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2024.03.15(fri) [27-03] 天智天皇3 

目次 【二年二月~三月】
《百濟遣達率金受等進調》
二年春二月乙酉朔丙戌。
百濟、
遣達率金受等進調。
二年…〈北野本〔以下北〕二年フタトセ金受コン シユ等進調 ル
…[名] (呉音) コム。(漢音) キム。
二年(ふたとせ)春二月(きさらき)乙酉(きのととり)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)〔二日〕
百済(くたら)、
達率(たつそつ)金受(きむじゆ)等(ら)を遣(まだ)して進調(みつきたてまつる)。
新羅人、
燒燔百濟南畔四州、
幷取安德等要地。
焼燔…〈北〉焼-燔 ヤク  クニ安德 アム トク ヌミ- トコロ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 ノ ノ ノ ノクニヲ カ メミノトコロヲ
ぬみ…[名] 要衝。
新羅(しらき)の人、
百済(くたら)の南の畔(ほとり)の四つの州(くに)を焼燔(や)きて、
并(あはせ)て安徳(あんとく)等(ら)の要(ぬみ)の地(ところ)を取る。
於是、
避城去賊近、
故勢不能居。
乃還居於州柔、
如田來津之所計。
避城…〈北〉 サシ アタ州柔 ツ ヌ。 〈閣〉不能 コト田來 カ ノ
避城(へさし)賊(あた)より去(さ)ること近し、
勢(いきほひ)の故(ゆゑ)に居(を)ること不能(あたはず)。
乃(すなは)ち還(かへ)りて[於]州柔(つぬ)に居(を)りて、
田来津(たくつ)之(の)所計(はかれる)が如し。
是月。
佐平福信、
上送唐俘續守言等。
俘続守言…〈北〉 トリコ ソク シウ ■ン。 〈閣〉
是(この)月。
佐平(さへい)福信(ふくしん)、
唐(たう、もろこし)の俘(とりこ)続守言(しよくしうげん、ぞくしゆごん)等(ら)を上送(おくりたてまつ)る。
三月。
遣前將軍上毛野君稚子
間人連大蓋
中將軍巨勢神前臣譯語
三輪君根麻呂
後將軍阿倍引田臣比邏夫
大宅臣鎌柄、
率二萬七千人打新羅。
前将軍上毛カウツケキミ稚子 ワカコ  間人 ハシヒトノ ムラシ オホ フタ 中将軍巨 ソヒノイクサキミ コ セノ カム サキノヲン譯語 ヲサ ワノ キミ根麻呂ネマロ比羅夫大宅オホヤカノ ヲン 鎌柄 カマ ツカ
〈閣〉。 〈兼右本〉稚-ワカキ/ワクヲサ-[切]└イ本上ナ
〈北:〈天智〉斉明七年マヘノ将-軍 イクサノ キミ
稚子…「愷那能倭倶吾」(けなのわくご)(〈継体〉二十四年歌謡)〔毛野の稚子と解されている〕
〈閣/〈允恭〉〉アサワク宿スクネノ天皇
上毛野君…上代語では「かみつけの」と訓むべきか。
三月(やよひ)。
[遣]前(まへ)の将軍(いくさのかみ)上毛野(かみつけの)の君稚子(わくご)、
間人(はしひと)の連(むらじ)大蓋(おほふた)、
中(そひ)の将軍巨勢(こせ)の神前(かむさき)の臣(おみ)訳語(をさ)、
三輪(みわ)の君(きみ)根麻呂(ねまろ)、
後(しりへ)の将軍阿倍(あべ)の引田(ひけた)の臣(おみ)比邏夫(ひらふ)、
大宅(おほやか)の臣(おみ)鎌柄(かまつか)をつかはして、
二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)しめて新羅(しらき)を打たしむ。
《南畔四州》
 「百済南畔四州」の特定しようとすると、『三国史記』地理志四に載る大量の地名から大部分後の地名を推定して、現在の位置を決定する作業が必要になる。 そのようにしてこの「南畔四州」を見出そうとした研究を、今のところ見つけられない。
《安徳等要地》
 『三国史記』〈新羅本紀〉には、文武王三年〔663;天智二年〕二月に「徳安城」が見え、時期は一致する。 『三国史記』地理志四には「都督府一十三県:…得安県、徳近支〔都督府の十三県のひとつが徳安県。もとは徳近支といった〕とある。 「書紀は徳安を安徳に作る」とは、広く言われているところである。
 『六国史』巻二〔佐伯有義;朝日新聞社1940〕は 「三国史記に拠るに〔けだ〕し徳安の誤ならん」として、その「徳安県」を「忠清南道恩津郡なるべし」と述べる。 恩津郡は、1917年にいくつかの周辺の郡と統合して論山郡となった。現在は論山市『日本の時代史3』のも、その位置に置いている。
《去賊近》
 「去賊」とは、「敵との距離を計るに」という意味である。 用例には、『三国志』魏書/曹仁伝に「将其麾下壮士数十騎出城。去賊百余歩〔曹仁は麾下の壮士数十騎を率いて城を出た。賊から去ること百余歩〕などが見える。
《続守言》
 〈斉明〉七年〔661〕に「日本世記云。十一月。福信所獲唐人続守言等至于筑紫」とある。 今回は663年二月である。両者の辻褄を合せるなら、筑紫にしばらく居て、一年四カ月後に都に移ったということか。 しかし、中大兄皇子は筑紫長宮で軍政を掌っていたから理屈は合わず、やはり続守言の到来時期については複数説があったのであろう。
《上毛野君稚子》
上毛野君稚子  上野国の古代からの大族。 豊木入日子彦狭嶋王を祖とし(《記から書紀への発展》)、 独立性の高い地域氏族であった(〈安閑〉元年《就求授於上毛野君》)。 緑野屯倉は、その監視のために設置されたと見られる。〈斉明〉四年《上毛野国》参照。
 稚子には高貴な家の子の称のイメージがあり、訓みはここ以外はワクゴが定着している。上毛野君稚子はここだけ。
間人連大蓋  間人連は中臣氏の族(〈推古〉十八年)。 白雉五年中臣間人連が唐に派遣された。 間人連御廐〈斉明〉三年に新羅に派遣された。 「小錦中間人連大蓋」は〈天武〉四年に神事のために遣わされた。なお、〈推古〉十八年に「間人連塩蓋」というよく似た名前の人物が見える。
巨勢神前臣譯語  〈孝元〉段(第108回)に、「建内〔武内〕宿祢之子許勢小柄宿祢許勢臣軽部臣之祖也」とある。
 〈姓氏家系大辞典〉には、「巨勢神前 コセノカンザキ:巨〔臣の誤り〕姓にして巨勢氏の族なり」、 「巨勢臣:高市郡巨勢郷より起りたる氏なり」、「神崎 カンザキ1巨勢神前臣:巨勢氏の庶流にして、近江国神崎郡より起る」とある。 訳語はここだけ。
三輪君根麻呂  三輪君は大田田根子を祖とし、大神神社に奉斎する(〈雄略〉即位前4)。 三輪色夫大化元年八月大化五年四月三輪君大口大化二年三月に見える。根麻呂はよくある名前で、子年生まれか。三輪君根麻呂はここだけ。
阿倍引田臣比邏夫  〈斉明〉四年是歳阿部引田臣比羅夫参照。 〈斉明〉七年七月是月に百済救軍の「後将軍」を務める。
大宅臣鎌柄  大宅臣は〈倭名類聚抄〉{大和国・添上郡・大宅郷}が発祥の地か。〈推古朝〉に大宅臣(いくさ、人名)が新羅を征討した(〈推古〉三十一年)。 鎌柄はここだけ。
《率二万七千人打新羅》
 百済滅亡から白村江までの全般的な流れは、書紀と新旧唐書、三国史記で概ね一致する。
 ところが、この新羅南岸を攻めたと思われるの戦闘の記事は、書紀だけにしか見えない。 この作戦自体は、高句麗、錦江方面に軍を送っていた新羅の背後を衝くものであり得なくはないが、 主戦場の泗沘方面とは離れた場所に二万七千もの軍勢を送るのは理解に苦しむ。
 〈新羅本紀〉が百済侵攻と書くときには倭軍が含まれていたりするのだが、百済が南部を攻めたという記事はないから、史実であること自体が疑われる。
 とは言え、書紀には多くの将軍名及び人数が明記されているから、何らかの記録は存在したと思われる。
 ひとつの考え方として、天智二年〔663〕から一回り前の「癸亥年」の記録としてみたらどうであろうか。
  …当時の記録において年を十干十二支で表記するのは一般的で、その一例が『伊吉連博徳書』(〈斉明〉六年七月)に見える。
 その603年は、〈推古〉十一年にあたるが、そこには新羅征討の記事が実際に見える。
 十一年二月:「征新羅大将軍来目皇子薨之」。
 十一年四月一日:「更以来目皇子之兄当麻皇子、為征新羅将軍」。
 十一年七月三日:「当麻皇子、自難波発船。」…〔妻の死〕…「当麻皇子返之、遂不征討」。
 来目皇子は大きな方墳が残る有力皇子なので、大軍勢を率いたと思われる。 しかし、この記事以外は記述が空っぽであるから、ここに「率二万七千人打新羅」をはめ込むことができそうである。
 ところが、ここには「阿倍引田臣比邏夫」、「間人連大蓋」という〈斉明朝〉から〈天武朝〉の名前(前項)があることが、早くもこの仮説を打ち砕く()。
 それでも、この説を棄てるのはまだ早いように思えるので、603年説を前提として筋書きを組み立ててみよう。 まず、来目皇子を「大将軍」と称したことは、その下の前将軍中将軍後将軍と符合する。 そのは、時間的な順番と見る。 「三月」は「前将軍」隊が発った月とする。
 「前将軍」隊は先発隊として三月に出航し、六月に「新羅沙鼻岐奴江二城」を取る戦果を挙げた。
 「中将軍」隊は、七月に後任〔大〕将軍の「当麻皇子」と共に発ったが、皇子の妻が薨じたことにより引き返した。
 「後将軍」隊の派遣はとうとう中止された。だから「中将軍」と「後将軍」が挙げた戦果は載らない。
 このように筋書きを組み立ててみるとなかなかうまく行くが、上記()により書紀は紛れもなく663年のこととして書いている。
 ではあるが、〈推古紀〉には額田部連比羅夫という人物が登場して、十六年八月に唐客(裴世清)を迎えて礼辞を告げ、十八年十月に新羅客を迎えて荘馬(かざりうま)の長を務め存在感は大きい。 よって「額田部連比羅夫⇒阿倍引田臣比邏夫」の書き換えがあったかも知れない。 併せて「間人連塩蓋⇒間人連大蓋」、「大宅臣軍⇒大宅臣鎌柄」の書き換えも考えられる。ただ、これらは改竄が過ぎるので、確信は全く持てない。
 それでも、「打新羅」自体は、663年より603年の方が、より当てはまる。 仮に阿倍比邏夫間人連大蓋らの派遣先が「新羅」ではなく、実際には主戦場の泗沘方面だったとすれば納得できる。
 ただ、ここで一つ注目されるのが〈新羅本紀〉663年2月に見える金欽純による「居列城」攻撃である。その所在地といわれる慶尚南道巨昌郡は、新羅領と言ってもよい位の深い位置である。 この戦闘の直前までは、百済残党側が押さえていたことになる。そこに倭国軍が参加していたとすれば、百済の州柔城方面から入ったと見るのが妥当であろうが、 居列城周辺地の攻防を「伐新羅」と表現することは可能であろう。 下述沙鼻」の候補の一つである陝川も近い(7世紀の朝鮮半島)。
 このように、「伐新羅」と言い得る一定の条件もあるが、基本的に局地戦である。よって606年癸亥の「打新羅」の記録が、やはりここに混ざっていると考えてもよいのではないだろうか。
《大意》
 二年二月二日、 百済は、 達率(たつそつ)金受(きんじゅ)らを遣わして進調しました。
 新羅人は、 百済の南の辺の四州を焼き、 併せて安徳(あんとく)などの要地を取りました。 避城(へさし)は賊敵まで近く、 その勢いの故に居すことができませんでした。 よって州柔(つぬ)に還って居し、 田来津(たくつ)が慮った通りになりました。
 この月、 佐平(さへい)福信(ふくしん)は、 唐の俘虜続守言(しよくしゅうげん)らを送り献上しました。
 三月、 前の将軍上毛野(かみつけ)の君稚子(わくご)、 間人(はしひと)の連(むらじ)大蓋(おおふた)、 中(そい)の将軍巨勢(こせ)の神前(かんざき)の臣訳語(おさ)、 三輪(みわ)の君(きみ)根麻呂(ねまろ)、 後(あと)の将軍阿倍(あべ)の引田(ひけた)の臣(おみ)比邏夫(ひらふ)、 大宅(おおやか)の臣(おみ)鎌柄(かまつか)を遣わして、 二万七千人を率いて新羅を撃たせました。


