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2024.01.05(fri) [26-07] 斉明天皇7 

14目次 【六年七月】
《覩貨羅人乾豆波斯達阿》
秋七月庚子朔乙卯。
高麗使人乙相賀取文等罷歸。
乙相賀取文乙相賀取文おつしやうがしゆもん(‏六年正月)。
秋七月(ふみづき)庚子(かのえね)を朔(つきたち)として乙卯(おつう)〔十六日〕
高麗(こま)の使人(つかひ)乙相賀取文(おつしやうがしゆもん)等(ら)罷(まか)り帰(かへ)る。
又覩貨羅人乾豆波斯達阿、
欲歸本土求請送使曰
「願後朝於大國
所以留妻爲表。」
乃與數十人入于西海之路。
覩貨羅…〈北野本〔以下北〕-貨トムラ -羅朝於ツカマツラム 大國。為[句]  シルシ
〈内閣文庫本〔以下閣〕ムラ 人名求- リテ使  ヲ朝於ツカマツラム 大-國 ミカトニ シルシト于西ウミツチ之路
〈釈紀〉貨羅不讀貨字ラノヒトけンタツ大國ヤマト
もとつくに…[名] 本国。
…[名] (漢音/呉音) クヮ。
又、覩貨羅(とくわら)の人乾豆波斯達阿(けんずはしたつあ)、
本土(もとつくに)に帰(かへ)りて使(つかひ)を送ることを求請(こ)ひまつらむと欲(おも)ひて曰(まを)さく
「願(ねがはくは)後(のち)に[於]大国(やまとのくに)に朝(まゐで)むが
所以(ゆゑ)に、妻(つま)を留(とど)めて表(あらはさむ)と為(し)まつる」とまをす。
乃(すなはち)数(あまた)十人(とをたり)と与(とも)に[于]西海之路(にしのうみのみち)に入(い)りき。
【高麗沙門道顯日本世記曰。
七月云々。
春秋智、
借大將軍蘇定方之手、
使擊百濟亡之。
道顕…〈閣〉┌顕
大将軍…〈北〉 キ将軍 イクサノキミ。 〈閣〉
〈釈紀〉高麗沙門道アルフミニ十字引合題日本世記曰。 ハク 七月フツキニ云々。シカ\/春秋カリテオホ將軍イクサノキミテイ方之テヲ使シム百濟亡之ホロホサ 
…[動] (呉音)ヂヤウ。(漢音)テイ。
【高麗(こま)の沙門(ほふし)道顕(だうけん)の日本世記(やまとのよのふみ)に曰ふ。
七月(ふみづき)云々(しかしか)。
春秋智(しゆんじゆち)、
大(おほき)将軍(しやうぐん)蘇定方(そていほう)之(が)手を借りて、
百済(くたら)を擊ちて之(こ)を亡(ほろぼ)さ使(し)む。
或曰。
百濟自亡。
由君大夫人女之無道
擅奪國柄誅殺賢良、
故召斯禍矣、
可々不々愼々歟々。
君大夫人…〈北〉 君大-夫 コキシハシカシ -人-女 タハメノコ无-道 アチキ ナウ[テ] 擅奪 ホシマゝ  カレ賢-良 サカシヒト 召斯マネケリ 禍矣[句] 可々不々  ヤ
〈閣〉君大コキシハシカシノ -夫-人-女 タハメノコ 無-道アチキナシテ ノカヒヲツミシ ニ
〈釈紀〉ヨテ コキシノ大夫人コシハシカシノ女之タハメノコノ無道。アチキナウシテホシマゝニウハヒ國柄 ノカヒ-殺コロセルニ賢良サカシヒトヲ カレマネケリ斯禍コノ■■■イヲヘケンツゝシマ ヤ
〈兼右本〉コキシ└イナ夫-人ハシカシ[ノ]
…[名] (古訓) え。から。かひ。
くにから…[名] 国の備えている性質。(万)0220「讃岐國者 國柄加 さぬきのくには くにからか」。
かひ…[名] 谷間。満足な手ごたえ。
さかしきひと…[形+名] (万)1725古之 賢人之 いにしへの さかしきひとの」。
べけむ…[助動+助動] ベシの未然形+推量ム。ベケムヤとして漢文訓読体で用いる。
或(ある)に曰ふ。
百済(くたら)自(みづから)亡(ほろ)びつ。
君(きみ、こきし)の大夫人(おほぶにん)が妖女(かほよきおみな)之(の)無道(むだう、あづきなきこと)に由(よ)りて、
擅(ほしきまにまに)国柄(くにから)を奪(うば)ひて賢良(さかしきひと)を誅殺(ころ)す。
故(かれ)斯(この)禍(わざはひ)を召(まね)けり[矣]。
可不慎歟(つつしまざるべけれや)可不慎歟。
其注云。
新羅春秋智、
不得願於内臣蓋金。
故亦使於唐捨俗衣冠
請媚於天子、
投禍於隣國而
搆斯意行者也。
其注云…〈北〉注云 シルセル使 ツカヘ於唐捨俗-衣冠 クニワサ ヨソヒ   コヒ於天子投禍 イタシ 搆  カマフ意-行 コゝロ 
〈閣〉シルセルニ カレヲ内臣 如大夫 [切]コヒ テ ニ[切] イタシテ ヲ於隣カナフ-行 コゝロヲ 
〈釈紀〉エ ネカヒヲウチツマヘツキミ蓋金カフコムニ使ツカヒテモロコシニ コヒテ コヒテ於於天子ミカトニカマフルコノ意行コゝロヲ者也モノナリ
〈兼右本〉マウシコヒ意-行 コゝロ コゝロサシ
其の注(しるせる)に云ふ。
新羅(しらき)の春秋智(しゆんじゆち)、
[於]内臣(ないしん)蓋金(がふこむ)に願(ねがひ)を不得(えず)。
故(かれ)亦(また)[於]唐(たう、もろこし)に使(つか)へて俗(くにひと)の衣(ころも)冠(かがふり)を捨(う)てて、
[於]天子(てんし)に請(こ)ひ媚(こ)びて、
禍(わざはひ)を[於]隣国(となりのくに)に投(いた)せり。
而(かくて)斯(この)意行(こころ)そ搆(かま)ふる[者也]。
伊吉連博德書云。
庚申年八月百濟已平之後。
九月十二日。
放客本國。
書云…〈閣〉博德
放客…〈北〉放客  ユルス 。 〈閣〉ユルス。 〈釈紀〉已平之後ステニムケテノチ本國モトツクニゝ
伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)が書(ふみ)に云ふ。
庚申(かのえさる)の年〔斉明六年〕八月(はつき)百済(くたら)已(すでに)平之(たひらげし)後(のち)の、
九月(ながつき)十二日(とかあまりふつか)。
客(まらひと)を本国(もとつくに)に放(はな)てり。
十九日。
發自西京。
発自西京…〈北〉 タツ自西 ミヤコ。 〈閣〉西京 ミヤコヨリ 
十九日(とうかあまりここぬか)。
西京(にしのみやこ)自(よ)り発(た)つ。
十月十六日。
還到東京、
始得相見阿利麻等五人。
得相見…〈釈紀〉 ツ相見アヒマミユルコト阿利麻アリマタチ五人イツタリニ
十月(かむなづき)十六日(とうかあまりむゆか)。
東京(ひむがしのみやこ)に還(かへ)り到(いた)りて、
始めて阿利麻(ありま)等(たち)五人(いつたり)と相見(まみゆること)を得(う)。
十一月一日。
爲將軍蘇定方等
所捉百濟王以下
太子隆等諸王子十三人
大佐平沙宅千福
國辨成以下卅七人
幷五十許人、
奉進朝堂、
急引趍向天々子々
恩勅見前放著。
為将軍…〈北〉所-捉百 カスヰラレタル 王 コニキシ以-下太子[切] シモツカタ コニノセシ奉-進 タテマツル -堂ミカト  ヰイ恩-勅 メクミ 見-前 ミマヘ -著ユルシタマフ九日
〈閣〉為◳将軍所-捉 カスヰラレタル ノ王以コニキシヨリ -下シモツカタ太子 コクセシ [切]千福[切][切]ヰイテ 趍-向天子[切]天子メクミテマミヘテ-前放- ユルシタマフ
〈釈紀〉太子コニセシム隆等リウトウ諸 モロ\/ノ王子セシム大佐平沙宅千福センフク國弁コクヘンシヤウ-進タテマツル朝-堂ミカトニヰイ-向天子ミカトニ。 々々恩勅。メクミタマテ見前。ミマヘニシテ放著。ユルシタマフ
〈兼右本〉放-着ユルシ玉フ
とらはる…[自]ラ下二 捕えられる。〈時代別上代〉「四段のトラフの例は見えないが、ルは受身ないし自動詞形を示す語尾であろう」。
大佐平…佐平(左平)は《百済の位階》一品。〈皇極〉元年《大佐平智積卒》項参照。
沙宅千福…沙宅は氏と考えられている。〈欽明〉四年に「沙宅己婁」。
見前…〈汉典〉「現前、当前。
放著(放着)…〈汉典〉「放置、擱置。
十一月(しもつき)一日(つきたち)。
将軍(しやうぐん)蘇定方(そていほう)等(ら)が為(ため)に
所捉(とらはれし)百済(くたら)の王(わう、こにきし)より以下(しもつかた)
太子(たいし、こにせしむ)隆(りう)等(ら)、諸(もろもろ)の王子(わうし、せしむ)十三人(とをたりあまりみたり)、
大佐平(たいさへい)沙宅千福(さたけせんふく)、
国弁成(こくべんしやう)より以下(しもつかた)三十七人(みそたりあまりななたり)
并(あは)せて五十許人(いそたりばかり)をば、
朝堂(てうだう)に奉進(たてまつ)りて、
急(すみやかに)引きて天子(てんし)に趍向(おもぶ)けまつりて、天子
恩(めぐみ)の勅(みことのり)たまひて、見ゆる前(さき)に放著(はなちおきたまふ)。
十九日。
賜勞。
…〈北〉 ネキラフ。 〈釈紀〉賜勞ネキラフ
十九日(とうかあまりここぬか)。
賜労(ねぎらひたまは)る。
廿四日。
發自東京。】
発自東京…〈閣〉東京ヨリ
二十四日(はつかあまりよか)。
東京(ひむがしのみやこ)自(ゆ)発(た)てり。】
《高麗使人》
 高麗使人乙相賀取文の一行百余人は、今年正月一日に筑紫に泊り、五月に難波館に到着していた。そして、この七月に帰国した。
 かつて二年八月に高句麗から達沙が遣わされ、九月に膳臣葉積らを派遣している。 そのときは、新羅に対抗する高句麗百済連合に倭も加わるように誘い、倭は協議に応じたと見た (二年《遣高麗》項)。
 今回も協議の中身は書かれていないが、既に前年十二月に唐が「国家、来年必有海東之政」ということを伊吉連博徳は聞いていたから、 百済侵攻計画は既に準備されていた。高句麗はその前兆を察知していて、それを知らせて協議するために使者を送ったのかも知れない。
《覩貨羅人乾豆波斯達阿》
 倭に渡来した覩貨羅人については、白雉五年の【吐火羅国】でその渡来の全体像を見た。 白雉五年四月に「吐火羅国男二人女二人舎衛女一人、被風流来于日向」、 〈斉明〉三年四月に「覩貨邏国男二人女四人漂-泊于筑紫」、 同七月に「飛鳥寺西」で「覩貨邏人」とあった。
 そして乾豆波斯達阿は、本国から正式に朝貢使を送るようにはたらきかけようと考えるに至ったのである。
《為表》
 書紀ではは、外国から遣わされた使者が朝廷に提出する文書を指す。 しかし、ここでは妻を残すことが「」で、必ず戻ることの証とする。
《与数十人入于西海之路》
 このとき「数十人」とともに帰ったというから、吐火羅(覩貨羅)からの渡来人は既に相当の人数に上っている。 書紀に載る渡来記事は、そのごく一部に過ぎないことが分かる。またその書き方の移り変わりがあり、白雉五年に初めてやってきたときは、奇異の目で見られていたようである。
 白雉五年四月の「舎衛女」から、「舎衛婦人」(〈斉明〉五年三月)となり、〈天武〉四年には呼び名こそ「舎衛女」だが、百済王善光と並べて書かれているから貴人と扱われていたと見られる。 倭国に渡来した覩貨羅人の数が増えるとともに、その地位は確実に向上している。
 なお、これまでの書紀の記述では「西海之路」は百済経由の遣唐使の航路を指している。 よってここでも長安を経由し、シルクロードを通って西域の睹貨邏国〔玄奘『大唐西域記』で「旧曰吐火羅国訛也」と註される〕(Tokhara)に帰ったと見る (白雉五年【吐火羅国】項参照)。
《道顕日本世記》
 道顕は高句麗出身の僧で、〈天智紀〉の二箇所にその発言が載る。 『日本世記』については。道顕の著書の逸文以上のことは分からない。
 なお、「高麗沙門道顯日本世記曰」以下の原注は、本来は「沙弥覚従等来奏曰「…」」の後に書かれるべきものであろう。 ここから以後、時間の行きつ戻りつが激しい。
《春秋智》
 春秋の書紀での初出は大化三年。 『三国史記』新羅本紀によれば、654年に新羅王に即位して「太宗武烈王」と呼ばれる。百済を滅亡させた役では親征した。
《蘇定方》
 蘇定方は唐の武将で、百済滅亡戦の前に西域で戦った。
――『旧唐書』顕慶二年〔657〕賀魯」。
――同三年〔658〕-破西突厥沙缽羅可汗賀魯及咥運、闕啜」。
 すなわち、西突厥この賀魯を討った。この経過に少し踏み込むと、 582年に突厥〔中央ユーラシアの大国〕が東西に分裂。650年には、
――『旧唐書』巻四「瑤池都督、沙缽羅葉護阿史那賀魯府叛。自称可汗。総有西域之地」。
 すなわち、賀魯は西突厥の都督に任じられたが、やがて自身の領土として唐から独立し、沙缽羅可汗を号とした。そして
――『旧唐書』巻一百九十四/突厥下西突厥「賀魯至京師。令献於昭陵及太廟。詔特免死」。
 すなわち、賀魯は蘇定方軍に敗北し、俘虜として京師に連行されたが、詔によって死を免じられた。
 なお、天子が賀魯を昭陵と太廟に献じさせたのは、本人が先帝には恩があるから処刑される前に昭陵〔太宗李世民が眠る〕に墓参して謝罪したいと請うたからである。
 ここで賀魯が死を免れたことは、義慈王への処置の先例となった。両者に対する寛大な措置の背景には、羈縻(きび)政策が伺われる(下述)。
