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2024.10.30(wed) [28-04] 天武天皇上4 ▼▲ |
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10目次 【元年六月二十六日】 《朝明郡迹太川》
ただ迹太川が朝明川だとすれば、この碑の位置は河辺から離れすぎている。 現代になり、論文〈久志本:迹太川〉は従来から言われていた朝明川説を否定し、米洗川説を唱える。 久留倍遺跡に「朝明郡衙の可能性があると判明」したのは、2003年のことである。 (〈久留倍官衙遺跡計画〉(p.2))。 これによって、それより北にある朝明川を迹太川だとするのは、理屈が合わなくなった。 〈久志本:迹太川〉は、米洗川を迹太川に比定する根拠として、久留倍官衙遺跡より南側にあり、またこの川では水辺祭祀が行われていたことなどを挙げる。 《天照大神》 天照大神は太陽神であるから、東から昇る太陽を拝んだという読み方も考えられるが、「望」という語からは太陽ではなく伊勢神宮に向かって拝した印象を受ける。 太陽を拝むのならば、「仰」「向」を用いたのではないだろうか。 天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝することによって、味方してくれている伊勢国の人々に感謝の意を表したように思えるのだが、どうであろうか。 《郡家》
四日市市公式/久留倍官衙遺跡公園/各種資料によると、 「正殿・脇殿・東門などを備える東を向く政庁」で、「南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群」、 「倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれている」という。 地名の久留倍については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明郡・訓覇【久留倍】郷}。 『勢陽五鈴遺響』〔1833〕には「大矢知:村中ニ久留倍ト云小字今ニ存セリ」とあるという。 したがって、久留倍官衙遺跡=朝明郡家となる。 前出〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、 史跡久留倍官衙遺跡はⅠ期:「7世紀第3四半期の終わり頃から8世紀前半」、Ⅱ期:「Ⅰ期の後から8世紀後半」、Ⅲ期「Ⅱ期の後から9世紀末」からなる。 同書は「構造や規模からみて古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い」と述べる。 Ⅰ期はさらに細分され「Ⅰ-①期は、丘陵裾部に南北棟を中心とした建物群」、「Ⅰ-②期は、丘陵頂部平坦部に東向きの政庁と、その西側の大型の総柱建物、丘陵裾部の建物群」という(p.26)。 壬申年〔672〕はⅠ-①期のはじめにあたり、右図の東半分の建物群となる。 《益人》
《男依》
結果的には、この日までに村国連男依は不破道の封鎖を成し遂げ、大海人皇子はその報告を聞いて大いに喜び、その功を褒めた。 《高市皇子》
《山背部小田…》
〈倭名類聚抄〉では、東海道諸国は「伊賀、伊勢、志摩、尾張…」の順に並んでいる。恐らく飛鳥時代は飛鳥京または藤原京、奈良時代は平城京が、東海道の起点であっただろう。 〈古代の道と駅〉は、 「尾張国も当初東海道から外れ、駅路は伊勢湾口を横断して参河国に上陸していた可能性」(A)があり、「尾張国は伊勢湾の湾奥に位置し、隣国との間に広大な低湿地」があるのを「避け、あえて海を渡ったことが海道の名称の由来になったと考えられる」(p.85)、 「大宝二年〔702〕の持統天皇の参河国行幸」では 「隠」(なばり)と伊勢国多気郡「圓方」(まどかた)を詠んだ歌があるので「名張から圓方を経由し…伊勢湾を渡る経路が採られたのであろうことが判る」などと述べる(p.88)。 ただ、尾張国経由の陸路ももちろん「東海道」として使われていたであろう。 愛智郡の熱田神宮は、日本武尊縁の草薙の剣を祀り(第53回)、 古来からの大国尾張国に通づる街道もまた、歴史的に重要であったことは間違いない。 奈良時代の経路はB、平安時代の仁和二年〔886〕以前はCであった。 六月二十五日条《鹿深越》の経路である(〈古代の道と駅〉p.88)。 以後はDとなり、ほぼ現在の国道一号線に沿う。 「東海軍」の通った東海道は、当然桑名郡方面から尾張国に向かう陸路であろう。大海人皇子が通った道である。 《東山軍》 東山道は不破関を通っていたのは明らかだから、ほぼ後世の経路と同じであろう。 奈良時代は平城京から北向きの道を経て繋がる。飛鳥時代はさらに下ツ道などで倭京に繋がっていたと見られる。 「東山軍」は、この東山道を通って大津京から不破郡に向かったと見られる。 《大意》 二十六日の 朝、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)の辺りで、 天照大神を遥拝されました。 この時、益人(ますひと)が到着して 「関に留め置いた者は、 山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)ではなく、 大津皇子(おおつのみこ)です。」報告しました。 そして、〔大津皇子は〕益人に連れられて参上しました。 大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 難波吉士(なにわのきし)三綱(みつな)、 駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、 山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、 小墾田(おはりた)の猪手(いて)、 埿部(はつかしべ)の視枳(しき)、 大分君(おおきたのきみ)稚臣(わかみ)、 根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、 漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ) の輩(やから)が従って参り、 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれました。 まさに〔朝明〕郡家に到着しようとしたとき、 男依(おより)が駅馬に乗って来て 「美濃(みの)の軍三千人を発して、 不破の道を塞ぐことに成功しました。」と奏上しました。 そこで、天皇(すめらみこと)は雄依〔=男依〕の功を褒められました。 そして郡家に到着しました。 高市皇子(たけちのみこ)を不破に先発させ、 軍事を監督させました。 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を派遣して、 東海道の軍を発進させました。 また、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を派遣して、 東山道の軍を発進させました。 11目次 【元年六月二十六日是日(一)】 《宿于桑名郡家》
