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2024.12.21(sat) [28-06] 天武天皇上6 

15目次 【元年七月二日】
《數萬衆自伊勢大山越之向倭》
秋七月庚寅朔辛卯。
天皇遣紀臣阿閉麻呂
多臣品治
三輪君子首
置始連菟、
率數萬衆
自伊勢大山越之向倭。
紀臣阿閉麻呂…〈北野本〔以下北〕キノヲンヲキソメムラシウサキ数万イクサ
秋七月(ふみづき)庚寅(かのえとら)を朔(つきたち)として辛卯(かのとう)。〔二日〕
天皇(すめらみこと)紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)
多臣(おほのおみ)品治(ほむぢ)
三輪君(みわのきみ)子首(こくび)
置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)を遣(つかは)して、
数万(あまたよろづ)の衆(いくさびと)を率(ゐ)しめて
伊勢(いせ)自(ゆ)大山(おほやま)をば越え之(ゆ)きて倭(やまと)に向(ゆ)かしむ。
且遣村國連男依
書首根麻呂
和珥部臣君手
膽香瓦臣安倍、
率數萬衆自不破出
直入近江。
胆香瓦臣…〈北〉胆香
且(また)村国連(むらくにのむらじ)男依(をより)
書首(ふみのおびと)根麻呂(ねまろ)
和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)
胆香瓦臣(いかがのおみ)安倍(あべ)を遣(つかは)して、
数(あまた)万(よろづ)の衆(いくさびと)を率(ゐ)しめて不破自(よ)り出(い)でて
近江(ちかつあふみ)に直(ただ)入(い)らしむ。
恐其衆與近江師難別、
以赤色着衣上。
然後、
別命多臣品治率三千衆
屯于莿萩野、
遣田中臣足麻呂
令守倉歷道。
着衣上…〈北〉ツク 衣上莿-萩 タラ  メラ 倉-歷 クラフノミチ
〈内閣文庫本〔以下閣〕コトヲ ワケ莿- タラ メラ-野萩イ 
其(その)衆(いくさびと)と近江(ちかつあふみ)が師(いくさ)与(と)別(わか)ち難(かた)きを恐りて、
赤色(あかいろ)を以(もち)ゐて衣(ころも)の上(へ)に着(つ)く。
然(しか)るが後(のち)に、
別(わか)ちて多臣(おほのおみ)品治(ほむぢ)に命(おほ)せて三千衆(みちたりのいくさびと)を率(ゐ)しめて
[于]莿萩野(たらの)に屯(いは)ましむ。
田中臣(たなかのおみ)足麻呂(たるまろ)を遣(つかは)して
倉歷道(くらふのみち)を守(も)ら令(し)む。
時、近江命山部王
蘇賀臣果安
巨勢臣比等、
率數萬衆將襲不破而
軍于犬上川濱。
山部王…〈北〉山-部 ヤマ カノヲンハタヤスヲンヒト犬上川濱/イヌカミカハノホトリ■■■■ノカハノホトリ。 〈閣〉 ノホ ニ
時に、近江(ちかつあふみ)山部王(やまのおほきみ)
蘇賀臣(そがのおみ)果安(はたやす)
巨勢臣(こせのおみ)比等(ひと)に命(おほ)せて、
数(あまた)万(よろづ)の衆(いくさびと)を率(ゐ)て将(まさ)に不破(ふは)を襲(おそ)はしめむとして[而]
[于]犬上川(いぬかみかは)の浜(はま)に軍(いくさ)す。
山部王、
爲蘇賀臣果安
巨勢臣比等見殺。
由是亂以軍不進。
乃蘇賀臣果安、
自犬上返、
刺頸而死。
刺頸而死…〈北〉○而。 〈閣〉 ヲ而死
山部王(やまのおほきみ)、
蘇賀臣(そがのおみ)果安(はたやす)
巨勢臣(こせのおみ)比等(ひと)が為(ため)に見殺(ころさゆ)。
是(こ)に由(よ)りて乱(みだ)れて以ちて軍(いくさ)不進(すすまざ)り。
乃(すなはち)蘇賀臣(そがのおみ)果安(はたやす)、
犬上(いぬがみ)自(よ)り返(かへ)りまつりて、
頸(くび)を刺して[而]死にまつる。
是時、
近江將軍羽田公矢國
其子大人等、
率己族來降。
因授斧鉞拜將軍、
卽北入越。
羽田公矢国…〈北〉羽田ハタノキミ○國 クニ其子大人ウシ ヲノ鉞拜 マサカリ
是(この)時に、
近江(ちかつあふみ)が将軍(いくさのかみ)羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)
其(その)子大人(うし)等(ら)、
己(おのが)族(うがら)を率(ゐ)て来降(まつろ)ふ。
因(よ)りて斧(をの)鉞(まさかり)を授(さづ)けて将軍(いくさのかみ)を拝(おほ)せて、
即(すなはち)北に越(こし)に入(い)らしむ。
先是、近江放精兵、
忽衝玉倉部邑。
則遣出雲臣狛、
擊追之。
衝玉倉部邑…〈北〉 ツク タ/衘倉部マクラ フノムラヲ出雲イツ モノ ヲン コマ。 〈閣〉 テ
是(こ)に先(さきだ)ちて、近江(ちかつあふみ)精兵(ときつはもの)を放(はな)ちて、 忽(たちまち)に玉倉部邑(たにくらべむら)を衝(つ)きてあり。 則(すなはち)出雲臣(いづものおみ)狛(こま)を遣(つかは)して、 [之(こ)を]擊(う)ち追はしめき。
《秋七月庚寅朔》
 六月条の「庚寅初向乃楽」と七月条「庚寅」が重複していることは、日本紀講筵〔元慶二年〔878〕二月二十五日か〕で問題視されている。
 〈釈紀〉述義
庚寅初向乃楽:私記曰。多生郎案云。六月辛酉之内、已有庚寅
而又七月庚寅朔辛卯云々。
六月下旬七月上旬之間、何有二庚寅。愚実此案
但案、和邇部尼君臣歟手記云々六月是小月
早可六月之庚寅云々。
〔私記曰く。多生郎※1)案じていわく、六月辛酉段の内にすでに「庚寅」がある。
ところが、また七月に「庚寅朔辛卯」云々。
六月下旬から七月上旬までの間に、なぜ二つの「庚寅」があるのか。
愚実※2)もこの考えはもっともだと思う。
但しこれは和邇部尼君の手記云々を案ずるに六月は小の月である。
速やかに六月の「庚寅」を消すべし、云々。〕
※1)…多広珍。文章生。元慶講書〔878〕の尚復の一人。  ※2)…矢田部名実。元慶講書の尚復の一人で、この私記の筆録者。
    参考文献:「延喜『公望私記』の構造」鈴木豊(アクセント史資料研究会『諭集』Ⅲ(2007.09))
 本サイトの元嘉暦モデルで見ると、〈天武〉元年〔壬申〕六月小月である。 この月が「小月」であることは、どの暦資料でも一致している。
 そもそも、月初めに「○○朔」が書き添えられるのは日本の六国史特有の書法で、中国の歴史書にはない。 日本でも書紀以前は、干支表記の場合月初めの「○○朔」はなかったと思われる。 日付が干支表記されていれば、月が変わったときに月名が脱落していても間違いなく読めるから、たまたま原資料ではここは月名なしで「庚寅」となっていたのであろう。
 書紀の草稿でも、六月段に入ったままだった。ならば、書紀全体に系統的に「○○朔」を付ける作業をしたときに、気が付いて一つめの「辛卯」に「秋七月朔」をつけ、「秋七月庚寅朔辛卯」は単に「辛卯」とすべきだったが、見落とされたと思われる。
《紀臣阿閉麻呂》
紀臣阿閉麻呂  紀臣阿閉麻呂はここが初出。以後〈天武〉二年八月「伊賀国紀臣阿閉麻呂等壬申年労勲之状」。 同三年三月「紀臣阿閉麻呂卒。以壬申年之役大紫位」。
多臣品治  元年六月二十ニ日、大海人皇子は安八磨郡湯沐令の多臣品治に使者を送り、当郡の兵に機要を示す。 ここでは東海道軍の一部を率いて莿萩野に留まる。 品治は〈天武紀〉下、〈持統紀〉に度々登場。
三輪君子首  元年六月二十五日に、鈴鹿郡で大海人皇子に合流した。〈天武〉五年八月「」。
置始連菟  〈姓氏家系大辞典〉置始連:置始部の伴造なり」。 置始部は「職業的部の一にして染職に従事」。 白雉五年五月「置始連大伯」参照。
 はここが初出。七月九日に吹負敗戦の報を聞き千騎を率いて救援に向かい救出する。 同二十三日に箸墓で近江軍を破る。 〈続紀〉霊亀二年〔716〕小錦上置始連宇佐伎」の子に田を賜る。冠位から、卒したのは〈天武〉十四年〔686〕以前。
《自伊勢大山越之》
 この文章は、文脈では「伊勢国より大山を越えて」を意味する。ただ、文法的には「伊勢大山」である。 文脈に沿わせるなら、「越大山」、または「大山之越〔"之"は動・目の逆転を示す〕大山越〔受事主語+動〕の何れかとすべきであろうが、 「大山〔受事主語〕+越〔動詞〕+之〔動詞「=行く」〕」でも組み立てられないことはない。
 大山は「柘植から関の間」と見た(《越大山》項)。 経路は、大海人皇子が莿萩野から野上行宮まで移動した経路の逆順であろう。
 すなわち、 和蹔野上行宮不破郡家(《野上》) ⇒桑名郡家(《桑名郡家》) ⇒朝明郡家三重郡家川曲坂下伊勢国府鈴鹿駅鈴鹿関大山積殖山口 (全経路) ⇒莿萩野となる。
 軍勢は、野上行宮を通過する時に、大海人皇子が出て来て謁見した情景が想像される。
平安初期までの東海道。その後の東海道。
【元年六月二十五日】《莿萩野》項の図を再掲。
倉歴峠(上図倉歴) 県道四号線:三重滋賀県境付近 南向きに見る
  《村国連男依》
村国連男依  初出は六月二十二日、美濃国安八磨郡に派遣。
書首根麻呂  初出は大海人皇子の吉野脱出時に同行。
和珥部臣君手  初出は六月二十二日、美濃国安八磨郡に派遣。
胆香瓦臣安倍  初出は六月二十五日。鹿深越して合流した高市皇子に随行した。
《屯于莿萩野》
 東海道軍の一部を多臣品治が率い、莿萩野(推定位置)に駐屯した。
《田中臣足麻呂》
田中臣足麻呂  六月二十五日、「湯沐令田中臣足麻呂」は三輪君子首らとともに鈴鹿で大海人皇子と合流した。
《倉歷道》
 続く五日条には「鹿深山而…詣于倉歷」とあるので、同じ道の北西部分が鹿深道、南東部分が倉歷道ということになる。 地名倉歷については、倉部川倉部川がある。
 倉歷は、現在「倉歷峠」と呼ばれている地点。実際には「峠」とは言ってもほぼ平坦だが、三重滋賀両県の県境の南北である。 「倉歷道」は『事典 日本古代の道と駅』にも載らないので、道の部分的な呼び名か。 鹿深越のうち、「倉歷峠」の南北の部分が倉歷道であろう。
《山部王》
山部王 系統不明。ここだけ。
蘇賀臣果安  「蘇我果安臣」は〈天智〉十年正月条で「御史大夫(大納言)」。十一月の盟約で、大友皇子に忠誠を誓う。
巨勢臣比等  「巨勢人臣」は果安と共に御史大夫、そして盟約(同上)。
国土数値情報河川データセット/犬上川
《犬上川》
 現在の犬上川と同じ川であろう。
《山部王…見殺》
 山部王は、蘇賀臣果安巨勢臣比等の手にかかって殺されたという。 その内紛の理由は書かれないが、次の筋書きが想定される。
 すなわち、既に留守司高坂王は飛鳥寺西の軍営で寝返った。 諸王には大海人皇子側に付こうとする空気が広がっていて、山部王も心が揺れて、遂に大海人皇子側に加わることに決したのであろう。
 しかし果安らは同意せず、とうとう山部王を殺してしまった。 果安山部王の背反を朝廷に報告し、帰京してその殺害の正当性を訴えたと見られる。 しかし、大友皇子はむしろ山部王を殺害した行動自体を咎め、死を賜ったのであろう。
《羽田公矢国》
羽田公矢国  〈姓氏家系大辞典〉波多君:応神帝の御裔…大和国高田郡波多郷より起りしなるべし」、 「此の氏は又羽田公に作る」。 〈応神〉の皇子若野毛二俣王の子である「意富富杼王…波多君…等之祖也」(第159回)。
 二十二日、出雲臣狛とともに三尾城を攻略。 〈天武〉十二年十一月、大錦下羽田公八国などが「巡行天下而限分諸国之境堺」。 十三年十月「賜姓曰真人」。 朱鳥元年二月乙丑「羽田真人八国卒、以壬申年之功直大壱位」。
羽田公大人 ここだけ。
《北入越》
 羽田公矢国の「来従」は、山部王軍の自壊を見て判断したものであろう。近江朝廷には見切りをつけたのである。
 矢国の実際の戦闘は、二十二日の「三尾城〔一般に高島郡三尾郷に比定〕で、むしろ南下して大津京に迫っている。 「北入越」としたのは〈崇神〉紀十年の「以大彦命等遣北陸」に准えたものと思われる。 そこには「大彦命北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波」とある。
 九日段の「〔海〕道将軍紀臣阿閉麻呂」も、「武渟川別遣東海」に准えたと感じられる〔但し、進軍の向きは逆である〕
 さらに「斧鉞将軍」については、 日本武尊東征の際の「天皇持斧鉞、以授日本武尊」になど見える古風な表現である。
 このように矢国に特別に重みのある対応をしていることから、近江朝廷の重要メンバーの来従の意義の大きさが見える。 矢国への厚遇を示すことによって、近江朝廷内部のさらなる離反を促したこともあろう。
《先是近江放精兵》
 「先是」は、明らかに時間を遡らせている。「向倭」と「直入近江」の二方面に分けて発進させた二日より以前、 和蹔原に集結していた頃のことか。
《玉倉部邑》
玉倉部之清泉
大字玉の境界は「農業集落境界データセット/玉」による。
 倭建命段に「玉倉部之清泉」(第132回)、 別名「居寤清泉」がある。ちなみに、『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕は、その候補地として不破郡玉村坂田郡大清水村醒ヶ井柏原説を併記する(p.38)。
