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2024.01.05(fri) [26-07] 斉明天皇7 ▼▲ |
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14目次 【六年七月】 《覩貨羅人乾豆波斯達阿》
高麗使人乙相賀取文の一行百余人は、今年正月一日に筑紫に泊り、五月に難波館に到着していた。そして、この七月に帰国した。 かつて二年八月に高句麗から達沙が遣わされ、九月に膳臣葉積らを派遣している。 そのときは、新羅に対抗する高句麗百済連合に倭も加わるように誘い、倭は協議に応じたと見た (二年《遣高麗》項)。 今回も協議の中身は書かれていないが、既に前年十二月に唐が「国家、来年必有二海東之政一」ということを伊吉連博徳は聞いていたから、 百済侵攻計画は既に準備されていた。高句麗はその前兆を察知していて、それを知らせて協議するために使者を送ったのかも知れない。 《覩貨羅人乾豆波斯達阿》 倭に渡来した覩貨羅人については、白雉五年の【吐火羅国】でその渡来の全体像を見た。 白雉五年四月に「吐火羅国男二人女二人舎衛女一人、被レ風流来二于日向一」、 〈斉明〉三年七月己丑に「覩貨邏国男二人女四人漂二-泊于筑紫一」、 同辛丑に「飛鳥寺西」で「饗二覩貨邏人一」とあった。 そして乾豆波斯達阿は、本国から正式に朝貢使を送るようにはたらきかけようと考えるに至ったのである。 《為表》 書紀では表は、外国から遣わされた使者が朝廷に提出する文書を指す。 しかし、ここでは妻を残すことが「表」で、必ず戻ることの証とする。 《与数十人入于西海之路》 このとき「数十人」とともに帰ったというから、吐火羅(覩貨羅)からの渡来人は既に相当の人数に上っている。 書紀に載る渡来記事は、そのごく一部に過ぎないことが分かる。またその書き方の移り変わりがあり、白雉五年に初めてやってきたときは、奇異の目で見られていたようである。 白雉五年四月の「舎衛女」から、「舎衛婦人」(〈斉明〉五年三月)となり、〈天武〉四年には呼び名こそ「舎衛女」だが、百済王善光と並べて書かれているから貴人と扱われていたと見られる。 倭国に渡来した覩貨羅人の数が増えるとともに、その地位は確実に向上している。 なお、これまでの書紀の記述では「西海之路」は百済経由の遣唐使の航路を指している。 よってここでも長安を経由し、シルクロードを通って西域の睹貨邏国〔玄奘『大唐西域記』で「旧曰二吐火羅国一訛也」と註される〕(Tokhara)に帰ったと見る (白雉五年【吐火羅国】項参照)。 《道顕日本世記》 道顕は高句麗出身の僧で、〈天智紀〉の二箇所にその発言が載る。 『日本世記』については。道顕の著書の逸文以上のことは分からない。 なお、「高麗沙門道顯日本世記曰」以下の原注は、本来は「沙弥覚従等来奏曰「…」」の後に書かれるべきものであろう。 ここから以後、時間の行きつ戻りつが激しい。 《春秋智》 春秋の書紀での初出は大化三年。 『三国史記』新羅本紀によれば、654年に新羅王に即位して「太宗武烈王」と呼ばれる。百済を滅亡させた役では親征した。 《蘇定方》 蘇定方は唐の武将で、百済滅亡戦の前に西域で戦った。 ――『旧唐書』顕慶二年〔657〕「討二賀魯一」。 ――同三年〔658〕「攻二-破西突厥沙缽羅可汗賀魯及咥運、闕啜一」。 すなわち、西突厥のこの賀魯を討った。この経過に少し踏み込むと、 582年に突厥〔中央ユーラシアの大国〕が東西に分裂。650年には、 ――『旧唐書』巻四「瑤池都督、沙缽羅葉護阿史那賀魯以レ府叛。自称二可汗一。総有二西域之地一」。 すなわち、賀魯は西突厥の都督に任じられたが、やがて自身の領土として唐から独立し、沙缽羅可汗を号とした。そして ――『旧唐書』巻一百九十四/突厥下西突厥「俘賀魯至京師。令献於昭陵及太廟。詔特免死」。 すなわち、賀魯は蘇定方軍に敗北し、俘虜として京師に連行されたが、詔によって死を免じられた。 なお、天子が賀魯を昭陵と太廟に献じさせたのは、本人が先帝には恩があるから処刑される前に昭陵〔太宗李世民が眠る〕に墓参して謝罪したいと請うたからである。 ここで賀魯が死を免れたことは、義慈王への処置の先例となった。両者に対する寛大な措置の背景には、羈縻(きび)政策が伺われる(下述)。 中国においては西域と東夷への外交が同時期に相似形で進む傾向があり※)、ここでもその伝統に沿ったものと言えよう。 その東西の役の両方に、蘇定方が関わっていることが興味深い。どちらも塩漬けの首ではなく俘虜として連れ帰ったのは、羈縻(きび)政策を理解していたためと思われる。 なお、蘇定方は百済征伐の後は、龍朔二年〔662〕「破二高麗於葦島一、又進二-攻平壤城一、不レ克而還」とある。 ※)…魏志倭人伝における、倭国と大月氏国(魏志倭人伝(29))。 『梁書』における、「鎮西将軍」と「征東大将軍」(倭の五王『梁書』)。 《撃百済亡之》 道顕『日本世記』は「借二大将軍蘇定方之手一使下撃二百済一亡上レ之」と述べる。 義慈王が投降した日付は、『三国史記』新羅本記によれば「七月十八日」であった (下記【百済の滅亡】項)。 《君大夫人》 「君大夫人」の君は百済王で、百済から倭に亡命した貴族の間では実際にコキシ、コニキシ〔発音はコンキシと見られる〕と呼ばれていた(第141回【新羅王】項)。 「大夫人」は正妃の意味で間違いないだろう。古訓はハシカシ、コキシハシカシと振られているが、どの程度正確かは疑問である。 " 「 この語順での「女」は娘の意だが、大夫人の娘に「誅殺賢良」するような権力があるとは思えないので、大夫人自身の行為であろう。 よって「 《国柄》 柄の古訓カヒは、手ごたえ、効果の意。 (万)3810「味飯乎 水尓醸成 吾待之 代者曽无 直尓之不有者 うまいひを みづにかみなし あがまちし かひはかつてなし ただにしあらねば」。 