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2024.08.21(wed) [28-01] 天武天皇上1 ▼▲ |
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天武1目次 【即位前】 天渟中原瀛眞人天皇〔天武〕。天命開別天皇同母弟也……〔続き〕 2目次 【立為東宮】 《天智七年~十年十月十七日》
〈天智〉紀の「元年」は、「称制元年」とした。しかし、次の段に「四年冬十月庚辰。天皇臥病以痛之甚矣」とあるので、 ここでは即位年〔=称制七年〕を「元年」としている。 〈天智〉紀では称制の間は「大皇弟」と呼び、「東宮」になるのは即位年のことであったから、「天命開別天皇元年立為二東宮一」の筋は通っている。 〈内閣文庫本〉が「四年」に「/十」と傍書するのは、称制を元年とした〈天智〉紀に揃えたもの。 ただ、元年に「/七」の傍書はないので、称制の間は皇太子を定めることはないとする書紀原文の繊細な配慮を台無しにしている。 《東宮》 「四年」〔称制十年〕に、謀略的ではあるがともかく「鴻業」を授けようとした。これが真の意味での「東宮」任命にあたる。 「元年」〔称制七年〕に東宮となったというがその実質はなく、書紀が事後に形式として認定したに過ぎない。それは、結局〈天武〉が現実に即位したという事実による。 なお、古訓はマウケノキミを用いているが、これはヒツギノミコと同義である。 実際にマウケノキミが使われたのは、大海皇子の言葉「大友皇子を儲君にしたまふべし」の中である。 書紀古訓は、この語を大海皇子の「東宮」に転用したと思われる。 《蘇賀臣安麻侶》
なお、安麻侶は〈天智紀〉には登場しなかった。 《大殿》 古訓はミアラカ。アラカは神仏や貴人の殿。 内裏はオホトノと訓まれるように、宮廷の建造物としての名称はオホトノである。 そこに畏怖の情を加えて呼んだのがミアラカだと見られる。 ここでは〈天智〉が陰謀の片棒を担いでしまっているから、ミアラカでは畏まり過ぎではないか。 オホトノでもオホ-によって十分に尊敬表現になっている。 《有意而言》 〈天武上〉が安麻侶が助言した話を置いたのは、大海皇子に即位を勧めたのは罠であったと明確に示すためである。 もし大海皇子が安易に即位を受け入れれば、太政大臣以下の臣によって邪に政権奪取を狙ったと見做されて直ちに滅ぼされる手順が用意されていたと見られる。 即位の意思を否定して僧門に入れば、いずれ決起の日を迎えるにしてもひとまず時間稼ぎができる。 吉野宮に入った大海皇子の許には、諸族からの使者が日参して決起の手順を相談する情景が想像される。 《臣之不幸元有多病》 「臣之不幸」の之は動詞としては「往く」であるが、これでは意味が通らない。 単純に之を属格の助詞として「臣之不幸」を主語、「元有二多病一」を述語だと考えればよいだろう。 すなわち「臣之不幸是元有多病」から繫辞是が省略されたと考えるのが妥当か。 《挙天下附皇后》 〈舒明〉が崩じた後は、直ちに葛城皇子(〈天智〉)が即位するのではなく皇后〈皇極〉が皇位を継承した。 〈敏達〉が崩じた後は、短期間の二代(〈用明〉〈崇峻〉)を挟んだ後、やはり皇后の〈推古〉が継承している。 その時は厩戸皇子を皇太子かつ摂政とした。 このように、本来の皇太子が年若い場合は、ひとまず皇后が皇位に即くことが或る種の習慣となっていた。 〈天武〉以後も、〈持統〉即位にその例が見られる。
それを考えると、まず皇后を即位させるべしという大海皇子の主張は常識的なもので、本当に他意はなかったかも知れない。 しかし〈天智〉は皇后を間に挟まずに、直接大友皇子に継がせようと考えていた。 〈天智〉は大海皇子の意見を聞いたとき、大友皇子が即位することを嫌っていると感じたとしても不思議はない。 もしも〈天智〉がこの感想を漏らせば、大友皇子はじめ左右大臣、大納言は俄かに大海皇子への警戒心を高めたであろう。 《法服》 法服の古訓「ノリノコロモ」は、法と服を直訳して繋いだもので、実際に使われる言葉であったかどうかは疑わしい。 「法師:ホフシ〔=僧〕」と同じように、古くから音読されていたのではないだろうか。 《大意》 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕元年〔称制七年〕、 天皇〔天武〕を東宮に立てられました。 四年十月十七日、 天皇〔天智〕は病に臥し、大変辛くあられました。 そこで、蘇賀の臣の安麻侶(やすまろ)を遣わし、 東宮〔天武天皇〕を召して大殿に引き入れられました。 そのとき安摩侶は、 以前から東宮と好(よしみ)を通じていて、振り返って東宮に密かに、 「心の内によくお考えになってお話しください」と申し上げました。 東宮は、 よって隠された謀があることをと疑い、慎重に振舞われました。 天皇は東宮に勅して鴻業〔=皇位〕を授けられましたが、 すぐに辞して譲られて申し上げました。 ――「臣は不幸にして、元から多くの病気をもつ身です。 どうして社稷〔=国家〕を保つことができましょう。 願わくば陛下は天下のすべてを皇后に委ね、 そして、大友皇子(おおとものみこ)を立てて儲君(もうけのきみ)〔=皇太子〕になされませ。 臣は今日出家して、 陛下のために功徳を修めたいと存じます」。 天皇はこれを聴(ゆる)されました。 その日のうちに出家して法服を着用されました。 それにより、私的に所持していた兵器は、悉く官司に納められました。 3目次 【入吉野宮】 《天智十年十月十九日~十二月》
吉野宮は、宮滝遺跡と見られる(第204回【阿岐豆野】項)。 《大納言》 ここの書紀古訓によって、〈倭名類聚抄〉「大納言:於保伊毛乃萬宇須豆加佐」のオホイがオホキの音便であったことが実証される。〈倭名類聚抄〉は930年代成立。 書紀古訓が付された時期は音便が進む前の奈良時代か、せいぜい平安前期であろう。 大納言は、〈天智〉十年条では御史大夫であった。 〈天武紀〉では大宝令以後の表記を遡らせて用いたと見られる。 《自菟道返焉》 宇治郡はかなり広いので、大臣たちがどこまで随行したかを特定することは難しい。 ただ宇治川を渡るところまで同行し、そこで大海皇子の一行を見送ったとすれば風景としてよい。 飛鳥に向かう街道には、宇治川に宇治橋が架かる(右図)。 後年〔1052〕、平等院鳳凰堂が築かれ、菟道の宗教的中心地となった。 宇治橋は、大化二年に道登が築いたと言われる。 その出典を探ったところ、『扶桑略記』に行き着いた。
鎌倉時代『帝王編年記』に宇治川橋の碑文が引用されている。
鎌倉時代にはこの碑が存在していたことが分かる。しかし、扶桑略記とどちらが古いかは分からない。 一方、〈続紀〉には、宇治橋は道照和尚が築いたと載る。 その記述は、〈斉明〉四年《玄弉法師》項で見た記事の中にある。
