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2023.09.24(sun) [26-01] 斉明天皇1 

目次 【即位前】
天豐財重日足姬天皇(重祚)〔齊明〕天豐財重日足姬天皇、初適於橘豐日天皇之孫……〔続き〕


目次 【元年】
《卽天皇位於飛鳥板蓋宮》
元年春正月壬申朔甲戌。
皇祖母尊、
卽天皇位於飛鳥板蓋宮。
正月…〈北野本〔以下北〕正月ムツキ即-天-皇-位 アマツヒツキシロシメス於飛鳥板蓋 イタ フキノ 
元年春正月壬申朔甲戌〔三日〕
皇祖母尊(すめみおやのみこと)、
[於]飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)にましまして即天皇位(すめらみことのくらゐにつきたまふ、あめのしたしろしめす)。
夏五月庚午朔。
空中有乘龍者、
貌似唐人着靑油笠而
自葛城嶺馳隱瞻駒山。
及至午時、
從於住吉松嶺之上西向馳去。
五月…〈北〉 ノ五月 サツキ空中 オホソラ ノレル龍者[句] カタチ唐人 モロコシ油絹 アフラキヌ カサ[テ]葛城 タケ[切]馳隱 コマ 及-至 イタリ  ノ[テ]  ヨリ於住𠮷 エノ[ノ][切] タケ ウヘ西-向馳- クヌ。 〈閣〉空中オホソラノ ニ乗龍ノレル タツニキテ靑-油笠アフラキヌノカサヲ從於住エノ ノ タケヨリ之上[切]西イヌ
 〈集解〉住吉松之上 松下原有嶺ノ字皇圓略記無シ。蓋與葛城ノ嶺之嶺相渉加耳
あぶらかさ…[名] 絹に油を塗ってつくった笠。あぶらきぬかさとも。
午時…午前11時~午後1時。
住吉…書紀の時代は「すみのえ」(資料[16])。
夏五月(さつき)庚午(かのえうま)の朔(つきたち)。
空(おほぞら)の中(うち)に龍(たつ)に乗る者(ひと)有りて、
貌(かたち)唐(たう、もろこし)の人に似て青(あを)き油笠(あぶらきぬかさ)を着(つ)けて[而]
葛城嶺(かつらきのたけ)自(よ)り馳(は)せて[瞻]胆駒山(いこまのやま)に隠(かく)りつ。
午時(うまのとき)に及至(いた)りて、
住吉(すみのえ)の[於]松嶺(まつのたけ)之(の)上(へ)従(よ)り西に向(むか)ひて馳せ去(い)ぬ。
秋七月己巳朔己卯。
於難波朝
饗北【北越】蝦夷九十九人
東【東陸奧】蝦夷九十五人。
幷設百濟調使一百五十人。
仍授柵養蝦夷九人
津苅蝦夷六人冠、各二階。
七月…〈北〉七月フツキ
饗北 ミカト[テ] アヘタマフ北、 コシソ。 〈閣〉/饗下交本アヘタマフ  ノコシソ陸奧
マウク百濟調 ミツキ使 キ カフ蝦夷 ツ- カルフタクラヒハシ。 〈閣〉二階フタ シナ
難波朝…難波長柄豊碕宮。
陸奥…〈倭名類聚抄〉{陸奥【三知乃於久】}。
秋七月(ふみづき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔十一日〕
[於]難波(なには)の朝(みかど)にありて
[饗]北【北は越(こし)なり】の蝦夷(えみし)九十九人(ここのそたりあまりここのたり)、
東(ひむがし)【東は陸奧(みちのおく)なり】の蝦夷(えみし)九十五人(ここのそたりあまりいつたり)をみあへしたまふ。
并(あはせて)百済(くたら)の調使(みつきのつかひ)一百五十人(ももたりあまりいそたり)に〔みあへを〕設(まう)けたまふ。
仍(よ)りて[授]柵養蝦夷(きかふえみし)九人(ここのたり)、
津苅蝦夷(つかるえみし)六人(むたり)に冠(かがふり)をさづけたまふこと、各(おのもおのも)二階(ふたしな)。
八月戊戌朔。
河邊臣麻呂等、自大唐還。
八月…〈北〉八月ハツキ
大唐…〈北〉モロコシ。 〈閣〉自大 ヨリ
八月(はつき)戊戌(つちのえいぬ)の朔(つきたち)。
河辺臣(かはべのおみ)麻呂(まろ)等(たち)、大唐(だいたう、もろこし)自(ゆ)還(まゐかへる)。
冬十月丁酉朔己酉。
於小墾田造起宮闕
擬將瓦覆、
又於深山廣谷
擬造宮殿之材朽爛者多遂止弗作。
十月…〈北〉十月カムナツキ
小墾田造起宮…〈北〉小墾田ツクリ-起宮闕 タチ オホミヤ-将 セムトス 瓦- カハラ フキ  トスル ツクラム殿[切] クチ- ミタル タゝレタル者多[句] ヤム[句]。 〈閣〉 トスル ツクラン宮- ミヤ殿 ニキトラム ヤムテ
宮闕…宮殿の門の両側の物見台。転じて宮殿そのもの。
…[動] ①はかる。②なぞらえる。
…[動] 焼けてただれる。(古訓) くさる。くつ。みたる。ゆるふ。
朽爛…〈汉典〉腐爛、腐朽。
くつ…[自]タ上二 くさる。
冬十月(かむなづき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔十二日〕
[於]小墾田(をはりた)に宮闕(おほみや)を造(つく)り起(た)てて
擬将瓦覆(かはらふきせむとす)れど、
又[於]深き山広き谷に、
擬造宮殿之(おほみやをつくらむとせし)材(き)に朽爛(くちくさ)りし者(もの)多(さは)にありて、遂(つひ)に止(や)めて弗作(つくりたまはず)。
是冬。
災飛鳥板蓋宮、
故遷居飛鳥川原宮。
…〈北〉 ヒツケリ鳥板蓋宮居飛 オハシマス 鳥川原宮。 〈閣〉- オハシマス 
是冬(このふゆ)。
飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)に災(やくるわざはひ)ありて、
故(かれ)飛鳥川原宮(あすかのかははらのみや)に遷居(うつりてまします)。
是歲。
高麗百濟新羅並遣使進調
【百濟大使西部達率余宜受
副使東部恩率調信仁、
凡一百餘人】。
蝦夷隼人率衆內屬、詣闕朝獻。
進調…〈北〉副-使 ソヒツカヒ。 〈閣〉西調。 〈釈紀〉西部達率サイホウタツソツ余宜受ヨサス東部恩率トウホウヲンソツ調テウシン
西部達率…西部は首都の五つの行政区域の一。達率は二品(百済の位階)。
東部恩率…東部は首都の五つの行政区域の一。恩率は三品。
隼人…〈北〉隼-人ハヤトム 
率衆内属…〈北〉[テ] トモカラマツ■シ[句]タカフ闕朝-獻新マ ミカト モノタテマツル-羅。 〈閣〉ヒ テトモカラヲ- マウテシタマフマ テ ミカトニ[切]朝献 モノタテマツル[句]
内属…〈汉典〉-附朝廷二上属国或属地
是歳(このとし)。
高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)並(なら)びに使(つかひ)を遣(まだ)して調(みつき)進(たてまつる)
【百済の大使(おほつかひ)西部(さいほう)達率(たつそつ)余宜受(よさず)、
副使(そひつかひ)東部(とうほう)恩率(おんそつ)調信仁(てうしんに)、
凡(おほよそ)一百余人(ももたりあまり)】。
蝦夷(えみし)隼人(はやひと)衆(ともがら)を率(ゐ)て内属(まつろ)ひて、闕(みかど)に詣(まゐで)て朝献(みつきたてまつる)。
新羅、別以及飡彌武爲質、
以十二人爲才伎者。
彌武、遇疾而死。
是年也、太歲乙卯。
及飡弥武…〈北〉 コトキウサム ムカハリ才-伎-者テヒトゝ遇-疾 ヤマヒシ。 〈閣〉コトニ ハ
新羅、別(ことに)及飧弥武(きうさんみぶ)を以ちて質(むかはり)と為(な)して、
十二人(とたりあまりふたり)を以ちて才伎者(てひと)と為す。
弥武(みぶ)、遇疾(やまひ)して[而]死にせり。
是年(このとし)は[也]、太歳(おほとし、たいさい)乙卯(きのとう)。
《即天皇位》
 〈孝徳紀〉では即位に至る経緯がきめ細かく書かれたが、ここでは宝皇女の重祚(〈皇極〉→皇祖母尊→〈斉明〉)に決定された経過が全く書かれていないのは不思議である。
 時を〈皇極〉が譲位した頃に戻すと、蘇我蝦夷たちに深く依存する体制であったから、蝦夷らの没落に際して天皇の連帯責任が問われたのは当然である。 だが、〈孝徳〉中大兄皇子とともに三者連帯して政を担うことを盟約した。 これは宝皇女自身の粘り、あるいは中大兄皇子の同族意識によって、辛うじて権力の一角に留まったものであろう。 それから十一年、〈孝徳〉の崩によって、宝皇女は天皇に返り咲いた。 中大兄〔後の〈天智〉〕は、自ら難波京で即位する道ではなく、宝皇女の御世への復古を選んだようである。
 天皇の後継争いについては、書紀は隠すことなく書くのが一般的だが、ここではその駆け引きを書かない。 ただ〈孝徳〉の晩年に中大兄が宝皇女ととともに難波京から去ったことが書かれた。そこから敷衍して、中大兄が宝皇女を推し立てたことを読み取れということかも知れない。
 中大兄が難波京に見切りをつけた理由としては、急進的な改新詔に対する諸族の反発が大きすぎたことが考えられる。 白雉改元の動機は大赦の理由付けにあると見たが、相変わらず反発はくすぶり続けていたのであろう。 ただ中大兄は、改新詔の現実化をあきらめたわけではない。〈天智天皇〉となった九年には遂に庚午年籍を完成している。 律令国家への歩みは、ペースダウンに過ぎない。難波京は廃されずに副都として存続し、〈天武朝〉では改めて条坊を整備して陣容を整えた。
 ただし、宝皇女が重祚して〈斉明〉となった後は、特殊な宗教に入れ込んで宗教施設の建造に熱中し(「好興事」)、別の形で人民の反発をかったようである。 中大兄は、それをどのような思いで見ていたのであろうか。
《空中有乗龍者》
 ここに「空中有乗龍者」段を置いた意味は、どこにあるのだろうか。それを探る論文を探したところ、 『斉明天皇に祟る「鬼」・『書紀』の方法についての覚書』柳町時敏〔明治大学文芸研究会;2009〕が見つかった。
 同論文は、「蘇我氏の亡霊への仄めかしが窺い見られ」、 「青い油笠を着て、「怨霊龍」に乗り、「葛城嶺」から「胆駒山」まで馳せ、隠れた「鬼」は、蘇我蝦夷か入鹿か」と述べる。 なお、『扶桑略記』は蘇我蝦夷の霊とする(下述)。 同論文は結語において「『書紀』〔主に推古紀、皇極紀、斉明紀〕にあっての天変地異や異常現象などの怪奇への言及」には「巧妙な歴史批判の仕掛けが隠されていたと考える」という。
 葛城の地を蘇我氏に結びつける材料としては、推古三十二年で蘇我馬戸が語った「葛城県者、元臣之本居也」などがある。 しかし、「乗竜者」は単に蘇我蝦夷(または入鹿)の亡霊であろうか。
 前項で見たように、〈斉明〉に向けられた人民の不満は隠すことなく描かれている。 かつて人民の怨嗟の的となった〈雄略天皇〉については、目前に現れた事代主神に感化されて「有徳天皇」になった話が載る(〈雄略紀〉四年)。 〔その舞台もまた、葛城山である。〕 事代主神は、〈雄略〉の残虐を何とかしてほしいという、人民の願いが神の姿に結実したものであった。「乗竜者」も人民の意を受けて、〈斉明〉への警告として現れたのではないだろうか。
 ただし、「空中有乗龍者」段を書紀が白紙から創作したとは考えにくく、 地域、あるいは住吉大社にまつわる伝説を書紀が取り入れたのであろう。これを採用したこと自体に、一定の意図があったということである。
《従於》
 従於〔前置詞+前置詞〕は不自然である。 漢籍に「従於」は確かにあり、「楚昭王失國。屠羊説走而從於昭王〔荘子;譲王〕などが見えるが、「」は動詞、「」は前置詞〔with〕であるから問題ない。
…屠羊は羊の屠殺業。説は人名。楚の昭王が国を失ったとき、ともに逃げた。
 『扶桑略記』(下述)では「」の代わりに同じ意味の「」を用い、はない。〈集解〉もを省いている。 は衍字と見るべきか。
《住吉松嶺》
 住吉大社の近くに、というほどの山はないから、「住吉松嶺」とあるのは理解に苦しむ。 他の文献ではどうなっているかを探ってみると、「空中有乗龍者」の類話が『住吉大社神代記』に見つかった。
『住吉大社神代記』
大神飛鳥板盖宮御宇天皇御世始。 夏五月庚午。宣賜。爲巡檢吾山宣賜。 即乗御馬賜。
油笠。 兄乃山余利葛城嶺。膽駒山馳到
午時住吉馳還御坐。聞食御飯酒。 即阿閇。魚次。椅鹿山御覧還御座。仍件山在神道也。
大神おほみかみ飛鳥あすかの板盖いたぶきの宮に御宇あめのしたしらす天皇すめらみこと〔斉明〕御世みよの始めの 夏の五月さつき庚午かのえうまに、宣賜のりたまはく「吾山あがやまめぐりみそなはさむと」と宣賜のりたまひて、 すなは御馬みまに乗りたまふ。
油笠あぶらかさたまひて、 兄乃山せのやまより葛城の嶺、胆駒山にはせいたりたまひて、
うまの時を以て、住吉すみのえに馳せ還り御坐おはしまして、御飯みけみきを聞こしす。 すなは阿閇あへ魚次なすき椅鹿山はしかのやまをば御覧みそなはして還り御座おはしましき。りてくだんの山に神道しんたう在り。
兄乃山…紀の川沿いの背ノ山か(改新詔其二曰《紀伊兄山》)。
阿閇阿閇神魚次神は、『住吉大社神代記』で「子神みこかみ」の項に載る。阿閇神社(兵庫県加古郡播磨町本荘4丁目)は、阿閇荘(住吉大社の荘園)の中心地といわれる。 『播磨国風土記』加古郡に「〔景行〕天皇…到阿閇津-進御食故号阿閇村」。
魚次…『住吉大社神代記』に「明石郡魚次浜一処」。魚次神は、住吉神社(兵庫県明石市魚住町中尾)に比定。
掎鹿…『住吉大社神代記』に「播磨国賀茂郡掎鹿山。領地田畠…右。仙山地等…」とあり、住吉大社の木材産出地。 兵庫県加東市に掎鹿谷(はしかだに)。『播磨国風土記』賀毛郡に「端鹿里:今在其神。昔神於諸村…」(第239回《間》項)。
 この文章の時代については、宣命体は主に奈良時代であるが、この文では不完全である。尊敬語キコシメスを飲食の意で用いるのは平安時代以後と思われる。また、「還御坐」の御座は尊敬の補助動詞だが、これをカヘリオホマシマス(上代語)と訓むと重すぎるので、 カヘリオハス(平安時代)の方が自然に感じられる。 (くだんの)という語も使われるので、総じて平安以後であろう。 なお、「在神道」は誤用である〔「有神道]が正しい〕
 内容については、葛城嶺胆駒山を駆け巡る書紀の話を基にして、播磨国に置かれた三か所の社領・荘園の神話的起源を語るもので、木に竹を繋いだ如くになっている。 しかし書記の「松嶺」は無視されているので、少なくとも『住吉大社神代記』成立時には存在しなかった山であろう。 せいぜい住吉大社周辺の、松の繁る小高い丘か。
 一方〈集解〉は「松嶺」からを省き、割注でその理由として「皇円略記」には嶺の字はなく、おそらく「葛城嶺」につられて「松」にもがついてしまったのだろうと述べる(原文)。
 「皇円略記」とは『扶桑略記』〔皇円著〕のことである。その該当部分を見る。
『扶桑略記』〔皇円;1094頃〕
空中有乘龍者。貌似唐人。着靑油笠。自葛城嶺馳隱瞻駒山
-至午時。自住吉松之上西向馳去。
時人言。蘇我豊浦大臣〔蝦夷〕之靈也。
 確かに「松之上」となっている。 また、これを見ると平安時代の用語法でも「従於」はなかったようである。
 『住吉大社神代記』と『扶桑略記』をもって、松嶺問題には決着が着いたと言ってよい。
 想像だが「従於」「松嶺」は書紀が参照した古文献にあった言葉で、書紀は敢えてそのまま写したのではないだろうか。
《難波朝》
 「難波朝」の「」の記事からは、難波長柄豊碕宮が引き続き首都施設として機能していたことが分かる。 難波の副都機能は平安遷都直前まで維持される(資料[19])。
《設百済調使》
 百済からの調使は大人数でやってきた。遣唐使に多数の学問僧、学生が随行したのと同様かと思われる。 ここでは北蝦夷東蝦夷と並べて書かれていることから、蝦夷を半島の国と同程度の外地とする観念があったことが伺われる。
《柵養蝦夷》
 柵養蝦夷なる名称は、渟足柵(大化三年是歳(2))と関係があろう。 越後国の蝦夷であるから、「柵養」は北蝦夷(越の蝦夷)に賜った称号であろう。 もともとカフの意味は家畜の飼育だが、ここでは(き)に付随する農地で奴婢として働かせたことに由来すると推定される。奴婢は家畜に等しいということである。
 ここで(みあへ)に招待された北蝦夷(越の蝦夷)、東蝦夷(陸奥の蝦夷)は大和政権に友好的な部族であろう。 周囲には相変わらず服属しない族もいるし、また今は友好的でも何かのきっかけで反抗に転ずることもあろう。
《津刈蝦夷》
行基図:『拾芥抄』写本1656;ja.wikipedia.org 北奥を中心とした郡郷制図〈長谷川00〉(p.80)
  引用文献略称
〈長谷川74〉…「前近代古地図にみる津軽の位置とその特質」長谷川成一『北奥文化』第5号〔北奥文化研究会;1974〕
〈長谷川00〉…『青森県の歴史』第2版長谷川成一他〔山川出版社;初版2000/2版2012〕
 「津苅」が、現代地名の津軽に一致すると安易に考えることはできない。
 〈倭名類聚抄〉の{陸奥国}・{出羽国}の郡名・郷名にツガルは見えないから、平安時代になっても国内にツガルと名付けられた地域はまだなかった。
 〈斉明紀〉の「津苅」は陸奥の先の地の果てを漠然と指すもので、むしろ「東(陸奥)蝦夷」が賜った称号の意味合いが強いと感じられる。 行基図では、「津軽大里」が陸奥の北に書かれている。
 行基図として伝わるのは写本のみで、現存する最古は室町時代のものという。 これを見ると陸奥国以北の描き方は漠然としたもので、行基図が成立した当時に「津軽」の正確な位置が定まっていたと言えるものではない(図左)。
 〈長谷川74〉は、「(平安時代までに)王朝国家乃至公家政権が、本来的に津軽郡を陸奥国に設置したということではなかろう。 それ故、鎌倉時代の各文書のあらわれる津軽の郡は、津軽三・四郡、 津軽平賀郡、津軽山辺郡であったりして一定せず、…津軽郡の正式な郡立ては最終的になかったものと理解される」と述べる(p.20)。 9・10世紀においては「青森県全域は未だ辺外の地、蝦夷の村として同国家の行政区に最終的には確定されずに終わった」 「津軽四郡等の郡号は文書に散見しても、孰れも公式のものではなく、津軽の地名は蝦夷の語と不離のものとして、…和歌の世界に定着」(p.25)、 すなわち特定の場所と言うよりは文芸的な概念であったとする。
 ただし、その後の〈長谷川00〉になると、 「延久北奥蝦夷合戦〔1070〕…の成果として」、「古代国家がついに達成できなかった、北奥の郡郷制の施行」を挙げる。 この地域は「出羽に属してしかるべき地域」だが、「不自然な人為的郡郷ができあがったのは」、 「海路ではなく、南からの陸上交通路ぞいに平定が推進されたからである」、こうして「本州北端までの蝦夷の地が一気に内陸化」した〔=陸奥国の一部になった〕」という(pp.79~80)。 津軽四郡について〈長谷川74〉の執筆当時に比べて、郡名の確実性が強まったようである(図右)。
 それでも平安時代中期までは、ツガルは陸奥国の彼方を漠然と指したのは明らかである。
 ツガルの語源は「津より離(か)る」で、陸奥国から太平洋側を、または越後国から日本海側を海路で行く遠隔地の意だと想像される。
《自大唐還》
河辺臣麻呂  白雉五年二月に遣唐大使をつとめ、18カ月ぶりの帰国。 同時に派遣された遣唐押使高向玄理は客死した。
《造起宮闕》
 小墾田の新宮殿については、「宮闕」という語から唐風の大宮殿を計画したことが伺われる。 注目されるのは「瓦覆」とされることで、これまで宮殿に瓦葺きが用いられたことはなかった。 大寺院の金堂のような荘厳な姿を目指したのだろう。 しかし、広い山、深い谷に良材を求めても朽ち果てたものばかりだったので、結局あきらめたと書かれる。
 しかし、大寺院は問題なく次々と建造されている。 仏教界は独自の良材の調達手段〔伐採と運搬〕をもっていたと思われるが、それを朝廷に提供することを拒んだのだろう。 朝廷はやむを得ず自力で木材を調達しようとして、うまくいかなかったようである。 仏教建築のノウハウをもつ技術者も提供されなかったと思われる。 仏教界は〈推古天皇〉への崇敬が篤く、由緒ある小墾田宮の建て替えに難色を示したことのかも知れない。
 新しい宮は結局飛鳥板蓋宮の跡地にこれまで通りの掘立て柱様式で建てられた。 瓦葺宮殿の登場は、〈持統〉の藤原宮を待たねばならない。 「飛鳥時代にも宮殿を瓦葺にしようとする計画はあったのですが、実現はしませんでした。宮殿を瓦葺としたのは、藤原宮が初めて」だという (橿原市公式/初めての瓦葺の宮殿)。
《弗作》
 否定の副詞にではなく「」を使ったのは、天皇の行為だからであろうか。〈仁徳紀〉にはそれが見えた(元年)。
《災飛鳥板蓋宮》
 「」は火災である。 朝廷の火災であることをおもんばかって、を忌み言葉としたのであろう。この形の初出は「災岡本宮」(〈舒明〉八年)であった。 古訓「ヒツケリ」は身もふたもなく、天皇への過剰なほどの尊敬表現とは著しくバランスを欠いている。
 「」は人民の反発による放火と考えられ、〈斉明〉の評判は何かと芳しくない。
《遷居飛鳥川原宮》
 川原寺の遺跡の下層に、川原宮跡と見られる遺構が検出されている(白雉四年六月【川原寺】項)。
《蝦夷・隼人》
 蝦夷隼人からの献上物は、税ではなく「朝献」と表現されている。 この段でも高麗・百済・新羅による進調と並べて書かれ、蝦夷や隼人(大隅、薩摩)との関係は対周辺国並みである。
《新羅別為質》
 百済高麗連合に対抗して、新羅による倭に対する外交的働きかけも活発である(下述)。
《大意》
 元年春正月三日、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)は、 飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)で天皇(すめらみこと)に即位されました。
 五月一日、 空中に龍に乗る人が現れました。 風貌は唐の人に似て、青い油絹笠(あぶらきぬかさ)をかぶり、 葛城の嶺より馳せて胆駒山に隠れました。
 午(うま)時になり、住吉(すみのえ)の松嶺(まつがみね)の上から西に向って飛び去りました。
 七月十一日、 難波の朝廷〔難波長柄豊碕宮〕で 北【北は越(こし)である】の蝦夷(えみし)九十九人、 東【東は陸奧である】の蝦夷(えみし)九十五人を饗されました。 併せて百済の調使一百五十人に〔饗を〕設(もう)けられました。
 よって、柵養蝦夷(きこうえみし)九人、 津苅蝦夷(つかるえみし)六人にそれぞれ冠二階を授けられました。
 八月一日、 河辺臣(かわべのおみ)麻呂(まろ)等は、唐から帰還しました。
 十月十二日、 小墾田(おはりた)に宮闕(きゅうけつ)を起工して 瓦葺きにしょうとされ、 そして深い山広い谷に、 宮殿を造ろうとした木材には朽ちて腐ったものが多く、遂に中止して作られませんでした。
 同じ冬、 飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)に火災があり、 よって飛鳥川原宮(あすかのかわはらのみや)に遷居されました。
 この年、 高麗、百済、新羅は揃って遣使進調しました 【百済の大使は西部(さいほう)達率(たつそつ)余宜受(よさず)、 副使は東部(とうほう)恩率(おんそつ)調信仁(ちょうしんに)、 凡そ百人余】。
 蝦夷(えみし)、隼人(はやひと)は衆を率いて内属し、宮闕に詣でて朝献しました。
 新羅は、別に及飧弥武(きゅうさんみぶ)を質として、 十二を工人と〔して献上〕しました。
弥武(みぶ)は、疾病に遭い死にました。
 この年は、太歳乙卯(きのとう)でした。