つまり、候補となり得る遺跡は見つかっていないようである。 右図のⒶ榎撫駅(桑名郡)とⒷ馬津駅(尾張国)の間は海路であったと考えられている 〔〈古代の道と駅〉(p.89,93)による〕。 右図は、地理院地図の「自分で作る色別標高図」機能を使い、現在でも海抜0m以下の地域を水色に着色したものである。 実際には、もう少し東の名古屋市港区・南区までが海であったことが明らかになっている。 朝明郡家(久留倍官衙遺跡)から、榎撫駅に至る街道沿いのどこかに、桑名郡家があったのであろう。 〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、久留倍官衙遺跡は「国道1号北勢バイパス建設に伴う久留倍遺跡の発掘調査開始」した結果、「古代の朝明郡衙」と見られることが判明した。 つまり、この工事がなければ明るみに出なかったのである。 ならば、桑名郡家についてもいつか偶発的に発見される可能性はあろう。 《停以不進》 大海人皇子の一行は吉野宮を急ぎ発って以来、ここまで息もつかずに駆けて来た。 桑名郡家でやっと腰を据えたのは、味方のテリトリーに入り安心できる状態になったからであろう。 しかし、それも束の間、高市皇子の要請によって丁亥〔二十七日〕には不破郡に移る。 《大皇弟》 五月是月条では、一時「皇大弟」と表記されたが、ここで再び「大皇弟」に戻っている。 《京内震動》 大皇弟〔大海人皇子〕が東国に入り軍勢を整えたとの報を聞き、 ある者は東国に脱出して大皇弟側に加わろうとし、ある者は逃げて山中に隠れたという。 この段で、京内がパニックに陥ったと描くのは近江朝廷を貶しめようとする潤色であろう。 ただ、美濃国・尾張国・伊勢国などは、朝廷への反感が募り叛意を秘めていることを、既に近江朝廷自身が認識していたと思われる。 ここに、有力な日継候補であった皇大弟が入れば、これらの諸国は皇大弟を推戴して一気に反乱の狼煙を挙げると危惧された。 諸国の不満の原因は、何といっても〈天智〉朝における軍事への動員であろう。 東国から工事に動員されたことを具体的に書く記事は、〈斉明〉・〈天智〉の山陵ぐらいであるが(元年五月是月)、 西日本各地に朝鮮式石城が築かれたことを見れば、恐らくそれらの工事に大規模に動員されていたと察せられる。不満が募り、火薬庫は発火寸前だったのである。 なお、高安城の石塁の築造が畿内住民の反感を招いて中止された※1)らしいところを見ると、畿内の人民には甘く、負担をかけることを避けたようである。 ※1…〈天智八年八月〉《登高安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作》項。 《大友皇子謂群臣》 大友皇子は敵方であるから尊敬表現を用いないことも考え得るが、臣は「進曰」と遜って表現しているから、大友皇子と臣との関係性によって尊敬表現を用いてもよいだろう。 《乗跡》 乗馬して大皇弟が移動した跡を追う意か。しかし、どう考えても「乗跡」は不可解である。 「騎」があるから「乗」は特になくともよい。だから乗跡は、たとえば「覓跡」〔跡を覓ぐ(=探し求める)〕などの誤りかも知れない。 《皇子不従》 一人の臣は、いち早く精鋭の騎馬部隊を投入して大海人皇子軍を追跡すべしと提言した。大海人皇子方の軍勢がまだ整わない今がチャンスだと見たのであろう。 大友皇子はそれを容れず、東国・倭京・吉備・筑紫に出撃を促した。時間がかかっても大軍勢を呼び寄せようとしたわけである。 しかし、筑紫大宰と吉備国守については既に大海人皇子側についているかも知れないから、その気配が見えれば殺せと命じている。 しかし、それでは軍の派遣を得ることができなくなるから、判断は混迷している。 《韋那公磐鍬…》
東国の尾張、美濃の国司は完全に大海人皇子側と見られ、そこに使者を送るのは一見すると不思議である。 捕まったのは不破郡の手前なので、東山道を通って信濃以東へ向かったのかも知れない 〔しかし、美濃国を無事に通り抜けられるとも思えず、この経路は無謀である〕。 ただ、美濃国内にも近江朝廷に従う勢力はあったかも知れない。 というのは、国守の任命は〈孝徳朝〉で始まったことで、それ以前は郡が地方区分の単位であった。 したがって、壬申年になってなお郡領の独立性がかなり残っていたとも考えられるからである。 郡単位で見れば、双方の勢力はモザイク状だったのかも知れない。 《穗積臣百足…》
倭京への使者のうち、百足が飛鳥寺西槻下の軍営に入った時には、軍営は既に敵方に寝返っており、殺された。 五百枝と日向も軍営で逮捕されたが、同じく寝返ることを条件に赦されたようである。 《佐伯連男…》
吉備国守には、符を授与する儀式においては刀を解くものだと言ってだましたのであろう。 磐手は大友皇子の指令を、要するに殺せということだと受け止めて即座に殺したのかも知れない。 もし大友皇子の指示を額面通りに実行したのなら、最初に顔を合わせたときに反逆の色を読み取ったということになる。 《大意》 この日、 天皇(すめらみこと)は桑名の郡家に宿し、 留まって進みませんでした。 この時、近江朝廷は、 大皇弟(だいこうてい)が東国に入ったと聞き、 群臣はことごとく驚愕し、京内は揺れ動きました。 或いは遁走して東国に入いろうとし、 或いは退去してに山の沢に隠れようとしました。 このとき、大友皇子(おおとものみこ)は群臣に、 「どう計略をするのか。」と仰りました。 一人の臣が、 「謀(はかりごと)が遅ければ、遅れをとるでしょう。 すみやかに驍騎(ぎょうき)〔勇猛な騎馬隊〕を集めて〔皇大弟が移動した〕跡を騎乗して追い、駆逐する以上の策はありません。」と申しました。 大伴皇子はこの意見に従いませんでした。 そして、韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)、 忍坂直(おさかのあたい)大摩侶(おおまろ)を 東国に遣わし、 穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)、 弟の百枝(ももえだ)、 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を 倭京〔飛鳥の宮〕に遣わしました。 また、佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)を筑紫(つくし)に遣わし、 樟使主(くすのおみ)磐手(いわて)を吉備の国に遣わし、 それぞれ皆、兵を興させました。 そして男(おとこ)と磐手(いわて)に 「その筑紫の大宰(おおみこともち)栗隅王(くりくまのおおきみ)と 吉備の国の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)の二人は、 元々大皇弟に隷属していたから、背くことも有るかと疑われる。 もし〔近江朝廷に〕服さぬ気配があれば、直ちに殺せ。」と仰りました。 こうして、磐手が吉備の国に到り符を授けた日、 広嶋に偽って太刀を解かせておいて、 磐手は太刀を抜いて殺しました。 12目次 【元年六月二十六日是日(二)】 《男至筑紫》
大野城・基肄城は、峻城〔急峻な山城〕と言えよう。また、水城も深隍と表現し得る(天智三年是歳)。 《然後雖百殺臣何益焉》 益(利益)を意味する上代語には、カガ、クホサがある。 一方、益の古訓「シルシには、甲斐という意味があので、 雖百殺臣何益に「百回臣を殺すと言っても甲斐はない」という語感を与えることができる。 漢語の益にも「効果」の意がある。 「雖」には「いふ」を加えて「いへども」と訓むべきか。 《豈敢背徳耶》 豈敢背徳耶は反語で、すなわち「これが敢えて徳に背くことなのか?否である」という。 この文の主語は栗隈王で、出兵すべしという朝命を拒むことは重罪であるが、敢えてそうすることに徳があると胸を張って言う。 唐新羅の侵略に備えて守りを固めるのが筑紫大宰の任務であり、たとえ王朝が交代してもその任は変わらないという主張には道理がある。 つまり中央で政権争いがしたければ勝手にやってくれ、どちらが勝とうが私は国家のために辺境を固守するのみであるというわけである。 よって、栗隈王は必ずしも親大皇弟であったとは限らないが、近江朝廷によるこのような命令は、却って大皇弟側に追いやってしまったかも知れない。 《栗隈王之二子》