 中国においては西域と東夷への外交が同時期に相似形で進む傾向があり※)、ここでもその伝統に沿ったものと言えよう。 その東西の役の両方に、蘇定方が関わっていることが興味深い。どちらも塩漬けの首ではなく俘虜として連れ帰ったのは、羈縻(きび)政策を理解していたためと思われる。
 なお、蘇定方は百済征伐の後は、龍朔二年〔662〕高麗於葦島、又進-攻平壤城、不克而還」とある。
 ※)…魏志倭人伝における、倭国と大月氏国(魏志倭人伝(29))。 『梁書』における、「鎮西将軍」と「征東大将軍」(倭の五王『梁書』)。
《撃百済亡之》
 道顕『日本世記』は「大将軍蘇定方之手使百済上レ」と述べる。
 義慈王が投降した日付は、『三国史記』新羅本記によれば「七月十八日」であった (下記【百済の滅亡】項)。
《君大夫人》
 「君大夫人」のは百済王で、百済から倭に亡命した貴族の間では実際にコキシコニキシ〔発音はコンキシと見られる〕と呼ばれていた(第141回【新羅王】項)。 「大夫人」は正妃の意味で間違いないだろう。古訓はハシカシコキシハシカシと振られているが、どの程度正確かは疑問である。 ""は岩波文庫版では""の異体字と解釈されている。 字体が似る「」は美しい女性の意。「」は宮廷の女官のひとつ。「」も含めて一応すべて意味が通る。
 「」の古訓「タハメノコ」は難解である。 タハはタハク(姦淫)の語根と思われ、タハ-コト(狂言)の例がある。しかし「タハ-メノコ」が平安時代に一般的であったかはどうかは分からない。 ただ、悪口であることだけは確かである。
 この語順での「」は娘の意だが、大夫人の娘に「誅殺賢良」するような権力があるとは思えないので、大夫人自身の行為であろう。 よって「女之無道」は大夫人の属性を述べた言葉となる。
《国柄》
 の古訓カヒは、手ごたえ、効果の意。 (万)3810味飯乎 水尓醸成 吾待之 代者曽无 直尓之不有者 うまいひを みづにかみなし あがまちし かひはかつてなし ただにしあらねば」。 左注に「昔有娘子也 相別其夫望恋経年 尓時夫君更取他妻正身不来徒贈褁物 因此娘子作此恨歌還酬之也」、 〔ある娘子が長い間夫を待っていたのに、他に妻を作って来ないことを恨みを歌で酬いる〕とあり、 酒を醸して待っていたのに甲斐がなかったという意味。よってカヒという上代語は確かに存在した。
 しかし、クニカラという語も存在した。 〈時代別上代〉所引の『琴歌譜』(平安初期以前)に「そらみつ大和の国は…久爾可良…」とある。 よって、一般的な語ではないという理由でクニカラを避ける必要はないだろう。
《蓋金》
 蓋金については、『三国史記』巻四十九/列伝第八に「蓋蘇文。或云蓋金。姓淵氏」が見える。 『三国史記』高句麗本紀/宝蔵王元年に「建武王〔栄留王〕在位第二十五年〔壬寅;642〕、蓋蘇文弑之。立蔵継位。新羅謀伐百済,遣金春秋乞師、不従。〔蓋蘇文は建武王を殺し宝蔵王を立てる。新羅は百済征伐を謀り金春秋を遣して蓋蘇文に出兵を求めたが拒否した〕とある。
 これが「願於内臣蓋金」の中身で、このために金春秋は唐を頼らざるを得なかったという文脈になっている。
《伊吉連博徳書云》
 ここからは、五年七月条で引用された「伊吉連博徳書」の続きと見られる。 そこでは、百済征伐の間長安で長く幽閉されて苦しんだところまでであった。
《八月百済已平之後九月十二日》
 『旧唐書』、『新唐書』では、百済軍を敗北させた日付は八月十二日となっている(《義慈王の降伏》項)。
《還到東京》
 九月十九日西京(長安)を発ってから、十月十六日東京(洛陽)に着くまで26日間を要している。 前年には、同じ区間を14日間で行った(五年七月条)。
 このときは、「〔馬車を用いた〕だったが、今回は徒歩だったのだろう。 なお、西安(34.3N,109.0E)・洛陽(34.7N,112.4E)間の直線距離は314.5km。26日で割ると12.1km。 道直比1.3として道路距離15.7km、一日に5時間歩くとすると平均時速3.1km/hで、大体ありそうな値となる。
《始得相見阿利麻等》
 前年九月十五日に石布連船は嵐に遭い爾加委島に漂着した。 石布連らは殺された〔積みこんでいた献上品目当てであろう〕が、「東漢長直阿利麻坂合部連稲積等五人」は船を盗んで逃げ、括州に到着した。 そして官人によって洛陽まで送られた。ここでやっと吉祥連一行と合流することができたのである。 感激の再会であっただろう。
《十一月一日》
 十一月一日は、『旧唐書』で蘇定方がとりことした義慈王一行を則天門で天子に献上した日付に一致する(《義慈王一族を唐に連行》項)。
《太子》
 〈百済本紀〉には「太子孝、走」あるから太子の名は孝で、 「王子泰、隆、演」とあるから「隆等」は「隆など」の意味である(《義慈王の降伏》項)。
洛陽城/応天門
改定新版 世界大百科事典;平凡社2014
 よって「太子隆等諸王子十三人」は「太子〔孝〕と、隆をはじめとする諸王子十三人」の意となる。 ただし同じ〈百済本紀〉でも《義慈王の病死》項では、隆が「司稼卿」を授かるから、ここではが太子であろう。 『旧唐書』も「太子隆等五十八人」と書くから太子=隆である。 〈新羅本紀〉にも「義慈及子隆於堂下」とあるから、太子=隆であろう (《義慈王を洛陽に連行して引見》項)。
 したがって、「太子孝」が誤りか、または俘になってから唐に連行されるまでの間に「太子隆」に変更されたかのどちらかである。何があったのだろうか。
《奉進朝堂》
 『旧唐書』では、蘇定方が俘を献上した会場は「則天門」である。 則天門は、『新唐書』巻五高宗下永淳二年〔683〕に見える。他に『新唐書』咸亨元年〔670〕震電,大風折木,落則天門鴟尾三」もある。 百度百科には「隋唐洛陽城宮城」項に「南面六門:中為応天門(原名則天門、又称五鳳楼)」とあり、則天門応天門に改称された。
 則天門洛陽城の南面の中央門であるから、「朝堂で奉進した」と書き表すことに問題はないだろう。
《急引》
 「」への古訓「ヰイ」については下述する。
《恩勅》
 百済国を敗北に追い込んだのだから、その統領たる王は死刑かと思われるが以外にも「恩詔」を賜る。 百済本紀と『旧唐書』にも「責而宥之」と書かれているから、恩詔であることは確かである。 さらに死後は卿に取り立てて「金紫光禄大夫衛尉卿」の号を賜り、葬儀への旧臣の臨席まで許可する。
 それは、唐による統治方式として百済の諸族の首魁を追放することなく、地方官に取り立てる策を用いたことと関係があろう。 前支配者の罪を赦し追慕を許容することによって、統治を円滑に進めるようとするのである。 これは三年前の賀魯への処置に准じたものと言える(上述)。
 新羅が容赦なく残党狩りに突き進んでいるのとは対照的である。
《見前放著》
 もし、「見前」が天子による引見中であったことを意味するなら、「恩勅」とは書く順番が逆である。 「見前」とは基本的に「目の前でことが起こる」意である。ここでは、主語は群衆あるいは伊吉博徳自身とするのがよいであろう。 恩勅を賜ったあとの「見前放著」は、目の前で縄を解いて自由にされるのを見て驚いたと読むこともできる。 ならば「放著」はユルス〔赦す〕と意訳するよりも、直訳〔はなちおけり〕の方がよい。
 伊吉博徳は「於則天門責而宥之」を現場で目撃した可能性が高く、その場合『伊吉連博徳書』が真正の一次資料ということになる。 〈兼右本〉は放著放着に変えたが、よって現場感覚で書かれたことは貴重なので変えずに置く方がよい。
《大意》
 七月十六日、 高麗(こま)の使者、乙相賀取文(おつしょうがしゅもん)らが帰国しました。
 また、覩貨羅(とから)人、乾豆波斯達阿(けんずはしたつあ)は、 本国に帰り使者を送るよう要請しようと考え 「願わくば後日、貴国に朝(ちょう)したい。 故に、妻を留めることでそれを表します」と申しました。
 こうして数十人と共に西海路に入りました。
【高麗の沙門道顕(どうけん)の日本世記(にほんせいき)にいう。
――七月、云々、 春秋智(しゅんじゅち)は、 〔唐の〕大将軍蘇定方(そていほう)の手を借り、 百済を擊って亡ぼさせた。
 或いはいう。
――百済は自ら亡んだ。 君〔=国王〕の大夫人はその妖女の無道によって、 擅(ほしいまま)に国柄を奪い、賢良を誅殺した。 故にこの禍いを招いたのである。 慎まざるべきや、慎まざるべきや。
 その注にいう。
――新羅の春秋智は、 〔百済の〕内臣蓋金(ごうこん)に願うが入れられなかった。 よって、こんどは唐に仕えて国俗の衣冠を捨て、 天子に請(ねが)い媚びて、 禍(わざわい)を隣国に投じた。 このようにして、心と行いを構えた。
 伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)の書にいう。
――庚申年〔斉明六年〕八月に百済を平定し終えて後の 九月十二日、 客〔博徳一行〕を本国に解放した。
 十九日、 西京〔=長安〕を発つ。
 十月十六日、 東京〔=洛陽〕に帰還して、 始めて阿利麻(ありま)ら五人との再会を果たした。
 十一月一日、 将軍蘇定方らによって 捕えられた百済王以下、 太子、隆(りゅう)はじめ諸王子十三人、 大佐平(たいさへい)沙宅千福(さたけせんぷく)、 国弁成(こくべんしょう)以下三十七人、 併せて五十人許(ばかり)を、 朝堂に奉進し、 ただちに引き立て天子のところに向かわせ、天子は 恩勅を賜り、〔群衆の〕目の前で解放した。
 十九日に 賜労していただいた。
 二十四日に 東京〔=洛陽〕を発った。】


15目次 【六年九月】
《沙彌覺從等來奏》
九月己亥朔癸卯。
百濟、遣達率【闕名】
沙彌覺從等來奏曰
【或本云逃來告難】
沙弥覚従…〈北〉シヤ カク セウ マウキ逃  ニケマウス難   ワサハヒ
〈閣〉 冠名
達率《百済の位階》二品。
九月(ながつき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として癸卯(みづのとう)〔五日〕
百済(くたら)、[遣]達率(たつそつ)【名を闕(か)く】
沙弥覚従(しやみかくせう)等(たち)をまだして、来(まゐき)て奏(まを)して曰はく
【或本(あるふみ)に逃げ来たりて難(たしなめること)を告(まをす)と云ふ。】
「今年七月。
新羅恃力作勢、不親於隣。
引搆唐人、傾覆百濟。
君臣惣俘、略無噍類。
恃力作勢…〈北〉 タノミ ナシ勢不 ムツヒ於隣 -搆  ヰイ アハセテ唐-人-覆百 カタフケ クツカヘル -済 ミナ俘略无 トリ■シ ホゝ 噍類 ノコレル モ
〈閣〉傾- ケ クツカヘストリコニシテ
〈釈紀〉君臣。キミヤツコノ 〈兼右本〉トリコシ[テ]オホムネ ホゝ噍-類 ノコレルモノ
むつぶ…[他]バ上二 睦ぶ。
…[副] おおむね。[動] うばう。掠にあてた用法。
…[動] ものをかんで食べる。
噍類…生きている人民。
「今年(ことし)の七月(ふみづき)に、
新羅(しらき)力を恃(たの)みて勢(いきほひ)を作(な)して、[於]隣(となり)に不親(むつびず)。
唐(たう、もろこし)の人を引き搆(かま)へて、百済(くたら)を傾(かたぶ)け覆(くつがヘ)す。
君臣(きみおみ)惣(すべて)俘(とりこ)して、略(かす)めて噍類(いけるもの)無し。
【或本云。
今年七月十日。
大唐蘇定方、
率船師、軍于尾資之津。
新羅王春秋智率兵馬、
軍于怒受利之山。
率船師…〈北〉軍于 イクサタ■■尾資之津
〈閣〉軍  イクサタテス之津兵馬イクサヲ [切]軍于ムレニ
〈釈紀〉尾資之津ヒシノツ兵馬イクサ
…[動] (古訓) いくさ。いくさたちして。
【或本(あるふみ)に云ふ。
今年(ことし)七月(ふみつき)十日(とうか)。
大唐(たいたう、もろこし)の蘇定方(そていほう)、
船師(ふないくさ)を率(ゐ)て、[于]尾資之津(びしのつ)に軍(いくさだち)す。
新羅(しらき)の王(わう、こきし)春秋智兵馬(いくさ)を率(ゐ)て、
[于]怒受利(のずり)之(の)山(むれ)に軍(いくさだち)す。
夾擊百濟相戰三日、
陷我王城。
陥我王城…〈北〉ヤフル我-王-城 コ ニ サシ。 〈閣〉トラレ カコニ サシヲ
百済(くたら)を夾(はさ)み撃ちて相(あひ)戦(たたかふこと)三日(みか)、
我(わが)王城(きみのさし、こにさし)を陥(おと)せり。
同月十三日。
始破王城。
怒受利山百濟之東堺也。】
同月十三日…〈北〉同十三日。 〈閣〉同月十三日
同じき月十三日(とうかあまりみか)。
始めて王城を破る。
