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2023.09.24(sun) [26-01] 斉明天皇1 ▼▲ |
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1目次 【即位前】 天豐財重日足姬天皇(重祚)〔齊明〕天豐財重日足姬天皇、初適於橘豐日天皇之孫……〔続き〕 2目次 【元年】 《卽天皇位於飛鳥板蓋宮》
〈孝徳紀〉では即位に至る経緯がきめ細かく書かれたが、ここでは宝皇女の重祚(〈皇極〉→皇祖母尊→〈斉明〉)に決定された経過が全く書かれていないのは不思議である。 時を〈皇極〉が譲位した頃に戻すと、蘇我蝦夷たちに深く依存する体制であったから、蝦夷らの没落に際して天皇の連帯責任が問われたのは当然である。 だが、〈孝徳〉中大兄皇子とともに三者連帯して政を担うことを盟約した。 これは宝皇女自身の粘り、あるいは中大兄皇子の同族意識によって、辛うじて権力の一角に留まったものであろう。 それから十一年、〈孝徳〉の崩によって、宝皇女は天皇に返り咲いた。 中大兄〔後の〈天智〉〕は、自ら難波京で即位する道ではなく、宝皇女の御世への復古を選んだようである。 天皇の後継争いについては、書紀は隠すことなく書くのが一般的だが、ここではその駆け引きを書かない。 ただ〈孝徳〉の晩年に中大兄が宝皇女ととともに難波京から去ったことが書かれた。そこから敷衍して、中大兄が宝皇女を推し立てたことを読み取れということかも知れない。 中大兄が難波京に見切りをつけた理由としては、急進的な改新詔に対する諸族の反発が大きすぎたことが考えられる。 白雉改元の動機は大赦の理由付けにあると見たが、相変わらず反発はくすぶり続けていたのであろう。 ただ中大兄は、改新詔の現実化をあきらめたわけではない。〈天智天皇〉となった九年には遂に庚午年籍を完成している。 律令国家への歩みは、ペースダウンに過ぎない。難波京は廃されずに副都として存続し、〈天武朝〉では改めて条坊を整備して陣容を整えた。 ただし、宝皇女が重祚して〈斉明〉となった後は、特殊な宗教に入れ込んで宗教施設の建造に熱中し(「好興事」)、別の形で人民の反発をかったようである。 中大兄は、それをどのような思いで見ていたのであろうか。 《空中有乗龍者》 ここに「空中有乗龍者」段を置いた意味は、どこにあるのだろうか。それを探る論文を探したところ、 『斉明天皇に祟る「鬼」・『書紀』の方法についての覚書』柳町時敏〔明治大学文芸研究会;2009〕が見つかった。 同論文は、「蘇我氏の亡霊への仄めかしが窺い見られ」、 「青い油笠を着て、「怨霊龍」に乗り、「葛城嶺」から「胆駒山」まで馳せ、隠れた「鬼」は、蘇我蝦夷か入鹿か」と述べる。 なお、『扶桑略記』は蘇我蝦夷の霊とする(下述)。 同論文は結語において「『書紀』〔主に推古紀、皇極紀、斉明紀〕にあっての天変地異や異常現象などの怪奇への言及」には「巧妙な歴史批判の仕掛けが隠されていたと考える」という。 葛城の地を蘇我氏に結びつける材料としては、推古三十二年で蘇我馬戸が語った「葛城県者、元臣之本居也」などがある。 しかし、「乗竜者」は単に蘇我蝦夷(または入鹿)の亡霊であろうか。 前項で見たように、〈斉明〉に向けられた人民の不満は隠すことなく描かれている。 かつて人民の怨嗟の的となった〈雄略天皇〉については、目前に現れた事代主神に感化されて「有徳天皇」になった話が載る(〈雄略紀〉四年)。 〔その舞台もまた、葛城山である。〕 事代主神は、〈雄略〉の残虐を何とかしてほしいという、人民の願いが神の姿に結実したものであった。「乗竜者」も人民の意を受けて、〈斉明〉への警告として現れたのではないだろうか。 ただし、「空中有乗龍者」段を書紀が白紙から創作したとは考えにくく、 地域、あるいは住吉大社に纏わる伝説を書紀が取り入れたのであろう。これを採用したこと自体に、一定の意図があったということである。 《従於》 従於〔前置詞+前置詞〕は不自然である。 漢籍に「従於」は確かにあり、「楚昭王失國。屠羊説※走而從於昭王」〔荘子;譲王〕などが見えるが、「従」は動詞、「於」は前置詞〔with〕であるから問題ない。 ※…屠羊は羊の屠殺業。説は人名。楚の昭王が国を失ったとき、ともに逃げた。 『扶桑略記』(下述)では「従」の代わりに同じ意味の「自」を用い、於はない。〈集解〉も於を省いている。 於は衍字と見るべきか。 《住吉松嶺》 住吉大社の近くに、嶺というほどの山はないから、「住吉松嶺」とあるのは理解に苦しむ。 他の文献ではどうなっているかを探ってみると、「空中有乗龍者」の類話が『住吉大社神代記』に見つかった。
内容については、葛城嶺・胆駒山を駆け巡る書紀の話を基にして、播磨国に置かれた三か所の社領・荘園の神話的起源を語るもので、木に竹を繋いだ如くになっている。 しかし書記の「松嶺」は無視されているので、少なくとも『住吉大社神代記』成立時には存在しなかった山であろう。 せいぜい住吉大社周辺の、松の繁る小高い丘か。 一方〈集解〉は「松嶺」から嶺を省き、割注でその理由として「皇円略記」には嶺の字はなく、おそらく「葛城嶺」につられて「松」にも嶺がついてしまったのだろうと述べる(原文:↑)。 「皇円略記」とは『扶桑略記』〔皇円著〕のことである。その該当部分を見る。
『住吉大社神代記』と『扶桑略記』をもって、松嶺問題には決着が着いたと言ってよい。 想像だが「従於」「松嶺」は書紀が参照した古文献にあった言葉で、書紀は敢えてそのまま写したのではないだろうか。 《難波朝》 「難波朝」の「饗」の記事からは、難波長柄豊碕宮が引き続き首都施設として機能していたことが分かる。 難波の副都機能は平安遷都直前まで維持される(資料[19])。 《設百済調使》 百済からの調使は大人数でやってきた。遣唐使に多数の学問僧、学生が随行したのと同様かと思われる。 ここでは北蝦夷、東蝦夷と並べて書かれていることから、蝦夷を半島の国と同程度の外地とする観念があったことが伺われる。 《柵養蝦夷》 柵養蝦夷なる名称は、渟足柵(大化三年是歳(2))と関係があろう。 越後国の蝦夷であるから、「柵養」は北蝦夷(越の蝦夷)に賜った称号であろう。 もともとカフの意味は家畜の飼育だが、ここでは柵(き)に付随する農地で奴婢として働かせたことに由来すると推定される。奴婢は家畜に等しいということである。 ここで饗(みあへ)に招待された北蝦夷(越の蝦夷)、東蝦夷(陸奥の蝦夷)は大和政権に友好的な部族であろう。 周囲には相変わらず服属しない族もいるし、また今は友好的でも何かのきっかけで反抗に転ずることもあろう。 《津刈蝦夷》
〈倭名類聚抄〉の{陸奥国}・{出羽国}の郡名・郷名にツガルは見えないから、平安時代になっても国内にツガルと名付けられた地域はまだなかった。 〈斉明紀〉の「津苅」は陸奥の先の地の果てを漠然と指すもので、むしろ「東(陸奥)蝦夷」が賜った称号の意味合いが強いと感じられる。 行基図では、「津軽大里」が陸奥の北に書かれている。 行基図として伝わるのは写本のみで、現存する最古は室町時代のものという。 これを見ると陸奥国以北の描き方は漠然としたもので、行基図が成立した当時に「津軽」の正確な位置が定まっていたと言えるものではない(図左)。 〈長谷川74〉は、「(平安時代までに)王朝国家乃至公家政権が、本来的に津軽郡を陸奥国に設置したということではなかろう。 それ故、鎌倉時代の各文書のあらわれる津軽の郡は、津軽三・四郡、 津軽平賀郡、津軽山辺郡であったりして一定せず、…津軽郡の正式な郡立ては最終的になかったものと理解される」と述べる(p.20)。 9・10世紀においては「青森県全域は未だ辺外の地、蝦夷の村として同国家の行政区に最終的には確定されずに終わった」 「津軽四郡等の郡号は文書に散見しても、孰れも公式のものではなく、津軽の地名は蝦夷の語と不離のものとして、…和歌の世界に定着」(p.25)、 すなわち特定の場所と言うよりは文芸的な概念であったとする。 ただし、その後の〈長谷川00〉になると、 「延久北奥蝦夷合戦〔1070〕…の成果として」、「古代国家がついに達成できなかった、北奥の郡郷制の施行」を挙げる。 この地域は「出羽に属してしかるべき地域」だが、「不自然な人為的郡郷ができあがったのは」、 「海路ではなく、南からの陸上交通路ぞいに平定が推進されたからである」、こうして「本州北端までの蝦夷の地が一気に内陸化」した〔=陸奥国の一部になった〕」という(pp.79~80)。 津軽四郡について〈長谷川74〉の執筆当時に比べて、郡名の確実性が強まったようである(図右)。 それでも平安時代中期までは、ツガルは陸奥国の彼方を漠然と指したのは明らかである。 ツガルの語源は「津より離(か)る」で、陸奥国から太平洋側を、または越後国から日本海側を海路で行く遠隔地の意だと想像される。 《自大唐還》
