| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024.04.20(sat) [27-06] 天智天皇6 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
13目次 【四年】 《勘校百濟國官位階級》
間人皇女は〈孝徳〉の皇后。父は〈舒明〉、母は〈皇極(斉明)〉、兄は〈天智〉、弟は〈天武〉。 『本朝皇胤紹運録』でも皇子の記載はなく、无子。〈天智〉六年に〈斉明〉と合葬される。 《復》 「復」は「再」である。それでは、単純に並列する「マタ」に使えるのであろうか。 〈汉典〉には「副詞:表二-示重複或継続一、相二-当於“再”一」とともに 「連詞:表二-示並列関係一。相一-当於"又"・"与"一」もあり、並列に用いることに問題はないことが分かる。 《以佐平福信之功》 鬼室集斯は、確実に福信の子であろう。故人への報償を授ける相手は、直系の子孫以外に考えられないからである。 塩漬けにされた福信の首の行き先は、やはり集斯であったと考えべきか。 《近江国神前郡》 〈倭名類聚抄〉では{近江国・神埼【加無佐岐】郡/神崎郡}で、埼・崎の二通りの表記がある。 近江国内の百済難民の居住地には、蒲生郡も見える(八年)。 《為間人大后度三百卅人》 間人大后の薨を悼み三百人を出家させたという。それでは、その出家先はどの寺院であろうか。
一般にこの銘文は「僧たちが"中宮天皇"の病気の恢復を願って奉納した」と読まれ、「中宮天皇」が誰を指すかが議論の焦点になっている。 しかし、本サイトでは銘文の「中宮」と「天皇」の間に暗黙の句読点を想定し、 「この弥勒像はもともと間人皇后が〈孝徳〉天皇の快癒祈願するために作られたものである」と書いてあると読んだ(資料[73])。 8世紀半ばには「中宮」は太后を指す語として定着しており、その当時作られた銘文では間人大后を「中宮」と表記したと考えられるからである。 「中宮」は一語として確立していたから、天皇に接頭して中宮天皇と合成することは決してなかったであろう。 間人大后が薨じた後、野中寺は大后を記念する大寺院となった。 かつて〈仁徳〉の皇后「八田若郎女」には子がなく、その御名代(みなしろ)として「八田部」が設置された (第170回)。 間人大后にも子がなく、この時代にはかつての御名代と同じ発想で大寺院が設置されたと捉えることができる。 こうして拡充〔もしくは創建〕された大寺院には、大后が生前大切にしていた「弥勒御像」が納められた。 そして〈天智〉五年四月八日に「栢寺」から「智識〔=高僧〕118名を招いて大法要が行われたことが、銘文から読み取れる。 野中寺はこのときに既存の寺が拡充〔もしくは創建〕されたもので、「為二間人大后一度二三百三十人一」はそのための人員と読み取ることができる。 ただし、間人大后記念寺院は別にあり、そこにあった弥勒像が後に野中寺に移された可能性はある。 それでも、野中寺は法隆寺式配置の伽藍が発掘された大寺院だから、間人大后記念寺院として十分な規模と言えよう。 だが、野中寺のオーナーであった船氏が、なぜ間人大后を偲ぶ寺として提供したのかという問題は残る。 《築城於長門国》 長門国の山城の確かな位置は明らかではなく、実際には築城されなかったと考える説もある(別項)。 《築大野及椽二城》 大野城跡は宇美町南端にあり、南に太宰府市、西に大野城市に接する(別項)。 椽城について、古訓は「及椽」を城の名前とするが、 〈続紀〉文武二年〔698〕五月甲申条に「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」とあるので、 椽〔き〕が基肄〔きい〕の異表記であることは確実である。キ→キイは母音の延長で、木国⇒紀伊国と同じであろう。 「及」は接続詞である。 椽城(基肄城)は基山町北端の基山にあり、北は筑紫野市に接する(別項)。 大野城と基肄城は朝鮮式山城と呼ばれ、水城とともに大宰府政庁の防衛ラインを構成する(〈斉明〉七年【朝倉橘広庭宮の探求】項)。 《耽羅》 〈斉明〉七年五月に、遣唐使下津守吉祥らの乗った船が帰路耽羅〔済州島〕に漂着し、 それをきっかけに倭国に朝貢するようになった。この後も耽羅国による倭国朝貢の記事は多く、 唐羅の近くにある小国が倭国と緊密に連携することによって自国の安全の確保を図ったと見られる。 《朝散大夫沂州司馬上柱国劉德高等》 上柱国については、『旧唐書』巻四十二/職官一〔以下〈職官志〉〕に「隋文帝因周之旧、更増二-損之一。有二上柱国、柱国、上大将軍、…一」 〔隋文帝は周の旧制により、更に増減した。上柱国、柱国、上大将軍、…などからなる〕とあり、将軍などの称号の最上位である。 劉徳高なる人物は、新旧唐書には見えない。 《右戎衛郎将上柱国百済祢軍》 右戎衛は、〈職官志〉龍朔二年〔662〕二月に「改…左右領軍衛為二左右戎衛一」と名称変更されたもの。 祢軍については、『旧唐書』に「祢植」の名が見える。
墓志銘は大唐故右威衛将軍上柱国禰公墓志銘并序(別項)と題され、 冒頭に「公諱軍」〔公は、諱(いみな)軍〕とあるので、祢公が祢軍であることが確定する。 そして「熊津嵎夷人也。去顕慶五年、官軍平二本藩一日、見レ機識レ変、杖剣知レ帰。」 〔熊津の山奥出身の人である。去る顕慶五年〔660〕、官軍〔=唐軍〕が本藩〔=百済〕を平らげた日、機を見て変を認識し〔情勢を見て〕、杖剣を持って帰順すべきと知った〕とある。 これは百済の将として戦っていた祢軍が、義慈王が投降したときに帰順したことを意味するから、 『旧唐書』蘇定方伝(上記)の「祢植」はやはり祢軍であろう。 墓志銘での肩書は「検校熊津都督府司馬」であるから、熊津都督府で鎮将劉仁願の下にいたと見て間違いない。 よって、書紀原注の「百済の祢軍」に何ら問題はないと思われる。 私記や〈釈紀〉が「百濟將軍」の誤りだと判断して直したのも無理はないが、「百濟禰軍」は実は正確な記録によるものであった。 《朝大夫柱國郭務悰》 三年条、及び『海外国記』には「朝散大夫郭務悰」とある。 〈職官志〉には、次のように書かれる。
それでは、柱国についてはどうなっているだろうか。
《大閲》
中大兄皇子は菟道で「大閲」したことから見て、既に難波宮、または後飛鳥岡本宮に戻っていたと考えるべきか。 宇治は大津宮を目前にする地なのでだから、群臣をこの地に勢ぞろいさせて近江遷都の詔を発したのかも知れない。 《守君大石等》
