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2024.10.30(wed) [28-04] 天武天皇上4 

10目次 【元年六月二十六日】
《朝明郡迹太川》
丙戌。
旦於朝明郡迹太川邊、
望拜天照大神。
朝明郡…〈北野本〔以下北〕朝明郡 アサケノコヲリ迹- トホ太-川 ■カハ  タヨセ拜天 ヲカミタマフ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 テ朝明 アサケノ   /止保   ノカハ
丙戌(ひのえいぬ)〔二十六日〕
旦(あさ)、[於]朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかは)の辺(ほとり)に、
天照大神(あまてらすおほかみ)を望み拝(をろ)がみたまふ。
是時、益人到之奏曰
「所置關者、
非山部王石川王、
是大津皇子也。」
便隨益人參來矣。
是(この)時、益人(ますひと)[之]到りまつりて奏曰(まをさく)
「関(せき)に所置(おける)者(ひと)は、
山部王(やまべのおほきみ)石川王(いしかはのおほきみ)に非(あら)ずて、
是(これ)大津皇子(おほつのみこ)なり[也]。」とまをす。
便(すなは)ち益人(ますひと)に隨(したが)ひて参来(まゐく)[矣]。
大分君惠尺
難波吉士三綱
駒田勝忍人
山邊君安麻呂
小墾田猪手
埿部眡枳
大分君稚臣
根連金身
漆部友背
之輩從之、
天皇大喜。
大分君恵尺…〈北〉ワタサカ ナニハノ■■ 駒-田-勝コマ タノ カツノ忍人ヲシヒト 山邊 ヤマノ キミ ヤス麻呂マロ■ハタノ猪手ヰテ 埿部ハセツカヘノ眡枳シト 大分君 オホキタノキミ稚-臣 ワカ■ミ 根連 ネノムラシ カネ 漆部/ヌリヘノウルシヘノ トモ背之從之天オホムトモツカマツル
〈閣〉ワタ サカヤマノ小墾ヲハハセツカヘ賦枳シキ大分オホ キタノ稚臣 ワカミ 従之 於保止毛 オホムトモニツカマツル
〈釈紀〉大分君オホキタノキミ惠尺ヱサカツナ稚臣ワカノミ
大分君(おほきたのきみ)恵尺(ゑさか)、
難波吉士(なにはのきし)三綱(みつな)、
駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、
山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、
小墾田(おはりた)の猪手(ゐて)、
埿部(はつかしべ、はしつかべ)の眡枳(しき)、
大分君(おほきたのきみ)稚臣(わかみ)、
根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、
漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ)
之(が)輩(ともがら)之(こ)に従ひまつりて、
天皇(すめらみこと)大(おほき)に喜びたまふ。
將及郡家、
男依乘驛來奏曰
「發美濃師三千人、
得塞不破道。」
於是、天皇美雄依之務。
…〈北〉天皇ホメ雄依之イサヲシキヲイサヲシ■イサミ。 〈閣〉ホ■男イイサヲシキヲイサミヲ イサヲシサヲ
将に郡家(こほりのみやけ)に及ばむとして、
男依(おより)駅(はゆま)に乗りて来(まゐき)て奏曰(まをせらく)
「美濃(みの)の師(いくさびと)三千人(みちたり)を発(た)てて、
不破(ふは)の道を塞(ふた)ぐこと得(え)まつれり。」とまをせり。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)雄依(をより)之(が)務(いさみ)を美(ほ)めたまふ。
既到郡家。
先遣高市皇子於不破
令監軍事。
既に郡家(こほりのみやけ)に到(いでま)しつ。
先に高市皇子(たけちのみこ)を[於]不破(ふは)に遣(つか)はして、
軍事(いくさのこと)を監(み)令(し)めたまふ。
遣山背部小田
安斗連阿加布
發東海軍。
又遣稚櫻部臣五百瀬
土師連馬手
發東山軍。
安斗連阿加布…〈北〉トノムラシ阿加布アカフ東海 ウミツチ 東山ヤマノチ
〈閣〉東-海ウヘツミチヲ東-山ヤマノミチノ
うみつみち…[名] 東海道。
やまのみち…[名] 東山道。
山背部(やましろべ)の小田(をだ)、
安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を遣(つか)はして
東海(うみつみち)の軍(いくさ)を発(た)たしめたまふ。
又(また)稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、
土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を遣はして
東山(やまのみち)の軍(いくさ)を発(た)たしめたまふ。
《朝明郡迹太川》
   引用文献略称
〈地名辞書〉…『大日本地名辞書』吉田東伍(著)第二版〔冨山房;1907〕/国立国会図書館デジタルコレクション
〈古代の道と駅〉『事典 日本古代の道と駅』木下良(著)〔吉川弘文館:2009〕
〈久留倍官衙遺跡計画〉『史跡久留倍官衙遺跡保存活用計画』〔四日市市教育委員会 社会教育・文化財課;2021〕
〈久志本:迹太川〉…「壬申紀「迹太川」小考〔久志本鉄也;『研究紀要第22号』2013/三重県埋蔵文化財センター〕
〈古典基礎語辞典〉…『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕
Ⅶ ⇒全経路
左:「天武天皇御遺蹟」碑
右:「天武天皇迹太川御遥拝所阯」碑
三重県四日市市大矢知町
 朝明郡については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明【阿佐介】郡}。 〈地名辞書〉は「アサ迹太トオホ河辺…或は此川と云ふ」。 四日市市公式―「天武天皇迹太川御遥拝所跡」によると、 「慶応二年〔1866〕に造立された石灯籠には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉宮」…そのためこの地が御遥拝所跡として昭和十六年〔1941〕に指定」されたという。
 ただ迹太川朝明川だとすれば、この碑の位置は河辺から離れすぎている。
 現代になり、論文〈久志本:迹太川〉は従来から言われていた朝明川説を否定し、米洗川説を唱える。
 久留倍遺跡に「朝明郡衙の可能性があると判明」したのは、2003年のことである。 (〈久留倍官衙遺跡計画〉(p.2))。 これによって、それより北にある朝明川を迹太川だとするのは、理屈が合わなくなった。
 〈久志本:迹太川〉は、米洗川迹太川に比定する根拠として、久留倍官衙遺跡より南側にあり、またこの川では水辺祭祀が行われていたことなどを挙げる。
《天照大神》
 天照大神は太陽神であるから、東から昇る太陽を拝んだという読み方も考えられるが、「」という語からは太陽ではなく伊勢神宮に向かって拝した印象を受ける。 太陽を拝むのならば、「仰」「向」を用いたのではないだろうか。
 天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝することによって、味方してくれている伊勢国の人々に感謝の意を表したように思えるのだが、どうであろうか。
《郡家》
着色部分がⅠ期 〈久留倍官衙遺跡計画〉
 「郡家」は、文脈から見て朝明郡家である。
 四日市市公式/久留倍官衙遺跡公園/各種資料によると、 「正殿・脇殿・東門などを備える東を向く政庁」で、「南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群」、 「倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれている」という。
 地名の久留倍については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明郡・訓覇【久留倍】郷}。 『勢陽五鈴遺響』〔1833〕には「大矢知:村中ニ久留倍ト云小字今ニ存セリ」とあるという。 したがって、久留倍官衙遺跡朝明郡家となる。
 前出〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、 史跡久留倍官衙遺跡はⅠ期:「7世紀第3四半期の終わり頃から8世紀前半」、Ⅱ期:「Ⅰ期の後から8世紀後半」、Ⅲ期Ⅱ期の後から9世紀末」からなる。 同書は「構造や規模からみて古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い」と述べる。
 Ⅰ期はさらに細分され「Ⅰ-①期は、丘陵裾部に南北棟を中心とした建物群」、「Ⅰ-②期は、丘陵頂部平坦部に東向きの政庁と、その西側の大型の総柱建物、丘陵裾部の建物群」という(p.26)。 壬申年〔672〕Ⅰ-①期のはじめにあたり、右図の東半分の建物群となる。
《益人》
路直益人 前段で鈴鹿関司から「山部王・石川王が関に来たので留め置いた」との報告を受けて、関に遣わされた。
大津皇子 〈天武〉の皇子(第258回)。
《大分君惠尺…》
大分君恵尺  二十二日に、倭京に行って駅鈴を求め、もし交付されなければ高市皇子・大津皇子を連れて戻れと命じられた。 その二人のうち大津皇子とともに、鈴鹿関に現れたことになる。
難波吉士三綱 難波吉士は《難波吉士雄成》項参照。 三綱はここだけ。
駒田勝忍人 〈姓氏家系大辞典〉「駒田:天武前紀に駒田勝忍人と云ふ者見ゆ」と述べるのみ。 駒田勝忍人ともにここだけ。
かつ…[他]タ下二 〈時代別上代〉「この語を写すのに「勝」を多用するのは、借訓ではなく、この字に、フ・フの意があるためと考えられる」。 すなわち、カツと訓む。 「駒田勝」自体が書紀以外に見えないので、かばねと判断することは難しい。※1)
…訓:オシ。(万)4245忍照 難波尓久太里 おしてる なにはにくだり」。オシテル(臨照・押照・忍照)は難波への枕詞。
山辺君安麻呂 山辺君は〈垂仁〉の皇子大中津日子命を祖として和気氏と同族(第116回「山辺之別」項)。 安麻呂はここだけ。
小墾田猪手 〈姓氏家系大辞典〉「小治田 ヲハリダ:また小墾田に作る。大和国高市郡小治田邑より起る」、「推古天皇が都を定め給ひし地」。 「小治田臣:武内宿祢の裔。蘇我氏の族なり」、「小治田(無姓):…〔小治田臣、―大連、ー朝臣、―宿祢など〕の族なるべし」。 猪手はここだけ。
埿部眡枳  〈姓氏家系大辞典〉「泥部 ハツカシベ ヌリベ:職業部の一にして、土作、瓦を造り、石灰を焼く等…品部」。 そして「山城の泥部」を〈倭名類聚抄〉{山代国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}によるものとする。 埿部眡枳ともにここだけ。
〈時代別上代〉「丈部 ハセツカベ:…もと馳使部…配下として駆使せし意…職業的品部と見るべきなれど、多くは阿倍氏配下の内なりしが如し」。
…「国際電脳漢字及異体字知識庫」は「」とする。
大分君稚臣 大分君大分君恵尺参照。 七月辛亥の活躍で「勇敢士」と称えられる。 〈天武〉八年三月丙戌「兵衛大分君稚見死。…贈外小錦上位」。薨・卒でなく「」を用いるから正規の臣ではない。「」位とするもそのためであろう。
根連金身  〈姓氏家系大辞典〉「根連:春日氏の族にして、和泉国日根郡、日根神社などある地より起りたるならむと云う」。 『姓氏録』〖皇別/根連/同上〔天足彦国押人命之後也〕根連金身もここだけ。
漆部友背  〈姓氏家系大辞典〉「漆部 ヌリベ ウルシベ:…漆器を製する…品部」、「大和の漆部:氏人に…天武前紀に漆部友背」。 〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀郡・漆部【奴利部】}。漆部友背もここだけ。
 ※1)…しかし、〈続紀〉天平神護二年〔766〕十二月丁酉「秦勝古麻呂等四人、賜姓秦忌寸」によれば、秦勝の「」は姓である。 これは、『ヒストリア』(19)〔1957;大阪歴史学会〕掲載「カバネ勝とその集団」〔八木充〕によって知った。 同論文によると、の訓みはスグリで、「勝姓者の地位と役割は」勝を村主(スグリ)と同じとする「推測を有利にする」と述べている。(2024.11.02付記)
《男依》
村国連男依  さる壬午〔二十二日〕美濃国に派遣し、現地の軍を動員して不破道を塞げさせよと命じた。
 ただ甲申〔二十四日〕には大海人皇子に心の迷いがあり、一度は引き返させようかと考えた。
 結果的には、この日までに村国連男依は不破道の封鎖を成し遂げ、大海人皇子はその報告を聞いて大いに喜び、その功を褒めた。
《高市皇子》
高市皇子  鹿深越えして合流して以来の登場。
 ここで高市皇子を軍監として、占拠した不破の関に派遣した。皇子は、東国方面軍全体を統括したと見られる。
《山背部小田…》
山背部小田  甲申〔二十四日〕是日条で、最初から随行した一人。 
安斗連阿加布 安斗連は安斗連智徳参照。阿加布はここだけ。
稚桜部臣五百瀬 甲申是日条で、最初から随行した一人。
土師連馬手 甲申即日条で、菟田吾城で一行の食事を供給した。
古墳時代~飛鳥時代 奈良時代 平安時代(~9世紀) 平安時代
●〈古代の道と駅〉p.66,87,93,96,134 の図を合成して加筆。
《東海軍》
 〈倭名類聚抄〉では、東海道諸国は「伊賀、伊勢、志摩、尾張…」の順に並んでいる。恐らく飛鳥時代は飛鳥京または藤原京、奈良時代は平城京が、東海道の起点であっただろう。
 〈古代の道と駅〉は、 「尾張国も当初東海道から外れ、駅路は伊勢湾口を横断して参河国に上陸していた可能性」()があり、「尾張国は伊勢湾の湾奥に位置し、隣国との間に広大な低湿地」があるのを「避け、あえて海を渡ったことが海道の名称の由来になったと考えられる」(p.85)、 「大宝二年〔702〕の持統天皇の参河国行幸」では 「」(なばり)と伊勢国多気郡「圓方」(まどかた)を詠んだ歌があるので「名張から圓方を経由し…伊勢湾を渡る経路が採られたのであろうことが判る」などと述べる(p.88)。
