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2023.11.10(fri) [26-03] 斉明天皇3 

目次 【四年七月~十月】
《蝦夷二百餘詣闕朝獻》
秋七月辛巳朔甲申。
蝦夷二百餘詣闕朝獻、
饗賜贍給有加於常。
仍授柵養蝦夷二人位一階。
七月…〈北野本(以下北)〉七月 フツキ 
詣闕朝献…〈北〉 マウ ミカ朝-  ミツキタテマツルト モノタテマ [句]  アヘ  タマヒ贍-給 ニキハヘフ マサレル  ヨリ 仍授柵- カフ蝦夷二人位一シナ。 〈内閣文庫本(以下閣)〉詣闕マウテ ミカトニ朝獻 モノタテマツル[句] アヘ タマヒテ ニチハヘ給有マサレルフ
…[動] たす。にぎわす。〈類聚名義抄-仏下〉「:ニギハフ ヨロコフ クスリ ムカフ ユタカナリ」。
にぎはふ…[自]ハ四 豐かに繫栄する。
にぎほふ…[他]ハ下二 てあつくものをめぐむ。〈時代別上代〉ニギハフ(他動詞、下二)の転。
秋七月(ふみつき)辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として甲申(きのえさる)〔四日〕
蝦夷(えみし)二百(ふたほ)余(あまり)闕(みかど)に詣(まゐ)でて朝献(をろがみみつきたたてまつ)る。
饗(みあへ)賜(たまは)りて贍(にぎはへ)給(たまふ)こと[於]常(つね)より加(まさ)りて有り。
仍(よ)りて[授]柵養蝦夷(きかふえみし)二人(ふたり)に位(くらゐ)一階(ひとしな)、
渟代郡大領沙尼具那小乙下
【或所云授位二階使檢戸口】。
少領宇婆左建武。
勇健者二人位一階。
別賜沙尼具那等
鮹旗廿頭
鼓二面
弓矢二具
鎧二領。
渟代郡大領…〈北〉渟-代大-領 コホリミヤツコ/小乙 下イ
 〈閣〉 コホリ大領 ミヤツコ  ニハ
小乙下大化五年「制冠十九階」の十八階。
授位…〈北〉 タマウテ クラヒ二階 フタシナ使 シムト-戸口 カムカヘ ヘ ヒトヲ
 〈閣〉 ニハ タマ位二階使ヒト
少領…〈北〉少-領 スケノミヤツコ宇婆-レ/武イイサ■健者  タケキモノ
 〈閣〉少-領スケノミヤツコ[切][句] 武人 イ  タケキ モノ二人ニハ
別賜…〈北〉別賜沙尼具那等 タコ ハタ廿 ハタ チ ツゝミ二面ユミフタ ヨロヒカフトフタ 
 〈閣〉賜沙尼具那等 タコ ハタ廿 ハタチ ハチ[切] 鼓二面[切]弓矢二-フタソナヘヨロヒ/カフト ヨロヒ ツヲ
〈釈紀〉鮹旗タコハタ廿ハタツゝミフタユミフタ具。ヨロヒカフトフタ〔カブトは誤用〕
建武大化三年「七色十三階」の十三階。「制冠十九階」の立身(十九階)に相当。
…[名] 海魚の一種。〈日本語用法〉(頭足類の)タコ(蛸)。(古訓) たこ。
そなへ…[助数詞] 揃っているもの一組。
そろひ…[助数詞] 揃っているもの一組。
渟代郡(ぬしろのこほり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に小乙下(せうおつげ)
【或(ある)所(ところ)に、位(くらゐ)二階(ふたしな)を授けて戸口(へひと)をして検(かむが)へ使(し)むと云ふ】、
少領(すけ)宇婆左(うばさ)に建武(けんむ)、
勇健者(たけきひと)二人(ふたり)に位(くらゐ)一階(ひとしな)をさづく。
別(こと)に[賜]沙尼具那(さにぐな)等(ども)に
鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)、
鼓(つづみ)二面(ふたつ)、
弓矢二具(ふたそろひ、ふたそなへ)、
鎧(よろひ)二領(ふたそろひ、ふたそなへ)をたまふ。
授津輕郡大領馬武大乙上。
少領靑蒜小乙下。
勇健者二人位一階。
別賜馬武等鮹旗廿頭
鼓二面
弓矢二具
鎧二領。
馬武…〈北〉馬武マム大乙シヤウ青蒜 アヲ ヒル小乙
大乙上…「制冠十九階」の十五階。
[授]津軽郡(つかるのこほり)の大領(かみ)馬武(まむ)には大乙上(だいおつじやう)、
少領(すけ)青蒜(あをひる)に小乙下(せうおつげ)、
勇健者(たけきひと)二人(ふたり)に位(くらゐ)一階(ひとしな)をさづく。
別(こと)に[賜]馬武(むま)等(ども)に
鮹旗二十頭、
鼓二面、
弓矢二具
鎧二領をたまふ。
授都岐沙羅柵造【闕名】位二階、
判官位一階。
授渟足柵造大伴君稻積小乙下。
又詔渟代郡大領沙尼具那、
檢覈蝦夷戸口與虜戸口。
都岐沙羅柵造…〈北〉都岐沙羅ツキサラキノ ミヤツコ判-官マツリ■■ヒト ヌ タリ ノ造大-伴トモノキミ イナ ツミ沙奈具那検覈カフカヘアナクル アナクラシム蝦夷戸 ヒト虜戸 トリコ 
 〈閣〉判-官マツリコトヒト尼也[切]検-覈カウカヘアナクル アナフラシム
 〈釈紀〉大伴トモノ キミ稻積イナツミ。沙尼歟具那
判官…〈倭名類聚抄〉「判官:…【皆万豆利古止比止】」
渟足柵大化三年是歳(二)
検覈…点検して事実を明らかにする。
[授]都岐沙羅柵造(つきさらきのみやつこ)【名を闕(か)く】に位(くらゐ)二階(ふたしな)、
判官(まつりごとひと)に位一階(くらゐひとしな)をさづく。
渟足柵造(ぬたりきのみやつこ)大伴君(おほとものきみ)稲積(いなつみ)に小乙下(せうおつげ)を授く。
又(また)渟代郡(ぬしろのこほり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に詔(みことのり)たまひて、
蝦夷(えみし)の戸口(へひと)与(と)虜(とりこ)の戸口(へひと)とを検覈(かむが)へしめたまふ。
《饗》
 このときのも飛鳥寺西の接受施設で行われた可能性が高い。
《饗賜贍給有加於常》
 中国の外交においては、周辺国から国内諸侯国に擬えた形で朝貢を受け、その実質的価値を大幅に上回る回賜を与えた。 その一端は、魏志倭人伝に記述された倭国王からの朝貢(魏志倭人伝(72))と、回賜(同(74)~同(76))に見える。
 「饗賜贍給有加於常」は、その慣行を髣髴ほうふつさせる。 すなわち、〈斉明朝〉における蝦夷との関係は、本質的に国外の勢力との友好の確立である。
 五年七月条では蝦夷は三種あると述べ、遠い方から順に「津軽蝦夷」、「アラ蝦夷」、「ニキ蝦夷」といい、そのうち「熟蝦夷」は「毎歳入-貢本国之朝」とある。
 〈天武紀〉十一年七月には「隼人等於明日香寺之西」とあるが、大隅や薩摩との関係も依然としてこのレベルであったと見られる。
 よってここでいう「郡大領」、「郡少領」も、基本的には名誉的な称号であろう。 但し、大領少領には下で見るようにある程度倭人に同化していた人物を取り立て、できれば「」の蝦夷全体に対する倭朝廷の国家の統率を実現しようとする思惑が見える。
 なお、仮に大領・少領任命の記事が〈斉明朝〉当時の記録に基づくものだとすれば、その表記は「」ではなく「」になっていたはずである。(〈景行〉十七年《郡と県》)
《授柵養蝦夷二人一階》
 「授…沙尼具那小乙下」の分注に「或所」の記録として「授位二階」とあることから、十九階中十八階の小乙下の別表記が「授位二階」であったと考えてよいだろう。 すると、「授位一階」は第十九位の「立身」に相当する。
 なお、宇婆左に授けられた「建武」はこの時期は「立身」になっていたはずであるが、移行前の名称が使われたと考えられる。
《授馬武大乙上
 馬武には第十五位の「大乙上」が授けられたから、それ以前に「大乙下」〔またはそれ以下〕の冠位をもっていたはずである。 すると、津軽蝦夷を統率させるために、倭人を郡大領として送り込んだのだろうか。または、既に倭人に同化していた蝦夷人であった可能性もある。 馬武(マム)は、倭人の名〔ムマタケ?〕か、あるいは蝦夷人の名かは判断し難い。
 郡少領の青蒜(アヲヒル)は倭人の名前に思えるが、本名とは別に和風の名前を持っていたことも考えられるので、一概には言えない〔倭人が呼んだ蔑称かもしれない〕青蒜は、「小乙下」を賜る前は立身だったことになる。
 五年七月条では遣唐使に蝦夷の人物を同行させたとあるところを見ても、この時期の「熟蝦夷」はかなり友好的であった。 境界地域では交流のある熟蝦夷の幾人かは、倭に同化して現地の司に加わっていて、中には冠位を賜った者がいたこともあり得よう。 彼らは、倭の官と蝦夷との間を取り持つには適任である。よってそのような人に肩書大領少領を与えて送りこんだと考えるのがよいと思われる。
《恩荷:小乙上(四年四月)》
 ここで、四年四月条で「恩荷以小乙上」とあることについて改めて考える。 恩荷齶田蝦夷に属していたが、やはりもう少し南にあった倭の司をしばしば訪れていて、既に小乙下の階位を得た人物であったと考えておきたい。 四年四月に阿倍軍を迎えた際には現地で齶田蝦夷を代表して、阿倍臣との交渉にあたったのであろう。
 その結果朝貢の関係が成立し、恩荷はその功績によって小乙上に進階し、渟代津軽二郡の〔擬制としての〕郡領」に定められたと考えられる。
《大領・少領》
 四年七月条における大領少領の任命には、真郡ではないものの一定の実質を伴っている。 それに対して、四年四月条で恩荷を「渟代津軽二郡々領」と定めたことについては、仮に〈斉明朝〉当時に実際に郡領〔実際は評領〕に任じたとしても実質はなく、全くの名誉的な称号であろう。
 両者の「郡領」のニュアンスの差を、このように考えておきたい。
 なお、大領少領は〈倭名類聚抄〉によれば「長官:…郡曰大領…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰少領…【已上皆須介】」、 すなわちカミスケと訓む。 この段では真郡に准えて用語を用いているので、その意図に沿って〈倭名類聚抄〉のように訓むのがよいであろう。
《鮹旗…》
 〈釈紀-述義〉は「私記曰。師説。未其躰也。師後説曰。今現在此旗之頭也如鮹。故名。」と述べる。
 鮹旗以下の品々は、軍備品である。すなわち、進軍にあたって鮹旗を掲げを鳴らし、弓矢を構えてをまとう。 まさか倭に歯向かうための軍備を与えるはずはないから、蝦夷を統率する者として内部で未だ反抗する者を討つ任務を与えたことは明らかである。
《都岐沙羅柵》
都岐沙羅柵の位置の推定
 都岐沙羅柵(つきさらのき)について、『大日本地名辞書』には「この都岐沙羅柵今知れず。渟足、磐船の間〔か〕といへど、臆想にすぎず」、 「渟足、磐船、出羽の三柵は、沿海の一道の上に布置す。都岐沙羅も此一線の上に外るることなかるべし、 もしくは、後の越羽の堺となれ念種ネンジユ関などに擬すべき歟」とある。 すなわち、渟足柵磐船柵出羽柵のライン上で、あるいは鼠ヶ関(ねずがせき)跡かも知れないという。
 鼠ヶ関(ねずがせき)は、1968年に本調査が実施され、現在の山形県鶴岡市温海町鼠ヶ関原海などにあり、 「平安時代から室町時代の関所の一部」、 「11世紀以前の倉庫風の掘立柱建物跡一棟、掘立の丸柱が並列してジグザグに検出され、千鳥式走行とされた柵列跡」が見られるという(『日本歴史地名大系』平凡社;1990)。
《渟足柵造大伴君稲積》
 渟足柵造大伴君稲積は、明らかに倭人である。「小乙下」の授与は、攻撃側の阿倍軍内部での論功行賞であろう。 都岐沙羅柵造【闕名】への「位二階」も同様だと思われる。 「判官位一階」の判官も「闕名」であろう。
《検覈蝦夷戸口与虜戸口》
 「渟代郡大領」に任じた沙尼具那に「-覈蝦夷戸口与虜戸口」を命じたという。戸籍を整備する目的は、班田収授法を実施して税を課すためである。しかし、蝦夷には五穀の耕作が存在しないので、実態に合わない 〔特産物の供出は考えられるが、実際には倭人との物々交換であろう〕。 納税の台帳として活用することはないから、実際には殆ど進まなかったと見てよいだろう。
 「蝦夷戸口虜戸口」の意味は推定するしかない。は奴婢と見られる。虜は戦利品として奴婢にされるからである。 「虜戸口」は、倭人が入植したときに捕えた蝦夷を奴婢として私有した者のことではないだろうか。それに対して自立生活していた者が蝦夷戸口と考えることができる。 ただ、倭人の入植がもし順調に進んだとすれば、郡設置が中世まで遅れることはあり得ない。虜戸口は、あったとしてもごく僅かだったに違いない。
《大意》
 七月四日、 蝦夷(えみし)二百人余が宮闕(きゅうけつ)〔=朝廷〕に詣でて朝献しました。
饗(あえ)を賜り賑(にぎ)わすことは、通常を上回るものでした。
 これにより、柵養蝦夷(きこうえみし)二人に位一階、 渟代郡(ぬしろのこおり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に小乙下(しょうおつげ) 【ある所の伝承では、位二階を授けて戸口(こぐち)を調べさせたという】、 少領(すけ)宇婆左(うばさ)に建武(けんむ)、 勇健な者二人に位一階(ひとしな)を授けました。
 別に沙尼具那(さにぐな)らに 鮹旗(たこはた)二十旗、 鼓二体、 弓矢二組、 鎧二揃えを賜りました。
 津軽郡(つかるのこおり)の大領(かみ)馬武(まむ)には大乙上(だいおつじょう)、 少領(すけ)青蒜(あおひる)に小乙下(しょうおつげ)、 勇健の者二人に位一階を授けました。
 別に馬武(むま)らに 鮹旗二十旗、 鼓二体、 弓矢二組、 鎧二揃えを賜りました。
