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2025.02.11(tue) [29-01] 天武天皇下1 

天武23目次 【二年正月~二月】
二年春正月丁亥朔癸巳。置酒宴群臣……〔続き〕


24目次 【二年三月~閏六月】
《備後國司獲白雉》
三月丙戌朔壬寅。
備後國司獲白雉於龜石郡而貢。
乃當郡課役悉免仍大赦天下。
[是月。]
聚書生、始寫一切經於川原寺。
備後国司…〈北野本〔以下北〕シリノ國司獲 クニノ ミコトモチ白雉 シロキ キゝス キ シ コヲリ當郡ソノ コヲリノ-役 ツキ悉-ユルサル
〈内閣文庫本〔以下閣〕マメシ ノ。 〈釈紀〉白雉シロキゝスシノコヲリ
〈兼右本〉白-キシ[ヲ]マメ-石キシ[ノ][ニ][テ] レリ[句]アタレルソノ[ノ]課-役ツキ エ[テ][ニ]ツ シ玉フツミユル [ノ]-下[ニ]
[是月]聚書生…〈北〉仍大天下書生テカキ始寫一-切經イツサイキヤウ川原寺カハラテラ
〈閣〉天下○聚是月交本-生。 〈伊勢本〉天下○聚┌是月書生
〈兼右本〉是-月[ニ]書-生テカキ[ヲ][句]
えつき…[名] 労役(エ)と貢(ツキ)。
えたち…[名] 労役。また労役に赴くこと。
てかき…[名] 書き役。辞書の文例は平家、大鏡。
三月(やよひ)丙戌(ひのえいぬ)を朔(つきたち)として壬寅(みづのえとら)〔十七日〕
備後国(きびのしりのくに)の司(つかさ)、白雉(しろききぎす)を[於]亀石郡(かめしのこほり)に獲(え)て[而]貢(たてまつ)る。
乃(すなはち)当(あ)たれる郡(こほり)が課役(えたち)は悉(ことご)とに免(ゆる)さゆ。仍(よ)りて大(おほ)きに天下(あめのした)に赦(つみなふことをゆる)したまふ。
[是(この)月。]
書生(てかき)を聚(あつ)めて、始めて一切経(いつさいきやう)を[於]川原寺(かはらてら)に写(うつ)さしむ。
夏四月丙辰朔己巳。
欲遣侍大來皇女于天照大神宮而、
令居泊瀬齋宮。
是先潔身稍近神之所也。
四月…〈北〉四-月ウツキ
大来皇女…〈北〉-侍タテマタサムト大-來オホキノ皇女于天-照大- ノ而 令泊-瀬 イミ 是-マツ サカメテ ミヲ ニ ノ之所
〈閣〉シメントハヘテ大來 ヲホシノ  ヲ テ ノ ニ
〈兼右本〉 スホツシ-侍 シメント ハンヘラ或■タテマタサント 大-來オホ キ[ノ]皇女[ヲ]天-照太神宮[ニ]ハンヘラ泊-瀬[ノ]イミ-宮[ニ][ハ][切]サヤメ身稍[ニ][ニ]所也 ナリ
いみ…[名] イム(忌む、斎む)の名詞形。
いみ-…[接頭] 神聖の意を加える。
い-…[接頭] 神事に関する名詞について斎み清めたものであることをあらわす。ユとも。
さやむ…[自]マ下二 きよめる。〈時代別上代〉「サヤカ・サヤグ・サヤサヤなどの語根サヤに、接尾語ムを添えたもの」。同辞典の挙げる用例はここ(〈天武〉二年)だけ。
きよむ…[自]マ下二 きよめる。キヨシの語幹+動詞語尾ム。
夏四月(うづき)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として己巳(つちのとみ)〔十四日〕
[欲]大来皇女(おほくのみこ)を[于]天照大神(あまてらすおほかむ)宮(みや)に遣(まだ)して侍(はべ)らしめむとしたまひて[而]、
泊瀬(はつせ)の斎宮(いむみや)に居(を)ら令(し)めたまふ。
是(こ)は先(まづ)身(み)を潔(きよ)めしめて、稍(やくやく)神之(の)所(ところ)に近づかしむにあり[也]。
五月乙酉朔。
詔公卿大夫及諸臣連幷伴造等曰
「夫初出身者、先令仕大舍人。
然後、選簡其才能以充當職。
又婦女者、無問有夫無夫及長幼、
欲進仕者、聽矣。
其考選、准官人之例。」とのたまふ。
出身者…〈北〉出-身ミヤツカヘセム者先令大-舎人-簡其才-能 カト シワサ以充當職カナハム ツカサ夫○及 無夫 長幼進仕者考-選准官-人ツカサヒト  アリ■■メカフ■リタマハム アト
〈閣〉 テ ニ選- テ才- カトシワサヲ當- ソノ/カナハン ツカサニ ヿ無夫○及長幼 無吏交本 ヲ ヲハ聽矣考-選シナサタカフリタマハン准官-人ナスラヘ ツカサアルヒトノアトニ
〈兼右本〉婦-女 メノコ 長-幼ヒトゝナリヲサナシユルセ考-選シナサタメカウフリタマハン
五月(さつき)乙酉(きのととり)の朔(つきたち)。
公卿大夫(まへつきみたち)及びに諸(もろもろの)臣(おみ)連(むらじ)并(ならび)に伴造(とものみやつこ)等(たち)に詔(みことのり)して曰(のたまはく)
「夫(それ)初(はじ)めて身(み)を出(いで)むとする者(ひと)は、先(まづ)大舎人(おほとねり)に仕(つか)へ令(し)めよ。
然後(しかるのち)に、其の才(かど)能を選簡(え)りて以ちて職(つかさ)に充当(あ)てよ。
又(また)婦女(をむなご)者(は)、有夫(をひとある)と無夫(をひとなき)と及びに長(としながき)と幼(をさなき)と問(と)ふこと無(な)かりて、
欲進仕(つかへまつらむとせ)む者(ひと)は、聴(ゆる)せ[矣]。
其(その)考(かむが)へ選(え)ること、官人(つかさ)之(の)例(あと)に准(なそ)へ。」とのたまふ。
癸丑。
大錦上坂本財臣卒。
由壬申年之勞、贈小紫位。
坂本財臣卒…〈北〉卒 ミマカリヌ小紫オヒテタマフ。 〈閣〉○壬└由ミマカリヌ
〈釈紀〉私記説オヒテタマフ小紫位セウシノクラヰ
〈兼右本〉壬-申年 則元年之事也イタハリ[ニ][テ]オヒテ玉フ小-紫位[ヲ][句]
大錦上冠位二十六階第七位。
小紫…冠位二十六階第六位。
癸丑(みづのとうし)〔二十九日〕
大錦上(だいきむじやう)坂本(さかもと)の財(たから)臣(おみ)卒(そつす、みまかる)。
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)労(ねぎ、ねぎらひ)に由(よ)りて、小紫(せうし)の位(くらゐ)を贈(おく)りたまふ。
閏六月乙酉朔庚寅。
大錦下百濟沙宅昭明卒。
爲人聰明叡智、時稱秀才。
於是、天皇驚之。
降恩以贈外小紫位、
重賜本國大佐平位。
閏六月…〈北〉閏- ウルフ六月
沙宅昭明…〈北〉大-錦-下タイ キン ケ百済クタラクノ沙宅/サ タク昭明 セウ メイ ヌ  ナリ聰-明 トク 叡-智 サトリ イハルヒトスクレヒテタルカトカトホカノ/トノ小- ノクラヰ本國モトツクニノ タイヘイノクラヰ
〈閣〉昭◱明◱為人ナリ ト秀才 ヒト カトゝスクレ ヒテタルカトゝ 私記
大錦下冠位二十六階第九位。
大佐平佐平は、百済の位階の一品。
閏(うるふ)六月(みなづき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)〔六日〕
大錦下(だいきむげ)百済(くたら)の沙宅(さたく)昭明(せうめい)卒(そつす、みまかる)。
為人(ひととなり)聡明(と)く叡智(さと)くありて、時〔の人〕秀才(ひでるかど)を称(たた)へてあり。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)驚之(おどろきたまふ)。
恩(めぐみ)を降(くだ)して以ちて外(げ)小紫(せうし)の位(くらゐ)を贈りたまふ、
重ねて本(もとつ)国の大佐平(たいさへい)の位(くらゐ)を賜(たま)ふ。
壬辰。
耽羅
遣王子久麻藝
都羅
宇麻等
朝貢。
王子久麻芸…〈北〉王-子 セシム 久麻藝クマキ都羅トラ宇麻ウマ
〈閣〉[切] ヲ
〈釈紀〉久麻藝クマキ都羅宇麻トラウマ。 〈兼右本〉---宇麻等[ヲ]
『仮名日本紀』王子せしむ久麻藝くまみ都羅トラ宇麻うま
壬辰(みづのえたつ)〔八日〕
耽羅(ちむら)
王子(わうし、せしむ)久麻芸(くまき)
都羅(とら)
宇麻(うま)等(ら)を遣(まだ)して
朝貢(みかどををろがみみつきたてまつる)。
己亥。
新羅
遣韓阿飡金承元
阿飡金祗山
大舍霜雪等
賀騰極。
韓阿飡金承元…〈北〉カン-サム コム セウ クエン サン コンセンセウ セツ
ヨロコハ/ヨロコフ騰極 ヒツキノコト

〈閣〉 テ[句]河◱飡◱金◳承◱元◱[切]阿◱飡◱金◳祗◱山◱[切]大◱舍◱霜雪◲等◱ ヲ
〈釈紀〉カンサム。 〈兼右本〉ヨロコフ騰-極ヒツキノコト[ヲ]
己亥(つちのとゐ)〔十五日〕
新羅(しらぎ)
韓阿飡(かんあさん)金(こむ)承元(せうぐゑん)
阿飡(あさん)金(こむ)祗山(ぎせん)
大舎(たさ)霜雪(せうせつ)等(ら)を遣(まだ)して
騰極(どうごく)を賀(よろこ)ばしむ。
幷遣一吉飡金薩儒
韓奈末金池山等
弔先皇喪【一云調使。】。
其送使貴干寶眞毛、
送承元薩儒於筑紫。
一吉飡金薩儒…〈北〉一吉飡イツ キツ サム コン  サツ  /ヌ シユ 韓-奈末 カン ナ  ノコンセン ルハ フ調-使 ノ送-使貴干 クヰ カン ホウ シン モウ承元薩 ヲ於筑紫
〈閣〉一◲吉◲飡◱金◳薩◲◱韓◱奈◰末◰金◳池◱山◱ ノ ノ ヲ一云調訣其送[切]使 ス貴于◱寶◱眞◳ カ送承[切]元薩 ヲ於筑 ニ
〈釈紀〉カンコンセンクヰカムホウシムモウ二人名也。
〈兼右本〉一云調訣貴-于-寶キ カン ホウ眞-毛シン モウ
『仮名日本紀』ほうしんもう
騰極…天子の位につくこと。
并(あは)せて一吉飡(いつきつさん)金(こむ)薩儒(さつじゆ)
韓奈末(かんなま)金(こむ)池山(ちせん)等(ら)を遣(まだ)して
先(さき)の皇(すめらみこと)〔天智〕の喪(みも)を弔(とぶら)はしむ【一(あるは)調使(みつきのつかひ)と云ふ。】。
其(その)送使(おくりづかひ)貴干(くゐかん)宝(ほう)真毛(しんもう)は、
承元(せうぐゑん)薩儒(さつじゆ)を[於]筑紫(つくし)に送りつ。
戊申。
饗貴干寶等於筑紫、
賜祿各有差。
卽從筑紫返于國。
戊申(つちのえさる)〔二十四日〕
貴干(くゐかん)宝(ほう)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に饗(あへ)して、
賜禄(ものたまふこと)、各(おのもおのも)差(しな)有り。
即(すなは)ち筑紫従(よ)り[于]〔新羅〕国(くに)に返(かへ)しつ。
《備後国亀石郡》
備後国神石郡
 〈倭名類聚抄〉{備後【吉備美知之利】しり〕国・神石【加女志】〔かめし〕}。
 白雉の献上によって現地の納税免除は当然として、天下大赦にまで及んだ。〈天武〉朝発進早々の吉兆の報告に、朝廷内は沸き立ったのではないだろうか。 ただ、改元については「白雉」は既に〈孝徳〉朝で使用済みなので、次の吉兆を待つことにしたのかも知れない。
 〈延喜式-治部省〉では「祥瑞」を大瑞・上瑞・中瑞・下瑞に分類し、白雉中瑞である。 「福徳思想の発生と吉祥への願望」〔宮本又次;福山大学経済学論集2(2)1978〕によると、 列挙された祥瑞の「色は五行の色、すなわち青・赤・白・黒を慶瑞」とし、「中国古代の伝承である陰陽五行説によっているだろう」という。
《書生》
 学生については『令義解』に、「凡学生先読経文通熟然後講義〔まず経文をよく読んで理解してから講釈せよ〕(学令)などとあるが、 書生については正字にはなく、分注に見えるのみである。
 「書学生以書上中以上者」の分注に「其書生唯以筆迹巧秀宗。不-解字様上レ〔其の書生唯筆迹ふであとたくみなるを以てむねとし、字の様を習ひ解することを以て業と為さず〕。 つまり「書生」は字が巧みに書くことが大事で、意味を解することは仕事ではないという。 ここで、「書学生」は「書生」と同じことのようにも思えるが、「」が入るから「クコト」が加わる一つ上のクラスかも知れない。
 『類聚三代格巻四』太政官符書生十人」(弘仁四年七月十六日)は、兵部省からの「〔要請文書〕で書生が足らなくなったから補充してほしいという申し出に応えたもの。 その要請には書生が不足して「繕写之事」を史生〔書記官〕がやらざるを得なくなったとある。「繕写之事」とは、筆写および書物の修繕であろう。
 これらから「書生」の仕事が知れる。すなわち筆写および綴じ合わせなどに従事する。
《一切経》
 「一切の経」という言葉のイメージ通りと思われるが、仏教学による専門的な規定は存在する。 浄土宗大辞典によると、 「仏の教説を伝える経、仏の教誡を伝える律、仏の教説を解釈した論のいわゆる三蔵を中心として、それに中国・韓国・日本で撰述された著書なども加えられる」。
 和訓は〈類聚名義抄〉(仏上)を見ると「一切:アマネシ」がある。 書紀古訓がアマネクではなくイツサイとするのは、仏教用語として扱ったことを示している。
《川原寺》
 川原寺は金堂二棟を特徴とする。〈斉明〉川原宮の跡地に建立したと見られる(【川原寺】項)。
《大来皇女》
大来皇女  母は大田皇女〈斉明〉七年正月甲辰〔八日〕生まれ。 よって、〈天武〉二年のこの日には満12歳。 〈持統〉紀:朱鳥元年十一月壬子「還至京師」。〈続紀〉大宝元年十二月「乙丑。大伯内親王薨。天武天皇之皇女也」。
 大来皇女は、史実としての一人目の斎王である。斎王の伝説的な起源は、〈崇神〉段〔記〕まで遡る (第116回【斎宮】項)。 また〈景行〉二十年には五百野皇女、令天照大神がある。
《天照大神宮》
 「天照大神」が出てくるのは、神功皇后紀以来である。
 今や〈天武〉天皇は、伊勢神宮を民族の精神統合の基盤として位置づけようとしている。 これまでに天照大神はどのような神として描かれてきたか、またなぜ神社を伊勢に置いたのかなどについて、別項で概観する。
《泊瀬斎宮》
 脇本遺跡(第198回)の建物のどれかとする説がある。
《白雉/一切経/天照大神宮》
 祥瑞、一切経の大量筆写、斎王創設の列挙は偶然ではなく、 〈天武〉朝の開始にあたって陰陽五行道仏教神道を挙って振興させる方針を物語るものであろう。