 ただ、尾張国経由の陸路ももちろん「東海道」として使われていたであろう。 愛智郡の熱田神宮は、日本武尊縁の草薙の剣を祀り(第53回)、 古来からの大国尾張国に通づる街道もまた、歴史的に重要であったことは間違いない。
 奈良時代の経路は、平安時代の仁和二年〔886〕以前はであった。 六月二十五日条《鹿深越》の経路である(〈古代の道と駅〉p.88)。 以後はとなり、ほぼ現在の国道一号線に沿う。
 「東海軍」の通った東海道は、当然桑名郡方面から尾張国に向かう陸路であろう。大海人皇子が通った道である。
《東山軍》
 東山道は不破関を通っていたのは明らかだから、ほぼ後世の経路と同じであろう。 奈良時代は平城京から北向きの道を経て繋がる。飛鳥時代はさらに下ツ道などで倭京に繋がっていたと見られる。
 「東山軍」は、この東山道を通って大津京から不破郡に向かったと見られる。
《大意》
 二十六日の 朝、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)の辺りで、 天照大神を遥拝されました。
 この時、益人(ますひと)が到着して 「関に留め置いた者は、 山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)ではなく、 大津皇子(おおつのみこ)です。」報告しました。
 そして、〔大津皇子は〕益人に連れられて参上しました。
 大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 難波吉士(なにわのきし)三綱(みつな)、 駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、 山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、 小墾田(おはりた)の猪手(いて)、 埿部(はつかしべ)の視枳(しき)、 大分君(おおきたのきみ)稚臣(わかみ)、 根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、 漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ) の輩(やから)が従って参り、 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれました。
 まさに〔朝明〕郡家に到着しようとしたとき、 男依(おより)が駅馬に乗って来て 「美濃(みの)の軍三千人を発して、 不破の道を塞ぐことに成功しました。」と奏上しました。
 そこで、天皇(すめらみこと)は雄依〔=男依〕の功を褒められました。
 そして郡家に到着しました。 高市皇子(たけちのみこ)を不破に先発させ、 軍事を監督させました。
 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を派遣して、 東海道の軍を発進させました。 また、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を派遣して、 東山道の軍を発進させました。


11目次 【元年六月二十六日是日(一)】
《宿于桑名郡家》
是日。
天皇宿于桑名郡家、
卽停以不進。
天皇宿…〈北〉宿ヤトスイテマ
やどる…[自]ラ四 旅の途中で宿泊する。
是日(このひ)。
天皇(すめらみこと)[于]桑名(くはな)の郡家(こほりのみやけ)に宿(やど)りたまふ、
即(すなはち)停(とど)まりて以ちて不進(すすみまさず)。
是時近江朝、
聞大皇弟入東國、
其群臣悉愕京內震動。
或遁欲入東國、
或退將匿山澤。
近江朝…〈北〉 ミカト大皇弟 ヒツキノミコ/マウケノキミ オト京内 ミサト 震動 サワク 
やまさは…[名] 山陰の湿地。
是(この)時近江朝(ちかつあふみのみかど)、
大皇弟(だいくわうてい)東国(あづま)に入(いでます)と聞きて、
其(その)群臣(まへつきみ)悉(ことごと)に愕(おど)ろきて京内(みさと)震動(とよ)む。
或(ある)は遁(に)げて[欲]東国(あづま)に入らむとおもひて、
或(ある)は退(ひ)きて将(まさ)に山沢(やまさは)に匿(かく)れむとす。
爰大友皇子謂群臣曰
「將何計。」
一臣進曰
「遲謀將後。
不如急聚驍騎乘跡而逐之。」
皇子不從。
遅謀…〈北〉オクレナムオク■驍騎トキマイクサ
〈閣〉遲謀オクレナムオクレナム驍-騎トキムマイクサヲ ノリテ而逐ムニハ
〈兼右本〉ノリアト[ニ][テ]
驍騎…〈汉典〉「英勇的騎兵」。
爰(ここに)大友皇子(おほとものみこ)群臣(まへつきみたち)に謂(のたま)ひて曰へらく
「[将]何(なに)をか計(はか)らむとする。」とのたまへり。
一臣(ひとりのおみ)進(すす)みて曰(まを)さく
「遅(おそ)き謀(はかりごと)将(まさ)に後(おく)れむ。
急(すみやか)に驍騎(ときうまいくさ)を聚(あつ)めて跡(あと)に乗りて[而]之(こ)を逐(お)ふに不如(しかず)。」とまをせど、
皇子(みこ)不従(したがひたまはず)。
則以韋那公磐鍬
書直藥
忍坂直大摩侶
遣于東國。
韋那公…〈北〉ナノ キミ磐鍬 イハ スキ 書直藥 フミノアタヒ クスリ 忍坂ヲシカノ オホ摩侶マロ
則(すなは)ち韋那公(いなのきみ)磐鍬(いはすき)、
書直(ふみのあたひ)薬(くすり)、
忍坂直(おさかのあたひ)大摩侶(おほまろ)を以ちて
[于]東国(あづま)に遣はして、
以穗積臣百足
弟百枝
物部首日向
遣于倭京。
穂積臣…〈北〉積臣ツミノヲン百足 モゝタルヲトゝ百枝モゝエタ 物部 モノゝヘノヲフト日-向ヒウカ 
穗積臣(ほづみのおみ)百足(ももたる)、
弟(おと)百枝(ももえだ)、
物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を以ちて
[于]倭京(やまとのみやこ)に遣はす。
且遣佐伯連男於筑紫、
遣樟使主磐手於吉備國
並悉令興兵。
佐伯連…〈北〉佐伯サヘキノムラシヲトコ
樟使主…〈北〉樟-使-クスノオムイハ吉備キヒ。 〈閣〉樟-使クスノ ヲム-主盤磐手
且(また)佐伯連(さへきのむらじ)男(をとこ)を[於]筑紫(つくし)に遣はして、
樟使主(くすのおみ)磐手(いはて)を[於]吉備国(きびのくに)に遣はして、
並(ならび)に悉(みな)兵(いくさ)を興(た)た令(し)めたまふ。
仍謂男與磐手曰
「其筑紫大宰栗隈王與
吉備國守當摩公廣嶋二人、
元有隸大皇弟、疑有反歟。
若有不服色、卽殺之。」
大宰栗隅王…〈北〉オモ ミコトモチ栗隅クリ クマヲホキミ タイ マノ-キミ廣嶋 ヒロ シマツケルツキマツル大-皇弟 マウケノキミ不-服-色卽マツロハヌオへリ
〈閣〉不-服-色 マツロハヌ オヘリ。 〈兼右本〉不-服マツロハヌオモヘリ
…[動] したがう。所属する。(古訓) かなふ。つかふ。つく。よる。
…[助] 〈汉典〉「語気詞。表-示疑問、反詰、推測、停頓、感歎,語気徐緩而安舒」。
いろ…[名] 色彩。顔色。
仍(よ)りて男(をとこ)と磐手(いはて)与(と)に謂(のたま)ひて曰はく
「其の筑紫(つくし)の大宰(おほみこともち)栗隅王(くりくまのおほきみ)と
吉備国(きびのくに)の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)与(と)の二人(ふたり)は、
元(もとより)大皇弟(だいくわうてい)に隸(つ)くこと有りて、疑はしくは反(そむくこと)有らむや[歟]。
若し不服(まつろはざる)色(いろ)有らば、即(すなはち)[之を]殺せ。」とのたまふ。
於是、磐手到吉備國授苻之日、
紿廣嶋令解刀。
磐手、乃拔刀以殺也。
到吉備国…〈北〉○備𠮷タマフ苻之オシテノフミヲ紿アサムイ。 〈北〉紿アサムイテ
おして…[名] 印鑑。〈類聚名義抄〉「:オシテ シルシ」。「:ヲシテ」。
紿…[動] 詒(あざむく)に当てた用法。(古訓) いつはる。あさむく。
於是(ここに)、磐手(いはて)吉備国(きびのくに)に到りて苻〔符〕(おしてのふみ)を授(さづ)けたまひし[之]日、
広嶋を紿(いつは)りて刀(たち)を解か令(し)む。
磐手(いはて)、乃(すなは)ち刀(たち)を抜きて以ちて殺しつ[也]。
《桑名郡家》
久留倍官衙遺跡(朝明郡家に比定) 不破関
榎撫駅 馬津駅
 〈倭名類聚抄〉{伊勢国・桑名【久波奈】郡}。現在の桑名市の市域と重なる部分が多い。 桑名市公式/郷土史研究の歴史(4)には、 「桑名郡家の場所については、様々な言い伝え(証言)がありますが、今のところ不明」、「発掘により明らかにするほかはない」とある。
 つまり、候補となり得る遺跡は見つかっていないようである。
 右図榎撫えなつ(桑名郡)と馬津駅(尾張国)の間は海路であったと考えられている 〔〈古代の道と駅〉(p.89,93)による〕
 右図は、地理院地図の「自分で作る色別標高図」機能を使い、現在でも海抜0m以下の地域を水色に着色したものである。 実際には、もう少し東の名古屋市港区・南区までが海であったことが明らかになっている。
 朝明郡家(久留倍官衙遺跡)から、榎撫駅に至る街道沿いのどこかに、桑名郡家があったのであろう。
 〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、久留倍官衙遺跡は「国道1号北勢バイパス建設に伴う久留倍遺跡の発掘調査開始」した結果、「古代の朝明郡衙」と見られることが判明した。 つまり、この工事がなければ明るみに出なかったのである。 ならば、桑名郡家についてもいつか偶発的に発見される可能性はあろう。
《停以不進》
 大海人皇子の一行は吉野宮を急ぎ発って以来、ここまで息もつかずに駆けて来た。 桑名郡家でやっと腰を据えたのは、味方のテリトリーに入り安心できる状態になったからであろう。
 しかし、それも束の間、高市皇子の要請によって丁亥〔二十七日〕には不破郡に移る。
《大皇弟》
 五月是月条では、一時「皇大弟」と表記されたが、ここで再び「大皇弟」に戻っている。
《京内震動》
 大皇弟〔大海人皇子〕が東国に入り軍勢を整えたとの報を聞き、 ある者は東国に脱出して大皇弟側に加わろうとし、ある者は逃げて山中に隠れたという。 この段で、京内がパニックに陥ったと描くのは近江朝廷を貶しめようとする潤色であろう。
 ただ、美濃国・尾張国・伊勢国などは、朝廷への反感が募り叛意を秘めていることを、既に近江朝廷自身が認識していたと思われる。 ここに、有力な日継候補であった皇大弟が入れば、これらの諸国は皇大弟を推戴して一気に反乱の狼煙を挙げると危惧された。
 諸国の不満の原因は、何といっても〈天智〉朝における軍事への動員であろう。 東国から工事に動員されたことを具体的に書く記事は、〈斉明〉・〈天智〉の山陵ぐらいであるが(元年五月是月)、 西日本各地に朝鮮式石城が築かれたことを見れば、恐らくそれらの工事に大規模に動員されていたと察せられる。不満が募り、火薬庫は発火寸前だったのである。
 なお、高安城の石塁の築造が畿内住民の反感を招いて中止された※1)らしいところを見ると、畿内の人民には甘く、負担をかけることを避けたようである。
※1…〈天智八年八月〉《登高安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作》項。
《大友皇子謂群臣》
 大友皇子は敵方であるから尊敬表現を用いないことも考え得るが、臣は「進曰」とへりくだって表現しているから、大友皇子と臣との関係性によって尊敬表現を用いてもよいだろう。
《乗跡》
 乗馬して大皇弟が移動した跡を追う意か。しかし、どう考えても「乗跡」は不可解である。
 「」があるから「」は特になくともよい。だから乗跡は、たとえば「覓跡」〔跡をぐ(=探し求める)〕などの誤りかも知れない。
《皇子不従》
 一人の臣は、いち早く精鋭の騎馬部隊を投入して大海人皇子軍を追跡すべしと提言した。大海人皇子方の軍勢がまだ整わない今がチャンスだと見たのであろう。
 大友皇子はそれを容れず、東国倭京吉備筑紫に出撃を促した。時間がかかっても大軍勢を呼び寄せようとしたわけである。 しかし、筑紫大宰吉備国守については既に大海人皇子側についているかも知れないから、その気配が見えれば殺せと命じている。 しかし、それでは軍の派遣を得ることができなくなるから、判断は混迷している。
《韋那公磐鍬…》
韋那公磐鍬 〈雄略〉十三年九月に「木工韋那部真根」。 〈倭名類聚抄〉{摂津国・河辺郡・為奈}によって、〈姓氏家系大事典〉は「偉那 ヰナ:…此の地より起る」とする。 〈宣化〉段「〔皇子〕恵波王者、韋那君…祖也」(第237回)。 〈天武〉十三年「猪名公…賜姓曰真人」。 磐鍬は《男至筑紫》段で、捕まる寸前で逃げ延びる。
書直薬 書直フミノアタヒについては、書直智徳参照。 は、《男至筑紫》段で捕まる。
忍坂直大摩侶  〈姓氏家系大辞典〉押坂 オサカ オシサカ:忍坂とも、刑坂とも」、「神武段に忍坂邑とあり、大室を作りて…〔〈神武〉紀〕歌に於佐箇〔〈神武〉段は意佐加(第99回)。 〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・恩坂【於佐加】郷}。 大麻呂も書直薬とともに捕えられた(《高市皇子遣使於桑名郡家》段)。
《遣于東国》
 東国の尾張、美濃の国司は完全に大海人皇子側と見られ、そこに使者を送るのは一見すると不思議である。 捕まったのは不破郡の手前なので、東山道を通って信濃以東へ向かったのかも知れない 〔しかし、美濃国を無事に通り抜けられるとも思えず、この経路は無謀である〕
 ただ、美濃国内にも近江朝廷に従う勢力はあったかも知れない。 というのは、国守の任命は〈孝徳朝〉で始まったことで、それ以前はが地方区分の単位であった。 したがって、壬申年になってなお郡領の独立性がかなり残っていたとも考えられるからである。 郡単位で見れば、双方の勢力はモザイク状だったのかも知れない。
《穗積臣百足…》
穗積臣百足  穂積臣は、内色許男命の子孫(第108回)。 百足は、その後己丑〔二十九日〕に飛鳥寺西槻下の軍営に呼び出されたところで、謀略的に殺される。
穗積臣〔五〕百枝  五百枝は己丑に飛鳥寺西槻下の軍営で、物部首日向とともに謀略的に逮捕されたが赦された。
