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2025.02.11(tue) [29-01] 天武天皇下1 ▼▲ |
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天武23目次 【二年正月~二月】 二年春正月丁亥朔癸巳。置酒宴群臣……〔続き〕 24目次 【二年三月~閏六月】 《備後國司獲白雉》
白雉の献上によって現地の納税免除は当然として、天下大赦にまで及んだ。〈天武〉朝発進早々の吉兆の報告に、朝廷内は沸き立ったのではないだろうか。 ただ、改元については「白雉」は既に〈孝徳〉朝で使用済みなので、次の吉兆を待つことにしたのかも知れない。 〈延喜式-治部省〉では「祥瑞」を大瑞・上瑞・中瑞・下瑞に分類し、白雉は中瑞である。 「福徳思想の発生と吉祥への願望」〔宮本又次;福山大学経済学論集2(2)1978〕によると、 列挙された祥瑞の「色は五行の色、すなわち青・赤・白・黒を慶瑞」とし、「中国古代の伝承である陰陽五行説によっているだろう」という。 《書生》 学生については『令義解』に、「凡学生先二読経文一通熟然後講義」 〔まず経文をよく読んで理解してから講釈せよ〕(学令)などとあるが、 書生については正字にはなく、分注に見えるのみである。 「書学生以二写レ書上中以上者一聴レ貢」の分注に「其書生唯以二筆迹巧秀一為レ宗。不下以三習二-解字様一為上レ業」 〔其の書生唯筆迹 『類聚三代格巻四』太政官符「応レ置二書生十人一事」(弘仁四年七月十六日)は、兵部省からの「解」〔要請文書〕で書生が足らなくなったから補充してほしいという申し出に応えたもの。 その要請には書生が不足して「繕写之事」を史生〔書記官〕がやらざるを得なくなったとある。「繕写之事」とは、筆写および書物の修繕であろう。 これらから「書生」の仕事が知れる。すなわち筆写および綴じ合わせなどに従事する。 《一切経》 「一切の経」という言葉のイメージ通りと思われるが、仏教学による専門的な規定は存在する。 浄土宗大辞典によると、 「仏の教説を伝える経、仏の教誡を伝える律、仏の教説を解釈した論のいわゆる三蔵を中心として、それに中国・韓国・日本で撰述された著書なども加えられる」。 和訓は〈類聚名義抄〉(仏上)を見ると「一切:アマネシ」がある。 書紀古訓がアマネクではなくイツサイとするのは、仏教用語として扱ったことを示している。 《川原寺》 川原寺は金堂二棟を特徴とする。〈斉明〉川原宮の跡地に建立したと見られる(【川原寺】項)。 《大来皇女》
《天照大神宮》 「天照大神」が出てくるのは、神功皇后紀以来である。 今や〈天武〉天皇は、伊勢神宮を民族の精神統合の基盤として位置づけようとしている。 これまでに天照大神はどのような神として描かれてきたか、またなぜ神社を伊勢に置いたのかなどについて、別項で概観する。 《泊瀬斎宮》 脇本遺跡(第198回)の建物のどれかとする説がある。 《白雉/一切経/天照大神宮》 祥瑞、一切経の大量筆写、斎王創設の列挙は偶然ではなく、 〈天武〉朝の開始にあたって陰陽五行道・仏教・神道を挙って振興させる方針を物語るものであろう。 《先令仕大舎人》 「大舎人」は個人ではなく組織であろう。次の時代に「大舎人寮」という官署が見えるからである。 官人に応募する者はまず「大舎人」に所属し、「選二-簡其才能一以充二-当職一」すなわち本人の特性に応じて、最適な部署に配属されると読める。 後の時代には様子が変わる。すなわち『令義解』によると、中務省の左大舎人寮に「大舎人八百人」が所属する。大舎人寮の職務は「掌二左右大舎人名帳分番宿直仮使容儀事一」 〔左右の大舎人の名簿、交代する順番、昼夜の警備、例えば作法のことをつかさどる〕 とあり、「人材を預かりその能力を見て、適性を生かせる部署に送り出す」という人材養成機能は廃止されたようである。 というのは、その分注に「謂二大舎人ハ是供奉之人ヲ一。故長官定二其宿直一。官人宿直者…省卿定二宿直一」※ 〔大舎人は供奉する人をいう。故に〔大舎人寮の〕長官が宿直(とのい)を定める。官人の宿直は省〔ごとに〕卿が宿直を定める〕とあるからである。 実際、各省の分注には「内舎人」※という語があり、各省独自に抱えた様子が見える。大宝令以後は「大舎人」は天皇皇族に仕える人限定の呼び名になったようである。 ただ、上記※はすべて分注のみに見えるものなので、大宝令が制定された当時はまだ大舎人寮による「分二-番宿直一。仮使容儀事」が、全省を対象としていた可能性がある。 なお、この「夫初出身者…」段の文体は、令の条文を思わせるものがある。 細かいことだが、書記では通例逆接に用いられる接続詞「然」をここでは順接に用いているところは、令の条文からの引用を思わせる。 〈天武〉朝~〈持統〉朝の令は「浄御原令」と呼ばれ、 〈持統〉三年六月の「班賜二諸司令一、一部廿二巻」がそれにあたるといわれている。 今回の「夫初出身者…」詔以後、法制の詔が度々発せられ、「一部廿二巻」はそれらの集成〔近江令を継承する部分も含むであろう〕のように思われる。 《婦女》 子女の登用については、改新詔「其四」の「凡采女者」項「郡少領以上姉妹及子女形容端正者」がある。これは、宮廷で働きつつ天皇がその中から気に入った女子を嬪として選ぶためである。 今回の「無レ問二有夫無夫及長幼一」はそれとは異なり、既婚未婚や年齢を問わず「欲レ進レ仕者」すなわち仕官したいと思う者にはだれにでも門戸を解放した。 これまでは女性の採用枠は「采女」のみだったが、これからは女性も男性が務めるような官人に応募できるようにしたという意味と見られ、 現代の「雇用機会均等法」を思わせる。〈天武〉の時代にそんな感覚があったのかと驚かされるが、想像するに皇后(鸕野讃良皇女)が働きかけたものではないだろうか。 これまで見たところでは鸕野讃良皇女は積極性に溢れる女性で、人物が優れていれば性別に拘わらず積極的に登用すべきであるという考えの持ち主であったようにも思われる。 《坂本財臣》
沙宅紹明の百済の冠位は佐平であった。〈天智〉十年正月条に「佐平余自信沙宅紹明」とあり、同条全体の書き方から見て「佐平」は沙宅紹明にもかかる。 「大佐平」は、三国史記-新羅本紀武烈王〔金春秋〕八年「義慈子隆与大佐平千福等出降」 〔百済子義慈王の王子隆と大佐平千福が降伏した〕に見える。当然佐平より上位である。 《耽羅遣王子久麻芸都羅宇麻等》 耽羅は済州島の王国(〈継体〉二年十二月《耽羅》項など)。〈天智〉四年《耽羅》項では 「唐羅の近くにある小国が倭国と緊密に連携することによって自国の安全の確保を図った」と見た。