目次 【二年】
《高麗遣達沙等進調》
二年秋八月癸巳朔庚子。
高麗遣達沙等進調
【大使達沙
副使伊利之、
總八十一人】。
八月…〈北〉八-月 ハツキ
遣達沙等…〈北〉 ツカハシ 沙等○調進イ
 〈閣〉ツカハシ ヲ[切]調 ⎛進交本但■之 大使[切]○之[切]┌副使八十一人
 〈釈紀〉タツトモヲ伊利之イリシ
二年秋八月癸巳朔庚子〔八日〕
高麗(こま)達沙(たつさ)等(ども)を遣(まだ)して調(みつき)進(たてまつる)
【大使(おほつかひ)達沙、
副使(そひつかひ)伊利之(いりし)、
総(すべ)て八十一人(やそたりあまりひとり)】。
九月。
遣高麗
大使膳臣葉積
副使坂合部連磐鍬
大判官犬上君白麻呂
中判官河內書首【闕名】
小判官大藏衣縫造麻呂。
九月…〈北〉九-月ナカツキ
遣高麗…〈北〉 ツカ高麗 -使カシハテ-臣ツミ 副-使 ソヘツカヒサカ- アヒ総イ - ヘノ ムラシ イハ-鍬  スキ[切] 大-判官  オフマツリコトヒト[切]大- 犬凡 シロ麻-呂[切]判-官 マツリコトヒト[切]河内書首[切]モラセリ 小判-官スナヒマツリコトヒト[切]大-蔵ヲホクラノ衣-縫 キヌ ヌヒノミヤツコ麻-呂[句]
 〈閣〉ツカハシテ高麗 キ使副使 惣呉本 判官 マツリコトヒト[切]大上君シロ麻呂中判 スケ 小判 スナイ 
 〈釈紀〉ヲホキ判官マツリコトヒト犬上イヌカムノキミシロスケノ判官マツリコトヒト河内カウチノ書首フミノヲフト闕名スナイ判官マツリコトヒト大藏オホクラノ衣縫キヌヌヒノミヤツコ麻呂マロ
 〈倭名類聚抄〉大弁:於保伊於保止毛比。中弁:奈加乃…。少弁:須奈伊…」。
九月(ながつき)。
[遣]高麗(こま)に
大使(おほつかひ)膳臣(かしはでのおみ)葉積(はづみ)、
副使(そひつかひ)坂合部連(さかひべのむらじ)磐鍬(いはすき)、
大判官(おほきまつりことひと)犬上君(いぬがみのきみ)白麻呂(しろまろ)、
中判官(なかのまつりことひと)河内書(かふちのふみ)の首(おびと)【名を闕(か)く】、
小判官(すなきまつりことひと)大蔵衣縫造(おほくらのきぬぬひのみやつこ)麻呂(まろ)をつかはす。
是歲。
於飛鳥岡本更定宮地。
時、高麗百濟新羅並遣使進調、
爲張紺幕於此宮地而饗焉。
遂起宮室、天皇乃遷、
號曰後飛鳥岡本宮。
是歳…〈北〉是歳 コトシ 
宮地…〈北〉トコロ[句] タメ紺幕[テ] フカキハナタノミケハリ此宮 トコロ[テ]饗焉 アヘタマフ [句]。 〈閣〉紺幕フカキハナタ  フカキハナハノ 
宮室…〈北〉宮 オホミヤ ナツケテ[テ]飛鳥岡本
是歳(このとし)。
[於]飛鳥(あすか)の岡本(をかもと)に更(あらた)めて宮地(みやところ)を定(さだ)めたまふ。
時に、高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)並びに使(つかひ)を遣(つかは)して調(みつき)進(たてまつ)りて、
[於]此(この)宮地(みやところ)に紺(ふかきはなだ、こむ)の幕(とばり)を張りて[而]饗(みあへ)為(し)たまふ[焉]。
遂(つに)に宮室(おほみや)を起(た)てて、天皇(すめらみこと)乃(すなはち)遷(うつ)ります。
号(なづ)けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとのみや)と曰ふ。
於田身嶺冠以周垣
【田身山名此云大務】、
復於嶺上兩槻樹邊起觀、
號爲兩槻宮、亦曰天宮。
田身嶺…〈北〉 ムノ タケ冠  カウオシムル ス周垣 メクレルカキ田身テムシムハ山名田身デンシンは〕復於嶺上両 タケ ウヘノ 槻樹 ツキノ  ニ タツ [句] タカトノ [テ]両槻宮 タカ ツキ ト[句]𡖋アマツ[句]。 〈閣〉冠以 カフシムルニ ス メクレル カキヲ
[於]田身嶺(たむのみね)に冠(かが)ふるに周(めぐ)れる垣(かき)を以(もち)ゐる
【田身は山の名、此(こ)をば大務(たむ)と云ふ】、
復(また)[於]嶺(みね)の上(へ)の両(ふたつの)槻樹(つきのき)の辺(ほとり)に観(たかどの)を起(た)てて、
号(なづ)けて両槻宮(ふたつきのみや)と為(し)たまふ、亦(また)天宮(あまつみや)と曰ふ。
時好興事、
廼使水工穿渠自香山西至石上山。
以舟二百隻載石上山石順流控引、
於宮東山累石爲垣。
好興事…〈北〉 コノ興事 オコシツクル[句] 廼使水工ミツタクミ穿 ホラ ミソ[句]香 カコヤマ山西至石上山 イソノカミノヤマ[句]フネニ二百隻 ツム石上山イソノカミノヤマ[ノ]マニ\/[切]ミミノヒク宮東山[句] カサネ[ヲ][テ]カキ[句]
 〈閣〉 ニコノム 興事オコシ ツカフコトオコシ ツクル ノ西 ヨリツム┌積ン マゝニ ミツ[切] ヒクカサワテ ヲ
時に興事(つくりおこすこと)を好みたまひて、
廼(すなはち)水工(みづたくみ)をして渠(みぞ)を穿(ほ)ら使(し)めて香山(かぐやま)の西自(よ)り石上山(いそのかみのやま)に至れり。
舟(ふね)二百隻(ふたももふな)を以ちて石上山(いそのかみのやま)の石(いし)を載(の)せて順流(ながるるまにま)に控引(ひ)きて、
[於]宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣を為(つく)りつ。

