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2025.03.05(wed) [29-03] 天武天皇下3 ▼▲ |
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29目次 【四年四月】 《請僧尼二千四百餘大設齋》
書紀古訓では、設斎を「ヲガミ」と訓んでいる。ただ、この読み方は書紀古訓以外には見られず、どの程度一般的であったかは分からない。 設斎は漢音「せつさい」、呉音「せちせ」。仏教行事だから音読みが適当か(〈推古〉十四年《設斎》)。 「数多くの僧侶が仏典すべてを音読できたのであるから、呉音は仏典読誦音として広く浸透していたことになる」という (『日本漢字全史』〔沖森卓也;ちくま新書2024〕)。 したがって、設斎がセチセと読まれていたとしても何の不思議もない。ただし、セチセが直接見える実例が見えない。 『日本漢字全史』はまた、万葉仮名は一般的に呉音が用いられ、書紀歌謡の音仮名のみに漢音が用いられているのは特異だと述べる。 それは「「漢書」「唐書」等に対する「日本書」…という正史編纂意識が働いているため」という。 その精神を敷衍すれば、書紀の語句に敢えて音読みを用いる場合は漢音が適切ということになる。 《当摩公広麻呂/久努臣麻呂》
久努麻呂は十四日に詔使が罪を言い渡しに訪れたが、抗弁したので冠位を完全に剥奪された。 しかし、〈天武〉が崩じたときには「直広四」に復して誄を読み上げているから、やはり後には赦されたようである。 《諸国貸税》 貸への古訓は「イラス」である。『伊呂波字類抄』を見ると、「㒃イラス 擧 息 … 貸已上同」とあるが、『伊呂波字類抄』は1144~1165年の成立である。 書紀古訓以外の文例では、『日本国現報善悪霊異記』に「息イ良シ」、「息利伊良之毛乃那里」を示す。 同書の訓釈には「上代特殊仮名遣いのコ・ヘの二種の別」があり、「万葉仮名の字母に平安時代初期の姿」を伝えるという(〈時代別城代-資料解説〉)。 「応レ与レ貸」の「貸」は文法から見て名詞形である。
イラシは、律令で規定された出挙の原型と考えられている。 出挙は、春から夏に種もみを貸し付け、収穫後に利子を付けて返させる仕組みである。 奈良時代に諸国からが中央政府に提出された「正税帳」によると、 「正税」は主要な税制費目で、財源は口分田から上がる租と、出挙の利息とされる([奈良国立博物館/正倉院展用語解説:正税帳])。 天平十七年〔745〕には、「論定稲」=各国が年ごとに出挙すべき量が定められ、これによって出挙が強制貸付となったという (『国史大辞典』)。出挙が強制ならその利払いも強制となるから、これは貸付に名を借りた税そのものである。 それに比べると〈天武〉四年の「貸税」は、農家を貧富により三段階に分け、中・貧のクラスのみに貸付けるものというから、救済の性格をもつものと見てよいだろう。 大化二年の「吉備嶋皇祖母処々貸稲」は吉備嶋皇祖母の権益で、それを〈皇極〉天皇が引き継いでいたと見た。 おそらく別業 《美濃王/佐伯連広足》
龍田の大社は、延喜式に見える。 ●〈延喜式-神名〉{大和国/平群郡/龍田坐天御柱国御柱神社二座【並名神大。月次新甞】。竜田比古竜田比女神社二座}。 〈天武〉〈持統〉朝には大忌神と風神への祭事が毎年のように四月、七月に行われた(右表)。それが後世に引き継がれたと見られる記述が、〈延喜式〉に見える。 ●〈延喜式-四時祭上〉「大忌風神祭並四月七月。四日。」 ●〈延喜式-太政官〉「凡大忌風神二社者。四月七月。四日祭之。」 ●〈延喜式-儀/事見儀式〉「凡春日。広瀬。龍田等社庫。鑰匙者。納二-置官庫一。祭使官人臨レ祭請取。事畢返納」。 〔凡そ春日。広瀬。龍田等の社庫の鑰匙〔かぎ〕は官庫に収め置け。祭使官人は祭りに臨みて請(ねが)ひ取り事畢(を)へて返納すべし〕。 このように、〈延喜式-四時祭〉によれば、大忌神、風神の二社は四月四日と七月四日に祭事を行うのが通例となった。 龍田風神祭の祝詞から、一部を抜粋する。
ここに出てきた「志貴嶋尓大八嶋国知志皇御孫命」がどの天皇を指すかということについては、 〈敏達〉五年六月に「磯城嶋天皇」、大化元年八月に「磯城嶋宮御宇天皇」が見え、欽明天皇のことである。 「大八嶋国知らしめす」は、「御宇」と同じ。 この祝詞に出てきた神名「天御柱命」・「国御柱命」によって、〈神名帳〉の「龍田坐天御柱国御柱神社」が龍田風神であることが確定する。 比定社は、龍田大社〔奈良県生駒郡三郷町立野南1丁目29−1〕で、同社公式ページによれば、
上述したように、「風神」という神は明示的に祀られていない。 遠く伊勢神宮外宮別宮に、風宮がある。その祭神が級長津彦命 龍田比古命と龍田比売命は、〈神名帳〉では別社である。もともとの場所から、恐らく龍田大社の境内に移されたのであろう。 《間人連大蓋/曽祢連韓犬》
この祝詞から、広瀬大忌祭の社は広瀬坐和加宇加能売命神社(ひろせにますわかうかのめのみことのかむやしろ)であったことが知れる。 ●〈延喜式-神名〉{大和国/広瀬郡/広瀬坐和加宇加能売命神社【名神大。月次新甞】}。 比定社は廣瀬大社〔奈良県北葛城郡河合町大字川合99〕。 同社公式ページによると、「主神 若宇加能売命」。 宇加能売命は、古事記の「宇気毘売神」(第37回)。 また、伊勢神宮外宮の豊受大御神。 天照大神に仕える「御膳神」という関係は記紀には見えないが、『止由気宮儀式帳』(延暦二十三年〔804〕)に次のように書かれる。
ただ、ウケ〔もしくは転じてウカ〕は、どちらにしても食物、特に稲の神であることを意味する(右)。 よって宇加能売命を祭ることにより、国中の作物の実りを祈願したのは確実である。 また、風神祠は、特に暴風を忌避する願いを込めたと考えられる。 太陽太陰暦四月は田植えの前、七月は収穫前にあたり、農作物の順調な生育を願う毎年の行事であったことだろう。 以前から各地で行われていた祭りではあろうが、この〈天武〉三年に至り盛大な国家行事として位置づけたものといえよう。 《坐対捍詔使》
よって久努臣摩呂は「官位悉追」、すなわち冠位「小錦下」を奪われ官職から追放された。「追」の訓にはヤラフがよいであろう。 後に復位した「直広四」は小錦を四分した最下層であるから、確かに戻したがそれは大変渋い戻し方である。 久努摩呂も当麻広麻呂の場合と同じく、生きている間にはそれ以上の進階はなかったであろう。 《檻穽》 檻は、〈類聚名義抄-仏下〉「檻:…圏ヲリ」〔圏も檻の意〕。 それでは、ヲリは上代語だろうか。 『類聚名義抄』は鎌倉時代なのでヲリが平安時代頃の語彙だったことは確認できるが、上代まで遡るかどうかはわからない。 穽は、〈類聚名義抄-法下〉「穽:正井水 シゝノアナ 依阱字」〔正しくは井の水だが、シシノアナは阱〔落とし穴〕に転用したもの〕。 「檻穽」は、動物を捕らえる器具一般を表す語かも知れない。ならばワナとなるが、上代のワナはワ=輪のイメージのものに限られるようにも思える。 〈汉典〉には「檻阱:捕捉野獣的机具和陥坑」とあり、罠と落とし穴をまとめたものとしている。 《施機槍》 施機槍は「施レ機槍:機を施した槍」で、罠の一種であろう。機はハタと訓むが、ハタは織機である。 古訓の「フムハナチオク」は、動物が踏むと槍が突き出る仕掛けの意と見られる。