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2024.10.30(wed) [28-04] 天武天皇上4 

10目次 【元年六月二十六日】
《朝明郡迹太川》
丙戌。
旦於朝明郡迹太川邊、
望拜天照大神。
朝明郡…〈北野本〔以下北〕朝明郡 アサケノコヲリ迹- トホ太-川 ■カハ  タヨセ拜天 ヲカミタマフ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 テ朝明 アサケノ   /止保   ノカハ
丙戌(ひのえいぬ)〔二十六日〕
旦(あさ)、[於]朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかは)の辺(ほとり)に、
天照大神(あまてらすおほかみ)を望み拝(をろ)がみたまふ。
是時、益人到之奏曰
「所置關者、
非山部王石川王、
是大津皇子也。」
便隨益人參來矣。
是(この)時、益人(ますひと)[之]到りまつりて奏曰(まをさく)
「関(せき)に所置(おける)者(ひと)は、
山部王(やまべのおほきみ)石川王(いしかはのおほきみ)に非(あら)ずて、
是(これ)大津皇子(おほつのみこ)なり[也]。」とまをす。
便(すなは)ち益人(ますひと)に隨(したが)ひて参来(まゐく)[矣]。
大分君惠尺
難波吉士三綱
駒田勝忍人
山邊君安麻呂
小墾田猪手
埿部眡枳
大分君稚臣
根連金身
漆部友背
之輩從之、
天皇大喜。
大分君恵尺…〈北〉ワタサカ ナニハノ■■ 駒-田-勝コマ タノ カツノ忍人ヲシヒト 山邊 ヤマノ キミ ヤス麻呂マロ■ハタノ猪手ヰテ 埿部ハセツカヘノ眡枳シト 大分君 オホキタノキミ稚-臣 ワカ■ミ 根連 ネノムラシ カネ 漆部/ヌリヘノウルシヘノ トモ背之從之天オホムトモツカマツル
〈閣〉ワタ サカヤマノ小墾ヲハハセツカヘ賦枳シキ大分オホ キタノ稚臣 ワカミ 従之 於保止毛 オホムトモニツカマツル
〈釈紀〉大分君オホキタノキミ惠尺ヱサカツナ稚臣ワカノミ
大分君(おほきたのきみ)恵尺(ゑさか)、
難波吉士(なにはのきし)三綱(みつな)、
駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、
山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、
小墾田(おはりた)の猪手(ゐて)、
埿部(はつかしべ、はしつかべ)の眡枳(しき)、
大分君(おほきたのきみ)稚臣(わかみ)、
根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、
漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ)
之(が)輩(ともがら)之(こ)に従ひまつりて、
天皇(すめらみこと)大(おほき)に喜びたまふ。
將及郡家、
男依乘驛來奏曰
「發美濃師三千人、
得塞不破道。」
於是、天皇美雄依之務。
…〈北〉天皇ホメ雄依之イサヲシキヲイサヲシ■イサミ。 〈閣〉ホ■男イイサヲシキヲイサミヲ イサヲシサヲ
将に郡家(こほりのみやけ)に及ばむとして、
男依(おより)駅(はゆま)に乗りて来(まゐき)て奏曰(まをせらく)
「美濃(みの)の師(いくさびと)三千人(みちたり)を発(た)てて、
不破(ふは)の道を塞(ふた)ぐこと得(え)まつれり。」とまをせり。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)雄依(をより)之(が)務(いさみ)を美(ほ)めたまふ。
既到郡家。
先遣高市皇子於不破
令監軍事。
既に郡家(こほりのみやけ)に到(いでま)しつ。
先に高市皇子(たけちのみこ)を[於]不破(ふは)に遣(つか)はして、
軍事(いくさのこと)を監(み)令(し)めたまふ。
遣山背部小田
安斗連阿加布
發東海軍。
又遣稚櫻部臣五百瀬
土師連馬手
發東山軍。
安斗連阿加布…〈北〉トノムラシ阿加布アカフ東海 ウミツチ 東山ヤマノチ
〈閣〉東-海ウヘツミチヲ東-山ヤマノミチノ
うみつみち…[名] 東海道。
やまのみち…[名] 東山道。
山背部(やましろべ)の小田(をだ)、
安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を遣(つか)はして
東海(うみつみち)の軍(いくさ)を発(た)たしめたまふ。
又(また)稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、
土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を遣はして
東山(やまのみち)の軍(いくさ)を発(た)たしめたまふ。
《朝明郡迹太川》
   引用文献略称
〈地名辞書〉…『大日本地名辞書』吉田東伍(著)第二版〔冨山房;1907〕/国立国会図書館デジタルコレクション
〈古代の道と駅〉『事典 日本古代の道と駅』木下良(著)〔吉川弘文館:2009〕
〈久留倍官衙遺跡計画〉『史跡久留倍官衙遺跡保存活用計画』〔四日市市教育委員会 社会教育・文化財課;2021〕
〈久志本:迹太川〉…「壬申紀「迹太川」小考〔久志本鉄也;『研究紀要第22号』2013/三重県埋蔵文化財センター〕
〈古典基礎語辞典〉…『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕
Ⅶ ⇒全経路
左:「天武天皇御遺蹟」碑
右:「天武天皇迹太川御遥拝所阯」碑
三重県四日市市大矢知町