目次 【二年五月~六月】
《犬上君闕名馳告兵事於高麗而還》
夏五月癸丑朔。
犬上君【闕名】
馳告兵事於高麗而還、
見糺解於石城。
糺解、仍語福信之罪。
五月…〈北〉五月 サツキ ツ カタル 
石城…〈閣〉セキ-サシ私。 〈釈紀〉石城セキサシ私記曰。石字音讀。城讀左之
夏五月(さつき)癸丑(みずのとうし)の朔(つきたち)。
犬上君(いぬがみのきみ)【名を闕(か)く】
兵(つはもの)の事を[於]高麗(こま)に馳(は)せ告(つ)げて[而]還(かへ)りて、
糺解(きうげ)と[於]石城(せきさし)に見(まみ)ゆ。
糺解、仍(よ)りて福信(ふくしん)之(が)罪を語りつ。
六月。
前將軍上毛野君稚子等、
取新羅沙鼻岐奴江二城。
沙鼻岐奴江…〈閣〉新羅
〈釈紀〉沙鼻岐奴江サヒキヌエフタツノサシ
六月(みなづき)。
前(まへ)の将軍(いくさのかみ)上毛野(かみつけの)の君(きみ)稚子(わくご)等(ら)、
新羅(しらき)の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)二城(ふたつのさし)を取る。
百濟王豐璋、
嫌福信有謀反心、
以革穿掌而縛。
時、難自決不知所爲、
乃問諸臣曰、
「福信之罪既如此焉、
可斬以不。」。
謀反心…〈北〉謀-反心 キミカタフクル カハ穿掌而縛時 ユハフ 自- サタメ  -爲セムスヘ/向イ諸臣/可斬以不於 イナヤ
〈閣〉所- セムスルヘ。 〈兼右本〉謀-反キ   フクルキミカタフケンユハレリユハフ所-為センスヘ 
きらふ…[他]ハ四 嫌う。 〈続紀〉天平神護元年八月詔〔34〕必法乃末爾末仁奈比給岐良〔必ず法(のり)のまにまに罪なひ給ひ、きらひ給ふと〕
ゆはふ…[他]ハ四 しばる。ユフ(四段)の未然形+動詞語尾フ(四段)。
せむすべ…[他+助動+名] サ変動詞の未然形+推量+形式名詞。
 (万)0207「将言為便 世武為便不知尓 いはむすべ せむすべしらに」。
百済(くたら)の王(わう、こきし)豊璋(ほうしやう)、
福信(ふくしん)の謀反心(そむくこころ)を有(もてあること)を嫌(きら)ひて、
革(かは)を以ちて掌(たなうら)を穿(うが)ちて[而]縛(ゆは)へり。
時に、自(みづか)ら決(さだ)め難(がた)くて所為(せむすべ)不知(しらず)、
乃(すなは)ち諸(もろもろ)の臣(おみ)に問ひて曰へらく、
「福信之(が)罪既(すで)に如此(かく)あり[焉]、
斬(き)る可(べ)きや以不(いな)や。」ととへり。
於是、
達率德執得曰
「此惡逆人不合放捨。」。
福信、卽唾於執得曰
「腐狗癡奴。」。
王、勒健兒斬而醢首。
達率百済の位階二品。
徳執得…〈北〉達率 タツ ソツ德執得 トク シツ トク悪逆 アシキ  不合放-捨 ユルシ ツハキハイカケ執得 シツ トク腐狗 クチ イヌ カタクナ ヤツコ王勒健兒 コキシ トゝノヘ チカラヒト斬而 スシス  
〈閣〉スシニススシス カウヘヲ。 〈兼右本〉醢-首カシラヲスシキ/カウヘヲスシニス
ちからひと…力のある人。力士。警護の人。
つはく…[自]カ四 唾を吐く。
つはき…[名] 唾液。〈時代別上代〉「名義抄にはハに清点があり、訓点類にはツワキという語形も見え、古くはハは清音であったようである」。
…[動] 馬に勒(ろく)をつける。制御する。(古訓) くつはみ。あらたむ。つとむ。
…[名] ひしお。肉を麹、塩、酒などにつけたもの。[動] 殺して塩漬けにする刑。 〈倭名類聚抄〉「:和名之々比之保〔宍-干-塩であろう〕
ひしほ…[名] 一種の調味料。大豆・小麦を炒って食塩水に漬け、天日干しして作る。
すし…[名] 寿司。
於是(ここに)、
達率(たつそつ)徳執得(とくしつとく)の曰(い)ひしく
「此(この)悪逆人(あしきひと)放捨(ゆるしすつること)に不合(あはじ)。」といひき。
福信、即(すなは)ち[於]執得(しつとく)に唾(つは)きて曰へらく
「腐狗(くされるいぬ)痴(おろかなる)奴(やつこ)とそ。」といへり。
王(わう、こきし)、健児(ちからひと)を勒(をさ)めて斬らしめて[而]首(かしら)を醢(ひしほす)につけり。
《犬上君》
7世紀の朝鮮半島『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕p.65に加筆
犬上君  古事記によると「倭建命の子稲依別王犬上臣建部君等」、母は「意富多牟和気の女、布多遅比売」、 「意富多牟和気近淡海〔近江〕安国造」とされる(第135回)。 〈姓氏家系大辞典〉は、犬上郡の式内多何神社〔=多賀大社〕を犬神君の氏神と推定し、同社が「大いに栄えたるは、 …犬神君家が繁栄を〔ほしいまま〕にせし結果にあらざるか」と述べる。
《糺解》
 ここでは、豊璋が「糺解」の名で登場する。 〈斉明〉七年四月条では、「糺解」が名前ではない可能性を見た。 ここでは出典となった犬上君の家伝などが、「糺解」が名前だと考えられるようになった後に書かれた可能性も、理屈の上では残る。
《石城》
 石城は、「忠清南道付与地域の旧地名。本来百済の珍楽山県だったが、686年(新聞王6)石山と改め、757年(慶徳王16)扶余軍の永賢とした」、 「地名由来は百済の時、ここが扶余の外郭地帯となり、軍事上・交通上の要所で、石で積んだ石城が続いた」こと。 「1895年に郡」、「1914年に論山市城東面と扶余郡石城面」に再編された(韓国民族文化大百科辞典)。
 犬上君が石城に帰還したと書かれることから、高句麗への出撃拠点が扶余方面であったことが分かる。 これは、高句麗救軍の加巴利浜の比定地が扶安郡であったことと合致する (〈天智〉斉明七年)。 よって、犬上君の経路は、「新羅沙鼻岐奴江」の件よりはずっと現実感がある。
《沙鼻岐奴江》
 新羅の地名という「沙鼻岐奴江」については、 「沙鼻・岐奴江か、沙鼻岐・奴江か未詳」と言われる (
『「日本書紀」記載の朝鮮固有名表記字の研究』〔柳玟和;1991〕。 現在も、この状況から進展していない。
 沙鼻の比定については、例えば 『古代朝鮮文化を考える(3)』〔古代朝鮮文化を考える会;1988〕は、 「尚州(古名沙伐)」、「梁山(古名サブ)」を挙げる(右図)。 そして「慶尚道の新羅領であって、百済救援とは全く関りのない土地」と述べる。 上述したように二万七千人新羅603年のことだと言い切ってしまえばこのような戸惑いは一掃できるが、金欽純による居列城攻撃を考えると「全く関りない」とまでは言い切れない。
 ここで、603年前後の新羅の情勢を見てみよう。〈推古〉八年条で見た〈百済本紀〉・〈新羅本紀〉には次のようにあった。
602年八月:百済軍が阿莫城を攻めたが、新羅が守り切った。
603年八月:高句麗が北漢山城を攻め、新羅は王みずから抗戦した。
606年:逆に新羅が百済の東の鄙を攻めた。
 倭国軍のことは何も書かれていないが、当時倭国による新羅攻撃の動きは活発で、 602年には先発隊が渡海して百済軍に加わって参戦した可能性があると見た。 603年には書かれてはいないが、実際には百済との戦闘があったことは考えられ、やはり倭国軍が加わっていたかも知れない。
 〈新羅本紀〉602年にある阿莫城は、「韓国民族文化大百科辞典」によると、 全羅北道南原市亜永面城里にあたる。 その阿莫城の位置から見て、沙鼻の推定地が、(7世紀の朝鮮半島)の候補地のどれであったとしても、 この時期の戦場として考え得る。
 これを見ると663年のところに書かれた「二万七千人打新羅」には、やはり603年のことが混入しているように感じられる。
沙鼻の候補地のうち『日本の時代史3』が挙げるうちの一つは陝川にあたるが、その根拠は同書では説明されていない。 陝川はむしろ多羅の候補地として、しばしば挙げられている。
《福信有謀反心
 豊璋は次第に福信と対立し、最後は殺したという事実経過は海外資料と一致する。
 『旧唐書』などでは、その時期は〈天智〉元年〔662〕七月から、〈天智〉二年〔663〕九月までのいつかである。 書紀では〈天智〉二年六月〔663〕条に置かれる。
 唐は、真っ向から歯向かった敵の将であっても、見どころがあれば唐の将軍に取り立てられていて福信はそれを知っていたと考えられる。 福信の見立てでは百済が勝利する見込みはなく、新羅に吸収されるよりも唐の羈縻きび政策下で地方権力を請け負うことが現実的であると判断していたと思われる。 対照的に、道琛豊璋は徹底抗戦派であった。
 その裏に唐が仕組んだ分断工作があったことは、当然考えられる。 『旧唐書』百済伝の「仁軌作書、具陳禍福、遣使諭之」がまさにそれであろう。 道琛がその書を受け取らずに使者を追い返したことを知った福信は、何ということをしてくれたのだと怒って殺したのである。
 攻める側からの謀略的な分断工作は、古今東西の常道である。 例えば大坂夏の陣では、淀殿が家康との交渉を担った片桐且元を追放したことを以て講和の拒絶と見なされ、家康は攻撃の火蓋を切った。 福信の場合はゆくゆくは唐に取り立てられる見通しがあったが、豊璋福信を殺したことによって、有力将軍を失った百済残軍の弱体化を見切って大攻勢をかけたと見られる。
 そこへ倭国が送った船師ふないくさは、タイミング悪く飛んで火に入る夏の虫となった。従って、福信を殺してから白村江の戦いの八月〔『新唐書』によれば九月〕までは、それほど間は空いていないと考えられる。 すると、書紀が福信殺害の時期を「六月」と述べるのは、妥当と思われる。
…例えば、百済再興のために最後は孤軍奮闘した黒歯常之は、投降後将軍として唐に取り立てられた。 契苾何力もまた、鉄勒から唐に内応して有力将軍となった。
《醢首》
 「」は、麹で発酵するさせて作るから酉偏が付くと考えられる。敵の首を保存する場合は、塩漬けも酢漬けも考えられる。 その目的は、基本的に遠征先で得た首を本国に送って論功行賞を得るためである。
 この場面では、『旧唐書』百済伝によれば、福信の唐への内通を扶余豊は疑っていたと思われるので、福信の首をこれ見よがしにに送って徹底抗戦の遺志を示したと見るのが妥当か。 ただし、書紀では豊璋は福信を殺すことをしばらく躊躇ためらっており、功績の故に逡巡したとも読める。
 その場合、首は倭国に送られて遺族の許に返されたか。これは行き違いはあったが功績は認めるという意思表示となる。 その甲斐あってか、遺族の鬼室集斯〔福信の子?〕は〈天智〉十年に「学識頭」に取り立てられている。
《大意》
 五月一日、 犬上君(いぬがみのきみ)【名を欠く】は 兵事を高麗(こま)に馳せ告げて還り、 糺解(きゅうげ)と石城(せきさし)で会いました。 糺解は、そのときに福信の罪を語りました。
 六月に、 前の将軍上毛野(かみつけ)の君稚子(わくご)たちは、 新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)の二城を取りました。
 百済王豊璋(ほうしょう)は、 福信に謀反の心があることを嫌い、 手のひらに穴をあけて革ひもを通して縛りました。
 その時、自分では決め難く、どうしてよいか分からないので、 諸臣に 「福信の罪は既にかくの如しである。 斬るべきか否か。」と問いました。
 すると、 達率(たつそつ)徳執得(とくしつとく)が 「この悪逆な人物は、放免に値しない。」と言うと、 福信は、即座に執得に唾を吐きかけて 「この腐り犬の愚かな奴め。」と言いました。 王(こきし)は、護衛人を勒(ろく)して斬らせ、首を醢(ひしお)漬けにしました。


【〈天智〉二年前半の半島情勢】
 新旧唐書と三国史記を通して、龍朔二年〔662=天智元年〕七月戊子〔一日〕の孫仁師の熊津道への派遣から 龍朔三年〔663=天智二年〕九月戊午〔八日〕の白村江の戦闘(何れも『新唐書』による日付)の間には日付が付されていない。
 よって、扶餘豊が福信を殺した時期は、これ以上は絞り切れない。
〈百済本紀〉龍朔二年〔662=天智元年〕七月~麟德二年〔665=天智四年〕の期間内。
時、福信既専権、与扶餘豊寖相猜忌。
福信称疾臥於窟室、欲豊問一レ疾執-殺之
豊知之、帥親信-殺福信
時に、福信既にはかりごとを専らにして、扶餘豊やうや〔=漸く〕あひ猜忌さいき〔=ねたみ嫌う〕す。
福信やまひひて窟室くつしつせ、ほうの疾を問(とぶら)ふを〔=待〕ちてこれを執り殺さんとす。
豊、之を知りて、親信しんしんひきゐて福信を掩殺えんさつ〔=不意に殺す〕せり。
● 窟室は地下室、あるいは洞窟の住処。 ● 親信は人名。他には見えない。
〈旧唐書〉巻199上 百済伝 龍朔二年〔662=天智元年〕七月以後の期間
時福信既專其兵権、与〔扶?〕餘豊漸相猜弐。
福信称疾臥於窟室、将扶餘豊問一レ疾謀上レ-殺之
扶餘豊、覚而率其親信-殺福信
〔その時、福信は既にその兵権を独占し、扶餘豊と次第に猜弐〔=猜忌〕を抱いた。
福信は病を称して窟室で臥せ、扶餘豊が病を見舞に来るのを見計らって襲い殺そうと謀った。
扶餘豊は、それに気づき、親信を率いて福信を掩殺した。〕
● 百済本紀は、旧唐書百済伝をかなり用いている。
〈新唐書〉列伝145 東夷 龍朔二年〔662=天智元年〕七月以後の期間。
福信顓〔=専〕国、謀豊。
豊率親信福信、与高麗、倭連和。
〔福信は国を独占し、扶餘豊を殺そうと謀った。
 扶餘豊は親信を率いて福信を斬り、高麗国・倭国と連合した。〕
● 『旧唐書』に比べると、要点のみである。ただし、ここでは福信が百済と高句麗・倭の連合の妨害者として描かれ、福信が唐と既に内通していたことを匂わせている。
〈新羅本紀〉第六/文武王三年 癸戌〔663=天智二年〕正月~五月(1) 
三年春正月。作長倉於南山新城。築富山城。
二月。欽純、天存領兵、攻取百済居列城、斬首七百余級。
又攻居勿城、沙平城降之。又攻徳安城、斬首一千七十級。
夏四月。大唐以我国為鷄林大都督府、以王為鷄林州大都督。
五月。震霊廟寺門。
〔二月。欽純、天存は兵を率いて、百済の居列城を取り、斬首七百余級。
 また居勿城・沙平城を攻めこれを降す。また徳安城を攻め、斬首千七十級。
 夏四月。大唐は我国を鷄林大都督府とし、王を鷄林州大都督に任命した。
 五月。霊廟寺門に地震あり。〕
● 以下「韓国民族文化大百科辞典」による。
 金欽純:「663年3月〔グレゴリオ暦であろう〕には天存とともに居列城(今の慶尚南道居昌)を攻撃した。
 居昌郡:「7世紀初頭には両国が正面からぶつかり、争奪戦を展開。現在この地方に残っている諸山城はこの時のものと言われる。
 沙平城、居勿城:「正確な位置についてはまだ議論がある。居列城と徳安城の位置と合せて考慮すべき。
 〈新羅本紀〉の文章を見れば、沙平城・居勿城は、居列城と徳安城を結ぶ線上にあると見るのが妥当であろう。
● この後、福信らが扶餘豊を迎えるところまで遡って昔のことを書く。 ただし、餘豊が福信を殺す場面と白村江の会戦の記事は抜けている。

まとめ
 書紀における豊璋の人物像は「お公家様」然としていて、それは倭国で貴族的生活を送った故と読める。 それが、武将として実戦をこなしてきた福信との間で行き違いを生んだことを示唆する。
 ただ実際のところは、唐の羈縻きび政策や直前まで敵対していた将を取り立てたことを知っていて、 リアリストとして柔軟に戦略を練る福信と、一切の妥協を認めず徹底抗戦に凝り固まった豊璋との間の対立によるものと考えられる。 豊璋の感情は、復興勢力に満ちていたものでもあろう。それが憎しみとなり、有能な将を処断してしまった。結果は周知の通りである。
 さて、「率二万七千人打新羅」には違和感があった。その解釈について判断は揺れ動いたが、最終的には書紀は干支違いを含めて広いところから出典を得て、それらを組み合わせた結果がこの記述になったと見る。 実際には、居列城の辺りまで戦闘地域であったということであろう。



