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2024.02.27(tue) [27-01] 天智天皇1 ▼▲ |
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1目次 【称制前】 天命開別天皇〔天智〕天命開別天皇。息長足日廣額天皇太子也……〔続き〕 2目次 【斉明七年七月是月~九月】 《蘇將軍至于高麗城下》
契苾何力(けいひつかりき)は、鉄勒に属する一派の酋長の家系に生まれ、632年に母とともに出奔して唐に内附した。 突厥(とっけつ)は現在のモンゴル~カザフスタンの範囲にあった大きな国で、552年建国。その後、支配下に置いていた鉄勒による叛乱、唐への内応などにより630年に崩壊した。 何力は唐で軍官に引き立てられ、668年には大軍を率いて高句麗宝蔵王を虜とし、「鎮軍大将軍」の称号を得た(下述)。 よって、書紀の「突厥の王子」は正確ではない。なお、古訓「セシム」は三韓における「王子」の称だから、突厥方面に用いるのは不適切である。 《至于高麗城下》 高句麗本紀では、蘇定方軍は〈斉明〉七年の八月に平壌城を包囲したことになっている。 新旧唐書に平壌城包囲の記事はないが、高句麗本紀によれば、 蘇定方軍は「水路」で浿江〔大同江といわれる〕経由で平壌城に至り、包囲して膠着状態になったと見られる。 契苾加力軍は「陸路」で北方から攻めたが、「鴨淥」の手前で足止めされたと見られる。 実際、『旧唐書』によれば、契苾加力軍は遼東半島から攻めている(下記)〔鴨淥=鴨緑江は間違いないだろう〕。 加力が到着した時にたまたま鴨淥が凍り、やっと渡って攻め込んだ。 このように読むと、両者の進軍経路は書紀の「水陸二路」と合う。 ただし、書紀では凍った川は「浿」となっている。 旧唐書、高句麗本紀では浿江は凍った川ではない。 よって、浿と鴨淥を取り違えた記録があった、もしくは書紀が誤ったと見なければならない。 氷結した川を通って攻め込んだ話自体は、書紀、高句麗本紀、旧唐書に共通するので、有名な話だったと見られる。 一方蘇定方が城を包囲した記事は新旧唐書にはなく、書紀と高句麗本紀のみに載る。これについては、高句麗本紀がむしろ書紀を参考にした可能性もある。 ただ、蘇定方が「平壌道」から攻めたこと自体は、旧唐書にも書かれている(下記)。 《長津宮》 長津宮は「磐瀬行宮」の別名と見られる。 〈斉明紀〉七年三月条の「改此名曰長津」が、 娜大津、磐瀬宮のどちらを指すかが曖昧だったが、おそらく両方であろう。 『兼右本』が伊予国と傍記するのは、〈釈紀〉によると見られる。 すなわち〈釈紀/述義〉は、〈斉明紀〉七年条「于娜大津」〔娜の大津に〕を「于娜(うな)の大津」と訓むことを前提として、「于那者。伊予国宇麻郡也。長津宮者。伊予国也」とする 〔〈倭名類聚抄〉{伊予国・宇摩郡}とウナは発音が似る〕。 ということは「水表之軍政」を聴したのは筑紫国ではないのだから、朝倉社上座郡説は〈釈紀〉〔13世紀〕はもとより『兼右本』〔16世紀〕の時期にも存在しなかった〔「存在しなかった」が言い過ぎなら、「主流ではなかった」〕。 《阿曇比邏夫連》
この〈斉明〉七年〔661〕九月条に、「衛送於本鄕」、そして「於是、豊璋入国之時…」に狭井連檳榔と秦造田来津が送った。 さらに豊璋を福信らが出迎え朝政を委ねたとあり、これでも帰国していないとはとても言えない。 ところが既に見たように、〈天智〉元年〔662〕五月条にも「送豊璋等於百済国」とある。 この重複については、〈斉明〉8において、 〈斉明〉六年十月条の原注「正発遣之時見于七年」が、〈斉明七年〉説が正しいと述べたものと見た。 一方新羅本紀では、豊帰国後に「豊不能制、但主祭而已」となったのは、661年4月から662年6月までの間のいつかである。 この日付がどの程度信頼できるかという問題はあるが、仮にこれを物差しとすれば、「661年9月」でさえ既に遅い。況や「662年5月」をやである。 《大意》 〔斉明七年七月〕同月、 蘇(そ)〔定方〕将軍は、 突厥(とっけつ)王子契苾加力(けいひつかりょく)らと共に、 水陸の二路から高麗(こま)の城下に至りました。 皇太子(ひつぎのみこ)〔中大兄、天智〕は、長津宮(ながつのみや)に移り滞在して、 徐々に海の向こうの軍政にあたられました。 八月、 前方将軍大花下(だいかげ)阿曇(あずみ)の比邏夫(ひらふ)の連(むらじ)、 小花下(しょうかげ)河辺(かわべ)の百枝(ももえ)の臣(おみ)ら、 後方将軍大花下阿倍引田(あべのひけた)の比邏夫(ひらふ)の臣、 大山上(だいせんじょう)物部連(もものべのむらじ)熊(くま)、 大山上守君(もりのきみ)大石らを遣わして、 百済を救援させ、 兵杖五穀を送りました 【或る書では、この最後に続けて、 別に大山下狭井連(さいのむらじ)檳榔(あじまさ)、 小山下秦造(はたのみやつこ)田来津(たくつ)に、 百済を守護させたという。】。 九月、 皇太子は、長津の宮において、 織冠(しきかん)を 百済の王子(せしむ)豊璋(ほうしょう)に授けられました。 また、多臣(おおのおみ)蔣敷(こもしき)の妹を娶らせました。 そして大山下狭井連檳榔、 小山下秦造田来津を遣わして、 軍五千余を率いさせて、本国に護り送らせました。 こうして 豊璋が国に入った時、 福信が迎えに出て稽首(けいしゅ)〔=深々とお辞儀〕して国の朝政を奉り、 皆ことごとく委ねました。 3目次 【斉明七年十二月~是歳】 《高麗言於高麗國寒極浿凍》