両者を排反事象として見る場合は、〈続紀〉に載る道照和尚の生涯には伝説的な内容が目立つので、若干不利かも知れない。 しかし、そもそもそれぞれの名僧を結び付けた伝説が、独立的に生まれたこともあり得る。 空海が満濃池や益田池を作ったり、聖徳太子が大量の寺院を開基したと言われるのと同じで、偉大な建造物には一般的に偉大な人物が結び付く。 しかし高僧が必ず土木技術者としての専門知識を備えていた訳でもないから、宇治橋の場合も有名な建造物に高僧を結びつけたひとつの例かも知れない 〔ただ、重要性を声高に唱えて精神的に誘導したということなら十分考えられる〕。 このようにその「創造者」が誰であったかは決め難いが、五月「是月」条には「命二菟道守橋者一」とあるから、〈天武〉元年の時点で宇治橋が架かっていたことだけは確実である。 〈孝徳〉朝に初めて宇治橋が建造されたことも、信じてよいであろう。 道登または道昭が帰国したとき、唐から橋づくりの専門技術集団を連れ帰ったことは考えてよい。 それが高僧自らが橋を作った話に転化したと見るのが穏当か。 《嶋宮》 嶋宮は、島庄遺跡に比定されている(〈推古〉三十四年《家》項、〈用明〉元年《蘇我馬子邸宅》項)。 蘇我馬子が薨じた後は、時々皇族が宿泊するための公の施設になったと見られる。 《虎着翼放之》 〈天智〉十年十二月条の「童謡其一」は都落ちした辛さを詠ったものだったが、実際には都から離れた地で密かにかつ自由に決起の準備をしていたのである。 「虎に翼を付けて放てり」と喧伝されたことは、真理を衝いたものであろう。 《翼》 翼をツバサと訓んでよいかどうか、慎重に考えたい。 鳥類の前肢を指す上代語には、ハネとツバサがある。 ハネについては、 (万)0657「翼酢色之 變安寸 はねずいろの うつろひやすき」が見える。 ハネズ色は桃より濃い赤色(ここでは枕詞)。植物由来の染料が想定される。 この歌では、翼をハネと借訓するために用いている。 ツバサについては、〈倭名類聚抄〉に「翼:…和名都波佐」が見える。 (万)3345「葦邊徃 鴈之翅乎 見別 あしへゆく かりのつばさを みるごとに」は音数(五七五七七)によって判断したと見られる。 〈類聚名義抄〉には、法下巻「:ツハサ ツムテ」、 僧上巻「:ツハサ」、 僧上巻「:ツハサ ハネ」がある。 これらの字は、すべて翔の異体字と見られる。現時点では、翮(u+7fee)、翯(u+7fef)を除けばunicodeにはない。 〈類聚名義抄〉はわが国の字についての基本資料なので、そこに載る字は全てunicodeに加えるべきであろう。 いろいろ探ってみたが、結局〈天武〉紀上巻において翼にあてるべき上代語は、ツバサもハネも可能と見られる。 《舎人》 舎人には、公から食封が支給される 〔大夫以上に給付され、それを仕える舎人に配分する〕。 大海皇子に仕える舎人も同様であったはずである。 改新詔其一では、大夫以上の食封は公的に徴集したものを分配することになった。 ただ、改新勅発布の時点では多分に建前であろうが、第206回【釈紀:論者曰】項を見ると、 奈良時代には納税は農民が年に一回生産物を持ち寄り、国司が公と荘園に分配する仕組みになっている。 食封の額の規定は、納税元の村の条里を指定する方法によって行われる 〔資料[54]【岡本田】項。 この例は寺社の修理料の支給を述べたものだが、皇子や大夫への食封も同様の方法で定められていたと思われる〕。 〈天武〉元年の頃には、食封の支給は行政によって機械的に行われるようになっており、皇子が吉野へ退いたことを以て突然支給が停止されることはなく、 官僚機構による事務的処理が継続していたと思われる。 その点注目されるのは、元年五月是月条の「遮三皇大弟宮舎人運二私粮一」である。 舎人に支給する糧は、相変わらず大和国司の許から運ばれていたことが分かる。 都に戻った舎人は新たな部署に配置され食封が支給され、冠位は通例に従って上昇していくであろう。 皇子に随って僧門に入った者にも、食封は支給され続けただろうが、 今後もし賊軍と判定されれば、その瞬間に支給は停止されて未来を失うことになる。 但し、もしクーデターが成功すれば逆に栄達の道が開ける。大海皇子は、どちらの道を選ぶかを各人の自由とした。 一回目に聞いた時に誰も帰ると言わなかったのは、気を遣わせていると見たのであろう。 最終的には大海皇子が天下を取ることに賭けた舎人が半数いたわけで、比較的多い。 この割合は、世間の大方の見方を反映したものかも知れない。 《大意》 十九日、 吉野の宮に入られました。 その時、左大臣(ひだりのおおまえつきみ)蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)、 右大臣(みぎのおおまえつきみ)中臣(なかとみ)の金(くがね、かね)の連(むらじ)、及び 大納言(おおきものもうすつかさ)蘇賀(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)等は 送り、菟道に着いたところで引き返しました。 或る人は「虎に翼を着けて放った」と言いました。 この日の夕、嶋宮(しまのみや)に滞在されました。 二十日、 吉野に到着し、居を定めました。 この時、もろもろの舎人を集め、仰りました。 ――「私は今、入道し修行する。 そこで、自分の意思で修道したいという者は留まれ。 もし、仕官して名を成そうと思う者は、 都に帰って官司に仕えるがよい」。 しかし、去る者はいませんでした。 そこでもう一度舎人を集め、前と同じことを仰りました。 これにより、舎人たちは半ばが留まり、半ばが去りました。 十二月、 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕が崩じました。 まとめ この時点では、大海皇子は公的な食封給付の対象から外されていない。 それもあって、近江朝に対する立ち位置は個人としては中立的であったと考えられる。〈天智〉の後継に皇后を推したのも、まさしくそれであった。 これは、書紀が〈天武〉を叛逆の人と描くのを避けての潤色のようにも見えるが、実際の人物像であったと思わせるものがある。 しかし、中央に叛逆する諸族と人民にとっては、大海皇子はリーダーとして祀り上げるのに格好の立ち位置にいた。 結局、本人にはその立場を担う以外に選択肢はなくなっていったということであろう。 これは、古今東西の天下人に多かれ少なかれ共通することだろうと考えられる。 普通に考えて最初から根拠もなく国を獲る野望が本人にあるはずはなく、周囲の条件が揃うにつれて次第にそのような存在であることを自覚するようになっていくのである。 さて、宇治橋は大海皇子への食封の運搬経路としても登場する。ここは近江朝と叛逆勢力が対峙する戦略上の要地と考えられる。 書紀にはこの二カ所以外に記述はないが、壬申の乱で恐らく焼け落ちたであろう。 こうして見ると、〈天智〉九年五月の童謡の「于知波志」には、やはり宇治橋が重ねられているという感が強まる。 |
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2024.09.23(mon) [28-02] 天武天皇2 ▼▲ |
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4目次 【元年三月~五月】 《告天皇喪於郭務悰等》
なお「内-」は、中臣鎌子の「内大臣」から類推すると、秘書室のような立場か。 《告天皇喪於郭務悰等》 稲敷を使者として筑紫に遣わしたのは近江朝廷で、朝廷の主はこの時点では大友皇子である。そこに「大友皇子天皇即位説」を唱え得る余地がある。 大友皇子を「第三十九代天皇」に追諡したのは、明治時代であるが、ここでその妥当性を検討する。 明治時代の追諡に関する文献を探したところ、『御歴代の代数年紀及院号に関する調査の沿革ア』〔宮内省図書寮1919〕付録下(p.350)が見つかった。それによると、 大友皇子を天皇とするのは、『大日本史』〔徳川光圀〕が「大友天皇紀」を立てたこと始まり、 「明治三年〔1870〕七月〔明治天皇による〕弘文天皇の御追諡」によって確定したという。 ただ、歴代天皇の代数に加えるかどうかについては異論があり※)、議論の末『皇統譜』に加えることに決したようである。 ※)…近藤久敬「日本書紀に拠るべきと主張」。井上哲次郎「天皇には相違なきも御代数には加へざるを善しとす」。 同書は、参考資料として次の歴史的文献を示す。 ●『大鏡裏書所西宮記』(源高明〔913~982〕)「天智十年正月任太政大臣十二月即帝位 明年七月自縊」(ア所引)。 ●『扶桑略記』〔1094〕 「〔天智十年十月〕立二大友太政大臣一為二皇太子一。十二月三日天皇崩。同月五日大友皇太子即為二帝位一【生年廿五】」。 ●『水鏡』〔1195〕「天智天皇十二月三日うせさせ給ひしかは同五日大友皇子位をつき給ひて」(ア所引)。 