| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024.02.09(fri) [26-09] 斉明天皇9 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18目次 【七年正月~五月】 《御船泊于伊豫熟田津石湯行宮》
《西征始就于海路》 「征」は軍事的な意味を含むことが多く、ここではまさにこれに合致するが、訓読にそれを含めようとすると煩雑になるのでユクに留めざるを得ない。 「海路」は、難波津と筑紫を結ぶ瀬戸内海航路である。
〈倭名類聚抄〉に{備前国・邑久【於保久】郡・邑久【於保久】郷}がある。古訓で「大伯」と訓まれているので、当時から邑久にあたると考えられていたようである。 『国造本記』には「大伯国造」が見える(隋書倭国伝(4)【山陽道の国造】項)。 『大日本地名辞書』は「今大伯村…に邑久郷てふ大字のこれり」という。 現代地名にはそのものずばりの「岡山市邑久郷(おくのごう)」があり、〈倭名類聚抄〉邑久郷の「遺称地とし、一帯に推定される」と言われる(『日本歴史地名大系』)。 〔なお瀬戸内市にも旧邑久町とされる地域があるが、町村制〔1889〕で「邑久村」が定められたのが最初で、それまではこの地域に「邑久」という村名はなかった。〕 右図は、標高0.5mまでが古代の海岸線だったと仮定して彩色したものである。 この図によれば、現邑久郷は南西側の境界線が海(吉備の穴海にあたる)に面しているので、邑久津があったかも知れない。 現代的な感覚ではあるが揺れる船の狭い部屋での出産は辛いので、ここで停泊して産んだと考えたい。 大田姫皇女は〈天武〉の即位以前にその妃となり、大来皇女〔=大伯皇女〕と大津皇子を生んだ。 大田皇女は〈天智〉六年二月までに早逝し、〈天智紀〉に「以二皇孫大田皇女一葬二於陵〔=〈斉明〉小市岡上陵〕前之墓一」と載る。 〈天智〉天皇は「蘇我山田石川麻呂大臣」の女、「遠智娘(遠智嬪)」を納め、三子を産む。その三子のうち「其一」が「大田皇女」で、持統天皇の姉にあたる(〈天智〉七年二月)。 〈天智〉が遠智娘を納めるに至った経緯は、〈皇極〉三年正月(二)《少女》項参照。 なお「姫皇女」という表記により、ヒメミコという語が上代から存在したことが伺われる。 《伊予熟田津石湯行宮》 「泊于伊予熟田津石湯行宮」という書き方を見ると、原文が書かれた時点では石湯行宮は熟田津に近接していたと解されていたようである。〈内閣文庫本〉も「伊予ノ熟田津ノ石湯ノ行宮」と訓む。 しかし、石湯行宮が久米官衙遺跡(別項《回廊状遺構》)だったとすれば、石湯行宮は熟田津からは相当離れている。 書紀執筆者は実際の位置関係は考えず、記録の記述を元にして記述したのかも知れない。 ただ、《熟田津と石湯行宮》項で見るように、回廊状遺構の傍らを流れる小野川は古くは直接伊予灘に注ぎ、また水上交通路であったと考えられている。 船が直接石湯行宮附属の津に着いたのだとすれば、「泊…石湯行宮」の書き方もあり得るかも知れない。 《熟田津》 熟田津の比定地については、別項(《熟田津と古道》)で見る。 ここでは万葉歌を見る。 熟田津を詠んだ歌は、四首(0008,0138,0323,3202)見える。そのうち0008には次のように題詞と左注が添えられている。
『類聚歌林』は、〈斉明〉が石湯を訪れたときに、昔皇后だった時代に〈舒明〉と連れだって石湯行宮に行幸したときのままであることを見て、感慨してこの歌を詠んだと述べる。 額田王も別に四首を詠んだが、この歌だけは〈斉明〉御製歌だという。ただ歌の「哀傷」なるものの中身は、ほとんど憶良による想像に見える。 『類聚歌林』は五年三月条でも見たが、御製歌になりそうな歌は何でもかんでも御製歌にしてしまったようである。 額田王は〈斉明〉の紀温泉行幸にも同行して歌を詠んでいる。〈天智〉を詠んだ歌もある。 「額田姫王」は〈天武〉天皇に娶られた。少女時代は〈斉明〉の側に仕え、家族同然であったと思われる。 《石湯行宮》 石湯行宮を、久米官衙遺跡群の「回廊状遺構」に比定する説がある(別項《回廊状遺構》)。 「回廊状」と呼ばれているが、実際には板塀のようである。形状は一辺約100mの、ややいびつな正方形である。 白雉四年是歳条の「飛鳥河辺行宮」かと考えられている飛鳥稲淵宮殿跡では、ひとつの長方形の棟の長辺が26.2mである。 回廊状遺跡内の「正殿的建物」のサイズもそれと近いようである。飛鳥稲淵宮殿跡もさらに周囲が板塀で囲まれていたと考えると、 これらが行宮の規模の大体の目安かも知れない。 久米官衡遺跡群は、伊予来目部の本貫地にあたるだろう。 かつてこの地から朝廷に出仕していた来目部小楯は、針間国〔=播磨国〕に宰(みこともち)として派遣された時に、億計弘計兄弟を発見した(第213回)。 〈安閑〉二年の二十六屯倉の設置は、独立地方氏族を監視するためと見た。 ただ、こと伊予来目部に限っては既に〈清寧〉朝の時代に朝廷から重要な役割を負っていた。 これを見ると朝廷の出先機関としての官衙の整備管理を担い、その付随施設に行宮も含まれたのではないだろうか。 《石湯》 これまで見た古写本では、「石湯」には訓点が付されていない。 第238回《訓石如石》項で見たように、 古事記が人名中の「石」をイハと訓む場合、書紀は「磐」に置き換えている。 よって、「石湯」はイシノユであろう。 伊予国の湯といえば、〈舒明〉十年十二月条の「伊予温湯宮」があった (《伊予国風土記逸文》)。 石湯と伊予温湯との関係については、『伊予国風土記』が〈舒明〉に加えて〈斉明〉や〈天智〉が「湯郡」の「湯」に訪れたことを「幸行五度」と書いているのを見れば、同書が書かれた時代〔奈良時代初め〕において、 伊予温湯と石湯が同一視されていたのは明らかである。 『伊予国風土記』逸文には、大国主が「大分速水湯」〔恐らく別府の湯〕の下樋から汲んで持ってきたところから始まる。 これは、その持ってきた湯が伊予温湯になったという神話であろう。「践健跡処今在二湯中石上一也」は、 その湯の効能によって元気を回復した少名毘古那神が飛び跳ね、その踏み跡が残る石が湯の底にあると読める。 それが別名「石湯」の由来かも知れない。 