《按剣》 古訓は「按レ剣」と訓む。トリシハルについて〈時代別上代〉が挙げる文例は書紀古訓のみである。 また他の古語辞典は見出し語にしないものばかりなので、書紀古訓以外の用例はないようである。 ただ〈類聚名義抄〉にはあるが、拉致の「拉」を訓んだものなので、「獲り縛る」という語を書紀古訓者が誤用した可能性がある。 《磐鍬》
《遮薬等之後》 薬と大摩侶の背後をまず押さえて逃げ道を塞いだ。その後のことは書いていないが、当然前方からも襲い包囲して捕えたのであろう。 《当是時》 時を遡って、馬来田が菟田吾城で大海人皇子に追いつく(二十四日即日条)前にあったことを書いたと見られる。 《馬来田》
吹負は兵を募集して大軍を組織し、大海人皇子軍の主力に躍り出て一気に勝負を決しようと思った。 それによって名を上げようとする。その野心は後世の戦国時代の武将と同質であるところが興味深い。 だが、実際に集まったのは僅か数十名で思惑は外れた。 それでも戊子〔二十八日〕にはその数十名を率いて謀略を駆使して奮戦し、大海人皇子に認められて将軍を拝する。 以後、壬申の乱に勝利するまでに吹負の名が出て来るのは13箇所に及ぶ。 ところが、〈天武紀〉下巻になると十二年の「卒」まで名前が出てこない。 武将としての才は国が平定されれば役立たず、活躍の場を失ったということであろうか。さらに、野心に溢れる人柄が敬遠されたことも想像に難くない。 《大意》 佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)は、筑紫に到着しました。 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)は符を承り、お答えしました。 ――「筑紫は、もとより周辺の敵の難から守る国です。 その急峻な城、深い溝という臨海の守りは、 あに国内の敵に対するものでありましょうか〔反語〕。 今、畏れ多くも命を受け入れて軍を発たせれば、すなわち国を空しくしましょう。 若し不意に外から突然の事が起れば、 一直線に社稷〔=国家〕を傾けましょう。 その後に百回〔皇大弟の〕臣を殺すと言ってみたところで、何の甲斐がありましょうか。 これが敢て徳〔=道理〕に背くことになりましょうか。 すなわち、兵を動かさないのは、この理由によります。」 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)の二子、 三野王(みののおおきみ)、 武家王(たけるべのおおきみ)が、 剣を帯びて傍らに立ち、退くことはありませんでした。 そこで、男は剣の束(つか)を握りしめて進もうと思いましたが、却って殺されるかも知れないと恐れました。 よって事を成すことはできず、空しく帰りました。 東方に向かった駅使磐鍬(いわすき)たちは、まさに不破に到着しようとしているところでした。 磐鍬一人は山中に兵がいることを疑い、 後からゆっくり行きました。 その時、伏兵が山から出てきて、薬(くすり)たちの後ろを遮りました。 磐鍬は、これを見て薬たちが捕まったことを知り、 とって返して逃走し、辛うじて脱出できました。 この時に当たり、 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)と 弟の吹負(ふけひ)は、 二人とも時か否かを見ていました。 よって病と称して倭の家に退きました。 しかし、その嗣位に登る人は、 必ず吉野におわします大皇弟(だいこうてい)であると知りました。 これにより、馬来田が先ず天皇〔=大皇弟〕に〔菟田吾城で追いつき〕従いました。 ただ、吹負(ふけひ)は留まり、 名を立てようと思い、一気に艱難(かんなん)を平定しようとしました。 すなわち一二の族、及び諸々の豪傑を招き、 僅かに数十人を得ました。 まとめ 大伴連馬来田と弟の吹負は、はじめは家に籠ってどちらか勝てる方につこうとして形勢を見ていた。 多くの氏族も同様であっただろう。大海人皇子さえも、はじめはどちらかと言えば反朝廷勢力によって押し上げられた形で立ち上がった。 根本にあるのは皇子個人の野望というよりは、東国のいくつかの国がもつ近江王朝の存続を望まない強固な意志であった。 伊勢・尾張・美濃で反朝廷感情が強かったのは、主に西国の朝鮮式山城の築城に重い負担を強制されたためと考えられる。 防人の例を見ると、はるばる東国から徴用されたのは、未開の地の族であるから気楽に動員できるという差別意識のためと思われる。 西国の朝鮮式山城の築城についても、畿内の人民にはあまり負担をかけないようにして東国から動員したと見られる。 軍事への徴用は西国においては、地理的に唐・新羅による攻撃への備えの必要性が比較的理解されていたと思われる。 最前線の筑紫においては特にである。 これを、近江朝廷は筑紫が朝廷の理解者であると受け止め、反乱の鎮圧に力を貸せと言った。 しかし、筑紫が軍事の負担を受け入れてきたのは国土の防衛という大局観によるものであって、 大友皇子に私的に好意を寄せたものでは決してなかった。大海人皇子が即位したとしても、それならそれでよかったのだろう。そこに近江朝廷の考え違いがあったと見る。 吉備国も兵の動員を受け入れなかったと見られ、西国は全体として中央での権力争いを冷ややかに見ていたようである。 |
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2024.12.08(sun) [28-05] 天武天皇上5 ▼▲ |
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13目次 【元年六月二十七日】 《高市皇子遣使於桑名郡家》
二十四日是日条で見たように、鸕野讃良皇女は天下獲りに積極的であった。 皇女はここでも同行を希望したのではないだろうか。 しかし、ことが成就するかどうかは未だ見通せない。 鸕野讃良皇女を桑名郡家に留め置いたのは、自らが亡びた場合は引き継いで戦えということであろう。 後に〈天武〉が崩じたときに自ら即位したのは、皇女の心にこのときの言葉が残っていたように感じられる。 《不破郡家》
『日本歴史地理序説』〔藤岡謙二;塙書房1969〕は、 「三.古代の政治地域と国府、郡家と関所」の章で 「〔垂井町宮代にある〕小字「政所」あたりが府中での国衙にあたるべき〔不破郡家の〕箇所であろう」と述べる。 同書は「府中部落を国府に比定する筆者はこの宮代部落を郡家(郡衙)に比定したい」、 しかし「ところが郡家とした場合、不破郡のそれのみが国府と同じ規模をもつ八町四方の大きなものである」 ことには戸惑いを見せ、「関ヶ原の関所へ通じる軍団〔の駐屯地〕」あるいは「不破の行宮が置かれた」からという「おくそく」があるがこれについては「将来のより積極的な資料の発見をまちたい」と述べる(pp.138~145)。 同書は府中地区〔美濃国府を推定〕、および宮代地区〔不破郡家を推定〕に 「碁磐目〔ママ。碁盤目か〕形地割」を見出している(右図)。後者については「PQ基準線」が「朱雀大路ともいうべきもの」で、 「PQ線に直角な街路が今もなお残存しており〔実線で表示〕、 左京区域にあたる部分〔東側〕において…碁磐目系地割がより顕著」だといい、一辺八町の格子状の街路を見出している。 しかし、一町〔109m〕間隔の格子は農地における一般的な条里であって、しばしば境界が道路となって残る。これをもって都の条坊に類すると見做すのは早計であろう。 単なる条里に過ぎないのならば、国府と同等の条坊が一介の郡にあるという理解が困難な状況は解消するだろう。 さて、宮代地区の小字「大外道」の南には式内「大領神社」がある〔比定社は岐阜県不破郡宮城765〕。 大領神社は大領宮勝木実を祭神とする。 大領は郡の四等官制の首席であるから、宮代地区に郡家があった可能性は濃厚である。 大領神社については、その由緒を述べた『不破家寿麻呂家譜』(以下〈家譜〉)の内容の妥当性について、資料[46]で詳細に検討した。 《小子部連鉏鉤》