左注に「昔有娘子也 相別其夫望恋経年 尓時夫君更取他妻正身不来徒贈褁物 因此娘子作此恨歌還酬之也」、 〔ある娘子が長い間夫を待っていたのに、他に妻を作って来ないことを恨みを歌で酬いる〕とあり、 酒を醸して待っていたのに甲斐がなかったという意味。よってカヒという上代語は確かに存在した。 しかし、クニカラという語も存在した。 〈時代別上代〉所引の『琴歌譜』(平安初期以前)に「そらみつ大和の国は…久爾可良…」とある。 よって、一般的な語ではないという理由でクニカラを避ける必要はないだろう。 《蓋金》 蓋金については、『三国史記』巻四十九/列伝第八に「蓋蘇文。或云蓋金。姓淵氏」が見える。 『三国史記』高句麗本紀/宝蔵王元年に「建武王〔栄留王〕在位第二十五年〔壬寅;642〕、蓋蘇文弑之。立蔵継位。新羅謀伐百済,遣金春秋乞師、不従。」 〔蓋蘇文は建武王を殺し宝蔵王を立てる。新羅は百済征伐を謀り金春秋を遣して蓋蘇文に出兵を求めたが拒否した〕とある。 これが「不レ得二願於内臣蓋金一」の中身で、このために金春秋は唐を頼らざるを得なかったという文脈になっている。 《伊吉連博徳書云》 ここからは、五年七月条で引用された「伊吉連博徳書」の続きと見られる。 そこでは、百済征伐の間長安で長く幽閉されて苦しんだところまでであった。 《八月百済已平之後九月十二日》 『旧唐書』、『新唐書』では、百済軍を敗北させた日付は八月十二日となっている(《義慈王の降伏》項)。 《還到東京》 九月十九日に西京(長安)を発ってから、十月十六日に東京(洛陽)に着くまで26日間を要している。 前年には、同じ区間を14日間で行った(五年七月条)。 このときは、「乗レ駅」〔馬車を用いた〕だったが、今回は徒歩だったのだろう。 なお、西安(34.3N,109.0E)・洛陽(34.7N,112.4E)間の直線距離は314.5km。26日で割ると12.1km。 道直比1.3として道路距離15.7km、一日に5時間歩くとすると平均時速3.1km/hで、大体ありそうな値となる。 《始得相見阿利麻等》 前年九月十五日に石布連船は嵐に遭い爾加委島に漂着した。 石布連らは殺された〔積みこんでいた献上品目当てであろう〕が、「東漢長直阿利麻坂合部連稲積等五人」は船を盗んで逃げ、括州に到着した。 そして官人によって洛陽まで送られた。ここでやっと吉祥連一行と合流することができたのである。 感激の再会であっただろう。 《十一月一日》 十一月一日は、『旧唐書』で蘇定方が俘とした義慈王一行を則天門で天子に献上した日付に一致する(《義慈王一族を唐に連行》項)。 《太子》 〈百済本紀〉には「与二太子孝一、走」あるから太子の名は孝で、 「王子泰、隆、演」とあるから「隆等」は「隆など」の意味である(《義慈王の降伏》項)。
したがって、「太子孝」が誤りか、または俘になってから唐に連行されるまでの間に「太子隆」に変更されたかのどちらかである。何があったのだろうか。 《奉進朝堂》 『旧唐書』では、蘇定方が俘を献上した会場は「則天門」である。 則天門は、『新唐書』巻五高宗下永淳二年〔683〕に見える。他に『新唐書』咸亨元年〔670〕「震電,大風折木,落則天門鴟尾三」もある。 百度百科には「隋唐洛陽城宮城」項に「南面六門:中為二応天門(原名則天門、又称五鳳楼)一」とあり、則天門は応天門に改称された。 則天門は洛陽城の南面の中央門であるから、「朝堂で奉進した」と書き表すことに問題はないだろう。 《急引》 「引」への古訓「ヰイ」については下述する。 《恩勅》 百済国を敗北に追い込んだのだから、その統領たる王は死刑かと思われるが以外にも「恩詔」を賜る。 百済本紀と『旧唐書』にも「責而宥之」と書かれているから、恩詔であることは確かである。 さらに死後は卿に取り立てて「金紫光禄大夫衛尉卿」の号を賜り、葬儀への旧臣の臨席まで許可する。 それは、唐による統治方式として百済の諸族の首魁を追放することなく、地方官に取り立てる策を用いたことと関係があろう。 前支配者の罪を赦し追慕を許容することによって、統治を円滑に進めるようとするのである。 これは三年前の賀魯への処置に准じたものと言える(上述)。 新羅が容赦なく残党狩りに突き進んでいるのとは対照的である。 《見前放著》 もし、「見前」が天子による引見中であったことを意味するなら、「恩勅」とは書く順番が逆である。 「見前」とは基本的に「目の前でことが起こる」意である。ここでは、主語は群衆あるいは伊吉博徳自身とするのがよいであろう。 恩勅を賜ったあとの「見前放著」は、目の前で縄を解いて自由にされるのを見て驚いたと読むこともできる。 ならば「放著」はユルス〔赦す〕と意訳するよりも、直訳〔はなちおけり〕の方がよい。 伊吉博徳は「於則天門責而宥之」を現場で目撃した可能性が高く、その場合『伊吉連博徳書』が真正の一次資料ということになる。 〈兼右本〉は放著を放着に変えたが、よって現場感覚で書かれたことは貴重なので変えずに置く方がよい。 《大意》 七月十六日、 高麗(こま)の使者、乙相賀取文(おつしょうがしゅもん)らが帰国しました。 また、覩貨羅(とから)人、乾豆波斯達阿(けんずはしたつあ)は、 本国に帰り使者を送るよう要請しようと考え 「願わくば後日、貴国に朝(ちょう)したい。 故に、妻を留めることでそれを表します」と申しました。 こうして数十人と共に西海路に入りました。 【高麗の沙門道顕(どうけん)の日本世記(にほんせいき)にいう。 ――七月、云々、 春秋智(しゅんじゅち)は、 〔唐の〕大将軍蘇定方(そていほう)の手を借り、 百済を擊って亡ぼさせた。 或いはいう。 ――百済は自ら亡んだ。 君〔=国王〕の大夫人はその妖女の無道によって、 擅(ほしいまま)に国柄を奪い、賢良を誅殺した。 故にこの禍いを招いたのである。 慎まざるべきや、慎まざるべきや。 その注にいう。 ――新羅の春秋智は、 〔百済の〕内臣蓋金(ごうこん)に願うが入れられなかった。 よって、こんどは唐に仕えて国俗の衣冠を捨て、 天子に請(ねが)い媚びて、 禍(わざわい)を隣国に投じた。 このようにして、心と行いを構えた。 伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)の書にいう。 ――庚申年〔斉明六年〕八月に百済を平定し終えて後の 九月十二日、 客〔博徳一行〕を本国に解放した。 十九日、 西京〔=長安〕を発つ。 十月十六日、 東京〔=洛陽〕に帰還して、 始めて阿利麻(ありま)ら五人との再会を果たした。 十一月一日、 将軍蘇定方らによって 捕えられた百済王以下、 太子、隆(りゅう)はじめ諸王子十三人、 大佐平(たいさへい)沙宅千福(さたけせんぷく)、 国弁成(こくべんしょう)以下三十七人、 併せて五十人許(ばかり)を、 朝堂に奉進し、 ただちに引き立て天子のところに向かわせ、天子は 恩勅を賜り、〔群衆の〕目の前で解放した。 十九日に 賜労していただいた。 二十四日に 東京〔=洛陽〕を発った。】 15目次 【六年九月】 《沙彌覺從等來奏》