石湯行宮が回廊状遺構だったとすれば現在の道後温泉とは数km離れているとはいえ、 「石湯」はとても有名であったから、この程度の距離ならばそれを行宮の名称に用いても不自然ではないと思われる。 《御船還》 《娜大津》 娜大津は〈斉明〉六年是歳条《績麻郊》項で触れた。 五年八月条《筑紫大津之浦》項、 〈宣化〉元年《那津之口官家の比定地》で想定した津も同じところであろう。 地名ナは魏志倭人伝「奴国」や、「漢委奴國王印」まで遡る(魏志倭人伝(21))。 《磐瀬行宮》 磐瀬行宮は、〈宣化〉元年【那津之口官家】の可能性がある。 比恵遺跡群に比定される。 駅名として、〈倭名類聚抄高山本〉に{西海駅:石瀬}がある。 《長津》 ここでは「長津」に宮がつかないから、磐瀬行宮ではなく娜大津の改名と解釈される。 実際、のちに八月甲子条になっても「至磐瀬宮」のままである。 しかし、〈天智紀〉には「皇太子。遷居二于長津宮一」とあり、長津宮が出てくるから、改称する対象をそれほど峻別して書かれたものではない。 〈斉明〉天皇は、海岸に近い所に宮を置けば攻撃を受けた時に危険だから、なるべく奥地に大宮を作ることを望んだと思われる。 ところが「大津」は近くに宮を置いたときの名称※)であるから大(オヲ)が付くこと嫌い、「那ガ津」〔ガは属格の助詞〕にして、 後に「長津」の字をあてたと考えられる。 ※)…難波の大津は難波宮、近江の大津は天智天皇の大津宮に因むと見られる。 《王子糺解》 福信は使者を送り、「表」(文書)によって「其王子糺解」の返還を求めた。 一方、六年十月に、福信が倭に使者を送り、救軍の派遣を要請するとともに「乞二王子余豊璋一」した記事がある。 両者はともに「福信が使者に文書を持たせて派遣した」と述べるから同じ出来事で、別典によるものであろう。 原注は、釈道顕の『日本世記』を添えている。同じことが異なる日付で二箇所に書かれていることを注釈者は気にして、 異説の出典を示したと思われる。 「糺解」は豊璋の別名ということになるが、三国史記、新旧唐書にはこの名前は見えない。 「糺」は、糺明〔明らかにする。糾明とも〕である。また下から上への要請書を「解」という。 つまり「糺解」は「解をもって糺(ただ)す」である。 よって「祈二其君一糺二-解於東朝一」 〔其の君を祈(ねが)ひて東朝に糺(ただ)す※)解(げ)をまをす〕とも読むことができ、 こう読むと要請の時期をめぐる異説ではなく、約束済みのことを早く実行せよという催促となる。 しかし、〈天智〉二年五月には「糺解仍語二福信之罪一」とあるから、やはり豊璋の別名であろう。 《道顕日本世記》 六年七月でも「高麗沙門道顕日本世記曰…」との引用があった。 《朝倉橘広庭宮》 〈倭名類聚抄〉に{筑前国・下座【下都安佐久良】郡}〔しもつあさくらのこほり〕と、 {筑前国・上座【准レ上】}〔かみつあさくさのこほり〕がある。 朝倉橘広庭宮はこの範囲内ではないかと思われるが、事柄はそれほど単純ではない。別項で詳細に検討する。 《朝倉社》 〈釈紀-述義〉に「朝倉社:神名帳曰土左國土左朝倉神社。 土左國風土記曰。土左郡有二朝倉郷一々中有レ社。神名天津羽々神。今天石門別神子也。先師案云。天津羽々神者朝倉神社是也云々。」 〔神名帳に土左国朝倉神社と曰ふ。 土左国風土記の曰はく。土左郡に朝倉郷有りて、郷の中に社有り。神の名は天津羽々の神。今の天石門別の神の子なり。 先に師案りて云ふ。天津羽々神は朝倉の神社是なり云々。〕とある。 確かに〈延喜式-神名帳〉には{土佐国/土佐郡/朝倉神社}がある。 一方、筑紫国には式内朝倉神社はない。 〈述義〉には土佐国云々と書かれることは、朝倉宮の朝倉は上座郡にあったとする認識が、鎌倉時代にはあまりなかったことを示している。 一方、上座郡には式外「朝闇社」がある。そのアサクラの音読みチョウアンが、廃寺名および地名の「長安寺」に繋がったと見られる。 『福岡県神社誌』は、むしろ恵蘇八幡宮が「朝倉社」に該当すると述べる(下述)。 宮殿建造のために社林を伐採して神の怒りをかったという話は、〈孝徳〉即位前紀の「斮二生国魂社樹一」に通ずるもので、 ひとつの定形である。ここでは「朝倉宮」のために荒らした地元の神の社を、漠然と「朝倉社」と呼んだと見るべきかも知れない。 《見宮中鬼火》 「見宮中鬼火」が「見中」となっている本は古訓の時代には一般的だったようで、「ヤブラレヌ」との古訓までついている。見は受け身の助動詞、中〔=アタル〕はヤブルと意訳し、完了の助動詞ヌを加えたもの。 「宮中に鬼火見ゆ」はあまり芳しくないので、ある時点で宮、鬼火の三文字が隠されたのかも知れない。 〈北野本〉には古い異本によって傍書を添え、〈内閣文庫本〉〔院政期か〕、〈釈紀〉〔12世紀〕の頃は隠した形が定着していたと考えられる。 〈兼右本〉〔16世紀〕で復活するが、〈集解〉〔19世紀初め〕では「宮中」に戻っている。これは、書紀古訓本に訓点が付された時期を推定するための、一つの手掛かりになりそうである。 《鬼》 〈時代別上代〉によると「仮名書きの実例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている」、 「接頭語的に植物の名について、同じような二種の植物の、大きく荒っぽい方を指すことがある。貫衆於尓和良比・萆薢於尓止古呂など」。 《鬼火》 かつては土葬された遺体中の燐が自然発火したものと言われたが、そうでもないらしい。現在は、 「球電:雷雨の最中に現れる光球。きわめて不可解な現象として知られ、直径は20センチメートル程度がもっとも多く… 出現は落雷点付近に多いが、かならずしも落雷のときとは限らない。毎秒2~3メートルの速さで不規則に動き、ときには家の中にも入ってくる。寿命は数秒から数十秒」〔日本大百科全書;小学館1994〕 などと説明されている。映像資料を探すとyoutubeにいくつか上げられているが、CGによる合成は容易なので、信憑性は疑われる。 この話は〈斉明紀〉に載るいくつかの奇怪現象のうちのひとつである。いずれの話も、〈斉明帝〉の崩や白村江での敗北の不吉な予兆とする文脈で語られている。 《大意》 七年正月五日、 御船(おおみふね)は西征し、まず海路に就きました。 八日、 御船は大伯(おおく)の海に到り、 その時、大田姫皇女(おおたのひめみこ)は女児を産みました。 