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2024.07.21(sun) [27-10] 天智天皇10 ▼▲ |
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22目次 【九年】 《宣朝庭之禮儀與行路之相避》
射に対して〈倭名類聚抄〉では「射:訓二由美以留一」、すなわち弓射るの訓が示される。 宮中で「士大夫」を集めて賑やかに弓射大会を催した様が思い浮かぶ。 開催日の七日は、五節句の最初である。 《行路之相避》 貴族が寺社に出かけるときなどには、行列と庶民の通行が交わらないように交通整理せよと読める。 《誣妄妖偽》 誣はわざと事実と異なることをいう。誣告罪という罪がある。誣妄の古訓タハゴト〔狂って発する言葉〕はその通りである。 オヨヅレは、タハゴトと対にして用いられることから、ここでは妖偽にオヨヅレをあてたのであろう。 因みに漢語において妖偽は「偽善的な」と訳されている。 この項は、前項とともに人民に対する統制であろう。 《断盗賊与浮浪》 浮浪は、「ウカレヒト」と訓まれる。ウカレヒトは、本籍を離れて他に移った人で、目的は租税逃れである。ここではその住居を定めて戸籍に載せようとしたと読める。 盗賊:「ヌスビト」については、重度なら処罰すべきであるが、軽度ならウカレヒトと同じことであろう。税逃れを盗賊と表現したとも考えられる。 浮浪の増加の背景には、軍事による税負担増が考えられる。これが壬申の乱にも繋がったと考えるべきであろう。
江戸時代の表記は「遺邇野」が標準だったようである。その訓みについて『通証』『集解』は、古訓「ヒモノ」の理由を全く不明とする。 〈倭名類聚抄〉の{(蒲生郡)必佐郷}、〈北野本〉の「(責+辶)」または「迮」を見ると、現代の版本が「匱迮」と見做していることに、それほど無理はない。 古訓に見える「モ」は、〈北〉より古い時期に「サ」であったものが誤写されたと見ることができる(右図サの字体参照)。 比都佐は、その遺称と考えられている。 その範囲は、日野町の必佐地区(旧北比都佐村): 三十坪下・三十坪上・内池西・内池東・猫田・十禅師・里口・山本・小御門・小谷・石原・増田・豊田・中山西・中山東。 また、南比佐地区(旧南比都佐村): 上駒月・下駒月・深山口・上迫・下迫・清田・別所が見える。 地理的な位置は、農業集落境界データセット/滋賀県蒲生郡日野町によると右図の通りである。 まだ大津京の建都に手を付けて日は浅いが、早くも遷都を考えていたのだろうか。 人民の目には身勝手の極みと映ったことであろう。 《修二高安城一積二穀与塩一》 前年是冬条の「修高安城、収畿内之田税」と同じことが書かれる。事業が継続されていることを示すか、または重出であろう。 ただ、高安城に何度も言及されること自体が、畿内において重要な城であったことを物語る。 《築長門城一筑紫城二》 さすがに、四年八月の重出であろう。 前項もやはり重出か。この時期の記述には、実際と異なると思われる年代の出来事がいくつか混在していることに留意する必要がある。 《山御井傍》
三井寺公式/「三井寺について」によると、 「三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています」という。 『扶桑略記』〈天武〉朱鳥元年条に「大友与多大臣家地造二御井寺一。今三井寺是也。依二父遺誡一建二-立之一云々」とある。 また『園城寺伝記』には大友与多磨が創立したとあるが、『近江の古代寺院』〔近江の古代寺院刊行会1989〕はこれらについて、「大友与多ないし与覆磨については詳らかでなく、 園城寺の創建に関しては不分明といわざるを得ない」と述べる。 ただし『近江の古代寺院』によれば、『寺門伝記補録』によると園城寺は大友氏の氏寺であったのを改め、862年に円珍は別当に任じられ、貞観十年〔868〕六月に「円珍が天台座主に補任されると、勅によって園城寺は円珍に賜ることになった」という。 すなわち、大友皇子本人は滅び子は流刑となったが、それでも子孫には太政大臣家としての家柄が引き継がれ園城寺はその氏寺として創建されたと読み取れる。 御井に祝詞を宣じたのは確かに中臣金連であるが、それを指示したのが太政大臣で、その神聖な御井に大臣家の子孫が氏寺を建てたという流れがあったのかも知れない。 西方の長等山からの谷川が、扇状地で伏流して湧き出ていると見られる。 《中臣金連》
《祝詞》 祝詞への古訓「ノト」は、ノリトの促音便〔ノット〕であろう。 《夜半之後》 (万)1691「客在者 三更刺而 照月 たびなれば よなかをさして てるつきの」のように、ヨナカには時に「三更」があてられる。 〈時代別上代〉は、この歌の「ヨナカ」について、「近江高島郡の地名とすべき」、「ただそれが「三更」の字を借りて表記されていることは、ヨナカが何時ごろに あたるかを知る材料になる」、 「「更」は漏刻のかわる意で、いまの午後八時から午前五時までを五つに刻んだ」と述べ、すなわちヨナカは子〔午前0時〕だと見る。 「更」は、初更=戌〔20時〕、二更=亥〔22時〕、三更=子〔0時〕、四更=丑〔2時〕、五更=寅〔4時〕と見られる。 『精選版日本国語大辞典』は、「更」が季節により変動すると述べるが、それは不定時法となった室町以後のことで、上代は定時法だから固定している。 〈兼右本〉の傍訓「アケカタ」(明け方)はそもそも上代語ではない。その上代語アカトキだとすると、 (万)3061「五更之 目不酔草跡 あかときの めさましぐさと」によれば、五更〔四時〕である。 アケカタもアカトキも「夜半之後」ではなく、 「夜半之後」は、四更=丑〔2時〕と見るのがよいだろう。なお〈時代別上代〉の区分では「四更」は2時から4時までであるが、 「丑」は、1時0分から2時59分までである。 《災法隆寺》 八年十二月にも、「災斑鳩寺」とあった。 斑鳩寺と法隆寺が、別個の寺として存在したとは考えにくい。 同一の寺が、二年連続で火災に見舞われたことも、あまり考えられない。 書かれていることの中身を見ると、九年四月条では落雷と読め、八年条では、重税に苦しむ民による放火と読める。 放火だとすると、都からも高安城からも離れた法隆寺に放火するのは疑問である。 一つの考え方としてはこれらは重出で、九年条が事実に近く、八年条は後年になって流布された風説と考えたらどうだろうか。これで、一応の整理はできる。 なお、重出は、〈天智紀〉にいくつか見られる。 原因としては、同じ事象の記録が複数の出典にあり、両者をそのまま収めたことが考えられる。 時期や表現が異なるのは、それぞれの出典に忠実に書いたということであろう。 《歌意》
