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2023.11.10(fri) [26-03] 斉明天皇3 ▼▲ |
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6目次 【四年七月~十月】 《蝦夷二百餘詣闕朝獻》
このときの饗も飛鳥寺西の接受施設で行われた可能性が高い。 《饗賜贍給有加於常》 中国の外交においては、周辺国から国内諸侯国に擬えた形で朝貢を受け、その実質的価値を大幅に上回る回賜を与えた。 その一端は、魏志倭人伝に記述された倭国王からの朝貢(魏志倭人伝(72))と、回賜(同(74)~同(76))に見える。 「饗賜贍給有加於常」は、その慣行を髣髴させる。 すなわち、〈斉明朝〉における蝦夷との関係は、本質的に国外の勢力との友好の確立である。 五年七月条では蝦夷は三種あると述べ、遠い方から順に「津軽蝦夷」、「麁蝦夷」、「熟蝦夷」といい、そのうち「熟蝦夷」は「毎歳入二-貢本国之朝一」とある。 〈天武紀〉十一年七月には「饗二隼人等於明日香寺之西一」とあるが、大隅や薩摩との関係も依然としてこのレベルであったと見られる。 よってここでいう「郡大領」、「郡少領」も、基本的には名誉的な称号であろう。 但し、大領・少領には下で見るようにある程度倭人に同化していた人物を取り立て、できれば「郡」の蝦夷全体に対する倭朝廷の国家の統率を実現しようとする思惑が見える。 なお、仮に大領・少領任命の記事が〈斉明朝〉当時の記録に基づくものだとすれば、その表記は「郡」ではなく「評」になっていたはずである。(〈景行〉十七年《郡と県》) 《授柵養蝦夷二人一階》 「授…沙尼具那小乙下」の分注に「或所」の記録として「授位二階」とあることから、十九階中十八階の小乙下の別表記が「授位二階」であったと考えてよいだろう。 すると、「授位一階」は第十九位の「立身」に相当する。 なお、宇婆左に授けられた「建武」はこの時期は「立身」になっていたはずであるが、移行前の名称が使われたと考えられる。 《授二馬武大乙上一》 馬武には第十五位の「大乙上」が授けられたから、それ以前に「大乙下」〔またはそれ以下〕の冠位をもっていたはずである。 すると、津軽蝦夷を統率させるために、倭人を郡大領として送り込んだのだろうか。または、既に倭人に同化していた蝦夷人であった可能性もある。 馬武(マム)は、倭人の名〔ムマタケ?〕か、あるいは蝦夷人の名かは判断し難い。 郡少領の青蒜(アヲヒル)は倭人の名前に思えるが、本名とは別に和風の名前を持っていたことも考えられるので、一概には言えない〔倭人が呼んだ蔑称かもしれない〕。 青蒜は、「小乙下」を賜る前は立身だったことになる。 五年七月条では遣唐使に蝦夷の人物を同行させたとあるところを見ても、この時期の「熟蝦夷」はかなり友好的であった。 境界地域では交流のある熟蝦夷の幾人かは、倭に同化して現地の司に加わっていて、中には冠位を賜った者がいたこともあり得よう。 彼らは、倭の官と蝦夷との間を取り持つには適任である。よってそのような人に肩書大領、少領を与えて送りこんだと考えるのがよいと思われる。 《恩荷:小乙上(四年四月)》 ここで、四年四月条で「授三恩荷以二小乙上一」とあることについて改めて考える。 恩荷は齶田蝦夷に属していたが、やはりもう少し南にあった倭の司をしばしば訪れていて、既に小乙下の階位を得た人物であったと考えておきたい。 四年四月に阿倍軍を迎えた際には現地で齶田蝦夷を代表して、阿倍臣との交渉にあたったのであろう。 その結果朝貢の関係が成立し、恩荷はその功績によって小乙上に進階し、渟代津軽二郡の〔擬制としての〕「郡領」に定められたと考えられる。 《大領・少領》 四年七月条における大領と少領の任命には、真郡ではないものの一定の実質を伴っている。 それに対して、四年四月条で恩荷を「渟代津軽二郡々領」と定めたことについては、仮に〈斉明朝〉当時に実際に郡領〔実際は評領〕に任じたとしても実質はなく、全くの名誉的な称号であろう。 両者の「郡領」のニュアンスの差を、このように考えておきたい。 なお、大領・少領は〈倭名類聚抄〉によれば「長官:…郡曰大領…【已上皆加美】」、「次官:…郡曰少領…【已上皆須介】」、 すなわちカミ・スケと訓む。 この段では真郡に准えて用語を用いているので、その意図に沿って〈倭名類聚抄〉のように訓むのがよいであろう。 《鮹旗…》 〈釈紀-述義〉は「私記曰。師説。未レ詳二其躰一也。師後説曰。今現在此旗之頭也如レ鮹。故名。」と述べる。 鮹旗以下の品々は、軍備品である。すなわち、進軍にあたって鮹旗を掲げ鼓を鳴らし、弓矢を構えて鎧をまとう。 まさか倭に歯向かうための軍備を与えるはずはないから、蝦夷を統率する者として内部で未だ反抗する者を討つ任務を与えたことは明らかである。 《都岐沙羅柵》
鼠ヶ関(ねずがせき)跡は、1968年に本調査が実施され、現在の山形県鶴岡市温海町鼠ヶ関原海などにあり、 「平安時代から室町時代の関所の一部」、 「11世紀以前の倉庫風の掘立柱建物跡一棟、掘立の丸柱が並列してジグザグに検出され、千鳥式走行とされた柵列跡」が見られるという(『日本歴史地名大系』平凡社;1990)。 《渟足柵造大伴君稲積》 渟足柵造大伴君稲積は、明らかに倭人である。「小乙下」の授与は、攻撃側の阿倍軍内部での論功行賞であろう。 都岐沙羅柵造【闕名】への「位二階」も同様だと思われる。 「判官位一階」の判官も「闕名」であろう。 《検覈蝦夷戸口与虜戸口》 「渟代郡大領」に任じた沙尼具那に「検二-覈蝦夷戸口与虜戸口一」を命じたという。戸籍を整備する目的は、班田収授法を実施して税を課すためである。しかし、蝦夷には五穀の耕作が存在しないので、実態に合わない 〔特産物の供出は考えられるが、実際には倭人との物々交換であろう〕。 納税の台帳として活用することはないから、実際には殆ど進まなかったと見てよいだろう。 「蝦夷戸口与虜戸口」の意味は推定するしかない。虜は奴婢と見られる。虜は戦利品として奴婢にされるからである。 「虜戸口」は、倭人が入植したときに捕えた蝦夷を奴婢として私有した者のことではないだろうか。それに対して自立生活していた者が蝦夷戸口と考えることができる。 ただ、倭人の入植がもし順調に進んだとすれば、郡設置が中世まで遅れることはあり得ない。虜戸口は、あったとしてもごく僅かだったに違いない。 《大意》 七月四日、 蝦夷(えみし)二百人余が宮闕(きゅうけつ)〔=朝廷〕に詣でて朝献しました。 饗(あえ)を賜り賑(にぎ)わすことは、通常を上回るものでした。 これにより、柵養蝦夷(きこうえみし)二人に位一階、 渟代郡(ぬしろのこおり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に小乙下(しょうおつげ) 【ある所の伝承では、位二階を授けて戸口(こぐち)を調べさせたという】、 少領(すけ)宇婆左(うばさ)に建武(けんむ)、 勇健な者二人に位一階(ひとしな)を授けました。 別に沙尼具那(さにぐな)らに 鮹旗(たこはた)二十旗、 鼓二体、 弓矢二組、 鎧二揃えを賜りました。 津軽郡(つかるのこおり)の大領(かみ)馬武(まむ)には大乙上(だいおつじょう)、 少領(すけ)青蒜(あおひる)に小乙下(しょうおつげ)、 勇健の者二人に位一階を授けました。 別に馬武(むま)らに 鮹旗二十旗、 鼓二体、 弓矢二組、 鎧二揃えを賜りました。 都岐沙羅柵(つきさらき)の造(みやつこ)【名前不明】に位二階、 判官(まつりごとひと)に位一階を授け、 渟足柵(ぬたりき)の造(みやつこ)大伴君(おおとものきみ)稲積(いなつみ)に小乙下(しょうおつげ)を授けました。 また、渟代郡(ぬしろのこおり)の大領(かみ)沙尼具那(さにぐな)に詔(みことのり)して、 蝦夷(えみし)の戸口(こぐち)と虜(とりこ)の戸口を検覈(けんかく)させました。 《沙門智通智達乘新羅船往大唐國》