新羅は、使人を〈天武〉即位を祝す賀
前年十一月に訪れた「新羅客」に船を賜ったことに、友好的な意思を敏感に感じ取り、これをチャンスと見て大物を派遣してきたのかも知れない。 《韓阿飡》 「韓-」は、『三国史記』、『北史』には見つからないので今のところ意味は不明である。 外位などは概ね京位と一対一対応するから、官位十七階は基準となる枠組みだと考えられる 〔《貴干宝真毛》項参照〕。 よって大阿飡と阿飡との間、または大阿飡と波珍飡の間に別の「韓阿飡」という位があったとは考えにくい。 ここではひとまず「韓」を「大と同じ」と考えておく。 《騰極》 「極」は天体図で北極星の周辺を天の宮廷とすることから、天子の座を表す語となった(資料[68]『平天儀図解』)。 「騰」は「のぼる」を意味する。よって騰極は、「登極」ともいう。 騰極への古訓「ヒツギノコト」は、高皇産霊 よって「賀二騰極一:ヒツギヲヨロコブ」は大まかには正しい。 もう少し原意に寄り添った上代語にしたいところだが、北極の帝の座に登るという表現は倭国とは発想が異なるから本質的に不可能である。 本来の漢字の意味を生かそうとすれば、結局音読しかない。極の呉音ゴクは大極殿(ダイゴクデン)にもある。既に経典によって大量の呉音が持ち込まれているから、騰極にドウゴクを用いることは可能であろう。 《一吉飡金薩儒/韓奈末金池山》
韓奈末も十七階にはない。 これも《韓阿飡》項と同様に考えて、大奈末と同ランクと考えておく。 《弔先皇喪》 「先皇」すなわち〈天智〉への弔使は崩の1年7カ月後に、賀騰極と併せる形で派遣された。 政情の安定を待っていたのであろう。 《送使》 これまでに書かれた「送使」は、海外からの使者が帰国する際、対馬に着くまで見送る役目であった(舒明五年など)。 しかし、ここでの「送使」は、戊申段で筑紫で「饗」・「禄」を賜る際の名前の筆頭に「貴干宝」とあるから、 「送使貴干宝真毛」は賀使一行と弔使一行をまとめて新羅から引率してきた使者を指す。 「送使」という語のこのような使い方は、書紀を通して初めてである。 閏六月条を読み終わった時点では、一行の全員が筑紫で足止めされて早々に帰されたことになる。 ところが、次の八月条まで読み進めると「賀騰極使金承元等中客以上二十七人」が京に喚 弔使の金薩儒も、帰国は「十二月一日」だから、残っている人数に含まれていることになる。名前が挙げられている金祗山・霜雪・金池山も同じくであろう。 京に喚されたのが二十七人というから、最初に筑紫に着いたときは相当の多人数だったと思われる〔使者一行の人数の記録としては、『海外国記』に「百済佐平祢軍等百余人」が見える(〈天智〉三年)〕。 それが、彼等を引率するために特別に「送使」を必要とした所以なのだろう。 訪れた一行のうち多くを筑紫から帰国させたのは、難波京〔副都〕に新羅人が溢れることを嫌ったか、あるいは受け入れる居館が足らなかったためかも知れない。 彼等は筑紫で留めて最小限の礼義として「饗」と「禄」とを振舞い、早々にお引き取り願った。結局送使宝真毛の役割は、雑多な同行者へ日程連絡などのマネージメントをこなし、また規律を保つことだったことが見えてくる。 《貴干宝真毛》
《貴干》 十七階制は京に住む人に限定して定められたものであった。それを地方に拡張したが、階級名は別称とした。 『三国史記』-雑志は、その階級名が十七階級〔京位という〕のどれに相当するかを述べたものである。
上記職官志の内容を表にまとめた(右)。 外位および旧百済・高句麗人の位階は一吉飡〔第七位〕以下に限られるが、基本的に京位に対応させることができる。 そのうち「貴干」は、京位の大奈麻に相当する。ただしこれだけでは新羅人の外位か百済人の外官のどちらであるかは判別できない。 《饗貴干宝》 己亥段には略されて「貴干宝」とある。しかし、「貴干宝真毛」の略は、本来は「真毛」となるはずである。 実際、この前後でも「韓阿飡金承元⇒承元」、「一吉飡金薩儒⇒薩儒」となっている。 そのためであろうか、〈釈紀〉は「貴干宝」・「真毛」を二人の名前と読んだ。 〈釈紀〉にはどうやら貴干が位階であるという認識がなかったから、三文字の名前+二文字の名前と解釈したようである。 書記原文筆者も同様であったように思われる。『仮名日本紀』が「貴
一方『新版 日本古典文学全集』〔1998〕版には「宝」は姓、「真毛」は名、そして「貴干宝」については「官名と人名の混用で、おそらく誤引」としている。 このように、現代の刊本でも解釈は分かれている。 《大意》 三月十七日、 備後国(きびのしりのくに)の国司は、白い雉を亀石(かめし)郡で獲えて献上しました。 よって当郡の課役を悉く免じました。そして天下に大赦しました。 [同じ月、] 書生を川原寺に集めて一切経(いっさいきょう)の書写を始めました。 四月十四日、 大来皇女(おおくのひめみこ)を天照大神宮に遣して侍らせるため、 泊瀬(はつせ)の斎宮におきました。 これは、まず身を潔斎して、少しずつ神のところに近づけようとするためです。 五月一日、 公卿、大夫及び諸々の臣(おみ)連(むらじ)並びに伴造(とものみやつこ)らに詔を発しました。 ――「夫(それ)、初めに立身しようとする者は、まず大舎人(おおとねり)の司に仕えさせよ。 然る後に、その才能によって選抜して職に充当せよ。 また婦女は、夫の有無や長幼を問わず、 出仕しようとする者は、許可せよ。 その選考は、官人の例に準じよ。」 二十九日、 大錦(だいきん)上坂本の財(たから)臣が卒しました。 壬申の年の功を労い、よって贈小紫(しょうし)位としました。 閏六月六日、 大錦下百済の沙宅(さたく)昭明(しょうめい)が卒しました。 為人(ひととなり)は聡明かつ叡智で、当時の人は秀才ぶりを称えました。 天皇(すめらみこと)は驚かれ、 降恩して贈外小紫位となされました。 重ねて本国の大佐平(たいさへい)位を賜われました。 八日、 耽羅(ちんら)国は 王子久麻芸(くまき)、 都羅(つら)、 宇麻(うま)らを遣わして 朝貢しました。 十五日、 新羅国は、 韓阿飡(かんあさん)金(こん)承元(しょうげん)、 阿飡(あさん)金祗山(ぎせん)、 大舎(たさ)霜雪(しょうせつ)らを 賀騰極(どうごく)使として遣わしました。 併せて一吉飡(いつきつさん)金薩儒(さつじゆ)、 韓奈末(かんなま)金池山(ちせん)らを 弔先皇〔天智〕喪使として遣わしました。 その送使として貴干(きかん)宝(ほう)真毛(しんもう)は、 承元、薩儒〔ら〕を筑紫に送りました。 二十四日、 貴干(きかん)宝(ほう)らを筑紫で饗して、 各人に応じて賜禄しました。 