槍 槍は、〈類聚名義抄-仏下本〉に「槍:…ウツキ」。 〈類聚名義抄-仏下末〉「弄槍:ホコトリ」にはホコが見えるが、槍単独ではホコはない。 ヤリについては、『古典基礎語辞典』所引『日葡辞書』〔1603〕に「Yaride fitouo tcçuqu(鑓で人を突く)」が見える。 上代には確認できない。 詔のこの部分までは、総じて罠など器具を用いた漁労や狩猟を禁ずるものである。 現実的に考えれば、誤って人が罠にかかる事故が続発していることを危惧したのかも知れない。 一方、動物の残酷な捕らえ方を忌み嫌う感情が仏教界に広がっていたことも、やはりありそうに思える。 《比弥沙伎理梁》 比弥沙伎理〔比満沙伎理とも〕は、未だに意味不明の語である。これについて、まず江戸時代の『集解』、『通証』の説を見る。 ●『集解』「莫レ置レ梁【梁上原有二比満沙伎理五字一。是訓レ梁傍註者、遂攙二-入訓義詳釈訓一】」 〔梁の上にもとは「比満沙伎理」の五字があったが、これは梁の訓を示す傍註が訓義の詳釈訓として攙入したもの〔訓み仮名が説明として本文中に紛れ込んだ〕〕。 ●『通証』「比満沙伎理梁:比満沙伎理者遮レ隙之義也。『荀子註』石絶レ水為レ簗所以取レ魚也。 『捜神後記』所謂蟹断亦此意。『唐書』咸亨中禁二作レ簺捕一レ魚」 〔比満沙伎理は隙を遮る意である。『荀子註』〔荀子の注釈本〕に石で水を絶って簗となす所以は魚を取る、 『捜神後記』〔六朝時代の小説集〕のいわゆる蟹絶もまたこの意。『唐書』咸亨年間〔670~674〕に簺を作って魚を捕ることを禁じた〕。 いずれも、ひみさきり(ひまさきり)を簗の同義語だとする。 おそらく比弥沙伎理(比満沙伎理)は書紀が参照した資料にそう書かれていたままではないだろうか。書記原文作者にはその意味がわからかなったので漢語に直すことができず、文字をそのまま写したと思われる。 もし、例えばこれが簗であると知っていれば、「梁〃此云比弥沙伎理」と書くことたできたはずである〔もし他の意味だった場合は、「梁」が別の漢語に代わる〕。 筆写者も彌と滿を取り違えるくらいだから意味が知られぬままに時が経過したと思われる。 現代には「小さな魚を避ける」などとする解説を見る。これはヒミをヒメと解釈したらしいが、同意できない。小さな魚の捕獲を禁止するというなら、一年の半分をフリーにするのは理解できない。 もしヒマなら、「ヒ甲マ(すき間)+サ(接頭語)+き甲り(水をきるの連用形名詞)」と解釈できないこともないが、確信は持てない。 とは言えヒミ なお簗の禁止は、夏秋の半年間に限定される点で、罠の禁止よりも緩い。農繁期は耕作に専念せよという意味にもとれる。 《牛馬犬猨鶏之宍。》
〔犬は夜吠ゆることに勤め、鶏は暁に競って鳴き、牛は田の農に弊(つか)れ、馬は行い陳(老)いることを労(わずら)う…〕。 本草綱目の「時珍」は作者名〔李時珍:明代〕。「猴〔サルの一種〕は人に似て…」という。 これらが五獣の食肉禁止に通ずるということであろうが、果たしてその読み方は妥当であろうか。そこで引用部分の前後を見てみよう。 「法苑珠林畜生部」は十の段落に分けられている。 「犬勤夜吠~」の一節は、その最初の段落「述意部」にあり、 書き始めは「夫論畜生癡報所咸種類既多条緒非一」〔畜生を論ずることについては、癡報(おろかなるむくい)の種類が多くひとまとめには言えない〕、 しかし「稟茲穢質生此悪塗頓罷慧明多貧患」〔後述〕という。 そして、毒蛇を筆頭に様々な動物の特徴を列挙し、その中に「犬勤夜吠~」の部分がある。 「述意部」段では、最後に「~如此之流悉皆代為懺悔」〔これらは皆、代わりに懺悔を為す〕とまとめている。 このように、犬鶏牛馬は優れた役割を果たしていると述べる。 それらの動物を「茲穢質生此悪塗」〔この穢〔=けがれた〕質〔=品性〕を稟(もう)して悪で塗りつぶすこと〕は、「頓罷慧明多貧患」〔慧明を頓罷し〔=やめ〕、貧患を多くする〕という。 直接的に「食べるなかれ」とは言っていないが、食用にするのは間違いなく「悪塗」であろう。 ● 『通証』には 「完当レ作レ宍。…全浙兵制録日本風土記曰。餙饌以二鹿脯魚物一為二常品一海味甚多。不レ食レ鶏謂二鶏乃徳信之禽一。無二牛脯一以為牛代レ力之牲不レ忍レ食」、 「法苑珠林畜生部…又猿類レ人故不レ食。見下涅槃経不上レ得二進御一」 〔完は宍に作るべし※1)。…『全浙兵制』の録す『日本風土記』に曰く。飾饌〔お供えの食物〕は鹿の脯〔干し肉〕魚の物を以て常の品となす。海の味甚だ多し。鶏を食べざるは鶏すなはち徳信の禽と謂ふ。牛脯の無きことは以為(おもへらく)牛、力を代(か)はりて牲(いけにへ)にして食ふに忍ばず、… 『法苑珠林』畜生部には…又、猿は人に類(に)るが故に食はず。涅槃経に進御することを得ずと見ゆ〕。 ※1)…〈時代別上代〉「「完」は「宍」の誤りであるが、ほとんど通用とみられるほど例が多い」。 『日本風土記』の描く日本は室町時代と考えられているが、農耕で役立つ牛は生贄にするには忍びないから、牛脯は供えないとする。この感覚は、古い時代から続くものであろう。 〈釈紀〉天平十三年〔741〕二月戊午「詔曰。馬牛代レ人勤労養レ人。因レ茲先有三明制不レ許二屠殺一。今聞下国郡未上レ能二禁止一。百姓猶有二屠殺一。宜下其有レ犯者不レ問二蔭贖一先決二杖一百一然後科上レ罪」 〔馬牛は人の代わりに勤労し、人を養う。よって以前屠殺を許さじと明制したが、今国郡は禁止することができず百姓は猶屠殺する。宜(よろ)しく犯した者は蔭贖するか否かを問わず先ず杖百し、その後に罪を科すべし〕。 蔭贖〔罪を銅などの献納で代替〕するつもりでも、杖100回分だけは必ず科すという。 〈天武〉四年の牛馬犬猨鶏のうち、少なくとも牛・馬についてはこの天平十三年詔のように労役に対する感謝と受け止められていったようである。ただ、詔を見るとこの時期になってもまだ禁令は行き渡っていない。 犬も人のために働く。鶏については、「伊勢神宮の式年遷宮の「遷御の儀」では、天の岩戸の話に倣い、神職が鶏の鳴き声を模した「カケコー」の声を3度上げて儀式が始まる」ことが見える。このような神道における神聖視の影響があると思われる(第49回)。 猿については、容姿が人に似るからというのはその通りであろう。 犬・猿の不食は、現代日本に引き継がれている。鶏の食用は、牛と同様に明治に入ってからだという。 ただし、野鳥類は当時も食されていたと思われる(下述)。 仏教における不殺生の意識も、確かにあった。天平十三年〔741〕三月乙巳「詔:…毎月六斎日※)。公私不レ得二漁猟殺生一」が見える。※)…8、14、15、23、29、30日。。 肉食の忌避が浸透するにつれて、蛋白源は魚介類や大豆に移る。「海味甚多」というように海産物には恵まれていた。 なお、以上のように「莫食牛馬犬猨鶏之宍」は季節には関係ないことだから、「四月朔日~九月三十日」がかかるのは「比弥沙伎理梁」までであろう。 《以外不在禁例》 「以外は禁例にあらず」という。『全浙兵制考』-『日本風土記』に「鹿脯」は供えられたというから、鹿や猪も普通に食されていたのだろう。 ヰノシシは「猪 奈良時代には〈聖武〉、〈桓武〉の遊猟の記録がある。〈続紀〉に天平十二年〔740〕十一月丁亥「遊猟于和遅野」(〈聖武〉)、 延暦二年〔783〕十月戊午「行幸交野。放鷹遊猟」(以下〈桓武〉)、 延暦四年〔785〕九月庚子「行幸水雄岡。遊猟」、 延暦六年〔787〕十月丙申「天皇行幸交野。放鷹遊猟」、 延暦十年〔791〕冬十月丁酉「行幸交野。放鷹遊猟」が見える。 ただ〈天武〉、〈持統〉紀に「猟」は見えない。やはり両天皇は個人の信念としてに殺生を忌み嫌っていたと見るべきであろう。 なお、鳥類については、江戸時代に鶴、白鳥、雁、鴨、雉子、山鳥、鷺、鶉、雲雀、鳩、雀などが広く食されていた (『鷹将軍と鶴の味噌汁 江戸の鳥の美食学』〔菅豊;講談社2021〕)。 《麻続王》