無性衆生の義については、玄弉法師門下の高弟であった神泰が「「無性衆生義」を肯定する「五姓各別」論者であった」 という記述が見つかった。〔『史林』43(82)(182)/史学研究会1960;薗田香融(p.87)〕 「五性各別」とは 「法相宗の説で、一切の衆生を先天的に決定されている本性から、菩薩定性、独覚定性、声聞定性、三乗不定性、無性有情の五種に分けるもの。先天的に成仏できるもの、できないものを示したところに特色がある。 ※教長集(1178‐80頃)「新院百首釈教の心をよめる 他縁大乗 五性各別 我身にも仏のたねのありなしは花のかつらをかけてこそしれ」」 〔『精選版日本国語大辞典』小学館2006〕という。 すなわち、或る人が成仏できるかどうかは、生まれつきの素質として定まっているとする考え方のことである。 当時倭の仏教界でこれが議論の焦点になっていて、玄弉法師に尋ねるために行かせたということかも知れない。 遣唐使への同行ではなく、たまたま新羅に帰る船に便乗して出かけたところに、派遣が非公式でかつ急いでいたことが伺われる。 《玄弉法師》 玄弉法師については、〈続紀〉文武四年〔700〕三月己未:「道照和尚物化〔=死去〕」の記事中に 「適遇玄弉三蔵。師受業焉。三蔵特愛。令住同房。謂曰。吾昔往西域。在路飢乏。無村可乞」とあり、倭からやってきた道照を特愛した。 道昭(道照)は、白雉四年五月に学問僧として遣唐使に同行した。 玄弉法師は、また『大唐西域記』を著した(【吐火羅国】参照)。 〈斉明天皇〉は、西域の文化に対して強い興味を抱いていたと考えられ、併せてその話も聞いて来させたのかも知れない。 《幸二紀温湯一》 〈斉明〉三年【紀温泉】《斉明天皇の行幸》項参照。
〈釈紀-和歌〉のこの三歌のところには、意味不明の字が幾つかある。右に〈影印本〉(八木書店)と〈国史大系〉(吉川弘文館)の該当部分を示す。 第二歌の「飫岐底舸庾舸武」への分注、「①行也言亡建王②行之義也」については、 「置きてか行かむ」は明らかなので、①は「置」である。 〈影印本〉は罒〔アミガシラ;罔の略〕を日にする。そのような異体字があったのかも知れないが、 第三歌への分注「③行也」では罒に見えるので、筆写者の解釈であろう。 〈国史大系〉はこの箇所のために「旦+且」の活字を鋳造している。 「②行」を〈国史大系〉は「兮行」とするが、兮は文末の語気詞以外の用法はないので、不適切である。 文脈上は夭折を意味する語である。破損した部分の字を、筆写者がこのような字形に見て書いたと想像される。 ここには例えば「步行」、「去行」を当てはめることができる。実際の字が何であったかは分からないが、この類であろう。 第三歌の解説に「④動沒⑤之戀〔=恋〕慕」とある。 ④を〈国史大系〉は兼とする。 兼の異体字𠔥〔U+20525〕に似るが、灬〔レンガ〕を欠く。しかしこの形には、知っている字を確信を持って書いた雰囲気がある。 ⑤について〈国史大系〉は、活字「彳+爰」を作っているが、ユニコードにはない。 「没後」〔=終えた後;和語では特に死の後〕とすると解り易い文になるので、「後」が誤写されたと見るのがよい。 〈釈紀-和歌〉全体は、平易な文章で書かれているからである。「②行」への判断についても同様である。 《歌意》
「麻旨珥」への古訓は「マジニ」である。マジは、上代にはマシジであったという知識を欠いていたか。 オモシロキについては、万葉集では「面白」(1240,3791)、「
アガ・ワガの使い分けについては、「…児…には常にアガ」がつく(〈時代別上代〉)という。 第三歌ではオキテカユカムの主語は詠み手で、反語〔置いて行こうか?否、置いて行けない。〕と受け止めるべきであろう。 第三歌の「置きてか行かむ」は第二歌の単純な繰り返しではなく、主語を変えて同じ言葉を言うことによって、深みを増したと見るべきであろう。 《秦大蔵造万里》 〈応神〉段(第152回)【秦氏】項で、 〈姓氏録〉の「秦忌寸:役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側」を見た。 また資料[25]【秦酒公】参照。 〈雄略〉朝に秦氏が大蔵の管理を担う職業部となったことが「秦大蔵造」なる氏族名の由来と思われる。 「万里」の名はここだけ。 《大意》 同じ月、 沙門智通(ちつう)、智達(ちたつ)は、 勅をお受けして新羅の船に乗って大唐国に行き、 無性衆生(むしょうしゅじょう)の義を[於]玄弉(げんしょう)法師の所で受けました。 十月十五日、 紀温湯(きのゆ)に行幸されました。 天皇(すめらみこと)は皇孫建王(たけるのみこ)を思われ、 愴爾(そうじ)悲泣され〔=心を痛め悲しまれ〕、 よって口唱された歌は。 ――山越えて 海(うみ)渡るとも 趣向(おもしろ)き 今城(いまき)の内は 忘らゆましじ【その一】 ――湊の 潮(うしほ)の下り 海(うな)下り 後ろも暮れに 置きてか行かむ【その二】 ――愛(うつく)しき 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ【その三】 秦大蔵造(はたのおおくらのみやつこ)万里(まり)に詔され「この歌を伝え、世に忘れないようにさせよ」と仰りました。 7目次 【四年十一月】 《蘇我赤兄臣語有間皇子》
留守官は、天子が不在の間都を守る役職。 『今昔物語』〔平安末か〕巻九/語第三十五「我レハ此レ王城ノ留守也」を見ると、平安時代にはルスと発音されていたと考えられる。 書紀古訓は、「トドマリマモルツカサ」と倭語で意読している。 ルスは呉音なので、飛鳥時代以前にこの語が入いってきたときから基本的に音読されていたと思われる。 《蘇我赤兄臣》 蘇我赤兄臣は、書紀においてはここが初出。 以後〈天智〉七年に「筑紫率」、十年に「左大臣」。娘常陸娘は〈天智〉の嬪となる。 『公卿補任』には「天智天皇:左大臣 大錦上 蘇我赤兄臣 …大臣馬戸宿祢之孫。雄正子臣之〔"子"が脱落〕也」とある。 系図は、〈皇極〉三年《蘇我倉山田麻呂》項を参照。 《語二有間皇子一曰》 書紀の有間皇子への貶めは甚だしいが、次期天皇の候補として一定の勢力には推されていたと見られる。 山背大兄王に尊敬表現を用いるなら、有間皇子にもある程度用いるのが妥当であろう。 よって、ここでは「曰」をマヲサクと訓む。 《民財》 「民財」には、〈北野本〉、〈内閣文庫本〉、〈兼右本〉とも「民ノ財」とするが、訓を添えていない。 「オホムタカラノタカラ」が自明だから省いたのかも知れないが、タカラを続けることが躊躇されたようにも思える。 《長穿渠水》 渠水は特に邗溝〔春秋呉で掘られた運河と伝わる〕を指す(〈汉典〉)ともいうが、一般的には堀を意味する。 ここでは、二年に穿たれた「自二香山西一至二石上山一」の渠である。 長いことは間違いないから、古訓のように「長」を敢えて「遠く」と読み替える必要はないのではないか。 《吾年始可用兵時矣》 「吾年始可用兵時矣」の可を助動詞〔~べし〕とすると動詞がなくなってしまうので、 形容詞〔よい、適する〕とするのがよいか。 《皇子帰而宿之》 「宿之」とあるから、市経の家は別宅かも知れない。 《物部朴井連鮪》
