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2024.03.15(fri) [27-03] 天智天皇3 ▼▲ |
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6目次 【二年二月~三月】 《百濟遣達率金受等進調》
「百済南畔四州」の特定しようとすると、『三国史記』地理志四に載る大量の地名から大部分後の地名を推定して、現在の位置を決定する作業が必要になる。 そのようにしてこの「南畔四州」を見出そうとした研究を、今のところ見つけられない。 《安徳等要地》 『三国史記』〈新羅本紀〉には、文武王三年〔663;天智二年〕二月に「徳安城」が見え、時期は一致する。 『三国史記』地理志四には「都督府一十三県:…得安県、徳近支」〔都督府の十三県のひとつが徳安県。もとは徳近支といった〕とある。 「書紀は徳安を安徳に作る」とは、広く言われているところである。 『六国史』巻二〔佐伯有義;朝日新聞社1940〕は 「三国史記に拠るに蓋し徳安の誤ならん」として、その「徳安県」を「忠清南道恩津郡なるべし」と述べる。 恩津郡は、1917年にいくつかの周辺の郡と統合して論山郡となった。現在は論山市。 『日本の時代史3』の図も、その位置に置いている。 《去賊近》 「去賊」とは、「敵との距離を計るに」という意味である。 用例には、『三国志』魏書/曹仁伝に「将其麾下壮士数十騎出城。去賊百余歩」〔曹仁は麾下の壮士数十騎を率いて城を出た。賊から去ること百余歩〕などが見える。 《続守言》 〈斉明〉七年〔661〕に「日本世記云。十一月。福信所獲唐人続守言等至二于筑紫一」とある。 今回は663年二月である。両者の辻褄を合せるなら、筑紫にしばらく居て、一年四カ月後に都に移ったということか。 しかし、中大兄皇子は筑紫長宮で軍政を掌っていたから理屈は合わず、やはり続守言の到来時期については複数説があったのであろう。 《上毛野君稚子》
百済滅亡から白村江までの全般的な流れは、書紀と新旧唐書、三国史記で概ね一致する。 ところが、この新羅南岸を攻めたと思われるの戦闘の記事は、書紀だけにしか見えない。 この作戦自体は、高句麗、錦江方面に軍を送っていた新羅の背後を衝くものであり得なくはないが、 主戦場の泗沘方面とは離れた場所に二万七千もの軍勢を送るのは理解に苦しむ。 〈新羅本紀〉が百済侵攻と書くときには倭軍が含まれていたりするのだが、百済が南部を攻めたという記事はないから、史実であること自体が疑われる。 とは言え、書紀には多くの将軍名及び人数が明記されているから、何らかの記録は存在したと思われる。 ひとつの考え方として、天智二年〔663〕から一回り前の「癸亥年」の記録※としてみたらどうであろうか。 ※…当時の記録において年を十干十二支で表記するのは一般的で、その一例が『伊吉連博徳書』(〈斉明〉六年七月)に見える。 その603年は、〈推古〉十一年にあたるが、そこには新羅征討の記事が実際に見える。
ところが、ここには「阿倍引田臣比邏夫」、「間人連大蓋」という〈斉明朝〉から〈天武朝〉の名前(前項)があることが、早くもこの仮説を打ち砕く(ア)。 それでも、この説を棄てるのはまだ早いように思えるので、603年説を前提として筋書きを組み立ててみよう。 まず、来目皇子を「大将軍」と称したことは、その下の前将軍・中将軍・後将軍と符合する。 その前・中・後は、時間的な順番と見る。 「三月」は「前将軍」隊が発った月とする。
ではあるが、〈推古紀〉には額田部連比羅夫という人物が登場して、十六年八月に唐客(裴世清)を迎えて礼辞を告げ、十八年十月に新羅客を迎えて荘馬(かざりうま)の長を務め存在感は大きい。 よって「額田部連比羅夫⇒阿倍引田臣比邏夫」の書き換えがあったかも知れない。 併せて「間人連塩蓋⇒間人連大蓋」、「大宅臣軍⇒大宅臣鎌柄」の書き換えも考えられる。ただ、これらは改竄が過ぎるので、確信は全く持てない。 それでも、「打新羅」自体は、663年より603年の方が、より当てはまる。 仮に阿倍比邏夫や間人連大蓋らの派遣先が「新羅」ではなく、実際には主戦場の泗沘方面だったとすれば納得できる。 ただ、ここで一つ注目されるのが〈新羅本紀〉663年2月に見える金欽純による「居列城」攻撃である。その所在地といわれる慶尚南道巨昌郡は、新羅領と言ってもよい位の深い位置である。 この戦闘の直前までは、百済残党側が押さえていたことになる。そこに倭国軍が参加していたとすれば、百済の州柔城方面から入ったと見るのが妥当であろうが、 居列城周辺地の攻防を「伐新羅」と表現することは可能であろう。 下述「沙鼻」の候補の一つである陝川も近い(図:7世紀の朝鮮半島)。 このように、「伐新羅」と言い得る一定の条件もあるが、基本的に局地戦である。よって606年癸亥の「打新羅」の記録が、やはりここに混ざっていると考えてもよいのではないだろうか。 《大意》 二年二月二日、 百済は、 達率(たつそつ)金受(きんじゅ)らを遣わして進調しました。 新羅人は、 百済の南の辺の四州を焼き、 併せて安徳(あんとく)などの要地を取りました。 避城(へさし)は賊敵まで近く、 その勢いの故に居すことができませんでした。 よって州柔(つぬ)に還って居し、 田来津(たくつ)が慮った通りになりました。 この月、 佐平(さへい)福信(ふくしん)は、 唐の俘虜続守言(しよくしゅうげん)らを送り献上しました。 三月、 前の将軍上毛野(かみつけ)の君稚子(わくご)、 間人(はしひと)の連(むらじ)大蓋(おおふた)、 中(そい)の将軍巨勢(こせ)の神前(かんざき)の臣訳語(おさ)、 三輪(みわ)の君(きみ)根麻呂(ねまろ)、 後(あと)の将軍阿倍(あべ)の引田(ひけた)の臣(おみ)比邏夫(ひらふ)、 大宅(おおやか)の臣(おみ)鎌柄(かまつか)を遣わして、 二万七千人を率いて新羅を撃たせました。 7目次 【二年五月~六月】 《犬上君闕名馳告兵事於高麗而還》
ここでは、豊璋が「糺解」の名で登場する。 〈斉明〉七年四月条では、「糺解」が名前ではない可能性を見た。 ここでは出典となった犬上君の家伝などが、「糺解」が名前だと考えられるようになった後に書かれた可能性も、理屈の上では残る。 《石城》 石城は、「忠清南道付与地域の旧地名。本来百済の珍楽山県だったが、686年(新聞王6)石山と改め、757年(慶徳王16)扶余軍の永賢とした」、 「地名由来は百済の時、ここが扶余の外郭地帯となり、軍事上・交通上の要所で、石で積んだ石城が続いた」こと。 「1895年に郡」、「1914年に論山市城東面と扶余郡石城面」に再編された(韓国民族文化大百科辞典)。 犬上君が石城に帰還したと書かれることから、高句麗への出撃拠点が扶余方面であったことが分かる。 これは、高句麗救軍の加巴利浜の比定地が扶安郡であったことと合致する (〈天智〉斉明七年)。 よって、犬上君の経路は、「新羅沙鼻岐奴江」の件よりはずっと現実感がある。 《沙鼻岐奴江》 新羅の地名という「沙鼻岐奴江」については、 「沙鼻・岐奴江か、沙鼻岐・奴江か未詳」と言われる (『「日本書紀」記載の朝鮮固有名表記字の研究』〔柳玟和;1991〕。 現在も、この状況から進展していない。 沙鼻の比定※については、例えば 『古代朝鮮文化を考える(3)』〔古代朝鮮文化を考える会;1988〕は、 「尚州(古名沙伐)」、「梁山(古名サブ)」を挙げる(右図)。 そして「慶尚道の新羅領であって、百済救援とは全く関りのない土地」と述べる。 上述したように「率二二万七千人一打二新羅一」は603年のことだと言い切ってしまえばこのような戸惑いは一掃できるが、金欽純による居列城攻撃を考えると「全く関りない」とまでは言い切れない。 ここで、603年前後の新羅の情勢を見てみよう。〈推古〉八年条で見た〈百済本紀〉・〈新羅本紀〉には次のようにあった。
