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2024.08.07(wed) [27-12] 天智天皇12 ▼▲ |
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26目次 【十年十一月】 《對馬國司遣使於筑紫大宰府》
奈良時代以後は「対馬嶋」となる(六年十一月)。 《筑紫大宰府》 「大宰府」は初出。六年十一月条の「筑紫都督府」は「熊津都督府」と唐名で揃えたもの。 その当時からオホミコトモチノツカサであったと思われる。 《言/曰/相語曰》 ここでは三重の直接話法になっている。上代語の話法は、ク語法と動詞で挟む〔イハク「~」トイフ〕。 しかし、「~」が長大な場合には、後ろの動詞が省略されることも考えられる。長い文を読み進めるうちに、トイフが何を受けるかだんだん分からなくなるからである。 ただ、ここではsayとして「言」、「曰」、「語」が使い分けられているので、それぞれ異なる倭語をあてて三重に締めくくることが想定されていたかも知れない。 《沙門道久》
この場面では、倭国出身者が説明した方が話が通じ易かったのは当然であろう。道久も倭の出身であろうか。 《郭務悰》
しかし、百済人が1400人に膨れ上がったところを見ると、唐軍に加わって日本にやって来たが、 あわよくば逃げ出して、日本に来ていた親族に身を寄せようと目論んでいた者も多く含まれていると想像される。
というのは、十年六月の「百済三部」による「軍事」〔倭に来ていた百済人の帰国および救軍派遣の要請と見られる〕は、唐が仕組んだものであろう。 それを断られたので、「羿真子」がさらに要請しに来て、また断られた。 つまり百済渡来民と倭国軍を出撃させようとして叶わなかったので、その代わるものとして郭務悰と沙宅孫登が率いる二千人を筑紫に置いた。 十年正月には、余自信などに倭の冠位を授与して日本国内の地位を定め、もはや百済人を送り返すことも救軍の派遣もあり得ないことを示した。 すると「百済三部」、「羿眞子」は七年、「郭務悰」の二千人は八年のこととした方が自然に思える。十年では、もう遅い。 《比智嶋》 対馬に向かう径路としては自然だが、比珍島が当時からの名前かどうかは分からないから、実際のところは何とも言えない。 《恐彼防人驚駭射戦》 対馬の防人は大船団を見て「射戦」するだろうという。敵の船師 道久らは、唐軍は日本に敵意がないことを、予め説明しに来たという。 この後〈天武〉即位前紀では、郭務悰が〈天武〉元年三月の時点で実際に筑紫に滞在していたことが示される。 これまで、李守真、百済三部、羿真子は百済遺民軍と日本軍の派遣を求めたと思われる。 日本側はそれを拒否したから、それに代わるものとして唐軍を筑紫に駐屯させたのであろうと前項で見た。 こうして、唐軍は百済地域を新羅から守る布陣を構築した。 《防人》 (万)3569「佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀悌尓 さきもりに たちしあさけの かなとでに」などにより、防人をサキモリと訓むことは明白である。 古訓は誤って「関守」をあてたのであろう。 《大友皇子》 大友皇子は、左右大臣と御史大夫と盟約して、結束を固めた。明らかに大海皇子の決起を警戒している。 《奉天皇詔》 大友皇子が奉った「天皇詔」は、朕が崩じた後も六臣が結束して難局にあたれということであろうが、 次に大友皇子の御前で五臣が誓いを立てるから、「天皇詔」には「以二大友皇子一為二皇太子一」が含まれていたはずである。 但し、この点に関しては大友皇子は遜って一旦辞したと思われる。 《臣等五人隨於殿下奉天皇詔》 左大臣以下の五臣は、大友皇子が宣旨を受け入れていただくことを望み、来るべき「大友天皇」の御代で力を尽くしますと誓ったのである。 《織仏像》