 居醒の清水〔書紀は「居醒泉」〕は、 現住所「米原市醒井58」に伝承地があり、日本武尊の移動経路から見てこの方が自然である。 しかし、それで玉倉部邑醒井と一義的に定まるわけではない。伝説は周辺地域に広まるものだから、複数地点に「清泉」が生れるのは普通のことである。 そしてその一つが不破郡玉村であったと考えることができる。
 さて「玉倉部」は職業部のようにも思えるが、〈姓氏家系大辞典〉にはこの部は見えない。「倉部」ならあり、財産保管の部や「鞍作部」を略したクラベがあるという。
 すると、玉倉部邑地域にあった倉部の居住地と解釈するのが適切であろう。 江戸時代の不破郡玉村は、現在の関ヶ原町北部の大字玉である。
 タマについて〈姓氏家系大辞典〉は、地名多摩が武蔵国・甲斐国・下野国、多萬が長門国、田間が下野国にあり、 人名としては多末(遠江)、(大和、備前)、太万(山城国の文字瓦)などを挙げる。 このようにタマは各地にあるから、不破郡の「」も上代の地名の遺称かも知れない。
 『関ヶ原町史』〔関ヶ原町1989〕も「近江側から攻め込んだのだから、玉倉部邑は近江国坂田郡の醒ヶ井とみるよりは、 美濃国不破郡の玉とするのが妥当である」と述べる(p.136)。右図を見れば、一目瞭然である。
《出雲臣狛》
出雲臣狛  は、この後二十二日に三尾城を攻略した。
 〈続紀〉大宝二年〔702〕八月丙申朔「授出雲狛従五位下」、 同年九月乙酉「従五位下出雲狛賜臣姓」を見ると、この時点では無姓で書紀は姓のついた後世の称を用いたと見られる。
 〈姓氏家系大辞典〉は「無姓の出雲氏:出雲臣と関係詳かならず」、 ただ狛への「氏姓」に加えて天平十九年六月「出雲屋麻呂賜氏姓」を挙げ、「出雲国造と同様出雲臣となりしものあり」と述べる。
 ここで出雲臣出雲国造、また出雲大社との関係を整理しておきたい。
〈姓氏録〉
〖出雲臣/天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也〗。
〖出雲臣/同神〔天穂日命〕子天日名鳥命之後也〗
〖出雲臣/同天穂日命之後也〗
〖出雲臣/天穂日命十二世孫宇賀都久野〔鵜濡渟命の別表記か〕命之後也〗
〖出雲宿祢/天穂日命子天夷鳥命之後也〗
〖出雲〔無姓〕/天穂日命子天夷鳥命〔=武夷鳥命〕之後也〗
 〈姓氏家系大辞典〉「出雲臣:天忍耳命の御弟天穂日命の後也。 天穂日命は最初出雲国に使いして大国主命に帰順を勧め、其の後大国主命が国譲り給ふや、天日隅宮の祭祀を掌り給ふと伝へらる」。
 すなわち天忍穗耳命は天照大御神と素戔嗚尊の子(第71回)で、 天忍日命は邇邇芸命の降臨に随伴した(第84回)。
 そして「汝応住天日隅宮者、今当供造。…又当主汝祭祀者、天穂日命是也〔汝〔=大己貴神〕が住むべき天日隅宮〔=出雲大社〕を今提供する。汝を祭祀すべき人は天穂日命である〕と詔した (第79回【一書2】)。
 このようにして出雲大社を奉斎することになった天穂日命の家系は、 『出雲国造系統伝略』〔北島斉孝1898〕に「天穂日命―武夷鳥命…〔十一代〕…氏祖命【別称鵜濡渟命…世所野見宿祢者〔氏祖〕命之第ニ子而菅原氏者其後裔也】〔別称は鵜濡渟命…世にいう野見宿祢は氏祖命の第ニ子にして、菅原氏はその後裔なり〕が見える。
 右表を見ると出雲臣は複数あり、それぞれ独立に成立したようである。 しかし、それぞれが祖とする天穂日命武夷鳥命鵜濡渟命は代々の出雲国造を拝し、出雲大社に奉斎する血族である。
 よって、複数の出雲臣は、出雲大社に仕える氏族だと自任する点で共通している。
 「」の「出雲(無姓)」も武夷鳥命の子孫と名乗るから、出雲大社に仕える氏族の一であろう。
《大意》
 七月二日、 天皇(すめらみこと)は紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)、 多臣(おおのおみ)品治(ほむじ)、 三輪君(みわのきみ)子首(こくび)、 置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)に、 数万の軍衆を率いさせ、 伊勢から大山を越えて倭に向わせました。
 かつ村国連(むらくにのむらじ)男依(おより)、 書首(ふみのおびと)根麻呂(ねまろ)、 和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)、 胆香瓦臣(いかがのおみ)安倍(あべ)に、 数万の軍衆を率いて不破から出して 近江に直入させました。
 その衆と近江軍が区別し難いことを恐れ、 赤色を衣(ころも)の上に着させました。
 その後に、 別に多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)に命じて三千の群衆を率いさせて 莿萩野(たらの)に駐屯させ、 田中の臣足麻呂(たるまろ)を遣して 倉歷道(くらふのみち)を守らせました。
 その頃、近江朝廷は山部王(やまのおおきみ)、 蘇賀の臣果安(はたやす)、 巨勢(こせ)の臣比等(ひと)に命じて、 数万の軍衆を率いて不破を襲わせようとして、 犬上川の浜に進軍させました。
 山部王は、 蘇賀の臣果安、 巨勢の臣比等によって殺されました。 これによって乱れ、軍は進まなくなりました。
 そして蘇賀の臣果安は、 犬上から近江に帰り、 頸を刺して死にました。
 この時、 近江の将軍羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)と その子大人(うし)らは、 自らの一族を率いて来降してきました。
 よって、斧鉞(ふえつ)を授けて将軍に任命して、 北方に越の国に入らせました。
 この以前に、近江朝廷は精兵を放ち、 瞬く間に玉倉部邑(たにくらべむら)を攻めました。 そこで直ちに出雲臣(いずものおみ)狛(こま)を派遣して、 撃退しました。


16目次 【元年七月三~九日】
《將軍吹負屯于乃樂山上》
壬辰。
將軍吹負、屯于乃樂山上。
時、荒田尾直赤麻呂、
啓將軍曰、
「古京是本營處也、
宜固守。」
荒田尾直赤麻呂…〈北〉荒田アラタヲノアタヒアカ麻呂マロ京是本イホリ處也
〈閣〉 ノイホリノ  ナリヨ 国-  クニマモリヘシ。 〈兼右本〉古-京フ ミヤコマホル
壬辰(みづのえたつ)〔三日〕
将軍(いくさのかみ)吹負(ふけひ)、[于]乃楽山(ならやま)の上(へ)に屯(いは)ましむ。
時に、荒田尾直(あらたをのあたひ)赤麻呂(あかまろ)、
将軍(いくさのかみ)に啓(まを)して曰(まをさく)、
「古(ふる)き京(みさと)是(これ)本(もと)の営(いほり)の処(ところ)なり[也]、
宜(よろし)く守(まもり)を固めたまふべし。」とまをす。
將軍從之。
則遣赤麻呂
忌部首子人、
令戍古京。
忌部首子人…〈北〉イムヘノヲフトヒト マモラ古京。 〈兼右本〉イ作アカ-麻-呂マホラ
…[動] 国境をまもる。(古訓) まもる。まほる。
将軍(いくさのかみ)之(こ)に従(したが)ふ。
則(すなはち)赤麻呂(あかまろ)
忌部首(いむべのおびと)子人(こひと)を遣(つかは)して、
古き京(みさと)を戍(まも)ら令(し)む。
於是、赤麻呂等、
詣古京而
解取道路橋板作楯、
堅於京邊衢以守之。
解取道路…〈北〉コホチ道-路 ミチ 。 〈閣〉 テ ニ
かたむ…[他]マ下二 防備を厳重にする。
…[名] ちまた。
於是(ここに)、赤麻呂(あかまろ)等(ら)、
古き京(みさと)に詣(ゆ)きて[而]
道路(みち)の橋の板を解(こほ)ち取りて楯(たて)を作りて、
[於]京(みさと)の辺(ほとり)の衢(ちまた)を堅(かた)めて以ちて[之(こ)を]守(まも)る。
癸巳。
將軍吹負、
與近江將大野君果安
戰于乃樂山、
爲果安所敗、軍卒悉走。
將軍吹負、僅得脱身。
大野君果安…〈北〉オホノゝキミハタヤス軍卒悉イクサヒトゝモ 吹負フケヒ。 〈閣〉僅得 コト ヲ
癸巳(みづのとみ)〔四日〕
将軍(いくさのかみ)吹負(ふけひ)、
近江(ちかつあふみ)の将(いくさのかみ)大野君(おほののきみ)果安(はたやす)与(と)
[于]乃楽山(ならやま)に戦(たたか)ひて、
果安(はたやす)が為(ため)に所敗(やぶら)えて、軍卒(いくさひと)悉(ことごと)に走(に)ぐ。
将軍吹負、僅(わづかに)得(え)脱身(まぬがる)。
於是、果安追至八口、
仚而視京毎街竪楯、
疑有伏兵乃稍引還之。
仚而…〈北〉■■テ。 〈閣〉ノホリテチマタ テ ムコトヲ
…〈閣/頭注〉「: 玉編云。許延切。人在山上。軽挙貌。説文云。人在山上也」。
…〈閣/頭注〉「:異本枚字也」。
於是(ここに)、果安(はたやす)追ひ八口(やくち)に至りて、
仚(のぼ)りて[而]京(みさと)を視(み)れば街(ちまた)毎(ごと)に楯(たて)を竪(た)てて、
伏(かくれ)てある兵(つはもの)有らむやと疑ひて乃(すなは)ち稍(やくやく)に引きて還之(かへ)りつ。
《荒田尾直赤麻呂》
荒田尾直赤麻呂  ここだけ。 〈姓氏家系大辞典〉は「荒田尾」という氏族を、〈天武〉紀以外には見出していない。
 〈姓氏家系大辞典〉は〈天武〉十年「荒田能麻呂…賜姓曰連」の「荒田」を、「荒田尾直」の誤りと見ている。 しかし、この部分の〈天武紀下〉の記述は「忍海造鏡荒田能麻呂」となっており、これは忍海造に属する三名の名前「鏡・荒田・能麻呂」と読むべきだろう。
《古京》
 古京倭京〔飛鳥宮の地〕と同じだと直感されるが、確認しておきたい。 次の段では「古京是本営処也」という。「本営」は吹負が朝廷軍を丸ごと乗っ取った飛鳥寺西槻下を指すのは確実である。 また、戊戌〔九日〕に置始連菟が救援に向い「急馳倭京」とあるから、 古京はやはり倭京であろう。
《忌部首子人》
忌部首子人  忌部首は、太玉命を祖とする。太玉命は天照大神が閉じこもった天石屋戸前の祭事に関わり(第49回)、 邇邇芸命の天降りに随伴した(第83回)。
 〈姓氏家系大辞典〉の推定によると、忌部は「神事に関する斎蔵を管掌し、その方面の財政権を握」っていたが、平安時代に中臣氏が復興したのでそれに対抗するために古語拾遺を著した(資料[25])。
 〈天武〉九年「忌部首首姓曰〔氏姓「忌部首」+個人名「首」〕。 十年三月「小錦中忌部連首」ら十二人に「令記定帝紀及上古諸事」。十三年「忌部連…賜姓曰宿祢」。
 〈続紀〉大宝二年〔702〕従五位下忌部宿祢子首…進位一階」。 慶雲元年〔704〕従五位上忌部宿祢子首。供幣帛…于伊勢大神宮」。 和銅元年〔708〕正五位下忌部宿祢子首出雲守」。 和銅四年〔711〕文武百寮成選者位。正五位下忌部宿祢子首…並正五位上」。 養老二年〔718〕従四位下忌部宿祢子人…並従四位上」。 養老三年〔719〕散位従四位上忌部宿祢子人」。
 名前には子人〔コヒト〕、子首〔コビト〕、首〔オビト〕が混ざっている。別人物とは考えにくいので、どちらかがあざなであろうか。 問題は、「小錦中⇒従五位下」が降階になることである〔小錦(上中下)は正五位(上下)従五位(上下)に対応している〕
 この問題を扱った論文「忌部首・同子首をめぐって―同一人説批判―」(愛知淑徳大学大学院―文化創造研究家紀要―5〔2018〕)がある。 同論文の立場は副題が示す通りだが、実際に「降階」の例が存在したこと自体は認めている。ただ同論文を一読したところでは、推定ばかりで十分な論理を欠くと感じられる。
《解取道路橋板》
 「橋の板を外して取る」というから、この時代に既に木造橋が作られていたのは確実である。 考えてみれば、五重塔や九重塔を建立する技術力があれば木造橋の建造は容易であろう。 平城京の橋によると、 奈良時代には橋が実際に検出されている。
 〈時代別上代〉が「石橋」(飛び石)、「打橋」(板を渡しただけの仮の橋)、「浮橋」、「船橋」の類ばかりを例に挙げるのは、上代の技術力を見くびりすぎではないだろうか。
《作楯》
 当然を持った兵が警戒に当たったのであろう。次の段で「疑有伏兵」というのは、街並みに無人の盾を並べただけだと読ませるものだが、話を面白くするための潤色と思われる。
《大野君果安》
大野君果安  〈姓氏家系大辞典〉「山城の大野君〔〈倭名類聚抄〉{山城国・愛宕郡・大野郷}〕あり、此の氏のありし地か。 毛野氏大荒田別命の後也」。 〈天武〉十三年「大野君…賜姓曰朝臣」。
 果安は初出。 〈続紀〉天平十四年〔742〕十一月癸卯。参議従三位大野朝臣東人薨。飛鳥朝廷糺職大夫直広肆果安之子也」。 東人は天平十七年に大将軍となって藤原広嗣の乱を治めた人物である。 果安はこの記事に「直広四位」とあるから、卒したのは〈天武〉十四年以後。藤原京遷都は〈持統〉八年〔694〕、 「飛鳥朝廷」は浄御原宮※1)だから、卒したのは遷都以前となる。
※1)…〈続紀〉宝亀八年〔777〕八月丁酉に「飛鳥朝常道頭贈大錦中小吹負」が見える。吹負は〈天武〉十二年に卒したから、飛鳥朝浄御原宮朝廷である。
飛鳥京偵察地点の候補地 〔()内は標高〕
 大野君果安平城山吹負軍に勝利し、勢いのまま飛鳥京まで進軍した。 敵への寝返りが続出する近江朝廷側の中にあって踏みとどまり、優秀な部隊を率いて奮戦したようである。