物部首日向  『姓氏録』〖河内国/神別/天神/物部首/同〔=神饒速日命〕神子味島乳命之後也〗 〈姓氏家系大辞典〉「春日臣の族市河・石上神宮に奉仕して、又一部の物部を率ゆ、物部首これ也」。五百枝項参照。
《倭京》
 倭京への使者のうち、百足が飛鳥寺西槻下の軍営に入った時には、軍営は既に敵方に寝返っており、殺された。 五百枝日向も軍営で逮捕されたが、同じく寝返ることを条件に赦されたようである。
《佐伯連男…》
佐伯連男  佐伯連は、《佐伯子麻呂連》参照。 〈天武〉十三年「佐伯連…五十氏賜姓曰宿祢」。 は、慶雲二年〔705〕十二月癸酉「従六位下…佐伯宿祢男…並従五位下」。 和銅八年〔708〕大倭守」を拝す。 和銅二年〔708〕九月乙卯「授…従五位上」が最後の記事。
樟使主磐手  〈姓氏家系大辞典〉は「樟使主:天武前期に樟使主磐手と云ふ者見えたり」と記すのみ。 樟使主磐手もここだけ。
《栗隅王…》
栗隅王 《栗前王》参照。
当摩公広嶋  〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下郡・当麻【多以末】郷}。〈姓氏家系大辞典〉「当麻 タギマ タイマ:上代の大族」。 〈用明〉元年正月〔用明〕麻呂子皇子、此当麻公之先也」。 〈天武〉十三年十月「当麻公…十三氏賜姓曰真人」。広嶋はここだけ。
《紿広嶋令解刀》
 吉備国守には、符を授与する儀式においては刀を解くものだと言ってだましたのであろう。
 磐手は大友皇子の指令を、要するに殺せということだと受け止めて即座に殺したのかも知れない。 もし大友皇子の指示を額面通りに実行したのなら、最初に顔を合わせたときに反逆の色を読み取ったということになる。
《大意》
 この日、 天皇(すめらみこと)は桑名の郡家に宿し、 留まって進みませんでした。
 この時、近江朝廷は、 大皇弟(だいこうてい)が東国に入ったと聞き、 群臣はことごとく驚愕し、京内は揺れ動きました。
 或いは遁走して東国に入いろうとし、 或いは退去してに山の沢に隠れようとしました。
 このとき、大友皇子(おおとものみこ)は群臣に、 「どう計略をするのか。」と仰りました。
 一人の臣が、 「謀(はかりごと)が遅ければ、遅れをとるでしょう。 すみやかに驍騎(ぎょうき)〔勇猛な騎馬隊〕を集めて〔皇大弟が移動した〕跡を騎乗して追い、駆逐する以上の策はありません。」と申しました。
 大伴皇子はこの意見に従いませんでした。
 そして、韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)、 忍坂直(おさかのあたい)大摩侶(おおまろ)を 東国に遣わし、 穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)、 弟の百枝(ももえだ)、 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を 倭京〔飛鳥の宮〕に遣わしました。
 また、佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)を筑紫(つくし)に遣わし、 樟使主(くすのおみ)磐手(いわて)を吉備の国に遣わし、 それぞれ皆、兵を興させました。
 そして男(おとこ)と磐手(いわて)に 「その筑紫の大宰(おおみこともち)栗隅王(くりくまのおおきみ)と 吉備の国の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)の二人は、 元々大皇弟に隷属していたから、背くことも有るかと疑われる。 もし〔近江朝廷に〕服さぬ気配があれば、直ちに殺せ。」と仰りました。
 こうして、磐手が吉備の国に到り符を授けた日、 広嶋に偽って太刀を解かせておいて、 磐手は太刀を抜いて殺しました。


12目次 【元年六月二十六日是日(二)】
《男至筑紫》
男至筑紫。
時、栗隈王承符對曰
「筑紫國者、元戍邊賊之難也。
其峻城深隍臨海守者、
豈爲內賊耶。
栗隈王…〈北〉クリ クマノ 王 オホキミ元戍邊 モトヨリマモル ホ-賊之ワサハヒ峻城 タカシ   ミソ○内
〈閣〉符對オシテノフミヲ テモトヨリ マモル邊- ホカノ賊之ワザハヒ守者マホラスルハ 
…[動] 武器を持って警備する。(古訓) まほる。まもる。
まぼる…[動]ラ四 マモルの変。〈古典基礎語辞典〉「上代はマモル、中古では子音交代形のマボルが主」。
男(をとこ)筑紫(つくし)に至りつ。
時に、栗隈王(くりくまのおほきみ)符(おしてのふみ)を承(うけたまは)りて対(こた)へて曰(まを)ししく
「筑紫国(つくしのくに)者(は)、元(もとより)辺(ほとり)の賊(あた)之(の)難(かたき)を戍(まも)りつ[也]。
其(その)峻(たか)き城(き)深き隍(みぞ)海(わた)に臨(のぞ)む守(まもり)者(は)、
豈(あに)内(うちつ)賊(あた)が為(ため)なりつるか[耶]。
今畏命而發軍、則國空矣。
若不意之外有倉卒之事、
頓社稷傾之。
然後雖百殺臣、何益焉。
豈敢背德耶、
輙不動兵者其是緣也。」
今畏命…〈北〉畏命 カシスムシ カシコミ  ケムオモヒ-卒ニハカナル之事頓社 ヒタフル-クニ テシ  ヨシ
〈閣〉カシコシンカシコミ オセトヲ而發ヒタフルニ社- クニ  ナム雖百 タヒ ト ヲ ノシルシカ
…[形] あわてるさま。
倉卒…にわかで思いがけないさま。
ひたふる…[副] 徹底的に。
今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて[而]軍(いくさ)を発(た)たば、則(すなは)ち国(くに)空(むな)しからむ[矣]。
若し不意之(おもはざ)りて、外(ほか)に倉卒之(にはかなる、にはしき)事有らば、
頓(ひたふる)社稷(くにいへ)[之]傾(かたぶ)かむ。
然後(しかるのち)に百(ももたび)臣(おみ)を殺すと雖(いへど)も、何(なに)そ益(かが)あらむ[焉]。
豈(あに)敢(あ)へて徳(のり)に背(そむ)きまつるか[耶]、
輙(すなはち)兵(つはもの、いくさびと)を不動(うごかさざること)者(は)其(それ)是(この)縁(よし)なり[也]。」とまをしき。
時栗隈王之二子
三野王
武家王、
佩劒立于側而無退。
於是、男按劒欲進還恐見亡、
故不能成事而空還之。
三野王…〈北〉ノゝヲホキミ武-家 タケムヘノ ヲホキミ按劒 トリシハリ
〈閣〉按劒トリシハリテ ヲ[切][テ] 故不 コト ヲ 〔進まむと欲(おも)ふに、還りて恐るらくは亡ぼされむ、故(かれ)成すことを能はず〕
…[動] おさえ止める。
按剣…すぐ抜けるように剣のつかに手をおくこと。(古訓) おさふ。おす。ととむ。とる。
おしねる…[他]ラ四 (万)1809焼大刀乃 手穎押祢利 やきたちの たかみおしねり」。〈時代別上代〉「剣の手かみとりしばり…もあり、同じ動作をあらわすものであろう」。
とりしばる…[他]ラ四 〈類聚名義抄〉「:トリヒシク トリシハル」。
たかみ…[名] 剣のつか。手(た)-頭(かみ)。
時に栗隈王(くりくまのおほきみ)之(が)二子(ふたりのこ)
三野王(みののおほきみ)、
武家王(たけるべのおほきみ)、
剣(つるぎ)を佩(は)きて[于]側(かたはら)に立ちて[而]退(しりぞくこと)無し。
於是(ここに)、男(をとこ)剣(つるぎ)の按(たかみおしね)りて、[欲]進まむとして還(かへ)りて見亡(ほろぼされむこと)を恐りて、
故(かれ)事を成すこと不能(あたはざ)りて[而]空(むな)しく[之]還(かへ)りつ。
東方驛使磐鍬等、將及不破。
磐鍬獨疑山中有兵、
以後之緩行。
時、伏兵自山出遮藥等之後。
磐鍬、見之知藥等見捕、
則返逃走、僅得脱。
駅使…〈北〉ハイマ使 ヤウ\/伏兵 カクレ  
〈閣〉驛-使 ハイマ ツカイヤウ\/○行之イ知藥 カ コトヲ コト
〈兼右本〉返-ニケ[テ]ハシリ[テ]マヌカルゝ[ヲ][句]
東方(あづまのかた)の駅使(はゆまつかひ)磐鍬(いはすき)等(ども)、将(まさ)に不破(ふは)に及ばむとす。
磐鍬(いはすき)独(ひとり)山中(やまなか)に兵(つはもの)有るかもと疑ひて、
以ちて[之]後(おく)れて緩(やくやく)行(ゆ)けり。
時に、伏兵(かくれるつはもの)山自(ゆ)出(い)でて薬(くすり)等(ら)之(が)後(しりへ)を遮(さ)ふ。
磐鍬(いはすき)、之(こ)を見て薬等(くすりら)の見捕(とらはれる)を知りて、
則(すなはち)返(かへ)して逃走(に)げて、僅(わづかに)得(え)脱(のが)る。
當是時、
大伴連馬來田
弟吹負、
並見時否。
以稱病退於倭家
弟吹負…〈北〉吹-負 フケヒ 時否トキノヨクモ以稱アラヌヲ/マウシ ノ否以ヨクモアラスヲ マウシテ
是(この)時に当(あた)りて、
大伴連(おほとものむらじ)馬来田(まくた)、
弟(おと)吹負(ふけひ)、
並びに時や否(いな)やを見る。
以ちて病(やまひ)と称(まを)して[於]倭(やまと)の家(いへ)に退(しりぞ)けり。
然知其登嗣位者
必所居吉野大皇弟矣。
是以、馬來田先從天皇。
唯吹負留、
謂立名于一時欲寧艱難。
卽招一二族及諸豪傑、
僅得數十人。
然知其…〈北〉 シリ登-嗣位 アマツヒツキサラサム者…大皇 ナラムト云 艱難ワサハヒ ヲキ一二族及諸豪傑 イサヲシ 
〈閣〉登-嗣-アマツヒキシラシム吹負留ヲモハク欲寧艱難ヲモフヤスカラムト ワサハヒ 
…[動] いう。おもう。(古訓) おもふ。
わづかに…[副] 少し。かろうじて。
然(しかれども)其(その)嗣位(ひつぎのくらゐ)に登りまします者(ひと)は、
必ず吉野(よしの)に所居(おほまします)大皇弟(だいくわうてい)ならむと知れり[矣]。
是(こ)を以ちて、馬来田(まくた)先(ま)ず天皇(すめらみこと)に従(したがひまつ)る。
唯(ただ)吹負(ふけひ)留(とど)まりて、
名を立てむと謂(おも)ひて[于]一時(ひととき)に艱難(わざはひ)を寧(やは)さむと欲(おも)へり。
即(すなは)ち一二(ひとつふたつ)の族(うがら)及びに諸(もろもろ)の豪傑(いさを)を招(を)きて、
僅(わづかに)数十人(あまたとをたり)を得(う)。
《峻城深隍臨海守》
 大野城基肄城は、峻城〔急峻な山城〕と言えよう。また、水城深隍と表現し得る(天智三年是歳)。
《然後雖百殺臣何益焉》
 (利益)を意味する上代語には、カガクホサがある。
 一方、の古訓「シルシには、甲斐という意味があので、 雖百殺臣何益に「百回臣を殺すと言っても甲斐はない」という語感を与えることができる。 漢語のにも「効果」の意がある。
 「」には「いふ」を加えて「いへども」と訓むべきか。
《豈敢背徳耶》
  豈敢背徳耶は反語で、すなわち「これが敢えて徳に背くことなのか?否である」という。 この文の主語は栗隈王で、出兵すべしという朝命を拒むことは重罪であるが、敢えてそうすることに徳があると胸を張って言う。
 唐新羅の侵略に備えて守りを固めるのが筑紫大宰の任務であり、たとえ王朝が交代してもその任は変わらないという主張には道理がある。 つまり中央で政権争いがしたければ勝手にやってくれ、どちらが勝とうが私は国家のために辺境を固守するのみであるというわけである。
 よって、栗隈王は必ずしも親大皇弟であったとは限らないが、近江朝廷によるこのような命令は、却って大皇弟側に追いやってしまったかも知れない。
《栗隈王之二子》
三野王 ここだけ。菟田吾城に呼び寄せた「美濃王」とは、おそらく別人。
武家王 ここだけ。古訓「タケムベ」は、タケルベの誤写であろう。タケルベ(建部)は氏族名※)だが、これを個人名として使ったと思われる。
 ※1)…日本武尊の功名を残すための一種の御名代みなしろ(第135回)。
《按剣》
 古訓は「トリシハル」と訓む。トリシハルについて〈時代別上代〉が挙げる文例は書紀古訓のみである。 また他の古語辞典は見出し語にしないものばかりなので、書紀古訓以外の用例はないようである。 ただ〈類聚名義抄〉にはあるが、拉致の「」を訓んだものなので、「獲り縛る」という語を書紀古訓者が誤用した可能性がある。
《磐鍬》
韋那公磐鍬 上述
書直薬 上述
 六月二十七日条にこの段と同内容の記述がある。
《遮薬等之後》
 大摩侶の背後をまず押さえて逃げ道を塞いだ。その後のことは書いていないが、当然前方からも襲い包囲して捕えたのであろう。
《当是時》
 時を遡って、馬来田菟田吾城で大海人皇子に追いつく(二十四日即日条)前にあったことを書いたと見られる。
《馬来田》
大伴連馬来田 菟田吾城で追いつき合流。その前に家に籠り弟とともに日和見。
大伴連吹負 以後大海人皇子配下で奮戦。〈天武〉十二年八月庚申「大伴連男吹負卒。以壬申年之功大錦中位」。
《謂名于一時欲上レ艱難
 吹負は兵を募集して大軍を組織し、大海人皇子軍の主力に躍り出て一気に勝負を決しようと思った。 それによって名を上げようとする。その野心は後世の戦国時代の武将と同質であるところが興味深い。
 だが、実際に集まったのは僅か数十名で思惑は外れた。 それでも戊子〔二十八日〕にはその数十名を率いて謀略を駆使して奮戦し、大海人皇子に認められて将軍を拝する。 以後、壬申の乱に勝利するまでに吹負の名が出て来るのは13箇所に及ぶ。
 ところが、〈天武紀〉下巻になると十二年の「」まで名前が出てこない。 武将としての才は国が平定されれば役立たず、活躍の場を失ったということであろうか。さらに、野心に溢れる人柄が敬遠されたことも想像に難くない。
《大意》
 佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)は、筑紫に到着しました。
 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)は符を承り、お答えしました。
――「筑紫は、もとより周辺の敵の難から守る国です。 その急峻な城、深い溝という臨海の守りは、 あに国内の敵に対するものでありましょうか〔反語〕。
 今、畏れ多くも命を受け入れて軍を発たせれば、すなわち国を空しくしましょう。 若し不意に外から突然の事が起れば、 一直線に社稷〔=国家〕を傾けましょう。 その後に百回〔皇大弟の〕臣を殺すと言ってみたところで、何の甲斐がありましょうか。