怒受利山(のずりのむれ)は百済(くたら)之(が)東(ひむがし)の堺(さかひ)なり[也]。】
於是、西部恩率鬼室福信、
赫然發憤據任射岐山
【或本云北任敍利山】。
西部恩率…西部は、百済の五部五方制による区分。都泗沘を五部に分ける。 恩率は百済の位階の三品(《百済の位階》)。
鬼室福信…〈北〉西部 セイ ホウ恩率 ヲン ソツ クヰ シツ福信 フクシン  イカリサリカリワル發- ムツカムツカムノ■任射岐ニサキ ムレキタノシヨムレ
〈閣〉西 - ヒカリ サリカリ イカリ [切]發-ムツカムテムツカテ [切]ニ サ キ 北任ムレ
〈釈紀〉福信フクシム
赫然…かっとする。
むつかる…[自]ラ四 いきどおる。不満に思う。
於是(ここに)、西部(せいほう)恩率(おんそつ)鬼室(くゐしつ)福信(ふくしん)、
赫然発憤(いかりむつか)りて任射岐山(にさきむれ)に拠(よ)りて
【或本(あるふみ)に北任叙利山(きたにじよりむれ)と云ふ】、
達率餘自進、
據中部久麻怒利城
【或本云都々岐留山。】
各營一所、誘聚散卒。
達率餘自進…〈北〉達率 タツ ソツ シン  チウ部久 ホウノ ク サシ都々岐ツゝキ ル サシ各- イハミ一-所誘-聚 ヲコツリ 散卒 アラケ 
〈閣〉 サシムレアタケタルイクサヲ
〈兼右本〉-聚ヲコツリアツメ散-アラケル[ヲ][句]イクサノヒトゝモ/イクサ  
達率《百済の位階》第三品。
をこつる…[他]ラ四 だまして誘う。
達率(たつそつ)余(よ)自進(じしん)、
中部(ちうほう)の久麻怒利城(くまぬりさし)に拠(よ)りて
【或本(あるふみ)に都々岐留山(つつきるむれ)と云ふ。】、
各(おのもおのも)一所(ひとところ)に営(いは)みて、散(あか)てる卒(いくさひと)を誘(いざな)ひ聚(あつ)む。
兵盡前役。
故以棓戰新羅軍破。
百濟奪其兵。
既而百濟兵翻鋭、
唐不敢入。
福信等、
遂鳩集同國共保王城。
兵尽前役…〈北〉役故以 マタチ カレ 棓戦 大杖也  ツカナキ  新羅軍破百済奪其兵鋭唐 トシ 不敢入 福信 フク シン[切]鳩集 モトメ 同國カナフ クニト共保王城
〈閣〉 テ ノエタチニ[切]カレ テ ツカナキヲ戦 新 ノ軍破[句]百済奪其兵[句] トシ ニ鳩集同或メシ アツメテ ナシフ モトメ アツメテ カナフ ヲ ニ マホモ王城
〈釈紀〉棓。ツカナキ大杖也。 モトメ集。アツメテ カナフ國。クニ私記説  マモル守也。 〈兼右本〉マホル
えたち…①公役につくこと。②〔書紀古訓のみ〕戦い。
鳩集…一か所にあつまる。
まぼる…[他]ラ四 マモルの転。
兵(つはもの)は前(さき)の役(えたち)で尽きつ。
故(かれ)棓(つゑ)を以ちて新羅(しらき)の軍(いくさ)と戦ひて破りて、
百済(くたら)其の兵(つはもの)を奪ふ。
既(すで)にして[而]百済(くたら)の兵(つはもの)翻(かへ)りて鋭(と)くありて、
唐(たう、もろこし)不敢入(あへていらず)。
福信(ふくしん)等(たち)、
遂(つひ)に同じき国より鳩集(あつ)めて共に王城(きみのさし、こにさし)を保(まも)る。
國人尊曰
『佐平福信、佐平自進。
唯福信、起神武之權。
興既亡之國』。」。
国人…〈北〉國-人 ■ウ ヒト-平 ヘイアヤシク タケ ハカリ。 〈閣〉ハカリコトヲ。 〈釈紀〉國人カラヒト。 〈兼右本〉國-人 ヒト アヤシキタケキ既-ホロフル
国人(くにひと)尊(たふと)びて曰(まを)せらく
『佐平(さへい)福信(ふくしん)、佐平(さへい)自進(じしん)。
唯(ただ)福信こそ、神(あやしく)武之(たけき)権(はかりごと)を起こして
既(すで)に亡之(ほろびし)国を興(おこ)さめ』とまをせり。」とまをす。
《引搆唐人》
 「引搆唐人」の「」への古訓「ヰイ」は、「ヒキ」の転であろう。キ⇒イは音便である。ハ行⇒ワ行については、 「特に十一世紀後半以後、語中語尾のハ行音がワ行音に推移する地滑り的変化が起こった」という(『日本語の発音はどう変わってきたか』釘貫亨;中公新書2023)。 しかし、語頭のヒ⇒ヰは類例を見ない。古語辞典類にもヰクは載らず、かつ現代には伝わらない。
《略無噍類》
 「略無噍類」のは古訓ではホゝ〔ホボ〕オホムネと訓まれるが、本当は略奪ではないだろうか。ホボなら紛らわしさを防ぐために、概、凡、粗を用いるように思われる。 噍類〔=生類〕は、対象が倭人ならオホムタカラと訓まれるべき語であろう。なお、古訓ノコレルモノは意訳である。
位置関係の概略
(同一箇所の別名または近接する箇所は囲みにしてまとめた)
《尾資之津》
 新羅本紀によれば、唐の定方軍は船で伎伐浦に到達し、百済と会戦して七月十日に陣を構えた。百済本紀によれば、その地は「白江」だという。 したがって、伎伐浦からの上陸地が尾資之津で、かつ白江の河口付近ということになる。
 白江は一般的に錦江に比定されている。有名な「白村江」も『唐書』巻199(東夷)の百済伝には 「仁軌遇扶餘豊之衆於白江之口、四戦皆捷〔=勝〕。焚其舟四百艘」とあり、やはり白江の河口である。
《怒受利之山》
 百済本紀では、新羅軍は炭峴から入った。新羅本紀では七月九日に黄山之原で激戦の末新羅軍が勝利する(《唐新羅軍と百済軍との会戦》項)。 現代地名として「炭峴駅」があったが、かなり離れている。論文「白江及び炭峴について」(池内宏〔東洋学報21(2);東洋文庫1934〕 では、あれこれ候補地を想像するのみなので、1934年の時点で「炭峴」と言い得る確かな場所は存在していなかったようである。
 炭峴黄山之原怒受利之山は相互に近く、かつ新羅と百済の境界に近いと思われる。 「怒受利」の発音は「任存」に似るが、同じとすることには問題がある(次々項)。
《鬼室福信》
 鬼室福信は〈斉明〉六年十月に「師請救、并乞王子余豊璋」、すなわち援軍と豊璋の返還を求めた。
 百済本紀には「武王従子福信、嘗将兵。乃与浮屠道琛、拠周留城叛。迎古王子扶餘豊、嘗質於倭国者、立之為王。〔武王〔在位600~641〕の甥福信は将兵を集め、浮屠〔=僧〕道琛とともに周留城(するさし)を拠点に叛乱した。昔の王子扶餘豊はかつて倭国の質で、立てて王とした〕とある。
 〈天智〉二年〔663〕六月に「百済王豊璋、嫌福信有謀反心」し、「健児斬而醢」すなわち斬られて首を塩漬けにされた。 この福信が殺されたとされる時期は、百済本記の662年七月と大きく食い違っている(次項)。 『旧唐書』(列伝149上)、『新唐書』(列伝145)ともに龍朔二年〔662〕七月の項にあり、百済本紀と同じである。
任存城、熊津城、泗沘城の位置
任存城 「大興面鳳首山頂上に位置する周囲が2.4KMの鉢巻式石築山城である。北への防御を目的に築かれたものと見られ、時代的には百済時代に高句麗の侵入に備えたものと考えられており、大興山城とも呼ばれている。」 (忠清南道礼山郡/任存城)
公山城(熊津城) 「百済熊津都邑期(475∼538年)の王都。城壁の築造に用いられた版築技法と壁柱建物址。」 (公州市/公州公山城)
泗沘城 泗沘都城は羅城で取り囲んだ中に、中、東、西、北、南の五部(ほう)に分けて居住地を造成した。中心的寺院として定林寺跡が有名。百済文化団地の中に泗沘宮が再現されている。
《任射岐山》
 任射岐山は「或本には北任叙利山ふ」と付記される。この「任叙利」は 百済本紀の「任存城」、新羅本紀の「任存大柵」の「任存」と発音が似るから同じところかも知れない。 さらに、前出の「怒受利山」も同じく任存のように思われるのだが、 任存城の比定地は西寄り(右図)だから、新羅との境界の怒受利山は、任存城とは一致させられない。
 よって、ひとまず任叙利山怒受利山とは別のところにある山だったが名前が同じなので、両者を区別するために「任叙利山」の方に「」を付けたのだと整理しておく。 かく仮定すれば、「任射岐山或云北任叙利山」の方は任存と一致させやすくなる。
 任存は、百済本紀、新羅本記において繰り返し出てくる有名な地である。 よって、書紀の「達率【闕名】」らによる報告にも任存にあたる地名が出てくることは、十分あり得ると見てよい。 そこで、福信の活動及び任存での攻防の経過をまとめ、書紀に書いてあることと噛み合うかどうかを探る。
新羅本記〔660〕七月十三日。義慈率左右、夜遁走、保熊津城」。
新羅本記〔660〕七月十八日。義慈…来降」。
新羅本紀〔660〕八月二十六日。攻任存大柵、兵多地嶮、不」。
新羅本紀〔660〕九月三日。郞将劉仁願…留-鎮泗沘城」。
日本書紀〔660〕九月五日。百済…奏「新羅…唐人…傾-覆百済。…鬼室福信…拠任射岐山」。
日本書紀〔660〕十月。乞王子余豊璋」。
新羅本記〔660〕十一月蘇定方献…義慈…於則天門」。
百済本記〔660~661〕福信…拠周留城叛。迎古王子扶餘豊…為」。
新羅本記〔661〕九月二十三日。百済余賊入泗沘。…賊退」。
百済本記〔661〕福信等乃釈都城之囲、退保任存城」。泗沘城の囲みを解いて撤退し、任存城を守った。
百済本記〔662〕二年七月。仁願、仁軌等、大破福信余衆於熊津之東」…「福信等…加兵守之。」…「福信既專権。…豊知之、帥親信、掩殺福信」。
日本書紀〔663〕六月。百済王豊璋…福信謀反心…斬」。
日本書紀〔663〕八月。日本船師初至者与大唐船師戦…大唐便自左右船繞戦。須臾之際官軍敗績」。「百済王豊璋、与数人乗船逃去高麗。
百済本記〔663〕倭人白江口。四戦皆克。焚其舟四百艘」。
百済本記〔663〕王扶餘豊脱身而走…或云高句麗」。王子以下投降。「独遅受信拠任存城、未」。遅受信独り降伏しなかった
百済本記〔663〕仁軌以赤心示一レ之。俾任存…取其城」。仁軌は降伏した兵が自分に付くと見て攻撃軍に加え、任存城を取った。
 百済本記、新旧唐書ともに福信の名前が最初に出て来るのはだが、天子が義慈王を則天門で引見したよりも後である。 よって、以前の期間に福信が活動したことが書かれるのは書紀のみとなる。
 で新羅が「任存大柵」を攻める。攻められる前にそこに立てこもっていた百済軍の中に福信がいたとすれば、 で使者の言う「鬼室福信赫然発憤拠任射岐山」にぎりぎり間に合う。
 百済本記、新旧唐書では、福信が任存城に入ったことがではじめて明記される。 このが、書紀では誤っての中に紛れ込んだ可能性もある。なおも山の名が任射岐山北任叙利山と揺れるところに、伝承としての不確かさが見える。
 それでも、三国史記、新旧唐書には書かれていない「余自進」の名前が書紀にはあることから見て、書紀独自の資料があったことは考え得る。 その中に、余自進が熊津城を守っていた頃(A~B)、「鬼室福信任射岐山或云北任叙利山(=任存城)にいた」ことが含まれていたかも知れない。
 なお、白村江の戦い()が終わった後、百済軍が総崩れになる中で、で「遅受信」が独り任存城を死守したとある。 このように、任存城はしばしば登場する重要拠点であった。
《余自進》
 次項で見るように、余自進〔660年〕七月十三日~十八日の間、熊津城の「固守」に加わっていた可能性がある。 それに当たる文が「達率餘自進、拠中部久麻怒利城」かも知れない。
 〈天智〉二年〔663〕九月、帰国する「日本船師」とともに倭に逃れた。 〈天智〉八年、「余自信〔自進〕と百済の帰化人700人が「近江国蒲生郡」に居住地を得、同九年七月に冠位「大錦下」を授かる。
《久麻怒利城》
 「久麻怒利」が熊津であることはほぼ確定している(〈雄略〉二十一年《久麻那利》)。
 熊津は百済の旧都で、蓋鹵王二十一年〔475〕に漢城から熊津に遷都、聖王十六年〔538〕に熊津から泗沘に遷都した(《百済の位階》)。 新羅本紀によると、義慈王と王子らは、七月十三日に泗沘城を脱出して熊津城に入った後、十八日に投降(上表)した(《義慈王の降伏》)。 十三日以後、第二王子の「」が熊津城に残り「」して「固守」している(《義慈王の降伏》項)。
《前役》
 「前役」のへの古訓「エタチ」はもともとは税の一つ、公役を意味する。 戦時になれば、エタチは人民が駆り出される「戦役」となる。そこから、戦争そのものを意味する語に転じたと見られる。
《新羅軍破》
 「新羅軍破百済奪其兵」は、「新羅軍破百済其兵〔新羅軍は百済を破り、その兵〔=武器〕を奪う〕以外には読めない。ところがこれでは文脈に合わないから、 古訓は文法を無視して「新羅軍が破れる」と読む。このような無理をせざるを得なかった原因は、「故以棓戦[句]新羅軍破[句]」と句点をつけたところにある 〔北、閣、兼右本のすべてがこうなっている〕
 そうではなく「故以棓戦新羅軍[句]」とすればよいのである。 つまり、百済側に兵器は尽きたが代わりに「」というものを使って新羅と戦い、それでもなんとか勝ち、兵器を奪った。
