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2023.06.09(fri) [25-13] 孝徳天皇13 ▼▲ |
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24目次 【大化三年是歳(二)】 《制七色一十三階之冠》
〈内閣文庫本〉では左訓に「大小:ダイセウ」 「大錦冠:ダイキムクハム」「小錦冠:セウキムクワム」 とあるのみなので、訓読しきれなかったか、音読が常識であったかのどちらかである。 では、制定当時は音訓のどちらであろうか。 位階は、東アジア諸国で中国の制度に倣って定めれらたものだから、本来は音読みであろう。 また、「織冠有大小二階以織為之」という書き方を見ると「織冠」が「以レ織為之」なのは自明だから、 名称は音読、説明は訓読として書かれたのではないだろうか。 《以織為之》 「以織為之」については、〈北野本〉・〈内閣文庫本〉の古訓は「為 これまで出てきた法制は命令文で訓読されているので、この段は異例である。 頭に「其制曰」がつかず、「形似於蟬」などの形容語句は命令には似つかわしくないのは確かである。 《裁冠之縁》 〈時代別上代〉によれば、タツ(裁)にはすでに裁縫〔ハサミで断ち糸で縫う〕に拡張した用法がある。 古訓のように敢えて「タチイレタリ」〔断つ+折り返すか〕とする必要は特にないだろう。 《深紫》 「アサミドリ」の用例がある。これは形容詞の語幹による連体修飾の形で、同様に「フカムラサキ」もあったと思われる。 《伯仙錦》 「伯仙錦」を載せる辞書は今のところ見つからない。 「中国哲学書電子化計画」で検索してみたところ、わずかに『太平広記』に「翁伯仙去後」があったが、これは、陽翁伯という名前の人物が仙去〔仙人となってこの世を去る〕したという文であり、無関係である。 唯一『増訂 工芸志料』〔前田泰次;平凡社1976〕には 大伯仙、小伯仙、車形錦、薐形錦について 「当時織工の業大いに進歩す。雄略天皇業を始めてより是に至りて百八十三年を得たり。…支那 なお、西陣織に「伯仙錦」が見えるが、現代の製品名に用いたもののようである。 《縁与鈿異其高下》 「高下」は、地位の高低と読める。〈内閣文庫本〉の左訓「タカキ イヤシキ」については、 官位を賜る者に賤民はあり得ないから、イヤシキは不適切と思われる。〈北野本〉は「タカサ アシカ」で、アシカは「悪し」からの派生であろうが、アシサの誤写かも知れない。 『集解』は「タカサ アシカサ」としている。これは形容詞のカリ活用においてアシカを語幹として扱い名詞化する接尾語-サをつけたものと考えられるが、そのような言い方があるかどうかは疑問である。 どちらにしても、単に地位が低いから悪しとはならないだろう。 タカシの対はヒキシ〔後のヒクシ〕で、〈時代別上代〉によれば形容詞の形で確認できるのは平安になってからで、上代語としては「ヒキ-ヒト」など語幹が連体修飾した例を見出すのみだが、 形容詞ヒキシも上代から存在したのではないだろうか。語幹+「サ」のヒキサもあったと思われる。 《其冠之背張漆羅》 「其冠之背…」は建武冠の段の続きのように見えるが、続けて「建武之冠無レ鈿也」とあるので、冠一般について総括的に述べた段落の中である。 ここの「其」は段落の区切りを示す文字〔ソレと訓む〕であろう。 《斎》 斎を、書紀古訓はヲガミと訓む。斎について〈時代別上代〉は「従来イハフと訓まれてきた〔万葉の〕「斎」「鎮斎」「隠蔵」をイツクと訓む説が」あり、 「用例の限りでは重なり合う部分が多いようである」というようにイハヒ・イツキは挙げている。しかし、ヲガミは「斎」の書紀古訓にあることを紹介するのみである。 〈美達天皇記〉以後の斎は仏教行事を意味し、大極殿に一同が会して多くの僧侶が読経する形が想定される。 もともとの形は会食を伴う拝礼で、源氏物語-若菜下に「いもひ」が見える(〈推古十四年〉《設斎》項)。 続記では主に「設斎」と表す。延喜式では伊勢神宮の「斎王・斎宮」を除くと「斎会」(サイ-ヱ)が多い。 行事の名称を「ヲガミ」と呼ぶのは書紀古訓独特である。 これを除外すると、ヱ、イツキ、呉音のセ、漢音のサイなどが考えられるが、その何れであったかは判断し難い。 ただ、仏教用語だから音読みがよいかも知れない。 《金春秋》 金春秋は、後に即位して武烈王となる。大化三年前後のその動静を、『三国史記』に見る。
大化二年九月に、高向黒麻呂を新羅に派遣し黒麻呂は金春秋と連れだって帰朝したわけである。 倭の思惑としては、名目上の任那国からの朝貢を装うことを新羅に求めたと見た。しかし思惑通りにことは運ばず、それでも倭羅の関係改善には合意が成り、その証に質を送ることになったと見られる。 金春秋はのちに武烈王になるほどの大物であったが、私が自ら質になって赴こうと言って周囲を驚かせた光景が目に浮かぶ。 「善談咲」とあるので、春秋は大変友好的であった。 よって、明確な政治的な思惑をもって訪れたと思われる。翌大化四年には唐を訪れているから、ゆくゆくは羅唐同盟に倭も加えて百済包囲網の完成を狙ったと見られる。 帰国にあたっては、質の交代要員を送らせたのであろう。 《小山中中臣連押熊》 国博士高向黒麻呂は、7冠位十二階第二位の小徳のままである。 それに対して中臣連押熊の「小山中」は、大化五年の「小山上下」をも飛び越え〈天智〉三年の冠位二十六階のものである。これは遡及であろう。 《渟足柵》 渟足柵については、〈倭名類聚抄〉に{越後国・沼垂【奴太利】郡・沼垂【奴多利】郷}とある。
