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2024.08.07(wed) [27-12] 天智天皇12 

26目次 【十年十一月】
《對馬國司遣使於筑紫大宰府》
十一月甲午朔癸卯。
對馬國司
遣使於筑紫大宰府、
…〈兼右本〉マタシ大-宰/タ サイツカ
十一月(しもつき)甲午(きのえうま)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔十日〕
対馬国(つしまのくに)の司(つかさ)
使(つかひ)を[於]筑紫(つくし)の大宰府(おほみこともちのつかさ)に遣(まだ)して、

1月生二日。
沙門道久
筑紫君薩野馬
韓嶋勝娑々
布師首磐四人、
月生二日…〈北野本〔以下北〕 ク月生 ツイタチ二-日 フツカ 筑- ノ キミ サツ 韓嶋勝 
〈内閣文庫本〔以下閣〕月-生 タチ 文イ
〈釈紀〉月生ツイタチ二日フツカノヒ沙門ホウシ道久タウク文イ筑紫ツクシノキミサツ韓嶋カラシマノカツ娑々サゝ布師フシノヲフトイハ
〈兼右本〉久イ乍カラ-嶋カツ◰-[切]布師◰ヲフトイハ
言(まを)さく。
1月生(つきた)ちて二日(ふつか)。
沙門(ほふし)道久(だうく)
筑紫君(つくしのきみ)薩野馬(さつやま)
韓嶋勝(からしまのかつ)の娑々(ささ)
布師首(ぬのしのおびと)磐(いは)の四人(よたり)、
從唐來曰
2唐國使人郭務悰等六百人
送使沙宅孫登等一千四百人、
總合二千人乘船卌七隻、
倶泊於比智嶋。
唐国使人…〈北〉唐-国モロコシ ノ惣- テトゝマリ。 〈閣〉トゝマテ
〈釈紀〉タクソントウ比智ヒチノ
唐(たう、もろこし)従(ゆ)来(まゐき)て曰(まを)せらく
2唐国(たうのくに、もろこしのくに)が使人(つかひ)郭務悰(くわくむそう)等(ら)六百人(むほたり)、
送使(おくりつかひ)沙宅孫登(さたくそんとう)等(ら)一千四百人(ちあまりよほたり)、
総(す)べ合(あ)はせて二千人(ふたちたり)の乗れる船(ふね)四十七隻(よそあまりななふな)、
倶(とも)に[於]比智嶋(ひちしま)に泊(は)つ。
相謂之曰
3今吾輩人船數衆、
忽然到彼。
恐彼防人驚駭射戰。
乃遣道久等
預稍披陳來朝之意。321
相謂…〈北〉吾-輩-人ワレラカ  カス オホシタチ コシユ防-人 セキモリ トヨムアラカシメ- マウサシム來-朝 マウケン之意
〈閣〉忽-然タチ ニ ハシコニ[切]  ハ ノ防- セキモリ驚-駭 トヨムテ -陳 マウセム マウクル-朝
〈兼右本〉吾-輩オノレラ/ワレ ラ[切] カシコイ乍アラカシメヤウヤク披-陳/ヒラキマウサン來-朝 マウケル
さきもり…[名] 初出は改新詔「其二」。詳細な規定は『令義解』巻第五の軍防令にある。
驚駭…〈汉典〉「驚駭:恐慌恐惧。to be shocked.to be appalled.to be terrified」。
かしこ…[代] 〈時代別上代〉「古訓には遠称のカシコの例」。
之(こ)を相謂(かたらひ)て曰(い)ひしく
3今吾輩(われら)が人船(ひとふね)数衆(あまた)なりて、
忽然(たちまち)に彼(そこ)に到れり。
恐(おそ)るらくは彼(か)の防人(さきもり)驚駭(おどろきお)ぢて射(ゆみい)て戦(たたか)はむことをおそりまつる。
乃(すなは)ち道久(だうく)等(ら)を遣(まだ)して
預(あらかじめ)稍(やくやく)来朝之(まゐき)てある意(こころ)を披陳(ひらきまを)さむ3」とかたらひき2』とまをせり1」とまをす。
丙辰。
大友皇子
在於內裏西殿織佛像前。
左大臣蘇我赤兄臣
右大臣中臣金連
蘇我果安臣
巨勢人臣
紀大人臣侍焉。
内裏…〈北〉内裏オホウチ織-仏オリモノ-像 ミカタ果安ハタヤスノヲン
〈閣〉オリモノ ノミカタノ。 〈兼右本〉大- トモマシマシ
丙辰〔二十三日〕
大友皇子(おほとものみこ)
[於]内裏(おほうち)の西殿(にしのとの)の織仏像(おりもののほとけのみかた)の前(みまへ)に在(ましま)す。
左大臣(ひだりのおほまへつきみ)蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)
右大臣(みぎのおほまへつきみ)中臣(なかとみ)の金(くがね、かね)の連(むらじ)
蘇我(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)
巨勢(こせ)の人(ひと)の臣(おみ)
紀(き)の大人(うし)の臣(おみ)侍(はべ)り[焉]。
大友皇子、手執香鑪、
先起誓盟曰、
「六人同心奉天皇詔、
若有違者必被天罰、云々」。