赤兄は宮殿の造営を担当していて、ここで配下の丁 《市経家》 『五畿内志』大和国平群郡村里に「一分【属邑一】」。 『集解』は「市経家」の分注に「大和志曰」としてこれを収める。 『日本歴史地名大系』は 「鎌倉中期の簡要類聚鈔(京都大学蔵一乗院文書)によると一分は興福寺一乗院領生馬庄で一分と二分に分割相伝した所」と述べる。 だとすれば、一分村を飛鳥時代の地名「市経」の遺称とする説は成り立たない。 興福寺一乗院の建立は天禄元年〔970〕だからである。 『通証』〔谷川士清;1751〕は「地未レ詳」。『大日本地名辞書』には、平群郡一分村や市経家への言及はない。どうやら『集解』が、たまたま大和志から「一分村」の名前を見出したに過ぎないようである。 藤白坂(下述)は皇軍が軍営とした場所だと考えるのが自然だから、包囲した市経家の位置は、それより北側で比較的近い位置であったのではないだろうか。 しかし、その範囲と見られる紀伊国北部や和泉国に市経を思わせる地名は見えない。おそらく完全に失われたのであろう。 《捉二有間皇子…一》
《丹比小沢連国襲》
「絞」は、上から吊るす絞首刑であったと思われる。 《藤白坂》
『大日本地名辞書』によれば、 「今名高浦に合併して内海 『日本歴史地名大系』には 「江戸時代には藤白松という松が藤白王子社の西二町にあり、有間皇子が絞首された所と伝えていた(続風土記)。現在、坂の登り口近くに皇子の墓と伝える五輪石と皇子の歌碑が建つ」とある。 王子は平安時代に熊野古道沿いに置かれた多数の参詣ポイントをいい、藤白王子は九十九王子のうち、特に五体王子と呼ばれる有力な王子のひとつ。 「藤白王子社」は藤白神社と同じ〔和歌山県海南市藤白466〕。 大宝元年〔701〕に〈持統〉上皇が詠んだ藤白は、720年成立の書紀のいう「藤白」と同じ場所であろう。 九十九王子の設置は12~13世紀という。「藤白王子」は現代まで続くから、現代地名の藤白が書紀著者が認識していた「藤白」の地であることは疑いないところである。 《願令右手作国宝器》 〈釈紀〉は「願令右手作国宝器」の「令」を再読文字として、「願はくは、右の手 鯯魚は、私の右手で国の宝となる工芸品を作って貢献したいと言って命乞いしたと読める。きっと優れた腕の持ち主だったからであろう。 『通証』の「蓋善二機巧一者也」もその意味だと思われる。 「右手」は優秀な弟子を指すと読めないこともないが、かなり無理がある。 《上毛野国》 ここで、弥生時代からの独立勢力と見られる毛野について考察する。
その豊城命は、②で〈崇神〉の皇子豊城命が上毛野君と下毛野君の租とされる。 これは、朝廷が地方氏族の服従を得るときに、系図上で始祖との擬制的な血縁関係を設定する流儀によるものである。 ⑤の緑野屯倉の設置は、それに対する中央政権の監視を図るものである。 もともと広域であった「毛野」は、〈安閑〉以前の時点で既に上下に分割されていたと思われる。 このように、毛野には古くから確固とした独立勢力が存在していて、 それは①の魏志倭人伝で「女王国以北」〔実際は以西〕を除く「遠絶不レ可レ得レ詳」の諸国まで遡ると思われる。 そのうち「鬼奴国」が、「毛野」であろう。 これが、遠絶諸国のうち唯一後世との繋がりが分かる例ではないかと思う。 クヰ(鬼)とケ乙(毛)の不一致については、鬼怒川が毛野の川名と言われる。 遠絶諸国のいくつかにつく接尾辞「奴」は、古い国名の「~野」にあたると見られる。「三野」(美濃)、「穂国造」もその類であろうと思われる。 《塩屋連小戈》 『集解』、『国史大系8』のように、 「小戈」を「小代」〔コノシロ〕に作り、鯯魚 《短籍》 ヒネリフミは、吉、凶などを書いた紙をそれぞれ紙撚り(こより)状にして、無作為に選んで占うものと想像される。 古訓者の時代に実際に行われていたのであろう。 動詞ヒネルは万葉には全く見えない。古語辞典が掲げる文例は、平安中期以後である。
短籍の呉音タンジヤクは短冊に直結するから、捻 《牟婁津》 牟婁津のことを『通証』は「即熊野浦」と述べるが、牟婁温湯とは潮岬を挟んだ反対側だからまず考えられない。 『大日本地名辞書』に「牟婁港 なお、現在の田辺湾の港の名称は田辺漁港と文里港であるが、灯台名などには「田辺港…」が冠せられている。 《使如牢圄》 「如牢圄」は難解である。そこでまず「断淡路国使如牢圄」の区切り方を見ると、〈内閣文庫本〉〈釈紀〉は「断二淡路国使一」〔=淡路国の使者が牟婁に来ることを食い止める〕と区切る。 すると使者を投獄するという意味か。しかし、淡路国が遣わした使者を逮捕したからといって、何か意味があるのだろうか。 一方、〈北野本〉は「断二淡路国一」と区切る。 「以二船師一断二淡路国一」とは、友ヶ島海道〔紀伊半島-淡路島間〕を水軍で封鎖して、淡路島経由、あるいは難波津からの皇軍の進軍を食い止めるという意味であろう。 友ヶ島海道を防衛ラインとすることからは、牟婁温湯を孤立させる作戦が見える。 牟婁温湯には現在〈斉明〉が滞在しているから〔皇太子も同行していたことが戊子条からわかる〕、 「使如牢圄」は、温湯宮を包囲して天皇〔と皇太子〕を閉じ込めるという意味であろう。 「使如」は目的語を欠くから、出典の原文「使紀温湯宮如牢圄」があまりに不敬だから紀温湯宮を削除したのだとすれば、解り易い。 〔この段の基調は、有間皇子が赤兄に陥れられたものと描いているからである〕 だとすれば、三年九月条で〈斉明〉に牟婁温湯の魅力を説いた時から既にこの作戦が構想されていたことになる。 同条で「性黠陽狂」、「偽療病」と悪しざまに書かれことが、腑に落ちる。「黠」〔=悪賢い〕とは、まさにこの計画が腹の内にあったことを意味したのである。 ただ「先燔宮室」については、「宮室」が紀温湯宮だとするとその時点で天皇に逃げ出されてしまうので、作戦が成り立たない。 やはりまず飛鳥板蓋宮に放火して、戦いののろしを上げようというのであろう。 《人諫曰》 現代の版本では「或人諫曰」となっているが、「或」を加えたのは〈兼右本〉〔16世紀〕が初めてと見られる。 『集解』〔18世紀末〕は依然として、「或」を加えていない。 《徳》 書紀古訓は徳を一律にイキホヒと訓み、外面的な威力とするが、 実際に書紀で用いられる場面は内面からにじみ出る徳性を表現するときばかりである 〔例えば、「有徳天皇」(〈雄略〉四年)〕。 有間皇子の段においても、「幅広い人の支持を得られるだけの人格的成熟」を意味するから、イキホヒなる訳語は不適切である。 ただ、繰り返しイキホヒと訓むうちに、次第に「内面的な徳性」への脳内変換が起こるようになるのも確かである。それが言語の基本的性質であろう。 それでも、書紀内のみの特殊な言葉ではなく、万葉集など上代文献に通用する一般的な言葉で読むことを、本サイトは目指している。 《判事》 判事は漢籍から裁判官の意味であるが、ここではたまたまその職にあった者が仲間であったということであろう。 あるいは、「判官」(まつりごとひと)と書くべきところを誤ったことも考えられる。 