小墾田の新宮殿については、「宮闕」という語から唐風の大宮殿を計画したことが伺われる。 注目されるのは「瓦覆」とされることで、これまで宮殿に瓦葺きが用いられたことはなかった。 大寺院の金堂のような荘厳な姿を目指したのだろう。 しかし、広い山、深い谷に良材を求めても朽ち果てたものばかりだったので、結局あきらめたと書かれる。 しかし、大寺院は問題なく次々と建造されている。 仏教界は独自の良材の調達手段〔伐採と運搬〕をもっていたと思われるが、それを朝廷に提供することを拒んだのだろう。 朝廷はやむを得ず自力で木材を調達しようとして、うまくいかなかったようである。 仏教建築のノウハウをもつ技術者も提供されなかったと思われる。 仏教界は〈推古天皇〉への崇敬が篤く、由緒ある小墾田宮の建て替えに難色を示したことのかも知れない。 新しい宮は結局飛鳥板蓋宮の跡地にこれまで通りの掘立て柱様式で建てられた。 瓦葺宮殿の登場は、〈持統〉の藤原宮を待たねばならない。 「飛鳥時代にも宮殿を瓦葺にしようとする計画はあったのですが、実現はしませんでした。宮殿を瓦葺としたのは、藤原宮が初めて」だという (橿原市公式/初めての瓦葺の宮殿)。 《弗作》 否定の副詞に不ではなく「弗」を使ったのは、天皇の行為だからであろうか。〈仁徳紀〉にはそれが見えた(元年)。 《災飛鳥板蓋宮》 「災」は火災である。 朝廷の火災であることを慮って、火を忌み言葉としたのであろう。この形の初出は「災岡本宮」(〈舒明〉八年)であった。 古訓「ヒツケリ」は身もふたもなく、天皇への過剰なほどの尊敬表現とは著しくバランスを欠いている。 「災」は人民の反発による放火と考えられ、〈斉明〉の評判は何かと芳しくない。 《遷居飛鳥川原宮》 川原寺の遺跡の下層に、川原宮跡と見られる遺構が検出されている(白雉四年六月【川原寺】項)。 《蝦夷・隼人》 蝦夷・隼人からの献上物は、税ではなく「朝献」と表現されている。 この段でも高麗・百済・新羅による進調と並べて書かれ、蝦夷や隼人(大隅、薩摩)との関係は対周辺国並みである。 《新羅別為質》 百済高麗連合に対抗して、新羅による倭に対する外交的働きかけも活発である(下述)。 《大意》 元年春正月三日、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)は、 飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)で天皇(すめらみこと)に即位されました。 五月一日、 空中に龍に乗る人が現れました。 風貌は唐の人に似て、青い油絹笠(あぶらきぬかさ)をかぶり、 葛城の嶺より馳せて胆駒山に隠れました。 午(うま)時になり、住吉(すみのえ)の松嶺(まつがみね)の上から西に向って飛び去りました。 七月十一日、 難波の朝廷〔難波長柄豊碕宮〕で 北【北は越(こし)である】の蝦夷(えみし)九十九人、 東【東は陸奧である】の蝦夷(えみし)九十五人を饗されました。 併せて百済の調使一百五十人に〔饗を〕設(もう)けられました。 よって、柵養蝦夷(きこうえみし)九人、 津苅蝦夷(つかるえみし)六人にそれぞれ冠二階を授けられました。 八月一日、 河辺臣(かわべのおみ)麻呂(まろ)等は、唐から帰還しました。 十月十二日、 小墾田(おはりた)に宮闕(きゅうけつ)を起工して 瓦葺きにしょうとされ、 そして深い山広い谷に、 宮殿を造ろうとした木材には朽ちて腐ったものが多く、遂に中止して作られませんでした。 同じ冬、 飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)に火災があり、 よって飛鳥川原宮(あすかのかわはらのみや)に遷居されました。 この年、 高麗、百済、新羅は揃って遣使進調しました 【百済の大使は西部(さいほう)達率(たつそつ)余宜受(よさず)、 副使は東部(とうほう)恩率(おんそつ)調信仁(ちょうしんに)、 凡そ百人余】。 蝦夷(えみし)、隼人(はやひと)は衆を率いて内属し、宮闕に詣でて朝献しました。 新羅は、別に及飧弥武(きゅうさんみぶ)を質として、 十二を工人と〔して献上〕しました。 弥武(みぶ)は、疾病に遭い死にました。 この年は、太歳乙卯(きのとう)でした。 3目次 【二年】 《高麗遣達沙等進調》
白雉五年《奉観天子》項で見たように、 『新唐書』には高麗と百済は連合して新羅に対抗したと描かれている。 八月に高麗から使者が訪れ、反新羅の百済高麗連合に、倭が味方するように誘ったと思われる。 直後の九月に高麗に遣使〔使者の帰国に同行か〕したのを見ると倭は肯定的で、 東アジア情勢についての綿密な協議が行われたと見られる。 一方、新羅側による倭を味方につけようとする働きかけも積極的であったことを、金春秋派遣のところで見た(大化三年是歳)。 〈斉明〉元年にも、質が送られた(上述)。ただし、その質弥武が倭で病死したとわざわざ書かれているところに、新羅には好意的でなかったことが伺われる。 《大使》
判官は、四等官制の第三位で、マツリコトヒトと訓まれる。官名に冠せられた大・小については〈倭名類聚抄〉ではオホイ、スナイと訓まれるが、平安時代の音便である。 大の古訓「オホキ」は、平安時代になっても音便以前の形が併用されていたことが伺われる。 スナシは、スクナシの交替形または訛りと思われるが、諸辞書に於いてスナシについての積極的な説明を見ない。 《為張紺幕於此宮地》 この時点では岡本宮跡は更地になっており、そこに「紺幕」で囲んだ会場を設営して饗を行うという残念な形になった。 ここで問題になるのは、「為張紺幕於此宮地」の爲の訓読である。古訓では「爲」に名詞タメをあて、因果関係を示す接続詞〔「故」、「所以」、「因」の類〕として扱っている。 爲には多様な用法があるが、文頭に置かれた形では動詞または前置詞〔次の文字以下を目的語にとる〕か、単独で接続詞、副詞がある。 「汉典」には文頭の接続詞として若(もし)、或(あるいは)にあたる用法を挙げるが、順接の接続詞は見えない。副詞としては将(まさに~せむ)の用法を挙げる。 ただ「国際電脳漢字及異体字知識庫」では、用法の一つに「表示連接関係:相当「則」、「就」」を挙げ、これなら古訓「タメニ」に該当する。 「爲」の通常の用法では、「張紺幕於此宮地」なる状態を「ツクル」と訓読することになり、これは可能である。 「将」の意とするなら「~トセムトス」となり、「不本意だがやむを得ず」という気持ちが漂う。 「国際電脳…」のいう「則」(スナハチ)もなくはないだろうが、この用法はかなり珍しく、書紀でも他に見えないから躊躇される。 《後飛鳥岡本宮》 「後ノ飛鳥岡本宮」は、明日香村大字岡で調査された「飛鳥宮跡」のⅢA期にあたることが確定的である (資料[54])。