 大局的には百済は亡びたが、ここでは一断面としての局地戦での奮戦ぶりを報告したものであろう。 「王城」とあるから、義慈王らが脱出する七月十三日以前のことか。「前役〔これまでの戦闘〕で武器が尽きたというから、攻撃は波状的に繰り返されたのであろう。
《棓》
 は珍しい文字で、後の写本等に次のような説明が加えられている。
――〈閣-頭注〉:方垢反、撃也、又把也。易曰君子棓多益寡、棓猶減也。又蒲溝切。又詩曰禽皇棓克謂衆僉殳也。 :杖也。打也。歩項切。又連枷也。
――〈釈紀〉ツカナキ:私記曰「蒲𥂸反。『淮南子』云「翠死於桃棓※1」。『許升重』※2曰「棓:大杖也」。『玉篇』曰「歩項反、杖也、又連枷也」。
 ※1…『淮南子』の原文は、(詮言訓)「羿死於桃棓」で、羿(げい)〔または后羿(こうげい)〕は中国神話の英雄で、最期は桃の木の棍棒で打ち殺された。
 ※2…『因明論疏明燈抄』巻第一末〔僧善珠781〕にも「許升重曰綰貫也」とあったから、許升重は言語学者であろう。それ以上のことは分からない。
――〈兼右本〉「:蒲講反。大杖也。〔以下〈閣-頭注〉と同じ〕
 発音はさまざまな半切で表されているが、共通して「h子音+オウ=ホウ」と見られる。
●漢和辞典では「①こんぼう。大きな杖。②穀物を討って殻を取る農具。連枷」(『学研新漢和』)。
●和訓のツカナキは、〈時代別上代〉では、ツカ〔把〕+カナキ〔カネのようにかたい木〕と解されている。ここ以外にツカナキの用例はないようである。
 武器が底をついたので、武器とはとても言えない大きな杖、あるいは棍棒のようなもので戦ったと読み取ることができる。ならば、訓はツヱで充分だろう。
《福信等…共保王城》
 「福信等遂鳩集同国共保王城」は、自進熊津城から出て、また福信任存城から出て、二人とも泗沘城に入ったという意味である。 それが実際にあり得たかどうかを検討してみよう。
 上表の七月十八日には、熊津城に籠城していた義慈王らは投降して、臣下一同とともに捕虜となった。自進はそこからうまく逃げることができ、泗沘城に入った。
 の八月二十六日には、新羅軍は任存柵に立てこもる残党に手を焼き、一旦撤退している。だから、八月には百済軍が任存柵を占拠していた。 但し、福信は八月の始め頃に任存柵から離れて泗沘城に移ったとする。
 ①②のようにして、二人は八月には泗沘城に揃っていた。その後九月三日()に、唐の「郞将劉仁願」が泗沘城を「留鎮」した。 福信らはこのとき殺されず、捕虜にもなっていないから、何らかの交渉が成立して無事に泗沘城から退去することができたとする。
 このように仮定すれば、二人が泗沘城に入っていた時期〔八月はじめ頃から九月三日まで〕を一応は確保することができる。
《同国》
 「同国」への古訓「カナフクニ」にあてはまるのは、倭と高句麗であるが、この段階ではまだ派遣されていない。 百済全土が戦場となり百済人、新羅人、唐人が入り乱れている中で、その中の百済人を集めるという意味と見られる。
《唯福信…興既亡之国》
 亡びた国を再興することは、人々の願いであった。 最終的に敗北したとは言え、局所戦では福信が勝利する場面もあった。 この福信の優れた才に注目して、再興のリーダーに推し立てようとするのが文章全体の流れである。
 自進もまあまあがんばったが、福信の方がより相応しいということであろう。
《大意》
 九月五日、 百済は達率(たつそつ)【名を欠く】、 沙弥覚従(しゃみかくしょう)らを遣わし、来て申しました
【ある出典には、逃げて来て難に遭ったことを話したとある。】。
――「今年の七月に、 新羅は力を恃(たの)んで勢いを強め、隣に睦(むつみ)しなくなり、 唐人を引き込んで、百済を傾け覆しました。
 君臣すべては虜となり、略奪して噍類(しょうるい)はいません 【ある出典にいう。 今年七月十日、 大唐の蘇定方(そていほう)は、 水軍を率いて、尾資津(びしのつ)に軍を展開した。 新羅王、春秋智(しゅんじゅち)は兵馬を率いて、 怒受利山(のずれむれ)に軍を展開した。 百済を挟み撃ちして会戦三日、 我が王城を陥(おと)した。 同月十三日、 初めて王城を破った。 怒受利山は、百済の東の境界にある。】。
 このとき、西部(せいほう)恩率(おんそつ)鬼室(きしつ)福信(ふくしん)は、 赫然(かくぜん)と発憤して任射岐山(にさきむれ)を拠点として
【ある出典には、北任叙利山(きたのにじょりむれ)という】、 達率(たつそつ)余(よ)自進(じしん)は、 中部(ちゅうほう)の久麻怒利城(くまぬりさし)を拠点として 【ある出典には、都々岐留山(つつきるむれ)という。】、 各々一カ所に軍営して、散り散りになった兵卒を誘い集めました。
 武器ははこれまでの役で尽きました。 よって、棓(ばい)〔=棍棒(こんぼう)〕で新羅軍と戦い破り、 百済はその武器を奪いました。 その結果、百済の武器は却って鋭く〔=強力に〕なり、 唐は敢えて入りませんでした。
 福信らは、 遂に同国から鳩集(きゅうしゅう)して〔寄せ集めて〕共に王城を守りました。 国人は尊びて 『佐平福信、佐平自進のうち、 唯福信こそ、神武の謀を起こして、 既に亡んだ国を興すだろう』と申しております。」


【百済の滅亡】
 『三国史記』、『旧唐書』、『新唐書』から百済滅亡の経過を読み取る。
《唐高宗の詔》
〈百済本紀〉義慈王二十年 (庚申〔660〕/〈斉明〉六年)
六月。高宗詔:左衛大将軍蘇定方。為神丘道行軍大摠管。 率左衛将軍劉伯英、右武衛将軍馮士貴、左驍衛将軍龐孝公。統兵十三万以来征。 兼以新羅王金春秋、為嵎夷道行軍摠管、将其国兵、与之合勢。 蘇定方引軍、自城山海、至国西徳物島。新羅王遣将軍金庾信、領精兵五万以赴之。 〔唐高宗〔諱は李治〕は詔した:左衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍の大摠〔=総〕管とする。 左衛将軍劉伯英…を率いて、兵十三万を統して来征せよ。 兼ねて新羅王春秋を嵎夷道行軍摠管とする。その国の軍勢を合せよ。 蘇定方引軍は城山から海を渡り、国西の徳物島に至れ。新羅王は将軍金庾信を遣わし精兵五万を領して赴け。〕
● そして義慈王は高宗の詔を知り群臣に策を聞いたが結論が出ず、流されていた興首のところへ意見を聞きに行かせた。 興首は「使唐兵不得入白江、羅人未得過炭峴」すなわち唐郡を白江に入れさせず、新羅軍を炭峴を通すな」と進言した。 大臣たちはこれを信じず「入れても大丈夫だ」と言い、義慈王もこれに同意した。
〈新羅本紀〉太宗武烈王(諱春秋)七年 (庚申〔660〕/〈斉明〉六年)
三月。唐高宗命左武衛大将軍蘇定方、為神丘道行軍大摠管、 金仁問為副大摠管、帥左驍衛将軍劉伯英等水陸十三万軍、以伐百済。 勅王為嵎夷道行軍摠管、使将兵、為之声援。
● この唐高宗の「」は、百済本記の詔と同じ内容である。
 唐高宗の「」は新羅本紀では三月とされる。百済本紀では六月に「」と書かれるが、詔が発されたことを知って王と諸臣が協議した月が六月なのであろう。
《唐新羅軍と百済軍との会戦》
〈百済本紀〉
又聞。唐羅兵已過白江炭峴。遣将軍堦伯死士五千、出黄山羅兵戦、四合皆勝之。 兵寡力屈、竟敗。堦伯死之。 於是、合兵禦熊津口、瀕江屯兵。 定方出左涯山而陣。与之戦、我軍大敗。 王師乗潮、舳艫銜尾進、鼓而譟。 定方将歩騎、直趍其都城、一舎止。 我軍悉衆拒之、又敗、死者万余人。 唐兵乗勝薄城。 〔また聞く。唐と新羅の兵はすでに白江と炭峴を通過した。将軍堦伯を遣わし死士〔死を恐れぬ士〕五千を率いて、黄山に出て新羅兵と戦い、四度の戦闘で勝利した。 しかし兵は寡力にして〔=力及ばず〕屈し、みな敗れ、堦伯は戦死した。 ここに、兵を合せ熊津口を防禦し、瀕江に兵を駐屯する。 蘇定方は左の涯を出て山に乗って布陣し、これと戦い、我軍は大敗した。 王師〔=百済軍〕は潮に乗り、舳艫(じくろ)尾を銜(ふく)み〔船尾と船首が触れ連なって〕進み、鼓うち譟(さわ)いだ。 定方は歩兵騎兵を将(ひき)いて、直(ただ)ちにその都城に趍(おもむ)き、一舎に止(とど)む〔一舎は行軍を一休みする距離(30里)〕。 我が軍は悉(ことごと)く衆(もろもろ)がこれを拒んだがまた敗れた。死者は一万余人。 唐兵は勝ちに乗じて城に薄(せま)る。〕
● 「王師…」は、あたかも定方の水軍の進撃のように読めるが、「」(諸侯王)はあくまでも百済王を指す。つまり百済水軍の奮戦を述べる文である。
〈新羅本紀〉
夏五月二十六日。王与庾信、真珠、天存等,領兵出京。
六月十八日。次南川停。定方発萊州,舳艫千里、隨流東下。
二十一日。王遣太子法敏、領兵船一百艘、迎定方於徳物島。 定方謂法敏曰「吾欲以七月十日至百済南、与大王兵会、屠-破義慈都城
〔新羅王と庾信、真珠、天存らは、兵を率いて五月二十六日に京〔金城〕を出発。 定方は六月十八日に萊州から海路をとり、二十一日に百済王が遣わした太子法敏〔後の文武王〕の兵船500艘と徳物島で合流した。七月十日に百済の南で会うことを約した。〕
〔中略〕
七月九日。庾信等進軍於黄山之原、百済将軍階伯〔=堦伯〕、擁兵而至、先拠嶮、設三営以待。 庾信等、分軍為三道。四戦不利、士卒力竭。
● そして、左将軍品日の十六歳の息子、官状は敵陣に攻めかかったが、堦伯はその若年を惜しみ殺さずに返した。 官状は井戸の水を手で掬って飲み再び突撃して虜となった。堦伯はその首を斬り馬に繋いで送り返した。 品日は息子の首を手に取って流れる血で袂を濡らして、「吾児面目如生、能死於王事、幸矣〔吾が児の面目生きるが如し、能(よ)く王に事(つか)えて死ぬ、幸いなり〕と叫んだ。
三軍見之、慷慨有死志、鼓噪進撃。百済衆大敗、階伯死之。虜佐平忠常、常永等二十余人。 〔三軍はこれを見て、慷慨し死ぬ志をもち、鼓噪進撃した。百済軍は大敗し、佐平忠常、常永等二十余人を虜とした。〕 是日、定方与副摠管金仁問等、到伎伐浦。遇百済兵、逆撃大敗之。
〔定方と副摠管の金仁問らは、伎伐浦に到着。百済兵に遭遇、迎え撃って大敗させた。〕
庾信等至唐営、定方以庾信等後一レ期、将新羅督軍金文穎於軍門。 庾信言於衆曰:「大将軍不黄山之役。将期為罪。吾不罪而受辱。必先与唐軍決戦、然後破百済。」 乃杖鉞軍門、怒髮如植、其腰間宝剣、自躍-出鞘。 定方右将董宝亮,躡足曰「新羅兵将変也」。定方乃釈文穎之罪。 〔庾信の軍は唐の営に到着。定方は庾信等が約束した日に遅れたので、新羅督軍金文穎を軍門で斬ろうとした。 庾信は皆に向かって「大将軍〔定方〕は黄山の役を見ずに、期日に遅れたことを罪とする。吾は無罪となることをあたわず辱めを受けた。まず唐軍と決戦して、その後で百済を破ろう。」と言った。 すなわち鉞(えつ)を軍門に立て、怒髪柱の立つ如く、腰の宝剣は自ら鞘から躍り出る。 定方の右将董宝亮は足を踏みしめ「新羅の兵に変がある〔=叛乱が起こる〕だろう」と言って、定方はすなわち文穎の罪を釈(ゆる)した。〕
 七月九日、黄山の役。庾信率いる新羅軍は苦戦したが、激戦の末百済軍に勝利した。 同日、定方率いる唐軍が伎伐浦で百済兵を打ち破った。定方は新羅軍が到着が遅れたことに対して新羅の金文穎の責任を問い、金文穎は激しく反発した。
 右将董宝亮は、このままでは新羅軍が唐軍に歯向かうことになると言ってとりなし、定方もそれを容れて金文穎の罪を赦した。
《義慈王の降伏》
〈百済本紀〉
王知免、嘆曰 「悔成忠之言、以至於此。」 遂与太子孝、走北鄙。定方囲其城。 王次子泰、自立為王、率衆固守。 〔王は免れないことを知り、成忠の言葉を聞かなかったことを悔いた。 そして太子の孝とともに北の鄙に向かった。次子の泰は自ら王を名乗り泗沘城を固守した〕
● 成忠は義慈王十五年に獄死。臨終の上書に「若異国兵来、陸路不使沈峴1)、水軍不使伎伐浦2)」。1)炭峴、2)白江と解されている。
〔中略〕
定方令士超堞、立唐旗幟。泰窘迫、開門請命。 於是、王及太子孝与諸城皆降。 定方以王及太子孝、王子泰、隆、演及大臣、将士八十八人、百姓一万二千八百七人京師〔定方は堞〔=城垣〕を越えて唐の旗幟を立てさせ、泰は窘迫して〔=追い詰められて〕開門して命を乞う。 王と太子…諸城は皆降伏し、王と太子たちは都に送られた〕
〈新羅本紀〉
七月十二日。唐、羅軍■■■囲義慈都城。…
七月十三日。義慈率左右、夜遁走、保熊津城。…
七月十八日。義慈率太子及熊津方領軍等、自熊津城来降。…
〔七月十二日、唐新羅連合軍は泗沘都城を包囲。〕
〔七月十三日、義慈王と側近は夜抜け出し、熊津城に入る。〕
〔七月十八日、義慈王は太子と熊津方面軍を率いて投降。〕