誓盟…〈北〉誓-盟 チカヒ ウケタウハル。 〈閣〉ウケタウハル天罰 アマツゝミ   ツ ツミヲ
〈兼右本〉[ニ]トリ香-鑪カウロ[ヲ][テ]ウケタウハレ若有タ [切]カウフラン
…[動] (古訓) おなし。ひとしうす。
大友皇子(おほとものみこ)、手(みて)に香鑪(かうろ)を執(と)りたまひて、
先(さき)に起(た)ちて誓盟(ちかひ)したまひて曰(い)はく、
「六人(むたり)心を同(ひとし)くして天皇(すめらみこと)が詔(みことのり)を奉(うけたまは)る。
若(もし)違(たが)へて有(あ)ら者(ば)必(かならず)天罰(あまつつみ)を被(かがふ)らむ、云々(しかしか)」とちかひしたまふ。
於是、
左大臣蘇我赤兄臣等、
手執香鑪、隨次而起、
…〈北〉 マゝ タツ
於是(ここに)、
左大臣(ひだりのおほまへつきみ)蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)等(ら)、
手に香鑪(かうろ)を執(と)りて、隨(したが)ひ次(つ)ぎて[而]起(た)ちて、
泣血誓盟曰
「臣等五人隨於殿下奉天皇詔。
若有違者四天王打、
天神地祇亦復誅罰、
卅三天證知此事、
子孫當絶家門必亡、云々」。
泣血…〈北〉泣-血 ナキテ 誓-盟 チカ 殿-下 キミ 違者テンワウ誅-罰 ツミセム 卅-三-天 ミソアマリミツノアメ知此アキラメシロシメセ
〈閣〉泣-血ナイ テ誓-チカテ[切]若イ ハ コト[切]四◱天◳王◰サムシウサムテム
〈兼右本〉臣-等 オノレラ 五-人ウタン[句]天-神アマツヤシロ 地-祇クニツヤシロ子-孫 ウミノコ タヘ[切]家-門 イエ ホロヒン三十三天…「須弥山の頂上の帝釈天の城をめぐる四方の峰にそれぞれ八つの天があるといい、その中央の帝釈天と四方の各八天を合計したもの」 (例文仏教語大辞典〔小学館1997〕)。
泣血…涙を出し尽くして血を流すほどに泣く。
泣血(な)きて誓盟(ちか)ひて曰(い)へらく
「臣等(やつがれども)五人(いつたり)[於]殿下(きみ)が天皇(すめらみこと)が詔(みことのり)を奉(うけたまは)る隨(まにま)に、
若(もしや)違(たが)へて有ら者(ば)四天王(してんわう)打(う)たむ、
天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)亦復(また)誅罰(つみなは)む。
三十三天(さむじふさむてん)証(あきら)けく此事(このこと)を知りたまひて、
子孫(あなすゑ)当(まさ)に絶えて家門(いへ)必(かならず)亡(ほろ)ぶべし、云々(しかしか)」とちかへり。
丁巳。
災近江宮、
從大藏省第三倉出。
丁巳…〈北〉亥イ〔丁亥は存在しない〕
災近江宮…〈北〉ヒツケ大- ノ ツカサ第-三 ミツニアタル。 〈閣〉第-三 ミツニアタルクラミツニアタル 
丁巳(ひのとみ)〔二十四日〕
近江宮(ちかつあふみのみや)に災(やくるわざはひ)あり、
大蔵省(おほくらのつかさ)の第三(つぎてのみつ)の倉(くら)従(よ)り出づ。
壬戌。
五臣奉大友皇子、
盟天皇前。
奉大友皇子…〈北〉ヰテ■■リテミマヘ。 〈閣〉ヰマテ。 〈兼右本〉ミイチカフ
ゐる…[自]ワ上一 すわる。とどまっている。存在する。ヲリ(ラ変)と同じ。
…[動] 古訓の「ヰマツル」は、ヰルの連用形+尊敬の補助動詞。ここではヰルが他動詞として使われている。
壬戌(みづのえいぬ)〔二十九日〕
五臣(いつたり)大友皇子(おほとものみこ)を奉(いただきまつり、ゐまつり)て、
天皇(すめらみこと)が前(みまへ)に盟(ちか)ひまつる。
是日。
賜新羅王、
絹五十匹
絁五十匹
綿一千斤
韋一百枚。
…〈北〉フトキヌ。 〈兼右本〉新羅キミキヌムラハカリヒラ
ふときぬ…[名] 太い糸で織った粗い絹。
をしかは…[名] なめし皮。オシカハか。
是(この)日。
[賜]新羅王(しらきわう、しらきのこにきし)に、
絹(きぬ)五十匹(いそむら)
絁(ふときぬ)五十匹(いそむら)
綿(わた)一千斤(ちはかり)
韋(おしかは、をしかは)一百枚(ももひら)をたまふ。
《対馬国》
 奈良時代以後は「対馬嶋」となる(六年十一月)。
《筑紫大宰府》
 「大宰府」は初出。六年十一月条の「筑紫都督府」は「熊津都督府」と唐名で揃えたもの。 その当時からオホミコトモチノツカサであったと思われる。
《言/曰/相語曰》
 ここでは三重の直接話法になっている。上代語の話法は、ク語法と動詞で挟む〔イハク「~」トイフ〕。 しかし、「~」が長大な場合には、後ろの動詞が省略されることも考えられる。長い文を読み進めるうちに、トイフが何を受けるかだんだん分からなくなるからである。