最初に①「於田身嶺冠周垣」と書かれ、次の段に②「宮東山累石為垣」と書かれる。 ①②の垣は、同じものを指すのだろうか。 まず、「嶺冠周垣」という表現は、酒船石遺跡(次項)の外周の石積みに合致している。 また、「宮東山」の「宮」は後岡本宮と考えられ、かつ酒船石遺跡の位置は、後岡本宮の東と言い得る。 よって①=②と考えてよいだろう。表現が異なることについては、ここで用いた複数の出典で、それぞれ異なる表現が用いられていたためであろう。 問題は、この「田身嶺」が談山神社で有名な多武峯とかなり隔たっていることである 〔多武峯はトウノムネと読まれるが、もともとのタムが訛ったと考えられる〕。 酒船石遺跡は、多武峯から続く嶺の端にあり、かつてはその嶺全体がタムと呼ばれていたと考えることが可能ではある。 あるいは、別説の伝承が紛れ込んでいたことも考えられる。 《両槻宮/石上山石》 1992年以後、酒船石の丘陵を巡る四重の石垣が検出され、その全体が「酒船石遺跡」と呼ばれるようになった。 この石列が「於田身嶺冠周垣」だと見る説が有力である。 「石上山石」については、石上神宮の北の豊田山の「黄色砂岩」が酒船石遺跡に用いられたと推定されている。 さらに、運河跡と見られる「飛鳥東垣内遺跡」、「奥山久米寺西方」の遺跡は、狂心渠の一部をなす可能性がある。 両槻宮(天宮)跡は見つかっていないが、「周垣」で囲まれた範囲の中心施設として存在していたことが想定される (以上資料[54])。 「観」〔たかどの〕と表現されるから、そこに上って飛鳥の地を観望したのだろう。 《香山》 「香山」の書紀古訓はカゴヤマであるが、万葉集には香具山、香来山、芳来山と表記され、カグヤマに統一されている。〈斉明紀〉と同じ香山の表記もある。 現在アマノカグヤマと呼ばれるのは、万葉集の絶対的な影響力によるものであろう。 カゴヤマについは、『天孫本記』に「香語山」が見える(資料[39])。 万葉集については、おそらく編者の大伴家持が統一したもので、 芳来山の表記から見て、形容詞カグハシに通ずる方を選んだと想像される。 《順流》 渠の実際の水流の向きは、「順流」の訓読に影響を及ぼす。もし実際には逆流ならば「流」を川を意味する言葉として読まなければならない。 国土地理院地図で標高を見ると、天香久山の北西の藤原宮跡付近は75m、布留川付近は約72mとなっている。 狂心渠が仮に中ツ道沿いとすると、大和川と交わる蔵堂のあたりは59mだから、「石上山」からそこまでの区間については「順流」が成り立つ。 しかし、大和川との交点以南では逆流だと思われる。 《狂心渠》 石上山と見られる豊田山から酒船石遺跡までは、直線距離で15.6kmに及ぶ。この渠に「功夫三万余」を費やしたとされる。 〈推古〉十五年で、 「池・溝・堤の土木工事の記述は垂仁・応神・仁徳・推古に集中しており、これらの天皇の偉大性の表現として用いた側面があろう」 と見たが、〈斉明紀〉では真逆である。 〈仁徳天皇〉らの工事は農業生産力向上に資する偉大な業績であったが、〈斉明紀〉では天皇個人の嗜好のために人民に負担を強いるだけのものとして非難される。
もし、寺川が狂心渠だとすると、下ツ道と重なる部分の水流は北向きであって、「順流」に反する。 また、寺川と下ツ道との合流点までの、石上山〔豊田累層に比定〕からの運搬経路はかなり遠回りである。 よって寺川=狂心渠説には疑問が残る。 ただ、同書は「米川・寺川の直線的開墾」(p.462)などと述べるように、河川の直線区間はもともと人工水路で条里整地割の元になったとする。この考えは傾聴に値する。 寺川水路に沿って下ツ道ができたのだから、中ツ道に沿う水路も存在したかも知れないのである。 むしろこの方が、石上山と坂舟石遺跡を結ぶ経路として合理的である。 右図は、中ツ道跡を反映すると見られる用水路である。 直接的には中ツ道の側溝部分に由来すると思われるが、それより古い時代の渠の名残が水路を造り易い地形にしていることも考えられる。 中ツ道に沿う渠の跡が発見される日が、いつか来るかも知れない。 《山椒埋矣》 山椒は山頂の意。椒の古訓はスヱ(末)。祝詞六月晦大祓の「国津神波高山之末短山末尓上坐弖。」〔国つ神高き山の末短き山の末に上りまして〕で、山頂をヤマノスヱと呼ぶ例がある。 山椒埋矣は、山頂まですっかり土砂で埋まってしまったという意味であろう。 《若拠未成之時作此謗乎》 「若拠未成之時作此謗乎〔もしかして、完成する前にこの謗りをしたのかも〕という註が載るということは、実際には石垣は完成したのである。 建設途上においては、石を積んでは崩れる難工事であったのでこのように謗られたと読みたい。 古訓では「隨作自破」を「作るままに自づから破(こほ)れむ」と未来形で訓むので「積んだはなから崩れよ」と呪詛したと受け止めたようである。
〈応神〉十二年《吉野宮》項、 〈允恭九年〉【河内茅渟】項、 第204回【阿岐豆野】項。 壬申の乱紀では、大海皇子(〈天武〉)が吉野宮に雌伏した(第11回)。 《西海使》 「西海使」が遣唐使に限定されるなら、元年八月に帰国した河辺臣麻呂の一行のうち、一部が百済に留まっていたしていたことになる。 ただ、百済使も西海使と呼ばれたとすれば、元年七月に「饗百済調使一百五十人」、元年是歳に「百済遣使進調」の記事があり、 一行が帰国するときに「西海使」が同行した可能性もある。
鸚鵡〔オウム〕の献上は、大化三年の新羅による献上以来である。 《災岡本宮》 岡本宮が元年に火災に遭ったことがここにも紛れ込んで、重複して書かれたのかも知れない。 そうではなく、実際に後岡本宮が焼けたとすれば、今回は「遷仮宮」の記事がないから部分火災に留まったのだろう。 前宮焼失の教訓から、万全の防火体制をとったことが功を奏したのかも知れない。宮殿の防火対策の具体例としては、 〈皇極〉三年に「毎レ門、置二盛レ水舟一木鉤數十一、以備二火災一」とある。 《大意》 二年八月八日、 高句麗の達沙(たつさ)たちを派遣して進調しました 【大使達沙、 副使伊利之(いりし)、 総員八十一名】。 九月、 高句麗に 大使膳臣(かしわでのおみ)葉積(はずみ)、 副使坂合部連(さかいべのおみ)磐鍬(いわすき)、 大判官(おおいまつりごとひと)犬上君(いぬがみのきみ)白麻呂(しろまろ)、 中判官(なかのまつりごとひと)河内書(かわちのふみ)の首(おびと)【名前不明】、 小判官(すないまつりごとひと)大蔵衣縫造(おおくらのきぬぬいのみやつこ)麻呂(まろ)を遣わしました。 この年、 飛鳥の岡本を再び宮の地と定めました。 たまたま、高句麗、百済、新羅がそろって遣使進調し、 この宮の地に紺の幕を張って饗(みあえ)をなされました。 遂に宮室が建ち、天皇は移られました。 名付けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)といいます。 田身嶺(たむのみね)に冠して垣を廻らしました 。 また嶺の上の二本の槻(つき)の木のほとりに楼観を建てて、 両槻宮(ふたつきのみや)と名付け、別名は天宮(あまつみや)といいます。 時に工事を興すことを好まれ、 水工に渠(みぞ)を掘らせて、香久山の西から石上(いそのかみ)の山に至りました。 舟二百隻に石上の山の石を積載して流れに沿って引っぱり、 宮の東の山に石を重ねて垣を造りました。 当時の人はこれを謗(そし)って「狂心渠(たぶれこころのみぞ)に、 費した功夫は三万以上だぜ。 費した垣(かき)造りの功夫は七万以上だぜ。 宮の材は腐ったぜ。 山頂まで埋れたぜ」と言いました。 また謗りをして「石を積んだ山の丘は、積んでも積んでも自ら壊れる」と言いました 【若しや未だ完成しない時であることによって、この謗りをなしたか】。 また、吉野の宮を作られました。 西海使(さいかいし)佐伯連(さへきのむらじ)𣑥繩(たくなわ)【位の階級は不明】、 小山下(しょうせんげ)難波吉士(なにわのきし)国勝(くにかつ)等は、 百済から帰還し、鸚鵡(おうむ)一羽を献上しました。 岡本の宮に火災がありました。 まとめ 〈孝徳紀〉は改新詔を中心とした現実的な記述となっていたが、〈斉明紀〉になると一転して神秘のベールで包まれた話が現れる。 場所不明の「松嶺」が出てきたり、「田身嶺」と「宮東山」の呼び名が不統一なところに、伝承ゆえの曖昧さが見える。 こと「乗竜者」は空想の産物であるが、一方田身嶺に冠する周垣については酒舟石遺跡の石列発見により俄然現実的になった。 狂心渠跡と見られる遺跡も発掘されている。三年には須弥山像の記事が出て来る。その像とみられるものが見つかり、須弥山石と呼ばれている。 どうもこの時代には不思議な宗教が広まり〈斉明天皇〉自身も関わっていて、それが「古道」と呼ばれたようだ。 その宗教は、西域から伝来したとも考えられる(孝徳天皇17まとめ)。そして吐火羅国は、西域の国であった可能性が高まっている。 これについては、〈斉明紀〉を読み進む中で引き続き検討する。 〈斉明紀〉ではさらに、蝦夷との交流が具体的に描かれる場面が増え、これもテーマのひとつである。 なお、晩年には百済滅亡という大事件が起こる。 |
