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2023.12.12(tue) [26-05] 斉明天皇5 ▼▲ |
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10目次 【五年七月~十月】 《道奧蝦夷男女二人示唐天子(1)》
「使者」とは謳っていないが、蝦夷国を附庸国とする国家連合として、使者を同行した形と見られる(下述)。 《伊吉連博徳書》
白雉四年に遣唐使を送ったときも二船を仕立て、それぞれに大使副使を置いた。 複数の船を送るのは、少なくとも一船は渡航が成るようにということであろう。 今回は図らずも大使坂合部連石布の船が遭難して、副使津守連吉祥が大使の役割を果たした。 それにしても唐への渡海は命がけである。 《難波三津之浦》 『第日本地名辞書』には「三津寺:南区に属し、三寺町の名あり」、「御津:三津寺町の名存す。之に因りて当時を推すに 難波江は渡辺(長溝郷)より西南に流れ、御津(雄伴郷)を以て泊処を為したり、隠江の名あり。 其西南は大海にして難波埼柏済〔〈景行紀〉(9)参照〕の険あり」、 「奈良朝の比の長汀は今の東区南区に求むべく、其以西は砂嘴堆洲の散在せる浅水なりけん」という 〔東区:現在の中央区の北半分。南区:同南半分〕。 三津の湊から出航する遣唐使を詠んだ歌がある。 ●(万)4245「題詞:天平五年贈二入レ唐一使歌一首 并二短歌一 作主未レ詳。/ 虚見都 山跡乃國 青丹与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎… そらみつ やまとのくに あをによし ならのみやこゆ おしてる なにはにくだり すみのえの みつにふなのり ただわたり ひのいるくにに つかはさる わがせのきみを…」。 住吉が出て来るが、住吉大社は三津寺から6km南方で離れ過ぎている。 大和国、平城、難波のそれぞれに枕詞がついているから、 スミヨシノも三津への枕詞であろう。一般には松にかかるといわれるので、ここではミツの発音がマツに似るためか。 遣唐に随行する恋人の無事を祈る歌である。「…」(省略した部分)には、住吉の神が舳先に立って守ってくれるよう祈願する。「日入国」はいうまでもなく唐を指す(隋書倭国伝(4))。 この歌から、天平宝字五年〔729〕の時点でも、三津湊が遣唐使の出航地であったことが分かる。 《筑紫大津之浦》 筑紫大津之浦は、福岡湾沿岸の津であろう。〈宣化天皇〉元年《那津之口官家の比定地》の比恵遺跡群の近くの湊が想定される。 「大津」は、都や副都の近くにある重要な津への美称であろう。 《嶋名毋分明》 「嶋名毋分明」は「島名は不明である」意ではなく、「毋分明」という名の島ではないかと考える人がいたことが〈釈紀〉に載る。
これで決着がついたのは明らかだが、〈内閣文庫本〉は相変わらず毋分明という名前の島だというから、〈釈紀〉以前の訓点の写本であろう。 一方〈兼右本〉は〈釈紀〉より後の時代だが、両論併記の形になっている。〈釈紀〉を著した卜部兼方は平野社系列で、その八代も前から兼右の属する吉田社系と分れている。 それでも『釈日本紀』は吉田神道に大きな影響を与えたと言われる。しかし、ここでは吉田(卜部)兼右は必ずしも〈釈紀〉に従っていない。 「爾加委嶋」は喜界島だという。『鹿児島県史』 第一巻 第三編 国司時代「第二章 南島経営と多褹国廃止」(p.95) に「この爾加委嶋は喜界島かと説かれて居る。」とあったが、いつ誰が何を根拠にして「説いた」のかは、今のところ不明である。 ちなみに〈釈紀〉、『集解』、『通証』はこの件には触れていない。 『大日本地名辞書』は、「爾加委嶋:…南島〔=南西諸島〕の一地たるや明白なり」と述べる。 さらに、「聖武天皇記、天平勝宝五年阿児奈波」は「意貴奈波」の「訛言」であるのと同様に、 「爾加委」も「即貴加井に同し」と見る。但し、同書は爾加委嶋=喜界島であるとはどこにも書いていない。 同書の「硫黄島」の項には「硫黄島即鬼界島なりと曰へり、往時隋唐交通の比の使船、屡南島に漂到せること国史に見ゆれば、 其逸聞なりとも想はるれど、未実説を聞かず」とある。硫黄島の現在の別名は「鬼界ヶ島」である。 また「鬼界島」の項には、「一に貴海 貴賀井に作り、南島の名称」、 「平家物語云、鬼界島有十二島」などとあり、その十二島に硫黄島が含まれている。発音の類似をいうなら、鬼界の島々にも同じことが言える。 《為嶋人所滅》 坂合部石布連死亡の記事が〈続紀〉にある。
《盗乗嶋人之船》
括州は、現在の浙江省麗水市などの地域。『旧唐書』地理志三に「武徳四年〔621〕…置括州。…括州領括蒼、麗水二県」。 《十六日》 〈時代別上代〉は「か(日)」の項で、関連項目に二日、三日、五日、七日、八日、十日を挙げるが、六日と九日が抜けている。 理由は仮名書きの例が見いだせなかったからである。さらに〈釈紀〉は「十六日」に訓を付していないので、 六日の訓みを知る資料がない。はたしてムカか、それともムユカであろうか。 いろいろ探すと、『新撰六帖題和歌』寛元年間〔鎌倉;1243~1247〕に 「いかにせむ今は六日のあやめ草ひく人もなき我身なりけり」(国書データベース)があった。 「六日のあやめ」の字音数は7のはずだから、「六日」はムイカまたはムユカである。 『精選版 日本国語大辞典』(小学館2006)によると、八日=ヤカは、本居宣長の提唱した古形だが、~日は「-uka」が一般的〔ナヌカ、フツカなど〕なので、 「むしろ yauka こそが本来の形であると認められる」という。これに従えば、六日は、上代にはムユカとなる。 けれども、三日はミユカとは言わない。
《越州会稽県須岸山》
須岸山は新旧唐書などには見えない。 餘姚県への入り口にあたる海上には、舟山島を中心とする諸島がある。そのどれか、あるいは大陸沿岸に須岸山があったと思われる。 この地は魏志倭人伝(35)で見た会稽の範囲に含まれる。 《東北風》 万葉で「(方位)+風」の形が見えるは、「東風(コチ)」以外に見えない。 一方、(万)4106「南吹 みなみふき」がある。「(方位)フク」がつけば、それだけで方位が風の意になったようである。 〈時代別上代〉は「にし」の項で「風位の名が方角にも使われることはめずらしくない」というが関係は逆で、方角が自動的に風の意を含むのかも知れない。 こう考えると、風が重複している理由が分かる。 すなわち、「東北風」という表記はウシトラに既に「風」が内在することを表し、ウシトラフクと訓むのである。 《東北風風太急》 東北風風太急は、強い北東風に乗ってあっという間に会稽県沿岸に達したと読める。 東シナ海で東よりの強風は、強い低気圧の北側である。〈斉明〉五年九月十三日は、グレゴリオ暦では659年10月7日にあたり、10月初旬は、まだ台風シーズンである。 石布船が漂着した爾加委嶋が喜界島だとすれば、暴風で南に流されたことになり、やはり台風の反時計回りの渦に巻き込まれたと推定される。 このときに類似すると思われる天気図の例を、図右に示した。 しかし、船の速さがあまりに現実離れした値だった場合には、『伊吉連博徳書』に記された日付時刻そのものの信憑性を疑った方がよい。 「筑紫大津之浦」から「百済南畔之島」まで32日を要した(ア)のに比べ極端に短いことも、その疑いを強める。 よって、まず両船の巡航速度の平均値を計算してみる(右表)。所用時間は、「日入之時」=酉時、「夜半之時」=子時として計算した。