 朝明郡については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明【阿佐介】郡}。 〈地名辞書〉は「アサ迹太トオホ河辺…或は此川と云ふ」。 四日市市公式―「天武天皇迹太川御遥拝所跡」によると、 「慶応二年〔1866〕に造立された石灯籠には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉宮」…そのためこの地が御遥拝所跡として昭和十六年〔1941〕に指定」されたという。
 ただ迹太川朝明川だとすれば、この碑の位置は河辺から離れすぎている。
 現代になり、論文〈久志本:迹太川〉は従来から言われていた朝明川説を否定し、米洗川説を唱える。
 久留倍遺跡に「朝明郡衙の可能性があると判明」したのは、2003年のことである。 (〈久留倍官衙遺跡計画〉(p.2))。 これによって、それより北にある朝明川を迹太川だとするのは、理屈が合わなくなった。
 〈久志本:迹太川〉は、米洗川迹太川に比定する根拠として、久留倍官衙遺跡より南側にあり、またこの川では水辺祭祀が行われていたことなどを挙げる。
《天照大神》
 天照大神は太陽神であるから、東から昇る太陽を拝んだという読み方も考えられるが、「」という語からは太陽ではなく伊勢神宮に向かって拝した印象を受ける。 太陽を拝むのならば、「仰」「向」を用いたのではないだろうか。
 天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝することによって、味方してくれている伊勢国の人々に感謝の意を表したように思えるのだが、どうであろうか。
《郡家》
着色部分がⅠ期 〈久留倍官衙遺跡計画〉
 「郡家」は、文脈から見て朝明郡家である。
 四日市市公式/久留倍官衙遺跡公園/各種資料によると、 「正殿・脇殿・東門などを備える東を向く政庁」で、「南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群」、 「倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれている」という。
 地名の久留倍については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明郡・訓覇【久留倍】郷}。 『勢陽五鈴遺響』〔1833〕には「大矢知:村中ニ久留倍ト云小字今ニ存セリ」とあるという。 したがって、久留倍官衙遺跡朝明郡家となる。
 前出〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、 史跡久留倍官衙遺跡はⅠ期:「7世紀第3四半期の終わり頃から8世紀前半」、Ⅱ期:「Ⅰ期の後から8世紀後半」、Ⅲ期Ⅱ期の後から9世紀末」からなる。 同書は「構造や規模からみて古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い」と述べる。
 Ⅰ期はさらに細分され「Ⅰ-①期は、丘陵裾部に南北棟を中心とした建物群」、「Ⅰ-②期は、丘陵頂部平坦部に東向きの政庁と、その西側の大型の総柱建物、丘陵裾部の建物群」という(p.26)。 壬申年〔672〕Ⅰ-①期のはじめにあたり、右図の東半分の建物群となる。
《益人》
路直益人 前段で鈴鹿関司から「山部王・石川王が関に来たので留め置いた」との報告を受けて、関に遣わされた。
大津皇子 〈天武〉の皇子(第258回)。
《大分君惠尺…》
大分君恵尺  二十二日に、倭京に行って駅鈴を求め、もし交付されなければ高市皇子・大津皇子を連れて戻れと命じられた。 その二人のうち大津皇子とともに、鈴鹿関に現れたことになる。
難波吉士三綱 難波吉士は《難波吉士雄成》項参照。 三綱はここだけ。
駒田勝忍人 〈姓氏家系大辞典〉「駒田:天武前紀に駒田勝忍人と云ふ者見ゆ」と述べるのみ。 駒田勝忍人ともにここだけ。
かつ…[他]タ下二 〈時代別上代〉「この語を写すのに「勝」を多用するのは、借訓ではなく、この字に、フ・フの意があるためと考えられる」。 すなわち、カツと訓む。なお、「駒田勝」自体が書紀以外に見えないので、かばねと判断することは難しい。
…訓:オシ。(万)4245忍照 難波尓久太里 おしてる なにはにくだり」。オシテル(臨照・押照・忍照)は難波への枕詞。
山辺君安麻呂 山辺君は〈垂仁〉の皇子大中津日子命を祖として和気氏と同族(第116回「山辺之別」項)。 安麻呂はここだけ。
小墾田猪手 〈姓氏家系大辞典〉「小治田 ヲハリダ:また小墾田に作る。大和国高市郡小治田邑より起る」、「推古天皇が都を定め給ひし地」。 「小治田臣:武内宿祢の裔。蘇我氏の族なり」、「小治田(無姓):…〔小治田臣、―大連、ー朝臣、―宿祢など〕の族なるべし」。 猪手はここだけ。
埿部眡枳  〈姓氏家系大辞典〉「泥部 ハツカシベ ヌリベ:職業部の一にして、土作、瓦を造り、石灰を焼く等…品部」。 そして「山城の泥部」を〈倭名類聚抄〉{山代国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}によるものとする。 埿部眡枳ともにここだけ。
〈時代別上代〉「丈部 ハセツカベ:…もと馳使部…配下として駆使せし意…職業的品部と見るべきなれど、多くは阿倍氏配下の内なりしが如し」。
…「国際電脳漢字及異体字知識庫」は「」とする。
大分君稚臣 大分君大分君恵尺参照。 七月辛亥の活躍で「勇敢士」と称えられる。 〈天武〉八年三月丙戌「兵衛大分君稚見死。…贈外小錦上位」。薨・卒でなく「」を用いるから正規の臣ではない。「」位とするもそのためであろう。