次にウチハシについては、次の歌が参考になる。 ●(万)3907「泉河乃 可美都瀬尓 宇知橋和多之 余登瀬尓波 宇枳橋和多之 いづみのかはの かみつせに うちはしわたし よどせには うきはしわたし」。 ●(万)0196「明日香乃河之 あすかのかはの … 下瀬 打橋渡 しもつせに うちはしわたす」。 板を綱で繋いで浮かべた「浮橋」に対して、「打橋」は川床に立てた柱に板を打ち付けた固定橋であろう。 音仮名「珥」にはニとジがあり、古訓は「ニ」を採る。 これにより、一旦は「の処(と)に」かも知れないと考えたが、この言い回しは万葉に一例もなかった。 ジと訓んだ場合、「こ甲の乙と甲じ」という語句が (万)0723「念有之 吾兒乃刀自緒 おもへりし あがこのとじを」など三例あった。 さらに「あらにぞ」では文法的に成り立たないが、「あらじぞ」〔アリの未然形+否定推量+強調の助詞〕ならば問題はない。 〈時代別上代〉もこの歌を「八重子の刀自」、「有らじぞ」と訓んでいる。 刀自は夫人のことだが、若い女性に敬意を込めて呼ぶ場合もある。(万)0723は、「吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 わがゆかなくに をかなとに ものがなしらに おもへりし」 〔=私が行かないことを悲しく思っている〕「吾が子よ」と呼びかけるのだから、「~の刀自」は相手への敬称である。 よって「八重子の刀自」も、「八重子」への敬称となる。 「八重-子」は何らかの慣習的な言い回しと思われるが、今のところ意味は不明である。 神代に遡ると、須佐之男は妻を八重垣の家に住まわせたいと詠んだ(第54回)。 ひとまずこれに倣って、八重子=八重垣の家の子と解しておく。 「タマテノイヘ」の「タマデ」は地名「玉手」以外考えられない。 玉手村は、玉手丘上陵(〈孝安〉天皇)の地である(第106回)。 一説に、この歌は「法隆寺の火災から早く逃げよ」と呼びかけたもので、 タマデを「玉代」の意に読み「代わりの家を用意したから」と言ったものとする説を見るが、どう見ても無理がある。なぜ、こんなに変わった読み方をするのであろうか。 クイについては、〈釈紀〉はクヒ〔杭〕とするが、上代にはイ音便はない。実際は、悔(くゆ)の名詞形であろう。 八重子に、決して後悔するようなことにはさせないから、出ていらっしゃいよと呼びかけたと読めば、意味はよく通る。 結局、この歌は八重垣の邸宅に籠った女性に、出て来て一緒に遊びましょうと誘う歌であることに疑いはない。 この単純な歌が童謡〔わざうた〕とされるのは、隠された意味が込められているからである。 《童謡》 書紀はこの歌に、必ず文脈と結びついた裏の意味を込めているはずである。 その解釈については、『厚顔抄』〔契沖1691〕「火災アルベケレバ、出で遁レコト、サトスナリ」〔女子に法隆寺の火災から逃げろと促した〕が見える。 この程度では、何とか結びつきを探し出したに過ぎない。 『集解』は、「按蓋童謡之意。勧二天武天皇出レ家逃一レ位也」、つまり大海皇子に出家して即位を促す意とする。 「八重子の刀自」〔女性〕に呼びかけた歌であるから、「子」を大海皇子にあてるのは無理であり。ただし、壬申の乱と関連づけたものではある。 打橋を、宇治橋と読むのは容易である。宇治については〈天武紀上〉の〈天智〉四年段に、吉野に穏退する大海皇子を蘇我赤兄・中臣金・蘇賀果安が「送之、自菟道返焉」の記事がある。 また、宇治川のやや上流、瀬田橋のところで大友皇子が陣を構えたが、大敗した。 これらのことから、「打橋(宇治橋)の頭(つめ)の遊び」を大海皇子の決起と読むことは魅力的である。 この見方を推し進めてみると、「玉手の家の八重児の刀自」は鸕野讃良皇女〔〈持統〉天皇〕を指すことになる。 ただ〈天武即位前紀〉では、むしろ讃良皇女の方が積極的であったと読める(第12回)。 それでも、歌の技巧として、八重子の刀自を遊びに誘い出した形に描くことはあり得よう。 ただ、この歌謡を「童謡」と位置づけた解釈者が、讃良皇女のことまで意識していたかどうかは分からない。 もしも讃良皇女の別業が玉手村にあったとすれば、この構想は完璧となる。 今のところ、それを示す史料は全く見いだせないが、これほど完全な一致まで求める必要もないであろう。 よって、ひとまずこの説の誘惑に負けてみる。 《邑中獲亀》 『集解』は「按周易坤卦曰二玄黄者天地之雑一也。天玄而地黄而為二上下一者天地易レ位也。申字者即壬申乱兆」 〔按ずるに『周易』に「坤卦」は玄黄は天地の紛れである。天玄(くろ)く地黄であるが、上下して天地が逆転する。申の字は壬申の乱の兆しである〕と述べる。 『周易』[䷁](坤下坤上)の原文は、「夫玄黃者天地之雑也。天玄而地黄。」〔玄・黃は天地に混ざる。天は玄、地は黄である〔のが正しい姿である〕〕である。 つまり、亀の甲の「上黄下玄」は、玄=天、黄=地が逆転した[䷁]の相である。さらに「申」の字は、壬申の乱の兆しだとする。 実際にこのような亀が捕えられたかどうかは分からないが、書記が周易の[䷁](玄黄の雑)を材料として、この話を壬申の乱の謎がけとして書いたことは明らかである。 ということは、前段の童謡も同じく壬申の乱を暗示したものではないかという思いは強まる。 《黄》 〈時代別上代〉によれば「新撰字鏡・和名抄にキを構成要素とするかに見える語があり、万葉その他に見えるクガネまたはコガネのクやコの中に、 キとつながるものをみることは可能である」。 〈倭名類聚抄〉に「黄㼐:和名木宇利」が見える。 《阿曇連頰垂》
《造水碓而冶鉄》 「水碓」は水車を動力として粉を挽く碓であるが、ここでは水車を「冶鉄」で用いるふいごの動力源に用いた装置を指すと思われる。 そこで、検索語「水車+ふいご」を用いて検索したところ、『後漢書』杜詩伝及び『農書』にある古代の「水排」に行きついた。 『後漢書』杜詩伝を見る。
wikipedia中国語版はこれらに基づいて書かれたと思われるが、 「杜詩(東漢):杜詩(前1世紀?—38年)、字君公、河内郡汲県人、東漢官員及発明家。他与二東漢蔡倫・張衡・北宋畢昇一被レ誉為二中国古代四大発明家一」 〔…後漢の官人及び発明家。後漢の蔡倫・張衡、北宋の畢昇とともに「中国古代四大発明家」と賞讃される〕、 「曽創二-造水排(水力鼓風機)一、以レ水為二動力一、通二-過-伝-動機械一、使二皮製鼓風囊一連続開合、将三空気送二-入冶鉄炉一、鉄造農具、用力少而見二効多一、比二欧州一約早二-了一千一百年一」 〔かつて水排(水力鼓風機)を作り、水を動力として鞴(ふいご)を開閉して冶鉄炉に空気を送ろうとした。鉄製農具は省力かつ効果的で、欧州に比べて約1100年早かった〕 と述べる。 書記の造水碓而冶鉄も、この仕組みであった可能性が高い。 《大意》 九年正月七日、 士大夫(まえつきみたち、しだいぶ)らに詔(みことのり)して宮門の内で大弓射会を催しました。 十四日、 朝庭の礼儀と道行く人は互いに避けよと宣旨しました。 また、誣妄(ぶもう)妖偽(ようぎ)〔=妄言〕を禁断としました。 二月、 戸籍を作り、 盗人と浮浪者を断ちました。 その時、 天皇(すめらみこと)は、 蒲生郡(がもうぐん)の匱迮野(ひつさの)に出向かれ、宮の地を視察されました。 