〈倭名類聚抄〉{美濃国・不破郡・野上郷}。 『大日本地名辞書』(中巻p.2143)は、 「今岩手村是なり、大字野上存ず、関ヶ原の東、府中垂井の西とす」と述べる。 「岩手村」の範囲は江戸時代の「野上村」を含み、1954年まで現関ヶ原町と垂井町の境界にまたがって存在した。 一方「到二于野上一高市皇子自二和蹔一参迎」という文から見て、それぞれの地は〔後の〕不破関―和蹔―野上〔行宮〕―不破郡家 の順に並び、それぞれある程度の距離を置いたことが読み取れる。 これらのことから〈天武紀上〉のいう「野上」は、野上村〔現関ヶ原町(大字)野上〕の位置と見られる(右図4)。 一方〈家譜〉(資料[46])では、 大領神社のある垂井町宮代地区を「野上郷」と呼ぶ(右図2)。その位置は、野上行宮伝承地〔関ヶ原町(大字)野上、右図3など〕とは離れている。 この折り合いをつけるには、ア「野上は野上村から宮代まで含む広域の地名であった」、もしくはイ「宮代を野上郡と呼ぶのは〈家譜〉による潤色」のどちらかとしなければならない。 この問題について『新修垂井町史』〔垂井町;1996〕は、「律令制下の50戸一里制は戸が単位であって、必ずしも自然集落を単位と考える必要はない。 正倉院戸籍の中には住所が他国に及ぶ戸口を含む擬制戸までが存在する」と述べ、ア説を推している(p.115)。 一郷の推定人口については、「奈良朝時代民政経済の数的研究」〔沢田吾一;富山房1927〕(p.144)に約1400人という試算があり、 標準の五十戸の場合、一戸平均27人となる。この27人×50戸が関ヶ原町野上から垂井町桃配山方面までに分散していくつかの小さな集落を作り、同族意識のもとにひとつの「野上郷」を構成していたとする考えもあながち否定できない。 しかし、〈家譜〉には不破郡の成立を壬申の乱の後とする容易には受け入れ難い記述がある。宮代を「野上郷」とするのも〈天武〉天皇が行宮を置いた有名な地名に寄せて潤色したもので、大領宮勝木実の名を高めるための作為のように思える。よって、本サイトは今のところイ説に傾いている。 《和蹔》 万葉集に(万)0199「題詞:高市皇子尊城上〔現広陵町〕殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌。」として、「真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 まきたつ ふはやまこえて こまつるぎ わざみがはらの かりみやに」と詠まれる。 次の段には「和蹔」に、「検二-校軍事一」〔このとき軍勢を謁見したか〕とあり、また歌には「和射見我原」とあるから、開けた場所であろう。 その「行宮」には高市皇子が滞在した。「不破山越えて」は、畿内側から行った場合のことであるのは明らかである。 『大日本地名辞書』(中巻p.2139)は、 この万葉歌は「柿本人麻呂が高市皇子の壬申乱の功業を述べし句」で、 「和射見我原は後の関原なり」とする。 『関ヶ原町史』〔関ヶ原町1990〕も、 「その位置は、後の不破の関の東方にひろがる原野、すなわちいわゆる関ヶ原とするのが定説である」という(p.132)。 このように、諸説は和蹔=関ヶ原〔合戦の地〕とする見方で一致している。 《以伏兵而捕者》 「以二伏兵一」、すなわち予め配置された伏兵が忍坂直大麻呂らを捕えた。 使役動詞は使われていないが、使役の構文〔捕へしむ〕と見るべきか。 「者」は、動詞「捕」が者(ひと)を連体修飾したもの、あるいは接続助詞「捕えてみれば」のどちらにも読める。 ここで、「捕者」を含む適当な漢文を作って自動翻訳にかけてみると、英語でも日本語でも捕者は捕える側の人を指す。古文でもを捕えられた側を表すことには問題があろう。 もし、「者」が人なら「為伏兵所捕之者」などの構文が考えられる。このように考えると、「者」は接続助詞とするのが安全かも知れない。 《書直薬》
《便奏言》 副使「便」はスナハチと訓読するが、本来は容易にとか都合よくという意味がある。ここでは大海人皇子に再会した機会に、ちょうどよかったので直近の出来事を話題にしたと見られる。 《既而》 「既而」は「その報告を聞き終えて」の意であろう。 スデニシテには軽く聞き流したニュアンスが感じられ、その出来事自体よりもむしろ各地に同時に多くの使者を派遣できで近江朝廷の人材の豊さの方に目が向いたようである。 《近江朝左右大臣及智謀群臣》 具体的には〈天智〉十年正月条に 蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣、 蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣を御史大夫(大納言)にしたとある。 この五人は、同十年十一月丙辰で大友皇子に忠誠を誓った。 《朕》 この時点で「朕」を用いるのはまだ早く、書紀による潤色である。 この段の執筆に用いた資料があったとすればすれば、そこでの一人称は我(吾)であっただろう。 《唯有幼少孺子耳》 一見弱音を吐いているように見えるが、実際には高市皇子に対して 近江朝の大臣や群臣を凌駕するはたらきをせよと叱咤激励したのである。 「幼少孺子」には当然高市皇子も含まれるから、皇子をも侮辱する物言いになっている。 この挑発に対して高市皇子が返した言葉は、大海人皇子の期待を上回る堂々としたものだった。よって上機嫌になって褒めたのである。 《攘臂案剣》 臂は肘から上の部分なので、古訓のタダムキ〔肘から下〕とは部位が異なる。 ただ、ここでは「案剣」〔剣の束を握る〕して、両肘を左右にぐっと張り出す勇ましい姿を表現したと見られ、 タダムキで特に問題はない。カヒナよりも語調が強い語を選んだのであろう。 このシーンは、文学的である。それでも、この時に高市皇子が大将軍として反朝廷軍の柱になったことを示すものといえよう。 《鞍馬》 京都府の地名に「鞍馬〔クラマ〕」がある。 鞍馬をクラマと訓んだなるべく古い用例を探すと、『後撰和歌集』〔村上天皇(在位946~967)勅撰〕巻十六(1140)「昔よりくらまの山といひけるはわかこと人もよるやこえけん」が見える。 『鞍馬蓋寺縁起』によると、鞍馬寺の起源は宝亀元年〔770〕と伝わる(鞍馬寺公式/歴史)。 クラマは、クラ-ウマの母音融合であるから、この語が上代から存在したことは十分考えられる。 〈時代別上代〉は、たまたま上代の文献に用例がなかったから取り上げなかったと考えられる。 鞍馬に乗せたのは鞍だけではなく、儀式用の荘馬〔かざりうま〕(〈推古〉十八年)であろう。 その姿の例は、〈雄略〉九年《鞍几後橋》で見た。 ただまだ即位前で、かつ戦乱のさなかであるから、これよりは簡略かと思われる。
