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2023.07.10(mon) [25-16] 孝徳天皇16 

32目次 【白雉元年正月】
《車駕幸味經宮》
白雉元年春正月辛丑朔。
車駕幸味經宮、
觀賀正禮
【味經此云阿膩賦】。
是日。
車駕還宮。
白雉…〈内閣文庫本〔以下閣〕白雉シラキゝス元年
車駕…〈北野本〔以下北〕 車駕 スメラミコト味経 アチフミソナハスミカトヲ■賀正還宮 タマフ トツミヤ。 〈閣〉 イ テアチ-フノ ニ[切] ミソナハス ミカトヲカミ ノ コト-ケイタマフ ニ
白雉(びやくぢ)の元年(はじめのとし)春正月(むつき)辛丑(かのとうし)の朔(つきたち)。
車駕(すめらみこと)味経(あぢふ)の宮に幸(いでま)して、
賀正礼(あたらしきとしのゐや)を観(みそなは)す。
【味経、此をば阿膩賦(あぢふ)と云ふ】。
是(この)日。
車駕(すめらみこと)宮(みや)に還(かへ)りませり。
《味経宮》
 味経については、「味経之原」が万葉歌に詠まれる。その地に乳牛を放牧した「味原牧」があり、 また西大道村〔現大桐〕に「乳牛牧跡碑」が建っている (〈安閑〉二年)。 ただ、西大道村の「大隅牧」と「味原牧味原味経原」の二文字化〕と同じであるかどうかは、分からない。
 しかし『遊女記』(大江匡房、平安末期)によると、淀川が分流して網目状になったところが「江口」で、そこに「味原〔牧?〕」があったという。 そして、大隅神社のすぐ北に「江口村」が存在するから、大隅牧と同じであろう。
《還宮》
 この年の賀正礼は長柄豊碕宮ではなく、味経宮で行われた。 それでは、この後「」先は、豊碕宮であろうか。
 しかし、大化四年《難波碕宮》の項で見たように、 豊碕宮では正月の儀礼は行われたが、他の時期は「離宮」・「行宮」で生活したようである。
 その宮の名前として、大化二年正月《子代離宮(或本:狭屋部子代)、 大化二年九月《蝦蟇行宮、そして大郡宮が挙げられている。 白雉年間になると、「大郡宮」の表現が使われるが、子代離宮または蝦蟇行宮のことだと見るべきか。 蝦蟇行宮を高津宮のあたりと見る説は、時代が合わないので成り立たないと見た〔高津宮は、大阪城の築城に伴い現在地に移った〕。 ただ、大郡にあったのなら、結果的に高津かうづ周辺だったかも知れない。 さらには、蝦蟇行宮子代離宮と同一だと割り切った方がよいかも知れない。
 こうすれば、長柄豊碕宮の造営中に住んだ宮が固定して、行幸したさまがすっきり読めるからである。
《大意》
 白雉(はくち)元年正月一日、 〔天皇の〕車駕(しゃか)は味経(あじふ)の宮にいらっしゃり、 賀正の礼を謁見されました。
 同じ日、 天皇(すめらみこと)は宮に戻られました。


33目次 【白雉元年ニ月九日】
《穴戸國司草壁連醜經獻白雉》
二月庚午朔戊寅。
穴戸國司草壁連醜經、
獻白雉曰。
「國造首之同族贄、
正月九日、於麻山獲焉。」
穴戸国司…〈北〉アナ國司クサカヘノムラシ シコ フ同-族 ヤカラ  ニエ 
 〈閣〉シコ -國造ニヘ テ ノ ニ タリ
二月(きさらき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔九日〕
穴戸(あなと)の国の司(つかさ)草壁(くさかべ)の連(むらじ)醜経(しこふ)、
白雉(しろききぎす)を献(たてまつ)りて曰(まを)さく。
「国造(くにのみやつこ)の首(おびと)之(の)同族(うがら)贄(にへ)、
正月(むつき)九日(ここぬか)、[於]麻山(をやま、をのやま)にありて獲(と)りつ[焉]。」とまをす。
於是、問諸百々濟々君々
百濟君曰、
「後漢明帝永平十一年
白雉在所見焉、云々。」
後漢明帝…〈閣〉  ノ メヤウタイ ノ永平十一トヲアカリ 
在所見…〈北〉在所見 アルトコロ 。 〈閣〉在-所アルトコロニ マミユ
於是(ここに)、諸(もろもろの)百済君(くたらのきみ)に問ひて、
百済君曰(まを)せらく、
「後漢(ぐかん)の明帝(めやうたい)の永平(ゐやうびやう)十一年(ととせあまりひととせ)
白雉(しろききぎす)の在所(あるところ)を見(み)ゆ[焉]、云々(しかしか)。」とまをせり。
又問沙々門々等々
對曰、
「耳所未聞目所未覩。
宜赦天下使悅民心。」
問沙門…〈北〉沙々  ホシ 門々等々赦天ツミユル 
 〈閣〉 ホシ[切] ニ[切]沙門 テ ニ ナリ未覩ツミユル ノ ニ使悅民 ヲ
又(また)沙門(ほふし)等(たち)に問ひて沙門(ほふし)等(たち)
対(こた)へ曰(まをせらく)、
「耳に[所]未(いまだ)聞こへず目に[所]未だ覩(み)えず。
宜(よろしく)天下(あめのした)に赦(つみゆる)して民(たみ)の心を悦(よろこ)ば使(し)めたまふべし」とこたへまをせり。
道登法師曰
「昔高麗、
欲營伽藍、無地不覽。
便於一所白鹿徐行、
遂於此地營造伽藍、
名白鹿薗寺、住持佛法。
道登法師…〈閣〉ダウタウ
伽藍…〈北〉■ツクテラ無地■■ム於此地 ツクル住持ア タモツ佛法。 〈閣〉 テ ツク ト伽-藍 伽交本  テラ ヲ トシト  云コト アル トコヒニ此地營-造 ツクル 白鹿-住タモツ。 〈仮名日本紀〉「ところとして見ずといふことなし」。
住持…①この世に安住して正法を保つ。② =住職。
道登(だうたう)法師(ほふし)曰(まをししく)
「昔(むかし)高麗(こま)、
伽藍(てら)を営(つく)らむと欲(おも)ひて、地(ところ)に不覧(みえざること)無し。
便(すなは)ち[於]一所(あるところ)に白鹿(しろきしか)徐(やくやく)行(ゆ)けり。
遂(つひ)に[於]此(この)地(ところ)に伽藍(てら)を営造(つく)りて、
白鹿園寺(びやくろくをんじ)と名づけて、仏法(ほとけのみのり)を住持(ぢゆうぢせり、すまひてたもてり)。
又白雀見于一寺田莊、
國人僉曰休祥。
又遣大唐使者持死三足烏來、
國人亦曰休祥。
斯等雖微尚謂祥物、
況復白雉。」
田莊…〈北〉田荘 ナリトコロ ヨイ祥又 サカナリ シ タル ノ微  イヤシ イ■サカ
 〈閣〉 レリイヤシ■サカ  ト
休祥…さいわい。
さが…[名] ① 本性。② 前兆。
…[形] (古訓) いやし。すこしき。ともし。ひそかに。ほのかに。
又(また)、白雀(しろきすずめ)を[于]一寺(あるてら)の田荘(なりどころ)に見ゆるを、
国(くに)の人僉(みな)休祥(よきさが)と曰へり。
又、大唐(だいたう)に遣(つかはされ)し使者(つかひ)死にたる三足(みつあし)の烏(からす)を持ちて来(まゐき)たれるを、
国の人亦(また)休祥(よきさが)と曰へり。
斯(これ)等(たち)微(すこしき)と雖(いへど)も、尚(なほ)祥(さきはひ)の物と謂ふ、
況(いはむや)復(また)白雉(しろききぎす)をや」とまをしき。
《白雉》
[『康煕字典』にいう白雉] 瞳孔の色味は正常
Lophura nycthemera
(ja.wikipedia.org)
キジ Phasianus versicolor 白色変種
 「白雉」はシラキギスと訓め、実際書紀古訓でもそう訓んでいるが、 連体詞「シラ-」は、品種として定まった場合の名称で、突然変異の場合は連体形「シロキ」を用いる傾向が見える。
 元号としては唐に倣った制度であるから、上代から音読みすべきものであっただろう。 大化を振り返ると、これがオホキニカハルなどと訓まれたとは、到底考えられない。
 白雉については、『康煕字典』に「鵫:…鵫雉、今白雉也。」とあり、その鵫雉は〈汉典〉によれば「白鷳」、"Lophura nycthemera"だという。 白鷳(ハッカン)はキジ科の鳥で、雄は背中側が白色、腹側が黒色にくっきり染め分けられている(写真左)。
 一方、全身が真っ白な「白雉」は現代ではそれほど珍しくなく、さまざまなサイトに写真が上げられている。 いずれも瞳孔には正常の色味があるので、アルビノ〔albino;メラニン生成機能を欠く個体〕ではなく、白変種〔leucism〕のようである(写真中・右)。 
 想像ではあるが、捕えられれば珍重されて飼育下で繁殖するだろうから、それが野生化して一定数生息していることも考えられる。
《国造首》
 「国造首」の古訓「」は、ヒトゴノカミ〔酋長、族長〕のカミか。の基本的な訓みオビトは、部曲の長に使われる。 国造も、一種の族ではある。
《九日》
 九日は当然ココノカ(ココヌカ)であるが、〈時代別上代〉は上代に用例を見つけていないようである。同書になぬか(七日)は載っており、基数〔七日間〕序数〔月の七番目にあたる日〕の両方に使われている。ココノ-カも同様であろう。 記倭建命段(第130回)の歌謡には「用邇波許許能用よにはここのよ比邇波登袁加袁ひにはとをかを〔夜には九夜、日には十日を〕とあるのを見れば、ココノカという語の存在は明らかである。
 一般の古語辞典では『宇津保物語』(平安時代)、『古今著聞集』(鎌倉時代)などに用例を見出している。 音韻変化してココヌカになったかどうかは不明である。
《草壁連醜経》
 草壁連については、〈開化〉段に「孝元天皇-日子坐王-沙本毘古王(日下部連、甲斐国造の租)」の系図が示される(第109回)。 また〈仁徳〉段では大日下王と若日下王の御名代が日下部の発祥とされる(第109回/日下部連)。
 〈仁徳朝〉のとき設置された御名代のおびとを日子坐王(彦坐命)系の子孫が担ったとすれば、一応矛盾を免れることができる。
《麻山》
長門国(穴戸国)大歳社
 地元には、これが麻山(おのやま)だといわれる山がある。 『広報ながと』Vol.921〔2001〕に掲載の「長門のいしぶみ⑰」は、 真木の地には『日本書紀』から派生した"白雉伝説"があり、昭和四十年〔1965〕三月、大歳社の境内にこの碑〔霊鳥白雉の碑〕が築造された」、「長門の国に「おの」の地名が多い」、 その中で「真木の白雉伝説は、花尾山のふもとに残る古い地名「一ノ小野」(市ノ尾)、「二ノ小野」、「山小野」(山小根)などの、「おの」にちなんだ地名から生じたものであろう」 (p.16)と述べる。 すなわち、花尾山ヲノヤマであると見る。
 しかし、麻山(ヲノヤマ)小野(ヲノ)は、甲乙違いである。 ただだけなら、そこからヲ-野ヲ-山が派生したと見ることはできよう。けれども、小野という地名は長門国のあちこちにあるといい、 そもそもヲヤマと小野とは無関係かも知れないから、なかなか麻山は特定し難い。
《諸百済君》
 諸百済君とは、誰のことだろうか。次の二月甲申条の「百済君豊璋」については、「百済君」は質として滞在している豊璋の冠称と読める (〈舒明〉三年)。
 しかし、諸百済には「」がついていることが判断を難しくする。いくつかの可能性を探ってみる。
(1) 百済君豊璋とは別の百済きみで、百済きみの別表記かも知れない。
 百済公は百済系渡来族である。
 ●姓氏録〖和泉国/諸蕃/百済公/出自百済国酒王也〗…〈仁徳天皇〉のとき(四十一年)に渡来した酒君の子孫。
 ●姓氏録〖左京/百済公/出自百済国都慕王廿四世孫■淵王也〗…〈続紀〉延暦九〔790〕新笠(桓武天皇の母)は百済遠祖都慕王の子孫と述べた記事がある。
(2) (1)とは別に、「百済王氏」がある。キミと訓む。〈天智〉三年三月に「百済王善光王等。居于難波」とある百済王(くたらのこにきし)氏は、倭に滞在していて百済滅亡により帰国できなくなった百済王族である。 この善光王は、質の豊璋とともに〈舒明〉朝に来倭したとする説を見る(『朝日日本歴史人物事典』、同説の信頼性は未確認)。
 下文では、豊璋に加えてその弟二人も列記されるから、その兄弟に善光王らをも含めたグループが百済君で、後の百済こにきし氏に繋がると見るのがよいと思われる。
 (1)百済公は、時代が大きく異なるので無関係であろう。
《後漢明帝永平十一年》
 〈北野本〉〈内閣文庫本〉ともに、「後漢」には訓点も声点もつけないが、音読みされたのは明らかである。 学生僧などが倭に持ち帰った『後漢書』が出典であろう。
 『後漢書』顕宗孝明帝紀
永平十一年是歳。漅湖出黃金、廬江太守以獻。時麒麟、白雉、醴泉1)、嘉禾2)所在出焉。
1)甘い味の泉。2)穂がたくさんついた稲。
《耳所未聞》
 「耳所未聞目所未覩」のは自発の助動詞として、がはさまってはいるが、所聞⇒聞こゆ所見⇒みゆと訓めばよいだろう。
 ここでは、白雉の出現がとても珍しいことを「見たことも聞いたこともない」と表している。
《道登法師》
 道登法師は、大化元年八月に十師の一人に任じられた。 これ以外には出てこないが、〈推古〉十六年九月《遣於唐學生八人》で遣わされた学生僧の誰か一人の別名かもしれない。
《無地不覧》
 「欲営伽藍無地不覧」は、意味が取りにくい。
 地不〔適地なく見えない〕。文法的にはこのように読むことはできるが、それなら「不覧無地」の語順であるべきであろう。
 地不一レ」と訓む。これは古訓以来の伝統的な読み方である。 『仮名日本紀』も「ところとして見ずといふことなし」としている。これは「覧なかったところはない」〔=あらゆるところを調べ尽くした〕意である。
 文法的には、「」は受事主語〔意味は目的語だが、主語の位置に置かれる〕となる。 そして主述構造「地不覧」が名詞節となって、「」の目的語(事実上の主語)となる。
《白鹿園寺》
 『三国史記』から、白鹿薗寺の記述を探してみた。高句麗でも白鹿が霊獣として珍重されたこと自体は、次の記述からわかる。
 『三国史記』-高句麗本紀
 太祖大王十年〔壬戌:62〕秋八月、東猟得白鹿
 太祖大王四十六年〔戊戌:98〕春三月、王東巡柵城、至柵城西罽山、獲白鹿
 西川王七年〔丙申:276〕夏四月、猟獲白鹿
 西川王十九年〔戊申:288〕秋八月、王東狩、獲白鹿
 高句麗の仏法の始めは375年と書かれている。以後、寺の名前がいくつか出て来るがそれほど多くない。
 『三国史記』-高句麗本紀
 小獣林王五年〔乙亥:375〕春二月,始創省[肖]門寺、以置順道。又創伊弗蘭寺、以置阿道。此海東仏法之始。
 文咨明王七年〔戊寅:498〕秋七月、創金剛寺。
 宝蔵王九年〔庚戌:650〕夏六月、盤龍寺普徳和尚…。
 「白鹿園寺」の名は『三国史記』に見えず、また仏法の始まり以後は、白鹿が登場することはない。 これ以外の書に白鹿園寺伝説があるのかも知れないが、今のところ見つけられずにいる。
 なお、韓国のサイトに「宝蔵王のとき白鹿園寺が建つ」という意味の記述があったが、これは書紀に基づいたもののようである。
《一寺田荘》
 〈推古〉十四年〔606〕是年条に「播磨国水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺」とあるように、 早い時期から独立的な寺領は存在していた。
 その後大化二年〔646〕三月辛巳詔が発せられ、寺の所有田は班田収授法により接収されるが、同時に自力による墾田の所有を認めている (大化二年三月《於脱籍寺入田与山》項)。 そのまま、墾田永年私財法〔743〕を経て、後世の荘園に繋がるようである。
《雀》
 スズメまたはサザキと訓まれる。
 古訓にスズメとして明記された箇所は、〈敏達〉十四年の〈内閣文庫本〉「 シオヘルシゝスゝメノ鳥焉」がある。 同じ個所を〈北野本〉は、「如-中-獵-箭-之-雀シゝヤヲハルゝスゝミノコトシ」とし、〈時代別上代〉はススミとも言ったのではないかと述べる。
 名詞スズメについては、記〈雄略〉段歌謡に「爾波須受米〔ニハスズメ〕(第209回)が見える。
 一方、サザキと訓まれる例としては、大雀おほさざき天皇(〈仁徳〉)などがある。
 ここでは、「田荘」における目撃例だから、田に群れていたスズメのうちの一羽と訓むのが妥当か。
《休祥》
 瑞祥を表す倭語には、サキサガキザシがある。サキは吉祥のみ、サガキザシは吉も凶もある。
 の字の成り立ちは、人が木に寄って安らぐさまを表すという。その木陰は神の恵みであるから「休祥」は、吉祥祥瑞と同じ意味になる。
《三足烏》
 〈神武段〉に登場する八咫烏は、古くから三足烏と解釈されている(第97回)。 『論衡』〔王充;後漢/80年〕には「儒者曰:日中有三足烏。月中有兔、蟾蜍。」とある。 「大唐使者持死三足烏」は、唐から帰国した学生僧の持ち帰った文献の中に「三足烏」があり、それがもとになって生まれた噂の類と思われる。
 少なくとも〈孝徳朝〉の時期には三足烏伝説が伝わっていたのだから、〈神武即位前紀〉の執筆者の頭の中でイメージされた「八咫烏」は、漢籍の三足烏であったと見てよいだろう。
《大意》
 二月九日、 穴戸(あなと)〔=長門〕の国司司草壁(くさかべ)の連(むらじ)醜経(しこふ)は、 白雉(はくち)を献上し、 「国造(くにのみやつこ)の首(おびと)の同族の贄(にえ)が、 正月九日、麻山(おやま)にて獲ったものです」と言上しました。
 そこで、何人かの百済の君(きみ)に問うと、 百済の君は、 「後漢明帝の永平(ようびょう)十一年に、 白雉のいるところが見えて、云々」と言いました。
 また、沙門らに問うと、 沙門らは、 「未だ耳に聞いたことも目に見たこともありません。 天下に大赦して民心を悦ばせてくださいませ」と答えました。
 道登(どうと)法師が言うには、 ――「昔、高句麗で、 伽藍を造営しようと思いましたが、その地を決められずにいました。 すると、ある所に白鹿がようやく歩いていました。 遂にこの地に伽藍を営造し、 白鹿園寺(びゃくろくおんじ)と名づけて、仏法を住持しました。
 また、白雀をある寺の田荘に見たとき、 国の人は皆休祥(きゅうじょう)〔=吉祥〕だと言いました。
 また、大唐に遣れた使者は、死んだ三足の烏を持って来たとき、 国の人はこれもまた休祥だと言いました。
 これらは、微々たるものですが、それでも吉祥の物です、 況(いわ)んや、白雉というものは」と言いました。

