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2024.01.23(thu) [28-08] 天武天皇上8 ▼▲ |
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19目次 【元年七月初:某日是日】 《將軍吹負于墨坂遇逢菟軍至》
吹負は「戦二于乃楽山一。為二果安一所敗」〔乃楽山で戦い果安に敗れた〕と、癸巳〔四日〕条で書かれた。 したがって、「是日将軍吹二負為近江一所レ敗…」は、四日以後のことである。 これ以後の出来語の日付の推定は《時東師頻多臻》項で行う。
旧初瀬街道の途中に「墨坂伝称地」碑がある(宇陀市榛原荻原と榛原あかね台1丁目の境界;北緯34度32分1.1秒 東経135度57分9.7秒)。 〈神武〉即位前(戊午年九月)に「墨坂置二焃炭一」、 〈崇神〉段(第111回)に「宇陀墨坂」の話がある。 墨坂神社は西峠の天ノ森にあったが、室町時代(文安6年〔1449〕)に現在の場所に遷ったという (宇陀市公式/[宇陀市歴史探訪])。 《遇逢菟軍至》 わずかな人数で戦場から脱出した吹負は、この墨坂で置始連菟と出会った。 その直前の動きは、多臣品治は三千を率いて莿萩野に駐屯。そののちに吹負敗北の報を聞き、菟が千余を率いて救援に向かった。 本隊は、紀臣阿閉麻呂と三輪君子首が数万を率いていたはずだが、その後の動きが見えない。これについては、ひとまず置く。 莿萩野の軍営は、一部を倉歷道に送ったが敗北。しかし敵が莿萩野まで攻めてきたところで逆転勝利した。 それが六日のことである([28-06]16)。 ここに至るまでの動きを推定してみる。 まず、置始連菟は二日に紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首とともに数万を率いて、和蹔から東山道・養老山脈東の街道・東海道経由で出発した([28-06]15)。 菟が吹負救出に向かった時点で、本隊はすでに名張あたりまで達していたかも知れない。 多臣品治は、本隊の後ろを衝かれないように、抑えとして莿萩野に残したと見るのがよいであろう。 そうするうちに、本隊に吹負敗北の報が伝わり、菟は一千余を率いて先に飛び出し、伊勢街道を西に向った。 一方、吹負は伊勢街道を進み、両者はうまく墨坂で出会ったわけである。 吹負は、飛鳥寺・後飛鳥宮方面は敵があふれているから、伊勢街道の東道軍本隊に向かったと思われる。
莿萩野の品治軍は、倉歷道から近江の別将田辺小隅による攻撃を受けた。 その五日から九日〔鳥籠山の戦い〕までの段落は、後から「是日…菟…急馳倭京」段の前に挟み込まれたと見るべきであろう。 本隊の、紀臣阿閉麻呂・多臣品治の名前を上げての動きは見えないが、おそらく上中下道の戦いの前に合流したのであろう。 「東師分軍各当上中下道而屯之」の「東師」は、まさに「紀臣阿閉麻呂・三輪君子首・置始連菟+大伴連吹負軍」と読めるからである。 《金綱井》 『大日本地名辞書』(以下〈地名辞書〉)は、 「吹負乃楽山(添上郡)に破れ墨坂に走り、高市県に返り高市杜牟佐神の神教を得たり、謂ゆる金綱井は今井の辺なる事明なり、 今井の大字小綱あり古はコツナと呼ひ●、即金綱に非す●や、詳ならす●」と述べる〔●…原文は濁点を欠く〕。 さて、吹負を収容した菟は、本隊には戻らずにそのまま三輪から高市郡に進んだ。 敵将の大野君果安自身は、飛鳥宮を山の上から偵察しただけで引き返したが([28-06]16)、まだ軍勢は周囲にあふれていたはずである。 それでも吹負は、菟の千余があれば、突破して金綱井に陣を置けると言い、菟も従ったのであろう。 さらには本隊から一定の人数を得て増強し、またあちこちで散発的に戦いを続けていた味方を収容しながら移動したとも考えられる。 そもそも、東道軍は倭京に出る予定だったから、予定通りの行動ではある。 敵の目をかいくぐって素早く金綱井に陣を置かねばならなかったと考えると、それほど日数はかけなかったのではないか。 よって、軍営の設置はひとまず六日だと考えておく。 《聞下近江軍至上レ自二大坂道一》 近江軍は、壱伎史韓国が率いている。 大阪道は、18段参照。 《当麻衢》
《衢》 チマタの語源は「道俣」、すなわち三差路である。〈時代別上代〉によれば「分かれ道、いくつかの道が集まって道俣になる所は、 おのずから、人家の集まる所となり、村里になっていく」。 当麻のチマタと言えば、横大路が大坂道と当岐麻道に分岐する所である。小字「千股」は、ここからはやや離れている。 地名として一定の範囲に広がり、その中のある地点の小字名として残ったことが考えられる。 前項で見たように「衢」は一般名詞と見た方がよいから、やはり横大路分岐点説が妥当であろう。 もし横大路の分岐点ならば、吉ヶ池(下述)とも程よく離れている。千股ではあまりに近く、地名を言い直さないかも知れないからである。 〈地名辞書〉は見出し語に上げず、文章中に二カ所出て来るがその位置には触れない。 『五畿内志』は葛下郡に「衢池:…天武紀所云当麻衢即此○倶在良福寺村」 〔天武紀のいう当麻衢は即ちこれ。ともに良福寺村にあり〕。良福寺村の範囲には小字千股が含まれるから、「衢池」は千股池(右図)のことである。 《壱伎史韓国》
『通証』は「即葦田池。在二葛下郡一」。 『集解』は大和志を引用する。 その『五畿内志』(大和志)は「葦田池:在二王寺村一。広三百三十余畝。推古天皇〔十〕五年造。天武紀…葦池側亦即此。一名片岡池」、 すなわち〈推古〉十五年の肩岡池に比定されている。 一方、香芝市公式ページの[石器のふるさと香芝(3)]は、 「磯壁の「吉ヶ池」については…「葦池」の古戦場であると『香芝町史』伝説の項に記されている」と述べる。 その『香芝町史』〔香芝町史調査委員会1976〕「伝承文化/伝説」には 「葦ケ池(磯壁):昔、壬申の乱の時、夏六月に将軍大友吹負は近江の軍が大坂の道から攻めて来ると聞き、ただちに軍を率いて西に向い当麻の衢に着いた。壱岐史韓国という者と大いに葦池のそばで激戦したという」とある(p.1072)。 ただ、同書の「伝説」には生れた時代、地域の広がりなどについては記されていないが、 アシを忌み言葉としてヨシに置き換えることはよくあるから、葦ヶ池が吉ヶ池に改められたこと自体は不自然ではない。 同市ハザードマップは、 「吉ヶ池」北東側の堰堤が決壊したときの浸水域を示す。そこで図示されている範囲を見ると、吉ヶ池は二上山から流下する水を受けるダム池であることがわかる。 〈仁徳紀〉、〈推古紀〉などには池の記事が多く見られ、それらに関連すると思われる依網池、狭山池、磐余池はダム式である。 池の築造については、農業生産の安定は国家経営の基盤であったから、天皇を偉大化する文脈に置かれるのである。 吉ケ池も、飛鳥時代までに数多く造られたダム式の池のひとつかも知れない。 文章を見ると、葦池は当麻衢にごく近いと見るのが自然である。 磯壁の吉ケ池なら衢からの距離は適切である。ただ、吉ケ池は決して大きくはない。 さらに、今のところ〈壬申紀〉以外には見えないから、有名ではなかったすれば特定の池に結びつけることは難しい。 その点では肩岡池の方が有利であるが、当麻衢から離れ過ぎているところに難がある。 よって、吉ヶ池と特定することにはまだ躊躇されるが、それでも二上山山麓に多数ある池のどれかとするのが順当かも知れない。 《有勇士来目者》 ここの来目は個人名だろうか。だとすれば「有…者」は確定条件「…のあれば」の構文となる。 しかし、〈天武〉前紀に「有…者」は多くあるが、どれも「…の者有り」と読むと思われるものばかりである。 確定条件のために「者」を用いたと見られる例は、殆ど見ない。よって「有勇者久米者」も「勇者久米という者が有りて」と訓むべきと思われる。 さて、久米部は書紀では大伴氏に仕える軍事部の性格が強い。 〈姓氏家系大辞典〉は「久米部 クメベ:上世、職業部の一にして、物部と相並び、軍事刑罰の事に当りし大部族にして、 大伴連の管理せし処なり」と述べる。大来目部が道臣命に従う関係にあることは、【大伴連・久米直】項や〈神武〉即位前〈7〉などで見た。 〈壬申紀〉では、将軍が「大伴連吹負」であることにも留意したい。 〈姓氏家系大辞典〉は「久米」と「久米部」とを区別しているが、部のつかない「天津久米命」は「久米部全体を神格化した」もの、 また「久米直」は「久米部の局部的の伴造家」との見解を示す。よって「久米部の者」を簡単に「久米者」と言ってしまうこともありそうに思える。 また来目が個人名でなければ、氏姓がないことも恩賞の記事がないことも当然で、この点でも辻褄が合う。 人数については、その「有勇士久米者」の場面では一人で切り込み、「令来目以俾射」の場面では何人かの来目者が一斉に矢を放ったと読むのがよいであろう。 