「行宮」は、「興」の受事主語〔本来目的語の位置に置かれるべき語が主語となる〕ということでよいであろう。 「野上」は「於野上」の意味であるが、目的語のように扱われている。 「興」は普通ならタテルと訓読するであろうが、〈続紀〉の尾治宿祢大隅が私邸を掃き清めて提供した記事(次項)によるなら、オコスと訓読することになろう。 《野上行宮》 国道21号線「野上」交差点から南西200mに、「野上行宮跡」の案内板〔関ヶ原町が設置;以下〈案内板〉〕がある。 そこには、 「この地は高楼にして、眺望良く、朝鮮式土器も出土しています。乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたというここ別通称寺社屋敷が、行宮跡地と伝えられています」などとある。 その出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926;以下〈郡史〉〕に内容が重なる記述があった。 いわく、「野上の中央長者屋敷址を擬する者あれど、これ亦拠り所はなかるべし。慶長年間の宮橋文書によれば、行宮遺木の廃巧を惜み、行基来りて南形六坊を建立せりと記し、 慶長十三年伊富岐神社古図に依れば、現野上村南墓地付近を社寺屋敷として記せり。此の附近は高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見ることあれば或はこの地は行宮址ならんと思はるゝも猶後考を待つべきなり」という(p.114)。 文中の「慶長年間の宮橋文書」は未だ確認できていない。 しかし「古図」については、「伊富岐神社古絵図」〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。 さらに〈案内板〉をこの位置に立てた根拠を知ろうとしたが、今のところその資料は見つけられずにいる。ただ、現地に行ってみると、〈案内板〉付近からの眺望は『新修垂井町史』(前出)掲載の写真(p.127)に似ている。 以上については、資料[79]で詳述している。 一方『大日本地名辞書』は「野上行宮址:今詳ならず。諸書に桃配山を以て即行宮址と為すは、慶長の大捷と壬申の乱を相混する者にして、桃配は野戦の陣地たるべきも、決して第宅の形勢にあらず、二者分別を要す」 〔桃配山を野上行宮跡とするのは関ヶ原の役と壬申の乱を混同したもので、邸宅のあるような場所ではないから、両者は区別すべきである〕と述べる(中巻p.2143)。 これが冷静な見方であろう。 さらに、野上行宮に関しては〈続紀〉に次の記事がある。
『大日本地名辞書』は「後世に謂ゆる長者屋敷などと云へるが、即行宮にもなりにける尾治宿祢の邸宅にあらずや〔尾治宿祢の邸宅は、そのまま行宮として使用できるような立派なものであろう〕」と述べる(同前)。 これについて『関ヶ原町史』は「野上の住居区のうち良好なところにあったとする考えと思われる」と述べる(p.134)。 この「住居区」は、中山道沿いの家並みを指すと思われる。 大海人皇子が一時の居所として私邸を借りたのは自然な成り行きと思われる。 したがって野上行宮は官司の私邸そのものであり、各地で行宮と推定される遺跡〔例えば讃岐の石湯行宮(〈斉明〉七年)〕ほどの規模とは考えられない。 すると、たまたま大きめの私邸の跡が見つかったとしても、それが野上行宮であったと判断することはできないであろう。 だから、遺跡によって野上行宮の位置を特定することは不可能だと思われる。 行基の「南方六坊」跡とされる〈案内板〉のところには石垣が残り、あるいは古寺跡とも思ったが何とも言えない。 どちらにせよ、行宮の朽ち果てた様を惜しんで廃材を用いて建てたというのは、単なる伝説であろう。 しかし、このような伝説が生まれたのは、この地域に野上行宮が存在したという記憶が地域住民に強く残っていた証拠である。 結果的に〈天武〉天皇となった人物の大本営であったことが伝説を強固にしたのであろうが、 野上の地の人々の心に刻まれた記憶の深さは、大海人皇子にまつわる他の地域に比べても際立っていると感じられる。 だから、現在の野上地域のどこかに野上行宮が置かれたのは確実であろう。 さて、この地域にある桃配山は、家康の最初陣跡とされる。 「桃配山」という名称は「大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話」によるが、 「その根拠については未だ謎」という(関ヶ原町歴史民俗学習館/壬申の乱)。 この伝説が記された案内板について、資料[78]で検討したが、『大日本地名辞書』には全く触れられていないことなので、ことによると明治以後に誰かが創作したものかも知れない。 仮に1000年ぐらい昔から伝わった話だとすれば、やはり野上行宮について刻まれた記憶の深さを表すものとなる。 なお、桑名郡からここまでの経路は、養老山脈および南宮山の東側の街道と考えられる。 これについて『関ヶ原町史』は「揖斐川右岸にそって…養老町を経、南宮山東麓を通って、不破郡垂井町に至る道」と述べる。 《雷電雨甚》 雷雨になったから、神祇が勝利を賜るなら止むと誓(うけひ)したところ、すぐに止んだという。 偶然こういう結果になったとしても不思議はないが、史実か伝説かは分からない。 何れにしても、この段は〈天武〉の崇高化と言えよう。 《大意》 二十七日、 高市皇子(たけちのみこ)は 使者を桑名の郡家に派遣して、 「御身のいらっしゃるところから遠く離れておりますので、政を行うのに不便をしております。 よろしければ近い所にいてください。」と申し上げました。 その日のうちに、 天皇(すめらみこと)は皇后(おほきさき)を桑名郡家に留めて不破にお入りになりました。 この頃、〔不破の〕郡家に到着したところで、 尾張の国守(くにのかみ)小子部連(ちいさこべのむらじ)鉏鉤(さいち)が 二万の軍勢を率いて帰順しました。 天皇はそれをお褒めになり、 その軍を分けて各所の道を塞がせました。 野上(のがみ)に到着され、 高市皇子(たけちのみこ)は和蹔(わざみ)より参上してお迎えして、 よってこの機会に奏上しました。 ――「昨夜、 近江朝廷から駅使が馳せ参りました。 それを伏兵が捕えると、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)と 忍坂直(おさかのあたい)大麻呂(おおまろ)でした。 どこへ行くのかと問うたところ、 『吉野にお住いの大皇弟に備えるために、 東国の軍を興させようとして派遣された、 韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)に同行した者です。 しかし、磐鍬は 兵が現れたのを見て直ちに逃げ還りました。』と答えました。」 これを聞き終え、天皇(すめらみこと)は高市皇子(たけちのみこ)に仰りました。 ――「その近江朝廷は、左右の大臣、 さらに智謀の群臣と 共に議を定めている。 今、朕に計略に与る者は無く、 ただ幼少の孺子がいるのみである。 どうしたものであろうか。」 高市皇子は、上腕を払うようにつっぱり、剣を案じて〔=束に手をかけて〕奏言しました。 ――「近江の群臣の 数は多いが、どうして敢えて天皇〔=大海人皇子〕の魂に逆らえましょうか〔反語〕。 天皇はお一人だと仰りますが、 臣高市は、 神祇の霊力を頼みとして、 天皇が私に命令されるよう自らお願いし、 諸将を率いて征討してみせます。 〔近江朝廷はこれに〕あに抵抗することができましょうか〔反語〕。」 この言葉を聞き、天皇(すめらみこと)はお誉めになり、 手を取り背中を摩(さす)って 「ゆめゆめ怠ることのないように。」と仰りました。 よって鞍馬を賜り、悉く軍事を授けました。 高市皇子は、こうして和蹔(わざみ)に帰りました。 天皇(すめらみこと)は、そこで 行宮を野上に興して滞在されました。 その夜、電雨が甚だしく、 天皇(すめらみこと)は 「天神地祇が、朕をお扶(たす)になるのなら、雷雨は止むであろう」と祈念されました。 そう言い終えてすぐに、雷雨は止みました。 14目次 【元年六月二十八日~七月一日】 《往於和蹔檢校軍事》