(万)0023「(題詞)麻續王流二於伊勢國伊良虞嶋一之時人哀傷作レ歌:打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等篭荷四間乃 珠藻苅麻須 うちそを をみのおほきみ あまなれや いらごのしまの たまもかります」がある。 伊良虞嶋は伊良湖岬〔参河国〕またはその近くの島。 (万)0024に関連歌。 「(題詞)麻續王聞之感傷和歌:空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食 うつせみの いのちををしみ なみにぬれ いらごのしまの たまもかりをす」。 (万)0024の左注には、流刑地が書紀の「因播」と食い違うことについて、 「是云レ配二于伊勢国伊良虞嶋一者、若疑下後人縁二歌辞一而誤記乎上」 〔これ、伊勢国伊良虞嶋に配(なが)すと云へるは、若しや後の人の歌辞に縁(よ)りて誤り記せるかと疑ふ〕と述べる。
この「伊勢国」がまた難解である。伊勢国から志摩半島―伊良湖岬の航路があり、 伊良湖岬に向かう途中にある答志島、神島などを伊良虞嶋と呼んだと見るのが順当か。 《伊豆嶋》 〈推古〉二十八年「掖玖人二口、流来於伊豆嶋」があった。 伊豆半島は伊豆国一国をなしていて、それをあまり伊豆嶋とは言わないと思われるので、おそらく伊豆大島であろう。 《血鹿嶋》 知訶嶋は国生み神話に「生二知訶嶋一亦名謂二天之忍男一」(第36回)。 五島列島全体を呼ぶ《五島列島》項)。 二人の子には、国土の東端および西端という極端な流し方をする。まったく連携をとれなくしたところに、警戒感の大きさが伺われる。 やはり麻続王は、皇位を狙い得る立場にいると見られたのであろう。 四年四月条には、罪人の処罰や人民を規制する詔がまとまって出てくる。即位二年目の夏を迎え、ようやく統制の強化が表に出てきたようである。 《諸才芸者》 現代語の感覚では音楽や舞踊の芸才のある人をイメージさせるが、芸の古訓はウフ、ワサが中心で、それぞれ植物の栽培、人の技術一般を意味する。 よって、才芸者は優れた技をもつ者の意となる。ただ、そこには技術者から彫刻家や画家、楽器奏者などまで含まれるであろう。 《新羅王子忠元》
《大意》 四月五日、 僧尼二千四百人余を請うて、 大設斎しました。 八日、 勅あり。 ――「小錦上(しょうきんじょう)当摩公(たぎまのきみ)広麻呂(ひろまろ)、 小錦下(しょうきんげ)久努臣(くぬのおみ)麻呂(まろ)の二人は、 朝参させてはならない」。 十日、 小紫(しょうし)美濃王(みののおおきみ)と 小錦下佐伯連(さへきのむらじ)広足(ひろたり)を遣わして、 風神(かぜのかみ)を龍田(たつた)の立野(たつの)に祠祭し、 小錦中(しょうきんちゅう)間人連(はしひとのむらじ)大蓋(おおふた)と 大山中(だいせんちゅう)曽祢連(そねのむらじ)韓犬(からいぬ)を遣わして、 大忌神(おおいみのかみ)を広瀬の河曲(かわわ)に祭祀しました。 十四日、 小錦下久努臣(くぬのおみ)摩呂(まろ)は、 罪しても詔使に対捍(たいかん)し〔反抗して〕、ことごとく官位を追われました。 十七日、 諸国に詔あり。 ――「今より以後、諸々の漁、猟する者に制す。 檻と穽(おとしあな)、及び施機(しき)の槍(やり)の類を作ってはならない。 また四月朔日以後、九月の三十日以前は、 比弥沙伎理(ひみさきり)〔未詳〕梁を置いてはならない。 また、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならない。 これら以外は禁例ではない。 もしこれを犯す者がいれば、罪に問え。」 十八日、 三位麻続王(おみのおおきみ)に罪があり因播(いなば)に流しました。 その一子は伊豆嶋、 一子は血鹿嶋(ちかのしま)に流しました。 同じ月、 新羅の王子(せしむ)忠元(ちゅうげん)は難波(なには)に到着しました。 30目次 【四年六月~十一月】 《大分君惠尺薨》
[大分市公式]/[大分の史跡-古宮古墳]によると、 古宮古墳は「椎迫 「古宮古墳のようなくり抜き式の構造をもつ横口式石槨は、7世紀中頃前後に畿内の貴族の間で流行したもので、九州では他に例がないことから、 被葬者はヤマト王権と深くかかわっていた人物と推定され」、「与えられた高い冠位から恵尺がその有力な候補者として考えられ」るという。 そして「この古墳は被葬者がほぼ特定できる数少ない古墳の一つ」と、かなり断定的に述べる。 古宮古墳は大分郡の中央部にある。 〈国造本紀〉に「大分国造」項はないが、「火国造」の項に「大分国造同祖」と記されている。 大分国造は大分郡に移行し、大分君は郡令を担う氏族であろうと思われる。 大分君恵尺が氏族の本貫地で葬られ、 その際中央の高級官の墳墓のスタイルを用いたと推定することに、それほどの無理はない。 副葬品に冠などの断片でもあれば有力な手掛かりになるはずだが、1981年に行われた発掘調査では「石室は早くから開口していて、副葬品等はまったく不明」だという (『日本歴史地名大系』〔平凡社1995〕)。但し、その調査で「須恵器の破片が出土しており、石室の形態と合せて七世紀中頃―後半の古墳とみられている」という(同)。 《遣于新羅》
《大風》 大風が吹いた八月癸巳〔二十二日〕は、グレゴリオ暦では676年10月4日。 まだ台風シーズンの内だが、「砂飛ぶ」とあるので観測地では雨はあまり降らなかった。 「破レ屋」と書かれていることを見ると、竜巻かも知れない。なお、強い台風が北東方向に進むときには、南東象限でしばしば竜巻が発生する。 《新羅王子忠元》
《新羅高麗二国調使》 「新羅高麗二国調使」は、三月に来朝した一行であろう(高麗:富干・多武、新羅:朴勤修・金美賀)。 この八月二十八日に、筑紫で饗と禄を賜り、帰国する。 こちらの一行は、都に上ったことが書かれていない。しかし、五か月間筑紫に留まりそのまま帰ったとはとても考えられない。 前年、耽羅王子久麻芸が筑紫で返されたときのことが細かく書かれたのは、京で朝見することが通常のことだったからである(二年八月)。 大兄富干の一行は名目上の独立国高麗からの朝貢使で、新羅使は保護国としての付き添いであった。したがって、正真正銘の新羅朝貢使である忠元一行とは、必然的に別物である。 両者は、それでも付かず離れずで、大まかには同一行程を取ったと見るのがよいのかも知れない。 だとすれば、高麗朝貢使も同じように四月に難波に移動して、八月二十五日頃に難波を離れて筑紫に向かったことになる。こういうこともありそうに思える。 ただ帰国の接待会場を、忠元らは難波に、大兄富干らは筑紫に割り振った。何とも微妙な対応である。 王子の一行への饗 《耽羅王姑如》