《大意》 十一月三日、 留守官(るすのつかさ)蘇我(そが)の赤兄臣(あかえのおみ)が有間皇子(ありまのみこ)に語るに、 「天皇(すめらみこと)が治める政(まつりごと)には三つの過ちがあります。 どんどん倉庫を建て、民の財を積み集める、これが一つ。 長大な渠水(きょすい)〔=運河〕を掘削して、公粮を損費したこと、これが二つ。 舟に石を載せて運んで積み、丘を作ったこと、これが三つです」と申し上げました。 有間皇子は、 これにより赤兄が自身に好意的だと知り喜び、 答えて 「私は年の始めを兵を用いる時とするのがよい」と仰りました。 五日、 有間皇子は赤兄の家に向かい、楼閣に登って策謀したところ、 夾膝(きょうしつ)〔=脇息〕が自然に折れました。 これに相の不詳を知り〔=よくない兆しだと思い〕、共に誓って取りやめました。 皇子(みこ)は帰って泊まりました。 その夜半、 赤兄は物部朴井連(もののべのえいのむらじ)鮪(しび)を遣わし、造宮丁(みやづくりのよほろ)を率いさせ、 有間皇子のいる市経(いちべ)の家を囲ませました。 そして、駅使を送って天皇(すめらみこと)の所にその旨を奏上しました。 九日、 有間皇子、そして守君(もりのきみ)大石(おおいし)、 坂合部連(さかいべのむらじ)薬(くすし)、塩屋連(しおやのむらじ)鯯魚(このしろ)を捕えて、 紀温湯(きのゆ)に送りました。 舎人(とねり)新田部(にいたべ)の米麻呂(よねまろ)が従いました。 そして皇太子(ひつぎのみこ)親(みづか)ら有間皇子に 「どうして謀反したのか」と問い、 それに対して 「天(あめ)と赤兄だけが知る。私には全く解せない」と答えました。 十一日、 丹比小沢連(たじひのおざわのむらじ)国襲(くにそ)を遣して、 有間皇子を藤白坂で絞首刑に処しました。 この日、 塩屋連(しおやのむらじ)鯯魚(このしろ)と 舎人(とねり)新田部連(にいたべのむらじ)米麻呂(よねまろ)を 藤白坂で斬りました。 塩屋の連鯯魚は、殺されるに臨み、 「願わくば右の手に国の宝器を作らせてください」と申し上げました。 守君(もりのきみ)大石(おおいし)を上毛野国に、 坂合部(さかいべ)の薬(くすし)を尾張国に流しました 【ある出典にいう。 有間皇子、 そして蘇我臣の赤兄、 塩屋連の小戈〔小代(このしろ)〕、 守君の大石、 坂合部連の薬とで、 短冊〔古訓は捻り文とする〕を取って謀反のことを占った。 ある出典にいう。 有間皇子は 「先に宮室を焼き、 五百人を置いて一日二晩牟婁津(むろのつ)を防備し、 素早く水軍を送って淡路国〔方面からの攻撃〕を断ち、 〔紀温湯〕を牢獄の如く〔封鎖〕すれば、事は容易く成ろう」と言った。 人が諫めて言うには、 「よくない。 計略は十分に頷(うなづ)けるが、皇子には徳がない。 まさに今、皇子の年が初めて十九になったばかりで、未だ成人に及ばず、 成人に至りその徳を待つべし」と言った。 他日、 有間皇子と一人の判事が謀反したとき、 皇子の机の脚が故も無く自然に折れた。 それでもその謀は止まず、遂に殺された】。 まとめ 四年四月の阿陪臣遠征の記事は、日本武尊東征伝説を髣髴させる漠然とした書きっぷりで、史実性さえも疑わせるものであった。 ところが七月条では、打って変わって具体的である。 おそらく、都の迎賓施設〔飛鳥寺西であろう〕での行事であったことから、一定の詳しさのある記録が残っていたのであろう。 蝦夷二百余を引率してやって来たのは、沙尼具那などの名前が載っている者であったと考えられる。沙尼具那らは倭語をものにし、境界地域の官署に出仕していた可能性にも触れた。 そして擬制としての郡大領、少領を拝命した。沙尼具那らは実際には渟代以北ではなく、都岐沙羅柵あたりに居住していたのかも知れない。 彼らは、渟代以北からやって来た蝦夷の一団と朝廷との間の仲立ちをしていたと考えられる。馬武、沙尼具那、青蒜が既に冠位を持っていたと見られることが、この推定を裏付ける。 であるなら、沙尼具那らが実際に任地に赴いたかどうかも疑問である。 四年十一月条では、有間皇子は赤兄の誘い水にうかつにも叛意を口にしたことをもって、謀略的に殺されたとするのが本文の流れである。 しかし、「或本」の記述を見ると、皇子は十分に自分の意志をもって謀反を企てている。 実際〈孝徳〉のときから改新詔の強行による諸族の不満はくすぶっていたが、〈斉明〉はそれを是正するどころか逆に浪費を重ねて人民の一層の反発を招く政権であった。 それは、赤兄の言った「三失」によく表れている。 したがって、押坂彦人皇子王朝の傍流にあった有間皇子を推し立てて、後継の座を中大兄皇子から奪おうとする動きは起こって当然である。 有間皇子らの戦略は〈斉明〉を牟婁温湯に誘い出して監禁し、有間皇子への譲位を強要しようとするものであったと読み取れる。 「人諫曰」の内容は「戦略は完璧だが、まだ若年だからじっくりと構えて相応しい能力と人徳を身に付けてからにせよ」というもので、 結果的には的確であった。 さて、〈斉明〉の三歌は、建王を思い出して口号したものと書かれているが、実際には有間皇子滅亡後に悼んで詠んだ歌のように思われてならない。 朝廷転覆の首謀者ではあったが、〈斉明〉の目には周囲の思惑に振り回された被害者に映ったのではないだろうか。 その三首は、2回の「置きてか往かむ」に主語の転換が見られ、単純に見えて技巧がある。書紀歌謡を甘く見てはいけない。 |
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2023.11.22(wed) [26-04] 斉明天皇4 ▼▲ |
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8目次 【四年是歳】 《阿部引田臣比羅夫討肅愼》
「越国」という表記を見る限り、越前、越中、越後に分割されるのはまだ後のことである〔加賀(資料[55])、能登(第110回)は更に後〕。 越国は、現在の福井県から新潟県まで及ぶ広大な国である。北東の境界はぼやけたまま、恐らく蝦夷の地まで含んだ国として規定されている。 出羽国はまだ存在しない※から、越国が国家の果てである。※…和銅五年〔712〕成立(資料[72]【羽前国】)。 この境界がぼやけていることについて『前方後円墳の世界』〔広瀬和夫;岩波文庫2010〕は、 「諸地域からの政策的な移住民、律令国家にしたがわない在地民、律令国家に帰順した在地民が、モザイク状に入り組んで生活し」ていて、 「律令国家の国教はけっして一本のラインではなく…(国境帯)とでもいうべきものだった」と述べる(p.176)。 同書はその根拠を「〔北武蔵地域と共通する〕石室墳と〔続縄文文化の〕木棺直葬墳が併存していた」(同)ことに見出している。 これらは、陸奥国側の北上川上流域の遺跡について述べたものだが、越後国の北東方面でも基本的に同じであろう。 「国司」を初めて定めたのは大化元年八月であった。 この時点では後に律令国で確立した地理区分というよりは、いくつかの郡の範囲を監督する刺史のようなもので、現地では摩擦が絶えず逮捕者への大赦の発令に追い込まれている。 越国司の場合は、既成の郡〔国造〕に加えて、未だ朝廷国家に服さない蝦夷も含まれていたようである。 したがって、蝦夷の同化・制圧は越国司の重要な任務であった。この段では、国守阿倍引田臣比羅夫が自ら蝦夷を越えて粛慎の地域まで足を延ばしている。 