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2023.07.10(mon) [25-16] 孝徳天皇16 ▼▲ |
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32目次 【白雉元年正月】 《車駕幸味經宮》
しかし『遊女記』(大江匡房、平安末期)によると、淀川が分流して網目状になったところが「江口」で、そこに「味原樹」があったという。 そして、大隅神社のすぐ北に「江口村」が存在するから、大隅牧と同じであろう。 《還宮》 この年の賀正礼は長柄豊碕宮ではなく、味経宮で行われた。 それでは、この後「還レ宮」先は、豊碕宮であろうか。 しかし、大化四年《難波碕宮》の項で見たように、 豊碕宮では正月の儀礼は行われたが、他の時期は「離宮」・「行宮」で生活したようである。 その宮の名前として、大化二年正月《子代離宮》(或本:狭屋部子代)、 大化二年九月《蝦蟇行宮》、そして大郡宮が挙げられている。 白雉年間になると、「大郡宮」の表現が使われるが、子代離宮または蝦蟇行宮のことだと見るべきか。 蝦蟇行宮を高津宮のあたりと見る説は、時代が合わないので成り立たないと見た〔高津宮は、大阪城の築城に伴い現在地に移った〕。 ただ、大郡にあったのなら、結果的に高津村周辺だったかも知れない。 さらには、蝦蟇行宮も子代離宮と同一だと割り切った方がよいかも知れない。 こうすれば、長柄豊碕宮の造営中に住んだ宮が固定して、行幸したさまがすっきり読めるからである。 《大意》 白雉(はくち)元年正月一日、 〔天皇の〕車駕(しゃか)は味経(あじふ)の宮にいらっしゃり、 賀正の礼を謁見されました。 同じ日、 天皇(すめらみこと)は宮に戻られました。 33目次 【白雉元年ニ月九日】 《穴戸國司草壁連醜經獻白雉》
元号としては唐に倣った制度であるから、上代から音読みすべきものであっただろう。 大化を振り返ると、これがオホキニカハルなどと訓まれたとは、到底考えられない。 白雉については、『康煕字典』に「鵫:…鵫雉、今白雉也。」とあり、その鵫雉は〈汉典〉によれば「白鷳」、"Lophura nycthemera"だという。 白鷳(ハッカン)はキジ科の鳥で、雄は背中側が白色、腹側が黒色にくっきり染め分けられている(写真左)。 一方、全身が真っ白な「白雉」は現代ではそれほど珍しくなく、さまざまなサイトに写真が上げられている。 いずれも瞳孔には正常の色味があるので、アルビノ〔albino;メラニン生成機能を欠く個体〕ではなく、白変種〔leucism〕のようである(写真中・右)。 想像ではあるが、捕えられれば珍重されて飼育下で繁殖するだろうから、それが野生化して一定数生息していることも考えられる。 《国造首》 「国造首」の古訓「首」は、ヒトゴノカミ〔酋長、族長〕のカミか。首の基本的な訓みオビトは、部曲の長に使われる。 国造も、一種の族ではある。 《九日》 九日は当然ココノカ(ココヌカ)であるが、〈時代別上代〉は上代に用例を見つけていないようである。同書になぬか(七日)は載っており、基数〔七日間〕、序数〔月の七番目にあたる日〕の両方に使われている。ココノ-カも同様であろう。 記倭建命段(第130回)の歌謡には「用邇波許許能用比邇波登袁加袁」〔夜には九夜、日には十日を〕とあるのを見れば、ココノカという語の存在は明らかである。 一般の古語辞典では『宇津保物語』(平安時代)、『古今著聞集』(鎌倉時代)などに用例を見出している。 音韻変化してココヌカになったかどうかは不明である。 《草壁連醜経》 草壁連については、〈開化〉段に「孝元天皇-日子坐王-沙本毘古王(日下部連、甲斐国造の租)」の系図が示される(第109回)。 また〈仁徳〉段では大日下王と若日下王の御名代が日下部の発祥とされる(第109回/日下部連)。 〈仁徳朝〉のとき設置された御名代の首を日子坐王(彦坐命)系の子孫が担ったとすれば、一応矛盾を免れることができる。 《麻山》
しかし、麻山(ヲノ乙ヤマ)と小野(ヲノ甲)は、甲乙違いである。 ただヲだけなら、そこからヲ-野、ヲ-山が派生したと見ることはできよう。けれども、小野という地名は長門国のあちこちにあるといい、 そもそもヲヤマと小野とは無関係かも知れないから、なかなか麻山は特定し難い。 《諸百済君》 諸百済君とは、誰のことだろうか。次の二月甲申条の「百済君豊璋」については、「百済君」は質として滞在している豊璋の冠称と読める (〈舒明〉三年)。 しかし、諸百済には「諸」がついていることが判断を難しくする。いくつかの可能性を探ってみる。 (1) 百済君豊璋とは別の百済君で、百済公の別表記かも知れない。 百済公は百済系渡来族である。 ●姓氏録〖和泉国/諸蕃/百済公/出自百済国酒王也〗…〈仁徳天皇〉のとき(四十一年)に渡来した酒君の子孫。 ●姓氏録〖左京/百済公/出自百済国都慕王廿四世孫■淵王也〗…〈続紀〉延暦九〔790〕新笠(桓武天皇の母)は百済遠祖都慕王の子孫と述べた記事がある。 (2) (1)とは別に、「百済王氏」がある。王もキミと訓む。〈天智〉三年三月に「百済王善光王等。居于難波」とある百済王(くたらのこにきし)氏は、倭に滞在していて百済滅亡により帰国できなくなった百済王族である。 この善光王は、質の豊璋とともに〈舒明〉朝に来倭したとする説を見る(『朝日日本歴史人物事典』、同説の信頼性は未確認)。 下文では、豊璋に加えてその弟二人も列記されるから、その兄弟に善光王らをも含めたグループが百済君で、後の百済王氏に繋がると見るのがよいと思われる。 (1)の百済公は、時代が大きく異なるので無関係であろう。 《後漢明帝永平十一年》 〈北野本〉〈内閣文庫本〉ともに、「後漢」には訓点も声点もつけないが、音読みされたのは明らかである。 学生僧などが倭に持ち帰った『後漢書』が出典であろう。
「耳所未聞目所未覩」の所は自発の助動詞として、未がはさまってはいるが、所聞⇒聞こゆ、所見⇒みゆと訓めばよいだろう。 ここでは、白雉の出現がとても珍しいことを「見たことも聞いたこともない」と表している。 《道登法師》 道登法師は、大化元年八月に十師の一人に任じられた。 これ以外には出てこないが、〈推古〉十六年九月《遣於唐學生八人》で遣わされた学生僧の誰か一人の別名かもしれない。 《無地不覧》 「欲営伽藍無地不覧」は、意味が取りにくい。 ①「無レ地不レ覧」〔適地なく見えない〕。文法的にはこのように読むことはできるが、それなら「不覧無地」の語順であるべきであろう。 ②「無二地不一レ覧」と訓む。これは古訓以来の伝統的な読み方である。 『仮名日本紀』も「地として見ずといふことなし」としている。これは「覧なかったところはない」〔=あらゆるところを調べ尽くした〕意である。 文法的には、「地」は受事主語〔意味は目的語だが、主語の位置に置かれる〕となる。 そして主述構造「地不覧」が名詞節となって、「無」の目的語(事実上の主語)となる。 《白鹿園寺》 『三国史記』から、白鹿薗寺の記述を探してみた。高句麗でも白鹿が霊獣として珍重されたこと自体は、次の記述からわかる。