いずれの記述も、軍事的職能集団としての優れた技能を示したものといえる。 《非殺百姓》 吹負は、軍を発した本意は百姓を殺すことではなく元凶を退治するためであるから、むやみに兵を殺すなと命じた。 この一節は〈天武〉の皇軍を美化するために挿入されたものと見られるから、実際にこの令が存在したか否かは問題にならない。 書紀古訓では「百姓」はオホミタカラと訓まれるが、ここでは「オ」の一字も付さない。ここでは一介の将軍による言葉に過ぎないから、 天皇が人民を愛しむ言い回しを用いることは畏れ多いということであろうか。 なお「元凶」への古訓「アタ」は、敵一般を指す語だから文意を生かし切れていない。 《将軍更還本営》 「本営」は、最初は飛鳥寺西槻下の営を乗っ取ったものであったが、この時点では金綱井だと見られる。 「高市郡大領高市県主許梅…」段(20)にも、「軍二金綱井一之時」と書かれているからまず確実である。 《大意》 この日、 将軍吹負(ふけい)は近江軍によって敗北させられ、 たったの一二騎だけを率いて逃げました。 墨坂に至り、たまたま菟の軍がやって来たのに逢い、 再び戻って金綱井(かなつなのい)に駐屯して、散り散りになった兵卒を招集しました。 このとき、近江軍が大坂の道から来ると聞き、 将軍は軍を率いて西に向いました。 当麻(たぎま)の衢(ちまた)に来たところで、 壱伎史(いきのふみひと)韓国(からくに)の軍と葦池(あしいけ)の畔で戦いました。 その時、勇士来目の者がいて、 太刀を抜いて速やかに馳せて近江軍の中に突入し、 騎士は踵(きびす)を接して進みました。 すると近江軍は悉く走げ、 追って斬ることがはなはだ多くありました。 ここで将軍〔吹負〕は軍中に指令を発して 「挙兵の本意は 人民を殺すことではなく、元凶をやっつける為である。 よって妄りに殺してはならない。」と命じました。 このとき、韓国は軍から離脱し一人で逃げました。 将軍は遥かにこれを見て、来目に命じて射かけさせました。 しかし当たらず、遂に逃げて免れることができました。 将軍は、再び〔金綱井の〕本営に戻りました。 《時東師頻多臻則分軍》
壬子〔二十三日〕条(17)を最後に、「初、…日」(18)と時間を遡らせて以後、ずっと日付がなくなっている。 「時東師頻多臻」の「時に…」は、普通は直前の文の時間に近接しているときの言い方である。 ただ、ここでは19段において壱岐史韓国勢を葦池で撃退して軍営に還り、その日のうちに本隊を迎え入れて軍勢を再編成して上中下道に出撃することになり、それはとても大変である。 よって、ここの「時に」は場面の転換で、実際には翌日以降の動きであろう。 ただ日付がつかないので、19段全体の具体的な時間経過は分からない。 しかし、これについては次の「高市郡大領高市県主許梅」段(20)の「軍金綱井之時」と「廬井造鯨軍自中道至」という語句から、時間の進行を同期させることができる。
次に「未経幾日」は三日~五日ぐらいかと思われる。 ただし、これの起点は村屋神が祝〔ハフリ〕に憑いたときで、事柄としては許梅が神がかりした話とは区別されるから両者の期間が重なる可能性は残る。 しかし、ア当麻衢の戦いが集結した後に、イ中ツ道の戦いがあり、 許梅の神がかりはアを予言し、祝の神がかりはイを予言したものだから、 祝の神がかりをアの終結後と見ることは許されるであろう。 それを前提とすれば、「是日将軍吹負為近江所敗~自此以後近江軍遂不至」段(19)は、全体で数日~十日間程度となろう。 この期間は、日付が明記された癸巳〔四日〕(16)の乃楽山での敗戦から、近江直入軍の安川浜での大勝〔十三日〕(17)までの期間に重なる。 すると、最終的に近江朝廷軍が敗北する〔二十三日〕(17)までにはまだ日がある。その間、倭京の情勢はどうなっていたのであろうか。 その点に関しては、「自レ此以後、近江軍遂不レ至」に注目すると、朝廷軍は防衛線を近江国南部に引き直し、部隊を集約したと見られる。 下の《犬養連五十君》項で見る動きは、それを裏付けるものである。 その結果、瀬田川西岸は「営二於橋西一而大成レ陣、不レ見二其後一」と描かれる如くになったと読める。 倭京は、今や東道軍によって占領されたと見てよいだろう。 《東師》 「東師頻多臻」は、紀臣阿閉麻呂・三輪君子首の率いる本隊が、遂に金綱井に到着したことを指すと見られる。 大軍だから、いくつかの部隊に分かれて到着したと思われる。 なお、この東師への古訓「ア(ヅマノイクサ)」はよくない。 大海人皇子軍は、尾張国・美濃国が主体だからその意味ではアヅマノイクサであるが、 ここでは、和蹔〔わざみ〕から近江「直入」と「伊勢大山」経由の二方面に別れて出発したうちの後者を指す。 すなわち東道軍のことだから「ウミツミチノイクサ」と訓むべきである。 《頻多臻》 「臻」は至と同じ。 副詞「頻」〔しばしば〕は、大軍勢がいつくかの軍団に分かれて波状に到着したことを意味する。 紀臣阿閉麻呂らが率いる東道軍を「数万」と述べる(15)のは、リアルな人数というよりは数多いことの表現だと思われるが、 それにしても相当の人数ではあろう。 《上中下道》 全体図 上中下道の位置は漠然とした推定ではなく、今日いわれている経路には考古学的、史学的に相当の根拠がある。別項で述べる。 一般にカミツミチ・ナカツミチ・シモツミチと呼ばれてはいるが、実際は古訓には見いだせない。 万葉では、そもそもこれらの道を直接詠んだ歌が見いだされない。 〈続紀〉には「上道」・「下道」が見えるが、それらは備前備中にある郡、あるいはそれに由来する氏姓〔上道朝臣、上道臣、下道朝臣〕である(〈応神〉二十二年【御友別一族】項参照)。 ただその訓み自体は、〈倭名類聚抄〉{備前国・上道【加無豆美知】郡}、{備中国・下道【之毛豆美知】郡」、すなわちカム〔ミ〕ツミチ・シモツミチと訓まれている。 もともとカミ・シモが連体格になる場合に、専ら格助詞ツが用いられるのは確定的である。 第43回で「上瀬者瀬速下瀬者瀬弱」がカミツセ、シモツセと訓まれる根拠については、 仮名書きとして(万)3907「泉河乃 可美都瀬尓 宇知橋和多之 いづみのかはの かみつせに うちはしわたし」が見える。 ナカについては、豹の古訓「ナカツカミ」が推古十九年/岩崎本にあり、 また〈倭名類聚抄〉に「豹:日本紀私記云。奈賀豆可美」が見える。 このように、上道/中道/下道を訓読する際の格助詞としてツを用いること自体は妥当なのだが、ただこの道が万葉集や〈続紀〉に全く出てこないことが気にかかる。 しかし、これについては平城遷都以後、平城京と廃都となった藤原京を結ぶ道を舞台とするような重要な出来事が、ほぼ皆無になったためと考えられる。 藤原京の時代までは一定の重要性があり書紀に出てきたが、その後は文献において姿を消したようである。 しかしその名称は〈壬申紀〉が広く深く研究されるうちに、史学・考古学の用語として復活した。 そして、漢字表記「上道」と仮名書きの「カミツミチ」が混合した「上ツ道」という奇妙な表記が定着したと思われる。 《犬養連五十君》
《村屋》 全体図 〈地名辞書〉「今川東村大字蔵堂に村屋神社あり、此辺〔このあたり〕の古名なり」、 「弥富都比売神社…今蔵王堂森屋社と曰ふ(大字蔵堂)者是なり」。 詳しくは《村屋神》項で述べる。 《廬井造鯨》
「東道軍数万」と比べて、「二百」ではアンバランスが甚だしい。 これについては、前段の「非殺百姓…故莫妄殺」を見ると多数の人民を徴用していたことは明らかなので、 「精兵」は軍事エリートを指すと見られる。ここでは軍勢全体の数ではなく、先頭を切って吹負の本営に突入した精兵の人数と読むべきであろう。 「当時」は「麾下軍少」、すなわち吹負軍の兵を手広く展開したために作戦本部の防衛が手薄になっていた。鯨はそこに目を付けて鋭兵二百を率いて突入したのである。 「遣別将廬井造鯨率二百精兵衝将軍営」は一応使役文である。ただ、犬養連五十君は「遣二別将廬井造鯨一」したが作戦は細かく指示せず、 鯨自身が用いた作戦として「率二二百精兵一衝二将軍〔=吹負〕営一」したと訓むべきである。 というのは、以後の戦況はすべて鯨軍の行動として書かれ、五十君の姿が全く見えないからである。 《大井寺》 全体図 『集解』は「按山城志葛野郡有二大堰一。堰又作レ井。蓋寺在二于此一既廃」と述べ、 その「山城志」すなわち『五畿内志』山城国/葛野郡には「大堰川:堰又作レ井。又名戸無瀬川。又西川。又葛野川。又桂川」とある。 このように『集解』は、山城志に葛野郡の大堰川は別名大井川だから、その地に寺があって廃れたのかも知れないという。 すなわち、全くの想像である。その点『通証』の「大井寺:未詳在何地」の方が潔い。 〈倭名類聚抄〉には{大井郷}が{駿河国廬原郡・富士郡}、{甲斐国巨麻郡}、{多摩国久良郡}、{近江国浅井郡}、{信濃国筑摩郡}、{備中国賀夜郡}があるが、何れも畿内からは遠く、関係は薄そうである。 