《阿部引田臣比羅夫》 〈姓氏家系大辞典〉には「引田 ヒキタ ヒクタ ヒケタ:阿倍引田臣: 阿倍氏の族なれど、…大和国城上郡曳田神社と神名式に見る地より起りしか。 但し越前敦賀郡にも匹田なる地あり。…越国守とあるより思ふに、越国造家の人か」とある。 書紀の平安時代の写本では「河田」だったのは明らかであるが、次第に阿倍に作られるようになったのは、 蝦夷征伐の「阿倍(陪)【闕名】」と同一人物だと解釈されたからだと思われる。 国司には基本的に中央の良家の子弟が任命されたから、河田ではなく阿倍だった可能性は高い。 また、当時東北からことによると北海道まで船団を率いて遠征するようなバイタリティのある人物に、河部と阿倍の二人がいたとはいうのが考えにくいのは確かである。 しかし、だとすると「越国守阿部引田臣比羅夫」という大変明瞭な表記と、「阿倍【闕名】」という曖昧な表記が共存しているのは何故かという問題が残る。 これについてまず考えられるのは、書紀がそれぞれの部分で異なる出典を用いたということである。 だが、前項で見たように蝦夷の制圧は越国司に課せられた責務の柱であって個人的な冒険心で行ったことではないから、「阿倍【闕名】」は比羅夫自身ではなく、同族の者に命じて行わせた可能性もある。 《生羆》 生羆、羆皮と並べば、「生羆」が「生きた羆」を意味するのは明らかである。古訓の「生羆=熊」説は妥当とは言えない。 何よりも、熊ならば畿内でも珍しくないから特に献上することもないであろう。 凶暴なヒグマをどうやって生きたまま連れてきたのかとも思われるが、子ヒグマだったのかも知れない。 〈倭名類聚抄〉では熊と羆は明瞭に区別されている。〈神武紀〉に「熊」が出て来るから、書紀でも両者は峻別されていると見てよい。 熊〔ツキノワグマ〕と羆〔ヒグマ〕の生息域は津軽海峡によって完全に遮断されているので、比羅夫は北海道まで遠征したことになる。 狭い青森県に蝦夷と粛慎の両族がいたとするのも不自然なので、この点からも北海道に行ったと考えるのが妥当であろう。 《粛慎》 粛慎は、蝦夷とは峻別されていたようである。蝦夷との交流は充分可能だが、粛慎相手にはそれほどではなかったと見られる。 それでもヒグマの皮をなめす文化は粛慎のものであろうから、比羅夫は何らかの取引をして手に入れたと思われる。 これ以前に、〈欽明〉五年十二月に「粛慎」が佐渡に漂着した記事が載る。
《オホーツク文化》 アの可能性を探ると、『熊石町史』〔熊石町史編さん委員会;1987〕は、 デジタル版/第三章で 「戦後網走モヨロ貝塚で発見された人骨やその文化によってモヨロ人種と呼ばれる人達であろうという。 この人種は今から1500年位前に突然この地方から宗谷、礼文地方にかけて蟠居した種族で、 現在のアイヌ系の人達とは全く異なった骨格、文化を持っているので、年代的にも合致するこのモヨロ人が粛慎であるといわれている」とあった。 そのモヨロ貝塚の人骨について、 『北の異界 古代オホーツクと氷民文化』〔西秋 良宏 他;東京大学総合研究博物館2002〕 「骨格形態にもとづくオホーツク文化人」〔石田 肇・近藤 修〕において、次のように述べられている。
これで、『後漢書』とモヨロ貝塚出土人骨と比羅夫が献上した羆が、一本の糸で繋がったと言えないだろうか。 《沙門智踰》
指南車は左右の車輪の角速度の差分によって、人形の指先が常に一定の方角を指すように歯車を組み合わせたものである。 現代の自動車の差動装置のしくみに通ずる。但し、長い距離を進めば誤差を生じるので、実際には儀式や祭礼の場に置いて飾るものであろう。実用に用いようとすれば、時々方位磁針または太陽の向きによって向きを調整しなければならない。 指南車のことは、〈釈紀-述義〉に「鬼谷子注曰。周成王時。粛慎氏献白雉。還恐惑。周公作指南車以送之。」とある〔鬼谷子は戦国時代(前403~前221)〕。 周成王と白雉の話が『後漢書』に出て来るのは、「南蛮西南夷列伝」であるが、そこにあるのは粛慎ではなく、越裳である。 『太平御覧』車部-指南車に「鬼谷子曰。肅慎氏献白雉於文王。還、恐迷路。問周公、作指南車以送之。又曰。鄭人之取玉也。必載酥訟之車。為其不惑也。」とあり、これが〈釈紀〉の文に近い。 帰りに路を迷わないように指南車を贈ったというのであれば、南方の越裳朝貢のときの話とした方がよいように思える。 なお、「中国哲学書電子化計画」で『鬼谷子』そのものから検索したところでは、「指南車」も「成王」も出てこない。 ここの「沙門智踰造指南車」が「粛慎」の近くに置かれているのは偶然であろうか。 《北海浜魚》
鱗が針状のハリセンボンはフグ目フグ亜目ハリセンボン科。北海道から九州までの日本海沿岸、東シナ海沿岸、太平洋沿岸に生息するという。体長は20cmほど 〔広島大学デジタル博物館による〕。 生息域として、「出雲国」の「北海浜」に問題はない。 鮐は中国ではフグを指す(次項)が、日本語では同じ漢字を他の生物名に宛てることが珍しくないので、一概に鮐=河豚とは言い切れない。 しかし、ハリセンボンはフグ科に属し、鱗が針状である。一定の体長があれば、鱗が数寸に及ぶ個体もあるかも知れない。 よって、鮐=河豚とすると話の筋は概ね成り立つ。 ただハリセンボンの口がスズメのくちばしと似るかどうかは、観察者の主観による。全体像が似ると見るかどうかも、また見る人次第であろう。 さらに、ハリセンボンが大量発生して海岸に積もるようなことが起こり得るかどうかも不明である。 《鮐》 中国語では鮐は鯸䱌と同じ、〈倭名類聚抄〉で鯸䱌は「フク・フクヘ」である。しかし、この和名は〈時代別上代〉には載らない。 同書は、漢字表記があっても音仮名表記が確認できない語は基本的に掲載していないためと見られる。 上代語であることの確実性に拘るなら、音読み〔タイ〕を用いるしかないであろう。 《鱗》 鱗〔音:リン〕(〈倭名類聚抄〉イロクツ・イロコ)も〈時代別上代〉に載らないが、フグと同様のことが言える。 《或本云…大唐新羅并力伐我》 百済の滅亡は六年七月条以後に書かれることだが、ここではそれに先行して要点を掻い摘んでいる。 その後、国家は唐による攻撃に備えて軍を配置し、山を崩し、川を堰き止めて城柵を築いた。 出雲国の北岸に「雀啄針鱗」の魚の死体が積み上がったのはその兆しであったに違いない。 ――ということを、注釈としてここに書き加えたのである。 《国家》 国家は朝廷が治める国家。倭訳したクニは国造(くにのみやつこ、郡の規模)、律令国にも用いるので、やや曖昧になる。 同義語はクニイヘ(国家)、ヤシマクニ(八洲国)、アシハラノミヅホノクニ(葦原瑞穂国)があるが、ここでは使いづらい。 《以兵士甲卒》 兵士、甲卒は、ともにイクサヒトである。 《陣西北畔》 西北畔は、対馬、壱岐、北九州、山陰だが、瀬戸内海沿岸にも城柵は多い(次項)。 《繕修城柵》 繕修は、新造と修築である。 城、柵はともにキと訓む。「城柵」には数多いニュアンスが感じられる。実際、飛鳥時代に唐による攻撃に備えて設置した城の遺跡は各地にある。 〈天智〉三年「於対馬嶋、壹岐嶋、筑紫国等置防与烽。」六年「築倭国高安城、讚吉国山田郡屋嶋城、対馬国金田城。」。 『日本列島古代山城の軍略と王宮・都城』〔井上和人;2917〕には、 金田城(対馬)、雷山城(肥前)、大野城(筑前)、基肄城(肥前)、高良山城(筑後)、石城山城(周防)、屋嶋城(讃岐)などが挙げられている。 但し、出雲国は空白である。詳しくは〈天智紀〉で見る。 《断塞山川之兆》 「断塞山川」は「断レ山而塞レ川」の意である。 城柵を築けば土砂が海川に流出して、魚類が大量死することもあろう。雀啄針鱗の魚の事件は、その「兆し=予言する現象」であったという。 〈皇極紀〉の辺りから、重大事件の前の奇怪な兆しがしばしば書かれる。 山代皇子が殺される前の猿歌(〈皇極〉三年)しかり、 〈孝徳〉遷都の前の鼠の移動しかりである。 《兆》 「兆」を〈兼右本〉は「兆也」にした。一方『集解』は兼右より後だが「兆」のままである。「也」は文末〔時に主語の後ろ〕に置く語気詞で、しばしば句読点の役割を果たす。 ナリと訓読するが、也は助詞であって繫辞〔英語のbe動詞〕ではない。也の有無にかかわらず、ここの「兆」は動詞である。 「之」は属格の助詞ではなく、目的語を強調するために動詞の前に出すときに置く助詞と見るべきである〔「~を、これ兆す」と訓読する〕。 《西海使》