こうして筑紫から〔新羅〕国に返しました。 【伊勢神宮の成立】 古事記によれば、天孫降臨のとき天照大神は次のように命じたと。 ――「此之鏡者専為二我御魂一而如レ拝二吾前一伊都岐奉…此二柱神者拝二-祭佐久久斯侶伊須受能宮一」 〔この鏡は専ら吾が御魂として吾がみ前を拝むが如く斎き奉れ…この二柱の神〔天照大神と思金神〕は拆く釧〔枕詞〕五十鈴の宮に拝み祭れ〕 (第83回)。 これによって、八咫鏡を天照大神の表象として扱い、五十鈴〔伊勢神宮〕に祀ることが定式化される。 天孫降臨段を精読した際に、この定式化は実際には〈天武〉天皇の意向によるものと見た(《天武天皇の意向》項)。 《壬申以前の天照大神》 それではここに至るまでに、天照大神はどのように祀られてきたのであろうか。 〈崇神〉五年には、 天照大神を「天皇大殿」の中に祀ったが、これが実は恐怖の神であったので笠縫邑の神籬(ひもろぎ)に移したと書かれる。 また、神功皇后が親征から帰り難波に向かったとき、天照大神の荒魂が「広田」〔摂津国武庫郡広田神社〕に、和魂が「渟中倉之長峽」〔住吉大社〕に祀られた 神功皇后紀9)。 このときにも「我之荒魂、不可近皇居。」と書かれていることが〈崇神〉五年との関連で注目される。 このように、天照大神に古い時代からの伊勢への土着は見えない。 ただし、〈崇神〉紀は基本的に伝説、神功皇后は存在自体が架空だから、 これらの話は書紀が書かれた時代に残されていた伝承を反映したものである。 神功皇后紀を最後に、天照大神はしばらく書紀から姿を消す。 《当時の伊勢の氏族》 少なくとも言えることは、伊勢神宮に特権的な地位を与えたのは壬申の乱の後である。 大海人皇子を強力に押し立てたのは尾張国司・美濃国司で、国がまるごと皇大弟を支持して馳せ参じたことが読み取れるが、 伊勢国にもそれに匹敵する貢献があったことだろう。 大海皇子は、伊勢国に入った時点で完全に安全圏入りしたことが読み取れる。また朝明郡での遥拝を見れば伊勢の氏族が強力に支援し、よってその信奉する神に感謝したことは明らかである。 こうして乱は勝利のうちに終了し、現地氏族の氏神を著しく優遇することになったと考えてよいだろう。 その氏神は、以前からアマテラスであったとも、この時点でアマテラスを新たに祭神としたとも考えられる。 《天孫の血筋の定式化》 ただ、後者のように天照大神を伊勢氏族の氏神として〈天武〉朝が押し付けたとするのも、言い過ぎであろう。 〈顕宗〉紀において、高皇産霊神・天照神の発祥は対馬、そして月読神の発祥の地は壱岐で、〈顕宗〉朝のときに畿内に持ち込まれたことを見た(三年二月、三年四月) 〔これは、神代巻の成立に結びつく重要事項だったから書かれたのではないだろうか〕。 また、出雲などの天岩戸伝説を伴う太陽神ヒルメ神が、対馬のアマテル神と習合したことも考えられる 〔書紀上代巻で基本的に大日孁貴の名称を用いているのも、蒐集した原資料を尊重した故かも知れない〕。 古事記上巻は、太安万侶らが淡路島のイザナギ・イザナミ神話、出雲の天岩戸伝説や八岐大蛇神話、オセアニアから南九州に伝わった釣り針喪失伝説、対馬のタカミムスビ神・アマテル神など各地の伝説を巧みに縫い合わせて一本の筋としている。 しかし、こと皇統の始点〔タカミムスビ-アマテラス-ニニギ〕に関しては古事記が初めて作文したわけではないだろう。 もし新たに作文されたとするなら、人々は今まで信じていたことと異なることを突然言われることとなるから、簡単には受け入れられないであろう。 よって、始祖伝説については、既に〈顕宗〉朝に対馬壱岐由来の伝説が受容されていて、以後長い年月をかけて定着してきたと考えるのがよさそうである。 そして、伊勢国度会郡にもタカミムスビ・アマテルを祭神とする神社が進出していた。 また、古くから伝わる鏡をご神体とする神社も近辺にあった。それらを習合して、朝廷が卓越した地位を与えたのが天照大神宮だと考えてみたらどうだろうか。 25目次 【二年八月~十二月】 《高麗遣上部位頭大兄邯子等朝貢》
現代の刊本は「詔在伊賀國紀臣阿閉臣等」を「詔在伊賀國紀臣阿閉麻呂等」に作る。これは『集解』に従ったものである。
《在二伊賀国一紀臣阿閉臣》 ここで阿閉臣なる氏族を改めて見てみよう。 〈孝元〉紀で、その皇子「大彦命」は、阿部臣、阿閉臣、伊賀臣など七族の始祖とされた(〈孝元〉紀)。 『新鮮姓氏録』には、その始祖伝説によると思われる記載がある。 ●〖左京/皇別/阿閉臣/阿倍朝臣同祖〗⇒〖阿倍朝臣/孝元天皇皇子大彦命之後也〗。 ●〖右京/皇別/阿閉臣/大彦命男彦背立大稲輿命之後也〗。 〈延喜式-神名〉{伊賀国/阿拝郡/敢国神社}は、敢(阿閉)国造の氏神を思わせる。 〈姓氏家系大辞典〉は「阿閉氏は主として阿倍氏と同族にして、又敢氏ともあり、同一」、 「阿閉臣:伊賀国阿閉郡名を負ひしなり、…〔敢国神社〕あり、密接なる関係あるべし」、 「上古大いに盛え、雄略紀の国見、顕宗紀の事代の如き著はれる人尠〔すくな〕からず」と述べる。 壬申の頃も、阿閉臣は伊賀国阿拝郡を地盤にして確固として存在していたと見てよいであろう。 大海人皇子は伊賀国に入ったところでひとまず危機を脱したが、その裏に彼の地の阿閉臣の多大な助力があっただろうことはいうまでもない。 「壬申年労勲之状」とは、まさにこのときの阿閉臣の貢献を指したものであろう。 一方の伊賀国の紀臣については、〈姓氏家系大辞典〉は「詔在伊賀国紀臣阿閉臣等」を唯一の根拠とするのみだが、 「紀臣阿閉麻呂」が伊賀国の紀臣出身で、その一族が伊賀国で大いに働いたと考えることは許されよう。 以上を見れば、「紀臣阿閉臣」に手を加える必要は特にないことが分かる。 さらに〈天武〉紀及び〈持統〉紀で壬申の功を称える記事は、「卒」したときに賜った贈位・賻物のみに見える。阿閉麻呂自身も、三年二月戊申に卒したときに「大紫位」を贈られている。 よって、生前に個人の労功に恩賞を与える記事は、かなり異例である 〔唯一の例外は、〈持統〉七年四月辛巳。置始多久が贓〔窃盗〕をはたらいたが、壬申の功に免じて赦された(「有二勤労於壬申年役之一、故赦之」)〕。 〈姓氏家系大辞典〉が『集解』説に依らず、元の形「在伊賀國紀臣阿閉臣等」を用いていることも、 家系学の専門家としての感覚によるものであろう。 このように江戸時代でも〈孝元〉紀などを参照すれば伊賀国に「阿閉臣」の存在感は十分に得られただろうと思われる。 現代の刊本は、それを無批判に継承した形になっているのである。 《高麗》 『後漢書』高句麗条によれば、高句麗はもともと上部・下部・前部・後部・東部〔「五部」〕の氏族の連合体であった (弘仁私記序[3]《東部後部氏》項、 〈天智〉五年《高麗遣前部能婁》項)。