 果安は近江朝廷側であったにもかかわらず、後に「糺職大夫」を拝する。 近江朝廷の敗北後、果安はその軍司令官としての有能さの故に取り立てられたと見るのがよいであろう。
《八口》
 八口の位置に定説は見えない。 平城山から追って来たのだから、少なくとも飛鳥の北方であろう。 候補としては、例えば天香久山が考えられるが遠すぎて盾は見えない。 甘樫丘なら、見通しはよい。もしその何れかなら「八口」ではなく「天香久山」または「甘樫丘」と書いたであろう。
 結局、これら以外の名前が後世には残らないようなささやかな山ということになる。 飛鳥京に十分近づいた低い山であろう。
《疑有伏兵》
 攻め込ませておいて、周囲に潜んでいた兵が現れて一気に取り囲む戦法は十分に考えられる。
《大意》
 三日、 将軍吹負(ふけい)は、乃楽山(ならやま)の上で駐屯しました。
 その時、荒田尾直(あらたをのあたい)赤麻呂(あかまろ)が、 将軍に 「古京〔飛鳥〕は本営を置いた処です。 守りをお固めください。」と申し上げました。
 将軍はこれに従い、 赤麻呂と 忌部首(いんべのおびと)子人(こひと)を遣して、 古京を防衛させました。
 そこで、赤麻呂たちは 古京に行き、 道路の橋の板を解体して取り外して楯を作り、 京の周辺の街路を固めて守りました。
 四日、 将軍吹負は、 近江側の将大野君(おおののきみ)果安(はたやす)と 乃楽山(ならやま)で戦い、 果安に敗れ、軍卒は悉く逃げました。
 将軍吹負は、辛うじて脱出しました。
 すると、果安は八口まで追い至り、 登って京を偵察したところ、街角毎に楯が立てられ、 伏兵があるかもと疑い徐々に引き返しました。

《近江別將田邊小隅》
甲午。
近江別將田邊小隅、
越鹿深山而卷幟抱皷、
詣于倉歷。
以夜半之、
衘梅穿城、劇入營中。
田辺小隅…〈北〉小隅ヲスミ倉歷クラフクゝム 枚クチキ穿城アワテ。 〈閣〉クゝム―ヲクチキヲクゝム私穿アワテゝ
〈兼右本〉スケイクサノキミフクメ/クゝン枚イ作/クチキウツキ[ヲ][テ]穿[ヲ][テ]ニハカニ/アハテゝ
くちき…[名] 〈時代別上代〉「夜襲などする時、軍兵が、声を立てないように、口にくわえる箸のようなもの」。
あわつ…[自]タ下二 あわてる。うろたえる。〔古語辞典の用例は源氏。〈時代別上代〉には項目なし〕
甲午(きのえうま)〔五日〕
近江(ちかつあふみ)の別将(いくさのすけ)田辺(たなべ)の小隅(をすみ)、
鹿深山(かふかのやま)を越えて[而]幟(はた)を巻かしめ皷(つづみ)を抱(むだ)かしめて、
[于]倉歷(くらふ)に詣(ゆ)く。
以(も)ちて夜半之(よなかになり)て、
枚(くちき)を銜(くく)みて城(き)を穿(うが)ちて、劇(はげしく)営(いほり)の中(うち)に入(い)れり。
則畏己卒與足摩侶衆難別、
以毎人令言金。
仍拔刀而毆之、
非言金乃斬耳。
己卒…〈北〉イクサノヒトイハシム カネ
則(すなはち)己(おのが)卒(いくさびと)と足摩侶(たるまろ)の衆(いくさびと)与(と)を別難(わかちがたきこと)を畏(おそ)りて、
以ちて人毎(ごと)に金(かね)と令言(いはし)めて、
仍(よ)りて刀(たち)を抜きて[而]殴之(う)ちて、
金(かね)と言ふこと非(あら)ざらば乃(すなはち)斬(き)る耳(のみ)。
於是、足摩侶衆悉亂之、
事忽起不知所爲。
唯足摩侶聰知之、
獨言金以僅得免。
不知所為…〈北〉 セム トノ知之。 〈閣〉 セム- ヲトク。 〈兼右本〉所-為センスヘ
於是(ここに)、足摩侶(たるまろ)が衆(いくさびと)悉(ことごと)に乱之(みだ)れて、
事(こと)忽(たちまち)に起こりて所為(せむすべ)を不知(しらず)。
唯(ただ)足摩侶(たるまろ)は聡(と)く之(こ)を知りて、
独り金(かね)と言ひて以ちて僅(わづか)に得(え)免(まぬが)る。
乙未。
小隅亦進、
欲襲莿萩營而急到。
爰將軍多臣品治遮之、
以精兵追擊之。
小隅獨免走焉、
以後遂復不來也。
莿萩営…〈北〉莿萩營。〈閣〉 ノ○營イ ヲ
遮之…〈閣〉タヘテ
以後…〈北〉以後コレヨリノチ
乙未(きのとみ)〔六日〕
小隅(をすみ)亦(また)進みて、
[欲]莿萩(たら)の営(いほり)を襲(おそ)はむとして[而]急(すみやか)に到る。
爰(ここに)将軍(いくさのかみ)多臣(おほのおみ)品治(ほむぢ)遮之(さ)へて、
精兵(ときつはもの)を以ちて追擊之(おひうたし)めき。
小隅(をすみ)独(ひとり)免(まぬか)れて走(に)げつ[焉]。
以後(これよりのち)遂(つひ)に復(また)不来(きたらず)[也]。
丙申。
男依等、
與近江軍戰〔於〕息長横河、
破之、
斬其將境部連藥。
息長横河…〈北〉ヲキナカノヨクカハサカヒ-部 ヘノ-連 ムラシクスリ
丙申(ひのえさる)〔七日〕
男依(をより)等(ら)、
近江(ちかくあふみ)の軍(いくさ)与(と)息長(おきなが)の横河(よこかは)に戦ひて、
破之(やぶ)りて、
其(その)将(いくさのかみ)境部連(さかひべのむらじ)薬(くすし)を斬る。
戊戌。
男依等、
討近江將秦友足於鳥籠山、
斬之。
秦友足…〈北〉ハタノトモタルコノヤマ
戊戌(つちのえいぬ)〔九日〕
男依(をより)等(ら)、
近江(ちかつあふみ)の将(いくさのかみ)秦友足(はたのともたり)を[於]鳥籠山(とこのやま)に討ちて、
斬之(きる)。
是日。
東道將軍紀臣阿閉麻呂等、
聞倭京將軍大伴連吹負
爲近江所敗、
則分軍、以遣置始連菟、
率千餘騎而急馳倭京。
東道…〈北〉ウミツ紀臣キノヲン阿閉麻呂アヘマロクハリヲキソメノムラシウサキ
〈閣〉ウタツ ノ為近 ノ コトヲクハリ千餘ムマイクサヲ
是(この)日に、
東道(うみつみち)の将軍(いくさのかみ)紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)等(ら)、
倭京(やまとのみやこ)の将軍(いくさのかみ)大伴連(おほとものむらじ)吹負(ふけひ)の
近江(ちかつあふみ)が為に所敗(やぶらゆ)と聞きて、
則(すなはち)軍(いくさ)を分(わか)ちて、以ちて置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)を遣(つかは)して、
千余騎(ちうまあまり)を率(ゐ)さしめて[而]急(すみやか)に倭京(やまとのみやこ)に馳(は)す。
《田辺小隅》
田辺小隅  〈姓氏家系大辞典〉「タナベはタノベの転にて、田部より出づと云ふ」。 田辺史は、古くは〈雄略紀〉九年七月に「田辺史伯孫」の伝説がある。
 姓なら先祖は渡来民となるが、田辺(無姓)が田辺史と近い族か、無関係であるかは判断できない。 小隅はここだけ。
《越鹿深山》
 『近江輿地志略』〔寒川辰清1734〕は「甲賀山:それとさす処なし甲賀一郡の山は凡て甲賀山」という。 実際甲賀郡は全体に山間地ではあるが、特定の目立つ山はない。 平安初期以前の東海道はほぼ現在の草津線の経路と見なされ※1)、基本的に谷を通り明瞭な峠越えのようなところはない。
 「鹿深(甲賀)の山を越える」は、文飾であろう。
※1)《積殖山口》項
《詣于倉歷》
 上記《倉歷道》項で見たように、「倉歷峠」は平坦で、このあたりに田中臣足麻呂が営を置いたと想像される。 田辺小隅軍は深夜に密かに近づいて突然攻め込み陣営は大混乱に陥ったが、足麻呂小隅軍が合言葉に「」を用いていることに気づき、自ら「」と言って脱出した。
《衘梅》
 の異体字で、口に含む意。
〈釈紀〉述義
:師説。梅与枚同也。周礼曰銜枚氏。
鄭玄曰銜枚止言語囂譁也。枚状如箸。横銜之。
※1)結於項。地劉伯庄。枚音梅。
菖⻖誕生曰。枚状如簫形口銜之以縄両頭挂耳。亦以静声也。
〔師〔日本紀講筵博士〕は説く。 梅は枚と同じである。『周礼』に「銜枚氏※2)がある。
鄭玄※3)曰く、枚を銜(くわ)えて言語囂譁〔かしましき〕を止める。枚の形は箸に似て、横向きにくえて項(うなじ)で繣結する〔=しばる〕。「地劉伯庄※4)」に「枚、音は梅」。
菖⻖誕生〔鄒誕生か〕※5)曰く、枚の形状は簫の形に似て、口にくわえて縄を頭の両側に回して耳に挂(か)ける。また以て声を静める。
※1)…「」は『国史大系』版「釈日本紀」では読み取りにくかったが、[韻典網]というサイトの検索結果のページに 「横銜之繣絜於項繣結礙也絜繞…」という文を見つけたことにより、判明した。 意味は、[国際電脳漢字及異体字知識庫]によると「①繫東西的縄子。②破裂之声。③違背」。ここでは①である〔「東西」は「両側」の意〕
※2)…「銜枚氏」は、『周礼』〔戦国〕「六官」のひとつ「秋官司寇」に属する官職。
※3)鄭玄〔127~200〕は後漢の学者。
※4)劉伯庄は唐徐州彭城の人。龍朔年間〔661~663〕に『史記音義』、『史記地名』、『漢書音義』各二十卷を撰した([百度百科])。 「地劉伯庄」とは『史記地名』のことか。
※5)鄒誕生は蕭斉〔南斉とも。南北朝の斉(479~502)〕の人。『史記音義』を著す(「『史記』三家注の特徴について」〔渡邉義浩;waseda rilas journal 9(p.328)〕)。
 『学研新漢和』によれば、「」のひとつの意味として「声をたてないようにするため、口にくわえるもの。箸のような形の木片で両端にひもがあり、くわえて首の後ろでむすぶ。夜討ちや行軍のときなどに使う」をあげる。
 〈釈紀〉の「」を「」に作ったものとする解釈は文脈に合うので、妥当だと思われる。 書紀成立から間もなく筆写者が「」を誤読して「」としたものが定着したと想像される。 なお、ここで〈釈紀〉が引用した書の著者は、いずれも史記〔司馬遷(前漢)〕の注釈書を著した人である。
 なお[中国哲学書電子化計画]で検索すると、漢籍に「銜枚」の用例は多数ある。
《穿城》
 「」とあるが、軍営なら周囲を囲むのは柵程度であろう。石垣に穴を開ける意の「穿城」は文飾で、「銜枚」とともに漢籍から借りたと考えられる。
 そこで「銜枚」と「穿城」の両方が出て来る例を探すと、『芸文類聚』-「獣部中」に「『史記』曰:…取牛千頭…縛火其尾穿而出牛。壮士五千、其後〔牛千頭の尾に火をしばり、城を穿って突入させ、壮士五千人は枚を銜(ふく)んでその後ろに続いた〕が見つかった。
 これは『史記』-「田単列伝」を要約したもので、原文は「千餘牛…灌脂束葦於尾、焼其端〔脂に浸して束にした葦を尾につけて端に火をつけた〕。鑿城数十穴、夜縦牛、壮士五千人隨其後」とある。 突入した牛は、熱さで大暴れしたという。「穿城」は「〔=穴を開ける〕城数十穴」を意味する。
《足摩侶》
足摩侶  上記の湯沐令田中臣足麻呂
《莿萩野営》
 上記
《男依》
村国連男依  二日に「直入近江」、すなわち和蹔原(関ヶ原)から不破道(東山道・中山道)経由で近江国に入った。
《息長横河》
 軍は「直入近江」するから、名張の横河ではない。 近江国の現代地名に「息長」は見えないが、万葉に「息長河」が詠まれている。
――(万)4458尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母  にほどりの〔枕〕 おきながかはは たえぬとも きみにかたらむ ことつきめやも」。
息長古墳群の主要古墳 『近江町文化財調査報告書第20集 息長古墳群1』〔近江町教育委員会〕 不破道〔不破の関跡〕 息長横河〔塚の越古墳、山津照神社古墳〕  鳥籠山〔大堀山〕
天野川芹川の流路は[国土数値情報河川データセット]による。
 息長氏の本貫だと見られているのが坂田郡である。 これについては〈継体〉二十四年十月の《葬送》項で、 「息長古墳群」の存在を見た。
 米原市公式/ [息長足姫(神功皇后)]によると 「息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です」という。
 『近江町文化財調査報告書第20集 息長古墳群1―遺跡詳細分布調査報告書―』〔2000年;近江町教育委員会〕は、 「「塚ノ越古墳」や「山津照神社古墳」といった後期前方後円墳が、 継体天皇擁立に深く関わった古代近江の豪族「息長氏」にゆかりのある史料として古くから注目されてきた」と述べる(p.1)。
 「横河」については、なばり《横河》項では、横河は東西流を意味するとする説を見た。天野川もまた、東西方向に流れている。 だとすれば、「横河」は一般名詞の性格が強い。
《境部連薬》
境部連薬  坂合連薬〈斉明〉四年に有間皇子が起こした謀反に加担した罪に問われ、尾張国に流された。
秦友足  〈姓氏家系大辞典〉「70無尸の秦氏:カバネのなきは、多く秦部の後にて、部字を省きたるなるべし」。 「127雑載:天武紀に「近江将秦友足」…等見ゆ」。
 友足はここだけ。
《鳥籠山》
 大堀山(伝承鳥籠山)、芹川(伝承不知哉川)
北緯35度14分51.6秒 東経136度16分8.8秒 標高154m
大堀山(伝承鳥籠山) 大堀橋から見る
 彦根市公式/[中山道・高宮宿場町]は 「大堀町に入り、芹川の橋に着きます。左の小高い丘は大堀山といいますが、鳥籠山(トコノヤマ)という説があり、そばを流れる芹川は、万葉集では不知哉川(イサヤガワ)と呼ばれたようです」と語る。 現地には万葉歌碑が設置されている。その歌は、