「引搆唐人」の「引」への古訓「ヰイ」は、「ヒキ」の転であろう。キ⇒イは音便である。ハ行⇒ワ行については、 「特に十一世紀後半以後、語中語尾のハ行音がワ行音に推移する地滑り的変化が起こった」という(『日本語の発音はどう変わってきたか』釘貫亨;中公新書2023)。 しかし、語頭のヒ⇒ヰは類例を見ない。古語辞典類にもヰクは載らず、かつ現代には伝わらない。 《略無噍類》 「略無噍類」の略は古訓ではホゝ〔ホボ〕、オホムネと訓まれるが、本当は略奪ではないだろうか。ホボなら紛らわしさを防ぐために、概、凡、粗を用いるように思われる。 噍類〔=生類〕は、対象が倭人ならオホムタカラと訓まれるべき語であろう。なお、古訓ノコレルモノは意訳である。
新羅本紀によれば、唐の定方軍は船で伎伐浦に到達し、百済と会戦して七月十日に陣を構えた。百済本紀によれば、その地は「白江」だという。 したがって、伎伐浦からの上陸地が尾資之津で、かつ白江の河口付近ということになる。 白江は一般的に錦江に比定されている。有名な「白村江」も『唐書』巻199(東夷)の百済伝には 「仁軌遇二扶餘豊之衆於白江之口一、四戦皆捷〔=勝〕。焚二其舟四百艘一」とあり、やはり白江の河口である。 《怒受利之山》 百済本紀では、新羅軍は炭峴から入った。新羅本紀では七月九日に黄山之原で激戦の末新羅軍が勝利する(《唐新羅軍と百済軍との会戦》項)。 現代地名として「炭峴駅」があったが、かなり離れている。論文「白江及び炭峴について」(池内宏〔東洋学報21(2);東洋文庫1934〕 では、あれこれ候補地を想像するのみなので、1934年の時点で「炭峴」と言い得る確かな場所は存在していなかったようである。 炭峴、黄山之原、怒受利之山は相互に近く、かつ新羅と百済の境界に近いと思われる。 「怒受利」の発音は「任存」に似るが、同じとすることには問題がある(次々項)。 《鬼室福信》 鬼室福信は〈斉明〉六年十月に「乞レ師請レ救、并乞二王子余豊璋一」、すなわち援軍と豊璋の返還を求めた。 百済本紀には「武王従子福信、嘗二将兵一。乃与二浮屠道琛一、拠周留城叛。迎二古王子扶餘豊一、嘗質二於倭国一者、立レ之為レ王。」 〔武王〔在位600~641〕の甥福信は将兵を集め、浮屠〔=僧〕道琛とともに周留城(するさし)を拠点に叛乱した。昔の王子扶餘豊はかつて倭国の質で、立てて王とした〕とある。 〈天智〉二年〔663〕六月に「百済王豊璋、嫌三福信有二謀反心一」し、「勒二健児一斬而醢レ首」すなわち斬られて首を塩漬けにされた。 この福信が殺されたとされる時期は、百済本記の662年七月と大きく食い違っている(次項)。 『旧唐書』(列伝149上)、『新唐書』(列伝145)ともに龍朔二年〔662〕七月の項にあり、百済本紀と同じである。
任射岐山は「或本には北任叙利山と云ふ」と付記される。この「任叙利」は 百済本紀の「任存城」、新羅本紀の「任存大柵」の「任存」と発音が似るから同じところかも知れない。 さらに、前出の「怒受利山」も同じく任存のように思われるのだが、 任存城の比定地は西寄り(右図)だから、新羅との境界の怒受利山は、任存城とは一致させられない。 よって、ひとまず任叙利山と怒受利山とは別のところにある山だったが名前が同じなので、両者を区別するために「任叙利山」の方に「北」を付けたのだと整理しておく。 かく仮定すれば、「任射岐山或云北任叙利山」の方は任存と一致させやすくなる。 任存は、百済本紀、新羅本記において繰り返し出てくる有名な地である。 よって、書紀の「達率【闕名】」らによる報告にも任存にあたる地名が出てくることは、十分あり得ると見てよい。 そこで、福信の活動及び任存での攻防の経過をまとめ、書紀に書いてあることと噛み合うかどうかを探る。
Cで新羅が「任存大柵」を攻める。攻められる前にそこに立てこもっていた百済軍の中に福信がいたとすれば、 Eで使者の言う「鬼室福信赫然発憤拠任射岐山」にぎりぎり間に合う。 百済本記、新旧唐書では、福信が任存城に入ったことがJではじめて明記される。 このJが、書紀では誤ってEの中に紛れ込んだ可能性もある。なおも山の名が任射岐山、北任叙利山と揺れるところに、伝承としての不確かさが見える。 それでも、三国史記、新旧唐書には書かれていない「余自進」の名前が書紀にはあることから見て、書紀独自の資料があったことは考え得る。 その中に、余自進が熊津城を守っていた頃(A~B)、「鬼室福信は 任射岐山或云北任叙利山(=任存城)にいた」ことが含まれていたかも知れない。 なお、白村江の戦い(M・N)が終わった後、百済軍が総崩れになる中で、Oで「遅受信」が独り任存城を死守したとある。 このように、任存城はしばしば登場する重要拠点であった。 《余自進》 次項で見るように、余自進は〔660年〕七月十三日~十八日の間、熊津城の「固守」に加わっていた可能性がある。 それに当たる文が「達率餘自進、拠二中部久麻怒利城一」かも知れない。 〈天智〉二年〔663〕九月、帰国する「日本船師」とともに倭に逃れた。 〈天智〉八年、「余自信」〔自進〕と百済の帰化人700人が「近江国蒲生郡」に居住地を得、同九年七月に冠位「大錦下」を授かる。 