《耽羅使人》 「唯除賀使以外不召則汝等親所見」の部分だけを見ると、 「お前たちを賀使と見做して、特別に天皇はお会いになる」の如くに読めてしまうが、実際には話の流れは次のようになっている。
この流れを見れば、耽羅使が京に呼ばれなかったことは明らかである。 よって「汝等親所見」は、「天皇は会えないから代りに私〔大宰〕自身が会う」意となる。 「親」は天皇限定の語のように見えるが、本来は相手によらず身近さを表す語である。 むしろ問題は、「詔」の発信元が大宰になってしまうことである。 「詔」は〈天武〉下巻だけで63個あるが、ここを除く62例はすべて天皇自身が発した言葉、 あるいは法制の発布の主体として形式的に天皇を用いたものである。 ここでも、大宰が天皇が発した詔の内容を忠実に伝えたこと自体に、疑う余地はない。 もともと詔の原文は「朕新平天下初之即位。由是、唯除賀使以外不召。則将令大宰見汝等。亦時寒…〔以下の部分は変わるところなし〕」であった。大宰はその内容を噛み砕いて、間接話法によって伝えたものと理解することができる。 《時寒浪嶮》 〈天武〉二年九月庚辰〔二十八日〕は、グレゴリオ暦の673年11月15日にあたる(hosi,orgによる)。 確かに冬は近づいている。これから季節風により対馬海峡の波は高くなる。 《当二其国之佐平位一》 この個所から、耽羅の冠位は百済と同じだったことが分かる。 『新唐書』東夷伝に耽羅に関する記事がある。
《自筑紫返之》 新羅は耽羅を自らの属国と考えている。 しかし、耽羅は新羅を警戒し、日本と同盟して対抗しようとしている。よって日本が耽羅の使者を歓待すれば、新羅に疑心暗鬼を生む。 日本は、少なくとも使者が来ている間は礼儀として友好的に対応することになる。この時期の耽羅使の滞在は、タイミングが悪すぎる。 よって今回に限っては耽羅使を京に喚さず、早々に帰国させたのである。 思えば、〈推古〉朝当時の力関係は倭国が上であった。新羅が友好関係を結びたいというなら任那使を〔装う者を仕立てて〕同行させよと強気に出ることができた。 当時に比べると力関係は変わり、新羅には随分気を遣うようになっている。 《饗/難波》
難波宮は小郡にあり、難波館などはその周辺の大郡にあったと思われる(資料[71])。 《種々楽》 これまでの音楽に関する記述としては、〈推古〉二十年是年条に 「百済人味摩之帰化、曰「学二于呉一、得二伎楽儛一」。則安一-置桜井二而集二少年一令レ習二伎楽儛一」とある。 伎自体は技術や俳優を意味するが、クレノと訓読されるから中国由来と認識されていたようだ。 百済人味摩之(みまし)が伝えたとあるから、直接的には百済からの文化移入の一環である。 〈天武〉紀には以後「賜楽」(十年正月)、「奏種々楽」(十年九月)、「発種々楽」(十一年七月)、「奏…楽」(十二年正月)、「伎楽」(朱鳥元年)が見える。 いずれも諸王諸臣・外国使節などを接待する場に花を添える。 《饗/筑紫大郡》 「外交拠点としての難波と筑紫」〔仁藤敦史/国立歴史民俗博物館研究報告(200);2016〕によると、 「筑紫には「筑紫小郡」「筑紫大郡」「筑紫館」という難波の施設と対応する同様の施設が確認され,唐や新羅との国交回復に備えたと考えられる」(p.53)。 難波の配置から類推すると、筑紫小郡は大宰府政庁周辺、筑紫大郡は鴻臚館のある沿岸に近い地域が想像されるが、確かなことは分からない (【那津之口官家】項の図)。
新嘗祭はずっと十一月だったと思われるが、書紀で時期が明記されている例は意外に少なく、〈皇極〉元年の十一月十六日ぐらいである。 その時は、〈皇極〉天皇の大殿の御新嘗に皇子・大臣は誰も出席せず、各自ばらばらに行ったという有様であった。異例な形だから記事になったのであろう。 〈舒明〉十年では、翌年の正月十一日に催した。 そこには、本来の新嘗の時期には有間〔有間温泉〕に行っていたからできなかったのだろうとある。因みに有間に出かけたのが十月、帰ったのが正月八日であった。 いずれの場合も特記すべき事柄があったから載せたのであって、それ以外の年には書かれなかったようである。 今回の「十二月五日」は大嘗祭に尽力してくれた人に謝礼をした日付だから、大嘗祭自体はやはり十一月に行われたと見るのが妥当か。 《中臣/忌部》 忌部首は、太玉命を祖とする(資料[25])。 〈天武〉九年に連姓、同十三年にはさらに宿祢姓を賜る。 天児屋命を祖とする中臣氏と並んで神事を担うが、忌部・中臣両氏族の間には勢力争いが著しい。 記紀の天岩戸神話においては、太玉命と天児屋命の役割が大いに持ち上げられる(第49回) 《播磨丹波》 〈天武〉五年の新嘗には、「為二新嘗一卜二国郡一。斎忌則尾張国山田郡。次丹波国訶沙郡」とある。 「古代と近代の大嘗祭と祭祀制」〔岡田莊司;国学院大学研究開発推進機構紀要(11)2019〕 によると、これは「国郡卜定を行って、亀卜(亀の甲羅を焼く占い)をして田を決め」たもので、 〈天武〉二年の大嘗祭で「播磨国と丹波国の田が選ばれて、新穀の米を奉った」のは 「後々の大嘗祭と同じ形式」で、「畿外で米を調達する」のは「日本国中を天皇が統治する…壬申の乱が終わって新たに始められた形式」と述べている。 《美濃王/紀臣訶多麻呂》
さらに〈天武〉十四年には、「爵位:四十八階」に改められ、そのうち諸王は「明位二階、浄位四階、毎レ階有二大広一、并十二階」となる。
高市大寺は、百済大寺が移転して建った寺が「高市大寺」と号されたとされる(〈舒明〉十年《高市大寺》項)。 『日本三代実録』(巻三十七)によると、〈舒明〉天皇が「十市郡百済川辺」に「百済大寺」を建立し、それを〈天武〉天皇の御世に「高市郡夜部村」に遷して「高市大官寺」と号した。 百済大寺の遺跡は、吉備池廃寺が確実視されている。また、大官大寺は藤原京東二十八条三里の廃寺跡と考えられている(資料[54])。 『日本三代実録』には百済大寺が焼けてその後に移転したと書かれるが、吉備池廃寺に焼損跡はなく、逆に百済大寺が完成間近に焼けたことが分かっている。 長い年月の間に言い伝えが錯綜したと見るべきであろう。 木之本廃寺を大官大寺と見る説もあるが木之本廃寺は十市郡で、高市郡にあるのはいわゆる「大官大寺跡」である。よってこちらを採るべきか。 《知事》 知事は、「寺院の雑事や庶務をつかさどる役職。また、その僧」とされる〔例文仏教語大辞典;小学館1997〕。 《福林》