〈旧唐書〉顕慶五年 (庚申〔660〕/〈斉明〉六年)
八月庚辰〔十二日〕。蘇定方等討-平百済。面-縛其王扶余義慈〔八月十二日。蘇定方は百済を征討。義慈王を後ろ手に縛る。〕
〈新唐書〉顕慶五年
八月庚辰。蘇定方及百済戦、敗之。 〔八月十二日。蘇定方は百済と戦い破る。〕
 義慈王が投降した日付は、新羅本紀で「七月十八日」と記される。
 新旧唐書では、百済を平定した日付として八月〔己巳朔〕庚辰〔十二日〕となっている。
《唐による直轄》
〈百済本紀〉
国本有五部、三十七郡、二百城、七十六万戸。 至是、析-置熊津、馬韓、東明、金漣、徳安五都督府。各統州県。 擢渠長都督、刺史、県令以理之。 〔もともと五部、三十七郡…があったが、熊津など五都に督府を置き、州県を統(す)べた。 渠長(部族の長)を抜擢して都督、刺史、県令として治めさせた〕
郞将劉仁願都城、又以左衛郞将王文度熊津都督、撫其余衆
〈新羅本紀〉
九月三日。郞将劉仁願、以兵一万人、留-鎮泗沘城。〔新羅武烈〕王子仁泰与沙飡日原、級飡吉那、以兵七千之。
九月二十三日。唐皇帝遣左衛中郞将王文度、為熊津都督
〔劉仁願に泗沘城を留鎮させ、王文度を熊津都督にした。〕
〈旧唐書〉
〔八月庚辰続き〕国分為五部、郡三十七、城二百、戸七十六万。以其地分-置熊津等五都督府〔百済は五部に郡三十七を置き、城二百、戸七十六万。その地を熊津など五つに分け都督府を置いた。〕
〈新唐書〉巻一百八/列伝三十三/劉仁軌
蘇定方既平百済、留郎将劉仁願其城、左衞中郎将王文度為熊津都督、撫-納残党〔蘇定方は百済を平定すると、劉仁願を泗沘城に留めて守らせ、王文度を熊津都督に任命。〕
 劉仁願は蘇定方の配下で兵一万を擁して戦い、百済降伏後は泗沘城に留まり治めた。王文度は熊津の都督に任じられた。 唐は百済に五都に都督府を置いて直轄した。ただ、諸族長は温存して地方官に登用した。
《新羅による掃討》
〈新羅本紀〉
二十二日。王来百済論功…〔以下略〕
八月二十六日。攻任存大柵兵多地嶮、不克。但攻破小柵〔任存大柵を攻めるも、兵多く地の険しさにより勝てず、小砦を攻め破る。〕
九月二十三日。百済余賊入泗沘、謀生降人。 留守仁願出唐羅人撃走之。賊退上泗沘南嶺、竪四五柵。屯聚伺隙抄-掠城邑。百済人叛而応者二十余城。 〔百済の残党が泗沘城に攻め入り、降伏した生存者を取り戻そうとした。 留守職の劉仁願は唐兵と新羅兵を出し攻撃して敗走させた。敵は泗沘城から撤退して泗沘の南嶺に上り、砦を四~五個築く。 屯聚して隙を伺い城や邑を奪う。百済人が叛応〔=応えて反乱〕したのは二十余城。〕
● 撃走之は他動詞〔走らせる〕にも使われ、目的語「」によってそれが確定する。
三十日。攻泗沘南嶺軍柵、斬首一千五百人。
十一月一日。高句麗侵-攻七重城、軍主匹夫死之。
五日。王行渡雞灘、攻王興寺岑城
七日。乃克〔=勝〕。斬首七百人。
〔三十日、泗沘南嶺に陣取る百済残軍を制圧。十一月になり高句麗が七重城を攻め七重城下県令の匹夫を殺す。〕
〔新羅王が百済から戻り、論功した。〕
 義慈王投降後も、新羅は百済残党の掃討を容赦なく続ける。これは、唐が部族長を地方の要職に登用したのとは対照的である。 新羅は、ゆくゆくは旧百済地域への唐の直轄を排除し、675年に遂に自国領への組み入れを完了する。
 七重城は当時新羅領にあった。高句麗に包囲され、二十日余の戦闘の末敗れる。匹夫は(三国史記巻四十七/列伝七) 最期は「飛矢如雨、支身穿破、血流至踵、乃仆而死。〔飛矢雨の如し、肢体は穿ち破られ血が踵まで流れた。こうして倒れて死んだ〕と描かれる (『三国史記』巻四十七/列伝七)。
《義慈王を洛陽に連行して引見》
〈百済本紀〉
定方以所俘見、上責而宥之。 〔定方は虜にした者(義慈王たち)を天子に見せた。上〔天子〕は責め、そして宥(なだ)めた。〕
●「上=天子」の例は、『史記』酷吏列伝に「固為臣議。如上責臣〔固く臣のために議る。それは上〔天子〕が臣を責めるが如きである。〕に見える。
〈『冊府元亀』〔1013年〕巻九百七十四/外臣部十九/褒異:〉
顕慶五年九月。蘇定方降百済王義慈以献。 〔蘇定方は義慈王を降し、都に連行して帝に献上。〕
〈新羅本紀〉
七月二十九日。遣弟監天福、露-布於大唐〔露布=勝利報告〕
八月二日。大置酒労将士、王与定方及諸将軍、坐於堂上。坐義慈及子隆於堂下。 或使義慈酒、百済佐平等群臣、莫鳴咽流〔酒労を賜る。新羅王、定片、諸将は堂内に坐し、義慈王たちは堂の前庭に坐す。 一説には義慈に行酒させ、それを見る群臣に嗚咽しない者はいなかったという。〕
● 行酒:①酒宴の余興。②酒を飲ませてもてなす〔ここでは恵みか〕。諸臣が嗚咽したというから①か。
九月三日。定方以百済王及王族臣寮九十三人百姓一万二千人、自泗沘乗廻唐。 金仁問与沙飡儒敦〔人名〕、大奈麻中知等偕行〔=同行〕
〈旧唐書〉
十一月戊戌朔。邢国公蘇定方献百済王扶余義慈、太子隆等五十八人俘。於則天門、責而宥之。 〔義慈らを俘虜にして、則天門〔洛陽。後に則天武后を避諱して応天門に改称〕で責めて宥(ゆる)す。〕
〈新唐書〉
十一月戊戌。蘇定方俘百済王以献。 〔百済王を俘(とりこ)として献上した。〕
《義慈王の病死》
〈百済本紀〉
〔義慈〕病死。贈金紫光禄大夫衛尉卿、許旧臣赴一レ臨。 詔葬孫皓、陳叔宝墓側、并為竪碑。授司稼卿
● 竪碑建碑孫皓は三国呉の四代皇帝〔283没〕、暴君で知られる。陳叔宝は南朝陳の五代皇帝〔604没〕、亡国の愚帝。
〈『冊府元亀』〉〔顕慶五年九月項の続き〕
数日病卒、贈金紫光禄大夫、衛尉卿。 特許其旧臣赴一レ喪。仍葬於孫皓、陳叔宝墓之側、官為立碑。
● 百済のままなら「」だが、に落としたから「」である(第九十五回【崩】項)。
 唐は、都督のレベルは唐人で抑えたが、その下の地方官に百済の諸族長を登用して一定の融和策をとった〔羈縻(きび)政策と呼ばれる〕 義慈王を必ずしも罪人扱いせず、一介の卿ではあるが官称を贈り、旧臣に葬儀への参列を認めたこともその延長線上にあろう。 これで百済の地方諸族にとっては、仕える相手が先代の王から都督にすげ替えられただけとなり、気持ちが落ち着く。 仮に義慈王が処刑されてしまえば、次は自分が殺されるだろうと怯え各地で無用な暴発も起こり得よう。

まとめ
 唐皇帝が義慈王に恩勅放著した場面は伊吉連博徳書にリアルに書かれ、この部分がもっとも史実性が高い。
 一方、鬼室福信が登場するのは、『三国史記』、新旧唐書では義慈王放著〔660年十一月一日〕以降に限られる。 〈斉明〉六年〔660〕七月~九月の期間については福信の姿が見えるのは書紀のみで、その内容も漠然としている。 それでも、福信はこの期間のはじめに任存城、後に泗沘城に移って戦ったことが読み取れ、それを『三国史記』が描く過程の中になんとか組み入れることはできる。
 書紀のこの段の記述は未整理のままなので、書かれていることを正確に読み取るためには三国史記や新旧唐書の精読が欠かせなかった。精読した部分は時期別に整理して、【百済の滅亡】項にまとめた。 精読中に見つけた新羅本紀の黄山の役や、『旧唐書』の西突厥の賀魯征伐の件は大変に面白かったが、本筋から大きく外れるので要約を載せるに留まっている。 『旧唐書』や『三国史記』が書かれたのは書紀より相当後の時代であるが、「蘇定方」と「福信」については書紀でも同じ表記を用いていて、その点では書紀の記述の正確性を示す。
 さて、覩貨邏国が西域にあったことは、玄奘『大唐西域記』の存在や、遣唐使が長安や洛陽で西域出身の僧と交流を深めていたと考えられることから、明らかではないだろうか。
 さらに、粛慎はもともとは沿海州を出自とする民族であった。 〈斉明紀〉は、アジア全域との交流を深める興味深い時代を描いている。



2024.01.16(tue) [26-08] 斉明天皇8 

16目次 【六年十月~十二月】
《乞王子余豐璋》
冬十月。
百濟
佐平鬼室福信
遣佐平貴智等、
來獻唐俘一百餘人、
今美濃國不破片縣
二郡唐人等也。
佐平貴智…〈北野本〔以下北〕ヘイ クヰ トリコ カタ アカタ
〈内閣文庫本〔以下閣〕。 〈釈紀〉クヰ
佐平《百済の位階》一品。
冬十月(みなづき)。
百済(くたら)の
佐平(さへい)鬼室(くゐしつ)福信(ふくしん)は、
佐平(さへい)貴智(くゐち)等(ら)を遣(まだ)して、
来(まゐき)て唐(たう、もろこし)の俘(とりこ)一百余人(ももたりあまり)を献(たてまつ)る。
今の美濃国(みののくに)の不破(ふは)片県(かたあがた)
二郡(ふたところのこほり)の唐(たう、もろこし)の人等(ら)なり[也]。
又乞師請救、
幷乞王子余豐璋曰
【或本云。
佐平貴智達率正珎也】
乞師…〈北〉 マウシ コフ救 并乞王 セシム ホウ シヤウ
〈閣〉達率正改𣃥。 〈釈紀〉シヤウチン
達率《百済の位階》二品。
又師(いくさ)を乞(こ)ひ救(たすけ)を請(ねが)ひまつりて、
并(あは)せて王子(わうし、せしむ)余豊璋(よほうしやう)を乞(こ)ひまつりて曰(まを)せらく
【或本(あるふみ)に云ふ。
佐平貴智(さへいくゐち)〔は〕、達率(たつそつ)正珎(しやうちん)なり[也]。】
「唐人率我蝥賊、
來蕩搖我疆埸、
覆我社稷、
俘我君臣。
我蝥賊…〈北〉 アシキ アタ タ-ヨハシ疆-埸 サカヒ 社-クニ  ■トリ
〈閣〉蕩-搖タゝヨハシテ疆-埸 サカイヲ トリコニス君臣
〈兼右本〉-タゝヨハシウコカ疆-埸 サカイ クツカヘシ君-臣キミヤツコ
…[名] 害虫の一種。(漢音) ボウ、ブ。(呉音) ム。
蝥賊…害虫を人民を害する悪人にたとえる。
…[名] さかい。
疆埸…①あぜ。②国境。
蕩搖…動揺。
「唐(たう、もろこし)の人我が蝥賊(あた)を率(ゐ)て、
来たりて我が疆埸(くにのさかひ)を蕩搖(ゆら)して、
我が社稷(くに)を覆(くつがへ)して、
我が君臣(きみおみ)を俘(とりこ)せり
【百濟王義慈
其妻恩古
其子隆等
其臣佐平千福
國辨成
孫登等凡五十餘、
於七月十三日、
爲蘇將軍所捉而
送去於唐國。
蓋是無故持兵之徵乎。】。
百済王義慈…〈北〉百済[切]コキシ義-■■リウ トウ ■イ  其王/誤サ■■ セン フク國弁シヤウ ソントウイソタリアマリ/秋七-月フツキノ十三日[切]トウカアマリミカノヒ タメニシヤウ クン レ捉而 カスヰラレ[テ]  ヲクラル 唐國モロコシノクニゝ[句] 蓋是[切]无故持サタシ之徵シルシ 
〈閣〉○王佐平大夫交本直王子子福[切][切]ジヤウ[切]等凡秋於七月十三日[切]將軍 レテ ナスヰラ而送-  ラルモタルシルシ
〈釈紀〉ソノワウヘイセムフクコクヘン成。シヤウ 所捉カスヰラレテ ヲク-去
〈兼右本〉└王交本マチキミ佐-平秋七月十三日ラレカスイモタシ
かすう…[他]ワ上二 カスム(掠む、下二)の変であろうが、古語辞典類には見えない。
【百済王(くたらわう、くたらのこにきし)義慈(ぎじ)、
其の妻(つま)恩古(おんこ)、
其の子隆(りう)等(ら)、
其の臣(おみ)佐平(さへい)千福(せんふく)、
国弁成(こくべんじやう)、
孫登(そんとう)等(ら)凡(おほよそに)五十余(いそたりあまり)、
[於]七月(ふみづき)十三日(とうかあまりみか)に、
蘇(そ)将軍(しやうぐん)が為(ため)に所捉(とらは)れて[而]
[於]唐(たう)の国に送去(おくらえぬ)。
蓋(けだし)是(こ)は故(ゆゑ)無く兵(つはもの)を持てるの[之]徴(しるし)せる乎(か)。】。
而百濟國遙頼天皇護念、
更鳩集以成邦。
方今謹願
迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、
將爲國主云々。」。
而百済国…〈北〉護-念 ミメクミ 天-ミカト将為國 .ニ .リ .ム
〈閣〉 テカウフテ護-念 ミメクミニ [切]モトメ-集天-ミカトニ王-子  ムシムテ 
〈兼右本〉 モ[テ]カウフリ天-皇護-念 ミメクミ[テ][ニ]アツメ-モトメ[テ]-マタシハヘル天-朝 ミカト [ニ][切]王-子 セシム 
…[動] (古訓) たより。たのむ。みたまのふゆ。かうふる。
而(しかるがゆゑに)百済国(くたらのくに)遥(はるかに)天皇(すめらみこと)の護念(みたまのふゆ、みめぐみ)を頼(かがふ)りて、
更(さらに)鳩集(あつま)りて以ちて邦(くに)を成さむ。
方(まさに)今謹(つつし)みて願(ねが)はくは、
百済国(くたらのくに)が天朝(あまつみかど)に遣(まだ)し侍(はべ)りてある王子(せしむ、わうし)豊璋(ほうしやう)を迎(むか)へまつりて、
将(まさに)国主(こにきし、にりむ)と為(な)しまつらむと、云々(しかしか)。」とまをせり。