繍仏は、仏・菩薩の姿や浄土の様子を刺繍したもの。釈迦如来説法図(右図)の例を見ると、金銅仏と並んで重要であったと思われる。 ただ、製品の性質上、金銅仏に比べて遥かに残りにくい。 《災近江宮》 大友皇子を立太子する動きが進む中に、大蔵省の火災が載る。宮殿や寺院の火災の記事は、いつも人民が不満を募らせている文脈の中に置かれる。 古訓は「災」を常に「ヒツケリ」と訓み、あからさまに放火と断定している。書紀が「火」を省くのは、忌み言葉の故と見られる。 《五臣奉大友皇子》 「奉」は、五臣が大友皇子を皇太子に推戴する意味であるのは明らかである。 古訓「ヰマツル」は、「ヰル」〔座る、存在する〕を他動詞に転用して「置きまつる」とするもの。 通常の「奉」の訓み方、ウケタマハル、タテマツルでも通じるが、皇太子を物扱いするのであまりよくない。 意味は「推戴」だから、イタダクはどうであろうか。原意は頭上におし戴く意味であるが、万葉には(万)0894「勅旨 戴持弖 オホミコト イタダキモチテ」の用例があるので、 立太子の勅旨を戴くという形で表すことができるかも知れない。 《盟天皇前》 五臣は改めて天皇の御前で、大友皇子の立太子を受け堅く守ると誓う。 ここまでの文脈により、「詔」の内容が「以大友皇子為皇太子」であったことは明らかだが、この言葉自体は注意深く省かれている。 書紀の公式見解は「東宮=大海皇子」だからである。よって大友皇子を巡る盟約の如きは、結局邪 しかし、そもそもこの「邪事」は〈天智〉天皇が発した詔に端を発している。 従って、突き詰めれば「天皇に罪あり」となるべき詔の中身を胡麻化していることに対して、書紀原文執筆担当者は決して納得していない。 何故なら、「童謡其の三」(下述)はその憂さ晴らしと取れるからである。 《賜新羅王》 十月に新羅は沙飡金万物を遣わして進調した。儀礼としての回賜は当然である。 一方、郭務悰は上で見たように、少なくとも翌年三月には倭に滞在している。連れて来た二千人は筑紫に布陣していたであろう。 唐軍はいるが、日本が唐と連合して新羅に敵対するつもりはないことを、新羅に伝えなければならない。 その意思表示のために、通常の回賜を越えた質、量を賜ったのであろう。 この時点で、日本外交はあくまでも中立である。 《大意》 十一月十日、 対馬国司は 使者を筑紫大宰府に遣わして、 報告するに、 ――「1朔日から二日目、 沙門道久(どうく)、 筑紫君(つくしのきみ)薩野馬(さつやま)、 韓嶋勝(からしまのかつ)の娑々(ささ)、 布師首(ぬのしのおびと)磐(いわ)の四人は、 唐から来て申すに、 ――『2唐国の使者郭務悰(かくむそう)ら六百人、 送使沙宅孫登(さたくそんとう)ら一千四百人、 併せて二千人の乗る船四十七隻が、 ともに比智嶋(ひちしま)に泊まっております。 それを口々に語らい、 「3今我等の人船は数多く、 忽然とそこに現れることになる。 そこで恐れるのは、その地の防人(さきもり)が驚いて弓を射かけて戦いになることである。 そこで、道久たちを派遣して 予め少しずつ来朝の意を説明しよう3」ということになりました。2』と、このように申しております。1」と報告しました。 二十三日、 大友皇子(おおとものみこ)は、 内裏の西殿の織仏像の前にいらっしゃって、 左大臣蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)、 右大臣中臣(なかとみ)の金(くがね)〔版本は「かね」〕の連(むらじ)、 蘇我(そが)の果安(はたやす)の臣(おみ)、 巨勢(こせ)の人(ひと)の臣、 紀(き)の大人(うし)の臣が伺候しました。 大友皇子は、御手に香鑪(こうろ)を取られ、 先頭に立って誓盟しました。 ――「六人が同心で天皇の詔(みことのり)を承る。 もし違えれば、必ず天罰を蒙る、云々」。 そして、 左大臣蘇我赤兄臣らは、 手に香鑪を取り、順番に従って立ち、 泣血誓盟しました。 ――「臣ら五人は、殿下が天皇の詔を承ったことに隨(したが)い、 もし違えれば四天王が打ち、 天神地祇もまた誅罰する。 三十三天はありのままにこの事を知り、 子孫はまさに絶え、家門は必ず亡ぶであろう、云々」。 二十四日、 近江宮に火災があり、 大蔵省の第三倉からの出火でした。 二十九日。 五臣は大友皇子を推戴し、 天皇(すめらみこと)の御前で誓盟しました。 この日、 新羅王に、 絹五十匹(ひつ)、 絁(せ)五十匹、 綿千斤(きん)、 韋(おしかわ)〔=なめし皮〕百枚を賜りました。 27目次 【十年十ニ月~是歳】 《天皇崩于近江宮》