2024.03.24(sun) [27-04] 天智天皇4 

目次 【二年八月】
《新羅謀直入國先取州柔》
秋八月壬午朔甲午。
新羅、以百濟王斬己良將、
謀直入國先取州柔。
八月…〈北野本〔以下北〕-月ハツキ
良将…〈北〉良-将 イク■■キミ
〈内閣文庫本〔以下閣〕 カ良-将 イクサノキミ ヲ ニ テ ヲ ムコトヲ
〈兼右本〉 ンヿヲ州◱-柔◰ツヌ
秋八月(はつき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として甲午(きのえうま)〔十三日〕
新羅(しらき)、百済王己(おの)が良(よ)き将(しやう)を斬(き)りてあるを以ちて、
国に直(ひた)入(い)りて先(ま)づ州柔(つぬ)を取らむと謀(はか)る。
於是、百濟知賊所計、
謂諸將曰、
「今聞、
大日本國之救將廬原君臣、
率健兒萬餘、
正當越海而至。
願、諸將軍等應預圖之。
我欲自往待饗白村。」
知賊所計…〈北〉○諸謂イ ノ原- 无イ君臣率健-兒 ユニシ 預圖アラカシメ  ハ之我欲自往待 アヘム白-村ハ スキ スキ 
〈閣〉 テ○諸謂イ 大日本
〈釈紀〉廬原イホリハラノ君臣キミノヲン白村ハクスキ私記曰。白字音讀。村讀須支
〈兼右本〉健-兒チカラヒト自-往[テ]-アヘンハク◲-スキ[ニ][句]
〈通証〉時饗時活板作
…[動] 待遇を整えて客をもてなす。
於是(ここに)、百済(くたら)〔の王(わう、こにきし)〕、賊(あた)の所計(はかりごと)を知りて、
諸(もろもろ)の将(しやう)に謂(かた)りて曰へらく、
「今聞く、
大日本国(やまとのくに)之(の)救(すくひ)の将(しやう、いくさのかみ)廬原君(いほはらのきみ)の臣(おみ)、
健児(ちからひと)万余(よろづたりあまり)を率(ゐ)て、
正(まさに)[当]海(わた)を越えて[而]至らむとす。
願はくは、諸(もろもろの)将軍(しやうぐん、いくさのかみ)等(ら)[之]図(はかりごと)を預(あづか)る応(べ)し。
我(われ)、[欲]自(みづから)往(ゆ)きて白村(はくすき)に待饗(あへ)せむとす。」といへり。
戊戌。
賊將至於州柔、
繞其王城。
大唐軍將率戰船一百七十艘、
陣烈於白村江。
繞其王城…〈北〉カクム王城コキシ サシ陣-烈 ツラサレリ於白村江
〈閣〉王城 コムサシ私コキシ サシヲ戦舩 イクサノフネ陣-烈 ツラナレリ。 〈釈紀〉王城。コキシノサシコムサシ私記説 〈兼右本〉王城コン サシコキシサシ
…[形] はげしい。 (古訓) たけし。つらなる。はけし。
戊戌(つちのえいぬ)〔十七日〕
賊(あた)の将(しやう)[於]州柔(つぬ)に至りて、
其の王(わう)の城(さし)を繞(かく)む。
大唐(だうたう、もろこし)の軍将(ぐんしやう)戦船(ふないくさ)一百七十艘(ももあまりななそふな)を率(ゐ)て、
[於]白村(はくそん、はくすき)の江(え)に陣(つらぬること)烈(いか)し。
戊申。
日本船師
初至者與大唐船師合戰。
日本不利而退、
大唐堅陣而守。
日本船師…〈北〉日本船 マツ マツ所至者-利マケテ陣而 ル
〈閣〉日本マツ 師初イヒキヰ イタル不-利或 シルシナクテ マケ   ツラ
〈釈紀〉初師マツヒキヰ至者イタルモノ堅 カタウシテツラヲ。 〈兼右本〉船-師マツ○至師イヒキイナ イタル
戊申(つちのえさる)〔二十七日〕
日本(やまと)の船師(ふないくさ)
初めて至れ者(ば)大唐(だいたう、もろこし)の船師(ふないくさ)与(と)合ひて戦(たたか)ふ。
日本(やまと)不利(かがなく)て[而]退(ひ)きて、
大唐(だいたう、もろこし)陣(つら)を堅(かた)めて[而]守(もり)す。
己酉。
日本諸將與百濟王
不觀氣象而相謂之曰、
「我等爭先彼應自退。」
更率日本亂伍中軍之卒、
進打大唐堅陣之軍、
大唐便自左右夾船繞戰。
不観気象…〈北〉氣象 アルカタチ伍  ツラ卒進 ヒトゝモ 
〈閣〉-伍ツラ 中-ソヒノ軍之ヒトゝモヲ
〈釈紀〉氣象。ケハヒ或説アルカタチノ日本ヤマトノ伍中軍之卒ツラソヒノイクサヒト。 〈兼右本〉左-右 モトコ 
気象…①大気中の現象。②ようす。
もとこ…[名] 側近〔〈兼右本〉で「左右」への訓は誤用〕
己酉(つちのととり)〔二十八日〕
日本(やまと)の諸(もろもろ)の将(しやう)と百済王(くたらわう、くたらのこにきし)与(と)、
気象(あるかたち)を不観(みず)て[而][之]相謂(かたら)ひて曰はく、
「我等(われら)先を争(きほ)はば彼(かれ)自(みづから)退(ひ)く応(べ)し。」といひて、
更に率(ゐ)てある日本(やまと)、伍(つら)を乱(みだ)してある中(うち)に、
軍之卒(いくさのひとども)大唐(だいたう、もろこし)が陣(つら)を堅之(かためてある)軍(いくさ)に進み打ちて、
大唐便(すなはち)左右(ひだりみぎ)自(よ)り船を夾(はさ)みて繞(かく)みて戦(たたか)ふ。
須臾之際官軍敗績。
赴水溺死者衆、
艫舳不得𢌞旋。
朴市田來津、
仰天而誓
切齒而嗔、
殺數十人、於焉戰死。
須臾之際…〈北〉敗-績ヤフレヌ艫舳 ヘ トモ不得𢌞旋メクラスチノ田来津タクツ クヒ■キ コ■■ 
〈閣〉須-トキノマ臾之際廻-旋メクラスコトクヒシハテ於-焉 コゝニ  戦-死
〈釈紀〉須臾之トキノトキノマニホトニ。 〈兼右本〉クヒシハリ
須臾…[仏教語] 時間の単位。また極めて短い時間。
…[自] (古訓) おもむく。ゆく。
切歯…歯ぎしりをする。
くひしばる…[自]ラ四 歯を噛みしめる。『類聚名義抄』「:クフ カム ハム クヒシハル カミナラス ツラナル」。 「:キル モツ クヒシハル」。「:…クヒシハル…」。
…[動] いかる。
…[代名] これ。
須臾(しゆす)之(の)際(きは)官軍(すめらみくさ)敗績(やぶ)れぬ。
水に赴(おもぶ)きて溺(おぼほ)り死ぬる者(ひと)衆(おほ)し、
艫(とも)舳(へ)廻旋(めぐらすこと)不得(えず)。
朴市田来津(えちのたくつ)、
天(あめ)を仰(あふ)ぎて[而]誓ひて、
切歯(くひしば)りて[而]嗔(いか)りて、
殺すこと数十人(あまたとをたり)、於焉(ここに)戦ひに死にき。
是時、
百濟王豐璋、
與數人乘船逃去高麗。
逃去高麗…〈北〉 ニケ。 〈兼右本〉ア -人
是(この)時、
百済(くたら)の王(わう、こにきし)豊璋(ほうしやう)、
数人(あまたのひと)と与(とも)に船に乗りて高麗(こま)に逃げ去りつ。
《斬己良将》
 古訓は「良将」を「イクサノキミ」と訓むが、書紀は有能な将を斬ったことが敗北を招いたと見たことによって「」と記述したのは明らかである。 よって「」は訓読すべきである。
《謀直入国先取州柔》
 「直入国先取州柔」は、百済本紀で「仁軌」が他の城には捉われず、一目散に周留城を攻めると宣言したことに対応する。 よって、やはり「周留城」=「州柔城」であろう。
《謂諸将曰》
 〈北野本〉、〈内閣文庫本〉では「謂諸将曰」の元の形は「諸将曰」で、その場合「」の主語は「諸将」である。 しかし、「我欲自往待饗白村」は諸将の言葉とは言い難い。
 〈北〉・〈閣〉は「諸将」の前に「謂イ〔=異本に「謂」あり〕と傍書されるが、その異本の方が妥当である。 しかし、まだ「」の主語または豊璋が脱落している。
 『新唐書』の「豊衆屯白江口」は豊璋は実際に白江に行ったことを示すから、「我欲自往待-饗白村」のは、やはり豊璋である。
 よって、ここでは「百済知賊所計」にを補って「百済知賊所計」とするのがもっとも自然であろう。
《将》
 本サイトでは将軍イクサノカミと訓むが、これについて改めて考察する。先ず、集団の統率者を表す語としては、ヌシウシヲサカミがある。
  ヌシは魏志倭人伝(18回)から見えるから、かなり古いと思われる。
  キミは尊愛を込めた二人称にも使われるから、もともと血縁集団の統率者か。古い職業部の長もキミであろう。
  ヲサには通訳という意味もあるので、ムラの対外的な代表者か。
  カミカミ(神)とは別語で、川の上流などを表すカミから派生したとされる。 四等官制のトップの称となっているのを見ると、人為的に作られた組織の長に用いられている。ただ、ヒトゴノカミ〔しばしば蛮族の首領〕にも使われる。
 もし軍事を担う職業部があったとすればその統率者はキミだが、朝廷が軍事の長を任命する場合は、やはりカミであろう。 〈倭名類聚抄〉には、「長官:…近衛府曰大将、兵衛衛門等四府曰、鎮守府曰将軍、…已上皆加美」とある〔なお、美は確かにミだが、倭名類聚抄の時代は甲乙の区別は消失している〕。 これらは常設機関であるが、軍を派遣するときにその都度任命する司令官も、やはりカミと呼んだと思われる。
 なお、征夷大将軍の和訓は「エビスヲウツオホイカミ〔平安;上代はエミシヲウツオホキカミが考えられるが、 実際にこのように呼ばれていたとはあまり思えない。「蘇(定方)将軍」に対しては、古訓でも音読される(斉明七年七月是月)。 大宝令〔701〕の頃には、日本国の将軍でもかなりシヤウグンと呼ばれていたのではないだろうか。
《廬原君》
廬原君  〈倭名類聚抄〉:{駿河国・廬原【伊保波良】郡・廬原郷}。 『国造本記』:「盧原国造:志賀高穴穂朝代〔成務〕、以池田坂井君祖-吉備武彦命児-意加部彦命。定-賜国造」。 『新撰姓氏録』:〖廬原公/笠朝臣同祖/孫吉備武彦命。景行天皇御世。被遣東方。伐毛人及凶鬼神。到于阿倍廬原国。復命之日以廬原国給之〗
 〈姓氏家系大辞典〉には「蓋し〔廬原郷は〕国名郡名の起源地なるべし」、 「書紀の伝へるに、吉備建彦は日本武尊東夷征伐の際、その副将となり…帰路越国に分遣して之を従へしむ…坂井は越前の地名…武彦の功により廬原の地を得たるか。此の地は武尊往路通過したる地なれば、 その際建彦、何等かの勲功を立しなるべし。建彦は日本武尊の外舅なり」。つまり、吉備国の吉備武彦が東征に従軍したとき、功績を上げて廬原の地を賜ったのが廬原公〔=君〕の起源だという。
 ここの「廬原君臣」は、二年三月の新羅派遣軍のメンバーの名前とは異なる。 この二年八月条の記述には、それより遥かにリアリティーがあるので「上毛野君稚子」などはやはり〈推古〉十一年のときの名前ではないかという思いが強まる。
《自往待饗白村》
 ここでは、「諸将」の主語が豊璋であることを前提として論ずる。
 「諸将軍等応一レ之我欲自往待-饗白村」は、城を守る作戦はお前たちに預けた、自分は白村に出かけて接待してくるから後はよろしくと読める。 実にはしゃいでいる。倭軍が到着したからには、もう勝ったも同然とでも思ったのであろうか。あるいは、州柔城に居ることが心底嫌だったのであろうか。
 到底信じられない行動であるが、 百済本紀『旧唐書』『新唐書』でも豊璋は白江の戦闘に加わり敗北して行方不明になったとあるから、白江の河口まで来ていたのは確実である。
 本来なら豊璋州柔城に籠って敵を引きつけ、その外から倭軍が攻勢をかけなければならない。 そして、膠着状態に持ち込み交渉して、豊璋を王と認めさせるか、無理なら降伏して最低限身の安全を保障させるところまで持ち込むのが常道である。
 わざわざ城から出て、野戦に身を晒すのでは王とは言えない。こんなことをしているから唐は王と認めず、その子は「偽王子」などと言われるのであろう。 やはり、福信を自ら斬った時点で既に勝ち目はなかったのである。
《白村》
 の古訓「スキ」は、百済からの亡命集団が伝えた「」の現地語だと想像される。 (コ(ニ)キシ)、王子(セシム)などと同様であろう。
《大唐戦船一百七十艘》
 『旧唐書』百済伝によると、 劉仁軌は「熊津江」から水軍を率い、陸路で進軍した孫仁師劉仁願新羅王と「白江」で合流して、「周留城」に向かう計画であった。 その途中、仁軌の水軍が白江の河口に到着したところで扶餘豊及び倭軍に遭遇して戦闘となり、唐軍は大勝した。
 唐の船団は、孫仁師が本国から率いてきたもので(『新唐書』)、熊津江で停留していたと見られる。 船団の将軍は仁師から仁軌に交代している。
《白村江》
 現在、一般的に「白村江」は錦江であると言われるが、精査するとあまり妥当ではない。 詳しくは、【周留城と白江の比定】項で述べる。
《初至者》
 「初至者」には"初所至者"、"初師至者"、"師初至者"とする異本があり混乱しているが、 文脈では「第一撃を試みた結果は…」という意味だから、「初至者」と決めることに問題はない。
 「」はSV構造〔ここではSを省略〕初至」を名詞化する助詞で、その「名詞」は 「第一陣の攻撃の主体者」、または「最初に攻撃したという事実」のどちらでも意味は成り立つ。
 それぞれの和読としては、:「初めて至りしモノ」(形式名詞)、:「初めて至れ」(確定条件(已然形)の接続助詞)などが考えられる。
《不利而退》
 「不利」の古訓のひとつ「マク」(負く)はその通りであるが、これでは身も蓋もない。 戦闘における撤退は、勝利の条件が得られなかったと表現することができるので、の直訳カガでもよいと思われる。 カガクホサはもともとは商いで得る利益を意味する。
《不観気象》
 「気象」には、情勢を見ずに無謀な戦いに突っ込んだという非難が込められている。
《我等争先》
 「我等争」は文字通り「我らが先を争って出撃すれば」という修辞で、今すぐ攻めかかろうと逸る空気を表している。 結果は、敵に鶴翼の陣を敷かれて潰滅した。ここはにらみ合って時間を稼ぎ、豊璋を何としてでも州柔城に収めるべきであった。
 ここでも良将を斬ったから統制がとれずにこうなったという、書紀原文の主張が見える。
《乱伍中軍之卒》
 この「中軍」を征新羅軍の件の「中軍将」とする論も見るが、文脈は全く繋がらず関係はない。
 ここでは「利而退」に終わった「至者」の次の「」ということであろうか。また、古訓の「ソヘ(副)ノ軍」は第二軍の意味である。 しかし、「隊伍を乱す中で、軍の卒は…」という区切りも考えられる。
 何れにしても、「更率日本乱伍中軍之卒」は読みにくい。ただし、「船列を乱しててんでばらばらに攻めかかった」ことだけは分かる。
《自左右夾船繞戦》
 「左右はさむ」に、さらに同じ意味の「かくむ」が重ねられている。これは、唐による包囲攻撃の執拗さを表すと読むべきなのだろうか。
《繞戦》
 しかし、「」は、もともとは「」であった可能性がある。 同じ場面を百済本紀は「其舟四百艘、煙炎灼天、海水為」、即ち400隻が燃やし尽くされ、煙炎は天まで上がったと生々しく描く。 なお、海水は血で染まったとも読めるが、立ち上る炎の色が海面に映ったと読んだ方が情景は鮮やかに浮かび上がる。 新旧唐書も燃やしたと書く。
《朴市田来津》
 朴市田来津は、州柔城から出て避城に移りたいと言った豊璋を諫めた。 今段では、英雄的な奮闘した末の戦死が描かれる。これらは、朴市氏の家伝が出典の大きな部分を占めると考えられる。
 その筋書きは海外資料とも概ね噛み合うので、比較的史実を反映していると思われる。
《豊璋逃去高麗》
 新旧唐書、百済本紀ともに豊璋は逃げて行方不明になったと述べる。百済本紀は「或曰」として、船に乗って高麗に逃れた説を添える。
《大意》
 八月十三日、 新羅は、百済王が自分の良将を斬ったことをきっかけにして、 国〔=百済〕に直ちに入って先に州柔(つぬ)を取ろうと謀りました。
 このとき、百済〔王〕は、敵の計略を知り、 諸将に語りました。
――「今聞くに、 大日本国の救軍の将、廬原君(いほはらのきみ)の臣(おみ)は、 強力な兵一万余りを率いて、 正(まさ)しく海を越えて至ろうとしている。 願わくば、諸(もろもろ)の将軍たちは戦略を預かるべし。 私自身は、白村(はくそん、はくすき)に行って接待の饗をしたい。」
 十七日、 敵将は州柔(つぬ)に至り、 その王城を包囲しました。 大唐の軍将は戦船一百七十艘を率いて、 白村(はくそん、はくすき)の江に陣烈しました。
 二十七日、 日本(やまと)の船師(ふないくさ)は 初めて至り大唐の船師と合戦しました。 日本は不利で退却し、 大唐は陣を固めて守りました。
 二十八日、 日本の諸将と百済王は、 情勢を見ることなく、 「我らが先を競って攻めれば、敵は自ら退くだろう。」と語らい、 更に率いた日本軍が隊伍を乱す中、 軍卒は進み大唐が陣を堅めた軍を攻撃し、 大唐はすると左右から船を挟み繞(かこ)んで〔燃やして?〕戦いました。
 須臾(しゅす)の際、官軍は敗績しました。 泳いで逃げようとして溺れ死ぬ者多く、 艫舳(ともへ)〔=船首と船尾〕を旋回して逃げることもできませんでした。
 朴市田来津(えちのたくつ)は、 天を仰ぎ誓い、 歯を食いしばって嗔(いか)り、 殺すこと数十人、遂に戦死しました。
 この時、 百済王豊璋は、 数人とともに船に乗って高麗に逃げ去りました。