なお、韓国のサイトに「宝蔵王のとき白鹿園寺が建つ」という意味の記述があったが、これは書紀に基づいたもののようである。 《一寺田荘》 〈推古〉十四年〔606〕是年条に「播磨国水田百町施二于皇太子一、因以納二于斑鳩寺一。」とあるように、 早い時期から独立的な寺領は存在していた。 その後大化二年〔646〕三月辛巳詔が発せられ、寺の所有田は班田収授法により接収されるが、同時に自力による墾田の所有を認めている (大化二年三月《於脱籍寺入田与山》項)。 そのまま、墾田永年私財法〔743〕を経て、後世の荘園に繋がるようである。 《雀》 雀はスズメまたはサザキと訓まれる。 古訓にスズメとして明記された箇所は、〈敏達〉十四年の〈内閣文庫本〉「如下中二獵箭之雀鳥焉」がある。 同じ個所を〈北野本〉は、「如-中-獵-箭-之-雀」とし、〈時代別上代〉はススミとも言ったのではないかと述べる。 名詞スズメについては、記〈雄略〉段歌謡に「爾波須受米」〔ニハスズメ〕(第209回)が見える。 一方、サザキと訓まれる例としては、大雀天皇(〈仁徳〉)などがある。 ここでは、「田荘」における目撃例だから、田に群れていたスズメのうちの一羽と訓むのが妥当か。 《休祥》 瑞祥を表す倭語には、サキ、サガ、キザシがある。サキは吉祥のみ、サガ・キザシは吉も凶もある。 休の字の成り立ちは、人が木に寄って安らぐさまを表すという。その木陰は神の恵みであるから「休祥」は、吉祥、祥瑞と同じ意味になる。 《三足烏》 〈神武段〉に登場する八咫烏は、古くから三足烏と解釈されている(第97回)。 『論衡』〔王充;後漢/80年〕には「儒者曰:日中有三足烏。月中有兔、蟾蜍。」とある。 「遣二大唐一使者持二死三足烏一来」は、唐から帰国した学生僧の持ち帰った文献の中に「三足烏」があり、それがもとになって生まれた噂の類と思われる。 少なくとも〈孝徳朝〉の時期には三足烏伝説が伝わっていたのだから、〈神武即位前紀〉の執筆者の頭の中でイメージされた「八咫烏」は、漢籍の三足烏であったと見てよいだろう。 《大意》 二月九日、 穴戸(あなと)〔=長門〕の国司司草壁(くさかべ)の連(むらじ)醜経(しこふ)は、 白雉(はくち)を献上し、 「国造(くにのみやつこ)の首(おびと)の同族の贄(にえ)が、 正月九日、麻山(おやま)にて獲ったものです」と言上しました。 そこで、何人かの百済の君(きみ)に問うと、 百済の君は、 「後漢明帝の永平(ようびょう)十一年に、 白雉のいるところが見えて、云々」と言いました。 また、沙門らに問うと、 沙門らは、 「未だ耳に聞いたことも目に見たこともありません。 天下に大赦して民心を悦ばせてくださいませ」と答えました。 道登(どうと)法師が言うには、 ――「昔、高句麗で、 伽藍を造営しようと思いましたが、その地を決められずにいました。 すると、ある所に白鹿がようやく歩いていました。 遂にこの地に伽藍を営造し、 白鹿園寺(びゃくろくおんじ)と名づけて、仏法を住持しました。 また、白雀をある寺の田荘に見たとき、 国の人は皆休祥(きゅうじょう)〔=吉祥〕だと言いました。 また、大唐に遣れた使者は、死んだ三足の烏を持って来たとき、 国の人はこれもまた休祥だと言いました。 これらは、微々たるものですが、それでも吉祥の物です、 況(いわ)んや、白雉というものは」と言いました。 《僧旻法師曰此謂休祥足爲希物》
僧旻法師の訓みは「ホフシ・旻・ホフシ」かも知れない (〈舒明〉即位前、 〈孝徳〉即位前 《沙門旻法師高向史玄理》項)。 《則白雉見》 「王者旁流四表則白雉見」について、古訓は「~時は」を挟み、「"王者旁流四表なる"ときは則ち白雉見ゆ」と訓む。以下も同様である。 ここでは法則的な原理を述べるので、恒常条件の構文「已然形+バ」を用いることもできる。 《周成王時》 「周成王時…」については、『韓詩外伝』と『後漢書』巻八十六/南蛮西南夷列伝に出典が見つかった(別項)。 《烈風雷雨》 『武英殿二十四史』本は、「烈風雷雨」に「尚書大傳作「別風注雨」」を傍書する。 『尚書大伝』は尚書の注釈書。 〈北野本〉は「列風淫雨」、〈卜部兼右本〉・〈内閣文庫本〉・『集解』は「別風淫雨」とする。 《晋武帝咸寧元年》 西晋〔265~316〕は、三国魏の後継王朝としてスタートし、280年に呉を滅ぼして久しぶりに中国統一王朝となった。 「武帝」は、初代皇帝司馬炎の諡号。
沙門らは「宜下赦二天下一使上レ悦二民心一」と求めた。 僧旻法師は、晋武帝咸寧元年のことを引き合いに出して「可レ赦二天下一」と提言する。 これらを受けて、詔も「大二-赦天下一改二-元白雉一」と述べる。 このように何カ所かで大赦が話題に上っているところに、改元に至るひとつの背景が窺える。 《大意》 僧旻法師(そうみんほうし)が言上するには、 ――「ここで休祥というのは、希少な物だと思うに足ることです。 伏して聞くに、 王(きみ)は四方に満遍なく統治が及べば、白雉を見ます。 王は祭祀を踏み越えることはなく〔=過(あやま)たず〕、 宴食衣服に節度があれば、それに至ります。 王は清素であれば、山に白雉が出ます。 王は仁聖であれば、これを見ます。 また、周の成王(せいおう)の時、 越裳(えつじょう)氏が来て白雉を献上して、 『私が聞くに、 国の長老が 「久しく別風淫雨なく、 入り江や海に波が溢れることもなく、三年になる。 〔天の〕御心は、中国に聖人ありということかも、 どうして参上して朝せざるか」と言うのを聞きました。 そこで、三訳を重ねて〔=遠路はるばる〕参りました』と申し上げました。 また、晋(しん)の武帝の咸寧(かんねい)元年、 〔白雉が〕松滋(しょうじ)にいるのを見ました。 このように、休祥でございますから、天下に大赦なさるべし」と言上しました。 こうして、白雉を園に放たせました。 【周成王時越裳氏来献白雉】 成王は周の第二代王。殷を滅ぼして周朝を立てた武王の後を継いだ。越裳が白雉を献上した話は、いくつかの漢籍に見える。 《韓詩外伝》
《宋書》
《後漢書》
②の「三象」は、太陽・月・星座の位置によって方向を定めてやってきたという意味か。 ③周公(旦)は、成王の摂政となった。従って、「成王以帰周公」は、越裳使への対応を成王が周公に任せたという意味である。 ⑤はここだけでは正確な意味は読み取れないが、越裳の話が④で終了したことを示すために、加えた。 《説苑》 『説苑』に、前項『後漢書』とかなり近い内容の文がある。
