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2024.02.27(tue) [27-01] 天智天皇1 

目次 【称制前】
天命開別天皇〔天智〕天命開別天皇。息長足日廣額天皇太子也……〔続き〕


目次 【斉明七年七月是月~九月】
《蘇將軍至于高麗城下》
是月。
蘇將軍
與突厥王子契苾加力等、
水陸二路至于高麗城下。
蘇将軍…〈北野本〔以下北〕 シヤウ クン トツ クヱツノ王子 セシム ケイヒルリヨク  ミ ク路至 ヨリシ 于高麗城下 サシモト
〈内閣文庫本〔以下閣〕。 〈兼右本〉[ノ]- ヨリシ[テ]
より…[助数詞] ~回。経路を数える用法は見えない。
是(この)月〔斉明七年七月〕
蘇将軍(そしやうぐん)、
突厥(とつくゑつ)の王子(わうし)契苾加力(けいひつかりよく)等(ら)と与(とも)に、
水(みづ)陸(くぬか)の二(ふたつの)路(みち)ゆ[于]高麗(こま)の城(さし)の下(もと)に至る。
皇太子、遷居于長津宮。
稍聽水表之軍政。
遷居于記オハシマス 長津聽水-表キコシメス ヲチカタ。 〈閣〉  テヲハシマス
〈兼右本〉-オハシマ[ス]ナカ-津伊予国[ニ][句] ヤウヤク
皇太子(ひつぎのみこ)、[于]長津宮(ながつのみや)に遷(うつ)り居(ましま)して、
稍(やくやく)水(わた)の表(おもて)之(の)軍(いくさ)の政(まつりごと)を聴(き)こしめす。
八月。
遣前將軍大花下阿曇比邏夫連
小花下河邊百枝臣等
後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣
大山上物部連熊
大山上守君大石等、
救於百濟。
仍送兵杖五穀
遣前将軍…〈北〉 マヘノ将-軍 イクサノ キミ大-花 タイ クワ阿-曇アツミノ 比邏ヒラ フノ 連小花 ムラシ セウ クワ河-邊 カハヘノモゝ エノ オム後将 シリヘノ -軍 大花下ヘノ引田 ヒケタノ比邏ヒラ夫臣フノ ヲン 大山-上タイセンシヤウ物部モノゝヘノ ムラシ クマ 大-山-上マリ キミノ大石 オホイシ兵杖 ツハモノ 穀  タナツモノ
〈閣〉下阿曇連小。 〈釈紀〉守君マリキミノ大石オホイシ
大花下制冠十九階の八位。 小花下…十位。大山上…十一位。大山下…十二位。小山下…十四位。
八月(はつき)。
[遣]前(まへの)将軍(いくさのかみ)大花下(だいくわげ)阿曇(あづみ)の比邏夫(ひらふ)の連(むらじ)、
小花下(せうくわげ)河辺(かはべ)の百枝(ももえ)の臣(おみ)等(ら)、
後(しりへの)将軍大花下阿倍引田(あべのひけた)の比邏夫(ひらふ)の臣(おみ)、
大山上(だいせんじやう)物部連(もものべのむらじ)熊(くま)、
大山上守君(もりのきみ)大石(おほいし)等(ら)をつかはして、
[於]百済(くたら)を救(すく)はしむ。
仍(よ)りて兵杖(つはもの)五穀(いつくさのたなつもの)を送る
【或本續此末云。
別使大山下狹井連檳榔
小山下秦造田來津、
守護百濟。】。
或本…〈北〉本續 フミ 檳-榔 アチマサハタノ田来津 タ ク ツ守護 マモラ 。 〈閣〉此末云別使
〈釈紀〉ツイテ此末コノスヘニコトニ使私記説シテ田來タクツヲ
あぢまさ…[名] 檳榔(びんろう)。第120回参照。
【或本(あるふみ)に此(この)末(すゑ)に続(つ)ぎて云ふ。
別(こと)に[使]大山下(だいせんげ)狭井連(さゐのむらじ)檳榔(あぢまさ)、
小山下(せうせんげ)秦造(はたのみやつこ)田来津(たくつ)をして、
百済(くたら)を守護(まも)らしむ。】。
九月。
皇太子、御長津宮。
以織冠
授於百濟王子豐璋。
復以多臣蔣敷之妹妻之焉。
織冠…〈北〉 オハシマス 津宮織冠 オリモノ 王-子 セシム 蔣敷 コモ シキ妻之 メニアハス 豊璋ホウシヤウ
〈閣〉○ 津ノ津宮オリモノゝ。 〈釈紀〉織冠ヲリモノゝカフリ
織冠…制冠十九階の「大織」(一位)または「小織」(二位)。
九月(ながつき)。
皇太子(ひつぎのみこ)、長津宮(ながつのみや)に御(おほましま)す。
織冠(しきくわん、おりもののかがふり)を以ちて
[於]百済(くたら)の王子(わうし、せしむ)豊璋(ほうしやう)を授(さづ)けたまふ。
復(また)多臣(おほのおみ)蔣敷(こもしき)之(が)妹(いも)を以ちて[之に]妻(めあは)せたまふ[焉]。
乃[遣]大山下狹井連檳榔
小山下秦造田來津、
率軍五千餘衞送於本鄕。
狭井連…〈北〉檳榔 アチマサ  衛-マモリ
乃(すなは)ち大山下(だいせんげ)狭井連(さゐのむらじ)檳榔(あぢまさ)、
小山下(せうせんげ)秦造(はたのみやつこ)田来津(たくつ)をつかはして、
軍(いくさ)五千(いつちたり)余りを率(ゐ)て[於]本郷(もとつくに)に衛(まも)り送らしむ。
於是、
豐璋入國之時、
福信迎來稽首奉國朝政、
皆悉委焉。
迎来稽首…〈北〉 キイ ヲカム-首奉國-朝クニ 委焉  ユタネタテマツル
〈閣〉キイ[切]稽-首 ヲカムテ  テ ノ ヲ[切] ニ委 ユタネタテマツル
稽首…頭を地につける。深くお辞儀する。
於是(ここに)、
豊璋(ほうしやう)国に入[之](いりし)時、
福信(ふくしん)迎へ来て稽首(をろが)みて国朝政(くにのまつりごと)を奉(たてまつ)りて、
皆(みな)悉(ことごとに)委(ゆだ)ねまつる[焉]。
《突厥王子契苾加力》
 契苾何力(けいひつかりき)は、鉄勒に属する一派の酋長の家系に生まれ、632年に母とともに出奔して唐に内附した。 突厥(とっけつ)は現在のモンゴル~カザフスタンの範囲にあった大きな国で、552年建国。その後、支配下に置いていた鉄勒による叛乱、唐への内応などにより630年に崩壊した。
 何力は唐で軍官に引き立てられ、668年には大軍を率いて高句麗宝蔵王を虜とし、「鎮軍大将軍」の称号を得た(下述)。 よって、書紀の「突厥の王子」は正確ではない。なお、古訓「セシム」は三韓における「王子」の称だから、突厥方面に用いるのは不適切である。
《至于高麗城下》
 高句麗本紀では、蘇定方軍は〈斉明〉七年の八月に平壌城を包囲したことになっている。 新旧唐書に平壌城包囲の記事はないが、高句麗本紀によれば、  蘇定方軍は「水路」で浿江〔大同江といわれる〕経由で平壌城に至り、包囲して膠着状態になったと見られる。 契苾加力軍は「陸路」で北方から攻めたが、「鴨淥」の手前で足止めされたと見られる。 実際、『旧唐書』によれば、契苾加力軍は遼東半島から攻めている(下記)〔鴨淥=鴨緑江は間違いないだろう〕。 加力が到着した時にたまたま鴨淥が凍り、やっと渡って攻め込んだ。
 このように読むと、両者の進軍経路は書紀の「水陸二路」と合う。
 ただし、書紀では凍った川は「浿」となっている。 旧唐書、高句麗本紀では浿江は凍った川ではない。 よって、浿鴨淥を取り違えた記録があった、もしくは書紀が誤ったと見なければならない。
 氷結した川を通って攻め込んだ話自体は、書紀、高句麗本紀、旧唐書に共通するので、有名な話だったと見られる。
 一方蘇定方が城を包囲した記事は新旧唐書にはなく、書紀と高句麗本紀のみに載る。これについては、高句麗本紀がむしろ書紀を参考にした可能性もある。 ただ、蘇定方が「平壌道」から攻めたこと自体は、旧唐書にも書かれている(下記)。
《長津宮》
 長津宮は「磐瀬行宮」の別名と見られる。 〈斉明紀〉七年三月条の「改此名曰長津」が、 娜大津磐瀬宮のどちらを指すかが曖昧だったが、おそらく両方であろう。
 『兼右本』が伊予国と傍記するのは、〈釈紀〉によると見られる。 すなわち〈釈紀/述義〉は、〈斉明紀〉七年条「于娜大津〔娜の大津に〕を「于娜(うな)の大津」と訓むことを前提として、「于那者。伊予国宇麻郡也。長津宮者。伊予国也」とする 〔〈倭名類聚抄〉{伊予国・宇摩郡}とウナは発音が似る〕
 ということは「水表之軍政」を聴したのは筑紫国ではないのだから、朝倉社上座郡説は〈釈紀〉〔13世紀〕はもとより『兼右本』〔16世紀〕の時期にも存在しなかった〔「存在しなかった」が言い過ぎなら、「主流ではなかった」〕
《阿曇比邏夫連》
阿曇比邏夫連  第43回【阿曇連】参照。阿曇連比羅夫は、〈皇極〉元年に百済からの使者に聞いた話を朝廷に伝達した。
河辺百枝臣 第108回(孝元段)【建内宿祢】に「蘇賀石河宿祢者蘇我臣川辺臣…之祖也」。 百枝は、〈天武〉六年十月に「民部卿」を拝す。
阿倍引田比邏夫臣 〈斉明〉四年是歳《阿部引田臣比羅夫》参照。
物部連熊  物部連資料[37]参照。はここだけ。『天孫本記』(資料[39])にもの名前はない。
守君大石  〈景行〉天皇大碓皇子の子孫(第122回)「大碓命者【守君…之祖】」。本貫は美濃。 を古訓は「マリ」と訓むが、〈姓氏家系大辞典〉に「守(マリ)」は見えないから、誤りであろう。大石はここだけ。
狹井連檳榔  〈姓氏家系大辞典〉に「佐為:又狭井、陜井に作り…大和城上郡狹井より起る」、「佐為連:物部氏の族」。 神武段に「狭井河」(第101回)。 〈延喜式-神名帳〉に{大和国/城上郡/狭井坐大神荒魂神社五座鍬靫}。狭井神社〔奈良県桜井市三輪1422〕に比定、狭井川は大神神社の北。 『天孫本記』:九世孫物部五十琴宿祢連公物部石持連公【佐為連等祖】物部五十琴宿祢連公物部麦入宿祢御辞連公【佐為連等祖】檳榔はここだけ。
秦造田来津  秦造は、応神段(5)(第152回)参照。 田来津は、大化元年九月に古人皇子に与して謀反。 その後復権したと見られる。
多臣蔣敷  多臣は〈神武〉皇子「神八井耳命」を祖とする(第101回)。 蔣敷はここだけ。
《衛送於本鄕》
 この〈斉明〉七年〔661〕九月条に、「衛送於本鄕」、そして「於是、豊璋入国之時…」に狭井連檳榔秦造田来津が送った。 さらに豊璋福信らが出迎え朝政を委ねたとあり、これでも帰国していないとはとても言えない。
 ところが既に見たように、〈天智〉元年〔662〕五月条にも「送豊璋等於百済国」とある。 この重複については、〈斉明〉8において、 〈斉明〉六年十月条の原注「正発遣之時見于七年」が、〈斉明七年〉説が正しいと述べたものと見た。
 一方新羅本紀では、豊帰国後に「豊不能制、但主祭而已」となったのは、661年4月から662年6月までの間のいつかである。 この日付がどの程度信頼できるかという問題はあるが、仮にこれを物差しとすれば、「661年9月」でさえ既に遅い。いわんや「662年5月」をやである。
《大意》
 〔斉明七年七月〕同月、 蘇(そ)〔定方〕将軍は、 突厥(とっけつ)王子契苾加力(けいひつかりょく)らと共に、 水陸の二路から高麗(こま)の城下に至りました。
 皇太子(ひつぎのみこ)〔中大兄、天智〕は、長津宮(ながつのみや)に移り滞在して、 徐々に海の向こうの軍政にあたられました。
 八月、 前方将軍大花下(だいかげ)阿曇(あずみ)の比邏夫(ひらふ)の連(むらじ)、 小花下(しょうかげ)河辺(かわべ)の百枝(ももえ)の臣(おみ)ら、 後方将軍大花下阿倍引田(あべのひけた)の比邏夫(ひらふ)の臣、 大山上(だいせんじょう)物部連(もものべのむらじ)熊(くま)、 大山上守君(もりのきみ)大石らを遣わして、 百済を救援させ、 兵杖五穀を送りました 【或る書では、この最後に続けて、 別に大山下狭井連(さいのむらじ)檳榔(あじまさ)、 小山下秦造(はたのみやつこ)田来津(たくつ)に、 百済を守護させたという。】。
 九月、 皇太子は、長津の宮において、 織冠(しきかん)を 百済の王子(せしむ)豊璋(ほうしょう)に授けられました。 また、多臣(おおのおみ)蔣敷(こもしき)の妹を娶らせました。
 そして大山下狭井連檳榔、 小山下秦造田来津を遣わして、 軍五千余を率いさせて、本国に護り送らせました。
 こうして 豊璋が国に入った時、 福信が迎えに出て稽首(けいしゅ)〔=深々とお辞儀〕して国の朝政を奉り、 皆ことごとく委ねました。


