上代語で読む日本書紀〔天武天皇上(1)〕 サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 日本書紀―天智天皇紀

2024.08.21(wed) [28-01] 天武天皇上1 

天武1目次 【即位前】
天渟中原瀛眞人天皇〔天武〕。天命開別天皇同母弟也……〔続き〕


目次 【立為東宮】
《天智七年~十年十月十七日》
天命開別天皇元年。
立爲東宮。
東宮…〈北野本〔以下北〕東-宮 マウケノキミ
まうけのきみ…[名] 皇太子。
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の元年(はじめのとし)〔称制七年〕
立たして東宮(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
四年冬十月庚辰。
天皇臥病以痛之甚矣。
於是、遣蘇賀臣安麻侶、
召東宮引入大殿。
臥病…〈北〉臥-病 ミヤマヒシタマフカノヲンヤス ク殿
〈内閣文庫本〔以下閣〕臥-病ミヤマヒシタマフ コト大-殿ミアラカ ニ
〈兼右本〉 玉フ シイ乍大-殿ミヤ ラカ
四年(よとせ)冬十月(かむなづき)庚辰(かのえたつ)〔十七日〕
天皇(すめらみこと)臥病(みやまひしたまふ)、以(も)ちて痛之(いたきこと)甚(はなはだ)し[矣]。
於是(ここに)、蘇賀臣(そがのおみ)の安麻侶(やすまろ)を遣(つかは)して、
東宮を召(め)して大殿(おほとの)に引き入れたまふ。
時安摩侶、
素東宮所好、密顧東宮曰
「有意而言矣。」
東宮、
於茲疑有隱謀而愼之。
安摩侶素…〈北〉モトヨリ ノ ナリヨミシタマフタテマツ東宮有-意 コゝロシテヒ 言矣 ノタマヘノタウヘ マウシタヘ 
〈閣〉ヨミシタマフトコロナリ ヒ ニ テ有-意コゝロシラヒ ノタマヘノタラヘ
〈兼右本〉トコロナリヨシミ玉フ[句]ヒソカ-ヒキイイ无カヘリミタテマツ東-宮[テ][切]有-意コゝロシラヒ[テ]ノタマヘ/マウシタヘ
於茲疑有…〈北〉 ラム隠- セル謀而タマフ。 〈閣〉 ニ コトヲ隱- セル
〈兼右本〉[切] タマフ ン[コト][ヲ]隠- セル タル
しらふ…[他]ハ四 シルの再活用。動詞語尾(四段)は未然形に接して反復・継続の意を添える。
こころしらふ…[自]ハ四 「心してよく知る」意か。
時に安摩侶(やすまろ)、
素(もとより)東宮(ひつぎのみこ)の所好(よみしたまふひと)とありて、密(ひそかに)東宮(ひつぎのみこ)を顧(かへりみ)て曰(まを)ししく
「意(こころ)を有(も)ちて[而]言(まを)したまへ[矣]」とまをしき。
東宮(ひつぎのみこ)、
於茲(ここに)隠(かく)せる謀(はかりごと)有りと疑(うたが)ひて[而]慎之(つつしみたま)ふ。
天皇勅東宮授鴻業、
乃辭讓之曰
授鴻…〈北〉鴻業アマ■ツギノコト辞-イナヒ。 〈閣〉鴻-業アマツヒツキノコト
天皇(すめらみこと)東宮(ひつぎのみこ)に勅(みことのり)たまひて鴻業(あまつひつぎ)を授(さづ)けたまひて、
乃(すなは)ち辞(いな)びて譲之(ゆづ)りたまひて曰(まを)したまひしく
「臣之不幸元有多病、
何能保社稷。
願陛下舉天下附皇后。
仍立大友皇子宜爲儲君。
臣之不幸…〈北〉 ヤツ カ不幸 サイハヒナキ■ト左ハ 能保社-稷クニイヘ願陛-下キミ  ノ ヲ ヨ皇后 シタマヘ ノ ト
〈閣〉ヤツ カ不-幸サヒハヒナキ[切] ヨリ[切]サハノ[句] 何能 ム ノ ヲ ヨ ニ
〈兼右本〉ヨサ タヘツケヨ皇-后大-友 トモ 皇-子
「臣之(やつかれが)不幸(さきはひなき)は元(もと)より多(さはに)病(やまひ)を有(もて)るにありて、
何(なにぞ)能(よ)く社稷(くにいへ)を保(まも)るか。
願(ねが)はくは陛下(きみ)挙(こぞ)りて天下(あめのした)をば皇后(おほきさき)に附(つ)けたまへ。
仍(よ)りて大友皇子(おほとものみこ)を立たして宜(よろし)く儲君(まうけのきみ)に為(な)したまふべし。
臣今日出家、
爲陛下欲修功德。」
為陛下…〈北〉ミタ陛-オコナハム功徳 ノリノコト
…(呉音)ク。(漢音)コウ。
功徳…[仏教](くどく) 仏道に勤しんで得られた功績。
臣(やつかれ)は今日(けふ)に出家(いへで)しまつりて、
陛下(きみ)が為(みため)に修(おこなひ)して功徳(くどく)をえむと欲(おも)ひまつる」とまをしたまひき。
天皇聽之。
卽日出家法服。
因以、收私兵器悉納於司。
聴之…〈北〉ユルシス ノ日出家[テ]ノリノ[句]コロモヲキタマフ兵- オホヤケ
〈閣〉法-服コロモヲキタマフ ニ。 〈兼右本〉ユ 玉フ法-服 ノキヌキ玉フコロモヲキタマフ タマフ
法服…[仏] 僧の着る服。法衣。
…(呉音)ホフ。
ことごと…[名] 〈時代別上代〉「副詞語尾ニを伴う場合もある」、「コトゴトクの形は、古訓や新撰字鏡享和本には見えるが、上代には確実にそれと指摘できるものはない」。
天皇(すめらみこと)之(こ)を聴(ゆる)したまふ。
即日(このひ)出家(いへで)して法服(ほふぶく)をきたまふ。
因(よ)りて以(も)ちて、私(わたくし)の兵器(つはもの)を収(をさ)めたまひて悉(ことごと)に[於]司(つかさ)に納(をさ)めまつりたまふ。
《天命開別天皇元年》
 〈天智〉紀の「元年」は、「称制元年」とした。しかし、次の段に「四年冬十月庚辰。天皇臥病以痛之甚矣」とあるので、 ここでは即位年〔=称制七年〕を「元年」としている。 〈天智〉紀では称制の間は「大皇弟」と呼び、「東宮」になるのは即位年のことであったから、「天命開別天皇元年立為東宮」の筋は通っている。
 〈内閣文庫本〉が「四年」に「/十」と傍書するのは、称制を元年とした〈天智〉紀に揃えたもの。 ただ、元年に「/七」の傍書はないので、称制の間は皇太子を定めることはないとする書紀原文の繊細な配慮を台無しにしている。
《東宮》
 「四年〔称制十年〕に、謀略的ではあるがともかく「鴻業」を授けようとした。これが真の意味での「東宮」任命にあたる。 「元年〔称制七年〕に東宮となったというがその実質はなく、書紀が事後に形式として認定したに過ぎない。それは、結局〈天武〉が現実に即位したという事実による。
 なお、古訓はマウケノキミを用いているが、これはヒツギノミコと同義である。
 実際にマウケノキミが使われたのは、大海皇子の言葉「大友皇子を儲君まうけのきみにしたまふべし」の中である。 書紀古訓は、この語を大海皇子の「東宮」に転用したと思われる。
《蘇賀臣安麻侶》
蘇賀臣安麻侶  蘇我氏系図および、 〈続紀〉天平元年〔729〕八月「丁卯。左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也」 によると、「馬子―雄当―連子(〈天智〉三年三月)―安丸―石川石足」。冠位は「小花下」なので、薨は浄御原令〔689〕より以前となる。
 蘇我蘇賀という表記の揺れがあるが、両者とも抵抗なく使われていたようである。
 なお、安麻侶は〈天智紀〉には登場しなかった。
《大殿》
 古訓はミアラカアラカは神仏や貴人の殿。 内裏はオホトノと訓まれるように、宮廷の建造物としての名称はオホトノである。 そこに畏怖の情を加えて呼んだのがミアラカだと見られる。
 ここでは〈天智〉が陰謀の片棒を担いでしまっているから、ミアラカでは畏まり過ぎではないか。 オホトノでもオホ-によって十分に尊敬表現になっている。
《有意而言》
 〈天武上〉が安麻侶が助言した話を置いたのは、大海皇子に即位を勧めたのは罠であったと明確に示すためである。 もし大海皇子が安易に即位を受け入れれば、太政大臣以下の臣によって邪に政権奪取を狙ったと見做されて直ちに滅ぼされる手順が用意されていたと見られる。 即位の意思を否定して僧門に入れば、いずれ決起の日を迎えるにしてもひとまず時間稼ぎができる。
 吉野宮に入った大海皇子の許には、諸族からの使者が日参して決起の手順を相談する情景が想像される。
《臣之不幸元有多病》
 「臣之不幸」のは動詞としては「往く」であるが、これでは意味が通らない。 単純にを属格の助詞として「臣之不幸」を主語、「元有多病」を述語だと考えればよいだろう。 すなわち「臣之不幸是元有多病」から繫辞が省略されたと考えるのが妥当か。
《挙天下附皇后》
 〈舒明〉が崩じた後は、直ちに葛城皇子(〈天智〉)が即位するのではなく皇后〈皇極〉が皇位を継承した。 〈敏達〉が崩じた後は、短期間の二代(〈用明〉〈崇峻〉)を挟んだ後、やはり皇后の〈推古〉が継承している。 その時は厩戸皇子を皇太子かつ摂政とした。
 このように、本来の皇太子が年若い場合は、ひとまず皇后が皇位に即くことが或る種の習慣となっていた。 〈天武〉以後も、〈持統〉即位にその例が見られる。
 ※) 一般に大友皇子が「大化四年生まれ」とされるのは、この『扶桑略記』の記述によるものと思われる。 書紀、『本朝皇胤紹運録』、『公卿補任』の何れにも、大友皇子の生まれ年に関する記述はない。
 大友皇子の場合、『扶桑略記』には「〈天智〉十年辛未正月五月。以大友皇子太政大臣。年廿五歳※)」とあり、確かに若年である。
 それを考えると、まず皇后を即位させるべしという大海皇子の主張は常識的なもので、本当に他意はなかったかも知れない。
 しかし〈天智〉は皇后を間に挟まずに、直接大友皇子に継がせようと考えていた。 〈天智〉は大海皇子の意見を聞いたとき、大友皇子が即位することを嫌っていると感じたとしても不思議はない。 もしも〈天智〉がこの感想を漏らせば、大友皇子はじめ左右大臣、大納言は俄かに大海皇子への警戒心を高めたであろう。
《法服》
 法服の古訓「ノリノコロモ」は、法と服を直訳して繋いだもので、実際に使われる言葉であったかどうかは疑わしい。 「法師:ホフシ〔=僧〕」と同じように、古くから音読されていたのではないだろうか。
《大意》
 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕元年〔称制七年〕、 天皇〔天武〕を東宮に立てられました。
 四年十月十七日、 天皇〔天智〕は病に臥し、大変辛くあられました。
 そこで、蘇賀の臣の安麻侶(やすまろ)を遣わし、 東宮〔天武天皇〕を召して大殿に引き入れられました。
 そのとき安摩侶は、 以前から東宮と好(よしみ)を通じていて、振り返って東宮に密かに、 「心の内によくお考えになってお話しください」と申し上げました。
 東宮は、 よって隠された謀があることをと疑い、慎重に振舞われました。
 天皇は東宮に勅して鴻業〔=皇位〕を授けられましたが、 すぐに辞して譲られて申し上げました。
――「臣は不幸にして、元から多くの病気をもつ身です。 どうして社稷〔=国家〕を保つことができましょう。
 願わくば陛下は天下のすべてを皇后に委ね、 そして、大友皇子(おおとものみこ)を立てて儲君(もうけのきみ)〔=皇太子〕になされませ。
 臣は今日出家して、 陛下のために功徳を修めたいと存じます」。
 天皇はこれを聴(ゆる)されました。
 その日のうちに出家して法服を着用されました。 それにより、私的に所持していた兵器は、悉く官司に納められました。