 ただ、ここではsayとして「」、「」、「」が使い分けられているので、それぞれ異なる倭語をあてて三重に締めくくることが想定されていたかも知れない。
《沙門道久》
沙門道久 道久はここだけ。異本にあるという道文も含めて他のところには見えない。
筑紫君薩野馬   〈倭名類聚抄〉は、筑紫国造筑紫君の繋がりを探っているが、結局不明瞭のまま終わっている。ただ、〈継体〉段「竺紫君石井〔〈継体〉紀では「筑紫国造磐井」〕から繋がる筑紫の大族であろう。 薩野馬については、〈持統〉四年十月に「大伴部博麻」が語った言葉の中で「筑紫君薩夜麻ら四人が〈天智〉三年に帰国した」と述べられている。
韓嶋勝娑々  〈倭名類聚抄〉『宇佐八幡宮縁起』には「和銅元年…辛嶋勝自」の名があり、和銅五年の記事に「辛嶋乙目」の名があるという。 〈兼右本〉は「娑婆」に作る。「周防国佐波郡」に寄せたか。しかし、古写本以来「娑々」と表記されてきたことを、どう説明するのだろうか。
布師首磐  〈倭名類聚抄〉に{摂津国・兎原郡・布敷}。布師の古訓はフシだが、 〈姓氏家系大辞典〉はヌノシと訓み、「布師臣の族也」、「布師臣:此の地名・諸国に多ければ決し難し」と述べる。 〈姓氏録〉〖左京/皇別/布師首/生江臣同祖/武内宿祢之後也〗〖摂津国/皇別/布敷首/玉手同祖/葛木襲津彦命之後也〗がある。 〖河内国/皇別/布忍首/的人同祖/武内宿祢之後也〗布忍」はヌノオシだからヌノシ。「布敷」は布を敷くからヌノシ(キ)であろう。「布師」も、ヌノシをあてた形だと考えられる。
 道久以外は、確実に倭人の名前である。百済人で、倭人の名前をもつ者は普通にいた。 古くは欽明二年の紀臣などが見える。 官家(みやけ)に植民した倭人のうち、現地で百済人に同化した人は決して珍しくなかった。
 この場面では、倭国出身者が説明した方が話が通じ易かったのは当然であろう。道久も倭の出身であろうか。
《郭務悰》
郭務悰  『旧唐書』巻八十の「郭務悌」か。初出は三年三月。鎮将劉仁願が遣わし表函を持参。 四年九月劉德高の副使、表函を持参。 八年十月に二千人を率いてやってきたとあるのは、十年条の重出 (《郭務悰》項)。
沙宅孫登  十年正月沙宅紹明に日本の冠位が授与された。 よって、孫登は百済の沙宅氏の一族である。すると、沙宅孫登が連れて来た1400人は、百済の人であろう。
 翌年の〈天武〉元年三月に「…阿曇連稲敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。…郭務悰等…向東稽首〔使者を筑紫に送って郭務悰らに〈天智〉の喪を伝え、郭務悰は東を向いて稽首した〕 とあるので、筑紫国に来ていた。よって唐軍は筑紫に駐屯したと見られる。  現地の百済人は今や唐の手駒となり、新羅に歯向かっている※1)ので、沙宅孫登らは唐軍の一部としてやって来たと見るべきであろう。 対馬で「防人驚駭射戦」となることを心配したというから、武装していたのであろう。 恐らくは、沙宅孫登は羈縻政策によって副将軍格に取りたてられていたか。
 しかし、百済人が1400人に膨れ上がったところを見ると、唐軍に加わって日本にやって来たが、 あわよくば逃げ出して、日本に来ていた親族に身を寄せようと目論んでいた者も多く含まれていると想像される。
 ※1)【〈天智〉九~十年の半島情勢】で、 文武王十年七月に、百済残衆の蜂起を収めるために熊津都督府の仲介を求めたが、残衆は講和を拒否した。 新羅は、その決起の裏に唐による工作があったことを見抜き、百済の衆を根こそぎ撃ち滅ぼしたという話が載る。
 八年是歳の「大唐遣郭務悰等二千余人」は重出と見た。 それが「百済三部」、「羿眞子」からの「軍事」の要請を、拒否したことに起因すると考えた場合、仮に史実は「八年」の方だったとすると「七年」説が復活する。
 というのは、十年六月の「百済三部」による「軍事〔倭に来ていた百済人の帰国および救軍派遣の要請と見られる〕は、唐が仕組んだものであろう。 それを断られたので、「羿真子」がさらに要請しに来て、また断られた。
 つまり百済渡来民と倭国軍を出撃させようとして叶わなかったので、その代わるものとして郭務悰沙宅孫登が率いる二千人を筑紫に置いた。
 十年正月には、余自信などに倭の冠位を授与して日本国内の地位を定め、もはや百済人を送り返すことも救軍の派遣もあり得ないことを示した。 すると「百済三部」、「羿眞子」は七年、「郭務悰」の二千人は八年のこととした方が自然に思える。十年では、もう遅い。
《比智嶋》