 これが敢て徳〔=道理〕に背くことになりましょうか。 すなわち、兵を動かさないのは、この理由によります。」
 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)の二子、 三野王(みののおおきみ)、 武家王(たけるべのおおきみ)が、 剣を帯びて傍らに立ち、退くことはありませんでした。
 そこで、男は剣の束(つか)を握りしめて進もうと思いましたが、却って殺されるかも知れないと恐れました。 よって事を成すことはできず、空しく帰りました。
 東方に向かった駅使磐鍬(いわすき)たちは、まさに不破に到着しようとしているところでした。 磐鍬一人は山中に兵がいることを疑い、 後からゆっくり行きました。
 その時、伏兵が山から出てきて、薬(くすり)たちの後ろを遮りました。 磐鍬は、これを見て薬たちが捕まったことを知り、 とって返して逃走し、辛うじて脱出できました。
 この時に当たり、 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)と 弟の吹負(ふけひ)は、 二人とも時か否かを見ていました。 よって病と称して倭の家に退きました。
 しかし、その嗣位に登る人は、 必ず吉野におわします大皇弟(だいこうてい)であると知りました。 これにより、馬来田が先ず天皇〔=大皇弟〕に〔菟田吾城で追いつき〕従いました。
 ただ、吹負(ふけひ)は留まり、 名を立てようと思い、一気に艱難(かんなん)を平定しようとしました。 すなわち一二の族、及び諸々の豪傑を招き、 僅かに数十人を得ました。


まとめ
 大伴連馬来田と弟の吹負は、はじめは家に籠ってどちらか勝てる方につこうとして形勢を見ていた。 多くの氏族も同様であっただろう。大海人皇子さえも、はじめはどちらかと言えば反朝廷勢力によって押し上げられた形で立ち上がった。 根本にあるのは皇子個人の野望というよりは、東国のいくつかの国がもつ近江王朝の存続を望まない強固な意志であった。
 伊勢・尾張・美濃で反朝廷感情が強かったのは、主に西国の朝鮮式山城の築城に重い負担を強制されたためと考えられる。 防人の例を見ると、はるばる東国から徴用されたのは、未開の地の族であるから気楽に動員できるという差別意識のためと思われる。 西国の朝鮮式山城の築城についても、畿内の人民にはあまり負担をかけないようにして東国から動員したと見られる。
 軍事への徴用は西国においては、地理的に唐・新羅による攻撃への備えの必要性が比較的理解されていたと思われる。 最前線の筑紫においては特にである。
 これを、近江朝廷は筑紫が朝廷の理解者であると受け止め、反乱の鎮圧に力を貸せと言った。 しかし、筑紫が軍事の負担を受け入れてきたのは国土の防衛という大局観によるものであって、 大友皇子に私的に好意を寄せたものでは決してなかった。大海人皇子が即位したとしても、それならそれでよかったのだろう。そこに近江朝廷の考え違いがあったと見る。
 吉備国も兵の動員を受け入れなかったと見られ、西国は全体として中央での権力争いを冷ややかに見ていたようである。



2024.12.08(sun) [28-05] 天武天皇上5 

13目次 【元年六月二十七日】
《高市皇子遣使於桑名郡家》
丁亥。
高市皇子
遣使於桑名郡家、
以奏言
「遠居御所行政不便。
宜御近處。」
遠居御所…〈北野本〔以下北〕遠-居御-所  サカリハムヘリ オホトヨリトヲサカリ  オハ  ス■■■近-處
〈内閣文庫本〔以下閣〕-居サカリハムヘリトヲサカリハムヘラハ御-所 オホトヨリ オハシマス  ムニ ヲオハシマス近-處
丁亥(ひのとゐ)〔二十七日〕
高市皇子(たけちのみこ)
使(つかひ)を[於]桑名郡家(くはなのこほりのみやけ)に遣(まだ)す。
以ちて奏言(まをせらく)
「御所(おほましますところ)に遠(とほ)く居(はべ)りて行政(まつりごと)不便(たやすからじ)。
宜(よろし)く近き処(ところ)に御(おほましま)すべし。」とまをせり。
卽日、
天皇留皇后而入不破。
比及郡家、
尾張國司守小子部連鉏鉤
率二萬衆歸之。
天皇卽美之
分其軍塞處々道也。
小子部連…〈北〉小子部チイサコヘノムラシ鉏-鉤 サヒチノ率二万イクサ歸之 ヨリマツル分其クハリテ
〈閣〉小子 チヒサコル 部連。 〈釈紀〉クハリテ
即日(このひ)に、
天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)を留(とど)めて[而]不破(ふは)に入(いでま)して、
郡家(こほりのみやけ)に及びませる比(ころ)に、
尾張(おはり)の国司守(くにのかみ)小子部連(ちひさこべのむらじ)鉏鉤(さひち)
二万(ふたほ)の衆(いくさびと)を率(ゐ)て帰之(よりまつる)。
天皇即ち之(こ)を美(ほ)めたまひて、
其軍(そのいくさ)を分(あ)かちて処々(ところところ)の道を塞(ふた)ぎしめたまひつ[也]。
到于野上、
高市皇子自和蹔參迎、
以便奏言
「昨夜
自近江朝驛使馳至。
因以伏兵而捕者
則書直藥
忍坂直大麻呂也。
自和蹔…〈北〉和蹔ワサミ 參迎ハイマ使伏兵 カクレ 何所 イツチカ
〈閣〉和-ワサミ 所名也 テ便 ニ テ テ伏-カクレ  ヲ
きそ…[名] 昨夜。
[于]野上(のがみ)に到りまして、
高市皇子(たけちのみこ)和蹔(わざみ)自(ゆ)参迎(まゐむか)へたまひて、
以ちて便(すなはち)奏言(まをしたまはく)
「昨夜(きそ)
近江(ちかつあふみ)の朝(みかど)自(よ)り駅使(はゆまつかひ)馳せ至りつ。
因(よ)りて伏(かくれ)兵(つはもの)を以ちて[而]捕(とら)へしめ者(ば)
則(すなはち)書直(ふみのあたひ)薬(くすり)
忍坂直(おさかのあたひ)大麻呂(おほまろ)なり[也]。
問何所往、
答曰
『爲所居吉野大皇弟而
遣發東國軍、
韋那公磐鍬之徒也。
然、磐鍬
見兵起乃逃還之。』」
答曰…〈北〉益曰 答也所-居 マシ 吉野大皇 ト
韋那公磐鍬…〈閣〉磐鍬之 ナリ[句]磐鍬
何所(いづく)にや往(ゆかむ)と問へば、
答へまつりて曰(まをししく)
『吉野に所居(おほまします)大皇弟(だいくわうてい)の為(ため)として[而]
遣(つか)はして東国(あづまのくに)の軍(いくさ)を発(た)たしめし、
韋那公(ゐなのきみ)磐鍬(いはすき)之(が)徒(ともがら)なり[也]。
然(しか)れども、磐鍬(いはすき)は
兵(つはもの)の起(たてる)を見(み)て乃(すはな)ち逃還之(にげかへりつ)。』とまをしき。」とまをしたまふ。
既而天皇謂高市皇子曰
「其近江朝左右大臣
及智謀群臣
共定議、
今朕無與計事者、
唯有幼少孺子耳。
奈之何。」
謂高市皇子…〈北〉天皇高市皇子謂曰其 イ本上ニアリ近江智-謀カシコキ幼少 イトキナキワカキコトモイトケナクワキキコトモ孺子奈-之-何 イカゝセ 
〈閣〉幼-小○イ无孺子奈-之イカゝセム -何
孺子…乳飲み子。転じて若僧。
既(すで)にして[而]天皇(すめらみこと)高市皇子(たけちのみこ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)ひしく
「其の近江(ちかつあふみ)が朝(みかど)の左(ひだり)右(みぎ)の大臣(おほまへつきみ)、
及びに智(さと)く謀(はか)る群臣(まへつきみたち)と
共に議(はかりごと)を定(さだ)む。
今朕(われ)に計事(はかりごと)に与(あづか)る者(もの)無くて、
唯(ただ)幼少(いとけなき)孺子(わかこ)を有(も)てる耳(のみ)。
奈之何(いかにかせむ)。」とのたまひき。
皇子、攘臂案劒奏言
「近江群臣、
雖多何敢逆天皇之靈哉。
天皇雖獨、
則臣高市
頼神祇之靈
請天皇之命、
引率諸將而征討。
豈有距乎。」
攘臂案剣…〈北〉カイハツクタゝムキ案剣霊哉 ミタヒヒ イフトモ獨則臣/ヒトゝシテナシナスト神祇之ミカウタ-討
〈閣〉カイハツリカイハイタゝムキヲミカケミタマシヒニヒトリマシマスヒトハシラマシマスト神祇之ミカトニ征-ウタム コト
〈釈紀〉イフトモ獨  ヒトリマシマスト私記説私記曰。案安斗智德日記。雖獨下有居字
…[動] ぬすむ。払いのける。(古訓) かすむ。ぬすむ。はらふ。さはる。
かいはさむ…[他]マ四 かかえるようにして挟む。カキハサムの音便〔カキ-は接頭語〕
…[名] 「国際電脳及異体字庫」「①胳膊。从肩到腕的〔肩から腕までの〕部分。 ③動物的前肢」。
ただむき…[名] ひじから手首までの部分。
かひな…[名] 肩から肘までの部分。
案剣…訓読は、二十六日是日(二)条「按剣」参照。
…[動] こばむ。へだてる。(古訓) ふせく。ふみはたかる。
たましひ…[名] 魂。
皇子(みこ)、臂(かひな)を攘(はら)ひて、剣(つるぎ)を案(おしねり、とりしばり)て奏言(まをさく)
「近江(ちかつあふみ)が群臣(まへつきみたち)、
多(おほ)かれ雖(ど)も何(なに)そ敢へて天皇(すめらみこと)之(が)霊(みたましひ)にか逆(さか)ふ[哉]。
天皇(すめらみこと)独(ひとり)ましませ雖(ど)も、
則(すなはち)臣(やつこ)高市(たけち)
神祇(あまつかみくにつかみ)之(が)霊(みたまのふゆ)を頼(たよ)りて
天皇(すめらみこと)之(が)命(おほせごと)を請(こ)ひまつりて、
諸(もろもろの)将(いくさのかみ)を引率(ひきゐ)て[而]征討(う)たむ。
豈(あに)距(こばむこと)や有らむ[乎]。」
爰天皇譽之、
携手撫背曰
「愼不可怠。」
撫背…〈北〉撫背カイナテ 。 〈閣〉トリテ ヲカイナテゝ ヲ
爰(ここに)天皇(すめらみこと)之(こ)を誉(ほ)めたまひて、
手を携(たづさ)へて背(せ)を撫(かきな)でて曰(のたまはく)
「慎不可怠(なおこたりそゆめ)。」とのたまふ。
因賜鞍馬、悉授軍事。
皇子則還和蹔。
天皇於茲、
行宮興野上而居焉。
賜鞍馬…〈兼右本〉クラツケル-馬[ヲ]
和蹔…〈北〉和蹔ワサミ  カリ
行宮…〈兼右本〉行宮[ヲ]野上[ニ]
鞍馬…鞍をつけた馬。
因(よ)りて鞍馬(くらま)を賜(たま)ひて、悉(ことごと)に軍事(いくさのまつりごと)を授(さづ)けり。
皇子(みこ)則(すなは)ち和蹔(わざみ)に還(かへ)りつ。
天皇(すめらみこと)於茲(ここに)、
行宮(かりみや)を野上(のがみ)に興(おこ)して[而]居(おほまします)[焉]。
此夜、雷電雨甚。
天皇祈之曰、
「天神地祇扶朕者雷雨息矣」
言訖卽雷雨止之。
雷電雨甚…〈北〉 フル カミ
〈閣〉フルコト[句]則イカミ  コト ム コト
雷電…かみなりといなずま。
かむとけ…[名] 落雷。カミトケ・カムトキ・カミトキとも。
此夜(こぞ)、雷電(かむとけ)雨(あめふること)甚(はなはだ)し。
天皇(すめらみこと)祈[之](いのりたまひて)曰(のたまはく)、
「天神地祇(あまつかみくにつかみ)朕(われ)を扶(たす)けむとせ者(ば)雷(かむとけ)雨(あめふり)息(や)まむ[矣]」
と言ひ訖(を)へて即(すなはち)雷(かむとけ)雨(あめ)止[之](や)みつ。
《高市皇子》
高市皇子  鹿深越えして合流。去る26日に不破に軍監として派遣された。
《留皇后》
 二十四日是日条で見たように、鸕野讃良皇女は天下獲りに積極的であった。 皇女はここでも同行を希望したのではないだろうか。
 しかし、ことが成就するかどうかは未だ見通せない。 鸕野讃良皇女桑名郡家に留め置いたのは、自らが亡びた場合は引き継いで戦えということであろう。
 後に〈天武〉が崩じたときに自ら即位したのは、皇女の心にこのときの言葉が残っていたように感じられる。
《不破郡家》
「推定美濃国の国府と郡家の位置と規模」
(『日本歴史地理序説』p.27)を地理院地図に重ねた。条坊のような道は同書が唱えた説。
 「不破。比及郡家」という書き方から見れば、「郡家」は不破郡家である。 それでは、その所在地はどこか。
 『日本歴史地理序説』〔藤岡謙二;塙書房1969〕は、 「三.古代の政治地域と国府、郡家と関所」の章で 「〔垂井町宮代にある〕小字「政所」あたりが府中での国衙にあたるべき〔不破郡家の〕箇所であろう」と述べる。
 同書は「府中部落を国府に比定する筆者はこの宮代部落を郡家(郡衙)に比定したい」、 しかし「ところが郡家とした場合、不破郡のそれのみが国府と同じ規模をもつ八町四方の大きなものである」 ことには戸惑いを見せ、「関ヶ原の関所へ通じる軍団〔の駐屯地〕」あるいは「不破の行宮が置かれた」からという「おくそく」があるがこれについては「将来のより積極的な資料の発見をまちたい」と述べる(pp.138~145)。
 同書は府中地区〔美濃国府を推定〕、および宮代地区〔不破郡家を推定〕に 「碁磐目〔ママ。碁盤目か〕形地割」を見出している(右図)。後者については「PQ基準線」が「朱雀大路ともいうべきもの」で、 「PQ線に直角な街路が今もなお残存しており〔実線で表示〕、 左京区域にあたる部分〔東側〕において…碁磐目系地割がより顕著」だといい、一辺八町の格子状の街路を見出している。 しかし、一町〔109m〕間隔の格子は農地における一般的な条里であって、しばしば境界が道路となって残る。これをもって都の条坊に類すると見做すのは早計であろう。 単なる条里に過ぎないのならば、国府と同等の条坊が一介の郡にあるという理解が困難な状況は解消するだろう。
 さて、宮代地区の小字「大外道」の南には式内「大領神社」がある〔比定社は岐阜県不破郡宮城765〕大領神社大領宮勝みやのすぐり木実このみを祭神とする。 大領は郡の四等官制の首席であるから、宮代地区に郡家があった可能性は濃厚である。
 大領神社については、その由緒を述べた『不破家寿麻呂家譜』(以下〈家譜〉)の内容の妥当性について、資料[46]で詳細に検討した。
《小子部連鉏鉤》
小子部連鉏鉤 小子部連は、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする(《少子部連》)。 〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る。鉏鉤は八月までに山に隠れて自死。
大領神社 宮代(不破郡家範囲) 伝「野上行宮跡」 大字野上(野上郷;野上行宮範囲) 関ヶ原(和蹔原和蹔行宮範囲) 不破関
《野上》