目次 【斉明七年十二月~是歳】
《高麗言於高麗國寒極浿凍》
十二月。
高麗言
「惟十二月
於高麗國寒極浿凍、
故唐軍雲車衝輣鼓鉦吼然。
高麗士卒膽勇雄壯、
故更取唐二壘、
唯有二塞、
亦備夜取之計。
惟十二月…〈北〉十二月。〈閣〉コノ十二月
寒極浿凍…〈北〉サムク キハマ  エ凍故唐 コホレリ  カレ  /タカ /クルマ ツ コシキ ツ カネ吼然 ナル 士卒 イクサヒト膽勇雄 タケク イサミ -壯ヲゝシ唐二[ノ] ソコ唯有[ノ] ソコ フ
〈閣〉サムイコトキハマラ └江也コホレリ雲車 クモノクルマ私 タカ クルマ  /クルマツ テコシキヲツ -カネ ナル-然夜取之計
〈釈紀〉雲車タカクルマ  クモノクルマ私記説衝棚ツククルマ  ツキクルマ私記説。〈釈紀/国史大系本頭注〉「棚、恐當作輣〔棚は恐らく輣に作るべし〕。 〈兼右本〉└江也
…[形] 水がきよらかなさま。
こしき(轂)…[名] 車軸を筒状に覆い輻(や)〔スポーク〕を出す部分。
十二月(しはす)。
高麗(こま)の言(まを)さく
「惟(この)十二月(しはす)、
[於]高麗(こま)の国に寒(さむさ)極(きは)まりて浿(はい)凍(こほ)れり。
故(かれ)、唐軍(たうぐん、もろこしのいくさ)の雲車(うんしや、たかぐるま)衝輣(しようはう、つくくるま)鼓(つづみ)鉦(かね)吼然(なりほゆ)。
高麗(こま)の士卒(いくさびと)胆勇(いさみ)雄壮(さか)りて、
故(かれ)更(さら)に唐(たう、もろこし)の二(ふたつの)塁(そこ)を取りつ。
唯(ただ)二(ふたつの)塞(そこ)を有(たも)ちて、
亦(また)夜(よる)に取らむ[之]計(はかりごと)に備(そな)ふ。
唐兵、
抱膝而哭。
鋭鈍力竭而不能拔。
噬臍之恥、非此而何」
抱膝…〈北〉カゝヘテ鋭鈍力  トクサキニフリ - ツキ ヌク[句] クフ ホソ之恥非此而 ナソ
〈閣〉イクサ不能ヌクコト。 〈兼右本〉アラスシ[テ]ナソ
…[動] (古訓) かむ。くらふ。はむ。ふふむ。
ほそ…[名] へそ。〈時代別上代〉「天智前紀などのホソヲクフは、悔いても及ばぬ意であり、へそを噛もうと思っても届かないところに基づく」。
唐(たう、もろこし)の兵(つはもの)、
膝(ひざ)を抱(むだ)きて[而]哭(な)く。
鋭(ときさき)鈍(おそ)くなりて力竭(つ)きて[而]抜(ぬくこと)不能(あたはず)。
臍(ほそ)を噬(くら)ふ[之]恥(はぢ)、此(こ)に非(あらざ)りて[而]何(なに)そ」とまをす
【釋道顯云。
言春秋之志
正起于高麗、
而先聲百濟。
々々近侵甚苦急、
故爾也。】。
言春秋之志…〈北〉殸百キカシメン  コノコ侵  ヲカスコトハナハタシ苦急 クルシムコト スカレミヤカナリ尓也 シカ云
〈閣〉春秋之コゝロト[切]  シテ  レリシカクシテキカシム 百。 〈釈紀〉コノコロ
【釈(ほふし)道顕(だうけん)の云ふ。
[言]春秋(しゆんしゆ)之(が)志(こころざし)
正(まさしく)[于]高麗(こま)に起(おこ)れりといふ。
而(しかくし)て先(さき)に百済(くたら)に声(き)こえて、
百済(くだら)をば近(このごろ)侵(をか)ししこと甚(はなはだ)しくて苦(たしなみ)急(すみやか)なりぬ、
故(かれ)爾(しかいふ)[也]。】。
是歲。
播磨國司岸田臣麿等、
獻寶劒言、
於狹夜郡人禾田穴內獲焉。
播磨国司…〈北〉 ハリ-磨 マノ-國 クニノ キシ ミコトモチ  タノ ヲン麿 マ ロツルキ マ テ サ-夜- ヤノ コヲリノ ヒトノ[ノ]禾田アハフノ /アハ /ノ穴-内ウチ私記  /アナニシ[テ]獲焉 エタリ 。 〈閣〉 ノ アハ  ノ-内ウチ私 アナニシテ  エタリ
〈釈紀〉麻呂マロシテ狹夜サヤノコヲリノヒトノ禾田アハフノ穴内ウヤニシテ 私記説
〈兼右本〉サヨ郡-人アハフ-田穴-内 ウチニテ私アナノウチニ
狭夜郡…〈倭名類聚抄〉{播磨国・佐用【佐与】郡}。
…[名] ① 粟。② 稲。〔稲ならば「水田」と書くはずだから、アハであろう。〕
アハフ…[名] 粟田。-フは繁っているところ。「阿波布爾波賀美良比登母登あはふにはかみらひともと」(神武段:第99回)。
是(この)歳。
播磨(はりま)の国の司(つかさ)岸田臣(きしたのおみ)麻呂(まろ)等(ら)、
宝(たから)の剣(つるぎ)を献(たてまつ)りて言(まを)さく、
「[於]狭夜郡(さよのこほり)の人の禾田(あはふ)の穴の内(うち)に獲(え)たり[焉]」とまをす。
又日本救高麗軍將等、
泊于百濟加巴利濱而
燃火焉。
灰變爲孔有細響、如鳴鏑。
或曰、
「高麗百濟終亡之徵乎」。
日本救…〈北〉日本加巴カヘ リノ ハマ燃火 タク 焉 灰- カヘ ナリ アナ細-響 ホソキ オト鳴-鏑 ナル カフラ 亡之ホロヒム  シルシ。 〈閣〉タクカヘテ ナリテ アナニ。 〈兼右本〉ホロヒン
なりかぶら…[名] 矢の先端につける発音用具(第59回)。
又(また)日本(やまと)の高麗(こま)を救(すく)ふ軍将(いくさのかみ)等(ら)、
[于]百済(くたら)の加巴利浜(かはりのはま)に泊(は)てて[而]
火を燃(た)けり[焉]。
灰(はひ)変はりて孔(あな)と為(な)りて細(ほそ)き響(こゑ)有りて、鳴鏑(なりかぶら)が如し。
或(ある)に曰へらく、
「高麗(こま)百済(くたら)終(つひ)に亡(ほろ)びむ[之]徴(しるし)乎(か)」といへり。
《高麗言惟十二月》
 「高麗言…」の記述は十二月条にあるが、「惟十二月」と書いた書状が十二月のうちに届くことはあり得ないので、実際に届いた時期はもっと後であろう。 その内容は、〈高句麗本紀〉『旧唐書』と概ね一致するので、情勢を公式に伝えてきたのは確かであろう。
 この書には、続けて倭への応援要請が書かれていたと考えられる。 というのは、元年三月是月条で「高麗乞救国家」とあり、それに応えて実際に「遣軍」しているからである。
 この「高麗言」は、実際には一月から二月の頃に届き、 それに応えて三月に軍を派遣したのが実際だと思われる。また加巴利浜での出来事(下述)も、元年三月以後に書かれるべきものがこの年に繰り上がって書かれていると見られる。
《浿》
 〈釈紀/述義〉には「浿凍:私記曰。浿公壁反。左傳云。浿。梁浿水出河内軹縣。又普頼反。説文云。浿水出樂浪〔私記曰。…左伝:梁の浿水は河内国〔現河南省〕軹県から出る。説文:浿水は楽浪から出る〕
 ここで引用された『説文解字』〔後漢;100、または121〕の原文は、 「浿:水。出樂浪鏤方、東入海。从水貝聲。一曰出浿水縣。〔川名。楽浪郡鏤方県から出て、東より海に入る。部首は水、発音は貝と同じ。あるいは浿水県から出るという〕となっている。
 平安までの書紀写本では「〔氵+日+天、氵+目+大〕が使われているが、「浿」〔氵+貝〕とは別字。 旧唐書、高句麗本紀では「浿」だから、おそらく書紀の初めの頃は高麗から送られた書にあった「浿」であったと想像される。
 時代が下って〈兼右本〉には、次の頭注が付されている。
・「浿:音霈水在樂浪唐書李勣為浿江道大總管」音は霈(ハイ)。水〔=河〕は楽浪に在り。唐書に「李勣為浿江道大総管〔巻八十八;郝處俊の項〕〕
・「:普蓋譜頼二切水也説文浿水出樂浪〔淏:普蓋・譜頼ふたつの切韻。水〔=河〕也。説文に浿水、楽浪より出づ〕
 普蓋・譜頼はむしろ浿(ハイ)の切韻で「浿水出楽浪」ともあるので、「」(カフこう)の項も事実上「浿」の解説である。 この頭注も実は筆写と見られるので、〈兼右本〉の原本ではそれぞれどちらの形の字が使われていたのか、正確には分からない。だが、旧唐書を確かに参照していたことだけは分かる。
 書紀古訓の時代〔平安後期〕はまだ「浿」という川名は知られず、「」として、その意〔清らかな流れ〕から「」をあてたようである。 このことから、書紀古訓が付された時期は『新唐書』〔945年〕成立より前、あるいは成立後間もなくまだ日本ではあまり読まれていない時期だと考えられる。
 一方『説文』は当時既に存在したが、そこに「浿」を見出だしたのは〈釈紀〉〔鎌倉〕になってからである。 その〈釈紀〉もまだ『旧唐書』の「浿」を見つけられなかったようである。見つければ必ず書いたであろう。
 浿は、旁の横棒の数が四本か五本という微妙な違いであるが、古訓と〈釈紀〉に敏感に影響を及ぼしている。 現在の〈北野本〉や〈内閣文庫本〉は実際には江戸時代の写本であるが、 その筆写された訓点にも、平安時代の形がそのまま残っていることが、この例から分かる。
《浿凍》
 凍った川は旧唐書〔およびそれを基にしたと思われる高句麗本紀〕では「鴨淥」〔鴨緑江〕となっている(上述)。
《雲車》
 雲車の説明を〈汉典〉から抜粋すると、雲彩裝飾花紋的車子」。伝説中仙人的車乗」。古代作戦時用-察敵情的楼車」。立式絞車、是一種用人力絞転的〔=ウィンチに類する〕起重器具」。
 古訓の「クモクルマ」は雲車の直訳でまたはを意味し、「タカクルマ」はを意味する。 なお、クモクルマタカクルマ、次項のオシクルマも〈倭名類聚抄〉には載らず、書紀古訓特有語であろう。 〈釈紀/述義〉は。いわく「雲車:私記曰。新案説。多加支久留万〔タカキクルマ〕。愚案。雲車即楼車。称雲取其高也。以之望」。 〔楼台付きの車。その高さにより雲と称する。敵を望む〕」。
 の巻き上げ機構〔釣用のリールの類〕は、は弩の弦を引くしくみで、すなわち弩車と考えられる。文脈ではでもよいが、の方が迫力がある。
《衝輣》
 〈汉典〉には「衝輣:沖車和楼車(古代戦車。上設望楼)。亦泛〔あまねく〕戦車」。 沖(冲の代字)は突き当たる意で、衝と同じ。
 〈釈紀/述義〉には「衝輣:私記曰。新案。師説。都久々留万〔ツククルマ〕。愚案。衝○車撞イ也。 詩曰:臨衝閑々。許真曰:輣、楼車なり。歩耕反〔ホウ〕」、 「:説文曰。兵車也。私記曰。淮南王造輣車」。
 「ツククルマ」は直訳。「天を衝く」意なら楼車と同じだから、こちらもタカグルマがあり得る。 衝き飛ばす仕掛けを備えた車との解釈も可能で、この方が文意に合う。 「城門などを衝き破る装置を持つ、物見やぐらのある車」という解釈も見る〔広辞苑6版;この文では一つの車が楼車と衝車とを兼ねている〕
 雲車衝輣への古訓からは何か強烈な戦車という印象は伝わるが、実際にどのようなものかは聞き手の想像に任されることになる。
《鼓鉦吼然》
 「鼓鉦吼然」は高麗本紀の「鼓噪而進」に類似するので、同じ出典に由来すると思われる。
《唐兵抱膝而哭》
 ここでは唐軍の猛攻を受けたが、高麗側が反撃してむしろ優勢になったと述べる。 救援を求める文書においては、局地戦の勝利を材料にして自国軍の奮闘を示す必要がある。劣勢をいうのみでは援助のし甲斐がないと思わせてしまうからである。
 一方旧唐書は、唐軍の圧倒的優勢を描きつつ「会(たまたま)有班師〔撤退または部隊の移動〕、乃(すなはち)還」と述べる。 実際には苦戦による撤退だったのを、「会(たまたま)詔があったから」と言い繕ったと読めるから、実際にはどっちもどっちである。
 客観的事実として唐軍は撤退したから、このときは勝利が得られなかったのは確かである。
《釈道顕》
 〈斉明紀〉六年七月に「高麗沙門道顕日本世記曰」、 〈斉明紀〉七年四月に「釈道顕日本世記曰」がある。 どちらも断片的で、『日本世記』の全体像は分からない。
 この段では、高句麗の難の裏に今は亡き春秋の執念ありと語る。 元年四月の「」は当たらなかったので、迷信的な因果を重んじた人物かも知れない。
《先声百済》
 春秋〔武烈王〕は、本年〔661;〈斉明〉七年〕六月に薨じた。 羅唐連合軍による高麗への攻撃は、春秋の遺志が形になったものだと語る。
 百済にも同じ苦難ありというのだが、それでは文意は次ので迷わせる。
  遠からず百済にも、その遺志が効いて苦しめるだろう。
  その春秋の意志は、以前にも百済を苦しめた。
 「百済近侵甚苦急」の「〔=遠からず〕、「〔=すみやかなり〕は、を思わせる。 しかし、「先声百済」の「」という語の過去に向かうベクトルは確定しているので、が正しい。
