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2023.08.08(tue) [25-19] 孝徳天皇19 ▼▲ |
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39目次 【白雉四年六月~七月】 《百濟新羅遣使貢調獻物》
難波と飛鳥京を結ぶ「大道」については、〈推古〉二十一年《大道》項で見た。 大道の整備は律令国家の構築に欠かせない要素で、また大宝令・養老令の成文は、『令義解』によって知られる。 「大道」以前から中央政権国家に向けて街道が整備された(〈安閑〉二年【二十六屯倉設置の意味】項)。 難波大道については、今池遺跡の建設は飛鳥時代以降と見られている。 その経路が難波宮の朱雀大路の延長にあたることから、〈孝徳〉の時代の可能性はある。 「修治処々大道」は、『令義解』の「大路・中路・小路」に繋がる事業と見てよいであろう。 その「修治」は、既に存在した街道を拡幅整備する、あるいは曲がりくねったそれまでの街道を串刺しして直線路を引くことを意味することは明らかである。 既に重要な街道であったからこそ「大道」として整備されたことを押さえておく必要がある。 「処々」には、難波大道、丹比道、横大路は間違いなく含まれるであろう。 山陽道古道も含まれようが、長大であるからそれこそ「処々」なのかも知れない。 《喪》 ここでは「殯」(もがり)ではなく「喪」(も)となっている。大化二年三月詔において、殯は天皇と皇子を除いて禁止された。 喪は殯よりもひそやかに故人を哀悼するものか。 《狛竪部》 狛竪部について、〈姓氏家系大辞典〉は「豎 チヒサコベ」、「狛竪部 コマノチヒサコベ:職業部の一、小子部の一種にして、狛人を以って組織したるものなり」という。 竪は子供の従者(浦嶋子【到一太宅】項)。狛人は高麗国出身の渡来人。 〈同辞典〉は、また「小子部 チヒサコベ:宮中の雑役に服せし品部なるべし。其の名前は、丈ひくき人、即ち侏儒を以て組織したるが故とす」と述べる。 狛出身の族は、『新撰姓氏録』〖諸蕃〗に狛首、狛造、大狛連、狛染部、狛人が見え、いずれも高麗国の人を出自とする。 《鯽魚戸直》 〈姓氏家系大辞典〉には「鯽魚戸 フナド:鯽魚戸直 倭漢〔やまとのあや〕坂上氏の族」、 「道組 フナド:1 道祖史 百済族と云へど、坂上氏の族か。姓氏録「百済国王族許里公より出づる也」と註す。… 3 無尸の道祖氏 鯽魚戸直の族也。」とある。 その坂上氏については、白雉元年《漢山口直大口》項参照。 《安置於川原寺》
〈天武天皇記〉には、川原寺にて「始写二一切経一」(二年)、「施二稲於衆僧一」(十四年)、「説二薬師経一」(朱鳥元年)、「燃灯供養」(同)とある。 ここの「安置於川原寺」を素直に読めば、白雉四年には既に川原寺が存在していたことになる。 しかし、川原寺跡の発掘報告(別項)を見たところでは、〈斉明〉元年の「川原宮」が建造される以前は、その場所は池であったのは明らかである。 原注において「或本云」として山田寺(【山田寺】)説を書き添えたのは、 書紀を書いた時点において、「安置於川原寺」は確かな記録に拠るものではなく、伝承を収めたと見てよいであろう。 そもそも僧旻法師を偲んで佛菩薩像を奉納するのであれば、旻法師が「寺主」を務めた寺に安置するのが自然であろう。 その候補として、百済大寺あるいは飛鳥寺を挙げた(大化元年八月)。 《薩麻之曲》 薩摩の表記「薩麻」は、〈続紀〉天平七年〔735〕八月辛卯「大隅薩麻二国隼人等、奏方楽」にも見える。 曲には古訓「クマ」が付される。日本武尊が西征して戦った熊襲は部族名だが、熊(クマ)と襲(ソ)は地名でもある。 囎唹(ソオ)郡は大隅国で、球麻(クマ)郡は肥後国である(右図)。
上代のクマは、肥後国の球磨郡にわたる広い地域であったのかも知れないが、実際のところは分からない。 《竹嶋》
『集解』の「在二薩摩国東南一。西対二硫黄島一」も、硫黄島との位置関係から見てこの島にあたる(右図)。 「薩摩のクマと竹島の間」で遭難したというから、高田根麻呂船の航路は南島路である。遣唐使の南島路(右)は白村江の役の後、新羅路が使えなくなったことから始まったと説明されているが、 〈孝徳朝〉から既に用いられていたわけである。新羅への警戒感が、既にこの頃からあったのも知れない〔白雉二年着唐国服の件〕。 大化二年の新羅に黒麻呂を派遣して行った交渉において、新羅は百済から領土を取り戻した暁には任那からの朝貢を復活させようと述べたと推定した (大化二年九月、 大化三年是歳《金春秋》項)。 倭朝廷はそれは受け入れられないから、遂に「罷二任那調一」とせざるを得なかったと見た。 この想像の確からしさを強める一つの要素となる。 《合船没死》 漢籍に「中国哲学書電子化計画」で検索をかけると「合船」の用例は少ないが、『水経注』〔北魏/延昌四年(515)頃〕に「而船不行。合船驚懼」があった。ここでは「船に乗っている人はこぞって」の意であろう。 これを見ると、古訓の「合=コソテ」〔=コゾッテ;促音は表記されない〕は妥当である。
