。脇息。
小錦三階…小錦上・小錦中・小錦下〔〈天智〉三年冠二十六階
癸卯(みづのとう)〔四日〕
高市皇子(たけちのみこ)より以下(しもつかた)小錦(せうきむ)より以上(かみつかた)の大夫(まへつきみ)等(たち)に、
衣(きぬ)袴(はかま)褶(ひらみ)腰帯(おび)脚帯(あゆひ)及びに机(おしまづき)杖(つゑ)を賜(たま)ふ、
唯(ただ)小錦(せうきむ)の三階(みしな)は机(おしまづき)を不賜(たまはらず)。
丙午。
小錦以上大夫等、
賜祿各有差。
賜禄各有差…〈北〉賜各。 〈兼右本〉カツケモノ
丙午(ひのえうま)〔七日〕
小錦(せうきむ)より以上(かみつかた)の大夫(まへつきみ)等(たち)に、
賜禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)差(しな)有り。
甲寅。
百寮初位以上、
進薪。
初位…〈北〉 ヨリ。 〈兼右本〉初-位ウイカフフリヨリ
甲寅(きのえとら)〔十五日〕
百寮(もものつかさ)の初位(はつかがふり、うゐかがふり)より以上(かみつかた)、
薪(たきぎ、みかまき)を進(たてまつ)る。
卽日。
悉集朝庭賜宴。
悉集朝庭…〈北〉ウコナヘマウ朝-庭。 〈閣〉マウテ。 〈兼右本〉トヨ
うごなはる…[自]ラ四 集まる(大化二年)。
即(その)日。
悉(ことごと)に朝庭(みかど)に集(うごなは)りて宴(とよのあかり、うたげ)を賜(たま)ふ。
乙卯。
置祿射于西門庭、
中的者則給祿有差。
置禄…〈北〉モノ于西門オホハイタルヒトニ的者則給禄有
〈閣〉 ヒトニハマトニイトニ者則 ヿ。 〈釈紀〉イタルヒトニ マト
〈兼右本〉イクウ于西門[ノ]オ [ニ][テ]イアタル[ニ][ハ]マト[ニ]
乙卯(きのとう)〔十六日〕
禄(もの)を置きたまひて[于]西門(にしのかど)の庭(おほには)に射(いくふ、ゆみいる)、
的(まと)に中(あ)ててあるひとに者(は)則(すなはち)給禄(ものたまふこと)有差(しなあり)。
是日。
天皇御嶋宮、宴之。
御嶋宮…〈北〉 ノ
是(この)日。
天皇(すめらみこと)嶋宮(しまのみや)に御(おほましま)して、宴之(とよのあかり、うたげ)したまふ。
甲子。
詔曰「凡任國司者、
除畿內及陸奧長門國、
以外皆任大山位以下人。」
詔曰…〈北〉 テ曰凡任 ノオイテ大山 ヨリ以-下人
〈閣〉マケコトハ國司。 〈兼右本〉マケマケタマワリ大-山- ヨリ
大山位…大山上は、冠二十六階の第十四位。
甲子(きのえね)〔二十五日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)「凡(おほよそ)国司(くにのつかさ)に任(もちゐ)る者(ひと)は、
畿内(うちつくに)及びに陸奧(むつ)長門(ながと)の国を除(お)きて、
以外(そのほか)は皆(みな)大山(だいせん)の位(くらゐ)より以下(しもつかた)の人を任(もち)ゐよ。」
二月庚午朔癸巳。
耽羅客、賜船一艘。
庚午朔…〈北〉二月庚午朔 イ有 无癸巳 耽 ノ客賜船一艘
二月(きさらき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として癸巳(みずのとみ)〔二十四日〕
耽羅(とむら)の客(まらびと)に船(ふね)一艘(ひとふな)を賜(たま)ふ。
是月。
大伴連國摩呂等、至自新羅。
是月…〈北〉日イマウケリ新羅
是(この)月。
大伴連(おほとものむらじ)国摩呂(くにまろ)等(ら)、新羅(しらき)自(よ)り至(まゐく)。
夏四月戊戌朔辛丑。
祭龍田風神廣瀬大忌神。
倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。
其冠、似海石榴華。
倭国添下郡…〈北〉○國倭 添下郡ソフノシモノコヲリノワニツミ  レリ シキアヤシヨキ 
〈閣〉添下コホリノサトノアヤシキ
其冠…〈北〉 サカ海-石-榴 ツハキノハナ■-華。 〈閣〉 シ海石榴
〈兼右本〉コトシ海-石ハツキ-榴華
さか…[名] 鳥のとさか。〈時代別上代〉「トサカは、トリ=サカ⇒トッサカ⇒トサカと変化した語であろう」。
夏四月(うづき)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)として辛丑(かのとうし)〔四日〕
龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)を祭(いは)ふ。
倭国(やまとのくに)の添下郡(そふのしものこほり)の鰐積(わにつみ)の吉事(よし)、瑞(みづ)鶏(とり)を貢(たてまつ)る。
其の冠(さか)は、海石榴(つばき)の華(はな)の似(ごと)し。
是日。
倭國飽波郡言
「雌鶏化雄。」
倭国飽波郡…〈北〉飽◱波◱ アクナミノコヲリ/化イナレリ ヲトリ。 〈閣〉アクナミナミ
飽波郡…〈倭名類聚抄〉{大和国・平群郡・飽波【阿久奈美】郷}。
雌鶏…〈北-仁徳四十年〉「雌鳥メトリ皇女」。
是(この)日。
倭国(やまとのくに)の飽波郡(あくなみのこほり)言(まを)さく
「雌鶏(めとり)雄(をとり)に化(な)れり。」とまをす。
辛亥。
勅「諸王諸臣被給封戸之税者、
除以西國、相易給以東國。
又外國人欲進仕者、
臣連伴造之子及國造子、聽之。
唯雖以下庶人、
其才能長亦聽之。」
封戸之税…〈北〉封-戸ヘヒトオホチカラヤメ西カタ ヘ。 〈閣〉 方ノ ニ
外国人…〈兼右本〉 ツ-國人
庶人…〈北〉庶-人オホムタカラ カト シハサ イサキ。 〈閣〉イサセタルハ。 〈兼右本〉イサセタル
とつくに…[名] 畿内以外の国。
いさし…[形]ク 不詳。辞書などに見えず。
いさす…[自]サ下ニ 不詳。辞書などに見えず。 
辛亥(かのとゐ)〔十四日〕
勅(みことのり)のたまはく「諸(もろもろ)の王(おほきみ)諸(もろもろ)の臣(おみ)に被給(たまはれ)る封戸(ふこ、へひと)之(が)税(おほちから)者(は)、
西国(にしのかたのくに)を以(もちゐること)を除(や)めて、相(あひ)易(か)へて東国(あづまのかたのくに)を以(もちゐ)て給(たま)へ。
又外国(とつくに)の人の欲進仕(つかへまつらむとする)者(もの)は、
臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)之(の)子及びに国造(くにのみやつこ)の子は、[之(こ)を]聴(ゆる)せ。
唯(ただ)以下(しもつかた)の庶人(もろひと)にあれ雖(ども)、
其の才能(かど)長(すぐれてあるもの)は、亦(また)[之を]聴(ゆる)せ。」とのたまふ。
己未。
詔美濃國司曰
「在礪杵郡紀臣阿佐麻呂之子、
遷東國、卽爲其國之百姓。」
在礪杵郡…〈北〉礪-杵-キノコヲリ紀臣/アツマノクニ
〈閣〉訶佐麻呂。 〈釈紀〉佐麻呂。 〈兼右本〉訶佐麻呂 〈伊勢本〉佐麻呂
〈岩波文庫〉「訶佐麻呂」。『日本古典文学全集』〔小学館〕阿佐麻呂」。
礪杵郡…〈倭名類聚抄〉{美濃国・土岐郡}。
己未(つちのとひつじ)〔二十二日〕
美濃(みの)の国の司(つかさ)に詔(みことのり)曰(のたまはく)
「礪杵郡(ときのこほり)に在(はべ)る紀臣(きのおみ)阿佐麻呂(あさまろ)〔訶佐麻呂(かさまろ)〕之(が)子(こ)をば、
東国(あづまのくに)に遷(うつ)して、即(すなはち)其の国之(の)百姓(たみ)と為(せ)よ。」とのたまふ。
《高市皇子》
高市皇子  〈壬申紀〉ではで近江からの脱出に成功、伊勢で合流。10で「軍事」、 13で「-率諸将而征討」と誓う。
 八年五月には草壁皇子が序列一位だが、この時点では高市皇子が最高位か。しかし、草壁皇子尊は既に別格で、ここでは高市皇子は臣下の筆頭として扱われた可能性もある。
《進薪》
 進薪は四年に初出(《進薪》項)。以後定例行事化したと見られる。 五年の進薪の日付は、〈延喜式-宮内省/嘗/大斎〉の 「凡毎年正月十五日」に一致する。
《射于西門庭》
 見事的を射た者に景品を出して盛り上げたところに、〈天武〉の射幸の人柄が偲ばれる。