『扶桑略記』は神功皇后を「神功天皇 十五代」と唱える書だが、「大友皇子即帝位」もその類で、扶桑略記は当時の俗説と見るべきで、西宮記も同様であろう。そこには、幾分庶民視線による希望的観測が感じられる。 即位せぬまま天下を治めた場合の称号として、称制(〈天智〉、〈持統〉)、摂政(神功皇后)、秉政(〈顕宗〉7の飯豊女王)が見える。 大友皇子についても「称制」程度なら、書紀自体との整合を図ることができよう。 そもそも大友皇子には和風諡号がなく、仮に「天皇」と称するとしても「飯豊天皇」、「倭武天皇」(第131回)などの俗称、あるいは「岡宮御宇天皇」〔草壁皇子への後世の追号〕の類で、 書紀が規定した歴代の「天皇」と同列に扱うべきものではない。 「第三十九代弘文天皇」なるものは、明治天皇によって論理を超越して発せられた勅が、未だに宮内庁〔即ち現在の日本政府〕を拘束しているものと言わざるを得ない。 《郭務悰》 郭務悰は、百済都督府からしばしば倭国・日本に派遣され、〈天智〉十年〔八年に重出〕にも二千人を率いて来訪した (《郭務悰》項)。 「咸着二喪服一三遍挙レ哀向レ東稽首」は形式的な文言で、これ自体は史実としての信憑性を欠く。 ただ、「遣二…稲敷於筑紫一、告二天皇喪於郭務悰等一」とあることは信頼できそうで、 郭務悰がこの頃筑紫に滞在していたこと自体は史実と見てよいだろう。 《進書函与信物》 〈天智〉十年十月《郭務悰》項では、 郭務悰と沙宅孫登が二千人の軍勢を率いて来日した目的を論じた。 そこでは、この史実は〈天智〉八年とした方が合理性があると見たが、 ただその場合「進二書函与信物一」は来日してから二年五カ月も経た後となり不自然である。 これを説明するために、八年説について二通りの仮説A、Bを立ててみる。 A:「進書函与信物」は実は〈天智〉九年三月のことで〔「罷帰」は九年五月〕、「告二天皇喪於郭務悰等一」は完全なる作文である。 B:「書函与信物」は九年初め頃に届いていたが交渉に長期間を要し、〈天武〉元年五月にやっと合意して帰国した。 Aは前項で史実としたことがフィクションとなってしまうので排除するなら、Bを選ばざるを得ない。 一方、十年説に基づく考察をCとする。 C:時系列自体は自然であるが、〈天武〉元年三月に書函を受け取ってから五月までの瞬く間に交渉が成立して、 あっさりと2000名が引き揚げたとすれば、あまりに期間が短いように思える。 〈天智〉十年正月には沙宅紹明を含む百済の旧臣に日本の冠位が授けられた。 仮にBを採用すれば、2000人の軍勢のプレッシャーに負けず郭務悰との交渉の途上でこの冠位の授与をしたことになる。これは、百済旧臣を百済への戦線には参加させず、日本軍も派遣しないという日本側の断固とした意思表示となる。 百済軍を率いた「沙宅孫登」の名を特筆する一方で、冠位授与の記事でその親族と思われる「沙宅紹明」の名を挙げたことは、その交渉の内容を暗示しているのかも知れない。 なお、C説の場合は、百済旧臣への冠位授与によって百済の亡命民と日本軍の渡海を拒否する意思表示をしたから、 その代わりとなる唐軍を筑紫に置いたと見た(〈天智〉紀12まとめ)。 《賜郭務悰等物》 郭務悰一行に対して、かなり大量の物を賜っている。これは人数に見合うものか。 なお、これまでに返礼は帰国の直前のタイミングで授与しているので、突然呼び出して大量の物を賜ったとすれば、これだけ賜るからもう帰れと促す意思表示となる。 近江朝廷は、唐-新羅対立の構図の中で中立を貫くためによく頑張ったと言ってよいのではないか。 《高麗進調》 〈天智〉十年条《高麗上部大相可婁等罷帰》項で見たように、 高麗からの遣使は、〈天武〉二年以後は宗主国の新羅からの使者が付き添う形で行われている。 〈天武〉元年の遣使については、新羅使が同行したとは書かれていない。 なお、百済地域は唐の支配下にあり筑紫には唐軍が駐屯しているから、航路は越の道を用いたと見るのが自然か。 《大意》 元年三月十八日、 内小七位(うちつしょうなない)阿曇連(あずみのむらじ)稲敷(いなしき)を筑紫に派遣して、 天皇〔天智〕の喪を郭務悰(かくむそう)らに告げました。 すると郭務悰らは、 皆喪服を着て三度哀悼して、 東に向かって稽首しました。 二十一日、 郭務悰らは拝礼して、書箱と産物を献上しました。 五月十二日、 甲冑と弓矢を郭務悰らに賜わりました。 同じ日に、 郭務悰らに賜り物、 あわせて、絁(せ)一千六百七十三匹(ひつ)、 布二千八百五十二端(たん)、 綿六百六十六斤(きん)をしました。 二十八日、 高麗国の前部(ぜんほう)富加抃(ふかへん)らを派遣して進調しました。 三十日、 郭務悰一行は辞して帰りました。 5目次 【元年五月是月】 《朴井連雄君奏天皇》
〈続紀〉文武三年〔699〕十月甲午「為レ欲レ営二-造越智山科二山陵一也」によれば、 越智山陵(〈斉明〉)。山科山陵(〈天智〉)が実際に営造されたのは〈天武〉元年〔670〕から約30年後。 〈続紀〉の言う時期に初めて営造されたとすれば随分遅いが、 少なくとも〈天武〉元年には〈斉明〉陵と〈天智〉陵は未だ計画段階であったのだろう。 従って、ここで「為造山陵」を徴兵の口実にしたことには、一定の根拠がある。 〈斉明〉と〈天智〉のどちらについてもずっと殯宮に安置とは思われないので陵はひとまず築かれていて、699年の「営造」は改葬ということになる。 なお、〈斉明〉の八角陵(考古学名「牽牛子塚古墳」)がこれだとすると、 〈文武〉三年の営造では遅すぎるように思われ、解釈は難しい(〈天智〉六年二月)。 《人別令執兵》 「人別令レ執レ兵」は、「予定する人夫のうち一部には武器を持たせよ」という意味で、 雄君はそれによって徴兵だと判断した如き文章になっている。 ただ、山陵の工事のために武器を携帯させることは考えにくい。 「人別令執兵」の挿入は雄君の判断をもっともらしく見せるための潤色かも知れない。 《倭京》 倭京は明日香の宮のこと。 明日香村の飛鳥宮跡が、飛鳥岡本宮(〈舒明〉)、飛鳥板蓋宮(〈皇極〉)、後飛鳥岡本宮(〈斉明〉・〈天智〉)、飛鳥浄御原宮(〈天武〉・〈持統〉)の重層遺跡であるのは確定的である (資料54)。 《菟道守橋者》 古訓が「守橋者」を「ハシモリ」とするの自然な読み方である。 ただ、〈時代別上代〉は見出し語にハシモリを立てず、モリ項の文中で紹介するのみである。この扱い方を見るとハシモリの用例はここが唯一なのかも知れない。 宇治橋には、小さな関が置かれていたのであろう。 《遮皇大弟宮舎人運私粮事》 ここでは「私粮」と書かれるが、この時代になると基本的には食封を給わっていたと考えられる。 大海皇子の場合、六月壬午条(次項)に出て来る「安八磨郡湯沐」がそれに該当する。 封戸が納めた穀物は、基本的に国司が預かって倉に保管したものであろう。 高安城の倉庫群は、その施設の一つと見られる(天智三年冬、資料[74])。 前回見たように、「食封の支給は行政によって行政的に行われ」たと思われる。 吉野宮へは宇治橋経由で運搬されていたのだから、保管庫は大和国の北部にあったと考えられる 〔高安城も考えられるが、遠すぎる〕。 それが「皇大弟宮舎人運私粮」だと見るのが妥当と思われる。 ただ、それとは別に本来の意味での「私粮」があったことも考えられる。 かつては皇族も別業を私有し、〈推古〉天皇も各地に私有していたことが伺われる記述もある。 改新詔により公有化が宣言されたが、この時期になっても別業が一定程度残っていたかも知れない。 ただ、大海皇子の収入のうち、別業がどの程度の割合を占めていたかについては何とも言えない。 《皇大弟》 ここでは大海皇子を「天皇」ではなく「皇大弟」と表す。もしここでも「天皇」を用いた場合、吉野宮を天皇宮と称することになり、かなり分かりにくくなるからそれを避けたか。 なお、〈天智〉紀では「大皇弟」で字の順番が異なる(〈天智〉三年)。 