目次 【二年九月】
《百濟州柔城始降於唐》
九月辛亥朔丁巳。
百濟州柔城、始降於唐。
是時、國人相謂之曰
始降於唐…〈北〉[テ]シタカヒヌ於唐-人ヒト 語イ
くにひと…[名] 土着の人。
九月(ながつき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として丁巳(ひのとみ)〔七日〕
百済(くたら)の州柔城(つぬさし)、始めて[於]唐(たう、もろこし)に降(やぶ)る。
是(この)時、国人(くにひと)[之]相謂(かたら)ひて曰へらく
「州柔降矣、事无奈何。
百濟之名絶于今日、
丘墓之所、豈能復往。
无奈何…〈北〉奈何 イカトイフコト ヌ今 /予イ丘-墓 オクツキ  ヤ
〈閣〉于今日豈能コト
〈釈紀〉丘墓オクツキトコロニアニ アタハンヤマタユクコト。 〈兼右本〉丘-墓シゝノツキ/オクツキ
おくつき…[名] 墓。奥まって外界から隔たったところ。
「州柔(つぬ)降(やぶ)るるは[矣]、事无(ことなきこと)奈何(いかにそあらむや)。
百済之(が)名、[于]今日(けふ)に絶へて、
丘墓(おくつき)之(の)所(ところ)、豈(あに)復(また)往(ゆくこと)能(あた)はむや。
但可往於弖禮城、
會日本軍將等、
相謀事機所要。」
弖礼城…〈北〉弖礼テレサシ コト機所 ハカリノ 要遂 ヌミトスル 
〈閣〉テ レ 
〈兼右本〉弖◱-礼◱テレ[ニ][テ]日-本[ノ]軍-将等[ニ][テ]-謀事-ハカリヿ[ヲ]上レヌミトスル[句] 〔弖礼城に往きて日本の軍将に会ひて事機はかりごとぬみとする所を相謀あひはかる可し〕
とき…[名] ① 時間。② ふさわしいとき。
但(ただ)[可][於]弖礼城(てれさし)に往きて、
日本(やまと)の軍将(ぐんしやう)等(ら)に会ひて、
事機(とき)所要(もとめむこと)を相(あひ)謀(はか)るべきのみ。」といへり。
遂教本在枕服岐城之妻子等、
令知去國之心。
枕服岐城…〈北〉シンサシ妻子トモ。 〈閣〉シン フ キ 
〈釈紀〉シムサシ
遂(つひ)に本(もと)枕服岐城(ちむぶきさし)に在りし[之]妻子(めこ)等(ら)に教(をし)へて、
国を去る[之]心を知ら令(し)めき。
辛酉。
發途於牟弖。
…〈北〉 タツ牟弖ムテ。 〈閣〉
辛酉(かのととり)〔十一日〕
途(みち)を[於]牟弖(むて)に発(た)つ。
癸亥。
至弖禮。
癸亥(みずのとゐ)〔十三日〕
弖礼(むれ)に至る。
甲戌。
日本船師
及佐平余自信
達率木素貴子
谷那晉首
憶禮福留、
幷國民等至於弖禮城。
達率木素貴子…〈北〉  モク クヰ コク シン シユヲクライ フク リウ并國民已上四人名也
〈閣〉余自礼福
〈釈紀〉シム
佐平百済の位階一品。
達率…百済の位階二品。
木素貴子…(呉音)モク、ス、クヰ、シ。(漢音)ボク、ソ、クヰ、シ。
…(呉音)シユ。(漢音)シウ。
憶礼福留…(呉音)オク、ライ、フク、ル。(漢音)ヨク、レイ、フク、リウ。
甲戌(きのといぬ)〔二十四日〕
日本(やまと)の船師(ふないくさ)
及(およ)びに佐平(さへい)余自信(よじしん)
達率(たつそつ)木素貴子(もくすくゐし)
谷那晋首(こつなしんしゆ)
憶礼福留(おくらいふくる)、
并(あは)せて国民(くにのたみ)等(ら)[於]弖礼城(てれさし)に至る。
明日。
發船始向日本。
明日…〈兼右本〉クルツ-日
明日(くるつひ)。
船を発てて始めて日本(やまと)に向かへり。
《九月辛亥朔丁巳》
 書紀では、「九月丁巳〔七日〕」が州柔城落城の日とされる。白村江の敗戦は、「八月己酉〔二十八日〕であった。
 一方、『新唐書』本紀では「九月戊午〔八日〕に「孫仁師及百済戦於白江」。 最後は周留城落城であったが、その中心となった激戦が白江口の海戦であったとすれば「白江で戦いに勝利した」と表現することはあり得る。 だとすれば、日付はほぼ書紀と一致することになる。 また、白江は流域の地名に転じて、周留城まで含んでいたとも考え得る。
 何れにしても周留城白江(州柔城白村江)の距離は近く、周留城遇金山城であったとするなら、 このことは白江=東津江説の傍証になり得るかも知れない(【周留城と白江の比定】項)。
《州柔城》
 海外資料では、周留の落城自体は書かれない。 王子扶餘忠勝忠志は周留城にいたとも思われるが、恐らく白江敗北後には殆ど抵抗する力を失い、なにもできずに投降したと思われる。
 周留城(州柔城)の比定については、「白村江」の位置と密接な関わりがある。
 白村江は、一般的に錦江であると言われる。 しかし、これには難点があるので、別項【周留城と白江の比定】を立て論じる。
《弖礼》
 弖礼牟弖について百済滅亡と冬老古城および兆陽城の調査 『九州考古学71』〔九州考古学学会〕は次のように述べる。
――「最後に出発した弖礼は、百済の冬老県、途中の牟弖は全羅南道の南平・光州一帯であることが分かるようになった」、 「南平は百済時代に未冬夫里…神文王6年〔686〕には武珍州を設置…。 珍の字はトとよむから未冬・武珍などはみな、「ミテ」・「ムト」という古語を転写したもので 〈日本書紀〉の牟弖とは、異写関係にある」、「冬老県は統一後には、景徳王16年〔757〕に兆陽県と改名… 神功紀49年条の…多礼に該当する」、 「百済の冬老古城は、〔烏城〕面役場がある烏城里浦山をかこんでいる百済式土城」、 「兆陽城は、〔全羅南道宝城郡〕烏城面牛川里」にあり、 遺民の出航地「兆陽浦は兆陽城から南へ約2.5キロ延びた丘陵の東南辺に位置する」。
 すなわち、兆陽県の旧称冬老〔トロ〕県が、弖礼〔テレ〕と表記されたという。
《事機所要》
 事機は、チャンス、タイミングを意味する。古訓ハカリゴトは「機事」と同じと見たためと見られる。
 所要の古訓は「ヌミトスルトコロ」、すなわち軍事上の要所とするが、不適切である。所要は、本来は必要とする事柄一般を指す。 これも逆転して「要所」と同じと見たかも知れないが、もはや拠点を設置して積極的に軍事作戦を展開できる条件は失われた。
 すなわち、ここでは倭国への脱出計画の段取りを検討していて、事機は安全に脱出できるタイミング、所要は無事に脱出するための手配を意味する。 「要害ヌミとする処」などという古訓は、物語りの流れを全く見失ったものである。
《枕服岐城》
 「枕服岐城」は、「全南同福の古名豆夫只トブキ」説を見る(『親和(195)』〔日韓新和会1970〕)。 現代地名は「全羅南道和順郡同福面」。
《牟弖》
 牟弖については、「広州のトル」説を見る(前項および《弖礼》項)。
《余自信》
余自信 〈斉明〉六年〔660〕九月餘自進が任射岐山で奮戦。 〈天智〉八年に近江国蒲生郡に遷居する。同十年に「法官大輔」として大錦下を授かる。
木素貴子 〈天智〉十年に「閑兵法」として大山下を授かる。
谷那晋首 〈天智〉十年に「閑兵法」として大山下を授かる。
憶礼福留 〈天智〉四年八月に大野城椽城を築城。同十年に「閑兵法」として大山下を授かる。
《大意》
 九月七日、 百済の州柔城(つぬさし)は、始めて唐に落とされました。
 この時、国の人は口々に言いました。
――「州柔が堕ちて、無事に済むことがあろうか。
 百済の名は今日絶え、 墓所〔である故郷〕へ、豈(あ)に再び行くことができようか。
 できることは、弖礼城(てれさし)に行き、 日本(やまと)の軍将らと合流し、 時機、要領を相謀ることのみであろう。」
 遂に元々枕服岐城(ちんぶきさし)にいた妻子らに説いて、 国を去る決心を知らせました。
 十一日、 経由地牟弖(むて)に発ちました。
 十三日、 弖礼(むれ)に至りました。
 二十四日、 日本(やまと)の船師(ふないくさ) と佐平(さへい)余自信(よじしん)、 達率(たつそつ)木素貴子(もくすきし)、 谷那晋首(こつなしんしゅ)、 憶礼福留(おくらいふくる)は、 国の民たちと共に弖礼城(てれさし)に着きました。
 翌日。 船立ちして始めて日本(やまと)に向かいました。


【周留城と白江の比定】
左図部分の拡大 禹金岩(遇金山城):35.6675N、126.6498E
遇金山城(禹金岩)の位置 全羅北道扶安郡上西面甘橋里 (topographic-map.com)
 海外資料では、周留の落城自体は書かれない。 王子扶餘忠勝、忠志は周留城にいたとも思われるが、恐らく白江の会戦の後殆ど抵抗する力を失い、すぐに投降したと思われる。
 周留城(州柔城)の比定地については「白村江」の位置と密接な関わりがあるのでここで併せて検討する。
 <以下、引用中の太字は引用者による。>
《熊津江と白江》
 一般的に白村江錦江であると言われる。
 しかし、まず百済本紀の「熊津江白江」は、 唐の戦船は熊津江の河口から海に出て、白江の河口に移動したと読むのが普通の読み方であろう。 もし白江錦江だったとすれば、 錦江の上流の名前が「熊津江」、下流の名前が「白江」で、 戦船は上流から河口に向って移動したということになる。
 しかし、書紀が「一百七十艘」という大船団が、わざわざ上流まで行って停泊する理由があるだろうか。
 また、元年十二月条でかなり強調されていたのが、「州柔城」(周留城)は急峻で攻め難く農耕はできないということである。 それなら扶安郡辺山半島の山地の方が妥当である。錦江の河口近くにはそれほど急峻な山は見えない。 そして、位置関係から見て白江は錦江ではなく、その南の例えば万頃江ではないだろうか。
 周留城については、地元の扶安郡の公式サイトは同郡にあると述べていることを先に見た(元年正月~六月《䟽留城》)。 それでは、具体的にはどこに比定されているのであろうか。
《遇金山城説》
 調べるてみると、『百済史研究』〔今西竜;近沢書店1934〕 に、周留城は「全北扶安郡辺山の遇金岩山城である」とあるのが見つかった。これは戦前の書である。
 「遇金岩山城」(遇金山城)を周留城に比定する説を更に探すと、 『百済における地方の軒丸瓦について』 〔李다운タウン;帝京大学山梨文化財研究所研究報告12(2004)〕 に、「全永来による長年の研究調査の成果から'周留城=遇金山城'、'白江=東津江'の可能性が高く評価されており…支持したい」、 「遇金山城は位金岩山城・禹陳古城とも呼ばれ、扶安郡上西面甘橋里に位置する全長3960mの百済では最大級の山城である」と述べた箇所を見つけた(p.391)。 その東津江は、金堤市と扶安郡の境界を流れる川である。
《遇金山城の位置》
禹金岩 (9buan21.com)
舒川 乾芝山城 (韓国文化財庁)
 9buan21.com〔インターネット新聞/扶安21〕の「禹金岩と周留城」によると、 「全羅北道記念物第20号である禹金山城は、上西面甘橋里開岩寺〔開巌寺〕の上方に位置する禹金岩を中心とした石城」で、 「全体は北辺が狭く南辺が広い城壁で、周囲3960m」に達し、「4年間継続して百済復興運動を繰り広げた周留城に比定する学者(全永来)もいる」と述べる。
 コネスト韓国地図では、「開岩寺」の北に「楞伽山 禹金岩」と表示され、 その点をtopographic-map.comで見ると、最高点は標高329m、北緯35.6675°、東経126.6498°にあたる。 開巌寺は観光地となっていて、いくつかのサイトで紹介されている。
《乾芝山城説》
 周留城の比定については諸説あったが、その中で比較的有力とされてきたのが錦江北岸漢山乾芝山城(서천 건지산성、忠清南道西川郡漢山面)である。
 Wikipedia韓国語版/周留城は、 乾芝山城が提唱されて以来「ほとんどの韓国内学者と日本学者が受け入れた」、 しかし「日本書記は周留城を指して「農業を営む畑とは距離が遠く、土地が高く、農耕、桑栽培の土地ではない」、「山岳が険しく高防御は容易で攻撃は難しい」と言及した部分があるが、これは当時周留城の地形に対するほぼ唯一の証言として位置を比定する一次資料に挙げられている。 日本書記記録に照らしてみても、今日まで忠清道西川一帯で有名な穀倉地帯に数えられる漢山の土地が周留城であるという主張は説得力がなく、決定的になったのは1998年と2001年に行われた建地山城の考古学的調査で、城は高麗時代に築造したことが明らかになった」ことだという。
 遇金山城については、盗賊の巣窟となり官軍も近づけなかったところで、 「『三国史記』・『唐書』には福信が豊王を殺害しようとして、病気を口実に洞窟に隠れたという謀略があるが、 三つの洞窟に僧侶が居住し…禹金岩の底の洞窟には福信が隠れたという福信窟の可能性が指摘される」という。
 また、1979年に開巌寺で発見された数枚の文書に「道琛」が「福信とともに軍兵を集めてこの山の周留城を拠点に抗戦した」などと書かれていたといい、 これ自体は偽書であろうが「〔この書が書かれた〕17世紀までに、同じ事実を書いた…古文書が残存していたことが期待される」などと述べる。
 また、韓国文化財庁のページで「서천 건지산성」を検索すると、 「舒川 乾芝山城」があり、「錦江の交通の要地に位置しており、百済復興運動群の拠点だった周留城と推定している。しかし最近、発掘調査を通じて三国時代に建った城ではなく、高麗時代の山城かもしれないという説が提起されている」と説明されている。 韓国では、乾芝山城が高麗時代〔936に朝鮮半島統一〕時代の城と考えられるようになって以来、周留城を遇金山城に比定する傾向が強まっているようである。遇金山城に比定するにあたっては、その傍証として日本書紀の記述を用いていることが注目される。
《白村江の比定地》
 それに対して日本では、両論を載せる書籍も見られる※1が、辞書類では錦江の北説のみである。 遇金山城説を初めに唱えたのは、戦前の日本であったが、現在は一時期優勢となっていた錦江北説が維持されている。
 一方、遇金山城説を取りながら、白江錦江に置く意見※2が日韓共に見られる。 しかし唐は攻めるために、倭国は守るために船団を向かわせた。その向かう先は、両者とも周留城に近い処であったはずである。周留城扶安郡禹金岩であったとすれば、錦江は遠すぎる。
 戦場は川の流路ではなく、海上である。その船の数を書紀は唐船170隻と言い、旧唐書は倭船400隻と述べる〔互いに相手の船数だけを述べているのは面白い〕。これだけの唐船と倭船が戦闘を展開したのだから海上であろう。
 実際、百済本紀には「海水」とある。 「白江口」は白江の河口付近の海上という意味であって、万頃江または東津江が注ぐ湾であろう。 全永来(上述)は、東津江説を取っている。 《九月辛亥朔丁巳》項では、書紀(州柔落城)と『新唐書』(白江戦)の日付の差が一日のみであることから、周留城白江はかなり距離が近いと見た。
 百済本紀の「熊津江白江」を「熊津江〔錦江〕から海上に出て白江の河口近くまで移動した」(上述)と読むことは、やはり理に適っていると思われる。
※1…『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕(p.17)。
※2…例えば韓国学術誌引用索引掲載の「白江口 戰鬪와 周留城」」〔김영관/著〕は、「周留城とは扶安の辺山に位置する敷地面積890,488m、幅3,724メートルの渓谷を有する大きな城である威金岩山城にほかならない」と言う一方で、 「白江の入口が今日の錦江河口であることは明らかである」と述べる〔理由は676年に唐羅戦争の伎伐浦海戦が行われた錦江口と、白江口を同じところと見たため〕


