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2024.10.30(wed) [28-04] 天武天皇上4 ▲ |
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10目次 【元年六月二十六日】 《朝明郡迹太川》
ただ迹太川が朝明川だとすれば、この碑の位置は河辺から離れすぎている。 現代になり、論文〈久志本:迹太川〉は従来から言われていた朝明川説を否定し、米洗川説を唱える。 久留倍遺跡に「朝明郡衙の可能性があると判明」したのは、2003年のことである。 (〈久留倍官衙遺跡計画〉(p.2))。 これによって、それより北にある朝明川を迹太川だとするのは、理屈が合わなくなった。 〈久志本:迹太川〉は、米洗川を迹太川に比定する根拠として、久留倍官衙遺跡より南側にあり、またこの川では水辺祭祀が行われていたことなどを挙げる。 《天照大神》 天照大神は太陽神であるから、東から昇る太陽を拝んだという読み方も考えられるが、「望」という語からは太陽ではなく伊勢神宮に向かって拝した印象を受ける。 太陽を拝むのならば、「仰」「向」を用いたのではないだろうか。 天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝することによって、味方してくれている伊勢国の人々に感謝の意を表したように思えるのだが、どうであろうか。 《郡家》
四日市市公式/久留倍官衙遺跡公園/各種資料によると、 「正殿・脇殿・東門などを備える東を向く政庁」で、「南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群」、 「倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれている」という。 地名の久留倍については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・朝明郡・訓覇【久留倍】郷}。 『勢陽五鈴遺響』〔1833〕には「大矢知:村中ニ久留倍ト云小字今ニ存セリ」とあるという。 したがって、久留倍官衙遺跡=朝明郡家となる。 前出〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、 史跡久留倍官衙遺跡はⅠ期:「7世紀第3四半期の終わり頃から8世紀前半」、Ⅱ期:「Ⅰ期の後から8世紀後半」、Ⅲ期「Ⅱ期の後から9世紀末」からなる。 同書は「構造や規模からみて古代伊勢国朝明郡衙跡である可能性が高い」と述べる。 Ⅰ期はさらに細分され「Ⅰ-①期は、丘陵裾部に南北棟を中心とした建物群」、「Ⅰ-②期は、丘陵頂部平坦部に東向きの政庁と、その西側の大型の総柱建物、丘陵裾部の建物群」という(p.26)。 壬申年〔672〕はⅠ-①期のはじめにあたり、右図の東半分の建物群となる。 《益人》
結果的には、この日までに村国連男依は不破道の封鎖を成し遂げ、大海皇子はその報告を聞いて大いに喜び、その功を褒めた。 《高市皇子》
《山背部小田…》
〈倭名類聚抄〉では、東海道諸国は「伊賀、伊勢、志摩、尾張…」の順に並んでいる。恐らく飛鳥時代は飛鳥京または藤原京、奈良時代は平城京が、東海道の起点であっただろう。 〈古代の道と駅〉は、 「尾張国も当初東海道から外れ、駅路は伊勢湾口を横断して参河国に上陸していた可能性」(A)があり、「尾張国は伊勢湾の湾奥に位置し、隣国との間に広大な低湿地」があるのを「避け、あえて海を渡ったことが海道の名称の由来になったと考えられる」(p.85)、 「大宝二年〔702〕の持統天皇の参河国行幸」では 「隠」(なばり)と伊勢国多気郡「圓方」(まどかた)を詠んだ歌があるので「名張から圓方を経由し…伊勢湾を渡る経路が採られたのであろうことが判る」などと述べる(p.88)。 ただ、尾張国経由の陸路ももちろん「東海道」として使われていたであろう。 