《先令仕大舎人》
 「大舎人」は個人ではなく組織であろう。次の時代に「大舎人寮」という官署が見えるからである。 官人に応募する者はまず「大舎人」に所属し、「-簡其才能以充-当職」すなわち本人の特性に応じて、最適な部署に配属されると読める。
 後の時代には様子が変わる。すなわち『令義解』によると、中務省左大舎人寮に「大舎人八百人」が所属する。大舎人寮の職務は「左右大舎人名帳分番宿直仮使容儀事〔左右の大舎人の名簿、交代する順番、昼夜の警備、例えば作法のことをつかさどる〕 とあり、「人材を預かりその能力を見て、適性を生かせる部署に送り出す」という人材養成機能は廃止されたようである。 というのは、その分注に「大舎人是供奉之人。故長官定其宿直。官人宿直者…省卿定宿直 〔大舎人は供奉する人をいう。故に〔大舎人寮の〕長官が宿直(とのい)を定める。官人の宿直は省〔ごとに〕卿が宿直を定める〕とあるからである。 実際、各省の分注には「内舎人という語があり、各省独自に抱えた様子が見える。大宝令以後は「大舎人」は天皇皇族に仕える人限定の呼び名になったようである。
 ただ、上記はすべて分注のみに見えるものなので、大宝令が制定された当時はまだ大舎人寮による「-番宿直。仮使容儀事」が、全省を対象としていた可能性がある。
 なお、この「夫初出身者…」段の文体は、令の条文を思わせるものがある。 細かいことだが、書記では通例逆接に用いられる接続詞「」をここでは順接に用いているところは、令の条文からの引用を思わせる。 〈天武〉朝~〈持統〉朝の令は「浄御原令」と呼ばれ、 〈持統〉三年六月の「班賜諸司令、一部廿二巻」がそれにあたるといわれている。
 今回の「夫初出身者…」詔以後、法制の詔が度々発せられ、「一部廿二巻」はそれらの集成〔近江令を継承する部分も含むであろう〕のように思われる。
《婦女》
 子女の登用については、改新詔「其四」の「凡采女者」項「郡少領以上姉妹及子女形容端正者」がある。これは、宮廷で働きつつ天皇がその中から気に入った女子を嬪として選ぶためである。
 今回の「有夫無夫及長幼」はそれとは異なり、既婚未婚や年齢を問わず「仕者」すなわち仕官したいと思う者にはだれにでも門戸を解放した。 これまでは女性の採用枠は「采女」のみだったが、これからは女性も男性が務めるような官人に応募できるようにしたという意味と見られ、 現代の「雇用機会均等法」を思わせる。〈天武〉の時代にそんな感覚があったのかと驚かされるが、想像するに皇后(鸕野讃良皇女)が働きかけたものではないだろうか。 これまで見たところでは鸕野讃良皇女は積極性に溢れる女性で、人物が優れていれば性別に拘わらず積極的に登用すべきであるという考えの持ち主であったようにも思われる。
《坂本財臣》
坂本財臣 〈壬申紀〉18段で、龍田に布陣して高安城から大坂道方面で壱伎史韓国軍と戦い敗北した。 その後体制を立て直し、東道軍に合流して戦った。
《沙宅昭明》
沙宅昭明 〈天智〉十年正月 大錦下を授け法官大輔に任ずる。
 もともとの官位は大錦下〔第九位〕で、卒したことにより外小紫位〔第六位〕が贈られた。 外位は、中央の官僚組織に属さない者に対して与えられた名誉冠位である。ここが外位の初出とされる。
 沙宅紹明の百済の冠位は佐平であった。〈天智〉十年正月条に「佐平余自信沙宅紹明」とあり、同条全体の書き方から見て「佐平」は沙宅紹明にもかかる。
 「大佐平」は、三国史記-新羅本紀武烈王〔金春秋〕八年「義慈子隆与大佐平千福等出降〔百済子義慈王の王子隆と大佐平千福が降伏した〕に見える。当然佐平より上位である。
《耽羅遣王子久麻芸都羅宇麻等》
 耽羅は済州島の王国(〈継体〉二年十二月《耽羅》項など)。〈天智〉四年《耽羅》項では 「唐羅の近くにある小国が倭国と緊密に連携することによって自国の安全の確保を図った」と見た。
久麻芸 〈天智〉八年三月耽羅遣王子久麻伎等貢献」。〈天武〉四年六月「耽羅調使王子久麻伎」。
都羅 六年七月戊午「耽羅遣王子都羅朝貢」。
宇麻 ここだけ。
《韓阿飡金承元/阿飡金祗山/大舎霜雪》
 新羅は、使人を〈天武〉即位を祝す騰極どうごく使と、〈天智〉を悼む弔先皇喪使の二班構成で派遣した。
韓阿飡〔大阿飡は五位〕金承元 賀騰極使。十二月一日まで滞在。
阿飡〔六位〕金祗山 賀騰極使。ここだけ。
大舍〔十二位〕霜雪 賀騰極使。ここだけ。
 韓阿飡が大阿飡と同クラスだとすると、〈孝徳〉朝の大阿飡金春秋に匹敵する。 それを除けば、使者の位階は沙飡〔八位〕(〈天智〉朝・〈孝徳〉朝)、奈末〔十一位〕程度(〈推古〉朝)である。
 前年十一月に訪れた「新羅客」に船を賜ったことに、友好的な意思を敏感に感じ取り、これをチャンスと見て大物を派遣してきたのかも知れない。
《韓阿飡》
 「韓-」は、『三国史記』、『北史』には見つからないので今のところ意味は不明である。 外位などは概ね京位と一対一対応するから、官位十七階は基準となる枠組みだと考えられる 《貴干宝真毛》項参照〕
 よって大阿飡阿飡との間、または大阿飡波珍飡の間に別の「韓阿飡」という位があったとは考えにくい。 ここではひとまず「」を「大と同じ」と考えておく。
《騰極》
 「」は天体図で北極星の周辺を天の宮廷とすることから、天子の座を表す語となった(資料[68]『平天儀図解』)。 「」は「のぼる」を意味する。よって騰極は、「登極」ともいう。
 騰極への古訓「ヒツギノコト」は、高皇産霊たかみむすび神からの血統を受け継ぐ「日嗣」(日継)の意である。
 よって「騰極ヒツギヲヨロコブ」は大まかには正しい。 もう少し原意に寄り添った上代語にしたいところだが、北極の帝の座に登るという表現は倭国とは発想が異なるから本質的に不可能である。 本来の漢字の意味を生かそうとすれば、結局音読しかない。の呉音ゴクは大極殿(ダイゴクデン)にもある。既に経典によって大量の呉音が持ち込まれているから、騰極ドウゴクを用いることは可能であろう。
《一吉飡金薩儒/韓奈末金池山》
一吉飡〔七位〕金薩儒 弔先皇喪使(或云調使)。十一月二十二日に筑紫大郡で饗される。
韓奈末〔大奈末は十位〕金池山 弔先皇喪使(或云調使)。薩儒とともに筑紫大郡で饗されたか。
《韓奈末》
 韓奈末も十七階にはない。 これも《韓阿飡》項と同様に考えて、大奈末と同ランクと考えておく。
《弔先皇喪》
 「先皇」すなわち〈天智〉への弔使は崩の1年7カ月後に、賀騰極と併せる形で派遣された。 政情の安定を待っていたのであろう。
《送使》
 これまでに書かれた「送使」は、海外からの使者が帰国する際、対馬に着くまで見送る役目であった(舒明五年など)。
 しかし、ここでの「送使」は、戊申段で筑紫で「饗」・「禄」を賜る際の名前の筆頭に「貴干宝」とあるから、 「送使貴干宝真毛」は賀使一行と弔使一行をまとめて新羅から引率してきた使者を指す。 「送使」という語のこのような使い方は、書紀を通して初めてである。
 閏六月条を読み終わった時点では、一行の全員が筑紫で足止めされて早々に帰されたことになる。
 ところが、次の八月条まで読み進めると「賀騰極使金承元等中客以上二十七人」が京にされたとある。 閏六月条とこの八月条が両方とも正しいとすれば、「筑紫〔新羅〕」は、「賀騰極使+弔先皇喪使+送使」の全員ではなかったと読まなければならない。
 弔使の金薩儒も、帰国は「十二月一日」だから、残っている人数に含まれていることになる。名前が挙げられている金祗山霜雪金池山も同じくであろう。 京に喚されたのが二十七人というから、最初に筑紫に着いたときは相当の多人数だったと思われる〔使者一行の人数の記録としては、『海外国記』に「百済佐平祢軍等百余人」が見える(〈天智〉三年)〕。 それが、彼等を引率するために特別に「送使」を必要とした所以なのだろう。
 訪れた一行のうち多くを筑紫から帰国させたのは、難波京〔副都〕に新羅人が溢れることを嫌ったか、あるいは受け入れる居館が足らなかったためかも知れない。 彼等は筑紫で留めて最小限の礼義として「」と「」とを振舞い、早々にお引き取り願った。結局送使宝真毛の役割は、雑多な同行者へ日程連絡などのマネージメントをこなし、また規律を保つことだったことが見えてくる。
《貴干宝真毛》
貴干〔外位;京位では大奈麻〔十位〕〕宝真毛 送使。二十四日に筑紫から先に帰国する者を引率した。
 「貴干」は、新羅の位階の十七階級中には見えない。 しかし『三国史記』の職官志を読み込むと、「貴干」はやはり冠位で、「大奈麻」に相当する外位であることがわかる。
《貴干》
 十七階 外位 高句麗人位百濟人位(京官)百濟人位(外官)
伊伐飡
伊尺飡
迊飡
波珍飡
大阿飡
阿飡
一吉飡嶽干一吉湌一吉湌主簿
沙飡述干沙湌沙湌大相
級伐飡高干級湌級湌位頭大兄從大相
大奈麻貴干大奈麻大奈麻達率貴干達率
十一奈麻選干(一作撰干)奈麻奈麻小相狄相奈麻恩率選干恩率
十二大舍上干大舍大舍小兄大舍德率上干德率
十三小舍舍知舍知諸兄舍知扞率扞率
十四吉士一伐吉次吉次先人奈率一伐奈率
十五大烏大烏將德一尺將德
十六小烏彼曰小烏烏知早位
十七造位阿尺先沮知
 本来、新羅の十七階制は京に住む人に限定して定められたものであった。それを地方に拡張したが、階級名は別称とした。 『三国史記』-雑志は、その階級名が十七階級京位という〕のどれに相当するかを述べたものである。
『三国史記』巻四十雑志第九。職官下武官
外位:文武王十四年。以六徒眞骨出居於五京九州、別稱官名、其位視京位。嶽干視一吉湌、述干視沙湌、高干視級湌、貴干視大奈麻、選干(一作撰干)視奈麻、上干視大舍、干視舍知、一伐視吉次、彼曰視小烏、阿尺視先沮知。
高句麗人位:神文王元年〔681〕以高句麗人授京官、量本國官品授之、一吉湌本主簿、沙湌本大相、級湌本位頭大兄從大相、奈麻本小相狄相、大舍本小兄、舍知本諸兄、吉次本先人、烏知本早位。
百濟人位:文武王十三年〔673〕以百濟來人授內外官、其位次視在本國官銜。〈京官〉大奈麻本達率、奈麻本恩率、大舍本德率、舍知本扞率、幢本奈率、大烏本將德。
 〈外官〉貴干本達率,選干本恩率、上干本德率、干本扞率、一伐本奈率、一尺本將德。
 「其位視京位」は、「その位を京位○○と視る」意であろう。 そこには、併合した百済高句麗の人の旧位階との対応も併せて書かれている。 これを見ると、高句麗人には概ね京位を与え、百済人には京官には京位、外官には外位を与えている。
 上記職官志の内容を表にまとめた()。
 外位および旧百済・高句麗人の位階は一吉飡〔第七位〕以下に限られるが、基本的に京位に対応させることができる。
 そのうち「貴干」は、京位の大奈麻に相当する。ただしこれだけでは新羅人の外位か百済人の外官のどちらであるかは判別できない。
《饗貴干宝》
 己亥段には略されて「貴干宝」とある。しかし、「貴干宝真毛」の略は、本来は「真毛」となるはずである。 実際、この前後でも「韓阿飡金承元承元」、「一吉飡金薩儒薩儒」となっている。
 そのためであろうか、〈釈紀〉は「貴干宝」・「真毛」を二人の名前と読んだ。 〈釈紀〉にはどうやら貴干が位階であるという認識がなかったから、三文字の名前+二文字の名前と解釈したようである。 書記原文筆者も同様であったように思われる。『仮名日本紀』が「ほう〔干を于とよむ〕とするのも、貴干が長い間冠位とは思われていなかったことの表れかも知れない(右図)。
『仮名日本紀』より
[国書データベース]/
10085012(大和文華館)
 岩波文庫版〔1995〕では貴干は冠位であると注しながら「二人」説を継承する。だとすると一人は「冠位+一文字の名前」、もう一人は「無冠位+二文字の名前」となる。 これは極めて不自然である。
 一方『新版 日本古典文学全集』〔1998〕版には「」は姓、「真毛」は名、そして「貴干宝」については「官名と人名の混用で、おそらく誤引」としている。 このように、現代の刊本でも解釈は分かれている。
《大意》
 三月十七日、 備後国(きびのしりのくに)の国司は、白い雉を亀石(かめし)郡で獲えて献上しました。 よって当郡の課役を悉く免じました。そして天下に大赦しました。
 [同じ月、] 書生を川原寺に集めて一切経(いっさいきょう)の書写を始めました。
 四月十四日、 大来皇女(おおくのひめみこ)を天照大神宮に遣して侍らせるため、 泊瀬(はつせ)の斎宮におきました。 これは、まず身を潔斎して、少しずつ神のところに近づけようとするためです。
 五月一日、 公卿、大夫及び諸々の臣(おみ)連(むらじ)並びに伴造(とものみやつこ)らに詔を発しました。
――「夫(それ)、初めに立身しようとする者は、まず大舎人(おおとねり)の司に仕えさせよ。 然る後に、その才能によって選抜して職に充当せよ。
 また婦女は、夫の有無や長幼を問わず、 出仕しようとする者は、許可せよ。 その選考は、官人の例に準じよ。」
 二十九日、 大錦(だいきん)上坂本の財(たから)臣が卒しました。 壬申の年の功を労い、よって贈小紫(しょうし)位としました。
 閏六月六日、 大錦下百済の沙宅(さたく)昭明(しょうめい)が卒しました。 為人(ひととなり)は聡明かつ叡智で、当時の人は秀才ぶりを称えました。
 天皇(すめらみこと)は驚かれ、 降恩して贈外小紫位となされました。 重ねて本国の大佐平(たいさへい)位を賜われました。
 八日、 耽羅(ちんら)国は 王子久麻芸(くまき)、 都羅(つら)、 宇麻(うま)らを遣わして 朝貢しました。