しかし、強風が直接帆を押した場合は相当の速さになるかも知れない。台風の風速については 可航半円〔台風の進行方向の左側は比較的風が弱い〕にあたるが、10月の台風は日本付近まで北上すると北の高気圧との間の気圧傾度が大きく可航半円でもそれほど弱くない。 吉祥連船のコースで20~30knot、 石布連船のコースで30knot以上、台風の中心に近づけば50knotも考えられる。 これくらいの風によって吹き寄せられ続ければ、当時の船でも右表の計算で得た10~13knotがあり得るかも知れない。 もし、爾加委嶋が喜界島だったとすれば、石布連船は距離が長いのに所要時間が短いから暴風の吹きすさぶ台風の中心に近く、荒波で操舵のコントロールを失ったことと整合する。 一方、吉祥連船は操舵士の腕がよく、台風の中心に向かって吹き流されることを巧みに避けたと考えることができる。 こうして見ると、両船の航行に九州の南西の台風の影響を考えることは、十分に成り立つと思われる。 なお、上記アで32日間も要したことについては、壱岐、対馬に停泊して接待を受けたり神への安全祈願、日和見などをしていたことが考えられる。 《二十二日》 廿日をハツカと訓む確例は〈釈紀〉(鎌倉時代)が最古かも知れない。 しかし《十六日》項で見たように、上代から二十日は「ハタ+"-uka"=ハツカ」だったと考えられる。 二日については、(万)4011「伊麻布都可太未 いまふつかだみ」、 (万)1621「今二日許 いまふつかだみ」にフツカの確例が見える。 《潤十月》 現在は「潤十月一日行到越州之底十五日乗駅入京」の形が標準であるが、 これは〈兼右本〉を底本としたもので、〈北野本〉などでは「潤十月一日行到越州之底十月十五日乗駅入京」となっている。 二つ目の十月を衍字とすれば辻褄は合うが、真相はもっと深いところにあるように思われる。 〈釈紀〉は〈秘訓〉で「十月十五日」として注意を促すとともに、 〈述義〉でこの問題を取り上げている。
同論文によると「戸部藤侍郎」は藤原佐世で、元慶三年時点で民部少輔であったことが『日本三代実録』元慶三年四月二十六日条で確認できるという。 また、同論文は「愚実案…」を述べた人は矢田部名実で、 「閏十月が十月以前に現れることを不審に思い、その問題を指摘した。 …「戸部藤侍郎」も賛同…師(善淵愛成)説では、次の「十月十五日乗駅入京」の 「十月」の二文字を衍字と見て、この一連の出来事を閏十月に発生したという意見を提示した」と述べる。 〈釈紀〉の「日本紀講例」(『釈日本紀』巻一解題)に、 「元慶二年二月廿五日 博士 伊豫介善淵朝臣愛成」とある。 なお、「太政殿下」は確実に藤原基経(元慶四年から太政大臣)だから、元慶四年以後に書かれた文章であろう。 つまり、この文は元慶二年〔878〕に開催された、日本紀講筵の議事の記録の一部である。 「愚実案…」とは、遜って「愚なる矢田部名実の案ずるに…」という意味である。 名実は、一般には十月を始めに書き、次に閏十月とするのが順番なので、ここで始めの十月に閏がつくのは誤りであると主張した。 最終的に「博士」は「十月十五日」の「十月」を衍字とすることに決した。 事実関係としては、『旧唐書』巻四高宗上に 「〔高宗顕慶四年〕閏十月戊寅〔五日〕幸東都。皇太子監国。〔皇太子が都で政務にあたった〕」とあり、 津守吉祥連の一行が都に到着したのが閏十月十五日だとすれば、高宗不在を知り急ぎ洛陽へ向かったという経過に合うから、 十五日が閏十月であったことは確実である。ただ、遡って「閏十月一日」も閏月とすることには問題があり、次々項で検討する。 《餘姚県》 大船を「留着」したというから、餘姚県は海に接していた。現在の「餘姚市」付近と見られる。 《越州之底/乗駅入京/馳到東京》 よって「十五日乗駅入京」は閏十月であったことが確定する。 だが一日については、定説「閏十月一日行到越州之底」に従うと、「餘姚県⇒越州之底」(A)が39日間、「越州之底⇒長安」(B)が14日間となる。 「長安⇒洛陽」が14日間であることを考えると不自然である。もし「十月一日」が非閏だとすれば、 A=8日間、B=44日間である。右図を見れば、どちらが妥当であるかは歴然としている。 したがって、「十月十五日」の十月は衍字とせずに残し、「潤十月一日」の「潤」を衍字として除き、かつ「潤十月十五日」とすべきであろう。 《大意》 七月三日、 小錦下(しょうきんげ)坂合部(さかいべ)の連(むらじ)石布(いわしき)、 大仙下(だいせんげ)津守(つもり)の連吉祥(きざ)を遣わし、 唐国への使者としました。 これによって道奧(みちのく)の蝦夷(えみし)の男女二人を同行させ、 唐の天子に示しました 【伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)の書にいう。 ――同じ天皇(すめらみこと)の御世、 小錦下、坂合部の石布(いわしき)の連(むらじ)、 大山下、津守(つもり)の吉祥(きざ)の連らの二船は、 呉唐路に使いを奉(たてまつ)った。 己未年〔斉明五年〕七月三日に、 難波の三津の浦を発つ。 八月十一日、 筑紫の大津の浦を発つ。 九月十三日、 百済の南の畔りの島に到着。 島の名は不明。 十四日の寅時〔早朝4時〕に、 二船は相従って大海に出航。 十五日の 酉時〔18時〕に、 石布連船は 横から逆風に遭い、漂い南海の島に到る、 島の名は爾加委(にかい)。 よって、島の人によって滅ぼされた。 そして東漢長直(やまとのあやのおさのあたい)阿利麻(ありま)、 坂合部連(さかいべのむらじ)稲積(いなつみ)ら五人は、 島民の船を盗んで乗りこみ、 逃げて括州(かっしゅう)に到着した。 州県の官人は、 洛陽の京に送り届けた。 十六日の 子時(深夜0時)に 吉祥連(きざのむらじ)の船は、 越州(えっしゅう)会稽県(かいけいけん)の須岸山(しゅがんざん)に到着する。 東北の風が吹き、風ははなはだ強い。 二十二日、 餘姚(よよう)県に到る。 乗っていた大船及び諸の備品は、 そこに留め置く。 十月一日〔通本は閏十月〕、 越州(えっしゅう)の)奥地に到る。 閏十月〔通本は省く〕十五日、 馬に乗って京に入る。 二十九日、 東京〔洛陽〕に馳せ到る。天子は東京に在り。 《道奧蝦夷男女二人示唐天子(2)》