 〈倭名類聚抄〉{美濃国・不破郡・野上郷}。 『大日本地名辞書』(中巻p.2143)は、 「今岩手村是なり、大字野上存ず、関ヶ原の東、府中垂井の西とす」と述べる。 「岩手村」の範囲は江戸時代の「野上村」を含み、1954年まで現関ヶ原町と垂井町の境界にまたがって存在した。
 一方「野上高市皇子自和蹔参迎」という文から見て、それぞれの地は〔後の〕不破関和蹔野上〔行宮〕不破郡家 の順に並び、それぞれある程度の距離を置いたことが読み取れる。
 これらのことから〈天武紀上〉のいう「野上」は、野上村〔現関ヶ原町(大字)野上〕の位置と見られる(右図)。
 一方〈家譜〉(資料[46])では、 大領神社のある垂井町宮代地区を「野上郷」と呼ぶ(右図)。その位置は、野上行宮伝承地〔関ヶ原町(大字)野上、右図など〕とは離れている。 この折り合いをつけるには、野上は野上村から宮代まで含む広域の地名であった」、もしくは宮代を野上郡と呼ぶのは〈家譜〉による潤色」のどちらかとしなければならない。
 この問題について『新修垂井町史』〔垂井町;1996〕は、「律令制下の50戸一里制は戸が単位であって、必ずしも自然集落を単位と考える必要はない。 正倉院戸籍の中には住所が他国に及ぶ戸口を含む擬制戸までが存在する」と述べ、説を推している(p.115)。 一郷の推定人口については、「奈良朝時代民政経済の数的研究」〔沢田吾一;富山房1927〕(p.144)に約1400人という試算があり、 標準の五十戸の場合、一戸平均27人となる。この27人×50戸が関ヶ原町野上から垂井町桃配山方面までに分散していくつかの小さな集落を作り、同族意識のもとにひとつの「野上郷」を構成していたとする考えもあながち否定できない。
 しかし、〈家譜〉には不破郡の成立を壬申の乱の後とする容易には受け入れ難い記述がある。宮代を「野上郷」とするのも〈天武〉天皇が行宮を置いた有名な地名に寄せて潤色したもので、大領宮勝木実の名を高めるための作為のように思える。よって、本サイトは今のところ説に傾いている。
《和蹔》
 万葉集に(万)0199題詞高市皇子尊城上〔現広陵町〕殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌。」として、「真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 まきたつ ふはやまこえて こまつるぎ わざみがはらの かりみやに」と詠まれる。
 次の段には「和蹔」に、「-校軍事〔このとき軍勢を謁見したか〕とあり、また歌には「和射見我」とあるから、開けた場所であろう。 その「行宮」には高市皇子が滞在した。「不破山越えて」は、畿内側から行った場合のことであるのは明らかである。
 『大日本地名辞書』(中巻p.2139)は、 この万葉歌は「柿本人麻呂が高市皇子の壬申乱の功業を述べし句」で、 「和射見我ワザミガハラは後の関原なり」とする。 『関ヶ原町史』〔関ヶ原町1990〕も、 「その位置は、後の不破の関の東方にひろがる原野、すなわちいわゆる関ヶ原とするのが定説である」という(p.132)。
 このように、諸説は和蹔=関ヶ原〔合戦の地〕とする見方で一致している。 
《以伏兵而捕者》
 「伏兵」、すなわち予め配置された伏兵が忍坂直大麻呂らを捕えた。 使役動詞は使われていないが、使役の構文〔捕へしむ〕と見るべきか。
 「」は、動詞「」が(ひと)を連体修飾したもの、あるいは接続助詞「捕えてみれ」のどちらにも読める。
 ここで、「捕者」を含む適当な漢文を作って自動翻訳にかけてみると、英語でも日本語でも捕者は捕える側の人を指す。古文でもを捕えられた側を表すことには問題があろう。 もし、「」が人なら「為伏兵所捕之者」などの構文が考えられる。このように考えると、「」は接続助詞とするのが安全かも知れない。
《書直薬》
書直薬 以後見えず。
忍坂直大麻呂 以後見えず。
韋那公磐鍬 以後見えず。
 六月二十六日是日(二)条にこの段と同内容がある。 ただし、そこには「忍坂直大麻呂」の名前が省略されていた。
《便奏言》
 副使「便」はスナハチと訓読するが、本来は容易にとか都合よくという意味がある。ここでは大海人皇子に再会した機会に、ちょうどよかったので直近の出来事を話題にしたと見られる。
《既而》
 「既而」は「その報告を聞き終えて」の意であろう。 スデニシテには軽く聞き流したニュアンスが感じられ、その出来事自体よりもむしろ各地に同時に多くの使者を派遣できで近江朝廷の人材の豊さの方に目が向いたようである。
《近江朝左右大臣及智謀群臣》
 具体的には〈天智〉十年正月条に 蘇我赤兄臣左大臣中臣金連右大臣蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣御史大夫(大納言)にしたとある。 この五人は、同十年十一月丙辰で大友皇子に忠誠を誓った。
《朕》
 この時点で「」を用いるのはまだ早く、書紀による潤色である。 この段の執筆に用いた資料があったとすればすれば、そこでの一人称は()であっただろう。
《唯有幼少孺子耳》
 一見弱音を吐いているように見えるが、実際には高市皇子に対して 近江朝の大臣や群臣を凌駕するはたらきをせよと叱咤激励したのである。 「幼少孺子」には当然高市皇子も含まれるから、皇子をも侮辱する物言いになっている。
 この挑発に対して高市皇子が返した言葉は、大海人皇子の期待を上回る堂々としたものだった。よって上機嫌になって褒めたのである。
《攘臂案剣》
 は肘から上の部分なので、古訓のタダムキ〔肘から下〕とは部位が異なる。 ただ、ここでは「案剣〔剣の束を握る〕して、両肘を左右にぐっと張り出す勇ましい姿を表現したと見られ、 タダムキで特に問題はない。カヒナよりも語調が強い語を選んだのであろう。
 このシーンは、文学的である。それでも、この時に高市皇子が大将軍として反朝廷軍の柱になったことを示すものといえよう。
《鞍馬》
 京都府の地名に「鞍馬〔クラマ〕」がある。 鞍馬をクラマと訓んだなるべく古い用例を探すと、『後撰和歌集』〔村上天皇(在位946~967)勅撰〕巻十六(1140)「昔よりくらまの山といひけるはわかこと人もよるやこえけん」が見える。 『鞍馬蓋寺縁起』によると、鞍馬寺の起源は宝亀元年〔770〕と伝わる(鞍馬寺公式/歴史)。
 クラマは、クラ-ウマの母音融合であるから、この語が上代から存在したことは十分考えられる。 〈時代別上代〉は、たまたま上代の文献に用例がなかったから取り上げなかったと考えられる。
 鞍馬に乗せたのは鞍だけではなく、儀式用の荘馬〔かざりうま〕(〈推古〉十八年)であろう。 その姿の例は、〈雄略〉九年《鞍几後橋》で見た。 ただまだ即位前で、かつ戦乱のさなかであるから、これよりは簡略かと思われる。
「野上行宮跡」案内板〔関ヶ原町〕 野上行宮伝承地
《行宮興野上
 「行宮」は、「」の受事主語〔本来目的語の位置に置かれるべき語が主語となる〕ということでよいであろう。 「野上」は「於野上」の意味であるが、目的語のように扱われている。
 「」は普通ならタテルと訓読するであろうが、〈続紀〉の尾治宿祢大隅が私邸を掃き清めて提供した記事(次項)によるなら、オコスと訓読することになろう。
《野上行宮》
 国道21号線「野上」交差点から南西200mに、「野上行宮跡」の案内板〔関ヶ原町が設置;以下〈案内板〉〕がある。 そこには、 「この地は高楼にして、眺望良く、朝鮮式土器も出土しています。乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたというここ別通称寺社屋敷が、行宮跡地と伝えられています」などとある。
 その出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926;以下〈郡史〉〕に内容が重なる記述があった。
 いわく、「野上の中央長者屋敷址を擬する者あれど、これ亦拠り所はなかるべし。慶長年間の宮橋文書によれば、行宮遺木の廃巧を惜み、行基来りて南形六坊を建立せりと記し、 慶長十三年伊富岐神社古図に依れば、現野上村南墓地付近を社寺屋敷として記せり。此の附近は高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見ることあれば或はこの地は行宮址ならんと思はるゝも猶後考を待つべきなり」という(p.114)。
 文中の「慶長年間の宮橋文書」は未だ確認できていない。 しかし「古図」については、「伊富岐神社古絵図〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。
 さらに〈案内板〉をこの位置に立てた根拠を知ろうとしたが、今のところその資料は見つけられずにいる。ただ、現地に行ってみると、〈案内板〉付近からの眺望は『新修垂井町史』(前出)掲載の写真(p.127)に似ている。 以上については、資料[79]で詳述している。
 一方『大日本地名辞書』は「野上行宮址:今詳ならず。諸書に桃配山を以て即行宮址と為すは、慶長の大捷と壬申の乱を相混する者にして、桃配は野戦の陣地たるべきも、決して第宅の形勢にあらず、二者分別を要す〔桃配山を野上行宮跡とするのは関ヶ原の役と壬申の乱を混同したもので、邸宅のあるような場所ではないから、両者は区別すべきである〕と述べる(中巻p.2143)。 これが冷静な見方であろう。
 さらに、野上行宮に関しては〈続紀〉に次の記事がある。
〈続紀〉天平宝字元年〔757〕十二月壬子の一部
従五位上尾治宿祢大隅壬申年功田三十町。淡海朝廷諒陰※1)之際、義興警蹕※2)。潜出関東※3)。 于時、大隅参迎奉導。掃-清私第遂作行宮。供助軍資。其功実重。准大不及比中有余。依令上功※4)。合伝三世尾治宿祢大隅の壬申の功田三十町:天智天皇の喪に際して義によって立ち、密かに東国に出た。 このとき大隅がお迎えし、私邸を掃き清めて行宮とし、助けの軍資を供した。その功はまことに重く偉大さは他に准えず比べて余りある。よって上功として三代継がせる。〕
※1)…天子の喪。※2)…先払い。※3)…ここでは、鈴鹿関・不破関以東。※4)…壬申の功のランク。上功・中功・下功。
 ここには、尾治宿祢大隅が大海人皇子のために私邸を提供したとある。冠位は「従五位上」だから、養老令〔718〕の時点では生存していたことになる(〈続紀〉霊亀二年参照)。 これを見れば、〈持統紀〉十年三月の「己酉。以直広肆尾張宿祢大隅。并賜水田四十町」は、壬申の功によるものであったことがわかる。
 『大日本地名辞書』は「後世に謂ゆる長者屋敷などと云へるが、即行宮にもなりにける尾治宿祢の邸宅にあらずや〔尾治宿祢の邸宅は、そのまま行宮として使用できるような立派なものであろう〕」と述べる(同前)。 これについて『関ヶ原町史』は「野上の住居区のうち良好なところにあったとする考えと思われる」と述べる(p.134)。 この「住居区」は、中山道沿いの家並みを指すと思われる。
 大海人皇子が一時の居所として私邸を借りたのは自然な成り行きと思われる。 したがって野上行宮は官司の私邸そのものであり、各地で行宮と推定される遺跡〔例えば讃岐の石湯行宮(〈斉明〉七年)〕ほどの規模とは考えられない。 すると、たまたま大きめの私邸の跡が見つかったとしても、それが野上行宮であったと判断することはできないであろう。 だから、遺跡によって野上行宮の位置を特定することは不可能だと思われる。
 行基の「南方六坊」跡とされる〈案内板〉のところには石垣が残り、あるいは古寺跡とも思ったが何とも言えない。 どちらにせよ、行宮の朽ち果てた様を惜しんで廃材を用いて建てたというのは、単なる伝説であろう。 しかし、このような伝説が生まれたのは、この地域に野上行宮が存在したという記憶が地域住民に強く残っていた証拠である。 結果的に〈天武〉天皇となった人物の大本営であったことが伝説を強固にしたのであろうが、 野上の地の人々の心に刻まれた記憶の深さは、大海人皇子にまつわる他の地域に比べても際立っていると感じられる。 だから、現在の野上地域のどこかに野上行宮が置かれたのは確実であろう。
 さて、この地域にある桃配山は、家康の最初陣跡とされる。 「桃配山」という名称は「大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話」によるが、 「その根拠については未だ謎」という(関ヶ原町歴史民俗学習館/壬申の乱)。
 この伝説が記された案内板について、資料[78]で検討したが、『大日本地名辞書』には全く触れられていないことなので、ことによると明治以後に誰かが創作したものかも知れない。 仮に1000年ぐらい昔から伝わった話だとすれば、やはり野上行宮について刻まれた記憶の深さを表すものとなる。
 なお、桑名郡からここまでの経路は、養老山脈および南宮山の東側の街道と考えられる。 これについて『関ヶ原町史』は「揖斐川右岸にそって…養老町を経、南宮山東麓を通って、不破郡垂井町に至る道」と述べる。
《雷電雨甚》
 雷雨になったから、神祇が勝利を賜るなら止むと誓(うけひ)したところ、すぐに止んだという。 偶然こういう結果になったとしても不思議はないが、史実か伝説かは分からない。 何れにしても、この段は〈天武〉の崇高化と言えよう。
《大意》
 二十七日、 高市皇子(たけちのみこ)は 使者を桑名の郡家に派遣して、 「御身のいらっしゃるところから遠く離れておりますので、政を行うのに不便をしております。 よろしければ近い所にいてください。」と申し上げました。
 その日のうちに、 天皇(すめらみこと)は皇后(おほきさき)を桑名郡家に留めて不破にお入りになりました。 この頃、〔不破の〕郡家に到着したところで、 尾張の国守(くにのかみ)小子部連(ちいさこべのむらじ)鉏鉤(さいち)が 二万の軍勢を率いて帰順しました。
 天皇はそれをお褒めになり、 その軍を分けて各所の道を塞がせました。
 野上(のがみ)に到着され、 高市皇子(たけちのみこ)は和蹔(わざみ)より参上してお迎えして、 よってこの機会に奏上しました。