 十五日、 新羅国は、 韓阿飡(かんあさん)金(こん)承元(しょうげん)、 阿飡(あさん)金祗山(ぎせん)、 大舎(たさ)霜雪(しょうせつ)らを 賀騰極(どうごく)使として遣わしました。
 併せて一吉飡(いつきつさん)金薩儒(さつじゆ)、 韓奈末(かんなま)金池山(ちせん)らを 弔先皇〔天智〕喪使として遣わしました。 その送使として貴干(きかん)宝(ほう)真毛(しんもう)は、 承元、薩儒〔ら〕を筑紫に送りました。
 二十四日、 貴干(きかん)宝(ほう)らを筑紫で饗して、 各人に応じて賜禄しました。 こうして筑紫から〔新羅〕国に返しました。


【伊勢神宮の成立】
 古事記によれば、天孫降臨のとき天照大神は次のように命じたと。
――「此之鏡者専為我御魂而如吾前伊都岐奉…此二柱神者拝-祭佐久久斯侶伊須受能宮〔この鏡は専ら吾が御魂として吾がみ前を拝むが如く斎き奉れ…この二柱の神〔天照大神と思金神〕は拆く釧〔枕詞〕五十鈴の宮に拝み祭れ〕 (第83回)。
 これによって、八咫鏡を天照大神の表象として扱い、五十鈴〔伊勢神宮〕に祀ることが定式化される。
 天孫降臨段を精読した際に、この定式化は実際には〈天武〉天皇の意向によるものと見た(《天武天皇の意向》項)。
《壬申以前の天照大神》
 それではここに至るまでに、天照大神はどのように祀られてきたのであろうか。
 〈崇神〉五年には、 天照大神を「天皇大殿」の中に祀ったが、これが実は恐怖の神であったので笠縫邑の神籬(ひもろぎ)に移したと書かれる。 また、神功皇后が親征から帰り難波に向かったとき、天照大神の荒魂が「広田〔摂津国武庫郡広田神社〕に、和魂が「渟中倉之長峽〔住吉大社〕に祀られた 神功皇后紀9)。 このときにも「我之荒魂、不可近皇居。」と書かれていることが〈崇神〉五年との関連で注目される。 このように、天照大神に古い時代からの伊勢への土着は見えない。
 ただし、〈崇神〉紀は基本的に伝説、神功皇后は存在自体が架空だから、 これらの話は書紀が書かれた時代に残されていた伝承を反映したものである。
 神功皇后紀を最後に、天照大神はしばらく書紀から姿を消す。
《当時の伊勢の氏族》
 少なくとも言えることは、伊勢神宮に特権的な地位を与えたのは壬申の乱の後である。 大海人皇子を強力に押し立てたのは尾張国司美濃国司で、国がまるごと皇大弟を支持して馳せ参じたことが読み取れるが、 伊勢国にもそれに匹敵する貢献があったことだろう。
 大海皇子は、伊勢国に入った時点で完全に安全圏入りしたことが読み取れる。また朝明郡での遥拝を見れば伊勢の氏族が強力に支援し、よってその信奉する神に感謝したことは明らかである。
 こうして乱は勝利のうちに終了し、現地氏族の氏神を著しく優遇することになったと考えてよいだろう。 その氏神は、以前からアマテラスであったとも、この時点でアマテラスを新たに祭神としたとも考えられる。
《天孫の血筋の定式化》
 ただ、後者のように天照大神を伊勢氏族の氏神として〈天武〉朝が押し付けたとするのも、言い過ぎであろう。
 〈顕宗〉紀において、高皇産霊神天照神の発祥は対馬、そして月読神の発祥の地は壱岐で、〈顕宗〉朝のときに畿内に持ち込まれたことを見た(三年二月三年四月) 〔これは、神代巻の成立に結びつく重要事項だったから書かれたのではないだろうか〕。 また、出雲などの天岩戸伝説を伴う太陽神ヒルメ神が、対馬のアマテル神と習合したことも考えられる 〔書紀上代巻で基本的に大日孁貴の名称を用いているのも、蒐集した原資料を尊重した故かも知れない〕
 古事記上巻は、太安万侶らが淡路島のイザナギ・イザナミ神話、出雲の天岩戸伝説や八岐大蛇神話、オセアニアから南九州に伝わった釣り針喪失伝説、対馬のタカミムスビ神・アマテル神など各地の伝説を巧みに縫い合わせて一本の筋としている。 しかし、こと皇統の始点〔タカミムスビ-アマテラス-ニニギ〕に関しては古事記が初めて作文したわけではないだろう。 もし新たに作文されたとするなら、人々は今まで信じていたことと異なることを突然言われることとなるから、簡単には受け入れられないであろう。
 よって、始祖伝説については、既に〈顕宗〉朝に対馬壱岐由来の伝説が受容されていて、以後長い年月をかけて定着してきたと考えるのがよさそうである。
 そして、伊勢国度会郡にもタカミムスビアマテルを祭神とする神社が進出していた。 また、古くから伝わる鏡をご神体とする神社も近辺にあった。それらを習合して、朝廷が卓越した地位を与えたのが天照大神宮だと考えてみたらどうだろうか。

25目次 【二年八月~十二月】
《高麗遣上部位頭大兄邯子等朝貢》
秋八月甲申朔壬辰。
詔在伊賀國紀臣阿閉臣等
〔所以〕壬申年勞勳之狀而 顯寵賞。
在伊賀国…〈北〉 ハム伊賀國 ノ臣阿○臣閉イ等 壬- ノイタハリ-勲之状而/イサヲシサノカタチヲイクサノイサヲシサ顕寵/アキラカニ アラハニ メクミ タマフ。 〈閣〉ハム波牟伊賀國紀臣阿閉臣等ア ニ
〈兼右本〉ハンヘル[ノ][切]阿-閉[ノ]臣等[ニ]
『仮名日本紀』紀臣きのおんべの臣等
〈集解〉紀臣阿閉麻呂等【麻呂原作臣。拠前文改】
秋八月(はつき)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として壬辰(みづのえたつ)〔九日〕
伊賀国(いがのくに)に在(はべ)る紀臣(きのおみ)阿閉臣(あへのおみ)等(ら)に詔(みことのり)のりたまひて、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年の労(いたはり)て勲之(いさをしき)状(かたち)のゆゑにして[而]寵(めぐみ)の賞(たまもの)を顕(あらは)したまふ。
癸卯。
高麗
遣上部位頭大兄邯子
前部大兄碩干等、
朝貢。
仍新羅
遣韓奈末金利益、
送高麗使人于筑紫。
上部位頭大兄…〈北〉上-部位頭シヤウ ホウ ヰ トウ タイ兄邯 クヰヱイ カン 前-部- セン ホウ タイ兄碩干 クヰヱイ セキカンコンヤク
〈閣〉上部位◱頭◱大◳兄◱邯子寒師交本金◳利◱益
癸卯(みづのとう)〔二十日〕
高麗(こま)
上部(じやうほう)位頭大兄(ゐとうだいくゐゑい)邯子(かんし)、
前部(ぜんほう)大兄(だいくゐゑい)碩干(せきかん)等(ら)を遣(まだ)して、
朝貢(みかどををろがみてみつきたてまつる)。
仍(よ)りて新羅(しらき)、
韓奈末(かんなま)金(こむ)利益(りやく)を遣(まだ)して、
高麗(こま)の使人(つかひ)を[于]筑紫(つくし)に送らしむ。
戊申。
喚賀騰極使金承元等
中客以上廿七人於京。
喚賀騰極使…〈北〉-賀騰極使金承元。 〈閣〉 ツ
戊申〔二十五日〕
騰極(どうごく)を賀(よろこ)びまつる使(つかひ)金(こむ)承元(しやうぐゑん)等(たち)
中(なかつ)客(まらひと)より以上(かみつかた)二十七人(はたたりあまりななたり)を[於]京(みやこ)に喚(め)す。
因命大宰、詔耽羅使人曰
「天皇新平天下初之卽位。
由是、唯除賀使以外不召、
則汝等親所見。
新平天下…〈北〉 ケムト云 -下天下あめのしたことむけむと云ふ〕即位由 アマツヒツキシロシメスオイ ヨロ-使以外ソノホカハ ミ所見
〈閣〉ムトテケント云テ ヲオイテ ヨロ使 ヲ
〈兼右本〉ムケント云ムケ  ムケタマハント云 汝-タチ ミツカラ ナリ
ことむく…[他]カ下ニ 服従させる。
おく…[他]カ四 さしおく。のこしておく。
因(よ)りて大(おほき)宰(みこともち)に命(おほ)して、耽羅(とむら)の使人(つかひ)に詔(のたま)はしめたまひて曰はく
「天皇(すめらみこと)新(にひ)しく天下(あめのした)を平(たひら)げて初めて位(くらゐ)に即(つ)きたまへるに之(いた)れり。
是(こ)に由(よ)りて、唯(ただ)賀(よろこびたまふ)使(つかひ)を除(お)きて以外(そのほか)は不召(めしたまはず)、
則(すなはち)汝(いまし)等(たち)には親(みづから)所見(まみゆ)。
亦時寒浪嶮、
久淹留之還爲汝愁。
故宜疾歸。」。
亦時寒…〈北〉𡖋時-寒コノ コロ 浪-嶮ナミ タカシ淹留之 トゝメタラ  ナシテ 疾-歸 マカリカヘル
〈閣〉淹-留 トゝメタラハナシテン カ ヲ。 〈兼右本〉トク マカリカヘル
さがし…[形]シク 山がけわしいさまをいう。〈時代別城代〉「波が高くはげしいさまにいうこともある」。
亦(また)時(とき)は寒(さむ)く浪(なみ)嶮(さが)し、
久(ひさ)しく淹留之(とどまる)は還(かへ)りて汝(いまし)に愁(うれへ)を為(な)さむ。
故(かれ)宜(よろしく)疾(と)く帰(まかりかへ)るべし。」とのたまはしめたまふ。
仍在國王及使者久麻藝等、
肇賜爵位。
其爵者大乙上。
更以錦繡潤飾之、
當其國之佐平位。
則自筑紫返之。
在国…〈北〉久イ-麻-ハシメテソノ クラヰハタイ ヲツ シヤウ 更以錦-繡 ニシキモノ潤-飾 カサリ 
〈閣〉 テ錦-繡[切]ニシキモノヲカサリテ-飾之 ツ
〈釈紀〉鋪イニシキモノ 【私記曰。師説。或旧説錦字読爾之支毛乃。鋪読志支】
〈兼右本〉ニシキ-イ乍モノ
仍(よ)りて国(くに)に在(はべ)る王(わう、こきし)及びに使者(つかひ)久麻芸(くまぎ)等(ら)に、
肇(はじ)めて爵位(かがふりのくらゐ)を賜(たま)ふ。
其(その)爵(かがふり)者(は)大乙上(だいおつじやう)なり。
更(さら)に錦繡(にしきのぬひもの)を以ちて潤飾之(かざ)りて、
其国(かのくに)之(が)佐平(さへい)の位(くらゐ)に当たれり。
則(すなはち)筑紫(つくし)自(よ)り返之(かへ)しつ。
九月癸丑朔庚辰。
饗金承元等於難波、
奏種々樂、賜物各有差。
九月…〈北〉九-月 ナカツキ
奏種々楽…〈北〉オコスクサ-々ウタマヒ
かなづ…[他]ダ下二 〈時代別城代〉「舞って手を動かすこと。楽器を奏することに用いる例はない」。
うたまひ…[名] 音楽。〈倭名類聚抄〉「雅楽寮【宇多末比乃豆加佐】」。
九月(ながつき)癸丑(みづのとうし)を朔(つきたち)として庚辰(かのえたつ)〔二十八日〕
金(こむ)承元(しやうぐゑん)等(たち)を[於]難波(なには)に饗(みあへ)す、
種々(くさぐさ)の楽(うたまひ)を奏(な)して、賜物(ものたまふこと)各有差(おのもおのもしなあり)。
冬十一月壬子朔。
金承元罷歸之。
十一月…〈北〉冬-十-一- シモツキ
冬十一月(しもつき)壬子(みづのえね)の朔(つきたち)。
金(こむ)承元(しやうぐゑん)罷(まか)り帰之(かへ)りつ。
壬申。
饗高麗邯子
新羅薩儒等於筑紫大郡、
賜祿各有差。
薩儒等…〈北〉薩儒於イ-紫。 賜祿各有カツケモノ 。 〈閣〉新羅-○儒/薩 ニ於筑紫
〈釈紀〉祿カツケモノ
かづけもの…[名] ほうびや祝儀として与える品物。多くは衣類で相手の肩にかけて与えたことからいう。〔辞書の文例は源氏竹河〕
壬申(みづのえさる)〔二十一日〕
高麗(こま)の邯子(かんし)
新羅(しらき)の薩儒(さつじゆ)等(ら)を[於]筑紫(つくし)の大郡(おほこほり)に饗(みあへ)す、
賜禄(ものたまふこと)各有差(おのもおのもしなあり)。
十二月壬午朔丙戌。
侍奉大嘗
中臣
忌部
及神官人等
幷播磨丹波二國郡司
亦以下人夫等、悉賜祿。
因以郡司等各賜爵一級。
十二月…〈北〉-二-月シハス 
侍奉大嘗…〈北〉ハヘル大-嘗オホニヘ オホヘ オホナヘ中-私記ナカトヒ 忌-部イムヘ カウ/ツカサノヒトトモツカサ人夫オホムタカラ
〈釈紀〉カウツカサノヒトタチ。 〈兼右本〉人-夫オホンタカラ祿カツケモノ
十二月壬午朔丙戌〔五日〕
大嘗(おほにへ)に侍奉(はべ)りてある
中臣(なかとみ)
忌部(いむべ)
及びに神官(かむつかさ)の人(ひと)等(たち)、
并(あは)せて播磨(はりま)丹波(たには)二国(ふたつのくに)の郡司(こほりのつかさ)、
亦(また)以下(しつもかた)に人夫(よほろ)等(たち)に、悉(ことごと)に賜禄(ものたまふ)。
因(よ)りて郡司(こほりのつかさ)等(たち)を以ちて各(おのもおのも)爵(かがふり)一級(ひとしな)を賜(たま)ふ。
戊戌。
以小紫美濃王
小錦下紀臣訶多麻呂、
拜造高市大寺司
【今大官大寺是】。
時、知事福林僧由老辭知事、
然不聽焉。
戊戌…〈北〉一級○以戊戌イ小-紫美濃王
紀臣訶多麻呂…〈北〉 キノヲンツクルタカイチノヲホテラツカサニイマノ○○-タイクワン○○/オホ-タイ○○テラコレナリ○○フクリンホウシ ヨテ老辞ヲイタルニ サルシヲ然不聽焉
〈閣〉大◱官◰大◱寺◱知◱事◱サル
〈釈紀〉ダイクワンダイテラ知事チジヨテヲヒヌルニサル
戊戌(つちのえいぬ)〔十七日〕
小紫(せうし)美濃王(みののおほきみ)、
小錦下(せうきむげ)紀臣(きのおみ)訶多麻呂(かたまろ)を以ちて、
高市大寺(たけちのおほてら)を造(つく)る司(つかさ)に拝(め)す
【今の大官大寺(だいくわんだいじ)、是(これ)なり。】。
時に、知事(ちじ)福林(ふくりん)僧(ほふし)老(おいてある)に由(よ)りて知事(ちじ)を辞(いな)ぶ、
然(しかれども)不聴(ゆるさじ)[焉]。
戊申。
以義成僧、爲小僧都。
義成僧…〈北〉義- シヤウ ホウシヲ ス セウ ソウ○○ ツト
〈閣〉。 〈釈紀〉シヤウ小僧都セウソウヅト
戊申(つちのえさる)〔二十七日〕
義成(ぎしやう)僧(ほふし)を以ちて、小僧都(せうそうず)と為(な)す。
是日。
更加佐官二僧。
其有四佐官、始起于此時也。
是年也、太歲癸酉。
更加サラニクハフ/クワンノフタリノホウシ
是(この)日。
更に佐官(さくわん)に二(ふたり)の僧(ほふし)を加(くは)ふ。
其(それ)四(よたり)の佐官(さくわん)有ること、始めて[于]此(この)時に起(おこ)れり[也]。
是年(このとし)は[也]、太歳(たいさい、おほとし)癸酉(みづのととり)。