時人謗曰「狂心渠
損費功夫三萬餘矣。
費損造垣功夫七萬餘矣。
宮材爛矣。
山椒埋矣。
又謗曰「作石山丘、隨作自破」
【若據未成之時作此謗乎】。
又作吉野宮。
狂心渠…〈北〉 ノ人謗曰狂-心ミソ[句]。 〈閣〉ソシリテ[切]狂心渠タフレ コゝロノ ミソ
たぶる…[動]ラ下二 気が狂う。
損費功夫…〈北〉ヲトシ  二オトシツヒヤスコト功-夫ヒトチカラ三 ミヨツアマリ万餘矣 費-造- カキ功-夫 ヒトチカラ七-万餘矣[句]  ノ キ ミタシ  タゝレ 矣山 スヱ ウツモ┌/垣イ レタリ[句] マゝ ツクル[切]ヲノ-コホレム
 〈閣〉オトシ コト  ノ スエ ウツモレリ
功夫…①功役(公役)にあたる人夫。②工夫。〈汉典〉「①武術技能。②工夫。③素養。造詣。
山椒…①植物名。サンショウ。②山頂。
もしくは…[副] 〈時代別上代〉「やや新しい例ではあるがモシにもモシクハがあり、あるいはの意に使われている」。
時の人謗(そし)りて曰へらく「狂心渠(たぶれこころのみぞ)に
損(おと)し費(つひや)せる功夫(たくみ、よほろ)は三万余(みよろづたりあまり)ぞ[矣]。
費(つひや)し損(おと)せる垣(かき)を造る功夫(たくみ、よほろ)は七万余(ななよろづたりあまり)ぞ[矣]。
宮材(みやのき)爛(くさ)れるぞ[矣]。
山の椒(すゑ)埋(うづも)れるぞ[矣]」といへり。
又(また)謗(そし)りて曰へらく「石を作(な)せる山丘(やまをか)、作(な)せし隨(まにま)に自(おのづから)破(こほ)れむ」といへり。
【若(も)しくは、未(いまだ)成之(なさざりし)時に拠(よ)りて、此の謗(そしり)を作(な)せる乎(か)】。
又、吉野宮(よしののみや)を作りたまふ。
西海使佐伯連𣑥繩【闕位階級】
小山下難波吉士國勝等、
自百濟還、獻鸚鵡一隻。
災岡本宮。
西海使…〈北〉西 ミチ使 ノ𣑥繩タクナハモラセリ シナ 小-山 ヲヤマ-ケ  ノ吉士キシ國- カツ鸚鵡一- ツ災岡 ヒツケリ本宮
 〈釈紀〉西海使ニシノミマチノツカヒニシノミチノツカヒ私記説佐伯連サヘキノムラシ𣑥繩タクナハモラセリ クラヰノ階級シナヲ難波ナニハノ吉士キシ國勝クニカツ
西海使(にしのうみのみちのつかひ)佐伯連(さへきのむらじ)𣑥繩(たくなは)【位(くらゐ)の階級(しな)を闕(か)く】
小山下(せうせんげ)難波吉士(なにはのきし)国勝(くにかつ)等(たち)、
百済(くたら)自(ゆ)還(まゐかへ)りて、鸚鵡(あうむ)一隻(ひとつ)を献(たてまつ)る。
岡本宮(をかもとのみや)に災(やくるわざはひ)あり。
《遣高麗》
 白雉五年《奉観天子》項で見たように、 『新唐書』には高麗と百済は連合して新羅に対抗したと描かれている。 八月に高麗から使者が訪れ、反新羅の百済高麗連合に、倭が味方するように誘ったと思われる。 直後の九月に高麗に遣使〔使者の帰国に同行か〕したのを見ると倭は肯定的で、 東アジア情勢についての綿密な協議が行われたと見られる。
 一方、新羅側による倭を味方につけようとする働きかけも積極的であったことを、金春秋派遣のところで見た(大化三年是歳)。 〈斉明〉元年にも、質が送られた(上述)。ただし、その質弥武が倭で病死したとわざわざ書かれているところに、新羅には好意的でなかったことが伺われる。
《大使》
膳臣葉積  膳臣は、資料[56]《膳職》《淡国》項参照。 葉積はここだけ。
坂合部連磐鍬  坂合部は、〈推古〉二十年二月《境部臣麻理勢》参照。 〈斉明〉五年七月に「小錦下坂合部連石布」の表記で遣唐使。〈続記〉天平宝字元年〔757〕十二月壬子:小錦下坂合部宿禰石敷功田六町。奉使唐国漂著賊洲。横斃可矜。称功未■。依令下功。合伝其子」。
犬上君白麻呂  〈推古〉二十二年《犬上君》項。 白麻呂はここだけ。
河内書首  〈姓氏家系大辞典〉「文首(西漢文首):西文氏(河内の文氏)族の宗家也。…博士王仁の後」。〈応神段〉に「和邇吉師者文首等祖」。
大蔵衣縫造麻呂。  〈姓氏家系大辞典〉「大蔵衣縫造:大蔵衣縫部(大蔵に使役せし衣縫部)の伴造なり」。 衣縫部は、〈応神〉三十七年阿知使主都加使主於呉、令縫工女」により与えられた四婦女を〔伝説的な〕起源とする。
《大判官》
 判官は、四等官制の第三位で、マツリコトヒトと訓まれる。官名に冠せられたについては〈倭名類聚抄〉ではオホイスナイと訓まれるが、平安時代の音便である。 の古訓「オホキ」は、平安時代になっても音便以前の形が併用されていたことが伺われる。
 スナシは、スクナシの交替形または訛りと思われるが、諸辞書に於いてスナシについての積極的な説明を見ない。
《為張紺幕於此宮地》
 この時点では岡本宮跡は更地になっており、そこに「紺幕」で囲んだ会場を設営して饗を行うという残念な形になった。
 ここで問題になるのは、「為張紺幕於此宮地」のの訓読である。古訓では「」に名詞タメをあて、因果関係を示す接続詞〔「故」、「所以」、「因」の類〕として扱っている。 には多様な用法があるが、文頭に置かれた形では動詞または前置詞〔次の文字以下を目的語にとる〕か、単独で接続詞副詞がある。 「汉典」には文頭の接続詞として(もし)、(あるいは)にあたる用法を挙げるが、順接の接続詞は見えない。副詞としては(まさに~せむ)の用法を挙げる。 ただ「国際電脳漢字及異体字知識庫」では、用法の一つに「表示連接関係:相当「則」、「就」」を挙げ、これなら古訓「タメニ」に該当する。
 「」の通常の用法では、「張紺幕於此宮地」なる状態を「ツクル」と訓読することになり、これは可能である。 「」の意とするなら「~トセムトス」となり、「不本意だがやむを得ず」という気持ちが漂う。 「国際電脳…」のいう「」(スナハチ)もなくはないだろうが、この用法はかなり珍しく、書紀でも他に見えないから躊躇される。
《後飛鳥岡本宮》
 「飛鳥岡本宮」は、明日香村大字岡で調査された「飛鳥宮跡」のⅢA期にあたることが確定的である (資料[54])。
狂心渠関連地
《於田身嶺冠周垣》
 最初に於田身嶺冠周垣」と書かれ、次の段に宮東山累石為垣」と書かれる。 ①②は、同じものを指すのだろうか。
 まず、「嶺冠周垣」という表現は、酒船石遺跡(次項)の外周の石積みに合致している。 また、「宮東山」の「」は後岡本宮と考えられ、かつ酒船石遺跡の位置は、後岡本宮の東と言い得る。 よってと考えてよいだろう。表現が異なることについては、ここで用いた複数の出典で、それぞれ異なる表現が用いられていたためであろう。
 問題は、この「田身嶺」が談山神社で有名な多武峯とかなり隔たっていることである 〔多武峯はトウノムネと読まれるが、もともとのタムが訛ったと考えられる〕
 酒船石遺跡は、多武峯から続く嶺の端にあり、かつてはその嶺全体がタムと呼ばれていたと考えることが可能ではある。 あるいは、別説の伝承が紛れ込んでいたことも考えられる。
《両槻宮/石上山石》
 1992年以後、坂船石の丘陵を巡る四重の石垣が検出され、その全体が「酒船石遺跡」と呼ばれるようになった。 この石列が「於田身嶺冠周垣」だと見る説が有力である。
 「石上山石」については、石上神宮の北の豊田山の「黄色砂岩」が酒船石遺跡に用いられたと推定されている。
 さらに、運河跡と見られる「飛鳥東垣内遺跡」、「奥山久米寺西方」の遺跡は、狂心渠たぶらこころのみぞの一部をなす可能性がある。 両槻宮(天宮)跡は見つかっていないが、「周垣」で囲まれた範囲の中心施設として存在していたことが想定される (以上資料[54])。 「〔たかどの〕と表現されるから、そこに上って飛鳥の地を観望したのだろう。
《香山》
 「香山」の書紀古訓はカゴヤマであるが、万葉集には香具山香来山芳来山と表記され、カグヤマに統一されている。〈斉明紀〉と同じ香山の表記もある。 現在アマノカグヤマと呼ばれるのは、万葉集の絶対的な影響力によるものであろう。 カゴヤマについは、『天孫本記』に「香語山」が見える(資料[39])。 万葉集については、おそらく編者の大伴家持が統一したもので、 芳来山の表記から見て、形容詞カグハシに通ずる方を選んだと想像される。
《順流》
 渠の実際の水流の向きは、「順流」の訓読に影響を及ぼす。もし実際には逆流ならば「流」を川を意味する言葉として読まなければならない。
 国土地理院地図で標高を見ると、天香久山の北西の藤原宮跡付近は75m、布留川付近は約72mとなっている。 狂心渠が仮に中ツ道沿いとすると、大和川と交わる蔵堂のあたりは59mだから、「石上山」からそこまでの区間については「順流」が成り立つ。 しかし、大和川との交点以南では逆流だと思われる。
《狂心渠》
 石上山と見られる豊田山から酒船石遺跡までは、直線距離で15.6kmに及ぶ。この渠に「功夫三万余」を費やしたとされる。 〈推古〉十五年で、 「池・溝・堤の土木工事の記述は垂仁・応神・仁徳・推古に集中しており、これらの天皇の偉大性の表現として用いた側面があろう」 と見たが、〈斉明紀〉では真逆である。 〈仁徳天皇〉らの工事は農業生産力向上に資する偉大な業績であったが、〈斉明紀〉では天皇個人の嗜好のために人民に負担を強いるだけのものとして非難される。
上ツ道、中ツ道、下ツ道の推定位置 地理院地図:印影起伏図
奈良県天理市海知町付近
:北緯34度33分54秒 東経135度49分04秒
 それでは、その狂心渠はどこを通っていたのだろうか。 『事典 日本古代の道と駅』には、「「狂心渠」と呼ばれた運河は、下ツ道に沿う寺川がその名残と見られる」(p.68)とある。 その出典とされる「条里制地割の施行起源」(秋山日出雄;『日本古文化論攷』〔吉川弘文館1970〕)は、次のように述べる。 「寺川が香久山の西より流れる位置と其の水路交通的機能を以て狂心渠と考えることは〔あなが〕ち無理な推定ではない」、 「〔狂心渠段〕末尾の註によれば完成したようには思われない」()、 「寺川が下津道の中で平地の低平部約六キロメートルであって、他はそれに当る敷地のみである事は『書紀』の記事を裏書きする」()と述べる(p.463)。 は、氏が原注「若拠未成之時作此謗乎」を狂心渠も未完成に終わったと読んだことを示す。 は、寺川の一部は下ツ道に重なるが、他の部分は下ツ道から離れていくという意味である。
 もし、寺川が狂心渠だとすると、下ツ道と重なる部分の水流は北向きであって、「順流」に反する。 また、寺川と下ツ道との合流点までの、石上山〔豊田累層に比定〕からの運搬経路はかなり遠回りである。 よって寺川=狂心渠説には疑問が残る。
 ただ、同書は「米川・寺川の直線的開墾」(p.462)などと述べるように、河川の直線区間はもともと人工水路で条里整地割の元になったとする。この考えは傾聴に値する。 寺川水路に沿って下ツ道ができたのだから、中ツ道に沿う水路も存在したかも知れないのである。 むしろこの方が、石上山と坂舟石遺跡を結ぶ経路として合理的である。 右図は、中ツ道跡を反映すると見られる用水路である。 直接的には中ツ道の側溝部分に由来すると思われるが、それより古い時代の渠の名残が水路を造り易い地形にしていることも考えられる。 中ツ道に沿う渠の跡が発見される日が、いつか来るかも知れない。
《山椒埋矣》
 山椒は山頂の意。の古訓はスヱ(末)。祝詞六月晦大祓の「国津神波高山之末短山末尓上坐弖。〔国つ神高き山の末短き山の末に上りまして〕で、山頂をヤマノスヱと呼ぶ例がある。
 山椒埋矣は、山頂まですっかり土砂で埋まってしまったという意味であろう。
《若拠未成之時作此謗乎》
 「若拠未成之時作此謗乎〔もしかして、完成する前にこの謗りをしたのかも〕という註が載るということは、実際には石垣は完成したのである。 建設途上においては、石を積んでは崩れる難工事であったのでこのように謗られたと読みたい。
 古訓では「隨作自破」を「作るままに自づから破(こほ)れむ」と未来形で訓むので「積んだはなから崩れよ」と呪詛したと受け止めたようである。
吉野宮(宮瀧遺跡に比定)
《吉野宮》
 〈応神〉十二年《吉野宮》項、 〈允恭九年〉【河内茅渟】項、 第204回【阿岐豆野】項。
 壬申の乱紀では、大海皇子(〈天武〉)が吉野宮に雌伏した(第11回)。
《西海使》
 「西海使」が遣唐使に限定されるなら、元年八月に帰国した河辺臣麻呂の一行のうち、一部が百済に留まっていたしていたことになる。
 ただ、百済使西海使と呼ばれたとすれば、元年七月に「饗百済調使一百五十人」、元年是歳に「百済遣使進調」の記事があり、 一行が帰国するときに「西海使」が同行した可能性もある。
佐伯連𣑥繩  佐伯連については、〈皇極〉三年正月《佐伯連子麻呂》項参照。 𣑥繩はここだけ。
難波吉士国勝  難波吉士については、〈推古〉十五年七月《難波吉士雄成》項、〈皇極〉元年二月《草壁吉士磐金》項参照。
 国勝については、「国勝吉士水鶏」が〈皇極〉三年九月に百済に遣わされ、同年五月に帰国したと見られる。 もし、水鶏と同一人物なら、再び唐または百済に遣わされたことになる。
《鸚鵡》
 鸚鵡〔オウム〕の献上は、大化三年の新羅による献上以来である。
《災岡本宮》
 岡本宮が元年に火災に遭ったことがここにも紛れ込んで、重複して書かれたのかも知れない。 そうではなく、実際に後岡本宮が焼けたとすれば、今回は「遷仮宮」の記事がないから部分火災に留まったのだろう。 前宮焼失の教訓から、万全の防火体制をとったことが功を奏したのかも知れない。宮殿の防火対策の具体例としては、 〈皇極〉三年に「門、置水舟一木鉤數十、以備火災」とある。
《大意》
 二年八月八日、 高句麗の達沙(たつさ)たちを派遣して進調しました
【大使達沙、 副使伊利之(いりし)、 総員八十一名】。
 九月、 高句麗に 大使膳臣(かしわでのおみ)葉積(はずみ)、 副使坂合部連(さかいべのおみ)磐鍬(いわすき)、 大判官(おおいまつりごとひと)犬上君(いぬがみのきみ)白麻呂(しろまろ)、 中判官(なかのまつりごとひと)河内書(かわちのふみ)の首(おびと)【名前不明】、 小判官(すないまつりごとひと)大蔵衣縫造(おおくらのきぬぬいのみやつこ)麻呂(まろ)を遣わしました。
 この年、 飛鳥の岡本を再び宮の地と定めました。 たまたま、高句麗、百済、新羅がそろって遣使進調し、 この宮の地に紺の幕を張って饗(みあえ)をなされました。
 遂に宮室が建ち、天皇は移られました。 名付けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)といいます。
 田身嶺(たむのみね)に冠して垣を廻らしました 。 また嶺の上の二本の槻(つき)の木のほとりに楼観を建てて、 両槻宮(ふたつきのみや)と名付け、別名は天宮(あまつみや)といいます。
 時に工事を興すことを好まれ、 水工に渠(みぞ)を掘らせて、香久山の西から石上(いそのかみ)の山に至りました。 舟二百隻に石上の山の石を積載して流れに沿って引っぱり、 宮の東の山に石を重ねて垣を造りました。
 当時の人はこれを謗(そし)って「狂心渠(たぶれこころのみぞ)に、 費した功夫は三万以上だぜ。 費した垣(かき)造りの功夫は七万以上だぜ。 宮の材は腐ったぜ。 山頂まで埋れたぜ」と言いました。
 また謗りをして「石を積んだ山の丘は、積んでも積んでも自ら壊れる」と言いました 【若しや未だ完成しない時であることによって、この謗りをなしたか】。
 また、吉野の宮を作られました。
 西海使(さいかいし)佐伯連(さへきのむらじ)𣑥繩(たくなわ)【位の階級は不明】、 小山下(しょうせんげ)難波吉士(なにわのきし)国勝(くにかつ)等は、 百済から帰還し、鸚鵡(おうむ)一羽を献上しました。
 岡本の宮に火災がありました。