「高麗言…」の記述は十二月条にあるが、「惟十二月」と書いた書状が十二月のうちに届くことはあり得ないので、実際に届いた時期はもっと後であろう。 その内容は、〈高句麗本紀〉や『旧唐書』と概ね一致するので、情勢を公式に伝えてきたのは確かであろう。 この書には、続けて倭への応援要請が書かれていたと考えられる。 というのは、元年三月是月条で「高麗乞二救国家一」とあり、それに応えて実際に「遣軍」しているからである。 この「高麗言」は、実際には一月から二月の頃に届き、 それに応えて三月に軍を派遣したのが実際だと思われる。また加巴利浜での出来事(下述)も、元年三月以後に書かれるべきものがこの年に繰り上がって書かれていると見られる。 《浿》 〈釈紀/述義〉には「浿凍:私記曰。浿公壁反。左傳云。浿。梁浿水出二河内軹縣一。又普頼反。説文云。浿水出二樂浪一」 〔私記曰。…左伝:梁の浿水は河内国〔現河南省〕軹県から出る。説文:浿水は楽浪から出る〕。 ここで引用された『説文解字』〔後漢;100、または121〕の原文は、 「浿:水。出樂浪鏤方、東入海。从水貝聲。一曰出浿水縣。」 〔川名。楽浪郡鏤方県から出て、東より海に入る。部首は水、発音は貝と同じ。あるいは浿水県から出るという〕となっている。 平安までの書紀写本では「淏」〔氵+日+天、氵+目+大〕が使われているが、「浿」〔氵+貝〕とは別字。 旧唐書、高句麗本紀では「浿」だから、おそらく書紀の初めの頃は高麗から送られた書にあった「浿」であったと想像される。 時代が下って〈兼右本〉には、次の頭注が付されている。 ・「浿:音霈水在樂浪唐書李勣為浿江道大總管」音は霈(ハイ)。水〔=河〕は楽浪に在り。唐書に「李勣為二浿江道大総管一」〔巻八十八;郝處俊の項〕〕。 ・「淏:普蓋譜頼二切水也説文浿水出樂浪」〔淏:普蓋・譜頼ふたつの切韻。水〔=河〕也。説文に浿水、楽浪より出づ〕。 普蓋・譜頼はむしろ浿(ハイ)の切韻で「浿水出楽浪」ともあるので、「淏」(カフ)の項も事実上「浿」の解説である。 この頭注も実は筆写と見られるので、〈兼右本〉の原本ではそれぞれどちらの形の字が使われていたのか、正確には分からない。だが、旧唐書を確かに参照していたことだけは分かる。 書紀古訓の時代〔平安後期〕はまだ「浿」という川名は知られず、「淏」として、その意〔清らかな流れ〕から「江」をあてたようである。 このことから、書紀古訓が付された時期は『新唐書』〔945年〕成立より前、あるいは成立後間もなくまだ日本ではあまり読まれていない時期だと考えられる。 一方『説文』は当時既に存在したが、そこに「浿」を見出だしたのは〈釈紀〉〔鎌倉〕になってからである。 その〈釈紀〉もまだ『旧唐書』の「浿」を見つけられなかったようである。見つければ必ず書いたであろう。 浿・淏は、旁の横棒の数が四本か五本という微妙な違いであるが、古訓と〈釈紀〉に敏感に影響を及ぼしている。 現在の〈北野本〉や〈内閣文庫本〉は実際には江戸時代の写本であるが、 その筆写された訓点にも、平安時代の形がそのまま残っていることが、この例から分かる。 《浿凍》 凍った川は旧唐書〔およびそれを基にしたと思われる高句麗本紀〕では「鴨淥」〔鴨緑江〕となっている(上述)。 《雲車》 雲車の説明を〈汉典〉から抜粋すると、①「雲彩レ為二裝飾花紋一的車子」。②「伝説中仙人的車乗」。③「古代作戦時用レ以レ窺二-察敵情一的楼車」。④「立式絞車、是一種用二人力一絞転的〔=ウィンチに類する〕起重器具」。 古訓の「クモクルマ」は雲車の直訳で①または②を意味し、「タカクルマ」は③を意味する。 なお、クモクルマ、タカクルマ、次項のオシクルマも〈倭名類聚抄〉には載らず、書紀古訓特有語であろう。 〈釈紀/述義〉は③。いわく「雲車:私記曰。新案説。多加支久留万〔タカキクルマ〕。愚案。雲車即楼車。称レ雲取二其高一也。以レ之望レ敵」。 〔楼台付きの車。その高さにより雲と称する。敵を望む〕」。 ④の巻き上げ機構〔釣用のリールの類〕は、は弩の弦を引くしくみで、すなわち弩車と考えられる。文脈では③でもよいが、④の方が迫力がある。 《衝輣》 〈汉典〉には「衝輣:沖車和楼車(古代戦車。上設二望楼一)。亦泛〔あまねく〕指二戦車一」。 沖(冲の代字)は突き当たる意で、衝と同じ。 〈釈紀/述義〉には「衝輣:私記曰。新案。師説。都久々留万〔ツククルマ〕。愚案。衝○車也。 詩曰:臨衝閑々。許真曰:輣、楼車なり。歩耕反〔ホウ〕」、 「輣:説文曰。兵車也。私記曰。淮南王造二輣車一」。 「ツククルマ」は直訳。