目次 【入吉野宮】
《天智十年十月十九日~十二月》
壬午。
入吉野宮。
時、左大臣蘇賀赤兄臣
右大臣中臣金連及
大納言蘇賀果安臣等、
送之自菟道返焉。
入吉野宮…〈北〉 タマフ𠮷野宮我イ赤- ノ我イ ハタ キ■臣等タテマツレ
〈閣〉大納言オホキモノマウスツカサ  マツル
壬午(みづのえうま)〔十九日〕
吉野宮(よしののみや)に入(いでま)す。
時に、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)
右大臣(みぎのおほまへつきい)中臣(なかとみ)の金(くがね、かね)の連(むらじ)及びて
大納言(おほきものまをすつかさ)蘇賀(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)等(たち)、
送之(おくりまつ)りて菟道(うぢ)自(ゆ)返(かへ)りつ[焉]。
或曰「虎着翼放之」。
是夕、御嶋宮。
虎着翼…〈北〉ツクオハシマス 。 〈閣〉 ニ ツケテ ヲ
…〈類聚名義抄〉僧上巻「:ハネ ナル タスク ツバサ ツゝシム カクル ウヤマフ タクハフ」。
はね…[名] つばさ。
つばさ…[名] 鳥の翼。
或(ある)に曰へらく「虎に翼(つばさ)を着けて之(こ)を放てり」といへり。 是夕(このゆうへ)、嶋宮(しまのみや)に御(おほましま)す。
癸未。
至吉野而居之。
是時、聚諸舍人謂之曰
癸未(みづのとひつじ)〔二十日〕
吉野に至りて[而]之(ここ)に居(おほまします)。
是(この)時、諸(もろもろ)の舎人(とねり)を聚(あつ)めて[之]謂(のたま)ひて曰(のたまはく)
「我今入道修行、
故隨欲修道者留之。
若仕欲成名者、
還仕於司。」
入道修行…〈北〉入-道-修-オコナヒセムトス行故隨 オコナ道者 レツカヘヨオホヤケ
〈閣〉 ニ テ。 〈兼右本〉入-道-修-オコナヒセントス
「我(われ)今に道に入りて修行(おこなひ)せむ。
故(かれ)隨欲(ほしきまにまに)修道(おこなひ)せむとする者(もの)は留之(とどまれ)。
若(もし)仕(つか)へて名を成さむと欲(おも)ふ者は、
還(かへ)りて[於]司(つかさ)に仕(つか)へまつれ」とのたまふ。
然无退者。
更聚舍人而詔如前。
是以、舍人等半留半退。
詔如前…〈北〉 ミコト如前。 〈閣〉 ハ退
然(しかれども)退(まか)る者(もの)无(な)し。
更(また)舎人(とねり)を聚(あつ)めて[而]詔(のたま)ふこと前(さき)の如(ごと)し。
是(こを)以ちて、舎人(とねり)等(たち)は半(なかば)留(とど)まりて半(なかば)退(まか)りつ。
十二月。
天命開別天皇崩。
十二月(しはす)。
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕p.57,p.66に加筆
現在の宇治橋
嶋宮(島庄遺跡)~吉野宮(宮滝遺跡)
《入吉野宮》
 吉野宮は、宮滝遺跡と見られる(第204回【阿岐豆野】項)。
《大納言》
 ここの書紀古訓によって、〈倭名類聚抄〉「大納言:於保伊毛乃萬宇須豆加佐」のオホイオホキの音便であったことが実証される。〈倭名類聚抄〉は930年代成立。 書紀古訓が付された時期は音便が進む前の奈良時代か、せいぜい平安前期であろう。 大納言は、〈天智〉十年条では御史大夫であった。 〈天武紀〉では大宝令以後の表記を遡らせて用いたと見られる。
《自菟道返焉》
 宇治郡はかなり広いので、大臣たちがどこまで随行したかを特定することは難しい。 ただ宇治川を渡るところまで同行し、そこで大海皇子の一行を見送ったとすれば風景としてよい。
 飛鳥に向かう街道には、宇治川に宇治橋が架かる(右図)。 後年〔1052〕平等院鳳凰堂が築かれ、菟道の宗教的中心地となった。
 宇治橋は、大化二年に道登が築いたと言われる。 その出典を探ったところ、『扶桑略記』に行き着いた。
 日本霊異記〔弘仁年間(810~823)成立か;群書類従版:『校本日本霊異記』日本古典全集刊行会1929〕
人畜所履髑髏救収示霊表而現報縁第十二
高麗学生道登者元興寺沙門也。出自山背恵満之家而往1)大化二年丙午営宇治椅
〔高麗の学生道登は元興寺の僧である。山城国の恵満の家の出身。その後大化二年に宇治橋を作り…〕
1) 而往…以後。
 道登は、大化元年に十師の一人に任命。 白雉元年に白雉の古伝を語った。
 鎌倉時代『帝王編年記』に宇治川橋の碑文が引用されている。
 『帝王編年記』〔1364~1380成立〕巻之九 孝徳天皇 (国書データベース/帝王編年記)
二年丙午元興寺道登道昭奉勅始作宇治川橋石上銘
「…世有釈子 名曰道登 出自山尻 恵満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜…」
〔大化二年、元興寺の道登・道昭は勅を奉り始めて宇治川橋を作る。その石上の銘: …世に釈子あり、名を道登といい山尻〔山城であろう〕の恵満の家より出る。大化二年この橋を構え立て、人畜を渡らせ…〕
 寛政三年〔1791〕に『宇治橋断碑』が発見され、「世有釈子 名曰道登 出」の部分が見える。
 鎌倉時代にはこの碑が存在していたことが分かる。しかし、扶桑略記とどちらが古いかは分からない。
 一方、〈続紀〉には、宇治橋は道照和尚が築いたと載る。 その記述は、〈斉明〉四年《玄弉法師》項で見た記事の中にある。
 『続日本紀』文武四年〔700〕
三月己未。道照和尚物化。…初孝徳天皇白雉四年。随使入唐。…儲船造橋。乃山背国宇治橋。和尚之所創造者也。 〔白雉四年〔653〕道照和尚が死去した。…船を造り、橋を作った。すなわち山背国の宇治橋は道照和尚が作ったものである〕
 『帝王編年記』本文には「道登道昭奉勅始作」とあり、二人を両立させている。 大化二年に道登が橋を築いたが流失し、白雉四年以後に道照が再建したという筋書きは成り立ちうる。
 両者を排反事象として見る場合は、〈続紀〉に載る道照和尚の生涯には伝説的な内容が目立つので、若干不利かも知れない。
 しかし、そもそもそれぞれの名僧を結び付けた伝説が、独立的に生まれたこともあり得る。 空海が満濃池や益田池を作ったり、聖徳太子が大量の寺院を開基したと言われるのと同じで、偉大な建造物には一般的に偉大な人物が結び付く。 しかし高僧が必ず土木技術者としての専門知識を備えていた訳でもないから、宇治橋の場合も有名な建造物に高僧を結びつけたひとつの例かも知れない 〔ただ、重要性を声高に唱えて精神的に誘導したということなら十分考えられる〕
 このようにその「創造者」が誰であったかは決め難いが、五月「是月」条には「菟道守橋者」とあるから、〈天武〉元年の時点で宇治橋が架かっていたことだけは確実である。 〈孝徳〉朝に初めて宇治橋が建造されたことも、信じてよいであろう。 道登または道昭が帰国したとき、唐から橋づくりの専門技術集団を連れ帰ったことは考えてよい。 それが高僧自らが橋を作った話に転化したと見るのが穏当か。
《嶋宮》
 嶋宮は、島庄遺跡に比定されている(〈推古〉三十四年《家》項、〈用明〉元年《蘇我馬子邸宅》項)。 蘇我馬子が薨じた後は、時々皇族が宿泊するための公の施設になったと見られる。
《虎着翼放之》
 〈天智〉十年十二月条の「童謡其一」は都落ちした辛さを詠ったものだったが、実際には都から離れた地で密かにかつ自由に決起の準備をしていたのである。 「虎に翼を付けて放てり」と喧伝されたことは、真理を衝いたものであろう。
《翼》
 ツバサと訓んでよいかどうか、慎重に考えたい。 鳥類の前肢を指す上代語には、ハネツバサがある。
 ハネについては、 (万)0657翼酢色之 變安寸 はねずいろの うつろひやすき」が見える。 ハネズ色は桃より濃い赤色(ここでは枕詞)。植物由来の染料が想定される。 この歌では、ハネと借訓するために用いている。
 ツバサについては、〈倭名類聚抄〉に「:…和名都波佐」が見える。 (万)3345葦邊徃 鴈之翅乎 見別 あしへゆく かりのつばさを みるごとに」は音数(五七五七七)によって判断したと見られる。
 〈類聚名義抄〉には、法下巻「:ツハサ ツムテ」、 僧上巻「:ツハサ」、 僧上巻「:ツハサ ハネ」がある。
 これらの字は、すべての異体字と見られる。現時点では、(u+7fee)、(u+7fef)を除けばunicodeにはない。 〈類聚名義抄〉はわが国の字についての基本資料なので、そこに載る字は全てunicodeに加えるべきであろう。
 いろいろ探ってみたが、結局〈天武〉紀上巻においてにあてるべき上代語は、ツバサハネも可能と見られる。
《舎人》
 舎人には、公から食封じきふが支給される 〔大夫以上に給付され、それを仕える舎人に配分する〕大海皇子に仕える舎人も同様であったはずである。 改新詔其一では、大夫以上の食封は公的に徴集したものを分配することになった。 ただ、改新勅発布の時点では多分に建前であろうが、第206回【釈紀:論者曰】項を見ると、 奈良時代には納税は農民が年に一回生産物を持ち寄り、国司が公と荘園に分配する仕組みになっている。 食封の額の規定は、納税元の村の条里を指定する方法によって行われる 資料[54]【岡本田】項。 この例は寺社の修理料の支給を述べたものだが、皇子や大夫への食封も同様の方法で定められていたと思われる〕
 〈天武〉元年の頃には、食封の支給は行政によって機械的に行われるようになっており、皇子が吉野へ退いたことを以て突然支給が停止されることはなく、 官僚機構による事務的処理が継続していたと思われる。 その点注目されるのは、元年五月是月条の「皇大弟宮舎人運私粮」である。 舎人に支給する糧は、相変わらず大和国司の許から運ばれていたことが分かる。
 都に戻った舎人は新たな部署に配置され食封が支給され、冠位は通例に従って上昇していくであろう。 皇子に随って僧門に入った者にも、食封は支給され続けただろうが、 今後もし賊軍と判定されれば、その瞬間に支給は停止されて未来を失うことになる。 但し、もしクーデターが成功すれば逆に栄達の道が開ける。大海皇子は、どちらの道を選ぶかを各人の自由とした。
 一回目に聞いた時に誰も帰ると言わなかったのは、気を遣わせていると見たのであろう。 最終的には大海皇子が天下を取ることに賭けた舎人が半数いたわけで、比較的多い。 この割合は、世間の大方の見方を反映したものかも知れない。
《大意》
 十九日、 吉野の宮に入られました。
 その時、左大臣(ひだりのおおまえつきみ)蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)、 右大臣(みぎのおおまえつきみ)中臣(なかとみ)の金(くがね、かね)の連(むらじ)、及び 大納言(おおきものもうすつかさ)蘇賀(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)等は 送り、菟道に着いたところで引き返しました。
 或る人は「虎に翼を着けて放った」と言いました。 この日の夕、嶋宮(しまのみや)に滞在されました。
 二十日、 吉野に到着し、居を定めました。
 この時、もろもろの舎人を集め、仰りました。
――「私は今、入道し修行する。 そこで、自分の意思で修道したいという者は留まれ。 もし、仕官して名を成そうと思う者は、 都に帰って官司に仕えるがよい」。
 しかし、去る者はいませんでした。 そこでもう一度舎人を集め、前と同じことを仰りました。 これにより、舎人たちは半ばが留まり、半ばが去りました。
 十二月、 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕が崩じました。


まとめ
 この時点では、大海皇子は公的な食封給付の対象から外されていない。 それもあって、近江朝に対する立ち位置は個人としては中立的であったと考えられる。〈天智〉の後継に皇后を推したのも、まさしくそれであった。 これは、書紀が〈天武〉を叛逆の人と描くのを避けての潤色のようにも見えるが、実際の人物像であったと思わせるものがある。
 しかし、中央に叛逆する諸族と人民にとっては、大海皇子はリーダーとして祀り上げるのに格好の立ち位置にいた。 結局、本人にはその立場を担う以外に選択肢はなくなっていったということであろう。 これは、古今東西の天下人に多かれ少なかれ共通することだろうと考えられる。 普通に考えて最初から根拠もなく国を獲る野望が本人にあるはずはなく、周囲の条件が揃うにつれて次第にそのような存在であることを自覚するようになっていくのである。
 さて、宇治橋は大海皇子への食封の運搬経路としても登場する。ここは近江朝と叛逆勢力が対峙する戦略上の要地と考えられる。 書紀にはこの二カ所以外に記述はないが、壬申の乱で恐らく焼け落ちたであろう。 こうして見ると、〈天智〉九年五月の童謡の「于知波志」には、やはり宇治橋が重ねられているという感が強まる。



2024.09.23(mon) [28-02] 天武天皇2 

目次 【元年三月~五月】
《告天皇喪於郭務悰等》
元年春三月壬辰朔己酉。
遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、
告天皇喪於郭務悰等。
元年…〈北野本〔以下北〕壬申 ノスナイウチノスナイナゝツノクラヰ稲敷イナ シキ ミモ
〈内閣文庫本〔以下閣〕ウチノ小七 スナヒ位  。 〈釈紀〉内小七位ウチノスナイクラヰ ノウチノスナイナゝツノクラヰ 稻敷イナシキ
元年(はじめのとし)春三月(やよひ)壬辰(みづのえたつ)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔十八日〕
内(うちつ)小七位(せうしちゐ、すくなきななつのくらゐ)阿曇連(あづみのむらじ)稲敷(いなしき)を[於]筑紫(つくし)に遣(つかは)して、
天皇(すめらみこと)の喪(みも)を[於]郭務悰(くわくむそう)等(ら)に告(つ)ぐ。
於是、郭務悰等、
咸着喪服三遍舉哀、
向東稽首。
喪服…〈北〉喪-服 ミセノコロモ タヒ舉哀 ミネタテマツル稽-首 ヲカム 。 〈閣〉喪-服ミモノコロモ舉-哀 イネタテマツル
於是(ここに)、郭務悰(くわくむそう)等(たち)、
咸(みな)喪服(みものころも)を着(き)て三遍(みより)挙哀(かなしびをたてまつ)りて、
東(ひむがし)に向(むか)ひて稽首(をろが)みまつる。
壬子。
郭務悰等、再拜進書函與信物。
書函与信物…〈北〉信物 クニツモノ。 〈閣〉書-函フミ ハコ。 〈北-天智紀〉書-函 フムヒツ(〈天智〉三年三月)。
壬子(みづのえね)〔二十一日〕
郭務悰(くわくむそう)等(たち)、再拝(をろが)みて書函(ふみはこ)と信物(くにつもの)与(と)を進(たてまつ)る。
夏五月辛卯朔壬寅。
以甲冑弓矢賜郭務悰等。
甲冑…〈北〉甲冑 ヨロヒ カフト
夏五月(さつき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として壬寅(みづのえとら)〔十二日〕
甲冑(よろひかぶと)弓矢(ゆみや)を以ちて郭務悰(くわくむそう)等(ら)に賜(たま)ふ。
是日。
賜郭務悰等物
總合絁一千六百七十三匹
布二千八百五十二端
綿六百六十六斤。
物総合…〈北〉總-合 スヘ フトキヌ一-千 チアマリ-六-百 ムウアマリ七- ナゝソアマリ三-匹ミムラ ヌノ二-千フタチアマリ八-百 ヤホアマリ五-十イソアマリ二-端 フタムラ 綿ワタ 六百ムヲアマリ六十ムソアマリ六斤 ムハカリ。 〈閣〉総-合 スヘテ 
ふときぬ…[名] 太い糸で織った粗い絹(〈天智〉十年十一月)。
是(この)日。
郭務悰(くわくむそう)等(たち)に物(もの)を賜(たま)ふこと、
総合(すべ)て絁(ふときぬ)一千六百七十三匹(ちあまりむほあまりななそあまりみむら)、
布(ぬの)二千八百五十二端(ふたちあまりやほあまりいそあまりふたむら)、
綿(わた)六百六十六斤(むほあまりむそあまりむはかり)。
戊午。
高麗遣前部富加抃等進調。
前部富加抃…〈北〉前-部 セン ホウヘシ。 〈閣〉ヘン。 〈釈紀〉ヘン
…[動] うつ。喜んで手をたたく。(呉音)ベン。(漢音)ヘン。 
戊午(つちのえうま)〔二十八日〕
高麗(こま)前部(ぜんほう)富加抃(ふかへん)等(ら)を遣(まだ)して進調(みつきたてまつる)。
庚申。
郭務悰等罷歸。
庚申〔三十日〕
郭務悰(くわくむそう)等(ら)罷(まか)り帰(かへ)る。
《安曇連稲敷》
安曇連稲敷  安曇連については、第43回【阿曇連】、〈皇極〉元年阿曇連比羅夫」など。 〈斉明〉元年《西海使》に「阿曇連頰垂」。
 「小錦下阿曇連稲敷」は、〈天武〉十年三月「定帝紀及上古諸事」と命じられた十二名の一人。
 冠位「内小七位」の実体は不明。〈天智〉三年冠位二十六階」で大小をセットとして数えると上から七番目は「大建」と「小建」だが、これは初位うゐ〔成人して初めて与えられる冠位〕なので低すぎる。 また、〈天武〉十年における冠位「小錦下」は同じ数え方をすると「内小四位」にあたるが、十年間でそこまで昇れたかどうかわからない。「小七位」がどの冠位に相当するかの判断は難しい。
 なお「内-」は、中臣鎌子の「内大臣」から類推すると、秘書室のような立場か。
《告天皇喪於郭務悰等》
 稲敷を使者として筑紫に遣わしたのは近江朝廷で、朝廷の主はこの時点では大友皇子である。そこに「大友皇子天皇即位説」を唱え得る余地がある。 大友皇子を「第三十九代天皇」に追諡したのは、明治時代であるが、ここでその妥当性を検討する。
 明治時代の追諡に関する文献を探したところ、『御歴代の代数年紀及院号に関する調査の沿革〔宮内省図書寮1919〕付録下(p.350)が見つかった。それによると、 大友皇子を天皇とするのは、『大日本史』〔徳川光圀〕が「大友天皇紀」を立てたこと始まり、 「明治三年〔1870〕七月〔明治天皇による〕弘文天皇の御追諡」によって確定したという。 ただ、歴代天皇の代数に加えるかどうかについては異論があり※)、議論の末『皇統譜』に加えることに決したようである。 ※)…近藤久敬「日本書紀に拠るべきと主張」。井上哲次郎「天皇には相違なきも御代数には加へざるを善しとす」。
 同書は、参考資料として次の歴史的文献を示す。
 『大鏡裏書所西宮記』(源高明〔913~982〕)「天智十年正月任太政大臣十二月即帝位 明年七月自縊」(所引)。
 『扶桑略記』〔1094〕〔天智十年十月〕大友太政大臣皇太子。十二月三日天皇崩。同月五日大友皇太子即為帝位【生年廿五】」。
 『水鏡』〔1195〕天智天皇十二月三日うせさせ給ひしかは同五日大友皇子位をつき給ひて」(所引)。
 『扶桑略記』は神功皇后を「神功天皇 十五代」と唱える書だが、「大友皇子即帝位」もその類で、扶桑略記は当時の俗説と見るべきで、西宮記も同様であろう。そこには、幾分庶民視線による希望的観測が感じられる。
 即位せぬまま天下を治めた場合の称号として、称制(〈天智〉、〈持統〉)、摂政(神功皇后)、秉政(〈顕宗〉7の飯豊女王)が見える。 大友皇子についても「称制」程度なら、書紀自体との整合を図ることができよう。
 そもそも大友皇子には和風諡号がなく、仮に「天皇」と称するとしても「飯豊天皇」、「倭武天皇」(第131回)などの俗称、あるいは「岡宮御宇天皇〔草壁皇子への後世の追号〕の類で、 書紀が規定した歴代の「天皇」と同列に扱うべきものではない。 「第三十九代弘文天皇」なるものは、明治天皇によって論理を超越して発せられた勅が、未だに宮内庁〔即ち現在の日本政府〕を拘束しているものと言わざるを得ない。
《郭務悰》
 郭務悰は、百済都督府からしばしば倭国・日本に派遣され、〈天智〉十年〔八年に重出〕にも二千人を率いて来訪した (《郭務悰》項)。
 「咸着喪服三遍挙哀向東稽首」は形式的な文言で、これ自体は史実としての信憑性を欠く。 ただ、「…稲敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等」とあることは信頼できそうで、 郭務悰がこの頃筑紫に滞在していたこと自体は史実と見てよいだろう。
《進書函与信物》
 〈天智〉十年十月《郭務悰》では、 郭務悰と沙宅孫登が二千人の軍勢を率いて来日した目的を論じた。
 そこでは、この史実は〈天智〉八年とした方が合理性があると見たが、 ただその場合「書函与信物」は来日してから二年五カ月も経た後となり不自然である。 これを説明するために、八年説について二通りの仮説を立ててみる。
 :「進書函与信物」は実は〈天智〉九年三月のことで〔「罷帰」は九年五月〕、「天皇喪於郭務悰等」は完全なる作文である。
 :「書函与信物」は九年初め頃に届いていたが交渉に長期間を要し、〈天武〉元年五月にやっと合意して帰国した。
 は前項で史実としたことがフィクションとなってしまうので排除するなら、を選ばざるを得ない。
 一方、十年説に基づく考察をとする。
 :時系列自体は自然であるが、〈天武〉元年三月に書函を受け取ってから五月までの瞬く間に交渉が成立して、 あっさりと2000名が引き揚げたとすれば、あまりに期間が短いように思える。
 〈天智〉十年正月には沙宅紹明を含む百済の旧臣に日本の冠位が授けられた。 仮にを採用すれば、2000人の軍勢のプレッシャーに負けず郭務悰との交渉の途上でこの冠位の授与をしたことになる。これは、百済旧臣を百済への戦線には参加させず、日本軍も派遣しないという日本側の断固とした意思表示となる。
 百済軍を率いた「沙宅孫登」の名を特筆する一方で、冠位授与の記事でその親族と思われる「沙宅紹明」の名を挙げたことは、その交渉の内容を暗示しているのかも知れない。
 なお、説の場合は、百済旧臣への冠位授与によって百済の亡命民と日本軍の渡海を拒否する意思表示をしたから、 その代わりとなる唐軍を筑紫に置いたと見た(〈天智〉紀12まとめ)。
《賜郭務悰等物》
 郭務悰一行に対して、かなり大量の物を賜っている。これは人数に見合うものか。 なお、これまでに返礼は帰国の直前のタイミングで授与しているので、突然呼び出して大量の物を賜ったとすれば、これだけ賜るからもう帰れと促す意思表示となる。 近江朝廷は、唐-新羅対立の構図の中で中立を貫くためによく頑張ったと言ってよいのではないか。
《高麗進調》
 〈天智〉十年《高麗上部大相可婁等罷帰》項で見たように、 高麗からの遣使は、〈天武〉二年以後は宗主国の新羅からの使者が付き添う形で行われている。
 〈天武〉元年の遣使については、新羅使が同行したとは書かれていない。 なお、百済地域は唐の支配下にあり筑紫には唐軍が駐屯しているから、航路は越の道を用いたと見るのが自然か。
《大意》
 元年三月十八日、 内小七位(うちつしょうなない)阿曇連(あずみのむらじ)稲敷(いなしき)を筑紫に派遣して、 天皇〔天智〕の喪を郭務悰(かくむそう)らに告げました。
 すると郭務悰らは、 皆喪服を着て三度哀悼して、 東に向かって稽首しました。
 二十一日、 郭務悰らは拝礼して、書箱と産物を献上しました。
 五月十二日、 甲冑と弓矢を郭務悰らに賜わりました。
 同じ日に、 郭務悰らに賜り物、 あわせて、絁(せ)一千六百七十三匹(ひつ)、 布二千八百五十二端(たん)、 綿六百六十六斤(きん)をしました。
 二十八日、 高麗国の前部(ぜんほう)富加抃(ふかへん)らを派遣して進調しました。
 三十日、 郭務悰一行は辞して帰りました。