《僧旻法師曰此謂休祥足爲希物》
僧旻法師曰
「此謂休祥足爲希物。
伏聞、
王者旁流四表則白雉見。
又王者祭祀不相踰
宴食衣服有節、則至。
又王者淸素則山出白雉、
又王者仁聖則見。
希物…〈北〉 メ王者 キミ 旁流 アマネク   トキ
 〈閣〉 テ𠇾足為 トキミ[切] アマネク並曰イ    トキハ四-表 ヨモニ 
祭祀…〈北〉祭祀[切]相-踰 アヤマラ[テ] 宴-食衣 オモフ トヨノアカリ  -服有オホムソキモノト節則 カキリ 
 〈閣〉 テ相-踰 アヤマラ 宴-食 トヨノアカリ 衣-服 オホムソ 有節 トキハカキリ
みそ…[名] 御衣。
清素…〈北〉清素則  シツカナルト  仁-聖則 メクヒシリニマシ。 〈閣〉清-シツカナル素 静也   トキハメクミ ヒシリニマシトキハ
清素…飾り気のないこと。
僧旻法師(そうみむほふし)曰(まをし)しく
「此(ここ)に休祥(よきさが)と謂ふは、希(めづら)しき物と為(おも)ふに足(た)れり。
伏して聞きまつる。
王(きみ)者(は)旁(あまねく)四表(よも)に流(し)けば、則(すなはち)白雉(しろききぎす)を見ゆ。
又(また)、王(きみ)者(は)祭祀(まつり)して不相踰(あひこえざり)て、
宴食(うたげ)衣服(おほみそ)に節(せち、かぎり)有れば、則(すなはち)至せり。
又、王者清素(かざらざ)れば、則ち山に白雉出(い)づ。
又、王者仁(めぐみ)聖(ひじり)にませば、則ち見ゆ。
又周成王時、
越裳氏來獻白雉曰。
『吾聞、
國之黃耈曰、
「久矣無別風淫雨
江海不波溢三年於茲矣
意中國有聖人乎、
盍往朝之」。
故重三譯而至』。
周成王…〈閣〉 ノ ノ ニ越裳氏
国之黄耈…〈北〉黃-耈 オイヒト ヨモノ淫雨 ヒサメ アケ
 〈閣〉  シテヨモノヒサメ-雨ウミ コト ミチ ナミミチス 
黄耈…老人。黄は老人の髪の色。耈は老いて背が曲がる意。
江海…入り江と海。または河と海。 意中国…〈北〉意中 オモハク  [切]有聖 マシマスヲ人乎往朝之 マイテノ ツカヲマ三譯 ノ ヲサ
〈閣〉オモハク[切] ナカツクニ [切]有聖マシマスラム マウテ朝之ツカムマテ  テ ノ ヲサフ
…[副] なんぞ~ざるか(反語)。
又(また)、周(しゆ)の成王(じやうわう)の時に、
越裳(えちじやう)氏(し)来(まゐき)たりて白雉(しろききぎす)を献(たてまつ)りて曰(まを)ししく。
『吾(われ)聞きまつらく。
国(くに)之(の)黄耈(おいひと)曰(いはく)
「久(ひさしく)[矣]別風(よものかぜ)淫雨(みだるるあめ)無くて、
江(え)に海(うみ)に不波溢(なみあふれず)て三年(みとせ)[於]茲(ここ)にあり[矣]。
意(みこころ)は中国(ちうこく)に聖(ひじり)の人有(ま)せりといへる乎(か)、
盍(なにそ)往(まゐで)て[之]朝(てう)せざるか」といふをききまつる。
故(かれ)三(みへ)の訳(をさ)を重ねて[而]至(いた)りつ』とまをしき。
又晉武帝咸寧元年。
見松滋。
是卽休祥可赦天下。」
松滋…〈閣〉見松滋
休祥…〈北〉 リ。 〈閣〉 リト ト云テ ノ ニ
又、晋(しむ)の武帝(むたい)の咸寧(げむにやう)の元年(はじめのとし)。
松滋(じゆじ)に見ゆ。
是(これ)即(すなはち)休祥(よきさが)なりて天下(あめのした)に赦(つみゆるしたまふ)可(べ)し」とまをしき。
是以白雉使放于園。 是(ここ)に、白雉(しろききぎす)を以ちて[于]園(その)に放(はな)た使(し)めき。
《僧旻法師》
 僧旻法師の訓みは「ホフシ・旻・ホフシ」かも知れない (〈舒明〉即位前〈孝徳〉即位前 《沙門旻法師高向史玄理》項)。
《則白雉見》
 「王者旁流四表則白雉見」について、古訓は「~時は」を挟み、「"王者旁流四表なる"ときは則ち白雉見ゆ」と訓む。以下も同様である。 ここでは法則的な原理を述べるので、恒常条件の構文「已然形+バ」を用いることもできる。
《周成王時》
 「周成王時…」については、『韓詩外伝』と『後漢書』巻八十六/南蛮西南夷列伝に出典が見つかった(別項)。
《烈風雷雨》
 『武英殿二十四史』本は、「烈風雷雨」に「尚書大傳作「別風注雨」」を傍書する。 『尚書大伝』は尚書の注釈書。
 〈北野本〉は「列風淫雨」、〈卜部兼右本〉・〈内閣文庫本〉・『集解』は「別風淫雨」とする。
《晋武帝咸寧元年》
 西晋〔265~316〕は、三国魏の後継王朝としてスタートし、280年にを滅ぼして久しぶりに中国統一王朝となった。
 「武帝」は、初代皇帝司馬炎の諡号。
 『晋書』帝紀第三/世祖武帝。
咸寧元年〔275〕春正月戊午朔。大赦、改元。
 松滋(しょうじ)は、湖北省の地名。
 『宋書』巻二十九志第十九/符瑞下
 晋武帝咸寧元年四月:丁巳。白雉安豊松滋
 咸寧元年十二月:丙午。白雉梁国睢陽、梁王肜獲以獻。
 咸寧三年十一月:白雉渤海饒安。相阮温獲以献。
《可赦天下》
 沙門らは「天下使上レ民心」と求めた。 僧旻法師は、晋武帝咸寧元年のことを引き合いに出して「天下」と提言する。 これらを受けて、詔も「-赦天下-元白雉」と述べる。
 このように何カ所かで大赦が話題に上っているところに、改元に至るひとつの背景が窺える。
《大意》
 僧旻法師(そうみんほうし)が言上するには、
――「ここで休祥というのは、希少な物だと思うに足ることです。
 伏して聞くに、 王(きみ)は四方に満遍なく統治が及べば、白雉を見ます。 王は祭祀を踏み越えることはなく〔=過(あやま)たず〕、 宴食衣服に節度があれば、それに至ります。 王は清素であれば、山に白雉が出ます。 王は仁聖であれば、これを見ます。
 また、周の成王(せいおう)の時、 越裳(えつじょう)氏が来て白雉を献上して、 『私が聞くに、 国の長老が 「久しく別風淫雨なく、 入り江や海に波が溢れることもなく、三年になる。 〔天の〕御心は、中国に聖人ありということかも、 どうして参上して朝せざるか」と言うのを聞きました。 そこで、三訳を重ねて〔=遠路はるばる〕参りました』と申し上げました。
 また、晋(しん)の武帝の咸寧(かんねい)元年、 〔白雉が〕松滋(しょうじ)にいるのを見ました。
 このように、休祥でございますから、天下に大赦なさるべし」と言上しました。
 こうして、白雉を園に放たせました。


【周成王時越裳氏来献白雉】
 成王は周の第二代王。殷を滅ぼして周朝を立てた武王の後を継いだ。越裳が白雉を献上した話は、いくつかの漢籍に見える。
《韓詩外伝》
 『韓詩外伝』〔韓嬰/著;前漢〕
 成王之時、有三苗桑而生…比幾三年、 累有越裳九訳而至、
白雉於周公〔曰〕 「道路悠遠山川幽深、恐使人之未一レ達也、故重訳而来。」
周公…周公旦。武王の弟。成王が幼少の間、摂政となった。
重訳…二重、三重の通訳を必要とするような遠隔地の国から来たことを表す。
 すなわち、遠い国から「越裳」が成王の代のに来て、白雉を献上した。
《宋書》
 『宋書』巻二十九志第十九/符瑞下
越常、周公時来献白雉、象牙
 ここでは国名が「越常」となっている。
《後漢書》
『漢書』地理志に載る、南海郡、蒼梧郡、鬱林郡、合浦郡、交趾郡、九真郡、日南郡。〔推定位置図〕
 (魏志倭人伝/原文を読む(40))
 『後漢書』巻八十六/南蛮西南夷列伝
 交阯之南有越裳國。周公居攝六年、制禮作樂、天下和平。
 越裳以三象重譯而獻白雉。曰「道路悠遠、山川岨深(そしん)、音使不通、故重譯而朝。」
 成王以歸周公。公曰「德不加焉、則君子不其質。政不施焉、則君子不其人。吾何以獲此賜也」
 其使請曰「吾受命。吾國之黃耇曰『久矣、天之無烈風雷雨。意者中國有聖人乎。有則盍往朝之。』」
 周公乃歸之於王、稱先王之神致、以薦于宗廟。周德既衰、於是稍絕。
 交阯の南に越裳国有り。周公せつに居すこと六年、礼を制し楽を作り、天下和平なり。
 越裳、三象重訳を以て白雉を献りて曰く「道路悠遠、山川深にて、音使おんし通ぜず、故に重訳しててう〔ちょう〕す。」
 成王以て周公に帰(よ)す。公曰「徳加はらず、すなはち君子其の質を饗せず。政施さず、則ち君子其の人を臣とせず。われ何ぞ以て此のたまものむか」
 其の使ねがひて曰く「吾命を受く。吾が国の黄耇くわうこう曰く『久しく、天これ烈風雷雨無し。意は中国に聖人有るか。有れば則ちけだし往きててうす。』」
 周公すなはち王に帰して、先王の神を称へて致し、以て宗廟に薦む。周徳既に衰へ、ここやうやく絶ゆ。
三象…日、月、星。 …[形] 険しい。 音使…ことづてを伝える使者。 …ここでは、同音の「亨」に通ずる用法。 不饗其質…その質を満たさない。
 の「交阯」は、現在のベトナム北部。越裳国はその南というから、ラオスのあたりということになる(右図)。
 の「三象」は、太陽・月・星座の位置によって方向を定めてやってきたという意味か。
 周公(旦)は、成王の摂政となった。従って、「成王以帰周公」は、越裳使への対応を成王が周公に任せたという意味である。
 はここだけでは正確な意味は読み取れないが、越裳の話がで終了したことを示すために、加えた。
《説苑》
 『説苑』に、前項『後漢書』とかなり近い内容の文がある。
 『説苑』〔劉向/著:前漢〕
成王時有三苗貫桑而生、同為一秀、大幾盈車、民得而上之成王、成王問周公「此何也」
周公曰「三苗同秀為一、意天下其和而為一乎」
後三年則越裳氏重訳而朝、曰「道路悠遠,山川阻深,恐一使之不通,故重三訳而来朝也。」
周公曰「徳沢不加、則君子不饗其質。政令不施、則君子不臣其人。」
訳曰「吾受命於吾国之黄髮久矣、天之無烈風淫雨、意中國有聖人耶。有則盍朝之。」
然後周公敬受其所以来矣。
訳曰…「通訳は言った」の意。
 こちらは、「然後しかるのち、周公敬受-ゑをきたりし」すなわち、冊封国の関係を結ぶところまできちんと書かれている。
 ただし、ここには白雉が出てこないので、僧旻〔あるいは書紀著者〕が引用したのは『後漢書』の方である。
《琉球国中山世鑑》
 『琉球国中山世鑑』〔琉球王国初の正史〕に、『後漢書』と類似する部分のあることが注目される。
 『琉球国中山世鑑』巻二〔羽地朝秀/著;1650〕
 英祖王ハ天孫氏ノ後胤惠祖世主ノ孫也
 …〔中略〕…
 咸淳二年丙寅〔1266〕
 北夷大嶋重諸来朝ス
王曰「徳澤不如君子不響其質政令不施君子不臣其人ト云ヘリ。吾何ンノ其貢ヲ受ンヤトテ辞シ給ケリハ」
夷譯曰「我國ニ有黄孝曰天無烈風滛雨海不揚波三年也。海不揚波以聖徳下通於地無烈風滛雨。以聖徳上通于天也意者今中國有聖人乎」
 何徃朝ノ哉ト教ケル間。是以朝貢ストソ奏シケル。
 王悦給テ賜ヲ厚シテソ歸ラシメ給。是北夷大嶋ノ朝貢其始ナリ其後ヨリシテ毎年来テ入貢ストソ聞ヘシ。
北夷大嶋…奄美大島か。 夷譯曰…「北夷が通訳を通して言うには」の意。
 これ「北夷」が琉球国に朝貢する関係を結ぶ場面である 〔夷は本来東夷のことで、北方の異民族は北狄と呼ばねばならない〕
 ABが、『後漢書』の③④を用いたことは明らかである。
 は、北夷使による「貴国に朝貢する国になります」との言上に対して、琉球王が「私には、その資格はない」と謙遜して見せる文であることがわかる。 は、使がその王の言葉を受けて「この三年烈風淫雨なく波静かなのは、聖徳の王がいらっしゃるからだと古老が申しておりました。よって、参上いたしました」と言って重ねて敬意を示し、晴れて冊封の関係が成立する。
 よって、『後漢書』のは周公が形式的に謙遜して見せるもので、は、越裳国使が重ねて敬意を表す言葉である。 すなわち、これらは予め定められた儀礼におけるやりとりであった。
《黃耇曰久矣天之無烈風雷雨》
 〈孝徳紀〉による引用箇所にある「国之黄耈曰久矣無別風淫雨江海不波溢三年於茲矣意中国有聖人乎」が、白雉とどう結び付くのかさっぱり分からなかった。
 しかし『後漢書』と『琉球国中山世鑑』を見比べることにより、結局宗主国がひなの国を冊封する儀式における、定型のセリフであることがわかった。 〈孝徳紀〉の引用には、②~④のうち、が抜けている。
 ここまで調べたことによって、やっと僧旻法師の言上の「周成王時…」の部分の成り立ちが分かった。 要するに、『後漢書』から前後の繋がり抜きにつまみ食いしたのである。 これは書紀の文章を見ているだけでは、絶対に分からないことであった。