現代の刊本では「大乙吉士岐彌・吉士針間」となっているが、この読み方は〈兼右本〉によるものと見られる。 それ以前の古写本では「岐彌吉士針間」であったようで、〈釈紀〉もそれを踏襲している。 〈兼右本〉の改定においては、位階がつくのは岐彌だけで針間には付かないが、これはまずあり得ない。 改めて〈姓氏家系大辞典〉を見ると「岐彌 キミ:○岐彌吉士 吉士の一種にして、天智紀に岐彌吉士針間と云ふ人見ゆ」、 「吉士 キシ:カバネの如く使用され、又氏の如くも用ひられる」。 そして、難波吉士、草壁吉士を始めとして、「三宅、小黒、坂本、国勝、岐彌、多呉、飛鳥部、社、壬生、安蘇等の吉士あり」と述べる。 岐彌吉士も〈姓氏家系大辞典〉が挙げた中にあり、氏+姓の表記であろう。やはり岐彌と吉士とを切り離して、別人扱いするのはいただけない。 岐彌〔キミ〕の由来は、〈倭名類聚抄〉{丹波国・何鹿郡・吉美郷}などの居住地名によるか。あるいは何らかの経過により公(君)と吉士が複合したのかも知れない。 《大意》 四年二月二十五日、 間人大后(はしひとのおおきさき)が薨じました。 同じ月、 百済国の官位階級を勘考しました。 よって佐平福信の功により、 鬼室(きしつ)集斯(しゅうし)に小錦下(しょうきんげ)を授けました 【本の位は達率であった】。 また、百済の民の男女四百人余りを、 近江国の神前(かんざき)郡に居住させました。 三月一日、 間人大后(はしひとのおおきさき)の為に、三百三十人を得度させました。 同じ月、 神前郡の百済人に田を給しました。 八月、 達率答㶱(とうほん)春初(しゅんしょ)を遣して 城(き)を長門国に築かせ、 達率憶礼(おくらい)福留(ふくりゅう)、 達率四比(しぴ)福夫(ふくぶ)を筑紫国に遣して、 大野及び椽(き)の二つの城(き)を築かせました。 耽羅(とんら)は使者を遣して来朝しました。 九月二十三日、 唐国は 朝散大夫(ちょうさんだいぶ)沂州(きしゅう)司馬(しば)、上柱国(じょうちゅうこく)劉徳高(りゅうとくこう)等 【「等」は、 右戎衛郎将(ゆうじゅえいろうしょう)上柱国(じょうちゅうこく)百済(はくせい)祢軍(ねぐん)、 朝〔散〕大夫(ちょうさんだいぶ)柱国(ちゅうこく)郭務悰(かくむそう)、 皆で二百五十四人をいう。 七月二十八日に対馬に至り、 九月二十日に筑紫に至り、 二十二日に上表文の箱を進上した。】を遣しました。 十月十一日、 菟道〔=宇治〕で大閲しました。 十一月十三日、 劉徳高(りゅうとくこう)らに饗賜しました。 十二月十四日、 劉徳高らに賜物しました。 同じ月、 劉徳高らは辞して帰国しました。 この年、 小錦(しょうきん)守君(もりのきみ)大石(おおいし)らを大唐に遣して、 云々(しかじか) 【「等」は、小山(しょうせん)坂合部連(さかいべのむらじ)石積(いわつみ)、 大乙(だいおつ)岐弥吉士(きみのきし)針間(はりま)をいう。 おそらく、唐に送った使者か。】。 【長門国の城/大野城/椽城】
長門国の初出は〈継体〉二十二年。天皇が大伴金村大連に語った言葉「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。」の中である。 これは後世の国名を、時代を遡って伝説中で用いたと思われる。 一方、穴門国の最後は白雉元年の穴戸国司による白雉の献上。こちらは話により具体性がある。 よって史実性のある長門国の初出は、〈天智〉四年と思われる。 長門城については、九年二月条にも「築二長門城一筑紫城二一」と書かれる。 「築」を異なる時期とする異伝か。または、改築とも考えられる。 大野城や水城遺跡からは、幾度も改築の跡が検出されている。 さて、「長門国の城」の比定地については、「下関市の四王司山説・唐櫃山説・茶臼山説・火の山説・竜王山説・鬼ノ城説など諸説があるが、 確かな考古学上の知見によって合意できる説がない」という (〈小野85〉p.384)。 〈山口県史08〉によると、「従来の研究では、いわゆる長門城は関門海峡に臨む地、茶臼山説、唐櫃山説などがあるが、 朝鮮式山城の遺構はまだ発見されていない」とされる(p.989)。 さらに、「豊浦郡南端の山々」のひとつ、「四王司山は、推定長門国府の北約4kmも近地点に位置し、響灘と関門海峡が望見できる」という(p.682)。 四王司説については、〈小野85〉も「山襞の多い花崗岩丘で沢があり、古代山城の条件を備え、 しかも著者が…と〔共同で〕探査して指摘した土塁の一部とみられる遺構もあって、今日までのところ第一の候補地」と述べる。 半面、〈山口県史08〉は「〔天智〕四年当時、長門国内で築城地は未決定とされ、その後も着工・完成に至らなかったとする見解」もあるという(同)。 その「見解」は、〈倉住94〉に見える。それによると、 「その固有名称が伝えられていないのは単なる偶然かもしれないが、現在に至るまでその遺跡が発見されていないのはいかに評価すべきであろうか」と述べ、築城の事実そのものに疑問を投げかける。 「四王司山」説には「興味をおぼえる」としながらも、 「天智四年の段階ではそこに築城する方針は決定されていたが、…実際に築かれたのであれば、 断片的ではあろうとも、それを示唆する何らかの史料が見られるのではないだろうか」という。 また、九年二月条の「築二長門城一筑紫城二一」については、「重出説」もあるが、 「筑紫長門両国における築城をいわゆるセットとみなしていて、…四年八月条にひかれ、漠然と」このように記したのではないかと述べる(pp.18~19)。 《長門城の存在の可能性》
〈続紀〉にはいくつかの城について修理の記事がある。例えば〈文武〉二年「繕治大野。基肄。鞠智三城」、高安城〔〈天智〉六年〕については「修理高安常」が文武二年・同三年に見える。 しかし、長門国の城については何も書かれていない。 さらに、他のどの城も固有名をもつ中で「築城於長門国」としか書かれないのは、途中で築城が中止されたか、ことによると着手すらされていないことを示すかも知れない。 ただ、そもそも何をもって古代山城の築城というのであろうか。 一つの例として大野城の調査結果を見ると、古代山城は外周の土塁と石垣、谷に設けられた暗渠式水門、内部に散在する礎石建物から成る(次項)。 長門国の城の場合も、書紀が「築城」と言い切っていることは認めて、少なくとも外周だけはできていたと考えてみたらどうだろうか。 遺構が〔一部の土塁と見られるものを除いて〕未発見であることについては、存在が確実な高安城でさえ、幾つかの礎石建物の発見に留まり、城壁ラインは未確定であることに留意すべきである。 長門国の城についても、土塁と石垣はまでは実は作られたが、ただ礎石建物が一つも建たないうちに廃されたのかも知れない。 だから、現状では位置を確定する手掛かりが全くないということではないだろうか。土塁と石垣は何れ発見されるかも知れない。 近年、赤色立体地図による遺構の発見が試みられている。 試しに、四王司山の地形を赤色立体地図で見る(上図)。 大野山城と基肄城について同画像を見ると、城郭は稜線に沿って設置され、谷川に交差する部分では石垣を積んで暗渠を設けていると見られる。 仮に四王司山にも城郭があるとすれば、図に記入したラインが想定される。 一方、鬼ケ城と竜王山についてはそれらしいラインは見えてこない。 公開されている赤色立体地図は、10mメッシュである。土塁は幅・高さ数m程度〔大野城の項参照〕というので、10mメッシュ図では城郭そのものは判別できない。 しかし、もしドローンで更に細密な測地データを得れば、赤色立体地図によって判別できるかも知れない。あるいは想定されるライン上でポイントを絞り込んで、徹底的に発掘調査を行う方法もあろう。 いつか、何らかの成果が得られることを期待したい。 《大野城》
同書によると、大野城の概略は次の通りである。
《椽城(基肄城)》
【右威衛将軍上柱国祢公墓志銘】 「『祢軍墓誌』についての覚書」〔葛 継勇;専修大学アジア世界史研究センター年報/第6号/2012年3月〕は、 『右威衛将軍上柱国祢公墓志銘』は、おそらく「考古の発掘調査によらず…西安市の個人コレクションに収蔵されていた」もので、 「西安市長安県郭杜鎮」の大学集中地の建築地から掘り出されたものと推定する。 同論文(以後〈覚書〉)は、その「史料性」を考察し、「恐らく〔一辺〕60cmの正方形」で、「唐代の墓誌に見える」一般的な形態。 また書法については「唐代の墓誌の避韓習慣に一致していて、標準的である」ことなどから「『祢軍墓誌』の信窓性は高い」という。 ここでは、祢軍の生涯に関する部分を抜粋して読む。