目次 【元年五月是月】
《朴井連雄君奏天皇》
是月。
朴井連雄君、奏天皇曰
「臣、以有私事、
獨至美濃。
朴井連雄君…〈北〉朴-井エノヰノ ムラシキミ マカル美-濃
まかる…[自]ラ四 ①退出する。②遠くに去る。③死ぬ。
是(この)月。
朴井連(えゐのむらじ)雄君(をきみ)、天皇(すめらみこと)に奏(まを)して曰(まを)さく
「臣(やつかれ)、私(わたくし)の事(こと)の有るを以ちて、
独(ひとり)美濃(みの)に至りつ。
時、朝庭
宣美濃尾張兩國司曰、
『爲造山陵、豫差定人夫。
則人別令執兵。』
国司…〈北〉司曰 ミコトモチ務差アラカシ-定人-夫オホムタカラ。 〈閣〉山-陵ミサゝキ 
時に、朝庭(みかど)
美濃(みの)尾張(をはり)両(ふたつ)の国の司(つかさ)に宣(の)べて曰(のたま)ひしく、
『山陵(みささき)を造る為(ため)に、予(あらかじ)め人夫(よほろ)を差し定めよ。
則(すなは)ち人(ひと)別(わか)ちて兵(つはもの)を執(と)ら令(し)めよ。』とのたまひき。
臣以爲、
非爲山陵必有事矣、
若不早避當有危歟。」
臣以為…〈北〉 シ。 〈閣〉以-為ヲモハク   ニハ山-陵
若不早避…〈閣〉若不避當 コト
臣(やつかれ)以為(おもひまつらく)、
山陵(みささき)の為(ため)には非(あら)じ、必ず事(こと)や有らむ[矣]、
若(もし)[不]早(すみやか)に避(さ)かざらば当(まさ)に危(あやうき)こと有るべし[歟]とおもひまつる。」とまをす。
或有人奏曰
「自近江京至于倭京、
處々置候。
亦命菟道守橋者、
遮皇大弟宮舍人運私粮事。」
或有人…〈北〉有人ヲクウカミヲ守-橋ハシモリ-者タヘシム皇大 マウケノキミ
うかみ…[名] スパイ。
或(ある)は人有りて奏(まを)して曰(まを)さく
「近江(ちかつあふみ)の京(みやこ)自(よ)り[于]倭(やまと)の京(みやこ)に至りて、
処々(ところところ)に候(うかみ)を置けり。
亦(また)菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命(おほ)せて、
皇大弟(くわうだいてい)の宮の舎人(とねり)の私粮(わたくしのかて)を運ぶ事を遮(さ)へしめつ。」とまをす。
天皇惡之、
因令問察、以知事已實。
於是詔曰
悪之…〈北〉ハゝカリ ヒ アキラ
はばかる…[他]ラ四 ためらう。
天皇(すめらみこと)之(こ)を悪(にく)みたまひて、
因(よ)りて問ひ察(あきら)め令(し)めたまひて、以ちて事已(すで)に実(まこと)なりと知らす。
於是(ここに)詔(のたま)ひて曰(のたま)へらく
「朕、所以讓位遁世者、
獨治病全身永終百年。
然今不獲已
應承禍何默亡身耶。」
永終百年…〈北〉終百 トナリ 不獲亡身。 〈閣〉 ムトナリ百年今不ヤ コト應承禍何默 〔病を治めて身をまたくして永く百年ももとせを終へむとなり 然るに今むこと獲りてまさに禍を承るべし、何そもだして身を亡ぼさむ
…[動] (古訓) かくる。のかる。まぬかる。
「朕(われ)、譲位(くらゐをゆづ)りて遁世(よにかくるる)所以(ゆゑ)者(は)、
独(ひとり)病(やまひ)を治(をさ)めて身を全(またく)して永く百年(ももとせ)を終(を)へむとするためなり。
然(しかるに)今(いま)已(をふこと)を不獲(えざ)りて、
応(まさ)に禍(わざはひ)を承(うけたまは)りて何そ黙(もだ)して身を亡(ほろぼ)すべき耶(や)。」とのたまへり。
《朴井連雄君》
朴井連雄君  朴井連については、〈斉明〉四年十一月《物部朴井連鮪》項。 雄君は〈天武〉五年六月に「物部雄君連、忽発病而卒」、「大功、降恩贈内大紫位、因賜氏上」。 〈続紀〉大宝元年〔701〕七月壬申に、 「壬申の論功により、榎井連小君らに百戸を賜った。その四分の一を子に伝えよ」と書かれる(下述)。
《為造山陵予差定人夫》
 〈続紀〉文武三年〔699〕十月甲午「-造越智山科二山陵」によれば、 越智山陵(〈斉明〉)。山科山陵(〈天智〉)が実際に営造されたのは〈天武〉元年〔670〕から約30年後。 〈続紀〉の言う時期に初めて営造されたとすれば随分遅いが、 少なくとも〈天武〉元年には〈斉明〉陵と〈天智〉陵は未だ計画段階であったのだろう。 従って、ここで「為造山陵」を徴兵の口実にしたことには、一定の根拠がある。
 〈斉明〉と〈天智〉のどちらについてもずっと殯宮に安置とは思われないので陵はひとまず築かれていて、699年の「営造」は改葬ということになる。
 なお、〈斉明〉の八角陵(考古学名「牽牛子塚古墳」)がこれだとすると、 〈文武〉三年の営造では遅すぎるように思われ、解釈は難しい(〈天智〉六年二月)。
《人別令執兵》
 「人別令」は、「予定する人夫のうち一部には武器を持たせよ」という意味で、 雄君はそれによって徴兵だと判断した如き文章になっている。 ただ、山陵の工事のために武器を携帯させることは考えにくい。 「人別令執兵」の挿入は雄君の判断をもっともらしく見せるための潤色かも知れない。
《倭京》
 倭京明日香の宮のこと。 明日香村の飛鳥宮跡が、飛鳥岡本宮(〈舒明〉)、飛鳥板蓋宮(〈皇極〉)、後飛鳥岡本宮(〈斉明〉・〈天智〉)、飛鳥浄御原宮(〈天武〉・〈持統〉)の重層遺跡であるのは確定的である (資料54)。
《菟道守橋者》
 古訓が「守橋者」を「ハシモリ」とするの自然な読み方である。 ただ、〈時代別上代〉は見出し語にハシモリを立てず、モリ項の文中で紹介するのみである。この扱い方を見るとハシモリの用例はここが唯一なのかも知れない。 宇治橋には、小さな関が置かれていたのであろう。
《遮皇大弟宮舎人運私粮事》
 ここでは「私粮」と書かれるが、この時代になると基本的には食封じきふを給わっていたと考えられる。 大海皇子の場合、六月壬午条(次項)に出て来る「安八磨郡湯沐」がそれに該当する。 封戸が納めた穀物は、基本的に国司が預かって倉に保管したものであろう。 高安城倉庫群は、その施設の一つと見られる(天智三年冬資料[74])。
 前回見たように、「食封の支給は行政によって行政的に行われ」たと思われる。
 吉野宮へは宇治橋経由で運搬されていたのだから、保管庫は大和国の北部にあったと考えられる 〔高安城も考えられるが、遠すぎる〕。 それが「皇大弟宮舎人運私粮」だと見るのが妥当と思われる。
 ただ、それとは別に本来の意味での「私粮」があったことも考えられる。 かつては皇族も別業を私有し、〈推古〉天皇も各地に私有していたことが伺われる記述もある。 改新詔により公有化が宣言されたが、この時期になっても別業が一定程度残っていたかも知れない。 ただ、大海皇子の収入のうち、別業がどの程度の割合を占めていたかについては何とも言えない。
《皇大弟》
 ここでは大海皇子を「天皇」ではなく「皇大弟」と表す。もしここでも「天皇」を用いた場合、吉野宮を天皇宮と称することになり、かなり分かりにくくなるからそれを避けたか。
 なお、〈天智〉紀では「大皇弟」で字の順番が異なる(〈天智〉三年)。 書紀が参照した原資料では、「大弟」または「大々弟」ぐらいだろうか。
 〈天武紀上〉における古訓は「皇大弟マウケノキミ」だが、〈天智紀〉では「大皇弟ヒツギノミコ」であった。
《朕所以譲》
 まだ〈天武〉即位前だから、「」は形式的な用語法である。 ただ文中では自ら譲ったと述べ、すなわち天皇ではないから矛盾が際立っている。
《独治病全身永終百年》
 「独治病全身永終百年」――このままそっとしておいてくれるなら、持病もあることだから穏やかに余生を全うしたいと思うのは、あるいは本心かも知れない。
 もし本当に朝廷がその姿勢を保つなら、実際そうせざるを得なかったであろう。 しかし、チャンスさえあればという野心を秘めていることは決して否定できない。 よって、朝廷側から嫌がらせを受けるのは実に美味しいこととなる。 そして本来は謙虚な言葉が、決起を正当化する言葉に聞えるようになってゆくのである。
《大意》
 この月、 朴井連(えいのむらじ)雄君(おきみ)は、天皇(すめらみこと)〔大海皇子〕に奏上し、 「臣は、私事があったので、 独り美濃に行きました。 その時、朝庭が 美濃、尾張両国の国司に宣じて 『山陵を作るため、予め差し出す人夫を定めておけ。 その際、人を分けて兵器を持たせよ。』と言いました。 臣が思うに、 山陵のためではなく、必ず事があります。 もし速やかに避けなければ、危難があるでしょう。」と申し上げました。
 或いは、ある者の申すには 「近江京から倭京〔明日香の宮〕まで、 処々に間諜を置いています。 また、菟道の橋守に命じて、 皇大弟〔大海皇子〕の宮の舎人の食糧の運搬を遮っています。」と申しました。
 天皇はこれを不快に思い、 調べさせたところ、事は既に真実であることを知りました。
 そして、仰りました。
――「私が譲位して遁世した理由は、 独りで病を治療して身を全うして永く百年の寿命を終えようとするためである。 しかし、今や終えることはできなくなった。 禍いをお受けして、どうして黙って身を亡ぼすことがあろうか。」