《小僧都》 「僧綱」は諸寺の僧を監督する職で、玄蕃寮に属す(元興寺伽藍縁起…[4])。 〈推古〉三十二年四月条に「任僧正僧都。仍応検校僧尼」とあり、また「法頭」も定められる。 ここの記事によれば、〈天武〉二年以前に僧都は大小制になっていた。 一方〈続紀〉では「小僧都」の初見は文武二年〔698〕三月壬午「智淵法師為二少僧都一」、「大僧都」の初見は和銅五年〔712〕九月乙酉である。
――A:「小僧都義成 月 日入滅。文武天皇二年十二月 日」。B:「義成」。C:「小僧都弁昭」。 なお、〈僧綱補任歴〉には上で見たように「文武二年」項に「小僧都智淵…十二月 日転大僧都、義成十二月 日任。…小僧都義成」 〔文武二年十二月、小僧都智淵は大僧都に転じた。それに伴い、義成が小僧都となる〕とあり、義成の小僧都就任日は〈天武〉紀と食い違っている。 これについては、『僧綱補任』が「天武」を「文武」に取り違えた可能性がある。書紀が取り違えることはない。 書紀が書かれた時期には漢風諡号はなかったからである。 義成の入滅に関するこれ以外の資料は、今のところ見つからない。 《佐官二僧》 佐官は四等官制の第四位で、〈倭名類聚抄〉には「祐官:…【皆佐官】」とある。 ここでは、僧綱の佐官を二名増やして四名にしたと読める。 〈僧綱補任歴〉にも「天武天皇即位第二年:…四佐官始起此時」とある。ただし、同書はこのときだれが小僧都になったかは書かず、 初めての「小僧都」は〈文武〉二年「小僧都智淵 三月十八日壬午任」で、〈天武紀〉二年は無視し、〈続紀〉(上述)を採用したようである。 『日本人名大辞典』の記述は、書紀と〈僧綱補任歴〉とからつまみ食いしたようだ。 《太歳癸酉》 〈天武〉紀以外は、すべて元年条に太歳が付されるから、草稿段階ではこの年を元年としていたのかも知れない。 この年を天武二年としたのは、 即位の前年は事実としては大友皇子の治世だったが、それを天武天皇の世として塗りつぶすためであろう。 《大意》 八月九日、 伊賀国に在る紀臣(きのおみ)阿閉臣(あへのおみ)らに詔され、 壬申年の労と功勲の様によって寵賞を顕(あらわ)されました。 二十日、 高麗(こま)国は 上部(じょうほう)位頭大兄(いとうだいけい)邯子(かんし)、 前部(ぜんほう)大兄(けい)碩干(せきかん)らを遣わして、 朝貢しました。 よって、新羅は 韓奈末(かんなま)金(こん)利益(りやく)を遣わして、 高麗の使者を筑紫に送らせました。 二十五日、 賀騰極使(がどうごくし)金(こん)承元(しょうげん)ら、 中客以上二十七人を京〔副都難波〕に喚びました。 これにより〔筑紫の〕大宰に命じて、耽羅(とんら)国の使者に詔を伝えさせました。 ――「天皇(すめらみこと)は新たに天下を平定して初めて即位されるに至った。 これを理由として、賀使を除いた以外は召されない。 そこで、あなた方には〔大宰〕自らが謁見する。 またこれからは寒く波は高くなるから、 久しく淹留することは、却ってあなた方の憂えとなろう。 故に、早くお帰りなされよ。」 よって在国の王(こきし)、及び使者久麻芸(くまぎ)らに、 初めて爵位を賜りました。 その爵位は大乙上(だいおつじょう)です。 更に錦の刺繍で装飾を潤し、 耽羅国の佐平位に当たります。 こうして、筑紫から返しました。 九月二十八日、 金(こん)承元(しょうげん)一行を難波で饗されました。 種々の楽を奏して、それぞれに応じて賜物されました。 十一月一日、 金承元は辞して帰りました。 二十一日、 高麗国の邯子(かんし)、 新羅国の薩儒(さつじゆ)らを筑紫の大郡(おおこおり)で饗され、 それぞれに応じて賜禄されました。 十二月五日、 大嘗(おおなめ)に侍奉した 中臣(なかとみ)、 忌部(いんべ)、 及び神官(かみつかさ)の人たち、 併せて播磨(はりま)、丹波(たには)二国の郡司(こおりのつかさ)、 またそれ以下の人夫たちにも、悉く賜禄されました。 よって郡司たちに、各爵一級を進階されました。 十七日、 小紫(しょうし)美濃王(みののおおきみ)、 小錦下(しょうきんげ)紀臣(きのおみ)訶多麻呂(かたまろ)を、 造高市大寺(たけちだいじ)司に拝しました 【今の大官大寺が、これです】。 時に、知事福林(ふくりん)僧は老齢によって知事辞職を申し出しましたが、 許されませんでした。 戊申(つちのえさる)〔二十七日〕。 義成(ぎしょう)僧を、小僧都(しょうそうず)としました。 この日、 更に佐官(さかん)に二僧を加えました。 その四佐官制は、この時から始まりました。 この年は、太歳癸酉(みづのととり)でした。 まとめ 二年条の文章にはいくつかの混乱が見られ、事象を正確に把握するためには細密な読み取りを要した。 さらに、書紀古訓の時代から江戸時代までにいくつかの点に誤解による作為が見られたので、その除去に努めた。 その過程で、今回も『三国史記』や〈姓氏家系大辞典〉などを参照することになった。 さて、勅命により動員された書生が大量の経典を書写した。その経典を受け取るために、川原寺まで諸寺から多くの僧が訪れたことだろう。持ち帰ったあちこちの寺から、読経が聞こえる様が想像される。 また種々 思い返せば〈天智〉朝では、朝鮮式山城築城や大津京の造営のために重税を課され、労務に駆り出された人民には不満が募り雰囲気は暗かった。 それから一転、〈天武〉朝では、社寺の振興を始めとして文化的で豊かな国の姿を描こうとしたことが感じられる。 対新羅政策については、軍事的に身構える緊張から転じて積極的に交流を進める策に切り替えたようである。 ただし、これらはまだ直感であって、この感じ方が確かかどうかを〈天武〉紀を読み進める中で確かめていきたい。 |
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2025.02.18(tue) [29-02] 天武天皇下2 ▼▲ |
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26目次 【三年】 《對馬國司言銀始出于當國》
氏号「百済王」は〈持統〉朝で授かったというから、ここの「百済王昌成」は遡及である。 《紀臣阿閉麻呂》
対馬国は、後には「対馬嶋」と呼ばれる(〈天智〉(3)《対馬国》項参照)。 〈釈紀〉文武二年〔698〕十二月辛卯「令三対馬嶋冶二金鉱一」。大宝元年三月〔701〕「甲午。対馬嶋貢レ金。建レ元為二大宝元年一」 〔関連事項:下述〕。 このように〈釈紀〉では、すべて「対馬嶋」。また国司にあたるのは「対馬嶋司」である。 守(カミ)については、延暦十年〔791〕正月癸酉「対馬守正六位上津連吉道」、 『日本三代実録』巻17-貞観12年三月十六日戊辰「従五位下行対馬嶋守小野朝臣春風」となっている。 《忍海造大国》