《門部金》 〈姓氏家系大辞典〉は「門部 カドベ:職業部の一にして、簡単に言へば門番に当る」と述べ、 〈延喜式-兵部省〉「凡衛門府門部。先簡〔=選ぶ〕下負レ名入レ色人上補レ之。若不レ足者。三分之一通取二他氏一」などの例を挙げる。 〔入色人:官職に採用される資格のある人。負名:「門部」氏に属する人。〕 門部金の名はここだけ。 〈天武〉十年に「門部直大嶋」があり、門部直は〈天武〉十二年に連姓を賜る。 《神島》 『集解』に「按ニ輿地路程全図肥前ノ国西南海中ニ有二神島一蓋是。 三代実録曰貞観十八年…神嶋神」とある。輿地路程図云々については、別項で見る。 『三代実録』の原文は「巻二十九貞観十八年〔876〕六月八日癸丑。授参河国従四位下知立神。…。肥前国従四位上田嶋神正四位下。従五位上志々岐神正五位下。正六位上神嶋神。鳴神。銀山神並従五位下」とあり、 肥前国のいくつかの神社への神階を授与した記事である。 現在、長崎県小値賀町野崎島に「沖ノ神島神社」、同小値賀島本島前方郷に「地ノ神島神社」が存在する。(詳細は別項)。 《経六日六夜》
もちろん当時の海流の状況とは大きく異なるだろうから一概には言えないが、それにしてもわずか「六日六夜」で到着したとは考えにくい。 もともと、竹島付近は黒潮の端の東進流で、そのまま四国沖から太平洋まで流されていく可能性が高い。 少なくともどこかに漂着できたとすれば、それだけで極めて幸運であろう。 竹島付近から局所的な北北西流が見えるので、うまく行けば北進して東向きの流れに乗り、薩摩半島のどこかに漂着できたかも知れない。 経路APなら、5日程度で漂着できたかも知れない。「六日六夜」というならこの方がまだ現実的である。 すると、五名が漂着したのは薩摩半島南部で、改めて坊津あたりから出航し、遣唐南島路に沿って小値賀島に着いたことをもって「泊于神嶋」と書いたのかも知れない。 もともとこの段では細かい経過が省かれているので、漂着及び出航の件は省略されたと見てもそれほど不自然ではない。 《大意》 六月、 百済、新羅は使者を遣わして貢調献物しました。 各所に大道を整備しました。 天皇(すめらみこと)は旻(みん)法師が命を終えたとお聞きになり、使者を遣わして弔(とぶ)らわれ、 併せて多くの贈り物を送られました。 皇祖母尊(すめみおやのみこと)や皇太子(ひつぎのみこ)らも、 皆使者を遺わして旻法師の喪(も)を弔らわれました。 遂には法師のために、 画師の狛竪部(こまのちいさこべ)の子麻呂(こまろ)、 鯽魚戸(ふなと)の直(あたい)らに命じて、 多くの仏、菩薩の像を造らせて、 川原寺に安置しました 【ある書には、山田寺にあるという】。 七月、 大唐に遣わされた使者、高田(たかた)の根麻呂(ねまろ)らは、 薩麻曲(さつまのくま)と竹嶋(たけしま)との間で、 全船が死に直面しました。 ただ、そのうち五人は、 胸を一枚の板に繋ぎとめて竹嶋(たけしま)に流れ着きましたが、 どうしてよいか分かりませんでした。 すると五人のうち、 門部(かどべ)の金(くがね)が竹を採って筏を組み立て、神嶋(かみしま)に着きました。 この五人はすべて、 六日六晩にわたって全く食物を摂れませんでした。 ここに、金(くがね)を褒めて進位給禄なされました。 【川原寺】
川原寺には金堂が二つ〔西金堂・中金堂と呼ばれる〕ある。これについて〈川原寺報告〉は、「一つの伽藍には金堂と塔が一棟宛てであるという、わが国上代伽藍配置に対す通念を再びやぶったもの」 〔飛鳥時代の寺は金堂と塔が一棟ずつだという通念を、飛鳥寺以来久しぶりに打ち破った〕と述べる(p.54)。 塔については、中世再建の基壇上の心礎と、その下の切り石を取り除いたところ、「その下から創建時の心礎を発見した」という(p.20)。 写真では心礎に舎利容器埋納孔が見えないので、当麻寺と同じように相輪に舎利容器が納められたのかも知れない(資料[51]【当麻寺】)。 《川原寺創建以前の遺構》 これらに加えて、川原寺創建以前の遺構が偶然「西金堂西南隅の遺構から発見された」という。 これは「西金堂や中門の建設によって破壊されていることから、これが寺創建以前の遺構であることは明らか」で、 「この以降に見合う旧地表は…伽藍建立時の内庭面より約7~8寸〔2.1~2.4m〕下と推定」されるという(p.32)。 「その池の埋立工事は現在の川原寺伽藍地のほぼ全域にわたつているので」、「記録に見られる川原宮であったと推定してよいのではなかろうか」と述べる(p.53)。 これにより、川原寺の創建は〈斉明〉二年〔656〕~〈天武〉二年〔674〕となる。 〈川原寺報告〉はこれよりも更に絞り込むとすれば、書紀には〈斉明〉の殯が「飛鳥川原」で行われたとあり、「殯宮が仏寺に設けられた例が見られない」ことから、〈斉明〉存命中にはまだ川原寺は存在していなかったと見る。 したがって、川原寺創建の上限は〈天智〉元年〔662〕、下限については「天智天皇が発願した寺田とすれば」近江遷都〔667〕まで絞り込まれるだろうと述べる(p.54)。 【竹島と神島】