目次 【元年六月二十二~二十四日】
《朕今発路》
六月辛酉朔壬午。
詔村國連男依
和珥部臣君手
身毛君廣、曰
村国連男依…〈北〉ムラ クニノムラシ 男-依ヲヨリ  ヲン キミ ケノキミ ヒロシ
〈釈紀〉牟宜都君比呂〔ムケツ(ノ)キミヒロ〕
六月(みなづき)辛酉(かのととり)を朔(つきたち)として壬午(みづのえうま)〔二十二日〕
[詔]村国連(むらくにのむらじ)男依(をより)
和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)
身毛君(むけつのきみ)広(ひろ)にのたまひて、曰(のたま)はく。
「今聞、近江朝庭之臣等、
爲朕謀害。
是以、汝等三人、急往美濃国、
告安八磨郡湯沐令多臣品治、
宣示機要而先發當郡兵。
謀害…〈北〉 ル。 〈閣〉 ニ カ ル コトヲ
安八磨郡…〈北〉ハツマノコホリノ ユノ-沐ウナカシ ヲホノ ヲン ホン宣- ノタ シ ハカリコト ヌミ
〈閣〉ヤスハツ マ■ ノ ノ湯- ノウナカシ /令宇奈加志機要ハカリコトノヌミヲ。 〈兼右本〉湯-沐温泉之宮宇奈加志ウナカシ
ぬみ…[名] 要害。
機要…大切なことがら。
「今聞こす、近江(ちかくあふみ)の朝庭(みかど)之(の)臣等(まへつきみたち)、
朕(わ)が為(ため)に謀(はかりごと)して害(ころ)さむとしまつる。
是以(こをもち)て、汝等(いましら)三人(みたり)、急(すみやか)に美濃国(みののくに)に往きて、
安八磨郡(あはつまのこほり)の湯沐(ゆ)の令(かみ)多臣(おほのおみ)品治(ほむぢ)に告げて、
機要(はかりごと)を示して[而]当(その)郡(こほり)の兵(つはもの)を先発(さきだち)せしめよと宣(の)べよ。
仍經國司等、
差發諸軍、急塞不破道。
朕今發路。」
経国司等…〈北〉 フレ國司等 フセケ不破道。 〈閣〉イテタゝム
ふる…[他]ラ下二 ① 触れる。② 布告する。
仍(よ)りて国司(くにのつかさ)等(たち)に経(ふ)れて、
諸軍(もろもろのいくさ)を差(さし)発(た)たして、急(すみやかに)不破の道を塞(ふた)がしめよ。
朕(われ)今(いま)路(みち)を発(た)ちまさむ。」とのたまふ。
甲申。
將東時、有一臣奏曰
「近江群臣元有謀心、
必害天下、
則道路難通。
何無一人兵徒手入東。
臣恐、事不就矣。」
将(入)東時…〈北〉将東時徒-手タムナテ入- アツマ ラ造天下
〈閣〉ユク ○東入イ   アツマニ ニキタナキコトノ /吉交本 /害イ  徒-手 太牟奈天タムナテ テアツマニ臣恐 ムコトヲ ナラ
〈伊勢本〉将東時。〈兼右本〉東時
たむなて…[名] 手に何も持たないこと。〈時代別上代〉「タは接頭語であろう」。
甲申(きのえさる)〔二十四日〕
将(まさ)に東(あづまにいでま)せむとせし時、一臣(ひとりのまへつきみ)有りて奏(すす)みて曰(まを)せらく
「近江(ちかつあふみ)の群臣(まへつきみたち)元(もとより)謀(はかりごと)せむとしまつる心有り、
必ず天下(あめのした)を害(そこ)なはむ、
則(すなはち)道路(みち)通(かよ)ひ難(かた)し。
何そ一人(ひとり)の兵(つはもの)無かりて徒手(たむなて)に東(あづま)に入(いでま)すか。
臣(やつこ)恐りまつらく、事(こと)不就(ならじ)[矣]。」とまをせり。
天皇從之思、欲返召男依等。
卽遣大分君惠尺
黃書造大伴
逢臣志摩、
于留守司高坂王而
令乞驛鈴。
大分君恵尺…〈北〉大-分オホキタノ/オホワタキミ サカ -書 フミノミヤツコ大-伴 トモ   アフノヲンマ ヲ留守司 トゝマリマモルツカサ高坂タカ サカノ而令ヲホキミノモトニ  スゝ
〈閣〉返- ト大分君オホキタ於保支太オホワタ ノ 忠 惠也私サカ驛-スゝヲ スゝノムマヤ 
天皇(すめらみこと)之(こ)に従(よ)りて思(おもほ)すは、[欲]返(かへ)りて男依(をより)等(ら)を召さむとせり。
即(すなは)ち[遣]大分君(おほきたのきみ)恵尺(ゑさか)、
黄書造(きふみのみやつこ)大伴(おほとも)、
逢臣(あふのおみ)志摩(しま)を
[于]留守(るすの、とどまりまもる)司(つかさ)の高坂王(たかさかのおほきみ)につかはして[而]
駅鈴(むまやのすず)を乞(こ)は令(し)めたまひき。
因以、謂惠尺等曰
「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。
惠尺、馳之往於近江、
喚高市皇子大津皇子
逢於伊勢。
覆奏…〈北〉覆奏 カヘリコトマウセ。 〈閣〉復-奏 覆イカヘリコトマウス市皇子天皇之皇子也[切] 同津皇子
因(ゆゑ)を以ちて、恵尺(ゑさか)等(ら)に謂(のたま)ひて曰(のたま)ひしく
「若(もし)鈴(すず)を不得(えざ)らば、廼(すなはち)志摩(しま)は還(かへ)りて[而]覆奏(かへりごとまを)せ。
恵尺(ゑさか)は、[之]馳(は)せて[於]近江(ちかつあふみ)に往きて、
高市皇子(たけちのみこ)大津皇子(おほつのみこ)を喚(よ)びまつりて
[於]伊勢(いせ)に逢(あ)ひたまはむ。」とのたまひき。
既而惠尺等至留守司、
舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。
然不聽矣。
時惠尺往近江。
志摩乃還之復奏曰
「不得鈴也。」
既(すで)にして[而]恵尺(ゑさか)等(ら)留守(るすの、とどまりまもる)司(つかさ)に至りて、
東宮(ひつぎのみこ)之(が)命(おほせごと)を挙(あ)げて駅鈴(むまやのすず)を[於]高坂王(たかさかのおほきみ)に乞ふ。
然(しかれども)不聴(ゆるさず)[矣]。
時に恵尺(ゐさか)往近江(ちかつあふに)に往きて、
志摩(しま)は乃(すなは)ち[之]還(かへ)りて復奏(かへりごと)曰(まを)ししく
「鈴(すず)を不得(えまつらず)[也]。」とまをしき。
《村国連男依/珥部臣君手/身毛君広》
村国連男依  村国連は、〈倭名類聚抄〉に{美濃国・各務郡村国郷}、{尾張国・葉栗郡・村国郷}。 〈延喜式-神名帳〉に{各務郡/村国神社二社}。 〈姓氏家系大辞典〉は「美濃国各務郡の村国郷より起る…其の出自詳らかならざれど、恐らく尾張連族と思はる」と述べる。 〈天武〉元年七月二日「数万衆不破出直入近江」。 五年七月「村国連雄依卒。以壬申年之功、贈外小紫位」。 小依は、壬申の論功により百ニ十戸を賜った(下述)。
和珥部臣君手 〈姓氏録〉に和迩部/〔無姓〕/天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也〗(古事記第114回丸邇臣之祖日子国夫玖命」)。 他に〖和迩部/小野朝臣同祖〗〖和迩部/大春日朝臣同祖〗。 〈姓氏家系大辞典〉に「和邇部 ワニベ:和邇臣の一族、及び部曲」、 「美濃の和珥部臣:…君手あり、此の国人也」。 君手は、壬申の論功により八十戸を賜った(下述)。
身毛君広  〈姓氏家系大辞典〉に「武芸(武義) ムゲ ムギ:美濃国に武芸郡あり」(〈倭名類聚抄〉{美濃国・武芸郡})。 「身毛 ムゲ:大碓命の裔」、「牟宜都(牟毛津牟義都):思ふにツは助辞のノにて、ムゲと云ふと異なるところなきが如し」。 君広は、壬申の論功により八十戸を賜った(下述)。
 〈続紀〉大宝元年七月条に、かつて村国小依など十五人に壬申の論功として封戸を給わったことが載る。
 同条の勅の主旨は、それぞれの四分の一を子が受け継ぐよう定めたものである。
『続日本紀』大宝元年
大宝元年〔701〕七月壬辰〔二十一日〕
…又勅。先朝論功行封時、賜村国小依百廿戸。
当麻公国見、県犬養連大侶榎井連小君書直知徳書首尼麻呂黄文造大伴大伴連馬来田大伴連御行、阿倍普勢臣御主人、神麻加牟陀君児首一十人各一百戸。
若桜部臣五百瀬佐伯連大目牟宜都君比呂和爾部臣君手四人各八十戸。
凡十五人、賞雖各異而同居中第。宜依令四分之一伝子。
〔また勅する。先朝〔〈天武〉または〈持統〉〕の論功行封のとき、…を賜った。 …全部で十五人、賞の相違はあるが、同居中第〔=次第を同じくする中〕にあるので、それぞれ四分の一を子に伝えよ。〕
《安八磨郡湯沐令》
『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕(p.57,87.93,134,145の図を合成・加筆)
 〈倭名類聚抄〉{美濃国・安八郡}は、安八磨郡を好字令によって二文字にしたものと見られる。
 「」については、〈倭名類聚抄〉「長官:…郡曰大領…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰少領…【已上皆須介】」が見える。 〈時代別上代〉「ウナガシ」は名詞形で、賦役を課しうながす役職の名であろう」という。
《湯沐令》
 〈令義解〉東宮職員令に「主殿署:首一人【掌湯沐、灯燭、酒掃、舗設事」、 禄令にに「凡食封者:…中宮湯沐二千戸」。 〈延喜式〉巻第四十三春宮坊に「凡東宮湯沐二千戸」など。
 大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)は、皇子の養育のために設けられた属人的な部であった(垂仁段第120回)。 なお、ユヱの原義は、〈時代別上代〉「産児を入浴させる役目の夫人」とされる。
 令制における湯沐は、群臣が授かる封戸と同じもので皇子・中宮の場合の呼び名であるが、「湯坐」部の伝統を引き継いだ名称だと思われる。
 「」は、郡における四等官の大令〔カミ〕少令〔スケ〕に準ずるものであろう。「」の古訓「ウナガシ」がどの程度一般的な語であったかは分からない。
 〈倭名類聚抄〉によると安八郡は六郷からなり、ひとつの郷が標準の五十戸だとすると、六郷あわせても僅か三百戸に過ぎない。 その地域に二千戸の湯沐が存在したとすれば、郷を圧倒している。その長に郡と同じく「」が用いられるのも頷ける。
 或いは、多臣品治が実際には郡令湯沐令を兼ねていたから「郡湯沐令」と称されたと考えることもできる。むしろこの方が自然であろう。
 上で述べたように、この時代の湯沐封戸と同等の区画で、東宮中宮のための食封と見られる。
 本サイトは、それらの生産物は口分田の税とともに一括して国司の許に集められ、各宛先に送られたと考えている(雄略9【釈紀:論者曰】項)。 したがって、安八磨郡湯沐が大海皇子の封戸に宛てられていたとしても、その湯沐令と大海皇子との個人的な繋がりは必ずしも必要としない。
 かといって、このことは個人的交流を特に妨げるものでもない。ここでは、湯沐の耕作民をに転用することさえできたのだから、むしろ大変親しい関係であったと見るべきであろう。
《多臣品治》
 品治〔ホムヂ〕は音読みで、倭人の名としては珍しい。 多氏に属してはいるが、実は渡来民かも知れない。
多臣品治  多臣は、神八井耳命〔〈神武〉の皇子〕の末裔と伝承される(第101回)。 〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。
 品治は、〈天武〉十二年十二月「…小錦下多臣品治〔など多数〕…-行天下而限-分諸国之境堺」。 十四年九月「…多朝臣品治…凡十人、賜御衣袴」。 〈持統〉十年八月「直広壹多臣品治、并賜物、褒-美元従之功与上レ-守関事」。 〈続紀〉を含めても、薨の記事は見えない。
 〈天武〉朝における多臣品治の大出世は、ひとえに壬申の功績によるものであろう。
 なお、〈持統〉紀で「多臣品治」と書かれることから、 朝臣姓の一斉授与は、形式的に〈天武〉十三年に遡らせたものであることが疑われる。 古事記を献上した和銅五年〔712〕の時点では、「太朝臣安万侶」とあり、朝臣姓である(第29回)。
《機要》
 ここの機要は、今後の戦略の要点を予め詳しく説明することだから、和読するならハカリゴトであろう。
 「」にヌミ〔戦略上の要地〕をあてた古訓は、明らかに不適切である。
《経国司》
 は古訓「フル」。フルには、「触れる」のほかに布告を出す意がある。「お触書」のフレである。 〈聚抄名義抄〉では「」に「フル」もある。触れるを意味するフルは上代語にあるが、布告の意味をもって上代から使われたかどうかは分からない。
 「経国司」の字からは、国司を順に訪ねる意となる。その目的は確かに指示することだから「フル」である。 「」の字を発音の似るフルにあてたことも考えられ、上代から「フル」が布告の意味で使われたと見てもよいかも知れない。
 さて、いくつかの国の国司は、大海皇子の配下として確保できたと見られる。少なくとも美濃国司尾張国司は該当するであろう。 朴井連雄君が美濃と尾張から情報が得られたのは、両国が大海皇子に友好的だったからだと考えることができる。 さらに、美濃国が大海皇子側に付いていなければ、不破関の封鎖に向かうことは不可能である。
 また、伊勢国には安心して軍営を置くことができたことからは、伊勢国司も含まれるかも知れない。
《不破》
 「不破」は上代からフハだったのだろうか。もし和読するなら、ヤブレズ・クダケズが考えられる。
 (万)4372に「不破乃世伎 久江弖和波由久 ふはのせき くえてわはゆく」がある。 これは防人が赴任地に向かう道筋を詠んだ東国歌で、クエテは「越えて」の東国訛りである。
 この歌は音仮名で統一的に表記されているので、これによって地名「不破」が上代からフハであったことが確定する。 なお、下述する(万)0199の「不破山越而」も音数から見てフハヤマコヘテであろう。
 これは想像に過ぎないが、もともと関への一般的な枕詞ヤブレズノが存在し、それがいつか美濃国の関だけを指すようになり、かつ音読みされた結果のようにも思える。
《将(入)東時》
 〈北野本〉〈伊勢本〉の「将東」に、「」を補った本があったらしく〈兼右本〉は「将入東」、〈内閣文庫本〉は「入イ〔異本に"入"あり〕と傍書する。 「」の一つの意味に「往く」があるから「」はなくともよい。ただ「」にも動詞〔東に向かって行く〕があるので、こちらを採用して 「」は助動詞〔マサニ~セントス〕とした方が意味が繋がる。
《東》
 〈景行〉紀では、アヅマは碓氷峠以東、〈景行〉段では足柄山以東を指す(第130回)。 〈時代別上代〉は「東国というのが具体的にどの範囲をさすかは文献によって異同が多い」として、関八州、三河以東〔万葉東歌の範囲〕さらに西を挙げる。 については、(万)0199の「吾妻の国の御軍士ミイクサ」の「軍勢は尾張である」と述べる。
 この(万)0199は、高市皇子尊〔〈持統〉十年薨〕を悼む挽歌で、「…真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 食國乎 定賜等 鷄之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡…  …まきたつ ふはやまこえて こまつるぎ わざみがはらの かりみやに あもりいまして あめのした をさめたまひ をすくにを さだめたまふと とりがなく あづまのくにの みいくさを めしたまひて ちはやぶる ひとをやはせと…」である。 この歌では「吾妻」は不破関よりも東の範囲を指す。
 よって、この「」をアヅマと訓むことは可能である。ただ、方角としてヒムガシを用いてもよいだろう。
《元有謀心必害天下》
 客観的に見れば、この時点で謀心を持ち天下を害(そこ)なおうとしているのは明らか大海皇子の側である。 しかし、臣従する立場から見れば、大海皇子が支配するのが正当な世であるから、 それを許さない近江朝廷の方が「謀心」で「天下」となるのである。 つまり、大海皇子の臣下がおもねってこのように言ったのである。
《何無一人兵徒手入東》
 「一人」がつくから「」は兵士を意味する。よって「一人兵」は軍勢を伴わず、また「徒手」は手ぶらで行くことである。 ある臣は、「近江群臣元有謀心…恐事不就矣」すなわち、近江の群臣は腹黒いから無事に通り抜けられないと危惧する。
 すなわち、大海皇子は近江国領内を通って〔東山道であろう〕、軽武装で不破に向かおうとしていたわけである。
 ところが、壬午〔22日〕条で既に「近江朝庭之臣等為朕謀害」という認識をもっていた。 大海皇子はそれに対抗して、既に多臣品治に先発隊の発進を命じたり、大海皇子側に従う国司に不破関の封鎖を命じたりしているから、 相手の近江朝廷のみが、まだ本格的に動いていないと考えるのは虫がよすぎるだろう。
 しかし、ひとまず無一人兵徒手で近江国内を進むことが可能だと本気で考えていたしよう。 これを前提とすれば、この状況で倭京の留守司に「駅鈴」を求めたことへの一つの解釈が可能となる。これについては、《駅鈴》項で述べる。
《思欲返召男依等》
 召男依等とは、男依たちには多臣品治や諸国司に作戦を伝達することを命じていたが、それを中止して帰って来いと指示するものである。
 しかし、それでは駅鈴を求めさせたこととうまく繋がらない。後述するように、この駅鈴は大海自身が使うと読むのがよい。 だとすれば、大海皇子が近江路を通行できる可能性を、まだ捨てていないのである。
 しかし、駅鈴を首尾よく手に入れられる見通しはほぼ皆無だから、 結局男依たちには帰って来いと言わねばならなくなるだろう。「思欲返召男依等」は、大海皇子のそのような見通しを述べたものと読める。
 なお「返召」は、この語順でカヘシメスと訓むことは難しいので「」は「」から切り離して「」、「」の意〔=振り返って考え直す〕と見られる。
思欲」とともにこのときに頭の中で思い廻らしたことを述べたものと見られる。
《大分君恵尺/黄書造大伴/逢臣志摩》
大分君恵尺  大分君は神武段「〔〈神武〉皇子〕神八井耳命者…大分君…等之祖也」(第101回)【日子八井命・神八井耳命の末裔】)。 国造本記の見出し語に大分国造はないが、文中に「火国造:瑞籬朝〔崇神〕、大分国造同祖」とある。 〈姓氏家系大辞典〉 「大分国造:此の国造は国造本記にもれたれど、火国造条に…見え…其の存在は確実にして、多氏の族なるや著し」。 「大分君:大分国造家なり」。
 〈天武〉四年六月乙未条で、病床で「外子紫位」に昇位し、未だ数日に及ばず薨じた。 墓は大分県大分市の古宮(ふるみや)古墳が有力視される。
黄書造大伴  〈姓氏録〉〖諸蕃/高麗/黄文連/出自高麗国人久斯祁王也〗。これにより〈姓氏家系大辞典〉は「黄文連(及び黄文造):高麗族也」と見る。 〈天武〉十二年に「黄文造…賜姓曰連」。 〈続紀〉の記事(上述)の表記は「黄文造」なので、百戸を賜ったのは連姓を賜る以前か。 〈推古〉十二年九月条に「黄書画師」。
逢臣志摩  逢臣志摩はここだけ。〈姓氏録〉にも見えない。 〈姓氏家系大事典〉「天武前紀に逢臣志摩と云ふ人見えたり、臣姓なれば相当の名族たらしならむ」。
 「黄文」の称は、仏教経典の表紙に黄染めの紙を用いたことに由来すると考えられる。
 逢臣という氏族名は、他史料には全く見えない。 「逢於伊勢」の異伝に「逢於志摩」とするものがあり、これが誤って人名となって混入したしたことが疑われる。
《留守司》
 留守司は、倭京(飛鳥の宮)に置かれた司で、文字通り留守をまもる。 近江京に遷都した後も、形式的には飛鳥京が正式な都で近江京は天皇の一時的な滞在であるとする発想による。
 古訓のトドマリマモルツカサは遂字的な直訳で、何とも不自然である。 平安以後は「留主」の字もあてられ、ルスという。恐らく上代からルスノツカサであったであろう。
《高坂王》
諸王の位階
〈天武〉十四年養老令
明大一位一品
明広一位二品
明大二位三品
明広二位四品
浄大一位正一位
浄広一位従一位
浄大二位正二位
浄広二位従二位
浄大三位正三位
浄広三位従三位
浄大四位正四位(上・下)
浄広四位従四位(上・下)
正五位(上・下)
従五位(上・下)
高坂王  高坂王は近江朝側に属していて六月二十九日、飛鳥寺西槻下に軍営。その後大海皇子側に返って、大伴連吹負に従う。 『本朝皇胤紹運録』にも名は見えず皇族としての血縁は不明だが、留守司に任じられるからそれなりに位は高かったと思われる。 〈天武〉十二年四月壬戌「三位高坂王薨」。
 それでは諸王の「三位」とはどのレベルであろうか。
 〈天武〉十四年の「更改爵位之号」によって、 草壁皇子尊に浄広一位、大津皇子に浄大二位、高市皇子に浄広二位、川嶋皇子忍壁皇子に浄大三位が授けられた。ただ、その後昇位したはずで、 例えば長皇子は、浄広二位〔693年〕⇒二品〔704年〕⇒一品〔715年〕と昇り、 最終的に最高位の一品に達している(第258回)。
 〈天武〉十二年の時点での諸王の位階制自体の内容は明らかではないが、 同四年に「諸王四位」、八年に「諸王二位」、十二年に「諸王三位」が見える。
 「」一位~二位から「」一位~四位までを通算してみると、高坂王の「三位」は、 浄大一位または浄広一位に相当する。
 最終位がこれだとすれば、天皇の孫または曽孫の代ぐらいであろうか。
《乞駅鈴》
 わざわざ駅鈴を求めた理由はなかなか説明がつかず、古今さまざまな議論がなされてきた。
 そもそも「駅鈴は、誰が持つためのものであろうか。 ある説に「男依たちに帰還命令を伝達する使者に持たせるもの」を見る。 その使者は、男依・君手・広であろう。駅鈴の発行を受けよというのは、速く行ける駅路を利用せよということである。 但し、駅鈴が発行されなければ帰還命令の伝達はあきらめ、高市皇子らと共に伊勢国に集結して戦闘態勢を整えよとと命じた。
 しかし、仮に駅鈴が得られた場合は、男依らに湯沐令・諸国司への工作を中止して引き揚げさせる理由はないので辻褄が合わない。 工作を中止して大海皇子の軍営への帰還を命ずるのは、むしろ駅鈴が得られないことが確定した後の話であろう。
 思うに駅鈴は、大海皇子自身のためのものではないだろうか。 『令義解』には駅鈴の刻みの数について「親王及一位駅鈴十尅」とある。このことから親王〔令制以前は「皇子」〕であっても通行には駅鈴の所持するものであったと見られる。 身なりが高貴で多数の従者を伴っていたとしても、駅や関の役人は駅鈴の確認をもって初めて手続きをしたであろう。現代、例え総理大臣であっても国外に出るときにはパスポートを持つのと同じである。 だから、「駅鈴」を大海皇子自身のためのものとすることはあり得る。
 その上で、「何無一人兵徒手入東」なる語句に注目したい。壬午条に「為朕謀害」とあるが、これについてはまだ内々の陰謀段階で、表立った動きはまだないと見たのではないだろうか。 つまり、大海皇子は軽武装で近江国内の東山道を通り抜けられるという甘い見通しを持っていた。
 しかし、一人の臣がそれは危険であると進言し、大海皇子はそれを受け入れた。 そこで一計を案じて、「徒手〔=手ぶら〕が駄目なら駅鈴を持っていこうと考えた。 皇大弟一行が駅鈴を掲げれば公的な通行となり、容易に手出しはできないはずである。 さらに考えを進めると、もし駅鈴が発行されれば、まだ皇大弟追討令は倭京には届いていないことになる。
 逆にもし駅鈴の発行が拒否されれば、追討令は既に届いているから、事態は切迫していてもう一刻の猶予もない。 未だ大津京に留まっている高市皇子大津皇子を素早く脱出させなければならない。 そして近江国内の通行は断念して、ひとまず伊勢国の軍営に一同が集結すると決めたのである。
 このように駅鈴の発行の成否をもって、追討の体制がどの程度整っているかを知る手がかりとしたと考えると、その意味がよく分かる。
 以上を要約すると、最初は「徒手で行くのか」と問われて反射的に、駅鈴をもっていったらどうかと思ったが、 実は、これが現在の情勢の緊迫度を判定するよい方法であり、今が決起すべき時か否かを決断する試金石になることに気づいたのである。
 大海皇子の決起は実際には自らの滅亡と紙一重であり、決行の最終決定には慎重の上にも慎重を期す必要があるからである。
 ここで再び、「思欲返召男依等」との関係を考えてみよう。 仮に駅鈴を得られた場合、既に男依たちを帰らせることを決めているなら、大海皇子が近江路を不破関に向かうこともなくなり、駅鈴は不要である。 そうではなく、結局駅鈴は得られないだろうから男依等を帰らせて体制を再構築しなければならないと考えたことを、先に書いたのであろう。
《駅鈴》
 駅馬伝馬及び鈴契の設置は「改新詔其二」で規定されている。 改新詔は大宝令を遡らせて潤色した部分が相当を占めるとも言われるが、〈天武〉元年の「駅鈴」を見ると令前から駅制は存在していたことが判る。
《謂恵尺等》
 前後の文章表現に倣えば、「」は「」であるべきである。早い時期の誤写がそのまま引き継がれたものか。
 仮に古文献にあった「」をそのまま深く考えずに書紀に書き込んだとすれば、駅鈴を求めさせた部分の史実性が増す。
《高市皇子・大津皇子》
高市皇子  高市皇子は〈天武〉皇子。高市皇子であったが、草壁皇子が薨じた後は「後皇子」となった。〈持統〉七年に太政大臣。
大津皇子  大津皇子も〈天武〉皇子。〈天武〉十二年に「聴朝政」。しかし〈天武〉崩直後に反乱を起こし〔または疑われ?〕死を賜った(第258回)。
《東宮之おほせごと
 大友皇子はまだ公式には「太政大臣」に過ぎず、依然として大海皇子は「東宮」である。その資格を以て駅鈴の発行を求めたのである。 それを表すために、ここでは「東宮之おほせごと」と表現される。
 「東宮之命駅鈴」において、求める駅鈴は男依らが携行するためのものではなく、 東宮自身が携行するためのものであろう。 そのように判断できるのは、この文中にある人物名が「東宮」のみだからである。
《大意》
 六月二十二日、 村国連(むらくにのむらじ)男依(おより)、 和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)、 身毛君(むけつのきみ)広(ひろ)に言われました。
――「今聞くに、近江の朝庭の臣たちは、 朕のために策謀して殺害しようとしている。 そこで、汝ら三人は、速やかに美濃国に行き、 安八磨郡(あはつまのこおり)の湯沐(とうもく)令、多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)に告げ、 機要を示して当郡の兵を先発させよと宣ぜよ。
 そして、国司らに触れを発して、 諸軍を差し向け、速やかに不破の道を塞がせよ。 朕は今、路に発つ。」
 二十四日、 いざ東国に入ろうとしたとき、一人の臣が奏上しました。
――「近江の群臣は元々謀心があり、 必ず天下に害しようとしているから、 道を通ることは難しい。 どうやって一人の兵もなく、徒手で東国に入れましょうか。 臣は、事が成就しないことを恐れます。」
 天皇(すめらみこと)はこの進言に従い思われたのは、顧みて男依(おより)等を召そうということです。
 即ち、大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 黄書造(きふみのみやつこ)大伴(おおとも)、 逢臣(おうのおみ)志摩(しま)を 留守の司(つかさ)高坂王(たかさかのおおきみ)に遣わして 駅鈴を求めさせました。
 よって、恵尺(えさか)等に仰りました。
――「もし鈴を得られなければ、志摩は帰って復奏せよ。 恵尺は、近江に馳せ行き、 高市皇子、大津皇子を呼び 伊勢で逢おう。」
 既に恵尺等は留守の司に至り、 東宮の命(めい)を挙げて駅鈴の発行を高坂王に求めました。 しかし、許可されませんでした。
 そこで、恵尺は近江に行き、 志摩は帰還して復奏して 「駅鈴は得られませんでした」と申し上げました。