今回は新羅の使者が帰った後に、難波に入ることができた。 王子久麻伎はしばらく筑紫に滞在していて、新羅の使者が帰国したことを耽羅王に連絡して、姑如はそのタイミングで出発したと見ることができる。 耽羅王が筑紫に到着した記事がないのは、筑紫を経由したが下船せずそのまま難波に向かったからではないだろうか。 どうやら、新羅の客と耽羅の客が難波に同時滞在しないように日程調整したようである。 その理由は正確には分からないが、細かく神経を使っていたことは明らかである。 二年八月「因命二大宰一、詔二耽羅使人一…」の件はそれを表現するために敢えて置いたものであろう。 もともと、新羅からの使者は形式的にではあるが日本への朝貢使の形をとっていたと見られる※)ことが考えられる。 一方で新羅は耽羅を自らの附庸国と位置づけている。ひとつの可能性としては、 日本の都に同時に滞在すると両者が同格で朝見を受けることになるが、この景色は新羅には受け入れ難いであろう。 日本側も、耽羅は自らのものという意思表示をあからさまにするのは新羅に無用の刺激を与えることになり得策ではない。 ※)…日本の使者が新羅に派遣されたときも、同様に朝貢使の形式をとったに違いないと考える。ともに外交的儀礼として割り切っていたと想像される。 《覓二一切経一》 学問僧たちが持ち帰ったさまざまな経が、それぞれの寺に所蔵されていたことだろう。この日は使者を四方の寺に派遣して、それらの経を集めさせたようである。 ここでいう「一切経」は学問的に定義されたリストではなく、文字通り一切の経を求めさせたという意味になる。 《唐人三十口》 〈斉明〉六年十月に「佐平鬼室福信遣二佐平貴智等一、来献二唐俘一百余人一」とある。 その百人は、「今」〔書紀が書かれたとき〕は、美濃国不破郡方県郡に住むという。 今回の「唐人三十口」も、かつて百済軍が獲て倭国に送られた俘虜で、しばらく筑紫に住まわせていたものであろう。 《諸王以下初位以上毎レ人備兵》 大化元年八月の東国国司あての詔では、 辺境では、軍備を国司が担うことを急がず、ひとまず「本主」に軍備を担わせよと命じている。 「本主」とは、地方氏族あるいは郡大領〔ほぼ国造がそのまま任じられた〕であろうと思われる。 しかし、方向としては軍備も中央集権化は明瞭である。 ところが、皇親政治で左右大臣を置かないから、氏族に軍備を担わせようにも氏族を率いる大臣そのものがいない。 よって、軍備は諸王〔皇子の子以下の世代〕や、冠位のある官人が自ら担うことになった。
一人の女性が三人を順番に出産することは別に珍しくないから、ここでは多胎児の出産であろう。 古訓もそう解釈して、「ヒトタビニ」〔=一度に〕を補ったと見られる。 《登二宮東岳一妖言而自刎死之》 「宮東岳」は浄御原宮〔以前の後飛鳥宮〕の東の山である。 この山に一人の人物が登って、意味不明のことを言って自死したという。 〔後飛鳥〕宮東山には〈斉明〉天皇が謎に満ちた宗教施設を築いている (酒船石遺跡。〈斉明〉二年、資料[54]/《酒船石遺跡》項)。 ことによると、霊感をもつ者が引き寄せられる空間だったのかも知れない。 当直には恩賞を与えられたという。混乱することなく対応できたことが褒められたようだ。 ここだけを読むと、不吉なことの前触れかと思わせるが、〈天武〉紀は大事件を怪奇現象が予言※)するような構成を用いていない。※)…〈皇極〉三年六月の猿歌など。 逆に翌年は、二つの祥瑞で始まっている。 《大地動》 〈天武〉紀に大地動の記事は四年十一月、八年十二月、十一年八月〔5日間隔で2度〕、十三年十月〔人畜に死傷多数〕にある。 《大意》 六月二十三日、 大分君(おおきたのきみ)恵尺(えさか)は、病してまさに死のうとしていました。 天皇(すめらみこと)は大変驚かれ、 詔しました。 ――「あなた恵尺(えさか)は、 私を顧みず、公に向かい身命を惜しまず、 遂に雄々しき心で大役(たいえき)に臨んだことを労い、 いつも慈愛しようと思(おぼ)していた。 よって、これから既に死んだとしても、 子孫に厚く賞する。 よって外(げ)小紫位(しょうしい)に上げる。」 それから未だ数日に及ばず、私家で薨じました。 七月七日、 小錦上(しょうきんじょう)大伴連(おおとももむらじ)国麻呂(くにまろ)を大使に、 小錦下(しょうきんげ)三宅吉士(みやけのきし)入石(いりし)を副使にして、 新羅に派遣しました。 八月一日、 耽羅(とんら)の調使の王子(せしむ)久麻伎(くまき)が、 筑紫に着きました。 二十二日、 大風が吹き、砂を飛ばし家を壊しました。 二十五日、 忠元(ちゅうげん)は、礼を終えて辞して帰り、 難波から船出しました。 二十八日、 新羅高麗の二国の調使を 筑紫で饗して、それぞれに応じて禄を賜りました。 九月二十七日、 耽羅(とんら)の王(こきし)姑如(こじょ)が難波に到着しました。 冬十月三日、 使者を四方に遣わして一切の経を探し求めさせました。 十日、 御酒を置き群臣に宴を賜りました。 十六日、 筑紫〔の大宰〕から唐人三十人が献上され、 よって遠江(とおとうみ)の国に送って住まわせました。 二十日、 詔しました。 ――「諸王以下初位以上は、 各自で兵器を備えよ。」 この日、 相摸国は、 「高倉郡の女性が男の三つ子を生みました。」と言上しました。 十一月三日、 ある人が、宮の東の山に登り、 妖言して自ら首を切って死にました。 この夜に宿直した者は、 全員が爵一級〔の進階〕を賜わりました。 この月に、 大地震がありました。 まとめ 後の時代〈聖武〉天平十三年に、改めて食肉禁止詔が発せられた。その理念は、人の代わりに田を耕してくれる牛馬には感謝すべきであって、 それを食用にするなどもっての他というものである。その出発点に〈天武〉三年詔が位置付けられよう。 ただ、〈天武〉詔には犬鶏猿も食用禁止に含まれていたが、これはそれらへの親近感によるものであろう。 そのほかの鹿、猪、雉、鴨などは適用外だったようだが、ただし罠を用いた残酷な捕獲を禁じている。 仏教との関係においては、仏教が食肉を絶対的に禁じているわけではないが、修業はそもそも禁欲生活なので食肉は必然的に禁止されやすい傾向がある。 一方〈天武〉〈持統〉紀には、天皇の遊猟の記事がない点が注目される。食肉禁止令と併せて見ると、トータルで動物を守りたい気持ちが強かったと言えそうである。 〈天武〉の食肉禁止令は、仏教精神を徹底するためというよりは、一般的な動物愛護精神に基づくものだったと考えるべきであろう。 仏教の教義が絡み、『法苑珠林』「畜生部」を読んでみたが、なかなか歯ごたえがある。さらに掘り下げるにはまだ随分の努力を必要としよう。 もう一つ、以後の重要な朝廷行事の出発点になったのが、風神大忌神の祭である。 ここで興味深いのは、若宇加売命〔ウケノメ、ウカノメ〕がまだ伊勢神宮とは離れてたところにいることである。 伊勢神宮にトヨウケノカミの摂社程度はあっただろうが、豊受神が伊勢で大規模に祀られるようになったのはもう少し後の時代であったことを伺わせる 〔ただこれについては、さらに緻密な探索が必要である〕。 また貸稲は、出挙に繋がる。出挙は最終的に税の一種になってしまうが、〈天武〉朝の貸稲は救済の目的があったように見える。 さて、新羅、新羅の傀儡政権としての高麗、耽羅との外交活動は引き続き活発である。 その日程を綿密に見ると、日本政府が随分きめ細かく対応している様子が浮かび上がる。 〈天智〉朝では軍政と書かれるように、朝鮮式山城築城への動員など、身を固くした対応がなされていたが、 〈天武〉朝では対新羅を中心に外交をダイナミックに展開する。それがうまく進むためには、細かな配慮を要したと見られる。 |