詔曰
「乞師請救聞之古昔、
扶危繼絶、著自恆典。
百濟國窮來歸我、
以本邦喪亂靡依靡告。
聞之…〈北〉キゝ[切] アヤシキ  [切]著自 タエタル アラハレタリ恆典セマリ ヨル ホロヒ ナク依靡 ヨルトコロ ■シト[句] ツケルトコロモイフ  マクラシ
〈閣〉古-昔 ムカシ /イニシヘ [句]古-昔ムカシ ニ[句]アヤシキヲ[切] ハ タエタルヲ[切] アラハレタリ ニ喪-乱 ホロヒテ  ナク ヨルトコロ ナシトイフツケントコロモ
〈兼右本〉タスケ アヤシキツク タエタルキハマリ-来[テ]ヨル[ニ][テ]ヨスカモ/ヨルトコロ
…[動] なびく。ない。
よすか…[名] たよりにするもの。
詔(みことのり)曰(のたまへらく)
「師(いくさ)を乞ひ救(たすけ)を請(ねが)ひまつれり。之(こ)を古き昔(いにしへ)に聞こすに、
危(あやぶめる)を扶(たす)け絶(たゆる)を接ぐは、恒(つね)の典(のり)自(よ)り著(あらは)れり。
百済国(くたらのくに)窮(きはま)り来(き)て我に帰(つ)けるは、
以ちて本邦(もとつくに)喪(ほろ)び乱(みだ)れて依(よるところ)靡(な)く告(つげむひと)靡(な)し。
枕戈嘗膽、必存拯救。
遠來表啓、志有難奪。
枕戈嘗胆…〈北〉 マクラシ  ナメ タモ拯-救 スクヒ 表-啓 マウス 
〈閣〉 ナメテ イノ  ヨリ  テ表-啓 マウス [句] 志有 ヿ
〈兼右本〉タモテリ/タモチ拯-救 スクイ /スクヘト云 
…[動] すくう。
戈(ほこ)を枕(まくら)して胆(い)を嘗(な)めて、必ず拯救(すくひ)を存(たも)てり。
遠(とほ)く来たりて表(ふみ)に啓(まを)せば、志(こころざし)を奪(うばふこと)難(かたき)に有り。
可分命將軍百道倶前、
雲會雷動倶集沙㖨、
翦其鯨鯢紓彼倒懸。
宜有司具爲與之、
以禮發遣。云々」。
分命将軍…〈北〉 オホセ百-道倶 ヨリ -前[句]  ワク コトク-㖨 タク キリ鯨-鯢 アタ  ノヘテ 倒- セマレル[句]有司 ツカサ\/為-與 アナヘアタヘ礼發遣 コトワリ タテ ツカハ
〈閣〉 コトク[切] コトク  テアツマリ  サトクニ 倒-懸セマレルヲ為與ソナヘ アタヘテ
〈兼右本〉-命ワカチ オホセ百道モゝノミチヨリスゝムノヘテン
…[動] まえにすすむ。(古訓) すすむ。
…[動] 先をそろえてきる。削って除く。
鯨鯢…雄のくじらと雌のくじら。また悪人の頭のたとえ。
…[動] ゆるめる。(古訓) とる。ゆるふ。のそく。
倒懸…手足を縛ってさかさまにつるす。苦しみのたとえ。
[可]将軍(いくさのかみ)に分(わ)け命(おほ)せて百道(もものみち)に倶(とも)に前(すす)みて、
雲(くも)会(あ)ひ雷(いかづち)動(ゆす)るがごとく倶(とも)に沙㖨(さたく)に集(つど)ひて、
其(その)鯨鯢(ひとごのかみ)を翦(き)りて彼(かの)倒懸(たしなみ)を紓(ゆる)へしめむべし。
宜(よろ)しく有司(つかさつかさ)具(とも)に為(をさ)め[之(こ)に]与(あづ)かりて、
礼(ゐや)を以ちて発(た)て遣(つかは)すべし。云々(しかしか)」とのたまへり。
【送王子豐璋
及妻子與其叔父忠勝等。
其正發遣之時見于七年。
送王子…〈北〉外-父 ヲチ 騰等/勝イ正發遣  シク タチ  之時 ユ
〈釈紀〉忠勝チウセウ。 〈兼右本〉王-子 セシム 正 マサシク
【[送]王子(わうし、せしむ)豊璋(ほうしやう) 及(およびに)妻子(めこ)与(と)其の叔父(をぢ)忠勝(ちうせう)等(ら)とをおくる。 其の正(まさしく)発(た)て遣(つかは)しし[之]時は[于]七年(ななとせ)に見ゆ。
或本云。
天皇立豐璋爲王立塞上爲輔、
而以禮發遣焉。】
塞上… 〈釈紀〉タテゝシヤウヲシテ 輔。タスケト 〈兼右本〉塞◳-上◱
或本(あるふみ)に云ふ。
天皇(すめらみこと)豊璋を立たして王(きみ)と為(し)たまひて塞上(さじやう)を立たして輔(すけ)と為(し)たまふ。
而(しかな)りて礼(ゐや)を以ちて発(た)て遣(つかは)す[焉]。】
十二月丁卯朔庚寅。
天皇幸于難波宮。
天皇、方隨福信所乞之意、
思幸筑紫將遣救軍。
而初幸斯、備諸軍器。
十二月…〈北〉十一月丁卯朔。〈閣〉十二月丁卯朔
〔〈斉明〉六年(庚申)は十一月戊戌朔、十二月丁卯朔である。よって十二月が正しい。〕
所乞之意…〈北〉所-乞 マウス オホスオモフ イテマシ筑紫ヤラント スク ヒ イクサ マツ
十二月(しはす)丁卯(ひのとう)を朔(つきたち)として庚寅(かのえとら)〔二十四日〕
天皇(すめらみこと)[于]難波宮(なにはのみや)に幸(いでま)す。
天皇、方(まさに)福信(ふくしん)が所乞之(こひまつれる)意(こころ)の隨(まにま)に、
筑紫(ちくし)に幸(いでま)して[将]救(すくひ)の軍(いくさ)を遣(や)らむと思(おもほ)す。
而(しかるがゆゑに)、初(はじめて)斯(そこ)に幸(いでま)して、諸(もろもろの)軍器(つはもの)を備(そな)へたまふ。
《美濃国不破郡》
(拡大)
美濃国 不破郡・方県郡 『事典 日本古代の道と駅』(木下良;吉川弘文館2009)に加筆
 不破郡については〈倭名類聚抄〉に{美濃國・不破郡}がある。位置は右図
 不破郡には、方県郡とは異なり唐人の存在を伺わせる地名は今のところ見出せない。
 さて、不破郡には不破関がある。ただし、 「不破関跡第1次~第5次調査では、一部7世紀末の可能性がある瓦もあるものの、出土遺物が8世紀初頭以降のものがほとんど」であることなどから、 その設置は8世紀初めと考えられている(『不破関後跡北限土塁調査報告書』岐阜県不破郡関ケ原町2023)。
 最近では、2023年8月27日に発掘調査の成果発表があった。それによると 「不破関資料館〔岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾21-1〕南側の2カ所計約30平方メートルを発掘し、8世紀前半の約60センチ四方の柱穴七つが見つかった。柱中心間の距離は各2・2~2・3メートル前後」、 「築地塀を巡らせ、初期より立派な施設に改修した」と見られるという (名古屋大人文学研究科考古学研究室、梶原義実教授;『岐阜新聞』2023年8月28日)。
《美濃国片県郡》
 片県郡については、〈倭名類聚抄〉に{美濃國・方縣郡・大唐郷}があり、大唐郡については次のように考察されている。
 ●『大日本地名辞書』は「大唐モロコシ」と訓み、 その根拠として『人丸集』※)の「あつまぢの諸越モロコシの里に織りてたつきぬをやからのきぬと云ふらむ」を示す。
 ※)…『人丸集』は柿本人麻呂の家集として、平安期に編纂された。「人麿集」「柿本集」とも。
 ●『濃飛両国通史』〔阿部栄之助;大衆書房1923/復刻版1969〕上巻は、 「今稲葉郡黒野村大字御望〔ごも〕の南にて、 西郷村の小野・中の間に、字大唐タイトあり」、 「尚席田郡の東北、〔ママ〕北野の字に、唐土てふ地名あり」、「されば当郷は西郷村の東半なる小・下西郷・小野・中村より、黒野村の、御望をも包みたるものならん」と述べる。
 ●『日本歴史地名大系』〔平凡社1989〕は、上記『濃飛両国通史』を引用して御望の南に大唐野たいとのがあると述べるとともに、 「隣接する川部地内に諸越もろこしの字名が残っている」と述べる。
 これらで挙げられた地名のうち、御望小野川部は、現在は岐阜市に含まれ、 北野は、本巣市に含まれている(右図)。
 『濃飛両国通史』は、大唐郷がこれらを〔諸越を除いて〕すべて包含する述べるが、あまりにも広すぎるので、もともとの大唐郷から唐人が分散して各地に小字名が生まれたと見るのが妥当か。
 なお、「諸越」の表記がいくつか見られることから、唐への書紀古訓「モロコシ」には一定の一般性が見える。
《王子余豊璋》
 〈舒明〉三年〔辛卯〕に百済から王子豊章が質として倭に送られた。 実際には、舒明十三年〔辛丑〕に送った可能性が高いと見た(《百済王子豊章》)。
 この年、福信は豊璋を迎えて国王に立てたいと要請した。 ところが、七年〔661〕四月にも「百済福信遣使上表。乞其王子糺解〔糺解は豊章の別名〕とあり、ダブっている。これは、遅いから催促したと読めないこともない。 しかし、実際には同一の出来事が異なる資料に書かれていていたものを、書紀は両方とも収めたと感じられる。詳しくは七年四月の段で論じる。
 豊璋の返還はどのように書かれているかを、『三国史記』、新旧唐書に見てみよう。
〈三国史記/百済本紀〉
文度※1海卒、以劉仁軌之。
武王従子福信、嘗将兵、乃与浮屠道琛、拠周留城叛。
古王子扶餘豊、嘗質於倭国者、立之為王。
西北部皆応、引兵囲仁願※2於都城
〔王文度は海を渡り卒去、劉仁軌をもって代える。
 武王の従子〔=甥〕福信は将兵を集め、浮屠(ふと)〔=僧〕道琛(どうちん)とともに、周留城を拠点にして叛した。
 古(いにしえ)の王子で嘗(かつ)て倭国の質となっていた扶餘豊を迎えて、王に立てた。
 西北部から皆が応じ、兵を引き、劉仁願のいる都城を囲んだ。〕
※1…「顕慶…五年…。以右衛郎将王文度熊津都督」(旧唐書/列伝第三十四)、すなわち義慈投降後に熊津都督に任命。
※2…「(顕慶五年)九月三日。郞将劉仁願、以兵一万人、留-鎮泗沘城」(新羅本記)、すなわち「都城」は泗沘城。
〈旧唐書〉列伝第一百四十九上/東夷-百済國
顕慶五年〔660〕…。 文度済海而卒。 百済僧道琛、旧将福信率衆拠周留城以叛。 遣使往倭国、迎故王子扶餘豊、立為王。 其西部、北部並翻城応之。 時郎将劉仁願留-鎮於百済府城、道琛等引兵囲之。
〈新唐書〉列伝第一百四十五/東夷-百済
顕慶五年〔660〕…。 文度済海卒、以劉仁軌之。 璋従子福信嘗将兵。 乃与浮屠道琛周留城反。 迎〔=古〕王子扶餘豊於倭、立為王。 西部皆応、引兵囲仁願
〈新羅本紀〉第六/文武王三年〔663〕五月(2) 
百済故将福信及浮図道琛、迎故王子扶餘豊、立之。
留鎮郞将劉仁願於熊津城
〔百済は、かつて将軍福信、及び浮図道琛は、昔の王子扶餘豊を迎え、〔王に〕立てた。
 熊津城〔実際は泗沘城〕で留鎮していた郞将劉仁願を囲んだ。〕
● 〈新羅本紀〉では、文武王三年条〔663〕の中で、過去に遡って述べる。〈旧唐書〉の顕慶五年〔660〕に相当。
 このように、新旧唐書・百済本紀では「扶余豊」と表記され、顕慶五年〔660〕のところに扶余豊を王に迎えたと書かれる。 書紀は、福信が豊璋の返還を求める書を送ったのが〈斉明〉六年〔660〕または七年〔661〕(下述)、 実際に送られた時期を661年または662年とする(下述)。
《佐平貴智達率正珎也》
 「佐平貴智達率正珎也」は意味が不明瞭である。「佐平貴智に加えて、達率正珎も」の意か。 別の読み方として、「佐平貴智は達率正珎なり〔=別説によれば佐平貴智ではなく、達率正珍である〕も考えられる。
《乞師請救》
 「乞師請救」のコフと訓む。しかし「いくさをこひ、すくひをこふ」では語彙の少なさをさらけ出すようで、やや恥ずかしい。 そのためか、書紀古訓はを「マウス〔=白す〕と訓む。しかしこれは婉曲した物言いで、意味が分かりづらくなる。
 コフネガフを使い分ける方法もある。 〈時代別上代〉は、ネガフを「他の人に言語をもって希望を述べる意でははく、心の中でかくあれかしと念ずる意に用い」るものと述べ、あからさまに要求するコフとの間にニュアンスの違いを見ている。 類聚名義抄は「:コフ アタフ」、「:コフ ウツ ネカフ」で、のみにネガフがある。 またイクサは外面的、スクフは内面的であるから、乞=コフ請=ネガフと訓み分けると、なかなかうまくいく〔但し、たまたまであろう〕
《君臣》
 「君臣」の古訓キミヤツコ。しかし、をヤツコと訓むのは一人称代名詞の遜称として用いる場合であって、君臣には当てはまらない。君臣は、君主と臣下の立場を表す語である。 の訓のうち、マヘツキミは臣の中でも上位の者で、主君に伺候する。 オミについては〈時代別上代〉は美称とするが、中臣=ナカトミ〔ナカツ-オミの母音融合〕の例を見れば、 幾分美称のニュアンスを含みつつも、基本的に主君に仕える立場の者を指すと見てよいだろう。
《百済王義慈其子隆等》
 義慈王以下俘となった顔ぶれは、六年七月の『伊吉連博徳書』十一月一日条とほぼ同じである。やはり太子がであるとする書き方になっている。 なお、百済本紀に「太子孝」が見られる問題については、前回《太子》の項で考察した。