 都岐沙羅柵(つきさらき)の造(みやつこ)【名前不明】に位二階、 判官(まつりごとひと)に位一階を授け、 渟足柵(ぬたりき)の造(みやつこ)大伴君(おおとものきみ)稲積(いなつみ)に小乙下(しょうおつげ)を授けました。
 また、渟代郡(ぬしろのこおり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に詔(みことのり)して、 蝦夷(えみし)の戸口(こぐち)と虜(とりこ)の戸口を検覈(けんかく)させました。

《沙門智通智達乘新羅船往大唐國》
是月。
沙門智通智達、
奉勅乘新羅船往大唐國、
受無性衆生義於玄弉法師所。
沙門智通智達…〈北〉沙門 ホウシ新羅シラキ 船往大唐  モロコシノ玄弉法師 モト
 〈閣〉沙-門 ホウシ  ◳智受無キ〟於玄 ノモト[句]
 〈釈紀〉ツウウクシヤウシユシヤウノキヲクエンシヤウ法師ホウシノモトニ
是(この)月。
沙門(ほふし)智通(ちつう)智達(ちたつ)、
勅(おほせこと)を奉(たてまつ)りて新羅(しらき)の船に乗りて大唐(だいたう、もろこし)の国に往(ゆ)きて、
無性衆生(むしやうしゆじやう)の義(ぎ)を[於]玄弉法師(ぐゑんしやうほふし)の所(もと)に受く。
冬十月庚戌朔甲子。
幸紀温湯。
天皇憶皇孫建王、
愴爾悲泣、
乃口號曰。
幸紀温湯…〈北〉[ノ]温-[句]天皇[切]オホシ皇孫オモホシイテ 建王[テ] 愴-爾 イタミ悲-泣[句] カナシヒタマフ口-号クチウタシ クツウタシテ[テ]。 〈閣〉 ノ ユニ-湯憶 オモホシイテゝオホシテ 
…[助] ここでは「~然」と同じ。〈汉典〉「助詞。…②後綴。用于形容詞或副使。相当於“然”」。
冬十月(かむなづき)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔十五日〕
紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。
天皇(すめらみこと)皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)を憶(おもほ)して、
愴爾(いたきおもひ)に悲しび泣きたまひて、
乃(すなはち)口号(くちうた)したまひて曰はく。
耶麻古曳底
于瀰倭柁留騰母
於母之樓枳
伊麻紀能禹知播
倭須羅庾麻旨珥【其一】
耶麻古曳底…〈北〉耶麻古曳底ヤマコエテ[句] 于瀰倭柁留騰母ワミワタルトモ[句] 於母之樓枳ヲモシロキ[句] 伊麻紀能禹知播イマキノウチハ[句] 倭須羅庾麻旨珥ワスラユマシニ
 〈閣〉[句][句][句][句] 倭須羅庾麻旨交本
 〈釈紀〉耶麻古曳底ヤマコエテ山越也 于瀰倭柁留騰母ウミワタルトモ海渡 於母之樓枳ヲモシロキ面白也 伊麻紀能禹知播イマキノウチハ今城内也 倭須羅庾麻旨珥ワスラユマシニ忘也。私記曰師説雖忘之義也其一。
 凡歌意者。雖山海建王之今城谷者不忘難忍之由也。

おもしろし…[形]ク 見て楽しい。〈時代別上代〉「すべて興趣のあるさまをい」う。
ましじ…[助動]シク 否定的推量。終止形に接続。平安以後はマジ。 。
耶麻古曳底(やまこて)
于瀰倭柁留騰母(うみわたるとも)
於母之楼枳(おもしろ)
伊麻紀能禹知播(いまきのうちは)
倭須羅庾麻旨珥(わすらゆましじ)【其一(そのひとうた)】
瀰儺度能
于之裒能矩娜利
于那倶娜梨
于之廬母倶例尼
飫岐底舸庾舸武【其二】
瀰儺度能…〈北〉 瀰儺度能ミナトノ[句] 于之裒能矩娜利ウシホノクタリ[句] 于那倶娜梨ウナク■リ[句] 于之廬母倶例尼ウシホモクレニ[句] 飫岐底舸庾舸武ヲキテカユカ■
 〈閣〉[句][句][句][句]
 〈続紀〉 瀰儺度能ミナトノ湊也 于之褒能矩娜利ウシホノクタリ潮下也 于那倶娜梨ウナクタリ海下也 于之廬母ウシホモ潮也。保与廬同響也倶例尼クレニ暮也。言暮潮也 飫岐底舸庾舸武ヲキテカユカム置行也。言亡建王去行之義也其二。
 凡歌意者。眺-望江湖弥催-懐𦾔之由也。

置行也下述
瀰儺度能(みなとの)
于之裒能矩娜利(うしほのくだり)
于那倶娜梨(うなくだり)
于之廬母倶例尼(うしろもくれに)
飫岐底舸庾舸武(おきてかゆかむ)【其二(そのふたうた)】
于都倶之枳
阿餓倭柯枳古弘
飫岐底舸庾舸武【其三】
于都倶之枳…〈北〉于都倶之枳ウツクシキ 阿餓倭柯枳古弘ア■ワカキコヲ[句] 飫岐底舸庾舸武ヲキテカユカム
 〈閣〉  倭イ[句]
 〈釈紀〉于都倶之枳ウツクシキ美麗也。顯見也 阿餓倭柯枳古弘アカワカキコヲ[句]我稚子也 飫岐底舸庾舸武ヲキテカユカム置行也其三。
 凡歌意者。褒-美建王在世之姿容兼動沒後之戀慕
于都倶之枳(うつくしき)
阿餓倭柯枳古弘(あがわかきを)
飫岐底舸庾舸武(おきてかゆかむ)【其三(そのみうた)】
詔秦大藏造萬里曰
「傅斯歌勿令忘於世」。
秦大蔵造…〈北〉 ハタノ大藏造  ミヤツコ萬里マリ斯歌[テ]シムル於世
 〈閣〉ヨロツサト。 〈釈紀〉ハタノ大藏オホクラノミヤツコヨロツサト
秦大蔵造(はたのおほくらのみやつこ)万里(まり)に詔(おほせこと)曰(のたま)ひしく
「斯(この)歌を伝へて[於]世に勿令忘(なわすれしめそ)」とのたまひき。
《沙門智通智達》
沙門智通  ここだけ
沙門智達  〈斉明〉四年に新羅国に派遣された三人の使者のうちの一人。
《無性衆生義》
 無性衆生の義については、玄弉法師門下の高弟であった神泰が「「無性衆生義」を肯定する「五姓各別」論者であった」 という記述が見つかった。〔『史林』43(82)(182)/史学研究会1960;薗田香融(p.87)〕
 「五性各別」とは 「法相宗の説で、一切の衆生を先天的に決定されている本性から、菩薩定性、独覚定性、声聞定性、三乗不定性、無性有情の五種に分けるもの。先天的に成仏できるもの、できないものを示したところに特色がある。 ※教長集(1178‐80頃)「新院百首釈教の心をよめる 他縁大乗 五性各別 我身にも仏のたねのありなしは花のかつらをかけてこそしれ」〔『精選版日本国語大辞典』小学館2006〕という。
 すなわち、或る人が成仏できるかどうかは、生まれつきの素質として定まっているとする考え方のことである。 当時倭の仏教界でこれが議論の焦点になっていて、玄弉法師に尋ねるために行かせたということかも知れない。
 遣唐使への同行ではなく、たまたま新羅に帰る船に便乗して出かけたところに、派遣が非公式でかつ急いでいたことが伺われる。
《玄弉法師》
 玄弉法師については、〈続紀〉文武四年〔700〕三月己未:「道照和尚物化〔=死去〕」の記事中に 「適遇玄弉三蔵。師受業焉。三蔵特愛。令住同房。謂曰。吾昔往西域。在路飢乏。無村可乞」とあり、倭からやってきた道照を特愛した。 道昭(道照)は、白雉四年五月に学問僧として遣唐使に同行した。
 玄弉法師は、また『大唐西域記』を著した(
【吐火羅国】参照)。
 〈斉明天皇〉は、西域の文化に対して強い興味を抱いていたと考えられ、併せてその話も聞いて来させたのかも知れない。
《幸紀温湯
 〈斉明〉三年【紀温泉】《斉明天皇の行幸》項参照。
『尊経閣善本影印集成29/釈日本紀3』〔八木書店2004〕(p.275)
『新訂増補 国史大系8』〔吉川弘文館1999〕(p.353)
《飫岐底舸庾舸武》
 〈釈紀-和歌〉のこの三歌のところには、意味不明の字が幾つかある。に〈影印本〉(八木書店)と〈国史大系〉(吉川弘文館)の該当部分を示す。
 第二歌の「飫岐底舸庾舸武」への分注、「行也言亡建王行之義也」については、 「置きてか行かむ」は明らかなので、は「」である。 〈影印本〉は〔アミガシラ;罔の略〕にする。そのような異体字があったのかも知れないが、 第三歌への分注「行也」ではに見えるので、筆写者の解釈であろう。 〈国史大系〉はこの箇所のために「」の活字を鋳造している。
 「」を〈国史大系〉は「兮行」とするが、は文末の語気詞以外の用法はないので、不適切である。 文脈上は夭折を意味する語である。破損した部分の字を、筆写者がこのような字形に見て書いたと想像される。 ここには例えば「步行」、「去行」を当てはめることができる。実際の字が何であったかは分からないが、この類であろう。
 第三歌の解説に「動沒之戀〔=恋〕」とある。 を〈国史大系〉はとする。 の異体字𠔥〔U+20525〕に似るが、〔レンガ〕を欠く。しかしこの形には、知っている字を確信を持って書いた雰囲気がある。
 について〈国史大系〉は、活字「」を作っているが、ユニコードにはない。 「没後〔=終えた後;和語では特に死の後〕とすると解り易い文になるので、「」が誤写されたと見るのがよい。 〈釈紀-和歌〉全体は、平易な文章で書かれているからである。「」への判断についても同様である。
《歌意》
其一 山越えて うみ渡るとも 面白き 今木の内は 忘らゆましじ
〔 山を越え、海を渡っても趣のある今木の里が忘れられないだろう。 〕
 遠く旅立つ建王の魂に、呼びかける歌か。 あるいは、建王が眠る美しい今木の地を感歎して出た言葉か。
 「麻旨珥」への古訓は「マジニ」である。マジは、上代にはマシジであったという知識を欠いていたか。
 オモシロキについては、万葉集では「面白」(1240,3791)、「」(1081)がオモシロミ、オモシロクに宛てられている。 「怜」は、「漢籍の「可怜」から生まれた表記」(〈時代別上代〉)という〔怜は憐の異体字〕。 なお、[忄+可]という字はユニコードにはない𢘟 [心+可]ならある〕
其二 湊の うしほの下り うな下り 後ろも暮れに 置きてか往かむ
〔 海は引き潮。海に下ろうとする。後ろは暮れてきた。〔あなたは私を〕置いて行くのか。 〕
 日暮れに見る海の塩が引くことに、建王の魂が水平線の彼方に行くことを重ね合わせたか。 日も暮れてきたしそろそろ帰ろうかという詠み手の気持ちとも読めるが、 疑問の係助詞は、自分ではなく去る人に問いかけているように感じられる。 〈釈紀〉による解釈「眺望江湖」は、影印本でも完全に「」であるが、「」の誤写であろう。
其三 うつくしき が稚き児を 置きてか往かむ
〔 愛しい私の年若い子を、置いて行くことができようか。 〕
 上代語のウツクシは、肉親への親愛の情を表す語。〈釈紀〉のいう「美麗〔容姿のよさ〕」、「顕見〔生きていたときの〕」とは、ニュアンスが異なる。
 アガワガの使い分けについては、「…には常にアガ」がつく(〈時代別上代〉)という。
 第三歌ではオキテカユカムの主語は詠み手で、反語〔置いて行こうか?否、置いて行けない。〕と受け止めるべきであろう。 第三歌の「置きてか行かむ」は第二歌の単純な繰り返しではなく、主語を変えて同じ言葉を言うことによって、深みを増したと見るべきであろう。
《秦大蔵造万里》
 〈応神〉段(第152回)【秦氏】項で、 〈姓氏録〉の「秦忌寸:役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側」を見た。 また資料[25]【秦酒公】参照。
 〈雄略〉朝に秦氏が大蔵の管理を担う職業部となったことが「秦大蔵造」なる氏族名の由来と思われる。
 「万里」の名はここだけ。
《大意》
 同じ月、 沙門智通(ちつう)、智達(ちたつ)は、 勅をお受けして新羅の船に乗って大唐国に行き、 無性衆生(むしょうしゅじょう)の義を[於]玄弉(げんしょう)法師の所で受けました。
 十月十五日、 紀温湯(きのゆ)に行幸されました。
 天皇(すめらみこと)は皇孫建王(たけるのみこ)を思われ、 愴爾(そうじ)悲泣され〔=心を痛め悲しまれ〕、 よって口唱された歌は。
――山越えて 海(うみ)渡るとも 趣向(おもしろ)き 今城(いまき)の内は 忘らゆましじ【その一】
――湊の 潮(うしほ)の下り 海(うな)下り 後ろも暮れに 置きてか行かむ【その二】
――愛(うつく)しき 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ【その三】
 秦大蔵造(はたのおおくらのみやつこ)万里(まり)に詔され「この歌を伝え、世に忘れないようにさせよ」と仰りました。


目次 【四年十一月】
《蘇我赤兄臣語有間皇子》
十一月庚辰朔壬午。
留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰
「天皇所治政事有三失矣。
大起倉庫積聚民財一也。
長穿渠水損費公粮二也。
於舟載石運積爲丘三也」。
留守官…〈北〉留守官 トゝマリ マモル ツカサ蘇我 ソカ 赤兄 /アカヘノ アカ アニ ヲン カタ 有間皇子[テ]天皇
 〈閣〉カタテ〔促音便のッが表記されない形か〕
 〈釈紀〉トゝマリマモルツカサ蘇我ソカノ赤兄/アカエノアカアニアカニノヲン
天皇所治…〈北〉所-治 シラス政-事有 [句] アヤマチ 大起 タテ倉-庫 クラ -聚民[句][句]施イ[切] /穿渠水 トホリ ホリ ミソ  [ノ][句]-費 オトシ 公粮[句]舟載 ハコヒ-積為 ヲカ三也
 〈閣〉遠之トホク[切]穿 ホリノ ツムテ
留守…天子が行幸する間、都を守る。またその役割を課せられた重臣。
…漢音リウ、呉音ル。
…漢音シウ、呉音シユ、ス。
渠水…ほりわり。〈汉典〉「①指呉王夫差〔第七代王〕開的邗溝〔江蘇省の運河〕。 ②溝渠中的水」。
かて…[名] 携帯する食料。また供給する食料。
十一月(しもつき)庚辰(かのえたつ)を朔(つきたち)として壬午(みづのえうま)〔三日〕