『集解』は、竹島について硫黄島西の島説に加えて、「按二武備志〔明の天啓元年(1621)〕図一琉球国与薩摩之国間有二鷹嶋一」を並記する。 「鷹島」は現代の地図には見えない。この『武備志』とは、いかなる書であろうか。 《武備志》 『武備志』は、明の天啓元年〔1621〕に茅元儀が編纂した軍事百科ともいうべき240巻の書で、豊富な図版を含む。 その巻二百二十三「占度載/度/四夷」に「日本国」、「琉球国」の地図があり、確かに「鷹島」が載る。 その「日本国」の地図において律令国の名称はほぼ正しいが、その配置は不正確である。 しかし、九州南部については比較的現実の配置に合っている。 とりわけ薩摩半島の「坊津港」(坊浦)・「泊津港」(泊浦)・「久志港」(久志浦)は、正確かつ大きく描かれている。 これは、明と島津藩との交易が頗る活発であったことを示すものと言える 琉球国には全く港が描かれていないから、明と琉球国の交易も島津藩経由であったようである。 〔坊津港などに着いた明船は、その後琉球までは薩摩藩のスタッフが操船したのだろう。よって琉球の港名は知らざるままである〕。 島津藩による琉球侵攻〔1609〕以来、琉球国は明と島津藩によるいわゆる「二重支配」を受けたとするのが定説であるが、 この地図によれば、実際には「琉球国の明への朝貢」なるものは島津藩のお膳立てによって実施されたものであることが分かる。島津藩はその朝貢貿易のいわば上前をはねて、莫大な利益を得たと見られる。
さて、『武備志』において薩摩-琉球間の島々の配置は。種子島を除いて概念的である。 「葉活島」は屋久島か。「硫黄島」は実際の硫黄島に比べると巨大すぎるが、 硫黄島には安徳天皇の御所の伝承地があるほどの歴史があるから、古くから薩摩-琉球の中継地として機能していたことも考えられる。 「南浦葉島」、「隅島」、「七島」がどの島にあたるかは、不明である。 「鷹島」については、それが竹島と同じ島か否かの判断は難しい。 《神シマ》
輿地路程全図は、長久保赤水が安永三年〔1774〕に作成した。 その後改定を重ね、「改正輿地路程全図」などの名前が見える。 その後正確な測量によって伊能図〔1821〕が作られたがしばらく秘匿され、1867年に公にされるまでは〈輿地路程全図〉が使われ続けたようである。 ここで見た版は、安永七年〔1778〕の「新刻輿地路程全図」である。 よく見ると、長崎半島の西に「神シマ」と書かれた島が見える。 これが、『集解』のいう「肥前の国の西南海中の神島」であろう。 現代の沖之島・伊王島にあたると見られる。伊王島には白髭神社があるが、江戸時代の建立と言う。 貞観年間に存在した神嶋神社は沖之島・伊王島にはないと言い切るのも難しいが、今のところその伝承の類は見つからない。 〈輿地路程全図〉には、西彼杵半島は実際より小さく、長崎半島は実際より大きく描かれている。 長崎半島は住民もが多く開けているのに対して、彼杵半島に住む人は少なかったのであろう。 《五島列島》 一方、五島列島の小値嘉島には、神島神が見える。 〈輿地路程全図〉では、現在の中通島が「東島」、 若松島が「西島」となっている。 奈留島、久賀島、福江島は大体同じである。 平戸島と中通島の間は、実際よりも近い。
『神社志料』巻二十〔栗田寛;温故堂1876-87。国立国会図書館〕に、 「神島神、今松浦郡小値嘉前方村野崎島神島山にあり、【神名帳考、長崎県神社録】 清和天皇貞観十八年〔876〕六月癸丑、正六位神島神に従五位を授く」、すなわち、『神社志料』は『三代実録』の「神嶋神」が小値賀町の神島神社だと同一と判断している。 出典とされる『神名帳考』、『長崎県神社録』は1876年以前に存在していたはずだが、見つからない。 神島神社は、いくつかのサイトに「慶雲元年〔704〕創建」と載るが、その出典がなかなか見つからない〔見つかったら報告する〕。 ただ、この神の起源は古墳時代に遡ると思われる。 というのは、この社に近接して謎の「王位石」が存在するからである。もともと縄文時代の巨石記念物の可能性もあり※)、古墳時代においては神が降臨する磐座〔神社の古形〕として拝まれたのは確実である。 ※)…巨石記念物は世界各地にあり、「西ヨーロッパにおける炭素14法による年代」は「前4000年頃まで遡る」という(改定新版世界大百科事典;2014)。 この磐座に坐す「神島山神」を小値賀島から遥拝するところに社が建ち、「地ノ神島神社」となったとする推察は容易である。 なお宇久島にも「小値賀島」があり、これは随分時代が下り平家盛〔平安末〕の創建という。宇久島まで含む複数の島々で神島神が信仰されたとも考えられる。 《シトチシマ》 〈孝徳紀〉の「神島」の古訓は「シトチシマ」だが、どの島にあたるかは不明である。 発音が近いのは、平戸島の式内志々伎神社がある。本来の古訓「シゝキ」が「シトチ」と誤写されたのかも知れない。 その場合は、平安時代には神島神は平戸島にもいると思われていたことになる。 40目次 【白雉四年是歳】 《太子奏請曰欲冀遷于倭京》
中大兄の弟としてこれまでに明記されたのは、「大海皇子」〔〈天武天皇〉〕のみである(〈孝徳〉即位前)。 妹の間人皇女は、上文で〈孝徳〉の皇后として挙げられた。 中大兄の異母兄弟としては「古人大兄」がいるが、弟ではなく「兄」だとはっきり書かれている(〈皇極〉四年六月)。 「等」については、①上述の皇祖母尊と皇后を含めた。②他に書かれない皇子・皇女がいた。③従者を含めた。 ④語調を整えるための接尾語ラ。が考えられる。トモと訓むと④が排除される。 弟は大海皇子一人のことで、①が自然だと思われる。 なお、弟への古訓「イロド」は同母の弟に限る語である。 《倭飛鳥河辺行宮》