また、高安城(たかやすのき)を修造して穀類と塩を積み上げました。 また、長門の一城、筑紫の二城を築きました。 三月九日、 山の御井(みい)の畔に、 諸神の座を敷き、幣帛(へいはく)を分け置いて、 中臣の金(かね)の連(むらじ)は祝詞を宣じました。 四月三十日、 夜半を過ぎて、 法隆寺に火災があり、一つの建物も残しませんでした。 大雨が降り雷震しました。 五月、 風刺歌が歌われました。 ――打橋(うちはし)の 詰めの遊びに 出でませ子 玉手の家の 八重子(やへこ)の刀自(とじ) ―― 出でましの 悔いはあらじぞ 出でませ子 玉手の家(へ)の 八重子の刀自 六月、 邑(むら)の中に亀を獲ました。 背に「申」の字が記され、 上は黄色で下は玄(くろ)色、 長さは六寸ばかりでした。 九月一日、 阿曇連(あずみのむらじ)頰垂(つらたり)を新羅に遣しました。 この年、 水碓(みずうす)を作って〔水車でふいごを吹き〕鉄冶(てつや)しました。 23目次 【十年正月】 《以大友皇子拜太政大臣》
「太政大臣」の古訓は、〈倭名類聚抄〉の「大政大臣※)」の和訓とほぼ一致しているので、 奈良時代から平安時代まで実際に「オホ(イ)マツリコトノオホマチキミ」が使用されていたと思われる。但し、音読みも併用されたかも知れない。 〈内閣文庫本〉を見ると、「オホイマツリゴト」が「オホキマツリゴト」の音便と認識されていたことが分かる。 ※)…「太上」「大上」の表記の差はあまり考えなくてもよいと思われる。 太政大臣職は、職員令では「无其人則闕」〔適する人がなければ欠く〕とある。 地位が左右大臣を凌駕するのは、冠位令に「一品:太政大臣、二品:左右大臣」とあり、 また〈天智紀〉でも左大臣に先立って書かれていることから分かる。 新たな職とし太上大臣を創設して大友皇子を任じたのは、左右大臣を上から抑え込む立場に皇族を置いたと判断できる。 書紀では東宮は大海皇子であるが、これは結果から遡って形式的に表したもので、実際には〈天智〉天皇は大友皇子を太上大臣に拝することをもって実質的に皇太子に位置づけたと考えられる。 《大友皇子》 もし大海皇子が「東宮」としての実質を伴っていれば、即位はスムースであって壬申の乱は起こらなかったはずである。 大友皇子が事実上の皇太子だったからこそ、クーデターが発生したわけである。 従って、〈天智〉の晩年には大友皇子が皇太子として地歩を固めつつあったのは明らかである。 ここで〈天智〉の皇子をすべて並べ挙げてみると、〈天智〉七年条によれば、建皇子、川島皇子、施基皇子、伊賀皇子の四人である。 このうち建皇子は夭折したが、川島皇子と施基(芝基)皇子は皇族として〈天武〉八年に盟約に臨み、草壁皇子に忠誠を誓っている。 〈天智〉の皇子の中でも、とりわけ伊賀(大友)皇子は品性が優れていたのであろう。 皇大弟(大海皇子)に継承した場合はそれほどの摩擦はないであろうが、押坂彦人を祖とする王朝内部での交代であり、これでは〈天智〉はその一つの嶺として埋もれてしまう。 伊賀皇子の母は伊賀氏が送り込んだ采女であって、それほどの家柄ではない。 しかし伊賀皇子に継承させれば、却って〈天智〉は新王朝の創始者として、後世まで名を残すことになる。晩年の〈天智〉の心に、そのような欲望が生れたのではないだろうか。 大友皇子については、十年十二月に〈天智〉が崩じた後、〈天武〉元年に滅ぼされるまで事実上皇位に即いていたという見方が存在する。 その考えのもとに、明治三年〔1870〕になって漢風諡号「弘文」が追贈された。 しかし、大友皇子の「即位」を認めると、〈天武〉は正統王朝を武力で滅ぼした覇王となってしまう。 よって、書紀は大友皇子の即位を認めず、あくまでも東宮大海皇子が正統に皇位を継承した形をとるのである。 《拝》 左右大臣の任命には動詞「為」を用いるが、こと太政大臣には「拝」を用いている。 このことから、大友皇子という人物および太政大臣という地位に対しては、格別の敬意が払われている。 「拝」への古訓「メス」は「見す=統治をなされる」、「召す=呼び寄せる」の意だが、ここでは前者で天皇の統治行為としての任命行為を、敬語表現したことになる。 天皇の行為であるから、相手が貴人でなければオホス、ヨサスと訓むところであるが、任命者と被任命者をともに敬う場合の和訓は困難である。 《蘇我赤兄左大臣》 蘇我氏傍系であった赤兄をここで遂に左大臣に取り立てるが、それを上回る太政大臣を置いて重しとすることを怠らない。 中大兄だった頃に蘇我宗家の専横によって乙巳の変を招いた記憶が、まだ〈天智〉の脳裏に残っていた結果と見る。 《中臣金右大臣》 中臣金連を右大臣に任命した同じ日に「宣神事」して、右大臣に取り立てながら中臣連を神事に留める枠組みを保つ。 藤原不比等はまだ年少で、大臣はまだ遠い。しかし鎌足亡き後も、なお中臣連を神事の家柄に封じ込めるべしという遺志が効いているようである。 《命宣神事》 「命宣」は「命レ宣」で、その主語は天子または神である。中臣金右大臣の後に「命」は置けないので、衍字とせざるを得ない。 その点では〈兼右本〉の判断は妥当である。 「宣」については、ノルと訓めば占いの結果など神の意志の表出、ノブと訓めば詔と同じである。 「神事」は占いの文言、預言の類と思われるので、ノルの方であろう。 《御史大夫》 御史は周代には天子の秘書官。御史大夫は秦・漢の三公のひとつ。 中国語版wikipediaには、「御史大夫為二中国歴史上的官職一、三公之一。御史的首領、負レ責三監察二百官一、大約相二-当於副丞相一。」などとある。 『旧唐書』巻四十二職官志には「御史大夫為二大司憲一」とあり、御史大夫は唐代に改称されたようである。 この唐名官職名が〈天智〉期に取り入れられ、この職が後に「大納言」になったと書紀は見ている。 書紀が書かれたのは、養老令〔757〕より前で大宝令〔701〕より後であるから、大宝令では「大納言」であったと見られる。 これまで大臣より下の官職はすべて群卿大夫〔マヘツキミ〕であったが、あらたにその上層が御史大夫となった。そして蘇我氏、巨勢氏、紀氏から取り立てられている。
分注が「或本」説とする「大友皇子宣命」の方が史実かも知れない。 大友皇子が太政大臣という公職を負っているのに対して、 「大皇弟」は書紀による造語と考えた。 ここの「大皇弟」は書紀が書き加えたもので、「東宮」はもともと大友皇子を指していかも知れない。 だとすれば、原注も本文も同内容となる。 ここでは「大皇弟」の業績に寄せて描く作為が疑われる。 近江令についてはその存在自体が疑われているが、 「法度冠位之名。具載二於新律令一也」という記述によれば、書紀編纂時代には近江令の成文が残っていたことになる。 書紀によれば、それは大赦するほどの重要な事業だったわけである。 ただ、これ以後も出て来る冠名は二十六階当時(三年)のままで、新たな「冠位之名」は出てこない。 〈天武〉十四年「改二爵位之号一」の直前まで、大錦、小錦、大山、小山などのままである。 よって、「施二-行冠位法度之事一」とはいうが、これまでばらばらに発布してきた法令を単に一つにまとめただけのことかも知れない。 《高麗遣上部大相可婁等》 この時点で、高麗は〈天智〉七年に唐が設置した安東都護府によって統治されている(『新唐書』列伝145)。 よって、「高麗遣」とは書いてあるが安東都護府からの派遣で、「上部大相」は旧称が肩書として残っていたのかも知れない。 さもなければ、何年か前の記録の混入かも知れない。次の段で、既に百済にはいないはずの「鎮将劉仁願」が使者を遣わしたと述べているからである。