愛智郡の熱田神宮は、日本武尊縁の草薙の剣を祀り(第53回)、 古来からの大国尾張国に通づる街道もまた、歴史的に重要であったことは間違いない。 奈良時代の経路はB、平安時代の仁和二年〔886〕以前はCであった。 六月二十五日条《鹿深越》の経路である(〈古代の道と駅〉p.88)。 以後はDとなり、ほぼ現在の国道一号線に沿う。 「東海軍」の通った東海道は、当然桑名郡方面から尾張国に向かう陸路であろう。大海皇子が通った道である。 《東山軍》 東山道は不破関を通っていたのは明らかだから、ほぼ後世の経路と同じであろう。 奈良時代は平城京から北向きの道を経て繋がる。飛鳥時代はさらに下ツ道などで倭京に繋がっていたと見られる。 「東山軍」は、この東山道を通って大津京から不破郡に向かったと見られる。 《大意》 二十六日の 朝、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)の辺りで、 天照大神を遥拝されました。 この時、益人(ますひと)が到着して 「関に留め置いた者は、 山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)ではなく、 大津皇子(おおつのみこ)です。」報告しました。 そして、〔大津皇子は〕益人に連れられて参上しました。 大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 難波吉士(なにわのきし)三綱(みつな)、 駒田勝(こまたのかつ)の忍人(おしひと)、 山辺君(やまのきみ)安麻呂(やすまろ)、 小墾田(おはりた)の猪手(いて)、 埿部(はつかしべ)の視枳(しき)、 大分君(おおきたのきみ)稚臣(わかみ)、 根連(ねのむらじ)金身(かねみ)、 漆部(ぬりべ、うるしべ)の友背(ともせ) の輩(やから)が従って参り、 天皇(すめらみこと)は大いに喜ばれました。 まさに〔朝明〕郡家に到着しようとしたとき、 男依(おより)が駅馬に乗って来て 「美濃(みの)の軍三千人を発して、 不破の道を塞ぐことに成功しました。」と奏上しました。 そこで、天皇(すめらみこと)は雄依〔=男依〕の功を褒められました。 そして郡家に到着しました。 高市皇子(たけちのみこ)を不破に先発させ、 軍事を監督させました。 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)阿加布(あかふ)を派遣して、 東海道の軍を発進させました。 また、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)を派遣して、 東山道の軍を発進させました。 11目次 【元年六月二十六日是日(一)】 《宿于桑名郡家》
つまり、候補となり得る遺跡は見つかっていないようである。 右図のⒶ榎撫駅(桑名郡)とⒷ馬津駅(尾張国)の間は海路であったと考えられている 〔〈古代の道と駅〉(p.89,93)による〕。 右図は、地理院地図の「自分で作る色別標高図」機能を使い、現在でも海抜0m以下の地域を水色に着色したものである。 実際には、もう少し東の名古屋市港区・南区までが海であったことが明らかになっている。 朝明郡家(久留倍官衙遺跡)から、榎撫駅に至る街道沿いのどこかに、桑名郡家があったのであろう。 〈久留倍官衙遺跡計画〉によると、久留倍官衙遺跡は「国道1号北勢バイパス建設に伴う久留倍遺跡の発掘調査開始」した結果、「古代の朝明郡衙」と見られることが判明した。 つまり、この工事がなければ明るみに出なかったのである。 ならば、桑名郡家についてもいつか偶発的に発見される可能性はあろう。 《停以不進》 大海皇子の一行は吉野宮を急ぎ発って以来、ここまで息もつかずに駆けて来た。 桑名郡家でやっと腰を据えたのは、味方のテリトリーに入り安心できる状態になったからであろう。 しかし、それも束の間、高市皇子の要請によって丁亥〔二十七日〕には不破郡に移る。 