まとめ
 大友皇子の「即位」は、書紀には書かれていない。それでは、明治天皇が大友皇子を追諡した理由は何だろうか。 推察するに大友皇子が政を一定期間握っていたのは確かだから、 にもかかわらず正式に即位できなかったのを惜しみ、明治天皇は自身が追諡し得る立場にあると考えた故かも知れない。 しかし、その「弘文天皇」は神功「天皇」、倭武「天皇」、飯豊「天皇」の類の俗説レベルのもので、記紀が規定した天皇と同列に置けないことは明らかである。 当時唱えられた異論「天皇には相違なきも御代数には加へざるを善しとす」は、この趣旨によるものであろう。
 さて、問題の駅鈴の解釈である。 本サイトは、既に古事記序文を論じた段階で〈天武紀上〉を参照して、 「大海人皇子が駅鈴を求めさせた目的は、大海人皇子側の挙兵に対して、相手方が皇子に対して、警戒態勢がどのくらいとられているか探らせるためだろう」と述べた (第12回)。 駅鈴が交付されないことが確定した瞬間に、大海皇子が電光石火の動きを開始した一点を見るだけで、この見方は理に適っている。 今回の精読によっても、それを訂正する必要は感じない。 その前にある「欲返召男依等」も、この見方に基づいて「駅鈴が得られないようならこうしたいと思った」と解釈するのがよいであろう。