書紀が参照した原資料では、「大弟」または「大々弟」ぐらいだろうか。 〈天武紀上〉における古訓は「皇大弟」だが、〈天智紀〉では「大皇弟」であった。 《朕所以譲》 まだ〈天武〉即位前だから、「朕」は形式的な用語法である。 ただ文中では自ら譲ったと述べ、すなわち天皇ではないから矛盾が際立っている。 《独治病全身永終百年》 「独治レ病全レ身永終二百年一」――このままそっとしておいてくれるなら、持病もあることだから穏やかに余生を全うしたいと思うのは、あるいは本心かも知れない。 もし本当に朝廷がその姿勢を保つなら、実際そうせざるを得なかったであろう。 しかし、チャンスさえあればという野心を秘めていることは決して否定できない。 よって、朝廷側から嫌がらせを受けるのは実に美味しいこととなる。 そして本来は謙虚な言葉が、決起を正当化する言葉に聞えるようになってゆくのである。 《大意》 この月、 朴井連(えいのむらじ)雄君(おきみ)は、天皇(すめらみこと)〔大海皇子〕に奏上し、 「臣は、私事があったので、 独り美濃に行きました。 その時、朝庭が 美濃、尾張両国の国司に宣じて 『山陵を作るため、予め差し出す人夫を定めておけ。 その際、人を分けて兵器を持たせよ。』と言いました。 臣が思うに、 山陵のためではなく、必ず事があります。 もし速やかに避けなければ、危難があるでしょう。」と申し上げました。 或いは、ある者の申すには 「近江京から倭京〔明日香の宮〕まで、 処々に間諜を置いています。 また、菟道の橋守に命じて、 皇大弟〔大海皇子〕の宮の舎人の食糧の運搬を遮っています。」と申しました。 天皇はこれを不快に思い、 調べさせたところ、事は既に真実であることを知りました。 そして、仰りました。 ――「私が譲位して遁世した理由は、 独りで病を治療して身を全うして永く百年の寿命を終えようとするためである。 しかし、今や終えることはできなくなった。 禍いをお受けして、どうして黙って身を亡ぼすことがあろうか。」 6目次 【元年六月二十二~二十四日】 《朕今発路》
同条の勅の主旨は、それぞれの四分の一を子が受け継ぐよう定めたものである。
「令」については、〈倭名類聚抄〉「長官:…郡曰大領…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰少領…【已上皆須介】」が見える。 〈時代別上代〉「「令」は名詞形で、賦役を課しうながす役職の名であろう」という。 《湯沐令》 〈令義解〉東宮職員令に「主殿署:首一人【掌二湯沐、灯燭、酒掃、舗設事一】」、 禄令にに「凡食封者:…中宮湯沐二千戸」。 〈延喜式〉巻第四十三春宮坊に「凡東宮湯沐二千戸」など。 大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)は、皇子の養育のために設けられた属人的な部であった(垂仁段第120回)。 なお、ユヱの原義は、〈時代別上代〉「産児を入浴させる役目の夫人」とされる。 令制における湯沐は、群臣が授かる封戸と同じもので皇子・中宮の場合の呼び名であるが、「湯坐」部の伝統を引き継いだ名称だと思われる。 「令」は、郡における四等官の大令〔カミ〕、少令〔スケ〕に準ずるものであろう。「令」の古訓「ウナガシ」がどの程度一般的な語であったかは分からない。 〈倭名類聚抄〉によると安八郡は六郷からなり、ひとつの郷が標準の五十戸だとすると、六郷あわせても僅か三百戸に過ぎない。 その地域に二千戸の湯沐が存在したとすれば、郷を圧倒している。その長に郡と同じく「令」が用いられるのも頷ける。 或いは、多臣品治が実際には郡令と湯沐令を兼ねていたから「郡湯沐令」と称されたと考えることもできる。むしろこの方が自然であろう。 上で述べたように、この時代の湯沐は封戸と同等の区画で、東宮・中宮のための食封と見られる。 本サイトは、それらの生産物は口分田の税とともに一括して国司の許に集められ、各宛先に送られたと考えている(雄略9【釈紀:論者曰】項)。 したがって、安八磨郡の湯沐が大海皇子の封戸に宛てられていたとしても、その湯沐令と大海皇子との個人的な繋がりは必ずしも必要としない。 かといって、このことは個人的交流を特に妨げるものでもない。ここでは、湯沐の耕作民を兵に転用することさえできたのだから、むしろ大変親しい関係であったと見るべきであろう。 《多臣品治》 品治〔ホムヂ〕は音読みで、倭人の名としては珍しい。 多氏に属してはいるが、実は渡来民かも知れない。
なお、〈持統〉紀で「多臣品治」と書かれることから、 朝臣姓の一斉授与は、形式的に〈天武〉十三年に遡らせたものであることが疑われる。 古事記を献上した和銅五年〔712〕の時点では、「太朝臣安万侶」とあり、朝臣姓である(第29回)。 《機要》 ここの機要は、今後の戦略の要点を予め詳しく説明することだから、和読するならハカリゴトであろう。 「要」にヌミ〔戦略上の要地〕をあてた古訓は、明らかに不適切である。 《経国司》 経は古訓「フル」。フルには、「触れる」のほかに布告を出す意がある。「お触書」のフレである。 〈聚抄名義抄〉では「経」に「フル」もある。触れるを意味するフルは上代語にあるが、布告の意味をもって上代から使われたかどうかは分からない。 「経国司」の字からは、国司を順に訪ねる意となる。その目的は確かに指示することだから「フル」である。 「経」の字を発音の似るフルにあてたことも考えられ、上代から「フル」が布告の意味で使われたと見てもよいかも知れない。 さて、いくつかの国の国司は、大海皇子の配下として確保できたと見られる。少なくとも美濃国司、尾張国司は該当するであろう。 朴井連雄君が美濃と尾張から情報が得られたのは、両国が大海皇子に友好的だったからだと考えることができる。 さらに、美濃国が大海皇子側に付いていなければ、不破関の封鎖に向かうことは不可能である。 また、伊勢国には安心して軍営を置くことができたことからは、伊勢国司も含まれるかも知れない。 《不破》 「不破」は上代からフハだったのだろうか。もし和読するなら、ヤブレズ・クダケズが考えられる。 (万)4372に「不破乃世伎 久江弖和波由久 ふはのせき くえてわはゆく」がある。 これは防人が赴任地に向かう道筋を詠んだ東国歌で、クエテは「越えて」の東国訛りである。 この歌は音仮名で統一的に表記されているので、これによって地名「不破」が上代からフハであったことが確定する。 なお、下述する(万)0199の「不破山越而」も音数から見てフハヤマコヘテであろう。 これは想像に過ぎないが、もともと関への一般的な枕詞ヤブレズノが存在し、それがいつか美濃国の関だけを指すようになり、かつ音読みされた結果のようにも思える。 《将(入)東時》 〈北野本〉〈伊勢本〉の「将東」に、「入」を補った本があったらしく〈兼右本〉は「将入東」、〈内閣文庫本〉は「入イ」〔異本に"入"あり〕と傍書する。 「将」の一つの意味に「往く」があるから「入」はなくともよい。ただ「東」にも動詞〔東に向かって行く〕があるので、こちらを採用して 「将」は助動詞〔マサニ~セントス〕とした方が意味が繋がる。 《東》 〈景行〉紀では、アヅマは碓氷峠以東、〈景行〉段では足柄山以東を指す(第130回)。 〈時代別上代〉は「東国というのが具体的にどの範囲をさすかは文献によって異同が多い」として、①関八州、②三河以東〔万葉東歌の範囲〕、③さらに西を挙げる。 ③については、(万)0199の「吾妻の国の御軍士」の「軍勢は尾張である」と述べる。 この(万)0199は、高市皇子尊〔〈持統〉十年薨〕を悼む挽歌で、「…真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 食國乎 定賜等 鷄之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡… …まきたつ ふはやまこえて こまつるぎ わざみがはらの かりみやに あもりいまして あめのした をさめたまひ をすくにを さだめたまふと とりがなく あづまのくにの みいくさを めしたまひて ちはやぶる ひとをやはせと…」である。 