《郭務悰》項 で見たように、〈天智〉七年の時点で劉仁願は高句麗征伐に参戦し、さらにそのときの動きに疑惑を持たれて流刑となっている。 従って、〈天智〉十年条に「劉仁願」があることは、普通に考えれば事実に反する。 では、全くの誤りかと言えば、一概には言い切れない。 それは、この時期の熊津都督府との交渉についての『海外国記』に詳しい記録が存在するからである。 これを見れば、ある程度詳細な記録が存在したはずだから、想像で鎮将の名を付け足したとは考えにくい。 一つの考え方としては、この段を三年五月条の重出とすることが考えられる。 三年五月条にある「進表函」は、確かに十年条の「上表」と同じである。 だが、使者の名前が三年条は「郭務悰」、十年条「李守真」で異なっている。 この時期は使者が度々訪れ、その都度文書を持参しただろうから重出ではないだろう。 次の考え方として、十年条の日付「正月辛亥」だけを信用して、何らかの錯誤によって年のみが誤っていたと考えてみる。 併せて、前段の高句麗の使者の件も移動すれば、高句麗滅亡前に救援を求めた使者と位置付けられ、困難を一つ減らすことができる。 そこで、試しに日付「正月辛亥」だけは正しいとした場合に、三~九年の当てはまる年があるかどうかを探ってみる。 また十年七月には李守真が帰国するので、その時期も含める。
これを見ると、李守真の来朝・罷帰の年が修正可能なのは、七年のみである。 大相可婁の来朝・罷帰の日付も、やはり七年は可能である。 さらに十年六月の百済使来朝の記事も連動させてみると、これも七年に移すことは可能である 〔但し、原資料が日付に数字を用いていた場合は右表を作る作業は無意味となり、「七年」に絞り込む根拠は崩壊する〕。 七年〔668〕は劉仁願は高麗に遠征した年で、後にそのときの「逗留」が問われて流刑となっている(《郭務悰》項参照)。
想像を逞しくすれば、七年の六月頃に劉仁願は熊津都督府から離れて高麗に向い、羿眞子の来朝は倭国に来ていた李守真にそれを知らせるためであり、 羿眞子と李守真は連れ立って帰国したという筋書きも考えられる。 ただ、この場合十年六月~八月の記事を丸ごと七年に移さなければならなくなり、なかなかハードルが高い。 それでも、この時期の客観情勢を考えれば十年よりも七年の方が相応しいかも知れない。 ただ、高麗からの遣使について、七年初めなら高句麗が独立国としての意思で遣使することができる。 一方、十年の場合は九年に新羅が傀儡政権として任じた高句麗王と見ることができ、両方が可能である。 一方、「鎮将劉仁願」の登場は七年正月なら可能性があるが、十年では完全に誤りとなる。 ここで、右表で6つの出来事を七年に移せば、それらの日付がすべて存在し得る日となる。 確率論を単純に適用するとその確率は(29.53/60)6=0.014で71年に一回程度となり、そんなにあることではない。 もうひとつ、この前後にいくつかの事柄の重出が見られることも重要である。 これは、年数が数年相違する異資料が存在したことを示すものである。 ならば、実際には七年(戊辰)に起っていたことが、十年(辛未)のところに書かれた史料もあったかも知れない。 あるいは、原資料の「戊辰年」にかなりの破損があって「辛未年」と誤読したとも想像し得る。 または、破損によって年が全く読めなかったが、6つの干支日が存在し得る年として最初に「辛未年」を見つけたのかも知れない。 このようにいくらでも想像できるが、確かなことはとても分からない。 《李守真》
亡命氏族のうち有力者に倭の位階を授け、また職務を与えている。一覧表に整理して示す。
百済からの亡命民は、これによって倭の制度下に組み込まれた。 彼等が百済に戻って国を再興することを考えているのなら、それには一切与しないと宣言したことになる。もう倭人に同化する道しか残されていないと、 彼等に納得させるのに、七年の歳月を要したと見られる。 『旧唐書』劉仁軌伝では、 劉仁軌が、倭国にいた扶餘隆の弟の勇〔善光であろう〕が、百済に戻ることにより叛乱の火種になることを警戒していた。 [27-05]まとめで、 三年に遣わされた郭務悰は、善光王らを倭国から出さないことを要求したと見た。 長い年月の後ではあるが、倭国での位階の授与は唐の要求を最終的に受け入れたことの表現となる。 ひとつの筋書きとしては、李守真の派遣はやはり十年で、 そのとき、百済亡命民を倭国民にせよと言ったが未だに実行されていないと言って、三年に劉仁願の名で発した諜の写しを持ってきたことが考えられる。 これをもって書紀は「鎮将劉仁願遣李守真」という書き方をした可能性もあろう。 《㶱》 㶱は、一般的な辞書には載らない。 〈汉典〉、「国際電脳漢字及異体字知識庫」には全く説明がなく、ただユニコード〔u+3DB1〕を示すのみである。 〈内閣文庫本〉・〈兼右本〉では訓「ホン」が付されるが、旁 《法官大輔・学職頭・閑兵法・解薬・明五経・閑於陰陽》 『旧唐書』職官志には、法官、大輔、学識、閑~、兵法、解薬、五経、陰陽などの官名は見えず、あっても一般名詞中の語句に留まる。 次に『令義解』(資料[24]参照)を見る。 法官大輔については、「法官」のような名称は見えない。 「大輔」については、〈倭名類聚抄〉の「次官:…省曰レ輔【有二大小一】」とあるが、 〈天智〉の時期は八省制はまだ確立されていなかったと考えられる。 しかし、「法官」は式部省〔和訓「のりのつかさ」〕の前身かも知れない。 なお、法官大輔がここで列挙された職制のうちでは最上位であることは確実である。 ● 学職頭は、式部省の大学寮に繋がるものであろう。 ● 閑兵法は、兵部省に繋がると思われる。 多くが「兵法を閑(なら)ふ」人にあてられたのは、亡命者は軍人が中心であったためであろう。長門、筑紫の築城を命じられた憶礼福留と答㶱春初も含まれている。 ● 解薬については、内務省に内薬司が見える。 百済の医学は倭国より進んでいたらしく、医学の知識のあるものを積極的に登用したようである。 ● 明五経に直接関わる部署は見えないが、中務省の図書寮の担当かも知れない。 許率母は五経に明るかったのであろう。 ● 閑於陰陽については、後の中務省に陰陽寮がある。「於」があるので、当時から陰陽〔ノツカサ〕という部署があったことが伺われる。 角福牟は、暦や天体観測の専門知識があったことから入れられたと思われる。 『令義解』職員令の八省と見比べると、登用先の分野が偏っているので、個人として持っていた専門知識が生かされたのであろう。 『令義解』は直接的には養老令〔757〕を解説したものである。この段に見られる役職は『令義解』の中の表現とは異なるので、〈天智〉朝の当時はまだ後の八省とそれらに付属する職・寮・司の形は確立していなかったと思われる。 もし近江令が存在したとすれば、ツカサ〔後の「省」〕の名称は「法官」などであったのだろう。 《歌意》