〈地名辞書〉は「百済:敏達天皇元年百済大井に造営あり。河内志此大井を以て河内国百済郷に求め…」が目を惹くが、大井寺についての記述はない。 本サイトは〈敏達〉元年【百済大井宮】項で、「百済」の候補地を大和国広瀬郡・摂津国百済郡・河内国錦織郡・吉備池廃寺の百済などから拾った。 そして〈舒明〉十一年の「於百済川側建二九重塔一」は、吉備池廃寺が有力視されている(【百済川側九重塔】)。この地域に「百済大井宮」があり、その「大井」の地に「大井寺」があったとすると、位置としてはよく合う。 《寺奴》 寺奴については、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財リストの中に「奴二百九十一人」、「婢三百七十人」が見える(【Ⅴ:流記資財帳】)。 奴婢には陵戸と官戸を除いて納税の義務はないから(資料[35])、兵として徴収されることもなかったであろう。 ただその資財リスト中に「訴良口七百廿四人」とあるのが注目される。これは、奴婢を良民に上げるべく申請中の者と理解される。 仏教精神の発露かどうかは判らないが、少なくとも良民化を目指す方向性が見える。「寺奴」の呼称は慣習的に残っていただけで、実際には既に良民だったことも考えられる。 ただ、この考えは国司守または郡大領が徴集した兵力であることを前提としており、公が寺の所有民に手を突っ込めたかどうかは疑問である。 さもなければ、大井寺が進んで大海人皇子側に加わり、所有していた私兵が戦闘に加わったとも考えられる。 この時代に寺が私兵を抱えていたか否かは不明であるが、近江朝廷軍の将軍智尊(17)は僧侶だろうから、一般的に寺が自ら軍事行動を行うことをタブー視していたとは思われない。 以後寺院は僧兵を抱える独立勢力として勢力を拡大するが、秀吉の刀狩りに至りとうとうその牙は抜かれた。 《徳麻呂》
「是日」は、普通は同じ日に起こった別の事柄を述べる場合に使うが、ここでは前段の内容の続きである。 すなわち「分レ軍。各当二上中下道一而屯之」のうち「当上道」を担ったのが、三輪君高市麻呂と置始連菟の軍であったことを、 若干時間を遡って述べる。ならば「是日」ではなく、「是先」を用いるべきであろう。 《三輪君高市麻呂/置始連菟》
箸陵は、〈崇神〉紀十年九月(五)において、倭迹々日百襲姫の墓とされる。 倭迹々日百襲姫は〈孝霊〉天皇の皇女(第107回)。 同腹の皇子である吉備津彦は吉備臣の子孫だから、姫は吉備系と考えられている。 このことと、吉備の首長墓である楯築弥生墳丘墓と、箸墓古墳に様式の連続性との関連が注目される。 〈崇神〉紀で「箸墓」としたのは、天皇ではないことによる厳密な用語法であろう。 実際には「箸陵」の方が一般的で、〈壬申紀〉ではそのまま使われたと思われる。 〈崇神〉紀には昼は人が作り夜は神が作ったという言い伝えを載せ、短期間に多大な労力を使った様を描く。 当時の実感では、大王陵クラスの大古墳は皆ミササキであったと思われる。 また上ツ道の天理市豊田以南は直線〔上ツ道中ツ道と同様〕だが、ここだけ迂回させたたことから見て、陵墓として深く崇敬されていたことが伺われる。
近江方の犬養連五十君は中ツ道を進んできたが村屋で待機し、別将廬井造鯨に攻撃を任せた。 吹負は初めは形勢不利であったが、「大井寺奴」の「徳麻呂」ら五人を先鋒として攻勢に転じた。 三輪君高市麻呂と置始連菟は、箸陵で近江軍を大破し、勝ちに乗じて鯨軍を背後から攻めた。 鯨軍は退路を断たれ、遂に敗北した。 村屋神社と箸陵の位置から考えると、このときの両軍の配置は右図の如しと見られる。東道軍は、南から上中下道に分かれて近江軍を迎え撃ったことが分かる。 村屋に待機していた五十君は、高市麻呂・菟軍の背後を衝くことができる位置にいたが、どうして衝かなかったのであろうか。 おそらく、精兵はすべて別将鯨に付け、麾下には僅かな伴回りしか残っていなかったのであろう。五十君は後に粟津の戦いに登場しているから、この中ツ道の戦いでは無傷で済んだようである。 鯨軍の劣勢を見て、早々に引き揚げたのであろう。 〔その振る舞いを見ると、どうも卑怯な人物のように読める。後に粟津市で「斬二…犬養連五十君一」と特に名前が載る(17)のは、その卑怯さが知られていたため集中攻撃の的にされたためか。〕 《白馬》 白馬を、古訓は「アヲウマ」と訓む。 〈時代別上代〉は「あをうま:白色と黒色の毛の入りまじった馬。アヲは広く、黒から城に至るまでの漠然たる色をさす」とする。 〈倭名類聚抄〉は「騘馬:【日本紀私記云美太良乎乃宇万】青白雑毛馬也」。騘(驄)は白毛と青黒い毛の混ざった馬を意味する。 『新撰字鏡』享和本/馬部四十二「𩣭騘:馬白色又青色。阿乎支〔あをき〕馬」ともある。 したがって、アオウマは驄である。 ところが、〈倭名類聚抄〉によれば「後世もっぱら「白馬」の字を用いる…平安初期には…「青馬」の字が少なくない」。 だとすれば古訓は、平安時代中期になってから当時の意味によって「白馬」を驄と解釈した可能性が出て来る。 中国古典において「白馬」の用例は数多くあるが、文字通り白色の馬としか読めない。〈汉典〉も「白色的馬」とする。 書紀も書かれた時点では基本的に中国の漢字の意味によっていたから、本来はシロキウマだったと思われる。 white horse なら遠目でも目立つから、この方がむしろ文脈に合うと言えよう。 《甲斐勇者》
東国の武人が召されて中央で活動していること自体は、普通にあったと考えられる。 古くは、〈景行〉五十一年条に 「日本武尊…所レ献神宮蝦夷等、昼夜喧譁、出入無レ礼。時倭姫命曰「是蝦夷等不レ可レ近二於神宮一」。」 〔日本武尊が東国から連れ帰った蝦夷を伊勢神宮に献上したが、倭姫は「騒がしく礼義もない連中で、迷惑だから近くに置くな」と言った〕とある。 この伝説は、東国から武人を畿内に連れて来て、警護を務めさせたことを反映したものだと思われる。 壬申の時代も職能集団として東国の武人氏族が招かれ、畿内、あるいは西国にも配置されていたと考えられる。 甲斐勇者もその一例であろう。もとは朝廷に所属していたが、尾張美濃の国司などとともに大海人皇子側に転じたと考えられる。 《亦更》 「亦更」を熟語として示す辞書は見ないが、同意語を重ねたものであろう。 漢籍を見ると、『管子』侈靡の「応国之称号亦更矣」は「国の称号また更(あらた)むべし」である。これは「更」が動詞だからである。 一方、『後漢書』南蠻西南夷列伝は「武陵蠻亦更攻其郡」は「武陵蠻(民族名)また更にその郡を攻む」だが、 事実上亦を重ねるに等しい。ここでは後者の用法であろう。 《大意》 その時までに、東道軍はたび重ねて大軍が到着しました。 そこで軍を分け、 それぞれを上つ道・中つ道・下つ道に向けて駐屯させました。 ただし将軍吹負(ふけい)は、自ら中つ道に向いました。 ここに、近江の将犬養連(いぬかいのむらじ)五十君(いそきみ)が、 中つ道経由でここに到来しましたが村屋に留まり、 別将の廬井造(いほりいのみやつこ)鯨(くじら)を遣わし、 〔鯨は〕二百人の精兵を率い、将軍〔吹負〕の軍営を衝きました。 当時は麾下に軍の人員が少なく、抗戦できずにいましたが、 ここに大井寺の奴(やっこ)、名は徳麻呂(とくまろ)ら五人が従軍していました。 そして徳麻呂らが先鋒となり、進み出て矢を射たので、 鯨軍は進めなくなりました。 この日は、 三輪君(みわのきみ)高市麻呂(たけちまろ)と 置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)が 上つ道を担当していて、箸陵(はしのみささき)のところで戦い、 近江軍を撃破していました。 そして勝ちに乗じて、その勢いで鯨軍の後尾を断ちました。 鯨軍は悉く解体して逃げ、多くの士卒が殺されました。 鯨は、白馬〔古訓では葦毛の馬〕に乗って逃げましたが、 馬が泥田に落ちて進むことができなくなりました。 そのとき、将軍吹負は甲斐(かび)の勇者に 「白馬に乗った者は廬井(いほりい)の鯨(くじら)である。 速やかに追って射よ。」と言いました。 よって甲斐(かび)の勇者は馳せて追いました。 鯨に追いついた頃に、鯨は切羽詰まって馬に鞭打つと、 馬は抜けて泥から脱出でき、 馳せて逃れることができました。 将軍〔吹負〕はまた改めて本の処〔金綱井であろう〕に帰還して軍を置きました。 これから以後、近江軍は遂に来なくなりました。