まとめ
 〈孝徳紀〉は改新詔を中心とした現実的な記述となっていたが、〈斉明紀〉になると一転して神秘のベールで包まれた話が現れる。 場所不明の「松嶺」が出てきたり、「田身嶺」と「宮東山」の呼び名が不統一なところに、伝承ゆえの曖昧さが見える。 こと「乗竜者」は空想の産物であるが、一方田身嶺に冠する周垣については酒舟石遺跡の石列発見により俄然現実的になった。 狂心渠跡と見られる遺跡も発掘されている。三年には須弥山像の記事が出て来る。その像とみられるものが見つかり、須弥山石と呼ばれている。 どうもこの時代には不思議な宗教が広まり〈斉明天皇〉自身も関わっていて、それが「古道」と呼ばれたようだ。
 その宗教は、西域から伝来したとも考えられる(孝徳天皇17まとめ)。そして吐火羅国は、西域の国であった可能性が高まっている。 これについては、〈斉明紀〉を読み進む中で引き続き検討する。
 〈斉明紀〉ではさらに、蝦夷との交流が具体的に描かれる場面が増え、これもテーマのひとつである。 なお、晩年には百済滅亡という大事件が起こる。



2023.10.26(thu) [26-02] 斉明天皇2 

目次 【三年】
《覩貨邏國男二人女四人》
三年秋七月丁亥朔己丑。
覩貨邏國男二人女四人
漂泊于筑紫、
言「臣等初漂泊于海見嶋」。
乃以驛召。
七月…〈北野本〔以下北〕七-月 フツキ
覩貨邏国…〈北〉-ラノ-邏國 クニノ二人 フ女四人-泊于 タゝヨヒ ヨレリ 筑紫 ク臣等 ヤツカレ 海-見 アマミノシマ ハヒフ  ムマヲ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕海見嶋 アマミノシマ  ハイマヲ[切]
三年(みとせ)秋七月(ふみづき)丁亥(ひのとゐ)を朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)〔三日〕
覩貨邏(とくわら)の国の男(をのこ)二人(ふたり)女(をみな)四人(よたり)
[于]筑紫(つくし)に漂(ただよ)ひ泊(は)てて、
言(まをししく)「臣(やつこ)等(ども)初(はじ)めに[于]海見嶋(あまみのしま)に漂(ただよ)ひ泊(は)てつ」とまをしき。
乃(すなはち)駅(はゆま)を以ちて召(め)したまふ。
辛丑。
作須彌山像於飛鳥寺西、
且設盂蘭瓫會。
暮饗覩貨邏人
【或本云墮羅人】。
須弥山(しゅみせん)…[仏教] 仏教の宇宙像において、世界の中央に立つ巨大な山(〈崇峻即位前〉/《護世四王》)。
須弥山像…〈北〉ツクテシユ--山像於センノ カタヲ 飛鳥 ノ西 ニ[句][切]マウク ランホンノ ヲカミ 暮饗覩- イ无貨-ラノ 或本云墮羅ツラ
 〈閣〉カタヲ-ヲカミ。 〈釈紀〉墮羅トラ
…[名] 口の広いうつわ。に同じ。
くれ…[名] 日の暮れるとき。
辛丑(かのとうし)〔十五日〕
須弥山(しゆみせん)の像(かた)を[於]飛鳥寺(あすかてら)の西に作りて、
且(また)盂蘭瓫会(うらんぼんゑ)を設(まう)けたまふ。
暮(くれ)に覩貨邏(とから)の人に饗(みあへ)したまふ
【或本(あるふみ)に、墮羅(だら)の人と云ふ】。
九月。
有間皇子、性黠陽狂云々。
往牟婁温湯、偽療病來、
讚國體勢曰
「纔觀彼地病自蠲消云々」。
天皇、聞悅思欲往觀。
九月…〈北〉九-月ナカツキ
有間皇子…〈北〉有間 アリマノ皇子 性黠/ヒトゝナリ/サ\イツハリ狂 \タフレスルコトトリ   クルヒスル  ウニリ    云々 シカ\/イフ
 〈閣〉ヒトゝナリ サトリテ ウニリクルヒスト。 〈釈紀〉ヒトゝナリサトシイツハリタフレスルコト云々シカ\/
牟婁温湯…〈北〉 ノ ユ  マネニ ヲサムルマウキ ホメ ノ體-ナリ  スカタ  ク
 〈閣〉ホメ ノ ナリ ヲ
纔観彼地…〈北〉 ヒタシ觀彼トコロ病自蠲-- イ无ノソコリヌト聞-悅 シメシ-欲 オモホス往-觀
 〈閣〉 ヒタ-ノソコリヌト - シメシテ -オホスミユキシテヲハシマシテ觀  テミソナハサント
 〈釈紀〉ヒタシ蠲消ノソコリス
…[形] 悪がしこい。(古訓) さかし。かしこし。くろし。
いゆ…[自]ヤ下二 病気が恢復する。〈時代別上代〉「「療イヤス」(名義抄)など、他動詞イヤス(四段)の例を見る」。
…[副] わずかに。
ひたた…[副] わずかに。かろうじて。
…[形] いさぎよい。
…取り除く。 
のぞく…[他]カ四 〈時代別上代〉「ノゾコルは、ノゾクから派生した自動詞とみられ、除かれるの意である」。
九月(ながつき)。
有間皇子(ありまのみこ)、性(ひととなり)黠(かだま)しく陽(あざむ)きて狂(たぶ)れ云々(しかしか)。
牟婁(むろ)の温湯(ゆ)に往(ゆ)きて、偽(いつはり)に病(やまひ)を療(いや)して来(く)、
国(くに)の体勢(かたち)を讚(ほ)めて曰(まを)ししく
「纔(ひたた)彼地(そこ)を観(み)ば病(やまひ)自(おのづから)蠲消(いえむ)云々(しかしか)」とまをしき。
天皇(すめらみこと)、聞(きこしめ)して悦(よろこ)びたまひて往(ゆ)きて観(みそなは)さむと思欲(おもほ)せり。
是歲。
使々於新羅曰
「欲將沙門智達
間人連御廐
依網連稚子等、
付汝國使令送到大唐。」
欲将…〈北〉ホシ ヒキヰテ沙門  ホウシ タツ  間人  ハシヒトノ ムラシ ムマヤ 依- モ サミノ ムラシ ワクワカ- ヒキ汝國使 イマシカクニノツカヒ一上 シメムト ヲク■■大-ム モロコシニ
 〈閣〉オ ト ホシ 到大唐
 〈釈紀〉オホスヒキヰテワカタチヲ ツケテ汝國イマシノクニノ使ツカヒニッシメムトヲクリ-イタサ大唐モロコシニ。 。
是歳(このとし)。
使(つかひ)を[於]新羅(しらき)に使はして曰(のたまは)く
「[欲]将(まさに)沙門(ほふし)智達(ちたつ)
間人連(はしひとのむらじ)御廐(みむまや)
依網連(よさみのむらじ)稚子(わくご)等(たち)に、
汝(いまし)が国の使(つかひ)を付(そ)へて大唐(だいたう、もろこし)に送り到(いた)ら令(し)めむとおもほす」とのたまふ。
新羅不肯聽送。
由是、沙門智達等還歸。
不肯聴送…〈北〉新-羅 シラキ -肯聽 カヘサスカヘ■サスタマヘリ。 〈閣〉 カヘス ヤス- ウケタマハリ 
 〈釈紀〉新羅シラキ-肯カヘムセス聽送ウケタマハリ
新羅(しらき)、送ることを不肯聴(うべなはず)。
是(こ)に由(よ)りて、沙門(ほふし)智達(ちたつ)等(たち)還帰(まゐかへりつ)。
西海使小花下阿曇連頰垂
小山下津臣傴僂
【傴僂此云倶豆磨】、
自百濟還、
獻駱駝一箇驢二箇。
西海使…〈北〉西 ノ ミチ使小花下[切]阿-曇 アツミノムラシ頰- ツラ タリツノ傴-僂 クツマ 傴僂ウルウサキ。 〈閣〉 ヲハ云倶ウサキマ
 〈釈紀〉小花下阿曇アツミ ムラシ頰垂ツラタリ小山セウセン津臣ツノオン傴僂クツマ 
うさぎうま…[名] ロバ。
西海使(にしのうみのみちのつかひ)小花下(せうくわげ)阿曇連(あづみのむらじ)頰垂(つらたり)
小山下(せうせんげ)津臣(つのおみ)傴僂(くつま)
【傴僂此をば倶豆磨(くつま)と云ふ】、
百済(くたら)自(ゆ)還(まゐかへる)、
駱駝(らくだ)一箇(ひとつ)驢(うさぎうま)二箇(ふたつ)を献(たてま)つる。
石見國言「白狐見」。
白狐…〈北〉石見 イハミ -國 ク キミユト。 〈閣〉石見
石見国(いはみのくに)言(まを)さく「白き狐見ゆ」とまをす。
《覩貨邏国男二人女四人》
 「覩貨邏国〔トクラ〕吐火羅国(白雉五年四月【吐火羅国】)の別表記であることは明らかである。
 男女六人が筑紫に到着すると直ちに朝廷に報告され、朝廷は折り返し直ちに使者を送り、召すように指示された。その報告と指示の両方に駅使が用いられたのであろう。 このように迅速な対応がなされたのは、白雉五年に渡来した吐火羅人〔特に舎衛女〕に貴人の風格があり、再び渡来があれば丁寧に扱う用意があったからではないかと思われる。
 「海見」(奄美)、「筑紫」に「漂泊」したと表現されるが、実際には確立されていた遣唐南島路を用いて倭国を目指してやって来たのであろう。
 また、「飛鳥寺西」には外国人を饗して接待する施設があったことが読み取れる。
《漂泊于筑紫》
 「漂泊于筑紫」の津は、博多湾沿岸と思われる。 この地については、訶志比宮(香椎宮)(第138回)、 「糟屋屯倉」(〈継体〉二十二年)、「那津之口官家」(〈宣化〉元年)、 「娜大津」(〈斉明〉七年)「改此名曰長津」、 鴻臚館、 「大宰博多津」(〈続記〉天平宝字八年〔764〕)が見える。 三韓、唐への出航地である。
《海見嶋》
 〈天武〉十一年七月条「多祢人掖玖人阿麻弥人」は種子島屋久島奄美大島を指すと見られる。 「阿麻弥」は、現在の奄美大島、あるいはその周辺の島嶼であろう。遣唐南島道の経由地(白雉四年七月)としてよく知られていて、 書紀古訓の時代にも「阿麻弥=海見」と認識されていたと思われる。
 筑紫に「漂泊」したと書かれるが、海見嶋から再び漂流して偶然辿り着いたとは考えにくく、 実際には倭国の筑紫-奄美間の通行船によって先導されたのではないだろうか。
 なお、吐噶喇列島は奄美大島に近いから「海見嶋」のうちで、吐火羅人が幾度も漂着したことによってこの呼び名が生れたのではという思いは消えない〔但し=カ、=クヮで発音が異なる〕
《須彌山像》
 須彌山像については、〈斉明〉五年に「甘檮丘東之川上、造須弥山而饗陸奧与越蝦夷」、 六年五月に「於石上池辺作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人」も見える。
 ここでは須弥山像を「飛鳥寺西」に作って盂蘭盆会を開催したという。 暮れて覩貨邏人を饗したのも、同じ場所であろう。
 この飛鳥寺西では仏教行事が開催され、また外国使節の接待所として使われたと見られる。 須弥山像や石人像(後述)は、その庭園内の噴水設備であったと考えられている。詳しくは【飛鳥寺西の須弥山石】項で述べる。
《盂蘭瓮》
 盂蘭盆は、もともと盂蘭盆経にもとづく仏教行事である。
 盂蘭盆経の中心的な部分は次のようになっている。
  仏説盂蘭盆経(抜粋)
 仏(釈迦)が祇園精舎にいらっしゃったときのこと。
 目犍連〔もくけんれん、目連とも〕は、亡き父母が育ててくれた恩に報いようとして探したところ、母は餓鬼の中にいた。
 食物をとらずその姿は骨と皮だったので、「鉢盛飯」を与えたが、
 「食未入口化成火炭遂󠄂不得食〔口にする前に食物は炭となって食することができなかった〕
 目連は悲嘆にくれ、仏にその有様を申すと、仏は言った。
 「非汝一人力所奈何 汝雖孝順聲動天地 天神地神邪魔外道道士四天王神 亦不能奈何 當須十方衆僧威神之力 乃得解脱
 〔お前一人の力では、その孝順の声が天地を動かし、天神、地神、邪魔、外道、道士、四天王神をもってしても無理である。 まさに十万衆僧威神の力ではじめて解脱できよう〕
 今、その救済の法を教えよう。
 「十方衆僧於七月十五日僧自恣時 當爲七世父母 及現在父母厄難中者 具飯百味五果汲潅盆器 香油錠燭狀敷臥具 盡世甘美以著盆中 供養十方大德衆僧
 〔十方衆僧於七月十五日、僧自恣〔安居期間の罪過の有無を自省する〕の時、七世の父母及び現在の父母の厄難の中にある者のために、 飯、百味、五果を具(つぶさ)に盆器に汲灌し〔=盛り〕、香油の錠〔=金属容器〕に燭を灯した状態で、臥具〔=寝具〕を敷き、世の甘美を尽くして盆の中に加えて十方の大徳衆僧を供養しなさい〕
  …中略…
 「為作盂蘭盆施仏及僧 以報父母〔盂蘭盆をなして仏及び僧に施し、もって父母に報いなさい〕
  …以下略…
香油錠燭狀敷臥具は難解であるが、ひとまず僧侶にお泊りいただく寝室の設(しつらえ)について述べたものとして読んでおく。
 盂蘭盆は、梵語ullambana〔倒懸〕の音写と言われてきたが、近年は 「「盂蘭」の原語をodana(ご飯)とし「盂蘭盆」は「ご飯をのせた盆」の意味であるとする説が有力となっている」 という(Web版浄土宗大辞典)。 盂蘭盆経の文脈から見て、妥当と思われる。
 目犍連もくけんれんは釈迦の弟子。盂蘭盆経は、西晋の竺法護じくほうご訳とされるが、 梵語の原典はなく、中国で作られた偽経ともいわれている。
 確かに盂蘭盆経は衆僧への供養は盛大であるほどよいと露骨に求めていて、品がない。 そこには民衆が行っていた一般的な祖先供養を、盛大な仏教行事に転化させようとする意図が感じられる。 それを考えると、やはり教団が実利を得るがための偽経ではないかという疑いは拭えない。
《暮饗覩貨邏》
 「覩貨邏」は、筑紫に漂泊した覩貨邏人を大切な客人として接待したことを示す。 白雉五年に渡来した舎衛女らも、ともに参加したのではないかと思われる。
 「」も、七月辛丑に行われたと読める。 日中「盂蘭瓮会」を開催し、同じ会場で日が暮れてから覩貨邏人の饗を行ったわけである。 「盂蘭瓮会」には覩貨邏人も列席していて、終了後に残して饗を行ったと解釈するのが自然であろう。
《或本云墮羅人》
 墮羅だら缽底ほっていは現在のタイの地域にあった。 「或本云墮羅人」という原注をもって、「吐火羅国」は墮羅缽底国の別名であるとの説が生まれたのかも知れない。 しかし、吐火羅国がアフガニスタン北部のアム川上流の国であったことは確定している (【吐火羅国】)。
 「或本云」とは、吐火羅国人とは別に墮羅缽底国人が飛鳥寺西の迎賓施設で饗されたことを書いたものであろう。 唐は西域との交流も盛んで、貨邏人や墮羅人を含め、幅広い地域から人が来ていたと思われる。 そして彼らが倭の学問僧などと知り合ったことが、倭国に渡来したきっかけとするのが考えやすい。 渡航路は、遣唐使の航路を用いたと見るのが現実的である。
《有間皇子性黠陽狂》
 有間皇子は〈孝徳〉の皇子であるから、次代の天皇になり得る立場である。 母は阿倍倉梯麻呂大臣の女、小足媛(大化元年)。
 押坂彦人大兄皇子の血の濃い中大兄(〈天智〉)に比べると、阿倍倉梯麻呂系の血が半分入った有間皇子は血統的に不利だったようである。 それにしても、性(ひととなり)が「」(悪賢い)、「」(欺く)、「」(たぶる)とはひどい書かれようである。
 なお、の古訓は「サトシ」であるが、これは厩戸皇子のサトミミ(聡耳)のようにとてもよい意味である。 上代語のサトシを悪い意味に使うのは疑問である。カダマシ(心が曲がっている)の方が適当ではないだろうか。
《牟婁温湯》
紀伊国牟婁郡崎の湯 (和歌山県西牟婁郡白浜町1668)
 牟婁郡は、紀伊国南部の広大な郡で、1879年に西牟婁郡・東牟婁郡(和歌山県)、北牟婁郡・南牟婁郡(三重県)となった。 牟婁温湯については、以後次の記事が見える。
〈斉明〉四年〔658〕七月甲子。幸紀温湯。
〈斉明〉五年〔659〕正月辛巳。天皇至自紀温湯。
〈天武〉十四年〔685〕二月紀伊国司言。牟婁湯泉没而不出也。
〈持統〉四年〔690〕八月丁亥。天皇幸紀伊。…戊戌。天皇至自紀伊。
〈続紀〉大宝元年〔701〕九月丁亥。〔文武〕天皇幸紀伊国。
 (同上) 冬十月丁未。車駕至武漏温泉。
 〈天武紀〉の記事は、自然災害が考えられるが、「不出」とあるので単なる枯渇を「」で表現した可能性もある。国司による報告があったことは、湯治のための宮が設置されていたことを示すと思われる。 大宝元年には、文武天皇が「武漏温泉」に行幸した。太上天皇〔持統〕の同行には触れられていない。
 白浜温泉については、 白浜町公式/崎の湯:「白浜が温泉地として世に知られるようになったのは、今から約1400年前の飛鳥・奈良朝の頃で、その走りが「崎の湯」です。 その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、「日本書紀」や「万葉集」にも記されています。」と言われる。 その嶋の湯の位置は、牟婁郡に含まれる(右図)。
 〈持統天皇(上皇)〉の牟婁温湯行幸の事実は書紀には直接書かれないが、万葉集から確認できる。詳細は別項【紀温泉】を立てて考察する。
《偽療病》
 わざわざ「偽療病」と書き、有間皇子を貶めている。 冷静に考えれば、仮に病気でなくとも健康増進のために温泉に出かけることは非難されるべきことではない。
《使々於新羅》
沙門智達  この後、四年七月には唐に渡り、玄弉法師による「無性衆生義」を受講する。
間人連御廐  間人連は中臣氏の族(〈推古〉十八年)。 白雉五年中臣間人連老が唐に派遣された。 御廐はここだけ。
依網連稚子  物部依網連は、〈推古〉十六年八月参照。 稚子はここだけ。
 使者は、倭使と共に新羅使を唐に派遣することを促した。時期から考えて、新羅が百済を攻めるにあたって、唐が支援することを警戒していたと考えられる。 よって、百済・高句麗には自力で対抗するから唐軍の助けはいらないと言わせようとしたことが考えられる。
 だとすれば、新羅がそれを断ったのは当然である。
《欲将沙門智達…》
 古訓は「将沙門智達」のを「ヒキヰテ」と訓む。だとすれば別の人物が率いていったことになるが、それは誰であろうか。その名前は記されていない。 その後、交渉が不調に終わると「沙門智達等帰還」と書かれる。つまり、新羅に派遣された使者は智達たちのことである。
 つまり、「使使つかひを於新羅」の「使つかひ」は沙門智達等自身のことで、他の人は登場しない。 沙門智達自身が「欲将沙門智達…」と言うことがあるのかと思われるかも知れないが、これは持参した詔書に書かれた言葉で、それを読み上げただけのことであろう。
 「」は動詞「ヒキヰル」ではなく、副詞〔マサニ~セントスと訓む〕で、倭の朝廷の意志を示す言葉である。
《不肯聴送》
 「不肯聴送」のとは同じ意味。諸辞書に熟語としては載らないが、〈中国哲学書電子化計画〉を見ると「肯聴」の用例はかなり多い。 「」の現代語としての訓読は、「ゆるすことをがえんじず」となろう。〈釈紀〉の「カヘムセス」は、現代語の「ガエンゼズ」である。
《西海使》
 二年に続いて、三年にも西海使帰国の記事がある。
 二年《西海使》と同様、遣唐使の一部が帰国の途中に百済に留まっていた()とも、 あるいは百済への遣使が頻繁であった()とも考え得る。
 今回はラクダ一頭、ロバ二頭が新羅からの献上品だとすれば、新羅との関係が緊迫したことに伴う贈り物攻勢かも知れない。
 ただ、ラクダの原産地は西域で、シルクロードを行き来する隊商の運搬手段であった。 遣唐使が西安に滞在していたとき、仲良くなった西域の人からプレゼントされたラクダを連れ帰ったのだとすれば、 飛鳥時代の倭と西域との交流の一つのケースとなる。その場合、西海使は前記ということになる。
阿曇連頰垂  第43回【阿曇連】。〈皇極〉元年阿曇連比羅夫」。 頰垂は四年に帰国。〈天智〉九年に新羅に派遣。
津臣傴僂  〈姓氏家系大辞典〉「津首:物部氏の族」、「津史:摂津の史の意ならむ」など。 「備中の津臣:都宇郡(古名津)より起る」。「津臣傴僂」はここだけ。
《献鸚鵡一隻(二年条)》
 改めて、同じく百済から二年に帰った西海使が献上した「鸚鵡一隻」についても検討する。 オウムの現代の生息域は、オーストラリアから東南アジアである。
 墮羅缽底国は東南アジアのど真ん中であった(白雉五年)。 実は鸚鵡の入手の経緯も駱駝と同じ図式で、唐で出会った墮羅缽底国人から手に入れたと考えることが可能である。
 実は、どちらも西海使が百済から帰って献上したと書いてあるだけで、百済国が献上したとは書いていない。 西海使は遣唐使で、とりわけ新羅道を用いた場合の呼び名ではないだろうか。
 …〈斉明〉六年(百済の滅亡)までは百済道と称すべきである。
《白狐》
 吉兆の朝廷への報告はしばしばあり、今回の「白狐」もその一つである。 白雉の捕獲は改元のきっかけになったが、今回は元号にはならなかった。 後に白亀は元号〔神亀〕になっている。では無理ということか。 あるいは、〈斉明朝〉では元号そのものをやめ、それは性急な唐風化にブレーキをかけたためとも考えられる。
《大意》
 三年七月三日、 覩貨邏(とから)の国の男二人女四人が 筑紫(つくし)に漂泊し、 「私どもは、最初は海見(あまみ)〔奄美〕嶋に漂泊しました。」と言いました。
 そこで、駅使を送り召しました。
 十五日、 須弥山(しゆみせん)像を飛鳥寺の西に作り、 且つ盂蘭盆会(うらぼんえ)を設けました。
 暮れて覩貨邏(とから)の人に饗されました 【ある書には、墮羅(だら)の人ともいいます】。
 九月、 有間皇子(ありまのみこ)は、性格が悪賢く欺き狂っている云々といいます。 牟婁(むろ)の湯に出かけ、病を療養していたと偽って帰り、 その地のさまを褒めて 「少しその地を見ただけで、病は自ずから解消して云々」と申し上げました。
 天皇(すめらみこと)は、お聴きになり喜ばれ、行って御覧になりたいと思われました。
 この年には、 使者を新羅に遣わして 「沙門(さもん)智達(ちたつ)、 間人連(はしひとのむらじ)御廐(みむまや)、 依網連(よさみのむらじ)稚子(わくご)らに、 あなたの国の使者を添えて大唐に送らせようと欲す」と宣(のたま)いました。 新羅(しらき)は、使者を送ることを肯定しませんでした。 これにより、沙門智達らは帰国しました。
 西海使(さいかいし)小花下(しょうかげ)阿曇連(あずみのむらじ)頰垂(つらたり)、 小山下(しょうせんげ)津臣(つのおみ)傴僂(くつま) は、 百済から帰還し、
駱駝(らくだ)一頭、驢馬(ろば)二頭を献上しました。
 石見(いわみ)の国は「白い狐を見ました」と言上しました。