万葉集における「同じ」の仮名書きのうち、オヤジは(万)3978「妹毛吾毛 許己呂波於夜自 いももあれも こころはおやじ」など4例、 オナジは(万)4073「都奇見礼婆 於奈自久尓奈里 つきみれば おなじくになり」など3例で、拮抗している。 〈釈紀〉の卜部兼方・〈兼右本〉の吉田兼右は、「同(おや)じ」という古語を知らなかったのだろうか。鎌倉時代にはオヤジは死語になっていたかも知れないが、万葉歌の古点は10世紀半ばに始まっており、一定程度は参照が可能だったのにそれを怠ったようにも思える。 このワザウタは、亡命百済出身者に冠位を与えて倭国に同化させた文脈に置かれたもので、この読み方はそれに全く適うものである。その明快さは、他に比べても際立っている。 唯一引かかるのは、騰が同一歌謡内で、濁音〔ナレレドモ〕・清音〔ヌクトキ〕に使い分けられていることである。 已然形のナレレ〔ナルの命令形+完了リ〕をうける助詞はドモであって、トモだとすれ連体形ナレルでなければならない。 だが、清濁混合によってこそ自然に読める歌だから、現実として受け入れざるを得ない。ただ、話者に訛りがあってたまたま採歌者に「ヌクドキ」と聞き取られたこともないとは言えない。 《大意》 十年正月二日、 大錦上(だいきんじょう)蘇我の赤兄(あかえ)の臣と 大錦下(だいきんげ)巨勢(こせ)の人(ひと)の臣は、 宮殿の前に進み、 賀正の事を奏上しました。 五日、 大錦上中臣(なかとみ)の金(くがね)〔版本ではかね〕の連(むらじ)は神の事を宣じました。 この日、 大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣(おおきまつりごとのおおまえつきみ)に拝しました。 蘇我の赤兄臣を左大臣(ひだりのおおまえつきみ)とされました。 中臣の金の連を右大臣(みぎのおおまえつきみ)とされました。 蘇我の果安臣(はたやすのおみ)、 巨勢(こせ)の人臣(ひとのおみ)、 紀(き)の大人臣(うしのおみ)を 御史大夫(ぎよしたいふ)とされました 【御史は、今にいう大納言(おおきものもうすつかさ)か】。 六日、 東宮である太皇弟(だいこうてい)は宣旨を承り 【ある書には、大友皇子が命(みことのり)を宣じたという】 冠位法度の事を施行し、 天下に大赦しました 【法度、冠位名は、 つぶさには新律令に載る】。 九日、 高麗(こま)国は、 上部(じょうほう)大相可婁(たいしょうかる)らを遣わして進調しました。 十三日、 百済の鎮将(ちんしょう)劉仁願(りゅうじんげん)は、 李守真(りしゅしん)らを遣わして上表しました。 この月、 大錦下(だいきんげ)を、 佐平(さへい)余自信(よじしん)、 沙宅紹明(さたくしょうめい)【法官の大輔(だいほ)】に授けました。 小錦下(しょうきんげ)を、 鬼室集斯(きしつしゅうし)【学職(ふむやのつかさ)の頭(かみ)】に授けました。 大山下(だいせんげ)を、 達率(たつそつ)谷那晋首(こくなしんしゅ)【兵法を習う】、 木素貴子(もくすきし)【兵法を習う】、 憶礼福留(おくらいふくる)【兵法を習う】、 答㶱春初(とうほんしゅんそ)【兵法を習う】、 㶱日比子賛波羅金羅金須(ほんにちひこさんはらこんらこんす) 【薬を解する】、 鬼室集信(くしつしゅうしん)【薬を解する】に授けました。 小山上(しょうせんじょう)を、 達率(たつそつ)徳頂上(とくちょうじょう)【薬を解する】 吉大尚(きちだいじょう)【薬を解する】 許率母(ごそちも)【五経を明らかにする】 角福牟(かくふくむ)【陰陽の司で習う】に授けました。 小山下(しょうせんげ)を 他の達率(たつそつ)ら五十余人に授けました。 童謡(わざうた)に言います。 ――橘は 己が枝々 生れれども 玉に貫(ぬ)く時 同(おや)じ緒に貫く まとめ 太政大臣の新たな制定は、皇室側が政治への関与体制を強化するために左右大臣の上に置くためと読める。 同時に皇太子を一層権威づけるため、または皇太子に匹敵する地位を表すための称号という面もあろう。 〈持統〉天皇のときに高市皇子が太政大臣を拝し、これが実質的に皇太子格を表現するものであったことは一般に指摘されている。 〈天智〉の晩年に、大友皇子は東宮と呼ばれていたが、書紀がそれを伏せて太政大臣の称を用いたかも知れない。 それは、上で述べたように〈天武〉を覇王にしないためである。 ただ、当時既に皇太子の意味合いを込めて太政大臣の称を用いていたかも知れず、そのどちらであるかは不明である。 唐は、倭国内に滞在する百済難民の動向には神経質になっており、特に有力武将を渡海させないよう繰り返し書面を以て釘を刺したと思われる。 その書面は、三年の郭務悰のときには「表函」、十年の李守真のときは「上表」と表現された。 李守真の来朝は実際には〈天智〉七年であった可能性もありそうだが、仮に十年だったとしてもその唐による働きかけの中に位置づけられる。 必ずしも唐の言いなりであったは思われないが、倭自身の政策判断としても百済人にはその格に応じて一定の地位を与えて倭国内で活躍させることにしたのである。 ここには出てこないが、その氏族「百済王氏」の氏上は善光王である。 十年正月条の童謡は、当時の受容の感情をよく表すものと言える。 近江令については、存在しなかったとする説も有力であるが、「以二大錦下一授二佐平余自信一」以下に出て来る職名は、大宝令施行前の官職名・省名によると思われる。 よって、近江令は存在したと見た方がよいのではないだろうか。 |
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2024.07.30(tue) [27-11] 天智天皇11 ▼▲ |
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24目次 【十年二月~八月】 《百濟遣臺久用善等進調》
七年二月「丙辰朔」の庚寅日は計算上35日となり存在しない。よってこの事柄を七年に動かすことはできない。 それでは、十年の時点で百済で誰がどのような資格によって遣わしたのかという問題がある。 熊津都督府の通例では、「上表」はあっても「進調」は考えられない。 この時期、熊津都督府はかなり形骸化していたようにも思われる。新羅が唐をこの地域から排除するために、在地勢力に百済の再興を促した可能性はある。 だとしても現地の一介の酋長が派遣した「使者」を、倭国朝廷が正式な使者と扱ったとも考えにくい 〔高麗国には、新羅の傀儡政権ではあるが正式に報徳王を置いた(後述)から、高麗国からの遣使はあってよい〕。 やはり、倭国在住の善光王が派遣したと考えた方がよいように思われる。