岩波古典文学大系新装版は1993年刊行、文庫版は1995年刊行で、墓誌銘はまだ未発見であった。 よって、それらの注では新羅本紀に名前があることを示すに留まる。 14目次 【五年】 《高麗遣前部能婁等進》
《皇太子親往》 〈天智〉即位前は、引き続き皇太子と表記される。 《佐伯子麻呂連》
〈天智〉五年七月は、グレゴリオ暦で8月9日~9月6日。時期から見て前線+台風であろう。 「復租調」の対象となる国の名は不明であるが、こうやって記されたということは、相当広範囲に被害が出たと見られる。 本土縦断型コースか。 《復租調》 「復」を免税の意味で使った典型例が、『太平御覧』にあった。
「復す」というが必ずしも徴収したものを返すに限らず、納める前でも決まったことをを取り消せば「復す」であろう。 《高麗遣臣乙相奄鄒等》
既に五年の遣使も越之路だったのではないだろうか。 しかし越之路の波の高さによる困難は七年条になって初めて書かれるので、 五年遣使の時点では半島沿岸経路を用いることが、まだ大目に見られていたかも知れない。 《大使/副使/二位》 「二位」は、次席副使の意味かと思われる。 《京都之鼠向近江移》 中大江皇子がまだ長津宮で軍政を摂っていたしても、そこは行宮であるから京都とは言い難い。 京都は、朝倉宮、難波宮、飛鳥後岡本宮が考えられる。 前回鼠の移動が書かれたのは〈孝徳〉の難波長柄豊碕宮遷都のとき(大化元年)で、朝倉宮遷都のときに鼠の移動の記事はない。 ここでの意味は、近江京遷都の予告のみであろう。
同書によると『北史』にも例があるという。その原文は『北史』巻五魏本紀: 「〔永熙三年〔534〕〕二月…群鼠浮レ河向レ鄴。」そして、「其冬十月、高歓推二清河王亶子善見一為レ主。徙二都鄴一。是為二東魏一。」 〔二月に鼠の群れが河を泳いで鄴に向かった。十月に〔実権を握っていた〕高歓は清河王亶〔元亶〕の子の善見を皇帝〔=孝静帝〕に立て、都を鄴に移し、国名を東魏とした〕であった。 《並賜官食》 癸亥年〔〈天智〉二年〔663〕〕から三年間、官食を賜ったと書かれている。 五年冬に東国に置かれることになった、2000人余の百済難民への給食であろう。 緇〔=黒服;僧〕+素〔=白服;庶民〕とあるから、 寺院が避難所になっていたのかも知れない。すなわち、「不レ択二緇素一」とは、難民とともに世話する僧にも官食が提供されたという意味のようにも読める。 四年二月に神崎郡に置かれた400人が三月に給田されたまでの間や、その他書かれない百済難民も「賜官食」の対象か。 《倭漢沙門智由》
漢籍では、周成王が辺境の地から朝貢使をよこした粛慎または越裳に指南車を賜った。 指南車の話は、〈斉明〉四年是歳条では、阿部比羅夫が粛慎と接触した記事の近くに置かれた。 〈天智〉五年では、高麗国からの遣使の記事の近くにある。 元年四月《鼠産於馬尾》項では、高麗が倭の属国になるという予言〔外れたが〕を見た。 ここの指南車にも、ほのかに同じ空気が漂うようにも感じられる。 《大意》 五年正月十一日、 高麗(こま)国は、前部(ぜんほう)能婁(のうる)らを遣して進調しました。 この日、 耽羅(とんら)国は、王子姑如(こじょ)らを遣して貢献しました。 三月、 皇太子(ひつぎのみこ)親(みづか)ら、佐伯(さへき)子麻呂(こまろ)連(むらじ)の家に行かれ、 その病気を見舞い、 昔からの功を感慨されました。 六月四日、 高麗(こま)前部(ぜんほう)能婁(のうる)らは辞して帰国しました。 七月、 大水があり、 この秋は、 租調を免除しました。 十月二十六日、 高麗は臣(しん)乙相(おつしょう)奄鄒(あんすう)等を遣して、進調しました 【大使臣乙相奄鄒、 副使達相遁(たつしょうとん)、 二位玄武若光(けんむじゃくこう)等】。 この年の冬、 京都〔飛鳥〕の鼠は、近江に向けて移りました。 百済の男女二千人余を、 東国に居住させました。 すべて緇素(しそ)〔僧と民〕を選ばず、 癸亥年〔天智二年〕に起こして三年間、 揃って官食を提供しました。 倭漢(やまとのあや)の沙門智由(ちゆ)は、指南車を献上しました。 まとめ 祢軍は、2011年の墓志銘の発見によって初めてその生涯が明らかになった。 祢軍は黒歯常之らと同様に百済の将であった者が、降伏後にその軍事の才を認められて唐の将軍に転じた一人であった。 その墓志銘が発見されたのは、書紀成立から何と1291年の後である。 これだけの年を経て、なお書紀関連の新資料が出現することは実に興味深い。 さて、各地の古代山城の築城は、朝廷が百済難民の過度な警戒心に引っ張られた印象を受ける。これについては、金田城、高安城などを見たところで考察を深める。 今回、大野城を赤色立体地図で見たところ、外郭の稜線が鮮やかに浮かび上がった。 赤色立体地図は、近年新たな古墳発見などの成果を上げている〔山陰中央新報;2023/11/08など〕。 もう少し分解能を上げると、古代山城の土塁の調査にも威力を発揮しそうである。 長門城を含め未発見の古代山城についても、可能性のある場所をピックアップする手掛かりとなろう。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024.06.14(fri) [27-07] 天智天皇7 ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15目次 【六年二月~八月】 《葬天豐財重日足姬天皇》
〈斉明〉陵に合葬された間人皇女は、〈天智〉四年二月二十五日に薨じた。 〈斉明〉を母、〈舒明〉を父として〈天武〉の姉、〈孝徳〉の皇后。高貴な血筋を接ぐ皇后として相当の権威があったであろう。 牽牛子塚古墳の石室を見ると、二人の埋葬者は同格に扱われている。 《小市岡上陵》 小市岡上陵は、歴史上どこに比定されてきたのだろうか。
●『扶桑略記』: 「〔斉明七年〕七月廿四日。天皇崩。山陵朝倉山。 …。陵、高三丈方五町。改二-葬大和国高市郡越智大握間山陵一十一月改レ之」。 〈斉明〉は朝倉宮で崩じたから、最初に〔筑前〕朝倉山陵に埋葬されたことは自然の流れである。なお、朝倉山は大宰府周辺地であろうと見た(《朝倉山》)。 『扶桑略記』がいうように、「十一月」に高市郡に改葬したとすれば、〈天智〉六年は再びの改葬となる。 しかし、七月の〈斉明〉崩直後から中兄皇子は救軍派遣の準備に忙殺され、筑前長津宮で半島の軍政を聴いた。その最中の十一月に筑紫を空けて、殯船で畿内に帰ったとは考えにくい。 書記では、畿内で中兄皇子の姿を見るのは四年十月の「大二-閲于菟道一」、六年八月「幸二倭京一」で、 それ以前に畿内に帰った記事はない。 「十一月改レ之」は、幾つかの伝承のひとつを書き添えたと見るのが妥当か。