「天を衝く」意なら楼車と同じだから、こちらもタカグルマがあり得る。 衝き飛ばす仕掛けを備えた車との解釈も可能で、この方が文意に合う。 「城門などを衝き破る装置を持つ、物見やぐらのある車」という解釈も見る〔広辞苑6版;この文では一つの車が楼車と衝車とを兼ねている〕。 雲車・衝輣への古訓からは何か強烈な戦車という印象は伝わるが、実際にどのようなものかは聞き手の想像に任されることになる。 《鼓鉦吼然》 「鼓鉦吼然」は高麗本紀の「鼓噪而進」に類似するので、同じ出典に由来すると思われる。 《唐兵抱膝而哭》 ここでは唐軍の猛攻を受けたが、高麗側が反撃してむしろ優勢になったと述べる。 救援を求める文書においては、局地戦の勝利を材料にして自国軍の奮闘を示す必要がある。劣勢をいうのみでは援助のし甲斐がないと思わせてしまうからである。 一方旧唐書は、唐軍の圧倒的優勢を描きつつ「会(たまたま)有レ詔二班師〔撤退または部隊の移動〕一、乃(すなはち)還」と述べる。 実際には苦戦による撤退だったのを、「会(たまたま)詔があったから」と言い繕ったと読めるから、実際にはどっちもどっちである。 客観的事実として唐軍は撤退したから、このときは勝利が得られなかったのは確かである。 《釈道顕》 〈斉明紀〉六年七月に「高麗沙門道顕日本世記曰」、 〈斉明紀〉七年四月に「釈道顕日本世記曰」がある。 どちらも断片的で、『日本世記』の全体像は分からない。 この段では、高句麗の難の裏に今は亡き春秋の執念ありと語る。 元年四月の「占」は当たらなかったので、迷信的な因果を重んじた人物かも知れない。 《先声百済》 春秋〔武烈王〕は、本年〔661;〈斉明〉七年〕六月に薨じた。 羅唐連合軍による高麗への攻撃は、春秋の遺志が形になったものだと語る。 百済にも同じ苦難ありというのだが、それでは文意は次のア、イで迷わせる。 ア 遠からず百済にも、その遺志が効いて苦しめるだろう。 イ その春秋の意志は、以前にも百済を苦しめた。 「百済近侵甚苦急」の「近」〔=遠からず〕、「急」〔=すみやかなり〕は、アを思わせる。 しかし、「先声百済」の「先」という語の過去に向かうベクトルは確定しているので、イが正しい。 すなわち、釈道顕の言は、「高麗への攻撃は春秋の執念が実ったものである。その執念は、以前にも百済を苦しめた。だからこう言う。」である。 《献宝剣》 『播磨国風土記』に類話がある。
〈天智〉朝に宝剣が献上されたこと自体は史実であろうが、書紀、風土記のそれぞれに伝説が混ざっていると思われる。 連想されるのは、高倉下の許に落とされた剣の話である(第97回)。 高句麗情勢の話の間にあるから、深読みすればここも神剣の授与で、高句麗への救軍発出を促す話かも知れない。 《日本救高麗軍将》 ここには「日本救高麗軍将」とある。 恐らく、元年三月是月条の「高麗乞救国家、仍遣軍将拠䟽留城」のことが、先行して書かれたと思われる(上述)。 「軍将」という他にはあまり見られない書き方が共にあることも、それを示している。 《加巴利浜》 加巴利浜については、『日本の時代史3』〔森公章;吉川弘文館2002〕に、 「百済加巴利浜(皆火=全羅北道扶安カ)」とあった(p.67)。 皆火・扶安は、『東国輿地勝覧』(50巻、1481年成立)にあることが分かった〔加筆した『新増東国輿地勝覧』55巻が1530年に成立した〕。
しかし〈集解〉、〈通証〉には、「加巴利浜」に何の説明も加えていない。『仮名日本紀』の刊本〔1920〕にも解説はない。 扶安皆火説が出てきたのは昭和になってからと見られる。根拠は発音の類似であろうが、多くの戦場比定地の中にある。 ちなみに現代の発音は、계(界):[kje/ke]、화(火):[ɸwa]となっている〔ɸは無声両唇摩擦音〕。 《細響如鳴鏑》 この段は伝承の紹介であって、まさに「高麗百済終亡之徴」を語る。 重大事件が起こる前には必ず妖しい予兆を置こうとしたようで、その傾向は〈皇極紀〉あたりから顕著になる。 《大意》 十二月、 高麗は言上しました。 ――「この十二月、 高麗国は寒さ極まり、浿江(はいこう)が凍りました。 よって、唐軍の雲車(うんしゃ)衝輣(しようほう)が襲い鼓鉦で吼えるようでした。 高麗の士卒は胆勇雄壮で、 さらに唐の二つの塁〔=砦〕を取りました。 ただ〔唐軍は〕二つの要塞を守り、 また夜間に奪おうとする計略に備えました。 唐兵は、 膝を抱えて泣きました。 鋭い切先は鈍くなり、力尽きて抜くことができず、 臍(ほぞ)を噛む恥がこれでなければ、何をいうのでしょうか。」 【釈道顕はいう。 春秋〔武烈王〕の志は、 正に高麗に現れたと言う。 というのは、先に百済で声を聞き、 百済を近頃侵すこと甚しく、苦しみは急であった。 よって、これをいう。】。 この年、 播磨の国司岸田臣の麻呂たちは、 宝剣を献上し、 「狭夜郡(さよのこおり)の人の粟田の穴の中で獲たものです」と申しました。 また、日本(やまと)による高麗救軍の将たちは、 百済の加巴利浜(かはりはま)に停泊して、 火を焚いたところ、 灰が変じて孔が開き細く響き、鳴鏑(なりかぶら)のようでした。 或る人は、 「高麗百済が遂に亡ぶ兆候か」といいました。 【斉明七年の半島情勢】 この年の半島情勢を、『旧唐書』・『新唐書』(中国哲学書電子化計画/書名検索)・『三国史記』(wikisource:三國史記)から見る。※返り点は本サイトによる。