《「在伊賀国紀臣阿閉臣等」》
 現代の刊本は「詔在伊賀國紀臣阿閉臣等」を「詔在伊賀國紀臣阿閉麻呂等」に作る。これは『集解』に従ったものである。
紀臣阿閉麻呂 元年七月二日に東道軍を率いて和蹔原から出発。
 だとすれば、紀伊臣阿閉麻呂はいかなる立場で「在伊賀国」していたのだろうか。もし国守に任じられたとすればちゃんと「伊賀国司守」と書かれたはずで、「在伊賀国」には隔靴搔痒の感が否めない。だが、この疑問は次項で氷解する。
《在伊賀国紀臣阿閉臣》
 ここで阿閉臣なる氏族を改めて見てみよう。
 〈孝元〉紀で、その皇子「大彦命」は、阿部臣、阿閉臣、伊賀臣など七族の始祖とされた(〈孝元〉紀)。
 『新鮮姓氏録』には、その始祖伝説によると思われる記載がある。
〖左京/皇別/阿閉臣/阿倍朝臣同祖〗〖阿倍朝臣/孝元天皇皇子大彦命之後也〗
〖右京/皇別/阿閉臣/大彦命男彦背立大稲輿命之後也〗
 〈延喜式-神名〉{伊賀国/阿拝郡/敢国神社}は、敢(阿閉)国造の氏神を思わせる。
 〈姓氏家系大辞典〉は「阿閉氏は主として阿倍氏と同族にして、又敢氏ともあり、同一」、 「阿閉臣:伊賀国阿閉郡名を負ひしなり、…〔敢国神社〕あり、密接なる関係あるべし」、 「上古大いに盛え、雄略紀の国見、顕宗紀の事代の如き著はれる人尠〔すくな〕からず」と述べる。
 壬申の頃も、阿閉臣伊賀国阿拝郡を地盤にして確固として存在していたと見てよいであろう。 大海人皇子は伊賀国に入ったところでひとまず危機を脱したが、その裏に彼の地の阿閉臣の多大な助力があっただろうことはいうまでもない。 「壬申年労勲之状」とは、まさにこのときの阿閉臣の貢献を指したものであろう。
 一方の伊賀国の紀臣については、〈姓氏家系大辞典〉は「詔在伊賀国紀臣阿閉臣等」を唯一の根拠とするのみだが、 「紀臣阿閉麻呂」が伊賀国の紀臣出身で、その一族が伊賀国で大いに働いたと考えることは許されよう。 以上を見れば、「紀臣阿閉臣」に手を加える必要は特にないことが分かる。
 さらに〈天武〉紀及び〈持統〉紀で壬申の功を称える記事は、「」したときに賜った贈位賻物のみに見える。阿閉麻呂自身も、三年二月戊申に卒したときに「大紫位」を贈られている。 よって、生前に個人の労功に恩賞を与える記事は、かなり異例である 〔唯一の例外は、〈持統〉七年四月辛巳。置始多久が贓〔窃盗〕をはたらいたが、壬申の功に免じて赦された(「勤労於壬申年役之、故赦之」)〕
 〈姓氏家系大辞典〉が『集解』説に依らず、元の形「在伊賀國紀臣阿閉臣等」を用いていることも、 家系学の専門家としての感覚によるものであろう。
 このように江戸時代でも〈孝元〉紀などを参照すれば伊賀国に「阿閉臣」の存在感は十分に得られただろうと思われる。 現代の刊本は、それを無批判に継承した形になっているのである。
《高麗》
 『後漢書』高句麗条によれば、高句麗はもともと上部・下部・前部・後部・東部〔「五部」〕の氏族の連合体であった (弘仁私記序[3]《東部後部氏》項、 〈天智〉五年《高麗遣前部能婁》項)。
上部/位頭大兄〔級伐飡〔九位〕に相当〕邯子 朝貢使。二十一日に筑紫大郡で饗・禄を賜る。
前部/大兄〔大奈麻〔十位〕に相当か〕碩千 朝貢使。おそらく二十一日に邯子とともに饗・禄を賜る。
新羅の位階との外位等の対応表では、「級湌本位頭大兄従大相」と「奈麻本小相狄相」の間が空欄になっているから、ここに「大奈麻本大兄」〔十位〕が欠落している可能性がある。
韓奈末〔奈末は十一位〕金利益 送高麗使人使。
 〈新羅本紀〉第七/文武王十一年〔〈天智〉九年〕の記述から、 「新羅に逃れた皇族安勝を王に立てて高句麗を再興した形をとり、新羅の傀儡政権」としたことを見た。 その表れとして、この〈天武〉二年八月を初めとして「概ね高麗・新羅の使人は連れ立って訪れている」点に注目した(〈天智〉十年《高麗上部大相可婁等罷帰》項)。
《耽羅使人》
 「唯除賀使以外不召則汝等親所見」の部分だけを見ると、 「お前たちを賀使と見做して、特別に天皇はお会いになる」の如くに読めてしまうが、実際には話の流れは次のようになっている。
 賀騰極使金承元らを「」に喚す。
 耽羅使に「唯除賀使以外不召則汝等親所見」と告げ、さらに、
 これから寒くなり波も高くなるから早く帰るがよいという。
 そして筑紫に置いたままで爵位を授け、帰国させる。
 金承元を難波〔副都すなわち「」〕で饗す。
 は、耽羅使は新羅の金承元らが京に呼ばれたのを横目に見て、我々はどうして呼ばれないのかと不審に思うだろう。 よって気を使って「即位からまだ日が浅く忙しく、都に呼ぶのは賀騰極使だけに限定している」と説明したのである。 さらにを言って耽羅使を返した。 は、あたかもこれで邪魔者は消えたから、のびのびと新羅使を接待しようというが如き書きっぷりである。
 この流れを見れば、耽羅使が京に呼ばれなかったことは明らかである。 よって「汝等親所見」は、「天皇は会えないから代りに私〔大宰〕自身が会う」意となる。 「」は天皇限定の語のように見えるが、本来は相手によらず身近さを表す語である。
 むしろ問題は、「」の発信元が大宰になってしまうことである。 「」は〈天武〉下巻だけで63個あるが、ここを除く62例はすべて天皇自身が発した言葉、 あるいは法制の発布の主体として形式的に天皇を用いたものである。
 ここでも、大宰が天皇が発した詔の内容を忠実に伝えたこと自体に、疑う余地はない。 もともと詔の原文は「朕新平天下初之即位。由是、唯除賀使以外不召。則将令大宰見汝等。亦時寒…〔以下の部分は変わるところなし〕」であった。大宰はその内容を噛み砕いて、間接話法によって伝えたものと理解することができる。
《時寒浪嶮》
 〈天武〉二年九月庚辰〔二十八日〕は、グレゴリオ暦の673年11月15日にあたる(hosi,orgによる)。 確かに冬は近づいている。これから季節風により対馬海峡の波は高くなる。
《当其国之佐平位
 この個所から、耽羅の冠位は百済と同じだったことが分かる。
 『新唐書』東夷伝に耽羅に関する記事がある。
『新唐書』列伝第一百四十五-東夷
龍朔初、有儋羅者、其王儒李都羅遣使入朝。
國居新羅武州南島上、俗樸陋、衣大豕皮、夏居革屋、冬窟室。
地生五穀、耕不牛、以鐵齒土。
初附百濟。麟德中、酋長來朝、從帝至太山。後附新羅
〔龍朔〔661~663〕初め、儋羅〔耽羅〕あり、儒李都羅王が遣使入朝した。
国は新羅の武州の南の島の上にあり、風俗は朴訥、衣は豚の皮、夏は革屋、冬は洞窟に住む。
地に五穀生え、耕すに牛を用いることを知らず、鉄歯の農具で土をさらう。
初め百済に附き、麟徳〔664~665〕に酋長が〔唐に〕来朝、帝に従い太山〔泰山、霊廟の地〕に至る。後に新羅に附く。
 つまり、儋羅〔耽羅〕はかつて百済に附いていた。百済滅亡〔660〕後は唐に朝貢した。その後新羅の支配下となった。 この歴史から、耽羅の位階制はもともと百済に倣ったものであろうと考えられる。
《自筑紫返之》
 新羅耽羅を自らの属国と考えている。 しかし、耽羅は新羅を警戒し、日本と同盟して対抗しようとしている。よって日本が耽羅の使者を歓待すれば、新羅に疑心暗鬼を生む。 日本は、少なくとも使者が来ている間は礼儀として友好的に対応することになる。この時期の耽羅使の滞在は、タイミングが悪すぎる。
 よって今回に限っては耽羅使を京に喚さず、早々に帰国させたのである。
 思えば、〈推古〉朝当時の力関係は倭国が上であった。新羅が友好関係を結びたいというなら任那使を〔装う者を仕立てて〕同行させよと強気に出ることができた。 当時に比べると力関係は変わり、新羅には随分気を遣うようになっている。
《饗/難波》
金承元 閏六月十五日、新羅から筑紫に到着。八月二十五日、京に喚す。九月二十八日、難波で饗。十一月朔日、帰国。
 外国使のための接受・宿泊施設として、難波館高麗館新館が見える(〈継体〉2【難波館】項)。 饗の会場はそれらの施設か。あるいは、難波宮跡に見つかった朝堂院なども考えられる。
 難波宮は小郡にあり、難波館などはその周辺の大郡にあったと思われる(資料[71])。
《種々楽》
 これまでの音楽に関する記述としては、〈推古〉二十年是年条に 「百済人味摩之帰化、曰「学于呉、得伎楽儛」。則安-置桜井而集少年伎楽儛」とある。 自体は技術や俳優を意味するが、クレノと訓読されるから中国由来と認識されていたようだ。  百済人味摩之(みまし)が伝えたとあるから、直接的には百済からの文化移入の一環である。
 〈天武〉紀には以後「賜楽」(十年正月)、「奏種々楽」(十年九月)、「発種々楽」(十一年七月)、「奏…楽」(十二年正月)、「伎楽」(朱鳥元年)が見える。 いずれも諸王諸臣・外国使節などを接待する場に花を添える。
《饗/筑紫大郡》
 「外交拠点としての難波と筑紫」〔仁藤敦史/国立歴史民俗博物館研究報告(200);2016〕によると、 「筑紫には「筑紫小郡」「筑紫大郡」「筑紫館」という難波の施設と対応する同様の施設が確認され,唐や新羅との国交回復に備えたと考えられる」(p.53)。
 難波の配置から類推すると、筑紫小郡は大宰府政庁周辺、筑紫大郡は鴻臚館のある沿岸に近い地域が想像されるが、確かなことは分からない (【那津之口官家】項の図)。
邯子 八月二十日に高句麗から調使として到着。帰国日は書かれない。
薩儒 閏六月十五日に新羅から弔先皇喪使として筑紫到着。帰国日は書かれない。
《侍奉大嘗》
 新嘗祭はずっと十一月だったと思われるが、書紀で時期が明記されている例は意外に少なく、〈皇極〉元年の十一月十六日ぐらいである。 その時は、〈皇極〉天皇の大殿の御新嘗に皇子・大臣は誰も出席せず、各自ばらばらに行ったという有様であった。異例な形だから記事になったのであろう。
 〈舒明〉十年では、翌年の正月十一日に催した。 そこには、本来の新嘗の時期には有間〔有間温泉〕に行っていたからできなかったのだろうとある。因みに有間に出かけたのが十月、帰ったのが正月八日であった。 いずれの場合も特記すべき事柄があったから載せたのであって、それ以外の年には書かれなかったようである。
 今回の「十二月五日」は大嘗祭に尽力してくれた人に謝礼をした日付だから、大嘗祭自体はやはり十一月に行われたと見るのが妥当か。
《中臣/忌部》
 忌部首は、太玉命を祖とする(資料[25])。 〈天武〉九年に連姓、同十三年にはさらに宿祢姓を賜る。 天児屋命を祖とする中臣氏と並んで神事を担うが、忌部中臣両氏族の間には勢力争いが著しい。
 記紀の天岩戸神話においては、太玉命天児屋命の役割が大いに持ち上げられる(第49回)
《播磨丹波》
 〈天武〉五年の新嘗には、「新嘗国郡。斎忌則尾張国山田郡。次丹波国訶沙郡」とある。 「古代と近代の大嘗祭と祭祀制」〔岡田莊司;国学院大学研究開発推進機構紀要(11)2019〕 によると、これは「国郡卜定を行って、亀卜(亀の甲羅を焼く占い)をして田を決め」たもので、 〈天武〉二年の大嘗祭で「播磨国と丹波国の田が選ばれて、新穀の米を奉った」のは 「後々の大嘗祭と同じ形式」で、「畿外で米を調達する」のは「日本国中を天皇が統治する…壬申の乱が終わって新たに始められた形式」と述べている。
《美濃王/紀臣訶多麻呂》
美濃王 小紫美濃王は、〈天武〉四年四月に「風神于龍田立野」。弥努王は〈天武〉十四年に京および畿内の「人夫之兵」を校閲。「三野王」は〈天武〉元年「栗隈王」の子。 また〈天武〉十年「帝紀及上古諸事」十二人の一人。何れかのミノ王と同一か、あるいは無関係かは不明。 なお、〈持統〉八年「筑紫大宰率」の「浄広肆三野王〔小錦下に相当〕は、小紫美濃王よりかなり下位なので別人。(この項 2025.02.22 改訂)
紀臣訶多麻呂 〈天武〉八年二月甲寅。紀臣堅摩呂卒。以壬申年之功大錦上位」。
※)…しかし、四年四月でもまだ「小紫美濃王」である。養老令では諸王の正一位〔大錦上に相当〕は四品〔小紫に相当〕のすぐ下にあたるので、 「諸王一位」以下は大錦以下を対象とした改定かも知れない。(2025.02.22)
 諸王の位階は、二年十二月に「小紫美濃王」と載るが、三年三月庚申には「諸王四位栗隈王」が見える。この間に諸王の位階の号制が変わったと見られる※)
 さらに〈天武〉十四年には、「爵位:四十八階」に改められ、そのうち諸王は「明位二階、浄位四階、毎階有大広、并十二階」となる。
吉備池廃寺(百済寺に比定)と大官大寺
《高市大寺司》
 高市大寺は、百済大寺が移転して建った寺が「高市大寺」と号されたとされる(〈舒明〉十年《高市大寺》項)。 『日本三代実録』(巻三十七)によると、〈舒明〉天皇が「十市郡百済川辺」に「百済大寺」を建立し、それを〈天武〉天皇の御世に「高市郡夜部村」に遷して「高市大官寺」と号した。 百済大寺の遺跡は、吉備池廃寺が確実視されている。また、大官大寺藤原京東二十八条三里の廃寺跡と考えられている(資料[54])。
 『日本三代実録』には百済大寺が焼けてその後に移転したと書かれるが、吉備池廃寺に焼損跡はなく、逆に百済大寺が完成間近に焼けたことが分かっている。 長い年月の間に言い伝えが錯綜したと見るべきであろう。
 木之本廃寺を大官大寺と見る説もあるが木之本廃寺は十市郡で、高市郡にあるのはいわゆる「大官大寺跡」である。よってこちらを採るべきか。
《知事》
 知事は、「寺院の雑事や庶務をつかさどる役職。また、その僧」とされる〔例文仏教語大辞典;小学館1997〕
《福林》
福林 ここだけ。