よってこの児に大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けました。 十四日、 御船は伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯(いしのゆ)の行宮(あんぐう)に停泊しました。 三月二十五日、 御船は航路に戻り娜(な)の大津に至り、 磐瀬(いわせ)の行宮に入られました。 天皇(すめらみこと)は、これを長津(ながつ)に改名されました。 四月、 百済の福信は使者を遣わして上表して、 王子(せしむ)糺解(きゅうげ)を迎えることを要請しました 【釈(しゃく)道顕(どうけん)の日本世記(やまとのよのふみ)のいうには、 百済の福信は書簡を献上して、 その君糺解(きゅうげ)を東朝〔倭の朝廷〕に求めたという。 またある書にいうには、 四月に 天皇は朝倉の宮に遷られた。】。 五月九日、 天皇は 朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷られました。 この時、 朝倉社(あさくらのやしろ)の木を伐り払ってこの宮を作られた故に、 神は怒って宮殿を壊し、 また宮殿の中に鬼火を見ました。 これによって、 大舎人(おおとねり)から諸々の近侍まで病気で死んだ人が多く出ました。 《耽羅始貢獻》
耽羅は済州島である。 耽羅は、「高麗の肅宗10年〔1105〕」に独立を失い、「高宗(1213~1259)」の時代に「済州」に改名された(VISIT JEJU/済州の歴史)。 〈継体〉九年に、百済に附庸した記事があった。 『旧唐書』劉仁軌伝にも出て来る(資料[40])。 耽羅の書記古訓はトラである。ところが、吐火羅、覩貨羅、墮羅もすべてトラと訓んでいる (【吐火羅国】、〈斉明〉四年)。 これを見ると、書紀古訓や私記は海外の国名を大雑把に捉えていて、『大唐西域記』や『旧唐書』などをあまり参照しなかったように思える。 《伊吉連博徳書》 《越州》 『旧唐書』巻四十/地理志三では、武徳四年〔621〕の時点で「越州領会稽、諸曁、山陰三県」となっている。 会稽県は現在の浙江省紹興市、諸曁県は現在の諸曁市(紹興市西部)、山陰県は現在の紹興市越城区内とされる(右図)。 五年九月二十二日には、「所レ載大船及諸調度之物」を「餘姚県」に留めおいたとある(五年七月条)。 置いてあった船に乗り込んだのであろう。 《檉岸山明》 檉岸山は五年七月の博徳書八月十六日条の「会稽県須岸山」と同じと言われるが、須と檉とは発音が異なる。 それでも、来た時と同じ山と見るのが常識的であろう。 「明」については、私記の「南」という解釈が今日までまかり通っているが、そもそも明には南の意味はない。筆写で「南」を「明」に読み誤ることもあり得ないであろう。 よって「明」は「明けて」で、すなわち「明〔而〕以二八日鶏鳴之時一」が妥当である。 《鶏鳴之時》 鶏の鳴く時刻は、季節に関係なく午前4時頃という観察結果を見る (「朝、雄鶏がコケッコーと…」、 「ニワトリ、体内時計で…」〔日本経済新聞2013/03/19〕)。 上代語のアカトキは、「夜明け前のまだ暗いうちをさす点、近代の〔アカツキの〕慣用とは異なる。だいたい、午前三時から五時ごろ」(時代別上代)。 書紀古訓では、これまでの「伊吉連博徳書」の時刻表記の訓みに十二支を用いていたので、それに倣うならトラノトキ(寅の時)と訓むべきである。 《奉進朝倉之朝》 「奉進朝倉之朝」のところで、〈北野本〉は「ミカト」をつけるべき文字を誤っている。よって、既に訓点がつけられた本から訓点を含めて筆写したものであることがわかる。 《智興傔人東漢草直足嶋》
韓智興は唐で流されたままである。その供人西漢大麻呂も恐らくともに流されたのであろう。 もう一人の供人足嶋は流刑を免れ、一行と共に帰国したと思われる。 だが唐滞在中に言いふらした讒言は本国朝廷にも伝わっていたらしく、少なくとも褒美に預かれなかった者は、智興一派のした讒言のせいだ思い恨んだのであろう。 その思いが天に通じて、足嶋は落雷によって死亡したのである。 どちらが悪かったかはともかく、このように物騒な出来事が起こったこと自体が凶事の暗示だであると噂されたと読める。 結果的には間もなく天皇が崩じ、また百済に派遣した救軍は白村江で大敗した。 《大意》 五月二十三日、 耽羅(とんら)国は初めて王子阿波伎(あわき)らを遣わして貢献しました 【伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)の書にいう。 ――辛酉年〔661年、斉明七年〕正月二十五日、 帰路につき越州(えつしゅう)に到る。 四月一日、 越州から路を上り、東に帰る。 七日、 檉岸山(ちょうがんせん)に進み到る。 明けて八日の鶏鳴く時〔=寅時〕を以って 西南風に順い、 大海に出航した。 海の真ん中で海路を迷い漂蕩辛苦の末、 九日八夜を経て辛うじて耽羅(とんら)の嶋に到る。 ちょうどよい機会なので嶋の住民の王子阿波伎(あわき)ら九人を招慰して〔=招き誘って〕 ともに使者の船に載せて、帝朝に献ずる形に仕立てた。 五月二十三日、 朝倉の朝廷に奉進した。 耽羅の入朝はこの時に始まった。 また、 智興(ちこう)の供人東漢草(やまとのあやのかや)の直(あたい)足嶋(たりしま)によって 讒訴された使者は寵命(ちょうめい)〔=労いの言葉と褒美の品〕を受けられなかった。 使者たちの怨念が天の神に通じて、 足嶋は震死した〔=雷に打たれて死んだ〕。 時の人はこれを評価して、大倭(おおやまと)の天の報いは近いだろうと言った。】。 【久米官衙遺跡群-回廊状遺構】