対馬の銀鉱山については、対馬市公式ページ:『下原・床谷地区地域づくり計画』〔おそらく2015年〕 に「東邦亜鉛対州鉱山跡:対州鉱山は、古代の国営銀山、藩営銀山と二度の輝かしい時代を歴史に遺している」とある。 その文中の「古代の国営銀山」については、次の記録が見える。
なお、さらに対馬から金が産出したことによって、「大宝」改元に至った。ところが金の発見は偽りであった。 興味深く、また下述する大伴宿祢御行も絡むので、その部分を精読する。
サイト主は一瞬対馬から金も出たのかと思ったが、よく調べてみるとそれは幻であった。 《倭国》 ここの「倭国」は律令国の大和国ではなく、明らかに国家「日本国」である。 国号「日本」は〈推古〉十三年「日本国天皇」、 〈天智〉二年「日本船師」など頻繁に使われているので、ここでは表記を直すべきところを見落としたと見られる。 《遣二忍壁皇子一》
石上神宮は、物部氏がかつて武器の貯蔵保管を担う一族であったことを、色濃く反映する神宮である (第116回【石上神宮】項、 資料[37])。 《膏油瑩神宝》 膏油を付けた布で神宝を磨き上げて光り輝かせる。石上神宮の神宝の多くは太刀が占めたと考えられるので、あるいはその手入れか。 所蔵庫や本殿も磨かれたであろうから、雰囲気は明るくなったことであろう。 《神府》 神府には「府」がつくが、〈続紀〉や〈延喜式〉には見えないので官庁の名ではないだろう。 古語拾遺(資料[25])には「三蔵:大蔵・内蔵・斎蔵」が出てくるが、このうち斎蔵が該当するようにも思われる。 〈垂仁〉紀八十八年七月に、 但馬国にあった神宝をすべて召し上げようとしたときの話が載る。 その神宝は、かつて新羅王子天日槍が来た時に携えてきたもので、その曽孫の清彦は数々の神宝のうち小刀だけを惜しみ衣に隠して身に着けていた。 しかし天皇に酒を注いだときにちらりとのぞき、それは何だと聞かれた清彦はもう隠せないと思い「神宝のひとつです」と白状し、結局これも献上した。 それらの神宝は神府に蔵(おさ)めたと書かれる。 「元来諸家貯二於神府一宝物今皆還二其子孫一」とは、かつて清彦から召し上げたような神宝を、子孫に返還せよということである。 書紀において神府が、この二か所のみに出てくるのは偶然ではないだろう。 〈時代別上代〉は、神宝の倉であるホクラは同時に神の座であり、よってホコラ(祠)に転ずると述べる。 子孫に神宝を返還するというこの施策は、やはり国中に明るい空気を広げたことであろう。 《大来皇女》
伊勢神宮は天照大神宮の別名であったことが分かる。 ここで神功皇后紀を見ると、《壬申以前の天照大神》項で見たように天照大神の和魂、荒魂は摂津方面に祀られたたが、 「五十鈴宮」〔確実に伊勢神宮であろう〕が一か所だけでてくる。 神功皇后紀〈仲哀〉九年段に、 神功皇后が「入二斎宮一、親 そして神に「名前をお知らせください」とお願いしたところ、七日七夜を経た後に答えがあり、数柱の神が挙げられた。 その一柱目が「神風伊勢国之百伝度逢県之拆鈴五十鈴宮所居神名撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」 〔神風(かむかぜ)伊勢の国の、百伝(ももつたふ)渡会の県(あがた)の、拆鈴(さくすず)五十鈴の宮にいらっしゃる神、 御名は撞賢木 《大意》 三年正月十日、 百済の王(こんきし)昌成(しょうせい)が薨じ、贈小紫位(ぞうしょうしい)とされました。 二月二十八日、 紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)が卒しました。 天皇(すめらみこと)は大いに悲しまれ、 壬申年の役の労により贈大紫(だいし)位とされました。 三月二十八日、 対馬国司の守(かみ)忍海造(おしのみのみやつこ)大国(おおくに)は、 「銀が当国で初めて出ました」と言上し、 献上しました。 これにより、大国に小錦下(しょうきんげ)位を授けました。 およそ銀が日本国で出るのは、この時が初めてです。 よって、悉く諸々の神祗に奉りました。 また、遍(あまね)く小錦以上の群卿に賜りました。 八月三日、 忍壁(おさかべ)の皇子(みこ)を石上(いそのかみ)神宮に遣わして、 膏油によって神宝を瑩(みが)かせました。 この日、 勅があり 「元来諸家のものだが神府(ほくら)に預かった宝物は、 今皆にその子孫に返せ。」と命じました。 十月九日、 大来皇女は、 泊瀬(はつせ)の斎宮から伊勢神宮に向かいました。 27目次 【四年正月】 《墮羅女百濟王善光等珍異等物進》
大学寮は令制の「式部省:大学寮」に繋がる。『令義解』職員令では「掌下簡二-試学生一及釈奠上」を任とする〔釈奠は孔子とその門人を祀る儀式〕。 《陰陽寮》 陰陽寮は、「中務省:陰陽寮」に繋がる。 『令義解』職員令では「掌二天文暦数風雲気色一」となっており、天体観測とそれによる暦の策定、また気象観測を重要な職務とした。 メンバーに含まれる天文博士、漏剋博士、守辰丁〔漏剋の運用〕が含まれていることがそれを示す。 ただ、それらの前に「陰陽師」〔占筮相地〕が置かれ、天文や暦は自然科学の範疇だが、あくまでも陰陽寮のメインは占いで、そのための材料とされてしまっている。 陰陽道の出発点は中国の陰陽五行説を受容したところにある。「陰陽」は音読のままで取り入れられ、和読が試みられることはなかったようである。 《外薬寮》 外薬寮は、「宮内省:典薬寮」に繋がる。
《墮羅女》
《百済王善光》
『旧唐書』巻八十八で劉仁軌は「扶餘勇は扶餘隆の弟で、現在倭国におり、扶餘豊に呼応する〔=叛意がある〕と思われます」 と言って、扶餘勇〔禅広王〕の渡海を警戒していた。 《新羅仕丁》 仕丁は、一種の税で労役を意味するが、新羅仕丁はそれとは異なり、進んだ技術や知識を伝えた人材であろう。 二年閏六月の使者金承元に同行したと考えられる。 九年二月「壬申。新羅仕丁八人返于本土、仍垂恩以賜祿有差」とあり、足掛け八年間滞在した。 百済が滅びた今、新羅が人材の供給源となっている。 《捧薬及珍異等物》 「薬」は、外薬寮が持参したと考えられる。ただ、善光が百済から伝えた薬を持参した可能性もある。 総じて即位して最初の正月に、多様な人が祝賀に集まった。さぞや華やいだ雰囲気であったであろう。 《進薪》 朝廷に参内するにあたって、下位の職官は高価な献上品を持ってこられない。 それでも献上品は薪〔たきぎ〕でよいから、皆来いと呼びかけたと読み取れる。 薪の古訓「ミカマキ」に繋がるのは、〈延喜式-宮内省/嘗/大斎〉の 「凡毎年正月十五日。弁官及式部兵部会集二於省一。