34目次 【白雉元年ニ月十五日】
《朝庭隊仗如元會儀》
甲申。
朝庭隊仗如元會儀。
左右大臣百官人等
爲四列於紫門外。
以粟田臣飯蟲等四人
使執雉輿而在前去。
隊仗…〈北〉隊仗如 ツハモノヨソホヒ 元會 ツイタチ官人 トモ  シ粟田■ハタノイヒムシ在前 サイタチ ユケ。 〈閣〉元-會 ツイタチノ ヨソホヒノ ムツキノ朔ノヨソヒ 紫-カトノ ニ在-前サイタチ テ
元会…〈汉典〉「皇帝于元旦朝-会群臣正会、也称元会。始于漢。魏晋以降因」。
隊仗…「儀仗兵」は武器をもって儀式に整列する兵隊。
-つら…[助数詞] ~列。
さきだつ…[自]タ四 先に行く。
甲申(きのえさる)〔十五日〕。
朝庭(みかどのおほには)の隊仗(つはもののよそほひ)、元会儀(むつきのつきたちののり)の如し。
左右(ひだりみぎ)の大臣(おほまへつきみ)百官人(もものつかさ)等(たち)、
[於]紫門(みかど)の外(と)に四列(よつら)を為(つく)れり。
粟田臣(あはたのおみ)飯虫(いひむし)等(ら)四人(よたり)を以ちて、
雉(きぎす)の輿(こし)を執(と)ら使(し)めて[而]在前(さきだち)せしめて去(まゐ)でしめき。
左右大臣
乃率百官
及百濟君豐璋
其弟塞城
忠勝
高麗侍醫毛治
新羅侍學士等
而至中庭。
百済君…〈北〉百濟 ナツハキシ 豊璋 ホウシヤウ[切]其弟 サイ シヤウ忠勝 チウ■ウ。 〈閣〉シヤウ。 〈釈紀〉忠勝チウセウ
高麗侍医…〈北〉 ノ侍醫 オモトクスシ毛治 シラキノ。 〈閣〉 ノ侍-醫オモト クスシモウ ノ- 音讀學-士 カク シ而至中-庭 オホハ ニ
おもと…[名] 高貴な人のもと。〈時代別上代〉の用例はすべて書紀古訓。ただ語の成り立ち「御-モト」から見て、上代にも十分考えられる。
左右の大臣、
乃(すなはち)[率]百官(もものつかさ)
及びに百済君(くたらのきみ)豊璋(ほうしやう)
其の弟(おと)塞城(さいじやう)
忠勝(ちうせう)、
高麗(こま)の侍(おほもと)の医(くすし)毛治(もうぢ)、
新羅(しらき)の侍学士(じがくし)等(たち)をゐて、
[而]中庭(おほには)に至(まゐ)でり。
使三國公麻呂
猪名公高見
三輪君甕穗
紀臣乎麻呂岐太四人
代執雉輿而進殿前。
三国公…〈北〉 國■■呂[切]ナノキミ高見[切] ワノキミミカ[切]キノヲン乎麻呂■マロ[切]岐太キタ[切] 四人カハル\/。 〈閣〉使三國公麻呂三輪君甕[切]臣乎麻 ノカハル\/
[使]三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ)
猪名公(ゐなのきみ)高見(たかみ)
三輪君(みわのきみ)甕穗(かめほ)
紀臣(きのおみ)乎麻呂岐太(をまろきた)四人(よたり)をして、
代へて雉(きぎす)の輿(こし)を執(と)らしめて[而]殿(おほとの)の前(みまへ)に進めしめき。
時、左右大臣就執輿前頭、
伊勢王
三國公麻呂
倉臣小屎執輿後頭
置於御座之前。
前頭…〈北〉 前-頭 マヘ   セノオホキ倉臣クラノヲンクソ執輿後-頭 シリ 御座 オマシ之前
みまし…[名] 貴人の座る席。またその敷物。あるいはおいでになること。
時に、左右の大臣就(つ)きて輿(こし)の前頭(まへ)を執(と)りて、
伊勢王(いせのみこ)
三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ)
倉臣(くらのおみ)小屎(をくそ)輿の後頭(しりへ)を執りて、
[於]御座(みまし)之(の)前(みまへ)に置きまつりつ。
天皇卽召皇太子共執而觀。
皇太子退而再拜、
使巨勢大臣奉賀曰
「公卿百官人等奉賀。
陛下以淸平之德治天下之故、
爰有白雉自西方出。
執而觀…〈北〉執而ミソナハスヨロト官人[切]奉-賀[切] トモ ヨコトタテマツラク [切]治天 シラ 。 〈閣〉使 テ巨勢大 ヲ- ヨコト テ清-平 シツカナル イ ヲ シラ ヲ ニ テ西 ノイツ   コト
よごと(寿詞)…[名] 寿ぎ祝いの詞。〈時代別上代〉「「…神賀吉詞よごと白給倍利」(倭姫世記)」。
天皇(すめらみこと)即(すなはち)皇太子(ひつぎのみこ)を召(め)して共に執(と)りたまひて[而]観(みそなは)す。
皇太子退(まか)りて[而]再拝(をろが)みたまひて、
巨勢(こせ)の大臣(おほまへつきみ)をして奉賀(よごとたてまつ)ら使(し)めたまはく[曰]
「公卿(まへつきみ)百官人(もものつかさ)等(ども)奉賀(よごとたてまつらく)。
陛下(おほきみ)清平之(きよくたひらげたまふ)徳(のり、いきほひ)を以ちて天下(あめのした)を治(しろしめたま)ひし[之]故(ゆゑ)に、
爰(ここに)白雉(しろききぎす)有りて西(にし)の方(かた)自(よ)り出(い)づ。
乃是、
陛下及至千秋萬歲
淨治四方大八嶋。
公卿百官及諸百姓等、
冀磬忠誠勤將事。」
奉賀訖再拜。
及至…〈閣〉及- テニ
千秋万歳…〈仮名日本紀〉ぢのろづ
諸百姓等…〈北〉諸百姓トモ  クハ-磬  ツク忠-誠 マメユゝハイツ■ イソ将-事 ツカマツラム。 〈閣〉 ハ キツク忠-誠 マメコゝロヲ イソ将-事ツカマツラム ト。 〈閣〉頭注:「磬:磬石楽器周礼曰磬人為磬。罄:盡也。説文曰器中空也。苦定切。
…[名] 仏具。石製の打楽器。
…[形][動] むなしい。つきる。
まめ…[形動] 忠実なさま。〈時代別上代〉「上代の確例は見えない」。
乃(すなはち)是(ここ)に、
陛下(おほきみ)千秋(ちとせ)万歳(よろづとせ)に及び至りて、
四方(よも)の大八嶋(おほやしま)を浄(きよ)め治(しろ)しめたまはむ。
公卿(まへつきみたち)百官(もものつかさ)及びに諸(もろもろの)百姓(たみ、おほみたから)等(ども)、
冀(こひねがは)くは、忠誠(まこと)を磬〔罄〕(つ)くして勤将事(つかへまつらむとせしことゆめ)。」と
奉賀(よごとたてまつること)を訖(を)へて再拝(をろが)みまつりき。
《左右大臣》
 この段には「左右大臣」が繰り返し出て来る。改元の儀式は、新たに任命した巨勢臣徳陀古(左大臣)、大伴連長長徳(右大臣)のお披露目の場でもあった。 朝廷の中枢にもはや蘇我氏の姿はないことが、万民に印象付けられるのである。
《粟田臣飯虫》
 粟田臣は、和珥わに臣の子孫で、春日臣から分岐した。本貫は〈倭名類聚抄〉{山背国・愛宕郡・上粟田郷/下粟田郷}と考えられている (第105回)。
《紫門》
 紫門は、紫宸(天子の宮殿)の門と見られる。
《使三國公麻呂》
 三国麻呂公は、大化五年三月に倉山田大臣への詰問使として遣わされた。
《猪名公高見》
 猪名部〈応神〉三十一年に、新羅王から能匠として献上された。 新羅使が武庫湊に停泊したときに失火し、そのお詫びに献上した。 これ自体は伝説であろうが、渡来は一般に応神紀に集約して書かれるので、猪名部は技術者として渡来した人を祖とすると思われる。
 一方、〈宣化〉の上殖葉皇子が「丹比公偉那公凡二姓之先也」とされる(〈宣化〉元年) 偉那公(猪名公)は、猪名部の伴造とものみやつこであろう。
 伴造になった経緯については、『日本古代氏族事典』〔雄山閣出版;1994〕に 「この地方に設置されていた猪名部の伴造氏族の為奈部首氏より出た乳母の氏名〔うじな〕に由来するものとみられる」とあったが、 その確たる根拠は示されていない。猪名公は〈天武〉十三年に真人姓を賜った。
《三輪君甕穗》
 三輪君については、三輪君大口参照。甕穗の名はこの場面のみ。
《紀臣乎麻呂岐太》
 紀臣については、紀麻利耆拕臣参照。
輿 国史大事典〔吉川弘文館1997〕
《代執雉輿》
 「」への古訓「カハルガハル」は、四人が順番に輿を受け渡してということになるが、 その前に「以粟田臣飯虫等四人使執雉輿」とあるから、越は四人で持ち、三国公麻呂など四人の組に引き継いだのであろう。
 小型の輿の場合、ながえ〔輿の取っ手〕は四本である(右図)から、一人が一本を持ったのであろう。
 さて、穴戸国で捕獲した白雉を、はるばる難波宮まで運んできたわけである。おそらく船便であったと想像されるが、その運搬にはさぞかし気を遣ったであろう。 捕獲したのが一月九日、献上したのが二月九日と書かれているから、その間約一か月を要している。献上後に「使于園」と書いてあるから、 無事生きたまま連れて来られたことが何よりである。
《左右大臣就執輿前頭》
 殿前で再び運び手を交代し、殿の中の御座にいた天皇の前に据えたようである。 「前頭」は前二本の轅の持ち手と思われ、左右大臣が執る。
《後頭》
 「後頭」は後ろ二本の轅の持ち手であろうが、伊勢王三国公麻呂倉臣小屎の三人の名前が書かれている。 三国公麻呂は直前まで前の轅を執っていたから誤って紛れ込んだもので、実際には伊勢王・倉臣小屎の二人と見るのがよいだろう。
《伊勢王》
 伊勢王の名前は、ここ以後にも見える。
〈斉明〉七年〔661〕六月 伊勢王薨。
〈天智〉七年〔668〕六月 伊勢王与其弟王接日而薨。
〈天武〉十二年〔683〕十二月 遣…五位伊勢王
  十三年〔684〕五月 遣伊勢王、定諸国堺
  十四年〔685〕十月己丑 伊勢王等亦向于東国
  朱鳥元年〔686〕正月癸卯。伊勢王、亦得実。 六月甲申 遣伊勢王及官人等於飛鳥寺 九月甲子 浄大肆伊勢王、誄諸王事
〈持統〉二年〔688〕三月丁酉、命浄大肆伊勢王、奉宣〔天武〕葬儀。
浄大肆(浄大四)…〈天武〉十四年時点での諸王の冠位。
 ①②は同じ人物が誤って二箇所に書かれた可能性がある。 は、①②とはあきらかに別人物である。 かつと同一であろう。
 表記は「」であるから、天皇の孫以後の代である。 書紀では、名前と血縁が明記されるのは基本的に皇子・皇女までであるから、二人(?)の「伊勢王」が誰の子であるかも書かれていない。 おそらくは、失われた系図巻にまとめて納められたのであろう。
 「」の訓は、ミコオホキミがある。前者は天皇からあまり代を重ねず、時には天皇の候補になり得るような高貴な王である。 ①②は、薨の記事が載るから皇子の次の代ぐらいであろうと考え、ミコとする。
《倉臣小屎》
 倉臣について〈姓氏家系大辞典〉は、「:倉氏は単に内蔵職員たりし者の後のみならず、朝廷領・各地に置かれし倉庫の司たりし者の裔、亦これを称す」、 「倉臣:何れの倉の首長か、詳かならず」と述べる。
《大意》
 〔白雉元年正月〕十五日、 朝庭の隊仗は、元日に会する儀礼の如くでした。 左右の大臣(おおまえつきみ)、多くの官人らは、 紫門〔=天皇の宮殿の門〕の外に四列を作りました。
 粟田臣(あわたのおみ)飯虫(いいむし)ら四人に、 雉(きじ)の輿を持たせて、先導させました。
 左右の大臣は、 続いて官人たち 及び百済の君豊璋(ほうしょう) その弟の塞城(さいじょう) 忠勝(ちゅうしょう)、 高麗の侍医毛治(もうじ)、 新羅の侍学士(じがくし)らを率いて、 中庭に至りました。
 三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ) 猪名公(いなのきみ)高見(たかみ) 三輪君(みわのきみ)甕穗(かめほ) 紀臣(きのおみ)乎麻呂岐太(おまろきた)の四人に、 雉の輿の持ち手を交代させ、宮殿の前に進めさせました。
 その時、左右の大臣は近づいて輿の前の頭を持ち、 伊勢王(いせのみこ) 三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ) 倉臣(くらのおみ)小屎(おくそ)は輿の後の頭を持ち、 御座の御前に置きました。
 すると天皇(すめらみこと)は皇太子(ひつぎのみこ)を呼び寄せ、共に手に取って御覧になりました。 皇太子は一歩退いて再拝され、 巨勢(こせ)の大臣に奉賀させました。
――「公卿(まへつきみ)百官人(もものつかさ)らは奉賀いたします。 陛下は清平の徳をもって天下を治められた故に、 今回白雉が西方から出現したのでございます。
 すなわちここに、 陛下は千秋万歳に及び至り、 四方の大八嶋(おおやしま)を浄め治められます。 公卿、百官、及びもろもろの百姓たちは、 冀(こいねがわ)くば、忠誠を尽くして謹んで仕えようとせよ。」と 奉賀し終えて再拝しました。