本サイトの元嘉暦モデルでは、己未年〔659〕の閏十月は、小の月である。よって「卅日」は存在しない。 hosi.orgでも、 『日本暦日原典』〔内田正夫;雄三閣出版1992〕でも、この月は小であった。〈釈紀〉、『集解』、『通証』はこの問題に触れていない。 岩波文庫版は「博徳の誤記」とする。 もしも『伊吉連博徳書』における誤りだったとすると、同書の他の日付も無条件に信頼しきれないことに留意しなければならない。 《天子》 天子は、唐の第三代皇帝高宗。在位貞観十七年〔643〕~弘道元年〔683〕。 「天子」への古訓「ミカド」は、皇帝を天皇に準えたもの。もともとミカドという語の由来は「御門 《日本国天皇》 「天皇」号を定めたのは、680年頃と推定した(資料[41])。 〈斉明朝〉当時の中国における倭のオホキミへの呼称は、「倭王」である。ちなみに、隋書にはオホキミの音写「阿輩雞彌」がある。 「大王」を「日本国天皇」に書き換えられのは書紀かと思われたが、実は白雉五年の「伊吉博得言」の中に「庚寅年〔持統四年〕の記事が含まれていた。 『伊吉連博徳書』も同じ時期であろう。よって、伊吉博徳自身が「日本国天皇」の文言を用いたのは確実である。 《國有東北》 「東北」、すなわち艮(うしとら)を鬼門とする考えは、陰陽五行説本来のものではないようである。奈良~平安時代には、しばしば蝦夷の反乱が起る。艮を鬼門とするようになったのはその故だと考えた(第248回)。 《蝦夷類有三種》 津軽の類は三種あり、それぞれ「遠者名都加留〔蝦夷〕。次者〔名〕麁蝦夷。近者名熟蝦夷」という。 熟(にき)、麁(あら)という語の組は、〈神功皇后紀〉(9)の「和魂」(にきみたま)、「荒魂」(あらみたま)にも見える。 和魂は住吉大神のと慈しみの側面の魂、荒魂は力づくの側面の魂を示す。 熟蝦夷は「毎歳入貢本国之朝」するというから、飽田・渟代両郡の蝦夷だと見てよいであろう。遣唐使に同行した男女二人も、熟蝦夷に属すると見るのが妥当である。 そこから奥地に行くと、まだ友好関係がないので麁蝦夷という。 さらに遠隔地は、都加留蝦夷という。関係は麁蝦夷よりもさらに疎遠であろう。 ところが、ここで示された関係の濃淡は、これまでに述べられたこと〔下に整理〕とはうまく噛み合わない。
渟代郡の「郡領」は称号に過ぎないが、倭国との関係には毎年朝貢が行われる程度の安定性はあったようである。 もっとも遠方の津軽郡の「郡領」は本当の名目で、辛うじて一部の族との交流が存在した程度であろう。 なのに「大饗賜禄」に馳せ参じた人数が、飽田・渟代に匹敵するほど多いことには違和感がある。 よって、ツカルには二重の意味があり、①渟代郡より北の遠隔地域を漠然と指す(【元年】で見た行基図)。 ②渟代郡に近く熟蝦夷の一つ。の二通りの使い方があったと考えざるを得ない。ただ、この解釈は曲芸的である。 むしろ、「津軽郡」の多くが潤色であったと考えるべきかもしれない。というのは、 「望怖乞レ降」した中には津軽郡がなく、逆に齶田(飽田)郡の記述が少なすぎる。 そこで、次の解釈を提案したい。
ただこの解釈を成り立たせるためには、書紀が飽田郡の多くを潰して津軽郡を入れなければならなかった理由も示さなければならない。 それは、例えば「津軽」を非常に強調した別伝があったことに影響されたことが考えられる。行基図を見ても本州の端に書かれているのは津軽で、いわばまず「津軽」をしっかり言う習慣があったと見られる。 《五穀無之》 都加留をもってもっとも遠方とするから、ここでいう蝦夷の範囲は本州内に留まると見てよいだろう。 弥生時代の本州北端の稲作遺跡には、砂沢遺跡〔弘前市大字下白銀町〕がある。 昭和59年から63年〔1981~86〕の調査では炭化米や土器、石器が出土し、 水田跡6枚が発見されたという(弘前市公式/砂沢遺跡出土品)。 従って、気候的に稲作が不可能だったわけではなく、倭人の入植地での農耕はあった。 蝦夷が穀物を耕作しなかったのはそのような文化だったわけだが、倭人と混合するうちに農耕する者も皆無ではなかったと想像される。 ここでも、五穀無之という使者の言説は文化の異質さを誇張したと思われる。 《食肉存活》 食肉存活については、このときに蝦夷が弓矢の腕が披露したとも思われる話が『新唐書』に載る。
蝦夷が弓矢を用いて狩猟していたことは、 四年四月条にも「不為官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。」と述べられた。 《深山之中止住樹本》 縄文時代は竪穴住居で、アイヌは縄文時代の文化を引き継ぐと言われる。その住居については 「北海道本島では、13世紀になるとそれまで用いていた竪穴住居が平地住居に変わ」ったという(『アイヌ学入門』瀬川拓郎(p.148);講談社2015)。 和人の住居も「庶民の竪穴住居は奈良時代ごろまで広く使われていた」という(日本の住生活についての史的考察(第一報)/野津哲子)。 蝦夷を所謂アイヌと同一視することはできないが、〈斉明朝〉当時の「蝦夷」も恐らく竪穴住居であろう。 「深山之中止住樹本」なる言説は、文明から隔離されていることを誇張して言ったものであろう。 《蝦夷身面之異》 「蝦夷身面之異」は、身体と顔に刻まれた黥 中国でも倭でも中央地域では既に黥の習慣はなく、周辺民族の黥は特別に目を惹いたようである。 『縄文時代の考古学10:人と社会』〔同成社;2008〕所載の「イレヅミの起源」(設楽宏己)によれば、 「目の縁から弧状に引かれた線刻」という共通の特徴から「古墳時代の黥面埴輪は、弥生時代の黥面絵画を引き継いだ」、 さらに目のまわりや口の両脇の弧状の線刻などから「弥生時代の黥面絵画の系譜は、縄文時代の黥面土偶にたどれる」という(pp.210~212)。 東北地方の蝦夷の文化には、この点でも縄文文化を引き継ぐ部分があったと見られる。 《異極理》 古訓は、「極理」を「喜怪」の意味を強める副詞節[so much]とする。しかし「理」を無視してはならない。しかしこれを「道理」ととると「異」と矛盾する。 ここでは「理」の原意「宝石や木の表面のスジ」をとり、入れ墨の平行する線刻と読むべきである。すなわち「見二身面之異極理一」〔身(み)面(かほ)の異(け)に理(すぢ)極(きは)まれることを見(みそなは)して〕と訓む。 《喜怪》 中国にとっては、古代から越裳(あるいは粛慎)が白雉を献上した話に見られるように、周辺国からの朝貢は常に喜びであった。 それは、中国がたとえ名目であっても周辺を自らの国に包み込む志向をもっていたからである。その気持ちは、梁(6世紀)の「職貢図鑑」によく表れている(魏志倭人伝(36))。 蝦夷国は倭に附庸するが、隋書〔隋書倭国伝(4)【其王与清相見】項〕で見たように、倭もまた朝貢する国と見做されていた。 中国にとっては、蝦夷国もまた自らへ朝貢すべき国である。既に倭に朝貢していることなど、お構いなしである。 実際、『難波吉士男人書』に「蝦夷以二白鹿皮一弓三箭八十一献二于天子一」とあり、これは直接の朝貢でである。 