――「昨夜、 近江朝廷から駅使が馳せ参りました。 それを伏兵が捕えると、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)と 忍坂直(おさかのあたい)大麻呂(おおまろ)でした。
 どこへ行くのかと問うたところ、 『吉野にお住いの大皇弟に備えるために、 東国の軍を興させようとして派遣された、 韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)に同行した者です。 しかし、磐鍬は 兵が現れたのを見て直ちに逃げ還りました。』と答えました。」
 これを聞き終え、天皇(すめらみこと)は高市皇子(たけちのみこ)に仰りました。
――「その近江朝廷は、左右の大臣、 さらに智謀の群臣と 共に議を定めている。 今、朕に計略に与る者は無く、 ただ幼少の孺子がいるのみである。 どうしたものであろうか。」
 高市皇子は、上腕を払うようにつっぱり、剣を案じて〔=束に手をかけて〕奏言しました。
――「近江の群臣の 数は多いが、どうして敢えて天皇〔=大海人皇子〕の魂に逆らえましょうか〔反語〕。 天皇はお一人だと仰りますが、 臣高市は、 神祇の霊力を頼みとして、 天皇が私に命令されるよう自らお願いし、 諸将を率いて征討してみせます。 〔近江朝廷はこれに〕あに抵抗することができましょうか〔反語〕。」
 この言葉を聞き、天皇(すめらみこと)はお誉めになり、 手を取り背中を摩(さす)って 「ゆめゆめ怠ることのないように。」と仰りました。 よって鞍馬を賜り、悉く軍事を授けました。 高市皇子は、こうして和蹔(わざみ)に帰りました。 天皇(すめらみこと)は、そこで 行宮を野上に興して滞在されました。
 その夜、電雨が甚だしく、 天皇(すめらみこと)は 「天神地祇が、朕をお扶(たす)になるのなら、雷雨は止むであろう」と祈念されました。 そう言い終えてすぐに、雷雨は止みました。


14目次 【元年六月二十八日~七月一日】
《往於和蹔檢校軍事》
戊子。
天皇往於和蹔、
檢校軍事而還。
和蹔…〈北〉和-蹔 ワサミ 。 〈閣〉檢- テ ノ ヲ。 〈兼右本〉 タマフ於和蹔[ニ]
戊子(つちのえね)〔二十八日〕
天皇(すめらみこと)[於]和蹔(わざみ)に往(ゆ)きまして、
軍事(いくさのこと)を検校(かむが)へて[而]還(かへ)ります。
己丑。
天皇往和蹔、
命高市皇子號令軍衆。
天皇亦還于野上而居之。
和蹔…〈北〉和蹔ワサミ 号令のりこと。 〈兼右本〉-令ノリコチ
己丑(つちのとうし)〔二十九日〕
天皇和蹔に往きまして、
高市皇子(たけちのみこ)に命(おほ)して軍衆(いくさびと)に号令(のりこと)せしめたまふ。
天皇亦(また)[于]野上(のがみ)に還(かへ)りまして[而]居之(おほまします)。
是日。
大伴連吹負
密與留守司坂上直熊毛議之、
謂一二漢直等曰
「我詐稱高市皇子
率數十騎、
自飛鳥寺北路出之臨營。
乃汝內應之。」
吹負…〈北〉吹-負フケヒ 密与宮 モリ坂上直サカノウヘノアタヒ クマイヒミノリ/ナノニ数十騎自 ムマイクサ乃汝内應ナカタチ 
〈閣〉 テイヒマノリテ内-應ナカタチナカタチ 。 〈兼右本〉ナノリイヒアマタ-十[ヲ]ムマイクサ
いほり…[名] 〈倭名類聚抄〉「:日本紀云【和名伊保利】宮営也」。
なかだち…[名] 特に結婚の仲立ちに使われることが多い。
是(この)日。
大伴連(おほとものむらじ)吹負(ふけひ)
密(ひそかに)留守司(るすのつかさ)坂上直(さかがみのあたひ)熊毛(くまけ)と与(とも)に議之(はか)りて、
一二(ひとりふたり)の漢直(あやのあたひ)等(ども)に謂(い)ひて曰(い)はく
「我(われ)高市皇子と詐(あざむ)き称(なの)りて
数十騎(あまたとをうま)を率(ゐ)て、
飛鳥寺(あすかでら)の北の路(みち)自(ゆ)出之(いで)て営(いほり)に臨(のぞ)まむ。
乃(すなはち)汝(いまし)は内(うち)に応之(こた)へよ。」といふ。
既而繕兵於百濟家、
自南門出之。

秦造熊令〔令秦造熊〕
犢鼻而乘馬馳之、
俾唱於寺西營中曰
「高市皇子自不破至。
軍衆多從。」
既而繕兵…〈北〉ツクロヒハタノミヤツコクマ 犢-鼻 タフサキ。 〈閣〉秦也 ニイハ
〈兼右本〉犢-鼻タフサキシ[テ]ノセ一レ[ニ][テ]イハイ作トナ多- イヌ ヘリ
繕兵…〈汉典〉「①整-治武備。 ①供-給軍隊食糧。繕、通"膳"。
つくろふ…[他]ハ四 作り整える。ツクラフ(ツクルの未然形+四段動詞語尾フ)の転。
たふさき…[名] 〈時代別上代〉「猿股、または、今の越中ふんどしのようなものか」。
既(すで)にして[而]兵(つはもの)を[於]百済(くたら)の家(いへ)に繕(つくろ)ひて、
南門自(よ)り出之(いで)てあり。
先(さき)に
秦造(はたのみやつこ)熊(くま)をして
犢鼻(たぶさき)にて[而]馬に乗せて馳[之](は)せ令(し)めて、
[於]寺の西の営(いほり)の中(うち)に唱(い)は俾(し)めて曰はく
「高市皇子(たけちのみこ)不破(ふは)自(よ)り至(いでま)す。
軍衆(いくさびと)多(さは)に従へり。」といはしむ。
爰留守司高坂王
及興兵使者穗積臣百足等、
據飛鳥寺西槻下、爲營。
唯百足、居小墾田兵庫、
運兵於近江。
時營中軍衆
聞熊叫聲、
悉散走。
留守司…〈北〉留守[切]高イ坂王近○時。 〈閣〉 ニハコフ ヲ テ カ ヲ ニ
〈兼右本〉留-守トゝマリ マモル-司百足モゝタル西-槻モト[ニ][テ]ツクル兵-庫ヤ クラ[ニ][テ]ハコフ叫- ヨハフ毛イナ [ヲ][テ][ニ]散-走アラケ ニケヌ
あかつ…[他]タ四 まき散らす。
あかる…[自]ラ下二 分散する。
爰(ここに)留守司(るすのつかさ)高坂王(たかさかのおほきみ)
及びに兵(つはもの)を興(おこ)す使者(つかひ)穗積臣(ほづみのおみ)百足(ももたる)等(ども)、
飛鳥寺(あすかでら)の西の槻(つきのき)の下(もと)に拠(よ)りて、営(いほり)を為(つく)れり。
唯(ただ)百足(ももたる)は、小墾田(をはりた)の兵庫(つはものくら)に居(はべ、を)りて、
兵(つはもの)を[於]近江(ちかつあふみ)に運びてあり。
時に営(いほり)の中の軍衆(いくさびと)
熊(くま)の叫ぶ声(こゑ)を聞きて、
悉(ことごと)に散(あ)かれ走(に)げつ。
《検校軍事》
 勢ぞろいした軍勢を謁見したかと直感したが、《別将及軍監》項において飛鳥寺西軍営で軍隊の組織化が実行されるところを見ると、 和蹔でも軍組織の機構と運営を検討したと見るべきか。 文字通り検校したと読めばよさそうである。
 但し、その際和蹔原に軍を集合整列させての謁見も、当然行われたであろう。
《命高市皇子号令軍衆》
 これも、軍勢を並べてその眼前で高らかに任命したのだろう。
《大伴連吹負》
〈続紀〉霊亀二年〔716〕
夏四月癸丑。 詔。壬申年功臣、
贈少紫村国連小依息従六位下志我麻呂。
贈大紫星川臣麻呂息従七位上黒麻呂。
贈大錦下坂上直熊毛息正六位下宗大。
贈小錦上置始連宇佐伎息正八位下虫麻呂。
贈小錦下文直成覚息従七位上古麻呂。
贈直大壱文忌寸知徳息従七位上塩麻呂。
贈直大壱丸部臣君手息従六位上大石。
贈正四位上文忌寸禰麻呂息正七位下馬養。
贈正四位下黄文連大伴息従七位上粳麻呂。
贈従五位上尾張宿祢大隅息正八位下稲置等一十人。
田各有差。
詔したまふ。壬申年の功臣(いさをしおみ)、
贈少紫位村国連小依の息〔=息子〕従六位下志我麻呂
…等(ら)十人に田を賜ふ。
各(おのおの)差(しな)有り。
贈~…薨・卒した後に賜った冠位。
 これにより卒した時期が知れる。
少紫・大錦・小錦…〈天智〉三年〔664〕制定。
直大一…〈天武〉十四年〔686〕制定。
正四位・従五位…養老令。
大伴連吹負 大海人皇子に味方して名を上げようとする野心から、精兵を募集して数十人を得た。
坂上直熊毛  坂上直は、倭漢やまとのあやの宗家(〈推古〉二十六年《倭漢坂上直》)。 倭漢直は〈天武〉十一年に連姓を賜り、続いて同十三年には倭文連〔=倭漢連〕忌寸姓を賜る。坂上直も、恐らくそこに含まれる。 〈続紀〉霊亀二年〔716〕に、坂上直熊毛の子、「宗大」が田を賜った記事がある()。 熊毛は「」姓のままだから、卒したのは〈天武〉十一年以前と見られる。
〔倭〕漢直  漢直文直の別表記で「倭漢直」諸族の総称。坂上直はその宗家(《諸直等》)。
《一二漢直》
 留守司高坂王らの配下の近江朝廷側の軍勢の中には、漢直に属する者が含まれていたようである
 「漢直」は、個別氏族のうちの文直を指したか、あるいはグループとしての「坂上大宿祢同祖」諸氏の全体を指したものと考えられる。 ただ「一二の」とあるから、後者であろう。 その構成は下の《諸直等》で見る。
 そのうち1~2名〔または1~2族〕に、吹負が高市皇子を装って攻め込んだときに内応するよう工作した。
《率数十騎》
 二十六日是日(二)条で吹負の許に集まった数十騎と見られる。 そこでは「」(わずか)と表現されたが、少数精鋭だったのだろう。
《秦造熊》
秦造熊  秦造は、応神段(5)(第152回)参照。 はここだけ。
《秦造熊令犢鼻》
 構文からは、秦造熊犢鼻〔たふさき〕という名前の人に命じて馬に乗せて告げさせたとしか読めない。 しかし、犢鼻を名前と見るのは無理があり、また「」が発した叫び声が軍営に響き渡ったというから、犢鼻一丁の姿で馬で駆け巡ったのは秦造熊自身である。
 秦造熊は被命令者であるから、「令秦造熊」としなければならない。目的語を主語の位置におく「受事主語」という構文があるにはあるが、使役動詞の場合は命令者と区別がつかなくなるから用いないと考えられる。 よって「秦造熊令」は和習で、正しくは「令秦造熊著犢鼻乗馬而馳之」などとすべきと考える。
 なお、その命令主は、文脈から見て吹負あるいは坂上直熊毛だと考えられる。
 姿は土俵入りを思わせる
福島県原山1号墳/島崎村蔵
 四つに組む姿か
和歌山県井辺八幡山古墳/和歌山市立博物館蔵
『埴輪を知ると古代日本人が見えてくる』
〔塚田良道;洋泉社2015〕
《令秦造熊》
 密かに内通させようとした相手は「一二漢直」であった。ところが「秦造」は「倭漢直」とは別族である。 しかし、〈応神〉段(第152回)では、 阿知吉士〔東漢の祖〕和邇吉師〔西文の祖〕秦造之祖三者の来帰がワンセットとして書かれている。
 これは、記が書かれた時点で三者の間に同族に近い仲間意識があったことが反映したと見られる。 よって、「一ニ漢直」の漢直には、事実上秦造も含まれていたと見てよいと思われる。 さらに、漢直()がついていないのは、西文諸族まで含んでいたからとも考えられる。
《犢鼻》
 犢鼻姿で馬に乗せて駆け回らせたというが、そのような格好をさせた理由は何だろう。 ある説では「熊はいわゆる相撲すまいの儀に奉仕する力士であったかも」という (『壬申の乱』〔遠山美都男;中公新書(中央公論新社1996)、以下〈遠山/壬申の乱〉〕)。 力士埴輪(右図)を見ると力士の犢鼻姿の伝統は古墳時代に遡るから、飛鳥時代の力士もその姿であろう。
 仮に力士だとして、軍営に置いていた目的は儀礼のためかそれとも戦力であろうか。 力士であろうがなかろうが、特異な格好をさせて注目させようとしたものであろう。
《高坂王》
高坂王  倭京〔飛鳥宮〕留守司を務めていた。かつて大海人皇子が駅鈴を要請したときには発行を拒んだが、ここにきて遂に大海人皇子側につく。 〈天武〉十二年六月壬戌に「〔諸王〕三位高坂王薨」。
《穗積臣百足》
穂積臣百足 近江朝廷によって倭京に派遣された(二十六日是日条)。
《飛鳥寺北路》
 「飛鳥寺出之臨」とある。百済家飛鳥寺から見て北方にあったのだろう。
《爰留守司高坂王》
 「」は、時間を遡って記述していることを示している。 「是日大伴連吹負」段の「自飛鳥寺北路出之臨営」は、既にここで書かれた状態になっているからである。
 なお、高坂王はこの時点では、まだ近江朝廷側である。
 「営中軍衆…」から、現時点に戻る。
《百済家》
飛鳥宮跡(後飛鳥岡本宮など) 飛鳥寺西方遺跡 飛鳥寺雷丘東方遺跡(小墾田宮跡) 兵庫田(小字) 百済/西百済/東百済(小字) 米川(百済川か) 吉備池廃寺(百済大寺が有力) 戒重春日神社(百済大井宮の可能性) 10鳥坂神社(大伴氏本貫)
 〈集解〉「按大和志広瀬郡百済村」、〈通証〉「広瀬郡百済村」とし、 現代地名は奈良県北葛城郡広陵町大字百済百済寺がある。 『五畿内志』にも「大和国之五:広瀬郡 [村里] 百済【属邑一】」、 「百済寺:於百済川側九重塔及び大寺」。 しかし、「百済家」広陵郡説は、ほぼ否定されるに至った。
 本サイトによるこれまでの考察を振り返ると、〈敏達〉天皇の百済大井宮の位置については摂津国百済郡を除外し、 広瀬郡百済の可能性も薄れ、吉備池廃寺付近を有力とした(第240回【百済大井宮】)。
 〈舒明〉十二年の百済大寺については、1997年以後の発掘調査により、吉備池廃寺が有力となり、広瀬郡説はほぼ否定されるに至った (〈舒明〉十一年【百済川側九重塔】項)。
 ここで、さらに『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』〔木下正史;角川書店2005〕を見ると、 「塔基壇規模や心礎の抜き取り穴は…九重の巨塔のもの」、 その時期は「軒丸瓦と軒平瓦の組合せから、吉備池廃寺の創建が、630年代後半から640年代初め頃と推定」される。
 「回廊の礎石…金堂や塔の基壇上に礎石がまったく残っていない」、それは「それらが抜き取られて、他に運ばれたから」で、 「七世紀後半頃、他の場所に移転したことを示す発掘成果もあった」という。
 これらの時期は〈舒明〉十一年〔639〕の「百済大寺」の創建、 〈天武〉二年〔673〕の高市大寺への移転に符合すると述べる(pp.193~197)。
 そして「現在の広陵町百済の地に比定する説」については、「〔広陵町の〕百済の地名が古代まで遡ることを示す資料がない…〔広陵町百済の〕付近から古代の瓦が発見されず…考古学資料を欠く」と述べて否定する(p.126~127)。
 一方「百済大寺の」名については、この一帯の地名は磐余なので、「「百済川」〔宮川と推定〕のほとりに営まれたことに因んでつけられた呼称」と見ている(pp.197~198)。