《久麻怒利城》 「久麻怒利」が熊津であることはほぼ確定している(〈雄略〉二十一年《久麻那利》)。 熊津は百済の旧都で、蓋鹵王二十一年〔475〕に漢城から熊津に遷都、聖王十六年〔538〕に熊津から泗沘に遷都した(《百済の位階》)。 新羅本紀によると、義慈王と王子らは、七月十三日に泗沘城を脱出して熊津城に入った後、十八日に投降(上表B)した(《義慈王の降伏》)。 十三日以後、第二王子の「泰」が熊津城に残り「率レ衆」して「固守」している(《義慈王の降伏》項)。 《前役》 「前役」の役への古訓「エタチ」はもともとは税の一つ、公役を意味する。 戦時になれば、エタチは人民が駆り出される「戦役」となる。そこから、戦争そのものを意味する語に転じたと見られる。 《新羅軍破》 「新羅軍破百済奪其兵」は、「新羅軍破二百済一奪二其兵一」 〔新羅軍は百済を破り、その兵〔=武器〕を奪う〕以外には読めない。ところがこれでは文脈に合わないから、 古訓は文法を無視して「新羅軍が破れる」と読む。このような無理をせざるを得なかった原因は、「故以棓戦[句]新羅軍破[句]」と句点をつけたところにある 〔北、閣、兼右本のすべてがこうなっている〕。 そうではなく「故以レ棓戦二新羅軍一破[句]」とすればよいのである。 つまり、百済側に兵器は尽きたが代わりに「棓」というものを使って新羅と戦い、それでもなんとか勝ち、兵器を奪った。 大局的には百済は亡びたが、ここでは一断面としての局地戦での奮戦ぶりを報告したものであろう。 「保二王城一」とあるから、義慈王らが脱出する七月十三日以前のことか。「前役」〔これまでの戦闘〕で武器が尽きたというから、攻撃は波状的に繰り返されたのであろう。 《棓》 棓は珍しい文字で、後の写本等に次のような説明が加えられている。 ――〈閣-頭注〉棓:方垢反、撃也、又把也。易曰君子棓多益寡、棓猶減也。又蒲溝切。又詩曰禽皇棓克謂衆僉殳也。 棓:杖也。打也。歩項切。又連枷也。 ――〈釈紀〉棓ツカナキ:私記曰「蒲𥂸反。『淮南子』云「翠死於桃棓※1」。『許升重』※2曰「棓:大杖也」。『玉篇』曰「歩項反、杖也、又連枷也」。 ※1…『淮南子』の原文は、(詮言訓)「羿死於桃棓」で、羿(げい)〔または后羿(こうげい)〕は中国神話の英雄で、最期は桃の木の棍棒で打ち殺された。 ※2…『因明論疏明燈抄』巻第一末〔僧善珠781〕にも「許升重曰綰貫也」とあったから、許升重は言語学者であろう。それ以上のことは分からない。 ――〈兼右本〉「棓:蒲講反。大杖也。」〔以下〈閣-頭注〉と同じ〕 発音はさまざまな半切で表されているが、共通して「h子音+オウ=ホウ」と見られる。 ●漢和辞典では「①こんぼう。大きな杖。②穀物を討って殻を取る農具。連枷」(『学研新漢和』)。 ●和訓のツカナキは、〈時代別上代〉では、ツカ〔把〕+カナキ〔カネのようにかたい木〕と解されている。ここ以外にツカナキの用例はないようである。 武器が底をついたので、武器とはとても言えない大きな杖、あるいは棍棒のようなもので戦ったと読み取ることができる。ならば、訓はツヱで充分だろう。 《福信等…共保王城》 「福信等遂鳩集二同国一共保二王城一」は、自進は熊津城から出て、また福信は任存城から出て、二人とも泗沘城に入ったという意味である。 それが実際にあり得たかどうかを検討してみよう。 ①上表Bの七月十八日には、熊津城に籠城していた義慈王らは投降して、臣下一同とともに捕虜となった。自進はそこからうまく逃げることができ、泗沘城に入った。 ②Cの八月二十六日には、新羅軍は任存柵に立てこもる残党に手を焼き、一旦撤退している。だから、八月には百済軍が任存柵を占拠していた。 但し、福信は八月の始め頃に任存柵から離れて泗沘城に移ったとする。 ①②のようにして、二人は八月には泗沘城に揃っていた。その後九月三日(D)に、唐の「郞将劉仁願」が泗沘城を「留鎮」した。 福信らはこのとき殺されず、捕虜にもなっていないから、何らかの交渉が成立して無事に泗沘城から退去することができたとする。 このように仮定すれば、二人が泗沘城に入っていた時期〔八月はじめ頃から九月三日まで〕を一応は確保することができる。 《同国》 「同国」への古訓「カナフクニ」にあてはまるのは、倭と高句麗であるが、この段階ではまだ派遣されていない。 百済全土が戦場となり百済人、新羅人、唐人が入り乱れている中で、その中の百済人を集めるという意味と見られる。 《唯福信…興既亡之国》 亡びた国を再興することは、人々の願いであった。 最終的に敗北したとは言え、局所戦では福信が勝利する場面もあった。 この福信の優れた才に注目して、再興のリーダーに推し立てようとするのが文章全体の流れである。 自進もまあまあがんばったが、福信の方がより相応しいということであろう。 《大意》 九月五日、 百済は達率(たつそつ)【名を欠く】、 沙弥覚従(しゃみかくしょう)らを遣わし、来て申しました 【ある出典には、逃げて来て難に遭ったことを話したとある。】。 ――「今年の七月に、 新羅は力を恃(たの)んで勢いを強め、隣に睦(むつみ)しなくなり、 唐人を引き込んで、百済を傾け覆しました。 君臣すべては虜となり、略奪して噍類(しょうるい)はいません 【ある出典にいう。 今年七月十日、 大唐の蘇定方(そていほう)は、 水軍を率いて、尾資津(びしのつ)に軍を展開した。 新羅王、春秋智(しゅんじゅち)は兵馬を率いて、 怒受利山(のずれむれ)に軍を展開した。 百済を挟み撃ちして会戦三日、 我が王城を陥(おと)した。 同月十三日、 初めて王城を破った。 怒受利山は、百済の東の境界にある。】。 このとき、西部(せいほう)恩率(おんそつ)鬼室(きしつ)福信(ふくしん)は、 赫然(かくぜん)と発憤して任射岐山(にさきむれ)を拠点として 【ある出典には、北任叙利山(きたのにじょりむれ)という】、 達率(たつそつ)余(よ)自進(じしん)は、 中部(ちゅうほう)の久麻怒利城(くまぬりさし)を拠点として 【ある出典には、都々岐留山(つつきるむれ)という。】、 各々一カ所に軍営して、散り散りになった兵卒を誘い集めました。 武器ははこれまでの役で尽きました。 よって、棓(ばい)〔=棍棒(こんぼう)〕で新羅軍と戦い破り、 百済はその武器を奪いました。 その結果、百済の武器は却って鋭く〔=強力に〕なり、 唐は敢えて入りませんでした。 福信らは、 遂に同国から鳩集(きゅうしゅう)して〔寄せ集めて〕共に王城を守りました。 国人は尊びて 『佐平福信、佐平自進のうち、 唯福信こそ、神武の謀を起こして、 既に亡んだ国を興すだろう』と申しております。」 【百済の滅亡】 『三国史記』、『旧唐書』、『新唐書』から百済滅亡の経過を読み取る。 《唐高宗の詔》