ところが、現在の阿賀野川の河口は「享保十六年〔1731〕に新発田藩によって開削されたもの」で 「信濃川に合流していたといわれる。ところが、信濃川河口にもかなりの変遷がみられ、古代における両河川の河道は、今のところ不明とせざるをえない」という(同)。 なお、阿賀野川は松ヶ崎浜村の中央を貫いているので、同村は阿賀野川の開削以前から存在していたと見られる。 信濃川の河口の位置は変化したとしても、当時の沼垂郡の境は海に近い部分では信濃川河口であり、その河流の東側に沼垂郷があったと考えられる。 当時の沼垂郡の境界は、近代よりもやや西にあったのであろう。 《柵戸》 柵戸の類と思われる「陵戸」は、五色の賤の一つとされる(資料[35])。 陵戸は良民と同じ広さの口分田※)を給りつつ陵の保守管理にあたった。 〔※)…『令義解』田令に「凡官戸奴婢口分田与良人同」とあり、また官戸奴婢と陵戸は同格に扱われている〕。 柵戸も同じように口分田を給わりつつ、柵の保守管理にあたったと思われる。なお、戦時には防衛の役割を担ったという説も見るが、今のことろ確認できる資料は見つからない。 柵戸の規定に関連して、『東北古代史の研究』〔吉川弘文館;1986〕に掲載の論文「柵」〔高橋崇〕には、 『令義解』軍防令の次の部分が紹介されていた(p.234)。 重要な手掛かりになりそうなので、原文を精読する。
しかし、「城隍」のような高度な技術を要する部分には軍に所属する専門の技術者を用いたようである。 別の理由としては、軍事機密に関わる部分には入れなかったことも考えられる。 城の周囲や、城柵の修繕に関わる単純労働であろう。 時に兵として動員されるという側面は考えにくい。兵力にするには一定の訓練が必要となり、農作業優先というから両立は難しいと考えられるからである。 基本はやはり農民による労役の提供であろう。 《大意》 〔大化三年〕同じ年に、 七色十三階の冠を制定しました。 ――「一つは織冠(しきかん)といい、大小二階がある。 織り物を用いて作れ。 刺繍を用いて冠の縁を裁縫し、服の色はともに深紫を用いよ。 二つは繡冠(しゆうかん)といい、大小二階がある。 刺繍を用いて作れ。 その冠の縁と服の色は、ともに織冠と同じとせよ。 三つは紫冠(しかん)といい、大小二階がある。 紫を用いて作れ。 織り物を用いて冠の縁を裁縫し、服の色は薄紫を用いよ。 四つは錦冠(きんかん)といい、大小二階がある。 そのうち大錦冠(だいきんかん)は、大伯仙(だいはくせん)の錦を用いて作り、 織り物を用いて冠の縁を裁縫せよ。 そのうち小錦冠(しょうきんかん)は、小伯仙(しょうはくせん)の錦を用いて作り、 大伯仙の錦を用いて冠の縁を裁縫せよ。 服の色は、ともに真緋色を用いよ。 五つは青冠(しょうかん)といい、青絹を用いて作れ。 大小二階があり、 その大青冠(だいしょうかん)は、 大伯仙(だいはくせん)の錦を用いて冠の縁を裁縫せよ。 その小青冠(しょうしょうかん)は、 小伯仙(しょうはくせん)の錦を用いて冠の縁を裁縫せよ。 服の色はともに紺を用いよ。 六つは黒冠(こくかん)といい、大小二階がある。 その大黒冠(だいこくかん)は、 車形の錦を用いて冠の縁を裁縫せよ。 その小黒冠(しょうこくかん)は、 菱形の錦を用いて冠の縁を裁断せよ。 服の色はともに緑を用いよ。 七つは建武(けんむ)という【初位である。別名は立身(りっしん)】。 黒絹(くろぎぬ)で作り、紺を用いて冠の縁を裁縫せよ。 別に鐙冠(つぼかん)があり、黒絹を用いて作れ。 以上、冠の背には漆の羅(うすきぬ)を張れ。 縁と鈿をもってその高低を区別し、 形は蝉に似せよ。 小錦冠以上の鈿(うず)は、金銀を雑えて作れ。 大小の青冠の鈿は、銀を用いて作れ。 大小の黒冠の鈿は、銅を用いて作れ。 建武の冠には、鈿をつけるな。」 この冠は、 大会(おほえ)、賓客の饗(あえ)、四月と七月の斎(いつき)の時に、着けるものです。 新羅は、上臣大阿飡(だいあそん)金春秋(こんしゅんじゅ)らを派遣し、 博士の小徳(しょうとく)高向(たかむこ)の黒麻呂(くろまろ)と 小山中(しょうせんちゅう)中臣連(なかとみのむらじ)押熊(おしくま)を送ら 参上して孔雀一羽、鸚鵡(おうむ)一羽を献上しました。 そして春秋を質としました。 春秋は姿も顏も麗しく、善(よし)みして談笑しました。 渟足(ぬたり)の柵(き)を造り、柵戸(きのへ)を置きました。 老人らは、相語らい、 「この数年、鼠が東に向って行ったのは、 柵(き)を造る兆であったか。」と言いました。 25目次 【大化四年】 《幸于難波碕宮》
「難波碕宮」は、難波豊碕宮から「豊」が脱落したようにも見えるが、もとの「碕宮」に美称として「豊」をつけたものであろう。 さて、(豊)碕宮には、年初行事のために一時的に滞在するのみだったことが伺える。
大化二年三月詔(《念斯違詔》段)の 「於農月不レ合レ使レ民。縁レ造二新宮一固不レ獲レ已」 〔農作業の月に民を使うことはルールに反するが、新宮を造るためにはやむを得ない〕 という言葉の中に、大極殿は建ったが周囲はまだ工事現場であるような風景が見える。 《左右大臣猶著古冠》 左右大臣猶著二古冠一、すなわち両大臣とも旧制の冠を着用して現れた。天皇と距離を取り始めていることが伺われる。 冠位の改定は上からの官僚の組織化の一歩前進を意味し、そこに氏族は従来の特権的立場が失われていく方向性を見て取っているのであろう。 《四天王寺》 用明二年七月〔587〕に、物部守屋が滅ぼされた。 そして「平乱之後於摂津国造二四天王寺一」、すなわち四天王寺が建立され、守屋が所有していた奴の半数と宅〔別業〕が接収されて四天王の所有となった (【四天王寺寺領帳】)。 ところが四天王寺の建立については〈推古元年是年〉条〔593〕に「始造二四天王寺於難波荒陵一」とあり、 この推古元年も実際にはより後の時期から遡らせたものだろうと言われる。 すると、守屋の所有していた別業が四天王寺に接収されたという記録が浮いてしまう。 ひとまず、守屋が滅ぼされたとき、その別業は厩戸皇子の所有となり、四天王寺を建立したときにその荘園にしたと考えておくことにする。 太子と四天王寺は一体と考えてよいと思われるからである。 ここでは「迎二仏像四躯一」とあるから、実は四天王寺の名前がついたのはこの時が初めてだったようにも思えるが、それを窺わせる別名は見えない。 よって、「四躯」にしたのは四天王寺の名前に因んだもので、 四天王像は既に金堂に四体安置されていただろうから、新たに塔内に四体を納めたのかも知れない。塔内だから小ぶりであろう。 岩波文庫は、『太子伝古今目録抄』所引『大同縁起』の記述を引き、「塔は五重塔、四仏像は小四天王四口、霊鷲山は天宮一具にあたろう」という。 その原文を見る。