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2023.10.26(thu) [26-02] 斉明天皇2 ▼▲ |
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4目次 【三年】 《覩貨邏國男二人女四人》
「覩貨邏国」〔トクワラ〕が吐火羅国(白雉五年四月【吐火羅国】)の別表記であることは明らかである。 男女六人が筑紫に到着すると直ちに朝廷に報告され、朝廷は折り返し直ちに使者を送り、召すように指示された。その報告と指示の両方に駅使が用いられたのであろう。 このように迅速な対応がなされたのは、白雉五年に渡来した吐火羅人〔特に舎衛女〕に貴人の風格があり、再び渡来があれば丁寧に扱う用意があったからではないかと思われる。 「海見」(奄美)、「筑紫」に「漂泊」したと表現されるが、実際には確立されていた遣唐南島路を用いて倭国を目指してやって来たのであろう。 また、「飛鳥寺西」には外国人を饗して接待する施設があったことが読み取れる。 《漂泊于筑紫》 「漂泊于筑紫」の津は、博多湾沿岸と思われる。 この地については、訶志比宮(香椎宮)(第138回)、 「糟屋屯倉」(〈継体〉二十二年)、「那津之口官家」(〈宣化〉元年)、 「娜大津」(〈斉明〉七年)「改此名曰長津」、 鴻臚館、 「大宰博多津」(〈続記〉天平宝字八年〔764〕)が見える。 三韓、唐への出航地である。 《海見嶋》 〈天武〉十一年七月条「多祢人掖玖人阿麻弥人」は種子島、屋久島、奄美大島を指すと見られる。 「阿麻弥」は、現在の奄美大島、あるいはその周辺の島嶼であろう。遣唐南島道の経由地(白雉四年七月)としてよく知られていて、 書紀古訓の時代にも「阿麻弥=海見」と認識されていたと思われる。 筑紫に「漂泊」したと書かれるが、海見嶋から再び漂流して偶然辿り着いたとは考えにくく、 実際には倭国の筑紫-奄美間の通行船によって先導されたのではないだろうか。 なお、吐噶喇列島は奄美大島に近いから「海見嶋」のうちで、吐火羅人が幾度も漂着したことによってこの呼び名が生れたのではという思いは消えない〔但し噶=カ、火=クヮで発音が異なる〕。 《須彌山像》 須彌山像については、〈斉明〉五年に「甘檮丘東之川上、造二須弥山一而饗二陸奧与越蝦夷一」、 六年五月に「於石上池辺作二須彌山一、高如二廟塔一、以饗二肅愼卅七人一」も見える。 ここでは須弥山像を「飛鳥寺西」に作って盂蘭盆会を開催したという。 暮れて覩貨邏人を饗したのも、同じ場所であろう。 この飛鳥寺西では仏教行事が開催され、また外国使節の接待所として使われたと見られる。 須弥山像や石人像(後述)は、その庭園内の噴水設備であったと考えられている。詳しくは【飛鳥寺西の須弥山石】項で述べる。 《盂蘭瓮》 盂蘭盆は、もともと盂蘭盆経にもとづく仏教行事である。 盂蘭盆経の中心的な部分は次のようになっている。
目犍連は釈迦の弟子。盂蘭盆経は、西晋の竺法護訳とされるが、 梵語の原典はなく、中国で作られた偽経ともいわれている。 確かに盂蘭盆経は衆僧への供養は盛大であるほどよいと露骨に求めていて、品がない。 そこには民衆が行っていた一般的な祖先供養を、盛大な仏教行事に転化させようとする意図が感じられる。 それを考えると、やはり教団が実利を得るがための偽経ではないかという疑いは拭えない。 《暮饗覩貨邏》 「饗二覩貨邏一」は、筑紫に漂泊した覩貨邏人を大切な客人として接待したことを示す。 白雉五年に渡来した舎衛女らも、ともに参加したのではないかと思われる。 「暮」も、七月辛丑に行われたと読める。 日中「盂蘭瓮会」を開催し、同じ会場で日が暮れてから覩貨邏人の饗を行ったわけである。 「盂蘭瓮会」には覩貨邏人も列席していて、終了後に残して饗を行ったと解釈するのが自然であろう。 《或本云墮羅人》 墮羅缽底国は現在のタイの地域にあった。 「或本云墮羅人」という原注をもって、「吐火羅国」は墮羅缽底国の別名であるとの説が生まれたのかも知れない。 しかし、吐火羅国がアフガニスタン北部のアム川上流の国であったことは確定している (【吐火羅国】)。 「或本云」とは、吐火羅国人とは別に墮羅缽底国人が飛鳥寺西の迎賓施設で饗されたことを書いたものであろう。 唐は西域との交流も盛んで、貨邏人や墮羅人を含め、幅広い地域から人が来ていたと思われる。 そして彼らが倭の学問僧などと知り合ったことが、倭国に渡来したきっかけとするのが考えやすい。 渡航路は、遣唐使の航路を用いたと見るのが現実的である。 《有間皇子性黠陽狂》 有間皇子は〈孝徳〉の皇子であるから、次代の天皇になり得る立場である。 母は阿倍倉梯麻呂大臣の女、小足媛(大化元年)。 押坂彦人大兄皇子の血の濃い中大兄(〈天智〉)に比べると、阿倍倉梯麻呂系の血が半分入った有間皇子は血統的に不利だったようである。 それにしても、性(ひととなり)が「黠」(悪賢い)、「陽」(欺く)、「狂」(たぶる)とはひどい書かれようである。 なお、黠の古訓は「サトシ」であるが、これは厩戸皇子のサトミミ(聡耳)のようにとてもよい意味である。 上代語のサトシを悪い意味に使うのは疑問である。カダマシ(心が曲がっている)の方が適当ではないだろうか。 《牟婁温湯》
白浜温泉については、 白浜町公式/崎の湯:「白浜が温泉地として世に知られるようになったのは、今から約1400年前の飛鳥・奈良朝の頃で、その走りが「崎の湯」です。 その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、「日本書紀」や「万葉集」にも記されています。」と言われる。 その嶋の湯の位置は、牟婁郡に含まれる(右図)。 〈持統天皇(上皇)〉の牟婁温湯行幸の事実は書紀には直接書かれないが、万葉集から確認できる。詳細は別項【紀温泉】を立てて考察する。 《偽療病》 わざわざ「偽療病」と書き、有間皇子を貶めている。 冷静に考えれば、仮に病気でなくとも健康増進のために温泉に出かけることは非難されるべきことではない。 《使々於新羅》
