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2024.12.21(sat) [28-06] 天武天皇上6 ▼▲ |
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15目次 【元年七月二日】 《數萬衆自伊勢大山越之向倭》
六月条の「庚寅初向乃楽」と七月条「庚寅朔」が重複していることは、日本紀講筵〔元慶二年〔878〕二月二十五日か〕で問題視されている。
そもそも、月初めに「○○朔」が書き添えられるのは日本の六国史特有の書法で、中国の歴史書にはない。 日本でも書紀以前は、干支表記の場合月初めの「○○朔」はなかったと思われる。 日付が干支表記されていれば、月が変わったときに月名が脱落していても間違いなく読めるから、たまたま原資料ではここは月名なしで「庚寅」となっていたのであろう。 書紀の草稿でも、六月段に入ったままだった。ならば、書紀全体に系統的に「○○朔」を付ける作業をしたときに、気が付いて一つめの「辛卯」に「秋七月朔」をつけ、「秋七月庚寅朔辛卯」は単に「辛卯」とすべきだったが、見落とされたと思われる。 《紀臣阿閉麻呂》
この文章は、文脈では「伊勢国より大山を越えて」を意味する。ただ、文法的には「自二伊勢大山一越レ之」である。 文脈に沿わせるなら、「越大山」、または「大山之越」〔"之"は動・目の逆転を示す〕「大山越」〔受事主語+動〕の何れかとすべきであろうが、 「大山〔受事主語〕+越〔動詞〕+之〔動詞「=行く」〕」でも組み立てられないことはない。 大山は「柘植から関の間」と見た(《越大山》項)。 経路は、大海人皇子が莿萩野から野上行宮まで移動した経路の逆順であろう。 すなわち、 和蹔⇒野上行宮⇒不破郡家(《野上》) ⇒桑名郡家(《桑名郡家》) ⇒朝明郡家⇒三重郡家⇒川曲坂下⇒伊勢国府⇒鈴鹿駅⇒鈴鹿関⇒大山⇒積殖山口 (全経路) ⇒莿萩野となる。 軍勢は、野上行宮を通過する時に、大海人皇子が出て来て謁見した情景が想像される。
東海道軍の一部を多臣品治が率い、莿萩野(推定位置)に駐屯した。 《田中臣足麻呂》
続く五日条には「越二鹿深山一而…詣二于倉歷一」とあるので、同じ道の北西部分が鹿深道、南東部分が倉歷道ということになる。 地名倉歷については、倉部川倉部川がある。 図の倉歷は、現在「倉歷峠」と呼ばれている地点。実際には「峠」とは言ってもほぼ平坦だが、三重滋賀両県の県境の南北である。 「倉歷道」は『事典 日本古代の道と駅』にも載らないので、道の部分的な呼び名か。 鹿深越のうち、「倉歷峠」の南北の部分が倉歷道であろう。 《山部王》
現在の犬上川と同じ川であろう。 《山部王…見殺》 山部王は、蘇賀臣果安と巨勢臣比等の手にかかって殺されたという。 その内紛の理由は書かれないが、次の筋書きが想定される。 すなわち、既に留守司高坂王は飛鳥寺西の軍営で寝返った。 諸王には大海人皇子側に付こうとする空気が広がっていて、山部王も心が揺れて、遂に大海人皇子側に加わることに決したのであろう。 しかし果安らは同意せず、とうとう山部王を殺してしまった。 果安は山部王の背反を朝廷に報告し、帰京してその殺害の正当性を訴えたと見られる。 しかし、大友皇子はむしろ山部王を殺害した行動自体を咎め、死を賜ったのであろう。 《羽田公矢国》
羽田公矢国の「来従」は、山部王軍の自壊を見て判断したものであろう。近江朝廷には見切りをつけたのである。 矢国の実際の戦闘は、二十二日の「攻二三尾城一」〔一般に高島郡三尾郷に比定〕で、むしろ南下して大津京に迫っている。 「北入越」としたのは〈崇神〉紀十年の「以大彦命等遣北陸」に准えたものと思われる。 そこには「以二大彦命一遣二北陸一、武渟川別遣二東海一、吉備津彦遣二西道一、丹波道主命遣二丹波一」とある。 九日段の「東〔海〕道将軍紀臣阿閉麻呂」も、「武渟川別遣二東海一」に准えたと感じられる〔但し、進軍の向きは逆である〕。 さらに「授二斧鉞一拝二将軍一」については、 日本武尊東征の際の「天皇持二斧鉞一、以授二日本武尊一」になど見える古風な表現である。 このように矢国に特別に重みのある対応をしていることから、近江朝廷の重要メンバーの来従の意義の大きさが見える。 矢国への厚遇を示すことによって、近江朝廷内部のさらなる離反を促したこともあろう。 《先是近江放精兵》 「先是」は、明らかに時間を遡らせている。「向倭」と「直入近江」の二方面に分けて発進させた二日より以前、 和蹔原に集結していた頃のことか。 《玉倉部邑》
居醒の清水〔書紀は「居醒泉」〕は、 現住所「米原市醒井58」に伝承地があり、日本武尊の移動経路から見てこの方が自然である。 しかし、それで玉倉部邑=醒井と一義的に定まるわけではない。伝説は周辺地域に広まるものだから、複数地点に「清泉」が生れるのは普通のことである。 そしてその一つが不破郡玉村であったと考えることができる。 さて「玉倉部」は職業部のようにも思えるが、〈姓氏家系大辞典〉にはこの部は見えない。「倉部」ならあり、財産保管の部や「鞍作部」を略したクラベがあるという。 すると、玉倉部邑は玉地域にあった倉部の居住地と解釈するのが適切であろう。 江戸時代の不破郡玉村は、現在の関ヶ原町北部の大字玉である。 タマについて〈姓氏家系大辞典〉は、地名多摩が武蔵国・甲斐国・下野国、多萬が長門国、田間が下野国にあり、 人名としては多末(遠江)、玉(大和、備前)、太万(山城国の文字瓦)などを挙げる。 このようにタマは各地にあるから、不破郡の「玉」も上代の地名の遺称かも知れない。 『関ヶ原町史』〔関ヶ原町1989〕も「近江側から攻め込んだのだから、玉倉部邑は近江国坂田郡の醒ヶ井とみるよりは、 美濃国不破郡の玉とするのが妥当である」と述べる(p.136)。右図を見れば、一目瞭然である。 《出雲臣狛》