《嶋宮》
 〈壬申紀〉22参照。 嶋宮は旧蘇我馬子邸(/《嶋宮》)、 島庄遺跡に比定(〈推古〉三十四年《家》、〈用明〉元年《蘇我馬子邸宅》)。
《凡任国司者》
 「凡…」の書式はを思わせる。浄御原宮令の一条かも知れない。
《長門国》
 「長門国」の史実としての初出は天智四年〔665〕(【長門国の城/大野城/椽城】項)。 『国造本紀』には「穴門国造」が見える (隋書倭国伝(4)【山陽道の国造】項)。 好字令自体は和銅六年〔713〕(資料[13])だが、飛鳥時代から既にその流れにあったか。
《以外皆任大山位以下人》
 言い換えれば、畿内長門陸奥には小錦以上を置くことがあり得る。長門陸奥は辺境だから、必要があれば高位の者を置くということか。
 「筑紫」がないのは、大宰に高位の者を置いたから必要がなかったということであろうか。
《耽羅客》
 耽羅王子久麻芸は、前年八月一日筑紫に停泊。 耽羅王姑如は、前年九月二十七日難波に到着した(四年八月~九月)。
《大伴連国摩呂》
大伴連国摩呂  前年七月七日に、新羅に派遣
 副使三宅吉士入石も共に帰国したと見られる。
《祭龍田風神広瀬大忌神》
 毎年の祭りとして定例化したようである(《祠風神于龍田立野項)。
《鰐積吉事》
鰐積吉事  〈姓氏家系大辞典〉「鰐 ワニ〔和邇、丸邇など〕各条と通ず」、 「鰐積:和邇君の族なるべし。積は津見ともあり、原始的カバネの一也」。吉事はここだけ。
《添下郡》
 この時期までに、旧曽布県(そふあがた)の地域に添下評添上評が置かれたと見られる(下述)。
《瑞鶏》
 は、四年四月職肉禁止令の対象に入っていた。ここの「瑞鶏」も神聖視の表れか。次の雌鶏の雌鶏転換も同様かも知れない。
《飽波郡》
 〈倭名類聚抄〉{大和国・平群郡・飽波【阿久奈美】郷}、 〈称徳〉神護景雲元年〔767〕乙巳。幸飽浪宮」が見える。 それでは、飽波評※)は、具体的にはどの辺りであろうか。
 ※)の大宝元年以前の呼称(〈景行〉十七年)
 『大日本地名辞書』には「飽浪常楽寺あり、これ宮址にあらずや」、 「常楽寺は安堵村の東安堵に在り、寺伝云、山背大兄王建立」とある。常楽寺は現極楽寺〔奈良県生駒郡安堵町東安堵1453〕
 また、[奈良県景観遺産―飽波神社と太子道―]には 「太子道…の道沿いに飽波神社があります。境内には太子ゆかりの太子腰掛け石…」という〔奈良県生駒郡安堵町東安堵1379〕
 [額田部氏の系譜と職掌](仁藤敦史/『国立歴史民俗博物館研究報告』88〔2001〕)によると、 「法隆寺幡銘に「飽波評」と記される」が「大宝令の群制施行までは存続せず、隣接する平群郡に吸収合併されてしまったことが推測される」、 「阿智使主が…仁徳朝に呼び寄せた…子孫に「飽波村主」がいる(『坂上系図』)」という。
 古い時代の「やまと六御県むつのみあがた」(第195回)のひとつ 曽布県そふあがたの南西部分、あるいはあがたが空白だった地域に平群評広瀬評、そして飽波評が置かれたと想像される。 額田部村〔現大和郡山市の額田部北町など〕は、〈倭名類聚抄〉{平群郡・額田【奴加多】郷}の遺称と見られるが、ここも飽波評の範囲内か。
 直感的には、平群郡のうち富雄川より東が飽波評だったように思われる。
《礪杵郡》
 美濃国の土岐郡と見られる。
《紀臣阿佐麻呂之子》
紀臣阿佐麻呂  訶佐麻呂河佐麻呂とも。  紀臣については、〈天智〉十年紀大人臣項参照。 〈姓氏家系大辞典〉「美濃の紀臣:天武紀五年条に…紀臣阿佐麻呂…と見ゆ」。阿佐麻呂はここだけ。
 懲罰が子孫に及んだものと見られる。本人への処罰は欠落か。
 この段を含めて四年条から後にはいくつかの犯罪処罰の記事が見えるが、いずれも罪状の記載がない。 書紀原文製作者が、記録から項目だけを拾ったように思われる。
 表記は現代の版本でも不統一で、「」「」がある。
《大意》
 五年正月一日、 群臣百寮は朝廷を拝しました。
 四日、 高市皇子(たけちのみこ)以下、小錦以上の大夫らに、 衣、袴、褶(ひらみ)、腰帯(おび)、脚帯(あゆひ)及び脇息、杖を賜わり、 ただ小錦(しょうきん)上・中・下は脇息を賜わりませんでした。
 七日、 小錦以上の大夫らに、 それぞれに応じて賜禄しました。
 十五日、 百寮の初位以上は、 薪(みかまき)を進上しました。
 その日、 〔群臣百寮の初位以上を〕悉く朝庭に集められ、宴を賜りました。
 十六日、 禄(ろく)を置き西門の庭で射技し、 的に当てた人にはそれぞれに応じて禄を賜りました。
 この日、 天皇(すめらみこと)は嶋宮(しまのみや)にいらっしゃり、宴されました。
 二十五日、 詔しました。
――「凡(およ)そ国司に任ずる人は、 畿内及び陸奧(むつ)、長門(ながと)の国を除き、 それ以外は皆大山位以下の人を任じよ。」
 二月二十四日、 耽羅(とんら)の客人〔王姑如、王子久麻芸ら〕に船一艘を賜りました。
 この月、 大伴連(おおとものむらじ)国摩呂(くにまろ)らは、新羅から帰国しました。
 四月四日、 龍田の風神(かぜのかみ)、広瀬の大忌神(おほいみのかみ)を祀りました。 倭国〔大和国〕の添下郡(そふのしものこおり)の鰐積(わにつみ)の吉事(よし)は、瑞鶏を献上しました。 その冠は、海石榴〔ツバキ〕の花に似ていました。
 この日、 倭国の飽波郡(あくなみのこおり)は、 「雌鶏が雄に変わりました。」と言上しました。
 十四日、 勅しました。
――「諸王〔親王の子以下の代〕、諸臣に支給される封戸の税は、 西国を用いることをやめ、替わりに東国を用いて支給せよ。
 また、畿外の人で仕えようとする者は、 臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)の子、及び国造(くにのみやつこ)の子は、聴(ゆる)せ。 ただ、それ以下の庶民であっても、 才能に長(た)けた者は、これも聴(ゆる)せ。」
 二十二日、 美濃の国司に詔しました。
――「礪杵郡(ときのこおり)〔土岐郡〕に住む紀臣(きのおみ)阿佐麻呂(あさまろ)〔訶佐麻呂(かさまろ)とも〕の子を 東国に移して、その国の百姓とせよ。」


32目次 【五年五月~七月】
《下野國司奏賣子而朝不聽》
五月戊辰朔庚午。
宣進調過期限國司等之犯狀
云々。
宣進調…〈北〉ノタマ ラム調過期-限カキリ。 〈閣〉 ラムヿ[切]カキリ国司
〈兼右本〉ノタマフ
五月(さつき)戊辰(つちのえたつ)を朔(つきたち)として庚午(かのえうま)〔三日〕
宣(のたまはく)「調(みつき)進(たてまつ)らむ期限(かぎり)を過ぎてある国司(くにのつかさ)等(ども)之(の)犯(をか)せる状(さま)、
云々(しかしか)」とのたまふ。
甲戌。
下野國司奏
「所部百姓遇凶年、
飢之欲賣子。」
而朝不聽矣。
所部…〈北〉所-部クニノウチ ヨリ-年トシエヌ飢之イサウヱ ヨリテ凶-年 トシネヌニ[切]飢之イサウエテ
〈兼右本〉ヨリ凶-年トシ エヌ[ニ][テ]
下野国…〈倭名類聚抄〉{下野【之毛豆介乃】国}。《上毛野国》項参照。
甲戌(きのといぬ)〔七日〕
下野国(しもつけのくに)の司(つかさ)奏(まを)さく
「所部(べにある)百姓(たみ)凶年(あしきとし)に遇(あ)ひて、
飢之(うゑ)て子を売(う)らむと欲(おも)ひまつる。」とまをす。
而(しかれども)朝(みかど)不聴(ゆるさじ)[矣]。
是月。
勅「禁南淵山細川山並莫蒭薪。
又畿內山野元所禁之限、
莫妄燒折。」
南淵山細川山…〈北〉 ミナノ淵山細川山並 ナカレクサカリクサカリキコルキコルキコリコト禁之限莫妄燒キル
〈閣〉蒭薪 クサカリキコルヿヤキ キルコトキト。 〈兼右本〉 ヨリ
…芻の異体字。まぐさ。ほしくさ。飼料にした草。 〈倭名類聚抄〉{:【和名加良久佐】乾草也}。
是(この)月。
勅(みことのり)のたまはく「禁(いさむ)。南淵山(みなふちやま)細川山(ほそかはやま)並びに芻(からくさとり)薪(きこること)莫(なか)れ。