《唐新羅軍と百済軍との会戦》
右将董宝亮は、このままでは新羅軍が唐軍に歯向かうことになると言ってとりなし、定方もそれを容れて金文穎の罪を赦した。 《義慈王の降伏》
新旧唐書では、百済を平定した日付として八月〔己巳朔〕庚辰〔十二日〕となっている。 《唐による直轄》
《新羅による掃討》
七重城は当時新羅領にあった。高句麗に包囲され、二十日余の戦闘の末敗れる。匹夫は(三国史記巻四十七/列伝七) 最期は「飛矢如雨、支身穿破、血流至踵、乃仆而死。」 〔飛矢雨の如し、肢体は穿ち破られ血が踵まで流れた。こうして倒れて死んだ〕と描かれる (『三国史記』巻四十七/列伝七)。 《義慈王を洛陽に連行して引見》
まとめ 唐皇帝が義慈王に恩勅放著した場面は伊吉連博徳書にリアルに書かれ、この部分がもっとも史実性が高い。 一方、鬼室福信が登場するのは、『三国史記』、新旧唐書では義慈王放著〔660年十一月一日〕以降に限られる。 〈斉明〉六年〔660〕七月~九月の期間については福信の姿が見えるのは書紀のみで、その内容も漠然としている。 それでも、福信はこの期間のはじめに任存城、後に泗沘城に移って戦ったことが読み取れ、それを『三国史記』が描く過程の中になんとか組み入れることはできる。 書紀のこの段の記述は未整理のままなので、書かれていることを正確に読み取るためには三国史記や新旧唐書の精読が欠かせなかった。精読した部分は時期別に整理して、【百済の滅亡】項にまとめた。 精読中に見つけた新羅本紀の黄山の役や、『旧唐書』の西突厥の賀魯征伐の件は大変に面白かったが、本筋から大きく外れるので要約を載せるに留まっている。 『旧唐書』や『三国史記』が書かれたのは書紀より相当後の時代であるが、「蘇定方」と「福信」については書紀でも同じ表記を用いていて、その点では書紀の記述の正確性を示す。 さて、覩貨邏国が西域にあったことは、玄奘『大唐西域記』の存在や、遣唐使が長安や洛陽で西域出身の僧と交流を深めていたと考えられることから、明らかではないだろうか。 さらに、粛慎はもともとは沿海州を出自とする民族であった。 〈斉明紀〉は、アジア全域との交流を深める興味深い時代を描いている。 |
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2024.01.16(tue) [26-08] 斉明天皇8 ▼▲ |
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16目次 【六年十月~十二月】 《乞王子余豐璋》
不破郡には、方県郡とは異なり唐人の存在を伺わせる地名は今のところ見出せない。 さて、不破郡には不破関がある。ただし、 「不破関跡第1次~第5次調査では、一部7世紀末の可能性がある瓦もあるものの、出土遺物が8世紀初頭以降のものがほとんど」であることなどから、 その設置は8世紀初めと考えられている(『不破関後跡北限土塁調査報告書』岐阜県不破郡関ケ原町2023)。 最近では、2023年8月27日に発掘調査の成果発表があった。それによると 「不破関資料館〔岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾21-1〕南側の2カ所計約30平方メートルを発掘し、8世紀前半の約60センチ四方の柱穴七つが見つかった。柱中心間の距離は各2・2~2・3メートル前後」、 「築地塀を巡らせ、初期より立派な施設に改修した」と見られるという (名古屋大人文学研究科考古学研究室、梶原義実教授;『岐阜新聞』2023年8月28日)。 《美濃国片県郡》 片県郡については、〈倭名類聚抄〉に{美濃國・方縣郡・大唐郷}があり、大唐郡については次のように考察されている。 ●『大日本地名辞書』は「大唐 ※)…『人丸集』は柿本人麻呂の家集として、平安期に編纂された。「人麿集」「柿本集」とも。
●『日本歴史地名大系』〔平凡社1989〕は、上記『濃飛両国通史』を引用して御望の南に大唐野 これらで挙げられた地名のうち、御望、小野、中、川部は、現在は岐阜市に含まれ、 北野は、本巣市に含まれている(右図)。 『濃飛両国通史』は、大唐郷がこれらを〔諸越を除いて〕すべて包含する述べるが、あまりにも広すぎるので、もともとの大唐郷から唐人が分散して各地に小字名が生まれたと見るのが妥当か。 なお、「諸越」の表記がいくつか見られることから、唐への書紀古訓「モロコシ」には一定の一般性が見える。 《王子余豊璋》 〈舒明〉三年〔辛卯〕に百済から王子豊章が質として倭に送られた。 実際には、舒明十三年〔辛丑〕に送った可能性が高いと見た(《百済王子豊章》)。 この年、福信は豊璋を迎えて国王に立てたいと要請した。 ところが、七年〔661〕四月にも「百済福信遣レ使上表。乞レ迎二其王子糺解一」〔糺解は豊章の別名〕とあり、ダブっている。これは、遅いから催促したと読めないこともない。 しかし、実際には同一の出来事が異なる資料に書かれていていたものを、書紀は両方とも収めたと感じられる。詳しくは七年四月の段で論じる。 豊璋の返還はどのように書かれているかを、『三国史記』、新旧唐書に見てみよう。