〈五畿内志〉は「北越智村東北」というが、該当する古墳は宣化天皇陵、または手前の桝山古墳〔〈崇神皇子〉倭彦命〕である。 ●〈天武〉八年:三月「丁亥。天皇幸二於越智一。拝二後岡本天皇陵一」〔「後岡本天皇」は〈斉明〉〕。 ●〈続紀〉天平十四年〔742〕:五月「癸丑〔十日〕。越智山陵崩壊。長一十一丈。広五丈二尺」。 まだ、真陵の位置が忘れられるには早い。 ●〈山陵志〉:「越智村西則車木村也。土人伝レ是。斉明帝之葬其霊車所二来止一因名曰二車来一来今二作木一同音也。 其東岡崇〔=高〕数十仭。呼為二天皇山一是蓋山陵也」。 地名「車木」は霊車の「車来」の変で、その東の丘「天皇山」が山陵であろうという。 ●「越智崗上陵」(宮内庁治定):考古学名「車木ケンノウ古墳」〔奈良県高市郡高取町大字車木〕。 同陵には、間人皇女に加えて建皇子も合葬されたことになっている。 車木ケンノウ古墳は「学会ではほぼ完全に否定されており、墳丘自体が古墳かどうかも判然としない疑惑に満ちた御陵である」とされる(〈矢澤12〉p.227)。 ●「牽牛子塚古墳」(明日香村大字越):「2010年9月」の発掘調査により 「天皇陵を示す八角形墳で、…斉明天皇の真陵であることが確定的になった」(〈矢澤12〉p.227)。 〈奈良県歴史文化〉によれば、「〔牽牛子塚古墳・越塚御門古墳〕両古墳とも7世紀後半頃と考えられますが、牽牛子塚古墳の方が先に造営された」という。 越塚御門古墳は、2010年9月調査で新たに発見された古墳で(下述)、 「一辺約10m程度の方墳と考えられ」ている(〈奈良県歴史文化〉)。 牽牛子塚古墳の位置は、梅山古墳~野口大墓古墳ラインから西の延長線上である (〈皇極〉二年九月)。 なお、ライン上の野口大墓古墳は〈天武〉〈持統〉合葬陵であることが確実。カナヅカ古墳は吉備姫王墓説が唱えられている。 丸山古墳は〈欽明〉真陵で、堅塩媛が合葬されたことが有力。宮内庁が〈欽明〉陵として治定した梅山古墳は前方後円墳。 牽牛子塚古墳と越塚御門古墳が近接していることは 「天皇と間人皇女が埋葬された小市岡上陵とその陵前に大田皇女を葬った記述と合致する」、 また「小市岡上陵」の名前については「大字越は古代の小市・越智が「越」に転化したもの」との説が見える(〈奈良県歴史文化〉)。 終末期古墳のいくつかに見られる八角墳は、大王墓〔いわゆる天皇陵〕であることが確実視されている (〈皇極〉二年九月)。 そのうち桜井市忍阪の段々塚が〈舒明〉天皇陵、野口大墓古墳を〈天武〉〈持統〉合葬陵に割り振ることができる。 やはり八角墳である牽牛子塚古墳は、すぐ近くの越塚御門古墳の存在が「葬於陵前之墓」の記述に合致することから、 〈斉明〉天皇真陵説が有力視されているのである。 ●改葬の可能性: 初葬は朝倉山陵、情勢が落ち着ていきたところで葬船で中大兄皇子とともに遺体が運ばれ、小市岡上陵に埋葬されたか。 但し、畿内に移されたのはもう少し早く畿内に移され〔扶桑略記説よりは後〕、越智村あたりのどこかの陵に一旦埋葬されていたかも知れない。 「小市岡上陵」はそのときの名前で、牽牛子塚古墳に改葬したときに陵の呼び名をそのままもってきたとも考え得る。
大田皇女は〈天智〉の皇女、〈持統〉の姉、〈天武〉の妃。〈斉明〉七年〔661〕に〈斉明〉征西に同行し、途中で大伯〔=大来〕皇女を生んだ。 〈天智〉六年〔667〕に埋葬されるので、 葬が薨じた直後だったとしても、薨じたとき大来皇女はまだ七歳である。 ここでの「皇孫」は「〈斉明〉―〈天智〉―大田皇女」の血縁による〈斉明〉を起点とした表現である。 〈斉明〉陵に寄り添うように墓が作られたことから、〈斉明〉との関係を特に強調した表現と見られる。 なお、皇孫は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の意味にも使われるが、この場合はスメミマと訓む。瓊瓊杵尊は、高御産巣日神の孫である。 天照大神の孫でもあるが、書紀では高御産巣日神の方を祖神とするニュアンスが強められた(第81回、第83回【一書2の注目点】項)。 《葬於陵前之墓》 大田皇女墓は、宮内庁治定では「越智崗上墓」(奈良県高市郡高取町大字車木)、「越智崗上陵」から南南西へ約70m。 上述したように、2010年の調査以後越塚御門古墳が有力視されている。 《高麗百済新羅皆奉哀於御路》 三韓から弔使を派遣されたと書かれる。そのうち「百済」の弔使は唐の鎮将による派遣と思われる。 「奉哀」は哀悼の意を表すこと。その古訓ミネについては、〈斉明〉七年《発哀》項で考察した。 「於御路」は、「葬列の通る沿道で」の意か。 御路の古訓「オホヂ」は、朱雀大路のイメージによる修辞であろう。 ただ、難波津から上陸して檜前に向かう葬列が、難波京の朱雀大路を通った可能性は否定できない。 唐や新羅に対する緊張感は相変わらずだが、弔使が派遣されたことから情勢は一定程度落ち着いたと判断して、即位に踏み切ったのかも知れない。 《皇太后天皇》 宝皇女は〈舒明〉の皇后で、〈舒明〉が崩じた後は「皇太后」となる。 その「皇太后」が即位したのだから「皇太后天皇」と表現された。 《不起石槨之役》 石槨は、〈汉典〉によると「①亦作"石郭"。亦作"石椁"。②石制的外棺〕。 「石郭:石筑的外城。亦喩堅固如石」。 すなわち、①石で築いた城、②石製の椁(二重棺の外側の棺)(魏志倭人伝(43))。ここでは明らかに①で、古訓イシキ〔石城〕もそれに沿っている。 実際には各地で朝鮮式山城の建造が急速に進み、 「不レ起二石槨之役一」の一節は、むしろ築城のために大規模な役(えたち)が課せられた事実を物語るものであろう。 「不レ起」は役を最小限に抑制すると誓うに過ぎない。 ただ、石塁が全く発見されていない高安城については、人民の不満によって石塁の建造を中止せざるを得なくなったことも考えられる。その名目として、〈斉明〉の遺詔を用いたのかも知れない。 筑紫、対馬では白村江の敗北以後、外から攻められるのではないかと人民も感じていて、役を受け入れたことは十分考えられる。 また、石槨之役の負担は、壬申の乱で政権が転覆するに至った原因のひとつと考え得る。 《遷都于近江》 万葉に、柿本人麻呂が廃墟となった大津京を詠んだ歌がある。
この歌には、推敲の跡が敢えて残されていることが注目される。 属格の助詞をガとノのどちらにするか迷っているところが興味深い。遺作の草稿そのままの形かも知れない。 柿本人麻呂は、平城遷都〔710〕以前に没したと言われているが、歌中に「青丹吉平山」があるのは、平城京遷都を踏まえてのことだとすれば、遷都の時点で人麻呂は存命であった。 ただ、遷都前でもその計画が明るみに出た頃と考えることはできる。 何れにしても政庁や内裏は朽ち果て春草、夏草が生い茂っているというから、大津京は平城遷都の頃までに全くの廃墟となっていたことが分かる。 小治田宮や大宰府政庁が、奈良時代になってもしばらく使われていたのとは対照的である (第249回、【朝倉橘広庭宮の探求】)。 大津宮の所在地については、長年議論されてきた。 しかし、大津の歴史データベース/「大津の歴史事典」〔大津市歴史博物館〕によると、 「近江大津宮錦織遺跡:…昭和49年、錦織の地で大規模な掘立柱建物跡が発見され、内裏の南門と判明。長年の論議に一応の終止符をうった。」という。 その経過は、『大津京跡の研究』〔林博通;思文閣出版〕に詳しい。同書の内容を基本に、別項にまとめた。