〈新羅本紀〉602年にある阿莫城は、「韓国民族文化大百科辞典」によると、 全羅北道南原市亜永面城里にあたる。 その阿莫城の位置から見て、沙鼻の推定地が、(図:7世紀の朝鮮半島)の候補地のどれであったとしても、 この時期の戦場として考え得る。 これを見ると663年のところに書かれた「二万七千人打新羅」には、やはり603年のことが混入しているように感じられる。 ※…沙鼻の候補地のうち『日本の時代史3』が挙げるうちの一つは陝川にあたるが、その根拠は同書では説明されていない。 陝川はむしろ多羅の候補地として、しばしば挙げられている。 《福信有二謀反心一》 豊璋は次第に福信と対立し、最後は殺したという事実経過は海外資料と一致する。 『旧唐書』などでは、その時期は〈天智〉元年〔662〕七月から、〈天智〉二年〔663〕九月までのいつかである。 書紀では〈天智〉二年六月〔663〕条に置かれる。 唐は、真っ向から歯向かった敵の将であっても、見どころがあれば唐の将軍に取り立てられていて※、福信はそれを知っていたと考えられる。 福信の見立てでは百済が勝利する見込みはなく、新羅に吸収されるよりも唐の羈縻政策下で地方権力を請け負うことが現実的であると判断していたと思われる。 対照的に、道琛と豊璋は徹底抗戦派であった。 その裏に唐が仕組んだ分断工作があったことは、当然考えられる。 『旧唐書』百済伝の「仁軌作レ書、具陳二禍福一、遣レ使諭之」がまさにそれであろう。 道琛がその書を受け取らずに使者を追い返したことを知った福信は、何ということをしてくれたのだと怒って殺したのである。 攻める側からの謀略的な分断工作は、古今東西の常道である。 例えば大坂夏の陣では、淀殿が家康との交渉を担った片桐且元を追放したことを以て講和の拒絶と見なされ、家康は攻撃の火蓋を切った。 福信の場合はゆくゆくは唐に取り立てられる見通しがあったが、豊璋が福信を殺したことによって、有力将軍を失った百済残軍の弱体化を見切って大攻勢をかけたと見られる。 そこへ倭国が送った船師は、タイミング悪く飛んで火に入る夏の虫となった。従って、福信を殺してから白村江の戦いの八月〔『新唐書』によれば九月〕までは、それほど間は空いていないと考えられる。 すると、書紀が福信殺害の時期を「六月」と述べるのは、妥当と思われる。 ※…例えば、百済再興のために最後は孤軍奮闘した黒歯常之は、投降後将軍として唐に取り立てられた。 契苾何力もまた、鉄勒から唐に内応して有力将軍となった。 《醢首》 「醢」は、麹で発酵するさせて作るから酉偏が付くと考えられる。敵の首を保存する場合は、塩漬けも酢漬けも考えられる。 その目的は、基本的に遠征先で得た首を本国に送って論功行賞を得るためである。 この場面では、『旧唐書』百済伝によれば、福信の唐への内通を扶余豊は疑っていたと思われるので、福信の首をこれ見よがしに唐に送って徹底抗戦の遺志を示したと見るのが妥当か。 ただし、書紀では豊璋は福信を殺すことをしばらく躊躇っており、功績の故に逡巡したとも読める。 その場合、首は倭国に送られて遺族の許に返されたか。これは行き違いはあったが功績は認めるという意思表示となる。 その甲斐あってか、遺族の鬼室集斯〔福信の子?〕は〈天智〉十年に「学識頭」に取り立てられている。 《大意》 五月一日、 犬上君(いぬがみのきみ)【名を欠く】は 兵事を高麗(こま)に馳せ告げて還り、 糺解(きゅうげ)と石城(せきさし)で会いました。 糺解は、そのときに福信の罪を語りました。 六月に、 前の将軍上毛野(かみつけ)の君稚子(わくご)たちは、 新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)の二城を取りました。 百済王豊璋(ほうしょう)は、 福信に謀反の心があることを嫌い、 手のひらに穴をあけて革ひもを通して縛りました。 その時、自分では決め難く、どうしてよいか分からないので、 諸臣に 「福信の罪は既にかくの如しである。 斬るべきか否か。」と問いました。 すると、 達率(たつそつ)徳執得(とくしつとく)が 「この悪逆な人物は、放免に値しない。」と言うと、 福信は、即座に執得に唾を吐きかけて 「この腐り犬の愚かな奴め。」と言いました。 王(こきし)は、護衛人を勒(ろく)して斬らせ、首を醢(ひしお)漬けにしました。 【〈天智〉二年前半の半島情勢】 新旧唐書と三国史記を通して、龍朔二年〔662=天智元年〕七月戊子〔一日〕の孫仁師の熊津道への派遣から 龍朔三年〔663=天智二年〕九月戊午〔八日〕の白村江の戦闘(何れも『新唐書』による日付)の間には日付が付されていない。 よって、扶餘豊が福信を殺した時期は、これ以上は絞り切れない。
まとめ 書紀における豊璋の人物像は「お公家様」然としていて、それは倭国で貴族的生活を送った故と読める。 それが、武将として実戦をこなしてきた福信との間で行き違いを生んだことを示唆する。 ただ実際のところは、唐の羈縻政策や直前まで敵対していた将を取り立てたことを知っていて、 リアリストとして柔軟に戦略を練る福信と、一切の妥協を認めず徹底抗戦に凝り固まった豊璋との間の対立によるものと考えられる。 豊璋の感情は、復興勢力に満ちていたものでもあろう。それが憎しみとなり、有能な将を処断してしまった。結果は周知の通りである。 さて、「率二万七千人打新羅」には違和感があった。その解釈について判断は揺れ動いたが、最終的には書紀は干支違いを含めて広いところから出典を得て、それらを組み合わせた結果がこの記述になったと見る。 実際には、居列城の辺りまで戦闘地域であったということであろう。 |
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2024.03.24(sun) [27-04] 天智天皇4 ▼▲ |
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8目次 【二年八月】 《新羅謀直入國先取州柔》