臬の原意は杭で、日時計の意を派生する。 〈兼右本〉の頭注にある「景福殿賦」を探してみたところ、『文選』にその原文が見つかった。
書紀古訓では、「ミヅハカリ」と訓まれているので、ある時点から泉と筆写されてきたが、最初はやはり臬でその訓み「ミヅハカリ(水-秤)」のみが伝承されてきたのであろう。 なお、水準器は漏刻を正しく設置するためには必須と考えられから、その功を示したものかも知れない。 《中臣部若子》 「尺六寸」を「六尺六寸」とする異本もあったようだが、〈内閣文庫本〉・〈兼右本〉に「侏儒ノ事」とあるので、基本的には一尺六寸〔正倉院尺で48cm〕で侏儒(低身長症の人)と解釈されてきたようである。 ただし、実際のこの丈では新生児程度になってしまうので、誇張であろう。 「ワクゴ」と呼ばれるから愛らしい風貌で、よって中臣部から朝廷に献上されたらしい。 仮に六尺六寸〔198cm〕だとすると偉丈夫で逆に目を惹くが、珍しがって献上するようなことはないだろうと思われる。 《漏剋》 漏刻は、〈斉明〉六年に皇太子〔中大兄皇子〕時代に初めて作り、石神遺跡の南で遺跡が確認された〔飛鳥水落遺跡〕。 大津京の漏刻跡は、発見されていない。錦織遺跡は住宅地に重なり、発掘調査はたまたま発掘可能になった飛び飛びの狭い土地に限られているから、なかなか見つからないのも無理はない。 近江神宮時計館宝物館〔1963年設立。滋賀県大津市神宮町1-1〕に漏刻の復元模型が展示されている。 《始打候時動鍾鼓始用漏剋》 〈兼右本〉によれば「始打候時動鍾鼓始用漏剋」の部分がない異本もあるようだが、〈北〉〈閣〉には明瞭に書かれているので、筆写の際に誤ったものであろう。 ただ、これを文法に忠実に読み取ろうとすると頭を抱えることになるので、省いた方が正解かも知れない。 もし文法正しく読もうとすると、「かつて(時守が)打ち候(さぶら)っていた頃〔=従事していた頃〕は、手動で鐘を撞き鼓を打って知らせていたものだが、漏刻によって初めて自動的に時を知らせるようになった」と読めないことはない。 しかし、「始打候」は、漏刻を主語とするのが自然であろう。 その場合に困るのが「始打」の扱いで、 「始打候時」は、自動機構が「時を候(うかが)ひて始めて打つ」というつもりかも知れないが、この語順では無理である。 最小限「于」をつけて「于始打候時動而衝鼓」〔始めて打つときに、時を候ひ動きて鐘衝き鼓打つ〕とすれば何とかなるかも知れない。 この一節は、結局原資料の質の悪い記述をそのまま書紀に書き込んだか、あるいは書紀原文を誤写したと考えざるを得ない。 なお、「鍾鼓」は機械による自動動作、または漏刻に浮かべた矢につけた目印を時守が見て行うどちらも考えられる。 《八足之鹿》 〈天智〉の崩、あるいは壬申の乱の不吉な兆しとしてこの話を置いたものであろう。 《西小殿》 大津京跡で特定されている建物は南門・正殿程度で、 《漏刻》項で述べたように多くの遺跡は住宅地に眠っているので、「西小殿」の位置も特定できていない。 《皇太子群臣侍宴》 書紀の巻二十八では「皇太子」はずっと〈天智〉天皇を指してきた。しかし、ここでは「西小殿に御(おわ)す」天智天皇の御許 書紀は〈天智〉のヒツギノミコを大海皇子と規定しているが、その表記には専ら「東宮」を用いているから、この段の「皇太子」は直し忘れである。 敢えて大海皇子を東宮と表すことにしたのは、書紀スタッフ自身がある時点までは「皇太子=大友皇子」と規定していたためと考えられる 〔それでは〈天武〉が覇王になってしまうから改めたと見た〕。 ここの「皇太子」は、書紀が検討する前には大友皇子を指していた可能性もある。 《宴》 五月五日は縦猟行事の日なので、終了後の宴か。あるいはこの年は縦猟が中止され宴のみが開催されたのかも知れない (七年五月・八年五月)。 《再奏田儛》 「再奏田儛」の「再」の意味は何だろうか。 〈内閣文庫本〉は、異本の「五十人の下に童謡はなく、時に童謡あり云々」を傍書する。 この傍書は〈兼右本〉にもある。この「童謡」は、原意のワラハノウタであったとしよう。 すると、最初に五十人が田舞したときには歌を歌う児童がいなくて寂しかったが、たまたま歌ってくれる児童がいたので呼び、田舞をやり直したと読める。 それが「再奏」の意味だと説明したようである。 《宣百済三部使人所請軍事》 「百済三部」は、《百済の位階》で述べた首都の軍事的地域区分に由来する五部(上部・前部・中部・下部・後部)のうちの三部と見られる。 その三部の有志が使者を送り、軍事〔=百済再興の救軍の派遣〕を倭国に要請したと読める。 要請者は百済地域から渡海してきた可能性もあるが、摂津国百済郡在住の亡命百済人と判断すべきか。 それに対して、朝廷の答えはゼロ回答であろう。 事実として百済地域への軍の派遣はもう行われておらず、また余自信らへの位階の授与のところ〔十年正月〕で述べたように、倭国政府は百済亡命民を倭国人として定住させるこに舵を切っていたからである。 《百済鎮将劉仁願…》項において、十年の遣使の動きが、実際には七年の史実である可能性を論じた。以後、七年説、十年説をとったときの解釈を並記する。 なお、●印には幾分自由な想像を含む。 ●七年説…百済氏族に倭の位階の授与を決定する以前に行われた要請となるから、まだ倭国政府を動かし得る可能性がある。 ●十年説…既に余自信以下に倭の位階が授与され、倭国内に留まることで決着がついているので、今更何をじたばたしているのかという印象である。 ただ、唐が新羅に対抗すべく旧百済地域民を唆 《百済遣羿真子》
●七年説…十年正月条で、「劉仁願は熊津都督府から離れて高麗に向い、羿眞子の来朝は倭国に来ていた李守真にそれを知らせるため」である可能性を論じた。 「百済遣」と書くのは、熊津都督府で協議して、李守真を呼び戻すために羿眞子を送ったかも知れない。「進調」は、手ぶらでは行けないから儀礼的な手土産を持参したことを指すか。 ●十年説…二月の「台久用善」と同じく、善光王による進調かも知れない。 《栗隈王》
新羅は、百済・高句麗地域から唐を排除することを戦略的な目標としている。 そのために、倭国を味方につける外交工作の一つであろう。 《水牛》
恐らく中国から珍獣として新羅に贈られたか、あるいは唐に派遣されていた新羅の使人が東南アジアの使者から手に入れたかも知れない。 それが倭国に贈られたものと推定される。 《山鶏》 「山鶏」と表記される鳥は、日本にも中国・朝鮮半島にもいる。 まず、混乱を避けるために、鶏の異体字を列挙する。
ヤマドリは日本固有種とされ、学名「Syrmaticus soemmerringii」。 一方、〈汉典〉では「山雞:鳥名。形似レ雉。雄者