《霊鷲山》 「りょうじゅ-せん:古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にあった山。釈尊が『法華経』や『無量寿経』などを説いた所として著名。」、 「霊鷲は梵 Gṛdhrakūṭaの訳。禿鷲の頭の意」という(『例文仏教語大辞典』小学館1997)。 《累積鼓》 「累二-積鼓一」とは、鼓を鳴らして賑やかに像を運び入れたという意味であろうか。 鼓の胴を積んで像を作ったという説を見るが、それはあり得ないだろう。 《磐舟柵》 磐舟柵跡については、大化元年九月条の《越辺蝦夷》の項で見た。 越後国磐船郡にあったと思われるが、具体的な位置は不明である。 《大意》 〔大化〕四年元日、 賀正の礼を行いました。 夕方に、 天皇(すめらみこと)は難波の碕宮(さきのみや)に到着されました。 二月一日、 三韓に学問僧を派遣しました。 八日、 阿倍(あべ)の大臣(おおまえつきみ)は、 四族の衆に要請して四天王寺に仏像四体を迎え、 塔内に安置させました。 霊鷲山(りょうじゅせん)の像を造り、鼓をかさねてこれらを行いました。 四月一日、 旧制の冠を廃止しましたが、 左右の大臣(おおまえつきみ)は、依然として旧制の冠を着用しました。 この年、 新羅は使者をを遣わして貢調しました。 磐舟柵(いわふねのき)を整備し、蝦夷(えみし)に備えました。 遂に越と信濃から民を選び、 始めて柵戸(きのへ)を置きました。 26目次 【大化五年正月~二月】 《制冠十九階》
大化三年の七色十三階のうち、大錦~小黒がそれぞれ二段階に細分化され、冠十九階になる。
省の古訓「スフルツカサ」は、「統(す)ぶる司」であろう。 『令義解』では、八省は中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省をいう(資料[24])。 《大意》 五年元日、 賀正の礼を行いました。 二月、 冠十九階の制を定めました。 一曰く大織(だいしき)、 二曰く小織(しょうしき)、 三曰く大繡(だいしゅ)、 四曰く小繡(しょうしゅ)、 五曰く大紫(だいし)、 六曰く小紫(しょうし)、 七曰く大花上(だいかじょう)、 八曰く大花下(だいかげ)、 九曰く小花上(しょうかじょう)、 十曰く小花下(しょうかげ)、 十一曰く大山上(だいせんじょう)、 十二曰く大山下(だいせんげ)、 十三曰く小山上(しょうせんじょう)、 十四曰く小山下(しょうせんげ)、 十五曰く大乙上(だいおつじょう)、 十六曰く大乙下(だいおつげ)、 十七曰く小乙上(しょうおつじょう)、 十八曰く小乙下(しょうおつげ)、 十九曰く立身(りっしん)といいます。 同じ月、 博士(はかせ)高向(たかむこ)の玄理(げんり)と釈僧旻(しゃくそうみん)に詔され、 八省百官を置きました。 まとめ 磐船柵、渟足柵の「柵」は書紀古訓においてキと訓まれ、城と区別しなかったようである。 ただ、実際には万里の長城には及ばないが、本来の意味による長いサクを設けたように思われる。 というのは、軍防令に周辺の郡から人を集めて住まわせ、農作業の「閑」を見て城堡の修理にあたれと書かれるからである。 城隍〔地下坑〕の修理は兵士が行うというのは、中央の城(き)の部分の修理は専門の工人が担ったと読める。 それでは手に余るほど長大な設備であるから、多数の農民を動員したと解釈できる。 だから、柵戸はその柵全体を修繕するために置かれたものと考えたい。 だとすれば、地形からその柵の設置ラインを想定し、そのうちやり易い位置で発掘してみれば遺跡が見つかるかも知れない。 蝦夷に対してはしばしば接待する記事が載るが、友好関係、敵対関係のどちらにも一面化すべきではないだろう。 時には懐柔し、時には和議を結び、時には内部対立を誘い、時には正面攻撃が通常であることは、戦国時代を見ればわかる。 よって、「柵」は本気で蝦夷による攻撃を食い止めるために作った長い柵であると見るべきであろう。 |
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2023.06.19(mon) [25-14] 孝徳天皇14 ▼▲ |
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27目次 【大化五年三月十七~二十四日】 《蘇我臣日向譖倉山田大臣》
古訓は、「哀哭」を「ネマツル」と訓み、〈皇極四年六月〉《哭泣》 項で見たのと同じく、 ここでも下二段動詞「泣(ぬ)」の存在が伺われる 〔または哭。哭は大声を上げて泣く。泣は静かに泣く〕。 その前の「挙哀」は〈汉典〉によれば葬儀において高らかに泣く意であるが、古訓は「カナシム 古訓がナクを避けたのは、天皇が人前で高らかに泣き声を挙げるのは平安時代の文化にそぐわないからであろう。 ここで留意すべきは、〈皇極四年六月〉「許二哭泣一」である。 そこでは、ひとまず「泣き女 ここでは、朱雀門というオープンな場所における葬礼であり、まず天皇が哭泣し、周囲がそれに随って哭泣するという儀式を描写している。 それが飛鳥時代の習慣だったのである。したがって、天皇がナキタマフと訓読することを避ける理由はない。 《蘇我臣日向字身刺》 蘇我日向臣の登場は、〈皇極〉三年正月まで遡る。 そこでは蘇我倉山田麻呂が長女を中大兄〔後の天智天皇〕に嫁がせる直前に、「族」〔=親族〕によって横取りされた。 その「族」は身狭臣〔=身刺臣〕であると、原注は述べている。 《大伴狛連/三国麻呂公/穂積噛臣》 大伴氏は、本貫築坂邑(〈宣化〉四年【桃花鳥坂】)。 大伴室屋、大伴金村は大連を拝した。大連金村は〈欽明〉元年に対新羅政策の失敗で隠退したが、大伴連は大族として後世まで続く。 狛の登場はこの場面のみ。 三国公は、越前国坂井郡三国から起こった(第159回)。 穂積臣は、内色許男命の子孫(第108回)。 《茅渟道》