斉明四年戊午〔658〕は、百済の義慈王十八年、新羅の太宗武烈王五年にあたる。 「百済伐新羅」について、『三国史記』百済本記を見る。
阿曇連頰垂の記事の「四年是歳」は五年の誤りか。 あるいは、新羅本記に「頻」〔=頻繁に〕とあるから、前年までには小さな侵攻があったが書かれていないのかも知れない。 さて、馬は征伐の帰り道に、自ら休むことなく進み続け、寺〔西海使の宿か〕の金堂に至った。 その急いで帰る姿が、庚申年の役の予感であったと感じ取っている。 なお、馬はわき目もふらずに帰ってきたわけだから、「行道」への古訓「メクル」〔=廻る〕は不適切であろう。 《為敵所滅之応》 為敵所滅之応の為は、受け身の文における行為者を示す〔by~に相当〕。 古訓は「敵のために滅ぼされしこたへなり」と訓んだと見られる。 これを声を出して読むと、何となく「為敵所滅」が馬の行動が示した兆しの答のように聞こえるが、 本来は「之」は属格の助詞で、 「馬が急いで帰ったことが、百済が滅亡させられたことの答えである」という文である。 しかし、これでは兆(きざし)と応(こたえ)の関係が逆になってしまう。 《兆》の項で述べたように、「之」には、目的語を強調するために動詞の前に出して「之」を挟む用法がある。 これを用いて「敵の為に滅ぼされしことを応ふ」、 すなわち「馬自行道於寺金堂昼夜勿息」=兆、「為敵所滅」=応と読むべきであろう。 《大意》 この年、 越国守(こしのくにのかみ)阿部(あべ)の引田臣(ひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)は、 肅愼(みしはせ)を討ち、 生きた羆(ひぐま)二頭と、羆の皮七十枚を献上しました。 沙門智踰(ちゆ)は指南車を造りました。 出雲国が言上しました。 ――「北の海浜に魚の死体が積り、 厚さは三尺ほど。 魚の大きさは河豚(ふぐ)に似て、雀のくちばしに針の鱗をもち、 鱗の長さは数寸数寸である。 俗に 『雀が海に入り化して魚となったもので、名は雀魚(すずめうお)』という」 【ある出典に言う。 庚申年〔斉明六年〕七月に至り、 百済が使者を派遣して 「大唐と新羅は合力して我が国を討った。 既に義慈(ぎじ)王と王后、太子を、 虜(とりこ)として連れ去った。」と報告した。 これにより、 国家は兵士甲卒を西北の沿岸に陣を張り、 城柵を繕修して山川を断ち塞ごうとした、その兆しであった。】。 また、西海使の小花下(しょうかげ)阿曇連(あづみのむらじ)頰垂(つらたり)は、 百済から帰還して 「百済が新羅を討って帰った時、 馬は自ら道を寺の金堂まで行き、 昼夜休息することもなく、ただ草を食む時のみ足を止めた。」と復命しました 【ある出典に言う。 庚申年に至り、敵によって滅ぼされたことをその対応とする。】。 9目次 【五年正月~三月】 《吐火羅人共妻舍衞婦人來》
(万)0007 左注に「右検。山上憶良大夫類聚歌林曰。一書戊申年幸比良宮大御歌。但…五年…三月…庚辰日天皇幸近江之平浦」。 即ち、「一書には戊申年〔大化四〕に比良宮に行幸したときに詠まれたとあるが、書紀の〈斉明〉五年の平浦行幸のときの歌かも知れない」と述べる。 万葉集の編者は「平は比良の地である」と認識していたことが分かる。 『大日本地名辞書』には、 「比良:此村は今分裂し、南比良は木戸村に入り、北比良は小松村に入る」、 「枚湖を万葉に見ゆるは平湊と訓むべし、比良明神は白髭社と称し、 小松崎(明神埼)に在り、比良寺は木戸の最勝寺野を参考すべし、比良山は秘密行七高山の随一也」とある。 比良は滋賀郡にあり、現代地名は大津市北小松、南小松、北比良、南比良が見え、比良山がある。 『日本歴史地名大系』〔平凡社;1983〕には「比良牧・比良庄:庄域は現南比良・北比良一帯に比定される」とある。 《吐火羅人》 「妻舎衛婦人」と連れだって朝廷を訪れた吐火羅人は、六年七月の「乾豆波斯達阿」〔カヅハシタツア〕であろう。 《舎衛婦人》 舎衛婦人は、白雉五年に「吐火羅国男二人女二人舎衛女一人、被レ風流二-来于日向一」 と書かれた舎衛女であるのは明白である。その「男二人」のどちらかの妻と見られる。 舎衛婦人は薬に詳しく、貴婦人として遇された(白雉五年【吐火羅国】)。
「甘檮丘の東之 「川上」をカハカミと訓むこともできるが、甘樫丘の東は上流とは言えず、カハノヘ(河辺)という語に同訓の「川上」があてられたのであろう。 それは、(万)0022「河上乃 湯都盤村二 草武左受 かはのへの ゆついはむら〔=神聖な岩群〕に くさむさず」の「河上」が川岸と解されているのと同じである。 甘檮丘東之川上は飛鳥寺西の別表記と考えるのが妥当である。表記が異なるのは書紀が参照した出典が異なるからであろう。 「造二須弥山一」については、三年七月にも「作二須彌山像於飛鳥寺西一」があった。 記述がダブるのは、一つの出来事が両方の出典の中にあったためと見られる。 「川上」への古訓「カハラ」〔河原〕は、そこが飛鳥側の河原の続きと理解されていたことを示す。 流路が堤防で狭く絞られた近代以降の川とは異なり、河原は広かったであろう。この場所にかって存在した外国客接待施設の記憶が、平安時代まで残っていたのではないだろうか。 《陸奧与越蝦夷》 「陸奧与越」の「越」については、前述のようにまだ出羽国は存在せず、蝦夷の広大な土地も「越国」に含まれていると見た。 この項では、この時期の「陸奥国」の範囲を探る。 道奧の初出は〈景行紀〉(13)。これは蝦夷征伐を、日本武尊伝説に遡らせたものである。 次には〈推古紀〉三十五年「陸奥国有レ狢化レ人以歌之」があるが、後世の伝説と見られる。 陸奧に関する実質的な史実としての記述は、〈斉明紀〉が最初と見てよい。 それでは、陸奥国はいつ規定されたのであろうか。 大化元年八月に「拝東国等国司」、 大化二年三月には「使レ治二東方八道一。既而国司之任。六人奉法。二人違令。」とあり、東方八道に国司を定めた。 その「東方八道」の「東方」は、〈景行紀〉(13)で 「碓日嶺。…号二山東諸国一曰二吾嬬〔アヅマ〕国一」で定義される。