2024.10.17(thu) [28-03] 天武天皇3 

目次 【元年六月二十四日是日】
《發途入東国》
是日。
發途入東國。
事急不待駕而行之、
儵遇縣犬養連大伴鞍馬。
発途…〈北野本〔以下北〕 タチ タマフ東國駕而オホムマ 行之 イテマス ニハカ/ アカタノイヌ カヒノ ムラシ 大-伴 トモ 鞍馬 クラノケルクラオヘル
〈内閣文庫本〔以下閣〕 カ鞍馬/クラヲケルムマ因以クラヲヘル /久良於敝留牟末 ニ
…[名]〈国際電脳及異体字知識庫〉 ②黒色。③同「倏」。迅疾。
…[動・形]〈国際電脳及異体字知識庫〉①奔走。②極快地;忽然。
鞍馬…〈汉典〉「①泛指馬和馬具。②指人騎的馬〔人が騎乗する馬〕。③騎馬的人〔馬に乗る人〕」。 〈兼右本〉タチ[テ] 玉フ[ニ]
…[名] 馬車あるいは牛車。[動] 馬車などに乗っていく。あるいは御す。
是(この)日。
途(みち)を発(た)ちて東国(あづま)に入(いでま)す。
事(こと)急(すみやか)にありて駕(しやか、おほむま)を不待(またず)て[而]行之(いでま)して、
儵(たちまち)に県犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)の大伴(おほとも)に遇(あ)ひて鞍馬(うまにのりたまふ)。
因以、御駕乃皇后載輿從之。
逮于津振川、
車駕始至、便乘焉。
御駕…〈北〉御駕 ミノリス 従之 ミト マヒセム車駕始至イマシ 便 ミノリス
〈閣〉御-駕 ミノリス [句]乃皇 ハ テ輿 ヒ從之ミトモニマヒセム[句]  テツ フリ  ニ車-駕 オホムマ  テイマシ[句] 便ミノリス[句]
因(ゆゑ)を以ちて、駕(しやか、おほむま)を御(をさ)めて乃(すなはち)皇后(おほきさき)輿(こし)に載(の)りて従之(したがひたま)ひつ。
[于]津振川(つふるかは)に逮(およ)びて、
車駕(しやか)始めて至りて、便(すなは)ち乗(の)りたまふ[焉]。
是時元從者、
草壁皇子
忍壁皇子、
及舍人朴井連雄君
縣犬養連大伴
佐伯連大目
大伴連友國
稚櫻部臣五百瀬
書首根摩呂
書直智德
山背直小林
山背部小田
安斗連智德
調首淡海之類、
廿有餘人
女孺十有餘人也。
元従者…〈北〉元従/縣犬養連大稚-櫻-部-臣ワカサクラヘノヲン五百瀬イホセフミノヲフトフミノアタヒトコヤマシロノアタヒ小-ヲ ハヤシ山-背部ヤマシロヘノ小田ヲタトノムラシトコ調ツキノヲフト淡-アフ ヤカラトモカラ廿  ハタ有-餘 アマリ 女-孺ワラハ十-有-餘トタリ アマリ
〈閣〉縣犬養連
是時(このとき)元(もとより)従へる者(ひと)は、
草壁皇子(くさかべのみこ)
忍壁皇子(おさかべのみこ)、
及びに舎人(とねり)朴井連(えのゐのむらじ)雄君(をきみ)
県犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)大伴(おほとも)
佐伯連(さへきのむらじ)大目(おほめ)
大伴連(おほとものむらじ)友国(ともくに)
稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)
書首(ふみのおびと)根摩呂(ねまろ)
書直(ふみのあたひ)智徳(ちとこ)
山背直(やましろのあたひ)小林(をはやし)
山背部(やましろべ)の小田(をだ)
安斗連(あとのむらじ)智徳(ちとこ)
調首(つきのおびと)淡海(あふみ)之(が)類(ともがら)、
廿有余人(はたたりあまり)
女孺(めのわらは)十有余人(とをたりあまり)なり[也]。
《不待駕》
 への古訓はオホムマ車駕オホムマである。
 しかし、「御駕」は、《御駕》項で述べるように「〔空の駕を馭者が御して大海皇子を追う〕である。 古訓の「ミノリス」では既にその場にいない大海皇子が乗ることになり、意味が通らない。
 「」・「車駕」をオホムマと訓むのは、馬車を表す適切な和語がなかったからムマにムマが牽く車まで含めたのだろう〔オホ-は美称〕。しかしの字を見ずに耳で聞いただけでは意は伝わりにくい。
 訓はコシも考えられるが、人手で長い柄をもって持ち上げるものなのでは表しにくい。 牛車をウシグルマと訓むことはあったようである。馬車は奈良時代以後には姿を消していたと思われるが、 ウシグルマがあるなら、ウマグルマも上代人に通じたと思われる。しかしこれを認めなければ音読みを用いるしかない。
《儵遇県犬養連大伴鞍馬》
津風呂川  国土数値情報河川データセット
は御駕が追いついた位置の推定地
 「儵遇県犬養連大伴鞍馬」は、 文法にこだわれば「大友が鞍馬しているのに出会った」、または「鞍馬」の主語を大海皇子とする。
 後者は「鞍馬:馬に騎乗する人」(〈汉典〉)が動詞化して「馬に騎乗する人となった」とするもの。 ただ、だとすればを、ならを暗黙のうちに含んでいる。
 この文は輿の用意を待てず、たまたま乗馬していた「犬養連大伴」から馬を譲ってもらい飛び乗って行った。それを従者たちが慌てて追いかけるという、面白い場面を描いたものである。 この間髪を入れない動きから、駅鈴交付拒否の確認をもって出撃のタイミングとしようと考えていたことがよく分かる。
 古訓は「大伴カ久良於敝留牟末〔大伴が鞍負へる馬〕、または「クラオケルムマ〔鞍置ける馬〕とし、 『学研新漢和』が二番目に挙げる「馬にくらをつけて、乗る用意をすること」にあたる。
 しかし「儵遇…」が、「馬に乗る県犬養連大伴にたまたま出会った」または「県犬養連大伴にたまたま出会いその馬を譲り受けて飛び乗った」であるのは明らかである。 古訓の「犬養連大伴が馬に鞍を置いているところにたまたま通りかかった」という読み方は何とももどかしい。
《県犬養連大伴》
県犬養連大伴 下述
《御駕》
 「于津振川車駕便乗〔車駕は津振川のところで初めて追いつき、お乗りになった〕とあるから、 馬で突っ走る大海皇子を、「」は馭者が空のして追いかけたのである。
 ところが古訓の「御駕ミノリス」では最初から駕に乗り、 津振川でさらに「便ミノリス」では理屈が合わない。
 上述の「鞍馬」とともに、古訓は個別の字の解釈に留まり文脈を読み取ろうとしていない。
《皇后載輿従之》
 「駕乃皇后※1)輿従」、 すなわち、空の鸕野皇女の輿が、大海皇子を追いかけた。
 ※1)鸕野讃良皇女。この時点では「正妃」で〈天武〉二年に「皇后」、〈天武〉崩の後に即位して〈持統〉天皇
 讃良皇女が「急ぎなさい。大海皇子に追いつくのよ」と督促する様子が眼に浮かぶ。 皇女は「発途入東国」に同行し、天下取りという危険な賭けに勝つように励まし、尻を叩いたと考えられる。
 これを見るにつけ、〈天智〉九年童謡は、大海皇子が「八重の子の刀自〔=鸕野皇女〕に、 「宇治橋の詰めの遊びに出でませ〔=一緒に天下を獲ろう〕と呼びかけたものと思えてならない。
《津振川》
 津振川は、津風呂川に比定されている。 現在は、津風呂ダムになっている(1962年竣工)。
《元従者》
 元従者、すなわち最初に大海皇子に同行したリストが示される。
草壁皇子 〈天武〉皇子
忍壁皇子 〈天武〉皇子
朴井連雄君 上述
県犬養連大伴  県犬養連は、〈天武〉十三年に宿祢姓を給わる。 〈新撰姓氏録〉〖左京/神別/天神/県犬養宿祢/神魂命八世孫阿居太都命之後也〗。 〈姓氏家系大辞典〉「県犬養 アガタ:県犬養部を率ゐし氏にして河内を本居とし、京にも移り住めり」。 〈姓氏録〉の「阿多御手犬養」や「海犬養」からみて、「県-」は地名であろう。〈倭名類聚抄〉に{河内国/大県郡}が見える。 〈姓氏家系大辞典〉の「河内を本居」はその故か。
 〈天武〉十四年九月辛酉「県犬養宿祢大侶」ら十人に「御衣袴」。朱鳥元年〈天武〉崩に際し「直大三県犬養宿祢大伴」が誄をもうす。 〈続紀〉大宝元年〔701〕正月癸卯「直広壱県犬養宿祢大侶卒…贈正広参。以壬申年功也」。 「県犬養連大侶」に壬申の論功で封百戸。
佐伯連大目  佐伯連については、〈仁徳〉紀五年【佐伯】項。 また、大伴室屋の子孫が大伴連と佐伯連に分かれたとされる(〈天智〉五年)。 〈天武〉十三年に宿祢姓。大目については、〈持統〉五年八月辛卯に「直大弐佐伯宿祢大目、并賜賻物」。すなわちこの日までに薨じた。 壬申の論功で封八十戸。
大伴連友国
…死後に冠位を追贈。
賻物…死者への賜りもの。
 大伴大連金村は、〈欽明〉元年九月に失脚して勢いを失うが、平安時代にも存続 (〈皇極〉元年《大伴連馬飼》)。
 友国は、〈持統〉六年四月丁酉「大伴宿祢友国直大弐、并賜賻物」。すなわちこの日以前に薨じた。
稚桜部臣五百瀬  〈姓氏家系大辞典〉「若桜部 ワカサクラベ ワカサベ:利中天皇の御名代部にして、天皇の都たる磐余稚桜宮の稚桜てふ名を負ひ奉りし也」 (第176回)。また、〈履中〉三年の桜の花びらの伝説。 〈同〉「稚桜部臣:安倍氏の族、膳臣より出づ」。〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。
 五百瀬は、〈持統〉十年九月甲寅「直大壱若桜部朝臣五百瀬、并賜賻物」。 壬申の論功で封八十戸。
書首根摩呂
始祖
河内文(西文)〔王仁〕首⇒(連⇒)忌寸
倭文(東文)〔阿知使主〕直⇒(連⇒忌寸⇒)宿祢
 〈姓氏家系大辞典〉「文 フミ ブン」、「文首:文氏に二流あり。一は文首にして河内に居り、一は文直にして、大和に居住す」。 右表に整理(資料[3]《文宿祢》項による)。 〈天武〉十二年「文首」に連姓。 〈続紀〉慶雲四年〔707〕十月戊子「従四位下文忌寸祢麻呂卒。…贈正四位上並賻絁布。以壬申年功也」。 「書首尼麻呂」に壬申の論功の封百戸。
書直智徳  〈天武〉十年十一月授小錦下位」、「賜姓曰連」。 〈持統〉六年五月甲申「贈文忌寸智徳直大壱、并賜賻物」。 壬申の論功の封百戸。書直は忌寸姓に上る(上表)。「(故)文忌寸智徳」は乙巳年〔705〕に功田四町を賜る※1)
山背直小林  〈姓氏家系大辞典〉「山代直〔山背国造、山代国造のうち〕山背国造家の氏姓」。 〈神代紀上〉「〔天照大神第三男〕天津彦根命【是凡川内直、山代直等祖也】」。 〈天武〉十二年「山背直…賜姓曰」。〈続紀〉慶雲三年〔706〕山背忌寸品遅」の名。 天平勝宝八歳〔756〕…十三人、賜山背忌寸姓」。 天平神護二年〔766〕山背忌寸諸上」の名。
 小林はここだけ。
山背部小田  〈姓氏家系大辞典〉「山代部 ヤマシロベ:山背国造山代直の私的部曲〔かきべ〕」。 〈続紀〉文武二年〔698〕十二月丙辰「勤大弐山代小田直広肆」。
安斗連智徳  〈姓氏家系大辞典〉「阿刀 アト:物部の一族阿刀部、並に其の伴造の後裔」。 〈天武〉十三年「阿刀連…賜姓曰宿祢」。 〈新撰姓氏録〉〖阿刀宿祢/石上朝臣同祖/饒速日命孫味饒田命之後也〗〖阿刀連/同上〗。 〈続紀〉神護景雲三年〔769〕七月「…五人賜姓阿刀宿祢」とあるで、連から個人別に宿祢を賜ったようである。
 智徳は、和銅元年〔708〕正月「授…正六位上阿刀宿祢智徳…従五位下」。
調首淡海  〈姓氏家系大辞典〉「調 ツキ ミツキ シラベ テウ:古代、租税の徴収…その職名を氏名…構成は種々の牽強説を附会す」、 「調吉士:…応神朝帰化せし努理使主の後なり」、「調首〔調吉士〕と同族にして、首姓を賜ひ…後連姓を賜ふ」。 〈新撰姓氏録〉〖調連/水海連同祖/百済国努理使主之後也/誉田天皇御世帰化。孫阿久太。男弥和。次賀夜。次麻利弥和。弘計天皇御世。蚕織献絹之様。仍賜調首姓〗。 〈続紀〉大宝元年〔701〕以後に「調忌寸老人」、「調連馬養」、「調連牛養」の名が見える。
 淡海は、〈続紀〉和銅二年〔709〕正月「授…正六位上調連淡海…従五位下」、 和銅六年〔713〕従五位上」、養老七年〔723〕正月「正五位上」。 最後に淡海の名が見えるのは、神亀四年〔727〕十一月己亥※2)
 ※1)…〈続紀〉天平宝字元年〔757〕十二月壬子条では、「封賞」の漏れを正そうとする。 その資料として過去の「封賞」の実績を示し、 その中に「…贈直大壱文忌寸智徳同年〔=乙巳;705〕功田四町…五人並中功。合伝二世〔中功なので二世(=孫)まで伝承させる〕とある。
 ※2)…「五位已上賜綿有差。身帯五位已上者、別加絁十疋。但正五位上調連淡海、従五位上大倭忌寸五百足、二人年歯居高、得此例焉。〔〔皇子誕生を祝う宴の下賜品〕五位以上は綿を賜る。 身内に五位以上がいる者は別に絁十疋を賜る。ただし、調連淡海と大倭忌寸五百足の二人は年歯居高〔高齢〕なのでこの例に加えた」。この年は壬申の乱から55年後。
《大意》
 この日、 出発して東国に入りました。
 事は急で、車駕の用意を待たずに行くと、 たまたま馬に乗った県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)の大伴(おおとも)に遇い、その馬に乗っていきました。 よって、車駕を御し、そして皇后は輿(こし)に乗って従いました。
 津振川(つふるかわ)のところで 車駕は追いつき、そこで乗られました。
 この時、最初から従ったのは、 草壁皇子(くさかべのみこ)、 忍壁皇子(おさかべのみこ)、 及び舎人(とねり)朴井連(えのいのむらじ)雄君(おきみ)、 県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)大伴(おおとも)、 佐伯連(さへきのむらじ)大目(おおめ)、 大伴連(おおとものむらじ)友国(ともくに)、 稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 書首(ふみのおびと)根摩呂(ねまろ)、 書直(ふみのあたい)智徳(ちとこ)、 山背直(やましろのあたい)小林(おはやし)、 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)智徳(ちとこ)、 調首(つきのおびと)淡海(あふみ)と一族、 二十人あまり、 女孺(にょじゅ)十人あまりでした。