その路線対立から福信は道琛を殺したが、扶餘豊は自ら王として招いた手前すぐに殺すわけにもいかず、祭祀主に封じ込めるに留めた。 福信は武将として優れていたのは、一重に合理的な判断力によるものと見られる。 その時点で常に最善策を冷静に読んだ結果、戦略の変更に踏み切ったのだろう。 661年の唐羅軍の侵攻は、熊津江で道琛軍に敗北して以後小休止となった。 代わって中心的なイベントになったのは、北部戦線の高句麗である。
それが書かれているのは文武王三年〔663〕五月条で、そこでは「迎二故王子扶餘豊一」(顕慶五年〔660〕)まで遡っている。 まとめ 661年の泗沘城をめぐる情勢や熊津江口の役のことは、書紀には書かれていない。また、福信と豊璋の対立が書紀に書かれるは二年〔663年〕五月になってからである。 この辺りは、倭が得られた情報の空白部分かも知れない。この年の情勢として書紀に書かれていることは、主に唐軍による高句麗侵攻である。 その高句麗戦線については、加巴利浜での伝説を読んだだけでは、倭国からの高句麗への援軍が実際にあったのだろうかという疑問が涌く。 その答えは元年三月是月条にある。このときに派遣された軍が加巴利浜に立ち寄ったときの話が、先行してここに書かれたと見られる。 この例や「高句麗言」が実際の時期より前に書かれていることから、 記事に書かれた年・月は、実際の時期との間にずれがあり得ることに留意しておく必要がある。 これによって、豊璋の帰還が異なる時期に複数回あることや、海外資料の述べる時期に合わないことへの解釈に、柔軟性が得られるからである。 |
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2024.03.08(fri) [27-02] 天智天皇2 ▼▲ |
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4目次 【元年正月~六月】 《賜百濟佐平鬼室福信》
鬼室福信の位階は初出(〈斉明〉六年九月)では、「恩率」(三品)であったが、 同六年十月以後「佐平」(一品)となっている。 《たなしね》 〈時代別上代〉は、タナシネのタナをタネの交替形と見るが、 ナは属格の助詞〔ノ、ガ、ツの類〕で、タナシネは「田-ナ-稲」のように思われる。 《をしかは》 ヲシカハの〈時代別上代〉の用例は、書紀古訓、〈倭名類聚抄〉、『類聚名義抄』といずれも平安時代で、 万葉集などの用例はないので、もともとオシ-カハで、平安時代における表記ではないだろうか。 『日本語の発音はどう変わってきたか』〔釘貫亨;中公新書2023〕は、 「ゐ・ゑ・を」は「平安時代後期に「イ・エ・オ」に合流した」と述べる。 《百済王》 三月条の「百済王」は余豊璋である。この三月条は、「元年五月帰還説」への疑念を増す。 《唐人新羅人伐高麗》 〈新唐書〉本紀龍朔二年〔662〕二月に高句麗侵攻の記事がある。 よって、高句麗は倭国にも救軍を要請し、それに応えて軍将を派遣した。 この時の要請文書と「軍将」が加巴利浜に停泊したときの伝説が、順番を遡って称制前紀(《高麗言惟十二月》項)に載ったと見られる。 《䟽留城》 䟽留城は元年十二月条の「州柔」、旧唐書・百済本記龍朔二年の「支羅城」、百済本紀・新唐書の「周留城」と同一と考えられている。 一般には錦江周辺の山城と言われる(下述)。 一方、現地の扶安郡公式ページ〔韓国〕は、 「周留城は百済が滅びた後、百済復興運動の始点であり首都でもあった。 行政上では、皆火(ケファ)と欣良買(フンリャンメ)の二つの村に分かれ、中方古沙城に属した」([沿革])と述べ、 周留城は扶安郡(《加巴利浜》項参照)にあったとの見方を示している。 《唐人不得略…新羅不獲輸…》 このとき、「唐人不レ得レ略二其南堺一。新羅不レ獲レ輸二其西塁一」〔唐は南境を侵犯できず、新羅は西の塁に搬入できない〕と述べる。 これは、旧唐書百済伝の龍朔元年〔661〕三月「新羅兵士以二糧尽一引還」〔新羅兵は食糧が尽き引き返した〕、 新唐書東夷伝の龍朔元年〔661〕「仁軌以二衆少一、乃休レ軍養威」〔仁願は兵力が足らず、休んで英気を養った〕に対応していると見ることができる。 この情勢の打開策として、『旧唐書』には①仁願が「統レ衆浮レ海赴二熊津一」〔本国に兵の渡海を要請する〕、 ②仁軌が「引二新羅之兵一…通二新羅運糧之路一」〔新羅兵を動員して運糧の道を開く〕と書かれる。 よって、書紀の「唐人不レ得レ略二其南堺一」は①を、 「新羅不レ獲レ輸二其西塁一」は②を、それぞれ要した状況に対応する。 この総攻撃の再開は龍朔二年〔662〕七月だから、 「唐人不得略…新羅不獲輸…」は、海外資料では〈斉明〉七年〔661〕三月から〈天智〉元年〔662〕七月までの期間にあたる。 そしてこの期間の後半に内紛が起こり、福信が道琛を殺し、余豊を主祭に棚上げしたことになる。 《輸其西塁》 「輸其西塁」の「輸」が何を意味するかについて、日本紀講筵において議論があったようである。 〈釈紀/述義〉は次のように述べる。 ――「輸其西壘:私記曰。愚案。輸者輸之意也。難レ可レ讀二出入之出一也。師説。是レ雖二𦾔説一誠爲レ難レ讀。但或本爲レ踐其義爲レ證。 若遂爲レ輸者可レ讀二於止須一。案二穀梁傳一輸者墜也。」