そのうち常陸国の成立については、『常陸国風土記』に 「古者…不レ謂二常陸一。唯称二新治筑波茨城那賀久慈多珂国二。各遣二造別一令二検校一。…後至二難波長柄豊前大宮臨軒天皇〔孝徳〕之世一。遣二…〔三名(略)〕一 惣領二自レ坂已レ東之国一。于時我姫〔アヅマ〕之道。分為二八国一。常陸国居二其一一」 〔昔は常陸と言わず、新治・筑波…の国に造(みやつこ)別(わけ)を遣わして検校〔=監督〕した。〈孝徳朝〉に至り、三名を遣わしてすべて領させ、八国に分けた。常陸国はその一つである〕とある。 「新治…」には、『国造本記』の新治国造・筑波国造・茨城国造・仲国造・久自国造・高国造との対応が見える。 『常陸国風土記』は、この六国造を常陸国司の下に置いたのは孝徳朝のこととし、これは〈孝徳紀〉大化元年~二年条に符合する。 よって、陸奥国司を定めたのも〈孝徳朝〉大化元年と考えられる。それでは、その時点で陸奥国の範囲はどこまでだったのであろうか。 常陸国においては『国造本記』と郡が概ね対応するので、陸奥国でも両者の対応を見る(第123回【東海道】参照)。
以後、延喜式ライン〔10世紀〕までの進出は太平洋側では順調である。 これを見ると、なぜ日本海側のみが手こずったのかという問題が浮かび上がる。 《遣阿倍臣【闕名】》 ここでは表記が「阿倍引田比羅夫」ではないので、四年四月「阿陪臣【闕名】…」と同一の出典を用いたと思われる。 「倍」と「陪」があるが、後者が誤写であろう。また、ここでも四年四月条と同じく、漠然と多いことを表す「船師一百八十艘」がある。 《飽田渟代二郡蝦夷》 飽田は、四年四月の「齶田渟代二郡蝦夷」の齶田と同じと見られる。 よって齶田も清音とすべきであろう。 〈釈紀-述義〉は「飽田。渟代。津軽。膽振鉏。肉入籠。問菟。後方羊蹄:兼方案之。皆是蝦夷国之郡号 《胆振鉏》 胆振鉏は、胆(イ)-振(フリ)-鉏(サヘ)と借訓する。 その比定地を求める議論の一端を見る。 『東京地学協会報告(1)』〔1891〕は、 「膽振鉏:原語イブクサンベ」ニテ「イベウクサンベ」ノ急言ナリ」、 「北海道ニ此地名ナシ奥羽ノ二国〔=陸奥、出羽〕モ未ダ地名ヲ聞カズ下野国下津賀郡ニ伊吹山あり…」、 すなわち「息吹」と解釈し、下野国にはあるが東北、北海道には見つからないと述べる。 『苫小牧市史』上巻〔苫小牧市;1975〕は次のように述べる。 ――「河野広道は『苫小牧地方古代史』の中」で、 「阿倍臣の北海道遠征と関係があると認められる遺跡は札幌低地帯西側丘陵にのみ限定」され、 「問菟:竹浦に同名の地名」、「膽振鉏:勇払または江別」、「肉入籠:シシリコツでシコツ即ち千歳附近」、 「後方羊蹄:シリバウシとすれば江別・苫小牧間の何れか」で、 「阿倍臣の遠征地点と推定される地域は、千歳を中心とする江別から苫小牧の間及びその附近に密集している」。 『苫小牧市史』はこの河野広道の推論を紹介した上で、「この中でいう考古学的資料である北海道式古墳はおよそ九世紀の初めころ」で時期が合わず、 「日本書紀に記された古地名を、単に類似しているという理由だけでアイヌ語地名に当てはめようとすること自体に無理がある」と酷評する。 『第日本地名辞書』は「(津軽)北郡佐井村あり」という。 これは《肉入籠》項で述べるように胆振鉏を津軽の北端と見ることに伴うものだが、イブリの部分がない。 胆振鉏の比定地は既に調べ尽くされたと見られるが、依然として決め手はないようである。 《其虜》 「虜」を饗に呼ぶのは奇異に感じられるが、局地戦によって何人か取った虜を、和解して饗を開催した時点で蝦夷に返したという意味であろう。 《大饗賜禄》 「大饗賜禄」は、四年七月の「饗賜贍給有加於常」と同様、大盤振舞したと考えられる。 そこで述べたように、名目上の冊封と引き換えに膨大な回貢を賜る中国の外交政策と同質である。 《祭彼地神》 『類聚名義抄』では、祭の訓は「祭:マツリ」のみである。 現代語で「神をまつる」のマツルに相当する上代語は、イハフ(斎)で、上代のマツルはもともと献上する意である。 よって、「祭神」は、「神にまつる」と訓むべきということになる。 ただ、古訓ではイハフと混同して「神ヲマツル」と訓む。この混同は、多分上代からであろう。 それでもここの「祭」は対格(~ヲ)「以船一隻与五色綵帛」、与格(~ニ)「彼地神」という二重目的語をもつ動詞なので、 もともとの「神に奉納する」意と読むべきであろう。 よって、阿倍臣は蝦夷が信奉する現地の神を重んじ、むしろ積極的に船と五色綵帛を奉納したのである。 なお、ここで船を贈ったことは船の重要性を意味し、蝦夷が北海道在住の蝦夷や粛慎との間で活発な交易を行っていたことを示すと考えられる。 《肉入籠》 肉(シシ)-入([イ]リ)-籠(コ)は借訓だが、選択された文字には沈黙交易※1を連想させるものがある。 ※1…「交易品をそこに並べておくと、〔和人がいない間に〕アイヌがやってきて交換していく」〔『アイヌ学入門』瀬川拓郎;講談社2015〕。 肉入籠の遺称について、次の説を見る。 北秋田市公式/広報たかのす 431号(昭和55〔1980〕/5/1): 「そのシシリコがツヅリコ(綴子)の地であろう。と、「綴子村史」に書いてある」(p.8)。 522号(昭和59〔1984〕2/15): 「佐藤徳治著「郷土夜話、肉入籠」」によると「「綴子」の語源「肉入籠」はアイヌ語の地名で…阿倍比羅夫が渟代の蝦夷をうち米代川をさかのぼって肉入籠まで来た」(p.8)。
その大日本史の記述は次の如くである。 ――『大日本史』(巻二百五十八 神祇/陸奥国/山本郡/官帳不載者)「齶田神社:今在秋田郡、【郡名拠土人説○土人云、今在小繋村、曰七座山天神、為秋田能代綴子三村鎮守神、 按三村即所謂飽田渟代肉入籠之地也、】〔以下〈斉明紀〉から引用〕」 〔国会図書館〕 よって『綴子村史』は『大日本史』に沿ったものになっている。 『大日本地名辞書』の主張は、 「其饗宴の地は、蓋 しかし、「饗」の地は書紀には「一所」とあるのみである。 渟代以北の情勢は未だ不安定だったとすれば〔だから、再征したとも考えられる〕、 比較的政情が安定していた齶田の湊を会場にしたとも考えられる。 また、『大日本史』のいうように、飽田⇒秋田、渟代⇒能代が残るのと同程度に、肉入籠⇒綴子があってもよいだろう。 《問菟》 問(トヒ)-菟(ウ)と借訓する 問菟=塗毗宇の毗は甲類で、問フ(四段)の連用形に合致している。 音仮名毗には清濁両方があるが、〈時代別上代〉は書紀においてはすべて清音と判断している。 トビウと読み倣わされているのは、トヒウでは発音しにくいためと見られる。 しかし、上代のヒは両唇破裂音[pi]で、それなら発音は容易である。「問」という字から見ても清音とすべきであろう。 『大日本地名辞書』は「飛根 《後方羊蹄》
『大日本地名辞書』に「圓覺寺」の項に、『深浦沿革志』からの引用として「後志見 『深浦沿革志 増補』〔海浦義観;1918〕〔国会図書館〕を見ると、 「東浜の錦石と唱へし名物…有間の浜を後人誤りて、東の浜又は吾妻の浜とも」、 「圓覺寺の境内に連接して。西の方に後志見山といふ丘陵あり。 里人の口碑に阿倍比羅夫船師 つまり、円覚寺の隣の丘陵から北海道の後方羊蹄を眺めて日和を見て出帆して、その丘陵を後志見山と呼んでいたのであって、円覚寺の場所がシリヘシというわけではない。 後に「地方の有志」は「後志見山に公園を開き」、「阿倍比羅夫の一大銅像を建て」て顕彰したという。 〔この銅像は現在は存在しないようである。戦時中に供出されたのだろうか。〕 地元では、後方羊蹄は北海道にあると考えられていたようだが、実は日和見山の周辺に後志が存在していたこともある得るのではないだろうか。 それが山の名の謂れであったが、北海道に後方羊蹄があるという固定観念により後付けで伝説が生れたことも考えられる。 仮に綴子=肉入籠で、円覚寺附近〔深浦〕に後方羊蹄があったとすると、渟代、肉入籠、後方羊蹄の位置関係はなかなか現実的である。 阿倍臣は、渟代から内陸に進み、肉入籠で問菟蝦夷に出会った。その地で郡の設置を求めたところ、 胆鹿嶋から「それなら後方羊蹄がよろしいでしょう」と提案された。後方羊蹄の湊が、現在の深浦漁港のところであったとすれば、交易に都合がよい。 さらに想像を発展させれば、そこは蝦夷が北海道の粛慎と交易する湊だったのかも知れない。