 「隆等」については、新旧唐書・三国史記を見ればが名前で、「」は"etc."であることが分かる。 書紀古訓では「隆等」で一人の名前とするが、これは『旧唐書』などを参照していればあり得ない。 少し掘り下げてみると、日本紀講筵の最終は965年で、古訓はこの頃には固まっていたと考えられる。 〈釈紀〉〔1274年以後〕は、「定方ラカ隆等リウトウ」とするから、依然として古訓を踏襲している。 『旧唐書』は945年成立、『新唐書』は1060年成立、『三国史記』は1145年成立である。 『旧唐書』は日本紀講筵の最終には間に合い、『新唐書』・『三国史記』も〈釈紀〉に間に合っている。 よってこれらを参照しようと思えばできたはずだが、あまりその気はなかったようである。
《於七月十三日》
 「七月十三日」の前には写本によって「」、「」、「秋於」が付き、一定しない。もともとはのどちらかであったものが、誤写されたのだろう。 春夏秋冬は、編年体では四季の変わり目ごとに、文頭の月名につく。ここでは文頭ではないので、であろう。
《七月十三日》
 ここでは投降の日付が十三日であるが、〈三国史記-新羅本紀(太宗武烈王七年)〉では、七月十八日に「義慈率太子及熊津方領軍等、自熊津城来降」となっている (前回《義慈王の降伏》)。
《蓋是無故持兵》
 「なりこは故持兵」は、六年五月で「挙国百姓無故持兵往-還於道」を「百済国失所之相」と見たことを受けたもの。
《分命将軍》
 「分命将軍」は倭の救軍に向けた命令であるから、これまでの巻の読み方の原則に従えば将軍は倭読すべきものとなる。古訓はイクサノキミであるが、本稿は四等官に準じてイクサノカミと訓むことにしてきた。
慶州北道慶州市(金城に比定)
《沙㖨》
 沙㖨さとくほうは新羅の首都金城の行政区分のひとつ(大化五年是歳《沙㖨部》項)。 金城は、現在の慶州北道慶州市に比定されている(右図)。
 すなわち、命(おほせごと)は、百済から新羅まで網の目のように攻め進み、「沙㖨」に集結せよという。これは、倭軍の実力に似合わぬ誇大妄想に見える。
 しかし、作戦としては間違っていない。つまり、船師を分散して隠密裏に複数の津から上陸して、 それぞれの在地の地方勢力とともに、唐が五郡に置いた都督を一斉に攻め取りに行くのがよい。 そして倭が郡領を置いて、上に豊璋王を戴けばよいのである。
 しかし、実際には大船師をひと塊にして白村江に送り込んだ結果、一網打尽にされた。唐軍は、事前に察知していたと見られる。 この経過については、〈天智〉二年のところでさらに検討したい。
《以礼発遣》
 古訓では、「以礼発遣」のコトワリ(理)と訓む。その前にも、ノブ〔伸ばす〕倒懸セマレル〔敵からの攻撃〕為与ソナヘアタフ〔武器を用意して与える〕と訓み、原意からの乖離が大きい。
 もともとの意味は「礼=礼儀」、「紓=ゆるめる、ほどく」、「倒懸=坂さ吊りにするような苦しみ」、「為与=官司による軍の差配」である。 特にについては、官司はとかく兵士たちを見下しがちだが、大切な任務を背負って行くのだから礼をもって送り出せという意味であろう。 古訓者は、官司を批判するような物言いを嫌ったのかも知れない。
《正発遣之時見于七年》
 「発遣之時」については、〈天智即位前紀〉の〈斉明〉七年〔661〕九月に「於是、豊璋入国之時…」とあり、このときに入国したと読める。
 一方〈天智紀〉元年〔662〕五月には、阿曇比邏夫が「送豊璋等於百済国」とあり、重複している。
《大意》
 十月、 百済の 佐平鬼室(きしつ)福信(ふくしん)は、 佐平貴智(きち)らを遣じ、 参って唐の俘(とりこ)百人あまりを献上しました。 今の美濃の国の不破、片県(かたあがた)の 二郡の唐人たちがそれです。
 また、師〔=軍隊〕を要請し救いを求め、 あわせて王子(せしむ)余豊璋(よほうしょう)の返還を求めて申し上げました 【ある文献には、 佐平貴智(きち)は〔あるいは佐平貴智と〕達率(たつそつ)正珎(しょうちん)という。】。
――「唐人は我等の蝥賊(ぼうぞく)〔=敵〕を率いて やって来て、我等の疆埸(きょうえき)〔=国境〕を蕩揺(とうよう)し〔=揺るがし〕て、 我等の社稷(しゃしょく)〔=国家〕を覆して、 我等の君臣を俘(とりこ)としました 【百済王義慈(ぎじ)、 その妻恩古(おんこ)、 その子隆(りゅう)たち、 その臣佐平千福(せんぷく)、 国弁成(こくべんじょう)、 孫登(そんとう)たち全体で五十人余が、 七月十三日に 蘇(そ)〔定方〕将軍のために捕えられ、 唐国に送られた。 蓋(けだ)し〔六年五月に〕故無く武器を持っていたことは、その徴候であったか。】。
 しかしながら、百済の国は遙か天皇(すめらみこと)のお護りいただく心を頼り、 更に鳩集して、邦(くに)を成したいと存じます。
 まさに今、謹んで願わくば、 百済の国が天朝に使者を遣わし、侍る王子(せしむ)豊璋(ほうしょう)を迎え、 国主(こんきし)となすことを、云々。」
 天皇は詔(みことのり)を発せられました。
――「師〔=軍隊〕を要請し救いを請ってまいった。これについて古い昔から聞くところでは、 危うきを扶(たす)け絶えるのを接ぐことは、常に古典に著されたところから見る。 百済の国が窮して来て我が国に帰したのは、 本国が亡び乱れて頼るところも無く、告げる相手も無いことを以てのことである。 戈(ほこ)を枕にして胆(い)を嘗(な)めて耐えれば、必ず救いはあろう。 遠来、書状で申してきたからには、その志を奪うことは難きことである。
 将軍たちに分けて命じ、百の道をともに前に向かい、 雲が出会い雷が揺り動かすようにして進み、一同が沙㖨(さたく)で集まり、 その鯨鯢(げいげい)〔=悪党の統領〕を翦(き)り、かの倒懸(とうけん)を紓(ゆる)める〔=苦難から解放する〕べし。
 有司はともども差配して、 礼をもって出発させよ。云々 【王子豊璋 及び妻子と、その叔父忠勝(ちゅうしょう)らを送った。 出発させた正しい時は、〔天智即位前紀の〕斉明天皇七年に見える。 ある出典には、 天皇(すめらみこと)が豊璋を王に立て、塞上(さじょう)を輔(すけ)に立てて、 礼をもって出発させたという。】。」
 十二月二十四日、 天皇(すめらみこと)は難波宮(なにわのみや)にいらっしゃいました。
 天皇は、まさに福信の乞い求める心のままに、 筑紫に行って救軍を派遣しようとお思いになりました。 そこへ行かれて、初めに諸々の兵器を準備されました。


17目次 【六年是歳】
《天皇思幸筑紫將遣救軍》
是歲。
欲爲百濟將伐新羅、
乃勅「駿河國造船」。
已訖、挽至續麻郊之時、
其船夜中無故艫舳相反。
衆知終敗。
欲為百済…〈北〉ヲホシ百済クタラノマセ ウタ新- ント シラキ訖挽-ツクリヲハリ ヒキイタル續-麻 ヲミ  ノ之時無故ユヘモナク ヘ-舳 トモ反衆知 カヘレリ ヒト\/   ニ
〈閣〉續-麻 ウミ  ヲミ  也  ノ ニ。 〈釈紀〉ノゝ
〈兼右本〉 ヒトゝモ ヌ[ニ]- ラレン[ト]
をみ(麻績)…[名] 麻を績(う)むこと。(万)0023打麻乎 麻續王 うちそを をみのおほきみ」。〈倭名類聚抄〉{信濃国・伊奈郡・麻績【乎美】郷}、{信濃国・更級郡・麻績【乎美】郷}。
…[名] 古代都市国家の城壁の周囲。後に都市の周辺地域。
是歳(このとし)。
百済の為(ため)に将(まさ)に新羅を伐(う)たむと欲(おもほ)して、
乃(すなはち)勅(みことのり)のりたまはく「駿河(するが)の国は船を造れ」とのりたまふ。
已(すで)に訖(を)へて、績麻(をみ)の郊(の)に挽(ひ)き至りし[之]時に、
其の船夜中(よなか)に故(ゆゑ)も無(な)く艫(へ)舳(とも)相(あひ)反(かへ)れり。
衆(ひとたち)終(つひ)には敗れむと知りつ。
科野國言
「蠅群向西、飛踰巨坂。
大十圍許、高至蒼天。」
或知救軍敗續之恠。
有童謠曰、
科野国言…〈北〉科野 シナ ノ ハヘ ツラカレ コユ巨- オホ サカヲ サ イタテ ハカリ サ ■リ蒼- アメ敗-續 ヤフレム  シルシ■ト云 ワサ
〈閣〉 ニ[句] ント云フヲ野國 ニオワス  ムヘ ムラカレテ  レリシルマシト云フヲ童謡 ワサウタヲ 
むらがる…[自]ラ四 下二段の形は書紀古訓に見られる。
むる…[自]ラ下二 むらがる。
いだき(囲)…[助数詞] 円周一尋の円の面積。習慣的に1尋=6尺。正倉院尺で計算すると約1.8mとなる。よって1囲≒2.54m
蒼天…あおぞら。天。(万)2001従蒼天 おほそらゆ」。上代語にアヲソラという言い方は見えない。
敗績…戦争にひどくまける。
しるまし…[名] 不吉な前兆。
科野国(しなののくに)の言(まをさく)
「蝿(はへ)群(む)れて西に向(ゆ)きて、巨坂(おほさか)を飛び踰(こ)ゆ。
大(ふとさ)十(とほ)囲(いだき)許(ばかり)、高(たかさ)蒼天(おほそら)に至る。」とまをす。
或(ある)は救軍(すくふいくさ)の敗績(やぶれむこと)之(の)怪(あやしみ)を知る。
童謡(わざうた)有りて曰はく。
摩比邏矩都能
倶例豆例
於能幣陀乎
邏賦倶能理歌理鵝
美和陀騰能理歌
美烏能陛陀烏
邏賦倶能理歌理鵝
甲子騰和與騰
美烏能陛陀烏
邏賦倶能理歌理鵝
摩比邏矩都能…〈北〉
摩比邏矩都能マヒラクツノ 倶例豆例クレツレ 於能幣陀乎ヲノヘタヲ 邏賦倶能理歌理鵝ラフクノリカリカ 美和陀騰能理歌ミワタトノリカ 美烏能陛陀烏ミヲノヘタヲ[句] 邏賦倶能理歌理鵝ラフタノリカリカカウ騰和与騰トワヨト[句] 美烏能陛陀烏ミヲノヘタヲ[句] 邏賦倶能理歌理鵝ラフリノリカリカ[句]
〈閣〉
ノマ 二 三 四 矩◱五 一 六  八 九 豆◱七 十  十一 十二 十四 十三 十五  廿二 廿三 廿一 廿 十九 十八 十七 十六  廿四 廿六 廿七 廿五 卅 廿九 [句]廿八    卅一 卅六卅三 卅五 卅四 卅六  卅六卌四卌二卌一卅九卅八卅七 十八 カフ卌五  卌六 卌七  五十 卌八 卌七 五十  五十一五十二五十三五十五五十四五十六 六十三六十四六十二六十一六十五十九五十八五十七

●「豆例於社幣」の右に傍書能也交本社之字ニナシテ消之〔校本では能を消して社の字にしている〕
甲子…① きのえね。② 十干十二支。③ 年月。歳月。
摩比邏矩都能(まひらくつの)
倶例豆例(くれつれ)
於能幣陀乎(おのたを)
邏賦倶能理歌理鵝(らふくのりかりが)
美和陀騰能理歌(みわたとりか)
美烏能陛陀烏(みをのたを)
邏賦倶能理歌理鵝(らふくのりかりが)
甲子騰和與騰(かふしとわよと)
美烏能陛陀烏(みをのたを)
邏賦倶能理歌理鵝(らふくのりかりが)
〈釈紀-和歌〉
二マイ點 三ヒ四ラ五ク一ツ六ノ私記曰。翻云都摩比邏矩能ツマヒラクノ。妻開也。 八ク九レ七ツ十レ私記曰。翻云豆倶例例。言女作田也。 十一ヲ十二ノ十四ヘ十三タ十五ヲ私記曰。翻云於能陀幣乎ヲノタヘヲ。謂小野田也。 廿二ラ廿三フ廿一ク廿ノ十九リ十八カ十七リ十六カ私記曰。翻云鵝理歌理能賦邏倶。鴈々之飡也。 廿四ミ廿六ワ廿七タ廿五ト卅ノ廿九リ廿八カ私記曰。翻云美騰和陁能所名也。歌理鴈也。 卅ニミ卅一ヲ卅三ノ卅五ヘ卅四タ卅六ヲ私記曰。翻云烏美能陁陛〔烏〕。謂女田也。 卌三ラ卌四フ卌二ク卌一ノ卌リ歌カ卅九理リ卅八鵝カ卅七私記曰。翻云鵝理歌理能倶邏賦カリカリノクラフ。重讀前句也。 卌五カウ卌六シ卌七ト卌八ワ卌九ヨ五十ト私記曰。太子与我也。私記曰。義不逆。語翻也。甲子謂太子也云々。太子者諸子之長也。故云甲之子也。和凡者吾也。 五十一ミ五十二ヲ五十三ノ五十五ヘ五十四タ五十六ヲ私記曰。翻云烏美能陁陛烏ヲミノタヘヲ。謂女田也。 六十三ラ六十四フ六十二ク六十一ノ六十リ五十九カ五十八リ五十七カ私記曰。翻云鵝理歌理能倶邏賦カリカリノクラフ。再三讀前句也。
凡歌意者。斎明天皇者女帝也。仍以天下女之作田。如鴈之飡稻實兮不祥。遣百濟救軍之事。可敗續之童謠也。

〔斉明天皇は女帝なり。仍(よ)て天下を以て女の作り田に喩ふ。鳫の稲実を飧(くら)ふが如きは不祥なり。百済に救軍を遣(や)りし事の、敗績す可き童謡なり。〕
《勅駿河国造船》
沖田遺跡の位置~『富士山かぐや姫ミュージアム 館報』第32号(p.42)に加筆
※ 和田川(古称「生贄川」)が「稚贄屯倉」に近いと見られる。
 〈安閑紀〉二年に設置した二十六屯倉の一つに、稚贄屯倉がある。 その付近に、当時の造船施設があったのかも知れない。 そう思って調べてみたところ、ちょうどその場所に沖田遺跡があった。同遺跡は古墳時代の水運集団の拠点が推定され、準構造船を転用した棺が発掘されているという。