〈内閣文庫本〉に右訓「イツルコト」、左訓「オトス」を並記しているのは、この議論を受けたものと見られる。 「輸」の元々の意味はウツスで、〈学研新漢和〉は「中みをそっくり出してほかの所へ運ぶ」を主な意味とする。 『類聚名義抄』には「輸:イタス ツクス ヌク オツ カツ ヲサム スフ ウツル ツクノフ ワキマフ ヤハラカナリ カスオフ」として、抜き出す・運ぶ・収納するなどの解釈を示す。 〈釈紀〉は「輸」の意味を、「墜とす」〔砦を陥落させる〕と結論づけているが、 『旧唐書』の「遂通二新羅運糧之路一。」を見れば、「輸」は「軍糧の輸送」を意味することは明らかである。 もし〈釈紀〉著者がこれを知れば、同じ結論を出したのではないだろうか。 〈釈紀〉の時代には既に『旧唐書』、『新唐書』は成立していたが〈釈紀〉がそれらを参照した気配は見えない。
ネズミが子を産んだのは、睡眠中の馬の尾か。 しかしこれは実際に起こった珍事ではなく、八卦の結果を表現する文章かも知れない。ただ、『易経』には「鼠産於馬尾」のような文は見えない。 子(鼠)は北、午(馬)は南の方角を指す。 道顕は、そこから高麗が倭国に属する予言と解釈したが、実際には倭軍は白村江で敗北して半島での足掛かりを失い、占いは当たらなかった。 ただ、百済への大軍の派遣は救援を名目としつつ、勝利の暁には百済の属国化を期していたであろう。 その思惑が空気として漂っていたことが、この解釈を生んだようにも思われる。 《夏五月》 〈北野本〉〈内閣文庫本〉〈伊勢本〉では、「五月」に必要のない「夏」がついている。 五月条が書紀執筆の比較的遅い段階で挿入され、その出典にあった「夏五月」が修正されなかったことが考えられる。 深読みすれば、ある程度執筆が進んだ段階で安曇連が捻じ込んだものかも知れない。 ただ、逆に「夏四月」条の方が後から挿入された可能性もある。 《阿曇比邏夫連》
書紀に信頼感をもって読もうとする者にとってはこの状況は心情的に直視し難いが、 ここでは敢えて小手先の中途半端な解釈ではなく、正面から比較検討したい(右表)。 まず、両者の構成は①日本の朝廷による冠位または王位の授与。②大軍団を派遣して送り届けたこと。③現地では感激して迎えた点で共通している。 この①③については作文は容易で、基本的に潤色と判断できる。それに対して、「軍五千余」、「船師一百七十艘」、「以多臣蔣敷之妹妻之」についてはそれなりの記録があったと思われる。 それぞれの出典は、恐らく狹井連、阿曇連の氏文や家伝の類で、それぞれに我が先祖が豊璋を送り届けるという大切な任務を負ったことを誇ったものであろう。 書紀が両者を共に収めたのは、依怙贔屓と見られることを避けるためと見る。 両者を比較してとりわけ目立つのは、元年五月条ではあたかも福信が、倭国まで迎えにやってきたが如くに読めることである。 同条はまた、継位が倭国による恩恵だとする(次項)。 一方、七年九月条では織冠の授与は出発前に済ませ、福信は豊璋を百済の津に出迎え、その上で百済の臣らが国政を委ねたと書く。これは、十分現実的な筋書きである。 また、元年五月条の阿曇比邏夫の冠位「大錦中」は、〈天智〉三年になってから制定された二十六階を遡らせたもので、後世になってから書かれたことを示している。 その点、七年五月条の「大山下狹井連檳榔」、「小山下秦造田来津」はこの時点における冠制に合致している。 阿曇比邏夫連はこれまでも百済外交に関わってきたから、元年五月に「船師一百七十艘」を率いて百済救援に向かったとこと自体はあり得ると見てよい。 ところが阿曇連の家伝においては、そこに豊璋を送り届ける任務を負ったというフィクションを付け加えたのであろう。 もし「フィクション」が言い過ぎならば、本来の記録は援助物資を「送二百済王豊璋一」〔=豊璋の許に送る〕であって、家伝執筆者はそれを豊璋本人を送ったと読み誤まり、さらに尾鰭がついてこの形になったと言うこともできる。 「豊璋等」の「等」も、困惑させる(次項)。さらに「撫其背」前後の部分にも潤色が過ぎる(次々項)。 これに対して、七年九月条の文体は抑制的で、もし現実であったとしてもそれほどの違和感は感じさせない。 ただ、その時期については、新旧唐書や三国史記と比べるとまだ遅い。前回まとめで見たように 「高句麗言」や「加巴利浜」の時期が実際とは異なることことから、「〈斉明〉七年九月」という時期も絶対視はできない。 それでも、新旧唐書や三国史記の示す時期も、また絶対とは言えない。