【〈天智〉二年後半の半島情勢】
 餘豊が福信を殺した後、百済再興勢力が潰滅するまでの期間。時期の明示があるのは新唐書のみ。
〈百済本紀〉龍朔二年〔662=天智元年〕七月~麟德二年〔665=天智四年〕の期間内(2)。
使高句麗倭国、乞師以拒唐兵
孫仁師中路迎擊-破之、遂与仁願之衆相合、士気大振。
於是、諸将議向。
或曰「加林城水陸之衝、合先擊之。」
〔〔福信を殺した後〕高句麗と倭国に遣使して救援軍を乞い、唐兵に拒戦。
 孫仁師は道半ばで迎撃してこれを破り、仁願の軍勢と合流して、士気大いに振う。
 ここで、諸将は作戦会議。
 ある将は「加林城が海陸の要だから、先に撃つべし」と主張。〕
● 劉仁願は660年に泗沘城に留鎮。包囲されしばらく孤立。
● 劉仁軌は661年に検校・帯方州刺史に任命。仁願の救援に向かう。
● 孫仁師は仁願の要請により、龍朔二年〔662〕七月に七千人を徴発して渡海。
仁軌曰
「兵法『避実擊虚』。加林嶮而固、攻則傷士、守則曠日。
周留城、百済巣穴群聚焉。若克之、諸城自下。」
〔仁軌は言う。
「兵法に実を避け虚を衝け〔防備の固いところよりも無防備のところを撃て〕という。加林城は険しく強固で攻めれば兵を傷める。その守りは明らかである。
 周留城は百済の巣穴〔拠点〕で衆の集まるところ。ここで勝てば諸城は自ずからみな降伏するだろう。」
於是、仁師仁願及羅王金法敏、帥陸軍進。
劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆、帥水軍及粮船、自熊津江白江
以会陸軍、同趍周留城
 こうして、仁師と仁願と新羅王金法敏〔=文武王〕は陸から進軍。
 劉仁軌と別動隊の杜爽、扶餘隆は水軍と糧船を率いて熊津江から白江に向かう。
 そして陸軍と合流して、共に周留城に移った。〕
● 扶餘隆は義慈王の太子だったが、義慈王とともに逮捕されて洛陽に送られた。 後に取り立てられ、おそらく将として唐軍に加わった。
倭人白江口、四戦皆克。
其舟四百艘、煙炎灼天、海水為丹。
〔倭人と白江口で遭遇し、四戦して皆勝利した。
 その船400隻を焼き、煙炎は天を灼き、海水を赤く染めた。
王扶餘豊脱身而走、不在。
或云高句麗、獲其宝剣
王子扶餘忠勝、忠志等、帥其衆、与倭人並降。
 王扶餘豊は身ひとつで脱して逃げ、行方は知れず。
 或いは高句麗に奔走し、宝剣を獲たという。
 王子の扶餘忠勝、忠志等らは軍勢を率いて、倭人とともに投降した。
独遅受信拠任存城、未下。  独り遅受信のみは任存城に拠り、未だ投降しない。〕
● ここで話は義慈王が投降した時期〔660年〕まで遡る。
初、黒歯常之嘯聚亡散、旬日間、帰附者三万余人。 〔以前に、黒歯常之は亡散した者を呼び集め、十日間で三万人が集まった。
定方遣兵攻之。
常之拒戦敗之、復取二百余城、定方不能克。
常之与別部将沙吒相如拠嶮、以応福信。
 定方は兵を派遣して常之を攻めた。
 常之は抗戦して定方軍を破り、また二百余城を取り、定方は勝てなかった。
 常之と別の部将、沙吒相如は険しい城に拠り、福信に呼応した。
至是皆降。  ここに至り〔黒歯常之らは〕皆降伏した。
仁軌以赤心之。俾任存自効、即給鎧・仗・糒
仁師曰「野心難信。若受甲済粟,資寇便也。」
仁軌曰「吾観相如・常之、忠而謀因機立上レ功。尚何疑」
 劉仁軌は〔相如と常之が〕赤心を示したことから、任存を取ることを任せて、鎧・仗・食糧を与えた。
 孫仁師は、それに対して「〔相如と常之には〕野心があり信じがたい。もし甲冑を受け取り粟が手に渡れば、敵対の便に資するだろう。」と言った。
 仁軌は「私が見るに、相如と常之は忠にして、謀(はかりごと)して機により功を立てる。なお何を疑うか。」と言った。〕
● すなわち、ここで敵から投降した相如と常之を起用して、遅受信が籠る任存城を攻撃させる。
二人訖取其城
遅受信委妻子、奔高句麗
〔相如と常之はついに任存城を取った。
 遅受信は妻子を委ね、高句麗に走った。〕
● 新羅本紀によれば、遅受信の敗北は白江口の役の終わった後、十一月四日になってからである。
● すなわち「独遅受信拠任存城」以下ここまでが、次にいう「余党悉平」に含まれたひとつのエピソードである。 この段が挿入されているために、文脈が追いにくくなっている。
余党悉平、仁師等振旅還。
仁軌、統兵鎮守
兵火之余、比屋凋残、殭屍如莽。
〔残党を悉く平定し、仁師らは旅団を振わせて還った。
 詔して仁軌を留め、統兵鎮守させた。
 兵火の跡は、軒並み家は凋残し〔=破壊し尽され〕、殭(たお)れた屍(しかばね)は莽(くさ)の如きであった〔=草莽に覆われていた〕。
仁軌始命骸骨、籍戸口、理村聚、署官長、通道塗、 立橋梁、補堤堰、復坡塘、課農桑、賑貧乏、養孤老、 立唐社稷、頒正朔及廟諱
民皆悅、各安其所
 仁軌は始めて命ずるに、骸骨を瘞(う)め、戸口の籍を作り、村人を理(おさ)め、官長を署に配置し、道塗〔=道路〕を通し、
 橋梁を立て、堤堰を補修し、坡塘〔=堤防〕を復し、農桑を課し、貧乏を賑(にぎ)わせ、孤老を養い、
 唐の社稷〔=神廟〕を立て、正朔〔=唐の暦〕及び廟諱〔=帝の諱〕を頒布させた。
 民は皆悦び、それぞれの所で安らいだ。
帝以扶餘隆熊津都督
国、平新羅古憾、招-還遺人
 唐皇帝〔高宗〕は扶餘隆〔上述〕を熊津都督として、
 帰国させ〔=百済の地に戻し〕、新羅の古い憾(うら)みを平し〔=解消し〕遺された人を招き還した。
麟徳二年〔665〕。
新羅王熊津城、刑白馬以盟。
仁軌為盟辞、乃作金書鉄契、蔵新羅廟中。盟辞見『新羅紀』中
仁願等還。隆畏衆携一レ散、亦帰京師
 麟徳二年〔665〕。
 新羅王と熊津城で会い、「刑白馬」の盟約を結んだ。
 仁軌は盟辞のために金書鉄契を作り、新羅の廟中に納めた。盟辞は『新羅紀』の中を見よ。
 仁願らは還った。扶餘隆もまた、散り散りになっていた人々を結集することを畏れて京師〔西安または洛陽〕に帰った。〕
※ 刑馬とは、同盟の制約において馬を殺して生贄として捧げること。
● 沙吒相如・黒歯常之は最後まで抵抗していたが、投降後少なくとも黒歯常之は武将としての力量を評価されて取り立てられた。 福信も果敢に戦った上で投降していれば、取り立てられた公算がある。
〈旧唐書〉巻199上 百済伝 龍朔二年〔662=天智元年〕七月以後の期間(2)
● 概ね百済本紀と同内容なので、ここでは漢文訓読体を用いる。
又遣三レ使往高麗及倭國、請兵以拒官軍
孫仁師中路迎擊、破之。
遂與仁願之眾相合、兵勢大振。
又、使(つかひ)を遣(つかは)して高麗及び倭国に往きて、請へる兵(つはもの)以て官軍を拒む。
孫仁師、路(みち)の中(なかば)に迎へ擊ちて、之(こ)を破る。
遂に仁願之衆与(と)相(あひ)合(あ)はせて、兵(いくさひと)の勢(いきほひ)大きに振るへり。
於是、仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進。
劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆率水軍及糧船
熊津江白江以會陸軍、同趨周留城
於是(ここに)、仁師、仁願及びに新羅王(しんらわう)金法敏、陸軍(くぬがのいくさ)を帥(ゐ)て進む。
劉仁軌及び別(こと)帥(いくさ)杜爽、扶餘隆、水軍(ふないくさ)及びに糧船(かてのふな)を率(ゐ)る。
熊津江自(よ)り白江に往きて以て陸軍に会ひて、同(とも)に周留城に趨(うつ)れり。
仁軌遇扶餘豐之眾於白江之口、四戰皆捷。
其舟四百艘、賊眾大潰。
仁軌、扶餘豊之衆と[於]白江之口に遇(あ)ひて、四(よたび)戦(いくさ)して皆捷(か)てり。
其の舟四百艘(ふな)を焚(や)きて、賊衆(あたのいくさびと)大きに潰(つひ)ゆ。
扶餘豐脫身而走。
偽王子扶餘忠勝、忠志等率士女、及倭眾並降。
百濟諸城皆復歸順。
孫仁師與劉仁願等振旅而還。
扶餘豊、身を脱(のが)れて[而]走(に)ぐ。
偽(いつはり)の王子(わうし)扶餘忠勝、忠志等(ら)士(いくさ)女(をみな)を率(ゐ)て、倭(わ)の衆(いくさびと)に及びて、並(みな)降(くだ)れり。
百済の諸(もろもろ)の城皆復(また)帰順(かへりつく)。
孫仁師与(と)劉仁願等(ら)旅(いくさ)を振(ふる)ひて[而]還れり。
二下劉仁軌仁願兵鎮守
乃授扶餘隆熊津都督、遣本國
新羅和親、以招-輯其餘眾
劉仁軌に詔(みことのり)して、仁願に代へて兵を率(ゐ)しめて鎮守(しづめまも)らしむ。
乃(すなは)ち、扶餘隆に熊津の都督を授(さづ)けて、遣(つかは)して本国(もとつくに)に還して、
新羅と共に和親(やは)して、以て其の余れる衆(ひとびと)を招き輯(あつ)めしむ。
● 偽王子は「王子を名乗る者」の意であろう。扶餘豊はとても真王とは言えないというのが唐による規定だから、「王子」も「にせ王子」となる。
● 『三国史記』に比べて、『旧唐書』の方が訓読し易い。 これは歴史的に日本語が形成される中で、中国文献訓読が重要な部分をなしてきた故であろう。
〈新唐書〉本紀第3 高宗 龍朔三年〔663=天智二年〕九月。
〔龍朔三年〕九月戊午〔八日〕。孫仁師及百済戦於白江、敗之。 〔九月八日。孫仁師は白江で百済戦に及び、これを破る。〕
● 龍朔三年(癸亥)九月は辛亥朔。白江の役の日付があるのは『新唐書』本紀のみ。
〈新唐書〉列伝145 東夷 龍朔二年〔662=天智元年〕七月以後の期間(2)。
仁願已得斉兵、士気振、乃与新羅王金法敏歩騎
而遣劉仁軌率舟師、自熊津江偕進、趨周留城
〔仁願は已(すで)に斉兵〔整然とした隊列〕を得て、士気振い、新羅王金法敏とともに歩騎を率いる。
 そして劉仁軌を遣わし、船師(ふないくさ)を率いて熊津江から共に進み、周留城に趨(うつ)った。
豊衆屯白江口、四遇皆克、火四百艘。豊走不所在
偽王子扶餘忠勝、忠志率残衆及倭人請命、諸城皆復。
仁願勒軍還、留仁軌守。
 扶餘豊の衆は白江口に集まり、四たび会戦して皆勝ち、四百艘を燃やした。扶餘豊は逃走して行方は知れず。
 王子と称する扶餘忠勝と忠志は、残衆及び倭人を率いて命を乞い〔=降伏して〕、諸城は皆取り戻した。
 仁願は軍を勒(ひき)いて帰り、仁軌を留めて代わりに守らせた。〕
● 簡潔だが事実関係が明確にまとめられ、他の文献を読むときの基準となる。
〈新羅本紀〉第六/文武王三年 癸戌〔663=天智二年〕五月(5)~十一月 
扶餘豊脱身走。王子忠勝、忠志等、率其衆降。
独遅受信、拠任存城、不下。
〔扶餘豊は身ひとつで脱して逃走した。王子忠勝、忠志らは、その衆を率いて投降した。
 独り遅受信は、任存城に拠り、下らなかった。
冬十月二十一日。攻之不克。至十一月四日、班師。  十月二十一日から〔新羅軍が任存城を〕攻めたが勝てぬまま、十一月四日に至り〔やっと勝ち?〕、軍を収めた。
一作后停。論功行賞有差。
大赦、製衣裳、給留鎮唐軍
 舌利〔后利とも〕に至り軍を留め、はたらきに応じて論功行賞した。
 大赦し、衣裳を作って留鎮する唐軍に給(たまわ)った。〕
● 初めの部分は、五月条のところで過去に遡って書いた記事の続き。この部分は『新唐書』龍朔三年〔663〕九月に相当。
● 新羅本紀は、白村江の海戦自体には触れない。陸路で東方面から親征して周留城を落とし、その結果餘豊が逃げたという書き方をしている。 唐の船師ふないくさに花を持たせるような書き方を嫌ったと考えられる。

まとめ
 州柔城(周留城)、白村江(白江)の所在地についてはおそらく明確化できないと考え、 〈斉明〉六年の時点では、漠然としたままでやり過ごそうと考えていた。
 しかし、それらの比定については戦前から検討され、戦後は特に韓国において熱心に研究が進められていることが分かってきた。 その様子は、例えば「周留城」についてWikipediaの日本語版と韓国語版とを比較することによって知ることができる。 特に1979年に開巌寺で発見された文書には韓国語版のみで言及され、そこには道琛や福信の名があるという。 例え偽書だったとしても禹金岩の地に百済復興勢力の拠点の言い伝えがあったということになり、注目される。
 なお、韓国の諸サイトからの翻訳は、グーグルの自動翻訳機能を利用した。 その機能は、文法に関しては最近目に見える進展がある。
 ただ、まだ固有名詞の漢字表記が正しく復元されない段階にある〔同音異字のため〕。 たとえば、錦江が金剛川、周留城が主流性などとなってしまう〔2024/03/24現在。なお、本ページの引用では意味が通るように修正している〕。 地名や歴史的な人物名を正確に表記することについては、文脈からその舞台となる地理歴史の場面を見つけ出して正しく語を当てはめなければならない。 つまり、狭い言語機能を越えて、背景となる歴史や地理のデータの構造体を構築して関連付けることが必須である。 これは、漢字文化圏にある日本人ががんばらねばならないことだろう。
 さて、白村江の役とそれに至る百済復興運動は、日朝中の歴史文書のそれぞれに取り上げられ、多角的に比較検討できる珍しい素材となっている。 原文を直接読むことも、それほど難しくはない。 これら全体を眺めれば、少なくとも熊津江と白江とは互いに別の川であり、白江と周留城との間の距離は短いと見てよいだろう。 また、周留城の地形については、むしろ韓国の研究が書紀の記述を重視して、扶安郡禹金岩説に至っていることが興味深い。