【上ツ道・中ツ道・下ツ道】 全体図 《下ツ道》 『弐本古代旧都の研究』〔岸俊夫;岩波書店1988〕は、 「平城京朱雀大路を南に延長したいわゆる中街道がそれに当たり、稗田から二階堂・田原本・八木の集落を連ねて畝傍山の東を大軽をへて、 三瀬丸山古墳の周濠西端をかすめて南進する」と述べる。 『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009。以下〈古代の道〉〕は、 「大和盆地全域に遍く施行された条里地割は正東西南北方向をとるが、これらが南北に通る下ツ道と東西に通る横大路を基準に施行されたことは、 両道に沿う条里地割に約45mの余剰帯が認められることから明らかである」、 「当初は…目的地間を直線で結ぶ斜行道路が敷設されたが、後には広範囲にわたる地域計画の基準線として正方位道路が敷設されると考えられる」と述べる。 そして、「正方位道路の敷設時期については、壬申紀〔672〕に上中下道三道の名が見えるので、それ以前の敷設であることは明らかで、 筆者〔木下良〕は斉明・天智朝と考えたい」とする。 同書はその根拠として〈斉明〉の「狂心渠」の名残が下ツ道に沿う寺川と見られること、正方形方位が大和国を越えて大津宮付近まで及ぶことを挙げている。 条里地割の「余剰帯」については、 『日本古代旧都の研究』〔岸俊夫;岩波書店1988〕で 「机上計算の町数と実際の条里遺構の町数が一致しない」、「京南条里はあきらかに下ツ道の道幅を除いて条里制地割が設定」されたと指摘されていたものである(p.36)。 その条里地割の一部、「式下郡路東十八条一里」と「十市郡路西十八条一里」の間の部分を図中に示した (条里地割は、[小字データベース]による)。
奈良県公式/[令和5年度 指定文化財の概要]によると、 調査場所は「奈良県大和郡山市八条町372番」付近で、 「平成14〔2002〕年度から開始された「郡山下ツ道ジャンクション」の建設に伴う一連の発掘調査で、160m以上にわたって両側溝が検出」され、 「東西両側溝の溝心々間距離で23.9m…東側溝の幅は6~12m、深さは1.4~2mで、西側溝の幅は1.1m、深さ0.5m」、 「東側溝からは、橋脚に伴う木杭のほか、人面墨書土器や土馬、絵馬、人形、斎串といった祭祀関連遺物が出土」ということである。 写真は、橿原考古学研究所/デジタルアーカイブ/特集ページ/第1弾に掲載されたもの。 中央が東の溝、その左側が路面という。 同サイトによれば、溝の「内部には橋脚とみられる柱や、水をせき止めるしがらみ状の遺構」も見つかり、 また「出土した遺物から奈良時代の8世紀中頃から9世紀前半頃まで機能していた」と考えられるという。 発掘調査はジャンクション工事に関わる部分が対象だから、「160m以上」は発掘した部分の南北方向のフルサイズと思われる。 よって、この構造は南方に向けて地下に延々と続いているはずである。下ツ道の姿が物質的に確認できたのだから、大変意義深い。 なお、東溝の遺物は8世紀中ごろとされるが、下記《上ツ道》項では上ツ道の盛土は飛鳥時代と考えられるというから、 下ツ道についても原形は飛鳥時代から存在していて、その後奈良時代に路面と溝が上書きされたと考えるのがよいと思われる。 《中ツ道》
なお「幅6.5m」は、発掘幅のことで、溝の幅は次の記事の「2.2m」が正しい。 『産経』(2013.5.12)によると、 「新たに見つかったのは、長さ約15メートルにわたり、幅約3メートルの路面と、その東側に接する幅2・2メートルの側溝跡」、「砂を敷いて突き固めて舗装」したという。 なお、同紙が「中ツ道全体の幅は23~28メートル」と述べる点については、西側は未発掘だから推定である。 〈古代の道〉によれば、「〔下ツ道の場合〕発掘によって判明した道幅は両側溝の心々23~24m」という(p.8)。 《下ツ道》項で述べたように、大和郡山市八条町の調査では23.9となっている。 記事にあった「喜殿町」の発掘場所を、『奈良新聞』の写真によってgoogleストリートビューで探すと、2013年10月の画像に一致する箇所が見つかった。その地点は天理市喜殿町252の東にあたる。 その後、「県道51号線拡幅工事」が完了し、現在は遺跡はその地下にある。 発掘調査個所から正方位南に県道51号線、その延長線上も道である。 そして、大字大西と大字味間の境界が中ツ道に当たるのは明らかである。〈古代の道〉は「駅路はしばしば国・郡・郷の境界になっていたから、現在の行政界・大字界になっていることも多い」と述べる(pp.8~9)。 『日本古代旧都の研究』(前出)は、「中ツ道が条里整地割に関係なく、坪間を走っていることは、中ツ道が現存条里遺構と関係なく、それ以前から存していたこと」を示すと述べる。 すなわち、奈良時代の条里地割は中ツ道の経路を無視しているから、中ツ道はそれ以前から存在したとの見方を示している。 《上ツ道》
その以前の「第72次調査では、8世紀前半に埋没した流路」が確認された。 ※)…『桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査報告書26集』〔2005〕に収録。 大字巻野内の西辺、あるいはもう少し南の大字上之庄と大字栗殿の境界は明瞭に南北の直線で、上ツ道跡と思われる。 箸墓古墳の後円部に損壊が見られないので迂回したようだ。箸墓の伝説上の埋葬者である倭迹々日百襲姫は大王クラスの人物とは言えないが、 大王陵であるかの如くに神聖視されていたと思われる。 20目次 【元年七月是先】 《高市縣主許梅》
先是の語順では「先」は動詞だから「是に先んじて…」となる。「是先」〔このさきに…〕に比べてやや改まる感が強い。 金綱井布陣の日まで戻っているから、遡る時間幅が大きいことの現れか。 《高市郡大領》 資料[26]では、県主と国造はともに郡レベルの地方行政単位だが、国造よりは県主の方が古いと思われる 〔なお、『国造本記』の国造には、一部律令以後の国が混入している〕。 改新詔其二では、国造の主をそのまま郡大領に取り立てたから、 県主も同様に郡大領を拝したと見てよいだろう。 高市県は祝詞の「六県」のひとつで、宗教的な称として残っている(第195回《五村苑人》項)。 「高市県主」は、もともとは「県主」が祭祀を担う本家の呼称となって残ったものであろう〔国造家に類する〕。 〈延喜式-神名〉の{高市御県神社/名神大/月次新甞}〔たけちのみあがたかむやしろ〕は、まさに県主が祭祀を担ったと思われる。 《高市県主許梅》
高市郡で事代主神の名を負うのは〈延喜式-神名〉{高市郡…/高市御県坐鴨事代主神社/大/月次/新甞}である。 〈推古〉十五年《高市池》項で見た。 比定社とされるのは河俣神社〔奈良県橿原市雲梯町現雲梯町689(小字宮ノ脇)、祭神は鴨八重事代主神〕である。 ただ、別に〈延喜式-神名〉{高市郡:川俣神社三座/並大/月次新甞}があり、名称は混乱している。 〈地名辞書〉は「高市森:雲梯神社同処歟、或は云ふ今廃すと」〔雲梯神社と同所か。あるいは廃れたともという〕、 「壬申の乱に…と神教ありし霊祠なり」。 『三代実録』清和天皇:貞観元年正月廿七日甲申「京畿七道諸神進階及新叙惣二百六十七社…大和国:」〔以下〈三代実録〉〕に「従二位高市御県鴨八重事代主神…従一位」 〔〈三代実録〉859年の、全国267社の位階を昇らせた(あるいは新たに位階を叙した)記事中に、従二位から十一位に進めた〕とある。 『和州五郡神社神名帳大略註解』(資料[58])〔以下〈五郡神社註解〉〕では「雲梯神社」について、 式内「高市御県坐鴨事代主神社」、「在二雲梯村上森一」とする。 〈延喜式-祝詞/出雲国造神賀詞〉に「事代主命能御魂乎宇奈提〔乃神奈備〕尓坐」とあるから、同社を「雲梯神社」に比定したようである。 同書は「社家者曰『旧紀曰…』」として、「神代積葉八重事代主命依二経津主神之教一為二水鳥一上二雲天一。於是得二鴨事代主命之号一」 〔神代に八重事代主命は経津主神の教えにより、水鳥となって雲天に昇り、鴨事代主命の名を得た〕という。 そして、神代紀「合八十万神於天高市…」(第79回【一書2】 項)を引用した次に、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は天孫を護るために高市県に還降させ、「雲梯今云二宇奈代一」と述べる。 末尾に「又天武天皇紀所云『吾者高市社或作杜所居名事代主神』即当地也」と付記する。 同書に付された奥書に日付「文安三年〔1446〕」があり、その頃には既に現在雲梯にある河俣神社に比定されていたのではないだろうか。 ただ、かつて存在した高市御県坐鴨事代主神社は廃れ、事代主神は川俣神社に合祀されたという筋書きも考えられる。 《身狭社》