目次 【元年六月二十四日即日】
《到菟田吾城》
卽日。
到菟田吾城。
大伴連馬來田
黃書造大伴、
從吉野宮追至。
菟田吾城…〈閣〉 ノ キニ。 〈北〉マウケリ
即日(そのひ)。
菟田吾城(うだのあき)に到る。
大伴連(おほとものむらじ)馬来田(まくた)
黄書造(きふみのみやつこ)大伴(おほとも)、
吉野宮(よしののみや)従(よ)り追ひて至(いた)れり。
於此時。
屯田司舍人土師連馬手、
供從駕者食。
過甘羅村、
有獦者廿餘人、
大伴朴本連大國爲獦者之首。
屯田司舎人…〈北〉屯田ミタノ ツカサノ 舍人トネリ土-師ハシノ ムラシ馬手 ウマ テ 供從駕-者タテマツル オホムトモツカマツルタマフ オホムトモニツカマツル ヲシモノ甘羅村 カン ラノ ムラ
有猟者…〈北〉大-トモノ朴本連エノモトノムラシ大-國オホクニ爲獵者之ヒトコノカミ
…(漢音)(呉音)カム。
(榎)…[名] えのき。
[於]此(この)時に、
屯田司(みたのつかさ)舎人(とねり)土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)、
駕(しやか)に従ふ者(ひと)どもに食(くらひもの)を供(たてまつ)る。
甘羅村(かむらのむら)を過ぎて、
猟者(かりびと)二十余人(はたたりあまり)有りて、
大伴朴本連(おほとものえのもとのむらじ)大国(おほくに)猟者(かりびと)之(が)首(このかみ)と為(な)りき。
則悉喚、令從駕。
亦徵美濃王、乃參赴而從矣。
運湯沐之米伊勢國駄五十匹、
遇於菟田郡家頭。
仍皆棄米而令乘步者。
従駕…〈北〉從-ミトモ從矣オホムトモニツカムマツルニホヒムマ五十匹郡-家コホリ ヒト步者カチヒト
〈閣〉ニホヒムマ〔荷負馬〕郡-家-コホリノモトニ テヨネヲ
…[名] 場所の目立つところ。(古訓) ほとり。
のる…[動]ラ四 道を歩く。
則(すなはち)悉(ことごと)に喚(め)して、駕(しやか)に従(したが)は令(し)む。
亦(また)美濃王(みののおほきみ)を徵(め)して、乃(すなは)ち参赴(まゐおもぶ)きて[而]従ひまつる[矣]。
湯沐(ゆ)之(の)米(こめ)を運べる伊勢国(いせのくに)の駄(におひうま)五十匹(いそち)、
[於]菟田(うだ)の郡家(こほりのみやけ)の頭(ほとり)に遇(あ)へり。
仍(よ)りて皆米(こめ)を棄(う)てて、[而]歩者(かちひと)を令乗(のす)。
到大野以日落也。
山暗不能進行、
則壞取當邑家籬爲燭。
日落也…〈北〉落也クレヌ進-行 ミタスル
みたす…[動]サ四/下二 行く・来るの尊敬語。
大野(おほの)に到りて以ちて日落也(ひおちぬ)。
山暗くありて進行(すすみゆくこと)不能(あたはず)、
則(すなはち)当邑(そのむら)の家(いへ)の籬(かき)を壊(こぼ)ち取りて燭(たひ)と為(な)せり。
及夜半到隱郡、
焚隱驛家。
因唱邑中曰
「天皇入東國、
故人夫諸參赴。」
然一人不肯來矣。
隠郡…〈北〉隠郡焚 ナハリノコホリ驛-家 ムマヤ 人夫オホムタカラマウス。 〈閣〉參-マウコ
一人…〈北〉一人不肯来。〈閣〉一人於肯来
夜半(よなか)に及びて隠郡(なばりのこほり)に到りて、
隠(なばり)の駅家(うまや)を焚(や)く。
因(よ)りて邑中(むらのなか)に唱(とな)へて曰(い)へらく
「天皇(すめらみこと)東国(あずまのくに)に入(いでま)せり、
故(かれ)人夫(よほろ)諸(もろともに)参赴(まゐこ)。」といへり。
然(しかれども)一人さへ来(くること)を不肯(うべなはず)[矣]。
將及横河有黑雲、
廣十餘丈經天。
時、天皇異之、
則舉燭親秉式占曰
「天下兩分之祥也。
然朕遂得天下歟。」
横河…〈北〉横河 ヨクカハワタレリ トモケトリテフミヲ/ノリヲサカリ
〈閣〉トモイテ ヒヲサカ
さが(祥)…[名] ① 本性。② 前兆。
将(まさ)に横河(よこかは)に及ばむとして黒き雲有り、
広さ十余丈(とをつゑあまり)、天(あめ)を経(わた)れり。
時に、天皇(すめらみこと)之(こ)を異(あやし)びて、
則(すなはち)燭(たひ)を挙げて親(みづから)式(のり)を秉(と)りて占(うら)へたまひて曰(のたま)はく
「天下(あめのした)両(ふたつ)に分かれむ[之]祥(さが)なり[也]。
然(しかれど)も朕(われ)遂(つひ)に天下(あめのした)を得たまはむか[歟]。」とのたまふ。
卽急行到伊賀郡、
焚伊賀驛家。
逮于伊賀中山而、
當國郡司等率數百衆歸焉。
当国郡司…〈北〉ミヤツコ數百イクサ歸焉 ヨリマツル
即(すなはち)急(すみやかに)行きて伊賀郡(いがのこほり)に到りて、
伊賀の駅家(うまや)を焚(や)く。
[于]伊賀の中山(なかやま)に逮(いた)りて[而]、
当(その)国(くに)の郡(こほり)の司(つかさ)等(ら)数(あまた)百(ほ)の衆(いくさびと)を率(ゐ)て帰(よ)りまつる[焉]。
 全経路 Ⅰ~Ⅵクリックでリンク 
吉野宮 菟田吾城 甘羅村 菟田郡家 大野 隠駅家 横河 伊賀駅家 伊賀中山 10莿萩野 11積殖山口 12大山 13鈴鹿関 14鈴鹿駅 15伊勢国府 16川曲坂下 17三重郡家 18朝明郡迹太川 19朝明郡家 20桑名郡家
《菟田吾城》
 吾城あきは、(万)0045「三雪落 阿騎乃大野尓 みゆきふる あきのおほのに」、 0046「阿騎乃野尓 宿旅人 あきののに やどるたびびと」が見える。
 万葉の阿騎野について『大日本地名辞書』は、「今松山町近傍の総名」で〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀郡・浪坂【奈無佐加】郷}にあたるとする。
 「宇陀市公式」によると、 この地の中ノ庄遺跡は「弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構」で、「周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)であったと伝えられて」いるとし、 現在は人麻呂公園〔大宇陀拾生76番地の1〕として整備されている。
 この地を阿騎野に比定したのは、大海皇子の移動経路にあたる故であろう。
《大伴連馬来田…》
大伴連馬来田  大伴連は、大伴連友国項参照。 〈天武〉十二年六月己未「大伴連望多薨。…贈大紫位。発鼓吹葬之」。 壬申の論功で封百戸。 〈続紀〉延暦元年〔782〕二月「大伴宿祢伯麻呂薨。祖馬来田内大紫」。
黄書造大伴 上述
土師連馬手  土師連は〈皇極〉二年《土師娑婆連猪手》項参照。 〈天武〉十三年「姓曰宿祢」。〈文武〉三年「直広参土師宿祢馬手…於山科山陵。並分功修造焉」。 大宝三年〔703〕十月丁卯「太上天皇〔推古〕御葬司…造御竈長官…正五位下土師宿祢馬手」。 慶雲四年〔707〕十月丁卯「土師宿祢馬手…為造山陵司」。 和銅四年〔711〕従四位下土師宿祢馬手」。
大伴朴本連大国  〈姓氏家系大辞典〉「大伴朴本連:大伴連の一族にして山城国乙訓郡榎本にありしより〔か〕く云ふ」。 大国はここだけ。
 …文武三年〔699〕十月甲午「為欲営造越智。山科二山陵也」。 辛丑「浄広肆大石王。直大弐粟田朝臣真人。直広参土師宿祢馬手。直広肆小治田朝臣当麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉」。
《供従駕者食》
 「従駕者食」は従者に食糧を提供する意であろう。
《甘羅村》
 旧松山町に神楽岡がある。 『大日本地名辞書』「松山城址:神楽岡と称す、初め多賀秀種此地に封せられ二万石を領す」、 「甘羅カンラ:松山城は旧名神楽岡カンラヲカと云ふ、甘羅と云も吾城の地なれば此なるへし」。 松山城は、現代地名宇陀市大宇陀春日大宇陀石清水の境界にある。
《有猟者二十余人》
 甘羅村の猟師二十人余を軍に誘い、大国をその長とした。
《美濃王》
美濃王  「」は天皇の孫の代以下の称だが、どの天皇の子孫かは判らない。
 〈天武〉二年十二月「小紫美濃王、拝造高市大寺司」、四年四月「小紫美濃王…、祠風神于龍田立野」、 十年三月「三野王〔他十一名〕…令-定帝紀及上古諸事」、 十一年三月「小紫三野王…等于新城令見其地形、仍将都矣」、十三年二月「三野王…等於信濃令看地形、将都是地歟」。 〈続紀〉に「美濃王」、「三野王」は見えない。
《菟田郡家》
 菟田郡家と見られる遺跡や遺称は見出されていないようである。
《大野》
浦遺跡 夏見下川原遺跡観音寺遺跡 黒石遺跡 鴻ノ巣遺跡 夏見廃寺跡
 『伊賀の考古資料2 研究紀要第16-4号』〔三重県埋蔵文化財センター2007〕p.32
 ⇒全経路
宇陀市室生大野 (境界は農業集落境界データセット/大野による)
宇陀川 (国土数値情報河川データセット/宇陀川による)
名張川 (国土数値情報河川データセット/名張川による)
 『大日本地名辞書』によると「大野:三本松村大字大野は萩原駅の東北二里、宇陀川の左岸に居る」、 「古事記伝云、大野は今山辺郡にて名張へ至る道なり、大野寺あり」。
 旧三本松村は、合併により室生村、更に宇陀市となる。
《隠郡隠駅家》
 書紀古訓に「ナハリ」、「ハリ」(改新詔)と付され、さらに大海皇子の進軍経路を併せ見れば名張がその遺称であることは確実である。 〈倭名類聚抄〉に{伊賀国・名張【奈波利】郡}。
 (名墾)、横河の比定については、 改新詔の《名墾横河》項で取り上げた。
 駅家跡そのものは未発見である。遺跡としては夏見廃寺の金堂・塔・講堂などが検出されている(名張市公式夏見廃寺)。
●『三重県埋蔵文化財年報15』〔三重県教育委員会1985〕観音寺遺跡(名張市観音寺町)の項:
 「弥生時代後期から室町時代にいたる複合遺跡」、 「奈良時代では、ほぽ南北に棟をそろえた大形の掘り方をもつ掘立柱建物が7棟検出され多くの須恵器・土師器などに混じって円面硯が出土していることから、一般集落とは趣を異にしている※1)」(pp.49~50)。
●『伊賀の考古資料2 研究紀要第16-4号』〔三重県埋蔵文化財センター2007〕
 「浦遺跡は、名張市中村字浦・黒石に所在する遺跡」、 「古代では、近辺を畿内から伊勢に向う交通路が通る。遺跡周辺は〔〈倭名類聚抄〉の〕伊賀国名張郡夏見郷に含まれ、観音寺遺跡…などで良好な掘立て柱群が確認され、黒石遺跡と浦遺跡の付近には駅家※2)の存在も想定されている」。 浦遺跡のうち奈良時代に属するのは「5.1m×4.6m」など八基の竪穴住居(pp.32~36)。
 ※1)から、観音寺遺跡は名張の郡家ではないかと言われる。 ※2)は、浦遺跡黒石遺跡が郡家に近く、街道沿いにあると推定されるためであろう。
 『日本古代地理研究』〔足利健亮;大明堂1985〕は、 「横河を渡る直前に…郡家と駅家があった。中村の集落…などは、その可能性が高い地点であろう」と述べる(p.295)。
《焚隠駅家》
 他の箇所では、「焚く」理由として暖をとるためなどを添えるが、隠駅家伊賀駅家については単に「」と記すのみである。 駅鈴を示す代わりに駅家を燃やして通過するところに、強い攻撃意思が見える。
 しかし、焚かれたとの報は直ちに大津朝廷に伝えられ征討軍が迫って来るだろうから、道を急がねばならない。
《駅家》
 『太政官符/弘仁十三年正月五日』の「駅馬十疋已上駅家之戸」の表現から見て、駅家は本来駅馬を養育する農家の意味である。 しかし、「駅家之戸」の人は当然駅に置かれた馬を世話するために出向いているから、駅に付属して馬を置く建物も「駅家」と呼ばれたであろう。 ここではその意味で、事実上駅の施設全体を指すと見られる。
《天皇入東国》
 天皇号の創始前だから、「天皇入東国」の「天皇」は書紀による潤色である。村人への宣告が仮に史実だったとすれば、もともとはオホキミか。
《人夫》
 「人夫」には税の一種として公役に動員する意味合いがあり、古訓のオホミタカラ〔人民一般〕とはニュアンスが異なる。
《一人不肯来》
 天皇〔オホキミ〕の名で公的な制度により徴発しようとしたが、全く無視された。この地域の住民はまだ反乱に勝ち目があるかどうかわからず、様子見していたようである。
《横河》
 『日本古代地理研究』は、横河が「現在の名張川であることは、その流路がみごとに正東西であることからも、疑問の余地はない。 横大路は東西方向の大路…その時代は、東西方向を横と称する時代であったと考えて誤りない」と述べる(p.295)。
《伊賀郡伊賀駅家》
奥城寺遺跡 下郡遺跡 才良遺跡 10高賀遺跡
 ⇒全経路
 に特定される遺跡は未知であるが、郡家(郡衙)に近いところにあったと思われる。
 『三重県埋蔵文化財調査報告302 奥城寺遺跡発掘調査報告』〔三重県埋蔵文化センター2009〕(p.5):
 ●伊賀郡衙:「下郡遺跡があり、奈良・平安時代の井戸から「延暦」と墨書された木簡が見つかっており、伊賀郡衙の比定地を考える上で有力な手がかり」。
 ●高賀遺跡:「大溝から…掘立柱建築部材」。
 また、この地に 才良廃寺(財良寺跡)がある。 「伊賀市デジタル」/財良寺跡によると、 「『東大寺要録』に「伊賀国財良寺 右天武天皇御願」と記され」、 「旧丸山中学校西側の東西約160m、南北約100mの範囲の畑地が寺域と考えられています」という。 出土遺物のうち「飛鳥時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦は、天武天皇と持統天皇の皇子草壁皇子を偲んで建立された奈良県桜井市の粟原寺出土例と同笵」という。
 粟原寺造立の経緯は、粟原寺三十塔伏鉢銘文に記されている(資料[75])。
 地名に上郡下郡古郡がある。郡家は初めは古郡にあり、後に北方に移転したことを思わせる。
《伊賀中山》
 『大日本地名辞書』に「伊賀中山:阿保村大字岡田に在り」とあり、 『通証』には「中山:在伊賀郡岡田村下川原村之間今中山寺之名存矣」とある。
 しかし、この地は大海皇子の経路から全く外れているのでこの説は見当違いである。 実際の位置は、才良廃寺辺りの「伊賀郡家」から積殖山口推定地に至る径路のどこかという以上に判断材料はない。
《率数百衆》
 ここで一気に軍勢が膨れ上がる。横河以北は、既に大海皇子側の勢力下にあったことがわかる。 軍勢が偶然集まって来るわけはないから、その段取りは事前に打ち合わせ済みだったはずである。 伊賀駅家への放火をもって蜂起の合図としたのかも知れない。
 これでひとまず安全圏に入った。吉野宮からの道程は、薄氷を踏む思いであっただろう。
《大意》
 即日、 菟田(うだ)の吾城(あき)に到着しました。 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)、 黄書造(きふみのみやつこ)大伴が、 吉野宮から来て追いつきました。
 この時、 屯田司(みたのつかさ)の舎人(とねり)土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)が、 駕に従う者たちに食糧を供しました。 甘羅(かんら)村を過ぎたところで、 猟師二十人余りが加わり、 大伴の朴本(えもと)の連大国(おおくに)が猟師の首魁となりました。
 このように悉く召喚して、駕に従わせました。 また、美濃王(みののおおきみ)を徴集し、参上して従いました。 湯沐(とうもく)の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹に、 菟田(うだ)の郡家のところで遭遇し、 よってすべての米を棄てて、歩いていた者を乗せました。
 大野に到り、日が落ちました。 山は暗く進めなかったので、 その村の家の垣を壊して取り外し、松明としました。
 夜半に及び、隠郡(なばりのこおり)に到り、 隠の駅屋を燃やしました。 よって村中に 「天皇(すめらみこと)が東国に入られた。 よって人夫はこぞって参上せよ。」と宣言しました。 しかし、一人も来ることを肯(がえん)じませんでした。
 横河に到着しようとしたところで黒雲がわき、 広さ十丈あまりで、天を横断しました。 その時、天皇(すめらみこと)はこれを異様に思い、 松明を挙げて親(みずか)ら式(のり)を執り占いされ 「天下二分の祥(さが)である。 しかし、朕が遂に天下を得る兆しか。」と仰りました。
 即ち急行して伊賀郡(いがのこおり)に到り、 伊賀の駅屋を燃やしました。 伊賀の中山に到り、 当国の郡司らが数百の衆を率いて帰順しました。