相共検二-校諸司所レ進御薪一」、 「就二主殿寮一検二-校御薪ノ数并好悪一」とあり、 すなわち進上された「御薪」を正月十五日に点検する。この「御薪」が「ミカマキ」と訓まれていたのであろう。 〈釈紀〉には「私記説」とあるから、日本紀私記がこの呼び名を〈天武〉四年条に遡らせたものと推察される。 なお、ミカマキの語の成り立ちは「御-竃-木」と考えられている。 《東国》 〈壬申紀〉では尾張、美濃も東国に入れたが、ここではそれよりも東方の国を指すものであろう。 それでも、〈天武〉紀下の時代に国名が不明なほど漠然としていたわけではない。 駿河国、上毛野国は既に〈安閑〉二年五月に出てくる。 常陸国は〈天智〉十年三月、また〈景行〉紀に「日高見国」。 〈安閑〉元年には「武蔵国造」〔無邪志 仮に国司の配置が遅れていたにしても、地域名としての「~国」が存在しなかったとは考えられない。 よって、大和国と近江国に挟まれたところに「東国」という大きな括りの呼称が入るのは不可解である。書紀が参照した複数の古記録に書かれていたものを、そのまま並べたということであろうか。 《占星台》
新羅には7世紀前半と見られる「瞻星台」(右)があるので、上記の新羅仕丁はその技術者で、来朝して占星台を建てた可能性を考えてもよいかも知れない。 ここでは、その瞻〔漢音セム、呉音ゼム〕に占〔漢音・呉音セム〕を宛てた可能性は高い。 ここでも陰陽寮と同様に、高度な科学である天文学や暦法を占いの手段に貶めたことが名称に表れている。 占いの種類として〈時代別城代〉に載るのは、アウラ・イシウラ・イヒウラ・ミチユキウラ・ミナウラ・ヤウラ・ユフウラで、 それぞれ足、石、飯、往来する人の言葉、水や川、矢、夕方の辻を占いの手段とする。だが、上代語にホシウラは見えない。 星占いは黄道十二星座中の惑星の運動による占いだから、系統的な天体観測が確立した後に生まれたと考えられる。 占星は、暦法や天文学とともにはじめて入ってきたものだから音読みなのだろう。 《瑞鶏/白鷹/白鵄》 瑞鶏・白鷹・白鵄のいずれも〈延喜式-治部省/祥瑞〉の「祥瑞」リストには含まれない。 ただ「白-」は白狼、白鹿、白狐、白鳩、白烏、白雉、白雀など数多い。白鷹・白鵄はその類であろう。 「瑞-」はその分注の中に瑞獣、瑞器、瑞草、瑞宝、瑞木の語が見える。 どうやら〈延喜式〉が用いた資料に、書紀はなかったようである。 今度は祥瑞が並べられた。即位翌年の正月を迎え、慶賀は盛沢山である。 《大意》 四年正月朔日、 大学寮の諸学生、 陰陽寮(おんみょうりょう)、 外薬寮(くすりのつかさ)、 及び舎衛女(しゃえめ)、 墮羅女(だらめ)、 百済王(くたらのこんきし)善光(ぜんこう)、 新羅の仕丁は、 薬と珍異のさまざまな物を捧げて進上しました。 二日、 皇子以下、百寮の諸々の人まで、 拝朝しました。 三日、 百寮の諸々の人の初位以上は、 薪(たきぎ)を進上しました。 五日、 初めて占星台を作りました。 七日、 群臣を集めて宴を宮庭で開催しました。 十七日、 公卿大夫、及び百寮の諸々の人の 初位以上は、西の門の庭で射技しました。 同じ日に、 大倭国(おおやまとのくに)は瑞鶏(みずとり)を献上しました。 東(あずま)の国は白鷹(しらたか)を献上しました。 近江国は白鵄(しろとび)を献上しました。 二十三日、 諸社を祭り、幣帛(みてぐら)を奉納しました。 28目次 【四年二月~三月】 《十市皇女阿閉皇女參赴於伊勢神宮》
もともとの「津ノ国」に、摂津職が置かれ、副都となった。最初に確認できるのが〈天武〉六年十月〔677〕癸卯「内大錦下丹比公麻呂為二摂津職大夫一」である()。 制度としての摂津職の制定と同時かどうかは、やや不確定である。もし同時なら、四年の「摂津国」は遡及である。 〈続紀〉では「河内摂津山背伊豆甲斐五国」(和銅二年〔709〕五月乙亥)など、他の国と特に区別することなく「摂津国」を用いている。 摂の漢音・呉音セフは、漢字の発音[sep]の[p]を、フ〔古い発音はpu〕で表したことによる。習慣音セッはpが促音に転じたもの。 摂津がセッツと読まれるようになったのは事実だが、書紀古写本には訓点が全くつかず当時どう発音されたかはなかなか見いだせない。 もし促音「セッツ」なら平安時代はッは表記されないので「せつ」と書かれたはずである。 可能性としては、「摂津」と書くようになっても、しばらくツノクニと呼ばれていたことも考えられる〔実際に『仮名日本紀』ではそうなっている〕。 一方〈倭名類聚抄〉には訓を付さないので音読み〔正確には音訓交ぜ書き〕も早くからあったと思われる。 《所部百姓》 所部百姓は、「部に属する百姓」の意味であろう。 「所部」は、〈汉典〉に「所部:所統率的部隊」とあるが、これは軍隊用語である。 ここでは部に属する民の意味であろう。 職業部だとすれば、巫部の神楽などが想像される。 部曲〔臣・連・伴造・国造・村首などが私有する部〕なら、単純にその中から歌や俳優として優れた者を選び出せとなろう。 狙いとしては、宮廷を中心として歌舞を質量ともに向上させたい。やはり文化振興は〈天武〉朝の基本政策のひとつである。 十一年には、隼人多祢人・掖玖人・阿麻弥人に種々の楽を、朱鳥元年には新羅の客に川原寺伎楽を披露したとあるから、文化水準を見せつけて大国ぶりを誇ろうとする動機は明らかである。 なお、部曲の私有は改新詔で廃止が方向づけられたが、まだ存在しているようだ。 《親王》 親王はここが初出。ただし、親王の個人名は「~皇子」のままである〔〈持統〉紀も同じ〕。 固有名詞に使われた初出は〈続紀〉文武四年六月の「刑部親王」〔=忍壁皇子〕。 《十市皇女/阿閉皇女》