又畿内(うちつくに)の山野(やまの)は元(もとより)所禁之(ふせかえし、いさめてある)限(かぎり)にありて、
妄(みだりかはしく)焼(や)き折(を)ること莫(な)かれ。」とのたまふ。
六月。
四位栗隈王、得病薨。
得病…〈閣〉得- テ
六月。
四位栗隈王、得病薨。
物部雄君連、忽發病而卒。
天皇、聞之大驚。
其壬申年、從車駕入東國、
以有大功、降恩贈內大紫位、
因賜氏上。
病而卒…〈北〉シヌイタハリ /カハネ武イコノカミ。 〈閣〉 テ車-駕ミユキニ 
〈兼右本〉-車-ミユキニオホントモニツカマツリオフテタマフコノカミ
物部(もののべ)の雄君(をきみ)の連(むらじ)、忽(たちまち)発病(やまひ)して[而]卒(そち)す。
天皇(すめらみこと)、之(こ)を聞こして大(はなはだ)驚(おどろ)きたまふ。
其(かの)壬申(じむしん、みづのえさる)の年、車駕(しやか)に従(したが)ひまつりて東(あづま)の国に入(い)りて、
大(おほき)功(いさみ)有(もてる)を以ちて、恩(めぐみ)を降(くだ)して内大紫位(ないだいしゐ)を贈りたまふ。
因(よ)りて氏上(うぢのかみ)を賜(たま)ふ。
是夏。
大旱。
遣使四方、
以捧幣帛祈諸神祗。
亦請諸僧尼祈于三寶。
然不雨、由是五穀不登、
百姓飢之。
大旱…〈北〉大-ヒテリス三◳寶◱
〈兼右本〉 シム諸神-祇ミノラ ヌ
三宝…仏法僧。
是(この)夏。
大(おほ)きに旱(ひで)る。
使(つかひ)を四方(よも)に遣(や)りて、
幣帛(みてくら)を捧(ささ)げしむを以ちて諸(もろもろ)の神(あまつかみ)祗(くにつかみ)に祈(いの)らしむ。
亦(また)諸(もろもろ)の僧(ほふし)尼(あま)に請(こ)ひて[于]三宝(さむほう)に祈(いの)らしむ。
然(しかれども)不雨(あめふらず)て、是(こ)に由(よ)りて五穀(いつくさのたなつもの)不登(みのらず)、
百姓(たみ、おほみたから)飢之(うゑてあり)。
秋七月丁卯朔戊辰。
卿大夫及百寮諸人等、
進爵各有差。
百寮諸人…〈北〉イ无寮諸人爵各 カフリ  スゝヘタマフ  
〈閣〉 交本无 ノ諸人 等進爵スゝメタマウヿ 
秋七月(ふみづき)丁卯(きのとう)を朔(つきたち)として戊辰(つちのえたつ)〔二日〕
卿大夫(まへつきみ)及びに百寮(もものつかさ)の諸(もろもろ)の人等(たち)に、
爵(かがふり)を進めたまふこと各(おのもおのも)有差(しなあり)。
甲戌。
耽羅客歸國。
帰国…〈北〉マカリカヘシ。 〈兼右本〉マカリカヘル
甲戌(きのえいぬ)〔八日〕
耽羅(とむら)の客(まらひと)国に帰(まかりかへる)。
壬午。
祭龍田風神廣瀬大忌神。
壬午(みづのえうま)〔十六日〕
龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)広瀬(ひろせ)の大忌神(おほいみのかみ)を祭(いは)ふ。
是月。
村國連雄依卒。
以壬申年之功、贈外小紫位。
壬申年之功…〈北〉外小紫位
是(この)月。
村国連(むらくにのむらじ)雄依(をより)卒(そち)す。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて、外小紫位(げせうしゐ)を贈(おく)りたまふ。
有星出于東、
長七八尺至九月竟天。
竟天…〈北〉ワタレリ
竟天…[動] 天の一方の端から他方の端まで届く。(古訓) わたる。 
星(ほし)有りて[于]東(ひむがし)に出づ、
長さ七八尺(ななさかやさか)にありて九月(ながつき)までに至りて天(あめ)に竟(わた)れり。
《遇凶年》
 前年は不作か。この段は前段の「進調過期限」との関連で読むべきかも知れない。
 古訓「トシエヌニヨリテ」は「年得ぬに依りて」か。は助動詞の連体形であるから、格助詞に続くことに問題はない。 アシを忌み言葉としての婉曲かも知れない。
 農村が飢え子を売る社会構造が、この時代からあったことは注目される。 売られた子は私奴婢となったであろう(資料[35])。
 女児が性搾取の対象とされた可能性もあるが、江戸時代の遊郭などの背景には男性優位の社会形態があり、飛鳥時代には女性が比較的自立的であったことを考慮すると一概には言い難い。
 ただし、この要請文中の「」は国司が税の減免を要請する文章中で用いられた修辞ともとれる。 だとすれば、中央政府の「不聴」は税の減免に応じたと読めるが、実際のところは分からない。
 ただ、〈続紀〉大宝元年〔701〕六月「丙寅。以時雨不降。令四畿内祈一レ雨焉。免当年調」、 慶雲元年〔704〕冬十月丁巳。有詔。以水旱時。年穀不稔。免課役并当年田租」のように、 凶作にあたってしばしば調や田租が免じられたのは確かである。
《南淵山細川山》
 彼の地には「南淵請安先生の墓」がある(〈用明〉二年《南淵坂田寺》)。 また、〈皇極〉元年八月には「南淵河上」で雨ごいした。
 この地に因んだ万葉歌、(万)1330南淵之 細川山 立檀 弓束纒及 人二不所知 みなふちの ほそかはやまに たつまゆみ ゆづかまくまで ひとにしらえじ」がある。
 比較的浄御原宮に近い。飛鳥宮を浄御原宮としたときに拡張された部分は、エビノコ郭に比定される(〈天武〉二年資料[54]) 右図で、エビノコ郭の位置は『飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書』〔明日香村2014〕による〕
《莫蒭薪》
 「蒭薪」は、〔飼料用の乾草〕のために草を刈ることと、樹木をのために伐採することを禁じる。 〈天武〉と皇后の鸕野讃良皇女が、この地の風景を愛した故かも知れない。 右図で浄御原宮、嶋宮との位置関係を見ると、細川は〈天武〉夫妻が連れ立っての散歩コースであったように思われる。
《莫妄焼折》
 「」から、当時焼畑農業が存在していたことが分かる。「」は伐採による農地化であろう。
《栗隈王》
栗隈王  四年二月兵政官長」。
 位階は諸王四位。諸王一位は大錦上に相当か(美濃王項)。
《物部雄君連》
物部雄君連  朴井連雄君は、〈壬申紀〉。 「従車駕」は、で脱出時のメンバー二十余人の一人であったことを指す。
 ここで物部連朴井連との関係を整理したい。
 書紀では、大化元年九月条の「物部朴井連椎子」が物部朴井の初見である。
 天孫本紀資料[39]では、 十六世孫である「物部荒猪連公」など四名に、「榎井臣等祖」とある。 物部荒猪連公には「孝徳朝大花上制冠十九階-大化五年」と書き添えられている。 つまり、〈孝徳〉朝の時代に物部氏から榎井臣が分岐したことになる。
 物部雄君については、
(十三世孫)物部尾輿連公┬(十四世孫)物部守屋大連公―(十五世孫)内大紫冠位物部雄君連公
└(十四世孫)物部麻伊古連公―(十五世孫)物部恵佐古連公―(十六世孫)物部荒猪連公【榎井臣等祖】
 とあり、物部雄君連公自身は榎井〔朴井〕臣から切り離されている。 しかし、書記と併せて見れば朴井連物部連の部分集合であり、かつその境界はぼやけていたと見るべきであろう。
《内大紫冠位》
 位に「」がつかない者は、中央の官に属していた。敢えて「」をつけたのは、雄君は任官していないから本来は外位だが、功績により内位扱いしようということなのだろう。 本人には名目に過ぎないが、子にとってはこれで任官の資格を親から継ぐという実利が生まれる。
《氏上》
 氏上は天智三年に制度化された。その後〈天武〉四年二月に部曲を廃したが、氏上制は維持された (《甲子年諸氏被給部曲》項)。
 雄君には死後の栄誉として与えられたから、それまでは物部氏もしくは朴井氏には氏上は定められていなかったようである。
 『天孫本紀』で、物部雄君連公(上記)に「飛鳥浄御原宮御宇天皇〔〈天武〉〕御世賜氏上内大紫冠位」と書き添えられるのは明らかに書紀に依ったものであるが、 雄君が賜った「氏上」は、物部氏の氏上ということになる。
 なお後の〈天武〉十年、十一年に繰り返された「氏上」の制度化は、まだ氏上を定めていなかった氏族が多い現実を示している。