勢ぞろいした軍勢を謁見したかと直感したが、《別将及軍監》項において飛鳥寺西軍営で軍隊の組織化が実行されるところを見ると、 和蹔でも軍組織の機構と運営を検討したと見るべきか。 文字通り軍の事を検校したと読めばよさそうである。 但し、その際和蹔原に軍を集合整列させての謁見も、当然行われたであろう。 《命高市皇子号令軍衆》 これも、軍勢を並べてその眼前で高らかに任命したのだろう。 《大伴連吹負》
留守司高坂王らの配下の近江朝廷側の軍勢の中には、漢直に属する者が含まれていたようである 「漢直」は、個別氏族のうちの文直を指したか、あるいはグループとしての「坂上大宿祢同祖」諸氏の全体を指したものと考えられる。 ただ「一二の」とあるから、後者であろう。 その構成は下の《諸直等》で見る。 そのうち1~2名〔または1~2族〕に、吹負が高市皇子を装って攻め込んだときに内応するよう工作した。 《率数十騎》 二十六日是日(二)条で吹負の許に集まった数十騎と見られる。 そこでは「僅」(わずか)と表現されたが、少数精鋭だったのだろう。 《秦造熊》
構文からは、秦造熊が犢鼻〔たふさき〕という名前の人に命じて馬に乗せて告げさせたとしか読めない。 しかし、犢鼻を名前と見るのは無理があり、また「熊」が発した叫び声が軍営に響き渡ったというから、犢鼻一丁の姿で馬で駆け巡ったのは秦造熊自身である。 秦造熊は被命令者であるから、「令秦造熊」としなければならない。目的語を主語の位置におく「受事主語」という構文があるにはあるが、使役動詞の場合は命令者と区別がつかなくなるから用いないと考えられる。 よって「秦造熊令」は和習で、正しくは「令秦造熊著犢鼻乗馬而馳之」などとすべきと考える。 なお、その命令主は、文脈から見て吹負あるいは坂上直熊毛だと考えられる。
密かに内通させようとした相手は「一二漢直」であった。ところが「秦造」は「倭漢直」とは別族である。 しかし、〈応神〉段(第152回)では、 阿知吉士〔東漢の祖〕、和邇吉師〔西文の祖〕、秦造之祖三者の来帰がワンセットとして書かれている。 これは、記が書かれた時点で三者の間に同族に近い仲間意識があったことが反映したと見られる。 よって、「一ニ漢直」の漢直には、事実上秦造も含まれていたと見てよいと思われる。 さらに、漢直に倭(東)がついていないのは、西文諸族まで含んでいたからとも考えられる。 《犢鼻》 熊を犢鼻姿で馬に乗せて駆け回らせたというが、そのような格好をさせた理由は何だろう。 ある説では「熊はいわゆる相撲 仮に力士だとして、軍営に置いていた目的は儀礼のためかそれとも戦力であろうか。 力士であろうがなかろうが、特異な格好をさせて注目させようとしたものであろう。 《高坂王》
「自二飛鳥寺の北の路一出之臨レ営」とある。百済家は飛鳥寺から見て北方にあったのだろう。 《爰留守司高坂王》 「爰」は、時間を遡って記述していることを示している。 「是日大伴連吹負」段の「自飛鳥寺北路出之臨営」は、既にここで書かれた状態になっているからである。 なお、高坂王はこの時点では、まだ近江朝廷側である。 「時営中軍衆…」から、現時点に戻る。 《百済家》
本サイトによるこれまでの考察を振り返ると、〈敏達〉天皇の百済大井宮の位置については摂津国百済郡を除外し、 広瀬郡百済の可能性も薄れ、吉備池廃寺付近を有力とした(第240回【百済大井宮】)。 〈舒明〉十二年の百済大寺については、1997年以後の発掘調査により、吉備池廃寺が有力となり、広瀬郡説はほぼ否定されるに至った (〈舒明〉十一年【百済川側九重塔】項)。 ここで、さらに『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』〔木下正史;角川書店2005〕を見ると、 「塔基壇規模や心礎の抜き取り穴は…九重の巨塔のもの」、 その時期は「軒丸瓦と軒平瓦の組合せから、吉備池廃寺の創建が、630年代後半から640年代初め頃と推定」される。 「回廊の礎石…金堂や塔の基壇上に礎石がまったく残っていない」、それは「それらが抜き取られて、他に運ばれたから」で、 「七世紀後半頃、他の場所に移転したことを示す発掘成果もあった」という。 これらの時期は〈舒明〉十一年〔639〕の「百済大寺」の創建、 〈天武〉二年〔673〕の高市大寺への移転に符合すると述べる(pp.193~197)。 そして「現在の広陵町百済の地に比定する説」については、「〔広陵町の〕百済の地名が古代まで遡ることを示す資料がない…〔広陵町百済の〕付近から古代の瓦が発見されず…考古学資料を欠く」と述べて否定する(p.126~127)。 一方「百済大寺の」名については、この一帯の地名は磐余なので、「「百済川」〔宮川と推定〕のほとりに営まれたことに因んでつけられた呼称」と見ている(pp.197~198)。 しかし単に川だけに百済の名が付いていたというのも不自然なので、本サイトは百済大寺のある地名そのものが「百済」だったと考えている。 これまでに「敏達天皇の百済大井宮は、戒重村の他田宮と同一または近傍にあった可能性がある」、 また藤原宮跡のすぐ南に「小字名「百済〔・西百済・東百済〕」があり、大伴吹負の「百済家」も天香久山周辺であろう」として、 「〔藤原宮から吉備池廃寺までの〕天香具山を含む一帯が百済と呼ばれた可能性」が高いと見た (〈舒明〉十一年【百済川側九重塔】項)。 百済家の位置については、〈遠山/壬申の乱〉は「小字の百済・東百済・西百済にあてる説がある」と述べるが、 小字にピンポイントに限定されず、吉備池廃寺付近まで広がると思われる。 ただ、大伴氏本貫の鳥坂神社付近はさすがに遠すぎる(〈宣化〉四年)。 よって「藤原宮~吉備池廃寺」地域〔図の6、8、9〕のどこかにあった百済家は、大伴氏の別業 《南門》 「繕二兵於百済家一、自二南門一出之」とある。ということは、百済家は飛鳥寺から見て北方にあったのであろう。 《飛鳥寺西槻下》 「飛鳥寺西槻下」では、しばしば重要な出来事や行事があった。〈皇極〉三年で「打毱」の逸話がある「法興寺槻樹之下」と同じ場所を指すと思われる。 その辺りと思しき飛鳥寺西方遺跡から石敷き広場が検出され、その「穴」は大槻樹の跡かも知れない。 その後、大化元年六月に〈皇極〉から〈孝徳〉に譲位した際、中大兄皇子〔〈天智〉〕を加えた三者が、群臣の面前で盟約。その会場が、飛鳥寺(法興寺)西の大槻樹の下であった(六月乙卯)。 また、〈斉明〉三年条において、盂蘭盆会と覩貨邏人のための饗 すなわち、飛鳥寺西の大槻樹がある石敷き広場〔石造物出土地の近く〕は「法興寺槻樹之下打毱」⇒人々を集めた公的行事の広場⇒外国人接待の会場のように使われてきた。 《唯百足》 「唯百足居小墾田兵庫」については、百足はまず高坂皇子とともに飛鳥寺西に軍営を設営し、次に小墾田兵庫に移って兵器の運び出しを指揮したと読むのが合理的である。 「居」については大海人皇子の敵だから「ヲリ」、近江朝廷との関係性から「ハベリ」のどちらの訓みも考えられる。 