「茅渟道」と名付けられた道はここ以外にはなかなか見えない。 通常ならチヌヂであろうと思われるが、書紀古訓が「チヌノミチ」とするのを見ると固有の名称はなかったようである。 それはともかくとして、茅渟道は〈延喜式-兵部省〉に出てくる日部駅、呼於駅を通る街道であろう。 〈富田林市史〉は茅渟道は「太子町春日」の丹比道から分岐すると見て、「堺市関茶谷」のところで「難波京からまっすぐ南下してくる道」と交わるという。 なお、その「道」とは、難波大道のことである(第163回《大道》項)。 しかし、「茅渟道」は実際には関茶谷を起点として南西に向かう道で、関茶谷~春日の区間はたまたま倉山田大臣が通った名もない道ではなかったかと思われる。 通常明日香京に向かう道は丹比道であるが、この道には既に倉山田大臣を捕えるための兵が配置されていることを警戒し、難波大道を関茶谷まで南下して、東に向かったと考えられる。 それを、「自二茅渟道一逃二-向於倭国境一」と書いたのであろう。 《今来》 新漢〔新しい時代(〈雄略〉)にやってきた半島からの渡来人〕の居住地が飛鳥寺~檜前辺りで「今来」と呼ばれ、 また「今来郡」は高市郡の旧名であろうと考えた(〈欽明〉七年《今来郡》項)。 〈推古〉十六年に、唐に送った学生の中には新漢人がいて、飛鳥寺を中心とする地域に、仏教振興の担い手として新漢人が活躍したと見た。 新漢人が伝統的に漢字による文化を引き継いでいたことが、学生として派遣される上で好都合であったと考えられる。 《大槻》 「大槻」は、法興寺〔飛鳥寺〕の大きな槻の木に由来すると見られる。 〈皇極三年正月〉には「偶 これらには「樹之下」とあるが、ここにはそれがない。よって、この樹木自体ではなく、周辺の地名という見方ができる。 《興志》 興志の伝統訓は「コゝシ」であるが、本来の訓みはコシ、もしくはオコシであろう。 しかし、コゴシという発音が、平安時代まで蘇我氏族の中で伝わっていた可能性もある。 だとすれば、書紀の最初の原稿では「興々志」であったものが、筆写が繰り返されたあいだに「々」が失われたことはないだろうか。 《近就前行入寺》 「就前行入寺」に、就・行・入という三つの動詞が密集していることが悩ましい。 ここは「就/前行/入寺」と区切り、就:父と興志が出会う、前行:さきにゆくと読むのが妥当か。 「前行」には、「興志が前に立って案内する」、「先に行って父を迎える準備をする」の二つの意味が考えられる。 次の文の「顧」はカヘリミテ〔=振り返って〕と見られるから、前者が妥当か。 興志が大臣の前に立って引き連れていくところに、急ぐ様子が見て取れる。 なお、「近」を副詞として「就」を連用修飾することも可能だが、「就」に「近」は自明だから「今来大槻の近く」と読むのが妥当であろう。 《寺》 「営造其寺」の「寺」は、明らかに山田寺である(別項)。原注「山田之家」を見ると、 蘇我倉山田臣が氏寺として山田の地に営造したのであろう。なお、公的な名称は浄土寺である。 「山田寺」の山田は地名であり、また蘇我倉山田氏に因むとも言える。 《小墾田宮》 「欲焼宮」の宮としては板葺宮が思い浮かぶが、原注者は、さすがにまだ存命だった皇祖尊(皇極)の宮を焼くことはないと見たのであろう。 その小墾田宮は、重要な政府施設としてこの後も長く維持される(第249回)。 興志は包囲軍の拠点を予め焼き払おうとしたか、あるいは反乱軍の気勢を上げるためかも知れない・ 《大意》 〔大化五年〕三月十七日、 阿倍(あべ)の大臣(おおまえつきみ)が薨去しました。 天皇(すめらみこと)は朱雀門に行き、大きく哀泣されました。 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と皇太子(ひつぎのみこ)を始め、諸公卿まで、 悉く天皇に随って哀泣しました。 二十四日、 蘇我の臣日向(ひむか)【日向の字(あざな)は身刺(むさし)】 倉山田(くらやまだ)の大臣を謗(そし)り、皇太子(ひつぎのみこ)に、 「私の異母兄の麻呂(まろ)は、 皇太子が海浜にあそばすのを窺い、殺害しようとしています。 背こうとするのも、遠くありません」と申し上げ、 皇太子はこれを信じました。 天皇は、 大伴の狛(こま)の連(むらじ)、 三国の麻呂(まろ)の公(きみ)、 穂積の噛(くらふ)の臣(おみ)を 蘇我の倉山田麻呂の大臣の許に遣し、 反逆の虚実について質問させました。 大臣は、 「ご質問への御回答は、私が対面して天皇の御前で述べましょう」とお答えしました。 天皇は、 再度三国の麻呂の公 穂積の噛の臣を遣わして、 その反逆のさまを詳らかにされようとしましたが、 麻呂の大臣は再び前と同じようにお答えしました。 天皇は、そこで軍を興して大臣宅を囲ませようとしていました。 大臣は二人の子、法師(ほうし) と赤猪(あかい)【別名は秦(はた)】を引き連れて、 茅渟道(ちぬじ)経由で倭国〔=大和国〕の国境(くにざかい)に向って逃げました。 大臣の長子興志(こごし)は、 これに先立って倭国にいて【山田の家にいたという】、 その寺を造営していました。 今、突然父が逃げて来たことを聞き、 今来(いまき)の大槻の近くで出迎えて合流し、先導して寺に入いりました。 振り向いて大臣に語り、 「興志、願わくば自ら直進して来る軍を防ぎたいです」と言いましたが、 大臣は許そうとしませんでした。 この日の夜、 興志は内心宮を焼くことを欲し、なお士卒を集めました 【「宮」は小墾田宮をいう】。 28目次 【大化五年三月二十五日】 《蘇我倉山田麻呂大臣自經而死》