羊蹄の現代名はギシギシである。 〈汉典〉「羊蹄(学名:Rumex japonicus Houtt.)是蓼科、酸模属多年生草本植物、茎直立、高可達100釐米 〈倭名類聚抄〉「羊蹄菜:唐韻云菫【和名之布久佐。一云之 『類聚名義抄』「羊蹄菜:シ シフクサ」。 《遂置郡領》 名目上の「郡領」〔大宝元年以前には、実際には評令〕任命と引き換えに、現地の神を許容し大禄を与えることで交渉が成立したのである。 渟代津軽両郡の郡領の任命の記事で郡領の名前や位階まで具体的に書かれているのに比べ、ここでは漠然としている。 「遂置郡領」の「郡」の名前も欠くが、原注と併せれば後方羊蹄郡ということになる。 この辺りの記事が漠然としているのは、この「郡」が渟代津軽に比べても不安定で、ほどなく潰えたことを伺わせる。 《続縄文文化との接触》 『前方後円墳の世界』(前出)は、森ヶ浜遺跡(青森県天間林村)や木戸腋浦遺跡(宮城県大崎市)の出土物を元にして、次のように述べる。 すなわち「続縄文文化にたいする古墳文化からの一方的収奪は認められません。さほどの武力を保持していなかった北上川流域の続縄文文化集団が、 五世紀をつうじて古墳文化と「対等」に交易していたと、見なさざるを得ない」(p.170)、 「七世紀後半以降、あいつぐ城柵の設置など、北東北に対して律令国家は軍事侵略と同化政策で「蝦夷」を支配しはじめます」(p.170)という。 同書は、律令国家側からの圧力に対抗するために生れた「みずからの集団的一体性」(p.175)が、後期古墳の集団墓に表現されていると見る。 この見解は氏の幅広い古墳研究によって明らかにされたものであるが、〈斉明朝〉の阿倍臣派遣の実態は、その見解とよく噛み合っている。 すなわち、〈斉明朝〉当時は律令国家作りが始まったばかりで、蝦夷の自律はまだ尊重されている。 しかし、これから後は次第に律令国家に組み込もうとして圧迫を強めていく。必然的に蝦夷側には民族意識が高まり、しばしば反乱を起こす。 結局律令国家の時代の内に真郡の設置は叶わず、国家の北限は秋田郡から動かぬままで、その状態が鎌倉時代初めまで続いたのである。 《授道奧与越国司位各二階》 「越国司」は、越国守阿部引田臣比羅夫のはずである。 表現が異なるのは、やはり別々の資料によったからであろう。 「位二階」は、これまでの判断では「制冠十九階」の十八階:小花下となる。低すぎるようにも思えるが、判断は保留したい。 「置郡領而帰」の直後に書かれているので、蝦夷征伐の論功行賞であるのは明らかである。 しかし、ここに「陸奥国司」が含まれているのは何故だろうか。 津軽遠征に陸奥国からも兵卒が動員されていたとすればひとまず納得できるが、同じ時期に並行して太平洋側の侵攻も行われていた可能性もある。 《郡領与主政各一階》 文脈からは、「後方羊蹄郡」の郡領と主政である。 その人物は「膽鹿嶋」と「菟穗名」と見るのが妥当か。渟代と津軽の郡領と同様に、既にかなり倭に同化した人物であったことも考えられる(《授二馬武大乙上一》項参照)。 《粛慎虜四十九人》 四年是歳条の最初の部分で書き漏らしたことを、ここで補ったと見られる。 しかし、この原注がここに置かれたのは蝦夷征伐と粛慎征伐が一体と捉えられていたとも言え、 「越国守阿部引田臣比羅夫」=「阿倍臣【闕名】」と考えられていたことの証かも知れない。 《大意》 五年正月三日、 天皇(すめらみこと)は紀温湯(きのゆ)から至り帰られました。 三月一日、 天皇(すめらみこと)は、吉野に行幸して、思いのままに宴なされました。 三日、 天皇は近江(ちかつおうみ)の平浦(ひらのうら)に行幸されました 。 十日、 吐火羅人が、妻舎衛(しやえ)婦人と共に〔朝廷を〕訪れました。 十七日、 甘檮丘(あまかしのおか)の東の川の辺(ほとり)に須弥山(しゅみせん)を造り、 陸奧と越の蝦夷(えみし)を饗されました 。 同じ月、 阿倍臣(あべのおみ)【名を欠く】を遣わし、 船師(ふないくさ)一百八十隻を率いて 蝦夷(えみし)の国を討たせました。 阿倍臣は、飽田(あきた)渟代(ぬしろ)二郡(こおり)の蝦夷(えみし)二百四十一人と その虜三十一人、 津軽の郡(こおり)の蝦夷一百十二人と その虜四人、 胆振鉏(いぶりさへ)の蝦夷二十人を 一か所に選(よ)り集めて、 大饗(おおあえ)して禄を賜りました。 そして、船一隻と五色染めの帛布を、 現地の神に奉納しました。 肉入籠(ししりこ)に至った時、 問菟(とひう)の蝦夷である胆鹿嶋(いかしま)、 菟穗名(うほな)の二人が進み出て、 「後方羊蹄(しりへし)を政所とするべきです」と言いました 【政所は、蝦夷の郡(こおり)か】。 胆鹿嶋(いかしま)等の語るまま、遂に郡領(こおりのみやつこ)を設置して帰りました。 道奧(みちのく)と越(こし)の国司に、位各二階を、 郡領(こおりのみやつこ)と主政(まつりごとひと)には各一階を授けました。 【ある出典にいう。 阿倍引田臣(あべのひきたのおみ)比羅夫(ひらふ)は、 粛慎(みしはせ)と戦って帰り、 虜四十九人を献上した。】 まとめ 胆振鉏(イブリサヘ)以北が北海道だとする説については、裏付ける材料は皆無で全く雲をつかむものである。 それに比べれば、秋田~青森県内とする方がまだ若干の裏付けがある。 また、五年の蝦夷征伐については、未だ情勢が不安定であったから四年と同じ地域に再征したと考えるのが妥当であろう。 飽田・渟代・津軽は決して真郡ではなく、本質は相手の自律性を認めた上での友好の確立であって、「郡領〔評領〕」は実利と交換の名目に過ぎない。 それを端的に示すのが、「祭二彼地神一」である。 阿倍臣の五年の遠征は、確立した三郡を足場にして北海道進出ではなく、三郡の「郡領」が「反対勢力に手を焼いています」と訴えたことによる再征と見るのが自然であろう。 そもそも鎌倉時代になってやっと津軽四郡の設置に漕ぎつけたという史実を見れば、〈斉明朝〉における蝦夷地域への郡の設置は全くの空想に見える。 しかし、丹念に記述内容を拾い、遺跡に残る墓制やアイヌと和人との交流の歴史を併せて見ると、阿倍臣の遠征と友好の確立自体は荒唐無稽ではない。 確かに律令国家を確立しようとする時代で、その流れの中で阿倍臣は派遣された。結果的には、朝貢外交レベルの関係成立に留まったということである。 その後国家は直接支配を試みたが、反発を食らって真郡の設置は遠のくばかりであった。 なお、阿倍比羅夫が北海道まで足を伸ばしたこと自体は認めてもよいだろう。それは、遺跡の骨から粛慎と見られる族が北海道にいたことと、 何よりも「羆」による。その点、古訓で「生羆」をクマと訓んだのは情けないことである。 |
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⇒ [26-05] 斉明天皇(3) |
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