〈奈文研71〉によると、建築基準尺については「1尺=0.2933m」と見られる。ちなみに、前期難波宮では「1尺=0.292m」という。 年代については、「柱掘形内から出土した土器から…7世紀中頃に造営」され、 「柱抜き取り穴から出土する土器を参考にすると7世紀末前後に廃絶」し、 「遺構には重複がないから、建替えなどはおこなわれず」、「敷石の目地間に残る炭化物の累積をみると、本遺跡が罹災した可能性」を見るという。 建物の用途については、「建物配置や、建物間に石敷面を有する…瓦類が出土しない点など、宮殿跡としての色彩が濃い」とする。 この遺跡が「飛鳥河辺行宮」かどうかについて〈奈文研71〉は、 「現状では…その有力な候補として指適するにとどめ、今後の検討にまちたい」とする(以上、pp.48~49)。 《河辺》 「河辺行宮」の辺を、古訓は「ホトリ」と訓むが、その場合普通名詞の性格が強まる。 固有名詞としての宮殿名ではヘと訓まれている。 飛鳥稲淵宮殿跡の整ったさまを見ると、固有名詞にした方がよいと感じられる。 《捨於国位》 「捨於国位」の国位が天皇位を意味するのは明らかである。 「即天皇位」は「スメラミコトノミクラヰニツキタマフ」と訓むことができる。 これを、例えば〈景行天皇紀〉古訓は「アマツヒツキシロシメス」〔天つ日継知ろし召す〕(〈北野本〉、〈内閣文庫本〉)としている。 即天皇位は、臣下が位階を上るのとはわけが違うということか。 しかし、天皇の位をクラヰと訓んだと思われる例もあり、 〈皇極〉四年六月十四日の 「譲二位ヲ軽ノ皇子ニ一」は、「位を軽皇子に譲りたまふ」と訓まれたのは確実である。 古訓が「国-位」と訓むのは、「天皇位を捨てる」という衝撃的な決意をそのまま受け止めることを躊躇したのであろう。 しかし「クニヲサリタマハムトス」では単なる遷都とも読め、不正確である。 即位を「ミクラヰニツキタマフ」と訓むこと自体は、上代語の範囲内と考えられる。 《於》 『集解』は、この「於」を衍字〔=余計な字〕とする。 ここで改めて前置詞「於」の用法を見ると、与格(~に)、位置(at,in)、起点(from)、終点(to)、比較(than)、受け身文における能動者(by)などがある。 「国際電脳漢字及異体字知識庫」によると、それらに加えて「表二-示方式・対象一。相二-当於"以"・"用"一」があり、 手段(with)、対格(~を)の用法をも示す。 よって、「ヲ」と訓んでも差し支えないと思われる。 《山崎宮》
大山崎町埋蔵文化財調査報告書第31集 〔大山崎町教育委員会;2005〕によると、 「大山崎遺跡群が大阪府境を西南に越えて広がりを持つ。当遺跡は飛鳥時代に建立されたという孝徳天皇の山崎宮、奈良時代 の行基建立山崎院、長岡京期の山陽道に付設された山崎駅、嵯峨天皇の建立に当たる河陽離宮、離宮を転用した第4次の山城国府、 そして藤原氏系の寺院、相応寺のことを言う。」という。 右図は、大山崎遺跡群の範囲と山城国府の遺跡の位置〔京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字竜光53-2など〕を示す。 山碕宮が大山崎遺跡群内のどこかにあったのだろうという推定は共通認識になっているようであるが、 具体的な位置は不明である。 《歌意》
カナキは単純に「金+木」で、厩の入り口を横切って嵌める木と、留め金であろう。よって他の人が馬を引き出すことはできない。 ところが、その馬を外で人が見たというがどういうことだと嘆く。 古訓が「舸娜紀」に別音「カトキ」を添えるのは、歌意から「門木」と解釈したためかも知れない。 ただし、ドに娜を用いた例は他には見えない。 〈釈紀〉の解釈「皇后を以て馬に寄される」とは、皇后を馬に寄せて〔=喩えて〕詠んだという意味であろう。 すなわち、皇祖母尊と皇弟はともかくとして、中大兄が間人皇后までも連れていったのは馬泥棒と同じようなものだと言って怒っているのである。 《大意》 同じ年、 皇太子(ひつぎのみこ)〔中大兄;孝徳〕は奏請して、 「冀(こいねがわく)ば倭京(やまとのみやこ)に移られることを望みます」と申し上げました。 天皇(すめらみこと)はお許しになりませんでした。 そこで皇太子は、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)〔皇極;斉明〕と間人皇后(はしひとのおおきさき)をお連れして、 併せて皇弟たちを率いて、 倭(やまと)の飛鳥河辺(あすかのかわべ)の行宮(かりみや)に行かれました。 同時に、 公卿、大夫、官人たちは皆隨って移りました。 これにより、天皇(すめらみこと)は、 恨み、国の〔天皇〕位を捨てようと欲して山碕に宮を造らせました。 そこで、御製歌を間人皇后(はしひとのおおきさき)に送られました。 ――金木(かなき)付け 吾(あ)が飼ふ駒は 牽出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか まとめ 『集解』が引用した〈武備志〉〔明代〕は〈孝徳〉とは時代が離れ過ぎていて、直接的な判断材料にはならない。 