すなわち天忍穗耳命は天照大御神と素戔嗚尊の子(第71回)で、 天忍日命は邇邇芸命の降臨に随伴した(第84回)。 そして「汝応住天日隅宮者、今当供造。…又当主汝祭祀者、天穂日命是也」 〔汝〔=大己貴神〕が住むべき天日隅宮〔=出雲大社〕を今提供する。汝を祭祀すべき人は天穂日命である〕と詔した (第79回【一書2】)。 このようにして出雲大社を奉斎することになった天穂日命の家系は、 『出雲国造系統伝略』〔北島斉孝1898〕に「天穂日命―武夷鳥命…〔十一代〕…氏祖命【別称鵜濡渟命…世所野見宿祢者〔氏祖〕命之第ニ子而菅原氏者其後裔也】」 〔別称は鵜濡渟命…世にいう野見宿祢は氏祖命の第ニ子にして、菅原氏はその後裔なり〕が見える。 右表を見ると出雲臣は複数あり、それぞれ独立に成立したようである。 しかし、それぞれが祖とする天穂日命・武夷鳥命・鵜濡渟命は代々の出雲国造を拝し、出雲大社に奉斎する血族である。 よって、複数の出雲臣は、出雲大社に仕える氏族だと自任する点で共通している。 「狛」の「出雲(無姓)」も武夷鳥命の子孫と名乗るから、出雲大社に仕える氏族の一であろう。 《大意》 七月二日、 天皇(すめらみこと)は紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)、 多臣(おおのおみ)品治(ほむじ)、 三輪君(みわのきみ)子首(こくび)、 置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)に、 数万の軍衆を率いさせ、 伊勢から大山を越えて倭に向わせました。 かつ村国連(むらくにのむらじ)男依(おより)、 書首(ふみのおびと)根麻呂(ねまろ)、 和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)、 胆香瓦臣(いかがのおみ)安倍(あべ)に、 数万の軍衆を率いて不破から出して 近江に直入させました。 その衆と近江軍が区別し難いことを恐れ、 赤色を衣(ころも)の上に着させました。 その後に、 別に多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)に命じて三千の群衆を率いさせて 莿萩野(たらの)に駐屯させ、 田中の臣足麻呂(たるまろ)を遣して 倉歷道(くらふのみち)を守らせました。 その頃、近江朝廷は山部王(やまのおおきみ)、 蘇賀の臣果安(はたやす)、 巨勢(こせ)の臣比等(ひと)に命じて、 数万の軍衆を率いて不破を襲わせようとして、 犬上川の浜に進軍させました。 山部王は、 蘇賀の臣果安、 巨勢の臣比等によって殺されました。 これによって乱れ、軍は進まなくなりました。 そして蘇賀の臣果安は、 犬上から近江に帰り、 頸を刺して死にました。 この時、 近江の将軍羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)と その子大人(うし)らは、 自らの一族を率いて来降してきました。 よって、斧鉞(ふえつ)を授けて将軍に任命して、 北方に越の国に入らせました。 この以前に、近江朝廷は精兵を放ち、 瞬く間に玉倉部邑(たにくらべむら)を攻めました。 そこで直ちに出雲臣(いずものおみ)狛(こま)を派遣して、 撃退しました。 16目次 【元年七月三~九日】 《將軍吹負屯于乃樂山上》
《古京》 古京は倭京〔飛鳥宮の地〕と同じだと直感されるが、確認しておきたい。 次の段では「古京是本営処也」という。「本営」は吹負が朝廷軍を丸ごと乗っ取った飛鳥寺西槻下を指すのは確実である。 また、戊戌〔九日〕に置始連菟が救援に向い「急馳二倭京一」とあるから、 古京はやはり倭京であろう。 《忌部首子人》
この問題を扱った論文「忌部首・同子首をめぐって―同一人説批判―」(愛知淑徳大学大学院―文化創造研究家紀要―5〔2018〕)がある。 同論文の立場は副題が示す通りだが、実際に「降階」の例が存在したこと自体は認めている。ただ同論文を一読したところでは、推定ばかりで十分な論理を欠くと感じられる。 《解取道路橋板》 「橋の板を外して取る」というから、この時代に既に木造橋が作られていたのは確実である。 考えてみれば、五重塔や九重塔を建立する技術力があれば木造橋の建造は容易であろう。 平城京の橋によると、 奈良時代には橋が実際に検出されている。 〈時代別上代〉が「石橋」(飛び石)、「打橋」(板を渡しただけの仮の橋)、「浮橋」、「船橋」の類ばかりを例に挙げるのは、上代の技術力を見くびりすぎではないだろうか。 《作楯》 当然楯を持った兵が警戒に当たったのであろう。次の段で「疑有伏兵」というのは、街並みに無人の盾を並べただけだと読ませるものだが、話を面白くするための潤色と思われる。 《大野君果安》
果安は近江朝廷側であったにもかかわらず、後に「糺職大夫」を拝する。 近江朝廷の敗北後、果安はその軍司令官としての有能さの故に取り立てられたと見るのがよいであろう。 《八口》 八口の位置に定説は見えない。 平城山から追って来たのだから、少なくとも飛鳥の北方であろう。 候補としては、例えば天香久山が考えられるが遠すぎて盾は見えない。 甘樫丘なら、見通しはよい。もしその何れかなら「八口」ではなく「天香久山」または「甘樫丘」と書いたであろう。 結局、これら以外の名前が後世には残らないようなささやかな山ということになる。 飛鳥京に十分近づいた低い山であろう。 《疑有伏兵》 攻め込ませておいて、周囲に潜んでいた兵が現れて一気に取り囲む戦法は十分に考えられる。 《大意》 三日、 将軍吹負(ふけい)は、乃楽山(ならやま)の上で駐屯しました。 その時、荒田尾直(あらたをのあたい)赤麻呂(あかまろ)が、 将軍に 「古京〔飛鳥〕は本営を置いた処です。 守りをお固めください。」と申し上げました。 将軍はこれに従い、 赤麻呂と 忌部首(いんべのおびと)子人(こひと)を遣して、 古京を防衛させました。 そこで、赤麻呂たちは 古京に行き、 道路の橋の板を解体して取り外して楯を作り、 京の周辺の街路を固めて守りました。 四日、 将軍吹負は、 近江側の将大野君(おおののきみ)果安(はたやす)と 乃楽山(ならやま)で戦い、 果安に敗れ、軍卒は悉く逃げました。 将軍吹負は、辛うじて脱出しました。 すると、果安は八口まで追い至り、 登って京を偵察したところ、街角毎に楯が立てられ、 伏兵があるかもと疑い徐々に引き返しました。 《近江別將田邊小隅》
『近江輿地志略』〔寒川辰清1734〕は「甲賀山:それとさす処なし甲賀一郡の山は凡て甲賀山」という。 実際甲賀郡は全体に山間地ではあるが、特定の目立つ山はない。 平安初期以前の東海道はほぼ現在の草津線の経路と見なされ※1)、基本的に谷を通り明瞭な峠越えのようなところはない。 「鹿深(甲賀)の山を越える」は、文飾であろう。 ※1)…《積殖山口》項。 《詣于倉歷》 上記《倉歷道》項で見たように、「倉歷峠」は平坦で、このあたりに田中臣足麻呂が営を置いたと想像される。 田辺小隅軍は深夜に密かに近づいて突然攻め込み陣営は大混乱に陥ったが、足麻呂は小隅軍が合言葉に「金」を用いていることに気づき、自ら「金」と言って脱出した。 《衘梅》 衘は銜の異体字で、口に含む意。