 福林僧の「~僧」という表記については、 「『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上)」石井公成〔駒澤大学仏教学部硏究紀要73;2015〕によれば、 「「僧~」という呼び方の方が『日本書紀』では普通であり、「~僧」と書く例」はβ群の7例(〈推古〉〈舒明〉〈天武〉)に限られるという。
《小僧都》
 「僧綱」は諸寺の僧を監督する職で、玄蕃寮に属す(元興寺伽藍縁起…[4])。 〈推古〉三十二年四月条に「任僧正僧都。仍応検校僧尼」とあり、また「法頭」も定められる。
 ここの記事によれば、〈天武〉二年以前に僧都は大小制になっていた。
 一方〈続紀〉では「小僧都」の初見は文武二年〔698〕三月壬午「智淵法師為少僧都」、「大僧都」の初見は和銅五年〔712〕九月乙酉である。
義成 「大宝2年〔702〕死去」(『日本人名大辞典』〔講談社2001〕)。
 その死去年の根拠となる資料を探したところ、『僧綱補任』が見つかった。 同書は、〈推古〉朝から永治ニ年〔1142〕までの僧綱の人事記録で、『大日本仏教全書』(123)に収められているのは真福寺本という。
 『大日本仏教全書123』〔仏教刊行会1912~1922〕[僧綱補任第一/僧綱補任歴]〔以後〈僧綱補任歴〉〕(p.62)
〈天武〉二年〔673〕 天武天皇即位第二年:…四佐官始起此時」。〔小僧都に関する記載はない〕
〈文武〉二年〔698〕 小僧都智淵…十二月 日転大僧都、義成十二月 日任。…小僧都義成」。〔「小僧都」の初出〕
〈文武〉四年〔700〕 〔〈文武〉〕四年:小僧都義成」。
大宝二年〔702〕 大宝二年:      小僧都。    正月十五日任」。
大宝三年〔703〕 〔大宝〕三年:小僧都弁昭」。 
 義成の名は、文武四年を最後に消える。大僧都に昇進したわけでもないので、やはりその年に入滅したか。 欠損部分ABCにはその前後の記述のスタイルから類推して、次の文字があったと考えられる。
――:「小僧都義成 月 日入滅。文武天皇二年十二月 日」。:「義成」。:「小僧都弁昭」。
 なお、〈僧綱補任歴〉には上で見たように「文武二年」項に「小僧都智淵…十二月 日転大僧都、義成十二月 日任。…小僧都義成〔文武二年十二月、小僧都智淵は大僧都に転じた。それに伴い、義成が小僧都となる〕とあり、義成の小僧都就任日は〈天武〉紀と食い違っている。 これについては、『僧綱補任』が「天武」を「文武」に取り違えた可能性がある。書紀が取り違えることはない。 書紀が書かれた時期には漢風諡号はなかったからである。
 義成の入滅に関するこれ以外の資料は、今のところ見つからない。
《佐官二僧》
 佐官は四等官制の第四位で、〈倭名類聚抄〉には「祐官:…【皆佐官】」とある。 ここでは、僧綱の佐官を二名増やして四名にしたと読める。
 〈僧綱補任歴〉にも「天武天皇即位第二年:…四佐官始起此時」とある。ただし、同書はこのときだれが小僧都になったかは書かず、 初めての「小僧都」は〈文武〉二年「小僧都智淵 三月十八日壬午任」で、〈天武紀〉二年は無視し、〈続紀〉(上述)を採用したようである。
 『日本人名大辞典』の記述は、書紀と〈僧綱補任歴〉とからつまみ食いしたようだ。
《太歳癸酉》
 〈天武〉紀以外は、すべて元年条に太歳が付されるから、草稿段階ではこの年を元年としていたのかも知れない。 この年を天武二年としたのは、 即位の前年は事実としては大友皇子の治世だったが、それを天武天皇の世として塗りつぶすためであろう。
《大意》
 八月九日、 伊賀国に在る紀臣(きのおみ)阿閉臣(あへのおみ)らに詔され、 壬申年の労と功勲の様によって寵賞を顕(あらわ)されました。
 二十日、 高麗(こま)国は 上部(じょうほう)位頭大兄(いとうだいけい)邯子(かんし)、 前部(ぜんほう)大兄(けい)碩干(せきかん)らを遣わして、 朝貢しました。 よって、新羅は 韓奈末(かんなま)金(こん)利益(りやく)を遣わして、 高麗の使者を筑紫に送らせました。
 二十五日、 賀騰極使(がどうごくし)金(こん)承元(しょうげん)ら、 中客以上二十七人を京〔副都難波〕に喚びました。
 これにより〔筑紫の〕大宰に命じて、耽羅(とんら)国の使者に詔を伝えさせました。
――「天皇(すめらみこと)は新たに天下を平定して初めて即位されるに至った。 これを理由として、賀使を除いた以外は召されない。 そこで、あなた方には〔大宰〕自らが謁見する。
 またこれからは寒く波は高くなるから、 久しく淹留することは、却ってあなた方の憂えとなろう。 故に、早くお帰りなされよ。」
 よって在国の王(こきし)、及び使者久麻芸(くまぎ)らに、 初めて爵位を賜りました。 その爵位は大乙上(だいおつじょう)です。 更に錦の刺繍で装飾を潤し、 耽羅国の佐平位に当たります。
 こうして、筑紫から返しました。
 九月二十八日、 金(こん)承元(しょうげん)一行を難波で饗されました。 種々の楽を奏して、それぞれに応じて賜物されました。
 十一月一日、 金承元は辞して帰りました。
 二十一日、 高麗国の邯子(かんし)、 新羅国の薩儒(さつじゆ)らを筑紫の大郡(おおこおり)で饗され、 それぞれに応じて賜禄されました。
 十二月五日、 大嘗(おおなめ)に侍奉した 中臣(なかとみ)、 忌部(いんべ)、 及び神官(かみつかさ)の人たち、 併せて播磨(はりま)、丹波(たには)二国の郡司(こおりのつかさ)、 またそれ以下の人夫たちにも、悉く賜禄されました。
 よって郡司たちに、各爵一級を進階されました。
 十七日、 小紫(しょうし)美濃王(みののおおきみ)、 小錦下(しょうきんげ)紀臣(きのおみ)訶多麻呂(かたまろ)を、 造高市大寺(たけちだいじ)司に拝しました 【今の大官大寺が、これです】。 時に、知事福林(ふくりん)僧は老齢によって知事辞職を申し出しましたが、 許されませんでした。
 戊申(つちのえさる)〔二十七日〕。 義成(ぎしょう)僧を、小僧都(しょうそうず)としました。
 この日、 更に佐官(さかん)に二僧を加えました。 その四佐官制は、この時から始まりました。
 この年は、太歳癸酉(みづのととり)でした。


まとめ
 二年条の文章にはいくつかの混乱が見られ、事象を正確に把握するためには細密な読み取りを要した。 さらに、書紀古訓の時代から江戸時代までにいくつかの点に誤解による作為が見られたので、その除去に努めた。 その過程で、今回も『三国史記』や〈姓氏家系大辞典〉などを参照することになった。
 さて、勅命により動員された書生が大量の経典を書写した。その経典を受け取るために、川原寺まで諸寺から多くの僧が訪れたことだろう。持ち帰ったあちこちの寺から、読経が聞こえる様が想像される。 また種々くさぐさの伎楽儛のメンバーは、その演奏を外国の賓客に披露するために難波京に向かう。それらの風景には解放感と明るさが感じられる。
 思い返せば〈天智〉朝では、朝鮮式山城築城や大津京の造営のために重税を課され、労務に駆り出された人民には不満が募り雰囲気は暗かった。 それから一転、〈天武〉朝では、社寺の振興を始めとして文化的で豊かな国の姿を描こうとしたことが感じられる。
 対新羅政策については、軍事的に身構える緊張から転じて積極的に交流を進める策に切り替えたようである。 ただし、これらはまだ直感であって、この感じ方が確かかどうかを〈天武〉紀を読み進める中で確かめていきたい。



2025.02.18(tue) [29-02] 天武天皇下2 

26目次 【三年】
《對馬國司言銀始出于當國》
三年春正月辛亥朔庚申。
百濟王昌成薨。贈小紫位。
百済王…〈北野本〔以下北〕百-クタラノコキシシヤウオホキミ セイ ミウセヌ小紫位
〈内閣文庫本〔以下閣〕百濟オホキニ贈此小紫位
〈兼右本〉百濟オホキミ○小-イナオフテタマフ紫位
小紫冠二十六階中第六位。
三年(みとせ)春正月(むつき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として庚申(かのえさる)〔十日〕
百済(くたら)の王(こにきし)昌成(しやうせい)薨(こうず、みまかる)。小紫(せうし)の位(くらゐ)を贈(おく)りたまふ。
二月辛巳朔戊申。
紀臣阿閉麻呂卒。
天皇大悲之、
以勞壬申年之役贈大紫位。
労壬申年之役…〈北〉。 〈閣〉イ ヲ壬申年之 ニシテ
大紫冠二十六階中第五位。
二月辛巳朔戊申〔二十八日〕
紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)卒(そつす、みうせぬ)。
天皇(すめらみこと)大(はなはだ)悲之(かなしびまふ)、
壬申(じむしん、みづのえさる)の年之(の)役(えたち)が労(いたはり)を以ちて大紫(だいし)の位(くらゐ)を贈りたまふ。
三月庚戌朔丙辰。
對馬國司守忍海造大國言。
「銀始出于當國」、
卽貢上。
対馬国…〈北〉對馬國司守ツシマノクニノ ツカサノカミ忍海ヲシウミノミヤツコ大國 ヲホクニ貢-
〈閣〉 テ出于當- コノ。 〈兼右本〉[テ] タリ レル[ニ]即貢- レリ
三月(やよひ)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として丙辰(ひのえたつ)〔二十八日〕
対馬国(つしまのくに)の司(つかさ)の守(かみ)忍海造(おしのみのみやつこ)大国(おほくに)言(まを)さく。
「銀(しろかね)始(はじ)めて[于]当国(やつこのくに)に出(い)でてあり」とまをして、
即(すなはち)貢上(たてまつる)。
由是、大國授小錦下位。
凡銀有倭國、初出于此時。
故、悉奉諸神祗、
亦周賜小錦以上大夫等。
授小錦下位…〈北〉小錦下位𡖋アマ■シ。 〈閣〉 ノ■ コトハ
〈兼右本〉 シ以上○夫大- - ニイ乍ア [切] ヨリ以-上大-夫等[ニ][句]
是(こ)に由(よ)りて、大国(おほくに)に小錦下(せうきむげ)の位(くらゐ)を授(さづ)く。
凡(おほよそ)銀(しろかね)の倭国(やまとのくに)に有(あ)るは、初めて[于]此(この)時に出(い)づ。
故(かれ)、悉(ことごと)に諸(もろもろの)神(あまつかみ)祗(くにつかみ)に奉(たてまつ)る、
亦(また)周(あまねく)小錦(せうきむ)より以上(かみつかた)の大夫(まへつきみ)等(たち)に賜(たま)ふ。
秋八月戊寅朔庚辰。
遣忍壁皇子於石上神宮、
以膏油瑩神寶。
忍壁皇子…〈北〉忍壁/草私皇子膏油カウ ユ神-寶。 〈釈紀〉膏油カウ ユ私記曰音読
〈兼右本〉ミ シム
みがく…[他]カ四 磨く。
かむみや…[名] 神のいる宮。
…[名] 脂肪。化粧用のあぶら。ねりぐすり。
秋八月(はつき)戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として庚辰(かのえたつ)〔三日〕
忍壁(おさかべ)の皇子(みこ)を[於]石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に遣(まだ)して、
膏油(あぶら、こうゆ)を以ちて神宝(かむたから)を瑩(みが)かしむ。
卽日。
勅曰
「元來諸家貯於神府寶物、
今皆還其子孫。」
元来…〈北〉 ハシ來諸 ノ ツメル神-府ホクラ ニ ノ子孫。 〈兼右本〉ハシメ ヨリ
即(この)日。
勅(みことのり)してのたまはく
「元来(もとより)諸(もろもろの)家(いへ)の[於]神府(ほくら)に貯(あづか)れる宝物(たからもの)は、
今(いま)皆(ことごとく)其の子孫(あなすゑ)に還(かへ)せ。」とのたまふ。
冬十月丁丑朔乙酉。
大來皇女、
自泊瀬齋宮向伊勢神宮。
大来皇女…〈閣〉大来皇子。 〈兼右本〉齋-イミノイハイ[切]マウテ玉フマウツ
冬十月(かむなづき)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)として乙酉(きのととり)〔九日〕
大来(おほく)の皇女(ひめみこ)、
泊瀬(はつせ)の斎宮(いみみや)自(よ)り伊勢(いせ)の神宮(かむみや)に向(まゐで)ます。
《百済王昌成》
百済王昌成 百済王禅広(善光)の子。
 次は、〈続紀〉百済王敬福薨〔昌成の孫〕の記事。
〈続紀〉天平神護二年〔766〕六月壬子
 刑部卿従三位百済王敬福薨。
 其先者、出百済国義慈王。高市岡本宮馭宇天皇御世。
義慈王遣其子豊璋王及禅広王入侍。
 至※)于後岡本朝廷。義慈王兵敗-降唐。其臣佐平福信、剋復社稷
遠迎豊璋。紹-興絶統。豊璋纂基之後。以譛横-殺福信
 唐兵聞之、復攻州柔。豊璋与我救兵拒之。
救軍不利。豊璋駕船、遁于高麗
 禅広因不国。藤原朝廷賜号曰百済王。卒贈正広参
 子百済王昌成。幼年随父帰朝。先父而卒。飛鳥浄御原御世、贈小紫
 子郎虞。奈良朝廷従四位下摂津亮。敬福者、即其第三子也。…薨時、年六十九。

〔 その先は百済国義慈王より出る。高市岡本宮馭宇天皇〈舒明〉の御世〔三年〕、義慈王はその子豊璋王と禅広王を遣して倭に来朝。
 後岡本朝廷〈斉明〉に至り、義慈王は唐に敗北して投降。臣佐平福信は社稷〔国家〕を再興しようとして豊璋を迎えた。豊璋即位後、偽りを信じて福信を殺す
 唐兵はそれを聞き、再び州柔を攻め、豊璋と倭が送った救兵は抗戦するが救軍不利、豊璋は船に乗り高麗に逃げた。
 禅広はよって百済に帰らず、藤原朝廷〈持統〉は百済王の号を賜る。卒して正広参位を贈る。
 子の百済王昌成は幼くして父に連れられ倭に来朝したが、父に先んじて卒した。飛鳥浄御原〈天武〉の御世、小紫を贈る。
 昌成の子郎虞は奈良朝廷で従四位下、摂津職亮〔次官〕。敬福はその第三子。薨じた時は六十九歳。〕
※)…諸本にはが見える。ここでは文脈から「」とする。