 「浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移」(藤村祥: 『富士山かぐや姫ミュージアム 館報』第32号/2016) は、沖田遺跡において「古墳時代前期から中期初頭には…低地部の集落では周辺で小規模な水田経営が行われた一方で、外洋と接続する田子浦港遺跡(後の吉原湊) や浮島沼の周縁地域を準構造船などで結ぶ水上交通網が当該期に発達したことにより、それらを実務的に管理する水運集団の拠点や墓域になっていった」(p.53)、 「準構造船転用木棺」は「地表下4m」に検出し(p.44)、「〔古墳時代〕前期後半に浮島沼水運網がさらに成熟した」と見ている(p.48)。
 しかし、同論文はまた「富士山の降灰…などの災害を被ったために、〔古墳時代〕後期以降は衰退した」、その後 「奈良・平安時代には…集落の再編によって…低地部には大規模な条里型水田が展開した」(p.53)と述べる。
 よって、飛鳥時代は衰退と再興の谷間にあたり、どの程度の勢力を保っていたかは分からないが、 〈安閑朝〉の当時も有力氏族であったからこそ、監視のために屯倉を設置したと見ることもできる。 飛鳥時代にも一定の勢力を維持していて水運を担い、勅を受けて船舶の建造にあたったことが考えられる。
《續麻》
 の旧字体であるが、「敗績」も「敗續」と書かれていて、 明らかにに通用して使われている。
《績麻郊》
 績麻郊は、どこであろうか。 
 〈姓氏家系大辞典〉は 「麻績連:麻績部の伴造家にして各地にあり。内・伊勢の麻績連と云ふは伊勢神麻績連と云ふに同じかるべし」 と述べ、天神本記にも触れている。
 その『先代旧辞本紀』巻三/天神本記では、「令三十二人並為防衛。天降供奉矣」の役割を負ったうちの一神が、「天八坂彦命。伊勢神麻續連等祖」である。
 〈倭名類聚抄〉には信濃国の二郷が載るが、〈氏名家系大辞典〉によれば麻績の分布は伊勢国が中心である。一般的に、氏族名はまた地名でもある。
 古訓は「續麻郊」全体を地名とせず、「續麻」の(の)とする。伊勢神宮を中心とする人里を都市に見立てて、その周辺を「」のいうのであろうか。
 あるいは、伊勢国には〈倭名類聚抄〉{伊勢國・多氣郡・麻續【乎宇美】郷〔ヲウミ〕}がある。 麻續郷の位置については、〈延喜式-神名帳〉{伊勢國/多氣郡/麻續神社}(比定社は麻続おおみ神社〔三重県多気郡明和町中海87〕)付近が考えられている。 船型埴輪が出土した宝塚一号墳〔三重県松阪市宝塚町120〕も近い(図上)。 この一帯が伊勢国の麻績の本貫で、この地の麻績は海洋氏族でもあったとすると話のまとまりがよい。そして、駿河国で建造された船を曳航する途中で、この地の津で一時停泊したわけである。
 船は駿河国で建造を終えると、筑紫まで曳航されたはずである。筑紫の湊の名称として「筑紫大津之浦」(〈斉明〉五年八月)、 「娜大津」(〈斉明〉七年、同年「長津」に改称)が見える。
 績麻郊を多気郡麻續郡あたりとした場合、稚贄屯倉―績麻郊―難波津―娜大津のコースは自然である(図下)。
《知救軍敗績之怪》
 「救軍敗績之怪」という。  これは巨大な蝿柱が移動するという異常な現象から、派遣した救軍が負ける危機を感じ取ったという意味である。 したがって、この文の「」は名詞でなければならない。 古訓シルマシはある程度定着しているが、書紀古訓による新語である可能性があり、ひとまず使用を避ける。
 形容詞アヤシの名詞形は、アヤシキ(連体形)、アヤシ-ミアヤシ-ビアヤシ-サが考えられる 〔シク活用なので、アヤシが語幹となる〕
 (万)1740に「恠常 あやしみと」がある(浦嶋子[4])。 これは「あやしといふ」という意味で、助詞はほぼ体言または名詞節を受ける。直接話法的の場合も、引用された文自体を名詞節として受ける。 これを見ると、上代に、アヤシの名詞形としてアヤシミが使われていたと見てよいだろう。
 よって、この文は「敗績の危機を感じる」意である。
 ここでは「」の古訓は「知るまじと云ふ」と読める。 これは、「アヤシブ⇒疑問を持つ⇒結果がどうなるか分からない」という順に考えて言い換えた結果で、 悪い予想をあからさまな言葉で表したくないという心理が伺われる。 ところが、この言葉は常に不吉な兆候の文脈で現れるから、いつしかシルマシがその意味をもつ単語として固定されたのではないだろうか。
《摩比邏矩都能》
 「摩比邏矩都能倶例豆例…」の童謡(わざうた)は、「古来著名な難解の童謡で、今日まで二十余解をみるが、いずれも納得されがたい」(『新編 日本古典文学大系』小学館1998)などと言われる。
 その一例として『集解』を見ると、羽倉東麻呂説を引用している。 その羽倉東麻呂〔1669~1736〕説は、「比邏矩(ヒラク)」は「船発つ」、「都能倶例(ツノクレ)」は「綱切れ」、「豆例(ツレ)」は「語助」〔助詞、助動詞〕、 「於社幣」は「於杜幣(オトヘ)」に作り、万葉集は舳を於と訓むから「舳と艫」、「陀乎邏賦倶(タヲラフク)」は「倒れ向く」という調子である。
 この東麻呂説に対して『集解』自身は、「於社幣」ではなく「於能幣」を採用し「美烏能ミヲノ」に音が近いなどと述べた上で、 「蓋童謡最有時俗之語不可通也〔そもそも童謡は当時の俗語だから必ずしも通じなくてもよい〕と持論を述べる。 なかなか興味深いが、両説ともに、そういう見方もあるかという以外に言いようがない。
 なお、『集解』〔河村秀根〕は以上を述べた後で、恐らく参考として〈釈紀〉説をそのまま載せている。
《歌意》
 古典籍を見ると、〈内閣文庫本〉による「〔=文字の順番入れ替え方式〕による解釈が〈釈紀-和歌〉に引き継がれ、〈兼右本〉もそれを踏襲するという順序と見られる。 〔なお、〈内閣文庫本〉には誤写によると思われる誤りが見られる。〕 〈北野本〉にはこの文字順替えは示されていないから、〈北野本〉の訓点の方が古いということになる。
 〈釈紀〉によると、この文字順替えは日本紀私記によるという。 その解釈で最大の問題は、鵝はほぼ濁音だから「鵝理歌理」はガリカリになることである。 上代語では、濁音からはじまる単語は基本的に存在しないので、区切り方まで遡って再検討することが必要になる。
 また「タヘ」のヘを無視したり、「ヲミ」をヲミナとすることには無理がある。 「於能幣陀」のだから、「小野田」は誤りである。の混同は平安時代から始まり、平安後期には一般化したという。 なお、現代の刊行本に至っても、をヲとしていることについては、全く納得できない。
 「美和陀騰」は地名と言い切ってしまえばそれまでだが、この地名は本当に存在したのだろうか。
 それでも、「理歌理鵝」に関しては、もとが「歌理鵝理」だったとすれば、カリカリの連濁となる。 これは『通証』が引く若冲の説でもある。 ただ、家々、人々、島々のような複数形の作り方がカリにも適用されていたかどうかは分からない。
 「」、「」、「食らふ」という語を組み合わせれば、意味のある文とすることが可能である。 ただ、雁が実際に田を荒らすことがあるのだろうか。これについて検索すると、 「近世社会において、農作物を喰い荒らす鳥獣には、鳥で烏・雁・雀・鳩・鴨など」があったという (「近世農民の害鳥獣駆除と鳥獣観」根崎光男;人間環境論集1(2)法政大学人間環境学会)。
 これらから、こと「ラフクノリカリガ」に限っては「カリガリノクラフ」を「」したと見ることが力を持つ。上代語にはを語頭とする名詞が一つもないことも、これを裏付ける。 鳫の複数形をカリガリとすることは許容したい。
 その他の部分については、「マヒラクツノ」は「真開く津の」と読めるが、「雁々が田を食らふ」とは場面が結び付かない。 また「クレツレ」はそのままではどうやっても意味がとれず、この二句についても「」を採用せざるを得ない。 その他の部分は何とか「」を用いないことにすると、一応次のように読むことができる。
 く妻の 作れれ おの雁々かりがりの喰らふ 三輪田とかり 水脈を 雁々の喰らふ 甲子かふし我世わよと 水脈の辺田を 雁々の喰らふ
〔  墾田する妻は、作ってしまえ。だが自らに向けた田に雁たちが来て稲の実を食らう。それは三輪の田にいるという雁。水流の辺りの田で雁たちは食らう。永久の歳月も、自らの歳月も水流の辺りの田で雁たちは食らう。 〕
 ツクレレは、ツクレ+リ〔完了〕の命令形〔=作ってしまえ〕。 三か所のについては、オノヘは「己へ田〔自分のための田〕ヲノは「水脈の辺〔の〕〔水流のあたりの田〕とする。 ミワタは、大神オホミワ神社のある「三輪」〔の〕と読む。 甲子は、その意味のひとつ「年月」を取る。 我世は普通はワガヨだが、ガを省略したワヨもあったことにする。 すなわち「永久(とわ)の世と私の世」。
 このようにしても、決して充分には納得できないが、それでも上代特殊仮名遣いだけは何とかクリアした。
 歌意については、基本的に釈紀の見解を踏襲する。その見解とは、斉明天皇による救軍の派遣を妻の手による墾田に譬え、敗績を雁の群れに米を食い尽くされることに譬えるものである。
 「」の対象は「まひらくつのくれつれひらくつまのつくれれ」、「りかかり」、「らふくのりかりがかりがりのくらふ」に留めた。 このように限定的にしたことについては、次の理由付けをする。
 すなわち「」は唐羅軍を、「雁々食らふ」は救軍の敗績を暗示するので、忌み言葉として文字をシャッフルした。 「墾く妻の作れれ」についても墾田は結局荒らされてしまったことを残念がって、原文を隠したと見る。
 他の部分は「」なしとするが、それでも 「水脈の辺」、「」の助詞の省略は、 意図的に分かりにくくするためかも知れない。だがこれについてはまだ確信がもてない。
 現時点では、ひとまず以上のように解釈しておく。
《大意》
 この年、 百済のために新羅を伐とうとお考えになり、 「駿河の国は船を造れ」との勅を発しました。
 船は既に完成して、曳航して績麻(おみ)の郊(の)に至った時、 その船は夜中のうちに、理由もなく艫(へ)〔船首〕と舳(とも)〔船尾〕が逆向きになっていました。 人々は、最後には敗れるのだろうと知りました。
 科野〔信濃〕の国が言上しました。
――「蝿が群がって西に向い、大きな坂を飛び越えて行きました。 〔蝿柱は〕周囲十囲(いだき)〔=18m〕ばかり、高さは蒼天に至りました。」
 あるいは、救軍が敗績(はいせき)〔=惨敗〕が危ぶまれることを知りました。
 次の童謡(わざうた)が歌われました。
――まひらくつの くれつれ おのへたを らふくのりかりが みわたとのりか みをのへたを らふくのりかりが かふしとわよと みをのへたを らふくのりかりが


まとめ
 船の建造地については、〈推古〉二十六年にも「安芸国造舶」がある。 古くは〈応神〉五年に「伊豆国造船」も見える。 〈斉明〉六年においても、各地に船の建造を割り振ったと見られる。そのうち、駿河国に造らせた船については曳航中の停泊地で奇妙な出来事があったから、その話が載ったわけである。
 「国」に命じたというから国司案件で、それだけ大事業であった。また国司が一定の権限を持ちつつあったことを伺わせる。
 前回、〈斉明紀〉には記述の時間的な行きつ戻りつがあったと述べた。 ここではさらに、豊璋返還の要請の時期、及び実際に帰国させた時期について記述の重複が見える。 単に文章の点検が不十分だっただけかも知れないが、そこには百済滅亡と救軍の敗北を書かざるを得ないときの書紀編者の心理的動揺が感じられる。
 さて、これまでに蘇我入鹿の誅殺を暗示した謡歌(わざうた)があったが、これについては、 書紀自身が謡歌の謎解きをした(〈皇極〉四年)。 しかし、今回の童謡(わざうた)については決着をつけることなく放置され、ここにも救軍敗北の衝撃が伺われる。 その結果、長年にわたってどれだけ多くの人に心のもやもやを残してきたことか。
 童謡の解釈については、私記のいうひるがへし説はにわかに信じ難い。しかし、上代語には「リ」を語頭に置く語はなく、元の形はカリガリで雁の複数形の連濁に相違ない。このことは翻しが事実であることを強く示唆する。 〈神武〉元年にある「倒語」(さかしまごと)も、翻しを意味すると考えられる。 したがって、翻しは戯歌の技法、あるいは忌み言葉、呪いの言葉として上代に存在し、日本紀講筵の時期にもその記憶が残っていたからこその解釈だと思われる。
 ただし、本稿の説においては、翻しはそれ以外考えられない部分にみに留めた。 実際にも全部が翻しではないだろう。さもなければ一義性が全く成り立たなくなってしまうからである。
 なお、本稿の説に確かな自信はないが、何とか一つの判断をして次に進みたかったのである。



[26-09]  斉明天皇(9)