ひとつの考え方は、大宰府政庁が那大津から離れた内陸に置かれたことに擬えるものである。 那大津から敵軍が上陸したとして、押し寄せる敵への防衛線を大野城として、その内側に大宰府政庁を置いた。 筑前-長門の防衛線が破られ、難波津まで敵軍が押し寄せた場合に備えて、指令機能は大宰府と同様に内陸に置くべきである。 そのために選択した地が大津京であると考えてみる。しかし、その位置は高安城との関係を見ると、不自然である。 むしろ注目されるのは、七年にある「越之路」である(五年)。これは、那大津ルートが塞がれた高句麗使が用いた、日本海ルートと考えられる。 中大兄は百済を失った今、唐による攻撃に面している高句麗と結束を強めようとした。 そこで若狭~越前を高句麗への玄関として、その司令本部を大津宮に置いたと考えるのがよいだろう。ここはまた瀬田川によって難波宮と結ぶ位置である。 ただ、この軍事的な判断は庶民にはもちろん、多くの官僚にも理解されることなく「天下百姓不レ願二遷都一」となった。 結果的には翌年に高句麗は滅ぼされて国際情勢は変わり、大津京の存在意義は失われた。〈天智〉が崩じた後に放棄されたのは、当然であろう。 《天下百姓不願遷都》 遷都のために重い負担を課せられた人民の不満も、また壬申の乱の原因であろう。 《白燕》 アルビノの出現が改元のきっかけとなった例としては、白雉、神亀〔724~728〕、宝亀〔770~781〕が見える。 〈天智〉六年では中大兄皇子は称制に過ぎないから、改元することは僭越である。 ただ、即位を促す天の意思という位置づけで収められたのかも知れない。 《佐平椽磨》 耽羅から倭国への朝貢の記事は、〈斉明〉七年(王子阿波伎)、〈天智〉四年(闕名)、五年(王子姑如)、六年(佐平椽磨)〔今回〕、八年(王子久麻伎)が見える。 位階佐平は、耽羅からの外交使節であった椽磨に百済が授与したものと考えられる。 《大意》 六年二月二十七日、 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔斉明〕 と間人皇女(はしひとのみこ)を 小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)に合葬しました。 この日、 皇孫大田皇女(おおたのひめみこ)を 陵の前の墓に埋葬しました。 高麗、百済、新羅は、 皆大路で奉哀しました。 皇太子〔天智〕は、群臣に言いました。 ――「我は皇太后天皇(おおきさきのすめらみこと)〔斉明〕の勅を奉り、 万民を憂えるが故に、 石槨(せっかく)の賦役を起こすことをしない。 冀(こいねがわく)ば、永代に鏡誡〔明らかな諌め〕と思え。」 三月十九日、 近江(ちかつあふみ)に遷都しました。 この時、 天下の百姓は遷都を願わず、 諫めを唱える者は多く、謡歌(わざうた)もまた多く、 日夜失火する所が多くありました。 六月、 葛野郡(かどののこおり)は白い燕を献上しました。 七月十一日、 耽羅(とんら)〔済州島〕は佐平椽磨(てんま)等を派遣して貢献しました。 八月、 皇太子は倭京を訪れました。 【牽牛子塚古墳】 牽牛子塚古墳が八角墳であることが2009~2010年の調査で確定した。その報告書を中心にして詳しく見る。
その調査結果をまとめた〈牽牛子塚13〉によると、 「牽牛子塚古墳は奈良県高市郡明日香村大字越小字御前塚189」、 「石敷の八角形コーナー部分の角度は135°」であった。 バラスに使用された石材のうち「一石だけ凝灰岩質細粒砂岩」があり、これは「酒船石遺跡で多用されている…「石上山石」に相当」し、 「7世紀後半に酒船石遺跡以外…に転用されはじめる」、「高取川から西の遺跡では…牽牛子塚古墳が最初」という(p.302)。 これについては〈斉明〉が酒船石遺跡のために狂心渠を掘って運んだ石上山石が、その宗教施設が廃された後石材として転用されるようになったと考えられる(〈斉明〉二年参照)。 八角墳であったことを決定づけたのは「第1トレンチ」(図版4)の発掘である。 その凝灰岩石敷コーナー部分拓影(p.45)を見ると、その角は正確に135°〔正八角形のひとつの内角〕である。 〈牽牛子塚13〉は、「大王墓の可能性が指摘されている野口大墓古墳〔天武・持統合葬陵に比定〕や中尾山古墳〔文武天皇の真陵説が有力〕と同様に八角墳で丘陵頂部に立地していることなど 牽牛子塚古墳が大王墓としての条件を備えている点が注目される」と述べる(p.304)。 図版7は発掘調査前の墳丘。図版16の石室は2部屋に分かれていて、「出土遺物として、夾紵棺片・ガラス玉・黒色土器・瓦器・羽釜などがある」という(p.304)。 《越塚御門古墳》 〈牽牛子塚13〉によると「越塚御門古墳は奈良県高市群明日香村大字越小字塚御門194」にあり、 「これまでの文献史料をはじめ、地元にも伝承が残っておらず、まったく知られていなかった新発見の古墳」である。 越塚御門古墳と命名したのも、この調査のときだという。 墳丘については「版築で築かれていることは明らかにできた」が、「墳形や規模については確かなデータを得ることはできなかった」という(p.303)。 図版49は、発掘前の越塚御門古墳で、一見しただけでは自然丘陵と見分けがつかない。しかし、ここから版築跡と石槨が見つかった故に、古墳だと分かったらしい。 図版76は、石槨内に置かれていただろう漆塗木棺の画像を重ねたものである。 「越塚御門古墳は、牽牛子塚古墳の南東部に隣接して立地しており、刳り貫き式横口式石槨の単葬墓で、さらに石槨内から出土した漆膜から漆塗木棺の使用が想定される。 …埋葬順については、牽牛子塚古墳の基盤造成土を掘り込んで越塚御門古墳の墓域が築されていることから、 牽牛子塚古墳の後に越塚御門古墳が造営されていることがわかる」、「築造年代については牽牛子塚古墳同様、7世紀後半頃と考えられる」と述べる(p.304)。 《被葬者》 〈牽牛子塚13〉は、「二つの古墳については『日本書記』天智天皇六年条との関連から被葬者論が活発に行われている」、 ただ「被葬者を特定できるだけの資史料が揃っている」からこそ、考古学・文遣史学の両面からさらに「議論が活発に行われ」ることを期待すると述べ、〈斉明〉陵と断定することにはなお慎重である(p.304)。 しかし、現実には整備事業が進められ、事実上〈斉明〉陵と断定して突っ走っている。 《崩落崖》
〈続紀〉天平十四年五月十日の「崩壊長十一丈広五丈二尺」〔33.0m×15.6m〕(上述)については、 地震の記事はないからもし地震なら直下型の狭い範囲、さもなければ豪雨か。 「十一丈」は、正八角形の対辺間の距離22.2m(七丈四尺)の1.49倍にあたる。 〈続紀〉のいう「越智山陵」が牽牛子塚古墳であったと仮定すると、崩壊の範囲は右図が想定される。 この図を前提とすれば、八角墳本体の周囲は敷石などで美観を整えられ、その広い範囲が陵と呼ばれた考えられる。 また、牽牛子塚古墳の東側の深い崩落跡が天平十四年のものだとすれば、図のアが近い。その場合、陵の周辺部は特に広かったことになる。 《整備事業》 〈整備計画15〉によると、2013年度に「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の根本的な保存を図るとともに、その価値を誰もが鑑賞・理解できるようにするため復元整備」の「基本構想が策定」された。 2015年度には「設計条件となる調査」、2016年度には「実施設計」がなされ、2017~2019年度において「整備を実施」することになった。 整備を終え、2022年3月6日に一般公開が始まった(〈整備公開22〉)。 〈パンフレット22〉は「本質的な価値の担保を図りながら牽牛子塚古墳の墳丘を後世に伝えるべく、劣化した墳丘や石槨を補強盛土で覆い、外観を発掘調査の成果に基づき建造当時の姿に復元」したと述べる。 すなわち墳丘保護シート(右図赤色線)で遺跡を覆い、その上の盛り土を保護材としつつ、切り石を組んで築造当時の外観〔想定〕を再現して見せるものである。 【大津京跡】 大津宮の故地については、大津市錦織地域であったことが確定的になった。ここでは、その概略をまとめる。