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2025.03.14(fri) [29-04] 天武天皇下4 ▼▲ |
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31目次 【五年正月~四月】 《正月群臣百寮拜朝》
《進薪》 進薪は四年に初出(《進薪》項)。以後定例行事化したと見られる。 五年の進薪の日付は、〈延喜式-宮内省/嘗/大斎〉の 「凡毎年正月十五日」に一致する。 《射于西門庭》 見事的を射た者に景品を出して盛り上げたところに、〈天武〉の射幸の人柄が偲ばれる。 《嶋宮》 〈壬申紀〉22段参照。 嶋宮は旧蘇我馬子邸(3段/《嶋宮》項)、 島庄遺跡に比定(〈推古〉三十四年《家》項、〈用明〉元年《蘇我馬子邸宅》項)。 《凡任国司者》 「凡…」の書式は令を思わせる。浄御原宮令の一条かも知れない。 《長門国》 「長門国」の史実としての初出は天智四年〔665〕(【長門国の城/大野城/椽城】項)。 『国造本紀』には「穴門国造」が見える (隋書倭国伝(4)【山陽道の国造】項)。 好字令自体は和銅六年〔713〕(資料[13])だが、飛鳥時代から既にその流れにあったか。 《以外皆任大山位以下人》 言い換えれば、畿内・長門・陸奥には小錦以上を置くことがあり得る。長門と陸奥は辺境だから、必要があれば高位の者を置くということか。 「筑紫」がないのは、大宰に高位の者を置いたから必要がなかったということであろうか。 《耽羅客》 耽羅王子久麻芸は、前年八月一日筑紫に停泊。 耽羅王姑如は、前年九月二十七日難波に到着した(四年八月~九月)。 《大伴連国摩呂》
《祭龍田風神広瀬大忌神》 毎年の祭りとして定例化したようである(《祠二風神于龍田立野一》項)。 《鰐積吉事》
この時期までに、旧曽布県(そふあがた)の地域に添下評・添上評が置かれたと見られる(下述)。 《瑞鶏》 鶏は、四年四月職肉禁止令の対象に入っていた。ここの「瑞鶏」も神聖視の表れか。次の雌鶏の雌鶏転換も同様かも知れない。 《飽波郡》
※)…評は郡の大宝元年以前の呼称(〈景行〉十七年)。 『大日本地名辞書』には「飽浪常楽寺あり、これ宮址にあらずや」、 「常楽寺は安堵村の東安堵に在り、寺伝云、山背大兄王建立」とある。常楽寺は現極楽寺〔奈良県生駒郡安堵町東安堵1453〕。 また、[奈良県景観遺産―飽波神社と太子道―]には 「太子道…の道沿いに飽波神社があります。境内には太子ゆかりの太子腰掛け石…」という〔奈良県生駒郡安堵町東安堵1379〕。 [額田部氏の系譜と職掌](仁藤敦史/『国立歴史民俗博物館研究報告』88〔2001〕)によると、 「法隆寺幡銘に「飽波評」と記される」が「大宝令の群制施行までは存続せず、隣接する平群郡に吸収合併されてしまったことが推測される」、 「阿智使主が…仁徳朝に呼び寄せた…子孫に「飽波村主」がいる(『坂上系図』)」という。 古い時代の「倭 直感的には、平群郡のうち富雄川より東が飽波評だったように思われる。 《礪杵郡》 美濃国の土岐郡と見られる。 《紀臣阿佐麻呂之子》
この段を含めて四年条から後にはいくつかの犯罪処罰の記事が見えるが、いずれも罪状の記載がない。 書紀原文製作者が、記録から項目だけを拾ったように思われる。 表記は現代の版本でも不統一で、「阿」「訶」がある。 《大意》 五年正月一日、 群臣百寮は朝廷を拝しました。 四日、 高市皇子(たけちのみこ)以下、小錦以上の大夫らに、 衣、袴、褶(ひらみ)、腰帯(おび)、脚帯(あゆひ)及び脇息、杖を賜わり、 ただ小錦(しょうきん)上・中・下は脇息を賜わりませんでした。 七日、 小錦以上の大夫らに、 それぞれに応じて賜禄しました。 十五日、 百寮の初位以上は、 薪(みかまき)を進上しました。 その日、 〔群臣百寮の初位以上を〕悉く朝庭に集められ、宴を賜りました。 十六日、 禄(ろく)を置き西門の庭で射技し、 的に当てた人にはそれぞれに応じて禄を賜りました。 この日、 天皇(すめらみこと)は嶋宮(しまのみや)にいらっしゃり、宴されました。 二十五日、 詔しました。 ――「凡(およ)そ国司に任ずる人は、 畿内及び陸奧(むつ)、長門(ながと)の国を除き、 それ以外は皆大山位以下の人を任じよ。」 二月二十四日、 耽羅(とんら)の客人〔王姑如、王子久麻芸ら〕に船一艘を賜りました。 この月、 大伴連(おおとものむらじ)国摩呂(くにまろ)らは、新羅から帰国しました。 四月四日、 龍田の風神(かぜのかみ)、広瀬の大忌神(おほいみのかみ)を祀りました。 倭国〔大和国〕の添下郡(そふのしものこおり)の鰐積(わにつみ)の吉事(よし)は、瑞鶏を献上しました。 その冠は、海石榴〔ツバキ〕の花に似ていました。 この日、 倭国の飽波郡(あくなみのこおり)は、 「雌鶏が雄に変わりました。」と言上しました。 十四日、 勅しました。 ――「諸王〔親王の子以下の代〕、諸臣に支給される封戸の税は、 西国を用いることをやめ、替わりに東国を用いて支給せよ。 また、畿外の人で仕えようとする者は、 臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)の子、及び国造(くにのみやつこ)の子は、聴(ゆる)せ。 ただ、それ以下の庶民であっても、 才能に長(た)けた者は、これも聴(ゆる)せ。」 二十二日、 美濃の国司に詔しました。 ――「礪杵郡(ときのこおり)〔土岐郡〕に住む紀臣(きのおみ)阿佐麻呂(あさまろ)〔訶佐麻呂(かさまろ)とも〕の子を 東国に移して、その国の百姓とせよ。」 32目次 【五年五月~七月】 《下野國司奏賣子而朝不聽》
前年は不作か。この段は前段の「進調過二期限一」との関連で読むべきかも知れない。 古訓「トシエヌニヨリテ」は「年得ぬに依りて」か。ヌは助動詞ズの連体形であるから、格助詞ニに続くことに問題はない。 アシを忌み言葉としての婉曲かも知れない。 農村が飢え子を売る社会構造が、この時代からあったことは注目される。 売られた子は私奴婢となったであろう(資料[35])。 女児が性搾取の対象とされた可能性もあるが、江戸時代の遊郭などの背景には男性優位の社会形態があり、飛鳥時代には女性が比較的自立的であったことを考慮すると一概には言い難い。 ただし、この要請文中の「欲レ売レ子」は国司が税の減免を要請する文章中で用いられた修辞ともとれる。 だとすれば、中央政府の「不聴」は税の減免に応じたと読めるが、実際のところは分からない。 ただ、〈続紀〉大宝元年〔701〕六月「丙寅。以レ時雨不レ降。令二四畿内祈一レ雨焉。免二当年調一」、 慶雲元年〔704〕「冬十月丁巳。有レ詔。以二水旱一失レ時。年穀不レ稔。免二課役并当年田租一」のように、 凶作にあたってしばしば調や田租が免じられたのは確かである。 《南淵山細川山》