「童謡」を古訓ではワザウタではなく、ウタヨミテと訓んでいる。寓意や風刺、予兆などをこめた歌とは考えられなかったようである。 〈釈紀〉の「凡童謡意味未詳」も、その意であろう。 だが、以下のように歌意を見るとやはりワザウタである。 《歌意(1)》
シマヘは明らかに島辺であるが、上はヘ乙、辺はヘ甲である。しかし〈時代別上代〉によれば、両者はかなり意味の重なりを持って使われているので、 島辺の字を用いても差し支えないと思われる。 係助詞コソは已然形で結ぶが、上代では形容詞の場合連体形で結ぶという。 用例を見ると、 (万)2651「己妻許増 常目頬次吉 おのがつまこそ とこめづらしき」、 (万)2865「巻宿妹母 有者許増 夜之長毛 歡有倍吉 まきぬるいもも あらばこそ よのながけくも うれしくあるべき」が見える。 「鮎こそ島辺も良(え乙)き」もこれに沿っている。 え苦しゑの エは感嘆詞、ヱは終止形を受けて断定する助詞と解釈されている。
水葱・芹の自生地〔または生産地〕のもとにいると語るのは、都にいるべき私が鄙に追いやられたという恨みであろう。 吾は苦しゐの係助詞ハは、「鮎にとっては良いところだが、私にとっては」との対比を強調する。文末助詞ゑは強調を一層重ねる。 なお、吉野を詠んだ歌は万葉・書紀に多数存在する。そのうちの一首がここに置かれたのは、吉野に退いた大海皇子との関連と見て間違いないだろう。 楽しんで泳ぐ鮎と対比して、都落ちしてこの地から出られない自分の苦しみを詠んでいる。 大海皇子も時にはこう感じたかも知れないが、実際には京に攻め込む機会を虎視眈々と狙っているので、単純に絶望だけではない。 《歌意(2)》
問題になるのは、御子のの助詞ノである。ノが主格の格助詞になるのは従属節中に限られ、ここは従属節ではないので、属格の助詞となる〔紐を連体修飾する〕。 すると、隠れた主語〔例えば天の意思〕を考えるべきだろうか。しかし、解くを自動詞〔下二段、=「解ける」〕と見ることもできる。この読み方はかなりすっきりする。 なお「八重の紐解く」の方は他動詞で、「一重」への連体修飾句と見た方がよいだろう。 「童謡(わざうた)」には、大体は書紀と無関係に存在した歌に寓意を重ねたものだが、こと第二歌については、本来どのような場面で詠まれたものなのか想像しにくい。 最初から壬申の乱を戯画化して生れた歌と見るべきか。 《歌意(3)》
い往きのイは接頭辞で語調を整える、若しくは勢いのニュアンスを添える。 直にしのシは、詩文中の強調の副序詞。エ乙ケ甲は良(エ乙)シの上代の未然形。 「赤駒のい往き憚る真葛原」は、「何の伝言」を引き出す序詞。 赤駒が真葛原に足を踏み込んで難渋することに譬える。この題詞との繋がりで考えると、伝言は必ずしも人を通さずただ回りくどい言い方をいうとも考えられる。 要するに、言いたいことがあれば人を介してではなく、直接私に言いなさい、または回りくどくなくはっきり言いなさいという歌であるが、 この歌が〈天智〉崩御から壬申の乱に至る流れの一体どこに嵌るのだろうか。 これは、嵌らないと見るべきであろう。むしろ、ストレートにものを言いたいという原文作者の気持ちの表れと見る。 〈天智〉の詔にあったはずの「以二大友皇子一為二皇太子一」を隠すことにより話の筋が見えにくくなったことには不満が一杯で、この歌でうっぷんを晴らしているように思えてならない。 《有雞子四足》 実際の現象としては考えにくいので、単なる風聞か。普通なら無視するところだが、壬申の乱の前なので予兆を拾ったか。 