「喜怪」という語には、異様な風体を嫌うことなく、むしろ異文化の国が自国の勢力圏に加わったことを喜ぶ気持ちが表れている。 このときの蝦夷人の同行は、蝦夷国の使者を連れて来てほしいという唐側の要請があったか、さもなければ倭の忖度であろう。 《大意》 三十日、 天子〔唐高宗〕は謁見され、 「日本(やまと)の国の天皇(すめらみこと)は平安でいらっしゃるか、否か」と質問された。 使者は謹んで「天地は天皇の徳に適い、自ら平安を得ておられます」とお答えした。 天子は「執事卿たちは好ましくあるか否か」と質問され、 使者は謹んで「天皇は憐み重く、好ましくお仕えすることを得ておられます」とお答えした。 天子は「国内は平穏であるか否か」と質問され、 使者は謹んで「知ろし召すことは天地に称(かな)い、万民は無事でございます」とお答えした。 天子は 「これらの蝦夷(えみし)の国はどの方角にあたるか」と質問され、 使者は謹んで「国は東北(うしとら)にあります」とお答えした。 天子は「蝦夷(えみし)には何種類あるか」と質問され、 使者は謹んで 「三種類ございます。 遠くにあるのは都加留(つかる)といい、 次は麁蝦夷(あらえみし)、 近くは熟蝦夷(にきえみし)と申します。 今、この熟蝦夷は、 毎年本国の朝に入貢いたしております」とお答えした。 天子は「その国に五穀はあるか」と質問され、 使者は謹んで「ございません。肉を食べて生きております」とお答えした。 天子は「国に家屋はあるか」と質問され、 使者は謹んで 「ございません。深い山の中で樹の根本に住んでおります」とお答えした。 天子は重ねて仰った。 ――「朕は蝦夷(えみし)の身体と顔の異様極まる線刻を見て、その妖しさを喜んでいる。 使者は遠くから来て辛苦したことだろう。退席して賓館に滞在せよ。 後に更に謁見しよう。」 《道奧蝦夷男女二人示唐天子(3)》
《所朝諸蕃之中倭客最勝》 「蕃」は冊封国のことで、もともとは未だ教化されていない周辺国の意。 「倭客最勝」は、装束や作法が洗練されていたことを自画自賛したものであろう。 《出火之乱》 「由出火之乱棄而不復検」には省略が多すぎて正確な意味は不明である。 「由出火之乱棄」は火災の混乱で客が放置されたと、一応は読むことができる。「復」とあるので、「検」は天子が約束した「後更相見」のことか。 最初の相見では根掘り葉掘り質問されたから、「検」と表現したか。 〈釈紀〉の訓「カウカフ」〔かむがふ〕は検の直訳で、すなわちその意味の解釈は読み手に委ねられている。 《枉讒我客》 「韓智興傔人西漢大麻呂」による「枉二-讒我客一」は、遣唐使一行の内輪揉めであろう。
恐らく唐の官吏は初めから根拠のない讒言だと見抜いていて、韓智興を意図的に先に流したのであろう。 『周髀算経』(しゅうひさんけい)によれば、一里=76.3~76.7m(魏志倭人伝(4)【七千餘里】)。 魏志倭人伝ではこの値が使用されているが、一般的ではない。 1里=300歩を用いれば一里=450m、三千里=1350kmとなる。
当時の流刑の実態については、『唐宋時代 刑罰制度の研究』〔辻正博;京都大学学術出版会2010〕によると、 武徳律〔624〕による流刑は、「流二千里、流二千五百里、流三千里(いずれも居作一年)」と定められていたが、貞観十四年〔640〕には 「流罪三等、不限以里数、量配辺要之州。(『唐会要』巻四一)」〔里数に限らず辺要の州に量り配す〕となったという(p.37、p.100)。 ここでも実際の配流地は「辺要之州」であって、三千里之外は慣用句であろう。 《免罪》 「免」への古訓はユルスである。 しかし、伊吉連博徳は堂々と主張して罪に値する事実自体がなくなった。「赦す」は罪の存在を前提とするから不適当である。 それでも無罪になればユルサレルという言い方もあり得るから微妙だが、ひとまず漢字「免」の本来の意味、マヌカルに沿って読みたい。 《海東之政》 一般に言われるように「海東之政」は羅唐同盟による百済侵攻を指し、 その計画が倭本国に漏れないようにするために幽閉したのは明らかである。 《西京》 「西京」は長安を指す。 〈汉典〉「西京:(1)西漢〔=前漢〕都二長安一、東漢改二都洛陽一、因称二洛陽一為二東京一、長安為二西京一。 (3)唐顕慶二年〔657〕、以二洛陽一為二東都一、因称二長安一為二西都一、一称二西京一。天宝元年〔742〕、定レ称二西京一。至徳二載〔757〕、改-二称中京一」。 すなわち、前漢の都長安を西京、後漢の都洛陽を東京と言い、よって中国では前漢・後漢をそれぞれの都の呼び名に因んで、西漢・東漢という。 《遂匿西京幽置別処》 〈釈紀〉は匿を「かくる」、幽を「とらふ」と訓む。すなわち逃げて長安のどこかに隠れていたところを捕えられたと解釈する。 しかしもしその意味なら、幽ではなく、捕・捉の字を用いるであろう。 また、伊吉連博徳は罪を疑われても毅然として抗弁できる人物だから、うろたえて逃げはしないだろう。 ここは官吏が「匿(かく)し」、「別処」に(少人数ごとに分散して)「幽置」(幽閉)したのであろう。 《難波吉士男人書》 「難波吉士男人書」では、大使〔坂合部連石布〕の船は島に触れた〔衝突した〕と表現されている。やはり暴風と波浪で流されたのであろう。
白鹿の献上は越裳国による白雉献上に通づるものがある(〈孝徳〉白雉元年)。 吉兆である白雉や白鹿の献上をもって冊封国受容の表現とするのは、中国周辺国の文化であろう。それが蝦夷国に及んでいることは興味深い。 倭朝廷の助言によるものかも知れないが、あるいは沿海州の粛慎から伝播してきた文化かも知れない。 弓矢の献上は、狩猟術を誇る蝦夷のアイデンティティーの表現であろう。 伊吉博徳は認めたくなかったのだろうが、唐からは蝦夷国からの朝貢使と見做されたと見るべきであろう。 《大意》 十一月一日、 朝廷で冬至の会(え)あり。 会の日にまた謁見があり、 朝した諸蕃の中で、倭の客が最も優れていた。 後に出火の乱によって棄ておかれ、再びの臨検はなかった。 十二月三日、 韓智興(かんちこう)の伴人、西漢(かわちのあや)の大麻呂(おおまろ)は、 我が客のことを捻じ曲げて謗(そし)った。 客たちは、唐朝によって罪に問われ、既に流罪と決まり、 先に智興を三千里の外に流した。 客の中に伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)がいて奏上した。 よって罪を免れた。 事が終わった後、勅旨があり、 「国家は来年必ず海東の政(まつりごと)が有ろう。 あなた方倭の客は、東に帰ることはできない。」と言われた。 遂に西京に隠し、幽閉する場所を分けて、 戸を閉ざして拘禁した。 あれこれすることを許さず、 困苦のうちに年を経た。 難波吉士(なにわのきし)男人(おひと)の書にいう。 ――大唐に向かった大使は島に接触して覆えり、 副使自らが天子に謁見して蝦夷(えみし)を御覧に入れた。 そして、 蝦夷は白鹿の皮一枚、弓三張、矢八十本を 天子に献上した。】。 11目次 【五年七月十五日~是歳】 《命出雲國造修嚴神之宮》