同遺跡群は、〈松山市2006〉によると 「白鳳期の寺院跡である来住廃寺だけでなく、付近には官衛関連施設が多数確認され」(図D)、今次の調査ではそのうち「回廊状遺構」の調査を行った(図B)。 「回廊状遺構」の「特徴的な遺構が最初に確認されたのは、1977年」という。 その「回廊状遺構」は、ややいびつだが正方形に近く、内側の北部に「正殿的建物」が検出されている(図E)。 同書の図から寸法と角度を読み取ってみると、一辺100m前後で南辺がやや長い(図C)。 《「回廊」の性格》 その「回廊」(図D)の性格について、同書は「外側柱列においてのみ建て替えが行われていることは、この施設が均整のとれた回廊の形状をとるものではなく、 板塀を内側から補強するような構造であったことを強く示唆する」(p.98)、「一本柱列による板塀を内側から支える構造」(p.107)と述べる。 すなわち寺院の回廊(屋根付きの廊下)のようなものではなく、外側柱列は板塀の柱だが、内側柱列は突支棒の跡であるという。 《舒明・斉明行宮説》 〈松山市2006〉は「回廊状遺構」について、「愛媛大学の松原弘宣氏」の仮説: 「「回廊」の原型を、舒明天皇の「伊予温湯宮」に求め、斉明天皇の「石湯行宮」 を経て、さらには『伊予総領所』に転用」したとする説(p.11) を念頭に置いて、次のように述べる。 いわく「回廊状遺構の一部において、柱の建て替えが行われている事実を確認」した。 これは「補修を受ける必要が生じるだけの期間にわたって継続使用されていた」ことを意味し、 したがって「天皇の行宮との関連も視野に入れておくべき」だとする(p.98)。 《熟田津と石湯行宮》 〈古代の道と駅〉は、熟田津を和気郡に置く(図G)。 そして、「松原弘宣〔〈瀬戸内海交通〉〕は七世紀代の国津として熟田津を挙げている」と述べる。 その〈瀬戸内海交通〉は、「熱田津」は「旧小野川の河口に存在したと考えている」と述べる。 それは、「久米官衙の中心であった回廊状遺構〔次項〕の南には小野川が流れている。 …伊予三山の間を流れる小野川は倭の飛鳥川と同様に河川交通が存在していることが想定され、小野川の河口部分に熱田津の存在したと考えられる」とする。 〈瀬戸内海交通〉は、「現在の重信川右岸あたりに流れこんでいた小野川の河口が7世紀代伊予国の国津であり、 八世紀代の久米郡の郡津であったことは確実であろう」、ただし「小野川の流路と石手川・重信川との関係…は未だ確認することはできない」と述べる。 《重信川》 重信川については、〈重信川水系〉によると、文禄四年〔1595〕に、加藤嘉明が 「重臣の足立重信に命じて改修を計画させた」、「当時の伊予川〔重信川の旧称〕は小野川、内川等の現在の諸支川とおおむね平行して西流し、 伊予灘に注いでいた」が、「藩政時代に足立重信の改修によって、ほぼ現在の川筋に固定され」たという(pp.15~16)。 重信川の北の洗地川は、「石手川及び小野川より導水された水が流れる農業用水路」であるという(〈洗地川水系〉)。 この洗地川が、かつての小野川の流路に近い位置かも知れない。 《石湯行宮への交通》 〈瀬戸内海交通〉は、「従来法隆寺式伽藍の回廊とされていたのは…舒明・斉明の行宮と考えられる」と述べ、 回廊状遺構(前項)を石湯行宮と見做している。そしてこのことを、旧小野川河口を熟田津とする理由のひとつとする。 前述のように、「小野川」に「河川交通が存在」していたとするから、そのまま御船で小野川を遡っていったということであろう。 それに対して、〈古代の道と駅〉による熟田津の位置は、熟田津で上陸して駅路を通って石湯行宮に至ったことになる。 書記の「泊于伊豫熟田津石湯行宮」という文では、動詞「泊」の目的語は石湯行宮である。ということは「御船」が旧小野川を遡って石湯行宮の船着き場に付いたと読めないこともない。 〈古代の道と駅〉説は現在の松山港の北端、〈瀬戸内海交通〉説は南端である。現代の航路は北端を停泊地としているのは、瀬戸内海の東西航路にすぐ出られるからである。 それは、古代でも同じであろう。 すると熟田津はやはり〈古代の道と駅〉説の位置で、そこに船軍(ふないくさ)の大船団を停泊させ、 御船だけが南下して旧小野川に入って石湯行宮の津で上陸したと見ることもできる。これが一番自然かも知れない。 【朝倉橘広庭宮の探求】
朝倉社に該当しそうな神社を探すと、「朝闇神社」〔福岡県朝倉市須川1269〕があった。 「あさくら」神社とも読めるが、正式にはチョウアン神社という。別名は大行事社、祭神は高皇産霊尊。 〈県神社誌〉に「朝闇神社」は未掲載。 ただ「大行事社」については、朝倉郡高木神社〔現朝倉郡東峰村大字小石原〕の項に、もともと弘仁十三年〔822〕、英彦山神社周辺に産土(うぶすな)鎮守神として四十八社が勧請されたという(p.42)。 朝闇神社もその一社と思われる。ただし、この名前はかつて存在した長安寺がもとになって生まれた呼び名かも知れない。 《別所神社》 「斮除朝倉社木」に直接関わる社伝をもつのが、別所神社〔福岡県朝倉市須川3197〕である。 〈県神社誌〉には、「祭神:事解男命、伊弉冉命、速玉男命」、 「朝倉社の木を伐り…神怒り給ふ」、「此時皇太子中大兄皇子先帝の罪を贖ひ給ひ皇居の辺なる清浄の地を卜して陰神伊弉冉尊〔女神;イザナミノミコト〕を別け奉り此所に勧請ひ給ふ故に社号を別所神社と称し…」、 「斉明天皇七年創立明治五年十一月三日村社に被定」とある。 すなわち、中大兄皇子〔天智〕が先帝〔斉明〕の朝倉神の木を伐採した罪をあがない、奪された土地の代償として別の所を賜り、新たにできたのが別所神社だという。 《恵蘇八幡宮》 〈県神社誌〉は、恵蘇八幡宮〔福岡県朝倉市山田166〕を「朝倉社」の本命とする。 同書は「本社は書紀斉明天皇七年の条にある朝倉社と確信される」と述べる。 祭神は「天豊財重日足姫天皇〔斉明〕、誉田別天皇〔応神〕、天命開別天皇〔天智〕」である。 祭神の一柱に誉田別天皇が加わっているのは、八幡神〔誉田別天皇と習合〕の系列社だからである。 八幡社の総本宮は宇佐神宮(大分県)で、恵蘇八幡宮は最初からその枝社か、あるいはこの地の産土神が八幡宮勢力に吸収されたとも考えられる。 もし後者ならば、宇佐神宮の創建は725年頃と見られる(第142回)ので、 661年の「朝倉社」説は、そもそもが後世に生れた伝説ということになる。 〈県神社誌〉は「朝倉は阿久良と訓むべし、地名に因れる御名なり、さて此御社は朝倉山に存しならむ其跡詳ならず」 〔もともと朝倉という地名に因む社で朝倉山にあったと思われるが、その跡は不明である〕というが、なんとか朝倉社であった根拠を見つけようとするためか、数多くの文献を挙げる。ここでは各引用の要点を示す。 ●〈続風土記〉は、須川村など数村に皇居があったと述べる(次項)。 ●『筑前国続風土記拾遺』は、恵蘇八幡宮が上座郡中の総社というから、「斉明紀に朝倉社とあるは此の社の事ならむ」。 ●『奥義抄』〔12世紀前半〕の「朝くらや木の丸とのにわかをれは名のりをしつゝ往くは誰の子そ」という歌は、 「(〈斉明〉帝が)筑前国上座郡あさくらと云所の山中に黒木の屋を作りてをはしましけるを木の丸どのと云まろ木にて作れる故なり云々」。 ●『一代要記(甲集)』、『日本地理志料』、『国史眼』にも、「朝倉山長安寺」や「行宮筑前上座郡」などの記述がある。 ●『神社覈録』〔1870年〕に、「朝倉の本丸殿は土佐国に侍へるを古来誤りて筑紫に在ると云りと宣へるは却て誤さる也」 〔朝倉の宮は「土佐国であるのに筑紫にあるとするのは誤り」だというが、却ってそれが誤りである〕。 ●朝倉神社考証は八幡宮の宮司が務めていた社僧の寺を朝倉山長安寺一音院という。 以上から朝倉宮は須川村にあり、上座郡中の総社であった恵蘇八幡宮が朝倉社に相違ないとする。 以上を受けて〈県神社誌〉は最後に、 「本社の縁起に曰く。斉明天皇当所朝倉橘広庭宮に御遷幸の砌り皇太子中大兄皇子当所にて八幡大神を斎せ玉ひ朝倉山天降八幡と崇め玉ふ 其後天武天皇の御宇白鳳元年壬申斉明天皇、天智天皇の二御神霊をも当所八幡宮に合祭すへき旨托言あり 依て奏問を経勅許により大宮柱太敷立恵蘇八幡三柱大神と称し玉ふ云々」 〔〈斉明〉が朝倉橘広庭宮に遷ったとき、中大兄皇子が八幡大神を祀り、朝倉山に天降りした八幡と呼んで崇められた。 後に、天武天皇が〈斉明〉、〈天智〉両天皇を合祀した〕という。 しかし、「八幡」の六国史における初出は〈続紀〉737年で、 宇佐神宮の創建は725年頃と見られる(前出)。〈斉明〉七年〔661〕に八幡神を奉斎したのは、いくら何でも理屈に合わない。 「恵蘇八幡宮」の地の土着の神は古墳時代まで遡るとも思われるが、祭神が八幡神になったのは、725年以後であろう。 《筑前国続風土記(貝原益軒)》 〈続風土記〉は、 「其〔の〕かり宮のあと、須川村の圃の中にあり。村人も斉明天皇行宮の跡と云〔ふ〕。 其南の方広原の地にて、広庭ともいひつべき所なり。 此〔の〕数村の内、皇居を立〔つる〕べき平原の地此外になければ、村人の説さもあるべし。 むかしは礎石など多く残りてありしを、田圃のさはり〔=障り〕になればとて取捨侍る。されでも今猶多少残れり。 隣村に宮野村あり。…此所斉明帝の行宮の在し地にして、宮野といえるも、是によりての名なるべし。」と述べる。 〈続風土記〉はさらに、朝闇寺〔寺名、転じて枝村の名〕はこの地を朝倉という一つの証しで、隣の宮野村は〈斉明〉行宮があったことによるという。 また、『梁塵愚抄』(〔一条兼良;1402~1481〕)に 「朝倉の木の丸とのは土佐国にあるを、古来あやまりて筑紫にありといへり」と書かれたことに対して、 「伊予より土佐へゆくには、道遠く道けはし」、 「筑紫に下り玉ひ、百済を救んとて、…いといそがはしき時なるに、かゝる難所を経て…遠き土佐国に朝倉の宮を立、… 鳳駕を留め給はん事、理のなき所」などと述べて、厳しく反駁している。 〈続風土記〉はその中で、須川村に行宮を置いた理由として「博多の海辺は、ふいに異賊襲来のおそれ有ぬべければ、わざと海辺くへだゝりたる上座に、朝倉広庭の宮を立て住給へり」と述べる。 《筑前国続風土記附録(加藤一純)》 〈続風土記附録〉は〈続風土記〉の補遺を越えた独自の書。 須川については、「皇居の御跡といふ所にて、たま\/古瓦を得たるあり。菊花の紋あり。上代の製にて、大宰府都府楼の瓦より猶精工なり」、 「大行事社:産神なり。花園山につゝける山の半腹にあり。祭る所瓊々杵尊なり。朝倉神社ともいふ。」とある。 「古瓦」については、まだ宮殿が掘立て柱の時代なので広庭宮ではなく、寺院のものであろう。 〈福岡県史〉によると、宮野村の小字名に「無量寺」、「上乗寺」が見える。さらに、「長安寺廃寺遺跡」が須川村一帯に検出されている(〈推定地伝承〉p.40)。 《土佐国朝倉社説》 〈続風土記〉が土佐国説をこれほど強く非難したことは、むしろそれだけ土佐国説が強力であったことを示す。 比定社は朝倉神社(高知県朝倉丙2100番地のイ)。 公式ページ/「沿革」によると、「祭神:天津羽羽神、天豊財重日足姫天皇」とあるので、 現地では朝倉宮がここにあったと伝承されているようである。 ただし、「沿革」によれば「明暦三年〔1657〕山内忠義公により再建」とあるから朝倉社現地説はこの頃から強まったのであろう。 しかし、〈釈紀〉に「土左国朝倉社」が載るところを見ると、平安、鎌倉の頃は土佐国説が主流であったと見られる。 もともとはささいな関りでも、それを種として各地で自分の土地に寄せた伝承が生まれるのは一般的で、法則と言ってよい。 その実例は、浦嶋子[4]《全国の浦嶋伝説》項で見た。 《甘木歴史資料館展示解説シート》 甘木歴史資料館〈甘木展示シート〉は、朝倉宮推定地を次の5説に整理して示す。 ① 須川説:昭和以降須川説の主張が強まり、昭和8・9年〔1933~1934〕以来たびたびの発掘調査が行われ、その結果 「「大寺」と書かれた墨書土器が検出され、9世紀ごろに寺のような役割を持つものがあったことは分かった。 しかし、それよりも古い宮跡に該当するような遺構は発見されず、長安寺地区に宮殿の可能性は低い」。 ② 山田説:恵蘇八幡宮裏の円墳が、斉明天皇の殯陵であると言われたが、 その円墳は「周辺から採集された遺物から古墳時代(5世紀頃)の造営であるため…時代が合わない」。 ③ 志波説:「杷木宮原遺跡、志波岡本遺跡、志波桑ノ本遺跡、大迫遺跡において大規模で規則性のある建物群が検出された」。 「瓦の出土がないことから立柱建物の屋根は板か萱葺き」、柱跡から「簡略な作り」で、「7世紀中~後半の土器」が検出され、 「存続期間が短いことから考えると、朝鮮半島と倭国の軍事的緊張関係の中で逼迫した状況を反映」していたと考えられる。〔〈杷木宮原91〉〕 ④ 岩田遺跡説:小郡市の上岩田遺跡と見る。朝倉宮は、朝倉市一帯の山々が見える範囲と考える。ただし、現在の小郡市の地元研究者の見解では、上岩田遺跡を官衙遺跡とする。 ⑤ 大宰府政庁跡説:「朝倉宮が現在の太宰府市周辺に所在したという伝承」がある。 「考古学的な所見として大宰府政庁跡の初期段階が朝倉宮の造営に関係している」。 このように①、②については、現在では根拠を欠くとして一蹴している。 ④、⑤は概略の紹介に留めるのに対して、 ③の志波説の紹介にはもっとも多くの字数を割いているのを見ると、著者は志波説を強く推しているようである。 《杷木宮原遺跡》 上記③にある杷木宮原遺跡について、〈杷木宮原91〉は 「梁行2間(4.57m)×桁行6間(13m)の大規模な建物跡」を含む四棟が「6世紀後半の住居跡を切っていることから、7世紀代以降に置けよう」と述べる。 そして「当遺跡〔杷木宮原遺跡〕から志波岡本遺跡までの1kmの間に同規模・同方位を呈する建物跡が、調査した分で9棟検出された事は大きな成果」で、 「現在のところ宮跡は確認されていないが、同時代の建物跡として注目されよう」という。 上記③には「存続期間が短い」とと述べられるから、 仮に今後宮跡が見つかったとしても行宮の規模で、「朝倉橘広庭宮」という永続性が感じられる名前に相応しいものではないと思われる。 《須川説の行く末》 第3次調査(1976)の報告書〈調査報告71〉によると、 「過去の2度にわたる調査〔図ア:調査地区1,2〕で、宮としての遺構を発見できなかった」(p.1)。 そして「今年度の第3次調査では、…「長安寺原」〔図ア:調査地区3a〕では7世紀前後ないし中世の住居跡および土器溜りを発見しながら、宮跡の遺稿は全然発見されなかった」、 「「鐘突」地区〔図ア:調査地区3b〕でも、4間×5間と推定される礎石建物遺構を発見したが、 その下層に宮跡を推定できる発見はなかった」、長安寺跡についても 「かつて古瓦が堆積していた瓦塚さえ、一片の瓦も発見できず、すっかり削平されていた」などと述べる。 《私見Ⅰ》 以上をふまえて、サイト主の私見を述べる。。 まず〈続風土記〉に「むかしは礎石など多く残り」、〈続風土記附録〉に「古瓦を得たる」とあるが、長安寺のものであろう。 須川を宮殿の故地と考えるのは、〈続風土記〉が「皇居を立つるべき平原の地この外になければ」と述べる通りではあろうが、昭和の調査ではそこに宮跡はついに発見できなかった。 すなわち、最も有力と考えられた地に朝倉宮跡はなかった。 そもそも、朝倉橘広庭宮が上座郡にあったと積極的に唱えられるようになったのは江戸時代の〈続風土記〉で、それまでは土佐国説が主流であった。 しかし、〈調査報告71〉は、須川地区には「宮跡の遺構は全然発見されなかった」としながら、「朝倉橘広庭宮が、現在の朝倉郡内にあったことは確信する」、 「現在の朝倉町内であろう予感がしてならない」とまで述べる。こうなるともはや宗教である。 事柄は単純で、江戸時代に上須川村説が声高に唱えられ、それが多くの人に広まった。 それが実証的に否定された今になっても人々は最初の信念を捨てられず、研究者でさえもせめてその近傍地に痕跡を見つけようとしているのである。 今、その縛りを解いて、朝倉宮の適地を白紙から考えてみよう。〈斉明〉と中大兄太子は、大規模な救軍を百済に送るにあたって、筑前国に遷都して大本営にしようと画したことは明らかである。 だが、宮を娜大津付近に置くことは避けた。その理由は、〈続風土記〉が「博多の海辺は、ふいに異賊襲来のおそれ有ぬべ」しと述べる通りであろう。 それでも、上座郡まで離れると娜大津からあまりに離れ過ぎだとの感は拭えない。 以前〈宣化紀〉【那津之口官家】の項で、大宰を那津之口官家から大宰府政庁に遷したのは、唐軍来襲を警戒したためだと考えた。 その延長線上で考えれば、朝倉橘広庭宮も大宰府政庁の位置まで下げれば充分ではないだろうか。 それなら思い切って、朝倉橘広庭宮は大宰府政庁の出発点であったと考えてみたらどうだろう。 大宰府政庁は、すでに7世紀後半にⅠ期の掘立柱建築物が確認されている(次項)。 そして七世紀末~八世紀初頭には、大宰府の条坊が施行されたと見られている(〈遠の朝廷〉p.60)。 そこで、朝倉橘広庭宮は最初から西海道の副都として計画され、その事業が〈天智〉以後に引き継がれたと見たらどうであろうか。 この私見は通説を真っ向から否定するので唱えることが躊躇されたが、〈甘木展示シート〉の⑤に励まされて、思い切って書いた。 以下、この裏付けになりそうな資料を見る。 《Ⅰ期大宰府政庁》
そして、「Ⅰ期新段階の掘立柱建物は七世紀末頃に成立し、大宝律令が制定した後も存続したのは確かである」、 「Ⅱ期政庁の造営が本格的に開始される」のは「おそらく都が平城京に遷都された後」であろうと述べる(p.27)。 このように、七世紀後半には大宰府政庁の場所に、掘立柱建物が整備され始めたことが確認された。 《上座郡》 そもそも、朝倉橘広庭宮が上座郡にあったと言われるようになったのはいつごろであろうか。 〈続風土記〉(18世紀)は、15世紀に『梁塵愚抄』が述べた朝倉社土佐国説に厳しく反駁し、筑前国上座郡説を強力に主張する。 ただし『梁塵愚抄』は、当時既に筑前国説があったことも述べている。 〈釈紀〉(13世紀)は、朝倉社土佐国説のみを書く。従って、平安時代までは筑前国説はなかったか、あったにしてもそれほど声高ではなかったと思われる。 結局、筑前国上座郡説を声高に叫ぶようになったのは、江戸時代のことである。 「木の丸殿」などの伝承地は、須川説が言われるようになってから現地に定まったと見られる。 伝説があれば、その土地ごとに縁の場所が生まれるものである。 上述したように、土佐国朝倉神社の方にも〈斉明〉天皇が祭神に加えられた。 《三笠郡》 問題は、大宰府政庁近辺に朝倉という地名がないことである。 〈福岡県史〉に小字名が網羅されていたのでそれを見たが、大宰府政庁のあった三笠郡にアサクラはない。クラがつくのは倉谷、倉良(くらら)、鍋倉、鈴倉、矢倉だが、アサクラに繋がる見込みは薄い。 宮がつく地名は、宮ノ脇、宮ノ森、宮ノ本があり、何らかの宮があったのは確かである。 その「宮」は大宰府政庁か、さらにⅠ期に遡る可能性もないことはないが、言えることはこの程度である。 ただ、アサクラに直結する小字名がないのは上座郡でも同じで、宮野村に宮ノワキ、宮ノ前、宮ノ浦がある程度で、実際の所は三笠郡と大差ない。 須川村には妙見、中妙見、下妙見があることと併せると、かつて屯倉があったことが伺われるのは確かだが、これは〈安閑〉前後の古い時代である〔屯倉が妙見に転じたと見られる地名は各地にある(〈安閑〉二年)〕。 《朝倉氏の分布》 〈推定地伝承〉は、大宝四年〔704〕に「竺志前国上旦鹿〔鹿は座の誤記であろう〕郡」があると述べる(「大宰府移案」という文書にある。p.38)。 もともとの旦座評(アサクラノコホリ)が、大宝四年までに上座郡・下座郡に分割されたと見られる。 これらは、好字令に伴う地名二文字化によって旦が省かれた結果と解される。 〈姓氏家系大辞典〉を見ると、朝倉氏は全国にある。式内朝倉社は、土佐国土佐郡の朝倉氏の氏神であろう。 式内「朝倉社」は全国でここが唯一だから、この地の朝倉氏は大氏族だったと想像される。 その分流が筑前国南部に移り住み、居住地は三笠郡地域まで及んでいて古くはそこまでがアサクラであった。 それが、たまたまその地域の中の一つの評の名称として用いられたのかも知れない。 《大宰府政庁説》