――(万)0487淡海路乃 鳥篭之山有 不知哉川 氣乃己呂其侶波 戀乍裳将有 あふみぢの とこのやまなる いさやがは けのころごろは こひつつもあらむ」。
――(万)2710狗上之 鳥篭山尓有 不知也河 不知二五寸許瀬 余名告奈 いぬかみの とこのやまなる いさやがは いさとをきこせ わがなのらすな」。
である。
 ここに歌碑が設けられたのは、大堀山芹川の風景が、鳥篭之山不知哉川を直感させた故であろう。 大堀山犬上郡内にあり、また淡海路〔後の中山道〕の経路にあたることを見れば、鳥籠山で差し支えない。
 鳥籠山にまつわる特別のいわれがこの地域に伝わっていたことも考えられるが、ただ大堀山は実際には小さな丘なので本当は別の山ではないかという疑問は残る。
《東道将軍紀臣阿閉麻呂》
紀臣阿閉麻呂  二日に、東海道方面軍を率いて飛鳥京へ向かった。
置始連菟  同上。
 「東道」は東海道を意味するから、ウミツミチと訓読するのがよいであろう。
《急馳倭京》 この項2025.01.01修正
 吹負が乃楽山で敗れたのは四日置始連菟の救援軍が飛鳥京に向かったのは九日である(段)。 吹負敗北の続きは、後の「初、将軍吹負向乃楽至稗田之日」条に繋がっている。その条の記述の日付を追っていくと、 脱出した吹負が墨坂でに出会った「是日将軍吹負為近江所敗以特率一二騎走之…」段は五日となる(段)(次回以後に読む)。
 この不一致をどう解釈するかであるが、ここで注目されるのが段、段ともに、書き始めが「是日」であることである。
 単純に考えて、日付X日が示されたユニットとその後の「是日」の間に、不用意にY日のユニットを挿入してしまうと、Xの「是日」は挿入したユニットYの日付になってしまう(右図)。
 壬申紀の七月条には局地戦を描いた複数のユニットが入り組んでおり、時間的にも前後する部分があるので、複数のユニットを並べているうちにこのようなことは起り得よう。 そこで、時間関係が成り立つようにユニットの順番を組み替えることを考えてみよう。
 仮に、軍の派遣は、段の九日(戊戌)のままで正しいとする。すると、段は九日(戊戌)段に置かねばならない。 つまり段は、段に続けることになる。 この場合の問題は、四日に命からがら脱出した吹負が僅かな伴回りだけで五日間も彷徨うことになることである。その間敵に見つからずに済んだのかと考えると、疑問である。
 そこで、軍の派遣日を段の前日の四日(癸巳)に修正してみる。 この場合は、段を「癸巳(四日)將軍吹負与近江将大野君…稍引還之」の後にもってくることになる。すると吹負は翌日に救出されるから流れはスムースで、これで解決しそうに思える。
 ところがさらに読み進めると、その五日のうちには散り散りになった吹負軍兵を収容し、当麻郡に出かけて勝利を収め、 さらに箸陵に転じて勝利し、そして吹負は本営に戻り、近江朝廷軍は大和戦線から撤退する。 この盛りだくさんの展開が、たった一日いちにちで終わるとはとても思われない。
 この密度の濃い一日を終えた後の戦闘は、六~七日、九日、十三日、十七日、二十二日となり、逆に間隔が長くなっていく。 大友皇子が追い詰められる二十二日に近づくにつれて、戦闘の頻度がまばらになっていくのは逆ではないだろうか。 そう考えると、各地の戦闘が行われた実際の日付の問題は単純には片付かず、さらに綿密な検討を要すると思われる。該当段を読むところで、考察を進めていきたい。
《大意》
 五日、 近江の別将田辺(たなべ)の小隅(おすみ)は、 鹿深(かふか)〔甲賀〕の山を越えて旗幟を巻かせ皷を抱えさせて、 倉歷(くらふ)に向いました。
 そして深夜になり、 枚〔=口木〕をくわえ、柵を穿って劇的に軍営の中に入りました。
 そして自身の軍卒と足摩侶(たるまろ)の軍衆が区別できないことを恐れ、 人に出会うごとにカネと言うことにして、 太刀を抜き殴りかかってみて、 カネと言わなければ斬るのみと命じました。
 こうして足摩侶の軍衆は悉く乱れ、 事は突然起こりなすすべも知らず、 ただ足摩侶は聡くこれに気づき 独りカネと言って、辛うじて免れることができました。
 六日、 小隅軍は更に進み、 莿萩野(たらの)の軍営を襲おうとしてあっという間にやって来ました。 将軍多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)は攻撃を遮断して、 精兵をもって追擊しました。 小隅は一人免れて逃げました。 以後、遂に再び来ることはありませんでした。
 七日、 男依らは 近江軍相手に息長(おきなが)の横河で戦って 破り、 その将軍境部連(さかいべのむらじ)薬(くすし)を斬りました。
 九日、 男依らは、 近江の将秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)で討ち、 斬りました。
 この日、 東〔海〕道の将軍紀臣(きのおみ)阿閉麻呂(あへまろ)らは、 倭京の将軍大伴の連吹負が 近江軍によって敗れたと聞き、 軍を分け、置始連(おきそめのむらじ)菟(うさぎ)を派遣し、 千余騎を率いて直ちに倭京に馳せました。


まとめ
 吹負は始めは日和見を決め込んでいたが、一旗揚げるチャンスありと見て立ち精兵を募ったがあまり集まらず、かと思えば僅かな人数で奇策を弄して飛鳥本営を敵軍もろとも乗っ取った。 ところが、乃楽山〔平城山〕の戦いでは惨敗する。 これらを見ると山っ気が多い人物で、博打的な作戦を好んだように感じられる。 その人物像については六月二十六日是日(ニ)条では、その山っ気が災いして乱後はあまり厚遇されなかったと見た。
 吹負は、最終的に常道頭〔常陸国守か〕という官職についている(〈続紀〉宝亀八年〔777〕八月丁酉)。 同条で、吹負の孫古慈斐は土佐守に「左降」〔左遷〕されたとあるので、あくまで「厚遇されなかった」という見方を貫くなら「常道頭」は閑職かも知れない。
 さて、五日から九日までの部分は、 莿萩野戦線と湖東戦線のみを淡々と記している。 この間、他の戦線でも激しい戦闘が進行していたはずだが、それらについては二十三日条で大友皇子の滅亡を書いた後で時間を遡って書かれている。 その中にしばしば出て来る「是日」は、常に直前に書かれた日付を受けたとは言い切れないようである。 各事象の本来の順序については、次回以降に考察していきたい。



2025.01.06(mon) [28-07] 天武天皇上7 

17目次 【元年七月十三日~二十三日】
《男依等戰于安河濱大破》
壬寅。
男依等、
戰于安河濱大破。
則獲社戸臣大口
土師連千嶋。
安河浜…〈北野本〔以下北〕安河ヤス カハノホトリ社戸コソヘノ ヲン 大口オホクチ土師ハシノムラシシマ
〈内閣文庫本〔以下閣〕河濱ヤスカハノホトリ
壬寅(みづのえとら)〔十三日〕
男依(をより)等(ら)、
[于]安河浜(やすかはのはま)に戦(たたか)ひて大(おほ)きに破(やぶ)りて、
則(すなはち)社戸臣(こそべのおみ)大口(おほぐち)
土師連(はにしのむらじ)千嶋(ちしま)を獲(とら)ふ。
丙午。
討栗太軍追之。
栗太軍…〈北〉栗太クロ モトノイクサ
栗太…〈倭名類聚抄〉{栗本【久留毛止】
丙午(ひのえうま)〔十七日〕
栗太(くるもと)が軍(いくさ)を討ちて追之(お)ふ。
辛亥。
男依等到瀬田。
時、大友皇子及群臣等、
共營於橋西而大成陣、
不見其後。
瀬田…〈北〉

シリヘ
大成陣…〈閣〉 ニツラヲ
いほる…[自]ラ四 イホリの動詞形。(万)0220荒磯面尓 廬作而見者 ありそもに いほりてみれば」。 〈時代別上代〉「イホリがサ変動詞スと複合した形イホリスで用いられることが多い」。
つら…[名] ツラヌの名詞形。連ねること、連なったもの。
辛亥(かのとゐ)〔二十二日〕
男依(をより)等(ら)瀬田(せた)に到(いた)る。
時に、大友皇子(おほとものみこ)及(およ)びに群臣(まへつきみたち)等(ども)、
共に[於]橋の西に営(いほ)りて[而]大(おほ)きに陣(つら)を成(な)して、
其の後(しりへ)も不見(みえず)。
旗旘蔽野、埃塵連天。
鉦皷之聲聞數十里、
列弩亂發矢下如雨。
其將智尊率精兵、
以先鋒距之。
旗旘蔽野…〈閣〉ハタ-旘カクシ ヲ埃-塵 チリ 鉦-鼓ツゝミノ 之聲聞数-十- アマタサト ニ列-弩ツラナレルコト乱-ハ テ ノ コト如雨。 〈北〉鉦皷之聲聞○十里アマタサト
其将智尊…〈北〉智尊チソンイクサノキマ 先-鋒 サキ トシ。 〈閣〉先-鋒サキトシテ
…[動] (古訓) おほふ。かくす。
…[名] [国際電脳漢字及異体字知識庫]:「「鼓」的俗字」。
鉦鼓…軍を進めるときには鉦をならし、止めるときは鼓を鳴らす。
〈倭名類聚抄〉「鉦鼓:俗云常古〔シヤウコ〕」。
…[名] 人、鳥のほか楽器の音もいう。(古訓) こゑ。おと。
こゑ…[名]〈時代別上代〉「人間や動物以外の物が発する物音をコヱといった例は少ない」。
おほゆみ…[名] 〈倭名類聚抄〉「:和名於保由美」。
旗旘(はた)は野(の)を蔽(おほ)ひて、埃塵(ちり)は天(あめ)に連(つら)ねて、
鉦鼓(しやうこ)之(が)声(おと)は数十里(あまたとをさと)に聞こゆ。
列(つらな)りし弩(おほゆみ)の乱(みだ)りて発(はな)たえし矢(や)の下(ふ)ること雨の如し。
其の将(いくさのかみ)智尊(ちそん)精(と)き兵(つはもの)を率(ゐ)て、
以ちて先鋒(さきだ)ちて距之(いた)りつ。
仍切斷橋中、
須容三丈置一長板。
設有蹋板度者乃引板將墮。
是以、不得進襲。
切断橋中…〈北〉須容イルハカリ タトヒ フミ。 〈閣〉タトヒ ハ フミテ ヲワタル-者 乃 テ テ ス ムト
…[助数詞] 1丈=10尺=正倉院尺では約3m。
…[接] 仮定を表す。(古訓) もし。たとひ。
たとひ…[副] もし。〈時代別上代〉「後世、逆説条件にのみ用いられるが、上代は順接例ばかりである」。
仍(よ)りて橋の中(なかば)を切断(た)ちて、
須(かなら)ず容(ゆる)せること三丈(みつゑ)にして一(ひとひら)の長さの板(いた)を置けり。
設(もし)板を蹋(ふ)み度(わた)る者(ひと)有らば、乃(すなはち)板を引きて[将(まさに)]墮(おと)さむとす。
是(こ)を以ちて、進みて襲(おそ)ふこと不得(えじ)。
於是、有勇敢士曰大分君稚臣。
則棄長矛
以重擐甲拔刀、急蹈板度之。
便斷着板綱、以被矢入陣。
有勇敢士…〈北〉タケキ敢士曰大オホキタノ○臣若イワカ重-カサネキ擐甲。 〈閣〉-擐カサネキテ ヲ
断着板綱…〈北〉板綱以被-矢イエツゝツラ。 〈閣〉 テツケタル ニ ヲ被-矢イエツゝ
なが-…[接頭] 長日、長雨、長夜、長紐、長弭(ながはず)などがあるので、ナガ-ホコも可能であろう。
擐甲…鎧を着けること。擐(つらぬく)=頭を通す意から。
いゆ…[自]ヤ下二 射られる。
於是(ここに)、勇敢士(いさをしきをとこ)有りて〔名は〕大分君(おほきだのきみ)稚臣(わかおみ)と曰(い)へり。
則(すなはち)長矛(ながほこ)を棄(う)てて、
以ちて甲(よろひ)を重擐(かさねてつ)けて刀(たち)を抜きて急(すみやかに)板を踏みて度之(わた)りぬ。
便(すなはち)板を着けてある綱(つな)を断ちて、以ちて被矢(いえ)て陣(つら)に入(い)れり。
衆悉亂而散走之、不可禁。
時、將軍智尊、
拔刀斬退者而不能止。
不能止…〈北〉不能。 〈閣〉 モ不能ヤ コト
…[動] とどめる。拘禁する。(古訓) ととむ。ふせく。いさむ。
衆(いくさびと)悉(ことごと)に乱りて[而]散(あ)かれ走之(に)げて、不可禁(とどむべくもなし)。
時に、将軍(いくさのかみ)智尊(ちそん)、
刀(たち)を抜きて退(しりぞ)く者(もの)を斬(き)れど[而]止(とどむること)不能(あたはず)。
因以斬智尊於橋邊。
則大友皇子
左右大臣等、
僅身免以逃之。
男依等、卽軍于粟津岡下。
粟津岡下…〈北〉アハ ツノ ヲカノモト
因(よ)りて以ちて智尊を[於]橋(はし)の辺(ほとり)に斬りつ。
則(すはなち)大友皇子(おほとものみこ)
左右(ひだりみぎ)の大臣(おほまへつきみ)等(ども)、
僅(わづか)に身免(まぬか)れて以ちて逃之(に)げつ。
男依(をより)等(ら)、即(すなわち)[于]粟津(あはつ)の岡(をか)の下(もと)に軍(いくさ)す。
是日。
羽田公矢國
出雲臣狛、
合共攻三尾城、降之。
羽田公矢国…〈北〉タノキミクニイツモノヲン。 〈閣〉出雲臣コマ アフテ ニ
おとす…[他] 攻め取る。
是(この)日〔二十二日〕
羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)
出雲臣(いづものおみ)狛(こま)、
合ひて共に三尾城(みをのき)を攻めて、降之(おと)せり。
壬子。
男依等、
斬近江將犬養連五十君及
谷直鹽手
於粟津市。
犬養連五十君…〈北〉イヌ カヒノムラシ五十イソキミタニノアタヒ シホ。 〈閣〉ハサマノ
壬子(みづのえね)〔二十三日〕
男依(をより)等(ら)、
近江(ちかつあふみ)が将(いくさのかみ)犬養連(いぬかひのむらじ)五十君(いそきみ)及びに