 『新編日本古典文学大系』〔小学館1998〕は「巨済島南西の比珍島か」という。 比珍島비진도〔慶尚南道統営市閑山面〕は、 閑麗海上国立公園に属する。
 対馬に向かう径路としては自然だが、比珍島が当時からの名前かどうかは分からないから、実際のところは何とも言えない。
《恐彼防人驚駭射戦》
 対馬防人は大船団を見て「射戦」するだろうという。敵の船師ふないくさが迫ったときは、まず矢の雨を浴びせるのであろう。
 道久らは、唐軍は日本に敵意がないことを、予め説明しに来たという。 この後〈天武〉即位前紀では、郭務悰が〈天武〉元年三月の時点で実際に筑紫に滞在していたことが示される。
 これまで、李守真百済三部羿真子は百済遺民軍と日本軍の派遣を求めたと思われる。 日本側はそれを拒否したから、それに代わるものとして唐軍を筑紫に駐屯させたのであろうと前項で見た。
 こうして、唐軍は百済地域を新羅から守る布陣を構築した。
《防人》
 (万)3569佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀悌尓 さきもりに たちしあさけの かなとでに」などにより、防人サキモリと訓むことは明白である。 古訓は誤って「関守」をあてたのであろう。
《大友皇子》
 大友皇子は、左右大臣御史大夫と盟約して、結束を固めた。明らかに大海皇子の決起を警戒している。
《奉天皇詔》
 大友皇子が奉った「天皇詔」は、朕が崩じた後も六臣が結束して難局にあたれということであろうが、 次に大友皇子の御前で五臣が誓いを立てるから、「天皇詔」には「大友皇子皇太子」が含まれていたはずである。
 但し、この点に関しては大友皇子は遜って一旦辞したと思われる。
《臣等五人隨於殿下奉天皇詔》
 左大臣以下の五臣は、大友皇子が宣旨を受け入れていただくことを望み、来るべき「大友天皇」の御代で力を尽くしますと誓ったのである。
《織仏像》
釈迦如来説法図(奈良時代)
文化遺産オンライン
 〈推古〉十四年の「始造銅繡丈六仏像各一躯」は、 金銅仏繍仏を指すと解される。
 繍仏は、仏・菩薩の姿や浄土の様子を刺繍したもの。釈迦如来説法図(右図)の例を見ると、金銅仏と並んで重要であったと思われる。 ただ、製品の性質上、金銅仏に比べて遥かに残りにくい。
《災近江宮》
 大友皇子を立太子する動きが進む中に、大蔵省火災が載る。宮殿や寺院の火災の記事は、いつも人民が不満を募らせている文脈の中に置かれる。 古訓は「」を常に「ヒツケリ」と訓み、あからさまに放火と断定している。書紀が「」を省くのは、忌み言葉の故と見られる。
《五臣奉大友皇子》
 「」は、五臣が大友皇子を皇太子に推戴する意味であるのは明らかである。 古訓「ヰマツル」は、「ヰル〔座る、存在する〕を他動詞に転用して「置きまつる」とするもの。 通常の「奉」の訓み方、ウケタマハルタテマツルでも通じるが、皇太子を物扱いするのであまりよくない。
 意味は「推戴」だから、イタダクはどうであろうか。原意は頭上におし戴く意味であるが、万葉には(万)0894勅旨 戴持弖 オホミコト イタダキモチテ」の用例があるので、 立太子の勅旨を戴くという形で表すことができるかも知れない。
《盟天皇前》
 五臣は改めて天皇の御前で、大友皇子立太子を受け堅く守ると誓う。
 ここまでの文脈により、「」の内容が「以大友皇子為皇太子」であったことは明らかだが、この言葉自体は注意深く省かれている。 書紀の公式見解は「東宮=大海皇子」だからである。よって大友皇子を巡る盟約の如きは、結局よこしま事扱いなのである。
 しかし、そもそもこの「邪事」は〈天智〉天皇が発したに端を発している。 従って、突き詰めれば「天皇に罪あり」となるべきの中身を胡麻化していることに対して、書紀原文執筆担当者は決して納得していない。 何故なら、「童謡其の三」(下述)はその憂さ晴らしと取れるからである。
《賜新羅王》
 十月に新羅沙飡金万物を遣わして進調した。儀礼としての回賜は当然である。
 一方、郭務悰は上で見たように、少なくとも翌年三月には倭に滞在している。連れて来た二千人は筑紫に布陣していたであろう。
 唐軍はいるが、日本が唐と連合して新羅に敵対するつもりはないことを、新羅に伝えなければならない。 その意思表示のために、通常の回賜を越えた質、量を賜ったのであろう。 この時点で、日本外交はあくまでも中立である。
《大意》
 十一月十日、 対馬国司は 使者を筑紫大宰府に遣わして、 報告するに、