 すなわち、〈舒明〉朝で豊璋禅広王が倭国に入ったが、そのときに禅広は幼子昌成を連れてきた。
 氏号「百済王」は〈持統〉朝で授かったというから、ここの「百済王昌成」は遡及である。
《紀臣阿閉麻呂》
紀臣阿閉麻呂  〈壬申年〉七月二日、和蹔から東道軍を率いて出発した。
《対馬国司守》
 対馬国は、後には「対馬」と呼ばれる(〈天智〉(3)《対馬国》項参照)。
 〈釈紀〉文武二年〔698〕十二月辛卯「対馬嶋冶金鉱」。大宝元年三月〔701〕甲午。対馬嶋貢金。建元為大宝元年〔関連事項:下述
 このように〈釈紀〉では、すべて「対馬」。また国司にあたるのは「対馬嶋司」である。 (カミ)については、延暦十年〔791〕正月癸酉「対馬守正六位上津連吉道」、 『日本三代実録』巻17-貞観12年三月十六日戊辰「従五位下行対馬嶋守小野朝臣春風」となっている。
《忍海造大国》
忍海造大国  〈姓氏家系大辞典〉「忍海 オシノミ:大和国忍海郡名を負へる氏なり」、 「対馬の忍海造:大同類聚方※1)に「対馬国忍海造大国」と云ふ人見ゆ。大和より移りしならん」。 忍海の訓み「オシノミ」は第212回【忍海】項。〈天武〉十二年に姓。 大国はここだけ。
※1)『日本医学叢書』〔呉秀三;金港堂書籍〕に収録。ただし「対馬国忍海造大国」は見いだせない。おそらく誤り。
《銀有倭国》
 対馬鉱山については、対馬市公式ページ:『下原・床谷地区地域づくり計画』〔おそらく2015年〕 に「東邦亜鉛対州鉱山跡:対州鉱山は、古代の国営銀山、藩営銀山と二度の輝かしい時代を歴史に遺している」とある。
 その文中の「古代の国営銀山」については、次の記録が見える。
  『三代実録』清和天皇貞観七年〔864〕八月十五日癸亥
大宰府言。対馬嶋銀穴在下県郡高山底穿-鑿巌堀入卌許丈。白昼執炬而得入。 頃年以来処々崩塞屡費人功而去夏霖雨穴底水湛。其功力非司私輙穿開延暦十五年例彼嶋例大豆百斛并租地子穀百斛且宛其䉼堀開。詔許之。 大宰府言(まう)さく「対馬嶋の銀(しろかね)が穴、下県郡に在り。高山の底自(よ)り巌(いはほ)を穿鑿(うが)ちて堀り入ること四十丈〔120m〕許(ばかり)、白昼炬(たひ)を執りて得入る。 頃(このごろ)の年より以来(こしかた)処々(ところどころ)崩れ塞ぎて屡(しば)人の功(いさを)を費(つひや)す。去(こぞ)の夏霖雨(ながめ)ふり穴の底に水湛(たま)れり。其の力の功(いさを)は司(つかさ)の私に輙(たやす)く穿ち開くこと堪(たふる)可(べ)きに非ず。 延暦十五年の例(あと)に准(なぞら)へて彼の嶋の例(あと)を以て、大豆を挙げて百斛を遺(のこ)して租・地子の穀百斛を并(なら)びに且(また)其の料(かて)に宛てて堀り開か令(し)めたまへ」とまうす。詔して之を許す。
〔 対馬下県郡の銀鉱は近年しばしば崩落し労力を費やして復旧してきたが、昨夏の長雨で水がたまり、がんばっても大宰府の裁量では開削が不可能となった。 よって、延暦十五年のこの島の前例により、大豆百斛を手元に残し、併せて祖と地子〔公田で余った分を貸し出し、収穫物から取る使用料〕から穀百斛を掘削料に宛てさせてほしいと要請し、許可された。〕
 この記録によって、平安時代に対馬から銀が産出されていたことが実証される。
 なお、さらに対馬から金が産出したことによって、「大宝」改元に至った。ところが金の発見は偽りであった。 興味深く、また下述する大伴宿祢御行も絡むので、その部分を精読する。
 〈続紀〉文武二年〔698〕十二月辛卯
令対馬嶋冶金鉱 対馬嶋をして金(くがね)の鉱(あらかね)を冶(ふ)かしむ。
 〈続紀〉大宝元年〔701〕三月甲午
対馬嶋貢金。建元為大宝元年対馬嶋、金(くがね)を貢(たてまつ)る。元(はじめ)を建てて大宝元年と為(な)す。
 〈続紀〉大宝元年〔701〕八月丁未
先是。遣大倭国忍海郡人三田首五瀬於対馬嶋。冶-成黄金。 至是詔。授五瀬正六位上賜封五十戸田十町并絁綿布鍬。仍免雑戸之名※1)。 対馬嶋司及郡司主典已上進位一階。其出金郡司者二階。 獲金人家部宮道授正八位上并賜絁綿布鍬。復其戸終身。百姓三年。 又贈右大臣※2)大伴宿祢御行、首遣五瀬冶金。因賜大臣子封百戸田卌町。 【注。年代暦曰。於後五瀬之詐欺発露。知贈右大臣為五瀬上レ誤也。】 是の先、大倭国の忍海郡の人三田首(みたのおびと)五瀬(いつせ)を対馬の嶋に遣(つかは)して黄金(くがね)を冶成(ふきな)さしむ。 是に至りて詔たまひて、五瀬に正六位上を授けて封(ふこ)五十戸田十町并(ならび)に絁(あしぎぬ)綿布鍬を賜ふ。仍(よ)りて雑戸の名を免(のぞ)く。 対馬の嶋の司(つかさ)及び郡(こほり)の司、主典(さくわん)より已上(かみつかた)位(くらゐ)一階(ひとしな)を進む。其の金(くがね)を出でたる郡(こほり)の司は二階(ふたしな)。 金(くがね)を獲たる人、家部(やかべ)宮道(みやぢ)に正八位上を授けて并(ならび)に絁綿布鍬を賜ふ。其の戸(こ)は身を終へるまで百姓は三年を復(かへ)す。 又贈(ぞう)右大臣大伴の宿祢御行、首(はじめ)に五瀬を遣はして金(くがね)を冶(ふ)かしむ。因(よ)りて大臣の子に封(ふこ)百戸田四十町を賜ふ。 【注(しる)す。年代暦に曰ふ。後に五瀬の詐欺(あざむきたること)発露(あらは)る。贈右大臣の五瀬の為に所誤(あやまたれること)を知る。】
※1)雑戸(ぞうこ)は公民よりも地位が低い。賤民資料[35]に近いが、若干の違いがある。次第に公民化されたと考えられている。
※2)大伴宿祢御行は、五瀬を派遣した当時は大納言。薨じて贈右大臣を授かった(下述)。
〔 以前に三田首五瀬を対馬に遣わして黄金を製錬させた。よって、五瀬、島司、郡司、発見者らに恩賞を与えた。 また大伴宿祢御行は、生前に五瀬を対馬冶金に遣わした功により、遺児に恩賞を与えた。 注:『年代暦』によれば、後に五瀬の詐欺により大伴宿祢御行を誤らせたことが判明した。〕
 すなわち、金産出の報告は虚偽であった。かといって改元が取り消されることはなかった。既に国家全体がそれで動いているから、今更無理だということであろう。
 サイト主は一瞬対馬から金も出たのかと思ったが、よく調べてみるとそれは幻であった。
《倭国》
 ここの「倭国」は律令国の大和国ではなく、明らかに国家「日本国」である。 国号「日本」は〈推古〉十三年日本国天皇」、 〈天智〉二年日本船師」など頻繁に使われているので、ここでは表記を直すべきところを見落としたと見られる。
《遣忍壁皇子
忍壁皇子 刑部親王とも。〈天武〉の皇子。母は宍人臣大麻呂の女𣝅媛娘。
《石上神宮》
 石上神宮は、物部氏がかつて武器の貯蔵保管を担う一族であったことを、色濃く反映する神宮である (第116回【石上神宮】項、 資料[37])。
《膏油瑩神宝》
 膏油を付けた布で神宝を磨き上げて光り輝かせる。石上神宮の神宝の多くは太刀が占めたと考えられるので、あるいはその手入れか。 所蔵庫や本殿も磨かれたであろうから、雰囲気は明るくなったことであろう。
《神府》
 神府には「」がつくが、〈続紀〉や〈延喜式〉には見えないので官庁の名ではないだろう。
 古語拾遺(資料[25])には「三蔵大蔵内蔵斎蔵」が出てくるが、このうち斎蔵が該当するようにも思われる。
 〈垂仁〉紀八十八年七月に、 但馬国にあった神宝をすべて召し上げようとしたときの話が載る。 その神宝は、かつて新羅王子天日槍が来た時に携えてきたもので、その曽孫の清彦は数々の神宝のうち小刀だけを惜しみ衣に隠して身に着けていた。 しかし天皇に酒を注いだときにちらりとのぞき、それは何だと聞かれた清彦はもう隠せないと思い「神宝のひとつです」と白状し、結局これも献上した。 それらの神宝は神府に蔵(おさ)めたと書かれる。
 「元来諸家貯於神府宝物今皆還其子孫」とは、かつて清彦から召し上げたような神宝を、子孫に返還せよということである。 書紀において神府が、この二か所のみに出てくるのは偶然ではないだろう。
 〈時代別上代〉は、神宝の倉であるホクラは同時に神の座であり、よってホコラ(祠)に転ずると述べる。
 子孫に神宝を返還するというこの施策は、やはり国中に明るい空気を広げたことであろう。
《大来皇女》
大来皇女  去る二年四月泊瀬斎宮に入って潔身していた。
《伊勢神宮》
 伊勢神宮天照大神宮の別名であったことが分かる。 ここで神功皇后紀を見ると、《壬申以前の天照大神》項で見たように天照大神の和魂、荒魂は摂津方面に祀られたたが、 「五十鈴宮〔確実に伊勢神宮であろう〕が一か所だけでてくる。
 神功皇后紀〈仲哀〉九年段に、 神功皇后が「斎宮みづから なりたまふ神主」とあり、斎王のイメージと重ね合わされる。 この「斎宮」は、福岡県古賀市小山田斎宮と伝わる。
 そして神に「名前をお知らせください」とお願いしたところ、七日七夜を経た後に答えがあり、数柱の神が挙げられた。 その一柱目が「神風伊勢国之百伝度逢県之拆鈴五十鈴宮所居神名撞賢木厳之御魂天疎向津媛命神風(かむかぜ)伊勢の国の、百伝(ももつたふ)渡会の県(あがた)の、拆鈴(さくすず)五十鈴の宮にいらっしゃる神、 御名は撞賢木つきさかき厳之御魂いつのみたま天疎あまさかる向津媛むかつひめの命みことであった 〔下線は枕詞〕なお、「向津媛」には神功皇后の三韓親征を後押しする意が見える。 理屈の上ではこの神は、天照大神のもつ複数の姿のひとつということになる。
《大意》
 三年正月十日、 百済の王(こんきし)昌成(しょうせい)が薨じ、贈小紫位(ぞうしょうしい)とされました。
 二月二十八日、 紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)が卒しました。 天皇(すめらみこと)は大いに悲しまれ、 壬申年の役の労により贈大紫(だいし)位とされました。
 三月二十八日、 対馬国司の守(かみ)忍海造(おしのみのみやつこ)大国(おおくに)は、 「銀が当国で初めて出ました」と言上し、 献上しました。
 これにより、大国に小錦下(しょうきんげ)位を授けました。 およそ銀が日本国で出るのは、この時が初めてです。 よって、悉く諸々の神祗に奉りました。 また、遍(あまね)く小錦以上の群卿に賜りました。
 八月三日、 忍壁(おさかべ)の皇子(みこ)を石上(いそのかみ)神宮に遣わして、 膏油によって神宝を瑩(みが)かせました。
 この日、 勅があり 「元来諸家のものだが神府(ほくら)に預かった宝物は、 今皆にその子孫に返せ。」と命じました。
 十月九日、 大来皇女は、 泊瀬(はつせ)の斎宮から伊勢神宮に向かいました。


27目次 【四年正月】
《墮羅女百濟王善光等珍異等物進》
四年春正月丙午朔。
大學寮諸學生
陰陽寮
外藥寮
及舍衞女
墮羅女
百濟王善光
新羅仕丁等、
捧藥及珍異等物進。
大学寮…〈北〉大-學ヲホツカヒノ諸學生モロ\/ノフンワラハ 陰-陽-寮 ヲン ミヤウ リウ トノ クスリノツカサ舎衞女シヤヱノ ヲンナラノヲンナ百濟クタラノコキシ善光センクワウ 新-羅 シラキノ ツカヒヨホロ等 捧クスリヲヨヒ珍異メツラシキ等物モノトモヲ ル
〈閣〉學生フムワラハフムヤワラハ。 〈兼右本〉百-濟オ 
大学寮…読み方はダイガクレウか(資料[24])。
四年(よとせ)春正月(むつき)丙午(ひのえうま)の朔(つきたち)。
大学寮(だいがくのつかさ)の諸(もろもろの)学生(ふみやわらは)、
陰陽寮(おむやうのつかさ)、
外薬寮(くすりのつかさ)、
及びに舎衛女(しやゑめ)、
墮羅女(だらめ)、
百済王(くたらのこにきし)善光(ぜんくわう)、
新羅(しらき)の仕丁(つかへのよほろ)等(たち)、
薬(くすり)及びに珍異等物(めづらしきくさぐさのもの)を捧(ささ)げて進(たてまつ)る。
丁未。
皇子以下百寮諸人、
拜朝。
丁未(ひととひつじ)〔二日〕
皇子(みこ)より以下(しもつかた)百寮(もものつかさ)の諸人(もろもろのひと)、
朝(みかど)を拝(をろが)む。
戊申。
百寮諸人初位以上、
進薪。
進薪…〈北〉ミカマキ。 〈釈紀〉初位ウヰカフリミカマキ私記説
戊申(つちのえさる)〔三日〕
百寮(もものつかさ)の諸人(もろもろのひと)の初位(うゐかがふり)より以上(かみつかた)は、
薪(たきぎ、みかまき)を進(たてまつ)る。
庚戌。
始興占星臺。
占星台…〈北〉 ツ占-星ウテナセン セイ タイ。 〈閣〉占◱星◱ウテナ
庚戌(かのえいぬ)〔五日〕
始めて占星台(せんせいのうてな)を興(つく)る。
壬子。
賜宴群臣於朝庭。
賜宴…〈兼右本〉-トヨ 
壬子(みづのえね)〔七日〕
宴(とよのあかり、うたげ)を群臣(まへつきみたち)に[於]朝(みかど)の庭(には)に賜(たま)ふ。
壬戌。
公卿大夫及百寮諸人
初位以上、射于西門庭。
…〈北〉初-位ウヰカフリイクフ。 〈釈紀〉イクフユミニ 記説
壬戌(みづのえいぬ)〔十七日〕
公卿大夫(まへつきみたち)及びに百寮(もものつかさ)の諸人(もろもろのひと)の
初位(うゐのかがふり)より以上(かみつかた)は、[于]西の門(みかど)の庭(には)に射(ゆみいる、いくふ)。
是日。
大倭國貢瑞鶏。
東國貢白鷹。
近江國貢白鵄。
瑞鶏…〈北〉アヤシ トヒ。 〈閣〉アヤシ ヲ
是(この)日。
大倭国(やまとのくに)は瑞鶏(みづとり)を貢(たてまつ)る。
東国(あづまのくに)は白鷹(しろきたか)を貢る。
近江国(ちかつあふみのくに)は白鵄(しろきとび)を貢る。
戊辰。
祭幣諸社。
祭幣…〈北〉-幣諸社モロ\/ノヤシロ イハヒノミテクラタテマツ。 〈閣〉祭- ヲイハヒノ ミテクラ
戊辰(つちのえたつ)〔二十三日〕