〈釈紀〉の「枚」を「梅」に作ったものとする解釈は文脈に合うので、妥当だと思われる。 書紀成立から間もなく筆写者が「枚」を誤読して「梅」としたものが定着したと想像される。 なお、ここで〈釈紀〉が引用した書の著者は、いずれも史記〔司馬遷(前漢)〕の注釈書を著した人である。 なお[中国哲学書電子化計画]で検索すると、漢籍に「銜枚」の用例は多数ある。 《穿城》 「城」とあるが、軍営なら周囲を囲むのは柵程度であろう。石垣に穴を開ける意の「穿城」は文飾で、「銜枚」とともに漢籍から借りたと考えられる。 そこで「銜枚」と「穿城」の両方が出て来る例を探すと、『芸文類聚』-「獣部中」に「『史記』曰:…取二牛千頭一…縛二火其尾一、穿レ城而出レ牛。壮士五千、銜レ枚隨二其後一」 〔牛千頭の尾に火をしばり、城を穿って突入させ、壮士五千人は枚を銜(ふく)んでその後ろに続いた〕が見つかった。 これは『史記』-「田単列伝」を要約したもので、原文は「得二千餘牛一…灌レ脂束葦於レ尾、焼二其端一〔脂に浸して束にした葦を尾につけて端に火をつけた〕。鑿レ城数十穴、夜縦レ牛、壮士五千人隨レ其後一」とある。 突入した牛は、熱さで大暴れしたという。「穿城」は「鑿〔=穴を開ける〕城数十穴」を意味する。 《足摩侶》
上記。 《男依》
軍は「直入二近江一」するから、名張の横河ではない。 近江国の現代地名に「息長」は見えないが、万葉に「息長河」が詠まれている。 ――(万)4458「尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 にほどりの〔枕〕 おきながかはは たえぬとも きみにかたらむ ことつきめやも」。
米原市公式/ [息長足姫(神功皇后)]によると 「息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です」という。 『近江町文化財調査報告書第20集 息長古墳群1―遺跡詳細分布調査報告書―』〔2000年;近江町教育委員会〕は、 「「塚ノ越古墳」や「山津照神社古墳」といった後期前方後円墳が、 継体天皇擁立に深く関わった古代近江の豪族「息長氏」にゆかりのある史料として古くから注目されてきた」と述べる(p.1)。 「横河」については、隠 《境部連薬》
――(万)0487「淡海路乃 鳥篭之山有 不知哉川 氣乃己呂其侶波 戀乍裳将有 あふみぢの とこのやまなる いさやがは けのころごろは こひつつもあらむ」。 ――(万)2710「狗上之 鳥篭山尓有 不知也河 不知二五寸許瀬 余名告奈 いぬかみの とこのやまなる いさやがは いさとをきこせ わがなのらすな」。 である。 ここに歌碑が設けられたのは、大堀山と芹川の風景が、鳥篭之山と不知哉川を直感させた故であろう。 大堀山は犬上郡内にあり、また淡海路〔後の中山道〕の経路にあたることを見れば、鳥籠山で差し支えない。 鳥籠山にまつわる特別のいわれがこの地域に伝わっていたことも考えられるが、ただ大堀山は実際には小さな丘なので本当は別の山ではないかという疑問は残る。 《東道将軍紀臣阿閉麻呂》
《急馳倭京》 この項2025.01.01修正 吹負が乃楽山で敗れたのは四日、置始連菟の救援軍が飛鳥京に向かったのは九日である(A段)。 吹負敗北の続きは、後の「初、将軍吹負向乃楽至稗田之日」条に繋がっている。その条の記述の日付を追っていくと、 脱出した吹負が墨坂で菟に出会った「是日将軍吹負為二近江一所敗以特率二一二騎一走之…」段は五日となる(B段)(次回以後に読む)。 この不一致をどう解釈するかであるが、ここで注目されるのがA段、B段ともに、書き始めが「是日」であることである。
壬申紀の七月条には局地戦を描いた複数のユニットが入り組んでおり、時間的にも前後する部分があるので、複数のユニットを並べているうちにこのようなことは起り得よう。 そこで、時間関係が成り立つようにユニットの順番を組み替えることを考えてみよう。 仮に、兔軍の派遣は、A段の九日(戊戌)のままで正しいとする。すると、B段は九日(戊戌)段に置かねばならない。 つまりB段は、A段に続けることになる。 この場合の問題は、四日に命からがら脱出した吹負が僅かな伴回りだけで五日間も彷徨うことになることである。その間敵に見つからずに済んだのかと考えると、疑問である。 そこで、兔軍の派遣日をB段の前日の四日(癸巳)に修正してみる。 この場合は、B段を「癸巳(四日)將軍吹負与近江将大野君…稍引還之」の後にもってくることになる。すると吹負は翌日に救出されるから流れはスムースで、これで解決しそうに思える。 ところがさらに読み進めると、その五日のうちに菟は散り散りになった吹負軍兵を収容し、当麻郡に出かけて勝利を収め、 さらに箸陵に転じて勝利し、そして吹負は本営に戻り、近江朝廷軍は大和戦線から撤退する。 この盛りだくさんの展開が、たった一日 この密度の濃い一日を終えた後の戦闘は、六~七日、九日、十三日、十七日、二十二日となり、逆に間隔が長くなっていく。 大友皇子が追い詰められる二十二日に近づくにつれて、戦闘の頻度が疎 《大意》 五日、 近江の別将田辺(たなべ)の小隅(おすみ)は、 鹿深(かふか)〔甲賀〕の山を越えて旗幟を巻かせ皷を抱えさせて、 倉歷(くらふ)に向いました。 そして深夜になり、 枚〔=口木〕をくわえ、柵を穿って劇的に軍営の中に入りました。 そして自身の軍卒と足摩侶(たるまろ)の軍衆が区別できないことを恐れ、 人に出会うごとにカネと言うことにして、 太刀を抜き殴りかかってみて、 カネと言わなければ斬るのみと命じました。 こうして足摩侶の軍衆は悉く乱れ、 事は突然起こりなすすべも知らず、 ただ足摩侶は聡くこれに気づき 独りカネと言って、辛うじて免れることができました。 六日、 小隅軍は更に進み、 莿萩野(たらの)の軍営を襲おうとしてあっという間にやって来ました。 将軍多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)は攻撃を遮断して、 精兵をもって追擊しました。 小隅は一人免れて逃げました。 以後、遂に再び来ることはありませんでした。 七日、 男依らは 近江軍相手に息長(おきなが)の横河で戦って 破り、 その将軍境部連(さかいべのむらじ)薬(くすし)を斬りました。 