しかし、薩摩・琉球の地図からは明と琉球の交易に介入して島津藩が巨利を得た様子が伺われ、興味深いので本筋からは離れるがここに収めた。 〈輿地路程全図〉は『集解』と同時代の資料で、我々が現代地名を手掛かりにするのと同じような感覚だと思われる。 〈輿地路程全図〉には長崎半島北岸に「神シマ」はあるが、神嶋神は小値賀島の神と見るのが妥当であろう。 すると、小値賀島の津は遣唐南路、遣唐南島路の出発点近くの重要基地であったことが見えて来る。 前述したように遣唐使船の竹島漂着がこの年だったとすれば、南島路が既に始まっていたことになるが、 実際にはもう少し後の時代の事柄がここに収められた可能性もあるので、留意する必要がある。 さて、律令国家造りを主導したのは皇太子〔中大兄、天智〕であったはずだが、 せっかく新時代の都として築いた難波宮から離れて飛鳥に帰ることを主導している。 可能性としては、皇祖母尊および皇后の女性陣にとって難波宮の紫殿は居心地が悪かったのかも知れない。 風光明媚な飛鳥の地に帰ることを望み、女性陣二人がそれを言えば皇太子は従わざるを得なかっただろう。 そして、住みやすい旧式のこじんまりとした宮殿を建てたのである。 〈孝徳〉は立場上一人残らざるを得なかったが、嫌気がさして遂には退位を考えた。 そして、仙洞御所を山崎に建てるよう命じたが、実際に退位する前に崩じたようである。 |
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2023.09.05(tue) [25-20] 孝徳天皇20 ▲ |
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41目次 【白雉五年正月~七月】 《以紫冠授中臣鎌足連》
紫冠は「七色一十三階之冠」の第三色、または「冠十九階」の第五階・第六階にあたる。 ここではモノの名前ではなく冠位だから、音読すべきであろう。 《中臣鎌足》 「鎌子」(〈皇極〉三年に登場)から、ここでは鎌足に改名されている。ときには未熟のニュアンスのある愛称の接尾辞「-コ」が、 年長となり「-タリ」に置き換えられたものであろう。本来の名はカマで、呼び名として接尾辞が加えられたものか。 満ち足りた様を表す誉め言葉タリは、(万)3280「君尓波不相 夢谷 相跡所見社 天之足夜乎 きみにはあはず いめにだに あふとみえこそ あめのたりよを」に見える。 《押使》 押使は、通常の大使より権威のある使者と読める。 〈続記〉霊亀二年〔716〕八月、養老元年〔717〕三月にも「遣唐押使」が見える。 「押」には「押収」など犯罪取り締まりのニュアンスがあるが、押使の場合は権限の大きさを表すものであろう。 大国唐に対しては、外交上使者に重みが必要とされたと思われる。 古訓のスベは「総」で、上から束ねる役割を意味する。スベツカヒは書紀古訓限定か、一般に使われたのかは不明だが、音読アフシなら確実に使われたと思われる。 《遣大唐》
古訓は留連を大海をさまよう意味ととったようであるが、本来の意味は一か所に予定外に長居する意味である。 博多大津または対馬に停泊し、気象条件が整うまで待機した意と考えられる。白雉五年二月は、グレゴリオ暦で3月1~29日。 まだ冬型の北西風の強い日もあるが、5月頃になれば気象条件は整うであろう。したがって「数月」は実際には2~3か月だろうと思われる。
「新羅道」とされる航路は、白雉年間にはまだ百済、高句麗の沿岸である。朝鮮半島全体を新羅が占めた後の呼び名を書紀が遡って用いたと思われる。 《萊州》 萊州は、山東半島の地名。 『隋書』巻三十志第二十五地理中:青州「東萊郡旧置光州、開皇五年〔585〕改曰萊州」。 青州は山東半島全域を含む。 『旧唐書』での初出は巻二太宗上:貞観二年〔628〕 「秋七月戊申。詔:萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、…並於隋代俱蒙任用」〔萊州刺史に牛方裕、…が隋代から引き続き任命された〕。 《奉観天子》 この時期の皇帝は高宗。高宗(李治)は、貞観二十三年〔己酉/大化五年/649〕六月に太宗(李世民)の崩により皇帝に即位した。 白雉五年〔甲寅/654〕は、唐の永徽五年にあたる。 この時期の倭から朝献の記事を、新唐書に見る。
「献虎魄大如斗碼硇若五升器」が、白雉四年または五年の遣唐使に対応することになる。 長丹は白雉四年五月に出発して五年七月に帰国したから、往復と現地の行事を併せて14か月となる。 押使玄理の一行は、片道6か月として、そこに「留連」期間を加えれば、長安到着は約9か月後の白雉五年十一月ごろか。 《東宮監門》 この時期の「東宮」の記事は、『旧唐書』巻四高宗上「以貞観二年〔628〕六月。生於東宮之麗正殿。」、 「(龍朔二年〔662〕)六月己未朔、皇子旭輪生。…秋七月丁亥朔、以東宮誕育満月、大赦天下」。 「監門」は警護の部署である。ここでは倭国大使への聞き取りを行っているから、役職名は既に名目になっていたのかも知れない。 《卒於大唐》 『礼記 《伊吉博得》 〈斉明〉五年に「伊吉連博徳」。遣唐使に随行した博徳の記した報告書が載る。 〈天智〉六年「小山下伊吉連博徳」、〈持統〉朱鳥元年「小山下壹伎連博徳」。 〈続紀〉文武四年六月甲午「直広肆伊岐連博得…等。撰定律令。」とあり、大宝律令の撰定に参加する。 《学問僧》 伊吉博得の報告で挙げられた人物。「ここだけ」は、他の箇所には見えない人物。