古訓は「良将」を「イクサノキミ」と訓むが、書紀は有能な将を斬ったことが敗北を招いたと見たことによって「斬二己良将一」と記述したのは明らかである。 よって「良」は訓読すべきである。 《謀直入国先取州柔》 「謀三直入レ国先取二州柔一」は、百済本紀で「仁軌」が他の城には捉われず、一目散に周留城を攻めると宣言したことに対応する。 よって、やはり「周留城」=「州柔城」であろう。 《謂諸将曰》 〈北野本〉、〈内閣文庫本〉では「謂諸将曰」の元の形は「諸将曰」で、その場合「曰」の主語は「諸将」である。 しかし、「我欲自往待饗白村」は諸将の言葉とは言い難い。 〈北〉・〈閣〉は「諸将」の前に「謂イ」〔=異本に「謂」あり〕と傍書されるが、その異本の方が妥当である。 しかし、まだ「謂」の主語王または豊璋が脱落している。 『新唐書』の「豊衆屯二白江口一」は豊璋は実際に白江に行ったことを示すから、「我欲三自往待二-饗白村一」の我は、やはり豊璋である。 よって、ここでは「百済知賊所計」に王を補って「百済王知賊所計」とするのがもっとも自然であろう。 《将》 本サイトでは将軍をイクサノカミと訓むが、これについて改めて考察する。先ず、集団の統率者を表す語としては、ヌシ、ウシ、キ甲ミ甲、ヲサ、カミ甲がある。 ● ヌシは魏志倭人伝(18回)から見えるから、かなり古いと思われる。 ● キミは尊愛を込めた二人称にも使われるから、もともと血縁集団の統率者か。古い職業部の長もキミであろう。 ● ヲサには通訳という意味もあるので、ムラの対外的な代表者か。 ● カミ甲はカミ乙(神)とは別語で、川の上流などを表すカミ甲から派生したとされる。 四等官制のトップの称となっているのを見ると、人為的に作られた組織の長に用いられている。ただ、ヒトゴノ乙カミ甲〔しばしば蛮族の首領〕にも使われる。 もし軍事を担う職業部があったとすればその統率者はキミだが、朝廷が軍事の長を任命する場合は、やはりカミ甲であろう。 〈倭名類聚抄〉には、「長官:…近衛府曰大将、兵衛衛門等四府曰督、鎮守府曰将軍、…已上皆加美」とある〔なお、美は確かにミ甲だが、倭名類聚抄の時代は甲乙の区別は消失している〕。 これらは常設機関であるが、軍を派遣するときにその都度任命する司令官も、やはりカミ甲と呼んだと思われる。 なお、征夷大将軍の和訓は「エビスヲウツオホイカミ」〔平安;上代はエミシヲウツオホキカミ甲〕が考えられるが、 実際にこのように呼ばれていたとはあまり思えない。「蘇(定方)将軍」に対しては、古訓でも音読される(斉明七年七月是月)。 大宝令〔701〕の頃には、日本国の将軍でもかなりシヤウグンと呼ばれていたのではないだろうか。 《廬原君》
《自往待饗白村》 ここでは、「謂二諸将一」の主語が豊璋であることを前提として論ずる。 「願二諸将軍等応一レ預レ図レ之我欲三自往待二-饗白村一」は、城を守る作戦はお前たちに預けた、自分は白村に出かけて接待してくるから後はよろしくと読める。 実にはしゃいでいる。倭軍が到着したからには、もう勝ったも同然とでも思ったのであろうか。あるいは、州柔城に居ることが心底嫌だったのであろうか。 到底信じられない行動であるが、 百済本紀、『旧唐書』、『新唐書』でも豊璋は白江の戦闘に加わり敗北して行方不明になったとあるから、白江の河口まで来ていたのは確実である。 本来なら豊璋は州柔城に籠って敵を引きつけ、その外から倭軍が攻勢をかけなければならない。 そして、膠着状態に持ち込み交渉して、豊璋を王と認めさせるか、無理なら降伏して最低限身の安全を保障させるところまで持ち込むのが常道である。 わざわざ城から出て、野戦に身を晒すのでは王とは言えない。こんなことをしているから唐は王と認めず、その子は「偽王子」などと言われるのであろう。 やはり、福信を自ら斬った時点で既に勝ち目はなかったのである。 《白村》 村の古訓「スキ」は、百済からの亡命集団が伝えた「村」の現地語だと想像される。 王(コ(ニ)キシ)、王子(セシム)などと同様であろう。 《大唐戦船一百七十艘》 『旧唐書』百済伝によると、 劉仁軌は「熊津江」から水軍を率い、陸路で進軍した孫仁師、劉仁願、新羅王と「白江」で合流して、「周留城」に向かう計画であった。 その途中、仁軌の水軍が白江の河口に到着したところで扶餘豊及び倭軍に遭遇して戦闘となり、唐軍は大勝した。 唐の船団は、孫仁師が本国から率いてきたもので(『新唐書』)、熊津江で停留していたと見られる。 船団の将軍は仁師から仁軌に交代している。 《白村江》 現在、一般的に「白村江」は錦江であると言われるが、精査するとあまり妥当ではない。 詳しくは、【周留城と白江の比定】項で述べる。 《初至者》 「初至者」には"初所至者"、"初師至者"、"師初至者"とする異本があり混乱しているが、 文脈では「第一撃を試みた結果は…」という意味だから、「初至者」と決めることに問題はない。 「者」はSV構造〔ここではSを省略〕「初至」を名詞化する助詞で、その「名詞」は ①「第一陣の攻撃の主体者」、または②「最初に攻撃したという事実」のどちらでも意味は成り立つ。 それぞれの和読としては、①:「初めて至りしモノ」(形式名詞)、②:「初めて至れバ」(確定条件(已然形)の接続助詞)などが考えられる。 《不利而退》 「不利」の古訓のひとつ「マク」(負く)はその通りであるが、これでは身も蓋もない。 戦闘における撤退は、勝利の条件が得られなかったと表現することができるので、利の直訳カガでもよいと思われる。 カガ、クホサはもともとは商いで得る利益を意味する。 《不観気象》 「不レ観二気象一」には、情勢を見ずに無謀な戦いに突っ込んだという非難が込められている。 《我等争先》 「我等争レ先」は文字通り「我らが先を争って出撃すれば」という修辞で、今すぐ攻めかかろうと逸る空気を表している。 結果は、敵に鶴翼の陣を敷かれて潰滅した。ここはにらみ合って時間を稼ぎ、豊璋を何としてでも州柔城に収めるべきであった。 ここでも良将を斬ったから統制がとれずにこうなったという、書紀原文の主張が見える。 《乱伍中軍之卒》 この「中軍」を征新羅軍の件の「中軍将」とする論も見るが、文脈は全く繋がらず関係はない。 ここでは「不レ利而退」に終わった「初至者」の次の「中軍」ということであろうか。また、古訓の「ソヘ(副)ノ軍」は第二軍の意味である。 しかし、「隊伍を乱す中で、軍の卒は…」という区切りも考えられる。 何れにしても、「更率日本乱伍中軍之卒」は読みにくい。ただし、「船列を乱しててんでばらばらに攻めかかった」ことだけは分かる。 《自左右夾船繞戦》 「自二左右一夾船」に、さらに同じ意味の「繞戦」が重ねられている。これは、唐による包囲攻撃の執拗さを表すと読むべきなのだろうか。 《繞戦》 しかし、「繞戦」は、もともとは「焼戦」であった可能性がある。 同じ場面を百済本紀は「焚二其舟四百艘一、煙炎灼レ天、海水為レ丹」、即ち400隻が燃やし尽くされ、煙炎は天まで上がったと生々しく描く。 なお、海水は血で染まったとも読めるが、立ち上る炎の色が海面に映ったと読んだ方が情景は鮮やかに浮かび上がる。 