執筆時期を比べると、書紀の方が出来事からの日が浅いからである。 結局、若干の時期のずれはあるかも知れないが、七年九月条の方が史実に近いと見てよいであろう。 両論併記としたのは、それぞれの氏文または家伝を大切に保つ狹井連と安曇連を対等に扱った故と見る。 その上で、〈斉明〉六年原注は、両者のどちらを取るべきかの判断を示したものと読むことができる(〈斉明〉六年《王子余豊璋》)。 《宣勅以豊璋等使継其位》 「継位」とは豊璋が百済王になることだから、「等」が付くのは不審である。これを不用意な誤りとして無視してもよいが、敢えてきちんと読むことにする。 すると、「等」にあたるのは福信である。 次に、「撫其背」は「宣勅」の外側の言葉である。宣勅中の比喩表現だとすれば「撫汝背」となるであろう。 よって、「而」は、宣勅の内容はここまでという区切りである。 すなわち、「宣勅」の内容は「豊璋」には「其位」〔百済の王位〕を継がせ、「福信」には「金策」を予(あた)えたというものである。 そして「撫二其背一」は豊璋と福信の両者が対象である。豊璋を差し置いて福信一人の背を撫でるのは確かに不自然である。 さらに「爵禄」も、両者に対してということになる。 《予金策於福信而撫其背褒賜爵禄》 豊璋には国王位を、福信には金策を与えて、さらに両者に爵位俸禄を賜る。その文中に挟まれた「撫二其背一」〔その背中を撫でた〕の背中の持ち主は、豊璋と福信とする以外に読みようがない。 この部分は、宣勅を托された使者が百済を訪れ、豊璋らに宣じたと読めないこともないが、一介の使者が豊璋と福信の背中を撫でて労う(ア)ようなことは想像できない。 この表現からは、長津宮を訪れた福信と豊璋の背中を中大兄皇子(〈天智〉)が優しく撫でた場面しか思い浮かばない。 「稽首」も、眼前に中大兄皇子がいればこそである(イ)。 仮にアだとすれば、使者でさえも天皇の権威を負い、 豊璋らと見守る群衆共々、心の底から倭国朝廷にひれ伏したことになる。ここまで来ると、まさにフィクションの極みである。 結局「宣勅以豊璋等使継其位予金策於福信而撫其背褒賜爵禄」は、アとイのイメージが混ざった空想的な文章と見るべきであろう。 《百済、進調献物》 「百済」からの「進調献物」の時期は六月とされる。五月に送った援助物資の返礼とすれば時期が合う。阿曇比邏夫連を遣わして送ったのはやはり豊璋の身柄ではなく、物資であろう。 《大意》 元年正月二十七日、 百済の佐平(さへい)鬼室福信(きしつふくしん)に、 矢十万本、 糸五百斤、 綿千斤、 布千端、 鞣(なめ)し皮千張、 稲種三千斛を賜りました。 三月四日、 百済の王(こんきし)〔=豊璋〕に布三百端を賜わりました。 同じ月に、 唐人と新羅人は高麗(こま)を征伐し、 高麗は救援をわが国に要請しました。 よって軍将を派遣して䟽留城(そるさし)を拠点としました。 これによって、唐人は〔百済の〕南の境界を侵略し得ず、 新羅は、西の塁〔=砦〕に軍糧を運び得ませんでした。 四月、 鼠が〔寝ていた〕馬の尾のところに子を産みました。 釈道顕(どうけん)はこれを占い 「北の国の人は、まさに南の国に附こうとしている。 蓋(けだ)し高麗が敗れて日本(やまと)に属するか。」と言いました。 五月、 大将軍大錦中(だいきんちゅう)阿曇(あずみ)の比羅夫(ひらふ)の連(むらじ)らは、 水軍百七十艘を率いて、 豊璋らを百済の国に送りました。 宣勅により、 豊璋らに位を継がせ、 また金策〔金製の大臣札〕を福信に授けました。 そして背中を撫でて褒め、爵冠と俸禄を賜りました。 その時、 豊璋らと福信は稽首〔=深々とお辞儀〕して勅を受け、 群衆はこれを見て涙を流しました。 六月二十八日、 百済は、達率(たつそつ)万智(まち)らを遣して、進調献物しました。 5目次 【元年十二月~是歳】 《百濟王豐璋等議曰可遷於避城》
《闕名》 狭井連の名は明らかに連檳なのに「闕名」となっているのは、出典尊重主義の故であろう。元年五月豊璋返還説自体は疑わしいが、逆に出典を尊重したものと言える。 この段では田来津を「豊璋を諫めたのに容れられなかった」人物として美化するから、あたかも田来津本人による復命書の如しである。 しかし、本人は白村江で戦死したから身近にいて戦死を惜しむ者による報告か、朴市氏の家伝が出典であろうと想像される。 ただ、書記はその一方で、そこに漢籍中の語句を挿入している(後述:豊璋の言葉、田来津の言葉)。 それでも、事実関係そのものは原史料に沿っていると見てよいのではないだろうか。 《州柔》 州柔は䟽留(上述)と同一と考えられているが、確かな比定地は定まっていない。 ここで土地が痩せ農耕できない土地だと述べることが、䟽留城が山城と言われる所以であろう。 《避城》 避城の推定地については、『朝日日本歴史人物事典』に「避城(全羅北道金堤か)」とある。 金堤については、「韓国一の穀倉地帯である万頃(マンギョン)平野を抱える金堤」という紹介を見る(Konest)。 避城金堤説は、古くは津田左右吉〔1873~1961〕が唱えた。 