ただし、ここには白雉が出てこないので、僧旻〔あるいは書紀著者〕が引用したのは『後漢書』の方である。 《琉球国中山世鑑》 『琉球国中山世鑑』〔琉球王国初の正史〕に、『後漢書』と類似する部分のあることが注目される。
ABが、『後漢書』の③④を用いたことは明らかである。 Aは、北夷使による「貴国に朝貢する国になります」との言上に対して、琉球王が「私には、その資格はない」と謙遜して見せる文であることがわかる。 Bは、使がその王の言葉を受けて「この三年烈風淫雨なく波静かなのは、聖徳の王がいらっしゃるからだと古老が申しておりました。よって、参上いたしました」と言って重ねて敬意を示し、晴れて冊封の関係が成立する。 よって、『後漢書』の③は周公が形式的に謙遜して見せるもので、④は、越裳国使が重ねて敬意を表す言葉である。 すなわち、これらは予め定められた儀礼におけるやりとりであった。 《黃耇曰久矣天之無烈風雷雨》 〈孝徳紀〉による引用箇所にある「国之黄耈曰久矣無別風淫雨江海不波溢三年於茲矣意中国有聖人乎」が、白雉とどう結び付くのかさっぱり分からなかった。 しかし『後漢書』と『琉球国中山世鑑』を見比べることにより、結局宗主国が夷の国を冊封する儀式における、定型のセリフであることがわかった。 〈孝徳紀〉の引用には、②~④のうち、③が抜けている。 ここまで調べたことによって、やっと僧旻法師の言上の「周成王時…」の部分の成り立ちが分かった。 要するに、『後漢書』から前後の繋がり抜きにつまみ食いしたのである。 これは書紀の文章を見ているだけでは、絶対に分からないことであった。 34目次 【白雉元年ニ月十五日】 《朝庭隊仗如元會儀》
この段には「左右大臣」が繰り返し出て来る。改元の儀式は、新たに任命した巨勢臣徳陀古(左大臣)、大伴連長長徳(右大臣)のお披露目の場でもあった。 朝廷の中枢にもはや蘇我氏の姿はないことが、万民に印象付けられるのである。 《粟田臣飯虫》 粟田臣は、和珥臣の子孫で、春日臣から分岐した。本貫は〈倭名類聚抄〉{山背国・愛宕郡・上粟田郷/下粟田郷}と考えられている (第105回)。 《紫門》 紫門は、紫宸(天子の宮殿)の門と見られる。 《使三國公麻呂》 三国麻呂公は、大化五年三月に倉山田大臣への詰問使として遣わされた。 《猪名公高見》 猪名部は〈応神〉三十一年に、新羅王から能匠として献上された。 新羅使が武庫湊に停泊したときに失火し、そのお詫びに献上した。 これ自体は伝説であろうが、渡来は一般に応神紀に集約して書かれるので、猪名部は技術者として渡来した人を祖とすると思われる。 一方、〈宣化〉の上殖葉皇子が「丹比公偉那公凡二姓之先也」とされる(〈宣化〉元年) 偉那公(猪名公)は、猪名部の伴造であろう。 伴造になった経緯については、『日本古代氏族事典』〔雄山閣出版;1994〕に 「この地方に設置されていた猪名部の伴造氏族の為奈部首氏より出た乳母の氏名に由来するものとみられる」とあったが、 その確たる根拠は示されていない。猪名公は〈天武〉十三年に真人姓を賜った。 《三輪君甕穗》 三輪君については、三輪君大口参照。甕穗の名はこの場面のみ。 《紀臣乎麻呂岐太》 紀臣については、紀麻利耆拕臣参照。
「代」への古訓「カハルガハル」は、四人が順番に輿を受け渡してということになるが、 その前に「以粟田臣飯虫等四人使執雉輿」とあるから、越は四人で持ち、三国公麻呂など四人の組に引き継いだのであろう。 小型の輿の場合、轅〔輿の取っ手〕は四本である(右図)から、一人が一本を持ったのであろう。 さて、穴戸国で捕獲した白雉を、はるばる難波宮まで運んできたわけである。おそらく船便であったと想像されるが、その運搬にはさぞかし気を遣ったであろう。 捕獲したのが一月九日、献上したのが二月九日と書かれているから、その間約一か月を要している。献上後に「使レ放二于園一」と書いてあるから、 無事生きたまま連れて来られたことが何よりである。 《左右大臣就執輿前頭》 殿前で再び運び手を交代し、殿の中の御座にいた天皇の前に据えたようである。 「前頭」は前二本の轅の持ち手と思われ、左右大臣が執る。 《後頭》 「後頭」は後ろ二本の轅の持ち手であろうが、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎の三人の名前が書かれている。 三国公麻呂は直前まで前の轅を執っていたから誤って紛れ込んだもので、実際には伊勢王・倉臣小屎の二人と見るのがよいだろう。 《伊勢王》 伊勢王の名前は、ここ以後にも見える。
表記は「王」であるから、天皇の孫以後の代である。 書紀では、名前と血縁が明記されるのは基本的に皇子・皇女までであるから、二人(?)の「伊勢王」が誰の子であるかも書かれていない。 おそらくは、失われた系図巻にまとめて納められたのであろう。 「王」の訓は、ミコとオホキミがある。前者は天皇からあまり代を重ねず、時には天皇の候補になり得るような高貴な王である。 ①②は、薨の記事が載るから皇子の次の代ぐらいであろうと考え、ミコとする。 《倉臣小屎》 倉臣について〈姓氏家系大辞典〉は、「倉:倉氏は単に内蔵職員たりし者の後のみならず、朝廷領・各地に置かれし倉庫の司たりし者の裔、亦これを称す」、 「倉臣:何れの倉の首長か、詳かならず」と述べる。 《大意》 〔白雉元年正月〕十五日、 朝庭の隊仗は、元日に会する儀礼の如くでした。 左右の大臣(おおまえつきみ)、多くの官人らは、 紫門〔=天皇の宮殿の門〕の外に四列を作りました。 粟田臣(あわたのおみ)飯虫(いいむし)ら四人に、 雉(きじ)の輿を持たせて、先導させました。 左右の大臣は、 続いて官人たち 及び百済の君豊璋(ほうしょう) その弟の塞城(さいじょう) 忠勝(ちゅうしょう)、 高麗の侍医毛治(もうじ)、 新羅の侍学士(じがくし)らを率いて、 中庭に至りました。 三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ) 猪名公(いなのきみ)高見(たかみ) 三輪君(みわのきみ)甕穗(かめほ) 紀臣(きのおみ)乎麻呂岐太(おまろきた)の四人に、 雉の輿の持ち手を交代させ、宮殿の前に進めさせました。 その時、左右の大臣は近づいて輿の前の頭を持ち、 伊勢王(いせのみこ) 三国公(みくにのきみ)麻呂(まろ) 倉臣(くらのおみ)小屎(おくそ)は輿の後の頭を持ち、 御座の御前に置きました。 すると天皇(すめらみこと)は皇太子(ひつぎのみこ)を呼び寄せ、共に手に取って御覧になりました。 皇太子は一歩退いて再拝され、 巨勢(こせ)の大臣に奉賀させました。 ――「公卿(まへつきみ)百官人(もものつかさ)らは奉賀いたします。 陛下は清平の徳をもって天下を治められた故に、 今回白雉が西方から出現したのでございます。 すなわちここに、 陛下は千秋万歳に及び至り、 四方の大八嶋(おおやしま)を浄め治められます。 公卿、百官、及びもろもろの百姓たちは、 冀(こいねがわ)くば、忠誠を尽くして謹んで仕えようとせよ。」と 奉賀し終えて再拝しました。 《聖王出世治天下時天則應之示其祥瑞》