留守(るすの、とどまりまもる)官(つかさ)蘇我(そが)の赤兄(あかえ)の臣(おみ)の有間皇子(ありまのみこ)に語(かた)りて曰(まを)さく。
「天皇(すめらみこと)が所治(しら)す政事(まつりごと)に三(みつ)の失(あやまち)有り[矣]。
大(はなはだ)倉庫(くら)を起(た)てて、民(たみ)の財(たから)を積(つ)み聚(あつ)むること一(ひとつ)なり[也]。
長(なが)く渠水(みぞ)を穿(ほ)りて、公(おほやけ)の粮(かて)を損(お)とし費(つひや)ししこと二(ふたつ)なり[也]。
[於]舟に石(いし)を載(の)せて運び積みて、丘(をか)を為(つく)ること三(みつ)なり[也]」とまをす。
有間皇子、
乃知赤兄之善己而欣然
報答之曰。
「吾年始可用兵時矣。」
有間皇子…〈北〉 有間皇子 ミコ 乃知赤-兄アカ エカウルワシ欣-然 ヨロコヒ 報-答 コタヘ 之曰  アカ秊始可兵時ナリ。 〈閣〉
有間皇子(ありまのみこ)、
乃(すなはち)赤兄(あかえ)之(が)己(おのれ)に善(よしみ)しまつることを知りて[而]欣然(よろこ)びて、
[之]報答(こた)へて曰(のたま)へらく。
「吾(われ)年の始(はじめ)をば兵(つはもの)を用(もちゐ)る時に可(よ)しとす[矣]」とのたまへり。
甲申。
有間皇子向赤兄家登樓而謀、
夾膝自斷。
於是、知相之不祥、倶盟而止。
皇子歸而宿之。
登樓…〈北〉 ユイ樓  タカトノ ハサムテ オシマツキ ヲレヌ 於是 コゝニ 相之 シルシマ 不祥 サカナイ  ヤ宿 ヤトル。 〈閣〉夾-膝 オシマツキテ[切] ラ ヲレヌ[句] テ相之 シルシマノ 不-祥 サカナイヿヲ。 〈釈紀〉夾膝オシマツキミツカラヲレヌ折也
夾膝…〈汉典〉「暑時置牀蓆間、以憩手足的消暑器。呈籠状、用竹或金属製成」。
おしまづき…[名] 小机。脇息。〈倭名類聚抄〉「脇息附…漢制天子玉几公侯皆以竹木為几【…和名於之万都岐今案几属有脇息之名所出未詳】」。
たつ…[他]タ四 切断する。
…[名] ここでは占いの結果の相。「人相」、「手相」。
さがなし…[形] よくない。サガ(本性)にもとる意。
甲申(きのえさる)〔五日〕
有間皇子赤兄(あかえ)が家(いへ)に向(ゆ)きて楼(たかどの)に登(のぼ)りて[而]謀(はか)りて、
夾膝(おしまづき)自(みづから)断(た)てり。
於是(ここに)、相(かたち)之(の)不祥(さがなき)を知りて、倶(とも)に盟(ちか)ひて[而]止(や)めつ。
皇子(みこ)帰(かへ)りて[而][之]宿(やど)れり。
是夜半。
赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁、
圍有間皇子於市經家。
便遣驛使奏天皇所。
物部朴井連…〈北〉イノ/シヒ ル ノ  カクム イチ  フ驛-使 ハイマ  マウス
 〈閣〉シヒヲ[切]  ル[切]ヲテ カクム。 〈集解〉ヒキヰテヨホロヲ
造宮丁…宮の造営の労務を担うために徴集された丁(よほろ)と見られる第167回【仕丁】項参照〕
是(この)夜半(よは)。
赤兄(あかえ)物部(もののべ)の朴井(えゐ)の連(むらじ)鮪(しび)を遣(つかは)して造宮丁(みやをつくるよほろ)を率(ひきゐ)しめて、
有間皇子を[於]市経(いちふ)の家(いへ)に囲(かく)ましむ。
便(すなはち)駅使(はゆまつかひ)を遣(まだ)して天皇(すめらみこと)の所(みもと)に奏(まを)さしむ。
戊子。
捉有間皇子與守君大石
坂合部連藥鹽屋連鯯魚、
送紀温湯。
舍人新田部米麻呂從焉。
捉有間皇子…〈北〉捉  トラヘモリキミノ■ホイシ[切] サカ部連■■シ シ■ノ連鯯-魚 送紀 タフマツキ オクリタテマタス舍人 トネリノ-新-田 ニタ ヘノ /ヨネ麿マロ\/[切]從焉 ミトモナリ
 〈閣〉 シホ 鯯-魚 コノシロ [切]送紀 ツクリタテマタスタテマツキ ノ温-湯新田 ヘ未  /米也麻呂ミトモナリ
戊子(つちのえね)〔九日〕
[捉]有間皇子(ありまのみこ)与(と)守君(もりのきみ)大石(おほいし)、
坂合部(さかひべ)の連(むらじ)薬(くすし)塩屋(しほや)の連(むらじ)鯯魚(このしろ)とをとらへて、
紀温湯(きのゆ)に送る。
舎人(とねり)新田部(にひたべ)の米麻呂(よねまろ)従(したが)へり[焉]。
於是皇太子親問有間皇子曰
「何故謀反」。
答曰
「天與赤兄知。吾全不解」。
於是…〈北〉於-コゝニ 親問 ミツカラ  ノ-故謀-反答- ミカトカタフケムトスル[切] アメ [切] ラ[句]吾全不解 オノレ モハラ  シラ。 〈閣〉何故謀人答ミカトカタフケムトスル  
皇太子…中大兄皇子(〈天智〉)。
於是(ここに)皇太子(ひつぎのみこ)親(みづから)有間皇子に問ひたまひて曰(のたま)はく
「何故(なにのゆゑ)にか謀反(そむきまつる)」とのたまひて
答へて曰(まを)ししく
「天(あめ)与(と)赤兄(あかえ)とそ知る。吾(われ)全(もはら)不解(さとらず)」とまをしき。
庚寅。
遣丹比小澤連國襲、
絞有間皇子於藤白坂。
丹比小沢連…〈北〉丹比 ヲ サハ[切]國- クニ ソ  タヒラ ク也 有-間皇子於藤 シロ。 〈閣〉丹比タヒサハノ[切]クニ ソ ヲ[切]クヒラ於藤シロノ ニ
庚寅(かのえとら)〔十一日〕
丹比(たぢひ)の小沢(をざは)の連(むらじ)国襲(くにそ)を遣(つか)はして、
有間皇子を[於]藤白坂(ふぢしろのさか)に絞(くび)らしむ。
是日。
斬鹽屋連鯯魚
舍人新田部連米麻呂
於藤白坂。
鹽屋連鯯魚、臨誅言
「願令右手作國寶器」。
流守君大石於上毛野國
坂合部藥於尾張國
新田部連…〈北〉ニヒ--ヘノ-ムラシ-/ヨネ-麿マ ロ \/ レムトシ コロ[テ]右手寶-器[句]  ナカス守- モリ上-毛-野 カムツケノ-國[句]坂-合-部 サカヒへ ノ[切]  リ
 〈閣〉レムトシテ コロサ[切] ノ ノ  モノ
 〈釈紀〉ネカハクハシメレシテ下二右手ミキノタヲ國寶器クニノタカラモノヲ
…[名] 手。タ~、タナ~の形で複合語を作る。手力、タナゴコロなど。
是(この)日。
[斬]塩屋連(しほやのむらじ)鯯魚(このしろ)
舎人(とねり)新田部連(にひたべのむらじ)米麻呂(よねまろ)を
[於]藤白(ふぢしろ)の坂にきる。
塩屋連鯯魚、誅(ころ)さるるに臨(のぞ)みて言(まをさく)
「願(ねがはくは)右の手(て)をして国の宝器(たから)を作ら令(し)めよ」とまをしき。
[流]守君(もりのきみ)大石(おほいし)を[於]上毛野国(かみつけの)のくに)に、
坂合部(さかひべ)の薬(くすし)を[於]尾張(をはり)の国にながす
【或本云。
有間皇子
與蘇我臣赤兄
鹽屋連小戈
守君大石
坂合部連藥
取短籍卜謀反之事。
或本云…〈北〉或-本アル  フミ塩-屋-戈  ホコ[切]/君大-石短-籍 ヒネリフミウラナフ謀反  ミカトカタフケム之事 ケムト 。 〈閣〉ホコ 短-籍ヒワリフミヲ 。 〈釈紀〉短籍ヒネリフミ
小戈… 『集解』「誤。脱人添小代則古能之呂」。 『国史大系8』釈紀頭注「戈、当拠書紀作代〔戈、書紀によりて代に作るべし〕
ひねりふみ…[名] 短い紙片を複数用意し、そこから一つを選ぶくじ。 〈時代別上代〉「ヒネルは上代に他の例を見ないが、名義抄に「捻・撚ヒネル」。
【或本(あるふみ)に云ふ。
有間皇子
与(と)蘇我臣赤兄
塩屋連小戈(このしろ、をほこ)
守君大石
坂合部連薬と、
短籍(たんじやく、みじかきふみた)を取りて謀反之事(そむかむこと)を卜(うら)ふ。
或本云。
有間皇子曰
「先燔宮室、
以五百人一日兩夜邀牟婁津、
疾以船師斷淡路國、
使如牢圄、其事易成」。
先燔宮室…〈北〉先燔宮室 オホミヤ   タム牟-婁-津 トク船師淡-路國 使牢圄 ヒトヤニコモル。 〈閣〉ヲヘテ楼交本 ハサトリテン 淡路國使牢圄ヒトヤニコモル 。 〈釈紀〉タヘテ牟婁津ムロノツヲ タゝハ淡路國使ツカヒヲ 其事ソノコトヤスケンナシ
…[動] やく。主に肉をあぶる。
…[動] まちうける。(古訓) ちきる。もとむ。さいきる。たつぬ。〈汉典〉「①約請。②取得、希求。③阻留:~撃。~截」。
さいきる…[他]ラ四 遮(さえぎ)る。
牢圄…牢、圄ともにろうや。〈汉典〉監獄。
或本に云ふ。
有間皇子曰へらく
「先に宮室(おほみや)を燔(や)きて、
五百人(いほたり)を以ちて一日(ひとひ)両夜(ふたや)牟婁津(むろのつ)に邀(さいぎ)りて、
疾(とく)船師(ふないくさ)を以ちて淡路国(あはぢのくに)を断ちて、
牢圄(ひとや)の如くせ使(し)めば、其の事易(やす)く成らむ」といへり。
人諫曰
「不可也。
所計既然、而無德矣。
方今皇子年始十九未及成人、
可至成人而待其德」。
人諫曰…〈北〉  アサメ曰不可也 ヨカラ  ハ[切]然- トモ 而无徳矣 イキホヒ[句]方- 年-始 ハタ[句]成人成人而待上二其徳
 〈閣〉イサメヲ所計[切]既然ゝトモ而无イキホヒ[切]未及成
 〈兼右本〉或-人[ノ]アサメ[テ][切]。 〈仮名日本紀〉「人いさめて云」。
 〈集解〉事成易。人諫曰。
あさむ…[他]マ下二 〈時代別上代〉「イサムに同じ。アとイとの交替は、アヤシーイヤシのような例がある」。
人諫(いさ)めて曰ひしく
「不可(よからじ)[也]。
所計(はかりごと)既(すで)に然(しかり)、而(しかれども)徳(とく)無し[矣]。
方(まさに)今皇子(みこ)が年(とし)始めて十九(とちあまりここのつ)なりて、未(いまだ)成人(ひととなる)に及ばず、
成人(ひととなる)に至りて[而]其の徳(とく)を待つ可(べ)し」といひき。
他日。
有間皇子與一判事謀反之時、
皇子案机之脚無故自斷。
其謨不止、遂被誅戮也。】
他日…〈閣〉アタシ
一判事謀反…〈北〉判事謀- コトホルツカサ反之時皇子 案-机 オシミツキ-之-脚無故自 ヲ ノ ハカリ ヤマ遂被誅-戮 コロサレ 。 〈閣〉判-事コトLシルツカサ コトハルツカサ  ハカリコト メ ヤマ被誅コロサレ
 〈釈紀〉一判事ヒトリノコトコトワルツカサナクユヘミツカラヲレヌ
判事…〈汉典〉「謂審理、裁決獄訟」。
案机…つくえ。
他(あたし)日(ひ)。
有間皇子与(と)一(ひとりの)判事(ことわるつかさ、まつりごとひと)謀反之(そむきし)時、
皇子(みこ)の案机(つくゑ)之(の)脚(あし)故(ゆゑ)無く自(みづから)断てり。
其の謨(はかりごと)不止(やまず)、遂(つひ)に被誅戮(ころさゆ)[也]】。
《留守官》
 留守官は、天子が不在の間都を守る役職。 『今昔物語』〔平安末か〕巻九/語第三十五「我レハ此レ王城ノ留守也」を見ると、平安時代にはルスと発音されていたと考えられる。 書紀古訓は、「トドマリマモルツカサ」と倭語で意読している。
 ルスは呉音なので、飛鳥時代以前にこの語が入いってきたときから基本的に音読されていたと思われる。
《蘇我赤兄臣》
 蘇我赤兄臣は、書紀においてはここが初出。 以後〈天智〉七年に「筑紫率」、十年に「左大臣」。娘常陸娘は〈天智〉の嬪となる。
 『公卿補任』には「天智天皇:左大臣 大錦上 蘇我赤兄臣 …大臣馬戸宿祢之孫。雄正子臣之〔"子"が脱落〕」とある。 系図は、〈皇極〉三年《蘇我倉山田麻呂》項を参照。
《語有間皇子曰》
 書紀の有間皇子への貶めは甚だしいが、次期天皇の候補として一定の勢力には推されていたと見られる。 山背大兄王に尊敬表現を用いるなら、有間皇子にもある程度用いるのが妥当であろう。
 よって、ここでは「」をマヲサクと訓む。
《民財》
 「民財」には、〈北野本〉、〈内閣文庫本〉、〈兼右本〉とも「民ノ財」とするが、訓を添えていない。 「オホムタカラノタカラ」が自明だから省いたのかも知れないが、タカラを続けることが躊躇されたようにも思える。
《長穿渠水》
 渠水は特に邗溝〔春秋呉で掘られた運河と伝わる〕を指す(〈汉典〉)ともいうが、一般的には堀を意味する。 ここでは、二年に穿たれた「香山西石上山」の渠である。 長いことは間違いないから、古訓のように「」を敢えて「遠く」と読み替える必要はないのではないか。
《吾年始可用兵時矣》
 「吾年始可用兵時矣」のを助動詞〔~べし〕とすると動詞がなくなってしまうので、 形容詞〔よい、適する〕とするのがよいか。
《皇子帰而宿之》
 「宿之」とあるから、市経の家は別宅かも知れない。
《物部朴井連鮪》
物部朴井連鮪  大化元年九月の「物部朴井連椎子」であろう(《椎子》項)。 物部朴井連は、高市郡朴井邑が本貫か(〈推古〉二十五年)。
 シビはマグロの意で、人名としては〈清寧〉段に「志毘臣」(第216回)。 書紀では〈武烈〉即位前に「鮪、此云茲寐〔シビ〕」。
《造宮丁》
 赤兄は宮殿の造営を担当していて、ここで配下のよほろ〔徴集した作業員〕を使ったと読める。
《市経家》
 『五畿内志』大和国平群郡村里に「一分【属邑一】」。 『集解』は「市経家」の分注に「大和志曰」としてこれを収める。
 『日本歴史地名大系』は 「鎌倉中期の簡要類聚鈔(京都大学蔵一乗院文書)によると一分は興福寺一乗院領生馬庄で一分と二分に分割相伝した所」と述べる。 だとすれば、一分村を飛鳥時代の地名「市経」の遺称とする説は成り立たない。 興福寺一乗院の建立は天禄元年〔970〕だからである。 『通証』〔谷川士清;1751〕は「地未」。『大日本地名辞書』には、平群郡一分村や市経家への言及はない。どうやら『集解』が、たまたま大和志から「一分村」の名前を見出したに過ぎないようである。