《大皇弟》 五月是月条では、一時「皇大弟」と表記されたが、ここで再び「大皇弟」に戻っている。 《京内震動》 大皇弟〔大海皇子〕が東国に入り軍勢を整えたとの報を聞き、 ある者は東国に脱出して大皇弟側に加わろうとし、ある者は逃げて山中に隠れたという。 この段で、京内がパニックに陥ったと描くのは近江朝廷を貶しめようとする潤色であろう。 ただ、美濃国・尾張国・伊勢国などは、朝廷への反感が募り叛意を秘めていることを、既に近江朝廷自身が認識していたと思われる。 ここに、有力な日継候補であった皇大弟が入れば、これらの諸国は皇大弟を推戴して一気に反乱の狼煙を挙げると危惧された。 諸国の不満の原因は、何といっても〈天智〉朝における軍事への動員であろう。 東国から工事に動員されたことを具体的に書く記事は、〈斉明〉・〈天智〉の山陵ぐらいであるが(元年五月是月)、 西日本各地に朝鮮式石城が築かれたことを見れば、恐らくそれらの工事に大規模に動員されていたと察せられる。不満が募り、火薬庫は発火寸前だったのである。 なお、高安城の石塁の築造が畿内住民の反感を招いて中止された※1)らしいところを見ると、畿内の人民には甘く、負担をかけることを避けたようである。 ※1…〈天智八年八月〉《登高安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作》項。 《大友皇子謂群臣》 大友皇子は敵方であるから尊敬表現を用いないことも考え得るが、臣は「進曰」と遜って表現しているから、大友皇子と臣との関係性によって尊敬表現を用いてもよいだろう。 《乗跡》 乗馬して大皇弟が移動した跡を追う意か。しかし、どう考えても「乗跡」は不可解である。 「騎」があるから「乗」は特になくともよい。だから乗跡は、たとえば「覓跡」〔跡を覓ぐ(=探し求める)〕などの誤りかも知れない。 《皇子不従》 一人の臣は、いち早く精鋭の騎馬部隊を投入して大海皇子軍を追跡すべしと提言した。大海皇子方の軍勢がまだ整わない今がチャンスだと見たのであろう。 大友皇子はそれを容れず、東国・倭京・吉備・筑紫に出撃を促した。時間がかかっても大軍勢を呼び寄せようとしたわけである。 しかし、筑紫大宰と吉備国守については既に大海皇子側についているかも知れないから、その気配が見えれば殺せと命じている。 しかし、それでは軍の派遣を得ることができなくなるから、判断は混迷している。 《韋那公磐鍬…》
東国の尾張、美濃の国司は完全に大海皇子側と見られ、そこに使者を送るのは一見すると不思議である。 捕まったのは不破郡の手前なので、東山道を通って信濃以東へ向かったのかも知れない 〔しかし、美濃国を無事に通り抜けられるとも思えず、この経路は無謀である〕。 ただ、美濃国内にも近江朝廷に従う勢力はあったかも知れない。 というのは、国守の任命は〈孝徳朝〉で始まったことで、それ以前は郡が地方区分の単位であった。 したがって、壬申年になってなお郡領の独立性がかなり残っていたとも考えられるからである。 郡単位で見れば、双方の勢力はモザイク状だったのかも知れない。 《穗積臣百足…》
倭京への使者のうち、百足が飛鳥寺西槻下の軍営に入った時には、軍営は既に敵方に寝返っており、殺された。 五百枝と日向も軍営で逮捕されたが、同じく寝返ることを条件に赦されたようである。 《佐伯連男…》