谷直(たにのあたひ)塩手(しほて)を、
[於]粟津(あはつ)の市に斬る。
於是、大友皇子走無所入、
乃還、隱山前以自縊焉。
時、左右大臣及群臣皆散亡。
唯物部連麻呂且一二舍人從之。
自縊焉…〈北〉クヒシメ物部モノゝヘノムラシ
…[動] ① かえる、かえす。② 顧みる。③ 却って。逆に。
…[動] ほろぶ。にげる。(古訓) にく。うす。
於是(ここに)、大友皇子(おほとものみこ)走(に)ぐれど入(い)る所(ところ)無し、
乃(すなはち)還(かへ)りて、山前(やまさき)に隠りて以ちて自縊(くび)れたまへり[焉]。
時に、左右(ひだりみぎ)の大臣(おほまへつきみ)及びに群臣(まへつきみたち)皆散(あか)ち亡(に)ぐ。
唯(ただ)物部連(もののべのむらじ)麻呂(まろ)且(また)一二(ひとりふたり)の舎人(とねり)従之(したが)ふ。
《男依》
村国連男依  初出は六月二十二日、美濃国安八磨郡に派遣。前出は七月二日、和蹔から近江に直入。
現在の野洲川と東山道復元ルート 左図拡大(中山道を書き加えた) 直入軍の戦闘地
《安河》
 安河は、確実に野洲川。 戦場となった安河浜は、東山道が野洲川を渡る付近であろう。
 それでは、東山道は具体的にどこを通っていたのだろうか。
 「近江・野洲郡内の古代東山道ルート復元について」辻川哲朗(『紀要 第21号』〔滋賀県文化財保護協会2008〕)によると、 1970年以後「足利健亮氏」が「歴史地理的手法で総括的にルートを復元」、 2000年以後「高橋美久二氏」は「通説としての位置を確立した足利ルートにたいして再検討を加えた」。
 図の朱線は同書に示された野洲郡の東山道復元ルート(p.16)を、野洲川(国土数値情報河川データセット/野洲川による)の流路に書き加えたもの。 は高橋ルート、は足利ルートである。 官道としての東山道は、律令期に直線状に工事されたと思われるが、以前からあった街道に沿ったものであろう。
 同書は街道の由来について「少なくとも古墳時代には扇状地末端付近に南北ルートが形成され」、「7世紀前葉以前にはそうした道路の整備がなされていた可能性」があり、 「東山道は、それに先立つ段階に扇状地末端付近の地形的特性によって形成された陸路を基盤として、直線道路として公定・整備された」と述べる。 そして、それに合致するのは「足利ルートであった」()とする。
 ただ、現在の街路の向きにかつての条里が反映されたと考えると、の方は条里に沿っている。 それでも、律令期の官道以前の街道は中山道に近いだろうから、男依軍の経路も大体これであったと見るのが妥当か。
 現在の地図を見ると、東山道()または中山道の渡川点の南に広い河川敷があり、野洲川河川公園野洲川運動公園が設けられている。 壬申の当時にもこの付近に広大な河川敷があったとすれば、その砂地がハマと称されたかも知れない。ならば「」はハマと訓めばよく、古訓のように「ホトリ」と読む必要はなくなる。
《社戸臣大口/土師連千嶋》
社戸臣大口  〈姓氏家系大辞典〉「社戸 コソベ:社部、許曽部に同じ」、「社部 コソベ:其〔の〕字義の如く神社に奉仕する部ならんか」。 「社部臣:安倍氏の族なるべし」。社戸臣大口ともにここだけ。
土師連千嶋  土師連は〈皇極〉二年《土師娑婆連猪手》項参照。 千嶋はここだけ。
《栗太軍》
 〈倭名類聚抄〉には{近江国・栗本郡【久留毛止。国府】}、 〈延喜式-神名〉では{栗太郡}と表記される。
 『大日本地名辞書』は二種類の表記があることを示した上で、「今も久利毛止と唱ふ。太字に不止の訓あれば、栗太の古音は不毛音の混転なるべし〔太の訓はフトだから、フ・モが混合してモトに転じたのであろう〕と述べる。
 「栗太軍」は栗本郡に布陣した近江朝廷軍の意である。
《瀬田》
 瀬田川については、神功皇后紀「令撃忍熊王」《菟道川》項で見た。
《大友皇子及群臣等》
 「大友皇子及群臣等」とあるから、大友皇子は大津宮から出て親征していた。決戦に望み、自ら軍衆を鼓舞したのであろう。
 こうして瀬田川を挟んで、西側に大友皇子軍、東側に男依軍が対峙している。
 なお、大海人皇子は、最後まで不破行宮に留まっていた。
《橋西》
 「」は、明らかに現在の瀬田唐橋の前身である。
瀬田橋架橋方向復元図 瀬田橋第1橋復元図
『古代の宮都 よみがえる大津京』(p.71)
(所引『瀬田川浚渫工事関連文化財埋蔵発掘調査報告書2:唐橋遺跡』〔滋賀県教育委員会事務局文化財保護課他;1992〕)
瀬田橋第1橋復元模型
㈶滋賀県文化財保護協会蔵
瀬田橋第1橋第1橋脚
滋賀県教育委員会
橋脚構造模式図
本サイト独自
『古代の宮都 よみがえる大津京』(p.70) (は、左写真の範囲)
 『古代の宮都 よみがえる大津京』〔大津市歴史博物館;1993〕によると、 唐橋遺跡から、第1橋と第2橋の跡が見つかっている。このうち第1橋は 「橋脚基礎遺構やその周辺で出土する土器から、橋の構築年代は7世紀中頃と考えられ、 壬申の乱の瀬田橋の戦いは、この橋で行われた可能性が強い」という。 橋脚の下には「11樫の丸太材を並べ、さらにその下は直交する」向きに材が並べられているという。
 復元模型を見ると、橋脚の柱が六角形の頂点に配置されているのが特徴的である。 図(下右)は橋脚の柱の組み合わせを模式的に表したものである。 遺跡の第一橋脚部の木材(写真下中)は、模式図のの部分にあたることが分かる。 木材には、垂直に立てた丸柱の受け口が見える。
 この橋の構造の精緻さに比して、この橋の中央を断ち切って長い板を置いて綱で牽く仕掛けをしたという記述は、随分荒っぽく感じられる。 頭の中で描いた伝説のように思えてならない。
《智尊》
智尊  智尊は漢字二文字で、かつ仏教的な字であるから、であろう。 出身氏族は全く分からない。 俗籍における一般的な表記は、「(冠位)+氏+(姓)+名」または「(冠位)+氏+名+姓〔大臣クラスの場合〕である。
《須容》
 は必須の須で「かならず」、は「いれる=可能な限り」であろうか。
 どの辞書にも熟語としての「須容」は出てこないので、[中国哲学書電子化計画]で用例を探したところ、 『全唐詩』〔清代〕巻455に見つかった。その漢詩の一節に、 「若許陪歌席、須容散道場。月終齋戒畢、猶及菊花黃〔若し歌席に陪席する許しを求めるなら、道場が散会すれば(かなら)ず(ゆる)す。月末に斎戒を終えた頃でも、菊花はなお黄色を保っているだろう〕とある。
 文意の解釈は、 下定 雅弘(『中国文史論叢』1(2005.3))を参考にした。 作者は白居易〔772~846〕、 大和八年〔834〕の作。「答皇甫十郎中秋深酒熟見憶〔皇甫十郎中が秋深くして酒熟し憶わるるに答う〕(3191)と題されている。
 すなわちこの漢詩中では、「」と理解される。
 これを参考にすれば、「須容三丈置一長板」では"as long as possible"を意味し、文意は「〔木材から〕目いっぱいに三丈の長さを取ることができた板」であろう。
《置一長板》
 敵の襲来が予想されるので橋を破壊し、暫くは板を渡した。そして、いよいよ敵が来た時に落とすという作戦は考え得る。 ただ、稚臣が瞬く間に駆け抜けて綱を断ったとする部分は、一族内で先祖の活躍を偉大化して描いた伝説かも知れない。
《大分君稚臣》
大分君稚臣  六月二十二日、朝明郡で合流した大津皇子に随行していた。
《棄長矛以重-擐甲刀…》
 大分君稚臣は長槍を捨て鎧の上に鎧を重ねて走り込み、太刀で板に付いていた綱を断ち切った。 矢を受けても構わず素早く走り抜けて、敵が綱を引く前に渡り切ってしまおうと考えたのである。
 伝説臭がぷんぷんするが、八年三月の死の際に「壬申年大役、為先鋒之、破瀬田営」の功を挙げたと書かれるから、 先鋒として勇猛果敢に攻め込んだこと自体は史実であろう。
《粟津》
 『大日本地名辞書』「粟津:今の膳所〔ぜぜ〕村なり、古書禾津に作る、大津町馬場〔現大津市馬場ばんばの南より勢多川の辺までを指」す。
 一方『今昔物語』巻十一天智天皇建志賀寺語第二十九に「天智天皇近江ノ国志賀郡粟津ノ宮ニ御マシケル時ニ」、 同巻十二山階寺焼更建立間語第二十一に「天智天皇ノ粟津ノ都ニ御ケル時ニ」とある。 これらからは、粟津大津京に及ぶ広範囲の地名であったように見えるが、 方面としての呼び名なら、必ずしも大津の宮がそこにあったとは限らない。
 それでも物語にこの呼び名が出て来るのは、地名が大変有名であったことを示すと思われる。 少なくとも壬申紀においては男依の進軍経路から見て、やはり膳所村の辺りを指すと見るのが妥当だと思われる。
《左右大臣》
 もし「左右臣」なら「もとこのおみ」と訓むが、「大臣」だから左大臣右大臣を指す。 すなわち左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連である(〈天智〉十年)。
《粟津岡》
 膳所村の西に丘陵があり、茶臼山古墳小茶臼山古墳がある。「粟津岡」はこの丘陵だろうか。
《羽田公矢国/出雲臣狛》
羽田公矢国 去る二日に来従し、方面軍の将軍を拝した。
出雲臣狛 去る二日に玉倉部邑で敵を撃退した。
 羽田公矢国は、北陸道制圧の任を負ったが引き返して出雲臣狛に合流し、近江京を北方から攻める戦線に加わったと見られる。 北陸道にはもはや近江朝廷に心を寄せる勢力はなく、簡単に大海人皇子側に来帰したからそれ以上攻め進む必要はなかったのであろう。 矢国は、三尾城攻めにあたって国の軍を引き連れて来たことも考え得る。
《三尾城》
『志賀文化財だより』64(p.1)
水門石垣 『志賀文化財だより』64(p.3)
 〈倭名類聚抄〉に{近江国・高島郡・三尾【美乎】郷}がある。 『大日本地名辞書』いわく「三尾郷:今大溝オホミゾ村なるべし。其西に接する 高島村水尾村は三尾の神戸郷なりしならん。和名抄神戸郷を載せたり」、 「壬申乱の条…は本郷なるべけれど、今遺址を知らず」。
 ここにある「大溝村」については、「大溝陣屋」が残る(高島市勝野1688)。
 その南にあたる岳山山麓に、石塁が残る(現高島市鵜川)。本格調査が行われるまでは、江戸時代に作られたシシ垣と伝承されてきた。
 『志賀文化財だより』64〔財団法人志賀文化財保護協会1982〕によると、 「山中の猪や鹿が、里の農作物を荒しに来るのをロック・アウトするために造られたと言われており、江戸時代にシシ垣を造ったと伝承されてきた」、 しかし「人家や耕地より1km以上も離れた山中を、無数の尾根や谷を横断しながら延々7km以上におよぶ石塁」を「猪や鹿の害を防ぐだけの目的」とするのは疑問だという。
 そして「昭和55年〔1980〕、何回かの調査活動を行った結果、山中の各所に大小の意思を人為的に集積したと思われる場所を見つけることができた」。そこには「朝鮮式山城に特有の通水口を下部に設けた水門石垣」、「古墳の横穴式石室の石積み工法と同じ形態」、 「水道みずみちで連結する水源地遺構が残存」等が確認されたという。
 同書掲載の水門石垣の写真を見ると、《椽城(基肄城)》の水門(通水口)の写真と酷似していて、 確かにこの時代に造られた朝鮮式山城のひとつではないかと思わせるものがある。
 時代背景としては、〈天智〉による近江遷都の目的は、高麗との連携を強めて唐・新羅による攻勢に備えるためと考えた(《遷都于近江》)。 いわば大宰府〔本サイトはその前身を〈斉明〉朝倉宮と見た〕の前面に大野城を置いて防禦したのと同じように、近江京の前面に置いたのが三尾城であろう。
 皮肉なことに、三尾城を攻めたのは唐・新羅軍ではなく大海人皇子軍であった。
《犬養連五十君/谷直塩手》
犬養連五十君  〈姓氏家系大辞典〉犬養 イヌカヒ:犬飼ひて狩猟に関する品部の名より起る。…地名…多くは犬養部の居住せし地ならむ」。 「犬養連:犬養部の伴造家なり」、「五十君は孝徳紀大化二年三月犬養五十君と見ゆれば其間に於て連姓を賜ひたるにか」。 五十君は、この日以前に中ツ道で吹負を攻めた([29-08]19)。
谷直塩手  〈姓氏家系大辞典〉「(文部)谷直:坂上氏の族にて、倭漢直…の後裔也」。 〈姓氏録〉〖漢/谷宿祢/坂上大宿祢同祖/都賀直四世孫宇志直之後也〗(資料[25]《坂上大宿祢》項参照)。 塩手はここだけ。
《粟津市》
 は一般に交通路の交わるところに開かれるから、粟津市は東山道・東海道と瀬田川の水上交通路の交わる瀬田橋の近くか。 ただし、「粟津」というから瀬田川より西であろう。
《山前》
 山前〔ヤマサキ〕は、秀吉と光秀の決戦の地「山崎」かと思える。 これについては、[大津の歴史データベース]〔大津市歴史博物館〕は、「その〔大友皇子の〕終焉の地という「山前」の場所については、古来諸説があって決めがたい」と述べる。
 その比定地を巡る議論については、別項で見る。
《左右大臣及群臣》
 左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連は大友皇子を推し立てることを「泣血誓盟」した(〈天智〉十年十一月)。にもかかわらず、大友皇子を放置して逃げ去った。 それに対して、最後まで大友皇子に随った物部連麻呂の律儀さは際立っている。