「来」に付された古訓「キツル」は、来の連用形+完了の助動詞ツの連体形である。これは、「来レ寺」を「所以」への後置の連体修飾句と判断したことを意味する。 『仮名日本紀』も、その趣旨に沿って「まうでつるゆゑ」とする〔マウヅはクの謙譲語〕。 「所以」〔名詞としては理由、原因〕への連帯修飾語を後置する形としては、 「夫仁義辯智、非所以持國也」〔それ、仁義弁智は国を持つ所以に非ず〕(韓非子;戦国)の例がある。 次の「易」は、ここでは「安し」の意味で、それを動詞化したと見るのが自然である。ただ、それを明瞭化するためには「使易終時」の前に繫辞「是」、あるいは文末に語気詞「也」、「矣」などが欲しいところである。 《生々世々》 記紀の書法では「生々世々」は「生世生世」の略である。『仮名日本紀』は「我生々世々 《君王》 君王はキムダチと読めるが、書紀古訓では広く王族を表す〔つまり、王はミコである〕。平安以後、キンダチは貴族の息子を意味するようになる。 ここでは代々の天皇を指すから、合わない。しかし、ここでは代々の帝の意味でキムダチを用いることも可能かも知れない。 文脈で判断できるからである。あるいは、音韻変化する前のキミタチも考えられる。 《土師連身》 土師連は、伝説の時代から葬礼を掌る氏族としてしばしば登場した。人物には、土部連菟(〈推古十八年〉)などが見える。 身の登場はここだけである。身の伝統訓はムであるが、一音節では名前らしくないことが気にかかる。 やはり一音節の「紀」〔国名〕は、母音を引き伸ばして紀伊と呼び習わさているから、身も身伊だと考えてみたらどうであろうか。 《采女臣使主麻呂》 采女臣については、〈舒明〉即位前3に「采女臣摩礼志」の名がある。 采女臣は采女を差配する職名を起源とするほか、二次的に地名によって生じた氏族名もある。使主麻呂の登場はここだけである。 《丹比坂》 丹比坂は、丹比道〔竹内街道〕の、竹内峠越えの坂であろう。 丹比の訓みはタヂヒで、好字による二文字化である。 多遅比瑞歯別天皇(〈反正〉)の多遅比でもあり、〈倭名類聚抄〉には「丹比【太知比】郡」とある。 《大意》 二十五日、 大臣(おおまえつきみ)は、長子興志(こごし)に 「お前は身を惜しむか」と語りかけ、 興志は 「惜しみません」と答えました。 大臣は、 よって山田寺の衆僧、及び 長子興志と数十人に説きました。 ――「人の臣となったなら、 主君に反逆を構えることがあろうか、また父への孝を失うことがあろうか。 この伽藍は元より自身の故に造ったものではなく、 天皇(すめらみこと)の御為にと誓い作ったものである。 今、我は身刺(むさし)に讒言(ざんげん)され、邪(よこしま)に殺されることを恐れる。 聊(いささか)に望むらくは、黄泉になお忠を心に懐いて退くことである。 寺に来た所以(ゆえん)は、終わりの時を安らかにするためである。」 このように言い終え、仏殿の戸を開き、 天を仰いで誓いを発し、 「願はくば、我が生まれる世生まれる世に〔=何度生まれ変わっても〕君王を怨むことはございません。」 と誓い終えて、自経して死にました。 妻子の殉死は八人でした。 是(この)日。 大伴の狛(こま)の連(むらじ)と蘇我の日向(ひむか)の臣を、 将として人数を率いて、大臣を追わせ、 将軍大伴の連らは黒山に到着しました。 土師(はにし)の連身(む)、 采女(うねめ)の臣使主麻呂(おみまろ)が、 山田寺から馳せ来て、 「蘇我大臣は、 既に三男一女と共に自経して死にました」と報告しました。 これにより、将軍らは丹比(たじひ)の坂から帰りました。 【山田寺】 山田寺については、『上宮聖法王帝説』裏書に次の文がある。
〈天武十四年〉に「八月甲戌朔乙酉。天皇幸二于浄土寺一」とある。 大化五年三月己巳〔二十五日〕に「山田寺衆僧」がいて、「仏殿」の戸を開けて自経するとあるので、 〈裏書〉に書かれた癸卯年から己酉年の出来事は、書紀の記述ときれいに整合している。 したがって、この部分は書紀を基にして書かれたことを伺わせるが、一方で〈裏書〉は天武十四年だからそれから間もない時期に書かれた記録かも知れない。 もし〈裏書〉全体が書紀に先行したものなら、かなり正確な記録が存在して両者ともにそれを参照したことになる。
〈奈文研〉も、〈家永〉の見解を肯定的に紹介している(p.5)。同書が「金堂は7世紀中頃の創建である」とする根拠は、これを用いているようである。 塔心礎については、資料[51]【山田寺】項で見た。 〈奈文研2002〉は、塔心礎について 「四天柱礎石上面から約1.3m下で心礎を発見。舎利孔の内側に朱が残る。朱のあり方から蓋はあった(厚さ3cm)と推定。 遺物は完全に盗掘されており、金箔のついた塼仏※のみ出土」と報告する(p.50/調査日誌1976.8.24)。※塼仏(せんぶつ)…粘土板に型を取り焼いた仏像。 〈裏書〉が、塔の建造時期を〈天智二年〉「構塔」、〈天武二年〉「建塔心柱」とすることについて〈奈文研〉は、その頃であることの物質的な裏付けを「大垣」の建材の年輪による年代測定から得ている。 そこでは、東西の溝に「橋脚」がかかるが、その加工跡は「橋脚としては不要」(p.420)なので、大垣から転用されたものと考えられ「年輪年代測定を行った」結果「材種はコウヤマキで、AD665年にきわめて近い伐採年を得た。これは天智朝の造寺活動を示す」(p.421)と述べる。 まとめ 阿倍左大臣の薨去によって、左右大臣が互いにけん制する体制が崩れた。 その結果、蘇我倉山田臣への実権の集中が懸念されるのは当然の成り行きである。 〈孝徳〉と中大兄の改新詔による改革は急進的で、諸氏の反発は大きかったであろう。 蘇我蝦夷入鹿を失った今、倉山田臣が反改新勢力の要になっていくだろう。これは、本人の意思に関わらず必然である。 よって、興志が主戦論が唱えた背景には、それなりに幅広い支持勢力の存在があったと見るべきであろう。 さて、まだ包囲もされていないのに自死を選ぶのは不可解である。あまりにもタイミングが早い。 その謎解きとして、例えば中大兄の律令国家志向を倉山田臣も共有していたとする。自分がいる限り、その反対勢力の神輿として祭り上げられて勢いを助長してしまう。 これはとても不本意なので、火消しするには自分の存在を消すしかない。誓いの言葉「願我生々世々不怨君王」は確かにそれを伺わせる。 ただ、この論理はやはり解りにくい。そう思うのなら、彼らを律令国家作りに協力するように説得することはできなかったのだろうか。 あるいは、書紀は何らかの思惑によって、倉山田臣を美化して描いたことも考えられる。その美化は次段にも続く。 その思惑が何であったかは、もう少し読み進めてから考えてみたい。 |