吉備国守には、符を授与する儀式においては刀を解くものだと言ってだましたのであろう。 磐手は大友皇子の指令を、要するに殺せということだと受け止めて即座に殺したのかも知れない。 もし大友皇子の指示を額面通りに実行したのなら、最初に顔を合わせたときに反逆の色を読み取ったということになる。 《大意》 この日、 天皇(すめらみこと)は桑名の郡家に宿し、 留まって進みませんでした。 この時、近江朝廷は、 大皇弟(だいこうてい)が東国に入ったと聞き、 群臣はことごとく驚愕し、京内は揺れ動きました。 或いは遁走して東国に入いろうとし、 或いは退去してに山の沢に隠れようとしました。 このとき、大友皇子(おおとものみこ)は群臣に、 「どう計略をするのか。」と仰りました。 一人の臣が、 「謀(はかりごと)が遅ければ、遅れをとるでしょう。 すみやかに驍騎(ぎょうき)〔勇猛な騎馬隊〕を集めて〔皇大弟が移動した〕跡を騎乗して追い、駆逐する以上の策はありません。」と申しました。 大伴皇子はこの意見に従いませんでした。 そして、韋那公(いなのきみ)磐鍬(いわすき)、 書直(ふみのあたい)薬(くすり)、 忍坂直(おさかのあたい)大摩侶(おおまろ)を 東国に遣わし、 穗積臣(ほずみのおみ)百足(ももたる)、 弟の百枝(ももえだ)、 物部首(もののべのおびと)日向(ひむか)を 倭京〔飛鳥の宮〕に遣わしました。 また、佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)を筑紫(つくし)に遣わし、 樟使主(くすのおみ)磐手(いわて)を吉備の国に遣わし、 それぞれ皆、兵を興させました。 そして男(おとこ)と磐手(いわて)に 「その筑紫の大宰(おおみこともち)栗隅王(くりくまのおおきみ)と 吉備の国の守(かみ)当摩公(たぎまのきみ)広嶋(ひろしま)の二人は、 元々大皇弟に隷属していたから、背くことも有るかと疑われる。 もし〔近江朝廷に〕服さぬ気配があれば、直ちに殺せ。」と仰りました。 こうして、磐手が吉備の国に到り符を授けた日、 広嶋に偽って太刀を解かせておいて、 磐手は太刀を抜いて殺しました。 12目次 【元年六月二十六日是日(二)】 《男至筑紫》
大野城・基肄城は、峻城〔急峻な山城〕と言えよう。また、水城も深隍と表現し得る(天智三年是歳)。 《然後雖百殺臣何益焉》 益(利益)を意味する上代語には、カガ、クホサがある。 一方、益の古訓「シルシには、甲斐という意味があので、 雖百殺臣何益に「百回臣を殺すと言っても甲斐はない」という語感を与えることができる。 漢語の益にも「効果」の意がある。 「雖」には「いふ」を加えて「いへども」と訓むべきか。 《豈敢背徳耶》 豈敢背徳耶は反語で、すなわち「これが敢えて徳に背くことなのか?否である」という。 この文の主語は栗隈王で、出兵すべしという朝命を拒むことは重罪であるが、敢えてそうすることに徳があると胸を張って言う。 唐新羅の侵略に備えて守りを固めるのが筑紫大宰の任務であり、たとえ王朝が交代してもその任は変わらないという主張には道理がある。 つまり中央で政権争いがしたければ勝手にやってくれ、どちらが勝とうが私は国家のために辺境を固守するのみであるというわけである。 よって、栗隈王は必ずしも親大皇弟であったとは限らないが、近江朝廷によるこのような命令は、却って大皇弟側に追いやってしまったかも知れない。 《栗隈王之二子》
《按剣》 古訓は「按レ剣」と訓む。トリシハルについて〈時代別上代〉が挙げる文例は書紀古訓のみである。 また他の古語辞典は見出し語にしないものばかりなので、書紀古訓以外の用例はないようである。 ただ〈類聚名義抄〉にはあるが、拉致の「拉」を訓んだものなので、「獲り縛る」という語を書紀古訓者が誤用した可能性がある。 《磐鍬》
《遮薬等之後》 薬と大摩侶の背後をまず押さえて逃げ道を塞いだ。その後のことは書いていないが、当然前方からも襲い包囲して捕えたのであろう。 《当是時》 時を遡って、馬来田が菟田吾城で大海皇子に追いつく(二十四日即日条)前にあったことを書いたと見られる。 《馬来田》