魏志倭人伝(65)に「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」とある。 この文章自体は伝説であるが、これを見れば「倭種」が「倭の人種に属する人」の意であるのは明らかである。 《吐火羅国男二人女二人舎衛女一人》 吐噶喇列島に住む小族ではないかと思われたが、中国周辺国の一と見た方がよさそうである。別項を立てて論じる。 《西海使》
《大意》 五年正月一日の 夜、鼠(ねずみ)が倭(やまと)の都に向けて移りました。 五日、 紫冠を中臣鎌足連(なかとみのかまたりのむらじ)に授け、封戸(ふこ)若干戸を増しました。 二月、 大唐に押使(おうし)大錦(だいきん)上高向史(たかむこのふひと)玄理(げんり) 【ある出典には、 五月、 大唐に押使大花(だいか)下高向の玄理を遣したという】、 大使小錦(しょうきん)下河辺臣(かはべのおみ)麻呂(まろ)、 副使大山(だいせん)下薬師(くすし)の恵日(えにち)、 判官(まつりごとひと)大乙(だいおつ)上書直(ふみのあたい)麻呂(まろ)、 宮首(みやのおびと)阿弥陀(あみだ) 【ある出典には、 判官小山(しょうせん)下書直麻呂という】、 小乙(しょうおつ)上岡君(おかのきみ)宜(よろし)、 置始(おきそめ)の連(むらじ)大伯(だいひやく)、 小乙(しょうおつ)下中臣間人(なかとみのはしひと)の連(むらじ)老(おゆ) 、 田辺(たなべ)の史(ふひと)鳥(とり)等を遣わし、二船に分けて乗せました。 留まること数か月、 新羅道(しらぎじ)を取り萊州(らいしゅう)に停泊し、 遂に京〔長安〕に至り、天子〔高宗〕に奉観しました。 そのとき、東宮監門(かんもん)郭(かく)丈挙(じょうきょ)は、 ことごとく日本(やまと)の国の地里及び国の初めの神名を問い、 皆問われるままにお答えしました。 押使高向(たかむこ)の玄理(げんり)は、大唐で卒しました〔=死去しました〕 【伊吉(いき)の博得(はかとこ)は言う。 「学問僧恵妙(えみょう)は唐で死んだ。 知聡(ちそう)は海で死んだ。 智国(ちこく)は海で死んだ。 智宗(ちそう)は庚寅年〔持統四年〕に 新羅の船に同乗して帰った。 覚勝(かくしょう)は唐で死んだ。 義通(ぎつう)は海で死んだ。 定恵(じやうえ)は乙丑年〔天智四年〕に 劉徳高(りゅうとくこう)等の船に同乗して帰った。 妙位(みょうい)、 法勝(ほうしょう)、 学生氷連(ひのむらじ)老人(おいひと)、 高黄金(こうおうこん) ら併せて十二人、 別に倭種の韓(かん)智興(ちきょう)、 趙(ちょう)元宝(げんほう)は、 今年(ことし)使人と共に帰った」】。 四月、 吐火羅(とから)国の男二人女二人、 舎衛女(さえめ)一人(ひとり)は、 風に流されて日向に来ました。 七月二十四日、 西海使(さいかいし)吉士(きし)の長丹(ながに)等は、 百済、新羅の送使と共に、筑紫に停泊しました。 同じ月、 西海使らが 唐国の天子に奉対して多くの文書宝物を得たことの褒美に、 小山(しょうせん)上大使吉士(きし)の長丹(ながに)に少花(しょうか)下を授け、 封戸二百戸を賜わり、姓(かばね)呉氏(くれのうじ)を賜りました。 小乙(しょうおつ)下副使吉士(きし)の駒(こま)には小山(しょうせん)上を授けました。 【吐火羅国】 《吐噶喇列島説》 吐火羅国=吐噶喇列島は、明らかかと思われた。 〈続記〉天平宝字七年正月庚申「作唐。吐羅。林邑。東国。隼人等楽。」 古訓「吐火羅 《墮羅缽底国》
『大唐西域記』の文章は「山谷中有室利差呾羅國。次東南大海隅有迦摩浪迦國。次東有墮羅缽底國。次東有伊賞那補羅國。」となっている。 ・迦摩浪迦:カマルパは4~12世紀に、インド東部、バングラディッシュの北部、ブータンの地域を占めた(Wikipedia/英語版・中国語版)。 ・伊賞那補羅:イシャナープラは「カンボジア中央部にある都城遺跡」サンボープレイクックが、「イシャーナバルマン1世が建てた真臘朝の都イシャーナプラと考えられている」(デジタル大辞泉)。 墮羅缽底国はこの二国に挟まれているからミャンマーからタイの範囲となるが、一般的にはタイの遺跡群がドヴァーラヴァティーだと考えられている。 『岩波講座:東南アジア史1』〔岩波書店;2001〕「南海交易ネットワークの成立/桜井由躬雄」は、『新唐書』地理志所引『皇華四達記』に記された唐の対外ルートからインドシナの国の配置を詳細に得ている。 右の図はその一部で、桜井によると 「堕和羅」は「タイ湾に面し」、「その領域はきわめて広く、諸城があり、貨幣経済が発達している。堕和羅、独和羅、堕羅鉢底、杜和鉢底と記されるが、いずれも チャオプラヤー下流域の段丘上に分布する都市国家連合ドゥヴァーラヴァティーの音訳である」という(p.137)。 ほぼタイの主要な部分に当たるようである。 しかし、書紀に出て来る周辺諸国の範囲からはこの一例のみ大きく飛び出ることになるので、あまり信憑性が感じられなかった。 《覩貨羅人》 ところが、〈斉明紀〉六年七月の記事に「覩貨羅〔=吐火羅;次項〕人乾豆波斯達阿。