〈古代山城〉は、「泗沘都城では、遷都に際して王宮の整備とともにその棒業を固めるために山城とこれを結んで防衛ラインとする羅城が築城されている。 こうした王宮防衛の配置計画がその理念とともに採用されたのが太宰府である。 したがってその中心施設についても王宮と同等の施設を設置したとは考えられないだろうか。」(p.86)、さらに 「地理的な配置が大宰府地域を中心にした交通路の沿線に置かれていることは、…7世紀末頃に筑紫大宰が現地で確立したことは認められるが、 遡って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」(p.88)と述べ、 大宰府政庁の性格が当初は天皇の宮であった可能性を示唆する。 〈推定地伝承〉は、「朝倉橘広庭宮=大宰府Ⅰ-1期遺跡」説を提唱する〔〈古代山城〉は、7世紀末の掘立て柱建物のⅠ期を1~3の小期に分ける〕。 大宰府周辺の「大野城・水城・基肄城等からなる防衛線は、百済最後の都である四沘の羅城との深い関りが多くの先学によって指摘されている」、 大宰府の「Ⅰ-1期の建物群は、朝倉宮の造営と深く関わるのではないか」、「つまり〔天皇の〕宮を設けるほどの理由がなければ、此の地に戦闘拠点を構築し、兵力を集中させるような絶対防衛圏の形成はありえないのではなかろうか」などと述べる。 さらに「朝倉説を最も強く主張したのは、福岡藩の儒学者貝原益軒」で、「朝倉説」を「以後多くの学者が採用するところとなり、有力な比定地として定着した」、 しかし「朝倉地域の伝承地について、考古学的な探求ではいまだ朝倉宮に直接結びつく証跡に乏しいのが現状である」と述べる。なお、貝原益軒は〈続風土記〉の著者である。 それに対して、〈推定地伝承〉は朝倉宮が太宰府にあったとする伝承を挙げる。その「きちんと記録したもの」として『筑紫道記』〔飯尾宗祇〕を引用する。 孫引きを避けるために原典資料〈宗祇紀行〉を見ると、 「そめ河にそふてくたるに天智天皇の皇居木丸殿のあとに馬をとゝむ 境内みな秋の野らにて大なる石つへのかすをしらす都府楼の月いにしへをおもふに 昨日の観音寺の…」 〔染川に沿ひて下るに、天智天皇の皇居木の丸殿の跡に馬を留む。 境内皆秋の野等にて大いなる礎の数を知らず。都府楼の月、古へを思ふに、昨日の観音寺の…〕とある。 都府楼は、都督〔天子が任命した地方統治官。大宰の中国称〕の府〔=役所〕の楼台、すなわち大宰府政庁のこと。 つまり、朝倉橘広庭宮は大宰府政庁を同じところにあったとする。 この記述から〈推定地伝承〉は、「地元では大宰府政庁がかつては朝倉宮であったという伝承が伝えられていたのであろう」と見る。 この他、「大宰府天満宮絵図」(大阪・道明寺天満宮所蔵)には、太宰府の周囲に「朝倉山」その他が書かれ(下述)、 また「大宰府政庁跡の右横に天智天皇の「朝倉や木の丸殿に我をれば名のりをしつつゆくはたが子ぞ」という『新古今和歌集』の歌が記」されていることを挙げる。 同論文は、その結びで「今後、朝倉説と大宰府説ともに同等に捉えることで、朝倉宮の比定を元禄年間以前に戻って再考したいと思っている」との決意を披露する。 《観世音寺》 観世音寺は、大宰府政庁の東にある。 〈続紀〉和銅二年〔709〕に「二月戊子朔。詔曰。筑紫観世音寺。淡海大津宮御宇天皇〔天智〕。奉レ為二後岡本宮御宇天皇一誓願所基也。雖累二年代一。迄レ今未レ了。…早令二営作一。」 〔筑紫の観世音寺は、天智天皇が斉明天皇の為に誓願されたことを基とするが、年代を重ねて今になっても完成しない。…早く作らせよ〕とある。 すなわち観世音寺は〈天智天皇〉が〈斉明天皇〉のために誓願して建立したものである。これは大宰府政庁の場所が〈斉明〉に縁があることを示し、 もし〈斉明〉の朝倉宮が上座郡にあったのなら、観世音寺は上座郡に建立されたのではないだろうか。 《私見Ⅱ》 仮に朝倉橘広庭宮が上座郡にあったとすると、三笠郡の大宰府政庁、上座郡の広庭宮という二つの掘立柱建造物が同時並行で造営されたことになる。 これはやはり考えにくい。 アサクラが大宰府地域を含む広域の地名であったことは十分考えられるが、「上座郡」「下座郡」以外にはこの地名が全く史料に現れない点が最後の詰めを欠く。 〈推定地伝承〉は大宰府の地が朝倉と呼ばれたことの裏付けを幾つか挙げている。 しかし、「上旦座郡」なる名称が大宝年間に存在したことをが文書で確認できる(上記《朝倉》項)のに比べると、その力はまだ弱い。 ここに至り、一つのストーリーを描いてみる。
できれば直接的証拠、たとえば「旦座宮」墨書土器のようなものが、大宰府政庁Ⅰ期層から発見されることが望まれる。 実際、水城からは「水城」墨書土器が検出されている(〈遠の朝廷〉p.39)。Ⅰ期層はⅡ期層の下でまだ発掘されていない部分も多い※)というから、 可能性はある。 ※)…〈古代山城〉は「Ⅰ-2期の遺跡群」の「正殿仮想の東西棟は上部の礎石を避けながら、しかも基壇の破壊を最小限度に留める調査であった」と述べる(p.82)。 19目次 【七年六月~十一月】 《天皇崩于朝倉宮》