根連金身  〈姓氏家系大辞典〉「根連:春日氏の族にして、和泉国日根郡、日根神社などある地より起りたるならむと云う」。 『姓氏録』〖皇別/根連/同上〔天足彦国押人命之後也〕根連金身もここだけ。
漆部友背  〈姓氏家系大辞典〉「漆部 ヌリベ ウルシベ:…漆器を製する…品部」、「大和の漆部:氏人に…天武前紀に漆部友背」。 〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀郡・漆部【奴利部】}。漆部友背もここだけ。
《男依》
村国連男依  さる壬午〔二十二日〕美濃国に派遣し、現地の軍を動員して不破道を塞げさせよと命じた。
 ただ甲申〔二十四日〕には大海皇子に心の迷いがあり、一度は引き返させようかと考えた。
 結果的には、この日までに村国連男依は不破道の封鎖を成し遂げ、大海皇子はその報告を聞いて大いに喜び、その功を褒めた。
《高市皇子》
高市皇子  鹿深越えして合流して以来の登場。
 ここで高市皇子を軍監として、占拠した不破の関に派遣した。皇子は、東国方面軍全体を統括したと見られる。
《山背部小田…》
山背部小田  甲申〔二十四日〕是日条で、最初から随行した一人。 
安斗連阿加布 安斗連は安斗連智徳参照。阿加布はここだけ。
稚桜部臣五百瀬 甲申是日条で、最初から随行した一人。
土師連馬手 甲申即日条で、菟田吾城で一行の食事を供給した。
古墳時代~飛鳥時代 奈良時代 平安時代(~9世紀) 平安時代
●〈古代の道と駅〉p.66,87,93,96,134 の図を合成して加筆。
《東海軍》
 〈倭名類聚抄〉では、東海道諸国は「伊賀、伊勢、志摩、尾張…」の順に並んでいる。恐らく飛鳥時代は飛鳥京または藤原京、奈良時代は平城京が、東海道の起点であっただろう。
 〈古代の道と駅〉は、 「尾張国も当初東海道から外れ、駅路は伊勢湾口を横断して参河国に上陸していた可能性」()があり、「尾張国は伊勢湾の湾奥に位置し、隣国との間に広大な低湿地」があるのを「避け、あえて海を渡ったことが海道の名称の由来になったと考えられる」(p.85)、 「大宝二年〔702〕の持統天皇の参河国行幸」では 「」(なばり)と伊勢国多気郡「圓方」(まどかた)を詠んだ歌があるので「名張から圓方を経由し…伊勢湾を渡る経路が採られたのであろうことが判る」などと述べる(p.88)。
 ただ、尾張国経由の陸路ももちろん「東海道」として使われていたであろう。 愛智郡の熱田神宮は、日本武尊縁の草薙の剣を祀り(第53回)、 古来からの大国尾張国に通づる街道もまた、歴史的に重要であったことは間違いない。
 奈良時代の経路は、平安時代の仁和二年〔886〕以前はであった。 六月二十五日条《鹿深越》の経路である(〈古代の道と駅〉p.88)。 以後はとなり、ほぼ現在の国道一号線に沿う。
 「東海軍」の通った東海道は、当然桑名郡方面から尾張国に向かう陸路であろう。大海皇子が通った道である。
《東山軍》
 東山道は不破関を通っていたのは明らかだから、ほぼ後世の経路と同じであろう。 奈良時代は平城京から北向きの道を経て繋がる。飛鳥時代はさらに下ツ道などで倭京に繋がっていたと見られる。
 「東山軍」は、この東山道を通って大津京から不破郡に向かったと見られる。
《大意》
 二十六日の 朝、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)の辺りで、 天照大神を遥拝されました。
 この時、益人(ますひと)が到着して 「関に留め置いた者は、 山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)ではなく、 大津皇子(おおつのみこ)です。」報告しました。
 そして、〔大津皇子は〕益人に連れられて参上しました。
 大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 難波吉士(なにわのきし)三綱(みつな)、 駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、 山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、 小墾田(おはりた)の猪手(いて)、 埿部(はつかしべ)の視枳(しき)、 大分君(おおきたのきみ)稚臣(わかみ)、 根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、 漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ) の輩(やから)が従って参り、 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれました。
 まさに〔朝明〕郡家に到着しようとしたとき、 男依(おより)が駅馬に乗って来て 「美濃(みの)の軍三千人を発して、 不破の道を塞ぐことに成功しました。」と奏上しました。
 そこで、天皇(すめらみこと)は雄依〔=男依〕の功を褒められました。
 そして郡家に到着しました。 高市皇子(たけちのみこ)を不破に先発させ、 軍事を監督させました。
 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を派遣して、 東海道の軍を発進させました。 また、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を派遣して、 東山道の軍を発進させました。


11目次 【元年六月二十六日是日(一)】
《宿于桑名郡家》
是日。
天皇宿于桑名郡家、