《聖王出世治天下時天則應之示其祥瑞》
詔曰
「聖王出世治天下時、
天則應之示其祥瑞。
曩者、
西土之君周成王世
與漢明帝時白雉爰見。
天則応之…〈北〉 コタヘ祥-瑞 ミツ [句]曩者 ムカシ  西 クニ之君
 〈閣〉コタヘテ祥-瑞 ミツヲ 
祥瑞…めでたいときにあらわれるしるし。
…[名] 以前。
詔(みことのり)曰(のたま)へらく
「聖王(ひじりのきみ)世(みよ)に出(い)でて天下(あめのした)を治(しろ)す時は、
天(あめ)則(すなはち)之(こ)に応(こた)へて其の祥瑞(しるし)を示(あらは)したまふ。
曩者(むかし)、
西土(にしのくに)之(の)君(きみ)周(しゆ)の成王(じやうわう)の世(みよ)と、
漢(かん)の明帝(めやうたい)の時与(と)に白雉爰(ここ)に見ゆ。
我日本國譽田天皇之世
白鳥樔宮、
大鷦鷯帝之時龍馬西見。
是以、自古迄今祥瑞時見、
以應有德、其類多矣。
日本国…〈北〉我日本-國 ミカト 白鳥スクフ ヒノ
 〈閣〉日本 ミカト  ノ白鳥シロキ トリスクフ ニ リウメ コタウルコト有-德 イキホヒ  
白鳥…『集解』は「白烏」とする。
すくふ…[自]ハ四 鳥についていう。
我(わが)日本国(やまとのくに)の誉田天皇(ほむたのすめらみこと)之(の)世(みよ)に、
白鳥(しろきとり)宮(おほみや)に樔(すく)ふ、
大鷦鷯帝(おほさざきのすめらのみこと)之(の)時に、龍馬(りゆうめ)西に見ゆ。
是(こ)を以ちて、古(いにしへ)自(よ)り今迄(まで)祥瑞(しるし)を時に見て、
以ちて徳(のり)有りしに応(こた)へつ、其の類(たぐひ)多(さは)なり[矣]。
所謂鳳凰
騏驎
白雉
白烏、
若斯鳥獸及于草木有苻應者、
皆是天地所生休祥嘉瑞也。
夫明聖之君獲斯祥瑞適其宜也。
朕惟虛薄何以享斯。
鳳凰〔ほうおう〕。徳が高い天子が世の中に出たときに現れる想像上の鳥。
騏驎麒麟〔きりん〕。吉兆とされる想像上の動物。
斯鳥獣…〈北〉鳥獸苻應者 シルシ コタヘ  ■祥サキ 嘉-瑞也獲斯 タマフ 祥瑞虛薄 イカシ 
 〈閣〉鳳凰[切]騏驎[切]白雉[切]白烏 皆音 [切]ト -  ヨリケ [切]于草木 アルハシルシ-コタヘタマフコト斯祥 ヲ[切] フニ  ムヘ イヤシ-薄[句] ヲ以享 ヲ
虚薄…才能がない。
…[動] とおる。(古訓) とほる。
所謂(いはゆる)鳳凰(ぶわう)
騏驎(ごりん)
白雉(しろききぎす、びやくぢ)
白烏(しろきからす、びやくう)、
若(もし)斯(かく)鳥(とり)獣(けもの)より[于]草木に及びて符(しるし)の応(こたへ)に有ら者(ば)、
皆(みな)是(これ)天地(あめつち)の休祥(よきさが)嘉瑞(みづきざし)を所生(なすもの)なり[也]。
夫(それ)明(あきらけ)き聖(ひじり)之(の)君(きみ)斯(この)祥瑞(みづしるし)を獲(たまは)りて、適(かな)ふは其(それ)宜(むべ)なり[也]。
朕(われ)惟(おもひはか)るに虚薄(かどむなしき、いやしき)て何そ以ちて斯(これ)に享(とほ)るか。
蓋此、
專由扶翼公卿臣連伴造國造等
各盡丹誠奉遵制度之所致也。
是故、始於公卿及百官等、
以淸白意敬奉神祇、
並受休祥令榮天下。」
專由扶翼…〈北〉專扶-翼タクメ由 タスケ公卿丹誠 マコト ■ゝロ奉遵制-度ウケタマハリシタカ ノリ所致 ナル アキラケキ
〈閣〉專由タクメ テ扶-翼 タスケ ノ公卿[切][切][切]  ノ[切] ノ ニ[切] テ マコト コゝロヲ奉-遵ウケタマハリシタカ制-度 ノリニ  ナリ致也
蓋(けだし)此(こ)は、
專(もはら)[由]扶翼(たすけ)の公卿(まへつきみ)臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)等(ども)が、
各(おのもおのも)丹誠(まことこころ)を尽くして制度(のり)を奉遵(たてまつりしたがへる)[之所(ところ)]によりて致(いた)さむ[也]。
是(この)故(ゆゑ)に、[於]公卿(まへつきみたち)より始めて百官(もものつかさ)等(ども)に及びて、
清白(きよくあけらけき)意(こころ)を以ちて神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を敬奉(いやまひまつ)りて、
並びに休祥(よきさが)を受けて、天下(あめのした)を栄(さか)え令(し)めむ。」とのたまへり。
又詔曰
「四方諸國郡等、
由天委付之故、
朕總臨而御寓。
今我親神祖之所知穴戸國中
有此嘉瑞。
所以、大赦天下改元白雉。
天委付…〈北〉 ノ委-付之 ユタネ サツクル /總 フサネ  [句] アメノシタ    ムツ カミ ロキ所知 シラス元白ハシメノトシ
〈閣〉 テノ ノ委-付ユタネ サツクルニ ニ 総-臨 フサネテ 御-寓 アメノシタハ  カ ムツ カノ祖之所-知 シラス  ニツミユルス ノ ニ[切]改元ハシメノトシ ヲ トシラキゝス 

ふさぬ…[他]ナ下二 束ねる。まとめて治める。
むつ-…[連体詞] 名詞に冠して親密なさまを表す。
かみろき…[名] 〈時代別上代〉「祖神をいうか」。カミロミ(女神)と対。〈延喜式-祝詞〉祈年祭:「高天原尓神留坐皇睦神漏伎〔むつかむろき〕命。神漏弥〔かむろみ〕」。
又詔(みことのり)曰(のたま)へらく 「四方(よも)の諸(もろもろ)の国(くに)郡(こほり)等(ども)、 天(あめ)の委(ゆだね)付(さづけ)に由(よ)りし[之]故(ゆゑ)に、 朕(われ)総臨(ふさねのぞ)みて[而]寓(あめのした)に御(ましま)す。 今、我が親(むつ)神祖(かみろき)之(の)所知(しらす)穴戸(あなと)の国の中(うち)に 此の嘉瑞(みづしるし)有り。 所以(ゆゑ)に、天下(あめのした)に大(おほ)きに赦(つみゆる)して、改元白雉(あらためてびやくぢのはじめのとしとしたまふ)。
仍禁放鷹於穴戸堺、
賜公卿大夫以下至于令史、
各有差。
於是、
褒美國司草壁連醜經、
授大山、幷大給各有差。
復穴戸三年調役。」
禁放鷹…〈北〉 イサメ放鷹令史 フムヒト 褒美 ホメ  ユルス穴戸三年調
 〈閣〉  コト公卿大夫以下至于 テニ 授大山[切] テ ニ コト各有差[句] ユルス ノ ノ調-役
大山制冠十九階の第十一位または第十二位。
幷大給各有差…『集解』「幷大給祿 祿字原作各有差三字類聚国史〔「禄」の字、もと「各有差」の三字に作る。『類聚国史』により改む〕
…[動] 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉免除(賦税徭役)」。
えつき…[名] 役(え)と調(つき)。
仍(よ)りて[於]穴戸(あなと)の堺(さかひ)に鷹(たか)を放つことを禁(いさ)めて、
公卿大夫(まへつきみ)より以下(しもつかた)[于]令史(ふみひと)至(まで)賜(たまはること)、
各(おのもおのも)差(しな)有り。
於是(ここに)、
国司(くにのつかさ)草壁連(くさかべのむらじ)醜経(しこふ)を褒美(ほ)めて、
大山(だいせん)を授けて、并(あは)せて大(おほ)きに給(たまはる)[各有差]。
穴戸の三年(みとせ)の調役(えつき)を復(ゆる)したまふ」とみことのりのたまへり。
《白鳥樔宮》
 白鳥を、『集解』は「白烏」に作る。それは下文に「白烏」があるためで、加えて参考事項として『延喜式』治部省「祥瑞」項の「白鳩。白烏。大陽之精也。」などを挙げる。
 白鳥は、これまではククヒ(ハクチョウ)のことである (〈景行紀〉日本武尊条第119回〈垂仁〉段)。 ククヒはもともと全身が白い鳥なので、祥瑞にはならない。よって、〈内閣文庫本〉左訓は「シロキトリ」とするのであろう。
 この話が〈応神〉紀・段に全く出てこないのは不審である。 「白鳥樔宮」に似た場面なら、〈垂仁段〉(第119回)にある。 
――「住是鷺巢池之樹鷺乎宇気比落」。すなわち誓(うけひ)の結果次第で、鷺は木から落ちて死ぬ。
 その話の前段は、〈垂仁天皇〉皇子が言葉を発することができなかったが、 鵠(くくひ、=白鳥)を見て突然言葉を発した話である。やっと鵠を捕まえたが皇子は言葉を発さず、それが何故かと占ううちに、巡り巡って鷺による誓(うけひ)の話になった。
 その皇子の名前が、書紀では「誉津別王」となっており、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと;応神天皇)」〔記は品陀和気命(ほむたわけのみこと)〕とかなり近いことが目を惹く。
 だとすれば、〈垂仁紀・段〉の白鳥・鷺伝説の亜種が、〈誉田天皇〉に関連する話として存在していたのかも知れない。 もしこれが本当なら、白鳥を白烏に作る必要はなくなる。
《龍馬》
 竜馬も『延喜式』祥瑞にあり、「神馬:竜馬長頚。額上有翼。踏水不没。」と書かれる。
 〈仁徳天皇段・紀〉にはこの話はない。
《虚薄》
 虚薄は、薄弱〔天から授かった運や才能が少ない〕、虚弱〔体が弱い、権力が弱い〕の意味である。
 白雉の瑞祥を得たことは天子の徳の証であるが、奢ることなく敢えて謙虚さを見せる。 朕は力不足なので、このチャンスをものにするには公卿・百官の助力が必要だという論理構成になっている。
《蓋此專由扶翼…》
 「蓋此1)專由2)扶翼3)公卿臣連伴造国造等4)各尽丹誠奉遵制度之所5)致也6)」はどのように構文解析したらよいだろうか。
 1)(ケダシ)は、ア)疑問・仮定を伴う推量。イ)漢文訓読体における「蓋」の訓。この場合は「まさしく」、「思うに」の意。 ここではイ)でもよいが、「もし公卿・百官の扶翼が得られれば…」と事実上条件を仮定する文だから、その発語と見てア)が適切か。
 2)の、(モハラ;もっぱら)は副詞。(~ニヨリテ)は前置詞。
 3)扶翼」は、4)が天皇を助けるという意味。この語順では、4)への連体修飾語「扶翼するところの」となる。
 4)は、文法的には4)までを2)(由りて)の目的語に位置づけることもできるが、ここでは意味が通じなくなる。
 5)までを2)の目的語だとすれば、意味が通る。区切りを示す「~之所」も、それを裏付ける。
 6)が全体の述語で、主語は文脈から祥瑞が現実化して国が栄えるだろうという期待である。上で見たように「」は事実上の仮定文の発語と見るのがよいので、「」には推量の助動詞をつけて、「イタサム」とするのが妥当であろう。
 前置詞""の目的語が長大になるが、文法的にも文の意味からもこれが妥当であろう。
《改元白雉》
 「改元白雉」を簡潔な上代語を用いて、なおかつ文法に忠実に訓読することは不可能である。 実際には飛鳥時代から「ビヤクヂにカイグヱニしたまふ」と音読されていたのかも知れない。
《仍禁放鷹》
 詔の閉じ括弧は「…改元白雉」の後とするのが自然であるが、 「仍禁放鷹」以下も朝廷による具体的な指示であるから、「復穴戸三年調役」まで詔に含めて読んだ方がよいだろう。
《并大給各有差》
 草壁連醜経は冠位と併せて大禄を給わった。一人が禄を給わるのに、「各有差」は確かに理屈に合わない。 『類聚国史』〔892〕の「并大給禄」は妥当である。 同書が現在は失われた他の書紀写本を用いた()か、あるいは『類聚国史』の判断で修正した場合()が考えられる。そのどちらであろうか。
 『新訂増補国史大系』〔吉川弘文館〕の頭注を見ると、書紀と『類聚国史』とで異なる箇所については、『類聚国史』自体の写本の間に異同があるもの(ア)と、『類聚国史』内では多くの写本で共通するもの(イ)がある。 (イ)の場合に限ると、
 (書紀) (類聚国史)
陛下至千秋萬歳 ⇒ 陛下至千秋万歳
治四方 ⇒ 治四方
白鳥 ⇒ 白鳥 〔同じ〕
穴戸堺 ⇒ 穴戸
大給各有差 ⇒ 大給
 となっている。 このうち①②については、『類聚国史』を著す時点でこのように変化したと思われる。
 一方④⑤については、書紀のある種の写本がこうなっていて、それが『類聚国史』に受け継がれたように思われる。
 これらを考え合わせると、さきの問題の答えは(A)であるように思われる。 書紀の一つの筆写において、前文の「賜公卿大夫以下至于令史各有差」につられて醜経大給にも誤って「各有差」をつけてしまい、けれどもこの本の方が主流になったと考えられる。
《大意》
 詔に曰く
――「聖王が世に現れて天下を治める時は、 天はそれに応えてその祥瑞を示される。 昔、 西土〔=中国〕の君の、周の成王(せいおう)の世と、 漢の明帝の時に、白雉を見た。
 我が日本(やまと)の国の誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の)御世に、 白い鳥が宮殿に巣くった。 大鷦鷯帝(おおさざきのすめらのみこと)の時には、龍馬を西に見た。
 このように、古(いにしえ)から今まで、祥瑞を時に見て、 このように有徳に応える、この類は多い。
 所謂(いわゆる)鳳凰(ほうおう)、 騏驎(キリン)、 白雉(はくち)、 白烏(はくう)、 もしこれらの鳥獣から草木まで応えれば、 皆天地の休祥、嘉瑞が生まれる。 明聖の君がこのような祥瑞を獲ることに、適うのはもっともである。 しかし、思うに朕は虚薄であり、どうやってこれに通ずることがあろうか。
 蓋(けだ)しこれは、 專ら扶翼(ふよく)〔=輔弼(ほひつ)〕する公卿、臣、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)らが、 それぞれ丹誠を尽くして制度を奉遵することによって、はじめて致すことであろう。 この故に、公卿はじめ、百官たちに及び、 清白な心をもって神祇を敬い祀り、 並んで休祥を受けて、天下を栄えさせよう」。
 また、詔に曰く
――「四方の諸々の国郡たちよ、 天の委ねと授けにより、 朕は総(ふさ)ねて臨み、天下に御す。
 今、我が親族の神祖の統治してきた穴戸の国の中に この嘉瑞があった。 所以(ゆえ)に、天下に大赦し、改元して白雉とする。
 よって鷹を穴戸の国の際に放つことを禁ず。 公卿大夫以下、令史(ふみひと)に至り禄を、 それぞれに応じて賜る。
 ここに、 国司草壁連(くさかべのむらじ)醜経(しこふ)を褒め、 大山(だいせん)位を授け、併せて大禄を給わる。 穴戸の三年の調役を免ずる。」