新旧唐書も燃やしたと書く。 《朴市田来津》 朴市田来津は、州柔城から出て避城に移りたいと言った豊璋を諫めた。 今段では、英雄的な奮闘した末の戦死が描かれる。これらは、朴市氏の家伝が出典の大きな部分を占めると考えられる。 その筋書きは海外資料とも概ね噛み合うので、比較的史実を反映していると思われる。 《豊璋逃去高麗》 新旧唐書、百済本紀ともに豊璋は逃げて行方不明になったと述べる。百済本紀は「或曰」として、船に乗って高麗に逃れた説を添える。 《大意》 八月十三日、 新羅は、百済王が自分の良将を斬ったことをきっかけにして、 国〔=百済〕に直ちに入って先に州柔(つぬ)を取ろうと謀りました。 このとき、百済〔王〕は、敵の計略を知り、 諸将に語りました。 ――「今聞くに、 大日本国の救軍の将、廬原君(いほはらのきみ)の臣(おみ)は、 強力な兵一万余りを率いて、 正(まさ)しく海を越えて至ろうとしている。 願わくば、諸(もろもろ)の将軍たちは戦略を預かるべし。 私自身は、白村(はくそん、はくすき)に行って接待の饗をしたい。」 十七日、 敵将は州柔(つぬ)に至り、 その王城を包囲しました。 大唐の軍将は戦船一百七十艘を率いて、 白村(はくそん、はくすき)の江に陣烈しました。 二十七日、 日本(やまと)の船師(ふないくさ)は 初めて至り大唐の船師と合戦しました。 日本は不利で退却し、 大唐は陣を固めて守りました。 二十八日、 日本の諸将と百済王は、 情勢を見ることなく、 「我らが先を競って攻めれば、敵は自ら退くだろう。」と語らい、 更に率いた日本軍が隊伍を乱す中、 軍卒は進み大唐が陣を堅めた軍を攻撃し、 大唐はすると左右から船を挟み繞(かこ)んで〔燃やして?〕戦いました。 須臾(しゅす)の際、官軍は敗績しました。 泳いで逃げようとして溺れ死ぬ者多く、 艫舳(ともへ)〔=船首と船尾〕を旋回して逃げることもできませんでした。 朴市田来津(えちのたくつ)は、 天を仰ぎ誓い、 歯を食いしばって嗔(いか)り、 殺すこと数十人、遂に戦死しました。 この時、 百済王豊璋は、 数人とともに船に乗って高麗に逃げ去りました。 9目次 【二年九月】 《百濟州柔城始降於唐》
書紀では、「九月丁巳」〔七日〕」が州柔城落城の日とされる。白村江の敗戦は、「八月己酉」〔二十八日〕であった。 一方、『新唐書』本紀では「九月戊午」〔八日〕に「孫仁師及百済戦二於白江一敗レ之」。 最後は周留城落城であったが、その中心となった激戦が白江口の海戦であったとすれば「白江で戦いに勝利した」と表現することはあり得る。 だとすれば、日付はほぼ書紀と一致することになる。 また、白江は流域の地名に転じて、周留城まで含んでいたとも考え得る。 何れにしても周留城と白江(州柔城と白村江)の距離は近く、周留城が遇金山城であったとするなら、 このことは白江=東津江説の傍証になり得るかも知れない(【周留城と白江の比定】項)。 《州柔城》 海外資料では、周留の落城自体は書かれない。 王子扶餘忠勝、忠志は周留城にいたとも思われるが、恐らく白江敗北後には殆ど抵抗する力を失い、なにもできずに投降したと思われる。 周留城(州柔城)の比定については、「白村江」の位置と密接な関わりがある。 白村江は、一般的に錦江であると言われる。 しかし、これには難点があるので、別項【周留城と白江の比定】を立て論じる。 《弖礼》
――「最後に出発した弖礼は、百済の冬老県、途中の牟弖は全羅南道の南平・光州一帯であることが分かるようになった」、 「南平は百済時代に未冬夫里…神文王6年〔686〕には武珍州を設置…。 珍の字はトとよむから未冬・武珍などはみな、「ミテ」・「ムト」という古語を転写したもので 〈日本書紀〉の牟弖とは、異写関係にある」、「冬老県は統一後には、景徳王16年〔757〕に兆陽県と改名… 神功紀49年条の…多礼に該当する」、 「百済の冬老古城は、〔烏城〕面役場がある烏城里浦山をかこんでいる百済式土城」、 「兆陽城は、〔全羅南道宝城郡〕烏城面牛川里」にあり、 遺民の出航地「兆陽浦は兆陽城から南へ約2.5キロ延びた丘陵の東南辺に位置する」。 すなわち、兆陽県の旧称冬老〔トロ〕県が、弖礼〔テレ〕と表記されたという。 《事機所要》 事機は、チャンス、タイミングを意味する。古訓ハカリゴトは「機事」と同じと見たためと見られる。 所要の古訓は「ヌミトスルトコロ」、すなわち軍事上の要所とするが、不適切である。所要は、本来は必要とする事柄一般を指す。 これも逆転して「要所」と同じと見たかも知れないが、もはや拠点を設置して積極的に軍事作戦を展開できる条件は失われた。 すなわち、ここでは倭国への脱出計画の段取りを検討していて、事機は安全に脱出できるタイミング、所要は無事に脱出するための手配を意味する。 「要害とする処」などという古訓は、物語りの流れを全く見失ったものである。 《枕服岐城》 「枕服岐城」は、「全南同福の古名豆夫只」説を見る(『親和(195)』〔日韓新和会1970〕)。 現代地名は「全羅南道和順郡同福面」。 《牟弖》 牟弖については、「広州の武珍」説を見る(前項および《弖礼》項)。 《余自信》
九月七日、 百済の州柔城(つぬさし)は、始めて唐に落とされました。 この時、国の人は口々に言いました。 ――「州柔が堕ちて、無事に済むことがあろうか。 百済の名は今日絶え、 墓所〔である故郷〕へ、豈(あ)に再び行くことができようか。 できることは、弖礼城(てれさし)に行き、 日本(やまと)の軍将らと合流し、 時機、要領を相謀ることのみであろう。」 遂に元々枕服岐城(ちんぶきさし)にいた妻子らに説いて、 国を去る決心を知らせました。 十一日、 経由地牟弖(むて)に発ちました。 十三日、 弖礼(むれ)に至りました。 二十四日、 日本(やまと)の船師(ふないくさ) と佐平(さへい)余自信(よじしん)、 達率(たつそつ)木素貴子(もくすきし)、 谷那晋首(こつなしんしゅ)、 憶礼福留(おくらいふくる)は、 国の民たちと共に弖礼城(てれさし)に着きました。 翌日。 船立ちして始めて日本(やまと)に向かいました。 【周留城と白江の比定】