この地に因んだ万葉歌、(万)1330「南淵之 細川山 立檀 弓束纒及 人二不所知 みなふちの ほそかはやまに たつまゆみ ゆづかまくまで ひとにしらえじ」がある。 比較的浄御原宮に近い。飛鳥宮を浄御原宮としたときに拡張された部分は、エビノコ郭に比定される(〈天武〉二年、資料[54]) 〔右図で、エビノコ郭の位置は『飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書』〔明日香村2014〕による〕。 《莫蒭薪》 「莫二蒭薪一」は、蒭〔飼料用の乾草〕のために草を刈ることと、樹木を薪のために伐採することを禁じる。 〈天武〉と皇后の鸕野讃良皇女が、この地の風景を愛した故かも知れない。 右図で浄御原宮、嶋宮との位置関係を見ると、細川は〈天武〉夫妻が連れ立っての散歩コースであったように思われる。 《莫妄焼折》 「焼」から、当時焼畑農業が存在していたことが分かる。「折」は伐採による農地化であろう。 《栗隈王》
《物部雄君連》
書紀では、大化元年九月条の「物部朴井連椎子」が物部朴井の初見である。 天孫本紀〔資料[39]〕では、 十六世孫である「物部荒猪連公」など四名に、「榎井臣等祖」とある。 物部荒猪連公には「孝徳朝大花上〔制冠十九階-大化五年〕」と書き添えられている。 つまり、〈孝徳〉朝の時代に物部氏から榎井臣が分岐したことになる。 物部雄君については、
《内大紫冠位》 位に「外」がつかない者は、中央の官に属していた。敢えて「内」をつけたのは、雄君は任官していないから本来は外位だが、功績により内位扱いしようということなのだろう。 本人には名目に過ぎないが、子にとってはこれで任官の資格を親から継ぐという実利が生まれる。 《氏上》 氏上は天智三年に制度化された。その後〈天武〉四年二月に部曲を廃したが、氏上制は維持された (《甲子年諸氏被給部曲》項)。 雄君には死後の栄誉として与えられたから、それまでは物部氏もしくは朴井氏には氏上は定められていなかったようである。 『天孫本紀』で、物部雄君連公(上記)に「飛鳥浄御原宮御宇天皇〔〈天武〉〕御世賜氏上内大紫冠位」と書き添えられるのは明らかに書紀に依ったものであるが、 雄君が賜った「氏上」は、物部氏の氏上ということになる。 なお後の〈天武〉十年、十一年に繰り返された「氏上」の制度化は、まだ氏上を定めていなかった氏族が多い現実を示している。 《大旱》 大旱の記事は〈皇極〉元年以来である。そのときは読経の効なく蘇我氏は権威の失墜した。一方、〈皇極〉による雨ごいは絶大な効果があった。 今回は、神祇界、仏教界が挙って雨ごいしたが効果はなかったと書かれている。 《耽羅客帰国》 王子久麻芸は前年八月、王姑如は前年九月に来朝した。二月には船を賜った。 《祭龍田風神広瀬大忌神》 四月に続いてこの年二回目である。旱魃が深刻だったためであろう。以後、年二回の祭事が通例化されたようである。 《村国連雄依》
冠位は外位だから、官職につくことはなかったとみられる〔外位の初出は〈天武〉二年六月の沙宅昭明〕。 雄依がもっと出世していても不思議はないが、実際には大伴連御行が兵政官大輔を拝した。家柄の故であろうか。 《有レ星出二于東一》 「竟天」は、おそらく彗星の尾が長く伸びていたのであろう。〈天武〉五年〔676〕」七月~九月に出現した彗星については、天文記録が『新唐書』にある。
676年の二十四宿の主星の配置は、図Aのようになっている。 本サイトの元嘉暦モデル(参考[C]以後)によると、〈天武〉五年〔676〕の春分は、ほぼ閏二月一日になっている。 それを起点とすると、彗星が出現した七月二十一日は春分から約168日後でほぼ白露にあたる〔太陽:赤緯+5.837°、赤経11.098h〕。 「不見」の九月二十日は春分から224日後で、霜降から約13日後にあたる〔太陽:赤緯-15.704°、赤経14.669°〕。 図Bは、日の出〔午前6時ぐらい〕のときの「彗星」の位置を示す。 七月二十一日には彗星は東井付近にあり、赤経では太陽から約6h西にあたるから、日の出の6時間ぐらい前に東の空から上る。日の出頃には大体真南に来ている。 したがって、夜間は東の空にあるから、書紀の「有レ星二出于東一」と合っている。 九月二十日には文昌付近で見えなくなる。太陽からは約7h西に離れ、また赤緯が上がるので天頂に近づく。 詳細なデータは、(資料[80])に上げた。 《大意》 五月三日、 宣ずるに、 ――「調を進上する期限を過ぎた国司らの犯状は、 云々」。 七日、 下野(しもつけの)の国司は、奏上して 「所部の百姓は凶年に遭遇し、 飢えて子を売ろうと望んでおります。」と申し上げましたが、 朝廷は聴(ゆる)しませんでした。 同じ月に、 勅しました。 ――「禁。南淵(みなみふち)山と細川山の一帯は、乾草や薪のために伐採することなかれ。 また、畿内の山野は元々禁じられた範囲であり、 妄りに焼き折ることなかれ。」 物部の雄君(おきみ)の連(むらじ)は、突然発病して卒しました。 天皇(すめらみこと)は、これを聞かれ大変驚かれました。 さる壬申年、車駕に従って東国に入り、 大功を挙げたので、降恩して内大紫位を贈られました。 よって氏上(うじのかみ)を賜わりました。 この夏は 大旱(おおひでり)で、 使者を四方に派遣し、 幣帛(みてぐら)を捧げ、諸々の神祗に祈らせました。 また、諸々の僧尼に請い三宝に祈らせました。 しかし雨は降らず、よって五穀不登となり、 百姓は飢えました。 七月二日、 公卿大夫、及び百寮の諸々の人らに、 それぞれに応じて爵位を進階しました。 八日、 耽羅(とんら)の客人〔王と王子〕が帰国しました。 十六日、 龍田の風神と広瀬の大忌神(おおいみのかみ)を祀りました。 この月に、 村国連(むらくにのむらじ)雄依(おより)が卒しました。 壬申年の功により、外小紫位を贈りました。 星が東の空に出現しました。 長さは七八尺あり、九月に至って竟天(きょうてん)〔空の端から端まで覆う〕しました。 まとめ 正月の宮廷行事や龍田風神と広瀬大忌神の祭はこれで二年続いたから、定例化したということであろう。 一方、前年の凶作は下野国など一部の国に留まっていたが、今年の夏は全国的に大旱魃となったようである。 彗星の出現が書かれたのは、一連の不吉な自然事象の一部と受け止められたからであろう。 |
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2025.03.20(thu) [29-05] 天武天皇下5 ▼▲ |
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33目次 【五年八月~九月】 《親王大夫等給食封》
「親王」の初出は、四年二月。 食封は改新詔其一で規定されて以来長い年月を経たが、現実化への歩みは遅々としている。 ここでは食封の下限が小錦と規定され、大山以下には現物を支給する。 支給品の内容については、『令義解』禄令では、正四位の場合「絁十疋。綿十屯。布五十端。庸布三百六十常」となっている。 なお、禄令では、食封の対象は「従三位」以上とする。 養老令の従三位は冠位二十六階では大錦下に相当するから、食封の対象の最低クラスは〈天武〉五年の「小錦下」よりも上がっている。 《皇女》 皇女の呼称は、まだ内親王になっていない。内親王の初出は〈続紀〉の大宝元年二月己未条である。 《姫王》 「姫王」は、「性別が女性である王」の意であろう。王は女性でもオホキミだから、倭読では性別が判読できない。 王という呼称が何代孫まで適用されるかについては、『三代実録』元慶四年〔880〕に「王号乃止二於五世一」が見える(第237回)。 《内命婦》