まとめ
 結局「改元白雉」の四文字で済むことに、ここではかなり多くの字数を費やしている。
 注目されるのは、「大赦天下」と「左右大臣」が繰り返し出て来ることである、 大赦令を大化二年三月辛巳詔で発してから、まだ4年しかたっていないのに再びの大赦である。それだけ急進的な改新に対する諸族・人民の反発は大きいのであろう。 また蘇我倉山田臣を滅ぼし、蘇我日向臣を左遷したのは、改革で生じた歪みの責任を両者に負わせたと見ることができる。 よって、新たに任命した左右大臣による新体制をアピールする場を兼ねた。
 白雉が捕獲されたこと自体は、偶然である。しかし、これを利用して改元という形で人心の一新を図ろうとするアイディアは、誰が思いついたのであろうか。
 それは、やはり僧旻法師と見るのが妥当か。僧旻は、国博士かつ十師の一人であった。 白雉に改元する根拠として中国古代の典籍や倭国の伝承を示す慎重さは、学者ならではのものである。 これを提案するにあたって、道登法師などの沙門衆を始めとして、豊璋など三韓出身の識者をも巻き込んで集団的な検討を行ったと見られる。 これも僧旻による周到な根回しなのであろう。
 この過程全体を書紀が創作したとはとても考えられないから実際に記録が残っていて、 その経過をまとめて残したのもまた僧旻なのであろう。 書紀がその大要を掲載したのは、この改元の経験を一つのひな形として、今後の政権運営に役立てようとしたものと思われる。
 サイト主は、この段のことを最初は退屈な文字の羅列に過ぎないと思っていたが、いざ引用元に当たってみると、特に『後漢書』と、関連して『琉球国中山世鑑』が見つかりとても面白かった。 それらを読む間に、僧旻の熱意も浮かび上がってきたのである。



2023.07.17(mon) [25-17] 孝徳天皇17 

35目次 【白雉元年四月~是歳】
《新羅遣使貢調》
夏四月。
新羅遣使貢調。
【或本云。
是天皇世、
高麗百濟新羅三國
毎年遣使貢獻也。】
貢献…〈北野本〔以下北〕遣使[テ]貢獻 ミツキモノ
 〈内閣文庫本〔以下閣〕 テ使 ヲ ミツキモノ獻也
〔白雉元年〕夏四月(うづき)。 新羅(しらき)使(つかひ)を遣(まだ)して貢調(みつきたてまつる)
【或本(あるふみ)に云ふ。
是の天皇(すめらみこと)の世(みよ)、
高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)三(みつの)国、
年毎(ごと)に使(つかひ)を遣(まだ)して貢献(みつきたてまつ)れり[也]】。
冬十月。
爲入宮地所壞丘墓及被遷人者、
賜物各有差。
卽遣將作大匠荒田井直比羅夫、
立宮堺標。
丘墓…〈北〉入宮 ト所-壞 ヤフラレタル ハカ。 〈閣〉 ニ カ ノト [切]所-壞 ヤフラレタル 丘-墓 ハカ 
大匠…〈北〉 遣将-作-大-タクミノツノサ荒田井アラタヰノアタヒ比羅夫ヒラフ立宮堺-標 サカヒシメ
 〈閣〉 テ-作-大-タクミノツカサ匠荒 ノ直比 ヲ堺-サ  シメヲ
冬十月(かむなづき)。
宮地(みやどころ)に入れし為(ため)に所壊(こぼたえ)し丘墓(はか)及びに被遷(うつさえ)し人に者(は)、
物(もの)賜(たま)ふこと各(おのもおのも)差(しな)有り。
即(すなはち)将作大匠(こたくみのつかさのかみ)荒田井(あらたゐ)の直(あたひ)比羅夫(ひらふ)を遣(つか)はして、
宮(おほみや)の堺(さかひ)の標(しめ)を立たしむ。
是月。
始造丈六繡像侠侍八部等卌六像。
丈六繡像…〈北〉 丈六チヤウロクノ繡像ヌヒモノゝ[切] ケホトケ-フシ ハツラノ 卌六像 ハシラアマリ 是歳/ヨソアマリムハシラノミカタ
 〈閣〉 ノ ノ[切] ケフ ハツ卌六ハシラアマリ ノ
…[数詞] 呉音ハチ。漢音ハツ。
…[名] 呉音ブ。漢音ホ。
是(この)月。
始めて丈六(ぢやうろく)の繡(ぬひもの)の像(みかた)俠侍(けふじ)八部(はちべ)等(ら)四十六(よそはしらあまりむはしら)の像(みかた)を造る。
是歲。
漢山口直大口奉詔刻千佛像。
遣倭漢直縣
白髮部連鐙
難波吉士胡床
於安藝國、
使造百濟舶二隻。
漢山口直…〈北〉漢山口直アヤノヤマクチノアタヒ大-口 オホクチ/ツクリ■ キル  エル私記説千佛像 センフツノ ミヤマトノアヤノアタヒ アカタシラカ■ノムラシ アフミ 難波 ナニハノ吉士キシ胡床アクラ使造 タマフ百濟 ツミ
 〈閣〉 ノ ノ直大[切] テ ヲ キル佛像アツノ ミ ヲ[句]  テ ノ ノア ノ白髮部連 人名也アフミ ノ吉士 人名也 アクラヲ  於安 ノ ニ使 タマフ造百 ノツミ二隻
きざむ…[他]マ四 彫刻する。
千仏…『例文仏教語大辞典』:「千人の仏。過去荘厳劫しょうごんこう、現在賢劫けんごう、未来星宿劫しょうしゅくこうの三劫に、それぞれ出現するという千人の仏。特に、賢劫の千仏」。
…[名] 『類聚名義抄』:「:ツクリフネ ツム
つむ…[名] 〈時代別上代〉「大きな船」。
是(この)歳。
漢山口直(あやのやまぐちのあたひ)大口(おほくち)詔(みことのり)を奉(うけたまは)りて千仏(せんぶつ)の像(みかた)を刻(きざ)みまつる。
[遣]倭漢直(やまとのあやのあたひ)県(あがた)
白髪部連(しらかみのむらじ)鐙(あぶみ)
難波吉士(なにはのきし)胡床(あぐら)を
[於]安芸国(あきのくに)につかはして、
百済舶(くたらつむ)二隻(ふたふな)を造ら使(し)めたまふ。

《為入宮地所壊丘墓及被遷人》
 下文(《難波長柄豊碕宮》の項)で述べるように、難波長柄豊碕宮の造営は大化元年に始まり、白雉三年九月に完了した。 工事が一定程度進行した時点で、削平した丘墓に先祖を祀る親族、移住させた住民への補償が行われた。
《将作大匠》
 将作大匠は、唐の官職名である。
 『漢書』表:百官公卿表上 
將作少府、秦官、掌宮室、有兩丞、左右中候
景帝〔在位前157~前141〕中六年更將作大匠。屬官有石庫、東園主章、左右前後中校七令丞,又主章長丞
武帝太初元年〔前104〕名東園主章為木工
成帝陽朔三年〔前22〕中候及左右前後中校五丞
 すなわち、旧称「将作少府」を景帝のとき改称。このとき定められた属官の多くは、成帝のとき廃止される。
 将作大匠が登場する話としては、次の例がある。
 『漢書』成帝紀 永始元年〔前16〕
秋七月。詔曰「朕執德不固、謀不下。
過聽將作大匠萬年言昌陵三年可一レ成。作治五年、中陵、司馬殿門内尚未功。
 すなわち、成帝〔在位前33~前7〕将作大匠萬年(人名)に向かって、お前は過日昌陵を三年で完成させると言ったから許したが、五年たってもまだできないではないかと責める。
 『令義解』に対応する役職を探すと、 宮内省/木工寮(こたくみのつかさ)(資料[24])がある。 役職名は、上位から「大允小允大属小属工部〔頭・助・允・属は、四官(長官・次官・判官・祐官)の寮における表記〕となっている。
 このように、大宝令以後は唐風の役職名「将作少府」は用いられていないようだが、〈孝徳朝〉当時は使用されていたか。あるいは書紀の執筆者が、修辞として中国風の表現を用いた可能性もある。
《荒田井直比羅夫》
 荒田井直比羅夫は、大化元年七月《倭漢直比羅夫》大化三年是年(二)《倭漢直荒田井比羅夫》のところで登場した。
《丈六繡像》
 繍像は、刺繍による仏像。「侠侍八部等四十六像」もすべて繍像だったと考えないと、景色は異様である。
《俠侍八部》
 夾侍(脇士、脇侍、挟侍)は、本尊の左右に控えている仏像。
 八部衆は、 「釈尊が説法のとき聴聞に常侍し仏法を讃美した、仏法守護の八体一組の釈尊の眷属。天・竜・夜叉・乾闥婆けんだつば・阿修羅・迦楼羅かるら・緊那羅きんなら・摩睺羅伽まごらかの称。多くは天と竜で代表させて天竜八部という」 (『例文仏教語大辞典』小学館)。
 ここにそれらを置いた寺名が書かれていない問題については、《丈六繡像等成》の項で検討する。
《漢山口直大口》
 〈姓氏家系大辞典〉は、「漢山口直:坂上氏の族にして、…後忌寸を賜ふ。爾波伎の後也」、 「山口費:法隆寺良訓補忘集四天王光銘に「山口大口費」とあるは前項〔漢山口直〕大口に同じ。」、 「文山口忌寸:坂上系図に「爾波伎直。姓氏録に曰ふ、弟腹・爾波伎は、是れ山口宿祢、文山口忌寸、云々等、八姓の租也」と載す」 と述べる。なお、かばね」は「」の古い時代の表記である(資料[18])。
 同書が引用元とする「坂上系図」、「法隆寺良訓補忘集」は、次の文書の中に見つかった。
広目天
広目天増長天持国天多聞天
『日本美術全集』2〔小学館;2012〕↑ →
 まず、爾波伎(にはき)は現存の『新撰姓氏録』〔実際は本文ではなく目録抄〕には見えず、坂上系図に引用された『姓氏録』逸文にあった。関係部分を抜き出す。
『続群書類従』第七輯下/巻第百八十五 坂上系図〔続群書類従完成会;1904〕(pp.381~382抜粋)
漢高祖皇帝──石秋王──康王──阿智王──都賀使王─
 
 
┬─山木直
├─志努直
└─爾波伎直
 姓氏録曰。弟腹爾波伎是也。山口宿祢。文山口忌寸。櫻井宿祢。調忌寸。谷忌寸。文宿祢。文忌寸。 并大和国吉野郡文忌寸。紀伊国伊都郡文忌寸。文池辺忌寸等八姓之祖也。 
 爾波伎直を祖とする諸族のうち、漢山口直に一番表記が近いのは、文山口宿祢である==アヤ〕。 〈続紀〉での初出は文山口忌寸公麻呂が宝亀三年〔772〕があり、かばね忌寸。 文武四年〔700〕に「山口伊美伎大麻呂」が見えるので、文山口もこの時期から忌寸であったと思われる。
 なお、「都賀使主」の子のうち中腹祖志努直」の七世孫に「坂上田村麿〔征夷大将軍〕がいる。
 また『法隆寺良訓補忘集』は、法隆寺中院の僧良訓が、元禄享保年間〔1688~1736〕に同寺伝来の文書等について詳細に記録したものという (『続々群書類従』第十一序文による)。
  『法隆寺良訓補忘集』〈『続々群書類従』第十一〉〔続群書類従完成会;1969〕(p.526)
   同鎭壇四天王光銘
北方天銘
  藥師德保鐵師上而𢩦古二人作也【𢩦テキ同丮持也】
西方天銘
  山口大口費上而次木䦐二人作也【䦐他鼎切音珽門上關也】
:法隆寺金堂。
北方天:多聞天(北方を守護する)。
上而:「A上而B二人」は「Aを上(かみ)としてBと二人」の意か。
𢩦:[U+22A66] 丮の異体字、「持」の意。
西方天:広目天(西方を守護する)。東天:持国天。南天:増長天(〈崇峻〉3《護世四王》項)。
:[U+4990]「他鼎切」は半切。発音「珽(テイ)」。「門上関〔=かんぬき〕」の意。
 実は法隆寺金堂の四天王像には、現在も広目天像(西方天;右図)の光背裏面に「山口大口費…」、多聞天像(北方天)の光背裏面に「薬師徳保…」の銘が残っているという。 この「山口大口費」が書紀の「漢山口直大口」と同一人物と見られることから、この四天王像が650年前後とに製作された現存最古の四天王像とされ、 1952年に国宝に定められた(国指定文化財等データベース)。
 『日本美術全集』2/解説によると、これらの四天王は「クスノキ材を用いた一木造いちぼくづくり」である(p.230)。 また、広目天が筆と巻子を持っていることについて同解説は、 「『仏説四天王経』によれば、四天王は、六斎日に須弥山から下界に降りて衆生を観察し、…帝釈天に報告するという。 ここから、広目天が持っている巻子は、人々の行状を筆に寄って記録する文書であると解釈できる」と述べる(p.178)。
 広目天像が木彫であることは、山口費大口木彫師であることを意味し、書紀の「千仏像」に合致する刻むのだから木彫である〕。 これは、書紀の記述の信憑性を裏付ける一つの材料と言えよう。
 以上、思わぬところに漢山口直大口の存在の痕跡が残ることを知った。
《詔刻千仏像》
 この千仏像が置かれた場所については、何も書かれていない。 三十三間堂と同規模だとすれば、長柄豊碕宮内の一堂はあり得ない。法隆寺玉虫厨子の千仏像〔内壁の金銅打ち出し〕の例を見れば通常の金堂程度の広さでよいが、その場合でも掘立柱の豊碕宮の一堂ではなく、外部の寺院であろう。
 前項のように法隆寺の広目天の作者が大口だから千仏像も法隆寺にあったのかも知れないが、『日本美術全集』2/解説には「『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』に本像の記載がなく、平安時代後期の『七大寺日記』などに始めてその存在が記される」とある(p.230)。 四天王像が最初は法隆寺になかったのなら、大口と法隆寺とは一概に関係づけられない。 この時期には仏教活動の中心も難波だったとすれば、例えば四天王寺も考えられるが、決定的な材料は何もない。
《倭漢直県/白髮部連鐙/難波吉士胡床》
 ● 倭漢直については、〈崇峻〉五年東漢直駒」、 資料[25]阿知使主を祖とする東漢」、 第176回【倭漢直之祖阿知直】、 〈雄略〉十五年【漢直】で考察した。
 ● 白髮部連は、 第198回【白髪部】参照。
 ● 難波吉士は、 〈推古〉十六年四月《難波吉士雄成》参照。
《百済舶》
 百済舶は、百済式の構造の船と考えられている。の訓ツムは、書紀古訓の外に『類聚名義抄』にもある。
《大意》
 〔白雉元年〕四月、 新羅は使者を遣わして貢調しました 【或る書に言います。 この天皇(すめらみこと)の御代には、 高麗・百済・新羅三国は、 毎年遣使貢献しました】。
 十月、 宮地に入ったために壊された丘墓、及び移された人に、 それぞれに応じて物を賜わりました。 そして将作大匠(しょうさくたいしょう)の荒田井(あらたい)の直(あたい)比羅夫(ひらふ)を遣わして、 宮の境界の示標を立たせました。
 同じ月、 丈六の繡仏、俠侍(きょうじ)、八部(はちべ)など四十六の像を造り始めました。
 同じ年に、 漢山口直(あやのやまぐちのあたい)大口(おほくち)は詔を奉じて千仏像を彫刻しました。 倭漢直(やまとのあやのあたい)県(あがた)、 白髪部連(しらかみのむらじ)鐙(あぶみ)、 難波吉士(なにわのきし)胡床(あぐら)を 安芸国(あきのくに)に遣わして、 百済船二隻を建造させました。