従って、日本語の「山鶏」と中国語の「山雞」はともにキジ科ではあるが、別種である。 よって、〈天智朝〉の頃の生息域が現在とそれほど変わらなかったとすれば、新羅の遣使が持参したのは中国語でいう「山雞」であったと考えられる。 《唐人李守真》
●十年説…十年正月に劉仁願が熊津都督府にいたことは殆ど考えられないので、書紀の記述は全くの誤りとなる。 《百済使人等並罷帰》 「百済使人」には、文脈では「百済三部使人」あるいは百済が派遣したとする「羿眞子」が該当する。 「三部使人」は百済人は全く唐の支配下にある。倭国に要請をした「軍事」は、百済の再興を装って実は唐が新羅に対抗するコマに使われていると見られる。 なお、「三部使人」が善光王が遣わした使者だったとすれば、百済国に帰ることはない。 羿真子については「百済が遣わした」と書かれていたので、「百済使人」と表すことはあり得る。 ●七年説…百済人であった羿真子が、羈縻政策によって熊津都督府の官人に取り立てられていたことはあり得るから、「百済使人」として「唐人李守真」と対比的に書かれることはあろう。 劉仁願が熊津都督府から去ったことを、李守真が知らせに来た可能性がある。 羿真子が復命すべき相手はいなくなったから、倭国での任務は消滅した。よって李守真と共に百済に帰ったのであろう。 ●十年説…劉仁願不在と思われる時期に、「上表」すなわち鎮将からの諜を送り付けること自体が史実として疑問である。 「鎮将」が派遣したと称するのは名目だけかも知れない。百済の地域代表として遜って進調、あるいは軍事を倭国に要請に来た三部使人は、新羅に反抗させるために唐の差し金によって派遣されたことが伺われる。 「並罷帰」によって馬脚を現していると見ることができる。 《高麗上部大相可婁等罷帰》 ●七年説…唐による攻撃が迫り、支援を求めて倭に来ている間に、本国が滅ぼされた。帰っても復命する相手はもういない。 ●十年説…新羅は、三韓地域から唐を退去させる戦略を描いている。 そのために、高句麗の再興勢力の援助に転じた。 〈三国史記〉新羅本紀/文武王十年に「封二安勝一為二高句麗王一」(下述)、十四年に「封二安勝一為二報德王一。十年、封二安勝高句麗王一、今再レ封」〔十年に安勝を高句麗王にしていて、今再封した〕とある。 文武王十年〔670〕は〈天智〉九年にあたる。 以後、新羅の送使が高句麗を伴って倭国へ朝貢させた。 『朝鮮史』(新版世界各国史2)〔武田幸男編/山川出版社2008〕は、 「(671年に)高句麗の使者を倭国に朝貢させ、これ以後もしばらく新羅の送使が同行し高句麗の使者が倭国に送られた」と述べる。 実際、〈天武〉二年〔673〕八月に 「高麗、遣上部位頭大兄邯子前部大兄碩千等朝貢。仍新羅、遣韓奈末金利益、送高麗使人于筑紫」 〔高麗朝貢。このとき新羅は…を遣わし高麗使を筑紫に送らせた〕と書かれる。 同じ書き方が五年十一月、九年五月、十一年六月になされ、他の年でも概ね高麗・新羅の使人は連れ立って訪れている。 よって〈天智〉十年の大相可婁の進調が新羅による演出だとも考えられるが、新羅の使者が同行してない点に留意すべきである。 監督者がいない状態で高麗使者のみを派遣させるようなことを、新羅がしたかどうかは疑問である。 《饗賜蝦夷》 蝦夷への饗の記事は、七年七月以来である。 《大意》 二月二十三日、 百済は台久用善(たいくようぜん)らを遣わして進調しました。 三月三日、 黄書造(きふみのみやつこ)の本実(ほんじつ)は、水秤(みずはかり)〔=水準器〕を献上しました。 十七日、 常陸(ひたち)の国は、 中臣部の若い子を献上しました。 身長一尺六寸、 生年は丙辰年〔656〕で、 今年十六歳です。 四月二十五日、 漏刻を新しい台に置きました。 初めて打つときは、時を探知して動き、鍾を衝き鼓を打ちます。 始めて漏刻を用いたのでした。 この漏刻は、 天皇(すめらみこと)が皇太子でいらっしゃった時、 始めて自ら製造して、云々。 この月、 筑紫〔都督府〕は 「八本足の鹿が生まれて、すぐに死にました」と報告しました。 五月五日、 天皇(すめらみこと)は西の小殿(こどの)に御座(おわ)しまして、 皇太子(ひつぎのみこ)、群臣は宴に同席しました。 このとき、二度にわたって田の舞(まい)を奏上しました。 六月六日、 百済の三部(さんぼう)の使者が軍事を要請していたことに、お答えを宣旨されました。 十五日、 百済は羿真子(けいしんし)らを遣わして進調しました。 この月、 栗隈王(くりくまのおおきみ)を筑紫率(つくしのかみ)としました。 新羅国は遣使進調し、 別に水牛一頭、 山鶏(やまどり)一羽を献上しました。 七月十一日、 唐人の李守真(りしゅしん)ら、 百済の使者らは、 揃ってに辞して帰りました。 八月三日、 高句麗の上部(じょうほう)大相可婁(たいしょうかる)らは辞して帰りました。 十八日、 蝦夷(えみし)に饗を賜わりました。 【〈天智〉九~十年の半島情勢】 『三国史記』新羅本紀にこの時期の半島情勢を見る。
25目次 【十年九月~十月】 《天皇寢疾不豫》
天皇の快癒を願うためと思われる。 《是月》 「是月」は、通常その月の日付のある記事の最後に付されるもので、この位置は異例である。 天皇と東宮との場面について、いくつかの書き足しが行われたことを伺わせる。 《遣使奉袈裟…於法興寺仏》 法興寺は別名元興寺ともいい、現在の安吾院(飛鳥寺)であることは、明らかである (資料[50]【本元興寺の別名】)。 書紀では、「法興寺」の名称が用いられている(推古四年、〈皇極〉三年で打毱する中大兄の記事)。 やはり天皇の快癒を願ってのことか。献納が本人の意思だったとすれば、大量の珍宝を納めたところに、天皇としてまだやらねばならないことがあるという強い気持ちが感じられる。 大海皇子の決起を危惧して、自分が生きているうちに反乱の芽を摘みたいと考えてのことか。 《東宮》 もはや「大皇弟」を付すこともなくなり、あっさり「東宮」と表記する。大海皇子を「東宮」と呼ぶのは、これまで見てきたように実際の事実経過とは無関係に書紀が規定したものである。 なお、古訓が「東宮大皇弟 《以後事属汝》 「以後事属汝」は、〈天智〉が大海皇子を即位を促した文章である。 しかし、大海皇子に「よもやお前が皇位を狙うようなことはないだろうな」という真意を読み取れと謎かけしたと読める。 このことは、〈天武〉即位前期の中であからさまに書かれている。 これは、〈孝徳〉譲位の件で古人大兄(軽皇子)に探りを入れた動きとそっくりである(〈孝徳〉即位前/皇極四年六月十四日(二))。 大海皇子は、自身が即位する意思は毛頭ないと答え、僧門に入って吉野に穏退した。 《再拝》 再拝の「再」は、もともとお辞儀の作法として二度頭を下げる意味で、丁寧な拝礼のことである。 《奉洪業付属大后令大友王奉宣諸政》 「奉洪業付属」は天皇に即位することで、「奉宣諸政」は摂政に拝することである。 ここで突然「大后」〔=皇后倭姫王〕(〈天智〉七年)に言及される。 倭姫王の事績については、ここまではまったく姿は見えない。