伊勢王については、白雉元年二月条に白雉の輿を担った記事がある。 血縁不明。〈天智〉七年にも薨の記事があり、そこでは「伊勢王与其弟王接日而薨」とありやや詳しいので、〈斉明〉七年の記事が誤りかも知れない。 《奉徒天皇喪》 「奉徒天皇喪」の二文字目は、鎌倉時代の〈釈紀〉までは「徒」である。古訓ヰマツル、ヰイマツル〔ヰの母音を伸ばした形〕は喪に参列する一同を率いる意であろう。 〈兼右本〉は「ヰマツリ」に「私」の字を添える。「率」の意味とする解釈は、私記によるものなのであろう。 〈北野本〉の左訓は「從」にあてたもの。〈兼右本〉も「從」として「シタカ(フ)」を添える。〈集解〉の「徙」〔=移〕は理解できない。 從〔=従〕とするのが一番読み易いが、喪は皇太子が主催するものだから適切ではない。 私記は、徒歩で一行を引き連れる様として「率」と意訳したのであろう。 原文は、移動に輿を用いなかったことを述べたと思われる。訓読でもできればこの意を汲むべきであろう。 《朝倉山上有鬼》
《朝倉山》 〈推定地伝承〉(上述)は、「太宰府天満宮絵図」〔道明寺天満宮所蔵〕を取り上げ、 「大宰府政庁跡の右横に天智天皇の「朝倉や木の丸殿に我をれば名のりをしつつゆくはたが子ぞ」という『新古今和歌集』の歌が記るされ、 さらに、その左上の山には「朝倉山」の表記がなされ、「あけなくに朝倉山の時鳥聞〔く〕人なしに名乗すらしも」(成仲、新後撰和歌集)が添えられている」ことに注目している。 同書は、その絵図上の配置は現実とは異なるが、「太宰府天満宮とこれを取り巻くイメージの空間」として再構成したもので、朝倉宮の所在地=大宰府政庁説を裏付ける材料の一つと見ている。 太宰府絵図について〈国宝天神さま図録〉の解説は、「本絵図の最大の特徴は、…都府楼(大宰府政庁跡)・観世音寺・戒壇院・水城などの名所旧跡を描き込んでいることである」と述べる(p.199)。 「都府楼」には、大宰府政庁第Ⅲ期と思われる礎石が描かれている。その横に〈天智〉御製歌「朝倉や木の丸殿に…」の歌があることは、ここが朝倉宮であったとする伝承が確かにあったことを示す。 また、近くに「朝倉山」も書かれている。この絵図が〈続風土記〉〔1709〕と同時期であることが注目される。 貝原益軒の須川説は、まだ都府楼説と横並びであった。 《天皇之喪》 「天皇之喪」が海を帰り、難波に還るの主語となっている。すなわち、喪は移動の船上でも継続している。 《歌意》
コヒムは、恋フ(上二段)の連用形+推量の助動詞ム。 この歌は分かり易い歌で、特に問題になる点はない。 《飛鳥川原》 飛鳥川原は川原宮で、後に川原寺が建立されたところと見られる(【川原寺】)。 《発哀》 発哀は「ミネタテマツル」と訓読されるが、〈時代別上代〉が挙げるミネの用例は書紀古訓のみである。 ネは、もともと哀しみの泣き声の意とみられ、 万葉には(万)0155「哭耳呼 泣乍在而哉 ねのみを なきつつありてや」など用例はかなり多い。 ただし、必ずナクを伴って使われ、「哭」単独で使われるときはこの字がナクと訓まれる。 国家が喪に服する期間を飛鳥時代にはミネといい、それが平安時代まで残っていた可能性はある。 だが、ネだけで哀泣や喪服を表そうとするのは実は私記集団内の特殊な言い回しで、一般的には言葉足らずかも知れない。 《続守言》
《故今存注》 『日本世記』には「七年十一月に福信が俘にした唐人続守言らが筑紫に来た」とあり、「或本」には福信が俘にした唐人106人を献上したという。 これについて原注は、 「庚申年既云三福信献二-上唐俘一」〔庚申年に既に唐俘を献上したと云ふ〕という。 これは六年十月の「佐平鬼室福信…献二唐俘一百余人一」を指すと見られる。 それでは、原注者はどちらが正しいというのであろうか。「既…其決焉」という書き方から見て、「六年十月説が正しい」と主張しているのだろう。 もし七年十一月説が正しいというなら「既…是誤也」と書くであろう。 六年の記事では、「唐俘」を献上したときに併せて豊璋の返還を求めたと書かれていた。 新旧唐書の記述では、「迎二故王子扶餘豊一、立為レ王。」は「顕慶五年」〔660〕の項に書かれている (六年十月~十二月条)。 よって、六年〔660〕十月の方が新旧唐書のいう時期に近い。 《大意》 六月、 伊勢王(いせのみこ)が薨(こう)じました。 七月二十四日、 天皇(すめらみこと)は朝倉の宮で崩じました。 八月一日、 皇太子(ひつぎのみこ)は天皇の喪を徒歩で奉り、 磐瀬(いわせ)の宮に還りました。 この日の夕方、 朝倉の山の上に鬼が現れ、 大笠を著けて喪の儀を臨み見て、 人々は皆怪しみました。 十月七日、 天皇の喪は海路帰路に就きました。 その途中、 皇太子(ひつぎのみこ)は一か所で停泊し、 天皇を哀み慕われ、 歌を口ずさまれました。 ――君が喪の 恋ほしきからに 泊てて居て 斯(か)くや恋ひむも 君が喪を守り 二十三日、 天皇の喪は還り難波に停泊しました。 十一月七日、 天皇の喪をもって飛鳥の川原(かははら)に殯(もがり)して、 これより哀(あい)を発し九日間に至りました 【日本世記(やまとのよのふみ)のいうには、 十一月、 福信が獲得した唐の人続守言(しょくしゅうげん)たちが 筑紫に着いた。 或る書のいうには、 辛酉年〔斉明七年〕に、 百済の佐平福信の献上した唐の俘虜一百六人が、 近江国(ちかつおうみのくに)の墾田に居るという。 庚申年〔斉明六年〕には 既に福信が唐の俘虜を献上したという。 故に今注を残して、 それに決する。】。 まとめ 〈斉明〉は、できることなら飛鳥の地で生涯を終えたいと望んでいたように思われる。 〈孝徳〉の晩年にも難波宮に馴染めなかったためか、〈孝徳〉一人を残して中大兄たちと共に飛鳥に帰ってしまった。 後飛鳥宮、飛鳥川原宮(元年)、飛鳥河辺行宮(白雉四年)、またしばしば諸蕃に饗した飛鳥寺西もすべて飛鳥川沿いで、その風景を格別に好んだことが伺われる。 晩年になって唐の脅威に直面し、軍事的対応のために筑紫への遷都を余儀なくされた。その宮を大宰府政庁の原形とする説については、縷々述べたところである。 仮に朝倉宮=大宰府政庁原形説を前提とした場合の話だが、〈斉明〉は筑紫遷都を決断した後もなお玄界灘に面した所では恐怖心が強く、なるべく離れたところにある上座郡を最初は希望したのではないだろうか。 特に根拠があるわけではないが、これによって「朝倉橘広庭宮」の名称が残ったのではないかとも思われるのである。 これらの成り行きも含めて複雑な情勢に対応するうちにストレスが溜まり、それが〈斉明〉の寿命を縮めたと想像される。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [27-01] 天智天皇(1) |