九日、 男依らは、 近江の将秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)で討ち、 斬りました。 この日、 東〔海〕道の将軍紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)らは、 倭京の将軍大伴の連吹負が 近江軍によって敗れたと聞き、 軍を分け、置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)を派遣し、 千余騎を率いて直ちに倭京に馳せました。 まとめ 吹負は始めは日和見を決め込んでいたが、一旗揚げるチャンスありと見て立ち精兵を募ったがあまり集まらず、かと思えば僅かな人数で奇策を弄して飛鳥本営を敵軍もろとも乗っ取った。 ところが、乃楽山〔平城山〕の戦いでは惨敗する。 これらを見ると山っ気が多い人物で、博打的な作戦を好んだように感じられる。 その人物像については六月二十六日是日(ニ)条では、その山っ気が災いして乱後はあまり厚遇されなかったと見た。 吹負は、最終的に常道頭〔常陸国守か〕という官職についている(〈続紀〉宝亀八年〔777〕八月丁酉)。 同条で、吹負の孫古慈斐は土佐守に「左降」〔左遷〕されたとあるので、あくまで「厚遇されなかった」という見方を貫くなら「常道頭」は閑職かも知れない。 さて、五日から九日までの部分は、 莿萩野戦線と湖東戦線のみを淡々と記している。 この間、他の戦線でも激しい戦闘が進行していたはずだが、それらについては二十三日条で大友皇子の滅亡を書いた後で時間を遡って書かれている。 その中にしばしば出て来る「是日」は、常に直前に書かれた日付を受けたとは言い切れないようである。 各事象の本来の順序については、次回以降に考察していきたい。 |
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2025.01.06(mon) [28-07] 天武天皇上7 ▼▲ |
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17目次 【元年七月十三日~二十三日】 《男依等戰于安河濱大破》
安河は、確実に野洲川。 戦場となった安河浜は、東山道が野洲川を渡る付近であろう。 それでは、東山道は具体的にどこを通っていたのだろうか。 「近江・野洲郡内の古代東山道ルート復元について」辻川哲朗(『紀要 第21号』〔滋賀県文化財保護協会2008〕)によると、 1970年以後「足利健亮氏」が「歴史地理的手法で総括的にルートを復元」、 2000年以後「高橋美久二氏」は「通説としての位置を確立した足利ルートにたいして再検討を加えた」。 図の朱線は同書に示された野洲郡の東山道復元ルート(p.16)を、野洲川(国土数値情報河川データセット/野洲川による)の流路に書き加えたもの。 アは高橋ルート、イは足利ルートである。 官道としての東山道は、律令期に直線状に工事されたと思われるが、以前からあった街道に沿ったものであろう。 同書は街道の由来について「少なくとも古墳時代には扇状地末端付近に南北ルートが形成され」、「7世紀前葉以前にはそうした道路の整備がなされていた可能性」があり、 「東山道は、それに先立つ段階に扇状地末端付近の地形的特性によって形成された陸路を基盤として、直線道路として公定・整備された」と述べる。 そして、それに合致するのは「足利ルートであった」(イ)とする。 ただ、現在の街路の向きにかつての条里が反映されたと考えると、アの方は条里に沿っている。 それでも、律令期の官道以前の街道は中山道に近いだろうから、男依軍の経路も大体これであったと見るのが妥当か。 現在の地図を見ると、東山道(イ)または中山道の渡川点の南に広い河川敷があり、野洲川河川公園と野洲川運動公園が設けられている。 壬申の当時にもこの付近に広大な河川敷があったとすれば、その砂地がハマと称されたかも知れない。ならば「浜」はハマと訓めばよく、古訓のように「ホトリ」と読む必要はなくなる。 《社戸臣大口/土師連千嶋》
〈倭名類聚抄〉には{近江国・栗本郡【久留毛止。国府】}、 〈延喜式-神名〉では{栗太郡}と表記される。 『大日本地名辞書』は二種類の表記があることを示した上で、「今も久利毛止と唱ふ。太字に不止の訓あれば、栗太の古音は不毛音の混転なるべし」 〔太の訓はフトだから、フ・モが混合してモトに転じたのであろう〕と述べる。 「栗太軍」は栗本郡に布陣した近江朝廷軍の意である。 《瀬田》 瀬田川については、神功皇后紀「令撃忍熊王」段《菟道川》項で見た。 《大友皇子及群臣等》 「大友皇子及群臣等」とあるから、大友皇子は大津宮から出て親征していた。決戦に望み、自ら軍衆を鼓舞したのであろう。 こうして瀬田川を挟んで、西側に大友皇子軍、東側に男依軍が対峙している。 なお、大海人皇子は、最後まで不破行宮に留まっていた。 《橋西》 「橋」は、明らかに現在の瀬田唐橋の前身である。
復元模型を見ると、橋脚の柱が六角形の頂点に配置されているのが特徴的である。 図(下右)は橋脚の柱の組み合わせを模式的に表したものである。 遺跡の第一橋脚部の木材(写真下中)は、模式図のAの部分にあたることが分かる。 木材には、垂直に立てた丸柱の受け口が見える。 この橋の構造の精緻さに比して、この橋の中央を断ち切って長い板を置いて綱で牽く仕掛けをしたという記述は、随分荒っぽく感じられる。 頭の中で描いた伝説のように思えてならない。 《智尊》
須は必須の須で「かならず」、容は「いれる=可能な限り」であろうか。 どの辞書にも熟語としての「須容」は出てこないので、[中国哲学書電子化計画]で用例を探したところ、 『全唐詩』〔清代〕巻455に見つかった。その漢詩の一節に、 「若許陪歌席、須容散道場。月終齋戒畢、猶及菊花黃」 〔若し歌席に陪席する許しを求めるなら、道場が散会すれば須(かなら)ず容(ゆる)す。月末に斎戒を終えた頃でも、菊花はなお黄色を保っているだろう〕とある。 文意の解釈は、 下定 雅弘(『中国文史論叢』1(2005.3))を参考にした。 作者は白居易〔772~846〕、 大和八年〔834〕の作。「答皇甫十郎中秋深酒熟見憶」〔皇甫十郎中が秋深くして酒熟し憶わるるに答う〕(3191)と題されている。 すなわちこの漢詩中では、「必須+許容」と理解される。 これを参考にすれば、「須容三丈置一長板」では"as long as possible"を意味し、文意は「〔木材から〕目いっぱいに三丈の長さを取ることができた板」であろう。 《置一長板》 敵の襲来が予想されるので橋を破壊し、暫くは板を渡した。そして、いよいよ敵が来た時に落とすという作戦は考え得る。 ただ、稚臣が瞬く間に駆け抜けて綱を断ったとする部分は、一族内で先祖の活躍を偉大化して描いた伝説かも知れない。 《大分君稚臣》