 すなわち、釈道顕の言は、「高麗への攻撃は春秋の執念が実ったものである。その執念は、以前にも百済を苦しめた。だからこう言う。」である。
《献宝剣》  『播磨国風土記』に類話がある。
播磨国風土記 讃容さよ
中川里: 〔中略〕 昔 近江天皇之世 有丸部具也 是仲川里人也 此人買取河内國兔寸邑人之齎剱也 得剱以後擧家滅亡 然後 苫編部犬猪圃彼地之墟 圡中得此剱 圡與相去廻一尺許 其柄朽失 而其刃不澁光如明鏡 於是 犬猪即懷恠心 取剱歸家 仍招鍛人令燒其刃 爾時 此刃屈申如虵 鍛人大驚不營而止 於是 犬猪以為異剱 獻之朝廷 後 淨御原朝廷 甲申年七月 遣曾祢連麿返送本處 于今 安置此里御宅北山之邊 昔、近江ちかつあふみ にあめのしたしろしめす天皇すめらみこと〔天智〕みよ丸部わにべそなふ有り、是れ仲川の里人さとびとなり。 此の人河内かふちの国の兔寸邑とのきむらの人のてあるつるぎを買ひ取りき。剣を得て以後のち家を挙げて滅亡ほろびぬ。 しかる後、苫編部とまみべ犬猪いぬゐ彼地かのところあとたがへして、土の中に此の剣を。土とともあひ去ることめぐり一尺ひとさかばかり。 其のからせつ。しかれども其のびずて光ることあかき鏡が如し。於是ここに犬猪すなはち心にあやしおもひて、剣を取りていへに帰る。 りて鍛人かぬちを招きて其の刃を焼かしむ。爾時ときに此の刃ぶることへみが如し。鍛人はなはだ驚きてつくらずてむ。 於是ここに犬猪以為おもへらくなる剣とおもひて、朝廷みかどたてまつる。 後に浄御原きよみはら朝廷みかど〔天武〕甲申きのえさるの年〔684〕七月ふみづきに、曽祢連そねのむらじ麻呂まろつかはして本のところかへし送らしむ。 于今いまに、此の里の御宅みやけ北山きたやまほとり安置けり。
丸部(わにべ)…また、和邇部。
兔寸邑仁徳段に「免寸河」。等乃伎神社(大阪府高石市取石2丁目14-48)がある。 和泉国の範囲であるが、716年までは河内国(〈允恭〉十一年【河内茅渟】項)。
苫編部…飾西郡に苫編(とまみ)村があった〔現在は姫路市苫編〕
 その剣は土に埋もれていたのに、刃は明鏡のように輝いていたという。それなら鍛人に鍛錬させる必要はないから、辻褄が合わない。 「屈申」は、刀剣を作るときの通常の折り返し鍛錬に由来する語と見られる。どうも、この伝説に幾つかの変種があって混合しているようである。
 〈天智〉朝に宝剣が献上されたこと自体は史実であろうが、書紀、風土記のそれぞれに伝説が混ざっていると思われる。
 連想されるのは、高倉下の許に落とされた剣の話である(第97回)。 高句麗情勢の話の間にあるから、深読みすればここも神剣の授与で、高句麗への救軍発出を促す話かも知れない。
《日本救高麗軍将》
 ここには「日本救高麗軍将」とある。 恐らく、元年三月是月条の「高麗乞救国家、仍遣軍将拠䟽留城」のことが、先行して書かれたと思われる(上述)。
 「軍将」という他にはあまり見られない書き方が共にあることも、それを示している。
《加巴利浜》
 加巴利浜については、『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕に、 「百済加巴利浜(皆火=全羅北道扶安)」とあった(p.67)。
 皆火扶安は、『東国輿地勝覧』(50巻、1481年成立)にあることが分かった〔加筆した『新増東国輿地勝覧』55巻が1530年に成立した〕
『新増東国輿地勝覧』〔1530〕/東国輿地勝覧巻之三十四〈『新増東国輿地勝覧 第三』〔朝鮮史学会1930〕
扶安縣:本百濟皆火縣 新羅改扶寧…太宗十四年 保安又合于扶寧…〔太宗十七年〕稱扶安鎭 【郡名】皆火 夫寧 戒発 保安 浪州 欣良買 喜安 〔はじめは百済の皆火県。…李氏朝鮮の太宗十四年〔1413〕保安と扶寧を合併、1416年に扶安鎮と称した。〕
● 扶安鎮の現代地名は全羅北道扶安郡界火面皆火に由来するか。
『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕(p.65)
 (部分)に加筆
 『日本古典文学全集』版〔小学館〕は『新増東国輿地勝覧』を引いて、扶安郡説を示す。 『日本古典文学大系』版〔岩波書店〕は、「皆火(Kaipul.全羅北道扶安)か」と述べる。
 しかし〈集解〉、〈通証〉には、「加巴利浜」に何の説明も加えていない。『仮名日本紀』の刊本〔1920〕にも解説はない。 扶安皆火説が出てきたのは昭和になってからと見られる。根拠は発音の類似であろうが、多くの戦場比定地の中にある。 ちなみに現代の発音は、(界):[kje/ke](火):[ɸwa]となっている〔ɸは無声両唇摩擦音〕
《細響如鳴鏑》
 この段は伝承の紹介であって、まさに「高麗百済終亡之徴」を語る。
 重大事件が起こる前には必ず妖しい予兆を置こうとしたようで、その傾向は〈皇極紀〉あたりから顕著になる。
《大意》
 十二月、 高麗は言上しました。
――「この十二月、 高麗国は寒さ極まり、浿江(はいこう)が凍りました。 よって、唐軍の雲車(うんしゃ)衝輣(しようほう)が襲い鼓鉦で吼えるようでした。
 高麗の士卒は胆勇雄壮で、 さらに唐の二つの塁〔=砦〕を取りました。 ただ〔唐軍は〕二つの要塞を守り、 また夜間に奪おうとする計略に備えました。
 唐兵は、 膝を抱えて泣きました。 鋭い切先は鈍くなり、力尽きて抜くことができず、 臍(ほぞ)を噛む恥がこれでなければ、何をいうのでしょうか。」 【釈道顕はいう。 春秋〔武烈王〕の志は、 正に高麗に現れたと言う。 というのは、先に百済で声を聞き、 百済を近頃侵すこと甚しく、苦しみは急であった。 よって、これをいう。】。
 この年、 播磨の国司岸田臣の麻呂たちは、 宝剣を献上し、 「狭夜郡(さよのこおり)の人の粟田の穴の中で獲たものです」と申しました。
 また、日本(やまと)による高麗救軍の将たちは、 百済の加巴利浜(かはりはま)に停泊して、 火を焚いたところ、 灰が変じて孔が開き細く響き、鳴鏑(なりかぶら)のようでした。
 或る人は、 「高麗百済が遂に亡ぶ兆候か」といいました。


【斉明七年の半島情勢】
 この年の半島情勢を、『旧唐書』・『新唐書』(中国哲学書電子化計画/書名検索)・『三国史記』(wikisource:三國史記)から見る。※返り点は本サイトによる。
〈百済本紀〉龍朔元年三月 〔661=斉明七年〕
武王〔在位600~641〕従子福信、嘗将兵、乃与浮屠道琛、拠周留城叛。 迎古王子扶餘豊、嘗質於倭国者、立之為王。 〔武王〔在位600~641〕の甥の福信は、将兵を集め、浮屠(ふと)〔=僧侶〕道琛(どうちん)とともに、周留城〔また支羅城〕に拠って叛乱した。 昔の王子扶餘豊――嘗(かつ)て倭国の質となっていた――を迎え、立てて王とした。〕
● 『旧唐書』百済伝 顕慶五年〔660〕に「使往倭国、迎故王子扶餘豊、立為王。」とある。 ただしばらく「扶余豊」に関する記事はなく、次に名前が出て来るのは、龍朔元年〔661〕三月より後である。 よって660年は豊璋返還の約束のみで、実行は661年だったとすれば、書紀のいう661年9月には何とか合わせることができる。
● 劉仁願〔唐代の武官〕は660年9月3日に泗沘城に留鎮した〔新羅本紀〕
西北部皆応、引兵囲仁願於都城。 詔劉仁軌検校帯方州刺史、将王文度之衆、便道発新羅兵、以救仁願。 仁軌喜曰「天将富貴此翁矣」。 請唐暦及廟諱而行、曰「吾欲-平東夷、頒大唐正朔於海表」。 〔西部(せいほう)、北部(ほくほう)〔各地方勢力〕は皆応じ、兵を引き仁願のいる都城〔=泗沘城〕を囲んだ。 詔を発して「劉仁軌を検校・帯方州刺史に立てる。王文度の軍勢を将(ひき)いて、道すがら新羅兵を発し、以て仁願を救え」と命じた。 仁軌は喜び「天はまさにこの翁に富貴を与えようとしている」と言って 唐暦と廟諱を要請して携行し、「私は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表に広める」と言った。〕
● 劉仁軌は、死亡した王文度の後任として帯方州刺史に任じられた。 劉仁軌は、泗沘城を包囲されて身動きが取れなくなっていた仁願の救援に向かった。
仁軌御軍厳整、転闘而前。 福信等、両柵於熊津江口、以拒之。 仁軌与新羅兵合擊之、我軍退走入柵、阻水橋狹、墮溺及戦死者万余人。 〔仁軌は軍を整え、戦いに転じて前進した。 福信たちは、熊津江口の両岸に柵〔=砦〕を作り、抗戦した。 仁軌と新羅兵は合同して撃ち、百済軍は退き柵に走り込み、橋に入った敵を挟み撃ちし、墮ちて溺死したり戦死した者は万余人に及んだ。〕
福信等乃釈都城之囲、退保任存城、新羅人以粮尽引還。 時、龍朔元年三月也。 〔福信等乃都城〔泗沘城〕の囲みを釈(と)き、退き任存城を保(まも)り、新羅人は食粮が尽きて引き還した。 時は、龍朔元年〔661〕三月であった。〕
● 福信たちは、救援を潰した泗沘城からひとまず撤退し、任存城に入って拠点とした。
於是、道琛自称領軍将軍、福信自称霜岑将軍、招-集徒衆、其勢益張。 使仁軌 「聞大唐与新羅誓、百済無老少一切殺之、然後以国付新羅。 与其受死。豈若戦亡、所以聚結、自固守耳。」。 〔道琛は領軍将軍を自称し、福信は霜岑将軍を自称。徒衆を招集し、益々勢いを増した。 使者を送り仁軌に告げた: 「聞くところでは、大唐は新羅と誓約し、百済の老少を問わず一切殺し、しかる後に国を新羅に付けようとしている。 甘んじて死ぬか?豈(あに)如(もし)や戦って亡ぶのか。そうならないよう聚結して、自ら固く守るのみ」。
仁軌作書、具陳禍福、遣使諭之。 道琛等、恃衆驕倨。置仁軌之使於外館、 嫚報曰「使人官小卑。我是一国大将、不上レ参。」、 不答書、徒遣之。 〔仁軌は書をしたため、具(つぶさ)に禍福を陳(の)べ〔必ずしも禍ではないと丁寧に説明し〕、遣使して諭した。 道琛らは、衆の勢いを恃み驕り〔倨もオゴル〕、仁軌の使者を館の外に置き、 嫚(あなど)って「使人の官は下っ端である。我は一国の大将で、釣り合わない。」と言い返した。 仁軌の答書は渡されず、徒(いたずら)に遣使をさせた。〕
仁軌以衆少仁願軍、休息士卒、上表請新羅之。 羅王春秋奉詔、遣其将金欽、将兵救仁軌等、至古泗。 福信邀擊、敗之。 欽自葛嶺道遁還、新羅不敢復出 〔仁軌は軍勢少ないので仁願軍と合流し、士卒を休息させ、〔皇帝に〕上表して新羅軍の派遣を要請した。 新羅王春秋は詔を奉り、金欽を将として派遣し、仁軌等を救おうとして古泗に至った。 福信は迎撃して破った。 金欽は葛嶺道から遁げ還り、新羅は敢えて再び出すことはなかった。〕
● 新羅本紀によると、金欽が来て帰るまでの時期は四月下旬となる。
● 義慈王追放が成った今は、新羅は百済地域の自国への統合を狙っており、むしろ唐が撤退することを望んでいたことのあらわれか。 あるいは、対高句麗戦線が緊迫していたためかも知れない。
尋而福信殺道琛并其衆。豊不制、但主祭而已。 福信等、以仁願等孤城無援、遣使慰之曰「大使等、何時西還。当相送。」 〔福信は問い質して、道琛とその兵衆を殺した。福信は扶余豊から実権を奪い、祭を主(つかさど)るだけの役割とした。 福信は孤城無援となった仁願に、慰撫の使者を送り「本国にはいつ還るのか。還るなら護送させよう」と言った。
● 福信は局地戦で勝利は得たが、このまま唐と戦い続けても勝ち目はないと見切ったと思われる。 劉仁軌が丁寧な返書を返したことは、講和のチャンスであった。ところが、思惑と違って道琛が勝手に使者を追い返してしまった。 そこで徹底抗戦を曲げない道琛を殺して、その兵を自分の陣営に組み込んだ。 扶余豊も徹底抗戦派だったから、作戦への口出しを禁じて祭祀主にまつりあげたのであろう。
 福信は、唐に下って自らの保身を確保する方向に舵を切っていたから、 道琛の首を手土産にして仁願に、早々に帰国して皇帝にとりなしてくれるよう頼んだと思われる。