 藤白坂(下述)は皇軍が軍営とした場所だと考えるのが自然だから、包囲した市経家の位置は、それより北側で比較的近い位置であったのではないだろうか。 しかし、その範囲と見られる紀伊国北部や和泉国に市経を思わせる地名は見えない。おそらく完全に失われたのであろう。
《捉有間皇子…
守君大石  守君もりのきみは、〈景行〉段に「大碓命者【守君…之祖】」(第122回、および【派生氏族】項)。 大石はここだけ。
坂合部連薬  坂合部連白雉四年五月《第一船/或本》項「坂合部磐積」参照。 はここだけ。
塩屋連鯯魚  大化二年三月《塩屋鯯魚》参照。
《舎人新田部米麻呂従焉》
新田部米麻呂  〈姓氏家系大辞典〉に「新田部 ニヒタベ ニツタベ ニフタベ:職業部の一にして、田部〔屯倉に属する耕作民〕の一種と考へらる」、 「舎人 トネリ:職名の一にして、古代以来、天皇、皇子達に近侍して雑役に仕へし者を云ふ」。
 捕えられてはいないが、有間皇子の舎人だったから当然のこととして同行したと読める。 逃げることもできたのに、結果的には連座して斬られたのである。
《丹比小沢連国襲》
丹比小沢連国襲  〈姓氏家系大辞典〉に「丹比小沢 タヂヒノヲザハ:紀伊の古族也」、「(丹比)小沢連:紀伊の古代姓にして、尾張氏の族也」。 同書が紀伊の古族と書くのは、朝廷が地元の氏族に命じて有間皇子を処刑させたと見たためか。
 丹比小沢連国襲はここだけ。
《絞有間皇子》
 「」は、上から吊るす絞首刑であったと思われる。
《藤白坂》
藤白 藤白坂 有間皇子史跡の位置 万葉歌碑(左)と「有間皇子墓」
 藤白は、(万)1667題詞「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首」の一首に、 (万)1675藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沾香裳 ふぢしろの みさかをこゆと しろたへの あがころもでは ぬれにけるかも」と詠まれる。
 『大日本地名辞書』によれば、 「今名高浦に合併して内海うちみ〔現海南市〕と曰ふ、 藤白浦其東を鳥居と呼ひ、西を冷水と称ふ、南は藤白坂の嶺にして東は三上山に連る」という。
 『日本歴史地名大系』には 「江戸時代には藤白松という松が藤白王子社の西二町にあり、有間皇子が絞首された所と伝えていた(続風土記)。現在、坂の登り口近くに皇子の墓と伝える五輪石と皇子の歌碑が建つ」とある。
 王子は平安時代に熊野古道沿いに置かれた多数の参詣ポイントをいい、藤白王子は九十九王子のうち、特に五体王子と呼ばれる有力な王子のひとつ。 「藤白王子社」は藤白神社と同じ〔和歌山県海南市藤白466〕
 大宝元年〔701〕に〈持統〉上皇が詠んだ藤白は、720年成立の書紀のいう「藤白」と同じ場所であろう。 九十九王子の設置は12~13世紀という。「藤白王子」は現代まで続くから、現代地名の藤白が書紀著者が認識していた「藤白」の地であることは疑いないところである。
《願令右手作国宝器》
 〈釈紀〉は「願令右手作国宝器」の「」を再読文字として、「願はくは、右のて国の宝器たからものを作らめれ」 と訓読する。これは使役文訓読の定型である。 …本来はシメ(ヨ)
 鯯魚は、私の右手で国の宝となる工芸品を作って貢献したいと言って命乞いしたと読める。きっと優れた腕の持ち主だったからであろう。 『通証』の「蓋善機巧者也」もその意味だと思われる。 「右手」は優秀な弟子を指すと読めないこともないが、かなり無理がある。
《上毛野国》
 ここで、弥生時代からの独立勢力と見られる毛野について考察する。
魏志倭人伝(26)其余旁国遠絶不可得詳…鬼奴國」。
〈崇神〉四十八年豊城命「豊城命東国、是上毛野君下毛野君之始祖也。
〈景行〉五十五年 彦狭嶋王「東山道十五国都督。是豊城命之孫也。。」、「於上野国。」
〈安閑〉元年閏十二月上毛野君小熊「小杵…密就求於上毛野君小熊而謀使主
〈安閑〉二年《上毛野国緑野屯倉》
において、「上毛野君は周辺国の上に立っており、小杵はその権威を後ろ盾にして武蔵国造になろうとした」と見た。 遡ってにおいては、豊城命の孫の彦狭嶋王が東山道十五か国の都督に任じられた。
 その豊城命は、で〈崇神〉の皇子豊城命が上毛野君と下毛野君の租とされる。 これは、朝廷が地方氏族の服従を得るときに、系図上で始祖との擬制的な血縁関係を設定する流儀によるものである。 の緑野屯倉の設置は、それに対する中央政権の監視を図るものである。 もともと広域であった「毛野」は、〈安閑〉以前の時点で既に上下に分割されていたと思われる。
 このように、毛野には古くから確固とした独立勢力が存在していて、 それはの魏志倭人伝で「女王国以北〔実際は以西〕を除く「遠絶不」の諸国まで遡ると思われる。 そのうち「鬼奴国」が、「毛野」であろう。 これが、遠絶諸国のうち唯一後世との繋がりが分かる例ではないかと思う。 クヰ(鬼)と(毛)の不一致については、鬼怒川毛野の川名と言われる。
 遠絶諸国のいくつかにつく接尾辞「奴」は、古い国名の「~野」にあたると見られる。「三野」(美濃)、「穂国造」もその類であろうと思われる。
《塩屋連小戈》
 『集解』、『国史大系8』のように、 「小戈」を「小代〔コノシロ〕に作り、鯯魚コノシロと同一視するのは当然である。
《短籍》
 ヒネリフミは、吉、凶などを書いた紙をそれぞれ紙撚り(こより)状にして、無作為に選んで占うものと想像される。 古訓者の時代に実際に行われていたのであろう。
 動詞ヒネルは万葉には全く見えない。古語辞典が掲げる文例は、平安中期以後である。
・能因本枕草子〔能因は11世紀前半の歌人、枕草子は平安中期〕外ざまにひねり退きて」。
・落窪物語〔平安中期〕這ひ寄りて錠ひねりみ給ふに」、「いとをかしげにひねり縫ひ給ひければ」。
・源氏物語(手習)〔平安中期〕ものをいとうつくしうひねらせ給へば」。
・大鏡〔平安/院政期〕御むねをひきあけさせ給てちをひねりたまへりければ」。
 したがって、上代にヒネリフミという言葉があったかどうかは全く分からない。 「短籍」を「ヒネリフミ」と訓むのは、古訓者がこの方法で行ったと想像したからであろう。 しかし文字や印の部分が見えないようにすれば、捻ることができない竹や木の札を使うこともできる。
 短籍の呉音タンジヤク短冊に直結するから、ひねるか否かは棚上げして、占いに用いた短冊(時には木や竹)を「短籍」と表現したと見ればよいだろう。
《牟婁津》
 牟婁津のことを『通証』は「即熊野浦」と述べるが、牟婁温湯とは潮岬を挟んだ反対側だからまず考えられない。
 『大日本地名辞書』に「牟婁港ムロノミナト:田辺港の古名なり。盧主集なる熊野詣の紀行中に「其夜むろのみなとにとまりぬ…」」、「〔けだし〕牟婁は室の義なりて湾形より出たる名なり」とある。 『日本歴史地名大系』は、「いほぬし〔=盧主(集)〕の「著者の増基が…南部みなべの浜(現日高郡南部町)を過ぎて中辺路の通る牟婁湊といえば、 ほぼ現在の田辺港辺りとみて大過ないだろう」と述べる。(津)とミナト(湊、水門)との違いについては、牟婁津牟婁湊が別の所を指すとは考えにくい。
 なお、現在の田辺湾の港の名称は田辺漁港文里港であるが、灯台名などには「田辺港…」が冠せられている。
《使如牢圄》
 「如牢圄」は難解である。そこでまず「断淡路国使如牢圄」の区切り方を見ると、〈内閣文庫本〉〈釈紀〉は「淡路国使〔=淡路国の使者が牟婁に来ることを食い止める〕と区切る。 すると使者を投獄するという意味か。しかし、淡路国が遣わした使者を逮捕したからといって、何か意味があるのだろうか。
 一方、〈北野本〉は「淡路国」と区切る。 「船師淡路国」とは、友ヶ島海道〔紀伊半島-淡路島間〕を水軍で封鎖して、淡路島経由、あるいは難波津からの皇軍の進軍を食い止めるという意味であろう。 友ヶ島海道を防衛ラインとすることからは、牟婁温湯を孤立させる作戦が見える。 牟婁温湯には現在〈斉明〉が滞在しているから〔皇太子も同行していたことが戊子条からわかる〕、 「使如牢圄」は、温湯宮を包囲して天皇〔と皇太子〕を閉じ込めるという意味であろう。 「使如」は目的語を欠くから、出典の原文「使紀温湯宮如牢圄」があまりに不敬だから紀温湯宮を削除したのだとすれば、解り易い。 〔この段の基調は、有間皇子が赤兄に陥れられたものと描いているからである〕
 だとすれば、三年九月条で〈斉明〉に牟婁温湯の魅力を説いた時から既にこの作戦が構想されていたことになる。 同条で「性黠陽狂」、「偽療病」と悪しざまに書かれことが、腑に落ちる。「〔=悪賢い〕とは、まさにこの計画が腹の内にあったことを意味したのである。
 ただ「先燔宮室」については、「宮室」が紀温湯宮だとするとその時点で天皇に逃げ出されてしまうので、作戦が成り立たない。 やはりまず飛鳥板蓋宮に放火して、戦いののろしを上げようというのであろう。
《人諫曰》
 現代の版本では「或人諫曰」となっているが、「」を加えたのは〈兼右本〉〔16世紀〕が初めてと見られる。 『集解』〔18世紀末〕は依然として、「」を加えていない。
《徳》
 書紀古訓は徳を一律にイキホヒと訓み、外面的な威力とするが、 実際に書紀で用いられる場面は内面からにじみ出る徳性を表現するときばかりである 〔例えば、「有徳天皇」(〈雄略〉四年)〕
 有間皇子の段においても、「幅広い人の支持を得られるだけの人格的成熟」を意味するから、イキホヒなる訳語は不適切である。 ただ、繰り返しイキホヒと訓むうちに、次第に「内面的な徳性」への脳内変換が起こるようになるのも確かである。それが言語の基本的性質であろう。 それでも、書紀内のみの特殊な言葉ではなく、万葉集など上代文献に通用する一般的な言葉で読むことを、本サイトは目指している。
《判事》
 判事は漢籍から裁判官の意味であるが、ここではたまたまその職にあった者が仲間であったということであろう。 あるいは、「判官」(まつりごとひと)と書くべきところを誤ったことも考えられる。
《大意》
 十一月三日、 留守官(るすのつかさ)蘇我(そが)の赤兄臣(あかえのおみ)が有間皇子(ありまのみこ)に語るに、 「天皇(すめらみこと)が治める政(まつりごと)には三つの過ちがあります。
 どんどん倉庫を建て、民の財を積み集める、これが一つ。
 長大な渠水(きょすい)〔=運河〕を掘削して、公粮を損費したこと、これが二つ。
 舟に石を載せて運んで積み、丘を作ったこと、これが三つです」と申し上げました。
 有間皇子は、 これにより赤兄が自身に好意的だと知り喜び、 答えて 「私は年の始めを兵を用いる時とするのがよい」と仰りました。
 五日、 有間皇子は赤兄の家に向かい、楼閣に登って策謀したところ、 夾膝(きょうしつ)〔=脇息〕が自然に折れました。 これに相の不詳を知り〔=よくない兆しだと思い〕、共に誓って取りやめました。
 皇子(みこ)は帰って泊まりました。
 その夜半、 赤兄は物部朴井連(もののべのえいのむらじ)鮪(しび)を遣わし、造宮丁(みやづくりのよほろ)を率いさせ、 有間皇子のいる市経(いちべ)の家を囲ませました。
 そして、駅使を送って天皇(すめらみこと)の所にその旨を奏上しました。
 九日、 有間皇子、そして守君(もりのきみ)大石(おおいし)、 坂合部連(さかいべのむらじ)薬(くすし)、塩屋連(しおやのむらじ)鯯魚(このしろ)を捕えて、 紀温湯(きのゆ)に送りました。 舎人(とねり)新田部(にいたべ)の米麻呂(よねまろ)が従いました。
 そして皇太子(ひつぎのみこ)親(みづか)ら有間皇子に 「どうして謀反したのか」と問い、 それに対して 「天(あめ)と赤兄だけが知る。私には全く解せない」と答えました。
 十一日、 丹比小沢連(たじひのおざわのむらじ)国襲(くにそ)を遣して、 有間皇子を藤白坂で絞首刑に処しました。
 この日、 塩屋連(しおやのむらじ)鯯魚(このしろ)と 舎人(とねり)新田部連(にいたべのむらじ)米麻呂(よねまろ)を 藤白坂で斬りました。
 塩屋連鯯魚、殺されるに臨み、 「願わくば右の手に国の宝器を作らせてください」と申し上げました。
 守君(もりのきみ)大石(おおいし)を上毛野国に、 坂合部(さかいべ)の薬(くすし)を尾張国に流しました
【ある出典にいう。 有間皇子、 そして蘇我臣の赤兄、 塩屋連の小戈〔小代(このしろ)〕、 守君の大石、 坂合部連の薬とで、 短冊〔古訓は捻り文とする〕を取って謀反のことを占った。
 ある出典にいう。 有間皇子は 「先に宮室を焼き、 五百人を置いて一日二晩牟婁津(むろのつ)を防備し、 素早く水軍を送って淡路国〔方面からの攻撃〕を断ち、 〔紀温湯〕を牢獄の如く〔封鎖〕すれば、事は容易く成ろう」と言った。 人が諫めて言うには、 「よくない。 計略は十分に頷(うなづ)けるが、皇子には徳がない。 まさに今、皇子の年が初めて十九になったばかりで、未だ成人に及ばず、 成人に至りその徳を待つべし」と言った。
 他日、 有間皇子と一人の判事が謀反したとき、 皇子の机の脚が故も無く自然に折れた。 それでもその謀は止まず、遂に殺された】。


まとめ