欲下帰二本土一求上レ請レ送レ使曰「願三後朝二於大国一。所以留レ妻為レ表」」 〔トカラ人乾豆波斯達阿(カヅハシタツア)は、本国に帰って使者を倭に遣わすことを求めようと思い、「大国〔=倭〕に後に朝したい。ゆえに妻を残すことによってその証とする」と言った〕とある。 また、この文中の「妻」だと思われる「舎衛女」は、「百済王善光」と横並びで貴人として扱われている(〈天武紀〉四年;下述)。 これらを見れば「吐火羅国」は一定の規模の国家であって、小さな孤島が連なった吐噶喇列島とはとても思えない。 さらに調べると、『飛鳥に来た吐火羅人』〔西本昌弘;関西大学東西学術研究所/紀要第43輯(2010);以後「西本論文」〕という論考が見つかった。 そこには「中国史料」に見える「西域の吐火羅」を中心に考察した結果、「六五四年・六五七年などに日本に漂着した吐火羅国人である可能性が高い」と述べられている。 『旧唐書』〔945成立〕において、「吐火羅」の存在は明瞭である。
書紀の編纂は、学生僧などが中国から持ち帰った文献を参照しながらなされていたと考えられるから、書紀の「吐火羅國」が中国で用いられた国名「吐火羅國」であるのは明らかである。 別表記覩貨邏國(次項)についても、同様である。 以上から、吐火羅国は西域の国であると見るのが妥当であろう。 《覩貨邏国》 別表記「覩貨邏」は、〈斉明紀〉三年にも「秋七月丁亥朔己丑。覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫。言:臣等初漂泊于海見嶋」に見える。 『大唐西域記』※)には「睹貨邏國」が繰り返し現れ、巻第一には「睹貨邏國【旧曰吐火羅國訛也】」と註される。 ※)…「唐の高僧玄奘(三蔵法師)がインド旅行(629~645)中の見聞を語ったものを、弟子の弁機が筆録した書物。 646年作。12巻」(日本大百科全書〔小学館2001~〕)。 《舎衛女》 舎衛について、『国史大事典』は「祇園精舎で有名な舎衛城(シュラーバスティ)のことで、インドのガンジス川中流のサヘート=マヘート付近とする説が一般的である」と述べる。 〈斉明紀〉五年三月に「吐火羅人共二妻舎衛婦人一来。」とある。 「舎衛婦人」は、〈孝徳〉五年の「舎衛女」と同一人物であろう。 〈天武紀〉四年元日に「大学寮諸学生、陰陽寮、外薬寮、及舎衛女、墮羅女、百済王善光、新羅仕丁等、捧二薬及珍異等物一進。」とあるから、 渡来人のうちでも重要人物として扱われていたことがわかる。 〈天武紀〉の「墮羅女」については、〈斉明紀〉三年の「或本云二墮羅人一」〔すなわち吐火羅の別説〕、『旧唐書』と『大唐西域記』に「墮羅缽底國」(前述)があり、 これらとの関係、また舎衛女と並べて書かれていることの整理は難しい。 当時は吐火羅、墮羅、舎衛の何れも正確な位置は知られず、インド方面の国名として混然一体となって捉えられていたのではないだろうか。 よって、ひとまず舎衛女・墮羅女は、伝説的な地名を用いた呼び名であったと考えておく。 《吐火羅人》 書紀の「吐火羅人」とは、吐火羅からやってきて唐に滞在していた人のことではないだろうか。 中国の伝統的な対外政策では、西域と東域を常に対称形としていた。魏志には大月氏国(魏志29回)、 『梁書』巻二でも「梁の武帝蕭衍も即位早々、西の宕昌王と河南王、東の百済王と倭王に将軍・大将軍の爵位を授け、東西対称構造を定義した」ことが見える(倭の五王)。 唐においても東域からと同じように、西域からも多数の仏教僧や学生が滞在していた可能性がある。 吐火羅人が倭に船出した動機としては、長安で倭の学問僧と意気投合し、吐火羅国も倭国と直接交流をするべきだと考えるようになったためかも知れない。 当時から既に、シルクロードの両端としての親近感があった可能性もある。 また、長安には墮羅缽底国人もいて、同じく倭国にやってきたことも考えてよい。 〈斉明〉三年七月に「覩貨邏人【或本云墮羅人】」とあるのは、墮羅缽底国人もやって来ていたが故に、このような混同が起こったとも考えられる。 このように考えれば、吐火羅人〔墮羅缽底国人の場合も〕の渡航経路は遣唐使路となり、インド洋からマラッカ海峡を経るようなとんでもない航路を考える必要はなくなる。 《吐噶喇列島》 吐火羅の火は中国ではh子音だが、上代の倭にはh子音が存在しなかったので、伝統的に火の音読はk子音となった 〔「海:hai→kai」と同様〕。覩貨邏の貨も、h子音である。 吐噶喇の噶は中国現代音はgeだが、古くは「葛」と同じk子音である。 吐噶喇という島名は、吐火羅人がその島に漂着したことによって生まれたことも考えられるが、その場合、日本語として吐火羅=トカラが定着した後に付けられたことになる。 42目次 【白雉五年十月~是歳】 《天皇崩于正寢》
〈姓氏家系大辞典〉「百舌鳥土師連:和泉国大鳥郡百舌鳥にありし土師部の伴造家」。 土師連は葬送の儀を担う(垂仁三十二年)。 《殯》 いわゆる薄葬令によって、「凡王」以下については殯は廃止された。ただ、天皇や皇子のレベルにおいては、引き続き営まれる (大化二年三月)《営殯》項)。 《大坂磯長陵》