【飛鳥寺西の須弥山石】
《須弥山像》
須弥山石男女像
奈良県明日香村石神出土 〈東京国立博物館:研究情報アーカイブズ
 「須彌山しゅみせん」とされる石造品が、飛鳥寺北西の水田から明治時代に発見されている。
 「須弥山石」(清永洋平;奈文研ニュースNo.18〔奈良文化財研究所2005〕)によると、 「文様と内部構造から、現状の下から第1石と第2石の間にも同様の石があったことを想定でき、 これらを積み上げると高さ3.4mほどに復原できます。石の内側はくりぬかれており、第1石の下面に穿たれた細い円孔から、 サイホンの原理により内部に水をため、第1石の側面ケ所の穴から噴き出させる噴水施設と考えられ」るもので、 「明治35年〔1902〕に飛鳥寺の北西の水田(現石神遺跡)で発見された」という。
 その翌年に、同じ場所から石人像が発見された。 「石人像」(西山和宏;奈文研ニュースNo.17〔奈良文化財研究所2005〕)によると、 「明治36年〔1903〕に、飛鳥寺(安居院)の北西の水田(現在の石神遺跡)から出土」、 「現在は欠損している男性のもつ盃と女性の口には、像の底からつながる直径約2cmの孔が開けられ」、「おそらくは噴水として用いられた」という。
 石人像についてe国宝は、 「高さ1.7mの台座に腰かける翁と老女」の像で、 「翁の踝(くるぶし)付近から口元まで小孔が貫通するが、胸元で分岐し、1つは老女の口元で開口」していて、 「足元にひかれた水は、2人の口元へと導かれ、噴水としての機能をはたした」、 「2人とも下がり気味の大きな目と鈎鼻が特徴的であり、西域の人を彷彿とさせ」、 「この西域の人を写した石像に、7世紀代の東西の交流をみることができる」と述べる。
 須弥山像と石人像の発見された位置は、石神遺跡の南端で、飛鳥寺域の北西角に近い。
《石神遺跡》
 『飛鳥・藤原宮発掘調査概報15』〔奈良国立文化財研究所1985〕は、 第4次調査の「まとめ」(p.67)で、「七世紀半ばをやや降る時期」において、 「饗宴地区と推定」される区域には「石敷を伴う井戸を中心に大規模な建物を配置している」、 この饗宴地区は「7世紀中ごろから藤原宮期にかかけて、ほぼ連続して利用」されていたと述べる。
 『石神遺跡の調査-石神遺跡第18次現地説明会資料』〔奈良文化財研究所2006〕は、 「(第18次)調査区周辺は7世紀以前は沼地」で「A期〔7世紀前葉~中葉〕に整地」、 「南北溝1」には「岸の一部に石組や杭列といった護岸施設が残っていました。 B期〔天武朝〕に機能したと考えます」と述べる。
 『飛鳥・藤原地域における文化遺産の特質』〔相原嘉之;2008〕によると、 石神遺跡は「斉明朝・天武朝・藤原京期」に区分され、そのうち 「最も整備されたのは斉明朝の時期…南北約180mの範囲で掘立て柱大垣によって区画され」、 「南の水落遺跡からの銅管や木樋がこの地下に巡らされ」、 「噴水石造物である須弥山石や石人像」に「接続していたものかもしれない」、 そして、「斉明紀にある饗宴施設と推定され…支配体制や東アジアの交流を示す」と考えられているという(p.10)。
飛鳥寺西遺跡 『明日香村発掘調査報告会2012』
石神遺跡の位置 『石神遺跡第18次現地説明会資料』
 ここを会場として、三年七月辛丑に盂蘭盆会覩貨邏人へのが開催されたのは確定的である。 庭園には須弥山像と男女像があり、両者とも噴水装置を兼ねている。 人物像の顔つきは西域の人のもので、この場所がシルクロードの果てまで及ぶ文化交流の空間となっていたことが伺われる。
《飛鳥寺西方遺跡》
 「飛鳥寺西方遺跡の調査」長谷川透(『明日香村発掘調査報告会2012』明日香村教育委員会)は、 「1区の北側で検出した石敷遺構」は「15~25cm大の石を 敷き詰めたもので、縁辺は直線と曲線からなり、平面形は不整形となる」、 「石敷きの周囲全体に敷かれた砂利敷」は「3~10cm大の小石や砂利を敷きつめ」たもので、 「西門の正面一帯は砂利敷や石敷などで広範囲にわたって整備されていたことが明らかになった。 このような石敷や砂利敷がいわゆる〔皇極天皇紀の〕「槻樹の広場」に相当する石敷であると考えられる」という。
 この石敷き広場は、〈皇極〉三年偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶」なる逸話の場所と考えられる。 また、〈皇極〉四年には「天皇皇祖母尊皇太子於大槻樹之下召集群臣」、 すなわち群臣の面前で〈孝徳〉、退位した〈皇極〉、中大兄皇子三者の盟約を行った。その「大槻樹之下」も石敷き広場であるのは明らかである。 ことによると、石敷きの中央の「穴」は大槻樹を抜き取った跡かも知れない。
 この広場は、時々人々を集めて行事が行われたようである。その公的な広場から北に広がって国家行事や外国人接待の会場〔石神遺跡〕に発展したと考えることができる。