白鳥を、『集解』は「白烏」に作る。それは下文に「白烏」があるためで、加えて参考事項として『延喜式』治部省「祥瑞」項の「白鳩。白烏。大陽之精也。」などを挙げる。 白鳥は、これまではククヒ(ハクチョウ)のことである (〈景行紀〉日本武尊条、 第119回〈垂仁〉段)。 ククヒはもともと全身が白い鳥なので、祥瑞にはならない。よって、〈内閣文庫本〉左訓は「シロキトリ」とするのであろう。 この話が〈応神〉紀・段に全く出てこないのは不審である。 「白鳥樔宮」に似た場面なら、〈垂仁段〉(第119回)にある。 ――「住是鷺巢池之樹鷺乎宇気比落」。すなわち誓(うけひ)の結果次第で、鷺は木から落ちて死ぬ。 その話の前段は、〈垂仁天皇〉皇子が言葉を発することができなかったが、 鵠(くくひ、=白鳥)を見て突然言葉を発した話である。やっと鵠を捕まえたが皇子は言葉を発さず、それが何故かと占ううちに、巡り巡って鷺による誓(うけひ)の話になった。 その皇子の名前が、書紀では「誉津別王」となっており、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと;応神天皇)」〔記は品陀和気命(ほむたわけのみこと)〕とかなり近いことが目を惹く。 だとすれば、〈垂仁紀・段〉の白鳥・鷺伝説の亜種が、〈誉田天皇〉に関連する話として存在していたのかも知れない。 もしこれが本当なら、白鳥を白烏に作る必要はなくなる。 《龍馬》 竜馬も『延喜式』祥瑞にあり、「神馬:竜馬長頚。額上有翼。踏水不没。」と書かれる。 〈仁徳天皇段・紀〉にはこの話はない。 《虚薄》 虚薄は、薄弱〔天から授かった運や才能が少ない〕、虚弱〔体が弱い、権力が弱い〕の意味である。 白雉の瑞祥を得たことは天子の徳の証であるが、奢ることなく敢えて謙虚さを見せる。 朕は力不足なので、このチャンスをものにするには公卿・百官の助力が必要だという論理構成になっている。 《蓋此專由扶翼…》 「蓋此1)專由2)扶翼3)公卿臣連伴造国造等4)各尽丹誠奉遵制度之所5)致也6)」はどのように構文解析したらよいだろうか。 1)の蓋(ケダシ)は、ア)疑問・仮定を伴う推量。イ)漢文訓読体における「蓋」の訓。この場合は「まさしく」、「思うに」の意。 ここではイ)でもよいが、「もし公卿・百官の扶翼が得られれば…」と事実上条件を仮定する文だから、その発語と見てア)が適切か。 2)の、専(モハラ;もっぱら)は副詞。由(~ニヨリテ)は前置詞。 3)「扶翼」は、4)が天皇を助けるという意味。この語順では、4)への連体修飾語「扶翼するところの」となる。 4)は、文法的には4)までを2)(由りて)の目的語に位置づけることもできるが、ここでは意味が通じなくなる。 5)までを2)の目的語だとすれば、意味が通る。区切りを示す「~之所」も、それを裏付ける。 6)が全体の述語で、主語は文脈から祥瑞が現実化して国が栄えるだろうという期待である。上で見たように「蓋」は事実上の仮定文の発語と見るのがよいので、「致」には推量の助動詞をつけて、「イタサム」とするのが妥当であろう。 前置詞"由"の目的語が長大になるが、文法的にも文の意味からもこれが妥当であろう。 《改元白雉》 「改元白雉」を簡潔な上代語を用いて、なおかつ文法に忠実に訓読することは不可能である。 実際には飛鳥時代から「ビヤクヂにカイグヱニしたまふ」と音読されていたのかも知れない。 《仍禁放鷹》 詔の閉じ括弧は「…改元白雉」の後とするのが自然であるが、 「仍禁放鷹」以下も朝廷による具体的な指示であるから、「復穴戸三年調役」まで詔に含めて読んだ方がよいだろう。 《并大給各有差》 草壁連醜経は冠位と併せて大禄を給わった。一人が禄を給わるのに、「各有差」は確かに理屈に合わない。 『類聚国史』〔892〕の「并大給禄」は妥当である。 同書が現在は失われた他の書紀写本を用いた(A)か、あるいは『類聚国史』の判断で修正した場合(B)が考えられる。そのどちらであろうか。 『新訂増補国史大系』〔吉川弘文館〕の頭注を見ると、書紀と『類聚国史』とで異なる箇所については、『類聚国史』自体の写本の間に異同があるもの(ア)と、『類聚国史』内では多くの写本で共通するもの(イ)がある。 (イ)の場合に限ると、
一方④⑤については、書紀のある種の写本がこうなっていて、それが『類聚国史』に受け継がれたように思われる。 これらを考え合わせると、さきの問題の答えは(A)であるように思われる。 書紀の一つの筆写において、前文の「賜公卿大夫以下至于令史各有差」につられて醜経大給にも誤って「各有差」をつけてしまい、けれどもこの本の方が主流になったと考えられる。 《大意》 詔に曰く ――「聖王が世に現れて天下を治める時は、 天はそれに応えてその祥瑞を示される。 昔、 西土〔=中国〕の君の、周の成王(せいおう)の世と、 漢の明帝の時に、白雉を見た。 我が日本(やまと)の国の誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の)御世に、 白い鳥が宮殿に巣くった。 大鷦鷯帝(おおさざきのすめらのみこと)の時には、龍馬を西に見た。 このように、古(いにしえ)から今まで、祥瑞を時に見て、 このように有徳に応える、この類は多い。 所謂(いわゆる)鳳凰(ほうおう)、 騏驎(キリン)、 白雉(はくち)、 白烏(はくう)、 もしこれらの鳥獣から草木まで応えれば、 皆天地の休祥、嘉瑞が生まれる。 明聖の君がこのような祥瑞を獲ることに、適うのはもっともである。 しかし、思うに朕は虚薄であり、どうやってこれに通ずることがあろうか。 蓋(けだ)しこれは、 專ら扶翼(ふよく)〔=輔弼(ほひつ)〕する公卿、臣、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)らが、 それぞれ丹誠を尽くして制度を奉遵することによって、はじめて致すことであろう。 この故に、公卿はじめ、百官たちに及び、 清白な心をもって神祇を敬い祀り、 並んで休祥を受けて、天下を栄えさせよう」。 また、詔に曰く ――「四方の諸々の国郡たちよ、 天の委ねと授けにより、 朕は総(ふさ)ねて臨み、天下に御す。 