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2023.06.26(mon) [25-15] 孝徳天皇15 ▼▲ |
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29目次 【大化五年三月二十六~三十日】 《坐蘇我山田大臣而被戮者凡十四人》
木臣は武内宿祢系の大族である(第109回)。 書紀ではこの箇所以外は、すべて「紀臣」と表記される。 蘇我臣日向は、讒言によって倉山田大臣を陥れた。ここでも大臣が自死したにも拘わらず山田寺に攻め入るから、反大臣派の急先鋒であろう。 穂積臣噛は前日に、問責使として倉山田大臣の許に派遣された。 《物部二田造塩》 『新撰姓氏録』に〖二田物部/神饒速日天降之時従者。二田天物部之後也〗とあり、饒速日の天降りに随伴する。 古事記によれば高皇産霊尊は、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命〔以下忍穗耳命〕に天降りを命じたが、天忍穗耳は、たった今生まれた子、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命〔以下邇邇芸命〕があり、 この子を降す応 この話が『天神本紀』には変形されて、忍穗耳命が邇邇芸命ではなく、火明櫛玉饒速日尊を降す可 そのとき随伴した神々のリストの中に、二田造と二田物部が含まれる。 ●「五部造為伴領率天物部天下供奉:二田 ●「天物部等二十五部人。同帯兵仗天降供奉:二田 なお、『天神本紀』は、書紀と辻褄を合わせるために次のように処理している。
《喚物部二田造》 二田塩は倉山田臣の首を切り落とせと命じられたが、その前に遺体に太刀を突き立てて放り投げ、雄たけびを上げるという蛮行を行った。 そこに見えるのは、対立する氏族間の深い憎しみである。倉山田臣自身は改新詔推進派であったと見られるが、 否応なしに反朝廷勢力の神輿に祭り上げられようとしていた。蘇我臣日向など朝廷支持派も、倉山田臣を反朝廷派の頭目に位置づけていたわけである。 その点では、敵味方の認識は一致している。背景には、改新詔が急進的に推進されたことが歪みを生み、諸族にかなりの反発を生んでいたことが伺われる。 蘇我倉山田臣は、返す返すも損な役回りを背負わされたものである。 《使斬大臣之頭》 「頭」は、書紀古訓ではカウヘと訓まれる。 カフヘは書紀古訓のみの語だが、同義語のカシラは万葉にある。(万)4346「知〃波〃我 可之良加伎奈弖 ちちははが かしらかきなで」。 《始斬之》 二田塩は、上記の余分なことをやってから、斬首した。だから「始斬之」と書くのである。 古訓の「イマシ」は、「今にしてやっと」の意である。 《坐蘇我山田大臣》 「坐…」は、変から四日後のことだから、その間に裁判が行われて決まった処罰である。動詞坐は、「連座」の意である。 「被戮十四人」、「被絞九人」とあるから死刑には流血刑と絞首刑があり、先にk書かれた流血刑の方が重罰であろう。 その方法は斬首刑や磔刑が想定されるが、倉山田大臣の死体を斬首したのを見ると、斬首刑であろう。 《田口臣筑紫/耳梨道徳/高田醜雄》 蘇我田口臣は、高市郡田口村から起こったとされる (大化元年九月《蘇我田口臣川端》項)。 耳梨は、〈姓氏家系大辞典〉によれば「耳梨 ミミナシ:…有名なる耳成山あり。…蓋し此の地の豪族たりしならん」。 高田は、〈姓氏家系大辞典〉によれば「無尸の高田氏:…高田醜雄なる者出づ。有力なる氏たりしが如し。蓋しカバネを省きしならん」。 《額田部湯坐連》 「額田部湯坐連」の湯坐は皇子の養育にあたる部と伝わり、皇子代の一種である (第120回《大湯坐・若湯坐》項)。 額田部は、奈良県大和郡山市額田が本貫と見られ、一族は東山道方面に展開した(〈神功皇后〉四十七年《額田部》項)。 《湯坐》 ここの湯坐の古訓はユマスである。 〈神代下〉での古訓は湯坐 その訓みについては、〈雄略三年〉の訓注に「湯人。此云臾衞 《秦吾寺》 秦氏は、第152回【秦氏】項。 〈推古帝〉のときには秦造河勝が広隆寺を建立するなどして、仏教振興の一翼を担う(資料[45])。 《大意》 〔大化五年三月〕二十六日、 山田大臣(おおまえつきみ)の妻子及び随伴者に、 自ら首を括って死んだ者が多くありました。 穂積臣(ほずみのおみ)噛(くらう)は、 大臣の徒党の田口の臣筑紫(つくし)らを捕え集めて、 枷(かせ)をはめて後ろ手に縛りました。 この日の夕方、 木臣(きのおみ)麻呂(まろ)、 蘇我臣(そがのおみ)日向(ひむか)、 穂積臣(ほずみのおみ)噛(くらう)は 軍を動員して寺を囲み、 物部の二田(ふただ)の造(みやつこ)塩(しお)を召して、 大臣の首を斬らせました。 すると、 二田の塩は 太刀を抜き〔胴体の〕肉を刺し通して持ち上げ、 雄叫びを上げてから、はじめて斬りました〔=首を切断しました〕。 三十日、 蘇我の山田の大臣に連座して殺された者は、 田口臣(たぐちのおみ)筑紫(つくし)、 耳梨(みみなし)の道徳(どうとこ)、 高田の醜雄(しこお)、 額田部(ぬかたべ)の湯坐連(ゆえのむらじ)【名を欠く】、 秦の吾寺(あでら)など 全部で十四人でした。 絞首刑は九人、 流刑は十五人でした。 30目次 【大化五年三月是月】 《皇太子始知蘇我倉山田大臣心猶貞淨》