《甲子年諸氏被給部曲》 直近の甲子年は〈天智〉三年〔664〕である。 その年は詔により、氏上を定めることにより氏の存在を公認して、さらに民部(かきべ)家部(やかべ)の所有を許した。 氏の公認は改新詔に逆行する面と、統制下に置く面がある。「天皇命大皇弟」とあったので〈天武〉自らが実行した色合いが強い。 同じ人物が今度はそれをご破算にした。ただし氏上制度に限っては、11年~12年に改めて推進している。 それでは、甲子年になぜ改新詔から後退させたのであろうか。 ひとつの考え方としては、朝鮮式山城築城など軍事のために諸氏族の協力を得るため(A)。 もう一つの考え方としては、大皇弟がゆくゆく政権争いが起こることを見越して、諸族を味方につけておこうとしたため(B)。 建前はAだとしても、それを利用してちゃっかりBを可能にしたとも考え得る。 いずれにしても、今の情勢ではもう必要ないからご破算にしたわけである。 経済的には部民から直接徴収する存在ではなくなり、税収組織が公的に割り当てた食封を給わるが、氏そのものは人材を官に供給する組織として温存する。 氏上は、配下に直接禄を与えることはないが、官組織における昇進を申請して結果的に地位や加増を賜る。この形で支配を維持することになった。本質的に現代の政治集団や企業の派閥と同じである。 《陂池》 山と沢、嶋と浦、林と野がそれぞれ対になっているから、「陂池」も陂〔つつみ〕と池の組として扱った方がよい。 『仮名日本紀』はまさにそうしている。 《前後並》 さまざまな地形要素を羅列するのは、私有地の広大さを印象付けるから、「前後並」は「以上一切合切」の意味であろう。 《莫作諸悪/隨事罪之》 世の中の解放ムードにより、犯罪も増えたのかも知れない。 《幸於高安城》 高安城の用途は、主に税〔穀物〕の倉庫となっていた。その視察が考えられる。 また、壬申年に因む場所なので、そこからの眺めはどんなもかと思って見に行ったことも考えられる(〈壬申〉《高安城》項)。 《新羅遣王子忠元》
『三国史記』新羅本紀/文武王に次の記事がある。 ――文武王元年〔661〕六月に、唐は蘇定方に高句麗を攻めさせた。 そして七月十七日に「金庾信」を大将軍として、その配下に大幢将軍(三名)、貴幢摠管(三名)、上州摠管(三名)、下州摠管(三名)、南川州摠管(三名)、首若州摠管(三名)、河西州摠管(二名),眞誓幢摠管(一名),義郞幢摠管(一名)とともに「慰知」〔人名〕を「罽衿大監」として進軍させた。 九月十九日には「大王進次二熊峴停一、集二諸摠管大監一、親臨二誓之一」〔文武王は熊峴停まで来て諸摠管・大監を集め、自ら誓いに臨んだ〕。 すなわち大監は摠管〔=総管〕と同レベルだが監督的な性格を帯びるかと思われる。 このように、大監は軍事に関わる称号と見られる。 第監は、弟監と同じか。これについては、文武王正月に軍糧を運ぶ途中、二十三日に「渡七重河至䔉壤。貴幢弟監星川、軍師述川等,遇賊兵於梨峴、擊殺之」 〔七重河を渡り、䔉壤に至る。貴幢弟監の星川、軍師の述川らは梨峴で賊兵に遭い、撃ち殺した〕が見え、やはり軍事行動に付随する称号である。 新羅本紀:真平王までさかのぼると、「五年春正月。始置二船府署一、大監、弟監各一員」とあり、大監・弟監はその語から想像される如く、もともとは一般的に正副の監督職を意味したと考えられる。 《送使》
《土左大神》
ただ、ここでは〈延喜式-神名〉{土佐国/土佐郡/都佐坐神社【大】}か。 土佐国の大社はこれのみである。 〈釈紀〉に『土左国風土記』逸文が載る。 ――「土左国風土記曰。土左郡々家西去四里。有二土左国高加茂大社一。其神名為二一言主尊一。其祖未レ詳。一説曰。大穴六道尊子。味鉏高彦根尊」 〔土左国風土記に曰ふ。土左郡の群家より西に去ること四里。土左国高加茂大社有り。其の神を名づけて一言主 比定社は土佐神社、祭神は味鋤高彦根神、一言主神(公式ページ)。 《栗隈王》
兵政官」は、令制の兵部省に相当か。その長官は「卿」、次官は「輔【有二大小一】」(資料[24])。 〈倭名類聚抄〉「兵部省【都波毛乃々都加佐】」(資料[24]) 栗隈王は、国家防衛の任務を優先して継位争いに与しなかった冷静さが買われたのかも知れない。 《大伴連御行》
《高麗朝貢》
《新羅進調》
《大意》 二月九日、 勅され大倭(おおやまと)、 河内、 摂津、 山背(やましろ)、 播磨、 淡路、 丹波、 但馬、 近江、 若狭、 伊勢、 美濃、 尾張らの国に 「部に属する民の歌がうたえる男女、 及び侏儒(しゅじゅ)芸能の人を選び献上せよ」と命じました。 十三日、 十市(とおち)の皇女(ひめみこ)。 阿閉(あへ)の皇女(ひめみこ)は、 伊勢神宮に参り赴きました。 十五日、 詔あり。 「甲子年に諸氏に賜った部曲(かきべ)は、 今後は、皆やめよ。 また、親王、諸王、及び諸臣、併せて諸寺らの賜った 山、沢、島、浦、林、野、堤、池、 その前後をやめよ。」と。 十九日、 詔あり。 「群臣、百寮及び天下の人民は、 諸々の悪事をはたらいてはならない。 もし犯すことが有れば、ことに従って罪とせよ。」と。 二十三日、 天皇(すめらみこと)は高安城(たかやすのき)に行幸されました。 この月に、 新羅は、 王子(せしむ)忠元(ちゅうげん)、 大監(だいかん)級飡(きゅうさん)金(こん)比蘇(ひそ)、 大監奈末(なま)金(こん)天沖(てんちゅう)、 第監(ていかん)大麻(たいま)朴(もく)武摩(むま)、 第監(ていかん)大舎(たさ)金(こん)洛水(らくすい)らを遣わして、 進調しました。 その送使、 奈末(なま)金風那(ふな) 奈末金孝福(こうふく)は、 王子忠元を筑紫まで送りました。 三月二日、 土左〔=土佐〕の大神は神刀一口を 天皇(すめらみこと)に進上しました。 十四日、 金風那(ふな)らを筑紫で饗しました。 そして筑紫から帰りました。 十六日、 諸王四位栗隈の王(おおきみ)を、 兵政官(つはもののつかさ)の長(かみ)としました。 小錦上(しょうきんじょう)大伴連(おおとものむらじ)御行(みゆき)を 大輔(おおきすけ)としました。 この月、 高麗(こま)は 大兄(だいきょう)富干(ふかん)、 大兄多武(たむ)らを遣わして、 朝貢しました。 新羅は 級飡朴(もく)勤修(ごんしゅ)、 大奈末(だいなま)金(こん)美賀(みか)を遣わして、 進調しました。 まとめ 大宝令前の組織として、大学寮・陰陽寮・外薬寮が出てくる。兵政官が兵部省の前身と見られていたことは、古訓ツハモノノ〔ツカサ〕からも分かる。 この後は、朱鳥元年に大蔵省と民部省が見える。 〈持統〉紀になると、刑部省および、「八省」がある。大宝令以後の八省制は、〈持統〉朝には既に概ね固まっていたのだろう。 ここでの官庁名の初出は、これらが直近に成立したことを示す意図もあるように思われる。律令国家の骨格は確立しつつある。 さて、占星台が新羅の技術者を招いて作られたものだとすれば、かつての百済に代わって新羅から先進技術を導入するようになったことを示す。 使者とともに新羅から訪れる人は数多く、全員を難波まで招くことができないほどだったようである。 大国への志向は、芸能面にも及んだようである。もはや軍事に汲々とすることから脱し、進んだ政治体制と文化をもつ国の姿を誇示して対抗しようとしているように見える。 |
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⇒ [29-03] 天武天皇下(2) |
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