資料[58]の「〈五郡神社註解〉牟佐坐神社」で詳しく見た。 同書には「天武天皇即レ位元年七月奉レ授二无位生雷神正六位上一」 とあり、神階は無位から正六位上に進階している。但し、この冠位は養老令〔718〕以後のものである。 後に〈三代実録〉で進階し、「従五位下…牟佐坐神…並従五位上」とある。 《生雷神》 資料[58]において、「生雷神」と「生霊神」の二通りの表記があることを見た。 〈北野本〉・〈内閣文庫本〉の傍書や古訓を見ると、もともと「雷」だったが、呼び名が「イクミタマ」だったからごく古い時代は「霊」だったと考えたと想像される。 なお、〈北〉・〈閣〉ともに写本なので、筆写の過程でミタマがアマタなどに誤写されたと思われる。 《神日本磐余彦天皇之陵》 「神武天皇陵」が現在の場所に治定されたのは、文久年間だという。それまでは、現「綏靖天皇陵」が神武陵とされていた(別項)。 小字名「神武田」は、古い時代の「神武のミササギ」が地名になったと考えられるから、文永年間に古い時代の伝承地に戻ったのであろう。ことによると〈延喜式〉当時もその場所だったかも知れない。 〈延喜式-諸陵寮〉{畝傍山東北陵}の{兆域:東西一町南北二町}は最小クラスなので、小さな古墳もあり得るからである。 なお、〈神武〉天皇は空想上の人物なので真陵はそもそも存在しない。所在地問題なるものは、結局〈壬申紀〉のいう「神日本磐余彦天皇之陵」あるいは〈延喜式〉の{畝傍山東北陵}が、どこを指していたかということである。 小字「神武田」の位置は村屋坐弥富都比売神社、牟佐坐神社、高市御県坐鴨事代主神社、箸墓古墳の何れにも近く、位置は不自然ではない。 小古墳でも天皇陵とされたのは、おそらくは、畝傍山が古代から信仰の対象であったからと考えることができる。 その麓の塚に始祖が葬られたとする言い伝えがある一族に伝わっていて、それが巡り巡って初代天皇陵に転じたという筋書きもあり得るのではないか。 《村屋神》
〈五郡神社註解〉(資料[58])の「牟佐神社」の項に、「〔天武元年七月〕是日無位雲梯神村屋神並奉レ授二正六位上一」 〔無位から正六位上に進階〕と記される。 《挙是三神教言》 ここで「将軍等挙二是三神教言一而奏之」と述べ、 神がかりの件は神社が申したものを将軍らが伝えたものとして書く。 すなわち、そのまま史実として書くこととは一線を画することにより、 客観性を担保する書き方をしている。 《大意》 これに先んじて 金綱井(かなつなのい)に軍を布陣した時、 高市郡(たけちのこおり)の大領(だいりょう)高市県主(たけちのあがたぬし)許梅(こめ)は、 突然口を閉じてもの言えなくなりました。 三日後、 はじめて神が憑いて言いました。 ――「われは高市社(たけちのやしろ)にいます、 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)。 また身狭社(むさのやしろ)にいます、 名は生雷神〔生霊神〕(いくみたまのかみ)である。」 そして顕して告げました。 ――「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)〔神武〕の陵(みささぎ)に、 馬及び種々の兵器を奉(たてまつ)れ。」 そして、また言いました。 ――「われは皇御孫(すめみま)の命(みこと)の前と後に立ち、 不破にお送りし、また帰っていただく。 今また官軍の中に立ち守護させていただく。」 また、言いました。 ――「西の道から軍衆が来ようとしている。こころしなさい。」 言い終わったところで醒めました。 これにより、許梅(こめ)を遣わして御陵(みささき)を祭り拝ませ、 よって馬及びに兵器を奉りました。 また幣(みてぐら)を捧げて、高市(たけち)身狭(むさ)の二社の神に礼して祭りました。 その後に、壱伎史(いきのふみひと)韓国(からくに)が、大坂からやってきました。 よって当時の人は 「二社の神の教えられた言葉の通りになった。」と言いました。 また、村屋の神が祝(ほうり)に憑いて言いました。 ――「今わが社(やしろ)のある中つ道から、軍衆が来ようとしている。 よって、社(やしろ)の中つ道を塞ぎなさい。」 よって未だ幾日を経ず、 廬井造(いほりいのみやつこ)鯨(くじら)の軍が、中つ道からやって来ました。 当時の人は、「つまり、神が教えた言葉がこれであった。」と言いました。 軍の政を終えた後、将軍らはこの三神の教えの言葉を挙げて奏上しました。 よって勅を発して、三神の品(ほん)〔=神階〕を登進して祠りました。 【神武天皇陵】 ●〈神武〉段:「神倭伊波礼毘古天皇…御陵在畝火山之北方白檮尾上也」(第101回)。 ●〈神武〉紀:「葬畝傍山東北陵」(〈神武〉七十六年) ●〈延喜式-諸陵寮〉:{畝傍山東北/畝傍橿原宮御宇神武天皇。在大和国高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟}。 「神武天皇陵」については、第103回《畝傍山周辺》項で考察した。 江戸時代には、しばらく現「綏靖陵」が神武陵とされていた。 『天皇陵古墳』〔森浩一;大巧社1996〕によると、 「「綏靖陵」は江戸時代の山陵絵図には塚山…とよばれ、…文久三年の考定以前は…神武陵とされ折々の修補」を受けたという。 文久三年〔1863〕に現神武陵に改めた経緯は、 『神武天皇(研究史)』〔星野良作;吉川弘文館1980、以後〈研究史〉〕に詳しい。 同書は「神武帝陵内歟之場所取調之伺書」(安政二年〔1855〕『神武帝陵取調書』所収、京都大学図書館蔵写本)を引用する。 その主要な箇所を抜粋する。
小字神武田には二つの塚「小丘」・「芝地」があった。 これについて『天皇陵古墳』〔森浩一;大巧社1996〕によれば、 「「小丘」、「芝地」という二つの高まりがあったが、その後の整備で二つをつなげてしまい今日では直径36m、高さ3mの小山になってしまっている」という(pp.337~338)。 《綏靖陵》 一方、現綏靖陵は江戸時代には「塚山」と呼ばれていた。 〈研究史〉によると、『神武聖帝皇陵図話』(1757;書陵部蔵写本)に「四条村ノ御陵モ三上大助ノ垣ヲ造ザル先ニハ、御石棺の角少シ見エテ有シ」とあり、 石棺の角が露出していたという。 『天皇陵古墳』は、「〔藤原〕京造営の削平からまぬがれた〔次項参照〕塚山の存在を特別の配慮の結果によるものとみるならば、天武元年の「神武陵」の有力な候補となろう」と述べる。 同書は神武田の二つの高まりは古墳ではなく「平安時代中期に存在したという国源寺の塔跡…が有力視されてきた」が、 神武田「周辺にも埴輪の出土がみられる」ので、「小丘」、「芝地」も「綏靖陵」とともに「四条古墳群の一部を構成する古墳として見直す必要がでてきた」という(pp.338~339)。
その四条古墳群は橿原市四条町とその周辺にある。 「四条」の地名は、藤原京四条に由来するようだ。 『四条遺跡 第36次・藤原京右京四条六坊』 には「1987年の…四条古墳〔四条古墳群1号墳〕(墳長38m、前方後円墳、後期初葉)の確認」とある。 右図は、同書の示す古墳の位置である。 橿原市公式/[四条古墳群]によれば、 これらは「地上に墳丘の痕跡すら留めていない埋没古墳で、発掘調査によってはじめてその存在が明らかに…藤原京の造営に伴って墳丘が削平され周濠も埋められてしまった」と述べる。 「綏靖天皇陵」、「小丘」、「芝地」が四条古墳群に属するのは、配置を見れば明らかである。 ただし、小丘または芝地が古墳であることが証明されたからと言って、だから神武天皇陵だとするのは筋が違う。 その小丘が古墳であるか否かではなく、記紀や延喜式が神武「畝傍山東北陵」として、どの場所を規定したかという問題だからである。 まとめ 上中下道については、文研研究と近年の考古学による研究が相互に作用して、その経路がほぼ現実化したと言ってよい。 村屋坐弥富都比売神社と牟佐坐神社は、壬申紀に書かれたことが逆に寺伝を強化したと言えるが、それでも壬申の乱の時点から殆ど位置を変えていないと見てよいだろう。 ただこと高市社については、高市郡にあったのだろうが社自体は失われ「杜」(森)だけが伝承として残り、事代主神は比較的新しい時代になってから河俣神社に合祀されたと見るのがよさそうである。 箸陵を現在「箸墓古墳」と呼ばれている前方後円墳に比定することには、誰も異存はないだろう。これがまた上ツ道の経路の確実視に繋がっている。 神日本磐余彦天皇之陵については、現在の「神武天皇陵」であることを疑問視する意見は根強い。 この批判は、江戸時代から明治時代にかけてなされた諸「天皇陵」の治定が極めて政治的で、考古学的には問題外であることの延長線上にあると思われる。 神武天皇本人は架空の存在だからその真陵を比定することにそもそも何の意味もないが、もともとの伝承地がどこかという議論とするなら、何と言っても小字名「神武田」は強力である。 そこには四条古墳群の一部と見られる小古墳もかつて存在し、畝傍山自体が弥生時代またはそれ以前からの神であろうから、〈壬申紀〉のいう陵の位置をここに宛てることは冷静に見てあり得る。 これについては、あまり色眼鏡で見ない方がよいと思うところである。 今回の19、20段については、原文そのものは比較的平易であるが、 出て来る地名や遺物は多岐にわたり、その中には実在が確かめられた例も多いので、それらを含めると分量は盛沢山になった。 原文の記述そのものについては、実際には各地で戦闘があったはずだが記されているのはごく一部である。 それは吹負が関わる場面ばかりだから、将軍に同行した記録者が書き残したもので、それを書紀編者が入手できたと思われる。 寺奴、甲斐勇者は断片的だが、寺社勢力や東国武人を大規模に巻き込んだものであろうことは伝わってくる。 許梅と祝の神がかりの件は、牟佐社などが神階を求めて申請した文中にあったものだろうと想像される。 日付が記されない段落については、16段《急馳倭京》項で、 「盛りだくさんの展開が、たった一日で終わるとはとても思われない」と述べたが、今回の精読の結果は、はやり少なくともおよそ数日~十数日間にわたったことを明らかにしたと言ってよい。 日付がない部分は原史料に日付がなかったと考えられ、かといって恣意的に書き足すことは避けたと思われる。 すると、日付がある部分はむしろその信頼性が増すことになる。その点は〈神武〉紀をはじめとする古い時代の巻とは大違いである。 |