〈旧唐書〉巻199上百済伝 龍朔元年〔661=斉明七年〕
帯方州刺史劉仁軌代文度衆、便道発新羅兵合契以救仁願 〔卒去した文度に代えて、帯方州刺史に任じられた劉仁軌は軍勢を率い、道すがら新羅軍を加えて仁願の救出に向かった。〕
転鬥而前、所向皆下。 道琛等於熊津江口立両柵以拒官軍。仁軌与新羅兵四面夾擊之、賊衆退走入柵、阻水橋狹、墮水及戦死万余人。 〔転戦して前進、向かう所皆を下した。道琛らは熊津の江口に二つの柵〔=砦〕を立て、仁軌と新羅の兵は四面から挟撃したが、賊軍〔=道琛軍〕は柵に走り込み、橋に殺到した仁軌新羅軍はその狭さに阻まれて川に落ち、戦死は万余人であった。〕
道琛等乃釈仁願之囲、退保任存城。新羅兵士以糧尽引還、時龍朔元年三月也。 〔道琛軍は仁願の囲みを解き、任存城に退いて守った。新羅兵は食糧が尽きて帰った。時に龍朔元年〔661〕三月。〕
是道琛自称領軍将軍、福信自称霜岑将軍、招-誘叛亡、其勢益張。 使仁軌「聞大唐与新羅約誓、百済無老少、一切殺之。然後以国府新羅。 与其受死、豈若戦亡。所以聚結自固守耳。」。 〔道琛は領軍将軍を自称、福信は霜岑(そうしん)将軍を自称。叛亡〔謀反と逃亡〕を誘い勢いを増す。 仁軌に使者を送り、「聞くに唐と新羅は盟約し百済を皆殺しにして新羅の国に併合するという。甘んじて死を受けたり、戦で滅んでなるものか。よって皆まとまり自ら固守するのみ」と伝えた。
仁軌作書、具陳禍福、遣使諭之。 道琛等恃衆驕倨、置仁軌之使於外館。伝語謂曰「使人官職小、我是一国大将、不合自参。」。 不答書遣一レ之。 〔仁軌は書をしたため、つぶさに禍福〔の道理〕をのべ、使者を遣わして諭した。道琛は驕り仁軌の使いを館の外で立たせたまま「使者の位は低い。一国の大将たる私には釣り合わない。〔仁軌〕自ら来い」と言い、答書の遣使は果たされなかった。〕
尋而福信殺道琛並其兵衆、扶餘豊但主祭而已。 〔福信は問い質して、道琛とその配下の兵を殺した。扶餘豊にはただ祭祀を掌るのみとさせた。〕
● 『旧唐書』のこの段は、〈百済本紀〉とかなり一致する。『旧唐書』は10世紀、『三国史記』は12世紀の成立だから、『三国史記』は『旧唐書』の記述を用いたと見てよい。 その際、『旧唐書』〈百済伝〉の「賊軍」・「拒官軍」が、『三国史記』〈百済本紀〉では「我軍」・「拒之」に置き換えられたのは当然である。
● 仁軌の返書の「具陳禍福」、「諭之」という表現は宥和的で、福信は交渉の手掛かりになると考えた。 そのチャンスを潰した道琛に、福信は怒りを露わにしたと読める。その怒りは、扶餘豊の処遇にも及んだ。
〈新唐書〉列伝145 東夷 龍朔元年〔661=斉明七年〕
龍朔元年、仁発新羅兵救。道琛立二壁熊津江。仁軌与新羅兵夾-擊之、奔-入壁
梁墮溺者万人、新羅兵還。道琛保任孝城、自称領軍将軍、福信称霜岑将軍
告仁軌曰「聞唐与新羅約、破百濟、無老孺皆殺之、畀以国。我与死、不上レ戦。」
仁軌遣使齎書答説、道琛倨甚、館使者於外、嫚報曰「使人官小、我国大将、礼不上レ見。」
徒遣之。仁軌以衆少、乃休軍養威、請新羅之。
福信俄殺道琛並其兵。豐不制。
龍朔元年〔661〕、仁〔軌〕新羅兵を発して救(すくひ)に往く。道琛二つの壁〔=砦〕を熊津江に立てり。仁軌与(と)新羅、之(こ)を夾擊し、奔(はし)りて壁に入る。
梁(はし)に争ひ墮ち溺(おぼ)るる者万人、新羅兵還る。道琛任孝城を保(まも)り、領軍将軍を自称す、福信霜岑将軍を称す。
仁軌に告げて曰ひしく「唐新羅与(と)約(ちか)ひて、百済を破り、老孺〔=幼子〕無く皆殺し、畀(あた)へて国を以(ひき)ゐむと聞く。我死を受くることに与(あづか)りて、戦ふ若(ごと)くせ不(ざ)るか」といひき。
仁軌使(つかひ)を遣はして書を齎(もたら)して答へ説けど、道琛(どうちん)倨(おご)れること甚(はなはだ)しく、館に使はれし者をば外に於(お)きて、嫚(あなづ)り報(むく)いて曰はく「使人の官小(せう)なりて、我(われ)国の大将なり、礼は見(まみ)ゆるに当たら不(ず)」といひて、
徒(いたづら)に遣はせり。仁軌衆少なきを以て、乃(すなはち)軍を休め威を養ひて、新羅を合せて図らむと請ふ。
福信俄(にはか)に道琛並びに其の兵を殺し、〔扶餘〕豊の制すること不能(あたはず)。
● 「奔入壁」の主語は道琛軍であろう。「夾擊」は「仁軌与新羅兵」が二つの壁から攻撃を受けたとも思えるが、文法的に難しい。 ひとまず、仁軌は西から、新羅兵は東から挟撃したと読んでおく。道琛軍は「仁軌与新羅兵」を熊津江の梁〔=橋〕に誘い込んだ上で壁に逃げ込む。 そして仁軌と新羅の大軍が梁に殺到して、はみ出て川に堕ちて溺死した者数万と描く。
〈新羅本紀〉第六/文武王三年 癸戌〔663=天智二年〕五月(3) 
唐皇帝詔仁軌検校帯方州刺史
前都督王文度之衆、与我兵百済営
転闘陷陳、所向無前。
信等釈仁願囲、退保任存城
既而福信殺道琛并其衆、招還叛亡、勢甚張。
仁軌与仁願合、解甲休士、乃請兵。
〔唐皇帝は詔して、仁軌を検校帯方州刺史に任ずる。
 薨じた前任の都督王文度の軍勢を率い、我が新羅の兵とともに百済の軍営に向かう。
 反撃に転じて陳〔※〕を陥れ、向かう所眼前に敵なし。
 福信らは仁願への囲みを解き、退き任存城を守る。 
 既にして福信は道琛とその仲間を殺し、招還して〔=味方に呼びかけ〕叛亡〔=反抗して敵を滅ぼす〕に誘い、勢いは甚だ増す。
 仁軌と仁願は合流し、甲を解かせ士を休め、増兵を要請した。〕
…地名または百済の将軍名か。
● 〈新羅本紀〉では、文武王三年条〔663〕の中で、過去に遡って述べる(この段は、〈新唐書〉の龍朔元年〔661〕に相当)。
 泗沘方面では、福信が扶餘豊を王に迎えて反撃体制を整えたかに見えたが、ここで思わぬ内輪揉めが勃発する。 道琛・扶餘豊は相変わらず唐と新羅を敵としたが、福信はむしろ唐の支配下に入り、主敵を新羅に絞る方向に舵を切ろうとした。 福信は新羅の唐を半島から追い出す方針を読み切り、かつ唐新羅二正面作戦では勝ち目がないと見たのであろう。
 その路線対立から福信は道琛を殺したが、扶餘豊は自ら王として招いた手前すぐに殺すわけにもいかず、祭祀主に封じ込めるに留めた。 福信は武将として優れていたのは、一重に合理的な判断力によるものと見られる。 その時点で常に最善策を冷静に読んだ結果、戦略の変更に踏み切ったのだろう。
 661年の唐羅軍の侵攻は、熊津江で道琛軍に敗北して以後小休止となった。 代わって中心的なイベントになったのは、北部戦線の高句麗である。
〈高句麗本紀〉宝蔵王二十年 辛酉〔661=斉明七年〕
夏五月、王遣将軍惱音信、領靺鞨衆、囲新羅北漢山城。浹不解、新羅餉道絶、城中危懼。
忽有大星於我営、又雷雨震撃。惱音信等、疑駭別引退。
秋八月、蘇定方破我軍於浿江、奪馬邑山、遂囲平壌城
九月、蓋蘇文遣其子男生、以精兵数万、守鴨淥、諸軍不渡。
契苾何力至、値氷大合、何力引衆乘氷渡水。鼓噪而進、我軍潰奔。 何力追数十里、殺三万人。余衆悉降、男生僅以身免。 会、有詔班師、乃還。
〔五月、高句麗王は将軍惱音信(のうおんしん)を遣わし、靺鞨(まっかつ)の軍勢を以(ひき)いて新羅の北漢山城を囲んだ。旬〔=十日〕を浹(めぐ)り解かず、城中は危くなった。
 突然大星が我が軍営に落ち、雷雨が震撃した。惱音信らは疑い驚き退却した。
 八月、蘇定方は浿江(ばいこう)で我が軍を破り、馬邑山を奪い、遂に平壌城を囲んだ。
 九月、蓋蘇文(がいそぶん)は王子の男生を遣わし、精兵数万を率いて鴨淥(おうりょく)を守り、諸軍は渡り得なかった。
 契苾何力(けいひつかりき)が到着して、氷が大合を値(あ)て〔=川面が氷結し〕、何力は軍勢を率いて氷に乗り川を渡った。太鼓を鳴らして進み、我が軍は潰滅敗走した。 何力は数十里を追い、三万人を殺し、他の衆は悉(ことごと)く降伏し、男生は僅かに身一つで免れた。 会(たまたま)、詔があり班師し〔=軍に撤収を命じ〕、すなわち還った。〕
● 靺鞨は沿海州のツングース系民族。一部は高句麗支配下に入る。
● 北漢山城は、百済の蓋婁王五年〔132〕に「築北漢山城」。次に蓋鹵王十五年〔469〕に「設大柵於靑木嶺,分北漢山城士卒戍之。」とある。 その後、475年に高句麗が漢城(慰礼城)を包囲、百済は熊津に遷都(〈雄略〉二十一年)。 おそらくこの年から高句麗領。
 そして、眞興王十二年〔553〕に「侵高句麗、乗勝取十郡」。この「十郡」の中に北漢山城があった可能性はある。 新羅眞平王二十五年〔603〕に「高句麗侵北漢山城」とあるから、この時点で確実に新羅領であった。
〈旧唐書〉巻4 本紀第四:高宗上〔661=斉明七年〕
龍朔元年〔661〕。…涼国公契苾何力遼東道大総管。 …邢国公蘇定方平壌道大総管。 …楽安県公任雅相浿江道大總管。以伐高麗 〔契苾何力は遼東道、蘇定方は平壌道、任雅相は浿江道の三方面から進軍した。〕
● 契苾何力は北方から陸路で、蘇定方と任雅相は水軍を率いて黄海を渡ったと見られる。
〈旧唐書〉巻113上 列伝:契苾何力ほか
契苾何力、其先鉄勒別部之酋長也。
至貞観六年〔632〕、隨其母衆千余家沙州、奉表内附」、「京、授左領軍将軍
〔貞観〕十四年〔640〕。為蔥山道副大総管」、「右驍衛大将軍
龍朔元年〔661〕…。九月、次于鴨綠水…。衆莫済。何力始至、会層氷大合、趣即渡兵、鼓噪而進。賊遂大潰、追-奔数十里、斬首三万級。余衆尽降。男生僅以身免。会有詔班師、乃還。
乾封元年〔666〕、又為遼東道行軍大総管、兼安撫大使〔三年;668〕…共抜平壤城。…虜其王〔宝蔵王〕還。授鎮軍大将軍、行左衛大将軍」。
儀鳳二年卒〔677〕。贈輔国大将軍、並州都督、陪-葬昭陵、謚曰烈。
〔契苾何力は鉄勒別部の酋長の子孫であった。 632年、母に連れられ一族とともに沙州〔現在の甘粛省敦煌市〕に行き、唐に服属し、京〔西安〕で左領軍将軍を授かった。
 661年九月、高句麗に進軍、鴨綠水に至ったが軍勢は渡れずにいた。契苾何力が到着したときにたまたま氷結した。 軍勢は鴨綠水を渡って勢いよく進軍、斬首3万、その他は皆降伏した。男生〔王子〕は身一つで逃れた。たまたま詔があり唐軍は撤退した。
 666年、遼東道方面から高句麗に進軍、〔668年に李勣と〕共に平壤城を抜き、高麗宝蔵王を捕え、鎮軍大将軍などを授かる。
 677年死亡。昭陵に陪葬され、謚(おくりな)「烈」を賜った。〕
● 鉄勒は6~7世紀、バイカル湖南~カスピ海の範囲の諸族の総称。そのうち阿史那氏が突厥を建国した。 その後支配下にあった鉄勒諸部が背き、唐と連合したりして国を揺るがし、630年に突厥は崩壊した。
〈新羅本紀〉太宗武烈王(諱春秋)八年 庚申〔661=斉明七年〕
〔武烈王〕八年〔661〕春二月、百済残賊、来攻泗沘城。
夏四月十九日。班師」、「百済軍、相闘敗退。
王聞軍敗大驚、遣将軍金純…師救援。至加尸兮津、聞軍退至加召川、乃還。王以諸将敗績、論罰有差。
五月九日[一云十一日]。高句麗将軍惱音信、与靺鞨将軍生偕軍、来-攻述川城、不克。 移-攻北漢山城、列抛車石、所当陴屋輒壊、…、城主冬陁川、能激-励少弱、以敵強大之賊、凡二十余日。 然糧尽力疲。至誠告天、忽有大星、落於賊営、又雷雨以震、賊疑懼解囲而去。
六月…王薨。諡曰武烈…上号太宗。
〔文武王即位〕元年六月、入唐宿衛仁問、儒敦等至,告王 「皇帝已遣蘇定方、領水陸三十五道兵、伐高句麗。遂命王挙兵相応。雖服、重皇帝勅命。」
八月、大王領諸將。…九月…二十五日、進軍囲甕山城
冬十月二十九日、大王聞唐皇帝使者至、遂還京。唐使弔慰。」、 「庾信等休兵、待後命。含資道摠管劉徳敏至、伝勅旨、輸平壌軍粮
〔四月十九日、転軍の途中で百済軍と遭遇し、戦いに破れ撤退した。 王は敗北と聞いて驚き、金純将軍を遣わしたが途中で敗軍の報を聞いて戻って来た。王は敗北の責任を問うて罰した。