一方、〈崇神〉段には「於大坂神祭二黒色楯矛一」があり、この「大坂神」は式内大坂山口神社(イ)と考えられている〔現香芝市〕(第111回)。 アは二上山への河内国側の登り口、イは大和国側からの登り口であろう。 〈天武〉八年には「初置二関於龍田山大坂山一」とあり、 河内国と大和国の境の山地を、龍田道と大坂道が越えるところに関を設置したと見られる。 孝徳天皇陵と言われる磯長谷古墳群の「山田上ノ山古墳」は、この「大坂」の範囲と言えよう。 〈延喜式-諸陵寮〉には{大坂磯長陵:難波長柄豐碕宮御宇孝徳天皇。在河内国石川郡。兆域東西五町。南北五町。守戸三烟。}とあるが、 磯長谷古墳群は、石川郡に含まれている。なお、書紀古写本では「機長」となっているが、〈延喜式〉では「磯長」だからこちらが平安時代の共通認識であろう。 《山田上ノ山古墳》 『天皇陵古墳』〔森浩一編;大巧社1996〕によると、 「直径35m、高さ7m程度」、「伴林光平『河内国陵墓図』(1841)に「石棺露頭ノ所三尺余幅六尺余アリ、下二段ノ石ハ 段ノ塚古墳(〈舒明〉)、牽牛子塚古墳(〈斉明〉)、御廟野古墳(〈天智〉)、野口王墓(〈天武/持統〉合葬)が八角墳であるから、〈孝徳〉陵も八角墳と見るのが妥当である。 しかし、『陵墓地形図集成』〔学生社;2004〕で見る限り、完全な円墳である。 そこで『文久山陵図』(鶴沢探真画;新人物往来社)で 「荒蕪図」〔修陵前〕を見ると、頂上近くまで石段のような通路が見える。 自然地形の可能性も感じられるが、「石棺露頭」の記録があるから墳丘であったのは確かである。 「成功図」〔修陵後〕では石段通路は見えないので、円墳になったのは手を加えて整えた結果と見られる。 宮内庁治定陵なので考古学的調査は行われていないようだが、段ノ塚古墳(〈皇極〉二年《押坂陵》)の隅角石のようなものが発掘されれば八角墳であったことが見いだされるかも知れない。 『王陵の谷・磯長谷古墳群』〔太子町立竹内街道歴史資料館1974〕は「径32m」として、 「孝徳陵の規模が他の御陵に比べて小さいのも、このような動き〔薄葬令〕と関係があったのでしょう」と述べる(p.21)。 牽牛子塚古墳(〈斉明〉)が「バラス敷きを含めた範囲は90尺〔27m〕」 (『牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 整備基本構想』明日香村;2014)であるのを見ると、規模はこの時期の標準かと思われる。 《磯長谷古墳群》 磯長谷は、もともと蘇我氏が皇族の墓所として定めたものと考えられる。 〈皇極〉二年、舒明の《押坂陵》の項で、 「蘇我氏からの独立の表現は、飛鳥あるいは磯長谷から離れることである」と考えた。 磯長谷への埋葬は、それに逆行することになる。 蘇我氏本流は既に滅びたが、蘇我赤兄が天智十年に左大臣に就いているので、一定の復権があったようにも思われる。 しかしそれよりはむしろ、〈孝徳天皇〉がその建造に心血を注いだ難波長柄豊碕宮方面を見渡すことのできる、丹比道沿いの山上に築陵したと見るのがよいのかも知れない。 もしそうであれば、山田上ノ山古墳は〈孝徳〉真陵の可能性が高まる。 《倭河辺行宮》 白雉四年是歳の「倭飛鳥河辺行宮」のことであるのは明らかである。 「倭河辺行宮」という書き方では「河辺」は固有名詞だから、「飛鳥河(あすかのかは)の辺(ほとり)の行宮」ではなく、「飛鳥の河辺(かはのへ)の行宮」と訓まれるべきである。 《大意》 十月一日、 皇太子(ひつぎのみこ)〔天智〕は天皇(すめらみこと)が病気だとお聞きになり、 よって皇祖母尊(すめみおやのみこと)と間人皇后(はしひとのおほきさき)をお連れし、 併せて皇弟、公卿らを率いて、 難波に赴きました。 十日、 天皇(すめらみこと)は寝殿で崩じました。 よって殯宮(もがりのみや)を南庭に建て、 小山(しょうせん)上百舌鳥(もず)の土師(はにし)の連(むらじ)土徳(つちとこ)に、 殯宮の行事を掌らせました。 十二月八日、 大坂の磯長(しなが)の陵(みささぎ)に埋葬しました。 同じ日に、 皇太子は皇祖母尊(すめみおやのみこと)をお連れして、 倭(やまと)の河辺(かわのへ)の行宮(あんぐう)に移りました。 長老は 「鼠が倭(やまと)の都に向かった。これは遷都の兆しである」と語りました。 この年、 高麗、百済、新羅は揃って遣使奉弔しました。 まとめ これまでに西域の国との交流については、斉明天皇が皇祖母尊であったときに始まった万灯会、 酒船石遺跡に見られる水への信仰を伺わせる宗教施設の背景として、西域方面から何らかの宗教の伝来があったのではないかと考えた。 正倉院御物のペルシア産白瑠璃碗の存在は言うまでもない。 厩戸皇子の出生伝説や、棺から遺体が消えた伝説にはキリスト教の影響を見た。 ここで登場した吐火羅国人の舎衛女は、医学にも通じた才女として描かれている。 これもまた西域との交流の一つの場面であり、吐火羅国は漢籍で取り上げられた「吐火羅国」と実際に一致すると考えてよいのではないだろうか。 さて、〈孝徳〉紀は、法制が詳細に書き込まれている点で特異である。 書紀が書かれたのは大宝律令の実施段階に入っていたから、その出発点になった改新詔をとりわけ重視したのであろう。 その「改新詔」には大宝令を遡らせて書いた部分があるとよく言われるが、基本的にそれはないと判断した(孝徳天皇6)。 |