《佐平貴智達率正珎也》 「佐平貴智達率正珎也」は意味が不明瞭である。「佐平貴智に加えて、達率正珎も」の意か。 別の読み方として、「佐平貴智は達率正珎なり」〔=別説によれば佐平貴智ではなく、達率正珍である〕も考えられる。 《乞師請救》 「乞師請救」の乞も請もコフと訓む。しかし「いくさをこひ、すくひをこふ」では語彙の少なさをさらけ出すようで、やや恥ずかしい。 そのためか、書紀古訓は乞を「マウス」〔=白す〕と訓む。しかしこれは婉曲した物言いで、意味が分かりづらくなる。 コフ・ネガフを使い分ける方法もある。 〈時代別上代〉は、ネガフを「他の人に言語をもって希望を述べる意でははく、心の中でかくあれかしと念ずる意に用い」るものと述べ、あからさまに要求するコフとの間にニュアンスの違いを見ている。 類聚名義抄は「乞:コフ アタフ」、「請:コフ ウツ ネカフ」で、請のみにネガフがある。 またイクサは外面的、スクフは内面的であるから、乞=コフ、請=ネガフと訓み分けると、なかなかうまくいく〔但し、たまたまであろう〕。 《君臣》 「君臣」の古訓キミヤツコ。しかし、臣をヤツコと訓むのは一人称代名詞の遜称として用いる場合であって、君臣の臣には当てはまらない。君臣は、君主と臣下の立場を表す語である。 臣の訓のうち、マヘツキミは臣の中でも上位の者で、主君に伺候する。 オミについては〈時代別上代〉は美称とするが、中臣=ナカトミ〔ナカツ-オミの母音融合〕の例を見れば、 幾分美称のニュアンスを含みつつも、基本的に主君に仕える立場の者を指すと見てよいだろう。 《百済王義慈其子隆等》 義慈王以下俘となった顔ぶれは、六年七月の『伊吉連博徳書』十一月一日条とほぼ同じである。やはり太子が隆であるとする書き方になっている。 なお、百済本紀に「太子孝」が見られる問題については、前回《太子》の項で考察した。 「隆等」については、新旧唐書・三国史記を見れば隆が名前で、「等」は"etc."であることが分かる。 書紀古訓では「隆等」で一人の名前とするが、これは『旧唐書』などを参照していればあり得ない。 少し掘り下げてみると、日本紀講筵の最終は965年で、古訓はこの頃には固まっていたと考えられる。 〈釈紀〉〔1274年以後〕は、「定方等 《於七月十三日》 「七月十三日」の前には写本によって「於」、「秋」、「秋於」が付き、一定しない。もともとは於、秋のどちらかであったものが、誤写されたのだろう。 春夏秋冬は、編年体では四季の変わり目ごとに、文頭の月名につく。ここでは文頭ではないので、於であろう。 《七月十三日》 ここでは投降の日付が十三日であるが、〈三国史記-新羅本紀(太宗武烈王七年)〉では、七月十八日に「義慈率二太子及熊津方領軍等一、自二熊津城一来降」となっている (前回《義慈王の降伏》)。 《蓋是無故持兵》 「蓋是 《分命将軍》 「分命将軍」は倭の救軍に向けた命令であるから、これまでの巻の読み方の原則に従えば将軍は倭読すべきものとなる。古訓はイクサノキミであるが、本稿は四等官に準じてイクサノカミと訓むことにしてきた。
沙㖨 すなわち、命(おほせごと)は、百済から新羅まで網の目のように攻め進み、「沙㖨」に集結せよという。これは、倭軍の実力に似合わぬ誇大妄想に見える。 しかし、作戦としては間違っていない。つまり、船師を分散して隠密裏に複数の津から上陸して、 それぞれの在地の地方勢力とともに、唐が五郡に置いた都督を一斉に攻め取りに行くのがよい。 そして倭が郡領を置いて、上に豊璋王を戴けばよいのである。 しかし、実際には大船師をひと塊にして白村江に送り込んだ結果、一網打尽にされた。唐軍は、事前に察知していたと見られる。 この経過については、〈天智〉二年のところでさらに検討したい。 《以礼発遣》 古訓では、「以礼発遣」の礼をコトワリ(理)と訓む。その前にも、紓をノブ〔伸ばす〕、倒懸をセマレル〔敵からの攻撃〕、 為与をソナヘアタフ〔武器を用意して与える〕と訓み、原意からの乖離が大きい。 もともとの意味は「礼=礼儀」、「紓=ゆるめる、ほどく」、「倒懸=坂さ吊りにするような苦しみ」、「為与=官司による軍の差配」である。 特に礼については、官司はとかく兵士たちを見下しがちだが、大切な任務を背負って行くのだから礼をもって送り出せという意味であろう。 古訓者は、官司を批判するような物言いを嫌ったのかも知れない。 《正発遣之時見于七年》 「発遣之時」については、〈天智即位前紀〉の〈斉明〉七年〔661〕九月に「於是、豊璋入国之時…」とあり、このときに入国したと読める。 一方〈天智紀〉元年〔662〕五月には、阿曇比邏夫が「送豊璋等於百済国」とあり、重複している。 《大意》 十月、 百済の 佐平鬼室(きしつ)福信(ふくしん)は、 佐平貴智(きち)らを遣じ、 参って唐の俘(とりこ)百人あまりを献上しました。 今の美濃の国の不破、片県(かたあがた)の 二郡の唐人たちがそれです。 また、師〔=軍隊〕を要請し救いを求め、 あわせて王子(せしむ)余豊璋(よほうしょう)の返還を求めて申し上げました 【ある文献には、 佐平貴智(きち)は〔あるいは佐平貴智と〕達率(たつそつ)正珎(しょうちん)という。】。 ――「唐人は我等の蝥賊(ぼうぞく)〔=敵〕を率いて やって来て、我等の疆埸(きょうえき)〔=国境〕を蕩揺(とうよう)し〔=揺るがし〕て、 我等の社稷(しゃしょく)〔=国家〕を覆して、 我等の君臣を俘(とりこ)としました 【百済王義慈(ぎじ)、 その妻恩古(おんこ)、 その子隆(りゅう)たち、 その臣佐平千福(せんぷく)、 国弁成(こくべんじょう)、 孫登(そんとう)たち全体で五十人余が、 七月十三日に 蘇(そ)〔定方〕将軍のために捕えられ、 唐国に送られた。 蓋(けだ)し〔六年五月に〕故無く武器を持っていたことは、その徴候であったか。】。 しかしながら、百済の国は遙か天皇(すめらみこと)のお護りいただく心を頼り、 更に鳩集して、邦(くに)を成したいと存じます。 まさに今、謹んで願わくば、 百済の国が天朝に使者を遣わし、侍る王子(せしむ)豊璋(ほうしょう)を迎え、 国主(こんきし)となすことを、云々。」 天皇は詔(みことのり)を発せられました。 ――「師〔=軍隊〕を要請し救いを請ってまいった。