大分君稚臣は長槍を捨て鎧の上に鎧を重ねて走り込み、太刀で板に付いていた綱を断ち切った。 矢を受けても構わず素早く走り抜けて、敵が綱を引く前に渡り切ってしまおうと考えたのである。 伝説臭がぷんぷんするが、八年三月の死の際に「当二壬申年大役一、為二先鋒之一、破二瀬田営一」の功を挙げたと書かれるから、 先鋒として勇猛果敢に攻め込んだこと自体は史実であろう。 《粟津》
一方『今昔物語』巻十一天智天皇建志賀寺語第二十九に「天智天皇近江ノ国志賀郡粟津ノ宮ニ御マシケル時ニ」、 同巻十二山階寺焼更建立間語第二十一に「天智天皇ノ粟津ノ都ニ御ケル時ニ」とある。 これらからは、粟津は大津京に及ぶ広範囲の地名であったように見えるが、 方面としての呼び名なら、必ずしも大津の宮がそこにあったとは限らない。 それでも物語にこの呼び名が出て来るのは、地名が大変有名であったことを示すと思われる。 少なくとも壬申紀においては男依の進軍経路から見て、やはり膳所村の辺りを指すと見るのが妥当だと思われる。 《左右大臣》 もし「左右臣」なら「もとこのおみ」と訓むが、「大臣」だから左大臣と右大臣を指す。 すなわち左大臣は蘇我赤兄臣、右大臣は中臣金連である(〈天智〉十年)。 《粟津岡》 膳所村の西に丘陵があり、茶臼山古墳と小茶臼山古墳がある。「粟津岡」はこの丘陵だろうか。 《羽田公矢国/出雲臣狛》
《三尾城》
ここにある「大溝村」については、「大溝陣屋」が残る(高島市勝野1688)。 その南にあたる岳山山麓に、石塁が残る(現高島市鵜川)。本格調査が行われるまでは、江戸時代に作られたシシ垣と伝承されてきた。 『志賀文化財だより』64〔財団法人志賀文化財保護協会1982〕によると、 「山中の猪や鹿が、里の農作物を荒しに来るのをロック・アウトするために造られたと言われており、江戸時代にシシ垣を造ったと伝承されてきた」、 しかし「人家や耕地より1km以上も離れた山中を、無数の尾根や谷を横断しながら延々7km以上におよぶ石塁」を「猪や鹿の害を防ぐだけの目的」とするのは疑問だという。 そして「昭和55年〔1980〕、何回かの調査活動を行った結果、山中の各所に大小の意思を人為的に集積したと思われる場所を見つけることができた」。そこには「朝鮮式山城に特有の通水口を下部に設けた水門石垣」、「古墳の横穴式石室の石積み工法と同じ形態」、 「水道 同書掲載の水門石垣の写真を見ると、《椽城(基肄城)》の水門(通水口)の写真と酷似していて、 確かにこの時代に造られた朝鮮式山城のひとつではないかと思わせるものがある。 時代背景としては、〈天智〉による近江遷都の目的は、高麗との連携を強めて唐・新羅による攻勢に備えるためと考えた(《遷都于近江》)。 いわば大宰府〔本サイトはその前身を〈斉明〉朝倉宮と見た〕の前面に大野城を置いて防禦したのと同じように、近江京の前面に置いたのが三尾城であろう。 皮肉なことに、三尾城を攻めたのは唐・新羅軍ではなく大海人皇子軍であった。 《犬養連五十君/谷直塩手》
市は一般に交通路の交わるところに開かれるから、粟津市は東山道・東海道と瀬田川の水上交通路の交わる瀬田橋の近くか。 ただし、「粟津」というから瀬田川より西であろう。 《山前》 山前〔ヤマサキ〕は、秀吉と光秀の決戦の地「山崎」かと思える。 これについては、[大津の歴史データベース]〔大津市歴史博物館〕は、「その〔大友皇子の〕終焉の地という「山前」の場所については、古来諸説があって決めがたい」と述べる。 その比定地を巡る議論については、別項で見る。 《左右大臣及群臣》 左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連は大友皇子を推し立てることを「泣血誓盟」した(〈天智〉十年十一月)。にもかかわらず、大友皇子を放置して逃げ去った。 それに対して、最後まで大友皇子に随った物部連麻呂の律儀さは際立っている。 《物部連麻呂》
加えて大友皇子に最後まで臣従し、自死を見届け、首級を大海人皇子の許に届けた。 これによって大海人皇子の勝利の形が完璧に整ったのであるから、麻呂の功績は大きかった。 もし遺体が捨てられたり行方不明になったりすれば、〈天武〉朝の出発点に瑕 《大意》 十三日、 男依(おより)らは、 安河(やすかわ)の浜で戦い、大敗させ、 社戸臣(こそべのおみ)大口(おおぐち)と 土師連(はにしのむらじ)千嶋(ちしま)を捕えました。 十七日、 栗太(くるもと)の軍を討ち追撃しました。 二十二日、 男依らは瀬田に到着しました。 その時、大友皇子及び群臣(まえつきみたち)らは、 共に橋の西を軍営として大陣を展開し、 その後方は見えませんでした。 旗旘は野を覆い、埃塵は天に連なり、 鉦鼓の音は数十里離れていても聞こえました。 列した弩を乱れ打ち、発った矢が降り雨の如くでした。 その将智尊は精兵を率いて、 先鋒となって攻めて来ました。 そして橋の中央を切断し、 できるだけ長くとった三丈の一枚板を置きました。 もし板を踏んで渡る人があれば、タイミングよく板を引いて落としてしまおうというのです。 これにより、進んで襲うことはできません。 ここに勇敢な士があり、その名を大分君(おおきだのきみ)稚臣(わかおみ)といいます。 すなわち長矛(ながほこ)を棄て、 鎧を重ね着して太刀を抜いて素早く板を踏んで渡りました。 そして板に付けた綱を切断し、矢を浴びながら敵陣に入りました。 軍衆は尽く乱れ、散り散りになって走げ、制止できませんでした。 その時、将軍智尊は、 太刀を抜いて退く者を斬りましたが、止めることはできませんでした。 こうして智尊を橋の辺で斬りました。 すなわち大友皇子、 左右の大臣らは、 僅かに免れて逃げました。 男依らは、粟津(あわつ)の岡の下(もと)に軍を展開しました。 同じ二十二日、 羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)と 出雲臣(いづものおみ)狛(こま)が、 合流して共に三尾城(みおのき)を攻め、降しました。 二十三日、 男依らは、 近江の将犬養連(いぬかいのむらじ)五十君(いそきみ)と 谷直(たにのあたい)塩手(しおて)を、 粟津の市で斬りました。 こうして、大友皇子は逃げましたが入れる場所もなく、 やむを得ず、山前に隠れて自ら首をくくりました。 その時、左右の大臣及び群臣は皆散亡しました。 ただ物部の連麻呂(まろ)と一二の舎人(とねり)がお供しました。 【山崎を巡る議論】 『大日本地名辞書』は「〔石坐神社の項で〕茶臼山という古墳あり、此を指して弘文天皇山前陵也と云う、皆信用すべからず」と述べ、まず茶臼山古墳説を否定している。 主な候補地は、秀吉・光秀の山崎の戦いの地と、三井寺近傍である。 《天王山の山崎説》