だとすれば、新羅がそれを断ったのは当然である。 《欲将沙門智達…》 古訓は「将沙門智達」の将を「ヒキヰテ」と訓む。だとすれば別の人物が率いていったことになるが、それは誰であろうか。その名前は記されていない。 その後、交渉が不調に終わると「沙門智達等帰還」と書かれる。つまり、新羅に派遣された使者は智達たちのことである。 つまり、「使二使於新羅一」の「使」は沙門智達等自身のことで、他の人は登場しない。 沙門智達自身が「欲将沙門智達…」と言うことがあるのかと思われるかも知れないが、これは持参した詔書に書かれた言葉で、それを読み上げただけのことであろう。 「将」は動詞「ヒキヰル」ではなく、副詞〔マサニ~セントスと訓む〕で、倭の朝廷の意志を示す言葉である。 《不肯聴送》 「不肯聴送」の肯と聴とは同じ意味。諸辞書に熟語としては載らないが、〈中国哲学書電子化計画〉を見ると「肯聴」の用例はかなり多い。 「不レ肯レ聴」の現代語としての訓読は、「ゆるすことをがえんじず」となろう。〈釈紀〉の「カヘムセス」は、現代語の「ガエンゼズ」である。 《西海使》 二年に続いて、三年にも西海使帰国の記事がある。 二年《西海使》と同様、遣唐使の一部が帰国の途中に百済に留まっていた(ア)とも、 あるいは百済への遣使が頻繁であった(イ)とも考え得る。 今回はラクダ一頭、ロバ二頭が新羅からの献上品だとすれば、新羅との関係が緊迫したことに伴う贈り物攻勢かも知れない。 ただ、ラクダの原産地は西域で、シルクロードを行き来する隊商の運搬手段であった。 遣唐使が西安に滞在していたとき、仲良くなった西域の人からプレゼントされたラクダを連れ帰ったのだとすれば、 飛鳥時代の倭と西域との交流の一つのケースとなる。その場合、西海使は前記アということになる。
改めて、同じく百済から二年に帰った西海使が献上した「鸚鵡一隻」についても検討する。 オウムの現代の生息域は、オーストラリアから東南アジアである。 墮羅缽底国は東南アジアのど真ん中であった(白雉五年)。 実は鸚鵡の入手の経緯も駱駝と同じ図式で、唐で出会った墮羅缽底国人から手に入れたと考えることが可能である。 実は、どちらも西海使が百済から帰って献上したと書いてあるだけで、百済国が献上したとは書いていない。 西海使は遣唐使で、とりわけ新羅道※を用いた場合の呼び名ではないだろうか。 ※…〈斉明〉六年(百済の滅亡)までは百済道と称すべきである。 《白狐》 吉兆の朝廷への報告はしばしばあり、今回の「白狐」もその一つである。 白雉の捕獲は改元のきっかけになったが、今回は元号にはならなかった。 後に白亀は元号〔神亀〕になっている。狐では無理ということか。 あるいは、〈斉明朝〉では元号そのものをやめ、それは性急な唐風化にブレーキをかけたためとも考えられる。 《大意》 三年七月三日、 覩貨邏(とから)の国の男二人女四人が 筑紫(つくし)に漂泊し、 「私どもは、最初は海見(あまみ)〔奄美〕嶋に漂泊しました。」と言いました。 そこで、駅使を送り召しました。 十五日、 須弥山(しゆみせん)像を飛鳥寺の西に作り、 且つ盂蘭盆会(うらぼんえ)を設けました。 暮れて覩貨邏(とから)の人に饗されました 【ある書には、墮羅(だら)の人ともいいます】。 九月、 有間皇子(ありまのみこ)は、性格が悪賢く欺き狂っている云々といいます。 牟婁(むろ)の湯に出かけ、病を療養していたと偽って帰り、 その地のさまを褒めて 「少しその地を見ただけで、病は自ずから解消して云々」と申し上げました。 天皇(すめらみこと)は、お聴きになり喜ばれ、行って御覧になりたいと思われました。 この年には、 使者を新羅に遣わして 「沙門(さもん)智達(ちたつ)、 間人連(はしひとのむらじ)御廐(みむまや)、 依網連(よさみのむらじ)稚子(わくご)らに、 あなたの国の使者を添えて大唐に送らせようと欲す」と宣(のたま)いました。 新羅(しらき)は、使者を送ることを肯定しませんでした。 これにより、沙門智達らは帰国しました。 西海使(さいかいし)小花下(しょうかげ)阿曇連(あずみのむらじ)頰垂(つらたり)、 小山下(しょうせんげ)津臣(つのおみ)傴僂(くつま) は、 百済から帰還し、 駱駝(らくだ)一頭、驢馬(ろば)二頭を献上しました。 石見(いわみ)の国は「白い狐を見ました」と言上しました。 【飛鳥寺西の須弥山石】 《須弥山像》
「須弥山石」(清永洋平;奈文研ニュースNo.18〔奈良文化財研究所2005〕)によると、 「文様と内部構造から、現状の下から第1石と第2石の間にも同様の石があったことを想定でき、 これらを積み上げると高さ3.4mほどに復原できます。石の内側はくりぬかれており、第1石の下面に穿たれた細い円孔から、 サイホンの原理により内部に水をため、第1石の側面ケ所の穴から噴き出させる噴水施設と考えられ」るもので、 「明治35年〔1902〕に飛鳥寺の北西の水田(現石神遺跡)で発見された」という。 その翌年に、同じ場所から石人像が発見された。 「石人像」(西山和宏;奈文研ニュースNo.17〔奈良文化財研究所2005〕)によると、 「明治36年〔1903〕に、飛鳥寺(安居院)の北西の水田(現在の石神遺跡)から出土」、 「現在は欠損している男性のもつ盃と女性の口には、像の底からつながる直径約2cmの孔が開けられ」、「おそらくは噴水として用いられた」という。 石人像についてe国宝は、 「高さ1.7mの台座に腰かける翁と老女」の像で、 「翁の踝(くるぶし)付近から口元まで小孔が貫通するが、胸元で分岐し、1つは老女の口元で開口」していて、 「足元にひかれた水は、2人の口元へと導かれ、噴水としての機能をはたした」、 「2人とも下がり気味の大きな目と鈎鼻が特徴的であり、西域の人を彷彿とさせ」、 「この西域の人を写した石像に、7世紀代の東西の交流をみることができる」と述べる。 須弥山像と石人像の発見された位置は、石神遺跡の南端で、飛鳥寺域の北西角に近い。 《石神遺跡》 『飛鳥・藤原宮発掘調査概報15』〔奈良国立文化財研究所1985〕は、 第4次調査の「まとめ」(p.67)で、「七世紀半ばをやや降る時期」において、 「饗宴地区と推定」される区域には「石敷を伴う井戸を中心に大規模な建物を配置している」、 この饗宴地区は「7世紀中ごろから藤原宮期にかかけて、ほぼ連続して利用」されていたと述べる。 『石神遺跡の調査-石神遺跡第18次現地説明会資料』〔奈良文化財研究所2006〕は、 「(第18次)調査区周辺は7世紀以前は沼地」で「A期〔7世紀前葉~中葉〕に整地」、 「南北溝1」には「岸の一部に石組や杭列といった護岸施設が残っていました。 B期〔天武朝〕に機能したと考えます」と述べる。 『飛鳥・藤原地域における文化遺産の特質』〔相原嘉之;2008〕によると、 石神遺跡は「斉明朝・天武朝・藤原京期」に区分され、そのうち 「最も整備されたのは斉明朝の時期…南北約180mの範囲で掘立て柱大垣によって区画され」、 「南の水落遺跡からの銅管や木樋がこの地下に巡らされ」、 「噴水石造物である須弥山石や石人像」に「接続していたものかもしれない」、 そして、「斉明紀にある饗宴施設と推定され…支配体制や東アジアの交流を示す」と考えられているという(p.10)。
《飛鳥寺西方遺跡》 「飛鳥寺西方遺跡の調査」長谷川透(『明日香村発掘調査報告会2012』明日香村教育委員会)は、 「1区の北側で検出した石敷遺構」は「15~25cm大の石を 敷き詰めたもので、縁辺は直線と曲線からなり、平面形は不整形となる」、 「石敷きの周囲全体に敷かれた砂利敷」は「3~10cm大の小石や砂利を敷きつめ」たもので、 「西門の正面一帯は砂利敷や石敷などで広範囲にわたって整備されていたことが明らかになった。 このような石敷や砂利敷がいわゆる〔皇極天皇紀の〕「槻樹の広場」に相当する石敷であると考えられる」という。 この石敷き広場は、〈皇極〉三年「偶預二中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶一」なる逸話の場所と考えられる。 また、〈皇極〉四年には「天皇皇祖母尊皇太子於大槻樹之下召二集群臣一盟」、 すなわち群臣の面前で〈孝徳〉、退位した〈皇極〉、中大兄皇子三者の盟約を行った。その「大槻樹之下」も石敷き広場であるのは明らかである。 ことによると、石敷きの中央の「穴」は大槻樹を抜き取った跡かも知れない。 この広場は、時々人々を集めて行事が行われたようである。その公的な広場から北に広がって国家行事や外国人接待の会場〔石神遺跡〕に発展したと考えることができる。 【紀温泉】 《湯崎温泉碑》 牟婁温泉について、『大日本地名辞書』は次のように述べる(抜粋)。なお、現代文への翻訳を添える。