《物部連麻呂》
物部連麻呂  〈姓氏家系大辞典〉「物部連:…神武帝入国の際は、長髄彦と通じ…大和登美…に拠り…後山辺郡石上に移し」た。 〈神武〉帝と長髄彦の戦いは《戊午年十二月》参照。 本サイトは、物部の祖饒速日命は、初期前方後円墳時代に一時存在した鳥見山王朝の王が伝説化したものと考えた (【初期古墳】項)。物部氏については資料[37]で考察。
 麻呂はその後、五年十月「以大乙上物部連摩呂為大使…遣於新羅」。その後石上朝臣に氏姓を改める。 『天孫本紀』「物部連公麻侶:浄御原宮御世〔天武〕…改賜石上朝臣姓」。 〈姓氏家系大辞典〉「此の萬侶は朱鳥元年紀に石上朝臣麻呂と記すが故に此の〔天孫〕本紀の記事は史実と考へらる」。
 〈持統紀〉朱鳥元年九月「直広参石上朝臣麻呂於筑紫給-送位記且監新城」。 〈持統〉十年「仮賜…直広壱石上朝臣麻呂
 〈続紀〉文武四年〔700〕直大壱石上朝臣麻呂筑紫総領」。 大宝元年〔701〕三月甲午「授…中納言直大壱石上朝臣麻呂…正正三位。…中納言正正三位石上朝臣麻呂…為大納言」。 二年〔702〕正三位石上朝臣麻呂大宰師」。 慶雲元年〔704〕大納言従二位石上朝臣麻呂右大臣」。 和銅元年〔708〕正月乙巳「授…従二位石上朝臣麻呂…正二位」。 三月丙午「以…右大臣正二位石上朝臣麻呂左大臣」。 辛酉「始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂留守」。 養老元年〔717〕三月癸卯「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八…贈従一位。大臣、泊瀬朝倉朝庭〔〈雄略〉〕大連物部目之後。難波朝〔〈孝徳〉〕衛部大華上宇麻乃之子也」。
 薨年から逆算すると、壬申年〔672〕には33歳だったことになる。
 〈天武〉天皇は麻呂を重用した。崩じた後も地位は上り続け、最終は左大臣。 まずは本人の資質によるものであろう。
 加えて大友皇子に最後まで臣従し、自死を見届け、首級を大海人皇子の許に届けた。 これによって大海人皇子の勝利の形が完璧に整ったのであるから、麻呂の功績は大きかった。 もし遺体が捨てられたり行方不明になったりすれば、〈天武〉朝の出発点にきずを残すことになっただろう。 そして麻呂が首級を届けた際の振る舞いは、大いに品性を感じさせたに違いない。
《大意》
 十三日、 男依(おより)らは、 安河(やすかわ)の浜で戦い、大敗させ、 社戸臣(こそべのおみ)大口(おおぐち)と 土師連(はにしのむらじ)千嶋(ちしま)を捕えました。
 十七日、 栗太(くるもと)の軍を討ち追撃しました。
 二十二日、 男依らは瀬田に到着しました。 その時、大友皇子及び群臣(まえつきみたち)らは、 共に橋の西を軍営として大陣を展開し、 その後方は見えませんでした。
 旗旘は野を覆い、埃塵は天に連なり、 鉦鼓の音は数十里離れていても聞こえました。 列した弩を乱れ打ち、発った矢が降り雨の如くでした。 その将智尊は精兵を率いて、 先鋒となって攻めて来ました。
 そして橋の中央を切断し、 できるだけ長くとった三丈の一枚板を置きました。 もし板を踏んで渡る人があれば、タイミングよく板を引いて落としてしまおうというのです。 これにより、進んで襲うことはできません。
 ここに勇敢な士があり、その名を大分君(おおきだのきみ)稚臣(わかおみ)といいます。 すなわち長矛(ながほこ)を棄て、 鎧を重ね着して太刀を抜いて素早く板を踏んで渡りました。 そして板に付けた綱を切断し、矢を浴びながら敵陣に入りました。
 軍衆は尽く乱れ、散り散りになって走げ、制止できませんでした。 その時、将軍智尊は、 太刀を抜いて退く者を斬りましたが、止めることはできませんでした。
 こうして智尊を橋の辺で斬りました。 すなわち大友皇子、 左右の大臣らは、 僅かに免れて逃げました。 男依らは、粟津(あわつ)の岡の下(もと)に軍を展開しました。
 同じ二十二日、 羽田公(はたのきみ)矢国(やくに)と 出雲臣(いづものおみ)狛(こま)が、 合流して共に三尾城(みおのき)を攻め、降しました。
 二十三日、 男依らは、 近江の将犬養連(いぬかいのむらじ)五十君(いそきみ)と 谷直(たにのあたい)塩手(しおて)を、 粟津の市で斬りました。
 こうして、大友皇子は逃げましたが入れる場所もなく、 やむを得ず、山前に隠れて自ら首をくくりました。 その時、左右の大臣及び群臣は皆散亡しました。 ただ物部の連麻呂(まろ)と一二の舎人(とねり)がお供しました。


【山崎を巡る議論】
 『大日本地名辞書』は「〔石坐神社の項で〕茶臼山という古墳あり、此を指して弘文天皇山前陵也と云う、皆信用すべからず」と述べ、まず茶臼山古墳説を否定している。
 主な候補地は、秀吉・光秀の山崎の戦いの地と、三井寺近傍である。
《天王山の山崎説》
関連地名配置図
山崎院跡
 『集解』〔『書紀集解』1785〕は「〔あんずるに〕河内志茨田郡三矢村有山崎。参-考後文蓋此」、すなわち茨田郡三矢村とする。 「後文」とは、辛亥条の「將軍吹負…至于山前屯河南」のところで「河内志」から引用した部分のこと。
 その箇所は、『五畿内志』河内国/茨田郡「古蹟:山崎院址【在三矢村。僧正行基建。宝亀四年十一月施-入当郡田二町。 天武天皇元年秋七月。将軍吹負已定倭地三道于山前河南即此】」。 すなわち、行基が建立した「山崎院」が三矢村にあり、ここが壬申紀にいう「河南」の「山前」にあたるという。
 山崎院跡については発掘調査が行われ、「1989年・1999年に行った発掘調査で、奈良時代の唐草紋彩色壁画片、 半丈六〔丈六×½〕の塑像片、せん仏…多くの遺物が出土しました」という〔現地案内板;平成十九年 大山崎町教育委員会〕(京都府乙訓郡大山崎町大山崎上ノ田39付近)
 その山崎については、〈倭名類聚抄〉に{山代国・乙訓郡・山崎【夜末佐岐】}がある。 『日本歴史地名大系』は、「〔大阪府〕島本町山崎1~3丁目・山崎・東大寺一丁目」で 「大山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)に接し、その間に河川などの自然の境界はない」と説明する。
 大友皇子は僅かな伴回りと共にここまで落ち延びたが、遂に敗北を受け入れて自ら命を絶ったという筋書きは十分あり得る。
《三井寺近傍説》
弘文天皇陵と三井寺(園城寺)
 それに対して『通証』〔『日本書紀通証』1751〕三井寺周辺説をとる。曰く「『廟陵記』曰。山前長等山之山前也。今按『千載集』所謂狭狭浪也、長等山是也。三井寺号長等寺滋賀郡。金堂内陣柱記曰。 天武天皇十五年丙戌。大伴与多麻呂建立此伽藍。与多麻呂大友皇子之第五男也。見当寺伝記〔『廟陵記』曰く、山前は長等山の山前である。今『千載集』のいう狭狭浪(ささなみ)を按ずるに、長等山がこれである。三井寺は長等寺と号し、滋賀郡にある。金銅内陣の柱の記に曰く、 天武天皇十五年丙戌年に、大伴〔大友〕与多麻呂がこの伽藍を建立した。与多麻呂は大友皇子の五男である。当寺の伝記を見よ〕という。
 すなわち、山前三井寺(園城寺)が山号とした「長等山」の前〔先〕のことで、同寺は大友皇子の子与多麻呂が大友皇子を偲んで発願した。その場所が大友皇子が薨じた地に近いと考えたと思われる。 与多麻呂については、『本朝皇胤紹運録』では「大友皇子―与多【賜大友姓」となっている。
 「弘文天皇長等山前陵」は、明治三年〔1870〕に大友皇子に弘文天皇を追号した後に、陵と定めたもの。 大津市役所の東にあたる。
 『日本歴史地名大系』もこの立場である。 曰く「長等山前陵:弘文天皇(帝大友)の御陵なり、近年推定して三井寺北院の亀岡を以て之に充つ、今大津兵営の柵内に在り」、 「弘文天皇の山陵は明治十年六月亀岡カメノヲカと推定」、「兵営の建築に際し、…試掘を行はしむるに、果たして鏡剣〔やじり〕を掘出し、其御陵たるべきこと明白なり」と述べる。 これを読むと「長等山前陵」を定めるにあたって一定の調査が行われたようだ。 『日本歴史地名大系』は、さらにこの場所が「壬申紀…の下文「屯河南」とも見えたる所」だという。しかし、この点に関しては辛亥条の文脈には明らかに合わない(下述)。
《議論をどう見るか》
 ここで改めて「走無入乃還隠山前」を忠実に読めば「一度は遠くに逃げたがもはや安全な場所はなく、戻ってきて山前に隠れた」となる。 戻って来たのなら、「山前」は粟津~近江京である。ただ「山前」は野外を表すためで、実は地名ではなく「山の先」なのかもしれない。
 ところが、後の辛亥条()の「山前」は、〔山背・摂津境界の〕山崎から遠ざけることは難しい。よって両者の辻褄を合わせようとすれば、
 壬子条〔大友皇子自経の件〕()の「山前」と〔将軍吹負…至于山前屯河南〕の「山前」を別の所として読む。
 還隠山前」の「」は最初の場所への帰還ではなく「却って」の意味である※)。すなわち「警備のある宮殿をあきらめて、野外でせめて隠れられるところに行った」と読む。
 のどちらかであろう。※)…還・却の両者とも「[動]かえる・かえす。[副]かえって。」の意味がある。なお、動詞の前の一文字は副詞の場合が多い。
 思うに、山前の場所は、を中心にして考えるべきであろう。 では、将軍吹負が大坂道経由で難波の副都に入ったとき、別将〔イクサノスケ〕は「各自三道進至于山前屯河南〔各自がいくつかの道を取って山前に至り、河南に駐屯した〕と述べたものであった。 この山前山崎だとすると経路は北回りに過ぎるので、これはこれで問題が残る。 しかし、少なくともの「山前」は粟津~近江京ではない。もしこの時点で「粟津の山前」に行ったのなら、それは依然として戦闘を続けていた直入軍に加勢するためとなる。 それなら「既定倭地」の後の移動の経由地という書き方はしないだろう。
 かと言って、も考えにくい。 もし別の「山前」なら、どちらかに何かを付けただろう〔横河と息長横河を書き分けたように〕
 このように考えていくと、結論は必然的にに傾く。
 しかしことはもう少し複雑で、実際には自経の現場を三井寺近傍とする別伝も存在していたように思われる。 別伝では「」は「帰る」意味であって、それが書紀に混合した結果、今の形になったのかも知れない。
《「山前」比定の意味》
 大友皇子終焉の地は、既に歴史的な実証から離れて文化史上の規定の問題になっている 〔物質的根拠ではなく、集団意識の成り立ちの探求〕。 文化史的には、三井寺近傍とすべきであろう。それは、与多麻呂が大友皇子を偲んで三井寺を建立したという寺伝により、薨じた地〔明治以後は崩じた地〕はその近辺であるとする意識が、年月を経るうちに人々の内に浸透しているからである。
 それに対して大和・摂津が接する山崎は、仮にこれが史実だったとしても現地に伝承はないから、信仰としては途絶えている。 だから、文化史としては大友皇子終焉の地は長等山山前に軍配が上がる。 ただし、あくまでも客観性に拘り史実をというなら、やはり山崎が有利だと思える。 この矛盾は、古墳への考古学的な探求と天皇陵の治定が衝突するのと同質であろう。

18目次 【元年七月初:二日~某日】
《將軍吹負向乃樂至稗田之日》

將軍吹負向乃樂
至稗田之日。
有人曰、
「自河內軍多至。」
初(はじめ)に、
将軍(いくさのかみ)吹負(ふけひ)乃楽(なら)に向(ゆ)きて
稗田(ひえた)に至りし[之]日〔二日か〕
人有りて曰(まを)さく、
「河内(かふち)自(よ)り軍(いくさ)多(さは)に至れり。」とまをす。
則遣坂本臣財
長尾直眞墨
倉墻直麻呂
民直小鮪
谷直根麻呂
率三百軍士距於龍田
坂本臣財…〈北〉坂本サカ モトノ ヲンタカラ長尾 ナカヲノアタヒスミ 倉墻クラ カキノアタヒ タミノアタヒ タニノアタヒ
則(すなはち)坂本臣(さかもとのおみ)財(たから)
長尾直(ながをのあたひ)真墨(ますみ)
倉墻直(くらかきのあたひ)麻呂(まろ)
民直(たみのあたひ)小鮪(こしび)
谷直(たにのあたひ)根麻呂(ねまろ)を遣(つか)はして
三百(みほたり)の軍士(いくさびと)を率(ゐ)しめて[於]龍田(たつた)に距(へだ)つ。
復遣佐味君少麻呂
率數百人屯大坂、
遣鴨君蝦夷
率數百人守石手道。
佐味君少麻呂…〈北〉ミノキミ少麻呂 スクナ マ ロ イハテノ ミチ
〈閣〉鴨君 甘茂イイハ ノ ヲ
復(また)佐味君(さみのきみ)少麻呂(すくなまろ)を遣はして
数百人(あまたほたり)を率(ゐ)しめて大坂(おほさか)に屯(いは)ましめて、
鴨君(しまのきみ)蝦夷(えみし)を遣はして
数百人(あまたほたり)を率(ゐ)しめて石手道(いはてみち)を守らしむ。
是日。
坂本臣財等次于平石野。
時聞近江軍在高安城而
登之。
…〈閣〉ヤトル于平 ノ ニ。 〈北〉次于平石野
〈兼右本〉   ルヤトレリ于平◰-[ノ][ニ][句]
登之…〈北〉/タフタツソツ私記
是(この)日。
坂本臣(さかもとのおみ)財(たから)等(ら)[于]平石野(ならしの)に次(やど)りつ。