盂蘭盆会は、7月15日の盛大な仏教行事。元々は祖先を祀る習俗が仏教に取り入れられたと思われる。 三年には飛鳥寺西で実施された(【三年】)。 《出雲国造》 国造本記によると山陰の国造の分布は、「稲葉国造」(因幡)、「伯岐國造」(伯耆)、「出雲國造」、「石見國造」となっており、 一般的に見られる郡レベルでの細分がない。よって、出雲国造は出雲郡の地域に限定されない。 改新詔により各国に国司が置かれたが、ここでは「修二厳神之宮一」を直接命じられていて、国造の存在感は大きい。 「所造天下大神大穴持命」〔大国主命〕を祀る国造として、明日香朝廷への対抗意識は否めない。 『出雲国造伝統略』〔大社教本院1923〕から、記紀の記事に関係する部分を見る。
1343年(『日本大百科全書』(小学館;1984)による)には北島家、千家家の二系統に分かれ、両家ともに出雲国造を名乗る。
《厳神之宮》
神話的な起源としては、大己貴神〔大国主命〕は自らをを杵築大社に祀ることを条件に、地上の統治を天照大神に明け渡した(第79回)。 〈崇神紀〉六十年には、「出雲大神宮」の「神宝」を朝廷が召し上げた記事が載る。 「「神の宮」は出雲大社とする説と熊野大社とする説があるが、「於友郡の役丁」ともあるので熊野大社とするのが妥当」 (東京都市大学/出雲国造関係記事私注;保坂達夫) とも言われるが、杵築大社は鎌倉時代には高さ48mの大神殿があったことが確実視され(第61回)、その以前から出雲国の中心的な社であったことは間違いないだろう。 記紀の国譲り神話の舞台「五十田狹之小汀」(いたさのをはま)は、稲佐の浜に比定されている。杵築大社はその稲佐の浜に近く (第79回)、同社が記紀が執筆された時代に出雲国の中核としての厳然たる輝きを放っていたのは明らかである。 書紀が〈斉明紀〉においてのみ、杵築大社以外の宮を「厳神之宮」と呼んだとは到底考えられない。 出雲国造の本拠地は確かに意宇郡であろうが、その威力は出雲国全体を覆っていたと見てよい(次項)。 『出雲国造伝統略』(上記)「大国主神国避ノ当時皇祖天神ノ勅ニ依リ、天日隅宮ノ祭主」を見れば、大国主神を祀る「天日隅宮」すなわち杵築大社が最初から出雲国造が斎する社であったことは、出雲国造家の公理である。 杵築大社が、〈斉明朝〉の時点で出雲国造の管理下になかったことは考えられない。 《於友郡》 於友郡は、『集解』に「類聚鈔曰出雲國意宇郡」とあるように、 {出雲国・意宇郡}(〈倭名類聚抄〉、『出雲国風土記』)だと考えられている。 『出雲国風土記』/意宇郡には、八束水臣津野命が各地から引いてきた土地のかけらを縫い合わせて国を作り、 「今者國者引訖詔而意宇社爾御杖衝立而意惠登詔故云意宇」 〔今は国をば引き訖(を)へつと詔(のたま)ひて、意宇社に御杖(みつゑ)を衝(つ)き立てて意恵(おゑ)と詔ふ。故(かれ)意宇と云ふ〕とある。 意宇郡は出雲国造の本拠地と言われる。その根拠については、 「風土記を構成する各郡の記載には」「郡司の署名があり」、「意宇郡では六人中四人(A)が出雲氏」で、「他の郡にも出雲氏が見え」るが、特に多いという。 (島根県文化財課/出雲国風土記ハンドブック下)。 Aは、『出雲国風土記』巻末署名「国造帯意宇郡大領外生六位上訓十二等出雲臣廣嶋」を含んだ数である。 国造出雲臣が巻末署名者になっていることは、その勢力が意宇郡に留まらず、出雲国全体に及んでいたことを示している。 《役丁所執葛末》 役丁は税の一種で、年ごとに一定期間の労役を課す。 「役丁所執」は役丁が「管理、あるいは栽培しているところの」の意か。 葛(かづら)には、エビカヅラ(第40回)、 ヒカゲノカヅラ(第49回)、 サナカヅラ(第153回)などが見える。 《言屋社》
言屋社は『出雲国風土記』の「意宇郡/伊布屋社」で、〈延喜式-神名帳〉{出雲国/意宇郡/揖夜神社}とされる。 比定社は揖夜神社(島根県八束郡東出雲町揖屋2229番地)で、祭神は伊弉冉命・大巳貴命・事代主命・少彦名命。 古事記は、伊邪那岐と伊邪那美が相対した「黄泉比良坂」は、「伊賦夜坂」のことであるという(第41回)。 黄泉の国の入り口と伝わる土地での異様なできごとが、〈斉明〉が近々崩ずる兆しだと解釈されている。 《羆皮》
羆皮について、二話が載る。 第一話は、高句麗で獲られたヒグマであろう。高句麗は、現代のヒグマの生育域にかかっている(右図)。 「市司」が相手にせずに笑って立ち去ったのは、あまりに高い値をふっかけたからと読める。しかし、実は倭への献上品を随員が横流ししようとして、市司がそれを見抜いたという話かも知れない。 第二話については官から借り受けた羆皮の数は、阿倍臣が献上した羆皮(四年是歳)と数と一致するが、 第一話と関連があるとすれば阿倍臣の話とは別で、高句麗からの献上品かも知れない。
猛獣の毛皮の敷物は趣向品で、頭部が付いて両手足を投げ出した形をしている。当時でも同じことであろう。客はこのようなものがずらりと並んでいるのを見て、 羞ずかしくまた怪しみ、早々に辞した。 《大意》 十五日、 群臣に詔して、 「[京内諸寺に 盂蘭盆経(うらぼんきょう)の講を勧めて、七世(ななよ)の父母に報いをさせよ」といわれました。 同じ年、 出雲の国造(くにのみやつこ)【名を欠く】に命じて 厳神の宮を修営させました。 狐が於友郡(おゆのこおり)の役丁(えよほろ)が執り行っていた葛(かずら)の先端を噛み切って 去りました。 また、犬が死人の腕を咥えて、言屋社(いふやのやしろ)に置きました 【 天子の崩ずる兆しであった】。 また、高句麗の使人が、 羆(ひぐま)の皮一枚を持ちこみ、その値として 綿六十斤(きん)をつけました。 市司(いちのつかさ)は、笑って去りました。 高麗の絵師、子麻呂(こまろ)は、 同じ姓(かばね)の賓客への饗を私宅で設けた日に、 官に羆の皮七十枚を借りて賓客の敷物としました。 客たちは恥ずかしく、怪しんで帰ってしまいました。 まとめ 『アイヌ学入門』〔瀬川拓郎;講談社現代新書2015〕は、「アイヌは、六世紀には東北北部から北海道へ撤退し」、 「古代日本語を話し、古代日本の祭祀の文化をもつ人びと」が7世紀に北海道に移住し、彼らがまだ東北北部にいたときに「エミシ」と呼ばれたと述べ、 蝦夷をアイヌから区別している(pp.52~53)。 それに対して、『前方後円墳の世界』〔広瀬和雄;岩波新書〕は、 「古墳文化と続縄文文化が共存していた大崎平野〔仙台平野の一部〕に、生活域の周囲を丸太で囲んだ防御性を高めた囲郭集落が、七世紀中ごろに出現し」、 「(律令国家の)圧力に対抗して、北東北の人々はいっそう集団的貴族性を高め、〈われわれ意識〉を高揚させた」ことを、それぞれの墓式の特徴から見出している(pp.174~176)。 文中の「続縄文文化」は、擦文文化を経てアイヌ文化に移行したと考えられている。 北東北の蝦夷がアイヌに含まれると考えた場合でも、北海道のアイヌとは相違があろう。 とりあえず、ここでは蝦夷を「続縄文文化の人」と表す。 弥生時代の倭人と、続縄文文化の人が接すれば影響しあうから、境界には自ずからグラデーションがあり、中には倭人に同化して冠位を賜った人もいたりする。 ただ、〈斉明紀〉では蝦夷は農耕はせず狩猟生活で、鯨面分身する異文化の人であったと描く。これは当時の実態を表したものと考えてよく、 続縄文文化の人と倭人とは影響しあいながらも、基本的には明瞭な文化的な差異があったと見てよいだろう。 『伊吉連博徳書』については、閏十月三十日の日付に綻びがあるのが残念である。十一月朔日の前日とのみ記憶していて、その日付を間違えたのかも知れない。 九月十四日から十六日までについては気象状況まで推定してしまったので、日付時刻は正しいと信じたい。 |