 四年四月の阿陪臣遠征の記事は、日本武尊東征伝説を髣髴させる漠然とした書きっぷりで、史実性さえも疑わせるものであった。
 ところが七月条では、打って変わって具体的である。 おそらく、都の迎賓施設〔飛鳥寺西であろう〕での行事であったことから、一定の詳しさのある記録が残っていたのであろう。
 蝦夷二百余を引率してやって来たのは、沙尼具那などの名前が載っている者であったと考えられる。沙尼具那らは倭語をものにし、境界地域の官署に出仕していた可能性にも触れた。 そして擬制としての郡大領、少領を拝命した。沙尼具那らは実際には渟代以北ではなく、都岐沙羅柵あたりに居住していたのかも知れない。 彼らは、渟代以北からやって来た蝦夷の一団と朝廷との間の仲立ちをしていたと考えられる。馬武、沙尼具那、青蒜が既に冠位を持っていたと見られることが、この推定を裏付ける。 であるなら、沙尼具那らが実際に任地に赴いたかどうかも疑問である。
 四年十一月条では、有間皇子は赤兄の誘い水にうかつにも叛意を口にしたことをもって、謀略的に殺されたとするのが本文の流れである。 しかし、「或本」の記述を見ると、皇子は十分に自分の意志をもって謀反を企てている。 実際〈孝徳〉のときから改新詔の強行による諸族の不満はくすぶっていたが、〈斉明〉はそれを是正するどころか逆に浪費を重ねて人民の一層の反発を招く政権であった。 それは、赤兄の言った「三失」によく表れている。
 したがって、押坂彦人皇子王朝の傍流にあった有間皇子を推し立てて、後継の座を中大兄皇子から奪おうとする動きは起こって当然である。 有間皇子らの戦略は〈斉明〉を牟婁温湯に誘い出して監禁し、有間皇子への譲位を強要しようとするものであったと読み取れる。
 「人諫曰」の内容は「戦略は完璧だが、まだ若年だからじっくりと構えて相応しい能力と人徳を身に付けてからにせよ」というもので、 結果的には的確であった。
 さて、〈斉明〉の三歌は、建王を思い出して口号したものと書かれているが、実際には有間皇子滅亡後に悼んで詠んだ歌のように思われてならない。 朝廷転覆の首謀者ではあったが、〈斉明〉の目には周囲の思惑に振り回された被害者に映ったのではないだろうか。 その三首は、2回の「置きてか往かむ」に主語の転換が見られ、単純に見えて技巧がある。書紀歌謡を甘く見てはいけない。



2023.11.22(wed) [26-04] 斉明天皇4 

目次 【四年是歳】
《阿部引田臣比羅夫討肅愼》
是歲。
越國守阿部引田臣比羅夫、
討肅愼。
獻生羆二羆皮七十枚。
越国守…〈北野本〔以下北〕 越-國コシノクニノ カミ[切]/- ヒケ或本作之 - タノ-愼■ムセノクニ生羆 クマ  ツ[切]羆皮 シクマ 七十 ナゝソ [句]  ヒラ
 〈内閣文庫本〔以下閣〕 起國守[切]/ミ己止モチ或本作倍[切][切]  テ肅愼 アシムノクニ ヲ-マ  ツ シクマノ皮七十 ヒヲ[句]
 〈釈紀〉越國コシノクニノカミ   ミコトモチカハヘノ引田臣ヒケタノヲン比羅夫ヒラフ羆皮シクマノカハ七十ナゝソヒラ
 〈兼右本〉ミコトモチ阿-イ乍
…[名] 〈倭名類聚抄〉「【和名久万】似羆而小也」。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「【和名之久万】似熊而黄白又猛烈多〔よく〕樹木者也」。
しくま…[名] ヒグマ。
是(この)歳。
越国守(こしのくにのかみ)阿部(あべ)の引田臣(ひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)、
肅愼(みしむせ、みしはせ)を討ちて、
生(い)く羆(しくま)二(ふたつ)、羆(しくま)の皮(かは)七十枚(ななそひら)を献(たてまつ)る。
沙門智踰造指南車。
沙門…〈北〉沙-門  ホウシ。 〈閣〉
指南車…〈北〉指-南 ■ナム。 〈閣〉
…[名] (呉音)ナム。
沙門(ほふし)智踰(ちゆ)指南車(しなむのくるま)を造る。
出雲國言
「於北海濱魚死而積、
厚三尺許。
其大如鮐、雀啄針鱗、
々長數寸。
俗曰
『雀入於海化而爲魚名曰雀魚』」
厚三尺許…〈北〉三-尺 ミサカ- リ ノ サ エヒ スゝミ クチ ハリノ[句]イコロアリ ノ サ数-寸 アマタキ[句] 俗-曰クニヒトノ雀入於海[テ]化而 ナレリ魚名[テ]雀-魚 スゝミ ヲ
 〈閣〉エヒ ニ化-而 ナレリ -為 ニ[句] テスゝミ-ヲト[切]
 〈釈紀〉-而ナレリ ウヲニ。 〈兼右本〉エヒ
…[名] サバ。フグ。老人(背中にサバのようなしみができることから)。(呉音・漢音)タイ。(古訓) さめ。うら。ふく。 〈倭名類聚抄〉「鯸䱌:和名布久一云布久閉」。
…[動] ついばむ。
つきはむ…[動]マ四 ついばむ。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「:和名以呂久都俗云伊呂古」。
すずめ…[名] 〈時代別上代〉「…(敏達紀十四年)の別訓にスズミがあるから、スズミともいったものか。なお、鳥名にはツバメ・カモメ等語尾にメを持つものが多い」。
出雲国(いづものくに)の言(まを)さく
「[於]北の海浜(うみのはま)に魚(うを)死にて[而]積(つも)れり、
厚(あつさ)三尺(みさか)許(ばかり)。
其(その)大(おほきさ)鮐(ふく)の如し、雀啄(すずめのつきはむくち)に針鱗(はりのいろこ)、
々長(いろこのながさ)数寸(あまたき)なり。
俗(くにひと)曰(まを)せらく
『雀[於]海に入(い)りて化(かは)りて[而]魚と為(な)れり、名(なづ)けて雀魚(すずめを)と曰ふ』とまうせり」とまをす
【或本云。
至庚申年七月。
百濟遣使奏言
「大唐新羅幷力伐我。
既以義慈王々后太子、
爲虜而去」。
或-本…〈北〉庚申年七-月 フツキ以義-慈-[切] コニオルソ[切][テ]コニキシ トリコ[句] イヌ
 〈閣〉 ツ使 ヲ-言[切]々-コニソルヲコニヲル 后太子蓋百済之語也  コニキソムレテ
 〈釈紀〉義慈キシワウ王后コニヲルク太子コニセシム私記曰。古爾於留久。古爾支之。並百濟之語也。
 〈兼右本〉々-后 コゝセリコニソルク[切]太-子 コキシム/コニキシ
【或本(あるふみ)に云ふ。
庚申年〔斉明六年〕七月に至りて、
百済(くたら)使(つかひ)を遣(まだ)して奏言(まをさく)
「大唐(だいたう、もろこし)新羅(しらき)力を并(あは)せて我(われ)を伐(う)てり。
既に義慈王(ぎじわう)王后(きさき)太子(たいし)を以ちて、
虜(とりこ)と為(な)して[而]去(い)ぬ。」とまをす。
由是
國家以兵士甲卒陣西北畔、
繕修城柵斷塞山川之兆】。
国家…〈北〉[テ] 國-家 クニ -士-甲-イクサヒト[テ]西 ツラヌ -北畔 ツクロヒ-修城- キ-山-川也イ キサシナリ
 〈閣〉國- クニ兵-士 イクサヒト 甲-卒 ヒトゝモヲ [切]ツラヌ西戌亥[句]  ーー-ツクリツクロヒ城-キヲ[切]断-塞山-川キサシナリ
 〈釈紀〉モテ兵士甲卒イクサヒトヲツラヌ西北畔イヌヰノホトリニ繕-ツクリ城柵キヲ-塞タチフサキシ 山川ヤマカハヲ兆。キサシナリ
 〈兼右本〉兆也キサシナリ
…[動] (古訓) つらぬ。のふ。
是(こ)に由(よ)りて
国家(くに)兵士甲卒(いくさびと)を以ちて西北(いぬゐ)の畔(ほとり)に陣(つら)ねて、
城柵(き)を繕修(つく)りて山川(やまかは)を断(た)ち塞(せ)くことを[之]兆(きざ)せり。】。
又、西海使小花下阿曇連頰垂、
自百濟還言。
「百濟伐新羅還時、
馬自行道於寺金堂、
晝夜勿息、唯食草時止」
小花下大化五年「制冠十九階」の十八階。
阿曇連…〈北〉阿-曇 アツミノ 頰-垂 ツラ タリ行-道 メクル 夜勿 ヤムコト ヤ
 〈釈紀〉ウマミツカラ-メクル道於テラノコンタウヲ
又、西海使(にしのうみのみちのつかひ)小花下(せうかげ)阿曇連(あづみのむらじ)頰垂(つらたり)、
百済(くたら)自(よ)り還言(かへりごとまを)ししく。
「百済(くたら)新羅(しらき)を伐(う)ちて還(かへ)れる時、
馬(うま)自(みづから)道を[於]寺(てら)の金堂(こむだう)へ行(ゆ)きて、
昼夜(よるひる)息(やすむこと)勿(な)かりて、唯(ただ)草を食(は)む時のみ止(とどま)りつ」とまをしき
【或本云。
至庚申年爲敵所滅之應也。】。
…〈北〉 アタ應也 コタヘナリ
【或本(あるふみ)に云ふ。
庚申(かのえさる)の年に至りて敵(あた)の為(ため)に所滅(ほろぼさえしこと)を[之(これ)]応(こたへ)となせり[也]。】。
《越国守》
 「越国」という表記を見る限り、越前越中越後に分割されるのはまだ後のことである〔加賀(資料[55])、能登(第110回)は更に後〕越国は、現在の福井県から新潟県まで及ぶ広大な国である。北東の境界はぼやけたまま、恐らく蝦夷の地まで含んだ国として規定されている。 出羽国はまだ存在しないから、越国が国家の果てである。…和銅五年〔712〕成立(資料[72]【羽前国】)。
 この境界がぼやけていることについて『前方後円墳の世界』〔広瀬和夫;岩波文庫2010〕は、 「諸地域からの政策的な移住民、律令国家にしたがわない在地民、律令国家に帰順した在地民が、モザイク状に入り組んで生活し」ていて、 「律令国家の国教はけっして一本のラインではなく…(国境帯)とでもいうべきものだった」と述べる(p.176)。
 同書はその根拠を「〔北武蔵地域と共通する〕石室墳と〔続縄文文化の〕木棺直葬墳が併存していた」(同)ことに見出している。 これらは、陸奥国側の北上川上流域の遺跡について述べたものだが、越後国の北東方面でも基本的に同じであろう。
 「国司」を初めて定めたのは大化元年八月であった。 この時点では後に律令国で確立した地理区分というよりは、いくつかの郡の範囲を監督する刺史のようなもので、現地では摩擦が絶えず逮捕者への大赦の発令に追い込まれている。 越国司の場合は、既成の郡〔国造〕に加えて、未だ朝廷国家に服さない蝦夷も含まれていたようである。
 したがって、蝦夷の同化・制圧は越国司の重要な任務であった。この段では、国守阿倍引田臣比羅夫が自ら蝦夷を越えて粛慎の地域まで足を延ばしている。
《阿部引田臣比羅夫》
 〈姓氏家系大辞典〉には「引田 ヒキタ ヒクタ ヒケタ阿倍引田臣: 阿倍氏の族なれど、…大和国城上郡曳田神社と神名式に見る地より起りしか。 但し越前敦賀郡にも匹田なる地あり。…越国守とあるより思ふに、越国造家の人か」とある。
 書紀の平安時代の写本では「河田」だったのは明らかであるが、次第に阿倍に作られるようになったのは、 蝦夷征伐の「阿倍(陪)【闕名】」と同一人物だと解釈されたからだと思われる。
 国司には基本的に中央の良家の子弟が任命されたから、河田ではなく阿倍だった可能性は高い。 また、当時東北からことによると北海道まで船団を率いて遠征するようなバイタリティのある人物に、河部と阿倍の二人がいたとはいうのが考えにくいのは確かである。
 しかし、だとすると「越国守阿部引田臣比羅夫」という大変明瞭な表記と、「阿倍【闕名】」という曖昧な表記が共存しているのは何故かという問題が残る。 これについてまず考えられるのは、書紀がそれぞれの部分で異なる出典を用いたということである。 だが、前項で見たように蝦夷の制圧は越国司に課せられた責務の柱であって個人的な冒険心で行ったことではないから、「阿倍【闕名】」は比羅夫自身ではなく、同族の者に命じて行わせた可能性もある。
《生羆》
 生羆羆皮と並べば、「生羆」が「生きた羆」を意味するのは明らかである。古訓の「生羆=熊」説は妥当とは言えない。 何よりも、熊ならば畿内でも珍しくないから特に献上することもないであろう。
 凶暴なヒグマをどうやって生きたまま連れてきたのかとも思われるが、子ヒグマだったのかも知れない。 〈倭名類聚抄〉ではは明瞭に区別されている。〈神武紀〉に「」が出て来るから、書紀でも両者は峻別されていると見てよい。 〔ツキノワグマ〕〔ヒグマ〕の生息域は津軽海峡によって完全に遮断されているので、比羅夫は北海道まで遠征したことになる。
 狭い青森県に蝦夷と粛慎の両族がいたとするのも不自然なので、この点からも北海道に行ったと考えるのが妥当であろう。
《粛慎》
 粛慎は、蝦夷とは峻別されていたようである。蝦夷との交流は充分可能だが、粛慎相手にはそれほどではなかったと見られる。 それでもヒグマの皮をなめす文化は粛慎のものであろうから、比羅夫は何らかの取引をして手に入れたと思われる。
 これ以前に、〈欽明〉五年十二月に「粛慎」が佐渡に漂着した記事が載る。
オホーツク文化人骨の出土遺跡
(『北の異界 古代オホーツクと氷民文化』所引/ 石田肇「形質人類学からみたオホーツク文化の人々」;『古代文化』48(1996))
 「粛慎」は「挹婁」の古名で、その位置は沿海州にあたる(後漢書;資料[40])。 その後、粛慎族の一部はサハリン経由で北海道に渡ってきたと考え得る(仮説)。 書紀古訓については、「粛慎」の音読シュクシンが訛ってミシムセに、その書紀古訓が誤写されてミシハせ、さらに片仮名のの字形が殆ど同じなので、アシハせとも呼ばれるようになったと考えた。 ただ、蝦夷の人が用いた呼び名であった可能性もある。
《オホーツク文化》