この歌では「吾妻」は不破関よりも東の範囲を指す。 よって、この「東」をアヅマと訓むことは可能である。ただ、方角としてヒムガシを用いてもよいだろう。 《元有謀心必害天下》 客観的に見れば、この時点で謀心を持ち天下を害(そこ)なおうとしているのは明らか大海皇子の側である。 しかし、臣従する立場から見れば、大海皇子が支配するのが正当な世であるから、 それを許さない近江朝廷の方が「有二謀心一」で「害二天下一」となるのである。 つまり、大海皇子の臣下が阿ってこのように言ったのである。 《何無一人兵徒手入東》 「一人の」がつくから「兵」は兵士を意味する。よって「無二一人兵一」は軍勢を伴わず、また「徒手」は手ぶらで行くことである。 ある臣は、「近江群臣元有謀心…恐事不就矣」すなわち、近江の群臣は腹黒いから無事に通り抜けられないと危惧する。 すなわち、大海皇子は近江国領内を通って〔東山道であろう〕、軽武装で不破に向かおうとしていたわけである。 ところが、壬午〔22日〕条で既に「近江朝庭之臣等為レ朕謀害」という認識をもっていた。 大海皇子はそれに対抗して、既に多臣品治に先発隊の発進を命じたり、大海皇子側に従う国司に不破関の封鎖を命じたりしているから、 相手の近江朝廷のみが、まだ本格的に動いていないと考えるのは虫がよすぎるだろう。 しかし、ひとまず無一人兵徒手で近江国内を進むことが可能だと本気で考えていたしよう。 これを前提とすれば、この状況で倭京の留守司に「駅鈴」を求めたことへの一つの解釈が可能となる。これについては、《駅鈴》項で述べる。 《思欲返召男依等》 召男依等とは、男依たちには多臣品治や諸国司に作戦を伝達することを命じていたが、それを中止して帰って来いと指示するものである。 しかし、それでは駅鈴を求めさせたこととうまく繋がらない。後述するように、この駅鈴は大海自身が使うと読むのがよい。 だとすれば、大海皇子が近江路を通行できる可能性を、まだ捨てていないのである。 しかし、駅鈴を首尾よく手に入れられる見通しはほぼ皆無だから、 結局男依たちには帰って来いと言わねばならなくなるだろう。「思欲返召男依等」は、大海皇子のそのような見通しを述べたものと読める。 なお「返召」は、この語順でカヘシメスと訓むことは難しいので「返」は「召」から切り離して「却」、「顧」の意〔=振り返って考え直す〕と見られる。 「思欲」とともにこのときに頭の中で思い廻らしたことを述べたものと見られる。 《大分君恵尺/黄書造大伴/逢臣志摩》
逢臣という氏族名は、他史料には全く見えない。 「逢於伊勢」の異伝に「逢於志摩」とするものがあり、これが誤って人名となって混入したしたことが疑われる。 《留守司》 留守司は、倭京(飛鳥の宮)に置かれた司で、文字通り留守をまもる。 近江京に遷都した後も、形式的には飛鳥京が正式な都で近江京は天皇の一時的な滞在であるとする発想による。 古訓のトドマリマモルツカサは遂字的な直訳で、何とも不自然である。 平安以後は「留主」の字もあてられ、ルスという。恐らく上代からルスノツカサであったであろう。 《高坂王》
〈天武〉十四年の「更改爵位之号」によって、 草壁皇子尊に浄広一位、大津皇子に浄大二位、高市皇子に浄広二位、川嶋皇子・忍壁皇子に浄大三位が授けられた。ただ、その後昇位したはずで、 例えば長皇子は、浄広二位〔693年〕⇒二品〔704年〕⇒一品〔715年〕と昇り、 最終的に最高位の一品に達している(第258回)。 〈天武〉十二年の時点での諸王の位階制自体の内容は明らかではないが、 同四年に「諸王四位」、八年に「諸王二位」、十二年に「諸王三位」が見える。 「明」一位~二位から「浄」一位~四位までを通算してみると、高坂王の「三位」は、 浄大一位または浄広一位に相当する。 最終位がこれだとすれば、天皇の孫または曽孫の代ぐらいであろうか。 《乞駅鈴》 わざわざ駅鈴を求めた理由はなかなか説明がつかず、古今さまざまな議論がなされてきた。 そもそも「駅鈴は、誰が持つためのものであろうか。 ある説に「男依たちに帰還命令を伝達する使者に持たせるもの」を見る。 その使者は、男依・君手・広であろう。駅鈴の発行を受けよというのは、速く行ける駅路を利用せよということである。 但し、駅鈴が発行されなければ帰還命令の伝達はあきらめ、高市皇子らと共に伊勢国に集結して戦闘態勢を整えよとと命じた。 しかし、仮に駅鈴が得られた場合は、男依らに湯沐令・諸国司への工作を中止して引き揚げさせる理由はないので辻褄が合わない。 工作を中止して大海皇子の軍営への帰還を命ずるのは、むしろ駅鈴が得られないことが確定した後の話であろう。 思うに駅鈴は、大海皇子自身のためのものではないだろうか。 『令義解』には駅鈴の刻みの数について「親王及一位駅鈴十尅」とある。このことから親王〔令制以前は「皇子」〕であっても通行には駅鈴の所持するものであったと見られる。 身なりが高貴で多数の従者を伴っていたとしても、駅や関の役人は駅鈴の確認をもって初めて手続きをしたであろう。現代、例え総理大臣であっても国外に出るときにはパスポートを持つのと同じである。 だから、「駅鈴」を大海皇子自身のためのものとすることはあり得る。 その上で、「何無一人兵徒手入東」なる語句に注目したい。壬午条に「為朕謀害」とあるが、これについてはまだ内々の陰謀段階で、表立った動きはまだないと見たのではないだろうか。 つまり、大海皇子は軽武装で近江国内の東山道を通り抜けられるという甘い見通しを持っていた。 しかし、一人の臣がそれは危険であると進言し、大海皇子はそれを受け入れた。 そこで一計を案じて、「徒手」〔=手ぶら〕が駄目なら駅鈴を持っていこうと考えた。 皇大弟一行が駅鈴を掲げれば公的な通行となり、容易に手出しはできないはずである。 さらに考えを進めると、もし駅鈴が発行されれば、まだ皇大弟追討令は倭京には届いていないことになる。 逆にもし駅鈴の発行が拒否されれば、追討令は既に届いているから、事態は切迫していてもう一刻の猶予もない。 未だ大津京に留まっている高市皇子と大津皇子を素早く脱出させなければならない。 そして近江国内の通行は断念して、ひとまず伊勢国の軍営に一同が集結すると決めたのである。 このように駅鈴の発行の成否をもって、追討の体制がどの程度整っているかを知る手がかりとしたと考えると、その意味がよく分かる。 以上を要約すると、最初は「徒手で行くのか」と問われて反射的に、駅鈴をもっていったらどうかと思ったが、 実は、これが現在の情勢の緊迫度を判定するよい方法であり、今が決起すべき時か否かを決断する試金石になることに気づいたのである。 大海皇子の決起は実際には自らの滅亡と紙一重であり、決行の最終決定には慎重の上にも慎重を期す必要があるからである。 ここで再び、「思欲返召男依等」との関係を考えてみよう。 仮に駅鈴を得られた場合、既に男依たちを帰らせることを決めているなら、大海皇子が近江路を不破関に向かうこともなくなり、駅鈴は不要である。 そうではなく、結局駅鈴は得られないだろうから男依等を帰らせて体制を再構築しなければならないと考えたことを、先に書いたのであろう。 《駅鈴》 駅馬伝馬及び鈴契の設置は「改新詔其二」で規定されている。 改新詔は大宝令を遡らせて潤色した部分が相当を占めるとも言われるが、〈天武〉元年の「駅鈴」を見ると令前から駅制は存在していたことが判る。 《謂恵尺等》 前後の文章表現に倣えば、「謂」は「詔」であるべきである。早い時期の誤写がそのまま引き継がれたものか。 仮に古文献にあった「謂」をそのまま深く考えずに書紀に書き込んだとすれば、駅鈴を求めさせた部分の史実性が増す。 《高市皇子・大津皇子》