 五月九日[一説に十一日]、高句麗将軍惱音信は靺鞨将軍生偕と合軍して述川城を攻めたが勝てず、 標的を北漢山城に変えて攻めた。城内は奮戦したが、二十日余に及びついに食料が尽き、疲れ果てた。 ここで至誠が天に通じ、大星が敵の軍営に落ち、雷雨が震わし敵は疑い怖れ囲みを解いて帰った。
 六月、武烈王〔春秋〕薨ず、文武王が即位。 仁問と儒敦が唐から戻り、「皇帝は蘇定方を遣わし高句麗を討つ。新羅王にも相応の兵を出せと命じた。 喪に服しているとはいえ、勅命を違えることは重い」と告げた。
 九月二十五日、親征して甕山城を囲む。
 十月二十九日、唐から弔使。文武王は対応のため京に帰る。 金庾信等は兵を休ませ、後命を待つ。含資道の摠管〔=総管〕劉徳敏が来て勅旨を伝え、平壌に軍粮を運び込ませた。〕
● 「入唐宿衛〔入唐し宿衛していた〕仁問、儒敦等」については、 真德王五年〔辛亥651〕二月に「新罗遣波珍飡金仁問入唐朝貢、仍留宿衛」、 すなわち651年に朝貢使として唐に赴いた金仁問が、そのまま帰らず「宿衛」していた。
● 金庾信は、【百済の滅亡】参照。
● 新羅は対高句麗戦で単独では厳しく戦ったが、唐による高句麗攻撃にはあまり協力していないように見える。 それは蘇定方のによる平壌包囲に新羅将軍の名が添えられていないことや、劉徳敏の伝達した詔旨が単に軍粮の運び込みという側方支援に留まっているところに伺われる。
● その前に泗沘城で孤立していた仁願の救出に唐が向かうとき、新羅軍も出動させたが、その戦い方はおざなりですぐ引き上げてしまった。 新羅軍は唐軍と一体化し過ぎると、そのまま国家関係として新羅が唐の支配下に組み込まれることを警戒していたと考えられる。 端的に言って唐には百済と高句麗の政権を潰してもらえばよく、ゆくゆくは自分のものにしようというのが新羅の目論見だったと見られる。 実際、その後の事態はその通りに進んだ。
 新羅本紀の武烈王八年;文武王元年〔661〕の記事は対高句麗戦ばかりで、泗沘方面の攻防が書かれていない。
 それが書かれているのは文武王三年〔663〕五月条で、そこでは故王子扶餘豊(顕慶五年〔660〕)まで遡っている。

まとめ
 661年の泗沘城をめぐる情勢や熊津江口の役のことは、書紀には書かれていない。また、福信と豊璋の対立が書紀に書かれるは二年〔663年〕五月になってからである。 この辺りは、倭が得られた情報の空白部分かも知れない。この年の情勢として書紀に書かれていることは、主に唐軍による高句麗侵攻である。
 その高句麗戦線については、加巴利浜での伝説を読んだだけでは、倭国からの高句麗への援軍が実際にあったのだろうかという疑問が涌く。
 その答えは元年三月是月条にある。このときに派遣された軍が加巴利浜に立ち寄ったときの話が、先行してここに書かれたと見られる。
 この例や「高句麗言」が実際の時期より前に書かれていることから、 記事に書かれた年・月は、実際の時期との間にずれがあり得ることに留意しておく必要がある。 これによって、豊璋の帰還が異なる時期に複数回あることや、海外資料の述べる時期に合わないことへの解釈に、柔軟性が得られるからである。



2024.03.08(fri) [27-02] 天智天皇2 

目次 【元年正月~六月】
《賜百濟佐平鬼室福信》
元年春正月辛卯朔丁巳。
賜百濟佐平鬼室福信
矢十萬隻
絲五百斤
綿一千斤
布一千端
韋一千張
稻種三千斛。
元年…〈北野本〔以下北〕元-ハシメノ年春正月 ムツキ 
矢十万隻…〈北野本〉十-万トヨロツ -隻イト五- ハカリ綿 ワタ一-ハカリ 布一千ムラ- ヲシカハ一-千-張[切]稲種 タナシネ 三-千-斛
〈内閣文庫本〔以下閣〕ヲシナハ一千ヒラ。 〈釈紀〉ヨロヲシカハチゝサカ
…[助数詞] ~つ。~ち。〈時代別上代〉「10の倍数にあたるとき「つ」が「ち」となる」。
…[助数詞] 質量。1斤≒227g(丈六光銘)。1000斤≒227kg。
(むら)…[助数詞] 賦役令では、基本的に幅二尺四寸、長さ五丈二尺(0.84m×15.6m)(改新詔其四)。
…[名] なめしがわ。〈倭名類聚抄〉韋:【音圍和名乎之加波】柔皮也。
をしかは…[名] 〈時代別上代〉「ヲシは動詞ヲス(なめらかにする意)の連用形であろうが、そのヲスの例は見えない」。
しね…[名] 稲。
たな-…〈時代別上代〉「たなつもの:…タナはタネの交替形であろう」。
…[助数詞] 体積。1斛≒20L(資料[36])。3000斛≒60kL=60m
元年(はじめのとし)春正月(むつき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として丁巳(ひのとみ)〔二十七日〕
[賜]百済(くたら)の佐平(さへい)鬼室福信(くゐしつふくしん)に
矢(や)十万(とをよろづ)隻(ち)
糸(いと)五百(いほ)斤(はかり)
綿(わた)一千(ち)斤(はかり)
布(ぬの)一千(ち)端(むら)
韋(おしかは、をしかは)一千(ち)張(ひら)
稲種(たなしね)三千(みち)斛(さか)をたまふ。
三月庚寅朔癸巳。
賜百濟王布三百端。
百済王…〈北〉百濟。〈閣〉百済王。 〈兼右本〉百済コキシ
三月(やよひ)庚寅(かのえとら)を朔(つきたち)として癸巳(みづのとみ)〔四日〕
百済王(くたらわう、くたらのこきし)に布(ぬの)三百(みほ)端(むら)を賜ふ。
是月。
唐人新羅人伐高麗。
々々乞救國家。
仍遣軍將據䟽留城。
由是、唐人不得略其南堺
新羅不獲輸其西壘。
乞救国家…〈北〉國家 ミカト 䟽留ソル サシ カスムル  南堺不獲 イツル其西 ソコ
〈閣〉カスムルコトヲトスイツルコト其西 ヲソコニ。 〈兼右本〉ハツス墜也ヲトス
是(この)月。
唐(たう、もろこし)の人新羅(しらき)の人高麗(こま)を伐(う)ちて、
高麗(こま)救(すくひ)を国家(やまと)に乞(こ)ふ。
仍(よ)りて軍将(いくさのかみ)を遣(つか)はして䟽留城(そるさし)に拠(よ)らしむ。
是(こ)に由(よ)りて、唐の人、其の南の堺(さかひ)を略(をかすこと、かすむること)不得(えず)、
新羅、其の西の塁(そこ)に輸(いたすこと)不獲(えず)。
夏四月。
鼠産於馬尾。
釋道顯占曰
「北國之人將附南國、
蓋高麗破而屬日本乎。」。
鼠産…〈北〉 コウムホウシ ツカ日本。 〈閣〉 ツカ 日本
こむ…[自]ラ四 子-産むの母音融合。(万)「二上山尓 鷲曽子産跡云 ふたがみやまに わしぞこむとふ」。
夏四月(うづき)。
鼠[於]馬の尾(を)に産(こ)む。
釈(ほふし)道顕(だうけん)占(うら)へて曰(まを)ししく
「北国之(きたのくにの)人、将(まさ)に南国(みなみのくに)に附(つ)かむとす、
蓋(けだし)高麗(こま)破れて[而]日本(やまと)に属(つ)くか[乎]。」とまをしき。
夏五月。
大將軍大錦中阿曇比邏夫連等
率船師一百七十艘、
送豐璋等於百濟國。
五月…〈北〉五月 サツキ。 〈閣〉夏五月。 〈兼右本〉日本[句]五月/ヲホタイ-将-軍イクサノキミ
大将軍…〈倭名類聚抄〉では、「大臣:於保伊万于智岐美」など、大に「於保伊」をあてる。オホイオホキの音便。
大錦中…〈天智〉三年の制冠二十六階中、第八位。制冠十九階(大化五年)の「大花上下」が、「大錦上中下」となる。 〈釈紀/秘訓天武下〉ダイキン
…[名] 呉音コム。漢音キム。
七十…〈時代別上代〉は、十(そ)の項で、「三十みそ四十よそ六十むそ八十やそ」を挙げる 〔五十、七十は仮名書きの例がないと見られる〕
夏五月(さつき)。
大将軍(おほきいくさのかみ)大錦中(だいきむちう)阿曇(あづみ)の比邏夫(ひらふ)の連(むらじ)等(ら)、
船師(ふないくさ)一百七十艘(ももあまりななそふな)を率(ゐ)て、
豊璋(ほうしやう)等(ら)を[於]百済(くたら)の国に送る。
宣勅、
以豐璋等使繼其位、
又予金策於福信。
而撫其背褒、賜爵祿。
于時、
豐璋等與福信稽首受勅、
衆爲流涕。
宣勅…〈北〉宣勅 ミコトノリ タマヒ金策 コカマ フタ カイナ ホメ カ モノ稽-首 ヲカム 衆  モロ\/。 〈閣〉タマヒテコカネノフタヲカイナテカイナツルマネシテ私爵-禄 カツケモノ 。 〈兼右本〉爵-禄カウフリモノ カツケモノ 
…[動] 親愛の情を込めてなでる。第52回【書紀・本文】項参照。
…[動] あたえる。
宣勅(みことのりのべたまはく)、
豊璋(ほうしやう)等(ら)を以ちて其の位(くらゐ)を継が使(し)めて、
又(また)金策(くがねのふみた)を[於]福信(ふくしん)に予(さづ)くとのべたまふ。 而(しかして)其の背(せ)を撫(な)で褒(ほ)めて、爵(かがふり)を賜(たまは)り禄(ものたまはる)。
[于]時に、
豊璋等(ら)と福信と与(とも)に稽首(をろが)みて勅(みことのり)を受けて、
衆(もろびと)為(すなは)ち涕(なみだ)を流せり。
六月己未朔丙戌。
百濟遣達率萬智等進調獻物。
達率万智…〈北〉 タツ ソツ 万智マチ進-調-獻-物ミツキタテマツリ 。 〈閣〉
〈兼右本〉達◲-率◲◱-智◱等調[切][句]
達率《百済の位階》第二位。
六月(みなづき)己未(つちのとひつじ)を朔(つきたち)として丙戌(ひのえいぬ)〔二十八日〕
百済(くたら)、達率(たつそつ)万智(まち)等(ら)を遣(まだ)して進調(みつきたてまつり)献物(ものたてまつる)。
《佐平鬼室福信》
 鬼室福信の位階は初出(〈斉明〉六年九月)では、「恩率」(三品)であったが、 同六年十月以後「佐平」(一品)となっている。
《たなしね》
 〈時代別上代〉は、タナシネタナタネの交替形と見るが、 は属格の助詞〔ノ、ガ、ツの類〕で、タナシネは「田-ナ-稲」のように思われる。
《をしかは》
 ヲシカハの〈時代別上代〉の用例は、書紀古訓、〈倭名類聚抄〉、『類聚名義抄』といずれも平安時代で、 万葉集などの用例はないので、もともとオシ-カハで、平安時代における表記ではないだろうか。 『日本語の発音はどう変わってきたか』〔釘貫亨;中公新書2023〕は、 「ゐ・ゑ・を」は「平安時代後期に「イ・エ・オ」に合流した」と述べる。
《百済王》
 三月条の「百済王」は余豊璋である。この三月条は、「元年五月帰還説」への疑念を増す。
《唐人新羅人伐高麗》
〈新唐書〉本紀龍朔二年〔662〕二月に高句麗侵攻の記事がある。 よって、高句麗は倭国にも救軍を要請し、それに応えて軍将を派遣した。 この時の要請文書と「軍将」が加巴利浜に停泊したときの伝説が、順番を遡って称制前紀(《高麗言惟十二月》項)に載ったと見られる。
《䟽留城》
 䟽留城は元年十二月条の「州柔」、旧唐書百済本記龍朔二年の「支羅城」、百済本紀・新唐書の「周留城」と同一と考えられている。
 一般には錦江周辺の山城と言われる(下述)。 一方、現地の扶安郡公式ページ〔韓国〕は、 「周留城は百済が滅びた後、百済復興運動の始点であり首都でもあった。 行政上では、皆火(ケファ)と欣良買(フンリャンメ)の二つの村に分かれ、中方古沙城に属した」([沿革])と述べ、 周留城扶安郡(《加巴利浜》項参照)にあったとの見方を示している。
《唐人不得略…新羅不獲輸…》
 このとき、「唐人不其南堺。新羅不其西塁〔唐は南境を侵犯できず、新羅は西の塁に搬入できない〕と述べる。
 これは、旧唐書百済伝の龍朔元年〔661〕三月「新羅兵士以糧尽引還〔新羅兵は食糧が尽き引き返した〕新唐書東夷伝の龍朔元年〔661〕仁軌以衆少、乃休軍養威〔仁願は兵力が足らず、休んで英気を養った〕に対応していると見ることができる。 この情勢の打開策として、『旧唐書』には仁願が「衆浮海赴熊津〔本国に兵の渡海を要請する〕仁軌が「新羅之兵…通新羅運糧之路〔新羅兵を動員して運糧の道を開く〕と書かれる。
 よって、書紀の「唐人不其南堺」はを、 「新羅不其西塁」はを、それぞれ要した状況に対応する。
 この総攻撃の再開は龍朔二年〔662〕七月だから、 「唐人不得略…新羅不獲輸…」は、海外資料では〈斉明〉七年〔661〕三月から〈天智〉元年〔662〕七月までの期間にあたる。