今、我が親族の神祖の統治してきた穴戸の国の中に この嘉瑞があった。 所以(ゆえ)に、天下に大赦し、改元して白雉とする。 よって鷹を穴戸の国の際に放つことを禁ず。 公卿大夫以下、令史(ふみひと)に至り禄を、 それぞれに応じて賜る。 ここに、 国司草壁連(くさかべのむらじ)醜経(しこふ)を褒め、 大山(だいせん)位を授け、併せて大禄を給わる。 穴戸の三年の調役を免ずる。」 まとめ 結局「改元白雉」の四文字で済むことに、ここではかなり多くの字数を費やしている。 注目されるのは、「大赦天下」と「左右大臣」が繰り返し出て来ることである、 大赦令を大化二年三月辛巳詔で発してから、まだ4年しかたっていないのに再びの大赦である。それだけ急進的な改新に対する諸族・人民の反発は大きいのであろう。 また蘇我倉山田臣を滅ぼし、蘇我日向臣を左遷したのは、改革で生じた歪みの責任を両者に負わせたと見ることができる。 よって、新たに任命した左右大臣による新体制をアピールする場を兼ねた。 白雉が捕獲されたこと自体は、偶然である。しかし、これを利用して改元という形で人心の一新を図ろうとするアイディアは、誰が思いついたのであろうか。 それは、やはり僧旻法師と見るのが妥当か。僧旻は、国博士かつ十師の一人であった。 白雉に改元する根拠として中国古代の典籍や倭国の伝承を示す慎重さは、学者ならではのものである。 これを提案するにあたって、道登法師などの沙門衆を始めとして、豊璋など三韓出身の識者をも巻き込んで集団的な検討を行ったと見られる。 これも僧旻による周到な根回しなのであろう。 この過程全体を書紀が創作したとはとても考えられないから実際に記録が残っていて、 その経過をまとめて残したのもまた僧旻なのであろう。 書紀がその大要を掲載したのは、この改元の経験を一つのひな形として、今後の政権運営に役立てようとしたものと思われる。 サイト主は、この段のことを最初は退屈な文字の羅列に過ぎないと思っていたが、いざ引用元に当たってみると、特に『後漢書』と、関連して『琉球国中山世鑑』が見つかりとても面白かった。 それらを読む間に、僧旻の熱意も浮かび上がってきたのである。 |
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2023.07.17(mon) [25-17] 孝徳天皇17 ▼▲ |
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35目次 【白雉元年四月~是歳】 《新羅遣使貢調》
《為入宮地所壊丘墓及被遷人》 下文(《難波長柄豊碕宮》の項)で述べるように、難波長柄豊碕宮の造営は大化元年に始まり、白雉三年九月に完了した。 工事が一定程度進行した時点で、削平した丘墓に先祖を祀る親族、移住させた住民への補償が行われた。 《将作大匠》 将作大匠は、唐の官職名である。
将作大匠が登場する話としては、次の例がある。
『令義解』に対応する役職を探すと、 宮内省/木工寮(こたくみのつかさ)(資料[24])がある。 役職名は、上位から「頭、助、大允、小允、大属、小属、工部」 〔頭・助・允・属は、四官(長官・次官・判官・祐官)の寮における表記〕となっている。 このように、大宝令以後は唐風の役職名「将作少府」は用いられていないようだが、〈孝徳朝〉当時は使用されていたか。あるいは書紀の執筆者が、修辞として中国風の表現を用いた可能性もある。 《荒田井直比羅夫》 荒田井直比羅夫は、大化元年七月《倭漢直比羅夫》、 大化三年是年(二)《倭漢直荒田井比羅夫》のところで登場した。 《丈六繡像》 繍像は、刺繍による仏像。「侠侍八部等四十六像」もすべて繍像だったと考えないと、景色は異様である。 《俠侍八部》 夾侍(脇士、脇侍、挟侍)は、本尊の左右に控えている仏像。 八部衆は、 「釈尊が説法のとき聴聞に常侍し仏法を讃美した、仏法守護の八体一組の釈尊の眷属。天・竜・夜叉・乾闥婆けんだつば・阿修羅・迦楼羅かるら・緊那羅きんなら・摩睺羅伽まごらかの称。多くは天と竜で代表させて天竜八部という」 (『例文仏教語大辞典』小学館)。 ここにそれらを置いた寺名が書かれていない問題については、《丈六繡像等成》の項で検討する。 《漢山口直大口》 〈姓氏家系大辞典〉は、「漢山口直:坂上氏の族にして、…後忌寸を賜ふ。爾波伎の後也」、 「山口費:法隆寺良訓補忘集四天王光銘に「山口大口費」とあるは前項〔漢山口直〕大口に同じ。」、 「文山口忌寸:坂上系図に「爾波伎直。姓氏録に曰ふ、弟腹・爾波伎は、是れ山口宿祢、文山口忌寸、云々等、八姓の租也」と載す」 と述べる。なお、姓「費」は「直」の古い時代の表記である(資料[18])。 同書が引用元とする「坂上系図」、「法隆寺良訓補忘集」は、次の文書の中に見つかった。
なお、「都賀使主」の子のうち中腹祖「志努直」の七世孫に「坂上田村麿」〔征夷大将軍〕がいる。 また『法隆寺良訓補忘集』は、法隆寺中院の僧良訓が、元禄享保年間〔1688~1736〕に同寺伝来の文書等について詳細に記録したものという (『続々群書類従』第十一序文による)。
『日本美術全集』2/解説によると、これらの四天王は「クスノキ材を用いた一木造」である(p.230)。 また、広目天が筆と巻子を持っていることについて同解説は、 「『仏説四天王経』によれば、四天王は、六斎日に須弥山から下界に降りて衆生を観察し、…帝釈天に報告するという。 ここから、広目天が持っている巻子は、人々の行状を筆に寄って記録する文書であると解釈できる」と述べる(p.178)。 広目天像が木彫であることは、山口費大口が木彫師であることを意味し、書紀の「刻二千仏像一」に合致する〔刻むのだから木彫である〕。 これは、書紀の記述の信憑性を裏付ける一つの材料と言えよう。 以上、思わぬところに漢山口直大口の存在の痕跡が残ることを知った。 《詔刻千仏像》 この千仏像が置かれた場所については、何も書かれていない。 三十三間堂と同規模だとすれば、長柄豊碕宮内の一堂はあり得ない。法隆寺玉虫厨子の千仏像〔内壁の金銅打ち出し〕の例を見れば通常の金堂程度の広さでよいが、その場合でも掘立柱の豊碕宮の一堂ではなく、外部の寺院であろう。 前項のように法隆寺の広目天の作者が大口だから千仏像も法隆寺にあったのかも知れないが、『日本美術全集』2/解説には「『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』に本像の記載がなく、平安時代後期の『七大寺日記』などに始めてその存在が記される」とある(p.230)。 四天王像が最初は法隆寺になかったのなら、大口と法隆寺とは一概に関係づけられない。 