大友皇子はまだ公式には「太政大臣」に過ぎず、依然として大海皇子は「東宮」である。その資格を以て駅鈴の発行を求めたのである。 それを表すために、ここでは「東宮之命」と表現される。 「挙二東宮之命一乞二駅鈴一」において、求める駅鈴は男依らが携行するためのものではなく、 東宮自身が携行するためのものであろう。 そのように判断できるのは、この文中にある人物名が「東宮」のみだからである。 《大意》 六月二十二日、 村国連(むらくにのむらじ)男依(おより)、 和珥部臣(わにべのおみ)君手(きみて)、 身毛君(むけつのきみ)広(ひろ)に言われました。 ――「今聞くに、近江の朝庭の臣たちは、 朕のために策謀して殺害しようとしている。 そこで、汝ら三人は、速やかに美濃国に行き、 安八磨郡(あはつまのこおり)の湯沐(とうもく)令、多臣(おおのおみ)品治(ほんじ)に告げ、 機要を示して当郡の兵を先発させよと宣ぜよ。 そして、国司らに触れを発して、 諸軍を差し向け、速やかに不破の道を塞がせよ。 朕は今、路に発つ。」 二十四日、 いざ東国に入ろうとしたとき、一人の臣が奏上しました。 ――「近江の群臣は元々謀心があり、 必ず天下に害しようとしているから、 道を通ることは難しい。 どうやって一人の兵もなく、徒手で東国に入れましょうか。 臣は、事が成就しないことを恐れます。」 天皇(すめらみこと)はこの進言に従い思われたのは、顧みて男依(おより)等を召そうということです。 即ち、大分君(おほきたのきみ)恵尺(えさか)、 黄書造(きふみのみやつこ)大伴(おおとも)、 逢臣(おうのおみ)志摩(しま)を 留守の司(つかさ)高坂王(たかさかのおおきみ)に遣わして 駅鈴を求めさせました。 よって、恵尺(えさか)等に仰りました。 ――「もし鈴を得られなければ、志摩は帰って復奏せよ。 恵尺は、近江に馳せ行き、 高市皇子、大津皇子を呼び 伊勢で逢おう。」 既に恵尺等は留守の司に至り、 東宮の命(めい)を挙げて駅鈴の発行を高坂王に求めました。 しかし、許可されませんでした。 そこで、恵尺は近江に行き、 志摩は帰還して復奏して 「駅鈴は得られませんでした」と申し上げました。 まとめ 大友皇子の「即位」は、書紀には書かれていない。それでは、明治天皇が大友皇子を追諡した理由は何だろうか。 推察するに大友皇子が政を一定期間握っていたのは確かだから、 にもかかわらず正式に即位できなかったのを惜しみ、明治天皇は自身が追諡し得る立場にあると考えた故かも知れない。 しかし、その「弘文天皇」は神功「天皇」、倭武「天皇」、飯豊「天皇」の類の俗説レベルのもので、記紀が規定した天皇と同列に置けないことは明らかである。 当時唱えられた異論「天皇には相違なきも御代数には加へざるを善しとす」は、この趣旨によるものであろう。 さて、問題の駅鈴の解釈である。 本サイトは、既に古事記序文を論じた段階で〈天武紀上〉を参照して、 「大海人皇子が駅鈴を求めさせた目的は、大海人皇子側の挙兵に対して、相手方が皇子に対して、警戒態勢がどのくらいとられているか探らせるためだろう」と述べた (第12回)。 駅鈴が交付されないことが確定した瞬間に、大海皇子が電光石火の動きを開始した一点を見るだけで、この見方は理に適っている。 今回の精読によっても、それを訂正する必要は感じない。 その前にある「欲返召男依等」も、この見方に基づいて「駅鈴が得られないようならこうしたいと思った」と解釈するのがよいであろう。 |
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2024.10.17(thu) [28-03] 天武天皇3 ▼▲ |
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7目次 【元年六月二十四日是日】 《發途入東国》
駕への古訓は駕 しかし、「御駕」は、《御駕》項で述べるように「御レ駕」〔空の駕を馭者が御して大海皇子を追う〕である。 古訓の「ミノリス」では既にその場にいない大海皇子が乗ることになり、意味が通らない。 「駕」・「車駕」をオホムマと訓むのは、馬車を表す適切な和語がなかったからムマにムマが牽く車まで含めたのだろう〔オホ-は美称〕。しかし駕の字を見ずに耳で聞いただけでは意は伝わりにくい。 訓はコシも考えられるが、人手で長い柄をもって持ち上げるものなので駕は表しにくい。 牛車をウシグルマと訓むことはあったようである。馬車は奈良時代以後には姿を消していたと思われるが、 ウシグルマがあるなら、ウマグルマも上代人に通じたと思われる。しかしこれを認めなければ音読みを用いるしかない。 《儵遇県犬養連大伴鞍馬》
後者はB「鞍馬:馬に騎乗する人」(〈汉典〉)が動詞化して「馬に騎乗する人となった」とするもの。 ただ、AだとすればBを、BならAを暗黙のうちに含んでいる。 この文は輿の用意を待てず、たまたま乗馬していた「犬養連大伴」から馬を譲ってもらい飛び乗って行った。それを従者たちが慌てて追いかけるという、面白い場面を描いたものである。 この間髪を入れない動きから、駅鈴交付拒否の確認をもって出撃のタイミングとしようと考えていたことがよく分かる。 古訓は「大伴カ久良於敝留牟末」〔大伴が鞍負へる馬〕、または「クラオケルムマ」〔鞍置ける馬〕とし、 『学研新漢和』が二番目に挙げる「馬にくらをつけて、乗る用意をすること」にあたる。 しかし「儵遇…」が、「馬に乗る県犬養連大伴にたまたま出会った」または「県犬養連大伴にたまたま出会いその馬を譲り受けて飛び乗った」であるのは明らかである。 古訓の「犬養連大伴が馬に鞍を置いているところにたまたま通りかかった」という読み方は何とももどかしい。 《県犬養連大伴》
「逮二于津振川車駕一始レ至二便乗一焉」〔車駕は津振川のところで初めて追いつき、お乗りになった〕とあるから、 馬で突っ走る大海皇子を、「御レ駕」は馭者が空の駕を御して追いかけたのである。 ところが古訓の「御駕 上述の「鞍馬」とともに、古訓は個別の字の解釈に留まり文脈を読み取ろうとしていない。 《皇后載輿従之》 「御レ駕乃皇后※1)載レ輿従レ之」、 すなわち、空の駕と鸕野皇女の輿が、大海皇子を追いかけた。
これを見るにつけ、〈天智〉九年の童謡は、大海皇子が「八重の子の刀自」〔=鸕野皇女〕に、 「宇治橋の詰めの遊びに出でませ」〔=一緒に天下を獲ろう〕と呼びかけたものと思えてならない。 《津振川》 津振川は、津風呂川に比定されている。 現在は、津風呂ダムになっている(1962年竣工)。 《元従者》 元従者、すなわち最初に大海皇子に同行したリストが示される。
この日、 出発して東国に入りました。 事は急で、車駕の用意を待たずに行くと、 たまたま馬に乗った県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)の大伴(おおとも)に遇い、その馬に乗っていきました。 よって、車駕を御し、そして皇后は輿(こし)に乗って従いました。 津振川(つふるかわ)のところで 車駕は追いつき、そこで乗られました。 この時、最初から従ったのは、 草壁皇子(くさかべのみこ)、 忍壁皇子(おさかべのみこ)、 及び舎人(とねり)朴井連(えのいのむらじ)雄君(おきみ)、 県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)大伴(おおとも)、 佐伯連(さへきのむらじ)大目(おおめ)、 大伴連(おおとものむらじ)友国(ともくに)、 稚桜部臣(わかさくらべのおみ)五百瀬(いほせ)、 書首(ふみのおびと)根摩呂(ねまろ)、 書直(ふみのあたい)智徳(ちとこ)、 山背直(やましろのあたい)小林(おはやし)、 山背部(やましろべ)の小田(おだ)、 安斗連(あとのむらじ)智徳(ちとこ)、 調首(つきのおびと)淡海(あふみ)と一族、 二十人あまり、 女孺(にょじゅ)十人あまりでした。 8目次 【元年六月二十四日即日】 《到菟田吾城》