 そしてこの期間の後半に内紛が起こり、福信道琛を殺し、余豊を主祭に棚上げしたことになる。
《輸其西塁》
 「輸其西塁」の「」が何を意味するかについて、日本紀講筵において議論があったようである。
 〈釈紀/述義〉は次のように述べる。
――「輸其西壘:私記曰。愚案。輸者輸之意也。難出入之出也。師説。是𦾔説誠爲讀。但或本爲踐其義爲證。 若遂爲輸者可於止須。案穀梁傳輸者墜也。
 「私記曰」は、日本紀講筵〔日本書紀の研究会〕の議論の記録。「愚案」は参加者による自説の開陳、「師説」は博士の見解の提示を意味する (〈斉明〉五年七月《潤十月》項参照)。 『穀梁伝』は春秋十三経のひとつで、位置づけは五経に準ずる。
〔私記曰はく。愚案するに「輸」は輸の意なり。出入りの出と読む可きこと難し。師の説くにこれ旧説といへども誠に読み難きを為す。但し或る本に践と為すことその義あかしと為す。 もし遂に「輸」と為さば於止須(おと〔?〕す)と読む可し。『穀梁伝』を案ずるに「輸」は「墜」なり〕。 つまり、「輸をイヅ(出づ)と訓むことは難しい。ある写本に「践」とあるのがその証拠である。「輸」のままとするならオトス(堕す)で、穀梁伝によれば「輸」は「墜」を意味する」という。
 〈内閣文庫本〉に右訓「イツルコト」、左訓「オトス」を並記しているのは、この議論を受けたものと見られる。
 「」の元々の意味はウツスで、〈学研新漢和〉は「中みをそっくり出してほかの所へ運ぶ」を主な意味とする。 『類聚名義抄』には「:イタス ツクス ヌク オツ カツ ヲサム スフ ウツル ツクノフ ワキマフ ヤハラカナリ カスオフ」として、抜き出す・運ぶ・収納するなどの解釈を示す。
 〈釈紀〉は「」の意味を、「墜とす〔砦を陥落させる〕と結論づけているが、 『旧唐書』の「遂通新羅運糧之路」を見れば、「」は「軍糧の輸送」を意味することは明らかである。
 もし〈釈紀〉著者がこれを知れば、同じ結論を出したのではないだろうか。 〈釈紀〉の時代には既に『旧唐書』、『新唐書』は成立していたが〈釈紀〉がそれらを参照した気配は見えない。
睡眠中の馬
《鼠産於馬尾》
 ネズミが子を産んだのは、睡眠中の馬の尾か。 しかしこれは実際に起こった珍事ではなく、八卦の結果を表現する文章かも知れない。ただ、『易経』には「鼠産於馬尾」のような文は見えない。
 (鼠)はうま(馬)はの方角を指す。 道顕は、そこから高麗が倭国に属する予言と解釈したが、実際には倭軍は白村江で敗北して半島での足掛かりを失い、占いは当たらなかった。
 ただ、百済への大軍の派遣は救援を名目としつつ、勝利の暁には百済の属国化を期していたであろう。 その思惑が空気として漂っていたことが、この解釈を生んだようにも思われる。
《夏五月》
 〈北野本〉〈内閣文庫本〉〈伊勢本〉では、「五月」に必要のない「」がついている。 五月条が書紀執筆の比較的遅い段階で挿入され、その出典にあった「夏五月」が修正されなかったことが考えられる。 深読みすれば、ある程度執筆が進んだ段階で安曇連が捻じ込んだものかも知れない。
 ただ、逆に「夏四月」条の方が後から挿入された可能性もある。
《阿曇比邏夫連》
阿曇比邏夫連 安曇連は、〈皇極〉元年正月参照。比羅夫は、そこでは百済との外交を担った。
《送豊璋等於百済国》
〈斉明七年〉〔661〕九月 〈天智元年〉〔662〕五月。
冠位の授与 以織冠授於百済王子豊璋。
復以多臣蔣敷之妹妻之焉。
本国への衛送 [遣]大山下狹井連檳榔
小山下秦造田来津、
率軍五千余衛送於本郷
大将軍大錦中阿曇比邏夫連等
率船師一百七十艘、
送豊璋等於百済国。
王位/爵位
の授与
宣勅。以豊璋等使継其位。
又予金策於福信而撫其背褒。
賜爵禄。
現地での受容 豊璋入国之時、
福信迎来稽首奉国朝政、
皆悉委焉。
豊璋等与福信稽首受勅、
衆為流涕。
 この元年〔662〕五月条は、豊璋の百済への帰国を述べた文章であることは間違いない。 しかし、〈斉明〉七年〔661〕九月条も、どう読んでも豊璋の百済への帰国であった。
 書紀に信頼感をもって読もうとする者にとってはこの状況は心情的に直視し難いが、 ここでは敢えて小手先の中途半端な解釈ではなく、正面から比較検討したい(右表)。
 まず、両者の構成は日本やまとの朝廷による冠位または王位の授与。大軍団を派遣して送り届けたこと。現地では感激して迎えた点で共通している。 この①③については作文は容易で、基本的に潤色と判断できる。それに対して、「軍五千余」、「船師一百七十艘」、「以多臣蔣敷之妹妻之」についてはそれなりの記録があったと思われる。
 それぞれの出典は、恐らく狹井連阿曇連の氏文や家伝の類で、それぞれに我が先祖が豊璋を送り届けるという大切な任務を負ったことを誇ったものであろう。 書紀が両者を共に収めたのは、依怙えこ贔屓ひいきと見られることを避けるためと見る。
 両者を比較してとりわけ目立つのは、元年五月条ではあたかも福信が、倭国まで迎えにやってきたが如くに読めることである。 同条はまた、継位が倭国による恩恵だとする(次項)。
 一方、七年九月条では織冠の授与は出発前に済ませ、福信は豊璋を百済の津に出迎え、その上で百済の臣らが国政を委ねたと書く。これは、十分現実的な筋書きである。
 また、元年五月条阿曇比邏夫の冠位「大錦中」は、〈天智〉三年になってから制定された二十六階を遡らせたもので、後世になってから書かれたことを示している。 その点、七年五月条の「大山下狹井連檳榔」、「小山下秦造田来津」はこの時点における冠制に合致している。
 阿曇比邏夫連はこれまでも百済外交に関わってきたから、元年五月に「船師一百七十艘」を率いて百済救援に向かったとこと自体はあり得ると見てよい。 ところが阿曇連の家伝においては、そこに豊璋を送り届ける任務を負ったというフィクションを付け加えたのであろう。 もし「フィクション」が言い過ぎならば、本来の記録は援助物資を「百済王豊璋〔=豊璋の許に送る〕であって、家伝執筆者はそれを豊璋本人を送ったと読み誤まり、さらに尾鰭がついてこの形になったと言うこともできる。
 「豊璋等」の「」も、困惑させる(次項)。さらに「撫其背」前後の部分にも潤色が過ぎる(次々項)。
 これに対して、七年九月条の文体は抑制的で、もし現実であったとしてもそれほどの違和感は感じさせない。 ただ、その時期については、新旧唐書や三国史記と比べるとまだ遅い。前回まとめで見たように 「高句麗言」や「加巴利浜」の時期が実際とは異なることことから、「〈斉明〉七年九月」という時期も絶対視はできない。
 それでも、新旧唐書や三国史記の示す時期も、また絶対とは言えない。執筆時期を比べると、書紀の方が出来事からの日が浅いからである。
 結局、若干の時期のずれはあるかも知れないが、七年九月条の方が史実に近いと見てよいであろう。 両論併記としたのは、それぞれの氏文または家伝を大切に保つ狹井連安曇連を対等に扱った故と見る。
 その上で、〈斉明〉六年原注は、両者のどちらを取るべきかの判断を示したものと読むことができる(〈斉明〉六年《王子余豊璋》)。
《宣勅以豊璋等使継其位》
 「継位」とは豊璋が百済王になることだから、「」が付くのは不審である。これを不用意な誤りとして無視してもよいが、敢えてきちんと読むことにする。 すると、「」にあたるのは福信である。 次に、「撫其背」は「宣勅」の外側の言葉である。宣勅中の比喩表現だとすれば「撫汝背」となるであろう。 よって、「」は、宣勅の内容はここまでという区切りである。
 すなわち、「宣勅」の内容は「豊璋」には「其位〔百済の王位〕を継がせ、「福信」には「金策」を予(あた)えたというものである。 そして「其背」は豊璋と福信の両者が対象である。豊璋を差し置いて福信一人の背を撫でるのは確かに不自然である。 さらに「爵禄」も、両者に対してということになる。
《予金策於福信而撫其背褒賜爵禄》
 豊璋には国王位を、福信には金策を与えて、さらに両者に爵位俸禄を賜る。その文中に挟まれた「其背〔その背中を撫でた〕の背中の持ち主は、豊璋と福信とする以外に読みようがない。 この部分は、宣勅を托された使者が百済を訪れ、豊璋らに宣じたと読めないこともないが、一介の使者が豊璋と福信の背中を撫でて労う()ようなことは想像できない。 この表現からは、長津宮を訪れた福信と豊璋の背中を中大兄皇子(〈天智〉)が優しく撫でた場面しか思い浮かばない。 「稽首」も、眼前に中大兄皇子がいればこそである()。
 仮にだとすれば、使者でさえも天皇の権威を負い、 豊璋らと見守る群衆共々、心の底から倭国朝廷にひれ伏したことになる。ここまで来ると、まさにフィクションの極みである。
 結局「宣勅以豊璋等使継其位予金策於福信而撫其背褒賜爵禄」は、のイメージが混ざった空想的な文章と見るべきであろう。
《百済、進調献物》
 「百済」からの「進調献物」の時期は六月とされる。五月に送った援助物資の返礼とすれば時期が合う。阿曇比邏夫連を遣わして送ったのはやはり豊璋の身柄ではなく、物資であろう。
《大意》
 元年正月二十七日、 百済の佐平(さへい)鬼室福信(きしつふくしん)に、 矢十万本、 糸五百斤、 綿千斤、 布千端、 鞣(なめ)し皮千張、 稲種三千斛を賜りました。
 三月四日、 百済の王(こんきし)〔=豊璋〕に布三百端を賜わりました。
 同じ月に、 唐人と新羅人は高麗(こま)を征伐し、 高麗は救援をわが国に要請しました。 よって軍将を派遣して䟽留城(そるさし)を拠点としました。
 これによって、唐人は〔百済の〕南の境界を侵略し得ず、 新羅は、西の塁〔=砦〕に軍糧を運び得ませんでした。
 四月、 鼠が〔寝ていた〕馬の尾のところに子を産みました。 釈道顕(どうけん)はこれを占い 「北の国の人は、まさに南の国に附こうとしている。 蓋(けだ)し高麗が敗れて日本(やまと)に属するか。」と言いました。
 五月、 大将軍大錦中(だいきんちゅう)阿曇(あずみ)の比羅夫(ひらふ)の連(むらじ)らは、 水軍百七十艘を率いて、 豊璋らを百済の国に送りました。
 宣勅により、 豊璋らに位を継がせ、 また金策〔金製の大臣札〕を福信に授けました。 そして背中を撫でて褒め、爵冠と俸禄を賜りました。
 その時、 豊璋らと福信は稽首〔=深々とお辞儀〕して勅を受け、 群衆はこれを見て涙を流しました。
 六月二十八日、 百済は、達率(たつそつ)万智(まち)らを遣して、進調献物しました。


目次 【元年十二月~是歳】
《百濟王豐璋等議曰可遷於避城》
冬十二月丙戌朔。
百濟王豐璋
其臣佐平福信等、
與狹井連【闕名】
朴市田來津議曰
朴市田来津…〈北〉チノ田來津タクツ。 〈閣〉田来タク 人名也
〈兼右本〉◰-◱-人名也◱-
冬十二月(しはす)丙戌(ひのえいぬ)の朔(つきたち)。
百済王(くたらわう、くたらのこきし)豊璋(ほうしやう)
其(その)臣(おみ)佐平(さへい)福信(ふくしん)等(ら)、
[与]狹井(さゐ)の連(むらじ)【名を闕(か)く】
朴市(えち)の田来津(たくつ)とともに議(はか)りて曰(い)はく
「此州柔者、
遠隔田畝
土地磽确
非農桑之地
是拒戰之場
此焉久處
民可飢饉。
此州柔者…〈北〉 ノ ヌ 地名也 土-地 ツチ 磽-确 ヤセタリ農桑之 ナリハヒ コカヒ トコロ此  コゝニ焉久-民可飢-饉 ウヱヌ
〈閣〉ナリハヒ-桑 コカヒノトコロニ拒-戦之[句]  ナリ。 〈釈紀〉州柔ツヌ地名
磽确…石がごつごつしている。土地がやせているさま。
「此(この)州柔(つぬ)者(は)、
田畝(たうね)を遠隔(へだ)てて
土地(つち)磽确(や)せて
農(なりはひ)桑(くは、こかひ)之(の)地(ところ)に非(あら)ずて
是(これ)拒戦(たたかひ)之(の)場(ところ)なり。
此(こは)[焉]久(ひさ)しき処(ところ)なりて、