しかし、〈持統上皇〉が〈文武天皇〉に同行したことは、万葉集を組み合わせることによって、はじめて明らかになる。 《持統上皇の行幸》 〈続記〉では、大宝元年十月に天皇〔文武〕が「武漏温泉」を訪れたと書くが、太上天皇と二人で行ったとは書いていない。 一方、(万)1667の題詞に「大宝元年辛丑冬十月太上天皇〔持統〕大行天皇〔文武〕幸紀伊国時歌十三首 〔紀伊国に幸(いでま)しし時の歌十三首〕」とある。 このように題詞には二人で行幸したと書いてあるが、その十三首に武漏温泉のことを直接詠んだ歌はなく、単に紀伊国紀行に伴う歌である。 また題詞では「御製歌」ではなく単に「歌」なので、すべて同行者が詠んだ歌である。 つまり、続日本紀の記事と万葉集題詞の内容とを組み合わせることによって、はじめて太上天皇(〈持統〉)と〈文武天皇〉が連れ立って「紀伊国武漏温泉」を訪れたということができる。 《斉明天皇の行幸》 一方、ずばり「紀温泉」の文字が二首の題詞に見え、これらは〈斉明天皇〉の行幸を指すと見られる。 ●(万)0009 題詞「幸于紀温泉之時額田王作歌」。 ●(万)0010 題詞「中皇命徃于紀温泉之時御歌」。 0010の左注では動詞が「幸」ではなく「往」だから、天皇ではない。 それでは、題詞の中の「中皇命」は誰を指すのであろうか。 万葉集に「中皇命」は、もう一か所ある。 ●(万)0003 題詞「天皇遊獲内野之時中皇命使間人連老献歌」〔天皇が内野で狩りをしたときに間人連老に命じて献上させた歌〕。 0003の歌の書き出しは「八隅知之 我大王乃 やすみしし わがおほきみの」であるから、作者の中皇命は皇后であった可能性が高い。 その「天皇」については、ひとつ前の(万)0002の題詞に、「高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇〔舒明;在位629~641〕」とある。 また「間人連老」は白雉五年〔655〕の遣唐使に判官として加わった人物だから、時期から見て0003の「天皇」は〈舒明〉と見てよいだろう。 〈舒明〉の皇后は宝皇女だから、「中皇命=宝皇女=〈皇極〉=〈斉明〉」ということになる。 すると、中皇命の「徃」は「幸」ではないから〈皇極〉即位前となる。しかし、実際に「紀温湯」に初めて出かけたのは〈斉明〉重祚の後である。これは困ったことになった。 しかし、そもそも万葉集は既に存在した多数の歌を蒐集したものである。 「中皇命徃于紀温泉之時御歌」は原典資料の段階で三首に付けられた説明かも知れない。その説明は、即位後に詠んだ歌でも宝姫当時と変わらぬ親近感のままで書かれたものだとしたらどうであろうか。 一方、0012に次の左注がある。 ●(万)0012 左注「右検山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云々」 〔右を検(かむがふ)に山上憶良大夫の『類聚歌林』に曰はく「天皇御製歌云々」〕 これは、0010~0012の三首全体への左注と考えることができる。 万葉集の編者は、原典資料にあった「往」字を含む解説をそのまま題詞として収め、そこに左注「天皇御製歌」を書き加えることによってカバーしたのではないだろうか。こう考えれば辻褄が合う。 0009も、0010の一つ前だから、斉明天皇の紀温泉行幸シリーズに含まれるかも知れない。 額田王は、一般に生年630年頃、没年690年頃と推定されているので、〈斉明〉四年〔658〕の幸紀温湯に同行したとしても不都合はない。 以上から、0009題詞の「幸」の主語は〈斉明天皇〉といってよいだろう。また、0010題詞の「中皇命」も〈斉明天皇〉で、その皇后時代の呼び名を使ったものと考えることができる。 5目次 【四年正月~五月】 《阿陪臣率船師伐蝦夷》
ここでは「阿陪臣【闕名】」とするが、四年是歳条で「討二肅愼一」した「越国守阿部引田臣比羅夫」と同一人物とする見方がある。 五年三月にも「阿倍臣【闕名】」が再び「蝦夷国」を討つから、同一人物とすると随分忙しいことである。 《船師一百八十艘》 「一百八十」は漠然と数の多いことを示す。〈推古〉二十八年の「臣連伴造国造百八十部」と同様であろう。 《望怖乞降》 望の古訓オセリは、書紀古訓のみに見られる。 〈神代下〉巻では、天から地上を見下ろす意味で使われているが、ここでは沖に現れた船団を遠望する文脈で使われている。 〈推古〉三十一年即年「船師満海多至。両国〔=新羅・任那〕使人望瞻之愕然」の「望」のオセルは、〈斉明紀〉と同じ使い方である。 その例も含め、仮に上代語にオセルがあったとしても、普通のノゾムで充分であろう。 船団を見ただけで、あるいはやって来たと聞いただけで怖気づいて服従すると書くのは、定型的な表現である。これまでにも、次の例がある。 ●〈景行十二年〉「神夏磯媛…聆天皇〔景行〕之使者至、…素幡樹于船舳、参向」。 ●〈景行四十年〉日本武尊是歳条 「蝦夷賊首…遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝」、 「蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸」、「俘其首帥而令從身也」。 これらはま伝承資料に頼る部分だが、史実性が高まった〈斉明三年〉においてもなお、古い時代の書き方が用いられる。 すなわち「望怖乞降」は、定型句による修辞と見るべきであろう。 なお、越後国側〔日本海側〕の朝廷勢力の進出は、常陸国側〔太平洋側〕の年代より相当遅い年代のようである。 常陸国側の進出は伝説の時代まで遡る(【常陸国側の進出】項で概略を見る)。 《齶田郡》 出羽柵の秋田郡への移築は、天平五年〔733〕。城柵の設置のために竪穴住居を埋めた跡から、土器が検出されている。 その土器の年代が8世紀前半であること、〈続紀〉に「秋田村高清水岡」とあることから、移築された出羽柵は秋田城の位置と見てよいであろう。詳細は【出羽柵/秋田城】項にまとめる。 事務処理に使用された漆紙文書の日付と内容から、出羽柵移築のはじめから政庁機能があったと見られるという。 しかし、宝亀六年〔775〕の時点でも蝦夷の動きが不穏であり、兵力の増強や国府の〔秋田城からの〕移転を要請している。 元慶二年〔878〕には、また蝦夷が乱を起こす。 木簡によって8世紀に蝦夷への饗料が支払われていたこと確認できるが、〈延喜式〉の928年になっても秋田郡が出羽国の北限である(資料[72])。 708年に越後国に出羽郡を設置して以来、日本海沿いに統治範囲を拡大し、秋田郡に出羽柵を移したのが733年である。 書紀成立の720年の時点では、出羽柵は飽海郡または河辺郡であろう。その位置が当時の出羽国の北端で、よって秋田(齶田)地域はまだ郡になっていない。 書紀は、まだ郡になっていない地域を「郡」と称しているのである。 蝦夷の首魁恩荷は服従することを約束した。それをもって当時の蝦夷の土地が朝廷の支配下に入ったと見做して、 「郡」の表記を宛て、その首長を「郡領」と称して任命する形に描いたのであろう。 しかし、実態は部族が方物〔=特産物〕を献上し、その見返りとして饗、禄を賜る関係である。友好関係ではあっても、国内の郡の設置とは言えない。 むしろ、三韓との外交関係、また〈天武紀〉十一年における隼人、多禰人、掖玖人、阿麻彌人らとの関係の類である。 そもそも「郡」は、大宝元年以前の「評」を書紀が遡って書き換えたものであるから、仮に齶田郡が存在したとすれば「齶田評」のはずである。 実際に評と称された可能性もなくはないが、書紀の段階において比喩的に「郡」、「郡領」と表現したと見るのが妥当であろう。 ただ、四年七月には「渟代郡大領」に蝦夷と虜の戸口の検覈を命じた〔すなわち、国内郡としての行政〕と書かれるから、なお検討を要する。 《齶田》 〈倭名類聚抄〉は{秋田【阿伊太有城企治】}とあり、アキは音便となっている。齶田の古訓アイタも平安中期の訓みによると見られる。 音便となる前の形は、『正倉院文書』の「阿支太〔アキ甲タ〕城」に見える 〔「丸部足人解」(天平宝字四年〔760〕三月十九日)の文中に「以阿支太城米綱丁[辶+罷]入由此米不持参上」〕。 同じ〈斉明紀〉五年条には「飽田渟代二郡蝦夷」とあり、齶田の別表記「飽田」が存在する。 飽田はアクタの可能性もあるが、どちらにしても間違いなく清音である。飽くの連用形はアキ甲で、秋もアキ甲である。 よって、基本はアキ甲タだが、時に話者の癖あるいは聞き手の耳によって濁音ギ甲になることがあったと見るべきか。 《齶田浦》 齶田浦は、現在の秋田港の位置かも知れない。 『大日本地名辞書』は、 「齶田浦は、後世其地をつたへず。蓋、男鹿島の地歟、恩荷男鹿音相近し」〔但し恩荷(オカ)男鹿(ヲカ)である〕と述べ、 「擬説」〔候補〕として、①秋田河口の土崎港。②男鹿島の北浦または南浦。③八郎潟の率浦郷(大河村三倉埼)を挙げる。