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2023.12.20(wed) [26-06] 斉明天皇6 ▼▲ |
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12目次 【六年正月~三月】 《阿倍臣率船師伐肅愼國》
ここには、津軽蝦夷が一切出てこないことが注目される。陸奥蝦夷は既にかなり朝廷の国との親和が強く、 味方として十分使えたのであろう。気仙郡〔延喜式/郡の北限〕以北の蝦夷に、船で太平洋岸を回って津軽半島まで来るよう命じたことが考えられる。 《渡嶋蝦夷》
それでも「大河側」、「向河」、「屯聚海畔」、「乗己船到」、「済」、「復」などの語句に沿って位置関係を組み立てると、右図アのようになる。 この配置にもっとも合うのは、ずばり大河=津軽海峡、渡島=北海道南部、弊賂弁嶋=奥尻島とすることである(右図イ)。 津軽海峡は、現代でも「しょっぱい川」と言われる。 ここでは形式的な「渡島郡領」の任命もないから、渡島は津軽よりさらに遠方であろう。 五年四月《渡嶋》項では、渡島を津軽方面と見るに留めたが、 津軽が大体は本州北端を指すことは疑いない。 とすれば、渡島を置くべき場所は本州内にはもうないから、もろに北海道となろう〔但し、同項で見た宝亀十一年紀「渡嶋蝦狄早効二丹心一」の「渡嶋蝦狄」は本州の蝦夷を指している〕。 またヒグマは北海道にしかいないから、阿倍臣は粛慎と北海道で接触したと見た(四年是歳《オホーツク文化》)。 さらには、原注の「弊賂弁〔嶋〕、渡嶋之別也」という書き方によれば「渡島」は独立した島であって、決して本州の一部ではない。 渡嶋が北海道だとすれば、その「別」島の「弊賂弁嶋」は奥尻島となる。 ただ、粛慎が「柵」(き)に籠城して戦う拠点としては、奥尻島では狭すぎるように思える。 「弊賂弁嶋」がサハリンだとしてみると、スケールが一挙に広がって面白いがあまり現実味がない 〔越後から津軽までの距離と、津軽からサハリンまでの距離を比べて見るとよい〕。 「弊賂弁嶋」は、渡島半島〔現代地名〕北部も考えられる。 「弊賂弁渡嶋之別也」が既に書紀原注者による解釈だとすれば、信頼性がいくらか割り引かれるからである。 ただ、粛慎は実際にはひとまとまりではなく多くの族に分かれていたと考えられ、 とすれば奥尻島を根城とする一派がたまたま攻撃性が強く、対岸の渡島蝦夷が被害を蒙っていたこともあり得る。 だとすれば物語の舞台はややこじんまりするが、原注の信頼性は回復する。 《営中二人進而急叫》 「営中二人進而急叫」は、渡島蝦夷の「営」から二人が河岸に進み出て対岸の阿倍臣軍に向って大声で叫んだとも読めるが 〔書紀執筆者は、実際そのような場面を思い浮かべて書いたのかも知れないが〕、 陸奥蝦夷の集結地に代表二人が「大河」を船でわたってきたと読みたい。 「願欲済レ河而仕官矣」の「済る」には、荒波の海峡を何とか乗り切る語感がある〔対岸に向って叫ぶのなら一人でよい〕。 さらに、日本武尊伝説には「吉備穴済神及難波柏済神」とある〈景行〉紀(9)。普通の川なら主に「渡」を使うかも知れない。 津軽海峡を挟んで北側が渡島蝦夷の営、南側が阿倍臣と陸奥蝦夷の営という配置が考えられる。 《貪嗜》 「貪嗜」の意:「貪欲に嗜好する」は明らかであるが、和訓では「ホシメツノマシム」(ホシム[下二]の連用形+ツノムの未然形+使役の助動詞)という意味不明の語となっている。 〈通証〉は「神功紀。欲訓二毛乃保之牟一。嗜訓二豆奈麻一蓋津嘗也。猶レ言二口流一レ涎也。豆良末之亦与二今俗語一意通。」 〔神功皇后紀に「欲」をモノホシムと訓む。「嗜」をツナマと訓み蓋(けだ)し津嘗(つな)むなり。猶(なほ)口に涎(よだれ)流るを言ふがごとし。ツラマシはまた今の俗語に意通づ〕と解する。 その解釈の当否は別として、ホシメツノマシムという古訓が根強い伝統であることだけは分かる。 古訓ホシメは安定している。これについては、「形容詞ホシ+動詞化の接尾語ミ」が動詞化したホシムだとしても四段活用で、下二段はあり得ない。 ツノマについてはツチマ、ツママ(いずれも未然形)も見え、不安定である。 〈兼右本〉の「ツノマシ私」は、ツノマスの名詞形をサ変動詞によって動詞化する(ツノマシセシム)。「私」は「私記によれば」の意と見られる。 あるいは蝦夷の言葉を和風に動詞化したのかも知れないと思い現代アイヌ語を見たが、あったのは「hosipi(帰る)」、「tunolwaysay(何回も何回も)」で、あまり見込みはない。 ここでは、古くは「ホシ」(ホシキマニマニの一部)、「コノマ」(コノムの未然形)と書かれていたものが、誤写によってホシメツノマとなったと考えてみたい。 《積綵帛兵鉄等於海畔》
渡島蝦夷は北海道アイヌで、粛慎はオホーツク文化人だったとすれば、両者の間で沈黙交易が行われていたと考え得る。 阿倍臣はその手続きを用いて、交易関係を呼び掛けたと考えることができる。 すなわち、積んでおいた「綵帛兵鉄等」が回収され、代わりに粛慎の特産品〔例えばヒグマの皮など〕が置かれていれば交渉は成立したであろう。 《換着単衫》 「着」の古訓「キイテ」は、キのイ母音を伸ばして発音する習慣を示すと見られる。この段には「来:キイテ」も見える。 木国が紀伊国と表記されるのは好字令というきっかけはあったが、既にその前から木の母音を伸ばす習慣があったと見られる。 《脱置換衫幷置提布》 粛慎の「老翁」は、一度持ち帰った単衫と布を返して、船は立ち去った。おそらく老翁の帰船を待って講和するか否かを相談し、結局拒否することに決したのであろう。 《弊賂弁嶋》 弊賂弁嶋の比定地として、奥尻島が考えられると見た。 「奥尻町公式/奥尻町公式>遺物・遺跡」は、 「約1,300年前(オホーツク文化期ほか)」には「青苗遺跡出土の丁字頭(ちょうじがしら)勾玉であり、青苗砂丘遺跡などオホーツク文化の遺跡」が見られ、 「サハリンにそのルーツを持つオホーツク文化の最も南の拠点で、オホーツク式土器や独特の形の住居跡など多彩な文化が遺跡から見つかっています。 