2024.04.05(fri) [27-05] 天智天皇5 

10目次 【三年ニ月】
《増換冠位階名及氏上民部家部等事》
三年春二月己卯朔丁亥。
天皇命大皇弟
宣増換冠倍位階名及
氏上民部家部等事。
天皇命…〈北野本〔以下北〕 天皇命 ヒツキノミコト/スメラミコト シテ弟イヒツキミコ   フ/ノタマフ マシ- カフル  ノ倍位 シナ ナ氏上 コノカゝ民部 カキ ヘ家部 ヤカ ヘ ヲ
〈内閣文庫本〔以下閣〕  テ大皇弟 ヒツキノミコト  ニ[切]  ノフマシ -カフルコトヲ ノ ノ シナ [切] 兄也コノカミカキ /ヤカヘカヤ 部等 ヲ[テ]
〈北/七年五月〉大-皇-弟 ヒツキノミコ 。 〈兼右本〉冠- イ家-部ヤカ ヘ
このかみ…[名] ① 兄。② 衆、氏の長。
かきべ…[名] 臣・連・伴造・国造・村首の所有する民の部。〈大化〉二年改新詔で廃されたことになっている。
やかべ…[名] 〈時代別上代〉「(天智紀三年)の「家部」もヤケヒト〔家の奴婢〕の部の意であろう。ヤカベと訓むべきものか」。
三年(みとせ)春二月(きさらき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として丁亥(ひのとゐ)〔九日〕
天皇(すめらみこと)大皇弟(だいくわうてい)に命(おほ)して
[宣]冠(かがふり)を増(ま)し換(か)へて位階(しな)の名(な)を倍(ま)すことと、及びに
氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)等(ら)の事をのたまはしめたまふ。
其冠有廿六階。
大織小織
大縫小縫
大紫小紫
大錦上大錦中大錦下
小錦上小錦中小錦下
大山上大山中大山下
小山上小山中小山下
大乙上大乙中大乙下
小乙上小乙中小乙下
大建小建、
是爲廿六階焉。
廿六階…〈北〉廿六 シナ
〈閣〉シキ[切]〔小織を欠く〕フウ[切]小縫[切][切]大錦中[切]大錦下[切]セン`ヲツ大建
〈兼右本〉-シヨクシキ-ホウ廿六シナ
其の冠(かがふり)に二十六階(はたしなあまりむしな)有り。
大織(だいしき)小織(せうしき)
大縫(だいほう)小縫(せうほう)
大紫(だいし)小紫(せうし)
大錦上(だいきむじやう)大錦中(だいきむちう)大錦下(だいきむげ)
小錦上(せうきむじやう)小錦中(せうきむちう)小錦下(せうきむげ)
大山上(だいせんじやう)大山中(だいせんちう)大山下(だいせんげ)
小山上(せうせんじやう)小山中(せうせんちう)小山下(せうせんげ)
大乙上(だいおつじやう)大乙中(だいおつちう)大乙下(だいおつげ)
小乙上(せうおつじやう)小乙中(せうおつちう)小乙下(せうおつげ)
大建(だいけん)小建(せうけん)、
是(ここに)二十六階(はたしなあまりむしな)を為す[焉]。
改前花曰錦、
從錦至乙加十階。
又加換前初位一階、
爲大建小建二階。
以此爲異、
餘並依前。
改前大化五年正月《制冠十九階》
改前花…〈兼右本〉クワキン十-階ト シナ初-位ウヰカフリ
以此為異…〈北〉[テ]餘-並 ケナリト アマリ。 〈閣〉 テ ヲ スケナリト[句]アマリハ ニマゝニ ノ
〈兼右本〉アタシアマリ[ニ]マゝナリ[ノ]
うひかうふり…[名] 初めて位に叙されること。大化三年是年(二)《制七色一十三階之冠》参照。
かたな…[名] 諸刃(もろは)に対して刃が片側のもの。〈時代別上代〉「ナはグの語幹と同源か」。
前(さき)の花(くわ)を改めて錦(きむ)と曰ひて、
錦(きむ)従(よ)り乙(おつ)至(まで)十階(とをしな)を加(くは)ふ。
又、前(さき)の初位(はつかがふり)一階(ひとしな)に加へ換へて、
大建(だいけん)小建(せうけん)二階(ふたしな)と為(な)す。
此(こ)を以ちて異(こと)と為(な)して、
余(あたし)並(ならび)に前(さき)に依(よ)れり。
其大氏之氏上、
賜大刀。
小氏之氏上、
賜小刀。
其伴造等之氏上、
賜干楯弓矢。
亦定其民部家部。
其大氏之氏上…〈北〉大氏之氏-上 コノカミ大刀 タチ 干- タテ民-部 カキ 
〈閣〉○大其 氏之氏上コノカミニハ 小氏之氏 ニハ干- タテ
〈釈紀〉小刀カタナ。 〈兼右本〉 ナル-氏
…[名] ① ほこ。② たて。
其の大氏(おほきうぢ)之(が)氏上(このかみ)には、
大刀(たち)を賜(たま)ひて、
小氏(ちひさきうぢ)之(が)氏上(このかみ)には、
小刀(かたな)を賜ひて、
其の伴造(とものみやつこ)等(ら)之(が)氏上(このかみ)には、
干楯(たて)弓矢(ゆみや)を賜ふ。
亦(また)、其の民部(かきべ)家部(やかべ)を定(さだ)めしめき。
《天皇命大皇弟》
 〈北野本〉古訓は、「天皇」に「ヒツキノミコト」、異訓「スメラミコト」を付す。 実際は称制であるからヒツキノミコは正しい[A]が、書記においては即位前であっても主語にスメラミコトを用いることは普通であった。
 〈天智〉朝にはまだ天皇号創始の前だから、「」が入った「大皇弟」も書紀独自であることは間違いない。 〈天智〉天皇は厳密にはまだ自身が皇太子で、その立場で皇太子をもつことはあり得ない。よって大皇弟という他に類を見ない語を用いたのである。 即位〔七年〕以後になって、大皇弟東宮大皇弟東宮と徐々に呼び名を真正の皇太子に移していることが、それを示している。
 そもそも大海皇子を東宮と呼ぶこと自体が後に即位〔天武〕したことによるもので、即ち結果から遡ぼらせたものである。よって、大皇弟も書紀による造語である。
 それでも大海皇子を事実上の皇太子としたのだから、古訓が割り切って「ヒツギノミコ」と訓むのはそれなりに妥当性がある。 しかし、称制の段階でヒツギノミコを儲けることはあり得ないとするなら、ダイクワウテイと音読みするしかない
 なお、上記[A]を用い、かつ大皇弟をヒツギノミコと訓むと、古訓は「ヒツギノミコ(ト)、ヒツギノミコに命(おほ)して」という奇妙な文章になる。
《増換冠倍位階名》
 〈兼右本〉〔16世紀〕が「」を省く前の形は、「増換冠倍位階名」であった。 現代の刊行本の「増換冠位階名」は、兼右に依る。
 確かに、〈北〉〈閣〉〈兼右本〉のように「増換」の目的語に「氏上民部家部等」まで含めると、「」の字は妨げになる。 だとすれば〈兼右本〉の判断は道理に合う。
 しかし、増換の目的語は冠位階名に留まる(次項)。 それならがあっても、「-換冠位階名〔冠(かがふり)を増(ま)し換(か)へて位階(しな)の名を倍(ま)す〕と、幾分ぎこちないながら読むことはできる。
《氏上民部家部等事》
 「氏上民部家部等事」とは、氏上太刀・小刀を授けて権威付け、民部・家部を制度化するものである。 つまりこの部分は「増換」の対象ではないから、目的語に含める古点は誤りである。
《氏上民部家部》
 「民部家部」とは、改新詔(〈大化〉二年)のいう、 「御子代・屯倉・臣・連・伴造・国造・村首」に付随する民であろう。 建前では改新詔ですべて廃されたことになっているが、この時点では目標の提示のみであろう。
 大宝令・養老令に至り公民化は進んだが、皇族の私有民や寺社領は手つかずである。むしろ新たに荘園に囲い込まれるという逆行が起こる。 〈天智〉三年の時点では、むしろ氏・国造が所有する民が制度化された。 民部家部の区分けについては、民部は班田収授法にいう良民で、 家部は、五色の賤(資料[35])のうち「家人」にあたる。
 の長には太刀、小刀などが授けられて「氏上」とした。こうして諸族は(うぢ)として制度化された。
 昔との違いは、昔の形では国家の事業そのものを縦割りで氏族が請け負っていたが、今は事業の実施主体は公の官僚組織となり、 氏族はその人材の供給元となったことである。
《従錦至乙加十階》
 「錦至十階」は、「六回」が正しい。
 この問題について、〈釈紀/述義〉は次のように述べる。
『釈日本紀』巻十四 述義十
私記曰。藤進士案云。十當七歟。師説不許。師又説。此事愚心猶難入悟。 戸部藤侍郎案。又與師説異也。愚實甚同。少卿之案有味耳。師并進士案可難也。 〔藤進士は「十」は「七」であるべしという。師はこれを認めないとして再び説いたが、なお私の心には入らない。 戸部藤侍郎も師説に異を唱え、私こと矢田部名実は甚だしく同意した。 少卿は両者を吟味して、師説と進士案のどちらにも難があるという。〕
 〈斉明〉五年七月で見た「『釈日本紀』巻十四 述義十」と同じ名前が見えるので、 同じく元慶二年二月二十五日の講例だと考えられる。とすれば、 藤進士は藤原春海、師(博士)は善淵愛成、戸部藤侍郎は藤原佐世、愚実は矢田部名実、 少卿は大宰の少弐〔名前不詳〕
 〈兼右本〉の頭注にも「私記曰藤進士案十当為七」とある。
 ただ、「」でも理屈に合わない。「錦至〔〕〔すなわち大錦上~小乙下の範囲〕では加六階だからである。 もしかして「」を「」に読み替えたか。
《初位》
 「初位」という表し方を見ると、〈斉明〉四年七月の「位一階」はやはり位階の最下位を意味したことを裏付ける。
 大化五年の「制七色一十三階」では建武大化五年の「制冠十九階」では立身
 古訓「ウヰカフリ」については、古語辞典にウヒカウブリがああるが、その文例は今昔物語。同意のウヒカブリウヒカムリの文例は平家。
 ウヒは、ウフ(四段)の連用形から接頭語ウヒ-、あるいは形容詞ウヒウヒシを派生したと思われるが、上代からあったかどうかは不明。 ウフは辞書には見えないが、ウブヤ(産屋)のウブと同根か。
《小氏》
 「小氏」はどう訓むのであろうか。 〈倭名類聚抄〉では「少納言【須奈伊毛乃万宇之】」など、官職名ではスナイと訓む〔スナシの連用形のイ音便〕。 形容詞スナシスクナシの転かも知れないが、官職名以外にはスナイの用例が見えない。
 〈乙本-神代下〉には「大小之【止乎之呂久知比左岐】魚」がある。チヒサシは、サイズの小さいことを表す抽象語で、幅広く使い得ると考えられる。 よって小氏の訓みは「チヒサキウジ」でよさそうである。
《干楯》
 には、ホコタテ両方の意味がある。干楯への古訓ホコは、同義熟語と解釈したもの。 ただ、ホコタテ対義熟語干戈に倣えば、「干(ホコ)楯(タテ)」と訓むことになる。
 それでは、漢籍ではどうであろうか。 捜して見ると、『六韜』〔戦国〕に、武王の「国家無事のためには武器がいると思うが、どうして備えないか?」という質問に、大公が答えた場面がある。 すなわち「戦攻守禦之具、尽在於人事。〔戦攻防禦の備えは、人民の暮らしを豊かにすることに尽きる〕という。 それを説明する中で農具を武器に譬えて「鋤耰之具、其矛戟也。蓑薛簦笠者、其甲冑干楯也。〔鋤鍬は矛戟に当たる。蓑笠は甲冑干楯に当たる〕、すなわち矛戟(ほこ)と干楯を対比的に用いているから、この場合はもタテ、もタテである。 ここでは、ひとまずこれに倣っておく。
《大意》
 三年二月九日、 天皇(すめらみこと)は大皇弟(だいこうてい)〔=大海皇子(おおあまのみこ)〕に 「宣(よろし)く、冠を増やし変えて位階の名を増やすこと、及び 氏上(うじのかみ)、民部(かきべ)、家部(やかべ)らの事を定めるべし。」と命じました。
 その冠は二十六階として、 大織(だいしき)、小織(しょうしき)、 大縫(だいほう)、小縫(しょうほう)、 大紫(だいし)、小紫(しょうし)、 大錦(だいきん)上、大錦中(だいきんちゅう)、大錦下(だいきんげ)、 小錦上、小錦中、小錦下、 大山(だいせん)上、大山中、大山下、 小山上、小山中、小山下、 大乙(だいおつ)上、大乙中、大乙下、 小乙上、小乙中、小乙下、 大建(だいけん)、小建、 以上の二十六階とします。
 これまでの花(か)は改めて錦(きん)とし、 錦より乙まで十階〔六階の誤り〕を加え、 また、これまでの初位一階に加え変更して、 大建、小建の二階とし、 これらを異として、 その他はどれも以前のままとしました。
 そして大氏の氏上(うじのかみ)には、 大刀(たち)を賜り、 小氏の氏上には、 小刀(かたな)を賜り、 その伴造(とものみやつこ)らの氏上には、 干楯(たて)、弓矢(ゆみや)を賜りました。 また、それぞれに民部(かきべ)家部(やかべ)を定(さだ)めさせました。