時に〔三日か〕近江(ちかつあふみ)が軍(いくさ)高安城(たかやすのき)に在りと聞きて[而]
登之(のぼる)。
乃近江軍、知財等來、
以悉焚秋税倉、皆散亡。
仍宿城中。
税倉…〈北〉税-倉チカラクラ
乃(すなはち)近江(ちかつあふみ)が軍(いくさ)、財(たから)等(ら)の来(き)たると知りて、
以ちて悉(ことごと)に秋(あき)の税倉(ちからくら)を焚(や)きて、皆(みな)散(あ)かち亡(に)ぐ。
仍(よ)りて城(き)の中(うち)に宿(やど)りつ。
會明。
臨見西方、
自大津丹比兩道軍衆多至、
顯見旗旘。
有人曰
「近江將壹伎史韓國之師也。」
会明…〈北・閣-六月二十五日會明アケホノ
壹伎史…〈北〉キノフンヒト カラ クニ 云
…[名] 周代には2500人からなる軍隊。
…[形] (古訓) あきらかなり。あらはす。
会明(あけぼの)〔四日か〕
西の方(かた)を臨見(のぞ)めば、
大津(おほつ)丹比(たぢひ)両道(ふたつのみち)自(よ)り軍衆(いくさびと)多(さは)に至りて、
顕(あきらけく)旗旘(はた)見ゆ。
人有りて曰(まを)ししく
「近江(ちかつあふみ)が将(いくさのかみ)壱伎史(いきのふみひと)韓国(からくに)之(が)師(いくさ)なり[也]。」とまをしき。
財等自高安城降
以渡衞我河、
與韓國戰于河西、
財等衆少不能距。
衛我河…〈北〉カハ。 〈閣〉 テ衛- ノヱガ ヲ
財(たから)等(ら)高安城(たかやすのき)自(よ)り降(くだ)りて
以ちて衛我河(えがのかは)を渡りて、
韓国(からくに)与(と)[于]河の西に戦へど、
財等の衆(いくさびと)少(すくな)くありて距(こばむこと)不能(あたはず)。
先是、遣紀臣大音、
令守懼坂道。
於是、財等、
退懼坂而居大音之營。
先是…〈閣〉
紀臣大音…〈北〉ヲン オホ ヲト 懼-坂道 カシコサカノミチオト之營。 〈閣〉紀臣大オトヲオトカ ニとじ。
是(こ)の先(さき)にして、紀臣(きのおみ)大音(おほと)を遣はして、
懼坂道(かしこさかのみち)を守(も)ら令(し)めてあり。
於是(ここに)、財(たから)等(ら)、
懼坂(かしこさか)を退(しりぞ)きて[而]大音(おほと)之(が)営(いほり)に居(を)り。
是時、
河內國司守來目臣鹽籠、
有歸於不破宮之情、
以集軍衆。
来目臣塩籠…〈北〉メノヲン シホ 歸於 マウヨ  マヰヨル 不破軍-衆
是(この)時、
河内(かふち)の国司(くにのつかさ)の守(かみ)来目臣(くめのおみ)塩籠(しほこ)、
[於]不破宮(ふはのみや)に来(まゐよらむ)とせし[之]情(こころ)有りて、
以ちて軍衆(いくさびと)を集(つど)へてあり。
爰韓國到之、
密聞其謀而將殺鹽籠。
々々知事漏乃自死焉。
もる…[自]ラ四 漏る。
爰(ここに)韓国(からくに)到之(いたる)、
密(ひそかに)其の謀(はかりごと)聞こえて[而][将(まさ)に]塩籠(しほこ)を殺さむとす。
塩籠、事が漏(も)りてあることを知りて乃(すなはち)自(みづから)死(しに)せり[焉]。
經一日。
近江軍當諸道而多至。
卽並不能相戰、以解退。
諸道…龍田道、懼坂道、大坂道、石手道を指す。
一日(ひとひ)を経(へ)て〔五日または六日か〕
近江(ちかつあふみ)が軍(いくさ)諸(もろもろの)道に当たりて[而]多(さは)に至れり。
即(すなはち)並(ならび)に相(あひ)戦(たたかふこと)不能(あたはず)て、以ちて解き退(しりぞ)く。
《初将軍吹負…》
 ここからの段落は、「」、すなわち時間を遡って「将軍吹負向乃楽稗田之日〔吹負が乃楽(平城山)に向かい稗田に到着した日〕以後のことを述べる。
 これまでの部分では「初向乃楽」が七月一日、 「于乃楽山上」が三日なので、 「稗田」は急げば一日、ゆっくり行けば三日である。ひとまず真ん中の二日としておく。
《稗田》
 『五畿内志』大和国/添上郡に「村落ヒヘ」、 「神廟ヒメ田神社【在稗田村今称三社明神」。 〈延喜式-神名〉に{大和国/添上郡/売田神社}が見える。 比定社「賣太神社」(奈良県大和郡山市稗田町319)は、主祭神稗田阿礼命、副祭神天細女命猿田彦命とする。 稗田はここであろう。
 なお、賣太神社の祭神の稗田阿礼は古事記序文に登場し、天細女命を祖とすると伝わる。
《坂本臣財/長尾直真墨/倉墻直麻呂/民直小鮪/谷直根麻呂》
坂本臣財  坂本臣は〈安康〉段、根使主の子孫(【坂本臣】項)。 『大日本地名辞書』「坂本郷:和名抄、高安郡坂本郷。今中高安村なるへし、高安城の麓なれは、坂本の名ありしならん。…坂本臣財は本郷の人なる歟」。 のその後は、〈天武〉二年五月癸丑「大錦上坂本財臣卒。由壬申年之労、贈小紫位」。
長尾直真墨  〈姓氏家系大辞典〉「長尾直:大和国葛下郡の長尾邑より起る。倭漢坂上氏の族」(《倭漢坂上直》参照)。 〈延喜式-神名〉{葛木郡十八坐/長尾神社。大。月次新嘗}。真墨はここだけ。
倉墻直麻呂  〈姓氏家系大辞典〉「椋垣直:倭漢坂上氏の族…倉墻は椋垣に同じ。…椋垣は大和の地名なるべし」。麻呂はここだけ。
民直小鮪  〈姓氏家系大辞典〉「民直 ミタミ タミ:ミタミ(御民)にて皇帝領の人民…此の人民を掌りし氏」。 各地に「民直:和泉の豪族、中臣氏の族」、「民直:和泉の古姓…出雲臣の族」、「大和の民直:倭漢坂上氏の族」を示すが小鮪の名は何れにも載らない。長尾直真墨倉墻直麻呂谷直根麻呂と同じく倭漢坂上氏の族か。 《坂上大宿祢》で見たように、倭漢坂上氏グループはまとめて忌寸姓を賜っている。
 よって、民直小鮪が坂上氏系ならば後には民忌寸小鮪になるので、〈続紀〉の「叙…正六位上民忌寸袁志比…従五位下」(和銅四年〔711〕)、「授…従五位下民忌寸于志比…従五位上」(養老二十年〔720〕)と同一人物の可能性がある。 さらに、宝亀三年〔773〕に「袁志比〔ヲシビ〕の名が見えるが、これは「坂上大忌寸苅田麻呂」の言上の中でさる「天平元年〔729〕」に「従五位上民忌寸袁志比」が具申したという事実を述べたものである。 よって少なくとも壬申年から58年後において民忌寸袁志比は生存していた。これを小鮪が長生きしたと見るか、別人と見るかは微妙である。
谷直根麻呂  〈姓氏録〉〖谷宿祢/坂上大宿祢同祖〗〈姓氏家系大辞典〉「(文部)谷直:坂上氏の族にして、倭漢直爾波伎、及び山本直の後裔也」 (《坂上大宿祢》項)。 根麻呂はここだけ。
 吹負軍はもともと飛鳥寺西槻下の軍営に集った朝廷軍が、丸ごと大海人皇子に帰順したものであった。吹負は乃楽山に向かう途中で、その一部を割いて龍田に向かわせた。 坂上直熊毛配下の「諸直」は、進んで大海人皇子側に付いた(六月二十九日《諸直等》)。
 ここの坂本臣財以下の各氏も、坂上直配下の「諸直」と見られる。
《距於龍田》
 三軍を置いた場所を、それぞれ「於龍田」、「大坂」、「石手道」として表現が異なっている。 各氏族の家伝の語句をそのまま使ったためかも知れないが、実質的な理由も考えられる。 《懼坂道》項で考察する。
《龍田》
 〈履中〉即位前紀《龍田山》項参照。
《佐味君少麻呂/鴨君蝦夷》
佐味君少麻呂  〈天武〉十三年「佐味君…賜姓曰朝臣」。 十四年九月「直広肆佐味朝臣少麻呂為山陽使者…巡-察国司郡司及百姓之消息」。 〈持統〉三年「直広肆佐味朝臣宿那麻呂…拝撰善言司」、 少麻呂の記事はこれが最後。 〈姓氏録〉に〖皇別/佐味朝臣/上毛野朝臣同祖/豊城入彦命之後也〗とあり、 〈姓氏家系大辞典〉が「佐味君宿奈麻呂」を「上毛野氏の族」とするのはそのためであろう。〈倭名類聚抄〉に{上野国・緑野郡・佐味}。
鴨君蝦夷  蝦夷は、六月二十九日、飛鳥寺西槻下に攻め入った吹負軍に合流した。
稗田・龍田・大坂・石手道・平石野・高安城・大津道・丹比道・懼坂道
《大坂》
 〈履中〉段で、天皇が大坂の山口に到着した時、そこで出会った一人の女性に 「大坂道は敵が塞いでいるので、当麻道経由がよろしいでしょう」と助言された(第177回)。
 すなわち、丹比道大坂道当麻道に分かれて二上山の南北を通る。当麻道の方が急峻である。
《石手道》
 石手は、現代地名には見えない。 難波方面から攻める敵軍に備えて龍田大坂石手道に軍を配置したという。よって石手道当麻道にあてることには合理性がある。
 『大日本地名辞書』は「長尾」(旧名磐城村)の項内に「竹内嶺」の小見出しを設け、その中で 「竹内嶺タケウチノタウゲ:古事記伝云、若桜宮(履仲)段に当岐麻道…二上山の南に在て今竹之内越と云ふ。…山中に岩石多し、天武紀に見る岩手道イハテノミチ〔ママ〕亦此なり」と述べる。 やはり当麻路にあたると見ているが、イハの多い道であることによる推定に留まるようである。
《平石野》
 平石野は直感的にはナラシノと訓めるが、古訓には見えない。〈内閣文庫本〉・〈兼右本〉では、音読みの提案もある。
 そこで『大日本地名辞書』(以下〈地名辞書〉)を見ると「奈良ナラシノヲカ: 龍田村の南なる小吉田車瀬目安の辺を曰ふ…奈良志〔ある〕平石ナラシに作る」と述べる。
 また『五畿内志』を見ると、 大和国之一〔総説〕に「平石峠【石川郡外通平石村因名】」、 河内国石川郡に「村里ヒラ石村」とある。 その平石峠は石川郡の北東端なので、〈壬申紀〉のいう平石とは明らかに異なる。
 〈地名辞書〉は、龍田村南の車瀬辺りが奈良志岡であったと推定する根拠として、次の万葉歌を挙げる。
――(万)0969神名火乃 淵者浅而 瀬二香成良武 かむなびの ふちはあせにて せにかなるらむ」。これは大伴旅人が故郷を懐かしんで詠んだ歌。
――(万)1466神名火乃 磐瀬乃杜之 霍公鳥 かむなびの いはせのもりの ほととぎす」。
――(万)1507「(題詞)大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首古郷之 奈良思乃岳能 霍公鳥 ふるさとの ならしのをかの ほととぎす」。
『大日本地名辞書』による「奈良志岡」(平石)と磐瀬
 第一歌の「淵者浅而瀬」は第ニ歌の「磐瀬」のことだと見たようである。 そして第三歌題詞にある「大伴田村大嬢」は旅人の孫にあたる人物だから、旅人の出身地は「磐瀬之杜」で、よって第三歌の「奈良思乃丘」は「磐瀬之杜」のことだろうと推定する。
 〈地名辞書〉は「磐瀬之杜」については、「今の龍田川の東傍に松の老木ども村立残れる森を今も岩瀬の杜と呼べり」と述べる。 また、「磐瀬森イハセノモリは立田村の南車瀬に在り、其林中小祠あり」、 「此辺〔このあたり〕の龍田川一名神南川」、「磐瀬森の西南、龍田川を隔てゝ四町許〔ばかり〕三室山ミムロヤマ神南村等あり」と述べる。 すなわち、「神南〔かんなん〕」なる地名も「神名火〔カムナビ〕」に通ずると見たようである。
 ただし、「磐瀬の杜」の伝承地は他にもあり、JR三郷駅の南西200mに「磐瀬の杜」の石碑及び鏡王女の歌(万)1419神奈備乃 伊波瀬乃社之…」の歌碑がある。
 〈地名辞書〉に戻ると、万葉歌によって「磐瀬=奈良志」としたのは一つの推論ではあるが、坂本臣財らが龍田に到着後車瀬辺りで一泊した後に高安山に向かうという経路自体は不自然ではない。 また、この位置なら財らが龍田の中でも東の方に布陣したとする読み方《懼坂道》項で述べる〕にも合うことになる。
 よって、〈地名辞書〉の「平石=奈良志=磐瀬之杜」説は牽強附会のようにも見えるが、軍の経路から見るとその位置は適切なので案外正しいのかも知れない。
《高安城》
最高点(487.5m) 高安山古墳群 礎石建物群  尾根道 尾根道 沢道
 高安城の探索の歴史は、資料[74]にまとめた。
 そこで見たように、朝鮮式山城に一般的にある石塁の存在が高安城にも予想され、さまざまに論じられてきた。
 《倭国高安城》項で見たように、予想された石塁については計画はあったが、結局築かれなかったようである。 そして、税の収納庫として使用され、〈天智〉八年十二月、畿内の田税が収納された記事、 九年二月には穀物と塩を貯蔵するために増築した記事が載る。
 右図で標高最高点はであるが、街道を望観した位置は高安山古墳群()付近ではないかと思われる。 ここはもうひとつの山頂で、城郭線上にあって眺めのよいところに古墳が築かれたと考えられるからである。
 は礎石建物群で納税された穀物の貯蔵庫と考えられている。 この礎石建物群自体は奈良時代のものだが、書紀の記述から見て〈天智〉朝の頃から税の貯蔵庫があり、それはと同じ場所とも、別の場所とも考えられる。
 1~3は河内国高安郡側からの現在の登山道で、地理院地図に破線で記入されているもの。 この下山ルートについては、《衛我河》項で論ずる。
《悉焚秋税倉》
 「秋税倉」は、前項で述べたように礎石建物群()と合致する。 敵軍の守備兵は、坂本臣財が攻めて来たことを知り、城を放棄して脱出した。 また、坂本臣財が壱伎史韓国軍の接近を知り、高安山から降りて迎撃に向かったが、司令官のも城に残ることはなかった。
 これらは、高安城にまともな防御機能がなかったことを意味する。やはり石塁は築かれなかったのである 〔但し、資料[74]では大門付近で部分的に築城が進んでいた可能性も見た〕
 なお、この論点は、城郭線に関するいずれの推論にも見えない。 
《大津道》