これについて古い昔から聞くところでは、 危うきを扶(たす)け絶えるのを接ぐことは、常に古典に著されたところから見る。 百済の国が窮して来て我が国に帰したのは、 本国が亡び乱れて頼るところも無く、告げる相手も無いことを以てのことである。 戈(ほこ)を枕にして胆(い)を嘗(な)めて耐えれば、必ず救いはあろう。 遠来、書状で申してきたからには、その志を奪うことは難きことである。 将軍たちに分けて命じ、百の道をともに前に向かい、 雲が出会い雷が揺り動かすようにして進み、一同が沙㖨(さたく)で集まり、 その鯨鯢(げいげい)〔=悪党の統領〕を翦(き)り、かの倒懸(とうけん)を紓(ゆる)める〔=苦難から解放する〕べし。 有司はともども差配して、 礼をもって出発させよ。云々 【王子豊璋 及び妻子と、その叔父忠勝(ちゅうしょう)らを送った。 出発させた正しい時は、〔天智即位前紀の〕斉明天皇七年に見える。 ある出典には、 天皇(すめらみこと)が豊璋を王に立て、塞上(さじょう)を輔(すけ)に立てて、 礼をもって出発させたという。】。」 十二月二十四日、 天皇(すめらみこと)は難波宮(なにわのみや)にいらっしゃいました。 天皇は、まさに福信の乞い求める心のままに、 筑紫に行って救軍を派遣しようとお思いになりました。 そこへ行かれて、初めに諸々の兵器を準備されました。 17目次 【六年是歳】 《天皇思幸筑紫將遣救軍》
「浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移」(藤村祥: 『富士山かぐや姫ミュージアム 館報』第32号/2016) は、沖田遺跡において「古墳時代前期から中期初頭には…低地部の集落では周辺で小規模な水田経営が行われた一方で、外洋と接続する田子浦港遺跡(後の吉原湊) や浮島沼の周縁地域を準構造船などで結ぶ水上交通網が当該期に発達したことにより、それらを実務的に管理する水運集団の拠点や墓域になっていった」(p.53)、 「準構造船転用木棺」は「地表下4m」に検出し(p.44)、「〔古墳時代〕前期後半に浮島沼水運網がさらに成熟した」と見ている(p.48)。 しかし、同論文はまた「富士山の降灰…などの災害を被ったために、〔古墳時代〕後期以降は衰退した」、その後 「奈良・平安時代には…集落の再編によって…低地部には大規模な条里型水田が展開した」(p.53)と述べる。 よって、飛鳥時代は衰退と再興の谷間にあたり、どの程度の勢力を保っていたかは分からないが、 〈安閑朝〉の当時も有力氏族であったからこそ、監視のために屯倉を設置したと見ることもできる。 飛鳥時代にも一定の勢力を維持していて水運を担い、勅を受けて船舶の建造にあたったことが考えられる。 《續麻》 續は続の旧字体であるが、「敗績」も「敗續」と書かれていて、 明らかに績に通用して使われている。
績麻郊は、どこであろうか。 〈姓氏家系大辞典〉は 「麻績連:麻績部の伴造家にして各地にあり。内・伊勢の麻績連と云ふは伊勢神麻績連と云ふに同じかるべし」 と述べ、天神本記にも触れている。 その『先代旧辞本紀』巻三/天神本記では、「令三十二人並為防衛。天降供奉矣」の役割を負ったうちの一神が、「天八坂彦命。伊勢神麻續連等祖」である。 〈倭名類聚抄〉には信濃国の二郷が載るが、〈氏名家系大辞典〉によれば麻績の分布は伊勢国が中心である。一般的に、氏族名はまた地名でもある。 古訓は「續麻郊」全体を地名とせず、「續麻」の郊(の)とする。伊勢神宮を中心とする人里を都市に見立てて、その周辺を「郊」のいうのであろうか。 あるいは、伊勢国には〈倭名類聚抄〉{伊勢國・多氣郡・麻續【乎宇美】郷〔ヲウミ〕}がある。 麻續郷の位置については、〈延喜式-神名帳〉{伊勢國/多氣郡/麻續神社}(比定社は麻続
績麻郊を多気郡麻續郡あたりとした場合、稚贄屯倉―績麻郊―難波津―娜大津のコースは自然である(図下)。 《知救軍敗績之怪》 「知二救軍敗績之怪一」という。 これは巨大な蝿柱が移動するという異常な現象から、派遣した救軍が負ける危機を感じ取ったという意味である。 したがって、この文の「怪」は名詞でなければならない。 古訓シルマシはある程度定着しているが、書紀古訓による新語である可能性があり、ひとまず使用を避ける。 形容詞アヤシの名詞形は、アヤシキ(連体形)、アヤシ-ミ、アヤシ-ビ、アヤシ-サが考えられる 〔シク活用なので、アヤシが語幹となる〕。 (万)1740に「恠常 あやしみと」がある(浦嶋子[4])。 これは「あやしといふ」という意味で、助詞トはほぼ体言または名詞節を受ける。直接話法的の場合も、引用された文自体を名詞節として受ける。 これを見ると、上代に、アヤシの名詞形としてアヤシミが使われていたと見てよいだろう。 よって、この文は「敗績の危機を感じる」意である。 ここでは「怪」の古訓は「知るまじと云ふ」と読める。 これは、「アヤシブ⇒疑問を持つ⇒結果がどうなるか分からない」という順に考えて言い換えた結果で、 悪い予想をあからさまな言葉で表したくないという心理が伺われる。 ところが、この言葉は常に不吉な兆候の文脈で現れるから、いつしかシルマシがその意味をもつ単語として固定されたのではないだろうか。 《摩比邏矩都能》 「摩比邏矩都能倶例豆例…」の童謡(わざうた)は、「古来著名な難解の童謡で、今日まで二十余解をみるが、いずれも納得されがたい」(『新編 日本古典文学大系』小学館1998)などと言われる。 その一例として『集解』を見ると、羽倉東麻呂説を引用している。 その羽倉東麻呂〔1669~1736〕説は、「比邏矩(ヒラク)」は「船発つ」、「都能倶例(ツノクレ)」は「綱切れ」、「豆例(ツレ)」は「語助」〔助詞、助動詞〕、 「於社幣」は「於杜幣(オトヘ)」に作り、万葉集は舳を於と訓むから「舳と艫」、「陀乎邏賦倶(タヲラフク)」は「倒れ向く」という調子である。 この東麻呂説に対して『集解』自身は、「於社幣」ではなく「於能幣」を採用し「美烏能 なお、『集解』〔河村秀根〕は以上を述べた後で、恐らく参考として〈釈紀〉説をそのまま載せている。 