 の可能性を探ると、『熊石町史』〔熊石町史編さん委員会;1987〕は、 デジタル版/第三章で 「戦後網走モヨロ貝塚で発見された人骨やその文化によってモヨロ人種と呼ばれる人達であろうという。 この人種は今から1500年位前に突然この地方から宗谷、礼文地方にかけて蟠居した種族で、 現在のアイヌ系の人達とは全く異なった骨格、文化を持っているので、年代的にも合致するこのモヨロ人が粛慎であるといわれている」とあった。
 そのモヨロ貝塚の人骨について、 『北の異界 古代オホーツクと氷民文化』〔西秋 良宏 他;東京大学総合研究博物館2002〕 「骨格形態にもとづくオホーツク文化人」〔石田 肇・近藤 修〕において、次のように述べられている。
指南車
『和漢三才図会』〔1712〕/日本随筆大成刊行会1929
――「第二次世界大戦後、網走のモヨロ貝塚から出土した多数の人骨を北海道大学の児玉作左衛門らが本格的に研究を行なった」、 「オホーツク文化の担い手は北東シベリアの人々、とくにアムール川下流域のウリチなどの民族集団に近い」、 「サハリンのオホーツク文化の人骨は、大岬やモヨロの人骨にもっとも形態が近くサハリンアイヌ、北海道アイヌとは遠いことがわかった」。
 これで、『後漢書』モヨロ貝塚出土人骨比羅夫が献上した羆が、一本の糸で繋がったと言えないだろうか。
《沙門智踰》
沙門智踰  〈天智〉五年に「倭漢沙門智由。献指南車」。再度作ったとも、〈斉明〉四年に作った指南車を献上したとも解釈できる。
《指南車》
 指南車は左右の車輪の角速度の差分によって、人形の指先が常に一定の方角を指すように歯車を組み合わせたものである。 現代の自動車の差動装置のしくみに通ずる。但し、長い距離を進めば誤差を生じるので、実際には儀式や祭礼の場に置いて飾るものであろう。実用に用いようとすれば、時々方位磁針または太陽の向きによって向きを調整しなければならない。
 指南車のことは、〈釈紀-述義〉に「鬼谷子注曰。周成王時。粛慎氏献白雉。還恐惑。周公作指南車以送之。」とある〔鬼谷子は戦国時代(前403~前221)〕。 周成王と白雉の話が『後漢書』に出て来るのは、「南蛮西南夷列伝」であるが、そこにあるのは粛慎ではなく、越裳である。 『太平御覧』車部-指南車に「鬼谷子曰。肅慎氏献白雉於文王。還、恐迷路。問周公、作指南車以送之。又曰。鄭人之取玉也。必載酥訟之車。為其不惑也。」とあり、これが〈釈紀〉の文に近い。
 帰りに路を迷わないように指南車を贈ったというのであれば、南方の越裳朝貢のときの話とした方がよいように思える。 なお、「中国哲学書電子化計画」で『鬼谷子』そのものから検索したところでは、「指南車」も「成王」も出てこない。
 ここの「沙門智踰造指南車」が「粛慎」の近くに置かれているのは偶然であろうか。
《北海浜魚》
ハリセンボンスズメ
 「」はフグ。フグ科の魚は、体長40cm以下が多い。
 鱗が針状のハリセンボンはフグ目フグ亜目ハリセンボン科。北海道から九州までの日本海沿岸、東シナ海沿岸、太平洋沿岸に生息するという。体長は20cmほど 広島大学デジタル博物館による〕。 生息域として、「出雲国」の「北海浜」に問題はない。
 は中国ではフグを指す(次項)が、日本語では同じ漢字を他の生物名に宛てることが珍しくないので、一概に鮐=河豚とは言い切れない。 しかし、ハリセンボンはフグ科に属し、鱗が針状である。一定の体長があれば、鱗が数寸に及ぶ個体もあるかも知れない。 よって、鮐=河豚とすると話の筋は概ね成り立つ。
 ただハリセンボンの口がスズメのくちばしと似るかどうかは、観察者の主観による。全体像が似ると見るかどうかも、また見る人次第であろう。 さらに、ハリセンボンが大量発生して海岸に積もるようなことが起こり得るかどうかも不明である。
《鮐》
 中国語では鯸䱌と同じ、〈倭名類聚抄〉で鯸䱌は「フクフクヘ」である。しかし、この和名は〈時代別上代〉には載らない。 同書は、漢字表記があっても音仮名表記が確認できない語は基本的に掲載していないためと見られる。
 上代語であることの確実性に拘るなら、音読み〔タイ〕を用いるしかないであろう。
《鱗》
 〔音:リン〕(〈倭名類聚抄〉イロクツ・イロコ)も〈時代別上代〉に載らないが、フグと同様のことが言える。
《或本云…大唐新羅并力伐我》
 百済の滅亡は六年七月条以後に書かれることだが、ここではそれに先行して要点を掻い摘んでいる。 その後、国家は唐による攻撃に備えて軍を配置し、山を崩し、川を堰き止めて城柵を築いた。 出雲国の北岸に「雀啄針鱗」の魚の死体が積み上がったのはその兆しであったに違いない。
――ということを、注釈としてここに書き加えたのである。
《国家》
 国家は朝廷が治める国家。倭訳したクニは国造(くにのみやつこ、郡の規模)、律令国にも用いるので、やや曖昧になる。 同義語はクニイヘ(国家)、ヤシマクニ(八洲国)、アシハラノミヅホノクニ(葦原瑞穂国)があるが、ここでは使いづらい。
《以兵士甲卒》
 兵士甲卒は、ともにイクサヒトである。
《陣西北畔》
 西北畔は、対馬、壱岐、北九州、山陰だが、瀬戸内海沿岸にも城柵は多い(次項)。
《繕修城柵》
 繕修は、新造と修築である。
 はともにと訓む。「城柵」には数多いニュアンスが感じられる。実際、飛鳥時代に唐による攻撃に備えて設置した城の遺跡は各地にある。 〈天智〉三年「於対馬嶋、壹岐嶋、筑紫国等置防与烽。」六年「築倭国高安城、讚吉国山田郡屋嶋城、対馬国金田城。」。 『日本列島古代山城の軍略と王宮・都城』〔井上和人;2917〕には、 金田城(対馬)、雷山城(肥前)、大野城(筑前)、基肄城(肥前)、高良山城(筑後)、石城山城(周防)、屋嶋城(讃岐)などが挙げられている。 但し、出雲国は空白である。詳しくは〈天智紀〉で見る。
《断塞山川之兆》
 「断塞山川」は「山而塞」の意である。 城柵を築けば土砂が海川に流出して、魚類が大量死することもあろう。雀啄針鱗の魚の事件は、その「兆し=予言する現象」であったという。
 〈皇極紀〉の辺りから、重大事件の前の奇怪な兆しがしばしば書かれる。 山代皇子が殺される前の猿歌(〈皇極〉三年)しかり、 〈孝徳〉遷都の前の鼠の移動しかりである。
《兆》
 「」を〈兼右本〉は「兆也」にした。一方『集解』は兼右より後だが「」のままである。「」は文末〔時に主語の後ろ〕に置く語気詞で、しばしば句読点の役割を果たす。 ナリと訓読するが、は助詞であって繫辞〔英語のbe動詞〕ではない。の有無にかかわらず、ここの「」は動詞である。 「」は属格の助詞ではなく、目的語を強調するために動詞の前に出すときに置く助詞と見るべきである〔「~を、これ兆す」と訓読する〕
《西海使》  
阿曇連頰垂  三年に遣唐使(三年《西海使》)。 〈天智〉九年に新羅に派遣。
《百済伐新羅》
 斉明四年戊午〔658〕は、百済の義慈王十八年、新羅の太宗武烈王五年にあたる。
 「百済伐新羅」について、『三国史記』百済本記を見る。
百済:義慈王十七~十八年 新羅を侵攻した記事は見えない。
十九年〔斉明五年〕夏四月。遣侵-攻新羅独山、桐岑二城
 新羅本記では。
新羅:太宗武烈王(諱春秋)四~五年 百済が侵攻した記事は見えない。
六年〔斉明五年〕夏四月。百済頻犯境。王将伐之。遣使入唐乞師。
 『三国史記』の百済伐新羅の記録は、〈斉明〉五年にあたる。 しかし、西海使阿曇連頰垂が唐への行路、または帰路に百済に滞在したのは〈斉明〉三年~四年のうちである
 阿曇連頰垂の記事の「四年是歳」は五年の誤りか。 あるいは、新羅本記に「〔=頻繁に〕とあるから、前年までには小さな侵攻があったが書かれていないのかも知れない。
 さて、馬は征伐の帰り道に、自ら休むことなく進み続け、寺〔西海使の宿か〕の金堂に至った。 その急いで帰る姿が、庚申年の役の予感であったと感じ取っている。
 なお、馬はわき目もふらずに帰ってきたわけだから、「行道」への古訓「メクル〔=廻る〕は不適切であろう。
《為敵所滅之応》
 為敵所滅之応は、受け身の文における行為者を示す〔by~に相当〕
 古訓は「敵のために滅ぼされしこたへなり」と訓んだと見られる。 これを声を出して読むと、何となく「為敵所滅」が馬の行動が示した兆しの答のように聞こえるが、 本来は「」は属格の助詞で、 「馬が急いで帰ったことが、百済が滅亡させられたことの答えである」という文である。 しかし、これでは(きざし)と(こたえ)の関係が逆になってしまう。
 《兆》の項で述べたように、「」には、目的語を強調するために動詞の前に出して「」を挟む用法がある。 これを用いて「敵の為に滅ぼされしことを応ふ」、 すなわち「馬自行道於寺金堂昼夜勿息」=、「為敵所滅」=と読むべきであろう。
《大意》
 この年、 越国守(こしのくにのかみ)阿部(あべ)の引田臣(ひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)は、 肅愼(みしはせ)を討ち、 生きた羆(ひぐま)二頭と、羆の皮七十枚を献上しました。
 沙門智踰(ちゆ)は指南車を造りました。
 出雲国が言上しました。
――「北の海浜に魚の死体が積り、 厚さは三尺ほど。 魚の大きさは河豚(ふぐ)に似て、雀のくちばしに針の鱗をもち、 鱗の長さは数寸数寸である。 俗に 『雀が海に入り化して魚となったもので、名は雀魚(すずめうお)』という」 【ある出典に言う。 庚申年〔斉明六年〕七月に至り、 百済が使者を派遣して 「大唐と新羅は合力して我が国を討った。 既に義慈(ぎじ)王と王后、太子を、 虜(とりこ)として連れ去った。」と報告した。 これにより、 国家は兵士甲卒を西北の沿岸に陣を張り、 城柵を繕修して山川を断ち塞ごうとした、その兆しであった。】。
 また、西海使の小花下(しょうかげ)阿曇連(あづみのむらじ)頰垂(つらたり)は、 百済から帰還して 「百済が新羅を討って帰った時、 馬は自ら道を寺の金堂まで行き、 昼夜休息することもなく、ただ草を食む時のみ足を止めた。」と復命しました 【ある出典に言う。 庚申年に至り、敵によって滅ぼされたことをその対応とする。】。


目次 【五年正月~三月】
《吐火羅人共妻舍衞婦人來》
五年春正月己卯朔辛巳。
天皇至自紀温湯。
紀温湯…〈北〉キノ温湯
五年(いつとせ)春正月(むつき)己卯(つちのとう)を朔(つきたち)として辛巳(かのとみ)〔三日〕
天皇(すめらみこと)紀温湯(きのゆ)自(よ)り至りまします。
三月戊寅朔。
天皇幸吉野而肆宴焉。
三月三-ヤヨヒ肆-宴焉[句] トノヨアカリキコシメス
吉野…二年《吉野宮》参照
…[動] ほしいままにする。
三月(やよひ)戊寅(つちのえとら)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)吉野(よしの)に幸(いでま)して[而]肆(ほしきまにまに)宴(うたげ)したまふ[焉]。
庚辰。
天皇幸近江之平浦
【平此云毗羅】。
平浦平- ヒラ。 〈閣〉平◱此云毗
庚辰〔三日〕
天皇近江(ちかつあふみ)之(の)平浦(ひらのうら)に幸(いでま)す
【平、此(こ)を毗羅(ひら)と云ふ】。
丁亥。
吐火羅人共妻舍衞婦人來。
舎衛夫人…〈北〉-火トラ - ノ人共舎-衛婦-人 メノコ[句] マウケリ-午。 〈閣〉
丁亥〔十日〕
吐火羅(とくわら)の人、妻(つま)舎衛(さゑ)婦人(ぶにん)と共に来(まゐく)。
甲午。
甘檮丘東之川上造須彌山而
饗陸奧與越蝦夷
【檮此云柯之。
川上此云箇播羅】。
甘檮丘…〈北〉アメ檮丘 カシノ ノ ノ川- ハラ カ■ニシテ アヘタマフ タウ ハ云柯之川上  セムシヤウ。 〈閣〉 アメ カノ  ノ川◱上◳
陸奥…〈倭名類聚抄〉{陸奥【三知乃於久】}。平安時代に字面から解した訓みか。 上代においては母音連結したミチノクが自然か。
甲午(きのえうま)〔十七日〕
甘檮丘(あまかしのをか)の東(ひむかし)之(の)川上(かはのへ)に須弥山(しゆみせん)を造りて[而]
陸奧(みちのく)与(と)越(こし)との蝦夷(えみし)を饗(みあへ)したまふ
【檮、此を柯之(かし)と云ふ。
川上、此を箇播羅(かはら)と云ふ】。
是月。
遣阿倍臣【闕名】
率船師一百八十艘
討蝦夷國。
是の月。
阿倍臣(あべのおみ)【名を闕(か)く】を遣はして
船師(ふないくさ)一百八十艘(ももふなあまりやそふな)を率(ひき)ゐしめて
蝦夷(えみし)の国を討たしむ。
阿倍臣、
簡集
飽田渟代二郡蝦夷二百卌一人
其虜卅一人
津輕郡蝦夷一百十二人
其虜四人
膽振鉏蝦夷廿人
於一所
而大饗賜祿
【膽振鉏。此云伊浮梨娑陛】。
簡集…〈北〉 ヒ-集 アツメ飽-田 アキ  ヌ-代 シロ蝦-夷 エヒスエミシ  ソノ-虜 トリコ-軽カルノ フリ サヘ於一-トコロニ。 〈閣〉膽◱振◱鉏◰此云伊
さひ…[名] 鍬(すき)、ある種の刀。
阿倍臣、
[簡集]
飽田(あきた)渟代(ぬしろ)二郡(ふたつのこほり)の蝦夷(えみし)二百四十一人(ふたほたりあまりよそたりあまりひとり)
其の虜(とりこ)三十一人(みそたりあまりひとり)
津軽郡(つかるのこほり)の蝦夷一百十二人(ももたりあまりとたりあまりふたり)
其の虜四人(よたり)
胆振鉏(いぶりさへ)の蝦夷二十人(はたたり)を
[於]一所(ひとところ)にえりあつめて、
[而]大(おほきに)饗(あへ)して賜禄(ものをたまはる)
【膽振鉏。此を伊浮梨娑陛(いぶりさへ)と云ふ】。