民(たみ)飢饉(う)う可(べ)し。
今可遷於避城。
々々者
西北
帶以古連旦涇之水、
東南
據深泥巨堰之防、 繚以周田、
決渠降雨。
避城 サシ西北メクル レム  タム ケイ之水 東南 タツミハ ヨレリ深泥巨堰 シム テイ キヨ エン フセキ 繚以 メクライ マトキ セク ミソ
〈閣〉-サシニ西-北[句]オフルニタンケイキヨエンフセキニ[句]メクライニマトキ田゛[切]決渠サタ テ ミソヲ
〈釈紀〉マトキ。〈兼右本〉シン◱-デイ
…[名] 川すじ。(漢音)ケイ。(呉音)キヤウ。
めぐらふ…[自]ハ四 メグルの未然形+反復の意を添える動詞語尾フ(四段)。
めぐらゆ…[自]ヤ四 メグラフの平安時代の語形。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「:土和水也。奴亻弖反【和名比知利古】」。
…[動] まつわる。めぐる。(古訓) めくらす。
まとし…[形]ク 〈時代別上代〉や古語辞典類に見えない。マド(丸い意)を語幹とした形容詞か。
…[動] (古訓) あまねく。
まときだ…書紀古訓はタを濁音とするから形容詞マトシではなく、マトキダというある種の田と見ている。
今、[於]避城(へさし)に遷(うつ)す可し。
避城者(は)
西北(いぬゐ)に
帯(めぐら)すに古連旦涇(これんたんけい)之(の)水(みづ)を以(もち)ゐて、
東南(たつみ)に
深き泥(ひぢりこ)巨(おほ)き堰(せき)之(が)防(ふせき)に拠(よ)りて、
周(あまね)き田を以(も)て繚(めぐら)して、
渠(みぞ)を決(さだ)めて雨を降らしむ。
華實之毛
則三韓之上腴焉、
衣食之源
則二儀之隩區矣。
雖曰地卑、
豈不遷歟。」
華実之毛…〈北〉 ハナ ミ毛則 クニツモノ   ミツ カラクニ之上-腴焉ヨキモノナリ  衣食之源 キモノ クラヒモノ  則二-儀之アメツチ -區矣クムシラナリ 雖曰地卑 トコロ ク■レリト  不遷
〈閣〉クニツモノハキモノ クヒモノ隩-區クムシラナリトコロ クタレリト
〈釈紀〉上腴焉ヨイモノナリ。 〈兼右本〉クラヒモノトコロ-クタレリ豈不
…[名] 地表に生える植物。
くにつもの…[名] 土地の産物。
…[名] あぶら。美味なもの。
二儀…天と地、陰と陽。
くむしら…[名] 〈時代別上代〉「おくぶかいところ。クムはムの意。ラは接尾語であろう」、「「隩蔵也、久牟志良」(新撰字鏡)」。
くまと…[名] 奥になったところ。
…[形] ①丈が低い。②いやしい。 (古訓) いやし。くたる。みしかし。
華実(はなみ)之(が)毛(くにつもの)、
則(すなはち)三韓(みつのからくに)之(が)上腴(うましもの)なり[焉]。
衣(ころも)食(くひもの)之(が)源(みなもと)、
則(すなはち)二儀(あめつち)之(が)隩区(くまと)なり[矣]。
地(つち)卑(ひき)きと曰へ雖(ど)、
豈(あに)不遷(うつらざらむ)歟(か)。」といふ。
於是、
朴市田來津
獨進而諫曰
朴市田来津…〈北〉チノ田來津タクツ アサメ
於是(ここに)、
朴市(えち)の田来津(たくつ)
独(ひとり)進みて[而]諫(いさ)めて曰(まを)ししく
「避城與敵所在之間
一夜可行、
相近茲甚。
若有不虞、
其悔難及者矣。
夫飢者後也、
亡者先也。
一夜可行…〈北〉 アリクコレ不-虞オモホエコトオモホエヌコト 悔難 クユトモ   ウヱ ホロヒ。 〈閣〉相-  コト コレウヱ ナリ[句]ホロヒハ ナリ[句]。 〈兼右本〉不-オホエス
あるく…[自]カ四段。移動する。〈時代別上代〉によれば、アルクの中心的な意味は移動で、後世の歩くにはアユムが相当する。また、アリクは平安以後の形という。
…[動] うれえる。おそれる。おもんばかる。
…[動] おもんばかる。
「避城(へさし)与(と)敵(あた)の所在(ゐるところ)と之(の)間(あひだ)は
一夜(ひとよ)に行(ゆく)可(べ)かりて、
相(あひ)近(ちかきこと)茲(ここに)甚(はなはだ)し。
若(も)し有不虞(おもひはからずあらば)、
其の悔(くゆこと)及び難(がた)き者(もの)とならむや[矣]。
夫(それ)飢(うゑ)者(は)後(のち)なり[也]、
亡(ほろび)者(は)先(さき)なり[也]。
今敵所以不妄來者、
州柔設置山險
盡爲防禦、
山峻高而谿隘、
守而攻難之故也。
州柔…〈北〉 ツ ヌ 設置山険 シ防-禦 ホセキ ヤマ峻-高サカシクシテ谿タニ セハケレハ 守而 マモリテ 攻難 セメカタキ故也ユヘナリ 
〈閣〉山-ヤマ サカヲ ニ シテ防-禦 ホセキト 谿セハケレハ
〈釈紀〉山險ヤマサカシ山峻高而ヤマサカシウシテ谿タニ隘。ケハシケレハ守而攻難之故也マモリテセメカタキユヘナリ
〈伊勢本〉守而[切]攻難[ガ]之故。 〈兼右本〉峻-高サカシウシテ 而谿-キハケシセハケレ テ[テ]。 『通証』「守而攻難」。 『集解』「セハシ原作 リ易而」。 『仮名日本紀』「まもりてせめなやむるゆゑなり」。
今、敵(あた)の不妄来(みだりかはしくきたらざる)所以(ゆゑ)者(は)、
州柔(つぬ)の設置(まうけておける)山(やま)険(さか)しくて、
尽(ことごとく)防禦(ふせ)かむが為(ため)に
山峻(さか)しく高くありて[而]谿(たに)隘(せば)きことそ、
守(まも)りて、[而]攻め難(がた)きが[之]故(ゆゑ)なる[也]。
若處卑地、
何以國居而
不搖動及今日乎。」。
遂不聽諫而都避城。
卑地…〈北〉卑地 ミシカキ トコロ國-居イ 搖-動 ウコカ  マシ
〈閣〉卑-地ミシカキ トコロニ テカ國-居
〈釈紀〉因居ヨリヰテ。 〈兼右本〉何-以ナニノユヘ固-居 ヨリ 
若(も)し処(ところ)卑(ひき)かる地(ところ)にあらば、
何(なに)そ国を居(す)うを以ちて[而]
不搖動(うごかず)ありて今日(けふ)に及ぶ乎(か)。」とまをしき。
遂(つひ)に諫(いさめ)を不聴(ゆるさず)て[而]避城(へさし)に都(みやこ)せり。
是歲。
爲救百濟、
修繕兵甲
備具船舶
儲設軍粮。
為救百済…〈北〉爲救百濟 -繕 ヲサメ 兵-甲 備-具 ソナヘ 船-舶 フネ 
〈閣〉為救百済
是年(このとし)。
百済(くたら)を救(すくふ)が為(ため)に、
兵甲(つはものよろひ)を修繕(をさ)めて、
船舶(ふねつむ)を備具(そな)へて、
軍粮(いくさのかて)を儲設(まう)く。
是年也、太歲壬戌。
太歳…〈兼右本〉大歳
是年(このとし)[也]は、太歳(おほとし)壬戌(みづのえいぬ)。
《狭井連》
狭井連闕名 その名は、あきらかに連檳である(七年七月是月)。
朴市田来津〔連〕 秦造田来津(七年七月是月)参照。
 両名は、〈斉明〉七年九月に豊璋らを衛送し、そのまま豊璋の側近となっていたと見られる。 一方でこの場面に安曇連は登場しないことが、元年五月豊璋帰還フィクション説にさらに一つの根拠を加える。
《闕名》
 狭井連の名は明らかに連檳なのに「闕名」となっているのは、出典尊重主義の故であろう。元年五月豊璋返還説自体は疑わしいが、逆に出典を尊重したものと言える。
 この段では田来津を「豊璋を諫めたのに容れられなかった」人物として美化するから、あたかも田来津本人による復命書の如しである。 しかし、本人は白村江で戦死したから身近にいて戦死を惜しむ者による報告か、朴市氏の家伝が出典であろうと想像される。
 ただ、書記はその一方で、そこに漢籍中の語句を挿入している(後述豊璋の言葉田来津の言葉)。 それでも、事実関係そのものは原史料に沿っていると見てよいのではないだろうか。
《州柔》
 州柔䟽留(上述)と同一と考えられているが、確かな比定地は定まっていない。 ここで土地が痩せ農耕できない土地だと述べることが、䟽留城が山城と言われる所以であろう。
《避城》
 避城の推定地については、『朝日日本歴史人物事典』に「避城(全羅北道金堤か)」とある。 金堤については、「韓国一の穀倉地帯である万頃(マンギョン)平野を抱える金堤」という紹介を見る(Konest)。
 避城金堤説は、古くは津田左右吉〔1873~1961〕が唱えた。
 同氏が著した『朝鮮歴史地理 第壹巻』〔津田左右吉;南満洲鉄道1913〕(国立公文書館デジタルコレクション)では、 「地理志に避城(避骨とも碧骨とも書す)ありて、其の地、今の全羅道金堤郡なり」、 「古連旦径の位置は知るべからざるも、避城が河水繚回せる平野なること明にして、之を 金堤郡とせばよく其勢にかなへるを見る。此の如き平野は今の忠清道方面に求めんこと甚だ難し」と述べる。
 加えて「定山方面より唐軍の根拠地たる泗沘をこえて此の地に居城を遷さんこと、また当時の形勢に適合せせざるが如し。 之に反して韓山より金堤に移らんは甚だ易し」という。 これは、州柔城の所在地について、それが定山にあったとすれば唐軍が押さえていた泗沘を越えることになり困難だが、韓山から金堤への移動は容易なので、 州柔城は韓山であろうと述べたものである。
 このように、避城金堤説は書紀の述べた地勢に合う土地を示したものであって、歴史地名や考古学による論証ではない。
 豊璋の倭国内の生活を描いた唯一の記事は、三輪山で養蜂を試みたことである(皇極二年是年条)。 どこに住んでいたか分からないが、式上郡三輪川の畔に住み、農耕しながら田園の四季を楽しんでいたのかも知れない。
 その自然の恵み包まれてで過ごしていた豊璋にとって、険しい山中の州柔城は苦痛で、避城の地の豊かさに惹かれたと想像することは確かに可能である。
《西北帯以古連旦涇之水》
 「古連旦涇」は北西を流れる川の名であろう。
 「帯以古連旦涇之水」は、『後漢書』班彪列伝(下述)の「帯以洪河涇渭之川」を真似ている。 「東南」以下の部分については、「繚以周田」が班彪列伝の「繚以周牆」に似るが、基本的に書紀独自の文と見られる。
《拠深泥巨堰之防》
拠深泥巨堰之防」に対応すると考えられているのが、「碧骨堤」(벽골제(ピョッコルチェ)、へきこつてい)である。
 wikipedia(韓国語版)は、次のように述べる。
ko.wikipedia.org/碧骨堤
・「碧骨堤は、全北特別自治道の金済市扶養面に位置」し、「〔全長〕約3.3kmに達し、堤防の高さは5.6m」。
・「築造時期は百済比流王27年(330年)と推定され」、「新羅本記の訖解王21年に、「始開碧骨池…」」。
・「790年(原城王6)に増築」。
・「太宗15年(1415)に国家的な大規模修築工事」。
 太宗は李氏朝鮮の第三代王。
 〈新羅本紀〉には、次のように書かれている。
訖解尼師今二十一年〔330〕始開碧骨池、岸長一千八百歩。
 〈百済本紀〉には、碧骨の記述はない。〈新羅本紀〉のこの時期は、この場所が実際には百済領だったことから「比流王二十七年」と解釈したようである。
元聖王六年〔790〕春正月…増-築碧骨堤、徴全州等七州人、興役。
 実際に築かれたのが330年なのかどうかは分からないが、662年には恐らく存在していたのであろう。
 また、金堤 碧骨堤が語る韓国水利史〔小山田宏一2016〕は、 碧骨堤は三国時代には存在し、書紀「拠深泥巨堰之防」に対応すると見做している。
《深泥巨堰》
 「深泥巨堰」は訓読可能である。にも拘わらず書紀古訓が音読しているのは、「古連旦涇」を音読したことに揃えたためと思われる。
 しかし、次項で述べるように、意味を正確に捉えれば「東南」は「~決渠」までかかるので、対句構造にはなっていない。 よって、構わず訓読すればよいと思われる。
《繚以周田決渠降雨》
 「」の中心的な意味は「堤防を切る〔=決壊〕であるが、ここでは逆に流水をコントロールする文脈にあるから、「渠を切る〔=用水を掘削する〕と読み取らないと辻褄が合わない。 そして「繚以周田」は「」を主語とするのがよいだろう。 「降雨」は、「これだけの備えをした上で雨を降らせる」と戯文的に表現したもので、実際には「降雨に備える」意である。