目次 【元年六月二十五日】
《至莿萩野》
會明至莿萩野。
暫停駕而進食。
到積殖山口、
高市皇子、
自鹿深越以遇之。
会明…〈北〉會明 アケホ 至莿-萩-野/タラノ 暫  ミユキ進食 ミヲシ 。 〈閣〉會-明アケホノニ 莿-萩 ヲラノ  /太良乃-野積殖…〈北〉ツムノツムヱノヤマクチ鹿深カフカ遇之 マワヘリ マムフ マミヘリ 。 〈閣〉積殖 ツム ヱノ /マワヘリマミヘリ
会明(あけぼの)に莿萩野(たらの)に至る〔二十五日〕
暫(しまら)駕(しやか)を停(とど)めて[而]進食(を)す。
積殖(つむゑ)の山口(やまぐち)に到りて、
高市皇子(たけちのみこ)、
鹿深(かふか)自(ゆ)越えて以ちて[之]遇(まみ)えり。
民直大火
赤染造德足
大藏直廣隅
坂上直國麻呂
古市黑麻呂
竹田大德
膽香瓦臣安倍、從焉。
民直大火…〈北〉 民直タミノアタヒ大火 オホヒ  赤染造アカソメノミヤツコ德足トクタル 大藏直 オホクラノ アタヒ廣隅ヒロ スミ 坂上直サカノウヘノアタヒクニ麻呂マロ 古市フルイチノクロ麻呂マロ 竹田タケ タノ大德タイトク  膽香/イカゝイカ■安倍アヘ從焉■ホムトモナリ
〈閣〉大德タイ トク膽-香イカゝ/イ カコ -瓦安倍アヘ從焉オホムトモナリ 
民直(たみのあたひ)大火(おほひ)
赤染造(あかぞめのみやつこ)徳足(とくたる)
大蔵直(おほくらのあたひ)広隅(ひろすみ)
坂上直(さかのうへのあたひ)国麻呂(くにまろ)
古市(ふるいち)の黒麻呂(くろまろ)
竹田(たけだ)の大徳(だいとく)
胆香瓦臣(いかかのおみ)安倍(あべ)、従(したが)ひまつる[焉]。
越大山、至伊勢鈴鹿。
爰國司守三宅連石床
介三輪君子首、
及湯沐令田中臣足麻呂
高田首新家等、
參遇于鈴鹿郡。
国司守…〈北〉 國司守ヤケノムラシ石床イハ トコワノキミ カウヘ 及湯沐カナナカ田中タナカノヲン タル麻呂マロ 高田 タカタノ ヲフト ニヒ ノミ
〈閣〉トカカウヘカウヘ新家ニヒ ノミ
參遇…〈時代別上代〉「マワヘル〔続後紀承和12年の"万和倍留"〕は参ヰ=アヘ=ルの意と考えられる」
大山(おほやま)を越えて、伊勢の鈴鹿(すずか)に至る。
爰(ここに)国司(くにつかさ)の守(かみ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いはとこ)
介(すけ)三輪君(みわのきみ)子首(こびと)、
及びに湯沐(ゆ)の令(かみ)田中臣(たなかのおみ)足麻呂(たるまろ)
高田首(たかたのおびと)新家(にひのみ)等(ら)、
[于]鈴鹿郡(すずかのこほり)に参遇(まわ)へり。
則且發五百軍、塞鈴鹿山道。
到川曲坂下而、日暮也。
以皇后疲之暫留輿而息。
然夜曀欲雨、
不得淹息而進行。
川曲坂下…〈北〉川-曲カハ ワノ坂下 サカ モト日暮ヤスム淹息ヒサシク 進行ミタス 
〈閣〉輿夜-曀ヨクモリテ淹-息 ヤム ヒサシクヤスムコト
…[動][形] かげる。くもる。
則(すなは)ち且(また)五百軍を発(お)こして、鈴鹿の山道(やまみち)を塞(ふた)ぐ。
川曲(かはわ)の坂下(さかもと)に到りて[而]、日暮れぬ[也]。
皇后(おほきさき)疲之(つかれたまひしこと)を以ちて暫(しまら)輿(こし)を留(とど)めて[而]息(やす)みたまふ。
然(しかれども)夜(よ)に曀(くも)りて[欲]雨ふらむとして、
淹(とど)まり息(やすむこと)を不得(えざり)て[而]進み行けり。
於是、寒之雷雨已甚。
從駕者衣裳濕、以不堪寒。
乃到三重郡家、
焚屋一間而令熅寒者。
雷雨…〈北〉 雷雨已甚ハナハタシ駕者ミトモ 衣-裳 キモノ ヌレヒトツ熅寒アタゝメ
〈閣〉アタゝメ寒-者
…[動] 炎をこもらせけぶる燃え方。[形] ほの温かい。
…[助数詞] へやの数や、家の軒数を数える。
於是(ここに)、寒之(さむくあり)て雷(いかづち)雨(あめ)已(すでに)甚(はなはだし)。
駕(しやか)に従ふ者(ひと)の衣裳(ころも)湿(ぬ)れて、以ちて寒(さむき)に不堪(たへず)。
乃(すなは)ち三重(みへ)の郡家(こほりのみやけ)に到りて、
屋(や)一間(ひとつ)を焚(や)きて[而]寒者(さむきひと)を熅(あたたけ)くせ令(し)む。
是夜半、
鈴鹿關司、遣使奏言
「山部王石川王並來歸之、
故置關焉。」
天皇、便使路直益人徵。
山部王石川王…〈北〉山-部ヤマノヲホキミ石川 イシ カハノヲホキミ來歸 マウヨレリ置関ハムヘラシム路-直ミチアタヒ 益-人マスムト
〈閣〉ハンヘラシム
是(この)夜半(よなか)、
鈴鹿の関(せき)の司(つかさ)、使(つかひ)を遣(まだ)して奏言(まをさく)
「山部王(やまのおほきみ)石川王(いしかはのおほきみ)並びに来帰之(まゐきたり)、
故(かれ)関に置きつ[焉]。」とまをす。
天皇(すめらみこと)、便(すなはち)路直(みちのあたひ)益人(ますひと)を使(し)て徵(め)さしめき。
 ⇒全経路
《莿萩野》
 今のところ莿萩野の遺称は見いだせない。 伊賀中山と同じく位置は不明だが、「伊賀郡家」から「積殖山口」までの間のどこかである。
『事典 日本古代の道と駅』p.87,p.134の図を合成・加筆。
平安初期までの東海道。はその後の東海道。
が「積殖山口」である可能性が高い。
《積殖山口》   
 〈倭名類聚抄〉に{伊賀国・阿拝郡・枯〔柘であろう〕殖郷}。 書紀古訓ではツムウヱと訓む。 都美恵神社〔伊賀市柘植町2280〕の存在は、かつてこの地がツミヱと呼ばれたことを示すと見てよい。
 現地案内板〔伊賀市教育委員会;東名阪自動車道伊賀SAの北東、一般道国道25号線沿い〕によると 「「積殖」とは古来から近江・伊勢の交通の要所であった伊賀市柘植町のことであり、「積殖の山口」とはこの地にあたるといわれている」。 「山口」のは、鈴鹿山脈であろう。
《高市皇子》
高市皇子  上述
《鹿深越》
 鹿深カフカ甲賀であろう。〈倭名類聚抄〉に{近江国・甲賀郡}。の隋唐音は[kap]で、また上代の[pu]と発音された。 『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕〈以下"古代の道"〉は、 「甲賀駅」が「甲賀市土山町頓宮」(上図)にあった可能性が高いが、 「平安時代初期は野洲川の支流杣川を通って伊賀国に出て奈良時代の東海道に通じていた。ほぼ現在のJR草津線に沿うことになる」(上図) と述べる。「鹿深越」は径路であろう。
《民直大火…》
民直大火  〈姓氏家系大辞典〉「民 ミタミ タミ:帝室領の人民を云ひ、此の人民を掌りし氏」。 〈姓氏録〉〖和泉国/神別/天孫/民直/同神〔=天穂日命〕十七世孫若桑足尼之後也〗。 〈延喜式-神名帳〉{和泉国/大鳥郡/美多弥神社}。 〈姓氏家系大辞典〉「民直:和泉の豪族…中臣氏の族…大鳥郡の民の長たりしならん」。
 大火は、〈続紀〉大宝三年〔七〇三〕六月壬子に「従五位下民忌寸大火正五位上。正六位上高田首新家従五位上。並遣使吊賻。以壬申年功也」。
赤染造徳足  〈姓氏家系大辞典〉「赤染 アカソメ:古代赤染部と称せし伴部あり」。 〈続紀〉宝亀八年〔777〕赤染帯縄等十九人賜常世連」。天平十九年〔747〕、天平勝宝二年〔750〕にも「賜常世連姓」。 〖河内国/諸蕃/漢/常世連/出自燕国王公孫淵也〗により〈姓氏家系大辞典〉「燕帰化族なるを知る」。 徳足はここだけ。
大蔵直広隅  〈姓氏家系大辞典〉「大蔵 オホクラ:…大蔵省の官職にありしものの子孫が父祖の官名を以て…氏の如く使用せしもの又尠〔すく〕なからず。猶ほ大蔵なる地名を負ひしものも」。資料[25]参照。 「大蔵直倭漢〔やまとのあや〕氏の族にして、大蔵に仕へしを以つて此の名あり」。 広隅はここだけ。
坂上直国麻呂  坂上直は、〈推古〉二十八年《倭漢坂上直》項参照。 国麻呂はここだけ。
古市黒麻呂  〈倭名類聚抄〉{河内国・古市郡}。〈姓氏家系大辞典〉「古市村主:百済族にして、河内国古市郡古市郷より起る」、「無尸の古市氏:古市村主の族裔なるべし」。 黒麻呂はここだけ。  
竹田大徳  〈姓氏家系大辞典〉「山城の竹田氏:…竹田大徳と云ふ人出づ。…無尸の竹田氏多く物に見ゆ」。 大徳はここだけ。 
胆香瓦臣安倍 〈姓氏家系大辞典〉「胆香瓦は伊香(イカガ)に同じかるべし。されど伊香氏に臣姓のものなし。或は伊賀臣か」。 「伊香 イカガ イカコ:近江国伊香郡伊香郷より起りし大族」。 安倍は〈天武〉元年七月辛卯に不破からの近江攻撃に参加。以後は見えず。
《越大山》
 柘植からの間は加太川沿いの谷間で比較的平坦ではあるが、それでも山越えなので「大山」と表現したと見られる。
長者屋敷遺跡 鈴鹿市広瀬町
『伊勢国分寺跡(5次)長者屋敷遺跡(1次)発掘調査概要報告』(p.27)と地理院地図を合成
 ⇒全経路
積殖山口 鈴鹿関 鈴鹿駅(亀山市関町古厩) 伊勢国府(長者屋敷遺跡) 河曲駅(磐城山遺跡)
《伊勢鈴鹿》   
 伊勢国鈴鹿郡には、伊勢国府鈴鹿郡家鈴鹿関鈴鹿郡家があったと見られる。
 〈古代の道〉は、「『延喜式』兵部省では駅馬は鈴鹿駅に二十疋、河曲カハリ・朝明・榎撫の三駅に各十疋」、 「鈴鹿駅は本道と支路の分岐駅として両道の交通を負担するに足る駅馬数を置いている」とする。
 国府の位置については、「八世紀後半」までは「鈴鹿市広瀬の長者屋敷遺跡」にあったという。
 『伊勢国分寺跡(5次)長者屋敷遺跡(1次)発掘調査概要報告』〔鈴鹿市教育委員会1993〕は 「長者屋敷遺跡からは、多量の瓦と共に基壇を有する礎石建物跡が発見され、伊勢国庁跡の可能性がますます高くなった」、 「古道として鈴鹿関→長者屋敷遺跡→伊勢国分寺→三重郡家(四日市市采女付近)と結ぶ鈴鹿川北岸ルートが東海古道と推定される」と述べる。(p.5) そして「国府は時代によって各地に移転」するもので、「奈良期に長者屋敷遺跡に国府が置かれていたのが、平安期に鈴鹿川対岸の「国府」地区に」移転したとの見方を示す(p.39)。
《三宅連石床…》
三宅連石床  〈姓氏家系大辞典〉「三宅 ミヤケ:屯倉より起りしにて、古今に亘り大族也」、 「伊勢の三宅連:国府に式内三宅神社…天武紀に本国々守三宅連石床を載せたれば、その氏神にて、上古屯倉のありし地ならん」。
 〈天武〉九年七月丙申「小錦下三宅連石床卒。由壬申年功大錦下位」。
三輪君子首
※1子人子首(コ-オビト)の母音融合であろう。ただ、人はだが、オビトは甲乙不明。
※2はミワ(三輪)。麻加牟陀(マカダ)は真上田の音仮名表記と見られる。 ただし、(カミ)にはカムの形があるが、(カミ)にはその傾向が見えない点が不審である。
 三輪氏族については、第111回〈用明〉元年など。 〈天武〉五年八月「大三輪真上田子人※1)君卒。…以壬申年之功贈内小紫位、仍謚曰大三輪眞上田迎君」。
 〈姓氏家系大辞典〉に載る子首に至る系図は、「大田々根子―〔六代〕―忍人―磐弓―大口―子首伊勢介内小紫位謚大三輪真上田迎君」。 壬申の論功により封百戸〔神麻加牟陀※2)君児首と表記〕
田中臣足麻呂  〈孝元〉段(第108回) 「〔建内宿祢の子〕蘇賀石河宿祢者、蘇我臣河辺臣田中臣高向臣小治田臣櫻井臣岸田臣等之祖也」。 〈姓氏家系大辞典〉「田中臣:蘇我氏の族にして、…〔大和国高市郡〕田中邑より起る」。 〈天武〉十三年「田中臣…賜姓曰朝臣」。
 足麻呂は〈釈紀〉文武二年〔698〕六月丁巳「直広参田中朝臣足麿卒。詔贈直広壱。以壬申年功也」。
高田首新家  〈姓氏家系大辞典〉「高田首:山城国葛野郡高田郷とある地名を負ひなるべし」。 新家は、〈天武〉十四年十月「高田首新家…於信濃、令行宮」。 大宝三年六月壬子までに卒(上記)。 〈釈紀〉慶雲元年〔704〕七月「贈従五位上高田首新家功封四十戸四分之一。伝子無位首名〔壬申の論功による封四十戸の四分の一を子の首名〔人名〕に伝えよ〕
《鈴鹿郡》
 〈古代の道〉は、鈴鹿駅は〈倭名類聚抄〉{鈴鹿郡・鈴鹿【須々加】郷}にあり、「三関の一つである鈴鹿関も同地にあったと考えられる」、 さらに鈴鹿駅の遺称として「亀山市関町古厩」を挙げる。
《発五百軍》
 ここでやっと味方の伊賀国司湯沐令と合流した。よって国司らの命令で五百人規模の軍を動かせるようになったと見られる。
《鈴鹿山道》
 平安期の東海道の経路と見られる。鈴鹿関から見てこの方面は「」である。 近江朝廷軍この道を通って攻めて来るのを防禦するためであろう。
《川曲坂下》
 〈古代の道〉は、河曲駅は〈倭名類聚抄〉{河曲郡・駅家郷}にあったと述べる。
 『磐城山遺跡(4次)説明会資料』〔鈴鹿市考古博物館2011〕は、「河曲郡駅家郷」にあたる「磐城山遺跡」は弥生時代には環濠集落であったが一時人が住まなくなり、 「人々が戻ってくるのは、5世紀終わりから6世紀のはじめの古墳時代後期に入ったころのようです。この時期も竪穴住居跡が多数」、「飛鳥・奈良時代においても、掘立柱建物等が多数」、 「磐城山遺跡にその前の時期の郡衙があり、後に狐塚遺跡に移った」、 しかし「中心部分は今回の調査区の西側」で「今の段階では何も証拠がありません」という。
《皇后疲之暫留輿》
 ここまで読んだところでは、天皇の乗り物の呼び名は、皇后は輿に統一されている。空の駕を御して大海皇子を追いかけた記述があるから、は馬車と見られる。 輿〔こし〕は「長い柄がついていて人力で運ぶ」(〈時代別上代〉)乗り物とされる。しかし、馬の牽く荷車から荷駄を棄てさせて従者を乗せたのを見ると、皇后一人が人力で運ばれたことになってしまう。 これでは甚だしく不自然だから「輿」もやはり馬車で、乗る人物によって名称が区別されたのであろう。
《三重郡家》
Ⅵ ⇒全経路
 『大日本地名辞書』は「采女郷:三重郡家は即本郷」、「三重郡:古事記伝曰、朝倉宮(雄略)段に三重婇見え、今も采女村あり」と述べる。 〈雄略〉紀では、「伊勢国之三重婇」が〈雄略〉に酒杯を献じた(第208回)。 采女村〔現在の四日市市采女町〕に郡家遺跡は未検出だが、 北方に「久留倍官衙遺跡」がある。 郡家規模の遺跡が今のところ三重郡には見つかっていないから、久留倍官衙遺跡が実は三重郡家であったとしたらどうだろう。 「久留倍」は朝明郡と三重郡にまたがる広域の地名で、大矢知村の小字「久留倍」は三重郡に属した部分の遺称であると考えることもできそうである。
 しかし、文脈を追うと大海皇子の一行は川曲坂下からまだそんなに離れていないから、案外采女村かも知れない。
 なお、四日市市西坂部町に「天武天皇御館頓宮碑」が建ち、現地ではここが三重郡家だと伝わるが、ここも河曲郡から離れ過ぎである。
《焚屋一間而令熅寒者》
 ここでは焼いた建物を「一間」と限定し、暖をとるためだと理由付けする。 駅屋を焼く場面に比べて、三重郡家では抑制的に書かれる。三重郡司が味方についていた故であろう。
丸瓦と平瓦
鈴鹿関築地塀跡
亀山市文化財速報 Vol.40
《鈴鹿関》
 亀山市公式/鈴鹿関跡のページ、 『亀山市文化財速報 Vol.40』〔亀山市生活文化スポーツ課まちなみ文化財グループ2020〕には 「2005年に関宿北方…で土塁上の高まりと古代瓦の散布」を発見、「2019年」に第9次二区調査。 「西側は、人の侵入を拒む深い谷で、この谷地形を利用して築地塀がきずかれ」、 「築地塀は重圏文軒丸瓦の出土から奈良時代の中頃に築かれた」と考えられるという。
 遺跡の所在地は、亀山市関町新所。 ここは焚かれていないから、関守らは大海皇子側と見られる。
《山部王・石川王》
山部王 系譜は不明。ここだけ。
石川王  系譜は不明。〈天武〉八年三月己丑条「吉備大宰石川王、病之薨於吉備。…贈諸王二位」。
 実際にはこの人物は大津皇子で、鈴鹿関守の誤認なりと丙戌〔二十六日〕条で書かれる。
《路直益人》
路直益人  〈姓氏録〉〖諸蕃/漢/路宿祢/坂上大宿祢同祖〗〖坂上大宿祢/出自後漢霊帝男延王也〗。 〈姓氏家系大辞典〉「大和の古族也」。益人はここだけ。
《大意》
 〔二十五日の〕夜明けに莿萩野(たらの)に至りました。 しばらく車駕を留めて食事をとりました。
 積殖(つみうえ)の山口に到り、 高市皇子(たけちのみこ)が、 鹿深(かふか)越えで出会いました。
 民直(たみのあたい)大火(おおひ)、 赤染造(あかぞめのみやつこ)徳足(とくたる)、 大蔵直(おおくらのあたい)広隅(ひろすみ)、 坂上直(さかのうえのあたい)国麻呂(くにまろ)、 古市(ふるいち)の黒麻呂(くろまろ)、 竹田(たけだ)の大徳(だいとく)、 胆香瓦臣(いかかのおみ)安倍(あべ)が〔高市皇子に〕従っていました。
 大山を越えて、伊勢の鈴鹿に至りました。 このとき国司の守(かみ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いわとこ)、 介(すけ)三輪君(みわのきみ)子首(こびと)、 及び湯沐(とうぼく)令田中臣(たなかのおみ)足麻呂(たるまろ)、 高田首(たかたのおびと)新家(にいのみ)らと、 鈴鹿郡(すずかのこおり)に参上して遇いました。
 すぐにまた五百人の軍を起こして、鈴鹿の山道を塞ぎました。
 川曲(かわわ)の坂下(さかもと)に到り、日が暮れました。 皇后(おおきさき)はお疲れでしたので、しばらく輿(こし)を止めて休息されました。 けれども、夜には曇って雨が降りそうでしたので、 とどまり休息することができず進み行きました。
 すると、寒く雷雨は既に甚だしくなりました。 車駕に従う者の衣服は湿り、寒さを堪えられません。 そこで三重郡の郡家に到着したところで、 建物一間を焼いて寒さを訴える人に暖をとらせました。
 この夜半に、 鈴鹿の関の司(つかさ)が、使者を遣わして 「山部王(やまのおおきみ)石川王(いしかわのおおきみ)が並んで来ました。 よって、関に留め置きました。」と報告しました。
 天皇(すめらみこと)は、そこで路直(みちのあたい)益人(ますひと)に連れて来るよう命じました。


まとめ
 郡衙と見られる遺跡や遺称と見られる地名を丹念に追っていくと、書紀に書かれた大海皇子の行程はかなり正確に特定することができる。
 既に長い歴史の中で数々の推定が行われてきたが、ここでは改めて白紙の状態から遺跡や地名を手掛かりにして調べた。 全経路の図では、経由地のうちほぼ確定したもの()、その近辺と思われるもの()、 判断不能だが経路上に想定される範囲()を区別して示した。
 横河を渡るまでは、進軍というよりもわずかな人数による敵地からの脱出であった。伊賀国に入りさえすれば、その郡司たちはすでに味方に付いていることが分かっていた。
 ここに到るまでが、実は最も危険な時間だったのである。 なるべく短時間で通り抜けようとしたことが、駕の準備を待たずに単騎で駆けだしたところに現れている。 なお、途中で馬屋に放火しながら進んだのは、駅鈴が発行されなかったことに対する腹いせと感じられる。
 こうして何とか無事に横河に辿り着いたことにより、既にかなりの勝算が見えた。 そこで、占いによって一同に勝利を確信させたのである。



[28-04]  天武天皇(4)