《小墾田兵庫》 『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅴ―藤原京左京六条三坊の調査―』〔奈良文化財研究所2017〕は、 「『日本書紀』壬申紀の小墾田兵庫についてふれた記事によれば、大友皇子方が軍営を置いた飛鳥寺西の槻木広場と、小墾田兵庫との間には一定の距離があった様に読み取れ、 「兵庫田」の地は適正な場所だと言える」と記す(p.405)。 『季刊 飛鳥風122』〔古都飛鳥保存財団2012〕所載の山本崇論文は 「小墾田兵庫から呼ばれた穂積百足が、「馬に乗り緩く来る」とする記述は、この〔小墾田兵庫と飛鳥寺西の〕間に相応の距離を感じさせ」、 よって「小字「兵庫田」が小墾田宮にかかわるとする…指摘は、いわゆる山田道の北に広大な小墾田宮を推定する立場からは魅力的」だと述べる(pp.12~13)。 『古代日本の歴史地理学的研究』〔千田稔;岩波書店1991〕も、 同じく「馬に乗り緩く」の記述から「兵庫と本営の間は、かなり距離があるとみるほうがよい」から「「兵庫田」の付近もまた小墾田であったとみる余地がある」と見ている(p.209)。 このように、小字兵庫田とする論が多いが、「田」が付くことが気にかかる。 というのは、兵庫の司の長への食封として給わった田を指すとも思えるからである。 その場合、「小墾田兵庫」は、雷丘東方遺跡の礎石建物群に含まれると考えてもよいように思われる(第249回)。 《大意》 二十八日、 天皇(すめらみこと)は和蹔(わざみ)に行かれ、 軍事を検校〔=点検や謁見〕して帰られました。 二十九日、 天皇は和蹔に行かれ、 高市皇子(たけちのみこ)にお命じになり、軍衆に号令させました。 天皇はまた野上(のがみ)に帰られ、〔そのまましばらく〕滞在されました。 この日に、 大伴連(おおとものむらじ)吹負(ふけい)は、 密かに留守司(るすのつかさ)坂上直(さかがみのあたい)熊毛(くまけ)と協議し、 一人二人の漢直(あやのあたい)らに言いました。 ――「私は高市皇子だと詐称し 数十騎を率いて、 飛鳥寺の北の路から出て軍営に臨む。 そしたら、お前たちは内応せよ。」 既に、兵を百済の家で整え、 南門から出ました。 軍営に着く前に 秦造(はたのみやつこ)熊(くま)に命じて 褌姿で馬に乗せて走り回らせ、 寺の西の軍営中に 「高市皇子(たけちのみこ)不破(ふわ)から来られた。 軍衆を多数従えておられる。」と触れ回らせました。 この時までに、留守の司高坂王(たかさかのおおきみ)、 及び〔近江朝廷側の〕兵を興すための使者穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)たちは、 飛鳥寺の西の槻木(つきのき)の下を拠点として、軍営を設置していました。 ただ、百足(ももたる)は、小墾田(おはりた)の武器庫にいて、 武器を近江に運んでいました。 その時、軍営の中の軍衆は 熊の叫ぶ声を聞いて、 悉く散り散りになって逃げました。 《大伴連吹負劇来》
姓「直」〔アタヒ〕資料[18]【釈日本紀】項では、庚午籍〔670〕あるいはそれ以後の時期に「費」⇒「直」の表記の変更があったことが伺われる。 資料[25]《坂上大宿祢》~《文宿祢》項によれば、 倭文(倭漢)はもともと直姓で、後に宿祢姓を賜った。 〈姓氏録〉では、〖坂上大宿祢同祖〗の範疇に十九氏が含まれる(右表)。 倭漢の祖は書紀では〈応神〉二十年「「倭漢直祖阿知使主其子都加使主」すなわち阿知使主とその子都加使主となっている。 〈続紀〉には、延暦四年〔785〕六月癸酉条「坂上大忌寸苅田麻呂等上表言「臣等本是後漢霊帝之曽孫阿智王之後也」」とあり、阿智王は霊帝の四代孫とされる。 〈姓氏録〉では、阿智王の名前そのものはあまり出てこないが、 〈姓氏録〉と〈続紀〉を混合すれば、系図は「霊帝―延王―〇―阿知使主―都加使主」と繋がっているから、実質は同じこととなる。 〖坂上大宿祢〗は特に「宿祢」に「大」がつくことから、倭文〔大和国のアヤ系諸族〕の宗家であったことが読み取れる。 以上から、「諸直」は、〈天武〉十三年に宿祢姓を賜った倭文グループの~直であると判断される。 ただ「諸直等」は、それに加えて《令秦造熊》項で見たように、渡来系仲間の西漢や秦造にも及ぶであろう。 《共与連和》 「共与」に対して古訓は、「共に」+「与(とも)に」の同義反復熟語と見ている。しかし、〈汉典〉は熟語としての見出し語にしていない。日本の漢和辞典類も熟語に挙げない。 一般的には熟語でないことから「与」が単独の動詞だとすれば、「連和に与(あづか)る」、若しくは「大海人皇子側に与(くみ)する」となる。 クミスとすれば、連〔ツラヌ〕、和〔ヤハラグ、アマナフ〕と共に同義語を三語も続けることになり、さすがに多すぎる。 しかし、敵に寝返った事実をそれだけ強く表現したのかも知れない。 「連和」への古訓は「ウルハシ」だが、形容詞「麗し」では全く意味通じないから、 四段ウルハスの連用形か。 そのウルハスはウルホスが母音変化する前の形〔ウルフの未然形+四段動詞語尾〕で、湿らせる意である。「仲間になる」を、「関係を潤す」と表したのだろうかと思われるが、だとすれば直訳より婉曲で穏やかである。 「つるむ・寝返る」という否定的な語感を緩和しようとしたのかも知れない。 《挙高市皇子之命》 「高市皇子の命を挙げて」は、吹負が高市皇子の権威を借りて、有無を言わさず使者に百足を呼びに行かせたのであろう。 《緩来》 「緩来」は、すなわち「渋々来た」のであろう。百足は留守司高坂王に命じられて、小墾田の兵庫から武器を運び出す任にあたっていた。 前線への武器の配置は緊急を要することを、百足は重々承知していた。 その途中で突然呼び戻されり、訝ったのだと思われる。 《下馬也》 「下馬也」は、文脈から見れば命令文である。ただ、古訓には命令文「オリヨ」と平叙文「オリヌ」が並記されている。 也は、しばしばナリと訓読されるように一般的には平叙文の断定を強める。果たして命令文にも使ったのであろうか。 そこで「国際電脳漢字及異体字知識庫」を見ると、「也:…③ 語気詞。表二肯定、判斷、疑問、反問、命令の語気一。」とあるので、命令文にも使われたと見てよい。 《下馬遅之》 「下馬」は動目構造が名詞化して主語となり、之は遅が動詞であることを示すための形式目的語である。 その後で、襟をつかんで引き摺り降ろされるから、「下馬遅之」は結局自分から降りることは最後までなかったことを表す。 身分が低い者による命令を拒んだのであろうか。 百足は飛鳥寺西の軍営からしばらく離れていたから、陣営全体が既に敵方に寝返っていたことを知らなかったのかも知れない。 《射中一箭》 「射中二一箭一」、すなわち矢を射て命中した。 次の「因りて…斬り殺す」だけを見れば、百足が放った矢が誰かに中ったと読める。 しかし、襟首を掴んで引き摺り降ろされた状態で弓を射るのは無理で、百足が射つには一度捕える手を振りほどいて逃げ、体勢を整えなければならない。 一つの考え方としては、「斬り殺した」を「射殺した」とする別伝が紛れ込んだのかも知れない。 仮にストーリーの一貫性を維持するなら、周囲にいた人の射た矢のうち一本が百足に命中したと見るべきか。 その場合接続詞「因りて」の意味は直接の因果関係から離れて、「そして」となる。 《穂積臣五百枝》