――「1朔日から二日目、 沙門道久(どうく)、 筑紫君(つくしのきみ)薩野馬(さつやま)、 韓嶋勝(からしまのかつ)の娑々(ささ)、 布師首(ぬのしのおびと)磐(いわ)の四人は、 唐から来て申すに、
――『2唐国の使者郭務悰(かくむそう)ら六百人、 送使沙宅孫登(さたくそんとう)ら一千四百人、 併せて二千人の乗る船四十七隻が、 ともに比智嶋(ひちしま)に泊まっております。
 それを口々に語らい、 「3今我等の人船は数多く、 忽然とそこに現れることになる。 そこで恐れるのは、その地の防人(さきもり)が驚いて弓を射かけて戦いになることである。 そこで、道久たちを派遣して 予め少しずつ来朝の意を説明しよう3」ということになりました。2』と、このように申しております。1」と報告しました。
 二十三日、 大友皇子(おおとものみこ)は、 内裏の西殿の織仏像の前にいらっしゃって、 左大臣蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)、 右大臣中臣(なかとみ)の金(くがね)〔版本は「かね」〕の連(むらじ)、 蘇我(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)、 巨勢(こせ)の人(ひと)の臣、 紀(き)の大人(うし)の臣が伺候しました。
 大友皇子は、御手に香鑪(こうろ)を取られ、 先頭に立って誓盟しました。
――「六人が同心で天皇の詔(みことのり)を承る。 もし違えれば、必ず天罰を蒙る、云々」。
 そして、 左大臣蘇我赤兄臣らは、 手に香鑪を取り、順番に従って立ち、 泣血誓盟しました。
――「臣ら五人は、殿下が天皇の詔を承ったことに隨(したが)い、 もし違えれば四天王が打ち、 天神地祇もまた誅罰する。 三十三天はありのままにこの事を知り、 子孫はまさに絶え、家門は必ず亡ぶであろう、云々」。
 二十四日、 近江宮に火災があり、 大蔵省の第三倉からの出火でした。
 二十九日。 五臣は大友皇子を推戴し、 天皇(すめらみこと)の御前で誓盟しました。
 この日、 新羅王に、 絹五十匹(ひつ)、 絁(せ)五十匹、 綿千斤(きん)、 韋(おしかわ)〔=なめし皮〕百枚を賜りました。


27目次 【十年十ニ月~是歳】
《天皇崩于近江宮》
十二月癸亥朔乙丑。
天皇崩于近江宮。
十二月(しはす)癸亥(みづのとゐ)を朔(つきたち)として乙丑(きのとうし)〔三日〕
天皇(すめらみこと)[于]近江宮(ちかつあふみのみや)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
癸酉。
殯于新宮。
新宮…〈皇極〉二年四月丁未〈岩崎本〉ニヒ
癸酉(みづのととり)〔十一日〕。 [于]新宮(にひみや)に殯(もがり)しまつる。
于時、童謠曰、
美曳之弩能
曳之弩能阿喩
々々舉曾播
施麻倍母曳岐
愛倶流之衞
奈疑能母騰
制利能母騰
阿例播倶流之衞
【其一】
童謡…〈北〉〈閣〉 テ。 〈兼右本〉童謡ウタヨミシ[テ]
美曳之弩能…〈北〉 美曳之弩能ミヨシノノ 曳之弩能阿喩ヨシノノアユ 々々舉曾播アユコソハ 施麻倍母曳岐シマヘモヨキ 愛倶流之衞アクルシヱ 奈疑能母騰ナキノモト 制利能母騰セリノモト 阿例播倶流之衞アレハクルシヱ
〈閣〉[句][句][句][句] [句][句][句][句]
〈釈紀〉 美曳之弩能/ヨ/ノ【御吉野也。曳与余五音通。弩与能五音通】 曳之弩能阿喩ヨシノノアユ 々々舉曾播アユコソハ【吉野鮎々也。言吉野河多鮎也】 施麻倍母曳岐シマヘモヨキ【此語未詳】 愛倶流之衛アクルシヱ【吾苦也。衛者休詞也】 奈疑能母騰ナキノモトナキ下也】〔葱の異体字〕 制利能母騰セリノモト【芹下也】
阿例播倶流之衞アレハクルシヱ【吾苦也】其一 【凡童謡意味未詳】

なぎ…[名] みずあおい。
…[形] =良し。
…[助] 文末にあって終止形につき、文意を確認する。
于時(ときに)、童謡(わざうた)ありて曰はく。
美曳之弩能(みえしの)
曳之弩能阿喩(えしのあゆ)
々々挙曽播(あゆこは)
施麻倍母曳岐(しまへもえ)
愛倶流之衛(えくるしゑ)
奈疑能母騰(なぎもと)
制利能母騰(せりのもと)
阿例播倶流之衛(あれはくるしゑ)
【其一(そのひとうた)】
於彌能古能
野陛能比母騰倶
比騰陛多爾
伊麻拕藤柯泥波
美古能比母騰矩
【其二】
於弥能古能…〈北〉 於彌能古能ヲミノコノ 野陛能比母騰倶ヤヘノヒモトク 比騰陛多爾ヒトヘタニ 伊麻拕藤柯泥波イマタトカネハ 美古能比母騰矩ミコノヒモトク
〈閣〉[切][切][句][句][句]