吹負は兵を募集して大軍を組織し、大海皇子軍の主力に躍り出て一気に勝負を決しようと思った。 それによって名を上げようとする。その野心は後世の戦国時代の武将と同質であるところが興味深い。 だが、実際に集まったのは僅か数十名で思惑は外れた。 それでも戊子〔二十八日〕にはその数十名を率いて謀略を駆使して奮戦し、大海皇子に認められて将軍を拝する。 以後、壬申の乱に勝利するまでに吹負の名が出て来るのは13箇所に及ぶ。 ところが、〈天武紀〉下巻になると十二年の「卒」まで名前が出てこない。 武将としての才は国が平定されれば役立たず、活躍の場を失ったということであろうか。さらに、野心に溢れる人柄が敬遠されたことも想像に難くない。 《大意》 佐伯連(さへきのむらじ)男(おとこ)は、筑紫に到着しました。 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)は符を承り、お答えしました。 ――「筑紫は、もとより周辺の敵の難から守る国です。 その急峻な城、深い溝という臨海の守りは、 あに国内の敵に対するものでありましょうか〔反語〕。 今、畏れ多くも命を受け入れて軍を発たせれば、すなわち国を空しくしましょう。 若し不意に外から突然の事が起れば、 一直線に社稷〔=国家〕を傾けましょう。 その後に百回〔皇大弟の〕臣を殺すと言ってみたところで、何の甲斐がありましょうか。 これが敢て徳〔=道理〕に背くことになりましょうか。 すなわち、兵を動かさないのは、この理由によります。」 その時、栗隈王(くりくまのおおきみ)の二子、 三野王(みののおおきみ)、 武家王(たけるべのおおきみ)が、 剣を帯びて傍らに立ち、退くことはありませんでした。 そこで、男は剣の束(つか)を握りしめて進もうと思いましたが、却って殺されるかも知れないと恐れました。 よって事を成すことはできず、空しく帰りました。 東方に向かった駅使磐鍬(いわすき)たちは、まさに不破に到着しようとしているところでした。 磐鍬一人は山中に兵がいることを疑い、 後からゆっくり行きました。 その時、伏兵が山から出てきて、薬(くすり)たちの後ろを遮りました。 磐鍬は、これを見て薬たちが捕まったことを知り、 とって返して逃走し、辛うじて脱出できました。 この時に当たり、 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)と 弟の吹負(ふけひ)は、 二人とも時か否かを見ていました。 よって病と称して倭の家に退きました。 しかし、その嗣位に登る人は、 必ず吉野におわします大皇弟(だいこうてい)であると知りました。 これにより、馬来田が先ず天皇〔=大皇弟〕に〔菟田吾城で追いつき〕従いました。 ただ、吹負(ふけひ)は留まり、 名を立てようと思い、一気に艱難(かんなん)を平定しようとしました。 すなわち一二の族、及び諸々の豪傑を招き、 僅かに数十人を得ました。 まとめ 大伴連馬来田と弟の吹負は、はじめは家に籠ってどちらか勝てる方につこうとして形勢を見ていた。 多くの氏族も同様であっただろう。大海皇子さえも、はじめはどちらかと言えば反朝廷勢力によって押し上げられた形で立ち上がった。 根本にあるのは皇子個人の野望というよりは、東国のいくつかの国がもつ近江王朝の存続を望まない強固な意志であった。 伊勢・尾張・美濃で反朝廷感情が強かったのは、主に西国の朝鮮式山城の築城に重い負担を強制されたためと考えられる。 防人の例を見ると、はるばる東国から徴用されたのは、未開の地の族であるから気楽に動員できるという差別意識のためと思われる。 西国の朝鮮式山城の築城についても、畿内の人民にはあまり負担をかけないようにして東国から動員したと見られる。 軍事への徴用は西国においては、地理的に唐・新羅による攻撃への備えの必要性が比較的理解されていたと思われる。 最前線の筑紫においては特にである。 これを、近江朝廷は筑紫が朝廷の理解者であると受け止め、反乱の鎮圧に力を貸せと言った。 しかし、筑紫が軍事の負担を受け入れてきたのは国土の防衛という大局観によるものであって、 大友皇子に私的に好意を寄せたものでは決してなかった。大海皇子が即位したとしても、それならそれでよかったのだろう。そこに近江朝廷の考え違いがあったと見る。 吉備国も兵の動員を受け入れなかったと見られ、西国は全体として中央での権力争いを冷ややかに見ていたようである。 |