周留城(州柔城)の比定地については「白村江」の位置と密接な関わりがあるのでここで併せて検討する。 <以下、引用中の太字は引用者による。> 《熊津江と白江》 一般的に白村江は錦江であると言われる。 しかし、まず百済本紀の「自二熊津江一往一白江一」は、 唐の戦船は熊津江の河口から海に出て、白江の河口に移動したと読むのが普通の読み方であろう。 もし白江が錦江だったとすれば、 錦江の上流の名前が「熊津江」、下流の名前が「白江」で、 戦船は上流から河口に向って移動したということになる。 しかし、書紀が「一百七十艘」という大船団が、わざわざ上流まで行って停泊する理由があるだろうか。 また、元年十二月条でかなり強調されていたのが、「州柔城」(周留城)は急峻で攻め難く農耕はできないということである。 それなら扶安郡の辺山半島の山地の方が妥当である。錦江の河口近くにはそれほど急峻な山は見えない。 そして、位置関係から見て白江は錦江ではなく、その南の例えば万頃江ではないだろうか。 周留城については、地元の扶安郡の公式サイトは同郡にあると述べていることを先に見た(元年正月~六月《䟽留城》)。 それでは、具体的にはどこに比定されているのであろうか。 《遇金山城説》 調べるてみると、『百済史研究』〔今西竜;近沢書店1934〕 に、周留城は「全北扶安郡辺山の遇金岩山城である」とあるのが見つかった。これは戦前の書である。 「遇金岩山城」(遇金山城)を周留城に比定する説を更に探すと、 『百済における地方の軒丸瓦について』 〔李다운;帝京大学山梨文化財研究所研究報告12(2004)〕 に、「全永来による長年の研究調査の成果から'周留城=遇金山城'、'白江=東津江'の可能性が高く評価されており…支持したい」、 「遇金山城は位金岩山城・禹陳古城とも呼ばれ、扶安郡上西面甘橋里に位置する全長3960mの百済では最大級の山城である」と述べた箇所を見つけた(p.391)。 その東津江は、金堤市と扶安郡の境界を流れる川である。 《遇金山城の位置》
コネスト韓国地図では、「開岩寺」の北に「楞伽山 禹金岩」と表示され、 その点をtopographic-map.comで見ると、最高点は標高329m、北緯35.6675°、東経126.6498°にあたる。 開巌寺は観光地となっていて、いくつかのサイトで紹介されている。 《乾芝山城説》 周留城の比定については諸説あったが、その中で比較的有力とされてきたのが錦江北岸の漢山乾芝山城(서천 건지산성、忠清南道西川郡漢山面)である。 Wikipedia韓国語版/周留城は、 乾芝山城が提唱されて以来「ほとんどの韓国内学者と日本学者が受け入れた」、 しかし「日本書記は周留城を指して「農業を営む畑とは距離が遠く、土地が高く、農耕、桑栽培の土地ではない」、「山岳が険しく高防御は容易で攻撃は難しい」と言及した部分があるが、これは当時周留城の地形に対するほぼ唯一の証言として位置を比定する一次資料に挙げられている。 日本書記記録に照らしてみても、今日まで忠清道西川一帯で有名な穀倉地帯に数えられる漢山の土地が周留城であるという主張は説得力がなく、決定的になったのは1998年と2001年に行われた建地山城の考古学的調査で、城は高麗時代に築造したことが明らかになった」ことだという。 遇金山城については、盗賊の巣窟となり官軍も近づけなかったところで、 「『三国史記』・『唐書』には福信が豊王を殺害しようとして、病気を口実に洞窟に隠れたという謀略があるが、 三つの洞窟に僧侶が居住し…禹金岩の底の洞窟には福信が隠れたという福信窟の可能性が指摘される」という。 また、1979年に開巌寺で発見された数枚の文書に「道琛」が「福信とともに軍兵を集めてこの山の周留城を拠点に抗戦した」などと書かれていたといい、 これ自体は偽書であろうが「〔この書が書かれた〕17世紀までに、同じ事実を書いた…古文書が残存していたことが期待される」などと述べる。 また、韓国文化財庁のページで「서천 건지산성」を検索すると、 「舒川 乾芝山城」があり、「錦江の交通の要地に位置しており、百済復興運動群の拠点だった周留城と推定している。しかし最近、発掘調査を通じて三国時代に建った城ではなく、高麗時代の山城かもしれないという説が提起されている」と説明されている。 韓国では、乾芝山城が高麗時代〔936に朝鮮半島統一〕時代の城と考えられるようになって以来、周留城を遇金山城に比定する傾向が強まっているようである。遇金山城に比定するにあたっては、その傍証として日本書紀の記述を用いていることが注目される。 《白村江の比定地》 それに対して日本では、両論を載せる書籍も見られる※1が、辞書類では錦江の北説のみである。 遇金山城説を初めに唱えたのは、戦前の日本であったが、現在は一時期優勢となっていた錦江北説が維持されている。 一方、遇金山城説を取りながら、白江を錦江に置く意見※2が日韓共に見られる。 しかし唐は攻めるために、倭国は守るために船団を向かわせた。その向かう先は、両者とも周留城に近い処であったはずである。周留城が扶安郡禹金岩であったとすれば、錦江は遠すぎる。 戦場は川の流路ではなく、海上である。その船の数を書紀は唐船170隻と言い、旧唐書は倭船400隻と述べる〔互いに相手の船数だけを述べているのは面白い〕。これだけの唐船と倭船が戦闘を展開したのだから海上であろう。 実際、百済本紀には「海水為レ丹」とある。 「白江口」は白江の河口付近の海上という意味であって、万頃江または東津江が注ぐ湾であろう。 全永来(上述)は、東津江説を取っている。 《九月辛亥朔丁巳》項では、書紀(州柔落城)と『新唐書』(白江戦)の日付の差が一日のみであることから、周留城と白江はかなり距離が近いと見た。 百済本紀の「自二熊津江一往一白江一」を「熊津江〔錦江〕から海上に出て白江の河口近くまで移動した」(上述)と読むことは、やはり理に適っていると思われる。 ※1…『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕(p.17)。 ※2…例えば韓国学術誌引用索引掲載の「白江口 戰鬪와 周留城」」〔김영관/著〕は、「周留城とは扶安の辺山に位置する敷地面積890,488m2、幅3,724メートルの渓谷を有する大きな城である威金岩山城にほかならない」と言う一方で、 「白江の入口が今日の錦江河口であることは明らかである」と述べる〔理由は676年に唐羅戦争の伎伐浦海戦が行われた錦江口と、白江口を同じところと見たため〕。 【〈天智〉二年後半の半島情勢】 餘豊が福信を殺した後、百済再興勢力が潰滅するまでの期間。時期の明示があるのは新唐書のみ。
まとめ 州柔城(周留城)、白村江(白江)の所在地についてはおそらく明確化できないと考え、 〈斉明〉六年の時点では、漠然としたままでやり過ごそうと考えていた。 しかし、それらの比定については戦前から検討され、戦後は特に韓国において熱心に研究が進められていることが分かってきた。 その様子は、例えば「周留城」についてWikipediaの日本語版と韓国語版とを比較することによって知ることができる。 特に1979年に開巌寺で発見された文書には韓国語版のみで言及され、そこには道琛や福信の名があるという。 例え偽書だったとしても禹金岩の地に百済復興勢力の拠点の言い伝えがあったということになり、注目される。 なお、韓国の諸サイトからの翻訳は、グーグルの自動翻訳機能を利用した。 その機能は、文法に関しては最近目に見える進展がある。 ただ、まだ固有名詞の漢字表記が正しく復元されない段階にある〔同音異字のため〕。 たとえば、錦江が金剛川、周留城が主流性などとなってしまう〔2024/03/24現在。なお、本ページの引用では意味が通るように修正している〕。 地名や歴史的な人物名を正確に表記することについては、文脈からその舞台となる地理歴史の場面を見つけ出して正しく語を当てはめなければならない。 つまり、狭い言語機能を越えて、背景となる歴史や地理のデータの構造体を構築して関連付けることが必須である。 これは、漢字文化圏にある日本人ががんばらねばならないことだろう。 さて、白村江の役とそれに至る百済復興運動は、日朝中の歴史文書のそれぞれに取り上げられ、多角的に比較検討できる珍しい素材となっている。 原文を直接読むことも、それほど難しくはない。 これら全体を眺めれば、少なくとも熊津江と白江とは互いに別の川であり、白江と周留城との間の距離は短いと見てよいだろう。 また、周留城の地形については、むしろ韓国の研究が書紀の記述を重視して、扶安郡禹金岩説に至っていることが興味深い。 |