〈釈紀〉 於彌能古能ヲミノコノ【女子也】 野陛能比母騰倶ヤヘノヒモトク【八重紐解也】 比騰陛多爾ヒトヘタニ【一重也】 伊麻拕藤柯泥波イマタトカネハ【未解也】 美古能比母騰矩ミコノヒモトク【御子紐解也】其二 【凡童謡意味未詳】
於弥能古能(おみ)
野陛能比母騰倶(やもとく)
比騰陛多爾(ひだに)
伊麻拕藤柯泥波(いまだとかねば)
美古能比母騰矩(みこもとく)
【其二(そのふたうた)】
阿箇悟馬能
以喩企波々箇屢
麻矩儒播羅
奈爾能都底舉騰
多拕尼之曳鶏武
【其三】
阿箇悟馬能…〈北〉 阿箇悟馬能アカコマノ 以喩企波々箇屢イユキハハカ/ル 麻矩儒播羅マクスハラ 奈爾能都底舉騰ナニノツテコト 多拕尼之曳鶏武タゝニシヒ■■
〈閣〉[句] 以喩企◱[句][句][句][句][句]
〈釈紀〉 阿箇悟馬能アカコマノ【赤駒也。吾駒也】 以喩企イユキ噺行也噺之◆腹也〔◆:上が自、下が友。〕 波々箇屢ハゝカル【■■也。行憚也。伊者助語也】 麻矩儒播羅マクスハラ【真葛原也。私記曰師説:喩葛城皇子乎】 奈爾能都底舉騰ナニノツテコト【何傳言也】 多拕尼之曳鶏武タゝニシエケム【直得也】其三 【凡童謡意味未詳】
阿箇悟馬能(あかごまの)
以喩企波々箇屢(いゆきはばかる)
麻矩儒播羅(まくずはら)
奈爾能都底挙騰(なにのつてこ)
多拕尼之曳鶏武(ただにしえむ)
【其三】
己卯。
新羅進調使沙飡金萬物等
罷歸。
沙飡新羅の位階第五位。
己卯〔十七日〕
新羅(しらき)の進調(みつきたてまつる)使(つかひ)沙飡(さきん)金万物(きむもんもつ)等(ら)
罷(まか)り帰(かへ)る。
是歲。
讚岐國山田郡人家
有雞子四足者。
四足者…〈閣〉アシアル
山田郡屋嶋城がある。
とりのこ…[名] 鶏卵の意味だが、ヒヨコを指すこともあったかも知れない。
是(この)歳。
讃岐国(さぬきのくに)の山田郡(やまだのこほり)の人の家(いへ)に
雞子(とりのこ)有りて四(よつの)足あり[者]。
又大炊有八鼎鳴。
或一鼎鳴、
或二
或三倶鳴、
或八倶鳴。
大炊…〈北〉大-炊 オホヒツカサ ノ ナル
〈閣〉大炊オホヒツカサニ○有省也 ノ カナヘ二或三倶鳴或ヤツナカラ-倶ヤツナカラ
大炊…〈倭名類聚抄〉「大炊寮【於保為乃豆加佐】〔おほゐのつかさ〕(資料[24])。
かなへ…[名] 飲食物を加熱するのに用いる金属容器。金(かな)-瓮(へ)。
又(また)大炊(おほひのつかさ)に八(やつの)鼎(かなへ)有りて鳴る。
或(ある)は一(ひとつの)鼎鳴る、
或は二(ふたつ)
或は三(みつ)倶(とも)に鳴る、
或は八(やつ)倶(とも)に鳴る。
《童謡》
 「童謡」を古訓ではワザウタではなく、ウタヨミテと訓んでいる。寓意や風刺、予兆などをこめた歌とは考えられなかったようである。 〈釈紀〉の「凡童謡意味未詳」も、その意であろう。
 だが、以下のように歌意を見るとやはりワザウタである。
《歌意(1)》
第一歌 吉野しの 吉野しの鮎 鮎こは 嶋苦しゑ 水葱なぎもと せりあれは苦しゑ
〔 み吉野の鮎にとっては島の辺はよいところだが、ああ苦しい。水葱(なぎ)のところや芹のところにいる私は苦しい。 〕
 吉野については、第204回【えしの】項で、 ヨシ(yosi)、(yesi)の両形が存在していたが、〈万葉集〉では編者がヨシに統一したと判断した。 ミエシノは、明らかに御-吉野であるが、万葉集の表記「三吉野」にひとまず合わせた。
 シマヘは明らかに島辺であるが、である。しかし〈時代別上代〉によれば、両者はかなり意味の重なりを持って使われているので、 島辺の字を用いても差し支えないと思われる。
 係助詞コソは已然形で結ぶが、上代では形容詞の場合連体形で結ぶという。 用例を見ると、 (万)2651己妻許増 常目頬次吉 おのがつまこそ とこめづらしき」、 (万)2865巻宿妹母 有者許増 夜之長毛 歡有倍吉 まきぬるいもも あらばこそ よのながけくも うれしくあるべき」が見える。 「鮎こそ島辺も良(え)き」もこれに沿っている。
 え苦しゑは感嘆詞、は終止形を受けて断定する助詞と解釈されている。
水葱(なぎ)〔ミズアオイ〕芹(セリ)
 水葱は食糧として用いられた。 『延喜式』巻三十九/正親司に「漬秋菜料」として「水葱十石【料塩七升】。糟漬小水葱一石【料塩一斗二升。汁糟五斗】」が見える。 また、『延喜式』巻三十二/大膳上に「四時祭雑給料」として「六斗」が支給されるのを始めとして、数多くの記述がある。
 水葱の自生地〔または生産地〕のもとにいると語るのは、都にいるべき私が鄙に追いやられたという恨みであろう。 吾は苦しゐの係助詞は、「鮎にとっては良いところだが、私にとっては」との対比を強調する。文末助詞は強調を一層重ねる。