卽停以不進。
天皇宿…〈北〉宿ヤトスイテマ
やどる…[自]ラ四 旅の途中で宿泊する。
是日(このひ)。
天皇(すめらみこと)[于]桑名(くはな)の郡家(こほりのみやけ)に宿(やど)りたまふ、
即(すなはち)停(とど)まりて以ちて不進(すすみまさず)。
是時近江朝、
聞大皇弟入東國、
其群臣悉愕京內震動。
或遁欲入東國、
或退將匿山澤。
近江朝…〈北〉 ミカト大皇弟 ヒツキノミコ/マウケノキミ オト京内 ミサト 震動 サワク 
やまさは…[名] 山陰の湿地。
是(この)時近江朝(ちかつあふみのみかど)、
大皇弟(だいくわうてい)東国(あづま)に入(いでます)と聞きて、
其(その)群臣(まへつきみ)悉(ことごと)に愕(おど)ろきて京内(みさと)震動(とよ)む。
或(ある)は遁(に)げて[欲]東国(あづま)に入らむとおもひて、
或(ある)は退(ひ)きて将(まさ)に山沢(やまさは)に匿(かく)れむとす。
爰大友皇子謂群臣曰
「將何計。」
一臣進曰
「遲謀將後。
不如急聚驍騎乘跡而逐之。」
皇子不從。
遅謀…〈北〉オクレナムオク■驍騎トキマイクサ
〈閣〉遲謀オクレナムオクレナム驍-騎トキムマイクサヲ ノリテ而逐ムニハ
〈兼右本〉ノリアト[ニ][テ]
驍騎…〈汉典〉「英勇的騎兵」。
爰(ここに)大友皇子(おほとものみこ)群臣(まへつきみたち)に謂(のたま)ひて曰へらく
「[将]何(なに)をか計(はか)らむとする。」とのたまへり。
一臣(ひとりのおみ)進(すす)みて曰(まを)さく
「遅(おそ)き謀(はかりごと)将(まさ)に後(おく)れむ。
急(すみやか)に驍騎(ときうまいくさ)を聚(あつ)めて跡(あと)に乗りて[而]之(こ)を逐(お)ふに不如(しかず)。」とまをせど、
皇子(みこ)不従(したがひたまはず)。
則以韋那公磐鍬
書直藥
忍坂直大摩侶
遣于東國。
韋那公…〈北〉ナノ キミ磐鍬 イハ スキ 書直藥 フミノアタヒ クスリ 忍坂ヲシカノ オホ摩侶マロ
則(すなは)ち韋那公(いなのきみ)磐鍬(いはすき)、
書直(ふみのあたひ)薬(くすり)、
忍坂直(おさかのあたひ)大摩侶(おほまろ)を以ちて
[于]東国(あづま)に遣はして、
以穗積臣百足
弟百枝
物部首日向
遣于倭京。
穂積臣…〈北〉積臣ツミノヲン百足 モゝタルヲトゝ百枝モゝエタ 物部 モノゝヘノヲフト日-向ヒウカ 
穗積臣(ほづみのおみ)百足(ももたる)、
弟(おと)百枝(ももえだ)、
物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を以ちて
[于]倭京(やまとのみやこ)に遣はす。
且遣佐伯連男於筑紫、
遣樟使主磐手於吉備國
並悉令興兵。
佐伯連…〈北〉佐伯サヘキノムラシヲトコ
樟使主…〈北〉樟-使-クスノオムイハ吉備キヒ。 〈閣〉樟-使クスノ ヲム-主盤磐手
且(また)佐伯連(さへきのむらじ)男(をとこ)を[於]筑紫(つくし)に遣はして、
樟使主(くすのおみ)磐手(いはて)を[於]吉備国(きびのくに)に遣はして、
並(ならび)に悉(みな)兵(いくさ)を興(た)た令(し)めたまふ。
仍謂男與磐手曰
「其筑紫大宰栗隈王與
吉備國守當摩公廣嶋二人、
元有隸大皇弟、疑有反歟。
若有不服色、卽殺之。」
大宰栗隅王…〈北〉オモ ミコトモチ栗隅クリ クマヲホキミ タイ マノ-キミ廣嶋 ヒロ シマツケルツキマツル大-皇弟 マウケノキミ不-服-色卽マツロハヌオへリ
〈閣〉不-服-色 マツロハヌ オヘリ。 〈兼右本〉不-服マツロハヌオモヘリ
…[動] したがう。所属する。(古訓) かなふ。つかふ。つく。よる。
…[助] 〈汉典〉「語気詞。表-示疑問、反詰、推測、停頓、感歎,語気徐緩而安舒」。
いろ…[名] 色彩。顔色。
仍(よ)りて男(をとこ)と磐手(いはて)与(と)に謂(のたま)ひて曰はく
「其の筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)栗隅王(くりくまのおほきみ)と
吉備国(きびのくに)の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)与(と)の二人(ふたり)は、
元(もとより)大皇弟(だいくわうてい)に隸(つ)くこと有りて、疑はしくは反(そむくこと)有らむや[歟]。
若し不服(まつろはざる)色(いろ)有らば、即(すなはち)[之を]殺せ。」とのたまふ。
於是、磐手到吉備國授苻之日、
紿廣嶋令解刀。
磐手、乃拔刀以殺也。
到吉備国…〈北〉○備𠮷タマフ苻之オシテノフミヲ紿アサムイ。 〈北〉紿アサムイテ
おして…[名] 印鑑。〈類聚名義抄〉「:オシテ シルシ」。「:ヲシテ」。
紿…[動] 詒(あざむく)に当てた用法。(古訓) いつはる。あさむく。
於是(ここに)、磐手(いはて)吉備国(きびのくに)に到りて苻〔符〕(おしてのふみ)を授(さづ)けたまひし[之]日、
広嶋を紿(いつは)りて刀(たち)を解か令(し)む。
磐手(いはて)、乃(すなは)ち刀(たち)を抜きて以ちて殺しつ[也]。
《桑名郡家》
久留倍官衙遺跡(朝明郡家に比定) 不破関
榎撫駅 馬津駅
 〈倭名類聚抄〉{伊勢国・桑名【久波奈】郡}。現在の桑名市の市域と重なる部分が多い。 桑名市公式/郷土史研究の歴史(4)には、 「桑名郡家の場所については、様々な言い伝え(証言)がありますが、今のところ不明」、「発掘により明らかにするほかはない」とある。
 つまり、候補となり得る遺跡は見つかっていないようである。
 右図榎撫えなつ(桑名郡)と馬津駅(尾張国)の間は海路であったと考えられている 〔〈古代の道と駅〉(p.89,93)による〕