しかし、皇太子が年少の場合に一旦皇后が即位して成長を待つパターンは、 〈斉明〉-〈天智〉、〈持統〉-〈文武〉、〔皇后ではないが〕〈元明〉-〈元正〉があり、書紀が書かれた当時では普通のことであった。 〈大后倭姫王〉-〈皇太子大友〉の構想は、その形に准えて作文したものであろう。ただ、天皇の周辺に実際にこの構想が存在したことも、ないとは言えない。 よって書紀に忠実にあろうと思えば、第三十九代天皇は大友皇子〔明治時代に弘文天皇を追諱〕ではなく、倭姫王としなければならない。 実際には、〈天武〉即位前紀以後、皇太后(倭姫王)の処遇については何も書かれていないので、一切現実化しなかったと思われる。 《不レ受曰》 書紀訓読において一切尊敬語を使わない方法もあろうが、古事記で「曰」を使わず「詔」・「白」を使い分けているのを見ると、 書紀成立の時点から、少なくとも太安万侶は尊敬語を用いて訓読したものと思われる。 また東宮については、書紀がその表現を用いた意図に合わせて尊敬語を用いるのが適当だと思われる。 《剃除鬢髮》 この場面の大海皇子の振る舞いは、古人大兄のときと瓜二つに書かれる。 おそらく、〈天武〉即位前紀を見て書き加えた人が、ここは〈孝徳〉紀を真似たのであろう。 しかし、惨めな末路を迎えた古人大兄に大海皇子を剃除鬢髮の場面まで準えるのはやり過ぎである。この書き加えを行った人のセンスはあまりよくない。 「鬢」は実際にはビンであるが、〈北野本〉以来すべて「鬚」ではなく「鬢」となっている。 古人大兄の場面でもやはり「鬢髮」である。まだ鬚であったときにヒゲが付されたが、その後ある時点で鬢と誤写されて、そのまま定着した可能性もある。 しかし、当時から僧門に入る時は頭髪を剃ったのは明らかである。そもそも誰かが鬢を最初にヒゲと訓んだことに起因するとすれば、それ以来の誤りかも知れない。 《為二沙門一》 「為沙門」を欠く本もあったようである。 本当はこの語句はなく、誰かが書き加えたものかも知れない。だとすれば、判り切ったことを書き加える方が野暮であろう。 《次田生磐》
ただ、次田生磐の件のみは、独自の史料によるものであるから、丸ごと削除するわけにもいかない。 削除してもよいと思われる箇所は、灰色で示した。 《東宮見天皇》 〈内閣文庫本〉を見ると、「東宮見天皇請之吉野修行佛道天皇許焉」を欠く異本があったのかも知れない。 その前の壬午条で既に「出家修道」、「天皇許焉」と述べ、次に「入於吉野」と述べるから、確かにこの部分はなくてもよいであろう。 《入於吉野》 「大臣等侍送至菟道而還」は〈北野本〉にはない。〈内閣文庫本〉はこの10文字のすべてに○印を添え、この部分を欠く異本が存在したことを示唆する。 〈天武紀上〉〔天智〕四年十月壬午に「入二吉野宮一。時、左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送レ之。自二菟道一返焉。」とあるので、 その要約をここに書き添えたようである。 〈天智〉天皇〔あるいは大友皇子推戴勢力〕の警戒心はあからさまで、実際に吉野に向かうかを見届けるために菟道まで同行させたと見られる。 ゆくゆくは〈孝徳〉記の古人大兄と同様に、謀反をでっち上げて滅ぼす予定であったと思われる。 大海皇子側は、むしろそれを逆手にとって、敢えて吉野に穏退して見せたのであろう。 勝算は十分あったと思われる。情勢を考えると、たくさんの朝鮮式山城築造のため租税と労役、百済系住民受け入れの負担、また大津京遷都の負担などによって諸族と人民の不満は充満していたであろう。 《大意》 九月、 天皇(すめらみこと)は病に臥され不予となりました 【ある出典では、 八月に天皇が病気になられたという】。 十月七日、 新羅は沙飡(ささん)金万物(こんもんもつ)等を遣わして進調しました。 八日、 内裏に百仏の開眼をしました。 この月、 天皇(すめらみこと)は遣使して、 袈裟、 金鉢、 象牙、 沈水香(ちんすいこう)、 栴檀香(せんだんこう)、 及び諸珍財を 法興寺仏に奉りました。 十七日、 天皇(すめらみこと)の疾病は依然として続いていました。 勅して東宮を召し、寝殿に引き入れられ、 詔しました。 ――「朕の疾病は甚しい。以後の事をお前に属させる。云々」。 すると、東宮は深く拝して病と称して固辞し、 受けることなく申し上げました。 ――「請わくば、洪業(こうぎょう)を大后(おおきさき)にお授けし〔=皇后を皇位につけ〕、 大友皇子には、諸政を宣じさせてください〔=摂政にしてください〕。 臣は願わくば、天皇(すめらみこと)の為に、 出家して修道したいと存じます」。 天皇(すめらみこと)はお許しになりました。 東宮は起ち上って深く拝し、 ただちに内裏の仏殿の南面に向って、 胡床(あぐら)にすわり、 鬢髮(びんぱつ)〔あるいはひげ〕を剃り、僧となられました。 そこで、 天皇(すめらみこと)は次田生磐(すきたのいくいわ)を遣して袈裟を送られました。 十九日、 東宮は天皇に謁見し、 請わくば吉野に行き仏道を修行したいと申し上げ、 天皇は許されました。 東宮は、こうして吉野に入りました。 大臣(おおまえつきみ)たちは、伺候して送り、菟道まで来たところで帰りました。 まとめ 百済残民の要請に従って、例えば扶餘勇〔善光王〕を百済に送ったとしたら何が起こったであろうか。 この時点では百済残民は唐の手ごまであったから、日本も唐と連合することになって新羅との対立は先鋭的になったであろう〔新羅本紀の記事に基づき、〈天智〉十年以後は、「日本」の表記を用いる〕。 逆に日本から送った百済将軍が寝返ってもし新羅側につくようがあれば、日本は唐と再び厳しい緊張関係に追い込まれる。 倭国は白村江で惨敗したことがトラウマとなり、日本が再び軍事紛争の当事者になることは避けたかったであろう。 よって、百済亡命民は倭国内に留めることにした。 半島のことは新羅と唐の間で決着をつけてもらう、いわばモンロー主義をとったのである。 では、「任那」へのあれほどの固執は一体何だったのだろうか。想像を逞しくすれば、〈推古〉朝の頃に書かれた歴史書が残っていて、書紀はその大筋を土台としてそこに〈舒明〉以後のことを書き足したようにも思える。 ここから、〈推古〉二十八年是歳条の「録天皇記及国記」にまとめた内容は、案外書紀に引き継がれているかも知れないと思わせる。 さて、「七年説」については、百済三部からの軍事の申し入れ、百済進調、高麗進調の三点は、十年のままでもそれほどの無理はないようである。 結局、「七年説」の検討は徒労だったか。 ただ「百済鎮将劉仁願」だけは「十年」に置いておくのが難しい。この一か所だけに、他の年の史料との混線があったと見るべきか。 なお、十年庚辰条以下の記事は〈天武〉即位前期と重複する。文章の質もよくないので蛇足と見るべきであろう。 |
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⇒ [27-12] 天智天皇(6) |