卽以船一隻與五色綵帛、
祭彼地神。
至肉入籠時、
問菟蝦夷膽鹿嶋
菟穗名二人進曰
「可以後方羊蹄爲政所焉」
綵帛綵帛 シメ キヌ  ハ ソノ地神トコロノ ヲ  ル シゝ イリ コ トヒ- ウノ蝦-夷膽-鹿イカ-嶋 菟-穗名ウホナ後-方 シリヘシ-羊-蹄
 〈閣〉五色綵帛シユノ キヌ[切]祭彼
 〈釈紀〉鹿シママツリコトゝコロ
しめ…[名] 染色すること、もの。シム(下二段)の名詞形。
…[動] (古訓) まつり。まつるなり。(万)0406吾祭 神者不有 わがまつる かみにはあらず」。
即(すなはち)船一隻(ひとふな)与(と)五色(いついろ)の綵(しめ)の帛(きぬ)とを以ちて、
彼地(そこ)の神(かみ)に祭(まつ)る。
肉入籠(ししりこ)に至りし時、
問菟(とひう)の蝦夷(えみし)胆鹿嶋(いかしま)
菟穗名(うほな)二人進みて曰(い)ひしく
「後方羊蹄(しりへし)を以ちて政所(まつりごとのところ)と為(な)す可(べ)し[焉]」といひき
【肉入籠此云之々梨姑。
問菟此云塗毗宇。
菟穗名此云宇保那。
後方羊蹄此云斯梨蔽之。
政所蓋蝦夷郡乎】。
肉入籠…〈北〉之々梨/古宇保那[句]■■-政-所 セイ シヨ蓋蝦夷郡牟乎イ
 〈閣〉肉◲◲入◲◲籠◱此云之 ト[句] 問◳◳菟◱此云塗[句] 菟◱穗◳名◱此云宇那◳[句] 後方羊◱蹄◱此云斯[句]
…[助] 感嘆の語気使。反問。(古訓) や。か。かな。
【肉入籠。此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。
問菟。此を塗毗宇(とひう)と云ふ。
菟穗名。此を宇保那(うほな)と云ふ。
後方羊蹄。此を斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。
政所は蓋(けだし)蝦夷(えみし)の郡(こほり)乎(か)】。
隨膽鹿嶋等語遂置郡領而歸。
授道奧與越國司位各二階、
郡領與主政各一階。
隨膽鹿嶋等…〈北〉  テ-鹿-嶋等語 ニ ノ ミヤツコ ル道奧與越國ミコトモチ 各二-シナ ミヤツコ主政 マツリコトヒト  シナ。 〈閣〉 ノミヤツコ トニ主-政 マツリコト ヒト 
胆鹿嶋(いかしま)等(ども)が語(こと)の隨(まにま)に遂に郡領(こほりのみやつこ)を置きて[而]帰(まゐかへ)りつ。
[授]道奧(みちのく)与(と)越(こし)との国の司(つかさ)には位(くらゐ)各(おのもおのも)二階(ふたしな)を、
郡領(こほりのみやつこ)与(と)主政(まつりごとひと)とには各(おのもおのも)一階(ひとしな)をさづく。
【或本云。
阿倍引田臣比羅夫
與肅愼戰而歸。
獻[虜]卌九人。】
虜卌九人…〈北〉卌-九/-人
 〈閣〉・卌九交本有但止〔虜:本に交へて有り。但し止む〕
 〈兼右本〉虜卌交本但止-九-人
【或本(あるふみ)に云ふ。
阿倍引田臣(あべのひきたのおみ)比羅夫(ひらふ)、
粛慎(みしむせ、みしはせ)与(と)戦ひて[而]帰(まゐかへ)りて、
[虜(とりこ)]四十九人(よそたりあまりここのたり)を献(たてま)つりき。】
《平浦》
比良地域
平浦(比良)
 高市連黒人の歌に(万)0274「吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来 わがふねは ひらのみなとに こぎはてむ おきへなさかり さよふけにけり」と詠まれる。
 (万)0007 左注に「右検。山上憶良大夫類聚歌林曰。一書戊申年幸比良宮大御歌。但…五年…三月…庚辰日天皇幸近江之平浦」。 即ち、「一書には戊申年〔大化四〕に比良宮に行幸したときに詠まれたとあるが、書紀の〈斉明〉五年の平浦行幸のときの歌かも知れない」と述べる。 万葉集の編者は「比良の地である」と認識していたことが分かる。
 『大日本地名辞書』には、 「比良:此村は今分裂し、南比良は木戸村に入り、北比良は小松村に入る」、 「枚湖を万葉に見ゆるは平湊と訓むべし、比良明神は白髭社と称し、 小松崎(明神埼)に在り、比良寺は木戸の最勝寺野を参考すべし、比良山は秘密行七高山の随一也」とある。 比良は滋賀郡にあり、現代地名は大津市北小松南小松北比良南比良が見え、比良山がある。
 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1983〕には「比良牧・比良庄:庄域は現南比良・北比良一帯に比定される」とある。
《吐火羅人》
 「妻舎衛婦人」と連れだって朝廷を訪れた吐火羅人は、六年七月の「乾豆波斯達阿〔カヅハシタツア〕であろう。
《舎衛婦人》
 舎衛婦人は、白雉五年に「吐火羅国男二人女二人舎衛女一人、被風流-来于日向」 と書かれた舎衛女であるのは明白である。その「男二人」のどちらかの妻と見られる。 舎衛婦人は薬に詳しく、貴婦人として遇された(白雉五年【吐火羅国】)。
《甘檮丘東之川上》
 「甘檮丘」と言えば飛鳥川である。
 「川上」をカハカミと訓むこともできるが、甘樫丘の東は上流とは言えず、カハノヘ(河辺)という語に同訓の「川上」があてられたのであろう。 それは、(万)0022「河上乃 湯都盤村二 草武左受 かはのへの ゆついはむら〔=神聖な岩群〕に くさむさず」の「河上」が川岸と解されているのと同じである。
 甘檮丘東之川上飛鳥寺西の別表記と考えるのが妥当である。表記が異なるのは書紀が参照した出典が異なるからであろう。 「須弥山」については、三年七月にも「須彌山像於飛鳥寺西」があった。 記述がダブるのは、一つの出来事が両方の出典の中にあったためと見られる。
 「川上」への古訓「カハラ〔河原〕は、そこが飛鳥側の河原の続きと理解されていたことを示す。 流路が堤防で狭く絞られた近代以降の川とは異なり、河原は広かったであろう。この場所にかって存在した外国客接待施設の記憶が、平安時代まで残っていたのではないだろうか。
《陸奧与越蝦夷》
 「陸奧与越」の「」については、前述のようにまだ出羽国は存在せず、蝦夷の広大な土地も「越国」に含まれていると見た。 この項では、この時期の「陸奥国」の範囲を探る。
 道奧の初出は〈景行紀〉(13)。これは蝦夷征伐を、日本武尊伝説に遡らせたものである。
 次には〈推古紀〉三十五年陸奥国有狢化人以歌之」があるが、後世の伝説と見られる。 陸奧に関する実質的な史実としての記述は、〈斉明紀〉が最初と見てよい。
 それでは、陸奥国はいつ規定されたのであろうか。 大化元年八月に「拝東国等国司」、 大化二年三月には「使東方八道。既而国司之任。六人奉法。二人違令。」とあり、東方八道に国司を定めた。
 その「東方八道」の「東方」は、〈景行紀〉(13)で 「碓日嶺。…号山東諸国吾嬬〔アヅマ〕」で定義される。
陸奥国の郡と国造
 「八道」の内訳は、日本武尊伝説に伺われる。 〈景行紀〉(12)に「相摸」、「上総」。 〈景行紀〉(13)に「陸奧」、「常陸」、「武蔵」、「上野」。 これに分割された国の片割れ、下野下総を加えるとちょうど八国になる。
 そのうち常陸国の成立については、『常陸国風土記』に 「古者…不常陸。唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国。各遣造別検校。…後至難波長柄豊前大宮臨軒天皇〔孝徳〕之世。遣〔三名(略)〕 惣領坂已東之国。于時我姫〔アヅマ〕之道。分為八国。常陸国居其一〔昔は常陸と言わず、新治・筑波…の国に造(みやつこ)別(わけ)を遣わして検校〔=監督〕した。〈孝徳朝〉に至り、三名を遣わしてすべて領させ、八国に分けた。常陸国はその一つである〕とある。 「新治…」には、『国造本記』の新治国造筑波国造茨城国造仲国造久自国造高国造との対応が見える。 『常陸国風土記』は、この六国造を常陸国司の下に置いたのは孝徳朝のこととし、これは〈孝徳紀〉大化元年~二年条に符合する。
 よって、陸奥国司を定めたのも〈孝徳朝〉大化元年と考えられる。それでは、その時点で陸奥国の範囲はどこまでだったのであろうか。
 常陸国においては『国造本記』と郡が概ね対応するので、陸奥国でも両者の対応を見る(第123回【東海道】参照)。
道奧菊多国造道口岐閉国造※1阿尺国造思国造※2伊久国造染羽国造浮田国造信夫国造白河国造石背国造石城国造
菊多郡安積郡日理郡?伊具郡標葉郡宇多郡信夫郡白河郡磐瀬郡磐城郡
※1…古事記(第47回)の「天津日子根命者…道尻岐閇國造…等之祖也」によるもので、さらに誤写されたのであろう。
※2…『大日本地名辞書』は「」はシノブで「信夫の重出」、「(日理が)日利とありし草体を、一字に誤写」などの説を載せる。
 右図は、その配置を示したものである。 『国造本記』の核心部分は、〈続紀〉大宝二年〔702〕四月「詔。定諸国国造之氏。其名具国造記一」 にいう国造記を出典としたと見た(資料[55]《国造本記》)。 それを前提とすれば、太平洋岸側の朝廷の国家の北限は、大宝二年において伊具郡のラインに達していた。 この範囲の郡の成立時期は5世紀後半から7世紀初めで、日本武尊伝説に反映されたと見た(〈斉明〉四年【常陸国側の進出】)。 〈斉明〉五年の時点では、未成立の郡を若干含みつつも、国造本記ラインの近くまで来ていたと見てよいだろう。
 以後、延喜式ライン〔10世紀〕までの進出は太平洋側では順調である。 これを見ると、なぜ日本海側のみが手こずったのかという問題が浮かび上がる。
《遣阿倍臣【闕名】》
 ここでは表記が「阿倍引田比羅夫」ではないので、四年四月阿陪臣【闕名】…」と同一の出典を用いたと思われる。 「」と「」があるが、後者が誤写であろう。また、ここでも四年四月条と同じく、漠然と多いことを表す「船師一百八十艘」がある。
《飽田渟代二郡蝦夷》
 飽田は、四年四月の「齶田渟代二郡蝦夷」の齶田と同じと見られる。 よって齶田も清音とすべきであろう。
 〈釈紀-述義〉は「飽田。渟代。津軽。膽振鉏。肉入籠。問菟。後方羊蹄:兼方案之。皆是蝦夷国之郡号〔こほりのな〕」とする。 しかし、飽田渟代津軽は倭人による呼び名であろう。 胆振鉏肉入籠問菟後方羊蹄には倭語ではない雰囲気が確かに感じられるが、表記はすべて釈訓である。 これらの漢字表記は書紀が初めてではなく、古くから倭人と蝦夷との間に交流があり、借訓による地名表記があったと見た方がよいだろう。 飛鳥時代の日本人とアイヌの間で交易があったことの裏付けとしては、「擦文文化期〔7~13世紀〕の墓からは、刀子、鉄鏃などの本州からもたらされた鉄製品が多く出土している」(文化遺産オンライン/天内山遺跡出土の遺物)例などが見られる。
《胆振鉏》
 胆振鉏は、胆(イ)-振(フリ)-鉏(サヘ)と借訓する。 その比定地を求める議論の一端を見る。
 『東京地学協会報告(1)』〔1891〕は、 「膽振鉏:原語イブクサンベ」ニテ「イベウクサンベ」ノ急言ナリ」、 「北海道ニ此地名ナシ奥羽ノ二国〔=陸奥、出羽〕モ未ダ地名ヲ聞カズ下野国下津賀郡ニ伊吹山あり…」、 すなわち「息吹」と解釈し、下野国にはあるが東北、北海道には見つからないと述べる。
 『苫小牧市史』上巻〔苫小牧市;1975〕は次のように述べる。
――「河野広道は『苫小牧地方古代史』の中」で、 「阿倍臣の北海道遠征と関係があると認められる遺跡は札幌低地帯西側丘陵にのみ限定」され、 「問菟:竹浦に同名の地名」、「膽振鉏:勇払または江別」、「肉入籠:シシリコツでシコツ即ち千歳附近」、 「後方羊蹄:シリバウシとすれば江別・苫小牧間の何れか」で、 「阿倍臣の遠征地点と推定される地域は、千歳を中心とする江別から苫小牧の間及びその附近に密集している」。
 『苫小牧市史』はこの河野広道の推論を紹介した上で、「この中でいう考古学的資料である北海道式古墳はおよそ九世紀の初めころ」で時期が合わず、 「日本書紀に記された古地名を、単に類似しているという理由だけでアイヌ語地名に当てはめようとすること自体に無理がある」と酷評する。
 『第日本地名辞書』は「(津軽)北郡佐井村あり」という。 これは《肉入籠》項で述べるように胆振鉏を津軽の北端と見ることに伴うものだが、イブリの部分がない。
 胆振鉏の比定地は既に調べ尽くされたと見られるが、依然として決め手はないようである。
《其虜》
 「」を饗に呼ぶのは奇異に感じられるが、局地戦によって何人か取った虜を、和解して饗を開催した時点で蝦夷に返したという意味であろう。
《大饗賜禄》
 「大饗賜禄」は、四年七月の「饗賜贍給有加於常」と同様、大盤振舞したと考えられる。 そこで述べたように、名目上の冊封と引き換えに膨大な回貢を賜る中国の外交政策と同質である。
《祭彼地神》
 『類聚名義抄』では、の訓は「:マツリ」のみである。 現代語で「神をまつる」のマツルに相当する上代語は、イハフ(斎)で、上代のマツルはもともと献上する意である。 よって、「祭神」は、「まつる」と訓むべきということになる。 ただ、古訓ではイハフと混同して「マツル」と訓む。この混同は、多分上代からであろう。
 それでもここの「」は対格(~ヲ)「以船一隻与五色綵帛」、与格(~ニ)「彼地神」という二重目的語をもつ動詞なので、 もともとの「奉納する」意と読むべきであろう。
 よって、阿倍臣は蝦夷が信奉する現地の神を重んじ、むしろ積極的に五色綵帛を奉納したのである。 なお、ここでを贈ったことは船の重要性を意味し、蝦夷が北海道在住の蝦夷や粛慎との間で活発な交易を行っていたことを示すと考えられる。