〈倭名類聚抄〉に「長官:…大宰府曰帥…【已上皆加美】」。 四官の表記は省庁の種類によって異なるが、「長官」にあたる職はすべてカミと呼ばれる (資料[11]、 〈欽明〉二十三年七月《副将 》項)。 《蘇我造媛》 蘇我造媛は〈皇極〉三年正月の「少女」と考えられ、 天智天皇紀の遠智 〈天智紀〉七年条には、遠智娘は「生二一男二女一」〔一女は持統天皇〕とあるから、〈皇極〉三年〔644〕から大化五年〔649〕の間に三子を生んだことになる。 一応は可能であろうが、造媛の「徂逝」は実際には後年のことで、 「父が討たれたことを気に病んで云々」は俗説のようにも思える。 《改曰堅塩》 堅塩という名については、〈欽明〉妃に「堅塩媛【此云岐拕志】」がある(〈欽明〉二年)。 古事記での表記も「岐多斯比売」(第239回)だから、キタシを堅塩と表記することがあったのは確実である。 堅塩はカタシホとも訓むが、ここではシホを嫌ったという文脈だから、ここもキタシで間違いないだろう。 《野中川原史》 〈姓氏家系大辞典〉には「河原史:河内国河原蔵人を司りし史、魏人裔也」、 「野中河原史:河原史に同じ。野中は和名抄に丹比郡野中郷とある地にて河原に近し」とある。 〈倭名類聚抄〉に{河内国・丹比郡・野中【乃奈加】郷}、 〈姓氏録〉に〖河内国/諸蕃/漢/河原蔵人/上村主同祖/陳思王植之後也〗がある。 陳思王〔192~232〕は曹植のことで、三国魏の人。唐以前の最大の詩人としてその評価は高い (岩波世界人名大辞典〔2013〕)。 《歌意》
書紀歌謡の多くは既存の歌を組み込んで物語として彩るものである。 しかしこの段の歌謡に関しては既に書紀編纂の時代に近く、詠み手の名が具体的に挙げられているので、 史実に近いのかも知れない。
裹の書紀古訓は「カマス」である。 かます〔叺〕は、藁莚(わらむしろ)を二つ折りにして両端を細い縄で縫って袋にしたもの。 書紀古訓に使われるから、平安時代にはあった語だと見られるが〈倭名類聚抄〉には漏れている。 上代語の範囲で考えるなら、ツツミの方が確実である。 《大意》 同じ月、 使者を遣して山田の大臣の財宝を回収させました。 財宝のうち、 好書の上に皇太子(ひつぎのみこ)の書と題し、 重宝の上に皇太子の物と題したものがありました。 使者が回収したもの様を復命して、 皇太子は始めて大臣(おおまえつきみ)の心がなお貞節で清浄であったことを知りました。 後悔して恥じが生まれ、哀しみ嘆いて心は休まりませんでした。 そして日向臣(ひむかのおみ)を筑紫(つくし)の大宰(おおみこともち)の帥(かみ)に任じました。 世の人はこれを語らい 「これは隠された流刑だ」といいました。 皇太子の妃、蘇我の造媛(みやつこひめ)は、 父大臣が塩のために斬られたと聞き、 心を傷めひどく恨み、塩(しお)の名を聞くこともいやがりました。 ゆえに、造媛に近侍する者は、 塩の名で呼ぶことをやめ、改めて堅塩(きたし)と呼びました。 造媛は、遂に心の傷によって死に至りました。 皇太子は造媛が逝去したと聞かれ、 愴然と心を痛め、甚だしく哀泣を極めました。 すると、野中(のなか)の川原(かわら)の史(ふみひと)満(みつ)は、 御前に進み、歌を奉(たてまつ)りました。 その歌に曰く。 ――山河に 鴛鴦(をし)二隻(つ)居て 類(たぐ)ひ吉く 類へる妹(いも)を 誰か居にけむ 【その一】 ――本毎に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)し妹が また咲きて来ぬ 【その二】 皇太子は慨然と詠嘆して、 褒めて「善きかな、悲しきかな」と仰り、 御琴を授けて唱わせ、 絹四疋、布二十端、綿二褁(かます)を賜わりました。 31目次 【大化五年四月~是歳】 《小紫巨勢德陀古臣爲左大臣》
「乙卯朔甲午」は四十日というあり得ない日付になる。また、元嘉暦モデルによれば、大化五年四月は乙亥朔である (関連資料[Ⅰ])。 乙亥朔甲午なら二十日となり、問題はない。よって、ごく初期の写本において"亥"が"卯"に読み誤られたことになる。 『集解』は「乙亥」に改め、「亥原作レ卯拠二長暦※一改」とする。 ※長暦…渋川春海 〔1649~1715〕の『日本長暦』。 《巨勢徳陀古臣》 巨勢徳陀古臣は、『公卿補任』に「雄柄宿祢七世孫。父胡孫子也」(国史大系9/経済雑誌社1898)。 雄柄宿祢は、記〈孝元〉段の「許勢小柄宿祢」と見られる(第108回)。 《大伴長徳連》 大伴長徳連は、『公卿補任』に「字馬養。或鳥養。金村大臣 大伴長徳連は久しぶりに大臣の地位を得た。 ただある一族が突出することを防ぐために、諸氏をバランスよく登用するうちのひとつかと思われる。 蘇我氏に対しては、倉山田臣と日向臣の対立を煽ることにより、蘇我氏全体の勢力を削ぐことに成功したと見てよいだろう。 その後も蘇我蓮子大臣がいるがあまり活動は見えず、蘇我赤兄左大臣はその上に太政大臣が置かれて、権限は大きくなかったように見える。 《掃部連角麻呂》 掃部連については別項を立てる。 《沙㖨部》 沙㖨部は新羅の首都地域の区分の一。分立した政治勢力でもあったが、6世紀初めごろ統一王朝が成った。 また、沙飡は官位十七等のうち第八位にあたる (〈推古〉十八年)。 《為質》 大化三年に金春秋を質とした。その翌年には唐に使者として遣わされていることから、 それまでに帰国して質を交代したと見た。 そのため、大化五年に改めて質となったのが金多遂ではないかと思われる。 位階は、金春秋の大阿飡〔第五位〕に対して、金多遂は沙飡〔第八位〕で、格下である。 今回随行者には僧一人、工人十人が含まれ、文化や技術の交流も図ったようである。 