同氏が著した『朝鮮歴史地理 第壹巻』〔津田左右吉;南満洲鉄道1913〕(国立公文書館デジタルコレクション)では、 「地理志に避城(避骨とも碧骨とも書す)ありて、其の地、今の全羅道金堤郡なり」、 「古連旦径の位置は知るべからざるも、避城が河水繚回せる平野なること明にして、之を 金堤郡とせばよく其勢にかなへるを見る。此の如き平野は今の忠清道方面に求めんこと甚だ難し」と述べる。 加えて「定山方面より唐軍の根拠地たる泗沘をこえて此の地に居城を遷さんこと、また当時の形勢に適合せせざるが如し。 之に反して韓山より金堤に移らんは甚だ易し」という。 これは、州柔城の所在地について、それが定山にあったとすれば唐軍が押さえていた泗沘を越えることになり困難だが、韓山から金堤への移動は容易なので、 州柔城は韓山であろうと述べたものである。 このように、避城金堤説は書紀の述べた地勢に合う土地を示したものであって、歴史地名や考古学による論証ではない。 豊璋の倭国内の生活を描いた唯一の記事は、三輪山で養蜂を試みたことである(皇極二年是年条)。 どこに住んでいたか分からないが、式上郡三輪川の畔に住み、農耕しながら田園の四季を楽しんでいたのかも知れない。 その自然の恵み包まれてで過ごしていた豊璋にとって、険しい山中の州柔城は苦痛で、避城の地の豊かさに惹かれたと想像することは確かに可能である。 《西北帯以古連旦涇之水》 「古連旦涇」は北西を流れる川の名であろう。 「帯以古連旦涇之水」は、『後漢書』班彪列伝(下述)の「帯以洪河涇渭之川」を真似ている。 「東南」以下の部分については、「繚以周田」が班彪列伝の「繚以周牆」に似るが、基本的に書紀独自の文と見られる。 《拠深泥巨堰之防》 wikipedia(韓国語版)は、次のように述べる。
●訖解尼師今二十一年〔330〕「始開二碧骨池一、岸長一千八百歩。」 〈百済本紀〉には、碧骨の記述はない。〈新羅本紀〉のこの時期は、この場所が実際には百済領だったことから「比流王二十七年」と解釈したようである。 ●元聖王六年〔790〕「春正月…増二-築碧骨堤一、徴二全州等七州人一、興レ役。」 実際に築かれたのが330年なのかどうかは分からないが、662年には恐らく存在していたのであろう。 また、金堤 碧骨堤が語る韓国水利史〔小山田宏一2016〕は、 碧骨堤は三国時代には存在し、書紀「拠深泥巨堰之防」に対応すると見做している。 《深泥巨堰》 「深泥巨堰」は訓読可能である。にも拘わらず書紀古訓が音読しているのは、「古連旦涇」を音読したことに揃えたためと思われる。 しかし、次項で述べるように、意味を正確に捉えれば「東南」は「~決渠」までかかるので、対句構造にはなっていない。 よって、構わず訓読すればよいと思われる。 《繚以周田決渠降雨》 「決」の中心的な意味は「堤防を切る」〔=決壊〕であるが、ここでは逆に流水をコントロールする文脈にあるから、「渠を切る」〔=用水を掘削する〕と読み取らないと辻褄が合わない。 そして「繚以周田」は「堰」を主語とするのがよいだろう。 「降雨」は、「これだけの備えをした上で雨を降らせる」と戯文的に表現したもので、実際には「降雨に備える」意である。 すなわち「東南には深泥巨堰を田の周りに繚(めぐ)らし、渠を切った〔=用水路を掘削した〕。こうして、雨を降らせる」という文章である。 《華実之毛》 「華実之毛則三韓之上腴焉衣食之源則二儀之隩区矣」(ア)は、土地の豊穣を詩文で表現したもの。 『後漢書』班彪列伝〔范曄;398~446〕の「有西都賓問於東都主人曰 ~ 什分而未得其一端,故不能遍舉也。」の段に「帯以洪河、涇、渭之川。華実之毛、則九州之上腴焉。防禦之阻、則天下之奧区焉。」とあり、書紀はその太字の部分を用いている。 なお、『昭明文選』〔蕭統;501~531〕には、巻一「賦甲」の中の「京都上」の中の「西都賦」として、班彪列伝のこの段が丸々あてられている。 書紀が「防禦之阻」が「衣食之源」に置き換えたのは、避城が軍事拠点としての条件を欠くという文脈に合わせるためである。 その「衣食之源」という語句も、班彪列伝の他の箇所「下有鄭、白之沃、衣食之源、隄封五万、疆埸綺分…」に見える。 アはなくても文意は通じるので、書紀が挿入したものであろう。 逆に言えば、「西北:~」、「東南:~」の地勢を述べた部分については、概ね原史料の形が残っていると推定することができる。 書紀がこれを挿入した目的は、原史料からイメージを膨らませて表現を豊かにするためであり、 漢籍から取り入れた語句が原史料の主旨を曲げることはあまりないと考えてよいだろう。 《地卑》 「地卑」は、ここでは低地を意味すると見られる。その「卑」の訓読については、形容詞「低い」は平安時代にはヒキシである。 〈時代別上代〉はヒキを形状言〔形容動詞の語幹など〕のみに挙げるが、その文例として挙げられた「他土卑者」(播磨国風土記)では形容詞である。 また、タカシの反対語の形容詞が存在しなかったわけがない。〈時代別上代〉は「ヒキシも、上代は確例を欠く」というが、 たまたまカナ表記が見つからなかっただけで、上代からヒキシが存在したことは確実である。 