36目次 【白雉二年】
《丈六繡像等成》
二年春三月甲午朔丁未。
丈六繡像等成。
〔白雉〕二年(ふたとせ)春三月(やよひ)甲午(きのとうま)を朔(つきたち)として丁未(ひのとひつじ)〔十四日〕
丈六(ぢやうろく)の繡(ぬひもの)の像(みかた)等(ら)成(な)る。
戊申。
皇祖母尊請十師等設齋。
皇祖母尊…皇極天皇(〈皇極四年六月十四日〉)。
十師…僧旻、道登他(大化元年八月八日)。
設斎…〈北〉 ハシマセテ 師等ノホウシヲ[テ]設-齋 ヲカミス 。 〈閣〉マセ テ ハシラ ホシ
戊申〔十五日〕
皇祖母尊(すめらみおやのみこと)十師(じふし)等(ら)に請(こ)ひたまひて設斎(せちし、をがみ)したまふ。
夏六月。
百濟新羅遣使貢調獻物。
夏六月(かむなづき)。
百済(くたら)新羅(しらき)使(つかひ)を遣(まだ)して貢調献物(みつきたてまつりてものたてまつる)。
冬十二月晦。
於味經宮請二千一百餘僧尼
使讀一切經。
是夕。
燃二千七百餘燈於朝庭內、
使讀安宅土側等經。
一切経…〈北〉味経 アチ マセテ二千 フタチアマリ百餘モゝハシラアマリ僧尼 ホウシ アマ 使シム  ヨマセイツサイキヤウ[句] 是夕 コヨヒ  トモシテ二千七百餘/フタチアマリナゝモゝアマリノ ミアカシフタチアマリノ オホアカシヲミカト ノ庭内オホハニ オホハ  [テ] 使シム  ヨマセアンタクトナ■クラノキヤウ
 〈閣〉 テアチ-経  ノ ニトモシテ二千七 フタチアマリミアカシフタチアマリノ餘燈 餘燈ー讀オホミアカシ  ノ庭-内 オホハニ アムタクソクラノ
 〈釈紀〉トモシテ二千フタチアマリ七百餘ナゝモゝアマリノ燈於オホミアカシヲミカトノ庭内オホハニ
…[数詞] (呉音)イチ。(漢音)イツ。
…[動] (呉音)セチ。(漢音)セツ。
こよひ…[名] 今夜。
冬十二月(しはす)の晦(つきこもり)。
味経宮(あぢふのみや)に[於(お)きて]二千一百(ふたちはしらあまりももはしら)余(あまり)の僧(ほふし)尼(あま)に請(こ)ひたまひて
一切経(いちせちけふ)を読ま使(し)めたまふ。
是(こ)の夕(ゆふへ)。
二千七百(ふたちあまりななももち)余(あまり)の燈(ともしび、おほみあかし)を[於]朝(みかど)の庭内(おほには)に燃(やき、ともし)て、
安宅(あむたく)土側(どそく)等(ら)の経(けふ)を読ま使めたまふ。
於是、
天皇從於大郡遷居新宮。
號曰難波長柄豐碕宮。
遷居…〈閣〉 テ オハシマス
於是(ここに)、 天皇(すめらみこと)[於]大郡(おほこほり)従(よ)り新宮(にひみや)に遷(うつ)り居(おほましま)す。 号(なづけ)て難波(なには)の長柄(ながら)の豊碕(とよさき)の宮と曰(ふ)。
是歲。
新羅貢調使知萬沙飡等、
着唐國服、泊于筑紫。
知万…〈北〉知万沙チマ■。 〈閣〉 テ ノ ノキモノヲ トゝマレリ于筑 ニ。 〈釈紀〉サム
沙飡新羅の位階第八位。
…〈推古紀〉の古訓は「大唐モロコシ」。
きぬ…[名] 衣服。〈時代別上代〉「〔応神紀、敏達紀の文例〕など、キモノと書かれたものも見える」。
是歳(このとし)。
新羅(しらき)の貢調(みつきたてまつる)使(つかひ)知万(ちま)沙飧(ささん)等(ども)、
唐(たう、もろこし)の国の服(きぬ)を着(き)て、[于]筑紫(つくし)に泊(は)つ。
朝庭惡恣移俗訶嘖追還。
于時、巨勢大臣奏請之曰。
「方今不伐新羅、
於後必當有悔。
其伐之狀不須舉力。
恣移俗…〈北〉シワサ訶- セメ[テ] ■イ-還  タマフ奏-請 マウ  タマ(フ)ハ新羅〔フにハを上書き〕舉-力 ナヤムヘ
 〈閣〉… コトヲ シワサ訶-セメテ ハ タマフ ヲ ニ有悔舉-力 ナヤムヘカラス
 〈釈紀〉ヘカラ舉刀ナヤム
 『集解』:モチヒアクルコトヲタチヲ 【刀原作力據釋改○按舉刀言猶曰起兵○…】〔刀原力に作る。釈に拠り改む○按ずるに挙刀と言ふは猶起兵と曰ふがごとし〕
朝庭(みかど)恣(ほしきまにまに)俗(しわざ)を移(うつ)すことを悪(にく)みて、訶嘖(せ)めて追ひ還(かへ)したまひつ。
[于]時に、巨勢(こせ)の大臣(おほまへつきみ)[之]奏請(まを)して曰(まを)せらく。
「方(まさ)に今新羅(しらき)を不伐(うたざ)らば、
[於]後(のち)に必ず当(まさ)に悔(くい)有らむべし。
其の伐(う)たす[之]状(かたち)は[不]須(かなら)ず挙(こぞ)りて力(つと)むべくもあらじ。
自難波津至于筑紫海裏、
相接浮盈艫舳、
召新羅問其罪者、
可易得焉。」
相接…〈北〉相- ツケ浮盈艫 ウケ フネ -徵ノ[テ]メシ新羅
 〈閣〉 ニ于筑紫 ノ ニ[切] 相- テ ウケ- テ フネ-舳徵ノメシ新羅
 〈釈紀〉艫舳トモヘ/フネ。 〈伊勢本〉徵イ新羅。 〈卜部兼右本〉メシ新羅[テ][ハ]其罪者
うら…[名] 入り江。
うく(浮)…[自]カ四。[他]カ下二。
…[名] ①とも(船の尾部)。②へさき(船の首部)。〈学研新漢和〉「船首とするのは誤用」。(古訓) とも。
…[名] ①へさき。②とも。〈学研新漢和〉「ふねの後尾とするのは誤用」。(古訓) とも。へ。
とも…[名] 船尾。フナドモとも。〈時代別上代〉「「艫」のほかに「舳」をあてたりして、漢籍と同様に当時から混用している」。
…[名] 船首。フナノヘとも。
…[動] みたす。
難波津(なにはつ)自(よ)り[于]筑紫(つくし)の海裏(わたのうら)に至りて、
浮け盈(み)ててある艫舳(ともへ)を相(あひ)接(つづ)けて、
新羅を召して其の罪を問ひたまは者(ば)、
易(たやす)く得(え)たまふ可(べ)し[焉]」とまをせり。
《丈六繡像等成》
 「丈六繡像等」を設置した施設については、何も書かれていない。 翌日、皇祖母命(〈皇極〉)が設斎したのも、同じ施設なのだろう。
 皇祖母命は、白雉五年に「-居倭河辺行宮」とあるから、このときはまだ難波に坐したはずである。 難波長柄豊碕宮に、附属の寺院があるのだろうか。 しかし、大阪市文化財協会のページによると、 「天皇(大王)の居所である内裏と重要な政務・儀式をとり行う朝堂院、 および東西に配された官衙(役所)からなる。 すべて掘立柱の形式で建てられ、瓦は一切使われていない」という (「前期難波宮の時代」)。
 十二月晦日に「二千七百余燈於朝庭内」とあるのは、仏教的行事が朝廷内で行われたことを示している。 前期難波宮の検出遺構(下述)にも寺院建築らしいものは見えないので、掘立柱の一堂が仏殿として使用されていたと考えるのが妥当であろう。 やはり丈六繡像に付随する侠侍八部等すべてが繍像であって、仏殿の壁の一面に垂らされていたとすれば、実情に合っている。
《百済新羅遣使貢調》
 久しぶりに百済貢調の記事が載る(白雉元年四月条の原注を除く)。任那問題によって生じた緊張関係は、年月とともに薄らいだのだろうか。 代わって、新羅への警戒感が増している(《着唐国服》項)。
《燃二千七百余燈》
 「二千七百余燈」は、万灯会まんとうえが想起される。 〈続記〉には、天平十六年〔744〕十二月:「丙申 此夜於金鍾寺及朱雀路燃灯一万坏。」が見える。
 書紀古訓では「オホミアカシ」と訓まれる。  〈倭名類聚抄〉には「燈明:大般若経云妙花鬘乃至燈明【和名於保美阿加之】」が見える。 また、『源氏』玉鬘:「おほみあかしのことなどこゝにてしくは〔加〕へなどするほどに日暮れぬ」があり、平安時代には一般的な名称だったようである。
 オホミアカシ=「大御」+アカスの名詞形であるが、〈時代別上代〉が示す意味は自動詞「アク:夜が明ける」、他動詞「アカス:夜を明かす・明らかにする」のみで、灯火には使われていない。 「灯をともして明るくする」意も当然考えられるのだが、上代まで遡るかどうかは微妙である。
 一方、トモシビについては、(万)4054保等登藝須 許欲奈枳和多礼 登毛之備乎 都久欲尓奈蘇倍 曽能可氣母見牟 ほととぎす こよなきわたれ ともしびを つくよになそへ そのかげもみむ」などがあり、上代語として躊躇することなく使用できる。 しかし、この場合「」をトモスと訓むトモシビと重複するので、モヤス(モユの他動詞)と訓みたいが上代にはまだこの語は確認できず、ヤク(四段)が一般的だったようである。 「:ヤク」という訓みは『類聚名義抄』にある。
《安宅土側等経》
 〈釈紀/述義〉「安宅土側等経:或説。地鎮之経也」とある。
 また、「安宅:(普通、安宅経を読誦するところから)朝鮮で、一家の災厄を払い除くために行なう祈祷祭。」(〈日本国語大辞典〉) も見るが、これ以上詳しいことはまだ分からない。
《筑紫海裏》
 「筑紫海裏」ののことで、福岡湾であろう。〈継体〉のとき磐井君から接収して置いた糟屋屯倉に接している(〈継体〉二十一年)。 太宰府の前身にあたる那津之口官家(比恵遺跡群に比定)も近い(〈宣化〉元年五月)。 那津之口官家から湾に出る湊が、三韓と難波津に向かう海上路の拠点であっただろう。
《難波長柄豊碕宮》
  引用文献略称
〈埋蔵文化財2010〉…『平成20年度 大阪市埋蔵文化財包蔵地欲活調査報告書』大阪市教育委員会・大阪市文化財協会;2010〕
〈難波宮跡2020〉…『史跡難波宮跡附法円坂遺跡保存活用計画』〔大阪市教育委員会事務局総務部文化財保護課;2020〕
前期難波宮〈埋蔵文化財2010〉(p.25)
紫門…本サイトによる推定
〈難波宮跡2020〉(p.36)
 〈難波宮跡2020〉は、「孝徳天皇は、政治体制の中央政権化を図り、そのシンボルとして大陸風の宮殿を建築する。 こうしてつくられた前期難波宮は内裏・朝堂院から宮城南門に至る中心部とその東西の官衙からなる。その規模は、 東西、南北ともに650mほど」「唐長安城の宮殿設計を取り入れ、内裏から南へ延びる軸線上に左右対称に宮殿を配置し」、 「唐の尺に近い基準尺(1尺=29.2cm前後)が採用されている」と述べる(pp.37~38)。
 大化四年《難波碕宮》の項で見たように「遷都難波長柄豊碕」が大化元年十二月、 「遷居新宮号曰難波長柄豊碕宮」が白雉二年十二月に書かれる。それでは本当の遷都の時期はどちらが正しいのかという話になるが、 これはどちらかが誤りという性質の話ではないだろう。
 そもそも宮殿名が繰り返し書かれるのは、今までの宮殿に比べて抜本的に立派であったことの心理的インパクトの大きさを示すものであろう。 恐らく、大化四年から白雉三年九月の「造宮已訖」まで、ずっと造営工事が続いていた。毎年正月の賀正礼だけは、工事中であっても朝堂院のどれか使用可能な施設を使って行われたと思われる。 白雉元年の賀正礼のみ味経宮で行われたのは、どの施設も工事中で使えるところがなかったのであろう。
 なお、大化五年三月辛酉条の阿倍大臣の葬礼は、外郭の朱雀門の上に天皇が立ち、南に公衆があつまったのであろう。 また、改元の礼に出てきた「紫門」は、内裏と朝堂院の境界の門であろう。
《不須挙力》
 挙力は古訓において「なやむ(悩)」と訓まれるが、かなりの意訳である。辞書には「挙力」にこの意味はなく、漢籍にもそのような意味で用いた文章は見つからない。 後文に「易得〔容易いことである〕とあるから、「挙力」は文字通り「挙げて力を発揮する必要はない」であろう。 「悩む必要はない」としても文章は繋がるが、本来の文意とは異なる。現代人が平安時代の古訓による不適当な訓みに縛られる必要はない。
 なお、『集解』は「不須挙刀」に作り、武力を要しない意とする。
《相接浮盈艫舳》
 --と動詞が三つ続くことが読み取りを難しくする。「相接」と「艫舳」があり、その前に「難波津于筑紫海裏」があるから、 艫舳(船の先頭と船尾)が互いに触れるようにして海路に浮かせた船を満たすという意味であろう。
 従って、「浮盈」が「艫舳」を連体修飾し、「相接」が「艫舳」を目的語に取るのが、文法的な構造となる。
 初めに「方今不伐〔まさに今伐たずんば〕と言い、今にも武力攻撃を開始するが如きであるが、実際には瀬戸内海航路に沿ってずらりと船を並べてプレッシャーをかけようとしただけである。 「伐新羅」は単に言葉の綾に過ぎなかった。
《着唐国服》
 倭朝廷は、新羅による遣使の「着唐国服」を忌み嫌った。そこに、羅唐同盟の気配を感じ取ったのであろう。 そして、その危惧は百済滅亡〔660〕となって現実化する。
《大意》
 〔白雉〕二年三月十四日、 丈六の繡仏などが完成しました。
 十五日、 皇祖母尊(すめらみおやのみこと)は十師らに要請して設斎されました。
 六月、 百済と新羅は遣使して貢調献物しました。
 十二月晦、 味経宮(あじふのみや)で二千一百余の僧尼に要請して、一切経(いっさいきょう)を読経させました。
 この日の夕べに、 二千七百余の灯明を朝庭内で燃やして、 安宅(あんたく)土側(どそく)などの経を読ませました。
 こうして、 天皇(すめらみこと)は大郡(おおごおり)から新宮(にいみや)に遷り居しました。 その宮の名は、難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮と言います。
 同じ年、 新羅の貢調使、知万(ちま)沙飧(さざん)一行が、 唐国の服を着用して、筑紫に停泊しました。 朝庭は恣(ほしいまま)に習俗を中国風に移したことをよく思わず、呵責して追い返しました。
 その時、巨勢(こせ)の大臣(おおまえつきみ)は奏上しました。
――「まさに今、新羅を伐たなければ、 後に必ず悔を残しましょう。 〔ただし〕その伐つ形は、必ずしも挙力〔=武力の行使〕とは限りません。
 難波津から筑紫の海裏まで、 浮かべて満たした船の艫舳を接して、 新羅を召してその罪を問えば、 容易く成果を得られましょう。」


まとめ
 白雉二年の仏教行事は、皇祖母尊(〈皇極〉)主導であったようである。ただ、〈皇極帝〉は即位前紀で「順考古道」と書かれる。 「二千七百余灯」は従来の仏教の習慣を超えた行事だと思われ、何らかの「古道」と結びついたものかも知れない。 ここで想起されるのが、松本清張の小説『火の道』〔1975〕で描かれた、飛鳥時代に伝来したゾロアスター教徒のことである。ゾロアスター教は火を尊び、炎に向かって拝礼する。
 さらに、〈斉明朝〉〔皇祖母尊が重祚〕に作られたと思われる酒船石遺跡や亀形石造物などの宗教遺物に、水に関する何らかの信仰が見える(資料[54])。 ゾロアスター教では、水も神聖である。清張説の当否はともかくとしても、皇祖母尊が「順考」した「古道」には、火と水を神聖視するある種の宗教が含まれていたように思われる。