 なお、吉野を詠んだ歌は万葉・書紀に多数存在する。そのうちの一首がここに置かれたのは、吉野に退いた大海皇子との関連と見て間違いないだろう。 楽しんで泳ぐ鮎と対比して、都落ちしてこの地から出られない自分の苦しみを詠んでいる。
 大海皇子も時にはこう感じたかも知れないが、実際には京に攻め込む機会を虎視眈々と狙っているので、単純に絶望だけではない。
《歌意(2)》
第二歌 おみ 八重重だに 未だ解かねば 御子紐解く
〔 臣たちが八重の紐を解こうとするその一重も解けぬうちに、御子の紐は解けた。 〕
 一般に臣たちがもたもたしている間に、横から大海皇子が天下をさっとかっさらっていったことを詠んだと解釈されている。 壬申の乱のことである。
 問題になるのは、御子のの助詞である。が主格の格助詞になるのは従属節中に限られ、ここは従属節ではないので、属格の助詞となるを連体修飾する〕。 すると、隠れた主語〔例えば天の意思〕を考えるべきだろうか。しかし、解くを自動詞〔下二段、=「解ける」〕と見ることもできる。この読み方はかなりすっきりする。 なお「八重の紐解く」の方は他動詞で、「一重」への連体修飾句と見た方がよいだろう。
 「童謡(わざうた)」には、大体は書紀と無関係に存在した歌に寓意を重ねたものだが、こと第二歌については、本来どのような場面で詠まれたものなのか想像しにくい。 最初から壬申の乱を戯画化して生れた歌と見るべきか。
《歌意(3)》
第三歌 い往き憚る 真葛原 何のつて ただにし
〔 赤駒が真葛原を行こうとして難渋する如き、伝言のような言い方をするのは何故か。直言すればよいのに。 〕
 万葉集に同一歌がある。(万)3069赤駒之 射去羽計 真田葛原 何傳言 直将吉 あかごまの いゆきはばかる まくずはら なにのつてこと ただにしえけむ」。
 い往きは接頭辞で語調を整える、若しくは勢いのニュアンスを添える。
 直にしは、詩文中の強調の副序詞。良(エ)シの上代の未然形。
 「赤駒のい往き憚る真葛原」は、「何の伝言」を引き出す序詞。 赤駒真葛原に足を踏み込んで難渋することに譬える。この題詞との繋がりで考えると、伝言は必ずしも人を通さずただ回りくどい言い方をいうとも考えられる。
 要するに、言いたいことがあれば人を介してではなく、直接私に言いなさい、または回りくどくなくはっきり言いなさいという歌であるが、 この歌が〈天智〉崩御から壬申の乱に至る流れの一体どこに嵌るのだろうか。
 これは、嵌らないと見るべきであろう。むしろ、ストレートにものを言いたいという原文作者の気持ちの表れと見る。 〈天智〉の詔にあったはずの「大友皇子皇太子」を隠すことにより話の筋が見えにくくなったことには不満が一杯で、この歌でうっぷんを晴らしているように思えてならない。
《有雞子四足》
 実際の現象としては考えにくいので、単なる風聞か。普通なら無視するところだが、壬申の乱の前なので予兆を拾ったか。
《大炊》
 『令義解』職員令によると、宮内省の下に大炊寮がある(資料[24])。 倭名類聚抄では「大炊寮:於保為乃豆加佐〔オホヰノツカサ〕と訓まれる。
 には古訓「イヒカシク」(類聚名義抄)があるから飯を炊く意である。 したがって、大炊の一般的な訓みオホヒは、オホ+イヒの母音融合と見られる。 〈倭名類聚抄〉のオホヰは、 平安時代におけるいわゆるハ行転呼〔ワ行⇒ハ行〕の結果であろう。
 ツカサについては、の他になどがあるが、 大宝令前のオホヒノツカサについては特に決まっていなかったか、あるいはこの段のように無表記だったのかも知れない。
《八鼎鳴》
 『集解』は、『漢書』五行志中に「九鼎」を述べた部分があることを紹介している。 書紀の「八鼎鳴」との関係はっきりしないが、ひとまず『漢書』の該当部分を精読してみる。
『漢書』〔後漢/班固・班昭〕五行志/五行志中
史記周威烈王二十三年、九鼎震。金震、木動之也。
是時周室衰微、刑重而虐、号令不従、以乱金気
鼎者宗廟之宝器也。宗廟将廃、宝鼎将遷、故震動也。
是歳晋三卿韓、魏、趙簒晋君而分其地、威烈王命以為諸侯
天子不同姓、而爵其賊臣、天下不附矣。
後三世、周致徳祚於秦
其後秦遂滅周、而取九鼎
九鼎震、木沴金、失衆甚。
〔 『史記』周の威烈王※1)の二十三年、九鼎震う。「金」震え、「木」これを動かす※2)
この時、周室は衰微し、刑重く虐(しいた)げ、号令に従わず、もって「金気」を乱す。
鼎は宗廟の宝器である。宗廟〔=国家〕が廃れそうになると、宝鼎は遷ろうとして、故に震動する。
この歳〔前403〕晋※3)の三卿の韓・魏・趙は晋君から簒奪してその地を分け、威烈王は命じて諸侯とした。