《大旱》
 大旱の記事は〈皇極〉元年以来である。そのときは読経の効なく蘇我氏は権威の失墜した。一方、〈皇極〉による雨ごいは絶大な効果があった。 今回は、神祇界、仏教界が挙って雨ごいしたが効果はなかったと書かれている。
《耽羅客帰国》
 王子久麻芸は前年八月、王姑如は前年九月に来朝した。二月には船を賜った。
《祭龍田風神広瀬大忌神》
 四月に続いてこの年二回目である。旱魃が深刻だったためであろう。以後、年二回の祭事が通例化されたようである。
《村国連雄依》
村国連雄依  元年六月二十二日に〈壬申〉乱に先立ち美濃国に工作。二十六日、不破封鎖の成功を報告。 七月二日、不破から近江に直入。十三日~二十三日に安河浜、瀬田、粟津岡下、粟津市と進撃し、最終的に勝利する。
 吹負の行動が全体的に身勝手であったのに対して、村国連雄依は命令に忠実に従い、加えてきっちり勝利を得ている。 その実績を見れば、論功行賞において最大の百二十戸が封じられたのも不思議ではない。
 冠位は外位だから、官職につくことはなかったとみられる外位の初出は〈天武〉二年六月沙宅昭明雄依がもっと出世していても不思議はないが、実際には大伴連御行が兵政官大輔を拝した。家柄の故であろうか。
《有星出于東
 「竟天」は、おそらく彗星の尾が長く伸びていたのであろう。〈天武〉五年〔676〕」七月~九月に出現した彗星については、天文記録が『新唐書』にある。
2000年と676年の天体の位置
星名現代名2000年676年
赤経赤緯赤経赤緯
ふたご座μ04h 28m 36.93s+19°10′49.9″4.932085775+21.79203962
北河ふたご座σ07h 43m 18.69s+28°53′02.7″6.190074106+30.87864058
中台おおぐま座ι08h 59m 12.5s+48°02′30.6″7.204935281+52.24876695
文昌おおくま座υ09h 50m 59.69s+59°02′20.8″7.884134351+64.54987716
図A 西暦676年の二十四宿と黄道 □は七月二十一日と九月二十日の太陽の位置
図B 彗星の見かけの位置
 『新唐書』天文志 (資料[69])
〔(高宗)上元※1)三年七月丁亥〔二十一〕:有彗星於東井。指北河。 長三尺餘。東北行、光芒益盛、長三丈。掃中臺、指文昌 〔676/9/7※2)〕:〔彗星、東井〔ふたご座μ〕に有り。北河〔ふたご座σ〕を指して、長三尺余。東北行して、光芒益々盛りて、長さ三丈。中台〔おおくま座ι〕を掃きて、文昌〔おおくま座υ〕を指す。〕
九月乙酉〔二十〕:不見。 〔11/4〕:〔見えず〕
※1)…元号「上元」は複数ある。ここでは高宗の674年~676年。※2)…グレゴリオ暦。
 歳差運動によって天球上の星座は移動し、25、772年で一周する。それぞれの時代の天体の位置(赤緯、赤経)は、数学的に求めることができる。 資料[70]では、-201年の二十四宿の位置を推定した。ここでは、同じ方法を用いて676年の星空を求めた。
 676年の二十四宿の主星の配置は、図Aのようになっている。
 本サイトの元嘉暦モデル(参考[C]以後)によると、〈天武〉五年〔676〕の春分は、ほぼ閏二月一日になっている。 それを起点とすると、彗星が出現した七月二十一日は春分から約168日後でほぼ白露にあたる〔太陽:赤緯+5.837°、赤経11.098h〕。 「不見」の九月二十日は春分から224日後で、霜降から約13日後にあたる〔太陽:赤緯-15.704°、赤経14.669°〕
 図Bは、日の出〔午前6時ぐらい〕のときの「彗星」の位置を示す。 七月二十一日には彗星東井付近にあり、赤経では太陽から約6h西にあたるから、日の出の6時間ぐらい前に東の空から上る。日の出頃には大体真南に来ている。 したがって、夜間は東の空にあるから、書紀の「出于東」と合っている。 九月二十日には文昌付近で見えなくなる。太陽からは約7h西に離れ、また赤緯が上がるので天頂に近づく。
 詳細なデータは、(資料[80])に上げた。
《大意》
 五月三日、 宣ずるに、
――「調を進上する期限を過ぎた国司らの犯状は、 云々」。
 七日、 下野(しもつけの)の国司は、奏上して 「所部の百姓は凶年に遭遇し、 飢えて子を売ろうと望んでおります。」と申し上げましたが、 朝廷は聴(ゆる)しませんでした。
 同じ月に、 勅しました。
――「禁。南淵(みなみふち)山と細川山の一帯は、乾草や薪のために伐採することなかれ。 また、畿内の山野は元々禁じられた範囲であり、 妄りに焼き折ることなかれ。」
 物部の雄君(おきみ)の連(むらじ)は、突然発病して卒しました。 天皇(すめらみこと)は、これを聞かれ大変驚かれました。 さる壬申年、車駕に従って東国に入り、 大功を挙げたので、降恩して内大紫位を贈られました。 よって氏上(うじのかみ)を賜わりました。
 この夏は 大旱(おおひでり)で、 使者を四方に派遣し、 幣帛(みてぐら)を捧げ、諸々の神祗に祈らせました。 また、諸々の僧尼に請い三宝に祈らせました。 しかし雨は降らず、よって五穀不登となり、 百姓は飢えました。
 七月二日、 公卿大夫、及び百寮の諸々の人らに、 それぞれに応じて爵位を進階しました。
 八日、 耽羅(とんら)の客人〔王と王子〕が帰国しました。
 十六日、 龍田の風神と広瀬の大忌神(おおいみのかみ)を祀りました。
 この月に、 村国連(むらくにのむらじ)雄依(おより)が卒しました。 壬申年の功により、外小紫位を贈りました。
 星が東の空に出現しました。 長さは七八尺あり、九月に至って竟天(きょうてん)〔空の端から端まで覆う〕しました。


まとめ
 正月の宮廷行事や龍田風神と広瀬大忌神の祭はこれで二年続いたから、定例化したということであろう。
 一方、前年の凶作は下野国など一部の国に留まっていたが、今年の夏は全国的に大旱魃となったようである。 彗星の出現が書かれたのは、一連の不吉な自然事象の一部と受け止められたからであろう。



2025.03.20(thu) [29-05] 天武天皇下5 

33目次 【五年八月~九月】
《親王大夫等給食封》
八月丙申朔丁酉。
親王以下小錦以上大夫
及皇女姬王內命婦等、
給食封各有差。
内命婦…〈北野本〔以下北〕皇女[切]姫王[切]内-命-婦ヒメマチキミ等 給食- ヘヒト各有
〈兼右本〉オ -王
ひめまうちきみ(姫大夫)…[名] 後宮十二司のひとつである内侍司の女官。
内命婦…ないみやうぶ。五位以上の女官。
ひめとね…[名] 〈延喜式-中務省〉「中務省申久〔まうさく〕『宮人【訓曰比売刀祢】春夏禄可給事…』」。2025.10.07
外命婦…げみやうぶ。五位以上の官人の妻。
親王〈天武〉四年三月諸王四位栗隈王」が初出(同段《親王》項)。
八月(はつき)丙申(ひのえさる)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)〔二日〕
親王(みこ)より以下(しもつかた)小錦(せうきむ)より以上(かみつかた)の大夫(まへつきみ)
及びに皇女(ひめみこ)姫王(ひめおほきみ)内命婦(うちつひめとね、ないみやうふ)等(たち)に、
食封(じきふ)を給(たまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
辛亥。
詔曰
「四方爲大解除用物、
則國別國造
輸秡柱、
馬一匹
布一常。
国別…〈各〉クニ[切]國造[切]秡柱ハラエツモノ[切] 馬一匹[切]布一 キタイ ハラヘツモノ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 セム大-ハラヘ[句]用物モチヰンモノハ ニ。 〈兼右本〉イタセ
はらへつもの…[名] 秡(はらへ)に用いるもの。
きだ…[助数詞] 布の面積。幅は未定。長さ一丈三尺。