【紀温泉】
《湯崎温泉碑》
 牟婁温泉について、『大日本地名辞書』は次のように述べる(抜粋)。なお、現代文への翻訳を添える。
『大日本地名辞書』〔吉田東伍;1907〕牟婁温泉(国立国会図書館)
 「今瀬戸鉛山村字湯埼ユノサキに在り、此地海上斗出の山崖にして数涌泉あり、 沙中所々湯を覚ゆる者あり、海底亦涌出の所あるを見るへし、其浴場六所客舎三十戸頗殷賑なり。 牟婁温泉碑は村内全徳寺門前に在り、天保中建つる所なり」。 牟婁温泉碑〔抜粋〕には「書紀云、持統天皇四年九月、天皇幸紀伊、又続紀云、文武天皇、大宝元年九月、太上天皇、幸紀伊国、冬十月 車駕至武漏温泉、蓋此時二聖相偕幸焉、則持統帝乃併前両回、 万葉集所載亦足以微笑、然則此地、温泉之美、海嶽之勝、所称於古者、其将奚疑、今村中相伝称、御船美幸芝者、臨幸之遺跡云、…」などと記される。
〔今、瀬戸鉛山(かなやま)村の字(あざ)湯埼(ゆのさき)にあり、この地は海上に突出した山崖(さんがい)で数個の涌泉がある。 砂の中に所どころ湯を感じるところがあり、海底にも湧出するところがあるらしい。その浴場は六ケ所に客舎三十戸。頗(すこぶ)る賑わっている。 牟婁温泉碑は村内の全徳寺〔金徳寺の誤り〕の門前にあり、天保年間に建てられた。 碑文(抜粋)には「続紀にいう。文武天皇の大宝元年九月、太上天皇〔釈紀は天皇〕は紀伊国に行幸。 十月に武漏温泉に至り、このときは持統・文武が揃って行幸した。持統は前回と併せて二回目、 万葉集に載るところは、満ち足り微笑し、しからばすなわちこの地の温泉の美、海山の景勝が古(いにしえ)より称えられたことを疑わざることがあろうか。〔奚は反語の副詞〕 今、村人の言い伝えでは、御船美幸芝は、行幸に臨まれた遺跡という…」。〕
…「谷」の「ハ」が「ノ乚」になった字。同書の他の箇所の「谷」は普通の字形なので、碑文の字を見えた形のままで記したものか。
崎の湯周辺
 この文中の湯崎温泉碑行幸芝については、和歌山県西牟婁郡白浜町公式ページに次の資料が見つかった。
 『白浜☆湯崎☆リーフレット2021』白浜第二小学校6年生
湯崎温泉碑(旧)」:「山神社の階段手前」にあり、「元々は金徳寺にあった」もので「江戸時代、仁井田好古さんに頼み…造った碑です。拓本は金徳寺に保管されています」という。
行幸の芝の碑」:「行幸の芝の碑のある台地は658年に斉明天皇が滞在された行宮があったところ」、「碑は昭和15年に建立」。 「『草だにも 御幸てふ 名のかしこみて ふみ分かたくも おもはゆるかな』という読み人しらずの歌にちなんで行幸の芝と名づけられました」。
 「草だにも…」の歌意は、「ただの草むらであっても御幸という名は畏れ多く、踏み分けることにもその思いが涌く」であろう。 〈持統〉〈文武〉が温泉に行幸した話は、この地にかなり浸透していたようである。
 しかし、〈持統上皇〉が〈文武天皇〉に同行したことは、万葉集を組み合わせることによって、はじめて明らかになる。
《持統上皇の行幸》
 〈続記〉では、大宝元年十月に天皇〔文武〕が「武漏温泉」を訪れたと書くが、太上天皇と二人で行ったとは書いていない。
 一方、(万)1667の題詞に「大宝元年辛丑冬十月太上天皇〔持統〕大行天皇〔文武〕幸紀伊国時歌十三首 〔紀伊国に幸(いでま)しし時の歌十三首〕」とある。
 このように題詞には二人で行幸したと書いてあるが、その十三首に武漏温泉のことを直接詠んだ歌はなく、単に紀伊国紀行に伴う歌である。 また題詞では「御製歌」ではなく単に「」なので、すべて同行者が詠んだ歌である。
 つまり、続日本紀の記事と万葉集題詞の内容とを組み合わせることによって、はじめて太上天皇(〈持統〉)と〈文武天皇〉が連れ立って「紀伊国武漏温泉」を訪れたということができる。
《斉明天皇の行幸》
 一方、ずばり「紀温泉」の文字が二首の題詞に見え、これらは〈斉明天皇〉の行幸を指すと見られる。
(万)0009 題詞「幸于紀温泉之時額田王作歌」。
(万)0010 題詞「中皇命徃于紀温泉之時御歌」。
 0010の左注では動詞が「」ではなく「」だから、天皇ではない。 それでは、題詞の中の「中皇命」は誰を指すのであろうか。
 万葉集に「中皇命」は、もう一か所ある。
(万)0003 題詞「天皇遊獲内野之時中皇命使間人連老献歌〔天皇が内野で狩りをしたときに間人連老に命じて献上させた歌〕
 0003の歌の書き出しは「八隅知之 我大王乃 やすみしし わがおほきみの」であるから、作者の中皇命は皇后であった可能性が高い。 その「天皇」については、ひとつ前の(万)0002の題詞に、「高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇〔舒明;在位629~641〕」とある。 また「間人連老」は白雉五年〔655〕の遣唐使に判官として加わった人物だから、時期から見て0003の「天皇」は〈舒明〉と見てよいだろう。
 〈舒明〉の皇后は宝皇女だから、「中皇命=宝皇女=〈皇極〉=〈斉明〉」ということになる。
 すると、中皇命の「」は「」ではないから〈皇極〉即位前となる。しかし、実際に「紀温湯」に初めて出かけたのは〈斉明〉重祚の後である。これは困ったことになった。
 しかし、そもそも万葉集は既に存在した多数の歌を蒐集したものである。 「中皇命徃于紀温泉之時御歌」は原典資料の段階で三首に付けられた説明かも知れない。その説明は、即位後に詠んだ歌でも宝姫当時と変わらぬ親近感のままで書かれたものだとしたらどうであろうか。
 一方、0012に次の左注がある。
(万)0012 左注「右検山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云々
 〔右を検(かむがふ)に山上憶良大夫の『類聚歌林』に曰はく「天皇御製歌云々」〕
 これは、00100012の三首全体への左注と考えることができる。 万葉集の編者は、原典資料にあった「」字を含む解説をそのまま題詞として収め、そこに左注「天皇御製歌」を書き加えることによってカバーしたのではないだろうか。こう考えれば辻褄が合う。
 0009も、0010の一つ前だから、斉明天皇の紀温泉行幸シリーズに含まれるかも知れない。 額田王は、一般に生年630年頃、没年690年頃と推定されているので、〈斉明〉四年〔658〕の幸紀温湯に同行したとしても不都合はない。
 以上から、0009題詞の「」の主語は〈斉明天皇〉といってよいだろう。また、0010題詞の「中皇命」も〈斉明天皇〉で、その皇后時代の呼び名を使ったものと考えることができる。