天子は同姓を恤(あわれ)むことをせず、その賊臣を爵としたので、天下は付いてこなかった。
その後三世にわたって、周は秦に徳祚を致した※4)
その後、秦は遂に周を滅ぼし〔前256〕、九鼎を取った。
九鼎の震えは、「木」が「金」を沴(らい)し〔=破り〕※5)、多くを失うこと甚だしい。
※1…威烈王は、周の第三十二代王〔在位前425~前402〕
※2…五行:木・火・土・金・水。
※3…韓・魏・趙はまだ形式上晋に属していたが、この年に周によって諸侯として取り立てられたため、晋とは完全に切り離された。
※4…繁栄が周から秦に移ったという意味か。この時期、周(東周)は衰退に向い、秦は強大化の途上にあった。
※5…『漢書』五行志中之下に「凡聴傷者病水気、水気病則火沴之〔聴傷病は水気を患うもの。水気の病は火がその原因である〕とあるから、 「火沴水」は「火が水を乱す〔あるいは破る、妨害する〕」意と思われる。すなわち、A沴Bは、「AがBに邪魔する」意。 これは、通常の五行の「相克」とは逆方向の作用である。
 《主旨》
 周室の九鼎が振動したのは、鼎自身が他へ移ろうとしていたためである。実際周は滅び、その鼎は秦のものになった。 これは「木沴金」、すなわち木〔=若木のような秦〕が、金〔=錆びた金属のような周〕を打ち砕き、 多くのものが失われたことを表す。
 つまり、九鼎振は周の滅亡を予告した。一方、書紀の八鼎鳴は壬申の乱の予兆として書かれている。 書紀は、やはり『漢書』五行志の「九鼎」段を知ったうえでこの段を書いたと見るべきか。
《大意》
 十二月三日、 天皇(すめらみこと)は、近江宮(ちかつおうみのみや)で崩じました。
 十一日、 新宮(にいみや)で殯(もがり)しました。
 その時、童謡(わざうた)が詠まれました。
――御吉野(みえしの)の 吉野(えしの)の鮎 鮎こそは 嶋辺も良き え苦しゑ 水葱(なぎ)の本(もと) 芹の本 吾(あれ)は苦しゑ 【その一】
――臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねば 御子の紐解く 【その二】
――赤駒の い往き憚る 真葛(まくず)原 何の伝言(つてごと) 直(ただ)にし良(え)けむ 【その三】
 十七日、 新羅の進調使沙飡(さきん)金万物(きんもんもつ)らは、 辞して帰りました。
 この年、 讃岐(さぬき)の国の山田郡の人の家で生まれた 雞の子には四本の足がありました。
 また、大炊(おおい)のつかさにあった八つの鼎(かなえ)が鳴りました。 ある一つの鼎が鳴り、 あるいは二つ、 あるいは三つと共に鳴り、 あるいは八つと、共に鳴りました。


まとめ
 大友皇子を含む六臣は詔を固く守る誓いを立て、続けて五臣が大友皇子の御前で詔を守る誓いを立てた。 さらに五臣が大友皇子を奉ることを天皇の御前で誓った。
 この経過を見れば、その詔が大友皇子の立太子であったことは明らかだが、詔の中身そのものは伏せられている。
 何故このような書き方をしたのかと思いつつ「童謡其三」を見たところ、ある状況が浮かび上がってきた。 すなわち、「大友皇子立太子」とする史料があったが、原文執筆担当者は上層部からこれは伏せよと指示されたように見える。
 〈天智〉が大海皇子に「以後事属」(十年十月)と促したのは罠であろうが、書紀公式見解はこれを根拠にしてともかくも大海皇子を東宮と規定した 〔繰り返し述べるように、天武天皇を決して覇王にはしないのである〕。 内容的にはどう見ても大海皇子が皇太子大友皇子から政権を簒奪しているので、書紀そのものの中に公式見解と実際の内容との乖離がある。 史実に誠実であろうとする執筆者は、苦しんだ末に童謡「其三」を加えたのであろう。
 唐による百済地域の政策には、白村江の戦い直後に比べて変化が見られる。当時は倭国内にいる扶余勇らを足止めするのが必須課題だったが、 八年から十年頃になると、逆に日本在住百済人と日本軍を百済に呼び寄せようとする動きが盛んになる。 熊津都督府支配下にあった百済地域を、新羅王が奪い取ろうとする動きが相当活発になってきたからであろう。
 唐としては、筑紫の日本百済遺民合同軍によって朝鮮海峡を挟んで対峙することを目論んだが、 日本はモンロー主義をとっていたので思惑が外れ、代りに筑紫に唐軍を派遣して布陣した。 唐による二千人の派遣は、このような国際政治の流れの中で理解すべきであろう。
 『漢書』五行志の九鼎の件は、参考のために読んでみたが、王朝交代に五行説を当てはめたところが興味深かった。



[28-01]  天武天皇上(1)