辛亥(かのとゐ)〔十六日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「四方(よも)に大解除(おほはらへ)の為(ため)に用(もちゐむ)物(もの)は、
則(すなはち)国別(くにごと)の国造(くにのみやつこ)は
秡柱(はらへつもの)、
馬一匹(ひとつ)、
布一常(ひときだ)を輸(いた)せ。
以外郡司
各刀一口
鹿皮一張
钁一口
刀子一口
鎌一口
矢一具
稻一束。
且毎戸、
麻一條。」
郡司…〈北〉 ヒラ クハ一口刀子カタナ/戸麻一 タハリ。 〈閣〉タチ一口麻一讀把タハリ
〈兼右本〉鹿皮一ヒラ
以外…〈北〉(〈天武〉二年九月段)以外ソノホカハ。 〈兼右本〉以-外コレヨリ 
…[名] 〈倭名類聚抄〉「:…【和名加末】」。
つか…[助数詞] 一束(つか)は十把(たばり)。
…[名] くわ。
以外(これよりほか)の郡司(こほりのつかさ)は、
各(おのもおのも)刀(たち)一口(ひとつ)、
鹿皮(しかのかは)一張(ひとひら)、
钁(くは)一口(ひとつ)、
刀子(かたな)一口(ひとつ)、
鎌(かま)一口(ひとつ)、
矢一具(ひとそなへ)
稲一束(ひとつか)を、
且(また)戸(へ)毎(ごと)に、
麻(あさ)一条(ひとたばり)をいたせ。」とのたまふ。
壬子。
詔曰
「死刑沒官三流、
並除一等。
徒罪以下、
已發覺未發覺、悉赦之。
唯、既配流不在赦例。」
詔曰…〈北〉 テ沒官 ヲサムルツミ  ナカスツミ。 〈閣〉沒官ヲカサムルツミヲサムルツミ ノ  ツカサニイルツミ諸本 ナカスツミ
〈兼右本〉死刑[切]沒-官ツカサニイルツミヲサムルツミヲサムル ツカサ
並除一等…〈北〉除一等徒-罪 ミツカフツミ發覺アラハレタルユルセ
〈閣〉ノソケ ヲ[句]ミツカフ-罪 ミツカフツミヨリ。 〈兼右本〉イ乍クタセ一-等
既配流…〈北〉赦-カキリ。 〈閣〉配-流ナカサレタルハ。 〈兼右本〉赦-カト
没官…官が財産、領地を没収する。
徒刑…期限を決めて使役する刑。流罪より軽く、杖刑より重い。
壬子(みづのえね)〔十七日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「死刑(ころすつみ)没官(をさむるつみ、もくくわん)三流(みつのながすつみ)は、
並びに一等(ひとしな)を除(のぞ)け。
徒罪(みつかふつみ)より以下(しもつかた)は、
已(すでに)発覚(あらはれてある)も未だ発覚(あらはれ)ざるも、悉(ことごと)に赦之(ゆるせ)。
唯(ただ)、既(すでに)配流(ながさえてあるもの)は赦(ゆる)す例(たぐひ)には不在(あらじ)。」
是日。
詔諸國以放生。
放生…〈北〉イキモノ。 〈閣〉イキモノイキハナツ私。 〈兼右本〉放-生ハナツ✓イキモノイキハナツ私
是(この)日。
諸国に詔(みことのり)たまひて以ちて放生(はうしやう)せしむ。
是月。
大三輪子人君卒。
天皇聞之大哀。
以壬申年之功贈內小紫位。
仍謚曰大三輪眞上田迎君。
大三輪眞上田子人君…〈北〉オホ-三-ワノカミ-田 タノ人- フト キミ謚曰タトヘナツケキ
〈閣〉
〈兼右本〉カン タマフイタハリ[ヲ]/ヲクテヲクル三-輪真神イ乍无三輪二字-上-田ムカヘ〔異本は神に作り、三輪の字なし〕
小紫位冠位二十六階第六位。
是(この)月。
大三輪(おほみわ)の子人(こびと)の君(きみ)卒(そち)す。
天皇(すめらみこと)[之(こ)を]聞こして大(はなはだ)哀(かな)しびたまふ。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)功(いさみ)を以ちて内小紫位(ないせうしゐ)を贈(おく)りたまふ。
仍(よ)りて諡(なをおく)りて大三輪真上田(おほみわのまかむた)の迎(むかへ)の君(きみ)と曰ふ。
九月丙寅朔。
雨不告朔。
不告朔…〈北〉ス 告-朔ツイタチマウシセ
九月(ながつき)丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)。
雨ふりて朔(つきたち)を不告(つげたまはず)。
乙亥。
王卿遣京及畿內校人別兵。
王卿遣…〈北〉壬-/王-卿遣 マチキミヲ ミサト畿-内ウチツクニカムカフ - ノ
〈閣〉人-別ヒト コトノ ヲ。 〈兼右本〉王-オホキミ マチキンタチ[ヲ]
乙亥〔十日〕
王(おほきみ)卿(まへつきみ)たちを京(みさと)及びに畿内(うちつくに)に遣(や)りて人(ひと)別(ごと)の兵(つはもの)を校(かむが)へしむ。
丁丑。
筑紫大宰三位屋垣王、
有罪流于土左。
筑紫大宰…〈北〉筑紫ツク シノツカヒオホミコトモチ三位ミツノクラヰカキノ○罪┌王有/ヲホキミノ
〈閣〉ツカヒ。 〈兼右本〉土-サノクニ[ニ]
諸王三位
丁丑〔十二日〕
筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)三位(さむゐ)屋垣(やがき)の王(おほきみ)、
罪有りて[于]土左(とさ)に流さゆ。
戊寅。
百寮人及諸蕃人等、
賜祿各有差。
諸蕃人…〈北〉諸-蕃 トナリノクニ。 〈兼右本〉トモ
蕃人…原意は、教化の及ばない未開の土地の人。蕃夷。
戊寅〔十三日〕
百寮(ももつかさ)の人及びに諸蕃(しよばん)の人等(たち)に、
賜禄(ものたまふこと)各(おのもおのも)有差(しなあり)。
丙戌。
神官奏曰
「爲新嘗、卜國郡也。
齋忌【齋忌此云踰既】
則尾張國山田郡
次【次此云須伎也】
丹波國訶沙郡並食卜。」
新嘗…〈北〉新-嘗 ナホヘ 。 〈閣〉新-嘗オホニヘ或説ニハナヒオホヘ  ノム下國郡

〈兼右本〉[ニ]新-オホニヘオホヘニハナヒノ[切] シム國-郡[ヲ]
踰既…〈閣〉踰◱既
〈兼右本〉齋-忌サイキ[ヲ][ハ]踰-既ユキ[ト][ヲ][ハ]須-伎スキ[ト]イナ
かみづかさ…〈倭名類聚抄〉「神祇官:加美豆加佐」。
訶沙郡…〈兼右本〉訶-沙今在丹後国カサ
食卜…〈北〉アヘリ
丙戌(ひのえいぬ)〔二十一日〕
神官(かむつかさ)奏(まを)して曰(まを)さく
「新嘗(にひなへ)が為(ため)に、国郡(くにこほり)を卜(うらへ)まつれり[也]。
斎忌(ゆき)【斎忌、此(こ)をば踰既(ゆき)と云ふ】は
則(すなはち)尾張国(をはりのくに)の山田郡(やまたのこほり)、
次(すき)【次、此をば須伎(すき)と云ふ[也]】は
すなはち丹波国(たにはのくに)の訶沙郡(かさのこほり)並(ならび)に卜(うら)に食(を)す。」とまをす。
是月。
坂田公雷卒。
以壬申年功贈大紫位。
坂田公雷…〈北〉坂田公サカ タノ キミイカツチ。 〈兼右本〉人名也オヘテタマフ
大紫位冠位二十六階第五位。
是(この)月。
坂田公(さかたのきみ)雷(いかづち)卒(そち)す。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(が)功(いさみ)を以ちて大紫位(だいしゐ)を贈りたまふ。
《親王以下》
 「親王」の初出は、四年二月
 食封は改新詔其一で規定されて以来長い年月を経たが、現実化への歩みは遅々としている。 ここでは食封の下限が小錦と規定され、大山以下には現物を支給する。
 支給品の内容については、『令義解』禄令では、正四位の場合「絁十疋。綿十屯。布五十端。庸布三百六十常」となっている。 なお、禄令では、食封の対象は「従三位」以上とする。 養老令の従三位は冠位二十六階では大錦下に相当するから、食封の対象の最低クラスは〈天武〉五年の「小錦下」よりも上がっている。
《皇女》
 皇女の呼称は、まだ内親王になっていない。内親王の初出は〈続紀〉の大宝元年二月己未条である。
《姫王》
 「姫王」は、「性別が女性である王」の意であろう。は女性でもオホキミだから、倭読では性別が判読できない。 という呼称が何代孫まで適用されるかについては、『三代実録』元慶四年〔880〕に「王号乃止於五世」が見える(第237回)。
《内命婦》
親王以下〔=親王と王〕小錦以上大夫