吾城 万葉の阿騎野について『大日本地名辞書』は、「今松山町近傍の総名」で〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀郡・浪坂【奈無佐加】郷}にあたるとする。 「宇陀市公式」によると、 この地の中ノ庄遺跡は「弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構」で、「周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)であったと伝えられて」いるとし、 現在は人麻呂公園〔大宇陀拾生76番地の1〕として整備されている。 この地を阿騎野に比定したのは、大海皇子の移動経路にあたる故であろう。 《大伴連馬来田…》
「供二従駕者食一」は従者に食糧を提供する意であろう。 《甘羅村》 旧松山町に神楽岡がある。 『大日本地名辞書』「松山城址:神楽岡と称す、初め多賀秀種此地に封せられ二万石を領す」、 「甘羅 《有猟者二十余人》 甘羅村の猟師二十人余を軍に誘い、大国をその長とした。 《美濃王》
菟田郡家と見られる遺跡や遺称は見出されていないようである。 《大野》
旧三本松村は、合併により室生村、更に宇陀市となる。 《隠郡隠駅家》 書紀古訓に「隠 隠(名墾)、横河の比定については、 改新詔の《名墾横河》項で取り上げた。 駅家跡そのものは未発見である。遺跡としては夏見廃寺の金堂・塔・講堂などが検出されている(名張市公式夏見廃寺)。 ●『三重県埋蔵文化財年報15』〔三重県教育委員会1985〕観音寺遺跡(名張市観音寺町)の項: 「弥生時代後期から室町時代にいたる複合遺跡」、 「奈良時代では、ほぽ南北に棟をそろえた大形の掘り方をもつ掘立柱建物が7棟検出され多くの須恵器・土師器などに混じって円面硯が出土していることから、一般集落とは趣を異にしている※1)」(pp.49~50)。 ●『伊賀の考古資料2 研究紀要第16-4号』〔三重県埋蔵文化財センター2007〕: 「浦遺跡は、名張市中村字浦・黒石に所在する遺跡」、 「古代では、近辺を畿内から伊勢に向う交通路が通る。遺跡周辺は〔〈倭名類聚抄〉の〕伊賀国名張郡夏見郷に含まれ、観音寺遺跡…などで良好な掘立て柱群が確認され、黒石遺跡と浦遺跡の付近には駅家※2)の存在も想定されている」。 浦遺跡のうち奈良時代に属するのは「5.1m×4.6m」など八基の竪穴住居(pp.32~36)。 ※1)から、観音寺遺跡は名張の郡家ではないかと言われる。 ※2)は、浦遺跡・黒石遺跡が郡家に近く、街道沿いにあると推定されるためであろう。 『日本古代地理研究』〔足利健亮;大明堂1985〕は、 「横河を渡る直前に…郡家と駅家があった。中村の集落…などは、その可能性が高い地点であろう」と述べる(p.295)。 《焚隠駅家》 他の箇所では、「焚く」理由として暖をとるためなどを添えるが、隠駅家と伊賀駅家については単に「焚」と記すのみである。 駅鈴を示す代わりに駅家を燃やして通過するところに、強い攻撃意思が見える。 しかし、焚かれたとの報は直ちに大津朝廷に伝えられ征討軍が迫って来るだろうから、道を急がねばならない。 《駅家》 『太政官符/弘仁十三年正月五日』の「有二駅馬十疋已上一駅家之戸」の表現から見て、駅家は本来駅馬を養育する農家の意味である。 しかし、「駅家之戸」の人は当然駅に置かれた馬を世話するために出向いているから、駅に付属して馬を置く建物も「駅家」と呼ばれたであろう。 ここではその意味で、事実上駅の施設全体を指すと見られる。 《天皇入東国》 天皇号の創始前だから、「天皇入東国」の「天皇」は書紀による潤色である。村人への宣告が仮に史実だったとすれば、もともとはオホキミか。 《人夫》 「人夫」には税の一種として公役に動員する意味合いがあり、古訓のオホミタカラ〔人民一般〕とはニュアンスが異なる。 《一人不肯来》 天皇〔オホキミ〕の名で公的な制度により徴発しようとしたが、全く無視された。この地域の住民はまだ反乱に勝ち目があるかどうかわからず、様子見していたようである。 《横河》 『日本古代地理研究』は、横河が「現在の名張川であることは、その流路がみごとに正東西であることからも、疑問の余地はない。 横大路は東西方向の大路…その時代は、東西方向を横と称する時代であったと考えて誤りない」と述べる(p.295)。 《伊賀郡伊賀駅家》
『三重県埋蔵文化財調査報告302 奥城寺遺跡発掘調査報告』〔三重県埋蔵文化センター2009〕(p.5): ●伊賀郡衙:「下郡遺跡があり、奈良・平安時代の井戸から「延暦」と墨書された木簡が見つかっており、伊賀郡衙の比定地を考える上で有力な手がかり」。 ●高賀遺跡:「大溝から…掘立柱建築部材」。 また、この地に 才良廃寺(財良寺跡)がある。 「伊賀市デジタル」/財良寺跡によると、 「『東大寺要録』に「伊賀国財良寺 右天武天皇御願」と記され」、 「旧丸山中学校西側の東西約160m、南北約100mの範囲の畑地が寺域と考えられています」という。 出土遺物のうち「飛鳥時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦は、天武天皇と持統天皇の皇子草壁皇子を偲んで建立された奈良県桜井市の粟原寺出土例と同笵」という。 粟原寺造立の経緯は、粟原寺三十塔伏鉢銘文に記されている(資料[75])。 地名に上郡、下郡、古郡がある。郡家は初めは古郡にあり、後に北方に移転したことを思わせる。 《伊賀中山》 『大日本地名辞書』に「伊賀中山:阿保村大字岡田に在り」とあり、 『通証』には「中山:在伊賀郡岡田村下川原村之間今中山寺之名存矣」とある。 しかし、この地は大海皇子の経路から全く外れているのでこの説は見当違いである。 実際の位置は、才良廃寺辺りの「伊賀郡家」から積殖山口推定地に至る径路のどこかという以上に判断材料はない。 《率数百衆》 ここで一気に軍勢が膨れ上がる。横河以北は、既に大海皇子側の勢力下にあったことがわかる。 軍勢が偶然集まって来るわけはないから、その段取りは事前に打ち合わせ済みだったはずである。 伊賀駅家への放火をもって蜂起の合図としたのかも知れない。 これでひとまず安全圏に入った。吉野宮からの道程は、薄氷を踏む思いであっただろう。 《大意》 即日、 菟田(うだ)の吾城(あき)に到着しました。 大伴連(おおとものむらじ)馬来田(まくた)、 黄書造(きふみのみやつこ)大伴が、 吉野宮から来て追いつきました。 この時、 屯田司(みたのつかさ)の舎人(とねり)土師連(はにしのむらじ)馬手(まて)が、 駕に従う者たちに食糧を供しました。 甘羅(かんら)村を過ぎたところで、 猟師二十人余りが加わり、 大伴の朴本(えもと)の連大国(おおくに)が猟師の首魁となりました。 このように悉く召喚して、駕に従わせました。 また、美濃王(みののおおきみ)を徴集し、参上して従いました。 湯沐(とうもく)の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹に、 菟田(うだ)の郡家のところで遭遇し、 よってすべての米を棄てて、歩いていた者を乗せました。 大野に到り、日が落ちました。 山は暗く進めなかったので、 その村の家の垣を壊して取り外し、松明としました。 夜半に及び、隠郡(なばりのこおり)に到り、 隠の駅屋を燃やしました。 よって村中に 「天皇(すめらみこと)が東国に入られた。 よって人夫はこぞって参上せよ。」と宣言しました。 しかし、一人も来ることを肯(がえん)じませんでした。 横河に到着しようとしたところで黒雲がわき、 広さ十丈あまりで、天を横断しました。 その時、天皇(すめらみこと)はこれを異様に思い、 松明を挙げて親(みずか)ら式(のり)を執り占いされ 「天下二分の祥(さが)である。 しかし、朕が遂に天下を得る兆しか。」と仰りました。 即ち急行して伊賀郡(いがのこおり)に到り、 伊賀の駅屋を燃やしました。 伊賀の中山に到り、 当国の郡司らが数百の衆を率いて帰順しました。 9目次 【元年六月二十五日】 《至莿萩野》