この時代の奥尻島は様々な民族が行き来する、いわば“文明の十字路”であった」と述べる。 奥尻島が粛慎にとって重要な島であったのは確かであろう。 《食頃乞和遂不肯聴》 乞和」への古訓「アマナハントマウス」は、粛慎側から降伏を申し出たことを意味する。 だとすると、粛慎は一旦使者を送ることを拒みながら、相手の圧倒的な軍勢を見て怖気づいて講和を申し出た。 そして、阿倍臣の「遂不肯聴」は「もう遅い」と言って問答無用で攻め込んだという筋書きとなろう。 書紀執筆者は、記録をそのように理解して文章を組み立てた可能性もあるが、阿倍臣は果たしてそれほど不寛容であったのだろうか。 粛慎に対しては、後日47人に対して石上池辺 「乞」にはメグム・アタフの意味もあり、 阿倍臣側から再度和解の手を差し伸べたものと読むこともできる。 また、「遂不肯聴」を粛慎の態度表明と読むことは和文訓読的にはやや苦しいのが、〈汉典〉には「聴:順従、接受別人的意見」とある。 すなわち、漢字としての「聴」は上が下を許可する場合のみとは限らず、阿倍臣を主語とすることを妨げない。 ただ、どちらと読んでも話の筋を決定的に左右するわけではない。 少なくとも「拠二己柵一戦」の主語が粛慎であることははっきりしている。 《拠己柵戦》 粛慎は、弊賂弁嶋で柵(き)に立てこもって抗戦した。今のところ、奥尻島に柵遺跡の報告を見ないのは残念だが、いつの日にか見つかることを期待したい。 馬身龍の戦死の記事も載るので、激戦だったようである。 《能登臣馬身龍》 「能登臣」が加わっていたことは、阿倍臣が越国守であったことと合致する。
《大意》 六年正月一日、 高句麗の使者乙相賀取文(おつしょうがしゅもん)ら百人余が、 筑紫に停泊しました。 三月、 阿倍臣【名は不明】を遣して、 水軍二百艘を率いて 粛慎(みしはせ)国を征伐させました。 阿倍臣は、 陸奧蝦夷(みちのくのえみし)を自身の船で、大河の畔に着かせました。 このとき、渡嶋蝦夷(わたりのしまのえみし)一千余りが海の畔に結集し、 河の対岸に軍営をなしました。 軍営の中から二人が進んできて慌てて叫ぶに 「粛慎の軍船が大量に来て、 まさに我らを殺そうとしているので、 願わくば河を済(わた)って仕官したいと思います」と言いました。 阿倍臣は、船を遣り二つの蝦夷を召し来させて、 賊の隠れ場所とその船の数を問いました。 二つの蝦夷はすぐに隠れ場所を指して、 「船は二十余艘です」と申しました。 そこで使者を送り、召しましたが来ることを了解しませんでした。 阿倍臣は、 そこで綵帛(しみのきぬ)、兵器、練金(ねりかね)などを海の畔に積んで、 貪欲に嗜好させました。 粛慎はすると軍船を連ねて、 羽を木に繋いで掲げて旗にして、 棹を揃えて近づいて来て浅い箇所に停泊しました。 一隻の船の裏から出てきた二人の翁が、 廻り歩いて積まれた綵帛(しみのきぬ)などの物を熟視して、 その結果単衫(ひとえのきぬ)に着替えて、それぞれが布一端(ひとむら)を携えて、 船に乗って戻りました。 俄かに翁はもう一度来ました。 着替えた単衫を脱ぎ置き、併せて携えた布を置き、 船に乗って退きました。 阿倍臣は多くの船を送り、召させました。 来ることを肯定せず、弊賂弁嶋(へろべしま)に帰りました。 しばらくして和を願いましたが、 遂に聴くことを了解しませんでした 【弊賂弁(へろべ)は渡嶋(わたりしま)とは別の島です。】。 自分の城柵にこもって戦いました。 その戦いで、能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)は、 敵によって殺されました。 なおも未だ戦いの倦まないうちに、 賊は敗れて、自らの妻子を殺しました。 13目次 【六年五月】 《皇太子初造漏剋》
高麗館は〈推古〉十六年以前には高麗使の館として使われていたが、それよりずっと豪華な難波館ができたので高麗館は廃され、 以後高麗使も難波館に迎えるようになったと思われる。 《仁王般若之会》 仁王般若経は「大乗仏教の経典で、法華経・金光明経とともに護国三部経として尊ばれた」。 仁王般若之会は「鎮護国家のため百高座を設けて仁王経を講讚し、災難をはらう法会。 奈良時代には年中行事化し、春秋二季仁王会と、攘災のために臨時に行なわれる臨時仁王会とがある」 という〔以上『日本国語大辞典』(小学館;1972)〕。 《漏剋》
漏刻は、水の落下を利用した時計である。
『隋書』巻十九(天文志上)には「漏刻」の項を立て、「昔黄帝創レ観二漏水一。制レ器取レ則。以分二昼夜一。」と書き始めて隋代までの時制を概観している。 「揆〔=計〕日晷、下漏刻。此二者、測二天地正儀象一之本也」とあり、日晷〔=日時計〕と漏刻による時刻の記録が天地の儀の基本であると述べる。 古代の水時計から発展して唐代の漏刻に至り、中大兄皇子は唐からその最新形態を導入して作ったと見られる。 ただ、実際に水落遺跡で検出されたのは漆箱と導水管のみで、近代の和文献に載る漏刻図は中国の古文献の図を真似たものである。 「天智天皇御宇制」は想像に過ぎない。 ● 『古代の漏刻と時刻制度』〔木下正史;吉川弘文館2020〕は、 水落遺跡の「楼状建物内に設けられていたはずの施設、設備は…全く残されておらず…水の行き先ななどを明らかにすることは困難である」。 ただ、「黒漆水箱の底面に埋積していた砂や、第二銅管内の…の粘土は、第一木樋の底にたまっていた砂に比べて、はるかに微細」で「清浄な水を必須とした」ことを示すという(pp.27~28)。 同書は、「第五木樋は、水落遺跡の北に続く石神遺跡でもその北延長部が発見され」、 「水落遺跡と石神遺跡が一連の計画の下に造営されたことは明らか」で、 「水落遺跡の周辺には、水を利用するさまざまの施設があり、地下水路網が縦横に複雑に廻らされている」と述べる。 噴水装置付きの石造物(石人、須弥山)は、その水路網に組み込まれていたわけである。 同書はまた、馬場信武が1706年に著した『初学天文指南』に掲載された「古制蓮漏図」を紹介している。 『初学天文指南』は「宋の百科全書『事林広記』、あるいは『宣明暦』(寛永版)」などを「ほぼそのまま書写したもの」だという。 また『漏刻説』とその掲載図については、「漏刻に関する知識・理解はあいまいで、この図は単なる「模式的想像図」にすぎない」と酷評している(pp.64~65)。 一方、渋川影佑『壺漏説 完』〔1838〕の実験を通した検証については、「漏刻の原理やその精度など本質に対する理解がはるかに深かった」として高く評価している(pp.71~76)。 ● 次に、階段状に水を順送りする漏刻の仕組みについて、若干考察する。