その箇所は、『五畿内志』河内国/茨田郡「古蹟:山崎院址【在二三矢村一。僧正行基建。宝亀四年十一月施二-入当郡田二町一。 天武天皇元年秋七月。将軍吹負已定二倭地一自二三道一至二于山前一屯二河南一即此】」。 すなわち、行基が建立した「山崎院」が三矢村にあり、ここが壬申紀にいう「河南」の「山前」にあたるという。 山崎院跡については発掘調査が行われ、「1989年・1999年に行った発掘調査で、奈良時代の唐草紋彩色壁画片、 半丈六〔丈六×½〕の塑像片、塼 その山崎については、〈倭名類聚抄〉に{山代国・乙訓郡・山崎【夜末佐岐】}がある。 『日本歴史地名大系』は、「現〔大阪府〕島本町山崎1~3丁目・山崎・東大寺一丁目」で 「大山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)に接し、その間に河川などの自然の境界はない」と説明する。 大友皇子は僅かな伴回りと共にここまで落ち延びたが、遂に敗北を受け入れて自ら命を絶ったという筋書きは十分あり得る。 《三井寺近傍説》
すなわち、山前は三井寺(園城寺)が山号とした「長等山」の前〔先〕のことで、同寺は大友皇子の子与多麻呂が大友皇子を偲んで発願した。その場所が大友皇子が薨じた地に近いと考えたと思われる。 与多麻呂については、『本朝皇胤紹運録』では「大友皇子―与多【賜二大友姓一】」となっている。 「弘文天皇長等山前陵」は、明治三年〔1870〕に大友皇子に弘文天皇を追号した後に、陵と定めたもの。 大津市役所の東にあたる。 『日本歴史地名大系』もこの立場である。 曰く「長等山前陵:弘文天皇(帝大友)の御陵なり、近年推定して三井寺北院の亀岡を以て之に充つ、今大津兵営の柵内に在り」、 「弘文天皇の山陵は明治十年六月亀岡 《議論をどう見るか》 ここで改めて「走無レ所レ入乃還隠二山前一」を忠実に読めば「一度は遠くに逃げたがもはや安全な場所はなく、戻ってきて山前に隠れた」となる。 戻って来たのなら、「山前」は粟津~近江京である。ただ「山前」は野外を表すためで、実は地名ではなく「山の先」なのかもしれない。 ところが、後の辛亥条(B)の「山前」は、〔山背・摂津境界の〕山崎から遠ざけることは難しい。よって両者の辻褄を合わせようとすれば、 ●ア 壬子条〔大友皇子自経の件〕(A)の「山前」とB〔将軍吹負…至于山前屯河南〕の「山前」を別の所として読む。 ●イ A「還隠二山前一」の「還」は最初の場所への帰還ではなく「却って」の意味である※)。すなわち「警備のある宮殿をあきらめて、野外でせめて隠れられるところに行った」と読む。 のどちらかであろう。※)…還・却の両者とも「[動]かえる・かえす。[副]かえって。」の意味がある。なお、動詞の前の一文字は副詞の場合が多い。 思うに、山前の場所は、Bを中心にして考えるべきであろう。 Bでは、将軍吹負が大坂道経由で難波の副都に入ったとき、別将〔イクサノスケ〕は「各自三道進至于山前屯河南」 〔各自がいくつかの道を取って山前に至り、河南に駐屯した〕と述べたものであった。 この山前が山崎だとすると経路は北回りに過ぎるので、これはこれで問題が残る。 しかし、少なくともBの「山前」は粟津~近江京ではない。もしこの時点で「粟津の山前」に行ったのなら、それは依然として戦闘を続けていた直入軍に加勢するためとなる。 それなら「既定二倭地一」の後の移動の経由地という書き方はしないだろう。 かと言って、アも考えにくい。 もし別の「山前」なら、どちらかに何かを付けただろう〔横河と息長横河を書き分けたように〕。 このように考えていくと、結論は必然的にイに傾く。 しかしことはもう少し複雑で、実際には自経の現場を三井寺近傍とする別伝も存在していたように思われる。 別伝では「還」は「帰る」意味であって、それが書紀に混合した結果、今の形になったのかも知れない。 《「山前」比定の意味》 大友皇子終焉の地は、既に歴史的な実証から離れて文化史上の規定の問題になっている 〔物質的根拠ではなく、集団意識の成り立ちの探求〕。 文化史的には、三井寺近傍とすべきであろう。それは、与多麻呂が大友皇子を偲んで三井寺を建立したという寺伝により、薨じた地〔明治以後は崩じた地〕はその近辺であるとする意識が、年月を経るうちに人々の内に浸透しているからである。 それに対して大和・摂津が接する山崎は、仮にこれが史実だったとしても現地に伝承はないから、信仰としては途絶えている。 だから、文化史としては大友皇子終焉の地は長等山山前に軍配が上がる。 ただし、あくまでも客観性に拘り史実をというなら、やはり山崎が有利だと思える。 この矛盾は、古墳への考古学的な探求と天皇陵の治定が衝突するのと同質であろう。 18目次 【元年七月初:二日~某日】 《將軍吹負向乃樂至稗田之日》
ここからの段落は、「初」、すなわち時間を遡って「将軍吹負向二乃楽一至二稗田一之日」 〔吹負が乃楽(平城山)に向かい稗田に到着した日〕以後のことを述べる。 これまでの部分では「初向乃楽」が七月一日、 「屯二于乃楽山上一」が三日なので、 「至二稗田一日」は急げば一日、ゆっくり行けば三日である。ひとまず真ん中の二日としておく。 《稗田》 『五畿内志』大和国/添上郡に「村落:稗 なお、賣太神社の祭神の稗田阿礼は古事記序文に登場し、天細女命を祖とすると伝わる。 《坂本臣財/長尾直真墨/倉墻直麻呂/民直小鮪/谷直根麻呂》
ここの坂本臣財以下の各氏も、坂上直配下の「諸直」と見られる。 《距於龍田》 三軍を置いた場所を、それぞれ「距二於龍田一」、「屯二大坂一」、「守二石手道一」として表現が異なっている。 各氏族の家伝の語句をそのまま使ったためかも知れないが、実質的な理由も考えられる。 《懼坂道》項で考察する。 《龍田》 〈履中〉即位前紀《龍田山》項参照。 《佐味君少麻呂/鴨君蝦夷》