諸(もろもろの)社(やしろ)に祭(まつ)り幣(みてぐら)をたてまつる。
《大学寮》
 大学寮は令制の「式部省:大学寮」に繋がる。『令義解』職員令では「-試学生及釈奠」を任とする〔釈奠は孔子とその門人を祀る儀式〕
《陰陽寮》
 陰陽寮は、「中務省:陰陽寮」に繋がる。 『令義解』職員令では「天文暦数風雲気色」となっており、天体観測とそれによる暦の策定、また気象観測を重要な職務とした。 メンバーに含まれる天文博士漏剋博士守辰丁〔漏剋の運用〕が含まれていることがそれを示す。
 ただ、それらの前に「陰陽師〔占筮相地〕が置かれ、天文は自然科学の範疇だが、あくまでも陰陽寮のメインは占いで、そのための材料とされてしまっている。
 陰陽道の出発点は中国の陰陽五行説を受容したところにある。「陰陽」は音読のままで取り入れられ、和読が試みられることはなかったようである。
《外薬寮》
 外薬寮は、「宮内省:典薬寮」に繋がる。
 〈延喜式-宮内省/嘗/大斎〉
凡十二月晦日平旦。輔以上率典薬寮。奏-進年料御薬并人給白散。及殖薬様色目見本司式。 其詞曰。宮内省申典薬寮供奉礼留元日御薬。臘月御薬。人給白散又殖薬様進申。 凡(おほよそ)十二月晦日の平旦〔夜明け〕に、輔(すけ)以上典薬寮を率ゐて年料の御薬并(なら)びに人給(ひとたまひ)〔上から下に給う〕の白散(びやくさん)及び殖薬(しよくやく)の様を奏進(たてまつ)る。色目は本司式を見よ。 其の詞に曰はく。宮内省申さく典薬寮の供に奉(たてまつ)れる元日の御薬、臘月〔=十二月〕の御薬、人給の白散又(また)殖薬の様を進(たてまつる)と申す。
《舎衛女》
舎衛女  白雉五年四月吐火羅国男二人女二人舎衛女一人」、 〈斉明〉五年三月吐火羅人共舎衛婦人」。 《覩貨羅人乾豆波斯達阿》項参照。  【吐火羅国】に出身国の全体像。
 舎衛女Tokhara国から来朝した女性で、舎衛という名前は仏教経典の古代国名に因むとみられる。夫の乾豆波斯達阿(げんづはしだつあ)は本国から使者を連れて来ると言い残して、妻を置いて帰国した。 前後の名前の並びから見て、高貴な夫人に上ったと見られる。中央アジア出身の女性の容姿は目を惹いたであろう。
《墮羅女》
墮羅女  ドヴァーラヴァティー〔概ね現在のタイの領域〕出身と推定される。【吐火羅国】《墮羅缽底国》項。
 舎衛女とは仲がよく、連れ立って訪れたと想像される。
《百済王善光》
百済王善光  〈持統〉五年五年春正月「己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正広肆〔=四〕百済王余禅広。」 七年春正月「乙巳、以正広参贈百済王善光、并賜賻物。」
 《百済王昌成》項の「天平神護二年」紀にあるように善光は百済国義慈王の子で、〈舒明〉朝に来朝した。白村江の役の後も、禅広王が百済に渡ってくるかも知れないと警戒された。 禅広王は倭に留まる。藤原朝廷〔=〈持統〉〕のとき百済王号を賜る。したがって〈天武〉三年の「百済王」は遡及である。
 『旧唐書』巻八十八で劉仁軌は「扶餘勇は扶餘隆の弟で、現在倭国におり、扶餘豊に呼応する〔=叛意がある〕と思われます」 と言って、扶餘勇〔禅広王〕の渡海を警戒していた。
《新羅仕丁》
 仕丁は、一種の税で労役を意味するが、新羅仕丁はそれとは異なり、進んだ技術や知識を伝えた人材であろう。 二年閏六月の使者金承元に同行したと考えられる。
 九年二月「壬申。新羅仕丁八人返于本土、仍垂恩以賜祿有差」とあり、足掛け八年間滞在した。 百済が滅びた今、新羅が人材の供給源となっている。
《捧薬及珍異等物》
 「」は、外薬寮が持参したと考えられる。ただ、善光が百済から伝えた薬を持参した可能性もある。
 総じて即位して最初の正月に、多様な人が祝賀に集まった。さぞや華やいだ雰囲気であったであろう。
《進薪》
 朝廷に参内するにあたって、下位の職官は高価な献上品を持ってこられない。 それでも献上品は〔たきぎ〕でよいから、皆来いと呼びかけたと読み取れる。
 の古訓「ミカマキ」に繋がるのは、〈延喜式-宮内省/嘗/大斎〉の 「凡毎年正月十五日。弁官及式部兵部会集於省。相共検-校諸司所御薪」、 「主殿寮-校御薪数并好悪」とあり、 すなわち進上された「御薪」を正月十五日に点検する。この「御薪」が「ミカマキ」と訓まれていたのであろう。 〈釈紀〉には「私記説」とあるから、日本紀私記がこの呼び名を〈天武〉四年条に遡らせたものと推察される。 なお、ミカマキの語の成り立ちは「御-竃-木」と考えられている。
《東国》
 〈壬申紀〉では尾張、美濃も東国に入れたが、ここではそれよりも東方の国を指すものであろう。 それでも、〈天武〉紀下の時代に国名が不明なほど漠然としていたわけではない。 駿河国上毛野国は既に〈安閑〉二年五月に出てくる。 常陸国〈天智〉十年三月、また〈景行〉紀に「日高見国」。 〈安閑〉元年には「武蔵国造無邪志ムサシ国造・胸刺ムサシ国造であろう〕、 〈壬申紀〉に「甲斐勇者」、〈景行〉紀に「甲斐国」。
 仮に国司の配置が遅れていたにしても、地域名としての「~国」が存在しなかったとは考えられない。 よって、大和国近江国に挟まれたところに「東国」という大きな括りの呼称が入るのは不可解である。書紀が参照した複数の古記録に書かれていたものを、そのまま並べたということであろうか。
《占星台》

瞻星台せんせいだい〔韓国慶尚北道慶州市仁旺洞839-1〕
 『三国遺事』巻第一「善徳王知幾三事」項に「是王代。鍊石築瞻星台」。 善德女王〔そんどく女王〕は、在位632~647年。
 名前から見て天体観測施設であろうが、実際の使用法は不明。慶北の「瞻星台」に比定されている。
 占星台は、天体観測の施設および運営組織と思われる。 何らかの観測機器が作られた可能性については、中国では元代に郭守敬に天文儀器を製作させたという(資料[70]《元史における觜の宿度》)。 唐代にどの程度の観測機器があったかは分からないが、日本でも技術者を招いてある程度の機構を移入設置した可能性はあろう。
 新羅には7世紀前半と見られる「瞻星台」()があるので、上記新羅仕丁はその技術者で、来朝して占星台を建てた可能性を考えてもよいかも知れない。
 ここでは、その〔漢音セム、呉音ゼム〕〔漢音・呉音セム〕を宛てた可能性は高い。 ここでも陰陽寮と同様に、高度な科学である天文学や暦法を占いの手段に貶めたことが名称に表れている。 占いの種類として〈時代別城代〉に載るのは、アウラ・イシウラ・イヒウラ・ミチユキウラ・ミナウラ・ヤウラ・ユフウラで、 それぞれ足、石、飯、往来する人の言葉、水や川、矢、夕方の辻を占いの手段とする。だが、上代語にホシウラは見えない。
 星占いは黄道十二星座中の惑星の運動による占いだから、系統的な天体観測が確立した後に生まれたと考えられる。 占星は、暦法や天文学とともにはじめて入ってきたものだから音読みなのだろう。
《瑞鶏/白鷹/白鵄》
 瑞鶏白鷹白鵄のいずれも〈延喜式-治部省/祥瑞〉の「祥瑞」リストには含まれない。 ただ「白-」は白狼白鹿白狐白鳩白烏白雉白雀など数多い。白鷹白鵄はその類であろう。
 「瑞-」はその分注の中に瑞獣瑞器瑞草瑞宝瑞木の語が見える。 どうやら〈延喜式〉が用いた資料に、書紀はなかったようである。
 今度は祥瑞が並べられた。即位翌年の正月を迎え、慶賀は盛沢山である。
《大意》
 四年正月朔日、 大学寮の諸学生、 陰陽寮(おんみょうりょう)、 外薬寮(くすりのつかさ)、 及び舎衛女(しゃえめ)、 墮羅女(だらめ)、 百済王(くたらのこんきし)善光(ぜんこう)、 新羅の仕丁は、 薬と珍異のさまざまな物を捧げて進上しました。
 二日、 皇子以下、百寮の諸々の人まで、 拝朝しました。
 三日、 百寮の諸々の人の初位以上は、 薪(たきぎ)を進上しました。
 五日、 初めて占星台を作りました。
 七日、 群臣を集めて宴を宮庭で開催しました。
 十七日、 公卿大夫、及び百寮の諸々の人の 初位以上は、西の門の庭で射技しました。
 同じ日に、 大倭国(おおやまとのくに)は瑞鶏(みずとり)を献上しました。 東(あずま)の国は白鷹(しらたか)を献上しました。 近江国は白鵄(しろとび)を献上しました。
 二十三日、 諸社を祭り、幣帛(みてぐら)を奉納しました。


28目次 【四年二月~三月】
《十市皇女阿閉皇女參赴於伊勢神宮》
二月乙亥朔癸未。
勅大倭
河內
攝津
山背
播磨
淡路
丹波
但馬
近江
若狹
伊勢
美濃
尾張等國曰
「選所部百姓之能歌男女
及侏儒伎人而貢上。」
所部百姓…〈北〉所-部/クニウチノクニノウチ百姓侏儒ヒキト 伎-人 ワヒト
〈閣〉ウタウタフ男女
〈倭名類聚抄〉大和【於保夜万止】河内【加不知】摂津山城【夜万之呂】播磨【波里万】淡路【阿波知】丹波【太邇波】但馬【太知万】近江【知加津阿不三】若狭【和加佐】伊勢【以世】美濃尾張【乎波里】
『仮名日本紀』つのくに〔攝津〕たんば〔丹波〕あふみ〔近江〕所部くにのうちの百姓
二月(きさらぎ)乙亥(きのとゐ)を朔(つきたち)として癸未(みづのとひつじ)〔九日〕。 勅(みことのり)たまひて大倭(おほやまと)
河内(かふち)
摂津(つ、せふつ)
山背(やましろ)
播磨(はりま)
淡路(あはち)
丹波(たには)
但馬(たぢま)
近江(ちかつあふみ)
若狭(わかさ)
伊勢(いせ)
美濃(みの)
尾張(をはり)等(ら)の国に
曰(のたまはく)「所部(べにある)百姓(たみ)之(の)能(よ)く歌(うたうた)ふ男(をのこ)女(おみな) 及びに侏儒(ひきひと)伎人(わざひと)を選(えら)ひて[而]貢上(たてまつ)れ。」とのたまふ。
丁亥。
十市皇女
阿閉皇女、
參赴於伊勢神宮。
参赴…〈北〉-赴 マウテマス
丁亥(ひのとゐ)〔十三日〕
十市(とをち)の皇女(みこ)
阿閉(あへ)の皇女(みこ)、
[於]伊勢(いせ)の神宮(かむみや)に参(まゐ)赴(おもぶ)きます。
己丑。
詔曰
「甲子年諸氏被給部曲者、
自今以後、皆除之。
詔曰…〈北〉 テ部-曲者 カキノタミハヤメヨ。 〈閣〉ヤメテ
己丑(つちのとうし)〔十五日〕
詔(みことのり)曰(のたまはく)
「甲子(かふし、きのえね)の年に諸(もろもろの)氏(うぢ)に被給(たまはりてある)部曲(かきべ)者(は)、
今自(よ)り以後(のち)、皆(みな)除之(のぞ)け。
又親王諸王及諸臣幷諸寺等所賜
山澤嶋浦林野陂池、
前後並除焉。」
親王諸王…〈閣〉 ミコ ノヲホキミ
陂池…〈北〉陂-池 イケ 前- ヘ ロ/除
『仮名日本紀』山澤しまうら嶋浦 林野陂はやしのつゝみいけ
…[名] 堤。また堤で囲まれた池。陂池はため池。
又(また)親王(みこ)諸王(もろもろのおほきみ)及びに諸臣(もろもろのおみ)并(あは)せて諸寺(もろもろのてら)等(たち)の所賜(たまはりてある)
山(やま)沢(さは)嶋(しま)浦(うら)林(はやし)野(の)陂(つつみ)池(いけ)の、
前(まへ)後(しり)を並(ならび)に除(のぞ)け[焉]。」とのたまふ。
癸巳。
詔曰
「群臣百寮及天下人民
莫作諸惡。
若有犯者、隨事罪之。」
莫作諸悪… 〈北〉若有犯者隨事罪之
〈閣〉 ノ悪 アシキコトヲ マゝテ
癸巳(みづのとみ)〔十九日〕
詔(みことのり)曰(のりたまはく)
「群臣(まへつきみたち)百寮(ももつかさ)及びに天下(あめのした)の人民(たみ、おほみたから)
諸(もろもろの)悪(あしきこと)を莫(な)作(な)しそ。
若(もし)犯(をかすこと)有ら者(ば)、事(こと)の隨(まにま)に罪之(つみなへ)。」とのりたまふ。
丁酉。
天皇幸於高安城。
丁酉(ひのととり)〔二十三日〕
天皇(すめらみこと)於高安(たかやす)の城(き)に幸(いでま)す。
是月。
新羅、
遣王子忠元
大監級飡金比蘇
大監奈末金天沖
第監大麻朴武摩
第監大舍金洛水等、
進調。
王子忠元…〈北〉王子セシム 忠元チウ クヱン タイカン キフ サム コン  タイ カンコン テン  チウ  /テイ タイ  カンタイモク 第- テイ カン大-コン ラク スイ-調 ル
〈閣〉忠元〟大〟監 ソ 大〟監◱奈◱未金◳天 第監 第監 ダ金◳洛◲水◰
〈釈紀〉コムテンチウタイ/テイカンダイもくテイカン
是(この)月。
新羅(しらき)、
王子(わうし、せしむ)忠元(ちうぐゑん)
大監(だいかむ)級飡(きふさん)金(こむ)比蘇(ひそ)
大監(だいかむ)奈末(なま)金(こむ)天沖(てんちう)
第監(ていかむ)大麻(たいま)朴(もく)武摩(むま)
第監(ていかむ)大舎(たさ)金(こむ)洛水(らくすい)等(ら)を遣(まだ)して、
進調(みつきたてまつる)。
其送使
奈末金風那
奈末金孝福、
送王子忠元於筑紫。
送使…〈北〉送-遂イ使コン  コン カウ フク
〈閣〉遂使金風◱那◱金孝◱福◲。 〈釈紀〉コンコムカウフク
其(その)送使(おくりつかひ)
奈末(なま)金(こむ)風那(ふな)
奈末(なま)金(こむ)孝福(かうふく)、
王子忠元(ちうぐゑん)を[於]筑紫(つくし)に送る。
三月乙巳朔丙午。
土左大神以神刀一口
進于天皇。
神刀…〈北〉神刀アタアヤシキタチ一-口ヒトツ。 〈釈紀〉神刀 アヤシキタチ 私記説
土左…〈倭名類聚抄〉「南海国:土佐〔和訓なし〕
三月(やよひ)乙巳(きのとみ)を朔(つきたち)として丙午(ひのえうま)〔二日〕
土左(とさ)の大神(おほかみ)神(くすしき)刀(たち)一口(ひとつ)を以ちて
[于]天皇(すめらみこと)に進(たてまつ)る。
戊午。
饗金風那等於筑紫、
卽自筑紫歸之。
戊午(つちのえうま)〔十四日〕
金(こむ)風那(ふな)等(ら)を[於]筑紫(つくし)に饗(あへ)す。
即(すなはち)筑紫(つくし)自(よ)り帰之(まかりかへる)。