皇女姫王内命婦
 『令義解』中務省に「卿一人。掌〔侍従、礼儀など〕…及女王、内外命婦、宮人等名帳、考叙位記、諸国戸籍、祖税、調僧尼事」とある。 内外命婦に注記があり、【謂。婦人帯五位以上内命婦也。五位以上妻曰外命婦也】〔婦人自身が五位以上の者を内命婦、五位以上の夫をもつ妻を外命婦という〕と規定する。
 《親王以下》項で見たように養老令の「五位」は小錦に対応する。よって、男子の「小錦以上」と同じ基準で女子にも食封が与えられたことになる。 男女別の呼称は、右表のように対応している。
《国別国造》
 改新詔において、国造は基本的に郡司に移行した(改新詔其二)。 ところが、ここでは「国造」と「郡司」が別々に規定されている。
 これにより、かつての国造は「国別国造」家と「郡司」家に分化したことが明らかになる。
 〈続紀〉の国造〔いわゆる"律令国造"〕は「安芸国造」、「尾張国国造」、「飛騨国造」など律令国の名を負う。特に目立つのが「出雲国造」で、 これについては〈斉明〉五年是年条において、出雲国造は杵築大社に奉斎する家柄であることを見た。 よって、律令国造は国ごとに宗教を担う家柄になった考えられる。
 割り切って言えば、かつての国造は律令国毎に一つだけが律令国造となって祭祀を担い、一般的には郡司〔大領、小領、主政、主帳〕になったわけである。
《三流》
 「三流」は、流刑地の遠中近をいう。
 『令義解』獄令に「凡流人応配者依罪軽重各配三流。謂近中遠処【謂其定遠近者従京計上レ之】〔流刑地は、その罪の重さに応じて〔京から〕遠中近の三段階とする〕とある。
《並降一等》
 次に「悉赦之」とあるから、「並降一等」は減刑一等を意味する。
《既配流不在赦例》
 但し、既に流された者については遠流から中流に移すなどはしないという。それをしようとすると、大量の官人の派遣が必要となるためだろうか。 あるいは既に流刑地に溶け込んでいる者にとって、その場所から再度移させるのはもう一度流刑を課すのに等しくなってしまうからとも考えられる。
《放生》
 放生は、書記で初出。「莫食牛馬犬猨鶏之宍」、「莫蒭薪」、「莫妄焼折」もやはり殺生を忌む仏教思想が背景にあったわけである。 [浄土宗大辞典]には「捕えられている魚・鳥等の生き物を河川・池・海・山野に放つ法要。『梵網経』第二十軽戒の所説に準じて…」などとある。 なお、「いけるものをはなて」と訓読すると単なる日常生活の心得になり、仏教行事の実施令ではなくなってしまう。 仏教用語は一般に音読だから、ここでもハウシヤウ〔呉音〕と読むのがよいだろう。
《大三輪真上田子人君》
大三輪真上田子人君  〈壬申紀〉三輪君子首が、〔恐らく伊勢国の〕(すけ)として登場した。
《内大紫位》
 外位でなければ、通常位号に「」は付かない。
 三輪子人は中央政府の官ではなかったから、通例なら外位だったと考えられる。敢えてを付けたのは、同時に贈官したということであろう。 子にとっては親が任官扱いとされれば、自身も任官されるという実利がある。
 そう考えられる根拠は、大伴馬来田の例にある。〈天武〉紀十二年六月己未には「贈大紫位」とあるが、〈続紀〉延暦元年〔782〕二月丙辰「大伴宿禰伯麻呂薨」の記事中には「祖馬来田贈内大紫」とある。 そして「父道足平城朝参議正四位下」とある。馬来田自身は官職になかったが「大紫位」により、その子道足は「参議」まで登ることができたと読み取れる。
 『公卿補任』には確かに「天武天皇御世 大伴望陀連【初任不明。十二年六月三日薨】」とあるが、 皇親政治下で大納言職は置かれなかったはずだから、死後の贈官と見るべきであろう。
《不告朔》
 「不告朔」と書くのは、むしろ「告朔」が通例であることを示す。雨で中止されたというから、野外での宗教行事であろう。
 時代が下り、〈延喜式〉には次の個所などに告朔が見える。
〈延喜式〉巻第十一 太政官
凡天皇孟月臨軒視朔。大臣預点殿上侍従四人奏事者二人。所司各供其事。其日弁一人執公文函。【太政官告朔文者弁官勘造入記。…】」 〔凡(おほよ)そ天皇は孟月〔一、四、七、十月〕に臨軒〔お出ましになり〕し、朔を視たまふ。大臣預め殿上侍従四人奏事者二人を点ず。その日、弁〔オホトモヒト〕一人公文函〔=箱〕を執り、【太政官の告ぐる朔文は弁官が勘(かむが)へて造り記(ふみ)を入れて…】〕
〈延喜式〉巻第十二 内務省/内記
凡天皇御大極殿告朔者。諸司大夫進置函於案上。奏者奏畢復本列 〔凡そ天皇は大極殿に御(おはしま)して告朔を視まふには、諸司大夫進みて函(はこ)を案(つくゑ)の上に置け。奏(まうす)者(ひと)は奏(もう)し畢(を)へて本の列に復(かへ)れ。〕
 すなわち、平安時代には告朔は年四回に減り、箱の中の文書を太政官が読み上げる。 それでは、その文書には何が書かれていたのだろうか。
 「『延喜式』からみた儀式としての考選文申送」〔古田一史/『国立歴史民俗博物館研究報告224』;2024〕によると、 告朔は「毎月朔日に諸司が前月の勤務内容を天皇に報告する儀礼」で、「考選」と共通性があるという。 「考選」とは、「年ごとの官人の勤務実績を評定する考課」と、その毎年の積み重ねから位階・官職を定める「選叙」をあわせたものだという。
 しかし、〈天武〉朝当時は純粋にげる宗教行事だったのではないだろうか。もし官人の実績報告を伴ったのなら雨天中止はできず、会場を室内に移してでも行ったであろう。 実績報告の行事になってからはそれを毎月行うのは煩雑に過ぎるから、年四回にされたと思われる。
《王卿遣京及畿内校人別兵》
 「王卿」は受事主語であろう。
 四年六月の「諸王以下初位以上毎人備兵」の実施状況を点検させたものと読める。
《屋垣王》
屋垣王  大宰栗隈王(在任〈天智〉七年~八年、同十年~〈天武〉五年六月)の後任か。
 栗隈王の大宰在任期間については、七年六月《栗前王》項、 八年正月《筑紫率》項参照。
《諸蕃》
 〈垂仁〉紀【天日槍】で述べたように「諸蕃」は「渡来系の氏族という意味」。
 〈応神〉朝に、渡来人が載る (資料[25]【秦酒公】《坂上大宿祢》《文宿祢》)。
 さらに『新撰姓氏録』/「諸蕃」から拾うと、〖伊吉/漢〗〖調/百済〗〖高麗/高麗〗〖三宅/新羅〗〖韓人/任那〗など多数見える。 祖が渡来したのは、既に何百年も前である。古訓のように「トナリノクニ」といい続けることは、既に適切ではないだろう。
《為新嘗国郡也》
 前年に続き、新嘗の米を供出する郡を占いで決めた(《播磨丹波》)。
《尾張国山田郡》
緑破線の北:名古屋市千種区・名東区、長久手市。
緑破線の南:名古屋市昭和区・天白区、日進市。
 〈倭名類聚抄〉{尾張国・山田【夜万太】郡}とあるが、16世紀に廃されたと見られるという。
 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1979~2004〕によると、 「山田郡」の最終は、「付熊野社棟札」の〔天文十七年〔1548〕二月十四日〕の「尾州山田郡八事北迫菱野村」、 旧山田郡の処の地名を春日井郡とした初出は 「熱田神宮寺旧蔵鐘銘〔元亀三年〔1572〕十月十八日〕の「尾州春日井郡山田庄上飯田村」とあり、 山田郡はこの間に廃されたことになる。
 山田郡の式内社は、〈延喜式-神名〉{尾張国/山田郡十九座【並小】片山神社、大目神社、羊神社…}とされる。 そのうち比較的明瞭な比定社八社を地図に記入してみると、山田郡の範囲は春日井郡の庄内川以南および愛知郡の北部と直感される(右図)。 南限は明確ではないが、『日本歴史地名大系』の挙げる地名の南限は、中世の岩崎郷いわさきごう(日進市)である。
《丹波国訶沙郡》
 〈倭名類聚抄〉に{丹後国【和銅六年割丹波国五郡此国】・加佐郡}。 〈続紀〉和銅六年〔713〕夏四月乙未。割丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後国」。 すなわち、訶沙郡〔加佐郡〕は、713年以後は新設の丹後国に属した。