11目次 【三年三月~十月】
《以百濟王善光王等居于難波》
三月。
以百濟王善光王等、
居于難波。
有星、殞於京北。
是春、地震。
百済王…〈北〉済王 オホキミ  オツ京-北 ミヤコ 地震 ナヰフル
〈釈紀〉百濟クタラクノヲホキミセンワウ
〈兼右本〉百済オホキミ◱-光◱-ワウ◱等[ヲ][テ]ハヘラシム地-震ナイフル [句]
三月(やよひ)。
百済王(くたらくのこにきし)善光王(ぜんくわうわう)等(ら)を以ちて、
[于]難波(なには)に居(すま)はしむ。
星有りて、[於]京(みやこ)の北(きたのかた)に殞(お)つ。
是(この)春、地震(なゐふる)。
夏五月戊申朔甲子。
百濟鎭將劉仁願、
遣朝散大夫郭務悰等、
進表函與獻物。
五月…〈北〉五-月 サツキ
鎮将…〈北〉チンシヤウリウシンクヱンチウ サンタイクワクリウ表-函 フムヒツ 献-物 ミツキ ト
〈閣〉鎮◱将◳劉◱仁クワクソウ朝◱散◱大◳夫◰郭◲務◰悰◱
〈釈紀〉リウシムクヱン。 〈兼右本〉チン◳-将◳劉◱-仁◱-ケン
夏五月(さつき)戊申(つちのえさる)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔十七日〕
百済(くたら)の鎮将(ちんしやう)劉仁願(りうじんげん)、
朝散大夫(ちうさんだいふ)郭務悰(くわくむそう)等(ら)を遣(まだ)して、
表函(ふみひつ)与(と)献物(みつき)とを進(たてまつ)る。
是月。
大紫蘇我連大臣薨
【或本。
大臣薨注五月。】。
蘇我連…〈北〉タイ ノムラ■ノ大臣オホマチ■■ミウ■■。 〈閣〉ミウセヌ
〈釈紀〉タイカノムラシ大臣オホマチキミ
大紫…冠位二十六階の第五位。
是(この)月。
大紫(だいし)蘇我の連(むらじ)の大臣(おほまへつきみ)薨(こう)ず
【或本(あるふみ)に、
大臣の薨(こう)は五月(さつき)と注(しる)せり。】。
六月。
嶋皇祖母命薨。
嶋皇祖母命…〈北〉皇- スメ祖-母ミオヤノミコト薨  カミサカリマシヌ。 〈閣〉[句]カミアカリマシヌ
六月(みなづき)。
嶋(しま)の皇祖母(すめみおや)の命(みこと)薨(こう)ず。
冬十月乙亥朔。
宣發遣〔使於〕郭務悰等勅。
十月…〈北〉十-月カムナツキ宣発…〈北〉宣發-遣 ノタヘテ マタメ 。 〈兼右本〉-遣 ツカハス 郭務悰等[切][句]
発遣…〈汉典〉「① 打発。使離去。② 特指送嫁。③ 派遣、差遣」。
冬十月(かむなづき)乙亥(きのとゐ)の朔(つきたち)。
郭務悰(くわくむそう)等(ら)に〔使(つかひ)を〕発遣(つかは)して勅(みことのり)をつげしむことを宣(の)ぶ。
是日。
中臣內臣、
遣沙門智祥賜物於郭務悰。
中臣内臣…〈北〉中-臣 ナカトミノ内-臣[切]ウチノマチキム■■沙-門 ホウシシヤウ。 〈閣〉智◱祥◱
是(この)日。
中臣(なかとみ)の内臣(うちつまへつきみ)、
沙門(ほふし)智祥(ちしやう)を遣(つかは)して物(もの)を[於]郭務悰(くわくむそう)に賜(たま)はしむ。
戊寅。
饗賜郭務悰等。
饗賜…〈閣〉賜物於郭務悰○等[句]是月/戊寅饗賜郭務悰イ
饗賜…会食の酒食を賜る。(古訓) あへたまふ。
戊寅(つちのえとら)〔四日〕
郭務悰等(ら)に饗賜(みあへしたま)ふ。
是月。
高麗大臣蓋金、
終於其國、
遣言於兒等曰
高麗大臣…〈北〉大臣オホマチキミ  カフ コンウセヌ-言 ノチコトシトモ
〈閣〉蓋◲金◱。 〈釈紀〉蓋金カフコム
是(この)月。
高麗(こま)の大臣(だいしん)蓋金(がふきむ)、
[於]其の国に終(し)にて、
言(こと)を[於]児等(こら)に遣(のこ)して曰へらく
「汝等兄弟、
和如魚水勿爭爵位。
若不如是必爲隣咲。」
勿争爵位…〈北〉 マナ争爵 アラカフ 必爲隣咲或本必字下有夫壬。 〈閣〉 ムコト
〈兼右本〉ヤハラカン-位
不如是…(万)0151如是有乃 かからむと」。
「汝等(いましら)兄(このかみ)弟(おと)、
和(やはすこと)魚(いを)水(みづ)の如きに爵位(かがふりのくらゐ)を勿争(なきほひ)そ。
若(もし)不如是(かからま)ば必ず隣(となり)の為(ため)に咲(わら)はえむ。」といへり。
《百済王善光王》
百済王善光  善光王は、〈天武〉四年正月に大学寮諸学生らとともに、薬と珍異の物を献上 (白雉五年【吐火羅国】《舎衛女》項)。 〈持統〉七年正月乙巳〔十五日〕に「」したとき「贈正広三位、賜賻物」の記事。百済王氏〔くだらのこんきし〕の祖。 〈姓氏録〉〖百済王/出自百済国義慈王也〗
 『旧唐書』(下述)を見ると、扶餘勇と同一人物の可能性がある。
 〈続紀〉の百済王敬福薨の記事に、その曽祖父にあたる善光の事績が載る。
『続日本紀』天平神護二年〔766〕六月壬子
壬子。刑部卿従三位百済王敬福薨。其先者出百済国義慈王
高市岡本宮馭宇天皇御世。義慈王遣其子豊璋王及禅広王入侍。
于後岡本朝廷。義慈王兵敗-降唐
其臣佐平福信、剋-復社稷。遠迎豊璋。紹-興絶統。豊璋纂基之後。以横-殺福信
唐兵聞之、復攻州柔。豊璋与我救兵拒之。救軍不利。豊璋駕船、遁于高麗
禅広因不国。藤原朝廷賜号曰百済王。卒贈正広参〔以下略〕
壬子〔二十八日〕。刑部卿の従三位百済王敬福薨ず。その先は百済国義慈王より出づ。
高市岡本宮に馭宇あめのしたしろしめす天皇〔舒明〕の御世。義慈王、その子豊璋王及び禅広王を遣し入り侍らしむ。
後岡本朝廷〔斉明〕いたり、義慈王の兵敗れ唐に降る。
その臣佐平福信、社稷を剋復し遠く豊璋を迎へ絶へたる統を紹興す。豊璋纂基〔継位〕の後、いつはりを以て福信を横殺す。
唐兵を聞きて、復た州柔を攻め、豊璋と我が救兵、を拒む。救軍不利にして豊璋の駕船、高麗に遁げつ。
禅広因りて国に帰らず。藤原朝廷〔持統〕号を賜り百済王と曰ふ。卒して贈ること正広三〔位〕
 すなわち、禅広(善光)は義慈王の子で、豊璋王と共に倭に送られた〔641年か。舒明三年参照。〕。 なお、この記事の残りは、善光以後の家系「善光―(子)昌成―(子)郎虞―(第三子)敬福」を述べる。
《居于難波》
 百済難民が居住した処だと考えられるのが、〈倭名類聚抄〉{摂津国・百済郡}である (【百済大井宮】)。
《劉仁願》
 劉仁願は660年に泗沘城に留鎮(〈斉明〉六年九月《義慈王の降伏》)。 唐は百済の五都に都督府を置き、熊津都督王文度を任命。 しかし泗沘城は百済復興勢力に包囲され、仁願はしばらく孤立。 661年王文度が卒去し、代わって劉仁軌が送られ故文度軍を指揮。 662年仁軌仁願は本国に救援要請し、孫仁師が援軍を率いて渡海。 白江での戦勝後孫仁師は遠征軍を率いて帰還。仁軌は留まって鎮守。 扶餘隆を熊津都督に任じて百済に戻す。 665年、扶餘隆仁願は唐京に還る。
 それでは、白江から665年までの間の劉仁願の動向はどうだったのだろうか。
 その間を埋める記述が『旧唐書』劉仁軌伝の中にある。
『旧唐書』巻八十八 劉仁軌 郝處俊 裴行儉子光庭
孫仁師与劉仁願振旅而還、詔留仁軌兵鎮守。
初、百済経福信之乱、合境凋殘、殭尸相属。 仁軌始令-斂骸骨、瘞埋吊-祭之、修-録戸口、署置官長、開-通途路、 整-理村落、建-立橋梁、補-葺堤堰、修-復陂塘、勤-課耕種、賑-貸貧乏。 存-問孤老。頒宗廟忌諱、立皇家社稷
百済余衆、各安其業
是漸営屯田、積糧撫士、以経-略高麗
〔孫仁師と劉仁願は軍を率いて帰り、留仁軌に現地で勒兵鎮守させた。
 劉仁軌は福信の乱によって破壊し尽くされたところを修復し、統治を再建し、百済に残った衆を安心させた。
 そして徐々にに屯田を営して、糧を蓄え士を養い高麗を経略した。〕
※ …=埋。…=弔。陂塘…堤防。存問…安否を尋ねる。
● すなわち、劉仁願は白江の戦勝後、遠征軍を率いて本国に引き揚げた。
● 留仁軌による戦後復興の内容は、百済本紀/仁軌始命段参照。
● 次の段、「」は高宗〔第三代皇帝〕を表す。
仁願既至京師
上謂曰「卿在海東、前後奏請、皆合事宜、而雅有文理。 卿本武将、何得然也」
対曰「劉仁軌之詞、非臣所一レ及也。」
上深嘆賞之、因超-加仁軌六階、正授帯方州刺史、 並賜京城宅一区、厚賚其妻子、遣使降璽書-勉之
〔仁願は京師に還り、高宗は仁願に「卿〔=あなた〕は海東にあり要請してきたことすべてが時宜に適い、雅にして道理がある。 卿は元々武将でありながら、どうやってそれを得たのか」と尋ねた。
 仁願はそれに答えて「その言葉は劉仁軌にこそ相応しく、臣〔遜った一人称〕の及ぶところではございません」と言った。
 高宗は感心して褒め、仁軌の位階を六階級加え、正しく帯方州刺史を授け、 京城の一角に邸宅を賜り、厚く妻子にものを賚(たま)い、使者を遣わして璽書を降して労勉〔=労い励ます〕した。〕
● 仁軌が留鎮している百済に使者を送り璽書を賜り慰労した。仁軌は次の返書を送った。
仁軌又上表曰「上深納其言。 又遣劉仁願率兵渡海、与旧鎮兵交代、仍授扶餘隆熊津都督遣。以招-輯其余衆。 扶餘勇者、扶餘隆之弟也。是時走在倭国、以-為扶餘豊之応。故仁軌表言之。」 於是仁軌浮海西還。 〔仁軌は上表して言った。「これから言うことを深くお納めください。
 再び劉仁願を遣わして兵を率いて渡海させ、旧鎮兵と交代させ、扶餘隆に熊津都督を授けて遣わして、百済の余衆を集めさせてください。 扶餘勇は扶餘隆の弟で、現在倭国におり、扶餘豊に応する〔叛意がある〕と思われます。故に、仁軌はこれを上表いたします。」
 そして、仁軌は海を渡って本国に帰った。〕
● 仁軌は、倭国にはまだ扶餘隆の弟の勇がいるという。勇が百済に戻ることにより叛乱の火種になるかも知れない。 よって扶餘隆を熊津都督にして勇を抑えさせるのがよいと提言した。
 ●左大臣
阿倍内麻呂臣
(阿倍倉梯麻呂)
左大臣大化元年六月
大化五年三月
巨勢徳陀古臣 左大臣大化五年四月
〈斉明〉四年正月
蘇我赤兄臣 左大臣:〈天智〉十年
配流:〈天武〉元年八月
 ●右大臣
山田石川麻呂臣蘇
(蘇我倉山田麻呂大臣)
右大臣:大化元年六月 
自経大化五年三月
大伴長徳連 右大臣:大化五年四月
:白雉二年七月(『公家補任』による)
中臣金連 右大臣:〈天智〉十年正月
:〈天武〉元年八月
白雉二年に"巨勢左大臣"ではなく「巨勢大臣」とあるためか。
 つまり、劉仁願は、白江戦勝〔663〕後に孫仁師と共に本国に帰った。 そして、熊津都督として扶餘隆を送ったときに、鎮守劉仁軌の後任としてに同行して百済鎮守に就いた。
 よって、三年〔664〕五月の時点で仁願が百済で鎮将を務めていた可能性はある。
《郭務悰》
 郭務悰については、『旧唐書』巻八十、越王李貞〔太宗〔在位626~649〕の八男〕の子、の伝の中に郭務悌の名がある。 それは、貞の長子が武水県を攻めた箇所で「武水県。県令郭務悌」とある。
 「武水県」は魏州に属する。 魏州は662年〔龍朔二年〕冀州に改称。渤海の西岸に面している。
《蘇我連大臣》
 蘇我連大臣が、就任したときの記事はない。
 『公家補任』には「天智天皇御世:蘇我連子臣。元年為大臣故。初任年未詳。字〔あざな〕蔵大臣。 或書云。三月任即薨。馬子大臣之孫。雄正子臣之子。右大臣石川麿之弟也」と載る(〈姓氏家系大辞典〉による系図)。
 そこで、この前後の大臣の就任期間を見る。
 本当のことは分からないが、〈天智〉称制中に大臣任命が行われたことは考えにくく、また〈斉明〉四年に巨勢左大臣が薨じているので、 〈斉明〉朝の間に蘇我連子臣が大臣に就任したと考えるのが自然であろう。
 〈続紀〉の記事から、蘇我連大臣は〈斉明〉天皇の治世に任命されていたことが確定することが分かった。(この項2024.8.25加筆(も改定))
  『続日本紀』天平宝字六年〔762〕九月乙巳
御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。…年足者後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志曽孫。 〔石川朝臣年足が薨じた。享年七十五。年足は、〈斉明〉朝で大臣を拝した大紫蘇我臣連の曽孫である〕
 『公家補任』に依れば大伴長徳連が大化五年に薨去して右大臣は空位となり、実質的に大臣一人制になっていたことによって、蘇我連子"大臣"と表記された可能性がある。
《嶋皇祖母命》
 嶋皇祖母命といえば、吉備嶋皇祖母命がいた。しかし、既に〈皇極〉二年九月〔21年前〕に薨じている。 吉備嶋皇祖母命の薨が二箇所に書かれた可能性もなくはないが、癸卯年〔〈皇極〉二〕甲子〔〈天智〉三〕が誤られるのは考えにくい。
 〈釈紀/述義〉は、「兼方案之。敏達天皇之皇女糠手姫皇女。(彦人大兄皇子之妃。舒明天皇之母)天智天皇之内〔=父方の〕祖母也」とする。 その場合、「」は、個人名を越えた称号的な意味をもつことになる。
 の地には嶋大臣〔蘇我馬子〕の家があり、草壁皇子の島宮もあったの地は他にも貴人が邸宅や宮を構えたことから、しばしば名前に冠されたと考えることもできる(〈推古〉三十三年)。
《宣発遣郭務悰等勅》
 〈汉典〉を見ると、「発遣」は基本的に「」と同じ。ただし、嫁に出す、追い払うなども派生している。 「」には名詞「使者」の用法もあるかと思われたが、実際は動詞のみであった。 よって「-遣郭務悰等」は、「郭務悰を遣わして、劉仁願に詔させると宣(の)べた」としか読めない。 しかし、これでは全く理屈に合わない。唐の天子が任じた鎮将に向けて、横から他国が詔を発することはあり得ないからである。
 従って、この文には目的語「使〔=使者〕を補い、 「使者を郭務悰等の許に遣わして勅せよと宣(の)べた」とという文にすべきであろう。
 ちなみに、このときの郭務悰の来朝を詳しく述べた文書が残っている。
 『善隣国宝記』〔周鳳;文正元年〔1466〕〕(抜粋)――『史籍集覧』21〔近藤瓶城;近藤出版部1924〕
海外国記曰。天智天皇三年四月。大唐客来朝。大使朝散大夫郭務悰等卅人。百済佐平祢軍等百余人。至対馬島」。
将軍牒書一函献物」。
九月。大山中津守連吉祥。大乙中伊岐史博徳。僧智弁等。称筑紫大宰辞実是勅旨。告客等」。
海外国記によれば、天智天皇三年四月、大使朝散大夫郭務悰の一行が来朝して対馬に着いた。
 将軍牒書一箱と献物を受け取った。
 九月、伊岐博徳らは「筑紫大宰辞」と称して、実は勅旨であったものを使者に告げて…。〕

 以下、使者は大唐天子が遣わしたものではなく、百済鎮将が私的に遣わしたものだから、牒書を朝廷に上げることはできず、使者の朝見もできないなどと述べている。
 『善隣国宝記』は、周鳳が古来の外交関係の諸文献をまとめたもの。 ここで引用された『海外国記』は、伊吉博徳(〈斉明〉六年)の時代に成立した文書で、その写本を用いたと見られる。
 「将軍牒書」は実際には朝廷に上げられて勅を返したようであるが、大宰府の現場判断で「筑紫大宰辞」とされた。 その理由として、鎮将〔劉仁願〕が発した牒は、天子の勅ではないから天皇の勅は釣り合わないと判断したことが読み取れる。
 すなわち、「津守連吉祥」らを使者として郭務悰の許に発遣し、を告げることを〔=命令〕したのであるから、 「宣発遣郭務悰等」に「使於」を補って「発遣使於郭務悰等」とする判断はやはり妥当である。
《中臣内臣》
 中臣内臣は、藤原鎌足のこと。〈孝徳〉即位前に、「中臣鎌子連」を内臣とした。 〈天智〉八年には「藤原内大臣」となり、私的に仕えた臣が公式に大臣となる。
《沙門智祥》
智祥 ここだけ。
《蓋金》
 『三国史記』淵蓋蘇文伝に「蓋蘇文。或云蓋金」。 〈皇極〉元年〔642〕年に建武王を殺して宝蔵王を立てた。
《必為隣咲》
 「」は唐・新羅であろう。遺言における杞憂は、六年十月条の「高麗大兄男生出城巡国…」の件で現実化する。
《大意》
 三月、 百済王(くだらのこんきし)善光王(ぜんこうおう)らを、 難波に居住させました。
 星が、京北に隕石となって落ちました。
 この春、地震がありました。
 五月十七日、 百済の鎮将(ちんしょう)劉仁願(りゅうじんげん)は、 朝散大夫(ちょうさんだいふ)郭務悰(かくむそう)らを遣して、 文書箱と献上品を進上しました。
 同じ月、 大紫(だいし)蘇我の連(むらじ)の大臣(おおまえつきみ)が薨じました 【ある文書に、 大臣の薨は五月と注す】。
 六月、 嶋の皇祖母(すめみおや)の命(みこと)が薨じました。
 十月一日、 郭務悰らに使者を遣して勅(みことのり)することを宣じました。
 この日、 中臣(なかとみ)の内臣(うちつまえつきみ)は、 沙門智祥(ちしょう)を遣して賜り物を郭務悰に送らせました。
 四日、 郭務悰らに饗を賜いました。
 同じ月、 高麗(こま)の大臣蓋金(ごうきん)は、 本国で命を終え、 子らに 「お前たち兄弟は、 和すこと魚水の如くして、爵位を争うな。 もしそうしなければ、必ず隣国に笑われよう。」と言い遺しました。