《肉入籠》
 肉(シシ)-入([イ]リ)-籠(コ)は借訓だが、選択された文字には沈黙交易※1を連想させるものがある。 ※1…「交易品をそこに並べておくと、〔和人がいない間に〕アイヌがやってきて交換していく〔『アイヌ学入門』瀬川拓郎;講談社2015〕
 肉入籠の遺称について、次の説を見る。 北秋田市公式/広報たかのす 431号(昭和55〔1980〕/5/1): 「そのシシリコがツヅリコ(綴子)の地であろう。と、「綴子村史」に書いてある」(p.8)。 522号(昭和59〔1984〕2/15): 「佐藤徳治著「郷土夜話、肉入籠」」によると「「綴子」の語源「肉入籠」はアイヌ語の地名で…阿倍比羅夫が渟代の蝦夷をうち米代川をさかのぼって肉入籠まで来た」(p.8)。
●『綴子村史』〔綴子村史編纂委員会1959〕は、「」(pp.19~20)に次の資料を載せる。〔抜粋〕
 (一) 「肉入籠「しし」は「ちち」に通じ「り」は「れ」に通じて綴子つづれこというは、よこ訛りなり」明和三年四月十八日…般若院大峯英泉、七座山天神宮縁起。
 (二) 「つとめて前山、坊沢を経て綴子駅に来る。…その肉入籠を、よこなまりて、いまは綴子の文字こそ書けりと、もはらいへり」文化四年丁卯春五月二十七日、菅原真澄、遊覧記、雄賀良能多奇。

 「問菟は古より唱えられている飛根、今の富根と思われる。
●『郷土夜話 肉入籠』〔佐藤徳治1949(謄写印刷)〕は、次のように述べる(pp.1~3)。
 「般若院大峯英泉七座山天神宮縁起に「綴子」は「肉入籠」から訛ったという」。
 「英泉曰く「…船一艘と五色の綵帛を以て彼地の神を祭り「肉入籠」に至ると分明にあることは彼地神とは掛けまくも恭き七座山の神社にてましますなり…」… 以上のことを総合して考えれば綴子村は千数百年前から部落をなしていたのは確かである」。
2023.11.26加筆
 ところが、『大日本地名辞書』は 「綴子ツヅレコ:…大日本史神祇志に、肉入籠を此綴子に擬し、…是れ大失考と謂ふべし国会図書館 として、肉入籠=綴子説を真っ向から否定する。
 その大日本史の記述は次の如くである。
――『大日本史』(巻二百五十八 神祇/陸奥国/山本郡/官帳不載者)齶田神社:今在秋田郡、【郡名拠土人説○土人云、今在小繋村、曰七座山天神、為秋田能代綴子三村鎮守神、 按三村即所謂飽田渟代肉入籠之地也、】〔以下〈斉明紀〉から引用〕国会図書館 よって『綴子村史』は『大日本史』に沿ったものになっている。 
 『大日本地名辞書』の主張は、 「其饗宴の地は、〔けだし〕胆振鉏部にして、従前馴服の〔=前年に既に服従させた〕渟代津軽の北なるべきこと、推断して疑を容れず」、 したがって「〔書紀の記述は〕文理明〔りょう〕、津軽肉入籠以北の遥地に、蝦夷を討たれしを知るべし。 されば、肉入籠といひ、後方羊蹄といひ、皆海北の地にして渡島に属す」というもので、 つまり饗宴の地は津軽の北であるから、肉入籠や後方羊蹄は北海道にあったとする。
 しかし、「」の地は書紀には「一所」とあるのみである。 渟代以北の情勢は未だ不安定だったとすれば〔だから、再征したとも考えられる〕、 比較的政情が安定していた齶田の湊を会場にしたとも考えられる。
 また、『大日本史』のいうように、飽田⇒秋田渟代⇒能代が残るのと同程度に、肉入籠⇒綴子があってもよいだろう。
《問菟》
 問(トヒ)-菟(ウ)と借訓する 問菟塗毗宇は甲類で、問フ(四段)の連用形に合致している。 音仮名には清濁両方があるが、〈時代別上代〉は書紀においてはすべて清音と判断している。
 トビウと読み倣わされているのは、トヒウでは発音しにくいためと見られる。 しかし、上代のは両唇破裂音[pi]で、それなら発音は容易である。「」という字から見ても清音とすべきであろう。
 『大日本地名辞書』は「飛根トビネ」の項で、 「問菟今亡、能代綴子、中間有飛根村、疑問菟之転呼、姑従之〔問菟は今は亡く、能代と綴子の中間に飛根村あり。菟の転呼は疑問だが、姑(しばら)く従う〕という説を紹介する(出典不明)。 ただ、同書はこの説を、問菟も肉入籠と同様津軽の北にあったはずだから「従い難し」とする。
《後方羊蹄》
飽田・渟代との位置関係円覚寺と日和見山
 借訓は、後方(シリヘ)-羊蹄(シ)である次項。 シの訓仮名羊蹄の例には、(万)1857世人吾羊蹄 よのひとわれし」などがある。
 『大日本地名辞書』に「圓覺寺」の項に、『深浦沿革志』からの引用として「後志見シリヘシミ」が見える。
 『深浦沿革志 増補』〔海浦義観;1918〕国会図書館を見ると、 「東浜の錦石と唱へし名物…有間の浜を後人誤りて、東の浜又は吾妻の浜とも」、 「圓覺寺の境内に連接して。西の方に後志見山といふ丘陵あり。 里人の口碑に阿倍比羅夫船師〔ふないくさ〕を率ひて。渡嶋後方羊蹄に渡航せんとする時。此丘陵に於て彼山を望み。 風浪の静穏なるを察して開帆せり。故に後志山と云ふとい〔ママ〕り。爾来…北海道に渡航する船舶は、 多く此地に来泊し…此丘陵に上り順風を視察して出帆せり。…後世後志山の号誤りて。日和山と呼ぶ」とある。
 つまり、円覚寺の隣の丘陵から北海道の後方羊蹄を眺めて日和を見て出帆して、その丘陵を後志見山と呼んでいたのであって、円覚寺の場所がシリヘシというわけではない。 後に「地方の有志」は「後志見山に公園を開き」、「阿倍比羅夫の一大銅像を建て」て顕彰したという。 〔この銅像は現在は存在しないようである。戦時中に供出されたのだろうか。〕
 地元では、後方羊蹄は北海道にあると考えられていたようだが、実は日和見山の周辺に後志が存在していたこともある得るのではないだろうか。 それが山の名の謂れであったが、北海道に後方羊蹄があるという固定観念により後付けで伝説が生れたことも考えられる。
 仮に綴子=肉入籠で、円覚寺附近〔深浦〕後方羊蹄があったとすると、渟代、肉入籠、後方羊蹄の位置関係はなかなか現実的である。 阿倍臣は、渟代から内陸に進み、肉入籠で問菟蝦夷に出会った。その地で郡の設置を求めたところ、 胆鹿嶋から「それなら後方羊蹄がよろしいでしょう」と提案された。後方羊蹄の湊が、現在の深浦漁港のところであったとすれば、交易に都合がよい。 さらに想像を発展させれば、そこは蝦夷が北海道の粛慎と交易する湊だったのかも知れない。
ギシギシギシギシの若葉
《羊蹄》
 羊蹄の現代名はギシギシである。
 〈汉典〉「羊蹄(学名:Rumex japonicus Houtt.)是蓼科、酸模属多年生草本植物、茎直立、高可達100釐米〔cm〕、基生葉長円形或披針状長円形、頂端急尖、基部円形或心、辺縁微波狀、花序円錐狀、花両性、多花輪生…」。
 〈倭名類聚抄〉「羊蹄菜:唐韻云菫【和名之布久佐。一云〔シ〕】羊蹄菜也」。
 『類聚名義抄』「羊蹄菜:シ シフクサ」。
《遂置郡領》
 名目上の「郡領〔大宝元年以前には、実際には評令〕任命と引き換えに、現地の神を許容し大禄を与えることで交渉が成立したのである。
 渟代津軽両郡の郡領の任命の記事で郡領の名前や位階まで具体的に書かれているのに比べ、ここでは漠然としている。 「遂置郡領」の「」の名前も欠くが、原注と併せれば後方羊蹄郡ということになる。 この辺りの記事が漠然としているのは、この「」が渟代津軽に比べても不安定で、ほどなく潰えたことを伺わせる。
《続縄文文化との接触》
 『前方後円墳の世界』(前出)は、森ヶ浜遺跡(青森県天間林村)や木戸腋浦遺跡(宮城県大崎市)の出土物を元にして、次のように述べる。 すなわち「続縄文文化にたいする古墳文化からの一方的収奪は認められません。さほどの武力を保持していなかった北上川流域の続縄文文化集団が、 五世紀をつうじて古墳文化と「対等」に交易していたと、見なさざるを得ない」(p.170)、 「七世紀後半以降、あいつぐ城柵の設置など、北東北に対して律令国家は軍事侵略と同化政策で「蝦夷」を支配しはじめます」(p.170)という。
 同書は、律令国家側からの圧力に対抗するために生れた「みずからの集団的一体性」(p.175)が、後期古墳の集団墓に表現されていると見る。 この見解は氏の幅広い古墳研究によって明らかにされたものであるが、〈斉明朝〉の阿倍臣派遣の実態は、その見解とよく噛み合っている。
 すなわち、〈斉明朝〉当時は律令国家作りが始まったばかりで、蝦夷の自律はまだ尊重されている。 しかし、これから後は次第に律令国家に組み込もうとして圧迫を強めていく。必然的に蝦夷側には民族意識が高まり、しばしば反乱を起こす。 結局律令国家の時代の内に真郡の設置は叶わず、国家の北限は秋田郡から動かぬままで、その状態が鎌倉時代初めまで続いたのである。
《授道奧与越国司位各二階》
 「越国司」は、越国守阿部引田臣比羅夫のはずである。 表現が異なるのは、やはり別々の資料によったからであろう。 「位二階」は、これまでの判断では「制冠十九階」の十八階:小花下となる。低すぎるようにも思えるが、判断は保留したい。
 「置郡領而帰」の直後に書かれているので、蝦夷征伐の論功行賞であるのは明らかである。 しかし、ここに「陸奥国司」が含まれているのは何故だろうか。 津軽遠征に陸奥国からも兵卒が動員されていたとすればひとまず納得できるが、同じ時期に並行して太平洋側の侵攻も行われていた可能性もある。
《郡領与主政各一階》
 文脈からは、「後方羊蹄郡」の郡領主政である。 その人物は「膽鹿嶋」と「菟穗名」と見るのが妥当か。渟代と津軽の郡領と同様に、既にかなり倭に同化した人物であったことも考えられる(《授馬武大乙上項参照)。
《粛慎虜四十九人》
 四年是歳条の最初の部分で書き漏らしたことを、ここで補ったと見られる。 しかし、この原注がここに置かれたのは蝦夷征伐と粛慎征伐が一体と捉えられていたとも言え、 「越国守阿部引田臣比羅夫」=「阿倍臣【闕名】」と考えられていたことの証かも知れない。
《大意》
 五年正月三日、 天皇(すめらみこと)は紀温湯(きのゆ)から至り帰られました。
 三月一日、 天皇(すめらみこと)は、吉野に行幸して、思いのままに宴なされました。
 三日、 天皇は近江(ちかつおうみ)の平浦(ひらのうら)に行幸されました
 十日、 吐火羅人が、妻舎衛(さえ)婦人と共に〔朝廷を〕訪れました。
 十七日、 甘檮丘(あまかしのおか)の東の川の辺(ほとり)に須弥山(しゅみせん)を造り、 陸奧と越の蝦夷(えみし)を饗されました
 同じ月、 阿倍臣(あべのおみ)【名を欠く】を遣わし、 船師(ふないくさ)一百八十隻を率いて 蝦夷(えみし)の国を討たせました。
 阿倍臣は、飽田(あきた)渟代(ぬしろ)二郡(こおり)の蝦夷(えみし)二百四十一人と その虜三十一人、 津軽の郡(こおり)の蝦夷一百十二人と その虜四人、 胆振鉏(いぶりさへ)の蝦夷二十人を 一か所に選(よ)り集めて、 大饗(おおあえ)して禄を賜りました
 そして、船一隻と五色染めの帛布を、 現地の神に奉納しました。
 肉入籠(ししりこ)に至った時、 問菟(とひう)の蝦夷である胆鹿嶋(いかしま)、 菟穗名(うほな)の二人が進み出て、 「後方羊蹄(しりへし)を政所とするべきです」と言いました 【政所は、蝦夷の郡(こおり)か】。 胆鹿嶋(いかしま)等の語るまま、遂に郡領(こおりのみやつこ)を設置して帰りました。
 道奧(みちのく)と越(こし)の国司に、位各二階を、 郡領(こおりのみやつこ)と主政(まつりごとひと)には各一階を授けました。
 【ある出典にいう。 阿倍引田臣(あべのひきたのおみ)比羅夫(ひらふ)は、 粛慎(みしはせ)と戦って帰り、 虜四十九人を献上した。】


まとめ
 胆振鉏(イブリサヘ)以北が北海道だとする説については、裏付ける材料は皆無で全く雲をつかむものである。 それに比べれば、秋田~青森県内とする方がまだ若干の裏付けがある。 また、五年の蝦夷征伐については、未だ情勢が不安定であったから四年と同じ地域に再征したと考えるのが妥当であろう。 飽田・渟代・津軽は決して真郡ではなく、本質は相手の自律性を認めた上での友好の確立であって、「郡領〔評領〕」は実利と交換の名目に過ぎない。 それを端的に示すのが、「祭彼地神」である。
 阿倍臣の五年の遠征は、確立した三郡を足場にして北海道進出ではなく、三郡の「郡領」が「反対勢力に手を焼いています」と訴えたことによる再征と見るのが自然であろう。
 そもそも鎌倉時代になってやっと津軽四郡の設置に漕ぎつけたという史実を見れば、〈斉明朝〉における蝦夷地域への郡の設置は全くの空想に見える。 しかし、丹念に記述内容を拾い、遺跡に残る墓制やアイヌと和人との交流の歴史を併せて見ると、阿倍臣の遠征と友好の確立自体は荒唐無稽ではない。 確かに律令国家を確立しようとする時代で、その流れの中で阿倍臣は派遣された。結果的には、朝貢外交レベルの関係成立に留まったということである。 その後国家は直接支配を試みたが、反発を食らって真郡の設置は遠のくばかりであった。
 なお、阿倍比羅夫が北海道まで足を伸ばしたこと自体は認めてもよいだろう。それは、遺跡の骨から粛慎と見られる族が北海道にいたことと、 何よりも「羆」による。その点、古訓で「生羆」をクマと訓んだのは情けないことである。



[26-05]  斉明天皇(3)