 すなわち「東南には深泥巨堰を田の周りに繚(めぐ)らし、渠を切った〔=用水路を掘削した〕。こうして、雨を降らせる」という文章である。
《華実之毛》
 「華実之毛則三韓之上腴焉衣食之源則二儀之隩区矣」()は、土地の豊穣を詩文で表現したもの。 『後漢書』班彪列伝〔范曄;398~446〕の「有西都賓問於東都主人曰 ~ 什分而未得其一端,故不能遍舉也。」の段に「帯以洪河、、渭川。華実之毛九州之上腴焉。防禦之阻、則天下之奧区焉」とあり、書紀はその太字の部分を用いている。
 なお、『昭明文選』〔蕭統;501~531〕には、巻一「賦甲」の中の「京都上」の中の「西都賦」として、班彪列伝のこの段が丸々あてられている。
 書紀が「防禦之阻」が「衣食之源」に置き換えたのは、避城が軍事拠点としての条件を欠くという文脈に合わせるためである。
 その「衣食之源」という語句も、班彪列伝の他の箇所「下有鄭、白之沃、衣食之源、隄封五万、疆埸綺分…」に見える。
 はなくても文意は通じるので、書紀が挿入したものであろう。 逆に言えば、「西北:~」、「東南:~」の地勢を述べた部分については、概ね原史料の形が残っていると推定することができる。 書紀がこれを挿入した目的は、原史料からイメージを膨らませて表現を豊かにするためであり、 漢籍から取り入れた語句が原史料の主旨を曲げることはあまりないと考えてよいだろう。
《地卑》
 「地卑」は、ここでは低地を意味すると見られる。その「」の訓読については、形容詞「低い」は平安時代にはヒキシである。 〈時代別上代〉はヒキを形状言〔形容動詞の語幹など〕のみに挙げるが、その文例として挙げられた「他土卑者ひきケレバ」(播磨国風土記)では形容詞である。 また、タカシの反対語の形容詞が存在しなかったわけがない。〈時代別上代〉は「ヒキシも、上代は確例を欠く」というが、 たまたまカナ表記が見つからなかっただけで、上代からヒキシが存在したことは確実である。
《今敵所以…守而攻難》
 現代の刊本は「守易而攻難」とするが、これは『通証』〔1751〕または『集解』〔1804〕によるものである。 近代の本でも『仮名日本紀』にはない。 「」には主語「山峻高而谿隘〔山険しく高くして谷狭きこと〕があるから、「」はなくてもよい。
 ただ、『三国志』魏書/劉曄伝に「山峻高而谿谷深攻難」が見え、書紀はこれを挿入したと見られる。 『通証』などは劉曄伝により「」を補ったのかも知れない。だとすれば、「谷深」も補うべきである。 「谿隘〔=谷狭し〕は厳密には言葉足らずでやや引っ掛かるが、「谿谷深隘」ならば戸惑うこともない。
 さて、書紀が挿入した結果、「山峻」が「山険」と重複して不自然になった。 文章全体は「今、敵が妄りに来ない所以(ゆえん)は、州柔が設置した山は険しく、尽(ことごと)く防禦の為に、山は峻高にして谿(たに)は隘(せま)く、 守れて攻め難き故である。」となり、読みにくい。
 挿入前の「今敵所-以不一レ来者、州柔設置山険、尽為防禦之故也。」で充分であろう。この方が、むしろ解り易い。 こちらは、上の「華実之毛~」ほどはうまく行っていない。
《大意》
 十二月一日、 百済の王(こきし)豊璋(ほうしょう)と その臣(おみ)佐平(さへい)福信(ふくしん)らは、 狹井(さい)の連(むらじ)【名を欠く】と 朴市(えち)の田来津(たくつ)とともに議をもち、〔豊璋は〕言いました。
――「この州柔(すぬ)は、 田畝(たうね)から遠く隔たり、 土地は磽确(こうかく)で〔=痩せ〕、 農業養蚕の地ではなく 拒戦の場である。 ここは久しくこのような場所であり、 民は飢えるであろう。
 今、避城に遷すべきである。 避城は 西北の 一帯は古連旦涇(これんたんけい)の水を用いて、 東南は 深泥(しんでい)巨堰(きょせき)で防ぎ、 周囲の田に廻らし、 渠〔=用水〕を決め〔=きちんと掘削して〕雨を降らせる。
 花実の毛〔=生育〕は、 三韓の上腴〔=よいもの〕なり。 衣食の源は、 二儀の隩区(おうく)〔=天地の奥まったところ〕なり。 土地は低地であるが、 遷さずにおくものか」。
 ここで、 朴市(えち)の田来津(たくつ)が 独り進み出て諫めました。
――「避城(へさし)と所在する敵との間は 一夜にして行くことが可能で、 互いに近いことが甚だしいです。 もしその虞れを考えずにいれば、 後の悔いが及び難いことになります。 飢えは後のことで、 亡びがその前にあるでしょう。
 今、敵が妄りに到来しない理由は、 州柔の城を設置した山は険しく、 尽(ことごと)く防禦する為に 山が急峻で高く、谿(たに)が深く隘(せま)いことが 守り、攻め難い故です。
 もし、場所が低地であれば、 どうして国〔の城〕を据えて 揺るがず今日に至ることがありましょうか。」
 豊璋は、とうとうこの諫めを聞くことなく避城を都としました。
 この年に、 百済を救うために 兵甲を修繕し、 船舶を準備し、 軍粮を用意しました。
 この年は、太歳壬戌です。


【半島情勢:〈天智〉元年】
 三国史記や新旧唐書の列伝では、「龍朔二年〔662〕七月」の次に出て来る年月表記は「麟德二年〔665〕で、それまでまでない。よってその間に起こった出来事の時期は不明である。 唯一『新唐書』本紀(三)において、白江の戦闘を「龍朔三年〔663〕九月〔辛亥朔〕戊午〔八日〕」と載せている。
 豊璋が福信を殺した記事は書紀では〈天智〉二年に書かれるので、ひとまず「時、福信既專権、与扶餘豊…」(百済本紀)の記事の直前までの部分を、ここに引用する。
〈百済本紀〉龍朔二年七月 〔662=天智元年〕
〔龍朔〕二年七月。仁願、仁軌等、大破福信余衆於熊津之東。 抜支羅城及尹城、大山、沙井等柵、殺獲甚衆。 仍令兵以鎮-守之
福信等、以真峴城臨江高嶮当衝要、加兵守之。
仁軌夜督新羅兵,薄城板堞,比明而入城、斬-殺八百人、遂通新羅饟道
仁願奏-請兵、詔淄、青、萊、海之兵七千人、遣左威衛将軍孫仁師、統衆浮海、以益仁願之衆
〔龍朔二年七月。劉仁願、劉仁軌らは、福信の残軍に熊津の東で大勝した。 支羅城〔周留城〕、尹城、大山・沙井などの柵〔=砦〕を抜き、死者捕虜多数。 そして兵を分けて守らせた。
 福信らは、真峴城が江に臨み高く険しく衝要〔軍事上重要なところ〕に当たることをもって、兵を増やしてここを守った。
 仁軌は夜を徹して新羅兵を監督して城の板壁に肉薄し、明けた頃入城し、斬殺すること八百人、遂に新羅の糧道を開いた。
 仁願は増兵を求め、詔して淄州、青州、萊州、海州から兵7000を徴発して左威衛将軍孫仁師を遣わし、海路で軍勢を率い、仁願の軍勢に加えた。〕
● 劉仁願劉仁軌は、遂に反撃に転じた。真峴県は大田広域市。
〈旧唐書〉巻4 高宗上 龍朔二年〔662=天智元年〕
〔龍朔二年〕三月…癸丑。…蘇定方破高麗於葦島、又進-攻平壌城、不克而還。 〔龍朔二年三月。蘇定方は高麗を葦島に破り平壌城に侵攻したが、勝てずに帰る。〕
● 旧唐書の本紀には、このときの仁願仁軌等の戦い、及び白江の記事はない。
〈旧唐書〉 巻199上 百済伝〔662=天智元年〕
〔龍朔〕二年七月。仁願、仁軌等率留鎮之兵、大破福信余衆於熊津之東、抜其支羅城及尹城、大山、沙井等柵、殺獲甚衆。 仍令兵以鎮上二-守之
福信等以真峴城臨江高険又当沖要、加兵守之。
仁軌引新羅之兵夜薄城、四面撃堞而上、比明而入-拠其城、斬首八百級、遂通新羅運糧之路
仁願乃奏-請益兵、詔淄、青、萊、海之兵七千人。遣左威衛将軍孫仁師衆浮海赴熊津、以益仁願之衆
〔龍朔二年七月。仁願、仁軌は〔泗沘に〕留鎮していた兵を率い、福信の残軍を熊津の東で打ち破った。支羅城及び尹城、大山沙井などの柵を抜き、死者捕虜は多数。 兵を分けてそれぞれを守らせた。
 福信らは真峴城が臨江高険、また沖要〔=衝要〕の地なので、兵を加えて守った。
 仁軌は新羅兵を率いて夜に乗じて〔真峴〕城に迫り、四面から堞〔=城壁〕を撃ち上り、夜明けに城に入り制圧した。斬首は800級、遂に新羅からの運糧の道を通した。
 仁願は増兵を朝廷に奏請し、詔により淄、青、萊、海の各州から兵七千人を徴発した。孫仁師が軍を率いて海上を熊津に赴き、仁願の軍勢に加えた。〕
● 〈百済本紀〉と同内容であるが、こちらの方が文意が明快である。 「留鎮」の語により、泗沘で孤立していた仁願の救援に仁願が駆け付けた場面であることが明確になる。
● 「」により、仁軌の攻めた城が真峴城であったことがはっきりする。
〈新唐書〉本紀第3 高宗〔662=天智元年〕
〔龍朔二年〕二月…戊寅〔十八日〕。龐孝泰及高麗戦、於蛇水死之。 〔龍朔二年二月。龐孝泰は高麗戦に及び、蛇水で戦死した。〕
七月戊子〔一日〕…右威衛将軍孫仁師為熊津道行軍総管、以伐百済 〔七月。孫仁師は熊津道行軍総管に任ぜられ、百済攻撃に向かった。〕
● 次の百済方面の戦闘記事は、663年の白江の戦い:「〔龍朔三年〕九月戊午。孫仁師及百済戦於白江、敗之」である。 これらについては、『旧唐書』本紀の欠落を補ったようである。
〈新唐書〉列伝145 東夷〔662=天智元年〕
〔龍朔〕二年七月。仁願等破之熊津、抜支羅城。夜薄真峴、比明入之、斬首八百級、新羅餉道乃開。
仁願請済師、詔下二右威衛将軍孫仁師熊津道行軍総管、発斉兵七千往
〔龍朔二年七月。仁願は熊津で勝利、支羅城を抜く。夜真峴に迫り明け方に入り、斬首八百級、新羅の餉道〔=糧道〕を、すなわち開く。
 仁願は〔海を〕済(わた)る師(いくさ)を請い、詔して孫仁師を熊津道行軍総管として、斉兵〔=整然とした軍勢〕七千を発して往かせた。〕
〈新羅本紀〉第六/文武王三年 癸戌〔663=天智二年〕五月(4) 
右威衛将軍孫仁師兵四十万、至徳物島、就熊津府城
王領金庾信等二十八将軍、与之合攻豆陵〔一作良〕尹城、周留城等諸城、皆下之。
〔 詔して右威衛将軍孫仁を派遣し、兵四十万を率い、德物島に至り、熊津府城に就いた。
 新羅文武王は、金庾信等二十八将軍を率い、合わせて豆陵尹〔または豆良尹〕城、周留城等の諸城を攻めて、皆下した。〕
● 〈新羅本紀〉では、文武王三年条〔663〕の中で、過去に遡って述べる(この段は、〈新唐書〉の龍朔二年〔662〕七月に相当。
● 孫仁師軍の「徳物島経由」は、新羅本紀独自。
● 豆良尹は、忠清南道清陽地域の旧地名という(韓国学中央研究院)
 福信が陣取る真峴城への攻撃に新羅兵を用いたのは、福信をこの時点で内附させることを許さないためと感じられる。 福信は新羅軍には真っ向から戦うからである。福信の唐に仕えようとする意志は既に見抜かれているが、 福信にはもう少し百済残党を率いて戦わせたい。福信を取り立てるとすれば、残党を完全に潰滅させた後である。

まとめ
 高橋氏文(資料[07])は平安時代の書であるが、 安曇氏に対抗するための自己主張の書として書かれた。遡って書紀編纂の頃も、それぞれの家伝に収められた祖先の朝廷への功績を示して役職を争ったと思われる。 ここでは、狹井連と阿曇連のそれぞれに豊璋の衛送を記した家伝があり、ともに書紀に取り入れられた結果、辻褄が合わなくなったと考えられる。 朴市田来津が豊璋を諫めた件も、朴市氏の家伝に拠ったものであろう。書紀原文担当者が狭井連の「連檳」が欠けた文章を忠実に書き写した様が伺われる。
 ところが、書紀はその一方で漢籍の語句による潤色を施している。 どうも蒐集した史料を忠実にまとめる担当者と、そこに漢籍を用いて潤色を加える担当者による作業の複合が、書紀執筆の実態であったようだ。 利用された漢籍の出典については、現在では「中国哲学書電子化計画」やウィキソースで検索をかけることによって、かなり発見が容易になっている。
 このように、一見理解困難な箇所であっても、古い時代の文献だからおかしなこともあろうといって片付けるのはもったいない。 却って一字一句の成り立ちを分析することにより、当時の各氏族の力関係や、原文作者が文章を組み立てたときの頭の中が透けて見えて来るのである。



[27-03]  天智天皇(2)