《大炊》 『令義解』職員令によると、宮内省の下に大炊寮がある(資料[24])。 倭名類聚抄では「大炊寮:於保為乃豆加佐」〔オホヰノツカサ〕と訓まれる。 炊には古訓「イヒカシク」(類聚名義抄)があるから飯を炊く意である。 したがって、大炊の一般的な訓みオホヒは、オホ+イヒの母音融合と見られる。 〈倭名類聚抄〉のオホヰは、 平安時代におけるいわゆるハ行転呼〔ワ行⇒ハ行〕の結果であろう。 ツカサについては、寮の他に省、司、職、庁などがあるが、 大宝令前のオホヒノツカサについては特に決まっていなかったか、あるいはこの段のように無表記だったのかも知れない。 《八鼎鳴》 『集解』は、『漢書』五行志中に「九鼎」を述べた部分があることを紹介している。 書紀の「八鼎鳴」との関係はっきりしないが、ひとまず『漢書』の該当部分を精読してみる。
《大意》 十二月三日、 天皇(すめらみこと)は、近江宮(ちかつおうみのみや)で崩じました。 十一日、 新宮(にいみや)で殯(もがり)しました。 その時、童謡(わざうた)が詠まれました。 ――御吉野(みえしの)の 吉野(えしの)の鮎 鮎こそは 嶋辺も良き え苦しゑ 水葱(なぎ)の本(もと) 芹の本 吾(あれ)は苦しゑ 【その一】 ――臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねば 御子の紐解く 【その二】 ――赤駒の い往き憚る 真葛(まくず)原 何の伝言(つてごと) 直(ただ)にし良(え)けむ 【その三】 十七日、 新羅の進調使沙飡(さきん)金万物(きんもんもつ)らは、 辞して帰りました。 この年、 讃岐(さぬき)の国の山田郡の人の家で生まれた 雞の子には四本の足がありました。 また、大炊(おおい)のつかさにあった八つの鼎(かなえ)が鳴りました。 ある一つの鼎が鳴り、 あるいは二つ、 あるいは三つと共に鳴り、 あるいは八つと、共に鳴りました。 まとめ 大友皇子を含む六臣は詔を固く守る誓いを立て、続けて五臣が大友皇子の御前で詔を守る誓いを立てた。 さらに五臣が大友皇子を奉ることを天皇の御前で誓った。 この経過を見れば、その詔が大友皇子の立太子であったことは明らかだが、詔の中身そのものは伏せられている。 何故このような書き方をしたのかと思いつつ「童謡其三」を見たところ、ある状況が浮かび上がってきた。 すなわち、「大友皇子立太子」とする史料があったが、原文執筆担当者は上層部からこれは伏せよと指示されたように見える。 〈天智〉が大海皇子に「以後事属レ汝」(十年十月)と促したのは罠であろうが、書紀公式見解はこれを根拠にしてともかくも大海皇子を東宮と規定した 〔繰り返し述べるように、天武天皇を決して覇王にはしないのである〕。 内容的にはどう見ても大海皇子が皇太子大友皇子から政権を簒奪しているので、書紀そのものの中に公式見解と実際の内容との乖離がある。 史実に誠実であろうとする執筆者は、苦しんだ末に童謡「其三」を加えたのであろう。 唐による百済地域の政策には、白村江の戦い直後に比べて変化が見られる。当時は倭国内にいる扶余勇らを足止めするのが必須課題だったが、 八年から十年頃になると、逆に日本在住百済人と日本軍を百済に呼び寄せようとする動きが盛んになる。 熊津都督府支配下にあった百済地域を、新羅王が奪い取ろうとする動きが相当活発になってきたからであろう。 唐としては、筑紫の日本百済遺民合同軍によって朝鮮海峡を挟んで対峙することを目論んだが、 日本はモンロー主義をとっていたので思惑が外れ、代りに筑紫に唐軍を派遣して布陣した。 唐による二千人の派遣は、このような国際政治の流れの中で理解すべきであろう。 『漢書』五行志の九鼎の件は、参考のために読んでみたが、王朝交代に五行説を当てはめたところが興味深かった。 |
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⇒ [28-01] 天武天皇上(1) |