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2024.01.31(fri) [28-09] 天武天皇上9 ▼▲ |
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21目次 【元年七月二十ニ日、八月】 《將軍吹負既定倭地》
後述するように西諸国司への「令進…」は文書によって行われたと考えられるので、その作成に要する期間を考えると 19段「自此以後、近江軍遂不至」は二十二日の数日前であろうと思われる。 ただ、この時点ではまだ大友皇子が前線で指揮を振い、瀬田川を挟んだ攻防戦は続いている。この時点で大勢は決したと決めつけて西国統治を進めるのはまだ早い。 ここにも、スタンドプレーを好む吹負の人物像が現れている。吹負の描く計略は常に賭博で、自身がしばしば窮地に陥った。 さらに言うなら、〈壬申紀〉の描く戦闘場面が吹負のことに偏っているのは、その性格故に詳細に記録を残させたためと考えられる。 これについては、既に12段において 「〈天武紀〉下巻になると十二年の「卒」まで名前が出てこない」のは「野心に溢れる人柄が敬遠されたことも想像に難くない」と述べたところである。 《倭地》 「倭地」の四至は、〈壬申紀〉全体の記述から西:生駒山地、南:飛鳥宮、東:三輪山、北:平城山だと読み取れる。 《越大坂往難波》 主力の移動は別将〔いくさのすけ〕に任せ、吹負はおそらく麾下だけを伴って難波に向かう。大阪越えというから、丹比道から難波大道経由で難波宮に向った。 《自二三道一至二于山前一屯二河南一》 大友皇子が縊死した「山前」は、17段で、ひとまず山崎だと考えた。 山崎には、その地名を負う山崎院跡が確認されている。その他に「山埼駅」もある。 『日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕によると、 「山埼駅」は、弘仁四年〔813〕「遊猟交野、以山埼駅為行宮」〔『日本後記紀』〕などとあり、河陽離宮とも呼ばれたという。 そして貞観三年〔861〕に河陽離宮を修理して「国司行政処」〔『三代実録』〕すなわち国府にしたという(p.56)。 河陽離宮の所在地は、京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1である。
●〈続紀〉天平十三年〔741〕「五月乙卯〔六〕。天皇幸河南、観校猟」。 これについて検索をかけてみたところ、一本の論文を見つけた。 すなわち「当時天皇は恭仁京にいた。「河南」とは、恭仁京を流れる泉河(木津川)の南とされる」 (「「服曽比獦須流」と大伴家持―独居平城故宅作歌六首」〔磯部祥子;成城文芸(163)1998〕)。 つまり、前年に恭仁京に遷都した〈聖武〉天皇が、五月の節句の猟に一日違いででかけたもので、「河南」は木津川の南と考えられているという。 図3は恭仁京の推定位置、図2は恭仁京と木津川の位置関係を見るものである。 山崎の地は、木津川と宇治川の合流点に近い。となれば、両者の「河南」は同じところを指し、山崎付近の木津川の南を指す可能性が出て来る。 また、「三道」についても考えると、丹比道と大津道ならニ道しかない。ここまで三道がセットになって出てきたのは、上中下道であった。 これらに基づいて描いてみた東道軍の帰還経路が図1である。ここからは、次の筋書きが見える。 すなわち、吹負は東道軍を率いて金綱井から楽浪(ささなみ)に向った。 大海人皇子軍の勝利は既に確実となったから、摂津国・河内国などの国司を新政権に確実に服させようと考えた〔前述したように、フライング気味である〕。 そこで本隊の移動は別将たちに任せて、吹負自身は少人数の麾下を伴って難波に向った。 そのとき別将に命じたのは、本隊を率いて上中下道を北上して山前に向かい、河〔木津川〕の南で屯して、吹負の到着を待てということである。 そして吹負の到着後に「筱浪」〔ささなみ、楽浪とも〕に移動して、直入軍と合流してまだ逃げた左右大臣たちの探索にあたった。 それでは、営となし得る場所が、実際に木津川の南にあったのであろうか。
但し木津川の流路が現代と同じだったとすれば、軍営〔そして狩場〕は少し東の平原Bが考えられる。その場合は、「山崎」をもう少し東へ広げることになる。 何れにしても、軍営の地点を現在の木津川を挟んだ山崎地域の対岸と考えることは可能で、 かつこの河南の位置は、東道軍の帰還経路全体から見て自然である。 だとすればこれに連動して、大友皇子の最期の地もこの山前に定めてよいと思われる。大友皇子はまだ味方が残っているとの微かな望みをもってやってきたが、 既に敵の大軍勢が南から山前に迫っていることを知り、絶望して自死に到ったというストーリーを描くことができるからである。 《難波小郡》 「難波小郡」の宮が、かつての「難波長柄豊碕宮」(〈孝徳〉)なのは明らかである (【大化三年是歳(一)】《小郡》)。 摂津は〈天武〉六年〔677〕から摂津職が治める特別行政区画であったが、延暦十三年〔784〕に廃され普通の律令国となる。 それまでは「京師」と呼ばれる副都であった(資料[19])。 ここに「長柄豊碕宮」の名が出てこないのは、それが〈孝徳〉朝固有の名称だからであろう。 飛鳥宮で見ると、同じ場所であっても代々の天皇ごとに異なる名称が付された 〔〈舒明〉:岡本宮、〈皇極〉:板蓋宮、〈斉明〉:後岡本宮、〈天武〉:浄御原宮〕 (資料[54])。 故に、宮殿名は「~宮御宇天皇」(続紀)、「~朝」(国造本紀)として天皇の別名として用いられているのである。 《仰》 「仰以西諸国司等令進官鑰駅鈴伝印」は難解なので、腰を据えて解析したい。 まず、「仰」の一文字は孤立している。 改めてその字義を見ると、『康煕字典』には、①「挙首望也」〔見上げる〕。②「心慕曰企仰」〔心慕うことを「企仰」という。〔企は「つま先立ちして望み見る」〕〕。 ③「以二尊命一曰レ仰」〔命令を尊ぶことを「仰」という〕。④「今公家文移、上行レ下、用二仰字一」〔上から下に向けた公文書に「仰」を用いる〕とする。 ④は[国際電脳漢字及異体字知識庫]に詳しく、「旧時公文中上級命二-令下級一的慣用辞、有二切望的意思一」とある。 「仰」は「上行レ下」の文書で使われるというから「進官鑰駅鈴伝印」がもとは文書によるものであったとすれば、そこに「仰進官鑰驛鈴伝印…」とあったことが考えられる。 但し、ここで将軍を国司の上と言い得るかという疑問が涌く。しかしそもそも「官鑰駅鈴伝印」は国家の制度だから、朝廷が命じるものである。 よって、これは上から下への文書で、その伝達者が将軍だったと位置づけられる。 よって、原文書をほぐして書紀の文章の中に流し込んだ際、「仰」が「以西諸国司等」の前に出された可能性がある。 その訓読は、「上行レ下」の文書中であっても「仰」は「切望的意思」を込めたものだというから、「アフギテ」と訓読しても問題はないだろう。 《以西諸国司等》 次に〈兼右本〉は「以西諸国司等」を「仰」の目的語に位置づけている。しかし〈書紀〉の書法では、人物目的語を動詞の前に倒置する時に前置詞句「以~」にする例がしばしば見られる(〈欽明〉35《以後事属汝》項)。 したがって「西諸国司等」は動詞「令」の人物目的語とした方がよい。 その「西諸国」には、少なくとも摂津と河内は含まれるだろう。なお、和泉国はまだ河内の一部である(〈安閑〉元年)《茅渟山屯倉》項〕。 ただ、摂津は「国司」の国ではなく摂津職である。しかし、「令進…」の対象であろう。 河内国については「河内国司守来目臣塩籠」(18段)の自死が思い出される。 壱岐史韓国によって支配されていた河内国の介以下の国司は、吹負に面会して感激したのではないかと思われる。 摂津・河内以外に、どの程度の数の国が集められたかは分からない。 《令進》 進は、もともと上下関係には中立の語なので「業務を進める」意もあり得る。何かを指令する文書中ならそれではないだろうか。 ただ、「進」は書紀では「進みて言(まう)す」など下から上への意味ばかりに使われるので、 命じられた業務を着実に行うことは、すなわち「進上」であるとする語感を伴う。 なお、「進」を、旧朝廷に授けられた官鑰駅鈴伝印を返納させたとする読み方を見る。 ただ「返納」だとしても、その次に新朝廷から支給し直すわけだから、どちらで読んでも本質は同じである。 令は、単純に使役動詞としてもよいが、文書での指令ならノリゴツなどを用いて訓読する方がよいかも知れない。 《官鑰駅鈴伝印》