 右図は、地理院地図の「自分で作る色別標高図」機能を使い、現在でも海抜0m以下の地域を水色に着色したものである。 実際には、もう少し東の名古屋市港区・南区までが海であったことが明らかになっている。
 朝明郡家(久留倍官衙遺跡)から、榎撫駅に至る街道沿いのどこかに、桑名郡家があったのであろう。
 〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、久留倍官衙遺跡は「国道1号北勢バイパス建設に伴う久留倍遺跡の発掘調査開始」した結果、「古代の朝明郡衙」と見られることが判明した。 つまり、この工事がなければ明るみに出なかったのである。 ならば、桑名郡家についてもいつか偶発的に発見される可能性はあろう。
《停以不進》
 大海皇子の一行は吉野宮を急ぎ発って以来、ここまで息もつかずに駆けて来た。 桑名郡家でやっと腰を据えたのは、味方のテリトリーに入り安心できる状態になったからであろう。
 しかし、それも束の間、高市皇子の要請によって丁亥〔二十七日〕には不破郡に移る。
《大皇弟》
 五月是月条では、一時「皇大弟」と表記されたが、ここで再び「大皇弟」に戻っている。
《京内震動》
 大皇弟〔大海皇子〕が東国に入り軍勢を整えたとの報を聞き、 ある者は東国に脱出して大皇弟側に加わろうとし、ある者は逃げて山中に隠れたという。 この段で、京内がパニックに陥ったと描くのは近江朝廷を貶しめようとする潤色であろう。
 ただ、美濃国・尾張国・伊勢国などは、朝廷への反感が募り叛意を秘めていることを、既に近江朝廷自身が認識していたと思われる。 ここに、有力な日継候補であった皇大弟が入れば、これらの諸国は皇大弟を推戴して一気に反乱の狼煙を挙げると危惧された。
 諸国の不満の原因は、何といっても〈天智〉朝における軍事への動員であろう。 東国から工事に動員されたことを具体的に書く記事は、〈斉明〉・〈天智〉の山陵ぐらいであるが(元年五月是月)、 西日本各地に朝鮮式石城が築かれたことを見れば、恐らくそれらの工事に大規模に動員されていたと察せられる。不満が募り、火薬庫は発火寸前だったのである。
 なお、高安城の石塁の築造が畿内住民の反感を招いて中止された※1)らしいところを見ると、畿内の人民には甘く、負担をかけることを避けたようである。
※1…〈天智八年八月〉《登高安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作》項。
《大友皇子謂群臣》
 大友皇子は敵方であるから尊敬表現を用いないことも考え得るが、臣は「進曰」とへりくだって表現しているから、大友皇子と臣との関係性によって尊敬表現を用いてもよいだろう。
《乗跡》
 乗馬して大皇弟が移動した跡を追う意か。しかし、どう考えても「乗跡」は不可解である。
 「」があるから「」は特になくともよい。だから乗跡は、たとえば「覓跡」〔跡をぐ(=探し求める)〕などの誤りかも知れない。
《皇子不従》
 一人の臣は、いち早く精鋭の騎馬部隊を投入して大海皇子軍を追跡すべしと提言した。大海皇子方の軍勢がまだ整わない今がチャンスだと見たのであろう。
 大友皇子はそれを容れず、東国倭京吉備筑紫に出撃を促した。時間がかかっても大軍勢を呼び寄せようとしたわけである。 しかし、筑紫大宰吉備国守については既に大海皇子側についているかも知れないから、その気配が見えれば殺せと命じている。 しかし、それでは軍の派遣を得ることができなくなるから、判断は混迷している。
《韋那公磐鍬…》
韋那公磐鍬 〈雄略〉十三年九月に「木工韋那部真根」。 〈倭名類聚抄〉{摂津国・河辺郡・為奈}によって、〈姓氏家系大事典〉は「偉那 ヰナ:…此の地より起る」とする。 〈宣化〉段「〔皇子〕恵波王者、韋那君…祖也」(第237回)。 〈天武〉十三年「猪名公…賜姓曰真人」。 磐鍬は《男至筑紫》段で、捕まる寸前で逃げ延びる。
書直薬 書直フミノアタヒについては、書直智徳参照。 は、《男至筑紫》段で捕まる。
忍坂直大摩侶  〈姓氏家系大辞典〉押坂 オサカ オシサカ:忍坂とも、刑坂とも」、「神武段に忍坂邑とあり、大室を作りて…〔〈神武〉紀〕歌に於佐箇〔〈神武〉段は意佐加(第99回)。 〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・恩坂【於佐加】郷}。 大麻呂も書直薬とともに捕えられた(《高市皇子遣使於桑名郡家》段)。
《遣于東国》
 東国の尾張、美濃の国司は完全に大海皇子側と見られ、そこに使者を送るのは一見すると不思議である。 捕まったのは不破郡の手前なので、東山道を通って信濃以東へ向かったのかも知れない 〔しかし、美濃国を無事に通り抜けられるとも思えず、この経路は無謀である〕
 ただ、美濃国内にも近江朝廷に従う勢力はあったかも知れない。 というのは、国守の任命は〈孝徳朝〉で始まったことで、それ以前はが地方区分の単位であった。 したがって、壬申年になってなお郡領の独立性がかなり残っていたとも考えられるからである。 郡単位で見れば、双方の勢力はモザイク状だったのかも知れない。
《穗積臣百足…》
穗積臣百足  穂積臣は、内色許男命の子孫(第108回)。 百足は、その後己丑〔二十九日〕に飛鳥寺西槻下の軍営に呼び出されたところで、謀略的に殺される。
穗積臣〔五〕百枝  五百枝は己丑に飛鳥寺西槻下の軍営で、物部首日向とともに謀略的に逮捕されたが赦された。
物部首日向  『姓氏録』〖河内国/神別/天神/物部首/同〔=神饒速日命〕神子味島乳命之後也〗 〈姓氏家系大辞典〉「春日臣の族市河・石上神宮に奉仕して、又一部の物部を率ゆ、物部首これ也」。五百枝項参照。
《倭京》