12目次 【三年十ニ月~是歳】
《郭務悰等罷歸》
十二月甲戌朔乙酉。
郭務悰等罷歸。
十二月甲戌朔乙酉〔十二日〕。 郭務悰(くわくむそう)等(ら)罷(まか)り帰(かへ)る。
是月。
淡海國言
「坂田郡人小竹田史身之
猪槽水中忽然稻生、
身取而收、
日々到富。
坂田郡人…〈北〉坂田サカタ 郡人コヲリノヒト[切]小-竹/シノタノ シヌ -田史身 フムヒト ムカ猪槽水 ヰカフ フネノ稲生ムカ
〈兼右本〉-然稲-ナレリナル[句][切]
ひにひに…[副] (万)3974夜麻夫枳波 比尓〃〃佐伎奴 やまぶきは ひにひにさきぬ」。
是(この)月。
淡海(ちかつあふみ)の国の言(まを)ししく
「坂田郡(さかたのこほり)の人、小竹田(しのだ)の史(ふひと)身(む)之(が)
猪(ゐ)かふ槽(ふね)の水(みづ)の中に忽然(たちまち)稲(いね)生(お)ふ。
身(む)取りて[而]収(をさ)むれば、
日々(ひにひに)富(とむる)に到れり。
栗太郡人
磐城村主殷之新婦床席頭端、
一宿之間稻生而穗、
其旦垂頴而熟。
明日之夜更生一穗。
栗太郡人…〈北〉クロモトノ。 〈兼右本〉栗-本クリ モト磐城 イハ キ村-主 柱イ  スクリ殷之 オホカ 新-婦 ニヒシキ 床-席  シキヰ 頭- ハシ一-宿之 ヒトヨノ 穂 ホイテタリ アシ垂-頴而タ  カフシテ /ホクリテ   熟明アカラカナリ
〈閣〉殷之オホ人名也ナオホカ  新-婦 ニヒシキ ノ床席 シキヰノ 頭-ハシニ/アカラメリアカラカナリ。 〈兼右本〉明-クルツ
栗太郡…〈倭名類聚抄〉{近江国・栗本【久留毛止】郡【国府】}。
…[形] (古訓) おほきなり。さかりなり。
くり…[名] 〈時代別上代〉「交替形としてクルもあったようで、栗栖クルス…の例がある」。
一宿…(万)0440荒有家尓 一宿者 あれたるいへに ひとりねば」。(万)1424一夜宿二来 ひとよねにける」。
…[名] (古訓) よめ。め。
まくらへ…[名] まくらもと。
…[名] 穂先。(古訓) かひ。
かび…[名] 稲などの穂。
栗太郡(くるもとのこほり)の人、
磐城(いはき)の村主(すぐり)殷(おほ)之(が)新婦(にひしきめ)の床席(しきゐ)の頭端(まくらへ)に、
一宿之間(ひとよねしま)に稲(いね)生(お)ひて[而]穂(ほだち)す、
其の旦(あくるあした)穎(かび)を垂(た)れて[而]熟(みの)れり。
明日(くるつひ)之(の)夜(よ)に更(また)一穂(ひとほ)を生(お)ふ。
新婦出庭、
兩箇鑰匙自天落前、
婦取而與殷、殷得始富。」
両箇鑰匙…〈北〉 両-箇 フタノ鑰-匙 カキ落前- タリ ノ婦取-而与 オホ々得 テア オホニ コト
〈兼右本〉[テ][コト][ヲ][句]
かぎ…[名] 戸締りするかぎ。
鑰匙…かぎ。鑰は鍵。匙は平たい鍵。
新婦(にひしきめ)庭(には)に出(いで)てあれば、
両箇(ふたつ)の鑰匙(かぎ)天(あめ)自(よ)り前(さき)に落ちて、
婦(め)取りて[而]殷(おほ)に与へて、殷(おほ)始めて富(と)むことを得(う)。」とまをしき。
是歲。
於對馬嶋
壹岐嶋
筑紫國等置防與烽。
防与烽…〈北〉防与 セキ■ トフヒ スゝミ。 〈閣〉セキモリスゝミ。 〈釈紀〉セキモリスゝミ
〈兼右本〉セキモリ一レスツミスゝミ
〈倭名類聚抄〉{壹岐島【由岐】對馬島【都之萬】}。
是年(このとし)。
[於]対馬(つしま)の嶋(しま)、
壱岐(ゆき)の嶋(しま)、
筑紫(ちくし)の国等(ら)に防(さきもり)与(と)烽(とぶひ)とを置く。
又於筑紫築大堤貯水、
名曰水城。
大堤貯水…〈北〉堤貯 ツゝミ タクハヘシ■名曰水-城ミツ キ
〈閣〉堤貯水ツゝミヲ タクハヘシム ヲ。 〈釈紀〉タムミツ
又(また)、[於]筑紫(ちくし)に大(おほきなる)堤(つつみ)を築(つ)きて水(みづ)を貯(たくは)ふ、
名をば水城(みづき)と曰ふ。
《淡海国言》
 「淡海国言」として載るいくつかの話は、大津京への遷都に伴う吉兆伝説を収めたものであろう。
《小竹田史身》
西河原森ノ内遺跡
1985年中主町教育委員会の調査
〔現滋賀県野洲市西河原〕
 〈姓氏家系大辞典〉は、「小竹田 シノダ シヌダ:信太、信田等と通ず、併せ見よ」、 「小竹田史:近江の小姓氏にして、天智紀に…と見ゆ」、 「篠田:シノダ」で〈倭名類聚抄〉{近江国・蒲生郡・篠田郷}ありと述べる。
 すなわち、小竹田氏の本貫は蒲生郡篠田郷とされる。
 その篠田郷について『日本歴史地名大系』は 「篠田庄は当郷に成立…。郷域は「日本地理志料」は日野川流域の現竜王町のほぼ東半部、蒲生町北西端部、近江八幡市の南東端、八日市市の西端部〔図()〕とし、 「蒲生郡志」は近江八幡市の馬淵などを含む南東部から西の琵琶湖付近〔図()〕」として、比定地に二説を挙げる。
 ひとまず、坂田郡から蒲生郡に移り住んだ小竹田氏族の中に、がいたと理解しておく。
《猪槽水》
 漢字では、家畜化した豚も「」である。和語でもヰカヒベ〔猪飼部:例えば山代之猪甘第179回が見えるので、 野生のイノシシから家畜化されても、と言った見られる。
 なお、Apton(全農発行)によると、「出土した骨の分析により、弥生時代には家畜化された豚が中国大陸から持ち込まれたのではないかと推定され」るが、 「仏教の普及とともに食肉そのものが徐々に避けられるようになり、平安時代には日本で豚を飼育する文化はほぼなくなりました」という。 平安の前の上代においては、は豚、ヰカヒは養豚〔部〕を表す語として、一般的に存在したわけである。 はその餌または飲み水を入れる容器として置かれていたと読める。たまたま入り込んだ籾が発芽することもあろう。
《栗太郡》
 古訓は「栗太」に「クロモト」と振るので、平安時代には〈倭名類聚抄〉の「栗本」の表記が一般的だったようである。
《磐城村主殷》
 磐城村主については、西河原森ノ内遺跡から 「戸主石木主寸□□呂」と記された木簡が出土している。主寸は、村主(すぐり)と見られている。
 『西河原森ノ内遺跡 1985年中主町教育委員会の調査』 (奈良文化財研究所学術情報リポジトリで"一九八五年出土の木簡 滋賀・西河原森ノ内遺跡"を検索) によると、「遺跡北部の木簡出土地点では、平安時代前期、奈良時代、白鳳時代末…の遺構が検出できた」という。
 同遺跡のある野洲郡は、栗太郡に隣接している。
《防》
『花火ものがたり』(p.25)に加筆 ×目視不能 目視成功
 防人については、改新詔其二(大化二年)に見える。『令義解』軍防令に規定がある。
 〈天智〉三年のがその始まりで、次第に制度化したと思われる。
《烽》
 は『令義解』軍防令に、「四十里を相去く」、「昼夜時を分(わか)たず候(さぶら)ひて望め」などと規定されている (第174回《烽》)。
 古訓のトブヒは「跳ぶ火」、ススミは伝達される信号の「進み」であろう。
 対馬については、「最も朝鮮半島に近い烽火台が対馬市上県町の千俵蒔山と言われている」との記述を見る (対馬全カタログ「観光」)。 また 対馬市景観計画によると、 「烽火が8カ所に設置された」という(p.30)。
 一方、『対馬風土記』19〔対馬郷土研究会;1983〕/「「烽」の調査にあたって」〔対馬文化財調査委員会〕(pp.19~20)によると、 その8カ所とは、国学者藤斎延〔元禄~享保頃〕が『本州武備談』の中で考定したもので、 「北から井口嶽(上県町佐護)、御嶽(同町仁田)、黒蝶山(同町久原)、天神山(豊玉町仁位)、大山嶽(美津町大山)、白嶽(同町洲藻)、荒野隈(厳原町椎根)、竜良山(同町豆酘)をもって八烽としている」という。 しかしその「論拠には不明の事が多く、その説の当否は検証されていない」とのことで、 むしろ「上対馬町西泊の飛嶽とぶだけ、峰町本坂の鳶嶽など飛・鳶と称する地名が数カ所あり、 これらが展望の利く高い所にあることから、あるいは「とぶひ」の遺称ではないか」と述べる。
 壱岐については「烽は壱岐に14か所設けられ、その一つは壱岐島最高峰、岳の辻(郷ノ浦町)とされる」という (壱岐市内にある文化財)。
 1981年に、対馬から大野城跡までの烽火による伝達の再現実験が行われた。ただしこれは弘安の役から12年後の1294年に、鎮西探題北条兼時が整備を命じた狼煙ルートを想定したものという。
 『花火ものがたり』〔江口春太郎;中日新聞本社1982〕によると、 この実験は「昭和56年十一月二十九日に試みられ」、「対馬大山岳で点火…大宰府政庁跡への207km間の連絡になんと25分30秒しか、かからなかった」という。 「西日本新聞の記事を要約すると…実質的にリレーが切れたのは対馬→壱岐間だけ」、 「田村圓澄九州歴史資料館長は『…一時間はかからなかったのではないだろうか。こんな威力があったから中大兄皇子も安心していたでしょう。最も困難な対馬→壱岐間は、早舟を出して海上で狼煙を上げたのかもしれない』と語っていた」という(pp.24~26)。 なお、鏡山→火山、志賀島→油山は目視できなかったが、それぞれ一つ前の神津島、能古島の狼煙が目視できたという。
《水城》
図A図B
 ↑
 断面の概念図

←『水城―昭和50年度発掘調査報告書』第一図に
 『遠の朝廷』(p.34)により加筆
 大宰府政庁Ⅰ-1期に、水城は政庁を囲んで防禦する山城群のひとつの要素として位置づけられることを見た(《大宰府政庁説》)。 また、そこでは大宰府政庁の出発点を朝倉橘広庭宮(〈斉明〉)とする説を有力視したところである。
 『水城―昭和50年度発掘調査報告書』〔福岡県教育委員会1976〕は、 「今回の調査の目的は、…書紀記載の貯水をどこに、どのように行っていたかを解明するところにあり」 調査の結果、「外堀は堤から連続して存在し、幅約60m。深さ4m以上の水濠であることが判明」(図A)、 「木樋については、従来堤の湿気抜きであろうとする考えに対し、外堀への導水路としての機能が考えられるに至った」(図B)と述べる(p.4)。
 土塁内濠外濠三笠川によって断ち切られている。それらと三笠川との関係について、 『遠の朝廷』〔「遺跡を学ぶ76;新泉社2011」〕は、 「中央欠堤部では石組遺構が確認されており、貫流する三笠川の水を堰の上から越流させる「洗堰」と考えられている」とする。
 洗堰は、あまり高くせずに一定水位以上は水が越えるようにした堰である。その溢れた水を内濠に導く水路があったと思われる。
 土塁の東西には門がある。同書は西門の調査の結果「築堤期であるⅠ期は掘立柱式」、「Ⅱ期は八世紀はじめごろに礎石式」、 「Ⅲ期〔九世紀頃〕の門は、土塁を大きく改修し」、「瓦が出土することから、重層の門が想定される」という。
図C図D
 ↑
 「水城」銘墨書土器〔『遠の朝廷』(p.39)〕

水城の立地。地理院地図「自分で作る色別標高図」機能を利用。
 〈宣化〉紀《大宰府》
 〈斉明〉紀《大宰府政庁説》参照。
 なお、「水城」銘墨書土器が、「8世紀後半の井戸から出土した」(同書)という(図D)。 これにより、この大堤が書紀のいう「水城」であったことが考古学的に確定した。
 さて、那の津から内陸に向かう官道は、水城のところで東西の山地の間の隘路を通り抜ける(図C)。 その位置から見て、水城の土塁と濠が、福岡湾から上陸して攻めて来る敵軍に対して大宰政庁を防禦する軍事目的の構造物であるのは明らかである。
《大意》
 十二月十二日、 郭務悰(かくむそう)らは辞して帰りました。
 同月、 近江の国は言上しました。
――「坂田郡の人、小竹田(しのだ)の史(ふひと)身(む)〔人名〕の、 飼っていた猪(い)〔=豚〕の桶の水の中から、突然稲が生えました。 身が取って収めたところ、 日々富めるに至りました。
 栗太(くるもと)郡の人、 磐城(いわき)の村主(すぐり)殷(おお)〔人名〕の新婦の床の枕元に、 一夜寝た間に稲が生え穂が立ち、 朝になり穂先を垂れて実りました。 あくる日の夜、更に一本の穂が生えました。
 新婦が庭に出たところ、 二個の鑰匙(やくし)〔=鍵〕が天から眼の前に落ち、 新婦は取って殷(おお)に与え、殷は始めて富を得ました。」
 この年、 対馬(つしま)の島、 壱岐(いき)の島、 筑紫の国などに防人(さきもり)と烽台を置きました。
 また、筑紫に大きな堤を築いて貯水し、 その名を水城(みずき)といいます。


まとめ
 『善隣国宝記』によると、『海外国記』には書紀以上に詳しい記述が見えるので、書紀は当時の詳細な記録を要約したと見られる。 よって、実際にこの時期に劉仁願が鎮将として滞在していたのは事実と見てよいだろう。『旧唐書』(劉仁軌伝)とも矛盾しない。 なお、書記による要約「宣発遣郭務悰等勅」は意味が通らない。「称筑紫大宰辞実是勅旨」をどう書くか悩んで書き直しているうちに、こうなったのかも知れない。
 さて、この時期に郭務悰を遣わした目的は何だろう。 『旧唐書』(劉仁軌伝)を読むと、唐側はなお扶餘勇〔善光王であろう〕が渡海して再び百済復興勢力が乱を起こすことへの警戒心を捨てていない。
 よって、郭務悰の任務は倭国内の亡命百済人の動向を探ることであろう。そして持参した牒の中身は、もし善光王を倭国に留めてくれれば、倭国を攻めることなど毛頭考えていないと言った可能性がある。
 『海外国記』に見える倭国側の渋い対応は、唐の天子が直接遣わした使者ならまだしも、鎮将が遣わした使者では信用できないということなのであろう。



[27-06]  天智天皇(3)