この時期には仏教活動の中心も難波だったとすれば、例えば四天王寺も考えられるが、決定的な材料は何もない。 《倭漢直県/白髮部連鐙/難波吉士胡床》 ● 倭漢直については、〈崇峻〉五年「東漢直駒」、 資料[25]「阿知使主を祖とする東漢」、 第176回【倭漢直之祖阿知直】、 〈雄略〉十五年【漢直】で考察した。 ● 白髮部連は、 第198回【白髪部】参照。 ● 難波吉士は、 〈推古〉十六年四月《難波吉士雄成》参照。 《百済舶》 百済舶は、百済式の構造の船と考えられている。舶の訓ツムは、書紀古訓の外に『類聚名義抄』にもある。 《大意》 〔白雉元年〕四月、 新羅は使者を遣わして貢調しました 【或る書に言います。 この天皇(すめらみこと)の御代には、 高麗・百済・新羅三国は、 毎年遣使貢献しました】。 十月、 宮地に入ったために壊された丘墓、及び移された人に、 それぞれに応じて物を賜わりました。 そして将作大匠(しょうさくたいしょう)の荒田井(あらたい)の直(あたい)比羅夫(ひらふ)を遣わして、 宮の境界の示標を立たせました。 同じ月、 丈六の繡仏、俠侍(きょうじ)、八部(はちべ)など四十六の像を造り始めました。 同じ年に、 漢山口直(あやのやまぐちのあたい)大口(おほくち)は詔を奉じて千仏像を彫刻しました。 倭漢直(やまとのあやのあたい)県(あがた)、 白髪部連(しらかみのむらじ)鐙(あぶみ)、 難波吉士(なにわのきし)胡床(あぐら)を 安芸国(あきのくに)に遣わして、 百済船二隻を建造させました。 36目次 【白雉二年】 《丈六繡像等成》
「丈六繡像等」を設置した施設については、何も書かれていない。 翌日、皇祖母命(〈皇極〉)が設斎したのも、同じ施設なのだろう。 皇祖母命は、白雉五年に「遷二-居倭河辺行宮一」とあるから、このときはまだ難波に坐したはずである。 難波長柄豊碕宮に、附属の寺院があるのだろうか。 しかし、大阪市文化財協会のページによると、 「天皇(大王)の居所である内裏と重要な政務・儀式をとり行う朝堂院、 および東西に配された官衙(役所)からなる。 すべて掘立柱の形式で建てられ、瓦は一切使われていない」という (「前期難波宮の時代」)。 十二月晦日に「燃二二千七百余燈於朝庭内一」とあるのは、仏教的行事が朝廷内で行われたことを示している。 前期難波宮の検出遺構(下述)にも寺院建築らしいものは見えないので、掘立柱の一堂が仏殿として使用されていたと考えるのが妥当であろう。 やはり丈六繡像に付随する侠侍八部等すべてが繍像であって、仏殿の壁の一面に垂らされていたとすれば、実情に合っている。 《百済新羅遣使貢調》 久しぶりに百済貢調の記事が載る(白雉元年四月条の原注を除く)。任那問題によって生じた緊張関係は、年月とともに薄らいだのだろうか。 代わって、新羅への警戒感が増している(《着唐国服》項)。 《燃二千七百余燈》 「燃二二千七百余燈一」は、万灯会が想起される。 〈続記〉には、天平十六年〔744〕十二月:「丙申 此夜於金鍾寺及朱雀路燃灯一万坏。」が見える。 書紀古訓では「オホミアカシ」と訓まれる。 〈倭名類聚抄〉には「燈明:大般若経云妙花鬘乃至燈明【和名於保美阿加之】」が見える。 また、『源氏』玉鬘:「おほみあかしのことなどこゝにてしくはへなどするほどに日暮れぬ」があり、平安時代には一般的な名称だったようである。 オホミアカシ=「大御」+アカスの名詞形であるが、〈時代別上代〉が示す意味は自動詞「アク:夜が明ける」、他動詞「アカス:夜を明かす・明らかにする」のみで、灯火には使われていない。 「灯をともして明るくする」意も当然考えられるのだが、上代まで遡るかどうかは微妙である。 一方、トモシビについては、(万)4054「保等登藝須 許欲奈枳和多礼 登毛之備乎 都久欲尓奈蘇倍 曽能可氣母見牟 ほととぎす こよなきわたれ ともしびを つくよになそへ そのかげもみむ」などがあり、上代語として躊躇することなく使用できる。 しかし、この場合「燃」をトモスと訓むトモシビと重複するので、モヤス(モユの他動詞)と訓みたいが上代にはまだこの語は確認できず、ヤク(四段)が一般的だったようである。 「燃:ヤク」という訓みは『類聚名義抄』にある。 《安宅土側等経》 〈釈紀/述義〉「安宅土側等経:或説。地鎮之経也」とある。 また、「安宅:(普通、安宅経を読誦するところから)朝鮮で、一家の災厄を払い除くために行なう祈祷祭。」(〈日本国語大辞典〉) も見るが、これ以上詳しいことはまだ分からない。 《筑紫海裏》 「筑紫海裏」の裏は浦のことで、福岡湾であろう。〈継体〉のとき磐井君から接収して置いた糟屋屯倉に接している(〈継体〉二十一年)。 太宰府の前身にあたる那津之口官家(比恵遺跡群に比定)も近い(〈宣化〉元年五月)。 那津之口官家から湾に出る湊が、三韓と難波津に向かう海上路の拠点であっただろう。 《難波長柄豊碕宮》
大化四年《難波碕宮》の項で見たように「遷都難波長柄豊碕」が大化元年十二月、 「遷居新宮号曰難波長柄豊碕宮」が白雉二年十二月に書かれる。それでは本当の遷都の時期はどちらが正しいのかという話になるが、 これはどちらかが誤りという性質の話ではないだろう。 そもそも宮殿名が繰り返し書かれるのは、今までの宮殿に比べて抜本的に立派であったことの心理的インパクトの大きさを示すものであろう。 恐らく、大化四年から白雉三年九月の「造宮已訖」まで、ずっと造営工事が続いていた。毎年正月の賀正礼だけは、工事中であっても朝堂院のどれか使用可能な施設を使って行われたと思われる。 白雉元年の賀正礼のみ味経宮で行われたのは、どの施設も工事中で使えるところがなかったのであろう。 なお、大化五年三月辛酉条の阿倍大臣の葬礼は、外郭の朱雀門の上に天皇が立ち、南に公衆があつまったのであろう。 また、改元の礼に出てきた「紫門」は、内裏と朝堂院の境界の門であろう。 《不須挙力》 挙力は古訓において「なやむ(悩)」と訓まれるが、かなりの意訳である。辞書には「挙力」にこの意味はなく、漢籍にもそのような意味で用いた文章は見つからない。 後文に「可二易得一焉」〔容易いことである〕とあるから、「不レ須二挙力一」は文字通り「挙げて力を発揮する必要はない」であろう。 「悩む必要はない」としても文章は繋がるが、本来の文意とは異なる。現代人が平安時代の古訓による不適当な訓みに縛られる必要はない。 なお、『集解』は「不須挙刀」に作り、武力を要しない意とする。 《相接浮盈艫舳》 接-浮-盈と動詞が三つ続くことが読み取りを難しくする。「相接」と「艫舳」があり、その前に「自二難波津一至二于筑紫海裏一」があるから、 艫舳(船の先頭と船尾)が互いに触れるようにして海路に浮かせた船を満たすという意味であろう。 