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2024.04.05(fri) [27-05] 天智天皇5 ▼▲ |
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10目次 【三年ニ月】 《増換冠位階名及氏上民部家部等事》
〈北野本〉古訓は、「天皇」に「ヒツキノミコト」、異訓「スメラミコト」を付す。 実際は称制であるからヒツキノミコは正しい[A]が、書記においては即位前であっても主語にスメラミコトを用いることは普通であった。 〈天智〉朝にはまだ天皇号創始の前だから、「皇」が入った「大皇弟」も書紀独自であることは間違いない。 〈天智〉天皇は厳密にはまだ自身が皇太子で、その立場で皇太子をもつことはあり得ない。よって大皇弟という他に類を見ない語を用いたのである。 即位〔七年〕以後になって、大皇弟⇒東宮大皇弟⇒東宮と徐々に呼び名を真正の皇太子に移していることが、それを示している。 そもそも大海皇子を東宮と呼ぶこと自体が後に即位〔天武〕したことによるもので、即ち結果から遡ぼらせたものである。よって、大皇弟も書紀による造語である。 それでも大海皇子を事実上の皇太子としたのだから、古訓が割り切って「ヒツギノミコ」と訓むのはそれなりに妥当性がある。 しかし、称制の段階でヒツギノミコを儲けることはあり得ないとするなら、ダイクワウテイと音読みするしかない なお、上記[A]を用い、かつ大皇弟をヒツギノミコと訓むと、古訓は「ヒツギノミコ(ト)、ヒツギノミコに命(おほ)して」という奇妙な文章になる。 《増換冠倍位階名》 〈兼右本〉〔16世紀〕が「倍」を省く前の形は、「増換冠倍位階名」であった。 現代の刊行本の「増換冠位階名」は、兼右に依る。 確かに、〈北〉〈閣〉〈兼右本〉のように「増換」の目的語に「氏上民部家部等」まで含めると、「倍」の字は妨げになる。 だとすれば〈兼右本〉の判断は道理に合う。 しかし、増換の目的語は冠位階名に留まる(次項)。 それなら倍があっても、「増二-換冠一倍二位階名一」 〔冠(かがふり)を増(ま)し換(か)へて位階(しな)の名を倍(ま)す〕と、幾分ぎこちないながら読むことはできる。 《氏上民部家部等事》 「氏上民部家部等事」とは、氏上に太刀・小刀を授けて権威付け、民部・家部を制度化するものである。 つまりこの部分は「増換」の対象ではないから、目的語に含める古点は誤りである。 《氏上民部家部》 「民部家部」とは、改新詔(〈大化〉二年)のいう、 「御子代・屯倉・臣・連・伴造・国造・村首」に付随する民であろう。 建前では改新詔ですべて廃されたことになっているが、この時点では目標の提示のみであろう。 大宝令・養老令に至り公民化は進んだが、皇族の私有民や寺社領は手つかずである。むしろ新たに荘園に囲い込まれるという逆行が起こる。 〈天智〉三年の時点では、むしろ氏・国造が所有する民が制度化された。 民部と家部の区分けについては、民部は班田収授法にいう良民で、 家部は、五色の賤(資料[35])のうち「家人」にあたる。 氏の長には太刀、小刀などが授けられて「氏上」とした。こうして諸族は氏(うぢ)として制度化された。 昔との違いは、昔の形では国家の事業そのものを縦割りで氏族が請け負っていたが、今は事業の実施主体は公の官僚組織となり、 氏族はその人材の供給元となったことである。 《従錦至乙加十階》 「従レ錦至レ乙加二十階一」は、「加レ六回」が正しい。 この問題について、〈釈紀/述義〉は次のように述べる。
ただ、「七」でも理屈に合わない。「従レ錦至レ乙」〔〕〔すなわち大錦上~小乙下の範囲〕では加六階だからである。 もしかして「至レ乙」を「至レ建」に読み替えたか。 《初位》 「初位」という表し方を見ると、〈斉明〉四年七月の「位一階」はやはり位階の最下位を意味したことを裏付ける。 大化五年の「制七色一十三階」では建武。 大化五年の「制冠十九階」では立身。 古訓「ウヰカフリ」については、古語辞典にウヒカウブリがああるが、その文例は今昔物語。同意のウヒカブリ・ウヒカムリの文例は平家。 ウヒは、ウフ(四段)の連用形から接頭語ウヒ-、あるいは形容詞ウヒウヒシを派生したと思われるが、上代からあったかどうかは不明。 ウフは辞書には見えないが、ウブヤ(産屋)のウブと同根か。 《小氏》 「小氏」はどう訓むのであろうか。 〈倭名類聚抄〉では「少納言【須奈伊毛乃万宇之】」など、官職名ではスナイと訓む〔スナシの連用形のイ音便〕。 形容詞スナシはスクナシの転かも知れないが、官職名以外にはスナイの用例が見えない。 〈乙本-神代下〉には「大小之【止乎之呂久知比左岐】魚」がある。チヒサシは、サイズの小さいことを表す抽象語で、幅広く使い得ると考えられる。 よって小氏の訓みは「チヒサキウジ」でよさそうである。 《干楯》 干には、ホコ、タテ両方の意味がある。干楯への古訓ホコは、同義熟語と解釈したもの。 ただ、ホコとタテの対義熟語干戈に倣えば、「干(ホコ)楯(タテ)」と訓むことになる。 それでは、漢籍ではどうであろうか。 捜して見ると、『六韜』〔戦国〕に、武王の「国家無事のためには武器がいると思うが、どうして備えないか?」という質問に、大公が答えた場面がある。 すなわち「戦攻守禦之具、尽在於人事。」〔戦攻防禦の備えは、人民の暮らしを豊かにすることに尽きる〕という。 それを説明する中で農具を武器に譬えて「鋤耰之具、其矛戟也。蓑薛簦笠者、其甲冑干楯也。」 〔鋤鍬は矛戟に当たる。蓑笠は甲冑干楯に当たる〕、すなわち矛戟(ほこ)と干楯を対比的に用いているから、この場合は干もタテ、楯もタテである。 ここでは、ひとまずこれに倣っておく。 《大意》 三年二月九日、 天皇(すめらみこと)は大皇弟(だいこうてい)〔=大海皇子(おおあまのみこ)〕に 「宣(よろし)く、冠を増やし変えて位階の名を増やすこと、及び 氏上(うじのかみ)、民部(かきべ)、家部(やかべ)らの事を定めるべし。」と命じました。 その冠は二十六階として、 大織(だいしき)、小織(しょうしき)、 大縫(だいほう)、小縫(しょうほう)、 大紫(だいし)、小紫(しょうし)、 大錦(だいきん)上、大錦中(だいきんちゅう)、大錦下(だいきんげ)、 小錦上、小錦中、小錦下、 大山(だいせん)上、大山中、大山下、 小山上、小山中、小山下、 大乙(だいおつ)上、大乙中、大乙下、 小乙上、小乙中、小乙下、 大建(だいけん)、小建、 以上の二十六階とします。 これまでの花(か)は改めて錦(きん)とし、 錦より乙まで十階〔六階の誤り〕を加え、 また、これまでの初位一階に加え変更して、 大建、小建の二階とし、 これらを異として、 その他はどれも以前のままとしました。 そして大氏の氏上(うじのかみ)には、 大刀(たち)を賜り、 小氏の氏上には、 小刀(かたな)を賜り、 その伴造(とものみやつこ)らの氏上には、 干楯(たて)、弓矢(ゆみや)を賜りました。 また、それぞれに民部(かきべ)家部(やかべ)を定(さだ)めさせました。 11目次 【三年三月~十月】 《以百濟王善光王等居于難波》