「使レ民知レ時」について、〈延喜式/陰陽寮〉には次の規定が見える。 ●「凡撞二漏刻鐘一料。松木一枝。【本周三尺。長一丈六尺。】随レ損二令左右衛門府一互採送。其綱料。熟麻※)卅斤。」 〔漏刻の鐘を撞く料は松木一枝(根本の周0.9m、長さ4.8m)。破損したら左右の衛門府が交互に採って送れ。その綱料は熟麻30斤〕 …撞木と綱(吊るし引く)の供給を規定する。漏刻を鐘を撞いて知らせていたことが分かる。 ※)…黄麻の靭皮を液体に浸し、日干しした製品。粗く強靭で縄、袋等に用いる(〈汉典〉による)。 ●「凡行幸。陪二-従属已上二人一。率二陰陽師二人。漏刻博士一人。守辰丁十二人一。直丁一人供奉一。…」 〔行幸には属〔寮の四等官〕以上の二人が陪従し、陰陽師二人、漏刻博士一人、守辰丁十二人を率いる〕 …守辰丁〔=時守(ときもり)〕は、漏刻の水海に浮かべた刻み矢を熟視して合図を送る役と撞き手で、十二名が交替で業務にあたったと考えられる。 行幸の際はポータブル漏刻を運んだことが分かる。漏刻博士は漏刻の組み立てなどを監督したと思われる。行幸に漏刻を携帯する習慣が飛鳥時代まで遡るかどうかは分からない。 《阿倍引田臣》 四年是歳「越国守阿部引田臣比羅夫」であろう。 おそらく用いられた出典には名前を欠くものがあり、そのまま書いたのであろう。蝦夷が「夷」になっているのも出典の通りかも知れない。 「献」とあるから、ここの「蝦夷」は奴婢であろう。一方で饗に呼ばれた者もいるから、蝦夷の中に階層があったと考えられる。 《石上池辺作須弥山》 前出『古代の漏刻と時刻制度』は学べきぶところが多かった。ただ、「「石上池」の場所も飛鳥寺西の地とするのは妥当である」と書かれていたのが意外であった(p.339)。 それは田村吉永説によるというので、 その『飛鳥京藤原京考証』(田村吉永;綜芸舎1965)を見ると、「石神付近を石上池の地と考える」と述べられている。 そして「安康天皇の石上の穴穂宮」もこの辺りという。その根拠として、 渠が「天理市石上の地まで等と従来言うておるのはいかにもおかしい」と感じられ、また近くに小字名「イハノウエ」、 「イシカムネ」があることを挙げる〔ともに大字奥山にあることが確認できた〕。 書かれてはいないが、石神が外国使節や蝦夷の接受の地であったことも当然その理由であろう。 ただ、同書は一方で狂心の渠について、「奥山の奥山の人家の東北端」西方から「溝渠の跡」が北に香久山まで伸びるのが見え、それが「狂心の渠」だと認めている。 ならば、石神で産出した石を岡本宮方面に運ぶために、渠をなぜ香久山西まで掘る必要があるのだろうか。 第116回で見たように、石上の訓みは倭名類聚抄{伊曽乃加美}である。 記紀で神宮と称すのは、伊勢神宮を除けば石上神宮のみである。石上は古墳時代初めに物部氏の祖先が移ってきたときから饒速日神を祀る由緒ある場所で、古くからイソノカミと呼ばれ、 その呼称が古訓の時代〔平安〕まで維持されたことに、疑う余地はない。 書紀において「石上」の表記はイソノカミに専一化され、それ以外の土地を表すことは考えられない。 付け加えるなら、既に噴水機構付きの須弥山のある石神の地に、改めて巨大な須弥山を造るのは屋上屋を重ねるが如くで考えにくい。 異国から客を招いて饗する会場が、ここだけなぜイソノカミなのかという問題は残るが、宮廷の諸行事の会場はあまり限定的に考え過ぎない方がよいのかも知れない。 《高如廟塔》 廟塔には祖霊を祀ったり、仏像、仏舎利を納める。 書紀に「廟塔」という語が出て来るのはここが唯一なので、どのようなものをイメージしていたかを知る手掛かりはない。 それでも、「石上池辺」に作った須弥山は見上げる塔ほど高いと比喩したものであろう。 《饗粛慎四十七人》 「粛慎四十七人」に饗したという。弊賂弁島以外にも粛慎がいて、中には朝貢する派もあったということである。「弊賂弁島」の粛慎は複数の派の一つであろう。この見方は、弊賂弁島=奥尻島説の合理性を強める。 粛慎との交渉には一般的に沈黙交易の手法が使われ、朝貢までこぎつけた派もあったが、弊賂弁島の粛慎に対してはうまくいかなかったわけである。 阿倍臣は、粛慎各派との交渉にあたって粛慎と沈黙交易を行っていた渡島蝦夷の協力を得たと思われる。 《大意》 五月八日、 高句麗の使者、乙相賀取文(おつしょうがしゅもん)らが、 難波の館(むろつみ)に到着しました。 同じ月、 有司は 勅により百の高座、百の衲袈裟(のうけさ)を作り、 仁王般若(にんおうはんにゃ)の会(え)を設けました。 また、皇太子(ひつぎのみこ)は初めて漏剋(ろうこく)を造り、 民に時を知らせました。 また、阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)【名は不明】は、 蝦夷(えみし)五十人余を献上しました。 また、石上池の畔に須弥山(しゅみせん)を作り、 その高さは廟塔(びょうとう)の如くで、 そうして粛慎四十七人を饗しました。 また、国中の人民が、 理由もなく武器を持って道を行き来しました 【国の長老は、 「百済国が領土を失う相(そう)か」と言った。】。 まとめ 奥羽北部と北海道の各地には蝦夷が、北海道には粛慎がいたが、諸族相互の関係は決して背反的なものではなかったと考えられる。 諸族は越後の倭人を含めて基本的に隣人関係にあり、その交流は時に沈黙交易の形態をとった。 阿倍臣の粛慎征伐段においては、既に「倭人⇔陸奥蝦夷⇔渡島蝦夷⇔粛慎」の交流の連鎖が成り立っており、阿倍臣は陸奥蝦夷と渡島蝦夷とを仲立ちとして、粛慎との関係を構築しようとしたことが読み取れる。 但し、当時の朝廷にはやはり周辺諸族を倭人による支配下に置こうとする指向性があり、粛慎との関係については各支族ごとに友好にも敵対にも傾き得たことが伺われる。 この段では、阿倍臣は陸奥蝦夷を統率下に置くことができた。 一般に蝦夷に対して、倭国が支配欲がむき出しにしない限り関係は良好だったが、日本国が自身の優越性を本格的に求める時代になると対立を深め、却って真郡の成立を遅らせる結果を招いたと理解することができる。 全体の枠組みをこのように理解した上で、オホーツク海文化人の分布とヒグマの生息域を併せて考えれば、阿倍臣は北海道南部まで足を延ばして粛慎と直接接触したと見てよいであろう。 漏刻については、江戸時代の渋川影佑の研究ではその精度は簡単には得られなかったようである。 中国では周代から唐代までの学者による研究の積み重ねがあり、記録には書かれない多くの細かな技術や経験的なこつによって一定の精度が得られていたと思われる。 一人の研究者が数年かけた程度では、及びもつかないであろう。 石上池の畔の巨大須弥山の意味と、特にそこで行われる儀式の性格は興味深いが、今のところ探る手掛かりはない。 ただし、本サイトは石上を石神と安易に同一視する立場をとらない。 |
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⇒ [26-07] 斉明天皇(4) |
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