〈履中〉段で、天皇が大坂の山口に到着した時、そこで出会った一人の女性に 「大坂道は敵が塞いでいるので、当麻道経由がよろしいでしょう」と助言された(第177回)。 すなわち、丹比道は大坂道と当麻道に分かれて二上山の南北を通る。当麻道の方が急峻である。 《石手道》 石手は、現代地名には見えない。 難波方面から攻める敵軍に備えて龍田・大坂・石手道に軍を配置したという。よって石手道を当麻道にあてることには合理性がある。 『大日本地名辞書』は「長尾」(旧名磐城村)の項内に「竹内嶺」の小見出しを設け、その中で 「竹内嶺 《平石野》 平石野は直感的にはナラシノと訓めるが、古訓には見えない。〈内閣文庫本〉・〈兼右本〉では、音読みの提案もある。 そこで『大日本地名辞書』(以下〈地名辞書〉)を見ると「奈良 また『五畿内志』を見ると、 大和国之一〔総説〕に「平石峠【石川郡外通平石村因名】」、 河内国石川郡に「村里:平 〈地名辞書〉は、龍田村南の車瀬辺りが奈良志岡であったと推定する根拠として、次の万葉歌を挙げる。 ――(万)0969「神名火乃 淵者浅而 瀬二香成良武 かむなびの ふちはあせにて せにかなるらむ」。これは大伴旅人が故郷を懐かしんで詠んだ歌。 ――(万)1466「神名火乃 磐瀬乃杜之 霍公鳥 かむなびの いはせのもりの ほととぎす」。 ――(万)1507「(題詞)大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首:古郷之 奈良思乃岳能 霍公鳥 ふるさとの ならしのをかの ほととぎす」。
〈地名辞書〉は「磐瀬之杜」については、「今の龍田川の東傍に松の老木ども村立残れる森を今も岩瀬の杜と呼べり」と述べる。 また、「磐瀬森 ただし、「磐瀬の杜」の伝承地は他にもあり、JR三郷駅の南西200mに「磐瀬の杜」の石碑及び鏡王女の歌(万)1419「神奈備乃 伊波瀬乃社之…」の歌碑がある。 〈地名辞書〉に戻ると、万葉歌によって「磐瀬=奈良志」としたのは一つの推論ではあるが、坂本臣財らが龍田に到着後車瀬辺りで一泊した後に高安山に向かうという経路自体は不自然ではない。 また、この位置なら財らが龍田の中でも東の方に布陣したとする読み方〔《懼坂道》項で述べる〕にも合うことになる。 よって、〈地名辞書〉の「平石=奈良志=磐瀬之杜」説は牽強附会のようにも見えるが、財軍の経路から見るとその位置は適切なので案外正しいのかも知れない。 《高安城》
そこで見たように、朝鮮式山城に一般的にある石塁の存在が高安城にも予想され、さまざまに論じられてきた。 《倭国高安城》項で見たように、予想された石塁については計画はあったが、結局築かれなかったようである。 そして、税の収納庫として使用され、〈天智〉八年十二月、畿内の田税が収納された記事、 九年二月には穀物と塩を貯蔵するために増築した記事が載る。 右図で標高最高点はAであるが、街道を望観した位置は高安山古墳群(B)付近ではないかと思われる。 ここはもうひとつの山頂で、城郭線上にあって眺めのよいところに古墳が築かれたと考えられるからである。 Cは礎石建物群で納税された穀物の貯蔵庫と考えられている。 この礎石建物群自体は奈良時代のものだが、書紀の記述から見て〈天智〉朝の頃から税の貯蔵庫があり、それはCと同じ場所とも、別の場所とも考えられる。 1~3は河内国高安郡側からの現在の登山道で、地理院地図に破線で記入されているもの。 この下山ルートについては、《衛我河》項で論ずる。 《悉焚秋税倉》 「秋税倉」は、前項で述べたように礎石建物群(C)と合致する。 敵軍の守備兵は、坂本臣財が攻めて来たことを知り、城を放棄して脱出した。 また、坂本臣財が壱伎史韓国軍の接近を知り、高安山から降りて迎撃に向かったが、司令官の財も城に残ることはなかった。 これらは、高安城にまともな防御機能がなかったことを意味する。やはり石塁は築かれなかったのである 〔但し、資料[74]では大門付近で部分的に築城が進んでいた可能性も見た〕。 なお、この論点は、城郭線に関するいずれの推論にも見えない。 《大津道》
大津道について〈古代宮都〉は、「長尾街道に当てる説を妥当としたい」、 「堺市の市街を起点とし、真東に通ずる…允恭陵※1)と仲姫皇后陵※2)の間を通り、藤井寺市道明寺の東で石川を渡り、 柏原市国分をへて田尻峠を越え、…大坂道と合して大和に入り」、 「「大津」の称呼は羽曳野市…式内社大津神社に関連する」などと述べる。
とすれば「大津道」はその前身で、大体同じ筋を通っていたと見るのが妥当か。 《丹比道》 丹比道について、〈古代宮都〉は「現在の竹内街道とみることには異論はないようである」、 「明治十八年〔1885〕測量の仮製二万分の一地図によると、 野遠から東、岡―野―樫山―野々上の間は曲折…野々上から南下して軽墓〔軽里〕を経て古市に至」ると述べる。その道筋を右図アに示した 〔本サイトが現在の地図上に同書が述べる経路を当てはめたもの〕。 しかし同書は「岡の南では旧丹北郡と旧但南郡の郡界が野遠から真東」に向う直線で、「野中寺の位置」とあわせると、もともとは東西方向に一直線だった可能性があると述べる。 そのラインを東西に「一直線に延長すると…仁徳陵・応神陵の二大古墳を基準にして設定されているかにみえる」ことに注意を促している。 その直線をイで示した。 《壱伎史韓国》
恵我の範囲は【餌香市辺】で考察した。 〈岸俊男〉は「恵賀裳伏岡陵、恵賀長枝陵などから類推されるように、古市古墳群の東、大和川との合流点付近における石川を称したものとみられる」と述べるが、 ここで考慮すべきは、江戸時代の付け替え以前に石川との合流地点以北の大和川が、「恵我川」と呼ばれていたことである。 「石川」の方は書紀に頻出して定着しているから、もし石川ならここでも「石川」を用いたのではないだろうか。 大和川の旧流路は大河川であった。 『大和川の風景』〔柏原市立歴史資料館;パンフレット2011〕は、「摂河両国水脈図」(柏元家文書)を載せる。 同パンフレットによるとこの図は「つけかえ前の絵図に、新大和川の位置を描きこんだもの。 旧大和川は「大和川一名恵我川」、久宝寺川は「竜華川 久寶寺共云 だとすれば、「自高安城降」は、高安山の西斜面を駆け下りたことになる。 これはあり得るかも知れない。 通説のように石川北端が戦場だったとすると正面から激突することになるが、それよりも敵の隊列を側面から衝く作戦の方が有効だと考えられるからである。 ただそれでも味方の軍勢が少なすぎたので、結果的に勝利は叶わなかった。 《紀臣大音》