今のところ莿萩野の遺称は見いだせない。 伊賀中山と同じく位置は不明だが、「伊賀郡家」から「積殖山口」までの間のどこかである。
現地案内板〔伊賀市教育委員会;東名阪自動車道伊賀SAの北東、一般道国道25号線沿い〕によると 「「積殖」とは古来から近江・伊勢の交通の要所であった伊賀市柘植町のことであり、「積殖の山口」とはこの地にあたるといわれている」。 「山口」の山は、鈴鹿山脈であろう。 《高市皇子》
鹿深 《民直大火…》
柘植から関の間は加太川沿いの谷間で比較的平坦ではあるが、それでも山越えなので「越二大山一」と表現したと見られる。
〈古代の道〉は、「『延喜式』兵部省では駅馬は鈴鹿駅に二十疋、河曲 国府の位置については、「八世紀後半」までは「鈴鹿市広瀬の長者屋敷遺跡」にあったという。 『伊勢国分寺跡(5次)長者屋敷遺跡(1次)発掘調査概要報告』〔鈴鹿市教育委員会1993〕は 「長者屋敷遺跡からは、多量の瓦と共に基壇を有する礎石建物跡が発見され、伊勢国庁跡の可能性がますます高くなった」、 「古道として鈴鹿関→長者屋敷遺跡→伊勢国分寺→三重郡家(四日市市采女付近)と結ぶ鈴鹿川北岸ルートが東海古道と推定される」と述べる。(p.5) そして「国府は時代によって各地に移転」するもので、「奈良期に長者屋敷遺跡に国府が置かれていたのが、平安期に鈴鹿川対岸の「国府」地区に」移転したとの見方を示す(p.39)。 《三宅連石床…》
〈古代の道〉は、鈴鹿駅は〈倭名類聚抄〉{鈴鹿郡・鈴鹿【須々加】郷}にあり、「三関の一つである鈴鹿関も同地にあったと考えられる」、 さらに鈴鹿駅の遺称として「亀山市関町古厩」を挙げる。 ここでやっと味方の伊賀国司や湯沐令と合流した。よって国司らの命令で五百人規模の軍を動かせるようになったと見られる。 《鈴鹿山道》 平安期の東海道の経路Bと見られる。鈴鹿関から見てこの方面は「山」である。 近江朝廷軍この道を通って攻めて来るのを防禦するためであろう。 《川曲坂下》 〈古代の道〉は、河曲駅は〈倭名類聚抄〉{河曲郡・駅家郷}にあったと述べる。 『磐城山遺跡(4次)説明会資料』〔鈴鹿市考古博物館2011〕は、「河曲郡駅家郷」にあたる「磐城山遺跡」は弥生時代には環濠集落であったが一時人が住まなくなり、 「人々が戻ってくるのは、5世紀終わりから6世紀のはじめの古墳時代後期に入ったころのようです。この時期も竪穴住居跡が多数」、「飛鳥・奈良時代においても、掘立柱建物等が多数」、 「磐城山遺跡にその前の時期の郡衙があり、後に狐塚遺跡に移った」、 しかし「中心部分は今回の調査区の西側」で「今の段階では何も証拠がありません」という。 《皇后疲之暫留輿》 ここまで読んだところでは、天皇の乗り物の呼び名は駕、皇后は輿に統一されている。空の駕を御して大海皇子を追いかけた記述があるから、駕は馬車と見られる。 輿〔こし〕は「長い柄がついていて人力で運ぶ」(〈時代別上代〉)乗り物とされる。しかし、馬の牽く荷車から荷駄を棄てさせて従者を乗せたのを見ると、皇后一人が人力で運ばれたことになってしまう。 これでは甚だしく不自然だから「輿」もやはり馬車で、乗る人物によって名称が区別されたのであろう。 《三重郡家》
しかし、文脈を追うと大海皇子の一行は川曲坂下からまだそんなに離れていないから、案外采女村かも知れない。 なお、四日市市西坂部町に「天武天皇御館頓宮碑」が建ち、現地ではここが三重郡家だと伝わるが、ここも河曲郡から離れ過ぎである。 《焚屋一間而令熅寒者》 ここでは焼いた建物を「一間」と限定し、暖をとるためだと理由付けする。 駅屋を焼く場面に比べて、三重郡家では抑制的に書かれる。三重郡司が味方についていた故であろう。
亀山市公式/鈴鹿関跡のページ、 『亀山市文化財速報 Vol.40』〔亀山市生活文化スポーツ課まちなみ文化財グループ2020〕には 「2005年に関宿北方…で土塁上の高まりと古代瓦の散布」を発見、「2019年」に第9次二区調査。 「西側は、人の侵入を拒む深い谷で、この谷地形を利用して築地塀がきずかれ」、 「築地塀は重圏文軒丸瓦の出土から奈良時代の中頃に築かれた」と考えられるという。 遺跡の所在地は、亀山市関町新所。 ここは焚かれていないから、関守らは大海皇子側と見られる。 《山部王・石川王》
《路直益人》
〔二十五日の〕夜明けに莿萩野(たらの)に至りました。 しばらく車駕を留めて食事をとりました。 積殖(つみうえ)の山口に到り、 高市皇子(たけちのみこ)が、 鹿深(かふか)越えで出会いました。 民直(たみのあたい)大火(おおひ)、 赤染造(あかぞめのみやつこ)徳足(とくたる)、 大蔵直(おおくらのあたい)広隅(ひろすみ)、 坂上直(さかのうえのあたい)国麻呂(くにまろ)、 古市(ふるいち)の黒麻呂(くろまろ)、 竹田(たけだ)の大徳(だいとく)、 胆香瓦臣(いかかのおみ)安倍(あべ)が〔高市皇子に〕従っていました。 大山を越えて、伊勢の鈴鹿に至りました。 このとき国司の守(かみ)三宅連(みやけのむらじ)石床(いわとこ)、 介(すけ)三輪君(みわのきみ)子首(こびと)、 及び湯沐(とうぼく)令田中臣(たなかのおみ)足麻呂(たるまろ)、 高田首(たかたのおびと)新家(にいのみ)らと、 鈴鹿郡(すずかのこおり)に参上して遇いました。 すぐにまた五百人の軍を起こして、鈴鹿の山道を塞ぎました。 川曲(かわわ)の坂下(さかもと)に到り、日が暮れました。 皇后(おおきさき)はお疲れでしたので、しばらく輿(こし)を止めて休息されました。 けれども、夜には曇って雨が降りそうでしたので、 とどまり休息することができず進み行きました。 すると、寒く雷雨は既に甚だしくなりました。 車駕に従う者の衣服は湿り、寒さを堪えられません。 そこで三重郡の郡家に到着したところで、 建物一間を焼いて寒さを訴える人に暖をとらせました。 この夜半に、 鈴鹿の関の司(つかさ)が、使者を遣わして 「山部王(やまのおおきみ)石川王(いしかわのおおきみ)が並んで来ました。 よって、関に留め置きました。」と報告しました。 天皇(すめらみこと)は、そこで路直(みちのあたい)益人(ますひと)に連れて来るよう命じました。 まとめ 郡衙と見られる遺跡や遺称と見られる地名を丹念に追っていくと、書紀に書かれた大海皇子の行程はかなり正確に特定することができる。 既に長い歴史の中で数々の推定が行われてきたが、ここでは改めて白紙の状態から遺跡や地名を手掛かりにして調べた。 全経路の図では、経由地のうちほぼ確定したもの(●)、その近辺と思われるもの(○)、 判断不能だが経路上に想定される範囲(◌)を区別して示した。 横河を渡るまでは、進軍というよりもわずかな人数による敵地からの脱出であった。伊賀国に入りさえすれば、その郡司たちはすでに味方に付いていることが分かっていた。 ここに到るまでが、実は最も危険な時間だったのである。 なるべく短時間で通り抜けようとしたことが、駕の準備を待たずに単騎で駆けだしたところに現れている。 なお、途中で馬屋に放火しながら進んだのは、駅鈴が発行されなかったことに対する腹いせと感じられる。 こうして何とか無事に横河に辿り着いたことにより、既にかなりの勝算が見えた。 そこで、占いによって一同に勝利を確信させたのである。 |
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⇒ [28-04] 天武天皇(4) |