《坂田公雷》
坂田公雷  坂田公の本貫は、近江国坂田郡と見られる。〈継体〉天皇の族であろう(第159回)。 〈天武〉十三年に「坂田公…賜姓曰真人」。はここだけ。大宝元年の「先朝論功に名前がないのは、無子だからと思われる。
 〈壬申紀〉に名前が見えないのは、書記が参照した史料にたまたま漏れていたからであろう。
《大意》
 八月二日、 親王以下、小錦以上の大夫、 および皇女、姫王、内命婦(ないみょうぶ)らに、 それぞれに応じて食封(じきふ)を給わりました。
 十六日、 詔しました。
――「四方に大解除(おおはらえ)のために用いる物は、 国毎の国造(くにのみやつこ)は 秡柱(はらえつもの)、 馬一匹、 布一常を致せ。
 それ以外の郡司は、 各太刀一口、 鹿皮一張、 鍬一口、 小刀一口、 鎌一口、 矢一揃え、 稲一束を、 また一戸毎に、 麻一把を致せ。」
 十七日、 詔を発ました。
――「死刑、没官〔財産の没収〕、三種の流刑は、 それぞれ一等を減ぜよ。 徒罪〔使役の刑〕以下は、 発覚、未発覚ともに、すべて赦せ。 ただ、既に配流済みの者は赦す例に入れない。」
 同じ月に、 大三輪の子人(こびと)の君が卒しました。 天皇(すめらみこと)はそれをお聞ききになり、大変に悲しまれました。 壬申年の功により、内小紫位(ないしょうしい)を贈られました。 よって諡され、大三輪真上田(おおみわのまかむた)の迎(むかえ)の君(きみ)となりました。
 九月一日、 雨が降り告朔を行いませんでした。
 十日、 王卿を京および畿内に派遣して、人毎の兵備を点検させました。
 十二日、 筑紫大宰、三位屋垣(やがき)の王(おおきみ)は 罪があり、土左〔=土佐〕に流されました。
 二十一日、 神官は奏上しました。
――「新嘗(にいなめ)のために、〔米を供出する〕国郡を占いました。 斎忌(ゆき)は 尾張国山田郡、 次(すき)は 丹波国訶沙(かさ)郡というのが、それぞれ占いの結果でした。」
 同じ月、 坂田公(さかたのきみ)雷(いかずち)が卒しました。 壬申年の功により、大紫位(だいしい)を贈られました。


34目次 【五年十月~是歳】
《以物部連摩呂等遣於新羅》
冬十月乙未朔。
置酒宴群臣。
置酒…〈兼右本〉メシオホミキ[ヲ]
冬十月(かむなづき)乙未(きのとひつじ)の朔(つきたち)。
酒(おほみき)を置きたまひて、群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり、うたげ)をたまふ。
丁酉。
祭幣帛於相新嘗諸神祇。
祭幣帛…〈北〉-幣-帛イハヒノミテクラタテマツル相-新- アヒナヘ ノ神-祇
〈兼右本〉-幣-帛於イハヒ ミテクラヲタテマツリ玉フ
丁酉(ひのととり)〔三日〕
幣帛(みてくら)をもちて[於]相(あひ)新嘗(にひなへ)に諸(もろもろ)の神(あまつかみ)祇(くにつかみ)に祀(いは)ひたまふ。
甲辰。
以大乙上物部連摩呂爲大使
大乙中山背直百足爲小使、
遣於新羅。
小使…〈北〉ソヒ-使
大乙上冠二十六階中第十九位。
大乙中…冠二十六階中第二十位。
甲辰(きのえたつ)〔十日〕
大乙上(だいおつじやう)物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)を以ちて大使(おほつかひ)と為(し)て
大乙中(だいおつちう)山背直(やましろのあたひ)百足(ももたる)をもちて小使(そひつかひ)と為(し)て、
[於]新羅(しらき)に遣(や)りたまふ。
十一月乙丑朔。
以新嘗事、不告朔。
不告朔…〈兼右本〉不-告-朔ツイタチ申セス 
十一月(しもつき)乙丑(きのとうし)の朔(つきたち)。
新嘗(にひなへ)の事を以ちて、朔(つきたち)を不告(つげたまはず)。
丁卯。
新羅、遣沙飡金淸平、
請政。
幷遣汲飡金好儒
弟監大舍金欽吉等、
進調。
其送使奈末被珎那
副使奈末好福、
送淸平等於筑紫。
沙飡金清平…〈北〉-飡 サン コン セイ ヘイキフ サンコムカウ シユ弟- テイ カン コン欽-  オム キツ■イ使チン/ナ/副使イカウフク
〈閣〉沙◱飡◱金汲◲飡◱金◳好 ヌ大舍金◳ オム
〈兼右本〉金-オム-𠮷。 〈伊勢本〉┌印无欽𠮷
丁卯(ひのとう)〔十日〕
新羅(しらき)、沙飧(ささん)金清平(こむせいへい)を遣(まだ)して、
政(まつりごと)を請(ねが)はしむ。
并(あはせて)汲飧(きふさん)金好儒(こむかうじゆ)
弟監大舎(ていくわんたさ)金欽吉(こむこむきつ)等(ら)を遣(まだ)して、
進調(みつきたてまつ)らしむ。
其の送使(おくりつかひ)奈末(なま)被珎那(ひちんな)
副使(そひつかひ)奈末(なま)好福(かうふく)をして、
清平(せいへい)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
是月。
肅愼七人、從淸平等至之。
肅慎…〈北〉肅-慎ミシハセヒト。 〈兼右本〉至之マウケリ
是(この)月。
肅慎(みしはせ、しゆくしん)七人(ななたり)、清平等(ら)に従(したが)ひて至之(まゐく)。
癸未。
詔近京諸國而放生。
…〈兼右本〉ミヤコ
癸未(みづのとひつじ)〔十九日〕
京(みやこ)に近き諸(もろもろ)の国に詔(みことのり)たまひて[而]放生(ほうしやう)せしむ。
甲申。
遣使於四方國、
說金光明經仁王經。
金光明経…〈北〉コン クワウミヤウキヤウ ニン ワウキヤウ。 〈閣〉金◳光◰明◰經◰
甲申〔二十日〕
使(つかひ)を[於]四方(よも)の国に遣(や)りて、
金光明経(こむくわうみやうきやう)仁王経(にんわうきやう)を説かしむ。
丁亥。
高麗、
遣大使後部主簿阿亐
副使前部大兄德冨
朝貢。
仍新羅
遣大奈末金楊原、
送高麗使人於筑紫。
後部主簿阿于…〈北〉コウホウシユハクゼンホウ■ネ德冨タイコン ヤウクヱン
〈閣〉大〟奈未金楊原〟
〈兼右本〉河イ乍
丁亥(ひのとゐ)〔二十三日〕
高麗(こま)、
大使(おほつかひ)後部(こうほう)主簿(しゆぼ)阿于(あう)
副使(そひつかひ)前部(ぜんほう)大兄(だいけい)徳冨(とくふ)を遣(まだ)して
朝貢(みかどををろがみみつきたてまつ)らしむ。
仍(よ)りて新羅(しらき)
大奈末(だいまな)金楊原(こむやうぐゑん)を遣(まだ)して、
高麗(こま)の使人(つかひ)を[於]筑紫(つくし)に送らしむ。
是年。
將都新城。
而限內田園者、
不問公私皆不耕悉荒。
然遂不都矣。
将都新城…〈北〉将都ミヤコツクラム新-城 ニヒキ ニ園者 ハタケハ 内イ公-私 公-私背イ耕悉アラシツ ヌ○遂都矣
〈兼右本〉ミヤコツクラン[ト]新-城ニヒキ[ニ]アラシツアレヌ都矣 ツクラ 
〈北〉然遂不都矣 【或本此無是年以下不都矣以上/注十/一月上】
〈閣〉然遂不都矣【/或本无是年以下都以/上擧字注十一月上】
是(この)年。
[将に]新城(にひき)を都(みやこ)せむとしたまふ。
而(かくありて)限(かぎり)の内(うち)の田園(たその)者(は)、
公(おほやけ)私(わたくし)を不問(とはず)て皆(みな)不耕(たかへせず)悉(ことごと)に荒(あ)らして、
然(しかれども)遂(つひ)に不都(みやこせず)[矣]。
《物部連摩呂/山背直百足》
物部連摩呂  大友皇子に最後まで臣従し、自死した皇子の首級を大海人皇子に届けた。その際の冷静さが後の出世に繋がったと見られる。
山背直百足  〈姓氏家系大辞典〉「山代直(山背直):山背国造家の氏姓」、「山背国造:後の山城の国造にして、大河内氏の族なり」。 記:天照大神-須佐之男命誓の段「天津日子根命…山代国造…之祖也」(第47回)。 書紀神代上「天津彦根命【…山代直等祖也】」。 〈天武〉十二年「山背直…賜姓曰連」。百足はここだけ。
 新羅は、対唐において自分の側に日本を引き込もうとしているが、日本は一線を画していたであろう。 よって対新羅外交には最新の注意が必要で、思慮深い人柄の物部連摩呂が適任とされたと想像される。