目次 【四年正月~五月】
《阿陪臣率船師伐蝦夷》
四年春正月甲申朔丙申。
左大臣巨勢德太臣薨。
正月…〈北〉四秊春正月 ムツキ
左大臣…〈北〉 ノ大臣ヲホマウチキミ[切]巨-勢○德イ臣。 〈閣〉 ノ德臣[切] ミウ 〔ミウセリ〕
巨勢徳太臣大化五年四月に左大臣に就任した。
四年(よとせ)春正月(むつき)甲申(きのえさる)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)〔十三日〕
左大臣(ひだりのおほまへつきみ)巨勢(こせ)の徳太(とくた)の臣(おみ)薨(こう)ず。
夏四月。
阿陪臣【闕名】
率船師一百八十艘伐蝦夷。
齶田渟代二郡蝦夷望怖乞降。
阿陪臣…〈北〉阿陪アヘノ ヒキヰフオアイ-田 ヌ- シロ望怖乞  オセリ オチ 降於 シタカハムト
 〈閣〉 ヒキヰテフナヲアイ 渟代 ヌニ  シロ オセリ オチテ降 シタカハント
…[動・形] 歯がぶつかり合うさま。[名] あご(=顎)。(漢音・呉音)ガク。(古訓) はしし。あき。
あぎ…[名] 上あご。〈倭名類聚抄〉「:腭【…和名阿岐】口中上腭也」。
おせる…[自]ラ四 高所から見おろす。〈時代別上代〉記載なし。 〈閣/神代下(一書1)〉于天浮橋[テ]-  オセリ [テ]
おせり…[自]ラ変 同上(「オス+アリ」説による)。
夏四月(うづき)。
阿陪臣(あべのおみ)【名を闕(か)く】
船師(ふないくさ)一百八十艘(ももふなあまりやそふな)を率(ゐ)て蝦夷(えみし)を伐(う)つ。
齶田(あきた、あぎた)渟代(ぬしろ)二郡(ふたつのこほり)の蝦夷望みて怖(お)ぢて降(したが)ふことを乞(こ)ふ。
於是、勒軍陳船於齶田浦。
齶田蝦夷恩荷進而誓曰
「不爲官軍故持弓矢、
但奴等性食肉故持。
若爲官軍以儲弓失、
齶田浦神知矣。
將淸白心仕官朝矣。」
勒軍陳船…〈北〉 トゝノヘ  ツラヌ ヲ/陣イ  於齶田浦恩荷オカ。 〈閣〉勒軍トゝノヘテ ヲ
不為官軍…〈北〉 タメ ノ上二 モタラ [句][切]奴等 ヤツコラ[切]性食ヒトゝナリ クラフ 故- モタリ[句]  トシ官軍ミイ マウケタラ 齶田浦神[切]知矣 シリナ [句]  モチ清-白心[テ]アキラカナル -官朝ツカマツラム [句]
 〈閣〉タメノミ ヘ- ノユ ニ モタラ ヲマウケタラハシリナムモチテ
齶田浦神…〈釈紀-述義〉「神名帳」。
なむ…[助動詞]+[助動詞] 連用形に接続する助詞ナムは、強い推定を表す。[完了]の未然形+推量
於是(ここに)、軍(いくさ)を勒(ととの)へて船を[於]齶田(あきた、あぎた)の浦(うら)に陳(つら)ぬ。
齶田の蝦夷恩荷(おか)進みて[而]誓(ちか)ひて曰(まを)せらく。
「[不]官軍(すめらみくさ)が為(ため)が故(ゆゑ)に弓矢を持たず、
但(ただ)奴(やつこ)等(ども)性(ひととなり)肉(しし)を食(くら)ふが故(ゆゑ)に持てり。
若(もし)官軍(すめらみくさ)が為(ため)に、以ちて弓失を儲(まう)けば、
齶田(あきた、あぎた)の浦(うら)の神知りなむ[矣]。
清(きよ)く白(あきらけ)き心を将(も)ちて朝(みかど)に仕官(つか)へまつらむ[矣]。」とまをせり。
仍授恩荷以小乙上、
定渟代津輕二郡々領。
遂於有間濱、
召聚渡嶋蝦夷等大饗而歸。
…〈北〉恩-荷小-乙上。 〈閣〉以小乙上
郡領…〈北〉ミヤツコ嶋蝦夷大- アヘタマフ ツカハス。 〈閣〉 ノ蝦夷
小乙上…制冠十九階(大化五年)の第十七位。
仍(よ)りて恩荷(おか)に授(さづ)くるに小乙上(せうおつじやう)を以(もち)ゐて、
渟代(ぬしろ)津軽(つがる)二郡(ふたつのこほり)の郡領(こほりのみやつこ)に定めたまふ。
遂(つひ)に[於]有間浜(ありまのはま)に、
渡嶋(わたりのしま)の蝦夷(えみし)等(たち)を召し聚(あつ)めて、大(おほ)きに饗(みあへ)して[而]帰(かへ)る。
《阿陪臣伐蝦夷》
 ここでは「阿陪臣【闕名】」とするが、四年是歳条で「肅愼」した「越国守阿部引田臣比羅夫」と同一人物とする見方がある。 五年三月にも「阿倍臣【闕名】」が再び「蝦夷国」を討つから、同一人物とすると随分忙しいことである。
《船師一百八十艘》
 「一百八十」は漠然と数の多いことを示す。〈推古〉二十八年の「臣連伴造国造百八十」と同様であろう。
《望怖乞降》
 の古訓オセリは、書紀古訓のみに見られる。
 〈神代下〉巻では、天から地上を見下ろす意味で使われているが、ここでは沖に現れた船団を遠望する文脈で使われている。 〈推古〉三十一年即年船師満海多至。両国〔=新羅・任那〕使人望瞻之愕然」の「」のオセルは、〈斉明紀〉と同じ使い方である。 その例も含め、仮に上代語にオセルがあったとしても、普通のノゾムで充分であろう。
 船団を見ただけで、あるいはやって来たと聞いただけで怖気づいて服従すると書くのは、定型的な表現である。これまでにも、次の例がある。
〈景行十二年〉「神夏磯媛…聆天皇〔景行〕之使者至、…素幡樹于船舳、参向」。
〈景行四十年〉日本武尊是歳条蝦夷賊首…遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝」、 「蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸」、「俘其首帥而令從身也」。
 これらはま伝承資料に頼る部分だが、史実性が高まった〈斉明三年〉においてもなお、古い時代の書き方が用いられる。 すなわち「望怖乞降」は、定型句による修辞と見るべきであろう。
 なお、越後国側〔日本海側〕の朝廷勢力の進出は、常陸国側〔太平洋側〕の年代より相当遅い年代のようである。 常陸国側の進出は伝説の時代まで遡る(【常陸国側の進出】項で概略を見る)。
《齶田郡》
 出羽柵の秋田郡への移築は、天平五年〔733〕。城柵の設置のために竪穴住居を埋めた跡から、土器が検出されている。 その土器の年代が8世紀前半であること、〈続紀〉に「秋田村高清水岡」とあることから、移築された出羽柵は秋田城の位置と見てよいであろう。詳細は【出羽柵/秋田城】項にまとめる。
 事務処理に使用された漆紙文書の日付と内容から、出羽柵移築のはじめから政庁機能があったと見られるという。 しかし、宝亀六年〔775〕の時点でも蝦夷の動きが不穏であり、兵力の増強や国府の〔秋田城からの〕移転を要請している。 元慶二年〔878〕には、また蝦夷が乱を起こす。 木簡によって8世紀に蝦夷への饗料が支払われていたこと確認できるが、〈延喜式〉の928年になっても秋田郡が出羽国の北限である(資料[72])。
 708年に越後国に出羽郡を設置して以来、日本海沿いに統治範囲を拡大し、秋田郡に出羽柵を移したのが733年である。 書紀成立の720年の時点では、出羽柵は飽海郡または河辺郡であろう。その位置が当時の出羽国の北端で、よって秋田(齶田)地域はまだ郡になっていない。 書紀は、まだ郡になっていない地域を「」と称しているのである。
 蝦夷の首魁恩荷は服従することを約束した。それをもって当時の蝦夷の土地が朝廷の支配下に入ったと見做して、 「」の表記を宛て、その首長を「郡領」と称して任命する形に描いたのであろう。
 しかし、実態は部族が方物〔=特産物〕を献上し、その見返りとして饗、禄を賜る関係である。友好関係ではあっても、国内のの設置とは言えない。 むしろ、三韓との外交関係、また〈天武紀〉十一年における隼人多禰人掖玖人阿麻彌人らとの関係の類である。
 そもそも「」は、大宝元年以前の「」を書紀が遡って書き換えたものであるから、仮に齶田郡が存在したとすれば「齶田評」のはずである。 実際にと称された可能性もなくはないが、書紀の段階において比喩的に「」、「郡領」と表現したと見るのが妥当であろう。
 ただ、四年七月には「渟代郡大領」に蝦夷と虜の戸口の検覈けんかくを命じた〔すなわち、国内郡としての行政〕と書かれるから、なお検討を要する。
《齶田》
 〈倭名類聚抄〉は{秋田【阿伊太有城企治】}とあり、アキは音便となっている。齶田の古訓アイタも平安中期の訓みによると見られる。 音便となる前の形は、『正倉院文書』の「阿支太〔アキタ〕」に見える 〔「丸部足人解」(天平宝字四年〔760〕三月十九日)の文中に「以阿支太城米綱丁[辶+罷]入由此米不持参上」〕
 同じ〈斉明紀〉五年条には「飽田渟代二郡蝦夷」とあり、齶田の別表記「飽田」が存在する。 飽田はアクタの可能性もあるが、どちらにしても間違いなく清音である。飽くの連用形はアキで、秋もアキである。 よって、基本はアキだが、時に話者の癖あるいは聞き手の耳によって濁音ギになることがあったと見るべきか。
《齶田浦》
 齶田浦は、現在の秋田港の位置かも知れない。
 『大日本地名辞書』は、 「齶田浦は、後世其地をつたへず。蓋、男鹿島の地歟、恩荷男鹿音相近し〔但し恩荷(オカ)男鹿(ヲカ)である〕と述べ、 「擬説〔候補〕として、秋田河口の土崎港。男鹿島の北浦または南浦。八郎潟の率浦イサウラ郷(大河村三倉埼)を挙げる。
山本郡と現在の能代市
《渟代郡》
 〈延喜式〉に載る郡は秋田郡が最北で、その北の桧山郡(江戸時代に山本郡に改称)の成立は中世以後である。 現代の能代市は、渟代の遺称と考えられている。能代市公式ページ/能代市のプロフィールには、 「斉明4年、阿倍比羅夫が渟代(ぬしろ:能代の古名)に来航した」、 「1400年代後半、安東氏が檜山城を築き、戦国大名として県北一帯に勢力を築く」と記す。
《不為官軍故持弓矢》
 「不為官軍故持弓矢…」は、弓矢は官軍と戦うための武器でなく、狩猟して食肉を得るために所持するものだという。 古訓は「」にを付し、「」を未然形モタラとして返り点によって「不」に繋いでいる。 ここでは、名詞を理由・根拠の意味で用いている。
《性食肉》
 翌五年七月三日条には、遣唐使が蝦夷を伴って「天子〔=唐皇帝〕と面会した様が載る。 天子は蝦夷の人にいたく興味を持ったようで、「其国〔=蝦夷の国〕五穀」と尋ね、 それに「之。食肉存活」と答えている。この「〔質〕食肉」はその生活を紹介したものと言える。
《津軽郡》
 〈斉明〉元年の《津刈蝦夷》項で見たように、津軽は陸奥の先の地域を漠然と指す名称であった。 渟代郡の北ではあろう。
《小乙上》
 恩荷がいきなり小乙上を授かるのは不自然である。この問題については、四年七月の沙尼具那らの授位のところで改めて考察する。
《郡領》
 「定渟代津軽二郡郡領」を普通に読めば、恩荷を両郡の郡領にしたことになる。 しかし、四年七月条には、渟代津軽両郡の大領及び小領として別の名前が出て来る。 両者の関係はどうなっているのだろうか。
 「二郡郡礼領」を、郡領を束ねる上位の役職とすれば一応筋は通るが、このように階層的な官制が確立していたとは思えない。 《齶田郡》の項で述べたように、蝦夷の族のオビトまたはミヤツコを、書紀の段階で「郡領」に作ったのであろう。
《有間浜》
十三湊など
 『大日本地名辞書』は「有間浜:後世其名を失ふ、〔けだし〕、津軽の四浜北浜の地歟、鰺沢港、十三〔とさ〕浦、小泊島に擬すべしと〔いへども〕、明徴なし」、 「津軽の域内にして、渡島ワタリシマへの津頭たるべきことも推断せらる」、 「後世江流末エルマ恵瑠磨と訛る者、即それ歟と。江流末は、西浜十三湊の一名なり」と述べる。
 五所川原市公式ページ/十三湊遺跡によると、 「十三湊遺跡は13世紀初めに成立し、15世紀後半に急速に衰退するまで、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと、北日本における日本海交通の拠点港として発展、繁栄」したという。
 なお、『五所川原市の地名』〔五所川原市;2015〕によると、「江流末郡」はの『津軽郡中名字』〔天文年間;1532~34〕 に載るが、写本を重ねたもので「中世史料に所見がないなど、その存在が疑問視されている」(pp.24~25)という。
《渡嶋》
 〈続紀〉には、次の箇所に渡嶋が見える。
『続日本紀』
養老二年〔718〕八月乙亥出羽并渡嶋蝦夷八十七人来。貢馬千疋。則授位禄
宝亀十一年〔780〕五月甲戌出羽国曰:渡嶋蝦狄早効丹心。来朝貢献。為日稍久。方今帰俘作逆。侵-擾辺民〔渡嶋蝦狄は昔は丹心に効(なら)い〔=服従して〕来朝貢献したが、長い年月を経て反逆し、周辺の民を襲うようになった〕
 すなわち、養老二年には友好的であったが、宝亀十一年には反逆するようになった。 おそらくは、名目だけの朝貢を受け平和裏に交易していたうちはよかったが、次第に直接的な支配下に置こうとして反発をくらったのであろう。
 この渡嶋が地名だったとすれば、どこであろうか。
 『大日本地名辞書』は、 「渡島は、津軽と共に、〔いにしへ〕コシ国の部属なるべきことは、記紀の古典に依りて之を悟るべし。 〔とく〕に、出羽国を置かれし後は、其部内たり〔=その管轄下であった〕」、 「神代紀一書に越洲コシノシマとあるも、越度島とあるにて、其同一なるを見る」、「持統十年紀(越度コシノワタリ島)」などと述べる。
 確かに伊邪那岐と伊邪那美の島生みの話には、を一つの島として数えたものがある。 第35回では 「興味を引くのは、越が秋津島〔大和国を含む島〕と別の島扱いされていることである。本説と一書(1)(6)(8)が該当する。地続だと認識されていなかったとは、とても思えないので、越は独立性が高い地域だったのであろう」と見た。
 このように『大日本地名辞書』は、「渡島」をピンポイントの地名というより、古くは越洲、後には出羽国〔和銅五年〔712〕に越後国を分離して成立〕の別名と見ている。 確かに、渡島は何らかの出来事があった土地の名称としては現れず、種族名としての「渡嶋蝦夷」、「渡嶋蝦狄」の綴りの一部分として現れるのみである。
 それでも「渡島は越〔出羽国分離前は福井県から青森県まで〕の別名」説は言い過ぎであろう。 漠然とした広域名ではあろうが、津軽より遠方、もしくは津軽を含む一帯であろう。
 なお、北海道の渡島(おしま)国は、旧松前藩の地域をもって1869年に一時的に設置された国である。その漢字表記「渡島」は、渡島=北海道の地名説に由来するものと思われる。
《帰》
 「而帰」は、阿倍臣が任務を終えて戻ったとも読めるが、カヘルにはを使うことが多く、「」は主に外国人の帰化に用いられる。
 ここでは主語を蝦夷として「帰順〔相手の支配下に降る〕と読むことも考えられるが、 五年三月是月条では、明らかに阿倍臣が蝦夷国を討って「帰る」意味で使われている。
《大意》
 四年正月十三日、 左大臣(ひだりのおおまえつきみ)巨勢(こせ)の徳太(とくた)の臣(おみ)が薨(こう)じました。
 四月、 阿陪臣(あべのおみ)【名を欠く】は 船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を征伐しました。 齶田(あきた、あぎた)と渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷は望み見て怖れて降ることを乞いました。
 そのとき、齶田の浦に勒軍陳船し〔=軍船を並べ〕ました。 齶田の蝦夷恩荷(おか)は進み出て誓って申し上げました。 ――「官軍に手向かうためには弓矢を持たず、 ただわたくし共は肉食の習慣の故に持ちます。 もし官軍のために、弓失を用意するなら、 必ず齶田の浦の神の知る所となりましょう。
 清白なる心をもって朝(みかど)に仕官いたします。」
 よって恩荷(おか)に授ける官位を小乙(しょうおつ)上として、 渟代(ぬしろ)津軽(つがる)二郡の郡領(ぐんれい)に定めました。 遂には有間(ありま)の浜に、 渡嶋(わたりのしま)の蝦夷(えみし)等を召し集めて盛大に饗(あえ)して、〔征伐を終えて〕帰りました。

《皇孫建王年八歲薨》
五月。
皇孫建王年八歲薨。
今城谷上起殯而收。
天皇、本以皇孫有順而器重之、
故不忍哀傷慟極甚。
五月…〈北〉五月 サツキ 
皇孫建王…〈北〉 マコ建王 タケル 秊イ[句] ウセマシヌ イマキ城谷上起 モカリモト マモ一レヲカ器-重之 コ■ニ■メタマ  カレアカメタマヒ ニ[テ]-慟極- マトヒタマフ。 〈閣〉順而 /ミサヲカナルヲ ミモヲカキ   器-重コトニアカメタマフ[句]カレ不-忍 アカメタマヒ-哀[切]イ -慟極マトヒタマフコト [句]
器重…〈汉典〉「[think highly of] 上因才能下看重;重視」。
哀傷…人の死をかなしむ。
かなしぶ…[自]バ四 カナシの動詞化。〈時代別上代〉「名詞としてのカナシビも想定される」。
五月(さつき)。
皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)年(よはひ)八歳(やつ)にありて薨(こう)ず。
今城谷(いまきのたに)の上(へ)に殯(もがり)を起(た)てて[而]収(をさ)めたまふ。
天皇(すめらみこと)、本(もとより)皇孫に順(したがふこころ)有ることを以ちて[而]器重之(そのかどをめでたま)へり。
故(かれ)哀傷(かなしび)を[不]忍びたまはずて慟(みなげき)甚(はなはだしき)を極(きは)む。
詔群臣曰、
「萬歲千秋之後、
要合葬於朕陵」。
廼作歌曰。
群臣…〈北〉群臣 ク マチキムタチ  万-歳千-秋{ アラム之後[切]カナラス-ノサ■ヨ レ[句]/廼作-歌 ウタヨミシ[テ][切]。 〈閣〉千秋之 ニハ[切]カナラス合- レ ワカ [句] 輒作 /廼イ - テ
群臣(まへつきみたち)に詔(おほせこと)曰(のたま)はく、
「万歳千秋(ばんざいせんしう、よろづとせ)之(の)後(のち)に、
要(かならず)[於]朕(わが)陵(みささき)に合はせ葬(はぶ)りまつれ」とのたまふ。
廼(すなはち)歌(みうた)を作(よ)みたまひて曰はく。
伊磨紀那屢
乎武例我禹杯爾
倶謨娜尼母
旨屢倶之多々婆
那爾柯那皚柯武【其一】
伊磨紀那屢…〈北〉 伊磨紀那屢イマキナル[切] 乎武例我禹杯爾ウムレカウキニ[切] 倶謨娜尼母クモタチモ 旨屢倶之多々婆シルクシタゝハ 那爾柯那皚柯武ナニカナケカム
 〈閣〉◱紀[句][句] 倶◱謨◱娜◱尼◰母
 〈釈紀〉 伊磨紀那屢イマキナル今城也。殯所也。 乎武例我禹杯爾ヲムレカウヘニ私記曰。師説。小山之上也。 倶謨娜尼母クモタチモ雲立也。 旨屢倶之多々婆シルクシタゝハ験立也。言以祭礼之煙。寄雲聳也。 那爾柯那皚柯武ナニカナケカム何歎也。言此悲歎何事知之也。其一。
 凡御歌意者。見殯葬之煙。悲歎無類之由也。

むれ…[名] 山。〈時代別上代〉「朝鮮語に由来する語か」「「山」の字を書いてムレと読む例も希ではない」。
だに…[助] ~でさえ。
伊磨紀那屢(いまきなる)
乎武例我禹杯爾(をむれがうへに)
倶謨娜尼母(くもだにも)
旨屢倶之多多婆(しるくしたたば)
那爾柯那皚柯武(なにかなげかむ)【其の一(ひとうた)】
伊喩之々乎
都那遇舸播杯能
倭柯矩娑能
倭柯倶阿利岐騰
阿我謨婆儺倶爾【其二】
伊喩之々乎…〈北〉伊喩之々乎イユシゝヲ 都那遇舸播杯能ツナクカハヘノ[切] 倭柯矩娑能ワカクサノ[切] 倭柯倶阿利岐騰ワカクアリキト 阿我謨婆儺倶爾アカモハナクニ
 〈閣〉  ヘ◱能◱ 倭[句] ト[句]
 〈釈紀〉 伊喩之々乎イユシゝヲ 射鹿也。私記曰。言被射之鹿也。以此喩亡人乎。 都那遇ツナク謂尋也。 舸播杯能カハヘノ河邊也。言尋-來河邊也。故第三歌讀飛鳥河也。 倭柯矩娑能ワカクサノ稚草也。私記曰。我孫齒雖童稚。有老成之意。故弥追感慕也。 倭柯倶阿利岐騰ワカクアリキト稚在也。 阿我謨婆アカモハ吾子也。 儺倶爾ナクニ無也。亡也。其二。
 凡御歌意者。建王雖幼稚老成之意。弥追感慕也。