従って、「浮盈」が「艫舳」を連体修飾し、「相接」が「艫舳」を目的語に取るのが、文法的な構造となる。 初めに「方今不伐」〔まさに今伐たずんば〕と言い、今にも武力攻撃を開始するが如きであるが、実際には瀬戸内海航路に沿ってずらりと船を並べてプレッシャーをかけようとしただけである。 「伐新羅」は単に言葉の綾に過ぎなかった。 《着唐国服》 倭朝廷は、新羅による遣使の「着唐国服」を忌み嫌った。そこに、羅唐同盟の気配を感じ取ったのであろう。 そして、その危惧は百済滅亡〔660〕となって現実化する。 《大意》 〔白雉〕二年三月十四日、 丈六の繡仏などが完成しました。 十五日、 皇祖母尊(すめらみおやのみこと)は十師らに要請して設斎されました。 六月、 百済と新羅は遣使して貢調献物しました。 十二月晦、 味経宮(あじふのみや)で二千一百余の僧尼に要請して、一切経(いっさいきょう)を読経させました。 この日の夕べに、 二千七百余の灯明を朝庭内で燃やして、 安宅(あんたく)土側(どそく)などの経を読ませました。 こうして、 天皇(すめらみこと)は大郡(おおごおり)から新宮(にいみや)に遷り居しました。 その宮の名は、難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮と言います。 同じ年、 新羅の貢調使、知万(ちま)沙飧(さざん)一行が、 唐国の服を着用して、筑紫に停泊しました。 朝庭は恣(ほしいまま)に習俗を中国風に移したことをよく思わず、呵責して追い返しました。 その時、巨勢(こせ)の大臣(おおまえつきみ)は奏上しました。 ――「まさに今、新羅を伐たなければ、 後に必ず悔を残しましょう。 〔ただし〕その伐つ形は、必ずしも挙力〔=武力の行使〕とは限りません。 難波津から筑紫の海裏まで、 浮かべて満たした船の艫舳を接して、 新羅を召してその罪を問えば、 容易く成果を得られましょう。」 まとめ 白雉二年の仏教行事は、皇祖母尊(〈皇極〉)主導であったようである。ただ、〈皇極帝〉は即位前紀で「順考古道」と書かれる。 「燃二二千七百余灯一」は従来の仏教の習慣を超えた行事だと思われ、何らかの「古道」と結びついたものかも知れない。 ここで想起されるのが、松本清張の小説『火の道』〔1975〕で描かれた、飛鳥時代に伝来したゾロアスター教徒のことである。ゾロアスター教は火を尊び、炎に向かって拝礼する。 さらに、〈斉明朝〉〔皇祖母尊が重祚〕に作られたと思われる酒船石遺跡や亀形石造物などの宗教遺物に、水に関する何らかの信仰が見える(資料[54])。 ゾロアスター教では、水も神聖である。清張説の当否はともかくとしても、皇祖母尊が「順考」した「古道」には、火と水を神聖視するある種の宗教が含まれていたように思われる。 |
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2023.07.23(sun) [25-18] 孝徳天皇18 ▼▲ |
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37目次 【白雉三年】 《車駕幸大郡宮》
大郡宮については、大化四年《難波碕宮》項、 白雉元年正月《還宮》項において、 豊碕宮完成前に滞在した宮で、子代離宮あるいは蝦蟇行宮と同一の可能性もあると見た。 この年も大郡宮から豊碕宮に到着したのは大晦日で、元日礼が終えて早々に大郡宮に帰っている。 ただし、ここでは「大郡宮」に「還」ではなく、「幸」を使っているから、そろそろ難波豊碕宮が中心的な居所になったようである。 《自正月至是月》 正月条の文であるから、「自正月至是月」は理屈に合わない。 下文で改新詔の内容に触れるから、正月は「大化二年正月」かも知れないが、「大化二年」を略すのは考えにくい。 一方、四月是月条に「造戸籍」とある。戸籍が作られていなければ班田は不可能だから、 四月以後に書かれるべき文が、誤って正月条に紛れ込んだと見ることもできる。 《凡田長卅步爲段》 大化二年の「改新詔/三曰」では 「凡田長卅歩廣十二歩、為段。十段為町。段租稲二束二把、町租稲廿二束」であった。 ここでは段、町の寸法は同じだが、税が「段租稲一束半、町租稲十五束。」になっていることが注目される。 改元の目的には大赦があったと思われ、その背景に急進的な改革への反発があったと考えた。 班田への田税の軽減も、融和政策の一つと考えることができる。 《三月/還宮》 「還レ宮」の宮を、古訓はトツミヤと訓み、豊碕宮ではないと見ている。 しかし、上述したように豊碕宮をそろそろ基本的な居所にしたようなので、豊碕宮と見るべきであろう。 《沙門恵隠》 恵隠は、〈推古〉十一年九月〔603〕に学生として小野妹子に同行。 〈舒明〉十一年九月〔639〕に帰国、同十二年に無量寿経を説いた。 《無量寿経》 無量寿経は「上巻で阿弥陀仏の四十八願、浄土の荘厳、下巻で三輩往生(上・中・下品)などを説く」という(国史大事典〔吉川弘文館〕)。 この経典によって浄土思想が確立したとされる。 《沙門恵資》 恵資はここ以外には見えないが、「十師」(大化元年八月)の一人「恵至」と同一人物かも知れない。 《為作聴衆》 作聴衆という熟語は、漢籍には全く見えない。 しかし、為作については、 『漢書』景十三王伝「去憐之、為作歌曰「愁莫愁居無聊…」」など多数見える。 『漢書』谷永杜鄴伝「魯為作三軍、無以甚此」については、 諸侯国「魯」の昭公五年に「初作中軍」とあり、上下二軍制から中軍を加えて三軍としたと述べる。 よって、為作とは編成替え、あるいは単に「作」の意である。 したがって、ここでも「為二-作聴衆一」〔聴衆と為作 《雨水》 雨水には、古訓「ミゾレ」が付されている。 〈倭名類聚抄〉には「雹:雨氷也【和名安良礼】」、「霰:氷雪雑下也【和名美曽礼】」、「霙:雨雪相雑也【三曽礼】」が見える。 古語ではひょう・あられ〔現在の気象用語では直径で区別される〕を併せて雹(アラレ)という。雨雪が混合したものをミゾレ(霙)というのは、現代語とおなじである。 〈倭名類聚抄〉では霰〔現代語はあられを指す〕にも「ミゾレ」という訓が付されているが、これは誤りかも知れない。 〈時代別上代〉は、ミゾレを見出し語に立てないので、上代には確認されていないようである。 平安時代になると、『源氏』澪標に「雲みぞれ〔別版:雪霙〕かき亂れ荒るゝ日に」がある。 熟語「雨水」は、通常は暖冬または季節が春に進む過程で、雪が雨に変わる現象を表す。 十二節季の雨水〔グレゴリオ暦で2月21日前後〕も、もともとその意味であったと思われる。 白雉元年の四月丁未は、グレゴリオ暦では650年5月28日にあたる(hosi.orgによる)。 畿内でのみぞれは季節的に考えにくいし、雪が雨に変わる春先の時期の雨にもあてはまらないだろう。 下文では、家屋が洪水で大被害を受けた文があるから、ここでの雨水は「大雨+洪水」であろう。 古訓ミゾレは、ある写本が「雨氷」に読めたためではないだろうか。 《造戸籍》 ここの「造二戸籍一」自体は、下文の里、戸主、税制の制度解説の書き出しであろう。 戸籍の作成は大化元年〔645〕八月詔から始まり、庚午年籍〔670〕でひとまず完成に至る息の長い事業であった。 畿内で戸籍が一定程度出来上がった地域から、順次班田収授法の適用が始まったと思われる。 《凡五十戸為里》 「凡五十戸為里」は、改新詔其三曰のままである。 《戸主》 戸主の規定は養老令(おそらく大宝令も)に見える。