《懼坂道》
立野地域について[小字データベース]で調べてみたところ、柏原村との境界近くに字カシコダが2つあった。 カシコダの由来は、龍田大社の社田であったことによると思われる。 カシコダには龍田古道が通っていて、古道は西に伸びて柏原市の峠〔大字〕に達し、これを『大日本地名辞書』は「立野の西なる峠と字する坂なるべし」と言ったと見られる。 では、この区間に実際に「坂」があったのだろうか。そこで[地理院地図]を使って道に沿って標高をグラフにしてみたところ、 A~B間は120パーミルに達していて、 十分な上り坂である。これに小字名を関連させれば、この坂が懼坂となる。 すなわち、懼坂道は龍田道の別名であった。 しかし、それなら初めに龍田に至った坂本臣財・長尾直真・墨倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂のところに、 なぜ紀臣大音の名前がないのだろう。そして、なぜ「龍田」とは異なる地名「懼坂」を大音の営とするのだろうか。 ここで注目されるのは、坂本臣財の駐屯が「距於龍田」と表現されていることである。 「龍田」には道をつけず、「距」は「距 つまり財は後方の本営にいて、前線には佐味君少麻呂(大坂)、の鴨君蝦夷(石手道=当岐麻道)に加えて、懼坂(龍田道の西口)に大音を配置したが、始めの部分では記述を漏らしたのであろう。 《河内国司守》 改新詔によって初めて地方行政組織としての国が新設された(改新詔其ニ)。 当初は既存の地方行政単位であった国造 これまでに、美濃・尾張・伊勢の国守が早々に大皇弟側に帰順している。 越方面将軍を拝した羽田公矢国がすぐに戻り、北方からの近江京攻めに加わることができたのは、越国守が簡単に大皇弟に帰順したからであろう。 これらを見ると、国守層では大皇弟配下に入る方向で着々と連携が図られていた可能性がある。河内国司守来目臣塩籠の「有下帰二於不破宮一之情上以集二軍衆一」なる謀も、その一環であったと見て良いであろう。 《来目臣塩籠》
近江朝廷側でも飛鳥寺西の陣営は早々と大海人皇子側に移ったが、河内方面軍は士気高く意気盛んであったようである。 将軍韓国は塩籠の内応を見抜き、獅子身中の虫を退治したことで攻撃態勢は整い、満を持して攻勢に出たようである。 財軍は一日は何とか持ちこたえたが、総攻撃に遭い遂に敗北した。 《解退》 もし敵軍ならば「散亡」と表現するところを、自軍の場合は「解退」と言い、あたかも作戦を冷静に変更するが如くである。 いわば大本営発表であろう。 《大意》 以前に 将軍吹負(ふけい)が乃楽〔=平城山〕に向かい 稗田(ひえた)に着いた日のこと〔二日か〕。 ある人が 「河内から軍が多く来ました。」と言いました。 そこで坂本臣(さかもとのおみ)財(たから)、 長尾直(ながおのあたい)真墨(ますみ)、 倉墻直(くらかきのあたい)麻呂(まろ)、 民直(たみのあたい)小鮪(こしび)、 谷直(たにのあたい)根麻呂(ねまろ)を遣して 三百人の軍士を率いさせ龍田(たつた)に〔前線から〕隔てて置きました。 また佐味君(さみのきみ)少麻呂(すくなまろ)を遣して 数百人を率い大坂(おおさか)に駐屯させ、 鴨君(しまのきみ)蝦夷(えみし)を遣して 数百人を率いて石手道(いわてみち)を守らせました。 この日、 坂本の臣らは平石野(ならしの)で一泊しました。 その時、近江軍が高安城(たかやすのき)にいると聞き、 登りました〔三日か〕。 すると近江軍は、財らが来ることを知り、 悉く秋に徴収した〔穀物を蓄えた〕税倉を燃やして、皆散亡しました。 よって城内に泊まりました。 明け方〔四日か〕、 西方を望見すると、 大津丹比(たじひ)の両道から軍衆が多く来ていて、 明瞭に旗旘が見えました。 ある人が 「近江の将軍壱伎史(いきのふみひと)韓国(からくに)の師団です。」と言いました。 財らは高安城を降り、 衛我河(えがかわ)を渡り、 韓国軍と河の西で戦いましたが、 財軍の人数が少く、対抗できませんでした。 以前から、紀臣(きのおみ)大音(おおと)を遣して、 懼坂道(かしこさかのみち)を守らせていました。 この時、財軍は 懼坂(かしこさか)を退却して大音の軍営に入りました。 この時、 河内(かうち)の国司(くにのつかさ)の守(かみ)来目臣(くめのおみ)塩籠(しおこ)は、 不破の宮〔大海人皇子〕にまつろう心があり、 そのための軍衆を集めていました。 そこに韓国(からくに)がやって来て、 密かにその策謀を聞き塩籠(しおこ)を殺そうとしました。 塩籠は、事が漏れたことを知り、自死しました。 一日を経て〔五日または六日か〕、 近江軍は〔大阪や懼坂など〕もろもろの道を大軍で攻めました。 その結果、いずれも抗戦することができず、防衛線を解き撤退しました。 まとめ 壬申の乱については古来、大量の研究が重ねられてきたので今更付け加えることはないと思われたが、 掘り下げてみるとまだ数々の論点が浮かび上がってくる。 そのうち大友皇子の最期の地は、後文の「至于山前屯河南」を見れば山崎の方がよいが、「還」の一文字がそう断定することを躊躇させる。 諸論の分かれ目は結局ここだが、その原因は書紀原文そのものにある。すなわち、複数のソースを混合して書いたことによるものだろう。 つまり書紀が書かれた時点で、既に両方を現場とする異種の記録または伝承があったものと考えたい。 この複数ソースの混合は、乙巳の変で気付いたところでもある(〈皇極〉四年六月十二日(ニ))。 龍田方面から河内に到る地名、街道名については、〈地名辞書〉や小字名や古文献、また文脈から総合的に考察した結果、その比定はかなり確信を持てるレベルに達した。 ただ、石手道だけはまだ弱く、今のところ暫定的な判断に留まっている。 さて、河内国守の行動の記述からは、国守層が挙って大海人皇子側に付こうとしていたことが浮かび上がる。 国司は改新詔によって、当時の国造〔そのまま郡大領とした〕と国家の中間に新たに設置された地方行政機構であるが、 壬申の時点でどの程度地方権力を把握していたかが興味深い。これについては、引き続き調べていきたい。 |
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⇒ [28-08] 天武天皇上(4) |