〈林01〉によると、大津京の所在地についてこれまでに次の諸説などが唱えられてきた。
〈林01〉は、右図の位置を示した上で「『扶桑略記』の大津宮と崇福寺との方位の記載がどれほどの厳密性を有しているかは明らかでないが、全く異なる方位とは思えない」と述べる。 穴太廃寺説以外は、「乾山」に当てはまる。 結果的には錦織説が決定的となったが、他の説も瓦の大量出土や条里遺構は大津京全体像を求める上でそれなりの意義がある。 ただ、大津市街地説だけは観念的に過ぎよう。
錦織第1地点は、「昭和49年〔1974〕11月18日から翌年の3月6日にかけて調査し、大津宮に関する建物跡が初めて発見された」。 「検出された遺構は、門とみられる掘立柱建物跡とそれに取付く回廊とみられる掘立柱建物遺構およびこれらの建設時における足場組みの柱穴とみられる小穴列」などであった(p.49~50)。 この地を調査したきっかけは、「ちょうどこの付近が小字御所ノ内で、…これまでこの付近は全く発掘調査はなされておらず、一度考古学的に発掘して確認する必要がある」と考えていたところに、 偶然「志賀宮址碑」のすぐ南側で民家の建て替え工事が始まった現場に遭遇したことにより、直ちに家主にその地を発掘調査を行うことを依頼した。 すると、「掘り始めて間もなく一基の巨大な柱穴が発見され、やがてこの敷地いっぱいに大津宮の柱穴十三基がつぎつぎにあらわれた」(pp.241~242)。 第1地点の門「SB001」は、「桁行七間(21.20m)、梁行2間(6.40m)の門として復元される」という(p.103)。 錦織第3地点は、平安時代後半期の遺構面があり、その下の「地山面」に「大津宮にかかる掘立柱建物などが検出された」。 「この建物は東西棟の建物」、「四方廂の建物と判断される」という(p.69)。 この廂付き建物(SB015)は、「桁行七間(21.30m)、梁行四間(10.40m)のやや小ぶりの建物に復元された」という(p.103)。 「他の宮城の構造からみると、北に内裏、南に朝堂院が配置」され大津宮も同様で、 「門SB001から北側を内裏に、それより南側を朝堂院に比定してさほどの問題はない」、「現時点ではSB015を内裏正殿に…位置づけられよう」と述べる(p.106)。 第1地点の柱の配置は門と見られ、地理院地図に重ねてみるとその中心位置は35°01'41.3"N 135°51'17.4Eにあたる。 〈林01〉は、この門を含む東西回廊を境界として、北側が内裏、南側が朝堂院と見ている。 第6地点の廂付き建物の中心位置は、35°01'44.2"N 135°51'17.4"Eにあたる。 第1地点の門と共通する子午線上にあり、〈林01〉は、このラインを中軸線と見做し、第6地点は内裏の正殿であろうと見ている。 第7地点、第9地点の塀は、この中軸線について対称位置にある。 宮殿は大垣または回廊で囲まれていたと考えられるが、未だ発見されず想定に留まっている。また、朝堂院内には大極殿などの建物群が予想されるが、これらも未確定である。 《条坊》 大津京全体を構成する条坊については、「これまでの錦織・滋賀里・穴太…の土層観察から、古代における人の土地利用はきわめて限られ(ア)…筆者は碁盤目状の整然とした条坊ないし地割は存在しないのではないかという見通しをもっている」と述べる(p.111)。 ただし、「限られた地域に大津宮時代の統一的な地割痕跡が認められ」るという(p.113)。 また、南滋賀廃寺周辺には「条里地割」〔正方位〕が存在するが、それより古い「特殊区画」〔北から1°20'西に振る〕が下層にあるという。 この「特殊区画」の方位は「錦織の大津宮関連遺跡群と同一方位の地割と合致している」という(p.114)。 〈林01〉は「注」において「福尾猛市郎」説として「錦織と山上の境界線から滋賀里にいたる間、山よりの地域に方80間または40間くらいを単位とする条里と異なる字割が認められ…「条里に叶はざる特殊区画」と称し、…大津京条坊の痕跡ではないか」との見解を紹介している(p.199)。 〈遠の朝廷〉によれば、大宰府の条坊区画の成立時期は「政庁Ⅱ期〔8世紀初め〕成立以前」とも言われる(p.60)。 また難波京については、〈天武〉朝で改めて条坊が作られたが、初期難波京にも部分的に方格地割が形成されたと見られる(改新詔其二)。 都に条坊区画を設けようとする企図は、〈孝徳〉の難波京から始まったと思われる。 大津京遷都は〈天智〉六年〔667〕で、〈天武〉天皇は二年〔673〕に浄御原で即位した。 大津京はわずか6年間で廃されたから条坊は未完成に終わったが、条坊の造成は一定程度進んでいて、その痕跡が「特殊区画」と呼ばれる部分ということではないだろうか。 上記下線部アについては、人が移住せず作物は栽培されなかったが、無人の野に街路のみが造成されて放置されたとは解釈できないだろうか。 16目次 【六年十月~潤十一月】 《高麗大兄男生出城巡國》
淵男生(泉男生)のことは、『三国史記』高句麗本紀と、旧唐書に詳しく載る。
この出来事は、〈書記〉では六年十月に書かれるが、高句麗本紀、『旧唐書』では五年に起こったことである。 書記の「十月」は日時が明確に把握できない状態で伝わったことに、形式的に添えた日付であろう。 海外資料も、男生が宮城を出て国内の巡察を始めてから、兄弟が互いに猜疑心をもち戦闘が起こり、男生が唐に逃れるまでの過程が一年間のうちにすべて完結する。これも短か過ぎるように思える。 何れにしても、六年十月の時点で男生が既に唐に属して将軍となっていたことは間違いないであろう。 《劉仁願》 劉仁願は、白江戦勝(〈天智〉二年)後に本国に帰ったが、改めて鎮守劉仁軌の後任として百済鎮守に就任した(三年三月)。 《熊津都督府熊山県令上柱國司馬法聡》 660年の唐による百済の制圧後に設置した行政区画は、熊津など五都督府を置き、それぞれの下に府県を置くものであった(〈斉明〉六年《唐による直轄》)。 670年には新羅が唐を排除することに成功し、五都督府は廃止され、都督府と七州に再編された。 『三国史記』地理志四によると、その内訳は都督府(十三県)、 東明州(四県)、支潯州(九県)、魯山州(六県)、古四州(五県)、沙泮州(四県)、帯方州(六県)、分嵯州(四県)となっている。 都督府は旧熊津都督府地域にあったと考えられているが、「東明州四県」の中にも「熊津県」があり、実際のところはよく分からない。 660年の唐の五都督府体制では、熊津都督府の下に「熊山県」が存在したと思われるが、『三国史記』には見えない。 さらに探すと『岫巖誌略』巻三に「宗州:遼聖宗置在遼東石熊山統熊山縣。熊山縣:本渤海縣地。遼置。隸二宗州一」とある。 聖宗は遼の6代皇帝〔在位982~1031〕。この中の「熊山縣」は聖宗が遼東半島辺りに置いたと読めるから、熊津都督府の熊山県とは無関係である。 上柱国は将軍等の称号の最上位(四年)。司馬は、長史に次ぐ位だが唐代には州にも置かれた。 法聡は新旧唐書に見えないが、見るからに僧である。恐らく百済人で、羈縻政策により熊津都督府下で地方官に取り立てられたと思われる。 《境部連石積》