この時期百済との関係は冷却化しており、新羅はその隙を衝いて倭との関係深化の誘いが活発である。 《大意》 四月二十日〕、 小紫(しょうし)巨勢(こせ)の徳陀古(とくだこ)の臣(おみ)に 大紫(だいし)を授けて左大臣(ひだりのおおまえつきみ)となされました。 小紫大伴の長徳(ながとこ)の連(むらじ)【字(あざな)は馬飼(うまかい)】に 大紫を授けて右大臣となされました。 五月一日、 小花下(しょうかげ)三輪君(みわのきみ)色夫(しこぶ)、 大山上(だいせんじょう)掃部(かにもり)の連(むらじ)角麻呂(すみまろ)らを 新羅に遣わしました。 同じ年、 新羅王は、 沙㖨部(さたくほう)沙飧(ささん)金多遂(こむたずい)を遣して質としました。 従者は三十七人 【僧一人、 侍郎(じろう)二人、 丞(しょう)一人、 達官郎(たつかんろう)一人、 中客(なかつまろうと)五人、 才伎(てひと)〔=職人〕十人、 通訳一人、 雑多な従者十六人の 合計三十七人】いました。 【掃部連】 《起源》 掃部について〈姓氏家系大辞典〉は 「掃守 カニモリ カモリ:又掃部に作る。」、 「掃守造:振魂命の裔なり。掃守部の総領的伴造にして、掃守連は此の家より出でたりと思はる」などと述べる。 〈姓氏録〉にはいくつかの「掃守」が見える。「掃守」という名称から「掃き清めを担当する部」が想像されるが、そのようないわれに触れた話が載るのは、 掃部首で、〖和泉国/掃守首/振魂命四世孫天忍人命之後也。雄略天皇御代。監掃除事。賜姓掃守連〗とある。 この説明文中では連姓であるが、氏族名は首姓となっている。単なる誤りでなければ、諸掃部を統括する意味での「首」かも知れない。 〔秦を統括する太秦と同じ関係〕。 連姓の掃守には、〖河内国/掃守連/同神〔=振魂命〕四世孫天忍人命之後也〗と〖左京/掃守連/…〗がある。 その他、河内国に掃守宿祢と掃守造、大和国に無姓の掃守が見える。 〈倭名類聚抄〉には{和泉国・出水郡・掃守【加爾毛利】郷}、{河内国・高安郡・掃守郷}がある。 これらを総合すると、和泉国が本貫で、河内国に進出したように思われる。 なお、カニモリは、後に訛ってカモリあるいはカモンとなる。 嘉門の字を宛てた苗字も見る。 《古語拾遺の述べる由来譚》 『古語拾遺』に「掃守連」の命名起源伝説がある(資料[24]参照)。
この氏族名命名説話は後から創作したものであろう。 言い換えれば、このような伝説を必要としたほど、「掃」をカニと訓む根拠が分からなかったのである。 なお、〈時代別上代〉はこの話を「蟹が邪なものとされたことを示している」と述べる。つまり邪悪な蟹を排除するのがカニモリであった。 天忍人命の名は、『天孫本記』で饒速日尊の三代孫に見える(資料[38])。 しかし、〈姓氏録〉の〖振魂命四世孫〗とは全く合わない。 《振魂命》 〈姓氏家系大辞典〉は振魂命は大綿津見神の子だといい、一般にも同様に考えられているが、記紀、『古語拾遺』、『先代旧事本記』にはそのような記述は見えない。 その出所を探していて見つけたのが、「故是日子波限鵜草葺不合命之生坐之時。大綿津見神之子。振魂命四世孫天忍人命。 陪侍供奉而。作箒掃蟹…」なる文であった(上記『古語拾遺』と同じ場面)。
同書が参照せよという、素戔嗚尊の禊の場面には「大綿津見神…亦子布留多麻命者。八太造之祖也」とある2)。 その八太造については、『新撰姓氏録』に 〖右京神別/地祇/八木造/和多羅豊命 《掃はもともとは誤字か》 古語拾遺説は、後から字義によって創作されたものなのは明らかである。実際には、カンと訓む別の漢字だったのが取り違えられたように思われる。 乙訓〔おとくに〕郡のように、音"-n"が"-ni"に転じて地名の表記に使われた例は多い (『日本語の発音はどう変わってきたか』釘貫亨;中公新書2023(pp.179~181))。 カニモリについても、もともと「捍(かん)」を使って「捍守」と表記されていたものが、誤って「掃守」になったようにも思える。 ただ、だとしてもカニモリの本当のいわれは何だろう。 たとえば、貴人の猟場〔カリニハという上代語がある〕を管理する「猟守 大宝令以後には大蔵省に所属する「掃部寮」があり、『令義解』/掃部司によれば「薦席牀簀苫。及鋪設。酒掃」を掌るから、「掃」はその性格を示す文字となっている。 これは、令以前の掃守連の役割が令制の役職に引き継がれたものであるから、古くから行事の会場の敷設などを担い、そこに清掃も含まれていたのは確かである。 まとめ 中大兄は、官の組織による中央集権的な国家運営を目指した。それまでは有力氏族が民と土地を私有し、国の運営は各氏に分割して委ねていた。 とりわけ、蘇我氏の存在は強力であった。そこで中大兄は、蘇我氏の一部と友好関係を結ぶことによって楔を打ち込み、内部対立を煽る戦略を描いた。 乙巳の変では倉山田石川麻呂と結び、蝦夷入鹿親子を討った。大化五年になると、阿倍大臣の薨去により石川麻呂の地位が高まり蘇我氏の中心になる勢いが見えた。 そこで、今度は日向と結び石川麻呂を討った。ところが日向臣はその邪なやり口が問われ、蘇我氏内部からの支持も集まらなかったようである。 よって日向をも大宰に左遷し、ここに蘇我氏全体の牙を抜くに至った。 したがって、石川麻呂を滅ぼしたのは政治力学による必然であり、個人間の友情を越えたものである。 石川麻呂の美化は、日向の評判を落とすための宣伝という面も確かにあったが、実際に友情は存在したと見てよいと考えられる。 前回、書紀が倉山田石川麻呂を美化したのは、何らかの思惑があったからではないかと述べたが、それはなく書かれたことは概ね史実であろう。 さて、「掃部」については興味深いことがいくつか見つかったので、その過程をやや詳しく記した。 もともと職業部の一つで、猟守の訛りとする考えには一定の説得力を感じる。 |
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⇒ [25-16] 孝徳天皇(6) |