 しかし単に川だけに百済の名が付いていたというのも不自然なので、本サイトは百済大寺のある地名そのものが「百済」だったと考えている。 これまでに「敏達天皇の百済大井宮は、戒重村の他田宮と同一または近傍にあった可能性がある」、 また藤原宮跡のすぐ南に「小字名「百済〔・西百済・東百済〕」があり、大伴吹負の「百済家」も天香久山周辺であろう」として、 「〔藤原宮から吉備池廃寺までの〕天香具山を含む一帯が百済と呼ばれた可能性」が高いと見た (〈舒明〉十一年【百済川側九重塔】項)。
 百済家の位置については、〈遠山/壬申の乱〉は「小字の百済・東百済・西百済にあてる説がある」と述べるが、 小字にピンポイントに限定されず、吉備池廃寺付近まで広がると思われる。 ただ、大伴氏本貫の鳥坂神社付近はさすがに遠すぎる(〈宣化〉四年)。 よって「藤原宮~吉備池廃寺」地域のどこかにあった百済家は、大伴氏の別業なりどころであろう。 その範囲内のどこであったとしても飛鳥寺よりは北だから、「百済家の南門から出て」、「飛鳥寺の北の路から飛鳥寺西の槻の下の営に臨む」という記述に合っている。
《南門》
 「兵於百済家、自南門出之」とある。ということは、百済家飛鳥寺から見て北方にあったのであろう。
《飛鳥寺西槻下》
 「飛鳥寺西槻下」では、しばしば重要な出来事や行事があった。〈皇極〉三年で「打毱」の逸話がある「法興寺槻樹之下」と同じ場所を指すと思われる。 その辺りと思しき飛鳥寺西方遺跡から石敷き広場が検出され、その「穴」は大槻樹の跡かも知れない。
 その後、大化元年六月に〈皇極〉から〈孝徳〉に譲位した際、中大兄皇子〔〈天智〉〕を加えた三者が、群臣の面前で盟約。その会場が、飛鳥寺(法興寺)西の大槻樹の下であった(六月乙卯)。
 また、〈斉明〉三年条において、盂蘭盆会と覩貨邏人のためのあへを開催。
 すなわち、飛鳥寺西の大槻樹がある石敷き広場〔石造物出土地の近く〕は「法興寺槻樹之下打毱」⇒人々を集めた公的行事の広場外国人接待の会場のように使われてきた。
《唯百足》
 「唯百足居小墾田兵庫」については、百足はまず高坂皇子とともに飛鳥寺西に軍営を設営し、次に小墾田兵庫に移って兵器の運び出しを指揮したと読むのが合理的である。 「」については大海人皇子の敵だから「ヲリ」、近江朝廷との関係性から「ハベリ」のどちらの訓みも考えられる。
《小墾田兵庫》
 『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅴ―藤原京左京六条三坊の調査―』〔奈良文化財研究所2017〕は、 「『日本書紀』壬申紀の小墾田兵庫についてふれた記事によれば、大友皇子方が軍営を置いた飛鳥寺西の槻木広場と、小墾田兵庫との間には一定の距離があった様に読み取れ、 「兵庫田」の地は適正な場所だと言える」と記す(p.405)。
 『季刊 飛鳥風122』〔古都飛鳥保存財団2012〕所載の山本崇論文は 「小墾田兵庫から呼ばれた穂積百足が、「馬に乗り緩く来る」とする記述は、この〔小墾田兵庫と飛鳥寺西の〕間に相応の距離を感じさせ」、 よって「小字「兵庫田」が小墾田宮にかかわるとする…指摘は、いわゆる山田道の北に広大な小墾田宮を推定する立場からは魅力的」だと述べる(pp.12~13)。
 『古代日本の歴史地理学的研究』〔千田稔;岩波書店1991〕も、 同じく「馬に乗り緩く」の記述から「兵庫と本営の間は、かなり距離があるとみるほうがよい」から「「兵庫田」の付近もまた小墾田であったとみる余地がある」と見ている(p.209)。
 このように、小字兵庫田とする論が多いが、「」が付くことが気にかかる。 というのは、兵庫の司の長への食封として給わった田を指すとも思えるからである。 その場合、「小墾田兵庫」は、雷丘東方遺跡の礎石建物群に含まれると考えてもよいように思われる(第249回)。
《大意》
 二十八日、 天皇(すめらみこと)は和蹔(わざみ)に行かれ、 軍事を検校〔=点検や謁見〕して帰られました。
 二十九日、 天皇は和蹔に行かれ、 高市皇子(たけちのみこ)にお命じになり、軍衆に号令させました。 天皇はまた野上(のがみ)に帰られ、〔そのまましばらく〕滞在されました。
 この日に、 大伴連(おおとものむらじ)吹負(ふけい)は、 密かに留守司(るすのつかさ)坂上直(さかがみのあたい)熊毛(くまけ)と協議し、 一人二人の漢直(あやのあたい)らに言いました。
――「私は高市皇子だと詐称し 数十騎を率いて、 飛鳥寺の北の路から出て軍営に臨む。 そしたら、お前たちは内応せよ。」
 既に、兵を百済の家で整え、 南門から出ました。
 軍営に着く前に 秦造(はたのみやつこ)熊(くま)に命じて 褌姿で馬に乗せて走り回らせ、 寺の西の軍営中に 「高市皇子(たけちのみこ)不破(ふわ)から来られた。 軍衆を多数従えておられる。」と触れ回らせました。
 この時までに、留守の司高坂王(たかさかのおおきみ)、 及び〔近江朝廷側の〕兵を興すための使者穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)たちは、 飛鳥寺の西の槻木(つきのき)の下を拠点として、軍営を設置していました。 ただ、百足(ももたる)は、小墾田(おはりた)の武器庫にいて、 武器を近江に運んでいました。
 その時、軍営の中の軍衆は 熊の叫ぶ声を聞いて、 悉く散り散りになって逃げました。

《大伴連吹負劇来》
仍大伴連吹負、
率數十騎劇來。
則熊毛及諸直等共與連和、
軍士亦從。
乃舉高市皇子之命、
喚穗積臣百足於小墾田兵庫。
劇来…〈北〉 ニハカ共-與 トモ-和[句]ウルワシ
〈閣〉數十ムマイクサヲ ニハカニ共-與トモニ 連-和 ウルハシ 
〈兼右本〉軍-ヒトゝモ フ ヌ
…[形] ①はげしい。②はやい。(古訓) はなはたし。いそく。
仍(よ)りて大伴連(おほとものむらじ)吹負(ふけひ)、
数(あまた)十騎(とをうま)を率(ゐ)て劇(はげし)く来たり。
則(すなはち)熊毛(くまけ)及びに諸(もろもろの)直(あたひ)等(ら)は共に与(くみ)して連(つら)なり和(あまな)ひて、
軍士(いくさびと)も亦(また)従(したが)へり。
乃(すなはち)高市皇子(たけいちのみこ)之(が)命(おほせごと)を挙(あ)げて、
穗積臣(ほづみのおみ)百足(ももたる)を[於]小墾田(をはりた)の兵庫(つはものくら)に喚(め)す。
爰、百足乘馬緩來、
逮于飛鳥寺西槻下。
有人曰「下馬也。」
時百足、下馬遲之。
便取其襟以引墮、
射中一箭、
因拔刀斬而殺之。
緩来…〈北〉<オソク/rt>○曰人イ[切]オルヌ馬也 ヨリ キヌノクヒ
〈閣〉オリヌ /ヨト ヨリオルゝコト馬遲之 テ一-箭ヒトサヲ
〈兼右本〉ヤウ\/オソク
拔刀斬…〈北〉拔刀蹔。 〈閣〉 テ ヲ。 〈兼右本〉[ヲ][テ]斬イ作
…暫と同じ。
くび…[名] ② えり。
…[動] 〈倭名類聚抄〉「:音謝。又作䠶。訓由美以留」。
…[助数詞] 矢を数える。〈時代別上代〉の挙げる用例はここの古訓のみ。
…[名] 矢。古くはサとも。(万)3330投左乃 遠離居而 なぐるさの とほざかりゐて」。
爰(ここに)、百足(ももたる)馬(うま)に乗りて緩(やくやく)来たりて、
[于]飛鳥寺(あすかでら)の西の槻(つきのき)の下(もと)に逮(いた)る。
人有りて曰ひしく「馬を下(お)りよ[也]。」といひき。
時に百足、下馬(うまよりおるること)遅之(おく)れてあり。
便(すなはち)其(その)襟(きぬのくび)を取りて以ちて引き墮(おと)して、
射(ゆみい)て一箭(ひとさ)中(あた)る。
因(よ)りて刀(たち)を抜きて斬りて[而]殺之(ころしつ)。
乃禁穗積臣五百枝
物部首日向、
俄而赦之置軍中。
且喚高坂王
稚狹王而令從軍焉。
禁穗積臣…〈北〉 トラフ穗積臣タカサカノヲホキミワカサノヲホキミ。 〈兼右本〉トラフ/カラム
からむ…[他]マ下二 とらえる。獄につなぐ。
乃(すなはち)穂積臣(ほづみのおみ)五百枝(いほえ)
物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を禁(から)めど、
俄(にはか)にして[而]之(こ)を赦(ゆる)して軍(いくさ)の中に置けり。
且(また)高坂王(たかさかのおほきみ)
稚狭王(わかさのおほきみ)を喚(よ)びて[而]軍(いくさ)に従(したが)は令(し)めつ[焉]。
既而遣大伴連安麻呂
坂上直老
佐味君宿那麻呂等於不破宮、
令奏事狀。
天皇大喜之、
因乃令吹負拜將軍。
大伴連安麻呂…〈北〉サカノウヘノアタヒヲキナミノキムノ宿スク。 〈閣〉ミノ宿スク麻呂吹負。 〈釈紀〉オユ/ヲキナミノキミ。 〈兼右本〉吹-負[ニ][テ][ス]将-軍[ニ]
既(すで)にして[而]大伴連(おほとものむらじ)安麻呂(やすまろ)
坂上直(さかがみのあたひ)老(おゆ)
佐味君(さみのきみ)宿那麻呂(すくなまろ)等(ら)を[於]不破宮(ふはのみや)に遣(まだ)して、
事(こと)の状(ありさま)を奏(まを)さ令(し)めつ。
天皇(すめらみこと)大(おほ)きに喜之(よろこびたま)ひて、
因(よ)りて乃(すなは)ち吹負(ふけひ)をして将軍(いくさのかみ)を拝(うけたまは)ら令(し)めたまひき。
是時。
三輪君高市麻呂
鴨君蝦夷等
及群豪傑者、
如響悉會將軍麾下。
乃規襲近江、
撰衆中之英俊爲別將及軍監。
三輪君…〈北〉ワノキミタカイシカモノキミ蝦夷エミシ ノ傑者ヒトゝモ  シルシ ハタハカル英-俊 スクレタルヒト別将及スケノイクサノキミ軍監 マツリコトヒト
〈閣〉○君茂イ豪傑イサヲシヒトゝモ ヒトゝモ   ノ麾下 シルシノハタノニハカル ムコトヲ ヲ○撰因以イ英俊 トキヒト スクレタルヒトスケイクサノキミ
〈兼右本〉甘-茂鴨イ作 アツマル豪-傑者イサヲシキヒトゝモ  ク麾-下シルシノハタハカル ンヿヲ ン近-江イクサ-中
軍監…〈倭名類聚抄〉「判官:…鎮守府曰軍監…【皆万豆利古止比止】」。
…[形] (古訓) ひてたり。
…[形] (古訓) さかし。さとし。とし。
是(この)時。
三輪君(みわのきみ)高市麻呂(たけちまろ)
鴨君(かものきみ)蝦夷(えみし)等(ら)
及びに群(むらがる)豪傑者(いさをしきひとども)、
響(とどろく)が如く悉(ことごと)に将軍(いくさのかみ)の麾下(はたのもと)に会(つど)へり。
乃(すなはち)近江(ちかつあふみ)を襲(おそ)はむと規(はか)りて、
衆(いくさびと)の中(うち)之(の)英俊(ひでてさときひと)を撰(え)りて別将(いくさのすけ)及びに軍監(まつりことひと)と為(な)せり。
庚寅。
初向乃樂。
初向…〈閣〉マツ。 〈兼右本〉マツ乃楽ナラ
庚寅(かのえとら)〔七月一日〕
初めて乃楽(なら)へ向(ゆ)く。
 『新撰姓氏録』諸蕃
〖右京:〗
〖坂上大宿祢/出自後漢霊帝男延王也〗
〖檜原宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直孫賀提直之後也〗
〖内蔵宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直四世孫東人直之後也〗
〖山口宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直四世孫都黄直之後也〗
〖平田宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直五世孫色夫直之後也〗
〖佐太宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直三世孫兎子直之後也〗
〖谷宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直四世孫宇志直之後也〗
〖畝火宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直三世孫大父直之後也〗
〖桜井宿祢/坂上大宿祢同祖。都賀直四世孫東人直之後也〗
〖路宿祢/坂上大宿祢同祖〗
〖文忌寸/坂上大宿祢同祖。都賀直之後也〗
〖摂津:〗
〖石占忌寸/坂上大宿祢同祖。阿智王之後也〗
〖檜前忌寸/石占忌寸同祖。阿智王之後也〗
〖蔵人/石占忌寸同祖。阿智王之後也〗
〖葦屋漢人/石占忌寸同祖。阿智王之後也〗
〖河内:〗
〖火撫直/後漢霊帝四世孫阿知使主之後也〗
〖和泉:〗
〖池辺直/坂上大宿祢同祖。阿智王之後也〗
〖火撫直/後漢霊帝四世孫阿智王之後也〗
〖栗栖直/火撫直同祖。阿智王之後也〗
《諸直等》
 姓「〔アタヒ〕資料[18]【釈日本紀】項では、庚午籍〔670〕あるいはそれ以後の時期に「」⇒「」の表記の変更があったことが伺われる。 資料[25]《坂上大宿祢》~《文宿祢》項によれば、 倭文(倭漢)はもともと姓で、後に宿祢姓を賜った。
 〈姓氏録〉では、〖坂上大宿祢同祖〗の範疇に十九氏が含まれる(右表)。 倭漢の祖は書紀では〈応神〉二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主」すなわち阿知使主とその子都加使主となっている。 〈続紀〉には、延暦四年〔785〕六月癸酉条「坂上大忌寸苅田麻呂等上表言「臣等本是後漢霊帝之曽孫阿智王之後也」」とあり、阿智王霊帝の四代孫とされる。
 〈姓氏録〉では、阿智王の名前そのものはあまり出てこないが、 〈姓氏録〉と〈続紀〉を混合すれば、系図は「霊帝―延王―〇―阿知使主―都加使主」と繋がっているから、実質は同じこととなる。
 坂上大宿祢は特に「宿祢」に「」がつくことから、倭文〔大和国のアヤ系諸族〕の宗家であったことが読み取れる。
 以上から、「諸直」は、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った倭文グループの~直であると判断される。
 ただ「諸直等」は、それに加えて《令秦造熊》項で見たように、渡来系仲間の西漢秦造にも及ぶであろう。
《共与連和》
 「共与」に対して古訓は、「共に」+「与(とも)に」の同義反復熟語と見ている。しかし、〈汉典〉は熟語としての見出し語にしていない。日本の漢和辞典類も熟語に挙げない。 一般的には熟語でないことから「」が単独の動詞だとすれば、「連和に(あづか)る」、若しくは「大海人皇子側に(くみ)する」となる。