〈続紀〉の百済王敬福薨の記事に、その曽祖父にあたる善光の事績が載る。
《居于難波》 百済難民が居住した処だと考えられるのが、〈倭名類聚抄〉{摂津国・百済郡}である (【百済大井宮】)。 《劉仁願》 劉仁願は660年に泗沘城に留鎮(〈斉明〉六年九月《義慈王の降伏》)。 唐は百済の五都に都督府を置き、熊津都督に王文度を任命。 しかし泗沘城は百済復興勢力に包囲され、仁願はしばらく孤立。 661年、王文度が卒去し、代わって劉仁軌が送られ故文度軍を指揮。 662年、仁軌・仁願は本国に救援要請し、孫仁師が援軍を率いて渡海。 白江での戦勝後、孫仁師は遠征軍を率いて帰還。仁軌は留まって鎮守。 扶餘隆を熊津都督に任じて百済に戻す。 665年、扶餘隆と仁願は唐京に還る。 それでは、白江から665年までの間の劉仁願の動向はどうだったのだろうか。 その間を埋める記述が『旧唐書』劉仁軌伝の中にある。
《郭務悰》 郭務悰については、『旧唐書』巻八十、越王李貞〔太宗〔在位626~649〕の八男〕の子、沖の伝の中に郭務悌の名がある。 それは、貞の長子沖が武水県を攻めた箇所で「武水県。県令郭務悌」とある。 「武水県」は魏州に属する。 魏州は662年〔龍朔二年〕に冀州に改称。渤海の西岸に面している。
蘇我連大臣が、就任したときの記事はない。 『公家補任』には「天智天皇御世:蘇我連子臣。元年為二大臣一如レ故。初任年未レ詳。字〔あざな〕蔵大臣。 或書云。三月任即薨。馬子大臣之孫。雄正子臣之子。右大臣石川麿之弟也」と載る(〈姓氏家系大辞典〉による系図)。 そこで、この前後の大臣の就任期間を見る。 本当のことは分からないが、〈天智〉称制中に大臣任命が行われたことは考えにくく、また〈斉明〉四年に巨勢左大臣が薨じているので、 〈斉明〉朝の間に蘇我連子臣が大臣に就任したと考えるのが自然であろう。
《嶋皇祖母命》
〈釈紀/述義〉は、「兼方案之。敏達天皇之皇女糠手姫皇女。(彦人大兄皇子之妃。舒明天皇之母)天智天皇之内〔=父方の〕祖母也」とする。 その場合、「嶋」は、個人名を越えた称号的な意味をもつことになる。 嶋の地には嶋大臣〔蘇我馬子〕の家があり、草壁皇子の島宮もあった島の地は他にも貴人が邸宅や宮を構えたことから、しばしば名前に冠されたと考えることもできる(〈推古〉三十三年)。 《宣発遣郭務悰等勅》 〈汉典〉を見ると、「発遣」は基本的に「遣」と同じ。ただし、嫁に出す、追い払うなども派生している。 「遣」には名詞「使者」の用法もあるかと思われたが、実際は動詞のみであった。 よって「宣下発二-遣郭務悰等一勅上」は、「郭務悰を遣わして、劉仁願に詔させると宣(の)べた」としか読めない。 しかし、これでは全く理屈に合わない。唐の天子が任じた鎮将に向けて、横から他国が詔を発することはあり得ないからである。 従って、この文には目的語「使」〔=使者〕を補い、 「使者を郭務悰等の許に遣わして勅せよと宣(の)べた」とという文にすべきであろう。 ちなみに、このときの郭務悰の来朝を詳しく述べた文書が残っている。
すなわち、「津守連吉祥」らを使者として郭務悰の許に発遣し、勅を告げることを宣〔=命令〕したのであるから、 「宣発遣郭務悰等」に「使於」を補って「発遣使於郭務悰等」とする判断はやはり妥当である。 《中臣内臣》 中臣内臣は、藤原鎌足のこと。〈孝徳〉即位前に、「中臣鎌子連」を内臣とした。 〈天智〉八年には「藤原内大臣」となり、私的に仕えた臣が公式に大臣となる。 《沙門智祥》
『三国史記』淵蓋蘇文伝に「蓋蘇文。或云蓋金」。 〈皇極〉元年〔642〕年に建武王を殺して宝蔵王を立てた。 《必為隣咲》 「隣」は唐・新羅であろう。遺言における杞憂は、六年十月条の「高麗大兄男生出城巡国…」の件で現実化する。 《大意》 三月、 百済王(くだらのこんきし)善光王(ぜんこうおう)らを、 難波に居住させました。 星が、京北に隕石となって落ちました。 この春、地震がありました。 五月十七日、 百済の鎮将(ちんしょう)劉仁願(りゅうじんげん)は、 朝散大夫(ちょうさんだいふ)郭務悰(かくむそう)らを遣して、 文書箱と献上品を進上しました。 同じ月、 大紫(だいし)蘇我の連(むらじ)の大臣(おおまえつきみ)が薨じました 【ある文書に、 大臣の薨は五月と注す】。 六月、 嶋の皇祖母(すめみおや)の命(みこと)が薨じました。 十月一日、 郭務悰らに使者を遣して勅(みことのり)することを宣じました。 この日、 中臣(なかとみ)の内臣(うちつまえつきみ)は、 沙門智祥(ちしょう)を遣して賜り物を郭務悰に送らせました。 四日、 郭務悰らに饗を賜いました。 同じ月、 高麗(こま)の大臣蓋金(ごうきん)は、 本国で命を終え、 子らに 「お前たち兄弟は、 和すこと魚水の如くして、爵位を争うな。 もしそうしなければ、必ず隣国に笑われよう。」と言い遺しました。 12目次 【三年十ニ月~是歳】 《郭務悰等罷歸》
「淡海国言」として載るいくつかの話は、大津京への遷都に伴う吉兆伝説を収めたものであろう。 《小竹田史身》
すなわち、小竹田氏の本貫は蒲生郡篠田郷とされる。 その篠田郷について『日本歴史地名大系』は 「篠田庄は当郷に成立…。郷域は「日本地理志料」は日野川流域の現竜王町のほぼ東半部、蒲生町北西端部、近江八幡市の南東端、八日市市の西端部〔図(ア)〕とし、 「蒲生郡志」は近江八幡市の馬淵などを含む南東部から西の琵琶湖付近〔図(イ)〕」として、比定地に二説を挙げる。 ひとまず、坂田郡から蒲生郡に移り住んだ小竹田氏族の中に、身がいたと理解しておく。 《猪槽水》 漢字では、家畜化した豚も「猪」である。和語でもヰカヒベ〔猪飼部:例えば山代之猪甘第179回〕が見えるので、 野生のイノシシから家畜化されても、ゐと言った見られる。 なお、Apton(全農発行)によると、「出土した骨の分析により、弥生時代には家畜化された豚が中国大陸から持ち込まれたのではないかと推定され」るが、 「仏教の普及とともに食肉そのものが徐々に避けられるようになり、平安時代には日本で豚を飼育する文化はほぼなくなりました」という。 平安の前の上代においては、ヰは豚、ヰカヒは養豚〔部〕を表す語として、一般的に存在したわけである。 槽はその餌または飲み水を入れる容器として置かれていたと読める。たまたま入り込んだ籾が発芽することもあろう。 《栗太郡》 古訓は「栗太」に「クロモト」と振るので、平安時代には〈倭名類聚抄〉の「栗本」の表記が一般的だったようである。 《磐城村主殷》 磐城村主については、西河原森ノ内遺跡から 「戸主石木主寸□□呂」と記された木簡が出土している。主寸は、村主(すぐり)と見られている。 『西河原森ノ内遺跡 1985年中主町教育委員会の調査』 (奈良文化財研究所学術情報リポジトリで"一九八五年出土の木簡 滋賀・西河原森ノ内遺跡"を検索) によると、「遺跡北部の木簡出土地点では、平安時代前期、奈良時代、白鳳時代末…の遺構が検出できた」という。 同遺跡のある野洲郡は、栗太郡に隣接している。 《防》