《今敵所以…守而攻難》 現代の刊本は「守易而攻難」とするが、これは『通証』〔1751〕または『集解』〔1804〕によるものである。 近代の本でも『仮名日本紀』にはない。 「守」には主語「山峻高而谿隘」〔山険しく高くして谷狭きこと〕があるから、「易」はなくてもよい。 ただ、『三国志』魏書/劉曄伝に「山峻高而谿谷深隘、守易攻難」が見え、書紀はこれを挿入したと見られる。 『通証』などは劉曄伝により「易」を補ったのかも知れない。だとすれば、「谷深」も補うべきである。 「谿隘」〔=谷狭し〕は厳密には言葉足らずでやや引っ掛かるが、「谿谷深隘」ならば戸惑うこともない。 さて、書紀が挿入した結果、「山峻」が「山険」と重複して不自然になった。 文章全体は「今、敵が妄りに来ない所以(ゆえん)は、州柔が設置した山は険しく、尽(ことごと)く防禦の為に、山は峻高にして谿(たに)は隘(せま)く、 守れて攻め難き故である。」となり、読みにくい。 挿入前の「今敵所二-以不一レ妄レ来者、州柔設置山険、尽為二防禦一之故也。」で充分であろう。この方が、むしろ解り易い。 こちらは、上の「華実之毛~」ほどはうまく行っていない。 《大意》 十二月一日、 百済の王(こきし)豊璋(ほうしょう)と その臣(おみ)佐平(さへい)福信(ふくしん)らは、 狹井(さい)の連(むらじ)【名を欠く】と 朴市(えち)の田来津(たくつ)とともに議をもち、〔豊璋は〕言いました。 ――「この州柔(すぬ)は、 田畝(たうね)から遠く隔たり、 土地は磽确(こうかく)で〔=痩せ〕、 農業養蚕の地ではなく 拒戦の場である。 ここは久しくこのような場所であり、 民は飢えるであろう。 今、避城に遷すべきである。 避城は 西北の 一帯は古連旦涇(これんたんけい)の水を用いて、 東南は 深泥(しんでい)巨堰(きょせき)で防ぎ、 周囲の田に廻らし、 渠〔=用水〕を決め〔=きちんと掘削して〕雨を降らせる。 花実の毛〔=生育〕は、 三韓の上腴〔=よいもの〕なり。 衣食の源は、 二儀の隩区(おうく)〔=天地の奥まったところ〕なり。 土地は低地であるが、 遷さずにおくものか」。 ここで、 朴市(えち)の田来津(たくつ)が 独り進み出て諫めました。 ――「避城(へさし)と所在する敵との間は 一夜にして行くことが可能で、 互いに近いことが甚だしいです。 もしその虞れを考えずにいれば、 後の悔いが及び難いことになります。 飢えは後のことで、 亡びがその前にあるでしょう。 今、敵が妄りに到来しない理由は、 州柔の城を設置した山は険しく、 尽(ことごと)く防禦する為に 山が急峻で高く、谿(たに)が深く隘(せま)いことが 守り、攻め難い故です。 もし、場所が低地であれば、 どうして国〔の城〕を据えて 揺るがず今日に至ることがありましょうか。」 豊璋は、とうとうこの諫めを聞くことなく避城を都としました。 この年に、 百済を救うために 兵甲を修繕し、 船舶を準備し、 軍粮を用意しました。 この年は、太歳壬戌です。 【半島情勢:〈天智〉元年】 三国史記や新旧唐書の列伝では、「龍朔二年〔662〕七月」の次に出て来る年月表記は「麟德二年」〔665〕で、それまでまでない。よってその間に起こった出来事の時期は不明である。 唯一『新唐書』本紀(三)において、白江の戦闘を「龍朔三年〔663〕九月〔辛亥朔〕戊午〔八日〕」と載せている。 豊璋が福信を殺した記事は書紀では〈天智〉二年に書かれるので、ひとまず「時、福信既專権、与扶餘豊…」(百済本紀)の記事の直前までの部分を、ここに引用する。
まとめ 高橋氏文(資料[07])は平安時代の書であるが、 安曇氏に対抗するための自己主張の書として書かれた。遡って書紀編纂の頃も、それぞれの家伝に収められた祖先の朝廷への功績を示して役職を争ったと思われる。 ここでは、狹井連と阿曇連のそれぞれに豊璋の衛送を記した家伝があり、ともに書紀に取り入れられた結果、辻褄が合わなくなったと考えられる。 朴市田来津が豊璋を諫めた件も、朴市氏の家伝に拠ったものであろう。書紀原文担当者が狭井連の「連檳」が欠けた文章を忠実に書き写した様が伺われる。 ところが、書紀はその一方で漢籍の語句による潤色を施している。 どうも蒐集した史料を忠実にまとめる担当者と、そこに漢籍を用いて潤色を加える担当者による作業の複合が、書紀執筆の実態であったようだ。 利用された漢籍の出典については、現在では「中国哲学書電子化計画」やウィキソースで検索をかけることによって、かなり発見が容易になっている。 このように、一見理解困難な箇所であっても、古い時代の文献だからおかしなこともあろうといって片付けるのはもったいない。 却って一字一句の成り立ちを分析することにより、当時の各氏族の力関係や、原文作者が文章を組み立てたときの頭の中が透けて見えて来るのである。 |
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⇒ [27-03] 天智天皇(2) |