 倭京への使者のうち、百足が飛鳥寺西槻下の軍営に入った時には、軍営は既に敵方に寝返っており、殺された。 五百枝日向も軍営で逮捕されたが、同じく寝返ることを条件に赦されたようである。
《佐伯連男…》
佐伯連男  佐伯連は、《佐伯子麻呂連》参照。 〈天武〉十三年「佐伯連…五十氏賜姓曰宿祢」。 は、慶雲二年〔705〕十二月癸酉「従六位下…佐伯宿祢男…並従五位下」。 和銅八年〔708〕大倭守」を拝す。 和銅二年〔708〕九月乙卯「授…従五位上」が最後の記事。
樟使主磐手  〈姓氏家系大辞典〉は「樟使主:天武前期に樟使主磐手と云ふ者見えたり」と記すのみ。 樟使主磐手もここだけ。
《栗隅王…》
栗隅王 《栗前王》参照。
当摩公広嶋  〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下郡・当麻【多以末】郷}。〈姓氏家系大辞典〉「当麻 タギマ タイマ:上代の大族」。 〈用明〉元年正月〔用明〕麻呂子皇子、此当麻公之先也」。 〈天武〉十三年十月「当麻公…十三氏賜姓曰真人」。広嶋はここだけ。
《紿広嶋令解刀》
 吉備国守には、符を授与する儀式においては刀を解くものだと言ってだましたのであろう。
 磐手は大友皇子の指令を、要するに殺せということだと受け止めて即座に殺したのかも知れない。 もし大友皇子の指示を額面通りに実行したのなら、最初に顔を合わせたときに反逆の色を読み取ったということになる。
《大意》
 この日、 天皇(すめらみこと)は桑名の郡家に宿し、 留まって進みませんでした。
 この時、近江朝廷は、 大皇弟(だいこうてい)が東国に入ったと聞き、 群臣はことごとく驚愕し、京内は揺れ動きました。
 或いは遁走して東国に入いろうとし、 或いは退去してに山の沢に隠れようとしました。
 このとき、大友皇子(おおとものみこ)は群臣に、 「どう計略をするのか。」と仰りました。
 一人の臣が、 「謀(はかりごと)が遅ければ、遅れをとるでしょう。 すみやかに驍騎(ぎょうき)〔勇猛な騎馬隊〕を集めて〔皇大弟が移動した〕跡を騎乗して追い、駆逐する以上の策はありません。」と申しました。
 大伴皇子はこの意見に従いませんでした。
 そして、韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)、 忍坂直(おさかのあたい)大摩侶(おおまろ)を 東国に遣わし、 穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)、 弟の百枝(ももえだ)、 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を 倭京〔飛鳥の宮〕に遣わしました。
 また、佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)を筑紫(つくし)に遣わし、 樟使主(くすのおみ)磐手(いわて)を吉備の国に遣わし、 それぞれ皆、兵を興させました。
 そして男(おとこ)と磐手(いわて)に 「その筑紫の大宰(おおみこともち)栗隅王(くりくまのおおきみ)と 吉備の国の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)の二人は、 元々大皇弟に隷属していたから、背くことも有るかと疑われる。 もし〔近江朝廷に〕服さぬ気配があれば、直ちに殺せ。」と仰りました。
 こうして、磐手が吉備の国に到り符を授けた日、 広嶋に偽って太刀を解かせておいて、 磐手は太刀を抜いて殺しました。


12目次 【元年六月二十六日是日(二)】
《男至筑紫》
男至筑紫。
時、栗隈王承符對曰
「筑紫國者、元戍邊賊之難也。
其峻城深隍臨海守者、
豈爲內賊耶。
栗隈王…〈北〉クリ クマノ 王 オホキミ元戍邊 モトヨリマモル ホ-賊之ワサハヒ峻城 タカシ   ミソ○内
〈閣〉符對オシテノフミヲ テモトヨリ マモル邊- ホカノ賊之ワザハヒ守者マホラスルハ 
…[動] 武器を持って警備する。(古訓) まほる。まもる。
まぼる…[動]ラ四 マモルの変。〈古典基礎語辞典〉「上代はマモル、中古では子音交代形のマボルが主」。
男(をとこ)筑紫(つくし)に至りつ。
時に、栗隈王(くりくまのおほきみ)符(おしてのふみ)を承(うけたまは)りて対(こた)へて曰(まを)ししく
「筑紫国(つくしのくに)者(は)、元(もとより)辺(ほとり)の賊(あた)之(の)難(かたき)を戍(まも)りつ[也]。
其(その)峻(たか)き城(き)深き隍(みぞ)海(わた)に臨(のぞ)む守(まもり)者(は)、
豈(あに)内(うちつ)賊(あた)が為(ため)なりつるか[耶]。
今畏命而發軍、則國空矣。
若不意之外有倉卒之事、
頓社稷傾之。
然後雖百殺臣、何益焉。
豈敢背德耶、
輙不動兵者其是緣也。」
今畏命…〈北〉畏命 カシスムシ カシコミ  ケムオモヒ-卒ニハカナル之事頓社 ヒタフル-クニ テシ  ヨシ
〈閣〉カシコシンカシコミ オセトヲ而發ヒタフルニ社- クニ  ナム雖百 タヒ ト ヲ ノシルシカ
…[形] あわてるさま。
倉卒…にわかで思いがけないさま。
ひたふる…[副] 徹底的に。
今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて[而]軍(いくさ)を発(た)たば、則(すなは)ち国(くに)空(むな)しからむ[矣]。
若し不意之(おもはざ)りて、外(ほか)に倉卒之(にはかなる、にはしき)事有らば、
頓(ひたふる)社稷(くにいへ)[之]傾(かたぶ)かむ。
然後(しかるのち)に百(ももたび)臣(おみ)を殺すと雖(いへど)も、何(なに)そ益(かが)あらむ[焉]。