「筑紫都督府」が大宰府を意味するのは明らかであるが、「都督府」という表記は書記ではここが唯一例である。 〈続紀〉になった後も、すべて「大宰府」である。ここではすぐ前にある「熊津都督府」と表現を揃えて、唐と肩を並べようとしたと思われる。 当時も対外的な外交文書において、「筑紫都督府」という表記を用いていた可能性がある。 熊津都督府と筑紫都督府との間では、互いに使者を往来させて外交交渉が活発である。 [27-05]まとめで、三年の時点において「唐側はなお扶餘勇〔善光王であろう〕が渡海して再び百済復興勢力が乱を起こすことへの警戒心を捨てていない」と見た。 熊津都督府が釘を刺すことは、依然として続いていたであろう。 その交渉の過程で、倭国が百済遺臣軍を再び百済に送るようなことがあれば、唐軍が渡海して倭国を攻めることもあり得ると言って脅し、 真に受けた倭国政府が各地で山城の築城を急いだことも考えられる。 《倭国高安城》
はじめての考古学的な確証は、1978年以後の礎石建物群の検出である。 礎石建物自体は奈良時代初めのものであるが、〈天智〉六年の高安城内の倉庫施設を受け継いでいると考えてよいと思われる。 外郭線については、榑松静江がさらに広い範囲を提唱している(右図黄線)〔『奈良女子大学地理学研究報告』;1979年発表〕。 しかし、外郭線上の石塁・土塁は未だ見出されていない。 高安城の土塁は、唯一1986年の調査で見出されている(『奈良県遺跡調査概報 1985年度』)。 その稜線は信貴山城に向かっているので松永久秀の時代ではないかという考えも根強いが、版築工法が確認されているので〈天智〉朝まで遡るも知れない。 この土塁を含む稜線を礎石建物群を囲むように繋いでみると、それなりの外郭線が得られる(右図水色)。 このラインの方が、土塁〔できれば石塁〕が見つかる見込みがありそうに思える。 大正時代以来唱えられてきた外郭線については、石塁・土塁は基本的に築かれなかったと見るべきであろう。 ひとつの考え方としては、大規模な石塁の築造計画はあったが「皇太后天皇之所勅」を名目上の理由として中止されたこともあり得る(上述)。 また、当初は倭京の防衛を目的としていたのが、大津京遷都によってその意義が失われたことも考えられる。 それでも、部分的には造られたかも知れない。たとえば、図のCのライン上の土塁や、 大門に基肄城水門(《椽城(基肄城)》項)のような石塁があった可能性は考えてみてもよいかも知れない。 ● 高安城の探索の詳細は、資料[74]参照。 《讃吉国山田郡屋嶋城》 屋嶋は、源平の屋島の戦い〔1185年〕で有名である。 「源平合戦の戦場跡で、佐藤継信の墓、安徳天皇社、菊王丸の墓、赤牛崎、血の池等の伝承地」がある(『八島活性化基本構想』〔高松市2013〕p.11)。 現代地名の八島は山田郡に含まれ、戦略上も明らかに要地なので、〈孝徳〉紀にいう屋嶋城の場所であるのは間違いないと思われる。 屋嶋城のうち、石塁が最初に発見されたのが蒲生地区で、1981年に調査が行われた。 1998年から2001年にかけては、南嶺南西斜面の石塁と城門が発見され、屋嶋城の実在は確固なものとなった。 詳しくは別項にまとめた。 《対馬国》 〈倭名類聚抄〉では「対馬島」、「壱岐島」と載せし、「国」とは区別してている。 〈延喜式〉では、神名上〔巻第九〕の「太詔戸命神本社」項で、その所在地「大和国添上郡/対馬国下県郡」では「国」であるが、これ以外は〈延喜式〉全体を通してすべて「対馬嶋」である。 また、民部上〔巻二十二〕で律令国のリストで上国・大国・中国・下国の種別を載せる中で、 「壱岐嶋:下」及び「対馬嶋:下」とあり、すなわち下国に入れられているから法制上は国といってよい。 〈天智〉紀では、三年条は「対馬嶋」だが、六年条〔ここ〕に「対馬国」、十年条に「対馬国司」。 〈天武〉紀には、「対馬国司」。 〈続紀〉では対馬は天平四年〔732〕五月「乙丑。対馬嶋司。」など、すべて「対馬嶋」となっている。 壱岐・対馬は、行政上は律令国で実際〈天武〉の頃までは「国」とも呼ばれたが、奈良時代には「嶋」に統一されたようである。 壱岐・対馬を特に「嶋」と呼ぶ感覚を探ると、佐渡、淡路の場合は国だから、辺境にある国以下の存在という意識があったことは否めない。 〈天智〉〈天武〉の頃の方が、むしろ現地の人々に対する敬意があったように感じられる。 《対馬国金田城》 金田城の比定地については、 『美津島町文化財調査報告書 第9集 金田城跡』〔美津島町教育委員会2000〕によると、 「江戸時代中期、国学者藤斉延は…厳原町須佐の金田原(かんだばる)に金田城はあったと」した。 「それに対し儒学陶山訥庵は…城山〔現対馬市美津島町黒瀬〕の遺跡が金田城である」と説いた。 「大正11年、考古学者後藤守一の調査報告『対馬瞥見録』の中で…黒瀬城山説を支持…各城戸の写真や、 測量図及び門礎石の位置を記録」し、その後昭和28年の調査で後藤守一の発表が裏付けられ、 「黒瀬城山説を金田城とする説が定着した」という(p.13)。 金田城は、壮大な石塁、門扉の軸受けの石などその遺跡はリアルである。 その後も文永・弘安の役(元寇)や、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)があり、歴史的にしばしば金田城が修復されたのは確実だと思われる。 詳しくは別項にまとめた。 《紺布》
縹については、〈持統〉四年四月に冠位に応じた朝服の色の指定として「追八級深縹、進八級浅縹。」が見える。 〈延喜式-(巻第十四)縫殿寮〉には「深縹中縹次縹浅縹」が見える。 また、紺も〈延喜式-(巻第六)大蔵省〉「紺調布四丈」など、数多く見える。 漢語では、〈汉典〉「紺:紅青、微帯紅的黒色 [dark purple]「紺、帛深青揚赤色。」(説文)」など。 書紀古訓は、一般的には日本紀講筵(721~936)を中心とした研究の成果が以後の諸写本に反映されたと考えられる。 紺がハナダと訓まれたということは、平安初期には紺は、縹に近い色であったと見てよい。 書紀古訓という狭い世界から離れて世間一般ではどうだったかと想像すると、①両方とも音読〔縹(ヘウ)、紺(コム)〕、②両方とも訓読〔ハナダ〕、 ③縹は訓読、紺の可能性が考えられる。 このうち②は、〈延喜式〉には縹も紺もあるので同じ訓みでは紛らわしいが、ないとは言い切れない。 紺には、その音読みを用いた地名もある(第163回【感玖大溝】項)から、仮に紺がもっぱら音読みだったとすれば、③となる。 万葉集では「(万)3791水縹 みはなだの」が唯一例で、紺の使用例はない。 《桃染布》 桃染布については、(万)2970「桃花褐 淺等乃衣 淺尓 ももそめの あさらのころも あさらかに」と詠まれる。 〈延喜式-巻第四/度会宮装束〉には「遷宮祢宜内人等装束」として「其担夫皆給二桃染衫一。」とある。 すなわち遷宮では荷運びの人夫に、揃いの桃染めの衣装を着用させるという。遷宮行事に華やかさを添えるための演出だから、桃色であろう。 ネットで検索すると桃の枝を用いた草木染の実例がいくつか見られ、桃色にすることもできるようである。 《大意》 十月、 高麗(こま)の大兄(おおえ)男生(だんせい)は、城を出て国を巡りました。 