《歌意》 古典籍を見ると、〈内閣文庫本〉による「翻」〔=文字の順番入れ替え方式〕による解釈が〈釈紀-和歌〉に引き継がれ、〈兼右本〉もそれを踏襲するという順序と見られる。 〔なお、〈内閣文庫本〉には誤写によると思われる誤りが見られる。〕 〈北野本〉にはこの文字順替えは示されていないから、〈北野本〉の訓点の方が古いということになる。 〈釈紀〉によると、この文字順替えは日本紀私記によるという。 その解釈で最大の問題は、鵝はほぼ濁音だから「鵝理歌理」はガリカリになることである。 上代語では、濁音からはじまる単語は基本的に存在しないので、区切り方まで遡って再検討することが必要になる。 また「タヘ」のヘを無視したり、「ヲミ」をヲミナとすることには無理がある。 「於能幣陀」の於はオだから、「小野田」は誤りである。オとヲの混同は平安時代から始まり、平安後期には一般化したという。 なお、現代の刊行本に至っても、於をヲとしていることについては、全く納得できない。 「美和陀騰」は地名と言い切ってしまえばそれまでだが、この地名は本当に存在したのだろうか。 それでも、「理歌理鵝」に関しては、もとが「歌理鵝理」だったとすれば、カリカリの連濁となる。 これは『通証』が引く若冲の説でもある。 ただ、家々、人々、島々のような複数形の作り方がカリにも適用されていたかどうかは分からない。 「雁」、「田」、「食らふ」という語を組み合わせれば、意味のある文とすることが可能である。 ただ、雁が実際に田を荒らすことがあるのだろうか。これについて検索すると、 「近世社会において、農作物を喰い荒らす鳥獣には、鳥で烏・雁・雀・鳩・鴨など」があったという (「近世農民の害鳥獣駆除と鳥獣観」根崎光男;人間環境論集1(2)法政大学人間環境学会)。 これらから、こと「ラフクノリカリガ」に限っては「カリガリノクラフ」を「翻」したと見ることが力を持つ。上代語にはリを語頭とする名詞が一つもないことも、これを裏付ける。 鳫の複数形をカリガリとすることは許容したい。 その他の部分については、「マヒ甲ラクツノ」は「真開く津の」と読めるが、「雁々が田を食らふ」とは場面が結び付かない。 また「クレツレ」はそのままではどうやっても意味がとれず、この二句についても「翻」を採用せざるを得ない。 その他の部分は何とか「翻」を用いないことにすると、一応次のように読むことができる。
このようにしても、決して充分には納得できないが、それでも上代特殊仮名遣いだけは何とかクリアした。 歌意については、基本的に釈紀の見解を踏襲する。その見解とは、斉明天皇による救軍の派遣を妻の手による墾田に譬え、敗績を雁の群れに米を食い尽くされることに譬えるものである。 「翻」の対象は「まひらくつのくれつれ⇒ひらくつまのつくれれ」、「りか⇒かり」、「らふくのりかりが⇒かりがりのくらふ」に留めた。 このように限定的にしたことについては、次の理由付けをする。 すなわち「雁」は唐羅軍を、「雁々食らふ」は救軍の敗績を暗示するので、忌み言葉として文字をシャッフルした。 「墾く妻の作れれ」についても墾田は結局荒らされてしまったことを残念がって、原文を隠したと見る。 他の部分は「翻」なしとするが、それでも 「水脈の辺の 現時点では、ひとまず以上のように解釈しておく。 《大意》 この年、 百済のために新羅を伐とうとお考えになり、 「駿河の国は船を造れ」との勅を発しました。 船は既に完成して、曳航して績麻(おみ)の郊(の)に至った時、 その船は夜中のうちに、理由もなく艫(へ)〔船首〕と舳(とも)〔船尾〕が逆向きになっていました。 人々は、最後には敗れるのだろうと知りました。 科野〔信濃〕の国が言上しました。 ――「蝿が群がって西に向い、大きな坂を飛び越えて行きました。 〔蝿柱は〕周囲十囲(いだき)〔=18m〕ばかり、高さは蒼天に至りました。」 あるいは、救軍が敗績(はいせき)〔=惨敗〕が危ぶまれることを知りました。 次の童謡(わざうた)が歌われました。 ――まひらくつの くれつれ おのへたを らふくのりかりが みわたとのりか みをのへたを らふくのりかりが かふしとわよと みをのへたを らふくのりかりが まとめ 船の建造地については、〈推古〉二十六年にも「於二安芸国一令二造舶一」がある。 古くは〈応神〉五年に「科二伊豆国一令二造船一」も見える。 〈斉明〉六年においても、各地に船の建造を割り振ったと見られる。そのうち、駿河国に造らせた船については曳航中の停泊地で奇妙な出来事があったから、その話が載ったわけである。 「国」に命じたというから国司案件で、それだけ大事業であった。また国司が一定の権限を持ちつつあったことを伺わせる。 前回、〈斉明紀〉には記述の時間的な行きつ戻りつがあったと述べた。 ここではさらに、豊璋返還の要請の時期、及び実際に帰国させた時期について記述の重複が見える。 単に文章の点検が不十分だっただけかも知れないが、そこには百済滅亡と救軍の敗北を書かざるを得ないときの書紀編者の心理的動揺が感じられる。 さて、これまでに蘇我入鹿の誅殺を暗示した謡歌(わざうた)があったが、これについては、 書紀自身が謡歌の謎解きをした(〈皇極〉四年)。 しかし、今回の童謡(わざうた)については決着をつけることなく放置され、ここにも救軍敗北の衝撃が伺われる。 その結果、長年にわたってどれだけ多くの人に心のもやもやを残してきたことか。 童謡の解釈については、私記のいう翻 ただし、本稿の説においては、翻しはそれ以外考えられない部分にみに留めた。 実際にも全部が翻しではないだろう。さもなければ一義性が全く成り立たなくなってしまうからである。 なお、本稿の説に確かな自信はないが、何とか一つの判断をして次に進みたかったのである。 |
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⇒ [26-09] 斉明天皇(9) |
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