一方、穂積臣五百枝と物部首日向は殺されなかった。百足は抵抗したから殺され、二人は大人しく投降したから生きながらえたようだ。 「俄而赦之」〔俄かにして赦した〕のは、大海人皇子側に就くことを約束したからだろう。「置二軍中一」は、吹負の軍に加わったと読める。 捕虜として捕縛したままだと監視の人員を要するので、敵に立ち向かう戦闘力が低下する。本人が寝返ると言うなら縄を解いて味方の戦力に加え、躊躇したら後ろから射殺すぞと言って脅せばよいのである。 《高坂王稚狭王》
ところが、吹負からの攻撃を受けると簡単に屈服して寝返ってしまった。 吹負の面前に引っ張り出されて、こちらに付くなら命は助けてやるとでも言われたのであろう。 朝廷側の高級官僚としての責任感があれば、拒否して殺されるか呼び出される前に自死しただろうが、忠誠心はこの程度であった。 朝廷への反感は官司に蔓延していて、この立場の人物まで蝕んでいたのだろう。 もう一人の稚狭王は、高坂王の下で部署としての「留守司」に勤務していたと思われる。 トップの留守司からしてこれだから、逃げずに軍営に留まっていた兵員も丸ごと吹負のものとなったことは間違いない。 《大伴連安麻呂》
「不破宮」は、野上行宮であろう。 《三輪君高市麻呂》
軍監は、〈倭名類聚抄〉によると「鎮守府」のマツリコトヒト、すなわち四等官の第三位とする。古訓もこれを用いている。 もし軍事組織のピラミッドの第三位を軍監というのなら、別将は第ニ位であるからスケであろう。 〈倭名類聚抄〉には、「長官:…鎮守府ハ曰二将軍一…【已上皆「加美」】」、「判官:…鎮守府曰軍監…【已上皆「万豆利古止比止」】」、「祐官:…鎮守府曰軍曹…【已上皆「佐官」】」とあるが、 なぜか「次官:…鎮守府曰○○…【已上皆「須介」】」が欠落している。ここに「鎮守府曰別将」を入れれば、ちょうどうまく収まることになる。
ここで命令系統を確立したことは、乱の勝利を得る上で計り知れない意義を持ったであろう。
六月は小の月なので「六月庚寅」〔三十日〕は存在しない。 六月条に入っている原因は、書紀がこの部分を参照した資料に「七月」が脱落していることに気づかなかったためと考えられる。 詳しくは次回【元年七月二日】で述べる。 《初向乃楽》 「初向乃楽」は、七月三日条の「将軍吹負、屯二于乃楽山上一」に続く。 乃楽はナラで、万葉では平山、楢山、奈良山、常山と表記。〈崇神〉紀では「那羅山」(第114回)。 平城山丘陵は現在の奈良市北部で、西半分を佐紀丘陵、東半分を佐保丘陵と呼ぶことがある。 佐紀丘陵には佐紀盾列古墳群がある (第117回《平城山丘陵》項)。 佐保山の範囲は、資料[03]で調べた。 実際に平城山が詠まれたのは、佐紀山と佐保山の間の街道を通るときだと思われるので、実質的にはその街道の両側かも知れない。 《大意》 こうして、大伴連(おおとものむらじ)吹負(ふけい)は、 数十騎を率いて劇的にやってきました。 直ちに熊毛(くまけ)と〔坂田直配下の〕諸々の倭の漢(あや)の直(あたい)たちは共に与(くみ)して連なり和して、 軍士たちもまた従いました。 そして高市皇子(たけちのみこ)が発したと称する命令を掲げて、 穗積臣百足を小墾田(をはりた)の武器庫まで呼びに行かせました。 すると、百足は馬に乗ってゆっくりやって来て、 飛鳥寺の西の槻(つきのき)の下に至りました。 そこにいた人が「下馬せよ」と言い、 その時百足は、下馬が遅れました。 そこで、百足の襟(えり)を掴んで引きずり降ろし、 その時〔周囲から〕射た一矢が当たりました。 そして太刀を抜いて百足を斬り殺しました。 穂積臣(ほずみのおみ)五百枝(いおえ)と 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)については、拘禁しましたが、 突如赦して軍中に加えました。 また高坂王(たかさかのおおきみ)と 稚狭王(わかさのおおきみ)を召喚して〔吹負の〕軍に従わせました。 既にこのような成り行きがあったので、大伴連(おおとものむらじ)安麻呂(やすまろ)、 坂上直(さかがみのあたい)老(おゆ)、 佐味君(さみのきみ)宿那麻呂(すくなまろ)らを不破の宮〔=野上行宮〕に遣わして、 事の成った様を奏上させました。 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれ、 よって吹負を将軍に任命しました。 この時、 三輪君(みわのきみ)高市麻呂(たけちまろ)と 鴨君(かものきみ)蝦夷(えみし)ら、 そして群がる豪傑たちは、 轟くが如く皆が将軍吹負の麾下(きか)に集いました。 よって、近江を襲う計略を立て、 軍勢の中から英俊なる者を選び別将(いくさのすけ)、及び軍監(いくさのじょう)としました。 七月一日、 初めに乃楽(なら)〔平城山〕に向いました。 まとめ 不破郡家、野上行宮、和蹔原、百済家、飛鳥寺西槻下、小墾田兵庫の所在地を廻っては、盛んに議論が展開されてきた。 そのうち、飛鳥寺西槻下は確定的である。 不破郡家、野上行宮、和蹔原については、それぞれ一辺1~2km平方程度の範囲に絞られたと見てよいだろう。 このうち和蹔原については、関ヶ原ということでほぼ一致しているが、関ヶ原は相当広く、その中で高市皇子の行宮をピンポイントで求める論はあまり見ない。 不破郡家については宮代地区にあったことは確定的なので、その範囲の地中に遺跡が眠っていることは十分期待できる。 郡は律令国が確立する以前には地方行政の基礎単位だったので、朝明郡家のような明確な建物跡が考えられる。 野上行宮には、大伴安麻呂の私邸が提供されたというから、〈案内板〉の山中は疑問である。 旧中山道沿いの集落の一宅の方が考え易い。ただし、堀立柱または礎石が見つかったとしても、私邸の規模だからそれが行宮跡だと判別することはできない。 したがって、野上行宮の正確な位置は永遠に分からないだろう。 小墾田兵庫について、多くは小字兵庫田の近くと見ている。大宰府の例を考えると、蔵司跡はもとは兵器工場であったとも言われる(『遠の朝廷』新泉社2011)。 「兵庫」には大宰府兵器工場の礎石配置と同程度が考えられるので、これも兵庫田の附近の地中に眠っているかも知れない。ただし、本サイトは小墾田宮北の建物群の可能性もあると考えている。 百済家については、小字百済・西百済・東百済は広い範囲の地名がピンポイントで残ったものと考えられる。具体的な位置は確定できず、言えることは飛鳥寺より北にあったという程度である。 さて、吹負配下は僅か数十騎であったが、高市皇子軍が来たとの流言を蒔いた。高市皇子なら相当大きな軍勢に違いないと思い、飛鳥寺西の軍営は震えあがった。 ところが、実際には吹負の小さな勢力であったと分かった後でも、高坂王らは格下の吹負に下った。 これは、高坂王は元から近江朝廷に不満を募らせていて、自らの選択として大海人皇子側に加わったとしか考えられない。 その背景としては、恐らく〈天智〉天皇が近江遷都を強行したことに対する反感が充満していたのであろう。近江に移った勢力と倭京に残留した勢力との間の派閥争いも考えられる。 すると、大海人皇子が留守司高坂王に駅鈴を求める使者を送ったのは、倭京残留勢力が近江朝廷から離反する可能性を探るためという新説が浮かび上がる。 もし駅鈴が発行されれば、倭京が大海人皇子側につくという意思表示となるからである。 なお、〈天武紀〉上で名前が挙がった各氏は奈良時代になっても功臣として称えられ、子はその遺名によって田の一部を継ぐことができたことが続紀に載る。 これを見ると、書紀に載る壬申の乱は決して誇張だらけの荒唐無稽な物語ではなく、相当の史実性を認めてよいと思われる。 |
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⇒ [28-06] 天武天皇上(3) |