 『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕は 「高安城は城名に河内国高安郡名を負う…大海人皇子軍は、大津・丹比両道を進む近江軍を望見している」と述べる。 また『日本古代宮都の研究』〔岸俊男;岩波書店1988〕(以下〈古代宮都〉)は 「長尾〔大津道に比定〕・竹内〔丹比道に比定〕のニ街道は高安城から眼下に望みうる」とのべる。 このように、〈壬申紀〉の記述は大津道・丹比道を比定する根拠として広く用いられている。
 大津道について〈古代宮都〉は、「長尾街道に当てる説を妥当としたい」、 「堺市の市街を起点とし、真東に通ずる…允恭陵※1)と仲姫皇后陵※2)の間を通り、藤井寺市道明寺の東で石川を渡り、 柏原市国分をへて田尻峠を越え、…大坂道と合して大和に入り」、 「「大津」の称呼は羽曳野市…式内社大津神社に関連する」などと述べる。
※1)允恭陵は考古学名「市ノ山古墳」(第187回)。
※2)仲姫皇后陵は考古学名「仲ツ山古墳」。大王陵の規模で〈仲哀〉天皇真陵説がある(『天皇陵』〔矢澤高太郎;中央公論新社2012〕p.46)。 「仲姫皇后」は〈景行〉曽孫、〈応神〉天皇の皇后、〈仁徳〉天皇の母 (〈景行〉四年〈仁徳〉即位前〈応神〉二年)。 「仲姫皇后陵」は宮内庁が治定したもので、学問的には無根拠。
 長尾街道の長い直線部分は、奈良時代に建築された駅道であったことを示すものであろう。
 とすれば「大津道」はその前身で、大体同じ筋を通っていたと見るのが妥当か。
《丹比道》
 丹比道について、〈古代宮都〉は「現在の竹内街道とみることには異論はないようである」、 「明治十八年〔1885〕測量の仮製二万分の一地図によると、 野遠から東、岡―野―樫山―野々上の間は曲折…野々上から南下して軽墓〔軽里〕を経て古市に至」ると述べる。その道筋を右図に示した 〔本サイトが現在の地図上に同書が述べる経路を当てはめたもの〕
 しかし同書は「岡の南では旧丹北郡と旧但南郡の郡界が野遠から真東」に向う直線で、「野中寺の位置」とあわせると、もともとは東西方向に一直線だった可能性があると述べる。 そのラインを東西に「一直線に延長すると…仁徳陵・応神陵の二大古墳を基準にして設定されているかにみえる」ことに注意を促している。 その直線をで示した。
《壱伎史韓国》
壱伎史韓国  《伊岐史》(〈舒明〉四年) 壱岐史は渡来族で職業部のふみひととして古代政権に仕えた。「壱伎」の名は壱岐島に一定期間居住したことによるものであろう。 大化二年に「伊岐史麻呂」。
 伊岐史は〈天武〉十二年に連姓を賜る。「伊吉連博徳」は日記文で有名(〈欽明〉六年七月)。
 韓国は、この後葦池の畔で吹負軍と戦い敗れ単身で敗走。以後見えず([28-08]19)。
《衛我河》
 恵我の範囲は【餌香市辺】で考察した。  〈岸俊男〉は「恵賀裳伏岡陵、恵賀長枝陵などから類推されるように、古市古墳群の東、大和川との合流点付近における石川を称したものとみられる」と述べるが、 ここで考慮すべきは、江戸時代の付け替え以前に石川との合流地点以北の大和川が、「恵我川」と呼ばれていたことである。
 「石川」の方は書紀に頻出して定着しているから、もし石川ならここでも「石川」を用いたのではないだろうか。
 大和川の旧流路は大河川であった。 『大和川の風景』〔柏原市立歴史資料館;パンフレット2011〕は、「摂河両国水脈図」(柏元家文書)を載せる。 同パンフレットによるとこの図は「つけかえ前の絵図に、新大和川の位置を描きこんだもの。 旧大和川は「大和川一名恵我川」、久宝寺川は「竜華川 久寶寺共云ともいう古名恵我川共云」…などと書きこまれている」という。 その「恵我川」は、大和川旧流路と石川との合流点より下流(北側)の部分に記されている。 川の呼び名が時代によって合流する相手の川名に変わることはあまりないと思われるので、それまでの古名を引き継いだものと見てよいだろう。
 だとすれば、「自高安城降」は、高安山の西斜面を駆け下りたことになる。 これはあり得るかも知れない。
 通説のように石川北端が戦場だったとすると正面から激突することになるが、それよりも敵の隊列を側面から衝く作戦の方が有効だと考えられるからである。 ただそれでも味方の軍勢が少なすぎたので、結果的に勝利は叶わなかった。
《紀臣大音》
紀臣大音  〈孝元〉段に「木角宿祢〔建内宿祢の子〕〔は〕木臣…之祖」。 〈欽明〉紀(二年など)では、半島に渡り帰化した紀臣がそのまま「紀臣」を名乗っている。 紀臣は太古からの大族でが、紀臣の人名は〈舒明〉以後に散見する程度で以外に少なく、大連・大臣に昇った例はない。 〈欽明〉十年になって紀大人臣が「御史大夫」を拝す。
 大音はここだけ。〈天武〉十三年「紀臣…賜姓曰朝臣」。
カシコダと龍田古道 「峠」は大字名

《懼坂道》
龍田古道 (右図で西方向を見る)
 『大日本地名辞書』は「立野の西なる峠と〔あざ〕する坂なるべし」。 立野については「立野タチノ:今三郷ミサト村の西南一里に在り。 …龍田大宮は地理を案ずるに太古より此地鎮座なるべし」などと述べる。 龍田村は、現在の斑鳩町の南半分。 現在の立野(たつの)地域は、生駒郡三郷町の大字立野、立野北1~3丁目、立野南1~3丁目となっている。
 立野地域について[小字データベース]で調べてみたところ、柏原村との境界近くに字カシコダが2つあった。 カシコダの由来は、龍田大社の社田であったことによると思われる。
 カシコダには龍田古道が通っていて、古道は西に伸びて柏原市の峠〔大字〕に達し、これを『大日本地名辞書』は「立野の西なる峠と字する坂なるべし」と言ったと見られる。
 では、この区間に実際に「」があったのだろうか。そこで[地理院地図]を使って道に沿って標高をグラフにしてみたところ、 間は120パーミルに達していて、 十分な上り坂である。これに小字名を関連させれば、この坂が懼坂となる。 すなわち、懼坂道龍田道の別名であった。
 しかし、それなら初めに龍田に至った坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂のところに、 なぜ紀臣大音の名前がないのだろう。そして、なぜ「龍田」とは異なる地名「懼坂」を大音の営とするのだろうか。
 ここで注目されるのは、坂本臣財の駐屯が「距於龍田」と表現されていることである。 「龍田」にはをつけず、「」は「へだたっている」とも読める。つまり広域の地名「龍田」の範囲内ではあるが、東に離れた後方に本営を構えたということかも知れない。 そして、懼坂道龍田道の西側の部分の名前だとすれば、らは東、大音は離れて西にいたことになり、これで配置は定まる。
 つまりは後方の本営にいて、前線には佐味君少麻呂(大坂)、の鴨君蝦夷(石手道=当岐麻道)に加えて、懼坂(龍田道の西口)に大音を配置したが、始めの部分では記述を漏らしたのであろう。
《河内国司守》
 改新詔によって初めて地方行政組織としてのが新設された(改新詔其ニ)。 当初は既存の地方行政単位であった国造くにのみやつこ〔郡大領に任命される〕との間に摩擦があったが、 大宝令で規定が定まり、国衙を建てるなどして国分寺建立の頃にはすっかり定着していたようである。
 これまでに、美濃尾張伊勢国守が早々に大皇弟側に帰順している。 越方面将軍を拝した羽田公矢国がすぐに戻り、北方からの近江京攻めに加わることができたのは、越国守が簡単に大皇弟に帰順したからであろう。
 これらを見ると、国守層では大皇弟配下に入る方向で着々と連携が図られていた可能性がある。河内国司守来目臣塩籠の「於不破宮之情以集軍衆」なる謀も、その一環であったと見て良いであろう。
《来目臣塩籠》
来目臣塩籠  来目臣は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。 塩籠はここだけ。
 〈時代別上代〉朝臣姓を賜った久米臣は久米本流とは別で、蘇我氏族の一派だとする。
 同書は久米族の起源を「久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」、すなわち南九州出身とする。 その是非はともかく、畿内の久米族が{大和国・高市郡・久米郷}を本拠とするのは明らかである。
 同書が挙げる久米の姓にはが多く、は二項に限られる。 その一つは『姓氏録』の〖久米臣/天足彦国押人命五世孫大難波命之後也〗。天足彦国押人命(〈考昭〉皇子)は春日臣などの祖なので「久米郷に分かれたる春日氏族の一枝流」と見る。
 もう一つのは、武内宿祢の女「久米摩伊刀比売」の遺領を継いだ蘇我氏族の一派が、その名を記念して「久米臣」を起したもので、朝臣姓を賜ったのはこちらだという。 それは、『姓氏録』に〖久米朝臣/武内宿祢五世孫稲目宿祢〔蘇我稲目宿祢大臣(〈宣化〉〈欽明〉)〕之後也/日本紀合〗とあるからである。
《経一日》
 近江朝廷側でも飛鳥寺西の陣営は早々と大海人皇子側に移ったが、河内方面軍は士気高く意気盛んであったようである。 将軍韓国塩籠の内応を見抜き、獅子身中の虫を退治したことで攻撃態勢は整い、満を持して攻勢に出たようである。 軍は一日は何とか持ちこたえたが、総攻撃に遭い遂に敗北した。
《解退》
 もし敵軍ならば「散亡」と表現するところを、自軍の場合は「解退」と言い、あたかも作戦を冷静に変更するが如くである。 いわば大本営発表であろう。
《大意》
 以前に 将軍吹負(ふけい)が乃楽〔=平城山〕に向かい 稗田(ひえた)に着いた日のこと〔二日か〕。
 ある人が 「河内から軍が多く来ました。」と言いました。
 そこで坂本臣(さかもとのおみ)財(たから)、 長尾直(ながおのあたい)真墨(ますみ)、 倉墻直(くらかきのあたい)麻呂(まろ)、 民直(たみのあたい)小鮪(こしび)、 谷直(たにのあたい)根麻呂(ねまろ)を遣して 三百人の軍士を率いさせ龍田(たつた)に〔前線から〕隔てて置きました。
 また佐味君(さみのきみ)少麻呂(すくなまろ)を遣して 数百人を率い大坂(おおさか)に駐屯させ、 鴨君(しまのきみ)蝦夷(えみし)を遣して 数百人を率いて石手道(いわてみち)を守らせました。
 この日、 坂本の臣らは平石野(ならしの)で一泊しました。
 その時、近江軍が高安城(たかやすのき)にいると聞き、 登りました〔三日か〕。
 すると近江軍は、財らが来ることを知り、 悉く秋に徴収した〔穀物を蓄えた〕税倉を燃やして、皆散亡しました。 よって城内に泊まりました。
 明け方〔四日か〕、 西方を望見すると、 大津丹比(たじひ)の両道から軍衆が多く来ていて、 明瞭に旗旘が見えました。
 ある人が 「近江の将軍壱伎史(いきのふみひと)韓国(からくに)の師団です。」と言いました。 財らは高安城を降り、 衛我河(えがかわ)を渡り、 韓国軍と河の西で戦いましたが、 財軍の人数が少く、対抗できませんでした。
 以前から、紀臣(きのおみ)大音(おおと)を遣して、 懼坂道(かしこさかのみち)を守らせていました。 この時、財軍は 懼坂(かしこさか)を退却して大音の軍営に入りました。
 この時、 河内(かうち)の国司(くにのつかさ)の守(かみ)来目臣(くめのおみ)塩籠(しおこ)は、 不破の宮〔大海人皇子〕にまつろう心があり、 そのための軍衆を集めていました。
 そこに韓国(からくに)がやって来て、 密かにその策謀を聞き塩籠(しおこ)を殺そうとしました。 塩籠は、事が漏れたことを知り、自死しました。
 一日を経て〔五日または六日か〕、 近江軍は〔大阪や懼坂など〕もろもろの道を大軍で攻めました。 その結果、いずれも抗戦することができず、防衛線を解き撤退しました。


まとめ
 壬申の乱については古来、大量の研究が重ねられてきたので今更付け加えることはないと思われたが、 掘り下げてみるとまだ数々の論点が浮かび上がってくる。
 そのうち大友皇子の最期の地は、後文の「至于山前屯河南」を見れば山崎の方がよいが、「」の一文字がそう断定することを躊躇させる。 諸論の分かれ目は結局ここだが、その原因は書紀原文そのものにある。すなわち、複数のソースを混合して書いたことによるものだろう。 つまり書紀が書かれた時点で、既に両方を現場とする異種の記録または伝承があったものと考えたい。 この複数ソースの混合は、乙巳の変で気付いたところでもある(〈皇極〉四年六月十二日(ニ))。
 龍田方面から河内に到る地名、街道名については、〈地名辞書〉や小字名や古文献、また文脈から総合的に考察した結果、その比定はかなり確信を持てるレベルに達した。 ただ、石手道だけはまだ弱く、今のところ暫定的な判断に留まっている。
 さて、河内国守の行動の記述からは、国守層が挙って大海人皇子側に付こうとしていたことが浮かび上がる。 国司は改新詔によって、当時の国造〔そのまま郡大領とした〕と国家の中間に新たに設置された地方行政機構であるが、 壬申の時点でどの程度地方権力を把握していたかが興味深い。これについては、引き続き調べていきたい。



[28-08]  天武天皇上(4)