 クミスとすれば、〔ツラヌ〕〔ヤハラグ、アマナフ〕と共に同義語を三語も続けることになり、さすがに多すぎる。 しかし、敵に寝返った事実をそれだけ強く表現したのかも知れない。
 「連和」への古訓は「ウルハシ」だが、形容詞「麗し」では全く意味通じないから、 四段ウルハスの連用形か。 そのウルハスウルホスが母音変化する前の形〔ウルフの未然形+四段動詞語尾〕で、湿らせる意である。「仲間になる」を、「関係を潤す」と表したのだろうかと思われるが、だとすれば直訳より婉曲で穏やかである。 「つるむ・寝返る」という否定的な語感を緩和しようとしたのかも知れない。
《挙高市皇子之命》
 「高市皇子の命を挙げて」は、吹負が高市皇子の権威を借りて、有無を言わさず使者に百足を呼びに行かせたのであろう。
《緩来》
 「緩来」は、すなわち「渋々来た」のであろう。百足は留守司高坂王に命じられて、小墾田の兵庫から武器を運び出す任にあたっていた。 前線への武器の配置は緊急を要することを、百足は重々承知していた。 その途中で突然呼び戻されり、訝ったのだと思われる。
《下馬也》
 「下馬也」は、文脈から見れば命令文である。ただ、古訓には命令文「オリヨ」と平叙文「オリヌ」が並記されている。 は、しばしばナリと訓読されるように一般的には平叙文の断定を強める。果たして命令文にも使ったのであろうか。
 そこで「国際電脳漢字及異体字知識庫」を見ると、「:…③ 語気詞。表肯定、判斷、疑問、反問、命令語気」とあるので、命令文にも使われたと見てよい。
《下馬遅之》
 「下馬」は動目構造が名詞化して主語となり、が動詞であることを示すための形式目的語である。
 その後で、襟をつかんで引き摺り降ろされるから、「下馬遅之」は結局自分から降りることは最後までなかったことを表す。 身分が低い者による命令を拒んだのであろうか。 百足は飛鳥寺西の軍営からしばらく離れていたから、陣営全体が既に敵方に寝返っていたことを知らなかったのかも知れない。
《射中一箭》
 「射中一箭」、すなわち矢を射て命中した。 次の「因りて…斬り殺す」だけを見れば、百足が放った矢が誰かに中ったと読める。 しかし、襟首を掴んで引き摺り降ろされた状態で弓を射るのは無理で、百足が射つには一度捕える手を振りほどいて逃げ、体勢を整えなければならない。 一つの考え方としては、「斬り殺した」を「射殺した」とする別伝が紛れ込んだのかも知れない。
 仮にストーリーの一貫性を維持するなら、周囲にいた人の射た矢のうち一本が百足に命中したと見るべきか。 その場合接続詞「因りて」の意味は直接の因果関係から離れて、「そして」となる。
《穂積臣五百枝》
穂積臣五百枝 兄百足とともに近江朝廷によって倭京に派遣された。
物部首日向 同上
《禁…俄而赦之》
 一方、穂積臣五百枝物部首日向は殺されなかった。百足は抵抗したから殺され、二人は大人しく投降したから生きながらえたようだ。 「俄而赦之〔俄かにして赦した〕のは、大海人皇子側に就くことを約束したからだろう。「軍中」は、吹負の軍に加わったと読める。 捕虜として捕縛したままだと監視の人員を要するので、敵に立ち向かう戦闘力が低下する。本人が寝返ると言うなら縄を解いて味方の戦力に加え、躊躇したら後ろから射殺すぞと言って脅せばよいのである。
《高坂王稚狭王》
高坂王 倭京留守司
稚狭王 〈天武〉七年九月「〔諸王〕三位稚狹王薨之」。
 高坂王は、留守司として天皇が不在の間飛鳥宮を守る任に就いていたから、それなりに地位は高かったであろう。 よって飛鳥京防衛の責任者となって本営を飛鳥寺西に設置したのである。
 ところが、吹負からの攻撃を受けると簡単に屈服して寝返ってしまった。 吹負の面前に引っ張り出されて、こちらに付くなら命は助けてやるとでも言われたのであろう。 朝廷側の高級官僚としての責任感があれば、拒否して殺されるか呼び出される前に自死しただろうが、忠誠心はこの程度であった。 朝廷への反感は官司に蔓延していて、この立場の人物まで蝕んでいたのだろう。
 もう一人の稚狭王は、高坂王の下で部署としての「留守司」に勤務していたと思われる。
 トップの留守司からしてこれだから、逃げずに軍営に留まっていた兵員も丸ごと吹負のものとなったことは間違いない。
《大伴連安麻呂》
大伴連安麻呂  大伴連の祖は天忍日命(第84回)。 本貫は桃花鳥坂【桃花鳥坂】)。〈天武〉十三年に宿祢姓を賜る。
 安麻呂のその後は、朱鳥元年正月「新羅金智祥、遣…直広三大伴宿祢安麻呂…于筑紫」。 同年九月乙丑:〈天武〉殯に「直広三大伴宿祢安麻呂、誄大蔵事」。 〈持統〉二年八月丙申:〈天武〉殯宮に「大伴宿祢安麻呂」。 大宝元年〔701〕三月「授…直大壱大伴宿祢安麻呂…従三位」。 大宝二年〔702〕正月「式部卿」。五月「-議朝政」。六月「兵部卿」。 慶雲二年〔705〕八月「大納言」。十一月「兼大宰帥」。 和銅元年〔708〕三月「正三位大伴宿祢安麻呂大納言」。 和銅七年〔714〕五月丁亥朔「大納言兼大将軍正三位大伴宿祢安麻呂薨…詔贈従二位安麻呂、難波朝右大臣大紫長徳〔〈孝徳〉大化五年四月之第六子也」。
坂上直老  坂上直は、上述は、文武三年〔699〕五月辛酉:詔して「汝、坂上忌寸老」の壬申年の功績を褒め「冥路」として「直広壱。兼復賜」。
佐味君宿那麻呂  佐味君は、〈天武〉十三年に朝臣姓を賜わる。 〈姓氏録〉〖皇別/佐味朝臣/上毛野朝臣同祖/豊城入彦命之後也〗上毛野君は、第110回。 〈倭名類聚抄〉{上野国・緑野郡・佐味}。 〈姓氏家系大辞典〉「狭身君:毛野氏の族…舒明紀に狭身君勝牛」、「佐味君:狭身君の後なり」。
 宿那麻呂のその後は、〈天武〉十四年「直広肆佐味朝臣少麻呂山陽使者…巡-察国司郡司及百姓之消息」。 〈持統〉三年六月「…直広肆佐味朝臣宿那麻呂…拝撰善言司」。
《不破宮》
 「不破宮」は、野上行宮であろう。
《三輪君高市麻呂》
三輪君高市麻呂  三輪君・鴨君の祖は大田田根子(第112回)。 地祇くにつかみを信奉する太古の大族で、アマテラス族〔天津神を信奉〕の上陸以前から国土に住んでいたと考えられる。 〈天智〉十三年に「大三輪君…凡五十二氏賜姓曰朝臣」。
 高市麻呂はこの後、壬子〔二十三日〕箸陵〔箸墓古墳〕で戦い勝利。 朱鳥元年九月乙丑条に〈天武〉殯宮にしのひことを捧げる:「直大肆大三輪朝臣高市麻呂理官事」。 〈続紀〉大宝二年〔702〕正月「従四位上大神オホミワ朝臣高市麻呂長門守」。 大宝三年〔703〕六月「従四位上大神朝臣高市麻呂左京大夫」。 慶雲三年〔706〕二月庚辰「左京大夫従四位上大神朝臣高市麻呂卒。以壬申年功詔贈従三位。大花上利金之子也」。
鴨君蝦夷  鴨君の祖も大田田根子(前項)。 〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。
 蝦夷は、吹負が乃楽に向かい稗田に到ったときに、 河内国から守石手道経由で進撃したといわれると述べる(七月壬子〔二十三日〕条)。 〈持統〉九年四月丙戌「直広参贈賀茂朝臣蝦夷、并賜賻物【本位勤大壱】〔勤大一位賀茂朝臣蝦夷は〔卒して〕贈直広三位と賻物を賜った〕
《別将及軍監》
 軍監は、〈倭名類聚抄〉によると「鎮守府」のマツリコトヒト、すなわち四等官の第三位とする。古訓もこれを用いている。 もし軍事組織のピラミッドの第三位を軍監というのなら、別将は第ニ位であるからスケであろう。
 〈倭名類聚抄〉には、「長官:…鎮守府将軍…【已上皆「加美」】」、「判官:…鎮守府曰軍監…【已上皆「万豆利古止比止」】」、「祐官:…鎮守府曰軍曹…【已上皆「佐官」】」とあるが、 なぜか「次官:…鎮守府曰○○…【已上皆「須介」】」が欠落している。ここに「鎮守府曰別将」を入れれば、ちょうどうまく収まることになる。
 古訓「スケ-イクサノキミ」も「別将」が四等官第二位の表記であることを裏付けるものと言えよう。よって、将軍はますますイクサノカミと訓むべきこととなる。(2024.12.17付記)
 さて、軍事組織の設計、そして登用する四等官の選任は、吹負のほか駆け付けた三輪君高市麻呂などや、軍事の専門知識をもつ僧であろう。 その組織のひな形は、〈天智〉朝までの長い年月の間に既に確立していた官軍の組織形態を用いたに違いない。僅かな日数で組織を白紙から描くことなど不可能だからである。
 ここで命令系統を確立したことは、乱の勝利を得る上で計り知れない意義を持ったであろう。
歌に詠まれる平城山はの範囲か
《庚寅》 この項2024.12.16
 六月は小の月なので「六月庚寅〔三十日〕は存在しない。 六月条に入っている原因は、書紀がこの部分を参照した資料に「七月」が脱落していることに気づかなかったためと考えられる。
 詳しくは次回【元年七月二日】で述べる。
《初向乃楽》
 「初向乃楽」は、七月三日条の「将軍吹負、屯于乃楽山上」に続く。 乃楽はナラで、万葉では平山楢山奈良山常山と表記。〈崇神〉紀では「那羅山」(第114回)。
 平城山丘陵は現在の奈良市北部で、西半分を佐紀丘陵、東半分を佐保丘陵と呼ぶことがある。 佐紀丘陵には佐紀盾列古墳群がある (第117回《平城山丘陵》項)。
 佐保山の範囲は、資料[03]で調べた。
 実際に平城山が詠まれたのは、佐紀山と佐保山の間の街道を通るときだと思われるので、実質的にはその街道の両側かも知れない。
《大意》
 こうして、大伴連(おおとものむらじ)吹負(ふけい)は、 数十騎を率いて劇的にやってきました。
 直ちに熊毛(くまけ)と〔坂田直配下の〕諸々の倭の漢(あや)の直(あたい)たちは共に与(くみ)して連なり和して、 軍士たちもまた従いました。
 そして高市皇子(たけちのみこ)が発したと称する命令を掲げて、 穗積臣百足を小墾田(をはりた)の武器庫まで呼びに行かせました。
 すると、百足は馬に乗ってゆっくりやって来て、 飛鳥寺の西の槻(つきのき)の下に至りました。
 そこにいた人が「下馬せよ」と言い、 その時百足は、下馬が遅れました。 そこで、百足の襟(えり)を掴んで引きずり降ろし、 その時〔周囲から〕射た一矢が当たりました。 そして太刀を抜いて百足を斬り殺しました。
 穂積臣(ほずみのおみ)五百枝(いおえ)と 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)については、拘禁しましたが、 突如赦して軍中に加えました。
 また高坂王(たかさかのおおきみ)と 稚狭王(わかさのおおきみ)を召喚して〔吹負の〕軍に従わせました。
 既にこのような成り行きがあったので、大伴連(おおとものむらじ)安麻呂(やすまろ)、 坂上直(さかがみのあたい)老(おゆ)、 佐味君(さみのきみ)宿那麻呂(すくなまろ)らを不破の宮〔=野上行宮〕に遣わして、 事の成った様を奏上させました。
 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれ、 よって吹負を将軍に任命しました。
 この時、 三輪君(みわのきみ)高市麻呂(たけちまろ)と 鴨君(かものきみ)蝦夷(えみし)ら、 そして群がる豪傑たちは、 轟くが如く皆が将軍吹負の麾下(きか)に集いました。
 よって、近江を襲う計略を立て、 軍勢の中から英俊なる者を選び別将(いくさのすけ)、及び軍監(いくさのじょう)としました。
 七月一日、 初めに乃楽(なら)〔平城山〕に向いました。


まとめ
 不破郡家、野上行宮、和蹔原、百済家、飛鳥寺西槻下、小墾田兵庫の所在地を廻っては、盛んに議論が展開されてきた。
 そのうち、飛鳥寺西槻下は確定的である。
 不破郡家、野上行宮、和蹔原については、それぞれ一辺1~2km平方程度の範囲に絞られたと見てよいだろう。 このうち和蹔原については、関ヶ原ということでほぼ一致しているが、関ヶ原は相当広く、その中で高市皇子の行宮をピンポイントで求める論はあまり見ない。
 不破郡家については宮代地区にあったことは確定的なので、その範囲の地中に遺跡が眠っていることは十分期待できる。 郡は律令国が確立する以前には地方行政の基礎単位だったので、朝明郡家のような明確な建物跡が考えられる。
 野上行宮には、大伴安麻呂の私邸が提供されたというから、〈案内板〉の山中は疑問である。 旧中山道沿いの集落の一宅の方が考え易い。ただし、堀立柱または礎石が見つかったとしても、私邸の規模だからそれが行宮跡だと判別することはできない。 したがって、野上行宮の正確な位置は永遠に分からないだろう。
 小墾田兵庫について、多くは小字兵庫田の近くと見ている。大宰府の例を考えると、蔵司跡はもとは兵器工場であったとも言われる(『遠の朝廷』新泉社2011)。 「兵庫」には大宰府兵器工場の礎石配置と同程度が考えられるので、これも兵庫田の附近の地中に眠っているかも知れない。ただし、本サイトは小墾田宮北の建物群の可能性もあると考えている。
 百済家については、小字百済・西百済・東百済は広い範囲の地名がピンポイントで残ったものと考えられる。具体的な位置は確定できず、言えることは飛鳥寺より北にあったという程度である。
 さて、吹負配下は僅か数十騎であったが、高市皇子軍が来たとの流言を蒔いた。高市皇子なら相当大きな軍勢に違いないと思い、飛鳥寺西の軍営は震えあがった。
 ところが、実際には吹負の小さな勢力であったと分かった後でも、高坂王らは格下の吹負に下った。 これは、高坂王は元から近江朝廷に不満を募らせていて、自らの選択として大海人皇子側に加わったとしか考えられない。 その背景としては、恐らく〈天智〉天皇が近江遷都を強行したことに対する反感が充満していたのであろう。近江に移った勢力と倭京に残留した勢力との間の派閥争いも考えられる。 すると、大海人皇子が留守司高坂王に駅鈴を求める使者を送ったのは、倭京残留勢力が近江朝廷から離反する可能性を探るためという新説が浮かび上がる。 もし駅鈴が発行されれば、倭京が大海人皇子側につくという意思表示となるからである。
 なお、〈天武紀〉上で名前が挙がった各氏は奈良時代になっても功臣として称えられ、子はその遺名によって田の一部を継ぐことができたことが続紀に載る。 これを見ると、書紀に載る壬申の乱は決して誇張だらけの荒唐無稽な物語ではなく、相当の史実性を認めてよいと思われる。



[28-06]  天武天皇上(3)