〈延喜式〉に載る郡は秋田郡が最北で、その北の桧山郡(江戸時代に山本郡に改称)の成立は中世以後である。 現代の能代市は、渟代の遺称と考えられている。能代市公式ページ/能代市のプロフィールには、 「斉明4年、阿倍比羅夫が渟代(ぬしろ:能代の古名)に来航した」、 「1400年代後半、安東氏が檜山城を築き、戦国大名として県北一帯に勢力を築く」と記す。 《不為官軍故持弓矢》 「不為官軍故持弓矢…」は、弓矢は官軍と戦うための武器でなく、狩猟して食肉を得るために所持するものだという。 古訓は「故」にユを付し、「持」を未然形モタラとして返り点によって「不」に繋いでいる。 ここでは、名詞故を理由・根拠の意味で用いている。 《性食肉》 翌五年七月三日条には、遣唐使が蝦夷を伴って「天子」〔=唐皇帝〕と面会した様が載る。 天子は蝦夷の人にいたく興味を持ったようで、「其国〔=蝦夷の国〕有二五穀一?」と尋ね、 それに「無レ之。食レ肉存活」と答えている。この「性〔質〕食肉」はその生活を紹介したものと言える。 《津軽郡》 〈斉明〉元年の《津刈蝦夷》項で見たように、津軽は陸奥の先の地域を漠然と指す名称であった。 渟代郡の北ではあろう。 《小乙上》 恩荷がいきなり小乙上を授かるのは不自然である。この問題については、四年七月の沙尼具那らの授位のところで改めて考察する。 《郡領》 「定渟代津軽二郡郡領」を普通に読めば、恩荷を両郡の郡領にしたことになる。 しかし、四年七月条には、渟代津軽両郡の大領及び小領として別の名前が出て来る。 両者の関係はどうなっているのだろうか。 「二郡郡礼領」を、郡領を束ねる上位の役職とすれば一応筋は通るが、このように階層的な官制が確立していたとは思えない。 《齶田郡》の項で述べたように、蝦夷の族のオビトまたはミヤツコを、書紀の段階で「郡領」に作ったのであろう。 《有間浜》
五所川原市公式ページ/十三湊遺跡によると、 「十三湊遺跡は13世紀初めに成立し、15世紀後半に急速に衰退するまで、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと、北日本における日本海交通の拠点港として発展、繁栄」したという。 なお、『五所川原市の地名』〔五所川原市;2015〕によると、「江流末郡」はの『津軽郡中名字』〔天文年間;1532~34〕 に載るが、写本を重ねたもので「中世史料に所見がないなど、その存在が疑問視されている」(pp.24~25)という。 《渡嶋》 〈続紀〉には、次の箇所に渡嶋が見える。
この渡嶋が地名だったとすれば、どこであろうか。 『大日本地名辞書』は、 「渡島は、津軽と共に、古の越国の部属なるべきことは、記紀の古典に依りて之を悟るべし。 殊に、出羽国を置かれし後は、其部内たり〔=その管轄下であった〕」、 「神代紀一書に越洲とあるも、越度島とあるにて、其同一なるを見る」、「持統十年紀(越度島)」などと述べる。 確かに伊邪那岐と伊邪那美の島生みの話には、越を一つの島として数えたものがある。 第35回では 「興味を引くのは、越が秋津島〔大和国を含む島〕と別の島扱いされていることである。本説と一書(1)(6)(8)が該当する。地続だと認識されていなかったとは、とても思えないので、越は独立性が高い地域だったのであろう」と見た。 このように『大日本地名辞書』は、「渡島」をピンポイントの地名というより、古くは越洲、後には出羽国〔和銅五年〔712〕に越後国を分離して成立〕の別名と見ている。 確かに、渡島は何らかの出来事があった土地の名称としては現れず、種族名としての「渡嶋蝦夷」、「渡嶋蝦狄」の綴りの一部分として現れるのみである。 それでも「渡島は越〔出羽国分離前は福井県から青森県まで〕の別名」説は言い過ぎであろう。 漠然とした広域名ではあろうが、津軽より遠方、もしくは津軽を含む一帯であろう。 なお、北海道の渡島(おしま)国は、旧松前藩の地域をもって1869年に一時的に設置された国である。その漢字表記「渡島」は、渡島=北海道の地名説に由来するものと思われる。 《帰》 「而帰」は、阿倍臣が任務を終えて戻ったとも読めるが、カヘルには還を使うことが多く、「帰」は主に外国人の帰化に用いられる。 ここでは主語を蝦夷として「帰順」〔相手の支配下に降る〕と読むことも考えられるが、 五年三月是月条では、明らかに阿倍臣が蝦夷国を討って「帰る」意味で使われている。 《大意》 四年正月十三日、 左大臣(ひだりのおおまえつきみ)巨勢(こせ)の徳太(とくた)の臣(おみ)が薨(こう)じました。 四月、 阿陪臣(あべのおみ)【名を欠く】は 船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を征伐しました。 齶田(あきた、あぎた)と渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷は望み見て怖れて降ることを乞いました。 そのとき、齶田の浦に勒軍陳船し〔=軍船を並べ〕ました。 齶田の蝦夷恩荷(おか)は進み出て誓って申し上げました。 ――「官軍に手向かうためには弓矢を持たず、 ただわたくし共は肉食の習慣の故に持ちます。 もし官軍のために、弓失を用意するなら、 必ず齶田の浦の神の知る所となりましょう。 清白なる心をもって朝(みかど)に仕官いたします。」 よって恩荷(おか)に授ける官位を小乙(しょうおつ)上として、 渟代(ぬしろ)津軽(つがる)二郡の郡領(ぐんれい)に定めました。 遂には有間(ありま)の浜に、 渡嶋(わたりのしま)の蝦夷(えみし)等を召し集めて盛大に饗(あえ)して、〔征伐を終えて〕帰りました。 《皇孫建王年八歲薨》
皇孫は高皇産霊(たかみむすび)神の子孫、即ち代々の天皇の家系を指す。特に、天降りした瓊瓊杵尊を指すこともある。 これらは、スメミマと訓む。 しかし、この段の「皇孫」は〈斉明〉個人の孫を指す。よって古訓はスメミマではなく、「皇孫=ミマゴ」と訓んだと考えられる。「皇子=ミコ」の延長線上であろう。 《皇孫建王》
〈天智紀〉に「建皇子。唖不能語」とある。〈天智〉は〈斉明〉の子だから、建皇子は孫である。 しかし、「唖不能語」と〈斉明紀〉の「以有順而器重之」〔順う心があり天皇はその才を認めた〕と両立するかどうかは微妙である。 そこで、ひとまず両者は別人としてみる。 〈天智天皇〉は「推古二十二年〔614〕降誕」、〈天武天皇〉「推古三十一年〔623〕誕生」。 建王が生まれた年には、〈天智〉三十五歳、〈天武〉二十六歳。 漢皇子はもっと年上のはずであるが、その血筋では皇太子になるのは難しい。やはり皇太子になり得る子に期待をかけていたはずである。 間人皇女の子も考えられるが、〈孝徳〉との間に生まれた夭折した皇子が書かれなかった可能性はある。 〈孝徳〉以外の子なら、血筋から皇太子になることは難しい。 〈天武〉の子であったが、夭折したから書かれなかったかも知れない。 〈天智〉の子建皇子を一度は退けたが、〈斉明紀〉では建王が〈斉明〉によくなつき、可愛がっていた様子を美辞を用いて書いただけだとすれば、 やはり「建皇子」と同一と考えるべきか。 《歌意》