〈天智〉三年の防がその始まりで、次第に制度化したと思われる。 《烽》 烽は『令義解』軍防令に、「四十里を相去く」、「昼夜時を分(わか)たず候(さぶら)ひて望め」などと規定されている (第174回《烽》)。 古訓のトブヒは「跳ぶ火」、ススミは伝達される信号の「進み」であろう。 対馬の烽については、「最も朝鮮半島に近い烽火台が対馬市上県町の千俵蒔山と言われている」との記述を見る (対馬全カタログ「観光」)。 また 対馬市景観計画によると、 「烽火が8カ所に設置された」という(p.30)。 一方、『対馬風土記』19〔対馬郷土研究会;1983〕/「「烽」の調査にあたって」〔対馬文化財調査委員会〕(pp.19~20)によると、 その8カ所とは、国学者藤斎延〔元禄~享保頃〕が『本州武備談』の中で考定したもので、 「北から井口嶽(上県町佐護)、御嶽(同町仁田)、黒蝶山(同町久原)、天神山(豊玉町仁位)、大山嶽(美津町大山)、白嶽(同町洲藻)、荒野隈(厳原町椎根)、竜良山(同町豆酘)をもって八烽としている」という。 しかしその「論拠には不明の事が多く、その説の当否は検証されていない」とのことで、 むしろ「上対馬町西泊の飛嶽、峰町本坂の鳶嶽など飛・鳶と称する地名が数カ所あり、 これらが展望の利く高い所にあることから、あるいは「とぶひ」の遺称ではないか」と述べる。 壱岐の烽については「烽は壱岐に14か所設けられ、その一つは壱岐島最高峰、岳の辻(郷ノ浦町)とされる」という (壱岐市内にある文化財)。 1981年に、対馬から大野城跡までの烽火による伝達の再現実験が行われた。ただしこれは弘安の役から12年後の1294年に、鎮西探題北条兼時が整備を命じた狼煙ルートを想定したものという。 『花火ものがたり』〔江口春太郎;中日新聞本社1982〕によると、 この実験は「昭和56年十一月二十九日に試みられ」、「対馬大山岳で点火…大宰府政庁跡への207km間の連絡になんと25分30秒しか、かからなかった」という。 「西日本新聞の記事を要約すると…実質的にリレーが切れたのは対馬→壱岐間だけ」、 「田村圓澄九州歴史資料館長は『…一時間はかからなかったのではないだろうか。こんな威力があったから中大兄皇子も安心していたでしょう。最も困難な対馬→壱岐間は、早舟を出して海上で狼煙を上げたのかもしれない』と語っていた」という(pp.24~26)。 なお、鏡山→火山、志賀島→油山は目視できなかったが、それぞれ一つ前の神津島、能古島の狼煙が目視できたという。 《水城》
『水城―昭和50年度発掘調査報告書』〔福岡県教育委員会1976〕は、 「今回の調査の目的は、…書紀記載の貯水をどこに、どのように行っていたかを解明するところにあり」 調査の結果、「外堀は堤から連続して存在し、幅約60m。深さ4m以上の水濠であることが判明」(図A)、 「木樋については、従来堤の湿気抜きであろうとする考えに対し、外堀への導水路としての機能が考えられるに至った」(図B)と述べる(p.4)。 土塁、内濠、外濠は三笠川によって断ち切られている。それらと三笠川との関係について、 『遠の朝廷』〔「遺跡を学ぶ76;新泉社2011」〕は、 「中央欠堤部では石組遺構が確認されており、貫流する三笠川の水を堰の上から越流させる「洗堰」と考えられている」とする。 洗堰は、あまり高くせずに一定水位以上は水が越えるようにした堰である。その溢れた水を内濠に導く水路があったと思われる。 土塁の東西には門がある。同書は西門の調査の結果「築堤期であるⅠ期は掘立柱式」、「Ⅱ期は八世紀はじめごろに礎石式」、 「Ⅲ期〔九世紀頃〕の門は、土塁を大きく改修し」、「瓦が出土することから、重層の門が想定される」という。
さて、那の津から内陸に向かう官道は、水城のところで東西の山地の間の隘路を通り抜ける(図C)。 その位置から見て、水城の土塁と濠が、福岡湾から上陸して攻めて来る敵軍に対して大宰政庁を防禦する軍事目的の構造物であるのは明らかである。 《大意》 十二月十二日、 郭務悰(かくむそう)らは辞して帰りました。 同月、 近江の国は言上しました。 ――「坂田郡の人、小竹田(しのだ)の史(ふひと)身(む)〔人名〕の、 飼っていた猪(い)〔=豚〕の桶の水の中から、突然稲が生えました。 身が取って収めたところ、 日々富めるに至りました。 栗太(くるもと)郡の人、 磐城(いわき)の村主(すぐり)殷(おお)〔人名〕の新婦の床の枕元に、 一夜寝た間に稲が生え穂が立ち、 朝になり穂先を垂れて実りました。 あくる日の夜、更に一本の穂が生えました。 新婦が庭に出たところ、 二個の鑰匙(やくし)〔=鍵〕が天から眼の前に落ち、 新婦は取って殷(おお)に与え、殷は始めて富を得ました。」 この年、 対馬(つしま)の島、 壱岐(いき)の島、 筑紫の国などに防人(さきもり)と烽台を置きました。 また、筑紫に大きな堤を築いて貯水し、 その名を水城(みずき)といいます。 まとめ 『善隣国宝記』によると、『海外国記』には書紀以上に詳しい記述が見えるので、書紀は当時の詳細な記録を要約したと見られる。 よって、実際にこの時期に劉仁願が鎮将として滞在していたのは事実と見てよいだろう。『旧唐書』(劉仁軌伝)とも矛盾しない。 なお、書記による要約「宣発遣郭務悰等勅」は意味が通らない。「称筑紫大宰辞実是勅旨」をどう書くか悩んで書き直しているうちに、こうなったのかも知れない。 さて、この時期に郭務悰を遣わした目的は何だろう。 『旧唐書』(劉仁軌伝)を読むと、唐側はなお扶餘勇〔善光王であろう〕が渡海して再び百済復興勢力が乱を起こすことへの警戒心を捨てていない。 よって、郭務悰の任務は倭国内の亡命百済人の動向を探ることであろう。そして持参した牒の中身は、もし善光王を倭国に留めてくれれば、倭国を攻めることなど毛頭考えていないと言った可能性がある。 『海外国記』に見える倭国側の渋い対応は、唐の天子が直接遣わした使者ならまだしも、鎮将が遣わした使者では信用できないということなのであろう。 |
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⇒ [27-06] 天智天皇(3) |