すると、 城内の二人の弟は、 側助(そくじょ)の士大夫(したいふ)が悪くいう言葉を聞き、 拒み城に入れませんでした。 これにより、 男生は、大唐に奔り入り、 高麗国を滅ぼそうと謀りました。 十一月九日、 百済の鎮将(ちんしょう)劉仁願(りゅうじんげん)は、 熊津(ゆうしん)都督府(ととくふ)の熊山(ゆうせん)県令(けんれい)であった 上柱国(じょうちゅうこく)司馬法聡(ほうそう)等を遣わし、 大山下(だいせんげ)境部連(さかいのむらじ)石積(いわつみ)等を 筑紫(ちくし)の都督府(ととくふ)に送らせました。 十三日、 司馬法聡(ほうそう)等は辞して帰り、 小山下(しょうせんげ)伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)、 大乙下(だいおつげ)笠臣(かさのおみ)諸石(もろし)を、 送使としました。 この月、 倭国(やまとのくに)の高安城(たかやすのき) 讃吉国(さぬきのくに)の山田郡(やまだのこおり)の屋嶋城(やしまのき) 対馬国の金田城(かなたのき)を築きました。 潤十一月十一日、 錦十四匹(ひつ)、 纈(ゆはた)十九匹、 緋(あけ)二十四匹、 紺の布二十四端(たん)、 桃染(ももそめ)の布五十八端、 斧二十六本、 釤(かま)六十四本、 小刀(かたな)六十二口を、 椽磨(てんま)等に賜わりました。 【屋嶋城】
1981年2月の調査は、第Ⅰ調査区:「蒲生集落より東に1kmほど入った標高約100mの場所」、第Ⅱ調査区:「北嶺のほぼ中央」で実施された。 第Ⅰ調査区では「石塁は南北に約90mを計る」、渓流と交わる所は「朝鮮式山城にとって重要な施設である水門や城門であった可能性は高い」とする。 「石塁部の北端は、…20cm内外の石材を鉢巻状に張り付け…石塁部の終点が明示されて」、 また「石塁の終点より、北西方向の数m高い位置に約30㎡の平坦面が台状に造られ」、 「石積みは、あまり厚くない石材を横長に交互に積みあげ…石材は奥に根が深く…午傍積みともとれる様相を呈す」という(pp.6~12)。 〈パンフ19〉によると、この蒲生地区が「屋嶋城跡の中で最初に注目された場所で、通称「蒲生の石塁」と呼ばれ」る。 そして〈高松市08〉は、1998年の南嶺南西斜面の石塁の発見から、2001年の期間特異な城門遺跡の確認に至り、 「『日本書紀』に記述のある屋嶋城の存在を確固たるものとした」と述べる(p.1)。 その城門を「本来の形に復元すると全面石垣の高さは2m以上になり、 外郭線石垣と連続する「懸門」構造であることが明らかに」なった(p.50)。 懸門とは「城の入口にわざと2.5mほどの石積みの段差を設けて、敵の侵入をはばんでいます。 普段は梯子をかけて出入りをして、敵が攻めてきた際には梯子を外して、外から侵入できなくしていました」というものだという(〈パンフ19〉)。 そして、「城門門道上段の南側壁に接して柱穴2基を確認」した(p.53)。 また「南西斜面外郭線以外の箇所では…〔版築が〕確認できない」が、 これは「短期間での土砂の確保や…労働力不足があったのではないか」と見られる。 しかし「特に重要である南西斜面外郭線の城壁については…最も丁寧な〔版築〕つくりが行われていることは断言できる」という(p.63)。 2008年から城門や外郭線城壁の修復工事が始められ、2015年に完成して現在は観光資源となっている〈パンフ19〉。 【金田城】 〈対馬市公式〉によると 「対馬市美津島町黒瀬にある浅茅湾に突き出した半島、城山(標高276メートル)に築かれているのが、特別史跡金田城跡」という。
●石塁:「上層部の石は砂岩を水平に積み上げ、下層部は城山全体を覆う石英斑岩の岩塊を積んでおり、違いが一目でわかる」 ので「後世の修築では無いかとの見方もある」。「寛政10年〔1798〕……対馬藩……『海辺御備覚』によると……黒瀬城山に備えを配備する計画」があり、 「この時に崩れた石垣を修理した可能性が指摘されている」という(pp.4~6)。 石塁の上層部は見るからに後世に積み増されたものであるが、寛政10年とは限らないだろう。より古い時代かも知れない。 そして、「金田城は外郭線を石塁で造られた唯一の存在と言って良い」、「総延長は…約2.8km」で「残存する最も長い石垣は49.3mあり北東部に存在」し、「最も高い外石垣は6.7m」で 「石垣(石塁)は野面状の石を乱積みし、小石を間詰として使っている」という(p.8)。 ●二の城戸:「美津島町教委は99年10月28日、二の城戸から城門跡が出土したと発表」した(p.171)。それによると「礎石が五つ出土」し「一つの穴には切妻造の門の屋根を支える柱、もう一つの穴には扉の軸を立てたらしい」という(p.172)。 〈長崎新聞99〉は、 「〔対馬美津島〕町教委によると、長さ約二・八キロの城壁の東に位置する「二ノ城戸(きど)」と呼ばれる城への入り口部分の発掘調査を九月二十日から開始。深さ約一―二メートル地点から礎石や敷石、階段などが出土した。 確認された計六つの礎石には柱を固定したとみられる直径十七―十九センチ、深さ約八センチの穴(計八つ)があり、門の入り口から奥に向かって左右に三つずつ並んでいる。礎石の穴の配置などから推定される城門は幅約三・二メートル、奥行き約四・三メートル。屋根が付き、観音開き式の扉が使用されていたという。 城門跡付近からは土器の破片約三十点が出土。構造上から七世紀後半に作られたものとみられ、同町教委は「日本書紀に記された築城時期の六六七年を裏付ける物証」としている。 金田城跡整備委員会の小田富士雄・福岡大人文学部教授は「ほぼ原形を保った状態で城門跡が見つかったのは全国でも珍しい。朝鮮式山城については、これまでの史料が少なく、他の山城を知る上でも貴重な発掘」と話している」と載せる。 つまり、礎石の穴には門扉の回転軸が差し込まれていたと考えられ、その形が明瞭に残っているのは珍しいという。 ●南門:〈対馬市公式〉によると「平成15年度〔2003〕の発掘調査で新たに確認された遺構」で、 「間口1間、奥行き3間の礎石建ちの城門」で「何らかの上屋(櫓などの建造物)があった可能性も」考えられるという。 まとめ 〈天智〉六年の記述に関しては、錦織地域の大津宮跡(1974)、高安城の礎石建物群(1979)、金田城の城門(1999)、屋嶋城の城門(2001)、牽牛子塚古墳の八角墳の確定(2010)など、現代になって画期的な発見が相次いでいる。 それらの調査報告から貴重な実測図や写真をそのまま引用する他、現代地図や赤色立体図に重ねることによって、より明瞭に見ることができた。 金田城や屋嶋城の石塁や城門の姿が鮮やかになるにつれ、逆に高安城に石塁土塁がほとんど見えないこととの乖離が一層際立つ。石塁や門などの工事は中止されたと見るのが妥当か。ただ、一部手がつけられた部分もあり、その未発見の遺跡があるかも知れない。 さて、六年頃は各地に朝鮮式山城を築くことに注力するが、唐軍による攻撃の惧れは倭国側の勝手な思い込みのように思える。 ただ、《筑紫都督府》の項で述べたように、交渉のかけひきの中で唐軍の渡海攻撃を匂わせる程度のことはあったのかも知れない。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [28-08] 天智天皇(4) |