鑰は鍵のことで、鑰匙、管鑰ともいう。〈天智〉三年十二月には「両箇鑰匙自天落前」の例があった。 『令義解』職員令-中務省を見ると「大典鑰二人・少典鑰二人」があり、分注で「掌レ出一-納管鑰二」と解説されている。 これを見れば「官鑰」は「管鑰」であろう。「官~」〔ツカサノ~〕はすべてに自明で、鑰のみにこれを添えるのは考えられないからである。 『令義解』-内務省には、また駅鈴に関する記述がある。いわく「大主鈴二人・少主鈴二人」、分注に「掌下出二-納鈴令伝符一飛駅函鈴上」とある。 『令義解』公式令にも「駅鈴伝符」が見える。 駅鈴・伝符は「剋」(刻み)の数によって、駅で貸与する馬の数が定まる(改新詔《駅馬伝馬》項)。 駅鈴を用いる駅制と、伝符を用いる伝馬制の区別については、「諸道置駅馬大路廿疋中路十疋小路五疋」、「其伝馬毎郡各五」とある『令義解』厩牧令)。 すなわち、駅制は国家自身のグローバルな制度、伝馬制は国郡が担うローカルな制度である。 駅鈴の実物は、唯一隠岐国造家に伝わる(右図、厳密には真偽不明)。一方伝符は残っておらず、実体は不明である。 もしそれが木製だとすれば押印による証明が必要で、「伝印」はそれかと思われる。 そもそも「符」そのものがオシテ〔=印鑑〕と訓まれるので、結局は同じものであろう。 これを見ると、駅馬伝馬の二重制は既に壬申期に実施されていた。これは、既に改新詔〔646〕の当時から整えられつつあったと見ることもできる。 改新詔は書紀が大宝令の内容を遡らせて作文したものとする議論は、やはり単純過ぎるだろう。 以上から、「進二官鑰・駅鈴・伝印一」とは、新政権下で改めて体制を作って進めよという意味であろう。 近江朝廷が滅亡した今、この件に限らず諸制度を整え直すから今後はこれに従えという意が読み取れる。 《諸将軍等悉会》 「悉」は、近江直入方面と東道方面に分かれて出発した軍勢が、ここ篠浪の地で再び合流したという意味であろう。 両方面軍の経路は最初のプラン通りと見られる。その経路を見れば、東道軍の経由地「山前」は「山崎」とするのが自然である。 《篠浪》 ささなみ〔楽浪、 左佐浪、佐左浪〕は琵琶湖南西の沿岸地域(第144回【沙沙那美】項)。 この地域には大津京も含まれる。 《探捕》 探の古訓「アナグル」は、サグルと同義である。アナグルは、文献などの研究調査の意にも用いる。〈時代別上代〉は、サグルについてサグリ-トラフと熟した例も挙げている。 《不破宮》 野上行宮である(13段)。 《因以》 因+以は、二重の接続詞。激戦の末にやっとここに辿りついたという感慨が、接続詞を重ねたところに現れている。 《大友皇子頭》 頭については、〈天智〉二年六月条に 「斬而醢首」、すなわち鬼室福信の首を酢漬けにした記事が載る。これは、倭国に滞在していた子、集斯の許に届けるためであろうと見た。 大友皇子の場合は二十三日日に縊死してからまだ四日目であるから、酢漬け(あるいは塩漬け)にしたかどうかは分からない。 その首を届けたと思われる物部連麻呂が後に著しく出世した(17段)ことから見て、 香料をまぶすなどして、とても丁寧に扱ったのではないかと想像される。 大海人皇子は大友皇子の首に敬意を払ったと思われるので、その意を汲んでミカシラと訓むことにする。 〈時代別上代〉によると、同義のカウベはもう少し後の時代の言葉である。 麻呂は御首を奉って、東道軍が屯む山前の河南に参上したのではないだろうか。「山前」をやはり山崎だと考える所以である。 《献于営前》 野上行宮の伝承地は山中で、数万を置く営は難しそうである。やはり、中山道沿いの邸宅地と考えたい。 ただ、野上行宮からは離れるが和蹔原も考えられないことはない。 《高市皇子》
「坐」は、連座の意である。それでは、主犯は誰かと言えば、それは大友皇子に他ならない。 「八人」の内訳は書かれていない。 しかし、流刑者の名前を挙げるのに極刑になった者の名前を挙げないのは不自然である。 よって、これまでに逃げて捕まらなかった者を篠浪を探索して捕まえたと考えてみる。 以前に取り逃がした敵将としては、田辺小隅(16段)、壱伎史韓国、廬井造鯨(何れも19)が見える。 また、大野君果安(16)は乃楽山で吹負を大敗させたが、以後姿を消す。 もしこの四人を捕獲できたのなら「重罪八人」に含まれそうである。 しかし、それでもまだ四名が不足する。 そこで考え方を変えて「重罪八人坐極刑」を、「既所殺重罪八人也、此称極刑」〔既に殺された八人、此をば極刑と称す〕と読んでみる。 該当するのは、穂積臣百足(14)、 智尊、犬養連五十君、谷直塩手 (17)の四人である。 他にも大納言蘇我果安臣も実際には内紛による死亡であるが(15)、本来「極刑」になるべき者としてリストに加えられた可能性がある。 ここに下文の中臣連金、そして大友皇子まで加えれば七人になる。 冒頭に上げた逃げた四人のうち一人だけ捕獲できたとすると一応数は合うが、実際のところは分からない。 とはいえ仮に既に戦死した者のみを極刑と称したのなら、事後に裁判にかけた上で死刑を宣告した者はいなかったことになり、 事実上最高刑は流刑だからむしろ刑罰は極めて軽かったことになる。 《中臣連金》
右大臣より格上の左大臣蘇我赤兄臣や、大納言巨勢人臣は流刑に留まったから、こちらは戦わずに降伏したのであろう。 接続詞の「仍」〔よりて〕は、 「極刑に処すべき者(既に斬られた者を含む)のうち」の意味であろう。 《浅井田(根)》
『大日本地名辞書』には「和名抄…訓多祢。今田根村と曰ふ」とある。 現代の版本では「浅井田根」であるが、書紀成立後しばらくは浅井田だったようである。 以下、影印本から読み取った(右図)。 ● 〈北野本〉〔鎌倉時代とされる〕;「浅井田」で傍書もない。 ● 〈伊勢本〉〔15世紀とされる〕;同上。 ● 〈内閣文庫本〉〔慶長年間(1596~1615)〕;「根」が補われる。「田○」に傍書、「根イ隣畔也」か。 ● 〈兼右本〉〔天文九(1540)〕;本字に「田根」、傍書「イ无」〔異本に無し〕。 誰かが「根」を加えたとするなら、〈倭名類聚抄〉を参照したのかも知れない。 それでは、古い表記「浅井田」についてはどう考えたらよいのだろうか。 書紀全体で「郡名+下位地名(邑など)」の表記を見ると、ほとんど「郡」がついている。よって浅井郡の田根ならば、「浅井郡田根(邑)」のように書かれるであろう 〔「~郷」という表記は書紀には見えない。「~邑」なら数多い〕。 正確な経過は分からないが、鎌倉時代ぐらいまでは「根」を加えようとする発想はなかったように思える。 よって「根の脱落」の可能性は低いから、「浅井田」という地名がどこかにあったとそのまま受け止めるしかないであろう。 一つの可能性としては、「浅井の田」が語源で「浅井郡」は広域の地名「浅井」によるか。 《蘇我臣赤兄/巨勢臣比等/蘇我臣果安》
壬申の乱は諸国の国司が国レベルで参戦するなど、これまでになく大規模なものであった。 しかし、その本質は皇位の継位争いで、世界の民族間紛争で時に見られる相手を丸ごと絶滅させようとする戦いではない。 武装しての継位争いはこれまでも天皇の代替わりの時期にしばしば見られ、悲劇的に描かれている 〔近い時代では、〈舒明〉即位前の山背兄王、〈孝徳〉大化五年の古人大兄、〈斉明〉四年の有間皇子〕。 氏族にはその都度皇子を神輿として担ぎ、あわよくば勝利して利権を得ようとする動機はあろう。 しかし勝負がつけばノーサイドで、新しく定まった支配者には直ちに服する伝統があったと見られる。 所詮は中央の皇子による私的な継位争いに過ぎないと冷ややかに見らていたことは、筑紫大宰栗隈王と吉備国守当摩公広嶋が大友皇子への加勢を断った場面によく表れている (11段)。 よって、人民に怨恨が沈澱していつまでも反抗を続けることはあり得ないから、処罰は最小限にとどめて気持ちよく生産に励ませ国を富ませる方が得策である。 その精神は、19段の「非レ殺二百姓一」の言葉からも読み取ることができる。 《少子部連鉏鉤》