豈(あに)敢(あ)へて徳(のり)に背(そむ)きまつるか[耶]、
輙(すなはち)兵(つはもの、いくさびと)を不動(うごかさざること)者(は)其(それ)是(この)縁(よし)なり[也]。」とまをしき。
時栗隈王之二子
三野王
武家王、
佩劒立于側而無退。
於是、男按劒欲進還恐見亡、
故不能成事而空還之。
三野王…〈北〉ノゝヲホキミ武-家 タケムヘノ ヲホキミ按劒 トリシハリ
〈閣〉按劒トリシハリテ ヲ[切][テ] 故不 コト ヲ 〔進まむと欲(おも)ふに、還りて恐るらくは亡ぼされむ、故(かれ)成すことを能はず〕
…[動] おさえ止める。
按剣…すぐ抜けるように剣のつかに手をおくこと。(古訓) おさふ。おす。ととむ。とる。
おしねる…[他]ラ四 (万)1809焼大刀乃 手穎押祢利 やきたちの たかみおしねり」。〈時代別上代〉「剣の手かみとりしばり…もあり、同じ動作をあらわすものであろう」。
とりしばる…[他]ラ四 〈類聚名義抄〉「:トリヒシク トリシハル」。
たかみ…[名] 剣のつか。手(た)-頭(かみ)。
時に栗隈王(くりくまのおほきみ)之(が)二子(ふたりのこ)
三野王(みののおほきみ)、
武家王(たけるべのおほきみ)、
剣(つるぎ)を佩(は)きて[于]側(かたはら)に立ちて[而]退(しりぞくこと)無し。
於是(ここに)、男(をとこ)剣(つるぎ)の按(たかみおしね)りて、[欲]進まむとして還(かへ)りて見亡(ほろぼされむこと)を恐りて、
故(かれ)事を成すこと不能(あたはざ)りて[而]空(むな)しく[之]還(かへ)りつ。
東方驛使磐鍬等、將及不破。
磐鍬獨疑山中有兵、
以後之緩行。
時、伏兵自山出遮藥等之後。
磐鍬、見之知藥等見捕、
則返逃走、僅得脱。
駅使…〈北〉ハイマ使 ヤウ\/伏兵 カクレ  
〈閣〉驛-使 ハイマ ツカイヤウ\/○行之イ知藥 カ コトヲ コト
〈兼右本〉返-ニケ[テ]ハシリ[テ]マヌカルゝ[ヲ][句]
東方(あづまのかた)の駅使(はゆまつかひ)磐鍬(いはすき)等(ども)、将(まさ)に不破(ふは)に及ばむとす。
磐鍬(いはすき)独(ひとり)山中(やまなか)に兵(つはもの)有るかもと疑ひて、
以ちて[之]後(おく)れて緩(やくやく)行(ゆ)けり。
時に、伏兵(かくれるつはもの)山自(ゆ)出(い)でて薬(くすり)等(ら)之(が)後(しりへ)を遮(さ)ふ。
磐鍬(いはすき)、之(こ)を見て薬等(くすりら)の見捕(とらはれる)を知りて、
則(すなはち)返(かへ)して逃走(に)げて、僅(わづかに)得(え)脱(のが)る。
當是時、
大伴連馬來田
弟吹負、
並見時否。
以稱病退於倭家
弟吹負…〈北〉吹-負 フケヒ 時否トキノヨクモ以稱アラヌヲ/マウシ ノ否以ヨクモアラスヲ マウシテ
是(この)時に当(あた)りて、
大伴連(おほとものむらじ)馬来田(まくた)、
弟(おと)吹負(ふけひ)、
並びに時や否(いな)やを見る。
以ちて病(やまひ)と称(まを)して[於]倭(やまと)の家(いへ)に退(しりぞ)けり。
然知其登嗣位者
必所居吉野大皇弟矣。
是以、馬來田先從天皇。
唯吹負留、
謂立名于一時欲寧艱難。
卽招一二族及諸豪傑、
僅得數十人。
然知其…〈北〉 シリ登-嗣位 アマツヒツキサラサム者…大皇 ナラムト云 艱難ワサハヒ ヲキ一二族及諸豪傑 イサヲシ 
〈閣〉登-嗣-アマツヒキシラシム吹負留ヲモハク欲寧艱難ヲモフヤスカラムト ワサハヒ 
…[動] いう。おもう。(古訓) おもふ。
わづかに…[副] 少し。かろうじて。
然(しかれども)其(その)嗣位(ひつぎのくらゐ)に登りまします者(ひと)は、
必ず吉野(よしの)に所居(おほまします)大皇弟(だいくわうてい)ならむと知れり[矣]。
是(こ)を以ちて、馬来田(まくた)先(ま)ず天皇(すめらみこと)に従(したがひまつ)る。
唯(ただ)吹負(ふけひ)留(とど)まりて、
名を立てむと謂(おも)ひて[于]一時(ひととき)に艱難(わざはひ)を寧(やは)さむと欲(おも)へり。
即(すなは)ち一二(ひとつふたつ)の族(うがら)及びに諸(もろもろ)の豪傑(いさを)を招(を)きて、
僅(わづかに)数十人(あまたとをたり)を得(う)。
《峻城深隍臨海守》
 大野城基肄城は、峻城〔急峻な山城〕と言えよう。また、水城深隍と表現し得る(天智三年是歳)。
《然後雖百殺臣何益焉》
 (利益)を意味する上代語には、カガクホサがある。
 一方、の古訓「シルシには、甲斐という意味があので、 雖百殺臣何益に「百回臣を殺すと言っても甲斐はない」という語感を与えることができる。 漢語のにも「効果」の意がある。
 「」には「いふ」を加えて「いへども」と訓むべきか。
《豈敢背徳耶》
  豈敢背徳耶は反語で、すなわち「これが敢えて徳に背くことなのか?否である」という。 この文の主語は栗隈王で、出兵すべしという朝命を拒むことは重罪であるが、敢えてそうすることに徳があると胸を張って言う。
 唐新羅の侵略に備えて守りを固めるのが筑紫大宰の任務であり、たとえ王朝が交代してもその任は変わらないという主張には道理がある。 つまり中央で政権争いがしたければ勝手にやってくれ、どちらが勝とうが私は国家のために辺境を固守するのみであるというわけである。
 よって、栗隈王は必ずしも親大皇弟であったとは限らないが、近江朝廷によるこのような命令は、却って大皇弟側に追いやってしまったかも知れない。
《栗隈王之二子》
三野王 ここだけ。菟田吾城に呼び寄せた「美濃王」とは、おそらく別人。
武家王 ここだけ。古訓「タケムベ」は、タケルベの誤写であろう。タケルベ(建部)は氏族名※)だが、これを個人名として使ったと思われる。
 ※1)…日本武尊の功名を残すための一種の御名代みなしろ(第135回)。