2023.07.23(sun) [25-18] 孝徳天皇18 

37目次 【白雉三年】
《車駕幸大郡宮》
三年春正月己未朔。
元日禮訖、車駕幸大郡宮。
元日礼…〈北野本〔以下北〕元日  コト ミカトヲカミノ  車駕 スメラ
 〈内閣文庫本〔閣〕 元-日礼ミカトヲカミノコト  テ車駕 スメラミ 
三年(みとせ)春正月(むつき)己未(つちのとひつじ)の朔(つきたち)。
元日礼(あたらしきとしのゐや)を訖(を)へて、車駕(すめらみこと)大郡(おほこほり)の宮(みや)に幸(いでま)す。
自正月至是月、班田既訖。
凡田長卅步、爲段。
十段爲町
【段租稻一束半、
町租稻十五束】。
…〈閣〉是月
班田…〈北〉班田[切]アカチタスルコト既訖アシキタキタ租稲 タノチカラ束半 ツカナカ トコロ
 〈閣〉 ノ ハ ヲキタコ ト租稲 タチカラノ  コ ニ ノ。 〈釈紀〉アシキタトコロツカ
あし…[助数詞] 長さ〔1.8m〕。1あし=6尺(さか)。
つか…[助数詞] 質量〔2.27kg〕。1つか=10たばり。
正月(むつき)自(よ)り是(この)月に至りて、班田(あかちだ)すること既に訖(を)ふ。
凡(おほよそ)田は長さ三十歩(みそあし)を段(きだ)と為(し)て、
十段(とほきだ)を町(まち)と為(す)
【段(ひときだ)の租(たちから)は稲一束(ひとつか)あまり半(いつたばり)、
町(ひとまち)の租は稲十五束(とつかあまりいつつか)】。
三月戊午朔丙寅。
車駕還宮。
還宮…〈北〉還宮  タマフ トツミヤ。 〈閣〉 タマフトツミヤニ
三月(やよひ)戊午(つちのえうま)を朔(つきたち)として丙寅(ひのえとら)〔九日〕
車駕(すめらみこと)宮(おほみや)に還(かへ)ります。
夏四月戊子朔壬寅。
請沙門惠隱、
於內裏使講無量壽經。
以沙門惠資爲論議者、
以沙門一千爲作聽衆。
請沙門…〈北〉 マセ沙門内裏 オホウチロン シヤ沙門 ホウシ  一千チハシラヲ ス チヤウ シユト
 〈閣〉--音讀
 〈釈紀〉リヤウシユキヤウロンシヤ私記曰。三字音連讀。但議音解チヤウシユト私記曰連音讀。 〈卜部兼右本〉-チヤウ 音讀 -シユ
無量寿経〈舒明〉十二年参照。
為作…〈汉典〉「①造作、做作。 ②猶作為、行為。
…[動] (漢音・呉音)ギ。
…[名] (呉音)シユ・ス。
夏四月戊子朔壬寅〔十五日〕
沙門(ほふし)恵隠(ゑおん)に請ひたまひて、
内裏(おほうち)に[於きて]無量寿経(むりやうじゆきやう)を講(と)か使(し)めたまふ。
沙門(ほふし)恵資(ゑし)を以ちて論議者(ろんぎしや、ろんげしや)と為(し)て、
沙門(ほふし)一千(ちはしら)を以ちて聴衆(ちやうしゆ)と為作(な)す。
丁未。
罷講。
自於此日初連雨水至于九日。
損壞宅屋傷害田苗、
人及牛馬溺死者衆。
罷講…〈閣〉 トクコト
雨水…〈北〉雨水 ミソレフル損-壞宅-屋 ヤカス 傷-害 ソ■。 〈閣〉 テ ニ雨-水 ミソレフル損-壞宅-屋 ヤカス ヲ-害 ノ ヲ 〔ヤカスヲヤブリ田の苗をソコナフ〕。 〈仮名日本紀〉雨氷みぞれ
つららに…[副] 連なって。
しきりに…[副] 重ねがさね。
やかす…[名] 家屋。〈倭名類聚抄〉「:訓【夜加須】」。
丁未〔二十日〕。 講(とくこと)罷(や)む。
[於]此(この)日自(よ)り初(はじ)めて連(つらら)に雨(あめ)ふり水(みづ)あふるること[于]九日(ここのか)に至りつ。
宅屋(いへ)損壊(こほ)れて田の苗(なへ)傷害(そこな)はえて、
人及びに牛(うし)馬(うま)溺(おぼほ)れて死ぬる者(もの)衆(おほ)し。
是月。
造戸籍。
凡五十戸爲里、毎里長一人。
凡戸主皆以家長爲之。
凡戸皆五家相保、
一人爲長、以相檢察。
新羅百濟、遣使貢調獻物。
相保…〈北〉相-保マホル検-。 〈閣〉イツヘ相-保アヒ マモル マホル  
まぼる…[他]ラ四 マモルの変。平安以後。
是(この)月。
戸籍(へのふみた)を造る。
凡(おほよ)そ五十戸(いそへ)を里(さと)と為(し)て、里毎(ごと)に長(をさ)一人(ひとり)をなす。
凡そ戸主(へぬし)は皆(みな)家長(いへをさ)を以ちて之(こ)と為(な)す。
凡そ戸(へ)は皆五(いつつの)家(いへ)相(あひ)保(まも)りて、
一人を長(をさ)と為(し)て、以ちて相(あひ)検(かむが)へ察(み)る。
新羅(しらき)百済(くたら)、使(つかひ)を遣(まだ)して貢調献物(みつきたてまつりてものたてまつる)。
秋九月。
造宮已訖。
其宮殿之狀不可殫論。
造宮…〈閣〉 コト[切] ニ
殫論…〈北〉不可コトコトク イフ。 〈閣〉不可殫論コトコトクニ イフ
…[動] つくす。つきる。[副] ことごとく。(古訓) ことことく。
秋九月(ながつき)。
宮を造ること已(すで)に訖(を)ふ。
其の宮殿(おほみや)之(の)状(かたち)殫(ことごとに)論(いふ)不可(べくもあらじ)。
冬十二月晦。
請天下僧尼、
於內裏設齋大捨燃燈。
設斎…〈北〉設-齋 ヲカミ [テ]大-捨 カキ/ラ[テ] 燃- ミアカシ トモス 。 〈閣〉設-斎 ヲカミ テ大-捨 カキウテカキラテ トモ ミアカシ
冬十二月(しはす)の晦(つきこもり)。
天下(あめのした)の僧(ほふし)尼(あま)に請ひたまひて、
内裏(おほうち)に[於きて]設斎(せちし)、大捨(たいしや)して灯(ともしび、おほみあかし)を燃(やき、ともし)たまふ。
《大郡宮》
 大郡宮については、大化四年《難波碕宮》項、 白雉元年正月《還宮》項において、 豊碕宮完成前に滞在した宮で、子代離宮あるいは蝦蟇行宮と同一の可能性もあると見た。
 この年も大郡宮から豊碕宮に到着したのは大晦日で、元日礼が終えて早々に大郡宮に帰っている。 ただし、ここでは「大郡宮」に「」ではなく、「」を使っているから、そろそろ難波豊碕宮が中心的な居所になったようである。
《自正月至是月》
 正月条の文であるから、「自正月至是月」は理屈に合わない。 下文で改新詔の内容に触れるから、正月は「大化二年正月」かも知れないが、「大化二年」を略すのは考えにくい。
 一方、四月是月条に「造戸籍」とある。戸籍が作られていなければ班田は不可能だから、 四月以後に書かれるべき文が、誤って正月条に紛れ込んだと見ることもできる。
《凡田長卅步爲段》
 大化二年の「改新詔/三曰」では 「凡田長卅歩廣十二歩、為段。十段為町。段租稲二束二把、町租稲廿二束」であった。 ここでは段、町の寸法は同じだが、税が「段租稲一束半、町租稲十五束。」になっていることが注目される。
 改元の目的には大赦があったと思われ、その背景に急進的な改革への反発があったと考えた。 班田への田税の軽減も、融和政策の一つと考えることができる。
《三月/還宮》
 「」のを、古訓はトツミヤと訓み、豊碕宮ではないと見ている。 しかし、上述したように豊碕宮をそろそろ基本的な居所にしたようなので、豊碕宮と見るべきであろう。
《沙門恵隠》
 恵隠は、〈推古〉十一年九月〔603〕に学生として小野妹子に同行。 〈舒明〉十一年九月〔639〕に帰国、同十二年に無量寿経を説いた。
《無量寿経》
 無量寿経は「上巻で阿弥陀仏の四十八願、浄土の荘厳、下巻で三輩往生(上・中・下品)などを説く」という(国史大事典〔吉川弘文館〕)。 この経典によって浄土思想が確立したとされる。
《沙門恵資》
 恵資はここ以外には見えないが、「十師」(大化元年八月)の一人「恵至」と同一人物かも知れない。
《為作聴衆》
 作聴衆という熟語は、漢籍には全く見えない。 しかし、為作については、 『漢書』景十三王伝「去憐之、為作歌曰「愁莫愁居無聊…」」など多数見える。 『漢書』谷永杜鄴伝「魯為作三軍、無以甚此」については、 諸侯国「」の昭公五年に「初作中軍」とあり、上下二軍制から中軍を加えて三軍としたと述べる。 よって、為作とは編成替え、あるいは単に「」の意である。
 したがって、ここでも「-作聴衆〔聴衆と為作す〕と読むものであろう。 私記が「作聴衆(サチヤウシユ)」と読んで以来、現代までそのまま継承されているが、これが誤りであるのは明白である。
《雨水》
 雨水には、古訓「ミゾレ」が付されている。 〈倭名類聚抄〉には「:雨氷也【和名安良礼】」、「:氷雪雑下也【和名美曽礼】」、「:雨雪相雑也【三曽礼】」が見える。
 古語ではひょう・あられ〔現在の気象用語では直径で区別される〕を併せて雹(アラレ)という。雨雪が混合したものをミゾレ(霙)というのは、現代語とおなじである。 〈倭名類聚抄〉では〔現代語はあられを指す〕にも「ミゾレ」という訓が付されているが、これは誤りかも知れない。
 〈時代別上代〉は、ミゾレを見出し語に立てないので、上代には確認されていないようである。 平安時代になると、『源氏』澪標に「雲みぞれ〔別版:雪霙〕かき亂れ荒るゝ日に」がある。
 熟語「雨水」は、通常は暖冬または季節が春に進む過程で、雪が雨に変わる現象を表す。 十二節季の雨水〔グレゴリオ暦で2月21日前後〕も、もともとその意味であったと思われる。
 白雉元年の四月丁未は、グレゴリオ暦では650年5月28日にあたる(hosi.orgによる)。 畿内でのみぞれは季節的に考えにくいし、雪が雨に変わる春先の時期の雨にもあてはまらないだろう。
 下文では、家屋が洪水で大被害を受けた文があるから、ここでの雨水は「大雨+洪水」であろう。
 古訓ミゾレは、ある写本が「雨氷」に読めたためではないだろうか。
《造戸籍》
 ここの「戸籍」自体は、下文の里、戸主、税制の制度解説の書き出しであろう。
 戸籍の作成は大化元年〔645〕八月詔から始まり、庚午年籍〔670〕でひとまず完成に至る息の長い事業であった。 畿内で戸籍が一定程度出来上がった地域から、順次班田収授法の適用が始まったと思われる。
《凡五十戸為里》
 「凡五十戸為里」は、改新詔其三曰のままである。
《戸主》
 戸主の規定は養老令(おそらく大宝令も)に見える。
  『令義解』巻第二/戸令
凡戸主皆以家長為之。
凡戸皆五家相保。一人為長。以相検察。勿造非違。 如有遠客来過止宿及保内之人有所行詣並語同保知。
 戸主の古訓はなかなか見えない。戸籍(ヘノフミタ)、戸口(ヘヒト)から見てであろう。 訓がつかないのはありふれた訓みだったからだとすれば、ヌシか。 主にはアロジもあるが、令の用語としてはしっくりこない。
《造宮已訖》
 白雉三年九月に、難波長柄豊碕宮が完成した。実際にその内裏に居住するようになったのは、この頃からと見られる。 これまでは、使用可能なエリアで正月礼などの行事に限って開催されたようである (大化四年《難波碕宮》)。
《大捨》
 仏教用語「」は、感情の波を捨てることである。すなわち、個々の事象に一喜一憂せず論理的かつ冷静に対応する態度を意味する。だが、これでは設斎・燃灯と並べた宮廷行事としては、全く見えてこない。 むしろ「」をイメージしやすいのは、托鉢僧への喜捨(布施)である。ここでいう「大捨」は、檀越だんおち〔僧尼の後援者〕としての天皇による施しと見た方がよいであろう。 古訓カキウツは「接頭語カキ+棄(う)つ」で、の直訳と思われる。カキラツは、ウがラに見える写本があったためであろう。
 なお、カキウツを仏教活動に用いた例はこの他には全く見えないから、書紀古訓に限定された言い方である。
《大意》
 〔白雉〕三年正月一日。 元日の礼を終え、天皇の車駕は大郡(おほごおり)の宮に行かれました。
 〔大化二年?〕正月からこの月に至り、班田を既に終わりました。 およそ田は長さ三十歩を一段として、 十段を一町としました 【段あたりの租は稲一束半、 町あたりの租は稲十五束】。
 三月九日、 車駕は〔難波長柄豊碕〕宮に帰りました。
 四月十五日、 沙門恵隠(えをん)に請い、 内裏にて無量寿経(むりょうじゅきょう)の講を開催されました。 沙門恵資(えし)を論議者として、 沙門一千を聴衆とされました。
 二十日、 講を終了しました。
 この日から始まり、連日の降雨、出水が九日間に及びました。 家屋は損壊し、田の苗は損なわれ、 人や牛馬に溺れ死ぬ者が多く出ました。
 同じ月、 戸籍を造り、 すべて五十戸を里として、里毎に長一人を置く。 すべて戸主は皆家長を任命する。 すべて戸(へ)は皆五家で互いに助け合い、 一人を長として、互いに検察することとしました。
 新羅・百済は、遣使して貢調献物しました。
 九月、 宮の造営をすべて終わりました。 その宮殿の姿は、論じ尽くせません。
 十二月晦、 天下の僧尼を請い、 内裏にて設斎、大捨、燃灯をなされました。