かはへ…[名] 河の辺。〈時代別上代〉ヘは「」、へは「」「と、両者はもともと別語であるが、「上」のヘにもほとりの意があり、はっきり区別することはできない」。
伊喩之之乎(いゆししを)
都那遇舸播杯能(つなぐかはへの)
倭柯矩娑能(わかくさの)
倭柯倶阿利岐騰(わかくありきと)
阿我謨婆儺倶爾(あがもはなくに)【其の二(ふたうた)】
阿須箇我播
瀰儺蟻羅毗都々
喩矩瀰都能
阿比娜謨儺倶母
於母保喩屢柯母【其三】
阿須箇我播…〈北〉阿須箇我播アスカゝハ 瀰儺蟻羅毗都々ミナキラヒツゝ 喩矩瀰都能ユクミツノ 阿比娜謨儺倶母アヒタモナクモ 於母保喩屢柯母ヲモホユルカモ
 〈閣〉[句][句]
 〈釈紀〉 阿須箇我播アスカゝハ飛鳥河也。 瀰儺義羅毗都々ミナキラヒツゝミナキル也。 喩矩瀰都能ユクミツノ逝水也。 阿比娜謨儺倶母アヒタモナクモ間也。无隙也。 於母保喩屢柯母ヲモホユルカモ覺也。其三。
 凡御歌意者。建王薨事。戀慕之思。如流水之無一レ隙之由也。
阿須箇我播(あすかがは)
瀰儺蟻羅毗都都(みなぎらひつつ)
喩矩瀰都能(ゆくみづの)
阿比娜謨儺倶母(あひだもなくも)
於母保喩屢柯母(おもほゆるかも)【其の三(みうた)】
天皇時々唱而悲哭。
唱而悲哭…〈北〉唱イウタヒタマヒ悲-哭 ミネス 。 〈閣〉時々唱而ウタヒタマヒテ  悲-哭 ミネス 
ときどき…[名] 〈時代別上代〉「日葡辞書によると、トキドキ…はときおり・ときたまの意…トキトキは時を定めて・その時その時に、という意味の別があった」。
天皇(すめらみこと)時々(ときどき)に唱(うた)ひたまひて[而]悲しび哭(な)きたまふ。
《皇孫》
 皇孫は高皇産霊(たかみむすび)神の子孫、即ち代々の天皇の家系を指す。特に、天降りした瓊瓊杵尊を指すこともある。 これらは、スメミマと訓む。
 しかし、この段の「皇孫」は〈斉明〉個人の孫を指す。よって古訓はスメミマではなく、「皇孫=ミマゴ」と訓んだと考えられる。「皇子=ミコ」の延長線上であろう。
《皇孫建王》
 建王は〈斉明〉四年に八歳で薨じたから、大化四年〔648〕生まれである。 『本朝皇胤紹運録』に従うとすれば、「斉明天皇。七年崩。六十八」だから、〈斉明〉六十歳のときに生まれた孫である。
 〈天智紀〉に「建皇子。唖不能語」とある。〈天智〉は〈斉明〉の子だから、建皇子は孫である。 しかし、「唖不能語」と〈斉明紀〉の「以有順而器重之」〔順う心があり天皇はその才を認めた〕と両立するかどうかは微妙である。
 そこで、ひとまず両者は別人としてみる。 〈天智天皇〉は「推古二十二年〔614〕降誕」、〈天武天皇〉「推古三十一年〔623〕誕生」。 建王が生まれた年には、〈天智〉三十五歳、〈天武〉二十六歳。 漢皇子はもっと年上のはずであるが、その血筋では皇太子になるのは難しい。やはり皇太子になり得る子に期待をかけていたはずである。
 間人皇女の子も考えられるが、〈孝徳〉との間に生まれた夭折した皇子が書かれなかった可能性はある。 〈孝徳〉以外の子なら、血筋から皇太子になることは難しい。
 〈天武〉の子であったが、夭折したから書かれなかったかも知れない。
 〈天智〉の子建皇子を一度は退けたが、〈斉明紀〉では建王が〈斉明〉によくなつき、可愛がっていた様子を美辞を用いて書いただけだとすれば、 やはり「建皇子」と同一と考えるべきか。
《歌意》
其一 今木いまきなる むれが上に 雲だにも しるくし立たば 何か歎かむ
〔 今木の小山の上に明瞭な〔白い〕雲が立つだけで、何かと嘆く気持ちが涌くだろう。 〕
 摂津国三島郡に、今城塚古墳〔〈継体〉真陵とも〕があった。 しかし、ここでは第三歌で飛鳥川が詠まれるから、飛鳥の今木であろう。また今木郡は高市郡の古名でもある(《今来郡》)。 ナルは、「に在る」の母音融合。ムレ〔山〕は比較的一般的な語であったことがわかる。
 娜尼の古訓「タチ〔立ち〕」は、無理である。
 クモダニモは「雲でさえも」。シルクシは、詩文で用いられる副助詞。 シルシ〔形〕は、はっきりしたさまを表す。「」はであるが、ル・ロに使われるから、「」もで、シロシ=「白し」かも知れない。 「雲だにも白く」の方が自然であるが、ひとまずシルクと訓んでおく。あるいは、ここのシルシは白色の意味かも知れない。
 「何か歎かむ」は反語のようにも見えるが、それでは嘆くことを否定する意味となり、場面に合わない。「何かと歎いてしまうであろう」であろう。
其二 射ゆ鹿ししつなぐ河の 若草の 若くありきと はなくに
〔 矢で射った鹿の後をたどる川辺に生う若草。若くして逝ったと、〔過ぎ去ったことのように〕私が思うことはありません。 〕
 は「上」で、「辺」はであるが、 にも辺りの意味がある。
 共通部分をもつ万葉歌がある。
――(万)3874所射鹿乎 認河邊之 和草 身若可倍尓 佐宿之兒等波母 いゆししを つなぐかはへの にこぐさの みのわかかへに さねしこらはも」。 ワカカヘは若かりしとき、サネシコは寝た娘と解されている。
 ツナグは、追跡の意と見られる。 〈時代別上代〉に「栃木県安曇郡では獣の足跡を求めて追うことをトツナギという」とある。〈釈紀〉も「尋也」というから、鎌倉時代にはこの意味で理解されていた。 ツナクと訓むことについては、 『類聚名義抄』(法上帖)に「:トム キタル オモフ ツナク モトム シル サクル モロ\/ タツヌ」とある。
 シシは食肉となる獣で、猪や鹿を指す。古解が鹿とするのは、上記の万葉歌によるものか。
 〈釈紀〉は、「射ゆ鹿」を夭折した武王への譬えとするが、万葉歌と共通する「所射鹿乎認河辺之和草(之)」は、「若い」を引き出す歌枕であろう。
 アガモハナクニは、万葉に三例(3482,3588,3775)ある。 三例とも「けしきこころを あがもはなくに」となってていて、 「あなたに長く合わなくても、怪しき心を起こして他の女性に心を移すことはありません」という歌である。
 つまりアガモハナクニは、「私の心ではありません」である※)。 しかし、「夭折を惜しむ心はない」では意味が逆になってしまう。
 そこで、完了の助詞に注目すると、「若くありき」は、もう過去のこととして心の整理がついた後に発する言葉である。 そんな言葉は口にしません、すなわちいつまでも悲しみが癒えることはありませんと言うのであれば、ひとまず納得できる。
 ※)…現代語では「思わない」〔未然形+否定の形容詞〕という言い方をするが、古語にはない。 は属格の助詞、は係助詞で、〔オモのオが母音融合によって消失〕は思フの語幹が名詞として使われたのであろう。
其三 飛鳥川 みなぎらひつつ ゆく水の あひだもなくも 思ほゆるかも
〔 飛鳥川の漲り続ける水は、休むことがない。同じように休みことなく、思いが沸き上がる。 〕
 ミナギラフは、ミナギルの未然形+反復を表す動詞語尾である。
 アヒダは隙間で、つまり飛鳥川の激しい流れは休むことなく続くという。同じように建王への思いは休まることがない。
《悲哭》
 古訓「ミネス」は、ネナク〔声をあげて泣く〕の尊敬語〔ミ-は接頭語〕であるのは明らかであるが、ネスは書紀古訓のみの語のようである。
《大意》
 五月、 皇孫建王(たけるのみこ)は年齢八歳にして薨じました。 今城の谷の上に殯宮を建てて収められました。 天皇(すめらみこと)、元より皇孫に孝順の心があることをもって、その才を愛されました。 よって、哀傷を忍ばず慟哭は甚だしさを極めました。
 群臣に詔され、 「万歳千秋の後に、 必ず朕の陵(みささぎ)に合葬しなさい」と仰りました。
 そして、次の三首を詠まれました。
――今木なる 小山(をむれ)が上に 雲だにも 白くし立たば 何か嘆かむ【第一首】
――射ゆ鹿(しし)を 繋ぐ河辺の 若草の 若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに【第二首】
――飛鳥川 漲(みなぎ)らひつつ 逝く水の 間もなくも 思ほゆるかも【第三首】
 天皇(すめらみこと)は、時どきに歌われ、悲哭されました。


【常陸国側の進出】
 朝廷の国による越後国側からの蝦夷地域への進出は7世紀半ば以降と見られるが、 常陸国側へは、それより相当遡るようである。
 その端緒は、〈景行〉二十七年武内宿祢、自東国還之奏〔曰〕東夷之中、有日高見国、其国人、男女並椎結文身、為人勇悍、是総曰蝦夷」にある。
 日本武尊は、「蝦夷境」(陸奥国南部か)に達する。 〈景行〉四十年是歳日本武尊、則従上総転、入陸奧国。時、大鏡懸於王船、従海路𢌞於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境」 葦浦は茨城県ひたちなか市、玉浦は宮城県岩沼市など。
 日本武尊まで年代を遡るのは大幅過ぎるが、 常陸国から牡鹿までの進出の記事は、比較的史実性が高まった〈推古〉紀以後には書かれないから、 それよりは以前のことであろう。
 年代を探ることのできる記録としては、 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣(資料[27])を見ると、 乎獲居臣は代々磯城の大王オホキミ〔雄略〕に仕えていたが、武蔵国に派遣されて東国進出の先兵を担ったようである。 〈安閑〉二年〔536〕で設置した二十六屯倉のうちもっとも東の緑野屯倉上野国である。 金錯銘鉄剣の「辛亥年」が471年だとすると、それから150年ぐらいをかけて日高見国(常陸国の北部か)から亘理郡辺りまでの範囲が朝廷の国内となったと見るのが妥当か。 古いというだけで時期が不明だから、日本武尊やまとたけるのみことまで遡らせたのであろう。

【出羽柵/秋田城】
 出羽郡は708年に越後国に設置され、712年に出羽郡とその周辺を出羽国とした。
 中世に飽海郡と河辺郡の一部が由利郡となった。
 出羽柵及び秋田城に関する事項を、〈続紀〉から抜き出す。
 続日本紀
和銅二年〔709〕秋七月乙卯朔令諸国運送兵器於出羽柵。為征蝦狄也。
和銅七年〔714〕十月。丙辰〔ニ〕勅:割尾張。上野。信濃。越後等国民二百戸。配出羽柵戸
養老元年〔717〕二月。丁酉〔二十六〕信濃。上野。越前。越後四国百姓各一百戸。配出羽柵戸焉。
養老三年〔719〕七月。丙申〔九〕東海。東山。北陸三道民二百戸。配出羽柵焉。
天平五年〔733〕十二月。己未〔二十六〕出羽柵遷-置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉。
宝亀六年〔775〕十月。癸酉〔十三〕出羽国言:蝦夷余燼。猶未平殄。三年之間。請鎮兵九百九十六人。且鎮要害。且遷国府
宝亀十一年〔780〕八月。乙卯〔二十三〕出羽国鎮狄将軍安倍朝臣家麻呂等言:…秋田城者。前代将相僉議所建也。禦敵保民。 久経歳序。一旦挙而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。為之鎮守。…又由理柵者。居賊之要害 …宝亀之初。国司言。秋田難保。河辺易治者。当時之議。依治河辺。然今積歳月。尚未移徙資料[72]【羽後国】《続記》項参照。
 移設前の出羽柵の位置は明らかではないが、出羽郡以北、河辺郡以南の範囲ではあった。 三次にわたって東海道、東山道、北陸道の国から農民を移住させて強化している。733年に「秋田村高清水岡」に移転した。
 775年には、蝦夷側からの攻撃によって、出羽柵(秋田城)は危機に直面する。「移国府」は、秋田城から国府を南へ移せということであろう。 この年以前の漆紙文書の存在により、秋田城にはこのときまで国府の機能があったことが確認できる。
 780年には、「安倍朝臣家麻呂」が放置されてきた秋田城の再興を提言する。 また、宝亀年間の始めに議論して決めた通り、その南の河辺郡に住民を各地から移住させ、郡を強化せよと促す。
 それからさらに約100年後に、また蝦夷が反乱を起こした。
 日本三代実録
元慶三年〔879〕
正月十日
出羽国飛駅奏言:去年十二月十日凶賊悔反逆之過。致束手之請。便返-進所掠奪甲二十二領。言曰:所取甲其数不少。… 〔心中は疑わしいが議論の末〕…殊加慰労納。緩其厳誅。 又渡嶋蝦夷首百三人。率種類三千人。詣秋田城。与津軽俘囚連賊者百余人。同共皈慕聖化。若不労賜怨恨」。
 鎮圧の任を負って派遣された藤原保則は、「夷を以て夷を討つ上計」を用いて乱を鎮めたという (資料[72]【陸奥国(明治)】)。
 平安時代になっても、秋田郡の北はまだ蝦夷の国であった。
《秋田城遺跡》
秋田城遺跡の範囲(『秋田城跡―政庁跡―』p.1)
 秋田城跡(秋田県秋田市寺内大畑)の調査開始は1959年という。 今、2002年の調査報告から抜粋する。
『秋田城跡―政庁跡―』〔秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所2002〕
Ⅰ期:「区画施設は 、瓦茸きの基底幅1.2mの…築地塀」で「正殿は、東西5間×南北3間」(p.105)。 「政庁造成時に埋められた竪穴住居の出土土器が8世紀前半の特徴を有する土師器」で、「秋田「出羽柵」の遷置…が…天平五年〔733〕であることから、始まりは天平5年」、 「終わりは…宝亀元年〔770〕銘の漆紙文書…から8世紀後半の前葉と考えられる」(p.137)。
Ⅱ期:「正殿の柱掘り方の埋土には 、焼土、炭化物が混入することから 、…正殿は焼失したものと考えられる」。 8世紀第二四半期〔725~749〕の須恵器は 「「出羽柵」建築地塀の土取り穴埋土、覆土出土」で、「本期はこのような搬入品が多いと考えられる」と述べる。 遺物から、Ⅱ期は「8世紀第3四半期〔750~774〕」であろう(p.116)。
Ⅲ期:「8世紀末から9世紀第1四半期以降」(p.138)。
出土物出挙※1)や大帳、計帳作成事務を示す漆紙文書※2)をみる限り、秋田城には少なくとも天平6年〔734〕から神護景雲年間〔767~769〕に国府機能が設置されていたと推測される」(p.144)。
 第54次調査の外郭束門跡南隣接地では、300点を超える木簡」、「これらの木簡が廃棄された時期は 、〔木簡に記された〕紀年銘が延暦10年〔791〕 から同14年〔795〕」、 「第71号木簡は、「・・・狄饗料・・・」とあり、…秋田城で狄(蝦夷)に対して饗料を支給していたことを示す」(p.144)。
※1)…出挙(すいこ)。作付け用の種もみを貸し出す。借り手は収穫時に利子をつけて返す。
※2)…使用済みの事務文書を漆壺の蓋として再利用したもの。
 Ⅰ期では、壊された竪穴住居の土器の年代が出羽柵を造った時期にあたることから、出羽柵秋田城と同じ場所であったことが裏付けられる。
 は、〈続紀〉宝亀六年〔775〕移国府」以前に秋田城に国府機能があったことを示し、 したがって「移国府」は「国府を秋田城から他の場所に移せ」という意味となる。
 は、8世紀末において蝦夷に対する日常的な外交の窓口になっていたことを示す。

まとめ
 三年~四年五月条は簡潔に書かれているが、書かれている内容には他の考古学資料、文献資料と随分繋がりが深く、調べるのに時間を要した。
 そのうち「飛鳥寺西」については、須弥山石と男女像が発見され、また石神遺跡の調査が進み、シルクロード沿いの国々の人との交流施設があったことが明らかになっている。 噴水石像は2個では寂しいから、これらに加えて別のものもいくつかあったかも知れない。それらが異国情緒を漂わせる中で、外国から来訪した人と交流が盛んに行われたわけである。
 牟婁温湯については、関連した万葉歌が多く見られる。その歌、とりわけ題詞から〈斉明〉〈持統〉〈文武〉の行幸が読み取れる。 これは、興味深い研究テーマである。
 齶田、渟代、津軽が真郡でないのは明らかであるが、それらがここで「郡」と書かれていることの実質に迫るためには、 その後の秋田郡以北の郡の設置の経過を長いスパンで見なければならない。その概略を、資料[72]にまとめた。
 〈斉明朝〉には、国外の独立勢力としての蝦夷との友好関係はひとまず確立したようである。 しかし、奈良~平安時代には、基本的に蝦夷との関係は悪化し、真郡の設置は遠のくばかりである。
 現時点でのサイト主の見解は、朝廷がこの地域に強い姿勢で臨み、支配-被支配の関係を確立しようとしたのがその根本原因であるとするものである。
 鎌倉時代になってやっと郡が置かれたようであるが、まだ「浜」という特別な形態の地域が残る。



[26-03]  斉明天皇(2)