《親王以下》項で見たように養老令の「五位」は小錦に対応する。よって、男子の「小錦以上」と同じ基準で女子にも食封が与えられたことになる。 男女別の呼称は、右表のように対応している。 《国別国造》 改新詔において、国造は基本的に郡司に移行した(改新詔其二)。 ところが、ここでは「国造」と「郡司」が別々に規定されている。 これにより、かつての国造は「国別国造」家と「郡司」家に分化したことが明らかになる。 〈続紀〉の国造〔いわゆる"律令国造"〕は「安芸国造」、「尾張国国造」、「飛騨国造」など律令国の名を負う。特に目立つのが「出雲国造」で、 これについては〈斉明〉五年是年条において、出雲国造は杵築大社に奉斎する家柄であることを見た。 よって、律令国造は国ごとに宗教を担う家柄になった考えられる。 割り切って言えば、かつての国造は律令国毎に一つだけが律令国造となって祭祀を担い、一般的には郡司〔大領、小領、主政、主帳〕になったわけである。 《三流》 「三流」は、流刑地の遠中近をいう。 『令義解』獄令に「凡流人応レ配者依二罪軽重一各配二三流一。謂二近中遠処一【謂下其定二遠近一者従レ京計上レ之】」〔流刑地は、その罪の重さに応じて〔京から〕遠中近の三段階とする〕とある。 《並降一等》 次に「悉赦之」とあるから、「並降二一等一」は減刑一等を意味する。 《既配流不在赦例》 但し、既に流された者については遠流から中流に移すなどはしないという。それをしようとすると、大量の官人の派遣が必要となるためだろうか。 あるいは既に流刑地に溶け込んでいる者にとって、その場所から再度移させるのはもう一度流刑を課すのに等しくなってしまうからとも考えられる。 《放生》 放生は、書記で初出。「莫食牛馬犬猨鶏之宍」、「莫蒭薪」、「莫妄焼折」もやはり殺生を忌む仏教思想が背景にあったわけである。 [浄土宗大辞典]には「捕えられている魚・鳥等の生き物を河川・池・海・山野に放つ法要。『梵網経』第二十軽戒の所説に準じて…」などとある。 なお、「いけるものをはなて」と訓読すると単なる日常生活の心得になり、仏教行事の実施令ではなくなってしまう。 仏教用語は一般に音読だから、ここでもハウシヤウ〔呉音〕と読むのがよいだろう。 《大三輪真上田子人君》
外位でなければ、通常位号に「内」は付かない。 三輪子人は中央政府の官ではなかったから、通例なら外位だったと考えられる。敢えて内を付けたのは、同時に贈官したということであろう。 子にとっては親が任官扱いとされれば、自身も任官されるという実利がある。 そう考えられる根拠は、大伴馬来田の例にある。〈天武〉紀十二年六月己未には「贈大紫位」とあるが、〈続紀〉延暦元年〔782〕二月丙辰「大伴宿禰伯麻呂薨」の記事中には「祖馬来田贈内大紫」とある。 そして「父道足平城朝参議正四位下」とある。馬来田自身は官職になかったが「内大紫位」により、その子道足は「参議」まで登ることができたと読み取れる。 『公卿補任』には確かに「天武天皇御世 大伴望陀連【初任不明。十二年六月三日薨】」とあるが、 皇親政治下で大納言職は置かれなかったはずだから、死後の贈官と見るべきであろう。 《不告朔》 「不告朔」と書くのは、むしろ「告朔」が通例であることを示す。雨で中止されたというから、野外での宗教行事であろう。 時代が下り、〈延喜式〉には次の個所などに告朔が見える。
「『延喜式』からみた儀式としての考選文申送」〔古田一史/『国立歴史民俗博物館研究報告224』;2024〕によると、 告朔は「毎月朔日に諸司が前月の勤務内容を天皇に報告する儀礼」で、「考選」と共通性があるという。 「考選」とは、「年ごとの官人の勤務実績を評定する考課」と、その毎年の積み重ねから位階・官職を定める「選叙」をあわせたものだという。 しかし、〈天武〉朝当時は純粋に朔を告げる宗教行事だったのではないだろうか。もし官人の実績報告を伴ったのなら雨天中止はできず、会場を室内に移してでも行ったであろう。 実績報告の行事になってからはそれを毎月行うのは煩雑に過ぎるから、年四回にされたと思われる。 《王卿遣京及畿内校人別兵》 「王卿」は受事主語であろう。 四年六月の「諸王以下初位以上毎レ人備兵」の実施状況を点検させたものと読める。 《屋垣王》
《諸蕃》 〈垂仁〉紀【天日槍】で述べたように「諸蕃」は「渡来系の氏族という意味」。 〈応神〉朝に、渡来人が載る (資料[25]【秦酒公】、 《坂上大宿祢》、 《文宿祢》)。 さらに『新撰姓氏録』/「諸蕃」から拾うと、〖伊吉/漢〗、〖調/百済〗、〖高麗/高麗〗、〖三宅/新羅〗、〖韓人/任那〗など多数見える。 祖が渡来したのは、既に何百年も前である。古訓のように「トナリノクニ」といい続けることは、既に適切ではないだろう。 《為二新嘗一卜二国郡一也》 前年に続き、新嘗の米を供出する郡を占いで決めた(《播磨丹波》項)。 《尾張国山田郡》
『日本歴史地名大系』〔平凡社;1979~2004〕によると、 「山田郡」の最終は、「付熊野社棟札」の〔天文十七年〔1548〕二月十四日〕の「尾州山田郡八事北迫菱野村」、 旧山田郡の処の地名を春日井郡とした初出は 「熱田神宮寺旧蔵鐘銘」〔元亀三年〔1572〕十月十八日〕の「尾州春日井郡山田庄上飯田村」とあり、 山田郡はこの間に廃されたことになる。 山田郡の式内社は、〈延喜式-神名〉{尾張国/山田郡十九座【並小】片山神社、大目神社、羊神社…}とされる。 そのうち比較的明瞭な比定社八社を地図に記入してみると、山田郡の範囲は春日井郡の庄内川以南および愛知郡の北部と直感される(右図)。 南限は明確ではないが、『日本歴史地名大系』の挙げる地名の南限は、中世の岩崎郷 《丹波国訶沙郡》 〈倭名類聚抄〉に{丹後国【和銅六年割二丹波国五郡一置二此国一】・加佐郡}。 〈続紀〉和銅六年〔713〕「夏四月乙未。割二丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。熊野五郡一。始置二丹後国一」。 すなわち、訶沙郡〔加佐郡〕は、713年以後は新設の丹後国に属した。 《坂田公雷》
《大意》 八月二日、 親王以下、小錦以上の大夫、 および皇女、姫王、内命婦(ないみょうぶ)らに、 それぞれに応じて食封(じきふ)を給わりました。 十六日、 詔しました。 ――「四方に大解除(おおはらえ)のために用いる物は、 国毎の国造(くにのみやつこ)は 秡柱(はらえつもの)、 馬一匹、 布一常を致せ。 それ以外の郡司は、 各太刀一口、 鹿皮一張、 鍬一口、 小刀一口、 鎌一口、 矢一揃え、 稲一束を、 また一戸毎に、 麻一把を致せ。」 十七日、 詔を発ました。 ――「死刑、没官〔財産の没収〕、三種の流刑は、 それぞれ一等を減ぜよ。 徒罪〔使役の刑〕以下は、 発覚、未発覚ともに、すべて赦せ。 ただ、既に配流済みの者は赦す例に入れない。」 同じ月に、 大三輪の子人(こびと)の君が卒しました。 天皇(すめらみこと)はそれをお聞ききになり、大変に悲しまれました。 壬申年の功により、内小紫位(ないしょうしい)を贈られました。 よって諡され、大三輪真上田(おおみわのまかむた)の迎(むかえ)の君(きみ)となりました。 九月一日、 雨が降り告朔を行いませんでした。 十日、 王卿を京および畿内に派遣して、人毎の兵備を点検させました。 十二日、 筑紫大宰、三位屋垣(やがき)の王(おおきみ)は 罪があり、土左〔=土佐〕に流されました。 二十一日、 神官は奏上しました。 ――「新嘗(にいなめ)のために、〔米を供出する〕国郡を占いました。 斎忌(ゆき)は 尾張国山田郡、 次(すき)は 丹波国訶沙(かさ)郡というのが、それぞれ占いの結果でした。」 同じ月、 坂田公(さかたのきみ)雷(いかずち)が卒しました。 壬申年の功により、大紫位(だいしい)を贈られました。 34目次 【五年十月~是歳】 《以物部連摩呂等遣於新羅》