38目次 【白雉四年五月】
《發遣大唐大使小山上吉士長丹》
四年夏五月辛亥朔壬戌。
發遣大唐大使小山上吉士長丹
副使小乙上吉士駒【駒更名絲】
學問僧
道嚴
道通
道光
惠施
覺勝
辨正
惠照
僧忍
知聰
道昭
定惠【定惠內大臣之長子也】
安達【安達中臣渠毎連之子】
道觀【道觀春日粟田臣百濟之子】
學生
巨勢臣藥【藥豐足臣之子】
氷連老人【老人眞玉之子。
或本。
以學問僧
知辨
義德
學生
坂合部連磐積
而増焉】
幷一百廿一人倶乘一船、
以室原首御田爲送使。
安達道觀知辨義德
発遣大唐…〈北〉 ツカハス大唐 モロコシニ大使 オホツカヒ小山上シノナカ ニ[切] 副使 ソヒツカヒ小-ヲツシノ コマ 更名マタノナハイト 學問 モノナラフ ホウシ[切] 道-嚴 タウ コン[切] 道-通 タウ ツウ[切] 道-光 タウ クワウ[切]  エ[切] 覺-勝 カク セウ[切] 弁-正 ヘンシヤウ[切] 恵-照 ヱ セウ[切] 僧-忍 ソウニン[切]  チ チソウ[切] 道昭 タウ セウ[切] 定惠 ハウチノオホマチキミノコナリ 安達 アン タツ ハ中臣メノムラシ コナリ 道觀々々春日カスカノ  粟田アハタノ ヲン百済クタラクカコナリ 學生フンヤワラハ モノナラフヒトセノヲンクスリクスリハ豊足トヨタリノ臣之子 氷連コヲリノムラシ老人 ヲキナ 々々ヲキナタマノ之子或本アルフミニトク坂合サカ アヒムラシ イハ ツミヲ リ クハヘアハセテ一百廿一人モゝアマリハタチアマリヒトタリ トモニ ノル一船ヒトフナニムロ ハラノヲフト御田 ミタヲ送-使ヲクリツカヒト
 〈閣〉 恵照
 〈卜部兼右本〉道觀道-觀[ハ] 春-日粟-田臣百-濟之子[切]俗-名[ハ]真-人
 〈釈紀〉チヤウ安達アムタツ百濟くたらかノル一船ヒトフネニ
小山上制冠十九階第十三位。
小乙上…制冠十九階第十七位。
こほり…[名] 氷。
四年(よとせ)夏五月(さつき)辛亥(かのとゐ)を朔(つきたち)として壬戌(みづのえいぬ)〔十二日〕
[発遣]大唐(だいたう、もろこし)に大使(おほつかひ)小山上(せうせんじやう)吉士(きし)の長丹(ながに)
副使(そひつかひ)小乙上(せうおつじやう)吉士(きし)の駒(こま)【駒。更名(またのな)は糸(いと)】をつかはして、
学問(ものならふ)僧(ほふし)
道厳(だうごむ)
道通(だうつう)
道光(だうくわう)
恵施(ゑせ)
覚勝(かくせう)
弁正(べんしやう)
恵照(ゑせう)
僧忍(そうにん)
知聡(ちそう)
道昭(だうせう)
定恵(ぢやうゑ)【定恵は内大臣(うちのおほまへつきみ)之(が)長子(このかみ)なり[也]】
安達(あんだつ)【安達は中臣(なかとみ)の渠毎(こめ)の連(むらじ)之(が)子(こ)なり】
道観(だうくわん)【道観は春日(かすが)の粟田(あはた)の臣(おみ)百済(くたら)之(が)子なり】
学生(ふむやわらは)
巨勢(こせ)の臣(おみ)薬(くすり)【薬は豊足(とよたり)の臣(おみ)之(が)子なり】
氷(ひ)の連(むらじ)老人(おいひと)【老人は真玉(またま)之(が)子なり。
或本(あるふみ)に、
[以]学問僧(ものならふほふし)
知弁(ちべん)
義徳(ぎとく)
学生(ふむやわらは)
坂合部(さかひべ)の連(むらじ)磐積(いはつみ)を
もちて[而]増(くは)へり[焉]】、
并(あは)せて一百二十一人(ももたりあまりはたたりあまりひとたり)を倶(とも)に一船(ひとふなのふね)に乗せて、
室原(むろはら)の首(おびと)御田(みた)を以ちて送使(おくりつかひ)と為(す)。
又大使大山下高田首根麻呂
【更名八掬脛】
副使小乙上掃守連小麻呂
學問僧
道福
義向
幷一百廿人倶乘一船、
以土師連八手爲送使。
大使…〈北〉 大使大山下オホツカヒ タイセン ケ高田 タカタノヲフト根麻呂ネマロソヒ使 ツカヒ セウ■■ウトモニ乘一 ニ土-師 ハシノ 連ムラシ八手 ヤツテヲ送使 オクル ツカヒト。 〈閣〉 カモム キヤウ
 〈釈紀〉高田タカタノオフトツカハキ掃守カモンノムラシ道福タウフクキヤウ八手ヤツテヲ送使ヲクリツカヒト
大山下…制冠十九階第十一位。
はぎ…[名] すね。
…[動] (呉音)カウ。(漢音)キヤウ。
又(また)大使(おほつかひ)大山下(だいせむげ)高田(たかた)の首(おびと)根麻呂(ねまろ)、
【更名(またのな)は八掬脛(やつかはぎ)】
副使(そひつかひ)小乙上(せうおつじやう)掃守(かもむ)の連(むらじ)小麻呂(をまろ)をつかはして、
学問僧(ものならひのほふし)
道福(だうふく)、
義向(ぎかう、ぎきやう)、
并(あは)せて一百二十人(ももたりあまりはたたり)を倶(とも)に一船(ひとふなのふね)に乗せて、
土師(はにし)の連(むらじ)八手(やつて)を以ちて送使(おくりつかひ)と為(す)。
是月。
天皇幸旻法師房而問其疾、
遂口勅恩命。
【或本於五年七月云。
僧旻法師臥病於阿曇寺。
於是天皇幸而問之、
仍執其手曰
「若法師今日亡者
朕從明日亡」】。
旻法師房…〈北〉ミン ホウシノ ムロ  ■マフ ツカラ恩命 メクミコト。 〈閣〉 ツカラ ス恩命 メク ノミコトヲ
或本…〈北〉問之 タマフ  シナ[切][切][テ]明日 アシタ亡  シナム。 〈閣〉シテ
 〈卜部兼右本〉ミツカラクチツカラ
くちづから…[副] 自身の口によって。『紫式部日記』〔1008~1010〕「くちつからいひたれは」。
是(この)月。
天皇(すめらみこと)旻法師(みんほふし)の房(いへ、むろ)に幸(いでま)して[而]其の疾(やまひ)を問(とぶら)ひたまふ。
遂(つひに)口(みくちより、くちづから)恩(めぐみ)の命(みこと)を勅(のたま)へり。
【或本(あるふみ)の[於]五年(いつとせ)七月(ふみづき)に云ふ。
僧旻法師(ほふしみんほふし)[於]阿曇寺(あづみじ)にをりて臥病(やまひ)せり。
於是(ここに)天皇(すめらみこと)幸(いでま)して[而][之]問(とぶら)ひたまひて、
仍(よ)りて其の手を執(と)りたまひて曰(のたま)へらく
「若(もし)法師(ほふし)今日(けふ)に亡(ほろ)びてあら者(ば)
朕(われ)も従(したが)ひて明日(あす)に亡(ほろ)びてあらむ」とのたまへり】。
《発遣》
 「発遣」については、タテマダスタテをあてた可能性がある。 タテマダスは下位から上位に向けて使者を送る意味であるが、〈推古〉紀では大唐に対して尊敬表現を用いているから(十六年など)、 特に不自然なことではない。
《第一船/大使副使》
吉士長丹  白雉五年四月に帰国。 「吉士」は新羅の位階十四位で、先祖は新羅から渡来し「吉士」はかばねとなった。
吉士駒  白雉五年四月に帰国。
《第一船/学問僧》
道厳  道厳は書紀の他の部分や〈続記〉には見えない名前〔以後、「ここだけ。」と表記〕。なお、同名の「道厳」が〈崇峻〉元年に見える〔百済から渡来〕
道通 ここだけ。
道光 〈持統〉八年に「律師道光賻物〔葬祭料〕」。
恵施  法起寺塔露盤銘(資料[53])に「乙酉年〔〈天武〉十四年;685〕恵施僧正将竟願構立堂塔。而丙午年〔慶雲三年;706〕三月露盤営作」。 〈続記〉文武二年〔698〕三月「恵施法師僧正」。
覚勝 〈白雉五年〉:伊吉博得言「覚勝於唐死」
弁正  養老元年〔717〕七月庚申。以沙門弁正少僧都」。 天平元年〔729〕十月甲子。以弁浄法師大僧都」。 天平二年〔730〕十月乙酉。大僧都弁静法師為僧正」。
恵照 ここだけ。
僧忍 ここだけ。
知聡 〈白雉五年〉:伊吉博得言「知聡於海死」
道昭  文武四年〔700〕三月己未。道照和尚物化〔=死す〕。…河内国丹比郡人也。俗姓船連。父恵釈少錦下。… 還帰本朝。於元興寺東南隅。別建禅院而住焉」とあり、禅院寺を創建した。 船連の租については、〈敏達〉元年五月《王辰爾》参照。
定恵 父の「内大臣」は、内臣:中臣鎌子連と見られる(〈皇極〉四年六月)。
安達
 〈姓氏家系大辞典〉によれば、父の中臣渠毎までの略系図は、 天児屋命─…〔17代〕…─常盤大連公─中臣可多能祜大連┬御食子─〔藤原〕鎌足─不比等
├国子
└糠手子┬金〔〈天智〉右大臣〕
許米〔渠毎〕
となっている。安達はここだけ。
道観
〈天武紀〉十年〔681〕十二月と十四年〔685〕五月「直大〔四〕粟田朝臣真人」。
朱鳥元年〔686〕九月「直広肆紀朝臣真人」。
〈続紀〉 文武四年〔700〕撰定律令」に参加。
大宝二年〔701〕六月「遣唐使」。
和銅元年〔708〕大宰帥〔=長官〕」。
養老三年〔719〕二月甲子「正三位粟田朝臣真人薨。
 父は春日粟田臣百済(第105回《粟田》参照)とある。 〈卜部兼右本〉には、原注に「俗名真人」とある。粟田真人の名は、681年から719年までにしばしば現れる(右表)。 すると、道観は還俗したことになる。
 〈卜部兼右本〉の記述の信頼度はどれほどか。奥書を見ると、「天文九年〔1540〕…一条殿御本与累家本見合し」とあるから、 一条家または卜部家に累積して伝わる写本のどれかに「俗名真人」があったと思われる。 もし兼右個人の思い付きなら、頭注として書いたであろう。
 真人は遣唐使あるいは大宰帥として活躍するところを見れば、白雉四年に僧道観として唐に渡った経験を生かしたと考えることはできる。
《第一船/学生》
巨勢臣薬  巨勢臣については大化五年《巨勢徳陀古臣》参照。はここだけ。
氷連老人  氷連については、〈姓氏家系大辞典〉「氷 ヒ コホリ:氷部の伴造家也、…コホリと訓む地名は多く郡と通ず」、 「氷連:物部氏の族にして、氷部の総領的伴造家也」。 氷連は天武十三年に宿祢姓を賜る。
 老人については、〈白雉五年〉:伊吉博得言「氷連老人…今年共使人帰」。 〈持統四年十月乙丑〉に、〈斉明天皇〉七年に百済の役に救援にいったが帰れずにいた「氷連老」が三十年ぶりに帰朝した記事がある。
《第一船/或本》
知弁 ここだけ。
義徳  〈持統四年八月丁酉〉に、帰朝して筑紫に到着した記事がある。
 坂合部連については、 〈姓氏家系大辞典〉は「坂合部 サカヒベ:職業部の一なり。また堺部…境界を定めるための品部と考へらる」、 「坂合部連:坂合部の総領的伴造…三流〔多臣族、安倍氏族、尾張氏族〕あれば、何れを本とすべきか探るによしなし」と述べる。
 〈姓氏録〉に〖右京/神別/坂合部宿祢/火闌降命八世孫迩倍足尼之後也〗。他に左京、和泉国に見える。 氏人は〈斉明紀〉に磐鍬石布稲積が見える。〈続記〉文武四年に「坂合部宿祢唐」とあり、宿祢姓になった。
 磐積はここだけ。
《第一船/送使》
室原首御田 〈倭名類聚抄〉に{大和国・城下郡・室原}。御田はここだけ。
 送使は、大人数を滞りなく送りだす差配をする役割の使者で、自身は難波津か、せいぜい対馬まで付き添った後引き返したと思われる(〈舒明〉五年)。
《一百二十一人倶乗一船》
 第一船には121人、第二船には120人が乗った。白雉元年是歳条「於安芸国使百済舶二隻」は、このために造らせたものか。 だとすれば、(つむ)はかなり大型の船舶を指す語となる。また、百済出身の船工は相当高度な建造技術をもたらしたのであろう。
 なお、二つの船のそれぞれに大使・副使を置いたのは、一方の船が遭難して到着できない事態に備えたものであろう。
《第二船/大使副使》
高田首根麻呂  高田首は、〈姓氏録〉〖諸蕃/高麗/高田首/出自高麗国人多高子使主也〗、 〈姓氏家系大辞典〉「高田首:{山城国・葛野郡・高田郷}とある地名を負ひしなるべし」、 氏人は〈天武紀〉と〈続記〉に新家、〈持統紀〉に石成が見える。根麻呂はここだけ。
掃守連小麻呂  掃守連大化五年【掃部連】参照。 小麻呂はここだけ。
《第二船/学問僧》
道福 ここだけ。
義向 ここだけ。漢音によるギキヤウは、これを用いたいとする本人の意向があったのかも知れない。
《第二船/送使》
土師連八手 土師連は、〈皇極二年〉《土師娑婆連猪手》八手はここだけ。
《口づから》
 口づからは、「自ら」、「手づから」に類する語。とても場面に合うが、上代にあったかどうかは不明。 ミヅカラは、+属格の助詞+体躯を意味するカラと解されている。 後に、=自らの、カラ=助詞(from)と解されて手ヅカラ口ヅカラの語が生まれたと考えられる。
《大意》
 四年五月十二日、 大唐に大使小山上(しょうせんじょう)吉士(きし)の長丹(ながに) 副使小乙上(しょうおつのじょう)吉士の駒(こま)【別名は糸(いと)】を遣(つか)わして、 学問僧 道厳(どうごん)、 道通(どうつう)、 道光(どうこう)、 恵施(えせ)、 覚勝(かくしょう)、 弁正(べんしょう)、 恵照(えしょう)、 僧忍(そうにん)、 知聡(ちそう)、 道昭(どうしょう)、 定恵(じょうえ)【内大臣(うちのおほまへつきみ)の長子】、 安達(あんだつ)【中臣(なかとみ)の渠毎(こめ)の連(むらじ)の子】、 道観(どうかん)【春日の粟田の臣(おみ)百済(くたら)の子】、 学生 巨勢(こせ)の臣(おみ)薬(くすり)【豊足(とよたり)の臣の子】、 氷(ひ)の連(むらじ)老人(おいひと) 【真玉(またま)の子。 ある書には、 学問僧 知弁(ちべん)、 義徳(ぎとく)、 学生 坂合部(さかいべ)の連(むらじ)磐積(いわつみ)を 加える】、 併せて百二十一人を共に一船に乗せて、 室原(むろはら)の首(おびと)御田(みた)を送使としました。
 また、大使大山下(だいせんげ)高田(たかた)の首(おびと)根麻呂(ねまろ)、 【別名は八掬脛(やつかはぎ)】 副使小乙上(しょうおつじょう)掃守(かもん)の連(むらじ)小麻呂(おまろ)を遣わし、 学問僧 道福(どうふく)、 義向(ぎきょう)、 併せて百二十人を共に一船に乗せて、 土師(はにし)の連(むらじ)八手(やつて)を送使としました。
 同じ月、 天皇(すめらみこと)は旻(みん)法師の僧房に幸(いでま)してその病を見舞いなされました。 そして口づから恩勅なされました 【ある本は、五年七月のこととしていう。 僧旻法師は阿曇寺で病に臥せた。 そこで天皇(すめらみこと)は幸(いでま)して見舞われ、 法師の手を取っておっしゃった。 ――「もし、法師が今日亡くなれば、 朕も後を追って明日亡くなろう」】。


まとめ
 遣唐使に同行して唐に渡った学問僧のうち、幾人かは〈続紀〉にも活躍が載る。恵施、弁正は僧正まで上り詰めている。 道昭は禅院の創設が業績として書かれる。道観が粟田真人と同一人物だとすれば、大宝律令撰定に加わり、遣唐使や大宰帥に任ぜられている。 全体として、仏教の教義以外に、律令国家や都造りなどについて学んだようである。
 僧の名前はほとんど呉音で読まれるが、キヤウは漢音の導入を主張する急先鋒であって、自らの名乗りにも貫いたのではないかと想像される。
 さて、設斎・大捨・燃灯はどう訓まれるべきか。平安時代は設斎=イモヒで、ヲガミは書紀古訓特有語と思われる。 大捨=カキウテは、おそらく行事の内容が不明のまま直訳された。燃灯=オホミアカシについては平安時代における行事の名称と思われる。 上代語としては、燃灯=トモシビヲヤク、設斎・大捨は音読みが妥当であろう。



[25-19]  孝徳天皇(7)