《造宮已訖》 白雉三年九月に、難波長柄豊碕宮が完成した。実際にその内裏に居住するようになったのは、この頃からと見られる。 これまでは、使用可能なエリアで正月礼などの行事に限って開催されたようである (大化四年《難波碕宮》)。 《大捨》 仏教用語「捨」は、感情の波を捨てることである。すなわち、個々の事象に一喜一憂せず論理的かつ冷静に対応する態度を意味する。だが、これでは設斎・燃灯と並べた宮廷行事としては、全く見えてこない。 むしろ「捨」をイメージしやすいのは、托鉢僧への喜捨(布施)である。ここでいう「大捨」は、檀越 なお、カキウツを仏教活動に用いた例はこの他には全く見えないから、書紀古訓に限定された言い方である。 《大意》 〔白雉〕三年正月一日。 元日の礼を終え、天皇の車駕は大郡(おほごおり)の宮に行かれました。 〔大化二年?〕正月からこの月に至り、班田を既に終わりました。 およそ田は長さ三十歩を一段として、 十段を一町としました 【段あたりの租は稲一束半、 町あたりの租は稲十五束】。 三月九日、 車駕は〔難波長柄豊碕〕宮に帰りました。 四月十五日、 沙門恵隠(えをん)に請い、 内裏にて無量寿経(むりょうじゅきょう)の講を開催されました。 沙門恵資(えし)を論議者として、 沙門一千を聴衆とされました。 二十日、 講を終了しました。 この日から始まり、連日の降雨、出水が九日間に及びました。 家屋は損壊し、田の苗は損なわれ、 人や牛馬に溺れ死ぬ者が多く出ました。 同じ月、 戸籍を造り、 すべて五十戸を里として、里毎に長一人を置く。 すべて戸主は皆家長を任命する。 すべて戸(へ)は皆五家で互いに助け合い、 一人を長として、互いに検察することとしました。 新羅・百済は、遣使して貢調献物しました。 九月、 宮の造営をすべて終わりました。 その宮殿の姿は、論じ尽くせません。 十二月晦、 天下の僧尼を請い、 内裏にて設斎、大捨、燃灯をなされました。 38目次 【白雉四年五月】 《發遣大唐大使小山上吉士長丹》
「発遣」については、タテマダスのタテに発をあてた可能性がある。 タテマダスは下位から上位に向けて使者を送る意味であるが、〈推古〉紀では大唐に対して尊敬表現を用いているから(十六年など)、 特に不自然なことではない。 《第一船/大使副使》
《一百二十一人倶乗一船》 第一船には121人、第二船には120人が乗った。白雉元年是歳条「於安芸国使レ造二百済舶二隻一」は、このために造らせたものか。 だとすれば、舶(つむ)はかなり大型の船舶を指す語となる。また、百済出身の船工は相当高度な建造技術をもたらしたのであろう。 なお、二つの船のそれぞれに大使・副使を置いたのは、一方の船が遭難して到着できない事態に備えたものであろう。 《第二船/大使副使》
口づからは、「自ら」、「手づから」に類する語。とても場面に合うが、上代にあったかどうかは不明。 ミヅカラは、身+属格の助詞ツ+体躯を意味するカラと解されている。 後に、ツ=自らの、カラ=助詞(from)と解されて手ヅカラ、口ヅカラの語が生まれたと考えられる。 《大意》 四年五月十二日、 大唐に大使小山上(しょうせんじょう)吉士(きし)の長丹(ながに) 副使小乙上(しょうおつのじょう)吉士の駒(こま)【別名は糸(いと)】を遣(つか)わして、 学問僧 道厳(どうごん)、 道通(どうつう)、 道光(どうこう)、 恵施(えせ)、 覚勝(かくしょう)、 弁正(べんしょう)、 恵照(えしょう)、 僧忍(そうにん)、 知聡(ちそう)、 道昭(どうしょう)、 定恵(じょうえ)【内大臣(うちのおほまへつきみ)の長子】、 安達(あんだつ)【中臣(なかとみ)の渠毎(こめ)の連(むらじ)の子】、 道観(どうかん)【春日の粟田の臣(おみ)百済(くたら)の子】、 学生 巨勢(こせ)の臣(おみ)薬(くすり)【豊足(とよたり)の臣の子】、 氷(ひ)の連(むらじ)老人(おいひと) 【真玉(またま)の子。 ある書には、 学問僧 知弁(ちべん)、 義徳(ぎとく)、 学生 坂合部(さかいべ)の連(むらじ)磐積(いわつみ)を 加える】、 併せて百二十一人を共に一船に乗せて、 室原(むろはら)の首(おびと)御田(みた)を送使としました。 また、大使大山下(だいせんげ)高田(たかた)の首(おびと)根麻呂(ねまろ)、 【別名は八掬脛(やつかはぎ)】 副使小乙上(しょうおつじょう)掃守(かもん)の連(むらじ)小麻呂(おまろ)を遣わし、 学問僧 道福(どうふく)、 義向(ぎきょう)、 併せて百二十人を共に一船に乗せて、 土師(はにし)の連(むらじ)八手(やつて)を送使としました。 同じ月、 天皇(すめらみこと)は旻(みん)法師の僧房に幸(いでま)してその病を見舞いなされました。 そして口づから恩勅なされました 【ある本は、五年七月のこととしていう。 僧旻法師は阿曇寺で病に臥せた。 そこで天皇(すめらみこと)は幸(いでま)して見舞われ、 法師の手を取っておっしゃった。 ――「もし、法師が今日亡くなれば、 朕も後を追って明日亡くなろう」】。 まとめ 遣唐使に同行して唐に渡った学問僧のうち、幾人かは〈続紀〉にも活躍が載る。恵施、弁正は僧正まで上り詰めている。 道昭は禅院の創設が業績として書かれる。道観が粟田真人と同一人物だとすれば、大宝律令撰定に加わり、遣唐使や大宰帥に任ぜられている。 全体として、仏教の教義以外に、律令国家や都造りなどについて学んだようである。 僧の名前はほとんど呉音で読まれるが、義 さて、設斎・大捨・燃灯はどう訓まれるべきか。平安時代は設斎=イモヒで、ヲガミは書紀古訓特有語と思われる。 大捨=カキウテは、おそらく行事の内容が不明のまま直訳された。燃灯=オホミアカシについては平安時代における行事の名称と思われる。 上代語としては、燃灯=トモシビヲヤク、設斎・大捨は音読みが妥当であろう。 |
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⇒ [25-19] 孝徳天皇(7) |