想像するに、尾張国では大海人皇子側につくべしという意見が大勢を占めたので、鉏鉤は心ならずもそれに従ったが、本心は大友皇子が正統と考えていた。 乱が終わった今、大友皇子を悼みまた自分の罪深さを恥じて殉死したということではないだろうか。 《大意》 二十二日、 将軍吹負(ふけい)は既に倭(やまと)の地を平定し、 大坂越えの道を難波に向いました。 その他の別将らは、 それぞれに三道を進み、山前(やまさき)に着いたところで河南(かわのみなみ)に駐屯しました。 そうしておいて将軍吹負は、 難波の小郡(おごおり)〔難波宮の所在地〕に留まり、 仰ぐ礼をもって西の諸国の国司らに、 菅鑰〔=鍵〕、駅鈴、伝符のことを進めるよう命じました。 二十四日、 諸将軍らは悉く篠浪(ささなみ)で合流し、 左右大臣、及び諸々の罪人らを探索して捕えました。 八月二十五日、 高市皇子は命を受けて近江〔朝廷〕の群臣の犯状を宣じました。 すなわち重罪の八人を極刑に連座しました。 よって、右大臣中臣連(なかとみのむらじ)金(くがね、かね)を浅井田(あざいだ)で斬りました。 これに先んじて、 尾張の国司の守(かみ)少子部連(すくなこのむらじ)鉏鉤(さいち)は、 山に隠れて自死しました。 天皇(すめらみこと)は、 「鉏鉤は功ある人である、 罪無くして何故自ら死んだか、 隠れた策謀があったのだろうか。」と仰りました。 二十七日、 恩勅され、諸々の勲功ある者に寵賞を顕(あらわ)されました。 22目次 【元年九月~十二月】 《車駕還宿伊勢桑名》
桑名で待っていた鸕野皇女は、万感の思いで大海人皇子を出迎えたことであろう。 ただ、鸕野皇女は戦勝の報を聞いて、不破宮まで来た可能性もある。 というのは、「太政天皇」〔〈持統》=鸕野皇女〕が大宝二年〔702〕の参河国行幸の際、不破郡まで足を延ばしてから伊勢-伊賀経由で藤原宮に帰ったからである(資料[76])。 この経路は、壬申の思い出の地を巡って懐かしむ旅であったと思われる。不破郡では、大領宮勝木実に外従五位下を授けた。 不破宮についてはその地を再訪することが主な目的であって、木実に勲功を称えたのはついでにしたことではないだろうか。 鸕野皇女の性格を考えると、行ったに違いないと思える。 《宿二鈴鹿一》 〈倭名類聚抄〉{伊勢国・鈴鹿【須々加】郡【国府】}。 宿泊場所は鈴鹿郡家であろうと思われる。 8世紀後半までの国府については、《伊勢鈴鹿》項で見たように、 長者屋敷遺跡と考えられている。 飛鳥時代の鈴鹿郡家の位置は不明であるが、あるいは鈴鹿駅に近いことも考えられる。 鈴鹿駅については、関連地名「関町古厩」がある。 《宿二阿閉一》
国府については、伊賀国庁跡が伊賀市坂之下に見つかり、「東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される」 (文化遺産オンライン/伊賀国丁跡)。 「存続期間は8世紀末から11世紀中頃」というから壬申の頃はまだ存在しないが、 現JR関西線沿いの街道に面する位置である。 伊賀中山、莿萩野もこの街道の途中と見られる。 宿泊した阿拝郡家も、やはりこの街道沿いではなかったかと思われる。 《宿二名張一》 六月二十四日即日段では「隠」であったが、ここでは名張の表記を用いている。 〈倭名類聚抄〉{伊賀国・名張【奈波利】郡}。 《隠郡隠駅家》項では、浦遺跡・黒石遺跡が名張の駅家や郡家に近いのではないかと見た。 《御二嶋宮一》 大海人皇子は吉野宮に穏退するとき、吉野宮に到着する前夜〔天智十年十月十九日〕にも嶋宮に一泊した(3段/《嶋宮》項)。 今回は、ここで三日間を過ごした。その間に岡本宮の準備をしたのであろう。 《移二岡本宮一》 これまでの最後の名称は後岡本宮〔〈斉明〉〕であるが、一般的には「岡本宮」と呼ばれたようである。 《浄御原宮》 「岡本宮南」に「宮室」を営み浄御原宮と称したとされる。 岡本宮の南東に増設したと思われる宮殿が検出され、「エビノコ郭」と呼ばれている (〈天武下〉二年《浄御原宮》項)。 《新羅客金押実》 新羅による遣使は新政権への儀礼のためであろうが、すかさず乱を終えた日本の情勢を偵察しにきたように思われる。 かつて、〈天智〉七年九月の進調は「百済高句麗地域から唐を排除する計画のあることを知らせ、倭の支持を取り付けようとした」と見た。 〈天武〉の代ではどうするのかと、探りを入れに来たのであろう。 回賜として供与した「船一隻」はもしかしたら軍用船で、暗に唐羅対立を煽る意思を込めた所詮は中央の継位争いに過ぎないと冷ややかに見らていたことは、筑紫大宰栗隈王と吉備国守当摩公広嶋が大友皇子への加勢を断った場面によく表れている (11段)。 ものかも知れない。 〈天智〉朝では、亡命百済民のいう唐羅連合によってなされる攻撃の危惧を真に受けて各地に朝鮮式山城を築城したが、そのための負担は半端ではなく、その不満が東国の氏族人民による皇大弟推戴の風潮を醸成した〔と本サイトは見た〕。 であるなら、〈天武〉は軍事的対応を終了しなければならない。そのためには唐羅間の軋轢は願ったりかなったりであった。 《韋那公高見》
九月八日、 車駕は帰り、伊勢桑名に泊まりました。 九日、 鈴鹿に泊まりました。 十日、 阿閉(あへ)に泊まりました。 十一日、 名張に泊まりました。 十ニ日、 倭京に入られ、嶋宮(しまのみや)に滞在されました。 十五日、 嶋宮から岡本宮(おかもとのみや)に移られました。 この年、 宮殿を岡本宮の南に作られました。 冬になると 移り、居住されました。 これを、飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみがはらのみや)といいます。 十一月二十四日、 新羅の客、金押実(こんおうじつ)らを筑紫で饗宴されました。 その日のうちに、 それぞれに応じて、禄を賜りました。 十二月四日、 諸々の勲功ある者を選び、冠位を加えられました。 小山位以上を、それぞれに応じて賜りました。 十五日、 船一隻を新羅の客に賜りました。 二十六日、 金押実らは辞して帰りました。 同じ月、 大紫(だいし)韋那公(いなのきみ)高見(たかみ)が薨じました。 まとめ 大伴連吹負は、古い時代なら左大臣に登れたかも知れない。その奮戦の裏には、久しぶりに大伴氏を中央に返り咲かせて名を残そうとする野心があったとも思われる。 よって戦いには祐筆を同行させて事細かに記録させ、それが〈壬申紀〉執筆の際の基礎資料として用いられたのであろう。 ところが、その奮戦にも拘わらず結果的には期待した地位は得られなかった。 その山っ気の多い人柄ゆえに敬遠されたのであろうが、大局的には中枢を氏族と皇室の連合体が担う体制からの脱却を目指した故と考えられる。 後には再び藤原氏の政権参加を許すことになるが、少なくとも〈天武〉朝においては特定の氏族による政権参加の排除に成功した。 それは氏族に何もさせないのではなく、氏族ごとに氏上を定めさせ、八色の姓でランクづけして天皇中心の体制下に秩序をもって組み込む策をとった。 すなわち、特定の氏族が政権中枢に食い込むことだけを防止したのである。 壬申勝利の原動力はまた東国の国司層であったが、だからといって特権的な地位に就くことを許さなかった。 尾張国守の少子部連鉏鉤はできたら右大臣、最低でも大納言を期待して奮戦したが、結果的にそれが得られないことが分かり、絶望して自死に至ったことが考えられる。 こんなことなら大友皇子を裏切らなけらばよかったと後悔したのではないだろうか。 かつて不破行宮において、高市皇子に「並みいる群臣を抱えた近江朝に、お前は対抗できるのか」という言葉を投げかけたのも、 特定氏族を左大臣などに参入させない体制を作ろうとする決意の表れと読める。 その結果がいわゆる皇親政治であるが、この用語は現象を捉えるのみに留まり、唐に対抗するために中央集権的な律令国家を築こうとした深い動機の解明まで至っていないように思われる。 ただし、朝廷から特定の氏族を排除することは以前からの歴史の路線上にある。直前の〈天智〉朝では、既に左右大臣を抑え込むために太政大臣を置き、大友皇子を任命している。 さらには乙巳の変による蘇我宗家の排除まで遡る。〈天智〉自身が中大兄皇子だった時代から、既にその流れを作り始めていた。 それは皮肉なことに、自ら後継者に指名した大友皇子ではなく、それを滅ぼした大海人皇子によって成し遂げられたのである。 大海人皇子は〈天智〉政治で生まれた諸族人民の不満をしっかりグリップして戦い幸運にも政権を獲得したが、 勝利して終わりではなく、その心の底にはきたるべき国家像はかくあるべしとする意識を一貫して持ち続けている。 |
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⇒ [29-01] 天武天皇下(1) |
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