《按剣》
 古訓は「トリシハル」と訓む。トリシハルについて〈時代別上代〉が挙げる文例は書紀古訓のみである。 また他の古語辞典は見出し語にしないものばかりなので、書紀古訓以外の用例はないようである。 ただ〈類聚名義抄〉にはあるが、拉致の「」を訓んだものなので、「獲り縛る」という語を書紀古訓者が誤用した可能性がある。
《磐鍬》
韋那公磐鍬 上述
書直薬 上述
 六月二十七日条にこの段と同内容の記述がある。
《遮薬等之後》
 大摩侶の背後をまず押さえて逃げ道を塞いだ。その後のことは書いていないが、当然前方からも襲い包囲して捕えたのであろう。
《当是時》
 時を遡って、馬来田菟田吾城で大海皇子に追いつく(二十四日即日条)前にあったことを書いたと見られる。
《馬来田》
大伴連馬来田 菟田吾城で追いつき合流。その前に家に籠り弟とともに日和見。
大伴連吹負 以後大海皇子配下で奮戦。〈天武〉十二年八月庚申「大伴連男吹負卒。以壬申年之功大錦中位」。
《謂名于一時欲上レ艱難
 吹負は兵を募集して大軍を組織し、大海皇子軍の主力に躍り出て一気に勝負を決しようと思った。 それによって名を上げようとする。その野心は後世の戦国時代の武将と同質であるところが興味深い。
 だが、実際に集まったのは僅か数十名で思惑は外れた。 それでも戊子〔二十八日〕にはその数十名を率いて謀略を駆使して奮戦し、大海皇子に認められて将軍を拝する。 以後、壬申の乱に勝利するまでに吹負の名が出て来るのは13箇所に及ぶ。
 ところが、〈天武紀〉下巻になると十二年の「」まで名前が出てこない。 武将としての才は国が平定されれば役立たず、活躍の場を失ったということであろうか。さらに、野心に溢れる人柄が敬遠されたことも想像に難くない。
《大意》
 佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)は、筑紫に到着しました。
 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)は符を承り、お答えしました。
――「筑紫は、もとより周辺の敵の難から守る国です。 その急峻な城、深い溝という臨海の守りは、 あに国内の敵に対するものでありましょうか〔反語〕。
 今、畏れ多くも命を受け入れて軍を発たせれば、すなわち国を空しくしましょう。 若し不意に外から突然の事が起れば、 一直線に社稷〔=国家〕を傾けましょう。 その後に百回〔皇大弟の〕臣を殺すと言ってみたところで、何の甲斐がありましょうか。
 これが敢て徳〔=道理〕に背くことになりましょうか。 すなわち、兵を動かさないのは、この理由によります。」
 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)の二子、 三野王(みののおおきみ)、 武家王(たけるべのおおきみ)が、 剣を帯びて傍らに立ち、退くことはありませんでした。
 そこで、男は剣の束(つか)を握りしめて進もうと思いましたが、却って殺されるかも知れないと恐れました。 よって事を成すことはできず、空しく帰りました。
 東方に向かった駅使磐鍬(いわすき)たちは、まさに不破に到着しようとしているところでした。 磐鍬一人は山中に兵がいることを疑い、 後からゆっくり行きました。
 その時、伏兵が山から出てきて、薬(くすり)たちの後ろを遮りました。 磐鍬は、これを見て薬たちが捕まったことを知り、 とって返して逃走し、辛うじて脱出できました。
 この時に当たり、 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)と 弟の吹負(ふけひ)は、 二人とも時か否かを見ていました。 よって病と称して倭の家に退きました。
 しかし、その嗣位に登る人は、 必ず吉野におわします大皇弟(だいこうてい)であると知りました。 これにより、馬来田が先ず天皇〔=大皇弟〕に〔菟田吾城で追いつき〕従いました。
 ただ、吹負(ふけひ)は留まり、 名を立てようと思い、一気に艱難(かんなん)を平定しようとしました。 すなわち一二の族、及び諸々の豪傑を招き、 僅かに数十人を得ました。


まとめ
 大伴連馬来田と弟の吹負は、はじめは家に籠ってどちらか勝てる方につこうとして形勢を見ていた。 多くの氏族も同様であっただろう。大海皇子さえも、はじめはどちらかと言えば反朝廷勢力によって押し上げられた形で立ち上がった。 根本にあるのは皇子個人の野望というよりは、東国のいくつかの国がもつ近江王朝の存続を望まない強固な意志であった。
 伊勢・尾張・美濃で反朝廷感情が強かったのは、主に西国の朝鮮式山城の築城に重い負担を強制されたためと考えられる。 防人の例を見ると、はるばる東国から徴用されたのは、未開の地の族であるから気楽に動員できるという差別意識のためと思われる。 西国の朝鮮式山城の築城についても、畿内の人民にはあまり負担をかけないようにして東国から動員したと見られる。
 軍事への徴用は西国においては、地理的に唐・新羅による攻撃への備えの必要性が比較的理解されていたと思われる。 最前線の筑紫においては特にである。
 これを、近江朝廷は筑紫が朝廷の理解者であると受け止め、反乱の鎮圧に力を貸せと言った。 しかし、筑紫が軍事の負担を受け入れてきたのは国土の防衛という大局観によるものであって、 大友皇子に私的に好意を寄せたものでは決してなかった。大海皇子が即位したとしても、それならそれでよかったのだろう。そこに近江朝廷の考え違いがあったと見る。
 吉備国も兵の動員を受け入れなかったと見られ、西国は全体として中央での権力争いを冷ややかに見ていたようである。