《不告朔》
 十一月は新嘗を優先し、告朔は中止された。新嘗行事は大規模化しつつあるか。翌年以後も十一月の告朔はなくなったと思われる。 ただ、六年十一月は雨による中止と記される。
《沙飡金清平》
沙飡〔八位〕一覧金清平 肅愼七人が同行。六年三月、十三人を京に召す。七月帰国。
《請政》
 特に、(まつりごと)をう使者とされる。 この年、新羅は遂に百済地域から唐を排除することに成功した。
『三国史記』新羅本紀 文武王十六年〔676;〈天武〉五〕
冬十一月。沙飡施得領船兵、与薛仁貴於所夫里州伎伐浦、敗績。又進大小二十二戦、克之、斬首四千余級。 〔沙飡施は船兵を率いて、薛仁貴と所夫里(そふり)州伎伐浦で戦い破る。また撤退する薛仁貴を追って大小二十二の戦いがあり、勝利して斬首は四千余り。〕
 おそらく戦況の報告と、に対抗する新羅への強い支持を得ることが目的であろう。
《汲飡金好儒》
汲飡〔級伐飡は九位〕金好儒 ここだけ。金清平に同行か。
弟監/大舎〔十二位〕金欽吉 ここだけ。金清平に同行か。
奈末〔十一位〕被珍那 六年四月に筑紫で饗され帰国。
奈末〔十一位〕好福 ここだけ。帰国まで被珍那に同行か。
 金欽吉はもともとで、その古訓「コムオムキツ」が定着した後でと筆写された可能性がある。
 弟監第監と同じか (四年二月《大監/第監》)。
 送使の一行は、このときも通例通り筑紫に滞在し、京に来ることなく帰国する。
《肅慎七人》
 〈斉明〉六年三月、阿倍臣と接触。四十七人が来京し、石上池辺で饗した。 肅慎はオホーツク文化人で、北海道にも居住したとみられる(〈斉明〉四年是年)。
 〈天智〉・〈天武〉朝になると、倭国と蝦夷との境界は秋田城あたりまで後退したらしい(資料[72])。
 その中で〈天武〉五年に、肅慎を新羅の使人が連れて来たことは注目される。 これは新羅〔あるいは配下の高句麗〕が北海道まで進出していたことの現れと考えられ、日本政府はかなり慌てたのではないだろうか。
 よって、北方に目を向けるようになり、〈持統〉八年十年三月に「肅愼二人」が年頭の祝賀に訪れたのはその結果かも知れない。 十年三月には「度嶋蝦夷」と「肅慎」に錦袍袴、緋紺絁、斧等を賜る。
《放生》
 再び放生会の開催を促した。
《金光明経仁王経》
 『日本大百科全書』〔小学館〕によると、 金光明経は「4世紀ごろおそらく北インドで成立したとみられる中期大乗経典」で、「放生会などの根拠」とされたという。 仁王経は別名『仁王護国般若波羅蜜多経』、「大乗仏教の般若思想を強調」するとともに、「護国思想および鎮護国家の必要性を強調していることが特色」という。
《高麗使人》
後部/主簿〔一吉湌(七位)に相当〕阿于 ここだけ。
前部/大兄〔大奈麻(十位)に相当か〕徳富 ここだけ。
大奈末〔十位〕金楊原 新羅の送使。ここだけ。
 高麗使人は、今回も宗主国新羅の送使の監督下で派遣された。 二年八月条《高麗》参照。
藤原京の条坊は[橿原考古学研究所附属博物館/飛鳥奈良時代]による
《将都新城》
 『橿原市埋蔵文化財調査報告第6冊:藤原京跡Ⅱ』〔橿原市教育委員会2013〕は、 「天武5年〔676〕に藤原京の建設が開始されると、京内では先行条坊といわれる条坊が施工される。 先行条坊が施工された範囲は今のところ不明だが、少なくとも、藤原宮や本薬師寺などの造営にあたり、先行条坊は設計の基準線としての役割を果たしている」と述べる。
 『奈良国立文化財研究所年報 2000-Ⅱ』は、 「条坊道路が2時期にわたること、つまり道路の付け替えが行われていることが新たに判明」(p.17)、 「「新城」を藤原京のことと見てよいのかどうかであるが、少なくとも条坊のありかたやその年代の上からは、両者を結びつけることに支障はない」、 「Ⅰ期の溝の存続期間がそれほど長くはないと推定したが、そのことは676年の新城の造営着手とその断念、といった状況を強く想起させるのである。 発掘調査成果によるかぎり、藤原京の淵源が、676年の「新城」造営まで遡る可能性は高い」(p.16)という。
 このように、藤原京に重なる地域に「先行条坊」が作られていたと、発掘調査の結果は判断されている。
 なお、新城なる地名については、大和郡山市新木(にいき)町、田原本町新木(にき)(大字)がある(右図)。 しかし、先行条坊が藤原京の範囲内に見いだされたことを考えると、どちらも〈天武〉紀の「新城」とは無関係である。 〈天武〉十二年詔には「凡都城宮室…」とある。「都城」はもともと都の意味で、〈天武〉紀では唐風の条坊を備えた大都をイメージした語と判断できる。 よって「新城」は「新たな都城」の意味とするのがよいであろう 都城という語は、古代都市が城壁で囲まれていたことに由来する〕
《「将都新城也」への分注》
 〈北野本〉には分注に「或本此無是年以下不都矣以上字注十一月上〔或る本に此の「是年」以下「不都矣」以上の字無く「十一月」の上に注す〕とある。 「是年~不都矣」はここではなく、「十一月」の前に分注の形で書かれているという意味か。 〈内閣文庫本〉もほぼ同じ。〈兼右本〉、〈伊勢本〉にはない。
《大意》
 十月一日、 置酒され、群臣に宴を賜りました。
 三日、 互いに新嘗(にいなめ)に、諸神祇に幣帛(みてくら)をたてまつって祀りました。
 十日、 大乙上(だいおつじょう)物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)を大使、 大乙中(だいおつちゅう)山背直(やましろのあたい)百足(ももたる)を副使として、 新羅に派遣しました。
 十一月一日、 新嘗の事があったので、告朔を行いませんでした。
 十日、 新羅は、沙飡(ささん)金清平(こんせいへい)を遣わして、 政を要請させました。 併せて汲飡(きゅうさん)金好儒(こんこうじゅ) と弟監大舎(ていかんたさ)金欽吉(こんこんきつ)らを遣わして、 進調させました。
 送使の奈末(なま)被珎那(ひちんな)、 副使奈末(なま)好福(こうふく)に、 清平らを筑紫に送らせました。
 同じ月、 肅慎(みしはせ)七人が、清平らに従って来朝しました。
 十九日、 京の近傍の諸国に詔して放生(ほうじょう)させました。
 二十日、 使者を四方の国に派遣して、 金光明経(こんこうみょうきょう)仁王経(にんのうきょう)を説かせました。
 二十三日、 高麗(こま)は、 大使後部(こうほう)主簿(しゅぼ)阿于(あう)と 副使前部(ぜんほう)大兄(だいけい)徳冨(とくふ)を遣わして、 朝貢させました。
 よって新羅は 大奈末(だいまな)金楊原(こんようげん)を遣わして、 高麗の使者を筑紫まで送らせました。
 この年に、 新城(にいき)を都にしようとされました。 そうしたところ範囲内の田園は、 公私を問わず皆耕さずに悉く荒れ果てて、 都にしようとしましたが、遂に作られませんでした。


まとめ
 五年八月詔ではすべての刑を一等減じたから、死刑は廃止されたことになる。 実際にどの程度守られたかは定かではないが、死刑廃止法が実際に定められた時代があったことは死刑制度を考える上で注目に値する。
 その背景として、大旱魃による犯罪の増加に対応しきれなくなったことも考えられるが、 食肉禁止令や放生会の推奨を併せて見ると、やはり命を大切にしようとする方向性は確実にあったと見られる。
 さて、律令国家の実体の表現として、都城の建造は欠かせない。 先行条坊が検出されたのを見ると実際に工事は開始されたようだが、田地園地への入植はなかなか進まなかった。 それを無理強いせずに建都の中止を選択したのは、寛容の精神故かも知れない。 先帝が近江遷都を強引に進めたことが滅亡の一因になったことを、反面教師にしたことも考えられる。
 以上のことから国作りは外形的な強制によらず、仏教の寛容精神を広め人心を安定させることが基盤であるという統治思想が見て取れる。



[29-06]  天武天皇下(3)