《不告朔》 十一月は新嘗を優先し、告朔は中止された。新嘗行事は大規模化しつつあるか。翌年以後も十一月の告朔はなくなったと思われる。 ただ、六年十一月は雨による中止と記される。 《沙飡金清平》
特に、政(まつりごと)を請う使者とされる。 この年、新羅は遂に百済地域から唐を排除することに成功した。
《汲飡金好儒》
弟監は第監と同じか (四年二月《大監/第監》項)。 送使の一行は、このときも通例通り筑紫に滞在し、京に来ることなく帰国する。 《肅慎七人》 〈斉明〉六年三月、阿倍臣と接触。四十七人が来京し、石上池辺で饗した。 肅慎はオホーツク文化人で、北海道にも居住したとみられる(〈斉明〉四年是年)。 〈天智〉・〈天武〉朝になると、倭国と蝦夷との境界は秋田城あたりまで後退したらしい(資料[72])。 その中で〈天武〉五年に、肅慎を新羅の使人が連れて来たことは注目される。 これは新羅〔あるいは配下の高句麗〕が北海道まで進出していたことの現れと考えられ、日本政府はかなり慌てたのではないだろうか。 よって、北方に目を向けるようになり、〈持統〉八年十年三月に「肅愼二人」が年頭の祝賀に訪れたのはその結果かも知れない。 十年三月には「度嶋蝦夷」と「肅慎」に錦袍袴、緋紺絁、斧等を賜る。 《放生》 再び放生会の開催を促した。 《金光明経仁王経》 『日本大百科全書』〔小学館〕によると、 金光明経は「4世紀ごろおそらく北インドで成立したとみられる中期大乗経典」で、「放生会などの根拠」とされたという。 仁王経は別名『仁王護国般若波羅蜜多経』、「大乗仏教の般若思想を強調」するとともに、「護国思想および鎮護国家の必要性を強調していることが特色」という。 《高麗使人》
『橿原市埋蔵文化財調査報告第6冊:藤原京跡Ⅱ』〔橿原市教育委員会2013〕は、 「天武5年〔676〕に藤原京の建設が開始されると、京内では先行条坊といわれる条坊が施工される。 先行条坊が施工された範囲は今のところ不明だが、少なくとも、藤原宮や本薬師寺などの造営にあたり、先行条坊は設計の基準線としての役割を果たしている」と述べる。 『奈良国立文化財研究所年報 2000-Ⅱ』は、 「条坊道路が2時期にわたること、つまり道路の付け替えが行われていることが新たに判明」(p.17)、 「「新城」を藤原京のことと見てよいのかどうかであるが、少なくとも条坊のありかたやその年代の上からは、両者を結びつけることに支障はない」、 「Ⅰ期の溝の存続期間がそれほど長くはないと推定したが、そのことは676年の新城の造営着手とその断念、といった状況を強く想起させるのである。 発掘調査成果によるかぎり、藤原京の淵源が、676年の「新城」造営まで遡る可能性は高い」(p.16)という。 このように、藤原京に重なる地域に「先行条坊」が作られていたと、発掘調査の結果は判断されている。 なお、新城なる地名については、大和郡山市新木(にいき)町、田原本町新木(にき)(大字)がある(右図)。 しかし、先行条坊が藤原京の範囲内に見いだされたことを考えると、どちらも〈天武〉紀の「新城」とは無関係である。 〈天武〉十二年詔には「凡都城宮室…」とある。「都城」はもともと都の意味で、〈天武〉紀では唐風の条坊を備えた大都をイメージした語と判断できる。 よって「新城」は「新たな都城」の意味とするのがよいであろう 〔都城という語は、古代都市が城壁で囲まれていたことに由来する〕。 《「将都新城也」への分注》 〈北野本〉には分注に「或本此無是年以下不都矣以上字注十一月上」〔或る本に此の「是年」以下「不都矣」以上の字無く「十一月」の上に注す〕とある。 「是年~不都矣」はここではなく、「十一月」の前に分注の形で書かれているという意味か。 〈内閣文庫本〉もほぼ同じ。〈兼右本〉、〈伊勢本〉にはない。 《大意》 十月一日、 置酒され、群臣に宴を賜りました。 三日、 互いに新嘗(にいなめ)に、諸神祇に幣帛(みてくら)をたてまつって祀りました。 十日、 大乙上(だいおつじょう)物部連(もののべのむらじ)摩呂(まろ)を大使、 大乙中(だいおつちゅう)山背直(やましろのあたい)百足(ももたる)を副使として、 新羅に派遣しました。 十一月一日、 新嘗の事があったので、告朔を行いませんでした。 十日、 新羅は、沙飡(ささん)金清平(こんせいへい)を遣わして、 政を要請させました。 併せて汲飡(きゅうさん)金好儒(こんこうじゅ) と弟監大舎(ていかんたさ)金欽吉(こんこんきつ)らを遣わして、 進調させました。 送使の奈末(なま)被珎那(ひちんな)、 副使奈末(なま)好福(こうふく)に、 清平らを筑紫に送らせました。 同じ月、 肅慎(みしはせ)七人が、清平らに従って来朝しました。 十九日、 京の近傍の諸国に詔して放生(ほうじょう)させました。 二十日、 使者を四方の国に派遣して、 金光明経(こんこうみょうきょう)仁王経(にんのうきょう)を説かせました。 二十三日、 高麗(こま)は、 大使後部(こうほう)主簿(しゅぼ)阿于(あう)と 副使前部(ぜんほう)大兄(だいけい)徳冨(とくふ)を遣わして、 朝貢させました。 よって新羅は 大奈末(だいまな)金楊原(こんようげん)を遣わして、 高麗の使者を筑紫まで送らせました。 この年に、 新城(にいき)を都にしようとされました。 そうしたところ範囲内の田園は、 公私を問わず皆耕さずに悉く荒れ果てて、 都にしようとしましたが、遂に作られませんでした。 まとめ 五年八月詔ではすべての刑を一等減じたから、死刑は廃止されたことになる。 実際にどの程度守られたかは定かではないが、死刑廃止法が実際に定められた時代があったことは死刑制度を考える上で注目に値する。 その背景として、大旱魃による犯罪の増加に対応しきれなくなったことも考えられるが、 食肉禁止令や放生会の推奨を併せて見ると、やはり命を大切にしようとする方向性は確実にあったと見られる。 さて、律令国家の実体の表現として、都城の建造は欠かせない。 先行条坊が検出されたのを見ると実際に工事は開始されたようだが、田地園地への入植はなかなか進まなかった。 それを無理強いせずに建都の中止を選択したのは、寛容の精神故かも知れない。 先帝が近江遷都を強引に進めたことが滅亡の一因になったことを、反面教師にしたことも考えられる。 以上のことから国作りは外形的な強制によらず、仏教の寛容精神を広め人心を安定させることが基盤であるという統治思想が見て取れる。 |
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⇒ [29-06] 天武天皇下(3) |
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