庚申。
諸王四位栗隈王
爲兵政官長。
小錦上大伴連御行
爲大輔。
諸王四位…〈北〉諸王ヲホキミタチノヨツノ/クラヰ西/栗-隈王/ニシクマノ王爲不讀兵-政官長ツハモノゝツカサノカミ大-伴 トモノ ムラシ御行 ミユキ大輔タイ フ
〈閣〉ツハモノゝ-官。 〈釈紀〉其兵其字不讀也政官。 〈兼右本〉兵-政官
小錦上冠二十六階中第十位。
庚申(かのえさる)〔十六日〕
諸王(もろもろのおほきみ)の四位(しゐ)栗隈(くりくま)の王(おほきみ)を
兵政官(つはもののつかさ)が長(かみ)と為(な)す。
小錦上(せうきむじやう)大伴連(おほとものむらじ)御行(みゆき)を
大輔(おほきすけ)と為す。
是月。
高麗遣
大兄富干
大兄多武等
朝貢。
新羅遣
級飡朴勤修
大奈末金美賀
進調。
大兄…〈北〉タイキヤウクヰヱウカン多武タムキフ○朴飡イ ホク コンシユ大奈 シユ タイコン調
〈閣〉大◳兄◱富◰干
是(この)月。
高麗(こま)
大兄(だいくゐやう)富干(ふかん)
大兄(だいくゐやう)多武(たむ)等(ら)を遣(まだ)して
朝貢(みかどををろがみみつきたてまつ)らしむ。
新羅(しらき)
級飡(きふさん)朴(もく)勤修(ごんしゆ)
大奈末(だいなま)金(こむ)美賀(みか)を遣(まだ)して
進調(みつきたてまつ)らしむ。
《摂津》
 もともとの「」に、摂津職が置かれ、副都となった。最初に確認できるのが〈天武〉六年十月〔677〕癸卯「内大錦下丹比公麻呂為摂津職大夫」である()。 制度としての摂津職の制定と同時かどうかは、やや不確定である。もし同時なら、四年の「摂津国」は遡及である。 〈続紀〉では「河内摂津山背伊豆甲斐五国」(和銅二年〔709〕五月乙亥)など、他の国と特に区別することなく「摂津国」を用いている。
 の漢音・呉音セフは、漢字の発音[sep][p]を、〔古い発音はpu〕で表したことによる。習慣音セッはpが促音に転じたもの。 摂津セッツと読まれるようになったのは事実だが、書紀古写本には訓点が全くつかず当時どう発音されたかはなかなか見いだせない。 もし促音「セッツ」なら平安時代はは表記されないので「せつ」と書かれたはずである。
 可能性としては、「摂津」と書くようになっても、しばらくツノクニと呼ばれていたことも考えられる〔実際に『仮名日本紀』ではそうなっている〕。 一方〈倭名類聚抄〉には訓を付さないので音読み〔正確には音訓交ぜ書き〕も早くからあったと思われる。
《所部百姓》
 所部百姓は、「部に属する百姓」の意味であろう。 「所部」は、〈汉典〉に「所部:所統率的部隊」とあるが、これは軍隊用語である。 ここでは部に属する民の意味であろう。
 職業部だとすれば、巫部の神楽などが想像される。 部曲〔臣・連・伴造・国造・村首などが私有する部〕なら、単純にその中から歌や俳優として優れた者を選び出せとなろう。
 狙いとしては、宮廷を中心として歌舞を質量ともに向上させたい。やはり文化振興は〈天武〉朝の基本政策のひとつである。 十一年には、隼人多祢人・掖玖人・阿麻弥人に種々の楽を、朱鳥元年には新羅の客に川原寺伎楽を披露したとあるから、文化水準を見せつけて大国ぶりを誇ろうとする動機は明らかである。
 なお、部曲の私有は改新詔で廃止が方向づけられたが、まだ存在しているようだ。
《親王》
 親王はここが初出。ただし、親王の個人名は「~皇子」のままである〔〈持統〉紀も同じ〕
 固有名詞に使われた初出は〈続紀〉文武四年六月の「刑部親王〔=忍壁皇子〕
《十市皇女/阿閉皇女》
十市皇女  母は額田王(威奈鏡公の女)。
阿閉皇女  〈天智〉天皇の皇女。母は姪娘(蘇我山田石川麻呂大臣の女)。〈文武〉天皇(42代)の母。後に自身が〈元明〉天皇(43代)。
 当然奉斎のためではあるが、むしろ大来皇女を気遣って様子を見に行ったのであろう。
《甲子年諸氏被給部曲》
 直近の甲子年〈天智〉三年〔664〕である。 その年は詔により、氏上を定めることによりの存在を公認して、さらに民部(かきべ)家部(やかべ)の所有を許した。
 の公認は改新詔に逆行する面と、統制下に置く面がある。「天皇命大皇弟」とあったので〈天武〉自らが実行した色合いが強い。 同じ人物が今度はそれをご破算にした。ただし氏上制度に限っては、11年~12年に改めて推進している。
 それでは、甲子年になぜ改新詔から後退させたのであろうか。
 ひとつの考え方としては、朝鮮式山城築城など軍事のために諸氏族の協力を得るため()。
 もう一つの考え方としては、大皇弟がゆくゆく政権争いが起こることを見越して、諸族を味方につけておこうとしたため()。 建前はだとしても、それを利用してちゃっかりを可能にしたとも考え得る。
 いずれにしても、今の情勢ではもう必要ないからご破算にしたわけである。
 経済的には部民から直接徴収する存在ではなくなり、税収組織が公的に割り当てた食封を給わるが、そのものは人材を官に供給する組織として温存する。 氏上は、配下に直接禄を与えることはないが、官組織における昇進を申請して結果的に地位や加増を賜る。この形で支配を維持することになった。本質的に現代の政治集団や企業の派閥と同じである。
《陂池》
 がそれぞれ対になっているから、「陂池」も〔つつみ〕の組として扱った方がよい。 『仮名日本紀』はまさにそうしている。
《前後並》
 さまざまな地形要素を羅列するのは、私有地の広大さを印象付けるから、「前後並」は「以上一切合切」の意味であろう。
《莫作諸悪/隨事罪之》
 世の中の解放ムードにより、犯罪も増えたのかも知れない。
《幸於高安城》
 高安城の用途は、主に〔穀物〕の倉庫となっていた。その視察が考えられる。 また、壬申年に因む場所なので、そこからの眺めはどんなもかと思って見に行ったことも考えられる(〈壬申〉《高安城》項)。
《新羅遣王子忠元》
王子忠元 二月筑紫到着。四月難波着。行事を終え八月二十五日に難波発。同月二十八日に筑紫で饗された朴勤修らとともに帰国か。
大監級飡〔九位〕金比蘇 二月筑紫到着。おそらく王子忠元に同行。
大監奈末〔十一位〕金天沖 同上。
第監大麻〔十位〕朴武摩 同上。
第監大舍〔十二位〕金洛水 同上。
《大監/第監》 2025.3.18.
 『三国史記』新羅本紀/文武王に次の記事がある。
――文武王元年〔661〕六月に、唐は蘇定方に高句麗を攻めさせた。 そして七月十七日に「金庾信」を大将軍として、その配下に大幢将軍(三名)、貴幢摠管(三名)、上州摠管(三名)、下州摠管(三名)、南川州摠管(三名)、首若州摠管(三名)、河西州摠管(二名),眞誓幢摠管(一名),義郞幢摠管(一名)とともに「慰知〔人名〕を「罽衿大監」として進軍させた。 九月十九日には「大王進次熊峴停、集諸摠管大監、親臨誓之〔文武王は熊峴停まで来て諸摠管・大監を集め、自ら誓いに臨んだ〕
 すなわち大監摠管〔=総管〕と同レベルだが監督的な性格を帯びるかと思われる。 このように、大監は軍事に関わる称号と見られる。
 第監は、弟監と同じか。これについては、文武王正月に軍糧を運ぶ途中、二十三日に「渡七重河至䔉壤。貴幢弟監星川、軍師述川等,遇賊兵於梨峴、擊殺之〔七重河を渡り、䔉壤に至る。貴幢弟監の星川、軍師の述川らは梨峴で賊兵に遭い、撃ち殺した〕が見え、やはり軍事行動に付随する称号である。
 新羅本紀:真平王までさかのぼると、「五年春正月。始置船府署、大監、弟監各一員」とあり、大監弟監はその語から想像される如く、もともとは一般的に正副の監督職を意味したと考えられる。
《送使》
奈末〔十一位〕金風那 二月筑紫到着。三月十四日帰国。
奈末〔十一位〕金孝福 二月筑紫到着。おそらく風那に同行。
 今回も、送使筑紫止まりである。筑紫を目的地とする一団が、使者に同行する習慣が定着したか。公益目的も考えられる。
《土左大神》
土佐神社
〔高知県高知市一宮しなね2丁目〕
 斉明七年《朝倉社》項に土左朝倉神社が出てきた。
 ただ、ここでは〈延喜式-神名〉{土佐国/土佐郡/都佐坐神社【大】}か。 土佐国の大社はこれのみである。
 〈釈紀〉に『土左国風土記』逸文が載る。
――「土左国風土記曰。土左郡々家西去四里。有土左国高加茂大社。其神名為一言主尊。其祖未詳。一説曰。大穴六道尊子。味鉏高彦根尊
 〔土左国風土記に曰ふ。土左郡の群家より西に去ること四里。土左国高加茂大社有り。其の神を名づけて一言主ひとことぬしのみことと為す。其の祖(おや)詳かならず。ある説に曰ふ。大穴おほな〔大己貴、大穴牟遅、大国主〕尊の子、あじすきたかひこのみこと
 比定社は土佐神社、祭神は味鋤高彦根神一言主神(公式ページ)。
《栗隈王》
栗隈王 〈天智〉七年七月筑紫率」。 〈壬申〉11筑紫大宰」。 〈壬申〉12近江朝廷からの出兵要請を拒否。 五年六月「四位栗隈王、得病薨」。
《兵政官》
 兵政官」は、令制の兵部省に相当か。その長官は「」、次官は「輔【有大小」(資料[24])。
 〈倭名類聚抄〉「兵部省【都波毛乃々都加佐】」(資料[24])
 栗隈王は、国家防衛の任務を優先して継位争いに与しなかった冷静さが買われたのかも知れない。
《大伴連御行》
大伴連御行  十四年九月辛酉天皇…博戲。…大伴宿祢御行…凡十人賜御衣袴」。〈持統〉二年九月乙丑「大伴宿祢御行、遞進而誄」。 五年正月「乙酉。増封…直大壹…大伴御行宿祢八十戸通前三百戸」。八年正月丙戌「増封人二百戸、通前五百戸、…為氏上」。 十年十月庚寅「仮賜…正広肆大納言…大伴宿祢御行…〔資人〕八十人」。 〈続紀〉文武二年〔698〕十二月か「金の製錬のため大倭国忍海郡人三田首五瀬於対馬嶋」。 文武四年〔700〕八月丁卯「正広参」。 大宝元年〔701〕正月己丑「大納言正広参大伴宿祢御行薨。…贈正広弐右大臣。御行、難破朝右大臣大紫長徳大化五年四月甲午之子也。七月壬辰先朝論功行封時…大伴連御行…一百戸。…居中第。宜依令四分之一伝子」。
 大伴連御行の生涯を見ると壬申の功が目につくが、〈壬申紀〉には全く姿が見えない。 これは、〈壬申紀〉の素材が、専ら吹負が自ら残した記録に偏っていた故であろう。実際には御行にも、相当程度の活躍があったと見るべきである。
《高麗朝貢》
大兄〔大奈麻〔十位〕
 に相当か
富干 八月己亥「於筑紫、賜禄有差」。そしておそらく帰国。
大兄多武 同上。
 ここでは、五部が示されていない。
《新羅進調》
級飡〔九位〕朴勤修 同上。
大奈末〔十位〕金美賀 同上。
 ここでも新羅の使人は、高麗の使者を監督したことであろう。
《大意》
 二月九日、 勅され大倭(おおやまと)、 河内、 摂津、 山背(やましろ)、 播磨、 淡路、 丹波、 但馬、 近江、 若狭、 伊勢、 美濃、 尾張らの国に 「部に属する民の歌がうたえる男女、 及び侏儒(しゅじゅ)芸能の人を選び献上せよ」と命じました。
 十三日、 十市(とおち)の皇女(ひめみこ)。 阿閉(あへ)の皇女(ひめみこ)は、 伊勢神宮に参り赴きました。
 十五日、 詔あり。 「甲子年に諸氏に賜った部曲(かきべ)は、 今後は、皆やめよ。
 また、親王、諸王、及び諸臣、併せて諸寺らの賜った 山、沢、島、浦、林、野、堤、池、 その前後をやめよ。」と。
 十九日、 詔あり。 「群臣、百寮及び天下の人民は、 諸々の悪事をはたらいてはならない。 もし犯すことが有れば、ことに従って罪とせよ。」と。
 二十三日、 天皇(すめらみこと)は高安城(たかやすのき)に行幸されました。
 この月に、 新羅は、 王子(せしむ)忠元(ちゅうげん)、 大監(だいかん)級飡(きゅうさん)金(こん)比蘇(ひそ)、 大監奈末(なま)金(こん)天沖(てんちゅう)、 第監(ていかん)大麻(たいま)朴(もく)武摩(むま)、 第監(ていかん)大舎(たさ)金(こん)洛水(らくすい)らを遣わして、 進調しました。
 その送使、 奈末(なま)金風那(ふな) 奈末金孝福(こうふく)は、 王子忠元を筑紫まで送りました。
 三月二日、 土左〔=土佐〕の大神は神刀一口を 天皇(すめらみこと)に進上しました。
 十四日、 金風那(ふな)らを筑紫で饗しました。 そして筑紫から帰りました。
 十六日、 諸王四位栗隈の王(おおきみ)を、 兵政官(つはもののつかさ)の長(かみ)としました。 小錦上(しょうきんじょう)大伴連(おおとものむらじ)御行(みゆき)を 大輔(おおきすけ)としました。
 この月、 高麗(こま)は 大兄(だいきょう)富干(ふかん)、 大兄多武(たむ)らを遣わして、 朝貢しました。
 新羅は 級飡朴(もく)勤修(ごんしゅ)、 大奈末(だいなま)金(こん)美賀(みか)を遣わして、 進調しました。


まとめ
 大宝令前の組織として、大学寮・陰陽寮・外薬寮が出てくる。兵政官が兵部省の前身と見られていたことは、古訓ツハモノノ〔ツカサ〕からも分かる。 この後は、朱鳥元年に大蔵省と民部省が見える。 〈持統〉紀になると、刑部省および、「八省」がある。大宝令以後の八省制は、〈持統〉朝には既に概ね固まっていたのだろう。
 ここでの官庁名の初出は、これらが直近に成立したことを示す意図もあるように思われる。律令国家の骨格は確立しつつある。
 さて、占星台が新羅の技術者を招いて作られたものだとすれば、かつての百済に代わって新羅から先進技術を導入するようになったことを示す。 使者とともに新羅から訪れる人は数多く、全員を難波まで招くことができないほどだったようである。
 大国への志向は、芸能面にも及んだようである。もはや軍事に汲々とすることから脱し、進んだ政治体制と文化をもつ国の姿を誇示して対抗しようとしているように見える。



[29-03]  天武天皇下(2)