娜尼の古訓「タチ〔立ち〕」は、無理である。 クモダニモは「雲でさえも」。シルクシのシは、詩文で用いられる副助詞。 シルシ〔形〕は、はっきりしたさまを表す。「屢」はルであるが、婁はル・ロ甲に使われるから、「屢」もロ甲で、シロ甲シ=「白し」かも知れない。 「雲だにも白く」の方が自然であるが、ひとまずシルクと訓んでおく。あるいは、ここのシルシは白色の意味かも知れない。 「何か歎かむ」は反語のようにも見えるが、それでは嘆くことを否定する意味となり、場面に合わない。「何かと歎いてしまうであろう」であろう。
共通部分をもつ万葉歌がある。 ――(万)3874「所射鹿乎 認河邊之 和草 身若可倍尓 佐宿之兒等波母 いゆししを つなぐかはへの にこぐさの みのわかかへに さねしこらはも」。 ワカカヘは若かりしとき、サネシコは寝た娘と解されている。 ツナグは、追跡の意と見られる。 〈時代別上代〉に「栃木県安曇郡では獣の足跡を求めて追うことをトツナギという」とある。〈釈紀〉も「謂レ尋也」というから、鎌倉時代にはこの意味で理解されていた。 認をツナクと訓むことについては、 『類聚名義抄』(法上帖)に「認:トム キタル オモフ ツナク モトム シルシ サクル モロ\/ タツヌ」とある。 シシは食肉となる獣で、猪や鹿を指す。古解が鹿とするのは、上記の万葉歌によるものか。 〈釈紀〉は、「射ゆ鹿」を夭折した武王への譬えとするが、万葉歌と共通する「所射鹿乎認河辺之和草(之)」は、「若い」を引き出す歌枕であろう。 アガモハナクニは、万葉に三例(3482,3588,3775)ある。 三例とも「けしきこころを あがもはなくに」となってていて、 「あなたに長く合わなくても、怪しき心を起こして他の女性に心を移すことはありません」という歌である。 つまりアガモハナクニは、「私の心ではありません」である※)。 しかし、「夭折を惜しむ心はない」では意味が逆になってしまう。 そこで、完了の助詞キに注目すると、「若くありき」は、もう過去のこととして心の整理がついた後に発する言葉である。 そんな言葉は口にしません、すなわちいつまでも悲しみが癒えることはありませんと言うのであれば、ひとまず納得できる。 ※)…現代語では「思わない」〔未然形+否定の形容詞〕という言い方をするが、古語にはない。 ガは属格の助詞、ハは係助詞で、モ〔オモのオが母音融合によって消失〕は思フの語幹が名詞として使われたのであろう。
アヒダは隙間で、つまり飛鳥川の激しい流れは休むことなく続くという。同じように建王への思いは休まることがない。 《悲哭》 古訓「ミネス」は、ネナク〔声をあげて泣く〕の尊敬語〔ミ-は接頭語〕であるのは明らかであるが、ネスは書紀古訓のみの語のようである。 《大意》 五月、 皇孫建王(たけるのみこ)は年齢八歳にして薨じました。 今城の谷の上に殯宮を建てて収められました。 天皇(すめらみこと)、元より皇孫に孝順の心があることをもって、その才を愛されました。 よって、哀傷を忍ばず慟哭は甚だしさを極めました。 群臣に詔され、 「万歳千秋の後に、 必ず朕の陵(みささぎ)に合葬しなさい」と仰りました。 そして、次の三首を詠まれました。 ――今木なる 小山(をむれ)が上に 雲だにも 白くし立たば 何か嘆かむ【第一首】 ――射ゆ鹿(しし)を 繋ぐ河辺の 若草の 若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに【第二首】 ――飛鳥川 漲(みなぎ)らひつつ 逝く水の 間もなくも 思ほゆるかも【第三首】 天皇(すめらみこと)は、時どきに歌われ、悲哭されました。 【常陸国側の進出】 朝廷の国による越後国側からの蝦夷地域への進出は7世紀半ば以降と見られるが、 常陸国側へは、それより相当遡るようである。 その端緒は、〈景行〉二十七年 「武内宿祢、自二東国一還之奏レ言〔曰〕東夷之中、有二日高見国一、其国人、男女並椎結文身、為人勇悍、是総曰二蝦夷一」にある。 日本武尊は、「蝦夷境」(陸奥国南部か)に達する。 〈景行〉四十年是歳 「日本武尊、則従二上総一転、入二陸奧国一。時、大鏡懸二於王船一、従二海路一𢌞二於葦浦一、横渡二玉浦一、至二蝦夷境一。」 葦浦は茨城県ひたちなか市、玉浦は宮城県岩沼市など。 日本武尊まで年代を遡るのは大幅過ぎるが、 常陸国から牡鹿までの進出の記事は、比較的史実性が高まった〈推古〉紀以後には書かれないから、 それよりは以前のことであろう。 年代を探ることのできる記録としては、 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣(資料[27])を見ると、 乎獲居臣は代々磯城の大王〔雄略〕に仕えていたが、武蔵国に派遣されて東国進出の先兵を担ったようである。 〈安閑〉二年〔536〕で設置した二十六屯倉のうちもっとも東の緑野屯倉は上野国である。 金錯銘鉄剣の「辛亥年」が471年だとすると、それから150年ぐらいをかけて日高見国(常陸国の北部か)から亘理郡辺りまでの範囲が朝廷の国内となったと見るのが妥当か。 古いというだけで時期が不明だから、日本武尊まで遡らせたのであろう。 【出羽柵/秋田城】
775年には、蝦夷側からの攻撃によって、出羽柵(秋田城)は危機に直面する。「移国府」は、秋田城から国府を南へ移せということであろう。 この年以前の漆紙文書の存在により、秋田城にはこのときまで国府の機能があったことが確認できる。 780年には、「安倍朝臣家麻呂」が放置されてきた秋田城の再興を提言する。 また、宝亀年間の始めに議論して決めた通り、その南の河辺郡に住民を各地から移住させ、郡を強化せよと促す。 それからさらに約100年後に、また蝦夷が反乱を起こした。
平安時代になっても、秋田郡の北はまだ蝦夷の国であった。 《秋田城遺跡》
アは、〈続紀〉宝亀六年〔775〕「移国府」以前に秋田城に国府機能があったことを示し、 したがって「移国府」は「国府を秋田城から他の場所に移せ」という意味となる。 イは、8世紀末において蝦夷に対する日常的な外交の窓口になっていたことを示す。 まとめ 三年~四年五月条は簡潔に書かれているが、書かれている内容には他の考古学資料、文献資料と随分繋がりが深く、調べるのに時間を要した。 そのうち「飛鳥寺西」については、須弥山石と男女像が発見され、また石神遺跡の調査が進み、シルクロード沿いの国々の人との交流施設があったことが明らかになっている。 噴水石像は2個では寂しいから、これらに加えて別のものもいくつかあったかも知れない。それらが異国情緒を漂わせる中で、外国から来訪した人と交流が盛んに行われたわけである。 牟婁温湯については、関連した万葉歌が多く見られる。その歌、とりわけ題詞から〈斉明〉〈持統〉〈文武〉の行幸が読み取れる。 これは、興味深い研究テーマである。 齶田、渟代、津軽が真郡でないのは明らかであるが、それらがここで「郡」と書かれていることの実質に迫るためには、 その後の秋田郡以北の郡の設置の経過を長いスパンで見なければならない。その概略を、資料[72]にまとめた。 〈斉明朝〉には、国外の独立勢力としての蝦夷との友好関係はひとまず確立したようである。 しかし、奈良~平安時代には、基本的に蝦夷との関係は悪化し、真郡の設置は遠のくばかりである。 現時点でのサイト主の見解は、朝廷がこの地域に強い姿勢で臨み、支配-被支配の関係を確立しようとしたのがその根本原因であるとするものである。 鎌倉時代になってやっと郡が置かれたようであるが、まだ「浜」という特別な形態の地域が残る。 |
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⇒ [26-03] 斉明天皇(2) |
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